Sunday, March 1, 2026

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

  Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze



九章  宇宙創造の目的

 霊的教訓の真髄は確かに単純素朴かもしれないが、すべての人間がそれだけで満足するかというと、そうはいかない。ある日の交霊会で〝宇宙が創造された目的は何か〟という難しい質問が出された。その質問者は具体的にまずこう訊ねた。


───人間は徐々に進化を重ねて、究極的に大霊の中に吸収されてしまうのであれば、なぜ人間を創造する必要があったのでしょうか。

 「私は、人間が最後は大霊に吸収されてしまうという説をとっているわけではありません。いつも申し上げているように、私は究極のことは何も知りません。始まりのことも知りませんし、終わりのことも知りません。

 私に言わせれば〝存在〟はいつからということはなく、いつまでということもなく、いつまでも存在し続けます。地球上の全生命が他の天体の生命と同じように霊の世界を通過して絶え間なく進化し、意識が完全性を目指してゆっくりと上昇して行きつつある状態が〝存在〟です。

 その意識なるものがいつ芽生えたかについても私は何も知りません。いつ完全の域に達するかについても知りません。私には完全とか吸収(寂滅)とかの時が来るとは思えません。

なぜなら、魂というものは霊性を高めて向上するにつれて、言いかえれば、過去の不完全性の不純物を払い落とすごとに、更に大きな進歩の必要性を自覚するものだからです。

進化すればするほど、なお進化すべき余地があることに気づくものです。高く登れば登るほど、その先にはまだ登らねばならない高いところがあると知ることの連続です。

 私の考え方は、大霊の一部である意識の、生活の中における開発と発展に主眼を置いています。この意識なるものは、私の知る限り無窮の過去から常に存在してきたものですが、それがさまざまな形態を通して顕現し、その表現を通して絶え間なく洗練されつつ、内在する神性をより多く発現していくのです。

 これまで、ありとあらゆる生命現象を通して顕現してきて、今なお顕現し続けております。いま人間という形態で表現している意識も、かつては動物・鳥類・魚類・植物その他の生物と、無生物と呼ばれているもの全てを通して表現されてきたのです。

これからも進化と成長を続け、発展し、拡張し、神性を増し、物質性を減らしていきます。それが創造の全目的です。大霊の一部である意識が、千変万化の形態を通して絶え間なく顕現していくということです。

 そのことに加えて、私は是非次のことを申し上げておきたいと思います。それは人間の存在を創造の大事業と切り離す、あるいは、縁のない存在として考えてはならないと言うことです。

なぜなら人間もその創造活動に参加しているからです。創造的エネルギーが人間を通して働いているのです。あなたの人生、あなたの努力、あなたの葛藤が、無限の創造活動に貢献するということです。

 一つ一つの生命がそれなりの貢献をしております。その生命が高級になればなるほど、つまり愛他性を増し、排他性を減らすにつれて、変化に富んだ創造の世界に美しさを加えてまいります。

画家や音楽家や詩人だけが、美への貢献をしているのではありません。あらゆる生命が───そのつもりになれば───美をもたらすことが出来るのです」


 創造の問題は必然的にバイブレーション(波動・波長・振動)の問題となる。


───スピリチュアリズムでは〝バイブレーション〟という用語が良く使用されますが、これを分かり易く説明していただけませんか。

 「生命のあるところには必ず運動があり、リズムがあり、鼓動があり、バイブレーションがあります。生命は活動せずにはいられないのです。静止したり惰性的になったりすることはありません。

生命には必ず運動が付随します。その運動を理解し、その意味を理解するには、まずその定義から始めなければなりません。

 私がバイブレーションという時、それはエネルギーの波動となって顕現している生命のことで、無数の生命形態ないしは現象の一つを指しております。

存在するものは全て振動(バイブレード)し、何かを放射し、活動しております。私たちがこうして地上へ働きかけることが出来るのも、バイブレーションのお陰です。

 私たちは、普段は物的感覚の領域を超えたバイブレーションの世界で生活しております。霊的エネルギー、霊的パワー、霊的現象は、ことごとく物質より感度の高い、微妙なバイブレーションから成り立っております。

 地上のように、物質に浸り切り包まれている世界と交信するためには、次の二つの方法のうちのどちらかを取らなければなりません。すなわち、人間の側がその低いバイブレーションを高めてくれるか、それとも私達霊側がその高いバイブレーションを下げるかです。

両方が歩み寄ればよいのでは・・・・・・誰しもそうお考えになるでしょう。ところが、どうして、どうして、なかなかそううまくはいかないのです。いつも私たちの方が遠路はるばるおりてこなければなりません。地上世界からの援助はそう多くは望めないのです。

 この霊媒(バーバネル)を使ってしゃべるためには、私は私本来のバイブレーションを下げております。その状態から抜け出て私本来の界へ戻る時は、その界にあった意識を取り戻すために、バイブレーションを加速しなければなりません。

このように全てはバイブレーションの操作によって行われるわけです。それを簡潔に説明するにはバイブレーションという用語しか見当たりません。

 それにしても、永いあいだ霊的な分野のことには一切耳を貸そうとせず、目を瞑って来た科学者が、今になって、物質の謎を解くカギはバイブレーションにあるという認識をもちはじめたことは、興味深いことです」


続いて祈りの問題が持ちだされると───

 「祈りとは何かを理解するには、その目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願い事を口にしたり、決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生する様な調子で陳腐な言葉を大気中に放っても、耳を傾ける人はいませんし、訴える力を持った波動を起こすこともできません。

 私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意がこもっておらず、それを口にする人みずからがその内容に無頓着であることが普通です。永い間それをロボットのように繰り返しているに過ぎないからです。

 真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。しかし、いかなる精神的行為も、身をもって果たさねばならない地上的労力の代用とはなり得ません。

 祈りは、義務を回避しようとする臆病者の避難場所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責任を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果律を少しも変えることはできません。

 人のためにという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出る祈り以外は、すべて無視されるがよろしい。その後に残るのが心霊的(サイキック)ないし霊的(スピリチュアル ※) な行為であるがゆえに自動的に応答のある祈りです。

自動的ですから、その応答は必ずしも本人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す、自然な結果です。


 ※───サイキックというのは五感の延長としての、オカルト的な超能力が生じさせるもので、物質次元の中に入る。スピリチュアルというのは、物質次元から脱して霊的次元のエネルギーや法則が生ぜしめるもの───訳者。


 あなた方を悩ます全ての問題と、困難に対して、正直に、正々堂々と、真正面から取り組んだ時───解決のためにありたけの能力を駆使して、しかもなお力が及ばないと悟ったとき、その時こそ何らかの力、

自分より大きな力を持つ存在に対して、問題解決のための光を求めて祈る資格ができたと言えましょう。そして、きっとその導き、その光を手にされる筈です。

あなたのまわりにいる洞察力に富んだ霊は、あなた方の魂の状態をありのままに見抜く力があるからです。たとえば、あなた方が本当に正直であるか否かは、一目瞭然です。

 さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。すなわち、肉体に宿るがゆえの宿命的な障壁を克服して、本当の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。

なぜならば、その魂の行為そのものが、自動的にそれ相当の結果を招来するものだからです。

 このように一口に祈りといっても、その内容・動機を見分けた上で論ずる必要があるのです。

 ところでキリスト教の〝主の祈り〟のことですが、あのように型にはまった祈りは、人類にとって何の益ももたらさないことを断言します。

単なる形式的行為は、その起源においては宿っていたかも知れない潜在的な力まで奪ってしまいます。儀式の一環としては重宝かも知れませんが、人間にとっては何の役にも立ちません。

 そもそも〝神〟とは法則なのです。自分で解決できる程度の要求で神の御手を煩わせることはありません。それに、ナザレのイエスがそれを口にした (とされる) 時代から二千年近くも過ぎました。

その間に人類も成長し、進化し、人生について多くのことを悟っております。イエスは決してあの文句の通りを述べたわけではありませんが、いずれにしても当時のユダヤ人に分かり易い言葉で述べたことは事実です。

 今のあなた方には、父なる神が天にましますものでないことくらい、お分かりになるでしょう。完全な摂理である以上、神は全宇宙、全生命に宿っているのです。この宇宙のどこを探しても、完璧な法則が働いていない場所は一つとしてありません。

神は地獄のドン底にいるわけでも、天国のいちばん高いところに鎮座ましますものでもありません。大霊として宇宙全体にあまねく存在し、宇宙の生命活動の一つ一つとなって顕現しております。

 〝御国の来まさんことを〟などと祈る必要はありません。地上天国の時代は、いつかは来ます。かならず来るのです。しかし、それがいつ来るかは霊の世界と協力して働いている人たち、一日も早く招来したいと願っている人たちの努力一つに掛っております。

そういう時代が来ることは間違いないのです。しかし、それを速めるか遅らせるかは、あなた方人間の努力いかんに掛っているということです」


───モーゼの「十戒」をどう思われますか。

 「もう時代遅れです。今の時代には別の戒めが必要です。

 人間の永い歴史のどの時代にも述べられたものであっても、それを持って神の啓示の最後と受け止めてはいけません。啓示というものは連続的かつ進歩的なものです。

その時代の人間の理解力の程度に応じたものが授けられているのです。理解力が及ばないほど高等すぎてもいけませんが低すぎてもだめで、つまり、理解の及ぶ範囲より一歩先んじたものでなければなりません。

 霊界から授けられる叡智は、いつの時代にも一歩先んじております。そして人類がその段階まで到達すれば、次の段階の叡智を受け入れる準備ができたことになります。

人類がまだ幼稚な段階にあった時代に、ある特殊な民族のために授けられたものを、なぜ、当時とは何もかも事情の異なる今の時代に当てはめなければならないのでしょうか。

 もっとも私は〝十戒〟ならぬ〝一戒〟しか持ち合わせておりません。〝お互いがお互いのために尽くし合うべし〟───これだけです」


───霊力とはどんなものでしょうか。実感があるのでしょうか。目で見て描写出来る性質のものでしょうか。

 「ずいぶん解釈の難しい言葉をお使いになられましたね。〝実感があるか〟とおっしゃるのは、どういう意味でしょうか。五感に反応するかということでしょうか。その意味でしたら、実感はありません。

真実味があるかという意味でしたら、知識に真実味があり、進化に真実味があり、愛に真実味があり、ありとあらゆるエネルギーに真実味があるように、霊力にも真実味があります。

 私たちにとっては、もちろん真実味はありますが、霊覚が発達せず、その真実味が認識できる段階まで来ていない者には、その存在は実感できません。一種のエネルギーです。霊的なエネルギーです、生命活動を操るエネルギーです。

無知な人、偏見を抱く人、迷信に動かされるような人は、自分でいくつもの精神的障壁をこしらえ、その一つ一つが霊力の働きの障害となります。それが何時になったら突き崩せるかは、その障害の性質によって違ってきます。

 人によっては、霊的なものに漠然とした概念すら抱くことなく、地上生活を終えることがあります。そういう人は生命がすなわち霊であり、霊がすなわち生命であること、地上の全生命は霊力のお陰で存在が維持されていることに気づきません。

霊的実在についてはまったく無知で、言わば、死が解放してくれるまで肉体という牢獄の中に閉じ込められた生活を送るわけです。といっても、死んですぐに実在に目覚めるわけではありません。ご存じのように、それには永い調整期間が必要です。

 そうした、完全に無知な人間とは別に、生命現象を創造し、支配し、導いている超越的エネルギーを、何らかの体験の中でチラリと垣間見る程度に意識する人もいます。

さらには、あなた方のように、こうして直接的に知識を獲得して、日常生活の中で霊力の恩恵にあずかる人もいます。心と精神と魂の窓を開いた方です。こうした方は、地上の生命現象の全てを表現している霊力と同じものの道具として、いつでも使われる用意が整っている方です。

 霊界のほうでも、あなた方を通して他の受け入れ準備の整っている者を少しでも早く目覚めさせようと腐心しております。そうしたことに使用されるのは、みな霊力なのです。生命現象の全てを統制している力は、私の霊団が操作し、
私がこうして話すことを可能にしてくれている力と同じものなのです」


 そのシルバーバーチ霊団とホームサークルとのつながりについて出された質問に答えて、こう語る。

 「信じることです。わけも分からず信じるのではなく、確固とした知識の上に立った信念を持つことです。確信です。これは使い古された古い用語ですが、私は何一つ新しい教えは持ち合わせないのです。

それがあなた方の精神構造の一部となり切るまで、私は同じことを声の続くかぎり何度でも呼び続けます。確信をもつことです。あなた方が、あなた方なりの役割を果たして下さっていれば、私たちは私たちなりの役割を果たします。決して見捨てるようなことはいたしません。

 人間がインスピレーションにあずかるチャンスはいくらでもあります。ところが取り越し苦労・疑念・不安・こうした邪念が障害となっているのです。こういう念が心に宿るスキを与えてはなりません。

 あなた方の協力を得て為さねばならない仕事が山ほどあるのです。目的意識を忠実に持ち続けることによって、私を援助していただきたいのです。これまでの私の永い体験をもってしても、容易に克服できない障害が沢山あります。

だからこそ、みなさんの私への忠誠心、確信、なかんずく、大胆不敵な心、つまり恐怖心・悩み・心配を精神に根づかせないように心掛けることで、私の力となっていただきたいのです。

 行く道を問題が遮ることがあるかもしれません。が、構わないで放っておけば、そのまま行ってしまいます。居座ることはありません。解決できないほど難しい問題は生じません。

背負えないほど重い荷を背負わされることはありません。取り越し苦労はいけません。明日がもたらすものに不動の信念と断固たる精神で立ち向かいなさい。万事うまく行きます。

 世の中には、あなたのように霊的真理を手にした者による救いを求めている人が大勢います。あなた方は、そういう人を援助し、使命を果たす備えができていなければなりません。

どうのこうのと立派なことを言っても、それを人のために役たてなかったら、つまり人間が手にした知識を他の人に分けてあげなかったら、せっかくあなたに授けられた知識の本来の意義を、自分の人生に活かしていないことになるのです。

 為さねばならないことが山ほどあります。私たちの努力によって喜ばせてあげられる人が、あちらこちらにも大勢いることを自覚して、心躍る気分で仕事に邁進しようではありませんか」


 別の日の交霊会で、これから霊媒のバーバネルがトランス状態に入ってシルバーバーチがしゃべりだすのを待ちながら、二人のメンバーがスピリチュアリズムの宣伝活動の価値について議論し合っていた。やがてシルバーバーチがバーバネルに乗り移って、こう語った。

 「私たちがこうして地上へ戻ってくるのは一体何のためだとお考えでしょうか。少数の特殊な人のため? それとも大勢の人々のため?

 私たちの説く真理は、ひと握りの人のために、どこかの小さな団体、あるいは秘密結社のようなところに仕舞い込んでおくべきものでしょうか。真理を知らずに迷い、絶望的になり、あるいは悲嘆にくれている数知れない人々の姿が、私たちに見えていないとでもお思いでしょうか。
℘160 
 私たちがお届けするメッセージには重大な目的があるのです。世界中の人間に例外なく宿る宇宙の大霊、すなわち神の崇高な資質を顕現させることを目的としているのです。まず第一に人生を支配している法則───物的生活・精神的生活・霊的生活を支配している法則の存在を説かなければなりません。

続いて人生の目的、地上に生まれてきた理由、内部に宿るすばらしい能力、潜在的神性、人間に為しうる貢献度、目指すべき理想世界、身につけるべき知識、到達できる極致を理解させなければなりません。

 私たちの説く真理は、最後は地上のすべての人間、それも地上に生きているうちに実生活に応用することによって実地に学ばせるために、地上のすみずみに至るまで広められる使命を担っているのです。

誤りを訂正し、不足を補い、これまでも人間が愚かにも、しでかしたことの後片付けをするだけで何十年も何百年も費やします。地上の人間がこうまで無知でなければ、そのエネルギーを別の用途へ向け、時間も無駄も省けるのですが・・・・・・

 ここにお集まりのみなさんには、すでにその知識があります。霊的知識について少しばかり多くのことを学んでおられます。霊的交信の素晴らしさも味わわれました。

永遠に別れてしまったと思っていた、愛する人との縁を、再び取り戻されました。遠大な神の計画の一端をご覧になりました。そしてその見事な構想に驚愕されました。

霊力の証しも幾つかご覧になられました。高い世界からのインスピレーションの喜びも味わわれました、高い世界の知識の泉にも近づかれました。

 こうしたことは一体何のためだったのでしょうか。自分一人で楽しむため? もちろん違います。知識には責任が伴います。今度は代ってあなた方が、その知識を自分にできる範囲内で広めなければならないのです。あなたがたが得た喜びが何であれ、それを他の人に回してあげるのが責務です。

そうすることで一人でも多くの人が霊力に近づき、高い世界で待機している高級霊の愛を知り、これまで多くの男女に大霊の雄大な計画の一翼を担う道具となる決意をさせた、その強烈な力によって、さらに多くの人が魂を鼓舞されるように努力しなければならなのです。

 知識に制約を加えようともくろむ人種とは、縁を切ることです。知識は自由に広められるべきものです。それが無知と迷信と、あまりに永い間、人類の足枷となってきたものを全て打ち崩すことになるのです。

知識こそが魂を解放し、大霊からの授かりものである自由の喜びを満喫することになるのです。

 太陽の輝きを拝めるはずの人間が、ろうそくの明かりしか知らないとは、何という愚かしいことでしょう。私が一個の道具に過ぎないように、皆さんも道具です。

どこの誰ということなく、全ての人の心を解放してあげるのが私たちの仕事です。それが地上世界に進歩をもたらし、大霊の子すべてが霊的摂理にもとづいて意義ある人生が送れるように、社会秩序を改めていくのです



 最後にこれからの見通しについて───

 「私の関心ごとは真理を普及することだけです。真理こそが最も大切です。私のいう新しい世界が基盤とすべき永遠不変の霊的真理を理解していただくためには、私はひたすら自分を役たてることだけを考えております。

その大事業から外れたことをする人は、本来同胞のために捧げるべきエネルギーをムダ使いしていることになるのです。

 私たちがこうして地上へ戻ってきたそもそもの目的は、聞く耳を持つ人間の魂に刺激を与えて、新しい世界の構築のために地上の人間なりの役割を果たしていただくことにあります。

地上世界は、形式への盲従が度を越しております。因習を大切にし過ぎます、私は、知識の普及と、それを今なお暗闇に居る人々の啓発のために使用していただくこと以外には、関心はありません。

私にとって宗教はたった一つしかありません。人のために自分を役たてること───これだけです、教会・聖堂・信条・教理、こうしたものには私はまるで興味がありません。行為・生活・動機───これで評価します。
℘163  
 霊的な知識を得た人が、それを正しく普及していく上において心しなければならないことは、それを無理やり押し付けることによって、肝心の霊界からの邪魔になるような事態になってはいけないということです。

霊力は勝手に制約したり命令したりすることはできません。発現できると見たら、どんな人を通してでも流入します。私たちが欲しいのはそういう道具、霊媒、普通の男女───霊力が受け入れられ、霊の教えが語られ、知識が伝達されるような精神構造をした人たちです。これはのんびり構えていられない問題です。

 私はなぜこの地上へ戻ってくるのか───実は、霊界へ送り込まれてくる人間の中に、もしも地上で霊的知識を身につけていたら、こうまで酷くはならなかったであろうと思われる廃残者、堕落者、霊的生活への備えがまるでできていない者が、余りに多過ぎるのです。

無知と恐怖と迷信と偏見に満ちたものばかりなのです。そうした地上の暗黒面を助長している勢力を打ち崩すことが、私たちの仕事なのです。

 私はそれを敢えてスピリチュアリズムと呼ぶつもりはありません。私は自然法則について語っているだけです。〝父なる神〟などという言い方もいたしません。私は宇宙の大霊という呼び方をしています。法則に目を向けます。宇宙の創造の目的に目を向けます。

 人間は霊的に成長しなければならないのです。もしも地上で為すべきことの一部だけでも成就できたら、避けようにも避けられない宿命である次の霊的生活への準備が整ったことになります。そうなるように仕向けるのが、私たちがこうしてあなた方の世界へ戻ってくる目的です。

同胞である地上人類への愛に発しているのです。情愛の絆がわれわれを結び付け、私たちがあなた方に真理を語り、代ってあなた方が同胞のためにそれを語り継いでくださればよいのです。

 私は、ただ私が見てきたままの事実を述べているだけです。そしてその評価は、あなた方の理性に訴えております。それが最高の判定者であると考えるからです。とにかく正しい知識を広めることです。迷信を突き崩すのです。光明を輝かせ、闇を無くすのです。

古くからの誤った権威を滅ぼすのです。強欲・貪欲・私利私欲・旧態依然たる教理と慣行の息の根を止めるために、何とかしなければなりません。

 そうしたもの全てが霊力の敵です。断じて無くさないといけません。新しい世界にとっての障害物です。行く手を邪魔するものは、たとえ一時的にせよ、神の計画を妨害していることになるのです。

真理はいかなる組織、団体よりも大切です。難しく考えることはありません。真理は極めて単純なのです。ところが人間はそれでは気が済まないのです。

 形式と慣習を好みます。よその形式と慣習を真似したがります。よそが教会をたてると、自分のところも教会をたてないと気がすみません。よそが祈祷で儀式を始めるようになると、自分のところでも祈祷文をこしらえます。よそが賛美歌を歌うようになると、自分のところでも賛美歌をこしらえます。

もっとも、その多くは文句が同じで、歌い方を変えているだけですが・・・よそが説教を始めると、自分たちも説教を始めます。

 そんなことをしなくても、ただひたすら霊力を第一に考えておれば、大霊についての知識と霊的法則の普及のための合流点は、いくらでもあるのです。そのことが何より大切です。

 レンガはあくまでもレンガです。建築物はあくまでも建築物に過ぎません。そんなものに手を合わせてはいけません。忠誠を捧げるべきものは宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不変の摂理です。

そのことを知った者は、その真理の炎を絶やさぬように努力し、向かうべき方向も分からずに迷っている人々に、いつでも希望と慰めと啓示を与えてあげられるようになることが勤めです。

 地上界は暗闇に満ちております。人生に疲れ、生きる意欲を失い困惑している人々、慰めの一言、一片の真理を渇望している人々が大勢います。あなた方による援助を必要としております。

そういう人々のために、あなた方は一刻を惜しんで真理普及のために努力すべきです。その霊的真理こそが、その人たちにとって人生を建て直す盤石の土台となることでしょう」

 The Spirit Teachings


8節

本節の内容著者の信仰上の遍歴
宗教の二面性
神とは
神と人間
理性なき信仰
派閥主義
賞と罰
神の絶対的公正
神は哀れむが情けはかけず
人間としての生活規範
神と同胞と自己への責務


〔翌日、前回の通信に関連した長い入神談話があったあと、インペレーターと名のる同じ霊がいつものレクターと名のる筆記者を使って、再び通信を送って来た。それが終わってから交霊会が開かれ、その通信の内容についての議論が交わされた。その中で新たな教説が加えられ、私が出しておいた反論に対する論駁が為された。当時の私の立場から観ればその教説は、論敵から無神論的ないし悪魔的と言われても致し方ないように思われた。私なら少なくとも高教会派的(1)と呼びたいところである。そこで私はかなりの時間をかけてキリスト教の伝統的教説により近い見解を述べた。

こうして始まった論争を紹介していくに当たって、当時の私の立場について少しばかり弁明しておく必要がある。私はプロテスタント教会の厳格な教理を教え込まれ、ギリシャ正教会およびローマ正教会の神学をよく読み、国教会の中でもアングリカン(2)と呼ばれる一派も、それまでに私が到達した結論に最も近い教義として受け入れていた。その強い信仰は自動書記通信によってある程度は改められていたが、本格的には国教会の教義を厳格に守る人、いわゆる高教会派の一人をもって任じていた。

が、この頃からある強烈な霊的高揚を覚えるようになった。これに関してはこれから度々言及することになると思うが、その高揚された霊的状態の中で私は一人の威厳に満ちた霊の存在とその影響を強く意識するようになり、さらにそれが私の精神に働きかけて、ついには霊的再生とも言うべき思想的転換を惹き起こさせられるに至った。〕


そなたはわれらの教説をキリスト教の伝統的教説と相容れぬものとして反駁した。それに関して今少し述べるとしよう。

そもそも魂の健全なる在り方を示す立場にある宗教は二つの側面をもつ。一つは神へ向かう側面であり、今一つは同胞へ向けての側面である。では、われらの説く神とは如何なる神か。

われらは怒りと嫉妬に燃える暴君の如き神に代わりて愛の神を説く。名のみの愛ではない。行為と真理においても愛であり、働きにおいても愛を措いて他の何ものでもない。最下等の創造物に対しても公正と優しさをもって臨む。

われらの説く神は一片のおべっかも要らぬ。法を犯せる者を意地悪く懲らしめたり、罪の償いの代理人を要求したりする誤れる神の観念を拒否する。況や天国のどこかに鎮座し、選ばれし者によるお世辞を聞き、地獄に落ち光と希望から永遠に隔絶されし霊の悶え苦しむさまを見ることを楽しみとする神など、絶対に説かぬ。

われらの教義にはそのような擬人的神の観念の入る余地はない。その働きによってのみ知り得るわれらの神は、完全にして至純至聖であり、愛であり、残忍性や暴君性等の人間的悪徳とは無縁である。罪はそれ自らの中にトゲを含むが故に、人間の過ちを慈しみの目で眺め、且つその痛みを不変不易の摂理に則(のっと)ったあらゆる手段を講じて和らげんとする。光と愛の根源たる神! 秩序ある存在に不可欠の法則に則って顕現せる神! 恐怖の対象でなく、敬慕の対象である神! その神についてのわれらの理解は到底そなたらには理解し得ぬところであり、想像すら出来ぬであろう。しかし、神の姿を見た者は一人もおらぬ。覗き趣味的好奇心と度を超せる神秘性に包まれた思索によって、神についての人間の基本的概念を曖昧模糊(あいまいもこ)なるものとする形而上的詭弁も、またわれらは認めるわけには参らぬ。われらは真理を覗き見するが如き態度は取らぬ。すでにそなたに述べた神の概念ですら(神学より)雄大にして高潔であり、かつ崇高である。それより更に深き概念は、告げるべき時期の到来を待とう。そなたも待つがよい。

次に、神とその創造物との関係について述べるが、ここにおいてもまたわれらは、長き年月に亙って真理のまわりに付着せる人間的発想による不純物の多くをまず取り除かねばならぬ。神によりて特に選ばれし数少なき寵愛者――そのようなものはわれらは知らぬ。選ばれし者の名に真に値するのは、己の存在を律する神の摂理に従いて自らを自らの努力によりて救う者のことである。

盲目的信仰ないしは軽信仰がいささかでも効力を示した例をわれらは知らぬ。ケチ臭き猜疑心に捉われぬ霊の理解力に基づける信頼心ならば、われらはその効力を大いに認める。それは神の御心に副うものだからであり、したがって天使の援助を引き寄せよう。が、かの実に破壊的なる教義、すなわち神学的ドグマを信じ同意すれば過ちが跡形もなく消される――生涯に亙る悪徳と怠惰の数々もきれいに拭い去られる――わずか一つの信仰、一つの考え、一つの思いつき、一つの教義を盲目的に受け入れることで魂が清められるなどという信仰を、われらは断固として否定し且つ告発するものである。これほど多くの魂を堕落せしめた教えは他に類を見ぬ。

またわれらは一つの信仰を絶対唯一と決め込み他の全てを否定せんとする態度にも、一顧の価値だに認めぬ。真理を一教派の専有物とする態度にも賛同しかねる。いかなる宗教にも真理の芽が包含されているものであり、同時に誤れる夾雑物も蓄積している。そなたらは気付くまいが、一個の人間を特殊なる信仰へ傾倒させていく地上的環境がわれらには手に取るように判る。それはそれなりに価値があることをわれらは認める。優れたる天使の中にさえ、かつては誤れる教義のもとに地上生活を送る者が数多くいることを知っている。われらが敬意を払う人間とは、たとえ信ずる教義が真理より大きく外れていても、真理の探求において真摯なる人間である。人間が喜ぶ枝葉末節の下らぬ議論には、われらは関知せぬ。キリスト教の神学を色濃く特徴づけているところの、理性的理解を超越せる神秘への覗き趣味には、われらは思わず後ずさりさせられる。われらの説く神学は極めて単純であり、理性的理解のいくものに限られる。単なる空想には価値を認めぬ。派閥主義にも興味はない。徒(いたず)らに怨恨と悪意と敵意と意地悪の感情を煽るのみだからである。

われらは宗教なるものを、われらにとりても人間にとりても、より単純な形で関わるものとして説く。修行場としての地上生活の中に置かれた人間――われらと同じく永遠不滅の霊であるが――は果たすべき単純なる義務が与えられ、それを果たすことによりて一層高度な進歩的仕事への準備を整える。その間、不変の摂理によって支配される。その摂理は、もし犯せば不幸と損失をもたらし、もし遵守(じゅんしゅ)すれば進歩と充足感を与えてくれる。

同時に人間は、曾て地上生活を送れる霊の指導を受ける。その霊たちは人間を指導監督すべき任務を帯びている。ただし、その指導に従うか否かは人間の自由意志に任せられる。人間には善意の判断を下す基準が先天的に具わっており、その判断に忠実に従い、迷うことさえなければ、必ずや真理の道へと導いてくれるはずのものである。善悪の判断を誤り背後霊の指導を拒絶した時、そこには退歩と堕落があるのみである。進歩が阻止され、喜びの代りに惨(みじ)めさを味わう。罪悪そのものが罰するのである。正しき行為の選択には背後霊の指示もあるが、本来は霊的本能によりて知ることが出来るものである。為すべきことを為していれば進歩と幸福が訪れる。魂が成長し完成へ向けてより新しく、より充実せる視野が開け、喜びと安らぎをもたらす。

地上生活は生命の旅路の一過程にすぎぬ。しかし、その間の行為と結果は死後にもなお影響を残す。故意に犯せる罪は厳しく裁かれ、悲しみと恥辱の中に償わねばならぬ。

一方善行の結果もまた死後に引き継がれ、霊界にてその清き霊を先導し高級霊の指導教化を受け易くする。

生命は一つにして不可分のものである。ひたすらに進歩向上の道を歩むという点において一つであり、永遠にして不易の法則の支配下にある点においても一つである。誰一人として特別の恩寵には与(あずか)れぬ。また誰一人として不可抗力の過ちのために無慈悲なる懲罰を受けることもない。永遠なる公正は永遠なる愛と相関関係にある。ただし、“お情け”は神的属性ではない。そのようなものは不要である。何となれば、お情けは必然的に刑罰の赦免を意味し、それは罪障を自ら償える時以外には絶対に有り得ぬことだからである。哀れみは神の属性であり、情けは人間の属性である。

徒に沈思黙考に耽り、人間としての義務を疎(おろそ)かにする病的信仰は、われらは是認するわけにはいかぬ。そのような生活によりて神の栄光はいささかも高められぬことを知るからである。われらは仕事と祈りと崇拝の宗教を説く。神と同胞と己自身(の魂と身体)への義務を説く。神学的虚構をいじくり回すことは、無明の暗闇の中にてあがく愚か者に任せる。われらが目を向けるのは実際的生活であり、それはおよそ次の如く要約できよう。

父なる神を崇め敬う(崇拝)……神への義務

同胞の向上進歩を手助けする(同胞愛)……隣人への義務

身体を大切にする(肉体的養生)……自己への義務

知識の獲得に努力する(知的進歩)……自己への義務

より深き真理を求める(霊的開発)……自己への義務

良識的判断に基づいて善行に励む(誠実な生活)……自己への義務

祈りと霊交により背後霊との連絡を密にする(霊的修養)……自己への義務

以上の中に地上の人間としての在るべき大凡(おおよそ)の姿が示されておる。いかなる教派にも偏ってはならぬ。理性の容認できぬ訓えに盲目的に従ってはならぬ。一時期にしか通用せぬ特殊な通信を無批判に信じてはならぬ。神の啓示は常に進歩的であり、いかなる時代によりても、いかなる民族によりても独占されるものではない。神の啓示は一度たりとも“終わった”ことはないのである。その昔シナイ山にて啓示を垂れた如く(3)、今なお神は啓示を送り続けておられる。人間の理解力に応じてより進歩的啓示を送ることを神は決してお止めにならぬ。

また、これも今のそなたには得心しかねることであろうが、全ての啓示は人間を通路としてもたらされる。故に多かれ少なかれ、人間的誤謬によって脚色されることを免れないのである。いかなる啓示も絶対ということは有り得ぬ。信頼性の証は合理的根拠の有無以外には求められぬ。故に新たなる啓示が過去の一時期に得られた啓示と一致せぬからとて、それは必ずしも真実性を疑う根拠にはならないのである。いずれもそれなりに真実なのである。ただ、その適用の対象を異にするのみなのである。正しき理性的判断よりほかに勝手な判断の基準を設けてはならぬ。啓示をよく検討し、もし理性的に得心が行けば受け入れ、得心が行かぬ時は神の名においてそれを捨て去るがよい。そして、あくまでそなたの心が得心し、進歩をもたらせてくれると信ずるものに縋(すが)るがよい。いずれ時が来れば、われらの述べたことが多くの人々によってその価値を認められることになろう。われらは根気よくその時節を待とう。そして同時に、そなたと共に、神が人種の隔てなく真理を求むる者すべてに、より高くより進歩的なる知識と、より豊かにして充実せる真理への洞察力を授け給わらんことを祈るものである。

神の御恵みの多からんことを!


〔注〕

(1)


High Church 英国国教会内の一派で、教会という組織の権威・支配・儀式等を重んじる。


(2)


Anglican カトリックとプロテスタントの両要素をもちながら、どちらにも偏らない要素を備えた一派で、総体的には高教会派的。


(3)


モーセの十戒。

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

  Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze


 
八章  新しい世界秩序の構築

    特定の日を決めて合同で祈ること、たとえばスピリチュアリストがそういう催しを行うことに意義があるのだろうか。そういう質問が発展して、スピリチュアリズムのそもそもの目的、すなわち魂の自由と解放による新しい世界の誕生が話題となった。まずシルバーバーチがこう語る。

 「私たちは時には冗談を言っては笑い、楽しい雰囲気の中で会を進めておりますが、こうしたささやかな集まりの背後に、大きな、そして深刻な目的が託されております。出席なさっている皆さんも、自分たちの力でどれほど多くの人々が光明を得ているかをご存じないでしょう。

 この霊媒の口から出る言葉は、高い界から送られてくるメッセージの一部を私が取り次いでいるのですが、これも皆さんにはすっかりお馴染となりました。

皆さんの生活の背景として、ごく当たり前の位置を占めるに至っております。もはや皆さんにとって、私の述べることに取り立てて耳新しいことや革命的なものはなくなりました。

 十数年前、あなた方は精神的ならびに霊的な自由を手にされました。永いあいだ尋ね求め、あれを取り、これを拒否し、神から授かった理性で試し、検討した末に、ついに私の述べるメッセージを真実のものと認められたわけです。

今では、私の説く単純で素朴な教えこそ永遠の真理であることを得心しておられます。

 しかし一方には、永いあいだ暗闇と懐疑と苦悩の中でさ迷っている人、こうした真理が魂の解放のメッセージとなるべき人が大勢いることを忘れてはなりません。

気の毒な状態から救い出してあげなければなりません。霊的真理には一人ひとりの人間を束縛から解放する意図が託されているのです。私たちの仕事は必ず一個の人間から始めます。人類全体も、個が集まって構成されているからです。

 一人、そして又一人と、非常にゆっくりとした根気のいる仕事ではありますが、それ以外に方法がないのです。大勢の人を一度に変えようとしても、必ず失敗します。

暗示が解け、普通の感覚に戻った時、すべてが忘れ去られます。そうした一時の興奮から目覚めたものは、気恥ずかしささえ味わうものです。

 ですから私たちは、あらゆる反抗と敵意と妨害の中にあっても〝点滴、岩をも穿つ〟の譬えで、一人また一人と、光明が射し真理を悟ってくれることを信じて、素朴ながらも繰り返し繰り返し説いてまいります。

その訓えの意味を十分に理解して価値を正しく評価して下さる方は、それ以後は後ろ髪を引かれる思いをすることなく、それまで永いあいだ魂を束縛してきた古い因襲的信仰に、きれいさっぱりと決別することでしょう。

 暗闇からはい出て、光明の世界へ辿り着いたのです。真実の光を見出したのです。それを〝理性〟で確認したのです。私たちが説く教えには、人間の理性が納得する筋が通っていること、人間の常識を怒らせる要素がないこと、人間の知性を反発させるものではないことを、皆さんはご存知です。

むしろ皆さんは、これほど明白な真実がなぜ受け入れられないのだろうかと、悩みにさえ思っておられるくらいです。

 私たちに反抗する大きな勢力がまだまだ存在することを忘れてはなりません。その中でも特に警戒を要するのが、キリスト教会という宗教のプロが有する既得の権力です。

彼らはそれを振りかざして、私たちの使命を阻止せんとすることでしょう。彼らはもはや何ら新しい恩恵は持ち合わせません。持ち出すものと言えば、カビの生えた古い教説ばかりです。
℘120
 彼らは、身は今の世にあっても精神は古い時代に生きていて、その過去の栄光を現代に蘇らせようとします。今の彼らには、それしか持ち合わせがないからです。教会は倒れかけた墓のごとく陰うつな空虚さに満ち、およそ神の霊の宿るところではなくなっております。

そういう宗教家が私たちを非難し、悪魔の手先である───信心深いお人好しや妄想に取りつかれ易い人間をだまそうと企てているのだ、と宣伝します。

 私たちはそういう宗教家を見て情けなく思わずにはいられません。彼らは、往々にして自分でもそうとは気付かずに、宗教家としての職責を裏切り、民衆を神へ導くことをしないどころか、神との間に垣根をこしらえ、

ただの書物に過ぎないもの、ただの教義に過ぎないもの、ただの建造物に過ぎないものに自らの魂を縛られ、それを真理より大切なものであると信じ切っております。

 私たちが酷しい言葉で非難のつぶてを投げるのは、そう言う宗教家に対してです。彼らは宗教家としては落第しているのです。苦しみと悲しみの海にさまよう無数の人々を導く資格を失っているのです。

神学と言う粗悪品を混入して、イエスがせっかくこの世にもたらした素朴な啓示の言葉を忘れてしまっております。

℘121
 私たちが説く宗教とはお互いがお互いのために尽くし合う宗教です。人のために役立つことが霊の通貨なのです。大霊の子である同胞のために自分を役たてるということは、とりもなおさず大霊のために役たてることであり、それを実行した人は。立派に宗教的人間といえます」


───伝統的宗教に対するわれわれの態度は寛容的であるべきでしょうか。厳しい態度で臨むべきでしょうか。

 「相手が誰であろうと、臆せず真実を述べることです。あなたも神の僕の一人です。間違いは排除し、虚偽は論破すべきです。恐れてはいけませ。怖じける必要は少しもありません。

大堂伽藍を建て、妙なる音楽を流し、ステンドグラスを飾り、厳かな儀式を催したからといって、そんなことで宇宙を創造した大霊が心を動かされるものではありません。宇宙の大霊すなわち神を一個の建物の中に閉じ込めることはできないのです」


 これに関連した質問を受けて、さらにこう述べた。
℘122 
 「大衆に目隠しをして暗闇に閉じ込めようと思えば、出来ないことはありません。かなりの年月にわたってそうすることも可能です。しかし、いつかは大衆も、自分たちが本来は光の子であることを思い出して、真理の光明を求めはじめます。

その時期を権力によって遅らせることはできます。妨害もできます。しかし、最後は真理は真理としてあるべき位置に落着きます。

 あなた方人間も霊的存在です。肉体だけの存在ではないのです。無限の可能性を秘め、神性を宿しているがゆえに、その霊的可能性が発現を求め始めます。一時的に無視することはできます。が、永遠に抹殺してしまうことはできません。

だからこそ真理の普及が急務なのです。人間が霊的存在であるということは内部に宿る霊がこの驚異に満ちた大宇宙を創造した力の一部であるということです。いかなる宗教的権力を持ってしても、霊の声を永遠に封じ込めることはできません」


 伝統的宗教の失敗と新しい世界の誕生のテーマにもう一度言及してこう述べている。

 「地上世界では今、古い体制の崩壊と衰亡が進行し、かつて我がもの顔だった説教者たちも、もはやこれでは民衆の心を捉えることができないことを認め始めております。

永いあいだ盲目の民を好きに操って来た盲目の指導者達───真理の行進に抵抗し、現代に生きる聖霊の存在を否定せん(霊界からの働きかけを認めないこと)としてきた者たち、そうした者たちが今、その代償、つまり霊的法則の存在を認めようとしなかったことへの代償を払わされつつあります。

 そこに、あなた方が肝に命じていただきたい教訓があります。真理のために闘う者は、最後は必ず勝利を収めるということです。善の勢力を完全に封じ込めることはできないからです。一時的には抑えることはできます。邪魔することもできます。進行を送らせることもできます。

しかし、真理を永遠に破壊したり、あるべき位置に落ち着くことを阻止し続けることは誰にもできません。

 これは宗教にかぎったことではありません。人生のあらゆる面についていえることです。何事につけても、誤った説に抵抗し、偽りの言説を論破し、迷信に反抗していく者は、決してうろたえてはなりません。

全生命を支え、最後の勝利を約束してくれる、永遠にして無限の霊力に全幅の信頼を置かなければいけません。

 死によって隔てられた二つの世界の交信を可能にしてくれる霊的法則の存在を知った者にとって、こうした戦争(第二次大戦)によって惹き起される不利な条件の中で真理を普及していくことがいかに困難であるかは、私もよく承知しております。

しかし、何が何でも、この霊的真理にしがみついていかねばなりません。やがては、真理に飢え魂の潤いを渇望する者が次第に増え、いつかは知識の水門が大きく開かれる時機が熟します。

その時に備えておかねばなりません。対立紛争が終わった時、戦火が消えた時、無数の人が今度は知識を土台とした生き方の再構築を望むことでしょう。

 彼らは、宗教の名のもとに押しつけられた古い神話には、うんざりしております。戦争という過酷な体験をし、人生の意義を根本から問い直し、なぜ生まれてきたのか、いかに生きるべきなのか、いつになったら・・・・・・といった疑問に直面させられた者は、その真実の答えを何とか知りたいと思い始めます。真理を渇望し始めます。

その時あなた方は、そうした魂の理性と確信と論理性と叡智でもって対応し、新しい世界の住民としての生き方を教えてあげられる用意が出来ていなければなりません。

 過ぎ去ったことは、そこから教訓を学ぶためでなければ、つまり、失敗をどう正すか、二度と過ちを犯さないためにはどうすべきかを反省するためでなければ、むやみの振り返るべきでものではありません。未来へ目をやり、今日行うことをこれから訪れる、より立派な日の素地としてなければなりません。

世界中があなた方を必要とする時代が来ます。無数の人が、希望と慰めとインスピレーションと指導を求めて、あなた方に目を向ける日がきっときます。

 もう教会へは足を運びません。聖職者のもとへは訪れません。教師のもとへは参りません。あなた方の方へ足を向けます。なぜなら、死と隣り合わせの体験をし、その厳しい現実の中で、ある種の霊的体験をした者は、心の目が開いているからです。

目の前を遮っていたモヤが晴れたのです。真理が受け入れる用意ができたのです。ならば、それを授けてあげる用意ができていなければなりません」


───新しい世界が生まれつつあるということは何を根拠におっしゃるのでしょうか。

 「私は厳とした計画、神の計画が見て取れるのです。私は、霊の力こそ宇宙最大の力であると信じています。人間がその働きを歪め、遅らせることはできます。妨害を押し止めることはできるかもしれません。しかし、永遠にその地上への権限を阻止することはできません。

 あなた方が霊的真理を手にしたということは、人類が抱える全ての問題を解くカギを手にしたことを意味します。

私は決して、世にいう社会改革者たち───義憤に駆られ、抑圧された者や弱き者への止むにやまれぬ同情心から悪と対抗し、不正と闘い、神の物的な恵みがすべての人間に平等に分け与えられるようにと努力している人々を、ないがしろにするつもりは毛頭ありません。
℘126
 ただ、その人たちは問題の一部しか見ていない───物的な面での平等のために闘っていることに過ぎないということです。もちろん精神的に平等であるべきことも理解しておられることでしょう。が、人間はまず何より〝霊〟なのです。大霊の一部なのです。宇宙を創造した力の一部なのです。

決して、宇宙の広大な空間の中に忘れ去られた、取るに足らぬ存在ではないのです。宇宙の大霊の一部として、常に無限の霊性に寄与しているのです。

 その霊力の息の根を止めることは誰にもできません。いつかは必ず表に出てきます。残酷な仕打ちにも、憎しみの行為にも負けません。こん棒で叩かれても、強制収容所へ入れられても、独裁政治で抑えられても、決して窒息死することはありません。

なぜならば、人間の霊は、人間が呼吸している空気と同じように自由であるのが、本来のあるべき姿なのです。それが生来の、神から授かった、霊的遺産なのです。

℘127   
 その理想像の素晴らしさを理解した人々、新しい世界のあるべき姿を心に描いた人々は、当然そうあらねばならないことを十分に得心しています。なぜなら、それが人間に息吹を与える動物から人類へと進化させた、その背後の目的の一部だからであり、それはさらに人間を神的存在へと向上させていくものです。

あなた方の使命はその松明を引き継ぎ、新しい炎を燃え立たせ、次の世代にはより大きな光明が道を照らしてあげることです。

 基盤はすでに出来上がっているのです。何年も前から、その基盤作りはこちらの世界で終わっているのです。苦痛は伴いながらも、ゆっくりと各界の名士あるいは名もなき男女が、永遠の霊の実在の証言に立ちあがり、神の計画の一刻も早い実現のために刻苦したのです。新しい世界は必ず実現します」


───その新しい世界は、われわれ人間自らの努力によって実現しなければならないはずなのに、なぜその基盤作りがそちらの世界で行われたのでしょうか。

 「あなた方の世界は影です。光はこちらから出ているのです。あなた方は、こちらで建てられてプランを地上で実行し実現させていきつつあるところです。オリジナルの仕事───と呼ぶのが適切か否かは別として───は全てこちらで行われます。

なぜなら全てのエネルギー、全ての原動力は物質から出るのではなくて、霊から出るのです。みなさんは、意識するしないに関係なく、霊力の道具なのです。受信と送信をする道具なのです。霊的影響力をどこまで受けとめられるかによって、成功するしないが決まるのです」

℘128
───ということは、結局、そちらからの援助をえて私たちが努力することから新しい世界が生まれるということでしょうか。

 「その通りです。何ごとも人間の力だけでは成就し得ません。人間が何かを始める時、そこには必ずこちらからの援助が加味されます。私たちは常に道具を探し求めております。

人間の方から霊力の波長に合わせる努力をしていただかねばなりません。完ぺきは決して望めません。常に困難を克服し邪魔を排除する仕事は永遠に続きます」


───私たち自身の努力で地上に新しい世界を招来しなければならないわけですね?

 「努力してはじめて得られるのです。私から申し上げられることは、神の計画の一部として成就しなければならないことは、すでに決まっている───が、それがいつ実現されるかは、あなた方人間の努力次第ということです。計画はできているのです。

しかし、その計画は自動的に実現されるわけではありません。それはあなた方人間の自由意思に任されております。人間は自由意思を持った協力者です。ロボットでも操り人形でもありません。宇宙の大霊の一部なのです」


───新しい世界が来るとおっしゃっても、私たちにはそれらしい兆候は見当たらいのですが・・・・・・

 「古い秩序が崩壊していくのと同じ速さで、新しい秩序が生まれます。現にその目でご覧になったばかりではありませんか。大帝国がくずれさりました。お金の力が絶対ではなくなりました。

利己主義では割に合わないことが証明されました.戦争体験によって、普通の一般男女の力の本当の価値が証明されました。

 どうか、この私に〝進歩が見られない〟などとおっしゃらないでいただきたい。
℘130
教訓ならあなた方の目の前にいくらでもあります。別に、霊眼は必要ではありません。肉眼で見えるところにあります。これほど切実な体験をした現代の人々に、新しい世界が訪れて当然です。

もしもその恩恵に浴せないとしたら、その人はまだまだ内部の霊的な力を使用するまでに至っていないことを意味します。それだけの努力をした人々は、その犠牲と引き換えに恩恵を受けておられます。

 私はそれが機械的なプロセスで与えられると申しているのではありません。皆さんにやっていただかねばならない仕事があります。それは、一方では霊的知識を広め、他方では古い権力構造の面影に貪欲にしがみついている、因襲的既得権に対して、あくなき闘いを挑む事です」


 シルバーバーチのもとには、数えきれない程の質問が寄せられている。その一つ一つが読み上げられるのをシルバーバーチは熱心に聞き入るが、余りプライベートな内容のものには答えたがらない。

その理由を、プライベートな悩みに答えるには、その悩みを抱えている本人がすぐ目の前にいる必要がある───が、それは、私が委ねられた使命ではないから、と説明する。自分の本来の使命は、すべての人に共通した真理を説くことにあるという。その一つが次の質問である。

℘131
───あなただけがご存じの、何か新しい真理がありますか。

 「新しい真理というものは一つもありません。真理は真理です。単なる知識は、それを受け取る人次第で内容が異なります。子供時代には、その知能程度に似合ったものを教わります。まずアファベットから始まり、知能の発達と共に単語を覚え、文章が読めるようになります。

どの程度のものが読めるかは、その段階の理解力一つに掛っております。知識は無限に存在します。際限がありません。が、そのうちのどこまでを自分のものにできるかは、精神的ならびに霊的受容力の問題です。

 しかし、いくら知識を蓄えても、それによって真理を変えることはできません。いくら知恵を絞っても、真理の中身を変えることはできません。過去において真理であったものは今日でも真理であり、明日の時代でも真理です。真理は不変であり不滅です。

新しい叡智を身につけることはできます。新しい知識を増やすことも出来ます。が、あたらしい真理を生み出すことはできません。

 地上人類はすでに地上生活にとって必須の真理───親切と助け合いと愛についての基本的真理のすべてを授かっております。世界をより良くするには如何にすべきかは、すでに分かっております。

成長と発展と向上と進化にとって必要なものは、過去幾世紀にもわたって啓示されてきております。それに素直に従いさえすれば、今この地上において、内部に宿された神性をより多く発揮することができるのです。

 偉大な指導者、地上に光をもたらした〝霊力の道具〟は、根本においてはみな同じことを説いております。人間の霊性───各自に宿る不滅の資質に目を向けさせるべく、地上を訪れたのです。

言語こそ違え、みな人間のすべてが無限の魂、神の火花、宇宙の大霊の一部を宿していることを説きました。そして素直に従い実行しさえすれば、それより多くを発揮させてくれる指導原理も説いております。

霊的理念に従って生きれば、この世から悪夢のような悲劇、永いあいだ無益な苦しみを与えてきた、恐怖と悲惨と苦悩を一掃できることを説いてきております。

 自分を愛するごとく他人を愛せよ。苦しむ者に手を差し伸べよ。人生に疲れた人、心に潤いを求める者に真理を語って聞かせよ。病の人を癒し、悲しむ人を慰め、不幸な人を訪ねてあげよ・・・・・・こうした教えは、遠い昔から説かれてきた真実です。こうしたことを実践しさえすれば、地上は一変し、二度と恐ろしい悲劇をもたらす戦争も生じなくなるでしょう。
℘133
 そこで、私たち霊団の取るべき態度はどうあるべきか。人間は自分の成長と死後への霊的準備に必要なものは、すでに掌中に収められております。聖なる者も数多くあります。〝師〟と呼ばれる者も数多く輩出しております。

内的世界を垣間見て、その人なりに解釈した霊覚者が大勢います。しかし不幸にして、そうした形で地上に啓示された素朴な真理が埋もれてしまいした。

 人間はその上に教義だの、ドグマだの、信条だの、儀式だのという、余計なものを築き上げてしまいした。単純で素朴な真理の上に、神学という名の巨大な砦を築いてしまい、肝心の基盤がすっかり忘れさられております。

そこで私達は、その埋もれた真理を本来の純粋な姿───何の飾り気も無い素朴なままの姿をお見せするための道具、つまり霊界からのメッセージをお届けするための霊媒を探し求めてきたのです。

 私たちは人間の精神的産物によって色づけされた信仰体制には関心はありません。大切なのは、地上界のように錯覚によって惑わされることのない、霊の世界からの真理です。

なぜかと言えば、余りに多くの落後者、精神的浮浪者のような人間が霊界へ送り込まれる一方で、一見立派そうな人間が、霊的事実について誤った概念と偏見のために、

死後に直面する生活に何一つ備えが出来ていないと言うケースが余りに多過ぎると言う現実をみて、私たちは、いずれ誰もが訪れる永続的な実在の世界、すなわち死後の生活に備えるために、単純な真理を地上にいる間に知ってもらえば、私達の手間も大いに省けるだろうと考えたのです。
℘134
 そこで、あらゆる宗教的体系と組織、進歩を妨げる信仰、不必要な障害、人間の精神を曇らせ、心を惑わせる迷信に対して敢然と宣戦布告し、神の子が神の意図されたとおりに生きられるように、不変の真理を授けようと努力しているわけです。

 他人がどう言おうと気にしてはいけません。非難、中傷など、すべて忘れることです。霊的真理こそが、永遠に変わらぬ真理なのです。理性が要求するテストのすべてに応えうる真理です。決して知性を欺きません。単純。明快で、誰にでも理解できます。

聖職者によるあらゆる方策が失敗したのちも止まることなく普及発展していく真理です。不変の自然法則に基づいた単純素朴な永遠の真理だからです。

 これには、法王も大主教も、司祭も牧師も教会も聖堂も礼拝堂もいりません。私たちも、これを捏ねまわして神学体系を造ろうなどとは思いません。

こうして説くだけです。が、理解ある伝道者さえいれば、それが社会のあらゆる階層に浸透し、すべての人間が身体的にも霊的にも自由を享受し、二度と束縛の中で生きていいくことはなくなるでしょう。無知の暗闇が消滅し、代わって真理の光がふんだんに注がれることでしょう」

℘135
 別の日の交霊会でも、人間の真の自由獲得のための闘争についてこう語っている。

 「私たちは、本当はあってはならない無知に対して闘いを挑まなくてはなりません。神は、内部にその神性の一部を宿らせたはずの我が子が、無知の暗闇の中で暮らし、影とモヤの中を歩み、生きる方角も分からず、得心いく答えはないと思いつつも問い続けるようには意図されておりません。

真に欲するものには存分に分け与えられるように、無限の知識の宝庫を用意してくださっております。

 しかしそれは、当人の魂と成長と努力と進化と発展を条件として与えられるものです。魂がそれにふさわしくならなければなりません。精神が熟さなければなりません。心が受け入れ体制を整えなくてはなりません。その段階で初めて、知識がその場を見出すのです。

 それも、受け入れる能力に応じた分しか与えられません。目の見えなかった人が見えるようになる場合でも、その視力に応じてすこしずつ見せてあげなくてはなりません。一気に全て見せてあげたら、かえって目を傷めます。霊的真理も同じです。

はしごを一段一段とのぼるように、一歩一歩と真理の源へと近づき、そこからわずかずつ我がものとしていくのです。

℘136  
 いったん糸口を見出せば、つまり行為なり思念なりによって受け入れ態勢ができていることを示せば、その時からあなたは、そのたどり着いた段階にふさわしい知識と教訓を受け入れる仕組みとつながります。そのあとはもう、際限がありません。

これ以上は無理という限界がなくなります。なぜならば、あなたの魂は無限であり、知識もまた無限だからです。

 しかし、闘わねばならない相手は無知だけではありません。永いあいだ意図的に神の子を暗闇に閉じ込め、あらゆる手段を弄して自分たちででっち上げた教義を教え込み、真の霊的知識を封じ込めてきた既成宗教家とその組織に対しても、闘いを挑まなくてはなりません。

 過去を振り返ってみますと、人間の自由と解放への闘争のために、私たちが霊界からあらゆる援助を続けてきたにもかかわらず、自由を求める魂の自然な欲求を満足させるどころか、逆に牢獄の扉を開こうとする企てを、宗教の名にもとに阻止しようとする勢力と闘わねばなりませんでした。

 今なお、その抵抗が続いております。意図的に、あるいは、そうとは知らずに、光明の勢力に対抗し、私たちに対して悪口雑言の限りを浴びせ、彼ら自身も信じなくなっている教義の誤りを指摘せんとする行為を阻止し、

勝手にこしらえた神聖不可侵思想にしがみつき、自分で特権と思い込んでいるものがどうしても捨てきれずに、擦り切れた古い神学的慣習を後生大事にしている者が、まだまだ存在します。

 そこで私たちは、人間のすぐ身のまわりに片時も休むことなく打ち寄せる、より大きな、素晴らしい霊の世界のエネルギーがあることを教えに来るのです。そうした数々の障害を破壊し、莫大な霊力───すべての存在に活力を与えるダイナミックな生命力をすべての人間が自由に享受できるようにするためです。

その生命力が、これまでの人類の歴史を通じて多くの人々を鼓舞してまいりました。今でも多くの人々に啓示を与えております。そして、これから後も与え続けることでしょう。

 荒廃しきった世界には為さねばならないことが数多くあります。悲哀に満ち、涙に、むせび苦痛にあえぐ人にあふれ、何のために生きているかを知らぬまま、首をうなだれ、行き先が分からずに、さ迷っている人が大勢います。

そうした人たちにとって、目にこそ見えませんが、霊の力こそ本当の慰めを与え、魂を鼓舞し、元気づけ、導きを必要とする人々に方向を指し示してあげる不変の実在があることを、その霊力が立証してくれます。

 そこにこそ、霊的知識を授かった人々のすべてが参加し、自由の福音、解放の指導原理を広め、人生に疲れ果て、意気消沈した人々の心を鼓舞し、魂の栄光を知らしむべく、この古くて新しい真理の普及の道具として、一身を捧げる分野が存在します。

私たちが提供するのは、霊の力です。あらゆる困難を克服し、障害を乗り越えて、真理の光と叡智と理解力を顕現せしめ、神の子等に恒久的平和を築かせることができるのは、霊の力を措いて他にはないのです」
℘138

───戦死の場合でも、誰がいつ死ぬかということは、霊界では前もって分かっているのでしょうか。

 「そういうことを察知することのできる霊がいるものです。が、どれくらい先のことを察知できるかは、その時の事情によって異なります。

愛の絆によって結ばれている間柄ですと、いよいよ肉体との分離が始まると必ず察知します。そして、その分離がスムースに行われるのを手助けするために、その場に赴きます。

 霊界のすべての霊に知られるわけではありません。いずれにせよ、死んだ時一人ぼっちの人は一人もいません。必ず、例外なく、周りに幾人かの縁故のある人がいて、暗い谷間を通ってくる者を温かく迎え、新しい、そして素晴らしい第二の人生を始めるための指導に当たります」


 総じてシルバーバーチは誰が聞いても分かるようなことを説き、理屈っぽい、難解な質問には答えたがらない傾向がある。その理由をこう弁明する───

 「難解な質問を回避したいからではありません。私は、今すぐ応用のきく実用的な情報をお届けすることに目標をしぼっているからです。基本の基本すら知らずにいる大勢の人々、真理の初歩すら知らない人が大勢いることを思うと、もっと後になってからでもよさそうな難解な理屈を捏ねまわすのは、賢明とは思えません。

 今の時代に最も必要なのは、簡単な基本的真理───墓場の向こうにも生活があること、人間は決して孤独な存在ではなく、見捨てられることもないこと、宇宙のすみずみまで大霊に愛の温もりをもつ慈悲深い力がいきわたっていて、一人一人に導きを与えていること、それだけです。

 これは人間のすべてが知っておくべきことです。また誰にでも手に入れることのできる、掛けがいのない財産なのです。そうした基本的真理すら知らない人間が何百万、いや何千万、いや、何億といる以上は、私たちはまず第一に、そういう人たちから考えようではありませんか。それが私たちにとって最も大切な義務だと思うのです」

℘140
 別の日の交霊会でも同じ話題について───

 「わたしたち霊界の者がこうして地上へ戻ってくる目的の真意が、ほかならぬ宗教の指導者であるべき人から曲解されております。いつの時代にあっても、宗教とは基本的には霊力との関わり合いでした。

それはまず、地上の人間の霊的向上を指向し規制する摂理を教える使命を帯びた者が、地上へ舞い戻ってくるということから始まります。つまり宗教の本来の目的は、人間の霊性に関わっているからです。

 そこから出発し、ではその霊性を正しく発達させる上で、霊界からの指導を受けるにはどうすべきかを説くのが、宗教の次の仕事です。霊的摂理は広範囲にわたっております。

ところが、それが不幸して誤って解釈され、その上、それとは別の意図を持った聖職者が割り込んできたために、そこに混乱が生じたのです。

 人間も根本的には霊であり、それが肉体を使用しているのであって付属品として霊を宿した肉体的存在ではないわけです。肉体は霊に従属しているのです。地上生活の全目的は、その内在する霊に修業の場を与え、さまざまな体験を通じてそれを育み、死によってもたらされる肉体からの解放の時に備えて、身支度をさせることにあります。

そこから本当の意味での〝生活〟が始まるのです。宗教とは、霊が霊として本来の生活ができるように指導するための処世訓であり、道徳律であると言えます。

 ところが不幸にして、古い時代 (イエスの時代の少し後) に、霊の道具である霊媒と聖職者との間に衝突が生じたのです。聖職者の本来の仕事は、聖堂や教会といった宗教的行事の執り行われる建造物の管理でした。

原初形態においては両者の関係はうまく行っておりました。が、ある時代から聖職者の方が、紳示(霊界通信)を受ける霊媒にばかり関心をむけられることに不快感を抱くようになりました。

そしてそれまでに入手した神示を資料として、信条・儀式・祭礼・ドグマ・教説等を分類して綱領をこしらえる、いわゆる神学的操作を始めたのです。今日まで引き継がれているもののうち、どれ一つとして霊の資質と実質的に関わりのあるものはありません。

 かくして、真の宗教の概念が、今日では曖昧となってしまいした。宗教というと何かお決まりの儀式のことを思い浮かべ〝聖典〟と呼ばれるものを読み上げることと考え、賛美歌を歌い、特別の衣装を着ることだと思うようになりました。何やら難しい言説を有り難く信奉し、理性的に考えれば絶対におかしいと思いつつも、なおそれにしがみつきます。
℘142  
 私たちはいかなる神学、いかなる教義、いかなる信仰告白文にも関心はありません。私たちが関心を持つのは人間の霊性であり、私たちの説くこともすべて、絶対的に従わねばならないところの霊的自然法則に向けられています。人間がこしらえたものを崇めるわけにはいきません。

宇宙の大霊によって作られたもののみを実在として信じます。そこに、宗教の捉え方の違いの核心があります。

 人のために役立つ行為、霊性に動かされた行為、無私と利他的行為、自分より恵まれない人へ手を差し伸べること、弱き者へ力を貸してあげること、多くの重荷に喘ぐ人の荷を一つでも持ってあげること、こうした行為こそが私たちの説く宗教です。

 〝神とイエスと聖霊は三にして一、一にして三である〟などと説くことが宗教ではありません。宗教的であるとも言えません。それを口にしたからといって、霊性はみじんも成長しません。朝から晩まで賛美歌を歌ったからといって霊性が増えるわけではありません。

 バイブルを読んでも(キリスト教)、タルムードを読んでも(ユダヤ教)、コーランを読んでも(イスラム教)、バカバット・ギ―タ―を読んでも(ヒンズー教)、その他、いかなる聖なる書と呼ばれているものを、目が疲れるほど読んでも、それだけで霊性が成長するわけではありません。

 〝宗教的〟とみなされている行事のすべてを行っても、それによって一段と価値ある人生へ魂を鼓舞することにならなければ、私たちが考えている意味での宗教的人間になるわけではありません。

 肩書(ラベル)はどうでもいいのです。形式はどうでもいいのです。口先だけの文句はどうでもいいのです。大切なのは〝行為〟です。どういうことをしているかです。つまり各自の日常の生活そのものです。

 私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人として神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすことはできません。自分が自分の救い主であり、贖い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。

 また、神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。すなわち、親切・寛容・同情・奉仕の行為が自動的に、それ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義・罪悪・不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も、安価な赦免もありません。
℘144
神の公正が全宇宙に行きわたっております。霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。死後の床での悔い改めも通用しません。

 巨大なる宇宙の中で生じるもの全てに責任を持つ大霊の、不変にして絶対的威力を有する摂理に目を向けましょう。私は常にその摂理を念頭に置いています。

なぜなら私たちの説く神は、人間的弱点───激情や憤怒に動かされたり、好きな人間と嫌いな人間とを選り分けたりするような、そんな人間的存在ではないからです。

 私が見る宇宙は法則によって支配されています。すみずみまで行きわたり、これからも常に永遠に存在しつづける法則です。

地上の人間に永い間振り回され、隷属させられてきた誤った概念と虚偽、偏見と無知を無くしていくには、地上の生命現象と生活現象のすべてが、その絶対的法則によって支配されていることを教える以外に方法はありません。

 その知識が少しでも増えれば、それだけ理解力も豊かになるでしょう。本来の美しさを遮っていたベールが取り除かれ、有限の地上的存在の視野を超えた所に存在する、より大きな生活を少しでも垣間見ることになるでしょう。

 かくして私たちは、常に神の永遠の自然法則、絶対に狂うことも過つこともない法則、地位の高い低いに関わりなく、すべての存在に等しく働く法則に、忠誠と感謝の念を捧げるものです。

誰一人として等閑(なおざり) にされることはありません。誰一人として独りぼっちの者はいません。法則の働きの及ばない者。範囲からはみ出る者など、一人もいません。あなたがこの世に存在するという事実そのものが、神の摂理の証しです。

 人間の法則は機能しないことがあります。改められることがあります。人間の成長と発達に伴って視野が広がり、知識が無知をなくし、環境が変化するに伴って新たな法令が要請されると、従来の法律が廃止されたり、別の法律と置き換えられたりすることもあります。

 しかし、神の法則に新しい法則が付け加えられことは絶対にありません。改正もありません。解釈上の変化も生じません。いま機能している法則は、これまでずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能してまいります。一瞬の休みもなく機能し、そして不変です」