Tuesday, November 29, 2022

シアトルの晩秋 就寝の時 bedtime



<序文>眠りは肉体の休息ですが、霊には休む必要がありません。無感覚になっている間、魂は物質の世界から解放され、霊としての特性を享受します。眠りは、有機的な力と道徳的な力の回復のために人類に与えられているのです。

おきている間の活動で失ったものを肉体が取り戻している間、霊は別の霊とともに元気を回復しに行くのです。

眠りの間、霊は見たり、聞いたりして、忠告を与えられますが、それらは起きている間に直感的に思いだされるのです。眠りは、真なる母国を追放された人類の一時的な帰国であり、眠る者とは、一時釈放された囚人のようなものなのです。

 しかし不道徳な囚人がそうであるように、霊が必ずしも眠りにより解放の時を、その進歩のために有効に使うわけではありません。その霊が善霊とともにいようとする代わりに、悪い資質を持っているのであれば、その霊と同類の霊を探し、その悪癖を自由に行おうとするのです。

 この真実を理解する者は、就寝が近づくとその考えを高めます。善霊の忠告や、善き思い出を抱く人たちの助言を受けるため、与えられた短い時間に彼らと会うことができるようにお願いします。

そうすれば目覚めた時には悪に対してはより強くなり、敵対する者たちに対してはより勇敢になっていることを感じることができるでしょう。
  
<祈り>私の魂は短い間、他の霊に会いに行きます。善なる者たちがその忠告とともに、私を助けに来てくれますように、私の守護霊よ、目覚めた時には、それらの忠告が健全で永続きする印象となって残っていますように。

Monday, November 28, 2022

シアトルの晩秋 枯れたイチジクの木の話        The story of the dead fig tree




ベタニアから出かけてきた時、イエスは空腹を覚えられた。そして、遠くにイチジクの木をごらんになって、なにかありはしないかと近寄られたが、イチジクの季節ではなかったために葉しかなかった。

するとイエスは、イチジクの木に向かって言われた、

「これから先、誰もおまえから果実を食べることはないだろう」。使徒たちはそれを聞いていた。

次の日、イチジクの木の近くを通ると、根まで枯れているのを見た。そこでイエスが言ったことを思いだすと、ペトロは言った、「先生、あなたが呪われたイチジクの木がどうなったか見て下さい」。

イエスはその言葉を聞くと答えて言われた、「神を信じなさい。誠に言いますが、言葉にしたことはすべて起きると強く信じ、そこをどき、海へ落ちよと、この山に心からためらうことなしにいう者は、実際にそれが起きるのを目にすることになるでしょう」。(マルコ 第十一章 12-14,20-23)


枯れたイチジクの木とは、見た目には善に関心があるように見えながらも、実際には善いものをうまない人たちの象徴です。堅実さよりも華々しさを持った説教者のように、その言葉の表面は虚飾に覆われており、それを聞く耳を喜ばすことはできても、詳細について吟味してみると、心にとって本質的な意味を何も持たないことが分かります。

そして私たちは、聞いた言葉の中から何を役立てることが出来るのだろうかと問い直すことになるのです。

 同時に、有益な存在となる手段を持ちながら、そうなっていない人々のことも象徴しています。堅実な基礎を持たないあらゆる空想、無益な主義、教義がそれにあてはまります。殆どの場合そこには真なる信仰である、生産性のある信仰、心の隅々をも動かす信仰が不足しています。

その信仰とは一言でいうなら、山をも動かす信仰のことです。そうした信仰の欠けた人々は、葉に覆われながらも果実に乏しい木のようです、だからイエスはそうした木を不毛であると言いわたしたのであり、いつかそれらは根まで乾いてしまうものなのです。

つまり人類にとって何の善ももたらすことの無いいかなる主義も、いかなる教義も、没落し、消滅するということを指しています。自分のもつ手段を働かせないことにより無益と判断された人はみな、枯れたイチジクの木と同じように扱われるでしょう。

霊媒とは霊の通訳者です。霊たちにはその指導を伝えるための物質的な器官はありませんが、霊媒がそれを補うのです。このように、こうした目的のために使われる能力を持った霊媒が存在します。

社会が変革しようとしている今日、彼らには非常に特別な使命があります。それは同胞たちに霊的な糧を供給する木となることです。糧が十分であるように、その数は増えていきます。

あらゆる場所、あらゆる国、あらゆる社会階級の中に、裕福な者の間にも貧しい者の間にも、偉大なる者の間にも小さな者たちの間にも現れ、そのためどの場所にも不足することが無く、人類の全ての者が招かれていることが示されるのです。

しかし、もし彼らが、託されたその貴重な能力を神意による目的からはずれたことに用い、不毛なことや、有害なことに使用するのであれば、あるいは、世俗的な利益に仕えるために用いたり、熟した実の代わりに悪い実を結ばせ、それを他人の益のために用いることを拒んだり、自分たちを向上させようとそこから自分たちの為に何かの利益も得ることもないのであれば、彼らは枯れたイチジクの木であるのです。

神は彼らの中で不毛となった力を奪います。そして実を結ばせることを知らない種が、悪い霊たちの間に捕まってしまうのを許すのです。

Wednesday, November 23, 2022

シアトルの晩秋 絶対的摂理の存在           Existence of Absolute Providence

 


〔宇宙は逃れようにも逃れられない自然法則によって支配されている。いかなる霊もその法則を変えたり、それを犯した時に生じる結果から逃れさせてあげることは出来ない。しかし、そうした法則の存在を教えることによって無知から生じる危険から救ってあげることは可能である。

シルバーバーチはそうした法則ないしは摂理の中から、例えば引力の法則のような身近なものを取り上げて説き明かす〕

 私たちは大霊が定めた摂理をお教えしようとしているのです。それを守りさえすれば物的生活に健康と幸せをもたらすことが出来るからです。

 教会で説教している人たちはいつの日かその間違いをご破算にしなければなりません。いかなる人間も摂理の働きかけから逃れることはできません。牧師といえども逃れることはできません。

 なかんずく霊の声を聞いた者(良心の痛みを感じた者)はなおさらのことです。間違っていると知りつつ改めることの出来ない者は、知らずに犯す者より重い責任を取らされます。

 魂が目覚め、霊力とともにもたらされる愛の恩恵に浴した人、つまり霊的真理の啓示の恩恵に浴しながらもなお自分中心の生き方に終始している人は、その怠慢に対する罰がそれだけ大きくなります。

 知らずに犯したのではなく、知っていながら犯しているからです。人のために役立てるべき霊能を授かりながら、それを銀貨三十枚で売っている人が大勢います。

 大霊はあなた方すべての内部にあるのです。進化の跡をたどれば確かに人間もあらゆる生命体から進化してきており、遺伝的には動物時代の痕跡も留めておりますが、それを遥かに凌ぐ資質として、大霊から授かった神性を宿しており、それを機能させれば地上にあっても神の如き生き方が可能なのです。

 病気に関しても、人間の内部にはいかなる病気でも自らの力で治す治療力と、いかなる困難をも克服する霊力をそなえているのですが、あなた方はまだそれを実感しておりません。

 いざという窮地において引き出せる霊力の貯蔵庫を持っているのです。神の王国は各自の内部にあるのです。そのことがまったく理解されていないのです。

 その貯蔵庫から必要なものを引き出すにはどうすればよいかと言えば、大霊の摂理にのっとった生活に徹しさえすればよいのです。しかし、果たして何人の人がそう心掛けているでしょうか。

 人生は行為だけで成り立っているのではありません。口に出して述べること、そして頭や心の中で思考することも大切な要素です。

 行いだけが責任を問われると思ってはいけません。確かに行いが重大な要素を占めていることは事実ですが、言葉や思念も、あなたという存在の大切な一部です。よく言われるように、人間の多くは思想の主人であるより奴隷となっております。

〔シルバーバーチがよくテーマにするものの一つが、地上人類が肌の色に関係なくみな同胞であるということである。ある日の交霊会でこう述べている――〕

 私たちは一人の例外もなく大霊の一部です。

 そのうちのある者の肌を赤くし、ある者を黄色にし、ある者は無色(白色)のままにしました。しかし、こうしたことも大霊の無限の叡智による計画の一端なのです。

 その肌色の一つ一つに意味があり、目的があるのです。しかし今のあなた方にはそれは理解できないでしょう。

 いつの日か大霊の摂理の理解が行きわたった時点で、すべての肌の色の人々が混ざり合い、互いに愛の心でもって睦(むつ)み合う日が来ます。

 人間を肌の色で見分けるのではなく、その奥の魂で見分けるようになるまでは、地上界に真の平和は訪れません。

 このサークルの指導霊も地上のほとんど全ての人種から構成された一つの共和国となっていることにお気づきでしょうか。そのようにした理由は、どの民族も他の民族にないものを所有しており、そのおのおのが独自のものを持ち寄ることによって最高のものが出来あがるという理解に達したからです。

 黄色人種ならではの貢献の場があり、白人には白人ならではの貢献の場があるということですが、今の段階では地上人類にはこの点の理解が十分ではありません。

 あなた方の一人一人が大霊の一部であることを忘れてはいけません。あなた方一人一人が大霊の仕事、大霊の力、大霊の愛、大霊の知識に、その分に応じて貢献できるということです。

 例えば自分より力の劣る人を少しでも向上させてあげる上で貢献すれば、その分だけ大霊の力があなた方を通して顕現したことになるのです。

 それをいかなる形でするか、相手が誰であるか、いずこの暗闇に光明をもたらすかは問題ではありません。

 挫折した人々を元気づけ、弱っている人々に力を与え、暗闇に光明をもたらし、飢えている人々に食べものを施し、身体を横たえる場所もない人々に休息場所を提供してあげればよいのです。

 そうした仕事の一つ一つが大霊の仕事の一部なのです。その仕事に無心にたずさわっている時、それがあなた方の想像を超えた結果を生み出すように、背後に大きな力が引き寄せられて援助してくれます。

 大霊が働きかけるのは教会や大聖堂や寺院だけではありません。霊力に反応する人がいれば、そこがどこであろうと大霊は誠意に燃えた高級界の霊団を派遣します。

 地上の人間はとかく神の働き場所を限定して考え、特別な資格を持った人々を通してのみ働きかけるかに思いがちですが、地上界へつながる通路さえあれば、どこであろうと、いつであろうと、誰であろうと、その通路を使って働きかけます。

 霊力には地上的な差別、階級や肩書き、社会的地位や肌の色、国家や民族の違いなどは関係ありません。

 その霊力に反応する人であれば、それが誰であろうと、そこがどこであろうと、高級界からの霊力を注ぎ、精神を明るく照らし出し、魂を鼓舞し、神のブドウ園の園丁として使用します。

 どうかこの事をしっかりと学び、大霊のため、そして暗闇の中、重圧の下、人生の嵐の中で難儀している大霊の子等のためにという決意のもとに、彼等の重荷を少しでも軽くし、新たな希望、新たな知識、新たな光明、新たな力を届けてあげてください。

 それを授かった人は身体は新たなエネルギーに溢れ、精神は勇気に溢れ、霊は生気を取り戻して、大霊から授かっている資質の素晴らしさを満喫することになるでしょう。

 かくして本当のサービスの喜び、自分自身には何も求めず、ひたすら他人の霊的向上のみを目的とするサービスの醍醐味を味わうことになります。

〔これまで地上人類に知らされていなかった“重大な秘密”――永遠不変の霊的摂理――が明かされる〕

 大霊は無限の存在であり、あなた方はその大霊の一部です。もしも完ぺきな信念をもち、正しい人生を送れば、大霊の恩寵にあずかることができます。

 地上界の全ての人が完ぺきな信念をもてば、大霊はそれぞれの願いを嘉納されることでしょう。

 魂が真剣に求め、しかも大霊に対する絶対的信念に燃えていれば、必ずやその望みは叶えられるでしょう。

 神の摂理はそのようにして働くのです。つまり摂理に順応した生活を送っていれば、望み通りの結果が生じるようになっているのです。

 結果が出ないということは、生き方のどこかに摂理に順応していないところがあることの証拠です。

 歴史をひもといてご覧なさい。最も低い界層、最も貧しい民の中から身を起こして、厳しい試練の末に偉大なる指導者となっているケースが少なくありません。

 試練に耐えずして神に不平を言ってばかりいる人を相手にしてはいけません。

 もちろん時には挫折して不遇に喘ぐこともあるでしょう。しかし、完ぺきな信念に燃えていれば、いつかはきっとこの世的な不遇から立ち直ることが出来ます。

 大霊の象徴である太陽に向かってこう言うのです――「私は大霊の一部だ! 私を破滅させ得るものは何もない。永遠の存在なのだ! 無限の可能性を秘めた存在なのだ! 限りある物質界の何一つとして私を傷つけることは出来ないのだ!」と。もしもこれだけのことが言えるようであれば、あなたが傷つくことは絶対にありません。

 誰しも心に恐れを抱きつつ出発します。望み通りにならないのではなかろうかという不安です。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。

 しかし「完全なる愛は恐れを取り除く」(ヨハネ一)と言い、「まず神の国とその義を求めよ。そうすればそれらのものは皆お与えくださるであろう」(マタイ六)と言われております。

 これは、遥か遠い昔、摂理を完ぺきに理解した人物によって述べられた教えです。それを彼は見事に実践してみせたのです。あなた方も、摂理が働けるような条件を整えれば、必ずや望み通りの結果が得られます。

 しかし、もう一つ別の摂理をお教えしましょう。何の代価も支払わずして入手できるものは、この地上界には一つもないということです。

 霊的能力の値打ちが上がるということは、霊的感度が増すということです。それをおろそかにして金儲けにうつつを抜かすと、そちらの世界では金持ちと言われても、こちらの世界では哀れな貧しい魂になってしまいます。

 人間はその内部に何よりも貴重な神性という富を宿しています。大霊の一部です。地上のどこを探しても、それに匹敵する富や宝は存在しません。

 その魂の内部の鉱脈をいかにして探査し、肉体的本性の奥に埋もれたダイヤモンドを引き出すか、それをお教えしようとしているのです。

 そのためには霊の世界の最高の界層のバイブレーションに反応するようになっていただかねばなりません。

 また、あなた方は一時として一人ぼっちでいることはないこと、周囲には常にあなた方を愛する大勢の人々が見守り、導き、援助し、鼓舞せんとして待機していることを知っていただきたいのです。

 そうした中で霊性が開発されて行くにつれて少しずつ大霊に近づき、その摂理と調和して行くのです。

 大霊に奉仕すると言っても、それは大霊の子である地上の同胞に奉仕することになります。

 同胞のために役立つことをしている時、神の無限の腕に抱かれ、その愛に包まれ、それが完全なる安らぎをもたらしてくれることになります。

 何の根拠もない、ただそう信じているというだけの信仰では、酷しい試練の嵐に遭えばひとたまりもなく崩れます。

 が、理性的認識から生まれた信仰には確固たる根拠がありますから、いかなる試練の嵐に遭っても揺らぐことはありません。

 証拠を何一つ見なくても信じることの出来る人は幸せです。

 が、物的証拠を手にした上で目に見えない霊的真実、即ちこの宇宙が愛と叡智から生まれた霊的摂理によって支配されていることを悟った人は、なお一層幸せです。

 その意味で、ここにおられる(ハンネン・スワッファー・ホームサークルの)皆さんは完ぺきな信念を持ってしかるべきです。知的認識から生まれた信念だからです。

 皆さんは霊力の証を手にしておられます。万事うまく行くという信念、大霊の摂理と調和して生きればそれ相当の実りを手にすることが出来るとの信念を持ってしかるべきです。

 また皆さんは、無知蒙昧なもの――これを皆さんは“邪悪”と呼んでおられるのですが――に邪魔をされるのではないかとの不安を完全に捨て去ることが出来てしかるべきです。

 大霊とその摂理の保護のもとに生き、そして行動しておられるからです。

 心に邪悪なものがなければ、善なるものしか近づけません。善なるものは善なるものが支配するところにしか存在できないからです。霊界からこの交霊の場に訪れるのは大霊の使者のみです。

 あなた方を包み込んでいる力、支え導き鼓舞せんとしている力は、大霊から放射されている力です。

 その力が試練と苦難に際してあなた方を支えているのです。嵐を鎮めて晴天とし、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれるのも、その力です。

 皆さんは進歩の正道をしっかりと踏みしめておられます。不安に思うことは何一つありません。

 完全なる愛は恐れを取り除く、とイエスは述べていますが、正しい知識も恐れを打ち払います。恐怖は無知から生じるものだからです。愛と信念と知識のあるところに恐怖心は生じません。

 進化した魂はいついかなる時も恐れるということを知りません。人生のいかなる局面に際しても、自分は大霊であるがゆえに克服できないものはないとの確信があるからです。

 恐怖心は魂の牢獄をこしらえます。

 ですから恐怖心が頭をもたげかけたら、その波動に巻き込まれることなく、それを抑え込み、信念をもってこう自分に言って聞かせるのです――「自分は大霊なのだ。

 地上の出来事などで動揺などしない。魂に宿る無限の霊力でいかなる困難も凌いでみせる」と。そういう力をあなた方は授かっているのです。その無限の力を見限ることほど勿体ない話はありません。

 大霊の法則は物的なものと霊的なものの両方を支配しております。宇宙という大霊の王国にはそういう区別はないのです。物的生命を霊的生命から切り離して考えてはいけません。

 本来は別個のものではないのです。一つの大生命があり、それに幾つもの側面があるに過ぎません。物的なものは霊的なものに反映し、霊的なものは物的なものに反映します。

 しかし、霊力を秘めた人間が遭遇する苦難には、いついかなるところにあっても大霊のために役立つことをしている限り克服できないものはないとの信念が確固たるものになるには、あなた方もまだ距離がありそうです。

 実は私が「人間に克服できないほどの苦難はない」と言う時、それは、因果律の原理から見て取り除かれてしかるべきものであればという意味です。そこで、もしも苦しみが余りにも耐え難いものであれば、こう理解してください。 

 それを取り除いてあげるべく私も、向上進化の歩みを止めてでも努力してみますが、むしろそれに耐え抜き、その苦境の中で悟るべきものは何かを真剣に考える方が、より賢明であるということです。

 この短い地上人生のことだけを考えてはいけません。永遠の生命を視野に置くことです。

 物質界の人間も、物的であると同時に、神性を宿していることを理解すれば、地上生活がどれだけ生き易くなることでしょう。悩み事は立ちどころに消え去り、障害物も取り除かれることでしょう。

 ところが人間は内部に宿している霊的な力を信じません。あなた方のいう“人間味”は地上世界でのみ通用することで、内部に宿る霊力は大霊に属するものです。

 その昔イエスは「地上を旅する者であれ。地上の住民となる勿れ」と言いました。が、地上人類はその意味が理解できないために、言い変えれば、死後の存続に磐石の信念が持てないために、摂理が成就されないのです。例えば金持ちをうらやみ、彼らには悩みがないかに思いがちです。

 悩みというものが相対的なものであることに気がつかないのです。大霊の摂理は金銭でごまかすことはできません。

 あなた方は個性の強化のために地上界へ来ているのです。その強化は日々の難問にどう対処するかによって決まります。その時に忘れてならないのは地上界で生じる難問には人間の魂に内在する霊力で克服できないものはないということです。

 いかなる難題も所詮は地上界での出来事であり、物的波動のレベルです。それに引き換えてあなた方は神の一部であり、神性を宿しているからです。

 安らぎはただ一つ、大霊と一体になった者に訪れる安らぎです。大霊のリズムで鼓動し、大霊の意志のままに行動し、魂と精神が大霊と一つになっている者にのみ訪れます。

 そういう時は大霊の摂理と調和しているのです。それ以外に安らぎは得られません。

 この私にできることは、その摂理がどうなっているかをお教えすることだけです。イエスは二千年も前に天国は自分の中にあると言いました。

 外部のどこかにあるのではないのです。ましてや混とんとした物質界には存在しません。魂の内部に見出されるのです。

 神の摂理は完ぺきなバランスを保ちながら働いていますから、いかにごまかそうとしても、それは不可能です。罰せられるべきものが見逃されたり、報われるべきものが見落とされたりすることはありません。

 物的な目で永遠を裁いてはいけません。より大なるものを見ずして小さなものを裁いてはいけません。

 束の間の地上的な喜びと恒久的な霊的価値とを混同してはなりません。地上的な喜びは安ピカで一時のものに過ぎません。

 あなた方の思考はその地上的なものを規範にしがちですが、私たちは霊の目で見ます。あなた方に気に入ってもらうために摂理を曲げて説くわけにはまいりません。

 死んで霊界へ戻ってきた者に尋ねてごらんなさい。誰しもが「摂理は完ぺきです」と答えるはずです。そして二度と地上へは再生したがりません。

 人間はとかく外面的な事情が平穏であってほしがりますが、私はあなた方の内面に潜在する恒久的な安らぎを見出させてあげたいと努めております。最大の富は霊に内在する宝(霊的資質)です。

 常に何か不満を抱いている人がいるものです。地上世界だけではありません。こちらの世界でも同じです。それは自分の不完全さに気づいている証拠です。

 神の道具としてまだまだ十分でないという意識があるからです。そうした自己との葛藤を通して霊性の不完全さを克服し、神性の開発が可能になるのです。

 まだ為すべきことがありながら私たちが平気で傍観していられると思いますか。生きる上で欠かせないものに事欠いている物質界の大霊の子を見て、私たちが心を痛めずにいられると思いますか。

 神の名のもとに間違った教えが説かれているのを聞いて無関心でいられると思いますか。

 光があるべきところに暗闇があり、自由でいられるはずの者が強欲で自らの魂をがんじがらめにし、どこを見ても混乱し無秩序状態の地上界を見て、私たちが心を痛めずにいられると思いますか。

 何とかしてあげないといけない――多くの大霊の子がせっかく授かった霊的資質を封じ込められている地上界に大霊の愛を流入させねば……と思うからこそ私たちも苦しむのです。大霊は必要なものは充分に用意してくださっております。

 なのに、それを授からない人がいるということです。他の者が飢えているのに自分だけは充分に手にして平気でいられるようでは、その魂は霊格が高いはずはありません。

 私たちの仕事でいちばん辛いのは、時としてあなた方が苦しんでいるのを傍観させられることです。それがその魂にとって大切な葛藤であるがために、私たちにも手出しが許されないのです。

 あなた方がその葛藤に勝利すればそれは私たちにとっても勝利であり、あなた方が敗北すればそれは私たちにとっても敗北なのです。あなた方の葛藤は私たちの葛藤でもあるということです。  

 にもかかわらず指一本あなた方を援助することは許されないのです。

 そんな時、私は涙を流していることがあります。救いの手を差し延べてはいけないことが分かっているからです。

 それが摂理だからです。苦しんでいる本人よりも私の苦痛の方が大きいことがあることを知ってください。

 自分で「これが正しい」と思うことをなさっていれば、それ以上のことは出来ないにきまっています。

 もしも他の人を立てて自我を滅却しなければならないと観念した時は、そうなさい。いつかその埋め合わせがあります。

 いずれにしても私が皆さんに代わって問題を解いてあげるわけには行かないのです。それは皆さんの自由意志に干渉することになるからです。

 例えばこの霊媒(バーバネル)の私生活に関連して私がああしろこうしろと指示するようになったら、それはこの霊媒のもつ自由意志がなくなったも同然です。と言うことは、それきり進歩しなくなるということです。

 あなた方一人一人の内部に宿された霊性が発達するのは、日常生活で生じる問題をいかに解いていくか、その努力をしている時です。何もかもラクに片づいているうちは成長しません。

 ただし、私にも干渉を許される局面があります。この霊媒を通じての私の使命に係わる問題が生じた時は、チャンネルとしてのこの霊媒の自由を確保すべく、邪魔を排除する手段を講じます。

 この霊媒の霊性の進化に係わる時は、それはこの霊媒の自己責任ですから、あくまでも自分で解決して行かねばならないということです。


〔別の日の交霊会で――〕

 こうした霊的問題に携わる人で、地上の人間の心身両面にわたる健康を維持するための霊的摂理を説く人は、大きな責任を負っていることになります。

 それを勘違いしたり怠ったりすると、地上生活中ないしは死後にその代償を支払わされます。

 例えば時おり私がうんざりさせられることの一つに、霊界からの“高等な教え”ばかりを求めて、それを同胞のために役立てることをしない人がいることがあります。

 人間は成長するにつれて大霊の摂理の働きを理解していくのであって、教えそのものに“高い”も“低い”もありません。

 そうやって勿体ぶって真理の追求ばかりをしている人たちが、地上を少しでも住みやすい世界に、つまり飢えや渇きから解放し疲れた身体を癒せる家に住めるような世界にするために行動を起こすようになれば、それこそ“最高の教え”を実践することになるのですが…… 

〔人間界の問題の大半は自由意志の使用法を誤っていることから生じていることを強調して――〕

 人間は戦争が起きると「なぜ大霊は止めさせないのか」とか「なぜ未然に防いでくれないのか」と思うようですが、大霊の摂理を無視している以上、責任は人間自身にあるのです。

 行為が生み出す結果は絶対に避けられません。

 私たちにとて、その摂理を改めることはできません。蒔いたタネが生み出すものは自分で刈り取らねばならないのです。

 利己主義というタネを蒔けば、それ相当のものを刈り取らねばなりません。高慢・嫉妬・怨恨・貪欲・敵意・不信・猜疑心――こうしたものが積もり積もれば、いつかは戦争・難題・不和といったものを生み出します。

 私たちはそうした摂理をお教えするために地上界へ降りて来ているのですが、その目的が理解できない人たちから、冒頭で述べたような、咎め立てをするような不満を聞かされます。しかし、私たちとしては大自然の摂理を明かすこと以外には何の意図もありません。

 と言うのも、地上界を支配しているのは大霊の摂理以外の何ものでもないからです。それを宗教と呼ぼうと科学と呼ぼうと哲学と呼ぼうと同じことです。

 その摂理に逆らった生き方をする人は、一個の人間であろうと大勢の集団であろうと、民族全体であろうと国家全体であろうと、いつかはその代償を支払わねばなりません。

 その摂理の働きが完ぺきであることは常々申し上げている通りです。その働きが人間の目には目えないことがあるかも知れません。しかし、原因と結果は必ず連鎖して働きます。摂理がそのようになっているのです。こうしたことは何度も申し上げてきたことです。

 摂理、大霊の摂理以外に何もありませんと改めて申し上げるのは、そういう理由からです。

私たちの使命は神とは何かを明らかにすることですが、それは、神すなわち大霊の摂理を明らかにする以外に方法はありません。が、大霊の摂理を知ることによって、それと調和した生活が可能になります。

 もちろん自由意志が与えられていますから、摂理に従うか否かはあなた方の選択に任されています。一個人であろうと集団であろうと同じことです。

 ただ言えることは、何事もその摂理にのっとって計画し、それに反することのないようにしなければならないという、この単純な認識が行きわたるまでは、地上界に混乱と破滅と惨事の止むことはないということです。

 私たちとしてはそうした永遠の霊的真理をお教えすることしか出来ませんし、またそれで良いと考えております。なぜなら、物的なものが崩壊しチリとなった後も残り続けるのは霊的真理のみだからです。

 物的なものだけに目を奪われている者は大きな過ちを犯しております。幻影を追いかけ、永遠の実在を忘れているからです。

 霊的真理といっても至って単純なことばかりです。なのに地上界の人間は今もってそれが理解できておりません。

 それを学ぶにはいろいろな道がありますが、苦痛と落涙、流血と悲劇を体験しないと学べないというのであれば、それもやむを得ないでしょう。私としては、出来ることなら愛と奉仕の精神を通して霊的資質を発揮する中で学んでほしいところです。

 しかし、それが出来ないとなれば、摂理に逆らった手段によって痛い思いをしながら学ぶしかないでしょう。痛みという代償と引き換えに学ばねばならないということです。

 地上界で大人物と言われた人が霊界でも大人物と言われるわけではありません。こちらの世界での偉大さは魂の偉大さ、霊性の高さ、サービス精神の大きさで計られます。

 物的世界が消滅した後も末永く生き続けます。

 自由意志は大霊から賜った権利です。が、その使用を誤ると代償を支払わねばなりません。同じことが地上世界の百事全般にも言えます。摂理にのっとった手段を取れば豊かな恩恵を賜ります。

 もし間違った手段を取ると、それ相当の結果を刈り取らねばなりません。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱を招きます。

 私たちは、本来なら大霊の子等の教育者であるべき階層の者たちから軽蔑されております。大霊の名のもとに大霊の愛を携えてきたと述べていることが気に入らないらしく、本来なら大歓迎されてよいはずなのに、逆に拒絶されております。

 お役に立ちたいとの願望に燃えて、地上人類が自らの力で自らを救うための摂理と霊力の存在をお教えしようとしているのですが……

 しかし、霊的な無知に浸り切り、儀式や作法に取り囲まれ、あまつさえ神の霊力が今日でも地上界に降りることを否定するようでは(英国国教会では神は紀元六六年まで地上に働きかけ、それ以後はいかなる働きかけもしないという信仰がある)、その代償は目に見えております。

 私たちはそういうことを説く御仁には用はありません。人のために役立つことを願う人々の味方であり、何かと敵対する態度に出る人たちの敵です。

 私たちは愛と奉仕の翼に乗って降りてまいります。愛と奉仕の仕事こそ私たちが果たさねばならないのです。

 それには困難と障害が立ちはだかるであろうことは覚悟しております。しかし必ず克服します。潮流のように満ちては引くことを繰り返すことでしょうが、最後は必ず勝利します。

 私たちだけでは大きな仕事はできませんが、あなた方地上の人々と協力すれば、幾ばくかの仕事はできます。 

 たった一人の魂を救ってあげるだけでもいいのです。

 暗闇にいる人に光明をもたらしてあげれば、弱っている人に力を貸してあげることが出来れば、あるいは逆境に喘ぐ人に慰めとなる教えを授けることが出来れば、それがたった一人であっても価値ある貢献をしたことになるのです。

〔自由意志にも制約があるのは、個人によって人生の出来事の流れに一定の傾向があるという意味か、と問われて――〕

 傾向の流れ、言わばバイブレーションがあるのは事実ですが、それは宿命的にどうしようもないものではありません。

 人間はさまざまな放射物や影響力にさらされていて、その多くが何らかの影響を及ぼすことは事実です。しかし、大霊は人間の一人一人にご自身の一部、霊性の一部を与えてくださっていて、各自の進化のレベルで自由意志を適切に行使すれば、その霊性の開発の道で生じるいかなる障害も克服できるはずです。

 あなたが大霊であり、大霊があなたであると言ってもよいのです。

 譬えて言えば、大地に蒔かれた種子は、その生長を促すものを与えれば芽を出し、生長し、美事な花を咲かせます。

 それと同じで、あなたという存在の中に大霊の種子が植え込まれています。あなた方自身が庭師です。その種子がいつ花を咲かせるか、あるいは果たしてうまく花を咲かせるかは、あなたの手入れ一つに掛かっています。

 そこに自由意志による選択が許されているということです。

 せっかくの種子を暗闇の中に置き去りにし、生長に必須のもの、即ち無私の善行ということに何の努力もしない生活では、大霊があなた方を通して顕現していないことになります。 

〔苦難の価値について問われて――〕

 あらゆる体験があなた方の永遠の人生模様の一部を構成します。その永遠の人生をあなた方はとかくこの世だけの出来事によって判定しようとします。

 その皮相だけを見て偶発的な出来事の連続のように思うようですが、何回かにわたる地上生活の全てを通して一本の糸が貫かれていることにお気づきになりません。

 調和を基本的摂理とするこの大宇宙にあっては、あなた方一人一人が大霊の計画に貢献しているのです。地上生活での出来事は、時には辛さと絶望、痛みと悲惨さに満ちていることもあるでしょうが、その全てが、永遠の旅路に向かうための試練なのです。

 暗黒と光、陰と日向といった、まったく対照的なものも、実は一個の統一体の側面の反射に過ぎません。陰なくしては日向も有り得ず、光なくしては暗黒も有り得ません。

 それと同じ理屈で、困難は魂が向上するための階段です。困難・障害・ハンディキャップ――こうしたものは魂の試練なのです。それを克服した時、魂はより強くなり、より純粋になり、より充実し、かくして進化が得られるのです。

 無限の可能性を秘めた魂の潜在的資質が、困難も苦痛もなく、陰も悲しみの体験もなしに発現すると思われますか。発現するはずがありません。

 悲哀の極みをなめ尽くして初めて、魂の奥底からの喜びが味わえるのです。生命の階段を低く下りるほど、それだけ高く上がれるのです。地上人生の陰と思える体験を多く味わうほど、それだけ日向の喜びがひとしお身にしみるのです。

 全てのことが霊性進化の肥やしになるのです。そのうち皆さんも肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上人生を振り返る時がまいります。

 その時、紆余曲折した一見取り留めもない出来事の絡み合いの中で、その一つ一つがちゃんとした意味をもち、皆さんの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解なさるはずです。

 人間が体験する苦難の中で、正しく理解し正々堂々と立ち向かって何の益ももたらさないものは一つもありません。一体、困難も試練もない物的世界というものが想像できるでしょうか。

 そういう世界では何の進化もありません。克服すべきものが何もありません。あるのは堕落のみです。

〔シルバーバーチはいかなる生命も神聖であることを繰り返し説いている。ある祭日の日の交霊会で狩猟が話題となり、メンバーの一人が質問した〕

――私はキツネ狩りをしたことがありますが、間違ったことをしたことになるのでしょうか。

 すべて生命あるものは神のものです。いかなる形にせよ生命を奪うことは許されません。

――でも、ウチのニワトリを二十羽も食い殺したのですが……

 では仮に私がそのキツネに銃を与えて、二十羽もニワトリを食べたあなたを撃ち殺せと命令したらどうなりますか。地上のすべての生命には大霊によって食すべきものが平等に与えられています。

 人間が飢えに苦しむのはキツネが悪いのではなくて人間自身の考えが間違っているからです。

 地上人類がさらに進化すればそうした間違った欲望は消滅するでしょう。キツネやニワトリを人間がこしらえることが出来れば、それを人間が食べても咎める者はいないでしょう。人間がニワトリやキツネを殺してもよいというのが道理であるとしたら、同胞も殺してよいという理屈になります。

 生命は人間のものではありません。大霊のものです。生命を奪う者はいつかはその責任を取らなくてはなりません。

――オーストラリアではウサギの異常繁殖が脅威となっておりますが、これについてはどうでしょうか。

 人間は本来そこにあるべきでないものを勝手に持ってきて、それがもたらす不都合について文句を言います。

 私の地上の故郷である北米大陸についても言えることで、白人が自分たちにとっては良くてもインディアンにとっては良くないものを持ち込みました。

 戦争も白人がもたらしたものです。それからインディアンが“火酒”と呼んだもの(ウィスキー、ジンなどアルコール分の強い酒)その他、不幸をもたらすものを持ち込みました。

 白人がやってきて人を撃ち殺すことは正義であるかに吹聴するまでは、銃で撃ち殺すということなど知らなかったのです。

 そのうち人間も宇宙のあらゆる生命――動物も小鳥も魚も花も――が神の計画の一部を担っていることを知る日が来るでしょう。

 神の創造物としてそこに存在していることを認識するようになるでしょう。

シルバーバーチ



Tuesday, November 22, 2022

シアトルの晩秋  明日の世界 the world of tomorrow

 



〔人類が霊的法則に目覚め、その指し示す方向へ忠実に生きるようになった時の世界はどういう世界であろうか。新しい世界は一人の独裁者、一つの政府、あるいは国際連盟のような組織によってコントロールされる性質のものでないことは明らかである。人間各個による努力の結果として誕生するものであろう。その時の喜びがいかなるものであるか、それをシルバーバーチに語ってもらおう〕


 地球人類は今まさに危機の真っ只中にあります。何事につけ誕生には苦しみが伴うものです。

 新しい秩序の誕生にも大きな苦しみが伴います。その誕生が近づくにつれて苦痛も増大してまいります。

 しかし間違いなく言えることは、その新しい世界の種子がすでに地上界に根づいているということです。既得権力の座に安住している者たちがいかなる策を弄しても、それは功を奏さないでしょう。

 イエスは「天に為される如く地にも為されるであろう」と二千年前に述べております。それがもうすぐ実現しようとしています。

 これからも地上には幾つもの大変動が生じます。崩壊もあれば隆盛もあるでしょう。皆さんには暗黒と苦難の時代の到来のように思えるかも知れません。  

 「大変な時代になった……」そうおっしゃるかも知れません。しかし、そうした変動の背後には地上世界へ向けての大きなエネルギーの働きがあるのです。

 こうして地上世界のための仕事に従事している私たちの多くは、これから先の地上はこうなるという未来像を見せていただいております。

 それを受け入れる能力のある地上の同志に伝え、挫けがちな心を鼓舞しております。私が見せていただいた未来像に比べると現在の地上世界がとても醜く見えます。

 が、私には地上世界はこれほどまで立派になり得るのだ、こうならねばならないのだということが分かっております。あとは“時間”の問題です。それを早めるのも遅らせるのも人類の自覚一つに掛かっております。

 そのうち、政治も宗教も科学も学問もある一つのものの側面に過ぎないことが理解できる、新しい人類が現れるでしょう。その人類にとっては痛みも心配も喪の悲しみも不幸もなく、笑顔と明るい笑い声の世界となるでしょう。

 が、現段階の不幸に満ちた地上世界で最も人徳があるとされる人間は、他人の悲しみを取り除き生活を楽にしてあげられる人です。それほど不幸な人が多いということです。

 これまでの人間は、何か良いものを手に入れると、それを人のために使用せずに独り占めにしようと画策し、結果的には、いずれ崩壊するに決まっているような社会組織を構築しようとしてきました。なぜなら、その基盤が間違っているからです。

 大霊からいただいた資質を発達させ、それを人のために役立てる方向で使用するようになれば、永遠なるものを基盤とした社会組織が構築されるでしょう。

 私たちが説いていることは決して新しいものではありません。霊的な視野をもつ人々がずっと説き続けている古くからある真理です。それを大方の人間が顧(かえり)みようとしなかっただけです。

 そこで私たちが改めて説き、大霊の摂理というものがあることを指摘する必要が生じたのです。人類は自らの間違った考えによって地上界を破滅の寸前にまで追いやっております。

 今こそ人類は大霊とその摂理へ回帰しなくてはいけません。イヤ、すでに回帰しつつあります。私の目には、ゆっくりとではありますが、大霊の摂理が地上界に具現しつつあるのが見えます。

 何よりもまず人類が知らなくてはならないのは、大霊の恩寵はみんなで分け合わなくてはいけないということです。現在の地上には今日の食べものに事欠く人がいる一方で、有り余るほど貯えている人がいます。

 もちろんこれは間違っています。余るほど持っている人は足らない人に分けてあげなくてはいけません。別に難しいことではないと思うのですが……

 また既得権を取り壊す必要があります。摂理は寸分の狂いもなく働きます。あなた方が自分のことを忘れて人のために精を出す時、あなた方を通して大霊が働くのです。あなた方だけではありません。人間の全てに言えることです。それは無理ですとおっしゃるかも知れませんが、私は可能だと申し上げます。それが人間としての正しい生き方だからです。  

 摂理は完ぺきで、ごまかすことは出来ません。その摂理を一つでも多く学び、それを実行に移さなくてはいけません。

 長いあいだ人類は、本当は取り壊すべきものを構築することに自由意志を行使してきました。その結果として生じた暗闇に、今ゆっくりと大霊の光が射し込みつつあり、混乱と無秩序の中から新しい世界が生まれつつあります。

 そこには最早や持つ者と持たざる者といった不平等も不公平も差別もなく、大霊からの賜(たまもの)が全ての子等に平等に分け与えられるようになることでしょう。

 その新しい世界をどのような用語で呼んでも構いません。

 要するに大霊の意思に適った世界の成就――大霊の霊力はもとより、新しいタイプの喜び、新しいタイプの人生、新しいタイプの幸せを求める誠心誠意の人間の貢献によって、これ以上霊界へ“出来損ない”(死後に地縛霊となってしまうような人間)を送り込まなくなるような世界のことです。

 時としてその誠心誠意の努力が無駄に終わっているような感じを抱かれることがあるかも知れません。しかし、そういう時でも、世界中のあらゆる所で、あらゆる人々が、自覚するしないに関係なく、新しい世界の夜明けのために活用されているのです。大霊は我が子が破滅の道へ向かうのを黙って見ているわけには行かないのです。私があなた方に援助をお願いするのはそのためです。

 そうした努力を“政治”と呼ぶかどうかは、私には関心はありません。とにかくそうした働きかけは絶え間なく続けられています。地上界と霊界の協力です。もはやそれをストップさせることは不可能です。

 そうした一体の努力で私たちが物質界の到るところで大きな仕事を成就していることを誇りに思っております。悲しみに暮れていた心が明るくなっております。

 地上の暗闇に光が射し込んでおります。知識が無知を、まだ僅かではありますが、駆逐しております。

 生きる意欲を失った人々を勇気づけ、人生に疲れた人々に力を与え、道を見失っている人々に導きを与え、同胞のためにボランティア的に働いている人々には援助を与えると同時に、その背後には、大霊とその子等のための仕事を鼓舞する霊の大軍が控えているとの自覚を植えつけようとしております。

 また私がうれしく思うのは、皆さんが愛しまた皆さんを愛している霊界の人々をこのサークルにお連れして、その人たちが決してこの宇宙から消えてなくなったわけではないこと、死によって愛と情愛と友愛で結ばれている人々が引き裂かれるどころか相変わらず結ばれ続けていることを、これまで以上に確信させてあげることが出来ていることです。

 私たちの影響力がどれほど広範囲に広がっているかをお見せできないのが残念です。地上界と霊界とのこうした結びつきを邪魔している障害を取り壊し、障害物を取り除き、そして知識をもたらすことが出来ております。

 人類を霊的に、精神的に、そして身体的にも自由にする、至って単純な真理です。ご存じのように私たちはただお役に立てば、それだけで満足なのです。無償の献身を通してのみ、地球人類は救われるのです。サービスです。

 ここで改めて申し上げておきたいのは、私がただの道具に過ぎないということです。真理、単純な霊的真理、あなた方人間も全生命の源である大霊の一部であるとの認識を植えつけてあげたいと望んでいる大きな霊団の一人に過ぎないということです。

 大霊はあなた方の内部にあるのです。神性という遺産を引き継いでおり、その潜在的神性が宿されているからこそ大霊の恩寵にあずかる資格があるということ、さらに、それ故にこそその神性を妨げる障害物や慣習を廃絶しなければならないのです。私たちの仕事は魂と精神の自由だけを目的としているのではありません。物的身体も病という束縛から解放してあげることが目的の一つです。

 そういう仕事に私たちは献身してきたのです。それが私たちのいうサービスです。私はあくまでも道具の一つに過ぎませんが、私を通して人類に役立つ真理が届けられることを光栄に思っております。

 皆さんとともにその仕事に携わってきて何年かになりますが、これからもまだまだ続きます。地上界の皆さんと霊界の私たちの連帯によって、今こそ地球人類が必要としているものをお届けしてまいります。あなた方はすでに知識をお持ちです。

 霊的真理を手にされています。そして、そうした霊的知識には、それをさらに価値あることのために使用する義務が伴うことを忘れないでください。

 あなた方の説く真理が疑いを差しはさまれた時は、それには神性のスタンプが押されていること、そして又、その理由は私たちが常に人間の理性に訴えていることを思い出してください。言い変えれば、私たちがお届けするメッセージが、あなた方の品位を落とさせたり知性を侮辱したり、サービスと善性と誠実さの道に背を向けさせるような要素はみじんもないということです。

 それどころか、人間に内在する神性を認識させ、大霊とのつながりを自覚させることによって、その神性があなた方の日常の行為の全てを律するようにと願っているのです。

 霊的真理を常に意識している人たちが一致団結して、物質界に立ち込めている無知の霧を晴らすためにその力を使用すれば、どれほど大きな仕事が出来ることでしょう。

 善性と有用性とサービスの勢力は常にあなた方の味方であることを自覚して、自信をもって前進してください。

 我々の前途にはサービスの分野がいくらでも広がっております。多くの人がお座なりの説教を捨て、古い信仰を信じず、理性的懐疑に耐え得る真理を求めながらも、いずこへ向かえばそれが得られるか、迷いに迷っております。そういう人々にこそ霊的真理と霊的摂理をお届けするのです。

 内部に宿る霊的資質に気づかせ、自分も神であるということはどういうことなのかを理解させ、憎悪の復讐心に燃える神の前にひれ伏すような卑屈な信仰心を永久に捨て去るように指導してあげることです。

 要するに私たちは、大霊の子等のために役立ちたいと願う地上の有志との協調関係を求めている霊的勢力の存在を認識していただき、霊的真理を武器として迷信の全て、暗黒の霧の全てと闘い、霊的真理の光で地上界を照らしていただきたいのです。

 それが私たちの仕事なのです。私たち地球浄化の大軍には霊力という武器があります。地上界の有志を鼓舞し、導き、心の支えとなり、飢えた魂に心の糧を与え、病に苦しむ人々に癒しを与え、全ての人にインスピレーションと啓示と叡智をもたらすことが出来ます。

 人間の側に理解力と受容力がそなわれば、その能力に応じて霊力で満たしてあげることが出来ます。

 教会に属していようといまいと、どこかの宗教に属していようといまいと、科学者であろうと唯物論者であろうと哲学者であろうと、そうしたラベルにはお構いなく、受け入れる能力のそなわった人を一人でも多く見出して協力者に仕立てて行く用意があります。

シルバーバーチ


シアトルの晩秋 大自然の摂理   providence of nature

 



【Q1】

宇宙の全生命を統率している摂理について説明していただけませんか?

 私たち(注1)は、大霊の定めた永遠不変の自然法則を第一義として、これに敬虔なる忠誠とまごころを捧げます。

  絶対にしくじることのない摂理、絶対に誤ることのない法則、身分の上下に関係なく、すべての存在にわけへだてなく配剤されている英知だからです。

 だれ一人として無視されることはありません。

 だれ一人として見落とされることはありません。

 だれ一人として忘れ去られることはありません。

 だれ一人として孤立無援ということはありません。

 大霊の摂理・法則が行き届かなかったり、その枠からはずれたりする者は一人もいないのです。この宇宙に存在するという、その事実そのものが、大霊の法則が働いたことの証しなのです。

 人間がこしらえる法律は、そのまま適用できないことがあります。書き換えられることがあります。成長と発展が人間の視野を広め、知識が無知を駆逐し、情況の変化が新たな法律を必要とすることになれば、古い法律は破棄されたり改められたりします。

 しかし、大霊が定めた摂理は、新たに書き加えられることがありませんし、〝改訂版〟を出す必要もありません。修正されることもありません。

 今働いている摂理はすべて、無限の過去から働いてきたものであり、これからもそのまま永遠に働き続けます。不変にして不滅です。

 ここで、根源的摂理である因果律について、霊言集の各所で述べているものを集めて紹介しておきましょう。

 因果律の働きは完璧です。原因があれば数学的正確さをもって結果が生じます。その原因と結果のつながりに寸毫たりとも影響を及ぼす力をもつ者は一人もいません。刈り取る作物はまいた種から生じているのです。

 人間はみな、地上生活での行ないの結果を魂に刻み込んでおり、それを消し去ることは絶対にできません。

 その行ないのなかに過ちがあれば、その行為の結果はすでに魂に刻み込まれており、その一つ一つについて、然るべき償いを終えるまでは霊性の進化は得られません。

 因果律は根源的なものであり、基盤であり、変更不能のものです。自分が種をまいたものは自分で刈り取る──これが絶対的摂理なのです。

 原因があれば、それ相当の結果が数学的正確さをもって生じます。それ以外にはあり得ないのです。かわって、その結果が新たな原因となって結果を生み出し、それがまた原因となる──この因果関係が途切れることなく続くのです。

 咲く花は、間違いなく、まいた種に宿されていたものです。

 無限の変化に富む大自然の現象は、大きいものも小さいものも、単純なものも複雑なものも、みな因果律にしたがっているのです。

 だれ一人として、また何一つとして、その因果関係に干渉することはできません。もしも原因に不相応の結果が出ることがあるとすれば、地上界も物的宇宙も、霊的宇宙も大混乱に陥ります。

 私の言う大霊もあなたの言うゴッドも、創造神も絶対神も、愛と英知の権化でもなく全存在の極致でもなくなります。

 宇宙は、絶対的公正によって支配されています。もしも犯した過ちが、呪文やマントラを口にするだけで消し去ることができるとしたら、摂理が完全でなかったことになります。

 自然の大原則が簡単に変えられたことになるからです。

 大自然は、人間的な願望におかまいなく、定められたコースをたどります。成就すべき目的があるからであり、それはこれからも変わることはありません。

 人間も、その大霊の意志と調和した生き方をしている限りは、恵みある結果を手にすることができます。あなたの心の持ち方次第で、大自然は豊かな実りをもたらしてくれるということです。

 善い行ないをすれば、それだけ霊性が増します。利己的な行ないをすれば、それだけ霊性が悪化します。

 それが自然の摂理であり、これだけはごまかすことができません。死の床にあっていくら懺悔の言葉を述べても、それで悪行がもたらす結果から逃れられるというものではありません。

 どの法則も大法則の一部です。いずれも大霊の計画の推進のためにこしらえられたものですから、全体としての調和を保ちながら働きます。

 これは、物質界の人間は男性・女性の区別なく、自分が犯した罪は自分の日常生活における苦難のなかで自分で償うしかないこと、それを自分以外のだれかに転嫁できるかに説く誤った教義(注2)は捨て去らなければいけないことを教えています。

 人間は自分自身が、自分の魂の庭師です。英知と優雅さ、美しさといった霊性の豊かさを身につけるうえで必要なものは、すべて大霊が用意してくださっています。道具は全部そろっているのです。

 あとは各自がそれをいかに賢明に、いかに上手に使うかにかかっています。

 大霊は無限なる存在であり、あなた方はその大霊の一部です。完全な信念をもって摂理に忠実な生活を送れば、大霊の豊かな恵みにあずかることができます。

 これは地上のだれについても、例外なく言えることです。真理に飢えた人が完全な信念に燃えれば、きっと然るべき回答を得ることでしょう。

 摂理とはそういうものです。何事にも摂理があります。その摂理に忠実であれば、求める結果が得られます。もし得られないとしたら、それはその人の心がけが摂理にかなっていないことの証しでしかありません。歴史書をひもといてごらんなさい。

 最下層の極貧の出でありながら、正しい心がけで真理を求めて、決して裏切られることのなかった人は少なくありません。

 求めようとせずに不平をかこつ人を例にあげて、なぜあの人は…といった疑問を抱いてはなりません。

 もう一つの摂理をお教えしましょう。代償を支払わずして、価値あるものを手にすることはできないということです。優れた霊媒現象を手にするには、霊的感性を磨かねばなりません。それが代償です。

 それをせずに金銭を蓄えることに専念すれば、それにも代償を支払わなければいけなくなります。

 金儲けに目がくらんで本来の使命をおろそかにすれば、この地上では物的な豊かさを手にすることができるかもしれませんが、こちらへ来てから本来の自我がいかに貧しいかを思い知らされます。

 訳注1──シルバーバーチが「私たち(we)」と言うときは、自分を中心とした霊団を指す場合と、シルバーバーチの言う「liberated beings」、つまり「物」による束縛から解放された高級霊を指す場合とがある。ここでは後者である。

 訳注2──改めて指摘するまでもなく〝誤った教義〟は、キリスト教の「贖罪説」のことで、「イエスへの信仰を告白した者」といった条件つきの法則は全体の調和を乱すという意味。

【Q2】

では、悪人が健康で仕事もうまくいき、善人が苦しい思いをしていることがよくあるのはなぜでしょうか?

 自然の摂理を地上界の現実に照らして判断するのは、基準があまりにもお粗末過ぎます。地上人生は途方もなく巨大な宇宙人生のほんの短い一面に過ぎず、個々の生命は死後も永遠に生き続けるのです。

 が、それはそれとして、地上の現実を、今おっしゃったような表面的な実情で判断してよいものでしょうか。心の奥、魂の中枢、精神の内側までのぞき見ることができるものでしょうか。

 一人ひとりの内的生活、ひそかに抱いている思い、心配、悩み、苦しみ、痛みがわかるものでしょうか。わかるのはほんの一部でしかありません。

 実際は、あらゆる体験が魂に刻み込まれているのです。楽しみと苦しみ、喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐の体験を通して、霊性は磨かれていくようになっているのです。

【Q3】

人生の教訓が愛と哀れみを身につけることであるのなら、なぜ大自然は肉食動物という、むごい生き物を用意したのでしょうか?

 大自然が悪い見本を用意したかに受け止めるのは間違いです。大自然は大霊の表現です。大霊は完全ですから、大霊の用意した摂理も完璧です。大自然は、その摂理のおもむくままに任せれば、必ずバランスと調和を保つようにできています。
 
 ですから、人間が大自然と調和した生き方をしていれば、地上世界はパラダイス、いわゆる〝神の王国〟となるはずです。

 たしかに、肉食動物はいます。が、それは〝適者生存〟という大自然のおきての一環としての存在であり、大自然の一側面に過ぎません。全体としては「協調・調和」が自然のあるべき姿です。

 「共存共栄」と言ってもいいでしょう。人間がきちんと手入れをして自然と調和していれば、素晴らしい〝庭〟になることでしょう。

 実は、ほかならぬ人類こそが、地球上の最大の肉食動物なのです。何百万年もの歴史のなかでこれほど破壊的な創造物を私は知りません。

【Q4】

摂理の働き方は、地上界も霊界も同じなのでしょうか?

 いえ、同じではありません。霊界では、ある一定の進化のレベルに達した者が、同じ階層で生活しているからです。ということは、地上のように同じ界に対照的な体験をもつ者がいないということです。

 全員が同じ霊格に達した者ばかりなのです。未発達な霊が、高級な霊と同じ階層にいるということがないのです。地上では、毎日毎日、さまざまな知的ならびに霊的発達レベルの者と交わります。霊界では、そういうことがないのです。

 もっとも、特殊な使命を帯びて自分の界より低い界へ下りていくことはあります。そういうことでもないかぎり、私たちが出会うのは、霊的に同じ発達レベルの者ばかりです。

 霊性が向上すれば、それ相応の階層へ向上していきます。そこでも同じ霊格の者ばかりが生活しています。

 とにかく、私たちの世界には、暗黒と光明といった対照的なものは存在しません。影というものが存在しないのです。霊的光明のなかで生きる段階にまで到達した者は、光明とは何かについての理解ができています。

 そうでなかったら、光明界にはいられないでしょう。その段階にまで到達していない者は、光と闇で織りなされる夢幻の階層から抜け切っていないことを意味します。

 霊性がさらに向上すれば、そういう対象を必要としない理解の仕方が身につきます。実在についての理解力が増し、実相を実相として悟るようになります。

 霊的洞察力が身につけば、たとえば一本の花を見ても、その美しさの内側と外側まで見えるので、地上では理解できない、その花の全体像がわかるようになります。

 色彩一つをとってみても、地上界にない無限のバリエーションがあります。微妙な色調があり、また肉眼では理解できない、素材そのものに託された霊的な意味もあります。

 私たちの世界は、地球の引力の影響は受けません。夜はなく、常に明るい光に包まれています。霊性が高まるほど、美しさの内奥が顕現されていきます。

 その意味で、私たちの世界は、創造的な世界です。すなわち、そこに住む者が自らの霊力で創造していく世界です。

【Q5】

地上での行為、地上生活中に、因果律が働くのでしょうか?

 そういうこともありますし、そうでないこともあります。因果律は、必ずしも地上生活中に成就されるとは限りません。が、必ず成就されます。

 そういうように宿命づけられているからです。原因と結果とを切り離すことはできません。

 ただ、原因の性質によって、それが結果を生み出すまでの時間的要素に違いがあります。ですから、行為によっては地上生活中に反応が出る場合もあり、出ない場合もあります。が、霊的な余波は機械的に影響を及ぼしています。

 なぜなら、たとえば他人を傷つけた場合、その行為は機械的に行為者の魂に刻み込まれていますから、その罪の深さに応じて行為者自身の魂も傷ついて霊性が弱まっています。その結果が、地上生活中に表面化するか否かはわかりません。

 そのときの環境条件によって違ってきます。当人の永遠の霊的生命を基準にして配剤されるものです。

 埋め合わせの原理は、自動的に働きます。絶体絶命の窮地にあって援助と導きを叫び求めても、何の働きかけの兆候もないかに思えるときがあることでしょう。が、実は、そんななかにあっても、人のために役立つことができるという事実そのものが、豊かな埋め合わせを受けていることの証しなのです。

 自分も、だれかのおかげで霊的真実に目覚めたのです。このことは、治療家や霊媒としての仕事にたずさわる人に、特に申しあげたいことです。

 もしも埋め合わせと懲罰の原理がなかったら、大霊の絶対的公正はどうなるのでしょう?罪悪の限りを尽くした者と、聖人君子に列せられるような有徳の人物とが、同等の霊性を身につけることができるでしょうか?もちろん、できません。

 人のために役立つことをすれば、それだけ霊性が高まります。利己的なことをすれば、それだけ霊性が下がります。

 あなたの霊的宿命をよくするのも悪くするのも、あなた自身です。責任はすべて、あなた自身にあります。

 もしも死の床で懺悔して、それで生涯で犯した罪がもたらす結果からすっかり逃れることができるとしたら、それはお笑いものであり、悪ふざけです。

【Q6】

若いときに犯した罪の償いを、死んで霊界へ行ってからさせられるということがあるのでしょうか?地上にいる間に償いをさせられることもあるのでしょうか?

 すべては環境条件によって決まることです。自分が犯した罪は自分で償う──これは不変の摂理です。魂に刻み込まれた汚点を完全に消し去るまでは、向上進化は得られません。

 その過ちがいつなされたか(若いときか、中年か、年老いてからか)は関係ありません。能力のすべてを駆使して償わねばなりません。

 その努力を始めたとき、あるいはそう決意したとき、あなたの魂のなかで過ちを正すための別の側面が動き始めます。摂理の仕組みは、そのように簡単なのです。

 若いときに犯した間違いは、肉体を通して顕現している間のほうが償いやすいでしょう。地上で犯したのですから、地上のほうが償いやすいはずです。償いが遅れるほど修正もむずかしくなり、霊的進化を妨げます。
 
 大切なのは、自分の過ちを素直に悔いて償いを決意したとき、ふだんから見守っている霊団の者(類魂)が、間髪を入れずに、力添えに馳せ参じるということです。

 向上進化を志向する努力を、人間界の経綸に当たっている高級霊は、決して無駄に終わらせません。

シルバーバーチ

Saturday, November 19, 2022

シアトルの晩秋 シルバーバーチの使命        Mission of Silver Birch



〔高級霊団から使命を仰せつかったシルバーバーチが地上圏での活動の準備と開始に至るまでの経緯について語る〕


ずいぶん前の話になりますが、他の多くの指導霊と同じように私も、地上圏に降りて協力者の一団を集め、霊的メッセージを地上界へ届ける仕事を引き受けてくれないかとの懇請を受けた時、私はそれを使命としてお引き受けしました。

そのためにはメッセージを受け取ってくれる霊媒を探し出す必要があることも知らされました。そこで私は霊界の記録簿を調べ、この霊媒に白羽の矢を立てました。

それはこの霊媒がまだ母胎に宿る前の話です。私はその母胎に宿る一瞬を注意深く待ち、いよいよ宿って自我を発現し始めた瞬間――と言っても、まだほのかな明り程度のものに過ぎませんでしたが――から私なりの影響力を行使し、今日まで続いている一体関係がその時から始まったのです。

私はこの人間の霊とその小さな精神の形成に関与しました。誕生後も日常生活のあらゆる側面を細かく観察し、互いの一体関係を促進し、物の考え方や身体上の癖を呑み込むように努めました。つまり私はこの霊媒を霊と精神と肉体の三面から徹底的に研究したわけです。

次に私がしなければならなかったことは、この霊媒を霊的真理の理解へ向けて指導することでした。まず地上の宗教を数多く勉強させました。そして最終的には彼はそのいずれにも反発を覚えて、いわゆる無神論者になってしまいました。が、それはそれなりに当人の精神的開発にとって意味があったのです。これで霊言霊媒となるべき一通りの準備が整いました。

ある日私は、周到な準備のもとに初めて彼を交霊会へ出席させ、彼の口を使って私の意思を発言してみました。いかにもぎこちなく、内容もつまらないものでしたが、私にとっては実に意義深い体験だったのです。

その後は回を追うごとにコントロールがうまくなり、今ご覧の通りにまでなりました。今ではこの霊媒の潜在意識に邪魔されることなく、私の考えを百パーセント伝えることが出来ます。

さて、先ほど申した通り私はさる筋から使命を仰せつかったのですが、その時こう言われたのです。

「そのためには、あなたは物質界まで波動を下げなければならないし、また、適当な道具を見出してから、その霊媒と霊的に親近性のある人間を数名見出して、その霊媒を通してあなたがメッセージを語る場を用意しなくてはなりません」と。それがあなた方です。私がここへ陰からお誘いしたのです。

しかし、私が遭遇した困難の中で最大のものは、人間を納得させるような証拠――もちろん物的証拠であって霊的な証明ではありません。地上の人間はまだ霊的な証明ができる段階に達しておりません――を提供するか、それともその霊的証明を理解させるための教えを説く、つまり霊的真理を説くか、この二つのどちらにするかということでしたが、私はあえて困難な方の後者を選びました。

私はその使命をお引き受けした時にこう言いました――これまでの長い霊界生活における多種多様な体験を携えて地上圏へ戻り、慈しみの心で人間に接してみます。まず何よりも理性に訴えたい。言うなれば大人の魂、つまり高い霊性と教養を身につけた人物に訴えてみたい。霊界からのメッセージをできるだけ単純明快な形で説き明かすべく努力します、と。

またこうも述べました――人間の理性が反発を覚えるようなことは絶対に述べないことにしたい。慈しみの心で接し、怒りをもって諌めることだけは絶対にすまい。自ら公言している通り自分が確かに大霊の使者であることを、教訓と模範を垂れることによって証明したい、と。

さらに私は、地上時代の姓名を絶対に明かさないという重荷を自ら背負いました。仰々しい名前や称号や地位、名声は持ち出すまい。私が述べることと態度で私という存在を判断してもらいたいと思ったのです。

実は前回の会合でその先輩の霊たちとお会いしたのですが、その席上で私はお褒めの言葉をいただき、使命が順調に進捗していることを聞かされました。その言葉に私は思わず感激の涙を流しました。しかし、使命が終わったわけではありません。まだまだ為さねばならないことがあります。

他の霊団――私の霊団と同じ仕事に携わっているのですが――による尽力もあって、あなた方の物質界にはかつてよりもより多くの光明が射し、より多くの幸せが生まれ、悲しみが減り、涙が流されることが少なくなりました。死についての無知がわずかながら克服されたことを意味します。

また、多くの魂を鼓舞して、日常生活で高度な自我を自覚させました。正義と真理についての目を曇らせてきた過去の多くの誤った概念を駆逐しました。長年にわたって地上界を毒し続け、愚行によって理性を辱(はずかし)めてきた教義と独断の牢獄から多くの人々を解き放してあげました。

私たちは、特定の者のみを可愛がり、憤怒に燃えて報復したり、疫病をまき散らしたりする神に代わって、慈しみと叡智の始源としての大霊の概念を説くことに努め、そしてそれはある程度まで成功しました。またナザレのイエスを(唯一の神の子としてではなく)偉大なる人間の模範として崇めるべきであると説いてきました。そうした私たちの教えの基本となっている根拠を理解してくださる人も多くなりました。

確かに大きな成果を上げることが出来ましたが、これから為さねばならない、もっと大切な仕事があります。人間は今もって、やらなくてもよい戦をやりたがります。私たちが説く真理を理解し実生活に生かせば、殺し合うなどということは、いの一番に止めるはずです。

飢餓もあります。大霊は十分な恵みを与えてくださっています。なのに、新鮮な空気も太陽の光も入らない粗末なあばら家で生きるか死ぬかの生活を余儀なくされている人がいます。不足と悲嘆と苦痛が多すぎます。

廃絶すべき迷信がまだまだ数多く存在します。心を痛めている人が多すぎます。根絶すべき病気があります。私たちの仕事はまだまだ終わっていません。

私たちはこれまでの成果を喜ぶと同時に、あなた方サークルの協力を得て、さらに多くのサービスが成し遂げられるための力を授かりたいと祈っております。

私はこの地上へ私を派遣した霊団の代弁者(マウスピース)に過ぎず、私という一個の存在としての栄誉とか報賞を求める気持はみじんもありません。誇大に宣伝したり地上時代の偉そうな人物名を名乗ったりする趣味も持ち合わせません。私はただこれまで申し上げたような霊的真理、長い間忘れ去られていた真理に改めて“神の真理”のシールを張って、こうして地上界へお届けするための道具であることに喜びを感じているのです。

私の役目は、私が所属する霊団からのメッセージをお届けすることです。手塩にかけて養成したこの霊媒と私自身の霊力の力量の範囲で受け取ったものを忠実に伝達する努力を続けてまいりました。私はただお役に立てばそれでよいのです。もしも私がお伝えするささやかな教えが、人生の嵐の中にあるたった一個の魂の一服の憩いとなり、疑念の嵐をくぐり抜けてきたあとの確信の港となれば、あるいは又、こうした一見なんでもなさそうな素朴な霊的真理の聖域の中に幸せを見出し、生き甲斐を覚えさせてあげることになれば、父なる大霊から仰せつかった使命のいくばくかを成就したことになりましょう。


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2章 交霊会の目的

Friday, November 18, 2022

シアトルの晩秋 神──大霊とは What is God—the Great Spirit

 

                                     


神──大霊とは

【Q1】
神とは何でしょうか?


 神とはこういうものですと、ひとまとめにしてお見せすることはできません。無限なる存在だからです。いかなる言語も概念も説明図も有限です。小なるものが大なるものを包含することはできません。ただ、宇宙をご覧になれば私のいう大霊がいかなるものかが、いくらかはおわかりになるでしょう。

あくまで自然法則(注)によって規制され、千変万化の現象のすみずみに至るまで配剤が行き届いています。極微の世界から荘厳をきわめた極大の世界に至るまで、生を営み運動し呼吸するもの、要するに宇宙に存在するものすべてが、大自然の法則によってコントロールされています。

法則の支配を受けないものは何一つ存在しません。季節は一つ一つ順を追ってめぐり、地球は地軸に乗って回転し潮は満ち引きを繰り返します。どんな種をまいても芽を出すのは内部にあったものです。本性が出るのです。

法則は絶対です。新しい発見も、いかなるものであろうと、どこで行なわれようと、同じ法則によってコントロールされています。何一つ忘れ去られることはありません。何一つ見落とされることはありません。何一つ無視されることもありません。

 その法則として働いているものは一体何か?無限なる存在です。旧約聖書に出てくる巨人のような人間ではありません。復讐心に満ち、機嫌を損ねると地上に疫病をまき散らすような、そんな気まぐれで憤怒に燃えた神ではありません。歴史と進化のあとをたどれば、人類社会は未開から徐々に向上進化しており、その背後で働いている力が慈愛を志向する性質のものであることがわかります。

ですから、すべてを支配し、すべてを治め、すべてを監督し、しかもすべてのなかに存在する無限なる愛と英知は、みなさんが霊性の進化に伴って徐々に悟っていくものです。それを私は「大霊」と呼んでいるのです。
                                   
                              訳注──「法則」と訳したのは原語では「laws」となっている。最初に出ている「自然法則」は「natural laws」であるが、この用語には「物理的法則」の感じが強い。シルバーバーチが「laws」というときは倫理・道徳でいう「摂理」も含まれているので、その色彩が強いときは「摂理」を用いることにしている。ときには「摂理・法則」と訳すこともある。「man’s laws」となれば「人間が定めた法律」となる。


【Q2】
大霊はいずこにも存在する──私たち人間のすべてにも宿っているとおっしゃるのでしょうか?

 (顕幽にまたがる)全創造物として顕現している大霊の総和とは別個の大霊というものは存在しません。

 人間的存在としての神は、人間がこしらえたもの以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間がこしらえたもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火炎もうもうたる地獄も、人間がこしらえたもの以外には存在しません。そうしたものは限られた視野しかもたない人間の想像的産物に過ぎません。大霊は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。

 なぜなら、すべてが不変にして不滅、完璧にして全能の法則によって治められていることを悟れば、完全無欠の公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構のなかにあって、だれ一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。

【Q3】

大霊とはだれなのでしょうか、あるいは何なのでしょうか?愛の精神ないしは愛の情感でしょうか?

 大霊とは宇宙の自然法則のことです。顕幽にまたがる全生命の背後の創造力です。完全なる愛であり、完全なる英知です。大霊は全宇宙に瀰漫しています。あなた方がご存知のその小さな物的宇宙だけでなく、まだご覧になっていない宇宙にも瀰漫しています。

 大霊はすべての生命に充満しています。あらゆる存在の内部に息づいています。あらゆる法則、あらゆる摂理にも大霊が宿っています。生命であり、愛であり、すべてです。創造された私たちに、どうして創造者が叙述できましょう。無限の壮大さをもつものを、お粗末な概念しか描けない私たちにどうして叙述できましょう。

【Q4】

人類の歴史を通じて大霊が、個としての霊を通してではなく直接語りかけたことがありますか?

 大霊は人物ではありません。神々しい個的存在ではありません。個的存在を超えたものです。摂理と愛と英知と真理の究極的権化です。大霊はこの広大無辺の宇宙で絶えまなく作用している無限の知性です。

【Q5】

その大霊を幼い子どもに、どう説いて聞かせたらよいでしょうか?

 説く人みずからが、全生命の背後で働いている力について明確な認識をもっていれば、それは別にむずかしいことではありません。

 私だったら、大自然の仕組みの見事な芸術性に目を向けさせます。ダイヤモンドのような夜空の星に目を向けさせます。太陽のあの強烈な輝きと名月のあの幽玄な輝きに目を向けさせます。ささやきかけるようなそよ風、それになびいて揺れる松の林に目を向けさせます。さらさらと流れるせせらぎと怒涛の大海原に目を向けさせます。そうした大自然の一つ一つの営みが確固とした目的をもち、法則によって支配されていることを指摘します。

 そしてさらに、人間がこれまで自然界で発見したものはすべて、法則の枠内に収まること、自然界の生成発展も法則によって規制されていること、その全体に広大にして複雑な、それでいて調和のとれた一つのパターンがあること、全大宇宙のすみずみに至るまで秩序が行きわたっており、惑星も昆虫も嵐もそよ風も、その他ありとあらゆる生命活動が、いかに複雑をきわめていても、その秩序によって経綸されていることを説いて聞かせます。

 そう説いてから私は、その背後の力、すべてを支えているエネルギー、途方もなく大きい宇宙の全パノラマと、まだ人間に知られていない見えざる世界までも支配している霊妙な力、それを大霊と呼ぶのだと結びます。

【Q6】

あなたは大霊はすべてのものに宿る──全存在の根源であるから愛にも憎しみにも英知にも不道徳にも宿っているとおっしゃいます。そうなると、過ちを犯す人間も正しいことをする人間と同じように、大霊の摂理のなかで行動していることになります。愛と平和を説く者と同様に、憎悪と戦争を説く者も、摂理のなかで行動していることになります。すべてが大霊の摂理の一部である以上、その摂理に違反する者はいないことになってしまいますが、この矛盾をどう説明されますか?

 完全が存在する一方には、不完全も存在します。が、その不完全も完全の種子を宿しています。完全も、不完全から生まれるのです。完全は、完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。

 生きるということは進化することです。前に向かって進むことであり、上へ向かって努力することであり、発達であり開発であり発展であり進展です。あなた方のおっしゃる善も悪も、その進化の工程における途中の階梯に過ぎません。終わりではありません。

 あなた方は不完全な理解力でもって判断しておられます。その時点においては善であり、その時点においては悪だといっているに過ぎません。それはあなただけに通用する考えです。あなたと何の関わりもなければ、また別の判断をなさるでしょう。いずれにせよ、大霊は全存在に宿っています。

【Q7】

では、大霊は、地震にも責任を負うのでしょうか?

 大霊は法則です。万物を支配する摂理です。宇宙のどこにもその支配を受けないものは存在しません。地震、嵐、稲妻──こうしたものが地上の人間の頭脳を悩ませているのは承知しています。しかし、それらもみな、宇宙間の現象の一部です。宇宙も進化しているのです。そこで生活を営む生命が進化しているのと同じです。

 物質の世界は完全からはほど遠い存在です。しかもその完全は、いつまでたっても達成されることはありません。より高く、あくまでも高く進化していくものなのです。

【Q8】

ということは、大霊も進化しているということでしょうか?

 そうではありません。大霊は法則であり、その法則は完璧にできあがっています。が、物質の世界に顕現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。地球も進化していることを忘れてはいけません。地震や嵐や稲妻はその進化のあらわれです。地球は火焔と嵐のなかで誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。

 日没と日の出の美しさ、夜空のきらめく星座、たのしい小鳥のさえずりは大霊のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は、大霊とは関係ないというものではありません。そうしたものもすべて、大霊の絶対的法則によって営まれているのです。

 同じように、あなた方は、堕落した人間や他人に害を及ぼすような人間を、大霊はなんとかしてくれないのかとおっしゃいます。しかし、人間一人ひとりは、自由意志が与えられており、霊性の進化とともにその正しい活用法を身につけていきます。霊的進化の階梯を上がるにつれて、それだけ多くの自由意志が行使できるようになります。言い換えれば、現在のあなたの霊格があなたの限界ということになります。

 しかし、あなたも大霊の一部である以上、人生のあらゆる困難、あらゆる障害を克服することができます。霊は物質に勝ります。霊が王様で、物質は召使いです。霊がすべてに君臨しています。全生命のエッセンスです。霊は生命であり、生命は霊なのです。

【Q9】

大霊は、自分が創造した宇宙とは別個の存在なのでしょうか?

 そうではありません。宇宙は大霊の反映そのものです。つまり、大霊が宇宙組織となって顕現しているのです。
 ハエに人間界のことが理解できるでしょうか?魚が鳥の生活を理解できるでしょうか?犬に人間のような理性的思考ができるでしょうか?星が虚空を理解できるでしょうか?すべての存在を超えた大霊を、あなた方人間が理解できるはずはありません。

 しかし、あなた方も魂を開発することによって、一言も語らずとも、魂の静寂のなかにあって大霊と直接の交わりをもつことができるのです。そのときは、大霊とあなたとが一つであることを悟ります。それは言葉では言い表わせない体験です。あなたの、そして宇宙のすべての魂の静寂のなかにおいてのみ、味わえるのです。

【Q10】

霊が意識をそなえた個的存在となるには、物質の世界との接触が必要なのでしょうか?

 そうです。意識を獲得するためには、物的身体に宿って誕生し、物的体験を得なければなりません。「物(matter)」から「霊(spirit)」へと進化していくのです。つまり、物的身体との結合によって、物的人物像を通して自我を表現することが可能となります。「霊」は「物」に宿ることによって自我を意識するようになるのです。

【Q11】

となると、大霊は、われわれ人間を通して体験を得ているということでしょうか?

 そうではありません。あなた方の進化が、すでに完全であるものに影響を及ぼすことはありません。

【Q12】

でも、われわれは大霊を構成する分子です。部分の進化は全体に影響を及ぼすのではないでしょうか?

 それは、あなた方を通じて顕現している部分に影響を及ぼすだけです。それ自体も本来は完全です。が、あなた方一人ひとりを通じての顕現の仕方が完全ではないということです。霊それ自体は、もともと完全です。

宇宙を構成している根源的素材です。生命の息吹です。それがあなた方を通じて顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるために顕現の仕方も不完全なのです。

あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されます。あなた方が霊という別個の存在を進化させているのではありません。あなた方自身であるところの霊が顕現する媒体(注)を発達させているのです。

 訳注──これはQ10の回答との関連において理解しなければならない。原語で「bodies」となっているところから、シルバーバーチが「物(matter)」を地上の物質だけに限っていないことがわかる。幽体も霊体も、厳密な意味では「物的身体」である。

【Q13】

霊が自我を表現する媒体も、さまざまな形態の「物」でできているということでしょうか?

 そういうことです。法則は完全です。しかしあなた方は不完全であり、したがって完全な法則があなた方を通して働けないから、あなた方を通して顕現している法則が完全でないということになります。あなた方が完全へ近づくほど、より多く完全な法則があなた方を通して顕現するようになります。

 こう考えてください。光と鏡があって、鏡が光を反射している。鏡がお粗末なものであれば光のすべてを反射させることができない。その鏡を磨けば磨くほど、より多くの光を反射するようになります。要するに、すべての存在がよりいっそうの顕現を求めて、絶えまえまなく努力しているのです。前に私は、原石を砕きながらコツコツと宝石を磨いているのが人生だと申しあげたつもりです。原石はいらない、宝石だけがほしい、という虫のいい話は許されません。

【Q14】

でも、人間一人ひとりに、善いものと悪いものの概念があるのではないでしょうか?

 それは、その時点での話です。進化の途上において到達した一つの段階を表現しているだけです。魂がさらに向上すれば、その概念は捨て去られます。あるべき道から逸脱してしまった人間を通して完全な摂理・法則が顕現しようとして生じた、不完全な考えであったわけです。すべてが大切だと申しあげるのは、そこに理由があります。

【Q15】

それでは、大霊は原初においては善ではなかったということになるのでしょうか?

 私は、原初のことは何も知りません。終末のことも何一つ知りません。知っているのは、大霊は常に存在し、これからも常に存在し続けるということだけです。大霊の法則は完璧なかたちで機能しています。(今のたとえで言えば)あなたは完全な光をおもちです。

 ですが、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。それを「光は不完全だ。光は悪だ」とは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上界で「悪」と呼んでいるものは、不完全な段階で大霊を表現している〝不完全さ〟を意味しているに過ぎません。

シルバーバーチ
                                   

Wednesday, November 16, 2022

シアトルの晩秋 地上生活の意義「生・老・病・死」  The significance of life on earth is “birth, old age, sickness, and death.”

 


 まえがき

 本書を手にされたいきさつは、人それぞれに異なるであろう。第一に考えられるのは、古くからのシルバーバーチの愛読者で、その崇高な英知と人生への霊的洞察から多くを学んでいるので、何の躊躇もなく手にされたというケースである。また、シルバーバーチのメッセージを、地上のみならず、死後の人生の指針としている人から贈られたという方もいるであろう。

 本書は、そういう方を決して裏切らないであろうことを断言しておきたい。もしかしたら書店でふと目にとまったからという方、あるいは新聞広告を見て興味を覚えて買ったという方もいることであろう。いわば偶然のなせるわざであるが、お読みになれば決して偶然ではなく、何らかの形で霊的な導きがあったのだと、ご理解がいくことであろう。

 ともあれ、シルバーバーチの訓えの素晴らしさを、今ここで筆者の拙い筆で改めて宣伝しようとは思わない。それよりも、本書の二人の編纂者の労をねぎらいたい心境である。

すでに発刊された(そして廃刊となった)数多くの霊言集の中から珠玉の「Q&A」を抜き出して一冊にまとめるというアイデアそのものに敬意を表したい。こういう形で読むと、シルバーバーチが一段と身近に感じられ、その意味の深さを改めて認識することになるであろう。

霊的真理普及財団・会長  ロイ・ステマン


編者まえがき  近藤千雄

人生のスピリチュアルな面とサイキックな面に関心を向けながら求道の旅を続けている人々のために、遭遇する疑問への回答を与えてくれる一冊の書を用意してあげたい───これが本書を編纂した理由である。

 また、われわれが「勉強会」を始めた時、何か手ごろなテキストはないものかと話し合ったことがある。スピリチュアリズムの枠内でも起こり得る誤解や勝手な解釈を一掃したもの、というのが第一の条件であったが、そうなると 「シルバーバーチ」 の名で知られている、あの高級霊が遺してくれた宇宙哲学と生きる英知以外にはあり得ないのではないかという結論に達した。

 本書に盛られた質問には、実質的には一九二〇年から始まった交霊会で何度も出されているものがある。が、シルバーバーチはそのつど、内容を深めたり敷衍(フエン)したりして答えているので、本書でも重複をいとわず掲載した。

 霊言集の出版が終わった今、こうしたかたちでシルバーバーチの霊言を世に出すということは、真理普及に改めて貢献することになる。この一冊によって光を見出す人が一人でもいれば、われわれの努力も無駄ではなかったことになる。                                      
 スタン・バラード ロジャー・グリーン


 シルバーバーチとは何者か  訳者 近藤千雄

 本書を手にして「まえがき」と「編者まえがき」に目を通した時、シルバーバーチの霊言集がほとんど廃刊となった今でも、英国において「霊的真理普及財団」や「勉強会」という形で脈々と生き続けていることを知ってうれしかった。 

 人間は形而上的にも形而下的にも 「なぜ?」 と問いかけたくなるものにあふれている。
たとえば 「地動説」 という厳然たる事実が常識となるまでに何百年もかかったが、一体なぜ地球が太陽の周りを回転するのかは、いまだに謎である。

まっすぐに進もうとする地球を太陽が引っ張るから、というのは単なる原理的解説であって、では、なぜ地球はまっすぐに進もうとするのかは、天文学でもいまだに謎である。

 こうした 「なぜ?」 と問いかけたくなることは、人生にはいくらでもある。本書は、そのいくつかに納得のいく回答を与えてくれる。かけがえのない英知の泉であるが、シルバーバーチと名のる霊は一体いかなる存在なのであろうか。本書によってはじめてシルバーバーチを知ったという方のために、おおよそのところを紹介しておきたい。

 シルバーバーチというのは、霊媒のモーリス・バーバネルの口を使って、一九二〇年から六〇年間にわたって霊的教訓を語り続けてきた古代霊の仮の名で、今から三〇〇〇年前頃、つまりイエス・キリストより一〇〇〇年も前に地上で生活したということ以外、地上時代の国籍も姓名も地位も不明のままで終わった。

 せめて姓名だけでも教えてくれるよう何度かお願いしたが、そのつど、

「それを知ってどうしようというのですか。人間は名前や肩書きにこだわるからいけないのです。もしも私が歴史上有名な人物だと分かったら、私がこれまで述べてきたことに一段と箔がつくと思われるのでしょうが、それは非常にたちの悪い錯覚です。

 前世で私が王様であろうと召使いであろうと、大富豪であろうと奴隷であろうと、そんなことはどうでもでもよろしい。私の述べていることに、なるほどと納得がいったら真理として信じてください。そんなばかなと思われたら、どうぞ拒否してください。それでいいのです」

 と答えるのが常で、そのうち出席者も聞かなくなってしまった。

 ただ一つだけはっきりしていることは、霊視能力者が描いた肖像画が北米インディアンの姿をしていても、実はそのインディアンがシルバーバーチその人ではないということである。

 インディアンは、いわば霊界の霊媒であって、実際にメッセージを送っているのは高級神霊界の存在で、直接地上の人間に働きかけるには波長が高過ぎるので、その中継役としてインディアンを使っていたのである。

 近代の科学的霊魂学ともいうべきスピリチュアリズムによって、死後も今と同じ意識をもって生き続けることが明らかとなった。

これを 「個性の死後存続」 と呼び、これは 「地動説」 と同じく科学的事実として、好むと好まざるとにかかわらず、万人が認めざるを得ないものである。

その詳しい解説は第4章にゆずることにして、シルバーバーチが繰り返し説いている特徴的な教訓の一つは、仏教で「生・老・病・死」 を不幸としてとらえているのとは対照的に、そうしたものを体験するところに地上生活の意義があり、いわば魂の肥やしとして前向きにとらえることが、死後の向上につながると説いていることである。

 第6章を 「生・老・病・死・苦──地上人生の意義」 という見出しにしたのは、これがシルバーバーチの教えの圧巻だからである。そこには在来の全ての宗教に見られる 「現世利益」(げんせりやく) 的な気休めの説教はカケラもない。

「事実なのですから、そう述べるしかありません。もしも私が地上生活をらくに生きる方法があるかに説いたら、それは私が高級神霊界からあずかった使命に背いたことになります」 とまで述べているのである。

 シルバーバーチの教説は、その意味で 「大人の人生指導原理」 といえるかも知れない。気休めのありがたい話を好まれる方には厳し過ぎるかもしれない。が、現実界を見れば、気休めやご利益信仰など吹っ飛んでしまうような事象が毎日のように起きている。今後とも、それは変わることはないであろう。

 本書によって生きる勇気を与えられることを願っている。

Sunday, November 13, 2022

シアトルの晩秋 心臓が止まったから霊が逃げ出すのではありません。逆です。The spirit does not escape because the heart stops. It is the opposite.




ー“恐れ”というのは、人間の本能的要素の一つです。それをなくせと言っても無理だと思うのです。これは自衛のために用意された自然の仕組みです。動物の世界は“恐れ”に満ちております。それがいけないとなると、ではなぜ、それが動物界の基本的要素となっているのかという疑問が出ますー


「なかなかいい質問だと思います。人間は二面性をもつ存在であり、動物時代の名残と、本来の資質である霊性の二つの要素を、地上生活の中で発揮しております。


 そして、より高く進化していく上で不可欠の“自由意志”を授かっております。それが内部の神性が発揮されていく必須の条件だからです。

このように人間は、その進化の道程において、持てる資質を利己的な目的に使用するか利他的な目的に使用するかの二者択一を、永遠に迫られることになります。これまでにたどってきた進化の道程において植えつけられた肉体的要素に負けてしまえば、生命の根源そのものである霊性の優位を否定していることになります。

恐怖心は大体において動物的先祖から引き継いだものです。そして、わたしが“動物的先祖”という場合は、物的身体が原初から今日に至るまでにたどってきた進化の全側面をさします。しかし、だからといって、やむを得ないこと、ということにはなりません。

たしかに自衛本能としての恐怖心もありますが、まったく無意味で筋の通らない、救いようのない恐怖心もあり、それが困難や危険を増幅し、視野を遮ってしまいます。生活の根底であるべき霊的実在に、まったく気づいていないからです」

ー動物の場合は、本性そのものが恐怖心を必要としているという意味でしょうかー

「人間は動物よりはるかに高度の意識を発揮していますから、それだけ精神的側面をコントロールできないといけません。が、動物は、人間に飼われているものは例外として、本能的に行動しています。人間には理性があります。

 そして、高級界からのインスピレーションを受け取り、叡智と知識を活用することによって、暗黒と無知の産物をなくしていく霊的資質をそなえております」

ー動物も、進化すると恐怖心を見せなくなります。人間を恐れるのは虐待行為に原因があるのだと思いますー

「わたしが今“人間に飼われているものは例外として”と申し上げたのは、そのことがあったからです。人間との接触によって人間的意識をいくらか摂取して個体性をもつようになり、恐怖心を捨てていきます。

そこに“愛の力”の働きが見られるのです。人間が愛を発現することによって、その愛が動物から恐怖心を追い出します。人間は、その自由意志によって動物に無用の恐怖心を吹き込むという罪を犯していることを忘れてはなりません。

野生動物でさえも、人間の愛によって恐怖心を捨てていくものなのです。そして、現実にライオンと小羊が仲良く寝そべるようになるのです」

ーあなたがおっしゃるように、もしも摂理が完璧で、数学的正確さをもって働き、あらゆるものを認知し、誰一人として不公平に扱われることがないようにバランスが取れているとしたら、それはカルマの法則と再生の事実を認めていることになるのでしょうかー

「イエス・ノーの答え方だけで言えば、イエスです」

ーある記事で、きわどい手術をするために医師がその患者の心臓を十五分間ストップさせたという話を読みました。私は、心臓が鼓動をやめたら、その瞬間に霊は身体を離れたはずだと思うのですが……ー

「霊が身体から離れはじめると心臓が鼓動を止めはじめるのです。ですが、その離脱の過程はふつう、かなりの時間を要します。自然死の場合の話です。その過程の途中で、一時的に鼓動が止まることがあります。

単なる生理反応が原因の場合もありますし、機能上の欠陥が原因の場合もあります。いずれにしても、心臓が止まったから霊が逃げ出すのではありません。

逆です。霊が引っ込むから心臓の機能が止まるのです」

ー建設的な目的にせよ、原子力を使うために核を分裂させなければなりませんが、それは自然界の調和の原理に違反し、人類自身にとっても危険なことではないでしょうかー

「これは非常に難しい問題です。なぜかといえば、それには現在の地上人類に理解できない要素がたくさん含まれているからです。

宇宙に調和の原理があり、それを人間が乱すことはできます。が、大自然の摂理の働きを止めたり変えたりすることはできません。わたしが言わんとしているのは、もしも原子核の分裂が不可能だったら、人間が核分裂を起こすことはできなかったということです。

このことに関連して間違いなく言えることは、この核分裂の発見は調和のとれた進化からズレているということです。つまり、まだその時機でなかった――人類の精神的ないし霊的成熟度が十分でなかったということです。

もし十分であれば、原子エネルギーの使用にまつわるさまざまな問題は起きないはずです。この、とてつもない発見のおかげで、人類は霊的に受け入れる用意のできていないものを手にしてしまい、それがもとで、大変な危険の可能性を抱えてしまいました。

が、各国の命運を握っている指導者たちが、霊的な叡智に目覚めれば解決できるでしょう。というよりは、それしか道はないでしょう」

ー私たちは子供の頃から“愛の神”“天にまします父なる神”を信じるよう教えられてきましたが、地上生活を終えた霊が、地上の人間に憑依することが有り得るものなのでしょうかー

「もちろん有り得ますとも」

ー愛の神がそれを許すものなのでしょうか

「大霊とは法則のことです。ある人間的な存在がいて、それはやってよろしい、それはいけません、といった指図をしている図を想像してはなりません。原因と結果の法則で動いている宇宙なのですから、地上と霊界との交信にもちゃんとした原理があります。

その原理は“善人にしか使用できません”という規約をもうけるわけにはいかないのです。同じチャンネルを善霊でも悪霊でも使用できるのです。

他界後に地縛霊となってしまうような地上生活を送った場合、それは利己主義や貪欲や強欲が悪いのであって、大霊が悪いのではありません。

また、麻薬やアルコールや貪欲がもとで、そういう地縛霊に憑依されるようなことになった場合、それをどうして大霊のせいにできましょう。自分の自由意志でやったことなのですから」

ーこれからは心霊治療がもっとも重大な分野となるように計画されているのでしょうかー

「迷うことなく“そうです”と申し上げます。これからは、病気に苦しむ人々の治療の分野に霊力を顕現させていく計画が用意されています。

病気や障害のために人生が侘(わび)しく、陰うつで、絶望的にさえ思えている人々に、霊的な治癒エネルギーが存在することを証明してあげるのです。

霊力――生命力そのものであり、数多くの治療家(チャンネル)を通して注入される無限のエネルギーは、病気や障害によって痛めつけられ苦しめられている身体に、新たなエネルギーを注ぎ込んで活気づけ、いかに疑り深い人間でも、地上の用語では説明できない力が存在することを認めざるを得なくしてしまいます。

皆さんが生きておられる今の時代にぜひ必要だからこそ、そう計画されているのです」

シルバーバーチ

Thursday, November 10, 2022

シアトルの晩秋 “存在”というと、人間的容姿をそなえたものしか想像できない人間に、When I say "existence", I can only imagine things with human appearance,

 



ー“単純”ということが神の属性であると信じているわたしたちからすれば、霊界の通信者はなぜもっと単純な表現をしてくれないのだろうかと、疑問に思うのです。高級界の神霊のことになると、なぜか直接的な表現を避けるところが見受けられます。たとえば“神”のことを私たちはGod(ゴッド)という用語を用いますが、あなた方はそれを使用せずにGreat White Spirit(グレイト ホワイト スピリット)などと、ややこしい言い方をなさいますー


「複雑で深遠な問題を扱うには、そう単純に片づけられないことがあるのです。たとえば“神”のことをあなた方はゴッドと呼び、わたしたちはグレイト・ホワイト・スピリットと呼びますが、どこがどう違うのか。

わたしにとっては、宇宙の背後に控える無限の力は、“ゴッド”のように、世界中の億単位の人間がそれぞれにまったく異なる概念で使用している用語を用いるよりは、グレイト・ホワイト・スピリット(真白き大霊、ないし無色の大霊、の意)の方が、より正確にその本性を伝えていると考えるのです。

単純ということは、それで済まされる場合には大切な要素となりますが、この問題に関するかぎり、わたしはゴッドという単純な用語を避けても非難されるいわれはないと信じます。

高級神霊のことですが、これもなかなかうまい表現が見当たらないのです。わたしが知るかぎり、地上には譬えられるものが存在しません。

あなたはご自分と似たような容姿の人間ばかりを見慣れていらっしゃいますが、わたしが光栄にも時おり連絡を取り合うことを許されている高級霊になると、その容姿をどう表現したところで、あなたには理解していただけないでしょう。

“存在”というと、人間的容姿をそなえたものしか想像できない人間に、全身これ光、ないしは炎のかたまり、といった存在をどう表現したらよいのでしょう。

伝えようにも、それをうまく表現する用語が見当たらないのです。

秘密にしておこうという魂胆があるわけではありません。現在の地上人類の進化の段階では、それとは途方もなく隔たりのある段階の存在は、とても理解できないからにすぎません」

シルバーバーチ

Wednesday, November 9, 2022

シアトルの晩秋 寛大さ   generous

 


寛大さ

 スピリティストたちよ、全ての人間がその兄弟のために持つべき、甘く、兄弟愛に満ちた感情でありながら、ほんの僅かな人たちだけがその使い方を知っている寛大さについて、私たちは今日あなたたちにお話します。

 寛大さというものは、他人の短所を見つけ出すことをせず、また、見つけたとしても、そのことを口に出したり、他人に言いふらしたりしません。反対にその短所を隠し、そのことが自分以外の誰にも知られることがないように努め、もし悪意を持った人たちがそのことを知ったとしても、彼らに対して、いつでも過ちを犯した者をかばうための弁解を用意しています。

 その弁解とは、称賛に値すべき本心からのものです。人の過ちについて、表向きには寛大に受け止めるふりをしながら裏で不誠実な証言をするような弁解ではありません。

 寛大さは相手を助けるため以外には、決して他人の悪い行いを気に掛けることはありません。しかし、相手を助ける場合でも、出来る限りその悪い行いを軽くしようとします。衝撃的な注意をしたり、口で相手をとがめたりはしません。忠告だけを、それもそれとないやり方で相手に示します。

 もし、相手を非難するのであれば、あなたの言葉はどのような意味を持つことになるでしょうか。あなたは非難しているのですから、同じ過ちを犯すことはなく、つまりあなたは非難した相手よりも価値のある人間であるという結論になります。

 おお、人類よ、いつになったらあなたたちは自分の兄弟の過ちを気に掛けることなく、自分自身の心、自分自身の考え、自分自身の行動を咎めることができるようになるのでしょうか。いつになれば自分自身だけに対する厳しい目を持つことが出来るのでしょうか。

 自分自身に対して厳しく、他人に対して寛大でありなさい。一人一人の心に秘められた部分の動きを見ることができ、全ての行動の動機を知っているがために、あなたが見つけたり、非難したり、批判したりする過ちを、何度も赦してくれる、最後の審判を下す者のことを覚えていてください。

 大きな声を上げ、「破門だ」と叫ぶあなたたちこそが、より重大な過ちを犯しているのかも知れないのだということを覚えておいてください。

 友よ、寛大であってください。寛大さは人々を引きつけ、穏やかにし、元気づけますが、厳しくすることは、元気を失わせ、人々を遠ざけ、苛立たせます。(守護霊ヨセフ ボルドー、1863年)
   
   
 その過ちがどんなものであったとしても、他人の過ちに対して寛大であってください。自分の行動以外を厳しく非難してはなりません。神はあなたたちに対して寛大であり、あなたたちも他人に対してそうであるべきなのです。

 強い者たちは耐えなければなりません。彼らが忍耐強くあるように励ましてあげてください。弱い者たちには、どんな小さな後悔さえも考慮してくれる神の善意を示してあげることによって、彼らを強くしてあげてください。

 白い羽を人間の過ちの上に差し延べてくれることによって、何が不純であるのかを見ることができない者たちの目からその過ちを隠してくれる、後悔の天使がいることをすべての人に教えてあげてください。

 あなたたちの父の無限の慈悲を理解し、あなたたちの思考や、特にあなたたちの行動において、「私たちを攻撃した人たちのことを赦しますので、私たちの過ちもお赦しください」ということを決して忘れてはなりません。

 この言葉のもつ崇高な価値を理解してください。言葉自体が素晴らしいだけでなく、その中に込められた約束も素晴らしいものだからです。


 主にあなたたちの赦しをお願いする時、あなたたちは何を求めていますか。あなたたちの罪を忘れてほしいと思うだけですか。忘れることはあなたたちに何も残してくれません。なぜなら、もし神があなたたちの過ちを忘れることで満足するのであったとしたら、神は罰することもしなければ償ってくれることもしないからです。

 行ってもいない善に対して報酬を受けることはできず、悪を行ってしまったのであれば、たとえそのことを忘れてもらうことが出来たとしても、尚更報酬を受けることはできません。

 あなたたちの過ちに対して赦しを求め、神の恵みによって再び同じ過ちを繰り返さないように願い、新しい道を進み出すのに必要な力を求めてください。その新しい道とは服従と愛の道であり、その中であなたは、後悔を改善に結びつけることができるようになるでしょう。

 あなたの兄弟を赦す時、単に過ちを忘却のベールで覆うだけで満足してはなりません。このベールはほとんどいつも、あなたたちの目には透明に映ります。あなたたちの赦しに愛を加え、あなたたちが天の父にして欲しいと望むようなことをあなたたちの兄弟にしてあげてください。汚点を残す怒りを愛によって清めてください。

 イエスがあなたたちに教えてくれた、疲れを知らない生きた慈善を、模範を示すことによって他人に伝えてください。イエスが地上で生活した間、ずっと行ったように、生きた慈善を肉体の目に見えるように伝え、またそれが霊の目にしか見えなくなってしまった後にも、休むことなく伝えてください。

 この神聖なる模範に則って、その足跡に沿って歩んでください。その模範は、あなたたちを戦いの後に、休息を取ることのできる避難所へと導いてくれます。イエスのように十字架を担ぎ、痛々しくとも勇気をもってカルバリオへと登っていってください。その頂上には栄光が待っているのです。 (ボルドーの司教ヨハネ、1862年)


 親愛なる友よ、自分たちに対して厳しく、他人の弱みに対して寛大であってください。ほんの少しの人たちしか気づいていませんが、これも聖なる慈善を実践する方法の一つなのです。

 あなたたちはみな、克服しなければならない悪癖や、改めなければならない短所、変えなければならない習慣を持っています。あなたたちすべてが重い負担を抱えていますが、進歩の山を登るためにはそれを軽くしなければなりません。それなのになぜ、他人のこととなると頭がはっきりし、自分自身のことになるとそれほどまで盲目になってしまうのですか。

 あなたたちは、自分たちを盲目にし、下落の方向へと歩ませている自分の目の中の杭にも気が付かず、いつになればあなたを傷つける兄弟の目の中の些細なものを気にすることをやめるのでしょうか。あなたたちの兄弟である霊たちのことを信じてください。

 自分を他の兄弟たちに比べ、その美徳や長所においてより優秀であると考える自尊心の強い人はみな、愚かで罪深いのであり、神の審判が下る時、神に罰せられることになります。

 慈善の真なる性格は、慎ましさと謙遜であり、他人の表面的な欠点を探すようなことなく、隣人に、その人の善いところ、徳の高いところを目立たせようとすることから成るのです。なぜなら、例え人間の心が堕落の深淵のようであったとしても、その心の隠れた奥底には、必ず霊の本質の輝く火花の様な善なる感情の種子が存在するからです。


 慰安をもたらす祝福された教義であるスピリティズムを知り、主が送られた霊たちの健全な教えを有効に利用する者は幸いです。こうした者たちにとって教えは明確であり、的を射た方法を教えてくれる次の言葉を、長い道のりの間いつも読むことが出来るのです。

 「慈善の実践、自分に対して行うように、隣人に対して慈善を行う」を簡潔に表すならば、すべての人に対して慈善を行い、あらゆるものの上に神に対する愛を抱いてください。

 なぜなら、神に対する愛はあらゆる義務を要約しているからです。慈善を行うことなしに神を愛することは不可能であり、神はそのことを全ての創造物のための法としているのです。(ヌウ“ェールの司教デュフェートル ボルドー)
  
         
 ー他人を叱ることは許されますか。ー
 
 他人の不完全性を指摘し、他人の悪を広めることは許されていますか  

 誰も完全ではないのですから、誰にも隣人を叱る権利はないのだということが出来るのではないでしょうか。

 もちろんそうではありません。なぜならあなたたちは、一人一人が全ての人の進歩のために働かなければならず、また、あなたたちが面倒を見る人のためには特に働かなければならないからです。

 しかし、そうであるからこそ、有益な意図によって慎重に人を叱らなければならないのであって、通常ありがちなように、相手を痛めつけることの喜びのためであってはなりません。相手を痛めつけるために叱るのであれば、その人の検閲は悪意でしかなくなります。

 有益な意図によって叱るのであれば、それは慈善によって要求された任務として、出来る限りの注意が払われなければなりません。さらに、他人に向けた批判は私たち自身にも向けられることになるので、自分も叱られるべき立場にないかどうかを見なければなりません。
  
ー その人に取って何の益ももたらさない他人の不完全性に気づくことは、そのことを人に広めなかったとしても咎められるべきことなのでしょうか。ー

 そこにある意図によります。確かに悪が存在するのであれば、その悪を見つけることは禁じられてはいません。全ての場所に善だけしか見ることがなかったとしたら不都合です。それは進歩を妨げることになります。

 人の悪に気づき、世間に不必要にその人の悪評を立てることによって、隣人に損害を与えるところに過ちが生じるのです。それに悪意が伴い、他人の欠点を見つけたことに満足しながら行うのであれば、なおさらとがめられるべきことです。

 しかし、悪の上をベールで覆い、それを公に知らせまいとし、その悪を研究し、他人の中に非難したことを自ら避けようと、個人的な利益に結び付けるためにのみそれを観察するのであれば、事はまったく逆になります。このような観察は、道徳を学ぼうとする者にとっては有益ではないでしょうか。実例を学ばなければ、どうやって人間の不完全性を表すことが出来るでしょうか。 (聖王ルイ パリ、1860年)


ー他人の悪を見つけることが役に立つことがありますか。

 この問題は非常にデリケートでありそれに答えるには、よく理解された慈善に訴える必要があります。もしある人の不完全性がその人にしか損害を与えないのであれば、その不完全性を他人に広めることに何の意味もありません。

 しかし、もしその不完全性が他人にも損害を与えるのであれば、一人よりも複数の利益を重視する必要があります。状況に応じて偽善と虚偽の仮面を剥ぐことも一つの任務です。

 なぜなら、多くの人が騙され、犠牲者となるよりも、一人だけが罠にはまった方がましであるからです。そのような場合には、利点と不都合をよく秤にかけて見極める必要があります。 (聖王ルイ パリ、1860年)

Tuesday, November 8, 2022

シアトルの晩秋 霊力とは? 神とは?           What is spiritual power? "What is God?"

 


 ───霊力とはどんなものでしょうか。

 「霊の力は目には見えません。人間界で用いられているいかなる計量器でも計れないものです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さもなく色もなく、容積もなく味もにおいもありません。

ですから常識的な地上の計量法でいけば霊力というのはこの世には存在しないことになります。つまり実在とは五感で捉えられないものと決めて掛っている唯物的自然科学者とっては、霊力は存在しないことになります。

 しかし、愛は目に見えず、耳にも聞こえず、色もなく味もなく寸法もないのに、立派に実感があります。それは深い愛の感動を体験したものが証明してくれます。確かに愛の力は強烈です。しかし、霊の力はそれよりも無限大に強烈です。

 あなた方が生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いをめぐらすのも、霊の力があればこそです。物を見、音を聞き、動き回り、考え、言葉をしゃべるのも、霊の力があればこそです。あなた方の行動のすべて、存在のすべては霊の力のお陰です。

物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって、存在と目的と指針と生活とを与えられているのです。

 物質界のどこを探しても、意識の秘密は見つかりません。科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質そのものの中には存在しないからです。物質は、それが、一時的に間借りしている宿に過ぎません。

 霊の力は、あなた方が〝神〟と呼んでいるもの、そのものなのです。もっとも、その神を正しく理解していただけないかもしれませんし、誤解してその意味を限定してしまっておられるかもしれません。ともかくその霊力が、かつては火の固まりであったものを今日ご覧になっておられるような生命あふれる緑の地球にしたのです。

 その霊力が土塊から身体をこしらえて、それに生命を吹き込んだのです。魂がまとう衣服です。地上のあらゆる生命を創造し、自然界のあらゆる動き、あらゆる変化を支配し、四季を調節し、一粒の種子、一本の植物、一輪の花、一本の樹木の成長にまで関与している力、要するに千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが、霊力なのです。

 それが雄大であるゆえんは、物質界に限られていないところにあります。すなわち無数の物的現象を通じて絶え間なく働いているだけでなく、見えざる世界の霊的活動のすべて、今のあなた方には到底その存在を知ることのできない、幾重にもつながった高い界層、そしてそこで展開する、これまたあなた方の想像を絶した光輝あふれる生命現象に至るまで、その霊力が支配しているのです。

 しかし、いかに雄大であっても、あるいは、いかにその活動が驚異的であるといっても、それにも制約があります。すなわち、それが顕現するには、それが適した器、道具、霊体、通路、霊媒───どうお呼びになっても構いません───そうしたものが無ければならないということです。

壮大な霊の流れも、そうしたものによる制約を受けるのです。地上にどの程度のものが流れ込むのかは、人間側が決定づけるということになります。

 私がつねづね、心配の念をはらいなさい、自信を持ちなさい、堅忍不抜の精神で生きなさい。神は絶対にお見捨てにならないから、と申し上げてきたのは、そうした雰囲気、そうした条件のもとでこそ霊力が働きやすいからです。

地上的な力はいつかは衰え、朽ち果てます。人間が築く王国は儚いものです。今日は高い地位にいても、明日は転落するかもしれません。

 しかし霊の王国は決して滅びることはありません。霊の尊厳は不変です。神の力は決して衰えません。ただし、その働きの程度を決定づけるのはあなた方であり、現にいつも決定づけております。

 スピリチュアリズムを少しばかりかじった人は、よく、なぜ霊界の方からこうしてくれないのか、ああしてくれないのかと文句を言うようですが、実際には、そうしたことを言う人ほど、霊界からそうしてあげるための条件を整えてくれないものです。

 この苦悩に満ちた世界、暗闇と不安におおわれた世界にあって、どうか皆さんには灯台の光となっていただきたい。あなた方の自信にあふれた生きざまを見て人々が近づき、苦悩の最中における憩いの場、聖域、波静かな港を発見することが出来るようにしてあげていただきたい。

皆さんはそういう人たちの心の嵐を静め、魂の静寂を取り戻してあげる霊力をお持ちなのです」


───霊はいつ肉体に宿るのでしょうか。

 「霊としてのあなたは無始無終の存在です。なぜなら、霊は生命を構成する要素そのものであり、生命は霊を構成する要素そのものだからです。あなたという存在は常にありました。

生命力そのものである宇宙の大霊の一部である以上、あなたには始まりというものはありません。が、個体として、つまり他と区別された意識ある存在としては、その無始無終の生命の流れの中のどこかで始まりをもつことになります。

 受胎作用とは精子と卵子が結合して、生命力の一分子が自我を表現するための媒体を提供することです。その媒体が提供されるまで、生命力は顕現されません。

それを地上の両親が提供してくれるわけです。精子と卵子とが結合して新たな結合体をこしらえると、小さな霊の分子が自然の法則にしたがってその結合体と融合し、かくして物質の世界での顕現を開始します。

 私の考えでは、その時点が意識の始まりです。その瞬間から意識を持った個体としての生活が始まるのです。それ以降は永遠に、個体を具えた存在を維持します」


───何の罪もないのに無邪気な赤ん坊が遺伝性疾患や性病その他の病気を背負ってこの世に生まれてきます。これは公平とは思えません。子供には何の罪も無いのですから・・・この問題をどうお考えでしょうか。

 「不公平を口にされるのは、問題を肉体の問題としてだけ、つまり物質界のみの問題としてお考えになり、無限の生命の観点からお考えになっていないからです。霊そのものは性病なんかには罹りません。霊が傷ついたり奇形になったりすることはありません。

両親の遺伝的特質や後天的性格を受け継ぐことはありません。それは霊が自我を表現する媒体であるところの肉体に影響を及ぼすことはあっても霊そのものを変えるようなことにはなりません。

 確かに、地上的観点から、つまり物的観点からのみ人生を眺めれば、病弱な身体を持って生まれた人は健全な身体を持って生まれた人よりも、物的には不幸の要素が多いと言えるでしょうが、その意見は霊については当てはまりません。

身体が病弱だから霊も気の毒で、身体が頑健だから霊が豊かであるという方程式は成り立ちません。実際にはむしろ宿命的な進化のための備えとして、多くの痛みや苦しみを味わうことによって霊が豊かになるという考え方が正しいのです」


───では、この世をよりよくしようとする衝動はどこから出てくるのでしょうか。

 「帰するところ、神がその無限の創造事業への参加者としての人間に与えた自由意思から出ています」


───物的な苦痛によって霊が進化するのであれば、なぜその苦痛を無くする必要があるのでしょうか。

 「私はそのような説き方はしておりません。私がそのことを引き合いに出したのは、人生には寸分の狂いもなしに埋め合わせの原理が働いていることを指摘するためでした。

 ここに二人の人間がいて、一人は五体満足で、もう一人はどこかに障害があるとした場合、後者は死後も永遠にその障害を抱えていくわけではないと言っているのです。要するに肉体の健康状態がそのまま霊の状態を現すのではないことをお教えしようとしているのです。

 霊には霊としてのたどるべき進化の道程があります。その霊がいかなる身体に宿っても、必ず埋め合わせと償いの法則がついてまわります」


───でも、やはり身体は何の障害も無い状態で生まれるのが望ましいのではないでしょうか。

 「もちろんです。同じように地上に貧民(スラム)街がない方がいいに決まっています。しかし、その貧民(スラム)街をこしらえるのも地上天国をこしらえるのも、結局は同じ自由意思の問題に帰着します。人間に自由意思がある以上、それを正しく使うこともあれば誤って使うこともあるのは当然です」


───でも不幸が霊のためになると知ったら、地上をより美しくしようとする意欲をそがれる人もいるのではないでしょうか。

 「地上の出来事で埋め合わせのないものは何一つありません。もしも神の働きが阻害されて、当然報われるべき行為が報われずに終わることがあるとすれば、これは神の公正を嘲笑う、深刻な事態となります。

私が指摘しているのは、埋め合わせの原理が厳然として存在すること、そして、進化の法則に逆らった行為を犯しながら神の摂理とは別の結果が出るようにいくら望んでも、神の計画は少しもごまかされないということです。

 しかし同時に、次の事実も知っておく必要があります。すなわち、たとえ現代の地上の不幸の原因が取り除かれても、人間はまたみずからの自由意思によって、みずからの複雑な文明の中からさらに新たな不幸を生じさせる原因を生み出していくということです。

 しょせん、人間は完全へ向けての無限の階段の連続です。一段又一段と、みずからの力で向上していかねばなりません。しかも、いつかは最後の一段にたどり着くと思ってはなりません」
(ここで質問と答えに少しズレが見られるが、このあともう一度同じ質問がでる──訳者)


───肉体の病気は霊的な進化を促進するかも知れませんが、その逆もあり得る、つまり性格を損ねる事もあるでしょう?

「損ねる事もあるし損ねないこともあります。どちらのケースもあります。病気になるのは摂理に反した行為をするからです」


───では病気または病気に相当するものは絶対に不可欠のものとおっしゃるわけですね?

 「いえ、私は病気に相当するものとは言っておりません。何らかの〝苦〟に相当するものです。人間に自由意思がある以上、選択の仕方によって楽しい体験となったり苦しい体験となったりするのは当然でしょう」


───それは分かります。苦しみを味わわないと幸福も味わえないからです。ですが、どうも私には、もしもあなたがおっしゃるように、こういうことがあれば必ずこういう埋め合わせがあるというのが事実であれば、世の中を良くしようとして苦労する必要はなさそうに思えるのですが・・・・・・

 「人間に選択の自由があるのに、ほかにどうあってほしいというのでしょう」


───この度の戦争のことはさて措いて、私は今日の世界は三百年前よりはずっと幸せな世の中になっていると思うのです。世界中のほとんどの国が、戦争はあっても、やはり幸せな世の中になっております。

 「おっしゃる通りですが、それが私が言っていることと、どこがどう矛盾するのでしょう?」



───われわれ人間は(取り立てて人のためと説かれなくても) 常に世の中を良くしてきているということです。

 「しかしそれは、世の中を良くしたいと言う願望に燃えた人がいたからこそですよ。魂に宿された神性が自然な発露を求めたのです。神の一部だからこそです。

かりに今日要求したことが明日、法の改正によって叶えられても、明日はまた不満が出ます。進化を求めてじっとしていられない魂が不満を覚えるのです。それは自然の成り行きです。魂が無意識のうちに、より完全なものを求めようとするからです。

 今日の地上の不幸は、その大半が自由意思による選択を誤ったことに起因しています。それには必ず照合がなされ、さらに再照合がなされます。そうすることで進歩したり退歩したりします。

そうした進歩と退歩の繰り返しの中にも、少しずつ向上進化が為されております。先んずる者もいれば後れをとる者もいます。先を行っている者が遅れている者の手を取って引きあげてやり、遅れている者が先を進み過ぎている者にとって、適当な抑制措置となったりしております。

そうやって絶え間なく完成へ向けての努力が為されているわけです。が、その間の人生のあらゆる悲劇や不幸には、必ず埋め合わせの原理が働いていることを忘れてはなりません」


───改めるべきものは山ほどありますね。

 「あなた方は自由主義を誇りにしておられますが、現実には少しも自由とはいえない人々が無数におります。有色人種をごらんなさい。世界中のどの国よりも寛容心を大切にしているあなた方の国においてですら、劣等民族としての扱いを受けております。

私がいつも、これで良いと思ってはいけない、と申し上げている理由はそこにあります。世の中はいくらでも明るく、いくらでも清らかに、そしていくらでも幸せになるものなのです」


───葛藤や苦悩が霊的進化にとって不可欠なものならば、それは霊界においても必要なのではないでしょうか。なのに、あなたは、そちらには悪と邪の要素が無いようにおっしゃっていますが・・・・・・

 「ご質問者は私の申し上げたことを正しく理解していらっしゃらないようです。私は邪と悪には二種類ある───この〝悪〟という言葉は嫌いなのですが───すなわち、既得権に安住している利己主義者が生み出しているものと、人類の未熟さからうまれるものとがあると申し上げたつもりです。

 私たちの世界には邪悪なものは存在しません。もちろん、ずっと低い界層へ行けば霊性が貧弱で環境の美を増すようなものを何も持ち合わせない者の住む世界があります。が、そうした侘しい世界は例外として、こちらの世界には邪悪なものは存在しません。

邪悪なものを生み出す原因となるものが取り除かれているからです。そして、各自が霊的発達と成長と進化にとって、適切かつ必要なことに心行くまで従事しております。

 葛藤や苦悩はいつになっても絶えることはありません。もっとも、その意味が問題ですが・・・・・・地上では人間を支配しようとする二つの力の間で、絶え間ない葛藤があります。

一つは動物的先祖ともいうべきもの、つまり身体的進化向上に属する獣的性質、そしてもう一つは神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を賦与してくれた神の息吹です。

その両者のどちらが優位を占め、そしてその優位をどこまで維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で、自由意思によって選択することです。

 こちらの世界へ来からでも葛藤はあります。それは、低い霊性の欠点を克服し、高い霊性を発揮しようとする、絶え間ない努力という意味です。

完全へ向けての努力、光明へ向けての努力ということです。その奮闘の中で不純なものが捨て去られ、強化と精錬と試練をへて、ようやく霊の純金が姿を現します。

こちらの世界にも悩みはあります。しかしそれは、魂が自分の進歩に不満を覚えたことの表れであって、ほんの一時のことです。完成へ向けて長い行進の中で短い調整期間のようなものです」


───でも、葛藤と進歩、そして努力の必要性はつねにあるわけでしょう?

 「おっしゃる通りです。だからこそ私は、先ほどの言葉の解釈が問題だと申し上げたのです。自然界の常として、より高いものがより低いものを無くそうとします。それは当然のことで、そうでなかったら進化というものが真実でなくなります。 

 人間は低い段階から高い段階へ向けて成長しようとする、進化性を持った存在です。進化するためには、光明へ向けての絶え間ない葛藤がなければなりません。その場合の葛藤は、成長のための必須の過程の一つであるわけです。

 さきほど私が言いたかったのは、地上には不必要な葛藤、無益な努力が多過ぎるということです。それは自由意思の使用を誤って、薄汚い知恵、病気、貧民(スラム)街といった、あってはならないものを生み出し、それが霊界からの働きかけをますます困難にしているのです」


───〝神(ゴッド)〟は完全無欠ですか?

 「あなたがおっしゃる神が何を意味するかが問題です。私にとって神とは、永遠不変にして全知全能の、摂理として顕現している宇宙の大霊です。その摂理に、私はいかなる不完全さも不備も見つけたことがありません。

原因と結果の連鎖関係が完璧です。この複雑を極めた宇宙の全生命活動のあらゆる側面において、完璧な配慮が行きわったっております。

 例えば、強大から極微までの無数の形と色と組織を持った生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けていただけば、神の法則の全構図と全組織とがいかに包括的で完全であるかを認識なさるはずです。

私にとっては神とは法則であり、法則がすなわち神です。ただ、あなた方人間は不完全な物質の世界に生活しておられるということです。

 物質の世界に生きておられる皆さんは、今のところその物質すら、たった五つの物的感覚でしか理解できない限られた条件下で、限りある精神を通して自我を表現しておられるわけです。物的身体に宿っているかぎりは、その五感が、周囲の出来ごとを認識する範囲を決定づけます。

それゆえに、あなた方は完全無欠というものを理解すること自体が、そもそも不可能なのです。五感に束縛されている限りは、神の存在、言いかえれば、神の摂理の働きを完全に理解することは不可能ということになります。

 その限界ゆえに、摂理の働きが不完全であるかに思えることがあるかもしれませんが、知識と理解が増し、より深い叡智をもって同じ問題を眺めればそれまでの捉え方が間違っていたことに気づきはじめます。

 物質の世界は進化の途上にあります。その過程の一環として、時には静かな、時には波動を作った、さまざまな発展的現象があります。それは地球を形成していく為の絶え間ない自然力の作用と反作用の現れです。

常に照合と再照合が行われるのです。存在していくための手段として、その二つの作用は欠かせない要素なのです。実に複雑なのです」


───神は完全だとおっしゃいましたが、われわれ人間が不完全であれば神も不完全ということになりませんか。

 「そうではありません。あなた方は完全性を備えた種子を宿しているということです。その完全性を発揮するための完全な表現器官をそなえるまでは、完全にはなり得ないということです。現在のところ、その表現器官がきわめて不完全です。

進化して完全な表現器官、つまり完全な霊体をそなえるに至れば、完全性を発揮できるようになりますが、それには無限の時を要します」


───ということは、神のすべての部分が完全の段階に至るのにも無限の時を要するということでしょうか。

 「違います。神は常に完全です。ただ、現在物質の世界に人間という形態で顕現されている部分の表現が不完全だということです。それが完全な表現を求めて努力しているわけです」


───それを譬えて言えば、ある正しい概念があって、それが人によって間違って理解され使用されているようなものでしょうか。

 「その通りです。しかも、それも、一歩ずつではあっても、絶えず理想へ近づいていかねばなりません。完全は存在します。それを私は、あなた方は本当の自分のほんの一かけらしか表現していないと申し上げているのです。

もしも現在のその身体を表現されている一かけらだけであなたを判断したら、極めて不当な結論しか出てこないでしょう。が、それは本当のあなたの一部に過ぎません。

もっと大きなあなた、もっと大きな意識が存在し、それが今もあなたとつながっているのです。ただ、それは、それに相応しい表現器官が与えられないと発揮されないということです」


───お聞きしていると、神が一個の存在でなくなっていく様に思います。独立した存在として神はいるのでしょうか。

 「真っ白な、豪華な玉座に腰掛けた、人間の姿をした神はいません。神とは一個の身体を具えた存在ではありません。摂理・法則です」


───それに心が具わっているわけでしょうか。

 「心というものは、あなた方の身体を通してのみ働いているのではありません。法則を通して働いているのです。心を脳味噌と切り離して考えないといけません。

意識というのは、そのお粗末な脳細胞だけを焦点として働いているのではありません。脳とは完全に独立した形で存在します。その小さな脳という器官との関連で心の働きを考えるのは止めないといけません。

 心はそれ自体で存在出来ます。しかしそれを自覚するには何らかの表現器官が必要です。そのために、人間には幾つもの、霊的身体が具わっているわけです。

身体を具えていない状態を想像することは可能であり、その状態でもあなたは厳として存在しますが、それではあなたと言う個性を表現する手段がないことになります。

 神という存在を人間に説明するのは、実に困難です。人間には、独立した形態を具えた存在としてしか想像できないからです。言語や記号を超越したものを地上の言語で説明しようとするのが、そもそも無理な話です。創造の本質に関わることなのです。


 神と言う存在をどこかのある一点に焦点を持つ力として考えてはいけません。そんなものではないのです。神とは完全な心、始めも終りもなく、永遠に働き続ける完璧な摂理です。

真っ暗だったところへ、ある日突然、光が差し込んだというものではありません。生命は円運動です。始まりも終りもありません」


───宇宙のすみずみまで神が存在するのと同じように、我々一人ひとりにも神が宿っているとおっしゃるわけでしょうか。

 「私のいう神は、全創造物に顕現されている霊の総体から離れて存在することは出来ません。残念ながら西洋世界の人は、いまなお人類の創造をエデンの園(アダムとイブの物語)と似たような概念で想像します。実際はそれとはまったく異なるのです。

宇宙の進化は無窮の過去から無窮の未来へ向けて延々と続いております。かつて何もなかったところへ、突如として宇宙が出現したのではありません。宇宙は常にどこかに存在します。生命は何らかの形態で常に顕現してきました。そしてこれからも何らかの形で永遠に存在し続けます」


 スピリチュアリズムによる新しい啓示の重大性について、こう述べる。

 「闇に閉ざされたこの地上界にあって、意義ある貢献する機会を与えてくれる霊的知識を手にされた皆さんは、何と幸せな方たちでしょう。幾十世紀にもわたって偉大なる頭脳を悩ませてきた多くの謎を解くカギを手にされた皆さんは、何と幸せでしょう。

歩むべき道を照らしだし、永遠の生命の機構の中におけるご自分の存在すべき位置を理解させてくれる叡智を授かった皆さんは、実にお幸せな方たちです。そうした霊的知識を誇りに思わないといけません。

誤った教えの下敷きとなってしまっている人々を救いだし、正しい知識と理解への道を指し示してあげることが出来るからです。

 しかしそれにも増して大きいのは、そうした知識を手にした人が背負うことになる責任です。本当の意味で大霊の使徒となるからです。最高神の道具となったということです。忠誠を捧げる聖なる大義を汚すようなことは絶対にしないという責任が、その人の双肩に掛ってきます。

 地上世界は霊的知識を必要としております。それは生活の全側面を照らしだし、理解に苦しむ問題を簡単に解いてくれます。人類の進歩のブレーキとなってきた誤った教えの粗悪さと不当性によって、これ以上苦しめられることは無くなるでしょう。

今まさに地上世界は、歴史的に見ても重大な時期を迎えているのです。皆さんの目の前で新しい歴史が刻まれつつあるのです。魂の最終のゴールである〝自由〟の獲得への道を、あなた方が整備してあげているのです。

 皆さんには霊的貢献の分野があります。大霊の子が人生の嵐の中を生き抜く上での正しい基盤を手にすることが出来るように、この霊的真理を普及させないといけません。

その普及活動を阻止しようとする勢力は次第に衰えつつあります。かつては脅威に思えた反抗が、今やおぼろな影となっております。かつて先駆者たちが直面させられた苦難は、その先駆者たち自身のお陰で大幅に取り除かれました。

しかし、まだまだ為すべきことが多く残されております。その大きな仕事の一端が、あなた方の双肩に掛っているのです。

 堂々と胸を張り、魂の自由と進歩と啓発に貢献していることに、誇りを持って下さい。大霊の子等が暗闇でなく真理の光の中で生きるための魂の自由と解放という仕事において、皆さんは、ご自分で考えておられる以上に、大きな貢献をしておられます。

 本当の自我に目覚める霊が増えつつあります。ここぞという重大な時に何の役にも立たなかった古い教えに背を向ける男女が増えつつあります。今や古い秩序は完全に砕かれました。

古いものはやはり古いという認識のもとに、古い宗教的体制への不信感が加速されております。新しい教義、新しい人生指導原理を求めているのです。


 人々は光明を求めています。のちの世代に光明を約束してくれるものに希望を託しております。過去が残してくれたものに不審を抱き、新しい霊的真理を渇望しているのです。それを提供するのが、あなた方の役目です。

これから始まる再構築の大事業に備えるための知識と力とを身につけさせるために、陰ながら導いてくれている背後霊の存在を認識させてあげるのです。

 肩書(ラベル)と言うものが次第に魅力を失いつつあります、地上人類は今まであまりに長い間、タイトルや肩書を崇めてきました。それが今、そうしたものに幻滅を感じ始めております。新しいタイプの魂、真実を問い質す魂、真理を求める魂、権威を自称するものを容易に信用しない魂、遠い昔の聖なる書はあくまでもその時代のもので、しかもただ霊的啓示であると信じられているに過ぎないから信じない、と主張する魂が生まれつつあります」


次に、霊的交流を求める上での心掛けについてのアドバイスを求められて───

 「精神を受け身の状態にし、冷静でいてしかも受容力に富んだ態度を保つ修業が必要です。霊力は、人間の方から命令的に求められる性質のものではありません。秩序正しい段階を踏んで用意を整えて下さらないと、授けることは出来ないのです。

ある一定の必須の条件というものがあるからです。通信回路が正しく開かれていないと、インスピレイションは流れませんし、たとえ流れても、歪められてしまいます。

 何よりも大切なのは、いかなる困難、いかなる騒ぎの中にあっても、平静さを失わないようになることです。私たちの教えを知識としていくら沢山詰め込んで下さっても、心の平静さを保つ修業ができないかぎり、その価値は十分に発揮されないことになります。

 あなたも大霊の一部なのです。その無限の力の宝庫から必要なものを引き出すことができるのです。いかなる人生の嵐、喧騒、混乱の中にあっても、平然とそれを達観し、永遠にして無限なる霊的存在としての〝あなた自身〟は絶対に惑わされないとの、不敵な信念に燃えないといけません。

困難には正面から取り組んで、それを克服しないといけません。その葛藤の中においてこそ性格が形成され、霊性が磨かれ、真実の自我を発見していくことになるのです。

 霊的真理を手にした私たちには、為すべきことが山ほどあります。今行われている(第二次)世界大戦、大量の肉体の殺し合い、狂気の破壊行為、世界全体を被う悲しみの波動は、これから先、大変な困難を生み出して行くことでしょう。

しかし、戦争は永遠に続くものではありません。いつかは終わります。その時には私達が再びその使命を果たす役目が廻ってきます」


 そして最後に、地球浄化の大事業者に携わっている世界中の指導霊を代表する形で、こう激励した。

 「この事業が成功するかしないかは、皆さんのような地上の道具の忍耐力と共鳴度と理解力に掛っております。私も、これまでずいぶん永い間、みなさんを陰から導いてまいりました。せっかく順調に奉仕の道を歩んでいるのに、ふと迷いが生じて不純な動機を宿した時、私が、皆さんの良心の耳元で囁いて、無事正しい道に引き戻したことが何度あったか知れません。

 長年にわたるそうした苦労の末に、こうして同志の方を一堂に集めることに成功しました。その目的は、地上の人間が大霊の意図したとおりに霊的属性を発揮するにはどういう生き方をすべきかを教えてあげることです。皆さん方から背を向けない限り、私たちはこれからも忍耐強くこの仕事を続けてまいります。

 大霊から授かっている才覚を精一杯発揮して、一人でも多くの人に霊的真理を知らしめるのが、私たちの使命なのです。最初はごく少数の集まりでした。が、その滴のような小さな集まりが小川となり、やがて大河となって海へ注ぐことになるのです。

 スピリチュアリズムと呼ばれている新しい啓示が世界中に知れわたるのに、(十九世紀半ば以来)ほぼ一世紀を要しました。もう一世紀後には、その数は信じられないほど多くなっていることでしょう。皆さんはその先駆者(パイオニア)なのです」

シルバーバーチ

Sunday, November 6, 2022

シアトルの晩秋 霊界の審議会 council of the spirit world

 



霊界の審議会

 今からほぼ二千年前、一人の男が十字架上で死に、その男の影響力がその後の世界の歴史と多くの人々の心を動かし、それは今なお続いている。が、そのイエス自身は、その後どこで何をしているのであろうか。

 ある日の交霊会でシルバーバーチは、イエスは今すっかり教義とドグマと権力という雑草におおわれてしまった霊的真理の本来の姿を今一度明らかにするための、霊界からの地球的規模の働きかけの最高責任者であると述べた。

 「ほぼ二千年前にイエスは磔刑にされました。それはただ、当時の司祭たちがイエスを憎んだからにすぎません。イエスを通して、霊力のほとばしりを見せつけられたからでした。

まさに神の子に相応しい人物だったからにほかなりません。このままでは自分たちの立場が危ないと思ったのです。

 私たちが今、それと全く同じ反抗に遭っております。宗教界がこぞって〝真理〟を磔刑にしようとしております。しかし、それは不可能なことです。真理は真理であるがゆえに、あらゆる反抗、あらゆる敵対行為の中にあっても、厳然と存在し続けます。

キリスト教界の外部では次々と霊力が顕現しているのにもかかわらず、空虚で侘しい限りの巨大な建造物の中には、その陰気な暗闇を照らす霊力の光は一条も見られません」


───そんなキリスト教は、むしろ死滅してしまった方が増しだとおっしゃるのでしょうか。

 「私は、レンガとモルタル、祭壇と尖塔でできた教会には何の興味もありません。何の魅力も感じません。建造物にはまるで関心がないのです。

私が関心を向けるのは〝魂〟です。それで私は、神とその子の間に横たわる障壁を取り除くことに奮闘しているのですが、不幸にして今日では、教会そのものが障壁となっているのです。

 これほど大きな罪悪があるでしょうか。宇宙の大霊である神は、一個の教会に極限されるものではありません。一個の建造物の中に閉じ込められるものではないのです。

神の力は、人間各自がその霊性を発揮する行為の中に、すなわち自我を滅却した奉仕的行為、困窮している無力な同胞の為に一身を捧げんとする献身的行為の中に顕現されるのです。そこに宇宙の大霊の働きがあるのです。

 確かにキリスト教にも奇特な行いをしている真摯な人材が、そこここにいます。が、私が非難しているのは、その組織です。それが障害となっており、是非とも取り除かねばならないからです。

 真の宗教には儀式も際礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も、豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役たてることです。同胞のために自分を役たてることによって神に奉仕することです。


 私はそのことを、何度申し上げてきたことでしょう。然るに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨念と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。人類の知識と発明と科学の発見の前進に抵抗してきました。

新しい波に飲み込まれるのを恐れて、危篤の権力の確保に汲々としてきました。しかし、新しい霊的真理はすでに地上に根付いております。最早その流れをせき止めることはできません」

  
───イエスの意気込みは大変なものがあろうと察せられます。

 「誤解され、崇められ、今や神の坐に祭り上げられてしまったイエス、そのイエスは今どこにおられると思いますか。カンタベリ大聖堂ではありません。セントポール寺院でもありません。ウェストミンスター寺院でもありません。

実はそうした建造物がイエスを追い出してしまったのです。イエスを近づき難い存在として、人類の手の届かぬところにおいてしまったのです。

 今なおイエスは、人類のために働いておられます。それだけのことです。それを人間が、神学や儀式によって難しく複雑にしてしまったのです。しかも、こうして同じ真理を説く私たちのことを、天使を装った悪魔の勢力であり、サタンの声であり、魔王のそそのかしであると決めつけております。

 しかし、キリスト教の時代はもう過ぎ去りました。人類を完全に失望させました。人生に疲れ、絶望の淵にいる地上世界に役立つものは、何一つ持ち合わせていません」


 シルバーバーチによると、イエスは、イースターとクリスマスとほぼ同じ時期に霊界で開かれる指導霊ばかりの会議を主宰しているという。それにはシルバーバーチも出席するために、交霊会も二、三週間にわたって休暇となる。

時おり、その前後の交霊会で、その会議の様子を説明しくれることがある。次に紹介するのは、休暇に入る前の最後の交霊会での霊言である。

 「この機会は私にとって何よりの楽しみであり、心待ちにしているものです。その時の私は、わずかな期間ですが本来の自分に立ち帰り、本来の霊的遺産の味を噛みしめ、霊界の古き知己と交わり、永年の向上と進化の末に獲得した霊的洞察力によって実在を認識することのできる界層で、生命の実感を味わいます。

 自分だけ味わって、あなた方に味わわせてあげないというのではありません。味わわせてあげたくても、物質界に生きておられるあなた方、感覚が五つに制限され、肉体という牢獄に閉じ込められて、そこから解放された時の無上のよろこびをご存じないあなた方、

たった五本の鉄格子の間から人生をのぞいているあなた方には、本当の生命の何たるかを理解することはできないのです。

霊が肉体から解放されて本来の自分に返った時、より大きな自分、より深い自我意識に宿る神の恩寵をどれほど味わうものであるか、それはあなた方には想像できません。

 これより私はその本来の自分に帰り、幾世紀にもわたる知己と交わり、私が永い間その存在を知りながら地上人類へ奉仕のためによろこんで犠牲にしてきた〝生命の実感〟を味わいます。これまでに大切に仕舞ってきたものがこの機会に味わえることを、私がうれしくないと言ったらウソになりましょう。

 お分かりと思いますが、この機会は私にとって、数あるフェステバル(うれしい催し)の中でも最大のものであり、あらゆる民族、あらゆる国家、あらゆる分野の者が大河をなして集結し、一堂に会し、それまでの仕事の進捗のようすを報告し合います。

その雄大にして崇高な雰囲気は、とても地上の言語では表現できません。人間がインスピレーションに触れて味わう最大級の感謝も、そのフェステバルで味わう私たちの実感に比べれば、まるで無意味な、ささいな出来事でしかありません。

 その中でも最大の感激は、再びあのナザレのイエスにお会いできることです。キリスト教の説くイエス・キリストではありません。偽り伝えられ、不当に崇められ、そして手の届かぬ神の座に祭り上げられたキリストではありません。

人類のためのみ思う、偉大な人間としてのイエスであり、その父、そして我々の父でもある大霊のために献身する者すべてに、その偉大さを分かち合うことを願っておられるイエスです」


 休暇に入る前の交霊会では、シルバーバーチがサークルのメンバーに、それまでの成果を語って協力に感謝するのが常である。

 「あなた方と私たち霊団との愛の親密度が年と共に深まるにつれて、私は、ぞれがほかならぬ大霊の愛のたまものであると感謝していることを知っていただきたいと思います。

つまり大霊のお許しがあったればこそ、私はこうして地上の方々のために献身できるのであり、週にたった一度あなた方とお会いし、それも私の姿をお見せすることなく、ただこうして語る声としての存在を認識していただいているにすぎないにもかかわらず、

私を信じ、人生のすべてを委ねるまでに私を敬愛してくださる方々の愛を一身に受けることが出来るのも、大霊のお力があればこそだからです。

 そのあなた方からの愛と信頼を私はこの上なく誇りに思います。あなた方の心の中に湧き出る私への熱烈な情愛───私にはそれがひしひしと感じ取れます───を傷つけるようなことだけは絶対に口にすまい、絶対にするまい、といつも誓っております。

 私たちのそうした努力が大きな実りを生んでいることが私にはうれしいのです。私たちのささやかな仕事によって多くの同胞が真理の光を見出していることを知って、私はうれしいのです。真理が前進していること、そしてその先頭に立っているのが、ほかならぬ私たちであることがうれしいのです。

 絶え間なく仕掛けてきた大きな闘いにおいて、あなた方が堪忍不抜の心を失わず、挫折することがなかったことを、うれしくおもいます。

役割を忠実に果たされ、あなた方に託された大きな信頼を裏切ることがなかったことを、うれしく思います。私の使命があなた方の努力の中に反映して成就されていくのを、謙虚な眼で確かめているからこそ、私はあなた方のその献身をうれしく思うのです」


 このあと、いつもの慣例にしたがって、メンバーの一人ひとりに個人的なメッセージを送り、そのあとこう述べて別れを告げた。

 「さて、分かれを告げる重苦しい気持ちの中にも、再びお会いできる日を心待ちにしつつ、私は皆さんのもとを去ります。これより私は、気分一新のために霊的エネルギーの泉へと赴きます。

高遠の世界からのインスピレーションを求めにおもむきます。そこで生命力を充満させてから、再び、いっそうの献身と、神の無限の恩寵のいっそうの顕現のために、この地上へ戻ってまいります。

 あなた方の情愛、今ひしひしと感ずる私への餞別(ハナムケ)の気持ちを抱いて、私はこれより旅立ちます。そうして再び戻ってくるその日を楽しみにいたしております。どうか、常に希望と勇気を失わないでいただきたい。冬の雪は絶望をもたらしますが、再び春が巡ってくれば、大自然は装いを新たにしてほほえみみかけてくれます。

希望に夢をふくらませ、勇気を持って下さい。いかに暗い夜にも、必ず登りゆく太陽の到来を告げる夜明けが訪れるのです。

 では、これにてお別れします。神は常にあなた方を祝福し、その無限の愛をふんだんにもたらしてくださっております。神の愛があなた方すべての人の霊に行きわたり、日々の生活の中に誇らしく輝いております。

 これより地上の暗闇を後にして、高き世界の光明を迎えに参ります。そしてお別れに際しての私の言葉は、再び訪れる時の挨拶の言葉と同じです───大霊の祝福の多からんことを」

 こうして地上を去り、霊界での大集会に列席したあと、再び地上へ戻って来たシルバーバーチはこう述べた。


 「その会合において私は、かつての私の栄光の幾つかを再び味わってまいりました。地上世界の改善と進歩のために奮闘している同志たちによる会議に、私も参加を許されました。これまでの成果が細かく検討され、どこまで成功し、どの点において失敗しているかが明らかにされました。

そこで新たな計画が立て直され、これから先の仕事───地上人類の進化の現段階において必要な真理を普及させる上で、ぜひとも為さねばならない仕事のプログラムが組まれました。

 地上世界のために献身している大勢の人々───死によって博愛心を失うことのなかった人々ともお会いしました。そして、ちょっぴり私ごとを言わせていただけば───こんなことは滅多にないのですが───過去数カ月間において私が為し遂げたことに対して、お褒めの言葉を頂戴しました。

 もちろん私はお褒めにあずかる資格はないと思っております。私は単なる代弁者にすぎないからです。私を派遣した高級霊団のメッセージを代弁したにすぎず、それをあなた方が広めて下さったのです。

 ともあれ、こうして私たちの説く真理が、人生に迷っている人々、心は重く悲しみに満ち、目に涙を溜めた大勢の人々に、知識と慰めと励ましをもたらしていることはたしかです」


シルバーバーチ

Saturday, November 5, 2022

シアトルの晩秋 霊力が顕現し、愛が死の障壁を突き通して届けられるのをみて、わたしは喜びに堪えません。I am overjoyed to see spiritual power manifest and love delivered through the barrier of death.




わたしの言葉を活字で読んで慰めを得たと言ってくださる方々、それまでは孤独な思いの中で生きてきたつもりが、本当は決して一人ぼっちではなく、霊界からの大いなる愛に包まれていたことに気づいてくださった方々に、わたしからささやかなメッセージを贈りたく思います。

わたしの言葉がたった一人の方の魂の琴線にふれて真の自我が目を覚まし、魂に真の自由をもたらす霊的真理に気づかせてあげたことを知るだけで、わたしは何よりもうれしく思います。

無知を追い払うごとに、迷信が退散していくごとに、頑迷さが消えていくごとに、偏狭さが薄れていくごとに、わたしの心は喜びに満たされます。

霊力が顕現し、愛が死の障壁を突き通して届けられるのをみて、わたしは喜びに堪えません。

霊的知識が正しく届けられ、地上の善男善女が大霊の愛の存在に気づき、その愛の摂理は、正しく理解すれば、物的世界のいかなる力をもってしても、与えることも奪うこともできない豊かさを見出させてくれることを悟ってくれるごとに、わたしは無上の喜びを覚えます。

このわたしへ静かなる思慕の念をお寄せくださる方々、温かい愛の念を送ってくださる方々、さらには真摯なる祈りの念を届けてくださる方々――残念ながら今すぐその一つ一つに直接の応答はできかねますが、その方々に今この場をお借りして、わたしからの感謝の気持ちを表明させていただきます。

そして、どうか、わたしが引き続いて皆さま方の願いにそうべく努力すること、大霊の摂理と力と安らぎが得られる道へいっそう近づくよう導いてさしあげることを、お誓い申し上げます。

空を雲がよぎり、日の光が陰ります。やがて夜になり、星がまたたき、淡い月の光が夜空を照らします。辺りが闇に包まれ、夜のとばりに被われます。が、やがてまた、太陽が昇り、こうこうたる光を放ちます。

太陽は輝きを失ってはいなかったのです。見えないところで輝いていたのです。神の摂理は、たとえ皆さんにはそのすべては理解できなくても、一瞬の途切れもなく働き、変わることもないのです。

そう思うときまたしてもわたしの魂に大霊への祈りの気持ちが湧いてまいります。

無始無終に存在し給う大霊よ。

わたしどもは、あなたをいっそう深く理解し、あなたの摂理をいっそう広く生活の中で実践することによって、わたしども子等の一人一人に内在するあなたの神性の豊かさと美しさをよりいっそう顕現することになりますよう、ここに祈ります。

シルバーバーチ