つまり(社会よりも)まず教会自身の体質を診断する勇気があるかどうか、真理のサーチライトを自己の信仰内容にまで向ける勇気があるかどうかです。
それが社会正義の妨げとなっている面もあるからです。
例を挙げてみましょうか。
たとえば教会は信者に対して信仰の告白さえすれば、それだけで正義の問題が片づくと教えます。
が、これが社会正義を妨げることになるのです。なぜなら、その教えによって信者の精神が煙に巻かれ、せっかく目覚めかかった魂をまた眠らせてしまいます。
このように、真理の普及を妨げる間違った考えは、地上に真の正義が行きわたるのを妨げることになります。
このように、真理の普及を妨げる間違った考えは、地上に真の正義が行きわたるのを妨げることになります。
それは、ひいては霊界の正義を妨げることにもつながってきます。
自己の救済の道は日々の生活、行い、言動の中にしかないのに、身代わりの流血(キリストのはりつけ──贖罪)によってキリストへの信仰を告白した者だけが救われるということを、一般社会に一体どう説明できるというのでしょう。
正義は両刃の剣です。それを振りかざす者は、他人に対して求める前にまず自分に正義を求めなくてはなりません。
自己の救済の道は日々の生活、行い、言動の中にしかないのに、身代わりの流血(キリストのはりつけ──贖罪)によってキリストへの信仰を告白した者だけが救われるということを、一般社会に一体どう説明できるというのでしょう。
正義は両刃の剣です。それを振りかざす者は、他人に対して求める前にまず自分に正義を求めなくてはなりません。
こう言いますと人種的偏見をもつ者は反論します───〝黒人が肌の色を変え、ひょうがその縞を変えられようか〟(エレミヤ書13・23)と。
シルバーバーチ
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