Sunday, March 3, 2024

シアトルの弥生 自分の行為をすべて自分の判断のもとに行っていると思うこと自体が誤りである。

To think that all one's actions are based on one's own judgment is itself a fallacy.


真理普及の仕事において人間が頻りに己の存在価値を求めんとすることに、われらは奇異の念を覚える。一体人間はどうありたいと望むのであろうか。背後から密かに操作することをせずに、直接五感に訴える手段にて精神に働きかけ、思想を形成すれば良いとでも言うのであろうか。奇術師が見事な手さばきで観客を喜ばせる如くに、目に見える不可思議な手段に訴える方がより気高く有効であるとでも言うのであろうか。

われらが厳然たる独立性を持つ存在であることを示すに足るだけのものは既に十分に提供したつもりである。われらの働きを小さく見くびることはいい加減にして、われらが汝の精神に働きかける影響を素直に受け入れてほしい。

われらはその精神の中の素材を利用するからこそ、印象が強くなる。われらの仕事にとって不必要なものも取り除かれるのではないかとの心配は無用である。

──そんな懸念はもっておりませんが、ただ私も自分の個性だけは確信しておきたいという気持ちはあります。また偉大な思想家の中にはもっと広い観点から神の啓示を完全に否定している者が大勢おります。彼らが言うには、人間は自分に理解し得ないものを受け取るわけがないし、自分から考え出した筈もない内容の啓示を外部から受けて、それが精神の中に住み込むことは有り得ないというのですが・・・・・・ 


 そのことに関しては既に述べてある。それが如何に誤った結論であるかは、いずれ時が経てば汝にも判るであろう。汝はわれらの仕事を何やら個性を持たぬ自発性なき機械の如く考えたがるようであるが、それに対してわれらは断固として異議を唱えるものである。

第一、自分の行為をすべて自分の判断のもとに行っていると思うこと自体が誤りである。汝には単独的行為などというものは何一つない。常にわれらによって導かれ影響を受けておると思うがよい。


〔この通信から数日後に私は新旧両聖書の福音を、この霊訓より得た新しい光に照らして読み直して得た幾つかの結論を述べた。それまでとは全く異なった角度から観たもので、それが正しいと言えるか否か、新しい解釈と言えるか否かを訪ねてみた。〕






 大体においてその結論で正しいと言えよう。が、別に新しくはない。これまでも神学的束縛より脱し、障害もこだわりもなく真理を追求せる者は、とうの昔にそうした結論に達している。その啓示を得た者は大勢いるのである。


──ではなぜ私にその人たちの説を読ませてくれないのです。面倒が省けるでしょうに。


 汝は汝なりの道を辿りて結論に達する方がよいのである。それから他人の結論を比較すればよい。


──あなたの態度はいつもそうです。まわり道をしているように思えてなりません。仮にあなたのおっしゃる通りだとしても、なぜこんなに永い間私を誤謬の中で生きてこさせたのですか。

 それは、すでに申した如く、汝が真理を理解する状態になかったということである。これまでの生活は、汝が思うほど永かったわけでもないが、進歩のための周到なる準備であった。その時点においては有益であり、進歩を促進するものであった。が、それとて、より高き真理の理解へ導くための準備であったということである。

今の段階についても同じことが言えよう。いずれ将来において今を振り返り、この程度のことが何故あれほどまで驚異に思えたのであろうかと、不思議に思えることであろう。

 汝の全存在である生命は常に進歩を求める。がしかし、その初期はその後の発達のための準備期間に過ぎぬ。

 神学も汝の訓育のためには通過すべき必須段階の一つだったのであり、われらとしても汝がその誤れる見解を摂り入れてゆくのを敢えて阻止しなかったし、又阻止しようにも出来なかった。これまでのわれらの仕事において、その誤れる教義を汝の精神より取り除くことが最大の難題の一つであった。が、

われらはそれを着々と片付け、今や汝の目にも、啓示の問題に関し、われらをして誤れる見解を取り除き、正しき知識を吹き込むことを可能ならしめるに要する数々の知識を見出し得るであろう。神学の中にありては如何に尊ぶべきものであろうと、単なる語句に対する因襲的信仰が根を張っているかぎり、われらは何も為し得ぬ。

われらとしては、それが聖書にあるなしに関わらず、人間を通して得られる啓示に、それなりの価値を汝が見出し得るようになるまで待つ他はない。議論に際し、何かと言うと聖書を持ち出すようでは、われらは何も為し得ぬ。そのような者は理性的教育の及ぶところではない。

 イエス・キリストの生涯とその訓えの中には、われらの側より証明を与える前に汝自らの判断にて改めて検討し直すべきことが数多く存在する。その生涯に関する記録を検討すれば、たぶん汝はその信憑性、出所、権威等の問題について再考を促されるであろう。

イエスの出生にまつわる話、その語録に基づく贖罪説──イエス自身の贖罪とイエスの御名のもとに説ける者たちの贖罪、奇跡、磔刑(はりつけ)、そして再生へと目を向けるであろう。

また神及び同胞に対する責務についてのイエスの教えとわれらの説くところとの比較、祈りについてのイエスの見解と弟子達の見解、同じくイエスと弟子たちによる運命の甘受と自己犠牲に関する説、慈善、懺悔と回心への寛容、天国と地獄、賞と罰、等々が目にとまることであろう。

 今や汝にはそうした問題について正面より検討する用意が出来た。これまでの汝はそうした問題については先入的結論をもって対応するのみであった。まずもってその記録の信憑性を検討するがよい。そこに記載されたる言説のもつ正当なる価値を検討せよ。

その上でソクラテス、プラトン、アリストテレス、等の哲人の言説を検討するが如くに、イエスの言説を検討することである。誇張的表現を削ぎ落し、事実そのものを直視せよ。

神がかり的表現を冷静なる理性の光に照らして検討せよ。伝説、神話、因襲の類に過ぎぬものを払い除け、何ものにも拘束されずに、辿り着く結論を恐れることなく、勇気をもって己の判断力一つにて検討してみよ。勇気をもって神を信じ、真理を追求せよ。啓示とは何かについて真剣に、そして冷静に、勇気をもって思考せよ。

 そうした勇気ある真理探究者には夢想だにせぬ知識と、いかなる在来の教義も与え得ぬ安らぎを授かることであろう。己一人で求めたことのない者には知り得ぬ、神とその真理とを知ることであろう。一人して遥か遠き他国を訪れ、そこに生活して始めてその国の真実の姿を知り得る如く、神的真理についてその実相に触れることであろう。

その者の背後には啓発の任務を帯びる霊団──人類に真理と進歩をもたらすための霊が集結することであろう。かくして旧(ふる)き偏見は崩れ去り、旧き誤謬は新たな光に後ずさりし、それ相応の暗闇へと消え行き、魂は一点の曇りなき目にて真理を見つめることになるであろう。何一つ恐れることはない。イエスもかく語っている──〝真理は汝を解き放ち、而して汝はまさに自由の身とならん〟①と。




〔私は現実に可能であるならば何を犠牲にしても是非そうありたいと思うと述べた。私は面白くなかった。そして一人で踠(もが)くに任されることに不満を表明した。〕


  


    

 われらは決して汝を放置しておくわけではない。援助はする。が汝らが為すべきことを肩代わりすることはせぬ。汝自身が為さねばならぬ。汝が努力しておればわれらも真理へと導くであろう。われらを信ぜよ。汝にとってはそれが最良の道であり、それ以外に真理を学ぶ道はない。

われらがその真理を語ったところで汝は信じようとしないであろうし、理解しようともせぬであろう。キリスト教の啓示の問題以外にも汝が目を向けねばならぬものが数多くある。キリスト教以外の神の啓示、キリスト教以外の霊的影響の流れ等々の課題があるが、今はまだその時期ではない。これにて止めよ。神の導きのあらんことを。
                              ♰ イムペレーター

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