Sunday, January 5, 2025

シアトルの冬 霊訓 ウィリアム・ステイントン・モーゼス 性急な要求は事を損ねる

    Spirit Teachings: William Stainton Moses



十七 節



〔思うに、私がこうして執拗に霊信に反撥しているのを知友たちはさぞかし満足に思っていたことであろう。しかし私としては激しく私の魂を揺さぶるこの不思議な通信を徹底的に究明すること以外に、それに忠実な道が見出せなかったというに過ぎない。私はどうしても得心がいかないし、得心できぬままでいることも出来なかった。

そこで再び論争を挑んだ。イムペレーターの通信が終わると私はそれを細かく読み、二日後(一八七三年七月十四日)にその中にどうしても受け入れかねる点について反論した。それは次の三点であった。

(一)イムペレーターの地上時代の身元、(二)イエス・キリストの本質と使命、(三)通信の内容の真実性を示す証拠。私のこの三点について私以外の霊媒を通じて通信するよう要求し、その霊媒を指定しようと思うがどうかと述べた。


同時にこれまででの通信の内容について、いろいろと反論したが、それは今ここで取り挙げるほどのものではない。とにかく、私はその時点での私の確信を正直に表明したが、今にして思えば私の反論は不十分な知識の上で為されていたことが判る。

それはその後順次解決されていき、解決されていないものもやがて解決されるであろうとの確信がもてるまでになった。そうは言っても当時の私の心境はおよそ満足といえるものからは程遠く、私は忌憚なくその不満を打ち明けた。以下がそれに対する回答である──〕


 






















   
 友よ。汝の述べることには素直さと明快さが窺えて喜ばしく思う。もっとも汝はわれらの述べることにそれが欠けていると非難するが・・・・・・。汝の(われらの身元についての)要求については、汝がそう要求する心境は判らぬでもないが、それに応ずるわけにはいかぬし、たとえ応じても何の益にもならぬ。

申し添えるが、汝の要求の全てにわれらがすぐに応じぬからとて、われらの側に汝に満足を与える意志がないわけでは決してない。われらとて汝の心に確信を植えつけんと切に願っている。がそうするためにはわれらの側にもその手段と時期に条件がある。

計画の一部たりとも阻害され、あるいは遅延のやむなきに至ることは、われらにとってこの上なく残念なことであり遺憾に思う。汝にとってもわれらにとっても残念なことである。が結果としてこうなった以上は致し方あるまい。われらとて全能ではない。

これまで通りの論議と証言の過程による以外に対処する手段はないのである。その論議も証言も今のところ汝の心に得心がいかぬとみえる。ということは、汝にそれを受け入れる備えが出来ておらぬということと観て、われらはそれが素直に汝の心に安住の地を見いだす日を忍耐強く待つとしよう。

 汝の提出する疑問についてはその殆どに答える必要を認めぬ。現時点にて必要とみたものについてはすでに回答を与えてあるからである。すでに回答を与えたものについて改めて述べても意味があるとは思えぬ。

単なる見解の相違の問題について深入りするのは無意味であろう。われらの述べたるところがこれまでのわれらの言動に照らしてみて、果たして一致するか否かといったことは些細な問題である。汝の今の心境はそうした問題について冷静なる判断を下せる状態ではない。

また、いわゆるスピリチュアリズムなる思想が究極においてわれらの言う通りのものとなるか、それとも汝が主張する如きものとなるかは、これまたどうでもよい問題である。

われらはその問題については一段と高き視野に立って考察しており、それは今の汝には理解の及ばぬところである。汝の視野は限られており、それに比してわれらは遥かに広き視野のもとに眺めている。また汝がわれらの訓えをキリスト教の論理的展開の一つと見るか否かも取るに足らぬ問題である。その道徳的崇高性は汝も認めている。

その論理的根拠についてはここで論ずる必要を認めぬ。汝が信じようが信じまいが、地上人類が絶対必要としているものであり、汝が受け入れるか否かに関わりなく、遅かれ早かれ感謝の念をもって人類に受け入れられていく訓えである。汝がわれらの存在を認め、その布教に手を貸す貸さぬにお構いなく、きっと普及していく訓えである。

 われらとしては、汝のことを良き霊媒を得たと喜んでいた。そして今もそう思っている。何となれば、今の汝の混乱する心境は一時的な過程に過ぎず、やがて疑うだけ疑った暁に生まれる確信へと変わっていくことであろう。

が、万一そうではなく汝が失敗したとなれば、われらは再び神の命令を仰ぎ、われらに託されたる使命達成のために新たなる手段を見出さねばならぬことになる。もっとも霊媒はわれらの究極の目的にとって必ず不可欠というものでもない。が使用する以上は良き霊媒であることが望ましい。

われらがこの上なく嘆かわしく思うのは、汝が汝自身にとっても啓発と向上の絶好の手段となるべきものを無視せんとする態度に出ていることである。が、それもわれらの手の及ぶところではない。

自由意志による判断に基づきて汝があくまで拒否すると言うのであれば、われらとしてはその決断を尊重し、汝が精神的にわれらの提供せるものを受け入れる用意のなかったことを残念に思うほかあるまい。

 われらの身元についてであるが、汝の要求するが如き押しつけがましき方法で証明せんとすることは無益というより、徒に混迷を大きくするのみであろう。

 そのような試みは結局は失敗に終わることであろう。そして絶対的確信を得ることは出来ぬであろう。間接的証拠ならば折々提供していくことも出来ぬではない。好機があればその機を利用するに吝(やぶさ)かではない。われらとの縁が長びけば、それだけそうした機会も多く、証拠も多く蓄積されていくことであろう。

が、わららの教説はそのようなもので価値を増すものではない。そのような実態なき基盤の上に成り立つものではない。そのような証拠では〝時〟の試練には耐え切れぬであろう。われらは精神的基盤の上に訴えるものである。地上的なものでは、一時的にしておよそ得心のいくものでないことを汝もそのうち悟る日がくることを断言しておく。

 とは言え、今の汝の精神状態は得心のいく証拠を要求できる状態ではない。われらは神の味方か、それとも悪魔か、そのいずれかであろう。もしもわれらが自ら公言している如く、神の味方であるとすれば、汝が言うが如き、世間から嘲笑をもって受け止められるような言説をわざわざでっち上げる気遣いはあるまい。

が、もしもわれらが汝の思いたがるように悪魔の手先であれば、その悪魔の述べる言説が明らかに崇高な神性を帯びているのは何故か、汝自ら問い直してみるがよかろう。

われらとしては、このような問題にこれ以上関わろうとは思わぬ。これまでわれらが述べてきたところを正しく吟味検討してくれさえすれば、それが悪魔の言葉と結論づけられる気遣いは毛頭ない。関心を向けるべきは通信の内容であり、通信者の身元ではない。

 われら自身のことはどうでも良いことである。大事なのは神の仕事であり、神の真理である。今の汝にとって最も大事な問題は汝自身のことであり、汝の未来のことである。

そのことを時間をかけてじっくり考え、とくと反省するがよい。汝を中心として得られた啓示の顕れ方がいささか急激に過ぎ、目を眩ませたようである。言いたいことも多々あろうが、今は黙して真摯に、そして厳粛に熟考するがよい。

われらも暫し身を引き、汝にその沈思黙考に耽る余裕を与えたく思う。と言うことは汝を一人置き去りにすると言うことではない。より一層の警戒心を持つ複数の守護の霊と、より経験豊かなる同じく複数の指導の霊が汝のそばに待機するであろう。

その方がわれらにとっても得策であるように思う。と言うのも、事態がかくの如くなった以上は、果たしてこれより後もこの仕事を続行すべきや否や、それともこれまでの努力が無駄であったとして改めて仕事を始めからやり直すべきや否やを〝時〟が判断してくれるかも知れぬからである。

いずれにせよ、これほど多くの努力と、これほど多くの祈りを傾注せる仕事が実を結ぶことなく地に落ちるとは、何とも悲しき失望であることには相違なかろう。しかし、われらも汝もあくまで内に宿せる道義の光に照らして行動せねばならぬ。

これまでの経緯に関するかぎり責任はすべてわれらの側にある。故にわれらは問題を解決すべく何らかの手を打たねばならぬ。これまでより一層多くの祈りを、一層の熱意を込めて汝に送るとしよう。きっと一層の効果を上げるであろうことを確信する。

 では、これにてさらばである。神の加護と導きのあらんことを。
                                ♰イムペレーター



〔このあと私は数回に亙って通信を試みた。また始めに示唆した通りに、一面識もない霊媒のところへ行ってみた。そして私の背後霊についての情報、とくにイムペレーターの身元の確認を得ようと、出来るかぎりのことを試みた。が、無駄だった。得られた情報は、私についている霊は ZOUD と名のるロシア人の歴史家だということだけだった。帰宅すると私はさっそくそのことを書いて通信を求めた。すると、その霊媒の述べたことは間違いであると断言してからこう綴った①───〕








 われわれとしては、そのような霊言を信じることはとても勧められない。信頼が置けないからである。われわれの忠告を無視して一面識もない、しかもわれわれと何の協力関係もない霊たちと通信を試みれば、信のおけぬ通信を受け取り事態をますます混乱させることになろう。



〔この忠告にも私は強く反撥し、あの機会を利用してくれておれば私の合理的要求を満たすことは容易に出来たはずだと述べた。すると同じ霊が───〕




 それは違う。われわれとしても満足を与えたい気持ちは山々である。が、あの会場への出現は(イムペレーターから)止められたのである。しかもわれわれは汝の出席は阻止できなかった。あのような体験は今の汝には毒になるばかりである。

禍いを招くことにしかならぬ故に今後一切あのような招霊会には出席せぬよう厳重に忠告しておく。いま必要なことは耐えることである。性急に無理強いすることは徒にわれわれにとって迷惑と困惑を生じさせるのみである。それよりも静かに心を休め、待つことの方が遥かによい。全てイムペレーターが良きに計らって下さる。早まった行動は誤りのもとである。


───しかし(と私は反抗的に述べた)あなたたちこそグルになって私を迷わせているようにしか思えません。私の要求には何一つ応じられないというのですか。




 友よ。汝の要求するが如き数学的とも言うべき正確なる証拠は、得ようとしても所詮無理である。われらとしても、汝の求むる通りのものを授けることは出来ぬ。たとえ出来たとしても、それが汝にとって益になるとは思えぬ。全てはわれらの側にて良きに計らってある。


〔これはイムペレーターである。私はとても気持ちが治まらないので、やむなく通信を一たん中止した。そして七月二十四日に神学上の問題について幾つかの質問を提出した。

その一つは例の「私と父は一つである」②という有名な文句に言及したものだった。以前、霊言による対話の中で私は、イムペレーターの言説がこの文句と相容れないものであることを主張したことがあったのである。そういう経緯もあって質問することになったのであるが、それに対してこう回答してきた───〕










 汝の引用せる文句は前後の脈絡の中において理解せねばならぬ。その時イエスはエルサレムでハヌカー祭③に出席していた。その折そこに集まれる民衆が〝もしあなたがキリスト神だと言うのであれば、その明確な証を見せてほしい〟とイエスに迫った。

彼らは今の汝と同様に疑念を晴らすための何らかの〝しるし〟を求めたのである。そこでイエスはわれらと同じく、自分の説く訓えとその訓えによってもたらされる業(わざ)の中に神のしるしを見てほしいと述べた。  

またそれを理解する備えのある者───イエスの言う〝父のひつじたち〟───はその訓えの中に父の声を聞き、それに答えたも同然であると述べた。

が質問者たちはそのような回答を受け入れることが出来なかった。なぜなら、彼らにはそれが理解できず、信じる心の準備が出来ていなかったからである。備えある者はイエスの言葉に従って永遠なる生命と進歩と生き甲斐を得た。それこそが神の意図するところであり、誰もそれを妨げることは出来ぬ。

彼らは父のもとに預けられたのであり、彼のみならず、人類の全てに新たなる息吹を吹き込んだのである。すなわち、父なる神と、その真理の教師たるイエスが一体となった───「私と父は一つである。」


 イエスはそう述べたのである。がそのユダヤ人たちはそれを神の名誉を奪うものであるとして非難のつぶてを投げつけた。しかし、イエスの弁明は正しかった。どう正しかったか。己の神性を認め、神の子であることを弁明した点において正しかったのである。

それが余にも弁明できるかとな? それは出来ぬ。がその心に陰日向の一かけらもなきイエスは、その非難に驚き、こう聞き返した───一体自分の行える奇跡のどれをもって非難するのかと。非難者たちは答えた。奇跡のことを非難しているのではない。完全な神と一体であるなどと公言するその傲慢不遜の態度を非難するのであると。

そう言われたイエスはこれを無視して取り合わなかった。なぜか。聖書にもある如く、イエスは自分と神とが一体であるとの言葉を霊性に目覚めた者すべてに適用し、「あなたたちも神である」と述べていたからである。

ならばイエスほどの特殊なる使命を背負える人物が自分は神の子であると述べて、果たしてそれを不遜なる言葉と言えるであろうか。疑うのなら私の為せる業をみよ、とも言っている。そこには自分こそが神であるなどと言う意味は一かけらもない。むしろその逆である。




〔翌二十五日、私が霊媒となって霊言による交霊会を開き、イムペレーターがしゃべった④。が、これといって私の精神状態に触れたものは出なかった。他の列席者は私の抱える事情には全く関心がなく、私を通じて彼らなりの問題を提出し彼らなりの解決を得た。

その間私の意識は休止状態なので霊言そのものには影響はなかった。そのあと最近他界したばかりの知人が出て私しか知らない事実に言及し、確かな身元の確証が得られた。これには私も感心したが、満足は得られなかった。

 それから夏休暇⑤に入り、私はロンドンを発ってアイルランドへの旅に出た。行った先でロンドンの病床にある友人に関する興味深い通信を得たが、私の一番の悩みを解決するものではなかった。アイルランドからこんどはウェールズへ向かった。そして八月二十四日にイムペレーターからの別の通信を受け取った。

これは紹介しておく必要があると思うのでこのあと紹介するが、このときも私は懸命に私の要求に対する回答を引き出そうとしたが、どうしてみたところで私の為にはならぬという警告を受けた。その時の私の体調があまり勝れず、精神状態は混乱していた。先のことをあまり考えずに、これまでの経過をよく復習するようにとの忠告を受けた。〕 





















 これまで辿れる道をよく振り返ってみることである。われらに許された範囲で汝のために尽せるもろもろのことを細かく吟味し直すことである。その上で今汝が目の前にしているものの価値を検討してみるがよい。その価値を正しく評価し、われらの言説の崇高性に注目してもらいたい。われらは汝の今の精神状態が産み出す疑問そのものを咎めはせぬ。

汝が何もかも懐疑的態度でもって検討することはやむを得ぬ。人間は自分と対立する意見はとかく疑ってかかるものだからである。ただ、汝の性急な性格があまりにも結論をあせり過ぎることを注意しているのである。精神的に混乱するのもその所為である。

何かと面倒が生ずるのもその所為である。それは咎めはせぬ。われらが指摘しているのは、そのような心の姿勢では公平無私なる判断は下せぬということである。

その性急な態度を和らげ、結論をあせる気持ちを抑え、一方ではアラ探し的な批判をやめ、われらの言説の中に建設的な面を見出してもらいたい。今のところ汝はあまりに破壊的過ぎるのである。

 さらに友よ、汝の抱ける疑問と混乱は、それが取り除かれるまでは、われらの今後の進展にとっても障害となることを忘れてはならぬ。これまでも大いに障害となり、進展を妨げて来た。がそれは(仕事の性質上)止むを得なかったと言えよう。

がこれ以後は思い切り心を切り換え、判断を迷わせる原因となってきたわだかまりを、きれいさっぱりと洗い流してほしい。暫しの休息と隔離のあと、是非そうなってくれることを期待している。われらが出る交霊会も、出席者が和気あいあいたる精神に満ちていることが何より大切である。

湧き出る疑念は、旅人を迷わせる靄と同じく、われらの行く手を阻む。靄の中では仕事は出来ぬ。是非とも取り除かねばならぬ。先入観を棄てて正直に過去を点検すればきっと取り除かれるであろうことを信じて疑わぬ。汝の心の地平線に真理の太陽が昇れば、立ちどころに消滅するであろう。そして眼前に広がる新たなる視野に驚くことであろう。

 ムキにならぬことである。汝にとって目新しく聞き慣れぬものも、ただそれだけの理由で拒絶することはやめよ。汝の判断の光に照らして吟味し、必要とあらばひとまずそれを脇へ置き、もう一歩進んだ啓発を求めるがよい。

真摯にして真っ正直な心には、時が至れば全てが叶えられる。今の汝にとって目新しく聞き慣れぬことも、いつかはしっくりと得心のいく段階に到達するであろう。ともかく、汝の知らぬ新しき真理、これより学ばねばならぬ真理、改めねばならぬ古き誤りがまだまだ幾らでも存在するという事実を忘れぬことである。
                           ♰イムペレーター


〔註〕


(1)イムペレーターの指揮下にある別の霊による。


(2)ヨハネ福音書10..30
(3)Hanukkah 古代シリアのアンチオコス四世によって奪われたエルサレム神殿を、ユダヤの独立運動の指導者マカベウスが奪回したことを記念する祭。
(4)スピーア博士宅ではこの霊言が多かったが、モーゼス自身は入神状態なので記憶がなく、したがって客観的証拠とはなっていない。


(5)当時モーゼスは学校の教師をしていた。










Saturday, January 4, 2025

シアトルの冬 スピリチュアリズムは地球規模の啓示

Spiritualism is a global revelation


Spirit teachings 
William Stainton Moses

十五 節


 〔こうした議論がその後も非常な迫力と強力な影響力のもとに、殆ど途切れることなく続いた。私を支配し、私の思想を鼓舞し続けたこの影響力がいかに崇高にして強烈なものであったか──それを正しく伝えることは拙い私の筆ではとても出来ない。〕



  『スピリチュアリズムの宗教的教訓』

 汝はわれらの教説が理神論であるか、純粋なる有神論であるか、はては無神論ではないかとまで問うている。普段の思考においては正確にして知識に事欠かぬ人間が、有神論を無神論と同列に並べるとは、まさしく汝らの無知の見本を見る思いがする。

全ての人間の心に通じる神、いかに堕落せる人間の魂でさえ感応し得るところの神の存在を否定せんとする、その侘しきかぎりの不毛なる思想について、われらはもはや言うべき言葉を知らぬ。人間が自らの目を被い隠すことをするものであることを万一知らずにおれば、われらは汝らが一体何故にかくも愚かなることを考えるのか理解に苦しむところであろう。

 疑いもなくわれらは全ての存在を支配する絶対神の存在を説く。それは、人間が勝手に想像せるが如き気まぐれな顕現の仕方はせぬ。

人間の理解力の進歩に応じて、その時代その時代に断片的に明かされて来た存在───もっと厳密に言うならば、人間の心の中に神の概念とその働きについての、より真実に近き見解を植えつけんとして働きかけてきた存在である。

イエスと同様われらは宇宙を支配する愛に満ちた至聖にして至純なる神を説く。人間の想像するが如き人格を持たぬ神ではなく、真の意味における父なる存在である。エネルギーの化身でも具現でもない。真に生ける実在である。ただしその存在の本質と属性はその働きと汝らの心の中に描ける概念としてしか捉えることは出来ぬ。

汝の抱ける概念の中より全知全能の神に対する侮辱と思えるものを可能なかぎり取り除き、かつまた、差し当たって問題とするに当たらぬ神学的教説を一応残しつつ、われらは神について以上の如く説いてきたのである。

 われらの教説を読みてそこに絶対的真理が見られぬと汝が言うのであれば、われらはむしろ、われらがそこまで理解して貰えるに至ったことを有難く思う次第である。

絶対的完全性が有り得ぬ如く、今の汝の未完成の状態においては絶対的真理などというものは望むべきもない。汝はまさか、最高級の霊にしてもなお目を眩(くら)まされる宇宙の深奥の神秘を平然と見届け得ることを期待はすまい。

限りあるその精神でまさか無限なるもの、不可知なるもの───地上より遥かに掛け離れたわれらにとってもなお、遠くより拝(おうが)み奉(たてまつ)ることしか叶わぬ存在が理解できるとは期待すまい。万一できると思うとすれば、それこそ汝の置かれたる発達段階がまだまだ不完全であることの証左でしかない。

汝にとって真理はまだ断片的であり、決して全体像を捉え得るものではなく、また細目まで行き亙ることは叶わず、あくまでベールを通して大まかなる輪郭を垣間見る程度に過ぎぬ。われらとしても決して真理の全てを汝に啓示しようなどとは思いも寄らぬ。

われら自らがまだまだ無知であり、神秘のベールに被われたる多くのものを少しでも深く理解せんと願っているものである。われらに為し得ることは精々その神の概念───これまで汝らが絶対的啓示と思い込みたる概念よりは幾分か真理に近きものを仄(ほの)めかす程度に過ぎぬ。

 これまでのところわれらは、汝が筋の通れる美しく崇高なるものと認め、かつ汝の精神に受け入れられる新たな神学体系を確立することに成功した。それ以上のものを求めようとは思わぬ。われらは崇拝と敬意の対象としての神を啓示した。

神と人類と汝自身に対する合理的かつ包括的義務を披露した。道徳的規範として、汝の聞き慣れた天国と地獄説による脅しの説教ではなく、無理強いせず自然に理解せしめる性質の見解を確立した。

 われらの教説を目的なき宗教と言うに至りては、理解に苦しむ誤解と言うほかはない。地上生活というこの種子蒔(たねま)きの一つ一つの行為がそれ相当の実りをもたらすとの訓え───悪と知りつつ犯せる故意の罪が苦痛という代償のもとに悲しみと屈辱の中で償わねばならぬという訓え───過ちを犯せる魂が曾ての己の過ち故にもたらせる〝縺(もつ)れ〟を必ず自らの手で解(ほど)かねばならぬとの教説の、一体どこをもって詰まらぬ言説と言うのであろうか。

 われらは、人間の言動は池に投げ入れられた小石の如く、その影響は波紋を描きつつ周囲に影響を及ぼすこと、そしてその影響には最後まで自分が責任を負わねばならぬこと、故に一つの言葉、一つの行為には、その結果と影響とに計り知れぬ重要性があること、それが善なるものであればその後の生き甲斐の源泉となり、邪悪なるものであれば苦悩と悔恨の内に責任を取らされると説くのであるが、これが果たして下らぬ教説であろうか。

 またその賞罰は遥か遠き未来の死にも似たる休眠状態の末まで延ばされるのではなく①、因果律の法則によってその行為の直後より始まり、その行為の動機が完全に取り除かれるまで続くと説くのであるが、これも愚にもつかぬ言説であろうか。

 これでは清浄にして聖なる生活への誘因とはならぬであろうか。そうしたわれらの教説と、汝らの信じる教説、すなわち己の思いのままに生き、隣人に迷惑を及ぼし、神を冒瀆し、魂を汚し、神の法も人間の法も犯し、人間としての徳性を辱(はずかし)めた人物が、たった一度の半狂乱の叫び声、お気に入りの勝手な信仰、その場限りの精神的変化によって、

眠気を催すが如き天国への資格を獲得するとの汝らの説、しかもその天国での唯一の楽しみが魂の本性が忌々しく思う筈のものでありながら、それが魔法的変化によって一気に永遠の心地よき仕事となるとの説の、一体いずれが神聖にして進歩的生活へ誘ってくれるであろうか。

堕落せる魂を動かすのはどちらであろうか。いかなる罪も、それが他人によって知られる知られぬに係わりなく、いつかは悔い改めねばならぬ時が来ること、そして他力ではなく、自力で償わねばならぬこと、そうなることによって少しでも清く正しく、そして誠実な人間となるまで幸せは味わえぬとの訓えであろうか。

それとも、何をしようと天国はいかなる堕落者にも開かれており、悶え苦しむ人間の死の床でのわずか一度の叫び声によって魔法の如く魂が清められ、遠き未来に訪れる審判の日を経て神の御前に召され、そこにて退屈この上なく思う筈の礼拝三昧の生活を送るとの教えの方であろうか。

 このいずれが人間の理性と判断力に訴えるか。どちらが罪を抑制し、さ迷えるものを確実に正義の道に誘うか。それはわれらと同様、汝にも明々白々である。なのに汝はわれらの説くところが断固たるものを曖昧なるものに、確固たる賞罰の体系を何の特色もなきものに置きかえんとするものであると言う。

否! 否! われらこそ確固たる知性的賞罰体系を説き、しかもその中に夢まぼろしの如き天国や残酷非道の地獄や人間性まる出しの神などをでっち上げたりはせぬ。

汝らはいつのことやも知れぬ遠き未来に最後の審判日などというものを設け、極悪非道の人間でさえも、その者自身理解も信仰も有難味も見出し得ぬ教義に合意すれば、いつの日か、どこかで、どういう具合にてか、至純至高の大神の御前に侍(はべ)ることを得ると説く。

 敢えて言おう。われらの説く信仰の方が遥かに罪を抑圧すべく計算され、人間に受け入れ易く説かれている。人間の死後について遥かに合理的な希望を与え、人類史上かつて無き現実性に富む包括的信仰を説いている。繰り返すが、これぞ神の訓えである。

神の啓示として汝に授けられているのである。われらはこれが今すぐ一般大衆に受け入れられるものとは期待せぬ。大衆の側にそれなりの受け入れ態勢が出来ぬかぎり、それは叶わぬことである。その時節の到来をわれらは祈りのうちに忍耐強く待つとしよう。

いよいよその時節が到来し、理性的得心のもとに受け入れられた時は、人間は曾ての如きケチくさき救済を当てにせるが故の罪を犯すことも減り、より知的にして合理的来世観によって導かれ、高圧的抑制も、人間的法律による処罰の必要性も減り、それでいて動機の源は、甘き天国と恐ろしき地獄などというケチくさき体系に劣らず強制力があり、永続的となるであろうことを断言する。

子供騙しの地獄極楽説は、これをまともに考察すれば呆気なくその幼稚性が暴露され、効力を失い、根拠なき、非合理にして愚劣なるものとして、灰塵に帰されることであろう。


〔相対的に観てスピリチュアリズムの影響は好ましくない───少なくとも複雑な影響を及ぼしているとの私の反論に対して一八七三年七月十日に次のような回答が届けられた───〕






 その点についてわれらも述べたいことが多々ある。これより汝の陥れる誤解を解き明かすべく努力してみたく思う。まず第一に汝は人間の宿命とも言うべき限られた視野にとっては不可抗力ともいうべき過ちに陥り、その汝の目に映りたる限られた結果のみを見て、それをスピリチュアリズムの全てであると思い込んでいる。

その点において汝は、わずかな数の熱狂者による狂騒に幻惑され、その狂騒、その怒号をもってスピリチュアリズムの全てであると見なす一部の連中と同類である。

見よ、彼らは結果によってのみ知らるべき静かなる流れがその見えざる底流を音もなく進行していることに気づかぬ。汝の耳に入るのは騒々しき無秩序なる連中のみである。さして多くはないが、よく目立つのである。

汝が世の中を再生せしむるのはそうした連中ではあり得ぬと言うのはもっともなのである。汝の知性はそうした無責任なる言説にしりごみし、果たして斯くの如き近寄り難きものが神のものであり、善の味方であろうかと訝(いぶか)るのであるが、実は汝の目にはそうした一部のみが目に入り、しかもその一部についても明確に理解しているとは言えぬ。


そうした連中にも彼らなりに必要なる要素が幾つかあり、それが彼らにとって最も理解し易き手段にて神より授けられている───そうした表に出ぬ静かなる支持者たちの存在については汝は何も知らぬ。汝の視界に入らぬのである。

入らぬのであるが、しかし現に汝のまわりにも存在し、霊の世界と交わり、刻々と援助と知識を授かり、肉体に別れを告げたのちに彼らもまた霊界よりこのスピリチュアリズム普及のために一役買う日が来るのを待ちうけているのである。

 かくの如く汝は一方に喧噪、他方に沈黙がありながら、限られた能力と、さらに限られた機会のゆえに狭隘なる見解しか持ち得ず、およそ見本とは言えぬ小さき断片をもって全体と思い違いをしている。これよりわれらは、汝が下せるスピリチュアリズムの影響につきての結論を細かく取り挙げたく思う。そして同時に、汝にはその究極の問題について断定的意見を述べる立場にないことを指摘したく思う。

 と申すのも、一体真理とは何かということである。神の働きは、このスピリチュアリズムに限らず他のすべての分野においても、不偏平等である。地上には善と悪とが混在している。平凡なる霊にて事足りる仕事に偉大なる霊を派遣するが如き愚を神はなさらぬ。

未発達の地縛霊の説得に神々しき高級霊を当てたりはなさらぬ。絶対になさらぬ。自然界の成り行きにはそれ相当の原因がある。巨大な原因から無意味なる結果が出るようなことはない。霊的関係においても同じことである。知能程度が低く、その求むるところが幼稚にして高きものを求めようとせぬ魂の持ち主には、その種の者に最も接触し易き霊が割り当てられる。

彼らは目的に応じて手段を考慮し、しばしばその未熟なる知性に訴えるために物理的手段を講ずる。精神的・霊的に無教養で未発達なる者には、その程度に応じた最も分かり易き言葉によって語りかける。死後の生活の存在を得心させるためには目に映ずる手段を必要とする者がかなり、いや、大勢いるのである。

 この種の人間は、高き天使の声───いつの時代においてもその時代の精神的指導者の魂に語りかけてきた崇高なる霊の声───によりて導かれるのではなく、その種の人間と類を同じくする霊たち───その欲求と精神的性癖と程度をよく理解し、その種の者の心に最も訴え、最も受け入れ易き証を提供することの出来る霊によりて導かれる。

さらに心得ておくべきことは、知的に過ぎる者は往々にして霊的発達に欠けることがあることである。本来進歩性に富める魂も、その宿れる肉体によって進歩を阻害され、歪める精神的教育によって拘束を受けることもあり得る。

同じ啓示が全ての魂の耳に届くとはかぎらぬ。同じ証が全ての魂の目に見えるとはかぎらぬ。肉体的性向を精神的発達の欠陥によって地上生活における発達を阻害された霊が死後その不利な条件が取り除かれてのち、ようやく霊的進歩を遂げるという例は決して少なくないのである。

 というのも、本性は魔法の杖にて一度に変えるというわけにはいかぬものなのである。性癖というものは徐々に改められ、一歩一歩向上するものなのである。故に生まれつき高度な精神的才能に恵まれ、その後の絶え間なく教養を積める者の目には、当然のことながら、無教養にして無修養の者のために用意せる手段はあまりに粗野にして愚劣に映ずるであろう。否、その前に彼らが問題とせるものそれ自体が無意味に思えるであろう。

その声は耳障りであろう。その熱意は分別に欠けるであろう。が、彼らは彼らなりにその本性が他愛なき唯物主義、あるいはそれ以上に救いがたき無関心主義に変化を生じ、彼らなりに喜びを感ずる新たな視野に一種の情熱さえ覚えるようになる。

彼らの洩らす喜びの叫びはアカ抜けはせぬが、彼らなりに真実の喜びである。汝の耳には不愉快に響くかも知れぬが、父なる神の耳には、親を棄てて家出せる息子が戻って発する喜びの声にも劣らず、心地よきものである。その声には真実が籠っている。

その真実の声こそわれらの、そして神の、期待するところである。真実味に欠ける声は、いかに上手に発せられても、われらの耳には届かぬ。

 かくの如く、霊的に未発達なる者に対して用いる証明手段は、神と人間との間を取りもつ天使の声ではない。それでは無駄に終わるのである。まず霊的事象に目を向けさせ、それを霊的に鑑識するように指導する。物理的演出を通じて霊的真理へと導くのである。

物理的演出については汝もすでに馴染んでおろう。そして、そうした物的手段の不要となる日も決して来ぬであろう。いつの時代にもそうした手段によって霊的真理に目覚める者がいるからである。目的にはそれなりの手段を選ばねばならぬ。

そうした知恵を否定する者こそ、その見解に知恵を欠く視野の狭き者である。唯一の危険性はその物理的現象をもって事足れりとし、霊的意義を忘れ、そこに安住してしまうことである。それはあくまで手段に過ぎぬ。霊的発達への足掛かりとして意図され、或る者にとっては価値ある不可欠の手段なのである。

 そこでわれらはこれより、汝が腹に据えかねている右の例以上に顕著なる例、すなわち、粗野にして無教養なる未発達霊の仕業について述べるとするが、汝にとって左程までに耳障りにして、その行為に不快を覚えさせる霊を汝は〝悪〟の声であると想像しているようであるが、果たして如何(いかが)なものであろうか。

 悪の問題についてはすでに取り挙げたが、また改めて説くこともあろう。が、ここでわれらは躊躇なく断言するが、邪霊の仕業であることが誰の目にも一目瞭然たる場合を除いては、大抵の場合、汝の想像するが如き悪の仕業ではない。

 悲しい哉、悪は多い。そして善に敵対する者が一掃され勝利が成就されるまでは、悪の途絶えることはあるまい。故にわれらは、決してわれらと汝を取り巻く危険性を否定も軽視もせぬ。が、それは汝が想像するようなものではない。見た目に常軌を逸する者、垢抜けせぬもの、粗野なるものが必ずしも不健全とは言えぬ。

そうした観方は途方もない了簡違いと言うべきである。真に不健全なるものはそう多くは存在せぬ。むしろ汝らの気付かぬところに真の悪が潜むものである。霊的にはまだ未熟とは言え、真剣に道を求むる者たちは、無限の向上の世界がすぐ目の前に存在すること、そしてその向上はこの地上における精神的、身体的、霊的発達にかかっていることを理解しつつある。

それ故彼らは身体を大切にする。酒浸りの呑んだくれとは異なり、アルコール類を極力控える。そしてその熱意のあまり同じことを全ての者に強要する。彼らは人それぞれに個人差があることまでは気が回らぬ。そして往々にしてその熱意が分別を凌駕してしまうのである。

しかも、洗練された者に反撥を覚えさせるそうした不条理さと誇大なる言説をふり回す気狂いじみた熱狂者が、果たして、心までアルコールに麻痺され身体は肉欲に汚され道徳的にも霊的にも向上の道を閉ざされた呑んだくれよりも霊的に不健全であろうか。

そうではないことは汝にも判るであろう。前者は、少なくとも己の義務と信念とに目覚め必死に生きている。今や曾ての希望も目的もなき人間とはわけが違う。死者の中より蘇ったのである。その復活が天使に喜びと感激の情を湧かせるのである。

その叫びが条理を欠いていたとて、それがどうだというのであろうか。情熱と活気がそれを補いて余りあるではないか。その叫びは確信の声であり、死にも譬えるべき無気力より目覚めた魂の叫びなのである。

それは生半可なる信仰しか持たぬ者が、紋切り型の眠気を催すキザな言い回しで化粧し、さらには〝ささやき〟程度のものでも世間に不人気なものは避けんと苦心するお上品ぶりよりも遥かにわれらにとりて、そして神にとりて、価値あるものである。

何となればそれは新たに勝ち得た確信を人にも知らしめんとする喜びの声であり、われらの使命にとりても喜びであり、より一層の努力を鼓舞せずにはおかぬのである。

 汝は俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬという。断言するが、汝の意見は見当ちがいである。適確さと上品さには欠けるが、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他の何ものよりも大衆に訴える力がある。

野蛮なる投石器によって勢いよく放たれた荒削りの石の方が、打算から慣習に迎合し体裁を繕いたる教養人の言説よりもよほど説得力がある。荒削りであるからこそ役に立つのである。現実味のある物的現象を扱うからこそ、形至上的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのである。

 霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。〝物〟にしか反応を示さぬ唯物主義者には物的法則を超越せる目に見えぬ力の存在の証拠を提供する。固苦しき哲理よりも、肉身の身の上のみを案じ再会を求める者には、確信を与えるために要する証拠を用意してその霊の声を聞かせ、死後の再会と睦み合いの生活への信念を培う。

筋の通れる論証の過程を経なければ得心できぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素を持つ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。さらに、そうした霊的真理の初歩的段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲する者には、神の深き真理に通暁せる高級霊を派遣し、神聖の秘奥と人間の宿命についての啓示を垂れさせる。

かくの如く人間にはその程度に応じた霊と相応しき情報とが提供される。これまでも神はその目的に応じて手段を用意されてきたのである。

 今一度繰り返しておく。スピリチュアリズムは曾ての福音の如き単なる見せかけのみの啓示とは異なる。地上人類へ向けての高級界からの本格的働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。それを総合するものがスピリチュアリズムに他ならぬ。が、実はそれだけと見なすのも片手落ちである。

汝にとって、そしてまた汝と同じ観点より眺める者にとってはそれで良いかも知れぬ。が、他方には意識の程度の低き者、苦しみに喘ぐ者、悲しみに打ちひしがれし者、無知なる者がいる。彼らにとってはスピリチュアリズムはまた別個の意味を持つ。

それは死後における肉身との再会の保障であり、言うなれば個人的慰安である。実質的には五感の世界と霊の世界とを結ぶことを目的とする掛け橋である。肉体を捨てた者も肉体に宿れる者と同様に、その発達程度はさまざまである。そこで、地上の未熟なる人間には霊界のほぼ同程度の霊があてがわれる。

故にひと口にスピリチュアリズムの現象と言うも、程度と質とを異にする種々さまざまなものが演出されることになる。底辺の沈殿物が表面に浮き上がることもあり、それのみを見る者には奥で密かに進行しているものが見えぬということにもなる。

 今こそ汝にも得心がいくであろうが、世界の歴史を通じて同種の運動に付随して発生する〝しるし〟を見れば、それが決してわれらの運動のみに限られたものとの誤解に陥ることもあるまい。

それは人間の魂をゆさぶる全てのものに共通する、人間本来の性分が要求するのである。

イスラエルの民を導いたモーセの使命にもそれがあり、ヘブライの予言者の使命にもそれがあり、言うまでもなくイエスの使命にも欠かせぬ要素であった。

人類の歴史において新しき時代が画されるときにはかならず付随して発生し、そして今まさに霊的知識の発達にもそれが付随しているのである。が、それをもって神の働きかけの全てであると受け取ってはならぬ。政治的暴動がその時代の政治的理念の全てではないのと同様に、奇跡的異常現象をもってわれらの仕事の見本と考えてはならぬ。

 常に分別を働かせねばならぬ。その渦中に置かれた者にとっては冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。が、その後において、今汝を取り囲む厳しき事情を振り返った時には容易に得心がいくことであろう。

 汝の提示せる問題についてはいずれまたの機会に述べるとしよう。此の度はひとまずこれにて───さらばである。
                          ♰ イムペレーター
    
 
〔註〕
(1) 死者はこの世の終わりに神が下す最後の審判の日まで休眠状態におかれるとのキリスト教の信仰を指す。
  


Friday, January 3, 2025

シアトルの冬 組織と綱領

 
Lift Up Your Hearts
Compiled by Tony Ortzen





まえがき


 本書の編纂を終えた頃の英国は、五月というのに数十年ぶりの猛暑が続いていた。朝起きてみると、いつも空は抜けるように澄み渡っていて、うっすらとモヤが掛かっていることはあっても、今日もまた暑い一日になることを予告していた。

 気の短い人間にとって、ロンドンのような大都会でのそうした季節はずれの暑さは、置かれている状況によっては、たとえば地下鉄に乗っているとか長い行列の中にいると、それはそれは耐え切れない苦痛である。

 反対に天候も気候もいい時は人間の心まで良くなることは、誰しも知るところである。晴れ渡った空はわれわれ人間の心まで晴ればれとさせてくれる。花は咲き、小鳥はさえずり、蝶が花に舞い、木々がそよ風に揺れて、すべて世は事もなしとにいった気分になる。

 しかし、シルバーバーチがよく強調するように、何事にも表と裏がある。夜があれば昼があり、愛には憎しみがあり、光には影がつきまとう。人生も同じである。何をやってもうまく行かない時期があるものだ。

 大所高所から見ればどうということはないことばかりかも知れないが、凡人の悲しさで、その一つ一つが不幸に思える。そして、とてつもない大きな災厄に見舞われてはじめて、それまでの自分が本当は幸せだったのだと気づく。

 先日も、のんびりとショッピングを楽しんでいると、中年の婦人がいきなりこの私に話しかけてきた。十二年前に十八歳の息子を交通事故で亡くしたというのである。様子から見て、その婦人にとっては、その息子の死とともに何もかもが終ってしまったようなものだったことは明らかだった。十二年後の今もその悲しみが消えやらないのだ。

 肉身との死別───それも母と子の間であれば、無理もない話で、私には一言も咎める気持ちはない。親と子のつながりは愛情と尊敬の念の上に成り立っているからだ。

《サイキック・ニューズ》の編集者として私は、そうした悲しい体験の便りをよくいただく。先週も、十三年間も飼っていた犬の死による心の痛みを切々と訴える手紙が寄せられた。私にとっては、動物とはいえ、生命はあくまでも神聖である。悲しむのを少しも不自然だとは思わない。子供が殺されたり事故で死んだという人からの手紙もよく受け取る。つい昨日も、十代でこの地上生活を終えた人の話を聞かされたばかりだ。

 そうやって悲しみの心情を私に吐露するのは、私が第三者だからであることは言うまでもない。私はそのことを光栄に思い、細やかな同情の気持を込めた返事を書くようにつとめている。

 そんな時、シルバーバーチの本を奨めることもある。それは、シルバーバーチがこの地上に戻ってきた高級指導霊の中でも、文句なしに最も説得力のある教えを説いているからである。初めて出現したのは今から半世紀以上も前であるが、英語による表現の巧みさは右に出る者はいないし、霊的思想の説明の明快さも類を見ない。掛け値なしに〝偉大なる霊〟であったし、今なおそうなのであるが、それらしく気取ったところはみじんも見られない。

 本書は、シルバーバーチ選集としてはいちばん新しいもので、ほぼ二十年間にわたる期間の霊言から抜粋してある。なるべく重複しないように気をつけたが、前に出た霊言集と重複するところがあるかも知れない。が、そのことは、このシルバーバーチの霊言に関するかぎり決して〝まずい〟こととは考えていない。何回でも繰り返すだけの価値があるし、むしろその必要性すらあると考えている。

 どういう仕事に携わっていようと、どこのどなたであろうと───シルバーバーチのファンは文字どおり世界中に広がっている───本書によって人生の難問が解け、人生観の地平線がさらに広がることを希望し、かつ祈るものである。

 願わくばシルバーバーチの言葉が、あなたにとっての慰めと親密感と充実感と生きる喜びの源泉となりますように。
                           トニー・オーツセン
一章  組織と綱領 
 
 スピリチュアリズム思想の真実性を信じている人のことを、便宜上、スピリチュアリストと呼ぶ。そのスピリチュアリストの英国最大の統一組織 SNU (Spiritualists National Union) が掲げる七つの綱領は、大部分の会員がそれを受け入れ、座右の信条としていることであろう。

 これは心霊誌 Two Worlds を創刊したビクトリア時代の女性霊媒エマ・ハーディング・ブリテンを通じて、霊界から霊言で届けられたものとされている。ある日の交霊会でその綱領についての評釈を求められたシルバーバーチは、建設的ではあるが非常に手厳しい評価を下している。


 訳者付記──折にふれて〝組織〟の弊害を戒めるシルバーバーチは、組織の代表を自分の交霊会に招くことは度々あったが、組織から招かれて講演したことは、私の知るかぎりでは皆無である。その最初となるべき一九八一年の世界スピリチュアリスト連盟の総会での特別講演が、その直前のバーバネルの急死によって実現しなかったのは皮肉だった。なお《サイキック・ニューズ》紙はいかなる組織からも独立した立場を取っている。


 1、神は全人類の父である。
「これは、用語が適切さを欠いております。神(ゴット)、私のいう大霊は、みなさんがお考えになるような意味での〝父〟ではありません。これでは、愛と叡智の無限の力、全生命の造化の大霊を、人間の父親、つまり男性とすることになります。かくしてそこに、偉大なる男性であるところの人間神というイメージができ上がります。

 大霊には男性と女性のすべての属性が含まれます。すべてを支配する霊である以上は、必然的に生命の全表現───父性的なもの・母性的なもの・同胞的なもの───を含むことになります。ありとあらゆる側面が大霊の支配下にあるのです」



 2、人間はみな兄弟である。

「ここでもまた用語が問題となります。〝人間〟を表わす英語の man は女性にも使えないことはありませんが、本来は男性中心の観念の強い用語です(女性は woman という)。 また、〝兄弟〟というのは〝姉妹〟に対する男性用語です。ですから、性別の観念を取り除いて、世界中の民族を一つの霊的家族とする観念を打ち出さないといけません」


 3、霊界と地上界との間に霊的交わりがあり、人類は天使の支配を受ける。

「またしても表現に問題があり、定義が必要となります。〝霊的交わり〟よりは〝霊的感応と通信〟とした方がよろしい。
 次の〝天使の支配〟も問題があります。〝天使〟とは一体何なのでしょう? 人間の形体をまとったことのない、翼のある存在のことでしょうか。地上の人間とは何の関係もない、まったく別個の存在なのでしょうか。この項目は表現がとても不適切です。

 霊的な支配は確かにあります。が、それは地上的な縁によってあなたと繋がっているスピリット、または特別な縁はなくても、あなたを通路として、地上に指導と支援と手助けと愛情を授けたいと願っているスピリットが行なっているのです」


 4、人間の魂は死後も存続する。

「この事実に例外はありません。人間の魂(個性)は大霊の一部であるがゆえに、地上で自我を表現するための道具だった物的身体がその役割を終えると同時に、そのままいっしょに滅んでしまうものではありません。魂は本質的に永遠不滅の存在なのです。だからこそ生き続けるのです」


 5、自分の行為には自分が責任を取らねばならない。

「これも、その通りです。議論の余地はありません。私たちが地上のみなさんに説き聞かせているあらゆる教えの中核に、この〝自己責任〟の概念があります。

原因と結果の法則、いわゆる因果律を、何か魔法でもかけたように欺くことができたり、自分の行為が招く結果をだれかに背負わせて利己主義が生み出す苦しみを自動的に消してしまうことができるかに説く教えは、すべてこの項目に違反します。

 スピリチュアリズムの教えの核心に、この〝各人各個の責任〟の観念があります。自分がこしらえた重荷は自分が背負わねばならないという、基本的原理を知らねばなりません。

それは、自分の人間的不完全さを取り除き、内部の神性をより大きく発揮させるためのチャンスであると受け取るべきだということです。いかなる神学的教義、いかなる信条、いかなる儀式典礼をもってしても、罪人を聖人に変えることはできません」


 6、地上での行為は、死後、善悪それぞれに報いが生じる。

「これまた用語の意味が問題です。人間の容姿をした神様が立派な玉座に腰かけていて、こいつには賞を、こいつには罰を、といった調子で裁いていくかに想像してはなりません。そんな子供騙しのものではありません。

 原因と結果の法則、タネ蒔きと刈り取りの原理が働くまでのことです。自動的であり機械的です。かならず法則どおりになっていくのです。あなたが行なったことが必然的にそれ相当の結果を生み出していくのです。報賞も罰も、あなたの行為が生み出す結果にほかなりません」



 7、いかなる人間にも永遠の向上進化の道が開かれている。

「生命は、霊的であるがゆえに永遠なのです。誰であろうと、何であろうと、どこにいようと、あるいは、現在すでに到達した進化の段階がどの程度であろうと、これから先にも、永遠へ向けての無限の階段が続いているのです。不完全さを無くするためには永遠の時が必要です。

完全というのは、どこまで行っても達成されません。どこまで行っても、その先にもまだ達成すべき進化の段階があることを認識することの連続です。無限に続くのです」

 続いて質疑応答に入る。

───あなたから見て、われわれ人間が心掛けるべき信条として一つだけ選ぶとしたら、どういうことを説かれますか。無理な注文かも知れませんが・・・・・・

「いえ、無理ではありません。実に簡単なことです。すでに何度も説いていることです。〝自分に為しうることを精いっぱい行なう〟───これです。転んでも、また起きればよろしい。最善を尽くすということ───これがあなた方人間に求められていることです。

 霊的真理の自覚が深まるほど、それだけあなたの責任も重くなります。自覚していながら、知らなかったとシラを切ってみても、無駄です」


───スピリチュアリズムの綱領の中には動物についての教えもあってよいはずだと思うのですが・・・・・・

「その通りです。私もそう思います。私だったらこう表現します───〝全人類は、地上で生活を共にしているあらゆる生物と隣人に対して責任がある〟と」


───ジャーナリストが霊媒やスピリチュアリズムを軽蔑する記事を書いたりした場合、そのジャーナリストはこの地上生活中に何らかの罰が当たるのでしょうか。

「罰が当たるというようなことは、そちらの世界でもこちらの世界でもありません。すべては 原因に対する結果という形で進行するだけです。罰は間違った行為の結果であり、タネ蒔きと刈り取りの関係です。

 問題は〝動機〟に帰着します。つまり、そのジャーナリストは自分の記事の内容を本当にそう信じて書いたのか、それとも正直とか公正とか真理探求といった高尚な問題の範疇に属さない、何か別の単純な動機から書いただけなのかといった要素が結果に影響します。蒔いたタネが実を結ぶのです。

 その結果がそちらの世界で出るかどうかの問題は、また別の問題です。出る場合もあれば出ない場合もあります。それに関わる霊的原理によって決められることです」

───台風のような自然災害によって死亡した場合、それは偶発事故による死ということになるのでしょうか。それともやはりそれがその人の運命だったのでしょうか。

「もしもその〝偶発事故〟という用語が、因果律のリズムの範囲外でたまたま発生したという意味でしたら、私はそういう用語は使いたくありません。事故にも、それに先立つ何らかの原因があって生じているのです。原因と結果とを切り離して考えてはなりません。

 圧倒的多数の人間の地上生活の寿命は、あらかじめ分かっております。ということは、予定されている、ないしは運命づけられている、ということです。同時に、自由意志によってその〝死期〟を延ばすことができるケースも沢山あります。

そうした複雑な要素の絡み合いの中で人生が営まれているのですが、基本的には自然の摂理によって規制されております」


───人間が動物の肉を食することは霊的に見て間違っているというのであれば、なぜ動物が動物を食い殺すことは許されているのでしょうか。なぜ神は肉を食べなくても済むようにしてくださらなかったのでしょうか。

「そういうご質問は私にでなく大霊にお尋ねになっていただけませんか。大霊の無限の叡知が全大宇宙のあらゆる側面に責任をもっております。人間は、身体的進化の点では、この地上における全創造物の頂点に立っています。他の創造物よりも進化しているということは、それらの創造物に対して先輩としての責任があるということです。

 進化の階梯において高い位置にあるということは、その事実に付随して生じるもろもろの意味あいを知的に、そして霊的に理解できるところまで進化しているということを意味します。

より高い者がより低い者を援助し、より高い者はさらにその上の者から援助を受ける───かくして、霊的発達というものは自己滅却(サービス)の精神と、思いやりと、慈しみを増すことであり、それが霊の属性なのです。

 人間は動物を食するために地上に置かれているのではありません。身体的構造をみてもそれが分かります。全体としてみて、人間は肉食動物ではありません。

 動物界にも進化の法則があります。歴史を遡ってごらんなさい。有史以前から地上に生息して今日まで生き延びている動物は、決して他の動物を食い荒らす種類のものではないことがお分かりになるはずです。

 ですから、これは人間の責任に関わる問題です。人間が進化して、その当然の結果として霊性が発揮されるようになれば、イザヤの言葉(旧約聖書・イザヤ書第十一章)が現実となります。すなわちオオカミが小ヒツジとともに寝そべり、仲良く安らかに暮らします。人間も、その霊的原理を実行に移せば、みんな仲良く平和に暮らせるようになるのです」


───核エネルギーも、それが善用されるか悪用されるかは、地上界の人間の責任ということになるのでしょうか。

「核エネルギーをどう利用するか───善用するか悪用するかは、もちろん深刻な問題です。戦争のための必要性に駆られて発明されたものが、実は霊的にはまだ正しく使いこなせない巨大なエネルギーだったことに、その深刻さの根があります。

 知的な発明品が霊的成長を追い越したということです。科学も、本当は霊的に、倫理的に、あるいは宗教的にチェックを受けるべきなのに、それが為されなかったところに、こうした途方もない問題が生じる原因があります。

人類は今まさに、莫大な恩恵をもたらすか、取り返しのつかない破壊行為に出るかの選択を迫られているのです。

 これはまた、自由意志の問題に戻ってまいります。これには逃れようにも逃れられない責任が伴います。大霊はその無限の叡知によって、地上の人間のすべてに、精神と霊と、モニターとしての道義心を賦与しておられます。もしも自由意志がなければ、人間はただのロボットであり、操り人形に過ぎないことになります。

 自分の行為への責任の履行なしには、神の恩恵は受けられません。その責任が課せられている人にしか解決できない問題というものがあるということです。

 核への恐怖が一種の戦争抑止力としての役割を果たしているという意見も出されるに相違ありません。たしかに物的観点からすればそうかも知れません。が、いずれにせよ、人間の為し得る破壊にも、限界というものがあります」


───責任の問題ですが、生まれつき知性が正常でない者の場合はどうなるのでしょうか。自分で物事が判断できない人の場合です。

 「道義心による警告に反応できない場合は、それだけ責任の程度が小さくなることは勿論です。脳の機能の異常による制約を受けているからです。神の公正は完璧です。そういう人にも向上進化の手段が用意されております。地上生活は、永遠の生命の旅路のホンの短いエピソード(語り草)にすぎないことを忘れてはなりません」


───自分の遺体を医学のために提供した場合に、何か霊的な影響がありますか。

「動機さえ正しければ、その提供者の霊には何ら影響は及びません」


───あなたはイエスのことを〝ナザレ人(ビト)〟とお呼びになります。別のサークルの指導霊のホワイトイーグル(※)はふつうに〝イエス〟と呼んでいるのですが、何か特別の理由があるのでしょうか。

※───シルバーバーチがバーバネルを霊媒として語り始める少し前から、女性霊媒グレイス・クックを使って語っていたインディアンで、クックが一九七九年に他界したあと、娘のジョーン・ホジソンを通して今なお語り続けている───訳者。

「同志の一人であるホワイトイーグルには彼なりの考えがあってのことでしょう。私はただ混乱を避けるために〝ナザレ人〟と呼んでいるまでのことです。

地上の人々は忘れてしまったか、あるいはご存知ないようですが、 Jesus (イエス)という名前は当時ではごく一般的な男性名で、たくさんのイエスがいたのです。そこで The Nazarene (ザ ナザレン) といえば〝あのナザレのイエス〟ということで、はっきりします。それでそう呼んでいるまでのことです」


───瞑想によって意識を高め、霊界の高い界層とコンタクトを取る方法があるのでしょうか。

「通常の意識では届かない界層と一時的に波動を合わせる瞑想法はいろいろとありますが、ご質問の意味が、通常の霊的意識の発達の過程を飛び越えて一気に最高級の程度まで霊格を高めることができるかというのであれば、それは不可能です。

 霊的進化はゆっくりとしたものです。それを加速する特別の方法というものはありません。段階を一つずつ上がっていくしかありません。途中の階段をいくつも飛び越えて近道をするというわけにはまいりません。成長というものはなだらかな段階を踏んでいくものです。そうでないと本来の進化の意味をなしません」


───三位一体説をどう思われますか。

「私は〝霊〟(スピリット)と〝精神〟(マインド)と〝身体〟(ボディ)による三位一体しか知りません。キリスト教神学でいうところの三位一体説───創造主が男性神つまり〝父〟で、その息子が贖い主としての特別の〝子〟で、それが、〝聖霊〟によって身ごもったとする説には根拠はありません」

───Witchcraft (ウィッチクラフト)(魔法・魔術・妖術)をどうお考えでしょうか。

「まず用語の定義をはっきりさせないといけません。一般の通念としては、相手の心身に危害を及ぼす目的をもって、不気味な手段によって邪悪なエネルギーを行使するということのようです。

 しかし語源をたどってみますと(witch は wise 〈賢い・知恵のある〉の女性形で、それが craft 〈術〉と結びついたもの)、けっきょくは、〝賢い術、およびそれを使う人〟という意味です。

それが〝魔法使い〟と呼ばれるようになったのですが、もともとは霊能者のことでした。形式はよほど原始的だったことでしょうが、その術には一種類ないしは複数の霊的能力が伴っておりました。

 当時は無知と迷信がはびこっておりましたから、次第に誤解されるようになりました。時には国家権力や宗教を覆す策謀があるのではないかとの嫌疑で罰せられたり、拷問にあったり、処刑されたりしました。しかし本来は霊的能力を使って病気治療や人生相談の相手をする人でした」


───死刑廃止論が多いようですが、何の罪もない人間を巻き添えにしたテロ行為が多発している現状を考えると、尋常な防止手段では効果がないように思えます。そうした罪もない犠牲者を出さないためにも、死刑という厳しい処罰も考慮すべきではないでしょうか。

「死刑制度のお蔭で一般の人々の生命が守られたという明確な証拠でもあれば、あなたのご意見も一理あることになるでしょうが、そういう事実があるとは私には思えません。原則として人間が人間の生命を奪うのは間違いです。なぜなら、人間には生命を創造する力はないからです。

 私は、死刑制度によって事態は少しも改善されないと信じます。殺人行為を平気で行なう者が、絞首刑その他の処刑手段に怯えて行為を思い止まるようなことは、まず有り得ないと考えます。いずれにせよ、死刑に処することは正義からではなく報復心に駆られているという意味において、間違いです。

 いかなる場合においても、生命の基本である霊的原理から外れないようにしなくてはなりません。殺人者を殺すことによって、殺された人は少しも救われません」


───これから犠牲者となるかも知れない罪なき人々を救うことにならないでしょうか。

「ならないと思います。これまでの永いあいだ同僚たちと話し合ってきた挙句の結論として私は、地上社会の司法と行政が、霊的存在としての最高の知識に基づいたものとなるべきであることを、ここで強く訴えるものです。国家による殺人では問題の解決にならないということです。

 生命は神聖なるものです。そのことをあらゆる機会に訴えないといけません。地上の人間としてはこれしかないと思えることも、全体像のごく一部としてしか見ていないものです。霊的にはちゃんとした埋め合わせと懲罰とがなされているのです。

大霊をごまかすことはできません。すなわち、無限の知性と無限の叡知から編み出された摂理が、無比の正確さをもって働くのです。

 そのことに十二分に得心がいくようになってはじめて、地上の社会組織が改められていきます。テロ活動を行なう者には、その間違いを思い知らせるような体験をさせられる仕組みになっているのです。それを野蛮な手段で片づけてはいけません。

地上的生命を奪うような手段は絶対に許されません。生命の絶対的原理に照らした手段に訴えないといけません」


 ───今の時代になぜ暴力沙汰が絶えないのでしょうか。

「振子と同じです。因襲的なものや伝統的なものに対する不満が、今の時代に至って爆発しているのです。それに加えて、物量第一主義の台頭が貪欲と強欲と自分中心主義を生み出しております。

 しかし、振子は大きく振れたあと、かならず元に戻ります。そして、前よりは進歩した形で調和をもたらします。物質中心の思考が人類の意識を支配しているかぎり、それが生み出す不快な結果が自動的に生じます」



 霊媒としての厳しい試練

 SNU(英国スピリチュアリスト同盟)のゴードン・ヒギンソン氏は、これまでも何度かこのサークルに招待されているが、一九七一年にベテランの霊言霊媒レスリー・フリント氏(※)を伴って出席した。

 ※───フリント氏は直接談話を得意とした霊媒で、入神もせず、ただ腰掛けているだけで、その部屋のあちこちからスピリットの声がする。学者による厳しいテスト、たとえば口にガムテープをはられるなどされたが、それにお構いなく、入れ替り立ち替わりスピリットの声がした。著書には自伝的内容の Voices in the Dark がある。現在は老齢のため霊媒活動はしていない───訳者。


 まずシルバーバーチはフリント氏に声を掛け、ヒギンソン氏には「あなたにも関係のある話なので、よく聞いてほしい」と言ってから次のように述べた。
「霊媒という仕事が、列席者の目に映っている外見からはおよそ想像のつかない厳しい道を歩まされ、大きな犠牲を強いられるものであることは、私が他の誰よりもよく知っております。

 あなたの背後に素晴らしい霊団が控えていることは、ご存知と思います。叡知に富む高級なスピリットばかりです。ロンドン訛りのある若者(※)がいますが、それをもって教養が低いと思ってはなりません。あの若者は霊界側の霊媒でして、高級なスピリットの意志を取り次いでいるのです。

最初に聞こえる独特の言い回しは、会場の雰囲気を和らげて、最高のコミュ二ケーションを得る上で必要なバイブレーションを生み出すために、わざと行なっているのです。たぶんあなたはご存知と思いますが・・・・・・」

 ※───ミッキーという呼び名の進行役のことで、〝最初に聞こえる独特の言い回し〟がどういうものかは著書 Voices in the Dark にも出ていない───訳者。

フリント───もちろん知っております。

「あのシーンに出てくるスピリットは、言ってみれば梯子の下の段に相当します。いちばん下の段に位置する地上の霊媒、つまりあなたと、いちばん上の段に位置する中心的指導霊とのつなぎ役、いわば霊界の霊媒役(※)をつとめているのです」

 ※───シルバーバーチを霊視したマルセル・ポンサンによる肖像画は北米インディアンに描かれていて、表向きはそれがシルバーバーチということになっている。が、これは霊界の霊媒であって、シルバーバーチその人でない。

 シルバーバーチと名のる中心的指導霊については、三千年前に地上で生活したことがあるということ以外は、姿はおろか、地上時代の姓名も国籍もわかっていない。六十年に及んだ交霊会で何度となくそれを訊ねられたが〝そんなことはどうでもいいことです。大切なのは私が述べている教えです〟と言って、ついに明かさずに終わった。

 この事実、つまり高級霊ほど地上時代のことを明かそうとしないということの重大性がどこまで理解できるかが、その人の霊的理解力の尺度であると私は見ている───訳者。

 引き続きシルバーバーチが「こんなことを申し上げるのは、これまでにあなたが辿られた道がどんなに辛く、石ころだらけで、およそラクな暮らしとはいえないものだったとしても───」と言いかけると、

フリント氏が「火打石(フリント)のようでした───ただの石ころよりも酷しかったです」と、シャレを引っかけて言う。


「でも、どうしようもない窮地に陥ったことはないはずです。生きるために必要な最低限のものは、最後の最後まで忍んでいれば必ず用意されてきております。他人のために尽くす行為をする人は他人から尽くされる、というのが霊的摂理の一環なのです。そして、他人のためになる行為が大霊の目に止まらないことは絶対にありません。

 しかし同時に、アクセルとブレーキの操作も絶え間なく行なわれていることも知らないといけません。促進と抑制とでうまく調整しながら、あなたが使命と心得てこの世に生まれてきた道から外れることのないようにするのです。

振り返ってごらんになれば、なんだかんだと言いながらも、何とか切り抜けてきておられることがお分かりでしょう。あなたの生活レベルは、地上の尺度で見れば決して裕福とはいえないかも知れませんが、霊的視野から見れば、大変恵まれていらっしゃいます。

 悲哀の極にある人に慰めを与えてあげる仕事は、誰にでも出来るというものではありません。キリスト教会にも為し得ない、何ものかが必要なのです。

キリスト教信者は〝信仰〟を自負しますが、ただの信仰というものは頼りないものでして、何事もない時は間に合うかも知れませんが、愛する者を奪い去られる体験をした人には、何の役にも立ちません。

 霊の力があなたを通して働くのです。その結果として悲哀の涙が、霊的知識がもたらす穏やかな確信と置き換えられます。かくして、この地上世界に、霊的悟りを手にした人が一人増えることになります。暗黒と悲哀の中にいるかに思える体験も、実は神の意図があるからこそであることを悟った人が一人増えるのです。

 あなたも困難のさ中にあって、よく〝なぜこんな体験をさせられるのだろうか。これにも意味があるのだろうか〟と自問されることと思いますが、ちゃんと意味があるのです。そして、その困難に耐えて行く上で支えになるのが、確固とした知識が生み出す霊力なのです」


 フリント───はい、よく分かります。

「千々に乱れた心を癒してあげることができたら、愛する者を失って片腕をもぎ取られたような思いをしている人に慰めを与えてあげることができたら、病身の人に健康を取り戻させてあげることができたら、それがたった一人であっても、その行為の価値は絶大です。

そういう行為こそ、こちらの最高級界に淵源を発する地球浄化の大事業計画にもくろまれている目的の一環なのです。

 その界層においては、進化せる高級霊たちが、一人でも多くの地上の人間に霊的存在としての本来の生き方を悟らせ、美しさと荘厳さと崇高さを身につけさせる上での不可欠の知識を授ける計画の推進に当たっているのです。

 あなたは、授けられた使命を立派に果たしておられます。このことを感謝しないといけません」



 
 SNU会長としての苦労

ここでヒギンソン氏に向かって───

「お聞きになられましたね? あなたにとってもこれまでの道は平担ではありませんでした。しかし、価値の高い仕事を託された人は、その仕事を担うに足る霊力を試すための、さまざまな試練と試金石とが与えられるものです。

あなたも、ご自分で自覚しておられる以上に、人のために役立つ仕事をなさっておられます。そして、まだまだこれからも、貢献すべきあなたならではの分野が残されております」

 何か質問がありますかと問われて、まずフリント氏が尋ねた。

───最近は物理霊媒がとみに少なくなったようです。聞くところによれば、物理的心霊現象の時代は終わって、これからは精神的心霊現象の時代だそうですが、スピリチュアリズムが今日のような基盤を築くことができたのは(十九世紀末から二十世紀初頭にかけての)著名な科学者による物理現象の研究のお蔭であることは間違いない事実です。

 その意味で、物理霊媒を養成する努力が十分になされていないことを残念に思います。そのための時間を割くのが容易でなくなったという一面もあるようです。私たちは何年も掛けたものです。スピリチュアリズムが本格的な市民権を得るためには、もっと多くの物理現象を見せる必要があると私は考えます。

それによって地上の全人類に霊界とのつながりの真実性を得心させることができるのではないでしょうか。


「この私に何を言ってほしいのでしょうか」

フリント───霊界側にとっても物理霊媒が欲しいに違いないと思うのですが・・・・・・

 これにはすぐ答えずに、シルバーバーチはヒギンソン氏に意見を求めた。ヒギンソン氏は霊視能力を得意とする霊能者でもあるが、物理実験会を催したこともある。


 ヒギンソン───私が思うに、問題は現代生活のスピード化にあるようです。小人数による交霊会を催しても、最も大切な要素である〝和気あいあい〟の雰囲気が出にくくなってきたようです。霊界側がわれわれ人間に何を望んでいるかが知りたいのです。

大切なものは、そちらの方がこちらより、よくお分かりのはずです。やはり現代は物理的なものより精神的なものの方が要求される時代なのでしょうか。


「私も、私より上の界層の方たちから教わったことしか申し上げられません。地球浄化の計画の一環として、毛を刈り取られた小羊への風当たりを和らげてあげる仕事が与えられております。それを地上の、その時どきの現実の条件のもとで可能なかぎり行わねばなりません。

 おっしゃる通り、一昔前に物理現象が科学者の関心を呼んだ時期がありました。もちろん、それも計画の一環でした。従来の物理的法則では解釈のつかない現象を、あくまでも科学的手段によって、その実在性を立証するという目的がありました。

 歴史を振り返ってごらんになれば、物理現象が盛んに見られた時代というのは、きまって物質科学が優勢となって、伝統的宗教が基盤を失いかけていたことがお分かりと思います。

宗教と科学とは常に対立してきました。物的証拠のない分野のことは宗教が独自の教義を説き、物理的に証明できるものしか扱わない科学は、そうした教義を拒否しました。


 科学の発達によって宗教的思想が完全に消滅してしまうような事態になっては危険です。そこで、物質科学が万能視されはじめたあの時代に、物理現象による盛んな挑戦を受けることになったのです。

 しかしその後、科学の世界にも大きな変化が生じております。今や科学みずからが不可視の世界へと入り込み、エネルギーも生命もその根源は見かけの表面にはなく、目に見えている物質のその奥に、五感では感知できない実在があることを発見しました。

 原子という、物質の最も小さい粒子は、途方もない破壊力を発揮することができると同時に、全人類に恩恵をもたらすほどのエネルギーを生み出すこともできます。科学はすっかり展望を変えました。

なぜなら、かつてはもうこれ以上は分解できないと思われていた原子を、さらに細かく分裂させることができることを知り、それが最後の粒子ではないとの認識をもつようになったからです。

 そうなると、地上界へのこちら側からのアプローチの仕方も必然的に変ってきます。心霊治療が盛んになってきたのは、その一つの表われです。身体の病気を治すという意味では物質的ですが、それを治すエネルギーは霊的なものです。

現代という時代の風潮は、そういう二重の要素を必要としているのです。現代の人類は、そういうものでないと治せないほど病的になっているということでもあります。

 それは、物理霊媒はもう出なくなるという意味ではありません。まだまだ生命を物質的な目でしか見つめられない人がいる以上、そういう人に対処したレベルでのデモンストレーションも必要です。

 しかし同時に、さきほどご指摘なさった通り、生活のテンポが速くなったことも見逃せない要素です。それが精神を散漫にさせ、かつての家族だんらんというものを、ほとんど破壊しつつあります。

 さらに、ラジオ・テレビ・その他の娯楽が簡単に手に入るようになり、才能を発達させようという意欲を誘う刺激が、霊媒能力に対してはもとより、一般的な分野でも減ってきております。ピアノやバイオリンなどの器楽能力の鍛錬でも、かつてほどの根気がありません。

 何につけても、スピードと興奮を求めようとする傾向があります。こんな時代に、霊媒のような犠牲を強いられるものを目指して努力する人など、多く出るはずがありません。まして、霊媒現象の歴史が〝詐術〟の嫌疑との闘いの連続だったことを知ると、なおさらのことです」


ヒギンソン───私自身はそんな観方はしていませんでした。世の中の風潮に合わせて、できるだけ要求に合わせることに努力してきました。

「時代が変わったのです。今日の宇宙観は一世紀前とは、まるきり違います」


ヒギンソン───ということは、科学者も、その調子で物質的なアプローチの仕方から高次元のアプローチの仕方へと進歩する、ということでしょうか。

「みずからの論理でそうせざるを得なくなるでしょう。どうしても目に見えない世界へと入り込み、その莫大な未知の潜在力の研究へと進むでしょう。霊的に成長すれば、その莫大なエネルギーを善用する方法も分かるようになります。そうなれば、自我に秘められた霊的能力の発達にも大いに関心を向けるようになります。

 目に見えている外面は、内面にあるものが形態をもって顕現したにすぎません。生命力というものは切り刻むことはできません。根元は一つであり、それが無限の形態で顕現しているのです。原子に秘められた生命も、人間・動物・花・樹木などの生命と本質的には同じものです」


ヒギンソン───現代の科学者はそういうことが理解できるレベルにまで到達しているのでしょうか。

「全体としてはまだです。が、到達している人もいます。オリバー・ロッジなどはその典型といえるでしょう。現象界の奥にある実在を認識した科学者の模範です」


ヒギンソン───その事実は、現代という時代において、スピリチュアリズム思想へ向かっての曲がり角におけるパイオニアが用意されているということを意味しているのでしょうか。

「その通りです。ちゃんとしたプランがあり、それぞれに果たすべき役割があるということです。大霊は無限の存在であり、全知・全能です。何一つ忘れ去られることがありませんし、誰一人として見落とされることがありません。神の計画は完ぺきに実行に移されます。

完全性の中で編み出されたものだからです。今も完全性によって支配されております。そこに過ちというものは有り得ないのです。
 
 しかし、その計画の中にあって、あなた方にはその一部を構成している存在としての自由意志が与えられております。神の計画を促進させる方向を選択し、無限の創造活動に参加する好機をものにするか、拒否するか、それはあなたの自由ということです。

 霊的存在としての人間は、どこにいても、それぞれに果たすべき役割というものがあります。その一人ひとりの生涯において、いわば曲がり角、危機、発火点といったものに立ち至ります。

その体験が触媒となって魂が目覚め、自分が物的身体を通して機能している霊的存在であることを悟ります。

 自我とは、霊をたずさえた身体ではなく、身体をたずさえた霊なのです。実在は霊なのです。身体は外形です。殻です。機械です。表面です」


ヒギンソン───現在のスピリチュアリズムは正しい方向へ向かっていると思われますか。私には非常に混乱したイメージしかありません。どこへ足を運んでも、そこにはまた違った考えをもった人たちがいます。

正しい理解が行きわたるまでには、どれくらいの年月が掛かるのでしょうか。進むべき道はどちらにあるのでしょうか。


「率直に申し上げて、スピリチュアリズムの最大の敵は、外部ではなく内部にいる───つまり、生半可な知識で全てを悟ったつもりでいる人たちが、往々にして最大の障害となっているように見受けられます。

 悲しいことに、見栄と高慢と煩悩が害毒を及ぼしているのです。初めて真理の光に接した時の、あの純粋なビジョンが時の経過とともに色あせ、そして薄汚くなっていくのを見て、何時も残念に思えてなりません。一人ひとりに果たすべき役目があるのですが・・・

 私たちはラベルやタイトル、名称や組織・団体といったものには、あまりこだわりません。私自身、スピリチュアリストなどと自称する気にはなれません。

大切なのは暗闇と難問と混乱に満ちた地上世界にあって、霊的知識を正しく理解した人が一人でも多く輩出して、霊的な灯台となり、暗闇の中にある人の道案内として、真理の光を輝かせてくださることです。

 霊的真理を手にした時点で、二つのことが生じます。一つは、霊界との磁気的な連結ができ、それを通路としてさらに多くの知識とインスピレーションを手にすることができるようになるということです。

もう一つは、そうした全生命の根元である霊的実在に目覚めたからには、こんどはその恩恵を他の人々に分け与えるために、自分がその為の純粋な通路となるように心がけるべき義務が生じることです。

 人のために役立つことをする───これが他のすべてのことに優先しなくてはなりません。大切なのは〝自分〟ではなく〝他人〟です。魂の奥底から他人のために良いことをしてあげたいという願望を抱いている人は、襲いくる困難がいかに大きく酷しいものであっても、必ずや救いの手が差しのべられます。道は必ず開けます。

 自信を持って断言しますが、われわれ霊界の者が人間を見放すようなことは絶対にありません。残念なことに、人間側がわれわれを見放していることが多いのです。われわれは霊的条件のもとで最善を尽くします。が、人間の側にも最善を尽くすように要求します。

こちらもそちらも、まだまだ長所と欠点を兼ねそなえた存在であり、決して完全ではありません。完全性の達成には永遠の時を必要とします。

 ですから、その時その時の条件下で最善を尽くせばよいのです。転んだらまた起きればよろしい。転ぶということは起き上がる力を試されているのです。

自分がしようとしていることが正しいと確信しているなら、思い切って実行すればよろしい。袂を分かつべき人とは潔く手を切り、その人の望む道を進ませてあげればよろしい。そのうち、あなたの目に霊の力が発揮される場合がいろいろと見えてまいります。

そうなっていくことが肝心なのです。組織とか教会、協会、寺院、その他の建造物は、霊力の顕現の場としてのみ存在意義を持つのです。

教会はスピリットが働きかける聖なる場所として以外には、何の価値もありません。莫大な費用をかけて豪華にしてみても、そこに霊力というものが通わなければ、ただの〝巨大な墓〟にすぎません。霊力の働きかけが何よりも大切なのです。

 あなたが会長をしておられるSNU(英国スピリチュアリスト同盟)という組織の中に〝人のために役立ちたい〟という真情に燃えた人が集まれば、その人達の周りには自動的に、霊界において同じ願望に溢れる自由闊達なスピリットが引き寄せられます。

その両者が一致協力して、他の手段では救えない人の救済に努力します。悲しいかな、地上にはそういう気の毒な人が多いのです。

 人間は(組織・団体に属さなくても)人のために役立つ仕事(サービス)ができるという特典があります。サービスこそ霊の通貨なのです。何度も申し上げておりますように、人のために役に立つということは崇高なことです。

 私たちが忠誠を捧げねればならないのは、宇宙の大霊と、その大霊の意志の働きとしての永遠不変の摂理です。
 以上のお答でよろしいでしょうか」


ヒギンソン───結構です、有り難うございました。

「私に対する礼は無用です。感謝はすべからく大霊に捧げましょう。私達は互いにその大霊の忠実な使者たらんと努力しているのですから」


ヒギンソン───(SNU に所属している)スピリチュアリスト・チャーチを訪ねて回ることがあるのですが、こんな程度のものなら閉鎖してしまった方がいいのではないかと思うことがあります。要は霊力を顕現させるための場であることが本来の目的だと思うのです。

「霊界側が何時も待ち望んでいるのは、霊力が働きかける為の通路(チャンネル)です。霊力とは神性の顕現そのものなのです。それをあなた方は神(ゴッド)と呼び、私は大霊(グレイト・スピリット)と呼んでいるわけです。

宇宙にはこれに優る力はなく、絶対的な愛に裏打ちされた無限の力なのですから、それに顕現の場を与えずにおくのは勿体ない話です。

 霊とは摂理であり、生命であり、愛です。愛はバイブルにもありますように、摂理の実行にほかなりません。あなたの心が愛と慈悲に満ちていれば、あなたのもとを訪れる人の力になってあげることができます。

反対に不快・不信・怨みなどを抱いているようでは、霊力のチャンネルとはなり得ません。そうした低級感情は霊力の流れの妨げとなるからです」



    
 物理現象も霊的教訓も大切

ヒギンソン───SNUは一個の組織ですが、かつてのキリスト教と同じパターンにはまっていると思われますか。礼拝の進め方などが似ているので戸惑う人がいるようです。改めるべきでしょうか。

「改めるべきところは改めないといけません。優秀なチャンネル(霊媒・霊能者)さえ用意されれば、進むべき方向が示されます」

ヒギンソン───優秀なチャンネルであれば、あなたご自身も働きかけるのですね?

「当然です。大霊の力は、それを顕現させる能力をそなえた人を通してしか発現できません。それが霊媒現象の鉄則です。霊媒能力は神からの授かりものであり、努力して発揮させねばなりません。発揮するほどにますます発達し、実り多いものとなってまいります。豊かさと成熟度を増せば、それだけ受容度が増します。

 霊力は無限です。地上の霊媒を通して届けられる霊力は、使用されるのを待っている霊力の、ごくごく一部に過ぎません。その意味でも、われわれの働きかけに制限を加えるようなことがあってはなりません。

 あなたの率いる SNU は今後も生き残るでしょう。しかし、いろいろと改革が必要です。あなたが正しいと思うことを実行なさることです。あなたの良心、つまり神の監視装置が命じているのはこれだ、と確信するところに従って行動し、他の者が何と言おうと気になさらぬことです」

 ここでヒギンソン氏が各地のスピリチュアリスト・チャーチが取っている方法に高度な霊性が欠けていることに不満を表明してから

「物理現象の方に関心が偏り過ぎて、霊的教訓がおろそかにされております。これでよろしいものでしょうか」と付け加えた。するとシルバーバーチが───

「どちらも間違っておりません。高度なものであれば、現象を求めること自体は少しも悪いことではありません。いけないのは、霊媒が未熟で、いい加減で、品性が劣る場合です。

 現象は物理的であろうと精神的であろうと構いません。霊媒が能力的に優秀で質の高いものが披露できるのであれば、それはそれなりに有用です。要は交霊会で霊的能力が最高に発揮されれば、後はその能力の顕現が何を意味するかをしっかりと検討することです。

 霊的真理は、霊的意識の芽生えていない人にはなかなか理解してもらえません。そこで現象的なものが必要となるのです。しかし、いったん現象に得心がいったら、それをオモチャのようにいつまでも玩(モテアソ)んではいけません。

霊的な意義を考える生活へと切り換えないといけません。その人なりの悟りがきっと芽生えてまいります。魂の琴線に触れる体験がないといけません。これは、あなたの組織内の全ての指導者について言えることです」


ヒギンソン───失敗したスピリチュアリスト・チャーチの多くは、現象面に偏り過ぎたためということは考えられないでしょうか。霊界からのメッセージをもっと多く摂り入れれば生き残れるはずだが、と思えるところがあります。私が大きな関心を寄せているのはそこです。〝指導者会議〟の開催を提唱している理由の一つにそれがあるのです。

 「霊力が地上に届けられる目的は、明日はどうなるかを教えてあげるためではありません。日常生活において警告すべきことや援助すべきことがあれば、それは各自の背後霊が面倒を見てくれます。教会というものをこしらえて、そこを霊力の顕現する聖殿としたいのであれば、低俗なものを拒否し、高級なものを志向すべきです。

霊媒現象がただのサイキック(※)なものに止まるのであれば、せっかく教会を設立した意味がなくなります。
 
 ぜひともスピリチュアル(※)なレベルにまで上げないといけません。みなさんに知っていただきたいのは、霊の資質は、下等なものから高等なものへと、段階的に顕現させることができるということです。
それを、最下等のサイキックなレベルで満足しているということは、進歩していないということになります。停滞しているということです。自然は真空を嫌うものです」

※───サイキックとスピリチュアルの違いは、今はやりの超能力を例に取れば、スプーンを曲げたり硬貨をいったん気化して再び物質化して見せる───右の手に握っていた硬貨を左手に移したり、テーブルを貫通させて下に落とすなど───といったレベルがサイキックで、人体の腫瘍を溶解したり骨髄を再生したりする、いわゆる心霊治療になると、スピリチュアルのレベルとなる。高級なスピリットの働きが加わって人類のためになることをするものがスピリチュアルと考えればよい───訳者。



ヒギンソン───どうすればそれが理解してもらえるでしょうか。

「そういう方向へ鼓舞する、何か動機づけとなるものを与え、進むべき道を明示する必要があります。一つの基準を設ければ、みんなそれに従うようになるでしょう。従わないものは脱落していくでしょう。霊力というものは、ただの面白半分では顕現しなくなります。

 思い切って突き進みなさい。問題はおのずから解決されていきます。あなたは決して一人ぽっちにはされません。進むべき道が見えてきて、援助の手が差しのべられます」

そう述べて、その先駆者の名前をいくつか挙げてから、さらに言葉を継いで───
「こうしたスピリットたちが霊力をたずさえて、あなたのまわりに控えているのです。あなたが一人ぽっちでいることは決してありません」


シルバーバーチの交霊界は、インボケーションという神の加護を求める祈りで始まって、感謝の祈りのベネディクションで終る。その日のベネディクションは次のようなものだった。


 《無限にして初めも終りもなき存在である大霊への祈りに始まった本日の会も、同じ大霊への祈りで終ることに致しましょう。

  大霊からの愛の恵みを授かるべく、心を高く鼓舞いたしましょう。ふんだんに授かっている叡智と真理と知識に感謝いたしましょう。

 大霊の意志をわが意志とし、わが心が宇宙の心と調和して鼓舞するように、生活を規律づけましょう。
すべてを支配する力との調和と親交を求め、大霊の愛のマントに包まれていることを実感できるようになりましょう。

 皆さんに大霊の恵みの多からんことを》


訳者付記───SNUの会長、ゴードン・ヒギンソン氏は一九九三年一月に他界し(享年七十四歳)、エリック・八ットン氏(写真)が後任に選出されている。
 なおSNUよりさらに大きな団体であるISF(世界スピリチュアリスト連盟)の会長だったロビン・スティーブンス氏も同年六月に、わずか五十一歳で急死している。後任にはライオネル・オーエン氏(写真)が選ばれている。


   
クリスチャン・スピリチュアリスト協会の会長を招いて

 ヒギンソン氏が率いるSNUは英国の数あるスピリチュアリズムの組織の中心的存在であるが、同じくスピリチュアリズムを標榜していても、ちょっぴり毛色の違う団体もある。

 〝クリスチャン・スピリチュアリスト協会 〟The Greater World Christian Spiritualist Association(※)もその一つで、一九七七年に当時の会長ノラ・ムーア女史が招待されて、シルバーバーチと語っている。

(※)───〝クリスチャン〟を冠していることからも窺われるように、〝スピリチュアリズムを摂り入れたキリスト教〟といった色彩が強く、ヒギンソン氏などは〝都合のいい折衷思想〟として、事あるごとに批難している。が、シルバーバーチは〝組織〟とか〝名称〟にはこだわらず招待して、真理を語り合っている───訳者。

 
 当日、ムーア女史とともに招待されていたベテラン霊媒のネラ・テーラー女史が、霊媒としての仕事を通じて人のためにお役に立つことができてうれしく思っていることを述べると、シルバーバーチが───

「縁あって自分のもとを訪れる人たちに、生き甲斐を見出させてあげ、地上生活の目的を理解し、日常の体験の中から意義を悟るように、物の見方を変えるお手伝いができることほど大きな喜びはありません。

 私にとっては、そういう仕事をなさっている〝霊の道具〟をお招きすることができることを光栄に思います。お招きする理由は、霊媒が遭遇するさまざまな困難や難題がよく分かっておりますので、時には霊界側から直接励ましの言葉を述べて、今たずさわっておられる仕事がいかに大切であるかを再認識して頂く必要があるからです。霊媒も人間である以上は、やはり迷いがあります。

 一人間として生きて行くからには、世俗的な苦難に耐え切れなくなる時もあります。そんな時には、あなたが手にしておられる崇高な霊的真理にしがみつくことです。きっと世間の荒波を耐え忍ぶための堅固な心の支えになってくれるはずです」


テーラー ───分かりました。さよう心得てまいります。

「ご自分がこの地上で為し遂げるべきものが何であるかを自覚しているかぎり、本来の霊的自我に危害が及ぶような事態は、この地上には何一つ生じません。
 ですから、大胆不敵な魂を失ってはなりません。毅然たる姿勢を保ち、まぎれもなく大霊の使者であることを人に示すことです」

続いてムーア女史に向かって───
「前回お会いした時に比べて、ずっと明るくなられましたね。ご自分の身の処し方を会得なさったようですね?」

ムーア───そう思います。これも(夫君で前会長の)フレッドを始めとする霊団側のお力添えがあってのことと存じます。


「ご主人はあなたのもとを去ってはいないことが、これでお分かりでしょう?」

ムーア───よく分かりました。


「真実の愛によって結ばれた者どうしは決して離ればなれにはなりません。死は愛と生命に対して何も為し得ません。生命と愛は死よりも強いのです。人間的な愛も、無限なる愛の一つの表現です。あなたはこの宇宙の中の誰よりも身近かな存在である方からの愛をずっと受け続けておられる、大変お幸せな方です。

 ご主人は今なお、地上でたずさわっておられた仕事を続けておられ、彼なりの貢献をなさっておられます。その必要性をよく認識しておられます」

ムーア───はい、私もそう信じております。ただ、わたしたちは今、世俗的な面で多くの難題に直面しております。

「これはまた捨ておけない課題を提供してくださいましたね。あなたは真理と霊力とがもたらす威力を知らずにいる人たちにそれを知らしめる仕事をなさっている、大変恵まれた方です。生き甲斐のある生き方を教えてあげることほど偉大な仕事は、ほかにありません。

 あなたにとっての悩みは、永遠不変の霊的真理を理解する人がこの地上においては極めて少数派であることから生じております。

 でも、やはり霊的真理こそが、今日の地上世界でいちばん求められている〝霊的意識の回復〟という大仕事にとって、その手段を提供してくれる生命線なのです。

 そこで私は、常づね、同志の方に申し上げております───愛する者を奪われた人をたった一人でも慰めてあげることができたら、病をかかえた人をたった一人でも治してあげることができたら、苦悩のさ中にある人に解決策を見出させてあげることができたら、それだけであなたの全人生が無駄でなかったことになるということです。

 地上世界には暗闇が多すぎます。無知が多すぎます。利己主義が多すぎます。物質偏重の度が過ぎます。そうした中にあって、こうした崇高な仕事に携わっていることを光栄に思わないといけません。

 さて、あなたのおっしゃる物的側面での問題ですが、霊的な側面をきちんと整えておけば、物的な面もきちんと整います。なぜならば、物質は霊の反映に過ぎないからです。物質には独自の存在はないのです。霊なくしては物質の存在は有り得ないのです。全存在を動かし、生命を賦与しているのは、霊なのです。あなたはその霊の力を使ってお仕事をなさっているのです」



ムーア───ですばらしいことだと思います。

「これは大変なことなのです。ところが、あなたも人間として生きて行く上での必需品のことにかまけて、つい、その事実を忘れてしまいがちです。現代の生活はとくに、経済的要素が厳しくなっております。

 しかしバイブルには〝まず神の王国とその義を求めよ。さらば、それらのものはおのずから整うべし〟とあります。また、〝地球とそれに満つるものとは、みな主のものなり〟とも言っております。こうした言葉は、優先させるべきものを優先させ、霊的摂理と物的法則にかなった生き方をしていれば、すべてがきちんと整うことを教えているのです。

 次の言葉もご存知でしょう。

 〝野のユリはいかに育つかを思え。労することもせず、紡(ツム)ぐこともせざるなり。されど、われ汝らに告ぐ。栄華を極めたるソロモンの服装(ヨソオイ)も、そのユリの花一つにも及ばざりき〟

 これは、自然の摂理に調和した生き方をしていれば、必要なものはその摂理が用意してくれるという意味です。病気も、見た目には肉体が病んでいるように思えても、精神と霊と肉体とが調和していないことから生じているのです。その意味では、何も思い煩うことはないのです。

 こう言うと、〝あなたは地上の人間でないから、そんなきれいごとが言えるのですよ〟と言われそうですね」


ムーア───私たちとは異なる視点からご覧になるからでしょう。

「でも、こうして地上界へやってきて、全生命の基本的原理を説くことをしなかったら、私たちは使命を果たしていないことになります。私たちは決して、物的側面での義務までもおろそかにしなさいとは申しておりません。物質面にはそれなりの存在意義があります。それを無視してはなりません。

しかし、何よりも大切である霊的原理を無視するのも同じく間違いです。根元的には全てがそれによって生じているのですから。
 ほかに何かお聞きになりたいことがありますか?」


ムーア───いっぱいあるのですが、これまでのお話で自然に解決してしまったものが幾つかあります。とにかく私は、私自身を役立てるチャンスが与えられることを、何よりも有り難く思っております。言葉で言い表せないほど感謝しております。私には使命があると言い聞かされております。

 「それを果たすまでは地上を去ることは許されませんよ。人のために役立つことをすること(サービス)が最高の宗教です。サービスは霊の通貨です。崇高な通貨です。すでに何度も申し上げてきたことですが、何度でも繰り返すだけの価値があるのです。

 あなたは霊的真理の生ける証人です。これまでに啓示された知識に忠実に生きていれば、全てのことが収まるべきところに収まります。そのことに関連して私がいつも同志の方たちに申し上げているのは、スピリチュアリズムのお蔭で信仰に知識を加えることができたとはいえ、時には、知識に信仰を加えないといけないことがあるということです。地上にあるかぎり全てのことを知ることはできないからです。

 これまでに手にしたものに感謝し、毎日を不安の念ではなく素晴らしい霊的可能性を秘めたものとして、大いなる期待の念をもって迎えてください。

 同志の方たちにもよろしくお伝えください。今たずさわっている霊的真理普及の仕事に献身しておられる方たちに対して、私たちはいつも尊敬の念を抱いていると伝えてください。

素直な心の持ち主ばかりで、霊界からの援助に浴していらっしゃいます。あなたと同じように、まだまだ果たすべき仕事がたくさん残っております」

 今は亡き夫君のフレッド・ムーア氏のことに言及してムーア女史が「あの人は生涯をこの仕事とともに生きた人でした」と言うと

 「今でもそうですよ。彼にとってはあなたがこの仕事そのものなのですから・・・この仕事は何ものにも代え難い大切なものだと、今おっしゃっていますよ」

ムーア───私と彼とは互いに一つの魂の片割れだと、彼が言ったことがあります。

 「そうです、アフィニティ(※)どうしがいっしょになったのです。類魂が地上生活で出会って結ばれるということは、そう滅多にあることではありません」

※───affinity 同系統の魂の集まりを類魂 group souls と呼ぶが、その中でも最も親しい関係にある魂どうしのこと。語原的には〝親和性の強い関係〟といった意味であるが、そのことと、人間的に好きになったり愛を感じたりすることとは必ずしも一致しない。

前世の問題と同じで、事実としては存在しても、脳という物質を通しての知性であげつらうべきものではないと私は考えている───訳者。



 
 メキシコのスピリチュアリストと語る

 その日のもう一人の招待客は、今は亡きメキシコのスピリチュアリズムの指導者、ケネス・バ二スター氏の娘ミリアム・リアリー女史だった。バニスター氏がスピリチュアリスト・センターを設立した時に、シルバーバーチがその開所式でお祝いの言葉(霊言)を贈ったいきさつがある。

リアリー ───私たちセンターの者はあなたのことを親愛の情をもって思い出しております。その後もずっとあなたの霊訓を心の支えにしております。あなたに対して一種の愛情を抱いております。

 「私の方こそセンターのみなさんに愛情を抱いております。ゆっくりではありますが、着実に仕事が進行し、障害が取り除かれていきつつあることを大変うれしく思っております。お父さんが計画なさった通りに進行しております」

 リアリー ───素晴らしいことです。きっと父も援助してくれているものと確信しております。それを実感しております。

 「当然のことです。あなたはその若さでこうして霊的知識を手にされて、大変お幸せな方です。だからこそ目に見えない霊力によって導かれていることが自覚できるのです。

 メキシコはまだまだ課題が山積しております。私が連絡を取り合っている地上の多くの国の中でも、暗黒部分の多い国に入ります。しかし、霊の世界からの働きかけの存在を自覚する人が増えるにつれて、事態は少しずつ改善へ向かっております」


リアリー ───あなたは、霊的に正しければ物的な側面も自然に収まるとおっしゃっていますが、動物の世界のことはどう理解したらいいのでしょうか。霊的には少しも悪いことはしていないのに、人間によって虐待され、屠殺され、悪用されております。

 「動物と人間とは、その属する範疇が違うのです。人間には正しい選択をする責任が与えられているという点において〝自由意志〟 の行使が許されているということです。その使い方次第で進化の計画を促進する力にもなれば妨害することも有り得ます。

そこに、この地球という天体を共有する他の生物をどう扱うかを選択する自由意志の行動範囲があります。もちろん限界はありますが・・・・・・。


 現在の地上世界はその自由意志の乱用が多すぎます。その中でも無視できないのが、動物の虐待行為と、食用のための乱獲です。しかし、そういう事態になるのも、人間に自由意志が授けられている以上やむを得ない、進化の諸相の一面として捉えないといけません。自由意志を奪ってしまえば、個性の発達と進化のチャンスが無くなり。そこが難しいところです」


リアリー ───どうしてそういう事態の発生が許されるのかが私たちには理解できないのです。

「〝どうして許されるのか〟という言い方をなさるということは、人類から自由意志を奪ってしまった方がいいとおっしゃっていることになります。

繰り返し申し上げますが、自由意志を奪ってしまえば、人類はただの操り人形になってしまうことになり、内部の神性を発揮することができなくなってしまいます。霊的な属性が進化しないとなると、地上に生まれてきた意味がすべて失われます。

 地上世界はある人にとっては託児所であり、ある人にとっては学校であり、ある人にとってはトレーニング・センターです。いろいろな事態に直面し、それを克服しようと四苦八苦するところに意義があるのです」


サークルのメンバー───われわれ人間の目に不公平に思えるのは、人間がそうやって自由意志で行っていることが間違っている場合に、その犠牲になっているのが無抵抗の動物たちであることです。人間が過ちを犯し、そのツケを動物が払うという関係は、どこか間違っているように思えるのです。

「では、あなたはどうあればよいとおっしゃるのでしょうか」


───人間が間違いを犯した以上は、動物ではなくて人間みずからがツケを払うということでないとおかしいと思うのです。

「埋め合わせと償いの法則というのがあります。人間はその行為によって、善悪それぞれに、霊的にそして自動的に影響を受けます。因果律というのは逃れようにも逃れられません。不当な行為を受ければ埋め合わせがあり、その行為者は償いをさせられます。それが自然界の摂理なのです。

 身に覚えのないことで不当な苦しみを受けた人には、それなりの埋め合わせがあるように、人間の身勝手な行為の犠牲になっている動物にも、ちゃんとした埋め合わせがあります」


別のメンバー───この調子では動物への虐待行為を人類が思い止まる日は来そうにないように思えるのですが・・・・・・

「いえ、そうとも言えませんよ。人類は、徐々にではありますが、他の創造物への義務を自覚していくでしょう。一夜にして残虐行為を止めるようになるとは申しておりません。みなさんは進化の途上にある世界において進化しつつあるところです。

一見すると同じことの繰り返しのようで、全体としては少しずつ進化しております。進化とはそういうものなのです。無限の叡知と愛によって、地上のあらゆる存在に対してきちんとした配慮がなされていることを理解なさらないといけません」

別のメンバー───現在の動物の残酷な扱われ方は、どうみても間違っております。が、徐々にではありますが、動物の肉を食べ過ぎているのではないかという反省が生まれつつあるようです。


リアリー───そういう行為が残酷であることを立ちどころに思い知らせるようであって欲しいのです。人間はその辺をうまく擦りぬけているように思います。

「罰を擦り抜けられる者は一人もいません。法則は必ず法則どおりに働くのです。地上生活中にその結果が出なくても、こちらへ来て償いをさせられます。いかなる手段をもってしても、因果律を変えることはできないのです。不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。原因があれば必ず結果が生じるのです。

 誰ひとり、悪行の結果を擦り抜けられる者はいません。もしそれが可能だとしたら、大霊が大霊であるゆえんである〝公正〟というものが崩れてしまいます。

 こうした問題においていつも私が強調しているもう一つの側面があります。それは、残念ながら人間には長期間の展望がもてないということ、いつも目先のものしか目に入らないということです。みなさんには地上での結果しか見えないのですが、こちらの世界へ来れば、すべてがきちんと清算されていることが分かります」

リアリー ───人間はせっかちなのです。

「その点は先刻承知しております。一人でも多くの人が人類としての義務を自覚できるように、みなさんに可能な限りの努力をなさることです。オオカミが小ヒツジといっしょに寝そべる日が一日も早く到来するように祈ることです。進化は必ずやその目的を成就することになっているのです」 

ムーア───人間がもっと自然で神の意志に適った生き方ができるようになれば、あれほどまで多くの動物を実験材料に使わなくなると思うのです。

「おっしゃる通りです。ですから、われわれ真理を知った者は、いつどこにいてもその真理の普及と啓発のための努力を怠らないようにしなくてはなりません。

障害を一つ取り除くごとに祝盃を上げるべきです。霊力はゆっくりとした進化によって地上に根づいていくものでして、急激な革命によって一気に行なわれるものではありません。

 大自然の摂理から外れて、奥に秘められた莫大なエネルギーから遠ざかるようなことをしていては、いつかはその代償を支払わなければならなくなります。人間は霊的属性、霊的潜在力、霊的可能性を秘めた霊的存在なのです。自分以外の地上の生命、特に動物がそれ本来の生き方ができるように指導する力量をそなえているのです。

 神の計画は必ずや成就されることになっています。それを人間の愚行によって遅らせたり邪魔だてしたりすることはできても、完全に挫折させてしまうことは絶対にできないのです」


 シルバーバーチの交霊会の恒例として、最後にサークルのメンバーの一人ひとりから個人的な悩みごとの相談を受けることになっていた。それが終わったあと、出席者全員に向かって次のようなメッセージを述べた。

「 みなさんが遭遇する問題について、私はそのすべてを知っております。とくに何人かの方とは、地上的表現でいう〝ずいぶん永いお付き合い〟を続けております。生活上でもいろいろと変化があり、悩みごとや困難、避けられない事態に対処していかれる様子をこの目で拝見してまいりました。

ですが、今こうしてお会いしてみて、魂に何一つ傷を負うことなく、そのいずれをも見事に克服してこられたことが分かります。

 遭遇する問題の一つひとつを、あなたへの挑戦と受け止めないといけません。障害の一つひとつが挑戦なのです。ハンディキャップの一つひとつが挑戦なのです。

地上生活では挑戦すべき課題が次から次へと絶え間なく生じます。しかし、いかに強烈でも、いかに強大でも、あなたの進化を妨げるほどのものは絶対に生じません。大切なのは、それにどう対処するか───その心の姿勢です。

 自分の霊性の発達にとって、どういう体験が大切であるかの判断は、あなた方自身にはできません。大きな全体像の中のごく限られた一部しか目に入らないために、あなた方自身が下す判断はどうしても歪められたものとなります。

 ですから、体験の価値をうんぬんしていないで、とにかくそれを克服していくのです。きっと克服できます。克服するごとに霊性が強化されていきます。身体は不完全であり、弱さを持っております。あまりのストレスに負けて、体調を崩すことがあるかも知れません。

 しかし、あなた方の宿る霊性は大霊の一部なのです。霊は、潜在的には完ぺきです。すべてを克服していく資質を秘めております。その認識のもとに対処すれば、きっと克服できます。このことを語気を強めて申し上げるのは、それが私たちの教えの中枢だからです。

 私の教えによって救われたという感謝の言葉をよく聞かされます。が、私の教えではないのです。私よりはるかに叡知に富んだ高級界の存在から私が預かったものなのです。しかし、地上界にそういう教えを受け入れてくださる方がいることを知ることは、大変うれしいことです。

そういう方は霊的な受け入れ態勢が整っていたことを意味し、これから後も大霊の無限の恵みに浴していかれることでしょう。

 私も含めて、ここに集まっておられる人たちは大変な光栄に浴していることを知らねばなりません。これまでに啓示していただいた叡知を、大霊に感謝いたしましょう。しかし同時に、それだけの啓示に浴することができたのなら、もっともっと多くの啓示に浴せる可能性が待ち受けていることも知ってください」
                                                    

Thursday, January 2, 2025

シアトルの冬 霊的真理は不変です

Spiritual truths are immutable.

シルバーバーチの霊訓―スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ


残念ながらシルバーバーチは地上時代の身元を最後まで明かしてくれなかった。わかっているのは間違いなく大変な高級霊であること、そして地上と交信するための中継役として、かつて地上で北米インディアンだった人物を霊界の霊媒として使用していたということだけである。「地上時代のわたしは沢山の神様(ゴッド)を崇拝の対象としておりました」というのが、唯一、自分の地上時代のことに言及した言葉である。

そう述べた日の交霊会は次の言葉で始まった。


「生半可な知識は危険であるとよく言われますが、時として知識が多すぎても危険であることがあります。その知識が間違っている場合はとくにそうです。

ある種の知識が脳を占領してしまうと、知性がその脳を通して自由に思考するゆとりがなくなります。その意味で、学び直すべきことや捨てなければならないことが沢山ある“聖職者”を、わたしは気の毒に思います。その思想は人工の砂を基盤としているために、霊的真理の攻勢を受けて、今、揺らぎはじめたその砂上の楼閣を守ろうと必死になっております。

建て方を間違っているのです。ナザレ人イエスのまわりに作り話を寄せ集め、ついに生命の大霊の座に祭り上げてしまいました。しかし、基盤そのものが間違っておりますから、いつかはそれを改めなければならない事態に至ります。が、イザ改めようとすると恐怖心が湧いて出ます。そこで、彼らはキリスト教の教義には何一つ改めるべきものは残されていない――そんなものは有り得ないと言い張っているのですが、それは“事実”ないしは“自然の法則”を基盤としている場合にのみ言えることです。

わたしたちが、地上へ舞い戻ってきた理由はそこにあります。すなわち、いかなる人物であろうと、いかなる書物であろうと、いかなる教会であろうと、いかなる指導者であろうと――それが地上の存在であっても霊界の存在であっても――たった一つのものに盲従してはいけないこと、それよりも大霊が定められた大自然の摂理に従いなさい――これだけは絶対に誤ることがなく、絶対に正しいから、ということを説くためです。

わたしたちが大自然の摂理、それのみを説く理はそこにあります。それをスピリチュアリズムとお呼びになるのは結構です。ただし、あくまでもそれが大霊の定められたものであること、その働きは地上の物的生命も死後の霊的生命も含めた宇宙のあらゆる界層に及んでいることを理解した上ならば、ということです。

地上人類は指導者(リーダー)というものを必要以上に重んじすぎます。そしてその真価を超えた誇張をしてしまいます。そこから神学という厄介なもの――科学者にとって、思想家にとって、そしてまた、本来ならば自由闊達で理性が承知しないものは受け入れたくない誠実な人にとって、大変厄介なものをこしらえてしまったのです。

わたしたちが大霊の摂理を強調する理由はそこにあります。それを正しく理解することによって、すべての知識が生かされるのです。それだけは決して科学者や哲学者や自由思想家、その他いかなる分野の人の知性も反発させることはありません。永遠にして不変・不易の大霊の働きを基盤としているからです。

皆さんは今、霊界での審議会で用意された叡智がこのわたしを通して届けられるのをお聞きになっていらっしゃるのです。それを広めることによって地上人類の叡智と理解力とが増すにつれて、生活が大霊の御心にそったものとなるでしょう。摂理にのっとったものとなるでしょう。地上世界の悲劇と飢餓、苦労と心痛は、すべてその摂理に従った生き方をしていないところから生じていることを悟るようになるでしょう。その理解が深まるにつれて大霊の庭の美しさを見えなくしている醜い雑草がなくなっていくことでしょう。

それを目標としてわたしたちは、人類の魂を解放し、精神を自由闊達にするだけでなく、物的身体も自然の法則と調和した健康を享受(エンジョイ)できるようにしてあげようと努力しているのです」

ここでシルバーバーチは、自分がほぼ三千年前に地上生活を終えて霊界入りしてからの体験について興味ぶかい話をした。


「わたし自身、そういう考えに到達するまでには、ずいぶん長い年月が要りました。それというのも、地上時代のわたしは沢山の神様(ゴッド)を崇拝の対象としていたのです。その考えを改めて、この宇宙には唯一絶対の大霊が存在し、それが果てしない全大宇宙のあらゆる生命現象をコントロールする永遠・不変の摂理として顕現しているという考えを否応なしに認めざるを得なくなったのです。

こうした教えが地上に行きわたれば、人間界のすべての分裂が無くなります。国家間の障壁がなくなります。人種・階級・肌の色による差別、(英国教会系の)教会(チャーチ)、(非国教会系の)教会堂(チャペル)、(キリスト教以外の)聖堂(テンプル)、(イスラム教系の)寺院(モスク)、(ユダヤ教系の)礼拝堂(シナゴーグ)といった区別がなくなります。それぞれが大霊の真理の一部を宿しており、他の宗教が真髄としているものは自分の宗教が真髄としているものと少しも矛盾しないことが少しずつ解ってくるからです。

かくして表向きは混乱しているかに見えても、その中から霊的な原理が形を整え、調和と平和を生み出します。こうしたことを申し上げるのは、ここにお集まりの皆さんには、そうした大霊の大計画をぜひとも理解していただきたいからです。それは、わたしたち霊界から戻ってきた者が果たさねばならない役目であると同時に、皆さんのお一人お一人が地上生活を終えるまでに果たさねばならない役目でもあります」

シルバーバーチはイエスの復活を“奇跡”とするキリスト教の教えを否定するが、時あたかもその復活を祝うイースターの交霊会で次のように述べた。


「キリスト教界では“死者”から蘇った一人の人間、死後その姿を見せ“死”の彼方にも生命があることを証明してみせた人物に、最大級の敬意を表しております。イエスはその現象によって自分がほかならぬナザレ人イエスであることを証明するために、処刑された時の傷あとまで見せました。一度だけではありません。その後も何度か姿を見せております。

キリスト教界ではそうしたことのすべてを、その証拠はないのに事実であると信じております。そして、それはイエスのみの奇跡であったと主張します。

実はわたしたちもイエスが使用したのと同じ心霊法則によって地上へ戻り、“死”の彼方の生命の実在を証明しております。すなわち大霊はイエスの時代も今の時代もいささかも変わらず、その法則の働きも不変であり、当時の一個の人間が蘇ったごとくに今もすべての人間が蘇ることを証明しております。復活というのは生命の大霊の摂理の一環であるからにほかなりません」

メンバーの一人が「イエスの復活は聖書に述べられている通りだったのでしょうか」と尋ねた。


「大体あの通りでした」

「石の蓋は本当に取り去られたのですか」


「本当です」

「なぜ取り除く必要があったのでしょうか」


「あれはただ蘇りを象徴するためにしたことです」

「イエスの死体はどうなったのでしょうか」


「分解されてしまいました(※)。もっとも、その現象も含めて、霊の姿が見えるとか声が聞こえるとかの物的現象は大して重要なことではありません。それよりもっと大切なことは、あなた方自身の霊性を開発することです。毎週一回この会に出席することによって皆さんは霊的波長が高まり、それだけ高度な叡智を受け入れやすくなっておられます。霊的叡智はいかに高度なものでも常に物質界へ流入しようとしてその機をうかがっているのです。奉仕(サービス)の法則がそうさせるのです。しかし実際は地上界へ流入するには、その波長に感応してくれる道具が必要となります。

また、皆さんの霊性が開発されて波長が高まるにつれて、より高度でより大きな霊的エネルギーを捉えることができるようになります。それは、皆さんの目で見ることも耳で聞くこともできませんが、永遠の霊的実在の世界のものなのです。

それこそが実在なのです。人間は一日の大半を影を追い求め、幻影を捉えようとし、束の間のものにしがみつこうとしています。しかし本当は静寂の中においてこそ、調和と愛の中においてこそ、魂は成長しているのです。遅々としてはいますが、しかし確実であり着実です。それは皆さんの一人ひとりの内部に潜在する大霊が開発され進化するということです。その点、皆さんは毎週一回この一つの場所に一つの信念のもとに集うことによって、霊性がますます発揮されることになります。

イエスも二千年も前に、二人または三人の者が集えば、そこに父の聖霊が降りるという意味のことを述べております(祈祷(きとう)書)。わたしたちも、それとまったく同じことを説いているのですが、キリスト教の聖職者はそれを否定します。

真理は変わらないのです。人間の考えは変わりますが、真理は不変です。なぜなら真理には事実という知識の土台があり、知識は大霊から届けられるからです。大霊こそあらゆるインスピレーションの中心であり始源です。話はいたって簡単であり誰にでも理解できることです。ところが地上世界ではそれが大変ややこしいものになってしまったのです」


※――心霊現象の一つに物品引寄(アポーツ)というのがある。すぐ隣の部屋からでも一キロ先からでも海の向こうからでも物品を実験室のなかへ持ち込むという現象で、実験室のドアは完全に密閉されているから、その物品はいったん分解(非物質化)されてエネルギーの状態で実験室へ持ち込まれ、そこで元の形に再物質化されているとしか考えようがない。イエスの死体が分解されたのも同じ心霊法則によるものであり、法則に従っている以上はシルバーバーチが言うように奇跡ではないわけである。ちなみに空飛ぶ円盤などの未確認飛行物体、いわゆるUFOは遠い星から飛来していると推測されているが、私は、これも地上的距離の常識を超えた空間を飛来するからにはアポーツと同じ原理を利用していると考えている。

シルバーバーチはこのイースターとクリスマスに開かれる霊界における大審議会に出席を許されている高級指導霊の一人であるが、その日もそのことに言及してこう述べた。


「そこには高遠の世界においてのみ味わえる喜び、この大事業にたずさわっている光り輝く存在――地上生活を終えたのち幾世紀にもわたる開発と進化の末に“指導する”資格を身につけた高級霊のみが味わうことのできる喜び、それが満ち満ちております。

しかし、それにも増してわたしは、その大審議会を主宰される、かつて地上で“ナザレ人イエス”と呼ばれた人物が、わたしたちの業績に逐一通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的をもって邁進するようにと励ましてくださる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し、聞き、そして感じ取らせてあげられればと思うのですが、それができないのが残念です。

もとよりそれはキリスト教によって神の座に祭り上げられているイエスではありません。数知れない霊を通して人類に働きかけておられる一個の偉大なる霊なのです。

その本来の界層に留まっているのは短い期間なのですが、わたしはその間に改めて生命力あふれる霊力、力強さと美しさとにあふれるエネルギーに浸ります。それに浸ると、生命とは何かがしみじみと感じ取れるのです。わたしはこのことをあくまで謙虚な気持ちで、あるがままに申し上げているつもりです。見栄を張る気持ちなど、ひとかけらもございません。

かりに世界最高の絵画のすべて、物質界最高のインスピレーションと芸術的手腕、それに大自然の深遠にして壮大な美を全部集めて一つにまとめてみても、わたしの本来の所属界の荘厳美麗な実在に較べれば、いたってお粗末な反映ていどのものでしかありません」

そうした真と善と美にあふれた世界での生活をお預けにして、霊団を引き連れて地上世界の霊的覚醒という大事業にたずさわってきたシルバーバーチは、その成果について感慨をこめて次のように語った。


「そうした努力の甲斐あって、今や地上世界全体にその成果が行きわたりつつあることをわたしたちは誇りに思っております。悲しみに沈んでいた心が明るさを取り戻しております。陰気な暗闇に光明の光が射し込みました。無知が存在するところに知識がもたらされました。臆病な心に勇気をもたらし、人生に疲れた人に力を与え、道を見失った人たちを鼓舞し、大霊とその子等のために献身する人たちの背後には強力な霊の集団が控えてそれを応援してくれている事実を認識させました。

さらにわたしが嬉しく思うのは、皆さんが永遠に失ったと思い込んでおられた愛する人、あなたを愛してくれていた人が今も健在であることを証明してあげることができたことです。それによって皆さんは、生命がこの宇宙から消えてなくなってしまうことが絶対にないこと、死は愛と情と友愛によってつながっている者を切り離すのではなく、反対に、霊的には一段と親密なものとする事実を認識することができます。

それにしても、わたしがつくづく残念に思うのは、わたしたち霊団の影響力がどれほど大きいかをお見せできないことです。どれほどの障壁を破壊し、どれほど多くの障害を取り除き、どれほど多くの霊的知識をお届けしたことでしょう。地上世界は今こそそれを必要としているのです。いたって単純で素朴な真理ではありますが、それが霊的自由と精神的自由と物的自由とを地上にもたらすことになるのです。

ご存知のように、生きるということはお互いがお互いのために役立つことです。地上人類が救われる道は互助の精神を実践することそれ一つにかかっており、それ以外にはないのです。

聖霊の働きを“昔の話”と思ってはいけません。イエスを通じて働いた力が今ふたたび働いているのです。当時のユダヤ教の指導者がイエスを通して働いた大霊の力を信じないでそれを悪魔の力と決めつけたのと同じように、現代のキリスト教指導者も同じ大霊の力が今日も働いていることを信じようとしません。しかし、われわれを磔刑(はりつけ)にしようとしないだけ、人類も進歩したようです。

イエスの崇高な偉大さは二千年前だけで終わったのではありません。現代でもなお続いているのです。イエスは今どこにいらっしゃると思われますか。イエスの物語はエルサレムで終わったとお考えでしょうか。地上世界が苦しみと痛みと困難とに満ち満ちている今、あの偉大なる霊はどこでどうしておられると思われますか。

わたしたちを軽蔑し悪魔の使いであると決めつける人たちは、二千年前にナザレ人イエスに同じ非難の言葉を浴びせた者たちと同列です。わたしたちは同じ大霊の力をたずさえて参っているのです。同じ霊現象と同じメッセージ、すなわち“喪の悲しみの中にいる人を慰め、病いの人を癒し、暗闇の中にいる人に光明をもたらし、人生に疲れた人に力を与え、無知の人に知識を授けてあげなさい”という教えをたずさえてきているのです。

わたしたちも大霊の使いです。地上生活を終えたのちの永い体験によって地上人類としては他の霊に較べて少しばかり進化を遂げました。そこで、その体験をたずさえて引き返してきたのです。互いに扶助し合うということが生命の大原則だからです。互助のないところには荒廃があるのみです。互助のあるところには平和と幸福があります。地上世界も互助の精神によって新しい秩序を生み出さないといけません。いたって簡単なことなのです。が、それを人間が難しくしているのです」

別の日の交霊会で――


「地上というところは妙な世界です。霊の目をもってご覧になれば、人間が愚かなことばかりしていることに呆(あき)れるはずです。いずれはチリと化してしまう、どうでもよいものを後生大事にし、永遠の宝である霊的なものは疎(おろそ)かにしております。霊的な価値が理解できないのです。その場かぎりの愉しみや喜びばかり求め、その物的欲望に埋もれて、肝心の霊性が顕現する機会がほとんどありません。

しかも、そうした地上かぎりの所有物を多く蓄積した者が“偉大な人”とされます。どうせ滅びてしまうものを集めようとする人と、永遠に残るものを集めようとする人のどちらが“偉大な人”でしょうか」

「イエスもそのことを言ってますね」とメンバーの一人がマタイ伝に出てくる砂の上に建てられた家と岩の上に建てられた家の譬え話を持ち出した。


「そうです。またイエスは、虫にも食われず錆つくこともない天国の宝の話もしております。にもかかわらず、そのイエスへの忠誠を告白している聖職者みずからが大邸宅を構え俗世的なものを大切にしております。

皆が皆そうだと言っているのではありません。中には自分を忘れて人のためにという燃えるような情熱に駆られて奉仕活動に献身している人がそこここにいらっしゃいます」

話題が心霊治療に変わって――

「霊界の治療家は治癒力をどうやって地上の治療家を通して患者に流入させるのでしょうか。地上の治療家は体質的にふつうの人間と違うのでしょうか」

この質問に対してシルバーバーチは、前置きとして、ここでは磁気療法その他の方法は除外して霊的エネルギーによる治療にのみ限ることにしますと述べてから――


「人間のすべてが例外なく霊的資質を宿しております。ただそれが発現しやすい段階にまで来ているか否かの差があるだけです。いずれにしても努力次第でそれが開発されて背後霊とのつながりが一層緊密なものとなります。調和が高まり、緻密となり、そして緊密となるわけです。

治療家と背後霊団の双方から出る霊的放射線が美事に調和し、その調和状態が頂点に達した時は一本の霊光となります。その頂点へ少しでも近づけば、それだけ治癒力もより高いもの、より大きいもの、より強力なものが霊団と治療家を通して流入するようになります」

お別れのメッセージ


惜別の涙の中にも霊界でわたしを待ちうける喜びを秘めて、わたしは皆さんのもとを去ります。(*“惜別の涙”はただの美辞ではなく、実際に霊媒の頬を涙がつたわったという)。

今夜はことのほか重々しい空気に包まれております。こうしてお別れを言いに出てくるのはあまり気が進まないのですが、しかしもう帰らねばならないのです。皆さんとお別れするのは辛いのですが、同時にわたしには喜びにあふれた本来の住処(すみか)に帰れるという愉しみもあります。

できることなら皆さんも一所にお連れしたいのです。そうすれば人間の目には隠されている美しいものを見、霊の実在を目(ま)のあたりにし、この仕事にたずさわっている高級霊にもお会いになれるのですが、残念ながらそれができません。

実は皆さんの睡眠中に途中まではお連れしているのです。ですが、その間の記憶を肉体を通しての意識に留めることがおできにならないのです。

肉体に閉じ込められ、五つの粗末な感覚でしか表現できない皆さん方には、霊の自由とはいかなるものかは到底実感できません。その自由を満喫し、より大きい世界の美しさ、そこに満ちあふれる生命力、目も眩まんばかりの景観と荘厳なる響き、その詩情、その音楽、その愛を味わえることの喜びは、到底皆さんには実感できません。

お別れは辛いのですが、そこがわたしの本来の住処なのです。そこへ戻って、しばしの間、本来の喜びに浸ります。地上からのおみやげとして、皆さんからいただいた愛――われわれを結びつけ一体化している、掛け替えのない愛をたずさえてまいります。その愛が今なおひしひしとわたしに届いてくるのが感じられ、わたしからも、持てる愛のすべてをお返しいたします。

ではしばしの間お別れいたしましょう。有り難くも授かることができた霊的真理を大霊に感謝して、改めて勇気を奮い起しましょう。

その恩典に感謝するとともに、さらに次元の高い界層へ近づくべく精進いたしましょう。そして強大なる霊の力に浸ってください。

常に大霊へ向けて歩みましょう。心を大霊の愛で満たし、精神を大霊の知識と叡智とで満たしてください。

常に大霊の意志に波長を合わせるように心がけてください。大霊とその摂理と一体となるのです。そして物質界に顕現している大霊の律動(リズム)と調和(ハーモニー)の中で生きるのです。

Wednesday, January 1, 2025

シアトルの冬  啓示の源は一つ ──神は真理を提供するのみ

There is only one source of revelation - God provides the truth.

霊 訓  ステイントン・モーゼス著 近藤千雄訳

十 一 節


 〔この頃には迫ってくる例の影響力が一段と強くなり、他の通信が一切締め出されてしまった。七月二十四日に私のほうからいつもの霊に通信を求めたがダメだった。その影響力には不思議と精神を昂揚させるものがあり、それが精神活動を完全に支配していた。日常生活はいつもの通りに行っていたが、その合間に一分一秒でも割いて、その影響力と、私にとって目新しい訓えのことを考えた。

考え始めるとすぐにその影響力が中に割りこんできて、かつて感じたことない力と物静かな美しさで迫ってくる感じがした。それまで私は神学を長年に亙って広く深く勉強してきたが、数ある教説もあら探しをする意図のもとに読んだことは一度もなかった。辻褄が合わない点も、批判するよりむしろうまく繋ぎ合わせるようにしたものである。

ところが今や私にとって全く新しい考え──それまで金科玉条として受け入れて来たものの多くを根底から覆しかねない思想を突き付けられている。七月二十六日、私は前回のイムペレーターの通信に再び言及してこう述べた──〕

──あなたの述べられた事柄についていろいろと考え、日頃尊敬している同僚に読んで聞かせたりもしました。何と言っても私たちが信仰の基本として教え込まれて来たキリスト教の教義が、事もあろうに、十字架の象徴(しるし)のもとに否定されていることに驚きを禁じ得ません。

私の置かれた窮地は言葉で尽くせるものではありませんが、敢えて表現させていただけば、確かにあなたのおっしゃることは知的には理解できても、過去一八〇〇年以上もの長きに亙って存在し続けて来たキリスト教信仰が、たとえ理屈では納得できるとは言え、これといった権威ある立証もない教説によって軽々しく覆されては耐(たま)らないという心境です。

一体あなたはイエス・キリストをどう位置付けるのか、またイエスの名のもとに訓えを説くとかと思えば否定し、古い福音に替えて新たな福音を説いたりする行為を、一体いかなる権能のもとに行うのか、お尋ねしたい。

またあなた自身の地上での身元の確認と、あなたが公言される使命の真実性を証明するに十分な証拠をお示し願いたい。合理的思考力を具えた者なら誰もが得心する証拠です。

天使であろうと人間であろうと霊であろうと、またそれが何と名のろうと、何の立証もない者から送られた言葉だけで、神の起原とその拘束力についてのこれほど致命的変化を受け入れるわけにはいきません。

またそのように要求される謂れもないように思われます。その変化には徐々にではあっても歴然たる相違点が発見されます。またあなたの同僚である複数の霊からの通信の内容にも食い違いがあるようです。そうした統一性のないものから送られる思想には強力な団結性が無いものと判断せざるを得ません。


 友よ、これほど真摯にして理性的質問を汝より引き出し得たことは、われらにとって大いなる喜びである。真摯に、そして知的に真理を求めんとする心──その出所が何であろうと単なるドグマはこれを拒否し、すべてを正しき理性によりて検討し、その理性的結論には素直に従う用意のある心、これこそ神意に叶うものであることだけは信じて欲しく思う。われらはそうした態度に異議を唱えるどころか、それを受容性のある真面目な心の証として称賛する。

従来の信仰をそれ相当の根拠なしには棄てず、一方新しき言説は形而上的ならびに形而下的に合理的な証拠さえあれば喜んで受け入れる。そうした懐疑と煩悩のほうが、もっともらしく色づけされたものを無批判に鵜呑みにする軽信的態度より遥かに価値がある。

思想的風雨にさらされても何の内省も生まれず、そよ風にも能面の如き無表情をほころばせることもなく、いかなる霊的警告も通じぬ無感動と無関心の魂よりも遥かにはるかに貴重である。

 汝の抱く懐疑の念はむしろわれらの指導の成功の証として称賛する。汝らがわれらに挑む議論は、神の使者として述べたる言説を全面的に検討してくれていることの知的証拠として歓迎する。汝の煩悶せる問題については、いずれ、われらの力の及ぶかぎりにおいて回答を授けるであろう。われらには証を提示することの不可能な、ある越えられぬ一線がある。それはわれらも十分承知している。

われらは汝らの世界で言うところの証人を立てることが出来ぬという大きな不利な条件のもとで難儀している。われらは地上の人間ではない。故に法廷にもちだす類の証拠を提示するわけには参らぬ。汝らにはただわれらの証言を聞いてもらい、理解してもらう───証拠によりて明らかにし得ぬものは知性にまかせ、公正に判断してもらうほかはないのである。

 それは、われらの言説がわれらと共にこの仕事に携われる者を除いては、先ずもって、これを支持してくれる者がいないからでもある。実際にはわれらの同僚の多くが地上時代の身元を明かしている①。そうして、その名をもつ実在の歴史的人物の地上生活についても、汝は決定的とも言い得るものを事細かく知り尽くしている。

汝があくまでもそれでは納得できないと言うのであれば──もしもそれを偽りの霊の仕業であるとし、汝を欺くために集めたる情報に過ぎぬというのであれば、われわれとしては汝とのこうした霊的交わりをもつ霊的雰囲気に注目し、〝木はその実によりて知らるべし。茨より無花果(いちじく)を取らず、薊(アザミ)より葡萄を収めるなり②〟とイエスが述べたる判断の基準を思いだして貰いたい。われらの訓えが神意に適うものであることの証を全体の雰囲気の中に必ずや見出すであろうことを断言して憚らぬ。

 しかし、これ以上この点について弁明することはわれらの使命の沽券に係ろう。汝がこの点に言及したことにわれらは微塵も驚きを感じぬ。が、もしも右の弁明でもなお得心がいかぬとなれば、われらとしてはもはやこれ以上付け加えるものを持ち合わせず、後は汝がこれを納得してくれる日の到来を忍耐強く祈るほかはない。

 それまでは決して押しつけがましきことは言わぬ。辛抱強く待つとしよう。

 われらの霊団の各霊──地上時代に異なる国、異なる時代に生き、神及び死後についての見解も異にした者たちの結びつきについては多くを語ることが出来るが、それはまた別の機会に譲るとしよう。

 差し当たりここで汝らの地上生活には避け難き誤解を指摘しておきたい。それは地上の人間はいわゆる〝自説(オピニオン)〟というものが殆ど無価値であることを知らぬことである。死の過程を経て肉体から離れる。すると目かくしをされていたベールが取り払われ、それまで金科玉条としていた信仰がいかに愚にもつかぬ他愛なき幻想に過ぎぬものであったかを思い知らされるが、目かくしをされている今はそれが判らぬ。

一方程度こそ違えすべての神学的教義にはその奥に本質的にきわめて類似せる真理の芽が宿されていることも知らぬ。

 ああ、友よ、汝ら人間は宗教をむやみに難解なるものにしたがるが、本来宗教とは決して難解なものではない。人間に授けられたるかぎりある知性によって十分に包括し得るものである。かの神学的産物──神の啓示を被い隠せる気まぐれなるドグマは徒らに人間を迷わせ、当惑させ、真摯に道を求める者を無知と迷信の霧の中へ迷い込ませる以外に何の役にも立たぬ。

向上進化を求める魂の特徴である暗中模索の真理探究は、いつの時代も同じであった。枝葉の点においては異なっても、本質においては少しも変わらぬ。目の見えぬ者が光を求める如く、迷える魂が必死に真理を求める。が、迷信という名の迷路がある。

無知という名の霧がある。曲がりくねった道をよろめきつつ、躓きつつ進み、時に路上に倒れて邪霊に踏みつけられる。が、すぐまた立ち上がり、手を差しのべつつなおも光を求める。

 かくの如き彷徨える魂は汝の目にはみな同じように映るかも知れぬ。がわれら霊界の者には実に多くの相違点があることが判る。古来、人間的ドグマの迷路の中にあって必死に光源を求めて喘ぎ進む魂は、外側より見る目にはみな一様に見えるであろう。

がわれらより見れば、汝らが教会と呼ぶ各教派を特徴づける神学上の教説は、汝らが考えるほど同一ではない。われらの目にはその質的な差異が見て取れる。またわれらは未知なるものについて全く同一の理解をもつ魂は二つと存在せぬことを知っている。いかなる魂も大なり小なり他の魂と同じ見解を抱いてはいても、決して同一ではない。

 その迷いの霧が晴れるのは、死のベールを通過したのちでしかない。人間的詮索は肉体と共に滅び、個人的見解は取り除かれ、かくして曇りなき目にそれまで朧気に抱いていた真相が姿を顕し、鋭さを増した判断力によって地上での印象を修正していく。

そのとき悟るのは全てに真理の芽が宿されていること、それが在る者においては受容性豊かな心と霊的洞察力によって成長を促進され、また或る者においては束縛された知性と卑しき肉体ゆえに、成長を阻害されるということである。

しかし、神と、己れの辿る運命についての真理を求めてやまぬ魂においては、死と共に地上時代の誤れる信仰は速やかに影をひそめ、みなその低劣さと非真実性を悟っていくものである。いつまでも地上のままを維持し続ける者は真理への欲求を欠く者にかぎられる。

 これで汝にも判るであろう。真理はいかなる宗教の専有物でもない。それは古代ローマにおいて霊の浄化と禁欲を求めたアテノドラス③の思想の底流にも見出すことが出来る。

ギリシャのヒポリタス③が朧気ながら垣間見ていた実在の世界を信じて地上生活を犠牲にし、神との一体を求めたその信仰の中にも見出すことが出来る。同じ真理への希求がローマの哲学者プロティノス③をして地上にありながらすでに地上界を超越せしめた。

アラビアの神学者アルガザ―リ③には教説そのものには誤りがありながらも、その奥底に正しき理解があった。その同じ神的真理の芽がアレッサンドロ・アキリーニ③の思想を照らし、その教説の言葉に力と真実を賦与した。

 かくの如く彼ら全ての指導者の教説には同じ純粋なる宝石が輝いている。その光が彼らをして人間が神より授かれる真理の堆積物を清め、神及び聖霊の宿命についてのより霊的な解釈を施すことによって、人間の歩むべき道を一層気高く一層崇高なるものにするという共通の目的のために一丸となって働くことに邁進せしめたのである。

 彼らにとって今や地上時代の教説の相違は取るに足らぬことである。そうした夾雑物は疾(と)うの昔にかなぐり棄て、かつて地上にて魂の目を曇らせ進歩の妨げとなった人間的偏見などは跡形もない。それは今や完全に葬り去られ、ひとかけらの悔いも残っておらぬ。復活の信仰も見当たらぬ。疾うの昔に棄て去っている。

がその信仰の奥底に秘められたる宝石は一段と輝きを増し、永遠にして不滅である。その啓発的影響力──ただ存在するだけで魂を鼓舞するその影響力に、かつて地上においては教説を異にする霊たちを結びつける神秘なる親和力の絆が存在するのである。

 彼らが今、より崇高にして純粋なる宗教的知識を広めんが為に、共同の仕事に一団となって奉仕していることが決して汝が考えるほど不可能なことでないことの理由が、これで汝にも得心が行くことであろう。そのための地上の道具として最も適切とみて汝を選んだのである。その判断に誤りはない。

われらの述べたるところを根気よく熟読玩味すれば、いずれ汝もその合理性に得心が行くであろうことを確信する。その絶対的証拠は、と言うのであれば、それは汝自身が死のベールを突き破り、一点曇りなき目をもってわれらの仲間入りするまで待つより外はあるまい。今のわれらとしては、精々、汝が少しづつわれらに対する確信を築き上げてくれることを望むのみである。

どうかイエスが人を裁くときに使用せる判断の基準──己れが裁かれんと欲する如くに人を裁くべし、という神の摂理をわれらにも適用して欲しく思う。

  われらの教説に矛盾があるやに思うのは誤りである。これまで汝と交信せる様々な霊によって種々な形での論議が為され、その取り挙げたる論点もまた多様であった。確かにわれらは汝をわれらが伝えんとする根源的教説へ徐々に導かんとして、取り敢えず汝の観念に深く根差しわれらの教説と正面衝突することが明らかなものは無論のこと、差しあたって必須でないものは避けてきた。それは否定せぬ。

われらの基本方針は、汝の心に存在する特異な部分をいくじるよりも、その中に見出される真理の芽を発達させることにあった。それを目差して幾つかの接点を確保し、大切にして参った。一方それとは関わりなき問題点を避けてきた。

そうしたこれまで看過してきた点、論議を避けてきた諸点についてはこれ以後に取り挙げることになろう。が、これまでも汝のほうより、われらが明らかに誤りがあり何時までも放って置けぬと観た見解について批判を求めてきた時は、われらとしては遠慮なく啓発してきたつもりである。

 われらの目には、汝の心に想念の潮流が発生し、それが汝の魂にとってもはや安全ではなくなった古き停泊所より汝を運び出さんとする動きがよく見て取れる。

それを見てわれらは汝をその潮流と風の為すがままに放置し座礁するに任せておくに忍びず、われらがその水先案内をする。その際われらは教説という名のロープを一本一本少しずつ穏やかに緩め、より安全にして確実な港へ係留してきた。

もしも一気にその港へ引っ張り込んでおれば、古きロープは切れ、汝の魂は疑問と煩悶の嵐の中に巻き込まれ、舵(かじ)を取る者もなく、立ち寄るべき港も見当たらず、ただ風波に翻弄され、救われる見込みはなかったであろう。

われらが予(あらかじ)め衝突を避けられるものは避け、荒波を立えぬよう配慮したことを咎めるのは当たらぬ。致し方なきことであった。汝の思う方角へ向けて援助することも出来ぬでもない。が、仮に援助してそのロープを締めていたならば、汝の魂は私物と化せる遠き過去へ一層強く繋がれることになっていたであろう。

汝の心の態度一つでわれらは汝をその嵐から超然とさせ、新たなる生命あふれる信仰を携えて、より静かにしてより広き海原に乗り出さしめ、地上という試練の場と、死後の安らぎの港との間に横たわる苦難の海を乗り切れるよう援助することであろう。

 こうした作業において、われらは汝に過激な衝撃を与えぬよう慎重の上にも慎重を期してきた。いかなる点においても指導を誤ったことはない。汝をごまかしたこともない。

汝に与えたわれらの教説には予め徹底した吟味が為されている。われらはなるべくなら汝の精神に宿る思想を取り出し、敷衍し発展させるよう心がけた。そうしてその中により新しくより且つ真実に近き見解を育み、導き、注入するよう努めたが、いかなる点においても為れるもの、歪めたるもの、あるいは指導を誤れるものは何一つない。

 われらがこれまで述べてきた教説には実質上の齟齬(ソゴ)は何一つない。万に一つそう思えるものが存在しても、それは通信上の難しさと汝の精神による種々の影響の所為である。つまり通信霊の未経験に起因する場合もあるであろうし、就中(なかんずく)、汝自身の先入観の影響が大いにある。

汝の精神が受け付けようとせぬものは、われらも伝えることは出来ぬ。そこでわれらとしては、いつか汝が曇りなき目で見るであろうところの真理を、象徴的に大まかに伝えるしかない。

霊媒の魂が煩悶している時、身体が苦痛に苛まれている時、あるいは精神状態が病的になっている時も、明確なる通信を伝えることは出来ぬ。否、荒れ模様の天気、電気的障害、あるいは近隣の人々の非友好的態度ですら通信に反映し、明確に、そして十分に意を尽くすことを妨げるのである。それが汝の綿密なる目には矛盾として映るのであろう。

が、それも些細なことであり、また数も取るに足らぬ。それらは障害が取り除かれると同時に雲散霧消することであろう。そして、ここぞという困難と危険に際して、高邁なる霊的洞察力が汝を導いていたことを知るであろう。

 汝はわれらの説く訓えが一般に受け入れられる見込みは乏しいと言うが、その点についても汝は真相を知らぬ。お粗末な継ぎ接(は)ぎだらけの朽ちかけたる古き信仰が、より高尚にして崇高なる信仰──対抗するものではなく補足補充するもの──と置き換えられ、イエスの説きし福音がより高き次元において理解される日は、汝が思うよう遥かに近く迫りつつある。

 友よ、よく心するがよい。今われら従事せるが如き神の計画が、人間の必要性との関連を無視して不用意に授けられることは絶対にない。われらの仕事も神の一大計画のほんの一部門に過ぎぬ。他にも数多くの霊団がそれぞれの使命に邁進している。

その訓えは徐々にそして着実に、それを受け入れる用意のある者に受け入れられていくであろう。それが神の計画なのである。神の時を地上の時で以って考えてはならぬ。

またわれらの視界は汝らの視界の如く狭くかぎられたものではない。いずれもわれらの意図せる通りの知識が地上に広まる日も来よう。その間、それに備えた進歩的魂は着々と教育を受けている。貴重なる種子が蒔かれつつある。やがてその収穫の時期も到来しよう。その時を汝もわれらも共に待たねばならぬ。

 われらの述べたるところを心して読めば、われらが提供しつつある状況証拠などより遥かに明確にその本質を読み取ることが出来るはずである。繰り返すが、神は決して福音の押し売りはせぬ。神はただ提供するのみである。

それを受け入れるか拒否するかは汝の選択に任されている。が、汝およびわれらが係わり合える人々の全てが、いずれ、その神性を確信してくれるであろう。それをあくまでも否定する者は浅薄なる頑迷の綱にかかり、神学という名の足枷をはめられ、鉄の如きドグマによって束縛された者たちのみであろう。

そうしたドグマ主義者、頑固なる迷信家、偏狭なる信者・独善家はわれらの取り合うところではない。否、魂に染み込みたる古き信仰に何よりの安心立命を見いだす者もまた、われらの取り合うところではない。神の御名にかけて彼らにはそのまま古きものに縋らせておくとしよう。彼らにもいずれ進歩の時が訪れよう。今はその時ではない。

汝および汝と志を同じくする進歩的求道者には、われらが決して悪魔の使いでもなければ悪魔的意図も持たぬことを、これ以上弁明する必要はあるまい。

 また啓示についてのわれらの言説を熟読玩味すれば、要するにわれらの教説も神に関する知識の段階的進歩の一つの階梯に過ぎぬことを理解するであろう。すなわち神を人間と同一と観た神人同形同性説の時代から、人間的煩悩や感情を神の属性とすることの不合理を徐々に悟り始めた現在に至るまで、神的啓示も人間の進歩とともに徐々に向上しつつあるということである。

本質においては、われらの啓示も、それに先立つ啓示と何ら異ならぬ。ただ、人間の知識と同様に、一歩向上したというにすぎぬ。その根源は同じであり、それを授ける手段も同じである。今も昔もあくまで人間であり、完璧は期し難く、時には誤りを犯す。人間を通信手段とする以上、それは免れぬことである。

2. さらには、われらが明言せる態度を思い出していただきたい。われらの一貫せる態度は、かの伝統的教説──単に古き時代のものという意味での伝統的教説──を金科玉条とする盲目的信仰に代わりて汝の理性に訴えるということである。

軽信に代わって合理的知性的検討を勧め、確信に基づける容認を要求する。われらが神の使者というだけで、われらの教説──単に今の時代に授けられたという意味での新しき教説──を信じても貰おうなどとは、さらさら思わぬ。

理性の天秤にかけ、知性の光に照らし、得心がいかなければ拒絶するがよい。十二分に得心するまで決して同意することも行為に出ることも求めぬ。

 それ故、霊的教義の内容は正しき理性を得心させるべきものであると同時に、われらが汝にその受け入れを求める根拠もまた合理的且つ論理的思考を完全に満足せしめるものである。

道を誤りたるとはいえ真摯なる求道者はもとよりのこと、進歩的人間の真面目な生活において過去一八〇〇年以上もの永きに亙りて後生大事にされてきた教義に対し、われらが功を焦るあまり、いたずらに彼らを反目せしめる結果となることは神が許されぬ。

それほど永きに亙りて大事にされた事実そのものが、彼らの崇敬を受けるに足る資格を物語っていよう。ただ、われらの広き視野より見る時、その説くところが古き蒙昧なる時代ならいざ知らず、この開け行く時代には、それなりに視野を広げ霊性を賦与しなければならぬと思われるのである。

とは言え、われらとしては急激なる改革によって混乱を来すことは望まぬ。今あるものに磨きをかけ、新しき解釈を施したく思う。ひきずり下ろし、足で踏みにじるようなことはせぬ。シナイ山にて嵐の如き口調にて啓示されたる戒め④に代えて、イエスが慈愛と滅私の純心さをもって、より崇高なる信仰を説いた如く、われらはそれをさらに新しきこの時代の受容能力と必要性に鑑みて説かんとするものである。

〝そのようなものはわれらの信仰が受けつけぬ〟と申されるか。なるほど、それもよかろう。われらとしては少なくともこうした見解の存在を知らしむるだけのことはした。

それを受け入れる者は、古き信仰に比してその影響力が一段と明るきものであることを感ずるものと確信する。一つの真理が始めて語られ、それが最終的に受け入れられるに至るまでの道程は、しばしば永き年月を要するものである。 

収獲にはまず種子蒔きの時期があらねばならぬ。その後、雨に打たれ霜に埋もれ、寒々とした冬の季節はいかにも長く感ぜられよう。が、やがて暖かき太陽の光に照らされて種子が芽を出し、真夏の恵みを受けて豊かに実をつけ、そして収獲の季節を迎える。

耕作の時期は長いかも知れぬ。種子を蒔いたあとの待つ時期は暗く憂鬱かも知れぬ。が、収穫の季節は必ず来る。その到来を遅らせることは出来ぬ。

収穫時に手を貸すことは出来よう。種子蒔きに手を貸すことも出来よう。が手を貸す貸さぬに係わりなく、あるいは、たとえそれを阻止せんとしても、神の時節(とき)は必ず到る。その時、神の言葉を受け入れるか拒否するかの問題は、本質的には個人の問題でしかない。受け入れる者は進歩し、拒否する者は退歩する。

そしてそれに関われる天使があるいは喜び、あるいは悲しむ。それだけのことに過ぎぬ。

 次に汝はわれらがイエス・キリストを如何なる地位(くらい)に位置づけるかを問うている。われらとしては、さまざまな時代に神に派遣されたるさまざまな指導者について興味本位の比較をすることは控えたい。未だその時期ではない。

但し今このことだけは明白である。すなわち、人類の歴史においてイエスほど聖純にして気高く、神の祝福を受け且つ人に祝福を与えた霊はいないということである。その滅私の愛によってイエスほど人類の敬愛を受くるに相応しき霊はいない。

イエスほど人類に祝福をもたらせる霊はいない。要するに、イエスほど神のために働きたる霊はいないということである。

 が、神より遣わされたる偉大なる指導者を比較し論じる必要をわれらは認めぬ。われらとしてはその一人一人に称讃を賜り、克己と犠牲と愛の生涯を、それぞれの時代の要請せる手本として賞揚したく思う。

キリストの例にしても、もしも人類がその際立てる素朴さと誠実さ、愛的献身と真摯なる目的、自己犠牲と聖純さの模範として仰いでおれば、かの宗教的暗黒時代の神学者たち──汝らに呪いの遺産ともいうべき愚か極まる思索の産物を残せる者たちも、今少し有意義なる存在となり、人類の呪いとはならず、むしろ祝福となったことであろう。

神の尊厳を傷つけることもなく、キリストの素朴なる福音を素直に受け入れていたであろう。然るに彼らは神人同形同性説的神学を丹念に築き上げ、それがキリストの素朴なる訓えより一層遠ざけることになっていった。

今やその名と教義は派閥間の争いの戦場と化し、その訓えは滑稽な物真似となり下がってしまった。その有様を聖なるキリストの霊は衷心より悲しみ、哀れに思っておられる。

 友よ、神の摂理と人間的解釈とは截然と区別せねばならぬ。われらは主イエスの威厳の前にひれ伏すが、人間が勝手に解釈し、それをイエスの名において説く教説──イエス自ら否認されるであろう教説を黙認することによってイエスの面目を汚すようなことは潔しとせぬ。さようなことは絶対にせぬ。

主はもとより、主の父であり全存在の父である神の面目を真に辱しめるのは、バイブルを正しく理解せずその心を掴み損ねて、ただ字句どおりの解釈に固執する余り、無知の為せる業とは言え、逆に神への不敬を働いている者たちなのである。われらではない。

彼らこそ真に神の名誉を傷つけているのである。たとえ長年の慣用の歴史を有するとは言え、またたとえその字句を彼らが聖なるものと断定せる書からの引用によりて飾ろうと、さらにまたそれらの書に、そこに述べられたことへ意義を唱える者への呪いの言葉が見出されようとも、真に神を冒瀆する者はわれらにあらず、彼らなのである。

 われらはその呪いの言葉を哀れの情なくしては見つめることが出来ぬ。われらとしては、差し当たり実害なき誤りはこれを敢えて覆そうとは思わぬ。しかし神を冒瀆し魂の向上の妨げとなる言説はこれを赦しておくわけにはいかぬ。

本来ならば神に帰すべき名誉をイエスなる一人物に押しつけ、神に対する個人的敬意と愛を疎かにすることは、神に対する人間としての義務を無視することにほかならぬ。狭隘(きょうあい)にして冷酷きわまるドグマをその一言一句に至るまで頑なに遵守せんとする態度は魂を束縛し、霊性を歪め、進歩を遮り、成長を止める。

〝義父は殺す。されど霊は活かす〟⑤とある。それ故われらは火炎地獄の如き作り話に見られる神の観念を否定する。贖罪説の如き伝統的教説に代わってわれらは、より清き、より理性的教説を主張する。要するにわれらは霊性を基盤とする宗教を説くものである。

死物と化せる形式主義、生命も愛もなき教条主義より汝らを呼び戻し、霊的真理の宗教、愛に満ちた天使の象徴的教訓、高き霊の世界へ誘(いざな)わんとするとするものである。

そこには物的なものの入る余地はなく、過去の形式的ドグマも永遠に姿を消す。

 以上、われらは事の重大性に鑑みて、細心の注意をもって語ったつもりである。汝も細心の注意をもって良く熟読されたい。ひたすらに真理を求むる心をもって検討し、隔てなき神の御加護を祈り求められんことを希望する。
                      ♰ イムペレーター

〔註〕
(1)巻末「解説」参照。
(2)ルカ 6 - 44
(3)ここに引用された古代の思想家、及び宗教家はすべてイムペレーター霊団に属してる。「解説」参照。
(4)モーセの「十戒」。
(5)コリント後 3 - 6