一九二〇年に始まったシルバーバーチの霊言は、当初は霊媒のバーバネル自身が乗り気でなかったこともあって、記録として残す考えはまったくなく、したがって何も残されていない。また、記録として残すほどの内容でもなかったらしい。言ってみればシルバーバーチの練習(リハーサル)に費やされていたようなもので、ハンネン・スワッファーが司会者となってホームサークルを結成してから正式に速記録の係を置くようになり、さらに後になってテープに録音されるようになった。
私の訳で潮文社から出ている全十二巻のシリーズは、八人のサイキックニューズのスタッフが、その記録の中から互いに重複しない箇所をテーマ別に抜粋して構成したもので、その手間の大変さは、思い半ばに過ぎるものがある。が、今こうしてオーツセン一人による新シリーズを訳していきながら気づいたことは、その十二巻に編纂されたもの以外にも、まだまだ素晴らしい霊言、胸を打つ言葉がたくさん残っているということである。
が、そうした言わば“取り残し”の部分だけを断片的に拾い出しただけでは、全体としての筋がまとまらないという弊害が生じる。そこでオーツセンは、すでに前シリーズに出ているものでも敢えて削除せずに、その前後の霊言といっしょに引用するという形で新しい趣向をこらしている。前シリーズと異なって、自分一人で編纂した新シリーズを出すことにしたオーツセンの意図が、その辺から読み取れる。
確かに、こうして形を変え角度を変えて読むと、三十年以上も読み続け、そして翻訳までしてきた私でさえ、何かしら新しいものを読む感じがするから不思議である。同時に、一瞬ドキッとさせられる鋭い言葉が出てきて、襟を正させられることがある。つい先ごろ届いたオーツセンからの手紙によると、いま五冊目を手がけているとのことである。一冊でも多く出してくれることを、日本のシルバーバーチファンを代表してお願いしておいた。
さて、ご存知の方も多いことであろうが、私は本書の前に、コナン・ドイルの『妖精物語』を出している。これは俗に“コッティングレー事件”と呼ばれている衝撃的な妖精写真を扱ったものであるが、これが注目を集めたのが一九一七年から三年間ほどのことで、ドイルがその経緯をまとめて出版したのが一九二二年であるから、時期的にはシルバーバーチが出現しはじめた頃と、ほぼ一致する。
と言って、その二つの現象の間に直接のつながりはないであろう。意義の重大性の点でも、かなりの開きがあるであろう。が、一八四八年の米国における“ハイズビル事件”に始まる、地球の霊的浄化活動――これをスピリチュアリズムと呼ぶ――の気運に乗った、計画的なものであることは間違いないと私は見ている。
こうした気運は、今日、当時よりさらに勢いを増して世界的規模で広がりつつある。心霊治療家や、霊言・自動書記等のいわゆる霊界通信の輩出がそれを物語っている。私がこの道に関心を抱きはじめた昭和三十年頃は、霊的なことを口にするのも憚(はばか)られたものであるが、それを思うと、大きな時代の流れを痛感する。
しかし同時にそうなったらそうなったで、また別の問題が生じている。いかがわしい霊媒・霊能者、そして、いかがわしい霊界通信の氾らんである。ほんものが出ると必ずまがいものが出るのは世の常であるから、これもやむを得ないことかも知れないが、私が今もっとも懸念しているのは、テレビジョンという素晴らしい発明品も、テレビ局のスタッフの良識いかんによっては、社会に害毒をもたらすような内容の情報やドラマが、無差別に茶の間に持ち込まれることがあるように、言論・出版の自由をよいことに、“売れる”ことのみを当てこんで、理性的に考えればあろうはずもないような霊言や自動書記通信が、無節操に出版されはじめていることである。
危険性の伴う機械には何段階もの安全装置が取り付けられているように、社会の仕組みにもチェック機能があってしかるべきであろう。出版にかぎって言えば、その第一のチェックは出版社に求められるべきであろう。さらには、それを売りさばく書店にもその機能の一端を果たしてもらいたいところである。買う人がいるから売る、といった態度では、倫理・道徳は地に落ちてしまう。もっとも、現在の出版界全体の事情のもとでは、あまり高度な理解を求めるのは無理なのかも知れない。
結局、最後で最大のチェック機能をもつのは“自分自身”ということになる。レッテルやタイトルは何とでもつけられる。中身も、それらしいことを書けば格好はつく。霊言と銘うっているものを、まるで駄菓子でもつまむような調子で読みあさるのが趣味という人は、それはそれでよいが、真実のものを求めているつもりの人のために、次の二つのシルバーバーチの言葉を再び引用しておきたい。
「“光”を差し出されても、結構です、私は“闇”で結構です、というのであれば、それによって傷ついても、それはその人の責任です」
「その(神の)働きの邪魔だてをしているのは、ほかならぬ自分自身なのです。自分の無知の暗闇を追い出し、正しい知識の陽光の中で生きなさい」
短いが、深遠な意味を含んだ言葉である。
平成元年五月
近藤干雄
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