Friday, November 6, 2026

霊の書 アラン・カルデック(編)第4部 希望と慰め

The Spirits' Book

スピリチュアリズムの真髄「思想編」
近藤千雄(訳)





1章 地上的喜びと悲しみ

このページの目次
〈幸と不幸〉


――この地上界に完全な幸せというのは有り得るでしょうか。


「有り得ません。肉体に宿っての生活は試練か罪滅ぼしのいずれかを目的としての生活の場として指定されているからです。ただ、定められた体験の苦の側面を、その対処の仕方(心構え)によって軽減し、それだけ幸せの側面を大きくすることは可能です」


――地上的な幸不幸は相対的なもので、置かれた立場によっては、ある者には幸せに思えることが他の者には不幸に思えることがあります。そうしたこととは無関係に、全ての人間に共通した幸せの基準というものがあるのでしょうか。


「物的生活に関しては生きるための必需品が確保できることであり、精神的生活に関して言えば、健全なる良心と死後の生命への信念を持っていることです」


――それほどの財産を所有するに値するとは思えない人が豊かな生活をしていることがありますが、なぜでしょうか。


「財産というものは、現世のことしか考えない人には羨ましく思えるかも知れませんが、来世との関連で見ると、苦難や貧困よりも危険な要素を秘めているものです」


――文明の発達は欲望を増幅していくという観点からすると新しい悩みのタネをも増やしていっていることになるのでしょうか。


「地上界の病苦は、人間本来の必要性とは別種の、言わば人工的必要性に比例して増えています。欲求に自分で限度を設けて、それ以上の贅沢には何の魅力も覚えない人は、地上生活における落胆とは縁のない人です。真の意味で豊かな人とは余分なものを欲しがらない人です。

人間はとかく金持ちの贅沢を羨ましがりますが、その人たちの多くを待ち受けている運命をご存じありません。財産を自分のことにだけ使う人は利己主義者であり、そういう人の将来には恐ろしい逆境が待ち受けております。羨ましがらずに憐れんであげるべきです。

神は時として邪悪な人間に大金を預けます。それは、それが元で泣く思いをさせ歯ぎしりして後悔させ、反省の機会を与えるためです。もしも真面目に生きている人が不幸に陥った時は、それは神が与えた試練であり、それに毅然として立ち向かうことによって豊かな報いが得られます。イエスも言っております――悲しむ者は幸いである。いずれ神の慰めを得る時が来るであろうから、と」


――神は人間各自の適性に応じて天職というものを示してくださっているのですが、人生の不幸はそれに忠実に携わっていないことから生じているのでしょうか。


「そうです。よくあるのは、両親が自尊心や欲から、我が子を天性に合った道から親の都合の良い方向へ強引に向かわせるケースです。そういう身勝手な行為は後で責任を取らされます」


――世間的な悩み事は往々にして自らこしらえたものだということですが、精神的な悩みも自分でこしらえているのでしょうか。


「その方がむしろ多いくらいです。と言うのは、世間的な問題はこちらから仕掛けたものばかりではありませんが、魂の苦悶は、傷つけられた自尊心や野心の挫折、貪欲、嫉妬心、怨恨といった、ありとあらゆる悪感情が内部から巻き起こすものだからです。

怨恨と嫉妬! この魂の寄生虫を宿らせない人間は本当に幸せな人です。怨恨と嫉妬が寄生する魂には安らぎも落ち着きもありません。この二つの悪感情の奴隷となった人の目の前には常に欲望と憎しみと怒りの対象が幻のごとく立ちふさがり、休みなく、睡眠中でさえも追いかけ回します。怨恨と嫉妬に狂った人間は熱にうなされているのと同じです。その悪感情の渦に巻き込まれた人間は自ら恐ろしい苦悶を生み出し、そういう人にとっては地上がそのまま地獄となることが分からないのでしょうか」
〈死別・忘恩〉


――死別によって地上に残された者の悲しみがいつまでも消えない場合、その悲しみの念は霊界の霊にどういう影響を及ぼすでしょうか。


「霊は基本的には地上に残した愛する人々が自分を思い出してくれたり惜しんでくれたりすると心を打たれるものです。しかしそれが度を越したものになると、却って苦痛となります。そのわけは、そんなにいつまでも悲しむということは死後の生命の存続と神の実在についての信仰が欠けていることの証拠であり、それは悲しんでくれているその人にとっての向上の妨げになり、結果的には霊界での再会の妨げにもなるからです」


――それとは逆に、あっさりと忘れ去られたり、友情のはかなさを思い知らされたりするのは、人間の心の冷たさを感じさせる態度ではないでしょうか。


「おっしゃる通りです。しかし我々としては、そういう恩知らずや不誠実な人間の方こそ憐れんでやるように説きたいのです。そういう冷たい態度は最終的には本人に害が降りかかってくるからです。忘恩は利己主義から生まれます。そういう人間はいずれ自分も同じような仕打ちに会います。

それよりも、あなた方より遥かに良いことをし、遥かに価値あることをしながら冷たい仕打ちに会った人たちのことを思い起こすことです。例えばイエスをごらんなさい。あれほどの恩恵を地上にもたらしながら、イエスは身分の卑しいペテン師呼ばわりをされたのです。あなた方が同じ扱いをされても少しも驚くには当たりません。

この地上にあっては、良いことをしてあげたというその思いだけで満足し、その相手がどういう態度に出ようと意に介さないことです。忘恩の態度はむしろ自分の善性への志向の強さを試してくれているのです。それがこれから先に良い影響をもたらします。恩知らずは神がきちんと罰します。その度合いが大きいだけ罰も厳しいものとなります」
〈政略結婚〉


――愛情をまったく感じない二人が結婚させられるというのもまた不幸ではないでしょうか。一生涯に係わるものだけに、なおさら辛いと思いますが……。


「確かに辛いでしょう。が、その原因も大体において人間側にあります。まず第一に法律制度が間違っております。愛し合ってもいない二人が一緒の生活を送ることがまるで神の意図ででもあるかのように宣誓して、それで結婚が成立するとは何事ですか。次に、政略的に結婚を成立させようとする策謀家たちも罪です。二人の幸せよりも自分たちの面子(めんつ)を保ち野心を果たすことを第一に考えます。そうした間違った階級意識による不当行為は自然の摂理の裁きが待っております」


――でも、そうしたケースには大抵、罪のない犠牲者がいます。


「います。そういう人々にとっては大きな罪滅ぼしとなります。そして、策謀をめぐらした者たちは大きな責任を取らされます。そうした犠牲者に霊的真理の光が届けられれば、辛い人生における何よりの慰めとなることでしょう。しかし、そうした不幸の原因が取り除かれるには、誤った階級制度が消え失せることが先決です」


訳注――カルデックの時代はヨーロッパだけでなく日本でも、上流階級や支配者層では、女性は政略結婚の道具でしかなかった。その観点からすると、地上界もその後確かに進化していると言えそうである。
〈厭世観と自殺〉


――これといった理由もないのに厭世観を抱いている人がいますが、何が原因でしょうか。


「怠惰、信念の欠如、そして時に見られるのが贅を尽くした生活です。生得の才能を正しく活用して意義ある目的のために使用している人は、努力というものが少しも苦になりません。快適な気分の中で、あっという間に時が過ぎて行きます。そして人生の浮き沈みにも忍耐力と甘受の精神で切り抜けることができます。そういう人は、さらに実感のある永続的な至福の境涯が待ち受けていることを霊的に直観しています」


――人間には自分の生命を自分で断つ権利がありますか。


「ありません。それは神のみが所有する権利です。自らの意志で自殺する人間は、再生に際して神が定めた秩序を乱すことになります」


――自殺はすべて自らの意志で行っているのでしょうか。


「精神異常者は自分が何をしているのかを知りません」


――こういう絶望的な行為に追いやる霊は、その結果として生じることに責任を負わねばならないのでしょうか。


「大きな罰をこうむることになります。結果的には殺人罪と同じですから、同等の責任を負わねばなりません」


――家族に不名誉が及ぶことを避けるための自殺であれば許されますか。


「自殺は急場しのぎの方策であって、間違いは間違いです。が、本人としてはそれが最良の方策と考えての行為であれば、神はその意図を汲んでくださるでしょう。その場合の自殺は自ら科した罪滅ぼしであり、その動機によって罪の深さは和らげられます。が、過ちは過ちです」


――他人の生命を救うために、あるいはその人たちの為になると信じて、自らの命を断つ行為はいかがでしょうか。


「そういう動機に発するものであれば崇高なる行為と言えます。が、その種の自発的犠牲的行為は自殺ではありません。神の目から見て許せないのは無益な犠牲、そして軽はずみな見栄から出た行為です。犠牲的行為は、そこに一切の打算が無い時にのみ立派と言えます。どこかに利己心で染まったところがあれば、たとえ犠牲的であっても、その分だけ割り引きされます」


――このままではいずれ悲惨な死を迎えると覚悟した者が自らの手で死を早める行為は間違いでしょうか。


「神が定めた死期を待たずにそれを早める行為は、全て間違いです。それに、自分の生命の終末がいつ来るということが分かるのでしょうか。絶体絶命の最後の一瞬に予想もしなかった救いの手が差し延べられないとは、誰が断言できますか」


――それは分かるのですが、私がお聞きしているのは、死は絶対に免れないと覚悟した人が、僅かな時間だけ早く、自らの手で生命を断つケースです。


「そういうケースには運命を甘受する度胸と、神の意思への絶対服従の精神が欠如しています」


――そういうケースでの自殺はどういう結果になるのでしょうか。


「他の自殺と同じです。それが実行に移された時の状況を考慮に入れた上で、その誤った行為の深刻さの割合に応じた罪滅ぼしが科せられます」


――一般論として、自殺は霊にどのような影響を及ぼすのでしょうか。


「自殺がもたらす影響は一つ一つ異なります。そのわけは、それが原因となって生み出す結果は自殺という行為に導いた環境条件によって違ってくるからです。ただ一つだけ避け難い共通した反応として、期待はずれから生じる落胆が挙げられます。それ以外の懲罰は一人一人異なります。罪の浅い人は簡単な罪滅ぼしで済みますし、新たに再生して、前世つまり自殺によって切り上げた人生よりさらに過酷な人生に耐えねばならない人もいます」



2章 死後の喜びと悲しみ

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〈善悪の報い〉


――死の直後の心情はどんなものでしょうか。疑念でしょうか、恐怖心でしょうか、それとも希望でしょうか。


「懐疑的人間は疑念を抱き、罪深い人間は恐怖心を抱き、善性の強い人間は希望にあふれます」


――神は人間の一人一人に係わっているのでしょうか。宇宙の大霊ともなると人間のような小さな存在に直接係わるとは思えないのですが……


「神は自ら創造されたもの全てに係わっておられます。完全なる公正のためには小さ過ぎるものは一つもありません」


――我々人間の一人一人の言動の一つ一つに善悪の報いの裁可が下されるのでしょうか。


「神の摂理は人間の言動の全てにわたって働きます。そのことで勘違いしないでいただきたいのは、人間がその摂理の一つを犯すと神が、こいつは欲が深すぎるから懲らしめてやろうなどと言って裁くような図を想像してはいけないことです。神は欲望に一定の限度を設けています。もろもろの病気や災厄、あるいは死でさえもが、その限度を踏みはずした結果として自然に発生するのです。罰というのは全て、法則に違反したその結果です」


――完成された霊の幸福感はどういうものでしょうか。


「全てを知り得ること、憎しみも嫉妬心も怨みも野心も、その他、人間を不幸にしている悪感情が何一つないということです。互いに睦み合う情愛は至福の泉です。物的生活につきものの、欲しいものや苦痛、悩みなどが一切ありません。

その幸せの度合いは霊性の高さに比例しています。最高の幸せは(相対的な意味で)完全な純粋性を身につけた霊が味わいますが、その他の霊が幸せを感じていないわけではありません。悪いことばかり考えている低級霊から最高級の霊の界層までには、霊性と幸せにおいて無数の格差があります。それぞれに、それなりの徳性に応じた楽しみがあるということです。

霊性がある一定の高さにまで向上すると、その先、つまり自分の境涯よりも高い界層で味わえる幸福感がいかなるものであるかが予感できるようになります。そしてその幸福感にあこがれて修養に励みます。嫉妬心などとは違います。やむにやまれぬ憧憬です」


――キリスト教では浄化しきった霊は神の御胸の中に集められて、そこで神をたたえる歌を永遠にうたい続けるというのですが、これはどう解釈したらよいでしょうか。


「これは神の完全性について理解した高級霊がそれを寓話的に表現したもので、これをその言葉どおりに受け取ってはいけません。自然界のもの全て――砂の一粒でさえもが――神の威力と叡知と善性を高らかに謳(うた)っていると言えます。これを高級霊が神を拝みつつ永遠に讃美歌をうたい続けるかに想像するのは間違いです。そんな退屈で愚かで無駄な話はありません。

それほどの界層の霊になると、もはや地上生活のような艱難辛苦はありません。いわゆる解脱の境地に入っているわけで、それ自体が喜びです。また、すでに述べたように、彼らには何でも知ることができ、物事の因果関係が理解できますから、その知識を駆使して、進化の途上にある他の霊を援助します。それが又、喜びなのです」


――下層界の低級霊の苦難はどのようなものでしょうか。


「原因しだいで、こうむる苦難も異なります。そして、高級霊の喜びがその霊性の高さに比例して大きくなるように、低級霊が感じる苦痛の程度も、各霊の霊性によって異なります。

大ざっぱに言えば、到達したい幸せの境地が見えていながら行かせてもらえないこと、その幸せを味わうことのできる霊性の高さに対する羨望(せんぼう)、幸せを妨げている自分のそれまでの所業に対する後悔の念、嫉妬、憤怒、絶望、そして言うに言われぬ良心の呵責、等々です。要するに霊的な幸せや喜びを求めながらそれが叶えられないことから生じる苦悩です」


――その中でも最大のものは何でしょうか。


「罪悪の中には、それが生み出す苦痛が計り知れないものがあります。本人自身も叙述できないでしょう。が、間違いなく言えることは、その苦痛の状態がいつまでも変わらず、もしかしたら永遠に続くのではないかという恐怖心が必ずあります」


――“永遠の火刑”のドグマはどこから生まれたのでしょうか。


「よくあるように、これも言葉による比喩的表現にすぎません」


――しかし、このドグマによる恐怖が良い結果をもたらすこともあるのではないでしょうか。


「周囲を見回してごらんなさい。このドグマで悪事を思い止まった人がいるでしょうか。たとえ幼少時から教え込まれた者でも効き目はないはずです。理性に反した教えは、その影響に永続性がなく、健康的でもありません」


――邪霊にも善霊の幸せがどのようなものかが分かるのでしょうか。


「分かります。そこにこそ彼らの苦悶の源があるのです。自分の過ちによってその幸せが味わえないという因果関係が分かっているからです。そこでまた再生を求めます。新たな人生で少しでも罪滅ぼしをすれば、それだけ幸せな境涯に近づけると思うからです。だからこそ苦難の人生を選択するのです。自分が犯した悪、あるいは自分が大本になって生じた一連の悪、また、しようと思えばできたはずなのに実行しなかった善、さらには、そのために生じた悪、そうしたことについても一つ一つ償いをしなくてはなりません。

霊界へ戻ってさすらいの状態にある時は、ちょうど霧が晴れて視界が見晴らせるようになるごとくに現在の自分の境涯と上級界層の幸せの境涯との間に横たわる罪の障害が、ありありと分かるのです。だからこそ苦悶が強まるのです。自分が咎めを受けるべき範囲が明確に理解できるからです。もはやそこには幻想は存在しません。事実を有るがままに見せられます」


――高級な善霊にとっては、そうした苦悶する霊の存在は幸福感を殺(そ)がれる要因となるのではないでしょうか。


「その苦悶にはそれなりの目的があることを理解していますから、幸福感が殺がれることはありません。むしろその苦しむ霊たちを救済することに心を砕きます。それが高級霊の仕事であり、成功すればそれが新たな喜びとなります」


――苦しんでいる霊が何の縁もない人であればそれも理解できますが、地上時代に何らかの縁があって情的なつながりがある場合は、自分のことのように辛いのではないでしょうか。


「今申したのと同じです。地上時代と違って今はまったく別の観点から見ていて、その苦悶に打ち勝てばそれが進化を促すことになることを理解していますから、自分の苦しみとはなりません。むしろ高級霊が残念に思うのは、彼らから見ればほんの一時的でしかないその苦しみよりも、その苦しみを耐え抜く不抜の精神が欠如している場合です」


――霊の世界では心に思ったことや行為の全てが他に知れるとなると、危害を及ぼした相手は常に自分の目の前にいることになるのでしょうか。


「常識で考えればそれ以外の回答は有り得ないことくらい、お分かりになるはずです」


――それは罪を犯した者への懲罰でしょうか。


「そうです。あなた方が想像する以上に重い罰です。ですが、それも霊界ないしは地上界での生活の中で償いをして行くうちに消えて行くことがあります」


――罪の浄化のために体験しなければならない試練があらかじめ分かることによって、もし間違えば幸福感が殺がれるとの不安が魂に苦痛を覚えさせるでしょうか。


「今なお悪の波動から抜け切れない霊についてはそういうことが言えます。が、ある一定レベル以上に霊性が進化した者は、試練を苦痛とは受け止めません」
〈悔い改めと罪滅ぼし〉


――地球よりも垢抜けのした天体への再生は前世での努力の報いでしょうか。


「霊性が純化されたその結果です。霊は純粋性が高まるにつれて、より進化した天体へ再生するようになり、ついには物質性から完全に解脱し、穢れも清められて、神と一体の至福の境地へ至ります」


――人生をまったく平穏無事の中で過ごす人がいます。あくせく働くこともなく、何の心配事もありません。そういう人生は、その人が前世において、何一つ償わねばならないことをしていないことの証拠でしょうか。


「あなたは、そういう人を何人もご存じだとおっしゃるのですか。もしもそのお積もりであるとしたら、その判断は間違いです。表向きそう見えるというだけのことです。もちろん、そういう人生を選択したというケースも考えられないことはありません。が、その場合でも、霊界へ戻ればそうした人生が何の役にも立たなかったこと、無駄な時間を無為に過ごしたことに気づき、後悔します。

霊は活発な活動の中でこそ貴重な知識を収得し霊性が向上するのであって、のんべんだらりとした人生を送っていては、進歩は得られません。このことによく留意してください。そういう人は、地上生活に譬えれば、仕事に出かけながら途中で道草を食ったり昼寝をしたりして、何もしないで帰ってくるようなものです。

そういう風に自らの意志で送った無益な人生には大きな償いをさせられること、そして又、その無駄という罪はその後の幸せに致命的な障害となることを知ってください。霊的な幸せの度合いは人のための善行ときちんと比例し、不幸の度合いは悪行の度合いと、不幸な目に会わせた人の数と、きちんと比例します。神の天秤には一分(ぶ)の狂いもありません」


――悔い改めは地上生活中に行われるのでしょうか、それとも霊的状態に戻ってからでしょうか。


「本当の悔い改めは霊的状態において行われます。しかし、善悪の判断が明確にできるレベルに達した人の場合は地上生活中でも有り得ます」


――霊界での悔い改めの結果どういうことになるのでしょうか。


「新たな物的生活(再生)への願望です。霊的に浄化されたいと思うようになるのです。霊には幸せを奪う自分の欠点が正直に意識されます。そこでそれを改めるような人生を求めることになります」


――地上生活中の悔い改めはどういう結果をもたらしますか。


「欠点を改めるだけの十分な時間があれば地上生活中でも霊性が向上します。良心の呵責を覚え、自分の欠点を十分に認識した時は、その分だけ霊性が向上しているものです」


――地上時代には絶対に自分の非を認めなかったひねくれ者でも、霊界へ戻れば認めるものでしょうか。


「認めます。必ず認めるようになりますし、次第にその罪の大きさに気づきます。地上時代の自分の過ちの全てが分かってきますし、自分が原因で広がった悪弊も分かってくるからです。もっとも、すぐに悔い改めるとは限りません。一方でその罪悪への罰に苦しみつつも、強情を張って自分の間違いを認めようとしないことがあります。しかし遅かれ早かれ道を間違えていることに気づき、やがて改悛の情が湧いてきます。そこから高級霊の出番となります」


訳注――高等な霊界通信に必ず出てくるのがこの“高級霊の出番”である。高級霊団は地上で迷っている者や死後いわゆる地縛霊となってしまった霊の思念の流れを一つ一つ把握していて、たとえ一瞬の間でも改悛の情や善性への憧れをのぞかせたり、真理の一筋の光でも見出し始めると、その一瞬を狙って働きかけ、その思念を持続させ増幅させようとする。

もちろんその一方には悪への道へどんどん深入りさせようとする邪悪集団の働きかけもある。一人の人間が殺意を抱くと邪霊集団が大挙して集まってくるという。ヒステリックな言動はもとより、その反対に、どこかに良心の呵責を感じながらも身勝手な理屈で打ち消しつつ密かに抱いている不健全な、あるいは非人道的な思いも、邪霊の格好の餌食である。
〈天国・地獄・煉獄〉


――宇宙には霊の喜びや悲しみに応じてこしらえられた一定の場所というのがあるのでしょうか。


「その問いについてはすでに答えてあります。霊の喜びや悲しみは、その霊性の完成度に応じて、本来そなわっているものが開発されて行くのであって、外部から与えられるものではありません。各自がその内部に幸不幸の素因を秘めているのです。霊はどこにでも存在するのですから、幸福な霊はここ、不幸な霊はあそこ、といった区画された地域があるわけではありません。物質界に誕生する霊に関して言えば、生まれ出る天体の霊的進化の度合いに応じて、ある程度まで幸不幸の度合いが決まるということは言えるでしょう」


――と言うことは“天国”とか“地獄”は人間の想像したもので、実際には存在しないのですね?


「あれは象徴的に表現したまでです。霊は幸不幸に関係なく至るところに存在しています。ただし、これもすでに述べたことですが、霊性の程度がほぼ同じ者が親和力の作用で集まる傾向があります。しかし、完全性を身につけた霊はどこででも集結できます」


――“煉獄”というのはどう理解したらよいのでしょうか。


「身体的ならびに精神的苦痛のことです。罪が贖(あがな)われていく期間と見ることもできます。煉獄を体験させられるのは必ずといってよいほど地上界です。罪の償いをさせられるのです」


――“天国”はどういう意味に解釈すべきでしょうか。


「ギリシャ神話にあるような、善霊が何の心配事もなく、ただ楽しく愉快に遊び戯れているというエリュシオンのような場を想像してはいけません。そんな他愛もないものではありません。天国とは宇宙そのものです。惑星の全てであり、恒星の全てであり、天体の全てです。その大宇宙の中にあって、物的束縛から完全に解放され、従って霊性の低さから生じる苦悶からも解脱した高級霊が、内在する霊的属性をフルに発揮して活動しているのです」


――通信霊の中には第三界とか第四界といった呼び方をする者がいますが、あれはどういう意味でしょうか。


「人間側がとかく階段状の層のようなものを想像して、今何階に住んでいるのですかなどと聞くものですから、その発想に合わせて適当に答えているまでです。天界は人間の住居のように三階・四階と重なっているわけではありません。霊にとっては霊性の浄化の程度の差を意識するだけで、それは即ち幸せ度の象徴でもあります。

地獄についても同じことが言えます。地獄というものがあるかと尋ねた時、その霊がたまたま非常に苦しい状態にあれば、たぶん“ある”と答えるでしょう。その霊にとっては地獄とは苦悶のことです。火あぶりにされる地獄のかまどのことではないことくらい本人も知っています。ギリシャ神話しか知らない霊であれば“タルタロス”にいると答えるでしょう」(地獄の下にある底なし淵のこと)
〈永遠の刑罰〉


――この現世においても過ちの贖いは可能でしょうか。


「可能です。それなりの償いをすれば可能です。ただ、勘違いしないでいただきたいのは、罪滅ぼしのつもりで通りいっぺんの苦行を体験したり遺産を寄付する旨の遺言を書いたりしたところで、何の償いにもならないということです。そんな子供騙しの悔い改めや安直な懴悔の行では、神はお赦しになりません。この程度のことをしておけば済むのではないかという、結局は自己打算の考えがそこにあります。

悪行は善行によって償うしかありません。懴悔の行も自尊心と俗世的欲望とを完全に無きものにしてしまわないかぎり、無意味です。神の前にいくらへり下ってみたところで、他人へ及ぼした悪影響の全てを善行によって消滅させないかぎり、何の意味もありません」


――死を目前にして己の非を悟りながら、その償いをする余裕のない人はどうなるのでしょうか。


「悔い改めたという事実は、更生を速める要素にはなるでしょう。が、その程度で赦されるものでないことは今述べた通りです。それよりも将来があるではありませんか。神はいかに罪深い霊にも将来への扉を閉ざすことはありません」


――永遠に罰せられ続ける霊というのが実際にいるのでしょうか。


「永遠に邪悪性を改めなければ永遠に罰せられるのは理の当然です。つまり永遠に悔い改めなければ、あるいは永遠に罪滅ぼしをしなければ、永遠に苦しむことになります。しかし神は、霊が永遠に悪の餌食であり続けるようには創造しておりません。最初は無垢と無知の状態で創造し、自由意志が芽生えてからは、その判断の違いによって長短の差はありますが、霊的本性そのものの働きで進化するようになっているのです。

人間の子供と同じです。早熟な子と晩生(おくて)の子とがいるように、霊にも意欲しだいで進化の速い霊とゆっくりな霊とがいますが、いずれは抑え難い向上心に突き上げられて、低劣な状態から脱し、そして幸せを味わいたいという願望を抱き始めます。従って苦しむ期間を規制する摂理は、本人の努力という自由意志の働きと密接不離の関係にあるという点において、叡知と愛に満たされていると言えます。自由意志だけは絶対に奪われることはありません。が、その使用を誤った時は、その過ちが生み出す結果については自分が責任を取らねばならないということです」


――その説から言えば“永遠の火あぶり”の刑などというのは有り得ないことになるわけですね?


訳注――これから紹介する四人の歴史的大人物による回答は、その内容と語調から察するに、“永遠の刑罰”というキリスト教のドグマについてカルデックが執拗に質問を繰り返し、その中から“これは本物”と確信したものを選び出したようである。これほどの大人物がこれぽっちの文章を書きに(自動書記と察せられる)やってくるわけはないから、原物はずいぶんの量にのぼったのではなかろうか。なお原書では最後に署名が記されているが、ここでは、便宜上、文頭に置いた。


アウグスティヌス「そなたの常識、そなたの理性に照らして、果たして公正なる神がほんの瞬間の迷いから犯した罪に永遠の刑罰を与えるか否かを考えてみられることです。人間の一生など、たとえ数百年もの長さに延ばしてみたところで、永遠に比べれば一瞬の間ではないですか。永遠! そなたにはこの永遠という言葉の意味がお分かりでない。わずかなしくじりをして、終わりもなく希望もないまま苦悶と拷問にさいなまれ続ける! こんな説にそなたの分別心が直観的に反発しませんか。太古の人間が宇宙の主宰神を恐ろしい、嫉妬深い、復讐心に燃えた人格神のように想像したのは容易に理解できます。自然現象について科学的知識がありませんでしたから、天変地異を神の激情の現れと考えたのです。

しかし、イエスの説いた神は違います。愛と慈悲と憐憫(れんびん)と寛容を最高の徳として位置づけ、自ら創造し給うた我々にもそれをそなえることを義務づけておられる。その神が一方において無限の愛をそなえながら、他方において無限の復讐を続けるというのでは矛盾していませんか。

そなたは神の義は完ぺきであり人類の限られた理解力を超えるとおっしゃる。しかし、義は優しさを排除するものではありません。もしも神が自らの創造物である人類の大多数を終わりなき恐怖の刑に処するとしたら、神には優しさが欠けていることになります。もしも神自らが完ぺきな義の模範を示し得ないとしたら、そのような神には人類に義を強要する資格はありません。

神はそのような理不尽な要求はしておられません。罰の期間をその違反者による償いの努力しだいとし、善悪いずれの行いについても、各自その為せるわざに相応しい報いを割り当てる――これこそ義と優しさの極致ではないでしょうか」(アウグスティヌスについては十二章に前出)


ラメネイ「あなた方の力で可能なかぎりの手段を尽くして、この永遠の刑罰のドグマと闘い、完全に無きものにするために、これより本腰を入れていただきたい。この概念は神の義と寛容に対する冒涜であり、知性が芽生えて以来この方、人類を侵し続けてきた懐疑主義と唯物主義と宗教的無関心主義の元凶だからです。

知性がいささかなりとも啓発されれば、そのような概念の途方もない不公正に直ちに気づきます。理性は反発し、その反発を覚える刑罰と、そのような理不尽な罰を科する神とのつながりに矛盾を感じないことはまず考えられません。その理性的反乱が無数の精神的病弊を生み出し、今まさに我々がスピリチュアリズムという処方箋を用意して馳せ参じたのです。

これまでのキリスト教の歴史を見ても、この教義の支持者たちは積極的な擁護説を差し控えています。公会議においても、また歴代の教父たちも、この余りに重苦しい問題に結論を出し得ずに終わっております。その分だけ、そなたたちにとってこの説を撲滅する仕事は容易であると言えるでしょう。

よしんばキリストが福音書や寓話の直訳的解釈にある通りに“消すことのできない火”の刑罰をもって罪人(つみびと)を脅したとしても、その言葉の中には“永遠にその火の中に置かれる”という意味はみじんもありません」


訳注――フェリシテ・ド・ラメネイ(一七八二~一八五四)はナポレオンの治政下にあって宗教学者として、政治にも問題を投げかける著書を著し、一時はその進歩的すぎる思想が危険視されて投獄されたこともある。が、獄中でも執筆活動を止めなかった。晩年は貧困と病に苦しみながらも、ダンテの『神曲』をフランス語に翻訳した。その宗教的ならびに政治的影響は二十世紀にも及んだと言われている。


プラトン「愚かきわまる舌戦! 児戯に類する言論戦! たかが言葉の解釈の問題にどれほどの血が流されてきたことでしょう! もう十分です。この無益な言葉をこそ火刑に処して然るべきです。

人類は“永遠の刑”とか“永遠に燃えさかる炎”という言葉について論議を重ねながら、その“永遠”という用語を古代の人間は別の意味で用いていたことをご存じないのでしょうか。神学者にその教義の出所をよく調べさせてみるとよろしい。ギリシャ民族やラテン系民族、そして現代人が“終わりなき、かつ免れ難き罰”と訳したものは、ヘブライ語の原典においては、そういう意味で用いられていないことが分かるはずです。

“罰の永遠性”とは“悪の永遠性”の意味です。そうなのです。人間界に悪が存在するかぎりは罰も存在し続けるという意味です。聖典の言葉もそうした相対的な意味に解釈すべきなのです。従って罰の永遠性も絶対的なものではなく相対的なものです。いつの日か人類の全てが悔い改めて無垢の衣装を身にまとう日が来れば、もはや嘆き悲しむことも泣き叫ぶことも、あるいは無念の歯ぎしりをすることも無くなるでしょう。

確かに人間の理性は程度が知れています。が、神からの賜(たまもの)であることには違いありません。心さえ清らかであれば、その理性の力は刑罰の永遠性を文字通りに解釈するような愚かなことはいたしません。もしも刑罰が永遠であることを認めれば悪もまた永遠の存在であることを認めなくてはならなくなります。しかし、永遠なるものは神のみです。その永遠な神が永遠なる悪を創造したとしたら、神的属性の中でも最も尊厳高きもの、すなわち絶対的支配力をもぎ取られることになります。なぜなら、神が創造したものを破滅に追いやる力がもし創造されたとしたら、その神には絶対的支配力が無かったことになるからです。

人類に申し上げたい! もうこれ以上、死後にまでそのような体罰があるのだろうかと、あたかも地球のはらわたを覗き込むような愚は止めにしてもらいたい! 良心の呵責に密かに涙を流すのはよろしい。が、希望まで棄ててはいけません。犯した罪は潔(いさぎよ)く償うがよろしい。が同時に、絶対的な愛と力、そして本質において善そのものである神の概念に慰めを見出すことも忘れないでいただきたい」


訳注――言わずと知れた紀元前五世紀~四世紀のギリシャ人哲学者で、人類の知性の最高を極めたと評されている。著書としては『ソクラテスの弁明』などの『対話篇』が有名であるが、その中の『断片』の中に伝説上の大陸アトランティスの話が出ていて、本来の哲学者とは別の面で話題を生み、それは今日でも関心の的となっている。ジブラルタル海峡の少し西のあたりに高度な文明をもった民族が住んでいたが、それが地殻変動で一夜にして海中に没したという。

しかしエンサイクロペディア・アメリカーナの執筆者によると、地理学者の調査で確かにそのあたりの大陸は大きくアメリカ大陸方向へ延びていたことは事実であるが、それが埋没したのは有史以前のことと推定されるという。

どうでもよさそうな伝説を紹介したのは、世界中のチャネラーが好き勝手なことを言い、トランス霊媒を通じて語る霊の中に自分はアトランティス大陸の住民だったなどと言う者が後を絶たないからで、全ては低級霊の仕業であるから相手にしないことである。


パウロ「宇宙の至高の存在すなわち神と一体となることこそ人間生活の目的です。その目的達成のためには次の三つの要素が必要です。知識と愛と正義です。当然これに対立するものにも三つあります。無知と憎しみと不正です。

あなた方は神の厳しさを誇張しすぎることによって却って神の概念を傷つけております。本来の神にあるまじきお情け、特別の寵愛、理不尽な懲罰、正義のこじつけが通用するかに思わせる結果になっております。中世のあの拷問と断罪、そして火あぶりの刑という、身の毛もよだつ所業に見られるように、“赦し難き罪”の解釈を誤って、心まで悪魔となっています。そんなことではキリスト教の指導者は、その無差別の残虐的懲罰の原則が人間社会の法律から完全に排除された暁には、その懲罰が神の政庁の原理であるとは、もはや信じさせることはできなくなってしまいます。

そこで神とイエス・キリストの御名のもとでの同志諸君に告げたいのです。選ぶ道は次の二つのうち一つです。これまでの古いドグマをいじくり回すような小手先のことをせずに、いっそのこと全てを廃棄してしまうか、それとも今我々が携わっている(スピリチュアリズムの)活動によってイエスの教えに全く新しい生命を吹き込むか、そのいずれかです。

例えば燃えさかる炎と煮えたぎる大釜の地獄は、鉄器時代だったら信じる者もいたかも知れません。が、現代では他愛もない空想物語でしかなく、せいぜい幼児の躾にしか役に立ちません。その幼児も少し成長すればすぐに怖がらなくなります。そのような根拠のない恐怖を説き続けることは、社会秩序の破壊の元凶である“不信”のタネを蒔くことになります。そしてそれに代わる権威ある処罰の規定もないまま、社会の基盤が崩れ瓦解してしまうのを見るのが、私は怖いのです。

生きた信念に燃える熱烈な新時代の先駆者が一致団結して、今や悪評の絶えない古い寓話の維持に汲々となることは止めて、今の時代の知性と風潮に調和した、真の意味での罰の概念を蘇らせてほしいのです。

ところで“罪を犯せる者”とは一体どういう人間のことでしょう? 魂の間違った働きによって人の道から外れ、創造者たる神の意図から逸脱した者のことです。その神の意図とは、人類の模範として地上に送られたイエス・キリストにおいて具現されている善なるもの・美なるものの調和です。

では“懲罰”とは一体何なのでしょう? 今述べた間違った魂の働きから派生する自然な結果のことです。具体的に言えば、正道から外れたことに自らが不快感を抱くに至らせるために必要な苦痛、つまりその逸脱によって生じる苦の体験のことです。言うなれば家畜を追い立てる突き棒のようなもので、時おり突きさされて、その痛みに耐えかねて放浪を切り上げて正道に帰る決心をさせるためのものです。罰の目的はただ一つ、リハビリテーションです。その意味から言って、永遠の刑罰の概念は存在そのものの理由を奪うことになるのです。

どうか善と悪の永続性の対比の議論は、いいかげん止めにしていただきたい。対比することで、そこに懲罰の基準というものをこしらえてしまいます。が、そういうものには何の根拠もありません。そうではなく、物質界での生活をくり返すことによって欠陥が徐々に消え失せ、それだけ罰も受けなくなるという因果関係をしっかりと理解してください。そうすれば公正と慈悲との調和による創造者と創造物との一体化という教義に生命を賦与することになるのです」


訳注――改めて紹介するまでもなくイエスの弟子の一人で、イエスの死後その教えを各地に伝道してまわった人物として知られる。聖書の中にも「ローマ人への手紙」「コリント人への手紙」「テサロニケ人への手紙」等々、十指に余るパウロの文書が見える。それが果たして本物か否かの問題は別として、カルデックがこの署名入りの一文を掲載したということは、その内容からあのパウロに間違いないとの確信を得たからであろう。“聖パウロ”と呼ばれることが多いが、署名は“弟子パウロ”とある。



訳者あとがき


「霊媒の書」のあとがきでは翻訳に当たっての私の心構えのようなものを端的に述べさせていただいたが、その中の一要素として原著者――カルデックは編者で、実質的には聖ルイを中心とする霊団――の姿勢を反映させることも重要な役割であるとの認識から、この「霊の書」では特にその点でいろいろと工夫を凝らしたつもりである。

例えばモーゼスの『霊訓』では霊団の統括霊であるインペレーターの威厳に満ちた、それでいてモーゼスを叱咤激励する時の、峻厳の中にも限りない愛を秘めた言葉に感極まり、訳者としての立場を忘れて滂沱(ぼうだ)の涙に暮れることがしばしばだった。勢い、訳文も壮重なものとなった。

シルバーバーチはそれとはまた違った、曰く言い難い、現世を達観しながらも現実にしっかりと足を置いた爽快な叡知の泉に魂が潤(うるお)される思いがして、抑え難い感謝の情に涙を誘発されることが、これ又、しばしばだった。それは今でも変わらない。何気なく原書や訳本を開いて読み進んでいくうちに、どっと涙が溢れる。訳本の場合は自分の訳であることを忘れている。これは一体どこから出るのであろう?

さて本書を通してお読みくださった方は、聖ルイを中心とする霊団の姿勢が右の二つの霊団とは違うことにお気づきであろう。その特徴を端的に示している箇所を一、二挙げると、「霊媒の書」では八章の中で「口はばったいようですが、こんな分かり切ったことを延々としつこく聞き出そうとするのは、いい加減お止めなさい」とクギを刺すところがある。「口はばったいようですが」は口調を和らげるために私が書き加えたのであって、原文はいきなり「止めなさい」である。インペレーターがモーゼスを叱咤する時の厳しさとは少し違うのである。

またこの「霊の書」では、死の過程の中での霊の心境を聞かれて、島流しの刑期をようやく終えて、これで自由の身になれると思ってワクワクしている、と言った表現をしているところがある。地球を流刑の地に擬(なぞら)えているのである。確かに地上界が太陽系の中でも下から数えた方が早いほど低級な惑星であることは、高等な霊界通信の一致するところであるが、流刑の島に擬えたのは私も初めてお目にかかった。

翻訳を進めながら私は、こうした冷徹ともいうべき態度、日本流の言い方をすれば“一刀両断に切って捨てる”ような酷しさは一体どこからくるのだろうかと考えた。

霊団はアウグスティヌスやソクラテス、プラトン、ヨハネ、パウロなどの古代霊を除いて大半は中世から近代に活躍したフランス人で、統括霊が“聖(セント)ルイ”と称されたルイ王朝の第九世である。

ルイ九世は歴代の王の中でも“理想像”とされるほど傑出した人物だったようで、学問と芸術の振興にも力を入れている。十三世紀の人物であるが、聖アウグスティヌスやソクラテスなどの大人物を従えた霊団を指揮するほどの霊格をそなえていたのであろう。

地上の交霊会の司会者として最終的にこの二冊の大著を編纂することになったカルデックも、出生前から霊団との打ち合わせができていたはずで、その使命は十分に果たしたと言えるのではなかろうか。不遇だった時代に多くの教育書や道徳書、とくに本書にも出ているフェヌロンの著作をドイツ語に翻訳していることも、霊団側の配慮であろう。

問題は、モーゼスの場合と同じく、キリスト教神学を基盤とした人生観・宇宙観が根強かったことである。が、近代教育の父と言われるペスタロッチのもとで学び、その自由闊達な総合教育の理念に馴染んでいたのも霊団側の準備だったと私は見ているが、その彼にとってもスピリチュアリズム思想との出会いは驚天動地の革命的事件だったことであろう。

霊界通信の可能性に得心が行った後、キリスト教のドクマを中心に質疑応答が展開していったのは西洋人として当然のことで、本書にもそれが随所に見られるが、彼の質問を“しつこい”ものにしたもう一つの要素として、各地で催されている交霊会へ出席してみて、そのいい加減さを知ったことである。勢い自分が司会をする交霊会でも警戒心を強め、徹頭徹尾“疑ってかかる”態度に出るようになった。

霊的なことに関してはまず疑ってかかるという態度は大切であるが、それも度が過ぎると幼稚に響くようになる。私も“しつこいなぁ”と思い、内容的に重要性がないとみたものは削除した。

これほど高度な内容が盛り込まれていながら他の霊訓と少し感じが違うのは、そういう経緯から出ていると私は見ている。

さて二冊の著書に盛り込まれた通信に直接携わった霊は何人だったかというのも私の関心事の一つだった。出てきた氏名だけを数えれば二十四名であるが、本文の問答の中で署名が付いているのは聖ルイ、エラステス、フェヌロン、聖アウグスティヌス、プラトン、パウロ、ラメネイの七名だけである。他にも、いかにもフランスらしい氏名、例えばジャンヌ・ダルクやルソー、ナポレオンといったお馴染みの名が目白押しである。イエス・キリストまで登場している。

しかしカルデックはそれらを巻末に集めて批評を加え、適確に裁いている。その批評の中には日本の心霊関係者も反省材料とすべきものが少なくないので、二、三紹介しておきたい。

例えば“ナポレオン”からの通信を紹介したあとカルデックが次のようなコメントをしている。

「この世に謹厳で実直な人間がいるとしたら生前のナポレオンこそその一人だった。その信念、その簡潔な文章は知る人ぞ知るところであるが、もしもこの通信がそのナポレオンからのものだとしたら、どうやらナポレオンは死後、不思議なほど堕落してしまったようだ。これは多分、ナポレオンの騎兵隊の一人がナポレオンを気取って書いたものであろう」

次に“イエス”と署名のある通信を二つ紹介してから――「この二つの通信文で言っていることは、これといって読んで毒になるものはないが、あのイエスがこんなぎこちない、気取った、大ゲサで滑稽な文章しか書けないのだろうか。(中略)一連の通信文には共通したニュアンスがあるところから判断して、これらは全部一人の低級霊が書いたものであろう」

“ジャック・ボシュエ”というカトリックの大司教だった人物の署名のある通信文のあと――「このメッセージにはケチのつけようがない。それどころか、深遠な哲学的思想、そして透徹した助言も盛られていて、普通の者はあのボシュエからのものに相違ないと信じるであろう。(中略)が、聖ルイに尋ねたところ、内容は確かに申し分ないが、ボシュエのものと思ってはいけない。書いた霊はある程度ボシュエのインスピレーションを受けていたかも知れないが、“ボシュエ”の署名のあとに付してある“アルフレッド・ド・マリナック”という人物が書いたものである、という返答だった。そこでその霊を呼び出して質してみた。

“いかなる了見でこんなごまかしをなさったのですか”

“いつか人間の注目を集めるような通信文を書いてみたいと思っていたんです。私の文章力は弱いので、でかい名前を使ったまでです”

“でも、すぐにニセモノということがバレることが見通せなかったのですか”

“どういうことになるか誰にも分かったもんじゃありませんよ。あなただって担(かつ)がれたかも知れないじゃないですか。見る目のない連中はボシュエのものと信じたでしょうよ”

確かに、有名人の署名があるものだとすぐに本物と信じたがるところに、低級霊をつけ上がらせる原因がある。そうした低級霊の策謀を挫折させる道は洞察力を働かせる以外にはないが、そのためには豊かな経験と学習を重ねるしかない。交霊会を催す前にしっかりと勉強してほしいと我々が忠告するのはそのためである。熱心な研究家が煙に巻かれたり当惑するような体験を避ける道は、こちらがしっかりと勉強するしかないのである」

最後に言及しておかねばならない問題として、カルデック霊団は心霊治療ないし霊的治療に関しては論じていないことが挙げられる。私見では、スピリチュアリズムのために結成された幾つかの霊団にはそれぞれに役割分担があり、その背景には時代の進展に合わせた配剤があるはずである。

霊的治療の重要性を前面に押し出したのはシルバーバーチで、時代がハリー・エドワーズを筆頭とする数多くの有能なスピリチュアル・ヒーラーが輩出した時代と重なったのも偶然ではないであろう。

聖ルイの霊団には主として倫理・道徳に関する霊的原理を説くという役割が割り当てられていたのであろう。第三部は本書の圧巻で、これほど綿密に、しかも理路整然と摂理の働きを説き明かしてくれたものは他に類を見ない。

熟読玩味の上、日常生活の指針としていただければ有り難いと思っている。

平成八年十月

近藤千雄

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva

近藤千雄訳 




十一章 シルバーバーチの祈り 


(シルバーバーチの祈りを載せずに霊言集を閉じるわけにはいかない。いつの交霊会も必ず開会の祈り Invocation インボケーションで始まり感謝の祈り Benediction ベネデクションで閉会となる。その内容はいつも同じ霊的真理を述べるだけであるが、その表現に一つ一つ味わいがある。これから紹介するのはその中でも特に平凡に真理を語るだけの祈りの典型である )


 〇インボケーション

 これより霊的世界に属する摂理の一端を啓示させていただくに当たり、その成功を宇宙の大霊にお祈りいたします。

 大霊について、また大霊と宇宙間の全生命現象及びそこに住まう大霊の子等とのつながりについて、より明確な理解を得さしめることができますよう、お祈りいたします。

 幾世紀もの永きにわたって大霊はあまりにも誤解され、小さく見くびられ、制約されてまいりました。そこで私どもは完全なる法則の働きとしての大霊の真の姿を啓示せんとしているところでございます。

 大霊はすべての生命現象の背後に存在するものでございます。宇宙間に存在するものはすべて大霊の活力と栄養を得ているからこそ存在できているのでございます。

 進化のあらゆる段階にある創造物がその摂理に絶対的に従っております。雄大なるものも慎ましきものも、強きものも弱きものも、小鳥も花も、木も風も、海も山も、丘も谷も、晴天の日も雨の日も、嵐も稲妻も、およそ大霊の表現でないものは無いのでございます。

 私どもはすべてが大霊の霊的イメージに似せて創造されていること、その存在を通して大霊の神性が表現されていること、動き呼吸し生きていられるのは大霊が内部に宿っているからであり、また大霊の内部に存在しているからであることを啓示せんといたしております。

 その親と子の関係に割って入れる者は誰一人いません。なぜなら、無限なるその貯蔵庫に納められている全インスピレーション、全真理、全叡智、全摂理、全知識は、子等が向上心と謙虚さと奉仕的精神を持ってその道具となることを望みさえすれば、誰にでも手にすることができるものだからです。

 また私どもは人間の魂の中に例外なく潜在している偉大さ、誤解によって閉じ込められ、使用されることを待ち望んでいる強大な力、日常生活の中で身体を通して勢いよく顕現して霊的高揚を覚えさせる力をお見せしたく思っております。

すべての子等が充実した生活、美にあふれた生活、地上に生を受けた目的を得心した生活を送り、望みさえすれば得られる地上ならではの豊かさと愉しさと利点を手にして欲しく思うのでございます。

 要するに私どもは大霊を子等に近づけ、また子等を大霊に近づけ、立ちはだかる障害を克服し制約と限界を無くして、子等が大霊の存在を知り仕事の中でその御心を顕現して行けるようにしてあげることを目的としているのでございます。
 ここに、ひたすらに人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。


 〇ベネディクション

 私は、たとえ声は聞こえなくても、たとえ姿は見えず手に触れることはできなくても、私たちが常にお側にいることを皆さんに知っていただきたいと思います。

 愛するが故に私どもは皆さんの周りに、またすぐお側に待機しており、その愛が、皆さんにそして皆さんを通して愛を必要とする人々に手を差し伸べることを可能にしてくれるのです。

 か弱い人たち、元気を失くした人たち、路傍に倒れている人たち、社会の落伍者たち、いずこへ向かうべきかを知らぬまま人生に疲れ果てている人たち、もはや俗世の宗教に安らぎを見出すことができず、しかもなお真実を求めている人たち、魂は自由を求めつつも教義とドグマと、対立する宗派の教えによってがんじがらめにされている人たち──こうした人たちに愛の手を差しのべることができるのでございます。

 私どもの教える真理は永遠にして無限なる大霊の真理です。一人のものではなく、すべての人に分け与えられるべきものです。全人類をその温かき抱擁の中に収めてしまうのです。

 願わくば皆さん方の直ぐ身のまわりに存在する強大な力、休みなく地上へ注がれている大いなる愛、皆さんを通して顕現することを求めているインスピレーション、啓示されることを待ちわびている真理、地上を啓発せんとしている叡智の存在に気づかれんことを。

 また願わくば人のために役立つ仕事を通してみずからを強大なる霊力に近づけ、その莫大なエネルギー、万物の背後に控える大霊と一体となり、その摂理に順応し、その知識を豊かに体得することによって、大霊の道具として、子等のために役立たれんことを。

  神の祝福のあらんことを。

シルバーバーチの霊訓 (十)

 Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva

近藤千雄訳 



十章 質問に答える

 ──私がこれまでに会った人の中には、自分はスピリチュアリストであると言いながら相変わらず何かの既成宗教に属している人がいます。スピリチュアリズムを信じるようになったら、それまでの宗教は捨てるべきではないでしょうか。

 私はそうした名称(ラベル)には煩わされません。実はこの私自身が果たしてスピリチュアリストなのかどうか定かでないのです。スピリチュアリストであるとの認証を頂いたわけではないからです。ご自分のことをどうお呼びになるかは問題ではありません。大切なのは毎日をどう生きるかです。
℘174
 いったい宗教とは何なのでしょう。教会や礼拝堂や寺院へ通うことでしょうか。人間のこしらえた教義を受け入れることでしょうか。私はローマカトリック教徒ですとか、プロテスタントですとか、仏教徒ですとか、ユダヤ教徒ですと名乗ることでしょうか。

 宗教とは宇宙の大霊すなわち神の御心に一歩でも近づくことになるような生き方をすることです。あなたの行為の中に神の御心が表現されることです。要するに宗教とは人のためになる行いをすることです。

 もしも霊界との交信の事実を信じてその恩恵を受けている人が相変わらず従来の神学的教義にこだわり続けている時は、その人のことを気の毒に思ってあげることです。密かに祈りの気持ちを送ってあげることです。その人はまだ梯子段の下の方、せいぜい中途までしか上がっていないからです。

 精神が従順で感化されやすく、与えられたものは何でも吸収していく幼少時に教え込まれた教義を棄てることは容易ではありません。それがいつしか潜在意識のタテ糸となりヨコ糸となって、その深層を形成します。そうなると、みずからその誤りに気付いて取り除くということは、殆ど不可能に近いと思わないといけません。
 
 ですから、我慢してあげることです。われわれだって、かつては間違った考えを抱いていたのを、その後の叡智の発達のお陰で棄て去ったことがあるではありませんか。所詮人間の誰一人として完全の極致まで到達した人はいないのです。それには永遠の時を必要とするのです。

 我慢してあげるのです。手助けをしてあげるのです。議論しあってはいけません。議論からは何も生まれません。詩人(※)が言っております──〝議論しても、入って来たのと同じドアから出て行くだけである〟と。(※英国の詩人フィッツジェラルド
                              Edward Fitzgerald)
 自分の宗教の教義より先が見えない人のことは辛抱強く見守ってあげなさい。時が立てばあなたの場合もそうであったように、きっと機が熟します。


──わけもなく塞ぎ込んでいる人間が多いのですが、若者にいったい何が起きているのでしょうか。霊的に飢えているのでしょうか。

 道を見失っているのです。彼ら若者は暴力の支配するこの時代に生を受けました。彼らの気持ちの中には大人は自分たちを裏切ったという考えがあります。また、従来の宗教では救いは得られないとも考えております。


──その考えは大人に責任を負わせ過ぎだとは思われませんか。誰しも自分なりの道があるはずです。

 私はそうした若者の考えに賛成であると言っているのではありません。私は現代の若者の心理を説明しているだけです。いずれは彼らも先輩になるのです。


──体験と言うものは掛けがいのないものです。

 苦々しい体験ほど薬になるのです。楽な体験は往々にして毒になるものです。サークルのメンバーの方なら私が何度も申し上げているのでよくご存知でしょうが、しくじるということの効用は、やり直しがきくということです。


──(旧約聖書の天地創造の話を持ち出して)ある人たちはその創造活動に宇宙人が参加したと言っておりますが、いかがでしょうか。

 申すまでもないことでしょうが、あなたは今、大気圏外から来た生物へ質問していらっしゃるのですよ! 創世紀その他の話に惑わされてはいけません。あなたの理性に照らして受け入れ難いものは拒絶なさることです。要するにあなたがお知りになりたいのは、地球はどうやって誕生したかという、その事実なのですから。


──その説が沢山あるのです。どれが事実なのかが分からないのです。

  生意気を言うようですが、私はそうした〝説〟を超えたものを手にしております。この問題に関しては少しばかり知識があるのです。地球は無窮の過去から存在し続けております。始まりも終わりもありません(※)。バイブルにもイエスが言ったとされる名文句があります──〝アブラハムが生まれる前から私は存在している〟と。 

(※これは最後に引用されているバイブルの文句から察せられるように、地球という惑星を物的天体としてではなく霊的存在として考えた上でのことである。地上の万物に霊が宿っているように、地球そのものにも霊が宿っている───と言うよりは地球の霊が顕現したのが生きとし生けるものであると考える方が順序であろう。日本の古神道ではその生成過程を寓話風に物語っている──訳者)

 霊は無窮の過去から存在しております。ある時ひょんなことから創造されたのではありません。それが地球に宿り、数えきれないほどの年数をけみして、やっと生命として顕現し始めたのです。生命は霊であり、霊は生命です。永遠の過去から無限の可能性を秘めているのです。

 その生命の誕生に大気圏外からの存在(※)が参加した事実はありません。内在していた生命力が無限の知性によって考案された進化の法則に従って顕現し、発達し、進化してきたのです。

(※天地創造についての質問に対する冒頭でシルバーバーチは自分のことを〝大気圏外から来た生物〟という冗談めいた表現をしているが、これはもちろん〝霊界からやってきた霊〟の意味で言っている。

ここで言っているのは他の惑星からのいわゆる宇宙人の参加はなかったという意味であって、霊界からの働きかけは大々的に行われたものと想像される。生命の誕生はそれなくしては考えられないことで、今後の研究にまたれる面白くかつ重大なテーマであろう──訳者)


──最近ではダーウィンの進化論がいろいろと批判を浴びております。ダーウィンはいろんな事実を見落としているようです。

 いかなる発達段階にあっても全知識を手にすることが出来ない以上、見落とされる事実があるのは仕方のないことです。完全のみが全知識を含むことになるのですが、その完全性は地上はおろか霊界においても誰一人として達成した者はいないのです。

進化について明言できることは、物的進化も精神的進化も霊的進化も、すべて大自然の摂理によって営まれているということです。


──私は人間がサルから進化したという説はあまり嬉しくないのですが・・・・・・

 もしかしたらサルの方もうれしく思っていないかも知れませんよ! 神の目から見ればサルは、大切な存在である点では人間とまったく同等なのですから。

(シルバーバーチがイエスの偉大さを述べ、地上において開始した地球浄化の大事業を死後もずっと続けており、シルバーバーチ自身もイエスの指揮のもとで働いていることを述べると)

── イエスの名のもとに行われた数々の歴史上の行為を見るのは、イエスにとって心の痛む思いだったに相違ありません。

 おっしゃる通りです。何度涙を流されたか知りません。もとよりそれはイエスの責任ではありません。スピリチュアリズムの七つの綱領の中には、各自が各自の行為に責任を持つとうたった条文があるのをご存知でしょう。


──イエスはどういうお顔の方だったのでしょうか。

 地上の画家が描いている肖像画とは似ていません。伝導時代に行動を共にした人たちとよく似ておりました。もし似ていなかったら使命は果たせなかったでしょう。

(訳者注──原文から受けるニュアンスとしてはズバリ容貌を述べるのを避けているふしが窺える。それは多分、とかくイエスが神格化され、神々しくて近づき難い存在だったように想像されがちなので、実際はいたって人間味を具えた、その意味で平凡なユダヤ人だったと言いたいのであろう)


──霊界通信によっては、宇宙的キリストと人間としてのキリストの二つの言い方をしているのがあります。同じ存在の二つの側面を言っているのでしょうか。

 あなたは名称に惑わされています。まずイエスという人物がいました。その人物の姓はキリストではありません。一方、キリスト的生命力、つまり霊力が存在します。人間イエスと、そのイエスを動かした霊力とを区別してお考えになればすべてがすっきりします。


── イエスが述べた正確な言葉を自動書記か何かで入手することは可能でしょうか。

 何とも申せません。問題は当時イエスの言葉を記録した人物が一人もいなかったことです。ですから、それを伝えるには記憶に頼らねばならないわけです。がしかし、イエスの教えの肝心かなめは〝愛〟です。〝己を愛する如く隣人を愛せよ。汝に敵対する者にも優しくすべし〟です。

愛とは摂理(神の心)の通りに行うことです。人類の救済にとってこれ以上に必要なものがあるでしょうか。愛は霊性の最高の表現です。大霊から下さるのです。それを私たちがあなた方のお届けしているのです。

 イエスの使命は霊的実在を証明してみせることでした。もしも今の時代にイエスが出現して二千年前と同じことを説いたら、果たして耳を傾ける人がいるかどうか、私はきわめて疑問に思います。


──間違った教えをたずさえて霊界入りする者が多すぎるとおっしゃいましたが、ヨハネの福音書にはイエスを信じることによって永遠の生命を授かると述べられています。

 それは間違いです。人間は一人の例外もなく死後も生き続けるのです。何かの教義や信条、あるいはドグマを信じることによって永遠の生命を授かるのではなく、不変の自然法則によって生き続けるのです。それ自体は宗教とは何の関係もありません。因果律と同じ一つの法則なのです。

 いま引用なさった文句は地上に大きな混乱のタネを蒔き人類を分裂させてきた言葉の一つです。一冊の書物、それも宗教の書、聖なる書が、普通の書が起こそうにも起こせないほどの流血の原因となってきたということは、何という酷い矛盾でしょうか。

宗教の目的は人類を不変の霊的関係による同胞性において一体ならしめることにあるはずです。


──イエスは本当にはり付けにされたのでしょうか。

 そんなことについて私の意見をご所望ですか。どうでもいいことではないでしょうか。大切なのはイエスが何を説いたかです。はりつけにされた時にどういうことが起きたかは、いくら議論してもラチが明かないでしょう。私にもその立証はできません。

ですから、そのことについてはお答えしません。無意味に人を断罪するのは私の趣味ではないからです。それは私の使命ではありません。

(訳者注──イエスの処刑についてはいろんな説がある。一般には聖書の通りにその場で死亡して何日か後に蘇ったことになっているが、実は処刑されたのはイスキリという名の弟だったとか、完全に死んだと思って埋葬したが本当は死んでいなくて、生き返って国外へ逃げたとかの説があり、それぞれにもっともらしい論拠を揃えている。

国外へ逃亡したとする説にも、ローマへ行ったという説と日本へ来たという説、そして最近ではインドへ行ったという説があり、いずれの場合もかなりの高齢で他界したことになっている。

 無論シルバーバーチはそのことについての真実を知っているはずであるが、人間がとかくこだわる〝証拠〟となると何も提示できないからと言って返答を断っている。無論これは言い訳であって、本心はやはり最後で述べている通り、自分が述べることによって右の諸説のどれかを、あるいは全部を否定することになるのを避けたのであろう。

どうでもよいことだからである。シルバーバーチはイエスの出生についても死についても途中の事蹟についても、あまり深入りしたことを言っていない。使命ではないからであろう)

 私の使命は人生の基本である霊的原理に関心を向けさせることです。人間はどうでもよいことに拘り過ぎるように思います。イエスが本当に処刑されたかどうかは、あなたの魂の進化にとって何の関係もありません。

 肝心なことに関心を向けなさい。あなたは今あなたなりの役割───人を助け霊性を開発し悟りを深めるためのチャンスを提供してくれる、この地上という生活の場に来ていらっしゃるのです。火星にも人間のような存在がいるのだろうかとか、一千年後に間違いなく復活するだろうかとか、そんなことを心配してはいけません。

 大切なのは日常生活での身の処し方です。あなたなりの最善を尽くせばよいのです。それによって大霊とのより大きい調和が得られます。それは晴れやかさ、静けさ、安らぎ、自信という形をとります。神の心をわが心としようと心掛ける者すべてに必ず訪れるものです。


──人類はいつかは戦争のない平和な暮らしができるようになるのでしょうか。

 これは難しい問題です。まず理解していただかねばならないのは、神は人間に自由意志というものを授けられているということです。自由意志のない操り人形にしてもよかったのです。が、自由意志による選択の余地を与えられることによって、人間も永遠の創造的進化の過程に参加する機会が持てることになったのです。

人間は地上をエデンの園、楽園、天国にすることもできれば、暗く荒涼とした、恐ろしい悪の園にすることもできます。そこに選択の余地が残されているのです。

 戦争、暴力、貪欲、情欲、利己主義がはびこるのは物質中心の考え方をするからです。そういう考え方をするのは、これほど多くの宗教が存在しながら大半の人間が肉体が死ねばすべておしまいと思っているからです。

死後にも実感を伴った生活───地上生活の賞罰が清算される世界が存在するという事実が信じられず、地上生活が唯一の生活の場であると考えます。すると当然、物質がすべてなら今の内に思い切り欲望を満足させておこう、ということになります。それが戦争を生み、憎み合い、征服し合い、殺し合うことになります。

 もっともこれは真相の一面を述べたままです。有難いことに、他方では、人間のわがままによる混乱を抑制するための摂理も間違いなく働いております。その一環として私たちは、地上に霊的実在についての知識をもたらすための大事業にたずさわっているのです。

 霊媒の活用によって人間が霊的天命を背負った霊的実在であることを証明することができます。その天命を全うするも損なうも、日常生活における身の処し方一つに掛かっております。因果律、すなわちタネ蒔きと刈り取りの摂理は絶対に狂いません。

 良い行いをすればそれだけ幸せを味わいます。利己的な行いをすればそれだけ苦い思いをさせられます。摂理はごまかせません。死の床でいくら懺悔の言葉を述べても、すでに始動している因果律の働きを止められるものではありません。

 こうした真理を理解する人が増すにつれて戦争が減り、平和な地域が広がっていきます。これは一朝一夕(いっちょういっせき)にできることではありません。

 私には以上のようなお答しかできません。自分の役目を果たすのです。自分なりの最善を尽くすのです。縁あって近づく人の力になってあげることです。親切に、寛容に、そして慈悲の心をもって接するのです。機会さえあれば、どこででも人のために役立つことを心掛けることです。それが世の中に貢献するゆえんとなります。


──時おり味わう精神的な苦悩は外部から来るのではなく内部から湧いてくるのでしょうか。

 どちらからでもあります。よく理解していただきたいのは、地上生活は霊界の生活と違って両極性(相対性)から成っていることです。霊界では同じ発達段階の者が同じ界層で生活しておりますが、地上ではさまざまな発達段階の者が混ざり合って生活しております。

ということは、対照的なものを見たり体験したりする機会が得られるということです。かくして光があれば闇があり、温かさがあれば冷たさがあることになります。そこに地上生活の存在理由があるのです。そうした両極の体験を通じて魂が真の自我に目覚めていくのです。

 言いかえれば地上は学校です。そこでいろいろと学ぶことによって、いつかは住むことになる霊の世界での生活に必要な教訓を身につけるのです。苦悩を味わうということは、その反対である喜びを味わえるということです。

 たびたび申し上げておりますように、地上での出来事は正反対であると同時に相等しいということがあります。つまり同じコインの表と裏の関係です。魂が自我に目覚めるのはさまざまな体験の中においてこそです。それは鋼(はがね)を鍛える過程、あるいは原鉱を砕いて黄金を磨き出す工程と同じです。


──多くの人間の間で精神的革命ともいうべきものが進行しているのを感じます。これは霊界からの働きかけの当然の結果で、今それが実現されつつあるのだと思います。

 地上世界は今るつぼの中にあります。バイブルの中の説話のような善と悪との戦いがあります。富の神マモンの崇拝、あくなき貪欲と強欲と権力欲、高尚なものや霊的なものの抑圧──要するに私が地上のガンと呼んでいる利己主義が生み出す不幸があります。

 それと同時に、世俗的な意味での宗教はその威力、影響力、指導力を失っております。いやしくも知性を具えた者には到底信じ難い教義に今なお忠誠を尽くしているようでは、既成の宗教に背を向ける者がますます増えていくのは当然の成り行きです。

 それに加えて、科学が間違った方向へ進みつつあります。果たして人類に益をもたらすのか、地球を破滅へ陥れるのではないかと思える、恐ろしいものを次々とこしらえております。人類は今まさに危機の十字路に立たされております。私たちが総力を挙げて救済活動に乗り出したのもそのためです。

 それは平和と調和と親善と和合と協調を達成する唯一の方向を示して指導しているところです。その唯一の方向とは、地上の一人一人が霊的な一大家族の一員であり、その親にあたるのがあなた方のいう神、私のいう大霊であるという認識です。

 私たちは何としてもこの仕事を成し遂げる覚悟です。ここにお集りの皆さんをはじめとして、スピリチュアリズムの仕事にたずさわっておられる方はみな、霊的大軍勢の一翼を担っておられるのです。だからこそ試され鍛えられて、割り当てられたこの重大な仕事で万が一にも挫折のないようにしなければならないのです。

 霊は物質に勝ります。物質の世界には霊力よりも強力な力は存在しません。たとえ時間は掛かっても必ず勝利を収めます。真理を手にした者には悲観主義も絶望も入る余地はありません。

神が人間の頭を身体の一ばん高いところに置かれたのは、見上げることができるようにということからです。見下ろすようにということであったら足もとに頭が付いていることでしょう。

 人間の霊的解放の仕事にたずさわる者は試練と挑戦を受けなくてはなりません。それが霊的発達の不可欠の要素なのです。それ以外に方法がないのです。いずれ霊界へ来られて地上時代を振り返ってごらんになれば、苦しい体験ほど大切な意義を持っていたことを知って神に感謝なさることでしょう。

 遠い昔から人間は地球の悲劇の予言をいくつもして来ました。地球の終末の日時まで告げているものもあります。そこへキリストが再臨して人類を救うというのがキリスト教の信仰のようですが、そういうことにはなりません。キリストは二千年前に地上での使命をきちんと終えています。

今は私の住んでいる同じ霊界においての使命に精励しておられます。それが今われわれのたずさわっている霊的真理普及の活動の指揮・命令です。

 地球が一夜のうちに破滅することはありません。宇宙の大霊が無限の愛と叡智とを持って摂理を案出し、それによって巨大なもの、微細なもの、複雑なもの、単純なものの区別なく、存在のあらゆる側面を経綸しているのです。

それは一歩一歩の進化という形で働くのであって、大変革によって一挙に行われるのではありません。人間の力にも制限が加えられています。人間にできないことがあるということです。自由意志が与えられていますが、それにも限界があります。


──地球の将来はどうなるのか教えていただけませんか。

 たった一人の人間によっては無論のこと、何人の人がいっしょになっても、地球を破壊する力は持てませんから、地球はこれからも永遠に存在し続けます。地球にもたらす害にも、それを引き起こす手段にも、地球の存在自体に終止符を打たせるほどの規模にはならないように一定の限界というものが設けられています。

 怖がってはいけません。神の意志は必ず成就されるのです。将来への展望には自信と楽観と積極性をもって、ご自分の役目を果たすことに専念なさることです。恐怖心、心配、不安、こうした霊力の働きかけを止め無気力にさせるようものは、いっさい棄て去ってください。

私たちから要求するのはそれだけです。出来る限りのことをなさっていればよいのです。それ以上のことは出来るわけがないのですから。

 明日はどうなるかを案じてはいけません。明日は、潜在する神性を開発し、人生を物質的・精神的・霊的に存分に楽しみ、まわりに存在する素晴らしい霊的光輝をますます意識するようになる、その絶好の機会の到来を告げてくれるものなのです。


──凶暴な犯罪は死刑制度によって解決できると思われますか。

 そうした報復的手段では何一つ解決できないでしょう。愛は摂理を成就することであると言います。いかなる手段にせよ、それによってその魂が救われることになるように工夫すべきであって、復讐心を抱かせてはなりません。

人を殺した奴だから殺してよいという理屈は許されません。国家による法的殺人では問題の解決にはなりません。暴力に暴力で対処することは善性・慈愛・優しい心を生み出すことになりません

 処罰は矯正と救済を目的としたものであらねばなりません。魂に本当の自分を悟らせてあげることを目的としなければなりません。何の用意もできていない魂を霊界へ送り込むことは問題を大きくするばかりです。地上においても霊界においても犯罪を減らすことにはなりません。それに、人間はとかく過ちを犯しがちなものであることも考慮してやらないといけません。


──そうした魂の病める霊をなぜそちらの方で看視して、地上の人間を同じ道へ誘わないようにしていただけないのでしょうか。

 そう簡単にはいかないのです。未熟な霊が次から次へと地上から送り込まれてまいります。それは霊界にとって迷惑なことです。そこで地上の人間が地上にいる間に霊界の生活に備えてもらおうと、今、霊的真理の普及に全力をあげているわけです。

 ひとことで言えば、私たちが地上へ戻って来た目的はイエスが説いた〝愛〟の福音を説くことにあります。人間は互いに愛し合うべきであり、憎み合ったり報復し合ったりしてはいけません。


 (刑事をしている人が初めてサークルに出席して質問した)

──職業柄、私は多くの人間が恐ろしい行為によってあたら生命を失っていくのを見てきました。そして、しばしば思ったことですが、そうした犯罪が二度と起きなくするために、そちらで復讐心に燃えている霊たちを説得していただけないものでしょうか。

 残念ながらそういう人たちはみな地縛霊となっており、自らこしらえた牢獄に光が射し込むまでには大変な時間を要します。

これは大へん難しい問題でして、時間さえあればいろいろと敷衍(ふえん)してお話できるのですが、結論だけ申し上げれば、彼らへの対処の仕方は報復ではなく矯正を目的としたもの、つまり、精神的リハビリテーションでなくてはならないということです。やられたらやり返すのが公正ではありません。


──私は阻止することこそ公正であると考えておりました。

 しかし現実には報復が優先されているのがほとんどです。旧約聖書では〝目には目を、歯には歯を〟でしたが、新約聖書ではイエスが隣人への愛を説いただけでなく、自分を憎む者をも愛せよ、と述べています。 何ごとも最後は動機が問題となります。動機さえ正しければ、すべてがうまく収まります。


 (代わってジャーナリストが質問する)

──霊界及び他の世界から人類へ向けてさまざまな警告が届けられております。あるものは原子力は悪であるから阻止せよと言い、またあるものは人類の独善主義について警告しています。そうした警告めいた予言を総合的に検討して記事を書くようにとの依頼を受けているのですが、ご意見を承りたいのです。

もし何か特別に警告すべきことがありましたら明確に述べて頂きたいのですが・・・・・・


  私は原子力が悪だとは思いません。その使用法が邪悪になることは有りえます。しかし反対に測り知れない恩恵をもたらすこともできます。そのカギを握るのは、その途方もないエネルギーを管理する、あるいは管理を誤るかも知れない立場にある人たちです。

 警告めいた予言のことですが、霊界にカッサンドラ(ギリシア伝説の凶事の予言者)のような霊がいて、何か大変なことが地球に迫りつつあるということで大ゲサに嘆いているような図を想像してはなりません。

 そんな単純なものではないのです。大霊は子等に一定限度内の自由意志を与えておられます。その自由意志による選択によって地上を光輝と美と豊かさに満ちた所にすることもできれば〝生き地獄〟とすることもできます。その選択をするのはあなた方人間なのです。

 科学技術の発達とともに途方もないエネルギーの存在が明らかにされて、それをいかなる目的に使用するかの責任が大きくなって参ります。正しい進化の方向を選ぶことになる唯一の道は、私の理解している限りでは、無限の神性を宿している子等がそれをできるだけ多く発揮して地上世界を美しく飾り、大自然がその豊かな恩恵を実らせるようにする以外にありません。

 それが人間が選択すべき唯一の道です。それを無視して富の神マモンを崇拝し、欲望に走り、利己的になり、他人のことはどうでもよいと考えるようになったら最後、自分の国だけでなく地球全体が暗黒と困難と悪と疫病という、自由意志の選択の誤りが生み出す結果で埋め尽くされることになります。

 しかし、そう申し上げながらも尚かつ私は、人間がいかに驚異的なエネルギーを手にしようと、それによって起こす破壊や荒廃を一定程度で食い止める無限の力には到底太刀打ちできないことを断言しておきます。地球全体を、あるいは宇宙そのものを完全に破壊する力は持てません。


 ──やはりあくまでも神の持ち物というわけですね。

 そうです、あくまでも大霊の持ち物であり、大霊が支配しなければならないのです。大霊は無限です。無限なる愛であり、無限なる叡智であり、すべての子等に、地上を天国となしてそこに共存するための手段を提供してくださるのです。それを受け取るか否かの選択は自由ですが・・・・・・

 自由だからいいのです。もしも人間が操り人形かロボットのようなものだったら人生は何の意味もないことになるでしょう。完成へ向けての進化も成長もありません。永遠の虚無の世界となってしまいます。それは神の意図するところではありません。

 皆さん方のどなたよりも永く宇宙人生を送ってきた私は、神の完全性が生み出した宇宙の美事な機構を畏れと驚嘆と敬意と感嘆をもって眺めるようになりました。無限の知性が考案した摂理の働きを阻止できるものは何一つ存在しません。

 人生のすべての相を支配している永遠の霊的原理をかい間見るという光栄に浴した者は、明日はどうなるのかという不安を抱く必要はみじんもありません。驚異的な科学技術の発達、科学的業績は善にも悪にも使用できますが、いくら悪いことに使っても、それがもたらす破壊にも限界があります。

地球全体、及びそこに住む人類をもろとも破滅させてしまうほどの無制限・無束縛の自由が許されるわけではありません。

 愛は憎しみに勝ります。霊は物質に勝ります。その宇宙最大の力は生命の大霊から出ているのです。無限の知性によって考案され、無限の叡智によって支配されている宇宙の摂理は、今住んでおられる世界が少しでも良い世界へ向けてゆっくりと着実に進歩するように配慮してあるのです。


  (話題が動物愛護の問題へと発展するとシルバーバーチがこう述べた)

 悲しいかな、霊的発達の未熟さゆえに人間は、自分を生かしめている霊力が地球を共有している他のすべての生命体を生かしめている霊力と同じであることに理解がいかないのです。動物も人間と同じく物的身体を具えた霊であることが理解できないのです。

 われこそは万物の霊長であると信じているのであれば、それゆえにこそ動物に対する責務があるはずなのに、人間はそこが理解できないのです。上の者は下の者を手助けするのが当たり前です。しかるに現実は、罪もない動物に無用の残虐行為を情け容赦なく行っております。

しかもそれは人間の健康増進の為と信じてのことなのですが、それは間違いであり、そういう手段から健康は得られません。

 そうした邪悪で悪魔的でさえある実験を完全に阻止するためにも霊的真理の普及が急務なのですが、これは永い時間の掛かる問題です。今自分たちが行っていることが間違いであることに気づいて良心の苛責を覚えるようになるまで、霊性が発達するのを待たねばならないのです。


──なぜ動物は人間の手によって苦しめられねばならないのでしょうか。人間の霊的成長の試金石となるために地上に置かれているのでしょうか。もっと高い進化の段階に達している別の天体へ置かれていれば、そこの住民に可愛がられて霊的進化も促進されるはずですが・・・・・・

 それと同じ疑問が人間についても言えませんか。つまり、なぜ人間は地上で同じ人間の手で苦しめられねばならないのかということです。なぜ苦しむことのない、どこか別の世界へ置いてもらえないのでしょうか。

 理解しなければならないのは、地上というところは予備校ないしはトレーニングセンターであって、その目的は内部の神性を可能なかぎり発揮する機会を提供することである、ということです。

 人間には、ある一定限度内での話ですが、自分の行為を決定する自由意志が与えられております。その自由選択の結果として地上あるいは霊界における進歩を促進もすれば阻止もするという、そういう体験の繰り返しの中で霊性が発達し、少しずつ不完全な部分を棄てて行くことになるのです。

 自由意志があるということは、その当然の可能性として、それを間違ったこと、愚かしいこと、報復的なことに使用する者もいることになり、その結果として苦しむ人も出てくることになります。

もしも神が動物も人間も申し分のない状態であることを望まれたならば、地上にもあるいは霊界にも存在していないでしょう。とっくに完全の頂上を極めていることでしょう。しかしそれは有り得ないことなのです。なぜなら、完全とは永遠に続く過程のことだからです。

 動物への虐待を阻止するには、いろいろとしなければならないことがあります。善の勢力と悪の勢力との戦い、真理を知った者と無知な者との戦いが延々と続いております。

また、動物にも地上で果たしている役割があること、人間が住む権利があるのと同じ意味において動物も地上に住む権利があることが、どうしても理解できない近視眼的な人種もいます。これからも戦いは続きます。が、真理は必ず勝利を収めます。


──人間とともに進化を続けている鳥類や魚類は次は何になるのか教えていただけないでしょうか。それは、いわゆる〝精霊進化〟に属するのでしょうか。昆虫は次は何に進化していくのでしょうか。昆虫の中にはとても進化していて独自な複雑な〝文明〟すら持っているように思えるのが多くいますが・・・・・・

 まず〝文明〟という用語はここでは適切でないと思います。いかなる生活にせよ、文明とは社会及び生活様式に適応していくための手段のことです。

 さてご質問の意味ですが、一羽の鳥がやがて一人の人間になっていくのかということであれば、答えはノーです。精霊進化というのは妖精およびそれに類する存在に関わる自然的生命の進化のことです。自然界の成長の中で果たす役割があるのです。

進化とは全生命に関わる自然法則の一環であって、それは神の愛の証しでもあります。低い次元から高い次元へ向けての不断の向上のことです。

 進化の法則はすべての生命、すなわち昆虫類、鳥類、動物、そして人類のすべてを包摂しています。それぞれに果たすべき役割があり、しかもお互いに関連し合っております。

孤立しているものは一つもありません。全体として完全な複合体を形成しているのです。あなた方人間も動物の進化に関連した法則と同じ法則によって支配されているのです。

 その自然法則に従って生活していれば、言いかえれば自然法則と調和していれば、あなたは天命を全うできると同時に他の生命の進化を助けることにもなります。各自が協調的要素としての役割を果たすように宇宙の全機構ができあがっているのです。

協調とは反対に自然に逆らった行為に出る者は、その逆らった対象だけでなく自分自身に対しても酷い仕打ちをすることになります。自然と協調する者は自然の発達を助けると同時に、自分自身の霊性の開発をも助長することになるのです。


──ということは、われわれは人類として特別の存在ではなく、大自然の進化の過程の一部にすぎないということになるのでしょうか。

 人類も生命の永遠の営みの一部に過ぎません。その中にあってもし人間がオレたちは他の生命よりも特別に高等なのだと自負するのであれば、ちょうどあなた方が霊界の高級霊からの援助を求めるように、他の下等な生命を援助してやる義務があるはずです。


──動物の世界には〝高等な生命〟というものがあるのでしょうか。

 ありません。それぞれの種にそれぞれの進化のコースが割り当てられているのです。生命として存在しているものは、霊であるからこそ存在できているのです。霊は生命であり、生命は霊です。それゆえ、生きとし生けるものすべてが───小鳥も魚も花も木も果実も、みな霊なのです。

高等とか下等とかいうのは、その無数の生命現象の中にあって、他の生命に比べた場合の進化の到達度を言っているにすぎません。人類は魚類に比べれば高い発達段階にあるかも知れませんが、私達の世界の神庁に所属する神霊に比べれば低いことになります。


──動物保護運動がなかなか思うに任せません。むしろ悪化の一途をたどっているように思えます。

 それは人間に自由意志が与えられていることから生じる当然の結果です。もしも何一つ問題がなく闘争もなく犠牲が強いられることもなく困難も生じなかったら、人間は進歩しません。

進歩は困難に遭遇した時に得られるのであって、気楽な生活の中では得られません。それぞれの魂が内在する力を引き出すための努力をするように何らかの試練の時に遭遇するというのが、進化における不可欠の過程の一つなのです。

 進歩の速い面もあれば遅い面もあります。とにかく同じ地球を共有する他のすべての存在と仲良くするということが人間の責務です。が、どっちへ転んだところで自然の摂理による埋め合わせがあります。動物が動物なりの進化のコースをたどるように配慮するのは人間の責務です。

それを怠れば、人間はそれなりの代償を払わねばなりません。動物に残酷な仕打ちをしている者は、いずれその行為の一つ一つに霊的代償を払わねばなりません。

 悲しいかな、苦しめられるのはいつも罪のない側です。が、自然の摂理は曲げられません。殺人を犯せば殺した方はその償いをしなければなりませんし、殺された方にはその犠牲の埋め合わせがあります。埋め合わせの原理は間違いなく働きます。神は一人一人の人間にきちんと賞罰が計算されるように公正の原理を定めておられます。


──自然界では〝強い者〟が生き残っているように思えるのですが、そうなるとその原則は人間界や霊的なことにはどう適用されるのでしょうか。

 相利共生(二種類の生物が相互に利益を得ながら生活すること)という言葉をお聞きになったことはありませんか。これが自然界の原則ではないでしょうか。互いに協力し合うことによって自然界がその目的を果たしていく、というのが基本原理ではないでしょうか。

 樹木が大気中の炭酸ガスを吸収しそれを酸素にして排気する。それを人間が呼吸して生命を維持する。これが調和、協調、つまりは自然の力の働きではないでしょうか。


──私はとくに動物のことを念頭において質問したのですが・・・

 有史以前の動物の中で現在まで生き残っているのはどの種類でしょうか。たとえば象がいます。象は獰猛な動物だったでしょうか。そうではありません。草食動物であり、他の動物を襲ったりしませんでした。なのに生き残っており、他の肉食動物は滅びています。どっちが〝強い者〟でしょうか。

あなたも庭をお持ちなのでご存知でしょうが、自然の摂理を大切にすれば立派な庭になり、摂理を無視すれば台無しになります。人間同士だけでなく動物に対しても情愛を向けないといけません。他の人間を搾取してはいけません。動物を搾取してはいけません。大自然を搾取してはいけません。

 そういう心掛けで生きれば、人間だけでなく地上に生きているすべての存在が、宇宙最大の力すなわち神によって考案された進化の法則の究極の目的である平和と秩序と調和を手にする上であなたも貢献していることになるのです。
  

シルバーバーチの霊訓 (十)

 Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva

近藤千雄訳 



九章 人生は霊的巡礼の旅 

 (シルバーバーチの交霊会へ招待される人たちは、男女の別・社会的地位の上下を超えて、人生が霊的進化のための巡礼の旅であることに目覚めた人ばかりである。本章ではそうした人たちを招待した交霊会の中から〝新人〟を招待したもの三つと、サイキックニューズ紙の〝ベテラン〟スタッフ二人を招待したもの、さらにドイツへの移民に失敗した英国人ジャーナリストを招待したものを特集した。

 まず最初は二十年間もシルバーバーチの霊言集を愛読しているという男性を相手にシルバーバーチがこう述べた)
 

 この交霊会にお出でになる同志の方に私が必ず申し上げていることは、霊的巡礼の旅に立たれた方はみな、同じパターンの人生を体験なさるということです。困難・難題・危機・逆境・失望・挫折、こうしたものを体験させられます。

時には失望のドン底に落とされ、あたかも全ての望みが断たれ、奈落の底の暗闇の中に置かれたような、一条の光も見出せない状態となることもありましょう。

 しかし、そうした時こそ魂が目を覚まし、真理を受け入れる用意が整うものなのです。奈落の底からの霊的向上が始まります。ゆっくりとして遅々たる歩みです。それも、必ずしも着実とはかぎりません。時には逆戻りすることもあります。が、光明へ向けて向上し続け、ついに暗黒から抜け出ます。

 さて、あなたはただの信仰でなく証拠に基づいた素晴らしい霊的知識をお持ちです。道が示され、導きを受け、そこから生まれた理解が人生の視野を一変させました。


──本日はお招きいただいて大へん光栄に存じております。私はあなたの霊訓を二十年間も愛読いたしております。本日こうして出席できるのも、あなたの霊的知識のお陰です。苦しい時はいつも霊言集を開いております。

 そこで私は今その霊的知識を集大成したいと考えております。テープも書物もかなりの数になりました。それを若い世代のために人生の指針として教えていくためのグループを組織したいと考えているのですが・・・・・・


 人類全体のための予定表というものがあります。私の世界の高級な神霊によって考え出されたものです。その目的は、受け入れる用意の出来た地上の人間を霊的に、精神的に、そして身体的に真に自由にしてあげることです。国家単位の計画があり、個人単位の計画があります。少しずつ着実に運ばれており、決して先を急ぎません。

 われわれ全部を包み込んだその崇高な計画に参加しておられる以上、あなたもせっかちな行動は許されません。関わっている問題があまりに多くて、先走りするわけにはいかないのです。私たちが提供するのは、まず証拠です。それから各自が自らの霊的新生を成就するための知識です。

私たちがあなたに代わって救ってあげるわけにはまいりません。自分で自分を救うのです。その手段をどう活用するかは、その人の自由に任されております。

 あなたが霊的存在であるということは、あなたも内部に無限なる宇宙の大霊すなわち神の一部を宿しているということであり、同時に、霊的武器(能力)と霊力を宿しているということです。

それを進化しながら発揮していくことができるのです。私たちの仕事はこうした霊的真理を一度に一つずつ、受け入れる準備の整った魂に教えていくことです。この点を特に強調しておきます。それが偽らざる事実だからです。

 諺にも〝馬を水辺まで連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない〟というのがあります。イエスはこれを豚と真珠という、きつい譬えで表現しました。(豚に真珠を投げ与える勿れーマタイ)。

 受け入れるにはその準備が出来ていなければならないということです。あなたも暗い影の谷間を通り抜けるまでは、真理を受け入れる用意は出来ておりませんでした。その間の体験が、こうした基本的な永遠の霊的真理を理解しはじめる端緒となる決定的な手段ないし触媒となったのです。
 
 今ではあなたが他の人々を救ってあげる立場になられましたが、あなたの厚意が受け入れられなくても落胆してはいけません。その人はまだそれを受け入れる用意が出来ていなかったということです。そういう時は、私がいつも申し上げているように、掛けがいのないチャンスを失った人として、密かに涙を流しておあげなさい。

 あなたにとってここぞという時に素晴らしい道が示されたように、これからも大切な時には必ず指示がいただけます。人生の視野の基盤を提供してくれる霊的知識を土台として信念を持つと同時に、あなたの背後には、真理普及のためのチャンスさえ提供してくれればいつでも援助に駆けつけてくれる高級霊の大軍が控えているという事実を忘れてはなりません。

 恐れるものは何一つありません。あなたには人のために自分を役立てることができるという喜びがあります。それが何より大切です。その機会を与えられることに感謝しなくてはいけません。

明日のことを案じてはいけません。困難には遭遇することでしょう。が、それは太陽を一時的にさえぎる雲のようなものです。太陽は少しのあいだ見えなくなりますが、常に存在しているのです。その太陽がもたらしてくれる力と光の存在を片時も忘れてはなりません。


 (次はナイジェリアの一部族の族長が招待された時の問答である。まずシルバーバーチの方から〝本日はどういうご用で来られたのですか〟と尋ねると──)


──私たちは誰しも自分自身ならびに同胞のために何に役か立つことをしたいという霊的な欲求を持っているものなのですが、物的世界ではその意図を遅れさせ邪魔をする事情が生じます。そういう立場に置かれている人たちに何かアドバイスをお願いしたいのです。

 イエスも同じ趣旨の質問を受けました。それに対してイエスは〝シーザーのものはシーザーに、神のものは神に納めるがよい〟と答えました。(ここでのシーザーは俗世の権力を意味している。マルコ12・17、マタイ22・21、ルカ20・25──訳者)

 問題が生じるのは当然の成り行きです。地上は困難と挫折と障害と逆境に遭遇させられる場所なのです。地上生活のそもそもの目的は、伸びゆく魂が、危機において初めて呼び覚まされる潜在的資質を発現するために、さまざまな事態に遭遇することにあるのです。

 そうした問題を克服しない限り霊性の向上は望めません。が、実は克服できないほど大きな問題は決して背負わされないのです。忍耐強く導きを祈り求めることです。

時が熟せば必ずドアが開かれ、道が示されます。私はそのことを同志の方にいつも申し上げております。締め切られたドアを忙しく叩いてはいけません。と、


──地上はいつの時代にも、いずこにおいても、因果律という基本摂理のみが働いていると考えて宜しいでしょうか。もしそうだとすると、なぜ因果律によって営まれている自然が正しく理解されなかったり、ひどい扱いを受けたりするのでしょうか。

 因果律は全法則の基本的原理であり根底であり、永遠に不変のものです。自分が蒔いたタネが生み出すものを自分で刈り取るという原理です。一つの原因に対して数学的正確さを持って結果が生じます。

その結果がまた原因となって新たな結果を生み、それがまた次の原因となって行きます。この過程が絶え間なく続きます。タネに宿っているものが正直に花を咲かせるのです。

 千変万化の大自然の現象は、極大のものも極小のものも、単純なものも複雑なものも、一つの例外もなくこの因果律に従っております。いかなる人物も、いかなる力も、その連鎖関係に干渉することは出来ません。

万が一にも原因に対してそれ相当の結果が生じないことがあるとしたら、地球も太陽も、あるいは宇宙全体も大混乱に陥ることでしょう。太霊、神、宇宙の大精神に愛もなく叡智もなく、完全ではないことになります。

 宇宙は完全な公正によって支配されております。もしも宗教的ないし霊的な意味があるかに信じられている文句を唱えることによって、それまでに犯した過ちの結果が一挙に取り消されるとしたら、それは大自然の摂理の働きが完全でなく不公正であることを意味します。

 大自然は人間の願望にはおかまいなく、定められた通りのパターンに従わねばならないのです。果たさねばならない役割があり、それを果たし続けます。人間がその自然の摂理と調和して生きれば、幸福感を生み出すような結果がもたらされます。時には、こんなに幸せでよいのだろうか、と思うほど豊かな幸せをもたらしてくれることもあります。

 反対に自然を搾取し、その意図に逆らったことをすれば、それは神の無限の創造活動に干渉していることになり、その愚行には必ずや神のお咎めがあります。大自然は定められた目的を成就し続けます。

 摂理はあくまでも摂理です。完全な普遍性を持って、人間の願望にお構いなく作用します。つぼみ──開花──満開、これが自然の摂理のパターンです。原因と結果の不変の連鎖関係、それが大自然の根本原理です。

 間違ったことをすればその償いをしなくてはなりません。正しいことをすれば、その分だけ幸福感を味わいます。理屈は簡単なのです。私たちは可能なかぎりの力を動員して皆さん方を正しい道からそれないように努力いたします。問題は、人間の方が必ずしも私たちの思い通りに動いてくれないことです。

 所詮、私たちが扱っているのは不完全な人間です。地上には誰一人として完全な人間はおりません。完全性は神の属性です。ですから、あなた方に一点の非の打ちどころがないものを要求するつもりはありません。

よく間違いを犯すものであることを承知しております。人間であるが故の煩悩によって過ちを犯しがちであることは十分承知いたしております。

 私たちは皆さんに対する愛念を覚えるがゆえに最善を尽くして援助しております。時には傍観して為すがままにさせることもありますが、霊的発達を阻害するような過ちを犯しそうな時には、それを阻止するために、可能な限りの手段を尽くして、そのことを皆さんに印象づけることを致します。

 ですが、人類の大部分の人について言えることは、今では邪なるものより善なるものの方が、悪徳より美徳の方が、不正直より実直の方が、不親切より親切の方が、そして利己心よりも愛他心の方がはるかに多くなっているということです。


 (夫婦でスピリチュアリストチャーチを運営している米国人が教会内部の不協和音の悩みを携えて出席した)

──現在の混乱状態はもはや手の施しようのないところまで来ております。そこでわれわれ夫婦はそこを撤退しようと考えております。そうすれば事態が変わってくると思うのです。


 それが一ばん賢明です。この世には偶然も偶発事故も奇跡も存在しないと私が申し上げているのはご存知でしょう。すべてが自然法則の相互作用から生じていることです。言いかえれば、原因と結果とが交互に所を変えながら連鎖関係を続けているということです。

 あなたが遭遇しておられる事態も同じパターンです。かつてあなたは、もはやこれ以上為す術がないと思えた時に啓示を受けられて、人生に一大変革がもたらされました。今日のあなたを導いて来たのは背後霊の働きです。

私の説いている霊的真理の世界へ案内されてきました。そこであなたは魂の幸福と人のために自分を役立てる機会を見出されました。

 それは、このたびあなたが地上へ生まれてきたそもそもの目標だったのであり、それだけはいかなる事態も阻止することはできません。霊の力は最高の力です。地上にこれ以上の偉大な力は存在しません。それは愛であると言えます。

愛が霊力を動かしているからです。愛こそ宇宙最大の力です。バイブルにも愛は摂理を成就することであると述べております。

 あなたは大へん豊かな恵みを受けておられます。奥さんとは地上で不可能と思っておられたアフィニティの関係でいらっしゃいます。お仕事はこれからもずっと続きます。霊力は地上に根付いております。

 本来ならば同志であるべき人たちからの反抗は気になさらぬことです。あなたの置かれている難しい事情は私もよく存じております。至って人間的な問題です。発達、開発、成長、要するに人間の本性に関わる問題です。

 同じ霊的知識をたずさえている人たちから必ずしも意見の一致が得られるとは限らないものです。ですから不協和音に耐えかねる時は撤退なさることです。いずこにいても霊の力は機能し続け、これまで通りあなた方を導き指示を与えてくれることでしょう。


 (続いてサイキックニューズ紙の編集スタッフの二人が招かれた時の交霊会の様子を紹介する。まずシルバーバーチから述べる)

 お二人には印刷された文字(霊言集)がどれほど素晴らしい結果を生んでいるかは測り知ることができません。しかし現実にはこれまで霊的真理が見出せなかった多くの場所において徐々に突破口が形成されつつあり、私はそれを心強く思っております。

 霊界から見ると地上という世界は実に陰うつで無気味な様相を呈しております。しかし、そうした突破口が灯台の如く地球上の各地に点在しているおかげで、私たちがこうして地上を訪れる際の勇気づけとなっております。

 その一つ一つが確固とした橋頭保となって、霊的巡礼の旅で道に迷ってしまっている人たちを引きつける役目を果たしております。と言っても私たちが救ってあげられるのは、差し出した私たちの手をつかまえてくれる人だけです。霊的真理、その崇高な力を受け入れる用意の出来ていない人は私たちにも為す術がないのです。

 受け入れ準備の整った魂は、霊的真理の灯台の光に引き寄せられます。そして模索と無知と迷信の闇から、広がりゆく知識と確実性の光の中へと通じる道を見出してまいります。

あなた方はそうした魂が真の自我を発揮していくのを手助けしておられるのです。内部に秘められた莫大な霊的可能性を理解していく、その端緒をつける役目を果たしておられるのです。

 多くの場合それは自分に具わっていた霊的能力を活用することによって人を喜ばせてあげることから始まります。それが、かつては不毛の土地だったところに少しずつ霊力を根づかせてまいります。

 お二人も人間としての弱点をお持ちである以上、時にはイヤ気がさし無力感に襲われることもあることでしょう。そのような時はいったん張りつめた思いをほぐしてから、改めて自分が今地上で実現されつつある大きな霊的事業の一端を受け持っていることの光栄を思い出して下さい。

 霊力はすでに地上に根付いております。それを駆逐できる者はいません。都会も教会堂も礼拝堂も寺院も、僧侶も牧師も、霊力が地上に顕現していくのを阻止することはできません。

 あなたがもしたった一人だけでも霊的真理に目覚めさせることに成功したら、それだけであなたの全人生が生きがいのあるものとなります。幸いなことにわれわれは、たった一人でなく大勢の人たちに永遠の財産として何よりも美しい宝石である霊的真理を授けてあげることに成功しているのです。

 以上でささやかながら私からの説教は終わりです。


──説教の主題となる聖句(テクスト)は何も用意なさらないのでしょうか。

 ありますよ。私のテクストは 〝神は愛なり〟 です。私たちの世界に比べて魅力らしい魅力に欠けるこの地上へ戻ってくるのは、あなた方に対して私たちが強い愛念を覚えているからです。

 同時に又、霊力があなた方を通じて他の大勢の人々のために使用される、その通路となっていただきたいからでもあります。地上にはもはや霊力の働きかけによる救済しかない人々が無数にいるのです。

 現代の宗教は今やその影響力をすっかり失っております。無能と不毛の中であがいております。神学だの教義だの、ドグマだの信条だの、儀式だの慣習だので反目し合い、それが足枷となっております。実在は〝霊力〟なのです。条件の整っているところなら何処にでも顕現する生命の根源なのです。

 われわれの仕事はあなた方が想像なさる以上に進展しております。地上においてこうした形で永いあいだ貢献できたことを、私たち霊団の者は光栄に思っております。振り返ってみると大へんな成果が上がっていることを知ります。これは私にとって大いなる喜びの源泉です。

 こうして他に類のない方法で大霊の通路として働くことは、組織にせよ個人にせよ、霊力の援助なくしては叶えられるものではありません。既成宗教の中にも真摯に最善を尽くしている人が大勢いることは認めます。しかし、霊界からの援助なくしては、それは暗闇の中で手探りしている子供のようなものです。

 (訳者注───ここでは同じ真面目な気持ちではあっても、それが意味のない儀式や慣習に縛られた中で行われているかぎり霊的な援助の入る余地はないことを言っている)

聖職者を相手とした説得がもしも失敗に終った時は (事実これまでは数々の失敗がありました)、 あるいはもしもうまく捗らない時は (事実なかなか思うにまかせないものです)、 あるいはもしも手を取り合うべき同志の間で分裂が生じた時は、せっかくのチャンスを目の前にしながらそれをうまく手にすることができなかったその相手のために涙を流してあげることです。

すでにタネは蒔かれております。芽を出すものもあれば出さずに終わるものもありましょう。われわれは、宗教界に身を置きながら真理の普及よりも己の地位の確保の方が大事と思う、その人間ならではの煩悩とも戦わねばならないのです。

 天使が時おり涙を流しておられることがありますと申し上げるのは、そういう事情からです。宗教とは無縁な人なら弁解の余地もありましょうが、神に仕える身であることを自覚しているはずの聖職者が人のためより先に我が身の安泰を考えるようでは、一体どこに弁解の余地がありましょう。

 しかし、計画は着実に進行しております。すでに地上に堅実な足場が築かれております。私たちはただの通行人ではありません。少しの間だけ地上に逗留しているのではありません。永遠に影響力を行使し続けるのです。

人間が自分とはいったい何者なのか、いかなる存在なのか、憎しみといがみ合いを無くするにはどうすべきかを知り、肌の色、階級、宗教、及び国家の違いはあっても霊性において一つであり、霊的団結はそれを分裂させるあらゆる相違点よりも強力であることを知ることによって、みずからの力でみずからを救う方法をお教えしようとしているのです。

 私たちの計画はきっと達成します。撤退するようなことは断じてありません。遅れることはあります。邪魔されることはあります。しかし、たとえ教会、法王、高位聖職者、主教、尊師、牧師といった宗教界のお偉方が何とおっしゃろうと、私たちを追い返すことはできません。彼らこそ道を見失っているのです。


 われわれもパブテスマのヨハネのごとく、これから訪れる世界──平和と調和と愛と慈しみと協調と和合の支配する世界──暴力が忘れられ、すべての者が人のためをモットーに助け合い、地上世界をさながら天国に変えていくための地ならしをしているところです。そういう世界は実現可能ですし、きっと実現します。

 お二人は背後から抱擁し導いてくれる偉大なる霊力と、危機に際して必ず盾となってくれる愛の存在に気づいていらっしゃいます。あなた方は自覚しておられる以上に人々のために役立っていらっしゃいます。

ご自分ではその努力のもたらす結果が測れません。しかし活字は実に大切です。しかも今こうして私の生の声を聞いていただいております。これが、有難いことに、活字に一層の価値を付加することになると聞いております。

 皆さんと私たちとが一丸となって地球浄化の重大なキャンペーンにたずさわる霊の大軍の一翼を形成しております。地上の悪を懲らしめ、暗闇を減らし、より多くの愛をもたらし、人間同士、そしてまた人間と共にこの天体を共有している動物に対しても慈悲の心を向けさせるようにする仕事です。

 お互いの協力によってこれまでに成し遂げた成果を私たちは心から喜び、これからさらに多くの魂に自由をもたらしていく仕事にも自信をもって臨んでおります。それが自分の住む世界へ貢献をさせてあげるゆえんとなるからです。
 
 数から言えば私たちは比較的少数かもしれません。しかし背後に控えて下さっている力は宇宙最強の力です。これに刃向かえる者はいません。これを打ち負かせる者はいません。

その働きを阻止できる者はいません。いかなる団体も組織も、霊力が地上の人々に光明をもたらすという計画の成就を阻止することは絶対にできません。

 私はたった今、私の本来の住処である上層界から戻ってきたところです。こうして地上的手段で交信している時の次元よりもはるかに高い次元で気分一新と元気回復を求めてまいりました。

同時に、神の意志の地上への顕現という大業を担当する神庁の高級神霊による審議会に出席してまいりました。計画が首尾よく進捗しており、見通しも明るいとのお言葉を頂戴すると、とても元気づけられます。

 そうして新たな気持ちでこれまで通りの仕事に戻ってくるわけです。それは地上に美と荘厳さを少しでも増すために、霊こそ実在であること、その霊に無限の神の資質が宿されていることを教えることです。

その結果として貪欲と利己心と分裂と暴力──要するに地上天国の建設の妨げとなっているものすべてを地上から駆逐することです。

 この暗くわびしい地上世界、明日はどうなるかという不安に満ちた世界に戻ってきて私たちに断言できることは、この地上にも序々に霊の光が差し込み、その力がすみずみまで浸透しつつあり、明日のことで取り越し苦労するには及ばないということです。

 幸いにして霊的実在につての知識を手にした者は、いかなる程度であっても悲観の念を心に宿すことがあってはなりません。霊力は地上世界のいかなる力よりも強力です。それを人間が遅らせることはできます。邪魔することはできます。妨害することはできます。しかし、定められた計画の成就のための霊力の地上への降下を阻止することはできません。

 すでに可能な限りの数の橋頭保が地上各地に敷設(ふせつ)されており、地盤はしっかりと固められております。霊力の灯台にもたとえられるべきものも築かれており、道を失った人々のために間断なく光を放射しております。

その霊力の通路であるあなた方および他の大勢の人々のもとに、その灯台の明かりを頼りにした人たちがこれからも訪れて来ることでしょう。

 霊に秘められた力、生命力、エネルギーの大きさをどう表現したら分かっていただけるか、その言葉が見当たらないのが残念です。人間に正しく理解していただくための用語がないのです。本日お話したことでも、できればお伝えしたことのほんの一かけらに過ぎません。

 霊力は無限です。が、そこからどれだけのものを受け取るかは、あなたが現在までに到達した霊格の程度によって決まります。その受容力を少しでも増すことを心掛けることです。そうすれば、それだけ多くの霊力が流入し、その驚異、その美しさ、その安らぎ、その治療力を発揮してくれることになります。


 (ドイツへの移民に失敗した英国人ジャーナリストにシルバーバーチがこうアドバイスした)

 あなたは教訓を学ぶために地上世界に来ているのです。たとえ判断の誤りから挫折することがあっても、そこから多くの教訓を学ぶことができます。挫折から絶望へと進んで何も学べずに終われば、それはその人の責任です。あなたの場合は大丈夫です。そのうち道が開けます。


──私はかつて住み慣れた国(ドイツ)へもう一度行きたいと思ったのです。しかし、同じ川に同じ水は流れていないことを知りました。仕事がどうしても見つかりませんでした。結局私は、思いが叶い快適な場所に落ち着きながら、なおかつ惨めな思いをさせられることが有り得ることを思い知らされました。

 問題は、あなたほどの霊的知識をたずさえた者は霊的砂漠の中では生きて行けないということです。砂漠ではオアシスを見つけることはとても困難です。しかし事態は決して取り返しがつかないというほどのものではありません。

あなたが巻き込まれた事態は今日の一般的な自体よりはるかに困難なものでした。(その背景説明がないので何を指しているのかが曖昧であるが、多分政治的なことを言っていると思われる──訳者) そうした中であなたは霊的な導きを得て、無事切り抜けてこられました。そして、かつては不可能だった自由の中で自我の開発を志す場を見出されました。

 元気をお出しなさい。くよくよしてはいけません。取り越し苦労はお止しなさい。心配しても何にもなりません。心配の念は霊界から届けられる援助の通路を塞ぎます。自信を持つのです。

道はきっと開けるという確信を持つのです。いつの日か、苦い体験だったがお陰で精神的ならびに霊的に成長したから悔いはない、と言える日が来ることでしょう。


──たしかに大へん勉強になりました。

 同志の方にはいつも申し上げていることですが、信仰に知識を加えることから出発して、最後は知識に信仰を加えることで終わります。地上はおろか霊界においてすら、存在する知識の全てを手にすることは不可能です。知識は大霊と同じく無限であり、いつまでたっても蓄えを増やし続けることの連続です。

 首をうなだれてはいけません。後ろを振り向いてはいけません。前を見るのです。過去のページはすでにめくられ、二度と元へは戻せないのです。生命の書は常に新しいページをめくるのです。その日その日のために生き、昨日のために生きてはいけません。明日刈り取る収穫のタネを蒔くのは今日なのです。


───国外へ出ることによって私はそれまでの流れの外に出てしまったわけです。元の流れに戻るのは容易ではありません。霊的知識を広めるという、私が望んでいる仕事を始める方法があるでしょうか。

 あなたには果たしきれないほど沢山の仕事が用意されております。ただ、前にも一度申し上げたことで、改めてここで繰り返させていただきたいことがあります。皆さん方のように霊的知識を手にした方でもうっかりすると忘れがちなことですが、私たち霊界の者はあくまでも私たちにとって都合のよいタイミングで私たちの方法でしか仕事ができないということです。

 言いかえれば、あなた方の都合に合わせてあなた方の方法でするわけにはいかないということです。地上へ働きかけるには、極めて微妙で繊細な影響力、この上なく複雑な取り扱いを必要とするバイブレーションを行使しなくてはならないからです。

 ところが人間は何かとせっかちであるために、往々にしてその性急さが、本来ならもっと楽に叶えられるはずの条件を阻害して、結局は実現を遅らせることになります。

私たちから要請したいのは受容性に富み、確信に満ち、冷静でのどかな精神、それに、とにかく自分にとって一番良いものがもたらされるのだ──ただしその機が熟した時に、ということを一点の疑念もなく洞察できる能力です。

 それにしがみつくのです。あせってはなりません。地上世界の一ばん困った点は、何かにつけてせっかちであることです。

 私たちが皆さんを目覚めさせるまでにどれだけの時を費やしたかご存じでしょうか。霊に関わることは〝早く片付ける〟ということが不可能なのです。無限なる叡智が案出した摂理に従わねばならないのです。

 もう一度繰り返します。真理は何度繰り返し述べてもよいでしょう。私たちは私たちのやり方で私たちのタイミングで事を運びます。あなた方の都合に合わせて行うわけにはいかないのです。

 霊的にみてどうなることが自分にとって一ばん良いかは、人間自身には正しく判断できません。人間の祈りを聞いておりますと、その願いどおりにしてあげたら霊的にはとんでもないことになると思われるものがよく見られます。

そこで私たちの判断に基づいて皆さんにとって一ばん良い形で援助します。指導してあげます。けっして裏切りません。見放しません。見捨てるようなことはいたしません。

 霊の威力についてはこれまで数々の証拠をお見せしてきました。私たちと歩みを共にしてこられた方には、霊力がどれだけのことを為しうるかをよくご存じのはずです。

(訳者注──『霊訓』 のインペレーター霊団と同じように、シルバーバーチ霊団も高等な思想を説く前に霊の威力を見せつけるための手段として、物理的心霊現象を演出して見せている。これはスピリチュアリズム思想の歴史的な発展全体についても言えることで、最初は目に見える現象的なものが盛んに行われ、それが次第に精神的なものへ移行し、そして現在では思想的教訓が主流となっている)
 
 私たちは地上世界のための仕事を請け負っております。数からすれば決して多いとは言えませんが、この仕事のために私たちを派遣したのは上層界の霊団なのです。その高級神霊は幾億と知れぬ人間に慈愛に満ちた影響力を行き亘らせるために、私たちを通じて霊力を行使し続ける任に当たっております。

 地上には暗黒と疑念と当惑と絶望の中で生きている魂が多すぎます。私たちはそういう人たちに手を差し伸べねばならないのです。神の愛の存在を教えてあげなければならないのです。精神的に生まれ変わって豊かな生きがいある人生を送る、その原動力となる霊力の存在を知らしめなくてはならないのです。

 しかし私たちは着実に困難を突破し、新たな地点に橋頭保を築きつつあります。これ迄に成就し得た成果をよろこび、皆さんの援助があればこれからもそれ以上のことが為し得ることを知ってください。

 霊的知識をたずさえた者に楽な仕事はありません。知識が増えれば増えるほど、ますます困難に遭遇するものと覚悟してください。こんなことを言うから私は人気が出ないのでしょうね。

 しかし、内在する霊的資質を顕現せしめるためには、幾つかの困難を覚悟し、それを挑戦目標として歓迎し克服して行かねばならないのです。もしも霊的知識を授かった者が安易な仕事しか授からないとしたら、それは神の公正を愚弄することになります。

ですから、いかなる困難に出会っても絶望してはなりません。自分の内部にも背後にも、それを克服するだけの力が存在することを確信して、それを一つの挑戦として迎え撃つのです。

 われわれが従事している仕事は実に重大な意義があります。数こそ少数派ですが、背後に控える力は絶大です。それが地上へ顕現するにつれて神の計画に組み込まれた役割を果たしてまいります。現時点でそれがどれほどの成果を上げているかは、皆さんにはお分かりになれません。

地上にはそれを計量する道具がないのです。しかし、魂が感動を覚え、精神が開かれていく人が着実に増えつつあります。

 地上の先輩の一人が〝子供は無限の可能性の宝庫である〟と述べています。皆さんも無限の可能性を秘めていらっしゃるのです。が、地上では普通そのほんの一かけらしか発揮させていません。

もしも高級界との波長が合い、霊力をふんだんに受けることができれば、思いも寄らなかったことが成就されるのですが・・・・・・

 私は霊的知識に照らして楽観的な福音を説いております。霊的な知識を携えた者には悲観的になる根拠はどこにも見当たりません。人生の出来事には一つ一つ目的があります。幸運、偶然、奇跡といったもので動いているのではありません。改正も廃止もない永遠不変の摂理によって動いているのです。

 神は完全です。その神の無限の叡智と愛を超えるものは、この宇宙には存在しません。その叡智と愛をあなたも頂けるのです。すべてではありません。受け入れ能力が増すにつれて、それだけ多くの叡智と愛を頂くことができ、それだけ生活が豊かで、雄大で、高潔なものとなってまいります。

 私がお届けするのは永遠の実在を基本とした崇高な真理です。神は決して裏切りません。大自然の摂理はこれからも作用を止めることはありません。いかなる危機が迫りつつあっても、いかなる問題に遭遇しても、あなたの内部にそれを克服する力が秘められていることを忘れてはなりません。

同時に、それ以上の強力な力が背後に控えているのです。それを呼び寄せることもできるのです。

 困難に悩まされた時は───それは人間としては避けがたい宿命です───地上の喧騒から身を引いて瞑想の世界へ入ることです。そこで霊的意識を広げ、あたりに漂う光輝を存分に吸い込むのです。

 私は何一つ新しいことは申し上げておりません。真理には真新しいものはないのです。その表現の仕方がいろいろあるだけです。


──決断に迷った時は導きを求めるべきでしょうか。それともあくまで自分の意志で判断すべきでしょうか。私たちは時として大きな決断を迫られることがあります。そんな時に思い切って突進すべきか、自然に道が開けるのを待つべきかで迷うのです。とても難しいことがあります。

 閉め切られたドアを忙しく叩いてはいけません。自然に開くのを待つのです。宇宙全体だけでなく一人一人の人間にも、きちんとした計画(プラン)があります。そのプランが実行に移されて行くのです。

 ここにおいでの皆さんには何度も申し上げていることですが、私達はそのプランのもとに、私たちのやり方で私たちのタイミングで事を運ぶしかないのです。人間側の都合に合わせるわけにはいかないのです。

 その理由の一つは、人間には自分にとってどうなるのが一ばん良いかが判断できないからです。物質的に、精神的に、そして霊的にあなたに何が一番望ましいかを判断するには、私たちの方が有利な立場にあります。

 待つのです。きっとドアは開かれます。これまでも幾度となく開かれてきております。

Thursday, November 5, 2026

シルバーバーチの霊訓 (十)

 Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva

近藤千雄訳 



八章 背後霊の仕事 

── 一般的に言って指導霊というのは人間のパーソナリティの規模を拡張した、その延長と考えてよろしいでしょうか。それともまったく別個の存在でしょうか。


 とても複雑な問題です。今おっしゃったパーソナリティはインディビジュアリティに置きかえた方がよいと思います。私は物的身体から派生する人物像であるパーソナリティと、その人物像という仮面(マスク)の背後の実像であるインディビジュアリティとを区別しております。

 地上ではあなたという存在はあくまでも独立した一人物ですが、霊的なインディビジュアリティは必ずしもそうではありません。例えばアフィニティというのがあります。これは一個の魂が半分に分かれた存在で、二つが同時に地上へ誕生することがあるのです。

 それから私がダイヤモンドの側面に例えている〝霊相〟とでも呼ぶべきものがあります。一個のダイヤモンドがあって、それに沢山の〝相〟facet があります。それぞれが地上に誕生して体験を持ち帰り、ダイヤモンドの光沢を増します。

 さらにそのダイヤモンドがいくつか集まって一個のインディビジュアリティを構成しております。例えばこの霊媒(バーバネル)と奥さん(シルビア・バーバネル)と私(シルバーバーチ)とは一個のインディビジュアリティに所属しております。一人の支配霊がいくつかの類魂を従えていることがあるわけです。

それを〝延長〟と呼びたければそう呼ばれても結構です。が、結局は同じことに帰一します。つまり地上で肉体を通して顕現するのはインディビジュアリティの極々小さな一部と言うことです。

(訳者注──これまでインディビジュアリティとダイヤモンドが同一であるような表現で説明していたのを、ここで初めて霊側からみた場合の違いを解説している。

 要するに意識の中枢であるインディビジュアリティがあって、その分霊を受けた魂の集団、いわゆるグループソールがある。その魂の一つにも相 facet があり、その相が地上へ誕生してくることもある。一つだけのこともあれば二つ、三つ、あるいはもっと多くの相が一度に一個の人間として誕生してくることもあり、全部が、つまり一個のダイヤモンドがそっくり誕生してくることもある。魂が大きいというのは相が数多く携えているということである。使命が大きいほど多くの相を携えている。

 ダイヤモンドに例えられているのは一個の魂のことであり、その魂がたくさん集まって一個のインディビジュアリティを構成している。地上で〝自分〟として意識しているのは脳を中枢として顕現している地上特有の人物像であって、その中において霊的自我の占める要素は極めて少ない。よほどの切実な試練でも体験しない限り目覚めない。

そこでシルバーバーチは安楽な生活より苦難の生活の方が有難いのです。と言うわけである。

 なお以上の説明は〝霊側からみた場合の違い〟であって、それを人間側からどう理解するのかは、例えや用語の受け止め方によって各人まちまちであろう。シルバーバーチがたびたび言っているように、用語にはあまりこだわらない方がよい)


──霊の導きを受けていることは私にも分かりますし、そのレベルの高さも分かるのですが、分からないのは、その導きの源が普遍的な始源なのか、それとも特定の指導霊なのかという点です。祈りまたは瞑想によってその出所を確かめる方法はあるのでしょうか。

 よく引用される諺をまた使用させていただきましょうか。〝師は弟子に合わせて法を説く〟 と言います。これがご質問への答えにならないでしょうか。このようなことにこだわってはいけません。

すべての導きは宇宙の大霊すなわち神から来ます。神庁から派遣される霊、およびあなたと霊的近親関係にある高級霊が、あなたが地上へ誕生する前から付いてくれているのです。

 必ずしも姿を見せるとは限りませんが、霊によってはきちんと姿を見せて地上での仕事について相談し、よく納得してから誕生させる場合もあります。その霊を何と呼ばれても結構です。今もちゃんと控えて下さっています。

側を離れることはありません。(九巻の解説《〝霊がすぐ側にいる〟ということの意味》参照)。その仕事は聖書(詩篇)にある通りです───〝神は天使を遣わして汝を守り、すべての面倒を見させ給う〟


 いずれも光り輝く存在です。それぞれの受け持ちの人間を取り囲み、保護と指導と援助という、みずから課した責任の遂行に当たります。その最後の目標は霊的発達を促すための道へ導くことです。それは容易なことではありません。岩や石ころだらけです。しかも見慣れた景色を後にするにつれて、ますます困難さを増していくものです。

(同じことを別のところで〝霊的理解が深まるにつれて、ますます孤独感が増していくものです〟と表現している──訳者)

 しかし、低く沈むだけ、それだけ高く上がることもできるのです。志は無限に高くもつことができます。完全というのは、いつかどこかで達成される性質の過程ではありません。到達せんとする過程の無限の連続です。

 霊の褒章を手に入れたければ、それなりの犠牲を払う覚悟がなくてはなりません。しかし、いったん手に入れたら二度と失うことはありません。

 私たちには人間世界の困難な事情、問題、そして欲求のすべてをよく理解しております。物的な世界に住んでおられるのだということを十分認識しております。

そこで、奉仕的な仕事に打ち込んでおられる方が食べるものや飲むものに事欠くことのないように、その供給源との連絡を取りもっております。必要最小限のものは必ず手に入ります。

 皆さんだけでなく、お会いする人すべてに申し上げていることは、人間としての最善を尽くしてさえいればよろしいと言うことです。それ以上のものは要求しません。たとえ倒れてもまた立ちあがることができるのです。


──支配霊にはレッド・インディアンが多いようですが、霊媒が次々と他界していったあと、それを継ぐ人がいないようです。もっと多くのインディアンの支配霊の働きを期待したいのですが・・・・・・

 情けないことを言ってはいけません。時が至れば必ず手段は見つかるものです。もとより霊媒も生身である以上は、いつかは霊界へ来なくてはなりません。神は肉体が永遠の生命を持つようには計画されていません。地球というのはほんの束の間の生活の場です。永遠の住処ではありません。


 (招待客の一人で心霊治療家として活躍している女性が述べる)

──霊媒のバーバネルさんが他界なさる時が来たらどうしようかと心配でなりません。

 心配はお止めなさい。心配してもなんの解決にもなりません。不安を抱いてはいけません。私は時折、私がこの霊媒たった一人を道具として使命を開始した時のことを振り返ってみることがあります。

英語を一言も話すことが出来なかったのです。それが今ではこうして大勢の方とお話ができるようになった幸運をしみじみと味わっているところです。

 あとのことはあとの者が面倒を見ます。ますます発達していく科学技術のお陰で私たちが成し遂げた以上の規模の人々に真理を普及する手段が活用されるようになります。

 あなたが治療家としてどれほどの貢献をなさっておられるかは、あなたご自身にはお分かりになりません。地上的なものさしを超えたものだからです。身体を癒しておられるのは事実ですが、もっと大切なことは魂の琴線に触れることです。

眠ったままの小さな神性の種子が目を覚まし、芽を出し、花を開く、その端緒をつけてあげるのです。最終的には個としての存在価値を成就させてあげることになる、そのスタートとなります。

そうした意義ある仕事をするチャンスを数多く与えられていることを喜んでください。あなたは病人の人を癒すために生まれて来ておられます。


──でも、時たまですが、がっかりさせられることがあります。

 分かっております。半世紀近くも地上で仕事をしてきた私が、人間の煩悩に気が付いていないと思われては心外です。あなたにも莫大な霊的潜在力が宿されております。イザという時に頼りにできる霊的な武器です。

 しかし万が一そこから十分なものを引き出すことができない時は、私たちを頼りにしてください。けっして見放すようなことはいたしません。

 もしもうんざりしたり困惑したり悲観的な気持ちになったりした時は、地上の喧騒から逃れて魂の静寂の中へ引っ込むことです。そうしてそこに溢れる豊かな光輝に馴染み、美しさに思い切り浸り、そこから得られる静けさと落着きと安らぎと自信を味わうことです。こうして気分一新してから再び地上世界へ戻り、はつらつと仕事を始めるのです。

 とかく前向きに進むほかはありません。引き退がってはなりません。どこにいても人のためになることを心掛けるのです。援助を求めてあなたのもとを尋ねる人をけっして拒絶してはなりません。

かといって、そういう人を求め歩いてはいけません。向こうからやってくるものなのです。〝病気を治してほしい人はいませんか〟などと町を触れて回るようなことをしてはなりません。あなたの援助を求めて先方から駆け付けるものなのです。(そういうふうに霊界の方で取り計らってくれるということ───訳者)

 無限なる叡智を具えた神によって霊的才能を賦与された人間は、導かれるところはどこへでも出向き、いかなる人にでも救いの手を伸ばしてあげるべきです。その行為が蒔く種子が肥沃な土地に落ちて魂を豊かにすることになることを期待しながら、どしどし種子を蒔いていくことです。

人間には霊の道具として成し遂げつつある仕事の大きさを測り知ることは出来ませんし、その価値を評価することも出来ません。


──私には二人の指導霊がついて下さっていると聞いております。一人はエジプト人で、もう一人は北米インディアンです。本当かどうか、確認して頂きたいのですが・・・・・・

 なぜそのようなことにこだわるのかが理解できません。その二人がしっかりとした霊であることはお認めになっているのでしょう?


──その点は疑問の余地はございません。

 だったら、その二人の霊が地上でどこに住んでいたかなどということはどうでもよいことではありませんか。大切なのは霊の威力です。間違いなく霊の世界からのものであることを示してくれる力です。あなたを愛し、そして援助してくれる背後霊に密かな信念をお持ちなさい。あなたを迷わせるようなことは致しません。イザという時は必ず道を示してくださいます。

シルバーバーチの霊訓 (十)

 Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva

近藤千雄訳 


七章  再生問題を語る 

(前にも一度招待されたことのある熱心なスピリチュアリストが再度招かれた。霊的なことにまったく理解を示してくれない夫が重病の床にあって、今夫人はかつてない厳しい精神的試練に立たされているからだった。その夫人に向かってシルバーバーチが語る)

 今あなたが人生最大の試練に立たされていることは私から改めて指摘するまでもないことと思います、しかし、いかなる困難に取り囲まれていようと、あなたはきっと切り抜けていかれることでしょう。背後に控える力が実に強力だからです。決してあなたを見捨てるようなことはいたしません。

 いかなる人生にも、赤裸々な現実に直面させられる時期が必ずあるものです。その時こそあなたの信念が確固たる知識の上に築かれていることを確認しなくてはなりません。

つまりその現実に直面することによって自分の存在価値を試され、いかに身近で切実な問題であろうと、それによってあなたがこれこそ実在であると信じているもの───絶対に裏切ることのない霊的原理から気をそらされることがない(迷わない)ことを立証させられるのです。

 その点あなたは、こうした危機において砦となるべき知識へ導かれてその用意が出来ていたことは幸せというべきです。

 ですから、あなたは決して首をうなだれてはなりません。表情と振舞いによって、あなたが霊的自由をもたらしてくれた真理をいささかも忘れていないことを示すように努力してください。


───子供たちもこの逆境によく耐えてくれておりますが、それとは別の問題があるのです。末の子がスピリチュアリズムや心霊的なことにとても興味を抱いているのですが、夫はまったく理解がなく、私がその子にそれを止めさせようとしないことを咎めるのです。

 夫にしてみれば自分の信仰とことごとく対立することばかりなので、そのことで心を傷めております。私はどちらの気持ちを優先させるべきかが分からず悩んでいるところです。


 私は年輩の者の信仰よりも若者にとっての必要性の方が大切であると考えます。
 一方は地上生活のコースを殆ど終えた段階にあります。他方はこれからという段階であり、全コースが前途に横たわっております。これまでと同じように、あなたの才覚と臨機応変の知恵を探ってください。ただし、あなたの信じる霊的原理から外れたことは絶対にしてはなりません。

 自然に具わっている心霊的能力を抑え付けることが望ましいことでないことは、あなたも理解しておられるはずです。万一抑え付けるようなことをすれば、お子さんの全人的構造に歪みを生じさせることになります。自然に具わっているものを出させないようにするよりも、全人的健全さを身につけさせる方が好ましいことは言うまでもありません。

是非そこのところは、あなたなりの才覚と知恵によって、これまでと同じように、ご主人の為にもなるように工夫してみて下さい。


───その息子は再生というものを信じているらしいのです。しかし今自分の父親が死にかかっているのを見て不安を抱いております。父親が死んで家族が別れ別れになったあと、父親がどこかに再生してしまえば、はたしてうまく再会できるかどうかが心配だと言うのです。

 そういう心配はご無用です。再生するまでには永い永い年月を要することがあるからです。あなた方の世界の諺で私もなかなか良いことを言っていると思うものに〝橋のたもとに来るまでは橋を渡ってはいけない〟(余計な取り越し苦労をするな)というのがあります。

再生は確かにあるのですが、これにはいろんな要素が絡んでおります。そのために、それが理解できない人に説明することは容易でありません。

 私は再生が事実であることを、いささかの躊躇もなく断言します。ただ私は、すべての人が再生するとは言っておりません。私が言っているのは、人間の個性というのはそれ自体が独立した存在ではなくて、大きなダイヤモンドの無数の側面の一つにすぎないこと。

その側面が地上へ誕生して体験を積み、それによって得られる霊的成長をダイヤモンドに持ち帰って、一段と光沢と輝きを増すことになるということです。

 それは、支払うべき霊的借金とでもいうべき宿業(カルマ)を持った人が因果律の働きで戻って来る場合もありますし、進化した高級霊が特定のグループ、時には特定の国家のために貢献する使命を持って降誕する場合もあります。その霊の持つ資質と才能とがその地域の人たちに必要だからです。

 これはとても複雑な問題です。私がダイヤモンドに例えているインディビジュアリティというのがあり(厳密にいうと両者は異なる。その違いを八章で説明している───訳者)、それは、たった一回の地上生活で発揮されるパーソナリティ(人物像)よりもはるかに大きなものであるということが理解できるようでなければ、この問題は扱えません。

 そのパーソナリティとインディビジュアリティとを混同している方が多いようです。一個のインディビジュアリティがいくつもの分霊を出して地上に沢山のパーソナリティを持つことが出来ます。

インディビジュアリティの物的表現、ないしは顕現です。数は沢山ですが、同じインディビジュアリティから出ているのです。

 パーソナリティというのは仮面を意味するラテン語のパーソナから来た言葉で、物的身体にまつわるものを意味します。インディビジュアリティが五つの物的感覚を通して自我を表現するための道具であり、氷山に例えれば水面上に出ているほんの一部に過ぎません。

 パーソナリティは地上でつけているマスクです。インディビジュアリティ、つまり本当の自我はめったに顔を出しません。(五感に邪魔されて)出そうにも出せないのです。死によって肉体から分離した時に自覚される大きな自我に比べると実にお粗末なものしか表現しておりません。

 このようにインディビジュアリティはパーソナリティよりはるかに大きなものです。死後に生き続けるのはパーソナリティではありません。パーソナリティはインディビジュアリティによって投影された影にすぎません。

そのインディビジュアリティが、肉体の死後、地上で発揮されなかった潜在的可能性を少しずつ発揮していきます。

地上での特別な使命が託されている場合はインディビジュアリティの比較的大きい部分───多くの側面───がまとまって一個の肉体に宿ります。この場合にもダイヤモンドの光沢を増すための体験を積むという目的も兼ねているのです。

 二人の人間がアフィニティ(霊的親族)であることがあります。別々の人間でありながら一個の魂の半分ずつなのです。地上でそういう関係の人と一諸になれた時は、物的な富では測れない豊かさがもたらされます。アフィニティは同じダイヤモンドを構成している部分的側面です。こう申し上げても理解できないでしょうが、こうした霊的な問題は言語による説明がとても難しいのです。

 一つの大きな魂(インディビジュアリティ)があって、それに幾つもの部分的側面があります。それらが別々の時代にパーソナリティとして地上に生を受けます。が、寿命を終えて霊界へ戻ってきた時も一個のインディビジュアリティの側面であることに変わりありません。

 一つの家族が霊界へ来ても、自動的に合流するわけではありません。家族のメンバーが自然な霊的親和性を持っている場合にのみ、それが有りえます。親和性がなければ再会はありません。霊的のレベルが違うからです。

 夫婦の場合であれば、身体上の結婚だけでなく魂と精神においても結ばれていなければ、霊界での再会は不可能です。再会を決定づけるのは霊的親和性です。死後しばらくは血縁によるバイブレーションが残っていますが、それには永続性がありません。

 霊は物質に勝ります。霊に関わるものは死後にも残り続けますが、物質に関わるものはそのうち消えます。お子さんにそのことをよく説明してあげないといけません。

なかなかうまく説明できないかも知れませんが、とにかくすべてが不変の法則によって支配されているのです。その法則の根本にあるものは愛です。愛は大霊の表現です。神、創造主、どう呼ばれても結構です。

 首をうなだれてはいけません。あなたはしっかりと導かれ援助を受けておられます。きっと乗り切ることが出来ます。一瞬たりとも挫折の心配を抱いてはなりません。このたびの経験は結果的にはあなたの霊性を強化し、前途に横たわる未来において大きな豊かさをもたらしてくれる貴重な教訓を植え付けてくれることでしょう。

 私は地上の同志の方に気楽な人生、何の障害もない人生をお約束することは絶対にできません。私から言えることは、障害も困難もその一つ一つが挑戦すべき目標だということです。一つ克服するごとに、あなたは霊的に成長するのです。

 地上の人間はいつかは死ななくてはなりません。物的身体を携えて永遠に生きるということは、自然法則上、不可能なことです。

無知と迷信から生まれる死の恐怖さえ克服すれば、地上の人間にとって死が暗闇から光明へ導いてくれる天使であり、地上で活用されることのなかった才覚と能力とを発揮する好機を与えてくれるものとして歓迎するようになることでしょう。


───〝霊〟(スピリット)と〝魂〟(ソウル)の違いについて教えていただけませんか。スピリチュアリズムの七つの綱領の中で私たちは死後の個性の存続をうたっておりますが、次に生まれ変わる時、実際に再生するのは最初の霊の個性とは別のものでしょうか。

 これはまた厄介な質問をしてくださいました。問題は用語にあります。言語を超えたものを説明するための用語を見つけなければならないので厄介なのです。

 魂と霊の違いがその好例です。使用する際にはどういう意味で使用するかを明確にしないといけません。ここでは単純に、魂とは無限なる宇宙の大霊から出た分子、粒子、神性ということにしましょう。そして霊とはその魂の媒質(※)です。

 それが肉体から分離すると地上時代よりはるかに自由自在に機能を発揮するようになります。肉体は物質でできています。それが霊の表現を制約しているのです。

(※現象界においてはこの二者が一体となって初めて存在できるもので、切り離すことができない。日本語の〝霊魂〟という言い方はその意味で当を得ているが、問題はその理解である。しかし厳密に言えば違いはあっても、実際にはシルバーバーチも置き換えて使用することが多い。

次元が異なるので、止むを得ないことであろう。それはちょうど太陽は厳密に言えば東から昇ってもいないし西に沈んでもいないが、地上から見る限りはそう表現するよりほかに方法がないのと同じであろう。第二巻〝霊〟と〝魂〟についての解説参照───訳者)

 それゆえ、あなた方は霊をたずさえた魂であり、それが肉体を通して自我を表現しているのです。パーソナリティというのはその肉体を携えた地上生活において表現されている側面のことでしかありません。それは本当の自我であるインディビジュアリティのごく小さな一部にすぎません。肉体に包まれているために存分に自我を発揮できないのです。


───次に生まれ変わるのはその地上生活で発揮したパーソナリティ(人物像)ではなくて、その奥の霊または魂なのですね。

 その通りです。前回の地上生活の時と同じ人物がそっくり再生してくることは有りえません。人物像は肉体の死と共に消滅します。それはインディビジュアリティの物的表現にすぎません。


───私の考えでは、われわれは皆、かつてはもっと大きな意識を持っていたのを、今こうして地上に存在している間はそれを放棄し、死後霊界へ行ってからそれを取り戻すのだと理解しております。そう考えるといろんな疑問が解けるのです。

  あなたは今歩んでいる道を地上に来る前に選択されたのです。その時はその大きな意識で自覚しておられたのです。それが肉体に宿り脳を通して意識するようになって曇らされているのです。脳の意識では潜在意識の深奥は探れないからです。

 その誕生前の意識を目覚めさせるためには、その触媒となるべき危機的体験を積まねばなりません。いつかは明瞭に意識する日が来ます。


───地上へ誕生しようとするのは何か特別やりたいことがあるからでしょうか、それとも、より多くの知識を得るためでしょうか。

(両方ともそうですが)それ以外にも何か奉仕的な仕事を行い、その中で神から授かった霊的資質を開発するための場合もあります。


───私にとっては霊的知識こそ神からの授かりものです。

 無限なる叡智を持つ神があなたに授けられたのです。


───ある書物に、われわれは同時に二つの場所に生まれ出ることができると書いてありました。事実でしょうか。

 私は、真の自我であるダイヤモンドには無数の側面があり、それがさまざまな体験を持ち帰ってダイヤモンドの光沢を増す、という考えです。ダイヤモンド全体が一度に生まれてくることはありません。いかなる身体もインディビジュアリティのすべてを宿すことは不可能だからです。

 パーソナリティとインディビジュアリティの違いを理解しないといけません。パーソナリティというのは物的身体を通して顕現した地上だけの人物像です。インディビジュアリティというのは魂の全体像です。その全体像を地上で七〇年や八〇年、あるいは九〇年の間に発揮することは到底不可能です。

 〝われわれ〟とおっしゃった同じダイヤモンドの仲間の別の側面が同時に地上へ誕生することは有り得ることです。が、すべては法則と秩序によって規制されております。その時期が来るまでは余計な心配はなさらぬことです。

 もう一度生まれ変わりたいという願望を持つようになる人がいます。奉仕的活動をしたいという場合もあります。成し遂げたい仕事がある場合もあります。償わねばならないカルマ的な〝借金〟が残っている場合もあります。そういう人たちが地上へ再生するのです。

二度、三度と繰り返すこともあります。が、いずれの場合も再生してくるのは真の自我すなわちインディビジュアリティの側面の一つです。

 再生したくないのであれば、何もこの暗いじめじめした陰鬱な世界へ戻ってくる必要はありません。真の自我に目覚めた人は再生してくる必要はありません。

 
───なぜ再生してこない人がいるのでしょうか。そういう人はそれから先どうなるのでしょうか。

 支払うべきカルマの負債もなく、やらねばならない仕事もないからです。地上での用事がすっかり終わったということです。もう地上へ戻ってきてすることがないのです。地上との一切の縁を切って、霊界での向上進化に専念することが出来ます。


 ───もう下層界へ下りることがないわけですね。ひたすら上へ向けて進歩し、下降することがないのですね。

 進化は常に向上です。下降であれば退化となります。もっとも、進化は必ずしも直線的なものではありません。渦巻状(スパイラル)に同じことを繰り返しているようで、実際には着実に向上しています。

 そこには因果律という自然の摂理が働いており、完全な公正が支配しています。人間の法律はごまかせますが、神の摂理はごまかせません。因果律が生み出すものには絶対的に従わねばなりません。あなたが心配なさる必要はありません。

 ここでぜひ指摘しておきたいのは、地上の人間は再生というものを、今の自分にない一種の栄光に憧れる気持ちから信じている場合が多いということです。人間世界でいうところの 〝劣等感〟(コンプレックス)です。現在の自分の身の上がいくら惨めでも、かつて前世では高貴な身の上だったのだと信じることによって慰めを得ようとするのです。

 しかし再生とはそういうものではありません。(前世では〇〇という人物だったというのはナンセンスです、と別のところで述べている──訳者)。 自然の摂理によってきちんと公正が行きわたっております。必ずしも地上生活中にそうなるとは限りませんが、その場合は霊界において清算されます。そういうものなのです。


 ───霊界へ行ってからでもカルマを清算することが出来るのでしょうか。

 無論です。それが普通です。


 ───ではなぜ地上へ戻って来るのでしょうか。

 地上でしか支払えない借りがあるからです。地上の危急存亡の時に当たって何かの貢献をしたいという自発的な願望から、再生の道を選ぶのです。みんな何らかの貢献をするために再生してくるのです。すべてに計画があるのです。


 ───私だったらこの地上よりそちらで償いをしたいですね!

 選択の自由は与えられています。が、忘れないでいただきたいのは、その自由意志も相対的なものであることです。やりたくてもできないことがあり、また、どうしても選べないコースというのがあります。最終的にはあなたがそれまでに到達した霊的進化の程度が、次に取るべき手段を決定づけるからです。


  (スイスからの招待客が質問する)

──地上へ再生するまでに霊界で何年くらい、あるいは何世紀くらい待つのでしょうか。一〇六〇年という説があり、男性だった者は女性に生まれ変わるというのですが、本当でしょうか。

 その数字はどなたが計算されたのでしょうか。 


──ある大学の講演で聞きました。

 地上に戻ってくる人がいることは事実です。再生してくるわけですが、それまでの間隔は別に一定の年数が決められているわけではなく、あくまでも一つの計算に基づいてそうなるのです。

 カルマによる義務の遂行のために戻ってくる人もいれば、自発的に地上での貢献を目的として戻ってくる人もいます。男性として戻ってくるか女性として戻ってくるかは、格別に重大なことではありません。私たちの世界には性差別防止条例はありませんので!
 
 霊的進化の程度が唯一の基準です。男性であるか女性であるかは問題ではありません。大切なのはその人の行為です。

 また、男性と女性にはそれぞれに果たすべき役目があり、双方が一体となって完全な全体ができあがるように、互いに補完し合うようになっているのです。互いがアフィニティであることを見つけ合うことがあるのはそのためです。そうなったら二度と別れ別れにはなりません。


──戻ってくることもあり戻ってこないこともあるということですね。

 為すべき仕事があればそれをしに戻ってきます。仕事が未完のまま残されていればそれを仕上げに戻ってきます。すべては法則と秩序の問題です。ともかく地上で表現する自我は大きなインディビジュアリティのごく一部に過ぎません。


──前世を思い出すのに催眠術を使用するのがブームになっております。あのような体験で教訓が学べるものでしょうか。

 学べることが皆無というわけではありません。が、そうした体験には、単に現在の自分が立派でないことから、潜在意識が立派でありたかった願望を描こうとする、一種の虚栄心の表れであることがあります。

 別のケースとして、それにカルマが絡んでいる場合があり、過去世において大きな影響を及ぼした苦難または悲劇を現世で呼び戻し、それを意識することでカルマが消滅することがあります。

これは好い結果をもたらす例です。が、それがただの取りとめもない想像にすぎないことが多いのです。もう一つのケースとして、催眠状態における憑依霊の仕業である場合もあります。


──普通だったらとっくに死んでいる筈の患者が医術によって何か月も生き続けている場合があるように思うのですが、こういう場合はどうなるのでしょうか。

 死ぬべき時期がくれば、いかなる医師も生かし続けることはできません。


──でも、そう思えるケースがよくあります。例えば最近ではアメリカの少女の例があります。

 その子の場合、医師が死期を延ばしているという証拠はどこにあるのでしょう?私が理解しているかぎりでは、地上の医師はまだ死期について確定的なことは分かっておりません。正確な死の瞬間について論争が続いているではありませんか。

 死の過程は生命の糸(シルバーコード)が切れて霊体が肉体を離れた瞬間をもって終了します。その時初めて〝死んだ〟と言えるのです。いったんその分離が生じたら最後、いかなる医師も肉体を蘇生させることはできません。


──催眠術による遡及によって過去世の証拠が得られるものでしょうか。実際にはただの霊の憑依ないしは支配にすぎないでしょうか。

 いわゆる遡及によって前世とコンタクトできるという事実は否定しません。しかし、必ずしもそうでないところに問題があるのです。

それというのも、人間の精神には莫大な可能性が秘められており、地上の人間には到底その深奥まで掘り下げることはできないからです。創造力もありますし、潜在的願望もありますし、霊によって憑依される可能性もあります。

 こうした要素をすべて考慮に入れなくてはなりません。催眠中に体外遊離(幽体離脱)が起きて、その間の一連の記憶が印象づけられることもあります。こうした場合は過去世を思い出していることにはなりません。


──生れ変わる時は知り合いの霊の仲間ないしは高級霊団による指示と助力を受けるということを米国の心理学者が催眠術による遡及を通じて明らかにしているのですが、これについてどう思われますか。
℘131
 地上で奉仕的な仕事に献身したいという自覚をもった霊は自発的に再生します。が、霊的真理に目覚めるまでに相当な期間を要することがあり、そうした霊の場合は守護霊や指導霊が手助けします。

私はそうした問題については、いわゆる催眠術による遡及は頼りにならないと考えます。催眠術者は、せいぜい、前世とおぼしきものを引き出そうとしているに過ぎません。


──その米国の心理学者は被術者に再生する時に痛みとか恐怖心とかが無かったのかを聞いております。

 施術者の動機がいかに真面目であっても、催眠術による前世への遡及はよくよく用心して掛からないといけません。催眠術の基本は〝暗示性〟にあります。したがって施術者が述べていることは控え目に受け取らないといけません。被術者は必ずしも施術者の暗示通りに反応しているとは限らないからです。


 訳者注───ここで催眠術がテーマとなっているが、基本的には霊能者や審神者(さにわ)についても言えることで、見当違いのことを大まじめにやっていることがあるので用心が肝要である。その弊害に陥らないための最大の武器は、やはり、しっかりとした心霊学の知識である。

 心霊学は霊的なことについての学問であるから、霊的なことに関わる人のすべてが心得ておくべきものであるはずなのに、神道や仏教の当事者はもとよりのこと、霊能者、霊媒及びその審神者が基本的な知識すら持ち合わせていないことに呆れることがあるし、何と危険なことだろうと、恐ろしささえ覚えることがある。


 そうした事実を考慮して私は『霊訓』の続編である 『インペレーター霊訓』 の冒頭で霊的通信の入手経路について概略を述べておいた。またインペレーターの霊言及び自動書記通信の中には霊媒及び霊能者に対する忠言、特に邪霊・悪霊・イタズラ霊の存在について言及しているものが多く見られるので、ぜひ参考にしていただきたい。

 見た目に清潔そうに見えてもバイ菌がうようよしているように、平凡な日常生活の背後にバイ菌のような霊がうようよしている。問題はそうした霊に操られた霊能者や霊媒が多すぎることである。それは最近の書店の心霊コーナーを見れば一目瞭然であろう。

 嘆かわしいことこの上ないが、これも凡人には測り知れない神の計画の一端なのかもしれないと思って諦めつつも、せめてそれが真実でないことを指摘することだけはすべきだという考えから、敢えて付言させていただいた。

事のついでであるが、私が親しくしている米国人のスピリチュアリストに最近の米国の心霊事情を尋ねたところ、英国に比べて精神的なものより現象的なものが多く、しかもいかにも米国らしくスケールの大きい催しがあるが、

いかがわしいものが多いので自分は久しくそういう催しに出席していないと言い、個人的には英国のスピリチュアリズムの方が性分に合っている、とのことだった。

 その英国のサイキックニューズ紙の最新号(二二・八・一九八七)で主筆のオーツセンが、編集手帳のようなコラムの中で面白い話を持ち出して、それに厳しい批判を加えている。

 あらましだけを拾って紹介すると、ある日オーツセンに電話でいい霊媒を紹介してほしいという依頼があった。わけを聞くと、エルビス・プレスリーの十周忌の記念行事としてプレスリーの霊を呼び出すための〝国際的交霊会〟を催したいという。

アメリカとオーストラリアの方はすでに話がついているが、イギリスからも参加してもらいたいという。オーツセンは無論それを断ったと述べてから次のように警告している。

 「正直言って私はジャーナリストやテレビ局からのこの種の依頼にうんざりしている。名前を呼べば簡単に出てきてしゃべってくれると思っているらしいが、霊との交信はそういう調子にはいかないのである。

 いかなる霊媒も、こちらから霊を呼び出すことはできない。あくまで霊の方から親近性と愛を掛け橋として戻ってくるのである。依頼されればどんな霊でも呼び出してあげられると豪語する霊媒は今すぐ霊能養成会へ行って一からやり直すしかない」

シルバーバーチの霊訓 (十)

 Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva

近藤千雄訳 



六章 音楽を語る  


(神の計画の中で音楽は一種名状しがたい役割を演じているようである。ある日の交霊会でシルバーバーチは英国の音楽界で指導的地位にある音楽家に次のように語りかけた)

 あなたが音楽を通じて世の中のために貢献していらっしゃるその実態は、あなたご自身にはまず理解できないことです。音楽、なかんずくインスピレーション的な曲は、あなた自身はごく自然な形で作曲しているつもりでも、魂を癒し慰め刺激し鼓舞する特質を具えているものです。

それはそれなりに魂の琴線に触れて、五感を通じて得られるものよりはるかに偉大な生命の荘厳さがあることを認識させます。

 これから先どこで演奏なさる時も、あなたは偉大な目的のための道具であること、あなたに感謝の気持ちを伝えられない大勢の人々に心の調和と同情と激励と幸福と健康をもたらす一助となっていることを思い出して下さい。

 こちらの世界へお出でになれば、大変な楽しみがあなたを待っております。と申しますのは、霊界には今のあなたには理解できない性質と卓越性を持った音楽が存在するからです。地上でまだ一度もお聞きになったことのないオクターブがあります。

シンフォニ―もあります。コンチェルトもあります。オーケストラもあります。最高の作曲家や演奏家が無数にいます。地上にはほんのわずかしかおりません。

 地上で大作曲家と言われている人のすべてがこちらへ来ているわけですが、その巨匠がその後さらに向上進化しているのです。鑑賞力を持った人なら立派な音楽をいくらでも聴くことが出来ます。

ミュージックホールは霊界が誇る財産といってもよいほどです。地上のいかなる楽器でも表現できないオクターブの音をあなたも聴くことになるのです。

 それから、もちろん地上を豊かにする音楽はみな霊界を始源としております。人間がこしらえているのではありません。演奏家も作曲家もみな一種の霊媒なのです。


───本日こうして出席させていただきましたことを大へん光栄に存じます。あなたの教えが私の人生において素晴らしい啓示となっていることを是非とも申し上げたいと思っておりました。

 そのことを私と一緒に神に感謝しようではありませんか───私は神の使いとなったことの光栄とその好機を与えていただいたことを、そしてあなたと奥さんはその真理を授かることが出来たことを、です。

 何十年か前、私は同志もなくたった一人でこの地上へやって参りました。是が非でも地上人類に霊的実在の存在を教え、霊力の働きかけの場を設立する必要があるとの理由から、私が霊界においてそれまで獲得したものをお預けして、

(次元が異なるが故の)困難な条件のもとで、この地上へ戻ってくれないかとの要請を受けたのです。それを私は挑戦のつもりでお引き受けしました。

 今夜あなたから、私が光栄にも伝達させていただいた教訓───私が考え出したものではないのです───があなたの人生で大きな啓示となっていることをお聞かせくださいました。そのことに私は感謝したいと思います。

と申しますのは、そのことは私に愛念を覚えさせて下さる方がまた一人増えたことを意味するからです。それは私にとって大へんうれしいことなのです。

 これより先あなたには、ご自身がこれまでに恵みを受けられたように他の人々に恵みを施す機会が次々と与えられることでしょう。その機会を逃さないことです。と言って私は、あなたを始め私の同志のどなたにも、熱狂的な伝道者になってほしいと思っているわけではありません。

しゃにむに他人を信じさせようとなさることは期待しておりません。後で平静を取り戻した時にはもう忘れているような、一時的な興奮状態の群集心理につけ込む非理性的手段で真理を説いて下さることは望みません。

 私が申し上げているのは、あなたにはあなたとのご縁を通じて援助の手を差し伸べるべき機会が与えられることになるということです。その時にあなたなりの最善を尽くせばよいのです。地上世界には為さねばならないことが山ほどあります。

 物的財産は一時的な所有物にすぎません。所有物といっても真に自分のものではなく、ただの一時的保管物にすぎません。一方、霊的財産は錆びることも色あせることもありません。永続性があります。

 人のために自分を役立てることほど立派な宗教的行為はありません。それが霊の通貨(コイン)なのです。自分より恵まれない人のために手を差しのべていれば、そのうち自分の生きるべき道がきっと啓示されます。あなたが窮地にあって啓示を受けられたように、窮地に置かれた人があなたの手の届くところまで導かれてくるようになるでしょう。


(別の招待客が耳障りな現代音楽の話を持ち出して、インスピレーションが形態を変えた結果なのかと尋ねた。すると───)

 インスピレーションが変わることはありません。インスピレーションは片時も休むことなく送られております。ただ、それを受け取る用意の出来た者だけが受け取っているにすぎません。波長がそれに合わなければ受け取れないということです。インスピレーションは休みなく送られております。霊力と同じく、地上へ顕現する通路を求めております。

 要するに波長の一致の問題です。地上には音楽、絵画、その他あらゆる芸術分野に先駆者がいます。その人たちは時代に先んじすぎているために、在世中は一般から理解してもらえないことがあります。が、時代が進むにつれて理解力の水準が上がり、その先駆者たちに正しい評価が為されるようになります。

 しかし、そのことは地上でよく生じる音楽の俗悪化には当てはまりません。それはむしろ今日の地上を蝕んでいる狂暴化の傾向と結びついた問題です。


───現代という世代が音楽に影響しているのではないかと思っておりました。

 物質を霊から切り離すことは出来ません。物質的なものが霊的なものへ、霊的なものが物質的なものへと、互いに反応し合い影響し合っているからです。あなたの身体は霊に影響を及ぼし、あなたの霊は身体に影響を及ぼしております。両者は隔絶したものではありません。



───(スイスの精神医学者の)ユングは内部にあるものは必ず外部に出るものであると述べています。現代の気違いじみた音楽にはその例証といえる要素があるのでしょうか。内部にあるよりも外部へ発散してしまった方がよいのでしょうか。それが狂暴性を発散させることになるのでしょうか。

 いえ、残念ながらそれは、ごく当たり前の反応にすぎません。物的なもの、一種の利己性、つまり他人の幸せに対する完全な無関心の表れです。貪欲が巾を利かしているのです。自分たちの地上生活を自ら蝕んでいる狂暴性の原因はそこにあるのです。それが素行の面のみならず音楽や芸術、その他ありとあらゆる生活面に表れているのです。