Thursday, November 20, 2025

シアトルの秋 霊媒の書 第2部 本論    

The Mediums' Book

1章 物質界への霊の働きかけ

第一部で見た通り、唯物的否定論は理性的にも事実上からも筋が通らないものとして片づけられた。本章からは人間の魂が、他界後に霊として、地上の生者にどのように働きかけるかを見てみたい。

そもそも先祖の霊が地上の人間に働きかけるということは世界のいずこの民族においても、またいつの時代においても、ごく当たり前の事実として直観的に信じられていたものである。それほど世界的に共通した直観であり、しかも人間生活に影響を及ぼしてきた信仰に、それなりの根拠が無かったはずはない。

それは聖書の中にも初期キリスト教時代の教父たちの証言の中にも見出すことができるが、それを“迷信”のカテゴリーの中に放り込んだのは、近代の唯物的懐疑思想であった。

ではその懐疑思想の横暴を許したのは何だったのか。いろいろと要因はあろうが、近代に至って物質科学が大幅な発展を遂げ、何事にも“なぜ?”、“いかなる原理で?”ということが明確でないものは事実として認めないという風潮を生んだことが最大の要因だった。

それまでは直覚的に目に見えない霊の存在とその働きかけを信じていたのが、物質科学の範疇に入らないというところから、それを無視するようになっていったのは当然の成り行きだった。

つまるところ、霊的現象を理解できなくさせているのは“霊”そのものについての間違った概念なのである。現象は霊が物質に働きかけるからこそ生じているのであるが、霊は目に見えない存在であるから、それが物質に働きかけるはずはないことになる。その辺の理屈に実は根本的な誤りがあるのである。

目に見えないということは、実体のない抽象的存在ということではない。霊にはれっきとした実体があり、形態もあるのである。それが肉体に宿っている魂を構成しているのが地上の人間で、肉体から脱け出たあとも、ちゃんと人間的形態をそなえているという。現に物質化して出現するときは地上時代と同じ姿をしている。

霊視力で人間の死の直後の様子を観察すると、肉体から脱け出た魂は、しばらく困惑状態にあるのが分かる。感覚的におかしくなっていると言ってもよい。と言うのは、目の前に自分の肉体が横たわっている。きれいな姿をしている場合もあろうし、事故などで無惨な姿になっていることもあろう。が、自分はちゃんと存在しており、自我意識もある。一体どうなっているのだろうと思って困惑する。

中には死んだという自覚がなく、地上時代と同じ感覚で生活を続ける者もいる。その自覚が芽生えるまでには、新しい環境での体験が必要なのである。

その体験を必要とせず、一瞬の戸惑いはあっても、すぐに死を悟って、死体に何の未練も持たずに、空中に舞い上がるごとくに霊界を上昇して行く者もいる。

いずれにしても、肉体の死によって個性も自我意識も一切失われることはない。しかも、肉体そっくりの身体もちゃんとそなわっている。地上時代の肉体のように飲食によって養う必要もないし、病気もしない。地上時代の障害も消えている。

数え切れないほどの実験と観察、そして名状し難い事実(のちほど詳しく説明)によって、我々は次のような結論に達している。すなわち人間は三つの要素から成り立っている。第一が魂または霊で、道義的感覚を有する知的原理である。第二が肉体。荒けずりな物的身体で、神の配剤によるある目的のために魂が一時的に宿って地上生活を営むための道具である。そして第三がダブルと呼ばれる半物質的媒体で、魂と肉体との接着剤のような役目をしている。

死というのはそのうちの肉体が破滅または分解する現象である。その際、脱け出て行く魂はダブルもいっしょに携えていく。魂には何らかの媒体が必要なのである。

ダブルは流動性の蒸気のような媒体で、通常の状態では人間の肉眼には映じないが、本質的には物質に近い性質をしている。が、今までのところ、それを分析するまでには至っていない。(それはカルデックの時代だけでなく現代に至っても同じである。が、英国のジョージ・チャプマンという心霊治療家は、トランス状態に入るとウィリアム・ラングという、地上時代に眼科医だった霊が乗り移って、患者のダブルを手術するという方法で多くの患者を治していた。私も実際にその治療法で治してもらった生々しい体験がある。潮文社刊・拙訳『霊体手術の奇跡』参照――訳注)

“魂の衣服”ともいうべきダブルは、当然地上生活中も存在している。魂と肉体との仲介役ないし中継者で、魂の内的状態が肉体に伝わり、肉体の外的状態が魂に伝わる。言うなれば“思念を伝える電線”のような役目をしていて、その具体的な働きは神経の波動として捉えられている。

人体の生理機能としては極めて重要な役割を演じているのであるが、その働きが神秘的で名状し難いために、生理学でも病理学でも明確な研究対象とされていない。もし解明されれば、いま謎とされている多くの事実が説き明かされるであろう。(これも百年後の現代にもそのまま当てはまる。神経作用は肉体的にきわめて敏感に反応するので物的なものと考えられがちで、医学もその考えのもとに扱っているが、謎とされている事実が多い。たとえばニューロンと呼ばれる細胞がつながって信号を伝えるのであるが、数百億個もあるニューロンとニューロンは実は直接はつながっていない――わずかながら隙間があり、それをシナプスと呼ぶ。脳全体のシナプスの数は数千兆個という天文学的な数値に達するが、いかに性能のいいコンピューターでもちょっとした接触不良で作動しなくなるのに、神経系統はそれだけのシナプスがありながら、なぜか情報が瞬時に伝わるのである。そこで医学では“神経伝達物質”というものの存在を指摘しているが、ずいぶん窮屈な説である。そこへいくとヨガでは神経を物質の範疇に入れていない。ダブルにあるチャクラという生命力の中枢から発せられる生命力が常に神経繊維に沿って伝わっており、神経の情報はそれを媒体として伝達されるとしている。霊的にもそれが正解であり、神経そのものの働きではないことを昔のヨガ僧は体験的に直感していたのである。“神経”という用語は“神気の経脈”という意味で、日本における最初の西洋医学の翻訳書『解体新書(ターヘル・アナトミア)』の中で用いられたものである。直接翻訳に携わった前野良沢――杉田玄白ではない――は余ほど霊感の鋭い人物であったことが、その訳語一つから窺える。――訳注)

ダブルの存在は、科学の世界でよく出される“仮説”ではなく、霊による証言もあるし、このあと紹介する我々の観察によっても確かめられている。差し当たっては、地上生活中も、そして他界後も、魂とダブルは常に一体となっていると理解していただけばよい。

霊視すると霊は炎とか火花として映じることが昔から言われている。が、肉体に宿っている魂は知的ならびに倫理的原理として機能しており、その形態は認識できない。しかし、霊性の進化がどの段階にあろうと、魂は常にダブルによって包(くる)まれており、ダブルそのものの精妙度は霊性の進化にともなって高まっていく。

このように、ダブルは肉体が人間の不可欠の要素であるように霊にとって不可欠の要素である。と同時に、肉体そのものがその人ではないように、ダブルそのものが霊ではない。あくまでも霊の道具である。

死を境にして肉体から解放されたダブルは、それまで肉体にはめられていたためにでき上がった人間的形態が崩れて、霊の意念に応じて広がったり、縮まったり、その他、その時の必要性にしたがって自在に変形する。出現した霊が地上時代の姿とそっくりであるのも、あるいは傷とか障害などの特徴を見せることができるのも、このダブルがあるからである。

魂は物質とはまったく異質の存在で、その本質はまったく知られていない。その魂が、死後、霊としてこの物質界に働きかけることができるのは、ダブルがあるからこそである。つまり霊が物質界に働きかけてその存在を知らしめるためには、物質的媒体が必要ということである。我々人間が肉体という媒体によって物質界と接触しているのと何ら変わるところはない。

こう見てくると、心霊現象も自然現象の範疇に属し、何ら奇跡的な要素はないことがお分かりであろう。超自然現象であるかに思えるのは、上に述べたような事実を知らないからで、それが分かってしまえば驚異でも何でもなく、原因は半物質体のダブルにあることになる。新たに発見された次元の事実が新たな法則によって説明されたというに過ぎず、一連の自然法則であることには変わりない。電信による交信の事実に今どき驚く人がいないように、いずれは常識となる日が来るであろう。

その理屈は分かるにしても、半物質とはいえ目に見えない精妙な媒体によって重いテーブルが天井高く持ち上げられたりするのは信じられないとおっしゃる方もいるであろう。

しかし、では電気が巨大なモーターを回転させ、稲妻となって巨木を八つ裂きにしてしまうのを見て、その威力には驚いても、それを信じないという人はいないのはなぜか。そういう事実を日常において見ているからである。

我々が呼吸している空気でも突風となって家屋を吹き飛ばすし、爆風となって人間を死に至らしめることもある。それと同じで、ダブルというエーテル質の媒体も、他の条件が加わることによってテーブルを持ち上げるようにもなるし、生前の姿を再現して見せることもできるのである。


訳注――ここで“ダブル”と訳したのは原文ではperispiritとなっている。periという接頭語は“周囲”の意味があり、ここでは“霊を取り囲むもの”といった意味あいの新造語である。通信霊の一人で、ラメネーと名のる霊が次のように説明している。


《ここでペリスピリットと呼んでいるのは通信霊によっては“魂の流動性の外皮”と呼ぶ者もいる。それを構成している流動性のものは、霊にとっては感性の伝達に融通性を与え、また見解や観念の伝達に広がりを与える。といっても、それはある程度まで進化した霊にとっての話で、低級霊の場合はペリスピリットに地上臭が残っており、言わば物的なので、空腹とか寒さも感じる。高級霊になるとペリスピリットも純化されているので、そういう地上的なものは感じない。

魂が進化するには何らかの媒体を必要とする。媒体のない魂は“無”に等しく、人間には概念がつかめないであろう。人間のように一定の型にはまっていない我々にとってペリスピリットは、人間の身体を使って間接的に(自動書記などで)通信を送るか、あるいは人間のペリスピリットを使って直接的に(インスピレーション的に)交信する上で欠かすことのできない媒体である。その使用法しだいで、霊媒にも霊媒を使っての交信にも、さまざまな種類が生じるわけである。

ただし、ペリスピリットの科学的分析となると話は別である。魂とは何かが我々とて分かってはいない。人間がペリスピリットを研究しているように、我々も魂とは何かを探究中である。お互いに忍耐が必要である。》

この通信を受け取ったのが正確に何年であるかは記されていないが、本書の序文が一八六一年に書かれているから、それよりそう古くはないであろう。

こんなことを詮索するのは、手もとにあるウィリアム・クルックスの破天荒の研究書『Researches in the Phenomena of Spiritualism』が出版されたのが一九二六年である。が、これは一八七〇年頃から始まったクルックスの本格的な心霊研究の成果を一冊にまとめたもので、その中に、科学誌に発表された「サイキック・フォースと近代スピリチュアリズム」という論文が見える。それが一八七一年十二月号であるから、本書の出版から十年後ということになる。

私はこの“サイキック・フォース”こそ物理現象の主要エネルギーで、これに霊界の化学成分を混合して、いわゆるエクトプラズムをこしらえるのだと結論づけている。エクトプラズムの研究では第一人者であるJ・E・ライト氏は“エクトプラズミック・フォース”という言い方をしている。同じものである。

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓(五)

六章 イエスはいま何をしているか

More Teachings of Silver Birch Edited by A.W. Austen





 ナザレのイエスは今どういう仕事に携っているのだろうか。ある日の交霊会でシルバーバーチは、イエスは今すっかり教義とドグマと権力という雑草におおわれてしまった霊的真理の本来の姿をいま一度明らかにするための霊界からの地球的規模の働きかけの最高責任者であると述べた。

 そのことについて別の日の交霊会で次のように述べた。

 「ほぼ二千年前にイエスは磔刑(はりつけ)にされました。それはただ、当時の祭司たちがイエスを憎んだからにすぎません。イエスを通して霊力のほとばしりを見せつけられたからでした。まさに神の子に相応しい人物だったからにほかなりません。このままでは自分達の立場が危ないと思ったのです。

私たちが今それとまったく同じ反抗に遭っております。宗教界がこぞって〝真理〟を磔刑にしようとしております。しかし、それは不可能なことです。真理は、ただ真理であるが故に、あらゆる反抗、あらゆる敵対行為の中でも厳然と存在しつづけます。

キリスト教会の外部では次々と霊力が顕現しているにもかかわらず、空虚で侘しい限りの巨大な建造物の中には、その陰気な暗闇を照らす霊力の光は一条も見られません」

───そういうキリスト教は死滅してしまった方がましだとおっしゃるのでしょうか。

 「私はレンガとモルタル、祭壇と尖塔で出来た教会には何の興味もありません。何の魅力も感じません。建造物にはまるで関心が無いのです。私が関心を向けるのは〝魂〟です。

それで私は神とその子の間に横たわる障壁を取り除くことに奮闘しているのですが、不幸にして今日では教会そのものがその障壁となっているのです。これほど大きな罪悪があるでしょうか。宇宙の大霊である神は一個の教会に局限されるものではありません。

一個の建造物の中に閉じ込められるものではないのです。神の力は人間各自がその霊性を発揮する行為の中に、すなわち自我を滅却した奉仕の行為、困窮せる無力な同胞のために一身を捧げんとする献身的生活の中に顕現されるのです。そこに宇宙の大霊の働きがあるのです。

 確かにキリスト教会にも奇特な行いをしている真摯な人材がそこここに存在します。が、私が非難しているのはその組織です。それが障害となっており、是非とも取り除かねばならないからです。

真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役立てることです。同胞の為に自分を役立てることによって神に奉仕することです。私はこれまでそのことを何度申し上げてきたことでしょう。

然るに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。

新しい波に呑み込まれるのを恐れて、既得の権利の確保に汲々としてきました。しかし新しい霊的真理はすでに根づいております。もはやその流れをせき止めることはできません」

 
 ───イエスの意気込みが察せられます。

 「誤解され、崇められ、今や神の座にまつり上げられてしまったイエス───そのイエスは今どこにおられると思われますか。カンタべリー大聖堂ではありません。セントポール寺院でもありません。ウェストミンスター寺院でもありません。実はそうした建造物がイエスを追い出してしまったのです。

イエスを近づき難い存在とし、人類の手の届かぬところに置いてしまったのです。神の座にまつり上げてしまったのです。単純な真理を寓話と神話を土台とした教義の中に混ぜ合わせてしまい、イエスを手の届かぬ存在としてしまったのです。

 今なおイエスは人類のために働いておられます。それだけのことです。それを人間が(神学や儀式をこしらえて)難しく複雑にしてしまったのです。しかし今こうして同じ真理を説く私たちのことを天使を装った悪の勢力でありサタンの声であり魔王のそそのかしであると決めつけております。

しかし、すでにキリスト教の時代は過ぎました。人類を完全に失望させました。人生に疲れ、絶望の淵にいる地上世界に役立つものを何一つ持ち合わせていません」



 シルバーバーチによると、イエスは年二回、イースターとクリスマスに行われる指導霊ばかりの会議を主宰しているようである。その時期には交霊会も二、三週間にわたって休暇となる。時おりその前後の交霊会で会議の様子を説明してくれることがある。次に紹介するのは休暇に入る前の最後の交霊会での霊言である。

 「この機会は私にとって何よりの楽しみであり、心待ちにしているものです。この時の私は、わずかな期間ですが、本来の自分に立ち帰り、本来の霊的遺産の味を噛みしめ、霊界の古き知己と交わり、永年の向上と進化の末に獲得した霊的洞察力によって実在を認識することのできる界層での生命の実感を味わうことができます。

自分だけ味わってあなた方に味わわせてあげないというのではありません。味わわせてあげたくても、物質界に生きておられるあなた方、感覚が五つに制限され、肉体という牢獄に閉じ込められて、そこから解放された時の無上のよろこびをご存じないあなた方、

たった五本の鉄格子の間から人生をのぞいておられるあなた方には、本当の生命の何たるかを理解することはできないのです。霊が肉体から解放されて本来の自分に帰った時、より大きな自分、より深い自我意識に宿る神の恩寵をどれほど味わうものであるか、それはあなた方には想像できません。

 これより私はその本来の自分に帰り、幾世紀にもわたる知己と交わり、私が永い間その存在を知りながら地上人類への奉仕のために喜んで犠牲にしてきた〝生命の実感〟を味わいます。

これまでに大切に仕舞ってきたものをこの機会に味わえることを私がうれしくないと言ったらウソになりましょう。ご存じのとおり、この機会は私にとって数あるフェスティバル(うれしい催し)の中でも最大のものであり、あらゆる民族、あらゆる国家、あらゆる分野の者が大河をなして集結して一堂に会し、それまでの仕事の進歩具合を報告し合います。

その雄大にして崇高な雰囲気はとても地上の言語では表現できません。人間がインスピレーションに触れて味わう最大級の感激も、そのフェスティバルで味わう私どもの実感に較べれば、まるで無意味な、ささいな出来ごとでしかありません。

 その中でも最大の感激は再びあのナザレのイエスにお会いできることです。キリスト教の説くイエスではありません。偽りに伝えられ、不当に崇められ、そして手の届かぬ神の座にまつり上げられたイエスではありません。

人類のためをのみ思う偉大な人間としてのイエスであり、その父、そしてわれわれの父でもある神のために献身する者すべてにその偉大さを分かち合うことを願っておられるイエスです」

 休憩に入る直前の交霊会では、シルバーバーチがサークルのメンバーにそれまでの成果を語って協力に感謝するのが常である。

 「あなた方と私たち霊団との愛の親密度が年とともに深まるにつれて私は、それがほかならぬ大霊の愛のたまものであると感謝していることを知っていただきたいと思います。すなわち大霊の許しがあったればこそ私はこうして地上の方々のために献身できるのであり、たった週に一度あなた方とお会いし、

それも、私の姿をお見せすることなく、ただこうして語る声としてのみ存在を認識していただいているに過ぎないにもかかわらず、私を信じ、人生のすべてを委ねるまでに私を敬愛して下さる方々の愛を一身に受けることができるのも、大霊のお力があればこそだからです。

そのあなた方からの愛と信頼を私はこの上なく誇りに思います。あなた方の心の中に湧き出る私への熱烈な情愛───私にはそれがひしひしと感じ取れます───を傷つけるようなことだけは絶対に口にすまい、絶対に行うまい、といつも誓っております。

 私たちのそうした努力が大きな実りを生んでいることが私はうれしいのです。私たちのささやかな仕事によって多くの同胞が真理の光を見出していることを知って私はうれしいのです。無知を打ち負かし迷信を退却せしめることができたことが私はうれしいのです。

真理が前進していること、そしてその先頭に立っているのがほかならぬ私たちであることがうれしいのです。絶え間なくしかけてきた大きな闘いにおいてあなた方が堅忍不抜の心を失わず挫折することがなかったことをうれしく思います。

役割を忠実に果たされ、あなた方に託された大きな信頼を裏切ることがなかったことをうれしく思います。私の使命があなた方の努力の中に反映して成就されていくのを謙虚な目で確かめているからこそ、私はあなた方のその献身をうれしく思うのです」


 このあと、いつもの慣例に従ってメンバーの一人ひとりに個人的なメッセージを送り、そのあとこう述べて別れを告げた。

 「さて、別れを惜しむ重苦しい気持ちの中にも、再びお会いできる日を心待ちにしつつ、私はみなさんのもとを去ります。これより私は気分一新のために霊的エネルギーの泉へと赴きます。高遠の世界からのインスピレーションを求めに赴きます。

そこで生命力を充満させてから再び一層の献身と、神の無限の恩寵の一層の顕現のために、この地上へ戻ってまいります。あなた方の情愛、今ひしひしと感じる私への餞(はなむけ)の気持ちをいただいて、私はこれより旅立ちます。そうして再び戻って来るその日を楽しみにいたしております。どうか常に希望と勇気を失わないでいただきたい。

冬の雪は絶望をもたらしますが、再び春がめぐってくれば大自然は装いを新たにしてほほ笑みかけてくれます。希望に胸をふくらませ、勇気を持って下さい。いかに暗い夜にも必ず登りゆく太陽の到来を告げる夜明けが訪れるものです。

 では、これにてお別れします。神は常にあなた方を祝福し、その無限の愛がふんだんにもたらされております。神の霊があなた方すべての人々の霊に行きわたり、日々の生活の中に誇らしく輝いております。

 これより地上の暗闇をあとにして高き世界の光明を迎えに参ります。そしてお別れに際しての私の言葉は、再び訪れる時の挨拶の言葉と同じです───神の祝福の多からんことを」


 こうして地上を去って霊界での大集会に列席したあと、再び戻ってきたシルバーバーチはこう述べた。

 「その会合において私はかつての私の栄光の幾つかを再び味わってまいりました。地上世界の改善と進歩のために奮闘している同志たち、人類の福祉のために必要な改革の促進に情熱を傾ける同志たちによる会議に私も参加を許されました。

これまでの成果がこと細かに検討され、どこまで成功しどの点において失敗しているかが明らかにされました。そこで新たに計画が立て直され、これから先の仕事───地上人類の進化の現段階において必要な真理を普及させる上で為さねばならない仕事のプログラムが組まれました。

 地上世界のために献身している大勢の人々───死によって博愛心を失うことのなかった人々ともお会いしました。そして、ちょっぴり私ごとを言わせていただけば───こんなことは滅多にないのですが───過去数か月間においてささやかながら私が成し遂げたことに対してお褒めの言葉を頂戴いたしました。

もとより私はお褒めにあずかる資格はないと思っております。私は単なる代弁者にすぎないからです。私を派遣した高級霊団のメッセージを代弁したにすぎず、それをあなた方が広めてくださったのです。

 ともあれ、こうして私たちの説く真理が人生に迷っている人々、心は重く悲しみに満ち、目に涙をためた大勢の人々に知識と慰めと激励をもたらしていることは確かです」

Wednesday, November 19, 2025

シアトルの秋 霊媒の書  第1部 序説       4章 さまざまな説

The Mediums' Book



……心霊現象が教えるもの


スピリチュアリズムが勃興して心霊実験会というものが催され、奇っ怪な現象が見られるようになった時――これは言うなれば太古からあった突発的心霊現象の実験的再演にすぎないのだが――それを目にしあるいは耳にした者が真っ先に抱いたのは「トリックではないか?」という猜疑であり、トリックではないとしたら「ではそれを起こしているのは一体何ものだろうか?」という疑問だった。

その後の調査・研究によって、そうした現象が実在すること、そしてそれが霊による演出であることが完璧に証明されたのであるが、その一方では自分の勝手な考えや信仰、あるいは偏見によって思いつき程度の説を立てる者が出ている。

スピリチュアリズムに真っ向から敵対する者は、そうした説の多様性を指摘して「スピリチュアリズム自体が混乱しているのではないか」と難詰する。が、これは皮相な見解である。いかなる科学も最初は諸説があって定まらないのが普通で、そのうち事実が積み重ねられて、きちんとした筋道が立てられるに至る。その積み重ねの中で早まった結論が排除され、全体を統一する理論が生まれる。全体といっても最初のうちは基本的な問題に限られ、完璧とまではいかないかも知れない。

スピリチュアリズムも例外ではなく、当初は、現象の性質上、解釈の仕方が諸説紛々となりがちだった。が、その後の発展の仕方は科学の先輩である物質科学にくらべても速い方だった。物質科学のどの分野においても今なお最高の頭脳の持ち主による反論や否定説が存在することを知るべきである。(これは十九世紀末の時点での事実を述べているが、二十世紀も終わろうとしている現在でもなお、物理学では「相対性理論」が、天文学では「ビッグバン説」や「ブラックホール説」が、進化論では「ダーウィニズム」が痛烈な批判を浴びている。要するに人間は大自然について本当のことはまだ何も分かっていないということである――訳注)

さて、心霊現象には二つの種類がある。すなわち物理的現象と精神的ないし知的現象である。この世に物質以外の存在を認めないがゆえに霊の存在を認めようとしない者は、当然のことながら現象に知性の働きがうかがわれるという事実は頭から否定する。

彼らなりの見地から提示する説をまとめると次の四つに分類できそうである。
一、詐術説


すべてはトリックであると決めつける者が多い。あの程度のものなら手品師にでもできるというのがその理由である。ということは、我々が霊と呼んでいる者はいかさま師の手先であり、霊媒はみんないかさま師ということになる。

我々も、心霊現象にトリックは一切ないとは言わない。心霊現象と称してトリックや奇術によって金儲けをたくらむ者はどこにでもいる。が、本物があるから偽物があるのである。自分が見たものが実はトリックだったからといって、この世に本物はないと決めつける理屈は通らない。
二、低能説


否定論者の中にはトリック説までも否定する者がいる。ではどういう説の所有者なのか。スピリチュアリズムにたずさわっている者は騙しているのではなく、騙されているのだというのである。これは我々スピリチュアリストを“お人好しのおバカさん”と決めつけているのと同じで、もっと言えば、知能が低いと言っていることになる。ということは、自分たちは正常な頭脳の持ち主だと思っているわけであるが、我々の側から見れば、まったく正当性の根拠の出せないその程度の説で満足できる彼らこそ、あきれた頭脳の持ち主としか思えない。
三、幻覚説


ちょっぴり科学性の色彩が見られるものに、心霊現象はすべて幻覚であるとする説がある。その説によると――「実験会の出席者は立派な方たちなのであろうが、実際に見えていないものを見たと思っているだけである。たとえばテーブルが浮揚して、何一つ支えるものがないのに中空にとどまっているという場合、実際はテーブルは少しも動いていない――一種の蜃気楼ないしは光の屈折現象を見ているにすぎない。星などが水面に映っているのと同じで、その場に無いものを有るように錯覚しているのである。」

確かにその種の幻覚も有り得ないことではない。が、実験会に出席した者は、その中空に浮いているテーブルの下を通り抜けてみているのである。もしテーブルが床にあって、浮いて見えるのが蜃気楼だとしたら、テーブルの下を通ろうとしたらテーブルに蹴つまずくはずである。

さらに、浮いていたテーブルが落下して壊れたことが何度もあるのである。目の錯覚でそんなことが有り得るだろうか。

人間の身体上の機能のせいで静止しているものが動いたように見えることは確かにあるし、目まいのする人は、じっとしていても自分が動いたように錯覚するものだが、実験会の出席者は一人ではなく数名ないし十数名で注視しているのである。その出席者全員が同じ錯覚に陥るということが有り得るだろうか。
四、人工音説


実験会には叩音(ラップ)現象というのが伴う。音の種類はさまざまで、必ずしも叩くような音ばかりではなく、楽器が奏でられたり、鈴が鳴ったり、家全体が揺すられたりすることもある。

それを、さる高名な学者が、全て霊媒が筋肉を無意識に、あるいは意図的に収縮させて出しているという、乱暴この上ない説を学会で発表したことがある。

霊媒が背のびをしても届かない天井や壁の高いところ、遠く離れた位置にあるテーブルから聞こえるのに、どうしてそんなことが出来よう。まして、テーブルが上下して、その脚の一本で床を叩いて(モールス信号のような符丁を使って)知的な内容の通信(メッセージ)を伝えるなどということは絶対に不可能である。

その学者は、ご苦労なことに、人間の筋肉の構造を細かく解説して、それを操作してドラムの音や聞き慣れた曲まで奏でることができるとおっしゃるのであるが、残念ながらその種の現象は滅多に起きない――出席者にとっては叩音現象は心霊現象のごく一部にすぎないのである。

一方、このラップも幻覚であるとする説もある。が、出席者全員が同じ音や曲、テーブル通信などを幻覚で聞くわけがない。後章で明らかにするように、こうした現象は全て目に見えない知的存在が演出しているのであって、偶発現象でもないし、物的原因によるものでもない。

以上は現象そのものの存在を完全に否定する説であるが、次に、心霊現象というものが存在することは認めるが、その原因は人体にそなわる電気や磁気、その他の未知のエネルギーのせいにする説をみてみよう。
(一)物的エネルギー説


この説は全面的に間違っているわけではない。たとえば出席者が増えると現象も活発になることは事実であり、その事実を有力な根拠としているが、前にも述べたように、真実の理論はあらゆる事実、あらゆる現象を解明するものでなければならない。たった一つでも当てはまらない事実があれば、その説は間違っているか不完全ということになる。

右の説は、物理的現象に関しては一考の余地があるが、心霊現象には知性の働きもうかがわれるのである。たとえば出席者の要求に応じたり、口に出さない思念(疑問など)を読み取っていることが明らかなのである。そうなると、現象を起こしているのは目に見えない知的存在だということになる。少なくとも純粋に物理的な原因によるものではないことは明白である。

そこで肝心なことは、その知性の働きの証拠を得ることであるが、これは根気よく実験を重ねれば確実に得られるものである。
(二)知的エネルギー説


さて知性の働きは認めることができても、その知性の始源は何かを確認する必要が残る。かつて、これにもさまざまな説があった。

その一つは、霊媒ないしは出席者の知的エネルギーが、光の反射のように、現象やメッセージの中に反映しているというものだった。一見もっともらしい説ではあるが、実験に立ち会えば、ひとたまりもなく立ち消えになってしまう。

しかも、この説は唯物説を否定することになることを知るべきである。出席者から発せられる知性が働いて現象を起こすということは、人間はただの肉体のみの存在ではなく、肉体とは別個の働きをする別の原理を所有していることを意味することになるからである。

それにしても、こんな説を出す学者は、その途方もない重大な意味に気づかないのであろうか。もしも思念が肉体に反射して音や動きに転換されるというのが事実であれば、そのこと自体が驚異的なことではなかろうか。科学者がこぞってその検証に当たってしかるべき価値があるのではなかろうか。神経繊維を分析してその特性をコツコツと研究している学者が、心霊現象となるとそうした途方もない説を出して無視しようとする、その態度が理解できないのである。

さきにも述べたように、この説は実験に立ち会えばひとたまりもなく立ち消えになってしまう。そのいちばん良い例が、メッセージが出席者の考えと異なるだけでなく、真っ向から対立する場合があることである。こちらが予期する、あるいは期待するものと異なる場合もある。“白”だと思っていたのに“黒”だという返答が来た場合、それが出席者の思念の反映といえるだろうか。

また、自動書記や入神談話でメッセージが届けられる場合を考えると、霊媒が知らない言語で書かれたり、霊媒がまったく知るはずもない高等な哲学思想に関する質疑応答が為されることがあるが、これなどは霊媒でもなく出席者でもなく、まったく別個の、目に見えない知的存在が係わっているとしか考えられないであろう。

このことは直接書記でメッセージが綴られる場合にさらに鮮明となる。エンピツもペンも使わず、トリック防止にあらゆる配慮をした上で用紙に文章が書かれるのであるが、そのこと自体が目に見えない知的存在の働きの何よりの証拠であり、ましてやこちらから出された質問に対する回答が意外なものだったり、まったく無関係のことに言及している場合には、出席者の思念の反映などという説は問題にならない。
(三)集団的精神作用説


これは右の知的エネルギー説と同類とみてよい。この説によると、霊媒から出た精神が他の数人の人間――その場にいる人だけでなく、その場にいない人の場合もある――の精神と合体して集団的人格をこしらえ、その精神作用で才能や知識や知性を発揮するという。

が、他の多くの説と同様、この説は個人的見解であって、これに賛同する人はほとんどいない。
(四)夢遊病説


この説にはかつて多くの支持者がいたし、今でも、少なくなったとは言え、いることは事実である。基本的には上の説と同じく、すべての通信の始源も霊媒の精神とするのであるが、では霊媒の能力を超えているものはどう説明するかとなると、それを集団的精神作用とせずに、知力の一時的な超興奮状態、いわば夢遊病的恍惚状態における知性の増幅現象であるとする。

確かに人間は時として(火事場の馬鹿力のように)興奮状態において超人的なことをしでかすことがあることは否定しないが、何度も言うように、本物の説は全ての現象を説明できるものでないといけない。ただの興奮状態では説明のできない現象がいくらでもあることは、一度実験会に出席してみると分かる。

そもそも霊媒は必ずしもトランス状態に入るとは限らない。どちらかというとトランス状態に入るのは例外に属する。たとえば自動書記の場合、霊媒によっては手だけはすごいスピードでメッセージを綴っているのに、本人はそのメッセージの内容にはまったく無頓着で、まわりにいる出席者とおしゃべりをし、時には笑い出したりすることもある。(本書の出版からほぼ二十年後に英国で出版された、スピリチュアリズムを代表する霊界通信の一つ『霊訓』『Spirit Teachings』の霊媒ステイントン・モーゼスは、書かれていくメッセージが自分の意志とは別個のものであることを確かめるために、わざと難解な哲学書を読んだり、ペンを左手に持ちかえたりしたが、そんなことにはお構いなく、達筆の文章で、しかも神学者としてのモーゼスのキリスト教説と対立する内容のメッセージが、猛烈な勢いで書かれていった――訳注)
(五)悪魔説


霊媒とは別個の知的存在の仕業であることを認める者の中に、それを全て悪魔(デーモン)の仕業とする人がいる。今ではほとんど聞かれなくなったが、かつてはかなりの支持者がいたものである。

スピリチュアリズムの立場から見ればとんでもない説であるが、見方を変えれば、まんざら敵対視するには及ばないことに気づく。と言うのは、悪魔であろうと天使であろうと、目に見えない世界の存在であることには変わりないわけで、従ってかりに悪魔からの通信であるとすることは目に見えない霊界、少なくともその一部との交信が可能であることを認めることになるからである。

問題は、通信の全てを悪魔からのものとする点にある。明らかになったところによると、霊というのは他界した人間の魂なのであり、地上の人間にも善人もいれば悪人もいるように、その中には確かに悪魔のような霊もいるかも知れないが、あの優しかった祖父母や父母、親しかった友人、あるいは愛(いと)しい我が子が、死んで悪魔の手先になっているとは、いったい誰が信じられよう。

キリスト教徒の中にこの悪魔説を本気で信じている人がいることは事実であるが、スピリチュアリズムに深入りさせまいとして、一種の脅しとしてそういう説を吹聴する者がいることも我々は知っている。「さわっちゃダメだ。やけどをするぞ!」と言うのに似ている。

実はそれが逆効果を生むこともあるのである。人間には禁じられるとやってみたくなる性分があり、悪魔がどんなことを言うか聞いてみたくなる人がいる。ところが実際に交霊会に出席してみると、少しも怖くも何ともない。こうしてその人は真実に目覚めることになる。

霊の述べることが自分の宗教の教説と異なるからという理由で、それを悪魔の仕業とする人もいる。コーランの教えと異なるからというマホメット教信者、モーゼの教えと異なるからというユダヤ教信者、ローマ法王の説教と違うからというカトリック信者、等々。

カトリックの場合は霊の説くところが慈善と寛容と隣人への愛、そして俗世的欲望の抑制という、まさにキリストの教えそのままであるのに、それを悪魔のそそのかしだというのであるが、その辺の矛盾をどう説明するのであろうか。

何度も言うように、霊といっても、もともとは人間の魂であり、人間は不完全な者ばかりだから、霊も不完全ということになり、それはその述べるところに如実に反映する。

中には確かに邪悪な霊もいるし、狡猾な霊もいるし、あきれるほど偽善者的な霊もいる。だから、我々は警戒心を怠ってはならないが、そういう霊がいるからという理由で全てを排斥するのは、社会に悪い人間がいるからといって隠遁の生活に入るのと同じで、賢明とはいえない。

神は、人間を識別するのと同じように霊を識別する理性と洞察力を与えてくださっている。スピリチュアリズムにつきものの煩わしさから逃れる道は、全面的にそこから逃れるのではなく、正しい理解と判断力を持つことである。

以上、さまざまな説を見てきたが、現象を見もしないで頭ごなしに否定するのは論外として、現象ないし事実を一応検討した者の間でも、なぜこうまで諸説が出るのであろうか。

その原因は単純である。かりに一軒の家があって、前半分を白く塗り、裏側は黒く塗ってあるとしよう。それを前から眺めた人は「あの家は白かった」と言い、裏側だけを見た人は「あの家は黒かった」と言うであろう。両方とも正しいが、両方とも間違っている。表と裏の両方から見た人だけが本当の意味での正しい答えが出せる。スピリチュアリズムにも同じことが言える。

現象の一部だけを見て立てた説は、それなりに正しいかも知れないが、それだけでは片づけられない現象がいくらでもある。だから、全体から見るとその説は間違いということになる。

スピリチュアリズムを正しく理解するには時間をかけて、ありとあらゆる現象を細かく検討しなければならない。大ていの人は自分の体験をもってそれが全てであると錯覚し、その観点から自説を立てる。そこに間違いの原因がある。

では心霊現象が教えるところを十項目に分けて解説しておこう。

1、心霊現象は超物質的知性すなわち“霊”が演出している。

2、見えざる世界は霊によって構成されていて、至るところに存在する。無辺の宇宙に霊が実在している。我々人間の身のまわりにも存在し、そのうちの幾人かと常に親密な関係にある。(背後霊のこと――訳注)

3、霊は絶えず物質界に働きかけており、精神活動にも影響を及ぼしている。自然界のエネルギーの一種と見なしてよい。

4、霊は本質において我々人間と変わるところはない。かつて地球上または他の天体上で物的身体をたずさえて生活したことのある魂であり、今はその物的身体を脱ぎ捨てているというに過ぎない。従って人間の魂は“肉体に宿っている霊”であり、いずれは肉体の死によって霊になる、ということになる。

5、霊といっても千差万別で、善性においても邪悪性においても、理解力の程度においても無知の程度においても、無数の段階がある。

6、霊も進化の法則によって拘束されている。ただし他方において自由意志も与えられているから、努力と決意の程度によって進化の速度が異なる。しかし、いつかは完成の域に到達する。

7、霊界における霊の幸不幸は、地上時代における善悪の所業と霊性の進化の程度によって決まる。完全にして無垢の幸福感、いわゆる至福の境涯は、完全な霊性を極めた者のみが味わうことができるものである。

8、霊は、ある一定の条件のもとで、人間にその存在を顕現してみせることができる。人間と意思の疎通ができる霊の数に限界はない。

9、霊は霊能者を媒介としてメッセージを伝えることができる。その場合、霊能者は道具であり、通訳のような存在である。

10、メッセージを送ってくる霊の霊性の高さないし低さは、そのメッセージの内容に反映する。高い霊の訓えは善性にあふれ、あらゆる側面にそれが表れている。低い霊の述べることには、どう繕ってみても、偽善と無知と未熟さがうかがえる。


訳注――これだけのことを一般の人々にすぐに理解を求めるのは無理としても、最近のテレビ番組や心霊書を見ていると、チャネラーと自称して多くの客を相手に霊視力や霊聴力あるいはインスピレーションで霊からのメッセージを伝えたり前世を語ったりしている人でも、その言葉の端々から霊的知識が欠落していたり誤解していることが読み取れることが多い。

最近あきれ果てたのは、さる女性霊能者が「霊でも千年くらいは生き続けているのがいますから」云々、と言ったことで、この人にとっては相変わらず物的人間が実在で、霊は副産物的なモヤのようなもので、いつかはどこかへ消滅していくものでしかないらしい。神職や僧籍にある人に意外にその程度の認識の人が多いようである。

もう一人のテレビ出演者が書いた霊界の本を開いてみたら「霊界というところは暗くて寂しいところで、地上界の方がよほどいい」といった文章があった。この人の霊視力はそのレベルまでしか見えていないということを証明している。

自分のことを神界からの使者であるとか仏陀の生まれ変わりであるとか称している人もいる。こういう人は天文学をしっかり勉強して、宇宙の広大無辺さと無限の次元の波動の世界の存在を知ることである。おのれの小ささに気づいて、そんなことは言えなくなるであろう。

霊的な仕事に携わっている人の落とし穴は、自分の霊能にうぬぼれて“学ぶ”ということをしなくなることである。

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch Edited by A.W. Austen 
五章 迷いの過去から悟りの未来へ 

スピリチュアリズムの前途には大きな仕事が待ち受けている。霊的交信の目的はただ単に地上の人間に慰めをもたらすことではない。

ある日の交霊会でシルバーバーチは〝生命の法則について精神的側面、道徳的側面、物的側面、ならびに霊的側面から理解を深めるように指導し、身体的に不健全な人が少なくなると同時に霊的に未熟な人も少なくしていくことが我々の使命の一端です〟と述べて、スピリチュアリズムの目指すべき方向を暗示した。それを別の日の交霊会で次のように敷衍(ふえん)した。

 「私どもは自己中心主義、物質万能主義、無知、暗黒等々、人生の楽しさ、明るさ、安らぎを奪う勢力のすべてを一掃すべく努力しております。地上のため───それだけを望んでおります。それなのに、つまり地上のためになることをのみ望み、何一つ邪なものを持ち合わせず、人間性の中に下品なもの、あるいは低俗なものには決して訴えることがないのに、なぜ人間は私たち霊の働きかけを毛嫌いするのでしょうか。

 より次元の高い真理、より深い悟りの道をお教えしようとしているのです。人生の基盤とすべき霊的原理を理解していただこうと努力しているのです。人間の内部に宿る霊的可能性を認識し、真の自我とその内奥に存在する神性を見出していただきたいと願っているのです。

私たちは人間の理性───人間として最高の判断力に訴えております。一段と次元の高い生命の世界を支配する摂理をお教えし、宇宙の物的側面だけで無く、もっと大きな部分を占めているところの永遠不滅の霊的側面を理解していただこうと願っているのです。

 私たちの努力目標は人類が幻を追い求め影を崇めることのないように、霊的真理の実在を得心させることによって人生観を誤った信仰でなく確実な知識の上に確立し、大自然の法則に基づいた本当の宗教心を持ち、たとえ逆境の嵐が吹き荒れ、環境が酷しく、いずこに向かうべきかが分らなくなった時でも〝事実〟に裏打ちされた信仰心によってあらゆる試練、あらゆる苦難に耐えていけるようにしてあげることです。私たちの使命は霊的使命なのです。

人間が内奥に神すなわち実在の生命を宿していることをお教えし、従って人間は動物ではなく一人ひとりが神であることを自覚し、同じ神性が宇宙の他のすべての生命にも宿っていることを知っていただくことを使命としているのです。

 その認識が行きわたれば地上は一変します。理解が広まるにつれて新しい光が射し込み、永遠の大機構の中での人間の位置を悟ることになります。私たちが訴えるのはややこしい神学ではありません。時代遅れの教説ではありません。

素朴な理性───あらゆる真理、あらゆる知識、あらゆる叡知の真偽を判断する手段に訴えております。

もしも私の述べることにあなた方の知性を侮辱し理性を反撥させるようなものがあれば、それを無理して受け入れることは要求しません。最高の判断基準に訴えることによって人間が真の自分を見出し、真の自分を見出すことによって神を見出してくださることを望んでいるのです。

 真理は決して傷つけられることはありません。決して破壊されることはありません。後退させられることはあります。抑えつけられることもあります。しかし永久に埋もれてしまうことはありません。

真なるものが損なわれることはあり得ません。嘘言を持っていかに深くいかに固く埋め尽くされても、いつかは必ず表に出てきます。真理を永遠に抑えつけることはできません。

いま私たちが旗印としている真理は地上にとって重大な役割を担っております。人間というものは煩悶の時代になると永いあいだしがみついていた教説を改めて検討し、それが果たして苦難と困難のときに慰めとなり力となってくれるであろうかと思いはじめるものです。

 霊的実在についての真理を片隅に押しやることはできません。人間がひとりの例外もなく神の子であり成就すべき霊的宿命を背負った存在であるとの証は、宇宙における人類の本当の位置を認識し無限にして永遠の創造の大業の一翼を担う上で絶対必要なことです。

私たちの存在自体を疑う人がいることでしょう。存在は認めても影響力を疑う人がいることでしょう。もとより私たちは万能を主張するつもりはありません。私たちも常に数々の限界とさまざまな制約に直面していることは、これまでたびたび述べてきたことです。しかし私たちがあなた方を援助することができるという事実に疑う余地はないでしょう。

 私たちには霊力というパワーがあります。これは宇宙の全生命を生み、それに形態を与えている力です。正しい環境と条件さえ整えてくれれば、私たちはそのパワーを活用してあなた方を導き、保護し、援助することができます。

それも決してあなた方だけという限られた目標のためでなく、あなた方を通じて顕現した霊力がさらに他の人へも波及して、その人たちも霊的なパワーを感得できるようになるのです。

前途に横たわる道は決して容易ではありません。しかし協調精神をもって臨み、平和的解決を希求し、慈悲心に裏打ちされた公正を求め、憎しみと復讐心に根ざした観念を完全に排除して臨めば、明るい未来をすぐ近くまで招来することができることでしょう」

 これは一九三九年に第二次大戦が勃発して間もない頃の交霊会での霊言で、最後の部分はその大戦のことを指している(本書の出版は一九四一年──訳者)

 さらにメンバーからの質問を受けてこう語っている。

 「物質の世界に生きておられるあなた方は実在から切り離されております。あなた方自身にとって、そのことを理解することが難しいことは私もよく承知しております。なぜならば、あなた方なりに何もかもが実感があり実質があり永遠性があるように思えるからです。

ご自分を表現しておられるその身体、地上と言う大地、住んでおられる住居、口にされる食べ物───どれをとってもこれこそが実在であると思いたくなります。でも、それはことごとく〝影〟であり〝光〟でないことを申し上げねばなりません。

あなた方は五感に感応しない世界を想像することができません。従ってその想像を超えた世界における活動と生活ぶりを理解することができないのは当然です」


 そうした地上とはまったく異なる世界についての知識を得ているサークルのメンバーの一人に〝その知識はあなたにどういう変革をもたらしましたか〟とシルバーバーチの方から質問したことがあった。それを全部聞き終わったあとこう語った。

 「こうしてお聞きしてみますと、あなた方ひとにぎりの方たちにあっても、わずか二、三年間の霊力との接触によっていかに大きな変革がもたらされたかが分ります。となれば、これを世界中に普及させることによってその数を百万倍にもすることができるということです。

それは無知を一掃し、暗闇の中で進むべき道を見失った人々に灯を与え、全宇宙の背後に存在する大目的を教えてあげることによって達成されることでしょう。
℘71
 人類がいかに永いあいだ道を見失なってきたかご存知でしょうか。人類を先導すべき人たち、霊的指導者であるべき人たちみずからが盲目だったのです。玉石混交の信仰を持って事足れりとしてきました。宗教的体系をこしらえ、その上に教義とドグマで上部構造を築きました。

儀式と祭礼を発明しました。教会(チャーチ)(キリスト教)、寺院(テンプル)(仏教)、礼拝堂(シナゴーグ)(ユダヤ教)、モスク(イスラム教の礼拝堂)等々を建造しました。神とその子等との間に仕切りを設けたのです。それぞれに経典をこしらえ、わが宗教の経典こそ本物で宇宙の真理のすべてを包蔵していると主張し合いました。

かんかんがくがく、宗教家としての第一の心掛けであるべき愛の心を忘れ、その上なお情けないことに、憎悪と敵意を持って論争を繰り返してきました。

 予言者、霊覚者、哲人、聖者の類をすべて追い払いました。真の〝師〟たるべき人々を次々と迫害していきました。神の声の通路であるべき人々の口を塞いでしまいました。腐敗した組織にはもはや神の生きた声が聞かれる場がなくなってしまいました。

開かれたビジョンを閉ざし、すべての権力を聖職者に帰属させ、神へ近づける力は自分たち以外にはないことにしてしまいました。聖職者の中にも高徳の人物は数多くいました。ただ、惜しむらくは、その人たちも(そうした環境の影響のために)宗教の唯一の礎石(いしずえ)であり人類にその本領を発揮せしめる原動力である霊力の働きかけに無感覚となっておりました。
℘72
 人類の歴史において大きな革命を生んできたのは全て霊の力です。素朴な男性または女性が霊感に鼓舞されて素朴なメッセージを威信を持って語り、それを素朴な平凡人がよろこんで聞いたのです。今その霊力が、かつてと同じ〝しるしと奇跡〟を伴って再び顕現しております。

目の見えなかった人に光が戻り、耳の聞こえなかった人が聴覚を取り戻し、病の人が健康を回復しております。邪霊を払い、憑依霊を取り除き、肉親を失った人たちに慰めをもたらしております。

 多くの魂が目を覚まし、霊の大軍が存分にその威力を見せることが出来るようになりました。〝死〟の恐怖を取り除き、〝愛〟が死後もなお続きその望みを成就している事実を示すことができるようになりました。インスピレーションは(イエスの時代に限らず)今なお届けられるものであること、人間の心は(他界した時点のままでなく)死後も改めていくことが出来ること、(宗教的束縛から)

精神を解放することが可能であること、自己改革への道が(宗教的教義に関係なく)開かれていること、(宗教的活動から離れたところにも)自分を役立てる機会はいくらでもあること、霊力に鼓舞されて報酬を求めずこの世的な富への欲望を持たずに〝よい知らせ〟を教えてあげたい一心で、すべての人に分け隔てなく近づく用意の出来た魂が存在している事実を立証しております。

℘73
 これほどまで美しい話、これほどまで分り易い話、人生の本質をこれほど簡明に説き明かしてくれる話に耳を傾けようとしない人が多いのは一体なぜでしょうか。光明を手にすることができるのに一体なぜ多くの人が暗黒への道を好むのでしょうか。なぜ自由よりも束縛を好むのでしょうか。

 しかし、われわれはあなた方が想像される以上に大きな進歩を遂げております。難攻不落と思えた古い壁───迷信、既成権力、ご生大事にされている教義、仰々しい儀式を堅固に守り続けてきた壁が音を立てて崩れつつあります。急速に崩壊しつつあります。

一方では多くの魂が霊的真理に感動し、精神に光が射しこみ、心が受容性を増し、よろこんで私たちの教説に耳を傾けてくれております。過去数年間の進歩ぶりを見れば、われわれの勝利はすでにゴールが目に見えていると宣言してもよい時機が到来したと言えます。

その確信を私は語気を強く宣言します。もはや絶望の戦いではなくなりました。私たちが自己中心の物質第一主義に根ざした古い時代は終わった、新しい時代が誕生している、と述べる時、それは有るがままの事実を述べているのです。

 かつて地上において苦難と犠牲の生涯を送った人々、強者と権力者によって蔑まれる真理を護るためにすべてを犠牲にした人々───その人たちがいま霊界から見下ろし、霊的大軍の前進ぶりを見て勝利を確信しております。
℘74
むろんこれは比喩的に述べたまでです。銃を手にした兵士がいるわけではありません。われわれの弾薬は霊力であり、兵器は理性と良識です。私たちは常に人間の知性に訴えます。もっとも、時としてその知性が無知と迷信と依怙地な強情の下敷きとなってしまっているために、果たして(普遍的判断基準であるべき)知性が存在するのだろうかと迷うこともあるでしょう。

しかし、よく目を見開いて自分でそのしるしを求めることです。あなた方にはその判断力があり、囚われなきビジョンを手にする能力をお持ちです。その力で、暗闇を突き通す光を見届けて下さい。

 われわれはもはや軽蔑の対象とされた曽ての少数派ではありません。片隅で小さくなっていた内気な小集団ではありません。科学的立証を得て、やはり真実だったと確信した堂々たる大軍であり、恥じることない社会的位置を獲得し、霊的事実の福音を誇りを持って説いております。

霊的なことを口にしたからといって軽蔑されることはもうありません。それは過去の無知な人間がしたことです。今はそれを知っていることで尊敬される時代です」

 訳者注───モーゼスの『霊訓』によると、かの 〝十戒〟を授かったモーゼが従えていた七十人の長老はみな霊格の高い人物だったという。これは世界に共通した事実であって、古代においては霊感が鋭くかつ霊的なことに理解のある者が要職につき、いわゆる祭政一致が当然のこととされた。
℘75
 それが物質科学の発達と共に意識の焦点が五感へと移行し、物的なものさしで測れないものが否定されていった。ところが皮肉なことに、その物質科学みずからが物質の本質は常識的に受け止めてきたものとは違ってただのバイブレーションに過ぎないことを突き止めたのと時を同じくして、再び霊的なものへと関心が高まりつつある。

 シルバーバーチはそうした潮流の背後には霊界からの地球的規模の働きかけがあることを指摘している。オーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻〝天界の大軍〟篇はそれを具体的に叙述して、その総指揮官がキリストであると述べている。シルバーバーチ霊団も、イムペレーター霊団もその大軍に属し、最前線で活躍していたことになる。

 

Tuesday, November 18, 2025

シアトルの秋 霊媒の書  第1部 序説        3章 説諭に際しての心得

 The Mediums' Book

霊的真理に目覚めた者が、今度はそれを一人でも多くの人に知ってもらいたいと思うようになるのは自然の成り行きであり、むしろそうあって然るべきことであろう。本章はそういう願望を抱いている人のために、我々の体験にもとづいて最も有効な方法をお教えし、せっかくの意気込みが徒労に終わることのないように、という意図に発している。

すでに述べたように、スピリチュアリズムは新しい学問であり、新しい人生哲学である。となると、それを理解するには、第一条件として真剣さが要求される。つまり、どの学問でも同じであるが、遊び半分の態度ではとても理解できるものではないとの自覚がなくてはならない。

スピリチュアリズムは人類という存在のあらゆる問題に係わっている。その範囲は広大であり、実験会に参加した者が痛切に感じるのは、現象が暗示するところが途方もなく大きく、かつ深刻であることである。

その基本にあるものが霊の実在の真実性であることは論をまたないが、意欲的なタイプの人間は自分がそれを確信するだけでは満足しない。それは神学者が神の存在を自分が信じるだけでは満足できないのと同じである。そこで、これからそういうタイプの者にとってどういう方法が最も効果的であるかをみていこう。

“百聞は一見にしかず”という諺があるように、疑う人間には事実(物証)を見せるのが一番であるかに思われているが、実際は必ずしもそうではない。どんな現象を見せてもまったく考えを変えない人間がいることを知らねばならない。その原因はどこにあるかを明らかにしてみよう。

スピリチュアリズムにおいては、霊界通信と呼ばれている霊からのメッセージは言わば副産物であって、二次的な意義しかもたない。言いかえれば、霊からのメッセージはスピリチュアリズムの出発点ではないということである。

霊は人間の魂が肉体を捨てたあとに存続しているものにほかならないのであるから、議論はまず人間にその魂が内在していることから始めねばならない。ところが唯物論者は人間はこの肉体でしかないと信じているのであるから、この物的世界とは別の世界があって、そこに何らかの存在がいるなどということを信じさせるのは、まず不可能である。

自分に魂が内在することを信じない者が目に見えない霊の世界が存在するなどということが信じられるわけがないのであるから、そういうテーマについていくら議論しても無益である。どこからどう説いても、ことごとく論破されてしまう。原理そのものを認めないのであるから当然であろう。

秩序ある説諭というものは、すでに明らかとなっていることから始めて、さらに未知の分野へと進むべきである。この場合、唯物論者にとって明らかとなっているのは“物質”のみであるから、我々もまず物質科学に足場を定め、そこから唯物論者を我々の見地へと誘(いざな)い、人間には物質の法則を超越したものが内在していることを説いて聞かせる、ということになる。しかし、その説明のためには、物的次元を超えたさまざまな次元の法則を持ち出し、証拠としてさまざまな論拠を持ち出さねばならない。

自分に魂が宿っていることを信じない人間にいきなり霊の話を持ち出すのは、最終目的とすべきところから出発するようなもので、前提を認めない者が結論を認めるはずがないから、賢明とは言えない。うたぐり深い人間に霊的真理を納得させるためには、前もってその人が魂についてどう考えているか、つまり魂の存在を認めるかどうか、死後にそれが存続することを信じるかどうか、死後にも個性が残ることを信じるかどうかを確かめておく必要がある。

もしもそうした問いにいずれも「ノー」と答えるのであれば、霊について説くことは徒労に終わるに決まっている。絶対にとまでは言わない。中には例外的人間もいるであろう。が、その人の場合は何か別の要素があるものと察せられる。

唯物論者には大きく分けて二つのタイプがある。一つは、理論上そう考えているタイプ。このタイプの人間にとって霊的なものは“疑わしい”のではなくて、理論上の観点から“存在しない”のである。人間というのはゼンマイ仕掛けの機械と同じで、ゼンマイが巻かれている間は動くが、ゼンマイが切れると動かなくなる。後に残るのは死骸だけであり、他には何も残らない。

幸いこのタイプの人間は少ないので、こうした思想の蔓延による弊害を声高にあげつらう必要はない。

もう一つは無関心から取りあえずそういう立場を取っているタイプ。確信をもって唯物論を主張しているわけではない――言うなれば、それよりもっと良い説があれば喜んで信じるタイプで、こういう人が数としてはいちばん多い。

このタイプの唯物論者も、おぼろげながら来世へのあこがれのようなものを抱いている。が、これまでの伝統的信仰で聞かされている来世観は理性が納得しない。そこで疑念が生じ、その疑念が不信へと進行する。が、その不信には何一つ理論的裏付けがないのであるから、合理的な説を提示されれば喜んで受け入れるであろう。ということはスピリチュアリズムを理解する可能性があるということで、本人が自覚しているよりも我々と通じ合えるものをもった人々なのである。

その点から言うと、第一のタイプの唯物論者には啓示だの天使だのパラダイスだのといったものを持ち出しても意味がない。彼らには、この宇宙には現在の物理学の法則では説明しつくせないことが沢山あることを証明することから始めねばならない。その点、第二のタイプの唯物論者は信仰心がまったく無いわけではなく、いわば胚芽の状態で潜在していて、それが在来の根拠のない教義によって抑圧されているだけであるから、真理の光を当ててやれば生気を取り戻す可能性があるわけである。

以上の二つのタイプは“唯物論者”と呼ばれる人たちであるが、これ以外に、唯物論者の範疇には属さず、どちらかというと目に見えないものの存在を認めるタイプでありながら、我々にとって同じように扱い難いグループがいる。それは、我がままな感情から信じたがらない人たちである。

彼らは物的快楽を味わいたいという欲望を多分に持っている。だから、スピリチュアリズムを信じてしまうと野心や利己的欲望や見栄を捨てないといけなくなるのであるが、それは彼らにとっては困るのである。そこでわざと真実を見まいとし、真理の言葉を聞くまいとする。このタイプの人間は哀れに思ってあげるしか為す術(すべ)がない。

さらにもう一つのタイプに、打算または不誠実さから反対する人たちがいる。彼らはスピリチュアリズムの説くところをちゃんと知っている。その正当性も知っている。しかし、自分に都合のよい打算を動機として、表向きは否定論者の側にまわっているに過ぎない。このタイプもひじょうに扱い難い存在である。為す術がないからである。完全な唯物論者でも、思い違いをしている場合は、それを指摘してあげることによって考えを改めさせることができる。少なくともそこには誠実さが窺える。が、この打算から発している者は初めから反対することに決めてかかっているのであるから、議論の余地がないのである。

この種の人間は“時”を待つしかない。そして、多分、痛い思いをしてようやく自分の打算的態度の間違いに気づくであろう。しょせん真理の流れには抗し切れないのであるから、都合のよい打算にいくらしがみついても、最後は真理の激流がその打算といっしょに押し流してしまうであろう。

以上のようなタイプ以外にも、数え上げたらきりがないほど多種多様のタイプの人間がいる。たとえば憶病から信じまいとするタイプ。このタイプの人は、ある人が信念を堂々と告白しても何の危害もこうむらないことを知って勇気を得るという体験でもないかぎり、自発的に公言することはない。また信仰上のためらいから信じるに至らない人。このタイプの人は、しっかり勉強して、スピリチュアリズムが宗教の基本原理にのっとっていること、すべての信仰の存在価値を認めていること、そして、かつて抱いたことのない宗教的情念を生み出し、あるいは強化する要素があることを知るに至るのを待つほかはない。

その他にも、見栄や軽率な判断から信じようとしない人などがいる。

もう一つ見落とせないタイプに、“失望が原因で信じなくなった人”とでも呼ぶべき人たちがいる。たとえば、しっかりとした理解もなしに大ゲサに信じて交霊会に出席し、結果が期待どおりでなかったことから一気に不信に陥り、ついにはスピリチュアリズムの全てを捨ててしまったという人たちである。ニセの交霊会で見事に騙されて、それでスピリチュアリズム全体を茶番と決めつけてしまう人たちとよく似ている。要するにきちんとした勉強をしていないからそういうことになるのである。

スピリチュアリズムを新しいタイプの占いのように考えている人も少なくない。霊が自分の将来を語ってくれると思って出席するのであるが、その程度の人間が簡単に出席を許されるような交霊会は、ふざけた低級霊に支配されるに決まっているから、出席者を煙(けむ)にまき、あげくには失望の淵に蹴落として、ほくそえむことを許してしまうことになる。

数として最も多いのが“どっちつかずの中間派”で、我々としては反対派の中に入れていない。どちらかというと大半の者が霊的なものに関心があるのであるが、自分ではそれがいかなるものであるかについて確たる認識がないまま、ただ何となく魅力を感じている。こういうタイプの人に必要なのは秩序だった説諭で、それが功を奏せば、夜明けの太陽のごとく、それまでのモヤモヤとした霧をスピリチュアリズムの教説が一気に晴らしてしまう。すべての迷いから救い出し、本人もそれを歓喜して迎えるであろう。

以上、唯物論者を筆頭に、目に見えないもの、ないしは霊的存在を認めない人にもさまざまなタイプがいることを見てきたが、今度は、霊的なものの存在を信じる側に目を転じてみよう。

まず注目すべきことは、スピリチュアリズムという用語を知らず、その教義の何たるかも知らないのに、物の考え方、生き方、あるいは人生観に、本質的にスピリチュアリズムの精髄(エキス)のようなものがにじみ出ている人がいることである。それが著作や言動にも表れていて、あたかも立派な師のもとで訓戒を受けているかの印象を受ける。そういう人が、聖職にある人の中にも平凡な世俗の人の中にもいる。詩人、説教者、モラリスト、哲学者、その他さまざまな分野に見られるし、古今を通じても同じである。

そうした例外的な人は別として、スピリチュアリズムを調査・研究して十分に納得して信じるに至った人にも、いくつかのタイプがある。

第一のタイプは言うなれば“実験派”のスピリチュアリスト。心霊実験会に出席してその真実性を信じるようになった人であるが、興味は現象面に限られていて、スピリチュアリズムとは不思議な現象を研究する学問である、という認識にとどまっている。

第二のタイプはそうした現象の裏に思想的にも倫理・道徳的にも高度なものがあることに気づいてはいるが、それを実生活とは切り離して捉え、人間性との関連も稀薄、ないしはゼロの人。強欲な人間は相変らず強欲であり、高慢な人間は相変らず高慢であり、嫉妬深い人間は相変らず嫉妬深いままで、そこに内省というものが伴わない。こういうタイプを“無節操派”と呼んでいる

第三のタイプはスピリチュアリズムの教義の道徳性の高さを称賛するだけにとどまらず、それを日常生活で実践している人たちで、これが本物のスピリチュアリストというべきであろう。地上生活が束の間の試練であることを納得し、一刻(とき)一刻を大切にして善行に励み、自己の悪い面を抑制し、死後の霊的生活に備える。

最後のタイプは“急進派”。どの世界にも急進派はいるもので、スピリチュアリズムにも、熱心ではあるが思慮分別に欠けるために、結果的には誤解されるもとになっている人がいる。こういうタイプの人は日常の人間生活においても信頼されていないから、こういう人がスピリチュアリズムを吹聴してくれると、スピリチュアリズムの拠って立つ大義が台なしになってしまう。

昔から「人を見て法を説け」という。否定論者はもとより、スピリチュアリストをもって任じている人たちにも、以上見てきたように、さまざまなタイプがあるので、いかに説くかは相手によって変わってくることになる。ある人にうまく功を奏したからといって別の人にもうまくいくとは限らない。物理現象で得心する人もいれば、思想性の高い霊界通信で得心する人もいる。が、大部分に共通して言えることは、理性的判断力が伴わないといけないということである。

理性的な考察力を持ち合わせていない者には、物理的現象を見せてもほとんど意味がない。現象が驚異的であるほど、あるいは日常的体験から懸け離れているほど疑念の目で見られやすい。その理由は簡単である。人間というのは合理的に解明されないものは疑ってかかる性向があるからである。そして、それを各自の視点で捉え、自己流に解釈する。

唯物論者はあくまでも物理的な原因、要するに何らかのトリックがあると決めつける。無知で迷信を信じやすい者は悪魔的な、あるいは超自然的な何ものかの仕業にしたがる。が、あらかじめ霊的原理の解説をしておくと偏見を解き、真実性までは行かなくても、少なくともそうした現象の可能性を得心させる効果はある。みずから解説を求めてから実験に立ち会う者は、すでに理解ができているから、現象を目のあたりにすることで、容易にその真実性の確信に到達する。

頑固に信じようとしない人間を説得する必要が果たしてあるかどうかを考えてみると、これは、すでに述べたように、その“不信”の原因がどこにあるのか、あるいはどういう魂胆があるかによって決まる。中には、しつこく説得されることで却ってつけ上がって、ますます意地を張る人間がいる。

論証をもってしても、あるいは実証をもってしても得心しない人間は、まだ当分の間、不信という名の牢の中で暮らすしかないのであろう。いつの日か事情の変化で目覚めるよう神が計らってくださるのを祈るしかない。真理の光に目覚める準備の整った人間が大勢いるというのに、ただ心の扉を閉じることしか知らない人間に構っている暇はないのである。

霊的真理を正しく理解した人は自然に善行に励むようになるものである。苦しみの中にいる人に慰めを与え、絶望の淵に沈んでいる人に希望を与え、道徳の向上に役立つ仕事に進んで協力する。そこにその人たちの使命があると同時に、生きる喜びを見出すのである。するとそこに自然発生的に真の幸せのムードが漂うようになる。そのムードに影響されて頑迷な否定論者は自分の孤立した生き方に気づく。そこから内省が始まって、真理の光へ向かって進む者と、なおも意地を張って黙りこくる者とが出てくる。

他の分野の科学と同じ要領でスピリチュアリズムを考究しようとすれば、心霊現象のすべてを単純なものから複雑なものへと実験的に検証していく必要があるが、実際問題としてそれは不可能である。というのは、心霊現象の実験は物理学や化学のような要領で追試をするわけにはいかないのである。

では、なぜ追試ができないかということになるが、それは、自然科学の場合は知性も感情もない物質そのものを扱うから、同じ条件のもとで行えば同じ結果が出るが、心霊現象を発生させているのは霊という知的存在であり、自由意志をそなえ、人間の側から命令的に要求を出しても、必ずしもそれに応じてくれないのである。これは、これまでの経験で我々が繰り返し思い知らされてきていることである。

結局人間の側としては、いかなる現象が生じるかの見通しのないまま受身の姿勢で待ち、発生した現象を注意深く観察するしかない。お望みの現象をお見せしますという宣伝文句で客を集める霊媒は、無知であるか、さもなくばペテン師である。人間側の意志ではどうにもならない現象なのだから、要望通りのものは起きないかも知れないし、たとえ同種の現象は起きても、要望したものとは全く異なる条件下で発生するかも知れないのである。

これに加えてもう一つ問題がある。それは霊媒にも得手不得手があって、全ての現象を生ぜしめる霊媒はまずいないということである。となると、全ての心霊現象を研究するためには全てのタイプの霊媒を確保しなければならないことになり、それは現実的に不可能である。

さて、こうした問題を解決するのは至って簡単である。思想面から入ることである。あらゆる現象の観察結果の説明を読み、その要旨をつかみ、可能性の全てを理解し、それらが発生するための条件と、遭遇する可能性のある困難を知ることである。その上で実験に臨めば、いかなる現象が発生しても理解がいくし、不意をつかれることもない。反対に、期待がはずれて失望することもないし、困難や危険の予備知識もあるので、痛い目にあうこともない。

スピリチュアリズムに思想面から入ることには別の利点がある。その思想のスケールの大きさと本来の目的を認識することになることである。たとえばテーブル通信(テーブルが浮揚して、その脚の一本が床を叩いてメッセージを伝える現象)だけを見た者は、かりに興味を抱いても面白半分の気持ちからであって、まさか宇宙・人生の千古の謎を解き明かす深遠な思想を生むに至るとは想像も及ばないであろう。証拠を見ずして信じるに至る人は決して軽薄ではないどころか、論説をよく読み理解しているがゆえに、最も知的であり、最も思慮深いと言えよう。

この種のタイプの人は形体よりも実質に重きを置く。現象は付属的なものでしかなく、かりに現象が発生しなくなっても、思想そのものは人類にとって未解決の難問を解く唯一のカギであり、これまでに提示されてきたいかなる説、否、将来提示されるであろういかなる説よりも合理的なものとして存在し続けることを認識している。その理論を確認する物証としての現象の価値は認めるが、現象が基本だとは考えていないのである。

では理論から入った者は現象による確認はしないのかというと、決してそうではない。それどころか、その理論を裏づける事実を豊富な自然発生的心霊現象で確認している。この言わば“突発的心霊現象”については後章で取り扱う予定であるが、これは意外に多くの人が体験していて、ただ、あまり関心を向けなかっただけのことである。

実はこの突発的現象というのは、物的証拠が残っていないという弱点はあるが、信頼のおける証言があれば大いに価値がある。かりに実験会における心霊現象というものが存在しなくても、突発的現象の中にそれに代わりうるほどの証拠性のあるものが豊富にあるのである。


訳注――ここではカルデックは物的証拠ないしは客観的物証の観点から述べているが、霊の実在、つまり死後存続の確信というものは、あくまでも主観的なものであって、物証がなく他人に信じてもらえなくても、自分の内的直観力で「間違いない」と確信できる体験は、意外に多くの人が体験しているものである。


シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch Edited by A.W. Austen 
四章 軽蔑と嘲笑の中で ─── スピリチュアリズムの歩み


 一九世紀半ばから始まった科学的心霊研究、そしてその結果としてスピリチュアリズムの名のもとに盛んになり始めた霊的知識は、既成宗教界の侮蔑と弾圧の中にあっても着実に普及してきている。スピリチュアリズムの発端からほぼ百年の歩みを振り返ってシルバーバーチはこう述べた。(本書の初版は一九四一年───訳者)


 「私たちの仕事が始まった当初、(その表面の現象だけを見て)世間の人は何とたわいもないことをして、と軽蔑の眼差しで見たものでした。〝テーブルラッパー〟(※)───彼らはサークルのメンバーをそう呼んで軽蔑し嘲笑しました。しかし、そうした現象も実は大きな目的を持った一大計画に組み込まれていたのです。私たちの意図した影響力は次第に大きくなり世界中へ広がっていきました。

各分野で名声を得ていた名士を次々とその影響力に誘っていきました。偏見によって目隠しをされ理性が迷信によって曇らされている者は別として、やはり著名人の証言が全ての人に尊重されるという考えからそういう手段を選んだのです。(※初期の頃はテーブルの叩音(ラップ)による通信が盛んに行われた───訳者)

 その後もますます多くの人材が同じ霊的影響下に置かれていきました。霊媒も増えました。サークル活動が広まり盛んになりました。科学、医学、思想、宗教、その他ありとあらゆる分野の人をこれに参加させ、当時すでに猛威をふるっていた誤った物質万能主義を否定する現象、新しい高度な生命感を示唆する霊的事実、唯物思想の終焉を予告する目に見えない力の存在へ目を向けさせました。

ほどなくして───実に短期間のうちに───そのテーブルラッパーたちは宗教を腐敗から守る運動の旗手となっていったのです。

 僅か百年足らずの間にどれだけのことが成就されたか、それをこうした経過の中から読み取り、それを教訓としてこれ以後どれだけのことが成就できるか、そこに皆さんの先見の明を働かせてください。しかし私たちが今まさに欲しているのは、もっと多くの道具───背後から導き鼓舞してくれる霊の力に満腔の信頼を置いてくれる人材です。

霊的実在を悟りそれを他の同胞のために使用してくれる人、真理を暗い生活の灯火として持ち歩いてくれる人です。

  私たちが望んでいるのは、まずそうした霊的真理のメッセンジャー自らがそれを日常生活において体現し、その誠実さと公明正大さに貫かれた生活を通して、見る人の目になるほど神のメッセンジャーであることを認識させることです。

それから今度は積極的に世に出て社会生活のすべての面にそれを応用していってほしいのです。つまり、まず自らが身を修め、それから他人のために自分を役立てる仕事に着手するということです。これまでもあなた方が想像なさる以上に多くの仕事が成就されてまいりましたが、これから先に成就されていく可能性に較べれば、それは物の数ではありません。

 世の中を見回して、あなた方の努力のしるしを読み取ってごらんなさい。古くて使いものにならない教義やドグマの崩壊が見て取れるはずです。誤った信仰の上に築かれた構築物が至る所で崩壊しつつあります。私達の説く霊的真理(スピリチュアリズム)は(心霊学という)知識を土台として築かれております。

その土台はいかなる嵐にもビクともしません。なぜなら真実───霊的事実───を土台としているからです。あなた方が建造の一役を担ったその殿堂は、あなた方が(死んで)物質界に感応しなくなったのちも、あなた方の奮闘努力の記念碑として末永くその勇姿を失うことはないでしょう」

  同じテーマについて別の交霊会で───

 「真理は前進し、暗黒と無知と迷信と混迷を生む勢力は後退します。霊力はますます勢いをつけ、これまで難攻不落と思われていた分野にまで浸透しながら凱旋し続けます。これが私たちが繰り返し繰り返し宣言しているメッセージです。あなた方は今まさに地上に新しい存在の秩序を招来するために貢献しておられるということです。ゆっくりとではありますが、変革が生じつつあります。

新しいものが旧(ふる)いものと取って替わるとき数々の変動は避けられません。それも神の計画のうちに組み込まれているのです。

 常に基本的な霊的真理を忘れぬように、と私は申し上げております。常にそれを念頭におき、その上に宗教観、科学観、哲学観、倫理観、道徳観をうち立ててください。すぐにご大層なことを想像なさる御仁に惑わされてはなりません。私たちの説く真理は至って単純であるがゆえに、誰にでも分かり誰にでも価値を見出すことができます。神の子としての人間の有るがままの姿を何の虚飾もなく説いているからです。

すなわち神の分霊を宿し、その意味において真実〝神の子〟であり、永遠にして不変の霊の絆によって結ばれているという意味において真に同胞であり、人類全体が一大霊的家族であり神の前に平等であるということです。

 霊の目を持って見る者は民族、国家、気候、肌の色、宗教の別を超えて見つめ、全人類を一つに繋ぐ霊の絆を見てとります。地上世界は今こそそうした単純な真理を見直す必要があります。余りに永いあいだ教義とドグマ、祭礼と儀式といった宗教の本質ないしは生命の大霊とは何の関係もないものに躓(つまず)いてきました。

 私は魂をより意義ある生活へ誘うものでないかぎり教義、信条、ドグマといったものには関心がありません。日常の行い以外のものには関心がないのです。根本的に重要なのは日常生活の生き方だからです。いかなる教義もいかなるドグマもいかなる儀式も、原因と結果の関係を寸毫(すんごう)だに変えることはできません。

霊性を一分(ぶ)たりとも増すことも減らすことも出来ません。それは日常生活によってのみ決定づけられるものだからです。私たちが忠誠を捧げるのは宇宙の大霊すなわち神とその永遠不変の摂理であって、教義でもなく書物でもなく教会でもありません。

 今や霊の力がこうして地上に顕現する新しい手掛かりが出来たことを喜んでください。真理を普及するための新しい人材が次々と霊力の支配下に導かれていることに着目してください。

新しい通信網が出来たことに着目してください。人類の進歩を妨げてきた既成権力が崩され障害が取り除かれていきつつあることに目を向けて下さい。私たちは刀剣や銃を手にせず愛と寛容心と慈悲と奉仕の精神でもって闘っている大軍の一翼を担っております。私達の武器は真理と理性です。

そして目指すのは人間として当然受け取るべきものを手にできずにいる人々の生活に豊かさと美しさをもたらしてあげることです。

 神とその子等の間に立ちはだかろうとする者には、いかなる地位にあろうと、いかなる人物であろうと容赦は致しません。地上に神の王国を築くためには地上のいずこであろうと赴く決意は決して揺らぎません。これまでも数々の虚言、中傷、敵意、迫害に遭ってまいりました。が、

勇気ある心の有ち主、断固たる決意を秘めた魂が闘ってきてくれたおかげで、こうして霊の力が地上に顕現することができたのです。今も新しい世界の前哨地に多くの勇士が歩哨に立ってくれております。ですから私は皆さんに、元気をお出しなさい、と申し上げるのです。

心に迷いを生じてさせてはなりません。変転きわまりない世の中の背後にも神の計画を読み取り、あなた方もその新しい世界の建設の一翼を担っていることを自覚してください。真理は絶え間なく前進しているのです。

 意気消沈した人、悲しげにしている人に元気を出すように言ってあげてください。先駆者たちの努力のたまものをこれから刈り入れるのです。そしてそれが明日を担う子供たちにより大きな自由、より大きな解放をもたらす地ならしでもあるのです。不安は無知という暗闇から生まれます。

勇気は自信から生まれます。すなわち自分は神であるとの真理に目覚めた魂はいかなる人生の嵐を持ってしても挫かせることはできないとの自信です。

 私がお教えしているのはごく単純な真理です。しかし単純でありながら大切この上ない真理です。地上人類がみずからの力でみずからを救い、内在する神性を発揮するようになるためには、そうした霊的真理を日常生活において実践する以外にないからです。 

あなた方はその貴重な霊的な宝を手にされていること、それがすべての霧とモヤを払い、悟りの光によって暗闇を突き破ることを可能にしてくれることを知ったからには、自信を持って生きてください。しかし同時に、知識には必ず責任が伴うことも忘れてはなりません。

知った以上は、知らなかった時のあなたとは違うからです。知っていながら霊力を無視した生き方をする人は、知らないために霊的真理にもとる生き方をする人よりも大きな罪を犯していることになります。

 その知識を賢明にそして有効に生かしてください。一人でも多くの人がその知識を手にすることが出来るように、それによって魂を鼓舞され心が開かれる機縁となるように配慮してあげてください。私たちの方でも一人でも多くの人の涙を拭い、心の痛みを癒し、燦然たる霊的真理を見えなくしている目隠しを取り除いてあげようとの態勢でいるのです。

親である神を子等に近づかせ、子等を神に近づかせ、人生の奥義に関わる摂理を実践に移させようとして心を砕いているのです。そうすることによって利己主義が影を潜め、生命の充実感を地上に生きる人の全てが味わえることになるでしょう」


 ここでメンバーの一人がこうした心霊知識の普及を既成宗教の発端と同列に並べて考えようとする意見を聞いて、シルバーバーチはこう説いた。

 「私たちはこれまで確かに成功を収めてまいりました。しかし、そうしたスピリチュアリズムの発展を私たちは他の宗教と同列に並べて考えていないことを銘記してください。私たちにとってスピリチュアリズムというのは宇宙の自然法則そのものなのです。

これを体系化して幾つかの信条箇条とすべき性質の教えではありません。キリスト教とて頭初は自然法則の一つの顕現でした。ユダヤ教もそうですし仏教もそうです。その他地上に誕生した宗教の全てが最初はそうでした。それぞれの教祖が霊覚でもってその時代の民衆の成長、発展、進化、慣習、鍛錬、理解力等の程度にふさわしいビジョン、インスピレーション、悟りを手にしました。

それがさらに受け入れる用意のある者に受け継がれていきました。それは一部とはいえ真理であることには間違いありませんでした。ところが残念なことに、そのささやかな真理が(人間的夾雑物の下に)埋もれてしまいました。

 真理の持つ純粋な美しさを留めることができなかったのです。まわりに世俗的信仰、神学的概念、宗教的慣習、伝承的習俗などが付加されて、玉石混交の状態となってしまいました。やがて神性が完全に影をひそめてしまいました。そして新たにそれを掘り起こし蘇生させる必要性が生じたのです。

過去の宗教はすべて───例外なしに───今日こうして地上へ届けられつつあるものと同じ啓示の一部であり一かけらなのです。一つの真理の側面に過ぎないのです。それらを比較して、どちらがどうということは言えません。届けられた時の事情がそれぞれに異なるのです。

たとえば今日の世の中ですと、昔では考えられなかった通信手段が発達しています。伝達し合うことにあなた方は何の不自由も感じません。何秒とかからずにお互いがつながり、メッセージを送り、地球を一周することができます。

 これまでの啓示と異なるところは、入念な計画にしたがって組織的な努力が始められたということです。それが地上の計算でいけば約百年前のことでした。こんどこそは何としてでも霊的知識を地上に根づかせ、いかなる勢力を持ってしても妨げることのできない態勢にしようということになったのです。

その計画は予定どおりに進行中です。そのことは、霊的知識が世界各地で盛んに口にされるようになってきていることで分ります。霊力は霊媒さえいれば、そこがどこであろうとお構いなく流入し、新しい前哨地が設立されます。

 ご承知のように私は常に、一人でも多くの霊媒が輩出することの必要性を強調しております。霊界からの知識、教訓、愛、慰め、導きが地上に届けられるためには、ぜひとも霊媒が必要なのです。一人の霊媒の輩出は物質的万能思想を葬る棺に打ち込まれるクギの一本を意味します。

神とその霊的真理の勝利を意味するのです。霊媒の存在が重要である理由はそこにあります。両界を繋ぐ霊媒だからです。知識と光と叡知の世界から私に届けられるものをこうした形で皆さんにお伝えすることを可能にしてくれる(バーバネルと言う)霊媒を見出したことを嬉しく思うのも、そこに理由があります」

 こうした霊媒を仲介役として始められたスピリチュアリズムに対する抵抗がよく話題にされるが、その中から典型的なシルバーバーチの霊言を紹介しよう。

 「私たちはほぼ一世紀にわたって、霊的真理を基本とした訓えを地上に根づかせようと努力してまいりました。それこそがこれから築かれていく新しい秩序の土台である以上、何としでも困難を切り抜けなくてはならないからです。本来は最大の味方であるべき陣営の抵抗と敵意に耐え抜き闘い抜いてまいりました。

宗教的分野において子羊たちを導こうとする人間(キリスト教の指導者)ならもろ手をあげて歓迎すべきものなのに、逆に自分たちの宗教の始祖(イエス)の教えであるとして広めんとしてきた主義・信条のすべてにみずから背いて、そういう立場の人間にあるまじき酷い言葉でわれわれを非難してきました。

そこには愛も寛容心も見られません。それどころか、私たちを悪魔の使いであると決めつけ、神の子羊を正義の道から邪な行為、不道徳、利己主義へ誘導せんとする闇の天使であるとして、悪口雑言の限りを浴びせます。

 しかし、そうした激しい抵抗の中にあっても、私たちの説く真理は今や世界中に広がり、これまで抵抗してきた勢力は退却の一途をたどっております。私たちは現今のキリスト教が基盤としている教説を否認する者です。愛と正義と慈悲と叡知の根源である大霊が地上人類に対して呪うべき行為を働くはずがないことを主張する者です。

神の怒りを鎮めるのに残酷な流血の犠牲(いけにえ)が必要であった。などという言い訳は断じて認めません。いかなる権力を持ってしても自然の摂理に介入出来たためしは一度もないことを主張します。神学の基盤と構造の全てを否定する者です。

なぜならば、それは人類の進歩の時計を逆まわりさせ、その狭苦しいひとりよがりの世界に合わないものはいかなる発見も発明も進歩も拒絶してきたからです。

 そうしたものに代わって私は、啓示というものが常に進歩的であること、かつて指導者の一人ひとりが神の叡知の宝庫からひと握りずつを地上へもたらしてきたこと、そしてその一連の系譜の最後を飾ったのがかのナザレのイエスであり、私たちはそのイエスを鼓舞したのと同じ霊の力の直系の後継者として、同じ福音、同じ真理を説いている者であることを宣言します。

人間に贖(あがな)い主はいらないのです。神との仲介者は不要なのです。自分の荷は自分で背負う義務があり、日々の生活の中の行為によって霊的生命を高めもすれば傷つけもするのです。内部に神性を宿していることは今も、そしてこれから先も永遠に変わりません。

変るのは程度の上下であって、本質は決して変わりません。向上進化というのはその潜在的神性をより多く顕現していく過程にほかならないのです。

 いかなる教義、いかなる信条をもってしても、過った行為がもたらす結果をねじ曲げることはできません。私たちの説く神は永遠・不変の法則によって宇宙を統治しており、その法則の働きによって地上の人間は地上で送る人生によってみずからを裁くようになっていると説くのです。

かつて地上においてこうした真理を説き、それ故に迫害を受けた先駆者たちに対して私たちは、今や彼らの努力が実りの時代(トキ)を迎え、古き秩序が廃れ新しき秩序のもとに霊的生命が芽生え始めている兆しを地上のいたるところに見ることが出来るようになった事実をお知らせしております。

 永いあいだ真理の太陽をさえぎってきた暗雲が足ばやに去りつつあります。そして光明が射して無数の人々の生活を明るく照らし、こんどはその人たちが、自分を自由にしてくれた真理の伝道者となっていきます。それだけの備えができている人たちです。

私どもは地上の人々がみずからの力でみずからを救い、死せる過去と訣別し、精神と霊を物質による奴隷的束縛から解放する方法をお教えするために戻ってまいりました。古くからの教えだからといって有難がってはいけない───知的な目を持って真理を探究し、常識に反し理性を反撥させるものは一切拒絶しなさい、と申し上げているのです」


 しばしの休暇ののちに再会された交霊会でシルバーバーチは年二回開かれるという霊界での指導霊の総会(※)に出席していたと言い、〝光の世界から影の世界へ、実在の世界から幻影の世界へ戻って来るのは気が進まないものです〟と述べてからこう続けた。

(※これはスピリチュアリズム思想推進のために経過報告と次の計画の指示を仰ぐための会合で、世界的規模で行われる。これが年に二回ということであるが、このほかにも実質的に地上の経綸に当たっている霊界の上層部において慣例的に行われる。〝讃仰のための集い〟もある。

オーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻に、通信霊のアーネルがその会場に入った時の雰囲気を〝音が無いという意味での静けさではなく静寂という実体が存在する〟と表現している。

又モーゼスの『霊訓』にはイムペレーターからの通信がしばらく途絶えたのでモーゼスがその理由を尋ねると〝地上の用事とは別の用事があって留守にしていた〟と言い、霊界の上層部における神への厳かな崇拝と讃仰の祈りを捧げるために他の多くの霊とともに一堂、集結したのだと言う。その時の日付けが十月十二日となっている。

日本で十月のことを神無(かんな)月と呼ぶことには〝神の月〟と〝神がいなくなる月〟の二つの説があるようであるが、私は両者は詰まるところ同じことに帰すると思う。古代の日本人はそれを直感していたのである───訳者)


 「そもそも私がこの利己主義と残酷に満ちた地上へ降りてくることになったのは、人類への愛と使命があったからです。そこでこの度も(総会を終えたあと)こうしてあなた方のもとへ戻ってまいりました。

私なりに出来るかぎりの援助を与えるためです。人類を霊的奴隷状態から解放し、神性を宿す者が当然わがものとすべき神の恩寵───霊的生活、精神的生活、そして身体的生活における充足───を得させると言う(地球規模の)大使命の推進の一翼を担う者として戻ってまいりました。

 その使命の成就を妨げんとするものは何であろうと排除しなければなりません。私たちが目指す自由は(霊的・精神的・身体的の)あらゆる面での自由です。その道に立ちはだかる既成の特権と利己主義の全勢力に対して、永遠の宣戦を布告します。

あなた方より少しばかり永く生きてきたこの私、あなた方がこれより辿らねばならない道を知っている先輩としての私からあなた方に、どうか勇気を持って邁進されるよう申し上げます。お一人おひとりがご自分で思っておられる以上に貢献なさっておられるからです」

 更に地球規模の霊的活動における指導霊と交霊会の役割りに言及して───

 「過去数年の間に私たちは数多くの人々を知識の大通りへと案内してまいりました。しかしまだまだ大きな仕事が為されます。世界各地で数多くの心霊治療家によって行われている霊的治療の成果に目を向けて下さい。大地に再び視界が開けていく様子を思い浮かべてください。

予言者の声が再び地上にこだまするようになり、夢かと紛(まご)うものを見るようになります。先見の明が開けはじめます。病める人々が癒され、肉親の死を悲しんでいる人々が慰められつつあります。あなた方は本当に恵まれた方たちです。

人間が永遠の魂の旅の中にあってほんの束の間をこの地上という生活の場で過ごしている、永遠にして無限の霊的存在であることをご存知だからです。

 私はそのメッセージをあなた方の助力を得ながら広め、私を地上へ派遣した霊団の使命を推進したいと望んでおります。私たちはいま勝利へ向けて前進しております。誤謬と利己主義、迷信と無知、自惚れと悪逆無道の勢力を蹴散らし過去のものとしなければなりません。

 もはやそうしたものが許される時代は終わったのです。真理が理解されるに従って暗闇が光明へとその場を譲ってまいります。人々はその目を上へ向けて新しい世界の夜明けを待ち望んでおります。新しい世界は新しい希望と新しい悟りを与えてくれます。
 神のみ恵みの多からんことを」

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓(五)

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三章 死後の後悔


    「皆さんは他界した人がぜひ告げたいことがあって地上へ戻ってきても、有縁の人たちが何の反応も示してくれない時の無念の情を想像してみられたことがあるでしょうか。

大勢の人が地上を去ってこちらへ来て意識の焦点が一変し、初めて人生を正しい視野で見つめるようになり、何とかして有縁の人々にうれしい便りを伝えたいと思う、その切々たる気持ちを察したことがおありでしょうか」

 ある日の交霊会でシルバーバーチは出席者にこう問いかけて、人間がいかに五感の世界だけに浸り切り、いかに地上生活の意義を捉えそこねているか、そしてそれが原因となって死後の生活にいかに深刻な問題を生じさせているかに焦点を当てた。

 「ところが人間が一向に反応を示してくれません。聞く耳を持たず、見る目も持ちません。愚かにも人間の大半はこの粗末な五感が存在の全てでありそれ以外には何も存在しないと思い込んでおります。

 私たちは大勢の霊が地上へ戻って来るのを見ております。彼らは何とかして自分が死後も生きていることを知らせたいと思い、あとに残した人々に両手を差しのべて近づこうとします。やがてその顔が無念さのこもった驚きの表情に変わります。もはや地上世界に何の影響も行使できないことを知って愕然とします。

どうあがいても、聞いてもらえず見てもらえず感じてもらえないことを知るのです。情愛に溢れた家庭においてもそうなのです。その段階になって私たちは、まことに気の毒なのですが、その方たちにこう告げざるを得なくなります───こうした霊的交流の場へお連れしないかぎりそうした努力は無駄ですよと」


 以上の話は一般家庭の場合であるが、シルバーバーチはこれを宗教界の場合にも広げて、宗教的指導者もご多分にもれないことを次のように語る。

 「私はこれまで何度か地上で教会の中心的指導者として仰がれた人たちに付き添って、かつての信仰の場、大聖堂や教会を訪ねてみたことがあります。彼らはこちらへ来て誤りであることを知った教義がそこで今なお仰々しく説かれ続けているのを見て、そうした誤りと迷信で固められた組織を存続させた責任の一端が自分達にもあることを認識して悲しみにうなだれ、重苦しい思いに沈みます」

 ───針のむしろに座らされる思いをさせられることでしょう。

 「罪滅ぼしなのです。それが摂理なのです。いかなる大人物も自分の犯した過ちは自分で責任を取らねばなりません。各自が自分の人生への代価を自分で支払うのです。収支の勘定は永遠の時の流れの中で完全な衡平(つりあい)のもとに処理され、だれ一人としてその法則から逃れることはできません」

 ───その人たちはどうすれば過ちを正すことになるのでしょうか。

 「間違った教えを説いた人々の一人一人に会わなければなりません」

 ───説教をした相手の一人ひとりに会わねばならないのでしょうか。

 「そうです」

 ───でも、その時までにすでに本人が真理に目覚めていることもあるでしょう。

 「そういう場合は、それだけその宗教家はラクをすることになります」

 ───正しいことをしていると信じていた場合はどうなりますか。そに点も考慮されるのでしょうか。

 「もちろん考慮されます。常に動機が大切だからです」


 ───その場合でも一人ひとりに会わなければならないのでしょうか。

 「魂がそう信じていたのならその必要はありません。が、現実はそうでない人が多いのです。名誉心と思いあがり、所有欲と金銭欲が真理よりも優先している人が多いのです。

いったん一つの組織に帰属してしまうと、いつしかその組織に呑み込まれてしまい、今度はその組織がその人間をがんじがらめに束縛し始めます。そうなってしまうと(心の奥では信じていない)古いお決まりの教説を繰り返すことによって理性をマヒさせようとしはじめるものです。

 私たちが非難するのは、誤りとは知らずに一心に説いている正直な宗教家のことではありません。心の奥では真実よりも組織の延命を第一と心得ている者たち、言いかえれば今もし旧来のものを捨てたらこれから先自分の身の上がどうなるかを心配している者たちです。

間違っているとは知らずに説いている人を咎めているのではありません。自分の説いていること、言っていることが間違っていることを知りながら、なおかつ詭弁を弄して〝これ以外に民を導く方法が無いではないか。説くべき教えが他に無いではないか〟と開き直っている人たちです。

 しかし、たとえそうとは知らずに間違った教えを説いた場合でも、過ちは過ちとして正さなければなりません。その場合は罪滅ぼしとは言えません。魂そのものが良心の咎めなしに行ったことですから、一種の貢献としての喜びさえ感じるものです」


 ここでかつてのメソジスト派の牧師が尋ねた。

 ───私もこれまでに説教した相手のすべてに会って間違った教えを正さなければならないということでしょうか。

 「そうです。その時点までにその相手がまだ真実に目覚めていなければ───言いかえればその魂があなたの間違った教えによって真理の光を見出すのを遅らされていれば、それを正してあげないといけません」

 ───そうなると大変です。私は随分多くの人々に説いてきましたから。

 「他の全ての人と同じようにあなたも自分のしたことには全責任を取らなければなりません。でも、あなたの場合はそうご心配なさることはありません」

 別のメンバーが口添えしてこう述べた。
 ───この方は牧師をおやめになられてから多くの人たちのために献身しておられ、その人たちが力になってくれるでしょう。


 「その通りです。永遠・不変の公正はけっしてごまかしが利きません。私がいつも見ているとおりの摂理の働きをあなたにもぜひお見せして、公正の天秤がいかに見事なつりあいを保っているかをご覧にいれたいものです。神の摂理は絶対に誤りを犯さないことを得心なさることでしょう。

 人に法を説く者が重大な責任を担っていることはお分かりでしょう。私はたびたび言っております───あなた方は知識を手にされた。しかし同時にその知識に伴う責任も担われた、と。

一般の人よりも高いものを求め、さらにその人たちを導き教えんとする者は、まず自らが拠って立つ足場をしっかりと固めなくてはなりません。

厳しい探求も吟味もせず、あらゆる批判に耐えうるか否かを確かめもせず、自分の説いていることが真実であるとの確信もないまま、そんなことには無頓着に型にはまった教義を説いていれば、その怠慢と無とん着さに対する代償を払わなければなりません」

 このことに関蓮して、別の日の交霊会で興味深い死後の事実が明かされた。メンバーの一人が、最後の審判の日を待ちながら何世紀もの間暗い埋葬地で暮らしている霊(地縛霊の一種)を大ぜい救ってあげた話を聞かされたがそんな霊が本当にいるかと尋ねた。

 「それは本当の話です。それが私達にとって大きな悩みのタネの一つなのです。そういう人たちはその審判の日をただ待つばかりで、その信仰に変化が生じるまでは手の施しようがありません。
 
死んだら大天使ガブリエルのラッパが聞こえるまで待つのだという思念体を事実上地上の全生涯を通じて形成してきております。その思念体をみずから破壊しない限り、それが一つの思想的牢獄となって魂を拘留し続けます。

 死んだことを認めようとしない人も同じです。みずからその事実を認めない限り、私たちはどうしようもないのです。

自分がすでに地上の人間でないことを得心させることがいかに難しいことであるか、あなた方には想像がつかないでしょう。あるとき私は地上でクリスタデルフィアン(※)だった人と会って、えんえんと議論を交わしたことがあります。彼は私を見据えてこう言うのです───〝こうして生きている私がなぜ死んでるとおっしゃるのでしょう〟と。どうしても私の言うことが信じてもらえず、〝復活〟の日まで待つと言い張るのです。そしてそこに留まっていました」

(※奇しくもスピリチュアリズム勃興の年である一八四八年に設立されたキリスト教系の新興宗教。バイブルを唯一の教義として既成神学の三位一体説を否定し、キリストの再臨とエルサレムを中心とするキリストによる祭政一致の地上王国の到来を信じた───訳者)



 ───何をして過ごすのでしょうか。

 「ただ待つだけです。こちらには〝時間〟というものがないことを忘れないでください。もし自分が待っているという事実に気がつけば、その思念体が破れるはずなのですが───自分でこしらえた牢獄なのですから。ですが、こうした事実を地上の人間に伝えるのは大変です。

あなた方がお考えになるような時間が無いのです。なぜなら、私たちの世界は軸を中心に回転する天体ではありませんし、昼と夜を生じさせる太陽も無いからです。昼と夜の区別がなければ昨日と今日の数えようがないでしょう」

 ───時間的な刻みはなくても時間の経過はあるのでしょう?

 「ありません。まわりの出来ごととの関連によって成長と進化を意識していくのでして、時間が刻々と過ぎてゆくというのとは違います。魂が成長し、それにつれて環境が変化していきます。

時間というのは出来ごととの関連における地上独自の尺度にすぎません。あなたが無意識であれば時間は存在しません。出来ごととの関連が無くなるからです。夢を見ている間も出来ごとの関連が普通とは変化しています。肉体に繋がれている時よりも出来ごとが速く経過するのはそのためです」

Monday, November 17, 2025

シアトルの秋 霊媒の書  第1部 序説        2章 驚異的現象と超自然現象

 The Mediums' Book



霊および霊的現象の存在を肯定する説が単なる理論上の産物にすぎないとすれば、目撃されたものは全て幻覚だったことになるかも知れない。しかし、太古から現代に至るまで、あらゆる民族の民間信仰、および“聖なる書”と呼ばれている経典の中にその事実への言及が見られるという事実は、どう理解すべきであろうか。

この問いに対して、いつの時代にも人間は驚異的なものを求めるものなのだ、と答える人がいる。では、驚異的なものとは何であろうか。それは超自然的な現象のことだと答えるであろう。では“超自然的”という用語はどう解釈しているのであろうか。たぶん、大自然の法則と矛盾するもの、と答えるであろう。

実は、これは傲慢この上ない答えである。大自然の法則を全て知りつくした者にしか言えないことだからである。もし全てを知りつくしているとおっしゃるなら、霊および霊的現象の存在が大自然の法則とどう矛盾しているかを証明していただきたいものである。なぜ自然法則でないのか、なぜ自然法則とは言えないかを証明していただきたいのである。

さらにお願いしたいのは、スピリチュアリズムの教説をしっかりと検証していただき、観察した現象から引き出す推論の流れにもきちんとした法則があること、そして、これまでの哲人の頭脳をもってしても解き得なかった千古の謎を見事に解決していることを確認していただきたいのである。

思念は霊の属性の一つである。霊が物質に働きかけることができるのも、人間の感覚に反応することができるのも、そしてその当然の結果として思念を伝達することができるのも、言うなれば“魂の生理的構造”に起因している。この事実には何一つ超自然的なものも驚異的なものもない。

仮に死んだ人間が生き返り、バラバラの肢体が元通りになったとしたら、これは確かに驚異的なことであり、超自然的であり、途方もないことであろう。絶対神のみが奇跡という形で生ぜしめることができるものかも知れない。しかし、それは、みずからこしらえた摂理を神自身が犯すことになる。スピリチュアリズムにはその種の奇跡は一切ない。

そう言うとこう反論する人がいるであろう――「霊がテーブルを持ち上げ、空中に浮いた状態を保つことができるというが、それは大自然の法則の一つである“引力の法則”に反するのではないか」と。

その通りである。たしかに一般に理解されている引力の法則には反している。が、そう反論なさる方は、大自然の法則の全てが明らかになったと思っておられるのであろうか。上昇する性質をもつガスが発見される前に、気球にガスを詰めて数人の人間を乗せて空高く舞い上がるなどという光景を想像した人がいたであろうか。無線電信が発明される前に、地球の反対側から発信したメッセージが何秒もかからずに届く機械の話をしたら、その人は狂人扱いをされたことであろう。

同じことが心霊現象についても言える。従来の科学では存在が確認されていないエクトプラズムという特殊な物質があって、それを霊が操作して物体を持ち上げたり動かしたりするのである。それは厳然たる“事実”なのである。そして、いかなる否定論をもってしても、その事実だけは否定できない。なぜなら、否定することと、誤りを立証することとは別だからである。数多くの実験を見てきた我々から見れば、そこに何ら自然法則を超越したものは存在しない。今のところ我々はそう表現するしかない。

次のように反論する人もいるであろう。「その事実が証明されれば、おっしゃる通りに受け入れよう。エクトプラズムとかいう物質の存在も認めよう。しかしそれに霊が関与しているということをどうやって証明するのか。もしそれが事実であれば、まさしく驚異的であり、それこそ超自然現象である」と。

この種の疑問に対しては実際に実験に立ち会っていただくのがいちばんいいのであるが、取りあえず簡単に説明すれば、まず論理的には、知的な現象には知的な原因が作用しているに相違ないこと。次に実際的には、スピリチュアリズム的な現象は今も言った通りの知的な作用が証明されているので、物質とは異質のものに原因があるに相違ないということである。言いかえれば、実験会の出席者が行っているのではなく――これは実験で十分に証明されている――何か目に見えないもので、しかも知性を備えているもの、ということである。

それが何ものであるかについて、これまで繰り返し観察してきて、次のような確信に帰着している。すなわち、その目に見えない存在は我々が“霊(スピリット)”と呼んでいるもので、しかもそれはかつて地上で生活したことのある人間の魂であり、死によって肉体という鈍重な衣服を脱ぎ捨て、今では肉眼に映じないエーテル質の身体をまとって異次元の世界で生活しているということである。

肉眼に映じない知的存在が霊であることが証明されれば、物質に働きかける力は霊そのものに備わっているとみてよい。その働きかけには知性が見られる。それは当然のことで、死は肉体だけの崩壊であって、個性も知性もまったく失われないのである。

このように、霊の実在は、事実にうまく合うようにこしらえた理論ではなく、また、ただの仮説でもない。実験と観察の末に得られた結論であり、人間に魂が内在するという事実からの当然の帰結なのである。霊の実在を否定することは魂とその属性を否定することになる。もしもこれ以外にもっと合理的に心霊現象を解明する説があるとおっしゃる方がいれば、ぜひともお聞かせいただきたいものである。心霊現象の全てを明快に説き明かすものでないといけない。もしあればスピリチュアリズムの説と並べて検討するにやぶさかではない。

自然界には物質しか存在しないと考えている唯物主義者にとっては、物理法則で説明できないものは全て“驚異的”で“超自然的”であろう。その意味での驚異的現象とは“迷信”と同義語にほかならない。そういう概念を抱いている人にとっては、物質を超越した原理の存在の上に成り立っている宗教も迷信の一組織でしかあり得ない。

と言って、そのことを大っぴらに公言する人はほとんどいない。みんな陰でささやき合っているだけである。そして公的場面で意見を求められると、宗教的人間にとって必要であり、また子供に規律ある生活を送らせる上で必要である、といった表現で体面を保とうとする。そういう態度をとる人たちにスピリチュアリズムは次のような主張を提示したい。すなわち、宗教的原理というものは真理であるか、さもなければ間違っているかのどちらかであり、もし真理であれば、それは万人にとって真理なのであり、もし間違っているとすれば、英知に富む人々にとってだけでなく、無知な人々にとっても何の価値もないことになる、と。

スピリチュアリズムのことを驚異的現象をもてあそぶだけの一派として攻撃する人々は、唯物主義者の音頭をとっているようなものである。なぜなら、物質的範疇をこえたものを全て否定することは、人間に魂が内在することを否定することになるからである。

否定論者の論説を突き詰め、その主張の流れを検討してみると、結局は唯物論の原理から出発していることが分かる。彼らはそれを公然とは露呈しない。が、いかに論法を合理的につくろってみても、彼らの否定的結論は、当初からの否定的前提の結果に過ぎないことが分かる。人間に不滅の魂が宿っていることを頭から否定しているから、魂の存在を前提とした説にはことごとく反論する。原因を認めない者に結論を認めることを要求するのは、しょせん無理な話なのである。

以上の論説をまとめると次の八項目になろう。

一、全ての霊的現象は、その根本的原理として、魂の存在とその死後の存続を示唆していること。つまり現象は死者の霊が起こしているのである。

二、その現象はあくまでも自然法則にのっとって生じているのであり、通常の意味での“驚異的”でも“超自然的”でもない。

三、“超自然現象”とされてきたものの多くは原因が分からないからに過ぎない。スピリチュアリズムではその原因を突き止めることによって、全てが自然現象の範疇におさまることを証明している。

四、ただし“超自然現象”とされているものの中には、スピリチュアリズム的観点から検討して絶対にあり得ないこと、したがって単なる迷信の産物に過ぎないものもある。

五、スピリチュアリズムは、古来の民間信仰の中に真理と認められるものもあることは認めるが、それは、他愛もない想像上の産物の全てを真理と認めるということではない。

六、虚偽の事実でもってスピリチュアリズムの真実性を否定する行為は、無知であることを証言するようなものであり、一顧の価値も認められない

七、スピリチュアリズムが本物と認めた霊現象を正しく解明し、そこから引き出される道徳的教訓を確認することによって、新しく心霊科学というものが生まれ、新しい霊的思想が生まれている。これは忍耐づよく、真剣に、そして注意ぶかく考究していくべき重大な課題である。

八、スピリチュアリズムを根本から論破するためには、まず心霊現象を徹底的に検証して、良心的態度で根気よく、その意味するところの深奥を考究し、さらにはスピリチュアリズムの説を各分野にわたって一つ一つきちんと反論できなくてはならない。否定するばかりではいけない。きちんと論理的に反論できなくてはいけない。要するに、これまでにスピリチュアリズムが出してきた結論よりもさらに合理的な説を提示できなくてはいけない。が、これまでのところ、そのような立派な反論を唱えた人はいない。

シアトルの秋 霊媒の書  第1部 序説1章 霊の実在

The Mediums' Book

霊の実在に関する疑問は、その本性についての“無知”に起因している。霊というと大ていの人が目に見える地上の創造物とは別個のものを想像し、その実在については何一つ証明されていないと考えている。
想像上の存在と考えている人も多い。すなわち霊というのは子供時代に読んだり聞かされたりしたファンタスティックな物語の中に出てくるもので、実在性がないという点においては小説の中の登場人物と同じと思っている。実はそのファンタスティックな物語にも、表面の堅い皮をむくと、その核心に真髄が隠されていることが分かるものなのだが、そこまで解明の手を伸ばす人は稀で、大ていは表面上の不合理さだけにとらわれて全体を拒絶してしまう。それはちょうど宗教界の極悪非道の所業にあきれて、霊に係わるもの全てを拒絶する人がいるのと同じである。

霊というものについていかなる概念を抱こうと、その存在の原理は、当然のことながら物質とはまったく別の知的原理に基づくのであるから、その実在を信じることと、物的原理からそれを否定することとは、まったく相容れないことなのである。

魂の実在、およびその個体としての死後存続を認めれば、その当然の帰結として次の二つの事実をも認めねばならない。一つは、魂の実質は肉体とは異なること。なぜならば、肉体から離脱したあとは、ただ朽ち果てるのみの肉体とは“異次元の存在”となるからである。

もう一つは、魂は死後も“個性と自我意識”とを維持し、したがって幸不幸の感覚も地上時代と同じであること。もしそうでないとしたら、霊として死後に存続しても無活動の存在であることになり、それでは存在の意義がないからである。

以上の二点を認めれば、魂はどこかへ行くことになる。では一体そこはどこなのか、そしてどうなっていくのか。かつては単純に天国へ行くか、さもなくば地獄へ行くと信じられてきた。ではその天国とはどこにあるのか。地獄はどこにあるのか。人々は漠然と天国は“ずっと高い所”にあり、地獄は“ずっと低い所”にあるという概念を抱いてきたが、地球がまるいという事実が明らかになってしまうと、宇宙のどっちが“上”でどっちが“下”かということは意味をなさなくなった。しかも二十四時間で一回転しているから、“上”だと思った所が十二時間後には“下”になるのである。

こうした天体運動が果てしない大宇宙の規模で展開している。最近の天文学によると地球は宇宙の中心でないどころか、その地球が属している太陽系の太陽でさえ何千億個もの恒星の一つに過ぎず、その恒星の一つ一つが独自の太陽系を構成しているという。この事実によって地球の存在価値も遠くかすんでしまう。大きさからいっても位置からいってもその特質からいっても、砂浜の砂の一粒ほどしかない地球が、この宇宙で唯一、知的存在が生息する天体であるなどと、よくぞ言えたものと言いたくなる。理性が反発するし、常識からいっても、当然、他の天体のすべてに知的存在が生息し、それゆえにそれなりの霊界も存在すると考えてよかろう。

次に持ち出されそうな疑問は、そのように天体が事実上無限に存在するとなると、すでにそこを去って霊的存在となった者たちの落ち着く先はどうなるのか、ということであろう。が、これも旧式の宇宙観から生じる疑問であって、今では新しい科学理論に基づく宇宙観が合理的解釈を与えてくれている。(オリバー・ロッジなどによるエーテル理論をさすものと察せられる――訳注)

つまり霊の世界は地上のような固定した場所ではなく、内的宇宙空間とでもいうべき壮大な組織を構成していて、地球はその中にすっぽりと浸っている。ということは我々の上下左右、あらゆるところに霊の世界が存在し、かつ絶え間なく物質界と接触していることになる。

固定した存在場所がないとなると、死後の報いと罰はどうなるのかという疑問を抱く方がいるかも知れない。が、この種の疑念は報いや罰が第三者から見て納得のいかない形で行われることを懸念することから生じるもので、善行に対する報いも悪行に対する罰も、本質的にはそういうものではないことを、まず理解しなければならない。

いわゆる幸福と不幸は霊そのものの意識の中に存在するもので、第三者から見た外的条件で決まるものではない。たとえば波動の合う霊との交わりは至福の泉であろう。が、その波動にも無限の階梯があり、ある者にとっては至福の境涯であっても、それより高い階梯の者にとっては居づらい境涯に思えるかも知れない。このように、何事も霊的意識の進化のレベルを基準として判断する必要がある。そうすれば全ての疑問が氷解する。

これをさらに発展させれば、その霊的意識のレベルというのは、魂の純化のための試練として何度か繰り返される地上生活において、当人がどれだけ努力したかによって自ずと決まるものである。“天使”と呼ばれる光り輝く存在は、その努力によって最高度の進化の階梯にまで達した霊のことであり、すべての人間が努力次第でそこまで到達できるのである。

そうした高級霊は宇宙神の使徒であり、宇宙の創造と進化の計画の行使者であり、彼らはそのことに無上の喜びを覚える。最後は“無”に帰するとした従来の説よりもこの方がはるかに魅力がある。無に帰するということは存在価値を失うことにならないだろうか。

次に“悪魔”と呼ばれているものは邪悪性の高い霊ということで、言いかえれば魂の純化が遅れているということである。遅れているだけであって、試練と霊的意識の開発によって、いつかは天使となり得る可能性を秘めている点は、他のすべての魂と同じである。キリスト教では悪魔は悪の権化として永遠に邪悪性の中に生き続けるとしているが、これでは、その悪魔は誰がこしらえたのかという問いかけに理性が窮してしまう。

“魂(ソウル)”と“()霊(スピリット)”の区別であるが、結論から言えば同じものを指すことになる。ただ、肉体をまとっている我々人間は“魂を所有している”というように表現し、肉体を捨て去ったあとに生き続けるものを“霊”と呼ぶ。同じものを在世中と死後とで言い分けているだけである。もしも霊が人間と本質的に異なるものだとしたら、その存在は意味がないことになる。人間に魂があって、それが霊として死後に生き続けるのであるから、魂がなければ霊も存在しないことになり、霊が存在しなければ魂も存在しないことになる。(この“霊”と“魂”の使い分けはスピリチュアリズムでも混乱していて、霊界通信でも通信霊によって少しずつズレが見られる。ここでカルデックが解説していることは明快であるが、その前の節では“魂の純化”という、その解説の内容からはみ出た意味に用いている。ここは本来は“霊性の進化”と言うべきところであろうが、要するに地上の言語には限界があるということである――訳注)

以上の説が他の説より合理性が高いとはいえ、一つの理論に過ぎないことは確かである。が、これには理性とも科学的事実とも矛盾しないものがある。それにさらに事実による裏付けがなされれば、理性と実体験による二重の是認を受けることになることは認めていただけるであろう。

その実体験を提供してくれるのが、いわゆる“心霊現象”で、これが死後の世界の存在と人間個性の死後存続という事実を論駁(ろんばく)の余地のないまでに証明してくれている。

ところが大抵の人間はそこのところでストップする。人間に魂が存在し、それが死後、霊として存続することは認めても、その死者の霊との交信の可能性は否定する。「なぜなら、非物質的存在が物質の世界と接触できるはずがないから」だと彼らは言う。

こうした否定論は、霊というものの本質の理解を誤っているところから生じている。つまり彼らは霊というものを漠然として捉えどころのない、何かフワフワしたものを想像するらしいのであるが、これは大きな間違いである。

ここで霊というものについて、まず肉体との結合という観点から見てみよう。両者の関係において、霊は中心的存在であり、肉体はその道具にすぎない。霊は肉体を道具として思考し、物的生活を営み、肉体が衰えて使えなくなればこれを捨てて次の生活の場へ赴く。

厳密に言うと“両者”という言い方は正しくない。肉体が物質的衣服であるとすれば、その肉体と霊とをつなぐための半物質的衣服として“ダブル”というのが存在する。(カルデックは“ペリスピリット”という用語を用いているが、その後“ダブル”という呼び方が一般的になっているので、ここではそう呼ぶことにする――訳注)

ダブルは肉体とそっくりの形をしていて、通常の状態では肉眼に映じないが、ある程度まで物質と同じ性質を備えている。このように霊というのは数理のような抽象的な存在ではなく、客観性のある実在であり、ただ人間の五感では認知できないというに過ぎない。

このダブルの特質についてはまだ細かいことは分かっていないが、かりにそれが電気的な性質、ないしはそれに類する精妙なもので構成されているとすれば、意念の作用を受けて電光石火の動きをするという推察も、あながち間違いとも言えないであろう。

死後の個性の存続および絶対神の存在はスピリチュアリズムの思想体系の根幹をなすものであるから、次の三つの問いかけ、すなわち――

一、あなたは絶対神の存在を信じますか。

二、あなたに魂が宿っていると信じますか。

三、その魂は死後も存続すると信じますか。

この三つの問いに頭から「ノー」と答える人および「よく分からない」とか「全部信じたいが確信はもてない」といった返答をする人は、本書をこれ以上お読みになる必要はない。軽蔑して切り捨てるという意味ではない。そういうタイプの人には別の次元での対話が必要ということである。

そういう次第で私は本書を、魂とその死後存続を自明の理としている人を対象として綴っていくつもりである。それが単なる蓋然(がいぜん)性の高いものとしてではなく、反論の余地のない事実として受け入れられれば、その当然の帰結として、霊の世界の実在も認められることになる。

残るもう一つの疑問は、はたして霊は人間界に通信を送ることができるか否か、言いかえれば、思いを我々と交換できるかどうかということである。が、できないわけがないのではなかろうか。人間は、言うなれば肉体に閉じ込められた霊である。その霊が、すでに肉体の束縛から解き放たれた霊と交信ができるのは、くさりに繋がれた人間が自由の身の人間と語り合うことくらいはできるのと同じである。

人間の魂が霊的存在として死後も生き続けるということは、情愛も持ち続けていると考えるのが合理的ではなかろうか。となると地上時代に親しかった者へ通信(メッセージ)を届けてやりたいと思い、いろいろと手段を尽くすのは自然なことではなかろうか。地上生活を営む人間は、魂という原動力によって肉体という機関を動かしている。その魂が、死後、霊として地上の誰かの肉体を借りて思いを述べることができて、当然ではなかろうか。

人間に永遠不滅の魂が宿っていて、それが肉体の死とともに霊的存在として個性と記憶のすべてを携えて次の世界へ赴くこと、そして適当な霊媒を通して通信を地上へ送り届けることができることは、これまでに繰り返し行われてきた実験と理性的推論によって疑問の余地のないまでに証明されている。

一方、これを否定せんとする者も後を絶たないが、彼らは実験に参加することを拒否し、ただ「そんなことは信じられない。したがって不可能である」という筋の通らない理屈を繰り返すのみである。これでは「太陽はどう見ても地球のまわりを回っている。だから地動説は信じられない」と言うのと同類で、そう思うのは自由であるが、それではいつになっても無知の牢獄から脱け出られないことになる。

シアトルの秋  霊媒の書  スピリチュアリズムの真髄「現象編」

 The Mediums' Book

アラン・カルデック(編)
近藤千雄(訳)


訳者まえがき

 本書は一九世紀のフランスの思想家アラン・カルデックの古典的名著『Le Livre de Mediums』の英語版の日本語訳である。

フランス語と英語はともにアルファベットを使用する言語なので、その翻訳は比較的やさしいと言われるが、日本語は世界のどの言語とも異なる複雑な形態をもつ言語なので、訳し方一つでまったく異質のものになってしまう危険性がある。

本書の翻訳に当たっても私は、フランス語→英語→日本語と、二段階の翻訳をへるうちに原典の“味”が損なわれることを懸念したが、有り難いことに私の長年の愛読者の一人でフランス語の原典をお持ちの方と不思議な縁でめぐり会い、私の訳文の一部を読んでいただいて、大体においてこうした感じであることが確認できた。

訳していくうちに表面化した問題として、カルデックが本書を書いた時代がハイズビル事件をきっかけにスピリチュアリズムが勃興してわずか十数年後という事実から想像がつくように、その後の心霊研究の発達とモーゼスの『霊訓』や「シルバーバーチの霊言」に代表される高等な霊界通信によって、用語の上でも新しいものが生まれていることで、霊的真理の内容においてはいささかも見劣りはしないが、用語には、そのままでは使用できないものが目立つ。

その最たるものが“スピリチュアリズム”を“スピリティズム”と呼んでいることで、ラテン諸国では今なおそう呼んでいる。

カルデックはスピリチュアリズムのことを“唯物主義Materialismと相対したもの”として、いわば“精神主義”的な意味に捉えていたらしい。日本で“心霊主義”とか“神霊主義”と訳す人の認識と似たところがある。

ご承知の通り、スピリチュアリズムは“地球を霊的に浄化する”という意味のspiritualiseから来たもので、“主義”という意味はみじんもない。そこで私はこれまで“スピリチュアリズム”という原語で通してきたのであるが、本書でも一貫してそれで通すことにした。

もう一つの問題は“霊(スピリット)”と“魂(ソウル)”の区別で、英米でも日本でも混同して用いられているが、カルデックは両者はまったく同じものであるとし、肉体に宿っているものを“魂”と呼び、肉体を捨てたあとの存在を“霊”と呼ぶ、という解説をしている。

そう言いつつも時おり混同して用いているところがあるが、私は上の解説は的を射ていると思うので、それに従うことにした。

カルデックの人物像と業績については次に詳しく述べることにして、ここで参考までに述べておきたいのは、カルデックが交霊会に出席するようになってから高等な自動書記通信が届けられるようになり、その編纂と出版を霊団側から依頼されたという事実である。カルデックには特に霊能はなかったが、上の事実は彼の霊格の高さと使命を物語っているとみてよいであろう。

アラン・カルデックの生涯と業績

 カルデックは本名をイポリット=レオン=ドゥニザール・リヴァイユといい、一八〇四年にフランスのリヨンで生まれている。アラン・カルデックというペンネームは、いくつかの前世での名前の中から背後霊団の一人が選んで合成して授けたものである。

 家系は中世のいわゆるブルジョワ階級で、法官や弁護士が多く輩出している。初等教育はリヨンで修めたが、向学心に燃えてスイスの有名な教育改革家ペスタロッチのもとで科学と医学を学んだ。

帰国して二十八歳の時に女性教師と結婚、二人で新しい教育原理に基づいた私塾を開設する。が、偶発的な不祥事が重なって、塾を閉鎖せざるを得なくなり、リヨンを離れ、幾多の困難と経済的窮乏の中で辛酸をなめる。が、その間にあっても多くの教育書や道徳書をドイツ語に翻訳している。

 その後名誉を回復して多くの学会の会員となり、一八三一年にはフランス北部の都市アラスの王立アカデミーから賞を授かっている。一八三五年から数年間、妻とともに自宅で私塾を開き、無料で物理学、天文学、解剖学などを教えている。

 スピリチュアリズムとの係わり合いは、一八五四年に知人に誘われて交霊会に出席したことに始まる。そこでは催眠術によってトランス状態に入ったセリーナ・ジェイフェットという女性霊媒を通して複数の霊からの通信が届けられていた。

 すでにその通信の中にも“進化のための転生”の教義が出ていて、一八五六年にはそれが「The Spirits'Book」のタイトルで書物にまとめられていた。が、その内容にはまだ一貫性ないし統一性がなかった。それが本格的な思想体系をもつに至るのは、カルデックがビクトーリャン・サルドゥーという霊能者が主催するサークルに紹介されて、そこで届けられた通信の中で、カルデックが本格的な編纂を委託されてからだった。それが同じタイトルで一八五七年に出版され、大反響を呼んだ。

 このように、カルデックは霊界通信によってスピリチュアリズムに入り、当初は物理的心霊現象を軽視していた。さらに、スピリチュアリズム史上もっとも多彩な現象を見せたD・D・ホームと会った時に、ホームが個人的には再生(転生)説を信じないと言ったことで、ますます物理現象を嫌うようになった。

 その後カルデックも物理現象の重要性に目覚める。「本書」がその証と言えるが、フランスでの心霊現象の研究は、カルデックの現象嫌いで二十年ばかり遅れたと言われている。

一八六九年に心臓病で死去。六十五歳。遺体はペール・ラシェーズ墓地にあり、今なお献花する人が絶えない。

 業績は多方面にわたり、多くの学術論文を残しているが、著書としては『The Spirits'Book』(霊の書)、『The Mediums'Book』(本書)の他に『Heaven and Hell』(『天国と地獄』)、『The Four Gospels』(『四つの福音書』)など、スピリチュアリズム関係のものが多い。


序文

 スピリチュアリズムの実践面(交霊実験会・霊能開発等)において遭遇する困難や失望が霊的基本原理についての無知に起因していることは、何よりも日頃の経験が雄弁に物語っている。

これまで我々はそのことを警告する努力を重ねてきたが、その努力の甲斐あって、本書にまとめたようなことを精読することで危険を回避することができた人が少なくないことを知って、喜びに堪えない。

スピリチュアリズムに関心を抱くようになった人は、霊と交信してみたいと思うようになる。それは極めて自然なことで、本書を上梓する目的も、これまでの長くそして労の多かった調査研究の成果を披露することによって、健全な形でその願望を叶えさせてあげることにある。

 本書をしっかりお読みいただけば、テーブル現象はテーブルに手を置くだけでよい、通信を受け取るにはエンピツを握りさえすればよいかに想像している人は、スピリチュアリズムの全体像を大きく見誤っていることに気づかれるであろう。

 とは言うものの、本書の中に霊能養成のための絶対普遍の秘策が見出せるかに期待するのも、同じく間違いである。と言うのは、全ての人間に霊的能力が潜在していることは事実であるが、その素質にはおのずと程度の差があり、それがどこまで発達するかは、自分の意志や願望ではどうすることもできない、さまざまな要因があるのである。

 それは、たとえば詩や絵画や音楽の理論をいくら勉強しても、先天的に優れた才能を持って生まれていないかぎりは、形だけは詩であり、絵画であり、音楽といえるものはつくれても、詩人・画家・音楽家といえるほどの者になれるとは限らないのと同じである。

 本書についても同じことが言える。その目的とするところは、各自の受容力が許す範囲での霊的能力の発達を促す手段をお教えすることであり、とりわけその能力の有用性を引き出す形で行うことである。

 ただし、それだけが本書の目的の全てではないことをお断りしておく。本格的な霊能者といえる人以外にも、霊的現象を体験したいと思っている人が大勢いる。そういう人たちのさまざまな試みのためにガイドラインを用意してあげ、その試みの中で遭遇するかも知れない――というよりは、必ず遭遇するに決まっている障害を指摘し、霊との交信の手ほどきをしてあげ、すぐれた通信を入手するにはどうすべきかを教えてあげること、それが、十分とは言えないかも知れないが、本書が目的としているところである。

 であるから、読者によってはなぜそんなことを述べるのか理解に苦しむことにも言及しているが、それは経験を積んでいくうちに「なるほど」と納得がいくであろう。前もってしっかりと勉強しておけば、目撃する現象についてより正しい理解が得られるであろうし、霊の述べることを奇異に思うことも少なくなるであろう。そのことは、霊媒や霊感者としてすでに活躍している人だけでなく、スピリチュアリズムの現象面を勉強したいと望んでいる人すべてに言えることである。

そうした指導書(マニュアル)をこんな分厚い書物でなしに、ごく短い文章で述べた簡便なものにしてほしいという要望を寄せた人がいた。そういう人たちは、小冊子の方が価格が安くて広く読まれるであろうし、霊媒や霊感者の増加にともなって強力なスピリチュアリズムの宣伝の媒体となると考えたようである。しかし、少なくとも現時点でそういう形で出すことは、有用どころか、むしろ危険ですらあると考える。

 スピリチュアリズムの実践面には常に困難がつきまとうもので、よくよく真剣な勉強をしておかないと危険ですらある。従ってそうした複雑な世界に簡便なマニュアルだけで安易に入り込むと、取り返しのつかない危害をこうむることがあるのである。

 このようにスピリチュアリズムは軽々しく扱うべき性質のものではないし、危険性すらはらむものであるから、まるで暇つぶしに死者の霊を呼び出して語り合うだけの集会のように考える人間がこの道に手を染めてもらっては困るのである。本書が対象としているのは、スピリチュアリズムの本質の深刻さを認識し、その途轍もなく大きい意義を理解し、かりそめにも面白半分に霊界との交信を求めることのない人々である。

 本書には、これまでの我々の長年にわたる実体験と慎重な研究の末に得た資料の全てが収められている。これをお読みいただくことによって、スピリチュアリズムが、人生を考える上で見過ごすことのできない重大な意義を秘めているとの認識が生まれ、軽薄な好奇心と娯楽的な趣味の対象でしかないかに受け取られる印象を拭い去ることになるものと期待している。

 以上のことに加えてもう一つ、それに劣らず重大なことを指摘しておきたい。それは、心霊現象のメカニズムについての正しい知識もなしに軽率に行われた実験会は、出席した初心者、およびスピリチュアリズムに良からぬ先入観を抱いている者に、霊界というものに関して誤った概念を植えつけ、そのことがさらにスピリチュアリズムは茶番だと決めつける口実にされてしまうことである。

 半信半疑で出席した者は当然その種の交霊会をいかがわしいものと結論づける。そしてスピリチュアリズムに深刻な側面があることを認めるまでには至らずに終わる。スピリチュアリズムの普及にとって、肝心の霊媒や霊感者みずからが、その無知と軽薄さによって、想像以上に大きい障害となっているのである。

 一八四八年に勃興したスピリチュアリズムは、当初の現象中心から霊的思想へと重点が移行してきたここ数年(一八六一年の時点)で飛躍的な発達を遂げた。このことには、多くの学者や知識人がその真実性と重大性を認識したことが大きく貢献している。もはや、かつてのような見世物(ショー)的な段階から脱して、確固とした教説としての認識を得ている。

 確信をもって断言するが、こうした霊的教説を基盤とするかぎりスピリチュアリズムはますます有能な同志を引き寄せるであろう。すぐに現象を見せようとして安直な交霊会を催すのは得策ではないし、危険でもある。この確信は、前著『The Spirits' Book』をひと通り目を通しただけで我々のもとへ駆せ参じた人の数の多さが雄弁に物語っている。

 その思想的側面については前著で詳しく語ったので、本書では、自分の霊能で霊的現象を求めておられる人、および霊媒による交霊会で現象を正しく理解したいと思っておられる方のために、おもにその実際的側面を扱うことにした。これをしっかりとお読みいただけば、遭遇する障害についてあらかじめ理解し、かつそれを回避することにもなるであろう。

 最後に付言すれば、本書の校正は、内容そのものに係わった霊、いわゆる通信霊みずからが行った。全体の構成についても、かなりの部分に彼らの思う通りの修正を加え、彼ら自身が述べた意見の一つ一つについても確認作業を行っている。

 通信霊は自分の所見にはかならず署名(サイン)をしているが、本書ではその全てを付記することは避け、通信者が誰であるかをはっきりさせた方がよいと思うものだけにとどめた。

 が、本来、霊的なことに関するかぎり、通信霊が地上でどういう名前の人物であったかは、ほとんど意味をなさない。要はその通信の内容そのものだからである。

アラン・カルデック

一八六一年 パリにて。

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch Edited by A.W. Austen

二章 死は第二の誕生


    シルバーバーチは〝死〟を悲しむべき出来ごととは見ていない。それどころか、より大きな意識、より広い自由、潜在意識をより多く表現できる機会(チャンス)を与えてくれる、喜ぶべき出来ごとであると説く。


 「この交霊会も死が幻影であることを証明する機会の一つです。すなわち死の淵を霊的知識で橋渡しをして、肉体という牢獄を出たあとに待ち受ける充実した新たな生活の場の存在を紹介するために私たちはこうして戻ってきているということです。

何でもない、実に簡単なことなのです。ですが、その簡単なことによって、これまでどれほど意義ある仕事が成し遂げられてきたことでしょう。

手を変え品を変えての普及活動も、結局は古くからの誤った認識を駆逐するためにその簡単な事実を繰り返し繰り返し述べているにすぎません。その活動によって今や霊的知識(スピリチュアリズム)への抵抗が少しずつ弱まり、橋頭堡が少しずつ広がりつつあります。

われわれの活動を歯牙にかけるに足らぬものと彼らが多寡をくくっていたのも、つい先ごろのことです。それがどうでしょう。今やあなた方の周りに、崩れゆく旧態の瓦礫が散乱しております。

 私たちは施設はどうでもよいのです。関心の的は人間そのものです。魂と精神、そして両者を宿す殿堂としての身体───これが私たちの関心事です。人間も神の一部であるが故に永遠の霊的存在である───この単純にして深遠な真理に耳を傾ける人すべてに分け隔てなく手を差しのべんとしているのです。

実に単純な真理です。が、その意味するところはきわめて深長です。いったんこの真理の種子が心に宿れば、大いなる精神的革命をその人にもたらします。

 皆さんはよく、かつての偉大な革命家を鼓舞したのはいったい何であったかが分からないことが多いとおっしゃいます。しかし人間の思想を一変させるのは、何気なく耳にする言葉であることもあります。ほんのささやき程度のものであることもあります。

一冊の書物の中の一文であることもあります。新聞で読んだたった一行の記事である場合だってあります。私たちが求めているのも同じです。単純素朴なメッセージによって、教義でがんじがらめとなった精神を解放してあげ、自らの知性で物ごとを考え、人生のあらゆる側面に理性の光を当てるようになっていただくことです。

古くからの教えだから、伝来の慣習だからということだけで古いものを大切にしてはいけません。真理の宝石、いかなる詮索にも、いかなるテストにも、いかにしつこい調査にも耐えうる真理を求めなくてはなりません。

 私の説く真理を極めて当たり前のことと受け取る方がいらっしゃるでしょう。すでにたびたびお聞きになっておられるからです。が、驚天動地のこととして受け止める方もいらっしゃるでしょう。所詮さまざまな発達段階にある人類を相手にしていることですから当然のことです。

私の述べることがどうしても納得できない方がいらっしゃるでしょう。頭から否定する方もいらっしゃるでしょう。あなた方西洋人から野蛮人とみなされている人種の言っていることだということで一蹴される方もいらっしゃるでしょう。しかし真理は真理であるが故に真理であり続けます。

 あなた方にとって当り前となってしまったことが人類史上最大の革命的事実に思える人がいることを忘れてはなりません。人間は霊的な存在であり、神の分霊であり、永遠に神と繋がっている───私たち霊団が携えてくるメッセージはいつもこれだけの単純な事実です。

神とのつながりは絶対に切れることはありません。時には弱められ、時には強められたりすることはあっても、決して断絶することはありません。人間は向上もすれば堕落もします。神の如き人間になることもできれば動物的人間になることもできます。

自由意志を破壊的なことに使用することもできますし、建設的なことに使用することもできます。しかし、何をしようと、人間は永遠に神の分霊であり、神は永遠に人間に宿っております。

 こうした真理は教会で朗唱するためにあるのではありません。日常生活において体現して行かなくてはなりません。飢餓、失業、病気、スラム等々、内に宿す神性を侮辱するような文明の恥辱を無くすことにつながらなくてはいけません。

 私たちのメッセージは全人類を念頭においております。いかなる進化の階梯にあっても、そのメッセージには人類が手に取り理解しそして吸収すべきものを十分に用意してあります。人類が階段の一つに足を置きます。すると私たちは次の段でお待ちしています。

人類がその段まで上がってくると、また次の段でお待ちします。こうして一段また一段と宿命の成就へ向けて登って行くのです」

 別の交霊会で、肉親を失ってその悲しみに必死に耐えている人に対してシルバーバーチがこう述べた。

「あなたの(霊の世界を見る)目がさえぎられているのが残念でなりません。(霊の声を聞く)耳が塞がれているのが残念でなりません。その肉体の壁を超えてご覧になれないのが残念でなりません。あなたが生きておられる世界が影であり実在でないことを知っていただけないのが残念でなりません。

あなたの背後にあって絶え間なくあなたのために働いている霊の力をご覧にいれられないのが残念でなりません。数多くの霊───あなたのご存じの方もいれば人類愛から手を差しのべている見ず知らずの人もいます───があなたの身の回りに存在していることが分かっていただけたら、どんなにか慰められるでしょうに。地上は影の世界です。実在ではないのです。

 私たちの仕事はこうした霊媒だけを通して行っているのではありません。もちろん人間世界特有の(言語によって意志を伝える)手段によって私たちの存在を知っていただけることをうれしく思っておりますが、実際にはその目に見えず、その耳に聞こえずとも、あなた方の生活の現実に影響を及ぼし、導き、鼓舞し、指示を与え、正しい選択をさせながら、あなた方の性格を伸ばし、魂を開発しております。そうした中でこそ(死後の生活に備えて)霊的な成長に必要なものを摂取できる生き方へと誘うことが出来るのです」


 ある年のイースタータイム(※)シルバーバーチは〝死〟を一年の四季のめぐりに見事になぞらえて、こう語った。

(※イースターはキリストの復活を祝う祭日で、西洋ではクリスマスと並んで大々的に祝う。その時期は国によって少しずつズレがあるが、当日をイースターサンデー、その日を含む週をイースターウィーク、五〇日間をイースタータイムという───訳者)

 「四季の絶妙な変化、途切れることの無い永遠のめぐりに思いを馳せてごらんなさい。全ての生命が眠る冬、その生命が目覚める春、生命の世界が美を競い合う夏、そしてまた次の春までの眠りに具えて自然が声をひそめはじめる秋。

 地上は今まさに大自然の見事な顕現───春、イースター、復活───の季節を迎えようとしております。新しい生命、それまで地下の暗がりの中で安らぎと静けさを得てひっそりと身を横たえていた生命がいっせいに地上へ顕現する時期です。

間もなくあなた方の目に樹液の活動が感じられ、やがてつぼみが、若葉が、群葉が、そして花が目に入るようになります。地上全土に新しい生命の大合唱が響きわたります。

 こうしたことから皆さんに太古の非文明化時代(※)において宗教というものが大自然の動きそのものを儀式の基本としていたことを知っていただきたいのです。彼らは移り行く大自然のドラマの星辰の動きの中に、神々の生活───自分たちを見つめている目に見えない力の存在を感じ取りました。

自分たちの生命を支配する法則に畏敬の念を抱き、春を生命の誕生の季節としてもっとも大切にいたしました。

(※シルバーバーチは文明の発達そのものを少しも立派なものとは見ていない。それによって人類の霊的な感覚がマヒしたとみており、その意味でこの表現に〝野蛮〟と言うイメージは込められていない───訳者)

 同じサイクルが人間一人ひとりの生命においても繰り返されております。大自然の壮観と同じものが一人ひとりの魂において展開しているのです。まず意識の目覚めとともに春が訪れます。続いて生命力が最高に発揮される夏となります。やがてその力が衰えはじめる秋となり、そして疲れ果てた魂に冬の休眠の時が訪れます。しかし、それですべてが終りとなるのではありません。それは物的生命の終りです。

冬が終わるとその魂は次の世界において春を迎え、かくして永遠のサイクルを続けるのです。この教訓を大自然から学び取ってください。そしてこれまで自分を見捨てることの無かった摂理はこれ以後も自分を、そして他のすべての生命を見捨てることなく働き続けてくれることを確信して下さい」

 スピリチュアリストとして活躍していた同志が他界したことを聞かされてシルバーバーチは───

 「大収穫者すなわち神は、十分な実りを達成した者を次々と穫り入れ、死後にたどる道をより明るく飾ることをなさいます。

 肉眼の視野から消えると、あなた方は悲しみの涙を流されますが、私たちの世界ではまた一人物質の束縛から解放されて、言葉で言い表せない生命のよろこびを味わいはじめる魂を迎えて、うれし涙を流します。

私はいつも〝死〟は自由をもたらすものであること、人間の世界では哀悼の意を表していても、本人は新しい自由、新しいよろこび、そして地上で発揮せずに終わった内部の霊性を発揮する機会(チャンス)に満ちた世界での生活を始めたことを知って喜んでいることを説いております。

ここにおいでの方々は、他界した者が決してこの宇宙からいなくなったのではないとの知識を獲得された幸せな方たちですが、それに加えてもう一つ知っていただきたいのは、こちらへ来て霊力が強化されると必ず地上のことを思いやり、こうして真理普及のために奮闘している吾々を援助してくれているということです。

 その戦いは地上のいたるところで日夜続けられております───霊の勢力と醜い物的利己主義の勢力との戦いです。たとえ一時は後退のやむなきにいたり、一見すると霊の勢力が敗北したかに思えても、背後に控える強大な組織のおかげで勝利は必ず我がものとなることを確信して、その勝利へ向けて前進しつづけます。

いずれあなた方もその戦いにおいて果たされたご自分の役割───大ぜいの人々の慰めと知識を与えてあげている事実を知って大いなるよろこびに浸ることになりましょう。

今はそれがお分かりにならない。私たちと共に推進してきた仕事によって生きるよろこびを得た人が世界各地に無数にいることを今はご存じでありません。

 実際はあなた方はこうした霊的真理の普及に大切な役割を果たしておられるのです。その知識は、なるほどと得心がいき心の傷と精神の疑問と魂の憧憬の全てに応えてくれる真実を求めている飢えた魂にとって、何ものにも替えがたい宝となっております。

太古の人間が天を仰いで福音を祈ったごとくに、古びた決まり文句にうんざりしている現代の人間は、新たなしるしを求めて天を仰いできました。

そこで私たちがあなた方の協力を得て真実の知識をお持ちしたのです。それは正しく用いさえすれば必ずや神の子すべてに自由を───魂の自由と精神の自由だけでなく身体の自由までももたらしてくれます。

 私たちの目的は魂を解放することだけが目的ではありません。見るも気の毒な状態に置かれている身体を救ってあげることにも努力しております。

つまり私達の仕事には三重の目的があります───精神の解放と魂の解放と身体の解放です。そのことを世間へ向けて公言すると、あなた方はきっと取越苦労性の人たちから、そう何もかもうまく行くものでないでしょうといった反論に会うであろうことは私もよく承知しております。

しかし、事実、私たちの説いている真理は人生のあらゆる面に応用が利くのものです。宇宙のどこを探しても、神の摂理の届かないところがないように、地上生活のどこを探しても私たちの説く霊的真理の適用できない側面はありません。

 挫折した人を元気づけ、弱き者、寄るべなき者に手を差しのべ、日常の最小限の必需品にも事欠く人々に神の恩寵を分け与え、不正を無くし、不平等を改め、飢餓に苦しむ人々に食を与え、雨露をしのぐほどの家とてない人々に住居を提供するという、

こうした物質界ならではの問題にあなた方が心を砕いている時、それは実は私たち霊の世界からやって来る者の仕事の一部でもあることを知っていただきたいのです。

その種の俗世的問題から超然とさせるために霊的真理を説いているのではありません。霊的な真理を知れば知るほど、自分より恵まれない人々への思いやりの気持ちを抱くようでなければなりません。その真理にいかなる名称(ラベル)を付けようと構いません。

政治的ラベル、経済的ラベル、宗教的ラベル、哲学的ラベル───どれでもお好きなものを貼られるのがよろしい。それ自体なんの意味もありません。大切なのはその真理が地上から不正を駆逐し、当然受けるべきものを受けていない人々に生得の権利を行使させてあげる上で役立たせることです」


 そして最後に〝死〟にまつわる陰湿な古い観念の打破を説いて、こう述べた。

 「その身体があなたではありません。あなたは本来、永遠の霊的存在なのです。私たちはこうした形で週に一度お会いして僅かな時を過ごすだけですが、そのことがお互いの絆を強化し接触を深めていく上で役に立っております。毎週毎週あなた方の霊そのものが霊的影響力を受けて、それが表面へ出ております。

その霊妙な関係は物的身体では意識されませんが、より大きな自我は実感しております。また、こうしたサークル活動はあなた方が霊的存在であって物的存在でないことを忘れさせないようにする上でも役立っております。人間にはこうしたものが是非とも必要です。

なぜなら人間は毎日毎日、毎時間毎時間、毎分毎分、物的生活に必要なものを追い求めてあくせくしているうちに、つい、その物的なものが殻に過ぎないことを忘れてしまいがちだからです。それは実在ではないのです。

 鏡に映るあなたは本当のあなたではありません。真のあなたの外形を見ているに過ぎません。身体が人間がまとう衣服であり、物質の世界で自分を表現するための道具に過ぎません。

その身体はあなたではありません。あなたは永遠の霊的存在であり、全宇宙を支えている生命力、全天体を創造し、潮の干満を支配し、四季の永遠のめぐりを規制し、全生命の生長と進化を統制し、太陽を輝かせ星をきらめかせている大霊の一部なのです。

その大霊と同じ神性をあなたも宿しているという意味において、あなたも神なのです。本質において同じなのです。

程度において異なるのみで、基本的には同じなのです。それはあらゆる物的概念を超越した存在です。すべての物的限界を超えております。あなた方の想像されるいかなるものよりも偉大なる存在です。

あなたはまさに一個の巨大な原子───無限の可能性を秘めながらも今は限りある形態で自我を表現している原子のような存在です。

身体の内部に、いつの日かすべての束縛を押し破り、真実のあなたにより相応しい身体を通して表現せずにはいられない力を宿しておられるのです。そうなることをあなた方は死と呼び、そうなった人のことを悼み悲しんで涙を流されます。

それは相も変わらず肉体がその人であるという考えが存在し、死が愛する人を奪い去ったと思い込んでいる証拠です。

 しかし死は生命に対して何の力も及ぼしえません。死は生命に対して何の手出しもできません。死は生命を滅ぼすことはできません。物的なものは所詮、霊的なものには敵わないのです。

もしあなたが霊眼をもって眺めることができたら、もし霊耳をもって聞くことができたら、もしも肉体の奥にある魂が霊界の霊妙なバイブレーションを感じ取ることができたら、肉体という牢獄からの解放をよろこんでいる、自由で意気揚々として、うれしさいっぱいの蘇った霊をご覧になることができるでしょう。

 その自由を満喫している霊のことを悲しんではいけません。毛虫が美しい蝶になったことを嘆いてはいけません。カゴの鳥が空へ放たれたことに涙を流してはいけません。

よろこんであげるべきです。そしてその魂が真の自由を見出したこと、いま地上にいるあなた方も神より授かった魂の潜在力を開発すれば同じ自由、同じよろこびを味わうことができることを知ってください。

死の意味がお分かりになるはずです。そして死とは飛び石の一つ、ないしは大きな自由を味わえる霊の世界への関門に過ぎないことを得心なさるはずです。

 他界してその自由を味わったのちに開発される霊力を今すぐあなた方に身を持って実感していただけないことは私は実に残念に思います。しかしあなた方には知識があります。それをご一緒に広めているところです。それによってきっと地上に光をもたらし、暗闇を無くすることができます。

人類はもう、何世紀も迷わされ続けてきた古い教義は信じません。教会の権威は失墜の一途を辿っております。霊的真理の受け入れを拒んできた報いとして、霊力を失いつつあるのです」
            

Wednesday, October 29, 2025

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch Edited by A.W. Austen
巻頭言 まえがき(編者)
シルバーバーチの祈り
 一章 シルバーバーチとは何者か
巻頭言

 あなたがもしも古き神話や伝来の信仰をもって足れりとし、あるいはすでに真理の頂上を極めたと自負されるならば、本書は用はない。が、もしも人生とは一つの冒険であること、魂は常に新しき視野、新しき道を求めてやまぬものであることをご存知ならば、ぜひお読みいただいて、世界のすべての宗教の背後に埋もれてしまった必須の霊的真理を本書の中に見出して頂きたい。

 そこにはすべての宗教の創始者によって説かれた教えと矛盾するものは何一つない。地上生活と、死後にもなお続く魂の旅路に必要不可欠の霊的知識が語られている。もしもあなたに受け入れる用意があれば、それはきっとあなたの心に明りを灯し、魂を豊かにしてくれることであろう。

その中にはあなたの理性を反発させ、あなたの知性を侮辱するものは何一つない。なぜなら、すべては愛の心と奉仕の精神から生まれたものだからである。
シルバーバーチ


 
  まえがき  (編者)

 本書はほぼ一世紀前に(※)霊界において開始された大々的布教活動───すべての宗教の教義の下に埋もれてしまった必須の霊的真理を掘り起こし、その本来の単純素朴な形で地上に蘇らせる活動の一環として出版されるものである。

世界各地で催されている交霊会(ホームサークル)において、民族を異にする霊媒を通じて働きかけている支配霊たちが目的としているのは、人間に霊的実在を教え霊的叡智を授けることによってお互いがお互いのための生活を送り、そうすることによって同胞精神に満ちた新しい世界を招来する一助となるように導くことにある。
  (※一八四八年のスピリチュアリズムの勃興をさす───訳者)

 本書に収められているのは世界的に敬愛されている古代霊からの教訓である。その名をシルバーバーチというが、これは本名ではない。いま彼が所属している世界では名前はどうでもよいのだといって明かそうとしないのである。が、いつかは明かす日が来ることを約束している。


(※)それまでは私も語られた言葉だけで彼がいかなる人物であるかを判断することで満足するとしよう───誰が語っているのかは分からないままそのメッセージを受け入れていくことにしよう。

(※一九八一年バーバネルの死によってそれも果たされないまま終わった。いつかは明かすと言ったは、明かしてもよい時期が来たら明かすという意味で言ったのであろう。が現実にはシルバーバーチという人物像が強烈となるにつれて地上では誰だったのかという興味が次第に薄れ、そのせんさくが無意味に思われるようになっていったというのが実情である───訳者)


 過去九年間ほぼ週に一回の割でこの霊のメッセンジャー(使い)の入神談話を速記してきて───彼は自分のことを上層界の神霊によって派遣されたメッセンジャーに過ぎないと言い、功績を自分のように言われるのを嫌うが───私はシルバーバーチを高貴な個性と明確な視野と表現の流暢さとを兼ね具えた高級神霊の一人として尊敬するようになった。

 冷やかな活字では彼の言葉の温かさ、サークルに出席して個人的に接した者が肌で感じ取る情愛を伝えることはできない。一度も交霊会に出席したことがなく活字によってのみシルバーバーチを知る者には、直接(じか)にその声を耳にしているメンバーほどには彼の人類を思いやる心は感じ取れない。

 われわれメンバーにとってはシルバーバーチは同席しているメンバーとまったく変わらない実在の人物である。

彼が常に訴えるのは理性であり、行いの試金石は動機であり、望みとしているのは自分を役立てることのみである。慈悲の心と思いやりと理解力に溢れるシルバーバーチは決して人を諌めることはしない、しばしば非難の矛先を組織へ向けることはあっても、決して個人へは向けない。
 
援助の要請も絶対に断らない。自分が役に立つ可能性があればいかなる労苦もいとわず、いかに難しい説明も試みてくれる。

 初めて出席した招待者が礼を述べると、シルバーバーチはきまって、礼は神に述べなさいと言う。そして〝私は一介の僕に過ぎず、礼を述べていただくわけにはまいりません。

すべては神へ捧げるべきです〟と述べる。と言うのも、シルバーバーチの主張するところによれば、かつての使者によってもたらされたメッセージがその使者を崇める者たちによって影が薄くなってしまっている。

したがって我々がシルバーバーチに感謝するようになれば、それは何時かはシルバーバーチという使者を崇めてメッセージは二の次となり、ついには本来の使者を台無しにしてしまいかねないというのである。

その本来の使命は各自が自分の力で神との直接の繋がりを待つべきであり神保者(※)は無用であることを教えることにある。 (※キリスト教で説くイエスのように神との仲立ちをする者───訳者)



シルバーバーチの祈り

 これまでシルバーバーチが述べた祈りの言葉は数知れないが、表現はさまざまでもその趣旨に本質的な違いはない。大別すると、開会に際して成功を祈るもの Invocation と閉会に際しての感謝の祈り Benediction とがある。それぞれの典型的なものを紹介する。


○ Invocation

 神よ、私どもはあなたの測り知れぬ愛、限りなき叡智、尽きることなき知識、果てしなき顕現の相をどう説き明かせばよいのでしょうか。永きにわたってあなたを誤解し間違った信仰を抱いてきたあなたの子等にどう説けば、あなたを正しく認識できるのでしょうか。

あなたは決して無知な人間が想像する如き嫉妬深い、横暴な方ではございません。又残忍にして復讐心を抱き、血に飢え、えこひいきをし、選ばれし者のみを愛する方でもございません。

 あなたは全生命の大霊におわします。その息吹が創造を生み、そのリズムが永遠なる宇宙のあらゆる相、あらゆる動き、あらゆる鼓動に表われております。私どもはあなたを完璧なる摂理───絶対に誤らず、絶対に連続性を失うことのない法則として啓示せんものと努めております。

物的世界のみならず霊的世界の最奥をも含む全生命活動を支えるあなたの法則に断絶はあり得ないのでございます。宇宙間の何一つとしてあなたを超えて存在するものは有り得ないのでございます。

なぜならあなたは全存在の中に存在しておられるからです。しかしあなたの霊は、あなたがあなたに似せて創造された人間的存在において最高の形で表現されております。なぜならば、あなたは人間にあなたの霊、あなたの神性を賦与され、あなたの属性の全てを授けておられるからでございます。最下等の動物的存在の位より彼らを引き上げ、いずれはあなたの創造の大業に参加する権利を与えられたのでございます。

 かくして生まれたあなたとのつながりは、切ろうにも切れない宿命となります。なぜならば人間はあなたの一部であり、それは、あなたも人間を離れて存在し得ないことを意味するからでございます。

すなわち、あなたの霊は彼らの全てをお抱きになると同時に彼らの内部にも存在し、自己犠牲と愛他の生活、慈悲と思いやりの行為、老若男女、そしてまた鳥獣に対しても己れを役立てんとする行為において最高の形で顕現なさっておられます。

理想主義に燃え、迷える者に希望を、疲れし者には力を、暗闇にいる者に光を与えんと努力する者の生活にあなたが顕現しておられると理解しております。

 私どもは幾世紀にもわたって忘れ去られてきた摂理───霊眼を開き霊耳を持って聞き霊力の働きかけに素直に従って霊的感受性を鼓舞された少数の者のみが知ることを得た霊的法則を明かすべく努めております。

それを実践することがあなたへの理解を、宇宙についての理解を、そして全人類についての理解を深めることになる、そうした理法を教え、そこに自己の霊性を高めひいてはそれが同胞の霊性を高めることになり、かくして共にあなたのもとへ少しでも近づかしめる手掛かりを見出すことになるよう願っております。
 
 その仕事のために私どもは、同じく霊界にあって一日も早く地上へ新しい秩序をもたらし、新しい世紀を招来せんとして、あらゆる民族、あらゆる教義、あらゆる国家の人間とも協力する上で吾々と同じ立場を取る無数の霊に呼びかけております。

これこそが私どもの祈り───心から、魂の奥底から湧き出る願いであるとともに、可能なかぎり人のために己を役立てることによってそれを実現せんとする祈りでもございます。

その目標へ向けて私どもは真摯なる気持ちでもって自信を持って邁進いたします。あなたを味方とするかぎり決して挫折はないと信じるが故にほかなりません。なぜならば、あなたの力は、私どもの努力を必要とする場において、常に支え、守り、導き、援助し、指示してくださるからでございます。


 ○ Benediction

 いつもながら私は、ささやかなる勤めを可能ならしめる温かき愛を得て、宇宙の大霊に深い感謝の念を覚えつつ、この場を後に致します。この仕事を開始した当初、私どもは多難な条件のもとで何とか推進するために強烈なる祈念と真剣なる誓願をもって臨みました。今その努力が実りつつあることを私どもはこの上なくうれしく存じます。

 私たちすべての者に存在をお与えくださり、神性とその属性のすべてを宿らせ給いし神よ、どうかこののちも、私どものためにでなく真理のために、そしてその真理をぜひとも必要としている人々のために、より一層の成功を得させ給わんことを。

世界各地で行われておりますこの会と同じ交霊会において、そこがあなたの愛を知る機縁(よすが)となるべく、どうかあなたの霊の御力をこの幾層倍にも顕現なされたく、お祈り申しあげます。

あなたの子等が自分自身の中にあなたを見出し、それを生活の中にて発現せんとの決意に燃え、怖れも悲劇も争いもなく、あなたの豊かな恵みを享受できる世の中において、お互いがお互いのために努力し助け合い、平和と調和と一致協力のもとに生きつつ、あなたの御心を体現していくことになるよう、切にお祈り申し上げます。



     
  一章 シルバーバーチとは何者か

 「私は荒野に呼ばわる声です(※)。神の使徒以外の何者でもありません。私が誰であるかということが一体何の意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは私のやっていることで判断していただきたい。

私の言葉が、私の誠意が、私の判断が、要するにあなた方人間世界における私の仕事が暗闇に迷える人々の心の灯となり慰めとなったら、それだけで私はしあわせなのです」(※マタイ3・3。世に容れられない警世家、革命家などのこと───訳者)

 これはある日の交霊会でメンバーの一人がシルバーバーチの地上での身元について尋ねた時の答えである。シルバーバーチがインディアンではないこと、本来の高遠の世界と地上との間の橋わたしとして一人のインディアンの幽体を使用しているところの、高級霊団の最高指揮者であるということまでは、われわれにも知れている。が、これまで好奇心から幾度地上時代の実名を尋ねても、まだ一度も明かしてくれていない。

ラベルよりも仕事の成果の方を重んじるのである。自分個人に対する賞賛を極度に嫌い、次のように述べる。

 「私は一介の神の僕に過ぎません。今まさに黎明を迎えんとしている新しい世界の一役を担う者として、これまで忘れ去られてきた霊的法則を蘇らせるために私を地上へ遣わした一団の通訳にすぎません。

私のことをいつもマウスピース(代弁者)としてお考えください。地上に根付こうとしている霊力、刻一刻と力を増しつつある霊の声を代弁しているに過ぎません。私の背後には遠々と幾重にも連なる霊団が控え、完全なる意志の統一のもとに、一丸となって協調体制で臨んでおります。

私がこの霊媒(バーバネル)を使用するごとくに彼らも私を使用し、永い間埋もれてきた霊的真理───それが今まさに掘りおこされ無数の男女の生活の中で、本来の場を得つつあるところですが───それを地上の全土に広げんとしているのです」

───でも私達にとって、あなたは単なる代弁者の声では無く実在の人物です。

 「私は別に私には個性がないと言っているわけではありません。私にもちゃんと個性はあります。ただ、こちらの世界では〝協調〟ということが大原則なのです。一つの大きなプランがあり、それに従って共通の利益のために各自が持てるものを貢献し合うということです。

身分の高いも低いもありません。あるのはそれまでに各自が積み上げてきた霊的成就の差だけです。開発した霊的資質と能力を自分より恵まれない人のために惜しみなく活用し、代わってその人たちも自分より恵まれない人のために持てるものを提供する。かくして地上の最低界(※)から天界の最高界に至るまで連綿として強力な霊的影響力の輪がつながっているのです」

(※地獄のこと。地上の人間から見れば他界した者はすべて〝あの世〟の人間、つまり霊界の所属のように考えがちであるが、それは目に見えない存在となったからそう思えるまでのことで、霊的な程度の点ではその大半が地上圏に属しており、霊界側からみれば肉体のあるなしに関係なく〝地上の人間〟であることに変わりはない。

モーゼスの『霊訓』のイムペレーター霊は宇宙を大きく三層に分類し、最下層の煉獄の七つの界の最高界が地上で、次に試練の中間層がやはり七界つづき、その後に真の実在界が存在するという。その究極の到達点はいかなる霊にも知り得ないと述べている──訳者)


───地上もそういうことになれば素晴らしいことですね。

 「いずれはそうなるでしょう。神の意志は必ずや成就されていくものだからです。その進行を邪魔し遅らせることはできます。しかし、その完成・成就を阻止することはできません」

 この件に関して別の交霊界で次のように述べている。

 「私はこれまであなた方の友として、守護者として、指導者として接してまいりました。いつもすぐ側に待機していること、私がいかなる霊格を具えた存在であろうとそれはあなた方人間との親密な接触を妨げることにならないこと、あなた方の悩みや困難に関心を抱き、できうる限りの援助の手を差しのべる用意があることを知っていただきたいと思ってまいりました。

 よろしいですか。私は確かに一方では永遠の真理を説き霊力の存在を明かさんとする教師的存在ですが、他方、あなた方お一人お一人の親しい友人でもあるのです。あなた方に対して親密な情愛を抱いており、持てる力で精一杯お役に立ちたいと努力いたしております。

どうか、困ったことがあれば、どんなことでもよろしい、いつでもよろしい、この私をお呼びください。もし私にできることであればご援助しましょう。もし私に手出しできないことであれば、あなた方みずからが背負わねばならない試練として、それに耐えていくための力をお貸しいたしましょう」


 さらに別の機会にこう語っている。

 「これまでの永い霊界での生活、向上・進化を目指して励んできた魂の修行の旅において私がみずから学んできたこと、あるいは教わったことはすべて、愛の心を持って快く皆さんにお教えしております。

そうすることを神がお許しになると信じるからです。ではその動機とは何か───それは、私のこうした行為を通じて私があなた方に対していかに情愛を感じているか、いかにあなた方のためを思っているかを分かっていただき、そうすることによって、あなた方の背後に控えている力には神の意図が託されていること、霊の豊かさと実りを何とかしてもたらしてあげようとしている力であることを認識していただくことにあります。

要するにあなた方への愛がすべてを動かし、神から発せられるその愛をあなた方のために表現していくことを唯一の目的といたしております。

 私たち霊団の者は功績も礼も感謝も一切求めません。お役に立ちさえすれば良いのです。争いに代わって平和を見ることが出来れば、涙にぬれた顔に代わって幸せな笑顔を見ることができれば、病と痛みに苦しむ身体に代わって健康な身体を見ることができれば、悲劇を無くすことができれば、意気消沈した魂に巣くう絶望感を拭い去ってあげることができれば、それだけで私たちは託された使命が達成されつつあることを知って喜びを覚えるのです。

 顧わくは神の祝福のあらんことを。顧わくは神の御光があなた方の行く手を照らし給い、神の愛があなた方の心を満たし給い、その力を得て代わってあなた方がこれまで以上に同胞のために献身されんことを切に祈ります」

 このようにシルバーバーチは自分自身ならびに自分を補佐する霊団の並々ならぬ情愛をよく披瀝する。盛夏を迎え、これでしばし閉会となる最後の交霊会で次のような感動的な別れの挨拶を述べた。

 「この会もこれよりしばらくお休みとなりますが、私たちは無言とはいえすぐ側で引き続きあなた方とともにあって、可能なかぎりインスピレーションと力と導きをお授けいたします。

一日の活動が終わり、夜の静寂を迎えると、あなた方の魂は本来の自分を取り戻し、物質界の乱れたバイブレーションを後にして───ほんの束の間ですが───本当の我が家へ帰られます。その時あなた方は私たちとともに、いつの日か恒久的にあなた方のものとなる喜びのいくつかを体験されます。

 しかし、これまでの努力のお陰でこうして数々の障壁をのり越えて語り合えるとはいえ、私たちはふだんは物質というベールによって隔てられておりますが、いついかなる時も身近にいて、情愛を持って力になってあげていることを知ってください。

私たちがお持ちする力は、宇宙最高の霊力であることを心強く思ってください。私たちはもっとも身近にして、もっとも親密な存在である、あなた方のために尽くすことによって、神に仕えんとする僕に過ぎません。

 私のことを、ほんの一、二時間のあいだ薄明かりの中でしゃべる声ではなく(交霊会では照明を弱くする───訳者)、いつもあなた方の身のまわりにいて、あなた方の能力の開発と霊的進化のために役立つものなら何でもお持ちしようとしている、躍動する生命に溢れた生きた存在とお考えください。

語る時はこうして物的感覚(聴覚)に訴える方法しかないのは間どろこしいかぎりですが、私はいつも身近に存在しております。必要な時はいつでも私をお呼びください。私にできることであれば喜んで援助いたしましょう。私が手を差しのべることを渋るような人間でないことは、皆さんはもうよくご存知でしょう。

 樹木も花も、山も海も、小鳥も動物も、野原も小川も、その美しさを謳歌するこれからの夏を満喫なさってください。神を讃えましょう。神がその大自然の無限の変化に富む美しさをもたらしてくださっているのです。その内側で働いている神の力との交わりを求めましょう。

森の静けさの中に、その風のささやきの中に、小鳥のさえずりの中に、風に揺れる松の枝に、寄せては返す潮の流れに、花の香に、虫の音に神の存在を見出しましょう。

 どうか、そうした大自然の背後に秘められた力と一体となるようにつとめ、それを少しでも我がものとなさってください。神はさまざまな形で人間に語りかけております。教会や礼拝堂の中だけではありません。予言者や霊媒を通してだけではありません。数多くの啓示が盛り込まれている聖典だけではありません。

大自然の営みの中にも神の声が秘められているのです。大自然も神の僕です。私はそうしたさまざまな形───語りかける声と声なき声となって顕現している神の愛を皆さんにお伝えしたいのです」

 こう述べたあと最後に、これまでサークルとともに、そしてサークルを通して世界中の人々のために推進してきた仕事における基本的な理念を改めて説いて会を閉じた。

 「私はあなた方が愛の絆によって一丸となるように、これまでさまざまな努力をしてまいりました。より高い境涯、より大きな生命の世界を支配する法則をお教えしようと努力してまいりました。
 
また、あなた方に自分という存在についてもっと知っていただく───つまり(霊的に)いかに素晴らしくできあがっているかを知っていただくべく努力してまいりました。さらに私はあなた方に課せられた責任を説き、真理を知るということは、それを人のために使用する責任を伴うことをお教えしてまいりました。

宗教的儀式のうわべの形式に捉われずに、その奥にある宗教の核心、即ち援助を必要とする人々のために手を差しのべるということを忘れてはならないことを説いてまいりました。

絶望と無気力と疑問と困難に満ちあふれた世界にあって私はあなた方に霊的真理を説き、それをあなた方がまずみずから体現することによって同胞にもその宝を見出させ、ひいては人類全体に幸福をもたらすことになる───そうあってほしいと願って努力してまいりました。

 私はかつて一度たりとも卑劣な考えを起こさせるような教えを説いたことはありません。一人たりとも個人攻撃をしたことはありません。私は終始〝愛〟をその最高の形で説くべく努力してまいりました。

私は常に人間の理性と知性に訴えるように心掛け、私たちの説く真理がいかに厳しい調査・探求にも耐えうるものであることを主張してまいりました。

そうした私に世界各地から寄せられる温かい愛念を有難く思い、私の手足となって仕事の推進に献身して下さるあなた方サークルの方々の厚意に、これからも応えることができるよう神に祈りたいと思います。

 間もなく私は会を閉じ、通信網を引っ込めます。ふたたび皆さんとお会いできる時を大いなる期待をもって心待ちに致しましょう。もっとも、この霊媒の身体を通して語ることを中止するというまでです。決して私という霊が去ってしまうわけではありません。

もしもあなた方の進む道を影が過(よぎ)るようなことがあれば、もしも何か大きな問題が生じた時は、もしも心に疑念が生じ、迷われるようなことがあれば、どうかそれらは実在ではなく影にすぎないことをご自分に言い聞かせることです。羽をつけて一刻も早く追い出してしまうことです。

 忘れないでください、あなた方お一人お一人が神であり、神はあなた方お一人お一人なのです。この物的宇宙を顕現せしめ、有機物・無機物の区別なく、あらゆる生命現象を創造した巨大な力、恒星も惑星も、太陽も月も生み出した力、物質の世界に生命をもたらした力、人類の意識に霊の一部を宿らせた力、完璧な法則として顕現し、すべての現象を細大漏らさず経綸しているところの巨大な力、その力はあなた方が見放さないかぎりあなた方を見放すことはありえません。

その力を我が力とし、苦しい時の隠れ場とし、憩いの場となさることです。そして、いついかなる時も神の衣があなた方の身を包み、その無限の抱擁の中にあることを知ってください。

 シルバーバーチとお呼びいただいている私からお別れを申し上げます───ごきげんよう」
     

Tuesday, October 28, 2025

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓(四)

 Silver Birch Anthology Edited by William Naylor

十章 シルバーバーチの祈り



 〇人間の神性を讃える祈り

 「神よ、私たちはあなたの永遠の真理、あなたの無限の力、あなたの不変の摂理の生き証人でございます。あなたの聖なる御業であるところの大自然のパノラマの中に、私どもはあなたの神性の顕現を拝しております。

 私どもは昇りゆく太陽の中に、沈みゆく太陽の中に、夜空のきらめく星の中に、大海の寄せては返す潮(うしお)の中に、そよ風とその風に揺れる松のそよぎに、やさしい虫の音に、澄み切った青空の中に、そのほか移り変わる大自然のあらゆる営みの中に、あなたを見出すことが出来ます。

 また、あなたは生きとし生けるもののすべてに宿る霊の中に見出すことができます。人間においてそれは意識を有する個的存在として顕現しております。あなたとともに宇宙の限りなき創造の大業に携わらしめるために人間をその高き段階へとお引上げくださったのでございます。

 あなたは人間にあなたの聖なる属性を数多くお授けになりました。人間はその霊的資質を有するが故の当然の成り行きとして、物的生命を超えたより精妙なる力、すなわち霊力を知覚せしめるところの霊的能力を有しております。

 人生を営むことを可能ならしめているものは、その霊力にほかなりません。人間を全創造物から超脱せしめているものもその霊力にほかなりません。思考をめぐらし、判断を下し、反省し、決断し、美に感嘆し、美を賞美し、叡智を授かり、その真価を悟り、知識を獲得し、それを大切にする能力も、霊力あればこそでございます。

 より高き世界からのインスピレーションを感受せしめるのも霊力でございます。人生の重荷に耐えかねている者のもとへ赴くことができるのも霊力あればこそでございます。

霊の世界の存在を知覚し、その世界の居住者が人間をより広き奉仕的行為のために使用せんとしている事実を認識することが出来るのも、霊の力ゆえでございます。果てしなき宇宙の大機構の中に置かれた己れの位置を理解せしめるのも霊の力でございます。

私たちは人間にそうした本来の役割を成就せしめるものについての知識、死後に赴く世界にふさわしきものを身につけさせるものについての知識を広めんと希望している者でございます。

 そうなって初めて人間は、いま目を曇らせている暗闇をみずから払いのけることを得ることでございましょう。そうなって初めて叡智と真理と悟りと調和と平和の中に暮らせるようになることでございましょう。

そうなって初めて同胞があなたとの真の繋がりと生きる目的、そして人間が死と呼ぶ扉の向こうに待ち受けている、より大きな生命の世界の存在を理解する上で力となることができることでございましょう」


 〇相互扶助の尊さを讃える祈り 

 「神よ、私たちはあなたの真理、あなたの叡智、あなたの愛、そしてあなたの永遠なる自然法則の理解を広めるために、力の限りあなたの忠実な子供たらんと願っている者でございます。

地上のあなたの子等にあなたの無限の機構の中における存在価値を理解させること───真の霊的自我を見出し、暗黒と冷酷と怒りと憎しみに満ちた世界にあって、あなたから授かった力を発揮するように導いてあげることを願いと致しております。

私たちは霊的実在についての単純素朴な真理───正義と権利と善と美の永遠の基盤であるところの真理を説かんと致しております。

道を見失える者、いずこにあなたを見出すべきかを知らずに迷える者に対しては、あなたが彼ら自身の中に存在すること、あなたの無限なる霊がみずからの存在の内部にあること、まさしく天国は彼らの心の中にある───よろこびと幸せの国、叡智と悟りの国、寛容と正義の国は自分の心の中にあるという事実を教えることを目的と致しております。

 私たちは悲しみにくれる人々、人生に疲れた人々、病める人々、困窮せる人々、肉親を失ったまま慰めを得られずにいる人々、いずこに導きと英知を求めるべきかを知らずにいる人々に近づき、あなたがその人々を決してお見捨てになったのではないことを教えてあげたいと願っている者でございます。

 私たちの使命は地上のすべての地域とその住民に一切の分け隔てなく行きわたっております。あなたの霊は人間界のすみずみまで流れ、雄大なる宇宙のあらゆる現象に現われ、意識的存在の全てに顕現されていると認識するゆえにございます。

 その事実を認識することによって新たな安らぎが得られ、それは、ひいては人間の心と魂と精神を鼓舞してお互いがお互いのために生きる意欲を誘い、あなたの子のすべてに分け隔てなく奉仕することによってあなたに奉仕することになることでございましょう」
 こう祈った後、最後にサークルのメンバーに向かってこう説いた。


 「私たちの訓えの根本は Service(後注)の一語に尽きます。地上の悪弊(ガン)の一つである利己主義に対して、私たちは永遠の宣戦を布告しております。戦争、流血、混乱、破壊へと導くところの物質万能主義を打ち砕かんと努力しております。

 私たちの説く福音は相互扶助、協調、寛容、思いやりの福音です。お互いがお互いのために自分を役立てるようになっていただきたい。そうすることによって持てる者が持たざる者に幾らかでも譲り、豊かな才能に恵まれた者がそれを活用して暗闇の中にいる者を啓発してあげることになるからです。

 地上世界は今、もっともっとService を必要としております。人間の一人ひとりが同じ全体の一部であり、人類のすべてに神の霊が流れている───その意味において万人が神のもとにおいて平等である───その本性に関するかぎり平等である、という認識を広める必要があります。

性格において、霊格において、進化において、そして悟りにおいて一歩先んじている者が、その持てるものを持たざる者に分け与えんと努力するところに偉大なる行為が生まれます。

 霊の世界の働きかけに応じて働く人々、持てる才能を霊団に委ねる人々は、自分を捨てることによっていつも自分が得をしていることに気づくはずです。何となれば、その行為そのものが一つの摂理に適っているからです。収賄行為ではありません。

ご利益目当ての行為でもありません。因果律の作用にほかなりません。すなわち、最も多く施す者が最も多く授かるということです」



 訳者注ーService の訳語について
 英語には、民族の文化的背景の違いから、ぴったりと当てはまる日本語が見当たらない単語が幾つかありますが、その最たるものがこの Serviceです。これをサービスというカタカナにすると〝おまけ〟の意味合いが出てくるので、あえて横文字のまま用いたのですが、

本来の意味は他人のために何かをしてあげることで、テニスの〝サーブする〟と言い方に単的にそれが表われております。すなわち相手に働きかけて何らかの相互関係を持つことです。そこに報酬のあるなしは関係ありません。つまり手数料を取っても Serviceです。

日本人がこれを〝ただで差し上げる〟という意味で使用したことから非常にややこしくなりました。というのは〝奉仕する〟と訳すと日本人は〝無料奉仕〟の観念を思い浮かべますが、本当は有料であってもService であり、同時に〝無料奉仕〟の意味でも Serviceを用いるのです。

 日本人はお金を取ると奉仕でなくなる、つまり功徳が消えるかのように考え、お金を取らなかったら大変な功徳積みをしたかのように思う傾向がありますが、その行為によって相手が何らかの益を得ればそれだけで立派な Serviceであり、功徳積みであり、シルバーバーチもその意味で用いております。金銭的感覚を超越しております。

お金をいただくことがいけないことであるかのように考えること自体がすでにお金に拘っていることを意味し、これは多分に中国から来た儒教思想の影響ではないかと考えております。

つまり幼児期から教え込まれた中国の倫理・道徳思想(四書五経)の文面にこだわって本来の意味を取り損ねているのだと思います。

 シルバーバーチはサークルのメンバーも招待客もみなキリスト教国の人間だからキリスト教を引き合いに出し、その教義の誤りを指摘して本来の宗教のあり方を説いているまでで、私は、日本人にとっては儒教思想が西洋人にとってのキリスト教と同じ悪影響を及ぼしている面が多分にあると観ております。いずれそれを神ながらの道との関連においてまとめてみたいと考えております。

 それはともかくとして、私はこれまで Service をその場に応じて幾通りにも訳し分けてきました。他人のために自分を役立てる、人のために尽くす、奉仕する、献身する、援助する、手を差しのべる等々で、文章の前後関係から判断してそう訳し分けたわけです。

英文でお読みになる方は常に前後関係、脈絡───英語でいう Context ───を見究めた上で意味を読み取ることが大切であることを老婆心ながら申し添えておきます。

これも三十年近く大学受験生を教えてきた教師としての習性が言わしめるのでしょうが、そのついでにもう一言付け加えさせていただけば、柔軟な脳細胞をしているはずの若い学生が文法や構文や語句に拘って本来の意味を取り損ね(それだけならまだしも)オバケのような日本語に訳してしかもそれを変だと思わないのは、

教説に拘ってその本来の意味を忘れていながら、形式だけで済ませてそれで良しとする思考パターンと同じで、その辺に私は学制改革だけでは済まされない、もっと奥の深い問題点を見る思いがしております。

 シルバーバーチが教説はどうでもよろしい、人のためになることをすれば、それで立派な宗教ですと言うのは、人生百般に通じる単純にして明快な訓えであると思っております。


    
 解説 霊的教訓と心霊現象 

 本書は Silver Birch Anthology (シルバーバーチ名言集──一九五五年初版──)の全訳である。全訳と言っても、編者のネーラー氏がそれまでの霊言の中から〝珠玉の訓え〟と言えるものを集めたもので、その三分の一以上に相当する部分が邦訳シリーズの前三巻に出ているので、当然それは削除せざるを得ず、その穴埋め(と言っては語弊があるが)のために前三巻の原書でカットしておいたもの、及びオースチン編 Teachings of Silver Birch から関連した部分を抜粋してある。

 このことに関しては本文の「まえがき」の末尾でも「訳者注」として述べておいた。原書を読まれる方が不審に思われるのではないかと思ったからであるが、ついでにもう一つ念のために付け加えさせていただけば、編者が霊言のオリジナル原稿(速記録とテープ)から収録するとき、編者自身の判断で部分的に削除したり段落を適当につけている(週刊の「サイキックニューズ」月刊の「ツーワールズ」に転載されているものと照合するとそれが判る)ので、私が訳す際にもところどころ私の判断によって段落を変えたり削除されているものを付け加えたりしている個所があることである。

 とにかく私は公表された限りのシルバーバーチの霊言を三十年間近く書物と雑誌とテープを通じて徹底的に親しみ、一九八一年には霊媒のバーバネルに直接面会してその肉声にも接して、それが私の脳裏に焼き付いている。

今も折をみてカセットテープを聞いてその感じを忘れないようにしながら訳している。大ゲサに、そして、いささか僭越の謗(そし)りを覚悟の上で言えば、翻訳に携わっている時の私はシルバーバーチに成り切っていると理解していただきたい。(なぜか正座して威儀を正さないと訳せない)

 さて、本文の中で〝巻末「解説」参照〟と記した部分が二個所ある。両者は表面的には関係ないようで実は重大な関連性があるので、ここで解説しておきたい。

 一つは四章の次の一文である。「私が残念に思うのは本来霊的存在であるところの人間があまりに霊的なことから遠ざかり、霊的法則の存在を得心させるために私たちがテーブルを上げてみせたりコツコツと叩いてやらねばならなくなったことです」

  これはいわゆる物理的心霊現象のことで、事実シルバーバーチの交霊会でも物理霊媒を呼んで種々の心霊現象を行っていた。心霊治療も行っていた。その最高責任者、総監督の立場にあったのがシルバーバーチであるが、物理現象の演出に直接携わるのはそれを専門とする霊団であり、心霊治療にも治療霊団が組織されていた。

 太古より霊的啓示には物理現象と病気治療はつきもので、イエスも盛んに活用している。それを聖書では〝しるしと奇跡〟Signs and Wonders と表現しているが、実際は聖書に記されているよりはるかに多く起きていたはずである。

ところが霊界通信の真実性を確信し始めた人はとかく現象的なものを軽蔑し始める傾向があり、奇妙なことにキリスト教徒が最もその傾向が強いが、これは間違いであると同時に極めて危険なことでもある。

 確かに物理的現象に直接携わるのは低級霊であり、モーゼスの『霊訓』の中でイムペレーターが述べているところによれば、いわゆる地縛霊がようやく目を覚まして修養と償いのために高級霊の指揮下で働いていることが多いようである。

言うなれば、〝更生の場〟を与えられているわけである。こうした場合は監督に当たる霊、いわゆる支配霊が高級であるから危険性はまず無い。

 それよりも意外に陥りやすい危険は、むしろそういうものを軽蔑して自分自身の、あるいは自分が所属するサークルないし宗教団体の霊言や自動書記のみを絶対のものとし、その霊媒の口ないし手を通して得られたものは何も彼も真実のもの絶対のもの高級なものと決めてかかってしまうことである。

 そういう間違った考えが定着する原因はどこにあるかと言えば、心霊現象の基本、つまり精神的現象と物理的現象の原理(心霊学)についての認識が十分でないことにある。このことが同じく四章の一文の裏面の事情とつながってくる。 「私たちは人類を破滅の道へ追いやろうと画策している悪霊の集団ではありません」

 これはキリスト教界がスピリチュアリズムのことをそう決めつけるので、それを念頭において述べているのであるが、キリスト教と切り離して考えても、心霊問題に関わる者が忘れてならない大切なことを暗々裏に述べている。つまり現実にそういう意図をもって画策している悪霊・邪霊の集団がうようよしているということである。

 先のイムペレーターもその点を再三にわたって指摘しているし、オーエンの『ベールの彼方の生活』の中でも、通信を横取りしようとしてスキを狙っている連中がいるので油断がならないと述べている。 

 そういう霊はうまく横取りした通信内容をさも自分のものであるかのように巧みに使用して、いかにも立派な高級霊であるかの如く振る舞い、そのうち通信の中にそれとなく偽りの事実を混入して問題を生じさせ、〝それみろ。霊界通信なんて全部ごまかしなんだ〟という風潮を立てさせ、そしてほくそ笑む。なぜそんなことをするかと言えば、高級神霊による計画推進を挫折させんとしているまでで、別に深い意図はない。

 では霊界通信の真偽をどうやって見分けるかということが問題となるが、シルバーバーチは常に批判的精神をもって理性的に判断するように───くだけた言い方をすれば、とことん疑ってかかれと説く。

確かにこうした活字になってしまえばそれしかないが、実際にその場に立ち会った時は、一種の直観力が何よりの武器となる。その雰囲気から読み取るのである。

 実は霊媒のバーバネル亡きあと、サイキックニューズ社はさっそく別の霊言霊媒を探し出して、その霊言を心霊誌に連載し始めた。私もそれを読んで、正直のところ最初はなかなかの内容だと思った。

そしてその後に発売されたカセットをすぐに取り寄せて、大きな期待をもって聞いたが、ものの一分も聞き続けることができなかった。

 直感的にこれはニセモノという気がしたのである。念のためにカセットを裏返して後半の部分を聞いていたが、やはり一分と聞く気になれなかった。それから一週間ほどしてもう一度気を取り直して三分間ほど聞いてみたが、やはりその雰囲気からは本物という判断はできなかった。

 果たせるかな、その後間もなくしてその霊媒のトリックが暴かれて、それきり連載も中止された。そして代わって連載されたのは又もやシルバーバーチであった。古い霊言集からの抜粋である。

 本物にはどうしようもない強みがある。英国新聞界の法王とまで呼ばれ、ヘソ曲がりの毒舌家として世界的に知られたハンネン・スワッハー(シルバーバーチの交霊会は当初はこの人の家で催され司会もこの人が勤めた)すら手も足も出なかったほどである。そのスワッハーがこう述べている。

 「が、いったん活字になってしまうとシルバーバーチの言葉もその崇高さ、温かさ、威厳に満ちた雰囲気の片鱗しか伝えることができない。出席者は思わず感涙にむせぶことすらあるのである。シルバーバーチがいかに謙虚にしゃべっても、高貴にして偉大なる霊の前にいることを我々はひしひしと感じる。決して人を諌(いさ)めない。そして絶対に人の悪口を言わない」

 内容的にいいことを言っているというだけでは霊言としての真価は分からない。ということが以上のことから理解していただけると思う。問題は雰囲気であり風格である。私の翻訳もシルバーバーチという古代霊の風格を出すことに一番苦心している。

 原書を読まれる方もそれが読み取れるまで読み込んでいただきたい。文法や構文に振り回されていては本当の意味は読み取れない。これはシルバーバーチに限ったことではないが・・・。

 知識は力なりという。これから幽明交通がいっそう盛んになっていくにつれて次々と霊界通信なるものが輩出されることであろうが、その真偽性、純粋性、優秀性を適確に判断できるようになるには、スピリチュアリズムの全体像を理解すると同時に、その基本であるところの心霊学を勉強することが、直感的判断力を自然に養ってくれると信じる。

といって心霊学を好奇心からいじくり回していては何にもならない。こうした言わば落とし穴と誘惑に満ちた世界に踏み入って宝を探すための学問的基盤として、心霊現象の原理つまり霊界側がどういう形で物的世界に働きかけているのかを知ることが不可欠であることを指摘しておきたい。                              近藤 千雄