一、あなたたちの心を乱してはなりません。神を信じ、また、私を信じてください。私の父の家には多くのすみかがあります。もしそうでなかったら、私はそのことをあなたたちに言っておいたでしょう。
私はその場所をあなたたちのために準備しに行くのですから。私が行き、あなたたちの場所を準備した後、再び戻ってきて、あなたたちを私のところに迎えましょう。(ヨハネ 第十四章 1‐3)
死後の世界における魂のさまざまな状態
二、父の家とは宇宙のことです。様々なすみかとは、無限の宇宙の中で霊たちに生まれる場所を提供する、霊たちの段階に応じて存在する世界のことです。これらのイエスの言葉は、世界の多様性とは別に、死後の世界に存在する霊たちの幸運、または悲運な状態に関してもあてはめることができます。
物質への執着から解放されたか、あるいはある程度浄化しているかどうかということによって、その霊の置かれる状況、そこでの物事のありさま、そこで感じること、そこで所有する感覚が霊によって無限に違ってきます。
ある者が生前住んでいた場所から離れられない一方で、別の者たちは宇宙のいろいろな世界を行き来します。罪のある霊たちが闇の中で過ちを犯す一方で、至福を得た霊たちは光り輝く明るさと無限なる神の崇高な業を享受することが出来るのです。
結局、悪は後悔や苦しみに悩まされ、慰安を受けることもなく、その愛情の対象となっていた者たちから引き離され、多くの場合孤立してしまい、道徳的な苦しみに悲しむことになり、正しい者は愛する者たちと共に生活し、表現し難い幸せの喜びを享受することになります。
だから、場所も示されて居なければ、その区画もされていませんが、そこには多くの住処があることになるのです。
霊の住む世界のさまざまな分類
三、霊たちによってもたらされた教えから、さまざまな世界の状況は、そこに住む霊たちの進歩または劣等の度合いによってお互いに大きく違っていることがわかります。それらの世界の中には、まだ地球よりも、道徳的にも物質的にも劣っている世界があります。
他には私たちの世界と同じ分類の世界も存在します。また、すべての点において他の世界よりも優れた世界も存在します。劣った世界では、存在は全て物質的であり、感情が全てを支配し、道徳的な生活はほとんど存在しません。
この世界は進歩するに従って物質の影響が減少しますが、そのようにより進んだ世界における生活は、ほとんど霊的であるということが出来ます。
四、中間に位置する世界には善と悪とが混在しており、そこに住む霊たちの持つ進歩の度合いによって、どちらかがその世界を支配することになります。様々な世界を絶対的に分類することは出来ませんが、その世界の状態とその世界が持つ運命に従って、またその世界の最も目立つ特徴をもとに、一般的に次のように分類することが出来ます。
人間の魂の初期の肉体化のための原始的な世界、
悪を克服するための試練と償いの世界、
さらに試練に立ち向かうべき魂が新しい力を吸い込み、闘いの疲れをいやす更生の世界、
善が悪に勝る幸運の世界、
浄化した霊たちの住む善だけが君臨する神の世界。
地球は試練と償いの世界に分類し、だからこそ、そこにはこれ程までの苦しみを抱えた人々が住んでいるのです。
五、ある世界に生まれてきた霊は、いつまでもそこにとどめられるものでもなければ、その世界の中で、完成するまで実現しなければならない進歩のステップのすべてを経るわけでもありません。
霊たちは一つの世界においてその世界が与える進歩のレベルを達成すると、より進んだ世界へと進んで行き、それを純粋な霊の段階に至るまで繰り返していきます。多くのさまざまな滞在地が存在し、それぞれにおいてすでに達成している段階に適した進歩の要素が霊たちに提供されるのです。
彼らにとっては、より進んだ世界へ昇ることが報酬であるように、ある不運な世界での滞在が延長されることや、悪に固執する限り出ることの出来ない世界よりもさらに不幸な世界へ追放されることは罰となります。
地球の運命──地球の惨めさの原因
六、多くの人々が地球上にこれほど多く存在する悪意や粗雑な感情、あらゆる種類の惨めさと病に驚き、人類とはとても悲しいものだと結論づけてしまいます。こうした狭められた視野から下された判断は、全体に対する誤った考えを彼らに与えてしまいます。
地球上には人類の全てが存在しているのではなく、人類のほんの一部しかいないのです。実際、人類という種は、宇宙の無数の天体に住む、理性をもった存在全てを含めて意味するのです。
では、これらの世界に住む人口に比べ、地球上の人口とはどんなものでしょうか。ある大きな国に比べた、小さな村にも満たないでしょう。地球の運命と、そこに住む人々の本質を知るならば、地球上の人類の物質的、道徳的状況に何も驚くようなことはありません。
七、ある大きな町の郊外の、もっとも卑しく最低な地区の住人によって、その町全ての住人を判断してしまうのは誤った考えとなります。病院には、病気の人や、身体が不自由な人しかいません。刑務所にはあらゆる醜行、悪徳を見ることができます。
不健康な地区では、その住人の大半は青白く、痩せ細り、病的です。ここで、地球を郊外の地区、病院、刑務所の、全てが同時に存在するところだと考えてみれば、なぜ苦しみが喜びに勝って存在するのかを理解することができます。
健康である者を病院へ送ったり、悪いことをしていないのに刑務所に送ったりはしません。又病院や感化院は歓喜のための場所とはなりません。
しかし、ある町の住人のすべてが病院や刑務所にいることがないように、人類のすべてが地球上に存在しているわけではありません。そして病気が治ると病院を退院し、懲役を済ませば刑務所から出所するのと同じように、人類も道徳的な病を治療した後には地球を去ることになるのです。
霊たちからの指導
優れた世界、劣った世界
八、劣った世界と優れた世界の性格とは絶対的なものではありません。どちらかというと、大変相対的なものです。ある世界が劣っているか、優れているかということは、進歩の段階の中でその世界の上または下に存在する世界と比べた場合にのみ決まることです。
地球を例として、劣った世界の住人を私たちの天体の原始的な時代の痕跡である原始的な生活を続ける人々や、いまだ私たちの間に存在する野蛮な人々にたとえてみれば、その劣った世界の状態がどのようであったかを考えることができます。
遅れた世界では、そこに住む者はある意味において原始的です。人間の形をしていても、美しさは存在しません。彼らの本能は、優しさや善意に弱められておらず、正義と不正を区別するほんのわずかな感情を持つまでには至っていません。彼らの間では粗暴な力が唯一の法です。
産業も発明もないため、食物を手に入れることに人生を費やします。しかし神は、そのいかなる創造物をも見捨てることはありません。知性の闇の底には、ぼんやりと神の存在を感じさせるものが潜在的に横たわっています。
この本能は、彼らの間にお互いの優劣を作りだし、より完全な人生へと昇っていく準備をするためには十分なものなのです。というのも、彼らは堕落した存在なのではなく、成長しつつある子供であるからです。
劣った段階と、より進んだ段階との間には、無数の段階が存在しますが、物質から解放されて、栄光に輝く純粋な霊たちを見て、彼らもかつてはこうした原始的な霊たちであったことを知ることは、人間の成人を見て、その人が胎児であったことを思いだすのと同じように困難なことです。
九、優れた段階へ到達した世界においては道徳的、物質的生活の条件は地球上の生活とは非常に違っています。どの場所においてもそうであるように、そこでも体は人類と同じ形をしていますが、その形はより美しく、完成され、何よりも浄化されています。
その体は、地球上でのような物質性を全く持っていないので、あらゆる肉体の必要性に束縛されることもなければ、物質に支配されていることによって生じる病気や肉体の老化に冒されることもありません。
その知覚はより純粋になるため、地上の世界では物質の粗暴さが妨げとなっていた感覚をもとらえることができます。体の特殊な軽快さは、容易で敏速な移動を可能にします。
地面の上を重々しく体を引きずるのではなく、正しく描写するならば、意思以外のなんの力も加えることなしに、表面を滑ってその環境の中を水平移動して行き、それは昔の人々が極楽における死者の霊魂を想像した姿や、天使たちに表される姿と同じです。
人類は自らの意思により過去の人生の面影を残すことが出来、生前に知られていた姿で出現します。しかし、その時には神の光に照らされ、内面の高尚な性格が形を変容させています。苦しみや感情によって打ちひしがれたような青ざめた顔つきではなく、画家たちが聖人の周囲に後光や光輪を描いたように、知性と生命が輝いています。
すでに多くの進歩を遂げた霊たちによって、物質が与える抵抗は少なく、体は非常に早く発達し、幼年期はほとんどありません。苦しみや心配から免れ、その人生は地上のものよりも均一的でずっと長いものです。第一に寿命はその世界の段階に比例します。
死が肉体の分解という恐怖をもたらすことなどまったくありません。死は恐ろしいどころか、幸せな変容と考えられるため、そこでは未来に対する疑いは存在しません。
そこで人生を送る間、魂はうっとうしい物質に束縛されることがなく心を広げ、ほぼ永久にその魂を自由にさせてくれる光明を享受することが出来、自由に思考を伝達させることを可能にします。
十、こうした幸運な世界では、人々の関係はいつも友情に溢れており、野心によって誰かに妨害されたり、隣人を隷属化しようとしたりする者はなく、戦争が起きることなどありません。奴隷主と奴隷という関係のような、生まれ持った特権などは存在しません。
ただ知性的、道徳的優位性のみが条件の違いを生み、優越を与えるのです。権威はいつもそれを持つ価値のある者だけに与えられ、いつも正義によって行使されるため、すべての人々の敬意を受けることになります。
人々は他人の上に昇ろうとせず、自らを完成させることにとって自分の上に昇ろうとします。その目的は、純粋な霊の分類に向かって駆け昇っていくことで、この欲求によって苦しめられることは無く、高貴な大志となって、熱心に勉強するように導かれます。
そこで繊細に高められた人間的感覚は増し、浄化されています。憎しみや、つまらない嫉妬や、低俗な羨みというものを知りません。
すべての人々を愛と同胞意識の絆がつなぎ、強い者が弱いものを助けます。知性の度合いに応じて、獲得した財産を所有しています。誰も必要な物が不足することによって苦しむことは無く、誰も償いのために存在しているとは考えていません。一言で言うならば、そのような世界に悪は存在しないのです。
十一、 あなたたちの世界では善を敏感に知るために悪が必要です。光をたたえるために闇が必要です。健康の価値を知るために病が必要です。別の世界ではこのような対比は必要ありません。
永遠の光、永遠の美、永遠の魂の平和が永遠の喜びをもたらし、物質的な生活の苦しみによって妨害されることはなく、また、そこには悪が近づくことが出来ないため、悪との接触によって動揺することもありません。そうしたことを人間の霊が理解しようとするのは非常に困難なことです。
人間は地獄の苦しみは大変巧みに描きましたが、天における喜びを想像することは出来ませんでした。なぜでしょうか。それは人間が劣っているため、苦しみや惨めさしか経験をしたことが無く、天の明るさを予感することがなかったからです。
つまり、知らないことについて語ることは出来ないのです。しかし、人間が向上し、浄化されていくに従って、地平線は延び、自分の後に存在する悪を理解したように自分の前に存在する善を理解することになります。
十二、しかし神はそのどの子に対しても不公平を働くことはなく、よって幸福の世界とは、特権を与えられた天体ではありません。そのような世界に到達するために、神はすべての者に対して同じ権利と容易さを与えます。
全てのものが同じ場所から出発し、優れたものが他人よりも恵まれるということはありません。最高の分類へは誰でも到達することが可能なのです。ただ、人間はそれらを働くことによって征服する必要があり、どれだけ早く到達できるか、それとも活動することなく何世紀も人類のぬかるみにとどまるかは、その人次第なのです。(8-12 優秀な霊たちからのすべての指導を要約)
試練と償いの世界
十三、あなたたちが住む世界を見回してみればわかるのですから、償いの世界について何を言えばいいのでしょうか。あなたたちの間に住む優れた知性の数を見れば、地球が創造主の手元から離れたばかりの霊たちが生まれてくる、原始的な世界では無いことを示しています。
彼らが身につけている生まれつきの性質は、彼らがすでに存在し、ある程度の進歩を遂げていることの証です。
しかし、無数に罪を犯しがちである悪癖は、道徳的な不完全性のしるしです。神があなたたちを骨の折れる世界へ送ったのは、あなたたちがより幸せな惑星へといずれ昇って行くまで、人生の惨めさや苦しい労働を通じて、その世界で過ちを償うためなのです。
十四、しかしながら、地球上に生まれるすべての霊が、償いのためにそこへ行くのではありません。未開と呼ばれるような人種は、まだ幼年期を脱したばかりの霊たちによって構成されており、より進んだ霊たちと接触することによって発展していくために、言うなれば教育を受けているのです。
次に半文明化した人種は、進歩の途上にある霊たちによって構成されています。彼らはある意味で地球の先住民族であり、何世紀もの長い期間をかけて、少しずつ進歩し、その内のある者は、すでにより高尚な人々と同じ知性的完成度にまで到達しているのです。
償いを行う霊とは、言うなれば、地球にとっては外来の人々です。すでに他の世界で生活したことがあり、そうした世界において悪に固執し自ら悪を行い、善の妨げとなったために追放されたのです。
遅れた霊たちの間で過ごし、すでに獲得している知識の種と発達した知性を用いて彼らを進歩させる任務が与えられたために、ある期間、段階を下げられて生まれなければならなかったのです。
罰せられる霊たちが、より知性的な霊たちの間に存在するのはそのためです。だからこそ、こうした人種にとって、人生の不運は大変苦く感じられます。道徳観が鈍い原始的な人種よりも、彼らの内面はより敏感なので、人生における支障や不快によってより多くを試されるのです。
十五、結果的に、地球は無限に多様化した試練の世界のうちの一つを提供していますが、そうした世界を明らかにしてみると、共通した特徴として、神の法に対して反抗的な霊たちの追放の場所となっています。
これらの霊たちは同時に、そこで人間の不道徳や自然の残酷さと戦わなければならず、それはまた、心と知性の質を発展させる二重の険しい労働なのです。このように、神はその善意によって、罰そのものが霊の進歩をもたらすようにしているのです。(聖アウグスティヌス パリ 1862年)
更生の世界
十六、青い空の天井に輝く星の中には、神によって試練と償いのために差し向けられた、あなたたちの世界と同じような世界がどれだけあるでしょうか。あなたたちの世界より惨めな世界も、より良い世界も存在すれば、更生の世界と呼ぶことができる、移り変わりにある世界も存在します。
同じ中心の周りを移動する惑星の渦は、それぞれが原始的な世界、追放の世界、試練の世界、更生の世界、幸福の世界を引きずっています。
善と悪についてはまだ無知ではありながらも、その自由意思によって、自分自身を支配する神へ向かって歩む可能性を持った、生まれたばかりの魂が送られる世界についてすでに私たちは話しました。
また、善を行うために幅広い能力が魂に与えられることも明らかにしました。しかし、ああ、気力を失ってしまう者よ。それでも神はそうした霊たちが抹殺されてしまうことは望まず、生まれ変わりを重ねることによって浄化、更生され、彼らが与えられる栄光に相応しい世界に行くことを許すのです。
十七、更生の世界は、償いの世界と幸せな世界の間の変遷の役割を果たします。後悔する魂はそこで平和と休息を得ることが出来、やがて浄化されていきます。疑いもなく、そのような世界では、人間は未だに物質を支配する法に従わなければなりません。
人類はその感覚や欲望を経験しますが、あなたたちが隷属している無秩序な感情からは解放されており、心を黙らせる自尊心、人類を苦しめる嫉妬、息を詰まらせる憎しみもありません。全ての者の額には愛と言う言葉が書かれています。
社会を完全な平等が支配し、全ての者が神を知り、神の法を守りながら神に向かって歩もうとします。
しかしながら、これらの世界にあるのはまだ完全な幸せではなく、しあわせの兆しなのです。そこに住む人類はまだ肉体を持っているために完全に物質から脱却した人だけが解放されることになる苦しみを、依然として受ける状態にあります。
いまだに試練に耐えなければなりませんが、償いのような痛々しい苦しみはありません。地球に較べるとこうした世界はとても幸せで、あなたたちのうちの多くの者がそこに住むことに喜びを感じるでしょう。
それは、そうした世界が嵐の後の静けさ、残酷な病気から回復した時のようなところだからです。しかしながら、物質にはわずかしか心を奪われていないため、そこに住む人々はあなたたちよりはっきりと未来を見つめることができます。
真なる命を授かるために死が再び彼らの体を滅ぼした時、主によって約束された、彼らに相応しい他の喜びが存在することを理解しています。そして自由となり、魂はすべての地平線の上を旋回します。物質的で粗暴な感覚はありません。
ペリスピリト(→和訳注1)の純粋で完全な感覚だけが、神自身から直接放射される、その胸の中心から放たれる愛と慈善の香りを吸い込むのです。
十八、ああ、しかし、これらの世界でも、人間はまだ誤りやすく、悪の霊たちも完全にその統治を失ったわけではありません。前進しないことは後退することであり、善の道をしっかりと踏まなければ、償いの世界に再び戻ることになり、そこで新たな恐ろしい試練がその者を待ち受けることになるのです。
ですから、夜になり休み、祈る時、青い夜空をじっと眺め、あなたたちの頭上に輝く無数の天体のことを想い、地球上での償いを終えた後、どの天体があなたたちを神へと導いてくれるのか自分自身に尋ね、また、更生の世界があなた達を迎えるために開かれることを神にお願いしてください。(16ー18 聖アウグスティヌス パリ 1862年)
世界の進歩
十九、進歩は自然の法則です。創造された存在は、動物であれ、静物であれ、すべてが拡大し繁栄することを望む神の善意に服従しているのです。
人間にとってはすべての存在の結末と思えるような破壊でさえも、変遷を通じてより完成された状態に辿り着くための手段に過ぎず、それは、すべてが生まれ変わるために死ぬのであって、消滅させられるものが無いことからも判ります。
すべての存在が道徳的に進歩すると同時に、彼らの住む世界は物質的にも進歩します。最初の原子が差し向けられ、世界を築くために集まって来た時から、ある世界をそのさまざまな段階において見ることができたとしたら、その世界が絶え間なく進歩する階段を駆け昇っているのが見えるでしょう。
その段差は、それぞれの世代の人々にとっては感じることができませんが、彼ら自身が進歩の道を進むにつれ、ますます住みよい世界となっていくのです。
このように、人間、動物、それらを助ける者たち、植物、そしてすみかは並行して進歩していくのであって、自然界において停止し続けるものは何もありません。この創造主の考えのなんと偉大で、その尊厳のなんと高貴なことでしょうか。
それに引き換え、配慮と用心を取るに足りない一粒の砂でしかない地球だけに集中させ、人類を地球に住むほんの僅かな人間だけであると限定してしまうことの、なんとけちで下劣なことでしょうか。
この世界もかつては今日よりも、道徳的にも物質的にも劣った状態にあったのであり、その法に従えば、この二つの側面においてより進歩した段階へと昇ることになるのです。
地球には変遷の時代が到来しており、その時代には償いの天体から、更生の惑星へと変わっていき、そこには神の法が君臨するために、その世界で人間は幸せになれるのです。(聖アグスティヌス パリ 1862年)
●和訳注1
ぺリスピリトとは半物質からできた霊の体を指す。地上に生きる霊は肉体の他にこの体を有しており、死後肉体を捨てるとぺリスピリトのみが霊の体となる。
死後の世界における魂のさまざまな状態
二、父の家とは宇宙のことです。様々なすみかとは、無限の宇宙の中で霊たちに生まれる場所を提供する、霊たちの段階に応じて存在する世界のことです。これらのイエスの言葉は、世界の多様性とは別に、死後の世界に存在する霊たちの幸運、または悲運な状態に関してもあてはめることができます。
物質への執着から解放されたか、あるいはある程度浄化しているかどうかということによって、その霊の置かれる状況、そこでの物事のありさま、そこで感じること、そこで所有する感覚が霊によって無限に違ってきます。
ある者が生前住んでいた場所から離れられない一方で、別の者たちは宇宙のいろいろな世界を行き来します。罪のある霊たちが闇の中で過ちを犯す一方で、至福を得た霊たちは光り輝く明るさと無限なる神の崇高な業を享受することが出来るのです。
結局、悪は後悔や苦しみに悩まされ、慰安を受けることもなく、その愛情の対象となっていた者たちから引き離され、多くの場合孤立してしまい、道徳的な苦しみに悲しむことになり、正しい者は愛する者たちと共に生活し、表現し難い幸せの喜びを享受することになります。
だから、場所も示されて居なければ、その区画もされていませんが、そこには多くの住処があることになるのです。
霊の住む世界のさまざまな分類
三、霊たちによってもたらされた教えから、さまざまな世界の状況は、そこに住む霊たちの進歩または劣等の度合いによってお互いに大きく違っていることがわかります。それらの世界の中には、まだ地球よりも、道徳的にも物質的にも劣っている世界があります。
他には私たちの世界と同じ分類の世界も存在します。また、すべての点において他の世界よりも優れた世界も存在します。劣った世界では、存在は全て物質的であり、感情が全てを支配し、道徳的な生活はほとんど存在しません。
この世界は進歩するに従って物質の影響が減少しますが、そのようにより進んだ世界における生活は、ほとんど霊的であるということが出来ます。
四、中間に位置する世界には善と悪とが混在しており、そこに住む霊たちの持つ進歩の度合いによって、どちらかがその世界を支配することになります。様々な世界を絶対的に分類することは出来ませんが、その世界の状態とその世界が持つ運命に従って、またその世界の最も目立つ特徴をもとに、一般的に次のように分類することが出来ます。
人間の魂の初期の肉体化のための原始的な世界、
悪を克服するための試練と償いの世界、
さらに試練に立ち向かうべき魂が新しい力を吸い込み、闘いの疲れをいやす更生の世界、
善が悪に勝る幸運の世界、
浄化した霊たちの住む善だけが君臨する神の世界。
地球は試練と償いの世界に分類し、だからこそ、そこにはこれ程までの苦しみを抱えた人々が住んでいるのです。
五、ある世界に生まれてきた霊は、いつまでもそこにとどめられるものでもなければ、その世界の中で、完成するまで実現しなければならない進歩のステップのすべてを経るわけでもありません。
霊たちは一つの世界においてその世界が与える進歩のレベルを達成すると、より進んだ世界へと進んで行き、それを純粋な霊の段階に至るまで繰り返していきます。多くのさまざまな滞在地が存在し、それぞれにおいてすでに達成している段階に適した進歩の要素が霊たちに提供されるのです。
彼らにとっては、より進んだ世界へ昇ることが報酬であるように、ある不運な世界での滞在が延長されることや、悪に固執する限り出ることの出来ない世界よりもさらに不幸な世界へ追放されることは罰となります。
地球の運命──地球の惨めさの原因
六、多くの人々が地球上にこれほど多く存在する悪意や粗雑な感情、あらゆる種類の惨めさと病に驚き、人類とはとても悲しいものだと結論づけてしまいます。こうした狭められた視野から下された判断は、全体に対する誤った考えを彼らに与えてしまいます。
地球上には人類の全てが存在しているのではなく、人類のほんの一部しかいないのです。実際、人類という種は、宇宙の無数の天体に住む、理性をもった存在全てを含めて意味するのです。
では、これらの世界に住む人口に比べ、地球上の人口とはどんなものでしょうか。ある大きな国に比べた、小さな村にも満たないでしょう。地球の運命と、そこに住む人々の本質を知るならば、地球上の人類の物質的、道徳的状況に何も驚くようなことはありません。
七、ある大きな町の郊外の、もっとも卑しく最低な地区の住人によって、その町全ての住人を判断してしまうのは誤った考えとなります。病院には、病気の人や、身体が不自由な人しかいません。刑務所にはあらゆる醜行、悪徳を見ることができます。
不健康な地区では、その住人の大半は青白く、痩せ細り、病的です。ここで、地球を郊外の地区、病院、刑務所の、全てが同時に存在するところだと考えてみれば、なぜ苦しみが喜びに勝って存在するのかを理解することができます。
健康である者を病院へ送ったり、悪いことをしていないのに刑務所に送ったりはしません。又病院や感化院は歓喜のための場所とはなりません。
しかし、ある町の住人のすべてが病院や刑務所にいることがないように、人類のすべてが地球上に存在しているわけではありません。そして病気が治ると病院を退院し、懲役を済ませば刑務所から出所するのと同じように、人類も道徳的な病を治療した後には地球を去ることになるのです。
霊たちからの指導
優れた世界、劣った世界
八、劣った世界と優れた世界の性格とは絶対的なものではありません。どちらかというと、大変相対的なものです。ある世界が劣っているか、優れているかということは、進歩の段階の中でその世界の上または下に存在する世界と比べた場合にのみ決まることです。
地球を例として、劣った世界の住人を私たちの天体の原始的な時代の痕跡である原始的な生活を続ける人々や、いまだ私たちの間に存在する野蛮な人々にたとえてみれば、その劣った世界の状態がどのようであったかを考えることができます。
遅れた世界では、そこに住む者はある意味において原始的です。人間の形をしていても、美しさは存在しません。彼らの本能は、優しさや善意に弱められておらず、正義と不正を区別するほんのわずかな感情を持つまでには至っていません。彼らの間では粗暴な力が唯一の法です。
産業も発明もないため、食物を手に入れることに人生を費やします。しかし神は、そのいかなる創造物をも見捨てることはありません。知性の闇の底には、ぼんやりと神の存在を感じさせるものが潜在的に横たわっています。
この本能は、彼らの間にお互いの優劣を作りだし、より完全な人生へと昇っていく準備をするためには十分なものなのです。というのも、彼らは堕落した存在なのではなく、成長しつつある子供であるからです。
劣った段階と、より進んだ段階との間には、無数の段階が存在しますが、物質から解放されて、栄光に輝く純粋な霊たちを見て、彼らもかつてはこうした原始的な霊たちであったことを知ることは、人間の成人を見て、その人が胎児であったことを思いだすのと同じように困難なことです。
九、優れた段階へ到達した世界においては道徳的、物質的生活の条件は地球上の生活とは非常に違っています。どの場所においてもそうであるように、そこでも体は人類と同じ形をしていますが、その形はより美しく、完成され、何よりも浄化されています。
その体は、地球上でのような物質性を全く持っていないので、あらゆる肉体の必要性に束縛されることもなければ、物質に支配されていることによって生じる病気や肉体の老化に冒されることもありません。
その知覚はより純粋になるため、地上の世界では物質の粗暴さが妨げとなっていた感覚をもとらえることができます。体の特殊な軽快さは、容易で敏速な移動を可能にします。
地面の上を重々しく体を引きずるのではなく、正しく描写するならば、意思以外のなんの力も加えることなしに、表面を滑ってその環境の中を水平移動して行き、それは昔の人々が極楽における死者の霊魂を想像した姿や、天使たちに表される姿と同じです。
人類は自らの意思により過去の人生の面影を残すことが出来、生前に知られていた姿で出現します。しかし、その時には神の光に照らされ、内面の高尚な性格が形を変容させています。苦しみや感情によって打ちひしがれたような青ざめた顔つきではなく、画家たちが聖人の周囲に後光や光輪を描いたように、知性と生命が輝いています。
すでに多くの進歩を遂げた霊たちによって、物質が与える抵抗は少なく、体は非常に早く発達し、幼年期はほとんどありません。苦しみや心配から免れ、その人生は地上のものよりも均一的でずっと長いものです。第一に寿命はその世界の段階に比例します。
死が肉体の分解という恐怖をもたらすことなどまったくありません。死は恐ろしいどころか、幸せな変容と考えられるため、そこでは未来に対する疑いは存在しません。
そこで人生を送る間、魂はうっとうしい物質に束縛されることがなく心を広げ、ほぼ永久にその魂を自由にさせてくれる光明を享受することが出来、自由に思考を伝達させることを可能にします。
十、こうした幸運な世界では、人々の関係はいつも友情に溢れており、野心によって誰かに妨害されたり、隣人を隷属化しようとしたりする者はなく、戦争が起きることなどありません。奴隷主と奴隷という関係のような、生まれ持った特権などは存在しません。
ただ知性的、道徳的優位性のみが条件の違いを生み、優越を与えるのです。権威はいつもそれを持つ価値のある者だけに与えられ、いつも正義によって行使されるため、すべての人々の敬意を受けることになります。
人々は他人の上に昇ろうとせず、自らを完成させることにとって自分の上に昇ろうとします。その目的は、純粋な霊の分類に向かって駆け昇っていくことで、この欲求によって苦しめられることは無く、高貴な大志となって、熱心に勉強するように導かれます。
そこで繊細に高められた人間的感覚は増し、浄化されています。憎しみや、つまらない嫉妬や、低俗な羨みというものを知りません。
すべての人々を愛と同胞意識の絆がつなぎ、強い者が弱いものを助けます。知性の度合いに応じて、獲得した財産を所有しています。誰も必要な物が不足することによって苦しむことは無く、誰も償いのために存在しているとは考えていません。一言で言うならば、そのような世界に悪は存在しないのです。
十一、 あなたたちの世界では善を敏感に知るために悪が必要です。光をたたえるために闇が必要です。健康の価値を知るために病が必要です。別の世界ではこのような対比は必要ありません。
永遠の光、永遠の美、永遠の魂の平和が永遠の喜びをもたらし、物質的な生活の苦しみによって妨害されることはなく、また、そこには悪が近づくことが出来ないため、悪との接触によって動揺することもありません。そうしたことを人間の霊が理解しようとするのは非常に困難なことです。
人間は地獄の苦しみは大変巧みに描きましたが、天における喜びを想像することは出来ませんでした。なぜでしょうか。それは人間が劣っているため、苦しみや惨めさしか経験をしたことが無く、天の明るさを予感することがなかったからです。
つまり、知らないことについて語ることは出来ないのです。しかし、人間が向上し、浄化されていくに従って、地平線は延び、自分の後に存在する悪を理解したように自分の前に存在する善を理解することになります。
十二、しかし神はそのどの子に対しても不公平を働くことはなく、よって幸福の世界とは、特権を与えられた天体ではありません。そのような世界に到達するために、神はすべての者に対して同じ権利と容易さを与えます。
全てのものが同じ場所から出発し、優れたものが他人よりも恵まれるということはありません。最高の分類へは誰でも到達することが可能なのです。ただ、人間はそれらを働くことによって征服する必要があり、どれだけ早く到達できるか、それとも活動することなく何世紀も人類のぬかるみにとどまるかは、その人次第なのです。(8-12 優秀な霊たちからのすべての指導を要約)
試練と償いの世界
十三、あなたたちが住む世界を見回してみればわかるのですから、償いの世界について何を言えばいいのでしょうか。あなたたちの間に住む優れた知性の数を見れば、地球が創造主の手元から離れたばかりの霊たちが生まれてくる、原始的な世界では無いことを示しています。
彼らが身につけている生まれつきの性質は、彼らがすでに存在し、ある程度の進歩を遂げていることの証です。
しかし、無数に罪を犯しがちである悪癖は、道徳的な不完全性のしるしです。神があなたたちを骨の折れる世界へ送ったのは、あなたたちがより幸せな惑星へといずれ昇って行くまで、人生の惨めさや苦しい労働を通じて、その世界で過ちを償うためなのです。
十四、しかしながら、地球上に生まれるすべての霊が、償いのためにそこへ行くのではありません。未開と呼ばれるような人種は、まだ幼年期を脱したばかりの霊たちによって構成されており、より進んだ霊たちと接触することによって発展していくために、言うなれば教育を受けているのです。
次に半文明化した人種は、進歩の途上にある霊たちによって構成されています。彼らはある意味で地球の先住民族であり、何世紀もの長い期間をかけて、少しずつ進歩し、その内のある者は、すでにより高尚な人々と同じ知性的完成度にまで到達しているのです。
償いを行う霊とは、言うなれば、地球にとっては外来の人々です。すでに他の世界で生活したことがあり、そうした世界において悪に固執し自ら悪を行い、善の妨げとなったために追放されたのです。
遅れた霊たちの間で過ごし、すでに獲得している知識の種と発達した知性を用いて彼らを進歩させる任務が与えられたために、ある期間、段階を下げられて生まれなければならなかったのです。
罰せられる霊たちが、より知性的な霊たちの間に存在するのはそのためです。だからこそ、こうした人種にとって、人生の不運は大変苦く感じられます。道徳観が鈍い原始的な人種よりも、彼らの内面はより敏感なので、人生における支障や不快によってより多くを試されるのです。
十五、結果的に、地球は無限に多様化した試練の世界のうちの一つを提供していますが、そうした世界を明らかにしてみると、共通した特徴として、神の法に対して反抗的な霊たちの追放の場所となっています。
これらの霊たちは同時に、そこで人間の不道徳や自然の残酷さと戦わなければならず、それはまた、心と知性の質を発展させる二重の険しい労働なのです。このように、神はその善意によって、罰そのものが霊の進歩をもたらすようにしているのです。(聖アウグスティヌス パリ 1862年)
更生の世界
十六、青い空の天井に輝く星の中には、神によって試練と償いのために差し向けられた、あなたたちの世界と同じような世界がどれだけあるでしょうか。あなたたちの世界より惨めな世界も、より良い世界も存在すれば、更生の世界と呼ぶことができる、移り変わりにある世界も存在します。
同じ中心の周りを移動する惑星の渦は、それぞれが原始的な世界、追放の世界、試練の世界、更生の世界、幸福の世界を引きずっています。
善と悪についてはまだ無知ではありながらも、その自由意思によって、自分自身を支配する神へ向かって歩む可能性を持った、生まれたばかりの魂が送られる世界についてすでに私たちは話しました。
また、善を行うために幅広い能力が魂に与えられることも明らかにしました。しかし、ああ、気力を失ってしまう者よ。それでも神はそうした霊たちが抹殺されてしまうことは望まず、生まれ変わりを重ねることによって浄化、更生され、彼らが与えられる栄光に相応しい世界に行くことを許すのです。
十七、更生の世界は、償いの世界と幸せな世界の間の変遷の役割を果たします。後悔する魂はそこで平和と休息を得ることが出来、やがて浄化されていきます。疑いもなく、そのような世界では、人間は未だに物質を支配する法に従わなければなりません。
人類はその感覚や欲望を経験しますが、あなたたちが隷属している無秩序な感情からは解放されており、心を黙らせる自尊心、人類を苦しめる嫉妬、息を詰まらせる憎しみもありません。全ての者の額には愛と言う言葉が書かれています。
社会を完全な平等が支配し、全ての者が神を知り、神の法を守りながら神に向かって歩もうとします。
しかしながら、これらの世界にあるのはまだ完全な幸せではなく、しあわせの兆しなのです。そこに住む人類はまだ肉体を持っているために完全に物質から脱却した人だけが解放されることになる苦しみを、依然として受ける状態にあります。
いまだに試練に耐えなければなりませんが、償いのような痛々しい苦しみはありません。地球に較べるとこうした世界はとても幸せで、あなたたちのうちの多くの者がそこに住むことに喜びを感じるでしょう。
それは、そうした世界が嵐の後の静けさ、残酷な病気から回復した時のようなところだからです。しかしながら、物質にはわずかしか心を奪われていないため、そこに住む人々はあなたたちよりはっきりと未来を見つめることができます。
真なる命を授かるために死が再び彼らの体を滅ぼした時、主によって約束された、彼らに相応しい他の喜びが存在することを理解しています。そして自由となり、魂はすべての地平線の上を旋回します。物質的で粗暴な感覚はありません。
ペリスピリト(→和訳注1)の純粋で完全な感覚だけが、神自身から直接放射される、その胸の中心から放たれる愛と慈善の香りを吸い込むのです。
十八、ああ、しかし、これらの世界でも、人間はまだ誤りやすく、悪の霊たちも完全にその統治を失ったわけではありません。前進しないことは後退することであり、善の道をしっかりと踏まなければ、償いの世界に再び戻ることになり、そこで新たな恐ろしい試練がその者を待ち受けることになるのです。
ですから、夜になり休み、祈る時、青い夜空をじっと眺め、あなたたちの頭上に輝く無数の天体のことを想い、地球上での償いを終えた後、どの天体があなたたちを神へと導いてくれるのか自分自身に尋ね、また、更生の世界があなた達を迎えるために開かれることを神にお願いしてください。(16ー18 聖アウグスティヌス パリ 1862年)
世界の進歩
十九、進歩は自然の法則です。創造された存在は、動物であれ、静物であれ、すべてが拡大し繁栄することを望む神の善意に服従しているのです。
人間にとってはすべての存在の結末と思えるような破壊でさえも、変遷を通じてより完成された状態に辿り着くための手段に過ぎず、それは、すべてが生まれ変わるために死ぬのであって、消滅させられるものが無いことからも判ります。
すべての存在が道徳的に進歩すると同時に、彼らの住む世界は物質的にも進歩します。最初の原子が差し向けられ、世界を築くために集まって来た時から、ある世界をそのさまざまな段階において見ることができたとしたら、その世界が絶え間なく進歩する階段を駆け昇っているのが見えるでしょう。
その段差は、それぞれの世代の人々にとっては感じることができませんが、彼ら自身が進歩の道を進むにつれ、ますます住みよい世界となっていくのです。
このように、人間、動物、それらを助ける者たち、植物、そしてすみかは並行して進歩していくのであって、自然界において停止し続けるものは何もありません。この創造主の考えのなんと偉大で、その尊厳のなんと高貴なことでしょうか。
それに引き換え、配慮と用心を取るに足りない一粒の砂でしかない地球だけに集中させ、人類を地球に住むほんの僅かな人間だけであると限定してしまうことの、なんとけちで下劣なことでしょうか。
この世界もかつては今日よりも、道徳的にも物質的にも劣った状態にあったのであり、その法に従えば、この二つの側面においてより進歩した段階へと昇ることになるのです。
地球には変遷の時代が到来しており、その時代には償いの天体から、更生の惑星へと変わっていき、そこには神の法が君臨するために、その世界で人間は幸せになれるのです。(聖アグスティヌス パリ 1862年)
●和訳注1
ぺリスピリトとは半物質からできた霊の体を指す。地上に生きる霊は肉体の他にこの体を有しており、死後肉体を捨てるとぺリスピリトのみが霊の体となる。
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