Friday, May 29, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック



第12章 あなたたちの敵を愛しなさい

悪を善によって報いる

一、「あなたたちの隣人を愛し、あなたたちの敵を憎みなさい」と言われていたことは、あなたたちの聞いているところです。しかし、誠に言います。

「あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを憎む者に善を行い、あなたたちを迫害し、中傷する者たちのために祈りなさい。そうすることによって、あなたたちは、善人の上にも、悪人の上にも太陽を昇らせ、聖なる者にも、不正なる者にも雨を降らす、天におられるあなたたちの父の子となることが出来るのです。

なぜなら、あなたたちを愛してくれる者たちだけを愛するのであれば、いったい何を報酬として受けることが出来るでしょうか。徴税官でさえそのようにしているではありませんか。

あなたたちの兄弟だけに挨拶をするのであれば、他人に比べて何を多く行っているということになるでしょうか。異教徒たちも同じことをしているではありませんか」。(マタイ 第五章 43-47)

「あなたたちの正義が、書記官やファリサイ人たちの正義よりもまさっていなければ天の国に入ることはできません」。 (マタイ 第五章 20)


二、「罪人でさえ、愛してくれる人を愛することが出来るのですから、もしあなたたちが、あなたたちを愛してくれる人だけしか愛さないのであれば、あなたたちにはどんな功労があることになるのでしょうか。

罪人でさえも同じことが出来るというのに、もしあなたたちが、あなたたちに善を行ってくれる人だけにしか善を行わないのであれば、あなたたちにはどんな功労があることになるのでしょうか。

罪人でさえお互いに貸し借りし合い、同じ便宜を受けているのに、もし、あなたたちが同じ頼みを聞いてくれる相手にしか貸さないのであれば、あなたたちにはどんな功労があることになるでしょうか。

しかし、あなたたちは敵を愛し、すべての人に対して善を行い、そのことによって何も期待することなく貸せば、あなたの受ける報酬は大変大きなものとなり、恩知らずな者にも、悪人にもよくして下さる神の子に、あなたたちはなることが出来るでしょう。

ですから、あなたたちの神が慈悲に満ち溢れているように、あなたたちも慈悲に満ち溢れるようになりなさい」。(ルカ 第六章 32-36)

℘213      
三、隣人への愛が慈善の原則であるならば、敵を愛することは慈善の崇高な適用です。なぜなら、その美徳はエゴイズムと自尊心に対して収められた大勝利のうちの一つであるからです。

 しかし、一般に人々はこの場合における愛という言葉の持つ意味を間違えるものです。イエスはこれらの言葉によって、普段兄弟や友人に対して持つ親和さと同じものを、敵に対して持たなければならないと言いたかったのではありません。

親和さは信用を前提としています。しかし、私たちに悪を望んでいるということを私たちが知っている者に対して信用を持つことはできません。彼がそのような態度を悪用することを知りながら、彼に対して友情を広げることはできません。

お互いに疑い合っている人たち同士には、同じ考えを共有する人たちの間にあるような共感の表現は存在しません。結局、誰にも、友だちといる時に感じる喜びと同じ喜びを、敵といる時に感じることはできないのです。

 これら二つの違った状況における感じ方の違いは、物理的法則の結果です。悪意のある思考は、痛々しい印象のあるフルイドの連鎖となります。善意に満ちた思考は私たちを心地良いフルイドの広がりによって包んでくれます。

そのことによって、敵が近づいてきた時と友だちが近づいてきた時の感じ方の違いを経験することが出来るのです。ですから、敵を愛するということは、彼らと友だちとの間にまったく区別を付けてはならないという意味にはなりません。

この考え方を実践するのが難しく見えたり、あるいは不可能であると考えるのは、私たちの心の中に、友だちのためにも敵のためにも同じ場所を設けなさいと、イエスが私たちに示したことを誤って理解しているからなのです。

人類の言語は語彙(ごい)に乏しいので、さまざまな微妙な違いや感じを表現するために同じ語彙を用いなければならないとすれば、場合に応じてその説明を変えなければならないのです。
℘214
 ですから、敵を愛するということは、自然の中に存在しない愛情を持ちなさいということではありません。なぜなら、敵と接する時、心臓は友だちと接する時とは全く違った様子で鼓動するからです。

敵を愛するということは、彼らに対して憎しみも、怒りも、復讐の欲望も持たないことです。何かのたくらみによってではなく、無条件に彼らの行う悪を赦すことです。彼らとの和解の障害となるものを置かないことです。彼らに対して悪を望むのではなく、善を望むことです。

彼らが達成する善に対して苦しむのではなく、喜ぶことです。彼らが必要とする時には、確かな救いの手を差し伸べてあげることです。言葉と行動によって、彼らにとって害となるものを回避してあげることです。

彼らをはずかしめることなく、あらゆる悪を善によって報いることです。これらのことを行おうとする者は、あなたたちの敵を愛しなさいという掟を守ることになるのです。


四、敵を愛するということは、不信人な者にとってはまったくばかげたことです。現世だけがすべてであると考える人は、敵を見る時、自分の平静を乱す有害な存在としか捉えることが出来ず、死のみによってその敵から解放されることができるのだと信じています。

そこから復讐の気持ちが生まれます。世間の目に対して、自尊心を満足させるため以外には敵を赦そうとはしません。場合によっては、本当に赦すことは自分に取って恥ずべき弱さであると感じます。

復讐をしなかったにしても同じだけの怒りを保ち続け、悪の望みを心に秘めることになります。

 神を信じる者、とりわけスピリティストの見方は違っています。なぜなら、過去と未来を考慮し、それらに挟まれた現世は一時的なものでしかないことを知っているからです。そこで悪人や不道徳な人たちに出会うことを覚悟しなければならないのは、地球という場所がそうした宿命にあるからです。

彼らの悪意は耐え抜くべき試練の標的であり、高く引き上げられた場所に視点を置くことによって物質的であろうと人為的であろうと苦しみの辛さは減ることになります。

試練に対して不平を言わないのであれば、その試練の役割を担ってくれている人たちに対しても不満を述べるべきではありません。
℘215         
試練の経験を悲しむ代わりに、神に感謝するのであれば、甘受と忍耐を示すための機会を与えてくれているその手に感謝するべきなのです。

このように考えると、自然に赦す心が生まれます。それに加え、寛大であればあるほど、自分の目にも自分の存在の高さが高く映るようになり、敵の悪意のこもった攻撃が届かなくなるように感じることが出来るでしょう。

 世の中で高い身分にある人たちは、自分よりも劣っていると感じる人々に侮辱されても、それを攻撃とは受け取りません。人類の住む物質世界よりも上の、道徳の世界で高い位置へ昇った人も同じです。

そのような人は、憎しみや怒りを抱くことは自分を卑しめ、下劣にすることを理解しています。自分の敵を上回るには、より高貴に、より寛大になり、大きな魂を持つ必要があるです。 


 他界した敵
五、スピリティストには、まだ他にも敵に対して寛大でなければならない理由があります。第一に、スピリティストは、人間にとって、悪意を持った状態が永遠に続くものではないことを知っています。

悪意を持った状態というのは、一時的に不完全な状態にあるということであり、子どもがその欠点を直して行くように、悪人もいつの日かその過ちを認識し、善くなるのだということを知っているのです。

 さらに、死は敵を物質的な存在から解放してくれるだけであり、敵は地上を後にしてからも憎しみをもって追いかけてくることが出来るのだということを知っています。そして、このように目的を達成することができなかった復讐心は、より大きな苛立ちを生み、一つの存在から次の存在へと続いていくのだということも、スピリティストは知っています。

スピリティズムは、経験と、見えない世界と見える世界の間を支配する法によって、「憎しみを血とともに消す」という表現が根本的に間違っていること、そして、本当は死後も血が憎しみを増幅させるのだということを証明することが出来るのです。

そうしたことにより、赦すこと「敵を愛しなさい」と言うキリストの崇高な教えの実際の有効性をスピリティズムは示しているのです。たとえ無意識のうちにであっても、善なる行いに感動しないほど非常な心は存在しません。善なる行いによって、少なくとも全ての報復の口実を奪うことができます。

生前であろうが死後であろうが、敵を友達に変えることができます。悪の行いによって敵が苛立てば、彼自身が神の正義の道具となり、赦さぬ者を罰することになるのです。

℘216      
六、したがって、敵は生きている人たちの中にも、また他界した人たちの中にもいます。見えない世界に存在する敵たちは、多くの人たちに見られるように、憑依や支配によってその悪意を示しますが、それらは試練の一種であり、他の試練がそうであるように、それらについても人間の進歩に寄与するためには甘受し、地球の劣った性格から来る結果であると受け止めなければなりません。

地上に悪い人間が存在していなかったとすれば、その周囲に悪い霊も存在していなかったでしょう。生きている敵に対して好意を用いなければならないのであれば、他界した敵にも同じ方法を用いなければならないということができます。

 昔、残酷な生贄によって地獄の神々を鎮めることをしましたが、これらの神々とは悪い霊たちのことであったのです。地獄の神々は悪魔たちに引き継がれて行きましたが、それらはどちらも同じことです。

スピリティズムはこの悪魔と言うものが、いまだに物質的な本能を棄てきっていない不道徳な人間の魂に他ならず、彼らの抱く憎しみを慈善によって葬らなければ、誰にも彼らを静めることはできないことを示しています。単に悪を働くことを止めるだけでは効き目は無く、それに加えて、彼らが自ら救うように善の道に導くことによってこそ効果があります。

「あなたたちの敵を愛しなさい」という教えは、現世と地球上についてだけに限って説かれたものではなく、それ以前に、宇宙の同胞愛と連帯の大きな法の一部として存在するものなのです。

℘217       
 あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい
七、 「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなたたちの聞いているところです。しかし、誠に言います。悪いものに手向かってはなりません。彼が一方の頬を叩いたなら、もう一方の頬も向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。

あなたに一㍄歩けと強いるような者とは、一緒に二㍄行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断ってはいけません。(マタイ 第五章 38‐42)


八、一般に「面目」と呼ぶものに関する世界中の偏った見方は、自尊心や自己の性格を賛美する気持ちによって生まれる不快で敏感な状態を生み、その気持ちは人間に、侮辱を侮辱によって報いたり、ののしりをののしり返したり、地上の感情の範囲を超えることが出来ない道徳観で正義と思われることによって仕返しをさせます。

だからモーゼの法には、「目には目を、歯には歯を」と、モーゼの時代にあった形で表されているのです。

キリストが来ると、「悪は善によって報いなさい」「悪い者に手向かってはなりません。彼が、一方の頬を叩いたなら、もう一方の頬も向けなさい」と言いました。誇りの高い人にとって、この金言は臆病さを表しているように見えます。

なぜなら、侮辱を仕返しすることなく耐える方が勇気が必要であるということを知らないからです。これは、彼らの視界には現世を超えた未来が入らないからです。

 しかし、この金言を文字通り守らなければならないのでしょうか。そうではありません。目を攻撃されたなら相手の目をつぶしなさい、というもう一つの金言と同じように、文字通りに受け取るものではありません。

これらの教えをすべての価値において理解するのであれば、たとえ合法的であってもいかなる制裁も非難し、悪を行う者には脅かすことなく自由な機会を与えよ、と理解するべきです。もし、悪に対して攻撃の歯止めをかけないのであれば、すべての善がその犠牲になってしまいます。

自己防衛の法は自然の法であり、誰も殺人者の前に首を出そうとはしません。ですから、この金言の意味をはっきりさせるのであれば、イエスはすべての自己防衛を禁止したのではなく、報復を非難したのです。

一方の頬をたたいた者にもう一方の頬を出しなさいということによって、悪を悪によって仕返ししてはいけないということを別の言葉で表したのです。人間はへりくだることによってその自尊心を打ち消すのに都合の良いものはすべて受け入れなければなりません。

最大の栄光は、人を傷つけるよりも、攻撃をせずに攻撃を受け、人の不正に耐えることです。人を騙すよりも騙される方が、他人を損なうよりは自分を損なう方が善いのです。

それは同時に、自尊心の見せ合いでしかない果し合いを否定するものです。悪を罰しないことは神の正義と、未来における人生を信じることによってのみ、私たちの自己への愛情と自分の利益に対して放たれる攻撃に辛抱強く耐えることが出来るのです。

ですから、何時もあなたたちに申し上げています。「あなたたちの目を未来に向けてください。物質の世界よりも高い世界に自分を引き上げることができたなら、この地上のできごとで苦しむことはなくなるでしょう」


   


   霊たちからの指導

  復讐
九、 復讐とは、人間の間から姿を消しつつある野蛮な習慣のうちで、最後まで残存したものの一つです。復讐は果たし合いのように、キリスト時代の初期の頃から人類が戦ってきた、野蛮な習慣の最後に残った痕跡の一つであり、したがって、復讐が存在するということは、それを行おうとする霊の遅れを示していることになります。

友よ、だから、自らをスピリティストであることを宣言し、述べる者の心を、この感情が動かすようなことが決してあってはなりません。復讐することは、よく知っている通り、
キリストの「あなたたちの敵を赦しなさい」と言った教えにあまりにも反することであり、赦しを拒む者はスピリティストでないばかりでなく、キリスト教徒でもありません。

復讐を思いつく時、心が偽りや低俗さに根ざしているのであればさらに致命的です。実際に、この致命的で盲目の感情に身を任せてしまう人は、人目につくところで復讐することはありません。

それらの感情の方が強い時、敵がいるだけで情熱、怒り、憎しみが燃え上がり、その残忍な者は、敵と呼ぶ相手に相手の上に襲い掛かります。しかし、多くの場合、偽善的なみせかけを装い、その人を活気づける心の底にある悪い感情を見えなくしています。隠れた道を通り、敵の陰を追い、身の危険なしに敵を傷つけるのに適当な時を待ちます。

相手から隠れ、いつもこっそりと観察しながら憎しみのこもった罠を準備し、都合の良い時がやってくると、相手のコップに毒を注ぐのです。憎しみがそれほどまでには至らない場合には、相手の名誉や愛情を傷つけます。

中傷を退けることなく、裏切りのあてつけを風に乗せてあらゆる方向へ上手に広め、行く道に積もらせていきます。結果的に迫害者の一陣が通った後に現れた追われる者は、以前その人を迎えてくれていた友好的で善意に溢れた顔の代わりに、冷たい顔つきに出合って驚くことになります。

差し出していた手を、今度は握ることさえも拒否され、びっくりしてしまいます。最後には、最も親しかった友だちや家族さえもがその人を避けるようになり、打ちのめされてしまいます。ああ、そのように復讐する者は、自分の敵の目の前で相手をののしる者よりも百倍罪深いのです。

 ですから、こうした野蛮な習慣は棄てなければなりません。こうした過去のやりかたは捨て去らなければなりません。今日、いまだに復讐する権利があると思っているスピリティストは、「慈善なしには救われない」という標語を掲げる集団にはふさわしくありません。

そうです、大いなるスピリティストの家族の一員が未来において、人を赦す代わりに復讐の衝動に身を任せてしまうなどと私は考え続けることはできません。(ジュール・オリブィエ パリ、1862年)
   
℘220
  憎しみ
十、お互いに愛し合えば、あなたたちは幸せになります。あなたを無関心にさせてしまう人、憎しみ、落胆を与える人を特に愛さなければいけないということを、心に深く刻んでください。あなたたちの模範とするべきキリストは、この献身の模範をあなたたちに見せてくれました。愛の使者であるキリストは、愛のために生命と血液をも捧げるまで愛しました。

あなたたちを侮辱し、迫害する者たちを愛することの犠牲は、あなたたちにとって悲痛なものです。しかし、まさにその犠牲が、あなたたちを彼らよりも優位に置くのです。

彼らがあなたたちのことを憎むのと同じように、もし彼らを憎むのであれば、あなたたちは彼ら以上の価値はありません。彼らを愛することは、あなたたちの心の祭壇で神に捧げる汚れのない供え物であり、その供え物の心地よい香りは高く神のもとまで届くことになります。

愛の法は一人一人に差別なく、すべての兄弟を愛することを強いるのですから、悪い振る舞いに対して心を堅くしてしまってはいけません。反対にそれは最も厳しい試練なのです。

私は、その苦しみを地上に生きていた間経験しているので、そのことがよくわかります。しかし、神はそこに在り、愛の法を破る者を現世、または来世において罰するのです。親愛なる子供たちよ、愛が人を神に近づけ、憎しみは人を神から遠ざけるのだということを忘れないでください。(フェヌロン ボルドー、1861年)


  果たし合い
十一、 人生を旅に見立てて、ある決められた場所へ向かっていかなければならないのだと考え、日毎の困難も苦にせず、まっすぐ伸びた道からその足取りを踏み外さない人だけがまさに偉大であるといえます。

その目をいつも到達しようとする目的地に向け、道行く彼を傷つける障害物や茨をも気にかけません。それらは彼を傷つけるのではなく、かすめるだけで、彼の進歩を妨げるものではないことを知っています。

ある不正に対して復讐をするために人生の日々を費やすことは、人生の試練にひるんでしまうことであり、神の目には罪として映ります。人は受けた損害に目を奪われ復讐してしまうのですが、それを防ぐことができれば、復讐はばかげたもので、正気の沙汰ではないように映るはずです。
℘221
 果たし合いによる殺人は、あなたたちの法に定められているとおり罪深いことです。いかなる場合においても、誰も自分の同胞の命を奪う権利はもっていません。それは神の目に罪と映るのであり、神はあなたたちの従うべき行動に線を引いてくれているのです。

ここでは、他のいかなる場合にもましてあなたたちは自分自身の判事となっています。あなたたちは自分たちが赦した分だけ赦されるのだということを覚えておかなければなりません。赦すことによって、あなたたちは神に近づきます。

なぜなら、力の強さは温厚さと同族であるからです。地球上で、人類の手によって人類の血が一滴でも流される間は、平和と愛の君臨する真なる神の国がそこに根付いていないのであり、あなたたちの惑星からは恨みや、不和、戦争が永遠に排斥されなければならないのです。

そのような時が来れば、果たし合いと言う言葉は、既に過ぎ去った遠く漠然とした過去の記憶の中にのみ存在することになります。(アルジェルの司教アドルフ マルマンド、1861年)
    
                 
十二、ある場合には、果たし合いは疑いもなく、命を軽んじた肉体的な勇気の証明でありますが、それは確実に、自殺と同様に道徳的な臆病さの証明でもあります。自殺する人は人生の苦しみに立ち向かう勇気を持ってません。果たし合いをする人は他人の攻撃に耐える勇気を持っていないのです。

キリストはあなたたちに、右の頬を打った者には左の頬も差し出す方が、不正によって仕返しをするよりも価値があり、より尊いことだと教えてくれませんでしたか。

イエスはオリーブの園でペテロに、「あなたの剣をしまいなさい。剣によって人を殺した者は剣によって殺されます」と言いませんでしたか。このように言うことによって、イエスはいつも果し合いを非難しませんでしたか。

子どもたちよ、実際にこの暴力的な気質、血が多く、怒りに満ちた性質から生まれたこの勇気が、最初の攻撃に対して唸(うな)り声を上げているのではないでしょうか。
℘222             
「最も軽い不正も、血によってのみ洗い流すことが出来ると考えている人がどこに魂の偉大さが見られるというのでしょうか。ああ、そのような人はおののかなければなりません。

その人の良心の奥底では、いつも次のような言葉が叫びます。「カインよ、カインよ。あなたは弟に何をしたのか」。この声にその人は、「私の名誉を守るために血を流すことが必要だった」と答えます。しかし、その人の良心は響き返します。

「残り少ない地上での生活のほんのわずかな時間の間、人間の前にのみあなたの名誉を守ろうとし、神の前に守ろうとしなかった」と。可哀想な愚かな者よ。キリストはあなたたちから受けた侮辱に対して、少しでも血が流されることを強いるでしょうか。

あなたたちはキリストを茨と槍によって傷つけただけでなく、恥辱の十字架にかけ、更にキリストに残酷な苦しみの中で罵声を浴びせたのです。それほどの屈辱に対して、キリストはあなたたちに少しでも謝罪を求めたでしょうか。

羊飼いイエスの最後の叫びとは、自分を処刑する者たちに対する赦しの願いではありませんでしたか。おお、イエスのようにあなたたちを攻撃する者のために祈り、赦してください。

 友よ、「お互いに愛し合いなさい」という教えを覚えていてください。そうすれば、憎しみで鳴り響く一撃に対し微笑みで答え、侮辱に対し赦しで答えることが出来るでしょう。世間はきっと怒りに満ちて立ちあがり、あなたたちを臆病者として扱うでしょう。

額を高く上げ、キリストの模範のように、その額を茨によって締め付けられることを恐れないことを見せ、あなたたちの手を、自愛と自尊心にしか過ぎない偽りの名誉の、見かけを守るために認められた殺人の共犯者にはしたくないのだということを示さなければなりません。

神はあなたたちを創造した時、他人の生死を決める権利をあなたたちに預けたでしょうか。いいえ、この権利は再建と改正のため、神によって自然だけに与えられました。

あなたたちに対して神は、自分自身を棄てることさえも許しません。自殺者と同じように、果たし合いをした者は、神の前に姿を現す時血によって印がつけられており、どちらに対しても、最高の判事である神は、厳しく長い罰を用意するのです。

自分の兄弟に対して「ラッカ(愚か者)」と言った者が正義によって裁かれることを神が定めたのであれば、自分の兄弟の血で手を染めて神の前に現れる者に対する罰はどれだけ厳しいものとなることでしょうか。(聖アウグスティヌス パリ、1862年)

℘223    
十三、果たし合いは、昔は神の審判とも呼ばれてましたが、いまだに社会を支配する野蛮な制度の一つです。では、もし二人の敵対者が、争いの決着をつけるために煮え立つ湯につけられたり、赤く燃える鉄をあてられたりして、その苦しみによく耐えた方が正しいのだとされるのを見たら、あなたたちは何と言うでしょうか。

全くばかげた習慣であると考えないでしょうか。果たし合いとは、このようなことすべてよりもさらに悪いものです。果たし合いの上手な者にとってそれは、あらゆる計画のもとに彼の放つ一撃が有効であることを確信した上で行われる冷血の殺人です。

能力のなさと弱さのために、打ち負かされることがほぼ決められてしまった相手にとっては、冷めた考えで行われる自殺であると考えることができます。多くの場合、問題を偶然に委ねることで、このような犯罪的な選択を避けようとしていることも知っています。

しかし、それでは中世の時代の神の審判に、別の方法で遡(さかのぼ)っていることになりませんか。その時代、罪に対する責任は現在よりも遥かに小さかったのです。

神の審判という呼び名自体が信心の存在を示していますが、それは、無実の者が死んでしまうことを神が赦すはずがないという、神の正義に対する素直な信仰でした。しかし、結局、果たし合いにおいては、全てを野蛮な力に任せてしまうため、責められた者が死んでしまうことも珍しくなかったのです。

 ばからしい自己中心的な愛、つまらぬ虚栄心、気の狂った自尊心は、いつになればキリストの慈善、隣人愛、キリストが教え、模範となった謙虚さにとって代わられるのでしょうか。

それが実現した時にはじめて、いまだに人類を支配するこの恐ろしい定めが消滅するのであって、法律によってそれを抑制することはできないのです。なぜなら、悪を禁止するだけでは事足りないからです。善の原理と悪への恐れが人類の心の中に宿らなければならないのです。(ある守護霊 ボルドー、1861年)

℘224      
十四、自分が求めるべき賠償の要求を拒んだり、自分を攻撃した者に対する謝罪を求めなかったら、自分は人からどのように見られるだろうか、とあなたたちはいつも言います。

あなたたちのように、愚かで遅れた人間はあなたを非難するでしょう。しかし、知性的で道徳的な進歩の光に明るく照らされている者は、あなたが真なる知性に従って進んでいると言うでしょう。

 少し考えてみて下さい。あなたたちの自尊心は、何の意図もなく、攻撃する意志もなく、あなたたちの兄弟たちによって述べられたたった一つの言葉によって傷つけられたと感じ、辛辣な態度で返答することで口論を引きおこします。

決定的な時がやってくる前に、自分自身にキリスト教徒としての行いをしているかどうか問い直しているでしょうか。なにかをあなたの同胞から奪うことによって、社会に対してどれだけの責任を負うことになるでしょうか。

夫から妻を奪ったり、子供から母親を奪ったり、保護してくれていた父親から息子を奪ったりした後に、あなたたちを襲うことになる後悔について、考えてみたことがあるでしょうか。攻撃をした者は、確かに謝罪する責任を負います。

しかし、攻撃をした者が自分の欠点を認識し自ら自然に謝罪をする方が、攻撃されて不平を言う権利を持つ者の命を危険にさらすよりも貴いことではないでしょうか。

自分自身がひどく傷つけられたと感じたり、愛しい人が傷つけられたと、攻撃された者が感じるのは、場合によっては、自己愛だけが原因となっているのではないかと私は思います。傷つけられた心は苦しみます。

しかし、不名誉な行為を行う可能性のある惨めな者に対して、私たちの身を投じ、命を危険にさらすことはばかげているばかりか、そこに存在していた何かしらの感情は、その者が死んだとしても消えないのではないでしょうか。

 実際に血が流されると、事実は誇張されて轟くことになります。
℘225
それが偽りであるなら、自分自身に降りかかってくることになり、もし、真実であったとすれば、沈黙の中で埋葬されなければなりません。したがって復讐への渇きを癒すことしか残りません。

ああ、この悲しい満足は、ほとんどいつも、この人生の間でも、苦しい後悔に場所を譲ることになります。攻撃する者が死んでしまうとすれば、どこで改善することが出来るでしょうか。

慈善が人類の行動を規制するようになった時、人類の行動と言葉はこの金言に一致するようになります。「あなたたちにして欲しくないことを他人にしてはなりません」。この言葉を実現させることにより、あらゆる不和の原因は消滅し、果たし合いや、民族対民族の果たし合いである戦争の原因も、ともに消えていくことになるでしょう。 (フランシスコ・ザビエル ボルドー、1861年)


十五、世慣れた人、運の強い人々はたった一言の衝撃的な言葉や、とるに足らぬことのために、神から授かった命を投げ捨てたり、神にのみ属する同胞の命を投げ捨てますが、そのような人たちは、愚かさや乏しさのために他人の家に入って盗みを働き、それを阻もうとする者を殺してしまう者より百倍も罪深いのです。

そのような場合は、たいてい無教育な者が関わっているのであり、善と悪の認識が不完全なのです。それに対して、果たし合いを行う者はより教育を受けた階級に属しています。一方は野蛮に殺人を行いますが、他方は社会が赦してくれるよう、順序を踏んで周到に殺人を行います。

まったく、果たし合いを行う者は、復讐の気持ちによって激怒したはずみで相手を殺してしまった不幸な者よりも、無限に罪深いのだということを私は付け加えておきます。

果たし合いを行う者には、感情の激化という言い訳はできません。なぜなら、侮辱を受けてから復讐するまでの間、そこには必ず考え直す時間が存在しているからです。ゆえに、果たし合いを行う者は、冷静に前もって計画を考えているのです。その敵をもっとも安全に殺すために、全てを研究し、計算します。

自分自身も命を危険にさらすことは事実ですが、そのことは世間の目には、果たし合いを行う者の、命をも惜しまぬ勇気ある行動として映り、名誉を回復させることになるのです。

しかし、自分自身は安全だと考える側に勇気が存在するのでしょうか。強者の権利が法を構成していた野蛮な時代の遺産である果し合いは、真の意味での名誉の尊重と、人類が本来の人生に対してより鮮明な信仰を抱くようになるにつれ、消滅していくことでしょう。 (聖アウグスティヌス ボルドー、1861年)

℘226
<備考>果たし合いはだんだんめずらしいものになりつつあり、いくつか非常に痛々しい例もありますが、時代の流れとともに、その数は遠い昔に行われていたのとは比較にならないほど少なくなりました。

昔、人は誰かに会う予定なしに家を出ることはなく、でる時には必要な準備をしていました。その時代の特徴的な習慣として、人々は、目に見えるように、あるいは隠して、攻撃や防御をするための武器をいつも携帯していたことがあげられます。そうした武器の使用が廃止になったことは、その習慣がすたれたことを示しています。

紳士たちが鉄の鎧を持ち、槍で武装して馬を乗りまわした時代から、やがて簡易な剣が名誉のしるしや装飾品として腰に付けられるようになった変化を見ることは、とても興味深いことです。習慣に見られるもう一つの変化に、一対一の戦いが、昔は道のまっただ中、人々の目の前で戦うのに必要な広さだけを残し群集に取り巻かれて行われていたのが、今日ではそんな光景を見ることはできなくなったということがあります。

現在では、人の死とは心の動揺を伴うものですが、過去の時代においては、死に対して誰も注意を払う者はいなかったのです。スピリティズムはこれらの野蛮な時代の最後の痕跡を消し、人類に慈善と兄弟愛の精神を吹き込むのです。

シルバーバーチの霊訓(七)

More Wisdom of Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell  



十一章 なぜ神に祈るのか
 
 〝あなたはなぜ神に祈るのですか〟と問われてシルバーバーチは〝祈り〟の本来のあり方について次のように述べた。

 「それは、私に可能なかぎり最高の〝神の概念〟に波長を合わせたいという願いの表れなのです。

 私は祈りとは魂の憧憬と内省のための手段、つまり抑え難い気持ちを外部へ向けて集中すると同時に、内部へ向けて探照の光を当てる行為であると考えております。ほんとうの祈りは利己的な動機から発した要望を嘆願することではありません。

われわれの心の中に抱く思念は神は先刻ご承知なのです。要望は口に出される前にすでに知れているのです。

 なのになぜ祈るのか。それは、祈りとはわれわれのまわりに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段だからです。その行為によってほんの少しの間でも活動を休止して精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態に置くことになるのです。

僅かな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れることが出来、かくしてわれわれに本当に必要なものが授けられる通路を用意したことになります。

 利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーのムダ使いをしているに過ぎません。それらには何の効力もないからです。何の結果も生み出しません。が、自分をよりいっそう役立てたいという真摯な願いから、改めるべき自己の欠点、克服すべき弱点、超えるべき限界を見つめるための祈りであれば、その時の高められた波長を通して力と励ましと決意を授かり、祈りが本来の効用を発揮したことになります。

 では誰に、あるいは何に祈るべきか──この問題になると少し厄介です。なぜなら人間一人ひとりに個人差があるからです。人間は必然的に自己の精神的限界によって支配されます。その時点までに理解したものより大きいものは心象として描きえないのです。

ですから私もこれまでに地上にもたらされた知識に、ある程度まで順応せざるを得ないことになります。たとえば私は言語という媒体を使用しなければなりませんが、これは観念の代用記号にすぎず、それ自体が、伝えるべき観念に制約を加える結果となっています。

 このように地上のための仕事をしようとすれば、どうしても地上の慣例や習慣、しきたりといったものに従わざるを得ません。ですから私は、神は人間的存在でないと言いながら男性代名詞を使用せざるを得ないことになります (たとえば〝神の法則〟というのを His Iaws というぐあいに──訳者)。私の説く神は宇宙の第一原因、始源、完全な摂理です。

 私が地上にいた頃はインディアンはみな別の世界の存在によって導かれていることを信じておりました。それが今日の実験会とほぼ同じ形式で姿を見せることがありました。その際、霊格の高い霊ほどその姿から発せられる光輝が目も眩まんばかりの純白の光を帯びていました。

そこで我々は最高の霊すなわち神は最高の白さに輝いているものと想像したわけです。いつの時代にも〝白〟という のは 〝完全〟〝無垢〟〝混ぜもののない純粋性〟 の象徴です。そこで最高の霊は 〝白光の大霊〟 であると考えました。当時としてはそれが我々にとって最高の概念だったわけです。

 それは、しかし、今の私にとっても馴染みぶかい言い方であり、どのみち地上の言語に移しかえなければならないのであれば、永年使い慣れた古い型を使いたくなるわけです。

ただし、それは人間ではありません。人間的な神ではありません。神格化された人間ではありません。何かしらでかい存在ではありません。激情や怒りといった人間的煩悩によって左右されるような存在ではありません。

永遠不変の大霊、全生命の根源、宇宙の全存在の究極の実在であるところの霊的な宇宙エネルギーであり、それが個別的意識形体をとっているのが人間です。

 しかしこうして述べてみますと、やはり今の私にも全生命の背後の無限の知性的存在である神を包括的に叙述することは不可能であることを痛感いたします。が少なくとも、これまで余りに永いあいだ地上世界にはびこっていた多くの幼稚な表現よりは、私が理解している神の概念に近いものを表現していると信じます。

 忘れてならないのは、人類は常に進化しているということ、そしてその進化に伴って神の概念も深くなっているということです。知的地平線の境界がかつてほど狭くなくなり、神ないしは大霊、つまり宇宙の第一原理の概念もそれにともなって進化しております。しかし神自体は少しも変わっておりません。

 これから千年後には地上の人類は今日の人類よりはるかに進化した神の概念を持つことになるでしょう。だからこそ私は、宗教は過去の出来ごとに依存してはいけないと主張するのです。過去の出来ごとを、ただ古い時代のことだから、ということで神聖であるかに思うのは間違いです。

霊力を過去の一時代だけに限定しようとすることは、霊力が永遠不変の実在であるという崇高な事実を無視することで、所詮は無駄に終わります。地上のいずこであろうと、通路のあるところには霊力は注がれるのです。

(訳者注──聖霊は紀元六六年まで聖地パレスチナにのみ降り、それきり神は霊力の泉に蓋をされた、というキリスト教の教えを踏まえて語っている)

 過去は記録としての価値はありますが、その過去に啓示の全てが隠されてるかに思うのは間違いです。神は子等に受容能力が増すのに応じて啓示を増してまいります。生命は常に成長しております。決して静止していません。〝自然は真空を嫌う〟という言葉もあるではありませんか。

 あなた方は人々に次のように説いてあげないといけません。すなわち、どの人間にも神性というものが潜在し、それを毎日、いえ、時々刻々、より多く発揮するために活用すべき才能が具わっていること、それさえ開発すれば、周囲に存在する莫大な霊的な富が誰にでも自由に利用できること、言語に絶する美事な叡知が無尽蔵に存在し、活用されるのを待っているということです。

人類はまだまだその宝庫の奥深くまで踏み込んでいません。ほんの表面しか知りません」


──あなたは霊的生活に関連した法則をよくテーマにされますが、肉体の管理に関連した法則のことはあまりおっしゃってないようにお見受けします。

 「おっしゃる通り、あまり申し上げておりません。それは、肉体に関して必要なことはすでに十分な注意が払われているからです。私が見るかぎり地上の大多数の人間は自分自身の永遠なる部分すなわち霊的自我について事実上何も知らずにおります。

生活の全てを肉体に関連したことばかりに費しております。霊的能力の開発に費している人は殆ど──もちろんおしなべての話ですが──いません。

第一、人間に霊的能力が潜在していることを知っている人がきわめて少ないのです。そこで私は、正しい人生観を持っていただくためには、そうした霊的原理について教えてあげることが大切であると考えるわけです。

 私はけっして現実の生活の場である地上社会への義務を無視して良いとは説いておりません。霊的真理の重大性を認識すれば、自分が広い宇宙の中のこの小さな地球上に置かれていることの意味を理解して、いちだんと義務を自覚するはずです。

自国だけでなく広い世界にとってのより良き住民となるはずです。人生の裏側に大きな計画があることを理解し始め、その大機構の中での自分の役割を自覚しはじめ、そして、もしその人が賢明であれば、その自覚に忠実に生きようとしはじめます。

 肉体は霊の宿である以上、それなりに果たすべき義務があります。地上にいるかぎり霊はその肉体によって機能するのですから、大切にしないといけません。が、そうした地上の人間としての義務をおろそかにするのが間違っているのと同じく、霊的実在を無視しているのも間違いであると申し上げているのです。

 また世間から隔絶し社会への義務を果たさないで宗教的ないし神秘的瞑想に耽っている人が大勢いますが、そういう人たちは一種の利己主義者であり、私は少しも感心しません。何ごとも偏りがあってはなりません。

いろんな法則があります。それを巾広く知らなくてはいけません。自分が授かっている神からの遺産と天命とを知らなくてはいけません。そこではじめて、この世に生まれてきた目的を成就することになるのです。

 霊的事実を受け入れることのできる人は、その結果として人生について新しい理解が芽生え、あらゆる可能性に目覚めます。霊的機構の中における宗教の持つ意義を理解します。科学の意義が分かるようになります。

芸術の価値が分るようになります。教育の理想が分るようになります。こうして人間的活動の全分野が理解できるようになります。一つ一つが霊の光で啓蒙されていきます。所詮、無知のままでいるより知識を持って生きる方がいいに決まっています」

 続いて二人の読者からの質問が読み上げられた。

 一つは「〝神は宇宙の全生命に宿り、その一つを欠いても神の存在はありません〟とおっしゃっている箇所がありますが、もしそうだとすると神に祈る必要ないことになりませんか」というものだった。これに対してシルバーバーチはこう答えた。

 「その方が祈りたくないと思われるのなら、別に祈る必要はないのです。私は無理にも祈れとは誰にも申しておりません。祈る気になれないものを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列に過ぎないものを機械的に反復するだけですから、むしろ祈らない方がいいのです。祈りには目的があります。

魂の開発を促進するという霊的な目的です。ただし、だからといって祈りが人間的努力の代用、もしくは俗世からの逃避の手段となるかに解釈してもらっては困ります。

 祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にするための刺戟──これから訪れるさまざまな闘いに打ち克つために守りを固める手段です。何に向かって祈るか、いかに祈るかは、本人の魂の成長度と全生命の背後の力についての理解の仕方にかかわってくる問題です。

 言い変えれば、祈りとは神性の一かけらである自分がその始源とのいっそう緊密なつながりを求めるための手段です。その全生命の背後の力との関係に目覚めたとき、その時こそ真の自我を見出したことになります」


 もう一つの質問は女性からのもので、「イエスは〝汝が祈りを求めるものはすでに授かりたるも同然と信ぜよ。しからば汝に与えられん〟と言っていますが、これは愛する者への祈りには当てはまらないように思いますが、いかがでしょうか」というものだった。これに対してシルバーバーチは答えた。

 「この方も、ご自分の理性にそぐわないことはなさらないことです。祈りたい気持ちがあれば祈ればよろしい。祈る気になれないのでしたら無理して祈ることはありません。イエスが述べたとされている言葉が真実だと思われれば、その言葉に従われることです。真実とは思えなかったら打っちゃればよろしい。

神からの大切な贈りものであるご自分の理性を使って日常生活における考え、言葉、行為を規制し、ご自分が気に食わないもの、ご自分の知性が侮蔑されるように思えるものを宗教観、哲学観から取り除いていけばよいのです。私にはそれ以上のことは申し上げられません」


──〝求めよ、さらば与えられん〟という言葉も真実ではなさそうですね。

 「その〝与えられるもの〟が何であるかが問題です。祈ったら何でもその通りになるとしたら、世の中は混乱します。最高の回答が何もせずにいることである場合だってあるのです」


──今の二つの格言はそれぞれに矛盾しているようで真実も含まれているということですね。

 「私はいかなる書物の言葉にも興味はありません。私はこう申し上げたことがあるはずです──われわれが忠誠を捧げるのは教義でもなく、書物でもなく、教会でもない、宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不変の摂理である。と」



 シルバーバーチの祈り

 ああ神よ。私たちはあなたの尊厳、あなたの神性、無限なる宇宙にくまなく行きわたるあなたの絶対的摂理を説き明かさんと欲し、もどかしくも、それに相応しき言葉を求めております。

 私たちは、心を恐怖によって満たされ精神を不安によって曇らされている善男善女が何とかあなたへ顔を向け、あなたを見出し、万事が佳きに計らわれていること、あなたの御心のままにて全てが佳しとの確信を得てくれることを期待して、霊力の豊かな宝の幾つかを明かさんとしているところでございます。

 その目的の一環として私どもは、これまで永きにわたってあなたの子等にあなたの有るがままの姿───完璧に機能している摂理、しくじることも弱まることもない摂理、過ちを犯すことのない摂理としてのあなたを拝することを妨げてきた虚偽と誤謬と無知と誤解の全てを取り払わんとしております。

 私たちは宇宙には生物と無生物とを問わず全ての存在に対して、また全ての事態に対して備えができているものと観ております。あなた方から隠しおおせるものは何一つございません。神秘も謎もございません。あなたは全てを知ろしめし、全てがあなたの摂理の支配下にございます。

 それゆえ私どもは、その摂理───これまで無窮の過去より存在し、これより未来永劫に存在し続ける摂理を指向するのでございます。子等が生活をその摂理に調和させ、すべての暗黒、すべての邪悪、すべての混沌と悲劇とが消滅し、代わって光明が永遠に輝き渡ることでございましょう。

 さらに又、愛に死はないこと、生命は永遠であること、墓場は愛の絆にて結ばれし者を分け隔てることはできぬこと、霊力がその本来の威力を発揮したときは、いかなる障害も乗り切り、あらゆる障壁を突き破って、愛が再び結ばれるものであることを証明してみせることも私どもの仕事でございます。

 私たちは、人間が進化を遂げ、果たすべく運命づけられている己れの役割に耐えうる素質を身に付けた暁に活用されることを待っているその霊力の豊かさ、無尽蔵の本性を持つ無限なる霊の存在を明かさんと欲しているものでございます。
 ここに、己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。

             

      
   解説 悲劇の霊媒ヘレン・ダンカン

 七章に出ている霊媒ヘレン・ダンカンの投獄事件は〝世紀の裁判〟として当時の新聞をにぎわし〝暗黒時代〟の再来かという不安をスピリチュアリストに抱かせたものである。シルバーバーチが〝あなた方は暗黒時代へ引き戻されたわけではありません〟と言い、〝私は少しも心配していません〟と述べているのはそのためであるが、さらに、

〝もっともっと不自由な思いをさせられる方が身のためです〟と言うに至ってはいかにもシルバーバーチらしくて、私は訳していて苦笑を禁じ得なかった。

これほどの事件にそれなりの意味がないわけがなく、それが見えているからそういうセリフも出てくるのであろう。そして、確かにシルバーバーチの言うとおり犠牲者らしい犠牲者はダンカン夫人一人だけで終わり (とばっちりを受けた者もいたことはいたが) 大方の心配は杞憂に終わったのだった。

 ではその世紀の裁判とはいかなるものだったのか。これまで断片的な資料は入手していたが、このたび折よく、ブリーリー女史の 『ヘレン・ダンカンの二つの世界』 The Two Worlds of Helen Duncan by Grna Brealey というのが出版され、その中に裁判に関する詳細な記録が紹介されている。

これからそれを必要なかぎり紹介しようと思うが、その前にヘレン・ダンカンという霊媒の霊媒能力について述べておきたい。

 ダンカン女史の得意とするところは物質化現象で、その印象があまりに強いために他の能力の影が薄く感じられるが、実際は霊視、霊聴をはじめとしてオールラウンドな霊能を具えていた。

しかし、やはりヘンレン・ダンカンといえば物質化現象専門の霊媒と言ってよく、それがまた女史をスピリチュアリズム史上最初で最后の〝殉死者〟にしてしまったのだった。バーバネルはダンカン女史によるある日の交霊会の様子を次のように綴っている。


  「ヘレン・ダンカン女史の交霊会で私は、キャビネットの中で物質化象ができあがるところを特別に見せていただいたことがある。かつてキャビネットの外で、エクトプラズムの像が次第に縮んでいって、しまいには小さな光の玉のようになり、最後は床を突き抜けて沈むように消えて無くなるところを見たことがある。

 そのキャビネットの中で見た現象であるが、女史の鼻と口と耳から発光性のエクトプラズムが大量に波のように出てきて、やがて六フィートの背丈の女史の支配霊アルバートの姿となった。

同じ現象を見た(霊魂説否定派の最右翼である)心霊研究家のハリー・プライスは、ダンカンは前もってチーズクロス(ガーゼ状の布)を呑み込んでおいてそれを吐き出すのだと言う、途方もない説を出した。

これが荒唐無稽の説であることを証明するためにダンカン女史は自らX線検査を求めた。プライスの〝説〟ではダンカン女史の腹には牛と同じ反芻用の第二の胃袋があることになっていたが、検査結果はまったく〝正常〟だった。

 私は一度ならず女史の交霊会でエクトプラズムが出てきたところを直接触らせていただいたことがあるが、その時すでにカラカラに乾いていて一種独特の固体性を具えていた。これは反芻されて出てきたものではあり得ないことを証明している。

私は決定的ともいえる実験をしたことがある。ダンカン女史をはじめ出席者全員にメチレンブルー(青色塩基性染料の一種)の錠剤を飲んでいただいたのである。胃袋の中のものが青みを帯びる効果をねらったものであるが、そのあと出現した物質化像はいつものとおり真っ白だった。

 次に、それらとはまったく対照的な現象───非物質化現象を紹介したい。ダンカン女史には封書読み(リーデング)の能力もある。ある時エステル・ロバーツ女史(バーバネルが英国一の折紙を付けた霊媒──訳者)がそのことに興味を抱き、一度試してみたいと言うので私が取り計らってあげた。

席上私はロバーツ女史に一枚の紙切れを渡して、誰にも見られないように一つの質問を書かせた。それを折りたたんで封書に入れ、封をしてダンカン女史に渡した。

 それを早速ダンカン女史が読みはじめた。ところが、八つの単語から成るその質問文の六つまで読んだところで〝なくなりました〟と言う。(ダンカン女史は文字通りその用紙が消えて無くなったと言っているのであるが、ロバーツ女史は読み取ったつもりの記憶が消えたという意味に受け取って)〝上出来です。

お判りにならないのは最後の二語だけで、あとは正確に読んでおられます〟と言うと、またダンカン女史が〝なくなりました!〟と言う。

するとロバーツ女史がふたたび〝お読みになられたところまでは全部正確でしたよ〟と言いながら、念のためにその封筒を開けてみた。すると驚いたことに質問を書いた用紙が消えて無くなっているのである。封書の中が空っぽだったのである。そしてそれきりその用紙はどこからも出てこなかった。

 あとでロバーツ女史はこの不可思議な現象の意味が分かったと言って私に話してくれた。実はあの質問は他界したばかりのある人について何か情報を得られないかどうかを尋ねたものであるが、気が付いてみると、その人については支配霊のレッド・クラウドからある時期が来るまで情報を求めてはならぬと言いつけられていたのだそうで、まだその時期が来ていなかったというわけである」


 さて、ではダンカン女史は一体いかなる罪状で訴えられたのだろうか。起訴状によると大要次のようなことになっている。

 「被告人ヘレン・ダンカンは一九三三年一月四日及び五日の両日、(場所省略) 男女八名の者に対して自分は霊媒であると偽り、自分を通じて死者の霊を出席者の目に見え語りかけ会話を交わすことができる状態で物質化させうること、もし一人十シリングを支払えばそうした催しを行う用意があると偽り、

同日同場所において右の八名の者が出席して費用を支払うと、その場所で偽りの交霊会を催し、ペギーと名乗る幼児を含む幾名かの死者の霊を物質化させると偽り、そこで出席者の目に見え耳に聞こえたものが死者たちの姿であり声であるかのごとく見せかけた。

しかし実は本人も承知しているごとくペギーの物質化と称したのはメリヤス地のベスト(チョッキ)であり、それを被告人が手にして操作してそれらしく見せかけたものであり、その声は被告人本人の声であった。

被告人は総額四ポンドにのぼる費用を着服し、八人の出席者一人につき十シリングを詐取せしものである」(傍点は訳者。なおポンドもシリングも現在の十進法以前のもの)


 では問題の交霊会はどういう経緯で告発されたのだろうか。そのあらましを紹介すると、ある日ダンカン女史のもとに届けられた手紙の中にミス・ソールズという女性からの交霊会開催の依頼状があり、悲しみのどん底にある友人のために是非ともお願いしたいとあった。実はこの女性は後で出てくるミス・モールと共に警察の巧妙な、

というよりは強引な仕掛けの手先となっていた。指定された場所はロンドンの心霊研究センターで、ダンカン女史もよく知っていたので、早速予約受付け係の様な役をしていた夫のヘンリーに伝え、ヘンリーもすぐに〝受諾〟の返事を出した。が、

後になって同じ日に別の交霊会の予約があったことに気づいたヘンリーが取消しの通知を出そうかと言ったところダンカン夫人は、苦しい思いをしている人のためなのだからと、同じ日に二つの交霊会を催すことにし、その代わり少し予定より時刻が遅れることだけを伝えておいてほしいと頼んだ。二つの場所がかなり離れていたからである。

 さて当日であるが、グラスゴーでの交霊会を無事終えたダンカン女史は娘のリリアンと共に次の開催地であるエジンバラへ向かったのであるが、実はグラスゴーでの交霊会で支配霊のアルバートが、常連の一人であるドリスデール夫人に(ダンカン女史は入神状態なので何も分からない) 次の交霊会は用心するようにと警告している。

事件が迫っていることは背後霊団には分かっていたのである。交霊会の終りぎわにもう一度アルバートはドリスデール夫人に〝忘れずにヘレンに伝えて下さいよ〟と念を押した。入神から目覚めてアルバートの警告を聞かされたダンカン夫人は、次の交霊会へ行く途中を用心しろ───つまり交通事故に気をつけろという意味に受け取ったという。
℘218
 グラスゴーからエジンバラまではかなりの距離があるので、一つでも早い列車に乗ろうと、ダンカン夫人は旅行用の衣服に着更える暇もなく、上にコートをはおっただけで列車に飛び乗った。そこに又一つ悲劇のタネが隠されていた。訴状にある〝メリヤス地のベスト〟に着更えなかったことである。

 駅からタクシーに乗ってセンターの前で降りると、一人の女性(ミス・モール)が待っていて、〝実は会場が急に変更になりましたので〟と言い、理由も言わずに二人を隣接するホールへ案内した。

その間その女性は一言もしゃべらなかった。そして階段を二段上がったところでいきなり〝コートをお預りしましょう〟と言うので、〝いえ、結構です。それより娘を待たせておく部屋へ案内してやってください〟と言うと、〝かしこまりました。すぐに戻ってまいりますので〟と言ってリリアンを連れてその場を去った。

 待っている間にダンカン夫人はコートを脱ぎ、壁のコート掛けに掛け、その下に旅行用のカバンを置いた。そこへその女性が戻って来て交霊会の催される部屋へ案内した。入ってみると中央に四つの椅子が用意してあり、片隅のキャビネットへ向けて半円状に並べてある。

〝何かほかにお入り用のものがございますかしら?〟と出席者の一人が尋ねた。

〝お水を一杯お願いします。終わってから頂きますので。どうもご親切に〟とダンカン夫人が言った。

 それから間もなく交霊会が始められた。ダンカン夫人が入神した。後で夫人が述懐して言うには、朦朧とした意識の中で誰かが自分を引っ張って〝さあ、つかまえた! これがあんたの言うペギーでしょう!〟と叫ぶ声がやっと聞こえたと言う。

 ペギーというのはアルバートと共によく物質化して出てくる子供の背後霊の名前である。少し意識が戻ってきたダンカン夫人が〝一体何事ですか〟と聞くと、〝今警察を呼んでいます。詐欺の現行犯で逮捕します〟と言う。これがミス・モールである。

 〝これを見なさい〟と言ってミス・モールが女性用のベストを差し上げて見せた。

 〝それはどこにありました?〟と、すっかり意識が戻ったダンカン夫人が聞いた。

 〝これがあなたの言うペギーなのですね?これを衣服の下から突き出そうとしているところを捕まえたのです〟と言った。これは明らかにでっち上げである。その時ダンカン夫人はそのベストを身に着けておらず、かばんの中に入れたままである。それをミス・モールが盗み出して持ち込んだのである。

 事の次第が分かったダンカン夫人は怒りを爆発させ、〝このウソツキ女!〟と叫んで摑みかかろうとしたが、二人の女性に止められ、その場にしゃがみ込んで泣いた。そこへ警察が入って来て取り押さえ警察署へ連行した。そして治安を乱したかどで正式に起訴された。反訴する権利もあることを知らされたが、ダンカン夫人はそれを拒否した。

気が動転していたせいもあるかも知れないが、私の想像では夫人は多分、裁判官を相手に交霊実験をやって見せれば簡単に疑いは晴れると考えていたのであろう。いずれにせよ、その時適用されたのが〝魔法行為取締法〟だった。

 ついでであるが、この取締法の成立過程は極めて興味深い経緯があるので紹介しておきたい。

 そもそもの発端は時の王ジェームズ一世(一五六七~一六二五)が花嫁をデンマークから呼び寄せようとして、それが北海の悪天候のために阻止されたことにあった。当時は魔法が法律でも〝事実〟として認められ、ジェームズ一世自身も、〝鬼神学〟に関する書物を著わしていたほどである。

そこで北海の荒波は何者かの魔法の為せるわざであるという見解が公式に採択され、早速魔法行為を取り締まるための法律が一六〇三年に議会を通過した。

 当時は魔法が〝事実〟であったから、その法律は〝まじない、魔法、及び悪霊・邪霊の類いを扱う行為を取り締まる〟という趣旨になっていた。それが一七三五年になって〝魔法を事実として認めない〟という見解に変化したために法律の表現が改められ、魔法を行うがごとく偽った行為をした時、ということになった。ダンカン夫人に適用されたのはそれだった。

 しかし、それをスピリチュアリズムに適用するのは筋違いである。なぜなら当時はまだスピリチュアリズムは誕生していなかったからである。交霊会等によって霊媒や霊能者が心霊現象を演出したり超能力を披露するようになったのは一八四八年以降のことで、二百年以上ものちのことである。

本章の編者が七章の冒頭で〝埃をかぶった公文書保管所から持ち出されて・・・・・〟云々、と表現したのはそのためである。

 しかし警察がこうした囮(おとり)を使った方法で詐欺行為をでっち上げてすぐスピリチュアリズムを弾圧しようとした背後には、シルバーバチが七章の最後のところで暗示しているように、国教会が警察権力と裁判官を利用してまで弾圧しようとする陰湿な企みがあったのであろう。

そのことはダンカン夫人が潔白の唯一の証明手段として出した〝ぜひ一度交霊会を催させてほしい。見ていただけばすべて分かります〟という訴えが却下されたことに如実に表れている。

 その間には証人としてモーリス・バーバネルやハンネン・スワッハーを筆頭に二十六名が証言台に立ったが、そもそもの目的が大物霊媒であるヘレン・ダンカンを見せしめにすることによってスピリチュアリズムの信頼を失墜させようということにあったからであるから、すべてが虚しい努力に終わるしかなかった。

結局ダンカン夫人は九か月の刑に処せられた。スワッハーは心霊誌 「リーダー」の中でこう述べている。

 「もしも同じ〝魔法行為取締法〟が行使されていたらウィリアム・クルックス卿はフロレンス・クックを研究したかどで、ビクトリア女王はジョン・ブラウンを呼んで交霊会を催させたかどで、オリバー・ロッジ卿はオズボーン・レナードの交霊会に出席したかどで、ダウディング卿はエステル・ロバーツの交霊会に出席したかどで、

それぞれ罪人とされていたことであろう。私などはこの度の判決文に従えば何百回も罪を犯したことになる。

  かの〝イギリスの戦い〟(一九四〇年の英国軍とドイツ軍との大空中戦)において総指揮を取ったダウディング卿は今英国中を回って、その空中戦での戦死者の遺族に卿自身が交霊会で受け取った戦死者からのメッセージを伝えて歩いている。卿のおかげで悲しみの涙を止めることが出来た人が沢山いる。

数々の交霊会に出席することによってそれが叶えられた以上は、ヘレン・ダンカンと〝共謀〟したかどで有罪とされたポーツマスの人たちと同じく卿も明らか有罪ということになる。

 なぜ二百年以上も前の〝魔法行為取締法〟がこの一九四四年という年になって国権によって掘り起こされたのだろうか。恐らくどこかで〝隠れた手〟が動いているのでは・・・・・?」

 実はダンカン女史への迫害はこれ一回で終わったのではなかった。

 一九五六年のことであるが、ある著名な足病専門医の自宅で催されたダンカン女史による交霊会が二人の警官の急襲を受けた。二人は宙を飛ばんばかりの勢いでキャビネットへ突進し、カーテンを開けるなり写真を撮った。そのフラッシュで部屋中が光の海となった。入神中のダンカン夫人はそのショックでその場に倒れた。

 知人のハミルトン夫人がかばおうとすると、〝公務執行妨害でお前も逮捕するぞ〟と怒鳴りつけられた。

 〝でも、この人は死にかかっているのですよ!〟 と絶叫するハミルトン婦人の言葉に警官は何の返事もしない。

 〝せめて医者を呼んでください!〟とさらに夫人が言った。
 が、警官は黙ったままこん睡状態のダンカン夫人を部屋から連れ出して寝室へと運んだ。
 そうしているうちにも続々と警官が裏口から屋敷内へ入ってきた。まるで暴動騒ぎでも起きたかの様になった。

 主任の刑事がハミルトン夫人を尋問した。

 〝ダンカン夫人との関係は?〟

 〝友人です〟

 〝共犯者ですね?〟

 〝何の共犯者ですか?〟

 〝今日の詐欺行為です。さあ、マスクと布はどこに隠したか言いなさい〟

 〝何のことをおっしゃっているのか、さっぱり分かりません。私は何も隠してなんかいません。これまでずっと女性の警官に見張られていたのです。医者を呼んでください。今すぐにです。あの方は重態なのです〟

 そこで医者を呼ぶことを許され、電話を入れた。

 医者が来るまでハミルトン夫人はその家に滞在中ずっとダンカン夫人とともに過ごしていた部屋へ行ってみると、スーツケースが全部開けられ、衣服が放り出されたままになっていた。

 やがてドアのベルが鳴った。階下へ降りてみると医者だった。主任刑事も来て、何やら勝手な説明をしながらダンカン夫人が横になっている部屋へ案内した。

 夫人が重態であることは医者でなくても分かるほどだった。脈を取り聴診器を当てたあと、その医者は深刻そうな顔で刑事に

〝で、私にどうしろとおっしゃるのです?〟と聞いた。

 〝腔と肛門を調べてほしい。 幽霊に見せかけるためのマスクと布が隠されているはずだから〟

 〝何ということを! あなたはこの患者が今大変なショック状態にあることがお分かりにならないのですか。ちょっと動かすだけでも死ぬかも知れないほどです。そんなことは私はお断りします〟

 そう言ってからインシュリンの注射を打った。そこでハミルトン夫人が部屋へ入ることを許された。夫人は駆け寄るとすぐさま医者にどんな状態かを尋ねた。

 〝重態です。とても重態です〟と静かに答え、さらに、

 〝私にはこれ以上の手当ては出来ません。申し訳ありませんが・・・〟と言って部屋を出て行った。

 二人きりになるとハミルトン夫人はイスをベットの近くへ引き寄せて座り、ダンカン夫人の手を取り、どうか持ち直しますようにと祈った。

 ブリーリー女史の書物はこのノッチンガム事件で始まっている。その巻頭には次のような、短いが感動的な〝まえがき〟が付いている。

 「一九五六年十月二十六日、ノッチンガムでの交霊会が警察の急襲を受けた。

 その時の霊媒について、これまでいろいろと書かれている。とりわけ最も話題の多かった物理霊媒───言うなればスピリチュアリズムの殉死者とされている。

 その伝記の中で私はその非凡な女性の真実の姿を語ったつもりである。霊視能力、霊聴能力、予知能力、その他数多くの霊的能力を具えていながら、それが物理的霊媒現象つまり物質化現象による評判のために影が薄くなっている。

 また彼女の無私の人類愛、夫と家族への情愛、プライベートな喜びと悲しみ、身体的ならびに精神的苦悩についてはまったくと言ってよいほど書かれていない。その真相は一度も語られていないのである。

 その彼女がノッチンガムでの交霊会で警察の急襲を受けてから三十六日後に他界した。彼女の名はヘレン・ダンカン───私の母だった」

 なおブリーリー女史の著書の巻末に参考資料として何人かの証人尋問の記録が載っている。その中でも五日目の弁護側証人として出廷したハンネン・スワッハーの証言がさすがに出色で、毒舌を利かした面白いものとなっている。参考になる部分が多いので次に紹介しておく。

 証人としての身分は〝著名なジャーナリスト〟となっている。

 弁護人「あなたは確か演劇評論家でもいらっしゃいますね」

 スワッハー「そうです。困ったことですが」

 弁護人「誰が困るのですか」


 スワッハー「私です。いつも最後まで見なくてはいけませんので」

 続けてスワッハーは過去二十年にわたって世界各地でのあらゆる心霊現象を研究し、とくに物質化現象は英国と米国で研究したと述べた。

 弁護人「その研究の目的は?」

 スワッハー「他界した愛する者が今なお生きていることにつて、真実を世間の人に知らせるのが自分の義務であると信じるからです」

 続けてヘレン・ダンカンの交霊会ついて説明した。厳しい条件下で五回ないし六回の実験に立ち合い、いずれも巾広い種類の現象が見られたと述べた。また物質化現象ではエクトプラズムが霊媒の身体の粘膜、太陽神経叢(みぞおち)、その他の箇所から滲出すること、そのときの様子はまるで生き物のように見えると述べ、

ダンカン夫人の場合は〝生きている雪〟に似ていると言う以外に適切な形容ができないと述べた。そしてエクトプラズムを見た回数は五十回ほどに及ぶと付け加えた。

 判事「最後に見たのはいつですか」

 スワッハー「このたび裁判にかけられるようになってからです」


 ここで弁護人が被告人が逮捕されてから今回の裁判が開かれるまでの期間に実証性に富む交霊会が開かれている事実を指摘し、そのことを被告人が本物の霊媒であることの証拠として認めるように申請したが、証拠不十分として却下された。

 弁護人「物理現象において列席者はどんな役割を果たすのですか」

 スワッハー「列席者が和気あいあいとしているほど、つまり気持ちが打ち解け合っているほど、現象も起きやすくなります。それはパーティでもみんなが打ち解け合っていれば話もはずむのと同じです」

 弁護人「ダンカン夫人の交霊会でエクトプラズムから匂いがしたことがありますか」

 スワッハー「話には聞いておりますが、私には経験がありません。私が出席した時はいつも十分な赤色光の中で行われ、部屋の隅から隅まで見えました。ダンカン夫人から六フィートないし七フィート(二メートル前後)のところまで接近して見たことがありますが、そのときはエクトプラズムが鼻の穴から出ておりました」

 判事「それはいつのことですか」

 スワッハー「このたびの裁判沙汰になってからのことです。ですが、エクトプラズムはダンカン夫人の交霊会に出席するたびに見ております」

 弁護人「エクトプラズムについてもう少し詳しく話していただけませんか。それがチーズクロスと間違えられるようなことが有り得ますか」

 スワッハー「子供でもない限りエクトプラズムをチーズクロスと間違えることは有り得ません。チーズクロスなら赤色光を当てると黄色またはピンクに見えます。赤色光を当ててもなお生き生きとした白さを見せるものはチーズクロスなんかでは有り得ません」

 判事「光に過敏なのはなぜですか」

 スワッハー「光線の化学的成分が写真の現像に影響するのと同じです。赤色光を当ててもエクトプラズムは白色または青みがかった白色を呈します。

赤色はまったく反射しません。ダンカン夫人のエクトプラズムは私が見た中では一ばん白い色をしています。霊媒が前もって何かを隠し持っているという説はナンセンスです。前もって身体検査を行っていますから、持っていればすぐにバレます」

 それからスワッハーは物質化霊媒が急激な光線を当てられると危害をこうむる話を次の例を挙げて説明した。あるときダンカン夫人を友人の家に連れて行った。集まった人はみなダンカン夫人を知らない人たちばかりだった。

交霊会はその日が初めてという人も数人いたので、スワッハーが開会に先立って細かい注意事項を述べ、特に予告なしに照明を霊媒に当てることは危険であることを注意しておいた。

 ところが不幸なことに、出席が予定されていたアーネスト・オーテン(当時英国スピリチュアリスト連盟の会長)がクィーンズホールでの演説が長びいて、交霊会場への到着がおくれ、着いた時はすでに始まっていた。

オーテンが部屋のドアをノックした。それを聞いて、スワッハーの注意を聞いていなかった初心者の一人が、足もとを明るくしてあげるつもりでライターをつけた。途端に現象が止まり、同時にダンカン夫人の鼻からどっと血が流れ出た。

その時はそれだけで済んだが、ある霊媒は同じような不注意からその後ずっと目が見えなくなった例をあげ、このように、入神中の霊媒が特殊な状態にあることを説明した。

 そこで弁護人がダンカン夫人にどのような条件テストを行ったかを尋ねると、スワッハーは各ページに署名入りの資料を提出し、一例として次のようなテストを紹介した。

 スワッハー「一九三二年のことですが、私は四人の奇術師(うち二人はプロで後二人は医師)を招待しました。その中のプロの一人が四十ヤードの網でダンカン夫人を縛り上げ、両手に警察の本物の手錠をかけ、そのうえ左右の親指を紐が食い込むほど強く縛りつけました。その状態で交霊会が催されましたが、いつもと同じ現象が起きました。

終わった後ダンカン夫人はその縛られた状態から三分で脱け出たました。縛りあげるのに八分もかかったのです。これは(米国の奇術の天才)フージニーでもマネできなかったでしょう」

 判事「その四人の中にフージニーもいたのですか」

 スワッハー「いいえ」

 判事「彼女はそれをどうやって脱出したのですか」

 スワッハー「支配霊のアルバートが解いたのです。ほかに誰一人彼女に触れた者はいないのですから」

 弁護人「あなたは役者を大勢ご存知ですね」

 スワッハー「ロンドンのステージに立つ役者はほとんど知っております。もっとも役者の方は私を知っているとは認めたがらないかも知れませんが」

 弁護人「問題はダンカン夫人とアルバートが同一人物なのかどうか、又、すぐれた役者ならその種の演技ができるかどうかという点ですが、あなたはどう思いますか」

 スワッハー「違います。アルバートはれっきとした個性をもっており、ダンカン夫人とはいろんな点でまったく違っておりました。役者はいろんな人物に扮することができますが、霊媒の役はできません」

 検事「アルバートの声についてもっと詳しく説明してください」

 スワッハー「ロンドンなまりがあると聞いています。オーストラリア人のような声をしていたという人もいますが、演劇評論家である私には声の説明は難しいです」

 検事「オーストラリア人のような声でしたか。あなたも聞いたことがおありでしょうか」

 スワッハー「あります。メルバの声も聞いたことがありますが、それとも似ておりません」

 検事「で、そのアルバートの声はどんな感じでしたか。アクセントはオックスフォードアクセントでしたか」

 スワッハー「オックスフォードアクセントなどというものはありません。BBC(英国放送協会)が勝手にそう言っているだけです。ごく普通の声でした」

 検事「最後に聞いたのはいつですか」

 スワッハー「二週間前です」

 検事「あなたは心霊の専門家ですか」

 スワッハー「交霊会に出席するようになって二十年になります。今は私自身のホームサークルを持っております」


 検事「あなたも霊媒ですか」

 スワッハー「違います」

 検事「あなたにも守護霊がいますか」

 スワッハー「私の守護霊はエジプト人です」


 検事「それをどうやって知るのですか」

 スワッハー「私のホームサークルの支配霊が教えてくれました。インディアンです」

 このあとダンカン夫人の無罪を立証する証拠の提出をめぐって検事とスワッハーの間で激しいやり取りがあった。その中でスワッハーは詐欺についての質問にこう答えている。

 スワッハー「詐欺ではないかという言いがかりはスピリチュアリズムの発端頭初からあり、現に詐欺があばかれたケースもたくさんあります。この九十年間、私たち関係者はその非難に耐え続けてまいりました。ですから、ダンカン夫人についても考えられるかぎりの、あらゆる手段で真実性をテストしてきました。私はこの目でそれを確認しております」

 検事「〝考えられるかぎりのあらゆる手段〟とおっしゃいましたが、電気装置も使用しましたか。聞くところによればオーストラリアの霊媒ルディ・シュナイダーはハリー・プライス氏による実験のためにわざわざロンドンまで連れてこられたそうですが、シュナイダー氏の交霊会には出席されたことがありますか」

 スワッハー「いわゆる〝電気テスト〟が行われたプライス氏の実験室におけるジェームズ・ダン卿とチャールズ・ホープ卿の交霊会には出席しております」

 検事「その種の実験のことです」

 スワッハー「あれは実験と言うシロモノではありません。私はそのいい加減さを指摘せざるを得ませんでした。たとえばプライスの秘書が実験室をウロチョロしていました。もっと厳しいテストを期待していたのですが」

 検事「ダンカン夫人をX線写真で撮ったことがありますか。それから着色剤を服用したことがありますか」


 スワッハー「胃の中身を着色するための青色の錠剤を服用してもらったことがあります」

 検事「お祈りをすることが赤色光の部屋の中で死者の出現を待っている列席者にどんな影響を与えるのですか。素直に受け容れさせる上で効果があるということですか」

 スワッハー「違います。この法廷もお祈りで始まることがあります」

 検事「祈ることは人間を素直にするものですか」

 スワッハー「祈ることによってバスが素直に見えるようになりますか。それに、いいですか、人間は元々懐疑的な人が多いのです」

 検事「交霊会の時いつも同じ席に座るのは何か意味があるのですか。席はちゃんと決められているのですか」

 スワッハー「どこでも構わない交霊会もありますが、定期的に開かれている場合は席を決めた方がいいようです。食事でも同じ席がいいでしょう。それだけのことです」

 当日は例のチーズクロスが法廷へ持ち込まれていた。弁護人が、ダンカン夫人はそのチーズクロスを前もって呑み込んでおいて吐き出しているということは考えられないかと尋ねると、スワッハーは、それは絶対に有り得ないことで、

もしそんなことをしたらチーズクロスが胃液でビショビショになり、その上汚い色が付いてしまうはずだと述べ、ダンカン夫人の胃袋が牛と同じ反芻胃をしているとしたプライス説を否定する証拠として、夫人の胃袋がごく普通の胃袋をしていることを示すX線写真を持ち出して、これを見れば明らかだからこれを証拠写真として申請したいと申し出たが却下され、医師の診断書の提出も拒否された。続けてこう述べた。

 スワッハー「私はためしにチーズクロスを呑んでみようとしたことがあります。今ここでご覧に入れましょうか」

 判事「いや結構、法廷をショーのレベルに下げるような行為を許すわけにはいきません」

 スワッハー「チーズクロスを問題にしているのはあなた方の方で、われわれは少しも問題にしてないんですよ。いったいなぜ、こんなものを法廷に持ち込んだのです! ハリー・プライス自身に一度呑んでみてくれるように頼んでも、嫌がって呑もうとしなかった。

そのプライスがチーズクロス説などという気違いじみた説を言い出すまで、私はこの世にこんなふざけた説を言い出す人間がいるとは思ってもみなかった。まったくバカげた話です!」

  ここで検事が先程のスワッハーの話に出た鼻から血を出した霊媒の話に戻して尋ねた。

 検事「あなたはその鼻をよく観察されたのですね?」

 スワッハー「しました。ごく普通の鼻をしておられました。その鼻から出血しておりました」

 検事「見て確かめたのですね?」

 スワッハー「見て確かめる以外にいったい何かすることがあるのですか。申し上げますが、これでも私は観察眼というものを具えているつもりです。私が書くことは全部そのまま信じてくれます」

 検事「あなたは確固とした信念をお持ちのスピリチュアリストですか」

 スワッハー「私は確固とした信念を持っております。異論の余地のない証拠に基づいているからです」

 検事「演劇評論家として他の評論家と意見が食い違うことはありませんか」

 スワッハー「それは〝事実〟の問題ではなく〝見解〟の相違の問題です」

 検事「もう一度お聞きします。ダンカン夫人はチーズクロス説では十分なテストをされたとお考えですか」

 スワッハー「X写真線まで撮ってあります。何ら異常なしと医師の診断書も用意してあります」

               完           
             


巻頭言
 
 頑固(かたくな)な心、石ころのような精神では真理の種子(たね)は芽を出しません。受容性に富む魂───率直に受け入れ、それが導くところならどこへでも付いて行ける魂においてのみ花開くものです。

 あなたがそのような気持ちになるまでには、つまり真理を魂の中核として受け入れる備えができるまでには、あなたはそのために用意される数々の人生体験を耐え忍ばなくてはなりません。

 もしもあなたがすでにその試練を経ておられるならば、その時点においては辛く苦しく無情に思え、自分一人この世から忘れ去られ、無視され、一人ぼっちにされた侘しさを味わい、運命の過酷さに打ちひしがれる思いをされたことでしょう。しかし魂は逆境の中にあってこそ成長するものです。黄金は破砕と精錬を経て初めてその純金の姿を見せるのです。

 あなたがもしもそうした体験をすでに積まれた方ならば、今手にされている本書の中で私が語り明かす真理に耳を傾ける資格があることを、堂々と宣言なさることができます。しかしそのことは私が語ることのすべてを受け入れることを要求するものではありません。あなたの理性が反撥することは遠慮なく拒絶なさってください。あなたの常識的感覚にそぐわないものはどうぞお捨てになってください。

 私もあなた方と少しも変わるところのない一個の人間的存在です。ただ私は、死後もなお続く人生の道を少し先まで歩んできました。今その道を逆戻りしてきて、あなたが死の敷居をまたいだのちに絶対的宿命として直面することになっている新しい、そしてより広大な人生がどのようなものであるかを語ってあげております。

 どうか謙虚に、そして畏敬の念をもって真理を迎えてやってください。謙虚さと畏敬の念のあるところには真理は喜んで訪れるでしょう。そして、せっかく訪れてくれた真理が少しでも長居をしてくれるよう、手厚くもてなしをあげてください。

真理こそがあなたに自信と確信と理解力と、そして何にもまして、永遠に失われることのない、掛けがえのない霊的叡智をもたらしてくれることでしょう。
                               
シルバーバーチ

Thursday, May 28, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック



第11章 自分を愛するように隣人を愛しなさい

最大の戒め 
 
自分にしてほしいと思うことを他人に行う
債権者と債務者の話

一、さて、イエスがサドカイ人たちを黙らせられたことを聞いたファリサイ人たちは、一団となって集まった。そのうちの一人は律法学者であったが、イエスを試そうとして尋ねた、「先生、律法のうちで最大の戒めとはなんですか」。イエスは答えられた、

「主であるあなたの神を、心から、全霊を込めて愛しなさい。これが最も大切な第一の戒めです。同様に第二の戒めは、自分を愛するように隣人を愛しなさい。すべての律法がこれら二つの戒めにかかっており、また預言者も同様です」。 (マタイ 第二十二章 34-40) 


二、そして、あなたが人々にそのようにしてほしいと思うことを、あなたも彼らにしてあげなければなりません。なぜならそれが律法であり預言者であるからです。(マタイ 第七章 12)



三、天の国は、王がしもべたちと勘定の精算をするようなところである。勘定の清

そのしもべはひれ伏し、「すべてお支払いしますから、どうぞお待ちください」と懇願した。すると王はその人を憐れに思い、その負債を免除し、自由にしてやった。

ところがそのしもべは出て行くと、自分に百デナリの借金をしていた仲間のしもべに出会ったので、その人ののどもとをつかみ、首を絞め付けながら、「私に借りているものをみな返せ」と言った。

その仲間の奴隷はひれ伏し、「すべてをお支払いしますから、どうぞお待ちください」と言った。しかし、それを聞こうともせず、負債を全て支払うまでその人を獄に閉じ込めるように命じてしまった。

そのしもべの仲間たちは、この様子を見て心を痛め、王にそのことを報告しに行った。すると王は、そのしもべを目の前に連れて来させて、「邪悪なしもべよ、私はお前が懇願したのですべての負債を取り消してやったのだ。

だから、おまえも自分の仲間のことを、私がお前を憐れんでやったのと同じように憐れんでやるべきではなかったのか」と言い、大いに憤り、その負債をすべて支払うまで獄に閉じ込めるように命じた。

 あなたたち一人一人に対して兄弟が行った罪を心の底から赦すのでなければ、天におられる私の父もまた、あなたたちをこのようになさるでしょう。(マタイ第十八章 23-35)

   

四、「自分を愛するように隣人を愛しなさい。他人にしてほしいと思うことを他人のためにしてあげなさい」。ここには、慈善がもっとも完全な形で言い表されています。なぜなら、これらの言葉には私たちが隣人に負う義務が要約されているからです。

他人にするべきことの基準として、この中にある、「自分自身にして欲しいこと」ということ以外に、これほど確実な基準は存在しません。私たちは同胞に対して、私たちの彼らに対する献身、慈悲、寛大さ以上のものを、どうして強要することが出来るでしょうか。この金言を実践することによってエゴイズムは破壊されます。

これらの言葉を人間が行動の基準とし、そのつくりだすあらゆる制度の基盤とすれば、真なる兄弟愛を理解し、平和と正義が人々を治めるようになるでしょう。憎しみや不和はもはや存在しなくなり、調和、統合、相互の慈悲心が生まれることになるでしょう。


  カエサルのものはカエサルに返しなさい
五、ファリサイ人たちは出て行くと、どうにかして言葉でイエスを混乱させようとたくらんだ。そして使徒たちをヘデロ派の人々と共にイエスのもとに行かせ、このように言わせた、

「先生、あなたは真実によって、神の道を、その人が誰であるかに関わらず教えてくれることを知っています。それでは、このことに対してどうお考えか教えてください。私たちは税金をカエサルに納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。

 しかし、イエスは彼らのたくらみに気づき、答えて言われた、「偽善者たちよ、なぜ私を試そうとするのですか。税金を支払う時に使う硬貨を私に見せてください」。そして一デナリの硬貨を見せると、イエスはお尋ねになった、「この肖像と銘刻は誰のものですか」。

彼らは、「カエサルのものです」と答えた。するとイエスは、「そうであるなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われた。彼らはその答えを聞くと驚き、イエスをその場に残して立ち去った。(マタイ 第二十二章 15-22、マルコ 第十二章 13-17)


六、イエスに対する質問は、ローマ人の課する税金を忌み嫌うユダヤ人が、その税金の支払いを宗教的な問題であるとした状況から生まれました。多くの政党がその税金に反対して設立されていました。

その税金の支払いは、彼らの間では当時のいらだたしい問題となっていたのでした。そうでもなければ、このような質問をイエスにすることは無かったでしょう。「私たちは税金をカエサルに支払わなければならないのでしょうか。それとも支払わなくてもよいのでしょうか」。

そこには罠が仕掛けられており、返答によって、ローマの権威か、ユダヤの異論者たちのいずれかが、イエスに対して逆らうことを期待して質問したのでした。

しかし、イエスはその悪意を知っており、それぞれの物が与えられるべき者に与えられなければならないのだという正義の教えを説き、この難題を切り抜けたのです<→序章Ⅲ「パブリカン(徴税官)」>。


七、しかし、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」というこの文は、厳密にまったく文字通りに理解されるべきではありません。

イエスのすべての教えの中にあるように、そこには特定の場合における実用的な形で大原則が要約されているのです。この原則は、自分たちに対して行ってほしいと思うように他人に対して行わなければならないという、もう一つの教えの結果なのです。

その教えは、どのような道徳的・物質的損害を他人に与えることも、他人の利益を無視することもとがめています。そして、みなが自分の権利を尊重して欲しいように、一人一人の持つ権利が尊重されるべきであるということを示しています。

一般に、個人に対しても、家族や社会、権威に対しても、このことは同じように広げて考えられます。


℘199



  霊たちからの指導
   
  愛の法
八、霊的に進歩することにより、本能はその進歩のレベルまで引き上げられ、情操へと変化していきますが、そうした情操の最も卓越した形である愛の中に、イエスの教義は完全に要約されています。

人間はその起源においては本能しか持っていません。それがやがて進化し、形が崩されて行くと、感覚に変化していきます。教育され、浄化されると情操に変化します。情操の最もデリケートな部分が愛です。

その愛とは、一般的な低俗な意味のものではなく、内なる太陽のように、人類を超えたあらゆる啓示や熱望を、その焦点に凝縮し集めたものです。愛は人間の個人性を人々との協調性に置き換えます。愛は社会的な貧困を打ち消します。

人間であることを超え、苦しむ兄弟たちを広い愛情によって愛する者は祝福されます。肉体の貧困も魂の貧困も知らない者は祝福されます。そのような者の足取りは軽く、自分の身体を抜け出して移動しているように感じます。イエスが愛という神聖なる言葉を発すると、殉教者たちは希望に酔いしれ、劇場へと降りて行ったのです。

 スピリティズムの到来によって、神の言葉の中の二番目の言葉が伝えられました。注意深く聞いてください。「再生」、この言葉は空になった墓場の墓石を持ち上げ、死と言うものに打ち勝ち、衝撃を受けた人々にその知的財産を示してくれるのです。

それが人間を虐待に導くのではなく、自分自身の存在を認識し、征服し、高尚に変貌することに導いてくれるのです。血は霊を取り戻しましたが、今度は霊が人間を物質から取り戻さねばならないのです。
℘200    
 人間はその起源においては本能しか持っていないのであると私は言いました。ですから、まだ本能によって支配されている者は、目的の地よりも出発点に近いところにいるのです。

目標に向かって進んでいくには、情操を育てるために本能に打ち勝たねばならず、つまり、物質の中に眠る種子を抑制し、情操を完成させる必要があるのです。本能は情操の兆しであり、その種子のようなものです。どんぐりの中にかしの樹が隠されているように、本能の中には進歩が隠されているのです。

進歩の遅れた者とは、さなぎからゆっくり解放されつつも、依然として本能に支配されている者のことです。霊は畑の様に耕さなければなりません。本来における豊かさは、今日の労働によってもたらされます。労働は地上における財産以上に、栄光の向上をもたらします。

その時、全ての存在を統合する愛の法を理解することが可能となり、天における幸せの序曲である魂の優しい喜びをその中に求めることが出来るでしょう。(ラザロ パリ、1862年)


九、愛とは神なる精髄からできたものであり、最も卑しい者から最も高尚な者まで、あなたたちはこの神聖なる火の火花をみな心の底にもっています。誰でもこのことは証明できるに違いありません。

人間は、どんなに卑しく、貧しく、あるいは罪深くとも、誰か、もしくは何かしらの物に対し、生き生きとした熱烈な愛情を抱き、その気持ちはそれを弱めようとするどんな試みに対しても抵抗し、多くの場合、崇高な調和に至ります。

 私が誰か、もしくは何かしらの物と言ったのは、あなたたちの中には愛に溢れる心を持ちながら、その気持ちの富を動物や植物、あるいは物質的な物のために費やしてしまう人たちがいるからです。

そうした人たちは一種の人間嫌いの人たちで、人類一般に対して不満を持ち、自分の周りに愛情と同情を求めようとする自分たちの魂の自然の傾きに抵抗し、愛の法を本能の条件にまで引き下げてしまう人たちのことです。しかしどれだけそうしようとも、神が人類を生んだ時に授けた活発な種子を抑えることはできません。

この種子は道徳性と知性とともに発達し、しばしばエゴイズムによって圧迫されながらも、誠実で長続きする愛情を生み出す甘い聖なる美徳の源となり、人生の険しく荒涼とした道のりを乗り越えるための支えとなってくれるのです。

 自分たちが羨ましいと感じている愛情深い同情を、他人が分かち合いに来るという考えから、再生を受付ない人々がいます。可哀想な兄弟たちよ。あなたたちの愛情はあなたたちをエゴイストにしてしまうのです。あなたたちの愛は親しい親類や友人の輪の中にだけ狭められ、その他の人に対して無関心になってしまいます。

よろしいでしょうか、神の教える愛の法を実践するには、あなたたちの兄弟を無差別に愛するために一歩一歩近づいていかなければなりません。

その任務は長く、困難ですが、いつか達成されるでしょう。神はそうなることを望んでおり、愛の法が、第一の最も重要な規則でなければならないのです。なぜなら、個人的なエゴイズムの他に、血筋中心のエゴイズム、階級的なエゴイズム、国家的なエゴイズムが存在する中で、どのような形であろうと、あらゆるエゴイズムを愛の法はいつの日か滅ぼすことになるからです。イエスは、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言いました。

では隣人とはどこまでを指すのでしょうか。家族でしょうか、宗派でしょうか、それとも国家でしょうか。いいえ、人類全体を指すのです。

より優れた世界においては、相互の愛がそこに住む進歩した霊たちを導き,和を築いていますが、近々著しい進歩を遂げることになっているあなたたちの惑星においては、そこで起きる社会的変化のために、神を映し出すことこの崇高な法を、そこに住む者たちが実践するようになるでしょう。

 愛の法がもたらす結果とは、人類の道徳的向上と、地上における人生の幸福です。この規律の実践がもたらす有益な結果を知ることにより、最も反抗的な者や、最も悪徳な者も自らを改めることになるでしょう。

自分にして欲しくないことを他人にしてはなりません。その反対に、あなたたちが行うことのできる全ての善を他人にしてあげなければなりません。
℘202     
 人類の心の不毛さや冷酷さを信じてはいけません。嫌々ながらもそうした心は、真なる愛の前には譲ることになります。真なる愛とは磁石のようなもので、抵抗することはできないのです。真なる愛との接触は、あなたたちの心の中に潜む愛の種子を発芽させ、活発にさせます。

追放と苦境の天体である地球は、やがてこの聖なる火によって浄化され、その表層に慈善、謙遜、忍耐、献身、甘受、忍従、犠牲といった、すべての愛の産物が実践されるのを見ることができるようになるでしょう。ですから、福音記者ヨハネの言葉に聞きあきることがあってはなりません。

あなたたちが知るように、病と老いによって彼が説法を続けることが出来なくなった時、「子供たちよ、お互いに愛し合いなさい」というこの優しい言葉だけを繰り返しました。

 愛する兄弟たちよ、これらの教えを役に立ててください。それを実践することは難しくとも、魂はそこから多くの益を得ることになります。私を信じ、あなたたちにお願いする崇高なる努力をしてください。

「お互いに愛し合いなさい」。そうすることにより、近い将来、地球は楽園へと変化し、そこには正しい者たちの魂が休みに集まることでしょう。(フェヌロン ボルドー、1861年)


十、親愛なる同胞たちよ、ここにいる霊たちが私を通じ伝えています。「愛されるために、大いに愛しなさい」。この考えはまったく正しく、その中には日々の苦しみを和らげ、慰めてくれるもののすべてを見出すことができます。

分かりやすく言うならば、この知恵ある教えを実践することにより、あなたたちは物質を超えて向上し、地上における肉体の被いを後にする前に霊的に進歩することが可能となるでしょう。

未来を理解するためのスピリティズムの研究を発展させることにより、一つの確信を持つことができるようになるでしょう。あなたたちの魂の熱望に応える約束のすべてが、実現されながら神に向かって歩んでいるという確信です。

ですから、あなたたちは物質に束縛されることなく、自らを高く持って物事を判断しなければならず、神へ考えを寄せることなしにあなたたちの兄弟を非難してはなりません。
℘203      
 愛するということの深い意味は、人間が誠実、正直、良心的に、他人に対して、して欲しい思うことをしてあげるということです。兄弟たちを困らせているあらゆる痛みを自分の周りに探し、それを和らげてあげようと親身になって感じることです。人類全体を自分の大きな家族のように考えることです。

なぜなら、この世界にいる期間が過ぎた後、より進歩した世界において、その家族のすべての者と再会することになるからです。そうした家族を作っている霊とは、あなたたちと同じ、無限の宇宙に向かって向上していく神の子です。だから、寛大な神があなたたちに授けてくれた兄弟を拒んではなりません。

もし兄弟たちがあなたたちの必要としているものを与えてくれていたなら、それはあなたたちに喜ばしいことではありませんか。ですから、いかなる苦しみに対しても、いつも希望と慰安の言葉を持ち、完全なる愛と正義を持つことができるようになってください。

「愛されるために、大いに愛しなさい」という賢明な勧告を信じてください。この言葉は道をひらきます。そしてこの革新的な言葉は、確実で不変の道を辿る言葉です。私の言葉を聞く者は、すでに多くを得ています。なぜなら、あなたたちは百年前に比べれば限りなく良くなっているからです。

あなたたちの利益のために、大いに変化し、過去には拒んでいた自由と同胞愛や、無数の新しい考えを喜んで受け入れることができるようになりました。このように今から百年経った後には、疑いもなく、あなたたちがまだその頭の中に収めることができないことを、同じような容易さによって受け入れるようになっている筈です。

 スピリティズム運動がこれほど大きく前進した今日、スピリティズムの中で何時も変わることなく述べられている正義と確信の考えが、非常に早く知的階層に受け入れられてきたことがわかります。

これらの考えがあなたたちの中に潜む神聖なものすべてに応えます。あなたたちの中には発芽が間もない種子が植えられているからです。
℘204    
その種子とは、一世紀前、地球上の社会の中に植えつけられた偉大なる進歩の考えのことです。そしてすべてが神の方向へ向かって連鎖しているため、授かり、受け入れられた全ての教えは世界的に隣人への愛に置き換えられることになることでしょう。

そのため、人間として受肉している霊たちは、物事をよりよく捉え、理解することが出来るため、地球の隅々にまで手を差し伸べることになります。一人一人がお互いに理解し愛し合い、すべての不正義や、人間同士の不和の原因を滅ぼすために集まることになるでしょう。 

「霊の書」には、スピリティズムによる偉大なる確信の考えが記されています。この規律をよく理解し、適用することによって、あなたは来たるべき世紀の驚異的な奇跡、つまり人類の物質的・精神的なすべての関心を調和させる奇跡を起こすことになるでしょう。「愛されるために、大いに愛しなさい」(元パリ・スピリティスト教会のメンバー、サンスン1863年)

 
  エゴイズム
十一、エゴイズムは人類の大きな傷であり、人類の進歩を妨げるものなので、地上から姿を消さなければなりません。さまざまな世界の階級の中で、人類の階級を上げることが、スピリティズムに託された役割です。

ゆえに、エゴイズムは、真なる信者がその武器であるその力と勇気を差し向ける標的でなければなりません。

勇気、と私が申し上げるのは、多くの人が他人に勝つ前に、自分自身に打ち勝つ必要があるからです。ですから、一人一人がその努力のすべてを、自分の中のエゴイズムと戦うことに費やさねばなりません。

すべての知性をむさぼる怪物、自尊心の産物であるエゴイズムは、地上の世界におけるすべての惨めさの原因であることは確かです。エゴイズムは慈善を否定するものであり、それ故に、人類の幸せにとって最大の障害であると言えます。

 イエスは慈善の模範を示しましたが、ポンティオ・ピラトはエゴイズムの例を示しました。つまり前者、正義なる者が殉教の道を辿ったのに対し、後者には「私には関係のないことだ」と言いながら手を引いたのです。ユダヤ人たちに「この者は正しい者であるのに、なぜ十字架にかけようとするのか」とまで言いながら、処刑を続行させたのです。

 人間の心の弊害であるこの慈善とエゴイズムの対立は、キリストの教えがその任務を完全に果たしていないことによるものです。

高級な霊たちは新しい信仰の使徒であるあなたたちにこの悪を根絶する任務と義務があり、あなたたちの進行を妨げている障害を取り除き、キリスト教に全ての力を注がなければならないのだということを明らかにしているのです。

地球がさまざまな世界の中で向上することができるように、地上からエゴイズムを追放してください。人類はもう大人の服に着替える時期が来ており、そのためには、まずあなたたちの心からエゴイズムを追放しなければならないのです。(エマヌイル パリ、1861年)


十二、もし人類がお互いに愛し合っていたならば、慈善はよりよく実践されていたでしょう。しかし、そのためにはあなたたちが心にまとう鎧から解放され、隣人の苦しみにもっと敏感になれるように努力することが大切です。キリストは、キリストを求める人の誰をも決して軽んじたりはしませんでした。

キリストを求めたものは、誰であっても拒否されることはありませんでした。姦淫した女や罪人もイエスによって助けられましたが、イエスはそのことによって自分自身の名声に傷が付くことを決して恐れたりはしませんでした。

では、あなたたちはいつになればイエスをすべての行動の模範とするようになるのでしょうか。地球上を慈善が支配した時、悪は存続しきれず、恥ずかしがってその姿を消していきます。悪はどこにいても居心地が悪く感じるため、どこかに隠れてしまいます。その時悪は消滅します。そのことをよく理解しておいてください。

 あなたたち自身が模範を示すことから始めてください。すべての人に対し、区別することなく慈善的であってください。あなたたちのことを軽蔑の眼差しで見る人たちのことを気にしないように努力してください。全ての正義は神の手に委ねてください。なぜなら、神は毎日、神の国において麦と雑草とを選別しているからです。
℘206    
 エゴイズムは慈善を否定するものです。慈善なくして社会生活の中に平和はなく、さらには、安全というものがなくなります。

エゴイズムと自尊心は手を取り合って存在していますが、それらによって人生はいつもずるい者だけが勝つことのできる競争となり、もしくは最も尊い愛情もが足もとに踏みにじられ、神聖な家族の絆さえも軽んじられる、利害の対立になってしまいます。(パスカル サンス、1862年)


  信心と慈善
十三、愛する子どもたちよ、人類を幸せにすることのできる社会秩序を人類の間に保つためには、信心の伴わない慈善では不十分であることを私は最近申し上げました。信心無くして慈善を行うことは不可能です。宗教を持たない人々の間にも実際、気前のよい衝動を見ることができます。

しかし、厳密に言う慈善とは、献身と、あらゆる利己的な利害を絶えず犠牲にすることによってのみ実践することができるのであり、そうすることを感得させ、現世の十字架を勇気と忍耐をもって担ぐことを可能にしてくれるのは信心以外にはありません。

 子どもたちよ、喜びに貪欲な人間が、地上での運命に錯覚し、自分の幸せだけを心配することが許されているのだと思い込んでしまうことは人間に取って無益なのです。

永遠の中で神が私たちを幸せにするように創造したことは確かですが、地上での生活は、物質世界と肉体の力を借りることによってより容易に達成することのできる、私たちの道徳的完成のためのみに使われなければなりません。

人生の一般的な苦しみ以外にも、あなたたちそれぞれが持つさまざまな好み、傾向、必要性などもあなたたちが完成するための手段であり、あなたたちに慈善の練習をさせているのです。なぜなら、お互いが犠牲を払ったり譲歩し合ってのみ、これほどまでに多様化した人々の間で調和を保つことが出来るからです。

 しかし、この世の人間に幸せが約束されていることを断言するのも、物質的な喜び以前に、善の実践の中にその幸せを求めるのであれば正しいことになります。キリスト教の歴史は、喜びを感じながら苦しみに向かって行った殉教者たちのことを教えてくれています。

今日、あなたたちの社会においては、キリスト教徒となるために殉教の炎に立ち向かうなど、命を犠牲にする必要はなく、ただ、エゴイズム、自尊心、虚栄心さえ犠牲にすればよいのです。信心によって支えられ、慈善に感得されるのであれば、あなたは勝利を収めることが出来るでしょう。(守護霊クラクフ、1861年)

℘207        
  罪人に対する慈善
十四、 真なる慈善とは、神が世界に教えた最も崇高な教えのうちの一つです。その教義の真なる使徒たちの間には、完全なる同胞愛が君臨しなければなりません。

不幸な者たちや罪人たちを同じ神の創造物として愛さなければならず、それは、彼らにもあなたたちと同じように後悔することにより、神の法を犯した過ちに対する神の赦しと慈悲が与えられるからです。

求める者たちへの赦しと同情を拒むあなたたちは、彼らよりも罪が重く、さらにとがめられるべきなのだと考えてください。なぜなら、殆どの場合、彼らはあなたが知っているような神の存在を知らないのであり、故に彼らに求められるものはあなたたちよりも少ないからです。

 おお、他人を判断しないでください。親愛なる友たちよ、他人を裁かないでください。なぜなら、あなたたちが人を裁く時に用いる判断の基準は、あなたたちを裁くときにはより厳しく用いられることになり、あなたたちが絶え間なく犯した過ちに対する寛容を必要とすることになるからです。

世間では小さな過ちとさえも考えられないような行動であっても、純粋な神の目には罪として映る行動が多く存在することをあなたたちは知らないのですか。

 真なる慈善は施しや、あなたたちとともに生きる人たちへの慰安の言葉だけから成り立っているのではありません。いいえ、神はあなたたちに求めているものはそれだけではありません。

イエスによって教えられた崇高なる慈善とは、あなたたちの隣人に関わるすべてのことに対する不断の慈悲心からも成り立っているのです。この崇高なる美徳を、あなたたちは施しを必要としていない多くの人々に対して行うことができ、愛、慰安、励ましの言葉は彼らを神のもとへ導くことになるでしょう。
℘208      
 もう一度繰り返して申し上げますが、地球に同胞愛が君臨する時は近づいています。人類を統治するのはキリストの法です。その法は節度と希望を与え、魂を至福の国へと導くことが出来るのです。ですから、同じ父の子としてお互いに愛し合って下さい。

あなたたちと不幸な者たちを区別しないでください。なぜなら、神はあなたたちすべてが同じであることを望んでいるからです。誰をも軽んじてはなりません。神はあなたたちの間に、重い犯罪人があなたたちの教師として存在することを認めたのです。

やがて人類が真なる神の法を実践することが可能となった時、これらの教えは不必要になり、劣った霊たちはそれぞれが住むにふさわしいより劣った世界へ散らばって行ってしまうでしょう。
                 
 あなたたちはそうした劣った霊たちに対し、救援の祈りをしなければならないということを私は申し上げます。それは真なる慈善です。ある罪人に対し、「惨めな奴だ。地上から追放されるべきだ。このような者には死だけでは甘すぎる」などと決して言ってはなりません。

そうです、絶対にそのように言ってはなりません。あなたたちの模範となるイエスのことを考えてください。イエスは、そばに不幸な者がいたら何と言うでしょうか。その人のことを悲しみ、多くを必要としている病人のようにとらえ、手を差し伸べるでしょう。

あなたたちは実際には同じことはできないでしょうが、少なくとも不幸な者の為に祈り、その者がまだ地上に生きている間は、霊的な援助を与えてあげることができます。

信心深く祈れば、後悔の念がその者の心を打つかもしれません。罪人も最良の人間と同じようにあなたたちの隣人なのです。道に迷い、反抗的になってしまった魂も、あなたたちの魂と同じように、完成するために創造されたのです。ですから、不幸な者がそのぬかるみからでることができるように助け、その者のために祈ってください。(フランスのイザベル ルアーブル、1862年)

℘209    
  悪人のために命を犠牲にするべきか
十五、 ある人が死の危機に直面しています。彼を助けるには自分自身の命を危険にさらす必要があります。しかし、死に直面している人は悪人で、もし、助かれば再び新しい罪を犯す可能性があります。にもかかわらず、命の危険を冒してまで彼を救うべきでしょうか。



 この問題は非常に重要な問題であり、私たち霊に疑問としておこるのも当然なことです。例え悪人であっても、私たちの命の危険を冒して救うべきかを知ろうとしてここで扱っている以上、私の道徳的進度に応じてこの問題にお答えいたします。

献身は盲目です。敵兵もが助けられるように、社会の敵、つまり悪人をも助けてください。そのような場合において、死だけがその哀れな者の人生を奪おうとしているとあなたは考えますか。

いいえ、恐らくその者の過去の人生すべてが奪おうとしているのです。なぜ考えるのですか。人生の最期の時を奪うその瞬間に、その迷える者は過去の人生を振り返ります。もっと正しく言うならば、過去の人生が彼の前に現れるのです。死は彼にとってとても早く訪れるかもしれません。

再生は恐ろしいものになるかもしれません。だから、人類よ、身を投じてください。スピリティズムの科学によって明らかにされたあなたたちは、身を投じ、彼を危険から救ってください。すると、あなたたちを罵りながら死んで行ったかも知れなかったはずのその悪人は、あなたたちの腕の中に飛び込んでくるかもしれません。

しかし、あなたたちは、彼がそうするかどうかを問うてはならず、援助に走らなければなりません。なぜなら、援助することによってあなたたちの心の中で「あなたには助けることが出来る。彼を助けよ」と叫ぶ声に従うことが出来るからです。(ラムネ― パリ、1862年)

シルバーバーチの霊訓(七)

More Wisdom of Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell  




十章 質問に答える

(一)──スピリチュアリズムが現代の世界に貢献できるものの中で最大のものは何でしょうか。

 「最大の貢献は神の子等にいろんな意味での自由をもたらすことです。これまで隷属させられてきた束縛から解放してくれます。知識の扉は誰にでも分け隔てなく開かれていることを教えてあげることによって、無知の牢獄から解放します。日蔭でなく日向で生きることを可能にします。

 あらゆる迷信と宗教家の策謀から解放します。真理を求める戦いにおいて勇猛果敢であらしめます。内部に宿る神性を自覚せしめます。地上の他のいかなる人間にも霊の絆が宿ることを認識せしめます。

 憎み合いもなく、肌の色や民族の差別もない世界、自分をより多く役立てた人だけが偉い人と呼ばれる新しい世界を築くにはいかにしたらよいかを教えます。知識を豊かにします。精神を培い、霊性を強固にし、生得の神性に恥じることのない生き方を教えます。こうしたことがスピリチュアリズムにできる大きな貢献です。

 人間は自由であるべく生れてくるのです。自由の中で生きるべく意図されているのです。奴隷の如く他のものによって縛られ足枷をされて生きるべきものではありません。その人生は豊かでなければなりません。

精神的にも身体的にも霊的にも豊かでなければいけません。あらゆる知識──真理も叡知も霊的啓示も、すべてが広く開放されるべきです。生得の霊的遺産を差し押さえ天命の全うを妨げる宗教的制約によって肩身の狭い思い、いらだち、悔しい思いをさせられることなく、霊の荘厳さの中で生きるべきです」


(二)──スピリチュアリズムはこれまでどおり一種の影響力として伸び続けるべきでしょうか、それとも一つの信仰形体として正式に組織を持つべきでしょうか。

 「私はスピリチュアリズムが信仰だとは思いません。知識です。その影響力の息吹は止めようにも止められるものではありません。真理の普及は抑えられるものではありません。みずからの力で発展してまいります。外部の力で規制できるものではありません。

あなた方が寄与できるのは、それがより多くの人々に行き渡るように、その伝達手段となることです。それがどれだけの影響をもたらすかは前もって推し量ることは出来ません。そのためのルールをこしらえたり、細かく方針を立てたりすることはできません。

(そういうことを人間の浅知恵でやろうとすると組織を整え、広報担当、営業担当といったものをこしらえ、次第に世俗的宗教となり下がるということであろう──訳者)

 あなた方に出来るのは一個の人間としての責任に忠実であるということ、それしかないのです。自分の理解力の光に照らして義務を遂行する──人のために役立つことをし、自分が手に入れたものを次の人に分け与える──かくして霊の芳香が自然に広がるようになるということです。一種の酵素のようなものです。

じっくりと人間生活の全分野に浸透しながら熟成してまいります。皆さんはご自分で最善と思われることに精を出し、これでよいと思われる方法で真理を普及なさることです」


(三)──支配霊になるのは霊媒自身よりも霊格の高い霊と決まっているのでしょうか。

 「いえ、そうとはかぎりません。その霊媒の仕事の種類によって違いますし、また、〝支配霊〟という用語をどういう意味で使っているかも問題です。地上の霊媒を使用する仕事に携る霊は〝協力態勢〟で臨みます。

一人の霊媒には複数の霊からなる霊団が組織されており、その全体の指揮に当たる霊が一人います。これを〝支配霊〟と呼ぶのが適切でしょう。霊団全体を監督し、指示を与え、霊媒を通じでしゃべります。

ときおり他の霊がしゃべることもありますが、その場合も支配霊の指示と許可を得たうえでのことです。しかし役割は一人ひとり違います。〝指導霊〟という言い方をすることがあるのもそのためです。

 入神霊言霊媒にかぎって言えば、支配霊は必ず霊媒より霊格が上です。が、物理現象の演出にたずさわるのは必ずしも霊格が高い霊ばかりとはかぎりません。中にはまだまだ地上的要素が強く残っているからこそその種の仕事にたずさわれるという霊もいます。

そういう霊ばかりで構成されている霊団もあり、その場合は必ずしも霊媒より上とはかぎりません。しかし一般的には監督・支配している霊は霊媒より霊格が上です。そうでないと霊側に主導権が得られないからです」

(訳者注──〝霊〟と〝魂〟の違いと同じく、この〝支配霊〟と〝指導霊〟の使い方は英語でも混乱している。と言うよりは勝手な解釈のもとに使用されていると言った方がよいであろう。これは各自の理解力に差がある以上やむを得ないことであり、こうしたことは心霊の分野だけでなく学問の世界ですら一般的である。だからこそ辞引や用字用語辞典が生まれてくるのである。

心霊用語を一定の規範にまとめるべきだという意見も聞かれるが、私は使用する人間にその心得がない以上それは無駄であると同時に、その必要性もないと考えている。要は自分はこういう意味で使用するということを明確にすれば、あるいは文脈上それがはっきりすれば、それでいいと思う。

特に霊界通信になると根本的に人間の用語では表現できないことが多く、通信霊は人間以上にその点で苦労しているのである。

それは私のように英語を日本語に直す仕事以上に大変なことであろう。霊言でも自動書記でも同じである。それが人間の言語の宿命なのである。シルバーバーチが折あるごとに、用語に拘らずその意味をくみ取って欲しいと言っているのもそのためである)


(四)───入神状態(トランス)は霊媒の健康に害はないのでしょうか。
  「益こそあれ何ら害はありません。ただし、それは今までに明らかにされた霊媒現象の原理・法則を忠実に守っていればのことです。あまりひんぱんにしすぎると、たとえば一日に三回も四回も行えば、これは当然健康に悪影響を及ぼします。が、

常識的な線を守って、きちんと期間を置いて行い、霊媒としての日ごろの修行を怠らなければ、必ず健康にプラスします。なぜかというと、霊媒を通して流れるエネルギーは活性に富んでいますから、それが健康増進の効果をもたらすのです。正しく使えば霊媒能力はすべて健康にプラスします。が使い方を誤るとマイナスとなります」


(五)──思念に実体があるというのは本当でしょうか。

 「これはとても興味深い問題です。思念にも影響力がある───このことには異論はないでしょう。思念は生命の創造作用の一つだからです。ですから、思念の世界においては実在なのです。が、それが使用される界層(次元)の環境条件によって作用の仕方が制約を受けます。

 いま地上人類は五感を通して感識する条件下の世界に住んでいます。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信しあえる段階までは進化していないということです。

まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた霊的存在ということです。その条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形体をとるまでは存在に気付かないからです。

 思念は思念の世界においては実在そのものです。が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が感識されないのです。肉体による束縛をまったく受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。

 勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野でとらえなければいけません」


──物的活動の動機づけとして活用するのは許されますね?

 「それは許されます。また事実、無意識のうちに使用しております。現在の限られた発達状態にあっては、その威力を意識的に活用することができないだけです」


──でも、その気になれば霊側が人間の思念を利用して威力を出させることも可能でしょう?

 「できます。なぜなら私たちは人間の精神と霊を通して働きかけているからです。ただ、私がぜひ申し上げておきたいのは、人間的問題を集団的思念行為で解決しようとしても、それは不可能だということです。思念がいかに威力があり役に立つものではあっても、本来の人間としての仕事の代用とはなり得ないのです。

またまた歓迎されないお説教をしてしまいましたが、私が観るかぎり、それが真実なのですから仕方がありません」


──大戦前にあれほど多くの人間が戦争にならないことを祈ったのに阻止できませんでした。あれなどはそのよい例だと思います。ヨーロッパ全土───敵国のドイツでもそう祈ったのです。

 「それは良い例だと思います。物質が認識の基本となっている物質界においては、思念の働きにおのずと限界があります。それはやむを得ないことなのです。ですが他方、私は思念の価値、ないしは地上生活における存在の場を無視するつもりはありません」


──善意の人々にとっては思念の力が頼りです。

──米国民への友好心はわれわれ英国人への友好心となって返ってきます。

 「それから、遠隔治療において思念が治療手段の一つとなっています。ただしその時は霊がその仲介役をしていることを忘れないでください。地上の人間は自分の精神に具わっている資質(能力)の使い方をほとんど知らずにいます。

ついでに言えば、その精神的資質が次の進化の段階での大切な要素となるのです。その意味でこの地上生活において思念を行為の有効なさきがけとする訓練をすべきです。

きちんと考えたうえで行為に出るように心掛けるべきです。ですが、思念の使い方を知らない方が何と多いことでしょう。わずか五分間でも、じっと一つのことに思念を集中できる人が何人いるでしょうか。実に少ないのです」


(六)──遠隔治療において患者が(精神を統一するなどして)治療に協力することは治療効果を増すものでしょうか。

 「私の考えでは、それは波長の調整にプラスしますから、大体において効果を増すと思います。異論もあることでしょうが、私はそうみています。知らずにいるよりは知っている方が原則としては治療が容易になります。治療エネルギーを送る側と受ける側とが波長が合えば、治療が一段と容易になります。

 治療を受けていることを知らないでも顕著な治療効果が表れたケースがあることは私もよく知っておりますが、大抵の場合それは患者の睡眠中に行われているのです。その方が患者の霊的身体との接触が容易なのです」

(昼間に送られた治療エネルギーが睡眠中に効き始めるというケースもある───訳者)


(七)──心霊研究をどう思われますか。

 「その種の質問にお答えする時に困るのは、お使いになる用語の意味について同意を得なければならないことです。〝心霊研究〟という用語には、いわゆるスピリチュアリストが毛嫌いする意味が含まれています。(S・P・Rのように資料をいじくりまわすだけに終始して一歩も進歩しない心霊研究をさす───訳者)

こうした交霊会や実験会や養成会も真の意味における〝研究〟であると言えます。というのは、私たちはそうした会を通して霊力がよりいっそう地上へもたらされるための通路を吟味・調査しているからです。

 みなさんは私たちから学び、私たちはみなさんから学びます。動機が純粋の探求心に発し、得られた知識を人類の福祉のために使うのであれば、私は研究は何であっても結構であると思います。が、霊媒を通して得られる現象を頭から猜疑心を持って臨み、にっちもさっちも行かなくなっている研究は感心しません。

動機が真摯であればそれは純粋に〝研究〟であると言えます。真摯でなければ〝研究〟とは言えません。純心な研究は大いに結構です」


(八)──国教会は、スピリチュリズムには何ら世の中に貢献する新しいものがないと言って愚弄しておりますが、それにどう反論されますか。

 「私は少しも愚弄されているとは思いません。私たちがお届けした〝新しいものが〟一つあります。それは、人類史上初めて宗教というものを証明可能な基盤の上に置いたことです。つまり信仰と希望とスペキュレーションの領域から引き出して〝ごらんなさい。このようにちゃんと証拠があるのですよ〟と言えるようになったことです。

しかし、新しいものが無いとおっしゃいますが、ではイエスは何か新しいものを説いたでしょうか。大切なのは新しさとか物珍しさではありません。真実か否かです」


 ここでメンバーたちがシルバーバーチの当意即妙の応答ぶりに感心して口々にそのことを述べると、こう述べた。

 「地上のみなさんは細切れの知識を寄せ集めなければなりませんが、私たちは地上にない形で組織された知識の貯蔵庫があるのです。どんな情報でも手に入ります───即座に手に入れるコツがあるのです(※)。私たちの世界の数ある驚異の一つは、すべてが見事に、絶妙に組織されていることです。

知識の分野だけでなく、霊にとってのあらゆる資源───文学、芸術、音楽等の分野においてもそうです。すべてが即座に知れ、即座に手に入ります。まだ地上の人間に知られていないことでも思いどうりになります」

(※霊格の高い低いに関係なく、そのコツさえ会得すれば誰にでも知れる。だからこそ歴史上の人物を名のって出る霊は警戒を要するのである。つまり、その人物の思想や地上時代の情報はいとも簡単に───あたかもコンピューターの情報のように、あるいはそれ以上に簡単に、しかも詳細に知れるので、〝それらしいこと〟を言っているからといってすぐに信じるのは浅はかである。

他界したばかりの霊を呼び出す場合も同じで、それらしく見せかけるのは霊にとっては造作もないことである。そんなことを専門にやって人間を感動させたり感激させたりしている低級霊団がいて、うまく行くとしてやったりと拍手喝さいして喜んでいる。別に危険性はないが、私には哀れに思えてならないのである───訳者)


(九)──大霊(神)を全能でしかも慈悲ある存在と形容するのは正しいでしょうか。

 「何ら差し支えありません。大霊は全能です。なぜならその力は宇宙及びそこに存在するあらゆる形態の生命を支配する自然法則として顕現しているからです。大霊より高いもの、大霊より偉大なもの、大霊より強大なものは存在しません。宇宙は誤ることのない叡知と慈悲深き目的を持った法則によって統括されています。

その証拠に、あらゆる生命が暗黒から光明へ、低きものから高きものへ、不完全から完全へ向けて進化していることは間違いない事実です。

 このことは慈悲の要素が神の摂理の中に目論まれていることを意味します。ただ、その慈悲性に富む摂理にも機械性があることを忘れてはなりません。いかなる力を持ってしても、因果律の働きに干渉することはできないという意味での機械性です。

 いかに霊格の高い霊といえども、一つの原因が数学的正確さを持って結果を生んでいく過程を阻止することは出来ません。そこに摂理の機械性があります。機械性という用語しかないのでそう言ったのですが、この用語ではその背後に知的で、目的意識を持ったダイナミックなエネルギーが控えている感じが出ません。

 私がお伝えしようとしている概念は全能にして慈悲にあふれ、完全で無限なる神であると同時に、地上の人間がとかく想像しがちな〝人間神〟的な要素のない神です。しかし神は無限なる大霊である以上その顕現の仕方も無限です。あなた方お一人お一人がミニチュアの神なのです。

お一人お一人の中に神という完全性の火花、全生命のエッセンスである大霊の一部を宿しているということです。その火花を宿していればこそ存在出来るのです。しかしそれが地上的人間性という形で顕現している現段階においては、みなさんは不完全な状態にあるということです。

 神の火花は完全です。一方それがあなた方の肉体を通して顕現している側面は極めて不完全です。死後あなた方はエーテル体、幽体、又は霊的身体───どう呼ばれても結構です。要するに死後に使用する身体であると理解すればよろしい───で自我を表現することになりますが、そのときは現在よりは不完全さが減ります。

霊界の界層を一段また一段と上がっていくごとに不完全さが減少していき、それだけ内部の神性が表に出るようになります。ですから完全といい不完全といい、程度の問題です」


──バラもつぼみのうちは完全とは言えませんが満開となった時に完全となるのと同じですね。

 「全くその通りとも言いかねるのです。厄介なことに、人間の場合は完全への道が無限に続くのです。完全へ到達することができないのです。知識にも叡知にも理解力にも真理にも、究極というものがないのです。精神と霊とが成長するにつれて能力が増します。いま成就出来ないのも、そのうち成就出来るようになります。

はしご段を昇っていき、昨日は手が届かなかった段に上がってみると、その上にもう一つ上の段が見えます。それが無限に続くというのです。それで完全という段階が来ないのです。もしそういうことが有りうるとしたら、進化ということが無意味となります」


 これは当然のことながら議論を呼び、幾つかの質問が出たが、それにひと通り応答した後、シルバーバーチはこう述べた。

 「あなた方は限りある言語を超えたものを理解しようとなさっているのであり、それはぜひこれからも続けていくべきですが、たとえ口では表現できなくても、心のどこかでちらっと捉らえ、理解出来るものがあるはずです。

たとえば言葉では尽くせない美しい光景、画家にも描けないほど美しい場面をちらっと見たことがおありのはずですが、それは口では言えなくても心で感じ取り、しみじみと味わうことは出来ます。それと同じです。あなた方は今、言葉では表現できないものを表現しようとなさっているのです」


──大ざっぱな言い方ですが、大霊は宇宙の霊的意識の集合体であると言ってよいかと思うのですが・・・

 「結構です。ただその意識にも次元の異なる側面が無限にあるということを忘れないでください。いかなる生命現象も、活動も、大霊の管轄外で起きることはありません。摂理──大自然の法則──は、自動的に宇宙間のすべての存在を包含するからです。

たった一つの働き、たった一つのバイブレーション、動物の世界であろうと、鳥類の世界であろうと、植物の世界であろうと、昆虫の世界であろうと、根菜の世界だろうと、花の世界であろうと、海の世界であろうと、人間の世界であろうと、霊の世界であろうと、その法則によって規制されていないものは何一つ存在しないのです。

宇宙は漫然と存在しているのではありません。莫大なスケールを持った一つの調和体なのです。

 それを解くカギさえつかめば、悟りへのカギさえ手にすれば、いたって簡単なことなのです。つまり宇宙は法則によって支配されており、その法則は神の意志が顕現したものだということです。法則が神であり、神は法則であるということです。

 その神は、人間を大きくしたようなものではないという意味では非人格的存在ですが、その法則が霊的・精神的・物質的の全活動を支配しているという意味では人間的であると言えます。要するにあなた方は人類として宇宙の大霊の枠組みの中に存在し、その枠組みの中の不可欠の存在として寄与しているということです」



──ということは神の法則は完全な形で定着しているということでしょうか。それとも新しい法則が作られつつあるのでしょうか。

 「法則は無窮の過去からずっと存在しています。完全である以上、その法則の枠外で起きるものは何一つ有り得ないのです。すべての事態に備えられております。あらゆる可能性を認知しているからです。もしも新たに法則を作る必要性が生じたとしたら、神は完全でなくなります。予測しなかった事態が生じたことを意味するからです」


──こう考えてよろしいでしょうか。神の法則は完全性のブループリント(青写真・設計図)のようなもので、われわれはそのブループリントにゆっくりと合わせる努力をしつつあるところである、と。

 「なかなか好い譬えです。みなさんは地上という進化の過程にある世界における進化しつつある存在です。その地球は途方もなく大きな宇宙のほんの小さな一部に過ぎませんが、その世界に生じるあらゆる事態に備えた法則によって支配されております。

 その法則の枠外に出ることは出来ないのです。あなたの生命、あなたの存在、あなたの活動のすべてがその法則によって規制されているのです。

あなたの思念、あなたの言葉、あなたの行為、つまりあなたの生活全体をいかにしてその法則に調和させるかは、あなた自ら工夫しなければなりません。それさえできれば、病気も貧乏も、そのほか無知の暗闇から生まれる不調和の状態が無くなります。

自由意志の問題について問われると必ず私が、自由といっても無制限の自由ではなく自然法則によって規制された範囲での自由です。と申し上げざるを得ないのはそのためです」


(10)──この機械化時代は人類の進化に役立っているのでしょうか。私にはそうは思えないのですが。

 「最終的には役に立ちます。進化というものを一直線に進むもののように想像してはいけません。前進と後退の繰り返しです。立ち上がっては倒れるの繰り返しです。少し登っては滑り落ち、次に登った時は前より高いところまで上がっており、そうやって少しずつ進化して行きます。

ある一時期だけを見れば〝ごらん!この時期は人類進化の黒い汚点です〟と言えるような時期もありますが、それは物語の全体ではありません。ほんの一部です。

 人間の霊性は徐々に進化しております。進化に伴って自我の本性の理解が深まり、自我の可能性に目覚め、存在の意図を知り、それに適応しようと努力するようになります。

 数世紀前までは夢の中で天界の美を見、あるいは恍惚たる入神の境地においてそれを霊視できたのは、ほんのひとにぎりの者にかぎられていました。が今や、無数の人々がそれを見て、ある者は改革者となり、ある者は先駆者となり、ある者は師となり、死して後もその成就の為に立ち働いております。そこに進歩が得られるのです」


──その点に関しては全く同感です。進歩はあると思うのです。が、全体として見た時、地球上が(機械化によって)余り住み良くなると進化にとってマイナスとなるのではないかと思うのです。

 「しかし霊的に向上すると──あなた個人のことではなく人類全体としての話ですが──住んでいる世界そのものにも発展性があることに気づき、かつては夢にも思わなかった豊かさが人生から得られることを知ります。

機械化を心配しておられますが、それが問題となるのは人間が機械に振り回されて、それを使いこなしていないからに過ぎません。使いこなしさえすれば何を手に入れても宜しい──文化、レジャー、芸術、精神と霊の探究、何でもよろしい。かくして内的生命の豊かさが広く一般の人々にも行きわたります。

 その力は全ての人間に宿っています。すべての人間が神の一部だからです。この大宇宙を創造した力と同じ力、山をこしらえ恒星をこしらえ惑星をこしらえた力と同じ力、太陽に光を与え花に芳香を与えた力、それと同じ力があなた方一人ひとりに宿っており、生活の中でその絶対的な力に波長を合わせさえすれば存分に活用することが出来るのです」


──花に芳香を与えた力が蛇に毒を与えているという問題もあります。

 「それは私から見れば少しも問題ではありません。よろしいですか。私は神があなた方のいう〝善〟だけを受け持ち、悪魔があなた方のいう〝悪〟を受けもっているとは申しあげておりません」


──潜在的には善も悪もすべてわれわれの中に存在しているということですね。

 「人間一人一人が小宇宙(ミクロコズム)なのです。あなたもミニチュアの宇宙なのです。潜在的には完全な天使的資質を具えていると同時に獰猛な野獣性も具えております。だからこそ自分の進むべき方向を選ぶ自由意志が授けられているのです」


(十一)──あなたは地球という惑星がかつてより進化しているとおっしゃいましたが、ではなぜ霊の浄化のためになお苦難と奮闘が必要なのでしょうか。

 「なぜなら人間が無限の存在だからです。一瞬の間の変化というものはありません。永い永い進化の旅が続きます。その間には上昇もあれば下降もあり、前進もあれば後退もあります。が、そのたびに少しずつ進化してまいります。

 霊の世界では、次の段階への準備が整うと新しい身体への脱皮のようなものが生じます。しかしその界層を境界線で仕切られた固定した平地のように想像してはなりません。次元の異なる生活の場が段階的に幾つかあって、お互いに重なり合い融合し合っております。

地上世界においても、一応皆さんは地表と言う同じ物質的レベルで生活なさっていますが、霊的には一人ひとり異なったレベルにあり、その意味では別の世界に住んでいると言えるのです」


──これまでの地上社会の進歩はこれから先に為されるべき進歩に較べれば微々たるものに過ぎないのでしょうか。

 「いえ、私はそういう観方はしたくないのです。比較すれば確かに小さいかも知れませんが、進歩は進歩です。次のことを銘記してください。人間は法律や規則をこしらえ、道徳律をうち立てました。文学を豊かにしてきました。芸術の奥義を極めました。精神の隠された宝を突き止めました。霊の宝も、ある程度まで掘り起こしました。

 こうしたことは全て先輩達のお陰です。苦しみつつコツコツと励み、試行錯誤を繰り返しつつ、人生の大渦巻きの中を生き抜いた人たちのお陰です。総合的に見れば進歩しており、人間は初期の時代にくらべて豊かになりました。物質的な意味ではなく霊的・精神的に豊かになっております。そうあって当然でしょう」

Wednesday, May 27, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


第10章 憐れみ深い者は幸いです

神があなたを赦してくれるよう、あなたは人を赦しなさい

一、 憐れみ深い者は幸いです 、その人は憐れみを受けるからです。(マタイ 第五章 7)


二、もし人の罪を赦すなら、あなたたちの天の父もあなたたちを赦して下さいます。しかし、人を赦さないなら、あなたたちの父もあなたたちの罪をお赦しになりません。(マタイ 第六章 14,15)


三、もしあなたたちの兄弟が罪を犯したなら、行って、二人だけのところで忠告しなさい。もし聞きいれたら、あなたは兄弟を得たことになります。(マタイ 第十八章 ⒖)

 その時、ペテロがみもとに来て言った、「主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」。イエスは言われた、「七度までなどと私は言いません。七度を七十倍するまでと言います」。(マタイ 第十八章 21,22)


四、憐れみ深くない者は、温和で平和を愛することが出来ないことから、憐れみとは温和さを補足するものであると言えます。憐れみは他人の過ちを赦し、忘れることによって成り立ちます。憎しみと怒りは、その魂が小さく、気高くないことの表れです。

攻撃を忘れることは高貴な魂だけに属するもので、そのような魂は、人がその魂に対して行おうとした悪を高所から眺めることが出来るのです。一方は常に落ち着くことが無く、悲しく苦しい感覚です。他方は落ち着いた、慈善と温和さに満ちた感覚です。

 「断じて許すことは出来ない」という人は不幸です。なぜなら、その人は人間によって非難されないとしても、必ず神に非難されることになるからです。

自分自身が他人を赦すことができないのに、自分の過ちを赦してもらう権利があるでしょうか。兄弟を赦す時、七度までではなく、七度を七十倍するまで赦しなさいと言うことによって、イエスは、憐れみは限りないものでなければならないと教えています。
℘181       
しかし、赦し方には違った二つの方法があります。一方は偉大で高尚な、真なる寛大さによって、いかなる下心を持つことなく、その責任の全てが相手に在ったとしても、その人の自己感情と感受性を傷つけないように優しく扱います。

もう一方の方法は、攻撃されたり、攻撃されたと判断すると、相手に屈辱的な条件を強要し、赦したことの重圧を感じさせ、それによって安心を与えるのではなく、苛立ちを与えることになります。

手を差し伸べるのは善意からでは無く、見栄によってであり、そうすることにより皆にたいし、「私が何と寛大であるか見るがよい」と言います。このような場合、何れの側にとっても誠実な和解をすることは不可能です。

それは全くの寛大さではなく、自尊心を満足させる為の手段でしかありません。どのような争いに置いても、和解を求めて、自分自身の利害にかまわずに、慈善と真なる魂の偉大さを見せるものが、必ず公平な人々の同情を得ることが出来るのです。


 敵対者と和解すること
五、あなたの敵対者と道をともにしている時は、直ちに和解しなさい。さもなければ、敵対者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は役人にわたし、あなたは牢屋へ送りこまれてしまうでしょう。誠に言います。最後の一銭を払い終わるまで、そこからでることはできません。(マタイ 第五章25、26)


六、善の行いと同様に、一般に赦しの行いには道徳的な影響ばかりでなく、物質的な影響もあります。私たちの知る通り、死は私たちを敵から解放してはくれません。反逆的な霊はいつも憎しみとともに、その怒りの対象となる者を死後の世界を超えて追いかけていきます。

そのことから、「犬を殺してしまえばその犬の怒りも消える」と言ったことわざを、人間に当てはめるのは間違いであるということになります。悪霊は、悪を働きたい相手に対して、その相手が肉体に収まり続け、それによって自由が余り与えられないままであり続けることを望みます。
℘181   
そうあることでその相手は苦しめ易くなり、その利益や最愛の者を攻撃することが可能となるからです。大多数の憑依、特にかなり重傷な服従的憑依や支配的憑依の原因を、こうした事実の中に見出すことが必要です。憑依された者と支配する者は、殆どの場合、過去の復讐心の犠牲となっており、それがほぼ間違いなくそうした行動の動機となっています。

神は、彼らの行った悪を罰するためか、あるいは悪を行っていないのであれば、寛大さや慈善に欠けたことによって他人を赦すことができなかったことを罰するために、そうした憑依が起こることを許します。

ですから、未来の平安に目を向け、出来るだけ早く隣人に対して行ってきた悪を改め、敵を赦すことによって、死を迎える前に、あらゆる不和の原因、あらゆる過去の恨みの深い動機をも消滅させることが重要なのです。

こうすることにより、一方の世界における敵をもう一方の世界における友とすることが出来たり、少なくとも、赦すことを知る者が復讐を味わうことが無いように神がしてくれるための良い機会となります。

イエスが私たちにできるだけはやく敵と和解するように勧めた時、単に現世での不和を避けるように望んだのではなく、不和が未来の人生においてまでも続くことが無いことを望んだのです。イエスは、「最後の一銭を払い終わるまで」、つまり神の正義が完全に満たされるまで、「そこから出ることはできません」と言ったのです。



神にとって最も喜ばしい犠牲
七、だから、もしあなたが祭壇の前で供え物を捧げようとしたとき、そこで兄弟があなたに対して反感を抱いていることを思いだしたのであれば、その供え物を祭壇の前に置き、まずあなたの兄弟と仲直りをしに行き、その後で供え物を捧げに来なさい。(マタイ 第五章 23,24)


八、「まずあなたの兄弟と仲直りをしに行き、その後で供え物を捧げにきなさい」ということにより、イエスは、神にとって最も喜ばれる犠牲とは一人一人の悪い感情であるということを教えたのです。

神に赦しを求める前に他人を赦すことが必要であり、兄弟に対し何らかの悪を働いているのであれば、それを改めることが必要なのです。そうすることによってのみ、供え物は喜ばれることになります。

なぜなら、供え物はいかなる悪い考えにも汚されていない、純粋な心から送られたことになるからです。ユダヤ人には物質的な供え物を捧げる習慣があり、イエスは人々の習慣に自分の言葉を合わせる必要があったため、この教訓を具現化したのです。

キリスト教徒は供え物を精神化するため、物質的な供え物を捧げたりはしませんが、キリスト教徒に対してこの教訓がなんの力も持たないわけではありません。魂を神に捧げる時には、清らかな形で捧げなければならないのです。神の宮に入るなら、あらゆる憎しみや反感、兄弟に対する悪い考えをも宮の外にやらなければなりません。

そうすることによってのみ、その人の祈りは永遠に神の足元に届くことが出来るのです。もし神に喜ばれたいのであれば「祭壇の前に置き、まずあなたの兄弟と仲直りをしに行きなさい」と言う言葉を、イエスは教えてくれるのです。


  目の中のおが屑と杭
九、なぜあなたは、あなたの隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の中にある杭が見えないのですか。また、自分の目の中に杭があるというのに、あなたの隣人に対し、「あなたの目の中のおが屑を取り除かせてください」と、どうしていうことが出来るでしょうか。

偽善者よ、まず自分の目の中の杭を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、あなたの隣人の目の中のおが屑を取り除くことが出来るでしょう。(マタイ第7章3-5)


十、人間の悪癖の一つに、自分自身の悪を見つける前に他人の悪を見つけるということがあります。自分自身を判断するには、自分を鏡で見るように、とにかく自分の外へ出て、自分を他人だと思って問うてみなければなりません。「自分が行っていることを他人が行っていたら、それを見て私はどう思うだろうか」。

間違いなく自尊心というものが、肉体的であれ道徳的であれ、人間に自分の欠点を見ぬふりをさせているのです。このような特徴は根本的に慈善に反しています。なぜなら、真なる慈善とは慎ましく、簡素で寛容だからです。誇らしげな慈善など非常識なものです。

なぜならこの二つはお互いに打ち消し合うからです。実際に、自分の人間としての重要性とその性格の優越を信じている自惚(うぬぼ)れの強い人が、同時に、他人の持つ悪によって自分を引き立てる代わりに他人の持つ善を目立たせ、自分を目立たなくさせるだけの自己放棄の気持ちを持つことが出来るでしょうか。

だからこそ、自尊心は多くの悪癖を生みだし、また、多くの美徳を否定するものでもあるのです。自尊心は人間の行動のほとんどにおいて、その根拠もしくは原動力となっています。進歩の一番の障害となる自尊心を、イエスがあれほど打ち消そうとした理由はそこにあるのです。

℘184
 人に裁かれないよう、人を裁いてはいけません。
 罪を負わないものが最初の石を投じなさい
十一、人に裁かれないよう、人を裁いてはなりません。なぜなら、あなたが他人を裁いたのと同じようにあなたが裁かれることになるからです。他人に対して用いる秤と同じ秤で、あなたも量られることになるでしょう。(マタイ 第七章 1,2)


十二、すると、ファリサイ人や書記官たちが、姦通の罪によって捕らわれた女をイエスのところへ連れてきて、人々の前に立たせ、イエスに向かって言った、「先生、この女は姦通によって捕えられたところです。モーゼはその法によって、姦淫する者は石で撃ち殺せと命じています。それについてあなたはどのようにお考えですか」。

イエスを訴える口実を作るため、イエスを試そうとこのように言ったのである。イエスは身をかがめると、地面に指で何かを書かれていた。しかし、人々がしつこく問い続けるのでイエスは立ち上がっていわれた、「あなたたちの中で、罪を犯したことの無い者が最初の石を投じなさい」。

そして再び身をかがめて地面に物を書き続けられた。イエスに質問をした人々は、イエスの言った言葉を聞くと、年老いた者たちから順番に、次から次へとその場を去って行った。やがてイエスと女だけが広場に残された。

 イエスは立ち上がり、女にお尋ねになった、「女よ、あなたを責めた人たちはどこへ行ったのでしょう。誰もあなたのことを責めなかったのですか」。女「いいえ、誰も」と答えると、イエスは女に言われた、「私もあなたを責めません。さあ行きなさい。今後、再び罪を犯してはいけません」(ヨハネ 第8章 3‐11)


℘185        
十三、「罪を犯したことの無い者が最初の石を投じなさい」とイエスは言いました。この一言によってイエスは私たちが他人に対して寛容であることを義務としています。

なぜなら、自分自身に対して寛容を必要としない人間は誰一人いないからです。この言葉は、私たちが自分自身を判断する基準以上の厳しさによって他人を判断してはならず、また、自分自身も赦してもらいたいと思うようなことで他人を責めてはならないのだということを私たちに教えてくれています。

誰かをある失敗によって非難する前に、自分について同じような非難が当てはまらないかどうか、見てみなければなりません。

 他人の行動に向けられる非難は、二種類の力によって引き起こされます。悪を抑圧しようという力と、行動が非難されている者に対する不信を強めようという力です。後者であれば、そこに悪意や中傷しか存在せず、弁解の余地はありません。

前者であれば賞賛されるべきものともなり得、特定の場合には、人にやるべきことを指示することができます。なぜなら、そこから結果的に善が生まれる筈だからであり、又そうでなければ社会と言うものは決して悪を排除することが出来ないからです。

人間にとってその同胞の進歩を助けることは必要ないのでしょうか。必要であるがゆえに、「人に裁かれないよう、人を裁いてはなりません」という考えを、全く文字通りに受け取らないことが大切なのです。

 イエス自身が悪と戦い、力のこもった言葉によって私たちに模範を見せてくれたことからも、イエスが悪を非難することを禁止したとは考えられません。しかし、人を非難するだけの権威は、非難する者の道徳的権威にもとづいて存在するのだということを教えたかったのです。

他人を非難したことで自分自身も同じく罪を犯すということは、この権威を放棄することであり、抑制する権利を失うことなのです。ある権威を与えられた者が、その権威によって他人に適用しようとする法や規則を自ら破るのであれば、私たちの内なる本心はそのような者に対する敬意を失い、どのような自発的な服従をも拒むことになります。

善にもとづく規範によって支えられた権威以外に、正当な権威というものは神の目には映りません。このことが同様にイエスの言葉にも強調されているのです。





    霊たちからの指導

  攻撃を赦すということ 
十四、 私の兄弟を何度赦せばよいのでしょうか。七回ではなく、七回の七十倍赦さねばなりません。この言葉はイエスの伝えた言葉の中でも、より強く知性に響き、心の中では最も強く唱えられるべき言葉です。

イエスが使徒たちに教えた簡潔に要約されながらも熱望に満ちた祈りの言葉と、これらの慈悲深い言葉とを比べてみると、いつも同じ考えに辿り着くでしょう。

完全なる正義であるイエスはペテロに答えます。「限りなく人を赦さねばなりません。その攻撃がしばしば行われるものであっても、一つ一つの攻撃を赦さねばなりません。他人からの攻撃、悪行、屈辱によって傷つかずに済むように、あなたの兄弟たちに自分を忘れることを教えなければなりません。

それにより心は優しく、慎ましくなり、自分の温和さを量ろうなどとは決してしなくなります。結局、あなたが天の父にしてほしいと望むことを、あなた自身がしなければならないのです。

天の父はあなたを繰り返し赦してくれているではありませんか。あなたは、何度神の赦しが下り、あなたの過ちが消されたかを数えたことがあるでしょうか」。

 だから、このイエスの答えを聞き入れ、ペテロのように、自分自身に当てはめてください。人を赦し、寛大さをもって、慈悲深く、心を広く、あなたたち自身の愛に気前よくあってください。主が補充してくれるのですから与えて下さい。主が赦してくれるのですから、他人を赦してください。

主があなたを引き上げてくれるのですから、自分を下げてください。主があなたを主の右側に座らせてくれるのですから、自分自身を下げてください。

 愛する者たちよ、天高く輝く主のもとよりあなたたちに送るこの言葉を学び、伝えてください。主は常にあなたたちの方を向き、十八世紀前に開始された骨の折れる仕事を愛を込めて行い続けているのです。あなたもあなたの兄弟たちに赦してもらう必要があるのですから、あなたの兄弟たちを赦してください。

その赦されるべき行いがあなたに個人的な損害を与えたのだとしても、それはあなたが寛大になるためのもう一つの契機であると考えなければなりません。なぜなら、他人を赦すことの真価は赦す悪の重さに比例するからです。あなたの兄弟たちが軽い攻撃しかしていなかったのだとすれば、彼らの過ちを赦すことに何の価値もないことになります。

 スピリティストたちよ、言葉においても、行動においても、他人の侮辱を赦すことが虚空なものとなってはならないことを決して忘れてはなりません。


もしあなたが自分たちのことをスピリティストと呼ぶのであれば、あなたたちが行うことのできる悪を忘れ、実現することのできる善以外のことは考えず、真なるスピリティストとならなければなりません。

その道を歩みだした者は、思考の上でもその道から遠ざかろうとしてはなりません。なぜなら、あなたたちは思考に関して責任を持たねばならず、神はそのことを知っているからです。

思考の中からすべての怒りを奪い去ってください。神は一人一人の心の底にどのような感情があるのかを知っています。私は隣人に対して何の反感もない、と毎晩のように言いながら就寝できる者は幸いです。(シモン ボルドー、1862年)


十五、敵を赦すということは、自分自身の赦しを求めることです。友人を赦すことは友情の証を示すことです。他人の攻撃を赦すことは自分が向上することを示すことです。

友よ、だから神に赦してもらえるよう、他人を赦してください。なぜなら、あなたが強情で、しつこく、頑固であり、軽い攻撃に対しても厳しいのであれば、日ごとにあなたがより多くの赦しを必要としているのだということを、どうして神に忘れてもらおうと望めるでしょうか。

おお、「断じて赦さない」と言う者は、自分自身を咎めていることになるのですから不幸な者です。自分自身の内面を見つめてみれば、あなた自身が攻撃者であったことが判るかもしれません。

軽い失望にはじまり不和に終わるその戦いの、最初の一撃を加えたのはあなたであったのかもしれません。あなたが他人を傷つける言葉を与えたのかもしれません。あなたは必要なだけの温和さを用いましたか。相手が余りにも気性が激しくて、間違いなくその相手に過ちがあるかもしれません。しかし、そうであるからこそ、あなたは寛大でなければならず、相手をあなたの非難の的から外さねばならないのです。

ある場合においては、本当にあなたが他人の攻撃の犠牲者であったと仮定しましょう。しかしその一件の仕返しをしようと考えることによって、本来であれば簡単に忘れ去られて居たかも知れないことを、激しい議論にまで発展させていないでしょうか。

その一件の悪い結末を食い止めることがあなたにできたのであったとすれば、あなたにも責任があったことになります。あなたの行動にまったく非のうちどころがなかったと仮定しましょう。その場合、あなたが寛容であればあるほど、あなたの功労は大きいのです。

 しかし、赦し方には全く違った二つの方法があります。口先だけの赦しと心からの赦しです。多くの人は、その対立した相手に対し、「私はあなたを赦します」といいますが、心の中ではその人に起こる悪を喜び、それをその人が受けるべき報いであると言います。

どれだけの人が「赦す」と言いながら、「しかし、決して仲直りはしない。一生相手の顔も見たくない」と付け加えることでしょうか。このような「赦し」は福音に則った赦しでしょうか。

いいえ。真の赦し、キリストの教える赦しとは、過去をベールで覆う赦しです。神は見せかけだけでは満足しないため、そのような真の赦しだけがあなたたちの功労として数えられるのです。神は心の奥深くや、心に秘めた考えをも調べます。無駄な言葉や見せかけによって神を騙すことは誰にもできません。

完全かつ絶対的に他人の攻撃を忘れることは、偉大な魂だけにできることです。恨みは常に魂の劣等、不完全のしるしです。真の赦しとは言葉よりも行動によって知ることが出来るのだということを忘れないでください。 (使徒パウロ リヨン、1861年)
 
   
  寛大さ
十六、スピリティストたちよ、全ての人間がその兄弟のために持つべき、甘く、兄弟愛に満ちた感情でありながら、ほんの僅かな人たちだけがその使い方を知っている寛大さについて、私たちは今日あなたたちにお話します。

 寛大さというものは、他人の短所を見つけ出すことをせず、また、見つけたとしても、そのことを口に出したり、他人に言いふらしたりしません。反対にその短所を隠し、そのことが自分以外の誰にも知られることがないように努め、もし悪意を持った人たちがそのことを知ったとしても、彼らに対して、いつでも過ちを犯した者をかばうための弁解を用意しています。

その弁解とは、称賛に値すべき本心からのものです。人の過ちについて、表向きには寛大に受け止めるふりをしながら裏で不誠実な証言をするような弁解ではありません。

 寛大さは相手を助けるため以外には、決して他人の悪い行いを気に掛けることはありません。しかし、相手を助ける場合でも、出来る限りその悪い行いを軽くしようとします。衝撃的な注意をしたり、口で相手をとがめたりはしません。忠告だけを、それもそれとないやり方で相手に示します。

もし、相手を非難するのであれば、あなたの言葉はどのような意味を持つことになるでしょうか。あなたは非難しているのですから、同じ過ちを犯すことはなく、つまりあなたは非難した相手よりも価値のある人間であるという結論になります。

おお、人類よ、いつになったらあなたたちは自分の兄弟の過ちを気に掛けることなく、自分自身の心、自分自身の考え、自分自身の行動を咎めることができるようになるのでしょうか。いつになれば自分自身だけに対する厳しい目を持つことが出来るのでしょうか。

 自分自身に対して厳しく、他人に対して寛大でありなさい。一人一人の心に秘められた部分の動きを見ることができ、全ての行動の動機を知っているがために、あなたが見つけたり、非難したり、批判したりする過ちを、何度も赦してくれる、最後の審判を下す者のことを覚えていてください。

大きな声を上げ、「破門だ」と叫ぶあなたたちこそが、より重大な過ちを犯しているのかも知れないのだということを覚えておいてください。

 友よ、寛大であってください。寛大さは人々を引きつけ、穏やかにし、元気づけますが、厳しくすることは、元気を失わせ、人々を遠ざけ、苛立たせます。(守護霊ヨセフ ボルドー、1863年)
   
   
十七、その過ちがどんなものであったとしても、他人の過ちに対して寛大であってください。自分の行動以外を厳しく非難してはなりません。神はあなたたちに対して寛大であり、あなたたちも他人に対してそうであるべきなのです。

 強い者たちは耐えなければなりません。彼らが忍耐強くあるように励ましてあげてください。弱い者たちには、どんな小さな後悔さえも考慮してくれる神の善意を示してあげることによって、彼らを強くしてあげてください。

白い羽を人間の過ちの上に差し延べてくれることによって、何が不純であるのかを見ることができない者たちの目からその過ちを隠してくれる、後悔の天使がいることをすべての人に教えてあげてください。

あなたたちの父の無限の慈悲を理解し、あなたたちの思考や、特にあなたたちの行動において、「私たちを攻撃した人たちのことを赦しますので、私たちの過ちもお赦しください」ということを決して忘れてはなりません。

この言葉のもつ崇高な価値を理解してください。言葉自体が素晴らしいだけでなく、その中に込められた約束も素晴らしいものだからです。


 主にあなたたちの赦しをお願いする時、あなたたちは何を求めていますか。あなたたちの罪を忘れてほしいと思うだけですか。忘れることはあなたたちに何も残してくれません。なぜなら、もし神があなたたちの過ちを忘れることで満足するのであったとしたら、神は罰することもしなければ償ってくれることもしないからです。

行ってもいない善に対して報酬を受けることはできず、悪を行ってしまったのであれば、たとえそのことを忘れてもらうことが出来たとしても、尚更報酬を受けることはできません。

あなたたちの過ちに対して赦しを求め、神の恵みによって再び同じ過ちを繰り返さないように願い、新しい道を進み出すのに必要な力を求めてください。その新しい道とは服従と愛の道であり、その中であなたは、後悔を改善に結びつけることができるようになるでしょう。

 あなたの兄弟を赦す時、単に過ちを忘却のベールで覆うだけで満足してはなりません。このベールはほとんどいつも、あなたたちの目には透明に映ります。あなたたちの赦しに愛を加え、あなたたちが天の父にして欲しいと望むようなことをあなたたちの兄弟にしてあげてください。汚点を残す怒りを愛によって清めてください。

イエスがあなたたちに教えてくれた、疲れを知らない生きた慈善を、模範を示すことによって他人に伝えてください。イエスが地上で生活した間、ずっと行ったように、生きた慈善を肉体の目に見えるように伝え、またそれが霊の目にしか見えなくなってしまった後にも、休むことなく伝えてください。

この神聖なる模範に則って、その足跡に沿って歩んでください。その模範は、あなたたちを戦いの後に、休息を取ることのできる避難所へと導いてくれます。イエスのように十字架を担ぎ、痛々しくとも勇気をもってカルバリオへと登っていってください。その頂上には栄光が待っているのです。 (ボルドーの司教ヨハネ、1862年)


十八、親愛なる友よ、自分たちに対して厳しく、他人の弱みに対して寛大であってください。ほんの少しの人たちしか気づいていませんが、これも聖なる慈善を実践する方法の一つなのです。

あなたたちはみな、克服しなければならない悪癖や、改めなければならない短所、変えなければならない習慣を持っています。あなたたちすべてが重い負担を抱えていますが、進歩の山を登るためにはそれを軽くしなければなりません。それなのになぜ、他人のこととなると頭がはっきりし、自分自身のことになるとそれほどまで盲目になってしまうのですか。

あなたたちは、自分たちを盲目にし、下落の方向へと歩ませている自分の目の中の杭にも気が付かず、いつになればあなたを傷つける兄弟の目の中の些細なものを気にすることをやめるのでしょうか。あなたたちの兄弟である霊たちのことを信じてください。

自分を他の兄弟たちに比べ、その美徳や長所においてより優秀であると考える自尊心の強い人はみな、愚かで罪深いのであり、神の審判が下る時、神に罰せられることになります。

慈善の真なる性格は、慎ましさと謙遜であり、他人の表面的な欠点を探すようなことなく、隣人に、その人の善いところ、徳の高いところを目立たせようとすることから成るのです。なぜなら、例え人間の心が堕落の深淵のようであったとしても、その心の隠れた奥底には、必ず霊の本質の輝く火花の様な善なる感情の種子が存在するからです。


 慰安をもたらす祝福された教義であるスピリティズムを知り、主が送られた霊たちの健全な教えを有効に利用する者は幸いです。こうした者たちにとって教えは明確であり、的を射た方法を教えてくれる次の言葉を、長い道のりの間いつも読むことが出来るのです。

「慈善の実践、自分に対して行うように、隣人に対して慈善を行う」を簡潔に表すならば、すべての人に対して慈善を行い、あらゆるものの上に神に対する愛を抱いてください。

なぜなら、神に対する愛はあらゆる義務を要約しているからです。慈善を行うことなしに神を愛することは不可能であり、神はそのことを全ての創造物のための法としているのです。(ヌウ“ェールの司教デュフェートル ボルドー)
  
℘193          
  他人を叱ることは許されますか。
  他人の不完全性を指摘し、他人の悪を広めることは許されていますか  
十九、
 誰も完全ではないのですから、誰にも隣人を叱る権利はないのだということが出来るのではないでしょうか。


 もちろんそうではありません。なぜならあなたたちは、一人一人が全ての人の進歩のために働かなければならず、また、あなたたちが面倒を見る人のためには特に働かなければならないからです。

しかし、そうであるからこそ、有益な意図によって慎重に人を叱らなければならないのであって、通常ありがちなように、相手を痛めつけることの喜びのためであってはなりません。相手を痛めつけるために叱るのであれば、その人の検閲は悪意でしかなくなります。

有益な意図によって叱るのであれば、それは慈善によって要求された任務として、出来る限りの注意が払われなければなりません。さらに、他人に向けた批判は私たち自身にも向けられることになるので、自分も叱られるべき立場にないかどうかを見なければなりません。
  
    
二十、その人に取って何の益ももたらさない他人の不完全性に気づくことは、そのことを人に広めなかったとしても咎められるべきことなのでしょうか。



 そこにある意図によります。確かに悪が存在するのであれば、その悪を見つけることは禁じられてはいません。全ての場所に善だけしか見ることがなかったとしたら不都合です。それは進歩を妨げることになります。

人の悪に気づき、世間に不必要にその人の悪評を立てることによって、隣人に損害を与えるところに過ちが生じるのです。それに悪意が伴い、他人の欠点を見つけたことに満足しながら行うのであれば、なおさらとがめられるべきことです。

しかし、悪の上をベールで覆い、それを公に知らせまいとし、その悪を研究し、他人の中に非難したことを自ら避けようと、個人的な利益に結び付けるためにのみそれを観察するのであれば、事はまったく逆になります。このような観察は、道徳を学ぼうとする者にとっては有益ではないでしょうか。実例を学ばなければ、どうやって人間の不完全性を表すことが出来るでしょうか。 (聖王ルイ パリ、1860年)



二十一、他人の悪を見つけることが役に立つことがありますか。

 この問題は非常にデリケートでありそれに答えるには、よく理解された慈善に訴える必要があります。もしある人の不完全性がその人にしか損害を与えないのであれば、その不完全性を他人に広めることに何の意味もありません。

しかし、もしその不完全性が他人にも損害を与えるのであれば、一人よりも複数の利益を重視する必要があります。状況に応じて偽善と虚偽の仮面を剥ぐことも一つの任務です。

なぜなら、多くの人が騙され、犠牲者となるよりも、一人だけが罠にはまった方がましであるからです。そのような場合には、利点と不都合をよく秤にかけて見極める必要があります。 (聖王ルイ パリ、1860年)