The Evils of Familial Affection
一九一三年十二月二二日 月曜日
子供のための施設と教育についてはこの程度にして、引き続きその見学旅行での別の話題に移るとしよう。
そのあと私は数少ない家がそれなりの小さな敷地をもって集落を作っている村に来た。
そうした集落が幾つかあり、それぞれに異なった仕事を持っているが、全体としてはほぼ同程度の発達段階にある者が住んでいる。その領土の長が橋のたもとで私を迎えてくれた。その橋の架かった川は村を一周してから、すでに話の出た例の川と合流している。
挨拶が終わると橋を渡って村に入ったが、その途中に見える庭と家屋がみな小じんまりしていることに気づいた。私はすぐその方にその印象を述べた。
──その方のお名前を教えてください。
Bepel(べぺル)とでも綴っておくがよい。先を続けよう。
ところがそのうち雰囲気に豊かさの欠ける一軒が目にとまった。私はすぐにその印象を述べ、その理由(わけ)を訪ねた。と申すのも、この界層においてなお進歩を妨げられるには如何なる原因(わけ)があるのか判らなかったからである。
ベペル様は笑顔でこう話された。「この家には実は兄と妹が住まっておられる。二人はかなり前に八界と九界から時を同じくしてこの界へ来られたのですが、それ以来、何かというと四界へ戻っている。
そこに愛する人たち、特に両親がおられ、何とか向上させようという考えからそうしているのですが、最近どうも情愛ばかりが先行して、やってあげたいことが環境のせいもあって思うに任せなくなって来ています。
両親の進歩が余りに遅く、あの調子ではこの界へ来るのは遠い先のことになりそうです。
そこで二人は近頃はいっそのこと両親のいる界へ降り、いっしょに暮らすことを許す権限を持つ人の到来を待ち望んでいるほどです。常時そばに居てあげる方が両親の進歩のために何でもしてあげられると考えているようです。」
「お二人に会ってみましょう」──私はそう言って二人で庭に入って行った。
こうしたケースがどのような扱いを受けるか、貴殿も興味のあるところであろう。ともかくその後のことを述べてみよう。
兄は家のすぐ側の雑木林の中にいた。私が声を掛け、妹さんはと尋ねると、家の中にいるという。そこで中へ入らせてもらったが、彼女はしきりに精神統一をしている最中であった。第四界の両親との交信を試みていたのである。
と申すよりは、正確に言えば援助の念を送っていたと言うべきであろう。なぜなら、〝交信〟は互いの働きかけを意味するもので、両親には思念を〝返す〟ことは出来なかったからである。
それから私は二人と話を交わし、結論としてこう述べた。「様子を拝見していると、あなた方がこの界で進化するために使用すべき力がその下層界の人達によって引き留められているようです。
つまり進歩の遅い両親の愛情によってあなた方の進歩が遅らされている。もしもあなた方がその四界へ戻られ、そこに定住すれば、少しは力になってあげられても、あなた方が思うほど自由にはならない。
なぜかと言えば、いつでもあなた方が身近にいてくれるとなれば尚のこと、今の界を超えて向上しようなどと思うわけがないからです。
ですから、そういう形で降りて行かれるのは感心しません。しかし愛は何より偉大な力です。その愛がお二人とご両親の双方にある以上、これまで妨げになってきた障害を取り除けば大変な威力を発揮することでしょう。そこで私から助言したいのは、あなた方は断じてこの界を去ってはならない。
それよりも、これから私と共に領主のところへ行って、現在のあなた方の進歩を確保しつつ、しかもご両親の進歩の妨げにならない方法を考えていただくことです。」
二人は私に付いて領主のところまで行った。まず私が面会してご相談申し上げたところ、有難いことに大体において私の考えに賛同して下さった。そして二人をお呼びになり、二人の愛情は大変結構なことであるから、これからは時折この界より派遣される使節団に加わらせてあげよう。
その時は(派遣される界の環境条件に身体を合わせて)伝達すべき要件を伝える。その際は特別に両親にもお二人の姿が見え声が聞こえるように配慮していただこう。
こうすれば両親も二人の吾が子のいる高い界へ向上したいとの気持ちを抱いてくれることにもなろう、ということであった。
これに加えて領主は、それには大変な忍耐力が要ることも諭された。なぜならば、こうしたことは決して無理な進め方をすべきではなく、自然な発展によって進めるべきだからである。二人はこうした配慮を喜びと感謝を込めて同意した。
そこで領主はイエスの名において二人を祝福し、二人は満足して帰っていった。
このことから察しがつくことと思うが、上層界においても、地上界に近い界層特有の事情を反映する問題が生じることがあるのである。又、向上の意欲に欠ける地上の人間がむやみに他界した縁故者との交信を求めるために、その愛の絆が足枷となり、いつまでも地上的界層から向上できずにいる者も少なくないのである。
これとは逆に、同じく地上にありながら、旺盛な向上心をもって謙虚に、しかも聖なる憧れを抱いて背後霊と共に向上の道を歩み、いささかも足手まといとならぬどころか、掛けがえのない援助(ちから)となる者もいる。
これまでに学んだことに加えて、この事実を篤と銘記するがよい。すなわち地上の人間が他界した霊の向上を促進することもあれば足手まといとなることもあり得る、否、それが必然的宿命ともいうべきものであるということである。
この事実に照らして、イエスがヨハネの手を通して綴らせた七つの教会の天使のこと(黙示録)を考えてみよ。彼ら七人の天使はそれぞれが受け持つ教会の徳性により、あるいは罪悪性により、自らが責任を問われた。イエスが正確にその評価を下し、各天使に賞罰を与えたのである。
それは人の子イエスが人類全体を同じ人の子として同一視し、その救済をご自分の責任として一身に引き受けられているように、各教会の守護天使はその監督を委ねられた地域の徳も罪も全て吾が徳、吾が罪として一身に責任を負うのである。
共に喜び共に苦しむ。わが事のように喜び、わが事のように悲しむのである。イエスの次の言葉を思い出すがよい。曰く「地上に罪を悔い改める者がいる時、天界には神の御前にて喜びに浸る天使がいる」と。
私は一度ならず二度も三度も、否、しばしばその現実の姿を見ているのである。そこで、それに私からこう付け加えておこう───明るき天使も常にお笑いになっているのではない。高らかにお笑いになるし、よくお笑いになる。
が、天使もまた涙を流されることがある。下界にて悪との闘いに傷つき、あるいは罪に陥る者を見て涙を流し苦しまれることがある、と。
こうしたことを不審に思う者も多いことであろう。が、構わぬ。書き留めるがよい。吾々がもし悲しむことが無いとすれば、一体何をもって喜びとすべきであろうか。 ♰
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