Sunday, August 20, 2023

シアトルの夏 スピリチュアリズムは地球規模の啓示

Spiritualism is a global revelation

ヤフオク! - 霊訓 完訳・上/W・S・モーゼス(心の道場)

 

〔こうした議論がその後も非常な迫力と強力な影響力のもとに、殆ど途切れることなく続いた。私を支配し、私の思想を鼓舞し続けたこの影響力がいかに崇高にして強烈なものであったか――それを正しく伝えることは拙い私の筆ではとても出来ない。〕


『スピリチュアリズムの宗教的教訓』


そなたはわれらの教説が理神論であるか、純粋なる有神論であるか、はては無神論ではないのかとまで問うている。普段の思考においては正確にして知識に事欠かぬ人間が、有神論を無神論と同列に並べるとは、まさしく人間の無知の見本を見る思いがする。全ての人間の心に通じる神、いかに堕落せる人間の魂でさえ感応し得るところの神の存在を否定せんとする、その佗(わび)しきかぎりの不毛なる思想について、われらは最早や言うべき言葉を知らぬ。人間が自らの目を被い隠すことをするものであることを万一知らずにおれば、われらはそなたらが一体何故にかくも愚かなることを考えるのか理解に苦しむところであろう。

疑いもなくわれらは全ての存在を支配する絶対神の存在を説く。それは、人間が勝手に想像せるが如き気まぐれな顕現の仕方はせぬ。人間の理解力の進歩に応じて、その時代その時代に断片的に明かされてきた存在――もっと厳密に言うならば、人間の心の中に神の概念とその働きについての、より真実に近き見解を植えつけんとして働きかけてきた存在である。イエスと同様われらは宇宙を支配する愛に満ちた至聖にして至純なる神を説く。人間の想像するが如き人格をもたぬ神ではなく、真の意味における父なる存在である。エネルギーの化身でも具現でもない。真に生ける実在である。ただし、その存在の本質と属性はその働きと人間の心の中に描ける概念としてしか捉えることは出来ぬ。そなたの抱ける概念の中より全知全能の神に対する侮辱と思えるものを可能なかぎり取り除き、かつまた、差し当たりて問題とするに当たらぬ神学的教説を一応残しつつ、われらは神について以上の如く説いてきたのである。

われらの教説を読みてそこに絶対的真理が見られぬと言うのであれば、われらはむしろ、われらがそこまで理解して貰えるに至ったことを有難く思う次第である。絶対的完全性が有り得ぬ如く、今のそなたの未完成の状態においては絶対的真理などというものは望むべくもない。そなたはまさか、最高級の霊にしてもなお目を眩(くら)まされる宇宙の深奥の神秘を平然と見届け得ることを期待はすまい。限りあるその精神でまさか無限なるもの、不可知なるもの――地上より遥かに掛け離れたわれらにとりてもなお、遠くより拝(おうが)み奉(たてまつ)ることしか叶わぬ存在が理解できるとは期待すまい。万一できると思うとすれば、それこそそなたの置かれたる発達段階がまだまだ不完全であることの証左でしかない。そなたにとりて真理はまだ断片的であり、決して全体像を捉え得るものではなく、また細目まで行き亙ることは叶わず、あくまでベールを通して大まかなる輪郭を垣間見る程度に過ぎぬ。われらとしても決して真理の全てをそなたに啓示しようなどとは思いも寄らぬ。われら自らがまだまだ無知であり、神秘のべールに被われたる多くのものを少しでも深く理解せんと願っているものである。われらに為し得ることは精々その神の概念――これまでそなたらが絶対的啓示と思い込みたる概念よりは幾分か真理に近きものを仄(ほの)めかす程度に過ぎぬ。

これまでのところわれらは、そなたが筋の通れる美しく崇高なるものと認め、かつそなたの精神に受け入れられる新たな神学体系を確立することに成功した。それ以上のものを求めようとは思わぬ。われらは崇拝と敬意の対象としての神を啓示した。神と人類とそなた自身に対する合理的かつ包括的義務を披露した。道徳的規範として、そなたの聞き慣れた天国と地獄説による脅(おど)しの説教ではなく、無理強いせず自然に理解せしめる性質の見解を確立した。

われらの教説を目的なき宗教と言うに至りては、理解に苦しむ誤解というほかはない。地上生活というこの種子蒔(たねま)きの一つ一つの行為がそれ相当の実りをもたらすとの訓え――悪と知りつつ犯せる故意の罪が苦痛という代償のもとに悲しみと屈辱の中で償わねばならぬという訓え――過ちを犯せる魂が曾ての己の過ち故にもたらせる“縺(もつ)れ”を必ず自らの手で解(ほど)かねばならぬとの教説の、一体どこをもって詰まらぬ言説と言うのであろうか。

われらは、人間の言動は池に投げ入れられた小石の如く、その影響は波紋を描きつつ周囲に影響を及ぼすこと、そしてその影響には最後まで自分が責任を負わねばならぬこと、故に一つの言葉、一つの行為には、その結果と影響とに計り知れぬ重要性があること、それが善なるものであればその後の生き甲斐の源泉となり、邪悪なるものであれば苦悩と悔恨のうちに責任を取らされると説くのであるが、これが果たして下らぬ教説であろうか。

またその賞罰は遥か遠き未来の死にも似たる休眠状態の末まで延ばされるのではなく(1)、因果律の法則によりてその行為の直後より始まり、その行為の動機が完全に取り除かれるまで続くと説くのであるが、これも愚にもつかぬ言説であろうか。

これでは清浄にして聖なる生活への誘因とはならぬのであろうか。そうしたわれらの教説と、そなたらの信じる教説、すなわち己の思いのままに生き、隣人に迷惑を及ぼし、神を冒涜し、魂を汚し、神の法も人間の法も犯し、人間としての徳性を辱(はずかし)めた人物が、たった一度の半狂乱の叫び声、お気に入りの勝手な信仰、その場かぎりの精神的変化によりて、眠気を催すが如き天国への資格を獲得するとのそなたらの説、しかもその天国での唯一の楽しみが魂の本性が忌々しく思う筈のものでありながら、それが魔法的変化によって一気に永遠の心地よき仕事となるとの説の、一体いずれが神聖にして進歩的生活へ誘(いざな)ってくれるであろうか。堕落せる魂を動かすのはどちらであろうか。いかなる罪も、それが他人によりて知られる知られぬに係わりなく、いつかは悔い改めねばならぬ時が来ること、そして他力ではなく、自力で償わねばならぬこと、そうなることによりて少しでも清く正しく、そして誠実な人間となるまで幸せは味わえぬとの教えであろうか。それとも、何をしようと天国はいかなる堕落者にも開かれており、悶え苦しむ人間の死の床でのわずか一度の叫び声によりて魔法の如く魂が清められ、遠き未来に訪れる審判の日を経て神の御前に召され、そこにて退屈この上なく思う筈の礼拝三昧の生活を送るとの教えの方であろうか。

このいずれが人間の理性と判断力に訴えるか。どちらが罪を抑制し、さ迷える者を確実に正義の道に誘うか。それはわれらと同様、そなたにも明々白々である。なのにそなたはわれらの説くところが断固たるものを曖昧なるものに、確固たる賞罰の体系を何の特色もなきものに置き替えんとするものであると言う。否! 否! われらこそ確固たる知性的賞罰体系を説き、しかもその中に夢まぼろしの如き天国や残酷非道の地獄や人間性まる出しの神などをでっち上げたりはせぬ。キリスト教神学はいつのことやも知れぬ遠き未来に最後の審判日などというものを設け、極悪非道の人間でさえも、その者自身理解も信仰も有難味も見出し得ぬ教義に合意すれば、いつの日か、どこかで、どういう具合にてか、至純至高の大神の御前に侍(はべ)ることを得ると説く。

敢えて言おう。われらの説く信仰のほうが遥かに罪を抑圧すべく計算され、人間に受け入れ易く説かれている。人間の死後について遥かに合理的な希望を与え、人類史上かつて無き現実性に富む包括的信仰を説いている。繰り返すが、これぞ神の訓えである。神の啓示としてそなたに授けられているのである。われらはこれが今すぐ一般大衆に受け入れられるものとは期待せぬ。大衆の側にそれなりの受け入れ態勢が出来ぬかぎり、それは叶わぬことである。その時節の到来をわれらは祈りのうちに忍耐強く待つとしよう。いよいよその時節が到来し、理性的得心のもとに受け入れられた時は、人間は曾ての如きケチくさき救済を当てにせるが故の罪を犯すことも減り、より知的にして合理的来世観によりて導かれ、高圧的抑制も、人間的法律による処罰の必要性も減り、それでいて動機の源は、甘き天国と恐ろしき地獄などというケチくさき体系に劣らず強制力があり、永続的となるであろうことを断言する。子供騙しの地獄極楽説は、これをまともに考察すれば呆気(あっけ)なくその幼稚性が暴露され、効力を失い、根拠なき、非合理にして愚劣なるものとして、灰塵に帰されることであろう。


〔総体的に観てスピリチュアリズムの影響は好ましくない――少なくとも複雑な影響を及ぼしているとの私の反論に対して一八七三年七月十日に次のような回答が届けられた――〕


その点につきてはわれらも述べたいことが多々ある。これよりそなたの誤解を説き明かすべく努力してみたく思う。まず第一にそなたは人間の宿命とも言うべき限られた視野にとっては不可抗力ともいうべき過ちに陥り、その目に映りたる限られた結果のみを見て、それをスピリチュアリズムの全てであると思い込んでいる。その点においてそなたは、わずかな数の熱狂者による狂騒に幻惑され、その狂騒、その怒号をもってスピリチュアリズムの全てであると見なす一部の連中と同類である。見よ、彼らは結果によりてのみ知らるベき静かなる流れがその見えざる底流を音もなく進行していることに気づかぬ。そなたの耳に入るのは騒々しき無秩序なる連中のみである。さして多くはないが、よく目立つのである。そなたが世の中を再生せしむるのはそうした連中ではあり得ぬと言うのはもっともなのである。そなたの知性はそうした無責任なる言説にしりごみし、果たして斯くの如き近寄り難きものが神のものであり、善の味方であろうかと訝(いぶか)るのであるが、実はそなたの目にはそうした一部のみが目に入り、しかもその一部についても明確に理解しているとは言えぬ。そうした連中にも彼らなりに必要なる要素が幾つかあり、それが彼らにとりて最も理解し易き手段にて神より授けられている――そうした表に出ぬ静かなる支持者たちの存在についてはそなたは何も知らぬ。そなたの視界に入らぬのである。入らぬのであるが、しかし現にそなたのまわりにも存在し、霊の世界と交わり、刻々と援助と知識を授かり、肉体に別れを告げたのちに彼らもまた霊界よりこのスピリチュアリズム普及のために一役買う日が来るのを待ちうけているのである。

かくの如くそなたは一方に喧噪、他方に沈黙がありながら、限られた能力と、さらに限られた機会のゆえに狭隘なる見解しか持ち得ず、およそ見本とは言えぬ小さき断片をもって全体と思い違いをしている。これよりわれらは、そなたが下せるスピリチュアリズムの影響につきての結論を細かく取り挙げたく思う。そして同時に、そなたにはその究極の問題について断定的意見を述べる立場にないことを指摘したく思う。

と申すのも、一体真理とは何かということである。神の働きは、このスピリチュアリズムに限らず他の全ての分野においても、不偏平等である。地上には善と悪とが混在している。平凡なる霊にて事足りる仕事に偉大なる霊を派遣するが如き愚を神はなさらぬ。未発達の地縛霊の説得に神々しき高級霊を当てたりはなさらぬ。絶対になさらぬ。自然界の成り行きにはそれ相当の原因がある。巨大な原因から無意味なる結果が出るようなことはない。霊的関係においても同じことである。知能程度が低く、その求むるところが幼稚にして高きものを求めようとせぬ魂の持ち主には、その種の者に最も接触し易き霊が割り当てられる。彼らは目的に応じて手段を考慮し、しばしばその未熟なる知性に訴えるために物理的手段を講ずる。精神的・霊的に無教養で未発達なる者には、その程度に応じた最も分かり易き言葉にて語りかける。死後の生活の存在を得心させるためには目に映ずる手段を必要とする者がかなり、いや、大勢いるのである。

この種の人間は、高き天使の声――いつの時代においてもその時代の精神的指導者の魂に語りかけてきた崇高なる霊の声――によりて導かれるのではなく、その種の人間と類を同じくする霊たち――その欲求と精神的性癖と程度をよく理解し、その種の者の心に最も訴え、最も受け入れ易き証を提供することの出来る霊によりて導かれる。さらに心得ておくべきことは、知的に過ぎる者は往々にして霊的発達に欠けることがあることである。本来進歩性に富める魂も、その宿れる肉体によりて進歩を阻害され、歪める精神的教育によりて拘束を受けることも有り得る。同じ啓示が全ての魂の耳に届くとはかぎらぬ。同じ証が全ての魂の目に見えるとはかぎらぬ。肉体的性向を精神的発達の欠陥によりて地上生活における発達を阻害された霊が死後その不利な条件が取り除かれてのち、ようやく霊的進歩を遂げるという例は決して少なくないのである。

というのも、本性は魔法の杖にて一度に変えるというわけには行かぬものなのである。性癖というものは徐々に改められ、一歩一歩向上するものなのである。故に生まれつき高度な精神的才能に恵まれ、その後も絶え間なく教養を積める者の目には、当然のことながら、無教養にして無修養の者のために用意せる手段は余りに粗野にして愚劣に映ずるであろう。否、その前に彼らが問題とせるものそれ自体が無意味に思えるであろう。その声は耳障りであろう。その熱意は分別に欠けるであろう。が、彼らは彼らなりにその本性が他愛なき唯物主義、あるいはそれ以上に救い難き無関心主義に変化を生じ、彼らなりに喜びを感ずる新たな視野に一種の情熱さえ覚えるようになる。彼らの洩(も)らす喜びの叫びは垢抜けはせぬが、彼らなりに真実の喜びである。そなたの耳には不愉快に響くかも知れぬが、父なる神の耳には、親を棄てて家出せる息子が戻りて発する喜びの声にも劣らず、心地よきものである。その声には真実が篭っている。その真実の声こそわれらの、そして神の、期待するところである。真実味に欠ける声は、いかに上手に発せられても、われらの耳には届かぬ。

かくの如く、霊的に未発達なる者に対して用いる証明手段は、神と人間との間を取りもつ天使の声ではない。それでは無駄に終わるのである。まず霊的事象に目を向けさせ、それを霊的に鑑識するよう指導する。物理的演出を通じて霊的真理へと導くのである。物理的演出についてはそなたもすでに馴染んでおろう。そして、そうした物的手段の不要となる日も決して来ぬであろう。いつの時代にもそうした手段によりて霊的真理に目覚める者がいるからである。目的にはそれなりの手段を選ばねばならぬ。そうした知恵を否定する者こそ、その見解に知恵を欠く視野の狭き者である。唯一の危険性はその物理的現象をもって事足れりとし、霊的意義を忘れ、そこに安住してしまうことである。それはあくまで手段に過ぎぬ。霊的発達への足がかりとして意図され、或る者にとりては価値ある不可欠の手段なのである。

そこでわれらはこれより、そなたが腹に据えかねている右の例以上に顕著なる例、すなわち、粗野にして無教養なる未発達霊の仕業について述べるとするが、そなたにとりて左程までに耳障りにして、その行為に不快を覚えさせる霊をそなたは“悪”の声であると想像しているようであるが、果たして如何(いかが)なものであろうか。

悪の問題につきてはすでに取り挙げたが、また改めて説くこともあろう。が、ここでわれらは躊躇なく断言するが、邪霊の仕業であることが誰の目にも一目瞭然たる場合を除いては、大抵の場合、そなたの想像するが如き悪の仕業ではない。

悲しい哉、悪は多い。そして善に敵対する者が一掃され勝利が成就されるまでは、悪の途絶えることはあるまい。故にわれらは、決してわれらとそなたを取り巻く危険性を否定も軽視もせぬ。が、それはそなたが想像するようなものではない。見た目に常軌を逸するもの、垢抜けのせぬもの、粗野なるものが必ずしも不健全とは言えぬ。そうした観方は途方もない了見違いと言うべきである。真に不健全なるものはそう多くは存在せぬ。むしろそなたらの気付かぬところに真の悪が潜むものである。霊的にはまだ未熟とは言え、真剣に道を求むる者たちは、無限の向上の世界がすぐ目の前に存在すること、そしてその向上はこの地上における精神的、身体的、霊的発達にかかっていることを理解しつつある。それ故彼らは身体を大切にする。酒浸りの呑んだくれとは異なり、アルコール類を極力控える。そしてその熱意のあまり同じことを全ての者に強要する。彼らは人それぞれに個人差があることまでは気が回らぬ。そして往々にしてその熱意が分別を凌駕してしまうのである。しかも、洗練された者に反発を覚えさせるそうした不条理さと誇大なる言説をふり回す気狂いじみた熱狂者が、果たして、心までアルコールに麻痺され、身体は肉欲に汚され、道徳的にも霊的にも向上の道を閉ざされた呑んだくれよりも霊的に不健全であろうか。そうでないことはそなたにも判るであろう。前者は少なくとも己の義務と信念とに目覚め必死に生きている。今や曾ての希望も目的も持たぬ人間とはわけが違う。死者の中より甦ったのである。その復活が天使に喜びと感激の情を湧かせるのである。その叫びが条理を欠いていたとて、それがどうだというのであろうか。情熱と活気がそれを補いて余りあるではないか。その叫びは確信の声であり、死にも譬えるべき無気力より目覚めた魂の叫びなのである。それは、生半可なる信仰しか持たぬ者が、紋切り型の眠気を催すキザな言い回しで化粧し、さらには“ささやき”程度のものでも世間に不人気なものは避けんと苦心するお上品ぶりよりも遥かにわれらにとりて、そして神にとりて、価値あるものである。何となればそれは、新たにかちえた確信を人にも知らしめんとする喜びの声であり、われらの使命にとりても喜びであり、より一層の努力を鼓舞せずにはおかぬのである。

そなたは俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬと言う。断言するが、そなたの意見は見当違いである。適確さと上品さには欠けるが、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他の何ものよりも大衆に訴える力がある。野蛮なる投石器によって勢いよく放たれた荒けずりの石のほうが、打算から慣習に迎合し体裁を繕(つくろ)いたる教養人の言説よりもよほど説得力がある。荒けずりであるからこそ役に立つのである。現実味のある物的現象を扱うからこそ、形而上的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのである。

霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。“物”にしか反応を示さぬ唯物主義者には物的法則を超越せる目に見えぬ力の存在の証拠を提供する。固苦しき哲理よりも、肉親の身の上のみを案じ再会を求める者には、確信を与えるために要する証拠を用意してその霊の声を聞かせ、死後の再会と睦み合いの生活への信念を培う。筋の通れる論証の過程を経なければ得心できぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。さらに、そうした霊的真理の初歩的段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲する者には、神の深き真理に通暁せる高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命につきての啓示を垂れさせる。かくの如く人間にはその程度に応じた霊と相応しき情報とが提供される。これまでも神はその目的に応じて手段を用意されて来たのである。

今一度繰り返しておく。スピリチュアリズムは曾ての福音の如き単なる見せかけのみの啓示とは異なる。地上人類へ向けての高級界からの本格的働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。それを総合するものがスピリチュアリズムに他ならぬ。が、実はそれだけと見なすのも片手落ちである。そなたにとりて、そしてまたそなたと同じ観点より眺める者にとりてはそれで良いかも知れぬ。が、他方には意識の程度の低き者、苦しみに喘ぐ者、悲しみに打ちひしがれし者、無知なる者がいる。彼らにとりてはスピリチュアリズムはまた別個の意味をもつ。それは死後における肉親との再会の保証であり、言うなれば個人的慰安である。実質的には五感の世界と霊の世界とを結ぶことを目的とする掛け橋である。肉体を捨てた者も肉体に宿れる者と同様に、その発達程度はさまざまである。そこで、地上の未熟なる人間には霊界のほぼ同程度の霊が当てがわれる。故にひと口にスピリチュアリズムの現象と言うも、程度と質とを異にする種々さまざまなものが演出されることになる。底辺の沈殿物が表面に浮き上がることもあり、それのみを見る者には奥で密かに進行しているものが見えぬということにもなる。

今こそそなたにも得心がいくであろうが、世界の歴史を通じて同種の運動に付随して発生する“しるし”を見れば、それが決してわれらの運動のみに限られたものとの誤解に陥ることもあるまい。それは人間の魂をゆさぶる全てのものに共通する、人間本来の性分が要求するのである。イスラエルの民を導いたモーセの使命にもそれがあり、ヘブライの予言者の使命にもそれがあり、言うまでもなくイエスの使命にも欠かせぬ要素であった。人類の歴史において新しき時代が画される時には必ず付随して発生し、そして今まさに霊的知識の発達にもそれが付随しているのである。が、それをもって神の働きかけの全てであると受け取ってはならぬ。政治的暴動がその時代の政治的理念の全てではないのと同様に、奇跡的異常現象をもってわれらの仕事の見本と考えてはならぬ。

常に分別を働かさねばならぬ。その渦中に置かれた者にとりては冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。が、その後において、今そなたを取り囲む厳しき事情を振り返った時には容易に得心がいくことであろう。

そなたの提示せる問題についてはいずれまたの機会に述べるとしよう。此の度はひとまずこれにて――さらばである。

(†インペレーター)


Saturday, August 19, 2023

シアトルの夏 『科学者よ、シルバーバーチを読め!』

 "Scientists, read Silver Birch!

シルバーバーチのスピリチュアルな法則 宇宙と生命のメカニズムの通販/フランク・ニューマン/近藤 千雄 - 紙の本:honto本の通販ストア

 

 

  訳者解説                                                                                   近藤千雄


 本書の中軸を構成している 「シルバーバーチ」 と名のる霊とその霊言については冒頭の訳注で解説してあるので、ここでは視点を変えて、スピリチュアリズムと呼ばれている大きな霊的な真理の流れの中で占めている位置と存在意義について解説しておきたい。

 それは冒頭に 『日本語版に寄せて』 の中で紹介されている本書の著者ニューマン氏の第二作 Spirit of the New Millnnium のタイトルに暗示されているスピリチュアリズムの淵源について解説するのが適切と考える。

 これは予備知識として、スピリチュアリズムの 「現象」 が勃発した米国も、その霊的な 「思想」 が発達した英国も、ともにキリスト教国であったことを知っておく必要がある。

 キリスト教というと誰しもイエス・キリストを思い浮かべ、いかにもイエスがその教祖であるかのような認識が一般的であるが、歴史的観点から見てもこれは西暦三二五年にコンスタンチヌス帝の命令で開かれた 「第一回ニケーヤ会議」 でキリスト教をローマの国教とすることが議決されたことから生じた誤解である。

 イエスがキリスト教とは何のつながりもないことは、拙訳 『イエス・キリスト失われた物語』 (ハート出版) をお読みになった方には明白であろう。

 その第一回の公会議は実に足掛け五カ月も続いたという。その間に百種類もあったとされるギリシャ語・ラテン語・コプト語・アルメニア語その他で記されていたイエスにまつわる文書に改ざんが施され、それが今日の 『新約聖書』 の原型となったという。

当時はラテン語とギリシャ語で書かれていて、一般庶民は教会へ通っても意味の分からない言葉で行われる祈祷や祝福を有り難く受けるだけだった。日本人にとっての仏教の儀式と似たようなものを想像すればよいであろう。

 が、実はそれだけではなかったところに問題がある。四カ月以上にも及ぶ期間に、コンスタンチヌス派の司教によって 『新約聖書』 とは全く関係のない 「ドグマ」 (独断的教義) が制定されていたことである。これは霊的な観点から見た時に極めて重大な点で、シルバーバーチはこれを Superstructure (上部構造) と呼び、キリスト教にまつわる諸悪の根源がそこにあることを指摘し、その弊害をしつこいほど説いている。

「最後の審判説」 「贖罪説」 等がそれで、イエスは方言もそんなことは説いていない。ニューマン氏が新著に使用した Millennium (ミレニアム) もその一つで、これに new (新たな) を付したことに大きな意味があることに私は直感した。

 この Millennium とは言語的には 「一千年」 であり、century が 「百年」 であるように格別の意味はないが、大文字で使うとキリスト教の 「至福千年」 を意味する。すなわちイエスが再臨してこの世を統治し、正義と平和があまねく支配する黄金時代が一千年続くという。これは 「ヨハネ黙示録」 の20:1‐7から出たものという。

手元に聖書をお持ちの方は確認していただくことにして、私の個人的な意見は控えたい。要するに強引にそういうことにしたということである。

 さてキリスト教ではイエスの 「再臨」 のことを Second Advent ないしは Second Coming と呼んでいるが、シルバーバーチを始めとする高等な霊界通信は一致して、イエスが説いた摂理が再び説かれる時代が来るという意味で、スピリチュアリズムがそれであると言い、その証拠として、このスピリチュアリズムという名のもとに始められた地上の霊的浄化運動の背後に控える最高指揮者が、ほかならぬ地上で 「ナザレのイエス」 と呼ばれた人物であるという事実を挙げている。

「スピリチュアリズムのバイブル」 とまで言われているステイントン・モーゼスの自動書記通信の中に、最高指導霊インペレーターとモーゼスとの、次のようなQ&Aがある。モーゼスが 「キリストの再臨」 について尋ねたのに対して───

「聖書の記録の言い回しには、あまりこだわらぬがよい。曖昧で、しかも誤って記されている場合が多いからである。つまりイエスが語った言葉の真意を理解できぬ者が、いい加減な印象を記録した。

それがさらに拙劣な用語で他の言語に翻訳され、結局は間違った概念が伝えられることになった。こうした制約を受けながらも、主イエスが地上時代に語ったことの中には、今まさに成就されつつあることが、特に新たなる啓示において、概略ながら多く存在する。

地上にありながら、自分の死後ふたたび地上世界で説かれることになる摂理のことを述べたのである」

───では 「帰って来る」 というのは、純粋に霊的な意味なのでしょうか。

 「その通りである。今まさに主イエスが新たな啓示をたずさえて地上界へ帰ってきつつあるのである。それを、中継の霊団を通して行っておられる。必要とあれば、自ら影響力を行使なさることもあるかもしれぬ。が、肉体に宿って再生されることは絶対にない。今はまさしく霊の時代であり、影響力も霊的である。その影響力は主イエスが地上に降りられた時代のそれと類似している」

 「〝変容の丘〟において主イエスは、影響力の通路となっていた二人の霊、すなわちモーゼとエリヤと現実に語り合った (物質化現象)。 その二人はこのたびのスピリチュアリズム及び歴史上の幾つかの霊的活動に深く関わってきており、今なお関わっておられる。

主イエスの指示のもとに、このたびの活動を鼓舞し指揮しておられる。これで我々がスピリチュアリズムの活動が宗教的なものであると述べた理由が分かるであろう」 (『インペレーターの霊訓』 〈潮文社〉 )

 ニューマン氏はこうした霊界からのメッセージこそ人類が忘れ去っている究極の真理であるとの確信から新著にあえて New (あらたな) を付して、これが理解された時代こそが本当の意味での〝黄金時代〟なのだと訴え、あえて The Ultimate Theory (究極の摂理) という大胆な副題を付した。本著 The Universe of Silver Birch はその入門書と思っていただきたい、と私への私信で述べている。

 ニューマン氏はどこかで───あえて言えば霊的な次元で───相通じ合うものがあったのだろうか、私はSTF (霊的真理普及基金) のジュフリー・クラッグス氏から 『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A』 (ハート出版) の翻訳・出版許可通知と一緒に送られてきた出版リストの中に本書のタイトルを見つけて、早速注文をすると同時に翻訳・出版許可も申し込んでいる。

 ニューマン氏が本格的にシルバーバーチの霊言と出会ったのが一九九二年で、私はその頃毎週のように 『サイキック・ニューズ』 に掲載されるニューマン氏の記事を欠かさず読み、その顔写真を切り取ったりしている。

赤茶けてしまっているが、今も残っている。今回サイン入りで進呈していただいた新著にはそれと同じ写真が使用されていて、懐かしく思った次第である。

 もう一つ、自分でも驚いたのは、平成六年にハート出版から出版された 『古代霊シルバーバーチ・新たなる啓示』 の 「訳者あとがき」 に私がこのニューマン氏の記事を訳出して紹介している事実を、本書の編集を担当して下さった是安宏明氏から指摘されて、私がやはりニューマン氏のものの考え方によほど共感していたことを知った。

内容的に決して古さを感じさせないので、最後にそれを採録して参考に供したい。題して 『科学者よ、シルバーバーチを読め!』 《シルバーバーチを愛読している人でも、その奥深い意味まで理解している人は案外少ないものだ。それほどシルバーバーチの教えには含蓄がある。

 私に言わせれば、むしろ科学者がシルバーバーチを読めば、そしてその奥に秘められた意味を理解すれば、いま科学者を悩ませている難問への回答を見出すに違いない。現代の科学が到達した宇宙観によれば、どうやら我々が認識している世界が全てではないらしいこと、今こうして生活している世界と共存の形で無数の世界が存在しているらしいこと、それらの中にはこの地球と同じ世界もあれば全く異なる世界もあるらしい、ということである。

 最新の量子論からいっても、そうした別世界(オールターナティヴ)は地上界から絶縁した世界ではなく、この物質の世界と触れ合い、互いの原子が押し合いへし合いしていても少しもおかしくはないのだ。

 そのオールターナティヴにも、我々地球人類と同じ精神構造と身体構造をしている存在が生活している───基本的にはその意識的生活は同じであることも、十分にあり得るのだ。

 結局のところ生命とは、たぶん科学的結合をベースとして、宇宙エネルギーが組織的に形態を具えたもの、との定義にたどり着く。この定義は科学者なら誰しも納得がいく。問題は、目に見えざる世界が存在する、そのありようがしっくり認識できない点にあると言える。

 そこでシルバーバーチに登場願うことになる。シルバーバーチは平面的な〝場〟を意味する Plane と言う用語を用いずに〝状態〟を意味する state を用いている。シルバーバーチは言う───

 「すべてが混ざり合った状態にあるのです。無線電信の波動が宇宙に充満しているのと同じ状態です。いろいろな波長があり、いろいろなバイブレーションがあります。が、それらが同時に同じ場に共存できるのです。境界というものはありません。波動が異なるだけです。反応する意識の側面が違うのです」

 このことから考えると、地上生活というのは、脳髄という物質を通して活動する精神をコントロールしている、ある一定レベルの意識での生活の場ということになる。つまり五感でキャッチしたものが、脳と生命の糸 (魂の緒) を通して精神ないしは魂へと伝えられて、それぞれの反応を生じる、ということである。

 このことはさらに、人のために役立つ心がけと中庸の生活こそが意識レベルを高め、精神の活動の場を広げることになる、という考えを生む。結局〝死〟というのは、肉体から離れた魂がその意識レベルに相当したバイブレーションのオールターナティヴへ移動するだけのこと、ということになる。死後の環境に違和感を感じないというのは当然のことなのである。

 その後の進化についてもシルバーバーチは簡潔にこう述べる───

「魂が成長すれば、波動のより高い状態に適応できるようになり、自動的により高い階層で生活することになります」

 その階層の持つ電磁波の作用でそうなるのであろう。となると当然、乱れた生活をしている人間は、その乱れた波動に似合った世界へと引きつけられていくことになる。かくして聖書の通り 「麦ともみ殻が選り分けられ」 「多くの住処」 が生じるわけである》   (『サイキック・ニューズ』一九九三年四月二四日号より)

Friday, August 18, 2023

シアトルの夏 無限に続く真理への道  スピリチュアリズムを科学する人々

The Endless Path to Truth Those Who Scientize Spiritualism

シルバーバーチのスピリチュアルな法則 宇宙と生命のメカニズムの通販/フランク・ニューマン/近藤 千雄 - 紙の本:honto本の通販ストア

 

 科学の世界にとって二十世紀最大の悲劇と言うべきは、オーラ、すなわち人類の電磁場に関する先駆者たちの研究をないがしろにしてきたことです。資料は充分にあったのです。

 その研究をさらに続けていれば、電磁場の研究は今よりはるかに進んでいたはずだ、というのが私の率直な感慨です。

 本書で私は、シルバーバーチの教えを科学的に解明することを意図しながらも〝科学的〟な要素を一般の読者にも理解できる程度にとどめました。何人かの研究仲間の名前を紹介しましたが、他にも優れた研究者がいます。

本章ではそうした、霊的事実に肉薄する研究に勤しんでいる人たちの成果も含めて、これまでに分かった事実を箇条書きにして紹介し、さらに、例によってシルバーバーチの霊言で本書を締めくくりたいと思います。


 ウォルター・キルナー博士

 ・ダイシャニン溶液を塗った、俗に〝キルナー・スクリーン〟と呼ばれるもので、物的身体を取り囲むように三つの放射体が存在することを証明した。

・そのオーラの状態を調べることによって物的身体の健康診断が可能である。

・健康状態によってオーラのサイズと色彩が変化する。

・意念の力でオーラを大きくしたり色彩を変えたりすることもできる。

・オーラはプラス・マイナスの電気に反応する。

・磁場の強さがオーラの深奥にまで影響を及ぼすことがある。ある実験では、被験者が苦痛さえ見せた。

・催眠術をかけるとオーラの輝きが薄れる。

・各種の化学薬品を気化させたものを漂わせるとオーラに悪影響を及ぼす。

・死が近づくにつれてオーラの輝きが薄れ、ついには消滅する。


 V・M・イニューシン博士

・バイオプラズマ (オーラ) は生物のマトリックス (鋳型) である。それを博士は 「ホログラムの形態で凍結したもの」 と表現している。つまり一つひとつの断片が全体の本性の全てを包含しているという。

・バイオプラズマは宇宙全体とリズムを合わせて、休むことなく呼吸している。


 W・セドラック教授

・バイオプラズマは全ての化学的ならびに電子的作用の基盤である。

・バイオプラズマは組織内での情報の伝導体である。

・生命は究極的にはプラズマ=電磁場理論に集約される。


 E ・ K ・ マラー博士

・物的身体とは別に、ある種の〝力の場〟(オーラ)が存在する。それは血液の循環の速度、質、消化した食物のカロリー、身体の運動量、ないしはただの念力によって、その強さが変化する。

・その〝場〟は普通にいうところの電気性は帯びていないが、電磁気力学的な計測が可能である。

・その〝場〟は絶縁体を良導体に変えることができる。

・ガラス、雲母、銅、アルミホイルを貫通する。


 H ・ S ・ バー教授

・人間を始め全ての生命形態は〝電気力学的生命〟すなわちオーラの磁場によって指令と制御を受けている。それがひいては宇宙及びそこに生息する存在に形態とその維持のために必要なものを提供している。

・その生命こそ基本的なものであり、それが森羅万象を生み出している。つまり宇宙の内的諸相の一つひとつを特徴づける統御因子、すなわちDNAなのである。

・人間の精神には時間も空間もなく、エネルギーの転換も必要としない。各個人特有の統制された〝場〟の中に存在している。

・生命、すなわち霊的磁場は、最も単純な形態から最も複雑な形態に至る、言うなれば〝権威の連鎖〟のつながりのようなものである。

・一つの〝生命〟すなわちオーラが他のオーラと重なると必ず相互作用が発生し、さまざまな重大な結果を生み出す。

・全生命形態をコントロールする霊的磁場の存在は、宇宙に摂理と秩序が存在することの絶対的な証拠である。

・人体の神経組織は、その磁場を含む霊的基盤が細胞に賦与する生命力によって機能している。

・物的身体の健康状態はこうした霊的磁場を通して管理されているのかもしれない。


 ヘルムート・ブライトハウプト博士

・ホログラフィーとは、物的身体から発生した全情報が蓄えられたり必要に応じて補充されたりする原理のことである。
 

 ハーバート ・ L ・ カーニング教授

・太陽からの放射物によって生まれた電気を帯びた物質が、紫外線やX線から赤外線やマイクロ波に至る全周波数帯に影響を及ぼしている。

・一般的に電磁力は、有機体間の、ないしは有機体へ向けての、情報の伝達手段となっているという事実を科学的に示す証拠は、直接的・間接的に充分に存在する。

・信号による刺激伝達網 (東洋医学でいう〝径穴〟) は全身に存在するが、皮膚の表面またはその奥に存在するものを特定して刺激を与えそれを内部機関に伝達するのは、マイクロ波放射線か、より広い範囲の波長の光波による。


 ウォルター・クロイ博士

・人体及び動物の皮膚の特定部位を刺激すると、内臓器官に反応が生じる。

・紫外線、可視光線、及び赤外線の範囲の電磁場が人間と動物の身体を包んでいる。それらの場から電磁波信号が発せられており、波長が短いので表面組織の特定の部位を選択して容易に貫通し、穏やかに吸収される。

・こうした信号は、受けた情報を連結組織を通して器官の細胞へ伝達することによって、基本的な調節機能を果たしているものと見られる。情報を受けた器官は、同様の組織を使って、器官内部での連絡をしている。

・電磁波信号は原子と分子、さらには少し幅を広げたスペクトラムにおける、より大きな構成分子との間の、基本的な言語である。


 F・A・ポップ博士

・DNAの複写および転写は電磁場内の相互作用によって制御され、繊維と細胞へ伝達されるシグナルの強さと質はそれぞれ異なると考えてよい。

・生物組織の〝ホログラム〟的成分は、さまざまな器官のレセプター (受容体) とおなじように他の器官、例えば、耳や手や目などにもそのまま存在することが、針治療や眼球の虹彩検査によって分かる。

・DNAの情報が全身にまんべんなく存在するということになれば、ホログラム的成分がその生物体の内部にあることになる。


 U ・ ウォーンカ博士と F ・ A ・ ポップ博士の共同研究

・電気の場と磁気の場は互換性があり、基本的には異質のものではない。

・磁気が弱いと細胞の成長、動き、老化、寿命の長さ、組織の活動に影響が出る。

・磁場の周波数の幅が極端に狭くかつ低く、増幅力が弱いと中枢神経系統にも影響が出る。

・痛めた箇所ないしは病的組織には適切な強さと振動の磁力を当てることによって、治療が促進される。

・極長波と低周波の領域において、ある一定範囲内での強さの磁気を交互に用いることは、今日の医療現場で認められている。


 シミョーン・キルリアン (ロシアのグラスノダル病院の技術スタッフで夫人のバレンティーナとの共同研究)

・オーラはキルリアン写真によってカラーで撮影できる。

・精神による思念や感情によってオーラの形状や色彩が変化するのが、キルリアン写真で観察できる。

・同じく、健康状態も観察できる。

・高電圧で高周波の電流をオーラに流すと体力の低下がみられる。

・木の葉の一部を切り取っても、写るオーラの外形には変化は見られない。多分生物体も同じであろう。

    
 こうしたオーラの性状に関しての知識はかなり前から入手されていたのですが、電磁気生物学の分野の進歩が、近代的機器の発達にも関わらず、極端におろそかにされてきました。

 先駆者たちの研究成果の中には改めて近代的な機器で確認する必要のあるものがあることは私も認めますが、原則に関する限り、すでに確立されていると信じます。むしろ大切なのは研究に携わる者の人間性ではないでしょうか。

 シルバーバーチの霊言を紹介して締めくくりといたします。

 「時おり、脳は発達しても精神と霊の発達がともなわないことがあります。いわゆる知的な人間 (インテリ) という人種ですが、知的だから魂も立派であるとか、偉大な人物であるとは限りません」

 「それは物質に限られた発達、つまり脳髄だけの発達にすぎません。そして、そうした人種の中には複雑なこと、難解なこと以外は受けつけない人がいることも確かです。

しかし、本当の意味での発達、精神と魂の発達をともなった発達があります。その発達は霊的実在についての覚醒をもたらします。精神的ならびに霊的発達だからです。そういう発達を遂げた人は、それまでの間違った概念をあっさりと捨てて、実相にさらに一歩近づきます」

 「真理は閉ざされた心には入れません。真理は受け入れるだけの霊性ができた時に初めて入ってきます。真理は、大霊と同じく、無限です。そのうちのどれだけを受け入れられるかは、各自の受容力しだいです。受容力が増せば、それだけ多くの真理を受け入れることが可能となります。

ですが、もうこの宇宙のことは全て知り尽くした、と言える段階は決してきません」



    

Thursday, August 17, 2023

シアトルの夏 完全なる因果律  死後につながる現世での所業

Perfect law of cause and effect deeds in this world that lead to the afterlife

シルバーバーチのスピリチュアルな法則 宇宙と生命のメカニズムの通販/フランク・ニューマン/近藤 千雄 - 紙の本:honto本の通販ストア

 
 

死後いずれは住まうことになっている霊的な世界がどうなっているかを理解するにあたって心得ておくべきことを、シルバーバーチの言葉から引用しておくと───

 「あなたは死後に赴く次の世界に今も立派に存在しているのです。バイブレーションの次元が違うにすぎません。死ぬことで霊的存在になるのではありません。死んだからといって、あなたの霊格が一ミリたりとも増えるわけではありません」

 「あなたは今この時点において立派に霊なのです。今この特殊な物的バイブレーションの階層における幽体のバイブレーションが、死後あなたが赴く階層を自動的に決めるのです」

 「これまでの地上界の寿命で生きてきた、その生き方と、その結果として発達した意識レベルが、今のあなたの幽体がどの次元で機能しているかを決定づけます。死後に目覚める階層のバイブレーションについてもこの原則が当てはまります」

 その階層について、シルバーバーチはこう述べています───

 「互いに混ざり合っています。空間に充満している無線電信のバイブレーションと同じです。さまざまな波長があり、さまざまなバイブレーションがあります。が、その全てが同じ空間を占めているのです」

 「境界というものはありません。国境もありません。バイブレーションが異なるだけです。異なる階層、ないしは異なる意識レベルで機能しているのです」

 では、意識レベルを上げて一段と高い階層の存在となるにはどうしたら良いか。そのカギは、シルバーバーチに言わせると〝人の為に役立つことをすること〟に尽きるようです。

 「こちらの世界では、各自の霊性の成長度に相応しい階層、つまりは、環境との調和が最もしっくりくる階層に落ち着きます。知的、道徳的、霊的成長度が自動的にそこに落ち着かせるのです。他の階層との違いは、そこに住まう霊の質の違いです」

 「霊的に高い次元にいる人ほど、質的に高いということです。他人への思いやりが強いほど、慈悲心が大きいほど、自己犠牲の意識が高いほど、地上界にあっても意識的に高い階層に生きていることになります」

 物理的に言えば、今支配している身体のバイブレーションのレベルが向上するにつれて見た目には物的でも質的には徐々に物質性が衰え、やがて消えてなくなり(死滅し)、次の進化の段階へと進みます。

かくして精神(魂)の内部での意識が発達するにつれて大霊(神)に近づくことになるわけです。
℘134
 簡単に言えば、以上が宇宙の各階層が互いに繋がりあっていることを示す、基本的なバイブレーションの関係です。

バイブレーションというと我々は如何にも実態がないかに想像しがちですが、シルバーバーチは 「死とともに後にする物質の世界よりもはるかに実体があり、遥かに実感があります」 と述べています。その死後の階層について、さらに細かく見てみましょう。

 地上生活を送っている間じゅうも 「皆さんは霊の世界の最高界から最低界までの全階層の影響を受ける状態にあります。が、

実際に受けるのは各自が到達した霊性と同じ次元のものに限られます。邪悪な魂は邪悪なものを引き寄せます。高潔な魂は高潔なものを引き寄せます。それが摂理なのです」

 地上時代に心に宿した思念と実生活の中身によって、死後に待ち受ける階層での環境が決ります。死後の世界に関して誤った知識を教え込まれ、「最後の審判」 の日を待ちながら居眠りを続けている霊の問題についてシルバーバーチは───

 「彼らの魂そのものが、そうした信仰が現実になると思い込んでいるのです。ですから、その信仰の概念が変化するまで、外部からは手の施しようがありません。

そうした人々は事実上、地上での全生涯を通じて、死んだら大天使ガブリエルがラッパを吹くまで墓で寝て待つのだという思念体を形つくり、それを毎日のように上塗りしてきているので、魂の内部での調整が進んでその思念体を切り崩すことが出来るようになるまで、その牢獄に閉じ込められ続けます」

 「自分が死んだことを認めようとしない者も同じです。無理やり信じさせることは出来ません。死んだという事実を得心させることがいかに難しいか、皆さんには想像できないことでしょう」

 肉体器官の機能を支えていた幽体の働きはどうなるかとの質問に、シルバーバーチはこう答えている───

 「肉体器官の機能が残っているかどうかの問題も意識の程度次第です。死後の生命についてまったく無知で、死後の世界があるかどうかなど考えたこともない人間は、肉体の機能がそのまま幽体に残っていて、死んだことに気づかないまま、地上時代と同じ生活を続けています」

 「もちろん死後の世界でも罪を犯します。こちらの世界での罪悪は利己主義という罪悪です。こちらではそれがすぐに外に現れます。心に宿すと、直ちに知れます。その結果も地上より遥かに早く出ます」

 「それは罪を犯した当人にすぐに現れ、霊性が低下するのが分ります。どういう罪かと問われても〝自己中心的思考が生み出す罪〟と表現する以外、地上の言語で具体的に説明するのは困難です」

 死後の生命存続を知っていた者はどうなるかとの問いには───

 「そういう人の幽体は希薄化 (より高い次元への変化) が進みます。無用であることを知っている器官は次第に萎縮していき、ついには消えてなくなります」

 そういう変化は徐々に進むのか、それとも別のケースもあるのかとの問いに───

 「それは当人の意識の程度によって違います。意識が高ければ高いほど、調整の必要性が少なくなります。こちらは精神の世界であること、つまり意識が主人公である霊的世界であることを常に忘れないでください」

 「低い階層、幽的世界は、多くの点で地上世界の写しのようなものです。それは、新しくやってきた人間が戸惑わずに順応できるようにとの〝神の配剤〟の一環です」

 こうして死の現象を経た魂が次の階層へ目覚めていくのが本当の意味での〝復活〟で、イエススも説いているし、ヒンズー教の経典である 『バガバット・ギータ』 でも説かれています。残念ながらその後の信奉者がそれを正しく解釈していないのです。

 シルバーバーチは死後の生活はみな低い階層から始まるのかとの問いに───

 「とんでもありません。それは死後のことを教わっていない者、その種のことに無知な者、霊的事実に対する感性が欠けている者、言い換えれば物的なもの以外の存在が思い浮かべられない者の場合です。幽界も霊的世界の一部です。

霊的世界にも低い階層から高い階層まで沢山の段階があり、幽界はそのひとつに過ぎません」

 「霊的生命の世界は〝界〟〝面〟ないし〝表現の場〟が段階的に繋がっています。進化的な意味での段階であって、地理的な意味ではありません。一段また一段と、次の界へ融合していきます。魂が発達して次の界への適応能力がそなわると、自動的にその界へ上昇していくわけです」

 「より低いものがより高いものに場を譲ります。あなた方の言葉で言えば、いったん〝死んで〟 、それから〝生まれ変わる〟のです。といって、肉体がなくなるように幽体がなくなるわけではありません。希薄化が進むのです。

バイブレーションの低いものが消滅しただけバイブレーションが高まるのです。それがこちらの世界での〝死〟です。死とは本質的には脱皮現象であり、甦りであり、より高いものがより低いものから上昇していくことです」

「進化するほど、自我の未開発の部分が表面へ出てきます。言い換えれば、完全性が発現するほど大霊に近づいていきます。もしも完全性が有限の過程であれば、そのうちあなた方も大霊と融合していくことになりますが、哲学的に言うと完全性は無限の過程です。

進化すればするほど、さらに進化すべき余地があることに気づくことの連続で、その分だけますます個性化が進むことになります」


 以上で、大まかながら霊的進化というものがバイブレーションのレベルの問題であり、そのレベルは自我意識の発達の反映であることが明らかになりました。進化するのは個的意識と呼んでいる〝霊的種子〟(魂) であり、それが無限のバイブレーションの段階を経ながら永遠に開発され続ける、ということに得心がいったことと思います。

 また、進化を促す〝心の姿勢〟にはそれなりの摂理があり、それは人間がこしらえた宗教的教義や信仰によってごまかすことはできないこと、日常生活における〝行い〟が肝心であることを認識しなければならないでしょう。

 どうやら幽界の低い階層には地上よりさらに広いバイブレーションの周波帯が存在することは間違いないようです。その周波帯の中にあっても、意識レベルが高まるほど高級界と接触できる周波帯が狭くなりますが、先の近似死体験に出てきた高級界の〝光の存在〟との面会も叶えられることになるわけです。

 形体のない階層では色彩が認識の手段となるのかとの問いにシルバーバーチは───

 「その通りです。ただ、地上界の色彩は基本的な幾つかのものに限られていますが、こちらにはあなた方の理解を超えた波長の色彩が存在します。

高級界の存在になると、外観は光り輝いて見えるだけで、一定の形体がなく、それでいてメッセージが送られてくるようになります。光輝をともなった思念体と言うものがあるのです」

 「幽界の低いバイブレーションの階層にはそこが物質界でないことに気づかずに、延々と、ただぼんやりと過ごしている人がいます。こちらには時間がないということを忘れてはいけません。そのうち自分がただの思念体の中に閉じ込められていることに気づけば、その思念体が崩壊し始めるのですが、自分でこしらえた牢獄です」

 これは死後のことに何の知識もないままやってきた者が住む階層です。その中には戦争や暴力沙汰で命を落として、あっという間に送り込まれた者が大勢います。

思念が硬直していますから、精神的にも、従って霊的にも進歩せず、地上での最期となった体験による反動から抜けきれずにいます。時間が止まっているのです。その最期の体験を何回となく再生(リプレイ)し、それがいわゆる〝幽霊屋敷〟となっているのです。
℘140
 こうした気の毒な霊は当然のことながら自分の本体の磁場との接触がなく、その結果としてその次元の指導霊との接触もありません。不安と恐怖、それに地上時代の誤った信仰による洗脳がそれを妨げるのです。シルバーバーチはこう述べています───

 「死後のことに無知だった者、偏見を抱いていた者、迷信によって生活を牛耳られていた者は精神的なバリアを築いており、その一つひとつが霊力の流入を妨げます。それが崩壊するまでにどれくらいの年数が掛るかは、そのバリアの性質によって異なります」

 このグループは少なくとも霊媒を使った方法 〈補注1〉 によって、すでに地上を去って霊の世界にいることを得心させ、〝光の存在〟に近づくための心構えを教えることが可能な波動のレベルにいます。


 〈訳者補注1〉
 これは 「招霊会」 ないしは 「招霊実験」 といって、そうした〝迷える霊〟を高級霊団が強引に霊媒に乗り移らせ、霊媒の発声器官を使って審神者(サニワ) と対話させることによって説得する方法。この方法で三十年以上にわたって救済活動を行ったのが米国の精神科医カール・ウィックランド博士で、その成果が 『迷える霊との対話』 (ハート出版)にまとめられている。なお、ウィックランド博士はシルバーバーチの交霊会にも度々招待されている。

 
 さらにその先の一段とバイブレーションの低い階層には、地上時代に暴力、強盗、淫乱、酒乱、麻薬等で世の中に迷惑をかけどうしだった者たちがたむろしています。

 そのまた先の最低界には拷問と虐殺の限りを尽くした、卑劣にして悪辣な魂が類をもって集まっています。そうした中から、時折、再び肉体に宿って地上界へ出現し、同じような行為を繰り返す者もいるようです。

 そうした残虐行為の最たるものが、中世のローマ・カトリック教会による異端審問と、第二次世界大戦におけるユダヤ人虐殺でしょう。今日でさえ地上には同胞の生命や存在価値に無頓着な者がいます。皮肉なことに、その多くが宗教の名のもとに組織をこしらえて、富と権威と名声を大きくすることに奔走している代表者なのです。

 もともと宗教というのは、イエスのような秀(ひい)でた霊覚者によって説かれた同胞への愛と共存精神のもとに自然発生的にできたものでしたが、それが後継者たちによって信者を人工の教義によって強制的に縛るようになっていきました。

それは当然それを信じる者たちの言動に影響し、幽体のバイブレーションを下げる結果となりました。
℘142
 やがてその信者たちも死を迎えます。すると類は類をもって集まるの譬えで、同じバイブレーションをした低層界に集まります。そこでは〝気心の合った〟(精神的発達程度が同じ)者ばかりがいて、そこでまた地上時代と同じような生活を営みます。

精神のレベルと幽体のバイブレーションとが環境と調和して居心地がいいわけです。

 見方を変えれば、彼らは〝光の存在〟との接触が出来ない階層までバイブレーションが下がったということは、それだけ霊的進化を犠牲にしたということです。

そうなった場合にまずいのは、波動の原理で地上界の同じレベルの人間と無意識のうちに一体となって、物的地上生活を体験することになることです。

 こうして自由意志を履き違えた人間によって自然発生的に出来上がった〝地獄〟が永続し、宇宙に不調和音を響かせます。人間は知性と欲望を合わせ持った唯一の存在であることを考えると、これは当然のことです。地上の他の創造物は食べることと子孫を遺す本能を持つだけです。

シルバーバーチは自由意志の問題をこう解説します───

 「その意味では堕落した人間、同胞に危害を与えて何とも思わない人間の存在は大霊の責任であると言えないことはありません。しかし霊の普遍的な特権として〝自由意志〟というものが授けられています。これは霊的に進化するにつれて正しい使用方法を会得していきます。霊的進化の階段を上るほど、その使用範囲が広まります」

 イエスも 『マタイ伝』(10・28)で 《肉体を殺しても魂を殺し得ぬものを恐れてはならない。肉体と魂をともに地獄にて滅ぼしうるものを恐れよ》 と述べ、パウロも精神の意識レベルの影響を《肉体的な思念(おもい)は死なり。霊的な思念は生命なり、平安なり》 と表現しています。

 こうした場合の〝殺す〟とか〝死〟といった表現は霊的進化が不可能となるという意味に取るべきでしょう。

 ヒンズー教徒の経典 『バガバット・ギータ』 も霊的進歩をみずからの意思で拒否した者の運命をこう述べています───

 《正と死の果てしなき循環 (生まれ変わり) の中で、そのような最低の人間、残忍で邪悪で憎しみに満ちた魂は、私が容赦なく破滅へと葬り去るであろう。アルジュナよ〈補注2〉、より低き階層の闇の中に生まれ変われる者は、もはや私のもとへは来ぬ。地獄への道を落ち延びていくであろう。

その地獄への道と魂の死に至る門が三つある。情欲の門と激怒の門、そして貪欲の門である。この三つの門を人間に通らせるでないぞ》

 〈訳者補注2〉
 Bhagavad-Gita はインドの叙事詩で、ヴイシュナ神の化身クリシュナと英雄アルジュナとの哲学的な対話。ここで〝私〟と言っているのはクリシュナ。なお、最初に出ている〝生と死の果てしなき循環〟には、地上界だけでなく幽界の下層階への転落も含まれている。そういう魂と波動が一致した人間は、身は地上にあっても、魂はその下層界に属していることになる。


 かくして人類は、自由意思があるがゆえに、この地上にありながら〝自分の地獄〟ないしは〝自分の天国〟をこしらえることになります。日常生活において高層界と波動が繋がった生き方をしている人間は、死後、その階層へ赴くことになります。

イエスの言う〝多くの館〟のある界です。そこは特別の界ではありません。正常な普通の人間なら誰しも住まうことのできる世界です。

 この自由意思が果たしている意義についてシルバーバーチは───

 「人間を支配しているものに相反する二種類の力があり、それが常に人間界で葛藤を繰り広げております。一つは動物の段階から引き継いできた獣性、もう一つは大霊の息吹ともいうべき神性を帯びた霊力で、これがあるからこそ、人間も永遠の創造に参加することができるのです」

 「その絶え間ない葛藤の中で、そのどちらを選ぶかは各自の自由意思に任されております。

こちらの世界に来ると、それが獣性による罪悪を克服し内部の高等な属性を発現させるための絶え間ない努力、つまり、完全性へ、光明へと向う道程での葛藤、粗野な要素を削ぎ落とし霊という名の黄金がその輝きを見せるまで鍛えられ、純化され、精錬され、試されるための葛藤において、各自がそれをどう受け止めるかは、当人の自由意思に任されているということです」

 その霊の世界については───

 「地上界の次の階層は物質の世界と生き写しです。もしそうでなかったら、何も教えられず従って何も知らずにやってくる多くの新参者が、あまりの違いにショックを受けることになるので、初期の段階は馴染みやすい環境になっているのです。それまで生活した環境とよく似ています。死んだことに気付かずにいる者が多いのはそのためです」

 「こちらは本質的には思念の世界です。思念が実在なのです。思念の世界ですから、思念が表現と活動を形成します。地上に近く、また相変わらず唯物的な人生観を抱いた男女が住まっていますから、発せられる思念は至って低俗で、何もかもが物質的です」

 「彼らは物質から離れた人生が考え付きません。かつて一度たりとも純粋に物的なものから離れた存在というものが意識の中に入ったためしがないのです。霊的なものを思い浮かべることが出来ないのです。従って彼らの思考体系の中に霊的なものは存在しないのです」

 「しかし幽界生活にも段階があります。そうした生活の中においても霊的意識が徐々に目を覚まし、粗悪さが消え、洗練されていきます。すると彼らの目に、生きているということに物的側面を超えた何かがあることが分かり始めます。

そう気付いて霊的感性が目覚めた時から、彼らは幽的世界に対して〝死んだ〟も同然となり、いつしか霊的世界で生活し始めることになります。かくして生命活動には幾つもの〝死〟といくつもの〝誕生〟があることになります」

 これはバイブレーションの理論でいけば、ある次元から次の次元へと進化し、自動的にそれまでの役目を果たした身体を脱ぎ捨てて、次の段階に相応しい身体をまとうということです。シルバーバーチはそうして段階的に開けゆく霊の世界の素晴らしさを次のように語ります───

 「私たちの世界がどういうものか実感を持ってお伝えすることはとても困難です。こちらの世界には探検するものがたくさんありますと申し上げる時、それは実際の事実を正直に述べているのです。

あなた方は霊の世界の無限の生命現象について何もご存じありません。森羅万象の美しさ、景色の雄大さ、千変万化の優雅な現象は、あなた方にはとても想像できません」

 「私たちの世界の素晴らしさ、美しさ、豊かさ、荘厳さ、光輝はとてもあなた方には想像できません。それを説明する言葉を見出すこともできません」

 「こちらの世界の場は平面的に区切られているのではなく、無数の次元に分かれており、それが渾然一体となっております。各次元の存在はあなた方の言う客観的な実在でありそこで生を営む者にとっては同じに見えます。

丘があり、山があり、川があり、せせらぎがあり、小鳥がさえずり、花が咲き、樹木が茂っております。すべてに実感があります」

 「(病気などの) 肉体の苦痛から解き放たれ (疲労などの) 肉体の束縛から逃れた霊の世界での生活は、物質の生活には譬えるものがありません。行きたい所へは一瞬のうちにどこへでも行けますし、思ったことがすぐに形態を持って現れますし、思い通りのことに専念できますし、お金の心配もいりません」

 「以心伝心という、地上の言語では説明のできない手段で意思を通じあう世界です。思念そのものが生きた言語であり、電光石火の速さで伝わります」

 「お金の心配をする必要もなく、競合する相手もなく、弱いものが窮地に陥ることもありません。こちらで〝強い者〟と言う時は、自分より幸せでないものに自分のものを分けてあげる人のことです」

 「失業者もいません。スラム街もありません。利己主義者もいません。宗教教団などもありません。〝大自然の摂理〟という宗教があるだけです。聖なる教典もありません。神の摂理のはたらきがあるのみです」

 「痛みというものを知らない身体で自我を表現し、その気になれば地上界を一瞬のうちに巡ることができ、しかも霊的世界のぜいたくを味わうことができるようになる (死ぬ) ことを、あなた方は悲劇と呼ぶのでしょうか」

 「この世界では芸術家は地上時代の夢が存分に叶えられます。画家や詩人は大望を実現し、天才は存分に才能を発揮します。地上的抑制の全てが取り払われ、天賦の才能と才覚がお互いのために使用されます」

 「私が所属している世界の美観を、その一端でも描ける画家は地上にはいません。地上界の音階で、こちらの世界の壮観をその一端だけでも表現できる音楽家はいません。地上界の言語で霊の世界の素晴らしさを描ける文筆家は、一人もいません」

 「地上界は今まさに美しさの真っただ中 (五月) です。生命のサイクル (四季) が巡って再び生命の息吹が辺りを覆い尽くし、あなた方はその美しさと花の香りに驚嘆し、神の御業のなんと見事なこと! とおっしゃいます」

 「しかし、皆さんが目にするのは私たちの世界の壮観のほんの微かな反映に過ぎません。こちらには皆さんが見たこともない種類の花があります。皆さんが目にしたこともない色彩があります。景色にしても森にしても、小鳥にしても植物にしても、小川にしても山にしても、地上のもの

とは比べものにならないほど美しいものばかりです。しかも皆さんもいずれはそれを目にすることができるのです。その時は地上の人間としては〝幽霊〟となるわけですが、実は本当の自分自身なのです」


 以上が平凡な人間がごく普通に人生を送り、そして与えられた寿命を全うした場合に赴く死後の世界の簡単なスケッチです。死者の世界から戻ってきて死後に待ち受けるものについて語った者はいない、と豪語する者には格好の反論となるでしょう。

シルバーバーチがまさにその強力な証人ですが、スピチュアリズムの歴史にはそうした霊界通信が、語られたり書かれたりして、豊富に存在します。近代のものでは英国人霊媒で米国でも活躍したレスリー・フリントの霊言通信に見るべきものがあります。〈補注3〉

 長い入院生活の末に他界した人や死後の存続について何の知識がないまま霊界入りした人の面倒をみるための、地上のクリニックや療養所に相当する施設の話も出てきます。そこで少しづつ身の上の変化に気づき、地上とは異なる新しい環境への理解が芽生えるといいます。

 住まう家もあります。熱中する趣味もあります。美術品や音楽を観賞するための美しいホールやさまざまな建造物もあります。それぞれの階層の色彩や、それが環境に与える輝きなどについて解説してくれる施設もあります。すべてが思念の力で営まれているのです。

 これだけのシナリオを手にしていれば、自然の摂理に適った生き方をしている人間にとって死の恐怖は無縁のはずです。シルバーコードが切れる際も痛みは伴いません。落ち着くべき階層に至ると、先に他界した縁ある人々の出迎えを受け、しかも地上に残した人たちとのつながりも切れていません。

 その辺のことを心配している方のために、一九一八年に他界したセントポール寺院の参事 H・S・ホーランドからのメッセージを紹介しておきましょう。

 「死は何でもありません。隣の部屋に移るようなものです。私は相変わらず私であり、あなたは相変わらずあなたです。お互い地上時代のままが、そのまま続きます。私のことを昔の愛称で呼んでください。地上時代と同じように気楽に語りかけてください。

恭(うやうや)しさや悼(いた)みを込めた言い方は止めてください。くだらない冗談で大笑いしたように気楽に笑ってください」

 「人生の持つ意味は地上時代と少しも変わっていません。そのまま続いています。去る者日々に疎(うと)し、などと思わないでください。皆さんがお出でになるのをお待ちしております。それも遠い先のことではありません。もうすぐ、そして、すぐ先の曲がり角で。すべて世は事もなし、です」

 未知なるもの(死)への恐怖をシルバーバーチは戒めています───

 「明日 (死後) を素晴らしい冒険と可能性の前触れとして歓迎しなさい。わくわくするような気持ちで毎日を送らないといけません。不安を蹴散らしなさい。ただの無知と迷信の産物に過ぎません。皆さんは正しい知識という陽の光の中で生活できる、恵まれた方たちです」
 

 〈訳者補注3〉
 レスリー・フリントは同じ霊言霊媒であっても、「直接談話」 Dirgct Voice と言って、バーバネルの場合のようにスピリットが霊媒の口を使ってしゃべるのではなく、空中から直接語るという特異なもので、それだけにSPR (心霊研究協会) の徹底した調査を受けた。

そのメカニズムをここで解説する余裕はないが、唯一の著書 『暗闇の中で語る声』 Voices in the Dark で、出現した著名人の霊言を豊富に掲載しており、その中でも特にカンタベリー大主教コスモ・ラングの霊言が非常に興味深い。

 モーリス・バーバーネルが〝ミスタースピリチュアリズム〟の異名を取るきっかけとなった生前のコスモ・ラングとの激論は、当時の英国じゅうの話題をさらった。

それは英国国教会のスピリチュアリズム調査委員会がまとめた 『多数意見調査書』 を巡るもので、複数の霊媒を使った二年間の調査による結論がスピリチュアリズムを肯定する内容だったことから、ラングが公表をためらっていたので、サイキック・ニューズ紙のスタッフが国教会の主教につぶさにあたり、ついにその報告書のコピーを入手し、

バーバネルの決断でその全文を 『サイキック・ニューズ』 紙に掲載した。そのことに激怒したラングとの間で、書簡による激論が始まった。その内容は次のレンドール参事会員の論評が適確に物語っている───

 「この調査委員会による結論の公表を禁止させた主教連中による心ない非難や禁止令、それに何かというと 『極秘』 を決め込む態度こそ、国教会という公的機関の生命をむしばむ害毒の温床となってきた、了見の狭い職権権威主義をよく反映している」

 そのラングが死後フリントの交霊会へ出席し、この件に言及してこう述べている───

 「もし私が今やっと知るに至った霊的知識をたずさえてもう一度人生を一からやり直すことができたら、どれほど意義ある人生を送れるだろうかと思えて、無念の極みです。その気になればできたのです。ですが私は憶病でした」

 そう述べてから、大戦で戦死して次から次へと送られてくる若者たちが、国教会が死後の存在と顕幽両界の交信の可能性について教えてくれなかったことに憤っていることを述べ、さらに、現在の日本の心霊界にも当てはまる傾聴すべき指摘をしている───

 「スピリチュアリズムが人生に重大な意味を持ち、とても大切なものを秘めていることを強く感じますし、すべての人に知ってほしいと思いますが、同時にその捉え方を誤ると危険極まりないことも感じています」

 「高級霊、優れた霊、人類を高揚するほどの力を有する階層との接触を得るには、それ相応の精神と思想、そして高度な波動を具えた霊媒ないしは霊能者を用意しなければなりません。その点、不幸にして現在の地上の霊能者は低級な人が多すぎます。咎めているのではありません。私は何とか力になりたくて申し上げているのです。

高尚な精神をそなえ、自分の存在を地球人類のために犠牲にするほどの気概に燃える霊媒を揃えてスピリチュアリズムが正しく活用されれば、それは間違いなく人類を益するものとなるでしょう」

 「しかし、私が見るところでは、百人のうち九十九人の霊媒がやっていることは、いわば幽界の表面をひっかく程度のものでしかなく、これはスピリチュアリズムにはむしろ危険です。なぜなら、類は類を呼ぶの譬えで、地上界にへばりついている低級霊に利用され、いい加減なこと、不幸や面倒なことを引き起こすようなことばかり口にするからです」

 「その上危険なのは、立ち会っている人たちがそうした低級霊に憑依されてしまうことです。そうなると人間性が歪められ、さらに真理が歪められていきます」

 また別の日の交霊会では本章と同じテーマについて述べているので、ついでに訳出しておく。

 「人間は幾世紀にもわたって真理に背を向け、人間は本来は霊であること、それゆえに永遠に不滅であるという最も大切な真理が見えずにまいりました。今、自分の地上人生を振り返ってみると、自分がいかに宗教的教訓と体験の道から逸脱していたかが分ります」

 「神の言葉を聞きに集まった善男善女に私は、あのヴァチカンの説教壇から、これこそ真理と思うことを説いてきました。その時は自分では真理を知ったつもでいたのです。が、今から思えば、単純明快さと内部の霊性についての知識が欠けておりました」

 「イエスを始めとする初期の偉大なる改革者や指導者の教えの真意を理解していたら、と残念に思えてなりません。初期の時代から貫かれている黄金の糸に気付いていれば、と悔やまれてなりません。

その黄金の糸とは、人間は信仰に関わりなく全てが大霊の子であり創造の大計画に組み込まれていること、全生命は不滅であり、地上の最下等の生命でさえ、地上だけでなく死後も存在の意味を持っているという事実のことで、これが全真理の基本なのです」

 「霊とは人間的形体や宇宙の森羅万象として顕現しているエネルギーのことです。生命力であり、エネルギーであり、バイブレーションです。全生命が同じ生命の一部ですから、不滅なのです。地上にいる皆さんは同じバイブレーション、同じ振動、同じ波長の中にいますから、肉体の五感は環境を実感があるように思い、固いという感触を得ています」

 「しかし、今や科学によって、地上界には実体のあるものは存在しないことが分っております。今そうやって座っておられるイスを皆さんは固いと感じているでしょうが、それは、その椅子を構成している素材の原子核の周りを回転している電荷と、あなた方の身体の電荷が同じだというに過ぎません」

 「死ぬと今度は幽体と呼ばれている、より高い周波数で振動している身体で生活を続けます。その幽体は死後の階層の波長と同じですから、今皆さんが身の回りの環境が固いと感じているのと同じ原理で、やはり全てが固くて実感があるように思えるのです」

Wednesday, August 16, 2023

シアトルの夏 根源的過ちは神と人間との関わりについての誤解

 The Fundamental Mistake is the Misunderstanding of the Relationship between God and Man

More Spirit Teachings: Further Examples of Remarkable Communication from  Beyond: Stainton Moses, William, Oxon, M a: 9781786770776: Amazon.com: Books

 

 〔本質においてプライベートなことを公表するのは決して私の本意とするところではないが、それを敢えてこうした形で公表するのは、一人の人間の思想的経験が他の大勢の人々の経験となり得るであろうし、私がたどって来た精神的ないし霊的葛藤の過程が、同じような過程をたどっている人々にとって参考になるかも知れないと考えたからである。

さて、その後数日間、そうした霊による宗教上の教訓の問題に関する通信が途絶(とだ)えていたが、私の胸には以前にも増してさまざまな疑念が湧き起こり、それを遠慮なく書かせて貰った。当時の私の心境を思い起こすと、インペレーターの通信を読んで途方に暮れ、茫然自失の状態にあったようである。そんな目新しいものを受け入れる余裕はとてもなかった。そして私にとって最も気がかりだったのは“霊の身元”であった。その時の私の考えでは、霊の教説を云々するよりも、霊の地上時代の身元を明かしてくれる方が先決のように思えたのである。またそれ位のことは出来るはずだと信じていたので、それが叶えて貰えないことに焦燥を覚えたのである。今でこそ理解できるが、まず獲得すべきなのは“確信”であって、私が期待したような形だけの身元の証明ではその確信は得られないことが、当時の私には理解できなかったのである。

私を悩ませたのは、いわゆる霊界通信の多くが決して有害とまでは言わないにしても、愚かしく且ついい加減なものであるという印象を拭い切れないことであった。私はそれをキリスト教の思想家の教説と比較してみたが、やはり後者のほうが上であった。また私には霊の見解の中に大きな矛盾があり、あらゆる思想が混ざり合っているようにも思えた。個人的にもその殆どに共鳴できないし、それを受け入れる人にプラスになるとも思えなかった。これを信じる者は狂信家か熱狂者の類であると想像し、不快感さえ感じていた。内容的にも、また交霊会における現象にも大して魅力を覚えず、私はさきに述べた疑問点を書き連ねた。それは主として地上時代の身元の証明に関するものと、神と人間との関係(つながり)、及びスピリチュアリズムの一般的性格とその成り立ちに関するものであった。次がそれに対する回答である――〕


友よ、再び対話を交えることを嬉しく思う。そして、たとえこの機会に質問の全てに答えることが出来ず、また全てを解決し得ずとも、神と人間との関係並びにわれらの背負える使命についてそなたが抱いている誤解の幾つかを解くことが出来るであろう。

そなたの誤解の根源は神及び神と人間との関係についての誤れる概念にあるやに観ぜられる。人類の歴史を通じ、唯一にして同一の神の啓示が一貫して流れていることに間違いはない。が、人間がその啓示を理解せんとするうちに、愚かにもその本性と働きについて真実より大きくかけ離れた奇々怪々な概念を想像するに至った。

太古においては、そのお粗末なる概念は物体の形をとり、祈りが叶えられれば畏敬され、叶えられぬ時は即座に棄て去られることの繰り返しであった。彼らは、目の前の物体そのものは何の霊力も持たず、背後に霊が控えて筋の通れる祈りはこれを叶えさせんとしている事実を知らなかった。彼らにはそれ以上の神の概念は思いつかなかったのである。目に見え手に触れるものにしか神の概念を託し得なかった。この点を篤と注意するがよい。彼らの神の概念を託したのである。神そのものではなく、彼らが精一杯想像し得た未熟な概念だったのである。いい加減な占いの結果より情報を引き出し、これを規準に勝手に祭礼の規範を拵え、挙句にはそれを以って神を裁くに至った。自分らの想像せる神を裁いたのである。彼らは同族の者たちの間で畏敬の的とされる人間的属性を神の属性と考えた。人間から切り離せぬ幾つかの弱点を神も有するものと考えたのである。

かくして出来あがれる神は全てに先んじて己の名誉の維持に腐心する神であり、時に我慢強く、時には優しい慈悲心を持つ神であった。所詮は神を語る者がその時に神はかくあるべきであると想像せるものであった。要するにそれは栄光を授けられたる人間――普遍絶対性と全知全能を具えた人間であった。彼らはそういう神を想像し、そういう神ならば斯くするであろうと考えたのであった。かくの如くして、いつの時代においても神の概念にはその時代の特色が反映している。それは人間の成長と共に進歩する。その知的発達と洗練の度合に応じて進歩したものとなって行く。ほかでもない。その通路となる霊媒が無知の足枷より解放され、光と知識へ向けて進歩しただけ、それだけ神について正しき概念を把握することが可能となるが故である。

神が人間の受容性に応じて啓示を垂れるということは、これまでも度々述べてきた。当然そうあらねばならぬ。神も人間の霊媒を通じて啓示する以上、その霊媒の受容能力に応じたものしか啓示されぬのが道理である。神につきての知識が人間の受容度を超えることは有り得ぬ。仮に今われらがより完璧に近き神学を述べたとしよう。それはそなたには奇異に響き、理解することは不可能であろう。故にこれ以後もわれらは徐々にそなたの受容度に応じて真理を注入していくであろう。そしていずれは現代のそなたの観念の誤りに気づく日も来よう。が、今はまだその時機ではない。神について各自が抱ける概念が即ちその者にとっての神である以上、啓示がその受容度を超えることは絶対にあり得ぬ。事の本質上それは不可能なのである。

それ故そなたが神の働きの真意にまで言及して“そのようなことは絶対に有り得ない。それでは神の本質に反することになる。神がそのような行為に出られるはずがない。なぜなら、あの時も神はそのような行為に出られなかったからである”と述べるということは、言い換えれば“私の神の観念はかくかくしかじかであるから、今それ以外の観念は受け入れるわけにはいかぬ。私の信じるところによれば、私の神はそのような挙には出られないはずである”と述べていることになる。われらが指摘せんとするのはまさにそこである。そなたはそなた自身の神を拵え、そなた自身が相応しいと考える通りの働きを神に強要している。そのうち――この地上にせよ死後にせよ――そなたの視野が広がるにつれて新たなる光が射し込み、“なるほど自分は間違っていた。神は自分の想像していたものとはまるで違う。なぜ自分はあのような愚かな観念を抱いていたのであろう”と述懐する日も到来しよう。

これは全ての進歩的人間に言えることである。その目覚めの時は必ずしも地上生活中に到来するとは限らぬ。ある者は死後の新たな生活まで待たねばならぬ。が、この地上にて洪水の如き知識の恩恵に浴する者もいる。魂が古き信仰に魅力を失い、無味乾燥に思え、新たな、より真実味のある啓示を求める。干天の慈雨の如く、生命を生き返らせる何ものかを求めんとする。

さてそなたはそなたなりの啓示を得た。いや、今まさに手にしつつある。観方によればこれはそなたの精神が広がり、その受容力に応じた神の観念の入る余地が出来たしるしと言えよう。が、さらに観方を変えれば、外部より新たにして豊かなる神の啓示――人類の歴史を通じて得られた啓示と同じ根源からの啓示――が流入したと言うことも出来よう。

それはどちらでも構わぬ。啓示と理解力、知識と受容力とは常に相関関係にある。受容力が備わるまでは知識は授からぬし、精神がその不足を意識するほど進化するまでは、より高き啓示は得られぬ。その理由は単純である。精神そのものが啓示を受ける通路だからである。

そなたたちが抱いている神の観念は、全て人間の精神を濾過器として地上にもたらされたものである。神を求める人間的渇仰の具象化である。未熟なる精神の産物であり、その精神の欲求は必ずしもそなたの欲求とは一致せず、従ってその神は――と言うよりは、神についての見解は、そなたの見解とは異なる。それをそなたはどうにかしてそなたの思想構造に適合させんとするが、所詮それは叶わぬことである。何となれば、その観念たるや発達程度を異にするさまざまな人間による産物の混合物だからである。

よく考えるがよい。そなたはわれらの述べるところの観念が、そなたが聖なる記録より引き出したる観念と相容れぬことを理由に、われらを神の使徒とは認めぬと言う。では聞くが、われらの説く神が一体どの神と異なると言うのか。アダムと共に人間の姿で地上を歩き、何も知らぬ者たちの犯せる罪――今では些細なる過ちに過ぎぬとされている罪――に恐ろしき報復をしたと、まことしやかに語られているその神のことか。それとも、忠実なる友にその一人子を供物として捧げることを命じたという神のことか。あるいは、君主としてイスラエルを支配し、公衆衛生法規の発令と礼拝堂の建立に意を注ぎ、イスラエル軍と共に戦場に赴き、罪なき無抵抗の他民族を全滅させるための残忍この上なき法律と法規を発令したという神のことか。もしかしてその神は、イスラエル軍が流血と修羅場の中でもうあと数時間戦えるよう、ヨシュアに特別の力を与えて宇宙の運行を止まらせ、太陽系を麻痺させたという神のことであろうか。それとも、自分が選べる民イスラエル人が目に見える君主を要求したことに腹を立て、以後何百年にも亙って手を変え品を替えて報復し続けたという、あの神のことか。

さらに、われらの教えはそなたたちのいう大予言者の説ける神々のうちのいずれと相容れぬと言うのか。イザヤの神か。エゼキエルの神か。それともエレミヤの病的な心の産物であるあの陰気なる神か。それともかのダビデの神――半ば父の如く、半ば暴君の如く、残忍さと従順さとを交互に見せ、いつも矛盾と不合理に満ちた神か。それともヨエルの神か、ヨハネの神か。それともパウロのカルヴァン(1)主義的な、あの身の毛もよだつ天命と地獄と選抜、それに白日夢の如き物憂げな天国等の幻想のことか。そのいずれと矛盾するとそなたは言いたいのか。パウロかヨハネか、それともイエスか。

改めて述べるまでもなく、神の啓示はいつの時代にもその時代の人間の受容能力に応じたものが授けられ、それがさらに人間の精神によって色づけされている。言い換えれば、神の観念は鮮明度の差こそあれそれを受けた霊感者の考えであったとも言える。精神に印象づけられた霊示がその霊感者を取り囲む精神的環境によって形を賦与されていった。即ちその霊感者の受容度に応じた分量の真理が授けられ、それが霊感者の考えによって形を整えたのである。真理の全てを授かれる者は一人としておらぬ。みなその時代、その民族の特殊なる要請に鑑みて必要なる分量のみが授けられた。今も引き合いに出せる如く、神の観念が種々様々であるのはそのためである。無論われらとわれらの説く神は、ヨシュアとその神ではない。パウロとその神でもない。もっともわれらは、その神を最も正しく理解しその真近に生活せるイエス・キリストによって、何も知らぬ民に寓話に託して説かれた朧気な神の観念を、われらの説く神と同列に置いて比較しようとは思わぬ。イエスは弟子の誰よりも鮮明に神を認識していた。その説くところは極めて単純にして平易であり、真摯であった。その神の教えもまた同じく平易そのものであった。“天に在(ま)しますわれらが父”――無知なる人間が勝手に神の属性を決めつけ、他愛なき要求を神に押しつけている神学上の学説に比して、これはまた何という違いであろう!

神! そなたは神を知らぬ! そのうちそなたも、その目を遮るベールの内側に立てる時、そなたが愚かにも想像せる神の観念の誤りを知って驚くことであろう。真実の神はおよそそなたの想像せるものとは異なる。もしも神がそなたらの説くとおりのものであるとすれば、その神は創造者としてあるまじき侮辱を受けたとして、それを最初になすりつけたる傲慢無礼なる人物に報復すべきところである。

が、神はさようなものではない。人間のお粗末なる奴隷根性などにて捉えられる性質のものではない。神はそうした卑屈なる想像しか出来ぬ愚昧なる人間の無知を哀れみ、赦される。決して咎め立てはなさらぬ。無知は故意でさえなければ決して恥ではない。が、神は低劣なる観念をいつまでも後生大事にする愚かさ――己の偶像を宿す暗くカビ臭き心に、新たなる光を入れようとせぬ態度をこそお咎めになる。闇を好み、光を嫌い、いつまでも過去の未熟なる幻想にしがみつき、イエスの説ける単純素朴にして雄大なる神に美を見出し得ず、その崇高なる概念に未開時代の神人同形同性説を継ぎ木せねば承知できぬ者たちをこそ咎められるのである。そうした類の、より崇高なる教えを受け入れられぬ者たちは、今なお決して少なくはない。が、そなたはまさかその類ではあるまい!

もしもそなたが軽率にもわれらの教えを旧約聖書のそれと矛盾すると決めつけるのであれば、われらとしてはこう答えるほかはあるまい。すなわち、確かにわれらの教えは、神をあのような腹を立て嫉妬するが如き人間的暴君に仕立てた、古き不愉快きわまる教説とは大いに矛盾しよう。が、イエスを通じて授けられたる神聖そのものの啓示とは完全に軌を一にする。ただ、人間はそのイエスの教えを身勝手なる欲求によって余りに堕落させ、悲しいかな、その真の信奉者にまで背を向けしむるに至ったのである、と。

もしもわれらの述べる神および死後の生命についての言説に何一つそなたの心に訴えるものを見出し得ぬとすれば、それはそなたの魂がかつて喉を潤せる、より雄大にしてより単純素朴なる概念に魅力を覚えなくなったということであるに相違ない。たぶんそなたの魂が邪霊の策略にかかり、地上と神との間を遮る暗雲がそなたに恐ろしき影響を及ぼしつつあるということであるに相違ない。願わくはわれらがその暗雲を取り払い、今一度感化と安らぎの光をそなたの魂に注ぎ込むことが出来ればと思う。永遠に拭えぬほどの危害がそなたに及ぶとは危惧しておらぬ。そなたがこれまでの知識の基盤を総ざらいすることを、われらは別に残念とは思わぬ。それも無益ではあるまい。

さしたる意味もなき些細なる問題に捉われることは止めることである。大なる問題、神につきてのより明瞭なる啓示の必要性、神およびわれら神の使徒につきて、今地上を席巻しつつある冷ややかなる無知と無関心の問題、われらの説く崇高なる教義、そしてわれらが明かす生命躍如たる来世等を十分に検討するがよい。想像の産物に過ぎぬ“悪魔”の問題で心を悩ますことは止めることである。真摯なる者、純心なる者、誠意ある者にとっては神学がまことしやかに説く悪魔も閻魔も存在せぬ。悪は近づけぬのである。邪霊は逃げ去り、悪の勢力も彼らの前では無力となる。そのまわりは天使によりて保護され、明るき霊の支配を受け、進むべき正しき道へと導かれる。

彼らの前途にはかぎりなき知識と、彼らの知性を昂揚し気高くする全てのものが待ち受けている。悪魔などは、自ら創造せぬかぎり、恐れるに足らぬ。善性への親和力が善なるものを引き寄せるのである。まわりには守護に当たる霊が控え、自ら求めぬかぎり邪霊の餌食(えじき)とはならぬ。悪の誘惑や罠が特別免除というのではない。試練の時に味わわされる雰囲気も免れることは出来ぬ。魂が悲しみと懊悩の暗雲に被われ、罪の重荷に打ちひしがれるやも知れぬ。すなわち、あたりに見る不幸と悪に己の無力さを感じ、良心の苛責に苦しめられることもあろう。が、悪魔が彼らを囚(とりこ)にし、あるいは地獄へと引きずり下ろすなどということは絶対にない。そうした懊悩も悲しみも良心の苛責も、所詮は魂の経験の一部であり、その体験の力を摂取して、魂は一段と向上して行く。それは進歩の手段として守護霊が用意せる試練であり、故に細心の注意をもって悪の勢力から保護してくれているのである。

悪を好み、霊性の発達を欠き、肉体的欲望に偏れる者のみが、肉体を棄てたのちもなお肉体的欲望を棄て切れぬ同質の未発達霊を引き寄せるのである。悪の侵入の危険に曝されているのは、そうした類の人間のみである。その性癖そのものが悪を引き寄せる。招かれた悪が住みつくのである。そうした人間が、地上近くをうろつきまわり、スキを見ては侵入し、われらの計画を邪魔し、魂の向上のための仕事を挫折させんとする霊を引き寄せるのである。さきにそなたは軽率にも霊界通信なるものがいい加減にして益になるとは思えぬと述べたが、それは全てそうした低級なる邪霊の仕わざである。

友よ、そなたはその点の理解を誤っている。低級なる人間が自ら招いた低級なる霊の仕わざをもってわれらを咎めてはならぬ。咎めらるベきは聖純なるものや高尚なるものを嫌い、低俗にして下劣なるものを好む他愛なき人間的愚行の方である。かの愚かなる法律をまず咎めよ。単なる風習と流行によって助長されたに過ぎぬ愚行と罪状によって行く手を阻まれ堕落の道へと引きずり下ろされた数多くの人間を、何の準備もなきまま死後の世界へと追いやる法律をまず咎めるベきである。さらには酒場、精神病院、牢獄、そしてそういうものによって増幅されたる情欲と悪魔の如き強欲を咎めよ。無数の霊が永遠の火刑に処せられるとは実にこのことである。そなたらの想像せる物的炎(ほのお)ではない。死後もなお消えやらぬ業欲が炎の如く魂を焼き続けるのである。燃えるだけ燃え、その強欲を焼き尽くして、ようやく魂が清められる。さよう、咎めらるベきは善霊を偽りてそなたらをごまかし、軽薄と誤りによって翻弄せんと企てる低級霊たちである。

これ以上のことはまたの機会としよう。すでにわれらは予定せるもの以上のことを述べた。それに、余の耳に神への礼拝の時の到来を告げる声が聞こえる(2)。これより余もその礼拝の儀式に参列する。願わくば余の祈りが慈悲ぶかき神の御胸に届き、そこより流れ出る御恵みの流れの一すじがそなたにも届き、和(なご)みと静かなる確信がそなたの悩める魂を癒し、慰めとならんことを祈る。

(†インペレーター)


〔注〕

(1)


John Calvin 十九世紀の神学者、宗教改革家。カルビンとも。


(2)


高級神霊界においては「讃仰(さんごう)の祈り」という儀式がよく行なわれる。

シルバーバーチ霊が語っているところによると、とくにイースターとクリスマスの頃には地球浄化の大事業すなわち「スピリチュアリズム」に携わっている世界各地の霊団の指導霊が一堂に会し、計画の進捗(しんちょく)ぐあいの報告と今後の方針の決定が為される。その時の主宰霊がほかならぬ地上で「ナザレのイエス」と呼ばれた人物であるという。

無論これは「ナザレのイエス」として地上に降誕する以前から行なわれていたはずで、日本神道の祝詞で八百万の神々が「高天原に神集えに集え給う」と述べているのは、そのことではなかろうか。





Tuesday, August 15, 2023

シアトルの夏 シルバーバーチのスピリチュアルな法則 宇宙と生命のメカニズム

The UNIVERSE of SILVER BIRCH

                             
シルバーバーチのスピリチュアルな法則 宇宙と生命のメカニズムの通販/フランク・ニューマン/近藤 千雄 - 紙の本:honto本の通販ストア
 
日本語版に寄せて

 私は今年で八五歳になります。すでに現役を退いておりますが、若い時から、そして今なお、生命の神秘と奇跡的現象に興味を抱き続けている、電気工学ならびに機械工学の専門家です。

 一九三九年から四五年までの数年間、英国陸軍および空軍の下士官として行政に携わり、それが縁となってシンガポール、スリランカ、モーリシャス、ならびに東アフリカに出向くことがあり、そこでさまざまな宗教的儀式に参加し〝物質を凌駕する精神作用〟を始めとする超自然現象をこの目で見ることになりました。

 一九七七年に現役を退いてから私は、科学・宗教・歴史の分野の関係書を読みあさり、霊能開発のサークルにも入って実体験を得ようとしましたが、納得のいく結果が得られないまま四年が過ぎました。

 あらためて一人で瞑想を始めたところ、なぜか感動の涙が溢れ出て、世の不幸な同胞への憐みの情を感じ、間違った説教や学説を改める仕事をしたいという決意がわいてきました。それからというものは、求めている文章や文節がどの書物にあるということを教えてくれる声が聞こえるようになりました。

 私と霊言との最初の出会いは、ホワイトイーグルの Spiritual Unfoldment で、その中で述べられているオーラの本質を読んで、複数の見えざる霊的身体は電磁場という形態においてのみ存在し機能することを理解しました。

 その後、一九九二年になってシルバーバーチの霊言との出会いがあり、それを一読して、宇宙における 「神」 と人類のつながりが電磁エネルギーの場を媒体としてつながっていることを示す、完璧な図式を手にすることができました。

 最近になって私は、シルバーバーチの教えを基盤として科学的見地から究極の理論をまとめ、Spirit of the New Millenium と言うタイトルの新著を出しました。これからはこれで世に訴えたいと思っているところです。
                        フランク・ニューマン   二〇〇三年七月



訳者付記───この 『日本語に寄せて』 は、私がニューマン氏に要請して書いていただいたものである。最後のところで自ら紹介している新著のタイトルは、スピリチュアリズムの淵源をよく理解した人にのみ理解できるものを暗示しており、巻末の 「訳者解説」 で言及してある。



       序
                 ブァーノン・ムーア

 人間はいったい何のために生きているのだろうか? はたして地上人生には生きる意義があるのだろうか?───これは誰しも抱く疑問ですが、この本はそうした疑問についての答えを模索しながら歩んでいる方々のために、フランク・ニューマン氏がやさしく語ってくれたものです。言うなればスピリチュアルな巡礼の道標です。

 ニューマン氏は、れっきとした物理学者です。モーリス・バーバネルが霊媒をつとめる交霊会に出現した〝シルバーバーチ〟と名のる聡明な指導霊からのメッセージとの出会いによって、それまで抱いていたさまざまな問題───人生の疑問だけでなく専門の物理学の原理まで───を理解する上でのヒントを得たといいます。

 かく言う私は、実は、そのシルバーバーチの交霊会に四十年から五十年ばかり出席したレギラーメンバーの一人でした。

「四十年から五十年」 という言い方は変ですが、シルバーバーチの霊言と出会った頃の私は英国国教会の牧師で、交霊会に出席した時はまだその説くところが容易には信じられず、何度も議論し、疑問点を質し、悩み苦しみ、出席したりしなかったりしたあげくに、ついに得心して牧師職を辞しました。その迷いの期間が十年ばかりあったということです。

 シルバーバーチは、自分の説くことは絶対に間違っていないとは言っておりません。真理を述べるに際して独断 (ドグマ) を一方的におしつけることを嫌います。ドグマとは理性の介入を許さない説のことだから、というのがその理由です。

そして自分の説くことを理性の光に照らして判断し、納得がいかなければ拒絶し得心がいけば受け入れる───それでよろしい、と言うのです。半世紀にわたって交霊界に出席してきた私は、真剣に道を求める魂を得心させないようなことは、シルバーバーチは決して語っていないことを断言します。

 人間がたどる巡礼の道は一人ひとり違います。私の旅は二二歳の時に始まりました。戦争に次ぐ戦争で人間の生命のはかなさを痛感していた時に、第一次世界大戦の従軍牧師だったスタッダート・ケネディの 「来世の存在を確信せずして地上生活の本当の幸せはあり得ない」 と言う言葉を何度も反芻(はんすう)したものです。

 次の出会いは著名な英国人ジャーナリストのハンネン・スワッハーでエドワード・マーシャル・ホール卿と二人で、スピリチュアリズムの普及の為にクイーンズ・ホールを借りきって講演会を開いていました。

それに何度か出席しているうちに、スピリチュアリズムの真実性を確信するようになりました。そして、国際スピリチュアリスト連盟の会長で、最初にスピリチュアリズムに関するラジオ放送をしたアーネスト・オーテンの次の言葉は決して大げさでない事を知るに至りました。

 「これまでに得た証拠によって私は、既に死の関門を通過した人々と(交霊会で)対話を交わしていることは間違いない事実である事を断言します。その確信は、たとえこの事実を信じる者が地上で私一人であっても、絶対に揺らぐ事はありません。」

 ここまで巡礼の旅を続けて来た私がシルバーバーチの教えをまとめると次の様になります。

①この地上生活は魂の幼稚園のようなもので、死後に始まる次の段階の生活に必要な体験を積む場所であること。

②物質の仮面をかぶっている実在の霊的世界について、少しでも多くを理解するように努めることが望ましいこと。

③ 「神」 とか 「大霊」 と呼んでいるものは全存在の総計であると同時にそれを超越した存在であり、自然界のあらゆる側面に顕現していること。それは愛と叡智と実在の極致であり、それが法則となって森羅万象の営みの中で一瞬の休みもなく働いていること。

④ 「祈り」 の霊的な意味を理解することが必要であること。すなわち、自我の内と外に存在する大霊のパワーとの繋がりを緊密にするために憧憬の念を持って常に祈ることを怠らないようにすること。

 こうした教えは、ニューマン氏の解説によって一段と理解を深められるに違いありません。最後に私自身の体験を述べておきましょう。

 モーリス・バーバネル氏は若い頃よくハイドパークにある〝スピーカーズ・コーナー(演説広場)〟でスピリチュアリズムについての演説をしたものですが、急用が出来た時などに私に代役を頼むことがありました。当時はまだスピリチュアリズムは物笑いのタネにされる時代で、酷いヤジが飛んだものでしたが、演壇から降りて解散した後に必ず一握りの真面目そうな人が残っていて、キリスト教への疑問と不満を真剣な面持ちで私に語ったものでした。

 その人たちのように、真剣に真理を求めながら在来の説に飽き足らず、あるいは大きな疑念を抱いている人が少なくありません。そういう人たちは言わば〝地上の迷子〟のようなもので、既成宗教から脱しようと思いながら、さまざまな理由で躊躇しているのです。本書はそう言う人々にこそ読んでいただきたいものです。


 <訳者補注>
  本書で初めて〝シルバーバーチ〟という名前を知った方のために、少しばかり解説しておく必要がありそうである。

 シルバーバーチと名のる霊が無意識 (トランス) 状態のモーリス・バーバネルの口を使って初めてしゃべったのは一九二〇年のことで、当時バーバネルは十八歳、知人に誘われて交霊会に出席した時だった。


自分では〝うたた寝〟をしたと思い込んで、目が覚めると慌てて〝非礼〟を詫びたが、出席者たちから 「あなたは寝ていたのではない。シルバーバーチとか名のる霊があなたの口を借りてしゃべりましたよ。あなたもいずれこうした交霊会を催すようになるそうです」 と言われて、何のことやら、それこそキツネにつつまれたような気持ちだったという。
シルバーバーチのスピリチュアルな法則
 
         宇宙と生命のメカニズム   フランク・ニューマン著  近藤千雄訳


                       The UNIVERSE of SILVER BIRCH
                                           by 
                                  Frank Newman 

                                Published in 1998
                                          by
                          The Spiritual Truth Foundation
                                United Kingdom


 が、それが間もなく現実となる。バーバネルは自宅でもトランス状態にさせられて、やはりシルバーバーチと名のる霊がしゃべるようになった。最初のうちは居合わせた者だけが聞く程度で、記録というものを一切遺さなかったが、ハンネン・スワッハーが出席し始めてからは日時を金曜日の夜七時と定め、速記録を取って霊言の抜粋を翌週の 『サイキック・ニューズ』 紙に掲載するようになりそれがまとめられて単行本として発行されるようになった。


第一巻が出たのは一九三八年。ついでに言えば、その速記役を務めたのは、この序文を書いたムーア氏とのちに結婚したフランシスで、テープに録音するようになってからも速記は続けられた。ある意味では、このフランシス・ムーア女史が隠れた最大の貢献者と言えよう。

 シルバーバーチは、初めのうち自分は地上でアメリカ・インディアンだったと述べ、霊視能力を持った人の目には確かに叡智あふれるインディアンの顔が映り、それを描いたフランス人霊視画家マルセル・ポンサンによる肖像画がシルバーバーチその人という認識が固定し、シルバーバーチ自身も始めと終わりに行う神への祈りを 「あなたの僕インディアンの祈りを捧げます」 という言葉で締めくくっていたが、ある時期から、

つまり正しい霊的知識が十分に行き届いたとみた段階で、実は自分はインディアンではない───三千年前に地上で生活したことがあるが、長い長い生命の旅の末に、もうすぐ地上圏に別れを告げて二度と地上に戻れない段階へと旅立つところまで到達した、いわば 「古い霊」 であると告白した。

しかし、地上時代の姓名・民族・国家・地位などの個人的なことは、ついに述べずに終わった。バーバネルは一九八一年に他界し、それがシルバー・バーチ交霊会の終わりともなったが、ほぼ半世紀わたって速記録と録音によって遺された莫大な量の霊言は、サイキック・ニューズ社の九人のスタッフによって、各自の視点からまとめたものが全部で十六冊も出版されている (一人で二冊ないし五冊も編纂した人もいる)。

それらの日本語訳は三つの出版社から出た。うち一社からでた三冊が絶版となっているが、熱心なサークルによって自費出版で復刻されている。シルバーバーチ関係の訳者のリストと取り寄せ先の案内は巻末を参照されたい。

 なお、シルバーバーチの交霊界の様子を録音したテープが何本かあったようであるが、出席者が素人流に録音したもので録音状態が悪く、実際に市販されたのは一本だけだった。それが日本では 『CDブック・シルバーバーチは語る』 (ハート出版) となって、英文と和文の対照本として発売されている。その取り寄せ方についても巻末を参照されたい。



     
 謝辞
 
 「知識」と言うのは、体験が精神の篩(フルイ)に掛けられて、各自の理解力によって解釈されて初めて身につくもので、何の分析もなしに蓄積されるだけであれば、知識の境界は生涯少しも広がらないことになります。

 そうした分析と選択を行うことのできる柔軟な精神は、一つの型にはまった硬直した精神と違って、人生に愉しみを見出すことができます。その上、そうしたレベルの精神の持ち主は見えざる世界からの導きを得ることになります。

 私にとって、そうした貴重な知識を与えてくれることになった恩人の名前を挙げていったらキリがありません。

霊媒のグレース・クックとウィリアム・クルックス博士、オーラの写真を撮ることに成功したウォルター・キルナー博士、『スピリチュア百科事典』の編集者ナンドー・フォドー博士、幽体離脱現象の研究家シルブァン・アンドゥーンとヒアワード・キャリントン、等々。

こうした方々の業績が触媒となり、私独自の瞑想法による直感力も加わって、私の専門であるエネルギーの 「磁場」、俗にいうオーラの本性と宇宙における存在機能を霊的観点から理解することができました。

 私の理解は物理学者のH・S・バー教授の研究成果によって完全に裏打ちされ、またV・スタンレー・アルダー女史によるオーラの構造理論とも一致しました。さらに 「国際生物物理学研究所」 の研究成果も、偶然にもバー教授のものと一致しました。

 こうした心霊学と物理学の成果に加えて私自身の直感力によって電磁場の理解が深まりましたが、シルバーバーチと名のる高級霊からのメッセージとの出会いによって私の視野は一段と広がり、心霊学と物理学と宇宙学とが渾然一体となって理解できるようになりました。

 シルバーバーチの霊言集はサイキック・ニューズ社から出版され、現在では絶版となっているものも少なくありませんが、第二次世界大戦の戦前・戦中・戦後にわたる実に60年間、途切れることなく出版しつづけてくれた編集者の皆さんに、深甚なる謝辞を述べたいと思います。

 またシルバーバーチ霊が〝同志〟と呼んでいるホワイト・イーグル霊の霊言からも多くを学んでおります。引用することを快く許して下さった出版社にもお礼を述べねばなりません。

 真理は営利を目的として切り売りすべきものではなく、誰にでも自由に分け与えるべきものです。しかし、真理には無限の側面があります。その真理の価値は、それを手にした人の理解力一つに掛かっています。


    
 はじめに

 人間の身体は、肉体だけでなく幽体も霊体も本体もオーラというものを発していることはスピリチュアリズムの常識ですが、残念ながらその 構造と機能に関しては〝学説〟と呼べるほどのものはまだ確立されていません。

 それはなぜかと言えば、科学のさまざまな分野で〝電磁エネルギー〟の存在を確認していながら、学者がそれを物的関連においてのみ研究し、目に見えない身体との関連においての研究がなおざりにされているからです。

 一方、俗に言う〝霊的なもの〟の存在を認めている人々の間では、オーラの構成要素について数多くの発見をしていますが、それが何を意味しているかという肝心かなめについての理解が出来ていません。

それをシルバーバーチは 「霊が全てを支配しているのです。霊は全生命を構成しているエッセンスです。霊こそ生命であり、生命は霊なのです」 と述べてから 『ヨハネ伝』(6・63) のイエスの名言を添えます。

《生かすものは霊なり、肉は益するところなし。我が語りし言葉は霊なり、生命なり》 (英和対照 『新約聖書』 一九五一年版)

 こうした言葉が教えているのは、全生命のエッセンスである霊がなければ、私たちが現在体験している物的表現は存在しないということです。つまり 「霊(スピリット)」 こそ肉体・幽体・霊体・本体の四つの身体の発達をつかさどっている根源的叡智であるということになります。 〈補注1〉


〈訳者補注1〉
 東洋と西洋の霊視能力者によって確認された四つの身体を総合的にまとめたのが次ページの図。キルリアン写真 (後述) やEMRスキャナー (医学で用いるCTスキャナーとキルリアン写真とを組み合わせたもの) でも幽体までは確認できる。

各身体の呼び方は霊視家によって、英語でも日本語でも異なるが、この図でいえば幽体が 「アストラル・ボディ」、霊体が 「メンタル・ボディ」、 本体が 「コーザル・ボディ」 に相当する。なお 「イセリック・ボディ」 というのは以上の三つの身体と肉体とを結ぶ接着剤のような役目をしているテンプレート(型板) で、「ダブル(複体)」 と呼ぶ人もいる。


・・・ここp18に「人体を構成する磁場」の絵図があり・・・肉体 PHYSICAL BODY ダブルETHERIC BODY 幽体 ASTRAL BODY 霊体 MENTAL BODY 本体 CAUSAL BODY と細かく説明があります・・・


 辞書で〝スピリット〟 の項目を見ると 「知性と意思を持った形体のない存在」 とか 「人間に内在する要素で、身体に活力を与えながらも身体から切り離せるもの」 とあります。

ここで言う身体とは物的身体のことですが〝対外遊離現象〟(幽体離脱とも) という超常現象は 「幽体」 と呼ばれている目に見えない身体に宿って体験しているもので、これにもオーラという電磁場があります。

 科学の世界ではオーラのことを 「生命」 とか 「バイオ」 とか 「バイオプラズマ」 とか 「電磁場」 という用語で呼び、

これは肉体から派生する副産物であると説明していますが、肉体に活力を与え維持しているものがそのオーラに内在する知性、すなわち〝霊〟(スピリット)なのですから、「肉体から派生する副産物」 という表現を逆にして 「肉体こそ霊の産物」 ということになり、先ほどのシルバーバーチとヨハネの言葉に〝なるほど〟と得心がいくわけです。

 うれしいことは最近、科学会にも、俗世的偏見を捨てて〝神秘的現象〟と呼ばれているものに表面から取り組もうとする学者が、徐々にではありますが、着実に台頭しつつあります。科学によって宇宙の真相を明らかにしたいと望むのであれば、宗教的ないしは霊的知識を一つの方向性として取り入れなくてはならなくなってきたと言えるでしょう。

 神秘的な修法家や霊覚者が平凡人の五感では見ることも聞くこともできないものを見たり聞いたりして、それをありありと叙述することができるのもオーラの機能を活用しているからですが、困ったことに、そういう能力を持った人たちは、なぜ見えるのか、なぜ聞こえるのかが自分では判らないために、科学者から詰問されると返答に窮してしまい、結果として懐疑の目で見られてしまうことになります。

 ですから超能力を具えた人が自説を理解してもらい、同時に人生とは何か、宇宙はどうなっているかについて、一般常識とは異なる説を打ち出したいのであれば、それを裏付けるだけの実証的資料を用意しなければなりません。科学的データーなくしては、さまざまな形で世の中をリードしている知識層を得心させることは、まず不可能です。

 もちろん、これにも例外があります。伝統的宗教にどっぷり浸かっている人たちです。どこの宗教の教義も人工的教義の上に立っており、それを子供の時から聞かされて育った人はそれを絶対的に信じていますから、その人生観を改めるのは容易なことではありません。

 しかしそれも、科学的知識の普及とともに事情が少しづつ変化しつつあります。〈補注2〉

 それより憂慮されるのは、社会全体のモラルの低下です。これを正すには、やはり科学的基盤を持つスピリチュアリズム思想によって、宇宙の中における人間の位地についての理解を促す努力が必要でしょう。〈補注3〉


 〈訳者補注2〉
 最も抽象的な例は〝地動説〟とキリスト教会の関係であろう。〝天動説〟に異を唱えた最初の学者はポーランドのコペルニクスであるが、彼はもともと聖職者で、しかも病弱だったために研究成果を公表しないま知人に託して他界した。

それが書物となって公表されたものに触発されたイタリアの自然哲学者ジョルダーノ・ブルーノが公然と地動説を唱え、しかも宇宙こそ無限絶対の存在であると説いたことで、キリスト教会によって〝異端者〟として火刑に処せられた。

更に〝自然科学の父〟と言われるガリレオ・ガリレイがコペルニクスの説を支持したことで宗教裁判にかけられ、投獄されているうちに失明し獄死したことは有名な話であるが、こうした理不尽な行為の非を認めて 「教会側の間違いだった」 と詫びたのはローマ法王ヨハネ・パウロ二世で、それも皮肉にも 「コペルニクス大学」 においてであった。

科学的事実を前にしながら己の非を認めるのに四五〇年もかかるとは、宗教界は何と硬直した世界であることか、ニューマン氏はそのことを言っている。


 〈訳者補注3〉
 肉体をまとって生活する場として〝地球〟があるように、幽体で生活する場、霊体で生活する場、本体で生活する場がある。次ページの図は複数のスピリットに個別に訪ねた上でまとめた死後の世界の概略図で、地上界が最も鈍重で粗い波動の世界。仏教で言う生老病死にすべて苦痛が伴うが、だからこそ修行の場として最適であるということになる。


 私は電気工学の分野に携わってきた人間ですが、その間ずっと感じていたのは、いわゆる〝神秘的現象〟にも科学的説明ができるはずだということでした。いくら奇怪な出来事でも、実際に見たと断言する生き証人がいる以上は、それをただの幻覚や錯覚と決めつけるべきではないというのが私の考えです。

ところが現実には、いつの時代にも知識人と言われる人たちは、なぜかそうしたものを真剣に取り上げようとせず、たわごととして一蹴してしまう。そういう人は社会的に影響が大きいだけに、実際にはその方向に特に造脂が深いわけでもないのに、一般人はやはりその人の言うことを信じてしまいます。

   p23に・・・地球を取り囲む三つの階層・・・の絵図がある。
                                       
 〝権威〟というのは、ある特定の分野において真剣に、必要にして充分や研究を積んだ者に自然にそなわるもので、それも、あくまでもその人物の理解力の程度が問われるのです。その〝程度〟には人格の高潔さと熱意が大きく関わってきます。

 私は、ある時期、政府の要請で熱帯地方での学術調査活動に従事した事があり、その滞在中にヒンズー教の火渡りの術や、肉体に銀針や釣針や槍を突き刺しても形跡が残らない術を目のあたりにしていたので、役職から離れた後、当然のことながらそうした〝超常現象〟の不思議の解明に関心が行きました。

 まずそれを科学的見地から、哲学的見地から、そして宗教的見地から扱った書物を読み漁り、更に霊能開発のためのサークルにも幾つか参加してみました。が、それを六年ばかり続けた時点で、なぜかそういう行(ぎょう) には進歩がない───どこか歪んだ方向へ向かっていることに気がきました。

私は思い切ってそれを止めて、自分一人での瞑想に切り替えることにしました。時間を決めて、キチンと精神の統一を図りました。

 他のメンバーの動きに気を散らされることもなく、私は比較的ラクに心を空っぽにすることができ、やがて譬えようもない安らぎと静寂に包まれる段階に到達し、その中で、自分という存在の小さな実感から生まれる真の謙虚さを味わうようになりました。

 さらに進むと、今度はその静寂のなかで、時折、突如として映像や言葉によるインスピレーションが流入するようになりました。それは、それまでに自分が読んだ科学や哲学や宗教の本の内容に関するものでしたが、のちには、大して重要でもないことに集中している時にも体験するようになりました。

 そうした体験の特徴は、いわく言い難い喜びの念を伴っていることで、それは私が受け取った真理が正しいことを確認させてくれると同時に、それが私が抱いている構想の全体像の中でどういう位地を占めているかを教えてくれるものでした。

 書店や図書館でも私の手が一人でに動いて一冊を取り出し、タイトルを見るとなぜこんなものをと思うようなものなのに、ページをめくっていくと、一連の思考過程の中で行き詰まっていたことを打開してくれたり、それが正しいことを確認してくれる文章に出くわすことがよくありました。こうした過程を経て私は、人間と環境とが密接な関係にあることを証明するには科学はどうすれば良いかについて、私なりの考えにたどり着きました。

 科学にはさまざまな分野がありますが、本書で私が提供する証拠はどの分野にも通じるものです。しかし、科学界には古い唯物的な宇宙観に囚われた人がまだまだ少なくありません。

そういう学者は真理への正道を見出して突き進もうとする学者の説を見くびる態度に出ます。実際には入手した新しいデータをもとに宇宙観を総ざらいすれば、古い概念に囚われた科学者も目を覚ますに違いないのです。

 瞑想によって、私自身の精神の世界が広がり始めて数年たってから、ふとしたきっかけで 「シルバーバーチの教え」 を編集した何冊かの書物に出会いました。シルバーバーチというのは、モーリス・バーバネルという人物をチャンネルとしてメッセージを送ってきた、高次元の世界の知的存在です。 (『序』 の 〈補注〉 参照)

 それを読んで驚きました。私が十年ばかりにわたって営々として築いてきた大自然の本質についての考えが、難しい用語でなしに、至って平凡な言葉であっさりと説かれているのです。その核心は、この森羅万象は崇高な超越的叡智が顕現したものであり、それが全存在の内部に宿っており、そこには民族の別も、肌の差別も、宗教的信条の違いもないということです。

 ある時、私の学術論文を読んだSNU 〈補注4〉 会長のゴードン・ヒギンソンが、これをシルバーバーチの教えと結びつけて解説してみてはどうか、と提案しました。なるほどと思って書きあげたのが本書です。

 本書は決して難解な宇宙物理学を説こうというのではありません。人間はいったい何のために生きているのか、死んだらどうなるのか───無に帰するのか、それともどこかで生き続けるのか、といったことについて日ごろから思いを馳せている人々に、思考と議論の糧を提供するものです。


〈訳者補注4〉
 SNUとは 「英国スピリチュアリスト同盟」 Spiritulist Nationl Union のこと。スピリチュアリズムの真実性を信じる者の集団で、英国最大を誇っている。ただ、ゴートン・ヒギンソンが会長をつとめた頃は、その強力な個性で意義ある活動をしていたが、会員が増え肥大化していくうちに内部紛争が絶えなくなり、ヒギンソンが引退してからは、ニューエイジの宗教集団のような様相を呈していると聞いている。

 ちなみにモーリス・バーバネル亡き後 『サイキック・ニューズ』 紙の編集を引き継いだのは、トニー・オーツセンとティム・ヘイで、私は二人とも面会しているが、オーツセンはその後 『トゥー・ワールズ』 の編集長として出ていき、若いヘイが編集長として頑張ったが、その頃からSNUによる買収工作が始まっていたらしく、バーバネルという一枚看板を失ってからの凋落傾向に歯止めがかからなかった。

まもなく 『サイキック・ニューズ』 は買いとられ、内部事情を知っていたヘイを始め、スピリチュアリズムの本質を理解していた社員はすべて辞任している。

 私はSNUの機関紙となってからも一年ばかり購読を続けたが、その間に二度も編集長の辞任劇があり、内部の権力争いを窺わせる記事が見られるようになって、嫌気がさして数年前に購読を止めた。

 こうしたウラ事情をあえて披露したのは、バーバネルが健在だった時代に出版された書物やカセットテープなどの版権は、本書の出版元である 《霊的真理普及基金》 The spiritual Truth Foundation という名称の非営利機関によって管理されていることを知っていただきたかったからである。

『シルバー・バーチのスピリチュアルな生き方Q&A』 は英国の勉強用のテキストとして編纂されたものであり、『シルバーバーチは語る』 というCDブックは、カセットテープだけで販売されていたものを同基金の了解を得て転写・翻訳したものである。(ともにハート出版)。CD化に際し事務長からいただいた手紙には 「実にいいアイディアですね」 という一文が添えてある〉