Wednesday, July 24, 2024

シアトルの夏 新しい世界秩序の構築

Building a New World Order


Silver Birch Companion  
Edited by Tony Ortzen


特定の日を決めて合同で祈ること、たとえばスピリチュアリストがそういう催しを行うことに意義があるのだろうか。そういう質問が発展して、スピリチュアリズムのそもそもの目的、すなわち魂の自由と解放による新しい世界の誕生が話題となった。まずシルバーバーチがこう語る。

 「私たちは時には冗談を言っては笑い、楽しい雰囲気の中で会を進めておりますが、こうしたささやかな集まりの背後に、大きな、そして深刻な目的が託されております。出席なさっている皆さんも、自分たちの力でどれほど多くの人々が光明を得ているかをご存じないでしょう。

 この霊媒の口から出る言葉は、高い界から送られてくるメッセージの一部を私が取り次いでいるのですが、これも皆さんにはすっかりお馴染となりました。

皆さんの生活の背景として、ごく当たり前の位置を占めるに至っております。もはや皆さんにとって、私の述べることに取り立てて耳新しいことや革命的なものはなくなりました。

 十数年前、あなた方は精神的ならびに霊的な自由を手にされました。永いあいだ尋ね求め、あれを取り、これを拒否し、神から授かった理性で試し、検討した末に、ついに私の述べるメッセージを真実のものと認められたわけです。

今では、私の説く単純で素朴な教えこそ永遠の真理であることを得心しておられます。

 しかし一方には、永いあいだ暗闇と懐疑と苦悩の中でさ迷っている人、こうした真理が魂の解放のメッセージとなるべき人が大勢いることを忘れてはなりません。

気の毒な状態から救い出してあげなければなりません。霊的真理には一人ひとりの人間を束縛から解放する意図が託されているのです。私たちの仕事は必ず一個の人間から始めます。人類全体も、個が集まって構成されているからです。

 一人、そして又一人と、非常にゆっくりとした根気のいる仕事ではありますが、それ以外に方法がないのです。大勢の人を一度に変えようとしても、必ず失敗します。

暗示が解け、普通の感覚に戻った時、すべてが忘れ去られます。そうした一時の興奮から目覚めたものは、気恥ずかしささえ味わうものです。

 ですから私たちは、あらゆる反抗と敵意と妨害の中にあっても〝点滴、岩をも穿つ〟の譬えで、一人また一人と、光明が射し真理を悟ってくれることを信じて、素朴ながらも繰り返し繰り返し説いてまいります。

その訓えの意味を十分に理解して価値を正しく評価して下さる方は、それ以後は後ろ髪を引かれる思いをすることなく、それまで永いあいだ魂を束縛してきた古い因襲的信仰に、きれいさっぱりと決別することでしょう。

 暗闇からはい出て、光明の世界へ辿り着いたのです。真実の光を見出したのです。それを〝理性〟で確認したのです。私たちが説く教えには、人間の理性が納得する筋が通っていること、人間の常識を怒らせる要素がないこと、人間の知性を反発させるものではないことを、皆さんはご存知です。

むしろ皆さんは、これほど明白な真実がなぜ受け入れられないのだろうかと、悩みにさえ思っておられるくらいです。

 私たちに反抗する大きな勢力がまだまだ存在することを忘れてはなりません。その中でも特に警戒を要するのが、キリスト教会という宗教のプロが有する既得の権力です。

彼らはそれを振りかざして、私たちの使命を阻止せんとすることでしょう。彼らはもはや何ら新しい恩恵は持ち合わせません。持ち出すものと言えば、カビの生えた古い教説ばかりです。
℘120
 彼らは、身は今の世にあっても精神は古い時代に生きていて、その過去の栄光を現代に蘇らせようとします。今の彼らには、それしか持ち合わせがないからです。教会は倒れかけた墓のごとく陰うつな空虚さに満ち、およそ神の霊の宿るところではなくなっております。

そういう宗教家が私たちを非難し、悪魔の手先である───信心深いお人好しや妄想に取りつかれ易い人間をだまそうと企てているのだ、と宣伝します。

 私たちはそういう宗教家を見て情けなく思わずにはいられません。彼らは、往々にして自分でもそうとは気付かずに、宗教家としての職責を裏切り、民衆を神へ導くことをしないどころか、神との間に垣根をこしらえ、

ただの書物に過ぎないもの、ただの教義に過ぎないもの、ただの建造物に過ぎないものに自らの魂を縛られ、それを真理より大切なものであると信じ切っております。

 私たちが酷しい言葉で非難のつぶてを投げるのは、そう言う宗教家に対してです。彼らは宗教家としては落第しているのです。苦しみと悲しみの海にさまよう無数の人々を導く資格を失っているのです。

神学と言う粗悪品を混入して、イエスがせっかくこの世にもたらした素朴な啓示の言葉を忘れてしまっております。

℘121
 私たちが説く宗教とはお互いがお互いのために尽くし合う宗教です。人のために役立つことが霊の通貨なのです。大霊の子である同胞のために自分を役たてるということは、とりもなおさず大霊のために役たてることであり、それを実行した人は。立派に宗教的人間といえます」


───伝統的宗教に対するわれわれの態度は寛容的であるべきでしょうか。厳しい態度で臨むべきでしょうか。

 「相手が誰であろうと、臆せず真実を述べることです。あなたも神の僕の一人です。間違いは排除し、虚偽は論破すべきです。恐れてはいけませ。怖じける必要は少しもありません。

大堂伽藍を建て、妙なる音楽を流し、ステンドグラスを飾り、厳かな儀式を催したからといって、そんなことで宇宙を創造した大霊が心を動かされるものではありません。宇宙の大霊すなわち神を一個の建物の中に閉じ込めることはできないのです」


 これに関連した質問を受けて、さらにこう述べた。
℘122 
 「大衆に目隠しをして暗闇に閉じ込めようと思えば、出来ないことはありません。かなりの年月にわたってそうすることも可能です。しかし、いつかは大衆も、自分たちが本来は光の子であることを思い出して、真理の光明を求めはじめます。

その時期を権力によって遅らせることはできます。妨害もできます。しかし、最後は真理は真理としてあるべき位置に落着きます。

 あなた方人間も霊的存在です。肉体だけの存在ではないのです。無限の可能性を秘め、神性を宿しているがゆえに、その霊的可能性が発現を求め始めます。一時的に無視することはできます。が、永遠に抹殺してしまうことはできません。

だからこそ真理の普及が急務なのです。人間が霊的存在であるということは内部に宿る霊がこの驚異に満ちた大宇宙を創造した力の一部であるということです。いかなる宗教的権力を持ってしても、霊の声を永遠に封じ込めることはできません」


 伝統的宗教の失敗と新しい世界の誕生のテーマにもう一度言及してこう述べている。

 「地上世界では今、古い体制の崩壊と衰亡が進行し、かつて我がもの顔だった説教者たちも、もはやこれでは民衆の心を捉えることができないことを認め始めております。

永いあいだ盲目の民を好きに操って来た盲目の指導者達───真理の行進に抵抗し、現代に生きる聖霊の存在を否定せん(霊界からの働きかけを認めないこと)としてきた者たち、そうした者たちが今、その代償、つまり霊的法則の存在を認めようとしなかったことへの代償を払わされつつあります。

 そこに、あなた方が肝に命じていただきたい教訓があります。真理のために闘う者は、最後は必ず勝利を収めるということです。善の勢力を完全に封じ込めることはできないからです。一時的には抑えることはできます。邪魔することもできます。進行を送らせることもできます。

しかし、真理を永遠に破壊したり、あるべき位置に落ち着くことを阻止し続けることは誰にもできません。

 これは宗教にかぎったことではありません。人生のあらゆる面についていえることです。何事につけても、誤った説に抵抗し、偽りの言説を論破し、迷信に反抗していく者は、決してうろたえてはなりません。

全生命を支え、最後の勝利を約束してくれる、永遠にして無限の霊力に全幅の信頼を置かなければいけません。

 死によって隔てられた二つの世界の交信を可能にしてくれる霊的法則の存在を知った者にとって、こうした戦争(第二次大戦)によって惹き起される不利な条件の中で真理を普及していくことがいかに困難であるかは、私もよく承知しております。

しかし、何が何でも、この霊的真理にしがみついていかねばなりません。やがては、真理に飢え魂の潤いを渇望する者が次第に増え、いつかは知識の水門が大きく開かれる時機が熟します。

その時に備えておかねばなりません。対立紛争が終わった時、戦火が消えた時、無数の人が今度は知識を土台とした生き方の再構築を望むことでしょう。

 彼らは、宗教の名のもとに押しつけられた古い神話には、うんざりしております。戦争という過酷な体験をし、人生の意義を根本から問い直し、なぜ生まれてきたのか、いかに生きるべきなのか、いつになったら・・・・・・といった疑問に直面させられた者は、その真実の答えを何とか知りたいと思い始めます。真理を渇望し始めます。

その時あなた方は、そうした魂の理性と確信と論理性と叡智でもって対応し、新しい世界の住民としての生き方を教えてあげられる用意が出来ていなければなりません。

 過ぎ去ったことは、そこから教訓を学ぶためでなければ、つまり、失敗をどう正すか、二度と過ちを犯さないためにはどうすべきかを反省するためでなければ、むやみの振り返るべきでものではありません。未来へ目をやり、今日行うことをこれから訪れる、より立派な日の素地としてなければなりません。

世界中があなた方を必要とする時代が来ます。無数の人が、希望と慰めとインスピレーションと指導を求めて、あなた方に目を向ける日がきっときます。

 もう教会へは足を運びません。聖職者のもとへは訪れません。教師のもとへは参りません。あなた方の方へ足を向けます。なぜなら、死と隣り合わせの体験をし、その厳しい現実の中で、ある種の霊的体験をした者は、心の目が開いているからです。

目の前を遮っていたモヤが晴れたのです。真理が受け入れる用意ができたのです。ならば、それを授けてあげる用意ができていなければなりません」


───新しい世界が生まれつつあるということは何を根拠におっしゃるのでしょうか。

 「私は厳とした計画、神の計画が見て取れるのです。私は、霊の力こそ宇宙最大の力であると信じています。人間がその働きを歪め、遅らせることはできます。妨害を押し止めることはできるかもしれません。しかし、永遠にその地上への権限を阻止することはできません。

 あなた方が霊的真理を手にしたということは、人類が抱える全ての問題を解くカギを手にしたことを意味します。

私は決して、世にいう社会改革者たち───義憤に駆られ、抑圧された者や弱き者への止むにやまれぬ同情心から悪と対抗し、不正と闘い、神の物的な恵みがすべての人間に平等に分け与えられるようにと努力している人々を、ないがしろにするつもりは毛頭ありません。
℘126
 ただ、その人たちは問題の一部しか見ていない───物的な面での平等のために闘っていることに過ぎないということです。もちろん精神的に平等であるべきことも理解しておられることでしょう。が、人間はまず何より〝霊〟なのです。大霊の一部なのです。宇宙を創造した力の一部なのです。

決して、宇宙の広大な空間の中に忘れ去られた、取るに足らぬ存在ではないのです。宇宙の大霊の一部として、常に無限の霊性に寄与しているのです。

 その霊力の息の根を止めることは誰にもできません。いつかは必ず表に出てきます。残酷な仕打ちにも、憎しみの行為にも負けません。こん棒で叩かれても、強制収容所へ入れられても、独裁政治で抑えられても、決して窒息死することはありません。

なぜならば、人間の霊は、人間が呼吸している空気と同じように自由であるのが、本来のあるべき姿なのです。それが生来の、神から授かった、霊的遺産なのです。

℘127   
 その理想像の素晴らしさを理解した人々、新しい世界のあるべき姿を心に描いた人々は、当然そうあらねばならないことを十分に得心しています。なぜなら、それが人間に息吹を与える動物から人類へと進化させた、その背後の目的の一部だからであり、それはさらに人間を神的存在へと向上させていくものです。

あなた方の使命はその松明を引き継ぎ、新しい炎を燃え立たせ、次の世代にはより大きな光明が道を照らしてあげることです。

 基盤はすでに出来上がっているのです。何年も前から、その基盤作りはこちらの世界で終わっているのです。苦痛は伴いながらも、ゆっくりと各界の名士あるいは名もなき男女が、永遠の霊の実在の証言に立ちあがり、神の計画の一刻も早い実現のために刻苦したのです。新しい世界は必ず実現します」


───その新しい世界は、われわれ人間自らの努力によって実現しなければならないはずなのに、なぜその基盤作りがそちらの世界で行われたのでしょうか。

 「あなた方の世界は影です。光はこちらから出ているのです。あなた方は、こちらで建てられてプランを地上で実行し実現させていきつつあるところです。オリジナルの仕事───と呼ぶのが適切か否かは別として───は全てこちらで行われます。

なぜなら全てのエネルギー、全ての原動力は物質から出るのではなくて、霊から出るのです。みなさんは、意識するしないに関係なく、霊力の道具なのです。受信と送信をする道具なのです。霊的影響力をどこまで受けとめられるかによって、成功するしないが決まるのです」

℘128
───ということは、結局、そちらからの援助をえて私たちが努力することから新しい世界が生まれるということでしょうか。

 「その通りです。何ごとも人間の力だけでは成就し得ません。人間が何かを始める時、そこには必ずこちらからの援助が加味されます。私たちは常に道具を探し求めております。

人間の方から霊力の波長に合わせる努力をしていただかねばなりません。完ぺきは決して望めません。常に困難を克服し邪魔を排除する仕事は永遠に続きます」


───私たち自身の努力で地上に新しい世界を招来しなければならないわけですね?

 「努力してはじめて得られるのです。私から申し上げられることは、神の計画の一部として成就しなければならないことは、すでに決まっている───が、それがいつ実現されるかは、あなた方人間の努力次第ということです。計画はできているのです。

しかし、その計画は自動的に実現されるわけではありません。それはあなた方人間の自由意思に任されております。人間は自由意思を持った協力者です。ロボットでも操り人形でもありません。宇宙の大霊の一部なのです」


───新しい世界が来るとおっしゃっても、私たちにはそれらしい兆候は見当たらいのですが・・・・・・

 「古い秩序が崩壊していくのと同じ速さで、新しい秩序が生まれます。現にその目でご覧になったばかりではありませんか。大帝国がくずれさりました。お金の力が絶対ではなくなりました。

利己主義では割に合わないことが証明されました.戦争体験によって、普通の一般男女の力の本当の価値が証明されました。

 どうか、この私に〝進歩が見られない〟などとおっしゃらないでいただきたい。
℘130
教訓ならあなた方の目の前にいくらでもあります。別に、霊眼は必要ではありません。肉眼で見えるところにあります。これほど切実な体験をした現代の人々に、新しい世界が訪れて当然です。

もしもその恩恵に浴せないとしたら、その人はまだまだ内部の霊的な力を使用するまでに至っていないことを意味します。それだけの努力をした人々は、その犠牲と引き換えに恩恵を受けておられます。

 私はそれが機械的なプロセスで与えられると申しているのではありません。皆さんにやっていただかねばならない仕事があります。それは、一方では霊的知識を広め、他方では古い権力構造の面影に貪欲にしがみついている、因襲的既得権に対して、あくなき闘いを挑む事です」


 シルバーバーチのもとには、数えきれない程の質問が寄せられている。その一つ一つが読み上げられるのをシルバーバーチは熱心に聞き入るが、余りプライベートな内容のものには答えたがらない。

その理由を、プライベートな悩みに答えるには、その悩みを抱えている本人がすぐ目の前にいる必要がある───が、それは、私が委ねられた使命ではないから、と説明する。自分の本来の使命は、すべての人に共通した真理を説くことにあるという。その一つが次の質問である。

℘131
───あなただけがご存じの、何か新しい真理がありますか。

 「新しい真理というものは一つもありません。真理は真理です。単なる知識は、それを受け取る人次第で内容が異なります。子供時代には、その知能程度に似合ったものを教わります。まずアファベットから始まり、知能の発達と共に単語を覚え、文章が読めるようになります。

どの程度のものが読めるかは、その段階の理解力一つに掛っております。知識は無限に存在します。際限がありません。が、そのうちのどこまでを自分のものにできるかは、精神的ならびに霊的受容力の問題です。

 しかし、いくら知識を蓄えても、それによって真理を変えることはできません。いくら知恵を絞っても、真理の中身を変えることはできません。過去において真理であったものは今日でも真理であり、明日の時代でも真理です。真理は不変であり不滅です。

新しい叡智を身につけることはできます。新しい知識を増やすことも出来ます。が、あたらしい真理を生み出すことはできません。

 地上人類はすでに地上生活にとって必須の真理───親切と助け合いと愛についての基本的真理のすべてを授かっております。世界をより良くするには如何にすべきかは、すでに分かっております。

成長と発展と向上と進化にとって必要なものは、過去幾世紀にもわたって啓示されてきております。それに素直に従いさえすれば、今この地上において、内部に宿された神性をより多く発揮することができるのです。

 偉大な指導者、地上に光をもたらした〝霊力の道具〟は、根本においてはみな同じことを説いております。人間の霊性───各自に宿る不滅の資質に目を向けさせるべく、地上を訪れたのです。

言語こそ違え、みな人間のすべてが無限の魂、神の火花、宇宙の大霊の一部を宿していることを説きました。そして素直に従い実行しさえすれば、それより多くを発揮させてくれる指導原理も説いております。

霊的理念に従って生きれば、この世から悪夢のような悲劇、永いあいだ無益な苦しみを与えてきた、恐怖と悲惨と苦悩を一掃できることを説いてきております。

 自分を愛するごとく他人を愛せよ。苦しむ者に手を差し伸べよ。人生に疲れた人、心に潤いを求める者に真理を語って聞かせよ。病の人を癒し、悲しむ人を慰め、不幸な人を訪ねてあげよ・・・・・・こうした教えは、遠い昔から説かれてきた真実です。こうしたことを実践しさえすれば、地上は一変し、二度と恐ろしい悲劇をもたらす戦争も生じなくなるでしょう。
℘133
 そこで、私たち霊団の取るべき態度はどうあるべきか。人間は自分の成長と死後への霊的準備に必要なものは、すでに掌中に収められております。聖なる者も数多くあります。〝師〟と呼ばれる者も数多く輩出しております。

内的世界を垣間見て、その人なりに解釈した霊覚者が大勢います。しかし不幸にして、そうした形で地上に啓示された素朴な真理が埋もれてしまいした。

 人間はその上に教義だの、ドグマだの、信条だの、儀式だのという、余計なものを築き上げてしまいした。単純で素朴な真理の上に、神学という名の巨大な砦を築いてしまい、肝心の基盤がすっかり忘れさられております。

そこで私達は、その埋もれた真理を本来の純粋な姿───何の飾り気も無い素朴なままの姿をお見せするための道具、つまり霊界からのメッセージをお届けするための霊媒を探し求めてきたのです。

 私たちは人間の精神的産物によって色づけされた信仰体制には関心はありません。大切なのは、地上界のように錯覚によって惑わされることのない、霊の世界からの真理です。

なぜかと言えば、余りに多くの落後者、精神的浮浪者のような人間が霊界へ送り込まれる一方で、一見立派そうな人間が、霊的事実について誤った概念と偏見のために、

死後に直面する生活に何一つ備えが出来ていないと言うケースが余りに多過ぎると言う現実をみて、私たちは、いずれ誰もが訪れる永続的な実在の世界、すなわち死後の生活に備えるために、単純な真理を地上にいる間に知ってもらえば、私達の手間も大いに省けるだろうと考えたのです。
℘134
 そこで、あらゆる宗教的体系と組織、進歩を妨げる信仰、不必要な障害、人間の精神を曇らせ、心を惑わせる迷信に対して敢然と宣戦布告し、神の子が神の意図されたとおりに生きられるように、不変の真理を授けようと努力しているわけです。

 他人がどう言おうと気にしてはいけません。非難、中傷など、すべて忘れることです。霊的真理こそが、永遠に変わらぬ真理なのです。理性が要求するテストのすべてに応えうる真理です。決して知性を欺きません。単純。明快で、誰にでも理解できます。

聖職者によるあらゆる方策が失敗したのちも止まることなく普及発展していく真理です。不変の自然法則に基づいた単純素朴な永遠の真理だからです。

 これには、法王も大主教も、司祭も牧師も教会も聖堂も礼拝堂もいりません。私たちも、これを捏ねまわして神学体系を造ろうなどとは思いません。

こうして説くだけです。が、理解ある伝道者さえいれば、それが社会のあらゆる階層に浸透し、すべての人間が身体的にも霊的にも自由を享受し、二度と束縛の中で生きていいくことはなくなるでしょう。無知の暗闇が消滅し、代わって真理の光がふんだんに注がれることでしょう」

℘135
 別の日の交霊会でも、人間の真の自由獲得のための闘争についてこう語っている。

 「私たちは、本当はあってはならない無知に対して闘いを挑まなくてはなりません。神は、内部にその神性の一部を宿らせたはずの我が子が、無知の暗闇の中で暮らし、影とモヤの中を歩み、生きる方角も分からず、得心いく答えはないと思いつつも問い続けるようには意図されておりません。

真に欲するものには存分に分け与えられるように、無限の知識の宝庫を用意してくださっております。

 しかしそれは、当人の魂と成長と努力と進化と発展を条件として与えられるものです。魂がそれにふさわしくならなければなりません。精神が熟さなければなりません。心が受け入れ体制を整えなくてはなりません。その段階で初めて、知識がその場を見出すのです。

 それも、受け入れる能力に応じた分しか与えられません。目の見えなかった人が見えるようになる場合でも、その視力に応じてすこしずつ見せてあげなくてはなりません。一気に全て見せてあげたら、かえって目を傷めます。霊的真理も同じです。

はしごを一段一段とのぼるように、一歩一歩と真理の源へと近づき、そこからわずかずつ我がものとしていくのです。

℘136  
 いったん糸口を見出せば、つまり行為なり思念なりによって受け入れ態勢ができていることを示せば、その時からあなたは、そのたどり着いた段階にふさわしい知識と教訓を受け入れる仕組みとつながります。そのあとはもう、際限がありません。

これ以上は無理という限界がなくなります。なぜならば、あなたの魂は無限であり、知識もまた無限だからです。

 しかし、闘わねばならない相手は無知だけではありません。永いあいだ意図的に神の子を暗闇に閉じ込め、あらゆる手段を弄して自分たちででっち上げた教義を教え込み、真の霊的知識を封じ込めてきた既成宗教家とその組織に対しても、闘いを挑まなくてはなりません。

 過去を振り返ってみますと、人間の自由と解放への闘争のために、私たちが霊界からあらゆる援助を続けてきたにもかかわらず、自由を求める魂の自然な欲求を満足させるどころか、逆に牢獄の扉を開こうとする企てを、宗教の名にもとに阻止しようとする勢力と闘わねばなりませんでした。

 今なお、その抵抗が続いております。意図的に、あるいは、そうとは知らずに、光明の勢力に対抗し、私たちに対して悪口雑言の限りを浴びせ、彼ら自身も信じなくなっている教義の誤りを指摘せんとする行為を阻止し、

勝手にこしらえた神聖不可侵思想にしがみつき、自分で特権と思い込んでいるものがどうしても捨てきれずに、擦り切れた古い神学的慣習を後生大事にしている者が、まだまだ存在します。

 そこで私たちは、人間のすぐ身のまわりに片時も休むことなく打ち寄せる、より大きな、素晴らしい霊の世界のエネルギーがあることを教えに来るのです。そうした数々の障害を破壊し、莫大な霊力───すべての存在に活力を与えるダイナミックな生命力をすべての人間が自由に享受できるようにするためです。

その生命力が、これまでの人類の歴史を通じて多くの人々を鼓舞してまいりました。今でも多くの人々に啓示を与えております。そして、これから後も与え続けることでしょう。

 荒廃しきった世界には為さねばならないことが数多くあります。悲哀に満ち、涙に、むせび苦痛にあえぐ人にあふれ、何のために生きているかを知らぬまま、首をうなだれ、行き先が分からずに、さ迷っている人が大勢います。

そうした人たちにとって、目にこそ見えませんが、霊の力こそ本当の慰めを与え、魂を鼓舞し、元気づけ、導きを必要とする人々に方向を指し示してあげる不変の実在があることを、その霊力が立証してくれます。

 そこにこそ、霊的知識を授かった人々のすべてが参加し、自由の福音、解放の指導原理を広め、人生に疲れ果て、意気消沈した人々の心を鼓舞し、魂の栄光を知らしむべく、この古くて新しい真理の普及の道具として、一身を捧げる分野が存在します。

私たちが提供するのは、霊の力です。あらゆる困難を克服し、障害を乗り越えて、真理の光と叡智と理解力を顕現せしめ、神の子等に恒久的平和を築かせることができるのは、霊の力を措いて他にはないのです」
℘138

───戦死の場合でも、誰がいつ死ぬかということは、霊界では前もって分かっているのでしょうか。

 「そういうことを察知することのできる霊がいるものです。が、どれくらい先のことを察知できるかは、その時の事情によって異なります。

愛の絆によって結ばれている間柄ですと、いよいよ肉体との分離が始まると必ず察知します。そして、その分離がスムースに行われるのを手助けするために、その場に赴きます。

 霊界のすべての霊に知られるわけではありません。いずれにせよ、死んだ時一人ぼっちの人は一人もいません。必ず、例外なく、周りに幾人かの縁故のある人がいて、暗い谷間を通ってくる者を温かく迎え、新しい、そして素晴らしい第二の人生を始めるための指導に当たります」


 総じてシルバーバーチは誰が聞いても分かるようなことを説き、理屈っぽい、難解な質問には答えたがらない傾向がある。その理由をこう弁明する───

 「難解な質問を回避したいからではありません。私は、今すぐ応用のきく実用的な情報をお届けすることに目標をしぼっているからです。基本の基本すら知らずにいる大勢の人々、真理の初歩すら知らない人が大勢いることを思うと、もっと後になってからでもよさそうな難解な理屈を捏ねまわすのは、賢明とは思えません。

 今の時代に最も必要なのは、簡単な基本的真理───墓場の向こうにも生活があること、人間は決して孤独な存在ではなく、見捨てられることもないこと、宇宙のすみずみまで大霊に愛の温もりをもつ慈悲深い力がいきわたっていて、一人一人に導きを与えていること、それだけです。

 これは人間のすべてが知っておくべきことです。また誰にでも手に入れることのできる、掛けがいのない財産なのです。そうした基本的真理すら知らない人間が何百万、いや何千万、いや、何億といる以上は、私たちはまず第一に、そういう人たちから考えようではありませんか。それが私たちにとって最も大切な義務だと思うのです」

℘140
 別の日の交霊会でも同じ話題について───

 「わたしたち霊界の者がこうして地上へ戻ってくる目的の真意が、ほかならぬ宗教の指導者であるべき人から曲解されております。いつの時代にあっても、宗教とは基本的には霊力との関わり合いでした。

それはまず、地上の人間の霊的向上を指向し規制する摂理を教える使命を帯びた者が、地上へ舞い戻ってくるということから始まります。つまり宗教の本来の目的は、人間の霊性に関わっているからです。

 そこから出発し、ではその霊性を正しく発達させる上で、霊界からの指導を受けるにはどうすべきかを説くのが、宗教の次の仕事です。霊的摂理は広範囲にわたっております。

ところが、それが不幸して誤って解釈され、その上、それとは別の意図を持った聖職者が割り込んできたために、そこに混乱が生じたのです。

 人間も根本的には霊であり、それが肉体を使用しているのであって付属品として霊を宿した肉体的存在ではないわけです。肉体は霊に従属しているのです。地上生活の全目的は、その内在する霊に修業の場を与え、さまざまな体験を通じてそれを育み、死によってもたらされる肉体からの解放の時に備えて、身支度をさせることにあります。

そこから本当の意味での〝生活〟が始まるのです。宗教とは、霊が霊として本来の生活ができるように指導するための処世訓であり、道徳律であると言えます。

 ところが不幸にして、古い時代 (イエスの時代の少し後) に、霊の道具である霊媒と聖職者との間に衝突が生じたのです。聖職者の本来の仕事は、聖堂や教会といった宗教的行事の執り行われる建造物の管理でした。

原初形態においては両者の関係はうまく行っておりました。が、ある時代から聖職者の方が、紳示(霊界通信)を受ける霊媒にばかり関心をむけられることに不快感を抱くようになりました。

そしてそれまでに入手した神示を資料として、信条・儀式・祭礼・ドグマ・教説等を分類して綱領をこしらえる、いわゆる神学的操作を始めたのです。今日まで引き継がれているもののうち、どれ一つとして霊の資質と実質的に関わりのあるものはありません。

 かくして、真の宗教の概念が、今日では曖昧となってしまいした。宗教というと何かお決まりの儀式のことを思い浮かべ〝聖典〟と呼ばれるものを読み上げることと考え、賛美歌を歌い、特別の衣装を着ることだと思うようになりました。何やら難しい言説を有り難く信奉し、理性的に考えれば絶対におかしいと思いつつも、なおそれにしがみつきます。
℘142  
 私たちはいかなる神学、いかなる教義、いかなる信仰告白文にも関心はありません。私たちが関心を持つのは人間の霊性であり、私たちの説くこともすべて、絶対的に従わねばならないところの霊的自然法則に向けられています。人間がこしらえたものを崇めるわけにはいきません。

宇宙の大霊によって作られたもののみを実在として信じます。そこに、宗教の捉え方の違いの核心があります。

 人のために役立つ行為、霊性に動かされた行為、無私と利他的行為、自分より恵まれない人へ手を差し伸べること、弱き者へ力を貸してあげること、多くの重荷に喘ぐ人の荷を一つでも持ってあげること、こうした行為こそが私たちの説く宗教です。

 〝神とイエスと聖霊は三にして一、一にして三である〟などと説くことが宗教ではありません。宗教的であるとも言えません。それを口にしたからといって、霊性はみじんも成長しません。朝から晩まで賛美歌を歌ったからといって霊性が増えるわけではありません。

 バイブルを読んでも(キリスト教)、タルムードを読んでも(ユダヤ教)、コーランを読んでも(イスラム教)、バカバット・ギ―タ―を読んでも(ヒンズー教)、その他、いかなる聖なる書と呼ばれているものを、目が疲れるほど読んでも、それだけで霊性が成長するわけではありません。

 〝宗教的〟とみなされている行事のすべてを行っても、それによって一段と価値ある人生へ魂を鼓舞することにならなければ、私たちが考えている意味での宗教的人間になるわけではありません。

 肩書(ラベル)はどうでもいいのです。形式はどうでもいいのです。口先だけの文句はどうでもいいのです。大切なのは〝行為〟です。どういうことをしているかです。つまり各自の日常の生活そのものです。

 私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人として神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすことはできません。自分が自分の救い主であり、贖い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。

 また、神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。すなわち、親切・寛容・同情・奉仕の行為が自動的に、それ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義・罪悪・不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も、安価な赦免もありません。
℘144
神の公正が全宇宙に行きわたっております。霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。死後の床での悔い改めも通用しません。

 巨大なる宇宙の中で生じるもの全てに責任を持つ大霊の、不変にして絶対的威力を有する摂理に目を向けましょう。私は常にその摂理を念頭に置いています。

なぜなら私たちの説く神は、人間的弱点───激情や憤怒に動かされたり、好きな人間と嫌いな人間とを選り分けたりするような、そんな人間的存在ではないからです。

 私が見る宇宙は法則によって支配されています。すみずみまで行きわたり、これからも常に永遠に存在しつづける法則です。

地上の人間に永い間振り回され、隷属させられてきた誤った概念と虚偽、偏見と無知を無くしていくには、地上の生命現象と生活現象のすべてが、その絶対的法則によって支配されていることを教える以外に方法はありません。

 その知識が少しでも増えれば、それだけ理解力も豊かになるでしょう。本来の美しさを遮っていたベールが取り除かれ、有限の地上的存在の視野を超えた所に存在する、より大きな生活を少しでも垣間見ることになるでしょう。

 かくして私たちは、常に神の永遠の自然法則、絶対に狂うことも過つこともない法則、地位の高い低いに関わりなく、すべての存在に等しく働く法則に、忠誠と感謝の念を捧げるものです。

誰一人として等閑(なおざり) にされることはありません。誰一人として独りぼっちの者はいません。法則の働きの及ばない者。範囲からはみ出る者など、一人もいません。あなたがこの世に存在するという事実そのものが、神の摂理の証しです。

 人間の法則は機能しないことがあります。改められることがあります。人間の成長と発達に伴って視野が広がり、知識が無知をなくし、環境が変化するに伴って新たな法令が要請されると、従来の法律が廃止されたり、別の法律と置き換えられたりすることもあります。

 しかし、神の法則に新しい法則が付け加えられことは絶対にありません。改正もありません。解釈上の変化も生じません。いま機能している法則は、これまでずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能してまいります。一瞬の休みもなく機能し、そして不変です」

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