Wednesday, January 31, 2024

シアトルの冬 人類の真の自由の獲得のための闘争

The struggle for true freedom for mankind

別の日の交霊会で同じく人類の真の自由の獲得のための闘争についてこう語っている。
「私達はなくもがなの無知に対して闘いを挑まなくてはなりません。神は、内部にその神性の一部を宿らせたはずの我が子が無知の暗闇の中で暮らし、影と靄の中を歩み、生きる目的も方角も分らず、得心のいく答えはないと思いつつも問い続けるようには意図されておりません。

真に欲する者には存分に分け与えてあげられる無限の知識の宝庫が用意されておりますが、それは本人の魂の成長と努力と進化と発展を条件として与えられます。魂がそれに相応しくならなければなりません。精神が熟さなくてはなりません。心がその受け入れ態勢を整えなくてはなりません。

その時初めて知識がその場を見出すのです。それも、受け入れる能力に応じた分しか与えられません。

目の見えなかった人が見えるようになったとしても、その視力に応じて少しづつ見せてあげなくてはなりません。一気に全部を見せてあげたら、かえって目を傷めます。霊的真理も同じです。梯子を一段一段上がるように、一歩一歩、真理の源へ近づき、そこから僅かずつを我がものとしていくのです。

 いったん糸口を見出せば、つまり行為なり思念なりによって受け入れ態勢が出来ていることを示せば、その時からあなたは、その辿り着いた段階にふさわしい知識と教訓を受け入れる過程と波長が合いはじめます。そのあとは、もう、際限がありません。

これ以上はダメという限界がなくなります。なぜなら、あなたの魂は無限であり、知識もまた無限だからです。しかし闘わねばならばならない相手は無知だけではありません。

永い間意図的に神の子を暗闇に住まわせ、あらゆる手段を弄して自分たちのでっち上げた教義を教え込み、真の霊的知識を封じ込めてきた既成宗教家とその組織に対しても闘いを挑まなければなりません。

過去を振り返ってみますと、人間の自由と解放への闘争のためにわれわれが霊界からあらゆる援助を続けてきたにもかかわらず、自由を求める魂の自然な欲求を満足させるどころか、逆に牢獄の扉を開こうとする企てを宗教の名のもとに阻止しようとする勢力と闘わねばなりませんでした。

 今日なおその抵抗が続いております。意図的に、あるいはそうとは知らずに、光明の勢力に対抗し、われわれに対して悪口雑言を浴びせ、彼らみずから信じなくなっている教義の誤りを指摘せんとする行為を阻止し、勝手な神聖不可侵思想にしがみつき、

自分で勝手に特権と思い込んでいるものがどうしても捨て切れず、擦り切れた古い神学的慣習を後生大事にしている者がまだまだ存在します。

そこで私どもが人間のすぐ身のまわりに片時も休むことなく澎湃(ほうはい)として打ち寄せる、より大きく素晴らしい霊の世界があることを教えに来るのです。そうした障害を破壊し、莫大な霊力、全てに活力を与えるダイナミックな生命力を全ての人間が自由に享受できるようにするためです。

その生命力がこれまでの人類の歴史を通じて多くの人々を鼓舞してきました。今でも多くの人々に啓示を与えております。そして、これから後も与え続けることでしょう。
 
 荒廃に満ちた世界には、これから為さねばならないことが数多くあります。悲哀に満ち、悲涙にむせぶ人、苦痛に喘ぐ人にあふれ、何のために生きているのかを知らぬまま、首をうなだれ行く先が分からずにさ迷っている人が大勢います。

こうした人々にとって、目にこそ見えませんが、霊の力こそ真の慰めを与え、魂を鼓舞し、元気づけ、導きを必要とする人々に方向を指し示してあげる不変の実在であることを、その霊力みずからが立証します。

 そこにこそ、霊的知識を授かった人々の全てが参加し、自由の福音、解放の指導原理を広め、人生に疲れ果て意気消沈した人々の心を鼓舞し、魂の栄光をしらしむべく、この古く且つ新しい真理普及の道具として、一身を捧げる分野が存在します。

私たちが提供するのは、〝霊の力〟です。あらゆる困難を克服し、障害を乗り越えて、真理の光と叡知と理解力を顕現せしめ、神の子等に恒久的平和を築かせることができるのは、霊の力を措いてほかに無いのです」

シルバーバーチ

Sunday, January 28, 2024

シアトルの冬 〝生〟を正しい視野で捉えていただきたい。その中で〝死〟が果たしている役割を理解していただきたいと思います。

I want you to view ``life'' from the correct perspective. I would like you to understand the role that "death" plays in this.


    最後に霊界から見た〝死〟の意味をこう語った。 「〝生〟を正しい視野で捉えていただきたい。その中で〝死〟が果たしている役割を理解していただきたいと思います。人間はあまりに永いあいだ死を生の終わりと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。

私どもはぜひとも無知───死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れとみなす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。

死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるより豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。

 死の関門を通過した人はカゴから放たれた小鳥のようなものです。思いも寄らなかった自由を満喫して羽ばたいて行くのです。人間が死と呼ぶところの看守によって肉体という名の監獄から出させてもらい、(原則として)それまでの肉体に宿っているが故に耐え忍ばねばならなかった不平等も不正も苦しみも面倒もない、

より大きな生へ向けて旅立ったのです。霊本来の限りない自由と崇高なよろこびを味わうことになるのです。

 苦痛と老令と疲労と憂うつとから解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探究心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。

その悲しみには利己心が潜んでいます。自分が失ったものを悲しんでいるのです。自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。

それは間違いです。もしも霊的真理に目覚め、無知の翳(かす)みを拭い落した目でご覧になれば、愛するその方の光り輝く姿が見えるはずです。死は決して愛する者同士を引き離すことはできません。

愛は常に愛する者を求め合うものだからです。あなた方の悲しみは無知から生じております。知識があれば愛する者が以前よりむしろ一段と身近な存在となっていることを確信できるはずです。霊的実在を悟ることから生じるよろこびを十分に味わうことができるはずです。

 皆さんもいずれは寿命を完うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ捨てる時が来ます。霊が成熟して次の進化の過程へ進む時期が来ると自然にはげ落ちるわけです。

土の束縛から解放されて、死の彼方で待ち受ける人々と再会することができます。その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです」
 

Friday, January 26, 2024

シアトルの冬 生命のすべてに存在を与え給いし大霊よ。

Great Spirit, who gives existence to all life.



 生命のすべてに存在を与え給いし大霊よ。


 私たちをこの場に集わしめ、あなたの霊力を活用して大自然の摂理の存在を証し給う大霊よ。私たちはあなたの道具として、この地上での奉仕の機会をいただいたことに深甚なる感謝の意を表します。

 ああ、真白き大霊よ。あなたは全生命の光におわします。


 あなたの存在なくしては、ただの暗闇のみとなるからで御座います。あなたは全生命を包摂する法則におわします。


 あなたの存在ありてこそ星はしかるべき位置を保ち、太陽は輝き、花は咲き、小鳥は歌うのでございます。

 あなたとあなたの摂理ありてこそ、あなたの霊は物質の世界にも顕現し、しかもあなたとの絆を保ち続けられるのでございます。

その絆を通じてあなたはご自身を顕現なさいます。


 それは挫折せる者を救い勇気づけてあげようとする欲求であり、人生に疲れた人を援助してあげようとする熱意であり、心の渇いた人に真理の潤いを、衰弱した人に力を与えてあげたいと思う願望でございます。

 子等の想像を絶する偉大さと崇高さをそなえし大霊よ。地上のいかなる聖賢の洞察力をもってしても計りがたき愛と美と叡智に溢れし大霊よ。


 私たちはあなたを宇宙の最大にして最強の存在として認識いたしております。神の中の神であり、王の中の王であり、絶対的摂理であり、その働きは完ぺきにして行き届かないところはございません。

 私たちはあなたの御名においてなされてきたこと全てが栄誉と栄光に満たされんことを、そして又、この場にあなたの霊の宿らせ給う神殿(交霊の場)が確立され、あなたの霊力に満たされ、あなたの光にあふれ、その輝きを遠く広く地上の暗き所にあまねく行きわたらせ、この物質の世界に御身とその永遠の摂理についての認識を根づかせんと祈るものでございます。

 その仕事のために私どもは高遠の世界の有志に援助を求め、その霊力と叡智を持って人類に、御身についてまた自分みずからについてのより深い理解をもたらし、あなたが彼らを地上に置かれた、そもそも天命を全うせしめんと望むものでございます。

シルバーバーチ

シアトルの冬 神

The God

(1)神とは宇宙の自然法則です。物的世界と霊的世界との区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛であり完全なる叡智です。神は宇宙のすみずみまで行きわたっております。人間に知られている小さな物的宇宙だけではありません。まだ知られていない、より大きな宇宙にも瀰漫しております。


(2)神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。全法則に宿っております。神は宇宙の大霊です。神は大生命です。神は大愛です。神は全存在です。僕に過ぎないわれわれがどうして主人(アルジ)を知ることができましょう。ちっぽけな概念しか抱けないわれわれに、どうして測り知れない大きさの存在が描写できましょう。


(3)あなた方の世界と私たちの世界、まだ人間に知られていない世界を含めた全宇宙が神の法則の絶対的な支配下にあります。その法則を超えたことは何一つ起きません。すべてが自然法則すなわち神の摂理の範囲内で起きているのですから、すべてが知れるのです。


(4)完全が存在する一方には不完全も存在します。しかしその不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生まれるのです。完全は完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。


(5)神は法則です。万物を支配する法則です。法則が万物を支配しているのです。宇宙のどこにも法則の支配を受けないものは存在しません。地震、嵐、稲妻───こうしたものの存在が地上の人間の頭脳を悩ませていることは私も承知しております。

しかしそれらもみな宇宙の現象の一部です。天体そのものも進化しているのです。この天体上で生を営んでいる生命が進化しているのと同じです。物質の世界は完全からはほど遠い存在です。そしてその完全はいつまでも達成されることはありません。より高く、あくまでも高く進化して行くものだからです。


(6)神は法則であり、その法則は完ぺきです。しかし物質の世界に顕現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。忘れてならないのは地球も進化しつつあるということです。地震も雷も進化のしるしです。地球は火焔と嵐の中で誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。


(7)日没と日の出の美しさ、夜空にきらめく星座、楽しい小鳥のさえずりは神のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は神のものではないなどということは許されません。すべては神の法則によって営まれていることです。


(8)宇宙は神の反映です。神が宇宙組織となって顕現しているのです。ハエに世の中のことが分かるでしょうか。魚に鳥の生活が理解できるでしょうか。犬に人間のような理性的思考が出来るでしょうか。星に虚空が理解できるでしょうか。すべての存在を超えた神という存在をあなた方人間が理解できないのは当然です。

しかし人間も、魂を開発することによって、一言も語らずとも魂の静寂の中にあってその神と直接の交わりを持つことができるのです。その時は神とあなたとが一体であることを悟られます。それは言葉では言い表せない体験です。あなたの、そして宇宙のすべての魂の静寂の中においてのみ味わえるものです。



(9)霊それ自体はもともと完全です。宇宙を構成している根源的素材です。生命の息吹です。それがあなた方を通して顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるが為に顕現の仕方も不完全なのです。あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されてまいります。


(10)法則は完全です。しかしあなたは不完全であり、したがって完全な法則があなたを通して働けないから、あなたを通して顕現している法則が完全でないということになります。あなたが完全へ近づけば近づくほど、完全な法則がより多くあなたを通して顕現することになります。

こう考えるとよろしい。光と鏡があって、鏡が光を反射している。鏡が粗末であれば光の全てを反射することができない。その鏡を磨いて立派なものにすれば、それだけ多くの光を反射するようになります。


(11)私は原初のことは何も知りません。終末についても何も知りません。知っているのは神は常に存在し、これからも永遠に存在し続けるということだけです。神の法則は完ぺきに機能しております。あなたはもともと完全な光をお持ちです。が、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。

それを、光が不完全だ、光は悪だとは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上で〝悪〟と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している〝不完全さ〟を意味するに過ぎません。


(12)神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。晴天だけではなく嵐も法則の支配を受けます。健康だけでなく病気を通しても働きます。晴天の日だけ神に感謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。

太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対である)悪魔の存在を想定しました。稲妻や雷鳴の中に自分たちの想像する神のせいにしたくないものを感じ取ったのです。


(13)神とは法則です。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れては何も存在出来ません。あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現に過ぎません。

その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。愛と憎しみは表裏一体です。愛という形で表現できるエネルギーは、憎しみを表現する時に使用するエネルギーと同じものなのです。


(14)善なるもの、聖なるもの、美なるもの、愛、叡智、そのほか人生の明るい側面だけに神が宿っているかに考える旧式の思想は棄てなければいけません。

神の表現をそのように限定すれば、もはや絶対神が絶対でなくなります。それは条件付きの神、限定された霊となります。絶対神の本質は無限・全智・全能・不可変・不易であり、それが法則となって絶え間なく機能しているのです。


(15)神を右手にナザレのイエスを従えて玉座に座している立派な王様のように想像するのはそろそろ止めなければいけません。それはもはや過去の幼稚な概念です。宇宙全体、雄大な千変万化の諸相の一つ一つに至るまで絶対的な法則が支配しているのです。神とは法則のことです。


(16)神は人間的存在ではありません。法則です。それが全生命を支配しているのです。法則なくして生命は存在しません。法則がすなわち霊であり、霊がすなわち法則なのです。それは変えようにも変えられません。そこのところが理解できない人にとってはいろいろと疑問が生じるでしょうけど、成長とともに理解力も芽生えてまいります。

神が善なるものを与え悪魔が邪なるものを与えるという論法ではラチがあきません。ではその悪魔はだれがこしらえたのかという、古くからのジレンマにまたぞろ陥ってしまいます。


(17)人間的存在としての神は人間がこしらえたもの以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間がこしらえたもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。そうしたものは全て、視野を限られた人間の想像的産物にすぎません。

神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。なぜなら、世の中が不変にして不可変、全智全能の法則によっておさめられていることを知れば、絶対的公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構の中にあって一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。


(18)存在を可能ならしめている法則なくしては何一つ存在出来ないのが道理です。法則が絶対的に支配しているのです。人間に与えられている自由意志が混乱を引き起こし、法則の働きを正しく見えなくすることはあっても、法則は厳然と機能していますし、また機能してもらわなくては困ります。


(19)私にとって神とは永遠不変にして全智全能の摂理としての宇宙の大霊です。私はその摂理にいかなる不完全さも欠陥も不備も見つけたことがありません。原因と結果の連鎖関係が完璧です。この複雑をきわめた宇宙の生命活動のあらゆる側面において完璧な配慮が行きわたっております。

たとえば極大から極小までの無数の形と色と組織を持つ生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けていただければ、神の法則の全構図と全組織がいかに包括的かつ完全であるかを認識されるはずです。私にとって神とは法則であり、法則がすなわち神です。ただ、あなたは不完全な物質の世界に生活しておられるということです。


(20)五感に束縛されているかぎり、神の存在、言いかえれば神の法則の働きを理解することは不可能です。その限界ゆえに法則の働きが不完全に見えることがあるかも知れませんが、知識と理解力が増し、より深い叡智を持って同じ問題を眺めれば、それまでの捉え方が間違っていたことに気づくようになります。物質の世界は進化の途上にあります。

 その過程の一環として時には静かな、時には激動を伴った、さまざまな発展的現象があります。それは地球を形成していくための絶え間ない自然力の作用と反作用の現われです。常に照合と再照合が行われるのです。存在していくための手段として、その二つの作用は欠かせない要素です。それは実に複雑です。


(21)私が地上にいた頃はインディアンはみな別の世界の存在によって導かれていることを信じておりました。それが今日の交霊実験会とほぼ同じ形式で姿を見せることがありました。その際、霊格の高い霊ほどその姿から発せられる光輝が目も眩まんばかりの純白の光を帯びていました。

そこでわれわれは最高の霊すなわち神は最高の白さに輝いているものと想像したわけです。いつの時代にも〝白〟というのは、〝完全〟〝無垢〟〝混ぜ物のない純粋性〟の象徴です。

そこで最高の霊は〝純白の大霊〟であると考えました。当時としてはそれがわれわれにとって最高の概念だったわけです。それは、しかし、今の私にとっても馴染み深い言い方であり、どのみち地上の言語に移し替えるのであれば、永年使い慣れたものを使いたくなるわけです。ただしそれは人間ではありません。人間的な神ではありません。

神格化された人間ではありません。何かしらでかい存在ではありません。激情や怒りといった人間的煩悩によって左右されるような存在ではありません。永遠不変の大霊、全生命の根源、宇宙の全存在の究極の実在であるところの霊的なエネルギーであり、それが個別的意識形態をとっているのが人間です。


(22)こうして神について述べてみますと、やはり今の私にも全生命の背後の無限の知性的存在を包括的に述べることは不可能であると痛感いたします。が少なくとも、これまであまりに永い間地上世界にはびこっていた数々の幼稚な表現よりは、私が理解している神の概念に近いものを表現しているものと信じます。


(23)忘れてならないのは、人間は常に進化しているということ、そしてその進化に伴って神の概念も深くなっているということです。知的地平線の境界がかつてほど狭いものでなくなってきており、神ないし大霊、つまり宇宙の第一原理の概念もそれに伴って進化しております。しかし神自体は少しも変っておりません。




  
シルバーバーチの祈り

 ご一緒に神の祝福を祈願いたしましょう。
 ああ、大いなる神よ。あなたは全生命の霊そのものにおわします。その霊が全生命にみなぎり全宇宙に満ち満ちております。生きとし生けるものすべてがあなたの霊性を反映しております。大自然の営みの一つ一つに顕現なさっておられます。大自然はあなたの霊性の艦にほかならないのでございます。


 ああ、真白き大霊よ、あなたは全大宇宙の背後の摂理におわします。人間の理解力によって明らかにされた小さい部分だけにかぎりませぬ。いまだに人間の意識にのぼらない、さらに大きな部分にも同じあなたの摂理が働いているのでございます。

 あなたは太陽の光線の中にも宿っておられます。朝露の中にも、雨の中にも宿っておられます。風に揺れる松の枝にも宿っておられます。轟く雷鳴の中にも、走る稲妻の中にも、小鳥のさえずりの中にもあなたが宿っております。

あなたは生きているもの、動くもの全てに宿りたまい、そして人間の霊魂の中に最高の形で顕現され、その存在価値を発揮する行為の中であなたの神性を発現せんとしているのでございます。

 ああ神よ。私どもはあなたがいつの時代にも分け隔てなく全人類に啓示なさってきた宇宙の神秘に感謝の意を表します。

 あなたの御力によって暗闇に注がれた光明、無知を追い払った叡智、迷信を駆逐した正しい知識、悩める者にもたらされた慰め、健康を害し痛みに苦しんでいる者にもたらされた霊力に対して感謝を捧げます。

また、あなたの御胸より溢れ出て、地上のすべての民族に配属されているあなたの使者を通して顕現される崇高なる愛に深甚なる感謝の意を表します。

 かくして、その地上の同志の援助のもとに私たちが霊の世界からあなたのご計画の推進に参加し、物質の世界におけるあなたの王国の建設に役立つ栄誉を担わせて下さったことに感謝いたします。

 私たちの働きかけに応えて人間界から寄せられる無私の奉仕と愛の心、そしてまた、あなたのご意志を地上に顕現させる目的のもとに私たちとつながっている者すべての誠意に対する感謝の気持ちをあなたに捧げます。

 大いなる霊よ。願わくは御力の地上への顕現を妨げんとする障害がすべて排除され、他のすべての交霊の場と同様に、このサークルにおいてもあなたの霊が少しでも多く顕現されることを祈ります。 

 ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

Wednesday, January 24, 2024

シアトルの冬 霊の実在

reality of spirit

霊の実在に関する疑問は、その本性についての“無知”に起因している。霊というと大ていの人が目に見える地上の創造物とは別個のものを想像し、その実在については何一つ証明されていないと考えている。

想像上の存在と考えている人も多い。すなわち霊というのは子供時代に読んだり聞かされたりしたファンタスティックな物語の中に出てくるもので、実在性がないという点においては小説の中の登場人物と同じと思っている。実はそのファンタスティックな物語にも、表面の堅い皮をむくと、その核心に真髄が隠されていることが分かるものなのだが、そこまで解明の手を伸ばす人は稀で、大ていは表面上の不合理さだけにとらわれて全体を拒絶してしまう。それはちょうど宗教界の極悪非道の所業にあきれて、霊に係わるもの全てを拒絶する人がいるのと同じである。

霊というものについていかなる概念を抱こうと、その存在の原理は、当然のことながら物質とはまったく別の知的原理に基づくのであるから、その実在を信じることと、物的原理からそれを否定することとは、まったく相容れないことなのである。

魂の実在、およびその個体としての死後存続を認めれば、その当然の帰結として次の二つの事実をも認めねばならない。一つは、魂の実質は肉体とは異なること。なぜならば、肉体から離脱したあとは、ただ朽ち果てるのみの肉体とは“異次元の存在”となるからである。

もう一つは、魂は死後も“個性と自我意識”とを維持し、したがって幸不幸の感覚も地上時代と同じであること。もしそうでないとしたら、霊として死後に存続しても無活動の存在であることになり、それでは存在の意義がないからである。

以上の二点を認めれば、魂はどこかへ行くことになる。では一体そこはどこなのか、そしてどうなっていくのか。かつては単純に天国へ行くか、さもなくば地獄へ行くと信じられてきた。ではその天国とはどこにあるのか。地獄はどこにあるのか。人々は漠然と天国は“ずっと高い所”にあり、地獄は“ずっと低い所”にあるという概念を抱いてきたが、地球がまるいという事実が明らかになってしまうと、宇宙のどっちが“上”でどっちが“下”かということは意味をなさなくなった。しかも二十四時間で一回転しているから、“上”だと思った所が十二時間後には“下”になるのである。

こうした天体運動が果てしない大宇宙の規模で展開している。最近の天文学によると地球は宇宙の中心でないどころか、その地球が属している太陽系の太陽でさえ何千億個もの恒星の一つに過ぎず、その恒星の一つ一つが独自の太陽系を構成しているという。この事実によって地球の存在価値も遠くかすんでしまう。大きさからいっても位置からいってもその特質からいっても、砂浜の砂の一粒ほどしかない地球が、この宇宙で唯一、知的存在が生息する天体であるなどと、よくぞ言えたものと言いたくなる。理性が反発するし、常識からいっても、当然、他の天体のすべてに知的存在が生息し、それゆえにそれなりの霊界も存在すると考えてよかろう。

次に持ち出されそうな疑問は、そのように天体が事実上無限に存在するとなると、すでにそこを去って霊的存在となった者たちの落ち着く先はどうなるのか、ということであろう。が、これも旧式の宇宙観から生じる疑問であって、今では新しい科学理論に基づく宇宙観が合理的解釈を与えてくれている。(オリバー・ロッジなどによるエーテル理論をさすものと察せられる――訳注)

つまり霊の世界は地上のような固定した場所ではなく、内的宇宙空間とでもいうべき壮大な組織を構成していて、地球はその中にすっぽりと浸っている。ということは我々の上下左右、あらゆるところに霊の世界が存在し、かつ絶え間なく物質界と接触していることになる。

固定した存在場所がないとなると、死後の報いと罰はどうなるのかという疑問を抱く方がいるかも知れない。が、この種の疑念は報いや罰が第三者から見て納得のいかない形で行われることを懸念することから生じるもので、善行に対する報いも悪行に対する罰も、本質的にはそういうものではないことを、まず理解しなければならない。

いわゆる幸福と不幸は霊そのものの意識の中に存在するもので、第三者から見た外的条件で決まるものではない。たとえば波動の合う霊との交わりは至福の泉であろう。が、その波動にも無限の階梯があり、ある者にとっては至福の境涯であっても、それより高い階梯の者にとっては居づらい境涯に思えるかも知れない。このように、何事も霊的意識の進化のレベルを基準として判断する必要がある。そうすれば全ての疑問が氷解する。

これをさらに発展させれば、その霊的意識のレベルというのは、魂の純化のための試練として何度か繰り返される地上生活において、当人がどれだけ努力したかによって自ずと決まるものである。“天使”と呼ばれる光り輝く存在は、その努力によって最高度の進化の階梯にまで達した霊のことであり、すべての人間が努力次第でそこまで到達できるのである。

そうした高級霊は宇宙神の使徒であり、宇宙の創造と進化の計画の行使者であり、彼らはそのことに無上の喜びを覚える。最後は“無”に帰するとした従来の説よりもこの方がはるかに魅力がある。無に帰するということは存在価値を失うことにならないだろうか。

次に“悪魔”と呼ばれているものは邪悪性の高い霊ということで、言いかえれば魂の純化が遅れているということである。遅れているだけであって、試練と霊的意識の開発によって、いつかは天使となり得る可能性を秘めている点は、他のすべての魂と同じである。キリスト教では悪魔は悪の権化として永遠に邪悪性の中に生き続けるとしているが、これでは、その悪魔は誰がこしらえたのかという問いかけに理性が窮してしまう。

“魂(ソウル)”と“()霊(スピリット)”の区別であるが、結論から言えば同じものを指すことになる。ただ、肉体をまとっている我々人間は“魂を所有している”というように表現し、肉体を捨て去ったあとに生き続けるものを“霊”と呼ぶ。同じものを在世中と死後とで言い分けているだけである。もしも霊が人間と本質的に異なるものだとしたら、その存在は意味がないことになる。人間に魂があって、それが霊として死後に生き続けるのであるから、魂がなければ霊も存在しないことになり、霊が存在しなければ魂も存在しないことになる。(この“霊”と“魂”の使い分けはスピリチュアリズムでも混乱していて、霊界通信でも通信霊によって少しずつズレが見られる。ここでカルデックが解説していることは明快であるが、その前の節では“魂の純化”という、その解説の内容からはみ出た意味に用いている。ここは本来は“霊性の進化”と言うべきところであろうが、要するに地上の言語には限界があるということである――訳注)

以上の説が他の説より合理性が高いとはいえ、一つの理論に過ぎないことは確かである。が、これには理性とも科学的事実とも矛盾しないものがある。それにさらに事実による裏付けがなされれば、理性と実体験による二重の是認を受けることになることは認めていただけるであろう。

その実体験を提供してくれるのが、いわゆる“心霊現象”で、これが死後の世界の存在と人間個性の死後存続という事実を論駁(ろんばく)の余地のないまでに証明してくれている。

ところが大抵の人間はそこのところでストップする。人間に魂が存在し、それが死後、霊として存続することは認めても、その死者の霊との交信の可能性は否定する。「なぜなら、非物質的存在が物質の世界と接触できるはずがないから」だと彼らは言う。

こうした否定論は、霊というものの本質の理解を誤っているところから生じている。つまり彼らは霊というものを漠然として捉えどころのない、何かフワフワしたものを想像するらしいのであるが、これは大きな間違いである。

ここで霊というものについて、まず肉体との結合という観点から見てみよう。両者の関係において、霊は中心的存在であり、肉体はその道具にすぎない。霊は肉体を道具として思考し、物的生活を営み、肉体が衰えて使えなくなればこれを捨てて次の生活の場へ赴く。

厳密に言うと“両者”という言い方は正しくない。肉体が物質的衣服であるとすれば、その肉体と霊とをつなぐための半物質的衣服として“ダブル”というのが存在する。(カルデックは“ペリスピリット”という用語を用いているが、その後“ダブル”という呼び方が一般的になっているので、ここではそう呼ぶことにする――訳注)

ダブルは肉体とそっくりの形をしていて、通常の状態では肉眼に映じないが、ある程度まで物質と同じ性質を備えている。このように霊というのは数理のような抽象的な存在ではなく、客観性のある実在であり、ただ人間の五感では認知できないというに過ぎない。

このダブルの特質についてはまだ細かいことは分かっていないが、かりにそれが電気的な性質、ないしはそれに類する精妙なもので構成されているとすれば、意念の作用を受けて電光石火の動きをするという推察も、あながち間違いとも言えないであろう。

死後の個性の存続および絶対神の存在はスピリチュアリズムの思想体系の根幹をなすものであるから、次の三つの問いかけ、すなわち――

一、あなたは絶対神の存在を信じますか。

二、あなたに魂が宿っていると信じますか。

三、その魂は死後も存続すると信じますか。

この三つの問いに頭から「ノー」と答える人および「よく分からない」とか「全部信じたいが確信はもてない」といった返答をする人は、本書をこれ以上お読みになる必要はない。軽蔑して切り捨てるという意味ではない。そういうタイプの人には別の次元での対話が必要ということである。

そういう次第で私は本書を、魂とその死後存続を自明の理としている人を対象として綴っていくつもりである。それが単なる蓋然(がいぜん)性の高いものとしてではなく、反論の余地のない事実として受け入れられれば、その当然の帰結として、霊の世界の実在も認められることになる。

残るもう一つの疑問は、はたして霊は人間界に通信を送ることができるか否か、言いかえれば、思いを我々と交換できるかどうかということである。が、できないわけがないのではなかろうか。人間は、言うなれば肉体に閉じ込められた霊である。その霊が、すでに肉体の束縛から解き放たれた霊と交信ができるのは、くさりに繋がれた人間が自由の身の人間と語り合うことくらいはできるのと同じである。

人間の魂が霊的存在として死後も生き続けるということは、情愛も持ち続けていると考えるのが合理的ではなかろうか。となると地上時代に親しかった者へ通信(メッセージ)を届けてやりたいと思い、いろいろと手段を尽くすのは自然なことではなかろうか。地上生活を営む人間は、魂という原動力によって肉体という機関を動かしている。その魂が、死後、霊として地上の誰かの肉体を借りて思いを述べることができて、当然ではなかろうか。

人間に永遠不滅の魂が宿っていて、それが肉体の死とともに霊的存在として個性と記憶のすべてを携えて次の世界へ赴くこと、そして適当な霊媒を通して通信を地上へ送り届けることができることは、これまでに繰り返し行われてきた実験と理性的推論によって疑問の余地のないまでに証明されている。

一方、これを否定せんとする者も後を絶たないが、彼らは実験に参加することを拒否し、ただ「そんなことは信じられない。したがって不可能である」という筋の通らない理屈を繰り返すのみである。これでは「太陽はどう見ても地球のまわりを回っている。だから地動説は信じられない」と言うのと同類で、そう思うのは自由であるが、それではいつになっても無知の牢獄から脱け出られないことになる。

シアトルの冬 本当に必要なのは単純で素朴な真理なのです。新しい大真理ではなく、驚異的な啓示でもなく、新しい神勅でもありません。その素朴な真理はいつの時代にも、いかなる国においても、必要性と理解力の程度に応じたものが授けられてきております。

What we really need is simple, simple truth. It is not a new great truth, it is not an amazing revelation, it is not a new divine edict. This simple truth has been imparted throughout the ages and in all countries according to their level of need and understanding.

 「本当に必要なのは単純で素朴な真理なのです。新しい大真理ではなく、驚異的な啓示でもなく、新しい神勅でもありません。その素朴な真理はいつの時代にも、いかなる国においても、必要性と理解力の程度に応じたものが授けられてきております。
かならず霊覚を具えた男性及び女性がいて、その人たちを通じて霊力が地上に注がれ、先見の明をもって人々を導き、癒やし、慰めてきました。これからもそうでありましょう。

 それと同じ霊力があなた方の今の時代にさらに一段と強化されて注がれております。キリスト教で〝聖霊〟と呼ばれているスピリットの降下に伴って生じる各種の心霊現象を繰り返し演出して、古くから説かれている同じ真理、すなわち生命に死はないこと、霊は不滅であることを説き、人間の霊性、その根源、宿命、存在の目的、宇宙の大霊とのつながり、隣人とのつながり、そうして、そこから派生する驚異的な意味を力説しているのです。

 その霊力が今まさに奔流となって注がれ、そうした真理が改めて説かれております。確かに古くから説かれてきた真理なのですが、地上人類は今新しい進化の周期を迎えて、その古い真理を改めて必要としているのです。

一宗一派に片寄った古い、勿体ぶった、因習的教義へはもはや何の敬意も払う必要はありません。権威に対して盲目的に従う必要はありません。ドグマを崇拝する必要はもうなくなりました。

 そうした類のものは全て無力であることが証明され、人間は成長せんとする精神と進化せんとする魂の欲求を満たしてくれるものを求めてまいりました。こうした霊力の顕現に伴ってかならず人生の純粋に物的な分野においてもより大きな覚醒が生まれ、同時に、正義と同胞精神が世界のすみずみにまで行きわたってほしいとの願いが生じるのは、そのためなのです。

 それは一か月や一年はおろか、十年や百年でも達成されないでしょう。しかし、人類はみずから目覚め、真の自我を見出していかねばならないという宿命的法則があります。従って、重責を担う立場の人、人類に道標を残して行くべき使命を負う者は、それを忠実にそして立派に果たすべき重大な任務があることになります。

 いつの日かあなたも、あなたご自身の〝事務報告〟を提出しなければならない時がまいります。あなただけではありません。すべての人間が自分自身の事務報告の提出を要請されます。その際、あたら好機を逸したことに対する後悔を味わうこともありましょうし、為すべきことを成し遂げたとの自覚に喜びを味わうこともありましょう。

 相変わらず絶望感が支配し暗黒の多い地上世界にあっては、光明と真理のために闘う人々が不安や疑念を抱くようなことがあってはなりません。強力な霊力、宇宙最大のエネルギーがその献身的な仕事を通して守護し援助してくれているからです。正しい道を歩んでいる限り勝利はきっとあなたのものとなります」

 このあと、その編集長の同僚で最近他界したばかりの霊からのメッセージを伝えてから、再び本題に戻ってこう語った。

 「私があなた方の世界での仕事を始めてからずいぶん長い年月になります。あれやこれやと煩わしい問題が生じることにもすっかり慣れました。そして、あなたのようなお仕事をしておられる方が来て下さり私が少しでもお役に立つこともうれしく思っております。

それが私を通じて霊の力が働いていることの証であるからこそうれしいのです。これまでの全体験によって私は、霊の力はその忠実な通路さえあればきっと事を成就していくことを学んでおります。

 いかなる反抗勢力、いかなる敵対行為、いかなる中傷、いかなる迫害をもってしても、悲しみに満ちた人々の魂の琴線に触れ、病める身体を治し、迷える人々に光明を見出す道を教え、人生に疲れた人々を元気づけることのできる献身的な通路がある限り、その仕事が挫折することは決してありません。

 本来なら、こうしたことが逸(と)うの昔に教会という権威を担った人々によって成就されていなければならないところです。それが現実には成就されていません。というよりは、その肝心なものが置き去りにされているのです。そして今や霊的にも物的にも、その担い手は教会とは何の縁もない普通一般の人たちとなっております。

もし教会関係の人々が自分たちの本来の存在意義を自覚すれば、もし自分たちの本質がその神性にあることを理解すれば、そしてもし自分の身のまわりに存在する莫大な知識の宝庫、霊力、エネルギーを自覚すれば、それを活用して新しい世界をわけなく建設することができるところなのですが・・・。

 しかし、それは是が非でも成就していただかねばならないのです。なぜならば私たち霊界の実情を言わせていただけば、毎日毎日ひきも切らず地上から送り込まれてくる不適応者、落伍者、放蕩者、社会のクズともいうべき人達───要するに何の備えも無い、何の用意も無い、何の予備知識も持たなくて一から教えなければならない人間の群れには、もううんざりしているのです。

本当はこちらへ来てすぐからでも次の仕事に取り掛かれるよう、地上での準備をしておくべきなのですが、現実にはまるで生キズの絶えない子供を扱うように看護し、手当てをしてやらねばならない者ばかりなのです。

 そういう次第で、あらゆる形での霊的知識の普及がぜひとも必要です。人類が霊的事実を理解してくれないと困るのです。真理に導かれる者は決してしくじることはありません。

真理は理解力をもたらし、理解力は平和と愛をもたらし、心に愛を秘めた者には解決できない問題は何一つありません。人類の指導者が直面するいかなる難題も、霊的真理と霊的叡知と霊的愛があればきっと消滅していくものです。私の見解に賛同してくれますか?」

 「ええ、もちろんですとも」

 「その目的のために、あなたはあなたなりの方法で、私は私なりの方法で、そのほか真理を幾らかでも普及できる立場にある人すべてが、その人なりの方法で努力しなければなりません。そうすることが世界を、あるいは少なくとも自分の住む地域を豊かにすることになるのです」

 このあと編集長と交霊会の常連との間で、その他界したジャーナリストの人物評に花が咲いた。するとシルバーバーチがこう述べた。

 「皆さんは人間が他界して私たちの世界へ来ると、その人の評価の焦点がまったく異なったところに置かれることをご存知ないようですね。皆さんはすぐに地上時代の地位、社会的立場、影響力、身分、肩書といったものを考えますが、そうしたものはこちらでは何の意味もありません。

そんなものが全てはぎ取られて魂が素っ裸にされたあと、身をまとってくれるのは地上で為した功績だけです。

 しかしこの方は地上で本当に人類のために貢献されました。多くの人から愛されました。その愛こそが死後の救いとなり、永遠の財産となっております。金銭はすべて地上に置き去りにしなければなりません。

地上的財産はもはや自分のものでなくなり、愛、情愛、無私の行為だけが永遠の資質となるのです。魂が携えて行くのはそれだけであり、それによって魂の存在価値が知れるのです。

 したがって同胞からの愛と尊敬と情愛を受ければ、それが魂を大きくし、進化を促すことになります。真の判断基準によって評価される界層においては、そうした要素が最も重要視されます。肝心なのはいかなる人間であるかであり、何を為してきたかです」

シルバーバーチ

Tuesday, January 23, 2024

シアトルの冬 皆さんは間違いを犯しそれから学ぶために地上へやって来たようなものです

It's like you came to earth to make mistakes and learn from them.




過去はもう過ぎ去ったのです。

これまでに犯した間違いはお忘れになることです。

皆さんは間違いを犯しそれから学ぶために地上へやって来たようなものです。

過ぎ去ったことは忘れることです。

大切なのは今現在です。

今、人のためになることをするのです。

シルバーバーチ

シアトルの冬 自由の法則〈自由と束縛〉〈良心の自由〉〈自由意志〉

law of freedom 〈Freedom and Bondage〉 <Freedom of conscience> <Free will>


霊の書 アランカデラック


〈自由と束縛〉


――人間が完全な自由を得るのはどういう条件下においてでしょうか。


「砂漠の中の世捨て人くらいのものでしょう。二人の人間が存在すれば、互いの権利と義務が生じ、完全に自由ではなくなります」


――と言うことは、他人の権利を尊重するということは、自分の権利を奪われることを意味するのでしょうか。


「それは違います。権利は生得のものです」


――奴隷制度が既成の慣習となっている国家において、使用人の家に生まれた者はそれを当たり前のことと思うに違いありませんが、その場合でも罪でしょうか。


「いけないことはいけないこと、いくら詭弁を弄しても悪い慣習が良い慣習になるわけではありません。が、責任の重さとなると、当人がその善悪についてどの程度まで理解していたかによって違ってきます。

奴隷制度で甘い汁を吸っている者は神の摂理に違反していることは明白です。が、その場合の罪の重さは、他の全ての場合と同じく、相対的なものです。長年にわたって奴隷制度が根付いている国においては使用人は少しも悪いこととは思わず、むしろ当たり前のことと思っているでしょう。しかし例えばイエスの教えなどに接して道義心が目覚め、理性が啓発されて、奴隷も神の前には自分と同等なのだと悟ったあとは、どう弁解しても罪は罪です」


――使用人の中には心の優しい人もいて、扱い方が人道的で、何一つ不自由をさせないように心を配っていながら、解放してやると却って生活が苦しくなるという理由から奴隷を雇い続けている人がいますが、これはどう理解すべきでしょうか。


「奴隷を残酷に扱っている使用人に較べれば自分のしていることについての理解が立派であると言えるでしょう。が、私に言わせれば、それは牛や馬を飼育しているのと同じで、マーケットで高く売るために大切にしているだけです。残酷に扱っている人と同列には問えませんが、人間を商品として扱い、生来の独立した人格としての権利を奪っている点において罪に問われます」
〈良心の自由〉


――他人の良心の自由に柵を設ける権利はあるでしょうか。


「思想の自由に柵を設ける権利がないのと同じく、そういう権利は許されません。良心を判断する権利は神のみが所有しておられます。人間が法律によって人間と人間との関係を規制していますが、神は自然の摂理によって人間と神との関係を規律づけています」


――ある宗教で説かれている教義が有害であることが明らかな時、良心の自由を尊重する立場からこれをそのまま許すべきでしょうか、それとも、良心の自由を侵さない範囲で、その誤った教義によって道に迷っている人を正しい道に導いてもよろしいでしょうか。


「もちろんよろしいし、また、そう努力すべきです。ただし、その時の態度はイエスの範にならって、優しさと説得力をもって臨むべきで、強引な態度は慎まないといけません。強引な態度は、その相手の間違った信仰よりも有害です。確信は威嚇によって押しつけられるものではありません」
〈自由意志〉


――人間には行為の自由がありますか。


「思想の自由がある以上、行為の自由もあります。自由意志がなかったら人間はロボットと同じです」


――その自由意志は誕生の時から所有しているのでしょうか。


「自らの意志で行為に出るような段階から自由意志を所有したことになります。誕生後しばらくは自由意志は無いに等しく、機能の発達と共に発達しはじめ、目的意識を持つようになります。幼児期における目的意識は必ずその時期の必要性と調和していますから、好きにやっていることがその時期に適合したものになっています」


――未開の段階では人間は本能と自由意志のどちらが支配的なのでしょうか。


「本能です。と言っても、完全な自由意志による行動を妨げない面もいくつかあります。幼児と同じで、自分の必要性を満たすために自由意志を行使していて、その自由意志は知性の発達を通してのみ発達します。と言うことは、あなた方のように知性の発達した人類は、自由意志の行使による過ちに対しては未開人よりも責任が重いということになります」


――社会的地位が自由行動の妨げになることはありませんか。


「社会に属している以上、当然、それなりの制約はあるでしょう。神は公正であり、そうした条件も全て考慮に入れて裁かれますが、そうした制約に負けないだけの努力をしているか否かも神は見ておられます」


――人生での出来事にはいわゆる運命、つまりあらかじめ決められているものもあるのでしょうか。もしあるとすれば自由意志はどうなるのでしょうか。


「再生する際に自ら選択した試練以外には必然的な宿命(さだめ)というものはありません。試練を選択することによって、そのようになる環境へ誕生しますから、自然にそうなるのです。

もっとも私が言っているのは物的な出来事(事故など)のことです。精神的な試練や道徳的誘惑に関しては、霊は常に善悪の選択を迫られており、それに抵抗するか負けるかのどちらかです。その際、当人が躊躇しているのを見て背後霊がアドバイスをしてくれますが、当人の意志の強さの程度を超えて影響を及ぼすことはできません。

一方、低級なイタズラ霊が大げさな取り越し苦労の念を吹き込んで悩ませたり怖がらせたりすることもします。が、最後の選択権は当人にあります」


――次から次へと訪れる悪運に翻弄されて、このまま行くと死も避けられないかに思える人がいます。こういうケースには宿命性があるように思えるのですが……


「真実の意味で宿命づけられているのは“死ぬ時期(とき)”だけです。いかなる死に方になるかは別として、死期が到来すれば避けることは不可能です」


――と言うことは、あらかじめ用心しても無駄ということになるのでしょうか。


「そんなことはありません。脅(おびや)かされる幾多の危険を避けさせるために背後霊が用心の念を吹き込むことがあります。死期が熟さないうちに死亡することのないようにとの神慮の一つです」


――自分の死を予知している人は普通の人よりも死を怖がらないのはなぜでしょうか。


「死を怖がるのは人間性であって霊性ではありません。自分の死を予知する人は、それを人間としてではなく霊として受け止めているということです。いよいよ肉体から解放される時が来たと悟り、静かにその時を待ちます」


――死が避けられないように、他にも避けられない出来事があるのではないでしょうか。


「人生のさまざまな出来事は大体において些細なもので、背後霊による警告で避けられます。なぜ避けさせるかと言えば、些細とは言え物的な出来事で面倒なことになるのは背後霊としても面白くないからです。唯一の、そして真実の意味においての避け難い宿命は、この物質界への出現(誕生)と物質界からの消滅(死)の時だけです」


――その間にも絶対に避けられないものがあると思いますが……。


「あります。再生に際してあらかじめ予測して選したものです。しかし、そうした出来事が全て神の予定表の中に“書き込まれている”かに思うのは間違いです。自分の自由意志で行った行為の結果として生じるものであり、もしそういうことをしなかったら起きなかったものです。

例えば指に火傷(やけど)を負ったとします。その場合、指に火傷を負う宿命(さだめ)になっていたわけではありません。単にその人の不注意が原因であり、あとは物理と化学と生理の法則の為せる業です。

神の摂理で必ずそうなると決まっているのは深刻な重大性をもち、当人の霊性に大きな影響を与えるものだけです。それが当人の霊性を浄化し、叡知を学ばせるとの計算があるのです」


――例えば殺人を犯した場合、再生する時から殺人者になることを知っているのでしょうか。


「そうではありません。自分が選択した人生において殺人を犯しかねない事態が予想されていたかも知れません。が、その時点では殺人を犯すか犯さないかは分かっておりません。殺人を犯した者でも、その直前までは理性を働かせる余裕があったはずです。もしも殺人を犯すことに決まっているとしたら、自由意志による判断力を働かせることができないことになります。罪悪も、他のあらゆる行為と同じく、自由意志による判断力と決断力の結果です。

あなた方はとかく二種類のまったく異なるものを混同しがちです。すなわち物的生活での出来事と精神的生活での行為です。もし宿命性というものがあるとすれば、それは物的生活において、原因が本人の手の届かない、そして本人の意志と無関係の出来事にかぎられています。それとは対照的に、精神生活における行為は必ず本人から出ており、従って本人の自由意志による選択の余地があります。その種の行為に宿命性は絶対にありません」


――では“幸運の星の下に生まれる”とか“星回りの悪い時に生まれる”という表現はどこから生まれたのでしょうか。


「星と人間とを結びつける古い迷信から生まれたもので、愚かな人間が比喩的表現を文字通りに受け取っただけです」

Sunday, January 21, 2024

シアトルの冬 平等の法則

law of equality




〈さまざまな不平等〉


――神はなぜ全ての人間に同じ才能を与えていないのでしょうか。


「全ての霊は神によって平等に創造されています。が、創造されてから今日に至るまでの期間に長短の差があり、結果的には過去世の体験の多い少ないの差が生じます。つまり各自の違いは体験の程度と、意志の鍛練の違いにあり、それが各自の霊的自由を決定づけ、自由の大きい者ほど急速に進化します。こうして現実に見られるような才能の多様性が生じて行きます。

この才能の多様性は、各自が開発した身体的ならびに知的能力の範囲内で神の計画の推進に協力し合う上で必要なことでもあります。ある人にできないことを別の人が行うという形で、全体の中の一部としての有用性を発揮できるわけです。さらには宇宙の全天体が連帯性でつながっていますから、より発達した天体の住民――そのほとんどが地球人類より先に創造されています――が地上に再生して範を垂れるということもあります」


――高級な天体から低級な天体へと転生しても、それまでに身につけた才能は失われないのでしょうか。


「失われません。すでに申しているごとく、進化した霊が退化することは有り得ません。物質性の強さのために以前の天体にいた時より感覚が鈍り、生まれ落ちる環境も危険に満ちた所を選ぶかも知れませんが、ある一定レベル以上に進化した霊は、そうした悪条件を糧として新たな教訓を悟り、さらなる進化に役立てるものです」


――社会の不平等も自然の法則でしょうか。


「違います。人間が生み出したものであり、神の業ではありません」


――最終的には不平等は消滅するのでしょうか。


「永遠に続くものは神の摂理以外にはありません。人間社会の不平等も、ご覧になっていて、少しずつではあっても日毎に改められて行っていることに気づきませんか。高慢と利己主義が影をひそめるにつれて不平等も消えて行きます。そして最後まで残る不平等は功罪の評価だけです。いずれ神の大家族が血統の良さを云々(うんぬん)することを止めて、霊性の純粋性を云々する日が来るでしょう」


訳注――“功罪の評価”の不平等というのは、功も罪も動機や目的によってその報いも違ってくるという意味で、“不公正”とは異なる。逆の場合の例を挙げれば、キリスト教には“死の床での懺悔”というのがある。イエスの信仰を告白して他界すればいかなる罪も赦されるという教義であるが、これは間違った平等であって、不公正の最たるものであろう。


――貧富の差は能力の差でしょうか。


「そうだとも言えますし、そうでないとも言えます。詐欺や強盗にも結構知恵が要りますが、これをあなたは能力と見ますか」


――私のいう能力はそういう意味ではありません。たとえば遺産には悪の要素は無いでしょう?


「どうしてそう断言できますか。その財産が蓄積される源にさかのぼって、その動機が文句なしに純粋だったかどうかを確かめるがよろしい。最初は略奪のような不当行為で獲得したものではないと誰が断言できますか。

百歩譲ってそこまでは詮索しないとしても、そもそもそんな大金を蓄えるという魂胆そのものが褒められることだと思われますか。神はその動機を裁かれます。その点に関するかぎり神は人間が想像するより遥かに厳正です」


――仮に蓄財の当初に不当行為があった場合、その遺産を引き継いだ者は責任まで引き継がされるのでしょうか。


「仮に不当行為があったとしても、相続人はまったく知らないことですから、当然その責任までは問われません。しかし、これから申し上げることをしっかりと理解してください。遺産の相続人は、必ずとは言いませんが、往々にして、その蓄財の当初の不正の責任を取ってくれる者が選ばれるということです。その点を正直に理解した人は幸せです。その罪を最初の蓄財者の名において償えば、その功は、当人と蓄財者の双方に報われます。蓄財者が霊界からそのように働きかけた結果だからです」
〈貧富による試練〉


――ではなぜ貧富の差があるのでしょうか。


「それなりに試練があるからです。ご存じの通り、再生するに際して自分でどちらかを選んでいるのです。ただ、多くの場合、その試練に負けています」


――貧と富のどちらが人間にとって危険でしょうか。


「どちらも同じ程度の危険性があります。貧乏は神への不平不満を抱かせます。一方、富は何かにつけて極端な過ちに陥(おとしい)れます」


――富は悪への誘惑となると同時に善行の手段にもなるはずです。


「そこです。そこに気づいてくれれば意義も生じるのですが、なかなかその方向へは向かわないものです。大抵は利己的で高慢で、ますます貪欲になりがちです。財産を増やすことばかり考え、これで十分という際限が無くなるのです」
〈男女の権利の平等〉


――女性が肉体的に男性より弱くできていることには何か目的があるのでしょうか。


「女性に女性としての機能を発揮させるためです。男性は荒仕事に耐えられるようにつくられ、女性は穏やかな仕事に向いています。辛い試練に満ちた人生を生き抜く上で互いが足らざる所を補い合うようにできています」


――機能的にも男女の重要性はまったく平等なのでしょうか。


「女性の機能の方がむしろ重要性が大きいと言えます。何しろ人間としての生命を与えるのは女性なのですから」


――神の目から見て平等である以上は人間界の法律上でも平等であるべきでしょうか。


「それが公正の第一原理です。“他人からして欲しくないことは、すべからく他人にもすべきではない”と言います」


訳注――これはキリストの“山上の垂訓”の一つである「他人からして欲しいことは、すべからく他人にもそのようにすべし」という有名な“黄金律”を裏返して表現したもの。


――法律が完全に公正であるためには男女の権利の平等を明言すべきでしょうか。


「権利の平等は明言すべきです。機能の平等はまた別問題です。双方がそれぞれの特殊な存在価値を主張し合うべきです。男性は外的な仕事に携わり、女性は内的な仕事に携わり、それぞれの性の特質を発揮するのです。

人間界の法律が公正を期するためには男女の権利の平等を明言すべきであり、どちらに特別の権利を与えても公正に反します。文明の発達は女性の解放を促すもので、女性の隷属は野蛮のレベルに属します。

忘れてならないのは、性の違いは肉体という組織体だけの話であって、霊は再生に際してどちらの性でも選べるという霊的事実です。その意味でも霊は男女どちらの権利でも体験できるわけです」


訳注――この問答を見るかぎりでは、当時はまだ自由と平等の先進国のフランスでも男女の平等は法律で謳われていなかったようで、今日の自由主義国の人間が読むと奇異にすら感じられる。しかし“権利”の平等と“機能”の平等を区別し、機能は平等・不平等次元で論じるべきものではないとしている点は、昨今いささか行き過ぎた平等主張、いわゆる“悪平等”が幅をきかせている、日本を始めとする文明先進国に良い反省材料を提供しているのではなかろうか。

Saturday, January 20, 2024

シアトルの冬 死後の喜びと悲しみ

Joy and sadness after death


〈善悪の報い〉


――死の直後の心情はどんなものでしょうか。疑念でしょうか、恐怖心でしょうか、それとも希望でしょうか。


「懐疑的人間は疑念を抱き、罪深い人間は恐怖心を抱き、善性の強い人間は希望にあふれます」


――神は人間の一人一人に係わっているのでしょうか。宇宙の大霊ともなると人間のような小さな存在に直接係わるとは思えないのですが……


「神は自ら創造されたもの全てに係わっておられます。完全なる公正のためには小さ過ぎるものは一つもありません」


――我々人間の一人一人の言動の一つ一つに善悪の報いの裁可が下されるのでしょうか。


「神の摂理は人間の言動の全てにわたって働きます。そのことで勘違いしないでいただきたいのは、人間がその摂理の一つを犯すと神が、こいつは欲が深すぎるから懲らしめてやろうなどと言って裁くような図を想像してはいけないことです。神は欲望に一定の限度を設けています。もろもろの病気や災厄、あるいは死でさえもが、その限度を踏みはずした結果として自然に発生するのです。罰というのは全て、法則に違反したその結果です」


――完成された霊の幸福感はどういうものでしょうか。


「全てを知り得ること、憎しみも嫉妬心も怨みも野心も、その他、人間を不幸にしている悪感情が何一つないということです。互いに睦み合う情愛は至福の泉です。物的生活につきものの、欲しいものや苦痛、悩みなどが一切ありません。

その幸せの度合いは霊性の高さに比例しています。最高の幸せは(相対的な意味で)完全な純粋性を身につけた霊が味わいますが、その他の霊が幸せを感じていないわけではありません。悪いことばかり考えている低級霊から最高級の霊の界層までには、霊性と幸せにおいて無数の格差があります。それぞれに、それなりの徳性に応じた楽しみがあるということです。

霊性がある一定の高さにまで向上すると、その先、つまり自分の境涯よりも高い界層で味わえる幸福感がいかなるものであるかが予感できるようになります。そしてその幸福感にあこがれて修養に励みます。嫉妬心などとは違います。やむにやまれぬ憧憬です」


――キリスト教では浄化しきった霊は神の御胸の中に集められて、そこで神をたたえる歌を永遠にうたい続けるというのですが、これはどう解釈したらよいでしょうか。


「これは神の完全性について理解した高級霊がそれを寓話的に表現したもので、これをその言葉どおりに受け取ってはいけません。自然界のもの全て――砂の一粒でさえもが――神の威力と叡知と善性を高らかに謳(うた)っていると言えます。これを高級霊が神を拝みつつ永遠に讃美歌をうたい続けるかに想像するのは間違いです。そんな退屈で愚かで無駄な話はありません。

それほどの界層の霊になると、もはや地上生活のような艱難辛苦はありません。いわゆる解脱の境地に入っているわけで、それ自体が喜びです。また、すでに述べたように、彼らには何でも知ることができ、物事の因果関係が理解できますから、その知識を駆使して、進化の途上にある他の霊を援助します。それが又、喜びなのです」


――下層界の低級霊の苦難はどのようなものでしょうか。


「原因しだいで、こうむる苦難も異なります。そして、高級霊の喜びがその霊性の高さに比例して大きくなるように、低級霊が感じる苦痛の程度も、各霊の霊性によって異なります。

大ざっぱに言えば、到達したい幸せの境地が見えていながら行かせてもらえないこと、その幸せを味わうことのできる霊性の高さに対する羨望(せんぼう)、幸せを妨げている自分のそれまでの所業に対する後悔の念、嫉妬、憤怒、絶望、そして言うに言われぬ良心の呵責、等々です。要するに霊的な幸せや喜びを求めながらそれが叶えられないことから生じる苦悩です」


――その中でも最大のものは何でしょうか。


「罪悪の中には、それが生み出す苦痛が計り知れないものがあります。本人自身も叙述できないでしょう。が、間違いなく言えることは、その苦痛の状態がいつまでも変わらず、もしかしたら永遠に続くのではないかという恐怖心が必ずあります」


――“永遠の火刑”のドグマはどこから生まれたのでしょうか。


「よくあるように、これも言葉による比喩的表現にすぎません」


――しかし、このドグマによる恐怖が良い結果をもたらすこともあるのではないでしょうか。


「周囲を見回してごらんなさい。このドグマで悪事を思い止まった人がいるでしょうか。たとえ幼少時から教え込まれた者でも効き目はないはずです。理性に反した教えは、その影響に永続性がなく、健康的でもありません」


――邪霊にも善霊の幸せがどのようなものかが分かるのでしょうか。


「分かります。そこにこそ彼らの苦悶の源があるのです。自分の過ちによってその幸せが味わえないという因果関係が分かっているからです。そこでまた再生を求めます。新たな人生で少しでも罪滅ぼしをすれば、それだけ幸せな境涯に近づけると思うからです。だからこそ苦難の人生を選択するのです。自分が犯した悪、あるいは自分が大本になって生じた一連の悪、また、しようと思えばできたはずなのに実行しなかった善、さらには、そのために生じた悪、そうしたことについても一つ一つ償いをしなくてはなりません。

霊界へ戻ってさすらいの状態にある時は、ちょうど霧が晴れて視界が見晴らせるようになるごとくに現在の自分の境涯と上級界層の幸せの境涯との間に横たわる罪の障害が、ありありと分かるのです。だからこそ苦悶が強まるのです。自分が咎めを受けるべき範囲が明確に理解できるからです。もはやそこには幻想は存在しません。事実を有るがままに見せられます」


――高級な善霊にとっては、そうした苦悶する霊の存在は幸福感を殺(そ)がれる要因となるのではないでしょうか。


「その苦悶にはそれなりの目的があることを理解していますから、幸福感が殺がれることはありません。むしろその苦しむ霊たちを救済することに心を砕きます。それが高級霊の仕事であり、成功すればそれが新たな喜びとなります」


――苦しんでいる霊が何の縁もない人であればそれも理解できますが、地上時代に何らかの縁があって情的なつながりがある場合は、自分のことのように辛いのではないでしょうか。


「今申したのと同じです。地上時代と違って今はまったく別の観点から見ていて、その苦悶に打ち勝てばそれが進化を促すことになることを理解していますから、自分の苦しみとはなりません。むしろ高級霊が残念に思うのは、彼らから見ればほんの一時的でしかないその苦しみよりも、その苦しみを耐え抜く不抜の精神が欠如している場合です」


――霊の世界では心に思ったことや行為の全てが他に知れるとなると、危害を及ぼした相手は常に自分の目の前にいることになるのでしょうか。


「常識で考えればそれ以外の回答は有り得ないことくらい、お分かりになるはずです」


――それは罪を犯した者への懲罰でしょうか。


「そうです。あなた方が想像する以上に重い罰です。ですが、それも霊界ないしは地上界での生活の中で償いをして行くうちに消えて行くことがあります」


――罪の浄化のために体験しなければならない試練があらかじめ分かることによって、もし間違えば幸福感が殺がれるとの不安が魂に苦痛を覚えさせるでしょうか。


「今なお悪の波動から抜け切れない霊についてはそういうことが言えます。が、ある一定レベル以上に霊性が進化した者は、試練を苦痛とは受け止めません」
〈悔い改めと罪滅ぼし〉


――地球よりも垢抜けのした天体への再生は前世での努力の報いでしょうか。


「霊性が純化されたその結果です。霊は純粋性が高まるにつれて、より進化した天体へ再生するようになり、ついには物質性から完全に解脱し、穢れも清められて、神と一体の至福の境地へ至ります」


――人生をまったく平穏無事の中で過ごす人がいます。あくせく働くこともなく、何の心配事もありません。そういう人生は、その人が前世において、何一つ償わねばならないことをしていないことの証拠でしょうか。


「あなたは、そういう人を何人もご存じだとおっしゃるのですか。もしもそのお積もりであるとしたら、その判断は間違いです。表向きそう見えるというだけのことです。もちろん、そういう人生を選択したというケースも考えられないことはありません。が、その場合でも、霊界へ戻ればそうした人生が何の役にも立たなかったこと、無駄な時間を無為に過ごしたことに気づき、後悔します。

霊は活発な活動の中でこそ貴重な知識を収得し霊性が向上するのであって、のんべんだらりとした人生を送っていては、進歩は得られません。このことによく留意してください。そういう人は、地上生活に譬えれば、仕事に出かけながら途中で道草を食ったり昼寝をしたりして、何もしないで帰ってくるようなものです。

そういう風に自らの意志で送った無益な人生には大きな償いをさせられること、そして又、その無駄という罪はその後の幸せに致命的な障害となることを知ってください。霊的な幸せの度合いは人のための善行ときちんと比例し、不幸の度合いは悪行の度合いと、不幸な目に会わせた人の数と、きちんと比例します。神の天秤には一分(ぶ)の狂いもありません」


――悔い改めは地上生活中に行われるのでしょうか、それとも霊的状態に戻ってからでしょうか。


「本当の悔い改めは霊的状態において行われます。しかし、善悪の判断が明確にできるレベルに達した人の場合は地上生活中でも有り得ます」


――霊界での悔い改めの結果どういうことになるのでしょうか。


「新たな物的生活(再生)への願望です。霊的に浄化されたいと思うようになるのです。霊には幸せを奪う自分の欠点が正直に意識されます。そこでそれを改めるような人生を求めることになります」


――地上生活中の悔い改めはどういう結果をもたらしますか。


「欠点を改めるだけの十分な時間があれば地上生活中でも霊性が向上します。良心の呵責を覚え、自分の欠点を十分に認識した時は、その分だけ霊性が向上しているものです」


――地上時代には絶対に自分の非を認めなかったひねくれ者でも、霊界へ戻れば認めるものでしょうか。


「認めます。必ず認めるようになりますし、次第にその罪の大きさに気づきます。地上時代の自分の過ちの全てが分かってきますし、自分が原因で広がった悪弊も分かってくるからです。もっとも、すぐに悔い改めるとは限りません。一方でその罪悪への罰に苦しみつつも、強情を張って自分の間違いを認めようとしないことがあります。しかし遅かれ早かれ道を間違えていることに気づき、やがて改悛の情が湧いてきます。そこから高級霊の出番となります」


訳注――高等な霊界通信に必ず出てくるのがこの“高級霊の出番”である。高級霊団は地上で迷っている者や死後いわゆる地縛霊となってしまった霊の思念の流れを一つ一つ把握していて、たとえ一瞬の間でも改悛の情や善性への憧れをのぞかせたり、真理の一筋の光でも見出し始めると、その一瞬を狙って働きかけ、その思念を持続させ増幅させようとする。

もちろんその一方には悪への道へどんどん深入りさせようとする邪悪集団の働きかけもある。一人の人間が殺意を抱くと邪霊集団が大挙して集まってくるという。ヒステリックな言動はもとより、その反対に、どこかに良心の呵責を感じながらも身勝手な理屈で打ち消しつつ密かに抱いている不健全な、あるいは非人道的な思いも、邪霊の格好の餌食である。
〈天国・地獄・煉獄〉


――宇宙には霊の喜びや悲しみに応じてこしらえられた一定の場所というのがあるのでしょうか。


「その問いについてはすでに答えてあります。霊の喜びや悲しみは、その霊性の完成度に応じて、本来そなわっているものが開発されて行くのであって、外部から与えられるものではありません。各自がその内部に幸不幸の素因を秘めているのです。霊はどこにでも存在するのですから、幸福な霊はここ、不幸な霊はあそこ、といった区画された地域があるわけではありません。物質界に誕生する霊に関して言えば、生まれ出る天体の霊的進化の度合いに応じて、ある程度まで幸不幸の度合いが決まるということは言えるでしょう」


――と言うことは“天国”とか“地獄”は人間の想像したもので、実際には存在しないのですね?


「あれは象徴的に表現したまでです。霊は幸不幸に関係なく至るところに存在しています。ただし、これもすでに述べたことですが、霊性の程度がほぼ同じ者が親和力の作用で集まる傾向があります。しかし、完全性を身につけた霊はどこででも集結できます」


――“煉獄”というのはどう理解したらよいのでしょうか。


「身体的ならびに精神的苦痛のことです。罪が贖(あがな)われていく期間と見ることもできます。煉獄を体験させられるのは必ずといってよいほど地上界です。罪の償いをさせられるのです」


――“天国”はどういう意味に解釈すべきでしょうか。


「ギリシャ神話にあるような、善霊が何の心配事もなく、ただ楽しく愉快に遊び戯れているというエリュシオンのような場を想像してはいけません。そんな他愛もないものではありません。天国とは宇宙そのものです。惑星の全てであり、恒星の全てであり、天体の全てです。その大宇宙の中にあって、物的束縛から完全に解放され、従って霊性の低さから生じる苦悶からも解脱した高級霊が、内在する霊的属性をフルに発揮して活動しているのです」


――通信霊の中には第三界とか第四界といった呼び方をする者がいますが、あれはどういう意味でしょうか。


「人間側がとかく階段状の層のようなものを想像して、今何階に住んでいるのですかなどと聞くものですから、その発想に合わせて適当に答えているまでです。天界は人間の住居のように三階・四階と重なっているわけではありません。霊にとっては霊性の浄化の程度の差を意識するだけで、それは即ち幸せ度の象徴でもあります。

地獄についても同じことが言えます。地獄というものがあるかと尋ねた時、その霊がたまたま非常に苦しい状態にあれば、たぶん“ある”と答えるでしょう。その霊にとっては地獄とは苦悶のことです。火あぶりにされる地獄のかまどのことではないことくらい本人も知っています。ギリシャ神話しか知らない霊であれば“タルタロス”にいると答えるでしょう」(地獄の下にある底なし淵のこと)
〈永遠の刑罰〉


――この現世においても過ちの贖いは可能でしょうか。


「可能です。それなりの償いをすれば可能です。ただ、勘違いしないでいただきたいのは、罪滅ぼしのつもりで通りいっぺんの苦行を体験したり遺産を寄付する旨の遺言を書いたりしたところで、何の償いにもならないということです。そんな子供騙しの悔い改めや安直な懴悔の行では、神はお赦しになりません。この程度のことをしておけば済むのではないかという、結局は自己打算の考えがそこにあります。

悪行は善行によって償うしかありません。懴悔の行も自尊心と俗世的欲望とを完全に無きものにしてしまわないかぎり、無意味です。神の前にいくらへり下ってみたところで、他人へ及ぼした悪影響の全てを善行によって消滅させないかぎり、何の意味もありません」


――死を目前にして己の非を悟りながら、その償いをする余裕のない人はどうなるのでしょうか。


「悔い改めたという事実は、更生を速める要素にはなるでしょう。が、その程度で赦されるものでないことは今述べた通りです。それよりも将来があるではありませんか。神はいかに罪深い霊にも将来への扉を閉ざすことはありません」


――永遠に罰せられ続ける霊というのが実際にいるのでしょうか。


「永遠に邪悪性を改めなければ永遠に罰せられるのは理の当然です。つまり永遠に悔い改めなければ、あるいは永遠に罪滅ぼしをしなければ、永遠に苦しむことになります。しかし神は、霊が永遠に悪の餌食であり続けるようには創造しておりません。最初は無垢と無知の状態で創造し、自由意志が芽生えてからは、その判断の違いによって長短の差はありますが、霊的本性そのものの働きで進化するようになっているのです。

人間の子供と同じです。早熟な子と晩生(おくて)の子とがいるように、霊にも意欲しだいで進化の速い霊とゆっくりな霊とがいますが、いずれは抑え難い向上心に突き上げられて、低劣な状態から脱し、そして幸せを味わいたいという願望を抱き始めます。従って苦しむ期間を規制する摂理は、本人の努力という自由意志の働きと密接不離の関係にあるという点において、叡知と愛に満たされていると言えます。自由意志だけは絶対に奪われることはありません。が、その使用を誤った時は、その過ちが生み出す結果については自分が責任を取らねばならないということです」


――その説から言えば“永遠の火あぶり”の刑などというのは有り得ないことになるわけですね?


訳注――これから紹介する四人の歴史的大人物による回答は、その内容と語調から察するに、“永遠の刑罰”というキリスト教のドグマについてカルデックが執拗に質問を繰り返し、その中から“これは本物”と確信したものを選び出したようである。これほどの大人物がこれぽっちの文章を書きに(自動書記と察せられる)やってくるわけはないから、原物はずいぶんの量にのぼったのではなかろうか。なお原書では最後に署名が記されているが、ここでは、便宜上、文頭に置いた。


アウグスティヌス「そなたの常識、そなたの理性に照らして、果たして公正なる神がほんの瞬間の迷いから犯した罪に永遠の刑罰を与えるか否かを考えてみられることです。人間の一生など、たとえ数百年もの長さに延ばしてみたところで、永遠に比べれば一瞬の間ではないですか。永遠! そなたにはこの永遠という言葉の意味がお分かりでない。わずかなしくじりをして、終わりもなく希望もないまま苦悶と拷問にさいなまれ続ける! こんな説にそなたの分別心が直観的に反発しませんか。太古の人間が宇宙の主宰神を恐ろしい、嫉妬深い、復讐心に燃えた人格神のように想像したのは容易に理解できます。自然現象について科学的知識がありませんでしたから、天変地異を神の激情の現れと考えたのです。

しかし、イエスの説いた神は違います。愛と慈悲と憐憫(れんびん)と寛容を最高の徳として位置づけ、自ら創造し給うた我々にもそれをそなえることを義務づけておられる。その神が一方において無限の愛をそなえながら、他方において無限の復讐を続けるというのでは矛盾していませんか。

そなたは神の義は完ぺきであり人類の限られた理解力を超えるとおっしゃる。しかし、義は優しさを排除するものではありません。もしも神が自らの創造物である人類の大多数を終わりなき恐怖の刑に処するとしたら、神には優しさが欠けていることになります。もしも神自らが完ぺきな義の模範を示し得ないとしたら、そのような神には人類に義を強要する資格はありません。

神はそのような理不尽な要求はしておられません。罰の期間をその違反者による償いの努力しだいとし、善悪いずれの行いについても、各自その為せるわざに相応しい報いを割り当てる――これこそ義と優しさの極致ではないでしょうか」(アウグスティヌスについては十二章に前出


ラメネイ「あなた方の力で可能なかぎりの手段を尽くして、この永遠の刑罰のドグマと闘い、完全に無きものにするために、これより本腰を入れていただきたい。この概念は神の義と寛容に対する冒涜であり、知性が芽生えて以来この方、人類を侵し続けてきた懐疑主義と唯物主義と宗教的無関心主義の元凶だからです。

知性がいささかなりとも啓発されれば、そのような概念の途方もない不公正に直ちに気づきます。理性は反発し、その反発を覚える刑罰と、そのような理不尽な罰を科する神とのつながりに矛盾を感じないことはまず考えられません。その理性的反乱が無数の精神的病弊を生み出し、今まさに我々がスピリチュアリズムという処方箋を用意して馳せ参じたのです。

これまでのキリスト教の歴史を見ても、この教義の支持者たちは積極的な擁護説を差し控えています。公会議においても、また歴代の教父たちも、この余りに重苦しい問題に結論を出し得ずに終わっております。その分だけ、そなたたちにとってこの説を撲滅する仕事は容易であると言えるでしょう。

よしんばキリストが福音書や寓話の直訳的解釈にある通りに“消すことのできない火”の刑罰をもって罪人(つみびと)を脅したとしても、その言葉の中には“永遠にその火の中に置かれる”という意味はみじんもありません」


訳注――フェリシテ・ド・ラメネイ(一七八二~一八五四)はナポレオンの治政下にあって宗教学者として、政治にも問題を投げかける著書を著し、一時はその進歩的すぎる思想が危険視されて投獄されたこともある。が、獄中でも執筆活動を止めなかった。晩年は貧困と病に苦しみながらも、ダンテの『神曲』をフランス語に翻訳した。その宗教的ならびに政治的影響は二十世紀にも及んだと言われている。


プラトン「愚かきわまる舌戦! 児戯に類する言論戦! たかが言葉の解釈の問題にどれほどの血が流されてきたことでしょう! もう十分です。この無益な言葉をこそ火刑に処して然るべきです。

人類は“永遠の刑”とか“永遠に燃えさかる炎”という言葉について論議を重ねながら、その“永遠”という用語を古代の人間は別の意味で用いていたことをご存じないのでしょうか。神学者にその教義の出所をよく調べさせてみるとよろしい。ギリシャ民族やラテン系民族、そして現代人が“終わりなき、かつ免れ難き罰”と訳したものは、ヘブライ語の原典においては、そういう意味で用いられていないことが分かるはずです。

“罰の永遠性”とは“悪の永遠性”の意味です。そうなのです。人間界に悪が存在するかぎりは罰も存在し続けるという意味です。聖典の言葉もそうした相対的な意味に解釈すべきなのです。従って罰の永遠性も絶対的なものではなく相対的なものです。いつの日か人類の全てが悔い改めて無垢の衣装を身にまとう日が来れば、もはや嘆き悲しむことも泣き叫ぶことも、あるいは無念の歯ぎしりをすることも無くなるでしょう。

確かに人間の理性は程度が知れています。が、神からの賜(たまもの)であることには違いありません。心さえ清らかであれば、その理性の力は刑罰の永遠性を文字通りに解釈するような愚かなことはいたしません。もしも刑罰が永遠であることを認めれば悪もまた永遠の存在であることを認めなくてはならなくなります。しかし、永遠なるものは神のみです。その永遠な神が永遠なる悪を創造したとしたら、神的属性の中でも最も尊厳高きもの、すなわち絶対的支配力をもぎ取られることになります。なぜなら、神が創造したものを破滅に追いやる力がもし創造されたとしたら、その神には絶対的支配力が無かったことになるからです。

人類に申し上げたい! もうこれ以上、死後にまでそのような体罰があるのだろうかと、あたかも地球のはらわたを覗き込むような愚は止めにしてもらいたい! 良心の呵責に密かに涙を流すのはよろしい。が、希望まで棄ててはいけません。犯した罪は潔(いさぎよ)く償うがよろしい。が同時に、絶対的な愛と力、そして本質において善そのものである神の概念に慰めを見出すことも忘れないでいただきたい」


訳注――言わずと知れた紀元前五世紀~四世紀のギリシャ人哲学者で、人類の知性の最高を極めたと評されている。著書としては『ソクラテスの弁明』などの『対話篇』が有名であるが、その中の『断片』の中に伝説上の大陸アトランティスの話が出ていて、本来の哲学者とは別の面で話題を生み、それは今日でも関心の的となっている。ジブラルタル海峡の少し西のあたりに高度な文明をもった民族が住んでいたが、それが地殻変動で一夜にして海中に没したという。

しかしエンサイクロペディア・アメリカーナの執筆者によると、地理学者の調査で確かにそのあたりの大陸は大きくアメリカ大陸方向へ延びていたことは事実であるが、それが埋没したのは有史以前のことと推定されるという。

どうでもよさそうな伝説を紹介したのは、世界中のチャネラーが好き勝手なことを言い、トランス霊媒を通じて語る霊の中に自分はアトランティス大陸の住民だったなどと言う者が後を絶たないからで、全ては低級霊の仕業であるから相手にしないことである。


パウロ「宇宙の至高の存在すなわち神と一体となることこそ人間生活の目的です。その目的達成のためには次の三つの要素が必要です。知識と愛と正義です。当然これに対立するものにも三つあります。無知と憎しみと不正です。

あなた方は神の厳しさを誇張しすぎることによって却って神の概念を傷つけております。本来の神にあるまじきお情け、特別の寵愛、理不尽な懲罰、正義のこじつけが通用するかに思わせる結果になっております。中世のあの拷問と断罪、そして火あぶりの刑という、身の毛もよだつ所業に見られるように、“赦し難き罪”の解釈を誤って、心まで悪魔となっています。そんなことではキリスト教の指導者は、その無差別の残虐的懲罰の原則が人間社会の法律から完全に排除された暁には、その懲罰が神の政庁の原理であるとは、もはや信じさせることはできなくなってしまいます。

そこで神とイエス・キリストの御名のもとでの同志諸君に告げたいのです。選ぶ道は次の二つのうち一つです。これまでの古いドグマをいじくり回すような小手先のことをせずに、いっそのこと全てを廃棄してしまうか、それとも今我々が携わっている(スピリチュアリズムの)活動によってイエスの教えに全く新しい生命を吹き込むか、そのいずれかです。

例えば燃えさかる炎と煮えたぎる大釜の地獄は、鉄器時代だったら信じる者もいたかも知れません。が、現代では他愛もない空想物語でしかなく、せいぜい幼児の躾にしか役に立ちません。その幼児も少し成長すればすぐに怖がらなくなります。そのような根拠のない恐怖を説き続けることは、社会秩序の破壊の元凶である“不信”のタネを蒔くことになります。そしてそれに代わる権威ある処罰の規定もないまま、社会の基盤が崩れ瓦解してしまうのを見るのが、私は怖いのです。

生きた信念に燃える熱烈な新時代の先駆者が一致団結して、今や悪評の絶えない古い寓話の維持に汲々となることは止めて、今の時代の知性と風潮に調和した、真の意味での罰の概念を蘇らせてほしいのです。

ところで“罪を犯せる者”とは一体どういう人間のことでしょう? 魂の間違った働きによって人の道から外れ、創造者たる神の意図から逸脱した者のことです。その神の意図とは、人類の模範として地上に送られたイエス・キリストにおいて具現されている善なるもの・美なるものの調和です。

では“懲罰”とは一体何なのでしょう? 今述べた間違った魂の働きから派生する自然な結果のことです。具体的に言えば、正道から外れたことに自らが不快感を抱くに至らせるために必要な苦痛、つまりその逸脱によって生じる苦の体験のことです。言うなれば家畜を追い立てる突き棒のようなもので、時おり突きさされて、その痛みに耐えかねて放浪を切り上げて正道に帰る決心をさせるためのものです。罰の目的はただ一つ、リハビリテーションです。その意味から言って、永遠の刑罰の概念は存在そのものの理由を奪うことになるのです。

どうか善と悪の永続性の対比の議論は、いいかげん止めにしていただきたい。対比することで、そこに懲罰の基準というものをこしらえてしまいます。が、そういうものには何の根拠もありません。そうではなく、物質界での生活をくり返すことによって欠陥が徐々に消え失せ、それだけ罰も受けなくなるという因果関係をしっかりと理解してください。そうすれば公正と慈悲との調和による創造者と創造物との一体化という教義に生命を賦与することになるのです」


訳注――改めて紹介するまでもなくイエスの弟子の一人で、イエスの死後その教えを各地に伝道してまわった人物として知られる。聖書の中にも「ローマ人への手紙」「コリント人への手紙」「テサロニケ人への手紙」等々、十指に余るパウロの文書が見える。それが果たして本物か否かの問題は別として、カルデックがこの署名入りの一文を掲載したということは、その内容からあのパウロに間違いないとの確信を得たからであろう。“聖パウロ”と呼ばれることが多いが、署名は“弟子パウロ”とある。

Friday, January 19, 2024

シアトルの冬 取越苦労ばかりしている人間が多すぎます。

There are too many people who are always struggling to make ends meet.

「取越苦労ばかりしている人間が多すぎます。その心配の念が霧のようにその人を包み、障害物となって霊の接近を妨げます。心配すればするほど──あなたのことを言っているのではありません。人間一般についての話です──あなたに愛着を感じている霊の接近を困難にします」

 そこで列席者の一人が「ほとんどの人間がそのことに確信が持てないのです。何も分からず、それが取越苦労の原因となっているのです」と言うと、

 「おっしゃることは判ります」しかし、その知識を具えた人までが取越苦労をされている。それが私には理解できないのです。私は自信を持って皆さんに申し上げますが、この世の中には心配することなど何一つありません。

 人間にとって最大の恐怖は死でしょう。それが少しも怖いものではないことを知り、生命が永遠であり、自分も永遠の存在であり、あらゆる霊的武器を備えていることを知っていながら、なぜ将来のことを心配なさるのでしょう。

 するとさっきの婦人が「でも私達には不幸が訪れます。それも、往々にして予想できることがあります」と言うと、

 「不幸の訪れの心配は不幸そのものよりも大きいものです。その心配の念が現実の不幸より害を及ぼしています」

 ここで列席者の一人がこう意見を述べる。

 「あなたは進化された霊だからそうおっしゃるのであって、私たち凡人は進化が十分でないために神の摂理の完璧な働きが判らないのです」

 「私は私の知り得た限りのことを有りのまま述べております。そうしないと私の使命に背きます。私は決してあなた方が〝凡人〟と呼ぶ程度の人々と接触出来ないほど進化してはおりません。あなた方の悩みはすべて私にも判っております。ずいぶん永い間、地上生活に馴染んでまいりました。

あなた方お一人お一人の身近にいて、人生の困難さのすべてに通じております。しかし振り返ってご覧になれば、何一つとして克服できなかったものがないことが判るでしょう。

心配してはいけません。摂理を超えた出来ごとは決して起きません。霊の力も自然を無視したことは起こし得ないのです。不思議なことが起きるのは、それなりの必要条件が整った時だけです。

 私は地上の存在ではありません。霊の世界にいるのですから、地上での仕事を成就させるためにはあなた方がそのための手段を提供してくれなければなりません。あなた方は私たちスピリットの腕であり身体です。

あなた方が道具を提供し、その道具を使って私たちが仕事をするということです。忠実に、誠意を持ってこの仕事に携わる者が、後で後悔することは絶対にありません」

シルバーバーチ

Thursday, January 18, 2024

シアトルの冬 霊とは何か その光輝、その気高さ、その威厳の中に生きることです。

To live in its splendor, its nobility, its majesty.

 霊とは何かを言語によって完璧に描写することは絶対に不可能です。無限だからです。言語はすべて有限です。私はこれからそれを何とか説明してみようと思いますが、いかにうまく表現してみたところで、霊力のほんのお粗末でぎこちない描写でしかないことをご承知下さい。

 宇宙の大霊すなわち神が腹を立てたり残酷な仕打ちをしたりわがままを言ったりするような人間的存在でないことは、すでにご承知でしょう。何度も言ってきたように、神とは法則であり、その背後に働く精神であり、森羅万象の無数の顕現を支える力です。

それは生命そのものであり、生命を構成する根源的要素です。その中に極小と極大の区別もありません。

 こうした大まかな表現によって私たちは自分本来の姿、つまりミクロの神でありミニチュアの宇宙である自我について、どうにかその片鱗をつかむことができます。全体を理解するには余りに大きすぎます。あなた方がこうして地上に生を享けたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。それは永遠に終わることのない道程です。

何故なら神性は無限に顕現するものだからです。神性の本性として自発的に顕現を求め、それがあらゆる種類の美徳と善行、つまり親切、同情、寛容、慈愛、哀れみ、友情、情愛、無私の愛となって表現されます。その量が多ければ多いほど、それを発現している霊は偉大であることになります。

 では、いかにすればこの驚異的な潜在的神性を意識的に発現させることができるのでしょうか。

 それに関して地上には各種の学説、方法、技術があります。いずれも目指すところは同じで、脳の働きを鎮め、潜在的個性を発現させて本来の生命力との調和を促進しようというものです。

要するに物的混沌から脱け出させ、霊的静寂の中へと導くことを主眼としておりますが、私はどれといって特定の方法を説くことには賛成しかねます。各自が自分なりの方法を自分で見出していくべきものだからです。

 自我を一時的に潜在意識にコントロールさせ、それをきっかけにして内部の生命力とのつながりをより緊密に、そしてより強くさせることを目的とした内観法が幾つかあります。それが次第に深まれば霊界からのインスピレーションを受けることも多くなります。

まず心霊的(サイキック)な面が開発されます。続いて霊的(スピリチュアル)な面が開発され(※)宇宙の内奥に存在する生命力がふんだんに流れ込むようになります。

(※サイキックとスピリチュアルの違いはこうした自我の開発のほかに心霊能力にも心霊治療にもあります。心霊治療については第七章でシルバーバーチが詳しく説明しています。心霊能力について言えば、たとえば単なる透視力は動物の超能力と同じで五感の延長にすぎません。これがサイキックです。

つまり目の前に存在するもの──地上にせよ霊界にせよ──しか見えません。これに背後霊の働きが加わり、その場に存在しないもの、あるいは高次元の世界のものを映像またはシンボルの形で見せられるようになれば、それがスピリチュアルです。── 訳者)

 ある種のテクニックを身につければ病気を自分で治し、体内の不純物を排出し、欠陥を矯正することができるようになります。自我の全ての側面──霊と精神と身体の調和を成就することができます。

かくして霊性が本来の優位を確保していくに従って、霊的叡知、霊的理解、霊的平穏、霊的自信、霊的静寂が増し、不滅の霊力との真の繋がりを自覚するようになります。

 人間は霊的存在である以上、宇宙の大霊すなわち神の属性を潜在的に所有しております。あなた方一人ひとりが神であり、神はあなた方一人ひとりなのです。一人ひとりが神の無限の霊力の一翼を担っているのです。地上への誕生はその大霊の一部が物質と結合する現象です。その一部に大霊の神性の全てが潜在的に含まれております。いわば無限の花を開かせる可能性を秘めた種子と言えましょう。

 その可能性の一部が霊界からの働きかけによって本人も気づかぬうちに発揮されるということがあります。むろん無意識よりは意識的の方が望ましいに決まっています。ですが無意識であっても、全然発揮されないよりはましです。人間が同胞に向けて愛の手を差し伸べんとする時、その意念は自動的に霊界の援助の力を呼び寄せます。

その、人のために役立とうとする願望は魂をじっとしていられなくします。そして、やがて機が熟して魂が霊性に目覚める時が来ます。その時からは自己の存在の意義を成就する目標へ向けて意識的に邁進するようになります。

 先にサイキックという用語を用いましたが、これは物質と霊との中間的段階をさします。悟りを求め、あるいは霊能を開発せんとして精神統一の訓練を開始すると、まず最初に出てくるのが心霊的(サイキック)な超能力です。これはその奥の霊的(スピリチュアル)な能力に先がけ出て来ます。

超能力の開発は霊性の発達を阻害すると説く人がいます。そう説く人は心霊的な段階を経ずに一気に、独力で、神との合一を求めるべきであると主張するのですが、私はこれは間違っていると思います。それもあえて出来ないとは申しませんが、大変な修行のいることであり、しかも往々にして危険を伴います。

 霊格が向上するほど生命活動が協調によって営まれていることを悟るものです。自分一個で生きているものは何一つありません。お互いが力を出し合って生きております。一人ひとりが無限の連鎖関係の中の一つの単位なのです。

そんな中でなぜ初心者が熟練者の手助けを拒絶するのでしょう。私たちがこうして地上に戻ってあなた方を手助けし、手助けされたあなた方が同胞の手助けをする。そこにお互いの存在の理由があるわけです。

一人だけ隔離された生活をするようにはなっていないのです。みんなと協力し合って生きていくように出来ているのです。この見解を世界中に広めなければなりません。

すなわち世界の人間の全てが霊的に繋がっており、いかなる人間も、いかなる人種も、いかなる階級も、いかなる国家も、他を置き去りにして自分だけ抜きん出ることは許されないのです。

 登るのも下るのもみんな一緒です。人類だけではありません。動物も一緒です。なぜなら生命は一つであり、無限の宇宙機構のすみずみに至るまで、持ちつ持たれつの関係が行きわたっております。独善的考えから他の全ての方法を蔑視して独自の悟りの境地を開くことも不可能ではありません。

が、私はそうした独善的な生き方には反対です。私の理解した限りにおいて、宇宙の摂理は協調によって成り立っており、他の存在から完全に独立することは絶対に不可能です。他人の援助を頼まずに独力で事を成就しようとする気構えは、それ自体は必ずしも利己的とは言えません。

私はただ、その方法はお勧めしないと言っているのです。自分を他人に役立てること── これが霊的存在の真の価値だと私は信じます。私はその心掛けで生きて参りました。それが宇宙の大霊の意志だと信じるからです。そうではないと思われる方は、どうぞご自分の信じる道を歩まれるがよろしい。

 人類の手本と仰がれている人々は、病に苦しむ人には霊的治癒を、悲しみの人には慰めの言葉を、人生に疲れた人には生きる勇気を与えて、多くの魂を鼓舞してきました。要するに己を犠牲にして人のために尽くしたのです。それが神の御心なのです。

悲しみの涙を拭ってあげる。病を治してあげる。挫折した人を勇気づけてあげる。苦境にある人に援助の手を差しのべてあげる。

たったそれが一人であっても立派に神の意志を行為で示したことになります。そんなことをする必要はないと説く教えは絶対に間違っております。救いの手を差し伸べることは決して間違っておりません。それを拒絶する方が間違っております。

 もちろんそこに動機の問題もあります。見栄から行う善行もありましょう。が、それも何もしないよりはましです。邪な考えに発した偽善的行為、これはいけません。魂にとって何の益もありません。摂理をごまかすことはできないのです。完璧なのです。

イエスが〝慈悲の心は耐え忍ぶもの〟(※)と語ったのは神の意志の偉大さを説かんとしたのです。善行はそれ自体の中に報酬が宿されております。

(※コリント前書13・4-この言葉は聖書では〝愛は寛容である〟と訳されております。イエスの言葉はこの後さらに次のように続きます。

〝愛は慈悲に富む、愛は妬まず、誇らず、高ぶらず、非礼をせず、己れの利益を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、全てを許し、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ〟。──訳者)

 霊力の道具として働く霊能者は多くの魂へなんらかの影響を及ぼしています。そこが霊的現象の大切な点です。悲しみの人に慰めを与え、病の人に治癒を与え、主観・客観の両面にわたって霊力の証を提供することも確かに大切ですし、これを否定できる人はおりません。が、真の目的は現象的なものを超えたところにあります。魂に感動を与え実在に目覚めさせることです。

地上は未だに〝眠れる魂〟で一杯です。生命の実相をまるで知らず、これから目覚めていかねばなりません。

 霊的現象の目的はそうした個々の魂に自我への覚醒をもたらし、物的感覚を超えて自分が本来霊的存在であることを自覚させることです。いったん霊性を悟れば、その時から神からの遺産として宿されている神性の種子が芽を出して生長を開始します。その時こそ全大宇宙を経綸する無限の創造力のささやかな一翼を担うことになります。

 こうして霊力の道具として役立つだけの資格を身につけるまでには、それなりのトレーニングが要ります。それは大変なことです。何となれば、その結果としてある種の鍛錬、ある種の確信を身につけなければならず、それは苦難の体験以外には方法がないからです。霊力の道具として歩む道は厳しいものです。

決して楽ではありません。容易に得られた霊能では仕事に耐えきれないでしょう。魂の最奥・最高の可能性まで動員させられる深刻な体験に耐えるだけの霊性を試されて初めて許されることです。そうして身に付けたものこそ本物であり、それこそ霊の武器と言えます。

 その試練に耐え切れないようでは自分以外の魂を導く資格は有りません。自ら学ぶまでは教える立場に立つことは出来ません。それは苦難の最中、苦悩の最中、他に頼る者とてない絶体絶命の窮地において身につけなければなりません。最高のものを得る為には最低まで降りてみなければなりません。

こうした霊的覚醒、言えかえれば飢えと渇きに喘ぐ魂に霊的真理をもたらすことは実に大切なことです。それが地上での存在の理由の全てなのです。なのに現実は、大多数の人間が身につけるべきものをロクに身につけようともせず地上を素通りしております。

 ですから、イザこちらの世界へ来た時は何の備えも出来ていないか、さもなければ、一から学び直さなければならないほど誤った思想・信仰によってぎゅうぎゅう詰めになっております。本来そうしたものは地上の方が遥かに学びやすく、その方が自然なのです。

悲しみの人を慰め、迷える人を導き、悩める人を救うためには、自らが地上において苦難の極み、悲哀のドン底を体験しなければなりません。自分自身の体験によって魂が感動した者でなければ人に法を説く資格は有りません。

 教える立場に立つ者は自らが学ぶ者として然るべき体験を積まなくてはなりません。霊的教訓は他人から頂戴するものではありません。艱難辛苦── 辛く、厳しく、難しく、苦しい体験の中で自らが学ばなければなりません。それが真に人のために役立つ者となるための鉄則です。

そうでなければ有難いのだが、と私も思うことがあります。しかし側(はた)の者には分からないあなただけの密かな霊的覚醒、霊的悟り、魂の奥底からの法悦は、そうした辛い体験から得られるものです。なぜならその艱難辛苦こそ全ての疑念と誘惑を蹴散らし、祝福された霊として最後には安全の港へと送り届けてくれるからです。

 これも神の摂理として定められた一つのパターンです。霊的成就への道は楽には定められておりません。もし楽に出来ておれば、それは成就とは言えません。楽に得られるものであれば、得るだけの価値はありません。人のために役立つためにはそれなりの準備が要ります。

その準備を整えるためには魂の琴線に触れる体験を積み、霊性を開発し、心霊的能力を可能な限り霊的レベルまで引き上げなければいけません。心霊的能力を具えた人は大勢います。が、それを霊的レベルまで高めた人は多くは居ません。

私たちがかかわるのは霊そのものの才能であって、霊的身体(幽体)の持つ能力、つまり肉体の五感の延長でしかないものには、たとえ地上の学者がどんなに面白い実験(※)をしてくれても関心はありません。私は決してそれを軽蔑して言っているのではありません。それにはそれなりの意味があります。

(※ここではESPつまり超感覚的能力の実験を指していますが、シルバーバーチの説を総合すれば、ヨガや密教における超人的な術、未開人におけるまじない的な術、雨を降らせる術なども同類に入ります。──訳者)

 地上には、自分を変えようとせずに世の中を変えようとする人が多すぎます。他人を変えようと欲するのですが、全ての発展、全ての改革は先ず自分から始めなくてはなりません。自分が霊的資質を開発し、発揮し、それを何かに役立てることが出来なければ、他の人を改める資格はありません。

地上人類の霊的新生という大変な事業に携っていることは事実ですが、それにはまず自分を霊的に新生させなければなりません。真の自我を発見しなければなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて、魂の内奥の神性を存分に発揮しなければなりません。

 宗教的呼称や政治的主義主張はどうでもよろしい。私はその重要性を認めません。もし何かの役に立てば、それはそれで結構です。が、本当に大切なのは神の子として授かった掛けがえのない霊的遺産を存分に発揮することです。

その光輝、その気高さ、その威厳の中に生きることです。いかなる名称の思想、いかなる名称の教会、いかなる名称の宗教よりも偉大です。

神の遺産は尽きることがありません。地上に誕生してくる者の全てが、当然の遺産としてその一部を無償で分け与えられております。

 人生の重荷を抱えた人があなた方のもとを訪れた時、大切なのはその人の魂に訴えることをしてあげることです。他界した肉親縁者からのメッセージを伝えてあげるのも良いことには違いありません。メッセージを送る側も送られる側も共に喜ぶことでしょう。しかし喜ばせるだけで終わってはいけません。

その喜びの体験を通して魂が感動し、宇宙の絶対的な規範であるところの霊的実在に目覚めなければなりません。慰めのメッセージを伝えてあげるのも大事です。病気を治してあげるのも大事です。私がこうしておしゃべりすることよりも大事です。

ですが、霊界において目論まれている目的、こうして私どもが地上へ舞い戻って来る本当の目的は、地上の人間の霊的覚醒を促進させることです。

 その仕事にあなた方も携わっておられるわけです。困難に負けてはいけません。神の道具として託された絶大なる信頼を裏切らない限り、決して挫折することはありません。嵐が吹きまくることもあるでしょう。雨も降りしきることでしょう。

しかし、それによって傷めつけられることはありません。嵐が去り太陽が再び輝くまで隔離され保護されることでしょう。

煩わしい日常生活の中に浸り切っているあなた方には、自分が携わっている恵み深い仕事の背後に控える霊力がいかに強力で偉大であるかを理解することは難しいでしょう。

ですから、あなた方としてはひたすらに人の役に立つことを心掛けるほかないのです。あなた方を通して働いている力はこの宇宙、想像を絶する広大な全大宇宙を創造した力の一部なのです。

 それは全ての惑星、全ての恒星を創造した力と同じものなのです。雄大なる大海の干満を司るエネルギーと同じものなのです。無数の花々に千変万化の色合いと香りを与えたエネルギーと同じものなのです。

小鳥、動物、魚類に色とりどりの色彩を施したのも同じエネルギーです。土くれから出来た人間の身体に息吹きを与え生かしめている力と同じものです。それと同じエネルギーがあなた方を操っているのです。目的は必ず成就します。

 真摯な奉仕的精神をもって然るべき条件さえ整えば、その霊力は受け入れる用意の出来た人へいつでも送り届けられます。怖じけてはいけません。あなた方は神の御光の中に浸っているのです。それはあなた自身のものなのです。

Wednesday, January 17, 2024

シアトルの冬 完全なる人格 自分を知ることほど難しいものはありません。どうすれば自分自身を知ることが出来るでしょうか。


There is nothing more difficult than knowing yourself. How can we know ourselves?

――自分を知ることほど難しいものはありません。どうすれば自分自身を知ることが出来るでしょうか。


「私(聖アウグスティヌス)が地上時代に行った通りにやってご覧なさい。私は一日の終わりに自分にこう問いかけました――何か為すべき義務を怠ってはいないだろうか、何か人から不平を言われるようなことをしていないだろうか、と。こうした反省を通じて私は自分自身を知り、改めるべき点を確かめたものでした。毎夜こうしてその日の自分の行為の全てを思い起こして、良かったこと悪かったことを反省し、神および守護霊に啓発の祈りを捧げれば、自己革新の力を授かることは間違いありません。私が断言します。

霊的な真理を知ったあなた方は、こう自問してみることも一つの方法でしょう。即ち、もしも今この時点で霊界へ召されて何一つ隠すことのできない場にさらされたとしても、青天白日の気持ちで誰にでも顔向けができるか、と。まず神の御前に立ち、次に隣人に向かって立ち、そして最後に自分自身に向かって何一つ恥じることは無いかと問うのです。何一つ良心の咎めることはないかも知れませんし、治さねばならない精神的な病があるかも知れません。

人間は、仮に反省すべき点に気づいても自己愛から適当な弁解をするのではないかという意見には一理あります。守銭奴は節約と将来への備えをしているのだと言うでしょう。高慢な人間は自分のうぬぼれを尊厳だと思っているかも知れません。確かにそう言われてみればそうです。その意味では反省が反省になっていないかも知れません。が、そうした不安を払いのける方法があります。それは他人を自分の立場に置いてみることです。自分が行ったことをもし他人が行ったとしたら、それを見て自分はどう思うかを判断してみるのです。もしいけないことだと感じるのであれば、あなたの行いは間違っていたことになります。神が二つの秤(はか)り、二種類のモノサシを用いるはずはありません。

さらに又、他人は自分のしたことをどう見るか――とくに自分に敵対する者の意見も見逃してはいけません。敵方の意見には遠慮容赦がないからです。友人よりも率直な意見を述べます。敵こそは神が用意した自分の鏡なのです。

我々への質問は明確に、そして有りのままを述べ、幾つでもなさるがよろしい。そこに遠慮は無用です。人間は老後に備えてあくせくと働きます。老後の安楽が人生最大の目的――現在の疲労と窮乏生活をも厭わないほどの目的になっているではありませんか。疲労こんぱいの身体で人生最後の、ホンのわずかな時を経済的に安楽に過ごすことと、徳積みの生活に勤しんで死後の永遠の安らぎを得るのと、どちらが崇高でしょうか。

そう言うと人間は言うでしょう――現世のことは明確に分かるが死後のことは当てにならない、と。実はその考えこそ、我々霊団が人間の思念の中から取り除いて死後の実在に疑念を持たせないようにせよと命じられている、大きな課題なのです。だからこそ我々は心霊現象を発生させてあなた方の注意を喚起し、そして今こうして霊的思想を説いているのです。

本書を編纂するよう働きかけたのもその目的のためです。今度はあなた方がそれを広める番です」

(署名)アウグスティヌス

Tuesday, January 16, 2024

シアトルの冬 愛の力 あなた方の心臓の鼓動よりもなお身近にあるその愛の深さはとうてい人間の言語では表現できません。

Human language cannot express the depth of that love that is closer than the beating of your heart.

愛は大きさを測ることができません。
重さを測ることもできません。
いかなる器具をもってしても分析することはできません。
なのに愛は厳然として存在します。
宇宙における最大の力です。
大自然の法則を機能させる原動力です。

愛あればこそ全大宇宙が存在するのです。
宇宙がその宿命を成就し、全存在がそれぞれの宿命を成就していく背後にはこの愛の力が存在します。

生命活動の原動力であり、霊の世界と物質の世界の間に横たわる障害を克服していくのも愛の力です。辿り着いた高級霊界からの遼遠の旅路の末に再び地上に舞い戻り、古くかつ新しい名言〝愛は死を乗り超える〟を改めて宣言することができるのも、この愛あればこそです。

 あなた方を今日まで導き、これ以後もより一層大きな霊的回路とするための受容力の拡大に心を砕いてくれている背後霊の愛に目を向けて下さい。

昼の後には夜が訪れるように、春の後には夏が訪れるように、種子を蒔けば芽が出るように、霊は着実に開眼し一歩一歩その存在意義の成就に向けて階段を昇ります。日常の煩瑣(はんさ)な雑事の渦中にあって、時には僅かの時間を割いて魂の静寂の中に退避し、己れの存在の原動力である霊性に発現の機会(チャンス)を与えて下さい。

 心に怖れを宿してはいけません。完全に拭い去らないといけません。誕生以来今日までずっとあなたを導いてきた霊が、今になって見捨てるはずがありません。これまで日夜あなたの生活の支えとなってきたのであり、これ以後もずっと支えとなることでしょう。

なぜなら、あなたに絶対成就してもらわねばならない仕事があるからです。霊がこの世へ携えて来た能力がこれからもその役目を果たしていきます。こちらから援助に当たる霊の背後には宇宙の大霊すなわち神の力が控えております。それは決して裏切ることはありません。

 宇宙は無限・無窮の神的エネルギーによって存在しております。しかし地上の人間の圧倒的多数はそのエネルギーのごくごく僅かしか感識しておりません。

受け入れる条件が整わないからです。ですから、あなた方人間はその神の恩寵を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく開く方法を学ばねばなりません。それには信念と信頼心と信仰心と穏やかさと落着きを身につけなければなりません。

 そうしたものによって醸し出される雰囲気の中にある時、無限のエネルギーから莫大な豊かさを受けることができます。それが神の摂理なのです。そういう仕組みになっているのです。受け入れ、吸収する能力に応じて、エネルギーが配給されるということです。

受容力が増せば、それだけエネルギーも増します。それだけのことです。悲哀の念が消えるに従って、魂を取り巻いていた暗雲が晴れ、確信の陽光がふんだんに射し込むことでしょう。

 宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも神の愛があればこそです。全宇宙を経綸し全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が自分の愛する者だけでなく血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差しのべんとする同胞愛に燃えます。

愛は自分より不幸な者へ向けて自然に手を差しのべさせるものです。全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、よりいっそうの表現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込みます。そして、いつの日か、全宇宙が神の愛によって温かく包まれることになるでしょう。

 好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。そこには徳性も神聖さもありません。好感の持てない人を愛する──これが魂の霊格の高さを示します。あなたに憎しみを抱いている人のもとに赴くこと、あなたの気に食わぬ人のために手を差しのべること、これは容易なことではありません。
 
確かに難しいことです。しかし、あなた方は常に理想を目標としなければいけません。他人に出来ないことをする、これが奉仕の奉仕たる所以だからです。可哀そうにと思える人に優しくする、これは別に難しいことではありません。気心の合った人に同情する、これも難しいことではありません。が、敵を愛する、これは実に難しいことです。

 最高の徳は愛他的です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛する、これです。愛らしい顔をした子供を治療してあげる、これはやさしいことです。しかし、奇形の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心掛けでは出来ません。が、

それが奉仕です。真の愛は大小優劣の判断を求めません。愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。宇宙の大霊は無限なる愛であり、自己のために何も求めません。向上進化の梯子を登って行けば、己れのために何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿り着きます。ただ施すのみの世界です。

 願わくばあなた方の世界も是非そうあってほしいと思うことしきりです。私たちのことが理解できない人々はいろいろと勝手なことを言ってくれますが、私たち自身はどう評価されたいとも思っておりません。

手の届くかぎりの人々に手を差しのべたいと思うだけです。その意味でも、あなた方には霊の世界の最高レベルの階層と感応するよう努力していただきたい。

あなた方は決して孤軍奮闘しているのではないこと、まわりにはあなた方を愛する人々、手引きし援助し鼓舞せんとする霊が大勢取り囲んでいることを認識していただきたい。

そしてまた、霊的開発が進めば進むほど、宇宙の大霊である神へ向けて一歩一歩近づきつつあり、よりいっそう、その摂理と調和していきつつあることを理解していただきたいのです。

 単なる信仰、ただそう信じているというだけでは、厳しい体験の嵐が吹けばあっけなく崩れてしまいます。が知識に根ざした信仰はいかなる環境にあってもゆるぎない基盤を提供してくれます。霊の力の証を授からなくても信じられる人は幸いです。が、

証を授かり、それ一つを手掛かりとして他の多くの真理を信じることのできる人は、それ以上に幸いです。なぜならばその人は宇宙の摂理が愛と叡知そのものであるところの霊の力によって支配されていることを悟っているからです。

 人生とは生命そのものの活動であり、霊的であるが故に死後も永遠に続くことは立証可能な事実です。かくして人間は地上にあっても霊的存在であり物質的存在ではないこと、すなわち身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではないということを自覚することができます。

物質界への誕生は測り知れない価値ある遺産の一部を享けることです。霊であるからこそ物質と結合し、活動と生命を賦与することができるのです。その霊は宇宙の大霊の一部であり、本質的には神性を具え、性質的には同種のものであり、ただ程度において異なるのみです。

 我欲を棄て他人の為に自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就し始めることになります。家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。

排他性の内向的愛よりも発展性の外向的愛の方が上です。いかなる資質にも上等のものと下等のもの、明るい面と暗い面とがあるものです。

 家族的な愛は往々にして排他性を帯びます。いわゆる血のつながりによる結びつきです。それは進化の過程における動物的段階の名残りである防衛本能によって支配されていることがよくあります。が、愛の最高の表現は己れを思わず、報酬を求めず、温かさすら伴わずに、全てのものを愛することができることです。

その段階に至った時は神の働きと同じです。なぜなら自我を完全に滅却しているからです。

愛は人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛はまた、滅私と犠牲の行為となって表われます。

 霊の世界へ来た者がなぜ地上に舞い戻って来るかご存知ですか。大多数の人間にとって死は有難いことであり、自由になることであり、牢からの解放であるのに、なぜ戻って来るのでしょうか。霊の世界の恩寵に存分に浸っておればよいはずです。

地上の住民を脅かす老いと病いと数々の煩悩に別れを告げたのです。なのに、地上との間に横たわる測り知れない困難を克服してまで自ら志願して帰って来るのは、あなた方への愛があるからです。彼らは愛の赴くところへ赴くのです。

愛のあるところに存在するのです。愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。霊界において如何なる敵対行為が私達へ向けられても、妨げんとする邪霊集団の勢力がいかに強力であろうと、それが最後には効を奏することができないのは、そうした愛に燃えた霊たちの働きがあればこそです。
 
 これまでに得させて頂いたものを喜ぶべきです。浴し得た恩寵に感謝すべきです。愛は死よりも強いこと、立ちはだかる障害も愛によってきっと克服されるという認識を得たことを有難く思うべきです。あなた方を包む愛によって存分に慰められ、支えられ、励まされるがよろしい。

その愛の豊かさはとても私には表現し尽くせません。時には何とか伝えてみようと努力することもあるのですが、あなた方の心臓の鼓動よりもなお身近にあるその愛の深さはとうてい人間の言語では表現できません。

 あなた方はこれまで、愛に発する利他的行為、英雄的行為、奉仕的行為、滅私的行為による目覚ましい成果を見て参りましたが、霊界の高級霊が生命力そのものを結集してあなた方を温く包む、その愛の底知れぬ潜在力はとうてい推し測ることはできません。

もっとも、それを受け入れる器がなければ授かりません。それが摂理なのです。理屈は分かってみれば簡単です。資格ある者が授かるというだけのことです。

霊力は無尽蔵です。それに制限を加えるのは人間の受容能力です。人間が少しでもその受容能力を増せば、その分だけを授ける用意がこちらにはいつでも出来ております。が、それ以上のものは絶対に授けることはできません。

 常に上を向いて歩んで下さい。下を向いてはいけません。太陽の光は上から差します。下からは照らしません。太陽は永遠の輝きの象徴です。霊的太陽は啓蒙と活力の源泉です。内在する霊に刺激を与えます。自分が本質において永遠なる存在であり何事も修行であることを忘れぬ限り、何が起きようと意気消沈することはありません。

霊性は書物からは得られません。先生が授けるものでもありません。自分自身の生活の中で、実際の行為によって体得しなければなりません。それは個性の内部における神性の発芽現象なのです。

 神聖こそ、その無限の愛の抱擁力によって私たちを支えている力であり、その尊い遺産を発揮し宿命を成就するよう導いてくれる力です。宇宙における最大の力であり、極大極小の別なく全ての現象を根本において操っております。魂のそれぞれの必要性を察知し、いかにしてそれを身につけるかを知らしめんと取り計らってくれます。

自分とは一体何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつかを徐々に悟らせる方向へと導いてくれます。ですから、私達は愛をもって導いてくれるこの力に安心して身を任せようではありませんか。その愛の導きに身を委ね、いついかなる時も神の御手の中にあることを自覚しようではありませんか。

 完全なる愛は恐怖心を駆逐します。知識も恐怖心を駆逐します。恐怖は無知から生まれるものだからです。愛と信頼と知識のあるところに恐怖心は入り込めません。進歩した霊はいついかなる時も恐れることがありません。なんとなれば、自分に神が宿る以上は人生のいかなる局面に遭っても克服できぬものはないとの信念があるからです。

これまであなたを包んできた愛が今になって見放すわけがありません。それは宇宙の大霊から放たれる無限なる愛であり、無数の回路を通して光輝を放ちつつ地上に至り、人のために役立たんと志す人々の力となります。

気力喪失の時には力を与え、悲しみの淵にある時は慰めを与えてくれます。あなたの周りに張りめぐらされた防御帯であり、決して破られることはありません。神の力だからです。

 私ども霊界の者が是非とも提供しなけらばならない証は、愛が不滅であること、死は愛し合う者の仲を裂くことはできないこと、物的束縛から脱した霊は二度と死に囚われることがないということです。愛の真の意義を悟るのは霊の世界へ来てからです。

なぜなら愛の本質は霊的なものだからです。愛は魂と魂、精神と精神とを結びつけるものです。宇宙の大霊の顕現なのです。互いが互いのために尽くす上で必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。邪なるもの、害なるものを知りません。愛は己れのためには何も求めないのです。

 死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。いわば第二の誕生です。死こそ真の生へのカギを握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わうことを可能にしてくれます。

愛によって結ばれた仲が死によって引き裂かれることは決してありません。神の摂理が顕幽の隔てなく働くと言われるのはそのことです。愛とは神の摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩── 愚かさ、無知、依怙地、偏見等々を乗り超えて働きます。

 二人の人間の愛の真の姿は魂と魂の結びつきです。神はその無限の叡知をもって、男性と女性とが互いに足らざるものを補い合う宿命を定めました。両者が完全に融合し合うことこそ真の愛の働きがあり、互いに補足し合って一体となります。

愛は無限なる霊の表現ですから、低い次元のものから高い次元のものまで、無限の形をとります。すなわち磁気的で身体的な結びつきから精神的な結びつき、さらには根源的な霊的な結びつきへと進みます。

その魂と魂との結びつきが地上で実現することは極めてまれなことであり、むしろ例外的なことに属します。が、もし実現すれば両者はその宿命を自覚し、一体となります。これが魂と魂との真の結婚の形態です。

 これは本来一体である親和性をもった魂が二つに分かれて地上へ顕現しているという、いわゆる〝同類魂〟(アフィニティー)の思想で、古来からあります。それが再び一体となるには何百万年、何千万年もの歳月を要します。それが僅か五十~七十年の短い期間に地上という小さな天体上で巡り合うということは極めて異例のことです。

幸いにしてその幸運に浴した時は、それは神がそう図られたとしか考えられません。そしてそのアフィニティーの二人は死後も融合同化の過程を、人智を超えた歳月にわたって続けます。人間的個性を少しずつ脱ぎ捨て、霊的個性をますます発揮していき、その分だけ融合の度合いを深めていくことになります。
 
 愛は血縁に勝ります。愛は死を乗り超えます。愛は永遠不易のエネルギーです。それが宇宙を支配しているのです。神の意図によって結び合った者は生涯離れることなく、死後も離れることはありません。墓には愛を切断する力はありません。愛は全てのものに勝ります。

なぜなら、それは宇宙の大霊すなわち神の一表現だからです。そして神の統一体(※)としての一部を構成するものは永遠にして不滅です。(※それを欠けば完全性を失う必須の存在。──訳者)
  

シルバーバーチ            
              

Monday, January 15, 2024

シアトルの冬 心霊治療と生命力 魂に霊的悟りをもたらせることこそ心霊治療の真髄だからです。

This is because bringing spiritual enlightenment to the soul is the essence of psychic treatment.


 (本章は主として心霊治療の専門家グループを招待した交霊会での霊言である。──訳者)

 あなた方には病気を治すだけでなく霊的真理へ向けて魂を開眼させる生命力について是非理解していただきたいと思います。魂に霊的悟りをもたらせることこそ心霊治療の真髄だからです。身体的障害を取り除いてあげても、その患者が霊的に何の感動を覚えなかったら、その治療は失敗したことになります。

もしもなんらかの霊的自覚を促すことになったら成功したことになります。内に秘められた神の火花を大きく燃え上がらせ輝きを増すのを手助けしてあげたことになるからです。

 それが常に変わらぬ心霊治療の隠れた目的です。治療家としてこの世に生を享けたのは、その仕事を通して神の計画の遂行に参加し、自分が何であるかも自覚せず何のために地上に生まれきたのかも知らず、従って何をなすべきかも知らずに迷っている神の子等に、永遠の真理、不変の実在を教えてあげるためです。これは何にも勝る偉大な仕事です。

たった一人でもよろしい。治療を通じて霊的真理に目覚めさせることができたら、あなた方の地上生活は無駄でなかったことになります。一人でいいのです。それであなた方の存在の意義があったことになります。

 真理普及の仕事が次第に発展しつつあること、霊的威力に目を向ける人が増えつつあることを私は非常にうれしく思っております。その人たちが困難に遭遇した時はいつでも援助の手を差しのべております。病気治療にはいっそう強力な生命力を注ぎ込みます。

しかし忘れないでいただきたいのは、何ごとにも必ずそれ相当の原因があるということです。

霊界からいかなる援助の手を差しのべても、その原因と結果の間に割って入るわけにはいかないのです。手助けはできます。が、厳然とした原因に由来する結果を抹消してあげるわけには参りません。あなた方人間は物的身体を通して自我を表現している霊魂です。

霊魂に霊的法則があるように、身体には生理的法則があります。その法則の働きによって身体に何らかの影響が表われたとすれば、それも原因と結果の法則が働いたことを意味します。私どもは霊力によって手助けすることは出来ても、その法則の働きによる結果に対しては干渉できません。

 要するに奇跡は起こせないということです。大自然の因果律は変えられないということです。神は摂理として、その霊力によって創造した宇宙で一瞬の休みもなく働いております。全てを包含し、木の葉一枚落ちるのにも摂理の働きがあります。

ありとあらゆる治療法を試みてなお治らなかった患者が、もし心霊治療によって見事に治ったとしたら、それは奇跡ではなく霊的法則が働いた証と考えるべきです。地上でそれまで巡り合ったいかなる力にも勝る力を身をもって体験したことになります。

 その体験によって魂が何らかの感動を覚えたら──本来そうあるべきであり、そうならなかったら成功とは言えないというのが私の考えですが──それは霊的自我に目覚めたということであり、存在の意義を成就し始めたことになります。

この根本的目標を理解していない人が一般の人はもとよりスピリチュアリズムの仕事に携わる人々の中にも大勢おります。スピリチュアリズムにおける様々な現象はそれぞれに意義があります。しかし、それはしょせんは注意をひくためのオモチャに過ぎません。

いつまでもオモチャで遊んでいてはいけません。幼児から大人へと成長しなければなりません。成長すれば、よろこばせ、興味を引くために与えられたオモチャは要らなくなるはずです。

 一口に心霊治療と言っても、内面的にみれば磁気的(マグネチック)なもので生理的とも言えるものと、心霊的(サイキック)ではあっても霊的(スピリチュアル)とは言えないもの、そしてわれわれ霊による最も程度の高いもの、すなわち治療家と霊界の医師との波長が一致し、しかも患者の治るべき時機が熟している時に治療家が一切手を触れずに一瞬の内に治してしまうものがあります。

健康体のもつ磁気だけでも治る場合があります。その時は霊界とは何のかかわりもありません。その方法と霊的方法との中間的なものがサイキックなもので、遠隔治療と呼ばれているものはたいていこれによります。

その上にあるのが治療家を通して霊界の医師が症状に応じた治療エネルギーを注ぎ込むやり方で、患者の身体に一切触れずに一瞬の内に治すことができます。

 その治療エネルギーは実は人間の全てに宿されているのです。霊的兵器庫の中にしまわれていて、努力次第で活用することができるのです。身体に自然治癒力があるように、霊的存在であるあなた方には霊的に治癒する力が具わっております。ただそれにはそれなりの摂理があるということです。

 そもそも健康とは身体と精神と霊の三者の関係が健全であるということです。この三つの必須要素が調和のとれた状態にあることです。そのうちの一つでも正常に働かなくなると連係がうまくいかなくなり、そこに病が生じます。 

三者の調和を保つ方法はその三者がそれぞれに与えられた地上での機能を果たすことです。霊力は素晴らしい威力を発揮します。これには反駁(はんぱく)の余地はありません。この事実を否定したり、この知識の普及を妨げんとする者は必ずその結果に対して責任を取らねばなりません。


 霊的治癒エネルギーの威力を目のあたりにされるあなた方は、宇宙の全創造物を支配する莫大なエネルギーのミニチュア版を見ているようなものです。同じ質のものが大海の動きを支配し、引力を支配し、星座の運行を支配し、人間、動物、植物、その他ありとあらゆる生命の千変万化の造化を支配しています。治癒エネルギーはその生命力の一部なのです。

身体に生命を賦与しているのは霊です。物質そのものには生命はありません。霊から離れた物質に意識的存在はありません。あなた方を生かしめている原理と同じものが、痛みに苦しむ人、精神的に病める人、そして身体を患う人の治療に際して、あなた方を通して働くのです。

 このように、ある意味であなた方は、宇宙の大霊と共に宇宙的創造計画の中において、その無限の生命力を使用する責任を担っていることになります。その仕事に邪魔を入れんとする者は必ず後悔します。

かつてはこれが聖霊に対する罪、霊力の働きを邪魔する大罪と見なされました。その霊力の流入を存分に受け入れるように心を開けば、その霊力と共に自動的に宇宙の根源的創造主から発せられる恩寵に浴することになります。

 物質的にも精神的にも霊的にも病的状態にある地上には、なさねばならない大切なことがいろいろとあります。私どもにとっても、あなた方にとっても、身体と精神と霊の病を駆逐し、混沌の霧の中を道を探し求めてさ迷う人々に愛の証をもたらすことが大切な仕事の一つです。

それが全ての霊媒現象の究極の目的なのです。悲しみに心重く、目に涙を浮かべた人々に愛のメッセージを伝えること、これが大切です。痛みに苦しめられ、病気に悩まされ、異常に苛まれる人々を癒してあげること、これはまさに慈悲の行為であり、いまこそ要請されていることです。

 しかし、これもあくまで手段であって、そのことが目的ではありません。目的は眠れる魂を目覚めさせ、霊的自覚をもたらすことです。魂が目を覚まし、地上に生れてきた目的を理解し始めた時、地上に霊的新生をもたらす膨大な計画の一翼を担ったことになります。

そこにこそ私達が一致協力する理由があります。それが真理への扉を開くカギです。霊的自覚をもたらすことの方が、病気を治し悩みを解消してあげることより大切です。それが神の目的を成就する所以だからです。そこまで至らない限り真に成功したことにはなりません。

 全ての霊媒現象と、その中でも重要な部分を占めるこうした霊的通信の背後にはそうした目的があり、その実現に全エネルギーを傾注すれば、それはあなた方の宿命を成就していることになります。それがこの世に生れてきた目的だからです。

 霊力は無限です。尽きることがないのです。通過する道具によって制限されるだけです。道具なしには霊力は地上に発現されません。ですから、道具となるべき霊能者は受容能力を少しでも広く深くする努力をしなくてはいけませんし、そうすることによって霊性も発達させなければなりません。

霊性こそが霊力の分量を決することになるからです。霊性が高まればそれだけ多くの霊力が流入するようになります。尽きることがありません。

霊的潜在力には際限が無いのです。そうした人間的努力の背後では高級霊がそれぞれの霊媒についていろいろと試し、エネルギーの効果的な組み合わせを考えて、より素晴らしい、そしてより速やかな治癒が得られるようにと、研究を怠りません。

こちらの世界には〝これでおしまい〟ということがないのです。ただこの道の仕事の宿命として、人間という道具を使用しなければならず、与えられた道具で最大の効果をあげるしかないのです。

 心霊治療の真の理解には長い長い時間を要します。霊の威力を地上で見せつける方法は大勢の人間を一度に改心させることではありません。一度に一人の人間、一人の子供を治すことによって、いわば霊的橋頭堡を築き、それをしっかりと固め、不朽のものとするのです。

千種万様の形をとる霊力は、心霊治療にせよ、霊訓にせよ、公開での交霊会にせよ、魂にそれを受け入れる備えが出来た者によってその真価が発揮されます。受入態勢が出来ているということが絶対条件なのです。


 人間が神の摂理を犯し、物質と精神と霊の協調関係を乱します。そこで心霊治療によって内部の霊的エネルギーにカツを入れて本来の協調関係を取り戻させます。

こうして霊の威力による治療が次々と成就され、宣伝され、その霊的事実関係に関する理解が深まるにつれて、そこに一石二鳥の成果が得られていることが分かります。すなわち病気が減ると同時に、その分だけ霊力による目的成就が容易になるということです。

 人間の健康を動物の犠牲のもとに獲得することは神の計画の中にはありません。すべての病気にはそれなりの治療方法が用意されております。その神の用意された自然な方法を無視し動物実験による研究を続ける限り、人間の真の健康と福祉は促進されません。

動物はそんな目的のために地上に生を享けているのではありません。真の健康は調和です。精神と霊と肉体の正しい連係関係です。

三つの機能が一体となって働くということです。これは動物を苦しめたり体内から特殊成分を抽出したりすることによって得られるのではありません。

宇宙の摂理に調和した生き方を成就すれば自然に得られるのです。そういう生活を送れば人間は病気によって死ぬことはなくなり、老化現象によって死を迎えることになります。肉体がそれなりの目的を果たし、次の世界の生活のための霊的準備が整った結果としてそうなるのです。

 身体が病むということは精神か霊かのいずれかに不自然なところがあるということです。霊が正常で精神も正常であれば身体も正常であるはずです。身体に出る症状はすべて霊と精神の反映です。これを医学では心身相関医学などと呼ぶようですが、名称はどうでもよろしい。大切なのはいつの時代にも変わらぬ真理です。

魂が病めば身体も病みます。魂が健康であれば身体は当然健康です。身体の治療、これは大切ではありません。魂の治療、これが大切なのです。

 あなた方の治療によって患者の症状が取り除かれても魂に何の感動も及ぼさなかったとしたら、その治療は失敗であったことになります。あなた方の失敗であると同時に私どもの失敗でもあり、その患者は悟りへの道を失ったことになります。絶好のチャンスを手にしながら、それを実りあるものに出来なかったわけです。

本当はその病気は当の患者に人生の目的と、存在の意義を成就するためになさねばならぬことを啓示するための手段であったのです。魂の琴線に触れる体験をさせること、これが最も大事なことです。真理は真理です。絶対に変えるわけにはいきません。

それが真理です。人間の一人ひとりに宇宙の大霊が宿っており、それが絶えず発現を求めます。より広く顕現することによって初めて人生から豊かさを獲得できるからです。事は極めて簡単です。顕現しなければ悟りは得られないのです。

 そこに苦の存在する理由があります。悲しみの存在する理由があります。光が暗闇の中にあってこそ見出せる理由がそこにあります。ただし、その体験による魂の顕現はそれから始まる大冒険の始まりにすぎません。その大冒険こそ神の意図する人生のあるべき姿なのです。

疾風怒濤の霊的冒険であり、その体験を通して叡知と崇高さと美しさと光輝と威厳と気品と尽きることのない霊的遺産を手にすることです。それが地上生活のあるべき本来の姿です。ところが現実はそうではありません。唯物主義がはびこり、利己主義が横行し、貪欲が支配し、奉仕の精神、協調の心、向上心、人助けの気持ちが失われております。

 そのことを思えば、こうして人の役に立つ機会が次第に広く開かれていくことを、あなた方は有難く思うべきです。そうです。身体の痛みを取り除き、悩む心を慰め、魂を鼓舞し、肉の牢から開放してあげることが大事です。大切なのはそこなのです。

なぜならば、魂が一度霊的自我に目覚め、神との霊的つながりを再構築すれば、その時から真の意味で〝生きる〟ということが始まるからです。治療家が障害物を取り除いてあげれば、霊力がふんだんに流れ込むようになります。

障害とは無知であり、誤まった生き方であり、誤った考えであり、高慢であり、うぬぼれであり、嫉妬心であり、失望です。人間は神と自己と同胞と調和しつつ、大自然の摂理に則った生活を送るようにならなければなりません。

 苦が全てというわけではありません。人生の一部でしかありません。しかし、苦のない世界はありません。苦しみと困難があることが進化の必須の条件なのです。あなた方の住む世界は完全ではありません。身体も完全ではありません。

ただし、魂の内部には完全性の種子を秘めております。人生の目的はその種子を発芽させ発達させ、その完全性を賦与してくれた根源へ向けて少しずつ近づいて行くことです。この巨大な宇宙組織の内面には進化の機構を操るエネルギーの相互作用があります。

生命はじっとしておりません。生命の世界には絶え間なく増幅していく円運動または螺旋運動の形での発達があります。その全機構がどう働いているかを察知できるようになるのは、人生の目的を悟った暁のことです。

 霊的治癒は魂がそれを受けるに値する段階に至るまでは何人といえども受けられません。いかに勝れた治療家にも治せない患者がいる理由はそこにあります。治らないのは治療家の責任ではありません。

患者の魂にそれを受け入れる準備が整っていなかったということです。全てが自然法則によって支配されています。トリックは利きません。いかなる治療家もその法則の働きを変えたり外らせたりすることはできません。

 ですから、人間としての最大限の成果をあげるべく努力をすることです。それが私から言える唯一の助言です。背後霊との協調性が高まれば高まるほど、より大きな成果が得られます。この仕事は延々と続きます。人間は御し難いものです。しょせん地上は完璧な世界ではないからです。完璧であれば地上には居ないはずです。

寛容的でなければならない理由がそこにあるのです。自分が一般の人より先を歩んでいることを自覚されるなら、なおのこと寛容的であらねばならない責任があります。

 奉仕の仕事に嫌気がさしてはなりません。奉仕は霊の通貨(コイン)のようなものです。神が発行される万人共通の通貨です。あなた方の仕事にとって必要な力は用意されています。しかし一度に大きな仕事を成就しようとしてはいけません。今日は今日出来ることだけをして、明日やるべきことは今日は忘れることです。

力に限界が来たら無理して出そうとするより補給することを考えなさい。その方が無理をしてその乏しいエネルギーを使い果たし、結局は仕事を全面的に休止しなければならなくなるよりはましです。

 限界があるのは実はエネルギーではありません。身体と言う機能の方です。いかなる機械も限界を超えた仕事を課せられると故障が生じます。人間の身体ほど多くの仕事を課せられながら休息の少ない機械は他にありません。霊の宿る貴重な神殿です。良く管理し、保護し、大切にすべきです。

 どの分野であろうと、人のために尽くす仕事に携わる人が時には嫌気がさし、疲れを覚え、不快に思うことがあることは私も承知しております。もう駄目かと思えることもあるでしょう。しかし道は必ず開けます。霊的真理、霊的事実は最後には勝つのです。

貪欲、利己主義、残酷、粗暴、過酷、邪悪、こうしたものは全て一掃されねばなりませんし、きっと一掃される時が来ます。

そして人間同士の平和だけでなく、人間と他の創造物とが調和し一体となって進化の道を歩むことになることでしょう。

 地上で自由を享受するのは人間だけではありません。創造物の全てが自由を享受する資格があるのであり、本来守ってやるべき立場にある人間によって勝手に捕えられ苦しめられ利用されて良いものは何一つありません。その代償は必ず支払わされます。

因果律は必ず働きます。人間に生命を賦与し地上での存在を可能にしている処の神性をごまかすことは出来ません。

 全生命は不可分のものです。物的形態上の違いはあっても深奥での区別は無いのです。生命は一つなのです。霊は一つなのです。そして霊とは神であり、全存在に内在しております。かなうものならば、あなた方の視界を遮るベールが取り払われ、背後で協力している光輝く霊的存在を一目お目にかけることができれば、と思うことしきりです。

立ちはだかる困難の一つひとつは、あなた方が是非とも迎えうち克服し、そうすることによって霊の力が物の力に勝ることを証明していかねばならない、一つの挑戦でもあります。

シルバーバーチ

Sunday, January 14, 2024

シアトルの冬 神とは宇宙の自然法則です。

God is the natural law of the universe.
 シルバー・バーチの霊訓(十二) 
煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編
 
(1)神とは宇宙の自然法則です。物的世界と霊的世界との区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛であり完全なる叡智です。神は宇宙のすみずみまで行きわたっております。人間に知られている小さな物的宇宙だけではありません。まだ知られていない、より大きな宇宙にも瀰漫しております。


(2)神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。全法則に宿っております。神は宇宙の大霊です。神は大生命です。神は大愛です。神は全存在です。僕に過ぎないわれわれがどうして主人(アルジ)を知ることができましょう。ちっぽけな概念しか抱けないわれわれに、どうして測り知れない大きさの存在が描写できましょう。


(3)あなた方の世界と私たちの世界、まだ人間に知られていない世界を含めた全宇宙が神の法則の絶対的な支配下にあります。その法則を超えたことは何一つ起きません。すべてが自然法則すなわち神の摂理の範囲内で起きているのですから、すべてが知れるのです。


(4)完全が存在する一方には不完全も存在します。しかしその不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生まれるのです。完全は完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。


(5)神は法則です。万物を支配する法則です。法則が万物を支配しているのです。宇宙のどこにも法則の支配を受けないものは存在しません。地震、嵐、稲妻───こうしたものの存在が地上の人間の頭脳を悩ませていることは私も承知しております。

しかしそれらもみな宇宙の現象の一部です。天体そのものも進化しているのです。この天体上で生を営んでいる生命が進化しているのと同じです。物質の世界は完全からはほど遠い存在です。そしてその完全はいつまでも達成されることはありません。より高く、あくまでも高く進化して行くものだからです。


(6)神は法則であり、その法則は完ぺきです。しかし物質の世界に顕現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。忘れてならないのは地球も進化しつつあるということです。地震も雷も進化のしるしです。地球は火焔と嵐の中で誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。


(7)日没と日の出の美しさ、夜空にきらめく星座、楽しい小鳥のさえずりは神のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は神のものではないなどということは許されません。すべては神の法則によって営まれていることです。


(8)宇宙は神の反映です。神が宇宙組織となって顕現しているのです。ハエに世の中のことが分かるでしょうか。魚に鳥の生活が理解できるでしょうか。犬に人間のような理性的思考が出来るでしょうか。星に虚空が理解できるでしょうか。すべての存在を超えた神という存在をあなた方人間が理解できないのは当然です。

しかし人間も、魂を開発することによって、一言も語らずとも魂の静寂の中にあってその神と直接の交わりを持つことができるのです。その時は神とあなたとが一体であることを悟られます。それは言葉では言い表せない体験です。あなたの、そして宇宙のすべての魂の静寂の中においてのみ味わえるものです。



(9)霊それ自体はもともと完全です。宇宙を構成している根源的素材です。生命の息吹です。それがあなた方を通して顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるが為に顕現の仕方も不完全なのです。あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されてまいります。


(10)法則は完全です。しかしあなたは不完全であり、したがって完全な法則があなたを通して働けないから、あなたを通して顕現している法則が完全でないということになります。あなたが完全へ近づけば近づくほど、完全な法則がより多くあなたを通して顕現することになります。

こう考えるとよろしい。光と鏡があって、鏡が光を反射している。鏡が粗末であれば光の全てを反射することができない。その鏡を磨いて立派なものにすれば、それだけ多くの光を反射するようになります。


(11)私は原初のことは何も知りません。終末についても何も知りません。知っているのは神は常に存在し、これからも永遠に存在し続けるということだけです。神の法則は完ぺきに機能しております。あなたはもともと完全な光をお持ちです。が、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。

それを、光が不完全だ、光は悪だとは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上で〝悪〟と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している〝不完全さ〟を意味するに過ぎません。


(12)神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。晴天だけではなく嵐も法則の支配を受けます。健康だけでなく病気を通しても働きます。晴天の日だけ神に感謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。

太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対である)悪魔の存在を想定しました。稲妻や雷鳴の中に自分たちの想像する神のせいにしたくないものを感じ取ったのです。


(13)神とは法則です。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れては何も存在出来ません。あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現に過ぎません。

その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。愛と憎しみは表裏一体です。愛という形で表現できるエネルギーは、憎しみを表現する時に使用するエネルギーと同じものなのです。


(14)善なるもの、聖なるもの、美なるもの、愛、叡智、そのほか人生の明るい側面だけに神が宿っているかに考える旧式の思想は棄てなければいけません。

神の表現をそのように限定すれば、もはや絶対神が絶対でなくなります。それは条件付きの神、限定された霊となります。絶対神の本質は無限・全智・全能・不可変・不易であり、それが法則となって絶え間なく機能しているのです。


(15)神を右手にナザレのイエスを従えて玉座に座している立派な王様のように想像するのはそろそろ止めなければいけません。それはもはや過去の幼稚な概念です。宇宙全体、雄大な千変万化の諸相の一つ一つに至るまで絶対的な法則が支配しているのです。神とは法則のことです。


(16)神は人間的存在ではありません。法則です。それが全生命を支配しているのです。法則なくして生命は存在しません。法則がすなわち霊であり、霊がすなわち法則なのです。それは変えようにも変えられません。そこのところが理解できない人にとってはいろいろと疑問が生じるでしょうけど、成長とともに理解力も芽生えてまいります。

神が善なるものを与え悪魔が邪なるものを与えるという論法ではラチがあきません。ではその悪魔はだれがこしらえたのかという、古くからのジレンマにまたぞろ陥ってしまいます。


(17)人間的存在としての神は人間がこしらえたもの以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間がこしらえたもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。そうしたものは全て、視野を限られた人間の想像的産物にすぎません。

神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。なぜなら、世の中が不変にして不可変、全智全能の法則によっておさめられていることを知れば、絶対的公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構の中にあって一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。


(18)存在を可能ならしめている法則なくしては何一つ存在出来ないのが道理です。法則が絶対的に支配しているのです。人間に与えられている自由意志が混乱を引き起こし、法則の働きを正しく見えなくすることはあっても、法則は厳然と機能していますし、また機能してもらわなくては困ります。


(19)私にとって神とは永遠不変にして全智全能の摂理としての宇宙の大霊です。私はその摂理にいかなる不完全さも欠陥も不備も見つけたことがありません。原因と結果の連鎖関係が完璧です。この複雑をきわめた宇宙の生命活動のあらゆる側面において完璧な配慮が行きわたっております。

たとえば極大から極小までの無数の形と色と組織を持つ生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けていただければ、神の法則の全構図と全組織がいかに包括的かつ完全であるかを認識されるはずです。私にとって神とは法則であり、法則がすなわち神です。ただ、あなたは不完全な物質の世界に生活しておられるということです。


(20)五感に束縛されているかぎり、神の存在、言いかえれば神の法則の働きを理解することは不可能です。その限界ゆえに法則の働きが不完全に見えることがあるかも知れませんが、知識と理解力が増し、より深い叡智を持って同じ問題を眺めれば、それまでの捉え方が間違っていたことに気づくようになります。物質の世界は進化の途上にあります。

 その過程の一環として時には静かな、時には激動を伴った、さまざまな発展的現象があります。それは地球を形成していくための絶え間ない自然力の作用と反作用の現われです。常に照合と再照合が行われるのです。存在していくための手段として、その二つの作用は欠かせない要素です。それは実に複雑です。


(21)私が地上にいた頃はインディアンはみな別の世界の存在によって導かれていることを信じておりました。それが今日の交霊実験会とほぼ同じ形式で姿を見せることがありました。その際、霊格の高い霊ほどその姿から発せられる光輝が目も眩まんばかりの純白の光を帯びていました。

そこでわれわれは最高の霊すなわち神は最高の白さに輝いているものと想像したわけです。いつの時代にも〝白〟というのは、〝完全〟〝無垢〟〝混ぜ物のない純粋性〟の象徴です。

そこで最高の霊は〝純白の大霊〟であると考えました。当時としてはそれがわれわれにとって最高の概念だったわけです。それは、しかし、今の私にとっても馴染み深い言い方であり、どのみち地上の言語に移し替えるのであれば、永年使い慣れたものを使いたくなるわけです。ただしそれは人間ではありません。人間的な神ではありません。

神格化された人間ではありません。何かしらでかい存在ではありません。激情や怒りといった人間的煩悩によって左右されるような存在ではありません。永遠不変の大霊、全生命の根源、宇宙の全存在の究極の実在であるところの霊的なエネルギーであり、それが個別的意識形態をとっているのが人間です。


(22)こうして神について述べてみますと、やはり今の私にも全生命の背後の無限の知性的存在を包括的に述べることは不可能であると痛感いたします。が少なくとも、これまであまりに永い間地上世界にはびこっていた数々の幼稚な表現よりは、私が理解している神の概念に近いものを表現しているものと信じます。


(23)忘れてならないのは、人間は常に進化しているということ、そしてその進化に伴って神の概念も深くなっているということです。知的地平線の境界がかつてほど狭いものでなくなってきており、神ないし大霊、つまり宇宙の第一原理の概念もそれに伴って進化しております。しかし神自体は少しも変っておりません。




  
シルバーバーチの祈り

 ご一緒に神の祝福を祈願いたしましょう。
 ああ、大いなる神よ。あなたは全生命の霊そのものにおわします。その霊が全生命にみなぎり全宇宙に満ち満ちております。生きとし生けるものすべてがあなたの霊性を反映しております。大自然の営みの一つ一つに顕現なさっておられます。大自然はあなたの霊性の艦にほかならないのでございます。


 ああ、真白き大霊よ、あなたは全大宇宙の背後の摂理におわします。人間の理解力によって明らかにされた小さい部分だけにかぎりませぬ。いまだに人間の意識にのぼらない、さらに大きな部分にも同じあなたの摂理が働いているのでございます。

 あなたは太陽の光線の中にも宿っておられます。朝露の中にも、雨の中にも宿っておられます。風に揺れる松の枝にも宿っておられます。轟く雷鳴の中にも、走る稲妻の中にも、小鳥のさえずりの中にもあなたが宿っております。

あなたは生きているもの、動くもの全てに宿りたまい、そして人間の霊魂の中に最高の形で顕現され、その存在価値を発揮する行為の中であなたの神性を発現せんとしているのでございます。

 ああ神よ。私どもはあなたがいつの時代にも分け隔てなく全人類に啓示なさってきた宇宙の神秘に感謝の意を表します。

 あなたの御力によって暗闇に注がれた光明、無知を追い払った叡智、迷信を駆逐した正しい知識、悩める者にもたらされた慰め、健康を害し痛みに苦しんでいる者にもたらされた霊力に対して感謝を捧げます。

また、あなたの御胸より溢れ出て、地上のすべての民族に配属されているあなたの使者を通して顕現される崇高なる愛に深甚なる感謝の意を表します。

 かくして、その地上の同志の援助のもとに私たちが霊の世界からあなたのご計画の推進に参加し、物質の世界におけるあなたの王国の建設に役立つ栄誉を担わせて下さったことに感謝いたします。

 私たちの働きかけに応えて人間界から寄せられる無私の奉仕と愛の心、そしてまた、あなたのご意志を地上に顕現させる目的のもとに私たちとつながっている者すべての誠意に対する感謝の気持ちをあなたに捧げます。

 大いなる霊よ。願わくは御力の地上への顕現を妨げんとする障害がすべて排除され、他のすべての交霊の場と同様に、このサークルにおいてもあなたの霊が少しでも多く顕現されることを祈ります。 

 ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。
                                                  

Saturday, January 13, 2024

 シアトルの冬 地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。

When a soul is born on earth, it knows in advance what kind of life it will lead on earth.

役に立つ喜び

 人生において、自分が役に立つということほど大きな喜びはありません。どこを見ても闇ばかりで、数え切れないほどの人々が道を見失い、悩み、苦しみ、悲しみに打ちひしがれ、朝、目を覚ます度に今日はどうなるのだろうかという不安と恐怖におののきながら生きている世の中にあって、たった一人でも心の平静を見出し、

自分が決して一人ぼっちの見捨てられた存在ではなく、無限の愛の手に囲まれているという霊的事実に目覚めさせることが出来たら、これはもう立派な仕事というべきです。他のいかなる仕事にも優る大切な仕事を成し遂げたことになります。

 地上生活のそもそもの目的は、居眠りをしている魂がその存在の実相に目覚めることです。あなた方の世界は毎日を夢の中で過ごしているいわば生ける夢遊病者で一杯です。彼らは本当に目覚めてはいないのです。霊的実相については死んだ人間も同然です。

そういう人たちの中のたった一人でもよろしい、その魂の琴線に触れ、小さく燻る残り火に息を吹きかけて炎と燃え上がらせることができたら、それに勝る行為は有りません。

どう理屈をこねてみたところで結局は神の創造物──人間、動物、その他何でもよろしい──の為になることをすることによって神に奉仕することが何にも勝る光栄であり、これに勝る宗教はありません。


 こうした仕事のために神の使節として遣わされている私たちは幸せと思わなくてはいけません。もっとも、絶え間なく続く悲劇を目の当たりにしていると、それだけのことで嬉しい気分に浸れるものではありません。

現実に何かの役に立った時、例えば無知を駆逐し、迷信を打破し、残酷を親切に置き替え、虐待を憐憫に置き替えることができた時、あるいは協調と親善の生き方を身を以って示すことができた時、その時初めて地上の全ての存在の間に真の平和が訪れます。真の平和は一部の者のみが味わうべきものではないからです。

そこには霊の力の働きかけがあります。それを是非とも地上に招来しなくてはならないのです。教会が何を説こうと、学者先生がどう批判しようと、霊力はそんなことにはお構いなく働きます。そして、きっと成就します。

 その霊力が、道に迷ってあなた方のもとを訪ねて来る人々に安堵、健康、苦痛の緩和、慰め、指導、援助のいずれかを授けてあげる、その道具となることほど偉大な仕事はありません。無味乾燥な教義のお説教ばかりで霊力のひとかけらもない教会、礼拝堂、集会、寺院等よりも遥かに意義ある存在です。
 
 病める人、苦痛を抱えた人、身も心も霊も悶え苦しむ人、希望を失った人、寄るべない人、人生に疲れ切った人、迷える人、こうした人々にお説教は要りません。

説く人自らが信仰に自信を失っていることすらよくあるのです。説く人にも説き聞かされる人にも意味を持たない紋切型の説教をオウムのように繰り返しても、誰も耳を傾ける気にはならないでしょう。欲しいのは霊的真理が真実であるとの証です。

あなた方が真に奉仕の精神に燃え霊的能力を人のために役立てたいと望めば、その霊力があなた方を通してその人たちに流れ込み、苦痛を和らげ、調和を回復させ、マヒした関節ならばこれを自由に動かせるようにし、そうすることによって霊的真実に目覚めさせることになることでしょう。

 ただ、この道には往々にして挫折があります。私どもの仕事は人間を扱う仕事です。残念ながら人間は数々の脆(もろ)さと弱み、高慢と見栄、偏見と頑迷さで塗り固められております。自分のことよりまず人のためと考える人はまれです。
 
大義のために一身上のことを忘れる人はほとんどいません。しかし、振り返ってご覧になれば、そうした条件の中にありながらも、霊的な導きによって着実に使命に沿った道を歩み、これから先の歩むべき方角への道しるべがちゃんと示されていることを明確に認識されるはずです。

これまで一点の疑念も疑問の余地もないほどその威力を証してきた力は、前途に横たわる苦難の日々を正しく導いてくれます。

 施しを受けるよりも施しを授ける方が幸せです。証拠を目に見ず耳に聞くこともなく、それでもなおこの道にいそしむことができる人は幸せです。あなた方のまわりには、あなた方より幸せの少ない人々に愛の手を差し伸べることを唯一の目的とする高級霊の温かみと輝きと行為と愛があります。


 地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースがいちばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。

 その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを承知のうえで生まれて来ているのです。その人生を生き抜き困難を克服することが内在する資質を開発し、真の自我──より大きな自分に、新たな神性を付加していくのです。

その意味では〝お気の毒に・・・〟などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもないわけです。

こちらの世界は、この不公平や不正がきちんと償われる世界です。あなた方の世界は準備をする世界です。私が〝魂は知っている〟と言う時、それは細かい出来事の一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているということです。

その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くということは、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。例えば予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻って来ることになります。

それを何度も繰り返すことがあります。そうしているうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。

 自分が果たしてどの程度の人間か、どの程度進化しているかを自分で判断することは、今のあなた方には無理なことです。判断を下す手段を持ち合わせないからです。人間は霊的視野で物を見ることが出来ません。四六時中物的視角で物事を考えているために、判断がことごとく歪んでおります。

魂への影響を推し量ることができない。そこが実はいちばん大切な点です。肉体が体験することは魂に及ぼす影響次第でその価値が決まります。魂に何の影響も及ぼさない体験は価値がありません。霊の力を無理強いすることは許されません。神を人間の都合の良い方向へ向けさせようとしても無駄です。
 
神の摂理は計画通りに絶え間なく作用しています。賢明なる人間──叡知を身につけたという意味で賢明な人間は、摂理に文句を言う前に自分から神の無限の愛と叡知に合わせていくようになります。

 そうした叡知を身につけることは容易なことではありません。身体的、精神的、霊的苦難が伴います。この三つの要素のうちの二つが絡むこともあれば三つが全部絡むこともあります。

霊性の開発は茨の道です。苦難の道を歩みつつ、後に自分だけの懐かしい想い出の標識を残していきます。魂の巡礼の旅は孤独です。行けば行くほど孤独さを増していきます。

 しかし、利己的生活や無慈悲な生活にそれ相当の償いがあるように、その霊性開発の孤独な道にもそれなりの埋め合わせがあります。悟りが深まるにつれて内的生命、内的輝き、内的喜び、内的確信がいっそうその強さを増していくのです。

生命現象の全てが拠り所とする内的実在界の実相を味わい、神の愛の温もりをひしひしと実感するようになります。それが容易に成就されるとは私は一度も言っておりません。最高の宝、最も豊かな宝は、最も手に入れ難いものです。しかもそれは自らの努力によって自分一人で獲得していかねばならないのです。

 私はかつて地上で何年も生活し、こちらへ来てからも(三次元の世界の数え方で言えば)何千年もの歳月を過ごしてきましたが、向上すればするほど宇宙の全機構を包括し大小あらゆる出来ごとを支配する大自然の摂理の見事さに驚嘆するばかりです。

その結果しみじみと思い知らされていることは、知識を獲得し魂が目覚め霊的実相を悟るということは最後はみな一人でやらねばならない──自らの力で〝ゲッセマネの園〟に踏み入り、そして〝変容の丘〟に登らねばならないのだということです。(第二章参照)

 悟りの道に近道はありません。代わりの手段もありません。安易な道を見つけるための祈りも儀式も教義も聖典もありません。いくら神聖視されているものであっても、そんな出来合いの手段では駄目なのです。師であろうと弟子であろうと新米であろうと、それも関係ありません。

悟りは悪戦苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。私がこんなことを説くのは説教者ヅラをしたいからではありません。これまでに自分が学んだことを少しでもお教えしたいと望むからにほかなりません。

 さらに私は、一見矛盾するかに思えるかもしれませんが、人のために役立ちたいと望む人々、自分より恵まれない人々──病める人、肉親を失える人、絶望の淵にいる人、人生の重荷に耐えかねている人、疲れ果て、さ迷い、生きる目的を見失える人、等々に手を差しのべたいという願望に燃える人──要するに何らかの形で人類の福祉に貢献したいと思っている人が挫折しかけた時は、必ずやその背後に霊界からの援助の手が差し伸べられるということも知っております。

 時には万策尽き、これにて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差し伸べられることがあります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が生み出す内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我れ行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。

 その奇特な意気に感じて訪れてくるのは血のつながった親類縁者──その人の死があなた方に死後の存続に目を開かせた霊たち── ばかりではありません。あなた方が地上という物質界へ再生してくるに際して神からその守護の役を命ぜられ、誕生の瞬間よりこの方ずっと見守り指導してきた霊もおります。

そのおかげでどれほどの成果が得られたか、それはあなた方自身には測り知ることはできません。しかし分からないながらも、その体験は確実にあなた方自身の魂と同時に、あなた方を救ってあげた人々の魂にも消えることのない影響を及ぼしております。

そのことを大いに誇りに思うがよろしい。他人への貢献の機会を与えて下さったことに関し、神に感謝すべきです。人間としてこれほど実り多い仕事は他にありません。

 愚にもつかぬ嫉妬心や他愛ない意地悪から出る言葉を気にしてはなりません。そのようなものはあなた方の方から心のスキを与えない限り絶対に入り込めないように守られております。霊の力は避難所であり、霊の愛は聖域であり、霊の叡知は安息所です。イザという時はそれを求めるがよろしい。

人間の心には裏切られることがありますが、霊は決して裏切りません。たとえ目には見えなくても常に導きを怠ることなく、愛の手があなた方のまわりにあることを忘れないでください。

 私としては、たった一言であっても、私の述べたことの中にあなた方の励みになり元気づけ感動させるものを見出していただければ、もうそれだけで嬉しいのです。私たちに必要なのは霊の道具となるべきあなた方です。豪華なビルや教会や寺院や会館ではありません。

それはそれなりの機能があることは認めますが、霊の力はそんな〝建物〟に宿るのではありません。〝人間〟を通して授けられるのであり、顕幽の巨大な連絡網のつなぎ手として掛けがえのない大切なものです。その道具たらんとして謙虚に一身を擲(なげう)ってくれる人間一人の方が、そうした建造物全部よりも遥かに大切です。頑張ってください。

そしてこれからも機会を逃さず人のため、人のため、という心掛けを忘れないで下さい。世間の拍手喝さいを求めてはなりません。この世に生れてきたそもそもの目的を果たしているのだという自覚を持ち、地上に別れを告げる時が来た時に何一つ思い残すことのないよう、精一杯努力して下さい。

 ここに集える私たち一人ひとりが同胞の幾人かに霊的啓発をもたらすことによって、少しでも宇宙の大霊に寄与することができることの幸せを神に感謝いたしましょう。

人間として霊として、こうして生を享けた本来の目的を互いに果たせることの幸せを感謝いたしましょう。人のために尽くすことに勝る宗教はありません。病める人を治し、悲しむ人を慰め、悩める人を導き、人生に疲れ道を見失える人を手引きしてあげること、これは何にも勝る大切な仕事です。

 ですから、こうして神の愛を表現する手段、才能、霊力を授かり、それを同胞のために役立てる仕事に携われることの幸せを喜ばなくてはいけません。神の紋章を授かったことになるのだと考えて、それを誇りに思わなくてはいけません。

これから後も人のために役立つ仕事に携わるかぎり、霊の力が引き寄せられます。人生の最高の目標が霊性の開発にあることを、ゆめ忘れてはなりません。自分の永遠の本性にとって必須のものに目を向けることです。

それは人生について正しい視野と焦点を持つことになり、自分が元来不死の魂であり、それが一時の存在である土塊に宿って自我を表現しているにすぎないこと、心がけ一つで自分を通じて神の力が地上に顕現するという実相を悟ることになるでしょう。

こうしたことは是非とも心に銘記しておくべき大切な原理です。日常の雑務に追いまくられ、一見すると物が強く霊が弱そうに思える世界では、それは容易に思い出せないものです。ですが、あくまで霊が主人であり物は召使いです。霊が王様であり物は従臣です。霊は神であり、あなたはその神の一部なのです。

 自分がこの世に存在することの目的を日々成就できること、つまり自分を通じて霊の力がふんだんに地上に流れ込み、それによって多くの魂が初めて感動を味わい、目を覚まし、健全さを取り戻し、改めて生きることの有難さを噛みしめる機会を提供すること──これは人のために役立つことの最大の喜びです。

真の意味で偉大な仕事と言えます。地上のどの片隅であろうと、霊の光が魂を照らし、霊的真理が沁みわたれば、それでいいのです。それが大事なのです。それまでのことは全てが準備であり、全てが役に立っているのです。

魂はそれぞれの使命のために常に備えを怠ってはなりません。時には深い谷間を通らされるかもしれません。度々申し上げてきたように、頂上に上がるためにはドン底まで下りなければならないのです。

 地上の価値判断の基準は私どもの世界とは異なります。地上では〝物〟を有難がり大切にしますが、こちらでは全く価値を認めません。

人間が必死に求めようとする地位や財産や権威や権力にも重要性を認めません。そんなものは死と共に消えてなくなるのです。が、他人のために施した善意は決して消えません。

なぜなら善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られるからです。博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し魂に消えることのない印象を刻み込んでいきます。

 世間の賞賛はどうでもよろしい。人気というものは容易に手に入り容易に失われるものです。が、もしもあなたが他人のために自分なりに出来るだけのことをしてあげたいという確信を心の奥に感じることができたら、あなたはまさに、あなたなりの能力の限りを開発したのであり、最善を尽くしたことになります。

言いかえれば、不変の霊的実相の証を提供するためにあなた方を使用する高級霊と協力する資格を身につけたことになるのです。これは実に偉大で重要な仕事です。

手の及ぶ範囲の人々に、この世に存在する目的つまり何のために地上に生れて来たのかを悟り、地上を去るまでに何をなすべきかを知ってもらうために、真理と知識と叡知と理解を広める仕事に協力していることになります。

 肝心なことはそれを人生においてどう体現していくかです。心が豊かになるだけではいけません。個人的満足を得るだけで終わってはいけません。今度はそれを他人と分かち合う義務が生じます。分かち合うことによって霊的に成長していくのです。

それが神の摂理です。つまり霊的成長は他人から与えられるものではないということです。自分で成長していくのです。自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。

霊的成長にも摂理があり、魂に受け入れる備えが整って初めて受け入れられます。私どもは改宗を求める宣教師ではありません。

真の福音、霊的実在についての良い知らせをお持ちしているだけです。それを本当に良い知らせであると思って下さるのは、魂にそれを受け入れる備えの出来た方だけです。良さの分からない人は霊的にまだ備えが出来ていないということです。

 イエスはそのことを〝豚に真珠を投げ与えるべからず〟と表現しましたが、これは決してその言葉から受けるような失礼な意味で述べたのではありません。いかに高価なものをもってしても他人を変えることはできないのです。自分で自分を変えるしかないのです。

私たちは同胞の番人ではないのです。各自が自分の行為に責任を持つのであって、他人の行為の責任は取れません。あなたが行うこと、心に思うこと、口にする言葉、憧れるもの、求めるものがあなたの理解した霊的真理と合致するようになるのは、生涯をかけた仕事と言えるでしょう。

 あなたにできるのはそれだけです。他人の生活を代わりに生きることはできません。どんなに愛する人であってもです。なぜなら、それは摂理に反することだからです。そうと知りつつ摂理に反することをした人は、そうとは知らずに違反した人よりも大きい代償を払わされます。

知識には必ず責任が伴うからです。真理を知りつつ罪を犯す人は、同じ行為を真理を知らずに犯す人より罪の大きさが違うのです。当然そうあらねばならないでしょう。

 一個の魂に感動を与えるごとにあなた方は神の創造の目的成就の一翼を担ったことになります。これはあなた方に出来る仕事の中でも最も重要な仕事です。魂に真の自我を悟らせてあげているのであり、これは他のいかなる人にもできないことです。ただし、この仕事は協調の上に成就されるものです。

私ども霊側も強引に命令することはしたくありません。あなた方の理性を押しのけたり自由意志を奪ったりすることはいたしたくありません。あくまでも導くことを主眼としているのです。あなた方が何か一つ努力するごとに、私どもがその目的に合わせ援助することによって、より大きな成果を挙げるように協力しているのです。

協力し合うことによって人生の全てが拠り所とするところの霊的基盤に関わる重大な仕事に携わることができるのです。

 残念ながら多くの人間が実体と影、核心と外殻とを取り違えております。実相を知らずにおります。言わば一種の退廃的雰囲気の中で生きております──それが〝生きる〟と言えるならばの話ですが、霊の光の啓示を受けた人は幸いです。

私としてはあなた方に、頑張って下さいとしか申し上げる言葉を知りません。霊の無限の力が控えております。イザという時にあなた方の力となって支えてくれることでしょう。

 自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい認識を失わぬようにして下さい。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方たちでも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われ、霊的実相を忘れてしまいがちです。が、

それだけは絶対に忘れぬようにしなければなりません。地上という物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。

霊こそ実在です。物質は実在では無いのです。あなた方はその実在を見ることも触れてみることも感じることもできないかもしれません。少なくとも物的感覚で感識している具合には感識出来ません。しかし、やはり霊こそ全ての根源であることに変わりありません。

あなた方は永遠の存在であることを自覚して下さい。生命の旅路においてほんの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者にすぎません。

シルバーバーチ