Tuesday, April 15, 2025

シアトルの春 青年牧師との論争

 Controversy with a youth pastor


More Teachings of Silver Birch
Edited by A.W. Austen



    ある時メソジスト教派(※)の年次総会が二週間にわたってウェストミンスターのセントラルホールで開かれ、活発な報告や討論がなされた。が、その合間での牧師たちの会話の中でスピリチュアリズムのことがしきりにささやかれた。

(※メソジストというのはジョン・ウェスレーという牧師が主唱し弟のチャールズと共に一七九五年に国教会から独立して一派を創立したキリスト教の一派で、ニューメソッド、つまり新しい方式を提唱していることからその名があるが、基本的理念においては国教会と大同小異とみてよい───訳者)

 そのことで関心を抱いた一人の青年牧師がハンネン・スワッハーを訪ね、一度交霊会というものに出席させてもらえないかと頼んだ。予備知識としてはコナン・ドイルの The New Revelation (新しい啓示) という本を読んだだけだという。が、スワッハーは快く招待することにし、

 「明日の晩の交霊会にご出席ください。その会にはシルバーバーチと名告る霊が入神した霊媒の口を借りてしゃべります。その霊と存分に議論なさるがよろしい。納得のいかないところは反論し、分からないところは遠慮なく質問なさることです。その代わり、あとでよそへ行って、十分な議論がさせてもらえなかったといった不平を言わないでいただきたい。質問したいことは何でも質問なさって結構です。

その会の記録はいずれ活字になって出版されるでしょうが、お名前は出さないことにしましょう。そうすればケンカになる気遣いもいらないでしょう。もっともあなたの方からケンカを売られれば別ですが」という案内の言葉を述べた。
 
 さて交霊会が始まると、まずシルバーバーチがいつものように神への祈りの言葉を述べ、やおら青年牧師に語りかけた。


 「この霊媒にはあなた方のおっしゃる〝聖霊〟の力がみなぎっております。それがこうして言葉をしゃべらせるのです。私はあなた方のいう〝復活せる霊〟の一人です」

(訳者注ー聖霊というのはキリスト教の大根幹である三位一体説すなわち父なる神キリスト、子なる神イエス、そして聖霊が一体であるという説の第三位にあるが、スピリチュアリズム的に見ればその三者を結びつける根拠はない。キリスト教とスピリチュアリズムの違いは実にそこから発している。シルバーバーチもその点を指摘しようとしている)


牧師 「死後の世界とはどういう世界ですか」

 「あなた方の世界と実によく似ております。但し、こちらは結果の世界であり、そちらは原因の世界です」

(訳者注───スピリチュアリズムでは霊界が原因の世界で地上は結果の世界であるといっているが、それは宇宙の創造過程から述べた場合のことで、ここでシルバーバーチは因果律の観点から述べ、地上で蒔いたタネを霊界で刈り取るという意味で述べている)

牧師 「死んだ時は恐怖感はありませんでしたか」

 「ありません。私たちインディアンは霊覚が発達しており、死が恐ろしいものでないことを知っておりましたから、あなたが属しておられる宗派の創立者ウェスレーも同じです。あの方も霊の力に動かされておりました。そのことはご存じですね?」

牧師 「おっしゃる通りです」

 「ところが現在の聖職者たちは〝霊の力〟に動かされておりません。宇宙は究極的には神とつながった一大連動装置によって動かされており、一ばん低い地上の世界も、あなた方のおっしゃる天使の世界とつながっております。どんなに悪い人間もダメな人間も、あなた方のいう神、私のいう大霊と結ばれているのです」


牧師 「死後の世界でも互いに認識し合えるのでしょうか」

 「地上ではどうやって認識し合いますか」

牧師 「目です。目で見ます」

 「目玉さえあれば見えますか。結局は霊で見ていることになるでしょう」

牧師 「その通りです。私の精神で見ています。それは霊の一部だと思います」

 「私も霊の力で見ています。私にはあなたの霊が見えるし肉体も見えます。しかし肉体は影に過ぎません。光源は霊です」


牧師 「地上での最大の罪は何でしょうか」

 「罪にもいろいろあります。が、最大の罪は神への反逆でしょう」
 ここでメンバーの一人が 「その点を具体的に述べてあげて下さい」と言うと、

 「神の存在を知りつつもなおそれを無視した生き方をしている人々、そういう人々が犯す罪が一番大きいでしょう」
 
 別のメンバーが 「キリスト教はそれを〝聖霊の罪〟と呼んでおります」と言うと、
 「あの本(聖書)ではそう呼んでいますが、要するに霊に対する罪です」

牧師 「〝改訳聖書〟をどう思われますか。〝欽定訳聖書〟と比べてどちらがいいと思われますか」


 「文字はどうでもよろしい。いいですか。大切なのはあなたの行いです。神の真理は聖書だけでなく他のいろんな本に書かれています。それから、人のために尽くそうとする人々の心には、どんな地位の人であろうと、誰であろうと、どこの国の人であろうと、立派に神が宿っているのです。それこそが一ばん立派な聖書です」


牧師 「改心しないまま死んだ人はどうなりますか」

 「〝改心〟とはどう言う意味ですか。もっと分かりやすい言葉でお願いします」

牧師 「たとえば、ある人間は生涯を良くないことばかりしてそのまま他界し、ある人は死ぬまえに反省します。両者には死後の世界でどんな違いがありますか」

 「あなた方の本(聖書)から引用しましょう。〝蒔いた種は自分で刈り取る〟のです。これだけは変えることができません。今のあなたにそのままを携えてこちらへ参ります。

自分はこうだと信じているもの、人からこう見てもらいたいと願っていたものではなく、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへ参ります。あなたもこちらへお出でになれば分ります」

 そう言ってからシルバーバーチはスワッハーの方を向いて、この人には霊能があるようだと述べ、「なぜ招待したのですか」と尋ねると、スワッハーは 「いや、この人の方から訪ねて来たものですから」と答えた。するとシルバーバーチは再びその牧師に向かって、

 「インディアンが聖書のことをよく知っていて驚いたでしょう」と言うと牧師が「よくご存じのようです」と答えた。すると別のメンバーが「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えした。牧師はすぐに年代を計算して「ダビデをご存知でしたか」と尋ねた。ダビデは紀元前一〇〇〇年頃のイスラエルの王である。


 「私は白人ではありません。レッドインディアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました。あなた方のおっしゃる野蛮人というわけです。しかし私はこれまで、西洋人の世界に三千年前のわれわれインディアンよりはるかに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見てきております。今なお物質的豊かさにおいて自分たちより劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つと言えます」

牧師 「そちらへ行った人はどんな風に感じるのでしょう。やはり後悔の念というものを強く感じるのでしょうか」

 「いちばん残念に思うことは、やるべきことをやらずに終わったことです。あなたもこちらへお出でになれば分ります。きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのにやらなかったこと、そうしたことが逐一分かります。逃してしまった好機(チャンス)が幾つもあったことを知って後悔するわけです」

牧師 「キリストへの信仰をどう思われますか。神はそれを嘉納(かのう)されるのでしょうか。キリストへの信仰はキリストの行いに倣(なら)うことになると思うのですが」

 「主よ、主よ、と何かというと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心に叶った行いです。それがすべてです。口にする言葉や心に信じることではありません。頭で考えることでもありません。

実際の行為です。何一つ信仰というものを持っていなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢える人にパンを与え、暗闇にいる人の心に光を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の心に叶った人です」

 ここで列席者の一人がイエスは神の分霊なのか問うと───

 「イエスは地上に降りた偉大な霊覚者だったということです。当時の民衆はイエスを理解せず、ついに十字架にかけました。


いや、今なお十字架にかけ続けております。イエスだけでなく、すべての人間に神の分霊が宿っております。ただその分量が多いか少ないかの違いがあるだけです」

牧師 「キリストが地上最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それほどの人物がウソをつくはずがありません。キリストは言いました───〝私と父とは一つである。私を見た者は父を見たのである〟と。これはキリストが即ち神であることを述べたのではないでしょうか」

 「もう一度聖書を読み返してごらんなさい。〝父は私よりも偉大である〟とも言っておりませんか」

牧師 「言っております」

 「また、〝天に在しますわれらが父に祈れ〟とも言っております〝私に祈れ〟とは言っておりません。父に祈れと言ったキリスト自身が〝天に在しますわれらが父〟であるわけがないでしょう。〝私に祈れ〟とは言っておりません。〝父に祈れ〟と言ったのです」

牧師 「キリストは〝あなたたちの神〟と〝私の神〟という言い方をしております。〝私たちの神〟とは決して言っておりません。ご自身を他の人間と同列に置いていません」

 「〝あなたたちの神と私〟とは言っておりません。〝あなたたちは私より大きい仕事をするでしょう〟とも言っております。あなた方キリスト者にお願いしたいのは、聖書を読まれる際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をなさらぬことです。

霊的実相に照らして解釈しなくてはなりません。存在の実相が霊であるということが宇宙の全ての謎を解くカギなのです。イエスが譬え話を多用したのはそのためです」

牧師 「神は地球人類を愛するがゆえに唯一の息子を授けられたのです」と述べて、イエスが神の子であるとのキリスト教の教義を弁護しようとする。

 「イエスはそんなことは言っておりません。イエスの死後何年もたってから例の二ケーア会議でそんなことが聖書に書き加えられたのです」

牧師 「二ケーア会議?」

「西暦三二五年に開かれております」

牧師 「でも私がいま引用した言葉はそれ以前からあるヨハネ福音書に出ていました」

「どうしてそれが分ります?」

牧師 「いや、歴史にそう書いてあります」

 「どの歴史ですか」

牧師 「どれだかは知りません」

 「ご存じのはずがありません。いったい聖書が書かれる、そのもとになった書物はどこにあるとお考えですか」

牧師 「ヨハネ福音書はそれ自体が原典です」

 「いいえ、それよりもっと前の話です」

牧師 「聖書は西暦九〇年に完成しました」

 「その原典になったものは今どこにあると思いますか」

牧師 「いろんな文書があります。例えば・・・・・・」と言って一つだけ挙げた。

 「それは原典の写しです。原典はどこにありますか」
 牧師がこれに答えられずにいると───


 「聖書の原典はご存じのあのバチカン宮殿に仕舞い込まれて以来一度も外に出されたことがないのです。あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典の写し(コピー)の写しの、そのまた写しなのです。

おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しなかったのです。

ところが、いつになっても再臨しないので、ついに諦めて記憶を辿りながら書きました。イエス曰く───と書いてあっても、実際にそう言ったかどうかは書いた本人も確かでなかったのです」

牧師 「でも、四つの福音書にはその基本となったいわゆるQ資料(イエス語録)の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。中心的な事象はその四つの福音書に出ていると思うのですが・・・・・・」

「私は別にそうしたことが全然起きなかったと言っているのではありません。ただ、聖書に書いてあることの一言一句までイエスが本当に言ったとは限らないと言っているのです。聖書に出てくる事象には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用が随分入っていることを忘れてはいけません」

牧師 「記録に残っていない口伝のイエスの教えが書物にされようとしていますが、どう思われますか」

 「イエスの関心は自分がどんなことを述べたかといったことではありません。地上のすべての人間が神の摂理を実行してくれることです。人間は教説のことで騒ぎ立て、行いの方をおろそかにしています。

〝福音書〟なるものを講義する場に集まるのは真理に飢えた人たちばかりです。イエスが何と言ったかはどうでもよいことです。大切なのは自分自身の人生で何を実践するかです。

 地上世界は教説では救えません。いくら長い説教をしても、それだけでは救えません。神の子が神の御心を鎧(よろい)として暗黒と弾圧の勢力、魂を束縛するものすべてに立ち向かうことによって初めて救われるのです。その方が記録に残っていないイエスの言葉より大切です」

牧師 「この世になぜ多くの苦しみがあるのでしょうか」

 「神の真理を悟るには苦を体験するしかないからです。苦しい体験の試練を経てはじめて人間世界を支配している摂理が理解できるのです」

牧師 「苦しみを知らずにいる人が大勢いるようですが・・・・・・」

 「あなたは神に仕える身です。大切なのは〝霊〟に関わることであり、〝肉体〟に関わることでないことくらいは理解できなくてはいけません。霊の苦しみの方が肉体の苦しみより大きいものです」

メンバーの一人が 「現行制度は不公平であるように思えます」と言うと、

 「地上での出来ごとはいつの日か必ず埋め合わせがあります。いつかはご自分の天秤を手にされてバランスを調節する日がまいります。

自分で蒔いたものを刈り取るという自然法則から免れることはできません。罪が軽くて済んでる者がいるようにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたには魂の豊かさを見抜く力がないからそう思えるのです。

 私がいつも念頭に置いているのは神の法則だけです。人間の法則は念頭においていません。人間のこしらえた法律は改めなければならなくなります。変えなければならなくなります。が、神の法則は決してその必要がありません。

地上に苦難がなければ人間は正していくべきものへ注意を向けることが出来ません。痛みや苦しみや邪悪が存在するのは、神の分霊であるところのあなた方人間がそれを克服していく方法を学ぶためです。

 もしもあなたがそれを怠っているとしたら、あなたをこの世に遣わした神の意図を実践していないことになります。宇宙の始まりから終わりまでを法則によって支配し続けている神を、一体あなたは何の資格を持って裁かれるのでしょう」

牧師 「霊の世界ではどんなことをなさっているのですか」

 「あなたはこの世でどんなことをなさっておられますか」

牧師 「それは、その、あれこれや読んだり・・・・・・、それに説教もよくします」

 「私もよく本を読みます。それに、今こうして大変な説教をしております」

牧師 「私は英国中を回らなくてはなりません」

 「私の方は霊の世界中を回らなくてはなりません。それに私は、天命を全うせずにこちらへ送り込まれてきた人間がうろついている暗黒界へも下りて行かねばなりません。それにはずいぶん手間がかかります。

あなたに自覚していただきたいのは、あなた方はとても大切な立場にいらっしゃるということです。神に仕える身であることを自認しながら、その本来の責務を果たしていない方がいらっしゃいます。ただ壇上に上がって意味もない話をしゃべりまくっているだけです。

 しかし、あなたが自らを神の手にゆだね、神の貯蔵庫からインスピレーションを頂戴すべく魂の扉を開かれれば、古(いにしえ)の予言者たちを鼓舞したのと同じ霊力によってあなたの魂が満たされるのです。そうなることによって、あなたの働かれる地上の片隅に、人生に疲れ果てた人々の心を明るく照らす光をもたらすことができるのです」

牧師 「そうあってくれればうれしく思います」

 「いえ、そうであってくれればではなくて、真実そうなのです。私はこちらの世界で後悔している牧師にたくさん会っております。みなさん地上での人生を振り返って自分が本当の霊のメッセージを説かなかったこと、聖書や用語や教説ばかりこだわって実践を疎かにしたことを自覚するのです。

そうして、できればもう一度地上へ戻りたいと望みます。そこで私はあなたのような(目覚めかけている)牧師に働きかけて、新しい時代の真理を地上にもたらす方法をお教えるのです。

 あなたは今まさに崩壊の一途を辿っている世界にいらっしゃることを理解しなくてはいけません。新しい秩序の誕生───真の意味の天国が到来する時代の幕開けを見ていらっしゃるのです。生みの痛みと苦しみと涙が少なからず伴なうことでしょう。

しかし最後は神の摂理が支配します。あなた方一人ひとりがその新しい世界を招来する手助けができるのです。なぜなら、人間のすべてが神の分霊であり、その意味で神の仕事の一翼を担うことができるのです」

 その牧師にとっての一回目の交霊も終わりに近づき、いよいよシルバーバーチが霊媒から去るに当たって最後にこう述べた。

 「このあと私もあなたが説教なさる教会へいっしょに参ります。あなたが本当に良い説教をなさったとき、これが霊の力だと自覚なさるでしょう」

牧師 「これまでも大いなる霊力を授かるよう祈ってまいりました」

 「祈りはきっと叶えられるでしょう」

 以上で第一回目の論争が終わり、続いて第二回の論争の機会が持たれた。引き続いてそれを紹介する。


牧師 「地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能でしょうか。すべての人間を愛することは可能なのでしょうか」

 これが二回目の論争の最初の質問だった。

 「それは不可能なことです。が、努力することはできます。努力することそのことが性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛く当たることもなく、腹を立てることもないようでは、もはや人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれてくるのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちらへ来てからも同じです」

牧師 「イエスは〝天の父の完全であるごとく汝らも完全であれ〟と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」

 「ですから、完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活で目指すべき最高の理想なのです。すなわち、内部に宿る神性を開発することです」

牧師 「私がさっき引用した言葉はマタイ伝第五章の終わりに出ているのですが、普遍的な愛について述べたあとでそう言っております。また、〝ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝らは完全であれ。神の子なればなり〟とも言っております。神は全人類を愛して下さる。

だからわれわれもすべての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じるとお思いですか」

 この質問にシルバーバーチは呆れたような、あるいは感心したような口調でこう述べる。

 「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさろうとするんですね。お聞きしますが、イエス自身、完全な生活を送ったと思いますか」

牧師 「そう思います。完全な生活を送られたと思います」

 「一度も腹を立てたことがなかったとお考えですか」

牧師 「当時行われていたことを不快に思われたことはあると思います」

 「腹を立てたことは一度もないとお考えですか」

牧師 「腹を立てることはいけないことであると言われている、それと同じ意味で腹を立てられたことはないと思います」

 「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことを正当化できるかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなた方は何でも正当化なさるんですから・・・・・・」

 ここでメンバーの一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を持ち出した。

 「私が言いたかったのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。ムチを持って追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。

怒るということは人間的感情です。私が言いたいのは、イエスも人間的感情をそなえていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐ時、イエスもまた一個の人間であった───ただ普通の人間より神の心をより多く体現した人だった、というふうに考えることが大切です。わかりましたか」

牧師 「わかりました」

 「私はあなたのためを思えばこそこんなことを申し上げるのです。誰の手も届かないところに祭り上げたらイエスさまがよろこばれると思うのは大間違いです。イエスもやはりわれわれと同じ人の子だったと見る方がよほどよろこばれるはずです。

自分だけ超然とした位置に留まることはイエスはよろこばれません。人類とともによろこび、ともに苦しむことを望まれます。一つの生き方の手本を示しておられるのです。

イエスが行ったことは誰にでもできることばかりなのです。誰もついていけないような人物だったら、せっかく地上へ降りたことが無駄だったことになります」


 話題が変わって───

牧師 「人間にも自由意志があるのでしょうか」

 「あります、自由意志も神の摂理の一環です」

牧師 「時として人間は抑えようのない衝動によってある種の行為に出ることがあるとは思われませんか。そう強いられているのでしょうか。それともやはり自由意志で行っているのでしょうか」

 「あなたはどう思われますか」

牧師 「私は人間はあくまで自由意志を持った行為者だと考えます」

 「人間には例外なく自由意志が与えられております。ただしそれは神の定めた摂理の範囲内で行使しなければなりません。これは神の愛から生まれた法則で、神の子すべてに平等に定められており、それを変えることは誰にもできません。その規則の範囲内において自由であるということです」

牧師 「もし自由だとすると罪は恐ろしいものになります。悪いと知りつつ犯すことになりますから、強制的にやらされる場合より恐ろしいことに思えます」

 「私に言えることは、いかなる過ちもかならず本人が正さなくてはならないということ、それだけです。地上で正さなかったら、こちらへ来て正さなくてはなりません」

牧師 「感心できないことをしがちな強い性癖を先天的に持っている人がいるとは思われませんか。善いことをしやすい人とそうでない人がいます」

 「難しい問題です。と申しますのは、各自に自由意志があるからです。誰しも善くないことをすると、内心では善くないことであることに気づいているものです。その道義心をあくまでも無視するか否かは、それまでに身に付けた性格によって違ってくることです。罪というものはそれが結果に及ぼす影響の度合に応じて重くもなり軽くもなります」

 これを聞いてすかさず反論した。

牧師 「それは罪が精神的なものであるという事実と矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります」

 「罪は罪です。からだが犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれも罪は罪です。あなたはさっき衝動的に犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこからくると思いますか」

牧師 「思念です」

 「思念はどこからきますか」

牧師 「(少し躊躇してから)善なる思念は神から来ます」

 「では悪の思念はどこから来ますか」

牧師 「わかりません」(と答えているが実際は〝悪魔から〟と答えたいところであろう。シルバーバーチはそれを念頭において語気強くキリスト教の最大の矛盾を突く──訳者)

 「神はすべてに宿っております。間違ったことの中にも正しいことにも宿っています。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。

空にも海にも雷鳴にも稲妻にも神は宿っているのです。美なるもの善なるものだけではありません。罪の中にも悪の中にも宿っているのです。お分かりになりますか。神とは〝これとこれだけに存在します〟というふうに一定の範囲内に限定できるものではないのです。

全宇宙が神の創造物であり、そのすみずみまで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って、これは神のものではない、などとは言えないのです。日光は神の恵みで、作物を台無しにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。

神はすべてに宿ります。あなたという存在は思念を受けたり出したりする一個の器官です。が、どんな思念を受け、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違ってきます。

もしもあなたが、あなたのおっしゃる〝完全な生活〟を送れば、あなたの思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。私の言っていることがお分かりですか」


牧師 「おっしゃる通りだと思います。では、そういう煩悩ばかりを抱いている人間が死に際になって自分の非を悟り〝信ぜよ、さらば救われん〟の一句で心に安らぎを覚えるという場合があるのをどう思われますか。キリスト教の〝回心の教義〟をどう思われますか」


 「よくご存じのはずの文句をあなた方の本から引用しましょう。〝たとえ全世界を得ようと己の魂を失わば何の益かあらん〟(マルコ8・36)〝まず神の国とその義を求めよ。

しからばこれらのものすべて汝らのものとならん〟(マタイ6・33)この文句はあなた方はよくご存じですが、はたして理解していらっしゃるでしょうか。

それが真実であること、本当にそうなること、それが神の摂理であることを悟っていらっしゃいますか。〝神を侮(あなど)るべからず。己の蒔きしものは己れが刈り取るべし〟(ガラテア6・7)これもよくご存じでしょう。

 神の摂理は絶対にごまかせません。暴若無人(ぼうじゃくぶじん)の人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それくらいのことで一度に洗い落とせると思われますか。

無欲と滅私の奉仕的精神を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。〝すみませんでした〟の一言ですべてが赦されるとしたら、はたして神は公正であるといえるでしょうか。いかがですか」

牧師 「私は神はイエス・キリストに一つの心の避難所を設けられたのだと思うのです。イエスはこう言われ・・・ 」

 「お待ちなさい。私はあなたの率直な意見をお聞きしているのです。率直にお答えいただきたい。本に書いておる言葉を引用しないでいただきたい。イエスが何と言ったか私には分っております。私は、あなた自身がどう思うかと聞いているのです」

牧師 「確かにそれでは公正とは言えないと思います。しかしそこにこそ神の偉大なる愛の入る余地があると思うのです」

 「この通りを行かれると人間の法律を運営している建物があります。もしその法律によって生涯を善行に励んできた人間と罪ばかりを犯してきた人間とを平等に扱ったら、あなたはその法律を公正と思われますか」

牧師 「私は、生涯を真っ直ぐな道を歩み、誰をも愛し、正直に生き、死ぬまでキリストを信じた人が・・・私は───」

 ここでシルバーバーチがさえぎって言う。

 「自分が種を蒔き、蒔いたものは自分で刈り取る。この法則から逃れることは出来ません。神の法則をごまかすことは出来ないのです」

牧師 「では悪の限りを尽くした人間がいま死にかかっているとしたら、その償いをすべきであることを私はどうその人間に説いてやればいいのでしょうか」

 「シルバーバーチがこう言っていたとその人に伝えて下さい。もしもその人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいという気持ちになれるはずです。自分の犯した過ちの報いから逃れたいという気持ちがどこかにあるとしたら、その人はもはや人間ではない。ただの臆病者だと、そう伝えて下さい」

牧師 「しかし、罪を告白するということは誰にでもはできない勇気ある行為だとは言えないでしょうか」

 「それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。

元に戻す努力をしなくてはいけません。紋切り型の祈りの言葉を述べて心が休まったとしても、それは自分をごまかしているに過ぎません。蒔いた種は自分で刈り取らねばならないのです。それが神の摂理です」

牧師 「しかしイエスは言われました。〝労する者、重荷を背負える者、すべて我れに来たれ。汝らに安らぎを与えん〟 (マタイ11・28)」

 「〝文は殺し霊は生かす〟(コリント後3・6)というのをご存じでしょう。あなた方(聖職者)が聖書の言葉を引用して、これは文字どうりに実行しなければならないのだと言ってみても無駄です。今日あなた方が実行していないことが聖書の中にいくらでもあるからです。私の言っていることがお分かりでしょう」

牧師 「イエスは〝善き羊飼いは羊のために命を捨つるものなり〟(ヨハネ10・11)と言いました。私はつねに〝赦し〟の教を説いています。キリストの赦しを受け入れ、キリストの心が自分を支配していることを暗黙のうちに認める者は、それだけでその人生が大きな愛の施しとなるという意味です」

 「神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなた方もぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する───それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。

神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。

 前にも言ったことですが、聖書に書かれている言葉を全部イエスが実際に言ったとはかぎらないのです。そのうちの多くはのちの人が書き加えたものなのです。イエスがこうおっしゃったとあなた方が言う時、それは〝そう言ったと思う〟という程度のものでしかありません。

そんないい加減なことをするよりも、あの二千年前のイエスを導いてあれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今の世にも働いていることを知ってほしいのです。

 あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡知、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けている。なにも、神を求めて二千年前まで遡ることはないのです。今ここに在しますのです。二千年前とまったく同じ神が今ここに在しますのです。その神の真理とエネルギーの通路となるべき人物(霊媒・霊能者)は今も決して多くはありません。

しかし何ゆえにあなた方キリスト者は二千年前のたった一人の霊能者にばかりすがろうとなさるのです。なぜそんな昔のインスピレーションだけを大切になさるのです。なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです」

牧師 「私は私の心の中にキリストがいて業をなしていると説いています。インスピレーションを得ることは可能だと思います」

 「何ゆえにあなた方は全知全能の神を一個の人間と一冊の書物に閉じ込めようとなさるのです。宇宙の大霊が一個の人間あるいは一冊の書物で全部表現できるとでもお考えですか。私はクリスチャンではありません。

イエスよりずっと前に地上に生を受けました。すると神は私に神の恩恵に浴することを許して下さらなかったということですか。

 神のすべてが一冊の書物の中のわずかなページで表現できるとお思いですか。その一冊が書き終えられた時を最後に神は、それ以上のインスピレーションを子等に授けることをストップされたとお考えですか。聖書の最後の一ページを読み終わった時、神の真理の全てを読み終えたことになるというのでしょうか」

牧師 「そうであってほしくないと思っています。時おり何かに鼓舞されるのを感じることがあります」

 「あなたもいつの日か天に在します父のもとに帰り、今あなたが築きつつある真実のあなたに相応わしい住処に住まわれます。神に仕える者としてのあなたに分かっていただきたいことは、神を一つのワクの中に閉じ込めることはできないということです。神は全ての存在に宿るのです。

悪徳の固まりのような人間も、神か仏かと仰がれるような人と同じように神とつながっているのです。あなた方一人ひとりに神が宿っているのです。あなたがその神の心をわが心とし、心を大きく開いて信者に接すれば、その心を通じて神の力と安らぎとが、あなたの教会を訪れる人々の心に伝わることでしょう」

牧師 「今日まで残っている唯一のカレンダーがキリスト暦(西暦)であるという事実をどう思われますか」

 「誰がそんなことを言ったのでしょうか。ユダヤ人が独自のカレンダーを使用していることをお聞きになったことはないでしょうか。多くの国が今なおその国の宗教の発生と共に出来たカレンダーを使用しております。私は決してイエスを過小評価するつもりはありません。

私は現在のイエスがなさっておられる仕事を知っておりますし、ご自身は神として崇められることを望んでいらっしゃらないこともよく知っております。イエスの生涯の価値は人間が規範とすべきその生き方にあります。イエスという一個の人間を崇拝することをやめないかぎり、キリスト教はインスピレーションにはあまり恵まれないでしょう」

牧師 「キリストの誕生日を西洋歴の始まりと決めたのがいつのことだかよく分っていないのです。ご存じでしょうか」

 「(そんなことよりも)私の話を聞いてください。数日前のことですが、このサークルのメンバーの一人が(イングランドの)北部の町へ行き、大勢の神の子と共に過ごしました。高い地位の人たちではありません。

肉体労働で暮らしている人たちで、仕事が与えられると───大てい道路を掘り起こす仕事ですが───一生けんめい働き、終わると僅かばかりの賃金をもらっている人たちです。その人たちが住んでいるのはいわゆる貧民収容施設です。これはキリスト教文明の恥辱ともいうべき産物です。

 ところが同じ町にあなた方が〝神の館〟と呼ぶ大聖堂があります。高く聳えていますから太陽が照ると周りの家はその影になります。そんなものが無かった時よりも暗くなっています。これで良いと思われますか」

牧師 「私はそのダーラムにいたことがあります」

 「知っております。だからこの話を出したのです」

牧師 「あのような施設で暮らさねばならない人たちのことを気の毒に思います」

 「あのようなことでイエスがおよろこびになると思われますか。一方にはあのような施設、あのような労働を強いられる人々、わずかな賃金しかもらえない人々が存在し、他方にはお金のことには無とん着でいられる人が存在していて、それでもイエスはカレンダーのことなどに関わっていられると思われますか。

 あのような生活を余儀なくさせられている人が大勢いるというのに、大聖堂のための資金のことやカレンダーのことや聖書のことなどにイエスが関わられると思いますか。イエスの名を使用し続け、キリスト教国と名告るこの国にそんな恥ずべき事態の発生を許しているキリスト教というものを、いったいあなた方は何と心得ていらっしゃるのですか。 

 あなたは経典のことで(改訳聖書と欽定訳聖書とどっちがいいかと)質問されましたが、宗教にはそんなことよりもっと大切な、そしてもっと大きな仕事があるはずです。神はその恩寵を全ての子に分け与えたいと望んでおられることが分りませんか。

飢え求めている人がいる生活物質を、世界のどこかでは捨て放題の暮らしをしている人たちがいます。他ならぬキリスト者が同じことをしていて、果たしてキリスト教を語る資格があるでしょうか。

 私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私は主の目に涙を見たことがあります。キリスト者をもって任ずる者が、聖職に在る者の多くが、その教会の陰で進行している恥ずべき事態に目を瞑っているのをご覧になるからです。

その日の糧すら事欠く神の子が大勢いるというのに、神の館のつもりで建立した教会を宝石やステンドグラスで飾り、その大きさを誇っているのを見て一体だれが涼しい顔をしていられましょう。

 その人たちの多くは一日の糧も満足に買えないほどの僅かな賃金を得るために一日中働き続け、時には夜更かしまでして、しかも気の毒にその疲れた身体を横たえるまともな場所もない有様なのです。あなたを非難しているのではありません。

私はあなたに大きな愛着を覚えております。お役に立つことならどんなことでもしてあげたいと思っております。が、私は霊界の人間です。そしてあなたのように、社会へ足を踏み入れて間違いを改めていくための一石を投じてくれるような人物とこうして語るチャンスが非常に少ないのです。

 あなたに理解していただきたいことは、聖書のテキストのことをうんぬんするよりも、もっと大切なことがあるということです。主よ、主よ、と叫ぶ者がみな敬虔なのではありません。神の意思を実践する者こそ敬虔なのです。それをイエスは二千年前に述べているのです。なのに今日なおあなた方は、それが一番大切であることをなぜ信者に説けないのでしょうか。

 戦争、不正行為、飢餓、貧困、失業、こうした現実に知らぬふりをしている限りキリスト教は失敗であり、イエスを模範としていないことになります。

 あなたは(メソジスト教の)総会から抜け出て来られました。過去一年間、メソジスト教会の三派が合同して行事を進めてまいりましたが、せっかく合同しても、そうした神の摂理への汚辱を拭う為に一致協力しない限り、それは無意味です。私は率直に申し上げておきます。誤解を受けては困るからです」

牧師 「数年間に私たちは派閥を超えて慈善事業を行い、その時の収益金を失業者のための救済資金として使用しました。大したことは出来ませんが、信者の数の割にはよくやっていると思われませんか」

 「あなたが心掛けの立派な方であることは私も認めております。そうでなかったら二度もあなたと話をしに戻って来るようなことはしません。あなたが役に立つ人材であることを見て取っております。あなたの教会へ足を運ぶ人の数は確かに知れています。

しかしイエスは社会のすみずみにまで足を運べと言っていないでしょうか。人が来るのを待っているようではいけません。あなた方から足を運ばなければならないのです。

 教会を光明の中心となし、飢えた魂だけでなく飢えた肉体にも糧を与えてあげないといけません。叡知の言葉だけでなくパンと日常の必需品を与えてあげられるようでないといけません。

魂と肉体の両方を養ってあげないといけません。霊を救うと同時に、その霊が働くための身体も救ってあげないといけません。教会がこぞってそのことに努力しなければ、養うものを得られない身体は死んでしまいます」

 そう述べてから最後にその牧師のために祈りを捧げた。

 「あなたがどこにいても、何をされても、常に神の御力と愛が支えとなるように祈ります。常に人のためを思われるあなたの心が神の霊感を受け入れられることを祈ります。

願わくは神があなたにより一層の奉仕への力を吹き込まれ、あなたの仕事の場を光と安らぎと幸せの中心となし、そこへ訪れる人々がそこにこそ神が働いておられることを理解してくれるようになることを祈ります。

 神が常にあなたを祝福し、支え、神の道に勤(いそ)しませ給わんことを。願わくは神の意図と力と計画について、よりいっそう明確なる悟りを得られんことを。
 では神の祝福を。御機嫌よう」
             

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