Sunday, October 26, 2025

シアトルの秋  「スピリティズムによる福音」     アラン・カルデック著

The Gospel According to Spiritism: Allan Kardec (Author),
第二十七章 求めなさい、そうすれば与えられます  

祈りの条件

一、また、祈る時には、偽善者たちのように祈ってはいけません。彼らは人に見られたくて教会や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。誠に言います。彼らはすでに自分の報いを受け取っています。しかし、あなたたちは、祈る時には自分の寝室に入りなさい。

そして、戸を閉め、隠れたところにおいでになる、あなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いを見ておられるあなたの父は、あなたに報いてくださるでしょう。

又、祈る時には異邦人のように言葉を多く唱えてはなりません。彼らは言葉を多く唱えれば聞き入れられるものと思って居るのです。だから、彼らのようにしてはいけません。あなたたちの父なる神は、あなたたちがお願いをするより先に、あなたたちに必要なものを知っておられるのです。(マタイ第六章 5―8)


二、また、立って祈る時、心の中に誰かに対する恨みを持っているなら、その者を赦してあげなさい。そうすれば天におられるあなたたちの父も、あなたたちの罪を赦してくださるでしょう。もし、あなたたちが赦さないのであれば、あなたの父も、あなたたちの罪を赦してくださらないでしょう。(マルコ第十一章 25,26)


三、自分を正しいと自ら認め、他の人々を見下している者たちに対し、このような例えをお話しになった。

「二人の人が、祈るために宮に上った。一人はファリサイ人で、もう一人は徴税官であった。ファリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私は他の人々のように貪欲な者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のような人間ではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるもの全ての十分の一を捧げております』

ところが、徴税官は遠く離れてたち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて言った、『神様。こんな罪人の私を憐れんでください』。

誠に言います。神に正しい者と認められて家に帰ったのはこの徴税官であって、ファリサイ人ではありませんでした。なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(ルカ 第18章 9-14)


四、祈りの条件は、イエスによって明確に示されています。イエスは言いました。「祈る時には自分の寝室に入りなさい。そして、戸を締め、隠れたところにおいでになる、あなたの父に祈りなさい」と。たくさん祈っているふりをしてはなりません。

なぜなら、祈りの言葉の数ではなく、祈る人の誠意によって祈りは伝わるからです。誰かに対し、何か一つでも敵対の気持ちがあるのであれば、祈る前にその人を赦してあげなければなりません。なぜなら、慈善に反する感情の一切を捨てて、清い心を持って祈るのでなければ、その祈りが気持ちよく神に伝わるわけがないからです。

「徴税官」のような謙虚な気持ちで祈りなさい。「ファリサイ人」のような虚栄心をもって祈ってはいけません。見るべきものはあなたたちの短所であり、長所を見てはなりません。もし、他人と比較するのであれば、あなた自身に存在する悪を探しなさい。(→第十章 7、8)


 祈りの効果
五、「だから誠に言います。求めるものがなんであろうと、祈って求める時には、もうそれが叶えられたものだと信じなさい。そうすれば、その通りになるでしょう」(マルコ 第十一章 24)


六、神が私たちの必要としていることをすべて知っているのであれば、私たちはそれを神に対して言い直すまでもないと、祈りの効果を否定する人がいます。また、宇宙の全てが永遠の法則によって動いているのであれば、私たちの願いで神の意向を変えることはできないと言います。

一人一人の気まぐれに応じて神が取り消したりするようなことが出来ない不変の自然の法則は、間違いなく存在します。しかし、だからと言って、人生の全ての状況下で、運命にただ身を任せなければならないと信じるのは大きな間違いです。

もしそうなのであれば、人類は単に受動的な存在でしかありえず、自由意志も自発性も持つことができなくなります。運命のもたらす出来事の前に、人はただ頭を下げるだけでしかなくなってしまいます。

そうした出来事を避けようともせず、危機から遠ざかろうともせずに、神は、使いもしない理解力と知性を私たちに与えてくれたのではありません。

欲しがらぬように欲求を与えてくれたのではありません。何もしないように行動力を与えてくれたのではありません。人は、自由に行動できるからこそ、その人の下した決定に応じた結果を、その人自身も。また他の人も、得ることが出来るのです。

その人の自発性によって運命から取り除くことのできる出来事というものが存在するのです。しかし、だからと言って、それは宇宙の法則の調和を崩すということではありません。言うならば、時計の差す針が遅れていようが進んでいようが、針を動かす時計の仕組みに変わりはないのと同じことです。

つまり神は、全体を支配する法則の不変性を取り消すことなく、意志に応じてある程度の願いを聞き入れてくれることがあるのです。


七、「求めなさい。そうすれば与えられるでしょう」と言う金言を、得るためには求めるだけでよいのだと解釈してしまっては不合理ですし、求めたものをすべて得ることが出来なかったといって神を非難するのも不当です。

なぜなら、神は私たちにとって何が相応しいのかを、私たちよりもよく知っているからです。それは常識のある父親が、自分の子供にとって不利益となるものは断るのと同じことです。

一般に人には現在しか目に入りません。しかし、もし苦しむことが、ある人にとって幸せな将来をもたらすのであれば、神は、外科医が病気を治すために手術を病人に受けさせるのと同じように、その人に苦労させるでしょう。

神を信じ、求めるのであれば、神は勇気、辛抱、甘受の気持ちを与えてくれます。更に与えてくれるものは、善霊たちからの暗示から導き出される、苦労から解放されるための手段であり、後はそれを本人が実行すれば、その暗示の真価を知ることができます。

「あなた自身を助けなさい。そうすれば天があなたを助けてくれます」と言う金言のように、神は自分自身を助ける者を補助してくれるのです。自分の能力を使わず、何もせずに他人任せの助けを求め、全てを待つものを助けるのではありません(→第25章 1とそれに続く項)。


八、例をあげてみましょう。ある人が砂漠で迷っているとします。ひどく喉が渇き苦しんでいるとします。衰弱し、地面に倒れてしまうとします。その人は祈り、神の助けを求めますが、どんな天の使いも飲み物を持って来てくれるわけではありません。

しかし、善霊は、ある一定の方向へ向かって進むという考えを暗示します。すると本能的な衝動によって、その人は全身の力を込めて起き上がり、思いついた方向へ向かって進み出します。

ある高台に辿り着き、遠くに小川が流れているのを発見して、それによって勇気を得るのです。信仰のある者であれば、「神様、よい考えを私にひらめかせてくれて、ありがとうございました」と言うでしょう。神を信じないものであれば「私は何と素晴らしい考えを持っていたのだろう。

左を選ばず、右の道を選び、私は何と運が良かったのだろう。思い付きも実際役に立つものだ。倒れてしまわなかった自分の勇気がうれしい」と言うでしょう。

では、なぜ善霊ははっきりと、「この道を進みなさい、そうすればあなたの必要としているものが見つかります」と言わなかったのかという疑問が残ります。何故、その人が衰弱していた時、その人を導き助けるために、その善霊は姿を現さなかったのでしょうか。

そうしていれば、神による干渉というものを理解させることができていたはずです。それはまず、自分自身の力で自分を助けなければいけないということを教えるためです。次に、はっきりと示さないことによって、その人の信心を試し、その人の意志に従うためです。

神はその人を、転んだ時、誰かが見ていれば泣き叫んで起こしてもらうのを待ち、誰も見ていなければ自分で努力して立ち上がる子供のような状況に置いたのです。

もしトピアスの旅の供をして彼を守っていた天の使いが、「あなたを旅の間守り、全ての危険から保護するよう、神によって送られてきました」と旅の出発前に言っていたとすれば、トピアスにとって何の価値もなかったでしょう。だから、その天の使いは旅から戻ってきた後に初めてその存在を現したのです。  

         
祈ること──思考の伝達  
九、祈るということは神や霊の加護を求めることです。祈りによって私たちは、私たちを指導してくれている者と精神的に関係を結ぶことができます。祈ることの目的には、願い、感謝、または賛美があります。私たち自身のためにも、また他人のためにも祈ることが出来ます。

生きている者のためにも、また、死んだ者のためにも祈ることが出来ます。神への祈りは、神意にもとづいて行動する善霊たちに伝わります。善霊に伝わった祈りは、神にも伝わります。

神以外の者に向かって祈る時、それらの者は単なる仲介者としての役割を果たします。何故なら、何事も神の意思なしには生じないからです。


十、スピリティズムは、私たちが祈る相手が私たちの訴えに応えてくれる時も、祈る相手に私たちの考えが伝わる時も、どうやって思考の伝達がなされるのかを教えてくれています。

このことは、祈ることに対する私たちの理解を深めてくれます。祈ることによって何が起きるのかを理解するためには、空間を埋め尽くす宇宙フルイドの中にある、生きている者、死んでいる者のすべての存在を思い浮かべる必要があります。

空間を埋め尽くす宇宙フルイドは、地球上の空間を大気が包み、埋め尽くしているような状態にあります。宇宙フルイドは、意志によって衝撃を与えられると、空気が音を伝達するように思考の伝達の媒体となります。

但し、その違いは、空気の振動は制限されたものであるのに対し、宇宙フルイドの振動は無限に広がるということです。

ある思考が、地上の人間や、宇宙に存在する何者かに伝わる時、または、生きた者から死んだ者に伝わる時、あるいはその反対の場合に、空気が音を伝達するように、宇宙フルイドは連鎖状態となって思考を伝えるのです。
この連鎖状態のエネルギーは、思考と意志の強さに直接関係があります。これによって、霊がどこにいたとしても祈りは伝わります。

また、霊たちはお互いに交信し合うのです。同じような方法で、霊たちは私たちにインスピレーションを伝えてくれるのです。また、私たち人間も、これによって遠隔地同士で連絡を取り合うのです。

この説明を、祈りを単なる神秘ととらえ、その効力を理解しない人たちのために送ります。しかし、祈りを物体化するためではありません。ただ、祈りの効力というものをより理解しやすくするためのもので、祈りが直接的に、積極的に物事に働きかける力があるということを知るためなのです。

しかし、だからといって、祈りの効力と神の意志が関係ないわけではありません。神は万物に対する最高の正義です。祈りを有効なものとすることができる唯一の存在であるのです。 


十一、祈りによって人は善霊を引きつけます。善霊は、人が良い決断をするように助けるため、良い考えを閃かせてくれます。それによって、人は困難を乗り越えるのに必要な道徳的な力を受け、正しい道から外れている場合には、正しい道に戻されます。

また、過った行動がひきつける悪い考えから、自分を遠ざけようとする意思を与えてくれます。何かの過剰な摂取によって健康を悪化させた人がいたとします。死ぬ直前まで過剰な摂取を改めることなく、健康状態が悪いまま苦しい人生を続けたとします。

この人は自分の健康が回復できなかったことに関して、神に対する不満を訴える権利があるでしょうか。ありません。なぜなら、祈りによって誘惑に耐える力は得ようとすれば得ることがが出来ていた筈だからです。


十二、もし、人生の中で出遭う不幸を二つに分類するならば、一つは、人間にとって避けることのできないもので、もう一つは、その人自身の不注意や不品行によって起きる苦労からくるもの(→第五章 4)ですが、一般に後者の方がずっと多いことが分かります。

人間自身がその苦しみを自らつくっているということは明らかであり、したがって、常に知恵と慎重さをもって生きることが出来れば、苦しみを軽減することが可能であるということが分かります。

こうした不幸が、私たちが神の法に違反することから生まれるというのは確かであり、もしこの神の法を厳重に守ることができれば、私たちは完全に幸福になれるということも明らかです。

私たちが生命を維持するために最低限必要なものを満たしたことに飽きたらず、必要限度を超えて何かを摂取してしまうようなことが無ければ、摂取過剰によって引き起こされる病に罹ったり、その病がもたらす苦しみに悩まされることは無いでしょう。私たちの野心を抑えることが出来れば、没落する恐怖を味わうこともありません。

私たちの能力以上に向上することを望まなければ、落ちぶれることを心配する必要はありません。もし謙虚でいることが出来れば、プライドを傷つけられて失望をすることはありません。

慈善に身を捧げることが出来れば、不満、不服、妬み、嫉妬を感じることもなく、けんかや別れを防ぐことができます。誰に対しても悪いことをしないでいることが出来るのであれば、人に恨まれる心配をする必要はありません。


 さて、もう一方の苦しみに対しては、人間は何もすることが出来ず、どのような祈りもそこから解放されるためには役に立たないと考えることができます。しかし、そうであったとしても、自分自身に起因する苦しみの全てを避けることが出来るのであれば、それだけでも十分ではないでしょうか。

そうした場合には、祈ることは何であるのか、容易に理解することができます。祈ることの目的は善霊たちの道徳的なインスピレーションを引きつけることであり、また行動に移せば私たちにとって致命的となり得る悪い考えに抵抗するのに必要な力を得ることなのです。

そうした目的が果たされるように、善霊たちは苦しみを私たちから遠ざけてくれるのではなく、苦しみを生じさせるような悪い考えから私たちを遠ざけてくれるのです。善霊たちは、神の意向を妨げることはありません。自然の法則の流れを遮ることはありません。

反対に私たちの自由意志を指導しながら、私たちが神の法を破ることを禁じるのです。しかし、私たちが気付かぬ間に、目には見えない形で、私たちが苦しみを避けようとする意欲を失わないように、それを行います。

その時人間は、良い忠告を求め、それを実行しようとする姿勢にありますが、同時にその忠告に従うか否かを選択する自由を有しています。

神はそのように、人間がその行動に対する責任を持つことを望み、善か悪かの選択をした後、それによって得たものの真価がその人に理解されることを望んでいます。祈りの結果は、人間が熱烈に求めた時には、いつも得ることが出来るのです。つまり、「求めなさい。そうすれば与えられるでしょう」という言葉がそこに当てはまるのです。


 祈りの効果と言うものが、私たちを悪い考えから遠ざけてくれることだけに限られていたとしても、非常に大きな効果をもたらすことになるのではないでしょうか。

物質世界と霊の世界の関係を明らかにすることによって祈りの効果を証明することは、スピリティズムに課せられた役割です。しかし、実際の祈りの効果は私たちを悪い考えから遠ざけてくれるだけではありません。

祈りはすべての霊によって勧められています。祈りを放棄することは、神の好意を無視することです。神の加護を自分から拒むことであり、また、他人に対して行うことのできる善い行いを拒むということです。


十三、 神は、神に向かって祈る者に応える時、多くの場合、祈る者の意向、献身、信仰に報いることを望みます。だからこそ、善い人の祈りの方が神の目にはより値打ちがあるものに映り、その祈りはより強い効力を持つのです。

なぜならば、悪意を持つよこしまな者は、本当に信心深い者だけが感じることが出来る信頼と熱意をもって祈ることはできないからです。

自己中心的で、口先だけの祈りを唱える者からは、単なる言葉しか出て来ず、祈りに力をもたらす慈善の気持ちが生まれてくることはありません。

ですから、私たちが誰かに祈ってもらうとすれば、神を喜ばすことのできそうな行いの善い人に本能的に頼むだろうということは明らかです。なぜなら、そうした祈りの方が神には良く聞き入れてもらえるからです。


十四、祈りとは一種の磁気的な力の働きなので、その効力はその人の持つフルイドの力によって変化すると仮定することが出来るかも知れません。しかし、そうではありません。霊たちは人間の祈りに応える時、その祈る者にとって不足しているものを必要に応じて補うのです。

それはそのようにすることがその人にとって有益であり、そうした恵みを受けるに値すると判断された時であって、霊たちはその人に代って直接的に働きかけたり、一時的に特別な力を与えたりするのです。

 健全な影響を他人に与えるにはまだ自分の善さは不十分だと考える者は、どうせ聞いてもらえないだろうと考えて、他人のために祈ることを忘れてしまうようなことになってはいけません。自分の劣等を自覚することは謙虚であることの証拠であり、それはいつも神を喜ばせることになります。

そして神は何時もそうする者の慈善的な志を汲んでくれます。神に寄せる信頼と熱意は、善へ向かうための第一歩です。

そして善霊たちも、喜んでそのような方向へ私たちを向けようとするのです。自分の権力や価値しか信じることができず、それが永遠の神の意志を超えるものだと考えるプライドの高い者の祈りは、拒絶されます。


十五、祈りの力とは、思考の中にあるもので、祈りに使う言葉、祈る場所、祈る時間とは全く関係がありません。ですから、いつでも、どこでも、一人でも、また大勢でも祈ることができます。場所と時間は、単に黙想するための環境に影響を与えるものです。

どんな祈りも、祈るすべての者が、同じ目的で同じ考えを持ち、心を一つにした時、より強い力を持つことになります。そうすることは、ユニゾンで声をそろえて歌うようなものだからです。

しかし、一人一人が個別にその人自身だけのために祈るのであれば、大勢で集まることがどれほど重要であり得ましょうか。百人集まって、それぞれが利己的に祈る一方で、二、三人が息を合わせて真なる神の子の兄弟の様に祈れば、その祈りは百人の祈りよりもずっと強いものとなるでしょう(第二十八章 4,5)。


 理解できる祈り
十六、もし、言葉の意味を理解していないのであれば、語っている人にとって私は異国人であり、語っている人も私にとっては異国人です。

 もし、私が誰も知らない言葉で祈るのであれば、私の霊は祈っていることになりますが、私の知性は実を結びません。

 あなたが、あなたの霊において神を賛美しても、あなたの言っていることがわからないのであれば、初心者の席にいる人たちは、どうしてあなたの感謝の言葉に合わせ、「アーメン(そうでありますように)」と言うことができるでしょうか。あなたの感謝は伝わりますが、他の人の徳を高めることにはなりません。(第一コリント 第十四章 11,14,16,17)


十七、祈りは、その祈りを形成している考えによってのみその価値が決まります。理解できない考えに意を傾けることはできません。なぜなら、理解できない考えというのは心に響かないものだからです。

多くの人が捧げる、理解していない言葉による祈りというのは、霊には何も訴えることのない、ただの言葉の羅列に過ぎないのです。祈りが心に響くには、一つ一つの言葉がある考えを映し出していなければなりません。

もし、一つ一つの言葉を理解できないのであれば、どんな考えをも映し出すことはできません。祈ることの利点が単に繰り返しの回数に比例すると考え、簡単なきまり文句のように何度も唱え返す人がいます。多くの人は義務として祈ります。

また、単に習慣として祈る人もいます。決められた順番で何回か祈りを繰り返すことによって、義務から逃れることができると考えるからです。しかし、

神は人の心の底を読み、私たちの思考や誠意を知るのです。それゆえ、神が祈りの根底にある意味よりも、祈りの形にこだわると考えることは、神を卑しめることになるのです。(→第二十八章 2)


 死者や苦しむ霊たちへの祈りについて
十八、苦しむ霊たちは祈りを求めますが、それは祈りが彼らにとってとても有益なものだからです。なぜなら、彼らは思いだされることにより、自分が忘れ去られた存在ではないことを知り、その悲しみも軽くなるからです。

しかし、祈りはその他にもっと直接的にも働きかけます。彼らに再び勇気を与え、反省と改心によって気持ちを高めようとする意志を刺激し、悪い考えから遠ざけるのです。

祈りによって彼らの苦しみを軽くするだけでなく、短縮することができるのです。(→『天国と地獄』第二部 例)


十九、ある人は死者への祈りを否定します。なぜなら、魂には、永遠に救われるか、永遠に罰せられるかのいずれかの選択しか与えられないと信じているからです。そうなのであれば、救われようが、罰せられようが、祈りは役に立たないことになります。

こう信じることの価値は別として、避けることのできない永遠の罰というものが実際に存在し、それは私たちの祈りでは中断させることができないものであると、少しの間仮定して考えてみましょう。

では、だからと言って、罰せられる者への祈りを拒絶するのは正しく、慈悲深いことでしょうか。それがキリストの教えに則っているのでしょうか。死者への祈りは死者を自由にするには至らないかもしれませんが、それは彼らに対する憐れみの表現となり、彼らの苦しみを和らげるものではないでしょうか。

地上である人が終身刑に処された時、その囚人には減刑の可能性はなかったとしても、その人の背負う拘束の重荷を軽く感じることができるようにと、慈悲深い人がその囚人を助けてあげようとすることが禁止されていますか。

誰かが不治の病に犯された時、治る見込みがないからと言って、その人を助けることなく、見放すべきなのでしょうか。罰せられる者の中に、あなたにとってとても大切だった人がいるかもしれません。友人、父親、母親、息子だった人が。

それなのに、彼らが赦されることはないと信じているからと言って彼らののどの渇きを癒すコップ一杯の水をあげることも拒否するのですか。彼らの傷口を癒す薬を塗ってあげることを拒否するのですか。

親愛なる者の為に、囚人にしてあげられるのと同じことをしてあげようとは思いませんか。彼らに愛の証と慰めを与えないのですか。それではキリストの教えに則っているとは言えません。心を固くしてしまう信念は、何よりもまず隣人を愛せよと教える神への信仰と調和することができません。

 永遠の罰を否定するからと言って、一時的な罰を否定するわけではありません。なぜなら、神はその正義によって善と悪を間違えるわけはないからです。

しかし、罰に処されているからと言って祈りの効力を否定することは、慰めや良い忠告、励ましの力を否定することです。そして、それは私たちを愛してくれている人たちからの道徳的な救済によって得ることができる力をも否定するのと同じです。


二十、神の意向の不変性といった、もっと特殊な理由をあげることによって死者への祈りを否定する人もいます。神はすでに決めてしまったことを人間の願いに応じて変えることはできず、さもなければ世界は何一つ安定することがない、と彼らは言います。

したがって、人間は神に服従し賛美する義務はあるが、神に願う必要はないと考えるのです。

 この考え方には、神の法の不変性の解釈に誤りがあります。言うならば、その人は未来における罰を示す神の法を全く知らないのです。

今日、人間は十分に成熟し、その信仰によって、なにが神の善良に属し、なにが属さないかを理解できるようになりました。そこで、この神の法が、神意に従って行動する善霊たちによって示されたのです。

 罰の絶対性と永遠性を教える教義によると、後悔の念も、悔恨も念も、罰を受ける者にとって有益ではありません。罰を受ける者にとって、いかなる向上の意欲も無益だということになります。彼は永遠に悪にとどまることを強いられるのです。

しかし、もし決められた期間だけ罰に処されたのであれば、刑期の終わりが来ればその刑は終了します。しかし、その時、罰せられた者が改心することができたと誰が断言できるでしょうか。

地上で罰を受ける者の多くの例が示すように、刑務所から出てからも、以前と同じように悪くなることはないでしょうか。罰が永遠であるという考え方の場合であれば、向上し善くなった人でさえも罰の苦しみのもとに置かれることになります。

罰が特定の期間だけ与えられるという考えの場合であれば、罪を負い続けながらも自由を得た者が得をすることになります。

神の法とは、より深い配慮にもとづいた摂理です。常に公平であり、平等で、慈悲深いものです。どのような罰であれ、その期間を決められることはありません。神の法は次のように要約することができます。


二十一、 「人は常に自分で犯した失敗の結果に苦しみます。罰を受けることの無い神の法の違反は存在しません」「罰の厳しさは、違反の度合いによって決まります」

「どのような罰であれ、その長さは決まってはいません。それは罰せられる者の反省と改善する意欲次第だからです。だから、悪に執着すればするほど罰は長引きます。頑固である間は、罰に終わりはありません。すぐに反省するのであれば罰は短いものとなるでしょう」
 
「罰を受ける者が慈悲を求めれば、神はそれを聞き入れ、希望を与えてくれます。しかし、ただ後悔するだけでは足りません。過ちを正すことが必要です。

そのため、罰を受ける者は新たな試練の中に身を置き、その中で、自分自身の意志によって自分が過去に犯した過ちを正すために、善行に励むことになるのです」

「人間はこのように、自分で自分の運命を決めているのです。与えられた罰を短縮することも、不定の期間長引かすことも出来るのです。人間の幸、不幸は、善を行おうとする意志にかかっているのです」

 これが神の法なのです。神の善良と正義による、不変の法です。罪を負った不幸な霊も、このように自分自身を救うことが出来るのです。神の法はどのような条件のもとでそうすることが可能なのかを教えてくれています。不足しているものは向上するための意志、気力、勇気でしかありません。

 もし祈りによってこの意志を感じさせ、加護を与え、勇気づけることが出来るのであれば。もし、私たちの忠告によって、彼らに不足している光を与えることができるのであれば、神にその法の撤廃を願うのではなく、自らその愛と慈善の法の実践手段となろうではありませんか。

神が認めているように、そうすることによって、私たちはその法に参加することができ、私たち自身の慈善の証を示すことが出来るのです。(『天国と地獄』第一部 4,7,8章)





    霊たちからの指導
      
   祈り方
二十二、眠りから目覚め、日々の暮らしに戻った時、すべての人が第一番に思いださねばならないのが祈りです。ほとんどの人が祈るでしょう。しかし本当に祈り方を知っている者は何と少ないことでしょうか。

他の義務がそうであるように、祈りを義務として負担に感じ、反復することに慣れてしまい、ただ機械的につなぎ合わされて、発音されるだけの言葉が、神にとってどんな意味があるでしょうか。

キリスト教徒はどの宗派であったとしても、特にスピリティズムを勉強する者の場合は、霊が肉体に戻った時には祈らなければいけません。謙虚な気持ちで偉大なる神の足元まで気持ちを引き上げ、同時に今日まで授かったすべての恩恵に対し、深い感謝の気持ちを抱かなければなりません。

また、あなたたちは覚えていなくても、新たな力と辛抱を得るために、親しい友達や、私たちを守ってくれている人たちに、昨夜あなたの眠りの中で再会させてくれたことを感謝しなければなりません。

神の足もとに謙虚な気持ちで身を寄せ、自らの弱さを感じ、神の支え、赦免、慈悲を授かるよう懇願しましょう。その気持ちは心の底からのものでなければなりません。あなたは、その魂を神のもとに通じさせ、愛と希望に白く光を放つまで、タボール山でその姿を変えたイエスのように、祈らなければならないのです。

あなたたちは、あなたたちにとって本当に必要な神の恵みだけを祈りの中でお願いしなければなりません。あなたたちに与えられた試練を乗り越えるための近道や、喜びや、富を神にお願いしても無意味です。

それらをお願いする前に、より大切な辛抱、忍耐、信仰の心をお願いして下さい。あなたたちの多くが口にするように、「神は願いを叶えてくれないのだから祈ってもしょうがない」などと言わないことです。あなたたちは神にいつも何をお願いしていますか。

あなたたち自身の道徳的な改善を何回お願いしたか憶えていますか。何と少ないのでしょうか。

あなたたちが最も多くお願いすることは地上での生活や事業において成功するということばかりで、後になれば「神は私たちのことなどかまってくれない。かまってくれるのであれば、こんな不公平な世界の中であるはずがない」などと叫ぶでしょう。

あなたたちは愚かな恩知らずです。あなたたちの良心の奥深く探ってみれば、ほとんどの場合、愚痴のもととなっている不平の原因を見つけることができるはずです。

なによりも先に、あなたたちが向上することをお願いしてください。そうすれば、あなたたちの上に注がれる大量の恵みと慰めを見ることができるでしょう。(→第五章 4)

 何時も祈っていなければなりませんが、そのために公の広場で跪いたり、祈る場所を求めたりしてはなりません。日々の祈りは、それ自体があなたに与えられた義務を果たすことになりますが、他のいかなる種類の義務をも果たすことを怠ってはなりません。

あなたの兄弟が道徳的、物理的に何かを必要としている時、それを助けることは神への愛の行いではありませんか。

なにか嬉しいことがあった時や、何かの事故から逃れることができた時、何かの誘惑が私たちの魂をかすめ、通り過ぎて行った時、気持ちを高めて、神のことを考えることは神への感謝の行為です。その時、心の中で唱えることを忘れてはいけません。「神よ、祝福されますように」。

失敗してしまったと感じた時、ほんの一時思い浮かべるだけでも、謙虚に最高の審判者に向かって、「神よ赦してください。(自尊心が強すぎ、身勝手な考えを持ち、慈善の気持ちが欠けていたために)罪を犯しました。同じ失敗を繰り返さぬよう、力を与えて下さい。私の欠点を改める勇気を与えて下さい」と考えることは、悔罪の行いではありませんか。

 こうした祈りは、朝、夜、神聖な日に捧げる定期的な祈りの他に行わねばなりません。

つまり、あなたたちの習慣を断つことなく、いかなる時にも祈りは行われるべきなのです。そのようにすることによって、あなたたちの習慣までもが、神聖なものとなるのです。

そして、こうした心の底より生まれる考えは、たった一つの思考であったとしても、直接の動機が殆どの場合存在しないにもかかわらず、単に習慣となっている時間が機械的にあなたを呼ぶからと言って繰り返される長い祈りよりも、天の神には聞きいれられるのです。(V・モノ― ボルドー、1862年)


 祈りの喜び
二十三、信じたい者はみな来てください。天の霊たちがやって来て素晴らしいことを教えてくれます。子どもたちよ、神はその宝を広げ、その恵みをあなたたちに分けてくれるのです。

信心のない者よ、信仰というものがどれだけあなたたちの心をなごませてくれ、魂を後悔と祈りに導いてくれるか、もしあなたたちが知ることができるならば。祈り、ああ、祈りの時、唇から出る言葉とは、なんと感動を与えるものなのでしょう。

祈りとは、熟しすぎた情熱を覚ましてくれる、神が降らせた夜露のようなものなのです。信仰から生まれた愛しい娘は、私たちを神に通じる道へと案内してくれるのです。

孤独の中で一人で深く考え込むとき、神に出会うことができるでしょう。その時あなたの謎は消えてなくなります。なぜなら神は、彼の方から現れてくれるからです。

信じる者よ、あなたたちのために本当の人生というものが開かれるのです。あなたたちの魂は肉体を離れ、人類がいまだ知ることのない無限なるエーテルの世界に放たれるのです。

 前進しましょう。祈りの道に沿って進み、天使の声を聞くのです。なんとすばらしいハーモニーでしょう。もはや地球で聞いた叫びや、混乱した雑音ではありません。

大天使の竪琴の音、森林の木々の枝葉にたわむれる朝のそよ風よりも優しい、甘い熾天使の声、なんという喜びを感じて進むことができるでしょうか。この祈りの喜びを、地上のあなたの言葉ではとうてい表現することはできないでしょう。

あなたの身体の隅々までしみ込む、この鮮明でさわやかな喜びは、祈ることによって飲むことのできる泉なのです。祈りによって知られざる生命の住む世界へ放たれる甘い言葉、芳香は、霊たちによって聞きいれられ、吸い込まれます。

肉体の世界の欲望から切り離された熱望は、いかなるものも神のものとなります。ゴルゴタからカルバリオまであなたたちの十字架を運んだキリストのように、あなたたちも祈ってください。あなたの十字架を担いでください。

そうすれば、屈辱の十字架を担ぎながらもキリストの魂が感じていた、やさしい感動を得ることができるでしょう。

キリストは死ななければなりませんでした。しかし、死ぬということは、彼の父のすみかのある世界で生きるということだったのです。(聖アグスティヌス パリ、1861年)

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