第一部 霊言による霊訓
1. はじめに
この第一部に収録した霊訓は、医師スピーア博士の私宅で催された交霊会での霊言を博士夫人が筆録して保存しておられたものである。
ステイントン・モーゼス氏の死後、夫人はそれを心霊誌ライトに寄稿された。その記事の中からさらに厳選して、ここに出版することにした。貴重な価値と興味あふれる資料が紛失することを惜しむがゆえである。
収録されたものは断片的に抄出したものであって、内容に連続性はない。同時に、原文では連続していないものでも内容に一貫性があれば並置したところもある。
カッコ「 」の部分が通信霊の述べた言葉で、その他はスピーア夫人の説明である。通信霊はほとんどの場合が最高指導霊のインぺレーターで、特に指摘されていない場合は、インペレーターと思っていただきたい。
ライト誌での連載を終えるに当たってスピーア夫人はこう述べている。
「交霊会における現象の見事さと品の良さ、またインペレーター霊の強烈にして威厳に満ちた雰囲気はとても言葉で尽くせるものではありませんでした」
──構成者
(註)──この前書きは本書の構成者のものであるが、氏名は記されていない。なおスピーア夫人の文章は現在形と過去形とが入り乱れていて一貫性がない。実際にはモーゼスの死後のことであるから過去形である方が自然なので、私はすべてを過去形に統一した。☆
「私こと Imperator Servus Dei (神の僕インペレーター)は四十九名から成る霊団の頭であり、監督と統率の任にあり、他のすべての霊は私の指導と指令によって仕事に当たります。
私は全知全能の神の意志を成就せんがために第七界(55頁参照)より参りました。使命達成の暁には二度と地上には戻れない至福の境涯へと向上して行くことでしょう。しかしそれはこの霊媒が地上での用を終えた後となるでしょう。そしてこの霊媒は死後において地上よりさらに大きな使命を与えられることでしょう。
私の下に私の代理であり副官であるレクター Rector がいます。彼は私の不在の折に私に代わって指揮し、とりわけ物理的心霊現象に携わる霊団の統率に当たります。
レクターを補佐する三番目に高い霊がドクター Doctor, the Teacher です。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率下に、後で紹介する知恵と知識を担当する一団が控えています。
次に控えるのが、地上の悪影響を避けあるいは和らげ、危険なものを追い払い、苦痛を軽減し、よい雰囲気を醸し出すことを任務とする二人の霊です。この二人にとって抗しきれないものはありません。が、内向的罪悪への堕落はどうしようもありません。そこで霊界の悪の勢力──霊媒の心変わりを画策し、聖なる使命を忘れさせようとする低級霊の誘惑から保護することを役目とする二人の霊が付いております。じきじきに霊媒に付き添うこの四人を入れた七人で第一の小霊団(サークル)を構成しています。われわれの霊団は七人ずつのサークルで構成されており、それぞれに一人の指揮官がいて六人を統率しております。
第一のサークルは守護と啓発を担当する霊──霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊から成ります。
次のサークルは愛の霊のサークルです。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、その他に優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類のものすべてを配慮します。
次のサークル──これも同じく一人が六人を主宰しています──は叡智を司る霊の集団です。直感、感識、反省、印象、推理、といったものを担当します。直感的判断力と、観察事実からの論理的判断力とを指導します叡智を吹き込み、且つ判断を誤らせんとする邪霊からの影響力を排除します。
次のサークルは知識──人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当します。また霊媒の辿る困難きわまる地上生活を指導し、有益な実際的知識を身に付けさせ、直観的知恵を完成させます。これはドクターの指揮のもとに行われます。
その次に来るのが芸術、科学、文学、教養、詩歌、絵画、音楽、言語等を指揮するグループです。彼等は崇高で知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さにあふれる言葉に触れさせます。美しいもの、芸術的なもの、洗練された教養あふれるものへ心を向けさせ、性格に詩的な潤いを与え、気品あるものにします。
次の七人は愉快さとウィットとユーモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を受け持ちます。これがこの霊媒の性格に軽快なタッチを添えます。つまり社交上大切な生気あふれる明るさであり、これが日々の重々しい苦労から気分を解放します。愛想がよく心優しい、魅力あふれる霊たちです。
最後のサークルは物理的心霊現象を担当する霊たちです。高等な霊的真理を広める上でぜひ必要とみた現象を演出します。指揮官代理であるレクターの保護・監督のもとに、彼ら自身の更生を兼ねて、この仕事に携わっております。この霊媒及びわれわれ背後霊団との接触を通じて、更生への道を歩むのです。それぞれに原因は異なりますが、いずれも地縛霊の類に属し、心霊現象の演出の仕事を通じて浄化と向上の道を歩みつつある者たちです。
このように、私の霊団は七つのグループに分かれており、それぞれに特殊な使命があります。愛と叡智と知識の霊たち、洗練された高貴な霊たち、明るく愛想のいい霊たち、この低い地上界の単調であくせくした生活に天上的な光輝をもたらす霊たち、地上界と皆さんとの交わりを通じて低い界から高い界への進化という恩恵に浴さんとして働く霊たち──その霊たちの演出する現象が地上の人間にはまだまだ必要なのです。
いずれのグループの霊たちも、みずからも進歩を求めている霊たちです。霊媒に体験と啓発を与え、霊媒と生活を共にし、霊媒と共に進歩せんと志す者たちです。霊媒に教えることによってみずからも学び、霊媒を向上せしめることによってみずからも向上せんとしているのです。
われわれのこうした仕事は愛に発する仕事です。それみずからが報酬をもたらすのです。霊媒に祝福をもたらし、霊媒を通じて人類に祝福をもたらし、それがわれわれにとっての祝福となるのです。
全能の父なる神の祝福のあらんことを」
「私がこの地上を去ったのは遥か遠い昔のことになりますが、このたび戻って参りましたのは、この霊媒を通じて霊的啓示を届けんがためです。それが私の使命なのです。私の属する界層からこの地上へ戻って来る霊はきわめて稀です。が、大神が特殊な使命のためにこの私を遣わされたのです」
「天界と地上との間の階梯(はしご)はつねに掛けられております。が、人間の側の不信心が天使の働きかけを遮断してまいりました」
──あなたは神の僕ですか。
「いかにも。神の僕として選ばれ使命を仰せつかることは、われわれ仲間の間にあってはただならぬことです。私はこの霊媒を通じての使命を終えた後には二度と個的身体をまとって戻ることの出来ない境涯へと赴きます。他の霊を通じて影響力を行使するのみとなるでしょう。
皆さんはすべからく大神の導きを求めねばなりません。おのれを恃(たの)む者は滅びる、滅びる、滅びる・・・・・・(特に厳粛な調子で述べた)。神は光明と導きを求める者を決してお見捨てにはなりません。決して、決して、決して・・・・・・」
霊言が始まった当初、インペレーターはモーゼスのほぼ全生涯を共にしてきたと述べた。そのころは第六界に所属していたが、のちに第七界へと向上しているという。
そのインペレーターがモーゼスを入神させて語る時、モーゼスの頭部の後方に大きな光の十字架と、それを取り巻く光線が列席者の目に映った。やがてそれが数フィートにも及ぶ高さの、強烈な光輝を発する美しい〝光の柱〟となり、それが右に左にと動いていた。その光柱の背後に沢山の光が楕円形に群がっていた。その状態が三十分以上も続いた。そのことについて尋ねるとインペレーターが、光の柱はインペレーター自身で、それを取り囲んでいる光線は側近の者で、光の群れは霊団の他の者たちであると説明してくれた。また霊媒の頭部のまわりの光輝は霊媒の霊的威力を示しているとのことだった。
インペレーターが出現している時は必ずサークル全体に厳かな雰囲気がみなぎり、われわれは偉大にして善良な霊の前に居ることを感じるのだった。
インペレーター霊団の背後にはもう一人、強烈な影響力を持つ霊が控えていて(巻末〝解説〟参照)、霊団全体の指導と霊媒の守護の任に当たっていた。その霊団の中でも高級な部類に属する霊たちは霊媒を教化する立場にあり、代わって霊媒が霊団の中でも未発達な霊を教化するという関係にあった。その大半が地上生活での成長が乏しかった者で、再教育の為に、いうなれば地上という学校へもう一度戻ってきたのである。この仕事を通じて成長したものはやがて霊団を離れて上層界へと進み、代わって、同じ仕事を必要とする霊がその役目についた。
インペレーターの語り口と祈りは実に厳かで、聞く者の心に、ぜひともこの聖なる仕事を完遂したいとの真摯な願望を抱かずにはおかなかった。われわれの祈りに対してもインペレーターは(自分みずからではなく)自分を通じて神の意志が直接伝えられるように嘆願してくれるのだった。そして交霊会のしめくくりとしていつも、われわれが、神の御国がわが心の中にあることをこの地上にあって悟り、慈悲と穏やかさと優しさと哀れみの心を身につけるようにその祈りの言葉を述べた。その一つを紹介すると──
「願わくば全能なる大神の祝福と保護のもとに真理と安らぎへ導かれんことを。地上を去りてのち、苦しむことなく中間の界層を首尾よく通り抜け、喜びの境涯へと進むことが出来るよう、この今を生きられんことを」
「地上へ降りてくる高級な霊は一種の影響力であり、言わば放射性エネルギーです。人間が想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物のようなものです。高等な霊的通信の非個人性に注目していただきたい。この霊媒との関わりを持った当初、彼はしつこくわれわれの身元の証明を求めました。が、実はわれわれを通して数多くの影響力が届けられているのです。死後、首尾よく二段階三段階と上って行った霊は人間的意味での個体性を失い、形体なき影響力となって行きます。私はいま地上へ戻れるぎりぎりの境涯まで辿り着きました。が、距離には関係なく影響力を行使することが出来ます。今私は皆さんからはるか彼方に居ます」
エリオトソン Elliotson と名のる霊に代わる。
「(入神状態において宇宙の記憶層から)無意識のうちに回想するなどということは不可能なことです。無意識的回想説は笑止千万というべきです。すべてのカギは背後霊の働きにあります。またアイデンティティ(地上時代と同じ人物像)が不変であるかに考えるのも間違いです。私の知る限り高級霊ほどアイデンティティをほとんど失っております。進化していくうちに個性が拡張し放散して、一種の影響力の中枢のような存在となるのです。この霊媒の守護に当たっておられるインペレーター霊はこの上なく高貴なお方で、私をその影響下に包み込んでおられます。が、私にはそのお姿は見えないのです。しかも私が存在する空間に充満しておられます。命令と指示を受けておりますが、一度もお姿を拝したことがないのです。この霊媒には顕現の形で見えることがあります。その必要性があってのことで、私にはその必要性はありません。
私にとっては、こうして地上に戻ってくることは一種の試練です。たとえてみれば、清らかで陽光あふれる大気の世界からも濃霧の立ちこめる谷底へ下りて行くにも似ていましょう。地上の雰囲気の中に入ると私はすっかり変わってしまうようです。かつての地上時代の思考の習性がよみがえってきますし、当時より鈍重な空気を呼吸するような感じがします」
「私たちはあなた方人間に神そのものが影響力の大中心であること、その影響力は中間的存在である霊を通じて人類へいきわたることをお教えしたいのです。その霊的存在──あなた方が天使と呼んでおられる存在です──が人類に影響を行使しているのです。光の大中心を取り巻いて存在する大天使が、それをさらに取り巻いて存在する天使に影響力を放散する──つまりそうした天使的存在を通路として最高神の霊力が、受け入れる能力のある者すべてに届けられるという仕組みをお教えしたいのです。
人間は無意識のうちに知識を受け取りそれを広める通路となっているのです。与えられた才能を開発し、与えられた仕事を助成することによって、人間界における神の霊の住処を開発していくことができるのです。神のお力は高き界層に発し、天使を通して降下し、選ばれた使者にしみ通り、いかにすれば人間が神の協力者たりうるかを示します」
インペレーターに代わる。
「かつては〝天使〟と呼ばれ今日では〝霊〟と呼ばれている存在が人間と神との間をとりもち、神の恩恵を地上へ送り届けると同時に、人間の祈りを神の玉座へ送り届けることも致します。それが神と人間とを取り持つ手段であり、影響力の通路なのです。物質に宿る霊(人間)のまわりには常に天使の支配があると思われるがよろしい」
(註──ここでエリオトソンとインペレーターが述べていることは、私が〝まえがき〟で述べたこととも関連して、霊能者をもって任じている人達に猛省を促したいところである。
宇宙意識とか記憶の層から望み通りの知識や情報が得られることは理屈の上でのみ言えることであって、実際にそれができる人は地上の人間にまずいない。シルバーバーチは自分の過去世を知ることすら地上の人間には困難だと言っている。
この種の問題ではエドガー・ケーシーの名を思い浮かべる方が多いことであろう。この人は宇宙意識が語るのを入神状態で取り次ぐそうであるが、実際はエリオトソンが言っている通り、それもすべて背後霊団がやっていることである。
ラジオのダイヤルを回すと次から次にいろんな放送が入って来るが、宇宙にはそれとは比較にならない、無数といってよいほどの意識や観念が飛び交っている。高級霊からのものもあるが、それを妨害したり、それらしく装って実はニセの情報を流している低級霊の集団からのものもある。困ったことには、そうした低級霊の波長の方が人間には感応しやすいのである。そこに予言のハズレや霊言のいい加減さが生じる原因がある。
心霊治療の場合は治る治らないの形で結果が明確に出るから良いが、霊言、霊示、お告げの類は、本当か否かを判断する手掛かりは何一つない。たとえ間違いなく〝霊〟からのものであっても、今度はこの霊の程度と質が問題となる。それを試す方法は二つある。
一つは徹底的に疑ってかかることである。唯々諾々として何でも有難がるのが一番危険である。疑われて機嫌を損ねるような霊は相手にしない方がよい。
もう一つは、その内容から判断して、それが〝霊〟から承(うけたまわ)らねばならないほどのものかどうか、あるいは、そんなことを知ってどうするのかということを常識的に検討してみることである。その尺度でいけば、最近マスコミを通じて霊言だ、予言だと言って宣伝されているものに、どうでもいい、好い加減なものがいかに多いかがお分かりいただけるであろう。☆
スピーア博士がキリスト教の教義について質したのに対してインペレーターが──
「キリスト教の説く教義には多くの誤りが見受けられます。神についての見解はそれを受け取った霊媒の先入観念によってとかく着色されているものです。人間の勝手な考えによって教説をこしらえ、それがドグマとして定着し、絶対的教義として教え込まれています。創造神と人間とのつながり、及び罪についてのキリスト教の説は間違っております。
罪とは、本質的には、霊性を高めるべく意図された永遠不変の摂理に意識的に違反することです。神が人間の罪をご自身への侮辱と受け止めるような事はあり得ません。われわれが幼児の無礼を受けとめるのと同じように(寛容的に)受けとめられます。自然の摂理によっていずれは悲しみと罰とがもたらせるようになっているのです。罪それ自体は創造神への侮辱などではありません。従って無力な人間に報復という形で罰が加えられるなどということはあり得ません。罪はそれ自体が不変の摂理の審判としての罰を含んでいるのです。
人間イエス・キリストの地上生活は、地上の人間が見習うべき一つの模範を垂れたものでした。が、それをもって人間の罪を贖ってくれるものと見なすことは赦し難い欺瞞であり、それこそ神を侮辱し、その汚れなき霊性を侮辱し、盲目的信仰に安住している者を堕落させ、おのれの軽信をもって美徳と思わせることになりかねません。
そのうち、これほど好い加減な寓話が、よくも大まじめに信じられてきたものと呆れる日も来ることでしょう。われわれにその普及の権限が託されている真理は、いずれそうした人間的創作を全て無用のものとすることでしょう。人間は神を自分に似せて想像したのです。その神はきわめて人間的です。人間らしさを幾つも備えております。もう少し崇高な概念が抱ける者ならばおよそ受け入れ難い性質を、人間は〝神〟の名のもとに説いてきました。
地上人類はようやく今、全知全能の父なる神の概念へ向けて近づきつつあります。やがて新たな啓示を得て、すべての古い誤謬を排除し、新しい神の概念を理解することになるでしょう。全能の神からわれわれが頂いてきた啓示は、これまでの古い教義と思索の産物を排除し、それに代わって、作り話ではなく、あるがままの真理を授けることになるでしょう。
霊的啓示はすべて神から届けられます。がしかし、それまで人間が信じ希望を託してきたものの多くを除去しなければならないために、必然的にそれは人間が〝信仰〟と呼んでいる者を覆すことになります。神は人間の理解力に応じたものを啓示されます。ゆえに、神の啓示は段階的進歩を辿ることになります。それを授けようとするわれわれの仕事を阻止せんとする邪霊が組織的策謀を弄していますが、こうした反抗は真理が完全に普及しつくすまでは途絶えることはないでしょう。それは信念の弱い者にとっては容易ならざる試金石となるでしょうし、信念強固なものにとっては油断ならない大敵となるでしょう。が、そこにこそ邪霊の存在意義もあるのです。
見えざる通信霊の指導を仰ぐ時は、果たしてその霊がみずから公言するとおりの存在であるか否かを見極めないで唯々諾々として承ることのないよう心していただきたい。われわれの立場から言わせていただけば、真摯にして純粋な探求心から発する調査には何ら恐れは覚えません。この交霊会において皆さんが目の当たりにされている現象は、キリストが行った奇跡と本質に置いて同じものです。その耳でお聞きになる言葉はヘブライの予言者たちの言葉と少しも変るところはありません。
スピリチュアリズムの知識はいずれ普及します。が、何所かの宗派の教義としてではありません。われわれの啓示には主教も司祭も執事も必要としません。必要なのは守護・指導に当たる霊と、それを受ける人間の霊との交わりのみです。キリストも述べております──いずこの土地、いずこかの人間が特に他より神聖であるかに説かれることのない時代が訪れるであろう。と」
(注──英国国教会のかつての大主教ウィリアム・テンプルの言葉にこうある──〝わが国教会の最大の誤りは、神は紀元六六年まで世界の一地域すなわちパレスチナにのみ働きかけ、それ以後は他のいかなる土地にいかなる働きかけもしていないという信仰を作り上げてしまったことである〟と。いつから何を根拠にこうした説が出来上がったのかは知らないが、もしその通りだとすると、交霊会というものはあり得ないことになる。キリスト教徒が交霊会を毛嫌いする理由はそこにあるが、ここでインペレーターが言っているのは、交霊会を通じてのみならず日常生活においても霊は人間に働きかけており、それが一番大切だということである。☆
「われわれは人間に対して、自分をおいて他にいかなる救い主も説きません。胸をえぐられる思いの後悔の念と深甚なる償い──罪の結果はそれしかありません。悪いと知りつつ犯した罪が生み出すその結果から逃れられる者はいません。誰一人いません。お慈悲を求めていかに大げさに泣き叫んでみても、それだけで即座に神の御前に侍らせていただけるようなことは断じてありません。叉底なしの地獄絵図など、われわれは説きません。肉体的に、精神的に、そして霊的に、地上の人間としても義務を果たすことによって徐々に幸せに、少しずつ神らしく成長していきます。人間の勝手なドグマなどは肉体の死と共に死滅し、昇りゆく太陽によって雲散霧消します」
スピーア博士「十字架上での盗人の懺悔の教訓は人を誤らせるものということになるわけですね」
「そうです。涙も絶叫も魂を清めることにはなりません。矯正のための永い過程をへなければなりません」
スピーア博士「御子イエスの血がすべての血を清める、という聖書の文句を解説してください」
「その中身を汲み取ることです。人間はこれを神がその御子を地上へと身を落とさせ、その御子の血のほとばしりが、それによる贖いへの信仰を告白した者のみを永遠の火焔地獄から救い出すと解釈しています。一体その御子が何者であるかについて知らないままそう解釈しておりますが、そのような冷酷にして無情、邪険きわまる言説は打ち棄て、キリストの生涯と教えの底流にある霊的な意義を読み取ることです。
その人生は人間にとって模範とすべきものであり、至純にして至聖、苦難によって崇高さを増し、慈悲によよって高揚された生涯でした。みなさんもぜひその生活を見習っていただきたい。そうした生活こそ罪より救い、気高いものへと導いてくれることでしょう。誤ることを免れない人間の言葉を字句通りに受け取り、さらにその誤った土台の上に教理の体系という上部構造を築くという間違いを犯しております」
「ここで、神についての真実の概念を申し述べたいと思います。人間的属性をそなえた人格神としてではありません。神々しい人間神としてでもありません。全宇宙に瀰漫し、普及する普遍的大霊としてです。今や人類は神についてより大きな概念を受け入れる用意が出来ました。われわれは〝愛〟として顕現している神を説きます。愛──いかなる限界内にも閉じ込められない愛としてです。
人間神の概念はかつての人類全体に行きわたっていた偶像崇拝の産物です。これを改めることもわれわれも使命の一つです。神は一個の人格を具えた存在などではありません。どこかの一地点に鎮座ましますのではありません。すべてに浸透し、無始無終に存在し、すべてを導き、すべてを愛されるのです。
肉体に宿る人間はどうしても限りある形体を具えた神を想像します。われわれが知り得た限りでは、神は限りある人格者ではなく、ましてや一個の人間となって誕生したこともなく、人間的影響力によって動かされることなど断じてありません。神は普遍的法則として働いています。祈ることは結構です。祈りは波動の原理で天上界へと送られ、神が直接働きかけられる天使のもとに届けられます。人間はすべからく祈ることです。祈ることを知らない頑なな魂は天使も近づくことができません。祈る魂には、いついかなる時でも、天上界の使者が惹きつけられます。
一方においてわれわれは神を一種のエネルギーとして片付けんとする致命的な誤りを避けねばなりませんが、他方、神を人間的煩悩と必需品と権力欲とを具えた人間的存在とする擬人説の迷妄にも陥らぬように注意しなければなりません。原書、人間は自分で勝手な神を作り上げました。暴君の如き神、いえ、人間にも真似のできないほど極悪非道の神でした。本当の神とは生命の本質として、全存在に活力を与える〝霊〟です。全存在を美化する光と愛とを供給する資源です。その神の御心にかなった生活はキリストの生涯の中に体現されています。神は単なるエネルギーではありません。さりとて人間が大自然と呼んでいる非人格的存在でもありません。
神のことを宇宙に瀰漫する根源的大霊と心得るがよろしい。〝父なる存在〟という言葉がその正しい概念を伝えております。大自然そのものは神ではありません。その大霊が顕現した相(すがた)にすぎません。手がすなわち身体とは言えません。身体を構成するものの一顕現にすぎないのと同様です。
これまで〝父なる神〟についてあまりに誤った概念がはびこっていました。遠い昔にあっては、それは怒れる神であり、、人間はお慈悲を求めて泣き叫ぶことによってその怒りを鎮めることを要しました。わが子を永遠の地獄へほうり込むことを愉快に思う神でした。
われわれが認識している神(想像する神ではありません)は、完全にして永遠なる愛の神、過ちを犯した人間も善良な人間もともにその御胸に抱かれる神──わが子すべてを等しく哀れみをもって見つめ、民族や土地によって区別することなく、神の御名を唱えるものすべてに等しく優しさと愛の念をもって応えてくださいます。
もしも人間が、いかに身分の低い者をも、世間でいかに軽蔑されている者をも慈しみ慰め給う間断なき愛の証──天使の軍勢が神の子等を取り囲んでいる姿をわれわれと同じようにご覧になることが出来れば──たとえ一瞬でもその目で光り輝く存在の大軍勢を垣間見ることが出来れば、誰しもきっと感動を覚え、鑽仰(さんぎょう)の声を発するに違いないのですが・・・・・・。願わくば石のごとく冷ややかな人間の心、高級界からの働きかけに何の反応も示さない心が神の御光に感動し、全てを与えたもう神、普遍的愛の神へ向けて讃仰の声を発することになってくれればと祈らずにはいられません。
われわれはその天界の政庁の代表として参っている者です。父なる大神は、子等の望みに応えるべく、慰安と導きと愛をたずさえた天使団を送られます。輝ける永遠の光明界よりわれわれは人類の経綸のために参っているのです。天使の群れ、霊の群れ、他界せる知友の群れが、後に残れる者の経綸に当たっているのです。
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