Wednesday, March 25, 2026

シルバー・バーチの霊訓(一)

Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley


五章 霊的交信のむずかしさ

 霊界の通信者の伝えたいことが百パーセント伝わることは滅多にありません。あることはあるのですが、よほどの例外に属します。あなた方が電話で話を交わすような平面上の交信とは違うのです。その電話でさえ聞き取り難いことがあります。

混線したり故障したりして全く通じなくなることもあります。地上という平面上の場合でもそうしたトラブルが生じるのですから、全く次元の異なる二つの世界の間の交信がいかに困難なものであるかは容易に理解していただけると思います。

 霊媒に乗り移った霊は意識に浮かんだ映像、思想、アイデアを音声に変えなくてはなりません。それは完全入神の場合でも百パーセントうまくいくとは限りません。霊媒も人間です。

その霊媒のオーラと霊のオーラとがどこまで融合するか──完全か、部分的か、それとも全く融合しないか──によって支配の度合いが決まります。

支配霊は霊媒の潜在意識を占領し、そうすることによって潜在意識に繋がった肉体機能を支配します。その状態の中で通信霊から送られるイメージ、思想、絵画、あるいはアイデアを言葉に変えて伝えるわけですが、霊媒も人間ですから疲れていることもあるでしょうし、気分の悪い時、機嫌の悪い時、空腹または満腹の度が過ぎる時、アルコールの飲みすぎ、たばこの吸いすぎ等々、それはもういろいろとあるものです。

そうしたことの一つひとつが支配霊と霊媒の融合の度合いに影響を及ぼします。

 これとは別に、霊媒の精神をしつこく支配している潜在的観念があって、それが強く表現を求めていることがあります。そんな時はとりあえずその観念を吐き出させておとなしくさせるしかないことがよくあります。時として支配霊が霊媒の潜在的観念を述べているにすぎないことがあるのはそのためです。

ひどい時は支配霊の方がその観念の洪水に押し流されて我れを失うことさえあります。霧の深い日はいけません。温度の高すぎるのもいけません。冷んやりとして身の引き締まるような雰囲気がいちばんよろしい。

 とにかく容易なことではないのです。ですから地上世界へ戻って来るには大変な努力が要ります。あえてその大変な努力をしようとする霊があなた方に対する愛念を抱く者に限られているというのも、そこに理由があるのです。愛念こそが自然に、そして気持ちよく結ばれている地上の縁者を慰め、導き、手助けしようと思わせる駆動力なのです。

地上を去り、全く次元の異なる世界へ行っても、地上に残した者に対する愛念がある限りは、いかなる障壁をも突き破り、あらゆる障害を克服して愛する者とのつながりを求めます。私どもの世界からの地上への働きかけの原動力の一つにそれがあるのです。

 ですから、あまり無理なことを要求しないでいただきたいのです。霊媒を責めないでいただきたいのです。また必ずしも支配霊に責任があるとも限らないことを知ってほしいのです。

私どもは許される限りの手段を尽くしています。今こうして私が行っている入神談話も、一種の変圧器にも似たものを使用した波長の下降操作を要します。そのために、私なら私の本来の個性が大幅に制限されます。その辺のところはお分かりでしょう。

これをもっと物的要素の濃い現象にしようとすると、さらに波長を下げなくてはなりません。物質化して出る時などは本来の霊妙で迅速でデリケートな波長から一気に地上の鈍重で鈍速で重苦しい波長へと戻さなくてはなりません。これも一種の犠牲、完全な個性の犠牲を強いられる仕事です。

 その他にも霊媒の精神ないし霊的体質によるエクトプラズムの微妙な個体変差があります。エクトプラズム(※)は決して一様のものではありません。いちばん元になるものが霊媒から抽出されるからです。霊媒の体質が粗野であればエクトプラズムも精神的ないし霊的に程度が低く、精妙度が劣ります。

精神的に霊的に垢抜けした霊媒であれば、その性質がエクトプラズムにも反映します。(※元になるものをエクトプラズミック・フォースと言い、これに霊界の技術者が特殊な成分を混ぜ合わせてエクトプラズムをこしらえる。──訳者)

 こちらの世界の霊が地上と交信したいと思えば誰にでもかなえられるかといえば、必ずしもそうではありません。折角そのチャンスを与えられても、思うことの全てが伝えられるともかぎりません。その霊次第です。

しっかりとして積極性のある霊は全ての障害を克服するでしょう。が、引っ込み思案で積極性に欠ける霊は得てしてそれに必要なだけの努力をしたがらないものです。

  霊の世界では言語を使用しません。従って思念なり映像なりシンボルなりを霊媒に憑っている霊を通じて、あるいは直接霊媒へ伝える操作がまた大変です。これを霊視力を使ってやるとなると実に入り組んだ操作となります。私がこうして楽にしゃべっているからといって、それが楽にできると思ってはいけません。

こうしてしゃべっている間、私は霊媒との連係を保つために数え切れないほどの〝糸〟を操っているのです。その内の一本がいつ切れるとも限りません。切れたが最期、そこで私の支配力はおしまいです。

 このように霊界と地上との交信を理解していただくうえで説明しなくてはならないことがたくさんあります。簡単に出来ることのようにだけは決して想像しないでください。必要条件が全部そろえば簡単にできることは、一応理屈では言えます。しかし実際にはそこにいろいろと邪魔が入るのです。

その邪魔のためにうまくいかなくて、それを私どものせいにされてしまいます。実にデリケートでいわく言い難い条件をうまく運用する必要があります。ベテランの霊媒でも同じです。しくじらせる要素がいくらでもあるのです。

 これで、私が毎度行っている波長の転換操作つまり波長を下げる作業によって、美しさと光彩と輝きが随分失われることがお分かりでしょう。しかし交信が霊と霊、心と心、魂と魂の直接的なものであれば、つまりインスピレーション式のものであれば、そういった複雑な裏面操作抜きの、霊界からの印象の受信という単純直截なものとなります。

その成功不成功は背後霊との合体の確信に基づく静寂と受容性と自信にかかっていますから、不安の念に動かされるほど結果は良くないということになります。いったん精神的動揺をきたすと、その不安の念の本質的性格の為に霊的通信網が塞がれてしまいます。

 人間の心に浮かぶ思念がすべて霊界からのものであるとは申しません。それは明らかに言いすぎでしょう。

しかしその多くが、背後霊が何とかして精神と霊とを豊かにしてあげようとする努力の反映であって、少なくとも単なる心像として見過ごしてはいけないことだけは真実です。

 その思念の伝達が地上における平面上の横のつながり、つまり同じ意識の次元での交信でないことを忘れてはいけません。霊的なものを物的なものへと、二つの全く異なる意識の次元での表現操作を要するのです。その上から下への次元の転換の際にいろいろと混乱が生じます。混乱なく運ぶようになる時代はまだまだ先のことです。

こちらの世界では精神的レベル、物的レベル、治病レベル等々、ありとあらゆる交霊関係での実験と研究がなされております。よりよい成果を挙げるための努力が常になされているのです。

 何年か後に振り返ると結構進歩しているのに気づかれるのはそのためです。今こうして行っているようなサークル活動の裏側にはそうした目的も目論まれております。私たち霊があなた方の能力を開発しそれを大いに活用に供するためには、こうしたサークルによって活動の場を提供していただく以外に方法がありません。

その効果を高めるには第一に協調性が必要です。通信網が敷かれ、霊媒というチャンネルが開かれ、そこへ私たちが通信を送り届ける、という具合になることが肝心です。かつては通信網も無ければチャンネルが一つもないという時代がありました。

 私が理解に苦しむのは、地上の人間はなぜ無知という名の暗闇を好み、真理という名の光を嫌うのかということです。私たちはその真理の光を広げ、人に役立てるための手段となるべき人をいつも探し求めております。そういう人が一人でも増えることは、地上人類の進歩と向上へ向けて叡知と霊力を広げる手段が一つ増えることを意味します。

これは重大なことです。私たちの携わる使命全体の背後には重大な目的が託されています。私はその使命達成を託された大勢の使者の一人に過ぎません。物的世界の背後の霊的世界において目論まれた遠大な計画の推進者の一人であり、霊的悟りを開く用意の出来た者へ真理を送り届けることを仕事としているのです。

 ある時は魂を感動させ、ある時は眠りから覚まさせ、当然悟るべき真理を悟らせるのが私たちの仕事です。言ってみれば霊への贈物を届けてあげることです。それが本来自分に具わる霊的威厳と崇高さを自覚させることになります。その折角の贈り物をもし拒絶すれば、その人は宇宙最大の霊的淵源からの最高の贈物を断ったことになります。

 私たちからお贈り出来るものは霊的真理しかありません。が、それは人間を物的束縛から解き放してくれる貴重な真理です。それがなぜ恨みと不快と敵意と反撃と誤解に遭わねばならないのでしょうか。

そこが私には分からないのです。いかにひいき目に見ても、敵対する人間の方が間違っております。判断力が歪められ、伝来の教えのほかにも真理があることに得心がいかないのです。

どうやらそういう人々は、神がもし自分たちの宗教的組織以外に啓示を垂れたとしたら、それは神の一大失態であるとでも考えるに相違ないと思うことが時折あります。神の取る手段は人智の及ぶところではありません。大丈夫です。神が失態を演じることは絶対にありません。

 キリスト教会との関係となると、これは厄介です。自分たちの教義こそ絶対的真理であると真面目に信じており、それをこのうえなく大事なものとして死守せんとしています。実際にはもともと霊的であった啓示が幾世紀もの時代を経るうちに人間的想像の産物の下に埋もれてしまっていることに気づいてくれないのです。

中味と包装物との区別がつかなくなっているのです。包装物を後生大事に拝んでいるのです。こうした偏向した信仰が精神的にも霊的にも硬直化してくると、もはや外部から手を施す術がありません。神は時として精神的ないし霊的大変動の体験を与えて一気に真理に目覚めさせるという荒療治をすることがありますが、それも必ずしも思うとおりにいかないものです。もしも困難や悲哀、病苦等が魂の琴線に触れて何かに目覚めたとしたら、その苦い体験も価値があったことになります。

 霊の世界からこうして地上へ戻って来るそもそもの目的は、人間の注意を霊的実在へと向けさせることにあります。ただそれだけのことです。地上世界の出来ごとに知らぬふりをしようと思えばできないことはありません。別段地上との関わりを強制される謂れはないのです。また人間側にはわれわれに対して援助を強要する手段は何もないはずです。

ですから私達の尽力は全て自発的なものです。それは人間愛ともいうべきものに発し、援助の手を差しのべたいという願望があるからこそです。それも一種の利己主義だと言われれば、確かにそうかもしれません。

愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。身を霊界に置いて、次から次へと地上生活の落伍者ともいうべき人間が何の備えも無いまま送り込まれて来るのを見ているわけですから・・・。その人たちが、こちらへ来る前に、つまり教訓を学ぶために赴いた地上という学校でちゃんと学ぶべきものを学んで来てくれれば、どんなにか楽になるのですが・・・・・。

 そこで私たちは何とかして地上の人々に霊的実相を教えてあげようとするわけです。すなわち人間は誕生という過程において賦与される霊的遺産を携えて物的生活に入るのだということを教えてあげたいのです。生命力はいわば神の火花です。本性は霊です。

それが肉体と共に生長するように意図されているのです。ところが大多数の人間は肉体にしか関心がありません。中には精神的生長に関心を抱く者も幾らかおります。が、霊的生長に関心を抱く者はきわめて少数に限られております。

永続性のある実在は霊のみです。もしも私たちの尽力によって人間を霊的本性を自覚させることに成功すれば、その人の人生は一変します。生きる目的に目覚めます。自分と言う存在の拠って来る原因を知ります。

これから辿る運命を見極め、授かった霊的知識の意味をわきまえた生活を送るようになります。いたって簡単なことなのですが、それが私たちの活動の背後に目論まれた計画です。

霊的真理は、これを日常生活に活用すれば不安や悩み、不和、憎しみ、病気、利己主義、うぬぼれ等々を追い払い、地上に本物の霊的同胞精神に基づく平和を確立することでしょう。

霊的真理を一つでも多く理解していくことが、あなた方の魂と霊的身体を霊界からのエネルギーを受けやすい体質にしていきます。これは地上と霊界を結ぶ磁気的な絆なのです。

 地上とのつながりをもつためには、それなりの道具がいります。つまり霊力を送り込むための回路が必要です。心霊能力の開発や霊的発達は、一つにはその霊力の受容力を増すということでもあります。魂の本性がそれぞれの背後霊とうまく調和するということが、イザという重大事、困難、危険に際して霊力を授けやすくします。

その霊力とは何かとなると、これはなかなか説明が困難です。物質的観点から見る限り手に触れたり目で確かめることのできないものだからです。しかし、あくまで実体のあるものです。

生命力そのものであり、神の一部であり、宇宙の全生命活動に意識と存在を賦与しているものと本質的に同一のものです。種子に芽を出させ、花を咲かせ、実をつけさせ、樹木を太らせ、人間の魂を開発させる力と同じものです。

 その顕現の仕方は無限です。生気を取り戻させるのもそうですし、蘇生させるのもそうですし、活気を与えるのもそうですし、再充電するのもそうですし、再興させるのもそうです。

霊感の形を取ることもあれば病を治すこともします。条件さえ整えば物的現象を演出してお目にかけることもできます。人を治す仕事の為に治療所の奥に閉じこもる時、それは一方では霊力を受けるために霊的回路を開いていることでもあります。
 
二つの仕事は常に相携えて進行します。霊能開発のためのサークル活動に参加し、いつになっても何の変化もないと思っている時でも、実際には霊と物質との間のつながりを強化し一体化する作用が着々となされていることがあります。霊力の伝道はそれはそれは複雑で微妙な過程なのです。

 現今のように物質性が勝り霊性が劣る状態から、逆に霊性が物質性を凌ぐまでに発達してくれば、霊界からの指導も随分楽になることでしょう。それは、

間をつなぐものが霊と霊との関係になるからです。しかし残念ながら大部分の地上の人間においては、その霊があまりに奥に押し込められ、芽を出す機会がなく、潜在的な状態のままに放置されております。これではよほどの努力をしない限り覚醒は得られません。

物質性にすっかり浸りきり、霊が今にも消えそうな小さな炎でしかなく、まだ辺りを照らすほどの光をもたぬ人がいます。それでも、霊であることに変わりありません。

酷い辛酸をなめ、試練に試練を重ねた暁にはそうした霊も目を醒まし、自我に目醒め、霊的真理を理解し、自己の霊性に目覚め、神を意識し、同胞と自然界との霊的つながりを知り、宇宙の大原理であるところの霊的一体性を悟ることができるようになります。

 いったんある方向への悟りの道が開かれたら、その道を閉ざすことなくいつまでも歩み続ける努力をしなくてはなりません。地上生活では完全は得られないでしょう。でも精神的に霊的に少しでも完全へ向けて努力することはできます。

 世の中には、ここに集える私たちに較べて精神的・霊的な豊かさに欠ける人がいます。そういう人々に愛の手を差しのべる仕事は、あなた方の霊性が向上するほど大きくなっていきます。

絶望の淵に落ち込んだ人を励まし、病める人にはいかなる病にも必ず治す方法があることを教え、あるいは地上を美しく栄光ある世界にするために、霊力の流れを阻害している誤謬と迷信、腐敗した体制を打破してゆく、その基本的足場としての永遠の霊的真理を説くことが必要です。

 肉眼で見ることができず、手で触れてみることも出来ない私たち霊界の者が物質の世界と接触を持つことは容易なことではありません。

人間側が善良な心と自発的協調性と受容的態度と不動の信念を保持してくれているかぎり、両者を結ぶ霊的回路が開かれた状態にあり、その人はあらゆる面において、つまり霊的に精神的に物質的に、より良い方向へと自動的に進んで参ります。

多くの人になかなか分かっていただけないのは、そしてまた人間が望むように事が運ばないのは、その援助を届けるための回路が開かれていないということです。

本人自らが回路を開いてくれないかぎり他に手段がないのです。霊力が物質に働きかけるためには、それが感応して物質界に顕現するための何らかの連鎖関係がなくてはなりません。分かってみれば何でもない当り前のことです。

そこで是非ともあなた方には、今あなた方を支え援助している力が霊的なものであり、それには成就出来ないものは何一つないことを知っていただきたいのです。

 暗闇にいる人に光を見出させてあげ、苦しみに疲れた人に力を与え、悲しみの淵にいる人を慰め、病に苦しむ人を治し、無力な動物への虐待行為を阻止することができれば、それがたった一人の人間、一匹の動物であっても、その人の地上生活は十分価値があったことになります。

価値あるものを求める闘いに嫌気がさすようではいけません。これはあらゆる闘いの中でも特に偉大な闘いです。唯物主義と利己主義──地上世界を蝕み、何のために生れて来たかを自覚せぬ大勢の人々を暗闇へと堕落させている、この二つのガンに対する永遠の闘いです。

 善のための努力が徒労に終わることは決してありません。人のためになろうとする試みが無駄に終わることはありません。善行に嫌気がさすようなことがあってはなりません。

成果が表われないことに失望してはなりません。人のために役立とうとする志向は自動的にこちらの世界からの援助を呼び寄せます。決して一人であがいているのではありません。

いかなる状況のもとであろうと、まわりには光り輝く大勢の霊が援助の態勢で取り囲んでおります。裏切ることのないその霊の力に満腔の信頼を置き、それを頼りとすることです。物質の世界にはこれだけは安全というものは何一つはありません。

真の安全は人間の目に映じぬ世界──地上のいかなる器具をもってしても測ることのできない永遠の実在の世界にしかありません。

 人間にとっての真の安全は霊の力であり、神が宇宙に顕現していく手段であるところの荘厳なるエネルギーです。他の全ての存在が形を変え、あるものは灰に帰し、またあるものは塵と砕けても、霊的実在のみは不変・不易であり、不動の基盤として存在し続けます。

全てを物的感覚によって推し量る世界に生きているあなた方にとって、その霊的実在の本質を理解することが極めて困難であることは私もよく承知しております。捉えようとしてもなかなか捉えられないものです。

ですが、私のこうした説教によって、たとえ不十分ながらも、霊こそが永遠の実在でありそれ以外は重要でないことをお伝えすることができ、流砂のような移り変わりの激しい物的存在ではなく、不変の霊的真理を心を支えとして生きようとする志を抱いて下さることになれば、及ばずながら私なりの使命を達成しつつあることになりましょう。
             
 
                  

 六章 役に立つ喜び

 人生において、自分が役に立つということほど大きな喜びはありません。どこを見ても闇ばかりで、数え切れないほどの人々が道を見失い、悩み、苦しみ、悲しみに打ちひしがれ、朝、目を覚ます度に今日はどうなるのだろうかという不安と恐怖におののきながら生きている世の中にあって、たった一人でも心の平静を見出し、

自分が決して一人ぼっちの見捨てられた存在ではなく、無限の愛の手に囲まれているという霊的事実に目覚めさせることが出来たら、これはもう立派な仕事というべきです。他のいかなる仕事にも優る大切な仕事を成し遂げたことになります。

 地上生活のそもそもの目的は、居眠りをしている魂がその存在の実相に目覚めることです。あなた方の世界は毎日を夢の中で過ごしているいわば生ける夢遊病者で一杯です。彼らは本当に目覚めてはいないのです。霊的実相については死んだ人間も同然です。

そういう人たちの中のたった一人でもよろしい、その魂の琴線に触れ、小さく燻る残り火に息を吹きかけて炎と燃え上がらせることができたら、それに勝る行為は有りません。

どう理屈をこねてみたところで結局は神の創造物──人間、動物、その他何でもよろしい──の為になることをすることによって神に奉仕することが何にも勝る光栄であり、これに勝る宗教はありません。


 こうした仕事のために神の使節として遣わされている私たちは幸せと思わなくてはいけません。もっとも、絶え間なく続く悲劇を目の当たりにしていると、それだけのことで嬉しい気分に浸れるものではありません。

現実に何かの役に立った時、例えば無知を駆逐し、迷信を打破し、残酷を親切に置き替え、虐待を憐憫に置き替えることができた時、あるいは協調と親善の生き方を身を以って示すことができた時、その時初めて地上の全ての存在の間に真の平和が訪れます。真の平和は一部の者のみが味わうべきものではないからです。

そこには霊の力の働きかけがあります。それを是非とも地上に招来しなくてはならないのです。教会が何を説こうと、学者先生がどう批判しようと、霊力はそんなことにはお構いなく働きます。そして、きっと成就します。

 その霊力が、道に迷ってあなた方のもとを訪ねて来る人々に安堵、健康、苦痛の緩和、慰め、指導、援助のいずれかを授けてあげる、その道具となることほど偉大な仕事はありません。無味乾燥な教義のお説教ばかりで霊力のひとかけらもない教会、礼拝堂、集会、寺院等よりも遥かに意義ある存在です。
 
 病める人、苦痛を抱えた人、身も心も霊も悶え苦しむ人、希望を失った人、寄るべない人、人生に疲れ切った人、迷える人、こうした人々にお説教は要りません。

説く人自らが信仰に自信を失っていることすらよくあるのです。説く人にも説き聞かされる人にも意味を持たない紋切型の説教をオウムのように繰り返しても、誰も耳を傾ける気にはならないでしょう。欲しいのは霊的真理が真実であるとの証です。

あなた方が真に奉仕の精神に燃え霊的能力を人のために役立てたいと望めば、その霊力があなた方を通してその人たちに流れ込み、苦痛を和らげ、調和を回復させ、マヒした関節ならばこれを自由に動かせるようにし、そうすることによって霊的真実に目覚めさせることになることでしょう。

 ただ、この道には往々にして挫折があります。私どもの仕事は人間を扱う仕事です。残念ながら人間は数々の脆(もろ)さと弱み、高慢と見栄、偏見と頑迷さで塗り固められております。自分のことよりまず人のためと考える人はまれです。
 
大義のために一身上のことを忘れる人はほとんどいません。しかし、振り返ってご覧になれば、そうした条件の中にありながらも、霊的な導きによって着実に使命に沿った道を歩み、これから先の歩むべき方角への道しるべがちゃんと示されていることを明確に認識されるはずです。

これまで一点の疑念も疑問の余地もないほどその威力を証してきた力は、前途に横たわる苦難の日々を正しく導いてくれます。

 施しを受けるよりも施しを授ける方が幸せです。証拠を目に見ず耳に聞くこともなく、それでもなおこの道にいそしむことができる人は幸せです。あなた方のまわりには、あなた方より幸せの少ない人々に愛の手を差し伸べることを唯一の目的とする高級霊の温かみと輝きと行為と愛があります。

 地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースがいちばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。

 その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを承知のうえで生まれて来ているのです。その人生を生き抜き困難を克服することが内在する資質を開発し、真の自我──より大きな自分に、新たな神性を付加していくのです。

その意味では〝お気の毒に・・・〟などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもないわけです。

こちらの世界は、この不公平や不正がきちんと償われる世界です。あなた方の世界は準備をする世界です。私が〝魂は知っている〟と言う時、それは細かい出来事の一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているということです。

その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くということは、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。例えば予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻って来ることになります。

それを何度も繰り返すことがあります。そうしているうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。

 自分が果たしてどの程度の人間か、どの程度進化しているかを自分で判断することは、今のあなた方には無理なことです。判断を下す手段を持ち合わせないからです。人間は霊的視野で物を見ることが出来ません。四六時中物的視角で物事を考えているために、判断がことごとく歪んでおります。

魂への影響を推し量ることができない。そこが実はいちばん大切な点です。肉体が体験することは魂に及ぼす影響次第でその価値が決まります。魂に何の影響も及ぼさない体験は価値がありません。霊の力を無理強いすることは許されません。神を人間の都合の良い方向へ向けさせようとしても無駄です。
 
神の摂理は計画通りに絶え間なく作用しています。賢明なる人間──叡知を身につけたという意味で賢明な人間は、摂理に文句を言う前に自分から神の無限の愛と叡知に合わせていくようになります。

 そうした叡知を身につけることは容易なことではありません。身体的、精神的、霊的苦難が伴います。この三つの要素のうちの二つが絡むこともあれば三つが全部絡むこともあります。

霊性の開発は茨の道です。苦難の道を歩みつつ、後に自分だけの懐かしい想い出の標識を残していきます。魂の巡礼の旅は孤独です。行けば行くほど孤独さを増していきます。

 しかし、利己的生活や無慈悲な生活にそれ相当の償いがあるように、その霊性開発の孤独な道にもそれなりの埋め合わせがあります。悟りが深まるにつれて内的生命、内的輝き、内的喜び、内的確信がいっそうその強さを増していくのです。

生命現象の全てが拠り所とする内的実在界の実相を味わい、神の愛の温もりをひしひしと実感するようになります。それが容易に成就されるとは私は一度も言っておりません。最高の宝、最も豊かな宝は、最も手に入れ難いものです。しかもそれは自らの努力によって自分一人で獲得していかねばならないのです。

 私はかつて地上で何年も生活し、こちらへ来てからも(三次元の世界の数え方で言えば)何千年もの歳月を過ごしてきましたが、向上すればするほど宇宙の全機構を包括し大小あらゆる出来ごとを支配する大自然の摂理の見事さに驚嘆するばかりです。

その結果しみじみと思い知らされていることは、知識を獲得し魂が目覚め霊的実相を悟るということは最後はみな一人でやらねばならない──自らの力で〝ゲッセマネの園〟に踏み入り、そして〝変容の丘〟に登らねばならないのだということです。(第二章参照)

 悟りの道に近道はありません。代わりの手段もありません。安易な道を見つけるための祈りも儀式も教義も聖典もありません。いくら神聖視されているものであっても、そんな出来合いの手段では駄目なのです。師であろうと弟子であろうと新米であろうと、それも関係ありません。

悟りは悪戦苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。私がこんなことを説くのは説教者ヅラをしたいからではありません。これまでに自分が学んだことを少しでもお教えしたいと望むからにほかなりません。

 さらに私は、一見矛盾するかに思えるかもしれませんが、人のために役立ちたいと望む人々、自分より恵まれない人々──病める人、肉親を失える人、絶望の淵にいる人、人生の重荷に耐えかねている人、疲れ果て、さ迷い、生きる目的を見失える人、等々に手を差しのべたいという願望に燃える人──要するに何らかの形で人類の福祉に貢献したいと思っている人が挫折しかけた時は、必ずやその背後に霊界からの援助の手が差し伸べられるということも知っております。

 時には万策尽き、これにて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差し伸べられることがあります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が生み出す内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我れ行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。

 その奇特な意気に感じて訪れてくるのは血のつながった親類縁者──その人の死があなた方に死後の存続に目を開かせた霊たち── ばかりではありません。あなた方が地上という物質界へ再生してくるに際して神からその守護の役を命ぜられ、誕生の瞬間よりこの方ずっと見守り指導してきた霊もおります。

そのおかげでどれほどの成果が得られたか、それはあなた方自身には測り知ることはできません。しかし分からないながらも、その体験は確実にあなた方自身の魂と同時に、あなた方を救ってあげた人々の魂にも消えることのない影響を及ぼしております。

そのことを大いに誇りに思うがよろしい。他人への貢献の機会を与えて下さったことに関し、神に感謝すべきです。人間としてこれほど実り多い仕事は他にありません。

 愚にもつかぬ嫉妬心や他愛ない意地悪から出る言葉を気にしてはなりません。そのようなものはあなた方の方から心のスキを与えない限り絶対に入り込めないように守られております。霊の力は避難所であり、霊の愛は聖域であり、霊の叡知は安息所です。イザという時はそれを求めるがよろしい。

人間の心には裏切られることがありますが、霊は決して裏切りません。たとえ目には見えなくても常に導きを怠ることなく、愛の手があなた方のまわりにあることを忘れないでください。

 私としては、たった一言であっても、私の述べたことの中にあなた方の励みになり元気づけ感動させるものを見出していただければ、もうそれだけで嬉しいのです。私たちに必要なのは霊の道具となるべきあなた方です。豪華なビルや教会や寺院や会館ではありません。

それはそれなりの機能があることは認めますが、霊の力はそんな〝建物〟に宿るのではありません。〝人間〟を通して授けられるのであり、顕幽の巨大な連絡網のつなぎ手として掛けがえのない大切なものです。その道具たらんとして謙虚に一身を擲(なげう)ってくれる人間一人の方が、そうした建造物全部よりも遥かに大切です。頑張ってください。

そしてこれからも機会を逃さず人のため、人のため、という心掛けを忘れないで下さい。世間の拍手喝さいを求めてはなりません。この世に生れてきたそもそもの目的を果たしているのだという自覚を持ち、地上に別れを告げる時が来た時に何一つ思い残すことのないよう、精一杯努力して下さい。

 ここに集える私たち一人ひとりが同胞の幾人かに霊的啓発をもたらすことによって、少しでも宇宙の大霊に寄与することができることの幸せを神に感謝いたしましょう。

人間として霊として、こうして生を享けた本来の目的を互いに果たせることの幸せを感謝いたしましょう。人のために尽くすことに勝る宗教はありません。病める人を治し、悲しむ人を慰め、悩める人を導き、人生に疲れ道を見失える人を手引きしてあげること、これは何にも勝る大切な仕事です。

 ですから、こうして神の愛を表現する手段、才能、霊力を授かり、それを同胞のために役立てる仕事に携われることの幸せを喜ばなくてはいけません。神の紋章を授かったことになるのだと考えて、それを誇りに思わなくてはいけません。

これから後も人のために役立つ仕事に携わるかぎり、霊の力が引き寄せられます。人生の最高の目標が霊性の開発にあることを、ゆめ忘れてはなりません。自分の永遠の本性にとって必須のものに目を向けることです。

それは人生について正しい視野と焦点を持つことになり、自分が元来不死の魂であり、それが一時の存在である土塊に宿って自我を表現しているにすぎないこと、心がけ一つで自分を通じて神の力が地上に顕現するという実相を悟ることになるでしょう。

こうしたことは是非とも心に銘記しておくべき大切な原理です。日常の雑務に追いまくられ、一見すると物が強く霊が弱そうに思える世界では、それは容易に思い出せないものです。ですが、あくまで霊が主人であり物は召使いです。霊が王様であり物は従臣です。霊は神であり、あなたはその神の一部なのです。

 自分がこの世に存在することの目的を日々成就できること、つまり自分を通じて霊の力がふんだんに地上に流れ込み、それによって多くの魂が初めて感動を味わい、目を覚まし、健全さを取り戻し、改めて生きることの有難さを噛みしめる機会を提供すること──これは人のために役立つことの最大の喜びです。

真の意味で偉大な仕事と言えます。地上のどの片隅であろうと、霊の光が魂を照らし、霊的真理が沁みわたれば、それでいいのです。それが大事なのです。それまでのことは全てが準備であり、全てが役に立っているのです。

魂はそれぞれの使命のために常に備えを怠ってはなりません。時には深い谷間を通らされるかもしれません。度々申し上げてきたように、頂上に上がるためにはドン底まで下りなければならないのです。

 地上の価値判断の基準は私どもの世界とは異なります。地上では〝物〟を有難がり大切にしますが、こちらでは全く価値を認めません。

人間が必死に求めようとする地位や財産や権威や権力にも重要性を認めません。そんなものは死と共に消えてなくなるのです。が、他人のために施した善意は決して消えません。

なぜなら善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られるからです。博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し魂に消えることのない印象を刻み込んでいきます。

 世間の賞賛はどうでもよろしい。人気というものは容易に手に入り容易に失われるものです。が、もしもあなたが他人のために自分なりに出来るだけのことをしてあげたいという確信を心の奥に感じることができたら、あなたはまさに、あなたなりの能力の限りを開発したのであり、最善を尽くしたことになります。

言いかえれば、不変の霊的実相の証を提供するためにあなた方を使用する高級霊と協力する資格を身につけたことになるのです。これは実に偉大で重要な仕事です。

手の及ぶ範囲の人々に、この世に存在する目的つまり何のために地上に生れて来たのかを悟り、地上を去るまでに何をなすべきかを知ってもらうために、真理と知識と叡知と理解を広める仕事に協力していることになります。

 肝心なことはそれを人生においてどう体現していくかです。心が豊かになるだけではいけません。個人的満足を得るだけで終わってはいけません。今度はそれを他人と分かち合う義務が生じます。分かち合うことによって霊的に成長していくのです。

それが神の摂理です。つまり霊的成長は他人から与えられるものではないということです。自分で成長していくのです。自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。

霊的成長にも摂理があり、魂に受け入れる備えが整って初めて受け入れられます。私どもは改宗を求める宣教師ではありません。

真の福音、霊的実在についての良い知らせをお持ちしているだけです。それを本当に良い知らせであると思って下さるのは、魂にそれを受け入れる備えの出来た方だけです。良さの分からない人は霊的にまだ備えが出来ていないということです。

 イエスはそのことを〝豚に真珠を投げ与えるべからず〟と表現しましたが、これは決してその言葉から受けるような失礼な意味で述べたのではありません。いかに高価なものをもってしても他人を変えることはできないのです。自分で自分を変えるしかないのです。

私たちは同胞の番人ではないのです。各自が自分の行為に責任を持つのであって、他人の行為の責任は取れません。あなたが行うこと、心に思うこと、口にする言葉、憧れるもの、求めるものがあなたの理解した霊的真理と合致するようになるのは、生涯をかけた仕事と言えるでしょう。

 あなたにできるのはそれだけです。他人の生活を代わりに生きることはできません。どんなに愛する人であってもです。なぜなら、それは摂理に反することだからです。そうと知りつつ摂理に反することをした人は、そうとは知らずに違反した人よりも大きい代償を払わされます。

知識には必ず責任が伴うからです。真理を知りつつ罪を犯す人は、同じ行為を真理を知らずに犯す人より罪の大きさが違うのです。当然そうあらねばならないでしょう。

 一個の魂に感動を与えるごとにあなた方は神の創造の目的成就の一翼を担ったことになります。これはあなた方に出来る仕事の中でも最も重要な仕事です。魂に真の自我を悟らせてあげているのであり、これは他のいかなる人にもできないことです。ただし、この仕事は協調の上に成就されるものです。

私ども霊側も強引に命令することはしたくありません。あなた方の理性を押しのけたり自由意志を奪ったりすることはいたしたくありません。あくまでも導くことを主眼としているのです。あなた方が何か一つ努力するごとに、私どもがその目的に合わせ援助することによって、より大きな成果を挙げるように協力しているのです。

協力し合うことによって人生の全てが拠り所とするところの霊的基盤に関わる重大な仕事に携わることができるのです。

 残念ながら多くの人間が実体と影、核心と外殻とを取り違えております。実相を知らずにおります。言わば一種の退廃的雰囲気の中で生きております──それが〝生きる〟と言えるならばの話ですが、霊の光の啓示を受けた人は幸いです。

私としてはあなた方に、頑張って下さいとしか申し上げる言葉を知りません。霊の無限の力が控えております。イザという時にあなた方の力となって支えてくれることでしょう。

 自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい認識を失わぬようにして下さい。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方たちでも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われ、霊的実相を忘れてしまいがちです。が、

それだけは絶対に忘れぬようにしなければなりません。地上という物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。

霊こそ実在です。物質は実在では無いのです。あなた方はその実在を見ることも触れてみることも感じることもできないかもしれません。少なくとも物的感覚で感識している具合には感識出来ません。しかし、やはり霊こそ全ての根源であることに変わりありません。

あなた方は永遠の存在であることを自覚して下さい。生命の旅路においてほんの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者にすぎません。

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