Tuesday, April 8, 2025

シアトルの春 ただで受けたのだから、ただで与えなさい

You received it for free, so give it to them for free.
Le Spiritism Allen Kardec

  神より恵まれた病を治す力

一、病人を治し、死者を生き返らせ、ハンセン病人を清め、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ 第十章 八)


二、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とイエスは使徒たちに言いました。この教訓から、ただで受けたものに値段をつけて売ってはならないのだと結論することができます。使徒たちがただで受けたものとは、神から授けられた病を治す力、悪魔即ち悪い霊たちを追い払う力でした。

これらの能力は、苦しむ者を助け、信仰を広めるために、神によってタダで与えられたものでした。イエスは使徒たちに、その能力を商売や投機の手段や、生活するための道具として使ってはならないと言ったのでした。


 支払われた祈り
三、民衆みながイエスの言葉に聞き入っている時、使徒たちにこう言われた、「律法学者たちから身を守りなさい。彼らは、長い衣装をまとって歩き回ったり、広場であいさつをされたりすること、また、会堂の最前列や宴会の上座が好きです。

また、長い祈りを装い、やもめの家を食いつぶします。こういう人たちは、より厳しい裁きを受けるでしょう」。(ルカ 第二十章 45-47、マルコ 第十二章 38-40、マタイ 第二十三章 14)


四、さらにイエスは言いました。あなたたちの祈りに対し、支払いを受けるようなことがあってはなりません。律法学者たちのようであってはなりません。「長い祈りを装い、やもめの家を食いつぶします」とは、その富を手に入れるということです。祈りは慈善の行いであり、心の衝動です。

他人のために神に捧げたものに対して支払いを要求するということは、報酬をもらって働く仲介者になるということです。そのような時祈りは、内容に応じて支払われる処方箋と同じようなものになってしまいます。

神は祈りの価値を、言葉の数によって計るのでしょうか、計らないでしょうか。答えは二つのどちらか一方でしかありません。

もし、たくさんの言葉が必要だったとすれば、少ししかお金を払えない者、あるいはほとんどお金を払うことのできない者はどうなるのでしょうか。それでは慈善の行いとは言えません。もし一つの言葉だけで十分で、その他の言葉は不要であるとしたら、どうして支払いを求めることができるでしょうか。それは背任行為ではありませんか。

 神はその恩恵を売るのではなく、与えるのです。それなのに、神の恩恵を分けてあげられるわけでもなく、それを得られることを保証してあげることさえもできない者が、神によって聞いてもらえないであろうお願いに対して支払いを求めるとは、どういうことでしょうか。

慈悲によってのみ懇願することのできる、神の寛容、恩恵、正義の行いを、神が特定の支払いに従わせることはあり得ません。それ以上に、それらを支払いによって願うのであれば、神は寛容、恩恵、正義の行いを中止します。

私たちの理性、良心、道理は、完璧絶対なる存在である神が、神の正義に値段をつける権利を不完全な者に与える筈などないと教えてくれます。

なぜなら、神の正義は太陽のようなものであり、貧しい者、富む者、すべての者に行きわたるからです。地上の君主の権力を取り引きすることが道徳に反すると考えるのであれば、どうして宇宙の統治者の正義を売ることを合法的と考えることができるでしょうか。

 金で買われた祈りには、他にも不都合があります。祈りを買った者は、大抵の場合、自分で祈ることを忘れ、お金を払ったのだから祈る義務から逃れることができたのだと考えてしまいます。

霊たちは、自分たちに関心を持つ者の熱意に打たれます。第三者にお金を払うことによって自分の代わりに祈ってもらおうとする者の熱意とは、どんなものであり得ましょうか。祈る義務を他人に委任し、それを受けた者はまた他の者に委任することになるのです。

お金の価値によって、祈りの効きめを弱めていることにはなりませんか。



  宮を追われた行商人
五、それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入ると、宮の庭で売り買いしている人々を追い出しはじめ、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また、宮の庭を通り抜けて道具を運ぶことを誰にもお許しにならなかった。

そして彼らに教えて言われた、「『私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるべきである』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまったのです」。

祭司長や、律法学者たちはこれを聞いて、どうにかしてイエスを殺そうと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群集がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。(マルコ 第十一章 15-18、マタイ 第二十一章 12,13)


六、イエスは宮から行商人たちを追い払いました。それによって、神聖なるものの取り引きを、それがどんな形で行われようと、あってはならないことだと非難しました。

神はその恵みも、その赦しも、神の国に入る権利をも売ったりはしません。したがって、人間はそれについて支払いを求める権利は持っていないのです。


 ただで授けられる霊媒性
七、使徒たちにも霊媒性はあったのですが、現代における霊媒というものも、やはり神からただでその能力を授けられているのであり、それは人間を指導し、善の道を教え、神への信仰をもたらしてくれる霊たちの通訳となるためのものなのです。

自分たちのものではない言葉、つまりその霊媒の個人的な努力や研究、あるいは思考などから得たのではない言葉を売るための能力ではありません。

神はその光が全ての人に行きわたることを望んでおり、貧しい家に生まれた人が、「払うお金がなかったから、神への信仰を手に入れることが出来なかった」「私は貧乏だから、神の慈悲を受けることが出来なかった」等と言うことが無いことを望んでいます。

なぜなら、霊媒性というのは特権ではなく、あらゆるところに存在するものだからです。それに対する支払いを要求するということは、天が定めた用途を不当に変えるということなのです。

    
八、善霊が通信をするための条件がどのようなものであるか、また、人間のいかなる利己的な関心も拒絶し、ちょっとしたことでも彼らは集会の場から去ってしまうのだということを知って居る人であれば誰でも、集会で呼び出されるたびに善霊たちが何時でもそれを聞きいれてくれるのだとは考えません。

単純な良識があれば、そのような間違った考えを追い払うことができます。ましてや私たちにとって大切な人や尊敬する人を、お金を取って呼び寄せる等ということは、神への冒涜ではありませんか。

お金を取って呼び寄せたとして、間違いなく心霊現象を引き起こすことはできるでしょう。しかし、そこに誠意が存在するかどうか、いったい誰に証明することが出来るでしょうか。

軽率な霊、嘘つきな霊、悪賢い霊といった劣悪な霊はみな、不真面目であり、お金を取る霊媒に呼び寄せられると何時もそこに現れ、質問されると真偽を問わずその質問に答えます。

ですから、真面目な通信を求める人は、まずそれに相応しい場を慎重に求めなければなりません。そして、その霊媒が霊界のどのような質の者と共感を持っているのかを明らかにしなければなりません。

善霊たちの好意の恩恵を授かる第一条件とは、霊媒の慎ましさ、忠実さ、献身であり、物質的にも道徳的にも、利害関係が一切あってはなりません。


九、道徳的な問題の他にも、それと同じように重要な、霊媒の能力に関する問題があります。真面目な霊媒性とは、生活手段として使うのではなく、生活手段にしようなどと考えさえもしないことです。

なぜなら、そのような場合、その力が道徳的な信頼性を欠くようになり、ただの運勢占い師のようになってしまうばかりでなく、生活手段とするにしても物理的な障害が生じるからです。

霊媒性というのは本質的に非常に不安定な力であり、すぐに消えたり、変わったりするもので、誰にも完全に頼ることができないものです。ですから、その力を生活に用いようとする者にしても、それは非常に不確実な手段であり、最も必要となる時に消滅しかねないものなのです。

それと違うのが、研究と労働によって得た能力であり、努力によって得たものであるからこそ本当の財産となり、そこから利益を得ることについても当然許されています。

それに比べて霊媒性は、芸術でもなければ能力でもありません。だから、生活手段としてはならないのです。霊媒性は、霊たちの協力があってこそ存在するのです。

霊たちが存在しないところに霊媒性はあり得ず、その能力があったとしても、使うことができません。ですから、心霊現象を決まった時に確実に起こすことができる霊媒は、世界中に一人も存在しないのです。霊媒性によって利益を得ようとすることは、確実に自分のものではないものを望むことです。

そうではないと言う者は、お金を払う人を騙しているのです。それだけではありません。心霊現象は霊媒が自由に決めるのではなく、霊たち、すなわち死者の魂が決めるものです。だから、お金を取る霊媒は、そうした霊たちの協力に、値段をつけて売っていることになるのです。

霊媒性を売るということは、本能的に拒絶すべきことです。モーゼがこうした取り引きを禁止したのは、人々の無知や迷信、盲目的な信仰のために、霊媒性がペテン師たちに濫用され、堕落をもたらしたからでした。

現代のスピリティズムは、この問題の重要性を理解した上で、霊媒性で利益を得ることを否定し、霊媒性を使命としてとらえるのです。(→『霊媒の書』第二十八章、『天国と地獄』第十二章)


十、霊媒性は神聖なるもので、慎ましく、信仰のもとに使われなければならないものです。中でも特に、絶対にこうした条件が整わなければ使うことができないのが、治癒の力です。医師は一般に、苦しい犠牲によって得た研究の結果を与えてくれます。

磁気を伝える者は、自分自身のフルイドや、自らの健康を犠牲にすることによって、磁気を伝えてくれます。このような人たちは、その犠牲に対してお金を要求することが出来るでしょう。

しかし、治癒する霊媒は善霊たちの有益なフルイドを伝えるのであり、それを売る権利は持ちません。イエスとその使徒たちは貧しい生活をしていましたが、人々の病を治す時にお金を要求することはありませんでした。

ですから、生活するための手段を持たない者は、霊媒性以外の生活手段を探してください。そして必要であれば、物質的な必要性が満たされた上で、残った時間を霊媒性の活用に捧げてください。善霊たちは、あなたの献身と犠牲を考慮してくれるでしょう。

しかし、霊媒性によって生活を向上させようとする者から善霊たちはかえって遠ざかっていくのです。

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