God knows everything because there are laws.
神とは法則です。
それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。なぜなら、世の中が不変不滅、無限絶対の法則によって支配されていることを知れば、すべてが公正に裁かれ、誰ひ一人としてこの宇宙から忘れ去られることがないことを悟ることができるからです。
神が全てを知り尽くしているのも法則があればこそです。法則だからこそ何一つ見落とされることがないのです。法則だからこそ人生のあらゆる側面がこの大宇宙にその存在場所を得ているのです。人生のありとあらゆる側面が───いかに些細なことでも、いかに大きな問題でも───決して見逃されることがありません。全てが法則によって経綸されているからです。法則なくしては何ものも存在し得ません。
法則は絶対です。人間の自由意志が混乱を惹き起こし、その法則の働きを見きわめにくくすることはあっても、法則そのものは厳然と存在し機能しております。私は神学はこれまで人類にとって大きな呪いとなっていたと信じます。しかしその呪われた時代は事実上過ぎ去りました」
(訳者注───第二巻ならびに第三巻の〝あとがき〟で説明したとおり、シルバーバーチは同じ単語を冠詞の用い方で使い分けることが多く、ここでも一般に法律や法則を指す law を a law ,the law, laws,the laws, そしてただの law, さらにこれらを大文字にしたりしており、私はその場に応じて、法則、摂理、理法、絶対的原理、真理、神のおきて、あるいは働き等々と訳し変えている。
シルバーバーチも言っている通り霊的な内容を地上の言語で完璧に表現することは所詮無理なことであるから、用語そのものにあまり拘らずに全体としての意味を汲み取っていただければ結構である )
さらにシルバーバーチはこれからはその法則を絶対的信仰対象にすべきであると説いてこう続ける。
「私たちは神の摂理を説いているのです。摂理こそ地上に健康と幸福をもたらすと信じるからです。教会で(聖書を絶対のものとして)説教している人たちは、いずれその誤りを初めから是正させられる日が来ます。法則から逃れることはできません。
誰一人として免れることのできる人はいません。なかんずく霊の声を聞いたものは尚さらです。そうと知りつつ実行しない者は、知らずして実行しない者より責任は重大です。
いったん心眼が開かれ霊力を伴った愛を受け入れた人、つまり霊的真理の啓示に目覚めた人が、そのあと万一それなりの責任を果たさなかったら、その人はいっそう大きな罰をこうむります。
なぜなら、そうと知りつつ怠ったのであり、そうとは知らずに怠ったのではないからです。立派な霊媒になれるはずなのに銀貨三十枚で霊的才能を売ってしまっている人が数多くいます。(訳者注──最後の晩餐の直前にイエスの弟子の一人ユダが、イエスを補縛せんとする側と密通して銀貨三十枚を貰ったことから〝裏切りの値〟としてよく用いられるが、ここではシルバーバーチは摂理に背くことを神への裏切り行為として述べている)
神は人間の全てに内在しております。無論人類はありとあらゆる進化の形態を経て今日に至り、したがって誰しも遺伝的に動物的性向を宿してはおりますが、同時にそれらの全てに優るものとして神の属性も宿しており、それを機能させ発揮しさえすれば、地上生活を神の如く生きることができます」
あらゆる病を治し、あらゆる困難を克服する力を人間の一人ひとりが宿している事実を地上人類はいまだに悟っておりません。心身が衰弱した時に引き出せる霊力の貯蔵庫を一人ひとりが携えているのです。
〝神の御国は汝等の心の中にある〟───この言葉の真意を理解する人が何と少ないことでしょう。
その、より大きな自我と接触する方法は神の摂理に則った生活を送ることです。が、それを実行する人が何人いるでしょうか。生活は行為だけで成り立っているのではありません。口にすること、心に思うことによっても成り立っております。
行為さえ立派であれば良いというものではありません。むろん行為が一ばん大切です。しかし口をついて出る言葉、心に思うこともあなたの一部です。人間は往々にして思念の主人でなく奴隷になっている、とはよく言われることです」
普遍的な同胞精神の必要性を説いて───
「私たちは一人の例外もなく神の一部です。赤い肌をした者(銅色人種)もいれば黒い肌をした者もおり、黄色い肌をした者もいれば白い肌をした者もいます。が、その一つひとつが全体の組織の一部を構成しているのです。
そのうち神の摂理が地上全体で理解され、あらゆる肌色をした人種が混り合い、お互いに愛念を抱いて生活する調和のとれた地上天国が実現する日が来ます。今のあなた方にはそうした肌の色の違いが何を意味しているかは理解できません。が、その一つひとつに目的があり、それなりに生命の法則に貢献しているのです。
そのすべてが融合し合うまでは地上にいかなる平和も訪れません。言いかえれば表面の肌色でなく、その奥の魂を見つめるようになるまでは真の平和は訪れません。
このサークル───レギュラー・メンバーとシルバーバーチ霊団───がほぼ世界中の民族から構成されていることに気づかれたことがおありでしょうか。そのことにも地上人類への教訓が意図されているのです。
私たちはどの民族にも他の民族にない特有の要素があって全体の為に寄与していることを学んだのです。各民族が全体にとって最善のものを持ち寄るのです。今までのところ地上人類は黄色人種は黄色人種なりに、白色人種は白色人種なりに、他の人種にない存在価値があることを理解しておりません。
あなた方一人ひとりが神の構成分子であることを忘れてはなりません。お一人お一人が神の仕事、神の力、神の愛、神の知識に寄与することができるということです。自分より力の劣る人に手を貸すという、それだけの行為が、あなたを通じて神が顕現しようとする行為でもあるということになります。
いかなる方法でもよいのです。相手が誰であってもよいのです。どこであってもよいのです。倒れた人に手を貸して起き上がらせ、衰弱した人に力を与え、暗闇に迷う人に光明をもたらし、飢えに苦しむ人に食べ物を与え、寝る場所とて見出せない人に安眠の場を提供してあげるという、その行為が大切です。
そうした行為の一つひとつが神の仕事なのです。人間がそう努力するとき、そこには必ず霊界から支え、鼓舞し、援助せんとする力が加わり、予期した以上の成果が得られます。
神が働きかけるのは教会や大聖堂や寺院の中だけではありません。霊力に反応する人であればいつでもどこでも神の道具となります。神の力によって魂を鼓舞された人、高き天上界からの熱誠に感動して崇高なる憧憬に燃える人はみな神の道具です。
地上界はいまだに神の力を特殊なものに限定し、聖霊の働きかける通路はかくかくしかじかの人でなければならないと勝手に決めてかかっておりますが、神はインスピレーションに感応する人、神の御心に適った生き方をしている人、神の摂理に従順な人であれば、どこの誰であろうと道具として使用します。
その力は一切の地上的差別を無視します。地位や肩書、社会的階層の上下、肌の色、人種、国家、階級の別は構いません。場所がどこであろうと、誰であろうと、その力に反応する人に働きかけ、真理の大根源からの霊力を注ぎ、心を啓発し、魂を鼓舞し、宇宙という名の神の大農園の働き手として雇います。
どうか皆さんもこの教訓を会得され、神の為に、人生の暗闇と重圧と嵐の中で難渋している神の子等を救う決意を固められ、彼らの重荷を軽くしてあげ、新たな希望と知識と光と力をもたらしてあげていただきたいのです。
それによって彼らの身体に新たなエネルギーが湧き、精神は勇気に満ち、霊は新たな意気に燃えて、神の恩恵を噛みしめることになるでしょう。同時にあなた方も人のために自分を役立てることの喜び───自分のためには何も求めず、ひたすら他人の心を高揚してあげる仕事の真の喜びを味わうことになるでしょう」
霊的摂理の存在を知った者の責任の重大性を説いて───
「地上の同胞の心身の糧となる霊的事実の中継役をする人たちには大変な責任が担わされています。その態度いかんが地上生活において、あるいは霊の世界へ来てから、その責任を問われることになります。
霊界からの情報をしきりに求めながら、それを同胞の為に活用することをまるでしようとしない人に、私は時折うんざりさせられることがあります。そういう人は霊の述べたことなら何でも〝高等な訓え〟として有難がるのですが、各自が霊性の成長とともに神の摂理の働きをより多く理解していくのですから、訓えそのものに高級も低級もありません。
もし彼らが自分の得た知識を活用して地上をより良い生活の場、つまり食に飢える人も喉を乾かしている人もなく、神の陽光がふんだんに降り注ぐ家に住むことが出来るような世の中にするために何かを為せば、それこそ最高の訓えを実践をしていることになりましょう」
続いて自由意志との関連について───
「人間は戦争が起きると〝なぜ神は戦争を中止させないのか〟 〝なぜ神は戦争が起きないようにしてくれないのか〟と言って私たちを批難します。しかし神の摂理をみずから無視しているかぎり、その責任は人間自身にあります。
自分の行為による結果だけは避けようとする、そういうムシのいい考えは許されません。神の摂理は私たちも変えることはできません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばなりません。高慢、嫉妬、怨恨、貪欲、悪意、不信、猜疑心───こうしたものが実れば当然のことながら戦争、衝突、仲違いとなります。
神の摂理を説こうとしている私たちは、こうして地上へ戻ってくる真の目的を理解していない人たちから(先ほど述べたように)よく批難されます。しかし私たちの目的は摂理を説くことでしかないのです。
この世には大自然の摂理しか存在しないからです。それをあなた方が宗教と呼ぼうと科学と呼ぼうと、あるいは哲学と呼ぼうと、それはどうでもよいことです。
誰であろうと───一個人であろうと、大勢であろうと、民族全体であろうと国民全体であろうと───摂理に反したことをすれば必ずそれなりのツケが回ってきます。いつも申しておりますように、その摂理の働きは完璧です。時としてそれがあなた方人間には見きわめられないことがありますが、因果律は間違いなく働きます。法則だからです。このことはこれまで何度も説いてまいりました。ここでも改めて申しあげます───宇宙には大自然の法則、神の摂理しか存在しない、と。
ですから、その摂理に順応して生きることが何よりも大切であることを人類が悟るまでは、地上に混乱と挫折と災害と破滅が絶えないことでしょう。私たちに出来るのは永遠の霊的原理をお教えすることだけです。物的なものがすべて朽ち果て灰燼(かいじん)に帰した後もなお残るのはそれだけだからです。
物的なものしか目に映じない人間は、幻影を追い求め永遠を忘れるために大きな過ちを犯すのです。いたって単純な真理ばかりです。が、地上人類はいまだにそれを悟れずにいます。
霊界からいかなる手段を講じてもなお悟れないとすれば、苦痛と涙、流血と悲劇を通じて悟るほかはありません。私としてはこうした形で、つまり愛と協調の精神の中で悟って頂きたいのです。
ですが、それが叶えられない───つまり霊的手段ではだめということになれば、摂理に背いた生き方をしてその間違いを思い知らされるほかはありません。地上で偉人とされている人が必ずしも私たちの世界で偉人であるとは限りません。
私たちにとっての偉人は魂の偉大さ、霊の偉大さ、人のためを思う気持ちの大きさです。こうしたものは物的世界のケバケバしさが消えたあとも末永く残ります。
自由意志は神からの授かりものです。ですが、その使い方を誤ればそれなりの償いをしなくてはなりません。地上世界が神の摂理に適った生き方をすれば、その恩恵がもたらさせます。摂理に背いた生き方をすれば、良からぬ結果がもたらされます。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱をもたらします。
私たちは今、神の子の指導者であるべき人たちから軽蔑されております。神とその愛の旗印のもとに訪れるのですから歓迎されてよいはずなのに、彼らは私たちを受け入れようとしません。地上の人たちに何とかしてあげたいという願望に駆られて、みずからの力でみずからを救うための霊的理法と霊力の存在を明かそうと努力しているのですが・・・。
ですが、霊的盲目による無知の中に浸り切り、祭礼や儀式に取り囲まれ、しかも今の時代に聖霊による地上への働きかけがあることを認めようとしない聖職者は、いずれその代償を払わされることになります。
私たちは人のためになることをしようとする人なら、いかなる分野の人でも味方として歓迎します。私たちにとっての敵は破壊的態度に出る人たちだけです。私たちは愛と奉仕の翼に乗って、援助の手を差し伸べられるところならどこへでも参ります。それが私たちに課せられた大切な使命なのです。
むろんその過程において数々の困難や障害に遭遇することは承知しております。それを何とか克服していかねばなりません。汐は満ちたり引いたりします。が、確実に勝利に向かっております。私たちだけでは仕事らしい仕事はできません。あなた方地上の同志と手を握り合えばいくばくかの仕事はできます。
たった一個の魂でも目覚めさせれば、たった一人でも暗闇から光明へ導くことができれば、たった一人でも弱った人に元気を与え、悩める人に慰めを与えることができれば、それだけで私たちは立派な仕事を成し遂げたことになります」
個々の人生に宿命的な流れがあるという意味において自由意志にも限度があるということにならないかとの質問に答えて───
「人生にある種の傾向、つまり波動の流れがあることは事実ですが、どうしようもないものではありません。人間は常に各種の放射物や影響力によって囲まれており、その多くが個々の運動を左右する可能性を持っていることは事実です。
しかし神は全ての人間に自分の一部、大霊の分霊を賦与しています。それには、各自の進化の程度に応じて自由意志を正しく行使しさえすれば、その発現の障害となるものすべてを克服する力が秘められております。なぜなら一人ひとりが即ち神であり、神は即ちあなたがた一人ひとりだからです。
神性を宿した種子は一人の例外もなくすべての人間に植えられております。その小さな種子は畑に蒔かれた種子と同じく正常な生長を促す養分さえ与えれば、やがて芽を出し、花を咲かせ、そして美事な実をつけます。
その種子は神があなた方の魂に植えて下さっているのです。が、その手入れをするのは自分自身です。いつ花を咲かせるか、あるいは、果たして首尾よく花を咲かせるかどうかは、ひとえに各自の努力に掛っております。各自には自由意志があります。
もしもその種子を暗闇の中に閉じ込めて霊的成長のための光、慈善の光、善行の光を与えずにおけば、神の属性はいつになっても発揮されることはありません」
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