Saturday, March 30, 2024

シアトルの初春 イムペレーターよりイースターのメッセージ


Happy Easter


Turn your attention to living spirits rather than dead matter, to spiritual love rather than worldly hardships, and to heaven rather than earth.


死せる物質より生ける霊へ、俗世的取越苦労より霊的愛へ、地上より天界へと目を向けよ。


あの通信が届けられたころの汝の心境と現在の汝の知識とを比べれば、汝の進歩の良き指標となろう。重大なる問題についてその後いかに多くを学び、どれほど考えを改めたかがよく判るであろう。

あの頃われらはいわゆる〝復活〟が肉体の復活ではなく〝霊〟の復活であることを説いた。遠い未来ではなく死の瞬間における蘇りの真相を説明した。その時点においては汝にとって初耳であった。が今は違う。当時理解に苦しんだことについて今は明確な理解がある。

イエスの地上での使命と、今その使者を通じて進行中の仕事についても説いた。イエスの真の神性──汝らが誤って崇拝してきた〝主〟の本来の偉大さについても説いた。イエス自ら述べた如く、イエスが汝らと同じ一個の人間であったこと、ただ比類なき神性を体現する至純至高の人間の理想像であったことを説いた。

愚かなる人間神学が糊塗せるイエスの虚像を取り除くことによって、そこに地上の人間の理想像としての人間イエス・キリストの実像を明らかにすることが出来た。

 イエスは肉体をもって昇天したのではなかった。が決して死んでしまったわけでもない。霊として弟子たちに姿を見せ、共に歩み、真理を説いた。われらも同様のことをする日が来るかもしれぬ。

 今汝が見ているのはこれから始まる新しき配慮──人間が空想し神学者が愚かにも説ける人類の最後の審判者としての〝主〟の出現ではなく、われら使者を通じての新たなる使命(実は古き真理の完成)、地上への新しき福音の啓示という形による〝主〟の出現の前触れとしての〝しるしと奇跡①〟なのである。

すでに地上に進行しつつあるその働きの一環をわれらも担っている。イエス・キリストの指導のもとに新しき福音を地上にもたらすことがわれらの使命なのである。

今はまだその一部しか理解できぬであろう。が、いずれ、のちの時代にそれが神より授けられた人類への啓示の一環であり、過去の啓示の蓄積の上に実現されたものとして評価されることであろう。

 このところ汝の精神の反抗性が減り、受容的態度が増したことにより、われらは直接的働きかけが目立って容易となってきた。これに加えて忍耐力と同時に祈りの気持ちと不動の精神をぜひ堅持してもらいたい。われらの目差す目的から目をそらせてはならぬ。

今まさに地上に届けられつつある神の聖なるメッセージをくり返しじっくりと噛みしめることである。進歩の妨げとなる障害物をつとめて排除せよ。

もっとも、日々の勤めを疎かにしてもらっては困る。そのうち今より頻繁に汝を利用する時期も来よう。が、今はまだその時期ではない。そのためにはまだまだ試練と準備とが必要である。友よ、その時期まで汝は火の如き厳しき鍛練を必要とすることを覚悟せよ。

地上的意識を超えて高級霊の住める高き境涯へと意識を高めねばならぬぞ。これがわれらからの復活祭(イースター)のメッセージである。

死せるものより目覚め、魂を甦らせよ。地上世界の低俗なる気遣いより超脱せよ。魂を縛り息を詰まらせる物質的束縛を振り捨てよ。死せる物質より生ける霊へ、俗世的取越苦労より霊的愛へ、地上より天界へと目を向けよ。

地上生活にまつわる気苦労より霊を解放せよ。これまでの成長の補助的手段に過ぎなかった物的証拠並びに物理的現象を棄て去り、汝の興味を地上的なものより霊的真理の正しき理解へ向けよ。イエスが弟子たちに申したであろう──「この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ②」と。

次の聖書の言葉も汝の心の糧とせよ。「汝ら、眠れる者よ、目覚めよ。死せる者の中より起きよ。キリストが光を与えん③」


──私がこの世的なことに無駄な時間を費やしてきたとおっしゃってるように聞こえますが。



 そうは言っておらぬ。たとえ霊的教育を一時的に犠牲にしても、物理的実験等、地上の人間として必要なことは為さねばならぬと言ってきたつもりである。

が、われらの願いはそうした客観的証拠がもはや必要とせぬ段階においては、そこより霊的教訓の段階へと関心を向けてくれることである。向上心を要求しているのである。そして汝に求めることを全ての人間に求むるものである。



〔さらに幾つか質問したあと私は、霊的に向上していくと俗世的な仕事に全く不向きとなり、ガラスケースにでも入れておく他ないほど繊細となる──つまり霊界との関係にのみ浸りきり世間的な日常生活に耐えられなくなるが、それが霊媒としての理想の境地なのかと尋ねた。〕

霊媒には環境も背後霊も異なる別のタイプがある。その種の霊媒にとってはそうなっていくことが理想であろう。汝もいずれはそのように取り扱うことになろう。もともと汝を選んだのはそうした目論見があってのことでる。

それ故にこそ、自制心に欠け邪霊の餌食となり易き人間となるのを防がんとして、時間を犠牲にしてきたのである。時間を掛けるだけ掛ければ疑念と困難が薄れ、代わって信念が確立され、過度の気遣いも必要でなくなり、その後の進歩が加速され、安全性が付加されると考えたのである。

焦ったからとてその時期の到来が早まるものではない。たとえ早まるとしても、われらは焦らぬ。が、霊的向上心の必要性だけは、われらの仕事に関わる全ての人間に促してきた。同時に、物理的基盤が確立した以上、今度は霊的構築の段階に入るべきであることも常に印象づけてきたつもりである。

〔ここで私は曾て述べたことがあることを再度述べた。すなわち、私はあくまでも私の信じる道を歩むつもりであること、世間でスピリチュアリズムの名のもとに行われているものの多くが無価値で、時に有害でさえあること。霊媒現象と言うものはおよそ純粋な福音であるとは思えず、無闇に利用すると危険であると言ったことであった。

さらに私は、信念が必要であることは論を俟たないが、私には私なりの十分な信念が出来ていること、これ以上いくら物的証拠を積み重ねても、それによって信念が増すものではないことを付け加えた。〕

汝の信念が十分に確立されていると思うのは間違いである。信念が真に拡充され純粋さを増した時、今汝が信念と呼んでいるところの冷ややかにして打算的かつ無気力なる信念とはおよそ質を異にするものとなるであろう。

今の程度の汝の信念では本格的な障害に遭遇すれば呆気なく萎(しぼ)むことであろう。まだまだ汝の精神に染み込んではおらぬ。生活の重要素となっておらぬ。

ある種の抵抗に遭うことで力をつけることは有ろうが、霊界の邪霊集団の強力なる総攻撃に遭えば、ひとたまりもないであろう。真実の信念とは〝用心〟の域を脱し、打算的分析や論理的推理、あるいは司法的公正を超越せる無条件の〝あるもの〟にょって鼓舞されたものであらねばならぬ。

魂の奥底より燃えさかる炎であり、湧き出ずる生命の源泉であり、抑えようにも抑えがたきエネルギーであらねばならぬ。

イエスが〝山をも動かす〟④と表現せる信念はこのことだったのである。それは死に際しても拷問に際しても怯まぬ勇気を与え、長く厳しき試練を耐え忍ぶ勇気を与え、勝利達成の道程にふりかかる幾多の危険の中を首尾よくゴールへ向けて導いてくれる筈のものである。

 この種の信念を汝は知らぬ。汝の信念はまだ信念とは言えぬ。ただの論理的合意に過ぎぬ。自然に湧き出ずる生きた信念にはあらずして、常に知的躊躇を伴う検討のあげくに絞り出したる知的合意に過ぎぬ。

安全無事の人生を送るには間に合うかもしれぬが、山をも動かすには覚束ぬ。証拠を評価し、蓋然性を検討するには適当かも知れぬが、魂を鼓舞し元気づけるだけの力はない。

知的論争における後ろ盾としての効用はあろうが、世間の嘲笑と学者の愚弄の的とされる行為と崇高なる目的の遂行において圧倒的支配力を揮うところの、魂の奥底より絶え間なき湧き出ずる信念ではない。汝にはその認識が皆無である。が、案ずるには及ばぬ。

そのうち汝も過去を振り返り、よくも今の程度の打算的用心をもって信念であると勿体ぶり、且つまた、その及び腰の信念でもって神の真理の扉の開かれるのを夢想したものであると驚き呆れる時も到来しよう。

その時節を待つことである。その時節が至れば、信念に燃え崇高なる目的に鼓舞された生ける身体の代わりに、大理石の彫像を置くこともせぬであろう。汝にはまだ信念はない。

──あなたは物事を決めつけるところがあります。おっしゃることは正しくとも、些(いささ)か希望を挫けさせるものがあります。それにしても〝信仰は神からの授かりもの〟⑤である以上、私のどこが責めらるべきなのか理解に苦しみます。私は〝拵えられた〟ものです。

 違う。今の汝は内と外より影響を受けつつ汝自ら造り上げてきたものである。外なる環境と内なる偏向と霊的指導の産物である。汝には誤解がある。われらが非難したのは、その名に値せぬものを信念であると公言したことに過ぎぬ。案ずるには及ばぬ。

汝はより崇高なる真理への道を歩みつつある。(なるべくならば)現象的なものを控え、内的なるもの、霊的なるものの開発を心がけよ。信念を求めて祈れ。汝がいみじくも〝神からの授かりもの〟と呼べるものが魂に注がれ、その力によってより高き知識へと導かれるよう祈れ。汝のそのあらぬ気遣いがわれらを妨げる。
                              ♰ イムペレーター

Friday, March 29, 2024

シアトルの初春 シルバーバーチの霊訓九巻十章 質問に答える イエス・キリストについて   

Happy Easter 

   
 地上の歴史の中で最大の論争の的とされている人物すなわちナザレのイエスが、その日の交霊会でも質問の的にされた。



 まず最初に一牧師からの投書が読み上げられた。それにはこうあった。〝シルバーバーチ霊はイエス・キリストを宇宙機構の中でどう位置づけているのでしょうか。また、<人間イエス>と<イエス・キリスト>とはどこがどう違うのでしょうか〟

 これに対してシルバーバーチはこう答えた。

 「ナザレのイエスは地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜の最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。

 イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と変わらぬ一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質の世界にやって来て、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが地上に流入したことは前にも後にもありません。

イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦礫の下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。

 そのために彼はまず自分へ注目を惹くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。彼は一度たりともそれを邪なことに使ったことはありませんでした。

 またその心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も廃止も干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を惹くようになりました。

そこでイエスは、人間が地球という惑星上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊格者が説いてきたのと同じ、単純で永遠に不変で基本的な霊の真理を説くことを始めたのです。


 それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する乏しい記録に大へんな改ざんがなされていることです。

ずいぶん多くのことが書き加えられています。ですから聖書に書かれていることにはマユツバものが多いということです。出来すぎた話はぜんぶ割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから。

 もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後いっそう開発された霊力を駆使して、愛する人類のために働いておられるのです。イエスは神ではありません。全生命を創造し人類にその神性を賦与した宇宙の大霊そのものではありません。

 いくら立派な位であっても、本来まったく関係のない位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽くすゆえんではありません。父なる神の右に座しているとか、〝イエス〟と〝大霊〟とは同一義であって置きかえられるものであるなどと主張しても、イエスは少しもよろこばれません。

 イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にヒザを折り平身低頭して仕える必要はないのです。それよりもイエスの生涯を人間の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。
 以上、大へん大きな問題についてほんの概略を申し上げました」


 メンバーの一人が尋ねる。
   ───〝キリストの霊〟Christ spiritとは何でしょうか。

 「これもただの用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを示すために聖油を注がれた時代がありました。それは大てい王家の生まれの者でした。キリストと言う言葉は〝聖油を注がれた〟という意味です。

それだけのことです」 (ユダヤでそれに相応しい人物はナザレのイエス Jesus だという信仰が生まれ、それで Jesus Christ と呼ぶようになり、やがてそれが固有名詞化していった───訳者)


───イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったとおっしゃるのが私にはどうしても理解できません。

 「私は決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。私が申し上げたのは地上を訪れた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊格者の系譜の中でイエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。

イエスの生活が完全であったとは一度も言っておりません。それは有り得ないことです。なぜなら彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」



 ───イエスの教えは最高であると思われますか。 

 「不幸にしてイエスの教えはその多くが汚されてしまいました。私はイエスの教えが最高であるとは言っておりません。私が言いたいのは、説かれた教訓の精髄は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど心霊的法則を使いこなした例は地上では空前絶後であるということです」


 ───イエスの教えがその時代の人間にとっては進み過ぎていた───だから理解できなかった、という観方は正しいでしょうか。

 「そうです。おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は彼らにとって成功であることが時代的に見れば失敗であり、逆に彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」

(※ George Lansbury は一九三一~三五年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次世界大戦勃発直前の一九三七年にはヨーロッパの雲行きを案じてヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。Dick Sheppard についてはアメリカーナ、ブリタニカの両百科全書、その他の人名辞典にも見当たらない───訳者)


───イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の大根源であると考えてよろしいでしょうか。


 「いえ、それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは霊格の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し自在に使いこなすことができたからです。皆さんにぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、

つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた間違いが多かったにもかかわらず、あれほどの短い期間に全世界に広まりそして今日まで生き延びて来たのは、イエスが常に霊力と調和していたからだということです」


(訳者注───霊力との調和というのは、ここでは背後霊団との連絡がよく取れていたという意味である。『霊訓』のインペレーターによると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。

地上生活中のイエスは早くからそのことに気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体離脱し、その背後霊団と直接交わって連絡を取り合っていたという)


───(かつてのメソジスト派の牧師)いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできます。

 「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異論を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。

教えそのものと、その教えを取り違えしかもその熱烈信仰によってかえってイエスを何度もはりつけにするような間違いを犯している信奉者とを混同しないようにしなければなりません。

  イエスの生涯をみて私はそこに、物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完全で、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった───自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。

イエスは一度たりとも自ら課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的に使用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。

 どうもうまく説明できないのですが、イエスも生を受けた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味で完全では有り得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派なそして大きな仕事ができる時代が来ると述べた意味がなくなります。 

 イエスという人物を指さして〝ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時はあれほどのことが出来るのですよ〟 と言える、そういう人間だったと考えればいいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。

しかもそのイエスは私たちの世界においても、私の知るかぎりでの最高の霊格を具えた霊であり、自分を映す鏡としてイエスに代わる者はいないと私は考えております。

 私がこうしてイエスについて語る時、私はいつも〝イエス崇拝〟を煽ることにならなければよいがという思いがあります。それが私が〝指導霊崇拝〟 に警告を発しているのと同じ理由からです(八巻P18参照)。

あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は理性と常識と知性をもって行わないといけません。

書物からも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人が良いと言ったから、賢明だと言ったから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断基準です。

 例えその後一段と明るい知識に照らしだされた時にあっさり打ち棄てられるかも知れなくても、今の時点でこれだと思うものを採用すべきです。たった一冊の本、一人の師、一人の指導霊ないしは支配霊に盲従すべきではありません。

 私とて決して無限の叡智の所有者ではありません。霊の世界のことを私が一手販売しているわけではありません。地上世界のために仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。私は完全であるとか絶対に間違ったことは言わないなどとは申しません。あなた方と同様、私もいたって人間的な存在です。

私はただ皆さんより人生の道のほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が私に少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしも私の言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線を私といっしょに眺めませんかとお誘いしているわけです」


 霊言の愛読者の一人から「スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して 〝最後の晩餐〟 の儀式を行うべきでしょうか」という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチがこう答えた。

 「そういう儀式(セレモニー)を催すことによって身体的に、精神的に、あるいは霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれは最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、私自身にはそういうセレモニーに参加したいという気持ちは毛頭ありません。

そんなことをしたからといってイエスは少しも有難いとは思われません。私にとっても何の益にもなりません。否、霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。

 イエスに対する最大の貢献はイエスを模範と仰ぐ人々がその教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病の人を癒やし、懐疑と当惑の念に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人すべてに手を差しのべてあげることです。

 儀式よりも生活の方が大切です。宗教とは儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。〝聖なる書〟 と呼ばれている書物から活字のすべてを抹消してもかまいません。賛美歌の本から 〝聖なる歌〟 を全部削除してもかまいません。

儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に 〝宗教的〟 で有りうるのです。そういう生活でこそ内部の霊性が正しく発揮されるからです。

 私は皆さんの関心を儀式へ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく生活そのものです。生活の中で何をなすかです。どういう行いをするかです。〝最後の晩餐〟 の儀式がイエスの時代よりもさらにさかのぼる太古にも先例のある由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です」


 別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されて───

 「他人のためになることをする───これがいちばん大切です。私の意見は単純明快です。宗教には〝古い〟ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関係もないものばかりだということです。

 私にとって宗教とは崇拝することではありません。祈ることでもありません。審議会において人間の頭脳が考え出した形式的セレモニーでもありません。私はセレモニーには興味はありません。

それ自体は無くてはならないものではないからです。しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事を無くてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、無理してそれを止めさせる理由はありません。

 私自身としては、幼児期を過ぎれば誰しも幼稚な遊び道具はかたづけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との直接の交渉、地上的障害を超越して次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係───これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えと何の関係もありません」 


───支配霊や指導霊の中にはなぜ地上でクリスチャンだった人が少ないのでしょうか。

 「少ないわけではありません。知名度が低かった───ただそれだけのことです。地上の知名度の高い人も実はただの代弁者(マウスピース)にすぎないことをご存知ないようです。

つまり彼らの背後では有志の霊が霊団やグループを結成して仕事を援助してくれているということです。その中にはかつてクリスチャンだった人も大勢います。もっとも、地上で何であったかは別に問題ではありませんが・・・・・・」


───キリスト教の教えも無数の人々の人生を変え、親切心や寛容心を培ってきていると思うのです。そういう教えを簡単に捨てさせることが出来るものでしょうか。

 「私は何々の教えという名称には関心がありません。私が関心をもつのは真理のみです。間違った教えでもそれが何らかの救いになった人がいるのだからとか、あえてその間違いを指摘することは混乱を巻き起こすからとかの理由で存続させるべきであるとおっしゃっても、私には聞こえません。

一方にはその間違った教えによって傷ついた人、無知の牢に閉じ込められている人、永遠の苦悶と断罪の脅迫によって悲惨な生活を強いられている人が無数にいるからです。

 わずかばかり立派そうに見えるところだけを抜き出して〝ごらんなさい。まんざらでもないじゃありませんか〟 と言ってそれを全体の見本のように見せびらかすのは、公正とは言えません。

 霊的摂理についてこれだけは真実だと確信したもの、および、それがどのように働くかについての知識を広めることが私の関心事なのです。あなたのような賢明な方たちがその知識をもとにして生き方を工夫していただきたいのです。そうすることが、個人的にも国家的にも国際的にも、永続性のある生活機構を築くゆえんとなりましょう。

 私は過去というものをただ単に古いものだからとか、威光に包まれているからというだけの理由で崇拝することはいたしません。あなたは過去からあなたにとって筋が通っていると思えるもの、真実と思えるもの、役に立つと思えるもの、心を鼓舞し満足を与えてくれるものを選び出す権利があります。

と同時に、非道徳的で不公正で不合理でしっくりこず、役に立ちそうにないものを拒否する権利もあります。ただしその際に、子供のように純心になり切って、単純な真理を素直に見て素直に受け入れられるようでないといけません」


 いわゆる 〝聖痕(スチグマ)〟について問われて───

 「人間の精神には強力な潜在能力が宿されており、ある一定の信仰や精神状態が維持されると、身体にその反応が出ることがあります。精神は物質より強力です。そもそも物質は精神の低級な表現形態だからです。精神の働きによって物質が自我の表現器官として形成されたのです。

精神の方が支配者なのです。精神は王様であり支配者です。ですから、もしもあなたがキリストのはりつけの物語に精神を集中し、それを長期間にわたって強力に持続したら、あなたの身体に十字架のスチグマが現れることも十分可能です」


 〝大霊の愛〟と、〝己を愛する如く隣人を愛する〟という言葉の解釈について問われて───
 
 「私だったら二つとも簡明にこう解釈します。すなわち自分を忘れて奉仕の生活に徹し、転んだ人を起こしてあげ、不正を駆逐し、みずからの生活ぶりによって神性を受け継ぐ者としてふさわしい人物である事を証明すべく努力する、ということです」 

シルバーバーチ   
    

Thursday, March 28, 2024

シアトルの初春 あなたの子供たちがあなたを正しく理解するならば、彼らは自らを正しく理解することができるようになり、

If your children understand you correctly, they will be able to understand themselves correctly,


ああ、真白き大霊よ。あなたは無限なる霊であるがゆえに、あらゆる定義と説明を超越した存在であらせられます。いかなる書物も、いかなる礼拝所も、いかなる建造物も、いかなる言語も、あなたのすべてを包含することはできず、あなたを完全に解き明かすことはできません。




過ぎ去りし時代には、特別な才能に恵まれた数少ない者たちが、見えざる世界からのインスピレーションを受け取り、天上界とその住人の生活を垣間見てまいりました。しかし、そのインスピレーションは霊能者たちの精神的ならびに霊的進化の制約を受けざるをえなかったため、あなたについての理解は歪められ、不正確・不完全なものにとどまることになってしまいました。




今、私たちは、ほんの一握りの者ではなく、多くの霊能者を通して全宇宙の背後に控える無限なる霊的存在について、より真実に近い概念を啓示しようと努めております。絶対的な支配力を有する大自然の摂理の存在を教え、その摂理には例外も変更も廃止もないことを説いております。そしてその絶対的な摂理が、物質の世界だけでなく全生命界をも支配しており、生命活動のあらゆる側面が摂理によって統制され、すべてがその支配下にあることを解き明かしているのでございます。




こうして無限なる霊によって創案され、愛と叡智を通して働いている摂理は、宇宙の生命活動のすべてを認知しております。地上で生活する人類もまた、その支配の中にあるのでございます。全生命を創造したあなたの霊が、地上の子供たちの一人ひとりに宿っており、その神聖なる絆は永遠に切れることはありません。あなたと子供たちを結びつけている絆は、墓場を越えて霊界においても永久に存在し続けるのでございます。




もしも、あなたの子供たちがあなたを正しく理解するならば、彼らは自らを正しく理解することができるようになり、自分自身の内にあなたの完全性のひな型を見いだすことになるのでございます。それは今、子供たちの中で、より大きな表現へ向けて呼び覚まされるのを待ちながら、居眠りしているような状態で潜在しております。




生命の法則について深く知るようになるにつれて、あなたの子供たちは自分自身の行為を正し、内部の神性をより多く発現できるようになります。そして子供たちは平安と静寂の中で、力と自信の源を見いだすことになるのでございます。




人間は霊の資質を開拓することにより、高遠の世界の進化せる霊たちとの、より豊かな交わりが得られるようになります。そしてそれまで霊たちが蓄積してきた知識と叡智がふんだんにもたらされ、それが地上を公正で豊かで、もっと美しい場所にするための助けとなるのでございます。




それによって地上世界の悲劇と悲しみと不安は、消滅するようになってまいります。なぜなら、無知に代わって知識が支配し、健康が病気を駆逐し、慰めが悲哀にとって代わり、永い間、暗黒が支配してきた場所に真理の光が灯されることになるからでございます。そうした目標に向けて私たちは、あなたの子供たちのために献身している大勢の仲間たちとともに、努力しているところでございます。






ここに、人々への奉仕を願う、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

Wednesday, March 27, 2024

シアトルの初春 死別の教訓

 lessons of bereavement


《肉親の死に遭遇した時、あの顔、あの姿がもう二度と見られなくなったことを悲しむのならまだしも、死んでいった当人の身の上を悲しむのであれば、それは止めなくてはいけません。

 人生は霊的価値を基盤として考えないといけません。その価値があなたの行為の一つ一つの輝ける指標として、日々の生活の中で発揮されなくてはいけません。スピリチュアリストを自任している方々は、スピリチュアリズムを死という不幸に遭遇した時だけ持ち出して、それ以外の時はどこかに仕舞い込んでおくようなことでは困ります》
                シルバーバーチ  


 その日の交霊会には奥さんを失った男性、二人の子供を失った両親、それにジャーナリストとして有名だったロレンス・イースターブルック氏の奥さんが息子さんといっしょに出席していた。死別の不幸を味わったこの三組の招待客に対してシルバーバーチが次のように語りかけた。

 まず奥さんを失った男性に対して───

 「これまでずいぶん過酷な道を歩んで来られましたが、あなたはこれ以上為すべきことはないというところまで、よく頑張られました。考えうるかぎりのことをおやりになりました。いかに愛しているとはいえ、その人の身体がもはや霊を引き止めておけない状態になってしまえば、それ以上生き永らえてくれることを望むのは酷というものです。

地上の人生にはいつかは別れる時がまいります。頑健な方が居残り、弱った者は先に行った方がよいのです。

 あなたには有難く思うべきことが山ほどあります。大きな危機に、無知のままではなく正しい知識をたずさえて臨むことができました。もしも霊についての知識がなかったら、あなたの人生は今よりどれほど大変なものとなっていたことでしょう。

その意味であなたは貴重な人生のおまけを体験なさったと言えます。そのことをあなたは感謝しなくてはいけません。が、霊を引き止めておけなくなった身体から奥さんが去って行くのは、もはやどうしようもありませんでした。

 あの時の奥さんの心境は複雑でした。もう死んでしまいたいと思ったこともあれば、何とかして生き延びたいと思ったこともありました。が、生き延びたいと思ったのはあなたの立場を思ってのことでして、ご自分の立場からではありませんでした。奥さんにはもう何の苦痛もありません。

老いも病気も衰弱も、そのほか人生の盛りを過ぎた者にかならず訪れる肉体の宿命に苦しむことはなくなりました。肉体が衰弱するほど霊は強くなるものです。

 あなたが楽しくしていれば奥さんも楽しい気分になります。あなたが塞ぎ込めば奥さんも塞ぎ込みます。一人ぼっちになられたのは身体上だけの話であり、霊的には少しも一人ぼっちではありません。奥さんは決して遠くへ離れてはいません。今でもあなたを夫と思い、あなたの住む家を我が家と思っていらっしゃいます。

 あなたは信仰心をお持ちです。ただの信仰心ではなく、あなたに証された〝事実〟を根拠とした現実味のある信仰心です。それが、間違いなく訪れる不幸に備えるために、受け入れ態勢の整った時点でもたらされました。それをあなたの人生の全ての基盤となさってください。

あなたはこれからまだまだこの地上で得るものが沢山あります。あなたの人生はまだ終末に来てはいません。他人のために為すべきことがあり、開発すべき資質があり、成就すべき目的があります。

 神は完全なる公正です。自然の摂理を通して因果応報がきちんと行われております。収支は常に完全なバランスを保っております。あなたは忘れ去られることも見落とされることも無視されることもありません。

あなたを導き、援助し、慈しんでくれる愛があります。それを頼みの綱となさることです。それが、いついかなる事態にあっても不動の信念を維持させてくれることでしょう」


 次に子供を失った夫婦に対して───

 「あなた方お二人が、縁あって訪れてくる人たちにいろいろとお役に立っておられる様子を見て、お子さんはとても誇りに思っておられますよ。大切なのは受け入れる用意のできた土壌に蒔かれるタネです。

あなた方が受け入れられたタネはいま見事な花を咲かせております。お子さんは、お二人の人生に衝撃的な影響を及ぼした霊的真理を自然に受け入れて行かれるのをご覧になって、とてもよろこんでいらっしゃいます。

お二人はその大きな真理を我が子の死という大きな悲しみを通して見出さねばなりませんでした。それはまさしく試金石でした。途方に暮れて、力になってくれるものが誰一人、何一つないかに思えた時に、真の自分を見出させてくれることになった触媒でした。

 魂というものは、その奥底まで揺さぶられ、しかも物的なものでは一縷の望みさえつなげない状態下においてのみ目覚めるものであるというのが、基本的な霊的真理なのです。つまり物質界には頼れるものは何一つないとの悟りで芽生えた時に魂が甦り、顕現しはじめるのです。

 現在のお二人の生活も決して楽ではありません。これまでも楽だったことは一度もありません。が、日常の問題にもちゃんとした摂理があります。それは、人のために自分を役立てる者は決して生活に不自由はしないということです。

基本的に必要とするものは必ず与えられるということです。その際に大切なことは、それまでの体験によって得たものを、日常の生活の中で精いっぱい生かしていくことです。そうすることの中で、神とのつながりを強化して行くことになるからです。そのつながりが強くなればなるほど、援助と力とが流れ込む通路が内面的に奥深くなって行くのです。

真理を理解した人間は沈着、冷静、覚悟が身についております。恐れるということがありません。不安の念の侵入を受けつけず、無知と迷信と悩みが生み出す暗黒を打ち消します。自分に生命を与えてくれた力、宇宙を支配している力、呼吸し活動するところのものに必需品を供給する力は絶対に裏切らないとの信念があるからです。

 大切なのは、ご自分の方から神を裏切らないことです。これまでに得たもの、いま受けつつあるもの、そしてそれから生まれる叡智のおかげでせっかく宿すようになった信頼を裏切るような行為をなさらないように心掛けることです。

 霊的真理にしがみつくことです。これまでに自分たちに啓示されたものを信じて物事に動じないことです。一つ一つの問題に正面から取り組み、精いっぱい努力し、済んだことは忘れることです。援助は必ず与えられます。

なぜなら、お二人を愛する人たち、地上にいた時より一段と親密度を増している人たちが、お二人が難題を切り抜けるように取り計らってくれるからです」


 続いてイースターブルック氏の奥さんに対して───

 「今ここにご主人が来ておられますよ。あなたと息子さんのことをとても誇りに思っていらっしゃいます。試練の時を立派に乗り切られたからです。こうして陰から守り導くことができることをご主人が証明してみせたからには、これからもずっと見守っているものと確信してほしいと希望しておられます。

明日のことを思い煩ってはいけません。心配の念を心に宿してはいけません。地上世界には何一つ怖いものはありません。

 ご主人はいつもあなたのお側にいます(〝解説〟参照)。愛のあるところには必ずご主人がいると思ってよろしい。あなたの心、あなたの家庭からいっときも離れることはありません。物質的には離れてしまいましたが、霊的にはいつもいっしょです。霊的につながっている者はけっして別れることはありません。

そうした霊的次元の愛を知り、理解力を身につけ、そしてお互いに足らざるところを補い合う関係───半分ずつが合わさって統一体を構成する関係、魂の結婚という、地上で滅多に見かけられない真実の霊的関係を成就されたあなた方は、本当におしあわせです。

 あなたはご主人のことを誇りに思うべきです。その啓蒙の光は在世中にもしばしば異彩を放っていた偉大なる霊です。彼ほどに人の心の琴線にふれ、高邁(こうまい)なものに手の届く人はそう多くはいません。

 お二人に対する愛は少しも変わっておりません。その愛が鋼鉄の帯のようにお二人を取り囲んでおります。これからも常にお側におられます。お二人を守り、導き、支えとなり、慈しんでくれることでしょう。あなた方が手にされたこうした知識が他の無数の人々も手にできるようになれば、地上はどんなにか変わることでしょう。

 ですから、毎朝を無限の可能性に満ちた新しい霊的冒険の始まりとして、又、あなたの霊的な輝きと資質を増す機会の到来として、歓喜をもって迎えるのです。毎朝が、霊的成長を促し内部の神性を発達させ全生命の始源へ近づけてくれる好機(チャンス)をもたらしてくれるのです」

(訳者注───次に掲げる霊言は誰に向って述べられたものかが明記されておらず、内容からもその手掛かりが得られないので、一般的なものとして訳出しておく)

 「一人一人の人間が、自分の行為に自分で責任を取ります。それが自然の摂理なのです。いかに愛する人とはいえ、その人に代わってあなたが責任をとるわけにはまいりません。その人の行為の結果をあなたが背負うことはできません。それを因果律というのです。過ちを犯したら、過ちを犯した当人がその償いをする───霊的法則がそうなっているのです。

 地上世界には不正、不公平、不平等がよく見られます。不完全な世界である以上、それはやむを得ないことです。しかし霊的法則は完全です。絶対に片手落ちということがありません。

一つの原因があれば、数学的正確さをもってそれ相応の結果が生じます。原因と結果とを切り離すことはできません。結果は原因が生み出すものであり、その結果がまた原因となって次の結果を生み出していきます。

 その関係が終わりもなく続くのです。もしもその因果関係が人為的に変えられ、利己主義者が博愛主義者と同じように霊的に成長することが可能であるとしたら、それは神の公正を根底から愚弄することになります。自分が蒔いたタネは自分で刈り取る───そうあらねばならないのです。

 あなたはあなた自身の行為に責任を取るのです。その行為の結果を自分が引き受けるのです。これからもあなたは過ちを犯します。そしてそれに対する償いをすることになります。

そうした営みの中で叡智を学んでいくべきなのです。過ちを犯すために地上へ来たようなものです。もしも絶対に過ちを犯さない完全な人間だったら、今この地上にいらっしゃらないはずです。

 過ちも失敗もあなたが不完全であることから生じます。しかし、転んでも起き上がることができます。取り返しのつかない過ちというものはありません。新しい希望と新しい可能性を秘めた新しい一日、新しい夜明けが必ず訪れます。

 うちの宗教の教えを信ずれば罪も赦されるかに説いている宗教がいくつかあるようですが、そういうことは有り得ません。罪をあがなうのはその罪を犯した当人のみです。〝神聖〟とされる文句や言葉をいくら繰り返しとなえても、原因から生じる結果を赦免したり消去したりすることはできません。

 ですから、いくら愛しい人であっても、その人の行為にあなたが責任をとるわけにはまいりません。その人みずから学び、学ぶことによって成長し進化していくのです。それが生命の法則なのです。生命は静止することがありません。絶えず向上を目指して動いております。動くということが永遠の進化のための一つの要素なのです。

完全へ向けての向上に終止符(ピリオド)を打つことはできません。無限の時をかけて完全へ近づくことの連続であり、これでおしまいということがないのです。完全性の達成は無限の過程です。完全なのは大霊のみです。

 思い煩ってはなりません。心配の念はせっかくの援助の通路を塞いでしまいます。私はいつも取り越し苦労はおやめなさいと申し上げております。心配の念は有毒です。悪気を生み出し、それがあなたを取り囲みます。陰湿な雰囲気で包まれてしまいます。その状態になると霊の力も突き通せなくなります」

《われわれは、顕と幽の区別なくいずこに存在しようと、神を父とし、一人ひとりがその子供という関係において一つの広大な霊的家族を構成しております。神性の絆がわれわれのすべてをつなぎ、一体としております。

その意味で私たちは、こうして顕と幽の二つの世界の間に横たわる障害の多くを克服してきたことを、この上ない恩恵として感謝しております。そのおかげで地上世界へ影響力を行使できる聖なる霊が次々と輩出しております》
                             シルバーバーチ     

Tuesday, March 26, 2024

シアトルの初春 九巻四章 不変・不滅・不可避の摂理

 What you call spiritualism is the law of nature. God has determined that this universe will be governed and manifested by unchanging laws. Every aspect of the universe is governed by laws.

≪万が一にも大自然の摂理に欠陥が見つかったら、私はこのたびの使命をすべて放棄します。もしどこかに摂理のとおりに行っていないところが見つかったら教えてください。しかし、そういうことは絶対にありません。原因にはかならず結果が伴います。蒔いたタネを刈るのです。それ以外には有りようがないのです≫   シルバーバーチ


 「皆さんがスピリチュアリズムと呼んでおられるものは大自然の法則のことです。神はこの宇宙を不変の法則によって支配し顕現していくように定めました。宇宙のあらゆる側面が法則によって治められているのです。

みなさんが親しんでいる物的地上界であろうと、人間に感知できない、それよりはるかに大きな霊界であろうと、法則が行き届かないというところはどこにもありません。

 この法則を通して神の意志が働いているのです。人間の法律には変更と修正がつきものです。不完全であり、あらゆる情況を考慮に入れていないからです。が、神の法則は、起こりうるあらゆる事態に備えてあります。すべてが規制され、すべてが管理され、神の配剤がすべてに行きわたっております。

 人間には一種の機械としての物的身体が与えられています。あなたはその身体を通して自我を表現している一個の霊なのです。あなたが悩みを抱くと、霊と身体との間の水門が閉ざされ、身体は生命力の補給路を失うことになります。

補給源とのつながりを断たれることになります。そのことに気づいて心構えを改めないかぎり、あなたの身体はその不健康な作用と反作用の法則に従いつづけることになります。

 心配の念はあなたの霊的大気であるオーラの働きを阻害し、その心霊的波長を乱します。 (オーラには磁気性と電気性の二種類がある。詳しくは『母と子の心霊教室』を参照───訳者) 

その障害を取り除くまでは生命力は流れ込みません。泰然自若の境地に至るには長く厳しい修行、過酷な試練、そして心配の念の侵入を許すまいとする不断の努力が要請されます。

 無限の愛と叡智を有する神がこの摂理を創案したのです。完璧に出来あがっており、必ずその通りに作用します。心配することに費やしているエネルギーを建設的な思念へ転換すれば、健康上の問題は生じなくなります。神の計画は完全であり、あなたもその計画の中に組み込まれているのです。

あなたも自分自身を完成しなくてはいけません。そのための機会は日常生活の中にいくらでも用意されております。

 私には自然法則を変える力はありません。因果律という不変の法則に私が干渉することは許されません。たとえばあなたの身体が衰弱している兆候を見つければ、大切にするよう警告してあげることしかできません。

身体は一種の機械です。したがってそれなりの手入れがいります。手入れを怠れば故障するにきまっています。すると休息と修理によって機能を回復させるほかはありません。法則はごまかせないのです。

 あなたはその身体を通して自我を表現しているのです。その身体のすることにも限界があり、それを超えてしまえばバッテリーを補充しなければなりません。それはあなたの責任です。あなたの身体だからです。

 いくら愛があるとはいえ、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念の責任を私が肩代わりしてあげるわけにはまいりません、行為の一つひとつ、言葉の一つひとつ、思念の一つひとつについて、あなた自身が責任を取るのです。
身体はその責任ある自己表現の媒体なのですから、その遂行において支障がないように十分な手入れをしておく必要があります。人体は地上のいかなる機械よりもはるかに入り組んだ、すばらしい組織体です。まさしく驚異というにふさわしい道具です。が、それにも手入れがいります。

 自然の摂理と調和した生き方をしていれば病気も異状も不快感もありません。こうしたものは不調和から生じるのです。摂理に反することをすれば、その代償を払うことになります。摂理の範囲内で生活していれば恩恵を受けます。

 何よりも動機が優先されます。が、摂理に違反したことをすれば、それに対してペナルティが科せられます。自分の気持ちを満足させようとして身体を痛めるところまで行ってしまうか否かは、一人ひとりがその霊的進化の程度にしたがって判断することです。

地上生活にも神の計画の中でのそれなりの役割があります。無理を重ねて次の段階の生活への準備が十分に整わないうちに地上を去るようなことになってはいけません。

 たとえば、ここに人類の福祉に貢献している高潔な人物がいるとしましょう。その人がもしもその道での超人的活動で健康を損ねた場合、それは立派と言えるでしょうか。それも本人自身が判断すべきことです。

ただ残念なことに、そうした決断を下すに当たって必ずしも自分自身に真っ正直になり切っていないということです。どこかに自惚れの要素───オレ以外に出来るヤツはいないのだという考えが潜んでいるものです。

 法則にも、次元の違いによっていろいろあります。物的次元のもの、精神的次元のもの、霊的次元のもの、さらにはそれらが入り組んで作用する場合もあります。悲しいかな、人間は物的次元のことがギリギリの絶望的段階に至るまで、霊的次元の真理が理解できません。

それは実在を無視した生活に終始しているからです。物的なものだけが大切と思い込んでいるからです。

 しかし魂はいつかは真の自我に目覚めなくてはなりません。その時から内在する神性が発現しはじめるのです。それも神が定めた埋め合わせの法則の一環なのです。苦難が大きいだけ、そこから得られる悟りもそれだけ大きいものとなります。

 神は宇宙の会計士のようなものです。生命の帳簿は常に帳尻が合っており、すべてがきちんと清算されております。霊的機構は整然と規制されておりますから、あなたが霊的に受けるものはあなたに相応しい分だけであり、多すぎることもなければ少なすぎることもありません。

その計算はあなたがそれまでの努力によって到達した霊的進化の程度を基準にして行われます。霊的なことは常に完全な清算が行き届いており、ごまかしも見せかけも通用しません。

 法則は無限なる愛と叡智の働きによって完璧に機能しています。各自が受け取るのはそれまでの努力にふさわしい分だけです。私がそのように定めたのではありません。そのようになっていることを私が知ったというだけです。

それを因果律といいます。原因と結果の間にはいかなる者も干渉できません。偶発事故とか不測の事態というものは起きません。すべては自然の摂理でそうなっているのです。

 その摂理が廃止されたり、一時停止されたり、妨害されたりすることは絶対にありません。自然の摂理は絶え間なく作用しており、変わることもなければ修正することもできません。その摂理と調和して生きることです。

すると良い結果が得られます。摂理にひっかからないように上手にすり抜ける方法はありません。その作用は絶対です。宇宙の大霊は摂理の精髄であり、権化であり、哀願も弁解も通用しません」


 《私たちがこれまでに賜った知識のすべて───いま生きている宇宙について、その宇宙を法則によって管理している絶対的な力について、そしてその力と私たちとの関係ならびに私たち相互の関係について、より明確な理解を得させてくれた知識を有難く思っております。

 私たちは宇宙の摂理の働きについてより多くのことを学び、それが一つの手落ちもなく私たちの幸福にとって不可欠のものをいかに美事に用意してくれているか───無限なる叡智によって考案され、無限なる愛によって管理されている摂理が私たちすべてを包摂し、私たちのあらゆる必要性に備え、誰一人としてその支配からはみ出ることがないことを理解しております》                          
                         シルバーバーチ

Monday, March 25, 2024

シアトルの初春 あなたは無限なる霊であるがゆえに、あらゆる定義と説明を超越した存在であらせられます。

Because you are an infinite spirit, you are able to transcend all definition and explanation.

ああ、真白き大霊よ。

あなたは無限なる霊であるがゆえに、あらゆる定義と説明を超越した存在であらせられます。

いかなる書物も、いかなる礼拝所も、いかなる建造物も、いかなる言語も、あなたのすべてを包含することはできず、あなたを完全に解き明かすことはできません。

過ぎ去りし時代には、特別な才能に恵まれた数少ない者たちが、見えざる世界からのインスピレーションを受け取り、天上界とその住人の生活を垣間見てまいりました。

しかし、そのインスピレーションは霊能者たちの精神的ならびに霊的進化の制約を受けざるをえなかったため、あなたについての理解は歪められ、不正確・不完全なものにとどまることになってしまいました。

今、私たちは、ほんの一握りの者ではなく、多くの霊能者を通して全宇宙の背後に控える無限なる霊的存在について、より真実に近い概念を啓示しようと努めております。

絶対的な支配力を有する大自然の摂理の存在を教え、その摂理には例外も変更も廃止もないことを説いております。

そしてその絶対的な摂理が、物質の世界だけでなく全生命界をも支配しており、生命活動のあらゆる側面が摂理によって統制され、すべてがその支配下にあることを解き明かしているのでございます。

こうして無限なる霊によって創案され、愛と叡智を通して働いている摂理は、宇宙の生命活動のすべてを認知しております。

地上で生活する人類もまた、その支配の中にあるのでございます。

全生命を創造したあなたの霊が、地上の子供たちの一人ひとりに宿っており、その神聖なる絆は永遠に切れることはありません。

あなたと子供たちを結びつけている絆は、墓場を越えて霊界においても永久に存在し続けるのでございます。

もしも、あなたの子供たちがあなたを正しく理解するならば、彼らは自らを正しく理解することができるようになり、自分自身の内にあなたの完全性のひな型を見いだすことになるのでございます。

それは今、子供たちの中で、より大きな表現へ向けて呼び覚まされるのを待ちながら、居眠りしているような状態で潜在しております。

生命の法則について深く知るようになるにつれて、あなたの子供たちは自分自身の行為を正し、内部の神性をより多く発現できるようになります。

そして子供たちは平安と静寂の中で、力と自信の源を見いだすことになるのでございます。

人間は霊の資質を開拓することにより、高遠の世界の進化せる霊たちとの、より豊かな交わりが得られるようになります。

そしてそれまで霊たちが蓄積してきた知識と叡智がふんだんにもたらされ、それが地上を公正で豊かで、もっと美しい場所にするための助けとなるのでございます。

それによって地上世界の悲劇と悲しみと不安は、消滅するようになってまいります。

なぜなら、無知に代わって知識が支配し、健康が病気を駆逐し、慰めが悲哀にとって代わり、永い間、暗黒が支配してきた場所に真理の光が灯されることになるからでございます。

そうした目標に向けて私たちは、あなたの子供たちのために献身している大勢の仲間たちとともに、努力しているところでございます。

ここに、人々への奉仕を願う、あなたの僕の祈りを捧げます。


 シルバーバーチ

Sunday, March 24, 2024

シアトルの初春 寛容性は霊性の神髄です。偏狭な信仰のあるところに霊性はありません

Tolerance is the essence of spirituality. Where there is narrow-minded faith, there is no spirituality.


質問に答える ──倫理・道徳・社会問題──      

 「私は、自分で正しいと信じて行動するかぎりそれは許されるという考えに賛成です。人間には例外なく神の監視装置(モニター)が組み込まれております。道義心(良心)と呼んでおられるのがそれです。それがあなたの行動が正しいか間違っているかを教えてくれます」

 本章では今日の倫理、道徳ならびに社会問題を扱うが、上の引用文がその冒頭を飾るのに最も適切であろう。過去十年あまりのうちに社会的通念が大きく変革しており、それに対して例によって賛否両論がある。まずそのことに関連して質問が出された。


 人種問題

───現代社会の風潮について心配し、あるいは困惑している人が大勢いるのですが、スピリチュアリストとしてはこうした時代の潮流にどう対処すべきでしようか。

 「真理を手にした者は心配の念を心に宿すようなことがあってはなりません。地上社会にはずっとトラブルが続いております。霊的な原理が社会秩序の拠って立つ基盤とならないかぎり、トラブルは絶えないでしょう。

唯物的基盤の上に建てようとすることは流砂の上に建てようとするようなものです。内部で争いながら外部に平和を求めるのは無理な話です。憎しみと暴力と敵意をむき出しにして強欲と怠慢をむさぼっている者が群がっている世界に、どうして協調性が有り得ましょう。

 愛とは神の摂理を成就することです。お互いが霊的兄弟であり姉妹であり、全人類が霊的親族関係をもった大家族であることを認識すれば、お互いに愛し合わなければならないということになります。

そのためにこそ神は各自にその神性の一部を植えつけられ、人類の一人ひとりが構成員となってでき上がっている霊的連鎖が地球を取り巻くように意図されているのです。

 しかし今のところ、根本的には人間も霊的存在であること、誰一人として他の者から隔離されることはないこと、進化はお互いに連鎖関係があること、ともに進み、ともに後退するものであるという永遠の真理が認識されておりません。

 それはあなた方スピリチュアリストの責任です。常づね言っておりますように、知識はそれをいかに有効に生かすかの責任を伴います。いったん霊的真理に目覚めた以上、今日や明日のことを心配してはなりません。

 あなた方の霊に危害が及ぶことはけっしてありません。自分の知っていること、これまでに自分に明かされた真理に忠実に生きていれば、いかなる苦難がふりかかっても、いささかも傷つくことなく切り抜けることができます。

地上で生じるいかなる出来ごとも、あなた方を霊的に傷つけたり打ちのめしたりすることはできません。ご自分の日常生活をご覧になれば、条件が整ったときの霊の威力を証明するものがいくらでもあるはずです。

 残念ながらこうした重大な意味をもつ真理に気づいている人は少数であり、まだ多数とは言えません。大多数の人間は物量、権力、支配、暴虐、隷属(させること)こそ力であると思い込んでおります。しかし神の子はすべて身体と精神と霊において自由であるべく生まれているのです。

 霊的真理が世界各地に広がり浸透していくにつれて、次第に地上の神の子もより大きな自由の中で生活するようになり、その日常生活により大きな光輝が見られるようになることでしょう。まだまだ、英国はもとより他のいかなる国においても、話が終わったわけではありません。

進化へ向けての神の力が、これからゆっくりと、そして少しずつ、その威力を見せはじめます。それを地上の人間が一時的に阻止し、阻害し、遅らせることはできます。が、それによって神が意志を変更なさることはありません。

 もしそのくらいのことで神の意志が覆(くつがえ)されるようなことがあるとしたら、この地球はとっくの昔に破滅しているでしょう。霊は物質に優ります。神の霊、大霊こそが宇宙の絶対的支配力なのです。そこで私はいつも申し上げるのです───心を強く持ち、背筋を真っすぐに伸ばして歩みなさい。この世に、そして霊の世界にも、恐れるものは何一つありません、と。最後はきっとうまくいきます」


───われわれ真理を語る者は、人種差別や動物への虐待行為といった間違ったことに、もっと攻撃の矛先を向けるべきでしょうか。

 「そうです。ただ、その際に大切なことは、そうした残虐行為や不和、差別といったものを攻撃するのは、それが物的観点からではなく霊的観点からみて間違ったことだからであることを前面に押し出すことです。その点、霊的真理を手にされたあなた方はとくに恵まれた立場にあります。

人間は霊ですから、その霊の宿としてふさわしい身体をもたねばなりません。となると、そのための教育が必要となります。霊的観点からみて適切な生活環境、適切な家屋、適切な衣服、適切な食事を与えねばならないからです。

 動物を虐待することは霊的観点からみて間違ったことなのです。民族差別や有色人種蔑視は霊的観点からみて間違っているのです。魂には色はありません。黄色でも赤銅でも黒色でも白色でもありません。この霊的真実を前面に押し出して説くことが、もっとも大切な貢献をすることになります」


───私が言いたかったのは、マスメディア(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌)が有色人種への嫌悪感をあおって、洗脳しようとする危険から身を守らねばならないということです。

 「ですから、霊的真理に目覚めれば霊的同胞を毛嫌いすることはできなくなると申し上げているのです」


───より多くを知っているわれわれがしっかりしなくてはならないと思います。

 「そうです。知識(の価値)が大きければ大きいほど大きな責任を伴います」


愛と寛容

───それと、真理に目覚めた者は寛大であらねばならないと思います。

「寛容性は霊性の神髄です。偏狭な信仰のあるところに霊性はありません」



───寛大であれと言うのは結構だと思うのですが、現実の世界において何に寛大であるべきかをよく見きわめる必要があると思います。残虐行為や邪悪な行為に対してはいかなるものでも寛大であってはならないはずです。

 「それに、悪とは何かということも見きわめる必要があります。地上生活の究極の目的は〝死〟と呼ばれている現象のあとに待ちかまえている次のステージ(生活舞台)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。

開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐みを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢です。

 人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。

それは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることです。真の意味での寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差しのべる用意ができていなければなりません」




───愛と寛容は優しさから生まれます。情愛でつながった者に対しては、われわれはその欠点に対して寛大になります。私はこの寛大さ、これは愛といってもよいと思うのですが、これが現代の世の中に欠けていると思うのです。愛と寛容とを結びつけることができれば人類はさらに高揚されると思うのですが・・・・

 「同感です。バイブルにも愛とは摂理を成就することである、とあります。愛とは摂理のことです。神の御心です。なぜなら、神そのものがすなわち愛だからです。したがって神の御心に適った生き方をしていれば、それは愛を表現していることになります。

私のいう〝愛〟とは慈悲の心、奉仕の精神、犠牲的精神、要するに自分より恵まれない者のために自分の能力の範囲内で精いっぱい援助しようとする心を言います。自分のことをかえりみず、助けを必要とする人のために出来るかぎりのことをしてあげようとする心、それが愛なのです」

シルバーバーチ

Friday, March 22, 2024

シアトルの初春 ベールの彼方の生活1 霊界の科学館

The Life Beyond the Veil
The Life Beyond the Veil
Vol. 1 The Lowlands Heaven
by G ・V・ Owen


2 霊界の科学館             一九一三年十月十一日 土曜日


 昨夜は時間がなくて簡単な叙述に終わってしまったので、今日は引き続きあのコロニーでの体験の幾つかを述べてみたいと思います。

そこには色んな施設があり、その殆どは地上の人間で死後の世界について疑問に思っている人、迷っている人を指導するにはどうすれば一ばん効果的かを研究するためのものです。

昨夜お話した私たちの体験を比喩として吟味されれば、その中に託された教訓をふくらませることが出来ると思います。

 さて、あのあと指導霊の一団の引率で私達はすでにお話した境界の外側へ出ました。そこは芝生地ですが、それが途方もなく広がっているのです。そこは時おり取り行われる高級界の神霊の〝顕現〟する場の一つです。

召集の通達が出されますと各方面からそれはそれは大勢の群集が集合し、その天界の低地で可能な限りのさまざまな荘厳なるシーンが展開します。

 そこを通り過ぎて行くうちに次第に登り坂となり、辿り着いたところは台地になっていて、そこに大小さまざまな建物が幾つか立っております。

 その中央に特別に大きいのが立っており、私たちはそこへ案内されました。入ってみるとそこは何の仕切りもない、ただの大きなホールになっております。

円形をしており、まわりの壁には変わった彫刻が施されております。細かく調べてみますと、それは天体を彫ったもので、その中に地球もありました。固定されているのではなく回転軸に乗っていて、半分が壁の中にあり半分が手前にはみ出ております。 

そのほか動物や植物や人間の像も彫られていて、そのほとんどが壁のくぼみ、つまり入れ込みに置いてあります。尋ねてみますとそこは純粋な科学教育施設であるとのことでした。 

 私たちはその円形施設の片側に取り付けられているバルコニーに案内されました。そこは少し出っ張っていますので全体が一望できるのです。これからそこの設備がどういう風に使用されるかを私たちのために実演して見せて下さることになりました。

 腰かけて見ておりますと。青い霞のようなものがホールの中心付近に立ち込みはじめました。と同時に一条(すじ)の光線がホールの中をさっと走って地球儀の上に乗っかりました。

すると地球儀がまるでその光を吸収していくかのように発光し始め、間もなく光線が引っ込められたあとも内部から輝き続けました。と見ているうちに今度はもう少し強烈な別の光線が走って同じように地球儀の上に乗りました。するとその地球儀がゆっくりと台座から離れ、壁から出て宙に浮きました。

 それがホールの中央部へ向けて浮上し、青い霞の中へ入ったとたんに誇張をしはじめ、輝く巨大な球体となって浮かんでおります。その様子は譬えようもなく美しいものでした。

それが地球と同じようにゆっくりと、実にゆっくりとした速度で回転し、その表面の海洋や大陸が見えます。その時はまだ地上で使われる平面図にすぎませんでしたが、回転を続けていくうちに次第に様子が変わってきました。

 山脈や高地が隆起し、河や海の水がうねり、さざ波を立て、都市のミニチュア、建物の細々(こまごま)とした部分までが見え始めたのです。きめの細かさがどんどん進んで、人間の姿──最初は群集が、やがて一人一人の姿が見分けられるようになりました。

直径80フィートから100フィートもあろうかと思える球体の上で生きた人間や動物が見えるというシーンは、とてもあなたには理解できないでしょう。がそれがこの施設の科学の目的なのです。つまり各天体上の存在を一つ一つ再現することです。

 その素晴らしいシーンはますます精度を増し、回転する球体上の都市や各分野で急がしく働いている人間の様子まで見えるようになりました。

広い草原や砂漠、森林、そこに生息する動物類の姿まで見えました。さらに回転して行くうちに、今度は内海や外洋が見えて来ました。あるものは静かに波うち、あるものは荒れ狂っております。そして、そこここに船の姿が見えます。つまり地上生活の全てが目の前に展開するのでした。

 私は長時間そのシーンに見入っておりました。するとその施設の係の方が下の方から私たちに声を掛けられました。おっしゃるには、私たちが今見ているのは現時点での実際の地上の様子で、もしお望みであれば過去へ遡って知性をもつ存在としての人類の起源までを再現できますということでした。

是非その美事な現象をもっともっと見せていただきたいと申し上げると、その方は現象の全てをコントロールしていると思われる器機のあるところへ行かれました。

 その話の続きはあとにして、ここで今あなたの心の中に見えるものについて説明しておきましょう。そのホールは暗くはありません。全体がすみずみまで明るいです。ですが球体そのものが、強烈でしかも不快感を与えない光に輝いているために、青い霞の外側が何となく薄暗く見えるまでです。その霞のあるところが球体の発する光輝の領域となっているようでした。

 さて、程なくしてその回転する球体上の光景が変化し始めました。そして私たちは長い長い年月を遡り、人間がようやく森林から出て来て平地で集落をこしらえるようになった頃の地上の全生命──人間と動物と植物の太古の姿を目のあたりにしはじめました。

 さて、ここでお断りしておかなければならないのは、太古の歴史は地上の歴史家が言っているような過程を辿ってはいないということです。当時の現象は〝国家〟と〝世紀〟の単位でなく〝種〟と〝累代〟(※)の単位で起きておりました。

何代もの地質学的時代がありました。人間が鉄器時代とか石器時代、氷河期と呼んでいる時期を見ますと実に面白いことが発見されます。あらかじめある程度の知識を持つ者には、どうもそうした名称がでたらめであることが判るのです。

と言いますのは、例えば氷河期は当時の地球の一、二の地域には当てはまるかも知れませんが、決して全体が氷で覆われていたわけではないことが、その球体を見ていると判るのです。それも大てい一時代に一つの大陸が氷で覆われ、次の時代には別の大陸が氷で覆われていたのです。

が、そうした歴史的展開の様子は地球が相当進化したところで打ち切られました。そうして、さっきも述べたように人類の出現はその時はすでに既成事実となっておりました。 (※地質学的時代区分を二つ以上含む最大の単位──訳者)

 どんどん様相を変えて行くこの多彩な宝石のような球体に魅入られ、これが他ならぬわが地球なのかと思い、それにしては自分たちが何も知らずにいたことを痛感していると、その球体が次第に小さくなって、もとの壁の入れ込みの中へ戻り、やがて光輝が薄れていき、ついには最初に見かけた時と同じただの石膏の彫り物の様なものになってしまいました。

 この現象に興味をそそられた私たちが指導霊に尋ねると、そこの施設についていろいろと解説して下さいました。今見た地球儀にはもっと科学的な用途があること、

あのような美しい現象を選んだのは科学的鍛錬を受けていない私たちには美しさの要素の多いものが適切と考えたからであること、科学的用途としては例えば天体と天体との関連性とか、それぞれの天体の誕生から現在までの進化の様子が見られるようになっていること。等々でした。

 壁にはめ込まれた動物も同じような目的に使用されるとのことでした。地球儀の時と同じように光線が当たると光輝を発してホールの中心部へやって来ます。

そこでまるで生きた動物のように動き回ります。事実ある意味でその間だけは生きた動物となっているのです。それが中央の特殊な台に乗っかると拡大光線──本当の科学的名称を知らないので仮りにそう呼んでおきます──を当てられ、さらに透明にする光線を当てられます。するとその動物の内臓がまる見えとなります。

施設の人の話によりますと、そうやって映し出される動物あるいは人間の内部組織の働き具合を見るのは実に見応えのあるものだそうです。

 そのモデルに別の操作を施すと、今度は進化の過程を逆戻りして次第に単純になって行き、ついには哺乳動物としての原初形態まで遡っていくことが出来ます。つまりその動物の構造上の発達の歴史が生きた姿のまま見られるというわけです。

面白いのはその操作を過ると間違ったコースを辿ることがあることで、その時は初期の段階が終わった段階で一たん元に戻し、もう一度やり直して、今度は正しいコースを取って今日の段階まで辿り着くということがあるそうです。

又、研究生が自分のアイディアを組み入れた進化のコースを辿らせてみることも出来るそうです。動物だけでなく、天体でも国家でも民族でも同じことができるそうですが、それを専門的に行う設備が別のホールにあるとのことでした。

 一度話に出た(八六頁参照)子供の学校の構内に設置されていた球体は実はこの施設の学生の一人がこしらえたのだそうです。勿論ここにあるものよりはずっと単純に出来ております。もしかしたらこの施設の美しさを見た後だからそう思えるのかも知れません。

 今日はこれ位にしておきましょう。他にも色々と見学したものがあるのですが、これ以上続けると長くなり過ぎるので止めにします。

 何か聞きたいことがあるみたいですね。その通りです。私は月曜日の勉強会に出席しておりました。あの方が私に気づいておられたのも知っておりました。私の述べた言葉は聞こえなかったようですけど。

 では、さようなら。あす又お会いしましょう。

≪原著者ノート≫最後のところで言及している勉強会のことについて一言述べておく必要がある。前の週の月曜日のことである。私はその日、礼拝堂の手すりと手すりの間に着席し、勉強会のメンバーは聖歌隊席で向かい合って着席していた。

聖歌隊席の至聖所側の一ばん端で私の右手になる位置にE婦人が着席していた。そのE婦人が後で語ってくれたところによると、私が会の最後の締めくくりの言葉を述べている最中に私の母親が両手を大きく広げ情愛あふれる顔で祭壇から進み出て、私のすぐ後ろまで来たという。

その姿は輝くように美しく、まるで出席しているメンバーと少しも変わらない人間の身体をまとっているようだったという。E婦人の目には今にも私を抱きしめるかに見えたそうで、余りの生々しさに一瞬自分以外の者には見えていないことを忘れ、今にも驚きの声を出しそうになったけど、どうにかこらえて目をそらしたという。私が質問しようと思っていたのはそのことだった。
       

シアトルの初春 シルバーバーチの霊訓(九) まえがき

Philosophy of Silver Birch
  by Stella Storm  
Spiritualist Perss (1969)
 London, England



まえがき   


十二人の出席者が扇形に席を取った。みんなヒソヒソと話を交わしているが、私の目はソファの右端に座っている小柄で身ぎれいな男性に注がれていて、まわりの人たちの話の内容は分からない。 その眠気を催すような低音の話声だけを耳にしながら、私はその男性が少しづつ変身していく様子をじっと見守っていた。ふだんは実に弁舌さわやかな人間が、そうした取りとめもない雑談から身を引くように物を言わなくなっていった。 やがて黒縁の眼鏡と腕時計をはずし、頭を下げ、両目をこすってから、その手を両膝の間で組んだ。顎が、居眠りをしているみたいに腕のところに来ている。

 それから二、三分してから新しい変化を見せ始めた。背をかがめたまま顔を上げた。出席者たちはそんなことにはお構いなしに雑談に耽りながらも、すでに霊媒(ホスト)が肉体を離れていることを感じ取っていた。そして代って主賓(ゲスト)の挨拶の第一声が発せられると同時に、水を打ったように静寂が支配した。

 その霊媒モーリス・バーバネルが肉体を離れ、代わって支配霊のシルバーバーチがその肉体を〝拝借〟して、今われわれの真っ只中にいる。霊媒とは対照的にゆっくりとした、そして幾分しわがれた感じの声で情愛溢れる挨拶をし、いつものように開会の祈りを述べた。

 「神よ、自らに似せて私たちを造り給い、自らの神性の一部を賦与なされし大霊よ。私たちは御身と私たち、そして私たち相互の間に存在する一体関係を一層緊密に、そして強くせんと努力しているところでございます。

 これまでに私たちに得させてくださったものすべて、かたじけなくもお与えくださった叡智のすべて、啓示してくださった無限なる目的への確信のすべてに対して、私たちは感謝の意を表し、同時に、これ以後もさらに大いなる理解力を受けるにふさわしき存在となれるよう導き給わんことを祈るものでございます。

 私たちは、これまであまりに永きに渡って御身をおぼろげに見つめ、御身の本性と意図を見誤り、御身の無限なる機構の中における私たちの位置について誤解しておりました。しかし今ようやく私たちも、御身の永遠の創造活動に参加する測り知れない栄誉を担っていることを知るところとなりました。

その知識へ私たちをお導きくださり、御身について、私たち自身について、そして私たちの置かれている驚異に満ちた宇宙について、いっそう包括的な理解を得させてくださったのは御身の愛に他なりません。

 今や私たちは御身と永遠につながっていること、地上にあっても、あるいは他界後も、御身との霊的な絆が切れることは絶対にないことを理解いたしております。それゆえに私たちは、いかなる時も御身の視界の範囲にあります。

いずこにいても御身の摂理のもとにあります。御身がいつでも私たちにお近づきになられるごとく、私たちもいつでも御身に近づけるのでございます。

 しかし、子等の中には自分が永久に忘れ去られたと思い込んでいる者が大勢おります。その者たちを導き、慰め、心の支えとなり、病を癒し、道案内となる御身の霊的恩寵の運び役となる栄誉を担った者が、これまでに数多くおりました。

 私たちは死のベールを隔てた双方に存在するその先駆者たちの労苦に対し、また数々の障害を克服してくれた人達に対し、そして又、今なお霊力の地上への一層の導入に励んでくださっている同志に対して、深甚なる感謝の意を表明するものでございます。

 どうか私たちの言葉のすべてが常に、これまでに啓示していただいた摂理に適っておりますように。また本日の交霊会によって御身に通じる道を一歩でも前進したことを知ることができますように。
 ここに常に己を役立てることをのみ願うインディアンの祈りを捧げます」


 私(女性)はバーバネル氏のもとで数年間、最初は編集秘書として、今は取材記者(レポーター)として、サイキックニューズ社に勤めている。

 私にとってはその日が多分世界一と言える交霊会への初めての出席だった。英国第一級のジャーナリストだったハンネン・スワッハー氏の私宅で始められたことから氏の他界後もなおハンネン・スワッハー・ホームサークルと呼ばれているが、今ではバーバネル氏の私宅(ロンドンの平屋のアパート)の一室で行われている。

 その日開会直前のバーバネル氏は、チャーチル(元英国首相)と同じようにトレードマークとなってしまった葉巻をくわえて、部屋の片隅で出番を持っていた。一種の代役であるが、珍しい代役ではある。主役を演じるのは北米インディアンの霊シルバーバーチで、今では二つの世界で最も有名な支配霊となっている。

そのシルバーバーチが憑ってくるとバーバネルの表情が一変した。シルバーバーチには古老の賢者の風格がある。一分のスキもなくスーツで身を包んだバーバネルの身体がかすかに震えているようだった。

 そのシルバーバーチとバーバネルとの二つの世界にまたがる連繋関係は、かなりの期間にわたって極秘にされていた。シルバーバーチの霊言が一九三〇年代にはじめてサイキックニューズ誌に掲載された時の英国心霊界に与えた衝撃は大きかった。活字になってもその素朴な流麗さはいささかも失われなかった。

 当初からその霊言の価値を認め、是非活字にして公表すべきであると主張していたのが他ならぬスワッハー氏だった。これほどのものを一握りのホームサークルだけのものにしておくのは勿体ないと言うのだった。

 初めはそれを拒否していたバーバネルも、スワッハー氏の執拗な要請についに条件付きで同意した。彼がサイキックニューズ誌の主筆であることから、〝もし自分がその霊媒であることを打ち明ければ、霊言を掲載するのは私の見栄からだと言う批判を受けかねない〟と言い、〝だから私の名前は出さないことにしたい。

そしてシルバーバーチの霊言はその内容で勝負する〟という条件だった。

 そういう次第で、暫くの間はサークルのメンバーはもとより、招待された人も霊媒がバーバネルであることを絶対に口外しないようにとの要請を受けた。とかくの噂が流れる中にあって、最終的にバーバネル自身が公表に踏み切るまでその秘密が守られたのは立派と言うべきである。

 あるとき私が当初からのメンバーである親友に「霊媒は誰なの?」と密かに聞いてみた。が、彼女は秘密を守りながらも、当時ささやかれていた噂、すなわち霊媒はスワッハーかバーバネルかそれとも奥さんのシルビアだろうという憶測を、否定も肯定もしなかった。

 当時の私にはその中でもバーバネルがシルバーバーチの霊媒としていちばん相応しくないように思えた。確かにバーバネルはスピリチュアリズムに命を賭けているような男だったが、そのジャーナリズム的な性格は霊媒のイメージからは程遠かった。まして温厚な霊の哲人であるシルバーバーチとはそぐわない感じがしていた。

 サイキックニューズとツーワールズの二つの心霊誌の主筆として自らも毎日のように書きまくり、書物も出し、英国中の心霊の集会に顔を出しまわって〝ミスター・スピリチュアリズム〟のニックネームを貰っているほどのバーバネルが、さらにあの最高に親しまれ敬愛されているシルバーバーチの霊媒までしているというのは、私には想像もつかないことだった。

そのイメージからいっても、シルバーバーチは叡智に溢れる指導者であり、バーバネルは闘う反逆児だった。

 今から十年前(一九五九年)、バーバネル自身によるツーワールズ誌上での劇的な打ち開け話を読んだ時のことをよく覚えている。

 〝永い間秘密にされていたことをようやく公表すべき時期が来た。シルバーバーチの霊媒は一体誰なのか。その答えは───実はこの私である〟とバーバネルは書いた。

 「それ見ろ、言った通りだろう!───こうしたセルフがスピリチュアリストの間で渦巻いた。

 シルバーバーチが霊媒の〝第二人格〟でないことの証拠としてあげられるのが、再生説に関して二人が真っ向から対立していた事実である。バーバネルは各地での講演ではこれを頭から否定し、その論理に説得力があったが、交霊会で入神して語り出すと全面的に肯定する説を述べた。が、

バーバネルもその後次第に考えが変わり、晩年には「今では私も人間が例外的な事情のもとで特殊な目的をもって自発的に再生してくることがあることを信じる用意が出来た」と述べていた。

 シルバーバーチの叡智と人間愛の豊かさは尋常一様のものではない。個人を批判したり、けなしたり、咎めたりすることが絶対にない。それに引き換えバーバネルは、自らも認める毒舌家であり、時には癇癪を起すこともある。

交霊会でシルバーバーチの霊言を聞き、他方で私のようにバーバネルと一緒に仕事をしてみれば、二人の個性の違いは歴然としていることが分かる。

 バーバネルは入神前に何の準備も必要としない。一度私が、会場(バーバネルの自宅)へ行く前にここ(サイキックニューズ社の社長室)で少し休まれるなり、精神統一でもなさってはいかがですかと進言したことがあるが、

彼はギリギリの時間まで仕事をしてから、終わるや否や車を飛ばして会場へ駆け込むのだった。交霊会は当時はいつも金曜日の夕刻に開かれていたから、一週間のハードスケジュールが終わった直後と言うことになる。

 私も会場まで車に乗せて頂いたことが何度かある。後部座席に小さくうずくまり、一切話しかけることは避けた。そのドライブの間に彼は、間もなく始まる交霊会の準備をしていたのである。と言っても短い距離である。目かくしをしても運転できそうな距離だった。 

 会場に入り、いつも使用しているイスに腰を下ろすと、はじめて寛いだ様子を見せる。そしてそれでもうシルバーバーチと入れ替わる準備が出来ている。その自然で勿体ぶらない連繋プレーを見ていて私は、職業霊媒が交霊会の始めと終わりに大袈裟にやっている芝居じみた演出と較べずにはいられなかった。

 シルバーバーチが去ることで交霊会が終わりとなるが、バーバネルには疲れた様子は一切見られない。両目をこすり、眼鏡と時計をつけ直し、一杯の水を飲み干す。ややあってから列席者と軽い茶菓をつまみながら談笑にふけるが、シルバーバーチの霊言そのものが話題となることは滅多にない。そういうことになっているのである。

 シルバーバーチを敬愛し、その訓えを守り、それを生活原理としながら、多分地上では会うことの無い世界中のファンのために、シルバーバーチとバーバネル、それにサークルの様子をおおざっぱに紹介してみた。霊言集はすでに八冊が出版され、世界十数か国語に翻訳されている。その世界にまたがる影響力は測り知れないものがある。

 本書はそのシルバーバーチのいつも変わらぬ人生哲学を私なりに検討してみてまとめ上げた、その愛すべき霊の哲人の合成ポートレードである。
                             ステラ・ストーム

Thursday, March 21, 2024

シアトルの初春 霊は何かと祝祭日が好きである。

Spirits like holidays.

三十 節

〔霊は何かと祝祭日が好きである。その所為でキリスト教の祝祭日に関する特別のメッセージが数多く寄せられてる。一例として三年連続して送られてきたイースターメッセージを紹介しておく。一八七四年のイムペレーターによるメッセージに較べると、一八七五年に別の霊がサインしたものが雰囲気も異なり観点も異なる点に気づかれるであろう。〕

〔イースター。一八七四年。前の年の同日にドクターとプルーデンスから送られた通信に言及したところ、次のようなメッセージが書かれた。〕

 あの通信が届けられたころの汝の心境と現在の汝の知識とを比べれば、汝の進歩の良き指標となろう。重大なる問題についてその後いかに多くを学び、どれほど考えを改めたかがよく判るであろう。

あの頃われらはいわゆる〝復活〟が肉体の復活ではなく〝霊〟の復活であることを説いた。遠い未来ではなく死の瞬間における蘇りの真相を説明した。その時点においては汝にとって初耳であった。が今は違う。当時理解に苦しんだことについて今は明確な理解がある。

イエスの地上での使命と、今その使者を通じて進行中の仕事についても説いた。イエスの真の神性──汝らが誤って崇拝してきた〝主〟の本来の偉大さについても説いた。イエス自ら述べた如く、イエスが汝らと同じ一個の人間であったこと、ただ比類なき神性を体現する至純至高の人間の理想像であったことを説いた。

愚かなる人間神学が糊塗せるイエスの虚像を取り除くことによって、そこに地上の人間の理想像としての人間イエス・キリストの実像を明らかにすることが出来た。

 イエスは肉体をもって昇天したのではなかった。が決して死んでしまったわけでもない。霊として弟子たちに姿を見せ、共に歩み、真理を説いた。われらも同様のことをする日が来るかもしれぬ。

 今汝が見ているのはこれから始まる新しき配慮──人間が空想し神学者が愚かにも説ける人類の最後の審判者としての〝主〟の出現ではなく、われら使者を通じての新たなる使命(実は古き真理の完成)、地上への新しき福音の啓示という形による〝主〟の出現の前触れとしての〝しるしと奇跡①〟なのである。

すでに地上に進行しつつあるその働きの一環をわれらも担っている。イエス・キリストの指導のもとに新しき福音を地上にもたらすことがわれらの使命なのである。

今はまだその一部しか理解できぬであろう。が、いずれ、のちの時代にそれが神より授けられた人類への啓示の一環であり、過去の啓示の蓄積の上に実現されたものとして評価されることであろう。

 このところ汝の精神の反抗性が減り、受容的態度が増したことにより、われらは直接的働きかけが目立って容易となってきた。これに加えて忍耐力と同時に祈りの気持ちと不動の精神をぜひ堅持してもらいたい。われらの目差す目的から目をそらせてはならぬ。

今まさに地上に届けられつつある神の聖なるメッセージをくり返しじっくりと噛みしめることである。進歩の妨げとなる障害物をつとめて排除せよ。

もっとも、日々の勤めを疎かにしてもらっては困る。そのうち今より頻繁に汝を利用する時期も来よう。が、今はまだその時期ではない。そのためにはまだまだ試練と準備とが必要である。友よ、その時期まで汝は火の如き厳しき鍛練を必要とすることを覚悟せよ。

地上的意識を超えて高級霊の住める高き境涯へと意識を高めねばならぬぞ。これがわれらからの復活祭(イースター)のメッセージである。

死せるものより目覚め、魂を甦らせよ。地上世界の低俗なる気遣いより超脱せよ。魂を縛り息を詰まらせる物質的束縛を振り捨てよ。死せる物質より生ける霊へ、俗世的取越苦労より霊的愛へ、地上より天界へと目を向けよ。

地上生活にまつわる気苦労より霊を解放せよ。これまでの成長の補助的手段に過ぎなかった物的証拠並びに物理的現象を棄て去り、汝の興味を地上的なものより霊的真理の正しき理解へ向けよ。イエスが弟子たちに申したであろう──「この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ②」と。

次の聖書の言葉も汝の心の糧とせよ。「汝ら、眠れる者よ、目覚めよ。死せる者の中より起きよ。キリストが光を与えん③」


──私がこの世的なことに無駄な時間を費やしてきたとおっしゃってるように聞こえますが。



 そうは言っておらぬ。たとえ霊的教育を一時的に犠牲にしても、物理的実験等、地上の人間として必要なことは為さねばならぬと言ってきたつもりである。

が、われらの願いはそうした客観的証拠がもはや必要とせぬ段階においては、そこより霊的教訓の段階へと関心を向けてくれることである。向上心を要求しているのである。そして汝に求めることを全ての人間に求むるものである。



〔さらに幾つか質問したあと私は、霊的に向上していくと俗世的な仕事に全く不向きとなり、ガラスケースにでも入れておく他ないほど繊細となる──つまり霊界との関係にのみ浸りきり世間的な日常生活に耐えられなくなるが、それが霊媒としての理想の境地なのかと尋ねた。〕







 霊媒には環境も背後霊も異なる別のタイプがある。その種の霊媒にとってはそうなっていくことが理想であろう。汝もいずれはそのように取り扱うことになろう。もともと汝を選んだのはそうした目論見があってのことでる。

それ故にこそ、自制心に欠け邪霊の餌食となり易き人間となるのを防がんとして、時間を犠牲にしてきたのである。時間を掛けるだけ掛ければ疑念と困難が薄れ、代わって信念が確立され、過度の気遣いも必要でなくなり、その後の進歩が加速され、安全性が付加されると考えたのである。

焦ったからとてその時期の到来が早まるものではない。たとえ早まるとしても、われらは焦らぬ。が、霊的向上心の必要性だけは、われらの仕事に関わる全ての人間に促してきた。同時に、物理的基盤が確立した以上、今度は霊的構築の段階に入るべきであることも常に印象づけてきたつもりである。



〔ここで私は曾て述べたことがあることを再度述べた。すなわち、私はあくまでも私の信じる道を歩むつもりであること、世間でスピリチュアリズムの名のもとに行われているものの多くが無価値で、時に有害でさえあること。霊媒現象と言うものはおよそ純粋な福音であるとは思えず、無闇に利用すると危険であると言ったことであった。

さらに私は、信念が必要であることは論を俟たないが、私には私なりの十分な信念が出来ていること、これ以上いくら物的証拠を積み重ねても、それによって信念が増すものではないことを付け加えた。〕












 汝の信念が十分に確立されていると思うのは間違いである。信念が真に拡充され純粋さを増した時、今汝が信念と呼んでいるところの冷ややかにして打算的かつ無気力なる信念とはおよそ質を異にするものとなるであろう。

今の程度の汝の信念では本格的な障害に遭遇すれば呆気なく萎(しぼ)むことであろう。まだまだ汝の精神に染み込んではおらぬ。生活の重要素となっておらぬ。

ある種の抵抗に遭うことで力をつけることは有ろうが、霊界の邪霊集団の強力なる総攻撃に遭えば、ひとたまりもないであろう。真実の信念とは〝用心〟の域を脱し、打算的分析や論理的推理、あるいは司法的公正を超越せる無条件の〝あるもの〟にょって鼓舞されたものであらねばならぬ。

魂の奥底より燃えさかる炎であり、湧き出ずる生命の源泉であり、抑えようにも抑えがたきエネルギーであらねばならぬ。

イエスが〝山をも動かす〟④と表現せる信念はこのことだったのである。それは死に際しても拷問に際しても怯まぬ勇気を与え、長く厳しき試練を耐え忍ぶ勇気を与え、勝利達成の道程にふりかかる幾多の危険の中を首尾よくゴールへ向けて導いてくれる筈のものである。

 この種の信念を汝は知らぬ。汝の信念はまだ信念とは言えぬ。ただの論理的合意に過ぎぬ。自然に湧き出ずる生きた信念にはあらずして、常に知的躊躇を伴う検討のあげくに絞り出したる知的合意に過ぎぬ。

安全無事の人生を送るには間に合うかもしれぬが、山をも動かすには覚束ぬ。証拠を評価し、蓋然性を検討するには適当かも知れぬが、魂を鼓舞し元気づけるだけの力はない。

知的論争における後ろ盾としての効用はあろうが、世間の嘲笑と学者の愚弄の的とされる行為と崇高なる目的の遂行において圧倒的支配力を揮うところの、魂の奥底より絶え間なき湧き出ずる信念ではない。汝にはその認識が皆無である。が、案ずるには及ばぬ。

そのうち汝も過去を振り返り、よくも今の程度の打算的用心をもって信念であると勿体ぶり、且つまた、その及び腰の信念でもって神の真理の扉の開かれるのを夢想したものであると驚き呆れる時も到来しよう。

その時節を待つことである。その時節が至れば、信念に燃え崇高なる目的に鼓舞された生ける身体の代わりに、大理石の彫像を置くこともせぬであろう。汝にはまだ信念はない。


──あなたは物事を決めつけるところがあります。おっしゃることは正しくとも、些(いささ)か希望を挫けさせるものがあります。それにしても〝信仰は神からの授かりもの〟⑤である以上、私のどこが責めらるべきなのか理解に苦しみます。私は〝拵えられた〟ものです。

 違う。今の汝は内と外より影響を受けつつ汝自ら造り上げてきたものである。外なる環境と内なる偏向と霊的指導の産物である。汝には誤解がある。われらが非難したのは、その名に値せぬものを信念であると公言したことに過ぎぬ。案ずるには及ばぬ。

汝はより崇高なる真理への道を歩みつつある。(なるべくならば)現象的なものを控え、内的なるもの、霊的なるものの開発を心がけよ。信念を求めて祈れ。汝がいみじくも〝神からの授かりもの〟と呼べるものが魂に注がれ、その力によってより高き知識へと導かれるよう祈れ。汝のそのあらぬ気遣いがわれらを妨げる。
                              ♰ イムペレーター

Wednesday, March 20, 2024

シアトルの初春 一瞬の間の変化というものはありません。永い永い進化の旅が続きます。

There is no such thing as an instantaneous change. The journey of eternal evolution continues.

──大霊(神)を全能でしかも慈悲ある存在と形容するのは正しいでしょうか。

 「何ら差し支えありません。大霊は全能です。なぜならその力は宇宙及びそこに存在するあらゆる形態の生命を支配する自然法則として顕現しているからです。大霊より高いもの、大霊より偉大なもの、大霊より強大なものは存在しません。宇宙は誤ることのない叡知と慈悲深き目的を持った法則によって統括されています。

その証拠に、あらゆる生命が暗黒から光明へ、低きものから高きものへ、不完全から完全へ向けて進化していることは間違いない事実です。

 このことは慈悲の要素が神の摂理の中に目論まれていることを意味します。ただ、その慈悲性に富む摂理にも機械性があることを忘れてはなりません。いかなる力を持ってしても、因果律の働きに干渉することはできないという意味での機械性です。

 いかに霊格の高い霊といえども、一つの原因が数学的正確さを持って結果を生んでいく過程を阻止することは出来ません。そこに摂理の機械性があります。機械性という用語しかないのでそう言ったのですが、この用語ではその背後に知的で、目的意識を持ったダイナミックなエネルギーが控えている感じが出ません。

 私がお伝えしようとしている概念は全能にして慈悲にあふれ、完全で無限なる神であると同時に、地上の人間がとかく想像しがちな〝人間神〟的な要素のない神です。しかし神は無限なる大霊である以上その顕現の仕方も無限です。あなた方お一人お一人がミニチュアの神なのです。

お一人お一人の中に神という完全性の火花、全生命のエッセンスである大霊の一部を宿しているということです。その火花を宿していればこそ存在出来るのです。しかしそれが地上的人間性という形で顕現している現段階においては、みなさんは不完全な状態にあるということです。

 神の火花は完全です。一方それがあなた方の肉体を通して顕現している側面は極めて不完全です。死後あなた方はエーテル体、幽体、又は霊的身体───どう呼ばれても結構です。要するに死後に使用する身体であると理解すればよろしい───で自我を表現することになりますが、そのときは現在よりは不完全さが減ります。

霊界の界層を一段また一段と上がっていくごとに不完全さが減少していき、それだけ内部の神性が表に出るようになります。ですから完全といい不完全といい、程度の問題です」


──バラもつぼみのうちは完全とは言えませんが満開となった時に完全となるのと同じですね。

 「全くその通りとも言いかねるのです。厄介なことに、人間の場合は完全への道が無限に続くのです。完全へ到達することができないのです。知識にも叡知にも理解力にも真理にも、究極というものがないのです。精神と霊とが成長するにつれて能力が増します。いま成就出来ないのも、そのうち成就出来るようになります。

はしご段を昇っていき、昨日は手が届かなかった段に上がってみると、その上にもう一つ上の段が見えます。それが無限に続くというのです。それで完全という段階が来ないのです。もしそういうことが有りうるとしたら、進化ということが無意味となります」


a. これは当然のことながら議論を呼び、幾つかの質問が出たが、それにひと通り応答した後、シルバーバーチはこう述べた。

 「あなた方は限りある言語を超えたものを理解しようとなさっているのであり、それはぜひこれからも続けていくべきですが、たとえ口では表現できなくても、心のどこかでちらっと捉らえ、理解出来るものがあるはずです。

たとえば言葉では尽くせない美しい光景、画家にも描けないほど美しい場面をちらっと見たことがおありのはずですが、それは口では言えなくても心で感じ取り、しみじみと味わうことは出来ます。それと同じです。あなた方は今、言葉では表現できないものを表現しようとなさっているのです」


──大ざっぱな言い方ですが、大霊は宇宙の霊的意識の集合体であると言ってよいかと思うのですが・・・

 「結構です。ただその意識にも次元の異なる側面が無限にあるということを忘れないでください。いかなる生命現象も、活動も、大霊の管轄外で起きることはありません。摂理──大自然の法則──は、自動的に宇宙間のすべての存在を包含するからです。

たった一つの働き、たった一つのバイブレーション、動物の世界であろうと、鳥類の世界であろうと、植物の世界であろうと、昆虫の世界であろうと、根菜の世界だろうと、花の世界であろうと、海の世界であろうと、人間の世界であろうと、霊の世界であろうと、その法則によって規制されていないものは何一つ存在しないのです。

宇宙は漫然と存在しているのではありません。莫大なスケールを持った一つの調和体なのです。

 それを解くカギさえつかめば、悟りへのカギさえ手にすれば、いたって簡単なことなのです。つまり宇宙は法則によって支配されており、その法則は神の意志が顕現したものだということです。法則が神であり、神は法則であるということです。

 その神は、人間を大きくしたようなものではないという意味では非人格的存在ですが、その法則が霊的・精神的・物質的の全活動を支配しているという意味では人間的であると言えます。要するにあなた方は人類として宇宙の大霊の枠組みの中に存在し、その枠組みの中の不可欠の存在として寄与しているということです」



──ということは神の法則は完全な形で定着しているということでしょうか。それとも新しい法則が作られつつあるのでしょうか。

 「法則は無窮の過去からずっと存在しています。完全である以上、その法則の枠外で起きるものは何一つ有り得ないのです。すべての事態に備えられております。あらゆる可能性を認知しているからです。もしも新たに法則を作る必要性が生じたとしたら、神は完全でなくなります。予測しなかった事態が生じたことを意味するからです」


──こう考えてよろしいでしょうか。神の法則は完全性のブループリント(青写真・設計図)のようなもので、われわれはそのブループリントにゆっくりと合わせる努力をしつつあるところである、と。

 「なかなか好い譬えです。みなさんは地上という進化の過程にある世界における進化しつつある存在です。その地球は途方もなく大きな宇宙のほんの小さな一部に過ぎませんが、その世界に生じるあらゆる事態に備えた法則によって支配されております。

 その法則の枠外に出ることは出来ないのです。あなたの生命、あなたの存在、あなたの活動のすべてがその法則によって規制されているのです。

あなたの思念、あなたの言葉、あなたの行為、つまりあなたの生活全体をいかにしてその法則に調和させるかは、あなた自ら工夫しなければなりません。それさえできれば、病気も貧乏も、そのほか無知の暗闇から生まれる不調和の状態が無くなります。

自由意志の問題について問われると必ず私が、自由といっても無制限の自由ではなく自然法則によって規制された範囲での自由です。と申し上げざるを得ないのはそのためです」


(10)──この機械化時代は人類の進化に役立っているのでしょうか。私にはそうは思えないのですが。

 「最終的には役に立ちます。進化というものを一直線に進むもののように想像してはいけません。前進と後退の繰り返しです。立ち上がっては倒れるの繰り返しです。少し登っては滑り落ち、次に登った時は前より高いところまで上がっており、そうやって少しずつ進化して行きます。

ある一時期だけを見れば〝ごらん!この時期は人類進化の黒い汚点です〟と言えるような時期もありますが、それは物語の全体ではありません。ほんの一部です。

 人間の霊性は徐々に進化しております。進化に伴って自我の本性の理解が深まり、自我の可能性に目覚め、存在の意図を知り、それに適応しようと努力するようになります。

 数世紀前までは夢の中で天界の美を見、あるいは恍惚たる入神の境地においてそれを霊視できたのは、ほんのひとにぎりの者にかぎられていました。が今や、無数の人々がそれを見て、ある者は改革者となり、ある者は先駆者となり、ある者は師となり、死して後もその成就の為に立ち働いております。そこに進歩が得られるのです」


──その点に関しては全く同感です。進歩はあると思うのです。が、全体として見た時、地球上が(機械化によって)余り住み良くなると進化にとってマイナスとなるのではないかと思うのです。

 「しかし霊的に向上すると──あなた個人のことではなく人類全体としての話ですが──住んでいる世界そのものにも発展性があることに気づき、かつては夢にも思わなかった豊かさが人生から得られることを知ります。

機械化を心配しておられますが、それが問題となるのは人間が機械に振り回されて、それを使いこなしていないからに過ぎません。使いこなしさえすれば何を手に入れても宜しい──文化、レジャー、芸術、精神と霊の探究、何でもよろしい。かくして内的生命の豊かさが広く一般の人々にも行きわたります。

 その力は全ての人間に宿っています。すべての人間が神の一部だからです。この大宇宙を創造した力と同じ力、山をこしらえ恒星をこしらえ惑星をこしらえた力と同じ力、太陽に光を与え花に芳香を与えた力、それと同じ力があなた方一人ひとりに宿っており、生活の中でその絶対的な力に波長を合わせさえすれば存分に活用することが出来るのです」


──花に芳香を与えた力が蛇に毒を与えているという問題もあります。

 「それは私から見れば少しも問題ではありません。よろしいですか。私は神があなた方のいう〝善〟だけを受け持ち、悪魔があなた方のいう〝悪〟を受けもっているとは申しあげておりません」


──潜在的には善も悪もすべてわれわれの中に存在しているということですね。

 「人間一人一人が小宇宙(ミクロコズム)なのです。あなたもミニチュアの宇宙なのです。潜在的には完全な天使的資質を具えていると同時に獰猛な野獣性も具えております。だからこそ自分の進むべき方向を選ぶ自由意志が授けられているのです」


(十一)──あなたは地球という惑星がかつてより進化しているとおっしゃいましたが、ではなぜ霊の浄化のためになお苦難と奮闘が必要なのでしょうか。

 「なぜなら人間が無限の存在だからです。一瞬の間の変化というものはありません。永い永い進化の旅が続きます。その間には上昇もあれば下降もあり、前進もあれば後退もあります。が、そのたびに少しずつ進化してまいります。

 霊の世界では、次の段階への準備が整うと新しい身体への脱皮のようなものが生じます。しかしその界層を境界線で仕切られた固定した平地のように想像してはなりません。次元の異なる生活の場が段階的に幾つかあって、お互いに重なり合い融合し合っております。

地上世界においても、一応皆さんは地表と言う同じ物質的レベルで生活なさっていますが、霊的には一人ひとり異なったレベルにあり、その意味では別の世界に住んでいると言えるのです」


──これまでの地上社会の進歩はこれから先に為されるべき進歩に較べれば微々たるものに過ぎないのでしょうか。

 「いえ、私はそういう観方はしたくないのです。比較すれば確かに小さいかも知れませんが、進歩は進歩です。次のことを銘記してください。人間は法律や規則をこしらえ、道徳律をうち立てました。文学を豊かにしてきました。芸術の奥義を極めました。精神の隠された宝を突き止めました。霊の宝も、ある程度まで掘り起こしました。

 こうしたことは全て先輩達のお陰です。苦しみつつコツコツと励み、試行錯誤を繰り返しつつ、人生の大渦巻きの中を生き抜いた人たちのお陰です。総合的に見れば進歩しており、人間は初期の時代にくらべて豊かになりました。物質的な意味ではなく霊的・精神的に豊かになっております。そうあって当然でしょう」

シルバーバーチ

Tuesday, March 19, 2024

シアトルの初春 インピレーターの霊訓

More Sprit Teaching


 第一部 霊言による霊訓

1.  はじめに 

この第一部に収録した霊訓は、医師スピーア博士の私宅で催された交霊会での霊言を博士夫人が筆録して保存しておられたものである。

 ステイントン・モーゼス氏の死後、夫人はそれを心霊誌ライトに寄稿された。その記事の中からさらに厳選して、ここに出版することにした。貴重な価値と興味あふれる資料が紛失することを惜しむがゆえである。

 収録されたものは断片的に抄出したものであって、内容に連続性はない。同時に、原文では連続していないものでも内容に一貫性があれば並置したところもある。

 カッコ「 」の部分が通信霊の述べた言葉で、その他はスピーア夫人の説明である。通信霊はほとんどの場合が最高指導霊のインぺレーターで、特に指摘されていない場合は、インペレーターと思っていただきたい。

 ライト誌での連載を終えるに当たってスピーア夫人はこう述べている。

「交霊会における現象の見事さと品の良さ、またインペレーター霊の強烈にして威厳に満ちた雰囲気はとても言葉で尽くせるものではありませんでした」
                                      ──構成者 


(註)──この前書きは本書の構成者のものであるが、氏名は記されていない。なおスピーア夫人の文章は現在形と過去形とが入り乱れていて一貫性がない。実際にはモーゼスの死後のことであるから過去形である方が自然なので、私はすべてを過去形に統一した。☆


 「私こと Imperator Servus Dei (神の僕インペレーター)は四十九名から成る霊団の頭であり、監督と統率の任にあり、他のすべての霊は私の指導と指令によって仕事に当たります。

 私は全知全能の神の意志を成就せんがために第七界(55頁参照)より参りました。使命達成の暁には二度と地上には戻れない至福の境涯へと向上して行くことでしょう。しかしそれはこの霊媒が地上での用を終えた後となるでしょう。そしてこの霊媒は死後において地上よりさらに大きな使命を与えられることでしょう。

 私の下に私の代理であり副官であるレクター Rector がいます。彼は私の不在の折に私に代わって指揮し、とりわけ物理的心霊現象に携わる霊団の統率に当たります。

 レクターを補佐する三番目に高い霊がドクター Doctor, the Teacher です。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率下に、後で紹介する知恵と知識を担当する一団が控えています。

 次に控えるのが、地上の悪影響を避けあるいは和らげ、危険なものを追い払い、苦痛を軽減し、よい雰囲気を醸し出すことを任務とする二人の霊です。この二人にとって抗しきれないものはありません。が、内向的罪悪への堕落はどうしようもありません。そこで霊界の悪の勢力──霊媒の心変わりを画策し、聖なる使命を忘れさせようとする低級霊の誘惑から保護することを役目とする二人の霊が付いております。じきじきに霊媒に付き添うこの四人を入れた七人で第一の小霊団(サークル)を構成しています。われわれの霊団は七人ずつのサークルで構成されており、それぞれに一人の指揮官がいて六人を統率しております。

 第一のサークルは守護と啓発を担当する霊──霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊から成ります。

 次のサークルは愛の霊のサークルです。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、その他に優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類のものすべてを配慮します。

 次のサークル──これも同じく一人が六人を主宰しています──は叡智を司る霊の集団です。直感、感識、反省、印象、推理、といったものを担当します。直感的判断力と、観察事実からの論理的判断力とを指導します叡智を吹き込み、且つ判断を誤らせんとする邪霊からの影響力を排除します。

 次のサークルは知識──人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当します。また霊媒の辿る困難きわまる地上生活を指導し、有益な実際的知識を身に付けさせ、直観的知恵を完成させます。これはドクターの指揮のもとに行われます。

 その次に来るのが芸術、科学、文学、教養、詩歌、絵画、音楽、言語等を指揮するグループです。彼等は崇高で知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さにあふれる言葉に触れさせます。美しいもの、芸術的なもの、洗練された教養あふれるものへ心を向けさせ、性格に詩的な潤いを与え、気品あるものにします。

 次の七人は愉快さとウィットとユーモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を受け持ちます。これがこの霊媒の性格に軽快なタッチを添えます。つまり社交上大切な生気あふれる明るさであり、これが日々の重々しい苦労から気分を解放します。愛想がよく心優しい、魅力あふれる霊たちです。

 最後のサークルは物理的心霊現象を担当する霊たちです。高等な霊的真理を広める上でぜひ必要とみた現象を演出します。指揮官代理であるレクターの保護・監督のもとに、彼ら自身の更生を兼ねて、この仕事に携わっております。この霊媒及びわれわれ背後霊団との接触を通じて、更生への道を歩むのです。それぞれに原因は異なりますが、いずれも地縛霊の類に属し、心霊現象の演出の仕事を通じて浄化と向上の道を歩みつつある者たちです。

 このように、私の霊団は七つのグループに分かれており、それぞれに特殊な使命があります。愛と叡智と知識の霊たち、洗練された高貴な霊たち、明るく愛想のいい霊たち、この低い地上界の単調であくせくした生活に天上的な光輝をもたらす霊たち、地上界と皆さんとの交わりを通じて低い界から高い界への進化という恩恵に浴さんとして働く霊たち──その霊たちの演出する現象が地上の人間にはまだまだ必要なのです。

 いずれのグループの霊たちも、みずからも進歩を求めている霊たちです。霊媒に体験と啓発を与え、霊媒と生活を共にし、霊媒と共に進歩せんと志す者たちです。霊媒に教えることによってみずからも学び、霊媒を向上せしめることによってみずからも向上せんとしているのです。

 われわれのこうした仕事は愛に発する仕事です。それみずからが報酬をもたらすのです。霊媒に祝福をもたらし、霊媒を通じて人類に祝福をもたらし、それがわれわれにとっての祝福となるのです。
 全能の父なる神の祝福のあらんことを」 


 「私がこの地上を去ったのは遥か遠い昔のことになりますが、このたび戻って参りましたのは、この霊媒を通じて霊的啓示を届けんがためです。それが私の使命なのです。私の属する界層からこの地上へ戻って来る霊はきわめて稀です。が、大神が特殊な使命のためにこの私を遣わされたのです」

 「天界と地上との間の階梯(はしご)はつねに掛けられております。が、人間の側の不信心が天使の働きかけを遮断してまいりました」

──あなたは神の僕ですか。

 「いかにも。神の僕として選ばれ使命を仰せつかることは、われわれ仲間の間にあってはただならぬことです。私はこの霊媒を通じての使命を終えた後には二度と個的身体をまとって戻ることの出来ない境涯へと赴きます。他の霊を通じて影響力を行使するのみとなるでしょう。

 皆さんはすべからく大神の導きを求めねばなりません。おのれを恃(たの)む者は滅びる、滅びる、滅びる・・・・・・(特に厳粛な調子で述べた)。神は光明と導きを求める者を決してお見捨てにはなりません。決して、決して、決して・・・・・・」

 霊言が始まった当初、インペレーターはモーゼスのほぼ全生涯を共にしてきたと述べた。そのころは第六界に所属していたが、のちに第七界へと向上しているという。

 そのインペレーターがモーゼスを入神させて語る時、モーゼスの頭部の後方に大きな光の十字架と、それを取り巻く光線が列席者の目に映った。やがてそれが数フィートにも及ぶ高さの、強烈な光輝を発する美しい〝光の柱〟となり、それが右に左にと動いていた。その光柱の背後に沢山の光が楕円形に群がっていた。その状態が三十分以上も続いた。そのことについて尋ねるとインペレーターが、光の柱はインペレーター自身で、それを取り囲んでいる光線は側近の者で、光の群れは霊団の他の者たちであると説明してくれた。また霊媒の頭部のまわりの光輝は霊媒の霊的威力を示しているとのことだった。

 インペレーターが出現している時は必ずサークル全体に厳かな雰囲気がみなぎり、われわれは偉大にして善良な霊の前に居ることを感じるのだった。

 インペレーター霊団の背後にはもう一人、強烈な影響力を持つ霊が控えていて(巻末〝解説〟参照)、霊団全体の指導と霊媒の守護の任に当たっていた。その霊団の中でも高級な部類に属する霊たちは霊媒を教化する立場にあり、代わって霊媒が霊団の中でも未発達な霊を教化するという関係にあった。その大半が地上生活での成長が乏しかった者で、再教育の為に、いうなれば地上という学校へもう一度戻ってきたのである。この仕事を通じて成長したものはやがて霊団を離れて上層界へと進み、代わって、同じ仕事を必要とする霊がその役目についた。

 インペレーターの語り口と祈りは実に厳かで、聞く者の心に、ぜひともこの聖なる仕事を完遂したいとの真摯な願望を抱かずにはおかなかった。われわれの祈りに対してもインペレーターは(自分みずからではなく)自分を通じて神の意志が直接伝えられるように嘆願してくれるのだった。そして交霊会のしめくくりとしていつも、われわれが、神の御国がわが心の中にあることをこの地上にあって悟り、慈悲と穏やかさと優しさと哀れみの心を身につけるようにその祈りの言葉を述べた。その一つを紹介すると──

 「願わくば全能なる大神の祝福と保護のもとに真理と安らぎへ導かれんことを。地上を去りてのち、苦しむことなく中間の界層を首尾よく通り抜け、喜びの境涯へと進むことが出来るよう、この今を生きられんことを」

 「地上へ降りてくる高級な霊は一種の影響力であり、言わば放射性エネルギーです。人間が想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物のようなものです。高等な霊的通信の非個人性に注目していただきたい。この霊媒との関わりを持った当初、彼はしつこくわれわれの身元の証明を求めました。が、実はわれわれを通して数多くの影響力が届けられているのです。死後、首尾よく二段階三段階と上って行った霊は人間的意味での個体性を失い、形体なき影響力となって行きます。私はいま地上へ戻れるぎりぎりの境涯まで辿り着きました。が、距離には関係なく影響力を行使することが出来ます。今私は皆さんからはるか彼方に居ます」

 エリオトソン Elliotson と名のる霊に代わる。

 「(入神状態において宇宙の記憶層から)無意識のうちに回想するなどということは不可能なことです。無意識的回想説は笑止千万というべきです。すべてのカギは背後霊の働きにあります。またアイデンティティ(地上時代と同じ人物像)が不変であるかに考えるのも間違いです。私の知る限り高級霊ほどアイデンティティをほとんど失っております。進化していくうちに個性が拡張し放散して、一種の影響力の中枢のような存在となるのです。この霊媒の守護に当たっておられるインペレーター霊はこの上なく高貴なお方で、私をその影響下に包み込んでおられます。が、私にはそのお姿は見えないのです。しかも私が存在する空間に充満しておられます。命令と指示を受けておりますが、一度もお姿を拝したことがないのです。この霊媒には顕現の形で見えることがあります。その必要性があってのことで、私にはその必要性はありません。

 私にとっては、こうして地上に戻ってくることは一種の試練です。たとえてみれば、清らかで陽光あふれる大気の世界からも濃霧の立ちこめる谷底へ下りて行くにも似ていましょう。地上の雰囲気の中に入ると私はすっかり変わってしまうようです。かつての地上時代の思考の習性がよみがえってきますし、当時より鈍重な空気を呼吸するような感じがします」

 「私たちはあなた方人間に神そのものが影響力の大中心であること、その影響力は中間的存在である霊を通じて人類へいきわたることをお教えしたいのです。その霊的存在──あなた方が天使と呼んでおられる存在です──が人類に影響を行使しているのです。光の大中心を取り巻いて存在する大天使が、それをさらに取り巻いて存在する天使に影響力を放散する──つまりそうした天使的存在を通路として最高神の霊力が、受け入れる能力のある者すべてに届けられるという仕組みをお教えしたいのです。

 人間は無意識のうちに知識を受け取りそれを広める通路となっているのです。与えられた才能を開発し、与えられた仕事を助成することによって、人間界における神の霊の住処を開発していくことができるのです。神のお力は高き界層に発し、天使を通して降下し、選ばれた使者にしみ通り、いかにすれば人間が神の協力者たりうるかを示します」

 インペレーターに代わる。
 

「かつては〝天使〟と呼ばれ今日では〝霊〟と呼ばれている存在が人間と神との間をとりもち、神の恩恵を地上へ送り届けると同時に、人間の祈りを神の玉座へ送り届けることも致します。それが神と人間とを取り持つ手段であり、影響力の通路なのです。物質に宿る霊(人間)のまわりには常に天使の支配があると思われるがよろしい」


(註──ここでエリオトソンとインペレーターが述べていることは、私が〝まえがき〟で述べたこととも関連して、霊能者をもって任じている人達に猛省を促したいところである。
 宇宙意識とか記憶の層から望み通りの知識や情報が得られることは理屈の上でのみ言えることであって、実際にそれができる人は地上の人間にまずいない。シルバーバーチは自分の過去世を知ることすら地上の人間には困難だと言っている。

 この種の問題ではエドガー・ケーシーの名を思い浮かべる方が多いことであろう。この人は宇宙意識が語るのを入神状態で取り次ぐそうであるが、実際はエリオトソンが言っている通り、それもすべて背後霊団がやっていることである。

 ラジオのダイヤルを回すと次から次にいろんな放送が入って来るが、宇宙にはそれとは比較にならない、無数といってよいほどの意識や観念が飛び交っている。高級霊からのものもあるが、それを妨害したり、それらしく装って実はニセの情報を流している低級霊の集団からのものもある。困ったことには、そうした低級霊の波長の方が人間には感応しやすいのである。そこに予言のハズレや霊言のいい加減さが生じる原因がある。

 心霊治療の場合は治る治らないの形で結果が明確に出るから良いが、霊言、霊示、お告げの類は、本当か否かを判断する手掛かりは何一つない。たとえ間違いなく〝霊〟からのものであっても、今度はこの霊の程度と質が問題となる。それを試す方法は二つある。

 一つは徹底的に疑ってかかることである。唯々諾々として何でも有難がるのが一番危険である。疑われて機嫌を損ねるような霊は相手にしない方がよい。

 もう一つは、その内容から判断して、それが〝霊〟から承(うけたまわ)らねばならないほどのものかどうか、あるいは、そんなことを知ってどうするのかということを常識的に検討してみることである。その尺度でいけば、最近マスコミを通じて霊言だ、予言だと言って宣伝されているものに、どうでもいい、好い加減なものがいかに多いかがお分かりいただけるであろう。☆


 スピーア博士がキリスト教の教義について質したのに対してインペレーターが──


 「キリスト教の説く教義には多くの誤りが見受けられます。神についての見解はそれを受け取った霊媒の先入観念によってとかく着色されているものです。人間の勝手な考えによって教説をこしらえ、それがドグマとして定着し、絶対的教義として教え込まれています。創造神と人間とのつながり、及び罪についてのキリスト教の説は間違っております。

 罪とは、本質的には、霊性を高めるべく意図された永遠不変の摂理に意識的に違反することです。神が人間の罪をご自身への侮辱と受け止めるような事はあり得ません。われわれが幼児の無礼を受けとめるのと同じように(寛容的に)受けとめられます。自然の摂理によっていずれは悲しみと罰とがもたらせるようになっているのです。罪それ自体は創造神への侮辱などではありません。従って無力な人間に報復という形で罰が加えられるなどということはあり得ません。罪はそれ自体が不変の摂理の審判としての罰を含んでいるのです。

 人間イエス・キリストの地上生活は、地上の人間が見習うべき一つの模範を垂れたものでした。が、それをもって人間の罪を贖ってくれるものと見なすことは赦し難い欺瞞であり、それこそ神を侮辱し、その汚れなき霊性を侮辱し、盲目的信仰に安住している者を堕落させ、おのれの軽信をもって美徳と思わせることになりかねません。

 そのうち、これほど好い加減な寓話が、よくも大まじめに信じられてきたものと呆れる日も来ることでしょう。われわれにその普及の権限が託されている真理は、いずれそうした人間的創作を全て無用のものとすることでしょう。人間は神を自分に似せて想像したのです。その神はきわめて人間的です。人間らしさを幾つも備えております。もう少し崇高な概念が抱ける者ならばおよそ受け入れ難い性質を、人間は〝神〟の名のもとに説いてきました。

 地上人類はようやく今、全知全能の父なる神の概念へ向けて近づきつつあります。やがて新たな啓示を得て、すべての古い誤謬を排除し、新しい神の概念を理解することになるでしょう。全能の神からわれわれが頂いてきた啓示は、これまでの古い教義と思索の産物を排除し、それに代わって、作り話ではなく、あるがままの真理を授けることになるでしょう。

 霊的啓示はすべて神から届けられます。がしかし、それまで人間が信じ希望を託してきたものの多くを除去しなければならないために、必然的にそれは人間が〝信仰〟と呼んでいる者を覆すことになります。神は人間の理解力に応じたものを啓示されます。ゆえに、神の啓示は段階的進歩を辿ることになります。それを授けようとするわれわれの仕事を阻止せんとする邪霊が組織的策謀を弄していますが、こうした反抗は真理が完全に普及しつくすまでは途絶えることはないでしょう。それは信念の弱い者にとっては容易ならざる試金石となるでしょうし、信念強固なものにとっては油断ならない大敵となるでしょう。が、そこにこそ邪霊の存在意義もあるのです。

 見えざる通信霊の指導を仰ぐ時は、果たしてその霊がみずから公言するとおりの存在であるか否かを見極めないで唯々諾々として承ることのないよう心していただきたい。われわれの立場から言わせていただけば、真摯にして純粋な探求心から発する調査には何ら恐れは覚えません。この交霊会において皆さんが目の当たりにされている現象は、キリストが行った奇跡と本質に置いて同じものです。その耳でお聞きになる言葉はヘブライの予言者たちの言葉と少しも変るところはありません。

 スピリチュアリズムの知識はいずれ普及します。が、何所かの宗派の教義としてではありません。われわれの啓示には主教も司祭も執事も必要としません。必要なのは守護・指導に当たる霊と、それを受ける人間の霊との交わりのみです。キリストも述べております──いずこの土地、いずこかの人間が特に他より神聖であるかに説かれることのない時代が訪れるであろう。と」


(注──英国国教会のかつての大主教ウィリアム・テンプルの言葉にこうある──〝わが国教会の最大の誤りは、神は紀元六六年まで世界の一地域すなわちパレスチナにのみ働きかけ、それ以後は他のいかなる土地にいかなる働きかけもしていないという信仰を作り上げてしまったことである〟と。いつから何を根拠にこうした説が出来上がったのかは知らないが、もしその通りだとすると、交霊会というものはあり得ないことになる。キリスト教徒が交霊会を毛嫌いする理由はそこにあるが、ここでインペレーターが言っているのは、交霊会を通じてのみならず日常生活においても霊は人間に働きかけており、それが一番大切だということである。☆

 「われわれは人間に対して、自分をおいて他にいかなる救い主も説きません。胸をえぐられる思いの後悔の念と深甚なる償い──罪の結果はそれしかありません。悪いと知りつつ犯した罪が生み出すその結果から逃れられる者はいません。誰一人いません。お慈悲を求めていかに大げさに泣き叫んでみても、それだけで即座に神の御前に侍らせていただけるようなことは断じてありません。叉底なしの地獄絵図など、われわれは説きません。肉体的に、精神的に、そして霊的に、地上の人間としても義務を果たすことによって徐々に幸せに、少しずつ神らしく成長していきます。人間の勝手なドグマなどは肉体の死と共に死滅し、昇りゆく太陽によって雲散霧消します」


 スピーア博士「十字架上での盗人の懺悔の教訓は人を誤らせるものということになるわけですね」

 「そうです。涙も絶叫も魂を清めることにはなりません。矯正のための永い過程をへなければなりません」

 スピーア博士「御子イエスの血がすべての血を清める、という聖書の文句を解説してください」

 「その中身を汲み取ることです。人間はこれを神がその御子を地上へと身を落とさせ、その御子の血のほとばしりが、それによる贖いへの信仰を告白した者のみを永遠の火焔地獄から救い出すと解釈しています。一体その御子が何者であるかについて知らないままそう解釈しておりますが、そのような冷酷にして無情、邪険きわまる言説は打ち棄て、キリストの生涯と教えの底流にある霊的な意義を読み取ることです。

その人生は人間にとって模範とすべきものであり、至純にして至聖、苦難によって崇高さを増し、慈悲によよって高揚された生涯でした。みなさんもぜひその生活を見習っていただきたい。そうした生活こそ罪より救い、気高いものへと導いてくれることでしょう。誤ることを免れない人間の言葉を字句通りに受け取り、さらにその誤った土台の上に教理の体系という上部構造を築くという間違いを犯しております」

 「ここで、神についての真実の概念を申し述べたいと思います。人間的属性をそなえた人格神としてではありません。神々しい人間神としてでもありません。全宇宙に瀰漫し、普及する普遍的大霊としてです。今や人類は神についてより大きな概念を受け入れる用意が出来ました。われわれは〝愛〟として顕現している神を説きます。愛──いかなる限界内にも閉じ込められない愛としてです。

人間神の概念はかつての人類全体に行きわたっていた偶像崇拝の産物です。これを改めることもわれわれも使命の一つです。神は一個の人格を具えた存在などではありません。どこかの一地点に鎮座ましますのではありません。すべてに浸透し、無始無終に存在し、すべてを導き、すべてを愛されるのです。

 肉体に宿る人間はどうしても限りある形体を具えた神を想像します。われわれが知り得た限りでは、神は限りある人格者ではなく、ましてや一個の人間となって誕生したこともなく、人間的影響力によって動かされることなど断じてありません。神は普遍的法則として働いています。祈ることは結構です。祈りは波動の原理で天上界へと送られ、神が直接働きかけられる天使のもとに届けられます。人間はすべからく祈ることです。祈ることを知らない頑なな魂は天使も近づくことができません。祈る魂には、いついかなる時でも、天上界の使者が惹きつけられます。

 一方においてわれわれは神を一種のエネルギーとして片付けんとする致命的な誤りを避けねばなりませんが、他方、神を人間的煩悩と必需品と権力欲とを具えた人間的存在とする擬人説の迷妄にも陥らぬように注意しなければなりません。原書、人間は自分で勝手な神を作り上げました。暴君の如き神、いえ、人間にも真似のできないほど極悪非道の神でした。本当の神とは生命の本質として、全存在に活力を与える〝霊〟です。全存在を美化する光と愛とを供給する資源です。その神の御心にかなった生活はキリストの生涯の中に体現されています。神は単なるエネルギーではありません。さりとて人間が大自然と呼んでいる非人格的存在でもありません。

 神のことを宇宙に瀰漫する根源的大霊と心得るがよろしい。〝父なる存在〟という言葉がその正しい概念を伝えております。大自然そのものは神ではありません。その大霊が顕現した相(すがた)にすぎません。手がすなわち身体とは言えません。身体を構成するものの一顕現にすぎないのと同様です。

 これまで〝父なる神〟についてあまりに誤った概念がはびこっていました。遠い昔にあっては、それは怒れる神であり、、人間はお慈悲を求めて泣き叫ぶことによってその怒りを鎮めることを要しました。わが子を永遠の地獄へほうり込むことを愉快に思う神でした。

 われわれが認識している神(想像する神ではありません)は、完全にして永遠なる愛の神、過ちを犯した人間も善良な人間もともにその御胸に抱かれる神──わが子すべてを等しく哀れみをもって見つめ、民族や土地によって区別することなく、神の御名を唱えるものすべてに等しく優しさと愛の念をもって応えてくださいます。

 もしも人間が、いかに身分の低い者をも、世間でいかに軽蔑されている者をも慈しみ慰め給う間断なき愛の証──天使の軍勢が神の子等を取り囲んでいる姿をわれわれと同じようにご覧になることが出来れば──たとえ一瞬でもその目で光り輝く存在の大軍勢を垣間見ることが出来れば、誰しもきっと感動を覚え、鑽仰(さんぎょう)の声を発するに違いないのですが・・・・・・。願わくば石のごとく冷ややかな人間の心、高級界からの働きかけに何の反応も示さない心が神の御光に感動し、全てを与えたもう神、普遍的愛の神へ向けて讃仰の声を発することになってくれればと祈らずにはいられません。

 われわれはその天界の政庁の代表として参っている者です。父なる大神は、子等の望みに応えるべく、慰安と導きと愛をたずさえた天使団を送られます。輝ける永遠の光明界よりわれわれは人類の経綸のために参っているのです。天使の群れ、霊の群れ、他界せる知友の群れが、後に残れる者の経綸に当たっているのです。

Friday, March 15, 2024

シアトルの初春 霊は再生に際し

The spirit is reborn
『霊の書/思想編』

あなたが選ぶのはどういう種類の試練にするかということで、実際に誕生してからの細かい出来事は、置かれた境遇でそれに対処するあなたの態度が生み出します。

(中略)霊は再生に際してはあらかじめ一つの人生行路を選び、その人生では大体かくかくしかじかの苦難を体験するであろうと予測します。

つまり、人生の大まかなパターンを承知のうえで再生してきますが、それがどういう形の人間関係や事件・事故となって具体化するかは、置かれた境遇や時の流れの勢いによって決まる性質のものなのです。」

『霊の書/思想編』

Thursday, March 14, 2024

シアトルの初春 思念に実体があるというのは本当でしょうか。

Is it true that thoughts have substance?
 

「これはとても興味深い問題です。思念にも影響力がある───このことには異論はないでしょう。思念は生命の創造作用の一つだからです。ですから、思念の世界においては実在なのです。が、それが使用される界層(次元)の環境条件によって作用の仕方が制約を受けます。

 いま地上人類は五感を通して感識する条件下の世界に住んでいます。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信しあえる段階までは進化していないということです。

まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた霊的存在ということです。その条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形体をとるまでは存在に気付かないからです。

 思念は思念の世界においては実在そのものです。が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が感識されないのです。肉体による束縛をまったく受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。

 勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野でとらえなければいけません」


──物的活動の動機づけとして活用するのは許されますね?

 「それは許されます。また事実、無意識のうちに使用しております。現在の限られた発達状態にあっては、その威力を意識的に活用することができないだけです」

シルバーバーチ

Tuesday, March 12, 2024

シアトルの初春 無知の束縛から救い出す真理の擁護者としての決意を持って邁進しなくてはいけません

We must press forward with determination as defenders of truth that will rescue us from the bondage of ignorance.


 私はいつも、昨日や今日の出来ごとによってすぐに揺らぐようなことのない永遠不変の原理を説いております。 

 永遠の実在───不変の摂理の働きに基礎を持つ実在の一部なのです。

 この知識を活用することによって、決断に際して不安も恐れもなく、自分がたずさえている真理はかならずや勝利を収めるのだという確信を持つことができます。

 この真理はすでに地上に根づいております。役割を忠実に果たしておられる皆さんの存在が白日のもとにさらされることになりますが、それをむしろ天命として喜んで受けとめるべきです。

 なぜならば、それはわれわれの説く真理によって困惑すべき者を困惑させて行きつつあることの証左だからです。

 本当はとうの昔に取り除かれるべきだったものを今、新しいほうきによって掃き取っているところなのです。その過程にも教訓的要素が意図されております。

 が、掃き取られる側がそう大人しく引き下がるわけがないでしょう。当然の成り行きとして、そこに闘争が生じます。

 それも栄誉ある闘争の一部です。その背後には霊の大軍が控えております。光り輝く天使の群れの援助を得ているわれわれに絶対に挫折はありません」


 さらに別の機会にもこのたびの投獄事件に関連してこう述べた。

 「かなり前に私はみなさんにこう申し上げたことがあります。われわれに敵対する勢力は古い言いがかりを体(てい)よく飾り、法律と国家権力を盾にして攻撃してくるでしょう、と。

 しかし、時すでに遅しです。それくらいのことで霊力が挫けることはありません。私たちの勢力は、生命が永遠であること、人間は例外なく死後も生き続けること、愛に死はなく、死者への哀悼は無用であること、そして宇宙には誰にでも分け隔てなく与えられる無限の霊的叡智と愛とインスピレーションの泉があることを教えたくて戻ってくる男女によって編成されているのです。

 特別に神から特権を授かる者は一人もいません。真摯なる者、謙虚なる者、ひたすらに真理を求める者、古い伝説や神話をかなぐり棄て、いったん受け入れた真理に素直に従う用意のできた者のみが、新しい世界の価値ある住民としての特権を得るのです。

 教会と言えども、法律と言えども、裁判官と言えども、インスピレーションの泉に蓋をすることはできません。その流れは止めどもなく続きます。

 みなさんは何者をも恐れることなく、人類を迷信の足枷から解き放し、無知の束縛から救い出す真理の擁護者としての決意を持って邁進しなくてはいけません」

シルバーバーチ

                  

Monday, March 11, 2024

シアトルの初春 どうか謙虚に、そして畏敬の念をもって真理を迎えてやってください。

Please welcome the truth with humility and reverence.


More Wisdom of Silver Birch
Edited by Sylvia Barbanell


巻頭言
 
頑固(かたくな)な心、石ころのような精神では真理の種子(たね)は芽を出しません。

受容性に富む魂───率直に受け入れ、それが導くところならどこへでも付いて行ける魂においてのみ花開くものです。

あなたがそのような気持ちになるまでには、つまり真理を魂の中核として受け入れる備えができるまでには、あなたはそのために用意される数々の人生体験を耐え忍ばなくてはなりません。

もしもあなたがすでにその試練を経ておられるならば、その時点においては辛く苦しく無情に思え、自分一人この世から忘れ去られ、無視され、一人ぼっちにされた侘しさを味わい、運命の過酷さに打ちひしがれる思いをされたことでしょう。

しかし魂は逆境の中にあってこそ成長するものです。

黄金は破砕と精錬を経て初めてその純金の姿を見せるのです。

あなたがもしもそうした体験をすでに積まれた方ならば、今手にされている本書の中で私が語り明かす真理に耳を傾ける資格があることを、堂々と宣言なさることができます。

しかしそのことは私が語ることのすべてを受け入れることを要求するものではありません。

あなたの理性が反撥することは遠慮なく拒絶なさってください。あなたの常識的感覚にそぐわないものはどうぞお捨てになってください。

私もあなた方と少しも変わるところのない一個の人間的存在です。

ただ私は、死後もなお続く人生の道を少し先まで歩んできました。今その道を逆戻りしてきて、あなたが死の敷居をまたいだのちに絶対的宿命として直面することになっている新しい、そしてより広大な人生がどのようなものであるかを語ってあげております。

どうか謙虚に、そして畏敬の念をもって真理を迎えてやってください。

謙虚さと畏敬の念のあるところには真理は喜んで訪れるでしょう。

そして、せっかく訪れてくれた真理が少しでも長居をしてくれるよう、手厚くもてなしをあげてください。

真理こそがあなたに自信と確信と理解力と、そして何にもまして、永遠に失われることのない、掛けがえのない霊的叡智をもたらしてくれることでしょう。
                               シルバーバーチ
                                         

Saturday, March 9, 2024

シアトルの弥生 私たち霊団の仕事の一つは、地上へ霊的真理をもたらすことです。

 One of our jobs as a spiritual group is to bring spiritual truth to earth.


 「私たち霊団の仕事の一つは、地上へ霊的真理をもたらすことです。これは大変な使命です。霊界から見る地上は無知の程度がひどすぎます。その無知が生みだす悪弊は見るに耐えかねるものがあります。それが地上の悲劇に反映しておりますが、実はそれがひいては霊界の悲劇にも反映しているのです。

地上の宗教家は、死の関門をくぐった信者は魔法のように突如として言葉では尽くせない程の喜悦に満ちた輝ける存在となって、一切の悩みと心配と不安から解放されるかに説いていますが、それは間違いです。真相とはほど遠い話です。

 死んで霊界へ来た人は───初期の段階においては───地上にいた時と少しも変わりません。肉体を棄てた───ただそれだけのことです。個性は少しも変わりません。性格は全く一緒です。習性も特性も性癖も個性も地上時代そのままです。利己的な人は相変わらず利己的です。

貪欲な人は相変わらず貪欲です。無知な人は相変わらず無知のままです。悩みを抱いていた人は相変わらず悩んでいます。少なくとも霊的覚醒が起きるまではそうです。

 こうしたことが余りに多すぎることから、霊的実在についてある程度の知識を地上に普及させるべしとの決断が下されたのです。そこで私のような者が永年にわたって霊的生命についての真理を説く仕事にたずさわってきたわけです。

霊的というと、これまではどこか神秘的な受けとられ方をされてきましたが、そういう曖昧なものでなしに、実在としての霊の真相を説くということです。

そのためには何世紀にもわたって受け継がれてきた誤解、無知、偏見、虚偽、偽瞞、迷信───要するに人類を暗闇の中に閉じ込めてきた勢力のすべてと闘わねばなりませんでした。

 私たちはそうした囚れの状態に置かれ続けている人類に霊的解放をもたらすという目的を持って一大軍団を組織しました。お伝えする真理はいたって単純なものですが、それにはまず証拠になるものをお見せすることから始めなければなりません。

 すなわち偏見を棄てて真摯な目的、真実を知ろうとする欲求を持って臨む者なら誰にでも得心がいくものであることを明らかにしなければなりません。あなた方の愛する人々はそちら側からそのチャンスを与えてくれさえすれば、然るべき通路(霊媒)を用意してくれさえすれば、死後もなお生き続けていることを証明してくれます。

 これは空想の産物ではありません。何千回も何万回も繰り返し証明されてきている事実を有りのままに述べているまでです。もはや議論や論争のワクを超えた問題です。もっとも、見ようとしない盲目者、事実を目の前にしてもなお認めることができなくなってしまった、歪んだ心の持ち主は論外ですが。

 以上が第一の目的です。〝事実ならばその証拠を見せていただこう。われわれはもはや信じるというだけでは済まされなくなっている。あまりに永い間気まぐれな不合理きわまる教義を信じ込まされてきて、われわれは今そうしたものにほとほと愛想をつかしてしまった。

われわれが欲しいのはわれわれ自身で評価し、判断し、測定し、考察し、分析し、調査できるものだ〟───そうおっしゃる物質界からの挑戦にお応えして、霊的事実の証拠を提供するということです。

 それはもう十分に提供されているのです。すでに地上にもたらされております。欲しい人は自分で手にすることができます。それこそが私がこれまであらゆる攻撃を耐え忍び、これからもその砦となってくれる〝確定的事実〟というスピリチュアリズムの基礎なのです。もはや、〝私は信じます。私には信仰というのがあります。

私には希望があります〟といったことでは済まされる問題ではなくなったのです。〝事実なのだからどうしようもありません。立証されたのです〟と断言できる人が数え切れないほどいる時代です。

 人類史上初めて宗教が実証的事実を基礎とすることになりました。神学上のドグマは証明しようのないものであり、当然、議論や論争がありましょう。が、死後の存続という事実はまともな理性を持つ者なら必ず得心するだけの証拠が揃っております。

しかし、証明された時点から本当の仕事がはじまるのです。それでおしまいとなるのではありません。まだその事実を知らない人が無数にいます。その人たちのために証拠を見せてあげなくてはなりません。少なくとも死後にも生命があるという基本的真理は間違いないのだという確証を植え付けてあげる必要があります。

 墓の向こうにも生活があるのです。あなた方が〝死んだ〟と思っている人たちは今もずっと生き続けているのです。しかも、地上へ戻ってくることもできるのです。げんに戻ってきているのです。しかし、それだけで終わってはいけません。

死後にも生活があるということはどういうことを意味するのか。どういう具合に生き続けるのか。その死後の生活は地上生活によってどういう影響を受けるか。二つの世界の間にはいかなる因果関係があるのか。

 死の関門を通過したあと、どういう体験をしているのか。地上時代に口にしたり、行ったり心に思ったりしたことが役に立っているのか、それとも障害となっているのか。こうしたことを知らなくてはいけません。

 また、死後、地上に伝えるべき教訓としていかなることを学んでいるのか。物的所有物のすべてを残していった後に一体何が残っているのか。死後の存続という事実は宗教に、科学に、政治に、経済に、芸術に、国際関係に、はては人種差別問題にいかなる影響を及ぼすのか、といったことも考えなくてはいけません。

そうなのです。そうした分野のすべてに影響を及ぼすことなのです。なぜなら、新しい知識は永い間人類を悩ませてきた古い問題に新たな照明を当ててくれるからです。
 いかがです?大ざっぱに申し上げた以上の私の話がお役にたちましたでしょうか」

Friday, March 8, 2024

シアトルの弥生 みんな永遠の旅の仲間

Everyone is an eternal traveling companion

 ある日の交霊会で、開会を前にして出席者の間で〝実存主義〟についての議論が戦わされたことがあった。(訳者注───霊媒のバーバネルが入神しシルバーバーチが憑ってくると開会となるが、霊団はその前から準備しているので、シルバーバーチはその議論のようすを全部知っている)




  出現したシルバーバーチがこう述べた。

 「ただ今の議論と真理の本質に関するご意見をとても興味ぶかく拝聴いたしました」




───私たちの意見に賛成なさいますか。それとも的外れでしょうか。




 「いえ、ちゃんと的を射ておられます。みなさんには道しるべとなる知識の用意があるからです。ですが、みなさんも人間である以上各自に歩調というものがあります。進化とは絶え間ない成長過程です。成長は永遠に続くものであり、しかもみんなが同時に同じ段階に到達するとはかぎりません。各自が自分の魂の宿命を自分で成就しなければなりません。




それまでに手にした光明(悟り・理解力)と、直面する困難を媒体として、その人独自の教訓を学んでいかねばなりません。それを自分でやらねばならないのです。他人からいくら知恵の援助を受けることができても、魂の成長と開発と発達はあくまで当人が自分の力で成就しなければならない個人的問題なのです。




 真理は永遠不滅です。しかも無限の側面があります。なのに人間は自分が手にした一側面をもって真理の全体であると思い込みます。そこから誤りが始まります。全体などではありません。進化するにつれて理解力が増し、他の側面を受け入れる用意ができるのです。生命活動とは断え間なく広がり行く永遠の開発過程のことです。真理の探究は無限に続きます。




あなた方はそちらの地上において、私はこちらの世界において、真理の公道(ハイウェー)を旅する巡礼の仲間であり、他の者より少し先を歩んでいる者もいますが、究極のゴールにたどり着いた者は一人もいません。




 不完全さが減少するにつれて霊的資質が増し、当然の結果として、それまで手にすることの出来なかった高度の真理を受け入れることができるようになります。人類のすべてが一様に従うべき一個のパターンというものはありません。神の顕現が無限であるからには神の真理に近づく道にも又無限のバリエーションがあることになります。お分かりでしょうか」




 「分かります。その道にも直接的に近づく道と迂回する道とがあるのではないでしょうか」




 「その通りです。直接的なものと迂回的なものとがあります。が、それはその道を歩む本人の発達程度によって決まることです。直接的な道が歩めるようになるまでは、それが直接的な道であることが読み取れません。環境は当人の魂の本性によって条件づけられています。全生命は自然法則によって規制されています。その法則のワクを超えた条件というものは望めませんし、あなた自身そのワクの外に出ることも出来ません。




 かくして、いかなる体験も、これがあなたの住む地上であろうと私の住む霊界であろうと、ことごとく自然法則によって位置付けられていることになります。偶然にそうなっているのではありません。奇跡でもありません。あなたの進化の本質的核心の一部を構成するものです。そうでないといけないでしょう。常に原因と結果の法則によって織りなされているのです」




 「環境条件が自分の進化と無関係のものによってこしらえられることがありますか」




 「それは一体どういう意味でしょうか」




 「もしかしたら私は明日誰かの行為によって災難に遭うかも知れません」




 「そうかも知れません。が、それによって苦しい思いをするか否かはあなたの進化の程度の問題です」




 「でも、その他人がその様な行為に出なかったら私は災難に遭わずに済みます」




 「あなたは永遠の霊的規範を物的尺度で測り、魂の視点からでなく肉体の視点、言いかえれば今物質を通して顕現している精神だけの視点から眺めておられます」




 「それを災難と受け取るのも進化のある一定段階までのことだとおっしゃるのでしょうか」




 「そうです。それを災難と受け取る段階を超えて進化すれば苦しい思いをしなくなります。苦は進化と相関関係にあります。楽しみと苦しみは両極です。同じ棒の両端です。愛と憎しみも同じ力の二つの表現です。




愛する力が憎しみとなり得ますし、その逆もあり得ます。同じく、苦しいと思わせる力が楽しいと思わせることもできます。あなたの体験の〝質〟を決定づけるのはあなたの進化の〝程度〟です。ある段階以上に進化すると憎しみを抱かなくなります。




愛のみを抱くようになります。苦を感じず幸せばかりを感じるようになります。難しいことですが、しかし真実です。苦しみを何とも思わない段階まで到達すると、いかなる環境にも影響されなくなります」







 ここで別のメンバーが 「同じ環境に二人の人間を置いても、一方は愛を持って反応し、他方は憎しみを持って反応します」 と言うと、もう一人のメンバーが 「他人のために災難に遭うということもありませんか。例えばイエスは他人のために災難を受けました」と言う。するとシルバーバーチが質問の意味が分からないと述べるので、改めてこう質問した。




 「あなたは先ほど他人の行為によって自分が災難に遭うこともあり得ることを認められました。他人の苦しみを知ることによって自分が苦しむという意味での苦しみもあるのではないでしょうか。それは無視してもよいのでしょうか。そしてそれは良いことなのでしょうか」




 「少しずつ深みに入ってきましたね。でも思い切って足を踏み入れてみましょう。円熟した魂とは人生の有為転変のすべてを体験しつくした魂のことです。苦しみの淵を味わわずして魂の修練は得られません。




底まで下りずして頂上へはあがれません。それ以外に霊的修練の道はないのです。あなた自ら苦しみ、あなたみずから艱難辛苦を味わい、人生の暗黒面に属することのすべてに通じて初めて進化が得られるのです。進化とは低いものから高いものへの成長過程にほかならないからです。




 さて、苦しみとは一体なんでしょうか。苦しみとは自分自身または他人が受けた打撃または邪悪なことが原因で精神又は魂が苦痛を覚えた時の状態を言います。が、もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。




なぜなら各人が置かれる環境はその時点において関係している人々の進化の程度が生み出す結果であると得心しているからです。進化した魂は同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えますが、苦痛は覚えません」







 「そうだと思います。私もそういう意味で申し上げたのですが、用語が適切でありませんでした」




 「要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。十分な理解がいけば苦しい思いをしなくなります。また、すべきではありません」







 別のメンバー「バイブルにはイエスはわれわれのために苦しみを受けたとあります」




 「バイブルには事実でない事が沢山述べられています。いかなる人間も自分以外の者の為に代って苦しみを受けることはできません。自分の成長を管理するのは自分一人しかいない───他人の成長は管理できないというのが摂理だからです。




贖罪説は神学者が時代の要請にしたがってでっち上げた教説の一つです。自分が過ちを犯したら、その荷は自分で背負ってそれ相当の苦しみを味わわなくてはなりません。そうやって教訓を学ぶのです。もしも誰か他の者が背負ってあげることが出来るとしたら、過ちを犯した本人は何の教訓も学べないことになります。




 苦と楽、悲しみと喜び、平静さと怒り、嵐と晴天、こうしたものがみな魂の成長の糧となるのです。そうしたものを体験し教訓を学んで初めて成長するのです。その時はじめて宇宙が無限なる愛によって支配され、その愛から生み出された摂理に間違いはないとの自覚を得ることができるのです。




〝まず神の国と義を求めよ。さらばそれらのものもすべて汝のものとならん〟(マタイ6・33)というのは真実です。




その心掛けになり切れば、つまり宇宙の摂理に不動の、そして全幅の信頼を置くことができるようになれば、人生で挫折することはありません。なぜならばその信念が内部の霊力を湧き出させ、何ごとも成就させずにはおかないからです。




 その霊力を枯渇させマヒさせる最たるものは〝心配〟の念です。全幅の信頼心───盲目的な信仰ではなく知識を土台とした完全なる信念は、人生のあらゆる体験に心配も迷いも不安もなく立ち向かわせます。




神の子である以上は自分の魂にも至聖所があり、そこに憩うことを忘れないかぎり、自分を焼き尽くす火も吹き倒す嵐も絶対にないとの確信があるからです」







 「すばらしいことです」




 「本当にそうなのです。本当にそうなのです。物質に包まれた人間にはその理解はとても困難です。魂そのものは知っていても、その物質による束縛がどうしても押し破れないのです。しかし、それを押し破っていくところに進化があるのです。




人生問題を霊の目で眺めれば、その一つ一つに落着くべき場がちゃんと用意されているのです。地上的な目で眺めるから混乱と困難と誤解が生じるのです。そこで私たちの出番が必要となります。すなわち霊的真理の光をお見せするのです。




 ナザレのイエスが〝神の御国は汝自身の中にある〟と述べたのは寓話ではなく真実を述べたのです。神は全生命の中心です。宇宙は神が内在するがゆえに存在しているのです。地上のあらゆる存在物も神が内在するからこそ存在しているのです。あなた方もミニチュアの神なのです。




あなた方の心掛け次第でその内部の力が成長し、発展し、開花するのです。その成長の度合を決定づけるのはあなた方自身です。他の誰も代わってあげることはできません。それが地上生活の目的なのです。




 自分も神であることを自覚なさることです。そうすれば神の御国(摂理)は他ならぬ自分の魂の中にあることを悟られるはずです。それは絶対に裏切ることがありません。無限の補給源である神の摂理に調和した生き方をしているかぎり、何一つ不自由な思いも空腹も渇きも感じなくなります。といって必要以上のものはいただけません。




魂の成長の度合にふさわしいだけのものが与えられ、それより多くも、それより少なくも、それより程度の高いものも低いものも受けません。それ以外にありようがないのです」