Monday, April 7, 2025

シアトルの春 灯りを升の下に置いてはいけない

Do not put lights under the squares.




 升の下の灯り。何故イエスはたとえ話で話すのか

一、灯りを灯して、それを升の下に置く者はいません。むしろ、ランプ台の上に置き、家中のものを照らすようにします。(マタイ 第五章 15)


二、灯りを灯した後、それを壺で覆ったり、ベッドの下に置いたりする者はいません。ランプ台の上に置き、入ってくる者が光を見ることができるようにするのです。隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはありません。(ルカ 第八章 16,17)


三、イエスに近づくと、使徒たちは言った、「なぜ彼らにたとえ話で伝えるのですか」。答えて言われた、「なぜなら、あなたたちには天の国の謎が解き明かされましたが、彼らには解き明かされていないからです(→FEB版注1)おおよそ、持つ者により多くを与えれば、より豊かになりますが、持たない者からは、持つものさえも奪われるでしょう。

だから彼らにはたとえ話で伝えるのです。それは彼らが、見えても何も見ず、聞こえても何も聞かず、また理解しないからです。彼らには次のように言ったイザヤの預言が当てはまります。

『あなたたちはその耳で聞くが何も理解せず、その目で見るが何も見えない』。なぜなら、民の心は鈍くなり、耳は聞こえにくくなってしまい、目は閉ざされてしまったからです。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて癒されることがないためです」。(マタイ 第十三章 10-15)


四、たとえ話というベールに隠して、誰にでも理解できるとは限らぬ方法で話したイエス自身が、灯りを升の下に置いてはならないといったのは驚くべきことです。

イエスは使徒たちに次のように言って説明します。「彼らにはたとえ話で伝えます。なぜなら彼らはある種の事柄については理解できる状態にないからです。人々は見て、聞くが理解しません。

だから、今はすべてを伝えることは無益なのです。しかし、これらの謎があなたたちには理解されるので言います」。つまり、イエスは考えの未発達な子どもと対峙するときのように、当時の人々にたいして語りかけたのです。これを理解することで、「灯りを升の下に置いてはなりません。

そうするのではなく、ランプ台の上に置き、入ってくる者誰もが見ることができるようにしなさい」という言葉の本当の意味が見えてきます。この言葉は、なにも考慮せずにすべてのことを示すべきだという意味ではありません。

どんな教えも、指導の対象となる人の知性に合わせて示されるべきです。なぜなら、光が明るすぎると、目がくらんでしまい、啓発されることのない人々もいるからです。

 同じことがある特定の個人にあてはまることもあれば、一般の人々にあてはまることもあります。一つの世代にはその幼少期、青年期、成熟期があります。それぞれの出来事がそれにふさわしいときに起こらなければなりません。季節外れに地上に落ちた種は発芽しません。

しかし、慎重に扱うことによって一時的に隠された内容も、いずれ発見されることになるでしょう。なぜなら、ある程度の発達の度合いに達すると、人類は自ら生きた光を求めることになるからです。

闇は人類にとって負担となるのです。神は人類が地上と天における物事を理解し、その中で進んでいけるように人類に知性を託したため、人はその信仰を理性に照らして合わせることになるのです。

だから灯りを升の下に置いてはならず、なぜなら、理性の光なしには、信仰は衰弱してしまうからです(→第十九章 7)。

    
五、もし神意が、その予見可能な知性によって真理を徐々に啓示していくことにあるのであれば、人類がどのくらいの成熟度に達したかを見極めたうえで、それに見合った真理を知らせることになります。

真理は升の下に置かれるのではなく、将来に向けて温存されるのです。しかし、人類はそうした真理を手に入れると、それを支配してしまおうと、自分が知り得た真理を人々から隠してしまいます。

こうした場合、それはまさに光を升の下に置いていることになるのです。あらゆる宗教にはそうした神秘があり、それを吟味することも禁じられているのです。しかし、そうした宗教が衰退していくのに従って、科学や知性が発達し、秘密のベールを取り除いていきました。

人々は大人になると物事の根底にまで入り込むことを覚え、観察に反する事柄を、その信念によって消去したのです。

 絶対的な謎は存在しえず、人に知られることのない秘密は何もないとイエスの言うことは理にかなっています。隠されたものはいつの日か必ず発見され、人類がいまだに理解できないものは、人類がより浄化した時、進歩した世界において次から次へと明らかにされていくでしょう。ここ地球上では、それらのことがまだ霧中にあるのです。

   
六、「意味が理解されないこれらの多くのたとえ話に、どんな利用価値があるのでしょうか」と聞かれます。しかし、イエスはその教義の、いうならば抽象的な部分についてのみ、たとえ話で表現したことに注目しなければなりません。

救いの基本的な条件を隣人に対する慈善と謙虚さであるとし、これらのことについて言ったことは、少しの曖昧さも残さずにこの上なく明確に示しました。それは行動の規則であり、すべての者がそれを理解し、それに従わなければならなかったために、明確に示す必要があったのです。

「これが天の国を得るために行わなければならないことである」とだけ言ったことが、無知な大勢の人々のために示した本質的な部分であったのです。

その他のことについては、使徒たちにのみその考えを明かしました。彼らが道徳的にも知性的にもより進歩していたため、イエスはより抽象的な真理の知識を伝授することができたのです。その時に言いました。

「すでに持つ者はより多くが与えられ、豊かになるであろう」(→第十八章 15)

 しかし、使徒たちにさえも、多くの点については不明確なままとなり、完全な理解はその後の時代へと持ち越されました。そして、そうした点は、一方で科学が、またもう一方でスピリティズムが自然の新しい法則を明らかにし、その真なる意味が理解されるようになるまで、多様な解釈を生む機会を与えられることになったのです。


七、スピリティズムは今日、多くの不明確な点に光を投じます。しかしむやみに光を投じるのではありません。霊たちは驚くべき慎重さを持って指導を与えます。

教義の中のすでに知られた部分についても、徐々に、しかも継続的に考慮され、その他の部分については、それが明確にされるべき時が訪れるに従って明らかにされるよう残されます。

もし最初から完全な形で示されていたなら、ほんの少数の人々にしかそれに近づくことはできなかったでしょう。それらを受ける準備のない人々はそれに驚いてしまい、その教義の普及には逆効果となってしまうでしょう。

もし、霊たちがいまだにすべてを明らかに伝えていないのであれば、それは教義の中に一部の特権的な者たちだけが知ることのできる謎が存在するからでもなければ、升の下に灯りを置いているからでもありません。

それは一つ一つの事柄が、それを知るのに適した時に現れる必要があるからなのです。

霊たちは一つ一つの考えに対してその後に続く考えを示す前に、機が熟し広まるまで時間を与え、後の続く考えが受け入れるための準備となる出来事がおこることにも時間を与えるのです。


 異邦人たちのところへ行ってはならない
八、イエスはこの十二人をつかわすにあたり、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはなりません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊を探しに行きなさい。そして行った先では、天の国が近づいたことを説きなさい」。(マタイ第十章 5-7)


九、どのような時においても、イエスの目はユダヤの民だけに限って向けられていたのではなく、人類全体に向けられていました。ですから、使徒たちに異教徒のもとへ行ってはいけないと言っているのは、彼らの改宗を軽蔑していたからではないはずです。

さもなければ、それは慈善に反することになってしまいます。ユダヤ人たちはすでに唯一の神を信じ、救世主の出現を待っていたのであり、モーゼの律法や預言者たちによって、使徒たちの言葉を受け入れる準備ができていました。

しかし、異教徒たちにはそうした基礎がなく、行わなければならないことがすべて残されており、使徒たちは異教徒たちに教えを伝える重い任務を果たすほど博学ではなかったのです。だからイエスは次のように言ったのです。

「イスラエルの家の失われた羊を探しに行きなさい」。つまり、すでに教化された土地に種を蒔きに行きなさいということだったのです。イエスは、異邦人の改宗が時とともに進むことを知っていました。後になって使徒たちは、異教の中心部へ十字架を掲げに行ったのです。


十、これらの言葉は、スピリティズムを受け入れ、広めようとする人々にもあてはまります。体系的な不信心者や、それをあざける頑固な者たち、たくらみを持った敵対者たちは、使徒たちにとっての異邦人と同じです。

ゆえに彼らを模範として、第一に、発芽間近な種を持った、光を求める数多くの意欲ある者たちの中に改宗者を探し、見たり聞いたりすることも嫌がるような、自分の改宗に関わる度合いが高くなるほど自尊心によってますます抵抗する人々に、無駄な時間を費やさないようにしなければなりません。

光を求める百人の盲目者の目を開くことの方が、闇にいることを喜ぶ一人の目を開くことよりも価値のあることであり、その方が問題に対する支持者の数を大きな割合で増やすことができるのです。他の者たちをそのままにしておくことは無関心を示すことではなく、より賢明な手段なのです。

その思想が一般の人々の意見として支配するようになった時には、受け入れることを拒んでいた人たちも、その周りにいる人たちから同じことを繰り返し聞かされることになるのです。

そうすれば、彼らは他人からの圧力によってではなく、自らの意志によって、その思想を受け入れることになります。また、種のように扱われるべき思想もあります。

適切な季節が来なければ発芽することができなかったり、前もって準備された土地に蒔かなければ発芽できない種があるため、適切な時期を待ってから種を蒔き、機が熟してから、発芽したものを栽培する方が良く、過度の栽培によって他の発芽を失敗させてしまうことがないようにしなければなりません。

 イエスの時代には、当時、狭い物質的な考え方が支配していたために、すべてが限定された局地的なものでした。イスラエルの国は一つの小さな民族であり、異邦人たちとは、その周辺に存在した別の小さな民族のことを指しました。

今日人々の考えは普遍化され、霊的なものになっています。新しい光は特定の国の特権をなすものではありません。その焦点はあらゆる場所へ向けられており、全人類が兄弟であるために障壁は存在しないのです。

また、異邦人とは特定の民族を指すのではなく、あらゆる場所で出合うさまざまな意見のことを指し、キリスト教が多神教に対して勝利したのと同じように、少しずつ真理が打ち勝っていくことになるのです。それらはもはや武力や戦争によって撃退されるのではなく、思想の強さによって打ち勝っていくのです。


    
 医者を必要としているのは健康な者ではない
十一、イエスがこの者(マタイ)の家で食卓についておられた時、多くの徴税官や罪人たちがやって来て、イエスや使徒たちと同じ食卓についていた。

ファリサイ人たちはそれを見ると使徒たちに言った、「あなたたちの先生はなぜ、徴税官や罪人たちとともに食事をするのですか」。これを聞いてイエスは言われた、「医者を必要としているのは健康な者ではないのです」。(マタイ 第九章 10‐⒓)


十二、イエスは主に貧しい者や資産を持たない者たちに近づきましたが、それは彼らこそが慰安をより必要としている者たちだったからです。イエスに視力を与えてくれるように頼む、信心深く心優しい盲者に近づき、すべての光を有し、なにも必要ではないと考えるうぬぼれ者には近づきませんでした。(→序章 Ⅲ「パブリカン(徴税官)」「関税徴収人」)

この「医者を必要としているのは健康な者ではないのです」という言葉には、その他多くの言葉のように、スピリティズムにもその適用を見つけることができます。

まれに霊媒能力が、それを悪用する可能性のあるような、それにふさわしくない人に授けられていることがあり、驚く人々がいます。そのような貴重な能力は、最もそれにふさわしい人たちに与えられるべきだと言います。

 なによりもまず、霊媒性というものが肉体器官上の性質に付属するもので、どんな人であれ、見たり、聞いたり、話したりする霊媒性を授かることができるということを述べておきます。しかし、人間には自由意志があり、濫用しようと思えばできてしまいます。

たとえば、もし神が、悪い言葉を発言しないような者にしか言葉を与えていなかったとしたら、言葉を話せない人の方が、話せる人の数よりも多くなってしまいます。神は人類に能力を託し、それを利用する自由を与えますが、それを濫用した者は罰せられるのです。

もし霊と通信する能力がそれにふさわしい者たちだけに与えられるのだとすれば、誰があえてそうなることを望むでしょうか。さらには、ふさわしさとそうでないことの境界はどこにあるのでしょうか。

霊媒性は差別なく人々に与えられ、その為に霊たちは貧しい者から裕福な者に至るまで、あらゆる身分や社会階層に光をもたらすことができ、正しく歩む者はさらに善において強くなり、悪癖の多い者はそれを正すことになるのです。この後者が医者を必要とする病人たちではありませんか。

罪人の死を望んでいない神は、その人をぬかるみから引き出すことのできる救済手段をどうして奪うことがあるでしょうか。善霊たちが彼らのもとへ助けにやって来て、直接忠告を与えるのは、間接的に与える場合よりも、より鮮明に印象付けることができるからなのです。

神はその善意によって、人が遠くまで助けを求めに行かなくてもよいように、私たちの手に光を与えます。それを見たくないというのであれば、その責任はその人にあると言えないでしょうか。

自分に対する非難を自分の手で書き、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の口で唱えていながら、光を無駄にすることを自分の無知のせいにすることができるでしょうか。直接与えられた光を有効に利用しないのであれば、託されたその能力を奪われたり、能力が異常となり、罰せられます。

その場合には、悪い霊たちが憑依したり騙そうとしたりして、その能力を利用することになりますが、その苦しみとは、エゴイズムと自尊心によって心の固くなってしまった、神に罰せられた恥ずべき奉仕者が感じる本当の苦しみとはまた別の苦しみとなるのです。

 霊媒性は、必ずしも優秀な霊たちとの習慣的な関わり合いを意味するのではありません。それは一般的に、霊に対しておよそ従順な道具として仕えるための単なる素質に過ぎません。

したがって、よい霊媒とは容易に通信する者のことではなく、善霊たちに同情を引き起こさせる者のことで、善霊たちだけから助けを受ける者のことを指すのです。卓越した道徳性が霊媒能力に万能の影響を与えることができるのは、唯一こうした場合のみなのです。


 信仰の持つ勇気
十三、私のことを人々の前で認める者については、私も天にいる父の前にその者を認めるでしょう。私を人々の前で裏切る者は、私も天にいる父の前でその者を裏切ることになるでしょう。(マタイ 第十章 32,33)


十四、もし誰かが私のことや私の言葉を恥じるのであれば、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる天使の栄光のうちに現れて来る時、その者のことを恥じるでしょう。(ルカ 第九章 26)

   
十五、勇気を持って自分の意見を言うことは、多くの敬意を表されるべきこととして考えられてきました。なぜなら、すべての人々に認められていない考えを恐れを抱かずに公に発表する人は、ほとんどいつも危険や迫害、反発、あるいは単なる皮肉にさらされるからで、それを乗り越えればその功績は讃えられます。

いずれの場合においてもそうであるように、ここでもその功績とはそれを乗り越えた時の状況や、もたらされる結果の重要性に応じています。その考えが引き起こす結果を知る前に、後退したり、それを否定してしまう弱さというものは、いつも存在します。そのような場合、臆病な気持ちが勝り、戦いの途中で逃げ出してしまう場合もあります。

 イエスはその教義にもとづく特別な視点から、こうした臆病さを打ち消すために、イエスの言葉を恥じる者がいれば、その者も恥じられることになるといいました。イエスを裏切る者は裏切られ、人類の前でイエスを認めた者は、天にいる父なる神の前でも認められると言ったのです。

言い換えれば、真実の使徒として自分を認めることに恐れを感じた者は、真実の国において認められるにはふさわしくないのです。支えとする信仰の利益は失われることになります。なぜなら、そうした信仰は、この世で不利益が出ないようにと隠して自分のためだけにしまっておく利己的な信仰となってしまうからです。

一方で、自分の物質的な関心よりも優先させて真実を掲げ、公に宣言する者は、自分自身の未来と他人の未来のために働いていることになります。


十六、スピリティズムを受け入れる者にも、同じことがあてはまります。なぜなら、彼らが行う教義とは福音の適応と発展に他ならず、彼らにもキリストの言葉が差し向けられるからです。彼らは霊界で刈り取るものの種を地上に蒔くのです。霊界では、その勇気か弱さの結果を刈り取ることになります。  


 十字架を背負う。
 命を救いたい者は命を失うことになる
十七、人の子のせいで人々があなたたちのことを憎み、排斥し、あなたたちの名前を悪しき名前としてののしり、汚名を着せる時、あなたたちは幸いです。

その日には喜びにおどりなさい。なぜなら、あなたたちには天において大きな報酬が蓄えられるからです。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのです。(ルカ 第六章 22,23)


十八、民衆や使徒たちを呼びよせると、イエスは言われた、「私について来たいと思う者はみな、自分を捨て、十字架を背負い、私に従って来なさい。なぜなら、自分を救おうと思う者は道に迷うからです。

私と福音のために自分の命を失う者は救われるでしょう。まったく、世界中を征服したとしても自分の命を失ってしまったら、何の得になるでしょうか」。(マルコ 第八章 34-36、ルカ 第九章23-25、マタイ 第十章 38,39、ヨハネ 第十二章 25,26)


十九、「私のせいで人々があなたたちを憎み、あなたたちを迫害するのであれば、そのことは天において報われるので喜びなさい」とイエスは言いました。これらの真実は次のように解釈できます。

「あなたたちに対する悪意によってあなたたちに信仰の誠実さを試す機会を与えてくれたなら、彼らがあなたに行う悪はあなたたちのためになるのだから喜ばしく思いなさい。彼らが盲目であることを悲しんでも、彼らをののしってはいけない」。

その後にはこう付け加えます。「私について来たい者は十字架を背負いなさい」。つまり、あなたちの信仰が引き起こす苦難に勇気を持って耐えなければなりません。なぜなら、キリストを放棄することによって自分の命や財産を救おうとする者は、天の国における利益を失うことになるからです。

一方で、真実の勝利のために、命に至るまでの全てをこの世で失った者は、自ら証明した勇気と忍耐と甘受に対する報酬を得ることになります。反対に、天における富を地上の快楽のために犠牲にしてしまう者に対して神は、「もうすでに報酬は受け取っている」と言うでしょう。

●FEB版注1
フランス語原文にはマタイ 第十三章、十二節が欠落していたのでここに記載しました。ーFEB1948

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