Tuesday, February 28, 2023

シアトルの冬 ヤコブと天使 Jacob and the angel

 

ベールの彼方の生活 霊界通信 全4巻揃/G.V.オーエン 近藤千雄訳‹‹古書 古本 買取 神田神保町・池袋 : 夏目書房

    
一九一三年十一月十七日  月曜日

 「汝の見るところを書に著(しる)せよ」──これはパトモス島にいたヨハネに天使が語った言葉である。彼は可能なかぎりその命に従い、書き記したものを同志に託した。そのとき以来、多くの人間がその解釈に苦心してきた。

そして彼らはああでもない、こうでもないと思案の末に、よく判らぬ、とカブトを脱ぐのである。が、彼らが解釈に戸惑うのは実は自業自得なのである。

何となれば、もし幼子の如く素直な心を持って読めば容易に真理の扉を開く合鍵はあったのであり、神の王国に入り、素直な人間の素直な言葉を受け取る者を待ちうける天界の美を見ることを得たはずなのである。

 ところが人間はいつの時代にも〝複雑〟を好む。そして複雑さの中に真理の深遠さと奥行きとを求める。が、それは無駄である。何となれば、それは言わばガラスの表面を見て、反射する光の眩しさに目が眩むにも似た行為であり、その奥を見透し、そこに潜む栄光を見るべきだったのである。

 かくして人間は複雑さに更に複雑さを加え、それを知識と呼ぶ。が、知識には本来複雑さはない。知識を欠くことこそ複雑を生む要因である。故にもし私が貴殿に、そして貴殿を通して他の者に、何かを説明せんとする時、その説明のうわべだけを見てはならない。

自動書記という通信方法にこだわってはならない。つまり用語や言い回しに貴殿自身のものに酷似したものがあるからといって、それを疑って掛ってはならない。

それは言わば家屋を建てるために使用する材料に過ぎず、そのためには貴殿の記憶の層に蓄えられたものを借用するしかないのである。

 更に言えば、貴殿のこれまでの半生は一つにはこの目的のための監督と準備のために費やされてきた。すなわち、こうした自動書記のために貴殿を使用し、更に又、地上界とのつながりを深める上で吾々の及ばざるところをそちら側から援助してもらうためである。

吾々が映像を見せる、それを貴殿が文章として書き留める。かくして〝汝が見るところのことを書き著 (しる) し〟それを世に送る。

その受け止め方は各人の受容力の程度によると同時に、持てる才覚が霊的真理を感識し得るまでに鋭さを増しているか否かに関わる問題である。各々それで佳しとせねばならない。さ、吾らと共に来るがよい。出来るかぎりのものを授けよう。


──〝吾々〟という言い方をされますが、他に何人か居られるのでしょうか。

 吾々は協調によって仕事を推進する。私と共にこの場に居合わせる者もいれば、それぞれの界にあって必要な援助を送り届けることの出来る者もいる。又そうするよりほかに致し方ない性質の援助もある。

それは海底のダイバーのために地上から絶え間なく空気を送り込まねばならないと同じで、吾々がこうして仕事をしている間中ずっと援助を送り届けてくれる必要がある。

あたかも海底にいる如く、普段摂取している空気は乏しく光は遥か上の方に薄ぼんやりと見える、この暗く息苦しい地上界にあっては、そうした種類の援助を得ることによって高き真理を幾分なりとも鮮明に伝えることが出来るのである。

この点を考慮に入れ、吾々のこともその点に鑑みて考えてほしい。そうすれば吾らの仕事について幾分なりとも理解がいくであろう。

 かく申すのも、天使はなぜ曽てほど地上へ大挙して訪れなくなったのかという疑問を抱く者がいるからである。この僅かな言葉の中に多くの誤解が存在するが、中でも顕著なのが二つある。まず第一は、高い霊格を具えた天使が大挙して地上を訪れたことは絶対にない。

永い人類の歴史の中においても、あそこに一人ここに一人と、極めて稀にしか訪れていない。そしてその僅かな事象が驚異的な出来事の年代記の中において大きく扱われている。

天使が地上へ降りてその姿を人間に見せることは、よくよく稀にしか、それも特殊な目的のある場合を除いて、まず有り得ない。万一そうするとなれば、先に述べた吾々の仕事の困難さを更に延長せねばならない。

つまり、まず暗く深い海底へ潜らねばならない。次にその海底で生活している盲目に近い人間に姿を見せるための諸々の条件を整えなければならない。


 それはあり得ないことである。確かに吾々は人類のための仕事に携わり、人類と共に存在するが、そういう形で訪れることはしない。それぞれの仕事により規則があり方法も異なる。

そこに又、第二の誤解が存在する。確かに吾々の身は今人間界に在り、繰り返し訪れているのであるが、この〝訪れる〟という言葉には、言葉だけでは表せない要素の方が実に多いのである。

ベールのこちら側にいる者でも、あるいは吾々の界と地上界との中間の界層にいる者でも、霊の有する驚異的威力とその使用法については、向上の過程において意外に僅かしか理解していないものである。が、この問題はこれまでにして、次に別の興味ある話題を提供しよう。

 例のジャボクにおいてヤコブが天使と会い、それと格闘をして勝ったという話(創世記32)──貴殿はあの格闘をどう理解しているであろうか。そして天使が名前を教えなかったのはなぜだと思われるであろうか。


──私はあの格闘は本当の格闘であったと思います。そしてヤコブが勝たせてもらえたのはパダン・アラムでの暮らしにおける自己との葛藤が無駄でなかったことを悟らせるためであったと思います。

つまり己れに勝ったということです。そして天使が名を明かさなかったのは、肉体に宿る人間に天使が名を明かすことは戒律(おきて)に反くことだったからだと思います。


 なるほど。最初の答えは良く出来ている。あと答えは今一つというところである。何となれば、考えてもみよ、名を明かさなかったのはそれが戒律に反く行為であるからというのなら、では一体なぜそれが戒律に反くことになるのであろうか。

 さて例の格闘であるが、あれは真実味と現実味とがあった。もっとも、人間が行うような生身と生身の取り組みではなかった。もし天使に人間の手が触れようものなら、天使は大変な危害をこうむるであろう。

確かにヤコブの目に映ずるほどの形体で顕現し、触れれば感触が得られたであろう。が手荒に扱える性質のものではなかった。天使の威力はヤコブの腰に触れただけで脚の関節が外れたという話でも想像がつくであろう。

では、それほどの威力ある天使を組み伏せたほどのヤコブの力は一体何であったのか。実は天使はヤコブの念力によって組伏せられたのである。と言って、ヤコブの念力が天使のそれを凌いだというのではない。天使の謙譲の徳と特別な計らいがそこにあったのである。

天使が去ろうとするところをヤコブが引き止めると、天使はそれに従ったが、ぜひ帰らせてほしいと実にいんぎんに頼んでいる。

 貴殿はこの寛恕の心の偉大さに感嘆するであろう。がそれも、イエス・キリストが地上で受けた恥辱を思えば影が薄くなるであろう。いんぎんさは愛の表現の一つであり、それは霊性を鍛える永い修行において無視されてはならない徳の一つである。
 
 こうして天使はその謙譲の徳ゆえに引き止められた。が、それはヤコブが勝ったことを意味するものではない。新たに自覚した己れの意志の力と性格が、しばし、けちくさい感情を圧倒し、素直に天使に祝福を求めた。天使はすぐに応じて祝福を垂れた。が、その名は明かさなかった。

 名を明かすことが戒律に反くという言い方は必ずしも正しいと言えない。名を明かすこともあるのである。ただ、この時は明かされなかった。それはこういう理由による。すなわち名前というものにはある種の威力が秘められているということである。このことをよく理解し銘記してほしい。

なぜなら、聖なる名を誤って使用し続けると不幸が生ずることがあり、それに驚いてその名の主が忌み嫌われることになりかねないからである。ヤコブが天使の名を教えてもらえなかったのは、ヤコブ自身の為を思ってのことであった。

祝福をよろこんで求めた。が、それ以上にあまり多くを求めすぎぬようにとの戒めがあったということである。ヤコブは天使の偉大なる力をほとんど直接(じか)に接触するところまで体験した。が、その威力をむやみに引き出すことは戒めなければならない。

そうしなければ、その後に待ち受ける奮闘は己れの力によるものではないことになるからであった。

 今、貴殿の心に疑問が見える。吾々に対する浅はかな要求が聞き入れられることがあるかということのようであるが、それは可能であるのみならず、現実にひっきりなしに行われている。

不思議に思えるかもしれないが、その浅はかな要求を吾々が然るべき形にして上層界へ送り届ける。が、往々にしてその結果は、当人自身の力をふりしぼらせ、そうすることによって霊界からの援助に頼るよりも一層大なる力を発揮させるべきであるということになる。

地上の人間が必死にある者の名を呼べば、それは必ずその者に届く。そして可能な限り、そして本人にとりて最良の形で世話を焼き活動してくれる。

 思うにヤコブは兄エサウとの闘争、息子たちとの諍(いさか)い、飢餓との戦い、そして数々の試練によって自己の人間的威力を否応なしに発揮させられることで、たびごと天使の援助を頼りとした場合より飛躍的進歩を遂げたことであろう。

彼の要求はしばしば拒否され、それが理解できないために信仰に迷いを生じ当惑したことであろう。また時には援助が授けられたことであろう。がそれは歴然とした形で行われたであろうから、理解するに努力は要らず、従って進歩も必要としなかったことであろう。

 この問題はこれ以上続けぬ。ヤコブの例を引いたのは、吾々の姿は見えず声も聞こえないからといって、それだけで貴殿が距離的に吾々から遠く離れているわけでもなく、また吾々が貴殿から遠くに居るわけでもないことを示すためであった。

吾々が語り貴殿が聞く。しかしそれは聴力で聞くよりも更に深い、貴殿自身の内奥で聞いている。貴殿の目に映像が見える。が、それは視力で見るより更に内奥の感覚にて見ている。貴殿は何一つ案ずるには及ばない。

吾々も少しも案じてはいない。そしてこれ以後も貴殿を使用し続けるであろう。故に平静さとキリストを通じての神への祈りの気持を持ち続けてほしい。吾々はキリストの使者であり、キリストの名のもとに参る者である。♰ 
 



Monday, February 27, 2023

シアトルの冬 創造は無窮です creation is endless

 シルバーバーチの顕著な特徴は、どんなに難解な問題、どんなに曖昧な問題について質問しても、それに対して見事な解答が即座に返ってきたことである。たいていの指導霊が避けたがる難題をシルバーバーチは気持ちよく歓迎した。その潔(いさぎよ)さは時おり“質問を受ける会”を設けたことにも出ている。

ジャーナリストで、何年間かサークルのメンバーでもあり、二冊の霊言集(※)の編纂者でもあるA・W・オースティンが、ある日の“質問会”でシルバーバーチにかなり突っ込んだ質問をした。本章ではその一問一答を紹介しよう。


※――『Teachings of Silver Birch』、『More Teachings of Silver Birch』の二冊で、前者はスピリチュアリズム普及会から『シルバーバーチの教え』(近藤訳)として、潮文社から『シルバーバーチ霊言集』(桑原啓善訳)として出ている。後者は潮文社から『シルバーバーチの霊訓(五)』として出ている。

「今日の地上世界で要請されている最も急を要する改革は何だとお考えでしょうか」


「これは難問ですね。と言いますのは、いま地上全体には、改善が叫び求められている不公正、矯正が叫び求められている間違い等々、どこから手をつけたらよいか分からないほど沢山の、悪疫ともいうべき文明の汚点が存在するからです。

しかし、その中でも一ばん急を要する改善は、わたしに言わせれば、数え切れないほどの人間を苦しめている無くもがなの貧困、悲惨、窮乏です。全体としては十分なものが用意されているのに、物的生活の基本的必需品にも事欠く人がいるということは間違ったことです。

有り余るほど持っている者と不足している人たちとの間の隔差を修正すること、これこそが現在の地上の焦眉(しょうび)の急です。内部の神性を発揮しようにも、肝心の身体が惨めなほど疲弊し衰弱している魂に対して、いったい自我の発見などということが説けるのでしょうか。わたしたちは決して人間の身体上の必需品について無関心でいるわけではありません。身体と精神と霊とが自然な状態で生活する上で“本当に大切なもの”を見出すことができるような、そういう生活環境を築くことこそわたしたちに課せられた使命なのです」

「もしもあなたが独裁者となったら真っ先に何を改革されますか」


「地球の住民を操り人形のように扱う立場に置いてみることは、このわたしにはできません。それは、わたしが理解している“摂理”に反することだからです。地上の平和と調和と幸福は独裁的権威でもって恐怖と戦慄(りつ)の中で従わせる強制的な命令によって招来されるものではありません。

一刻の猶予も許さない布告を矢つぎばやに出すというやり方では、地上は改善されません。何百年も何千年も積み重ねられてきた混乱状態は、時間をかけて徐々に片づけていくほかはありません。それも善意をもって、つまり指導者の立場にある人たちが真に同胞のためを思う心でもって行わなければなりません。

わたしだけでなく、霊的指導の任を預かる他の霊たちも、独裁的態度は思いも寄らないことでしょう。地上の浄化を目的として派遣されているわたしたち霊団の使命は、うたた寝をしている道義心の目を覚まさせ、惰眠をむさぼっている霊を呼び起こして、大霊からの遺産である内部の神性を開発させることです。そうする以外に平和と調和と幸福を地上にもたらす方法はありません。地上のいかなる大人物も、絶対に誤ることのない権威でもって絶対的命令を布告して絶対的に支配する資格はもっておりません」

「英国にとって対外関係でもっとも大切な政策は何だとお考えでしょうか」


「イギリスという国は大きな使命を担っております。いま多くの国を脅かしている災害を未然に食い止め平和をもたらす、そのリーダーとして活躍する宿命を背負っております。しかし地上に平和を招来するには、その前に自己犠牲と互助の精神が無ければなりません。洞察力をもつ人たちの多い国が譲歩して、自国の生活と福祉にとって必要でないものをそれを必要とする国に与えて、あとは自力で問題を解決させるという関係――その中でのリーダーとして活躍しなければ、あなたの国は使命を果たしていないことになります。

有り余るほど持っている国があり、窮乏している国があります。イギリスは多くの面で恵まれているのですから、それを窮乏している国へ与えることによって、血を流さなくても問題を解決する方法が見出せるはずです。ただし、そこに尊大さ――“オレたちのものはオレたちのものだ”といった思い上がった態度があってはなりません」

「植民地のことを念頭においておっしゃってるのでしょうか」


「そうです。ほかにもいろいろあります。土地、海、空――こうしたものは、どこの国の所有物でもありません。大霊のものです。その霊性がすべての子等を通じて表現されているのです。ですから、すべての子等が当然の遺産として、幸福と発達と開発と日常生活にとって必要なものを等しく受ける権利があるのです。そうした人生を送ってはじめて、いよいよ死期が訪れた時に気持ちよく重荷を下ろし、より大きな霊の世界への準備が整った状態で死んでいけるのです」

「創造は永遠に続くものであり、したがって再生してくる霊とは別に“新しい”霊が常に生まれているという考えは正しいでしょうか」


「大霊は無限です。ですから創造の過程も永遠に続きます。不完全から完全へ、未熟から成熟へ向けて、無数の進化の階梯を通りながら千変万化の表現の中を進化していきます。それには“時間”というものはありません。初めもなく終わりもありません。無限だからです。無限の大霊の一部であり、それが人間的生命として、無数の発達段階で顕現しているのです。ですが、あなたのおっしゃる“新しい霊”とは、前に存在しなかったものという意味でしょうか」

「そうです」


「それは有り得ないことです。すべての生命にはそれに先立つ生命があるからです。生命が生命を生み、さまざまな形態での表現を絶え間なく続けております。地上の人間的生命は、それまで物質との接触がなかったが故に発現していなかった霊が、肉体という器官を通して表現するのです。その器官は霊の進化にとって大切な地上的教訓が得られるように、実にうまくでき上がっております。

ですから、地上的生命としては新しいといえますが、地上に誕生してくる前に霊として存在していなかったという意味で新しいということではありません。霊とは全生命が創り出される原料です。造化活動の根本的素材です。霊としてはずっと存在しており、これからも永遠に存在し続けます。

もちろん、いっそうの体験を求めて戻ってくる霊の場合は別です。しかし、そうした再生する霊は別として、初めて地上へ誕生してくる霊に限って言えば、そうした霊には地上での表現を始めるまでは個体性つまり人間的意識は所有しておりません。人間的意識は地上への誕生とともに始まります。霊が個的意識として自我を認識する上で決定的な媒体を提供してくれるのは物的身体です」

「地上へ誕生してくる者の中での“新しい霊”と“古い霊”との割合はどれくらいでしょうか」


「そういうご質問にはおよその数字すら出すことは不可能です。ですが、多分、ほぼ同じくらいの割合ではないでしょうか」

「となると、地上には常に進化の程度の高い霊と低い霊とがいることになりますね」


「当然そうなります。そうでなかったら進化が存在しないことになります。生命は生命であるが故に静止していられない――万が一静止したら、それは停滞を意味する、ということをよく理解してください。生命とは律動(リズム)です。運動です。進歩です。開発です。発達です。つまり完全へ向けての絶え間ない歩みです。もしも生命に規則的な階梯がなかったら、もしもはしごを一段一段と上がっていく規則的な旅がなかったら、生命は生命でなくなります。多種多様の発達段階での進化のバリエーションの中においてのみ、生命が生命で有り得るのです。

もしもすべての人間が同じ発達段階にあるとしたら――もしも完全性が成就されて、もうこれ以上の努力の必要性も新しい目標もより大きな顕現の余地もなくなったとしたら、生きようとする意欲、何かを成就せんとする意欲は途絶えてしまうでしょう。生命の生命たるゆえんは絶え間ない向上にあります。今の段階では手の届かないものを何とかして手に入れようと努力するところにあります。その努力――何かを征服せんとする努力、困難を克服せんとする努力の中でこそ霊は真実の自我を見出し、神性が働くようになるのです」

「進化の程度の低い魂が世の中の問題のタネとなり進歩を遅らせることになるのでしょうか」


「それはそうです。ただ、次のことを忘れないでください。あなたのおっしゃる“程度の低い魂”というのは、その魂より程度が高い魂に較べて低いというに過ぎません。あなた自身の判断の基準が高まれば、それまで高いと思われた人が高いとは思えなくなります。

地上世界の厄介な問題、および霊界の下層界の問題のすべてが、さまざまな形での利己主義、強欲、貪欲などの私利私欲によって引き起こされているというふうに考えればよろしい。原因はそれしかありません。

いつの時代にも、他に較べて程度の低い人間が存在することは当然の結果です。それ以外にどうあればよいというのでしょう。人類のすべてを同じ時点で同じ進化の段階に到達させればよいのでしょうか。一人の例外もなく、みんなが同じ時点で同じ進化の段階を歩むように、同じパターンにはめ込めばよいのでしょうか。すべての生命がまったく同じ進化の程度という単調な状態にしてしまえばよいのでしょうか。

光だけがあって影はない方がよいのでしょうか。晴天ばかりで雨の日はない方がよいのでしょうか。美徳ばかりで邪悪なものはない方がよいのでしょうか。笑いばかりで泣くことがない方がよいのでしょうか。無限の種類の表現があってこそ人生がうまく調整されていくのではないでしょうか」

これを聞いてオースティン氏が、進化にそうしたさまざまな段階がなければならないとすると、シルバーバーチがよく口にする“新しい世界”は楽観的すぎるように思うという意見を出した。

するとシルバーバーチが――


「いいえ、新しい世界はすでに生まれているのです。産みの苦しみと、涙と哀しみの洗礼を受けて生まれているのです。すでに存在するのです。その朝日が今地上の霧を通して射し始めております。

しかし、その新しい世界においても、何もかもが成就されるというわけではありません。修正しなければならないこと、改善しなければならないこと、強化しなければならないことが沢山あります。まだまだ未熟なところがあります。取り除かねばならない障害があります。しかし、人生の新しい規律がどんどん行きわたります。無用の悲劇、無用の残虐行為、無用の飢餓がなくなるでしょう。人生の基盤が変わります。利己主義が次第に影をひそめ、代わって互助の精神が行きわたることでしょう」

「でも結局は各自が受けるに足るものしか受けられないのではないでしょうか」


「その通りです。わたしたちが皆さんの協力を得ようとする努力を促進してくださる人が増えるか、それとも妨げる人が増えるかによって、新しい世界の秩序の到来が早くもなり遅くもなります。受けるに足るもの以上のものは得られませんし、それ以下のものも得られません。摂理の働きは完璧ですから、天秤は必ず平衡(つりあい)が保たれております。右にも左にも傾きません。

わたしが指摘しているのは、これから生じていく変化を今すでに操作している秩序、そしてこれ以後も操作しつづける新しい原理のことです。これから刈り取っていく収穫は、人類の福祉の促進のために捧げられた何世代にもわたる多くのパイオニア、理想主義者、改革者の犠牲の賜物(たまもの)であることを忘れてはなりません」

「同じく“新しい魂”として生まれてくるのに、あとから生まれてくる魂の方がずっと恵まれた環境に生まれてくるというのは、私には不公平に思えるのですが……」


「確かに恵まれた環境に生まれてくることになりますが、しかし、彼らには結果としてそれだけ多くのものが要請されることになります。先輩たちが苦闘しなければならなかったものが免除されるのですから……。要は比較上の問題です。

大霊の摂理をごまかせる者は一人もいない――受けるべきものを髪の毛一本ほども変えることはできない、ということを常に忘れないようにしてください。賞と罰とは各自の行為によってきちんと決められており、変えることはできないのです。えこひいきもありませんし、裏をかくこともできません。大霊の公正は完璧です。各自が受けるべきものは、かっきり受けるに足るものだけ――かけらほども多すぎず、かけらほども少なすぎることがありません」

「そうであってほしいと思うようにならないといけないのでしょうね?」


「勇気ある者ならば自らそうであることを求めるべきなのです。努力もせずに報酬を得ること、身に覚えのない罰を受けることを堂々と拒否すべきなのです。もちろん受けるべき罰は堂々と受けて耐え忍び、自ら生み出した責務は自らの肩に背負うべきです。バイブルにもこうあります――“自分を欺いてはいけません。しょせん神の目はごまかせないのです。自分で蒔いたタネは自分で刈り取るのです”と。わたしにはこれ以上うまく表現することができません。

人間のこしらえた法律は一部の者を不当に優遇したり、ある者を不必要に罰したりすることがあります。地位や肩書きや階級に物を言わせた特権というものも存在します。しかし霊界ではそういうことは絶対にないのです。あらゆる面が斟酌(しんしゃく)されます。地上生活によって到達した進化の程度が魂に刻み込まれています。それより高すぎもせず低すぎもしません。死があなたを別の世界へ誘いに来た時、あなたはそれまでに自らこしらえた自分をたずさえて、地上をあとにするのです」

「精神統一(瞑想)をしていると、霊的と思える示唆がいろいろと浮かんでくるのですが、これにはどう対処したらよいのでしょうか」


「いかに高級な霊でも、自分の教えを考察も熟考も吟味もせずに受け入れてくれることは望みません。言われたことを機械仕掛けのように行うロボットであっては欲しくないのです。むしろわたしたちの使命は、各自の責任感を増幅し、内部の神性を刺激して、理性的判断力が行使できるように指導することです。神性はあなたの霊を通して働くだけではありません。あなたの精神を通しても働きます。“神の御国は各自の中にある”という言葉は真実ですが、それは同時に精神の中にもある――そうあらねばならないのです。

理性が反発するものは決して行ってはなりません。理性を第一の指針とすることです。あなたの分別心が承服しないものを無理にも実行しなさいとは申しません。わたしたちの使命は協調態勢を基本にしているからです。

そのためにはまず霊に内在する無限の能力を自覚させることに努力します。その多くが居眠りをしていて、日常生活で発揮されていないのです。わたしたちは皆さんに本当の自分を見出してほしいのです。日常の生活の中で神性が発揮されるにはそれが第一条件だからです。

精神統一中に示唆を受けた時、たとえそれが何かのお告げのようなものであっても、あなたの良識が許さない時は実行に移してはなりません。統一中に浮かぶアイディアの中から“これぞ本物のインスピレーション”と直観できるのは、ある一定の霊格を身につけた人だけです。

しかし、そういう独自の判断力で行動するよりも、こうした形で交わることで皆さんがわたしたちを信頼してくださり、わたしたちの使命が皆さんに奉仕することによって人類に奉仕することであることを得心してくださった上で、わたしたちの道具となってくださる方が賢明です。

そこで、わたしたちはこれまで、わたしたちが霊的摂理に通じていること、目的としているのは霊的真理の豊かさを皆さんの手の届くところまでお持ちすることであることを立証しようと努力してまいりました。“正真”の折り紙つきの知的存在と協力して仕事をする方が、何の導きもなしにただ一人で未知の世界へ突入していくよりも無難なのではないでしょうか」

「自分が交信している相手がどの程度の霊であるかは必ず確認した方がよろしいでしょうか」


「当然です。そして、確かに聞くに足る教えを説いていると確信したら、大いにその霊に指導を仰ぐべきです。霊界から自分を鼓舞し指導しようとする霊団の存在に気づく段階に到達したら、その人にはもはや克服できない困難はなくなります。しかし人類はみな一人ひとり発達段階が異なることを忘れてはなりません」

「生命の尊厳ということがよく言われますが、私はこれにも限界があるように思うのです。この論理を極端におし進めると、病原菌も生命の一種だから神聖であるということになって、人間の生命を危険にさらすという愚かなことになりかねないと思うのです」


「意識はどの段階から始まるかがポイントです。病原菌に意識があるでしょうか。ヘビに意識があるでしょうか。ノミやシラミに意識があるでしょうか。微生物に意識があるでしょうか。

もちろん一般に言われる意識、つまり自我意識という意味での意識はありません。意識とは自分が何であるか、誰であるかについての認識のことです。これは菌類にはありません。が、意識的生命のあるところには造化活動があります。ですから、その意識に干渉して顕現の自由を妨げることをするのは間違いです」

「しかし動物には今おっしゃったような自我意識はないのに、屠殺はいけないとおっしゃってます」


「動物の世界には個的意識はなくても、その奥には類魂としての意識が存在します。動物よりさらに下がると類魂の意識もなくなります。微生物には意識はありません」

「微生物には痛みを感じる機能がありますか」


「ありません」

「では、殺すということに痛みが伴うか否かで判断すべきでしょうか」


「“意識”を指標とすべきです。意識があるかぎり、それを殺すことは間違いです。人類は死という“解放者”が訪れるまでに、内在する霊の豊かさを発揮する自由を心ゆくまでエンジョイすることが許されております。しかし、しょせん地上世界は発展途上にある未熟な世界です。それゆえ、同胞のためと思ってすることが他の生命の権利に干渉する事態がどうしても生じます。そこでわたしは動機――誠実に、純心に、そして正直に人のためと思って行うという心がけを重視するのです。

今わたしは生体解剖を念頭において申し上げております。わたしから見れば生体解剖は間違いです。残酷ですし、無意味ですし、その上、それによって何一つ成就されません。ただ、それを行う人たちの中には、動物に苦痛を与えるのが面白いのではなく、真実、人類を病魔から解放したい一心の人が大勢いることも、わたしはよく知っております。そうした実験によって人類の病気を撲滅するための知識が得られると信じてやっているのです。その動機は誠実です。

が、それとは別に、無益な殺生が行われています。食料とするための大量の屠殺、スポーツという名のもとでの狩猟――こうしたものには弁解の余地はありません。生命は神聖です。大霊のものだからです。生命に意識が芽生え、そして人間的形態をとれば――いえ、それ以前の動物形態の段階においてさえも――尊厳をもって取り扱われるべきです。生命を安っぽく取り扱ってはなりません。生命の一つひとつが大霊の表現なのです。人間には生命をこしらえる力はありません。ならば、その生命が顕現しようとする身体を破壊することが人間に許されるはずがありません。

忘れないでいただきたいのは、皆さんからの質問に対して“イエス”とも“ノー”とも答えられない時は、わたしたちは、正直に、一つの視点を提供するだけに留めます。独断的態度はわたしたちの取るところではないからです。皆さんのためになればそれで良いのですから……。これまで、さまざまな事情のもとでさまざまな視点からお答えしてきましたので、中には一見すると矛盾するかに思えるものがあるかも知れません。しかしそれは、同じ問題を違った側面から扱っているからであることを理解してください。

それからもう一つ、このわたしが絶対に間違ったことは申しませんとは言っていないことも忘れないでください。知識と叡智の頂上を極めたとは申しておりません。皆さんと同じく、わたしも相変らず人間的存在です。わたしも完全を求めて努力しているところです。克服しなければならない弱点がいくつもあります。磨かねばならないものがあります。わたしの申し上げることが最終的な真理であるとは申しておりません。

わたしが確証をもって知っているかぎりのことを申し上げ、確証が得られないことに関しては、わたし自身がこうと信じるかぎりのことを申し上げております。万が一わたしの申し上げたことが皆さんの納得を得られない時は、それはそれで結構なことです。お互いに考えをぶつけ合うことになるからです。そうすることで皆さんはわたしに知恵をくださり、お互いの視点から議論して理解を深め合うことができるわけです。

協力ということは、わたしたちの方から一方的に援助するということばかりを意味するのではありません。皆さんの方からわたしたちを援助してくださることでもあるのです。一つの問題が生じた時に“それならシルバーバーチに相談しなさい。レッドクラウド(※)に聞きなさい。ホワイトホーク(※)がいいですよ。それで決まりですよ”といった態度は困ります。そういうものではないのです。持ち合わせるかぎりの知恵はお授けしますが、それで一件落着と受け止める態度はいけません。わたしたちも絶対ではないのです。皆さんが自ら考え判断するという方向へ指導することができなかったら、わたしたち霊団の者は課せられた使命を全うしていないことになります。


※――いずれもシルバーバーチと同時代に他の霊媒の指導霊(ガイド)ないし支配霊(コントロール)として活躍した霊で、肖像画を見ると、いずれもインディアンの顔をしている。その他にもブラッククラウドとかローンスターとかの呼び名が多いが、言うまでもなく仮の名である。

続いてオースティンは、死後にも生命があることを知って、浅はかな人間は地上的生命を軽んじることにならないだろうかという意見を述べた。するとシルバーバーチが――


「知識が増えるにつれて責任も大きくなることをわたしが繰り返し説いてきたことはご存知でしょう。霊的知識を手にすれば、その時点からその活用の仕方に責任が付加されます。その知識の分だけ生活水準が高まらないといけません。高まらなかったら、その代償を支払わされます。ごまかしは利きません。知識を授かったからには、言い逃れは許されません。宇宙の機構がわかり、生命の秘密が明かされたからには、隣人に対して、世の中に対して、そして自分自身に対して、より大きな責任を付加されたことを自覚しないといけません。生活が豊かとなり、神聖さを増し、人のために役立ちたいという願望が内部で燃えさからないといけません。

もしもそうならなかったら、その知識はその人のものになり切っていないことを意味します。素通りしていっただけだったことになります。知識がそこにあることを知りつつそれを活用することができないでいると、それによって逆にその人の霊性が弱められ、害をこうむることになりかねません。

大霊の摂理はごまかせません。たとえ高等そうな理屈を並べてもダメです。皆さんがスピリチュアリズムと呼んでいる霊的知識は、この宇宙という生命機構の中で人類がどういう位置を占めているかを自覚させてくれます。もしそれが正しく自覚できなかったら、その人はせっかくの教訓を学ばなかったことになり、その代償を支払わされることになります。それを真理のせいにしてはいけません。自分が悪いのです。たとえ自分を素通りしたにすぎなくても、真理は真理です。真理は理屈で歪(ま)げられるものではありません。真理は真理であるがゆえに真理なのです」

続いてオースティンはバーサ・ハーストという霊媒による交霊会に出席した時と同じ質問をした。それは、人間と守護霊とは何を原理として結びつくのかというもので、バーサ・ハーストの指導霊は正直に、その問題については勉強していないと述べて答えなかったという。が、シルバーバーチは間髪を入れずにこう答えた。


「それは霊的親和性(アフィニティ)による結びつきです。たまには血縁関係が縁になることもありますが、大部分は血縁はありません。霊的親類(※)どうしの親和力を縁として、相互間に利益のある二つの霊が結びつけば、そこに引力が生じて守護霊ないし指導霊――どう呼ばれても結構です――が影響を行使できるようになります。霊的親和力が強ければ強いほど結びつきも緊密なものとなります」


※――日本でいう“産土(うぶすな)神”(氏神)を中心霊として、おびただしい数の霊が大集団、いわば霊的家族を構成している。女性霊媒のジェラルディン・カミンズを通じて学究的な自動書記通信を送ってきているフレデリック・マイヤースはこれを“類魂(グループソウル)”と呼んでいるが、シルバーバーチはある日の交霊会で「あなたのいう霊的親類というのはマイヤースのいう類魂のことですか」と問われて「まったく同じものです」と答えている。

さらにオースティンは、シルバーバーチが“意識”についての答えの中で“個的意識は物質界へ誕生するまでは存在しない”と述べたことに言及して、意識のない霊がどうやって霊的関係をつくり出すことができるのかを尋ねた。この質問にシルバーバーチは――


「地上の言語ではとても説明しにくいことなのですが、受胎の瞬間に両者の間にいわく言い難い絆が生じるのです。ご存知のように、母胎の中で精子と卵子とが結合すると、そこに身体の元になるものができ上がりますが、その目に見えないほど小さなものの中に、その後の成長とともに発現されていく資質のすべてが宿されているわけです。それと同じで、霊の内部にそのあと発現されていく霊的資質のすべてがミニチュアの形で宿されているのです」

「ということは、われわれ人間の進化はすでに一定の進行方向というものが決められている――ただし、自由意志によってそのスピードを速めたり遅らせたりすることはできる、ということでしょうか」


「いくつかの要素はあらかじめ決まっています。霊の宿る身体の“体質”がありますし、その身体に宿る霊の“霊質”があります。“新しい霊”の場合でも“再生してくる霊”の場合でも、身体への霊の浸入にはそれを支配する法則があり、それが大きく霊の発現を決定づけます。何もかもあらかじめ決められていると受け取っていただいては困るのですが、法則というものによって営まれている世界である以上、人間的生命も法則に従わざるを得ません。いろいろとバリエーション(変化・変形)はありますが、おおよそのことは決まっていないといけません。

進化の速度は本質的には当人の自由意志にかかっていますが、地上生活にはおのずと限界というものがあります。チャンスの活用次第とはいえ、各自に能力的な限界があります。しょせん完全は望めないところにその宿命的な限界があります。

霊には高級霊にのみわかる特質があり、守護霊の任命はその特性を考慮して、両者の進化にとっての利益の共通性を主眼として行われます」

「やはり守護霊も他の誰かによって任命されるもので、守護霊自身が人間を選ぶわけではないということですか」


「その通りです。必ず任命によって行われます。こちらの世界にはこちらなりの法則があり、それは地上よりはるかに厳格です。守護霊と人間との関係がうまく行くのは、当初において霊の資質のすべてが知れているからです。学校と同じです。学校長はあずかった生徒の潜在的特質を知りつくし、教師の才能を知りつくせば、どの生徒はどの教師のクラスが適切であるかが適確に判断できます。

不幸にして地上ではそうした要素のすべてが知れるとは限らないというだけです。が、こちらの世界ではすべてが知れるのです」

祈り


皆さんとともに生命の大霊の祝福を祈願いたしましょう。

ああ、真白き大霊よ。

宇宙の森羅万象があなたへの賛歌を奏でております。あなたの法則があらゆる生命現象を支え、律動の一つひとつがあなたの表現なのでございます。

ああ、大霊よ。

あなたは全生命の中心にあらせられます。それは霊の世界の最高の界層においても、物質の世界の最低の界層においても、少しも違いはございませぬ。あなたはすべてを包摂したまいます。あなたの叡智がすべてを支配しているからでございます。

あなたはいつの時代にもあなたの愛と叡智と知識の使者を物質の世界へ送り込まれてきました。あなたの霊の生きた証(あかし)として、あなたの真理の光を人間の心の暗闇に届け、全人類をあなたの無限なる叡智と愛の輝きによって啓蒙するためでございます。

ああ、大霊よ。

あなたはこの度ふたたび地上の子等にあなたとあなたの摂理についての知識を届けんがために、わたしどもをあなたの使者として遣わされました。それによって彼らがあなたとのつながりを理解し、そこから彼ら自身ならびに、あなたが彼らを物質の世界に誕生せしめた目的を理解しはじめることになればとの配慮からでございます。

わたしたちは、地上にあってあなたの霊的な働きかけに敏感に反応し、その目、その耳、その精神、その心、その魂がより大きな生命の波長に順応し、わたしたちを通じて届けられるあなたのメッセージを素直に受け入れてくれる人たちとの交わりを今こうして得ていることを、あなたに深く感謝申し上げます。

Thursday, February 23, 2023

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓―スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

 神はときには荒れ狂う嵐のごとく

 God is sometimes like a raging storm

雪の白樺林と二匹のウサギ – 素材ごよみ

  数年前に愛する妻に先立たれ、その妻が死後も生き続けている証拠を求めてきた英国の下院議員が、ある日の交霊会に招かれてシルバーバーチと長時間にわたる意義ある対話をもつことができた。

その議員は動物への虐待行為を中止させる運動に大きな貢献をしている人で、シルバーバーチから引き続き頑張るようにとの励ましを受けて、魂の高まりを覚えながら会場をあとにしたのだった。

まずシルバーバーチから語りかけた。


「地上世界は、洞察力に富む一部の人を除けば、大きな悲しみの体験をさせられる前に霊的真理の必要性を知る人がほとんどいませんね」

「でも、その洞察力はどうすれば得られるのでしょうか」


「もとより容易なことではありません。たとえば、こうした霊言や自動書記などの手段によって通信霊が自分はかくかくしかじかの霊であると述べた場合、それだけで直観的にその通りか否かを得心できるようでなければいけません。あなたもそう努力なさって来られました。もちろん、わたしたちとしては物質界の人間が要求する証拠性の基準に合わせる必要があることは認めます。が、それにも限界がありますから、これまであなたがなさってきたように、与えられたものを真剣な批判的態度で判断し検討しなければいけません。偏見を混じえずに心の扉を開き、理不尽な懐疑的態度さえ取らなければ、わたしたちとの連絡はラクになります」

「私が欲しくてならないのは、この地上を去った人たちが今も間違いなく生き続けていて、地上の人間とつながりをもち、現実に影響を及ぼしていることを立証してくれるものです。それを得るにはどうしたらいいのでしょうか」


「そのためには、わたしが使用しているこの霊媒よりも立派で、あなたの求めているような万全の証拠が提供できる波長に感応する霊媒を見出すしかないでしょう。ただし、そういう証拠を求めているのはあなたの魂ではありません。頭の中でそう思ってあがいていらっしゃるだけです」(※)


※――この一節には大切なことが含まれている。人間側からすれば、その霊が地上で誰であったかを立証する具体的な証拠くらい簡単に出せそうに思えるが、実際には具体的なことになるほど地上臭が強くなり、それだけ波長が低くなるので、それが受けられる霊媒は程度が低いことになる。ということは低級霊が感応しやすいという危険性があり、うまくハメられやすいことにもなる。“感激の対面”をして親子が抱き合って涙を流すその裏側では、イタズラ霊がしてやったりと、ほくそえんでいることが多い。シルバーバーチはそのことを露骨に言わず、いかにもシルバーバーチらしく、ちょっぴり皮肉も込めて述べている。

最後の一文はさらに大切なことを教えている。人間は大ざっぱに言えば肉体と精神と霊とで構成されているが、成長するにつれて意識の中枢が肉体から精神へ、そして霊へと移っていく。理屈ばかりこねている人間は精神的段階に留まっている証拠であり、まだ真の自我には目覚めていない。その段階を抜け出ると直観(直感ではない)で理解するようになる。理屈や証拠を超えて真相を洞察してしまう――わかるのである。霊的能力というとすぐに霊視や霊聴を思いうかべる人が多いが、最高の霊的能力はその直観力である。

「では、その魂がもっと意識できるようになるにはどうしたらよいのでしょうか」


「それは霊的開発の問題です。より精妙な波長が意識できるように、霊的次元にチャンネルを合わせる方法を会得することです」

「チャンネルを合わせるにはどうしたらよろしいのでしょうか」


「地上世界が活気にあふれている時にこちらの世界は静まり返っていることがあり、そちらが静まり返っている時にこちらでは活気にあふれていることがあるものです。ですから、精神活動を止めて静寂の世界へ入り、受身になってみられることです。じっと待っていると魂が活動を開始するのがわかるようになります」

「特殊な考えが浮かんだ時、それが自分の考えなのか霊界から送られてきたものかを見分けるにはどうしたらよいでしょうか」


「そうしたことはすべて、精神をいかにコントロールするかに係わる問題です。精神があてどもなくフラフラしている状態から、意識的にきちんと支配下において、完全な静寂の中で高度な波長がキャッチできるようになることです。直観がひらめくのはそういう時です。波長が高く、速く、そして微妙だからです。地上的な思念はのろくて、不活発で、重々しく感じられます」

「地上で最高といえるほどの魂にも同じことが言えるのでしょうか」


「言えます。すべての魂に当てはまります。よくお考えください。人間は本質的に二重の要素をそなえているのです。動物時代の本能の名残りと神の分霊とがあって、それがあなたの存在の中で常に葛藤しており、そして、そのいずれかを選ぶ自由意志を持つあなたがいるわけです。そこに進化の要素があるのです。あなたとしてはなるべく動物性を抑え、潜在する神性を発揮する方向で努力しないといけません。

神、わたしのいう大霊は、人間をはじめとしてあらゆる生命形態に内在しております。すべてが神であり、神がすべてなのです。ある人にとって神は優しいそよ風のごとく感じられ、またある人にとっては、ときに荒れ狂う嵐のごとく感じられるものです。すべては各自の発達程度の問題です。

あなたの場合も魂の内奥の神性がうごめき、奥さんの死という悲しみの体験が触媒となって一段とその顕現の度合を増しつつあります。他界後の奥さんのことを求め続けられているのもそのためです。今夜こうしてこの交霊会に出席されたのもそのためです。これからのちも真理を求め続けられることでしょう。なぜなら、今やあなたは霊的真理への正道を歩んでいらっしゃるからです」

「ということは、発達の第一歩は願望を抱くことから始まるとおっしゃるのでしょうか」


「そうです。まず謙虚に、真摯に、そして敬虔な気持ちで知ろうとすることから始まり、今度は、そうして得た知識を自分の信念の確立のためだけでなく、他人のために役立てようという決意が出てこないといけません。

あなたはその願望をお持ちであり、これまでそう努力なさってこられました。そして、あなたが気力を無くしかけ、闘う意欲を失いかけ、いっそのこと第一線から引退して美術でも楽しむ生活を始めようかと思われた時などに、背後霊が懸命にあなたを鼓舞してまいりました。が、結局はあなたの魂の奥の神性がじっとしておれず、霊界からのインスピレーションにも鼓舞されて、恵まれない人たちのための闘いを続ける決意を新たにしてこられたのです」

このあとシルバーバーチはその下院議員の背後霊団について述べてから、さらに言葉を継いで――


「背後霊団のことを申し上げたのは、あなたもこちらの世界からの愛の保護下にあることを知っていただきたかったからです。人のためと思って努力している人々はみな霊界からの愛とエネルギーに取り囲まれていることを自覚し、仕事においてどれほど励まされ、勇気づけられ、感動させられ、そして支援されているかを知れば、いっそうの熱誠と情熱と集中力とをもって闘いに挑んでくださることと思うのです。人のために為された努力が無駄に終わったことは一度もありません。たとえ本来味方であるべきだった者から誤解され曲解され嘲笑され、あるいはこの人だけはと思って信頼していた人から裏切られることがあっても、あなたの奉仕の仕事は生き続けます」

「そのためのアドバイスをいただけたらと思うのですが……」


「あなたには細かいアドバイスはいりません。あなたはご自分で自覚しておられる以上に大きな仕事をなさっておられます。すでに立派に人のために役立つことをなさっている方から“私に何かお役に立つことがあるでしょうか”と聞かれると、わたしの心はうれしさでいっぱいになります。なぜなら、それは立派に人のためになることをしていながら、さらに大きな貢献をしたいと思っておられることの証拠だからです。

これまで同様に弱き者、無力なものを助け、力が不足している人に力を貸し、暗闇にいる人に光明をもたらし、足の不自由な人、あるいは何かの苦しみを抱えている人に救いの手を差しのべてあげてください。残虐行為――とくに魂が怯(おび)えるような残酷な行為、つまり人類の最大の友であるべき動物への虐待行為を止めさせるために闘ってください」

そう述べたあとシルバーバーチは、指導霊として霊界から地上での人間活動に影響力を行使することの難しさを次のように説明した。


「指導霊は自分の意図するところを物質界に感応させねばなりません。それが容易なことではないのです。なぜかと言いますと、ご存知のとおり物質界から放散されている波長は、およそ感心できる性質のものではないからです。現在の地上界は、光のあるべきところに闇があり、知識のあるべきところに無知があり、叡智のあるべきところに無分別があり、豊かさのあるべきところに欠乏があり、幸福のあるべきところに悲劇があり、優しさのあるべきところに残酷があり、愛があるべきところに憎しみがあります。霊がその威力を届けるための通路である霊的能力者はいたって少数です。しかし、その数は着実に増えつつあり、潮流はわれわれに有利な方向へ進みつつあります。

ところで、あなたの魂が目を覚ましたのは悲しい体験のお蔭だったのですよ」

「あの悲劇もある目的のためにもたらされたとおっしゃるのでしょうか」


「大きな悟りは大きな悲しみから生まれるものです。人生は“埋め合わせ”の原理によって営まれています。日陰のあとには日向があり、嵐になれば避難所が用意されます。光と闇、嵐と晴天、風と静寂――こうしたものはすべて大霊の配剤なのです。大霊は生命活動の全側面に宿っております。闇があるから光の有り難さがわかるのです。争いがあるから平和の有り難さがわかるのです。人生は比較対照の中で営まれています。魂は辛い体験、試練、苦難のるつぼの中で真の自我に目覚め、純化され、強化されて、より大きな人生の目的と意義を理解する素地が培われるのです」

「では、苦難は霊性の開発に必要なことを気づかせるために意図的にもたらされることがあるということでしょうか」


「そうです。魂がその深奥にあるもの、最高のものを発揮するには、さまざまな体験を必要とするからです。魂は永遠の存在であり、それまでの思念の一つ一つの結果、口にした言葉の一つ一つの結果、行為一つ一つの結果をたずさえており、結局今のあなたはあなた自身がこしらえた――一秒ごとに、一分ごとに、一時間ごとに、一日ごとに、一週間ごとに、一カ月ごとに、一年ごとに築いてきたことになるのです。自我の成長は自分で達成するのです。そして、行う行為の総決算があなたの現在の進化の程度を決めるのです。自分以外の誰にもそれはできないのです」

「意図的行為と無意識の反射的行為とは別のものでしょうか」


「反射的に行われたからといって、そこに因果律が働く余裕がなかったということはありません。その行為そのものが、因果律の存在を厳然と示しています。あなたの行為は現在のあなたという人格全体から生み出されるのです」

「その現在の人格は各自がこの地上で行ってきた行為の総決算だとおっしゃるのでしょうか」


「その通りです。これまでに行ってきたことの結果が今のあなたであり、今のあなたが行うことが未来のあなたをこしらえるのです。因果律は一瞬の途切れもなく、しかも完璧に働いています。完全にでき上がっていますから誤るということがありません。人間界では国家が定めた法律をごまかすことができますが、大自然の摂理をごまかすことはできません。なぜなら、魂にはそれまでの行為の結果が永久的に刻み込まれており、その有りのままの姿があなたであり、それと違うものに見せかけようとしても通用しません」

「間違ったことをした時は必ずそれに気づくものでしょうか」


「そうとは限りません。良心の声が聞こえない人がいますし、心が頑(かたくな)になっている人がいますし、魂が悪想念に取り巻かれて大霊の生命力の通路が塞がれている人がいます。人間は必ずしも自分の間違いに気づいているとはかぎりません。もし気づいているのなら、地上に戦争は起きないでしょうし、残酷な行為も見られないでしょうし、飢餓に苦しむ人もいないはずです。これほど多くの病気はないでしょうし、一方に飢えている人がいるというのに食べ放題のぜいたくをするということもしないはずです」

「それを改めるにはどうすればよいのでしょうか」


「あなたやわたし、ここに集える者と霊団の者全員が利己的な物質中心思想が生み出す不平等を撃破して、代わって大霊の恩寵をすべての子等に行きわたらせ、病気やスラム街、不健全なものや貧困、そのほか人間の魂と身体とを拘束するものすべてを何としてもこの地上から駆逐しようと固く決意することです。それらはみな間違ったことだからです。各自に内在する神性を自覚させ、人間として為すべきことは何であるかを、この地上を去る前に自覚させてあげないといけないのです」

ゲストの下院議員は多くのスピリチュアリストと同じように、動物愛護運動に深く係わっていた人である。そこで本章の締めくくりとして、かつてシルバーバーチが改革運動に係わった人々への霊界からの働きかけについて語ったものを紹介しておこう。


「わたしが説いていることは、過去のあらゆる時代に人類のために精励したすべての改革者、すべての聖人、すべての予言者、理想主義に燃えたすべての人々の先見の明がとらえた気高い崇高な考えと、まったく同じものです。

彼らはその霊格の高さゆえに霊眼をもって地上生活のあるべき本来の姿を垣間みることができ、その美しい未来像が、逆境と闘争の中にあって心の支えとなってきたのでした。彼らには、いつの日かきっと実現される霊的計画がわかっていたのです。そこで同胞である物質界の子等にとって、今のうちに少しでも霊性を高めることになる仕事に貢献したのです。奉仕です。

彼らは、皮肉にも、その奉仕的精神から正しい人の道を説いてあげた当の相手から貶(けな)され、抵抗にあい、嘲笑の的とされましたが、彼らの仕事は立派に生き続けました。それは今日世界中の無数の国において、この交霊会のようなささやかな集いの場において行われていることが引き継がれていくのと同じです。それにたずさわった人々は次々と忘れ去られていくでしょうけど……。

大霊の強大な勢力が今ふたたび地球という物質の世界へ向けられているのです。地上のいかなる勢力をもってしても、その強大な潮流を遮ることはできません。

地上の人間は流血によって問題が解決するかに考えるようですが、かつて流血によって問題が解決された例(ためし)はありません。無益であり、何の解決にもなっていません。

人間はなぜ神から授かった理性が使えないのでしょうか。なぜ唯一の解決法が一人でも多くの敵を殺すことだと考えるのでしょうか。いちばん多くの敵を殺した者が英雄とされる――地上というところは不思議な世界です」

祈り


ああ、真白き大霊よ。

わたしたちはあなたを永遠の生命のあらゆる現象の背後に働く無限の法則として説き明かさんとしております。古き時代にはあなたは歪められた眼鏡を通して見られておりました。嫉妬に狂う神、腹を立てる神、好戦的な神と思われたこともございました。

しかし、わたしたちは無限なる霊、あらゆる生命現象を通じて息づき、あらゆる自然法則の働きとしてご自身をお示しになっている存在として説き明かさんとしております。無限の叡智と理解力、愛と真理の大霊――弱き者、悩める者、挫折せる者を鼓舞することに精励する人々の生きざまを通じて顕現している大いなる霊として説くのでございます。

ああ、大霊よ。

あなたはたった一冊の書物の中にいらっしゃるのではありません。たった一つの教会(チャーチ)、たった一つの寺院(モスク)、たった一つの神殿(テンプル)、たった一つの礼拝堂(シナゴーグ)の中にいらっしゃるのでもありません。物質界の子等の有限なる理解力によって規定することも制約することも圧縮することもできない、広大無辺の霊でいらっしゃいます。

とは申せ、あなたは断じて子等とは無縁の遠き存在ではございません。まさに子等の内奥にましますのです。あなたの分霊(わけみたま)としてでございます。その分霊を通じてあなたはご自身を顕現なさらんとしておられるのでございます。子等の奉仕的生活を通じてあなたのご意志が発揮され、あなたの摂理が理解され、かくしてあなたの造化の大業の目的と同胞とのつながり、そしてあなたとのつながりについて子等が理解を深めるのでございます。

その理解の深まりとともに地上世界に新たなる光明、新たなる希望がもたらされます。平和が行きわたり、闘争がなくなります。利己主義が消え、悲しみが喜びに置き換えられ、生きるための必需品に事欠いていた人たちが真実の地上天国に生きることになるのでございます。

それがわたしたちが説き明かさんとしている大霊でございます。そのあなたの摂理を子等に教えんとしているのでございます。それを理解することによってこそ子等は俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じない生き方ができるのでございます。自らの力で束縛を解き放すことができるのでこざいます。奴隷のごとき卑屈な生き方を止め、膝を折ってあなたに媚びへつらうことなく、あなたからの生得の遺産を主張する――すなわちあなたのご意志を日常生活の中で発揮していく権利を堂々と主張できるのでございます。

Wednesday, February 22, 2023

シアトルの冬 解説 霊的啓示の進歩  

  Commentary: Progress in spiritual revelation

 

 本書は原著者の「まえがき」にもある通り一九一三年から始まった本格的な霊界通信を四つの時期に分けてまとめた四部作の内の第一部である。

 「推薦の言葉」を寄せたノースクリッフ卿が社主を務める「ウイークリー・ディスパッチ」紙上に連載され、終了と同時に四冊の単行本となって発行されたのであるが、これとは別に、オーエン氏の死後、残された霊界通信の中から断片的に編集されたものが二編あり、それが一冊にまとめ第五巻として発行されている。

誰が編纂したのか、その氏名は記されていない。それは己むを得ないとしても、内容的に前四巻のような一貫した流れが無く、断片的な寄せ集めの感が拭えないので、今回のシリーズには入れないことにした。

 通信全体の内容を辿ってみると、第一巻の本書はオーエン氏の実の母親からの通信が大半を占め、その母親らしさと女性らしさとが内容と文体によく表れていて、言ってみれば情緒的な感じが強い。

がその合間をぬってアストリエルと名告る男性の霊からの通信が綴られ、それが第六章にまとめられている。地上で学校長をしていたというだけあって内容が極めて学問的で高度なものとなっている。

がそれも第二巻以降の深遠な内容の通信を送るための(オーエン氏の)肩ならし程度のものであったらしい。

 第二巻を担当したザブディエルと名告る霊はオーエン氏の守護霊であると同時に、本通信のために結成された霊団の最高指導霊でもある。が地上時代の身元については通信の中に何の手掛かりも出て来ない。

高級霊になると滅多に身元を明かさないものであるが、それは一つには、こうした地上人類の啓発のための霊団の最高指揮者を命ぜられるほどの霊になると、歴史的に言っても古代に属する場合が多く、例え歴史にその名を留めていても、伝説や神話がまとわりついていて信頼できない、ということが考えられる。

さらには、それほどの霊になると地上の人間による〝評判〟などどうでもよいことであろう。このザブディエル霊の通信の内容はいかにも高級霊らしい厳粛な教訓となっている。

 これが第三巻そして第四巻となると、アーネルと名告る(ザブディエルと同じ界の)霊が荘厳な霊界の秘密を披露する。

とくにイエス・キリストの神性に関する教説は他のいかなる霊界通信にも見られなかった深遠なもので、キリストを説いてしかもキリストを超越した、人類にとって普遍的な意義を持つ内容となっている。まさに本通信の圧巻である。


 さて近代の霊界通信と言えば真っ先に挙げられるのがステイトン・モーゼスの自動書記通信『霊訓』であり、最近ではモーリス・バーバネルの霊言通信『シルバー・バーチの霊訓』である。そして時期的にその中間に位置するのがこの『ベールの彼方の生活』である。

 内容的に見ると『霊訓』はキリスト教的神学の誤謬を指摘し、それに代わって霊的真理を説くという形で徹頭徹尾、文字通り〝霊的教訓〟に終始し、宇宙の霊的組織や魂の宿命、例えば再生問題などについては概略を述べる程度で、余り深入りしないようにという配慮さえ窺われる。それは本来の使命から逸脱しないようにという配慮でもあろう。


 これが『ベールの彼方の生活』になると宇宙の霊的仕組みやキリストの本質について極めて明快に説き明かし、それが従来の通念を破るものでありながら、それでいて理性を納得させ且つ魂に喜悦を覚えさせるものを持っている。もっともそれは、正しい霊的知識を持つ者にかぎられることではあるが。

 そしてシルバーバーチに至ると人間世界で最も関心をもたれながら最も異論の多い〝再生〟の問題について正面から肯定的に説き、これこそ神の愛と公正を成就するための不可欠の摂理であると主張する。ほぼ五十年続いた霊言に矛盾撞着は一つも見られない。

同時にシルバーバーチが〝苦難の哲学〟とでも言えるほど苦しみと悲しみの意義を説いているのも大きな特徴で、「もし私の説く真理を聞くことによってラクな人生を送れるようになったとしたら、それは私が引き受けた宿命に背いたことになります。

私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。それに敢然と立ち向かい、それを克服し、そして一層力強い人間と成って下さることが私どもの真の目的なのです」と語るのである。

 こう観て来ると、各通信にそれぞれの特徴が見られ、焦点が絞られていることが判る。そして全体を通覧した時、そこに霊的知識の進歩の後が窺われるのである。それをいみじくも指摘した通信が『霊訓』の冒頭に出ている。その一部を紹介する。


 『啓示は神より授けられる。神の真理であるという意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾することは有り得ぬ。但しその真理は常にその時代の必要性と受け入れ能力に応じたものが授けられる。

一見矛盾するかに見えるのは真理そのものにはあらずして、人間の心にその原因がある。人間は単純素朴では満足し得ず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする。

時の経過とともに、何時しか頭初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなって行く。矛盾すると同時に不純であり、この世的なものとなってしまう。やがて新しき啓示が与えられる。

がその時はもはやそれをそのまま当てはめられる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り壊さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示そのものには矛盾は無い。

が矛盾せるが如く思わしめる古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を見せねばならぬ。

人間は己れに宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達せる人間は無知なる者や偏見に固められたる人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。

神は決して真理の押し売りはせぬ。この度のわれらによる啓示も、地ならしとして、限られた人間への特殊なる啓示と思うがよい。これまでも常にそうであった。モーゼは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者をみるがよい。

自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押し付けはせぬ。用意の出来ていた者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者はそれを拒絶する。それで良いのである。』


 今改めて本霊界通信を通覧すると、第一巻より第四巻へ段階的に〝進歩〟して行っていることが判る。それを受け入れるか否か、それは右の『霊訓』のとおり〝己れに宿る理性の光〟によって判断して頂く他はない。願わくば読者の理性が偏見によって曇らされないことを祈りたい。


 訳者としてはただひたすら、本通信に盛られた真理を損ねないようにと務めるのみであるが、次元の異なる世界の真相を如何に適切な日本語で表現していくべきか、前途を思うと重大なる責任を感じて身の引き締まる思いがする。が〝賽(さい)は投げられた〟のである。あとは霊界からの支援を仰ぐほかはない。

 シルバーバーチの言葉を借りれば〝受け入れる用意の出来た人々〟が一人でも多くこの霊界通信と巡り合い、その人なりの教訓を摂取して下さることを祈る次第である。 

 (一九八五年)
        
  新装版発行にあたって

「スケールの大きさに、最初は難解と思ったが繰り返し読むうちに、なるほどと、思うようになりました」こんな読後感が多数、寄せられてきた本シリーズが、この度、装いも新たに発行されることになり、訳者としても喜びにたえません。

    平成十六年二月
                           近藤 千雄
  
                       

Tuesday, February 21, 2023

シアトルの冬 予知現象の原理 Principle of prognostic phenomena

一九一三年十月三一日 金曜日

 吾々がこうして地上を訪れるのは人間を援助するためである、と思って下さるのは結構であるが、人間本来の努力が不要となるほどの援助を期待されるのは間違いです。地上には地上なりの教育の場としての価値があり、その価値を減じるようなことは許されません。

これはもう自明の理と言ってもよいほどの当たり前のことでありながら、人間にしか出来ないことまで吾々に依頼する人が多く、それもほどほどならともかくも、些(いささか)か度を超した要求をする人が多くて困ります。


──どなたでしょうか

 ご母堂と共に参りました。アストリエルとその霊団の者です。


──どうも。いつもの母の霊団の文章とは違うように思えたものですから。

 違いましょう。同じではないはずです。その理由(ワケ)は一つには性格が異なり、属する界が異なり、性別も違うからです。性別の違いは地上と同じく、こちらでもそれぞれ特有の性格が出るものです。もう一つは、地上での時代がご母堂たちとは違うからです。


──古い時代の方ですか。

 さよう。英国でした。ジョージ一世(1660~1727)の時代です。もっと古い時代の者もおります。


──霊団のリーダーとお見受けしますが、ご自身について何かお教えねがえませんか。

 いいでしょう。ただ地上時代の細かい事柄は貴殿らには難なく分かりそうに思えても、吾々には大変厄介なものです。でも分かるだけのことを申し上げましょう。

私はウォーリック州に住み、学校の教師──学校長をしておりました。他界したのが何年であったか、正確なことは判りません。調べれば判るでしょうが、大して意味のないことです。

 では用意してきたものを述べさせていただきましょうか。吾々は援助することは許されていても、そこには思慮分別が必要です。

例えば吾々霊界の者は学問の分野でもどんどん教えるべきだと考える人がいるようですが、これは、神が人間なりの努力をするための才能をお授けになっていることを忘れた考えです。人間は人間なりの道を踏みしめながら努力し、出来るかぎりのことを尽くした時にはじめて吾々が手を差しのべ、向上と真理探究の道を誤らないように指導してあげます。


──何か良い例を挙げていただけますか。

 すぐに思い出すのは、ある時、心理学で幻影と夢について研究している男性を背後から指導していた時のことです。彼は夢の中に予知現象が混じっている原因を研究していました。つまり夢そのものと、その夢が実現する場合の因果関係です。

私との意志の疎通ができた時に、私は、今までどおりに自分の能力を駆使して研究を続けておれば時機をみて理解させてあげようという主旨のことを伝えました。

 その夜彼が寝入ってから私は直接彼に会い(※)現在という時の近くを浮遊している出来ごと、つまり少し前に起きたことと、そのすぐ後に起きることとを影像の形で写し出す実験をする霊界の研究室へ案内しました。

そこでの実験にも限界があり、ずっと昔のことや、ずっと先のことまでは手が届かないのです。それはずっと上層界の霊にしか出来ません。(睡眠中人間は肉体から脱け出て、地上または霊界を訪れる。その時かならず背後霊が付き添うが、その間の体験は物的脳髄には滅多に感応しない。きちんと回想出来る人が霊能者である。──訳者)
 吾々は器具をセットしてスクリーンの上に彼の住んでいる地区を映し出し、よく見ているように言いました。そこに〝上演〟されたのは、さる有名な人物が大勢の従者を従えて彼の町に入ってくる光景でした。終わると彼は礼を言い、吾々の手引きで肉体へ戻って行きました。

 翌朝目を覚ました時何となくどこかの科学施設で実験をしている人たちの中にいたような感じがしましたが、それが何であったかは思い出せません。が午前中いつもの研究をしている最中に、ふと夢の中の行列の中で見かけた男性の顔が鮮明に蘇って来ました。それと一緒に、断片的ながら夢の中の体験も幾つか思い出しました。

 それから二、三日後のことです。新聞を開くと同じ人物が彼の住んでいる地区を訪問することになっているという記事を発見したのです。そこで彼は自分で推理を始めました。

 吾々が案内した実験室も、スクリーンに上演して見せたものも思い出せません。がその人物の顔と従者だけは鮮明に思い出しました。そこで彼が推理したのはこういうことでした。──肉体が眠っている時人間は少なくとも時たまは四次元の世界を訪れる。

その四次元世界では本来のことを覗き見ることが出来る。が、この三次元の世界に戻る時にその四次元世界での体験の全てを持ち帰ることは出来ない。しかし地上の人物とか行列の顔といった三次元世界で〝自然〟なものは何とか保持して帰る、と。

 予知された夢と実際の出来ごととの関係は四次元状態から三次元状態への連絡の問題であり、前者は後者より収容能力が大きいために、時間的にも、出来ごとの連続性においても、後者よりはどうしても広い範囲に亘ることになります。

 さて、こうして彼は自分の才能を駆使して、私が直接的に教示するのと変わらない、大いなる知識の進歩を遂げました。それは同時に彼の知能と霊力の増強にも役立ちました。

むろん彼の出した結論はこちらの観点からすればとても合格とは言えず、幾つか修正しなければならない点がありますが、全体的に見てまずまずであり、実際的効用を持っております。私が直接的にインスピレーションによって吹き込んでも、あれ以上のことは出来なかったでしょう。

 以上が吾々の指導の仕方の一例です。こうしたやり方に不満を抱き、人間的観点からの都合のよいやり方をしつこく要求する人は、吾々は放っておくしかありません。謙虚さと受容性を身につけてくれれば再び戻って来て援助を続けることになります。

 ではこの話が差し当たって貴殿とどう関わりがあるかを説明しましょう。貴殿は時おり吾々の通信が霊界からのものであることに疑念も躊躇もなしに信じられるよう、なぜもっと(貴殿の表現によれば)鮮明にしてくれないのかと思っておられるようであるが、以上の話に照らしてお考えになれば、貴殿自ら考察していく上でヒントになるものはちゃんと与えてあることに納得がいかれるはずです。

忘れないでいただきたいのは、貴殿はまだまだ〝鍛錬〟の段階にあるということです。本来の目的はまだまだ成就されておりません。いや、地上生活中の成就は望めないでしょう。

ですが吾々を信じて忠実に従って下されば事情がだんだん明瞭になって行きます。自己撞着(どうちゃく)のないものだけを受け入れていけばよろしい。証拠や反証を求めすぎてはいけません。それよりは内容の一貫性を求めるべきです。

吾々は必要以上のものは与えませんが、必要なものは必ず与えます。批判的精神は絶対に失ってはなりません。が、その批判に公正を欠いてはなりません。貴殿のまわり、貴殿の生活には虚偽よりも真実の方がはるかに多く存在しています。

少しでも多くの真理を求めることです。きっと見出されます。虚偽には用心しなければなりませんが、さりとて迷信に惑わされて神経質になってはなりません。例えば山道を行くとしましょう。貴殿は二つの方向へ注意を向けます。

すなわち一方で正しい道を探し、もう一方で危険が無いかを確かめます。が、危険が無いかというのは消極的な心構えであって、貴殿なら正しい道という積極的な方へ注意を向けるでしょう。それでよろしい。危険ばかり気にしては先へ進めません。

ですから、滑らないようにしっかりと踏みつけて歩き、先を怖がらずに進むことです。怖がる者はとかく心を乱し、それがもとで悲劇に陥ることがよくあります。

 では失礼します。こちらでの神の存在感はただただ素晴らしいの一語に尽きます。そして地球を取り巻く霧を突き抜けて輝き渡っております。その輝きは万人に隔てなく見えるはずのものです──見る意志なき者を除いては。神の光は、見ようとせぬ者には見えません。

<原著者ノート>読者は多分、母からの通信を中心とするこのシリーズの終わり方が余りに呆っ気なさすぎるようにお感じであろう。筆者もその感じを拭い切れない。そこで次に通信を引き継いだザブディエル霊にその点を率直に質してみた。(第二巻の冒頭で──訳者)


──私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょう。あのまま終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。

 さよう、終わりである。あれはあれなりで結構である。もともと一つにまとまった物語、あるいは小説のようなものを意図したものではないことを承知されたい。断片的かも知れぬが、正しき眼識を持って読む者には決して無益ではあるまい。


──正直言って私はあの終わり方に失望しております。余りに呆気なさすぎます。また最近になってこの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望は、有りのままを公表するということですか。

 それは汝の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合は無いと思うが、ただ一言申し添えるが、これまでの通信も今回新たに開始された通信も、これより届けられるさらに高尚なる通信のための下準備であった。それを予が行いたい。


 結末について筆者が得た釈明はこれだけである。どうやら本篇はこれから先のメッセージの前置き程度のものと受け取るほかはなさそうである。
  G・V・オーエン



Monday, February 20, 2023

シアトルの冬 強情と虚栄心  stubbornness and vanity

 

 

 この〝常夏の国〟では私たちは死んでこちらへやって来る人と後に残された人の双方の面倒をみるように努力しております。これは本当に切り離せない密接な関係があります。と言うのも、こちらへ来た人は後に残した者のことで悩み、背後霊がちゃんと面倒を見てくれていることを知るまで進歩が阻害されるケースが多いのです。そこで私たちは度々地上圏まで出かけることになるのです。


 先週も私たちのもとに夫と三人の幼い子供を残して死亡した女性をお預りしました。そして例によってぜひ地上へ行って四人のその後の様子を見たいとせがむのです。

あまりせがまれるので、やむを得ず私たちは婦人を地上へ案内しました。着いた時は夕方で、これから夕食が始まるところでした。ご主人は仕事から帰って来たばかりで、これからお子さんに食事をさせて寝させようと忙しそうにしておりました。

いよいよ四人が感じの良い台所のテーブルを囲み、お父さんが長女にお祈りをさせています。その子はこう祈りました。〝私たちとお母さんのために食事を用意して下さったことをキリストの御名において神に感謝します〟と。

 その様子を見ていた婦人は思わずその子のところへ近づき頭髪に手を当てて呼びかけましたが、何の反応もありません。

当惑するのを見て私たちは婦人を引きとめ、少し待つように申しました。暫く沈黙が続きました。その間、長女と父親の脳裏に婦人のことが去来しています。

すると長女の方が口を開いてこう言いました──「お父さん、母さんは私たちが今こうしているのを知ってるかしら?それからリズおばさんのことも。」

 「さあ良く判らないけど、きっと知ってると思うよ。この二、三日、母さんがとても心配してるような、何だか悲しい気持がしてならないからね。リズおばさんの念かも知れないけれどね。」

 「だったら私たちをおばさんとこに届けないでちょうだい。〇〇婦人が赤ちゃんの面倒を見てくれるし、私だって学校から帰ったら家事のお手伝いをするわ。そしたら行かなくって済むでしょ。」

 「行きたくないのだね?」
 「私は行きたくないわ。赤ちゃんとシッシーは行くでしょうけど。私はイヤよ。」
 「なるほど。父さんもよく考えておこう。だから心配しないで。皆んなで何とかうまくやって行けそうだね。」

 「それに母さんだってあの世から助けてくれるわ。それに天使様も。だって母さんはもう天使様とお話が出来るのでしょ?お願いしたらきっと助けてくれるわ。」

 父親はそれ以上何もしゃべりませんでした。が、私たちにはその心の中が見えます。そしてこんなことを考えているのが読み取れました──〝こんな小さな子供がそれほどの信仰を持っているからには自分もせめて同じくらいの信念は持つべきだ〟と。

それから次第に考えが固まり、とにかく今のままでやってみようと決心しました。もともと子供を手離すのは父親も本意ではなく、引き止めるための言い訳ならいくらでもあるじゃないか、と思ったのでした。

 こうした様子を見ただけで母親が慰めを得たとはとても言い切れません。が地上を後にしながら私たちはその婦人に、あの子の信仰が父親の信念によって増強されたら私たちが援助して行く上で強力な手掛かりとなりますよ、と言ってあげました。そうでも言っておかないと、今回の私たちが取った手段が間違っていたことになるのです。

 帰るとその経過を女性天使に報告しました。すると即座に家族が別れ別れにならぬように処置が取られ、その母親には、これから一心に向上を心掛け、早く家族の背後霊として働けるようになりなさいとのお達しがありました。

それからというもの、その婦人に変化が見られるようになりました。与えられた仕事に一心に励むようになったのです。私たちの霊団に加わって一緒に地上へ赴き、彼女なりの仕事が出来るようになる日もそう遠くはないでしょう。

 この話はこれ位にして、もう一つ別のケースを紹介してみましょう。先ごろ私たちのコロニーへ一人の男性がやってきました。この方も最近地上を去ったばかりです。

自分の気に入った土地を求めてさ迷い歩き、私たちの所がどうやら気に入ったらしいのです。ずっと一人ぼっちだったのではありません。少し離れた所から何時も指導霊が見守っていて、何時でも指導する用意をしていたのです。

この男性も私たちが時折見かける複雑な性格の持ち主で、非常に多くの善性と明るい面を持ち合わせていながら、自分でもどうにもならない歪んだ性格のために、それが発達を阻害されているのでした。

 その男性がある時私たちのホームのある丘からかなり離れた土地で別のホームの方に呼び止められました。その顔に複雑な表情を見て取ったからです。

実は出会った時点ですぐに、少し離れた位置にいた指導霊から、合図によってその男性の問題点についての情報が伝わり、その方は即座にそれを心得て優しく話しかけました。

 「この土地にはあまり馴染みがない方のようにお見受けしますが、何かお困りですか。」

 「お言葉は有難いのですが、別に困ってはおりません。」

 「あなたが抱えておられる悩みはこの土地で解決できるかも知れませんよ。全部というわけにはいかないでしょうけど。」

 「私がどんな悩みを抱えているかご存知ないでしょう。」

 「いや、少しは判りますよ。こちらで一人も知り合いに会わないことで変に思っておられるのでしょう。そしてなぜだろうと。」

 「確かにその通りです。」
 「でも、ちゃんとお会いになってるのですよ。」

 「会ったことは一度もありません。一体どこにいるのだろうと思っているのです。実に不思議なのです。あの世へ行けば真っ先に知人が迎えてくれるものと思っておりました。どうも納得がいきません。」

 「でも、お会いになってますよ。」
 「知った人間には一人も会っておりませんけど。」

 「確かにあなたはお会いになっていませんが、相手はちゃんとあなたにお会いしています。あなたが気づかないだけ、いや、気づこうとなさらないだけです。」

 「何のことだか、よく判りませんね。」

 「こういうことです。実はあなたが地上からこちらへ来てすぐから、あなたの知人が面倒を見ているのです。ところがあなたの心は一面なかなか良いところもあり開かれた面もあるのですが、他方、非常に頑なでむやみに強情なところがあります。あなたの目に知人の姿が映らないのはそこに原因があるのです。」

 男はしばらくその方を疑い深い目でじっと見つめておりました。そしてついに、どもりながらもこう言いました。

 「じゃ、私のどこがいけないのでしょう。会う人はみな優しく幸せそうに見えるのに、私はどの人とも深いお付き会いが出来ないし落着ける場所もありません。私のどこがいけないのでしょう。」

 「まず第一に反省しなくてはいけないのは、あなたの考えることが必ずしも正しくないということです。ちなみに一つ二つあなたの誤った考えを指摘してみましょう。

一つは、あなたはこの世界を善人だけの世界か、さもなくば悪人だけの世界と考えたがりますが、それは間違いです。地上と似たり寄ったりで、善性もあれば邪悪性も秘めているものです。

それからもう一つ。数年前に他界された奥さんは、あなたがこれから事情を正しく理解した暁に落着かれる界よりも、もっと高い界におられます。地上時代は知的にはあなたに敵いませんでしたし、今でも敵わないでしょう。

ところが総合的に評価すると霊格はあなたの方が低いのです。これがあなたが認めなくてはならない第二の点です。心底から認めなくてはダメです。あなたのお顔を拝見していると、まだ認めてないようですね。でも、まずそれを認めないと向上は望めません。

認められるようになったら、その時はたぶん奥さんと連絡が取れるようになるでしょう。今のところまだそれは不可能です。」

 男の目が涙で曇ってきました。でも笑顔を作りながら、どこかさびしげに言いました。

 「どうやらあなたは予言者でいらっしゃるようですね。」

 「まさしくその通り。そこで、あなたが認めなければならない三つ目のことを申し上げましょう。それはこういうことです。あなたのすぐ近くにあなたをずっと見守り救いの手を差し伸べようと待機している方がいるということです。

その方は私と同じく予言者です。先覚者と言った方が良いかも知れません。さっき申し上げたことは全部その方が私に伝達してくれて、それを私が述べたに過ぎません。」

 それを聞いて男の顔に深刻な表情が見えてきました。何かを得ようとしきりに思い詰めておりましたが、やがてこう聞きました。

 「結局私は虚栄心が強いということでしょうか。」

 「その通り。それもいささか厄介なタチの虚栄心です。あなたには優しい面もあり謙虚でもあり、愛念が無いわけではありません。この愛こそ何にも勝る力です。

ところがその心とは裏腹にあなたの精神構造の中に一種の強情さがあり、それは是非とも柔げなくてはなりません。言ってみれば精神的轍(わだち)の中にはまり込んだようなもので、一刻も早くそこから脱け出て、もっと拘泥(こだわり)を捨て、自由に見渡さなくてはいけません。

そうしないといつまでも〝見えているのに見えない〟という矛盾と逆説の状態が続きます。つまり、あるものは良く見えるのにあるものはさっぱり見えないという状態です。

証拠を突きつけられて自説を改めるということは決して人間的弱さの証明でもなく堕落でもなく、それこそ正直さの証明であることを知らなくてはいけません。

もう一つ付け加えておきましょう。今言ったように、その強情さはあなたの精神構造に巣食っているのであって、もしそれが霊的本質つまり魂そのものがそうであったなら、こんなに明るい境涯には居られず、あの丘の向こう側──ずっとずっと向こうにある薄暗い世界に落着くところでした。以上、私なりにあなたの問題点を指摘してさし上げました。後は別の人にお任せしましょう。」

 「どなたです?」
 「さっきお話した方ですよ。あなたの面倒を見ておられる方。」
 「どこにおられるのですか。」
 「ちょっとお待ちなさい。すぐに来られますから。」

 そこで合図が送られ、次の瞬間にはもうすぐ側に立っていたのですが、その男には目えません。

 「さあ、お出でになりましたよ。何でもお尋ねしなさい。」

 男は疑念と不安の表情で言いました──「どうか教えて下さい。ここにおられるのであれば、なぜ私に見えないのでしょうか。」

 「さっきも言った通りあなたの精神構造に見えなくさせるものが潜んでいるからです。あなたがある面において盲目であるという私の言葉を信じますか。」

 「私は物がよく見えています。非常にはっきり見えますし、田園風景も極めて自然で美しいです。その点では私は盲目ではありません。ですが、同じく実質的なもので私に見えないものが他にもあるかも知れないと考えはじめております。多分それもそのうち見えるようになるでしょう。でも…」

 「お待ちなさい、その〝でも〟はやめなさい。さあ、ここをよく見なさい。あなたの指導霊の手を私が握って見せますよ。」

 そう言って指導霊の右手を取り、「さ、よく見なさい。何か見えますか」と聞きましたが、男にはまだ見えません。ただ何やら透明なものが見えるような気がするだけで、実体があるのか無いのかよく分かりませんでした。

 「じゃ、ご自分の手で握って見なさい。さ、私の手から取ってごらんなさい。」

 そう言われて男は手を差し出し、指導霊の手を取りました。そしてその瞬間、どっと泣き崩れました。

 男にそうした行為が出来たということ、そして指導霊の手を見、さらにそれに触れてみることが出来たということは、男がその段階まで進化した人間であった事を意味します。手を出しなさいと言われた時はすでに、それまでのやりとりの間に男がそれが出来るまで向上していたということで、さっそくその報いが得られたわけです。

指導霊は暫くの間男の手をしっかりと握りしめておりましたが、そのうち男の目に指導霊の姿がだんだん見え始め、且つ、手の感触も強くなって行きました。

それまで相手をされた方はそれを見てその場を去りました。男は間もなく指導霊が見えるだけでなく語り合うことも出来るようになったことでしょう。そして今はきっと着々と霊力を身につけて行きつつあることでしょう。

 ルビーがあなた方両親にこんなメッセージを伝えて欲しいとのことです───「お父さん、お母さん、地上の親しい人が良い行いや親切なことをしたり、良いことを考えたりお話したりすることが全部映像になってこちらへ伝わって来るのは本当です。

私達はそれを使って部屋を美しく飾ったりします。リーンちゃんがあのお花で部屋を飾るのといっしょよ」と。

 では神の祝福を。お寝すみなさい。

Sunday, February 19, 2023

シアトルの冬 天体の霊的構成 spiritual composition of heavenly bodies



一九一三年十月十六日 木曜日

吾々が霊界の事情について述べることの中にもしも不可思議で非現実的に思えるものがある時は、こちらには地上の人間に捉えられないエネルギーや要素が沢山なることを銘記していただきたい。そのエネルギーは地上の環境の中にまったく存在しないわけではありません。

大半が人間の脳では感知し得ない深いところに存在するということです。霊的感覚の発達した人にはある程度──あくまである程度でしかありませんが──感知できるかも知れません。

霊的に一般のレベルより高い人は平均的人間にとって〝超自然的〟と思える世界との境界線あたりまでは確かに手が届いております。

その時に得られる霊的高揚は知能や知識をいくら積んでも得られない性質のもので、霊的に感得するしかないものです。

 今夜もまたご母堂の要請で、人間界について吾々が見たまま知り得たままを語りに参りました。可能な範囲に限ってお話しましょう。それ以上のことは、すでに述べた如く吾々には伝達技術に限界があり、従って内容が不完全となります。


──アストリエル様ですか。

 アストリエルとその霊団です。

 まずは主イエス・キリストの名において愛と平和のご挨拶を申し上げます。吾々にとっての主との関係は地上における人間と主の関係と同じです。ただ、地上にいた時に曖昧であった多くのことがこちらへ来て明らかとなりました。そこで厳粛なる気持ちで申し上げます

──主イエス・キリスト神性の真意と人類との関かわりの真相を知らんと欲する者は、どうか、恐怖心に惑わされることなく敬虔なる気持ちを持って一心に求めよ、と。そういう人にはこちらの世界から思いも寄らない導きがあるものです。

そして又、真摯に求める者は主の説かれた真理の真意がいずこにあるかをいかにしつこく問い詰めようと、決して主への不敬にはならない──何となれば主がすなわち真理だからである、ということを常に心に留めていただきたく思います。

 しかしながら、吾々にもそれと同じ大胆さと大いなる敬意を込めて言わせていただけば、地上のキリスト教徒の間で〝正統派〟の名のもとに教えられているものの中には、こちらで知り得た真相に照らしてみた時に、多くの点において適正さと真実性に欠けているものがあります。

と同時に、それ以上のものを追求しようとする意欲と、神の絶対愛を信じる勇気と信念に欠ける者が多すぎます。

神は信じて従うものを光明へと誘い、その輝ける光明が勇気ある者を包み、神の玉座へ通じる正しく且つ聖なる道を教え示して下さる。

その神の玉座に近づける者は何事をも克服していくだけの勇気ある者のみであること、真に勇気ある者とは、怖じ気づき啓発を望まぬ仲間に惑わされることなく、信じる道を平然と歩む者のことであることを知って下さい。

 さて前回の続きを述べましょう。貴殿に納得のいくものだけを信じていただけばよろしい。受け入れ難いものは構わないでよろしい。そのうち向上するにつれて少しずつ納得がいき、やがては全体の理解がいきます。

 前回は天体の構成と天体間の相互関係について述べました。今回はその創造過程と、それを霊的側面から観察したものを、少しばかり述べましょう。

ご承知の如く、恒星にも惑星にも、その他物的なもの全てに〝霊体〟が備わっております。そのことは貴殿はご承知と思いますので、それを前提として吾々の説を披露します。


 天体は〝創造界〟に属する高級神霊から出た意念が物的表現体として顕現したものです。全天体の一つ一つがその創造界から発せられた思念と霊的衝動の産物です。

その創造の過程を見ていると、高級神霊が絶え間なく活動して、形成過程にある物質に霊的影響力と、その天体特有の言わば個性を吹き込んでおります。かくして、例えば太陽系に属する天体は大きな統一的機構に順応してはいても、それぞれに異なった性格を持つことになる。

そしてその性格は責任を委託された大天使(守護神)の性格に呼応します。天文学者は地球を構成する成分の一部が例えば火星とか木星とか、あるいは太陽にさえも発見されたと言う。それは事実であるが、その割合、あるいは組み合わせが同じであると考えたら間違いです。

各天体が独自のものを持っております。ただそれが一つの大きな統一体系としての動きに順応しているということです。太陽系を構成する惑星について言えることは、そのままさらに大きな規模の天体関係についても当てはまります。

つまり太陽系を一個の単位として考えた場合、他の太陽系とは構成要素の割合においても成分の組み合わせにおいても異なります。各太陽系が他と異なる独自のものを有しております。


 さて、そうなる原因(わけ)は既に説明した通りです。各太陽系の守護神の個性的精神が反映するわけです。守護神の配下に更に数多くの大天使が控え、守護神の計画的意図に沿って造化の大事業に携わっている。

とは言え、各天使にはその担当する分野において自由意志の行使が許されており、それが花とか樹木、動物、天体の表面の地理的形態といった細かい面にまで及ぶ。千変万化の多様性はその造化の統制上の〝ゆとり〟から生まれます。

一方、そのゆとりある個性の発揮にも一定の枠が設けられている為に、造化の各部門、さらにはその部門の各分野にまで一つの統一性が行き亘るわけです。

 こうした神霊の監督のもとに、さらに幾つもの段階に分かれた霊格の低い無数の霊が造化に関わり、最下等の段階に至ると個性的存在とは言いかねるものまでいる。

その段階においては吾々のように〝知性〟と同時にいわゆる自由意志による独自の〝判断力〟を所有する存在とは異なり、〝感覚的存在〟とでも呼ぶべき没個性的生命の種族が融合しております。



──物語に出てくる妖精(フエアリー)とか小妖精(ピクシー)とか精霊(エレメンタル)といった類のことですか。

 その通り。みな本当の話です。それに大ていは優しい心をしています。ですが進化の程度から言うと人類よりは遥かに低く、それで人霊とか、天使と呼ばれるほどの高級霊ほどその存在が知られていないわけです。

 さて地球それ自身についてもう少し述べてみましょう。地質学者は岩石の形成過程を沖積層とか火成岩とかに分けますが、よく観察すると、その中には蒸気状の発散物───磁気性の成分とでも言ってもよさそうなものを放出しているものがあることが判ります。

それが即ち、その形成を根源において担当した霊的存在による〝息吹き〟の現われです。こうした性質はこれまで以上にもっともっと深く探求する価値があります。科学的成分の分析はほぼ完了したと言えますが、休むことなく活動しているより精妙な要素の研究が疎かにされている。

岩石の一つたりとも休止しておらず、全成分が整然と休むことなく活動しているというところまで判れば、その作用を維持し続けるためには何か目に見えざる大きなエネルギーが無ければならないこと、さらにその背後には或る個性を持った〝施主〟が控えているに相違ないという考えに到達するには、もうあと一歩でしかありません。

 これは間違いない事実です。その証拠に、そうした目に見えない存在に対する無理解のために被害をこうむることがあります。これは低級な自然霊の仕業です。

一方〝幸運の石〟(ラッキーストーン)と呼ばれるものをご存知と思いますが、これはいささか曖昧ではありますが背後の隠れた真相を物語っております。

こうした問題を検討するに際しては〝偶然〟の観念をいっさい拭い去って秩序ある因果律と置き換え、その因果律を無知なるが故に犯しているその報いに過ぎないとお考えになれば、吾々が言わんとすることにも一理あることを認めていただけるでしょう。

 便宜上、話題を鉱物に絞りましたが、同じことが植物界や動物界の創造にも言えます。今夜はそれには言及しません。こうした話題を提供したのは、科学に興味を抱く人でこれまでの科学では満足できずにいる人に、見えざる世界に臆することなく深く踏み込める分野がいくらでも開けていることをお知らせしようという意図からです。

 以上を要約してみましょう。それに納得が行かれれば、吾々が意図した結論も必然的に受け入れねばなりません。つまり物的創造物はどれ一つとってもそれ自体は意味がないし、それ一つの存在でも意味がない。

それは高級神霊界に発した個性的意念が低級界において物質という形態となって表現されているもので、霊的想念が原因であり、物的創造はその結果だということです。

ちょうど人間が日常生活において自分の個性の印象を物体に残しているように(※)創造界の神々とその霊団が自然界の現象に個性を印象づけているわけです。(※サイコメトリという心霊能力によって、物体を手にするだけでその物体に関わった人間のことが悉く読み取れる。──訳者)

 何一つ静止しているものはありません。全てがひっきりなしに動いております。その動きには統一と秩序があります。それは休むことなく働きかける個性の存在を証明するものです。

下等な存在が高等な存在の力によって存続するように、その高等な存在はさらに崇高なる守護神の支配を受け、その守護神は宇宙の唯一絶対のエネルギー、すなわち宇宙神の命令下にあります。が、そこに至るともはや吾々の言語や思索の域を超えております。

 宇宙神に対しては、全てはただただ讃仰の意を表するのみであり、吾々は主イエスの御名において崇高の意を表するのみです。全ては神の中に在り、全ての中に神が在します。
           アーメン ♰

Saturday, February 18, 2023

シアトルの冬 罪の報い retribution for sin

  

   一九一三年十月二三日  木曜日     

 天界における向上進化の仕組みは実に細かく入り組んでおり、いかに些細な要素も見逃さないようになっておりますから、それを細かく説明していったら恐らくうんざりなさることでしょう。

ですが、ここで一つだけ実例を挙げて昨晩の通信の終わりで述べたことを補足説明しておきたいと思います。

 最近のことですが、又一人の女性が暗黒界から例の〝橋〟に到着するという連絡を受け、私ともう一人の仲間二人で迎えに行かされたことがありました。急いで行ってみますと、件(くだん)の女性がすでに待っておりました。

一人ぼっちです。実はそこまで連れてきた人たちがその女性に瞑想と反省の時を与えるためにわざと一人にしておいたのです。これからの向上にとってそれが大切なのです。

一本の樹木の下の芝生の坂にしゃがんでおり、その木の枝が天蓋(てんがい)のようにその方をおおっております。見ると目を閉じておられます。私たちはその前に立って静かに待っておりました。やがて目を開けると怪訝(けげん)そうな顔で私たちを見つめました。

でも何もしゃべらないので、私が「お姉さま!」と呼びかけてみました。女性は戸惑った表情で私たちを見つめていましたが、そのうち目に涙をいっぱい浮かべ、両手で顔をおおい、膝に押し当ててさめざめと泣くのでした。

 そこで私が近づいて頭の上に手を置き「あなたは私たちと姉妹になられたのですよ。私たちは泣かないのですから、あなたも泣いてはいけません」と言いました。

 「私が誰でどんな人間か、どうしてお判りになるのでしょう」──その方は頭を上げてそう言い、しきりに涙をこらえようとしておりましたが、その言葉の響きにはまだどこか、ちょっぴり私たちに対する反撥心がありました。

 「どなたかは存じませんが、どんなお方であるかは存じ上げております。あなたはずっと父なる神の子の一人でいらっしゃるし、従って私たちと姉妹でもありました。

今ではもっと広い意味で私たちと姉妹になったのです。それ以外のことはあなたの心掛け一つに掛かっております。

つまり父なる神の光の方へ向かう人となるか、それともそれが辛くて再びあの〝橋〟を渡って戻って行く人となるかは、あなたご自身で決断を下されることです」と私が述べると、暫く黙って考えてから、

 「決断する勇気がありません。どこもここも怖いのです」と言いました。

 「でも、どちらかを選ばなくてはなりません。このままここに留るわけには行きません。私たちと一緒に向上への道を歩みましょう。そうしましょうね、私たちが姉妹としての援助の手をお貸しして道中ずっと付き添いますから。」

 「ああ、あなたはこの先がどんな所なのかをどこまでご存知なのでしょう」──その声には苦悶の響きがありました。「今まで居た所でも私のことをみんな姉妹のように呼んでくれました。

私を侮(あなど)っていたのです。姉妹どころか、反対に汚名と苦痛の限りを私に浴びせました。

ああ、思い出したくありません。思い出すだけで気が狂いそうです。と言って、この私が向上の道を選ぶなんて、これからどうしてよいか判りません。私はもう汚れ切り、堕落しきったダメな女です。」

 その様子を見て私は容易ならざるものを感じ、その方法を断念しました。そして彼女にこういう主旨のことを言いました──当分はそうした苦しい体験を忘れることに専念しなさい。

そのあと、私たちも協力して新しい仕事と真剣に取り組めるようになるまで頑張りましょう、と。彼女にとってそれが大変辛く厳しい修行となるであろうことは容易に想像できました。

でも向上の道は一つしかないのです。何一つ繕(つくろ)うことが出来ないのです。すべてのこと──現在までの一つ一つの行為、一つ一つの言葉が、あるがままに映し出され評価されるのです。

神の公正と愛が成就されるのです。それが向上の道であり、それしか無いのです。がその婦人の場合は、それに耐える力が付くまで休息を与えなければならないと判断し、私たちは彼女を励ましてその場から連れ出しました。

 さて、道すがら彼女はしきりに辺りを見回しては、あれは何かとか、この先にどんなところがあるかとか、これから行くホームはどんなところかとか、いろいろと尋ねました。

私たちは彼女に理解できる範囲のことを教えてあげました。その地方一帯を治めておられる女性天使のこと、そしてその配下で働いている霊団のこと等を話して聞かせました。

その話の途中のことです。彼女は急に足を止めて、これ以上先へ行けそうにないと言い出しました。〝なぜ? お疲れになりましたか〟と聞くと〝いえ、怖いのです〟と答えます。

 私たちは婦人の心に何かがあると感じました。しかし実際にそれが何であるかはよく判りません。何か私たちに摑みどころのないものがあるのです。

そこで私たちは婦人にもっと身の上について話してくれるようお願いしたところ、ついに秘密を引き出すことに成功しました。それはこう言うことだったようです。

〝橋〟の向こう側の遠い暗闇の中で助けを求める叫び声を聞いた時、待機していた男性の天使がその方角へ霊の光を向け、すぐに救助の者を差し向けました。行ってみると、悪臭を放つ汚れた熱い小川の岸にその女性が気を失って倒れておりました。

それを抱きかかえて橋のたもとの門楼まで連れて来ました。そこで手厚く介抱し、意識を取り戻してから、橋を渡って、私たちが迎えに出た場所まで連れて来たというわけです。

 さて、救助に赴いた方が岸辺に彼女を発見した時のことです。気がついたその女性は辺りに誰かがいる気配を感じましたが姿が見えません。

とっさに彼女はそれまで彼女をいじめにいじめていた悪(わる)の仲間と思い込み、大声で「さわらないで こん畜生」と罵りました。

が次に気がついた時は門楼の中に居たというのです。彼女が私たちと歩いている最中に急に足を止めたのは、ふとそのことが蘇ったからでした。彼女は神の使者に呪いの言葉を浴びせたわけです。
 

自分の言葉が余りに酷かったので光を見るのが怖くなったのです。実際は誰に向かって罵ったか自分でも判りません。しかし誰に向けようと呪いは呪いです。そしてそれが彼女の心に重くのし掛かっていたのです。

 私たちは相談した結果これはすぐにでも引き返すべきだという結論に達しました。つまり、この女性には他にも数々の罪はあるにしても、それは後回しに出来る。それよりも今回の罪はこの光と愛の世界の聖霊に対する罪であり、それが償われない限り本人の心が安まらないであろうし、私たちがどう努力しても効果はないと見たのです。そこで私たちは彼女を連れて引きかえし〝橋〟を渡って門楼の所まで来ました。

 彼女を救出に行かれた件(くだん)の天使に会うと、彼女は赦しを乞い、そして赦されました。実はその天使は私たちがこうして引き返して来るのを待っておられたのです。

私たちより遥かに進化された霊格の高い方で、従って叡智に長け、彼女がいずれ戻って来ずに居られなくなることを洞察しておられたのです。

ですから私たちが来るのをずっと門楼から見ておられ、到着するとすぐに出て来られました。その優しいお顔付きと笑顔を見て、この女性もすぐにこの方だと直感し、跪いて祝福をいただいたのでした。

 今夜の話にはドラマチックなところは無いかも知れません。が、この話を持ち出したのは、こちらでは一見何でもなさそうに思えることでもきちんと片付けなければならないようになっていることを明らかにしたかったからです。

実際私には何か私たちの理解を超えた偉大な知性が四六時中私たちを支配しているように思えるのです。

あのお気の毒な罪深い女性が向上して行く上において、あんな些細なことでもきちんと償わねばならなかったという話がそれを証明しております。〝橋〟を通って門楼まで行くのは実は大変な道のりで、彼女もくたくたに疲れ切っておりました。

ですが、自分が毒づいた天使様のお顔を拝見し、その優しい愛と寛恕(かんじょ)の言葉を頂いた時に初めて、辛さを耐え忍んでこそ安らぎが与えられるものであること、為すべきことを為せばきっと恵みを得ることを悟ったのでした。

その確信は、彼女のようにさんざん神の愛に背を向けて来た罪をこれから後悔と恥辱の中で償って行かねばならない者にとっては、掛けがいのない心の支えとなります。


 ──その方は今どうされていますか。

 あれからまだそう時間が経っておりませんので目立って進歩しておりません。進歩を阻害するものがまだいろいろとあるのです。ですが間違い無く進歩しておられます。

私たちのホームにおられますが、まだまだ他人のための仕事をいただくまでには至っておりません。いずれはそうなるでしょうが、当分はムリです。

 罪悪というのは本質的には否定的性格を帯びております。が、それは神の愛と父性(※)を否定することであり、単に戒律(おきて)を破ったということとは比較にならない罪深い行為です。

魂の本性つまり内的生命の泉を汚し、宇宙の大霊の神殿に不敬をはたらくことに他なりません。その汚れた神殿の掃除は普通の家屋を掃除するのとはわけが違います。

強烈なる神の光がいかに些細な汚点をも照らし出してしまうのです。それだけに又、それを清らかに保つ者の幸せは格別です。何となれば神の御心のまにまに生き、人を愛するということの素晴らしさを味わうからです。     

(※民族的性向の違いにより神を〝父なる存在〟と見なす民族と〝母なる存在〟と見なす民族とがある。哲学的には老子の如く〝無〟と表現する場合もあるが、いずれにせよ顕幽にまたがる全宇宙の絶対的根源であり、神道流に言えばアメノミナカヌシノカミである。──訳者)
                                       


2 最後の審判           

 一九一三年十月二七日  月曜日

 
今夜もまた天界の生活を取りあげて、こちらの境涯で体験する神の愛と恵みについてもう少しお伝えできればと思います。私たちのホームは樹木のよく繁った丘の中腹に広がる空地に建っております。

私がお世話している患者──ほんとに患者なのです──は明かりの乏しい、言わば闇が魂に忍び込むような低地での苦しい体験の後にここへ連れて来られ、安らぎと静けさの中で介抱されております。

来た時は大なり小なり疲労し衰弱しておりますので、ここから向上して行けるようになるのは、余ほど体力を回復してからのことです。

 あなたはここでの介抱の仕方を知りたいのではないかと思いますので申し上げましょう。これを煎じ詰めれば〝愛〟の一語に尽きましょう。それが私たちの指導原理なのです。
 
と言うことは、私たちは罪を裁かず、罰せず、ただ愛を持って導いてあげるということですから、その事実を知った患者の中にはとても有難く思う人がいます。ところが実はそう思うことが原因となって、却ってそこにいたたまれなくなるものなのです。

 例えばこんな話があります。最近のことですが、患者の一人が庭を歩いている時に、私たち霊団の最高指導霊であられる女性天使を見かけました。

その人はつい目を反らして脇の道へ折れようとしました。怖いのではありません。畏れ多い気がしたのです。すると天使様の方から近づいてきて優しく声を掛けられました。話をしてみると意外に気楽に話せるものですから、それまで疑問に思っていたことを尋ねる気になりました。

 「審判者はどこにおられるのでしょうか。そして最後の審判はいつ行われるのでしょうか。そのことを思うといつも身震いがするのです。私のような人間はさぞ酷い罰を言いつけられるにきまっているからです。どうせなら早く知って覚悟を決めたいと思うのです。」

 この問いに天使様はこうおっしゃいました。

 「よくお聞きになられました。あなたの審判はあなたが審判を望まれた時に始まるのです。今のあなたのお言葉から察するに、もうそれは始まっております。ご自分の過去が罰を受けるに値すると白状されたからです。それが審判の第一歩なのです。
 
それから、審判者はどこに居るのかとお尋ねですが、それ、そこにおられます。あなたご自身ですよ。あなた自身が罰を与えるのです。これまでの生活を総点検して、自分の自由意志によってそれを行うのです。

一つ一つ勇気を持って懺悔する毎に向上して行きます。ここにお出でになるまでのあの暗黒界での生活によって、あなたはすでに多くの罰を受けておられます。

確かにあれは恐ろしいものでした。しかしもうそれも過去のものとなり、これからの辛抱にはあんな恐ろしさは伴いません。もう恐怖心とはおさらばなさらないといけません。ただし苦痛は伴うでしょう。

大変辛い思いをなさることと思います。ですがその苦痛の中にあっても神の導きを感じるようになり、正しい道を進めば進むほど一層それを強く感じるようになるでしょう。」

 「でも報酬を与えたり罰したりする大審判者つまりキリスト神の玉座が見当たらないのはおかしいと思うのです。」

 「なるほど、玉座ですか。それならいずれご覧になれる日が来るでしょう。でもまだまだです。審判というのはあなたがお考えになっているものとは大分ちがいます。でも怖がる必要はありません。進歩するにつれて神の偉大な愛に気づき、より深く理解して行かれます。」

 これは実はこちらへ来る人の多くを戸惑わせる問題のようです。悪いことをしているので、どうせ神のお叱りを受けて拷問に掛けられるものと思い込んでいるので、そんな気配がないことに却って戸惑いを感じるのです。

 また、自分は立派なことをしてきたと思い込んでいる人が、置かれた環境の低さ──時にはみじめなほど低い環境にとても落胆することがよくあります。

内心では一気にキリスト神の御前に召されて〝よくぞやってくれた〟とお褒めの言葉でも頂戴するものと思い込んでいたからです。もう、それはそれは、こちらへ来てからは意外なことばかりです。喜ぶ人もおれば悲しむ人もいるわけです。

 最近こんな人を見かけました。この方は地上では大変博学な文筆家で、何冊もの書物を出版した人ですが、地上でガス工場のかまたきをしていた青年に話しかけ、いろいろと教わっているところでした。楽しそうな様子なのです。

と言うのも、その人は謙虚さを少しずつ学んでいるところだったのです。ですがこの人のいけないところは、そんな行きずりの若造を相手に教えを乞うのは苦にならないのに、すでにこちらへ来ている筈の曽ての知人のところへ赴いて地上での過ちや知的な自惚れを告白することはしたくないのです。

しかし、いずれはしなければならないことです。青年との関係はそのための準備段階なのです。しかし同時に、私たちの目にはその人の過去も現在もまる見えであり、とくに現在の環境が非常に低いことが明白なのに、本人は相変わらず内心の自惚れは他人に知られてないと思い続けているのが哀れに思えてなりません。


こういう人には指導霊も大変な根気がいります。が、それがまた指導霊にとっての修行でもあるのです。

 ここで地上の心霊家を悩ます問題を説明しておきましょう。問題というのは、心霊上の問題点についてなぜ霊界からもっと情報を提供してくれないかということです。

 これにはぜひ理解していただかねばならない事情があるのです。こうして地上圏まで降りてきますと、私たちはすでに本来の私たちではなく、地上特有の条件による制約を受けます。
 
その制約が私たちにはすでに馴染めなくなっております。例えば地上を支配している各種の法則に従って仕事を進めざるを得ません。

そうしないとメッセージを伝えることも物理的に演出してみせてあげることも出来ません。実験会では出席者がある特定の霊の姿を見せてほしいとか話を交わしたいとか、あるいはその霊にまつわる証拠について質問したいと思っていることは判っても、それに応じるには私たちは非常に制約された条件下に置かれています。

例えばその出席者の有する特殊な霊力を活用しなければならないのですが、こちらが必要とする肝心なものは閉じられたままで、結局その人が提供してくれるものだけで間に合わせなくてはならないことになりますが、それが往々にして十分でないのです。

 さらに、その人の意念と私たちの意念とが言わば空中衝突をして混乱を生じたり、完全に実験が台なしになったりすることもあります。なるべくなら私たちを信頼して私たちの思いどおりにやらせてほしいのです。

そのあとで私たちが何を伝えんとしているかを批判的態度で検討して下さればいいのです。もし特別に情報が欲しいと思われる問題点があれば、それを日常生活におけるのと同じように、時おり心の中に宿していただけばそれでよろしい。

 私たちがそれを察知して検討し、もし可能性があり有益でもあり筋が通っていると判断すれば、チャンスと手段を見つけて、遅かれ早かれ、それに応じてあげます。

実験その他、何らかの形で私たちが側に来ている時に要求をお出しになるのであれば、強要せずに単に想念を抱くだけでよろしい。

あとは私たちにまかせて下さい。出来るだけのことをして差しあげます。しつこく要求してはいけません。私たちはお役に立ちたいと言う意図しかないのですから、あなたの為になることなら出来る限りのことをしていると信じて下さい。

 ちょうどその好い例があります。あなたはずっとルビーのことを知りたいと思っておられました。それをあなたがしつこく要求することがなかったので、私たちは存分に準備することが出来たのです。これからその様子をお伝えしましょう。

 ルビーは今とても幸せです。そして与えられた仕事もなかなか上手にこなせるようになりました。つい最近会ったばかりで、もうすぐあなたやローズにお話をしに行けそうだと言っておりました。

なぜ今夜来れないのかと思っておられるようですが、あの子にはほかにすることがありますし、私たちは私たちで計画に沿って果たさねばならないことがあります。

そう、こんなことも言っておりました──「お父さんに伝えてちょうだい。お父さんが教会でお説教をしている時の言葉があたしたちのところまで届けられて、その中の幾つかを取りあげてみんなで討論し合うことがあるって。地上で学べなかったことについてのお話が入ってるからなの」と。


──ちょっと考えられないことですね。本当ですか。

 おやおや、これはまた異なことを。本当ですか、とは一体あなたはこちらの子供をどんな風に考えておいでですか。いいですか、幼くしてこちらへ来た者はまずこの新しい世界の生活と環境について学び、それが終わってからこんどは地球と地上生活について少しずつ勉強することを許されます。

そしていずれは完全な知識を身につけないといけないのです。そのために、慎重を期しつつあらゆる手段を活用することになります。

父親の説教を聞いて学ぶこと以上に素晴らしい方法があるでしょうか。これ以上申しません。これだけ言えば十分のはずです。常識的にお考えになることです。少しは精神構造が啓発されるでしょう。


──でも、もしもあなたのおっしゃる通りだと、人間はうっかり他人にお説教など出来なくなります。それと、どうか気を悪くなさらないで下さい。

 ご心配なく。機嫌を損ねてなんかいませんよ。実はあなたの精神に少なくとも死後の環境とその自然さについて、かなりの理解が見られるようになって有難く思っていたのです。ところが、愚かしい漠然とした死後の観念をさらけ出すような、あのような考えを突如として出されたので驚いたのです。

 でも、他人に説教する際はよくよく慎重であらねばならないと思われたのは誠に結構なことです。でも、このことはあなた一人にかぎったことではありません。全ての人間がそうあらねばならないことですし、全ての人間が自分の思念と言葉と行為に慎重であらねばなりません。

こちらではそれが悉(ことごと)く知れてしまうのです。でも一つだけ安心していただけることがあります。万が一良からぬこと、品のないことをうっかり考えたり口にしたりした時は、そういうものはルビーがいるような境涯へは届かないように配慮されております。

ですからそちらではどうぞ気楽に考えて下さい。思いのままを遠慮なくおしゃべりになることです。こちらの世界では誠意さえあれば、たとえその教えが間違っていても、間違いを恐れて黙っているよりは歓迎されるのです。

 さ、お寝みなさい。皆さんによろしく。神の祝福を。そして神が常にあなたに勇気と忠誠心をお与え下さいますように。


Friday, February 17, 2023

シアトルの冬 祈願成就の原理   Principle of prayer fulfillment


         
一九一三年十月七日 火曜日

 このたび初めて同行して来た霊団(グループ)の協力を得て私はこれより、ベールのこちら側より観た〝信仰〟の価値について少しばかり述べてみたいと思う。

 キリスト教の〝信徒信条〟に盛り込まれた教義については今ここで多くを語るつもりはありません。すでに多く語られ、それ以上の深いものを語るにはまだ人間側にそれを受け入れる用意が十分に出来ていないからである。

 そこで吾々は差し当たってその問題については貴殿の判断におまかせし、どの信条も解釈を誤らなければそれなりの真理が含まれている、と述べるに留めておきます。
 そこで吾々としては現在の地上の人間があまり考察しようとしない問題を取り上げることにしたい。その問題は、人間が真理の表面──根本真理でなく真理のうわべに過ぎないもの──についての論争を卒業した暁にかならず関心を向けることになるものである。

それを正しく理解すれば、いま人間が血眼(ちまなこ)になっている問題の多くがどうでもよい些細なことであることが判り、地上だけでなくこちらの世界でも通用する深い真理へ注意を向けることになるでしょう。

 その一つが祈りと冥想の効用の問題である。貴殿はこの問題についてはすでに或る程度の教示を受けておられるが、吾々がそれに追加したいと思います。

 祈りとは成就したいと思うことを要求するだけのものではない。それより遥かに多くの要素をもつものです。であるからには、これまでよりも慎重に考察されて然るべきものです。

祈りに実効を持たせるためには、その場かぎりの目先の事柄を避け、永遠不易のものに精神を集中しなくてはならない。そうすれば祈りの中に盛り込みたいと思っていた有象無象(うぞうむぞう)の頼みごとの大部分が視界から消え、より重大で巾広い問題が創造力の対象として浮かび上がって来る。

祈りにも現実的創造性があります。例えば数匹の魚を五千人分に増やしたというイエスの奇跡(ヨハネ6)に見られるように、祈りは意念の操作による創造的行為である。その信念のもとに祈りを捧げれば、その祈りの対象が意念的に創造され、その結果として〝祈りが叶えられる〟ことになる。

つまり主観的な願いに対し、現実的創造作業による客観的回答が与えられるのです。

 祈りの念の集中を誤っては祈りは叶えられません。放射された意念が目標物に当たらずに逸(そ)れてしまい、僅かに適中した分しか効果が得られないことになる。

さらに、その祈りに良からぬ魂胆が混入しても効力が弱められ、こちら側から出す阻止力または規制力の働きかけを受けることになります。どちらを受けるかはその動機次第ですが、いずれにせよ望み通りの結果は得られません。

 さて、こうしたことは人間にとっては取りとめのない話のように思えるかも知れませんが、吾々にとっては些(いささ)かもそうではない。

実はこちらには祈りを担当する専門の霊団がいて、地上より送られてくる祈りを分析し選別して、幾つかの種類に区分けした上で次の担当部門に送る。そこでさらに検討が加えられ、その価値評価に従って然るべく処理されているのです。

これを完璧に遂行するためには、地上の科学者が音と光のバイブレーションを研究するのと同じように祈りのバイブレーションを研究する必要があります。例えば光線を分析して種類分けが出来るように祈りも種類分けが出来るのです。

そして科学者にもまだ扱い切れない光線が存在することが認識されているように、吾々のところへ届けられる祈りにも、こちらでの研究と知識の範囲を超えた深いバイブレーションをもつものがあります。

それは更に高い界層の担当者に引き渡され、そこでの一段と高い叡智による処理にまかされる。高等な祈りがすべて聖人君子からのものであると考えるのは禁物です。往々にして無邪気な子供の祈りの中にそれが見出されます。

その訴え、その嘆きが、国家的規模の嘆願と同じ程度の慎重な検討を受けることすらあるのです。

 「汝からの祈りも汝による善行も形見として神の御前に届けられるぞよ」──天使がコルネリウス(※)に告げたと言われるこの言葉を御存知であろう。これは祈りと善行がその天使の前に形体をとって現われ、多分その天使自身を含む霊団によって高き世界へと届けられる実際の事実を述べたものであるが、これが理解されずに無視されています。

この言葉は次のように言い変えることができよう──〝貴殿の祈りと善行は私が座長を勤める審議会に託され、その価値を正当に評価された。吾人はこれを価値あるものと認め、吾人よりさらに上の界の審議官によりても殊のほか価値あるものとのご認知をいただいた。依ってここに命を受けて参じたものである〟と。

吾々はわざとお役所風に勿体ぶった言い方で述べましたが、こちらでの実際の事情を出来るだけ理解していただこうとの配慮からです。(※ローマ教皇二五一──二五三)

 以上の事実に照らしてバイブルに出ている祈りの奇跡の数々を吟味していただけば、吾々霊界の者が目のあたりにしている実在の相(すがた)をいくらか推察していただけるであろう。

そして大切なのは、祈りについて言えることがそのまま他のあまり感心出来ぬ心の働きにも当てはまるということです。例えば憎しみや不純な心、貪欲、その他もろもろの精神的罪悪も、そちらでは目に見たり実感したりは出来ないでしょうが、こちらでは立派な形態をとって現われるのです。

悲しいかな、天使は嘆くことを知らぬと思い込むような人間は、地上で苦しむ同胞に対して抱く吾々の心中をご存知ない。神から授かれる魂の使用を誤っているが故に悩み苦しむ人々のために吾々がいかに心を砕いているかをご覧になれば、吾々に愛着を感じて下さると同時に、無闇に神格化してくれることもなくなるでしょう。

Tuesday, February 14, 2023

シアトルの冬 “地上世界を救う”ですか。

 Is it "saving the earthly world"?

 

青い夢のような白樺の森イラスト背景, 雪の背景, 手描き, イラスト背景背景画像素材無料ダウンロード - Pngtree

 

(問い)――この地上世界を救うには、我々がこの教えをすべての人に広めないといけないのでしょうか。

「“地上世界を救う”ですか。

 

救うのは我々(霊界の霊たち)ではありません。

 

地上の人間の一人一人が自らの努力で救わねばなりません。」

 

シルバーバーチ

    『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』

Monday, February 13, 2023

シアトルの冬 すべてを支配する神の摂理  

 God's providence to rule over all

雪の白樺林と二匹のウサギ – 素材ごよみ

 

 〔宇宙は逃れようにも逃れられない自然法則によって支配されている。いかなる霊もその法則を変えたり、それを犯したときに生じる結果から逃れることはできない。しかし、そうした法則の存在を教えることによって無知から発生する危険を取り除いてあげることは可能である。シルバーバーチは数ある法則の中から、例えば引力の法則のような身近なものを取り上げて説き明かす。〕



私たちは大霊が定めた摂理(法則)をお教えしようとしているのです。それを守りさえすれば、地上生活に健康と幸せをもたらすことができるからです。教会で説教をしている人たちは、いつの日か、その間違いを取り消さなければなりません。いかなる人間も摂理の働きから逃れることはできません。とりわけ霊の声を聞いた者は、なおさらのことです。間違っていると知りつつ罪を犯す者は、真理を知らずに罪を犯す者よりも重い責任を取らされます。

魂が目覚め、霊力とともにもたらされる愛の恩恵に浴し、霊的真理の啓示を手にしながらも、なお自分中心の生き方をしている人は、その怠慢に対する罰がそれだけ大きくなります。無知ゆえに罪を犯したのではなく、真理を知りながら犯しているからです。人のために役立てるべき霊能を授かりながら、それを銀貨三十枚で売っている多くの霊媒・霊能者がいます。(イエスの弟子ユダが銀貨三十枚をもらってイエスの隠処を教え、それによってイエスの逮捕・処刑となり、ユダは自殺する。良心を裏切る行為のこと――訳注)

大霊はあなた方の内部に存在しています。進化の跡をたどれば確かに人間は向上しており、動物的進化の痕跡もとどめてはいますが、それは大霊の賜物(たまもの)の一部にすぎません。あなた方はそれをはるかに凌ぐ霊の資質を内部に宿しており、その力を発揮すれば地上にあっても神の如き生き方が可能となるのです。

一人ひとりの人間の内部には、いかなる病気も癒す力と、いかなる困難も克服する力が備わっているのですが、あなた方はまだそれを理解していません。人間は窮地に陥ったときに内部の貯蔵庫から霊力を引き出すことができます。このように神の王国は各自の内部にあるのですが、人々はそれをまったく理解していないのです。

その貯蔵庫から必要な霊力を引き出すためには、大霊(神)の摂理にのっとった生活に徹すればよいのです。しかし、果たして何人の人がそれを心がけているでしょうか。

人生は行為だけで成り立っているのではありません。口にする言葉や心で思うことも大切な要素です。行いだけが重要であると考えてはいけません。確かに行いが重要であることは事実ですが、言葉や思念も、あなたという存在の大切な一部なのです。よく言われるように、多くの人間が思想の主人ではなく、その奴隷となっています。


〔シルバーバーチがしばしば取り上げるテーマの一つが、地上人類は皆、肌の色に関係なく同胞であるということである。ある日の交霊会で次のように述べている。〕


私たちは一人の例外もなく大霊の一部です。そのうちのある者の肌を赤くし、ある者を黒色にし、ある者を黄色にし、ある者を無色(白色)にしました。しかし、こうしたことは大霊の計画の一端なのです。

いつの日か、大霊の摂理に対する理解が行きわたり、すべての肌の色の人々が混じり合い、互いに愛の心で睦み合うようになれば、地上に調和が訪れるようになります。あなた方は、肌の色の違いが意味するところを理解していません。異なる肌の色が与えられたことには重要な目的があり、それぞれが生命の摂理の成就に貢献することになるのです。すべての人種が一つに混じり合い、人間を肌の色で見分けるのではなく、その奥の魂で見分けるようになるまでは地上界に真の平和は訪れません。

このサークルが、地上のほとんどすべての人種から構成された一つの共和国になっていることにお気づきでしょうか。そこにはあなた方地上人に対する教訓があります。どの民族も他の民族にはないものを所有しており、そうした独自のものをそれぞれが持ち寄ることによって最高のものができ上がるのです。黄色人種には黄色人種ならではの貢献の場があり、白人には白人ならではの貢献の場があるということですが、地上人類は、こうしたことに理解が及んでいません。

あなた方は自らが大霊の一部であることを忘れてはいけません。あなた方一人ひとりが、大霊の仕事・大霊の力・大霊の愛・大霊の知識に貢献できるのです。例えば、自分よりも力の劣る人を少しでも向上させてあげようとするなら、大霊の力があなた方を通して顕現することになるのです。

それをいかなる形でするか、手を差し伸べる相手が誰であるか、どこで暗闇に光明をもたらすかは問題ではありません。挫折した人々を元気づけ、弱っている人々に力を与え、暗闇に光明をもたらし、飢えている人々に食べ物を施し、身を横たえる場所もない人々に休息の場を提供してあげることです。

それらの一つひとつが大霊の仕事の一部なのです。そうした努力をしていればどこにいても常に、あなた方を援助するための霊力がもたらされ、魂を鼓舞してくれます。そして、あなた方の想像を超えた結果を生み出すことになるのです。

大霊が働きかけるのは教会や大聖堂や寺院ではありません。霊力に反応する人がいれば、そこがどこであろうと大霊は誠意に燃えた高級界の霊団を派遣します。地上の人間はとかく大霊の働き場所を限定して考え、特別な資格を持った人々を通してのみ働きかけると思いがちですが、地上界へつながる通路さえあれば、どこであろうと、いつであろうと、誰であろうと、その通路を使って働きかけます。

霊力には地上的な差別――階級や肩書き、社会的地位や肌の色、国家や民族の違いなどは関係ありません。霊力に反応する人であれば、それが誰であろうと、そこがどこであろうと、高級界から霊力を注いで精神を明るく照らし、魂を鼓舞し、神のブドウ園の園丁(えんてい)として使用します。(「ブドウ園の園丁」は、マタイ伝の「神の国はブドウ園で働く人を雇うために朝早く出かける主人のようなものである」から――訳注)

どうかこのことをしっかりと学び、大霊と大霊の子供たちのためにという決意のもとに、暗闇と重圧と嵐と困難の中で苦しんでいる人々の重荷を少しでも軽くし、新たな希望・新たな知識・新たな光明・新たな力を届けてあげてください。そうすれば、それを授かった人は身体に新たなエネルギーが満ち、精神は勇気にあふれ、霊は生気を取り戻して、大霊から授かっている資質の素晴らしさを満喫することになるでしょう。

そしてあなた方は、自分自身には何も求めず、ひたすら他人の霊的向上のみを目的とする真の奉仕(サービス)の喜びを味わうことになります。


〔これまで地上人類に知らされていなかった“重大な秘密”が明かされる。〕


大霊は無限の存在であり、あなた方はその大霊の一部です。もしも完璧な信念を持ち、正しい人生を送れば、大霊の恩寵(おんちょう)にあずかることができます。

地上界のすべての人間が完璧な信念を持てば、大霊はそれぞれの願いを喜んで聞き入れてくださることでしょう。魂が真剣に求め、しかも大霊に対する絶対的信念に燃えていれば、必ずやその望みは叶えられることでしょう。

神(大霊)の摂理はそのようにして働くのです。摂理に順応した生活を送っていれば、望み通りの結果が生じるようになっています。結果が出ないということは、摂理に一致した生き方をしていないことを示しています。

歴史をひもといてご覧なさい。最も低い階級、最も貧しい環境にありながら、神の摂理に忠実に従う努力をしたために道を踏み外すことがなかった人たちがいます。摂理に合わせようとしないで、“なぜ神は働かないのか”と不平ばかり言っている人間を相手にしてはいけません。

時には押しつぶされて不遇から抜け出せないこともあるでしょう。しかし、完璧な信念に燃えていれば、いつかはきっと地上生活での困難を克服することができます。大霊の象徴である太陽に向かってこう言うのです――「私は大霊の一部だ。私を破滅させるものは何もない。私は永遠の存在だ。無限の可能性を秘めた存在なのだ。有限の物質界のものは決して私を傷つけることはできない!」と。もしこれだけのことが言えるようであれば、あなたが傷つくことは絶対にありません。

多くの人が心に不安や恐れを抱いて出発します。望み通りの結果が得られないのではないか、という不安です。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。しかし「完全なる愛は恐れを取り除く」(ヨハネ第一の手紙四)、「まず神の国とその義を求めよ。そうすればそれらのものはみな与えられるであろう」(マタイ六)との言葉があります。

これは、はるか遠い昔、摂理を完璧に理解した人物によって述べられた教えです。彼は、摂理を実践すれば常にその結果がともなうことを示してみせたのです。あなた方も、摂理が働くような条件を整えさえすれば、必ずや望み通りの結果が得られます。

もう一つ別の摂理をお教えしましょう。それは何の代価も支払わずに入手できるものは、この地上界には何ひとつないということです。代価を支払わずに霊的能力を開発することはできませんし、魂の富を蓄えることもできません。霊的成長をおろそかにして金儲けにうつつを抜かしていると、そちらの世界では金持ちと言われても、こちらの世界では哀れな貧しい魂になってしまいます。

人間はその内部に、何よりも貴重な「神性」を宿しています。あなた方は大霊の一部なのです。地上のどこを探しても、それに匹敵する宝や富は存在しません。私たちは、魂の内部の鉱脈を探査し、肉体的本性の奥に埋もれた霊のダイヤモンドをいかにして引き出すか、それをお教えしようとしているのです。

そのためには霊界の最高の界層のバイブレーションに反応するようになっていただかなくてはなりません。あなた方は決して一人ぼっちではないこと、周囲には常にあなた方を愛する大勢の霊たちがいて、見守り、導き、援助し、鼓舞しようとして待機していることを知っていただきたいのです。そうした中で霊性が開発されていくにつれて少しずつ大霊に近づき、摂理と調和していくようになることを悟っていただきたいのです。

あなた方は、大霊の子供である地上の同胞に奉仕することによって大霊に奉仕することになります。同胞のために役立つことをしているとき、大霊の無限の腕に抱かれ、その愛に包まれ、それが完全なる安らぎをもたらしてくれるようになります。

何の根拠もなく、ただ信じるというだけの信仰では、厳しい試練の嵐が吹けばひとたまりもなく崩れてしまいます。しかし、正しい霊的知識から生まれた信仰には確固たる土台がありますから、いかなる試練の嵐に遭っても揺らぐことはありません。

証拠を何ひとつ見なくても信じることができる人は幸せです。しかし、この宇宙が大霊の愛と叡智から生まれた霊的摂理によって支配されていることを信じることができる人は、なおいっそう幸せです。

その意味で、ここにおられる(ハンネン・スワッファー・ホームサークルの)皆さんは、霊的知識から生まれた完璧な信仰を持たなければなりません。皆さんは霊力の証(あかし)を手にしておられます。万事うまくいくという信念、大霊の摂理と調和して生きればそれ相当の実りを手にすることができるとの信念を持たなければなりません。

人間は“邪悪”と呼ばれるものの影響を受けてしまいます。しかしその邪悪なるものは、心の中から完全に追放することができるのです。なぜなら皆さんは、大霊とその摂理の保護のもとに生き、行動しておられるからです。

心に邪悪なものがなければ、善なるものしか近づきません。善なるものは、善なるものが支配するところにしか存在できないからです。霊界からこの交霊の場に訪れるのは大霊の使者のみです。恐れを持つ必要はありません。あなた方を包み込んでいる力、あなた方を支え導き鼓舞しようとしている力は、大霊から発しているのです。

その力が試練と苦難に際してあなた方を支えてくれます。嵐を鎮めて晴天とし、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれるのも、その力です。皆さんは進歩の正道をしっかりと踏みしめておられます。不安に思うことは何ひとつありません。

「完全なる愛は恐れを取り除く」とイエスは述べていますが、正しい知識は恐れを打ち払います。恐怖は無知から生じるものだからです。愛と信念と知識のあるところに恐怖は居すわることはできません。進化した魂は、いついかなるときも恐れることがありません。人生のどのような局面に際しても、自分は大霊であるがゆえに克服できないものはない、との確信があるからです。

恐怖心は魂の牢獄をつくります。ですから恐怖が頭をもたげかけたら、その波動に巻き込まれることなく、それを抑え込み、信念を持ってこう自分に言って聞かせるのです――「自分は大霊なのだ。地上の出来事で動揺などしない。魂に宿る無限の霊力でいかなる困難も凌いでみせる」と。あなた方は、あらゆる困難を克服する力を授かっているのです。その無限の力を見限ることがあってはなりません。

大霊の法則は、物的なものと霊的なものの両方を支配しています。宇宙という大霊の王国には、そうした区別はありません。物的生命を霊的生命から切り離して考えてはいけません。本来は別個のものではないのです。一つの大生命があり、それにいくつもの側面があるにすぎません。物的なものは霊的なものに反映し、霊的なものは物的なものに反映します。

大霊の摂理に一致した生き方をしているかぎり、克服できないような困難は生じないということを知らなければなりません。遭遇している困難や障害が取り除かれてしかるべきものであるなら、私たちの力で排除できないものはありません。

もしも苦しみが余りにも耐えがたく思われるときには、こう理解してください。私たち霊界の者は、あなた方の苦しみを取り除くために自分自身の進化の歩みを止めて努力します。しかしあなた方としては、その苦しみに耐え抜き、辛い体験を通して教訓を学び取る方が賢明であるということです。この短い地上人生のことだけを考えてはいけません。永遠の生命を視野におくことです。

物質界の人間も、物的であると同時に神性を宿していることを理解すれば、どれほど地上で生きやすくなることでしょう。悩みはたちまち消え去り、障害物も取り除かれることでしょう。ところが人間は内在している霊的な力を信じません。あなた方の言う“人間らしさ”とは地上界だけに属するものですが、霊力は大霊に属しているのです。

その昔、イエスは「地上を旅する者であれ。地上の住民となるなかれ」と言いました(聖書には見当たらないが、モーゼスの『霊訓』にも引用されているところをみると、事実そういう言葉を何度も述べたのであろう――訳注)。地上人は、お金を持っている人間ほど悩みがないと思いがちです。“悩み”というものが相対的なものであることに気がつかないのです。大霊の摂理を金銭でごまかすことはできません。

あなた方は人間性を強化するために地上界へ来ています。それがなされるかどうかは、遭遇する難問にどう対処するかによって決まります。内在する霊力によって克服できないような問題は、地上には生じません。なぜなら、いかなる難問もしょせんは地上的・物質的なものにすぎないからです。あなた方は大霊の一部であり、神性を宿していることを忘れてはなりません。

真の幸福とは、大霊と一体になった者に訪れる安らぎのことです。それは心が大霊のリズムで鼓動し、大霊の意思と一致し、魂と精神が大霊と一つになっている状態のことです。大霊の摂理と調和しているから安らぎがあるのです。それ以外に安らぎは得られません。

この私にできるのは、摂理についてお教えすることだけです。イエスは二千年前に、「天国はあなた方の中にある」と言いました。外部のどこかにあるわけではありません。ましてや物質界の喧騒の中には存在しません。それは魂の内部に見いだされるものなのです。

神の摂理は絶妙なバランスを保ちながら完璧に働いていますから、いかにそれをごまかそうとしても不可能です。どのような人間も、罰せられるべきものが見逃されたり、報われるべきものが見落とされたりするようなことはありません。物的な目で永遠を判断してはいけません。より大きなものを見ないで小さなものを裁いてはいけません。

束の間の地上的な喜びと永遠の霊的な幸福とを混同してはいけません。地上的な喜びは安っぽい一時(いっとき)のものにすぎません。あなた方は地上的な観点から考えがちですが、私たちは霊的な目で見ます。あなた方を喜ばせるために摂理を曲げて説くわけにはまいりません。

霊界から地上界へ戻ってきた者(交霊会で出現した霊)に尋ねてごらんなさい。誰もが「摂理は完璧です」と答えるはずです。そして二度と地上へは再生したがりません。

あなた方は外部に安らぎを求めようとしますが、私はあなた方の内部にある永遠の安らぎを見いださせてあげたいと努めています。最も価値あるものは内在する霊的宝なのです。

常に何かしら不満を抱いている人がいるものです。それは地上世界だけでなく、こちらの世界でも同じです。彼らが満足できないのは、自分がもっと完璧になれると思っているからです。神の道具として、まだまだ十分ではないと思っているからです。まさに人間は、自己との闘いを通して自らの不完全さを克服し、神性の開発が可能になるのです。

まだ為すべきことがありながら、満足していられるでしょうか。生きるうえで欠かせないものに不自由している物質界の子らを見て、安穏としていられるでしょうか。神の名のもとに間違った教えが説かれているのを聞いて、私たちが安心していられると思われますか。

光があるべきところに暗闇があり、自由であるはずの者が強欲さによって自らの魂をがんじがらめにし、地上界のどこもかしこも混乱し、無秩序な状態にあるのを見て、私たちが心を痛めずにいられると思われますか。

私たちは、あなた方を通して大霊の愛が地上界に流入するように努めていますが、いまだに多くの大霊の子らが本来受け取るべきものを得られずにいるのです。大霊は必要なものは十分に用意してくださっているのに、それを授からない人がいるのです。他の人間が飢えているのに、自分だけが満ち足りて平気でいるようでは、霊格が高い人間とは言えません。

私たちの仕事でいちばん辛いのは、時としてあなた方が苦しんでいるのを傍観しなければならないことです。その苦しみがあなた方の魂にとって必要な闘いであるために、私たちは手出しをすることが許されないのです。あなた方がその闘いに勝利すれば、それは私たちにとっても勝利であり、あなた方が敗北すれば私たちにとっても敗北なのです。あなた方の闘いは常に私たちの闘いであるにもかかわらず、あなた方を援助することは一切許されません。

時々、私は涙を流すことがあります。救いの手を差し伸べてはいけないことが分かっているからです。それが摂理だからです。そのときの私の苦痛は、苦しんでいる本人よりも大きいことを知ってください。

皆さんに代わって私が問題を解いてあげるわけにはいきません。それは皆さんの自由意志に干渉することになるからです。もし私が、この霊媒(バーバネル)にああしろこうしろと指示し始めるようになったら、それはこの霊媒の自由意志が失われたことを意味します。それきり彼の進歩は止まってしまいます。

あなた方一人ひとりの内部に宿された霊性が発達するのは、日常生活で生じる問題をいかにして解決していくか、その努力をしているときです。何もかも楽に片づいているうちは成長しません。

ただし、私にも干渉を許される場合があります。この霊媒を通じての私の仕事が妨げられるときには、チャンネルであるこの霊媒の自由を確保するために、邪魔を排除する手段を講じます。しかし、この霊媒の霊性の進化に関わることはすべて本人の自己責任ですから、あくまでも霊媒自身の努力で解決していかなければなりません。


〔別の日の交霊会で――〕


霊的真理を説く人には、大きな責任が背負わされています。もしその責任に反するなら、地上生活の間に、または死後にその代償を払わなければなりません。

時おり私がうんざりさせられるのは、霊界からの“高度な教え”を求めるだけで、何ひとつ困っている同胞のために手を差し伸べようとしない人間がいることです。人は成長するにつれて霊的真理と大霊の摂理を深く理解するようになっていきます。

真理の追求ばかりしている人たちが、少しでも地上を明るく住みやすい世界にするために、人々への奉仕に立ち上がるなら、それこそ“最高の教え”を実践することになるのですが……。


〔地上界の問題の大半は自由意志の使い方を誤っていることから生じていることを強調して――〕


人間は戦争が起きると、「なぜ大霊は戦争をやめさせないのか」とか「なぜ未然に防いでくれないのか」と思うようですが、大霊の摂理を無視している以上、責任は人間自身にあるのです。

行為が生み出す結果は絶対に避けられません。私たちには、大霊の摂理を変えることはできません。蒔いた種が生み出す結果は、自分で刈り取らなければならないのです。利己主義という種を蒔けば、それ相当の結果を刈り取らなければなりません。高慢・嫉妬・怨恨(えんこん)・貪欲・敵意・不信・猜疑心(さいぎしん)――こうしたものがつもり積もって、戦争・困窮(こんきゅう)・不和といったものを生み出します。

私たちは大霊の摂理をお教えしようと努力しているのですが、私たちが地上界へ降りてきた目的を理解できない人たちから、しばしば非難されます。しかし私たちには、大自然の摂理を明かすこと以外には何の意図もありません。というのは、地上界を支配しているのは大霊の摂理以外の何ものでもないからです。それを“宗教”と呼ぼうと“科学”と呼ぼうと“哲学”と呼ぼうと“神の自然法則”と呼ぼうと同じことです。

摂理に逆らった生き方をする人は、一人の人間であろうと大勢の集団であろうと、民族であろうと国家であろうと、いつかはその代償を払わなければなりません。摂理の働きが完璧であることはいつも説いている通りです。その働きは人間の目には見えないかもしれませんが、原因と結果は常に連鎖しています。摂理がそのようになっているからです。何度も述べてきたことですが、それを改めて説くのは大霊の摂理がすべてだからです。

私たちは、大霊(神)とは何かを明らかにしようとしていますが、それは摂理を通して大霊を明らかにすることにほかなりません。私たちは、大霊の摂理をお教えしようとしているのです。それによってあなた方は、摂理と調和した生活が可能になります。もちろん自由意志が与えられていますから、摂理に従うか否かはあなた方の選択に任されています。一個人であろうと集団であろうと同じことです。

何事も摂理にのっとって行動し、それに反することがないようにしなければならないという認識が行きわたるまでは、地上界に混乱と破滅と惨事が絶えることはないでしょう。

私たちとしては、永遠の霊的真理をお教えすることしかできません。なぜなら霊的真理だけが、物的なものが崩壊しチリとなったあとも存在し続けるからです。物的なものだけに目を奪われている者は大きな過ちを犯しています。幻影を追いかけ、永遠の実在を忘れているからです。霊的真理といっても至って単純なことばかりです。それなのに地上界の人間は、いまだに真理を理解していません。

苦痛と落涙、流血と悲しみを通してしか霊的真理を学べないというのであれば、それもやむをえないでしょう。私としては、できることなら私たちが示してきたように愛と奉仕の精神を通して学んでほしいところです。しかし、それができないとなれば、摂理に反した生き方に対する代価(痛み)を払って学ぶしかないでしょう。

地上界で大人物と言われた人が霊界でも大人物と言われるわけではありません。こちらの世界での偉大さは、魂の偉大さ・霊性の高さ・奉仕精神の豊かさで計られます。これらは物的世界での輝きが消滅したあとも末永く存在し続けます。

自由意志は大霊から授かった権利です。が、その使用を誤ると代償を払わなければなりません。摂理にのっとった生き方をすれば豊かな恩恵を手にすることになります。もし摂理に反した生き方をするなら、それ相当の結果を刈り取らなければなりません。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱を招きます。

私たちは、本来なら大霊の子供たちの教育者であるべき立場の人々から軽蔑されています。私たちが大霊と大霊の愛の名のもとに地上へ降りてきたために、私たちを歓迎するはずの人間から拒絶されています。私たちは「お役に立ちたい!」との願望に燃えて、あなた方が自ら地上世界を救うための摂理と霊力についてお教えしようとしているのですが……。

霊的無知に浸りきり、儀式や作法に取り囲まれ、さらには神の霊力が今日でも地上界に注がれていることを否定するようでは、その代償を払わざるをえません。(英国国教会では神は紀元六六年まで地上に働きかけ、それ以後はいかなる働きかけもしないという信仰がある――訳注)

私たちは人のために役立つことを願う人々の味方であり、破壊をもくろむ者たちにとっては敵なのです。私たちは、手助けすることができる所ならどこへでも、愛と奉仕の翼に乗って降りてまいります。それこそが、私たち全員が果たさなければならない仕事だからです。

それには困難と障害が立ちはだかることは覚悟しています。しかし、私たちは必ず克服します。潮流のように満ち干を繰り返すことでしょうが、最後は必ず勝利します。

私たちだけでは大きな仕事はできませんが、あなた方地上の人々と協力すれば、幾ばくかの仕事はできます。一個の魂を引き上げ、暗闇にいる人に光明をもたらし、弱っている人に力を貸し、逆境に喘ぐ人を慰めてあげるなら、そのとき私たちは価値ある貢献をしたことになるのです。


〔一人ひとりの人生上の出来事には明らかな傾向が見られるという意味において、自由意志にも制約があると言えるのか、と問われて――〕


一定の傾向があるのは事実ですが、それは宿命的にどうしようもないものではありません。人間はさまざまな放射物や影響力に取り囲まれていて、その多くが人間の運命に何らかの影響を及ぼしていることは事実です。しかし、大霊は人間の一人ひとりにご自身の一部・霊性の一部を与えてくださっており、各自の進化のレベルに応じて自由意志を適切に行使すれば、霊性開発の道で生じるいかなる障害も克服できるようになります。あなたが大霊であり、大霊があなたなのです。

大地に蒔かれた種子は、その成長を正しく促すものを与えれば芽を出し、成長し、見事な花を咲かせます。それと同じで、あなたという存在の中に大霊の種子が植え込まれているのです。あなた自身が庭師です。その種子が花を咲かせられるかどうか、あるいはいつ花を咲かせるかは、あなたの手入れ一つにかかっています。そこにあなたの自由意志が関わっているのです。

せっかくの種子を暗闇の中に置き去りにして、魂の成長や慈悲や無私の善行という光を与えなければ、大霊があなたを通して顕現することにはなりません。


〔苦難の価値について問われて――〕


あらゆる体験が、あなた方の永遠の人生模様の一部を構成します。あなた方はとかく、この世だけの出来事によって永遠の人生を判断しようとします。目に見える物質世界の混乱状態だけで判断し、地上生活のすべてを通して一本の神聖な糸が貫いていることが理解できません。

調和を基本的摂理とするこの大宇宙においては、あなた方一人ひとりが大霊の計画に貢献しているのです。地上生活には、時として辛さと絶望、痛みと悲惨さがともないますが、そのすべてが魂にとって永遠の旅路に向かうための準備なのです。

暗黒と光、陰と日向(ひなた)といった対照的なものも、実は一個の統一体の反映にすぎません。陰なくしては光もあり得ず、光なくしては陰もあり得ません。それと同じで、困難は魂が向上するための階段です。困難・障害・ハンディキャップ――こうしたものは魂の試練なのです。それを克服したとき、魂はより強くなり、より純粋になり、より深くなり、いっそう進化するようになるのです。

無限の可能性を秘めた魂の潜在能力が、困難も苦痛もなく、陰も悲しみも悩みも悲惨さもなしに発現すると思われますか。発現するはずはありません。

悲哀の極みをなめ尽くして初めて、魂の奥底からの喜びが味わえるのです。生命の階段を低く下りるほど、それだけ高く上がれるのです。地上人生の陰と思える体験を重ねるほど、日向の喜びがひとしお身に沁みるようになるのです。

すべてのことが霊性進化の肥やしになります。そのうち皆さんも、肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上人生を振り返るときがまいります。その時、紆余曲折した出来事の中で、それらの一つひとつがちゃんとした意味を持ち、すべての体験が皆さんの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出すことになっていたことを理解するようになるはずです。

魂にとって、正しく理解し正々堂々と立ち向かって何の益ももたらさないような体験は一つもありません。いったい、困難も試練も問題もない物質世界というものが想像できるでしょうか。そうした世界では何の進化も得られません。克服すべきものが何もないからです。あるのは堕落のみです。