Monday, April 29, 2024

シアトルの春 宇宙の深奥を覗くー 万事が賢明にそして適切に配剤されているということである。げに神は愛そのものなのである。

A look into the depths of the universe.    
All things are wisely and appropriately dispensed. God is love itself.


一九一三年クリスマス・イブ


 以上、私は天界の高地における科学について語ってみたが、この話題をこれ以上続けても貴殿にとりてはさして益はあるまい。何となればそこで駆使される叡智も作業も貴殿には殆ど理解できぬ性質のものだからである。

無理をして語り聞かせてもいたずらに困惑させるのみで、賢明とは思えない。そこで私はもう少し簡単に付け加えた後別の話題へ進もうと思う。

 あのあと私は次の階へ上がってみたが、そこでは又ひきも切らぬ作業の連続で、夥しい数の人が作業に当たっていた。各ホールを仕切っている壁はすべて情報を選別するため、ないしはそれに類似した仕事に役立てられている。地上の建物に見る壁のように、ただのっぺりとしているのではない。

様々な色彩に輝き、各種の装置が取り付けられ、浮彫り細工が施されている。すべてが科学的用途を持ち、常に監視され、操作の一つ一つが綿密に記録され検討を加えられた上で所期の目標へ送り届けられる。その建物の中の他の部門だけに限らない。必要とあれば上の界へも下の界へも届けられる。

 案内の方が屋上へも案内して下さった。そこからは遠くまでが一望のもとに見渡せる。下へ目をやれば私が登ってきた森が見える。その向こうには高い峰が連なり、それらが神々しい光に包まれて、あたかも色とりどりの宝石の如くキラキラと輝いて見える。

その峰の幾つかは辺りに第十一界から届く幽玄な美しさが漂い、私のような第十界の者の視力に映じないほど霊妙化された霊的存在に生き生きと反応を示しているようであった。

 そうした霊は第十一界から渡来し、第十界のための愛の仕事に携わっていることが判った。それを思うと、吾が身を包む愛と力に感激を禁じ得ず、ただ黙するのみであった。それが百万言を弄するより遥かに雄弁に私の感激を物語っていたのである。

 こうして言うに言われぬ美を暫し満喫していると、案内の方がそっと私の肩に手を置いてこう言われた。

 「あれに見えるのが〝天界の高地〟です。あの幽玄な静寂にはあなたの魂を敬虔と畏敬と聖なる憧憬で満たしてくれるものがあるでしょう。あなたは今あなたの現時点で到達しうるぎりぎりの限界に立っておられます。ここへ来られて、今のあなたの力では透徹し得ない境涯を発見されたはずです。

しかし私たちは聖なる信託として、そして又、思慮分別をもって大切に使用すべきものとして、ベールで被われた秘密を明かす力を授かっており、尋常な視力には映じないものを見通すことが出来ます。如何ですか。あなたもしばしの間その力の恩恵に浴し、これまで見ることを得なかった秘密を覗いてみたいと思われませんか。」

 私は一瞬返事に窮した。そして怖れに似たものさえ感じた。なぜなら、すでにここまで見聞きしたものですら私にとってはやっと耐え得るほどの驚異だったからである。

しかし、しばらく考えた挙句に私は、すべてが神の愛と叡智によって配剤されているからには案ずることは絶対に有るまいとの確信に到達し、〝全てお任せいたします〟と申し上げた。その方も〝そうなさるがよい〟と仰せられた。

 そう言うなり、その方は私を置き去りにして屋上に設けられた至聖所の中へ入られた。そしてしばし(私の推察では)祈りを捧げられた。

 やがて出て来られた時にすっかり変身しておられた。衣装はなく、眉のあたりに宝石を散りばめた飾り輪を着けておられるほかは何一つ身につけておられない。あたりを包む躍動する柔らかい光の中に立っておられる姿の美しいこと。

光輝はますます明るさを増し、ついには液体のガラスと黄金で出来ているような様相を呈してきた。私はその眩しさに思わず下を向き、光を遮ったほどであった。

 その方が私に、すぐ近くまで来るようにと仰せられた。言われるまま前に立つとすぐ私の後ろへ回られ、眩しくないようにと配慮しつつ私の両肩に手を置いて霊力を放射しはじめた。

その光はまず私の身体を包み、さらに左右が平行に延びて、それが遠方の峰から出ている光と合流した。つまり私の前に光の道ができ、その両側も光の壁で仕切られたのである。その空間は暗くはなかったが、両側の光に較べれば光度は薄かった。

 その光の壁は言うなれば私のすぐ後ろを支点として扇状に広がり、谷を横切り、山頂を越えて突き進み、私の眼前に広大な光の空間が広がっていた。その炎の如き光の壁は私の視力では突き通すことは出来なかった。

 そこで背後から声がして〝空間をよく見ているように〟と言われた。見ていると、これまで数々の美と驚異とを見てきた、そのいずれにも増して驚異的な現象が展開し始めた。

 その二本の光の壁の最先端が、針の如くそそり立った左右の山頂に当たった。するとまずその左手の山頂に巨大な神殿が出現し、その周りに、光の衣をまとった無数の天使が群がり、忙しく動き回っている。さらに神殿の高いポーチの上に大天使が出現し、手に十字架を携え、それをあたかも遠くの界の者に見せるように高々と持ち上げている。

その十字架の横棒の両端に一人ずつ童子が立っており、一人はバラ色の衣装をまとい、もう一人は緑と茶の衣装をまとっている。その二人の童子が何やら私に理解できない歌を合唱し、歌い終わると二人とも胸に両手を当て、頭を垂れて祈った。

 次に右方向を見るように促されて目をやると、今度は全く別の光景が展開した。遥か彼方の山腹に〝玉座〟が見えたのである。光と炎とが混じりあった赫々(カクカク)たる光輝の中に女性の天使が坐し、微動だにせぬ姿で遥か彼方へ目をやっておられる。

薄地の布を身にまとい、それを通して輝く光は銀色に見える。が頭上にはスミレ色に輝くものが浮いており、それが肩と背中のあたりまで垂れ下がり、あたかもビロードのカーテンを背景にした真珠のように、その天使を美しく浮き上がらせていた。

 そのまわりと玉座のたもとにも無数の男女の霊の姿が見える。静かに待機している。いずれ劣らぬ高級霊で、その光輝は私よりも明るいが、優雅な落ち着きの中に座しておられる女性天使の輝きには劣る。

お顔に目をやってみた。それはまさに愛と哀れみから生じる緻密な心遣いが漂い、その目は高き叡智と偉力の奥深さを物語っていた。両の手を玉座の肘掛けに置いておられ、その両腕と両脚にも力強さが漂っていたが、そこにはおのずから母性的優しさが程よく混じっていた。

 その天使が突如として動きを発せられた。そこを指さし、あそこを指さし、慌てず、しかし機敏に、てきぱきと命令を下された。

 それに呼応して従者の群れが一斉に動き始めた。ある一団は電光石火の勢いで遥か遠くへ飛び、別の一団は別の彼方へ飛ぶ。馬に跨って虚空へ飛翔する一団もいる。流れるような衣装をまとった者もいれば、鎧の如きもので身を固めた者もいる。

男性のみの一団もあれば女性のみの一団もあり、男女が入り混じった一団もある。

それら各霊団が一斉に天空を翔けて行く時の様子は、あたかも一瞬のうちに天空にダイヤモンドとルビーとエメラルドを散りばめたようで、その全体を支配する色彩が、唖然として立ちすくむ私に照り返ってくるのであった。

 こうして私の前に扇形に伸びる光が地平線上を一周して照らし出して行くと、いずれの方角にも必ず私にとって新しい光景が展開された。

その一つ一つが性格を異にしていたが、美しさは何れ劣らぬ美事なものであった。こうして私は、曽て見てきた神の仕事に携わる如何なる霊にも勝る高き神霊の働く姿を見せていただいた。

そのうち、その光が変化するのを見て背後にいた案内の方が再び至聖所へ入られたことを悟った時、私はあまりの歓喜に思わず溜め息を洩らし、神の栄光に圧倒されて、その場にしゃがみ込んでしまった。

吾々が下層界のために働くのと同じように、高き神霊もまた常に吾々を監視し吾々の需要のために心を砕いて下さっている様を目のあたりにしたのであった。

 かくして私が悟ったことは、下界の全界層は上層界に包含され、一界一界は決して截然と区別されておらず、どれ一つとして遠く隔離されていないということである。私の十界には下層界の全てが包含され、同時にその第十界も下層界と共に上層界に包含されているということである。

この事実は吾々の界まで瞭然と理解できる。が、さらに一界又一界と進むにつれて複雑さと驚異とを増して行き、その中には、僅かずつ、ほんの僅かずつしか明かされない秘密もあると聞く。私は今やそのことに得心がゆき、秘密を明かしていただける段階へ向けての一層の精進に真一文字に邁進したいものと思う。

 ああ、吾らが神の驚異と美と叡智! 私がこれまでに知り得たものをもって神の摂理の一欠けらに過ぎぬと言うのであれば、その全摂理は果たしていかばかりのものであろうか。そして如何に途方もないものであろうか。

 天界の低い栄光さえも人間の目にはベールによって被われている。人間にとっては、それを見出すことは至難のわざである。が、それでよいのである。秘宝はゆっくりと明かされて行くことで満足するがよい。なぜなら、神の摂理は愛と慈悲の配慮をもって秘密にされているからである。

万が一それが一挙に明かされようものなら、人間はその真理の光に圧倒され、それを逆に不吉なものと受け取り、それより幾世紀にも亘って先へ進むことを恐れるようになるであろう。私はこの度の体験によってそのことを曽てなかったほど身に沁みて得心したのである。

佳きに計らわれているということである。万事が賢明にそして適切に配剤されているということである。げに神は愛そのものなのである。 ♰

シアトルの春 すべてを支配する神の摂理 - あなた方は人間性を強化するために地上界へ来ています。

God's providence that rules everything
You have come to the surface world to strengthen your humanity.





〔宇宙は逃れようにも逃れられない自然法則によって支配されている。いかなる霊もその法則を変えたり、それを犯したときに生じる結果から逃れることはできない。しかし、そうした法則の存在を教えることによって無知から発生する危険を取り除いてあげることは可能である。シルバーバーチは数ある法則の中から、例えば引力の法則のような身近なものを取り上げて説き明かす。〕


私たちは大霊が定めた摂理(法則)をお教えしようとしているのです。それを守りさえすれば、地上生活に健康と幸せをもたらすことができるからです。教会で説教をしている人たちは、いつの日か、その間違いを取り消さなければなりません。いかなる人間も摂理の働きから逃れることはできません。とりわけ霊の声を聞いた者は、なおさらのことです。間違っていると知りつつ罪を犯す者は、真理を知らずに罪を犯す者よりも重い責任を取らされます。

魂が目覚め、霊力とともにもたらされる愛の恩恵に浴し、霊的真理の啓示を手にしながらも、なお自分中心の生き方をしている人は、その怠慢に対する罰がそれだけ大きくなります。無知ゆえに罪を犯したのではなく、真理を知りながら犯しているからです。人のために役立てるべき霊能を授かりながら、それを銀貨三十枚で売っている多くの霊媒・霊能者がいます。(イエスの弟子ユダが銀貨三十枚をもらってイエスの隠処を教え、それによってイエスの逮捕・処刑となり、ユダは自殺する。良心を裏切る行為のこと――訳注)

大霊はあなた方の内部に存在しています。進化の跡をたどれば確かに人間は向上しており、動物的進化の痕跡もとどめてはいますが、それは大霊の賜物(たまもの)の一部にすぎません。あなた方はそれをはるかに凌ぐ霊の資質を内部に宿しており、その力を発揮すれば地上にあっても神の如き生き方が可能となるのです。

一人ひとりの人間の内部には、いかなる病気も癒す力と、いかなる困難も克服する力が備わっているのですが、あなた方はまだそれを理解していません。人間は窮地に陥ったときに内部の貯蔵庫から霊力を引き出すことができます。このように神の王国は各自の内部にあるのですが、人々はそれをまったく理解していないのです。

その貯蔵庫から必要な霊力を引き出すためには、大霊(神)の摂理にのっとった生活に徹すればよいのです。しかし、果たして何人の人がそれを心がけているでしょうか。

人生は行為だけで成り立っているのではありません。口にする言葉や心で思うことも大切な要素です。行いだけが重要であると考えてはいけません。確かに行いが重要であることは事実ですが、言葉や思念も、あなたという存在の大切な一部なのです。よく言われるように、多くの人間が思想の主人ではなく、その奴隷となっています。


〔シルバーバーチがしばしば取り上げるテーマの一つが、地上人類は皆、肌の色に関係なく同胞であるということである。ある日の交霊会で次のように述べている。〕


私たちは一人の例外もなく大霊の一部です。そのうちのある者の肌を赤くし、ある者を黒色にし、ある者を黄色にし、ある者を無色(白色)にしました。しかし、こうしたことは大霊の計画の一端なのです。

いつの日か、大霊の摂理に対する理解が行きわたり、すべての肌の色の人々が混じり合い、互いに愛の心で睦み合うようになれば、地上に調和が訪れるようになります。あなた方は、肌の色の違いが意味するところを理解していません。異なる肌の色が与えられたことには重要な目的があり、それぞれが生命の摂理の成就に貢献することになるのです。すべての人種が一つに混じり合い、人間を肌の色で見分けるのではなく、その奥の魂で見分けるようになるまでは地上界に真の平和は訪れません。

このサークルが、地上のほとんどすべての人種から構成された一つの共和国になっていることにお気づきでしょうか。そこにはあなた方地上人に対する教訓があります。どの民族も他の民族にはないものを所有しており、そうした独自のものをそれぞれが持ち寄ることによって最高のものができ上がるのです。黄色人種には黄色人種ならではの貢献の場があり、白人には白人ならではの貢献の場があるということですが、地上人類は、こうしたことに理解が及んでいません。

あなた方は自らが大霊の一部であることを忘れてはいけません。あなた方一人ひとりが、大霊の仕事・大霊の力・大霊の愛・大霊の知識に貢献できるのです。例えば、自分よりも力の劣る人を少しでも向上させてあげようとするなら、大霊の力があなた方を通して顕現することになるのです。

それをいかなる形でするか、手を差し伸べる相手が誰であるか、どこで暗闇に光明をもたらすかは問題ではありません。挫折した人々を元気づけ、弱っている人々に力を与え、暗闇に光明をもたらし、飢えている人々に食べ物を施し、身を横たえる場所もない人々に休息の場を提供してあげることです。

それらの一つひとつが大霊の仕事の一部なのです。そうした努力をしていればどこにいても常に、あなた方を援助するための霊力がもたらされ、魂を鼓舞してくれます。そして、あなた方の想像を超えた結果を生み出すことになるのです。

大霊が働きかけるのは教会や大聖堂や寺院ではありません。霊力に反応する人がいれば、そこがどこであろうと大霊は誠意に燃えた高級界の霊団を派遣します。地上の人間はとかく大霊の働き場所を限定して考え、特別な資格を持った人々を通してのみ働きかけると思いがちですが、地上界へつながる通路さえあれば、どこであろうと、いつであろうと、誰であろうと、その通路を使って働きかけます。

霊力には地上的な差別――階級や肩書き、社会的地位や肌の色、国家や民族の違いなどは関係ありません。霊力に反応する人であれば、それが誰であろうと、そこがどこであろうと、高級界から霊力を注いで精神を明るく照らし、魂を鼓舞し、神のブドウ園の園丁(えんてい)として使用します。(「ブドウ園の園丁」は、マタイ伝の「神の国はブドウ園で働く人を雇うために朝早く出かける主人のようなものである」から――訳注)

どうかこのことをしっかりと学び、大霊と大霊の子供たちのためにという決意のもとに、暗闇と重圧と嵐と困難の中で苦しんでいる人々の重荷を少しでも軽くし、新たな希望・新たな知識・新たな光明・新たな力を届けてあげてください。そうすれば、それを授かった人は身体に新たなエネルギーが満ち、精神は勇気にあふれ、霊は生気を取り戻して、大霊から授かっている資質の素晴らしさを満喫することになるでしょう。

そしてあなた方は、自分自身には何も求めず、ひたすら他人の霊的向上のみを目的とする真の奉仕(サービス)の喜びを味わうことになります。


〔これまで地上人類に知らされていなかった“重大な秘密”が明かされる。〕


大霊は無限の存在であり、あなた方はその大霊の一部です。もしも完璧な信念を持ち、正しい人生を送れば、大霊の恩寵(おんちょう)にあずかることができます。

地上界のすべての人間が完璧な信念を持てば、大霊はそれぞれの願いを喜んで聞き入れてくださることでしょう。魂が真剣に求め、しかも大霊に対する絶対的信念に燃えていれば、必ずやその望みは叶えられることでしょう。

神(大霊)の摂理はそのようにして働くのです。摂理に順応した生活を送っていれば、望み通りの結果が生じるようになっています。結果が出ないということは、摂理に一致した生き方をしていないことを示しています。

歴史をひもといてご覧なさい。最も低い階級、最も貧しい環境にありながら、神の摂理に忠実に従う努力をしたために道を踏み外すことがなかった人たちがいます。摂理に合わせようとしないで、“なぜ神は働かないのか”と不平ばかり言っている人間を相手にしてはいけません。

時には押しつぶされて不遇から抜け出せないこともあるでしょう。しかし、完璧な信念に燃えていれば、いつかはきっと地上生活での困難を克服することができます。大霊の象徴である太陽に向かってこう言うのです――「私は大霊の一部だ。私を破滅させるものは何もない。私は永遠の存在だ。無限の可能性を秘めた存在なのだ。有限の物質界のものは決して私を傷つけることはできない!」と。もしこれだけのことが言えるようであれば、あなたが傷つくことは絶対にありません。

多くの人が心に不安や恐れを抱いて出発します。望み通りの結果が得られないのではないか、という不安です。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。しかし「完全なる愛は恐れを取り除く」(ヨハネ第一の手紙四)、「まず神の国とその義を求めよ。そうすればそれらのものはみな与えられるであろう」(マタイ六)との言葉があります。

これは、はるか遠い昔、摂理を完璧に理解した人物によって述べられた教えです。彼は、摂理を実践すれば常にその結果がともなうことを示してみせたのです。あなた方も、摂理が働くような条件を整えさえすれば、必ずや望み通りの結果が得られます。

もう一つ別の摂理をお教えしましょう。それは何の代価も支払わずに入手できるものは、この地上界には何ひとつないということです。代価を支払わずに霊的能力を開発することはできませんし、魂の富を蓄えることもできません。霊的成長をおろそかにして金儲けにうつつを抜かしていると、そちらの世界では金持ちと言われても、こちらの世界では哀れな貧しい魂になってしまいます。

人間はその内部に、何よりも貴重な「神性」を宿しています。あなた方は大霊の一部なのです。地上のどこを探しても、それに匹敵する宝や富は存在しません。私たちは、魂の内部の鉱脈を探査し、肉体的本性の奥に埋もれた霊のダイヤモンドをいかにして引き出すか、それをお教えしようとしているのです。

そのためには霊界の最高の界層のバイブレーションに反応するようになっていただかなくてはなりません。あなた方は決して一人ぼっちではないこと、周囲には常にあなた方を愛する大勢の霊たちがいて、見守り、導き、援助し、鼓舞しようとして待機していることを知っていただきたいのです。そうした中で霊性が開発されていくにつれて少しずつ大霊に近づき、摂理と調和していくようになることを悟っていただきたいのです。

あなた方は、大霊の子供である地上の同胞に奉仕することによって大霊に奉仕することになります。同胞のために役立つことをしているとき、大霊の無限の腕に抱かれ、その愛に包まれ、それが完全なる安らぎをもたらしてくれるようになります。

何の根拠もなく、ただ信じるというだけの信仰では、厳しい試練の嵐が吹けばひとたまりもなく崩れてしまいます。しかし、正しい霊的知識から生まれた信仰には確固たる土台がありますから、いかなる試練の嵐に遭っても揺らぐことはありません。

証拠を何ひとつ見なくても信じることができる人は幸せです。しかし、この宇宙が大霊の愛と叡智から生まれた霊的摂理によって支配されていることを信じることができる人は、なおいっそう幸せです。

その意味で、ここにおられる(ハンネン・スワッファー・ホームサークルの)皆さんは、霊的知識から生まれた完璧な信仰を持たなければなりません。皆さんは霊力の証(あかし)を手にしておられます。万事うまくいくという信念、大霊の摂理と調和して生きればそれ相当の実りを手にすることができるとの信念を持たなければなりません。

人間は“邪悪”と呼ばれるものの影響を受けてしまいます。しかしその邪悪なるものは、心の中から完全に追放することができるのです。なぜなら皆さんは、大霊とその摂理の保護のもとに生き、行動しておられるからです。

心に邪悪なものがなければ、善なるものしか近づきません。善なるものは、善なるものが支配するところにしか存在できないからです。霊界からこの交霊の場に訪れるのは大霊の使者のみです。恐れを持つ必要はありません。あなた方を包み込んでいる力、あなた方を支え導き鼓舞しようとしている力は、大霊から発しているのです。

その力が試練と苦難に際してあなた方を支えてくれます。嵐を鎮めて晴天とし、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれるのも、その力です。皆さんは進歩の正道をしっかりと踏みしめておられます。不安に思うことは何ひとつありません。

「完全なる愛は恐れを取り除く」とイエスは述べていますが、正しい知識は恐れを打ち払います。恐怖は無知から生じるものだからです。愛と信念と知識のあるところに恐怖は居すわることはできません。進化した魂は、いついかなるときも恐れることがありません。人生のどのような局面に際しても、自分は大霊であるがゆえに克服できないものはない、との確信があるからです。

恐怖心は魂の牢獄をつくります。ですから恐怖が頭をもたげかけたら、その波動に巻き込まれることなく、それを抑え込み、信念を持ってこう自分に言って聞かせるのです――「自分は大霊なのだ。地上の出来事で動揺などしない。魂に宿る無限の霊力でいかなる困難も凌いでみせる」と。あなた方は、あらゆる困難を克服する力を授かっているのです。その無限の力を見限ることがあってはなりません。

大霊の法則は、物的なものと霊的なものの両方を支配しています。宇宙という大霊の王国には、そうした区別はありません。物的生命を霊的生命から切り離して考えてはいけません。本来は別個のものではないのです。一つの大生命があり、それにいくつもの側面があるにすぎません。物的なものは霊的なものに反映し、霊的なものは物的なものに反映します。

大霊の摂理に一致した生き方をしているかぎり、克服できないような困難は生じないということを知らなければなりません。遭遇している困難や障害が取り除かれてしかるべきものであるなら、私たちの力で排除できないものはありません。

もしも苦しみが余りにも耐えがたく思われるときには、こう理解してください。私たち霊界の者は、あなた方の苦しみを取り除くために自分自身の進化の歩みを止めて努力します。しかしあなた方としては、その苦しみに耐え抜き、辛い体験を通して教訓を学び取る方が賢明であるということです。この短い地上人生のことだけを考えてはいけません。永遠の生命を視野におくことです。

物質界の人間も、物的であると同時に神性を宿していることを理解すれば、どれほど地上で生きやすくなることでしょう。悩みはたちまち消え去り、障害物も取り除かれることでしょう。ところが人間は内在している霊的な力を信じません。あなた方の言う“人間らしさ”とは地上界だけに属するものですが、霊力は大霊に属しているのです。

その昔、イエスは「地上を旅する者であれ。地上の住民となるなかれ」と言いました(聖書には見当たらないが、モーゼスの『霊訓』にも引用されているところをみると、事実そういう言葉を何度も述べたのであろう――訳注)。地上人は、お金を持っている人間ほど悩みがないと思いがちです。“悩み”というものが相対的なものであることに気がつかないのです。大霊の摂理を金銭でごまかすことはできません。

あなた方は人間性を強化するために地上界へ来ています。それがなされるかどうかは、遭遇する難問にどう対処するかによって決まります。内在する霊力によって克服できないような問題は、地上には生じません。なぜなら、いかなる難問もしょせんは地上的・物質的なものにすぎないからです。あなた方は大霊の一部であり、神性を宿していることを忘れてはなりません。

真の幸福とは、大霊と一体になった者に訪れる安らぎのことです。それは心が大霊のリズムで鼓動し、大霊の意思と一致し、魂と精神が大霊と一つになっている状態のことです。大霊の摂理と調和しているから安らぎがあるのです。それ以外に安らぎは得られません。

この私にできるのは、摂理についてお教えすることだけです。イエスは二千年前に、「天国はあなた方の中にある」と言いました。外部のどこかにあるわけではありません。ましてや物質界の喧騒の中には存在しません。それは魂の内部に見いだされるものなのです。

神の摂理は絶妙なバランスを保ちながら完璧に働いていますから、いかにそれをごまかそうとしても不可能です。どのような人間も、罰せられるべきものが見逃されたり、報われるべきものが見落とされたりするようなことはありません。物的な目で永遠を判断してはいけません。より大きなものを見ないで小さなものを裁いてはいけません。

束の間の地上的な喜びと永遠の霊的な幸福とを混同してはいけません。地上的な喜びは安っぽい一時(いっとき)のものにすぎません。あなた方は地上的な観点から考えがちですが、私たちは霊的な目で見ます。あなた方を喜ばせるために摂理を曲げて説くわけにはまいりません。

霊界から地上界へ戻ってきた者(交霊会で出現した霊)に尋ねてごらんなさい。誰もが「摂理は完璧です」と答えるはずです。そして二度と地上へは再生したがりません。

あなた方は外部に安らぎを求めようとしますが、私はあなた方の内部にある永遠の安らぎを見いださせてあげたいと努めています。最も価値あるものは内在する霊的宝なのです。

常に何かしら不満を抱いている人がいるものです。それは地上世界だけでなく、こちらの世界でも同じです。彼らが満足できないのは、自分がもっと完璧になれると思っているからです。神の道具として、まだまだ十分ではないと思っているからです。まさに人間は、自己との闘いを通して自らの不完全さを克服し、神性の開発が可能になるのです。

まだ為すべきことがありながら、満足していられるでしょうか。生きるうえで欠かせないものに不自由している物質界の子らを見て、安穏としていられるでしょうか。神の名のもとに間違った教えが説かれているのを聞いて、私たちが安心していられると思われますか。

光があるべきところに暗闇があり、自由であるはずの者が強欲さによって自らの魂をがんじがらめにし、地上界のどこもかしこも混乱し、無秩序な状態にあるのを見て、私たちが心を痛めずにいられると思われますか。

私たちは、あなた方を通して大霊の愛が地上界に流入するように努めていますが、いまだに多くの大霊の子らが本来受け取るべきものを得られずにいるのです。大霊は必要なものは十分に用意してくださっているのに、それを授からない人がいるのです。他の人間が飢えているのに、自分だけが満ち足りて平気でいるようでは、霊格が高い人間とは言えません。

私たちの仕事でいちばん辛いのは、時としてあなた方が苦しんでいるのを傍観しなければならないことです。その苦しみがあなた方の魂にとって必要な闘いであるために、私たちは手出しをすることが許されないのです。あなた方がその闘いに勝利すれば、それは私たちにとっても勝利であり、あなた方が敗北すれば私たちにとっても敗北なのです。あなた方の闘いは常に私たちの闘いであるにもかかわらず、あなた方を援助することは一切許されません。

時々、私は涙を流すことがあります。救いの手を差し伸べてはいけないことが分かっているからです。それが摂理だからです。そのときの私の苦痛は、苦しんでいる本人よりも大きいことを知ってください。

皆さんに代わって私が問題を解いてあげるわけにはいきません。それは皆さんの自由意志に干渉することになるからです。もし私が、この霊媒(バーバネル)にああしろこうしろと指示し始めるようになったら、それはこの霊媒の自由意志が失われたことを意味します。それきり彼の進歩は止まってしまいます。

あなた方一人ひとりの内部に宿された霊性が発達するのは、日常生活で生じる問題をいかにして解決していくか、その努力をしているときです。何もかも楽に片づいているうちは成長しません。

ただし、私にも干渉を許される場合があります。この霊媒を通じての私の仕事が妨げられるときには、チャンネルであるこの霊媒の自由を確保するために、邪魔を排除する手段を講じます。しかし、この霊媒の霊性の進化に関わることはすべて本人の自己責任ですから、あくまでも霊媒自身の努力で解決していかなければなりません。


〔別の日の交霊会で――〕


霊的真理を説く人には、大きな責任が背負わされています。もしその責任に反するなら、地上生活の間に、または死後にその代償を払わなければなりません。

時おり私がうんざりさせられるのは、霊界からの“高度な教え”を求めるだけで、何ひとつ困っている同胞のために手を差し伸べようとしない人間がいることです。人は成長するにつれて霊的真理と大霊の摂理を深く理解するようになっていきます。

真理の追求ばかりしている人たちが、少しでも地上を明るく住みやすい世界にするために、人々への奉仕に立ち上がるなら、それこそ“最高の教え”を実践することになるのですが……。


〔地上界の問題の大半は自由意志の使い方を誤っていることから生じていることを強調して――〕


人間は戦争が起きると、「なぜ大霊は戦争をやめさせないのか」とか「なぜ未然に防いでくれないのか」と思うようですが、大霊の摂理を無視している以上、責任は人間自身にあるのです。

行為が生み出す結果は絶対に避けられません。私たちには、大霊の摂理を変えることはできません。蒔いた種が生み出す結果は、自分で刈り取らなければならないのです。利己主義という種を蒔けば、それ相当の結果を刈り取らなければなりません。高慢・嫉妬・怨恨(えんこん)・貪欲・敵意・不信・猜疑心(さいぎしん)――こうしたものがつもり積もって、戦争・困窮(こんきゅう)・不和といったものを生み出します。

私たちは大霊の摂理をお教えしようと努力しているのですが、私たちが地上界へ降りてきた目的を理解できない人たちから、しばしば非難されます。しかし私たちには、大自然の摂理を明かすこと以外には何の意図もありません。というのは、地上界を支配しているのは大霊の摂理以外の何ものでもないからです。それを“宗教”と呼ぼうと“科学”と呼ぼうと“哲学”と呼ぼうと“神の自然法則”と呼ぼうと同じことです。

摂理に逆らった生き方をする人は、一人の人間であろうと大勢の集団であろうと、民族であろうと国家であろうと、いつかはその代償を払わなければなりません。摂理の働きが完璧であることはいつも説いている通りです。その働きは人間の目には見えないかもしれませんが、原因と結果は常に連鎖しています。摂理がそのようになっているからです。何度も述べてきたことですが、それを改めて説くのは大霊の摂理がすべてだからです。

私たちは、大霊(神)とは何かを明らかにしようとしていますが、それは摂理を通して大霊を明らかにすることにほかなりません。私たちは、大霊の摂理をお教えしようとしているのです。それによってあなた方は、摂理と調和した生活が可能になります。もちろん自由意志が与えられていますから、摂理に従うか否かはあなた方の選択に任されています。一個人であろうと集団であろうと同じことです。

何事も摂理にのっとって行動し、それに反することがないようにしなければならないという認識が行きわたるまでは、地上界に混乱と破滅と惨事が絶えることはないでしょう。

私たちとしては、永遠の霊的真理をお教えすることしかできません。なぜなら霊的真理だけが、物的なものが崩壊しチリとなったあとも存在し続けるからです。物的なものだけに目を奪われている者は大きな過ちを犯しています。幻影を追いかけ、永遠の実在を忘れているからです。霊的真理といっても至って単純なことばかりです。それなのに地上界の人間は、いまだに真理を理解していません。

苦痛と落涙、流血と悲しみを通してしか霊的真理を学べないというのであれば、それもやむをえないでしょう。私としては、できることなら私たちが示してきたように愛と奉仕の精神を通して学んでほしいところです。しかし、それができないとなれば、摂理に反した生き方に対する代価(痛み)を払って学ぶしかないでしょう。

地上界で大人物と言われた人が霊界でも大人物と言われるわけではありません。こちらの世界での偉大さは、魂の偉大さ・霊性の高さ・奉仕精神の豊かさで計られます。これらは物的世界での輝きが消滅したあとも末永く存在し続けます。

自由意志は大霊から授かった権利です。が、その使用を誤ると代償を払わなければなりません。摂理にのっとった生き方をすれば豊かな恩恵を手にすることになります。もし摂理に反した生き方をするなら、それ相当の結果を刈り取らなければなりません。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱を招きます。

私たちは、本来なら大霊の子供たちの教育者であるべき立場の人々から軽蔑されています。私たちが大霊と大霊の愛の名のもとに地上へ降りてきたために、私たちを歓迎するはずの人間から拒絶されています。私たちは「お役に立ちたい!」との願望に燃えて、あなた方が自ら地上世界を救うための摂理と霊力についてお教えしようとしているのですが……。

霊的無知に浸りきり、儀式や作法に取り囲まれ、さらには神の霊力が今日でも地上界に注がれていることを否定するようでは、その代償を払わざるをえません。(英国国教会では神は紀元六六年まで地上に働きかけ、それ以後はいかなる働きかけもしないという信仰がある――訳注)

私たちは人のために役立つことを願う人々の味方であり、破壊をもくろむ者たちにとっては敵なのです。私たちは、手助けすることができる所ならどこへでも、愛と奉仕の翼に乗って降りてまいります。それこそが、私たち全員が果たさなければならない仕事だからです。

それには困難と障害が立ちはだかることは覚悟しています。しかし、私たちは必ず克服します。潮流のように満ち干を繰り返すことでしょうが、最後は必ず勝利します。

私たちだけでは大きな仕事はできませんが、あなた方地上の人々と協力すれば、幾ばくかの仕事はできます。一個の魂を引き上げ、暗闇にいる人に光明をもたらし、弱っている人に力を貸し、逆境に喘ぐ人を慰めてあげるなら、そのとき私たちは価値ある貢献をしたことになるのです。


〔一人ひとりの人生上の出来事には明らかな傾向が見られるという意味において、自由意志にも制約があると言えるのか、と問われて――〕


一定の傾向があるのは事実ですが、それは宿命的にどうしようもないものではありません。人間はさまざまな放射物や影響力に取り囲まれていて、その多くが人間の運命に何らかの影響を及ぼしていることは事実です。しかし、大霊は人間の一人ひとりにご自身の一部・霊性の一部を与えてくださっており、各自の進化のレベルに応じて自由意志を適切に行使すれば、霊性開発の道で生じるいかなる障害も克服できるようになります。あなたが大霊であり、大霊があなたなのです。

大地に蒔かれた種子は、その成長を正しく促すものを与えれば芽を出し、成長し、見事な花を咲かせます。それと同じで、あなたという存在の中に大霊の種子が植え込まれているのです。あなた自身が庭師です。その種子が花を咲かせられるかどうか、あるいはいつ花を咲かせるかは、あなたの手入れ一つにかかっています。そこにあなたの自由意志が関わっているのです。

せっかくの種子を暗闇の中に置き去りにして、魂の成長や慈悲や無私の善行という光を与えなければ、大霊があなたを通して顕現することにはなりません。


〔苦難の価値について問われて――〕


あらゆる体験が、あなた方の永遠の人生模様の一部を構成します。あなた方はとかく、この世だけの出来事によって永遠の人生を判断しようとします。目に見える物質世界の混乱状態だけで判断し、地上生活のすべてを通して一本の神聖な糸が貫いていることが理解できません。

調和を基本的摂理とするこの大宇宙においては、あなた方一人ひとりが大霊の計画に貢献しているのです。地上生活には、時として辛さと絶望、痛みと悲惨さがともないますが、そのすべてが魂にとって永遠の旅路に向かうための準備なのです。

暗黒と光、陰と日向(ひなた)といった対照的なものも、実は一個の統一体の反映にすぎません。陰なくしては光もあり得ず、光なくしては陰もあり得ません。それと同じで、困難は魂が向上するための階段です。困難・障害・ハンディキャップ――こうしたものは魂の試練なのです。それを克服したとき、魂はより強くなり、より純粋になり、より深くなり、いっそう進化するようになるのです。

無限の可能性を秘めた魂の潜在能力が、困難も苦痛もなく、陰も悲しみも悩みも悲惨さもなしに発現すると思われますか。発現するはずはありません。

悲哀の極みをなめ尽くして初めて、魂の奥底からの喜びが味わえるのです。生命の階段を低く下りるほど、それだけ高く上がれるのです。地上人生の陰と思える体験を重ねるほど、日向の喜びがひとしお身に沁みるようになるのです。

すべてのことが霊性進化の肥やしになります。そのうち皆さんも、肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上人生を振り返るときがまいります。その時、紆余曲折した出来事の中で、それらの一つひとつがちゃんとした意味を持ち、すべての体験が皆さんの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出すことになっていたことを理解するようになるはずです。

魂にとって、正しく理解し正々堂々と立ち向かって何の益ももたらさないような体験は一つもありません。いったい、困難も試練も問題もない物質世界というものが想像できるでしょうか。そうした世界では何の進化も得られません。克服すべきものが何もないからです。あるのは堕落のみです。

Sunday, April 28, 2024

シアトルの春 家族的情愛の弊害

The Evils of Familial Affection



一九一三年十二月二二日  月曜日

 子供のための施設と教育についてはこの程度にして、引き続きその見学旅行での別の話題に移るとしよう。

 そのあと私は数少ない家がそれなりの小さな敷地をもって集落を作っている村に来た。

そうした集落が幾つかあり、それぞれに異なった仕事を持っているが、全体としてはほぼ同程度の発達段階にある者が住んでいる。その領土の長が橋のたもとで私を迎えてくれた。その橋の架かった川は村を一周してから、すでに話の出た例の川と合流している。

挨拶が終わると橋を渡って村に入ったが、その途中に見える庭と家屋がみな小じんまりしていることに気づいた。私はすぐその方にその印象を述べた。


──その方のお名前を教えてください。

 Bepel(べぺル)とでも綴っておくがよい。先を続けよう。

 ところがそのうち雰囲気に豊かさの欠ける一軒が目にとまった。私はすぐにその印象を述べ、その理由(わけ)を訪ねた。と申すのも、この界層においてなお進歩を妨げられるには如何なる原因(わけ)があるのか判らなかったからである。

 ベペル様は笑顔でこう話された。「この家には実は兄と妹が住まっておられる。二人はかなり前に八界と九界から時を同じくしてこの界へ来られたのですが、それ以来、何かというと四界へ戻っている。

そこに愛する人たち、特に両親がおられ、何とか向上させようという考えからそうしているのですが、最近どうも情愛ばかりが先行して、やってあげたいことが環境のせいもあって思うに任せなくなって来ています。

両親の進歩が余りに遅く、あの調子ではこの界へ来るのは遠い先のことになりそうです。

そこで二人は近頃はいっそのこと両親のいる界へ降り、いっしょに暮らすことを許す権限を持つ人の到来を待ち望んでいるほどです。常時そばに居てあげる方が両親の進歩のために何でもしてあげられると考えているようです。」

 「お二人に会ってみましょう」──私はそう言って二人で庭に入って行った。

 こうしたケースがどのような扱いを受けるか、貴殿も興味のあるところであろう。ともかくその後のことを述べてみよう。

 兄は家のすぐ側の雑木林の中にいた。私が声を掛け、妹さんはと尋ねると、家の中にいるという。そこで中へ入らせてもらったが、彼女はしきりに精神統一をしている最中であった。第四界の両親との交信を試みていたのである。

と申すよりは、正確に言えば援助の念を送っていたと言うべきであろう。なぜなら、〝交信〟は互いの働きかけを意味するもので、両親には思念を〝返す〟ことは出来なかったからである。

 それから私は二人と話を交わし、結論としてこう述べた。「様子を拝見していると、あなた方がこの界で進化するために使用すべき力がその下層界の人達によって引き留められているようです。

つまり進歩の遅い両親の愛情によってあなた方の進歩が遅らされている。もしもあなた方がその四界へ戻られ、そこに定住すれば、少しは力になってあげられても、あなた方が思うほど自由にはならない。

なぜかと言えば、いつでもあなた方が身近にいてくれるとなれば尚のこと、今の界を超えて向上しようなどと思うわけがないからです。

ですから、そういう形で降りて行かれるのは感心しません。しかし愛は何より偉大な力です。その愛がお二人とご両親の双方にある以上、これまで妨げになってきた障害を取り除けば大変な威力を発揮することでしょう。そこで私から助言したいのは、あなた方は断じてこの界を去ってはならない。

それよりも、これから私と共に領主のところへ行って、現在のあなた方の進歩を確保しつつ、しかもご両親の進歩の妨げにならない方法を考えていただくことです。」

 二人は私に付いて領主のところまで行った。まず私が面会してご相談申し上げたところ、有難いことに大体において私の考えに賛同して下さった。そして二人をお呼びになり、二人の愛情は大変結構なことであるから、これからは時折この界より派遣される使節団に加わらせてあげよう。

その時は(派遣される界の環境条件に身体を合わせて)伝達すべき要件を伝える。その際は特別に両親にもお二人の姿が見え声が聞こえるように配慮していただこう。

こうすれば両親も二人の吾が子のいる高い界へ向上したいとの気持ちを抱いてくれることにもなろう、ということであった。

 これに加えて領主は、それには大変な忍耐力が要ることも諭された。なぜならば、こうしたことは決して無理な進め方をすべきではなく、自然な発展によって進めるべきだからである。二人はこうした配慮を喜びと感謝を込めて同意した。

そこで領主はイエスの名において二人を祝福し、二人は満足して帰っていった。

 このことから察しがつくことと思うが、上層界においても、地上界に近い界層特有の事情を反映する問題が生じることがあるのである。又、向上の意欲に欠ける地上の人間がむやみに他界した縁故者との交信を求めるために、その愛の絆が足枷となり、いつまでも地上的界層から向上できずにいる者も少なくないのである。

 これとは逆に、同じく地上にありながら、旺盛な向上心をもって謙虚に、しかも聖なる憧れを抱いて背後霊と共に向上の道を歩み、いささかも足手まといとならぬどころか、掛けがえのない援助(ちから)となる者もいる。

 これまでに学んだことに加えて、この事実を篤と銘記するがよい。すなわち地上の人間が他界した霊の向上を促進することもあれば足手まといとなることもあり得る、否、それが必然的宿命ともいうべきものであるということである。

 この事実に照らして、イエスがヨハネの手を通して綴らせた七つの教会の天使のこと(黙示録)を考えてみよ。彼ら七人の天使はそれぞれが受け持つ教会の徳性により、あるいは罪悪性により、自らが責任を問われた。イエスが正確にその評価を下し、各天使に賞罰を与えたのである。

それは人の子イエスが人類全体を同じ人の子として同一視し、その救済をご自分の責任として一身に引き受けられているように、各教会の守護天使はその監督を委ねられた地域の徳も罪も全て吾が徳、吾が罪として一身に責任を負うのである。

共に喜び共に苦しむ。わが事のように喜び、わが事のように悲しむのである。イエスの次の言葉を思い出すがよい。曰く「地上に罪を悔い改める者がいる時、天界には神の御前にて喜びに浸る天使がいる」と。

私は一度ならず二度も三度も、否、しばしばその現実の姿を見ているのである。そこで、それに私からこう付け加えておこう───明るき天使も常にお笑いになっているのではない。高らかにお笑いになるし、よくお笑いになる。

が、天使もまた涙を流されることがある。下界にて悪との闘いに傷つき、あるいは罪に陥る者を見て涙を流し苦しまれることがある、と。

 こうしたことを不審に思う者も多いことであろう。が、構わぬ。書き留めるがよい。吾々がもし悲しむことが無いとすれば、一体何をもって喜びとすべきであろうか。 ♰


 

Saturday, April 27, 2024

シアトルの春 スピリチュアリズムが目指す新しい世界

The new world that spiritualism aims for

〔人類が霊的法則を学び、その指示に従って生きるようになったときの世界は、どのようなものであろうか。新しい世界は一人の独裁者、一つの政府、あるいは国際連盟のような組織によってコントロールされる性質のものではないことは明らかである。人間一人ひとりによる努力の結果として誕生するものであろう。そのときの喜びがいかなるものであるか、それをシルバーバーチに語ってもらおう。〕


地球人類は今まさに危機の真っ只中にあります。何事につけ誕生には苦しみがともなうものですが、新しい秩序の誕生にも大きな苦しみがともないます。その誕生が近づくにつれて苦痛も増大してきます。

しかし間違いなく言えることは、新しい世界の種子がすでに地上界に根付いているということです。既得権力の座に安住している者たちがいかなる策を弄(ろう)しても、それは功を奏さないでしょう。イエスは、「天に為される如く地にも為されるであろう」と二千年前に述べています。それが実現しようとしているのです。

これから地上には、いくつもの大きな変化が生じます。崩壊や多くの大変動があるでしょう。皆さんには暗黒と苦難の時代の到来のように思えるかもしれません。「たいへんな時代になった」と、おっしゃるかもしれません。しかし、そうした変動の背後には、地上世界を進化させようとしている大きな力が存在しているのです。

地上世界のための仕事に従事している私たちの多くは、より高い界層の霊たちによって、いつの日か地上はこうなるという未来像を見せていただいております。私たちは、その計画を受け入れる能力のある地上の同志に伝え、仕事を行っていくように彼らの心を鼓舞しているのです。私が見せていただいた未来像に比べると、現在の地上世界はとても醜く見えます。が、私には地上世界はこんなにまで立派になり得るのだ、こうでなければならないのだ、ということが分かっています。あとは時間の問題です。

そのうち、政治も宗教も科学も学問も、ある一つのものの側面にすぎないことが理解できる新しい人類が現れることでしょう。そのときは苦悩や嘆きや恐れ、喪の悲しみや不幸が追放され、笑顔と笑い声が満ちあふれる世界となるでしょう。しかし、現段階の地上世界で最も偉大な人間とは、他人の悲しみを取り除き、人生をより良くしてあげられる人のことなのです。

これまで人間は、何か良いものを手に入れると、それを他人のために使用せずに独り占めしようとしてきました。そしてそうした間違ったあり方ゆえに、いずれ崩壊するに違いない社会システムを構築しようとしてきたのです。しかし大霊からいただいた資質を発達させ、それを他人のために役立てる方向で使用するようになれば、永遠なるものを基盤とした社会システムが構築されるでしょう。

私たちが説いている教えは決して新しいものではありません。霊的な視野を持つ人々がずっと説き続けてきた、古くからある真理です。それをほとんどの人間が顧みようとしなかったために、私たちが改めて説き、大霊の教訓を学ぶように導く必要性が生じたのです。人類は自らの間違った考え方による愚行から、地上界を破滅の寸前にまで追いやっています。

今こそ人類は、大霊とその摂理へ回帰しなくてはいけません。いや、すでに回帰しつつあります。私の目には、ゆっくりとではありますが、大霊の摂理が地上界に具現しつつあるのが見えます。

何よりもまず人類が学ばなければならないのは、大霊の恩寵(おんちょう)は皆で分け合わなくてはいけないということです。現在の地上には、今日の食べ物にも事欠く人がいる一方で、度を超した飽食に走っている人がいます。もちろんこれは間違っています。あり余るほど持っている人は、足りない人に分けてあげなくてはいけません。別に難しいことではないと思うのですが……。

あなた方は、既得権を打破しなければなりません。摂理は完璧です。あなた方が自分のことを忘れて他人のために奉仕しようとするとき、あなた方を通して大霊が働くのです。それはあなた方だけでなく、すべての人間に言えることです。そんなことは無理ですとおっしゃるかもしれませんが、私は可能だと申し上げます。それが人間としての唯一の正しい生き方だからです。摂理は完璧であり、ごまかすことはできません。あなた方は摂理を学び、それを実行に移さなくてはいけません。

長いあいだ人類は、本当は取り壊すべきものを構築することに自由意志を行使してきました。しかし今、ゆっくりと地上の闇に大霊の光が射し込み、混乱と無秩序の中から新しい世界が生まれつつあります。そこにはもはや、不平等も不正もなく、持つ者と持たざる者といった差別もなく、大霊からの賜物(たまもの)がすべての子らに平等に分け与えられるようになることでしょう。

そうした新しい世界の夜明けを、どのような言葉で呼んでもかまいません。それは大霊の力によって成就する世界であり、新たな喜び、新たな人生、新たな幸せを地上にもたらそうとする大霊の意思に忠実な人間の努力によって、これ以上、霊界へ“出来損ない”(死後に「地縛霊」となってしまうような人間――訳注)を送り込まなくなる世界です。

時として、その努力が無駄に終わっているように感じられるかもしれません。しかし常に、世界中のあらゆる所でさまざまな人々が、自覚するしないに関わりなく霊界の道具として新しい世界の夜明けのために活用されているのです。大霊は、我が子が破滅の道へ向かうのを黙って見ていることはできません。私があなた方に繰り返し援助をお願いするのは、人類の悲劇に終止符を打つためです。新しい世界を築くための努力を“政治”と呼ぶかどうかは、私には関心はありません。私たちの仕事は、これからも続いていきます。霊界と地上界が協力して進めていく仕事です。もはや、それを阻止することはできません。

そうした私たち(霊界と地上界)の努力によって、物質界の至るところで大きな仕事が成し遂げられていることを誇りに思っています。地上の暗闇に光が射し込み、悲しみに暮れていた心に喜びがもたらされるようになっています。まだわずかではありますが、無知に代わって知識が存在するようになっています。私たちは、生きる気力を失った人々を助け、人生に疲れた人々に勇気を与え、進むべき道を見失った人々を導いています。そして地上の同胞のために働いている人々を鼓舞し、大霊とその子らのための仕事をするすべての人間の背後には、強力な霊の大軍が控えていることを理解させようとしているのです。

私はまた、皆さんが愛し、皆さんを愛している霊界の人々をこのサークルに連れてこられたことを嬉しく思っています。あなた方は、彼らを失ったのではありません。死は、愛と友情で心が一つになっている者たちの間を引き裂くものではなく、両者は変わらず結ばれていることを、これまで以上に実感することでしょう。

私たち霊団の影響力がどれほど拡大しているかを、あなた方にお見せできないのが残念です。私たちは障壁を壊し、障害物を取り除き、知識をもたらすために働いています。地上世界が必要としているものは、人類を霊的に、精神的に、そして物質的にも自由にしてくれる単純な真理です。ご存じのように私たちは、ただ奉仕するためだけに歩んでいます。無償の奉仕、それのみが地上人類を救うことになるからです。

ここで改めて申し上げておきたいのは、私はただの“道具”にすぎないということです。私は、人間は全生命を生み出した大霊の一部であるという単純な霊的真理をあなた方に悟らせたいと願っている多くの霊たちの一人にすぎません。大霊はあなた方の内部に存在しています。あなた方は神聖なる賜物を与えられており、その潜在的神性が宿っているからこそ大霊の恩寵にあずかる資格があるのです。その神性を妨げる障害物や慣習は、一掃しなければなりません。私たちの仕事は魂と精神を自由にするだけでなく、身体的にも自由にすることを目的としているのです。

そうした仕事に私たちは献身してきました。それが私たちが成し遂げようとしてきた奉仕(サービス)なのです。私は大霊の道具として、人類を救うことになる真理を皆さん方に届けるという特権にあずかったことを光栄に思っています。私が皆さんと一緒に奉仕の仕事に携わってきて何年かになりますが、その仕事はこれからもまだまだ続きます。地上界の皆さんと霊界の私たちの協力によって、地上人類がどうしても必要としている救いをお届けしてまいります。あなた方はすでに知識を持っています。霊的真理を手にしています。真理を知った者には、それを実践に移す責任がともないます。その責任を果たしてこそあなた方は、より優れた大霊の道具になれるのです。

あなた方が手にしている真理に疑念が向けられたときは、それには「神から授かった真理」の刻印が押されていることを常に思い出してください。私たちは、あなた方人間の理性だけに訴えています。私たちがお届けするメッセージは、あなた方の品位を落としたり、知性を侮辱(ぶじょく)したり、奉仕精神と善意を持った正直な生き方に背を向けさせるようなことはありません。それどころか、人間に内在する神性に気づかせ、大霊とのつながりを自覚させるものです。そしてあなた方の日常の行為のすべてを律し、全生命の始原である大霊を顕現させることができるように導くものなのです。

霊的真理の重要性を理解している人たちが一致団結して、物質界に立ち込めている無知の霧を晴らすためにその力を使用すれば、どれほど大きな仕事ができることでしょうか。善意と救済と奉仕の勢力(霊界の軍団)は常にあなた方の味方であることを自覚して、自信を持って前進してください。

私たちの前途には奉仕(サービス)の分野がいくらでも広がっています。私たちの行く手には、古い慣習を捨て、過去の信仰に頼らず、懐疑に耐え得る真理を求めながらも、どこへ向かえばよいのか分からずに迷っている多くの人々を救うことができるという喜びが待っているのです。そうした人々にこそ霊的真理と霊的摂理をお届けするのです。内部に宿る霊的資質に気づかせ、自分たち自身も大霊であるということを理解させてあげるのです。それによって彼らは、激怒し復讐心に燃える神の前にひれ伏すような卑屈な信仰を捨て去るようになります。

大霊の子らのために奉仕しようと努力している地上の同志の背後には、協力関係を求める巨大な霊的勢力が控えていることを知っていただきたいのです。そして霊的真理を武器として、あらゆる迷信、あらゆる邪悪と戦い、尊い真理の光で地上界を照らしていただきたいのです。

私たちは地上に霊力をもたらします。地上の同志を鼓舞し、導き、心の支えとなります。飢えた魂にエネルギーを注ぎ、病(やまい)に苦しむ人に癒しを与え、すべての人にインスピレーションと啓示と真理と叡智をもたらします。それが私たちの仕事なのです。

人間の側に理解力と受容力が備わっていれば、それに応じて霊力で満たしてあげることができます。私たちは、教会に属していようといまいと、どこかの宗教に属していようといまいと、科学者であろうと唯物論者であろうと哲学者であろうと、人類の霊的向上のために貢献したいと願うすべての人々との間に協力関係を築きたいと切望しているのです。

Friday, April 26, 2024

シアトルの春 霊界を挙げての大計画

A grand plan involving the spirit world

〔シルバーバーチはここで、霊界通信の背後にある(世界的規模の)計画について語っている。〕


私たちが携わっている仕事には重大な目的があります。絶対不変の摂理の存在を証明すると同時に、地上の人間に慰めを与え、霊的知識を広めるという目的があるのです。物質を超えた法則の存在を示すだけでなく、霊的真理を明らかにすることも私たちの仕事なのです。

その仕事の前途に立ちはだかるのは、誤った宗教的教義によって築かれた巨大な組織です。何世紀にもわたって続いてきたものを元に戻さなくてはなりません。偽りの教義を土台として築かれた上部構造を取り壊さなくてはならないのです。

私たちは物質世界の子供たちがどのようにすれば霊的真理の光に浴し、伸び伸びと生きることができるか、どのようにすれば人間的産物である教義への隷属状態から脱け出せるかをお教えしようとしているところです。もとよりそれは容易な仕事ではありません。なぜなら、いったん宗教的束縛を受けるようになると、迷信の厚い壁を真理の光が突き抜けるには、永い永い時間を要するからです。

私たちは常に霊的真理の宗教的意義を示そうと努めています。なぜなら地上人類がその霊的な重要性を認識すれば、戦争や流血による革命よりも、はるかに大きな革命が生じるからです。それは“魂の革命”と呼ぶべきものです。地上のすべての人間が霊的存在としての本来の権利――霊の自由を享受する権利を手にすることになります。そのときには何世紀にもわたって人々の魂の足かせとなってきたものが、すべて取り払われることでしょう。

私たちが忠誠を尽くすのは、一つの教義ではなく、一冊の書物でもなく、一つの建造物でもなく、生命の大霊とその永遠なる摂理です。

いずれ、強大な霊力が物質界へと流入します。あらゆる国において、その威力を感じ取ることができるようになります。地上世界の利己主義と無知を駆逐するという重大な仕事には多くの苦労がともないますが、いつかは必ず成就します。

あなた方の味方として、数えきれないほどの霊が差し向けられております。その中には、あなた方がよく知っている人々もいます。血縁でつながっている人もいれば、あなた方への愛の念から馳せ参じている人もいます。またそれ以外に、あなた方とは縁もゆかりもない人々で、自分の存在を知ってもらいたいとも功績を認めてもらいたいとも思わず、ただひたすら自分を役立てたいとの願いから参加している霊が無数にいることを忘れないでください。

地上世界は、サウロがダマスカスへ向かう途中で体験したという目が眩(くら)むような閃光(せんこう)で一気に改革されるものではありません。霊的真理に目覚める人の数が増し、大霊の霊力の道具が増えるにつれて、少しずつ霊的な光明が地上界に行きわたるのです。


訳注――サウロ、のちのパウロは、もとはキリスト教徒に対する迫害の急先鋒で、いよいよ聖地エルサレムで教会を徹底的に破壊する目的で旅に出た途中、ダマスカス近くにおいて突然、天から光が降ってきて彼を包み、彼は目が眩んでその場に倒れた。すると「サウロよ、何ゆえにそなたは私をそうまで迫害するのか」というイエスの声が聞こえた。彼の目はそのまま三日間も見えず、飲み食いもできないほどだったという。この体験がもとで、サウロは後にキリスト教初期の最大の伝道者となっていく。

霊に関わることは慎重な配慮による養成と進歩を要します。急激な変心は永続きしません。私たちの仕事は永続性を目指しています。一人また一人と大霊の道具となり、暗闇から光明へ、無知から知識へ、迷信から真理へと這い出ることによって地上界は進歩するのです。その一人ひとりが物質第一主義の棺(ひつぎ)に打ち込む一本のクギなのです。

人間の発達には二種類あることを知らなくてはいけません。精神に関わるものと霊に関わるものです。前者は心霊的(サイキック)能力の発達にすぎませんが、後者は魂そのものの成長です。サイキック能力が発達しても魂の成長がともなわなければ、低いバイブレーションの仕事しかできません。両者がうまく結びついたときには、優れた霊能者であると同時に、偉大な人格を備えた人物となります。

私たちは、素晴らしいメッセージを地上という物質界へお届けしているところです。それは人間を真の意味で自由にし、大霊から授かった資質をありがたいものだと思わせてくれるメッセージです。あらゆる束縛や足かせを捨て去る方法を教え、霊的知識を満喫させてくれるメッセージです。物質界だけでなく死後の世界にも通用する生き方を教えてくれるメッセージであり、美と愛と叡智、理解力と真実と幸せをもたらしてくれるメッセージです。そして「人のため」というサービスの精神を説くメッセージなのです。

それなのに私たちは、大霊の啓示が理解できない人たちによる拒絶に遭っております。彼らは、いつの時代にもそうであったように、霊というものの存在を否定します。

しかし私たちの行っている仕事は、今後ますます必要性を増していきます。地上世界は流血と苦悩の涙と敵意にあふれています。霊的無知の中で地上人は、神の摂理にそって生きるのではなく暗黒と絶望へ向かう道を選択してしまいました。

そこで私たちが、希望と光明、安らぎと調和へと導く叡智をお教えしようとしているのです。それを地上の人間は無知ゆえに軽蔑します。私たちが届けようとするメッセージを拒絶し、霊力の働きかけを否定します。しかし、そうした態度にかまわず、真理は確実に地上に広がっていくことになります。大霊を始原としているからです。

神の摂理に逆らった生き方をする人は、自ら苦い結果を刈り取らなければなりません。摂理に素直に従って生きる人は、物的な面においても霊的な面においても、幸せと豊かさを手にすることになります。

地上界に蔓延している暗黒の中にあっても決して希望を失うことなく、人類の霊的成長のためにあなた方とともに働いている霊たち、物質界を少しでも良くしようと心を砕いている霊たちは、必ずや勝利するとの信念に燃えてください。それは宇宙で最強の力だからです。

価値あるものは苦難と悲哀なくしては成就しません。その教訓を地上人は、体験という唯一の方法によって学ばなければなりません。私たちは物質界の全側面に突破口を開こうと努力しているところです。私たちのメッセージが各分野の人々の心を明るく照らし、霊の光が広がるにつれて唯物主義の暗闇が消滅していきます。

私たちは、神の懲罰という脅(おど)しをちらつかせてあなた方を怖がらせようとしているのではありません。あなた方を、不安におびえて人生を歩むような臆病者にさせようとしているのではありません。私たちは、人間の内部に存在している神性に気づかせてあげることで、あなた方が大霊をもっと顕現させ、さらなる高みへと自らを引き上げ、その心がより高次の真理と知識で満たされるように努めているのです。

これまでに得たもので満足してはいけません。良い意味での不満と向上心が、より大きな知識を呼び込むことになるのです。手にしたものに満足してしまう者は、そこで留まってしまいます。満足できない者が、より大きな自由を求めて苦闘するのです。

「理屈を言ってはいけません。ただ信じればよいのです」――私はそんなことは申しません。反対に「神が与えてくださったもの(知的思考力・理性)を存分に使って私を試してください。しっかり吟味してください。そして、もしも私の言うことに卑劣なこと、酷(ひど)いこと、道徳に反することがあれば、どうぞ拒否してください」と申し上げます。

私たちは常に、崇高な生き方、高い理想を求める献身的な生き方を説いています。私たちの教えには、大霊の刻印が押されています。

もし私たちが、たった一個の魂を引き上げてあげることができたら、喪の悲しみに沈んでいる魂に慰めを与え、意気消沈している魂に希望を与え、人生に疲れきった魂に生きる力を与えてあげることができたら、それだけで十分に価値ある仕事をしたことになるのではないでしょうか。

私たちがお届けするメッセージに困惑する人々、教義に縛られているために逃れようにも逃れられず、それでいて“自由”の呼び声が聞こえて必死にもがいている多くの人々がいることを思い起こしてください。

私たちのメッセージは、そうした人たちを意図したものです。そのメッセージが魂に大きな刺激を与えるのです。すべての真理は(進歩のための)踏み石にすぎません。

今こうして語っている霊媒の口から、皆さんの理性が反発を覚えるようなこと、大霊の愛と矛盾するようなこと、愚かしいこと、皆さんの知性を侮辱(ぶじょく)するようなことが聞かれるようになったら、それは私の失敗を意味します。そして私の時代は終わりを告げることになるでしょう。

何度も申し上げてきたことですが、私自身としては皆さん方の魂の最も崇高な願望に反するようなことは何ひとつ述べたことはないつもりです。私たちは常に、あなた方の内部にある最高のものに訴えるように心がけています。

地上の人間は、自分自身の魂を救済することを学ばなければなりません。そのための既成の方法というものはありません。前もって用意された型通りのシステムというものはないのです。あらゆる生命現象の背後に永遠の実在としての霊が存在していること、人間も物的身体に宿っているという点では物的存在であっても、その身体を通して自我を表現している霊的存在であることを理解しなければなりません。

まず、生命を維持するために必要なすべてのものを大霊の意図している通りに存分に摂取して、肉体を健康にしておくことです。そのうえで、既成宗教のドグマや信条の束縛から精神を解放しなければなりません。無意味なもの、霊的価値のないものに忠誠を尽くすことなく、真実のためにのみ働き、これまで何千年もの永きにわたって地上人類を束縛してきたドグマ(教義)をめぐる戦争や論争や不和をなくさなければなりません。

私たちは、大霊を共通の父として全人類が霊的に同胞であるという福音を説きます。その福音の理解を妨げるのがこの世的な概念であり、間違った土台の上に建てられた教会であり、既得権力の横暴であり、狭量で独裁的な支配者の高慢と強権です。

私たちの教えが地上に広まるということは民族間の離反の終わりを意味します。国家間のバリア(障壁)の消滅を意味します。人種や民族や階級の差別、さらにはチャーチ、チャペル、テンプル、モスク、シナゴーグなどの区別もなくなります。なぜなら、それぞれが大霊の真理を宿しており、他の宗教の教えの中に含まれる真理は、自分の信じる宗教で大切にされているものと矛盾しないことを悟るようになるからです。

見た目には混乱が生じているようであっても、地上に真理が広まることによって神の意図が具現化し、調和と平和が訪れるようになります。こうしたことを申し上げるのは、あなた方に、地上に真理を広めるための壮大な計画の一端を知ってもらい、私たち霊界の者がこうして物質の世界へ戻って来たのは、それを推進するためであることを理解していただきたいからです。そして今回の地上生活を終えるまでに、あなた方一人ひとりに果たさなければならない役割があることを知っていただきたいのです。

私たちが説く教えは、かつての改革者たち、聖者と呼ばれた人たち、予言者たち、あるいは理想主義者たちが、それぞれの時代に天啓を受けて説いた崇高な教えと完全に一致しています。彼らは魂の偉大さゆえに、霊的な視力によって霊的実在を垣間見ることができました。そしてその美しさ、その素晴らしさが、逆境と葛藤の中にあって心の支えとなったのです。

彼らは、いつの日にか実現する神の計画を理解していました。だからこそ物質界の子らを高揚すべく努力し、自分を役立てたのです。

彼らは、手を差し伸べた物質界の子らから貶(けな)されました。反抗され、嘲笑の的にされました。しかし彼らの仕事は生き続けました。今、世界各地で行われている無数の交霊会――この交霊会もその一つですが、そこに参加した人々は忘れ去られても、交霊会は存在し続けます。強烈な霊力が再び物質界に放たれています。地上のいかなる力も、その潮流をせき止めることはできません。

地上の人間は相変わらず流血によって問題が解決するかのように考えていますが、歴史をご覧になればお分かりのように、流血という手段で問題が解決した例(ためし)はありません。流血という行為は、何の益もない無用なものなのです。

人間はなぜ、大霊が与えた理性を使わないのでしょうか。なぜ、唯一の解決法ができるだけ多くの相手を殺すことだと考え、最も多くの敵を殺した者を英雄として称えるのでしょうか。地上というところは不思議な世界です。

あなた方の世界は、私たちからのメッセージ・霊の教えを必要としています。霊的真理についての理解、すなわち霊的摂理の存在と、自分自身の内部(魂)とより高い世界(霊界)からの導きがあることを知る必要があります。そうすれば困難に遭遇したときには慰安と導きと援助をどこに求めるべきかを、学ぶことができるでしょう。

私たちは、何ひとつ見返りを求めてはいません。栄誉を欲しているわけではありません。ただ、皆さん方のお役に立ちたいと思っているだけです。忘れられてしまった霊的摂理を改めて啓示し、それによって地上の人間が物質界にも存在する霊力を再発見し、新たな希望と新たな生命を呼び覚ますことになればと願っているのです。

古い規範が捨て去られ、あらゆる権威が疑念を持って見直され、その威力が衰えつつある今、私たちは大霊を絶対最高の権威として明らかにしようとしています。決して働きを止めず、また誤ることもない摂理として顕現している大霊を啓示しようとしているのです。その大霊の摂理にのっとった生き方さえすれば、地上界に再び平和と調和が訪れます。

それが私たちの使命のすべてというわけではありません。見捨てられた古い信仰の瓦礫(がれき)の中にある人間が、単なる疑念や不信からすべてを拒絶することなく、本物と偽物とを選り分け、真に価値あるものを手にすることができるように働きかけることも私たちの仕事です。あらゆる宗教の内奥(ないおう)に秘められたもの、長いあいだ地上人の想像物の下敷きとなってしまっている霊的真理を我が物とすることができるように仕向けることも使命の一環なのです。

もし、地上の子供たちが摂理の働きの中に霊力を見いだすことを学べば、その昔、人々を鼓舞し、洞察力と勇気、奉仕への熱誠と願望を与えた霊力を今日でも活用することができるのです。

教会・聖典・教義――こうしたものは今や衰微の一途をたどっています。少しずつ廃棄されていきつつあります。しかし、霊的真理の権威だけは永遠に変わることはありません。私が地上界へ戻ってきたとき目にするのは混乱と無秩序ですが、鮮明な霊の光――隙間からもれるわずかな光ではなく、すべてを照らす強力な光が降り注ぐようになれば、それらは立ちどころに消えてしまいます。

その光が得られるというのに、なぜ人間は暗闇を好むのでしょうか。知識が得られるというのに、なぜ無知のままでいたがるのでしょうか。叡智が得られるというのに、なぜ迷信にしがみつこうとするのでしょうか。生きた霊の真理が得られるというのに、なぜ生命のない死人の骨のような教義を好むのでしょうか。霊的叡智の水が得られるというのに、なぜ神学という濁った水を好むのでしょうか。

自ら選んだ暗闇の中で、自由になれるのに鎖につながれ、奴隷のような生き方をしている魂が数多くいます。私が案じているのは、そうした束縛された状態があまりに長く続くと、その束縛から解き放たれるのが怖くなってしまうことです。鳥カゴの中で長いあいだ飼われていた小鳥は、鳥カゴから放たれたときに、もしかしたら飛べないのではないかと心配になるものです。

ですから、束縛から解放してあげるのはよいのですが、自由になったときに歩むべき道も用意してあげないといけません。何の道しるべもない場所へ放り出したままにしておいてはいけません。自由になってもらわなければなりませんが、同時にその自由が導いてくれる道も教えてあげなくてはならないのです。

人間というのは、長いあいだ束縛された状態に置かれたあとで自由になると、誰のアドバイスにも耳を傾けようとしなくなるものです。「いや、もうけっこうです。これまでさんざん懐疑と困惑を味わってきて、今ようやく脱け出たところです。宗教というものには、もうこれ以上関わりたくありません」――そう言って拒否するのです。一種の反動です。

私は、私という一個人、メッセンジャーとしてのシルバーバーチに多大な関心を寄せていただくことを望んではいません。私はただ、皆さんにメッセージを送り届けているだけなのです。

これまで人類は、教えを説く人物に度を越した関心を寄せ、過大評価して途方もない地位に祭り上げ、肝心な教えそのものをなおざりにしてきました。

私たち霊団の使命は、誰かを権威ある地位に祭り上げることではありません。真理と知識と叡智を授けることです。語る言葉が真理であるかぎり、私が歴史的に名高い人物であろうと無名の人物であろうと、それが何の関係があるというのでしょう。私たちは名前や権威をかざすことなく、理性に訴えます。

私たちは、人間の知性が反発を覚えるようなことは何も要求しません。真実とは思えないようなこと、人間としての品位にもとるようなこと、卑劣なこと、人類を侮辱するようなことは説いていないつもりです。人類全体を引き上げ、宇宙の生命機構の中における人間の存在価値についての正しい概念を大霊との結びつきによって啓示し、地球全体としての霊的一体関係についての理解を得させてあげたいと願っているのです。

私たちは、すぐに聖典の文句を持ち出したり、指導者の言葉や権威に頼るようなことはしません。人間が神から授かっている理性を頼りとして、これに訴えます。私たちがお届けする真理は“聖”の文字を冠した書物の言葉を引用することで広められる性質のものではありません。理性に照らして納得がいかなければ、拒否してくださってけっこうです。

しかし、すでに皆さんは、私たちが最高にして最善の人間的本性に訴えていること、古い時代からの間違った概念を払いのけて、これなら人々も大事にしてくれるであろうと思われる真理をお届けしていることを理解してくださっているものと信じます。“宗教”と呼ばれているものは「真理」を土台としなくてはいけません。理性による攻撃を受けて脆(もろ)くも崩れるようなものは、すべて捨て去ってしまうべきです。

私は、人間がせっかく手にしながらいつしか見失うということを繰り返してきた真理を改めて啓示し、それを物質界の最も重要な位置に据えるために努力している、一個の道具にすぎません。

私たちは、今度こそは“唯物主義”と“利己主義”の勢力が絶対にはびこらないように努力しています。そのためには人間みずからが、その勢力に負けないようにならなくてはいけません。日常において発生するさまざまな問題に霊的真理を活用することによってのみ、人類の前に迫りつつある恐ろしい破局を防ぐことができるのです。

地上世界は今や破滅に瀕し、混乱の極(きょく)にあります。絶望と敵意と苦痛に満ちています。理性が敗走して利己主義が支配しています。私たちは人類に理性を取り戻させ、誤った概念に代わって真理を教え、迷信に代わって正しい信仰を説いています。そして暗闇を光明で照らすことによって、人生の闘いに負けそうな人には力を与え、いじけそうな人を健全な精神に立ち戻らせ、生きることに疲れ果てた人には気力を回復させ、不当な扱いに苦しめられている人には正当な報いを得させてあげたいと努めているところです。

私たちがお届けしようと努力している真理は、霊的摂理に関わるものだけではありません。物的法則に関わるものもあります。なぜなら、私たちから見れば物的世界も大霊の宇宙の一部であり、そこで絶望し苦しんでいる人類に無関心であるなら、本当の意味で“宗教的な人間”とは言えないからです。私たちからすれば、人のために役立つことをする人はすべて立派な人間ですが、その「役に立つ」というのは真理を普及することだけに限られるわけではありません。他にもいろいろあります。

病(やまい)に蝕まれた身体で苦しんでいる人々をその痛みから解放してあげること、不正と圧政に戦いを挑むこと、憎み合いをやめさせること、自由を守り悪を排除し、魂の奥にある大霊の資質を発揮させてあげること――こうした仕事は真の意味でのサービス(奉仕)と言えます。

大霊の子供たちが霊的なことからあまりにもかけ離れてしまったことにより、大霊の摂理を教えるためにラップなどの物理的心霊現象を用いなければならなかったことを残念に思います。

あなた方人間は皆、大霊の一部なのです。大霊がこう呼びかけていると思ってください。「ここに私の摂理のすべてがあります。この摂理を使えば素晴らしい世界をつくり上げることができます。すべてを差し上げますから、これを使用して正しいことと間違ったことを選り分け、摂理に適った生き方をしてもよし、摂理に反した生き方をしてもよし、どちらでも試してみられるがよろしい」と。

霊界の指導霊は、地上界が大霊の意図にそって発展するように、大霊のバイブレーションに相応できる者(霊媒・霊能者)を地上へ派遣してきましたが、大霊からかけ離れてしまった人類は霊的に鈍感になり、物的なことしか理解できませんでした。

しかし、嵐が吹き荒れたあとには必ず新しい生命が芽吹く春が訪れます。雪が大地を覆いすべてがわびしく映るときには、はつらつとした春の息吹を感じることはできないでしょう。が、春は必ずめぐってきます。そして太陽が昇るにつれて徐々に、生命力が最高潮に達します。今、地上界には不満の暗雲が立ち込めていますが、いつかは夢にまで見た春が訪れ、そして充実感あふれる夏へと向かっていきます。

それがいつになるか――早いか遅いかは、人間が大霊から授かった“自由意志”をどう使うかによって決まります。が、一人の人間が他の人間に救いの手を差し伸べようとするとき、その背後では数多くの霊が群がって援助し、気高い心を何倍にもふくらませようと努めます。善のための努力が忘れ去られることは絶対にありません。奉仕への願望が無駄に終わることは決してありません。

誰かが先頭に立って藪(やぶ)を切り開き、後に続く者が少しでも楽に通れるようにしてあげなければなりません。やがてそこに道ができ上がり、通るほどに平坦になっていきます。

私は時おり、霊界の高級霊たちが目に涙を浮かべている姿を見かけることがあります。地上の人間が同胞を引き上げる大きなチャンスを捨て去っている姿を見て、いつかその愚かさに気づいてほしいと願い、じっと眺めているのです。そうかと思うと、嬉しさに顔をほころばせているのを見かけることもあります。名もない人が善行を施し、それが暗い地上世界に新しい希望を灯してくれたからです。

私も他の大勢の同志と同じく、すぐそこまできている新しい世界を一日でも早く招来するために、バイブレーションを物質界のレベルに近づけて降りてきました。その目的は、大霊の摂理を教え、その摂理に忠実に生きるなら、あなた方の心は大霊の恵みをふんだんに受けられるようになることを教えてあげることです。

私が地上世界へ降りてきて目にするのは、幸せであるべきところに悲しみがあり、光があるべきところに暗闇があり、豊かであるべきところに飢えがあることです。大霊は、必要なものはすべて用意してくださっています。問題は、その公平な分配を妨げている者がいるということです。取り除かなければならない障害が存在するということです。

その障害を霊界側で取り除いてくれたらいいと思われるかもしれませんが、それは私たちには許されないのです。咎(とが)め立てすることも許されません。私に許されているのは、物的身体に宿っているあなた方に大霊の摂理を説き、どうすればその摂理があなた方を通して正しく運用されるようになるのかを教えてあげることだけです。それができる人が、地上の悪弊(あくへい)を指摘し、摂理による矯正手段を講じて見せなくてはなりません。

要するに、あなた方みずからが毎日の生活の中で、霊的真理を知った者はこれだけ立派な生き方ができるのだということを率先して見せることです。

私としては、あなた方に摂理の存在を説き、それがどのように作用するかを教えることができれば、それで良しとします。その結果として不幸が幸いに転じ、無知が知になれば、少なくともあなた方のお役に立てたことになります。

私たちは、あなた方の人生上の責務を取り除くようなことはしません。大霊の御心(みこころ)があなた方を通して働いていることを、身をもって悟ってもらえる生き方をお教えしようとしているだけです。

私が時おり残念に思うのは、次のような言葉を耳にすることです。「もちろん食べるものに事欠いている人にはパンを施しますよ。しかしその前に大霊に祈っていただかないとね。」なぜ大霊に祈るか祈らないかにまで干渉するのでしょうか。お腹(なか)を空かしている人には、食べるものを施してあげればそれだけでよいのではないのでしょうか。

また、寝る場所もない人に「どうぞウチで寝ていってください」と言ってあげるのはよいことですが、「ちゃんとお祈りをしてくださいよ」などと付け加える人もいます。

スピリチュアリズムの霊的知識の一つに「物心両面の均衡をはかる」というものがありますが、その知識を手にしている皆さんは、自ら均衡をはかったことがあるでしょうか。

スピリチュアリズムを知ったということは、地上では推し量ることができないものを手にしたということです。大霊の真理についての貴重な知識を得たということです。皆さんは、自分の魂が大霊の偉大なる魂とつながっていることを悟られたのです。すなわち、自分が大霊の一部であることを知ったということです。霊界から派遣されているメッセンジャー(高級霊)のバイブレーションに、いかにして反応すべきかを学ばれたのです。

それほどのものに比べれば、物的なものはいかに高価なものであっても、まったく価値はありません。今は物質界にいる皆さん方も、これから霊の世界で計り知れない歳月を生き続けます。そして、この交霊会を通して得た知識や叡智が、地上で物的身体のために一生懸命に求めていたものよりも、はるかに貴重なものであることを実感するようになります。

何事も見かけの結果だけで判断してはいけません。あなた方は物的な目で眺めることしかできないのです。霊的な目で見ることができれば、人間は一人の例外もなく完全に公正な扱いを受けていることが分かるはずです。私は時おり人間の祈りに耳を傾けてみることがあるのですが、もし大霊がその願いを叶えてあげたらかえって不幸になるだろう……と思うことがあります。

また私は、死の関門をくぐり抜けて霊界入りした人々と語り合ってみることがあるのですが、大霊から不当な扱いを受けたと文句を言った人は一人もいません。

地上界には三つの大きな問題があります。一つは“無知”、もう一つは“悲しみ”、そして三つ目は“貧しさ”です。この三つは、政治に霊的知識が生かされ、人々がその知識の指し示す通りに生きるようにならないかぎり、地上からなくなることはないでしょう。

しかし、勝利へ向けてのうねりは止まりません。古い秩序が死滅し、新しい秩序と入れ替わります。新しい世界は着実に到来しつつあります。が、新しい世界になったからといって暗い面が完全に消え去ると思ってはいけません。涙を流すこともあるでしょう。心を痛めることもあるでしょう。犠牲を強いられる局面も生じることでしょう。

大霊に関わる仕事は犠牲なくしては成就されません。涙なくして新しいものを打ち立てることはできません。物質的な惨事に遭遇すると、人間は霊的なものに目覚め始めるようになります。物的な手段がすべて失敗に終わったとき、ワラをも掴む思いでそれまで試みられてきた制度を吟味し、そこに頼れるものがないことを悟ります。

そこに至ってようやく霊的真理の出番となり、新しい世界の構築が始まります。大霊の摂理が正しく運用される世界です。そこへ至るまでには大きな混乱は避けられません。もっとも、いつの時代にも完全な世界は存在しません。なぜなら完全に近づくと、その先にもっと次元の高い完全性が存在することを知るからです。
質疑応答


――霊界側がスピリチュアリズムの普及を望んでおられるのなら、もっと新聞などを使った宣伝をなさるとよいのではないでしょうか。


これは、これは、驚きました。あなたは霊的知識の普及がどういうものか、よくご存じないようですね。知識が普及するのはよいことです。しかし宣伝効果となると、また話は別です。魂が真理に目覚めて感動するには、それぞれに時期というものがあるのです。

私たちは私たちなりの手段を講じています。計画はきちんとでき上がっています。あとは、あなた方の世界からの協力が必要なのです。

あなた方は常に、私たちが魔法の杖で一気に悟らせるようなことはしないことを知っておいてください。魔法の処方箋があるわけではありません。宇宙の自然法則を啓示してあげようとしているだけです。

私たちは、人類のすべてが大霊の一部であり、一人ひとりの人間を通して大霊の摂理が働くことができることを理解してほしいと願っています。そしてあなた方の魂を揺り動かそうと努力しているのです。霊界からの普及活動が休止することはありません。ただ、それは地上界の騒々しい宣伝によって行われるのではなく、あなた方の魂に訴え、霊との一体関係を緊密にすることによって成就されるのです。


――この地球上での体験、すなわち戦争、痛み、物心両面の苦しみ、病気、悲しみ、憎しみ、喜び、幸せといったものはみな人類の進化のために必要不可欠なもので、神の計画の一環なのでしょうか。


いいえ、違います。戦争は大霊がやらせているのではありません。病気は大霊が与えているのではありません。いずれも地上人が自由意志の行使を誤ったために引き起こしているのです。学ぶべき教訓というものがあることは事実です。しかし、それは身の毛もよだつ蛮行や冷酷な行為に訴えなくても学べます。人間の行為と大霊の行為とを取り違えてはいけません。


――共和国となった現代でも英国は「王室」という体制を維持していますが、これは意義のあることでしょうか。


はい、意義のあることです。なぜなら国民を一体化させるものは大切にすべきだからです。国家は拠って立つべき共通の要素によって一体化を求め、国民全体が一丸となるべきです。一体化を妨げ分裂させようとする者たちに私たちが批判的なのは、そのためです。魂が解放されれば、おのずと互いに近づき合いたくなるものです。


――霊的プランがあるということを何度も聞かされているのですが、その影響はどこにも見当らないようですが……。


それはあなたが物的視点からのみ見ているからです。あなた個人の短い人生を尺度として見ているために進展がないように思われるのであって、別の次元から見ている私たちには進展が分かるのです。霊的知識が広まり、霊的なものへの理解が深まり、寛容的精神が高まって善意が増し、無知と迷信と不安と霊的束縛による障壁が崩れていきつつあるのが見て取れます。

突如として革命が起きるかのように想像してはいけません。そういうものは決して起きません。霊的成長は、ゆっくりと段階を追ってなされるものだからです。絶望する必要はありません。拡大する物質主義の勢力を見ていると絶望感を抱いてしまうかもしれませんが、他方では唯物的な利己主義の霧を貫いて霊的真理の光が射し込みつつあります。知識が広がり続けるかぎり霊的真理の勝利は間違いありません。

だからこそ、地上人類にとって霊界からのメッセージが重要なのです。私たちにとって大切なのではありません。あなた方地上人にとって大切なのです。私たちは、利己主義、はなはだしい無知、故意の残虐行為への代償を払わなければならないことをあなた方に気づかせるために努力しています。私たちは人類に奉仕し、手助けをしようと努めていますが、それは皆さん方を愛しているからなのです。

私たちは、人類を破滅に追いやろうと企む邪霊集団ではありません。人間を罪深い存在に陥れたり、残忍なことや摂理に反する行為を唆(そそのか)したりするようなことはいたしません。それどころか、あなた方が自分に潜在している神性と霊力を自覚し、摂理にのっとってサービス(奉仕・利他愛)を実践するように働きかけているのです。そして大霊の計画を推進するための手助けをしていただきたいと思っているのです。

Thursday, April 25, 2024

シアトルの春 シルバーバーチの霊界通信の目的

The Purpose of Silver Birch's Spirit World Communications

 



〔それにしてもいったい、シルバーバーチのような高級霊がわざわざ地上圏へ戻ってきて人類を啓発しようとするのは、どうしてなのか。どのような理由があるのか。それについてシルバーバーチは、現在の地上人類にとって最も欠けているもの、裏を返せば人類が最も必要としているものは「霊的真理」についての正しい理解であると言う。では、交霊会の本来の目的についてシルバーバーチの説明を聞いてみよう。〕

私は、他の同僚と同じように、さる筋から物質圏での仕事の要請を受けました。その仕事というのは、自分たちの住む地球もろとも自らを破滅へ追いやるようなことばかりしている人類を救済することでした。
それをお引き受けして以来、私たちはずっと皆さんとともに仕事をし、今なおこうして努力しているのです。その目的は、人間は地上を去っても同じように大霊の懐(ふところ)の中にあって、より高い領域(霊界)において生き続けることを証明することです。それによって今地上で生活している人々に、自分が大霊の一部であることを理解していただきたいのです。

こうした目的で私たちは奮闘しているのですが、肝心の教訓よりも、どうでもいいことに関心を向ける人が少なくありません。メッセージが“白人”と呼ばれている者から届けられようと、“黒人”と呼ばれている者から届けられようと、黄色い肌をした人やレッド・インディアンから届けられようと、そんなことはどうでもいいことではないでしょうか。大霊の摂理を届ける者がかつて高い教育を受けた人間であろうとなかろうと、要は摂理でありさえすれば、正しい真理でありさえすれば、それはどうでもいいことではないでしょうか。

旧約聖書に「狼は仔羊とともに住み、豹は仔山羊のそばに横たわり、仔牛と小獅子が仲良く食(は)み、幼な子がそれらを導く」(イザヤ書十一)とあります。小賢(こざか)しい人間の浅はかな考えを捨てて幼な子のような無邪気さに立ち戻るまでは、この地上にあっても、あるいは私たちの世界へ来ても、大した進化向上は得られません。地上の人間は肌の色の違いによって上下の差をつけたがります。肌の色だけを見て、霊性においては皆が一つであることを知らずにいます。

なぜ人間は戦争をするのでしょうか。それについて皆さんはどう思いますか。なぜ悲劇を繰り返すのでしょうか。その原因は何だと思いますか。どうして人間の世界には悲しみが絶えないのでしょうか。

その最大の原因は、人間が物質によって霊眼が曇らされ、五感という限られた感覚でしか物事を見ることができないために、万物の背後にすべてを一つに結びつけている大霊が存在していることが理解できないからです。人間は何かにつけて“差別”をしようとするため、そこから混乱が生じ、悲劇が生まれ、そして破壊へと向かうことになるのです。

前にも申し上げたように私たちは、あなた方が“野蛮人”と呼んでいるインディアンですが、あなた方文明人が忘れてしまった大霊の摂理を説くために戻ってまいりました。あなた方文明人は、物質界にしか通用しないシステムの上に人生を築こうと努力してきました。教育と教養を求め、大霊の摂理からかけ離れた文明をつくり上げようとしてきました。


訳注――スワッファーの序文にある通りシルバーバーチ自身はインディアンではないし、霊団の構成員も英米の著名人が主体になっている。地上時代にインディアンだったのは霊界側の霊媒のことである。

シルバーバーチはあとで「実は私はインディアンではありません」と告白するまで、そのインディアンを自分自身であるかの表現に終始している。またこの直前の文の中で“私たち”と、いかにも霊団全員がインディアンであるかのごとき表現をしたのは、現代の物質文化が白人による“便利文化”にすぎず、それが霊性進化の観点から見るかぎり間違っていること、そしてインディアンの文明が理想的であることを諭す意図があったのであろう。

人間世界が堕落してしまったのは、そのためなのです。古い時代の文明が破滅してしまったように、現代の物質文明は完全に破綻状態に陥っています。そのかけらを一つひとつ拾い上げて、永遠の霊的摂理の上に今一度築き直す、そのお手伝いをするために私たちは戻ってきたのです。それは私たち全員に大霊からの愛が流れており、その愛であなた方を愛しているからです。

こう言うと、中にはこんなことをおっしゃる人がいるかもしれません。「いや、それは大きなお世話だ。我々白人は肌の色の違う者たちの手を借りてまで世の中を良くしようとは思わない。白人の世界は白人の手で何とかしよう。有色人種に助けてもらうくらいなら、不幸のままでいる方がいい」と。

しかし、何と言おうと、霊界と地上界は互いに助け合って進歩していくものなのです。地上の文明の中には、霊界の者にとっても役に立つものが多々あります。私たちは霊界で学んだことをあなた方にお教えしようと努め、同時にあなた方から得られるものは何でも吸収しようとしています。そうした相互扶助の摂理を通してこそ、地上世界に天国が到来するようになるのです。

いつの日か、地上のすべての人種が差別なく混じり合うようになるでしょう。どの人種にも、果たすべき役割があるからです。それぞれが人類に役立つものを持っているために、すべての人々が混じり合うようになるのです。霊眼を持って見れば、すべての人々がそれぞれの人種の長所と、独自の文化と、独自の知恵を持ち寄って調和のとれた生活を送るようになる日が、しだいに近づきつつあることが分かります。

ここに集っているあなた方と私、そして私たちと一緒に働いている者たちは皆、大霊の御心(みこころ)を地上に実現させるための“大霊の使徒”なのです。私たちはよく誤解されます。同志だと思っていた者が、最大の敵となることがしばしばあります。しかし、だからといって仕事の手をゆるめるわけにはいきません。大霊の目から見て正しいことであるがゆえに、私たち霊界の者は、地上のいかなるものよりも強力な霊力を結集しているのです。徐々にではあっても善が悪を滅ぼし、正義が不正を駆逐し、真実が偽善を暴いていきます。時には物質界の力に私たち霊界の力が押し戻されることもありますが、それも一時(いっとき)のことにすぎません。

私たちはきっと目的を成就します。自ら犯した過ちから人類を救い出し、もっと気高くて優れた生き方を教え、奉仕の人生を送ることによって魂と霊と精神を豊かにし、この世的な平和や幸福ではなく、崇高で霊的価値のあるものを得させてあげたいと願っているのです。

それはたいへんな仕事です。が、あなた方と私たちを結びつけ一致団結させている絆は神聖なものなのです。どうか、大霊の力が一歩でも地上の子供たちに近づくことができるように、ともに手を取り合い、大霊の摂理の普及を阻もうとする勢力を駆逐していこうではありませんか。

こうして語っている私のささやかな言葉が、少しでもあなた方にとって役に立つものであれば、その言葉は当然、それを知らずにいるあなた方以外の人々にも、語り継がれていくべきです。自分が手にした真理を次の人に伝えてあげる――それが真理を知った者の義務です。それが摂理なのだと、私は理解しております。

私は、大霊の摂理をあなた方の言葉(英語)で伝えているにすぎません。その言葉を手にした方が、必ずしも私の説明に同意するとは限りません。私は、あなた方とはまったく異なる世界の人間です。地上の言語には限界があり、この霊媒にも限界があります。ですから、もしも私の語った言葉に得心がいかないとするなら、それはあなた方の魂がまだその真理を理解する段階に至っていないためか、それとも地上の言語では表現できない高度な内容が含まれているために、そのすべてを説明することができないということなのです。

しかし私は、いつでも真理を説く用意ができております。地上の人間が大霊が意図した本来の生き方をするには、摂理を理解する以外にないからです。盲目でいるよりは見える方がいいはずです。聞こえないよりは聞こえる方がいいはずです。居眠りをしているよりは目覚めている方がいいはずです。居眠りをしている魂を目覚めさせ、大霊の摂理にそった生き方をさせてあげるために、ともに努力しようではありませんか。それが地上の人間にとって大霊と一体となる道だからです。

そうした生き方ができれば、人々の心は安らぎを覚えることでしょう。宇宙の深遠なリズムと調和し、不和も対立も消えてしまうことでしょう。そして、それまでとはまったく違った新しい生活が始まります。

知識はすべて大切です。これだけ知っていれば十分だ、などと思ってはいけません。私は知っていることを残らずお教えしようと努力しているのですから、あなた方はできるかぎり多くの知識を吸収するように努めていただきたいのです。こんなことを申し上げるのは、私があなた方よりも偉いと思っているからではありません。知識の豊富さを自慢したいからでもありません。自分が知り得たことをあなた方に授けてあげることこそ、私にとっての奉仕の道だと心得ているからなのです。

知識には段階があります。その知識の段階を一つひとつ上っていくのが進歩ということですから、もうこの辺でよかろうと、どこかの段階で腰を下してしまってはいけません。人生を本当に理解するためには、その一つひとつを吸収していくほかに道はありません。

このことは人生における物質的な側面に限らず、霊的な側面についても言えます。したがって物的なことに対する導きと同時に、霊的知識も与えられなければならないということなのです。あなた方は今この時も霊的世界に生きているのです。物質界での生活は永遠の人生におけるほんの束の間の時にすぎません。これが私たちからのメッセージの根幹をなすものです。

そのことにいち早く気づいた方が真理に忠実な生活を送ってくだされば、私たちの仕事もいっそうやりやすくなります。霊界からのメッセージに耳を傾け、心霊現象の中に霊的真理の一端を見いだした人々が、我欲を捨て、可能なかぎり自らの魂を引き上げてくださるなら、なおいっそう大きな成果をあげることができるでしょう。

これまで私たちが成し遂げてきたものは、これから成就可能なことに比べれば、ほんのささやかなものでしかありません。大霊の働きに“限界”というものはないのです。地上の道具(霊媒)が私たち霊界の者に正しい通路を準備してくれるならば、地上界へ届けられる叡智にも、インスピレーションにも、霊的真理にも、限りはありません。地上界を満たすべく用意されている強大な霊力にも制限というものはないのです。


シルバーバーチ

Wednesday, April 24, 2024

シアトルの春 地球も本質的には霊的進化の場としての存在価値を有しているのです。

The Earth essentially has the value of existing as a place of spiritual evolution.




 (質問者が代わる)

─── 霊界では一個の霊が数か所で同時に仕事をすることができると聞いております。これはグループソールの原理と関係したことなのでしょうか。つまり一個のダイヤモンドの複数の相の一つ一つが行うことが、あたかも一つの相が同時に行っているように思えるのでしょうか。

 霊界ではさまざまな霊相を表現することが出来ますが、一個の霊が複数の相を別々の場所で同時に表現することはできません。一度に一つの場所にしか存在できません。

 ただ、地上の人間のように物的条件による距離の制約は受けません。たとえば地上の距離にして何千マイルも離れたところへでも、行きたいと思えば一瞬の間に行くことができます。

 それはダイヤモンドの一側面、つまりグループソールの一個の単位であることとは何の関係もありません。その側面が全体としての進化に寄与するための体験を獲得するために地上へ誕生します。


───その結果ダイヤモンドが全体としてより立派なものとなるわけですね。

 そういうことです。一段と深い霊的覚醒と発展が得られるからです。各側面が地上での体験によって霊性を高めるのです。地球も本質的には霊的進化の場としての存在価値を有しているのです。そうでなかったら存在しないはずです。


───地上で意識しているような時間は無いのでしょうか。

 ありません。地上の時間というのは昼と夜と四季を生じさせている地球の自転と公転によって支配されております。私たちは地球の回転の影響は受けません。したがって昼とか夜とか春夏秋冬の区別がありません。時間は私たちにとっては存在しません。強いて言えば〝永遠の現在〟の中に生きております。


───〝永遠の過去〟でもあるわけですね。

 私たちにとっては過去も未来も、ともに永遠の現在です。皆さんの睡眠中のことをお考えなれば、さほど理解の困難な話ではないと思います。睡眠中は一時的に物的束縛から解放されています。

ですから夢の中ではそういう束縛を受けないで、途方もない距離を行き来できます。いつもの時間の観念が無視されています。永い夢の出来事も数分のうちに起きております。


───この世では時間に縛られているかに思えても、霊界では時間というものが存在しないのですね。

 時間そのものには過去も未来もありません。時間は永遠の現在の中に存在しています。過去と未来はあなたと時間との係わり方一つによって生じているにすぎません。

(別のところで時間を無限に回転する輪にたとえ、今触れているところが現在で、すでに触れたところが過去、これから触れるところが未来ですと言っている──訳者)

 皆さんは三次元の世界に生きておられます。私たちは地軸の回転、つまり昼と夜を生じさせる回転する球体とは無縁です。永遠の光の中で生活しております。これをどう説明すればよいのでしょう。

肉体のような物質的身体がありませんから眠る必要がありません。睡眠を必要とする身体を持っていないのです。休息を必要とする時は、元気が回復するまで休止するだけです。

 私たちの世界は、皆さんには到底想像できないほど豊かで美しい世界です。皆さんの聴覚を超えたオクターブの世界、みなさんの視覚の限界を超えたスペクトルの世界がどうして説明できましょう。どうにもならないほど説明が難しいのですが、それでも実在しているのです。

 物質の世界に生まれて来た以上は物質の法則によって制約を受けざるを得ません。が、皆さんも霊なのです。魂が宿っているのです。それはいかなる物質なものよりも上です。霊が主人であり物質は召使いです。霊は不変の実在であり、物質には永続性はないのです。

 その霊が去ると肉体はもろくも崩れてチリと化します。形体を変えてしまいます。 そして二度と同じ形体には戻りません。一方、真実のあなたである霊は生き生きと輝いた姿を見せております。

心臓だの肝臓だの肺だのによって生かされているのではないのです。肉体に生きるエネルギー、あるいは生命を維持する上で必要なものすべてを供給しているのは霊なのです。


Tuesday, April 23, 2024

シアトルの春 地上生活はそのための準備であり出発点に過ぎないことを理解することが何よりも大切だからである。

This is because it is most important to understand that life on earth is only a preparation for that purpose and a starting point.



一九一三年十二月四日  木曜日

 いささか簡略に過ぎた嫌いはあるが、天界においてより精妙な形で働いている原理が地上においても見られることを、ひと通り説明した。そこで次は少しばかり趣きを変えて話を進めようと思う。

本格的な形では吾々の世界にしか存在しない事柄を幾ら語ったところで、貴殿には理解できないであろうし、役にも立たないであろうが、旅する人間は常に先へ目をやらねばならない。これより訪れる国についての理解が深ければ深いほど足どりも着実となるであろうし、到着した時の迷いも少ないことであろう。

 然らばここを出発点として──物質のベールを超えて全てが一段と明るい霊的界層に至り、まず吾々自らがこの世界の真相を学ぶべく努力し、そしてそれを成就した以上──その知識をこののちの者に語り継ぐことが吾々の第一の責務の一つなのである。

 他界後、多くの人間を当惑させ不審に思わせることの一つは、そこに見るもの全てが実在であることである。そのことについては貴殿はすでに聞かされているが、それが余りにも不思議に思え予期に反するものである様子なので、今少し説明を加えたいと思う。

と申すのも、そこに現実に見るものが決して人間がよく言うところの〝夢まぼろし〟ではなく、より充実した生活の場であり、地上生活はそのための準備であり出発点に過ぎないことを理解することが何よりも大切だからである。

何故に人間は生長しきった樫の木より苗木を本物と思いたがり、小さな湧き水を本流より真実で強力と思いたがるのであろうか。地上生活は苗木であり湧き水に過ぎない。死後の世界こそ樫の木であり本流なのである。

 実は人間が今まとっている肉体、これこそ実在と思い込んでいる樹木や川、その他の物的存在は霊界にあるものに比して耐久性がなく実在性に乏しい。なぜなら、人間界を構成するエネルギーの源はすべて吾々の世界にあるのであり、その量と強烈さの差は、譬えてみれば発電機と一個の電灯ほどにも相当しよう。

 それ故人間が吾々のことを漂う煙の如く想像し、環境をその影の如く想像するのであれば、一体そう思う根拠はどこにあるのかを胸に手を当てて反省してみよと言いたい。否、根拠などあろうはずがないのである。あるのは幼稚なる愚かさであり、他愛なき想像のみなのである。

 ここで私はこちらの世界における一光景、ある出来ごとを叙述し、遠からぬ将来にいずれ貴殿も仲間入りする生活の場を紹介することによって、それをより自然に感じ取るようになって貰いたいと思う。

この光あふれる世界へ来て地上を振り返れば、地上の出来ごとの一つ一つが明快にそして生々しく観察でき、部分的にしか理解し得なかったことにもそれなりの因果関係があり、それでよかったことに気づくことであろう。

が、それ以上に、こうして次から次へと無限なるものを見せつけられ、一日一日を生きている生活も永遠の一部であることを悟れば、地上生活が如何に短いものであるかが判るであろう。

 さて、スミレ色を帯びたベールの如き光が遠く地平線の彼方に見え、それが前方の視界をさえぎるように上昇しつつある。その地平線と今私が立っている高い岩場との間には広い平野がある。その平野の私のすぐ足もとの遥か下手(しもて)に大聖堂が見える。これが又、山の麓に広がる都の中でも際立って高く聳えている。 

 ドームあり、ホールあり、大邸宅あり、ことごとくまわりがエメラルドの芝生と宝石のように輝く色とりどりの花に囲まれている。広場あり、彫像あり、噴水あり、そこを、花壇を欺(あざむ)くほどの美しさに輝き、色彩の数も花の色を凌ぐほどの人の群れが行き交っている。

その中に、他を圧するようにひときわ強く輝く色彩が見える。黄金色である。それがこの都の領主なのである。

 その都の外郭に高い城壁が三か月状に伸び、あたかも二本の角(つの)で都を抱きかかえるような観を呈している。その城壁の上に見張りの姿が見える。敵を見張っているのではない。広い平地の出来ごとをいち速く捉え、あるいは遠い地域から訪れる者を歓迎するためである。

 その城壁には地上ならば海か大洋にも相当する広大な湖の波が打ち寄せている。が、見張りの者にはその広大な湖の対岸まで見届ける能力がある。そう訓練されているのである。その対岸に先に述べたベールのような光が輝いており、穏やかなうねりを見せる湖の表面を水しぶきを上げて往き交う舟を照らし出している。

 さて私もその城壁に降り立ち、これより繰り広げられる光景を見ることにした。やがて私の耳に遠雷のような響きがそのスミレ色の光の方角から聞こえてきた。音とリズムが次第に大きくなり、音色に快さが増し、ついに持続的な一大和音(コード)となった。

 すると高く聳える大聖堂から一群の天使が出て来るのが見えた。全員が白く輝く長服をまとい、腰を黄金色の帯で締め、額に黄金の環帯を付けている。やがて聖堂の前の岩の平台に集結すると、全員が手を取り合い、上方を向いて祈願しているかに見える。

実は今まさにこの都へ近づきつつある地平線上の一団を迎えるため、エネルギーを集結しているのであった。

 そこへもう一人の天使が現われ、その一団の前に立ち、スミレ色の光の方へ目をやっている。他に較べて身体の造りが一回り大きく、身につけているものは同じく白と黄金色であるが、他に比して一段と美しく、顔から放たれる光輝も一段と強く、その目は揺らぐ炎のようであった。

 そう見ていた時のことである。その一団の周りに黄金色の雲が湧き出て、次第に密度を増し、やがて回転し始め一個の球体となった。全体は黄金色に輝いていたが、それが無数の色彩の光から成っていた。それが徐々に大きくなり、ついには大聖堂をも見えなくした。それから吾々の目を見張らせる光景が展開したのである。

 その球体が回転しつつ黄金、深紅、紫、青、緑、等々の閃光を次々と発しながら上昇し、ついには背後の山の頂上の高さ、大聖堂の上にまで至り、更に上昇を続けて都の位置する平野を明るく照らし出した。気がついてみると、さきほど一団が集合した平台には誰れ一人姿が見当たらない。

その光と炎の球体に包まれて上昇したのである。これはエネルギーを創造するほどの霊力の強烈さに耐えうるまでに進化した者にしかできぬ業(わざ)である。球体はなおも上昇してから中空の一点に静止し、そこで閃光が一段と輝きを増した。

 それから球体の中から影のようなものが抜け出てきて、その球面の半分を被うのが見えた。が、地平線上の例のスミレ色の光の方を向いた半球はそのままの位置にあり、それが私に正視できぬほどに光輝を増した。見ることを得たのは、スミレ色の光から送られるメッセージに応答して発せられ平地の上空へ放たれたものだけであった。

 そのとき蜜蜂の羽音のようなハミングが聞こえてきた。そしてスミレ色の光の方角から届く大オーケストラの和音(コード)と同じように次第に響きを増し、ついに天空も平野も湖も、光と旋律とで溢れた。天界では、しばしば、光と旋律とは状況に応じてさまざまな形で融合して効果をあげてゆくのである。

 すでにこの時点において、出迎えの一団と訪問の一団とは互いに目と耳とで認識し合っている。二つの光の集団は次第に近づき、二つの旋律も相接近して美事な美しさの中に融合している。両者の界は決して近くはない。天界での距離を地上に当てはめれば莫大なものになる。

両者は何十億マイル、あるいは何百億マイルも遠く離れた二つの恒星ほども離れており、それが今その係留(けいりゅう)を解(ほど)いて猛烈なスピードで相接近しつつ、光と旋律とによって挨拶を交わしているのに似ている。

これと同じことが霊的宇宙の二つの界層の間で行われていると想像されたい。そうすれば、その美しさと途方もなく大きな活動は貴殿の想像を絶することが判るであろう。

 そこまで見て私はいつもの仕事に携わった。が、光はその後もいやが上にも増し、都の住民はその話でもちきりであった。この度はどこのどなたが来られたのであろうか。前回は誰それが見えられ、かくかくしかじかの栄光を授けて下さった。等々と語り合うのであった。

 かくて住民はこうした機会にもたらされる栄光を期待しつつ各々の仕事に勤しむ。天界では他界からの訪問者は必ずや何かをもたらし、また彼らも何かを戴いて帰り住民に分け与えるのである。

 それにしても、その二つの光の集団の面会の様子を何とかうまく説明したく思うのであるが、それはとても不可能である。地上の言語では到底表現できない性質のものだからである。実はこれまでの叙述とて、私にはおよそ満足できるものではない。

壮麗な光景のここを切り取りあそこを間引きし、言わば骨と皮ばかりにして何とか伝えることを得たにすぎない。かりにその断片の寄せ集めを十倍壮麗にしたところで、なお二つの光の集団が相接近して会合した時の壮観には、とても及びもつかぬであろう。

   天空は赫々(カクカク)たる光の海と化し、炎の中を各種の動物に引かれたさまざまな形態の馬車に乗った無数の霊(スピリット)が、旗をなびかせつつ光と色のさまざまな閃光を放ちつつ往き交い、その発する声はあたかも楽器の奏でる如き音色となり、それが更にスミレ色の花とダイヤモンドの入り混じった黄金の雨となって吾々の上に降りそそぐ。

 なに、狂想詩? そうかも知れない。単調きわまる地上の行列──けばけばしい安ピカの装飾を施され、それが又、吾々の陽光に比すればモヤの如き大気の中にて取り行われる地上の世界から見れば、なるほどそう思われても致し方あるまい。

が、心するがよい。そうした地球及び地上生活の生ぬるい鬱陶(ウットウ)しさのさ中においてすら、貴殿は実質的には本来の霊性ゆえに地上の者にはあらずして、吾々と同じ天界に所属する者であることを。故に永続性の無い地上的栄光を嗅ぎ求めて這いずり回るような、浅ましい真似だけは慎んでほしい。

授かったものだけで満足し、世の中は万事うまく取り計らわれ、今あるがままにて素晴らしいものであることを喜ぶがよい。ただ私が言っているのは、この低い地上に置いて正常と思うことを規準にして霊界を推し量ってはならないということである。

 常に上方を見よ。そこが貴殿の本来の世界だからである。その美しさ、その喜びは全て貴殿のために取ってある。信じて手を差しのべるがよい。私がその天界の宝の中から一つずつ授けて参ろう。心を開くがよい。来たるべき住処の音楽と愛の一部を吾々が吹き込んでさしあげよう。


 差し当たっては有るがままにて満足し、すぐ目の前の仕事に勤しむがよい。授かるべきものは貴殿の到来に備えて確実に、そして安全に保持してある。故にこの仕事を忠実にそして精一杯尽くすがよい。

それを全うした暁には、貴殿ならびに貴殿と同じく真理のために献身する者は、イエスのおん血(ヘブル書9)を受け継ぐ王として或いは王子として天界に迎えられるであろう。

聖なるものと愛する者にとってはイエスのおん血はすなわちイエスの生命なのである。なぜならイエスは聖なるものの美を愛され〝父〟の聖なる意志の成就へ向けて怯(ひる)むことなく邁進されたからである。人間がそれを侮辱し、それ故に十字架にかけたのであった。

主の道を歩むがよい。その道こそ主を玉座につかしめたのである。貴殿もそこへ誘(いざな)われるであろう──貴殿と共に堂々と、そして愛をもって邁進する者もろともに。

 主イエスはその者たちの王なのである。 ♰

Sunday, April 21, 2024

シアトルの春 このまま野放しにしたら地上を破滅状態に陥れかねない物質第一主義の風潮に挑む、戦いの中の戦いに選ばれた霊の大軍の一員であることを思い出して、奮い立たないといけません。

We need to be inspired by remembering that we are part of a large spiritual army that has been chosen to fight in a battle against the materialistic tendencies that, if left unchecked, could bring the earth into ruin.

    私たち霊界の者は人のために役立つことをしている人の努力を無駄に終わらせたことは一度もありません。必要なものは必ず手に入ります。それは私たちがこれまでに数知れず試されてきていることです。霊的なものも物的な物も、必要なものは必ず手に入れてさしあげます。

 あなた方はあなた方の役割を果たしておればよろしい。私たちは私たちの役割を果たします。

(訳者注───ここでいう〝私たち霊界の者〟とは各自の背後霊のことと考えればよい。つまり守護霊を中心として、同じ霊系や地上的縁でつながった霊の集まりがあって、その霊たちが本人の地上での天命を全うさせるために、いろいろと世話を焼いてくれている。

そのことだけを考えると万事がうまく行ってもよさそうに思えるが、地上界と霊界との関係には二つの絶対条件があり、それが事を厄介にしている。一つは自由意志の要素であり、もう一つは波長の原理である。

 守護霊といえども本人がどうしてもやりたいと思うことを止めさせることはできないし、やりたくないと思うことを無理やりやらせることもできない。守護霊も摂理を無視したことは許されないのである。

 もう一つのは波長の原理というのは、先ほどのシルバーバーチの〝心から人のためにという気持ちになれば必要なものはそのうち必ず揃うものです〟という言葉に暗示されている。そこには〝正しい心掛け〟というものが要請されているわけである。それが波長を整える作用をするのである。

シルバーバーチが〝心配の念を抱いてはいけません〟と口を酸っぱくして言っているのも同じ原理を言っている。

 そのこととは別に、シルバーバーチが言及していないことで私から注意を促しておきたいことがある。それは、金銭上の問題は高級霊ほどニガ手なので、守護霊は直接には関与せずに配下の霊、それもどちらかというと地上臭の抜け切っていない霊に任せるということで、その意味でもわれわれは霊のことを高級・低級のみで安直に区別してはならない。それぞれに得手不得手があり、それぞれに〝役に立つこと〟をしているのであるから。

 もとよりこうしたことは原則として守護霊の管理下で行われていることであるから、その通りに行っていれば問題はないが、本人の方が欲の皮が突っ張り見栄や慢心が出はじめたら、波長の原理でもはや守護霊の管理下から離れ、同じ波長をもつ低級霊、それも邪心をもった悪霊に操られることになる。

 必要以上の金が儲かったり、思わぬ大金が転がり込んだり、預金が面白いほど増え始めたら危険と思わねばならない。それは言わば欲望の肥満体になることであり、魂は活力を失い、霊的病いが出始める。悪霊の思うツボにはまったのである。

 シルバーバーチが〝人のために役立つ〟という心掛けを説く裏にはそういう意味合いも含まれていると理解されたい)


───たしかに私はあなたから大きな援助と叡智のお言葉をいただいて感謝いたしております。

 あなたには霊視能力があります。願わくはその能力がもう少し広がって、神の計画の推進に当たっている神庁の組織、高級神霊の働きの一端をかい間見ることがお出来になればよろしいのですが・・・そうすれば一瞬たりともうろたえたり、ひとかけらの心配の念を宿すことがなくなるはずです。

それを私はこの目で見ているのです。そして、これまでの実際の成果を逐一知っているのです。

 私はここで満身の力を込めて断言いたします。真理普及という大義に身を捧げておられる皆さん方は、宇宙最大の力、生命力そのものの援助にあずかることができるのです。それはもはや義務ともいうべきものと心得るべきです。

 すなわち、それを賢明に、有意義に使うのです。あなたの生活の範囲内で触れ合う人たちの全てに導きの手を差しのべるのです。もしもその手が拒絶されれば、それはそれでよろしい。その人の思う道を進ませてあげればよろしい。

その辺の判断はあなた方自身の叡智の光と良識に照らしてなさるがよろしい。動機がすべてを決します。動機が正しければ、いかなる事態が生じようと最後は必ず勝利します。

 人生には二つの大切な要素があります。一つは知識であり、もう一つは信仰(信念)です。知識の裏付けのない信仰は〝折れた葦〟(マタイ12・20その他)のようなもので、いざという時に頼りになりません。が、知識に信仰を上のせする───これが最高の組み合わせです。
 
 あなたは人生とその意義についての理解をもたらしてくれた知識はすでにお持ちです。が、それとて、これから先あなたが入手していくべき知識に比べれば、ほんのひとかけらに過ぎません。そこでその不足を補うための信仰というものが必要となります。

 しかしそれも、あくまで事実に即した知識を根拠とした信仰です。軽々しい信仰、理不尽な信仰、知性を侮辱する様な信仰ではなく、事実を根拠とした信仰、つまり、かくかくしかじかの事実がある以上はそう信じてもよいはずだという論拠をもった信仰です。それはあなたにとって大切なものです。

 本日お集まりの方の中には、このことを耳にタコが出来るほど聞いておられる方がいらっしゃいます。さぞかしうんざりされることでしょうが、でもやはり真実です。平凡な真理は、たとえ何度繰り返しても真理です。くり返すことによって真実性が減じることはありません。

 私から申し上げたいのは、皆さんは有限の世界で生活する有限の存在だということです。無限の知識から手にすることのできる分量は、皆さんが霊的・精神的に到達した発達段階によって制限されます。

これまでに受け入れられた知識はしっかりと吟味したうえで真実であると確信されたものです。その知識の上に、まだ掲示されずにいるものに対する信仰心(信念)を築くのです。それは理不尽なものではありません。立証可能な事実を土台としています。

 地上の人間の態度をみていてどうも理屈に合わないと思うことの一つは、物的な惰眠から目覚めるまでにはさんざん時間が掛かっているのに、いったん目覚めると、今度は急にせっかちになることです。どんどん事が運ぶことを期待するのですが、そうはまいりません。

霊的な進歩は着実でないといけません。近道というものはないのです。一歩一歩をしっかりと足固めしながら進まないといけません。一歩進むごとに次に進むべき方角が開けます。

 これまでに啓示していただいたものを基盤にして,ひとまずそれに甘んじるのです。そしてもしも疑問が生じたら───きっと生じるものです、あるいはもしも疑念が湧いたら───必ず湧くものです、

そしてもしも困難が厄介な頭をもたげはじめたら、慌てず我慢するのです。霊の力は物質に勝ることを忘れないことです。霊界から働きかけやすい条件さえ提供してくれれば、いかなる障害も、いかなる困難も、いかなるハンディキャップも、霊の力で克服できないものはありません。

 そもそも教会というものが存在するようになったのは、霊力がさまざまな形で顕現したからです。奇跡と思われた現象も、霊力によって演出されていたのです。が、今日の教会にはそれが見られません。かつて〝聖地〟と呼ばれたところも、今は霊的砂漠となり、オアシス一つ見当たらない不毛の土地となっております。

 しかし神の摂理は少しも変わっておりません。そこが 〝聖い処〟 とされたのは霊力が崇高な形で顕現したことによって神聖視されたからです。それと同じ霊力が今あなたを通して顕現し、大きな恩恵をもたらしつつあるのです。

 私はそれぞれの宗教界において真面目に勤しんでいる人たちを非難しようとは思いません。が、その人たちは、苦しんでいる世の中の人のために役立つことは何もしておりません。教義は無味乾燥です。ドグマは不毛です。視野は旧態依然としており、新しい流れがどんどん通り過ぎていきつつあることに気づきません。

 われわれは地上の多くの場所で悪性のガンを生み出している貪欲、強欲、私利私欲が一掃された新しい世界の到来を告げる使者なのです。

あらゆる宗教的行為の中の最高の行為として〝人のために自分を役立てること〟 を掲げ、互いに扶助し合い、寛容(ユル)し合い、人間と動物の区別なしにすべてに哀れみの心をもつべきであると説きます。本当にその気になれば地上天国は叶えられるのです。

 それが今私達が皆さんに協力のもとにたずさわっている仕事です。俗世の悩みに襲われ、暗闇に閉ざされて気が滅入り、疲れ果てあるいは塞ぎ込みそうになった時は、霊的知識を手にした皆さんは、このまま野放しにしたら地上を破滅状態に陥れかねない物質第一主義の風潮に挑む、戦いの中の戦いに選ばれた霊の大軍の一員であることを思い出して、奮い立たないといけません。

 いつまでも絶望感に浸っていてはいけません。私たちは決して見殺しにはしません。援助を届ける通路さえあれば、奇特な心掛けを無為に終わせることは致しません。必要とあらば、いかなる援助でも致します。このインフレの時代にも皆さんに不足の思いをさせないように配慮しております。

 われわれは大事な仕事に携わっているのです。すでに何度も申し上げていることですが、大義に身を捧げることは気高いことであることを今こそ肝に銘ずべきです。人間の気高さは人の為に役立つことをすることから生まれるのです。

 地上の人間は自己改善によってみずからを救済するようにならないといけません。また地上生活ならではの恩恵のすべてが味わえるようになるのは、協調と互助という霊的原理を実行するしかないことを理解しなければなりません。物的恩恵だけのことを言っているのではありません。精神的ならびに霊的恩恵も味わえます。

 人間は精神的にも身体的にも霊的にも自由であらねばなりません。私たちはいかなる形であっても〝隷属〟というものを許しません。人間はみずからの束縛状態をみずからの力で解かないといけません。

そのためには先ず自分を生かしめている力が地上世界の他のすべての存在、生きとし生けるものすべてを生かしめている霊力と同じであることを、しっかりと認識しないといけません。霊力がそれらすべてを取り巻き、すべてを一体とさせ、その存在の究極の責任者である宇宙の大霊すなわち神の前において一つにしているのです。

 私たちが生命の実在について霊的な実感をもたらしてあげるために行っている仕事の背景には、そうした事実があるのです。その目的はそうたやすくは達成されません。

なぜなら、こうした教訓は困難・危機・病気・死別等を体験して初めて学べるものだからです。絶望の底に叩き落とすような苦悩でありながら、実は真実の自我を見出すための手段なのです。

 ですから、皆さんには是非ともやっていただかねばならない役目があります。が、それにはたっぷりと時間を掛けないといけません。われわれの背後には宇宙最大の力、大霊の霊力が控えております。後退させられることはあります。潮は満ちるだけではありません。

必ず引きます。それと同じです。が、霊力の働きが止まってしまうことはありません。常に働きかけております。

 生命のあるものには霊があります。停滞と不活発はわれわれの敵です。なぜなら、そういう条件下では霊力は流入しないからです。あなた方は私たちに通路を提供し、その通路を通って霊力が流入するのです。私たちが欲しいのは献身的な協力者です。操り人形ではなく、私たちが協力するように私たちに協力してくれる、自発的参加者です。

 奉仕は霊の通貨です。宗教とは自分を役立てる行為であり、またそうであるべきです。そうでなかったら宗教は何の意義もありません。

シルバーバーチ

Saturday, April 20, 2024

シアトルの春 神とは非人間的存在でありながら同時に人間性のすべてを表現する存在です。

God is a non-human being who at the same time expresses all of humanity.

───(招待された科学者) 科学者としてのこれまでの人生は悩みの連続でした。その第一は神の概念で、スピリチュアリズムを知ってからは、あなたが 〝大霊〟 と呼んでおられるものを信じておりますが、それまではキリスト教の神の概念が受け入れられなくて私なりの概念を抱いておりました。

それは、神とは広い意味での大自然の法則と同一視できる存在であり、キリスト教で説かれているような個体性をもつ存在ではないということです。いかがでしょうか。


 まず、真実からほど遠いキリスト教の概念から始めてみましょう。ここですぐ問題となるのは、有限の言語では無限なるものは表現できないということです。ゴット、神、あるいは私のいう大霊は永遠の存在であり、初めもなく終わりもなく、無窮の過去から存在し、これからも永遠に存在し続けます。

霊ないし生命力も同じように永遠の存在であり、初めもなく終わりもありません。かくして神、生命、霊、こうしたものは常時存在しているもので、時間的にいつから発生したという性質のものではないということです。

 限りある存在であるあなた方人間には全体を把握するということは不可能ですから、宇宙の背後の壮大な力は、限られた形でしか想像できないことになります。

 今あなたは神を大自然の法則と同一視しているとおっしゃいました。しかし神は大自然の法則よりもっと大きい存在です。なぜなら、その法則を支配しているのが神だからです。神とはその自然法則と同時にそれが作動する仕組みをもこしらえた無限なる知性です。

 残念ながら地上の大部分の人間にとって、神はどうしても人間に似た存在とならざるを得ません。個的形態を具えていない存在というものが想像できないのです。しかし神は、あなた方が想像するような個的存在ではありません。あなた方が存在するような人物的存在ではありません。

 神とは非人間的存在でありながら同時に人間性のすべてを表現する存在です。これはあなた方には理解できないでしょう。神はすべての生命の中に宿っています。その生命が人間という形で個別性をもつことによって、神は森羅万象を支配する法則としてだけでなく、個性をもつ存在として顕現したことになります。

 ですから、神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を具えた実在そのもの、人間に想像しうるかぎりの神性の総合的統一体と考えて下さい。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性でもあり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。

 神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れては誰一人存在出来ません。神から切り離されるということがありえないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在を有するかぎりはすべてのものに宿っているのです。

 私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難のわざです。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。


───(もう一人のゲスト)神が完全な叡智と知性と愛を具えた普遍的な霊であり、全生命を支配し、しかも人間を自分に似せて創造したのであれば、なぜ人間は不完全なのでしょうか。

 それはミクロとマクロの問題です。人間は神の完全性の要素をミクロの状態で内臓しております。人間はそれを発現させ完成させなくてはならないのです。それは無限の時間を要する過程です。

 別に難しい問題ではありません。人間的精神と霊と身体とが完成された状態で創造されたわけではありません。が、内部に神性という完全性の火花が宿されております。その火花を大きな炎と燃え上がらせるために、人生を自然の摂理に順応させるのが人間の務めなのです。

 地上の人間が厄介なのは、自分で勝手な神を想像することです。人間的存在として想像する場合でも、女性ではなく男性として想像します。男性である方が女性であるより勝れているかに信じているわけです。

 神は人間を霊的にご自分に似せて創造されたのです。生命は霊であり霊は生命です。霊的に似せて創造された以上、あなたは永遠に神とつながっており、神性を共有しているのです。

ということは必然的に人間は霊的大家族の一員であることになります。同じ神性が宿っているからです。ですから人間は霊的に神に似ているのであり、姿が似ているというのではありません。

 地上世界を一気に変革することはできません。人々を変えるのも容易ではありません。が、自分を変えることは今すぐからでも始められます。いつどこにいても人のためを心掛けるのです。

力になってあげるのです。自分が教わったものを分けてあげるのです。もしもそれが受け入れられれば喜び、拒否されればその人の思う道を行かせてあげればよろしい。あなたが導いてあげるべき人が次々とあなたのもとに案内してこられるのです。

 神は、愛と知性をもってこしらえその霊力によって活力を与えている地上世界から分離して存在することはできません。


───神は地上世界の人間にはほとほと手を焼いておられることでしょう。

 それは今に始まった話ではありません。太古からずっとそうです。しかし、我慢の大切さを説いている私たちは、それをみずから実行しなければなりません。もしも皆さんに対する愛がなければ、わざわざこれほど暗い世界へ戻ってくるようなことはいたしません。

 同時に又、地上に救いの手を差し伸べるべき時期が到来したからこそでもあります。つまり私たちの援助を受け入れる準備ができた人がいるということです。ただ悲しいかな、魂が目を覚まし真の活動を開始するようになるまでには、霊的な絶望の淵を体験しなければならないことがよくあるものです。

 霊の光は、これからも媒体のあるところならどこでも照らし続けます。場所によってはほのかな明かり程度に過ぎないこともあります。が、神性を帯びたものであるからには完全に消えてしまうようなことは絶対にありません。

自然の摂理はあなた方の地球だけでなく、あるいは銀河系宇宙だけでなく、全大宇宙を支配し経綸しております。神はその無限の叡智をもって全大宇宙のすみずみまで配剤してくださっています。心配してはいけません。心配は何の役にも立ちません。そして、少しも事態を改善することにはなりません。


───イエスは何回も再生を繰り返しながら進化した一個の人間だったのでしょうか、それとも地球の創造以前から存在していたのでしょうか。

 私に言えることは、イエスを通して発現した霊力は、今日の地上のすべての人間を通して発現している霊力と本質的においてまったく同じものだということだけです。程度の差、霊的進化の違いはあっても、霊の本質において何の違いもありません。

霊はすべて同じです。それが永い年月に多くの個的存在を通してさまざまな形で再生を繰り返すことは有りうることです。

シルバーバーチ

Friday, April 19, 2024

シアトルの春 大霊は個性を超越した存在です。摂理・愛・叡智・真理の粋(エッセンス)です。巨大な宇宙で休みなく作用している無限の知性です。

The Great Spirit is a being that transcends individuality. It is the essence of providence, love, wisdom, and truth. It is an infinite intelligence operating without rest in the vast universe.

───私どもは大霊があなたのような高級界の霊を通して語りかけてくださっていると理解しておりますが、人間の歴史を通じて、かつて大霊が霊を経ないで直接語りかけたことがあるのでしょうか。

 大霊は個的存在ではありません。大霊は個性が神格化されたものではありません。大霊は個性を超越した存在です。摂理・愛・叡智・真理の粋(エッセンス)です。巨大な宇宙で休みなく作用している無限の知性です。

 それは数かぎりない自然現象の中に見ることができます。その子等が英雄的行為、滅私の行為、滅私の行為、慈悲の行為を通じて、自分より恵まれない人のために尽くす時の、その愛の表現の中にも見ることが出来ます。

 又、病の人を癒し、喪中の人を慰め、意気消沈した人を元気づけてあげる時の霊力の流れの中にも見ることができます。
 一個の男性あるいは女性として出現することはできません。個々の人間に宿る神性の発現という形で、部分的に顕現されることはありうるわけです。


───私たちから大霊に直接語りかけることはできるのでしょうか。もしできるとしたら、それは私達自身に内在する神性のことでしょうか。

 あなたは大霊であり、大霊はあなたなのです。その違いは種類でも本質でもなく顕現の度合いに過ぎません。大霊は完全の極致です。あなたはそれに向っての努力を限りなく続けるわけです。したがって大霊は内部と外部の双方に存在するわけです。

あなたが愛・寛容心・慈悲・哀れみ・仁といった神性を発揮すれば、その時あなたは大霊と通じ合っていることになります。なぜなら、あなたを通じて大霊が表現されているからです。

 一方、大霊には無数のメッセンジャー、無数のチャンネルがあります。神意を行きわたらせることを任務とした高級神霊の一大組織が張りめぐらされております。ですから、もしもあなたが大霊に向かって語りかければ、黙って念じるだけでも、精神統一でも、あるいは声に出して祈ることによってでも、

あなたの意志が大霊に届けられます。声に出すということは良いことです。念じるだけではとかく乱れやすい思念を明確にまとめ、具象化することになるからです。

 しかし声に出す出さないに関係なく、衷心からの切望は大霊に知られると同時に、神意の行政を司る任にある高級霊に届きます。

Wednesday, April 17, 2024

シアトルの春 予知現象の原理 吾々は援助することは許されていても、そこには思慮分別が必要です。

Principle of Precognitive Phenomena Even though we are allowed to help, we need to be sensible.



一九一三年十月三一日 金曜日

 吾々がこうして地上を訪れるのは人間を援助するためである、と思って下さるのは結構であるが、人間本来の努力が不要となるほどの援助を期待されるのは間違いです。地上には地上なりの教育の場としての価値があり、その価値を減じるようなことは許されません。

これはもう自明の理と言ってもよいほどの当たり前のことでありながら、人間にしか出来ないことまで吾々に依頼する人が多く、それもほどほどならともかくも、些(いささか)か度を超した要求をする人が多くて困ります。


──どなたでしょうか

 ご母堂と共に参りました。アストリエルとその霊団の者です。


──どうも。いつもの母の霊団の文章とは違うように思えたものですから。

 違いましょう。同じではないはずです。その理由(ワケ)は一つには性格が異なり、属する界が異なり、性別も違うからです。性別の違いは地上と同じく、こちらでもそれぞれ特有の性格が出るものです。もう一つは、地上での時代がご母堂たちとは違うからです。


──古い時代の方ですか。

 さよう。英国でした。ジョージ一世(1660~1727)の時代です。もっと古い時代の者もおります。


──霊団のリーダーとお見受けしますが、ご自身について何かお教えねがえませんか。

 いいでしょう。ただ地上時代の細かい事柄は貴殿らには難なく分かりそうに思えても、吾々には大変厄介なものです。でも分かるだけのことを申し上げましょう。

私はウォーリック州に住み、学校の教師──学校長をしておりました。他界したのが何年であったか、正確なことは判りません。調べれば判るでしょうが、大して意味のないことです。

 では用意してきたものを述べさせていただきましょうか。吾々は援助することは許されていても、そこには思慮分別が必要です。

例えば吾々霊界の者は学問の分野でもどんどん教えるべきだと考える人がいるようですが、これは、神が人間なりの努力をするための才能をお授けになっていることを忘れた考えです。人間は人間なりの道を踏みしめながら努力し、出来るかぎりのことを尽くした時にはじめて吾々が手を差しのべ、向上と真理探究の道を誤らないように指導してあげます。


──何か良い例を挙げていただけますか。

 すぐに思い出すのは、ある時、心理学で幻影と夢について研究している男性を背後から指導していた時のことです。彼は夢の中に予知現象が混じっている原因を研究していました。つまり夢そのものと、その夢が実現する場合の因果関係です。

私との意志の疎通ができた時に、私は、今までどおりに自分の能力を駆使して研究を続けておれば時機をみて理解させてあげようという主旨のことを伝えました。

 その夜彼が寝入ってから私は直接彼に会い(※)現在という時の近くを浮遊している出来ごと、つまり少し前に起きたことと、そのすぐ後に起きることとを影像の形で写し出す実験をする霊界の研究室へ案内しました。

そこでの実験にも限界があり、ずっと昔のことや、ずっと先のことまでは手が届かないのです。それはずっと上層界の霊にしか出来ません。(睡眠中人間は肉体から脱け出て、地上または霊界を訪れる。その時かならず背後霊が付き添うが、その間の体験は物的脳髄には滅多に感応しない。きちんと回想出来る人が霊能者である。──訳者)
 吾々は器具をセットしてスクリーンの上に彼の住んでいる地区を映し出し、よく見ているように言いました。そこに〝上演〟されたのは、さる有名な人物が大勢の従者を従えて彼の町に入ってくる光景でした。終わると彼は礼を言い、吾々の手引きで肉体へ戻って行きました。

 翌朝目を覚ました時何となくどこかの科学施設で実験をしている人たちの中にいたような感じがしましたが、それが何であったかは思い出せません。が午前中いつもの研究をしている最中に、ふと夢の中の行列の中で見かけた男性の顔が鮮明に蘇って来ました。それと一緒に、断片的ながら夢の中の体験も幾つか思い出しました。

 それから二、三日後のことです。新聞を開くと同じ人物が彼の住んでいる地区を訪問することになっているという記事を発見したのです。そこで彼は自分で推理を始めました。

 吾々が案内した実験室も、スクリーンに上演して見せたものも思い出せません。がその人物の顔と従者だけは鮮明に思い出しました。そこで彼が推理したのはこういうことでした。──肉体が眠っている時人間は少なくとも時たまは四次元の世界を訪れる。

その四次元世界では本来のことを覗き見ることが出来る。が、この三次元の世界に戻る時にその四次元世界での体験の全てを持ち帰ることは出来ない。しかし地上の人物とか行列の顔といった三次元世界で〝自然〟なものは何とか保持して帰る、と。

 予知された夢と実際の出来ごととの関係は四次元状態から三次元状態への連絡の問題であり、前者は後者より収容能力が大きいために、時間的にも、出来ごとの連続性においても、後者よりはどうしても広い範囲に亘ることになります。

 さて、こうして彼は自分の才能を駆使して、私が直接的に教示するのと変わらない、大いなる知識の進歩を遂げました。それは同時に彼の知能と霊力の増強にも役立ちました。

むろん彼の出した結論はこちらの観点からすればとても合格とは言えず、幾つか修正しなければならない点がありますが、全体的に見てまずまずであり、実際的効用を持っております。私が直接的にインスピレーションによって吹き込んでも、あれ以上のことは出来なかったでしょう。

 以上が吾々の指導の仕方の一例です。こうしたやり方に不満を抱き、人間的観点からの都合のよいやり方をしつこく要求する人は、吾々は放っておくしかありません。謙虚さと受容性を身につけてくれれば再び戻って来て援助を続けることになります。

 ではこの話が差し当たって貴殿とどう関わりがあるかを説明しましょう。貴殿は時おり吾々の通信が霊界からのものであることに疑念も躊躇もなしに信じられるよう、なぜもっと(貴殿の表現によれば)鮮明にしてくれないのかと思っておられるようであるが、以上の話に照らしてお考えになれば、貴殿自ら考察していく上でヒントになるものはちゃんと与えてあることに納得がいかれるはずです。

忘れないでいただきたいのは、貴殿はまだまだ〝鍛錬〟の段階にあるということです。本来の目的はまだまだ成就されておりません。いや、地上生活中の成就は望めないでしょう。

ですが吾々を信じて忠実に従って下されば事情がだんだん明瞭になって行きます。自己撞着(どうちゃく)のないものだけを受け入れていけばよろしい。証拠や反証を求めすぎてはいけません。それよりは内容の一貫性を求めるべきです。

吾々は必要以上のものは与えませんが、必要なものは必ず与えます。批判的精神は絶対に失ってはなりません。が、その批判に公正を欠いてはなりません。貴殿のまわり、貴殿の生活には虚偽よりも真実の方がはるかに多く存在しています。

少しでも多くの真理を求めることです。きっと見出されます。虚偽には用心しなければなりませんが、さりとて迷信に惑わされて神経質になってはなりません。例えば山道を行くとしましょう。貴殿は二つの方向へ注意を向けます。

すなわち一方で正しい道を探し、もう一方で危険が無いかを確かめます。が、危険が無いかというのは消極的な心構えであって、貴殿なら正しい道という積極的な方へ注意を向けるでしょう。それでよろしい。危険ばかり気にしては先へ進めません。

ですから、滑らないようにしっかりと踏みつけて歩き、先を怖がらずに進むことです。怖がる者はとかく心を乱し、それがもとで悲劇に陥ることがよくあります。

 では失礼します。こちらでの神の存在感はただただ素晴らしいの一語に尽きます。そして地球を取り巻く霧を突き抜けて輝き渡っております。その輝きは万人に隔てなく見えるはずのものです──見る意志なき者を除いては。神の光は、見ようとせぬ者には見えません。

<原著者ノート>読者は多分、母からの通信を中心とするこのシリーズの終わり方が余りに呆っ気なさすぎるようにお感じであろう。筆者もその感じを拭い切れない。そこで次に通信を引き継いだザブディエル霊にその点を率直に質してみた。(第二巻の冒頭で──訳者)


──私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょう。あのまま終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。

 さよう、終わりである。あれはあれなりで結構である。もともと一つにまとまった物語、あるいは小説のようなものを意図したものではないことを承知されたい。断片的かも知れぬが、正しき眼識を持って読む者には決して無益ではあるまい。


──正直言って私はあの終わり方に失望しております。余りに呆気なさすぎます。また最近になってこの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望は、有りのままを公表するということですか。

 それは汝の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合は無いと思うが、ただ一言申し添えるが、これまでの通信も今回新たに開始された通信も、これより届けられるさらに高尚なる通信のための下準備であった。それを予が行いたい。


 結末について筆者が得た釈明はこれだけである。どうやら本篇はこれから先のメッセージの前置き程度のものと受け取るほかはなさそうである。
  G・V・オーエン



Monday, April 15, 2024

シアトルの春 ベールの彼方の生活(二) 守護霊ザブディエル 

life beyond the veil 



一章 序 説

守護霊ザブディエル 

  一九一三年十一月三日  月曜日

 守護霊のザブディエルと申す者です。語りたいことがあって参りました。


──御厚意ありがたく思います。

 ご母堂とその霊団によって綴られてきた通信(第一巻)にようやく私が参加する段取りとなりました。これまでに授けられた教訓を更に発展させるべき時期が到来したということです。貴殿にその意志があれば、ぜひともそのための協力を得たいと思います。


──恐縮に存じます。私にいかなる協力をお望みでしょうか。

 ここ数週間にわたってご母堂とその霊団のために行ってこられた如くに、私のメッセージを今この時点より綴ってほしく思います。


──ということは、母の通信が終わり、あなたがそれを引き継ぐということでしょうか。

 その通りです。ご母堂もそうお望みである。もっとも、時にはその後の消息をお伝えすることもあろうし、直接メッセージを届けさせようとは思っています。


──で、あなたが意図されている教訓はいかなる内容のものとなりましょうか。

 善と悪の問題、ならびにキリスト教界および人類全体の現在並びに将来に係わる神のご計画について述べたいと思う。もっとも、それを貴殿が引き受けるか、これにて終わりとするかは、貴殿の望むとおりにすればよい。

と申すのも、もとより私は、急激な啓示によっていたずらに動揺を来すことは避け徐々に啓発していくようにとの基本方針に沿うつもりではあるが、その内容の多くは、貴殿がそれを理解し、私の説かんとする教訓の論理的帰結を得心するに至れば、貴殿にとってはいささか不愉快な内容のものとなることが予想されるからです。



──私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょうか。あのままで終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。


 さよう、終わりである。あれはあれなりに結構である。もともと一つのまとまった物語、あるいは小説のごときものを意図したものでなかったことを承知されたい。断片的かも知れないが、正しい眼識を持って読む者には決して無益ではあるまいと思う。


──正直言って私はあの終わり方に失望しております。あまりに呆気(あっけ)なさすぎます。また最近になってあの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望はありのままを公表するということでしょうか。

 それは貴殿の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合は無いと思うが・・・ただ一言申し添えるが、これまで貴殿が受け取ってきた通信と同様に、今回新たに開始された通信も、これより届けられる一段と高度な通信のための下準備である。それをこの私が行いたく思います。


──いつからお始めになられますか。

 今、ただちにである。これまでどおり、その日その日、可能なかぎり進めればよい。貴殿には貴殿の仕事があり職務があることは承知している。私を相手とする仕事はそれに順じて行うことにしよう。


──承知しました。出来るかぎりやってみます。しかし正直に申し上げて私はこの仕事に怖れを感じております。その意味は、それに耐えて行くだけの力量が私には不足しているのではないかということです。

と言いますのも、今のあなたの言い分から推察するに、これから授かるメッセージにはかなり厳しい精神的試練を要求されそうに思えるからです。


 これまで同様に吾らが主イエス・キリストのご加護を得て、私が貴殿の足らざるところを補うであろう。

──では、どうぞ、まずあなたご自身の紹介から始めていただけますか。

 私自身のことに貴殿の意を向けさせることは本意ではない。それよりも、私を通じて貴殿へ、そして貴殿を通じて今なお論争と疑念の渦中にあり、或いは誤れる熱意を持ってあたら無益な奮闘を続けているキリスト教徒へ向けた啓示に着目してもらいたい。

彼らに、そして貴殿に正しい真理を授けたい。それを更に他の者へと授けてもらいたいと思う。その仕事を引き受けるか否か、貴殿にはまだ選択の余地が残されております。


──私はすでにお受けしています。そう申し上げたはずです。私ごとき人間を使っていただくのは誠に忝(かたじけな)いことで、これは私の方の選択よりそちらの選択の問題です。私は最善を尽くします。誓って言えるのは、それだけです。では、あなたご自身について何か・・・


 重要なのは私の使命であり、私自身のことではない。それはこれより伝えていく思想の中に正直に表れることであろう。世間と言うものは自分に理解できないことを口にする者を疑いの目を持って見るものである。

かりに私が「大天使ガブリエルの顕現せる者なり」と言えばみな信ずるであろう。聖書にそう述べられているからである。が、もし「〝天界〟にて〝光と愛の聖霊〟と呼ばれる高き神霊からのメッセージを携えて参ったザブディエルと申す者なり」と申せば、彼らは果たして何と言うであろうか。

故に、ともかく私にそのメッセージを述べさせてもらいたい。私および私の率いる霊団についてはそのメッセージの中身、つまりは真実か否か、高尚か否かによって判断してもらいたい。貴殿にとっても私にとってもそれで十分であろう。

そのうち貴殿も私の有るがままの姿を見る日が来よう。その時は私についてより多くを知り、そしてきっと喜んでくれるものと信じる。


──結構です。お任せいたします。私の限界はあなたもご存知と思います。霊視力も無ければ霊聴力もなく、いかなる種類の霊能も持ち合わせていないと自分では思っております。しかし、少なくともこれまで綴られたものについては、それが私自身とは別個のものであることは認めます。

そこまでは確信しております。ですから、あなたにその意志がおありであれば私は従います。それ以上は何も言えません。私の方から提供するものは何も無いように思います。


 それでよい。貴殿の足らざるところはこちらで補うべく努力するであろう。
 今回はこれ以上は述べないことにしよう。そろそろ行かねばなるまい。用事があるであろう。
 主イエス・キリストのご加護のあらんことを。アーメン ♰ 

Sunday, April 14, 2024

シアトルの春 霊からの通信はことごとく理性で持って判断しなさいということです。

This means that all communication from spirits should be judged with reason.

 霊の世界が無辺であること、したがって当然そこに住む者による体験の多様性もまた無限であることを知らなければいけません。霊界の生活には霊的に上下の段階があり、従ってそれぞれに体験の相違というものが生じるわけです。

 あなたと交信している霊は、その時の段階での自分の体験を述べているだけです。その後進歩してもう一つ上の次元の存在の場へ行けば、かつて抱いていた意見を改める可能性があるわけです。

 このように、霊界についてどういう内容のことが伝えられるかは、通信霊の進歩の程度によって違ってくるわけです。ここで忘れてならないのは、地上近くで生活している霊ほど、これから体験することになっている上層界の高度な霊的事実を伝える能力が限られているということです。

 その霊が今生活している界層については何でも入手できます。が、それより高い界層のことは理解出来ませんから、伝えてくることは必然的にその霊にとって明白なことに限られることになります。低い界へ下りることはできますが、高い界へは上がれないのです。

 私から申し上げる忠告はいつも同じです。霊からの通信はことごとく理性で持って判断しなさいということです。常識的に考えてどうしても受け入れ難いものは拒否なさることです。私たちとて絶対に間違いを犯さないわけではありません。

まだまだ完全からは程遠い存在です。完全に到達するには無限の時を要するのです。何度も申し上げているように、それは永遠に続く過程なのです。

 サークルのメンバーの方にも、あるいはご招待した方にも、私は決して〝こうしなさい〟とか〝これを信じなさい〟とかは申しません。独裁的指導者ではないからです。私たちは協力者なのです。

皆さんの愛さえ獲得すれば仕事は成就したも同然であるとの認識のもとに私たちは、真実と叡智と論理と理性と愛を持って皆さんの協力を得なければならないと考えているのです。

 私たちの宗教は真理の宗教です。私たちから提供するのは真理のみです。私たちが真実であると理解した限りの真理、私たちおよび皆さんに啓示された通りの真理です。その表現の仕方は拙劣(せつれつ)かもしれません。なぜなら私たち霊団の者もあなた方と同じ人間味を残している存在であり、過ちも犯しますし、欠点もあるからです。

 しかしこれからも私たちは、人生のすべての基盤となっている永遠にして不変の霊的原理であると信じるものを皆さんに説き続けます。その霊的摂理に忠実に生きているかぎり、絶対に危害はこうむらないことを断言します。

 と言って、地上生活につきものの困難と苦難と面倒なことから逃れることはできません。なぜなら、それは魂の進化にとって必須のものだからです。光明を味わうには暗黒を体験しなくてはなりません。太陽の有難さを知るには雨の日を体験しなくてはなりません。

人生は両極性を体験しなくてはなりません。一方だけでは他方の存在価値が分からず、物質的にも精神的にも霊的にも啓発が得られないからです。

 無限の叡智を具えた大霊はあなた方に理性と言う才能を賦与なさっています。何ごとにもそれを使用することです。たとえ霊界からのものであっても理性が反発を覚えるものは恐れずに拒否なさるがよろしい。

Thursday, April 11, 2024

シアトルの春 例えあなたに荷が過ぎると思われても決して手を離さず、上へ向けて手を伸ばしていただきたい。そこには私がおり、私の仲間がおります。絶対に挫折はさせません。

Even if you think you are carrying too much, I want you to never let go of my hand and reach upwards. There I am and my friends are there. I will never let you down.

果てしなき生命の旅  
    
 一九一三年十月二五日 土曜日

 今夜も、もしよろしければ、死後の世界に関する昨夜の通信の続きをお届けしようと思います。

 引き続き太陽系に関してですが、昨日の内容を吟味してみると、まだまだ死後の世界の複雑さの全てを述べ尽くしておりません。

と言うのも、太陽と各惑星を取り巻く界層が互いに重なり合っているだけでなく、それぞれの天体の動きによる位置の移動──ある時は接近しある時は遠ざかるという変化に応じて霊界の相互関係も変化している。

それ故、地球へ押し寄せる影響力は一秒たりとも同じではないと言っても過言ではありません。事実その通りなのです。

 また同じ地球上でもその影響の受け方、つまり強さは一様ではなく場所によって異なります。それに加えて、太陽系外の恒星からの放射性物質の流入も計算に入れなければならない。

こうした条件を全て考慮しなければならないのです。何しろそこでは霊的存在による活発な造化活動が営まれており、瞬時たりとも休むことがないことを銘記して下さい。

 以上が各種の惑星系を支配している霊的事情のあらましです。地上の天文学者の肉眼や天体望遠鏡に映じるのはその外面に過ぎません。ところが実は以上述べたことも宇宙全体を規模として考えた時は大海の一滴に過ぎない。船の舳先(へさき)に立っている人間が海のしぶきを浴びている光景を思い浮かべていただきたい。

細かいしぶきが霧状になって散り、太陽の光を受けてキラキラと輝きます。その様子を見て〝無数のしぶき〟と表現するとしたら、ではそのしぶきが戻って行く海そのものはどう表現すべきか。

キラキラ輝く満天の星も宇宙全体からすればその海のしぶき程度に過ぎません。それも目に見える表面の話です。しぶきを上げる海面の下には深い深い海底の世界が広がっている如く、宇宙も人間の目に映じる物的世界の奥に深い深い霊の世界が広がっているのです。

 もう少し話を進めてみましょう。そもそも〝宇宙〟という用語自体が、所詮表現できるはずのないものを表現するために便宜的に用いられているものです。

従って明確な意味は持ち合わせません。地上のある詩人が宇宙を一篇の詩で表現しようとして、中途で絶望して筆を折ったという話がありますが、それでよかったのです。もしも徹底的にやろうなどと意気込んでいたら、その詩は永遠に書き続けなければならなかったことでしょう。

 一体宇宙とは何か。どこに境界があるのか。無限なのか。もし無限だとすると中心が無いことになる。すると神の玉座はいずこにあるのか。神は全創造物の根源に位置していると言われるのだが。

いや、その前に一体創造物とは何を指すのか。目に見える宇宙のことなのか。それとも目に見えない世界も含むのか。

 実際問題として、こうした所詮理解できないことをいくら詮索してみたところで何の役にも立ちません。もっとも、判らないながらもこうした問題を時おり探ってみるのも、人間の限界を知る上であながち無益とも言えますまい。そう観念した上で吾々は、理解できる範囲のことを述べてみたいと思います。

 これまで述べて来た霊的界層にはそれぞれの程度に応じた霊魂が存在し、真理を体得するにつれて一界また一界と、低い界から高い界へ向けて進化して行く。そして、先に述べたように、そうやって向上して行くうちにいつかは、少なくとも二つ以上の惑星の霊界が重なり合った段階に到達する。

さらに向上すると今度は二つ以上の恒星の霊界が重なり合うほどの直径を持つ界層に至る。つまり太陽系の惑星はおろか、二つ以上の太陽系まで包含してしまうほどの広大な世界に至る。

そこにもその次元に相応しい崇高さと神聖さと霊力を具えた霊魂が存在し、その範囲に包含された全ての世界へ向けて、霊的・物的の区別なく、影響力を行使している。ご承知のとおり吾々はようやく惑星より恒星へ、そして恒星よりその恒星の仲間へと進化して来たところです。

その先にはまだまだ荘厳にして驚異的な世界が控えておりますが、この第十界の住民たる吾々にはその真相はほとんど判らないし、確実なことは何一つ判らないという有様です。

 が、これで吾々が昨夜の通信の中で〝神〟のことを、何とお呼びすべきか判らぬ未知にして不可知の存在のように申し上げた、その真意がおぼろげながらも理解していただけるのではないかと思います。

ですから、貴殿が創造主を賛美する時、正直言ってその創造主の聖秩(せいちつ)について何ら明確な観念はお有ちでない。〝万物の創造主のことである〟と簡単におっしゃるかも知れませんが、では〝万物〟とは一体何かということになります。

 さて少なくとも吾々の界層から観る限り次のことは確実に言えます。すなわち〝創造主〟という用語をもって貴殿が何を意味しようと、確固たる信念を持って創造主に祈願することは間違っていない。

その祈りの念はまず最低界に届き、祈りの動機と威力次第でそこでストップするものとそこを通過して次の界に至るものがある。中にはさらに上昇して高級神霊界へと至るものもある。

吾々の界のはるか上方には想像を超えた光と美のキリスト界が存在する。そこまで到達した祈りはキリストを通して宇宙神へと届けられる。地上へ誕生して人類に父なる神を説いたあの主イエス・キリストである。(この問題に関しては第二巻以降で詳しく説かれる。──訳者)

 ところで、以上述べたことは全て真実ではあるが、その真実も、語りかける吾々の側とそれを受ける貴殿の側の双方の能力の限界によって、その表現が極めて不適切となるのです。

例えば段階的に各界層を通過して上昇して行くと述べた場合、あたかも一地点から次の地点へ、さらに次の地点へと、平面上を進むのと同じ表現をしていることになります。ですが実際は吾々の念頭にある界層は〝地帯〟というよりは〝球体〟と表現した方がより正確です。

なぜなら、繰り返しますが、高い界層は低い界層の全てを包んでおり、その界に存在するということは低い界の全てに存在するということでもあるからです。

その意味で〝神は全てであり、全ての中に存在し、全てを通じて働く〟という表現、つまり神の遍在性を説くことはあながち間違ってはいないのです。

 どうやら吾々はこのテーマに無駄な努力を費やし過ぎている感じがします。地球的規模の知識と理解力を一つの小さなワイングラスに譬えれば、吾々はそれに天界に広がる広大なブドウ畑からとれたブドウ酒を注がんとしているようなもので、この辺でやめておきましょう。

一つだけお互いに知っておくべきことを付け加えておきますが、その天界のブドウ園の園主(宇宙神)も園丁(神々)も霊力と叡智において絶対的信頼のおける存在であるということです。

人生はその神々の世界へ向けて果てしない旅であり、吾々は目の前に用意された仕事に精を出し、完遂し、成就し、それから次の仕事へと進み、それが終わればすぐまた次の仕事が待っている。かくして、これでおしまいという段階は決して来ない。

向上すればするほど〝永遠〟あるいは〝終わりなき世界〟という言葉に秘められた意味の真実性を悟るようになります。しかし貴殿にそこまで要求するのは酷というものでしょう。失礼な言い分かも知れませんが。

 では再び来れることを希望しつつお別れします。ささやかとは言え天界の栄光の一端をこうして聞く耳を持つ者に語りかけることが出来るのは有難いことであり、楽しいことでもあります。どうか、死後に待ち受ける世界は決して黄昏に包まれた実体なき白日夢の世界ではないことを確信していただきたい。そしてそのことを聞く耳を持つ者に伝えていただきたい。

断じてそのような世界ではないのです。そこは奮闘と努力の世界です。善意と努力とが次々と報われ成就される世界です。父なる神へ向けて不屈の意志を持って互いに手を取り合って向上へと励む世界です。

その神の愛を吾々は魂で感じ取り鼓舞されてはおりますが、そのお姿を排することも出来ず、その玉座は余りに崇高なるが故に近づくことも出来ません。

 吾々は向上の道を必死に歩んでおります。後に続く者の手を取ってあげ、その者のスソをその後に続く者が握りしめて頑張っております。友よ、吾々も奮闘していることを忘れないでいただきたい。まさに奮闘なのです。貴殿と、そして貴殿のもとに集まる人々と同じです。

吾々が僅かでも先を行けば、つい遅れがちなる人も大勢おられることでしょう。どうかそういう方たちの手を貴殿がしっかりと握ってあげていただきたい──優しく握ってあげていただきたい。貴殿自身も同じ人間としての脆(もろ)さを抱えておられることを忘れてはなりません。

そして、例えあなたに荷が過ぎると思われても決して手を離さず、上へ向けて手を伸ばしていただきたい。そこには私がおり、私の仲間がおります。絶対に挫折はさせません。

ですから明るい視野を持ち、清らかな生活に徹することです。挫折するどころか、視野が燦然たる輝きを増すことでしょう。聖書にもあるではありませんか──心清き者は幸なり。神を見ればなり、と。(マタイ5・8)     ♰