Wednesday, October 16, 2024

 シアトルの秋 あすの指導者たち ───若者にどう説くか───

Leaders of Tomorrow - How to Preach to the Young

 More Philosophy of Silver Birch 
  Edited by Tony Ortzen 

 初めて招待された女性が自分の教会に通う十代の若者にはどう霊的真理を説けばよいかを尋ねた。その教会は英国国教会には属しておらず、バイブル中心の教えは説いていないという。

 シルバーバーチはこう答えた。

 「今日の若者は反抗的なところがありますから、理性と論理に訴えるのが一ばん良いと私は考えます。彼らの気持ちの中には、過去の教えは暗黒の世界をもたらして自分たちを裏切ったという考えがあります。私だったらこうしてお持ちしている霊的真理の背後の理念の合理性を訴えたいと思います。

その際にスピリチュアルリズムとかオカルトとかのラベルや、神秘的、秘教的といった言い方はしない方がよろしい。ただの用語にすぎないのですから。

 それよりも、脳と精神の違い、物質と霊の違いを教え、今すでに自分という存在の中に化学的分析も解剖もできない、物質を超えた生命原理が働いており、それが原動力となって自分が生かされているのだということを説くのです。

人間という存在は最も高度に組織化され、最も緻密で最も複雑なコントロールルームを具えた、他に類をみない驚異的な有機体です。その無数の構成要素が調和的に働くことによって生き動き呼吸できているのです。

しかし実は、その物的身体のほかにもう一つ、それを操作する、思考力を具えた、目に見えない、霊的個性(インディビジュアリティ)が存在していることを説くのです。

 目に見えている表面の奥に、評価し考察し比較し反省し分析し判断し決断を下す精神が働いております。それは物的なものではありません。人間には情愛があり、友情があり、愛があり、同情心がありますが、これらは本質的には非物質的なものです。

愛を計量することはできません。重さを計ることも、目で見ることも、舌で舐めることも、鼻で嗅いでみることも、耳で聞いてみることもできません。それでも厳然として存在し、英雄的行為と犠牲的行為へ駆り立てる最大の原動力となっております。

 あなたの教会へ訪れる若者はまだ、あなたがすでにご存知の霊的真理は何も知らないわけですが、その子たちにまず精神とは何でしょうかと問いかけてみられることです。

それが肉体を超えたものであることは明白ですから、では肉体が機能しなくなると同時にその肉体を超えたものも機能しなくなると想像する根拠がどこにあるか──こういう具合に話を論理的に持っていけば、よいきっかけがつかめると思います。

 それによって何人かでも関心を抱いてくれる者がいれば、その好機を逃してはいけません。嘲笑やあざけりは気になさらないことです。あなたの言葉を素直に受け入れてくれる者が一人や二人はいるものです。その種子はすぐにではなくても、そのうち芽を出しはじめることでしょう。

それであなたは、自分以外の魂の一つに自我を見出させてあげたことになるのです。私たちは地上の人々が正しい生き方を始めるきっかけとなる、真の自我への覚醒と認識をもたらしてあげることに四六時中かかわっております。それが私たち霊団に課された大目的なのです。

人生の落伍者、死後に再び始まる生活に何の備えもない、何の身支度もできていないまま霊界入りする人があまりにも多すぎるからです」


 別の日の交霊会で───

 ───若者に霊的真理へ関心を向けさせるにはどうしたらよいでしょうか。

 「私の考えでは、若者は一般的に言って人生体験、とくに身近かな人を失うことによる胸をえぐられるような、内省を迫られる体験がありませんから、ただ単に霊の世界との交信が可能であることを証明してみせるという形で迫ってはいけないと思います。我が子が死後も生きているといった一身上の事実の証明では関心は引けません。

 私はやはり若者の理性と知性に訴えるべきだと思います。すなわち論理的思考が納得するような霊的真理を提示し、それを単に信じろとか希望を見出せとか要求するのではなく、それが合理的で理性を満足させるものであり、真理の極印が押されたものであることを理解させるために、こちらが説くことを徹底的に疑ってかからせるのです。

 私だったらその霊的真理は不変の自然法則によって統制されている広大な宇宙的構想の一端であることを説きます。生命現象、自然現象、人間的現象のあらゆる側面と活動が、起こりうるすべての事態に備えて用意されている神の摂理によって完全なる統制下に置かれているということです。

 それゆえ地上に起きる出来ごとはすべて法則によって支配されたものであると説きます。つまり原因と結果の法則が働いており、一つの原因には寸分の狂いもない連鎖でそれ相当の結果が生じるということです。奇跡というものはないということです。

法則は定められた通りに働くものであり、その意味ではすべてのことが前もって知れているわけですから、奇跡を起こすために法則を廃棄する必要はないのです。

 そう説いてから、心霊実験による証拠を引き合いに出して、それが、人間は本来が霊であること、肉体は付属物であって、それに生命を吹き入れる霊の投影にすぎないことを証明していることを指摘します。つまり肉体そのものには動力も生命力もないのです。

肉体が動き呼吸し機能できているのは、それを可能ならしめるエネルギーを具えた霊のおかげなのです。霊は物質に優るのです。霊が王様だとすれば物質は従臣です。霊が主人だとすれば、物質は召使いのようなものです。要するに霊がすべてを支配し、規制し、管理し、統制しているのです。

 そう述べてから更に私は、以上のような重大な事実を知ることは深遠な意義があることを付け加えます。これを正しく理解すれば人間的な考えに革命をもたらし、各自が正しい視野をもち、優先させるべきものを優先させ、永遠の実在である霊的本性の開発と向上について、その仮りの宿にすぎない肉体の維持に向けられている関心と同じ程度の関心を向けるようになることでしょう。

 以上のような対応の仕方なら若者も応じてくれるものと私は考えます」


──霊能養成会に参加することはお勧めになりますか。

 「初めからは勧めません。最初は精神統一のためのグループにでも加わることを勧めます。その方が若者には向いているのでしょう。瞑想によってふだん隠れているものに表現のチャンスを与えるのです」


──それはうっかりすると、いわゆる神秘主義者にしてしまいませんか。

 「もしそうなったら、それは方向を間違えたことになります。それも自由意志による選択に任されるべきことです。若者には若者なりの発達の余地を与えてやらねばなりません。受け入れる準備ができれば受け入れます。弟子に準備ができれば師が訪れるものです」


──現代の若者に対して霊界から特別の働きかけがあるのでしょうか。それが血気盛んな若者を刺激して、自分でもわけが分からないまま何かを求めようとさせているのではないでしょうか。

「今日の若者の問題の原因は、一つには第二次世界大戦による社会環境の大変動があります。それが忠誠の対象を変えさせ、過去に対して背を向けさせ、いま自分たちが置かれている状況に合っていると思う思想を求めさせているのです。

 若者は本性そのものが物ごとを何でも過激に、性急に求めさせます。従来の型にはまったものに背を向け、物質のベールに隠されたものを性急に求めようとします。(LSDのような)麻薬を使って一時的な幻覚を味わうとか、時には暴力行為で恍惚(エクスタシー)を味わうといった過激な方法に走るのも、若者が新しいものを求めようとして古いものを破壊している一例と言えます。

 もとより霊的開発に手っ取りばやい方法があるかに思わせることは断じてあってはなりません。それは絶対に有り得ないのです。霊の宝は即座に手に入るものではありません。努力して求めなくてはなりません。霊的熟達には大へんな修行が必要です。それを求める人は、本格的な霊能を身につけるためには長期間にわたる献身的修行を要することを認識しなくてはなりません。

 若者にはぜひとも物質を超えたものを求めさせる必要があります。物質の世界が殻であり、実在はその殻の内側にあることを認識すれば、それが生への新たな視野をもたせることになるでしょう。そうなった時はじめて若者としての社会への貢献ができることになります」


──組織的社会に対するそうした若者の反抗についてお尋ねしたいのですが、その傾向は若者が霊界の波長に合いやすくて、知らず知らずのうちに霊界からの指図に反応しているのだという観方をどう思われますか。

 「私は若者の反抗は別に気にしておりません。私がいけないと言っているのは若者による暴力行為です」


───若者も愛を基本概念とした神を求めております。彼らの思想は愛に根ざしています。教会中心ではなく神を中心としています。そうではないでしょうか。

 「反抗するのは若者の特権です。安易に妥協するようでは若者でなくなります。追求し、詮索し、反逆しなくてはいけません。地上世界はこのたび幾つかの激変を体験し、慣習が変化し、既成の教えに対する敬意を失いました。

 こうした折に若者なりに自分たちの住む世界の統治はかくあるべきだと思うものを求めても、それを非難してはいけません。しかし肝心なのは地上生活もすべて霊的実在が基本となっており物的現実とは違うという認識です。物質にはそれ自身の存在は無いのです。物質の存在は霊のおかげなのです。物質は外殻であり、外皮であり、霊が核なのです。

 肉体が滅びるのは物質で出来ているからであり、霊が撤退するからです。老いも若きも地上の人間すべてが学ばねばならない大切な教訓は、霊こそ全生命活動の基盤だということです。地上生活におけるより大きな安らぎ、より一層の宿願成就のカギを握るのは、その霊的原理をいかに応用するかです。すなわち慈悲、慈愛、寛容心、協調的精神、奉仕的精神といった霊的資質を少しでも多く発揮することです。

 人間世界の不幸の原因は物質万能主義、つまりは欲望と利己主義が支配していることにあります。我欲を愛他主義と置きかえないといけません。利己主義を自己犠牲と置きかえないといけません。

恵まれた人が恵まれない人に手を差しのべるような社会にしないといけません。それが究極的に今より大きな平和、協調性、思いやりの心を招来する道です。

 私は絶対に悲観していません。私はつねに楽観的です。人間世界の諺を使わせていただけば〝ボールはいつも足元に転がっている〟と申し上げます。(フットボールから生まれた言いまわしで、目の前に成功のチャンスが訪れている、といった意味──訳者)


──若者の関心が物的なものに偏っていること、つまりお金と地位だけを目的としている生き方に批判的であるようにお見受けしますが・・・

 「私は若者が悪いと言っているのではありません。彼らは言わば犠牲者です。今日の混乱した世相には何の責任もありません。しかし同時に、彼らが何の貢献もしていない過去からの遺産を数多く相続しております。さまざまな分野でのパイオニアや改革者たちが同胞のために刻苦し、そして豊かな遺産を残してくれているのです。

 見通しはけっして救いようのない陰うつなものではありません。確かに一方には世の中を悪くすることばかりしている連中もいますが、それは全体の中の一部にすぎません。他方には世の中に貢献している人々、啓発と叡智とををもたらし、来るべき世代がより多くの豊かさを手にすることができるようにしようと心を砕いている人たちが大勢いるのです」


──私にも子供がいます。私が大切だと思うアドバイスをしても必ずしも受け入れてくれませんが、そうした努力によって私も未来のために貢献できるのだと思うと慰められます。

 「とても難しいです。この道に近道はないのです。が、あなたもせめて物的自我から撤退して静かな瞑想の時をもち、受け身の姿勢になることはできます。それがあなたの家族を見守っている霊とのより緊密な接触を得る上で役立ちます」


──問題はけっきょく良い環境を作るということでしょうか。

 「若者というのは耳を貸そうとしないものです。若いがゆえに自分たちの方が立派なことを知っていると思い込んでいるのです。それが地上での正常な成長過程の一つなのです。

あなただって若い時は親よりも立派なことを知っていると思っていたはずです。若者が既成の権威に対して懐疑を抱くということは自然な成長過程の一つであるということを認識しなければいけません。

(環境うんぬんではなくて)けっきょく親として一つの手本を示して、その理由づけができるようでなければいけません。それしか方法はありません。若者も霊的存在としての人間の生き方はこうあるべきだという、幾つかの道があることは認めなくてはいけません。しかし、若者がそのことを理解するのは容易なことではありません」


──われわれが真実に間違いないと確信していることでも、それを他人に信じさせることは難しいことです。今こそ必要とされている霊的真理を広く一般に証明してみせるために何とかして霊界から大掛かりな働きかけをしていただけないものでしょうか。それとも、今はその時期ではないということでしょうか。

 「その時期でないのではなく、そういうやり方ではいけないということです。私たちは熱狂的雰囲気の中での集団的回心の方法はとりません。そんなものは翌朝はもう蒸発して消えています。私たちは目的が違います。

私たちの目的は一人ひとりが自分で疑問を抱いて追求し、その上で、私たちの説いていることに理性を反撥させるもの、あるいは知性を侮辱するものがないことを得心してくれるようにもっていくことです。

 私たちは立証と論理によって得心させなければいけません。これはその人たちが霊的に受け入れる用意ができていなければ不可能なことです。そしてその受け入れ準備は、魂が何らかの危機、悲劇、あるいは病気等の体験によって目覚めるまでは整いません。

つまり物質の世界には解答は見出し得ないという認識を得なければなりません。人間の窮地は神の好機であるといった主旨の諺があります。

 私たちはそういう方法でしか仕事ができないのです。一点の曇りもなく霊的真理を確信できた人間は真の自我に目覚め霊的可能性を知ることになると私たちは信じるのです。生命は死後も途切れることなく続くことに得心がいきます。霊的自我に目覚めたその魂にとっては、その時から本当の自己開発が始まるのです。

そして霊的知識に照らして自分の人生を規制するようになります。自然にそうなるのです。それによって内部の神性がますます発揮され、霊的に、そして精神的に、大きさと優雅さが増してまいります。

 あなたのように霊的な知識を手にした人間は、自分のもとを訪れる人にそれを提供する義務があります。ですが、受け入れる用意のできていない人をいくら説得せんとしても、それは石垣に頭を叩きつけるようなもので、何の効果もありません。手を差しのべる用意だけはいつも整えておくべきです。

もしお役に立てば、そうさせていただいたことに感謝の意を表しなさい。もしもお役に立てなかったら、その人のために涙を流してあげなさい。その人はせっかくのチャンスを目の前にしながら、それを手にすることができなかったのですから。

 それ以外に方法はありません。容易な手段で得られたものは容易に棄て去られるものです。霊的熟達の道は長く、遅々として、しかも困難なものです。霊の褒賞は奮闘努力と犠牲によってのみ獲得されるのです。

 霊的卓越に近道はありません。即席の方法というものはありません。奮闘努力の生活の中で魂が必死の思いで獲得しなければなりません。聖者が何年もの修行の末に手にしたものを、利己主義者が一夜のうちに手にすることが出来るとしたら、神の摂理はまやかしであったことになります。それはまさしく神の公正を愚弄するものです。

一人ひとりの魂が自分の努力によって成長と発達と進化を成就しなくてはならないのです。そうした努力の末に確信を得た魂は、もはや霊的真理をおろそかにすることは絶対にありません。

 落胆する必要など、どこにもありません。私たちは前進しつづけております。勝利をおさめつつあります。けっして敗けているのではありません。混乱しているのは(真理の出現に)狼狽している勢力です。霊的真理は途切れることなく前進をつづけております。

 あなたにこの知識をもたらしたのは、ほかならぬ〝悲しみ〟です。あなたは絶望の淵まで蹴落とされたからこそ受容性を身につけることができたのです。が、今はもうその淵へ舞い戻ることはないでしょう。

 それです。それと同じことを他の人々にも体験させてあげるのです。永い惰眠から目を覚まし、受容性を身につけ、神の意図された生き方を始める者が増えるにつれて、徐々にではあっても確実に霊的真理が広がっていっていることを私たちは心からうれしく思っております。

 あなた方が大事に思っておられることが私たちにはどうでもよいことに思えることがあります。反対にあなた方がどうでもよいと思っておられることが私たちからみると大事なことである場合があります。その違いは視野の置きどころの違いから生じます。分数の計算でいえば、人生七十年も、永遠の時で割れば大した数字にはなりますまい。


 ダマスカスへ向かうサウロ(のちのパウロ)を回心させたのが目も眩まんばかりの天の光であったように(使徒行伝9)たった一つの出来ごとが魂の目を開かせる触媒となることがあるものです。それはその時の事情次第です。こうだという厳格で固定した規準をあげるわけにはまいりません。

地上への誕生のそもそもの目的は魂が目を覚ますことにあります。もしも魂が目覚めないままに終われば、その一生は無駄に終わったことになります。地上生活が提供してくれる教育の機会が生かされなかったことになります」



──地上で目覚めなかった魂はそちらでどうなるでしょうか。

 「これがとても厄介なのです。それはちょうど社会生活について何の予備知識もないまま大人の世界に放り込まれた人と同じです。最初は何の自覚もないままでスタートします。地上と霊界のどちらの世界にも適応できません。地上において霊界生活に備えた教訓を何一つ学ばずに終わったのです。何の準備もできていないのです。身支度が整っていないのです」


──そういう人たちをどうされるのですか。

 「自覚のない魂はこちらでは手の施しようがありませんから、もう一度地上へ誕生せざるを得ない場合があります。霊的自覚が芽生えるまでに地上の年数にして何百年、何千年とかかることもあります」


──親しい知人が援助してくれるのでしょう?

 「出来るだけのことはします。しかし、自覚が芽生えるまでは暗闇の中にいます。自覚のないところに光明は射し込めないのです。それが私たちが直面する根本的な問題です」


──彼ら自身が悪いのでしょうか。

 「〝悪い〟という用語は適切でありません。私なりにお答えしてみましょう。魂を目覚めさせるためのチャンスは地上の人間の一人ひとりに必ず訪れています。神は完全です。誰一人忘れ去られることも無視されることも見落とされることもありません。誰一人として自然法則の行使範囲からはみ出ることはありません。

その法則の働きによって、一つ一つの魂に、目覚めのためのチャンスが用意されるのです。

 目覚めるまでに至らなかったとすれば、それは本人が悪いというべきではなく、せっかくのチャンスが活用されなかったと言わねばなりません。私がたびたび申し上げているのをご存知と思いますが、もしも誰かがあなたのもとを訪ねてきて、たとえば病気を治してあげることが出来なかったとか、あるいは他のことで何の力にもなってあげられなかったときは、その人のことを気の毒に思ってあげることです。

せっかくのチャンスを生かせなかったということになるからです。あなたが悪いのではありません。あなたは最善を尽くしてあげるしかありません。もしも相手が素直に受け入れてくれなければ、心の中でその方のために祈っておあげなさい。

 何とか力になってあげようと努力しても何の反応もないときは、その方にはあなたのもとを去っていただくしかありません。いつまでもその方と首をつながれた思いをなさってはいけません。それぞれの魂に、地上生活中に真理を学び自我を見出すためのチャンスが用意されております。それを本人が拒絶したからといって、それをあなたが悪いかに思うことはありません。

あなたの責任はあなたの能力の範囲でベストを尽くすことです。やってあげられるだけのことはやったと確信したら、あとのことは忘れて、次の人のことに専念なさることです。これは非情というのとは違います。霊力は、それを受け入れる用意のない人に浪費すべきものではないのです」


 その日の交霊会には両親がニュージーランドでスピリチュアリズムの普及活動をしている若い女性が出席していた。その女性にシルバーバーチが〝ようこそ〟と挨拶をしてからこう述べた。

 「新参の方にいつも申し上げていることですが、私の教えを (新聞・雑誌で) 世間へ公表してくださる際に、私のことをあたかも全知全能であるかに紹介してくださっているために、私もそれに恥じないように努力しなければなりません。しかし実際は私は永遠の真理のいくばくかを学んだだけでして、それを、受け入れる用意のできた地上の人たちにお分けしようとしているところです。

 そこが大切な点です。受け入れる用意ができていないとだめなのです。真理は心を固く閉ざした人の中には入れません。受け入れる能力のあるところにのみ居場所を見出すのです。真理は宇宙の大霊と同じく無限です。あなたが受け取る分量はあなたの理解力の一つにかかっています。

理解力が増せばさらに多くの真理を受け取ることができます。しかも、この宇宙についてすべてを知り尽くしたという段階には、いつまでたっても到達できません。

 前口上が長くなりましたが、私はあなたのようにお若い方にはいつも、その若さでこうした霊的真理を授かることができたことは、この上なく幸運なことであることを申し上げるのです。これから開けゆく人生でそれが何よりの力となってくれるからです。

それにひきかえ、今の時代においてすら若い時から間違ったことを教え込まれ、精神構造が宗教の名のもとに滑稽ともいうべき思想でぎゅうぎゅう詰めにされている若者が少なくないのは、何という悲しいことでしょう。何の価値もないばかりか、霊的進化を促進するどころかむしろ障害となっているのです。

 神の教えではなく、人間が勝手にこしらえた教説が無抵抗の未熟な精神に植えつけられます。それが成人後オウムのごとく繰り返されていくうちに潜在意識の組織の一部となってしまうケースが余りにも多いのです。それが本当は測り知れない恩恵をもたらすはずの霊的真理を受け入れ難くしております。

 地上生活にとって呪ともいうべきものの一つは、無意味な神学的教説が着々と広まったことだったと断言して、けっして間違っていないと私は考えます。それが統一ではなく分裂の原因となり、お互いの霊的本性の共通性の認識のもとに一体ならしめる基盤とならずに、流血と暴力と抗争と戦争そして分裂へと導いていきました。

 それゆえにこそ私は、あなたがこうして霊的真理を手にされたことは実に恵まれていらっしゃると申し上げるのです。あなたは人生の目的を理解し、無限の愛と叡智から生み出された雄大な構想の中に自分も入っているのだという認識をもって、人生の大冒険に立ち向かうことができます。それは何ものにも替えがたい貴重な財産です。霊的兵器を備えられたのです。  

 あなたは人生での闘いに臆することなく立ち向かい、いかなる事態に置かれても、自分には困難を克服し障害を乗り越え、霊的品格と美質と強靭さを身につけていく力が秘められているとの自信をもつことができます。それであなたも宇宙の大霊に貢献していることになります。

 大霊は無限の多様性をもった統一体です。人間一人ひとり異なっていながら根源においては同じです。同じ大霊によって生命を賦与されているからです。が、顕現の仕方は多岐にわたり、まったく同じ個性は二つと存在しません。しかも、いずれも神の遺産として、発達させれば自分より恵まれない者を救うことのできる能力が賦与されているのです。

 あなたも例外ではありません。その能力を発達させるのがあなたの義務なのです。必ずしも霊的能力にかぎりません。他にもすべての人間が所有し世の中を豊かにする手だてとすることのできる才能がたくさんあります。地上の人間のすべてがそれぞれに授かっている才能や技能を発揮するようになれば、どんなにか世の中が明るくなることでしょう」


 別の日の交霊会で若者の別の側面が話題となった時にこう語った。

 「若者は一筋縄ではいきません。あえて言わせていただきますが、ここにおいでの皆さんの誰一人として、若い時に大人を手こずらせなかった方はいません。大人になるにつれて若者特有の反抗的性格が薄らいでいきますが、若い時は大人が世の中をめちゃくちゃにしている──オレたちが建て直すのだ、という気概に燃えたに相違ないのです。

 が、成長して理解力が芽生えてくると、知らず知らずのうちに恩恵を受けていることが沢山あることに気づいて、それに感謝しなければならないと思いはじめます。こうしたことも両極の原理、バランスの原理の一つなのです。つまり若輩と年輩とがそれぞれの役割をもち、男性と女性の関係と同じように、お互いに補足し合うようになっているのです。

人生のしくみは完全なバランスの上に成り立っております。それぞれの存在が正しく機能を発揮すれば全体が調和するようになっているのです。ですから、年輪を重ねた大人は大らかな心、ゆとりのある態度で、これから数々のことを学んでいく若者を見守ってやることが大切であることになります」

 その日のゲストとして出席していた心霊治療家の意見に対して──

 「発酵素が働いているのです。発酵したエネルギーを若者はどちらへ向けるべきかが分かりません。在来の教えが何の効力も発揮しなかったことに不満を抱き、何かを求めようと必死になります。そして霊的なもの、神秘的なもの、目に見えないもの、無形のものに惹かれます。

無意識のうちに惹かれていることもあります。霊的なものだけが与えてくれる充実感を魂そのものが求めるのです。しかし若いがゆえに、それをわけも分からず性急に求めます。安易な手段で安直な満足を求めてしまいます」


──それでヘロインとかLSDに走るわけですね。

 「大人は大らかでないといけません。若者の心を理解し、力になってやらないといけません。もしもあなたが若者の心に霊力を注ぎ、魂に炎を点火してやることができたら、それだけでこの上なく大きな貢献をしたことになります。その若者の地上での生活全体が根本から違った意義をもつことになるのです」


──LSDを使用している若者は邪霊に取り憑かれているようです。

 「困ったことに、その種の麻薬は地上と接した幽界の最下層の波長に合った心霊中枢を開かせるのです。それに感応してやってくる霊はその若者と同程度のもの、往々にして地上で麻薬中毒あるいはアルコール中毒だった者で、その状態から一歩も脱出できずに、相変わらずその種の満足を求めているのです。地縛状態から解放されていないのです。

 霊的治癒能力は触媒です。身体と霊と幽体との関係が混乱して生じている複雑な状態を解きほぐします。霊と精神と身体の三者が調和すれば健康に向かいはじめます」

 別の日にも次のようなことを述べた。
 「若者は明日の指導者となるべき人たちです。思考の仕方を正しく指導し、生活全体を正しい視野におさめるようにもっていけば、平和をさらに確固たるものにする上で若者なりの大切な役割を果たすことができます」

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