一九一三年十月二三日 木曜日
天界における向上進化の仕組みは実に細かく入り組んでおり、いかに些細な要素も見逃さないようになっておりますから、それを細かく説明していったら恐らくうんざりなさることでしょう。
ですが、ここで一つだけ実例を挙げて昨晩の通信の終わりで述べたことを補足説明しておきたいと思います。
最近のことですが、又一人の女性が暗黒界から例の〝橋〟に到着するという連絡を受け、私ともう一人の仲間二人で迎えに行かされたことがありました。急いで行ってみますと、件(くだん)の女性がすでに待っておりました。
一人ぼっちです。実はそこまで連れてきた人たちがその女性に瞑想と反省の時を与えるためにわざと一人にしておいたのです。これからの向上にとってそれが大切なのです。
一本の樹木の下の芝生の坂にしゃがんでおり、その木の枝が天蓋(てんがい)のようにその方をおおっております。見ると目を閉じておられます。私たちはその前に立って静かに待っておりました。やがて目を開けると怪訝(けげん)そうな顔で私たちを見つめました。
でも何もしゃべらないので、私が「お姉さま!」と呼びかけてみました。女性は戸惑った表情で私たちを見つめていましたが、そのうち目に涙をいっぱい浮かべ、両手で顔をおおい、膝に押し当ててさめざめと泣くのでした。
そこで私が近づいて頭の上に手を置き「あなたは私たちと姉妹になられたのですよ。私たちは泣かないのですから、あなたも泣いてはいけません」と言いました。
「私が誰でどんな人間か、どうしてお判りになるのでしょう」──その方は頭を上げてそう言い、しきりに涙をこらえようとしておりましたが、その言葉の響きにはまだどこか、ちょっぴり私たちに対する反撥心がありました。
「どなたかは存じませんが、どんなお方であるかは存じ上げております。あなたはずっと父なる神の子の一人でいらっしゃるし、従って私たちと姉妹でもありました。
今ではもっと広い意味で私たちと姉妹になったのです。それ以外のことはあなたの心掛け一つに掛かっております。
つまり父なる神の光の方へ向かう人となるか、それともそれが辛くて再びあの〝橋〟を渡って戻って行く人となるかは、あなたご自身で決断を下されることです」と私が述べると、暫く黙って考えてから、
「決断する勇気がありません。どこもここも怖いのです」と言いました。
「でも、どちらかを選ばなくてはなりません。このままここに留るわけには行きません。私たちと一緒に向上への道を歩みましょう。そうしましょうね、私たちが姉妹としての援助の手をお貸しして道中ずっと付き添いますから。」
「ああ、あなたはこの先がどんな所なのかをどこまでご存知なのでしょう」──その声には苦悶の響きがありました。「今まで居た所でも私のことをみんな姉妹のように呼んでくれました。
私を侮(あなど)っていたのです。姉妹どころか、反対に汚名と苦痛の限りを私に浴びせました。
ああ、思い出したくありません。思い出すだけで気が狂いそうです。と言って、この私が向上の道を選ぶなんて、これからどうしてよいか判りません。私はもう汚れ切り、堕落しきったダメな女です。」
その様子を見て私は容易ならざるものを感じ、その方法を断念しました。そして彼女にこういう主旨のことを言いました──当分はそうした苦しい体験を忘れることに専念しなさい。
そのあと、私たちも協力して新しい仕事と真剣に取り組めるようになるまで頑張りましょう、と。彼女にとってそれが大変辛く厳しい修行となるであろうことは容易に想像できました。
でも向上の道は一つしかないのです。何一つ繕(つくろ)うことが出来ないのです。すべてのこと──現在までの一つ一つの行為、一つ一つの言葉が、あるがままに映し出され評価されるのです。
神の公正と愛が成就されるのです。それが向上の道であり、それしか無いのです。がその婦人の場合は、それに耐える力が付くまで休息を与えなければならないと判断し、私たちは彼女を励ましてその場から連れ出しました。
さて、道すがら彼女はしきりに辺りを見回しては、あれは何かとか、この先にどんなところがあるかとか、これから行くホームはどんなところかとか、いろいろと尋ねました。
私たちは彼女に理解できる範囲のことを教えてあげました。その地方一帯を治めておられる女性天使のこと、そしてその配下で働いている霊団のこと等を話して聞かせました。
その話の途中のことです。彼女は急に足を止めて、これ以上先へ行けそうにないと言い出しました。〝なぜ? お疲れになりましたか〟と聞くと〝いえ、怖いのです〟と答えます。
私たちは婦人の心に何かがあると感じました。しかし実際にそれが何であるかはよく判りません。何か私たちに摑みどころのないものがあるのです。
そこで私たちは婦人にもっと身の上について話してくれるようお願いしたところ、ついに秘密を引き出すことに成功しました。それはこう言うことだったようです。
〝橋〟の向こう側の遠い暗闇の中で助けを求める叫び声を聞いた時、待機していた男性の天使がその方角へ霊の光を向け、すぐに救助の者を差し向けました。行ってみると、悪臭を放つ汚れた熱い小川の岸にその女性が気を失って倒れておりました。
それを抱きかかえて橋のたもとの門楼まで連れて来ました。そこで手厚く介抱し、意識を取り戻してから、橋を渡って、私たちが迎えに出た場所まで連れて来たというわけです。
さて、救助に赴いた方が岸辺に彼女を発見した時のことです。気がついたその女性は辺りに誰かがいる気配を感じましたが姿が見えません。
とっさに彼女はそれまで彼女をいじめにいじめていた悪(わる)の仲間と思い込み、大声で「さわらないで! こん畜生!」と罵りました。
が次に気がついた時は門楼の中に居たというのです。彼女が私たちと歩いている最中に急に足を止めたのは、ふとそのことが蘇ったからでした。彼女は神の使者に呪いの言葉を浴びせたわけです。
私たちは相談した結果これはすぐにでも引き返すべきだという結論に達しました。つまり、この女性には他にも数々の罪はあるにしても、それは後回しに出来る。それよりも今回の罪はこの光と愛の世界の聖霊に対する罪であり、それが償われない限り本人の心が安まらないであろうし、私たちがどう努力しても効果はないと見たのです。そこで私たちは彼女を連れて引きかえし〝橋〟を渡って門楼の所まで来ました。
彼女を救出に行かれた件(くだん)の天使に会うと、彼女は赦しを乞い、そして赦されました。実はその天使は私たちがこうして引き返して来るのを待っておられたのです。
私たちより遥かに進化された霊格の高い方で、従って叡智に長け、彼女がいずれ戻って来ずに居られなくなることを洞察しておられたのです。
ですから私たちが来るのをずっと門楼から見ておられ、到着するとすぐに出て来られました。その優しいお顔付きと笑顔を見て、この女性もすぐにこの方だと直感し、跪いて祝福をいただいたのでした。
今夜の話にはドラマチックなところは無いかも知れません。が、この話を持ち出したのは、こちらでは一見何でもなさそうに思えることでもきちんと片付けなければならないようになっていることを明らかにしたかったからです。
実際私には何か私たちの理解を超えた偉大な知性が四六時中私たちを支配しているように思えるのです。
あのお気の毒な罪深い女性が向上して行く上において、あんな些細なことでもきちんと償わねばならなかったという話がそれを証明しております。〝橋〟を通って門楼まで行くのは実は大変な道のりで、彼女もくたくたに疲れ切っておりました。
ですが、自分が毒づいた天使様のお顔を拝見し、その優しい愛と寛恕(かんじょ)の言葉を頂いた時に初めて、辛さを耐え忍んでこそ安らぎが与えられるものであること、為すべきことを為せばきっと恵みを得ることを悟ったのでした。
その確信は、彼女のようにさんざん神の愛に背を向けて来た罪をこれから後悔と恥辱の中で償って行かねばならない者にとっては、掛けがいのない心の支えとなります。
──その方は今どうされていますか。
あれからまだそう時間が経っておりませんので目立って進歩しておりません。進歩を阻害するものがまだいろいろとあるのです。ですが間違い無く進歩しておられます。
私たちのホームにおられますが、まだまだ他人のための仕事をいただくまでには至っておりません。いずれはそうなるでしょうが、当分はムリです。
罪悪というのは本質的には否定的性格を帯びております。が、それは神の愛と父性(※)を否定することであり、単に戒律(おきて)を破ったということとは比較にならない罪深い行為です。
魂の本性つまり内的生命の泉を汚し、宇宙の大霊の神殿に不敬をはたらくことに他なりません。その汚れた神殿の掃除は普通の家屋を掃除するのとはわけが違います。
強烈なる神の光がいかに些細な汚点をも照らし出してしまうのです。それだけに又、それを清らかに保つ者の幸せは格別です。何となれば神の御心のまにまに生き、人を愛するということの素晴らしさを味わうからです。
(※民族的性向の違いにより神を〝父なる存在〟と見なす民族と〝母なる存在〟と見なす民族とがある。哲学的には老子の如く〝無〟と表現する場合もあるが、いずれにせよ顕幽にまたがる全宇宙の絶対的根源であり、神道流に言えばアメノミナカヌシノカミである。──訳者)
2 最後の審判
一九一三年十月二七日 月曜日
今夜もまた天界の生活を取りあげて、こちらの境涯で体験する神の愛と恵みについてもう少しお伝えできればと思います。私たちのホームは樹木のよく繁った丘の中腹に広がる空地に建っております。
来た時は大なり小なり疲労し衰弱しておりますので、ここから向上して行けるようになるのは、余ほど体力を回復してからのことです。
あなたはここでの介抱の仕方を知りたいのではないかと思いますので申し上げましょう。これを煎じ詰めれば〝愛〟の一語に尽きましょう。それが私たちの指導原理なのです。
例えばこんな話があります。最近のことですが、患者の一人が庭を歩いている時に、私たち霊団の最高指導霊であられる女性天使を見かけました。
その人はつい目を反らして脇の道へ折れようとしました。怖いのではありません。畏れ多い気がしたのです。すると天使様の方から近づいてきて優しく声を掛けられました。話をしてみると意外に気楽に話せるものですから、それまで疑問に思っていたことを尋ねる気になりました。
「審判者はどこにおられるのでしょうか。そして最後の審判はいつ行われるのでしょうか。そのことを思うといつも身震いがするのです。私のような人間はさぞ酷い罰を言いつけられるにきまっているからです。どうせなら早く知って覚悟を決めたいと思うのです。」
この問いに天使様はこうおっしゃいました。
「よくお聞きになられました。あなたの審判はあなたが審判を望まれた時に始まるのです。今のあなたのお言葉から察するに、もうそれは始まっております。ご自分の過去が罰を受けるに値すると白状されたからです。それが審判の第一歩なのです。
一つ一つ勇気を持って懺悔する毎に向上して行きます。ここにお出でになるまでのあの暗黒界での生活によって、あなたはすでに多くの罰を受けておられます。
確かにあれは恐ろしいものでした。しかしもうそれも過去のものとなり、これからの辛抱にはあんな恐ろしさは伴いません。もう恐怖心とはおさらばなさらないといけません。ただし苦痛は伴うでしょう。
大変辛い思いをなさることと思います。ですがその苦痛の中にあっても神の導きを感じるようになり、正しい道を進めば進むほど一層それを強く感じるようになるでしょう。」
「でも報酬を与えたり罰したりする大審判者つまりキリスト神の玉座が見当たらないのはおかしいと思うのです。」
「なるほど、玉座ですか。それならいずれご覧になれる日が来るでしょう。でもまだまだです。審判というのはあなたがお考えになっているものとは大分ちがいます。でも怖がる必要はありません。進歩するにつれて神の偉大な愛に気づき、より深く理解して行かれます。」
これは実はこちらへ来る人の多くを戸惑わせる問題のようです。悪いことをしているので、どうせ神のお叱りを受けて拷問に掛けられるものと思い込んでいるので、そんな気配がないことに却って戸惑いを感じるのです。
また、自分は立派なことをしてきたと思い込んでいる人が、置かれた環境の低さ──時にはみじめなほど低い環境にとても落胆することがよくあります。
最近こんな人を見かけました。この方は地上では大変博学な文筆家で、何冊もの書物を出版した人ですが、地上でガス工場のかまたきをしていた青年に話しかけ、いろいろと教わっているところでした。楽しそうな様子なのです。
と言うのも、その人は謙虚さを少しずつ学んでいるところだったのです。ですがこの人のいけないところは、そんな行きずりの若造を相手に教えを乞うのは苦にならないのに、すでにこちらへ来ている筈の曽ての知人のところへ赴いて地上での過ちや知的な自惚れを告白することはしたくないのです。
しかし、いずれはしなければならないことです。青年との関係はそのための準備段階なのです。しかし同時に、私たちの目にはその人の過去も現在もまる見えであり、とくに現在の環境が非常に低いことが明白なのに、本人は相変わらず内心の自惚れは他人に知られてないと思い続けているのが哀れに思えてなりません。
こういう人には指導霊も大変な根気がいります。が、それがまた指導霊にとっての修行でもあるのです。
ここで地上の心霊家を悩ます問題を説明しておきましょう。問題というのは、心霊上の問題点についてなぜ霊界からもっと情報を提供してくれないかということです。
そうしないとメッセージを伝えることも物理的に演出してみせてあげることも出来ません。実験会では出席者がある特定の霊の姿を見せてほしいとか話を交わしたいとか、あるいはその霊にまつわる証拠について質問したいと思っていることは判っても、それに応じるには私たちは非常に制約された条件下に置かれています。
例えばその出席者の有する特殊な霊力を活用しなければならないのですが、こちらが必要とする肝心なものは閉じられたままで、結局その人が提供してくれるものだけで間に合わせなくてはならないことになりますが、それが往々にして十分でないのです。
さらに、その人の意念と私たちの意念とが言わば空中衝突をして混乱を生じたり、完全に実験が台なしになったりすることもあります。なるべくなら私たちを信頼して私たちの思いどおりにやらせてほしいのです。
私たちがそれを察知して検討し、もし可能性があり有益でもあり筋が通っていると判断すれば、チャンスと手段を見つけて、遅かれ早かれ、それに応じてあげます。
実験その他、何らかの形で私たちが側に来ている時に要求をお出しになるのであれば、強要せずに単に想念を抱くだけでよろしい。
あとは私たちにまかせて下さい。出来るだけのことをして差しあげます。しつこく要求してはいけません。私たちはお役に立ちたいと言う意図しかないのですから、あなたの為になることなら出来る限りのことをしていると信じて下さい。
ちょうどその好い例があります。あなたはずっとルビーのことを知りたいと思っておられました。それをあなたがしつこく要求することがなかったので、私たちは存分に準備することが出来たのです。これからその様子をお伝えしましょう。
ルビーは今とても幸せです。そして与えられた仕事もなかなか上手にこなせるようになりました。つい最近会ったばかりで、もうすぐあなたやローズにお話をしに行けそうだと言っておりました。
なぜ今夜来れないのかと思っておられるようですが、あの子にはほかにすることがありますし、私たちは私たちで計画に沿って果たさねばならないことがあります。
──ちょっと考えられないことですね。本当ですか。
おやおや、これはまた異なことを。本当ですか、とは一体あなたはこちらの子供をどんな風に考えておいでですか。いいですか、幼くしてこちらへ来た者はまずこの新しい世界の生活と環境について学び、それが終わってからこんどは地球と地上生活について少しずつ勉強することを許されます。
父親の説教を聞いて学ぶこと以上に素晴らしい方法があるでしょうか。これ以上申しません。これだけ言えば十分のはずです。常識的にお考えになることです。少しは精神構造が啓発されるでしょう。
──でも、もしもあなたのおっしゃる通りだと、人間はうっかり他人にお説教など出来なくなります。それと、どうか気を悪くなさらないで下さい。
でも、他人に説教する際はよくよく慎重であらねばならないと思われたのは誠に結構なことです。でも、このことはあなた一人にかぎったことではありません。全ての人間がそうあらねばならないことですし、全ての人間が自分の思念と言葉と行為に慎重であらねばなりません。
こちらではそれが悉(ことごと)く知れてしまうのです。でも一つだけ安心していただけることがあります。万が一良からぬこと、品のないことをうっかり考えたり口にしたりした時は、そういうものはルビーがいるような境涯へは届かないように配慮されております。
ですからそちらではどうぞ気楽に考えて下さい。思いのままを遠慮なくおしゃべりになることです。こちらの世界では誠意さえあれば、たとえその教えが間違っていても、間違いを恐れて黙っているよりは歓迎されるのです。
さ、お寝みなさい。皆さんによろしく。神の祝福を。そして神が常にあなたに勇気と忠誠心をお与え下さいますように。
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