The Gospel According to Spiritism: Allan Kardec (Author),
第17章 完全でありなさい
一、あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを憎む者に善を行い、あなたたちを迫害し、中傷する者たちのために祈りなさい。あなたたちを愛してくれる者たちだけを愛するのであれば、いったい何を報酬として受けることが出来るでしょうか。
徴税官でさえそのようにしているではありませんか。あなたたちの兄弟だけに挨拶をするのであれば、他人に比べて何を多く行っているということになるでしょうか。ゆえに、あなたたちは、天の父が完全であられるように、完全でありなさい。(マタイ 第五章 44、46-48)
二、神はすべてにおいて永遠の完全性を有していることから、「あなたたちは天の父が完全であられるように、完全でありなさい」という命題は、文字どおりに受け取ると絶対的完成に到達できる可能性を推測させます。
もし創造物に、創造主と同様に完全になることが許されていたとすれば、創造物は創造主と等しくなってしまい、それは認められないことになります。しかし、イエスが話をした人々は、こうしたニュアンスを理解することができなかったので、イエスは彼らにこのような模範を示し、達成するために努力することを伝えたのです。
ゆえに、この言葉は相対的な完全性、神に最も近い人類にとって可能な完全性と言う意味で理解するべきです。そうした完全性とは、なにからなっているのでしょうか。
イエスは「私たちの敵を愛し、私たちを憎む者に対して善を尽くし、私たちを迫害する者たちのために祈ること」にあると言いました。このようにしてイエスは、完全性の本質とは、そのもっとも広い意味における慈善であることを示しており、なぜならそれは、他のあらゆる美徳の行使を含むものだからです。
あらゆる悪徳を、本当に単純な欠点に至るまで、そのもたらす結果において実際に観察してみると、そこには慈善の感覚を多少とも変化させないものはないということが分かるでしょう。
なぜなら悪徳は、多かれ少なかれ、その本質がエゴイズムと自尊心の中にあり、慈善とはそれを否定するものだからです。また、アイデンティティーの感情を過剰に刺激するものはみな、真なる慈善の要素である善意、寛大さ、自己の放棄、献身を破壊するか、少なくとも弱めることになるからです。
敵に対する愛にまで引き上げられた隣人愛は、慈善に反するどんな欠点にも結びつくことはなく、したがって、そうした愛は、いつも道徳性の優劣を示すしるしとなります。
そのことから、完全性の度合いは、その愛をどこまで広げることができるかということに直接かかわっていることになります。
そうであるがこそ、イエスはその使徒たちに慈善のきまりを教えた後、そのうちの最も崇高な教えである、「あなたたちは、天の父が完全であられるように、完全でありなさい」と言うことを言ったのです。
善人
三、真なる善人とは、正義、愛、慈善の法を、その最も純粋な意味において遵守する人のことです。
このような人が自分自身の行動について良心に問いかける時には、自分に対して、その法を破っていないか、悪を行っていないか、可能な限りの善を尽くしているか、有益な機会を自ら無駄にしていないか、誰かが自分に対して不平を持っていないか、つまりは、自分にして欲しいように他人に対して行っているか、を問い詰めることでしょう。
神とその善意、その正義、その英知に対して信心を持っています。神の許可なしには何も起こることはないことを知っており、すべてにおいて神の意志に従うことを知っています。
未来に対する信頼を抱き、そのために霊的な富を一時的な富の上に位置付けています。
人生における全ての苦しみと痛み、あらゆる落胆は試練か報いであることを知っており、それらを不平を言わずに受け入れます。
慈善と隣人愛の感覚を持ち、善のために善を、いかなる報酬を期待することなく行います。悪に対して善で報い、強者から弱者を守り、正義に対して自分の利益を犠牲にします。
善意を広めること、仕事に打ち込むこと、他人を幸せにし、他人の涙を乾かし、苦しむ者に慰安を与えることに満足を見出します。第一の衝動は自分のことを考える前に他人を思うこと、他人の関心事の面倒を、自分の関心事の前に見ることです。
反対に利己的な人は、あらゆる寛大な活動について、そこから生じる損害や利益を計算します。
善人とは良識を持ち、暖かく、すべての人に対して親切であり、人種や信仰の差別をせず、人類すべてをその兄弟として見ることが出来るのです。
私たちすべての誠意ある確信を尊重し、彼と同じように考えない人を敵視することはありません。
どのような状況に置いても慈善をその指針とし、悪口によって他人を害したり、自尊心によって傷つけたり、他人の感受性を軽んじたり、どんなに小さな苦しみや不一致であれ、それを引き起こすことを避けようとしないことが、隣人を愛する義務を怠っていることであり、そうあることは主の慈悲に値しないのだ、という確信があります。
憎しみや怒り、復讐の欲を抱くことさえありません。イエスの規範に従って、赦し、攻撃することを忘れ、自分が赦したことに応じて自分も赦されることを知っているため、受けた恩恵の記憶だけを心に残します。
他人の弱さに対して寛容で、なぜなら、自分も他人の寛容を必要としていることを知っており、次のキリストの言葉を覚えています。「罪を犯したことの無い者が最初の石を投じなさい」。
他人の欠点を探すことを決して好まず、それを証言することも好みません。たとえそれを見ることが強いられても、常にその悪を緩和する善を求めます。
自分自身の不完全性について研究し、それを無くすことができるように絶え間なく勉めます。次の日になって、前日に比べ何か良いことが自分にもたらさせたといえるように、あらゆる努力を用います。
他人を犠牲にして自分自身の霊や才能の価値を高めようとはしません。反対に、他人にとって有益なことが目立つようにあらゆる機会を利用します。
自分に与えられたものは、すべて奪われる可能性があることを知っているため、所有する富や個人的な優位性によって自惚れることはありません。
自分に与えられた富について、それが預かりもので、何れ精算をしなければならないことを知っており、また、自分の情熱を満足させるためにそれを用いることが最も危害を与えることになることを知っているため、それを用いることはあっても濫用することはありません。
社会秩序がその人の支配下に他の人々を置いたとしても、神の前にはみな平等であるため、それらの人々を善意と寛容さによって扱います。その権威を彼らの道徳性を高めるために用い、傲りによって彼らを押し潰すことはありません。彼らの位置する従属的な立場がより辛いものとなるようなことはみな避けます。
他人に従う立場にある場合は、自分のために、自分の占める位置における義務を理解しており、それを良心的に遂行します(→ 第十七章 9)。最後に、善人は自然の法が自分の同胞たちに与えるあらゆる権利を、自分が尊重して欲しいのと同じように尊重します。
人を善人として区別するすべての特徴を詳細に述べることはできません。しかし、以上に述べた特徴を得ようと努力する者は、残りのすべての特徴をその道程で見つけることになるでしょう。
善いスピリティスト
四、善く理解され、なによりもよく意識されることにより、スピリティズムは前に記したような結果を導きますが、それは真なるスピリティストを特徴づけることであり、同時に真なるキリスト教徒を特徴づけることです。なぜなら双方は同じものであるからです。
スピリティズムは新しい道徳を定めるのではありません。単に人類に対してキリストの教えの理解と実践を容易にし、疑ったりぐらつく者に、揺るがぬ明確な信仰を与えようとしているのです。
しかし、心霊現象を信じる多くの人は、その結果や、そのことが及ぶ道徳性を学ばず、あるいは、学んでも自分自身に適応させることがありません。それはどんな理由からなのでしょうか。スピリティズムの教義に何かしら明確さが欠けているのでしょうか。
いいえ、なぜなら、教義には誤った理解をもたらすような装飾や形を含んでいないからです。その明確さは本質そのものであり、直接知性に働きかけ、すべての力がその本質から来ています。
神秘的なものは何もなく、それに接したばかりの人も、そこにどんな秘密や俗世間に隠されたこともないということが分かるでしょう。
それでは、それを理解するには並ならぬ知性が必要なのでしょうか。いいえ。著しい能力の持ち主でそれを理解することが出来ない人たちがいる一方で、一般的な知性の持ち主で、まだ青年期を終えたばかりの若者でも、それを賞賛すべき正確さによって、最も繊細な意味合いについても、学び取る人がいます。
このことは、いわば、科学の物質的な部分が、それを観察する目を必要とするのに対し、本質的な部分は、道徳性の成熟度と呼ぶことのできるある程度の感受性を必要としていることを証明しています。
その成熟度とは、年齢や教育の度合いからは独立したもので、それは特に肉体を持って生きる霊そのものの進歩に固有のものなのです。
ある人たちにとっては、地上のものから解放されるには物質との絆が未だ強すぎることがあります。彼らを取り巻く霧は無限の視野を遮り、そのことから彼らには、自分たちの癖や習慣をそう容易には断ち切ることができず、彼らが取り入れていることよりも良い何かが存在することに気づくことができなくなるのです。
単なる事実として霊の存在を信じますが、そのことがその人の本能的な傾向を変化させることはほとんどないか、まったくありません。一言で言うなら、遠くから眺める一筋の光以上のものではなく、そのことが彼らを導き、傾向に打ち勝つだけの強烈な熱望を与えるには至らないのです。
彼らには、道徳は陳腐で単調に見え、現象にすがります。すでに創造主の秘密を知るにふさわしくなったかどうか知ろうともせず、霊たちに対して、絶えず新しい神秘について話をはじめることを依頼します。
こうした人たちは不完全なスピリティストで、彼らのうちの何人かは途中で学ぶことを止めてしまったり、同じ信仰を持つ同胞たちから遠ざかったりします。
なぜなら、自己を改革する義務から逃れたり、同じ欠点や偏見を有する人たちと共感し続けることになるからです。その場合、彼らは教義の原則を受け入れるという第一歩を簡単に踏み出しますが、第二歩目は、次の人生で踏むことになるのです。
理性に則り、真の誠実なスピリティストとして分類されることのできる人は、道徳的進度においてより優れた段階にあります。その人を物質よりも完全な形で支配するその霊は、未来に対してより明確な感覚を与えます。教義の原則はその人を、他の人の中では反応することの無い神経までも震わせます。
一言で言うならば、その人は揺らぐことのない信仰によって心を支配されています。それは、音楽家がある和音を聞いただけで感動する一方で、他人にはそれがただの音にしか聞こえないのと同じです。
真のスピリティストは、その人の道徳的変化や、その悪しき傾向を抑制するために払う努力をしているかどうかで見極められます。ある人たちが有限の地平線に満足する一方で、別の人たちはより善いことを学び、そこから解放されようと努力し、それを固い意志をもって必ず達成することになるのです。
種を蒔く者の話
五、その日、家を出ると、イエスは海岸に座っておられた。ところがその周りに大勢の群衆が集まってきたので、舟に乗って座られた。人々は海岸に居たままだった。
すると次の様に多くのことをたとえ話で語られた、「種蒔きが種を蒔きに出かけた。蒔いていると、道端に落ちた種があり、すると鳥がやって来て食べてしまった。石が多く土の少ない場所に落ちた種もあった。その場所は土が浅かったので種はすぐに芽を出した。
しかし芽が伸びると太陽が照り付け、根がないために乾いてしまった。別の種は茨の間に落ちたが、その茨が伸びると芽の成長をさえぎってしまった。そして良い土地に落ちた種は実を結び、一つの種から百、あるいは六十、あるいは三十の種がもたらされた。聞く耳を持つ者は聞きなさい」。(マタイ 第十三章 1‐9)
「ゆえに、種を蒔く者の話を聞きなさい。天の国よりの言葉を聞きながらも、それに注意を払わなければ、悪意のある霊がやって来て、その者の心の中にまかれた種を持って行ってしまいます。
そうした者は、種を道端で受けたのと同じことです。石の間に種を受ける者とは、御言を聞き、それをすぐに喜ばしく受け止める者のことです。しかし、そこには根が生えていないために、短い時間しか持続しません。反対や迫害を受けると、それを堕落と不正の理由にしてしまいます。
茨の間に種を受ける者とは、御言を聞きいれる者のことです。しかしやがて、その時代や富への関心が御言を押しつぶし、実を結ばなくなってしまいます。
良い土地に種を受ける者は、御言を聞き、それに注意を払い、それによって実を結ぶことができ、一つの種から百、六十、三十もの種がもたらされるのです」。(マタイ第十三章 18-23)
六、種を蒔く人の話は、福音の実際の受け止められ具合いを正しく表現しています。実際に、その人にとって福音が死んだ文字にしか映らず、石の上に落ちた種のように、全く実を結ばない人が何と多いことでしょうか。
さまざまなスピリティストの分類の中にも全く同じことが当てはまります。物質的現象ばかりに気を取られ、珍しいものしか見ることがないために、そこからどんな結果も重要性も導くことが無い人々が、この話の中に象徴されているのではないでしょうか。
霊の通信の輝かしい部分ばかりに気をとられ、それで自分の想像を満足させることだけに興味を持ち、通信を聞いた後も、以前そうであったのと変わらず冷たく無関心でいる人はどうでしょうか。
忠告を良いと認識し、それを賞賛しながらも、それは他人に当てはめられるもので、自分自身にあてはめられるものではないと考えてはいないでしょうか。では、そうした教えを、良い土地に落ちて実を結ぶ種のように受け止める人とはどういう人でしょうか。

霊たちからの指導
義務
七、義務とは、まず第一に自分自身に対する、そしてその次に他人に対する、人間の道徳的任務のことです。義務は人生の法です。最もささいな事柄においても、より高尚な行動の中にも、そ れに出合うことができます。ここでは職業上要求される義務ではなく、道徳的義務についてだけ述べたいと思います。
感情の秩序の中で、義務は、心や興味を引き付けるものと相反するものであるために、とても果たすのが難しいものです。その勝利に証人は存在せず、またその敗北は罰せられるものではありません。
人類のうちなる義務遂行は、その自由意志に委ねられます。良心の痛みが、内心の誠実なる番人であり、人に警告を与え、人を支えています。しかし多くの場合、それは感情の詭弁の前に無力となってしまいます。心の義務は、忠実に守られれば人類を高尚にします。
しかしそれをどのように正確に定めればよいのでしょか。それはどこに始まり、何処に終わるのでしょうか。義務はまさに、あなたたち一人一人が同胞の幸福や平和を脅かしはじめる点にはじまります。そして、他人には超えないように望まれる、あなたたちの辛抱の限度の境界で終わります。
神はすべての人類を、痛みに対して平等に創造しました。小さな者も大きな者も、教育のある者も無知な者も、一人一人がその健全な良心によって引き起こし得る悪を判断することができるように、すべての人が同じ原因によって苦しむようになっています。
善に関しては、その表現が無限に多様化しており、その基準は同一ではありません。痛みに対する平等は神の崇高なるはからいであり、神はその子すべてが、共通した体験に教えられることによって、自分の無知による弁明をしながら悪を働くことがなくなることを望んでいるのです。
あらゆる道徳的な思惑の実践は、義務に要約されます。それは戦いの苦しみに立ち向かう魂の勇敢な行動です。それは厳しくも寛大です。
多様で複雑な場面の前に屈する準備がありますが、その企てにおいて不屈であり続けます。義務を果たす人は、神を被造物よりも愛し、自分自身よりも創造主を愛していることになります。それはその原因自体に対する判事であると同時に奴隷でもあるということです。
義務とは理性の最も美しい褒美です。母親から子供が生まれるように、理性からそれは生れます。人類は義務を愛さねばなりません。それは、義務が人生の悪や人類が逃れることの出来ない悪から守ってくれるからではなく、人類の進歩に必要な力を魂に与えてくれるからです。
義務は、人類のより優れた向上のための期間のそれぞれの場面において、あらゆる高尚な形に育ち、輝きます。被造物の神に対する道徳的義務は、途切れることはありません。
被造物自身の美しさが自らの目の中に輝くことを神は望むため、不完全に終わることの無い永遠なる神の美徳を、義務は写し出しているのです。(ラザロ パリ、1863年)
徳
八、最高位の徳とは、善人の持ち合わせるすべての本質的な特徴の集まりです。善くあり、慈善を行い、努力家であり、質素で、慎ましくあることは徳の高い人の特徴です。しかし残念なことに、大抵こうした徳とともに、小さな道徳的な病が同居し、徳を弱めてしまっています。
自分の徳を見せびらかす人は徳が高いとは言えません。なぜならそこには謙虚さという最も重要な特徴が欠けているからです。反対に、そこには謙虚さとまったく反する悪癖である自尊心が存在しているのです。
美徳と呼ばれるにふさわしい徳は、目立つことを好みません。そうした徳とはたとえその存在が想像できても、闇の中に隠れ、人々の賞賛から逃れようとします。聖ヴィンセンティオ・デ・パウロは、徳の高い人でした。
クーラ・ダール(アルスの司祭・聖ウ“ィアンネー)やその他の大勢の人々も高徳で、世界的に知られてはいませんが、神には知られているのです。
これらの善人たちはみな、自分たちが徳が高いということなど気にもしませんでした。自らの聖なるインスピレーションに任せ、完全に私心を捨て、完全なる自己の放棄によって善を行いました。
子供たちよ、私はこのように理解され、実践される徳にあなたたちを招きます。この真にキリストの教えを守る、真なるスピリティストの徳にこそ、あなたたちに身を捧げて欲しいとお誘いします。しかし、あなたの心から自尊心、虚栄心、自己愛といった、最も美しい特徴をいつも失わせてしまうものはすべて遠ざけてください。
模範として自ら現れ、自分から自分の特徴を嫌がらずに聞いてくれる耳に向かって言いふらす者のマネをしてはいけません。そのように目立つ徳には多くの場合、多数の小さな醜行や憎まれるべき臆病が隠されています。
概して、目立とうとする者、徳によって自分自身の彫像を建てようとする者は、そのことだけによって手に入れることのできたあらゆる実際の功労を打ち消してしまいます。
では、実際の姿とは違った姿で現れることばかりに価値を置いている人については、どう言えばよいのでしょうか。善を行う者は、間違いなく心のうちに満足感を抱くものです。しかし、その満足を外面的に現し、他人からの賞賛を得ようとした時、それは自己愛に転落してしまうのではないでしょうか。
スピリティズムの信仰によって心を熱くしたあなたたちは、人類がその完成からどれだけ遠いところにあるかを知っているのですから、決して他人の賞賛を得ようとしてつまずいてはいけません。
すべての誠実なスピリティストに私は徳を積むことを望みます。しかしながら、あなたたちに申しあげます。謙虚さを伴う少ない徳の方が、自尊心を伴う多くの徳よりも価値があります。
自尊心によって人類は代々迷うことになるのです。いつか人類は謙虚さによって贖罪することになるでしょう。(フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ、1863年)
上位の者、下位の者
九、権威にせよ、富みにせよ、それらは委任されたものであり、委ねられた者はいずれその精算をする必要があります。それらが単に無益な、命令する喜びを作るためにだけ与えられたのであるとか、地上においてそうした力を与えられた者の大半が思っているように、それが権利であり、所有物であるなどと考えてはなりません。
もっとも神は絶えずそのことを証明するため、そうと決めた時に、彼らからその権威や富を奪います。もしそれらが個人に属する特権であるなら、譲渡し得ないものであるはずです。
あるものが自分の同意なしに奪われる可能性があるとすれば、誰にもそのものがその人に属しているのだということはできません。神はそうあるべきだと判断した時、権威を使命または試練として託し、最も適したときにそれを奪います。
権威を委託された者は誰であれ、主人と奴隷から君主と国民の関係に至るまで、その権威がどこに及ぶものであろうと、その責任が及ぶ範囲の中には、与える方向性の善し悪しに応じて、権威に従って変化する魂が含まれていることを忘れてはなりません。
彼らに対して犯した過ちや、悪しき模範や方向性を示した結果によって生まれた悪癖は、権威を託された者へ降りかかります。同様に、従う者たちを善へと導くように権威を行使する者は、その配慮の結果を得ることになります。すべての人が、大なり小なり、地上においてある使命を持っています。
その使命がどのようなものであれ、それは常に善のために与えられています。その根本においてあざむく者は、その使命の達成に失敗します。
金銭的に裕福な者に対して、「あなたの周りに泉のように実りを溢れさせるはずであった、あなたの手中にあった富をあなたはどうしましたか」と尋ねるように、ある種の権威を有するものに対しても神は尋ねます。
「あなたの権威をどのように用いましたか。どんな悪を避けることができましたか。どんな進歩をもたらしましたか。あなたに従う者たちを与えましたが、それはあなたの意志に応じて働く奴隷とするためでもなければ、あなたの貪欲さや気まぐれに従順な道具とするためでもありません。
あなたが彼らを助け、彼らが私の胸もとまで上ってくることが出来るようにと、あなたを強い立場におくことによって権威を与え、弱い者たちをあなたに託したのです」。
キリストの言葉に納得している上位の者は、自分に従う者を軽んじることはありません。なぜなら、神の目に社会的な区別は存在しないことを知っているからです。今日その人に従う者は、かつてはその人に対して命令を下していたかもしれません。
あるいは、後になって命令を下すことになるかもしれず、だからその人は権威を行使していた時に自分が従う者たちをどう扱ったかに応じて扱われるのだと言うことをスピリティズムは教えてくれるのです。
上位の者に達成しなければならない義務があるのであれば、下位の者にも上位の者と同様に神聖な義務が存在します。
スピリティストであるならば、例えばその上司が自分に対する義務を遂行しないからと言って、自分の義務を遂行する必要がないと考えてはいけないのだ、と言うことを強制力をもってその良心が主張します。
なぜなら、ある者が過ちを犯したからと言って、悪に対して悪で応酬することが正当でないことをよく知っており、そのことが他人の過ちを正当化するものでないことをスピリティストは知っているからです。たとえその立場が苦しみをもたらしたとしても、それが疑いもなく自分にふさわしいことだと認識します。
なぜなら、おそらく、自分も過去に持っていた権威を濫用したために他人を苦しめており、今はそのことを自分自身が経験しているのだと感じるからです。その立場に耐えることが求められ、その他によりよい場所が見当たらないのであれば、それはその人の進歩に必要な謙虚さを養うための試練となっているのであり、スピリティズムはそれを甘受することを教えています。
スピリティズムを信じることは、自分がもし上司であったとしたら、自分に対してとることが望ましいような行動を部下たちに起こさせることができるように、自分の行動を導くことです。だからこそ、自分の義務を遂行することはより気がかりになります。
なぜなら、自分に与えられた仕事を怠けることは、報酬を払ってくれる人にも、時間と努力を負っている人にも、損失をもたらすのだということを理解しているからです。
一言で言うなら、スピリティズムを信じる人の心には、信仰から生まれた義務感があり、正しい道から離れることが、何れ支払わねばならなくなる債務を生むことになる、という確信があるのです。(モロー枢機卿フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ、1863年)
この世の人類
十、主の視野のもとに集まって善霊たちの支援を懇願する者たちの心を、常に慈悲の心が励まします。ですから、あなたたちの心を清めて下さい。その心の中にあらゆる世俗的な考えや無益な考えが長居することを許してはいけません。
あなたたちが呼ぶその霊のもとへあなたたちの霊を引き上げ、あなたたちがその魂の中で発芽させ、慈善と正義の実を結ばせなければならない種を彼らが豊富に蒔くことができるように、あなたたちの中に必要な準備を整えて下さい。
しかし、私たちが祈りと精神を呼び起こすことを絶えずあなたたちに勧めるからと言って、私たちがあなたたちに、生きるように言いわたされた社会の法から逃れた、神秘的な生活を送ることを望んでいるのだと判断してはいけません。
そうです、あなたたちは、人類がそうあるべきであるように、あなたたちの時代の人々とともに生きなければなりません。その日のつまらぬことに対しても、必要性に応じて自分を犠牲にし、それらを神聖なものとすることができるように純粋な気持ちで自分を捧げて下さい。
あなたたちは違った性格を持つ霊たち、相反する特徴を持った霊たちと接触するように呼ばれたのです。あなたたちがともに人生を過ごす彼らの誰とも衝突してはいけません。快活に、幸せであって下さい。
しかし、その快活さが潔白な良心のもとからもたらさせるように、その幸運が、あなたたちが遺産を手に入れる日までの残された日々を教える、天の相続人のものであるように。
徳とは、あなたたち人類に許された快楽を嫌って厳しく陰気な表情を見せることではありません。
あなたたちに人生を与えてくれた創造主に対して、人生のあらゆる行動を報告すればよいのです。ある仕事を開始したり、終えたりした時、創造主のもとに思考を引き上げ、魂の喜びや、成功するための保護、あるいはその仕事を完成したのであれば、その祝福をお願いすればよいのです。
何を行うにおいても、あらゆるものに対してあなたの額を上げ、あなたのどんな行動さえも、神の記憶によって神聖化され、清純化されないことがないようにして下さい。
キリストが言ったように、完成とは、絶対的な慈善の実践中の中にすべてが存在します。しかし、慈善の義務は小さい者から大きな者にいたるまで、あらゆる社会階級に及びます。孤立して生きる人間にはどんな慈善も行うことはできません。唯一、同胞たちとの接触において、その最も厳しい戦いの中でのみ、人は慈善を行う機会に出合うのです。
ゆえに、自ら孤立し、自分を完成させる最も強力な手段を失ってしまう人は、自分のことしか考えることがなく、その人生は利己的なものとなってしまいます。(→第五章 26)。
ですから、私たちと絶えず通信を取りながら、神の御心に叶うように生きるために自らを痛めつけたり、灰を被ったりする必要があると考えてはなりません。そうではないのです。繰り返し申し上げます。
人類の必要性に応じて幸せでありなさい。しかし、あなたたちの幸せの中に、あなたたちを愛しあなたたちを導く者を攻撃したり、彼らの顔を悲しませたりするようなことが決してあってはいけません。神は愛であり、神を純粋に愛する者を祝福するのです。(ある守護霊 ボルドー 1863年)
肉体と霊を大切にしなさい
十一、 道徳的完成は肉体の苦行がもたらすのでしょうか。この問題を解決するために、基本的な原則に則り、まず肉体を大切にする必要性を示したと思います。なぜなら、健康か病気かと言うことは、肉体の虜と考えられる魂にとって大きな影響を及ぼすからです。
この虜が生き生きとし、その広がりを見せ、自由の幻想を抱くようになるには、肉体は健全で、すぐれ、強くなければなりません。ある例を示してみましょう。
ここに肉体と魂のいずれもが完全な状態にある人がいるとします。必要性や性質のまったく異なるこれらの二つの要素の均衡を保つためには何をしなければならないでしょうか。両者間の戦いは避けられず、それらを均衡に導く秘訣を見出すのは困難です。
肉体と魂の扱いについては、二つの考え方が対立しています。一つは修行者の考え方で、その基本は肉体を痛めつけることであり、もう一つは唯物主義者の考え方で、その基本は魂を卑しめることです。
いずれも曲解であり、勝るとも劣らずばかげています。しかし、これら二つの両極端な考え方には、大勢の無関心な群衆が、確信もなく情熱を抱くこともなく群がります。彼らは愛に対して冷たく、喜びに対してケチな人々です。その時、知性はどこにあるのでしょうか。
生きるための科学はどこにあるのでしょうか。どこにもありません。スピリティズムが到来し、研究家たちを助け、肉体と魂の間に存在する関係を示し、お互いが他方に依存しているために、両方を大切にしなければならないと言わなければ、この大きな問題は解決されることはありません。
だから、あなたたちの魂を愛し、また、同様に、魂の道具であるあなたたちの肉体を大切にしてください。自然そのものが示す必要性を軽んじることは、神を軽んじることです。あなたの自由意志から犯された過ちによって肉体を痛めつけないでください。
そうした過ちに対しては、自由意志も、下手に操られた馬と同様に、それが引き起こす事故の責任を負っているのです。
肉体を苦行にさらし、あなたたちの隣人に対して慈善を行うことも、へりくだることも、自己中心的でなくなることもなしに、肉体を痛めつけることによって、あなたたちはより完全になることができるのでしょうか。いいえ、完成とはそうしたものではありません。
完成とは、あなたたちの霊に対して行う改革にあります。魂を曲げ、服従させ、へりくだり、苦しめて下さい。それが神の意志に対して従順になり、完成に至ることのできる唯一の手段です。(守護霊 ジョルジュ パリ、1863年)
第18章 多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない
結婚披露宴のたとえ話
一、イエスはたとえ話によってさらに語って言われた、「天の国は、王子の結婚披露宴を開こうとする王と同じである。その王は家来を遣わし、披露宴に招待した者を呼びに行かせたのだが、誰も来ようとしなかった。
そこで王は、別の家来たちを遣わし、招待客に次のことを伝えるように命令した、『晩餐の用意が出来ました。私の牛と山羊をみな料理して、全ての準備が整いました。披露宴へお出で下さい』。
しかし、招待された者たちは、それに気を取られる様子もなく、ある者は自分の畑へ、ある者は商売をしに出掛けてしまった。又別の者たちは、遣わされた家来を捕え、大いに侮辱した後に殺してしまった。それを知って王は怒り、軍隊を送って人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ってしまった。
そして家来たちに言った、『結婚披露宴は完全に準備が整っているが、そこに招待していたのはふさわしい者ではなかった。ゆえに、道の交差するところへ行き、そこで出会うすべての者を披露宴に連れてきなさい』。家来たちは道へ出て行き、善い者も悪い者も、出会う者はすべて連れてきた。披露宴の席は客でいっぱいになった。
王が入ってきて、テーブルについた人々を見回すと、そこには礼服を着ていない者が一人いた。その者に向かって王が言った、『友よ、どうして礼服を着ないでここに来たのですか』。
しかしその者は黙っていた。すると王は家来に言った、『この者の手足を縛り、外の闇へ放りだせ。そこで涙を流し、歯を鳴らして震えるがよい』。呼ばれる者は多いのですが、選ばれる者は少ないのです。(マタイ 第二十二章 1-14)
二、不信心な者はこの話を幼稚で単純だと笑い、なぜ披露宴に出席するのにそれ程の困難があるのか理解できず、更には招待された人がなぜ、招くために家の主人より送られてきた人たちを殺してしまうまでに抵抗するのか、ということが理解できません。
そのような者は、「たとえ話というのはもちろん象徴的なものです。しかし、そうであったとしても、真実としての限界を超えない必要がある」というでしょう。
その他のたとえ話や、もっとも巧みに作られたおとぎ話にしても、それらから装飾的な部分を取り除き、隠された本当の意味を見出せなければ、同じようなことが言えるかもしれません。イエスはそのたとえ話を、生活の最もありふれた習慣を題材として創り、その話を聞かせる人々の特徴や習わしに適応させました。
それらの話の大半は、一般大衆の間に霊的な生活の考えを浸透させることを目的としており、それらを解釈する時に、こうした視点から見なければ、多くの話はその意味において理解不能であるかのようになります。
ここで扱うたとえ話の中でイエスは、すべてが喜びと幸せに満ちた天の国を披露宴に譬えています。最初の招待客のことにふれ、最初に神にその法を知るように招かれたヘブライ人に注意をうながしています。
王に遣わされた家来たちとは、真なる幸せの道に従うように唱えた預言者たちです。しかし、その言葉はほとんど聞き入れられませんでした。その注意は軽んじられました。例え話の中の家来たちのように、多くの者は本当に殺されました。
招かれながらも言い訳をし、畑や商売の面倒を見に行かなければならないというのは世俗的な人々で、地上の事柄につかり、天の事柄に対しては無関心でい続ける人たちのことを象徴しています。
当時のユダヤ人の間では、彼らの国がその他のすべての国々に対して優越していなければならないと信じられているのが一般的でした。実際、神はアブラハムの子孫が全地上を覆うことを約束しませんでしたか。しかし、いつもそうであるように、真意を推し量ることなく形式だけをとらえ、彼らはそれが物質的、物理的な支配のことだと信じたのです。
キリストの到来以前、ヘブライ人を除くすべての民族は偶像崇拝をしており、多神教でした。上位の人々から庶民に至るまで、神の唯一性という考えを心に抱いたとしても、それは個人的な考えとしてとどまり、どこにおいても基本的な真実として受け入れられることはなく、もしくは、そうした考えを持つ者は、神秘のベールのもとにそうした知識を隠していたために、一般大衆にそうした考えが浸透することはありませんでした。
ヘブライ人は公に一神教を始めた最初の民族です。神は彼らに対して最初はモーゼを通じて、その後イエスを通じて、その法を伝えました。その小さな焦点から世界中に向けて溢れだす光が放たれ、異教に打ち勝ち、アブラハムの霊的な子孫を「天の星の数ほど」もたらすことになるのです。
しかし偶像崇拝を放棄しながらも、ユダヤ人たちは道徳の法を軽んじ、形式的な儀式と言うより容易な手段に執着してしまったのです。悪は頂点に達しました。国は奴隷化されるばかりか、党派によって崩壊し、宗派に分裂しました。不信心が聖地にまで及んだのです。
そしてその時イエスが現れましたが、イエスは神の法の遵守を呼び掛け、未来の命へ繋がる新しい地平線を彼らに広げるために送られたのでした。全世界の信仰の大宴会に招待された最初の者たちは、天から送られた救世主の言葉を拒み、生贄にしたのです。
そしてそれにより、彼らのイニシアチブによって得ることのできた善い結果を失うことになってしまいました。
しかしそうであるからといって、そうした状況になったことについてその民族全体を非難することは不適当です。その責任はおもに、自尊心と狂信によって国を犠牲にした者たちや、その他の不信心な者であるファリサイ人やサドカイ人にありました。
ゆえに、結婚披露宴への出席を拒んだ招待客とイエスが同一視するのは、誰よりも彼らなのです。
「道の交差するところへ行き、そこで出会うすべての者を披露宴に連れてきなさい」と付け加えています。このように言うことによって、神の言葉がその後、異教徒であれ偶像崇拝者であれ、全ての民族に伝えられたことを述べ、その言葉を受け入れれば彼らが宴会に参加することが許され、当初の招待客の場所が与えられることに触れたのです。
しかし、誰でも招待されるだけで事足りるわけではありません。自分がキリスト教徒であるというだけでは足りず、テーブルについて、天の宴会に参加するだけではいけないのです。なによりも最初に明白な条件として、礼服を着ていること、すなわち、清い心を持ち、霊に従って法を守ることが必要なのです。
ところで、その法のすべては次の言葉に要約されます。「慈善なしには救われません」。しかし、神の声を聞くあなたたちすべての間でも、それを守り有益に用いる者の何と少ないことでしょうか。
天の王国に入るに相応しい者の何と少ないことでしょうか。故にイエスは言ったのです。「呼ばれる者は多いのですが、選ばれる者は少ないのです」。
狭き扉
三、狭き扉より入りなさい。なぜなら堕落の扉は広く、そこへたどり着く道は広く、多くの者がそこから入るからです。命に至る扉の何と狭いことでしょう。そこへたどり着く道は何と窮屈なことでしょう。そして、その扉に出合える者の何と少ないことでしょう。(マタイ 第七章 13,14)
四、ある人がイエスに尋ねた、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。イエスは人々に答えて言われた、「狭き扉より入るように努力してください。実際、そこを通ろうとしても、通ることのできない人が多いでしょう。
家の主人が入り扉を閉めた後、あなたたちが外から扉をたたき、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人はあなたたちに答えるでしょう、『あなたがどこの人であるか私は知りません』。あなたたちは言うでしょう、『あなたと飲食を共にしました。あなたは広場において私たちを指導してくれました』。
主人は答えるでしょう、『あなたたちはどこの人であるか、私は知りません。非道を行う者は私から遠ざかりなさい』。
あなた方は、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国に入っているのに、自分たちは外へ投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするでしょう。
東からも西からも、北からも南からも多くの者が神の国の宴会に参加するでしょう。こうして後の者で先になる者があり、また、先の者で後になる者もあるのです」(→第二十章 2)。(ルカ 第十三章 23-30)
五、堕落の扉は広い。なぜなら、悪しき感情は多く、大抵の人は悪の道を進むからです。救いの扉は狭い。なぜなら、そこを通ろうとする者には、自分自身の悪しき傾向に打ち勝ち、数少ない者が受け入れることのできる事柄を甘受するための、自分自身に対する多大な努力が強いられるからです。
それが、「多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない」と言う金言の補足です。
地上における人類の状況とはそのようなものですが。それは地球が試練の世界であり、悪の方がより広く支配しているからです。それが変化した時には、善の道を通る者の方が多くなることになります。
したがって、これらの言葉は、絶対的な意味によってではなく、相対的な意味において解釈されるべきです。もしその悪の状態が人類の普通の状態であったなら、神はその被造物の大多数に堕落を強いることになりますが、全正義で善意である神を知る者にとって、それは受け入れられない推測です。
しかし、もし全人類が地球だけに追いやられており、その魂に前世がなかったとしたら、現在、そして未来においてかくも悲しい運命が与えられた人類は、いったいどんな罪を犯したのでしょうか。なぜ、あなたたちの足元にはそれほど多くの妨げが置かれているのでしょうか。
もし魂を待つ運命が、死の直後に永遠に定められるのだとしたら、なぜほんの少しの者にしか通ることのできない狭い扉がなければならないのでしょうか。この様に、一回のみの人生しかなかったとしたら、人類は常に神の正義に対して矛盾を感じることになるでしょう。
魂に前世が存在することや、世界の複数性によって地平線は広がります。信心の最も暗い部分への光となります。現在と未来は過去とともに一体化し、それによってのみキリストの教えの全英知、全真実、全深意を理解することができるようになります。
主よ、主よ、と言う者がみな天の国に入るわけではない
六、私に「主よ、主よ」と言う者すべてが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです。その日多くの者が私に言うでしょう、「主よ、主よ、あなたの名において私たちは預言しませんでしたか。
あなたの名において悪魔を追いやりませんでしたか。あなたの名において多くの奇跡を起こしませんでしたか」。
その時、私は大きな声で言うでしょう、「あなたがどこの人であるか私は知りません。非道を行う者は私から遠ざかりなさい」(マタイ第七章21-23)
七、ゆえに、私の言葉を聞き、それを実践する者は、岩の上に家を建てた賢い者に喩えることができるでしょう。雨が降り、川があふれ、風が吹いた。それでも家は、岩の上に建てられているので壊れることはありませんでした。
しかし、私の言葉を聞き、それを実践しない者は、砂の上に家を建てた愚かな者と同じです。雨が降り,川があふれ、風が吹き家を打つと、その家は壊れました。その壊れ方は激しいものでした。(マタイ 第七章 24-27 ルカ 第六章 46-49)
八、これらの最も小さな戒めを破り、人にそれを破るように教える者は、天の国において最後の者と呼ばれるでしょう。しかし、それを守り、教える者は、天の国において偉大な者と呼ばれるでしょう。(マタイ 第五章 19)
九、イエスの使命を知る者はみな「主よ、主よ」といいます。しかし、その教訓に従わないのであれば、師、もしくは主と呼ぶことが、どんな役に立つというのでしょうか。
外見的な献身の行動によって敬いながらも、同時に自尊心、エゴイズム、貪欲さ、その他の感情によってその教えを犠牲にする者はキリスト教徒でしょうか。毎日祈って過ごしながらも、少しも向上せず、同胞に対して寛大になったり慈善深くなったりすることのない人たちはイエスの使徒でしょうか。いいえ。
それは、祈りが口先にあっても心の中にはないファリサイ人たちが使徒ではないのと同じです。形式によって人間にそのことを印象付けることはできても、神に印象付けることはできません。
「主よ、あなたの名において預言を、すなわち教えを説きませんでしたか。あなたの名において悪魔を追い払いませんでしたか。あなたと飲食を共にしませんでしたか」とイエスに言ったとしても無意味なのです。
イエスは彼らに答えます。「私は、あなたたちが誰なのか知りません。あなたたちは非道を行い、行動が口で言ったことに反し、あなたの隣人の悪口を言い、やもめたちを食い物にし、姦淫を行いました。心から反感や憎悪をしたたらせ、私の名においてあなたたちの兄弟から血を流させ、涙を乾かす代わりに流させる者は私から遠ざかりなさい」。
神の国は、優しく、謙虚で慈善深い者たちのためにあるため、あなたたちは涙を流し歯ぎしりをすることになります。言葉を多くとなえたり、ひざまずくことによって主の正義を曲げることを期待してはなりません。あなたたちの唯一の道である愛と慈善の法の誠実な実践の道は開かれ、あなたはその恩恵を被るのです。
イエスの言葉は真実であるがゆえに永遠です。天の生活への通行免状であるばかりか、地上の生活における平和、平安、安定の保証なのです。人類がつくる政治的、社会的、宗教的団体で、これらの言葉を支える団体が、岩の上に建てられた家のように安定しているのはこうした理由からです。
人々はその中に幸せを感じることができるので、それらの言葉を守るのです。しかし、それらの言葉に違反する団体は、砂の上に建てられた家のように、革新の風と進歩の川によって取り壊されてしまうでしょう。
多くを受けた者は多くを求められる
十、主人の意志を知りながら、主人が望むとおりに用意もせず勤めもしなかったしもべは、厳しく罰せられるでしょう。
しかし、その意志を知らずに、罰に値するようなことを行った者は、より軽く罰せられるでしょう。多くを与えられた者には多くが求められ、より多くを託された者に対してはより大きな責任が問われるのです。(ルカ 第十二章 47,48)
十一、イエスは言われた、「見えない者が見えるようになり、見える者が見えないようになるよう審判を下すために、この世にやってきました」。
イエスと共にいたファリサイ人たちは、それを聞いて質問をした、「私たちもまた盲目なのですか」。イエスは答えて言われた、「もしあなたたちが盲目であったなら、罪はないでしょう。
しかし、今あなたたちが『見える』と言い張るところにあなた方の罪があるのです」。(ヨハネ 第九章 39-41)
十二、これらの金言は、霊たちの教えに特に当てはまります。キリストの教えを知りながらそれを守らぬ者は、誰であれ責任が問われます。しかしながら、それを含む福音がキリスト教の宗派の中にしか広められていないばかりか、その宗派の中でさえもそれを読まない者が何と多く、また読んだとしてもそれを理解できないものが何と多いことでしょうか。
結果的にイエスの言葉そのものは多くの人にとって無駄になっています。霊たちの教えは、これらの金言を別の形で再生し、発展させ、それに対する解説を加え、誰の手にも届くようになっており、特に相手が限られたものではありません。
あらゆる人が、教養があろうがなかろうが、信仰があろうがなかろうが、キリスト教であろうがなかろうがその金言を受け入れることができ、また霊たちはあらゆる場所で通信をします。直接受けようが、誰かを介して受けようが、それを受ける者はその無知を言い訳にすることはできません。
教育を受けなかったことのせいにすることも、その例えの曖昧さのせいにすることもできません。
ゆえに、これらの金言を自分の向上のために利用せず、それが心に響くことなく面白く興味深いものだと驚き、無益さ、自尊心、エゴイズム、物質的なものへの執着を減らすことも、自分の隣人に対して善くなることもない者は、真実を知る手段をより多く持っているがために、より責任を問われることになります。
善い通信を受ける霊媒で、悪に固執する者は、自分自身に対する非難を多くの場合は書いていることになるのですから、より注意をしなければなりません。なぜなら、自尊心に目をつむらせることなしには、霊が自分に通信を向けていることを認識することが出来ないからです。
書き留めたり、他人に読んだりする教えを自分のために受け止めることなく、それを他人に当てはめることばかりに気を取られている人には、「隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の目の中にある杭が見えない」と言うイエスの言葉が当てはまります。(→第十章 9)
「盲目であったなら、罪はないでしょう」と言う言葉によってイエスは罪の責任とは、その人が持つ知識に応じていることを意味したかったのです。そしてその国で最も博識であると考えられ、実際そうであったファリサイ人たちは、無知な国民よりもより責任があると神の目には映ったのです。
今日、多くを受けた者には多くが求められると、スピリティストに対して言うことができます。しかし、それをうまく利用した者には多くが与えられます。
誠実なるスピリティストの払う最初の注意は、霊たちが与える忠告の中に、自分に対して述べられたことが何かないだろうかと見つけようとすることでなければなりません。
スピリティズムは「呼ばれる者」の数を増やします。そしてそれがもたらす信心によって「選ばれる者」の数も増やすことになるのです。
霊たちからの指導
持つ者に与える
十三、イエスに近づくと、使徒たちは言った、「なぜ彼らにたとえ話で伝えるのですか」。答えて言われた、「なぜなら、あなたたちには天の国の謎が解き明かされましたが彼らには解き明かされていないからです。おおよそ、持つ者により多くを与えれば、より豊かになりますが、持たない者からは、持つものさえも奪われるでしょう。
だから彼らにはたとえ話で伝えるのです。それは彼らが、見えても何も見ず、聞こえても何も聞かず、また理解しないからです。彼らには次のように言ったイザヤの預言が当てはまります。『あなたたちはその耳で聞くが何も理解せず、その目で見るが何も見えない』」(マタイ 第十三章 10-14)
十四、聞くことに大いに注意を傾けなさい。そうすれば、他人を量る時に用いる秤であなたたちも量り与えられ、さらに増し加えられるでしょう。なぜなら、すでに持つ者には与え、持たぬ者からは持つものさえも奪われるからです。(マルコ 第四章 24,25)
十五、「持つ者に与え、持たぬ者からは奪う」。あなたたちは逆説として映るこの偉大なる教えについて熟考してください。与えられる者とは神の言葉を有する者のことを意味し、神の言葉にふさわしくなろうとすることによってのみそれを受けるのです。
なぜなら、主はその慈悲深い愛により、善へ傾く努力を励ますからです。辛抱強く勤勉なこうした努力は主の恩恵を引きつけ、それは磁石のように、進歩する上で善いことである多くの恵みを自分に呼び、それは労苦の休息が頂上に待ち受ける聖なる山をあなたたちが登ることができるように、あなたたちを強化してくれます。
「持たぬ者や少ししか持たぬ者から奪う」。この言葉は比喩的に表現された対照的なものとして理解してください。神はその被造物から、それを行うように仕向けた善を奪うことはありません。目は見えず、耳も聞こえない人類よ、あなたたちの知性と心を開いてください。
霊によって見、魂によって聞き、あなたたちの目に主の正義が光り輝くことを可能にしたあの言葉を、不徳で不公平な方法で解釈しないでください。少しを受けた者から奪うのは神ではありません。
霊自身が、その道楽と怠慢のために、持っているもの、つまり心に落ちた小さな種を、保持し、増やし、そこから多くを生ませることを知らないのです。
父が与えたり、相続によって与えられた畑を耕さない者は、その畑の植物が寄生植物に覆われるのをみるでしょう。その時、その人が準備しなかった収穫を奪うのは父でしょうか。管理が足りなかったのであれば、その畑で多くをもたらしたであろう種が死に、それらが何ももたらさなかったことを責める相手は、その父でしょうか。
いいえ、違います。全てを準備してくれた人や譲り受けたものを非難するのではなく、自分の惨めさの本当の原因を責めて悔やみ、勇気を持って生産的な労働に取り掛かってください。
恩知らずな土地を、意欲の努力によって開拓してください。後悔と希望の助けを借りて地面を耕し、その上に悪の中から仕分けて取り出した善の種を自信を持って蒔いてください。
あなたの愛と慈善の水をまけば、愛と慈善の神は、すでに受けた者に対して与えるでしょう。そして、その努力が成功の冠を受け、一粒の種が幾千もの種を生むのを見ることになるでしょう。労働者たちよ、元気を出してください。
あなたたちの鍬とくわを手に取って下さい。あなたたちの心を耕してください。毒草を引き抜き、主があなたたちに託してくれた善き種を蒔けば、愛の露が慈善の果実をもたらすことになるでしょう。(ある親しい霊 ボルドー、1862年)
行いによりキリスト教徒であることを知る
十六、「『主よ主よ』と言う者全てが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです」。
スピリティズムを悪魔の仕業と考え、拒絶する人たちは、師のこの言葉を聞いてください。耳を開いてください。聞く時が来たのです。
従順な使徒となるためには、主に決められた衣を持ってくるだけで十分なのでしょうか。キリストの使徒となるためには、「私はキリスト教徒です」と言うだけで事足りるのでしょうか。真なるキリスト教徒を探す時、それをその行いによって知ることができます。
「善い木に悪い果実はなりませんし、悪い木には善い果実はなりません。善い果実を結ばない木は切り倒され、火に投じられます」。これらは師の言葉です。キリストの使徒たちよ、これらの言葉をよく理解してください。
強大で、葉の生い茂る枝が、世界の一部には木陰を与えながらも、その周りに集まる者のすべてを宿らせるには至らないキリストの教えの木は、どんな実を結ばねばならないのでしょうか。 命の木がもたらす果実とは、命の果実、すなわち希望と信仰の果実です。
キリストの教えは、何世紀も前にそうしたように、これらの神聖なる美徳を説き続けます。その果実を広げようと努力しますが、それを拾う者の何と少ないことでしょうか。木は常に良いのですが、庭に働く者たちが悪いのです。自分たちの考えに合わせて解釈し仕立てました。
自分たちの必要性に応じて剪定しました。摘み取り、切り戻し、切り捨ててしまいました。役立たずと言うことになれば、その枝はもう実を結ばないのですから、悪い実を結ぶこともありません。
喉を渇かした旅人がその枝のもとに立ち止まり、力と勇気を再び与えてくれる希望の果実を求めても、嵐を予告する乾いた枝葉しか見えません。命の木に命の果実を求めても、それは無駄骨に終わります。乾いた葉が落ちてくるだけです。男は手で木をあまりに揺すったために、枯れてしまいました。
だから、愛する者たちよ、耳と心を開いてください。永遠の命を与えてくれるその命の木を育んでください。まだその木が神の果実を多く結ぶのを見ることが出来るために、それを植えた者は、あなたたちがそれを愛を持って扱うように呼びかけています。
キリストがその木をあなたたちに預けたとおりに、それを守ってください。切り倒してはいけません。その木は宇宙に広く木陰をもたらそうとしているのです。
その枝葉を切ってはいけません。その有益な果実は豊富に落ち、旅の終わりまでたどり着こうとする飢えた旅人の食物となります。これらの果実を蓄え、ため込み、腐らせ、誰の役にも立たなくなってしまうようにしてはいけません。
「多く者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない」。物質的なパンを独占する者がいるのと同様に、人生のパンを独占する者がいます。その一人に数えられないようにして下さい。良い果実を結ぶ木は、すべての人にその果実を与えなければなりません。ゆえに飢えた者を探し求めに行って下さい。
彼らをその木の下へ連れて行き、その木がもたらす保護を彼らと分かち合って下さい。「木いちごの木にぶどうはなりません」。兄弟よ、道に生える茨をあなたたちに教える者たちから遠ざかり、人生の木陰にあなたたちを導いてくれる者の後をついて行って下さい。
至上の正義である神聖なる救世主は、すでに伝え、その言葉は消えることはありません。「『主よ主よ』と言う者すべてが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです」。
神の恵みである主があなたたちを祝福してくれますように、光の神があなたたちに輝きを与えてくれますように。人生の木が、その果実を沢山あなたたちに与えてくれますように。信じ、祈ってください。(シモン ボルドー、1863年)
徴税官でさえそのようにしているではありませんか。あなたたちの兄弟だけに挨拶をするのであれば、他人に比べて何を多く行っているということになるでしょうか。ゆえに、あなたたちは、天の父が完全であられるように、完全でありなさい。(マタイ 第五章 44、46-48)
二、神はすべてにおいて永遠の完全性を有していることから、「あなたたちは天の父が完全であられるように、完全でありなさい」という命題は、文字どおりに受け取ると絶対的完成に到達できる可能性を推測させます。
もし創造物に、創造主と同様に完全になることが許されていたとすれば、創造物は創造主と等しくなってしまい、それは認められないことになります。しかし、イエスが話をした人々は、こうしたニュアンスを理解することができなかったので、イエスは彼らにこのような模範を示し、達成するために努力することを伝えたのです。
ゆえに、この言葉は相対的な完全性、神に最も近い人類にとって可能な完全性と言う意味で理解するべきです。そうした完全性とは、なにからなっているのでしょうか。
イエスは「私たちの敵を愛し、私たちを憎む者に対して善を尽くし、私たちを迫害する者たちのために祈ること」にあると言いました。このようにしてイエスは、完全性の本質とは、そのもっとも広い意味における慈善であることを示しており、なぜならそれは、他のあらゆる美徳の行使を含むものだからです。
あらゆる悪徳を、本当に単純な欠点に至るまで、そのもたらす結果において実際に観察してみると、そこには慈善の感覚を多少とも変化させないものはないということが分かるでしょう。
なぜなら悪徳は、多かれ少なかれ、その本質がエゴイズムと自尊心の中にあり、慈善とはそれを否定するものだからです。また、アイデンティティーの感情を過剰に刺激するものはみな、真なる慈善の要素である善意、寛大さ、自己の放棄、献身を破壊するか、少なくとも弱めることになるからです。
敵に対する愛にまで引き上げられた隣人愛は、慈善に反するどんな欠点にも結びつくことはなく、したがって、そうした愛は、いつも道徳性の優劣を示すしるしとなります。
そのことから、完全性の度合いは、その愛をどこまで広げることができるかということに直接かかわっていることになります。
そうであるがこそ、イエスはその使徒たちに慈善のきまりを教えた後、そのうちの最も崇高な教えである、「あなたたちは、天の父が完全であられるように、完全でありなさい」と言うことを言ったのです。
善人
三、真なる善人とは、正義、愛、慈善の法を、その最も純粋な意味において遵守する人のことです。
このような人が自分自身の行動について良心に問いかける時には、自分に対して、その法を破っていないか、悪を行っていないか、可能な限りの善を尽くしているか、有益な機会を自ら無駄にしていないか、誰かが自分に対して不平を持っていないか、つまりは、自分にして欲しいように他人に対して行っているか、を問い詰めることでしょう。
神とその善意、その正義、その英知に対して信心を持っています。神の許可なしには何も起こることはないことを知っており、すべてにおいて神の意志に従うことを知っています。
未来に対する信頼を抱き、そのために霊的な富を一時的な富の上に位置付けています。
人生における全ての苦しみと痛み、あらゆる落胆は試練か報いであることを知っており、それらを不平を言わずに受け入れます。
慈善と隣人愛の感覚を持ち、善のために善を、いかなる報酬を期待することなく行います。悪に対して善で報い、強者から弱者を守り、正義に対して自分の利益を犠牲にします。
善意を広めること、仕事に打ち込むこと、他人を幸せにし、他人の涙を乾かし、苦しむ者に慰安を与えることに満足を見出します。第一の衝動は自分のことを考える前に他人を思うこと、他人の関心事の面倒を、自分の関心事の前に見ることです。
反対に利己的な人は、あらゆる寛大な活動について、そこから生じる損害や利益を計算します。
善人とは良識を持ち、暖かく、すべての人に対して親切であり、人種や信仰の差別をせず、人類すべてをその兄弟として見ることが出来るのです。
私たちすべての誠意ある確信を尊重し、彼と同じように考えない人を敵視することはありません。
どのような状況に置いても慈善をその指針とし、悪口によって他人を害したり、自尊心によって傷つけたり、他人の感受性を軽んじたり、どんなに小さな苦しみや不一致であれ、それを引き起こすことを避けようとしないことが、隣人を愛する義務を怠っていることであり、そうあることは主の慈悲に値しないのだ、という確信があります。
憎しみや怒り、復讐の欲を抱くことさえありません。イエスの規範に従って、赦し、攻撃することを忘れ、自分が赦したことに応じて自分も赦されることを知っているため、受けた恩恵の記憶だけを心に残します。
他人の弱さに対して寛容で、なぜなら、自分も他人の寛容を必要としていることを知っており、次のキリストの言葉を覚えています。「罪を犯したことの無い者が最初の石を投じなさい」。
他人の欠点を探すことを決して好まず、それを証言することも好みません。たとえそれを見ることが強いられても、常にその悪を緩和する善を求めます。
自分自身の不完全性について研究し、それを無くすことができるように絶え間なく勉めます。次の日になって、前日に比べ何か良いことが自分にもたらさせたといえるように、あらゆる努力を用います。
他人を犠牲にして自分自身の霊や才能の価値を高めようとはしません。反対に、他人にとって有益なことが目立つようにあらゆる機会を利用します。
自分に与えられたものは、すべて奪われる可能性があることを知っているため、所有する富や個人的な優位性によって自惚れることはありません。
自分に与えられた富について、それが預かりもので、何れ精算をしなければならないことを知っており、また、自分の情熱を満足させるためにそれを用いることが最も危害を与えることになることを知っているため、それを用いることはあっても濫用することはありません。
社会秩序がその人の支配下に他の人々を置いたとしても、神の前にはみな平等であるため、それらの人々を善意と寛容さによって扱います。その権威を彼らの道徳性を高めるために用い、傲りによって彼らを押し潰すことはありません。彼らの位置する従属的な立場がより辛いものとなるようなことはみな避けます。
他人に従う立場にある場合は、自分のために、自分の占める位置における義務を理解しており、それを良心的に遂行します(→ 第十七章 9)。最後に、善人は自然の法が自分の同胞たちに与えるあらゆる権利を、自分が尊重して欲しいのと同じように尊重します。
人を善人として区別するすべての特徴を詳細に述べることはできません。しかし、以上に述べた特徴を得ようと努力する者は、残りのすべての特徴をその道程で見つけることになるでしょう。
善いスピリティスト
四、善く理解され、なによりもよく意識されることにより、スピリティズムは前に記したような結果を導きますが、それは真なるスピリティストを特徴づけることであり、同時に真なるキリスト教徒を特徴づけることです。なぜなら双方は同じものであるからです。
スピリティズムは新しい道徳を定めるのではありません。単に人類に対してキリストの教えの理解と実践を容易にし、疑ったりぐらつく者に、揺るがぬ明確な信仰を与えようとしているのです。
しかし、心霊現象を信じる多くの人は、その結果や、そのことが及ぶ道徳性を学ばず、あるいは、学んでも自分自身に適応させることがありません。それはどんな理由からなのでしょうか。スピリティズムの教義に何かしら明確さが欠けているのでしょうか。
いいえ、なぜなら、教義には誤った理解をもたらすような装飾や形を含んでいないからです。その明確さは本質そのものであり、直接知性に働きかけ、すべての力がその本質から来ています。
神秘的なものは何もなく、それに接したばかりの人も、そこにどんな秘密や俗世間に隠されたこともないということが分かるでしょう。
それでは、それを理解するには並ならぬ知性が必要なのでしょうか。いいえ。著しい能力の持ち主でそれを理解することが出来ない人たちがいる一方で、一般的な知性の持ち主で、まだ青年期を終えたばかりの若者でも、それを賞賛すべき正確さによって、最も繊細な意味合いについても、学び取る人がいます。
このことは、いわば、科学の物質的な部分が、それを観察する目を必要とするのに対し、本質的な部分は、道徳性の成熟度と呼ぶことのできるある程度の感受性を必要としていることを証明しています。
その成熟度とは、年齢や教育の度合いからは独立したもので、それは特に肉体を持って生きる霊そのものの進歩に固有のものなのです。
ある人たちにとっては、地上のものから解放されるには物質との絆が未だ強すぎることがあります。彼らを取り巻く霧は無限の視野を遮り、そのことから彼らには、自分たちの癖や習慣をそう容易には断ち切ることができず、彼らが取り入れていることよりも良い何かが存在することに気づくことができなくなるのです。
単なる事実として霊の存在を信じますが、そのことがその人の本能的な傾向を変化させることはほとんどないか、まったくありません。一言で言うなら、遠くから眺める一筋の光以上のものではなく、そのことが彼らを導き、傾向に打ち勝つだけの強烈な熱望を与えるには至らないのです。
彼らには、道徳は陳腐で単調に見え、現象にすがります。すでに創造主の秘密を知るにふさわしくなったかどうか知ろうともせず、霊たちに対して、絶えず新しい神秘について話をはじめることを依頼します。
こうした人たちは不完全なスピリティストで、彼らのうちの何人かは途中で学ぶことを止めてしまったり、同じ信仰を持つ同胞たちから遠ざかったりします。
なぜなら、自己を改革する義務から逃れたり、同じ欠点や偏見を有する人たちと共感し続けることになるからです。その場合、彼らは教義の原則を受け入れるという第一歩を簡単に踏み出しますが、第二歩目は、次の人生で踏むことになるのです。
理性に則り、真の誠実なスピリティストとして分類されることのできる人は、道徳的進度においてより優れた段階にあります。その人を物質よりも完全な形で支配するその霊は、未来に対してより明確な感覚を与えます。教義の原則はその人を、他の人の中では反応することの無い神経までも震わせます。
一言で言うならば、その人は揺らぐことのない信仰によって心を支配されています。それは、音楽家がある和音を聞いただけで感動する一方で、他人にはそれがただの音にしか聞こえないのと同じです。
真のスピリティストは、その人の道徳的変化や、その悪しき傾向を抑制するために払う努力をしているかどうかで見極められます。ある人たちが有限の地平線に満足する一方で、別の人たちはより善いことを学び、そこから解放されようと努力し、それを固い意志をもって必ず達成することになるのです。
種を蒔く者の話
五、その日、家を出ると、イエスは海岸に座っておられた。ところがその周りに大勢の群衆が集まってきたので、舟に乗って座られた。人々は海岸に居たままだった。
すると次の様に多くのことをたとえ話で語られた、「種蒔きが種を蒔きに出かけた。蒔いていると、道端に落ちた種があり、すると鳥がやって来て食べてしまった。石が多く土の少ない場所に落ちた種もあった。その場所は土が浅かったので種はすぐに芽を出した。
しかし芽が伸びると太陽が照り付け、根がないために乾いてしまった。別の種は茨の間に落ちたが、その茨が伸びると芽の成長をさえぎってしまった。そして良い土地に落ちた種は実を結び、一つの種から百、あるいは六十、あるいは三十の種がもたらされた。聞く耳を持つ者は聞きなさい」。(マタイ 第十三章 1‐9)
「ゆえに、種を蒔く者の話を聞きなさい。天の国よりの言葉を聞きながらも、それに注意を払わなければ、悪意のある霊がやって来て、その者の心の中にまかれた種を持って行ってしまいます。
そうした者は、種を道端で受けたのと同じことです。石の間に種を受ける者とは、御言を聞き、それをすぐに喜ばしく受け止める者のことです。しかし、そこには根が生えていないために、短い時間しか持続しません。反対や迫害を受けると、それを堕落と不正の理由にしてしまいます。
茨の間に種を受ける者とは、御言を聞きいれる者のことです。しかしやがて、その時代や富への関心が御言を押しつぶし、実を結ばなくなってしまいます。
良い土地に種を受ける者は、御言を聞き、それに注意を払い、それによって実を結ぶことができ、一つの種から百、六十、三十もの種がもたらされるのです」。(マタイ第十三章 18-23)
六、種を蒔く人の話は、福音の実際の受け止められ具合いを正しく表現しています。実際に、その人にとって福音が死んだ文字にしか映らず、石の上に落ちた種のように、全く実を結ばない人が何と多いことでしょうか。
さまざまなスピリティストの分類の中にも全く同じことが当てはまります。物質的現象ばかりに気を取られ、珍しいものしか見ることがないために、そこからどんな結果も重要性も導くことが無い人々が、この話の中に象徴されているのではないでしょうか。
霊の通信の輝かしい部分ばかりに気をとられ、それで自分の想像を満足させることだけに興味を持ち、通信を聞いた後も、以前そうであったのと変わらず冷たく無関心でいる人はどうでしょうか。
忠告を良いと認識し、それを賞賛しながらも、それは他人に当てはめられるもので、自分自身にあてはめられるものではないと考えてはいないでしょうか。では、そうした教えを、良い土地に落ちて実を結ぶ種のように受け止める人とはどういう人でしょうか。

霊たちからの指導
義務
七、義務とは、まず第一に自分自身に対する、そしてその次に他人に対する、人間の道徳的任務のことです。義務は人生の法です。最もささいな事柄においても、より高尚な行動の中にも、そ れに出合うことができます。ここでは職業上要求される義務ではなく、道徳的義務についてだけ述べたいと思います。
感情の秩序の中で、義務は、心や興味を引き付けるものと相反するものであるために、とても果たすのが難しいものです。その勝利に証人は存在せず、またその敗北は罰せられるものではありません。
人類のうちなる義務遂行は、その自由意志に委ねられます。良心の痛みが、内心の誠実なる番人であり、人に警告を与え、人を支えています。しかし多くの場合、それは感情の詭弁の前に無力となってしまいます。心の義務は、忠実に守られれば人類を高尚にします。
しかしそれをどのように正確に定めればよいのでしょか。それはどこに始まり、何処に終わるのでしょうか。義務はまさに、あなたたち一人一人が同胞の幸福や平和を脅かしはじめる点にはじまります。そして、他人には超えないように望まれる、あなたたちの辛抱の限度の境界で終わります。
神はすべての人類を、痛みに対して平等に創造しました。小さな者も大きな者も、教育のある者も無知な者も、一人一人がその健全な良心によって引き起こし得る悪を判断することができるように、すべての人が同じ原因によって苦しむようになっています。
善に関しては、その表現が無限に多様化しており、その基準は同一ではありません。痛みに対する平等は神の崇高なるはからいであり、神はその子すべてが、共通した体験に教えられることによって、自分の無知による弁明をしながら悪を働くことがなくなることを望んでいるのです。
あらゆる道徳的な思惑の実践は、義務に要約されます。それは戦いの苦しみに立ち向かう魂の勇敢な行動です。それは厳しくも寛大です。
多様で複雑な場面の前に屈する準備がありますが、その企てにおいて不屈であり続けます。義務を果たす人は、神を被造物よりも愛し、自分自身よりも創造主を愛していることになります。それはその原因自体に対する判事であると同時に奴隷でもあるということです。
義務とは理性の最も美しい褒美です。母親から子供が生まれるように、理性からそれは生れます。人類は義務を愛さねばなりません。それは、義務が人生の悪や人類が逃れることの出来ない悪から守ってくれるからではなく、人類の進歩に必要な力を魂に与えてくれるからです。
義務は、人類のより優れた向上のための期間のそれぞれの場面において、あらゆる高尚な形に育ち、輝きます。被造物の神に対する道徳的義務は、途切れることはありません。
被造物自身の美しさが自らの目の中に輝くことを神は望むため、不完全に終わることの無い永遠なる神の美徳を、義務は写し出しているのです。(ラザロ パリ、1863年)
徳
八、最高位の徳とは、善人の持ち合わせるすべての本質的な特徴の集まりです。善くあり、慈善を行い、努力家であり、質素で、慎ましくあることは徳の高い人の特徴です。しかし残念なことに、大抵こうした徳とともに、小さな道徳的な病が同居し、徳を弱めてしまっています。
自分の徳を見せびらかす人は徳が高いとは言えません。なぜならそこには謙虚さという最も重要な特徴が欠けているからです。反対に、そこには謙虚さとまったく反する悪癖である自尊心が存在しているのです。
美徳と呼ばれるにふさわしい徳は、目立つことを好みません。そうした徳とはたとえその存在が想像できても、闇の中に隠れ、人々の賞賛から逃れようとします。聖ヴィンセンティオ・デ・パウロは、徳の高い人でした。
クーラ・ダール(アルスの司祭・聖ウ“ィアンネー)やその他の大勢の人々も高徳で、世界的に知られてはいませんが、神には知られているのです。
これらの善人たちはみな、自分たちが徳が高いということなど気にもしませんでした。自らの聖なるインスピレーションに任せ、完全に私心を捨て、完全なる自己の放棄によって善を行いました。
子供たちよ、私はこのように理解され、実践される徳にあなたたちを招きます。この真にキリストの教えを守る、真なるスピリティストの徳にこそ、あなたたちに身を捧げて欲しいとお誘いします。しかし、あなたの心から自尊心、虚栄心、自己愛といった、最も美しい特徴をいつも失わせてしまうものはすべて遠ざけてください。
模範として自ら現れ、自分から自分の特徴を嫌がらずに聞いてくれる耳に向かって言いふらす者のマネをしてはいけません。そのように目立つ徳には多くの場合、多数の小さな醜行や憎まれるべき臆病が隠されています。
概して、目立とうとする者、徳によって自分自身の彫像を建てようとする者は、そのことだけによって手に入れることのできたあらゆる実際の功労を打ち消してしまいます。
では、実際の姿とは違った姿で現れることばかりに価値を置いている人については、どう言えばよいのでしょうか。善を行う者は、間違いなく心のうちに満足感を抱くものです。しかし、その満足を外面的に現し、他人からの賞賛を得ようとした時、それは自己愛に転落してしまうのではないでしょうか。
スピリティズムの信仰によって心を熱くしたあなたたちは、人類がその完成からどれだけ遠いところにあるかを知っているのですから、決して他人の賞賛を得ようとしてつまずいてはいけません。
すべての誠実なスピリティストに私は徳を積むことを望みます。しかしながら、あなたたちに申しあげます。謙虚さを伴う少ない徳の方が、自尊心を伴う多くの徳よりも価値があります。
自尊心によって人類は代々迷うことになるのです。いつか人類は謙虚さによって贖罪することになるでしょう。(フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ、1863年)
上位の者、下位の者
九、権威にせよ、富みにせよ、それらは委任されたものであり、委ねられた者はいずれその精算をする必要があります。それらが単に無益な、命令する喜びを作るためにだけ与えられたのであるとか、地上においてそうした力を与えられた者の大半が思っているように、それが権利であり、所有物であるなどと考えてはなりません。
もっとも神は絶えずそのことを証明するため、そうと決めた時に、彼らからその権威や富を奪います。もしそれらが個人に属する特権であるなら、譲渡し得ないものであるはずです。
あるものが自分の同意なしに奪われる可能性があるとすれば、誰にもそのものがその人に属しているのだということはできません。神はそうあるべきだと判断した時、権威を使命または試練として託し、最も適したときにそれを奪います。
権威を委託された者は誰であれ、主人と奴隷から君主と国民の関係に至るまで、その権威がどこに及ぶものであろうと、その責任が及ぶ範囲の中には、与える方向性の善し悪しに応じて、権威に従って変化する魂が含まれていることを忘れてはなりません。
彼らに対して犯した過ちや、悪しき模範や方向性を示した結果によって生まれた悪癖は、権威を託された者へ降りかかります。同様に、従う者たちを善へと導くように権威を行使する者は、その配慮の結果を得ることになります。すべての人が、大なり小なり、地上においてある使命を持っています。
その使命がどのようなものであれ、それは常に善のために与えられています。その根本においてあざむく者は、その使命の達成に失敗します。
金銭的に裕福な者に対して、「あなたの周りに泉のように実りを溢れさせるはずであった、あなたの手中にあった富をあなたはどうしましたか」と尋ねるように、ある種の権威を有するものに対しても神は尋ねます。
「あなたの権威をどのように用いましたか。どんな悪を避けることができましたか。どんな進歩をもたらしましたか。あなたに従う者たちを与えましたが、それはあなたの意志に応じて働く奴隷とするためでもなければ、あなたの貪欲さや気まぐれに従順な道具とするためでもありません。
あなたが彼らを助け、彼らが私の胸もとまで上ってくることが出来るようにと、あなたを強い立場におくことによって権威を与え、弱い者たちをあなたに託したのです」。
キリストの言葉に納得している上位の者は、自分に従う者を軽んじることはありません。なぜなら、神の目に社会的な区別は存在しないことを知っているからです。今日その人に従う者は、かつてはその人に対して命令を下していたかもしれません。
あるいは、後になって命令を下すことになるかもしれず、だからその人は権威を行使していた時に自分が従う者たちをどう扱ったかに応じて扱われるのだと言うことをスピリティズムは教えてくれるのです。
上位の者に達成しなければならない義務があるのであれば、下位の者にも上位の者と同様に神聖な義務が存在します。
スピリティストであるならば、例えばその上司が自分に対する義務を遂行しないからと言って、自分の義務を遂行する必要がないと考えてはいけないのだ、と言うことを強制力をもってその良心が主張します。
なぜなら、ある者が過ちを犯したからと言って、悪に対して悪で応酬することが正当でないことをよく知っており、そのことが他人の過ちを正当化するものでないことをスピリティストは知っているからです。たとえその立場が苦しみをもたらしたとしても、それが疑いもなく自分にふさわしいことだと認識します。
なぜなら、おそらく、自分も過去に持っていた権威を濫用したために他人を苦しめており、今はそのことを自分自身が経験しているのだと感じるからです。その立場に耐えることが求められ、その他によりよい場所が見当たらないのであれば、それはその人の進歩に必要な謙虚さを養うための試練となっているのであり、スピリティズムはそれを甘受することを教えています。
スピリティズムを信じることは、自分がもし上司であったとしたら、自分に対してとることが望ましいような行動を部下たちに起こさせることができるように、自分の行動を導くことです。だからこそ、自分の義務を遂行することはより気がかりになります。
なぜなら、自分に与えられた仕事を怠けることは、報酬を払ってくれる人にも、時間と努力を負っている人にも、損失をもたらすのだということを理解しているからです。
一言で言うなら、スピリティズムを信じる人の心には、信仰から生まれた義務感があり、正しい道から離れることが、何れ支払わねばならなくなる債務を生むことになる、という確信があるのです。(モロー枢機卿フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ、1863年)
この世の人類
十、主の視野のもとに集まって善霊たちの支援を懇願する者たちの心を、常に慈悲の心が励まします。ですから、あなたたちの心を清めて下さい。その心の中にあらゆる世俗的な考えや無益な考えが長居することを許してはいけません。
あなたたちが呼ぶその霊のもとへあなたたちの霊を引き上げ、あなたたちがその魂の中で発芽させ、慈善と正義の実を結ばせなければならない種を彼らが豊富に蒔くことができるように、あなたたちの中に必要な準備を整えて下さい。
しかし、私たちが祈りと精神を呼び起こすことを絶えずあなたたちに勧めるからと言って、私たちがあなたたちに、生きるように言いわたされた社会の法から逃れた、神秘的な生活を送ることを望んでいるのだと判断してはいけません。
そうです、あなたたちは、人類がそうあるべきであるように、あなたたちの時代の人々とともに生きなければなりません。その日のつまらぬことに対しても、必要性に応じて自分を犠牲にし、それらを神聖なものとすることができるように純粋な気持ちで自分を捧げて下さい。
あなたたちは違った性格を持つ霊たち、相反する特徴を持った霊たちと接触するように呼ばれたのです。あなたたちがともに人生を過ごす彼らの誰とも衝突してはいけません。快活に、幸せであって下さい。
しかし、その快活さが潔白な良心のもとからもたらさせるように、その幸運が、あなたたちが遺産を手に入れる日までの残された日々を教える、天の相続人のものであるように。
徳とは、あなたたち人類に許された快楽を嫌って厳しく陰気な表情を見せることではありません。
あなたたちに人生を与えてくれた創造主に対して、人生のあらゆる行動を報告すればよいのです。ある仕事を開始したり、終えたりした時、創造主のもとに思考を引き上げ、魂の喜びや、成功するための保護、あるいはその仕事を完成したのであれば、その祝福をお願いすればよいのです。
何を行うにおいても、あらゆるものに対してあなたの額を上げ、あなたのどんな行動さえも、神の記憶によって神聖化され、清純化されないことがないようにして下さい。
キリストが言ったように、完成とは、絶対的な慈善の実践中の中にすべてが存在します。しかし、慈善の義務は小さい者から大きな者にいたるまで、あらゆる社会階級に及びます。孤立して生きる人間にはどんな慈善も行うことはできません。唯一、同胞たちとの接触において、その最も厳しい戦いの中でのみ、人は慈善を行う機会に出合うのです。
ゆえに、自ら孤立し、自分を完成させる最も強力な手段を失ってしまう人は、自分のことしか考えることがなく、その人生は利己的なものとなってしまいます。(→第五章 26)。
ですから、私たちと絶えず通信を取りながら、神の御心に叶うように生きるために自らを痛めつけたり、灰を被ったりする必要があると考えてはなりません。そうではないのです。繰り返し申し上げます。
人類の必要性に応じて幸せでありなさい。しかし、あなたたちの幸せの中に、あなたたちを愛しあなたたちを導く者を攻撃したり、彼らの顔を悲しませたりするようなことが決してあってはいけません。神は愛であり、神を純粋に愛する者を祝福するのです。(ある守護霊 ボルドー 1863年)
肉体と霊を大切にしなさい
十一、 道徳的完成は肉体の苦行がもたらすのでしょうか。この問題を解決するために、基本的な原則に則り、まず肉体を大切にする必要性を示したと思います。なぜなら、健康か病気かと言うことは、肉体の虜と考えられる魂にとって大きな影響を及ぼすからです。
この虜が生き生きとし、その広がりを見せ、自由の幻想を抱くようになるには、肉体は健全で、すぐれ、強くなければなりません。ある例を示してみましょう。
ここに肉体と魂のいずれもが完全な状態にある人がいるとします。必要性や性質のまったく異なるこれらの二つの要素の均衡を保つためには何をしなければならないでしょうか。両者間の戦いは避けられず、それらを均衡に導く秘訣を見出すのは困難です。
肉体と魂の扱いについては、二つの考え方が対立しています。一つは修行者の考え方で、その基本は肉体を痛めつけることであり、もう一つは唯物主義者の考え方で、その基本は魂を卑しめることです。
いずれも曲解であり、勝るとも劣らずばかげています。しかし、これら二つの両極端な考え方には、大勢の無関心な群衆が、確信もなく情熱を抱くこともなく群がります。彼らは愛に対して冷たく、喜びに対してケチな人々です。その時、知性はどこにあるのでしょうか。
生きるための科学はどこにあるのでしょうか。どこにもありません。スピリティズムが到来し、研究家たちを助け、肉体と魂の間に存在する関係を示し、お互いが他方に依存しているために、両方を大切にしなければならないと言わなければ、この大きな問題は解決されることはありません。
だから、あなたたちの魂を愛し、また、同様に、魂の道具であるあなたたちの肉体を大切にしてください。自然そのものが示す必要性を軽んじることは、神を軽んじることです。あなたの自由意志から犯された過ちによって肉体を痛めつけないでください。
そうした過ちに対しては、自由意志も、下手に操られた馬と同様に、それが引き起こす事故の責任を負っているのです。
肉体を苦行にさらし、あなたたちの隣人に対して慈善を行うことも、へりくだることも、自己中心的でなくなることもなしに、肉体を痛めつけることによって、あなたたちはより完全になることができるのでしょうか。いいえ、完成とはそうしたものではありません。
完成とは、あなたたちの霊に対して行う改革にあります。魂を曲げ、服従させ、へりくだり、苦しめて下さい。それが神の意志に対して従順になり、完成に至ることのできる唯一の手段です。(守護霊 ジョルジュ パリ、1863年)
第18章 多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない
結婚披露宴のたとえ話
一、イエスはたとえ話によってさらに語って言われた、「天の国は、王子の結婚披露宴を開こうとする王と同じである。その王は家来を遣わし、披露宴に招待した者を呼びに行かせたのだが、誰も来ようとしなかった。
そこで王は、別の家来たちを遣わし、招待客に次のことを伝えるように命令した、『晩餐の用意が出来ました。私の牛と山羊をみな料理して、全ての準備が整いました。披露宴へお出で下さい』。
しかし、招待された者たちは、それに気を取られる様子もなく、ある者は自分の畑へ、ある者は商売をしに出掛けてしまった。又別の者たちは、遣わされた家来を捕え、大いに侮辱した後に殺してしまった。それを知って王は怒り、軍隊を送って人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ってしまった。
そして家来たちに言った、『結婚披露宴は完全に準備が整っているが、そこに招待していたのはふさわしい者ではなかった。ゆえに、道の交差するところへ行き、そこで出会うすべての者を披露宴に連れてきなさい』。家来たちは道へ出て行き、善い者も悪い者も、出会う者はすべて連れてきた。披露宴の席は客でいっぱいになった。
王が入ってきて、テーブルについた人々を見回すと、そこには礼服を着ていない者が一人いた。その者に向かって王が言った、『友よ、どうして礼服を着ないでここに来たのですか』。
しかしその者は黙っていた。すると王は家来に言った、『この者の手足を縛り、外の闇へ放りだせ。そこで涙を流し、歯を鳴らして震えるがよい』。呼ばれる者は多いのですが、選ばれる者は少ないのです。(マタイ 第二十二章 1-14)
二、不信心な者はこの話を幼稚で単純だと笑い、なぜ披露宴に出席するのにそれ程の困難があるのか理解できず、更には招待された人がなぜ、招くために家の主人より送られてきた人たちを殺してしまうまでに抵抗するのか、ということが理解できません。
そのような者は、「たとえ話というのはもちろん象徴的なものです。しかし、そうであったとしても、真実としての限界を超えない必要がある」というでしょう。
その他のたとえ話や、もっとも巧みに作られたおとぎ話にしても、それらから装飾的な部分を取り除き、隠された本当の意味を見出せなければ、同じようなことが言えるかもしれません。イエスはそのたとえ話を、生活の最もありふれた習慣を題材として創り、その話を聞かせる人々の特徴や習わしに適応させました。
それらの話の大半は、一般大衆の間に霊的な生活の考えを浸透させることを目的としており、それらを解釈する時に、こうした視点から見なければ、多くの話はその意味において理解不能であるかのようになります。
ここで扱うたとえ話の中でイエスは、すべてが喜びと幸せに満ちた天の国を披露宴に譬えています。最初の招待客のことにふれ、最初に神にその法を知るように招かれたヘブライ人に注意をうながしています。
王に遣わされた家来たちとは、真なる幸せの道に従うように唱えた預言者たちです。しかし、その言葉はほとんど聞き入れられませんでした。その注意は軽んじられました。例え話の中の家来たちのように、多くの者は本当に殺されました。
招かれながらも言い訳をし、畑や商売の面倒を見に行かなければならないというのは世俗的な人々で、地上の事柄につかり、天の事柄に対しては無関心でい続ける人たちのことを象徴しています。
当時のユダヤ人の間では、彼らの国がその他のすべての国々に対して優越していなければならないと信じられているのが一般的でした。実際、神はアブラハムの子孫が全地上を覆うことを約束しませんでしたか。しかし、いつもそうであるように、真意を推し量ることなく形式だけをとらえ、彼らはそれが物質的、物理的な支配のことだと信じたのです。
キリストの到来以前、ヘブライ人を除くすべての民族は偶像崇拝をしており、多神教でした。上位の人々から庶民に至るまで、神の唯一性という考えを心に抱いたとしても、それは個人的な考えとしてとどまり、どこにおいても基本的な真実として受け入れられることはなく、もしくは、そうした考えを持つ者は、神秘のベールのもとにそうした知識を隠していたために、一般大衆にそうした考えが浸透することはありませんでした。
ヘブライ人は公に一神教を始めた最初の民族です。神は彼らに対して最初はモーゼを通じて、その後イエスを通じて、その法を伝えました。その小さな焦点から世界中に向けて溢れだす光が放たれ、異教に打ち勝ち、アブラハムの霊的な子孫を「天の星の数ほど」もたらすことになるのです。
しかし偶像崇拝を放棄しながらも、ユダヤ人たちは道徳の法を軽んじ、形式的な儀式と言うより容易な手段に執着してしまったのです。悪は頂点に達しました。国は奴隷化されるばかりか、党派によって崩壊し、宗派に分裂しました。不信心が聖地にまで及んだのです。
そしてその時イエスが現れましたが、イエスは神の法の遵守を呼び掛け、未来の命へ繋がる新しい地平線を彼らに広げるために送られたのでした。全世界の信仰の大宴会に招待された最初の者たちは、天から送られた救世主の言葉を拒み、生贄にしたのです。
そしてそれにより、彼らのイニシアチブによって得ることのできた善い結果を失うことになってしまいました。
しかしそうであるからといって、そうした状況になったことについてその民族全体を非難することは不適当です。その責任はおもに、自尊心と狂信によって国を犠牲にした者たちや、その他の不信心な者であるファリサイ人やサドカイ人にありました。
ゆえに、結婚披露宴への出席を拒んだ招待客とイエスが同一視するのは、誰よりも彼らなのです。
「道の交差するところへ行き、そこで出会うすべての者を披露宴に連れてきなさい」と付け加えています。このように言うことによって、神の言葉がその後、異教徒であれ偶像崇拝者であれ、全ての民族に伝えられたことを述べ、その言葉を受け入れれば彼らが宴会に参加することが許され、当初の招待客の場所が与えられることに触れたのです。
しかし、誰でも招待されるだけで事足りるわけではありません。自分がキリスト教徒であるというだけでは足りず、テーブルについて、天の宴会に参加するだけではいけないのです。なによりも最初に明白な条件として、礼服を着ていること、すなわち、清い心を持ち、霊に従って法を守ることが必要なのです。
ところで、その法のすべては次の言葉に要約されます。「慈善なしには救われません」。しかし、神の声を聞くあなたたちすべての間でも、それを守り有益に用いる者の何と少ないことでしょうか。
天の王国に入るに相応しい者の何と少ないことでしょうか。故にイエスは言ったのです。「呼ばれる者は多いのですが、選ばれる者は少ないのです」。
狭き扉
三、狭き扉より入りなさい。なぜなら堕落の扉は広く、そこへたどり着く道は広く、多くの者がそこから入るからです。命に至る扉の何と狭いことでしょう。そこへたどり着く道は何と窮屈なことでしょう。そして、その扉に出合える者の何と少ないことでしょう。(マタイ 第七章 13,14)
四、ある人がイエスに尋ねた、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。イエスは人々に答えて言われた、「狭き扉より入るように努力してください。実際、そこを通ろうとしても、通ることのできない人が多いでしょう。
家の主人が入り扉を閉めた後、あなたたちが外から扉をたたき、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人はあなたたちに答えるでしょう、『あなたがどこの人であるか私は知りません』。あなたたちは言うでしょう、『あなたと飲食を共にしました。あなたは広場において私たちを指導してくれました』。
主人は答えるでしょう、『あなたたちはどこの人であるか、私は知りません。非道を行う者は私から遠ざかりなさい』。
あなた方は、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国に入っているのに、自分たちは外へ投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするでしょう。
東からも西からも、北からも南からも多くの者が神の国の宴会に参加するでしょう。こうして後の者で先になる者があり、また、先の者で後になる者もあるのです」(→第二十章 2)。(ルカ 第十三章 23-30)
五、堕落の扉は広い。なぜなら、悪しき感情は多く、大抵の人は悪の道を進むからです。救いの扉は狭い。なぜなら、そこを通ろうとする者には、自分自身の悪しき傾向に打ち勝ち、数少ない者が受け入れることのできる事柄を甘受するための、自分自身に対する多大な努力が強いられるからです。
それが、「多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない」と言う金言の補足です。
地上における人類の状況とはそのようなものですが。それは地球が試練の世界であり、悪の方がより広く支配しているからです。それが変化した時には、善の道を通る者の方が多くなることになります。
したがって、これらの言葉は、絶対的な意味によってではなく、相対的な意味において解釈されるべきです。もしその悪の状態が人類の普通の状態であったなら、神はその被造物の大多数に堕落を強いることになりますが、全正義で善意である神を知る者にとって、それは受け入れられない推測です。
しかし、もし全人類が地球だけに追いやられており、その魂に前世がなかったとしたら、現在、そして未来においてかくも悲しい運命が与えられた人類は、いったいどんな罪を犯したのでしょうか。なぜ、あなたたちの足元にはそれほど多くの妨げが置かれているのでしょうか。
もし魂を待つ運命が、死の直後に永遠に定められるのだとしたら、なぜほんの少しの者にしか通ることのできない狭い扉がなければならないのでしょうか。この様に、一回のみの人生しかなかったとしたら、人類は常に神の正義に対して矛盾を感じることになるでしょう。
魂に前世が存在することや、世界の複数性によって地平線は広がります。信心の最も暗い部分への光となります。現在と未来は過去とともに一体化し、それによってのみキリストの教えの全英知、全真実、全深意を理解することができるようになります。
主よ、主よ、と言う者がみな天の国に入るわけではない
六、私に「主よ、主よ」と言う者すべてが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです。その日多くの者が私に言うでしょう、「主よ、主よ、あなたの名において私たちは預言しませんでしたか。
あなたの名において悪魔を追いやりませんでしたか。あなたの名において多くの奇跡を起こしませんでしたか」。
その時、私は大きな声で言うでしょう、「あなたがどこの人であるか私は知りません。非道を行う者は私から遠ざかりなさい」(マタイ第七章21-23)
七、ゆえに、私の言葉を聞き、それを実践する者は、岩の上に家を建てた賢い者に喩えることができるでしょう。雨が降り、川があふれ、風が吹いた。それでも家は、岩の上に建てられているので壊れることはありませんでした。
しかし、私の言葉を聞き、それを実践しない者は、砂の上に家を建てた愚かな者と同じです。雨が降り,川があふれ、風が吹き家を打つと、その家は壊れました。その壊れ方は激しいものでした。(マタイ 第七章 24-27 ルカ 第六章 46-49)
八、これらの最も小さな戒めを破り、人にそれを破るように教える者は、天の国において最後の者と呼ばれるでしょう。しかし、それを守り、教える者は、天の国において偉大な者と呼ばれるでしょう。(マタイ 第五章 19)
九、イエスの使命を知る者はみな「主よ、主よ」といいます。しかし、その教訓に従わないのであれば、師、もしくは主と呼ぶことが、どんな役に立つというのでしょうか。
外見的な献身の行動によって敬いながらも、同時に自尊心、エゴイズム、貪欲さ、その他の感情によってその教えを犠牲にする者はキリスト教徒でしょうか。毎日祈って過ごしながらも、少しも向上せず、同胞に対して寛大になったり慈善深くなったりすることのない人たちはイエスの使徒でしょうか。いいえ。
それは、祈りが口先にあっても心の中にはないファリサイ人たちが使徒ではないのと同じです。形式によって人間にそのことを印象付けることはできても、神に印象付けることはできません。
「主よ、あなたの名において預言を、すなわち教えを説きませんでしたか。あなたの名において悪魔を追い払いませんでしたか。あなたと飲食を共にしませんでしたか」とイエスに言ったとしても無意味なのです。
イエスは彼らに答えます。「私は、あなたたちが誰なのか知りません。あなたたちは非道を行い、行動が口で言ったことに反し、あなたの隣人の悪口を言い、やもめたちを食い物にし、姦淫を行いました。心から反感や憎悪をしたたらせ、私の名においてあなたたちの兄弟から血を流させ、涙を乾かす代わりに流させる者は私から遠ざかりなさい」。
神の国は、優しく、謙虚で慈善深い者たちのためにあるため、あなたたちは涙を流し歯ぎしりをすることになります。言葉を多くとなえたり、ひざまずくことによって主の正義を曲げることを期待してはなりません。あなたたちの唯一の道である愛と慈善の法の誠実な実践の道は開かれ、あなたはその恩恵を被るのです。
イエスの言葉は真実であるがゆえに永遠です。天の生活への通行免状であるばかりか、地上の生活における平和、平安、安定の保証なのです。人類がつくる政治的、社会的、宗教的団体で、これらの言葉を支える団体が、岩の上に建てられた家のように安定しているのはこうした理由からです。
人々はその中に幸せを感じることができるので、それらの言葉を守るのです。しかし、それらの言葉に違反する団体は、砂の上に建てられた家のように、革新の風と進歩の川によって取り壊されてしまうでしょう。
多くを受けた者は多くを求められる
十、主人の意志を知りながら、主人が望むとおりに用意もせず勤めもしなかったしもべは、厳しく罰せられるでしょう。
しかし、その意志を知らずに、罰に値するようなことを行った者は、より軽く罰せられるでしょう。多くを与えられた者には多くが求められ、より多くを託された者に対してはより大きな責任が問われるのです。(ルカ 第十二章 47,48)
十一、イエスは言われた、「見えない者が見えるようになり、見える者が見えないようになるよう審判を下すために、この世にやってきました」。
イエスと共にいたファリサイ人たちは、それを聞いて質問をした、「私たちもまた盲目なのですか」。イエスは答えて言われた、「もしあなたたちが盲目であったなら、罪はないでしょう。
しかし、今あなたたちが『見える』と言い張るところにあなた方の罪があるのです」。(ヨハネ 第九章 39-41)
十二、これらの金言は、霊たちの教えに特に当てはまります。キリストの教えを知りながらそれを守らぬ者は、誰であれ責任が問われます。しかしながら、それを含む福音がキリスト教の宗派の中にしか広められていないばかりか、その宗派の中でさえもそれを読まない者が何と多く、また読んだとしてもそれを理解できないものが何と多いことでしょうか。
結果的にイエスの言葉そのものは多くの人にとって無駄になっています。霊たちの教えは、これらの金言を別の形で再生し、発展させ、それに対する解説を加え、誰の手にも届くようになっており、特に相手が限られたものではありません。
あらゆる人が、教養があろうがなかろうが、信仰があろうがなかろうが、キリスト教であろうがなかろうがその金言を受け入れることができ、また霊たちはあらゆる場所で通信をします。直接受けようが、誰かを介して受けようが、それを受ける者はその無知を言い訳にすることはできません。
教育を受けなかったことのせいにすることも、その例えの曖昧さのせいにすることもできません。
ゆえに、これらの金言を自分の向上のために利用せず、それが心に響くことなく面白く興味深いものだと驚き、無益さ、自尊心、エゴイズム、物質的なものへの執着を減らすことも、自分の隣人に対して善くなることもない者は、真実を知る手段をより多く持っているがために、より責任を問われることになります。
善い通信を受ける霊媒で、悪に固執する者は、自分自身に対する非難を多くの場合は書いていることになるのですから、より注意をしなければなりません。なぜなら、自尊心に目をつむらせることなしには、霊が自分に通信を向けていることを認識することが出来ないからです。
書き留めたり、他人に読んだりする教えを自分のために受け止めることなく、それを他人に当てはめることばかりに気を取られている人には、「隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の目の中にある杭が見えない」と言うイエスの言葉が当てはまります。(→第十章 9)
「盲目であったなら、罪はないでしょう」と言う言葉によってイエスは罪の責任とは、その人が持つ知識に応じていることを意味したかったのです。そしてその国で最も博識であると考えられ、実際そうであったファリサイ人たちは、無知な国民よりもより責任があると神の目には映ったのです。
今日、多くを受けた者には多くが求められると、スピリティストに対して言うことができます。しかし、それをうまく利用した者には多くが与えられます。
誠実なるスピリティストの払う最初の注意は、霊たちが与える忠告の中に、自分に対して述べられたことが何かないだろうかと見つけようとすることでなければなりません。
スピリティズムは「呼ばれる者」の数を増やします。そしてそれがもたらす信心によって「選ばれる者」の数も増やすことになるのです。
霊たちからの指導
持つ者に与える
十三、イエスに近づくと、使徒たちは言った、「なぜ彼らにたとえ話で伝えるのですか」。答えて言われた、「なぜなら、あなたたちには天の国の謎が解き明かされましたが彼らには解き明かされていないからです。おおよそ、持つ者により多くを与えれば、より豊かになりますが、持たない者からは、持つものさえも奪われるでしょう。
だから彼らにはたとえ話で伝えるのです。それは彼らが、見えても何も見ず、聞こえても何も聞かず、また理解しないからです。彼らには次のように言ったイザヤの預言が当てはまります。『あなたたちはその耳で聞くが何も理解せず、その目で見るが何も見えない』」(マタイ 第十三章 10-14)
十四、聞くことに大いに注意を傾けなさい。そうすれば、他人を量る時に用いる秤であなたたちも量り与えられ、さらに増し加えられるでしょう。なぜなら、すでに持つ者には与え、持たぬ者からは持つものさえも奪われるからです。(マルコ 第四章 24,25)
十五、「持つ者に与え、持たぬ者からは奪う」。あなたたちは逆説として映るこの偉大なる教えについて熟考してください。与えられる者とは神の言葉を有する者のことを意味し、神の言葉にふさわしくなろうとすることによってのみそれを受けるのです。
なぜなら、主はその慈悲深い愛により、善へ傾く努力を励ますからです。辛抱強く勤勉なこうした努力は主の恩恵を引きつけ、それは磁石のように、進歩する上で善いことである多くの恵みを自分に呼び、それは労苦の休息が頂上に待ち受ける聖なる山をあなたたちが登ることができるように、あなたたちを強化してくれます。
「持たぬ者や少ししか持たぬ者から奪う」。この言葉は比喩的に表現された対照的なものとして理解してください。神はその被造物から、それを行うように仕向けた善を奪うことはありません。目は見えず、耳も聞こえない人類よ、あなたたちの知性と心を開いてください。
霊によって見、魂によって聞き、あなたたちの目に主の正義が光り輝くことを可能にしたあの言葉を、不徳で不公平な方法で解釈しないでください。少しを受けた者から奪うのは神ではありません。
霊自身が、その道楽と怠慢のために、持っているもの、つまり心に落ちた小さな種を、保持し、増やし、そこから多くを生ませることを知らないのです。
父が与えたり、相続によって与えられた畑を耕さない者は、その畑の植物が寄生植物に覆われるのをみるでしょう。その時、その人が準備しなかった収穫を奪うのは父でしょうか。管理が足りなかったのであれば、その畑で多くをもたらしたであろう種が死に、それらが何ももたらさなかったことを責める相手は、その父でしょうか。
いいえ、違います。全てを準備してくれた人や譲り受けたものを非難するのではなく、自分の惨めさの本当の原因を責めて悔やみ、勇気を持って生産的な労働に取り掛かってください。
恩知らずな土地を、意欲の努力によって開拓してください。後悔と希望の助けを借りて地面を耕し、その上に悪の中から仕分けて取り出した善の種を自信を持って蒔いてください。
あなたの愛と慈善の水をまけば、愛と慈善の神は、すでに受けた者に対して与えるでしょう。そして、その努力が成功の冠を受け、一粒の種が幾千もの種を生むのを見ることになるでしょう。労働者たちよ、元気を出してください。
あなたたちの鍬とくわを手に取って下さい。あなたたちの心を耕してください。毒草を引き抜き、主があなたたちに託してくれた善き種を蒔けば、愛の露が慈善の果実をもたらすことになるでしょう。(ある親しい霊 ボルドー、1862年)
行いによりキリスト教徒であることを知る
十六、「『主よ主よ』と言う者全てが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです」。
スピリティズムを悪魔の仕業と考え、拒絶する人たちは、師のこの言葉を聞いてください。耳を開いてください。聞く時が来たのです。
従順な使徒となるためには、主に決められた衣を持ってくるだけで十分なのでしょうか。キリストの使徒となるためには、「私はキリスト教徒です」と言うだけで事足りるのでしょうか。真なるキリスト教徒を探す時、それをその行いによって知ることができます。
「善い木に悪い果実はなりませんし、悪い木には善い果実はなりません。善い果実を結ばない木は切り倒され、火に投じられます」。これらは師の言葉です。キリストの使徒たちよ、これらの言葉をよく理解してください。
強大で、葉の生い茂る枝が、世界の一部には木陰を与えながらも、その周りに集まる者のすべてを宿らせるには至らないキリストの教えの木は、どんな実を結ばねばならないのでしょうか。 命の木がもたらす果実とは、命の果実、すなわち希望と信仰の果実です。
キリストの教えは、何世紀も前にそうしたように、これらの神聖なる美徳を説き続けます。その果実を広げようと努力しますが、それを拾う者の何と少ないことでしょうか。木は常に良いのですが、庭に働く者たちが悪いのです。自分たちの考えに合わせて解釈し仕立てました。
自分たちの必要性に応じて剪定しました。摘み取り、切り戻し、切り捨ててしまいました。役立たずと言うことになれば、その枝はもう実を結ばないのですから、悪い実を結ぶこともありません。
喉を渇かした旅人がその枝のもとに立ち止まり、力と勇気を再び与えてくれる希望の果実を求めても、嵐を予告する乾いた枝葉しか見えません。命の木に命の果実を求めても、それは無駄骨に終わります。乾いた葉が落ちてくるだけです。男は手で木をあまりに揺すったために、枯れてしまいました。
だから、愛する者たちよ、耳と心を開いてください。永遠の命を与えてくれるその命の木を育んでください。まだその木が神の果実を多く結ぶのを見ることが出来るために、それを植えた者は、あなたたちがそれを愛を持って扱うように呼びかけています。
キリストがその木をあなたたちに預けたとおりに、それを守ってください。切り倒してはいけません。その木は宇宙に広く木陰をもたらそうとしているのです。
その枝葉を切ってはいけません。その有益な果実は豊富に落ち、旅の終わりまでたどり着こうとする飢えた旅人の食物となります。これらの果実を蓄え、ため込み、腐らせ、誰の役にも立たなくなってしまうようにしてはいけません。
「多く者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない」。物質的なパンを独占する者がいるのと同様に、人生のパンを独占する者がいます。その一人に数えられないようにして下さい。良い果実を結ぶ木は、すべての人にその果実を与えなければなりません。ゆえに飢えた者を探し求めに行って下さい。
彼らをその木の下へ連れて行き、その木がもたらす保護を彼らと分かち合って下さい。「木いちごの木にぶどうはなりません」。兄弟よ、道に生える茨をあなたたちに教える者たちから遠ざかり、人生の木陰にあなたたちを導いてくれる者の後をついて行って下さい。
至上の正義である神聖なる救世主は、すでに伝え、その言葉は消えることはありません。「『主よ主よ』と言う者すべてが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです」。
神の恵みである主があなたたちを祝福してくれますように、光の神があなたたちに輝きを与えてくれますように。人生の木が、その果実を沢山あなたたちに与えてくれますように。信じ、祈ってください。(シモン ボルドー、1863年)
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