一九一七年十二月六日 木曜日
これまで述べたことはごく手短に述べたまでであって、十分な叙述からほど遠い。述べたくても述べられないのです。たとえ述べても分量が増えるばかりで、しかもそれが貴殿の自由な精神活動の場を奪い、真意の理解を妨げることになるでしょう。
吾々としては取りあえず貴殿が食するだけのケーキの材料として程よい量の小麦を提供する。
それを貴殿が粉にしてケーキを作り、食べてみてこれはいけると思われれば、今度はご自分で小麦を栽培して脱穀し粉にして練り上げれば、保存がきくのみならず、これを読まれる貴殿以外の人へも利益をもたらすことになる。では吾々の叙述を進めましょう。
前回の通信で婚姻が進化の過程における折り返し点であると述べましたが、この表現も大ざっぱな言い方であって、精密さに欠けます。そこで今回はこの問題の細かい点に焦点をしぼり、その婚姻の産物たる子供──男児あるいは女児──について述べてみましょう。
生まれくる子供に四つの要素が秘められていることは(前回の通信を理解すれば)貴殿にも判るでしょう。父方から受ける男性と女性の要素と、母方から受ける女性と男性の要素です。
父方における支配的要素は男性であり、母方における支配的要素は女性です。この四つの要素、と言うよりは、一つの要素の四つの側面、もっと正確に言えば二つの主要素と二つの副次的要素とが一個の子孫の中で結合することにより、性の内的原理の外的表現であるところのそうした諸要素がいったん増加して再び一つになるという、一連の営みが行われるわけです。
かくしてその子も一個の人間として独自の人生を開始する──無限の過去を背負いつつ無限の未来へ向けて歩を進めるのです。
どうやら貴殿は洗礼とそれに続く按(あん)手礼(手を信者の頭部に置いて祝福する儀式)について語るものと期待しておられたようですが、そういう先入主的期待はやめていただきたい。吾々の思う通りに進行させてほしい。
貴殿からコースを指示されて進むよりも、貴殿の同意を得ながら吾々の予定通りに進んだ方が、結局は貴殿にとっても良い結果が得られます。
吾々には予定表がきちんと出来上がっているのです。貴殿は吾々の述べることを素直に綴ってくれればよいのであって、今夜はどういう通信だろうか、明日はなんの話題であろうかと先のことを勝手に憶測したり期待してもらっては困るのです。
吾々としては貴殿の余計な期待のために予定していない岬を迂回したり危険な海峡を恐る恐る通過することにならないように、貴殿には精神のこだわりを無くしてほしく思います。
吾々の方で予定したコースの方がよい仕事ができます。貴殿に指示されるとどうもうまく行かないのです。
──申しわけありません。おっしゃる通り私は確かに次は洗礼について語られるものと期待しておりました。サクラメントの順序を間違っておられるようです──聖餐式(せいさんしき)、それから婚姻と。でも結構です。次は何でしょうか。
(訳者注──本来の順序は洗礼が第一で聖餐式がこれに続き、婚姻はずっとあとにくる)
〝死〟のサクラメントである。貴殿にとっては驚きでしょう。もっとも人生から驚きが無くなったらおしまいです。それはあたかも一年の四季と同じで、惰性には進歩性がないことを教えようとするものです。進歩こそ神の宇宙の一大目的なのです。
〝死〟をサクラメントと呼ぶことには貴殿は抵抗を感じるでしょう。が、吾々は〝生〟と〝死〟を共に生きたサクラメントと見なしています。
〝婚姻〟をサクラメントとする以上はその当然の産物として〝誕生〟もサクラメントとすべきであり、さらにその生の完成へ向けての霊界への誕生という意味において〝死〟をサクラメントとすべきです。
誕生においては暗黒より太陽の光の中へ出る。死においてさらに偉大なる光すなわち神の天国の光の中へと生まれる。どちらが上とも、どちらが下とも言えない。
〝誕生〟においては神の帝国における公権を与えられ、〝洗礼〟によって神の子イエスの王国の一住民となり、〝死〟によって地上という名のその王国の一地域から解放される。
誕生は一個の人間としての存在を授ける。それが洗礼によって吾が王の旗印のもとに実戦に参加する資格を自覚させる。そして死によってさらに大いなる仕事に参加する───地上での実績の可なる者は義なる千軍万馬の古兵(ふるつわもの)として、〝良〟なる者は指揮官として、〝優〟なる者は統治者として迎えられるであろう。
したがって〝死〟は何事にも終止をうつものではなく、〝誕生〟を持って始まったものを携えていく、その地上生活と天界の生活との中間に位置する関門であり、その意味において顕幽両界を取り持つ聖なるものであり、それで吾々はこれを吾々の理解する意味においてサクラメントと呼ぶのです。
これで結果的には〝洗礼〟についても述べたことになるでしょう。詳しく述べなかったのは、主イエスの僕としての生涯におけるその重大な瞬間を吾々が理解していないからではありません。他に述べるべきことが幾つかあるからです。
そこで〝死〟のサクラメントについてもう少し述べて、それで今回は終わりとしたい。貴殿にも用事があるようですから。
いよいよ他界する時刻が近づくと、それまでの人生の体験によって獲得しあるいは生み出してきたものの全てが凝縮し始める。これはそれまでの体験の残留エキス──希望と動機と憧憬と愛、その他、内部の自我の真の価値の表現であるところのものの一切です。
ふだんは各自の霊体と肉体の全存在を取り巻き、かつ滲み渡っている。それが死期が近づくにつれて一つに凝縮して霊体に摂り入れられ、そしてその霊体が物的外被すなわち肉体からゆっくりと脱け出て自由の身となる。それこそが天界の次の段階で使用する身体なのです。
しかし時として死は衝撃的に、一瞬のうちに訪れることがある。そのとき霊体はまだ霊界の生活に十分な健康と生命力を具えるに至っていない。そこで肉体から先に述べた要素を抽出し霊体に摂り入れるまで上昇を遅らせる必要が生じる。
実際問題としてその過程が十分に、そして完全に終了するまでは、真の意味で霊界入りしたとは言い難い。
それは譬えてみれば月足らずして地上へ誕生してくる赤子のようなもので、虚弱であるために胎内にて身につけるべきであった要素を時間をかけてゆっくりと摂取していかねばならない。
そういう次第で吾々は〝死〟は立派なサクラメントであると言うのです。きわめて神聖なものです。
人類の歴史において、そのゆるやかな物体の過程──人間の目にはそれが死を意味するのですが──を経ずに肉体を奪われた殉教者がいる。貴殿が想像する以上に大勢いました。が、いずれの過程を経ようと、本質においては同じです。
主イエスは死が少しも恐るべきものでないことを示さんとして、地上的生命から永遠の生命への門出を従容(しょうよう)として迎えた。
その死にざまによって主は、人間の目にいかなる形式、いかなる価値として映じようが、死とは〝神の心〟より流れ出る〝生命の河〟の上流へ向けて人類がたどる、ごく当たり前の旅のエピソードであることを示したのでした。
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