Wednesday, March 4, 2015

シアトルの弥生 東京 横浜大空襲


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横浜戦没者慰霊塔

雨だらけのシアトルですけれど、最近は ”弥生の空は見渡す限り” です。

ところで3月10日は、東京大空襲70周年なのですね。
東京大空襲は、歴史に語り継がれていくことでしょう。

語り継がれる東京大空襲の影に横浜大空襲もその2ヶ月余り後、1945年5月29日横浜の中心地が B-29 による無差別絨毯爆撃を蒙り、沢山の民間人が死傷し焼け野が原となりました。

父をニューギニアの戦地に送った私達家族も、横浜爆撃のターゲットの一つ平沼橋の近くに住んでいました。大空襲の前にもB-29による空爆が何度もあり、警戒警報が鳴り響くたびに母は私を背負い、祖母は先祖たちの位牌を背負って、近くの避難場所に逃げ込んでいたそうです。

「いつ家が燃えるの分らないのに、ちゃんと鍵をかけて逃げたよね。」と母が言っていました。警戒警報が鳴るたびに、背負われていた私は「おばあちゃん。仏様をちゃんと背負った」と叫んでいたそうです。そして上手に ’君が代’ を歌うことが出来たそうでした。それは悲しいことに、毎日毎日勝つことの無い闘いに出征する兵士を送る歌でしたから。

そうした恐怖の日々。私達にとって幸いなことには、親切な叔父が神奈川県の藤沢に住んでいて、そこからリヤカーで多分5,6時間歩いてか、馬車か牛車でか私達を救いに来てくれたそうです。その逃げる日誰かが背後から、「あんたの家をどうするか!」と叫んだので、「いらない」と叫び返したのが失敗だったと母が言っていました。

其の日が爆撃の日の何日前であったか、当時大人であった人たちはことごとく他界してしまったので知る由もありませんが ”横浜が燃えているのが見えた。” と母が言っていたのを覚えています。悲しい光景でしたね。

多くの日本人が悲惨な時を経験し、我が家も父を失い家を失った受難の時でした。
その様な時でも親戚縁者、向こう三軒両隣がよく助け合い復興し、幼少期を過ごした私は何の不自由を感じたこともありませんでした。

そして今は、戦争時アメリカ オクラホマのボーイングの技師として、当時B-29を建造していた義父と同居しているのも不思議なめぐり合わせです。この義父も92歳。其の当時の僅かな生き残りの一人です。

今戦争をしている多くの国と人が、やがて恩讐を超えて仲良く出来る日が来ることを祈ります。


This famous rain city Seattle but recently is beautiful blue spring sky.
By the way March 10th is Tokyo air raid 70th anniversary.
Tokyo air raid would be to go been handed down in history.
Yokohama air raid also has undergone after 2 months , May 29 1945.  Carpet bombing by b-29  had happened. a lot of civilians were killed, wounded and towns were burned.
We family  sent the father to the battlefield of New Guinea, was also lived near the Hiranuma Bridge in the one of the target for bombing.
we had a kind uncle lived in one city  who took 5,6 hours to walk with wagon  came to rescue us right before this day.
" We saw Yokohama was  burning." My mother was told me. It was a sad day.
Many Japanese experienced this suffering time,.We lost father also.
Such a difficult time to everyone.   relatives, friends  and neighbors who helped each other, reconstructed.   I spend my childhood in this time I never felted something missing.
And now, it is  strange meeting of my life, lived together with  father-in-law who had been built B-29 at that time  as a Boeing engineer in Oklahoma. The father-in-law is also 92 years old. Its is one of those days of slight survival.
Many countries and people are now in war, I pray that the day will come can get along soon beyond the enemy each other.

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3 comments:

  1. お父さんはパプアニューギニアで戦死されたのですね。
    私の父は国内で一時復員の時に爆撃で、叔父は特攻隊員として
    レイテ島で、それぞれに尊い命は散りました。
    家はいらないというお母さんの言葉が残念だったということは
    家は焼失しなかったということですね。
    命からがらですもの、それこそそれどころではなかったですね。
    それにしても怨讐を現実的な越えていく環境に置かれた
    奇跡的な人生ですね。
    早く、すべての国々の怨讐が解かれる日が訪れますように‥

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  2. 大戦の記念日毎に耳にする更なる情報によって、本当に大変な戦争であったと再び認識させられます。
    若い命が沢山散りましたね。Nagomiさんのお母様は、夫と兄弟を亡くされたのですね。言葉では言い表されないほどの、痛みであったことでしょう。
    息子を失った私の祖母も、一人海岸で泣いていたと他所の人が教えてくれました。
    私が知る限り、祖母も母も私達の前で、泣いたり愚痴ったりすることもなく、皆様確りと立って、幼子であった私達を良く育ててくれました。
    短いようでもあり、長い様でもある時が過ぎ去り、息子や夫と霊界で再会している時ですね。感無量です。

    家は消失したのですけれど、権利を放棄したので残った土地は人手に渡ったようです。横浜西口の、地価の高い場所なので残念だったということです。

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