The Gospel According to Spiritism: Allan Kardec (Author),
キリスト教思想及びスピリティズムの先駆者たち。ソクラテスとプラトンの教義の要約
キリスト教とスピリティズムは同じことを教えている
イエスがエッセニア人の宗派を知っていたからといって、イエスが自分の教義をそこから取り込んで生みだしたと結論づけることは誤りであり、またそうであったとすれば、もしもイエスが別の環境に生まれていたとしたら、別の主義を唱えていたことになってしまいます。
偉大な考えと言うものは、決して突然登場することはありません。真実の上に位置する考えというものにはいつも先駆者がいて、分担して道を切り開く準備をして行きます。
後になって、その時がやってくると、神はその考えを要約し、整え、散らばった要素を補い、それらを教義の幹としてまとめる者を送ることになります。このようにその考えは突然現れるのではないため、登場した時には受け入れる準備の出来た霊たちに出会うことができるのです。
キリスト教思想でもこのような事が起こり、イエスやエッセニア人の何世紀も前には、その主な先駆者としてソクラテスとプラトンがいました。
ソクラテスはキリストと同様になにも記しませんでした。少なくともなにも書き残しませんでした。当時の信仰を攻撃し、偽善や偶像の上に真なる美徳を掲げ、いわば、宗教的な偏見を打ち破ったため、キリストのように狂信者の犠牲となり、罪人として死を遂げました。
ファリサイ人たちによって、その教えが民衆を堕落させていると非難されたイエスと同じように、ソクラテスも当時のファリサイ人に当たる人々に非難されました。神の唯一性、霊魂の不滅と未来の命についての教義をとなえて非難された人々は、いつの時代においても存在したのです。
イエスの教義をその使徒たちの書き残した者によってのみ知ることが出来るように、ソクラテスの教義も、その弟子プラトンによる記述によってのみ知ることができます。
ここで、最も重要な点について要約し、ソクラテスの教義とキリストの教えの原則、双方の一致している部分を示すことは有意義であると考えました。
これらの二つの教義を対照することを不敬であると考え、多神教者の教義とキリストの教義の間に共通点がある筈がないと考える人々に対しては、ソクラテスが多神教者ではなく、彼の目的は多神教を崩すことにあったのだと申し上げておきます。
より完全で浄化されたキリストの教義は、その比較において何も失うものはありません。神意によって送られたキリストの使命の偉大さが減じられることはありません。ゆえに、その他のことについては、誰にも打ち消すことのできなかった歴史的事実として扱われるのです。
人類は、升の上に自ら光を灯す時代にまでたどりついています。人類は充分成熟し、それに真正面から向かい合うことが出来るようになり、聞く耳を持とうとしない者にとってはより難しい時がやって来ました。
物事をより広く、崇高に考える時代がやって来ており、もはや宗派や階級による狭い心に制限された視野で見る時代ではありません。
さらに、このことは、ソクラテスとプラトンがキリストの思想を予感していたのであれば、その記述の中にスピリティズムの基本的な原則をも見出せることを証明してくれるでしょう。
ソクラテスとプラトンの教義の要約
Ⅰ、人間とは肉体を持って生まれる魂である。肉体を持って生まれる以前はその本質的なもの、真理、善、美の考えに属していた。そこから肉体を得て分離するが、その過去を覚えているために、そこへ戻ろうとする欲求に大なり小なり苦しめられる。
知性的な根本と物質的な根本との区別と、その独立性を、これ以上明確に表現することは出来ません。さらに魂が存在するという教えについても同様です。
人間は、熱望するもう一方の世界に対する曖昧な直感──つまり死の後に、肉体の滅亡を超えて存在し続けることや、肉体を受けて生まれるために霊界から出てくること、そして再び同じ世界へ戻っていくこと──を抱き続けています。そして最終的には堕落した天使の教義にたどり着きます。
Ⅱ 魂は、肉体を使ってある目的を達成しようとすると動揺する。移りゆくものに執着するために、酔ったようなめまいを起こす。
一方で、自らの本質を見つめる時には純粋で永遠、不死なるものに向かうが、魂の性質がそうであるために出来る限り長くそこに繋がれようとする。すると、普遍的なものと結びつくために、道に迷わなくなる。その魂の状態を英知と言う。
このように物事を地上においてしか考えることの出来ない人間は錯覚を起こしているのであって、物事を正確に観賞するには高い所から、つまり霊的な視点から見なければなりません。
ゆえに本当の英知を有する者は肉体と魂とを分離させ、霊の眼によって物事を見なければならないのです。それはスピリティズムが教えることと同様です(→第二章 五)。
Ⅲ、私たちの肉体と魂がこの堕落の中に存在するうちは、私たちの望む真実を手に入れることはできない。私たちには肉体の面倒を見る必要があるため、そこから幾千もの障害が生じてくる。
それに加え、肉体は欲望や、貪欲、恐れ、数知れぬ妄想や、つまらぬことによって私たちを満たし、そのために、肉体を持っている間に、分別を持つことは、ほんの一瞬の間でさえ不可能となる。
しかし、魂が肉体に結びついている間、私たちは何も純粋な形で物事を知ることが出来ないのであれば、選択は二つに一つである。つまり真実を決して知ることができないか、死後それを知ることになるかのいずれである。
肉体の狂気から解放されれば、同様に解放された人々と会話をし、私たちは物事の本質を自ら知ることになるのだ。こうした理由によって真なる哲学者は死の準備をするのであり、彼らにとって死は決して恐怖ではないのである。
肉体の器官によって弱められた魂の能力が、死後になって広がるのだ、という基本的な考え方がここにはあります。しかしそれはすでに浄化された魂に起こることであり、不浄の魂に同様なことが起きることはありません。(→『天国と地獄』第一部 第二章、第二部 第一章)。
Ⅳ、不純な魂は、その状態に置いて抑圧された状態にあり、不可視で非物質的であることによって、可視の世界に引きずられて行くことになる。すると人々は、遺跡や墓石の周りで不気味な亡霊をみると、それらが肉体を後にしながら、いまだに完全に浄化されていないために、物質的な姿をひきずっているもので、それが人間の目に見えるのだと間違えてしまう。
実際には、それらは善なる魂ではなく、悪しき魂であり、こうした場所にさ迷うことを余儀なくされ、自分と共に生前の罰を引きずりながら、その物質的な姿に伴う欲求が再び別の肉体に反映されるまでさ迷い続けるのである。そして疑いもなく、最初の人生において有していた習慣を再び身に付け、それがその魂の執着となる。
再生(リインカーネイション)(→和訳注3)の原則ばかりか、スピリティリズムにおいて霊との通信によって見られるような、肉体の枷のもとにある魂の状態までもがここに明確に表現されています。さらに、肉体への再生は魂の不浄の結果であり、浄化された魂は再生することから免れているとされています。
まったく同じことを、スピリティズムは述べていないでしょうか。付け加えるのであれば、霊界において善い決意を持った魂は、再生する際に、すでに有する知識とより少ない欠点、より多くの美徳や直感的な考えを、その前の人生の時より多く持ち合わせているのです。こうすることによって、一回ごとの人生は知性的、道徳的な進歩をもたらすことになるのです(→『天国と地獄』第二部 例)。
Ⅴ、私たちの死後、生きている間任務にあった妖精(ダイモン、デビル)は、ハデス(地獄)へ行かなければならない者をすべて集めて連れて行き、そこでは審判が下される。魂たちは、ハデスにおいて必要な時間を過ごすと、複数回にわたる長い人生に再び導かれる。
これは守護霊、もしくは保護霊の教義と、霊界におけるある程度の時間の感覚を置いた、連続的な再生の教義に外なりません。

Ⅵ、ダイモンは地上と天を分ける空間に存在する。その空間とは、すべてを自分自身に統合する偉大なる絆である。神が人間に直接通信をすることは決してなく、それはダイモンを介して行われ、ゼウス(神々)は彼らと取り決めを行い、起きている間も寝ている間もそれに従事する。
ダイモンと言う言葉はディーモン(悪魔)の語源となっていますが、昔は現代のように悪者と考えられてはいませんでした。悪意のある者だけではなく、一般的な霊を指し、その中にはゼウス(神々)と呼ばれる優秀な霊たちも、人間と直接通信する劣った霊、つまりいわゆるディーモン(悪魔)も含まれていたのです。スピリティズムでも霊たちが宇宙空間に住んでいると言います。
神は純粋な霊たちを介してのみ人類と通信し、それらの霊たちは神の意志を伝えることを任されるのです。起きている間も寝ている間も霊たちは人間と通信します。ダイモンと言う言葉の箇所に霊と言う言葉を置き換えれば、スピリティズムの教義がそこにあることが判ります。天使という言葉に置き換えると、そこにキリストを読み取ることができます。
Ⅶ、(ソクラテスやプラトンの考えにもとづく)哲学者たちの不断の関心事は、魂に対して最も多くの注意を払うことであり、一時しか続くことの無い現在の人生には多くの関心を持たず、永遠を視野に置くことである。魂は永遠なのであるから、永遠を見据えて生きる方が賢明ではないか。
キリスト教とスピリティズムは同じことを教えている
Ⅷ、魂が非物質であるならば、この人生の後には同様に不可視で非物質の世界を通らねばならず、それは肉体が分解して物質へと戻るのと同じである。しかしその時、神のように思考や科学によって自らを養う純粋で真に非物質の魂と、物質の不純さによる汚点を残した魂で、神に向かって昇って行くことを拒み、地上において存在した場所に残留する者たちとを区別することが大切である。
この通り、ソクラテスとプラトンは、魂の非物質化の程度の違いを完全に理解していたのでした。その純粋さの程度により状況が多様化することを主張したのです。彼らが直感的に述べたことを、スピリティズムは私たちに無数の例を通じて証明しています(→『天国と地獄』第二部)。
Ⅸ、死が人間の完全なる消滅であったのであれば、悪人は死によって多くを得ることになるであろう。何故なら、同時に肉体や魂、悪癖からも自由になることが出来るからである。外見的な装飾ではなく、適切なものによって魂を飾ることが出来た者だけが別の世界へ旅立つ時を平穏に待つことができる。
これは唯物主義が、死の後には無が待っているということで、これまでのあらゆる責任を白紙にし、結果的に悪を助長することになるのだと言っているのに等しいのです。悪は無によってすべてにおいて得をすることになります。
悪癖を捨て美徳によって豊かになった人だけが、別の人生に目覚めるのを安心して待つことが出来るのです。スピリティズムは、毎日私たちに示してくれる例を用いて悪人にとって、この人生から別の人生、未来の人生への入り口へと移っていくことがどんなに苦しいことかを教えてくれます(→『天国と地獄』第二部 第一章)。
Ⅹ、肉体はそれが受けた手当てや遭遇した事故の痕跡をはっきりと保っている。同じことが魂にも言える。肉体に別れを告げると、魂はその性格の明白な形跡やその愛情、人生の間に残したあらゆる行動の跡を保つことになる。そのために、人間において起こりうる最悪の不幸とは、別の世界へ罪に覆われた魂を持って移っていくことである。
あなたと同じように、カリクレスもボルックスも、ゴルギアスも別の世界へ行ったときに有益となるような別の人生を歩まなければならないのだということを証明することはできない。
これほどに多くの意見の中でも唯一揺らぐことのないことは、悪を働くよりも悪を受ける方が良いことであり、何よりも私たちは外見においてではなく、内面において善の人とならなければならないということである。(牢におけるソクラテスの弟子との対話より)
ここに私たちは、今日科学によって裏付けされたもう一つの重要な点を見出すことができます。すなわち浄化されていない魂は地上で持っていた考えや、傾向、性格、情熱を抱き続けるということです。
悪を働くより悪を受ける方が価値があるという金言は、まったくキリスト教の考えと等しいではありませんか。同じ考えをイエスは次の表現で表しました。「彼が一方の頬を叩いたなら、もう一方の頬も向けなさい」(→第十二章 7、8)
Ⅺ、二つに一つ。死が絶対的な破滅であるか、魂が別の場所へ移行するのであるか。もしすべてが消滅するのであれば、死とは夢も見ず、自分自身の意識もなしに過ごすまれな夜のようなものである。しかし、もし死が生きる場所の変更に過ぎず、そこに死者たちが集まるのであれば、そこで知人に出会う喜びの何と大きいことか。
私の最大の喜びとはその別の場所の住人を近くで観察し、自分を何であると唱える人たちのうち、誰がそれにふさわしく誰がふさわしくないのかを知ることである。しかしいまは私たちに別れる時が来た。私は死へ、あなたたちは生へ。(判事に対するソクラテスの言葉)
ソクラテスによると、地上に生きたものは死後に出合い、お互いを認識し合います。スピリティズムは、生きている間に人々がお互いに築いた関係は継続し、それ故に死は人生の中断でも、終わりでもなく、継続性のある避けることのできない変遷であると示しています。
その五百年後に広められたキリストの教えや今日スピリティズムが広める教えをソクラテスとプラトンが知っていたとしても、彼らは別の言い方をすることはなかったでしょう。偉大なる真実は永遠で、進歩した霊がそれを地上に来る前に知り、地上にもたらしたのであると考えれば、それは驚くことではありません。
すなわちソクラテスやプラトンのような当時の偉大なる哲学者たちは、後の時代において、まさしく他人に比べ崇高な教えをよりよく理解する条件を備えていたために、キリストの神聖なる使命に従って、偉大なる真実をもたらすために選ばれた可能性があります。
そしてついには、同じ真実を人類に教える役割を担う霊の集団に加わっていると考えることができます。
Ⅻ、私たちに与えた損害がなんであろうと、それに対して不義によって報いたり、誰かに悪を働いたりしてはならない。しかし、この原則を受け入れる者は少なく、彼らとそれを理解しない者たちとは、疑いもなくお互いを蔑視することになるであろう。
悪を悪によって報いず、敵を赦すことを教える慈善の原則が、ここに書かれているのではないでしょうか。
ⅩⅢ、果実によって木を知るのである。いかなる行動もそれがもたらすものによって評価されなければならない。そこから悪がもたらされるとき、それを悪と判別し、善の源となって居る時には善であると判断する。
「果実によって木を知る」という金言は福音の中に繰り返し記載されています。
ⅩⅣ、富は大きな危険である。富を愛する者は皆、自分自身をも自分自身に属するものをも愛さない。その者に属するものよりも慣れないものを愛しているのである。
ⅩⅤ、最も美しい祈りも、最も美しい供え物も、神に同化しようと努力する徳の高い魂ほどに神を喜ばすことはできない。神々が私たちの魂よりも私たちの供え物に関心を抱くと考えたとしたらそれは重大な誤りである。
そうしたことが起きたのであれば、より責任を負う者が、都合よくなることができるようになってしまう。しかし、そうではない。言葉と行動において真に正当で公正な者だけが、神々や人々に対して負う義務を遂行する。(→第十章 7,8)
ⅩⅥ、魂よりも肉体を愛する者を悪習の者と呼ぶ。愛は自然のあらゆる場所に存在し、私たちが知性を使うことを促してくれる。天体の動きの中にも愛は見いだせる。その愛とは、自然を装飾する豊かな絨毯のようなものである。
愛は花が咲き芳香が漂うところを飾り、そこに存在する。人間に平和を与え,海を鎮め、風を静まらせ、痛みを和らげるのも愛である。
一つの兄弟愛の絆によって人類を結びつける愛とは、自然の法としての宇宙の愛に関するプラトンの理論の結論です。
「愛は一つの神でも、一人の死すべき人間でもなく、一人の偉大なダイモンである」とソクラテスは言いましたが、つまり、宇宙の愛に生きる偉大なる霊の存在のことであり、この結論を唱えたために彼は罪人として罪を負わされたのです。
℘46
ⅩⅦ、美徳は教えられるものではない。神の賜としてそれを有する者に与えられる。
これはほとんど、恵みについて教えるキリストの教えと同等です。しかし、美徳が神の賜であるならば、それは特別な待遇であり、なぜそれがすべての者に与えられていないのか質問をすることができます。他方で、それが賜であるのだとすれば、それを有する者の功労は失われてしまいます。
スピリティズムはより明解であり、美徳を有する者は、それを連続した人生の中で自らの努力によって、少しずつ不完全性を捨てながら手に入れたのだと教えています。恵みとは、悪を追放し善を行おうという意志のある者に神が与える力のことなのです。
ⅩⅧ、他人の欠点よりも、私たち自身の欠点に気づくことが少ないのは、私たちすべてにあてはまる自然の傾向である。
福音には記されています。「あなたの隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の目の中にある杭が見えない」(→第十章 9、10)。
ⅩⅨ、成功しない医師がいるのであれば、それは病気のほとんどを治療する時、肉体は治療しても、魂を治療していないからである。すべてが善い状況になければ、病人の一部が善くなることも不可能である。
スピリティズムは魂と肉体との関係の鍵を与え、一方が他方に対して絶え間なく作用していることを証明しています。これにより、科学の新しい道を開いています。いくつかの病気の真の原因を示すことにより、それと戦う手段をより容易なものとします。肉体の営みにおける霊的要因の作用を科学が考慮するようになれば、医師たちの失敗も少なくなることでしょう。
ⅩⅩ、どんな人間も、その幼い時代から善よりも多くの悪を働く。
ソクラテスのこの文は、地上における悪の優勢という重大な問題に触れています。この問題は世界の複数性や、人類のほんの一部が住む地球の運命についての知識なしには解決できないものです。この問題はスピリティズムだけが解決できますが、それは後の第一、二、三章に記されています。
ⅩⅩⅠ、知らないことについては知っているふりをしない方が賢明である。
この言葉は、基本的な事項さえも知らずに批判する人々に差し向けられます。プラトンは、ソクラテスのこの考えに補足して次のように言いました。
「まず最初に、可能であれば、言葉をより誠実に受け止めてみる。そうでないのであれば、彼らは気をかけず真実だけを求めればよい。私たち自身を教化することを心がけ、彼らを侮辱してはいけない」。
スピリティズムも、悪意の有無にかかわらずそれに対して反論する者たちに対して、このように接しなければいけません。プラトンが、今日再び生きることになれば、自分の時代とほとんど同じ状態の物事を見て同じ言葉を使うことでしょう。また、ソクラテスもその霊に対する信念をあざける人々に出合うことになり、弟子プラトンとともに狂人として扱われるでしょう。
こうした原則を唱えたためにソクラテスは嘲笑の対象となり、後に不信心の罪に問われ毒を飲まされたのでした。確かに多くの関心や偏見に取り組むことになる偉大な新しい真実は、戦いや殉教者なしには定着することはないのです。
●FEB版注1
このファリサイ人の宗派を設立したヒレルと、その二百年後に生き、ヒレリズムとして知られる忍耐と愛の宗教的社会的原則を築いた同名のヒレルを混同してはならない。──FEB一九四七
●和訳注1
和訳においては、ここに記されたSacyによる翻訳を参照することができないため、FEB版のポルトガル語訳の内容と日本聖書協会発行の聖書(旧約聖書 一九五五年改訳、新約聖書 一九五四年改訳)を参照し、聖書の引用としました。
●和訳注2
「自尊心」という言葉には「自分の人格を大切にする気持ち」という肯定的な意味もあります。しかしながら、自分の人格が他人と比べてより優れているとの思いから、「自尊心」が過ちの原因となってしまっているのも事実です。また、本書では神の基準から見た道徳性を扱っており、その前には不完全な人間が尊いと信じることも小さく映ってしまう場合があります。したがって本書では「自尊心」という言葉が克服すべきものという意味で使われています。
●和訳注3
再生(リインカ―ネイション)──魂が新たな肉体を授かり物質界に生まれること。
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