Friday, October 3, 2025

7シアトルの秋  「スピリティズムによる福音」     アラン・カルデック著

The Gospel According to Spiritism: Allan Kardec (Author), 
第11章 自分を愛するように隣人を愛しなさい


最大の戒め 
 
自分にしてほしいと思うことを他人に行う
 
債権者と債務者の話

一、さて、イエスがサドカイ人たちを黙らせられたことを聞いたファリサイ人たちは、一団となって集まった。そのうちの一人は律法学者であったが、イエスを試そうとして尋ねた、「先生、律法のうちで最大の戒めとはなんですか」。

イエスは答えられた、

「主であるあなたの神を、心から、全霊を込めて愛しなさい。これが最も大切な第一の戒めです。同様に第二の戒めは、自分を愛するように隣人を愛しなさい。すべての律法がこれら二つの戒めにかかっており、また預言者も同様です」。 (マタイ 第二十二章 34-40) 


二、そして、あなたが人々にそのようにしてほしいと思うことを、あなたも彼らにしてあげなければなりません。なぜならそれが律法であり預言者であるからです。(マタイ 第七章 12)



三、天の国は、王がしもべたちと勘定の精算をするようなところである。勘定の清

そのしもべはひれ伏し、「すべてお支払いしますから、どうぞお待ちください」と懇願した。すると王はその人を憐れに思い、その負債を免除し、自由にしてやった。

ところがそのしもべは出て行くと、自分に百デナリの借金をしていた仲間のしもべに出会ったので、その人ののどもとをつかみ、首を絞め付けながら、「私に借りているものをみな返せ」と言った。

その仲間の奴隷はひれ伏し、「すべてをお支払いしますから、どうぞお待ちください」と言った。しかし、それを聞こうともせず、負債を全て支払うまでその人を獄に閉じ込めるように命じてしまった。

そのしもべの仲間たちは、この様子を見て心を痛め、王にそのことを報告しに行った。すると王は、そのしもべを目の前に連れて来させて、「邪悪なしもべよ、私はお前が懇願したのですべての負債を取り消してやったのだ。

だから、おまえも自分の仲間のことを、私がお前を憐れんでやったのと同じように憐れんでやるべきではなかったのか」と言い、大いに憤り、その負債をすべて支払うまで獄に閉じ込めるように命じた。

 あなたたち一人一人に対して兄弟が行った罪を心の底から赦すのでなければ、天におられる私の父もまた、あなたたちをこのようになさるでしょう。(マタイ第十八章 23-35)

   

四、「自分を愛するように隣人を愛しなさい。

他人にしてほしいと思うことを他人のためにしてあげなさい」。ここには、慈善がもっとも完全な形で言い表されています。なぜなら、これらの言葉には私たちが隣人に負う義務が要約されているからです。

他人にするべきことの基準として、この中にある、「自分自身にして欲しいこと」ということ以外に、これほど確実な基準は存在しません。私たちは同胞に対して、私たちの彼らに対する献身、慈悲、寛大さ以上のものを、どうして強要することが出来るでしょうか。この金言を実践することによってエゴイズムは破壊されます。

これらの言葉を人間が行動の基準とし、そのつくりだすあらゆる制度の基盤とすれば、真なる兄弟愛を理解し、平和と正義が人々を治めるようになるでしょう。憎しみや不和はもはや存在しなくなり、調和、統合、相互の慈悲心が生まれることになるでしょう。


  カエサルのものはカエサルに返しなさい

五、ファリサイ人たちは出て行くと、どうにかして言葉でイエスを混乱させようとたくらんだ。そして使徒たちをヘデロ派の人々と共にイエスのもとに行かせ、このように言わせた、

「先生、あなたは真実によって、神の道を、その人が誰であるかに関わらず教えてくれることを知っています。それでは、このことに対してどうお考えか教えてください。私たちは税金をカエサルに納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。

 しかし、イエスは彼らのたくらみに気づき、答えて言われた、「偽善者たちよ、なぜ私を試そうとするのですか。税金を支払う時に使う硬貨を私に見せてください」。そして一デナリの硬貨を見せると、イエスはお尋ねになった、「この肖像と銘刻は誰のものですか」。

彼らは、「カエサルのものです」と答えた。するとイエスは、「そうであるなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われた。彼らはその答えを聞くと驚き、イエスをその場に残して立ち去った。(マタイ 第二十二章 15-22、マルコ 第十二章 13-17)


六、イエスに対する質問は、ローマ人の課する税金を忌み嫌うユダヤ人が、その税金の支払いを宗教的な問題であるとした状況から生まれました。多くの政党がその税金に反対して設立されていました。

その税金の支払いは、彼らの間では当時のいらだたしい問題となっていたのでした。そうでもなければ、このような質問をイエスにすることは無かったでしょう。「私たちは税金をカエサルに支払わなければならないのでしょうか。それとも支払わなくてもよいのでしょうか」。

そこには罠が仕掛けられており、返答によって、ローマの権威か、ユダヤの異論者たちのいずれかが、イエスに対して逆らうことを期待して質問したのでした。

しかし、イエスはその悪意を知っており、それぞれの物が与えられるべき者に与えられなければならないのだという正義の教えを説き、この難題を切り抜けたのです<→序章Ⅲ「パブリカン(徴税官)」>。


七、しかし、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」というこの文は、厳密にまったく文字通りに理解されるべきではありません。

イエスのすべての教えの中にあるように、そこには特定の場合における実用的な形で大原則が要約されているのです。この原則は、自分たちに対して行ってほしいと思うように他人に対して行わなければならないという、もう一つの教えの結果なのです。

その教えは、どのような道徳的・物質的損害を他人に与えることも、他人の利益を無視することもとがめています。そして、みなが自分の権利を尊重して欲しいように、一人一人の持つ権利が尊重されるべきであるということを示しています。

一般に、個人に対しても、家族や社会、権威に対しても、このことは同じように広げて考えられます。




  霊たちからの指導
   
  愛の法
八、霊的に進歩することにより、本能はその進歩のレベルまで引き上げられ、情操へと変化していきますが、そうした情操の最も卓越した形である愛の中に、イエスの教義は完全に要約されています。

人間はその起源においては本能しか持っていません。それがやがて進化し、形が崩されて行くと、感覚に変化していきます。教育され、浄化されると情操に変化します。情操の最もデリケートな部分が愛です。

その愛とは、一般的な低俗な意味のものではなく、内なる太陽のように、人類を超えたあらゆる啓示や熱望を、その焦点に凝縮し集めたものです。愛は人間の個人性を人々との協調性に置き換えます。愛は社会的な貧困を打ち消します。

人間であることを超え、苦しむ兄弟たちを広い愛情によって愛する者は祝福されます。肉体の貧困も魂の貧困も知らない者は祝福されます。そのような者の足取りは軽く、自分の身体を抜け出して移動しているように感じます。イエスが愛という神聖なる言葉を発すると、殉教者たちは希望に酔いしれ、劇場へと降りて行ったのです。

 スピリティズムの到来によって、神の言葉の中の二番目の言葉が伝えられました。注意深く聞いてください。「再生」、この言葉は空になった墓場の墓石を持ち上げ、死と言うものに打ち勝ち、衝撃を受けた人々にその知的財産を示してくれるのです。

それが人間を虐待に導くのではなく、自分自身の存在を認識し、征服し、高尚に変貌することに導いてくれるのです。血は霊を取り戻しましたが、今度は霊が人間を物質から取り戻さねばならないのです。
    
 人間はその起源においては本能しか持っていないのであると私は言いました。ですから、まだ本能によって支配されている者は、目的の地よりも出発点に近いところにいるのです。

目標に向かって進んでいくには、情操を育てるために本能に打ち勝たねばならず、つまり、物質の中に眠る種子を抑制し、情操を完成させる必要があるのです。本能は情操の兆しであり、その種子のようなものです。どんぐりの中にかしの樹が隠されているように、本能の中には進歩が隠されているのです。

進歩の遅れた者とは、さなぎからゆっくり解放されつつも、依然として本能に支配されている者のことです。霊は畑の様に耕さなければなりません。本来における豊かさは、今日の労働によってもたらされます。労働は地上における財産以上に、栄光の向上をもたらします。

その時、全ての存在を統合する愛の法を理解することが可能となり、天における幸せの序曲である魂の優しい喜びをその中に求めることが出来るでしょう。(ラザロ パリ、1862年)


九、愛とは神なる精髄からできたものであり、最も卑しい者から最も高尚な者まで、あなたたちはこの神聖なる火の火花をみな心の底にもっています。誰でもこのことは証明できるに違いありません。

人間は、どんなに卑しく、貧しく、あるいは罪深くとも、誰か、もしくは何かしらの物に対し、生き生きとした熱烈な愛情を抱き、その気持ちはそれを弱めようとするどんな試みに対しても抵抗し、多くの場合、崇高な調和に至ります。

 私が誰か、もしくは何かしらの物と言ったのは、あなたたちの中には愛に溢れる心を持ちながら、その気持ちの富を動物や植物、あるいは物質的な物のために費やしてしまう人たちがいるからです。

そうした人たちは一種の人間嫌いの人たちで、人類一般に対して不満を持ち、自分の周りに愛情と同情を求めようとする自分たちの魂の自然の傾きに抵抗し、愛の法を本能の条件にまで引き下げてしまう人たちのことです。しかしどれだけそうしようとも、神が人類を生んだ時に授けた活発な種子を抑えることはできません。

この種子は道徳性と知性とともに発達し、しばしばエゴイズムによって圧迫されながらも、誠実で長続きする愛情を生み出す甘い聖なる美徳の源となり、人生の険しく荒涼とした道のりを乗り越えるための支えとなってくれるのです。

 自分たちが羨ましいと感じている愛情深い同情を、他人が分かち合いに来るという考えから、再生を受付ない人々がいます。可哀想な兄弟たちよ。あなたたちの愛情はあなたたちをエゴイストにしてしまうのです。あなたたちの愛は親しい親類や友人の輪の中にだけ狭められ、その他の人に対して無関心になってしまいます。

よろしいでしょうか、神の教える愛の法を実践するには、あなたたちの兄弟を無差別に愛するために一歩一歩近づいていかなければなりません。

その任務は長く、困難ですが、いつか達成されるでしょう。神はそうなることを望んでおり、愛の法が、第一の最も重要な規則でなければならないのです。なぜなら、個人的なエゴイズムの他に、血筋中心のエゴイズム、階級的なエゴイズム、国家的なエゴイズムが存在する中で、どのような形であろうと、あらゆるエゴイズムを愛の法はいつの日か滅ぼすことになるからです。イエスは、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言いました。

では隣人とはどこまでを指すのでしょうか。家族でしょうか、宗派でしょうか、それとも国家でしょうか。いいえ、人類全体を指すのです。

より優れた世界においては、相互の愛がそこに住む進歩した霊たちを導き,和を築いていますが、近々著しい進歩を遂げることになっているあなたたちの惑星においては、そこで起きる社会的変化のために、神を映し出すことこの崇高な法を、そこに住む者たちが実践するようになるでしょう。

 愛の法がもたらす結果とは、人類の道徳的向上と、地上における人生の幸福です。この規律の実践がもたらす有益な結果を知ることにより、最も反抗的な者や、最も悪徳な者も自らを改めることになるでしょう。

自分にして欲しくないことを他人にしてはなりません。その反対に、あなたたちが行うことのできる全ての善を他人にしてあげなければなりません。
℘202     
 人類の心の不毛さや冷酷さを信じてはいけません。嫌々ながらもそうした心は、真なる愛の前には譲ることになります。真なる愛とは磁石のようなもので、抵抗することはできないのです。真なる愛との接触は、あなたたちの心の中に潜む愛の種子を発芽させ、活発にさせます。

追放と苦境の天体である地球は、やがてこの聖なる火によって浄化され、その表層に慈善、謙遜、忍耐、献身、甘受、忍従、犠牲といった、すべての愛の産物が実践されるのを見ることができるようになるでしょう。ですから、福音記者ヨハネの言葉に聞きあきることがあってはなりません。

あなたたちが知るように、病と老いによって彼が説法を続けることが出来なくなった時、「子供たちよ、お互いに愛し合いなさい」というこの優しい言葉だけを繰り返しました。

 愛する兄弟たちよ、これらの教えを役に立ててください。それを実践することは難しくとも、魂はそこから多くの益を得ることになります。私を信じ、あなたたちにお願いする崇高なる努力をしてください。

「お互いに愛し合いなさい」。そうすることにより、近い将来、地球は楽園へと変化し、そこには正しい者たちの魂が休みに集まることでしょう。(フェヌロン ボルドー、1861年)


十、親愛なる同胞たちよ、ここにいる霊たちが私を通じ伝えています。「愛されるために、大いに愛しなさい」。この考えはまったく正しく、その中には日々の苦しみを和らげ、慰めてくれるもののすべてを見出すことができます。

分かりやすく言うならば、この知恵ある教えを実践することにより、あなたたちは物質を超えて向上し、地上における肉体の被いを後にする前に霊的に進歩することが可能となるでしょう。

未来を理解するためのスピリティズムの研究を発展させることにより、一つの確信を持つことができるようになるでしょう。あなたたちの魂の熱望に応える約束のすべてが、実現されながら神に向かって歩んでいるという確信です。

ですから、あなたたちは物質に束縛されることなく、自らを高く持って物事を判断しなければならず、神へ考えを寄せることなしにあなたたちの兄弟を非難してはなりません。
℘203      
 愛するということの深い意味は、人間が誠実、正直、良心的に、他人に対して、して欲しい思うことをしてあげるということです。兄弟たちを困らせているあらゆる痛みを自分の周りに探し、それを和らげてあげようと親身になって感じることです。人類全体を自分の大きな家族のように考えることです。

なぜなら、この世界にいる期間が過ぎた後、より進歩した世界において、その家族のすべての者と再会することになるからです。そうした家族を作っている霊とは、あなたたちと同じ、無限の宇宙に向かって向上していく神の子です。だから、寛大な神があなたたちに授けてくれた兄弟を拒んではなりません。

もし兄弟たちがあなたたちの必要としているものを与えてくれていたなら、それはあなたたちに喜ばしいことではありませんか。ですから、いかなる苦しみに対しても、いつも希望と慰安の言葉を持ち、完全なる愛と正義を持つことができるようになってください。

「愛されるために、大いに愛しなさい」という賢明な勧告を信じてください。この言葉は道をひらきます。そしてこの革新的な言葉は、確実で不変の道を辿る言葉です。私の言葉を聞く者は、すでに多くを得ています。なぜなら、あなたたちは百年前に比べれば限りなく良くなっているからです。

あなたたちの利益のために、大いに変化し、過去には拒んでいた自由と同胞愛や、無数の新しい考えを喜んで受け入れることができるようになりました。このように今から百年経った後には、疑いもなく、あなたたちがまだその頭の中に収めることができないことを、同じような容易さによって受け入れるようになっている筈です。

 スピリティズム運動がこれほど大きく前進した今日、スピリティズムの中で何時も変わることなく述べられている正義と確信の考えが、非常に早く知的階層に受け入れられてきたことがわかります。

これらの考えがあなたたちの中に潜む神聖なものすべてに応えます。あなたたちの中には発芽が間もない種子が植えられているからです。
℘204    
その種子とは、一世紀前、地球上の社会の中に植えつけられた偉大なる進歩の考えのことです。そしてすべてが神の方向へ向かって連鎖しているため、授かり、受け入れられた全ての教えは世界的に隣人への愛に置き換えられることになることでしょう。

そのため、人間として受肉している霊たちは、物事をよりよく捉え、理解することが出来るため、地球の隅々にまで手を差し伸べることになります。一人一人がお互いに理解し愛し合い、すべての不正義や、人間同士の不和の原因を滅ぼすために集まることになるでしょう。 

「霊の書」には、スピリティズムによる偉大なる確信の考えが記されています。この規律をよく理解し、適用することによって、あなたは来たるべき世紀の驚異的な奇跡、つまり人類の物質的・精神的なすべての関心を調和させる奇跡を起こすことになるでしょう。「愛されるために、大いに愛しなさい」(元パリ・スピリティスト教会のメンバー、サンスン1863年)

 
  エゴイズム
十一、エゴイズムは人類の大きな傷であり、人類の進歩を妨げるものなので、地上から姿を消さなければなりません。さまざまな世界の階級の中で、人類の階級を上げることが、スピリティズムに託された役割です。

ゆえに、エゴイズムは、真なる信者がその武器であるその力と勇気を差し向ける標的でなければなりません。

勇気、と私が申し上げるのは、多くの人が他人に勝つ前に、自分自身に打ち勝つ必要があるからです。ですから、一人一人がその努力のすべてを、自分の中のエゴイズムと戦うことに費やさねばなりません。

すべての知性をむさぼる怪物、自尊心の産物であるエゴイズムは、地上の世界におけるすべての惨めさの原因であることは確かです。エゴイズムは慈善を否定するものであり、それ故に、人類の幸せにとって最大の障害であると言えます。

 イエスは慈善の模範を示しましたが、ポンティオ・ピラトはエゴイズムの例を示しました。つまり前者、正義なる者が殉教の道を辿ったのに対し、後者には「私には関係のないことだ」と言いながら手を引いたのです。ユダヤ人たちに「この者は正しい者であるのに、なぜ十字架にかけようとするのか」とまで言いながら、処刑を続行させたのです。

 人間の心の弊害であるこの慈善とエゴイズムの対立は、キリストの教えがその任務を完全に果たしていないことによるものです。

高級な霊たちは新しい信仰の使徒であるあなたたちにこの悪を根絶する任務と義務があり、あなたたちの進行を妨げている障害を取り除き、キリスト教に全ての力を注がなければならないのだということを明らかにしているのです。

地球がさまざまな世界の中で向上することができるように、地上からエゴイズムを追放してください。人類はもう大人の服に着替える時期が来ており、そのためには、まずあなたたちの心からエゴイズムを追放しなければならないのです。(エマヌイル パリ、1861年)


十二、もし人類がお互いに愛し合っていたならば、慈善はよりよく実践されていたでしょう。しかし、そのためにはあなたたちが心にまとう鎧から解放され、隣人の苦しみにもっと敏感になれるように努力することが大切です。キリストは、キリストを求める人の誰をも決して軽んじたりはしませんでした。

キリストを求めたものは、誰であっても拒否されることはありませんでした。姦淫した女や罪人もイエスによって助けられましたが、イエスはそのことによって自分自身の名声に傷が付くことを決して恐れたりはしませんでした。

では、あなたたちはいつになればイエスをすべての行動の模範とするようになるのでしょうか。地球上を慈善が支配した時、悪は存続しきれず、恥ずかしがってその姿を消していきます。悪はどこにいても居心地が悪く感じるため、どこかに隠れてしまいます。その時悪は消滅します。そのことをよく理解しておいてください。

 あなたたち自身が模範を示すことから始めてください。すべての人に対し、区別することなく慈善的であってください。あなたたちのことを軽蔑の眼差しで見る人たちのことを気にしないように努力してください。全ての正義は神の手に委ねてください。なぜなら、神は毎日、神の国において麦と雑草とを選別しているからです。
℘206    
 エゴイズムは慈善を否定するものです。慈善なくして社会生活の中に平和はなく、さらには、安全というものがなくなります。

エゴイズムと自尊心は手を取り合って存在していますが、それらによって人生はいつもずるい者だけが勝つことのできる競争となり、もしくは最も尊い愛情もが足もとに踏みにじられ、神聖な家族の絆さえも軽んじられる、利害の対立になってしまいます。(パスカル サンス、1862年)


  信心と慈善
十三、愛する子どもたちよ、人類を幸せにすることのできる社会秩序を人類の間に保つためには、信心の伴わない慈善では不十分であることを私は最近申し上げました。信心無くして慈善を行うことは不可能です。宗教を持たない人々の間にも実際、気前のよい衝動を見ることができます。

しかし、厳密に言う慈善とは、献身と、あらゆる利己的な利害を絶えず犠牲にすることによってのみ実践することができるのであり、そうすることを感得させ、現世の十字架を勇気と忍耐をもって担ぐことを可能にしてくれるのは信心以外にはありません。

 子どもたちよ、喜びに貪欲な人間が、地上での運命に錯覚し、自分の幸せだけを心配することが許されているのだと思い込んでしまうことは人間に取って無益なのです。

永遠の中で神が私たちを幸せにするように創造したことは確かですが、地上での生活は、物質世界と肉体の力を借りることによってより容易に達成することのできる、私たちの道徳的完成のためのみに使われなければなりません。

人生の一般的な苦しみ以外にも、あなたたちそれぞれが持つさまざまな好み、傾向、必要性などもあなたたちが完成するための手段であり、あなたたちに慈善の練習をさせているのです。なぜなら、お互いが犠牲を払ったり譲歩し合ってのみ、これほどまでに多様化した人々の間で調和を保つことが出来るからです。

 しかし、この世の人間に幸せが約束されていることを断言するのも、物質的な喜び以前に、善の実践の中にその幸せを求めるのであれば正しいことになります。キリスト教の歴史は、喜びを感じながら苦しみに向かって行った殉教者たちのことを教えてくれています。

今日、あなたたちの社会においては、キリスト教徒となるために殉教の炎に立ち向かうなど、命を犠牲にする必要はなく、ただ、エゴイズム、自尊心、虚栄心さえ犠牲にすればよいのです。信心によって支えられ、慈善に感得されるのであれば、あなたは勝利を収めることが出来るでしょう。(守護霊クラクフ、1861年)

℘207        
  罪人に対する慈善
十四、 真なる慈善とは、神が世界に教えた最も崇高な教えのうちの一つです。その教義の真なる使徒たちの間には、完全なる同胞愛が君臨しなければなりません。

不幸な者たちや罪人たちを同じ神の創造物として愛さなければならず、それは、彼らにもあなたたちと同じように後悔することにより、神の法を犯した過ちに対する神の赦しと慈悲が与えられるからです。

求める者たちへの赦しと同情を拒むあなたたちは、彼らよりも罪が重く、さらにとがめられるべきなのだと考えてください。なぜなら、殆どの場合、彼らはあなたが知っているような神の存在を知らないのであり、故に彼らに求められるものはあなたたちよりも少ないからです。

 おお、他人を判断しないでください。親愛なる友たちよ、他人を裁かないでください。なぜなら、あなたたちが人を裁く時に用いる判断の基準は、あなたたちを裁くときにはより厳しく用いられることになり、あなたたちが絶え間なく犯した過ちに対する寛容を必要とすることになるからです。

世間では小さな過ちとさえも考えられないような行動であっても、純粋な神の目には罪として映る行動が多く存在することをあなたたちは知らないのですか。

 真なる慈善は施しや、あなたたちとともに生きる人たちへの慰安の言葉だけから成り立っているのではありません。いいえ、神はあなたたちに求めているものはそれだけではありません。

イエスによって教えられた崇高なる慈善とは、あなたたちの隣人に関わるすべてのことに対する不断の慈悲心からも成り立っているのです。この崇高なる美徳を、あなたたちは施しを必要としていない多くの人々に対して行うことができ、愛、慰安、励ましの言葉は彼らを神のもとへ導くことになるでしょう。
℘208      
 もう一度繰り返して申し上げますが、地球に同胞愛が君臨する時は近づいています。人類を統治するのはキリストの法です。その法は節度と希望を与え、魂を至福の国へと導くことが出来るのです。ですから、同じ父の子としてお互いに愛し合って下さい。

あなたたちと不幸な者たちを区別しないでください。なぜなら、神はあなたたちすべてが同じであることを望んでいるからです。誰をも軽んじてはなりません。神はあなたたちの間に、重い犯罪人があなたたちの教師として存在することを認めたのです。

やがて人類が真なる神の法を実践することが可能となった時、これらの教えは不必要になり、劣った霊たちはそれぞれが住むにふさわしいより劣った世界へ散らばって行ってしまうでしょう。
                 
 あなたたちはそうした劣った霊たちに対し、救援の祈りをしなければならないということを私は申し上げます。それは真なる慈善です。ある罪人に対し、「惨めな奴だ。地上から追放されるべきだ。このような者には死だけでは甘すぎる」などと決して言ってはなりません。

そうです、絶対にそのように言ってはなりません。あなたたちの模範となるイエスのことを考えてください。イエスは、そばに不幸な者がいたら何と言うでしょうか。その人のことを悲しみ、多くを必要としている病人のようにとらえ、手を差し伸べるでしょう。

あなたたちは実際には同じことはできないでしょうが、少なくとも不幸な者の為に祈り、その者がまだ地上に生きている間は、霊的な援助を与えてあげることができます。

信心深く祈れば、後悔の念がその者の心を打つかもしれません。罪人も最良の人間と同じようにあなたたちの隣人なのです。道に迷い、反抗的になってしまった魂も、あなたたちの魂と同じように、完成するために創造されたのです。ですから、不幸な者がそのぬかるみからでることができるように助け、その者のために祈ってください。(フランスのイザベル ルアーブル、1862年)

℘209    
  悪人のために命を犠牲にするべきか
十五、 ある人が死の危機に直面しています。彼を助けるには自分自身の命を危険にさらす必要があります。しかし、死に直面している人は悪人で、もし、助かれば再び新しい罪を犯す可能性があります。にもかかわらず、命の危険を冒してまで彼を救うべきでしょうか。



 この問題は非常に重要な問題であり、私たち霊に疑問としておこるのも当然なことです。例え悪人であっても、私たちの命の危険を冒して救うべきかを知ろうとしてここで扱っている以上、私の道徳的進度に応じてこの問題にお答えいたします。

献身は盲目です。敵兵もが助けられるように、社会の敵、つまり悪人をも助けてください。そのような場合において、死だけがその哀れな者の人生を奪おうとしているとあなたは考えますか。

いいえ、恐らくその者の過去の人生すべてが奪おうとしているのです。なぜ考えるのですか。人生の最期の時を奪うその瞬間に、その迷える者は過去の人生を振り返ります。もっと正しく言うならば、過去の人生が彼の前に現れるのです。死は彼にとってとても早く訪れるかもしれません。

再生は恐ろしいものになるかもしれません。だから、人類よ、身を投じてください。スピリティズムの科学によって明らかにされたあなたたちは、身を投じ、彼を危険から救ってください。すると、あなたたちを罵りながら死んで行ったかも知れなかったはずのその悪人は、あなたたちの腕の中に飛び込んでくるかもしれません。

しかし、あなたたちは、彼がそうするかどうかを問うてはならず、援助に走らなければなりません。なぜなら、援助することによってあなたたちの心の中で「あなたには助けることが出来る。彼を助けよ」と叫ぶ声に従うことが出来るからです。(ラムネ― パリ、1862年)
 

No comments:

Post a Comment