Tuesday, October 4, 2022

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓ー解説〝再生〟と〝前生〟についての誤解 ─訳者─  Commentary Misconceptions about ``rebirth'' and ``previous life'' ─Translator─   



  本書の編者トニー・オーツセンという人はまだ四十そこそこの若い、才覚あふれる行動派のジャーナリストである。この人とは私は二度会っている。一度はバーバネルが健在のころで、そのときはまだ取材記者の一人にすぎなかった。

二度目はバーバネル亡きあと編集スタッフの一員として、生来の才覚と若さと、それにちょっぴりハンサムなところが買われて、BBCなどにも出演したりしていた。そのときはサイキックニューズ社の所在地も現在地に移っていて、一階の書籍コーナーで私がレジの女性に自己紹介してオーツセンに会いたいと言うと、二階の編集室へ電話を入れてくれた。

すると間もなく階段を転げ落ちるようなスピードで降りてくる足音がして、あっという間にオーツセンが顔を見せ 〝よく来た!〟と言って握手を求め、すぐに二階へ案内してくれた。こうした行動ぶりから氏の性格を想像していただきたい。もっともその積極性が時おり〝勇み足〟を生むのが玉にキズなのだが・・・・・・

 彼とは今でも月に何度か手紙のやり取りがあるが、つい最近の手紙で彼がついに日本でいう専務取締役、兼編集主任となっていることが分かった。彼もついにかつての親分(バーバネル)のイスに腰掛けたわけである。その昇進ぶりから彼の才覚のほどを察していただきたい。今後の大成を期待している。

 さて本書の原典の第三章は〝再生〟に関する霊言が集めてあるが、これは日本語シリーズ第四巻の三章〝再生の原理〟とほぼ完全に重複しているのでカットした。

ただ次の二つの質問が脱落しているので、ここで紹介してそれを問題提起の糸口としたい。これは第四巻七九ページの「双子霊でも片方が先に他界すれば別れ別れになるわけでしょう」という質問に続いて出された質問である。


───同じ進化の段階まで到達した双子霊がなぜ別れ別れに地上に誕生するのでしょうか。霊界でいっしょになれた段階で、もうこれでずっといっしょで居続けられる、と思うのではないでしょうか。

 「おっしゃる意味は、霊的に再会しながら肉体的に別れ別れになるということと理解しますが、それとてほんの一時期の話です。アフィニティであれば、魂のやむにやまれぬ衝動が強烈な引力となって霊的に引き合います。親和力の作用で引き寄せられるのです。身体的には二つでも霊的には一つだからです」


───別れ別れに誕生してくるのも双子霊として向上のためと理解すればよいのですね。

 「別れるということに拘っておられるようですが、それは別だん大きな問題ではありません。別れていようと一緒でいようと、お互いが一個の魂の半分ずつであれば、肉体上の違いも人生のいかなる出来ごとも、互いに一体になろうとする基本的なプロセスに影響を与えることはありません。霊的な実在を物的な現象と混同してはいけません。霊にかかわる要素が持続されていくのです」


 オーツセンはその第三章を〝再生───霊の側からの見解〟と題しているが、この〝霊の側からの見解〟という副題に私はさすがはオーツセンという感想をもった。

というのは、現在地上で扱われている再生説や前生うんぬんの問題は、そのほとんどが人間的興味の観点から捉えられたものばかりで、上のシルバーバーチの言葉どおり〝霊的な実在を物的な現象と混同して〟いるからである。そこから大きな誤解が生じているので、本稿ではその点を指摘しておきたい。


 人間には前世は分からない

 第六巻の十章で 〝自分の前生を思い出してそれと断定できるものでしょうか〟 という質問に対してシルバーバーチは、それは理論的にはできますと言えても実際にそれができる人は現段階の地上人類にはまずいませんと述べている。ところが現実には洋の東西を問わず、〝あなたの前生は〇〇です〟とか、みずから

〝私は××の生まれ変わりです〟 と平然と公言する自称霊能者が多く、またそれをすぐに真にうけている信者が実に多いのである。「スピリチュアリズムの真髄」の中で著者のレナードがこう述べている。

 「この輪廻転生に関して意味深長な事実がある。それは、前生を〝思い出す〟人たちのその前生というのが、大てい王様とか女王とか皇帝とか皇后であって、召使いのような低い身分だったという者が一人もいないことである。中でも一ばん人気のある前生は女性の場合はクレオパトラで、男性の場合が大てい古代エジプトの王という形をとる」

 こう述べてからD・D・ホームの次の言葉を引用している。

 「私は多くの再生論者に出会う。そして光栄なことに私はこれまで少なくても十二人のマリー・アントワネット、六人ないし七人のメリー・スコットランド女王、ルイ・ローマ皇帝ほか、数え切れないほどの国王、二十人のアレキサンダー大王にお目にかかっているが、横丁のおじさんだったという人には、ついぞお目にかかったことがない。もしそういう人がいたら、ぜひ貴重な人物として檻にでも入れておいてほしいものである」

 これが東洋になると、釈迦とかインドの高僧とかが人気の筆頭のようである。釈迦のその後の消息が皆目わからないのがスピリチュアリズムの間で不思議の一つとされているが、あの人この人と生まれ変わるのに急がしくて通信を送る暇がなかったということなのだろうかと、と皮肉の一つも言ってみたくなる。

 それにしても一体なぜ高位・高官・高僧でなければいけないのであろうか。なぜ、歴史上の人物でなければ気が済まないのであろうか。マイヤースの通信『個人的存在の彼方』に次のような一節がある。

 「偉大なる霊がまったく無名の生涯を送ることがよくある。ほんの身近な人たちにしか知られず、一般世間の話題となることもなく、死後はだれの記憶にも残らない。その無私で高潔な生涯は人間の模範とすべきほどのものでありながら、それを証言する者は一人としていない。

そうした霊が一介の工場労働者、社員、漁師、あるいは農民の身の上に生をうけることがあるのである。これといって人目につくことをするわけではないのだが、それでいて類魂の中心霊から直接の指導を受けて、崇高な偉大さと高潔さを秘めた生涯を送る。かくして、先なる者が後に、後なる者が先になること多し(マタイ19・30)ということにもなるのである」

 オーエンの『ベールの彼方の生活』第三巻に、靴職人が実は大へんな高級霊で、死後一気に霊団の指揮者の地位に付く話が出ている。地上生活中は本人も思いも寄らなかったので、天使から教えられて戸惑う場面がある。肉体に宿ると前生(地上での前生と肉体に宿る前の霊界での生活の二種類がある)がシャットアウトされてしまうからである。『続霊訓』に次のようなイムペレーターの霊言がある。

 「偉大なる霊も、肉体に宿るとそれまでの生活の記憶を失ってしまうものである。そうした霊にとって地上への誕生は一種の自己犠牲ないしは本籍離脱の行為と言ってよい」

 そうした霊が死後向上していき、ある一定の次元まで到達すると前生のすべてが(知ろうと思えば)知れるようになる、というのがシルバーバーチの説明である。霊にしてその程度なのである。まして肉体に包まれている人間が少々霊能があるからといって、そう簡単に前生が分かるものではないのである。


 たとえ分かっても何にもならない

 ところで、かりに人間にそれが分かるとして、一体それを知ってどうなるというのであろうか。一回一回にそれなりの目的があって再生をくり返し、そのつどシルバーバーチの言うように〝霊にかかわる要素〟だけが持続され、歴史的記録や名声や成功・失敗の物語はどんどん廃棄されていく。ちょうど我々の食したものから養分だけが摂取され、

残滓(ザンサイ)は排泄されていくのと同じである。そんな滓(カス)を思い出してみてどうなるというのであろう。

 それが歴史上の著名人であれば少なくとも〝人間的興味〟の対象としての面白味はあるかも知れないが、歴史にまったく記されていない他の無名の人物───ほとんど全部の人間といってよい───の生涯は面白くもおかしくもない、平々凡々としているか、波乱万丈であれば大抵被害者あるいは犠牲者でしかないのである。

人間的体験という点においては何も歴史的事件にかかわった者の生涯だけが貴重で、平凡な人生は価値がないというわけでは絶対にない。その人個人にとっては全ての体験がそれなりの価値があるはずである。が、

人間はとかく霊というものを人間的興味の観点からせんさくしようとするものである。シルバーバーチが本名を絶対に明かさないのは、そんな低次元の興味の対象にされたくないということと、そういうことではいけませんという戒めでもあるのである。


  再生問題は人間があげつらうべきものではない

 再生そのものが事実であることに疑問の余地はない。シルバーバーチは向上進化という霊の宿命の成就のための一手段として、再生は必須不可欠のものであり、事実この目で見ておりますと述べている。私はこの言葉に全幅的信頼を置いている。

 また、それを否定する霊がいるのはなぜかの問いに、霊界というところは地上のように平面的な世界ではなく、内面的に無限の次元があり、ある一定の次元まで進化しないと再生の事実の存在が分からないからだと述べている。

つまりその霊が到達した次元での視野と知識で述べているのであって、本人はそれが最高だ、これが全てだ、これが真実だと思っても、その上にもまた上があり、そこまで行けばまた見解が変わってくる。

だからシルバーバーチも、今否定している人も自分と同じところまで来れば、なるほど再生はあると思うはずだと述べている。イムペレーターも、このあと引用する『続霊訓』の中で、再生の事実そのものは明確に認めている。

そういうわけで私は再生という事実については今さらとやかく述べるつもりはない。その原理については第四巻の三章を参照していただきたい。ただ、世間において、あるいはスピリチュアリズムに関心をお持ちの方の中においても、生まれ変わりというものについて大きな誤解があるようなので、それを指摘しておきたいと思う。
 
 モーゼスの『続霊訓』に次のような一節がある。

 「霊の再生の問題はよくよく進化した高級霊にしてはじめて論ずることのできる問題である。最高神のご臨席のもとに、神庁において行われる神々による協議の中身については神庁の下層の者にすら知り得ない。正直に言って、人間にとって深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが霊の究極の運命である。

神庁において紳議(カムハカ)りに議られしのちに一個の霊が再び肉体に宿りて地上へ生まれるべきか、それとも否か、そのいずれの判断が下されるかは誰にも分からない。誰にも知り得ないのである。守護霊さえ知り得ないのである。すべては佳きに計らわれるであろう。

 すでに述べた如く、地上にて広く喧伝(ケンデン)されている形での再生(機械的輪廻転生)は真実ではない。また偉大なる霊が崇高なる使命と目的とを携えて地上へ降り人間と共に生活を送ることは事実である。ほかにもわれらなりの判断に基づいて広言を避けている一面もある。

まだその機が熟していないとみているからである。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはならない。そう広言する霊は、みずから己れの虚偽性の証拠を提供しているに他ならない」
(『ベールの彼方の生活』をおもちの方は第四巻第六章3〝神々による廟議〟を参照されたい)

 高級霊にしてこの程度なのに、こうして肉体に包まれ、シルバーバーチ流に言えば〝五本の鉄格子(五感)の間から外界をのぞく〟程度の地上の人間が、少々霊能が芽生えたからといって、そんなもので再生問題を論ずるのは言語道断なのである。

 再生とは少なくとも今の自分と同じ人間がそっくり生まれ変わるという、そんな単純なものではない。心霊学によって人間の構成要素をよく吟味すれば、イムペレーターやシルバーバーチから指摘されなくてもその程度のことは分かるはずである。

 そんな軽薄な興味にあたら時間と精神とを奪われるよりも、五感を中心として平凡な生活に徹することである。そうした生活の中にも深刻な精神的葛藤や身体的苦闘の材料がいくらでもあるはずである。それと一生けんめい取り組んでいれば、ごく自然な形で、つまり無意識のうちに必要な霊的援助を授かるのであり、それがこの世を生きる極意なのである。


  悪ふざけをして喜ぶ低級霊団の存在

 私が声を大にしてそう叫ぶのは、一つにはそこにこそ人間的努力の尊さがあり、肉体をもって生活する意義もそこから生まれると信じるからであるが、もう一つ、生半可な霊能を頼りにすることの危険性として、そうした霊能者を操って悪ふざけをする低級霊がウヨウヨしているという現実があるからである。『霊訓』に次のような一節がある。

 「邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、それとは別に、悪意からではないが、やはりわれらにとって面倒を及ぼす存在がある。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えない。肉体より離れていく人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもない。

そして地上に近き界層を一気に突き抜けていくほどの進化した霊は、特別の使命でもないかぎり地上へは舞い戻っては来ないものである。地縛霊の存在についてはすでに述べた通りである。

 言い残したものにもう一種類の霊団がある。それは、悪ふざけ、茶目っ気、あるいは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊界へ出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。

邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いていかにも勿体ぶった雰囲気にて通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取って面白がっているに過ぎない。

交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあると汝に言わしめる要因もそこにある。茶目っ気やいたずら半分の気持ちからいかにも真面目くさった演出をしては、それを信ずる人間の気持ちを弄ぶ霊の仕業がその原因となっている。列席者が望む肉親を装っていかにもそれらしく応対するのも彼らである。

誰でも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも彼らの存在の所為(セイ)である。最近、だれそれの霊が出たとの話題がしきりと聞かれるが、そのほどんとは彼らの仕業である。

通信にふざけた内容、あるいは馬鹿げた内容を吹き込むのも彼らである。彼らは真の道義的意識は持ち合わせない。求められれば、いつでもいかなることでも、ふざけ半分、いたずら半分にやってみせる。その時どきの面白さ以上のものは何も求めない。人間を傷つける意図はもたない。ただ面白がるのみである」

 ついでに『続霊訓』からも次の一節を紹介しておこう。これは自動書記通信であるが、モーゼスが「間違った教理を信じ切っている霊が何百年、何千年と、そう思い込んだままの状態でいると聞いて驚きを禁じ得ません。それはよくあることなのでしょうか」と質問したのに対してこう述べている。

 「そう滅多にあるものでないのであるが、霊媒を通じてしゃべりたがる霊は、概してそう高度な悟りに到達していない者たちである。理解力に進歩のない連中である。請われもしないのに勝手に地上へ戻ってくるということ自体が、あまり進歩的でないことの証明といえよう。中でも、人間がこしらえた教理によってがんじがらめにされたままやってくる霊は、もっとも進歩が遅い。

 真実の教理は人間の理解力に応じて神みずから啓示されるものである。数ある地上の教説や信仰は大なり小なり間違っている。ゆえに(それが足枷となって)進歩が遅々としている者が実に多く、しかも自らはその誤りに気づかないのである。

その種の霊が徒党を組み、その誤りがさらに新たな誤りを生んでいくことがしばしばある。かくして無知と偏見と空理空論が下層界に蔓延し、汝らのみならず我らにとりても厄介なことになっている。というのも、彼らの集団も彼らなりの使者を送って人間界を攪乱せんとするのである。

彼らは必ずといってよいほど敬虔な態度を装い、勿体ぶった言葉を用いる。それがいつしか進歩を阻害し、心理を窒息させるように企んでいるのである。魂の自由を束縛し、真理への憧憬を鈍らせるということにおいて、それは断じて神の味方ではなく、敵対者の仕業である」

 五感はたしかに鈍重であるが、それなりの安定性がある。それに引きかえ、霊能というのはきわめて不安定であり、肉体の健康状態、精神的動揺によって波長が変化し、昨日は高級霊からのものをキャッチしていたのが今日は低級霊に騙されているということがある。まさに両刃の剣である。

 ショパンが弾けるというだけの人なら世界中どこにでもいるが、人に聞かせるに足る名演奏のできる人はそう数多くいるものではない。それと同じく、信頼の置ける霊媒、高い霊質と人格と識見とを兼ね具えた名霊媒はそう数多くいるものではない。

その一人がステイントン・モーゼスであり、ヴェール・オーエンであり、ジェラルディン・カミンズであり、モーリス・バーバネルである。そのほか地道にやっている霊能者が世界中にいるはずである。

 そして、こうした霊媒を通じて通信してくる霊が異口同音に言うのが〝宇宙の神秘は奥には奥があって、とても全てを知ることはできない〟ということである。肝に銘ずべきであろう。   
                      
一九八七年四月     近藤 千雄

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