Monday, September 29, 2025

7シアトルの秋  「スピリティズムによる福音」     アラン・カルデック著

 The Gospel According to Spiritism: Allan Kardec (Author), 

第7章 魂の貧しい者は幸いです



 魂が貧しいとはどういうことか

一、魂の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ 第五章 三)

二、魂の貧しい者は幸いです。信心のない者は、他の多くの金言と同様に、この金言を理解せず、ばかにします。しかし、イエスは知性に貧しい者を意味したのではなく、慎ましい者を意味したのです。天の国は慎ましい者のためであり、傲慢な者のためではないと言ったのです。

 教養があり、知性的な人は、この世を見る限り一般的には自分たちを高く評価し、その優秀さを強調し、神のことなどその関心に値しないと考えています。彼ら自身のことだけが心配で、神のことまでその考えを持ち上げることができません。

このように自分たちをあらゆるものより優秀であると考える傾向は、自分たちを優秀と考えるために自分たちを低くするものを否定し、しばしば神さえも否定します。

あるいは神を認める時には、自分を最も優秀な神の属性のうちの一人と考えるのです。天命を受けこの世のことだけに対し働きかけることで、この世を統治するのは十分であるとうぬぼれているのです。

自分の知性を宇宙の知性の大きさを持つと考え、何事も理解することができると信じ、理解できないこともあり得るのだということを認めることが出来ないのです。彼らは何かについて発言する時、彼らの判断に対する反論を受けつけないのです。

 見えない世界と人類を超えた力を認めないのは、それらが手の届かないところにあるからではなく、彼らの考えの土台を掘り崩してしまうような、立脚することのできない観念に対して自尊心が反発するからです。だから、目に見え、手に取ることのできる世界以外のものに対しては、軽蔑の笑みを見せることしかできないのです。

そうしたことを信じるには、自分たちの知性は高過ぎ、多くの知識を持っており、彼らの考えるには、そうしたことは無知な人々に向いているのであり、そうした人を魂の貧しい者とみなしているのです。しかし、何を言おうと、いつかは他の人たちと同じように皮肉を込めて馬鹿にしている目に見えない世界に入らねばならないのです。

その時、彼らは目を開き、過ちに気づくのです。しかし、公平である神は、その力を認めなかった者たちを、神の法を慎み深く守った者たちと同じように迎えるわけにはいかず、同じ者として割り当てることもできません。

℘141
素朴な者だけに神の国があるという言葉のなかで、イエスは、心の純真さと魂の慎ましさがなければ神の国で認められることはないと教えたのです。これらの資質を持った無知な者の方が、神よりも自分を信じる賢人よりも好ましいのです。

いかなる場合に置いてもイエスは、神に近づける徳として慎ましさを、神から遠ざける欠点として傲(おご)りを述べています。慎ましさは神に対する服従の態度であり、傲りとは神に対する反発のしるしであるという、とても自然な理由からです。

したがって、人間の幸せのためには、この世で言う、魂が貧しくとも、道徳的な資質に富んでいることがより大切なのです。

   
 自分を高くする者はさげられます

三、その時、使徒たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか」。そこで、イエスは小さい子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて言われた、

「誠に言います。悔い改めて子どもたちのようにならない限り、天の御国には入れないでしょう。だから、この子どものように、自分を謙遜し自分を低くする者が、天の御国で一番偉いのです。また、誰でも、このような一人の子どもを私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのです」。(マタイ 第十八章 1-5)


四、その時、ゼベダイの子どもたちの母が、子どもたちと一緒にイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った、「私のこの二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるようにお言葉を下さい」。

イエスは答えて言われた。「あなたたちは自分が何を求めているのか、分かっていないのです。私の飲もうとしている杯を飲むことができますか」。

彼らは「できます」と言った。イエスは言われた、「あなたたちは私の杯を飲みはします。しかし、私の右と左に座ることは、この私の許すことではなく、私の父によって備えられている人々にだけ許されることなのです」。このことを聞いた他の十人は、この二人の兄弟たちのことで腹を立てた。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたたちも知っているとおり異邦人の支配者たちはその民を支配し、偉い人たちはその民の上に権力をふるいます。あなたたちの間ではそうであってはなりません。あなたたちの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

あなたたちの間で人の先に立ちたいと思う者は、しもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人のための救済の代価として、自分の命を与えるためであるのと同じです」。(マタイ 第二十章 20-28)


五、ある安息日に、食事をしようとして、ファリサイ人のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。招かれた人々が上座を選んでいる様子をご覧になっておられたイエスは、彼らにたとえを話された。「婚礼の披露宴に招かれた時には、上座に座ってはいけません。

あなたより身分の高い人が招かれているかもしれないし、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』とあなたに言うなら、その時あなたは恥入って、末座に着くことになるでしょう。

招かれるようなことがあって行ったなら、末座に着きなさい。そうすればあなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上座にお進みください』というでしょう。その時は満座の中で面目を施すことになります。なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。(ルカ 第十四章 1、7-11)


六、これらの金言は、神に選ばれた者に約束された幸せを得るための根本的な条件として、イエスが絶えず教えている慎ましさの原則から生まれたもので、イエスは次の言葉にそれをまとめて示しました。

「魂の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。イエスは純心であることの象徴として子どもを選び、「子どものように自分を謙遜し、自分を低くする者が、天の御国で、一番偉いのです」と言ったのです。それは上の者や強い者に媚びを売るということではありません。

 同じような基本的な考え方が、別の金言に結びつきます。「偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。

 スピリティズムは実例によって理論を確認し、私たちに、地上で小さくあった者たちの霊界における偉大さを教えてくれます。そして多くの場合、地上において最も偉大で強い権力を持っていた者たちが、霊界においてはとても小さいのです。これは、霊界において彼らを偉大にさせる、決して失われることの無い美徳を、人間は死んでも持ち続けるからです。

一方で、富、地位、栄光、生まれた家族の高貴さなど、地上で人間を偉大にしていたものは、別の世界へ持って行くことが出来ないのです。それら以外に何も持っていなかった者は、別の世界へ入ると、着るものまでも失った遭難者のようにすべてを失います。

自尊心だけを失いきれずにいることが、地上において軽蔑していた者たちが自分より上に、栄光に輝いて置かれているという新しい位置づけを、更に屈辱的なものにします。

 スピリティズムは同じ原理の応用を、連続する人生と言う視点から別の方法で示しています。ある人生において最も高い地位にあった者は、野心や自尊心を克服できなかったのであれば、次の人生において最も低い地位に降ろされます。

ですから、強制的に次の人生において地位を下げられたくないのであれば、地上において一番高い地位を求めたり自分を他人より高い地位においてはなりません。

反対に、最も慎ましく、質素な地位を求めなさい。あなたがより高い地位におかれるに値するのであれば、神は天においてより高い場所を与えてくれるでしょう。

℘144         
 博学な者や知識人に隠された謎
七、その時イエスは声を上げて言われた、「天と地の主なる父よ、これらのことを博学の者や知識のある人には隠し、素朴で小さい者たちに顕してくださったことを称賛いたします」。(マタイ 第十一章 25) 


八、これらのことを魂の貧しい、素朴で小さい者たちに見せてくれたことをイエスが感謝しているのは、少し不思議に感じられるかもしれません。

なぜなら、見かけ上は博学な者や知識人の方がこれらのことを理解し易いように見えるからです。しかし私たちは、この慎ましい者とは、神の前で自分を低め、他人に対して自分が優れていると感じない者のことであるということを理解しなければなりません。

また、一方の自尊心の高い者とはこの世における知識によってうぬぼれてしまい、自分が賢者であると思い、そのために神の存在を否定したり、あるいは神を否定しないまでも、昔、知識人が賢者であるつもりになって話したように、自分を神と同様に扱う者のことであるということを理解しなければなりません。そのため、神は地上の秘密の探求を知識人たちに任せ、神の前に屈服する慎ましい者たちに天の秘密を見せてくれるのです。


九、スピリティズムによって今日明らかにされた偉大なる真実についても同様です。信心のない人たちは、彼らを納得させ、改心させようとする霊たちの側の努力が不足しているのだと言います。

しかし、それは、霊たちにとっては、強い信仰と慎ましさをもって光を求める者たちのことの方が、もうすでにすべてを知っていると信じていて、神がその存在を証明して彼らを神の方向へ導くことが出来れば神は喜ぶであろうと考えている者たちのことよりも、気にかかるからなのです。

 神の力は、大きな物にも小さな物にも示されています。神はその光を隠すのではなく、あらゆるところへ放っています。盲目な者たちはそれを見ることが出来ないのです。

神は彼らの目を無理やり開こうとはしません。なぜなら、彼ら自身が目を閉じていることを好んでいるからです。しかし自ら目を開く時が来る前に、暗闇にあることの苦しさを感じ、神の存在を認識し、彼らの自尊心が必然的に傷つけられる時が来なければなりません。

不信心な者たちに神の存在を示すために、神は彼ら一人一人にそれぞれあった方法を取ります。しかし不信心である者が「私を納得させるにはどれそれをやってください。いつ、どうしてください。そうすれば私は納得します」というように、何をし、何を言うべきなのかを決めるのではありません。

 神や、神の意志を伝える霊たちが、こうした不信心な者たちの要望に応えてくれないからと言って驚いてはいけません。そうではなく、もし自分の最も身分の低い家来に何かを強要されたとしたら、何と応えるかを考えてみるべきです。

神が条件を決めるのであり、神が条件を強要されるのではありません。神は慎ましく求める者には温かく耳を傾けてくれますが、神より勝っていると考える者たちのことは聞いてはくれません。


十、最も神を信じない者までもが屈してしまうような奇蹟的な証拠によって、神は不信心な者たちに個人的に触れることができないのかとよく訊かれます。それが可能であることに、まったく疑う余地はありません。しかしそのようにしたとして、そうすることの価値はどこにあるでしょうか。

更に、それが何の役に立つと言えるでしょうか。彼らは、毎日あらゆる証拠を見せられていながらそれを受け入れず、「見ることはできたが信じることはできない。なぜならそのようなことは不可能であることを知っているからだ」とまで言うのです。

真実を認めることを拒否するのは、それを理解するその者の霊も、それを感じるその者の心も、まだそうなるところまで発達しきっていないからです。

自尊心は彼らの目を覆う目隠しのようなものです。盲目の者の前に光をかざしてどうなるというのでしょうか。したがって、まず悪の原因を治すことが必要です。

そうであるからこそ、優秀な医者のように、神はまず傲りを罰します。神が迷う子供たちを見捨てることはありません。なぜなら、遅かれ早かれ彼らの目は開かれることを知っているからです。

しかし神はそれが各々の自分の意志によって開かれることを望んでいるのです。そうなれば、不信心であったことによって受けた苦しみに打ち勝ち、父親に赦しを求めた放蕩息子の様に、自ら神の腕の中にやってきます。


   



  霊たちからの指導

℘146 自尊心と慎ましさ  
十一、親愛なる友よ、神があなたたちに平安をもたらしますように。あなたたちが正しい道を進むことができるように励ましにやって参りました。

 神は、その昔地上で慎ましく生きた霊たちに、あなたたちを教化する任務を与えられました。あなたたちの進歩を助ける機会という恵みをお与えくださいました。神の名が崇められますように。

聖なる霊が私に光を与え、私を助けてくれることによって、私の言葉が分かり易いものとなり、それらの言葉がすべての人たちのもとに届きますように。光に出逢うことのできないあなたたちすべての人間の目の前に、光を輝かせることができるように神の意志が私を助けてくれることをお願いいたします。

 慎ましさは、あなたたちの間では忘れ去られてしまった一つの美徳です。あなたたちに与えられた大きな模範は、ほんの少ししか守られていません。しかし慎ましさなしに、隣人に対する慈善の気持ちを持つことが出来るでしょうか。ああ、できるわけがありません。

なぜなら、慎ましさこそが人間を平等にするからです。あなたたちは兄弟であり、それ故にお互いに善に向かって助け合わなければならないのです。自分たちの身体の不恰好さを隠すために衣装をまとっているかのように、慎ましさに欠けるあなたたちは持ちもしない美徳で身を飾ります。

私たちを救ってくれた者のことを思いだしてください。彼を偉大にしたその慎ましさが、あらゆる預言者たちよりも彼を上に位置づけたのです。

 自尊心は慎ましさにまったく相反するものです。キリストが最も貧しい者たちに天の国を約束したのは、地上の偉大なる者たちが名誉や豊かさとは自分自身の功労に対して与えられるものだと考え、自分たちを貧しい者たちよりも純粋な存在だと考えていたからなのです。

それゆえ彼らは、名誉や豊かさを自分たちのためのものであると信じ、神が自分たちを地上から連れ去ると、神は不当であると不満を言うのでした。おお、何というおかしなことでしょう。

なにも見えていないのです。神はあなたたちの身体を見て区別するでしょうか。貧しい者と豊かな者の肉体は同じではありませんか。創造主は二種類の人間を作ったのでしょうか。神の造られたものすべてが賢く偉大なのです。

自尊心の強いあなたたちの頭から生まれる考えを、神に属するものであるなどと決して考えてはなりません。

 ああ、富める者たちよ。寒さから守られた金の屋根の下であなたたちが眠る間、何千人ものあなたたちとまったく同じ兄弟たちが藁の上に横たわっているのを知っていますか。飢えに苦しむ不幸な者たちは、あなたたちと同類の者たちではありませんか。

こうした言葉にあなたたちの自尊心が反発することを私はよく知っています。施しを与えることに同意することはあっても、その貧しい者の手を兄弟愛をもって握りしめることはありません。

「高貴な血縁のもとに生まれた、地上における偉大なる私が、そのぼろをまとった惨めな者たちと同じだなんて。それは偽哲学者の作り上げた、つまらぬ理想郷のことだ。もし、私たちが彼らと同じならば、何故神は私をこんなに高いところに置き、彼らをあんなに低いところに置いたのだ」。

富める者たちの衣装は、貧しい者たちのそれとは似ても似つかぬことは事実です。しかしそれらが奪われてしまったら、両者の間にどんな違いがあるというのでしょうか。

それにもかかわらず、血筋が高貴なのだと言うのかも知れません。しかし、今日まで科学は高貴な者と平民との間に、または、奴隷の主人と奴隷との間に血液の違いを発見していません。あなたが過去においても彼と同じように惨めで哀れな状態でなかったと、誰が断言できるでしょうか。
℘148
あなたも物乞いをしたことがあるのではないでしょうか。あなたが今日軽蔑している相手に、未来においては物乞いをする可能性がないと誰が言い切れるでしょうか。富とは永遠なるものでしょうか。

あなたの霊を取り巻くはかない覆いである肉体が消滅すれば消えてしまうものではありませんか。ああ、もう少し慎ましくあってください。この世の現実に目を向け、何が人を偉大さに導き、何が人の価値を下げるのかに目を向けてください。死は誰をも残してくれないように、あなたをも残してはくれません。

今日にでも、明日にでも、いつ襲ってくるか判らない死の攻撃から、あなたの地位はあなたを守ってはくれません。もしあなたがその自尊心の中に埋もれ続けるのであれば、ああ、私にとってそれは大変悲しいことです。あなたは深い同情を受けるに値します。

 傲慢な者よ。高貴で、強い権力を持つようになる以前、あなたは誰であったのでしょうか。もしかしたら、あなたの召使いの内の最も下層の者よりも低いところにいたのかもしれません。ですから、あなたの誇り高い額を下げるのです。なぜなら、あなたたちが額を最も高く上げた時、神はあなたたちにその額を下げさせるようにすることができるからです。

神の秤の上で、人類はみな平等です。一人一人の持つ美徳だけが、神の目には区別されるのです。全ての霊が同じ素から成っており、全ての肉体が同じ物質から造られています。名声や地位はあなたのどこも変えることはできません。

名声や地位は墓の中に残され、選ばれた者たちに与えられる幸運を享受するためには何の役にも立ちません。選ばれた者たちの高潔な地位とは、慎ましさと慈善の行いによってのみ築かれるものなのです。

 かわいそうな者よ。あなたは苦しむ子供の母親なのです。寒さに震え、飢えを訴えている彼らのために、パンのかけらを手に入れるため、重い十字架を背負い、頭を下げに出ていきなさい。

おお。あなたの前に私は頭を下げます。私にとってあなたは何と高貴で尊いことでしょうか。祈り、待つのです。至福は今だこの世のものではありません。神を信じる抑圧された貧しい者たちのために、神は天の国をあたえてくれるのです。

℘149
 労働と剥奪の前に放り出された、まだ子供でしかない娘よ。どうしてそんなに悲しむのですか。なぜ泣くのですか。慈悲深く穏やかな神のもとへあなたの目を向けてみて下さい。神は小鳥たちにも食べ物を与え、あなたたちを信じてくれています。神はあなたたちを見放されることはありません。

宴に響く笑い声や、この世の喜びにあなたの胸は高く鳴ります。髪を花で飾り、地上の幸運な者たちとともに交わりたいと思うでしょう。屈託なく楽しそうに笑いながら通り過ぎる女たちを見て、私も同じように豊かになれるのだと呟くでしょう。おお、そのようなことを言うのはおやめなさい。

それらの飾られた衣装の下に、どれだけの涙と語りきれない苦しみが隠されていることか、どれだけすすり泣く声がその騒がしい話し声にかき消されていることか。

あなたは自分の貧しさと慎ましい小屋の方がよほど好ましいと思うに違いありません。あなたを守る天使が、その白い羽の下に顔を隠しながら神の元へ戻って行ってほしくないなら、神の目にいつまでも純潔に映ることができるように自分を保ってください。

案内人がいなくなったことを後悔し、次の世界において罰を受けるのを待ちながら、道に迷ってこの世に何の支えもなしに残されるのが嫌なのであれば。

 そして、人間の不当さに苦しめられているあなたたちはみな、あなたの兄弟たちの過ちに対し、あなたたち自身も過ちから免れることはできないのだということを自分に言い聞かせ、彼らに対し寛大であってください。それは慈善の行為であり、慎ましさの証でもあります。もし中傷にあったなら、その試練の前に頭を下げてください。

この世の中における中傷が、あなたにとっていったいどんな意味を持つというのでしょう。あなたの行いが正しいのであれば、神によって報われるではありませんか。人の侮辱を勇気を持って耐えるということは、慎ましく生き、神のみが偉大で万能であることを理解することです。

 おお、神よ。彼らが忘れてしまったあなたの法を教えるために、再びキリストがこの世にあらわれることが必要なのでしょうか。
℘150
礼拝のためだけに存在する、あなたの家を汚しに寺院に集まる行商人たちを、キリストは又追い払わなければならないでしょうか。

誰に否定することができましょうか。ああ、人類よ。神がもしキリストの再来という許しをあなたたちに与えてくれたとしても、あなたたちは前回と同じようにキリストを棄て、キリストを冒涜者と呼んでいたかも知れません。

なぜなら、キリストは現在のファリサイ人たちの自尊心を辱めることになるからです。あなたたちは、再びキリストにゴルゴタへの道を歩ませることになるでしょう。

 モーゼが神の戒めを受けるためにシナイ山へ登って行ってしまっている間、イスラエルの民は自分たちだけになると、真なる神を棄て、男も女も持っていた宝石や金を、偶像を造るために捧げたのでした。あなたたち文明人は、その繰り返しを行っているのです。

キリストはその教義をあなたたちに伝えました。あなたたちにすべての美徳の模範を示したにもかかわらず、あなたたちは模範も規律も全て放棄してしまったのです。一人一人がその感情にかられ、望み通りの神を造り上げているのです。

ある者によればその神は恐ろしく残忍で、また別の者によれば地上の関心事に夢中になっています。あなたたちが造り上げた神とは、あなたたち一人一人の考えや趣味に合わせた金の子牛でしかないのです。

  兄弟たちよ、友よ、目を覚ましてください。霊たちの声があなたたちの心にこだましますように、見栄を張ることなく、寛大で、慈悲深くあってください。つまり、慎ましく善を行いなさないということです。自尊心を奉りあげた祭壇を、一人一人が少しづつ取り崩していくことができますように。

一言で言うならば、本当のキリスト教徒となり、真実の国を手に入れなさいということです。神の善意の証はこれほど多く存在するというのに、神の善意を疑い続けることは止めてください。

私たちは預言が実現する道のりを準備するために参りました。未来において神の寛大さがあなたたちの間に響き渡る時、神によって送られた使いたちは、あなたたちがすでに大きな家族を作り始めているのを見ることができるでしょう。あなたたちの優しく慎ましい心が、神のもたらしてくれる天の言葉を聞くにふさわしいものとなりますように。
℘151
選ばれた者たちの道のりには、善、慈善、同胞愛に返ることによってのみ敷かれる棕櫚(しゅろ)の葉を見ることができますように。そうすれば、あなたたちの世界は地上の楽園と化すことでしょう。

しかし、文明化され、科学が発達していながらも、気高い感覚に乏しい社会を革新し、浄化する為に送られてきた霊たちの声に対して、あなたたちが鈍感であり続けるのであれば、ああ、あなたたちにできることはもはや、その運を嘆き苦しみ、泣くことだけでしょう。

しかし、そうあってはなりません。あなたたちの父である神の方へ向き直ってください。神の意志を達成するために貢献してきた私たちすべてが、恩恵の賛美歌に調子を合わせ、尽きることの無い神の善意に感謝し、幾世期が経とうとも、神の栄光を讃えましょう。そうでありますように。 (ラコルデール コンスタンティーヌ、1863年)


十二、人類よ、なぜあなたたちは自分たちで頭の上に積み上げた災いに対して不平をいうのですか。キリストの聖なる神の道徳をあなたたちは軽んじているのです。だから非道がその杯からあらゆる方向へ溢れ出しても、驚いてはなりません。

 問題は広がっています。いつも自分たち同士でお互いをつぶし合おうとしているあなたたちを責めずにいったい、誰を責めればよいのでしょう。お互いの慈悲心なしには、あなたたちは幸せになることはできません。

しかし、慈悲心と自尊心がどう共存することが出来るでしょうか。自尊心とはあなたたちの悪の全ての根源です。自尊心がもたらす悲しい結果を長引かせたくないのであれば、それを打ち壊すことに精を出してください。

そのためにあなたたちが身を捧げる唯一の失敗することのない方法があります。キリストの法をあなたの行動の不変の規則とすることです。あなたたちが自分たちの勝手な解釈によって拒否したり、偽物にしてしまったあのキリストの法です。

 あなたたちはなぜ、心に訴えるものよりも目に輝いて映るものに重きを置かなければならないのですか。なぜ、裕福さの中にある不徳に媚び、卑しいものの中にある真なる価値のあるものを軽蔑するのですか。
℘152
肉体も魂も失ってしまった堕落した金持ちには、何処においてもあらゆる扉が開かれ、すべての関心が注がれる一方で、自分の仕事に精を出す真面目な人に対しては、あなたたちは勿体ぶり、挨拶さえもしようとしません。

他人への配慮が、その者のもつ金の量や、その者の使う名前によって計られるのであれば、彼らにとってその欠点を治すことに、何のおもしろみがあると言えるのでしょうか。

 もし、世の中の意見が、金をまとった者の不徳を、ぼろ服をまとった不徳と同じようにこらしめたとしたら、大きく違ってくるでしょう。しかし、自尊心は裕福な者の不徳に媚を売ることには寛大です。


現代は貪欲さと金の時代なのだ、と言われるでしょう。それは疑いようもありません。しかし、どうして物質的な関心に良心と理性を支配させてしまうのでしょうか。なぜ、みなが自分たちの兄弟よりも上に立とうとするのでしょうか。今日の社会はこうしたことがもたらす影響を受けています。

 そのような状態はいつも間違いなく道徳的堕落のしるしであることを忘れないでください。極端なまでに自尊心が膨らんでいることは、近く落ちぶれる兆候です。神は高慢な人間を罰しないことはありません。

神が彼らを持ち上げられることに同意する時は、彼らに熟考する時間を与え、注意を促すために時々訪れる、自尊心にうち響く出来事によって、自分を改めることができるようにするときです。

しかしその時、彼らは自分を辱めるよりも、反抗します。すると、杯は溢れ、神は完全にその者を高いところから降ろすのです。彼が自分を高く持ち上げていればいるほど、下落は彼にとって恐ろしいものとなります。

 エゴイズムによってすべての習慣を堕落させてしまった可哀想な人類よ、なによりもまず、改める勇気を出してください。神はその無限なる慈悲によって、あなたたちの欠点を治す強力な薬を送ってくれ、それは惨めな状態にあるあなたにとって、思いがけない救済となるでしょう。光に向けて目を開きなさい。そこには、もう地上には存在しない魂たちが、あなたを本当の任務につかせようと呼びに来てくれています。
℘153               
彼らは虚栄心や一時的な地上での生活における偉大さと言うものが、無限の世界の前にどれだけつまらないものであるかということを、彼らの持つ経験を通じて教えてくれるでしょう。地上で兄弟を最も強く愛した者は、天においても最も愛されることになるでしょう。

権威を濫用する地上の権力者は、自分の召使いたちに従わなければならないように下げられるでしょう。慎ましさと慈善の気持ちは手を取り合う姉妹のようなもので、永遠なる神の前に恵みを受けるための、最も有効な手段なのです。(アルジェの司教アドルフ マルマンド、1862年)



 地上における知性的な者の役割
十三、あなたの知識によって鼻を高くしてはなりません。あなたの知識とは、あなたの住む世界における非常に狭い範囲の中に限られたものなのです。この地球上で、あなたがその知性によって非常に重要な人物であったとしましょう。しかし、そうであったとしても、あなたはそのことによってうぬぼれる権利を持つわけではありません。

神がその意向により、あなたの知性を発達させることが出来る環境にあなたが生まれることを可能にしたのは、あなたがその知性をみなのために使うことを望んだからです。

あなたの手にはあなたが発展させることの出来る道具を与え、あなたの周りにはより遅れた知性の持ち主を送り、あなたが彼らを神の方向へ導くことが出来るようにすることによって、あなたに地上における任務を与えたのです。

与えられたその道具には、どのような使い方をするべきなのかが示されてはいませんか。庭師がその助手に鍬を手渡す時、それは土を耕せと示しているのではありませんか。その助手が仕事をする代わりに、その鍬を振り上げ、主人を傷つけようとしたら、あなたは何と言うでしょうか。恐ろしいことだ、その助手を解雇するべきだ、と言うでしょう。

兄弟たちの間において、神とその意志に関する考えを打ち崩すことにその知性を利用する者に対しても、同じことが言えるのではありませんか。土地を耕すために与えられた鍬を、主人に対して振り上げていることになりませんか。
℘154                
彼に約束された賃金をもらう権利があるでしょうか。それどころか、その庭から追放されるべきではないでしょうか。彼が全てを負っている神の前に頭を下げるようになるまで、疑いもなく、屈辱にあふれた惨めな人生を過ごさなければならないでしょう。

 知性には未来のためになる価値があふれています。ただし、それは正しく使われた場合です。もし人類すべてが神の意志に沿って知性を使うのであれば、霊たちにとって人類を進歩させる任務は容易に達成することが出来るでしょう。

しかし、悲しいことに、多くの者が自尊心を強め、知性を自分自身を破壊する道具にしてしまっています。人間は他の能力と同じように知性をも濫用します。しかし、知性を与えてくれた強力な神の手は、人類に与えたものを剥奪することができるのだということを教えてくれる出来事は、数えきれぬほど見ることができるはずです。(守護霊フェルディナン ボルドー、1862年)

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