Tuesday, September 16, 2025

シアトルの秋 霊の書 アラン カルデック著

10章 自由の法則

このページの目次〈自由と束縛〉〈良心の自由〉

〈自由意志〉





〈自由と束縛〉


――人間が完全な自由を得るのはどういう条件下においてでしょうか。


「砂漠の中の世捨て人くらいのものでしょう。二人の人間が存在すれば、互いの権利と義務が生じ、完全に自由ではなくなります」


――と言うことは、他人の権利を尊重するということは、自分の権利を奪われることを意味するのでしょうか。


「それは違います。権利は生得のものです」


――奴隷制度が既成の慣習となっている国家において、使用人の家に生まれた者はそれを当たり前のことと思うに違いありませんが、その場合でも罪でしょうか。


「いけないことはいけないこと、いくら詭弁を弄しても悪い慣習が良い慣習になるわけではありません。が、責任の重さとなると、当人がその善悪についてどの程度まで理解していたかによって違ってきます。

奴隷制度で甘い汁を吸っている者は神の摂理に違反していることは明白です。が、その場合の罪の重さは、他の全ての場合と同じく、相対的なものです。長年にわたって奴隷制度が根付いている国においては使用人は少しも悪いこととは思わず、むしろ当たり前のことと思っているでしょう。しかし例えばイエスの教えなどに接して道義心が目覚め、理性が啓発されて、奴隷も神の前には自分と同等なのだと悟ったあとは、どう弁解しても罪は罪です」


――使用人の中には心の優しい人もいて、扱い方が人道的で、何一つ不自由をさせないように心を配っていながら、解放してやると却って生活が苦しくなるという理由から奴隷を雇い続けている人がいますが、これはどう理解すべきでしょうか。


「奴隷を残酷に扱っている使用人に較べれば自分のしていることについての理解が立派であると言えるでしょう。が、私に言わせれば、それは牛や馬を飼育しているのと同じで、マーケットで高く売るために大切にしているだけです。残酷に扱っている人と同列には問えませんが、人間を商品として扱い、生来の独立した人格としての権利を奪っている点において罪に問われます」
〈良心の自由〉


――他人の良心の自由に柵を設ける権利はあるでしょうか。


「思想の自由に柵を設ける権利がないのと同じく、そういう権利は許されません。良心を判断する権利は神のみが所有しておられます。人間が法律によって人間と人間との関係を規制していますが、神は自然の摂理によって人間と神との関係を規律づけています」


――ある宗教で説かれている教義が有害であることが明らかな時、良心の自由を尊重する立場からこれをそのまま許すべきでしょうか、それとも、良心の自由を侵さない範囲で、その誤った教義によって道に迷っている人を正しい道に導いてもよろしいでしょうか。


「もちろんよろしいし、また、そう努力すべきです。ただし、その時の態度はイエスの範にならって、優しさと説得力をもって臨むべきで、強引な態度は慎まないといけません。強引な態度は、その相手の間違った信仰よりも有害です。確信は威嚇によって押しつけられるものではありません」
〈自由意志〉


――人間には行為の自由がありますか。


「思想の自由がある以上、行為の自由もあります。自由意志がなかったら人間はロボットと同じです」


――その自由意志は誕生の時から所有しているのでしょうか。


「自らの意志で行為に出るような段階から自由意志を所有したことになります。誕生後しばらくは自由意志は無いに等しく、機能の発達と共に発達しはじめ、目的意識を持つようになります。幼児期における目的意識は必ずその時期の必要性と調和していますから、好きにやっていることがその時期に適合したものになっています」


――未開の段階では人間は本能と自由意志のどちらが支配的なのでしょうか。


「本能です。と言っても、完全な自由意志による行動を妨げない面もいくつかあります。幼児と同じで、自分の必要性を満たすために自由意志を行使していて、その自由意志は知性の発達を通してのみ発達します。と言うことは、あなた方のように知性の発達した人類は、自由意志の行使による過ちに対しては未開人よりも責任が重いということになります」


――社会的地位が自由行動の妨げになることはありませんか。


「社会に属している以上、当然、それなりの制約はあるでしょう。神は公正であり、そうした条件も全て考慮に入れて裁かれますが、そうした制約に負けないだけの努力をしているか否かも神は見ておられます」


――人生での出来事にはいわゆる運命、つまりあらかじめ決められているものもあるのでしょうか。もしあるとすれば自由意志はどうなるのでしょうか。


「再生する際に自ら選択した試練以外には必然的な宿命(さだめ)というものはありません。試練を選択することによって、そのようになる環境へ誕生しますから、自然にそうなるのです。

もっとも私が言っているのは物的な出来事(事故など)のことです。精神的な試練や道徳的誘惑に関しては、霊は常に善悪の選択を迫られており、それに抵抗するか負けるかのどちらかです。その際、当人が躊躇しているのを見て背後霊がアドバイスをしてくれますが、当人の意志の強さの程度を超えて影響を及ぼすことはできません。

一方、低級なイタズラ霊が大げさな取り越し苦労の念を吹き込んで悩ませたり怖がらせたりすることもします。が、最後の選択権は当人にあります」


――次から次へと訪れる悪運に翻弄されて、このまま行くと死も避けられないかに思える人がいます。こういうケースには宿命性があるように思えるのですが……


「真実の意味で宿命づけられているのは“死ぬ時期(とき)”だけです。いかなる死に方になるかは別として、死期が到来すれば避けることは不可能です」


――と言うことは、あらかじめ用心しても無駄ということになるのでしょうか。


「そんなことはありません。脅(おびや)かされる幾多の危険を避けさせるために背後霊が用心の念を吹き込むことがあります。死期が熟さないうちに死亡することのないようにとの神慮の一つです」


――自分の死を予知している人は普通の人よりも死を怖がらないのはなぜでしょうか。


「死を怖がるのは人間性であって霊性ではありません。自分の死を予知する人は、それを人間としてではなく霊として受け止めているということです。いよいよ肉体から解放される時が来たと悟り、静かにその時を待ちます」


――死が避けられないように、他にも避けられない出来事があるのではないでしょうか。


「人生のさまざまな出来事は大体において些細なもので、背後霊による警告で避けられます。なぜ避けさせるかと言えば、些細とは言え物的な出来事で面倒なことになるのは背後霊としても面白くないからです。唯一の、そして真実の意味においての避け難い宿命は、この物質界への出現(誕生)と物質界からの消滅(死)の時だけです」


――その間にも絶対に避けられないものがあると思いますが……。


「あります。再生に際してあらかじめ予測して選したものです。しかし、そうした出来事が全て神の予定表の中に“書き込まれている”かに思うのは間違いです。自分の自由意志で行った行為の結果として生じるものであり、もしそういうことをしなかったら起きなかったものです。

例えば指に火傷(やけど)を負ったとします。その場合、指に火傷を負う宿命(さだめ)になっていたわけではありません。単にその人の不注意が原因であり、あとは物理と化学と生理の法則の為せる業です。

神の摂理で必ずそうなると決まっているのは深刻な重大性をもち、当人の霊性に大きな影響を与えるものだけです。それが当人の霊性を浄化し、叡知を学ばせるとの計算があるのです」


――例えば殺人を犯した場合、再生する時から殺人者になることを知っているのでしょうか。


「そうではありません。自分が選択した人生において殺人を犯しかねない事態が予想されていたかも知れません。が、その時点では殺人を犯すか犯さないかは分かっておりません。殺人を犯した者でも、その直前までは理性を働かせる余裕があったはずです。もしも殺人を犯すことに決まっているとしたら、自由意志による判断力を働かせることができないことになります。罪悪も、他のあらゆる行為と同じく、自由意志による判断力と決断力の結果です。

あなた方はとかく二種類のまったく異なるものを混同しがちです。すなわち物的生活での出来事と精神的生活での行為です。もし宿命性というものがあるとすれば、それは物的生活において、原因が本人の手の届かない、そして本人の意志と無関係の出来事にかぎられています。それとは対照的に、精神生活における行為は必ず本人から出ており、従って本人の自由意志による選択の余地があります。その種の行為に宿命性は絶対にありません」


――では“幸運の星の下に生まれる”とか“星回りの悪い時に生まれる”という表現はどこから生まれたのでしょうか。


「星と人間とを結びつける古い迷信から生まれたもので、愚かな人間が比喩的表現を文字通りに受け取っただけです」

シアトルの秋 霊の書 アラン カルデック著

9章 平等の法則

このページの目次〈さまざまな不平等〉〈貧富による試練〉
〈男女の権利の平等〉




〈さまざまな不平等〉


――神はなぜ全ての人間に同じ才能を与えていないのでしょうか。


「全ての霊は神によって平等に創造されています。が、創造されてから今日に至るまでの期間に長短の差があり、結果的には過去世の体験の多い少ないの差が生じます。つまり各自の違いは体験の程度と、意志の鍛練の違いにあり、それが各自の霊的自由を決定づけ、自由の大きい者ほど急速に進化します。こうして現実に見られるような才能の多様性が生じて行きます。

この才能の多様性は、各自が開発した身体的ならびに知的能力の範囲内で神の計画の推進に協力し合う上で必要なことでもあります。ある人にできないことを別の人が行うという形で、全体の中の一部としての有用性を発揮できるわけです。さらには宇宙の全天体が連帯性でつながっていますから、より発達した天体の住民――そのほとんどが地球人類より先に創造されています――が地上に再生して範を垂れるということもあります」


――高級な天体から低級な天体へと転生しても、それまでに身につけた才能は失われないのでしょうか。


「失われません。すでに申しているごとく、進化した霊が退化することは有り得ません。物質性の強さのために以前の天体にいた時より感覚が鈍り、生まれ落ちる環境も危険に満ちた所を選ぶかも知れませんが、ある一定レベル以上に進化した霊は、そうした悪条件を糧として新たな教訓を悟り、さらなる進化に役立てるものです」


――社会の不平等も自然の法則でしょうか。


「違います。人間が生み出したものであり、神の業ではありません」


――最終的には不平等は消滅するのでしょうか。


「永遠に続くものは神の摂理以外にはありません。人間社会の不平等も、ご覧になっていて、少しずつではあっても日毎に改められて行っていることに気づきませんか。高慢と利己主義が影をひそめるにつれて不平等も消えて行きます。そして最後まで残る不平等は功罪の評価だけです。いずれ神の大家族が血統の良さを云々(うんぬん)することを止めて、霊性の純粋性を云々する日が来るでしょう」


訳注――“功罪の評価”の不平等というのは、功も罪も動機や目的によってその報いも違ってくるという意味で、“不公正”とは異なる。逆の場合の例を挙げれば、キリスト教には“死の床での懺悔”というのがある。イエスの信仰を告白して他界すればいかなる罪も赦されるという教義であるが、これは間違った平等であって、不公正の最たるものであろう。


――貧富の差は能力の差でしょうか。


「そうだとも言えますし、そうでないとも言えます。詐欺や強盗にも結構知恵が要りますが、これをあなたは能力と見ますか」


――私のいう能力はそういう意味ではありません。たとえば遺産には悪の要素は無いでしょう?


「どうしてそう断言できますか。その財産が蓄積される源にさかのぼって、その動機が文句なしに純粋だったかどうかを確かめるがよろしい。最初は略奪のような不当行為で獲得したものではないと誰が断言できますか。

百歩譲ってそこまでは詮索しないとしても、そもそもそんな大金を蓄えるという魂胆そのものが褒められることだと思われますか。神はその動機を裁かれます。その点に関するかぎり神は人間が想像するより遥かに厳正です」


――仮に蓄財の当初に不当行為があった場合、その遺産を引き継いだ者は責任まで引き継がされるのでしょうか。


「仮に不当行為があったとしても、相続人はまったく知らないことですから、当然その責任までは問われません。しかし、これから申し上げることをしっかりと理解してください。遺産の相続人は、必ずとは言いませんが、往々にして、その蓄財の当初の不正の責任を取ってくれる者が選ばれるということです。その点を正直に理解した人は幸せです。その罪を最初の蓄財者の名において償えば、その功は、当人と蓄財者の双方に報われます。蓄財者が霊界からそのように働きかけた結果だからです」
〈貧富による試練〉


――ではなぜ貧富の差があるのでしょうか。


「それなりに試練があるからです。ご存じの通り、再生するに際して自分でどちらかを選んでいるのです。ただ、多くの場合、その試練に負けています」


――貧と富のどちらが人間にとって危険でしょうか。


「どちらも同じ程度の危険性があります。貧乏は神への不平不満を抱かせます。一方、富は何かにつけて極端な過ちに陥(おとしい)れます」


――富は悪への誘惑となると同時に善行の手段にもなるはずです。


「そこです。そこに気づいてくれれば意義も生じるのですが、なかなかその方向へは向かわないものです。大抵は利己的で高慢で、ますます貪欲になりがちです。財産を増やすことばかり考え、これで十分という際限が無くなるのです」
〈男女の権利の平等〉


――女性が肉体的に男性より弱くできていることには何か目的があるのでしょうか。


「女性に女性としての機能を発揮させるためです。男性は荒仕事に耐えられるようにつくられ、女性は穏やかな仕事に向いています。辛い試練に満ちた人生を生き抜く上で互いが足らざる所を補い合うようにできています」


――機能的にも男女の重要性はまったく平等なのでしょうか。


「女性の機能の方がむしろ重要性が大きいと言えます。何しろ人間としての生命を与えるのは女性なのですから」


――神の目から見て平等である以上は人間界の法律上でも平等であるべきでしょうか。


「それが公正の第一原理です。“他人からして欲しくないことは、すべからく他人にもすべきではない”と言います」


訳注――これはキリストの“山上の垂訓”の一つである「他人からして欲しいことは、すべからく他人にもそのようにすべし」という有名な“黄金律”を裏返して表現したもの。


――法律が完全に公正であるためには男女の権利の平等を明言すべきでしょうか。


「権利の平等は明言すべきです。機能の平等はまた別問題です。双方がそれぞれの特殊な存在価値を主張し合うべきです。男性は外的な仕事に携わり、女性は内的な仕事に携わり、それぞれの性の特質を発揮するのです。

人間界の法律が公正を期するためには男女の権利の平等を明言すべきであり、どちらに特別の権利を与えても公正に反します。文明の発達は女性の解放を促すもので、女性の隷属は野蛮のレベルに属します。

忘れてならないのは、性の違いは肉体という組織体だけの話であって、霊は再生に際してどちらの性でも選べるという霊的事実です。その意味でも霊は男女どちらの権利でも体験できるわけです」


訳注――この問答を見るかぎりでは、当時はまだ自由と平等の先進国のフランスでも男女の平等は法律で謳われていなかったようで、今日の自由主義国の人間が読むと奇異にすら感じられる。しかし“権利”の平等と“機能”の平等を区別し、機能は平等・不平等次元で論じるべきものではないとしている点は、昨今いささか行き過ぎた平等主張、いわゆる“悪平等”が幅をきかせている、日本を始めとする文明先進国に良い反省材料を提供しているのではなかろうか。

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓

五章 霊的交信のむずかしさ

Guidance from Silver Birch Edited by Anne Dooley



    霊界の通信者の伝えたいことが百パーセント伝わることは滅多にありません。あることはあるのですが、よほどの例外に属します。あなた方が電話で話を交わすような平面上の交信とは違うのです。その電話でさえ聞き取り難いことがあります。

混線したり故障したりして全く通じなくなることもあります。地上という平面上の場合でもそうしたトラブルが生じるのですから、全く次元の異なる二つの世界の間の交信がいかに困難なものであるかは容易に理解していただけると思います。

 霊媒に乗り移った霊は意識に浮かんだ映像、思想、アイデアを音声に変えなくてはなりません。それは完全入神の場合でも百パーセントうまくいくとは限りません。霊媒も人間です。

その霊媒のオーラと霊のオーラとがどこまで融合するか──完全か、部分的か、それとも全く融合しないか──によって支配の度合いが決まります。

支配霊は霊媒の潜在意識を占領し、そうすることによって潜在意識に繋がった肉体機能を支配します。その状態の中で通信霊から送られるイメージ、思想、絵画、あるいはアイデアを言葉に変えて伝えるわけですが、霊媒も人間ですから疲れていることもあるでしょうし、気分の悪い時、機嫌の悪い時、空腹または満腹の度が過ぎる時、アルコールの飲みすぎ、たばこの吸いすぎ等々、それはもういろいろとあるものです。

そうしたことの一つひとつが支配霊と霊媒の融合の度合いに影響を及ぼします。

 これとは別に、霊媒の精神をしつこく支配している潜在的観念があって、それが強く表現を求めていることがあります。そんな時はとりあえずその観念を吐き出させておとなしくさせるしかないことがよくあります。時として支配霊が霊媒の潜在的観念を述べているにすぎないことがあるのはそのためです。

ひどい時は支配霊の方がその観念の洪水に押し流されて我れを失うことさえあります。霧の深い日はいけません。温度の高すぎるのもいけません。冷んやりとして身の引き締まるような雰囲気がいちばんよろしい。

 とにかく容易なことではないのです。ですから地上世界へ戻って来るには大変な努力が要ります。あえてその大変な努力をしようとする霊があなた方に対する愛念を抱く者に限られているというのも、そこに理由があるのです。愛念こそが自然に、そして気持ちよく結ばれている地上の縁者を慰め、導き、手助けしようと思わせる駆動力なのです。

地上を去り、全く次元の異なる世界へ行っても、地上に残した者に対する愛念がある限りは、いかなる障壁をも突き破り、あらゆる障害を克服して愛する者とのつながりを求めます。私どもの世界からの地上への働きかけの原動力の一つにそれがあるのです。

 ですから、あまり無理なことを要求しないでいただきたいのです。霊媒を責めないでいただきたいのです。また必ずしも支配霊に責任があるとも限らないことを知ってほしいのです。

私どもは許される限りの手段を尽くしています。今こうして私が行っている入神談話も、一種の変圧器にも似たものを使用した波長の下降操作を要します。そのために、私なら私の本来の個性が大幅に制限されます。その辺のところはお分かりでしょう。

これをもっと物的要素の濃い現象にしようとすると、さらに波長を下げなくてはなりません。物質化して出る時などは本来の霊妙で迅速でデリケートな波長から一気に地上の鈍重で鈍速で重苦しい波長へと戻さなくてはなりません。これも一種の犠牲、完全な個性の犠牲を強いられる仕事です。

 その他にも霊媒の精神ないし霊的体質によるエクトプラズムの微妙な個体変差があります。エクトプラズム(※)は決して一様のものではありません。いちばん元になるものが霊媒から抽出されるからです。霊媒の体質が粗野であればエクトプラズムも精神的ないし霊的に程度が低く、精妙度が劣ります。

精神的に霊的に垢抜けした霊媒であれば、その性質がエクトプラズムにも反映します。(※元になるものをエクトプラズミック・フォースと言い、これに霊界の技術者が特殊な成分を混ぜ合わせてエクトプラズムをこしらえる。──訳者)

 こちらの世界の霊が地上と交信したいと思えば誰にでもかなえられるかといえば、必ずしもそうではありません。折角そのチャンスを与えられても、思うことの全てが伝えられるともかぎりません。その霊次第です。

しっかりとして積極性のある霊は全ての障害を克服するでしょう。が、引っ込み思案で積極性に欠ける霊は得てしてそれに必要なだけの努力をしたがらないものです。

  霊の世界では言語を使用しません。従って思念なり映像なりシンボルなりを霊媒に憑っている霊を通じて、あるいは直接霊媒へ伝える操作がまた大変です。これを霊視力を使ってやるとなると実に入り組んだ操作となります。私がこうして楽にしゃべっているからといって、それが楽にできると思ってはいけません。

こうしてしゃべっている間、私は霊媒との連係を保つために数え切れないほどの〝糸〟を操っているのです。その内の一本がいつ切れるとも限りません。切れたが最期、そこで私の支配力はおしまいです。

 このように霊界と地上との交信を理解していただくうえで説明しなくてはならないことがたくさんあります。簡単に出来ることのようにだけは決して想像しないでください。必要条件が全部そろえば簡単にできることは、一応理屈では言えます。しかし実際にはそこにいろいろと邪魔が入るのです。

その邪魔のためにうまくいかなくて、それを私どものせいにされてしまいます。実にデリケートでいわく言い難い条件をうまく運用する必要があります。ベテランの霊媒でも同じです。しくじらせる要素がいくらでもあるのです。

 これで、私が毎度行っている波長の転換操作つまり波長を下げる作業によって、美しさと光彩と輝きが随分失われることがお分かりでしょう。しかし交信が霊と霊、心と心、魂と魂の直接的なものであれば、つまりインスピレーション式のものであれば、そういった複雑な裏面操作抜きの、霊界からの印象の受信という単純直截なものとなります。

その成功不成功は背後霊との合体の確信に基づく静寂と受容性と自信にかかっていますから、不安の念に動かされるほど結果は良くないということになります。いったん精神的動揺をきたすと、その不安の念の本質的性格の為に霊的通信網が塞がれてしまいます。

 人間の心に浮かぶ思念がすべて霊界からのものであるとは申しません。それは明らかに言いすぎでしょう。

しかしその多くが、背後霊が何とかして精神と霊とを豊かにしてあげようとする努力の反映であって、少なくとも単なる心像として見過ごしてはいけないことだけは真実です。

 その思念の伝達が地上における平面上の横のつながり、つまり同じ意識の次元での交信でないことを忘れてはいけません。霊的なものを物的なものへと、二つの全く異なる意識の次元での表現操作を要するのです。その上から下への次元の転換の際にいろいろと混乱が生じます。混乱なく運ぶようになる時代はまだまだ先のことです。

こちらの世界では精神的レベル、物的レベル、治病レベル等々、ありとあらゆる交霊関係での実験と研究がなされております。よりよい成果を挙げるための努力が常になされているのです。

 何年か後に振り返ると結構進歩しているのに気づかれるのはそのためです。今こうして行っているようなサークル活動の裏側にはそうした目的も目論まれております。私たち霊があなた方の能力を開発しそれを大いに活用に供するためには、こうしたサークルによって活動の場を提供していただく以外に方法がありません。

その効果を高めるには第一に協調性が必要です。通信網が敷かれ、霊媒というチャンネルが開かれ、そこへ私たちが通信を送り届ける、という具合になることが肝心です。かつては通信網も無ければチャンネルが一つもないという時代がありました。

 私が理解に苦しむのは、地上の人間はなぜ無知という名の暗闇を好み、真理という名の光を嫌うのかということです。私たちはその真理の光を広げ、人に役立てるための手段となるべき人をいつも探し求めております。そういう人が一人でも増えることは、地上人類の進歩と向上へ向けて叡知と霊力を広げる手段が一つ増えることを意味します。

これは重大なことです。私たちの携わる使命全体の背後には重大な目的が託されています。私はその使命達成を託された大勢の使者の一人に過ぎません。物的世界の背後の霊的世界において目論まれた遠大な計画の推進者の一人であり、霊的悟りを開く用意の出来た者へ真理を送り届けることを仕事としているのです。

 ある時は魂を感動させ、ある時は眠りから覚まさせ、当然悟るべき真理を悟らせるのが私たちの仕事です。言ってみれば霊への贈物を届けてあげることです。それが本来自分に具わる霊的威厳と崇高さを自覚させることになります。その折角の贈り物をもし拒絶すれば、その人は宇宙最大の霊的淵源からの最高の贈物を断ったことになります。

 私たちからお贈り出来るものは霊的真理しかありません。が、それは人間を物的束縛から解き放してくれる貴重な真理です。それがなぜ恨みと不快と敵意と反撃と誤解に遭わねばならないのでしょうか。

そこが私には分からないのです。いかにひいき目に見ても、敵対する人間の方が間違っております。判断力が歪められ、伝来の教えのほかにも真理があることに得心がいかないのです。

どうやらそういう人々は、神がもし自分たちの宗教的組織以外に啓示を垂れたとしたら、それは神の一大失態であるとでも考えるに相違ないと思うことが時折あります。神の取る手段は人智の及ぶところではありません。大丈夫です。神が失態を演じることは絶対にありません。

 キリスト教会との関係となると、これは厄介です。自分たちの教義こそ絶対的真理であると真面目に信じており、それをこのうえなく大事なものとして死守せんとしています。実際にはもともと霊的であった啓示が幾世紀もの時代を経るうちに人間的想像の産物の下に埋もれてしまっていることに気づいてくれないのです。

中味と包装物との区別がつかなくなっているのです。包装物を後生大事に拝んでいるのです。こうした偏向した信仰が精神的にも霊的にも硬直化してくると、もはや外部から手を施す術がありません。神は時として精神的ないし霊的大変動の体験を与えて一気に真理に目覚めさせるという荒療治をすることがありますが、それも必ずしも思うとおりにいかないものです。もしも困難や悲哀、病苦等が魂の琴線に触れて何かに目覚めたとしたら、その苦い体験も価値があったことになります。

 霊の世界からこうして地上へ戻って来るそもそもの目的は、人間の注意を霊的実在へと向けさせることにあります。ただそれだけのことです。地上世界の出来ごとに知らぬふりをしようと思えばできないことはありません。別段地上との関わりを強制される謂れはないのです。また人間側にはわれわれに対して援助を強要する手段は何もないはずです。

ですから私達の尽力は全て自発的なものです。それは人間愛ともいうべきものに発し、援助の手を差しのべたいという願望があるからこそです。それも一種の利己主義だと言われれば、確かにそうかもしれません。

愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。身を霊界に置いて、次から次へと地上生活の落伍者ともいうべき人間が何の備えも無いまま送り込まれて来るのを見ているわけですから・・・。その人たちが、こちらへ来る前に、つまり教訓を学ぶために赴いた地上という学校でちゃんと学ぶべきものを学んで来てくれれば、どんなにか楽になるのですが・・・・・。

 そこで私たちは何とかして地上の人々に霊的実相を教えてあげようとするわけです。すなわち人間は誕生という過程において賦与される霊的遺産を携えて物的生活に入るのだということを教えてあげたいのです。生命力はいわば神の火花です。本性は霊です。

それが肉体と共に生長するように意図されているのです。ところが大多数の人間は肉体にしか関心がありません。中には精神的生長に関心を抱く者も幾らかおります。が、霊的生長に関心を抱く者はきわめて少数に限られております。

永続性のある実在は霊のみです。もしも私たちの尽力によって人間を霊的本性を自覚させることに成功すれば、その人の人生は一変します。生きる目的に目覚めます。自分と言う存在の拠って来る原因を知ります。

これから辿る運命を見極め、授かった霊的知識の意味をわきまえた生活を送るようになります。いたって簡単なことなのですが、それが私たちの活動の背後に目論まれた計画です。

霊的真理は、これを日常生活に活用すれば不安や悩み、不和、憎しみ、病気、利己主義、うぬぼれ等々を追い払い、地上に本物の霊的同胞精神に基づく平和を確立することでしょう。

霊的真理を一つでも多く理解していくことが、あなた方の魂と霊的身体を霊界からのエネルギーを受けやすい体質にしていきます。これは地上と霊界を結ぶ磁気的な絆なのです。

 地上とのつながりをもつためには、それなりの道具がいります。つまり霊力を送り込むための回路が必要です。心霊能力の開発や霊的発達は、一つにはその霊力の受容力を増すということでもあります。魂の本性がそれぞれの背後霊とうまく調和するということが、イザという重大事、困難、危険に際して霊力を授けやすくします。

その霊力とは何かとなると、これはなかなか説明が困難です。物質的観点から見る限り手に触れたり目で確かめることのできないものだからです。しかし、あくまで実体のあるものです。

生命力そのものであり、神の一部であり、宇宙の全生命活動に意識と存在を賦与しているものと本質的に同一のものです。種子に芽を出させ、花を咲かせ、実をつけさせ、樹木を太らせ、人間の魂を開発させる力と同じものです。

 その顕現の仕方は無限です。生気を取り戻させるのもそうですし、蘇生させるのもそうですし、活気を与えるのもそうですし、再充電するのもそうですし、再興させるのもそうです。

霊感の形を取ることもあれば病を治すこともします。条件さえ整えば物的現象を演出してお目にかけることもできます。人を治す仕事の為に治療所の奥に閉じこもる時、それは一方では霊力を受けるために霊的回路を開いていることでもあります。
 
二つの仕事は常に相携えて進行します。霊能開発のためのサークル活動に参加し、いつになっても何の変化もないと思っている時でも、実際には霊と物質との間のつながりを強化し一体化する作用が着々となされていることがあります。霊力の伝道はそれはそれは複雑で微妙な過程なのです。

 現今のように物質性が勝り霊性が劣る状態から、逆に霊性が物質性を凌ぐまでに発達してくれば、霊界からの指導も随分楽になることでしょう。それは、

間をつなぐものが霊と霊との関係になるからです。しかし残念ながら大部分の地上の人間においては、その霊があまりに奥に押し込められ、芽を出す機会がなく、潜在的な状態のままに放置されております。これではよほどの努力をしない限り覚醒は得られません。

物質性にすっかり浸りきり、霊が今にも消えそうな小さな炎でしかなく、まだ辺りを照らすほどの光をもたぬ人がいます。それでも、霊であることに変わりありません。

酷い辛酸をなめ、試練に試練を重ねた暁にはそうした霊も目を醒まし、自我に目醒め、霊的真理を理解し、自己の霊性に目覚め、神を意識し、同胞と自然界との霊的つながりを知り、宇宙の大原理であるところの霊的一体性を悟ることができるようになります。

 いったんある方向への悟りの道が開かれたら、その道を閉ざすことなくいつまでも歩み続ける努力をしなくてはなりません。地上生活では完全は得られないでしょう。でも精神的に霊的に少しでも完全へ向けて努力することはできます。

 世の中には、ここに集える私たちに較べて精神的・霊的な豊かさに欠ける人がいます。そういう人々に愛の手を差しのべる仕事は、あなた方の霊性が向上するほど大きくなっていきます。

絶望の淵に落ち込んだ人を励まし、病める人にはいかなる病にも必ず治す方法があることを教え、あるいは地上を美しく栄光ある世界にするために、霊力の流れを阻害している誤謬と迷信、腐敗した体制を打破してゆく、その基本的足場としての永遠の霊的真理を説くことが必要です。

 肉眼で見ることができず、手で触れてみることも出来ない私たち霊界の者が物質の世界と接触を持つことは容易なことではありません。

人間側が善良な心と自発的協調性と受容的態度と不動の信念を保持してくれているかぎり、両者を結ぶ霊的回路が開かれた状態にあり、その人はあらゆる面において、つまり霊的に精神的に物質的に、より良い方向へと自動的に進んで参ります。

多くの人になかなか分かっていただけないのは、そしてまた人間が望むように事が運ばないのは、その援助を届けるための回路が開かれていないということです。

本人自らが回路を開いてくれないかぎり他に手段がないのです。霊力が物質に働きかけるためには、それが感応して物質界に顕現するための何らかの連鎖関係がなくてはなりません。分かってみれば何でもない当り前のことです。

そこで是非ともあなた方には、今あなた方を支え援助している力が霊的なものであり、それには成就出来ないものは何一つないことを知っていただきたいのです。

 暗闇にいる人に光を見出させてあげ、苦しみに疲れた人に力を与え、悲しみの淵にいる人を慰め、病に苦しむ人を治し、無力な動物への虐待行為を阻止することができれば、それがたった一人の人間、一匹の動物であっても、その人の地上生活は十分価値があったことになります。

価値あるものを求める闘いに嫌気がさすようではいけません。これはあらゆる闘いの中でも特に偉大な闘いです。唯物主義と利己主義──地上世界を蝕み、何のために生れて来たかを自覚せぬ大勢の人々を暗闇へと堕落させている、この二つのガンに対する永遠の闘いです。

 善のための努力が徒労に終わることは決してありません。人のためになろうとする試みが無駄に終わることはありません。善行に嫌気がさすようなことがあってはなりません。

成果が表われないことに失望してはなりません。人のために役立とうとする志向は自動的にこちらの世界からの援助を呼び寄せます。決して一人であがいているのではありません。

いかなる状況のもとであろうと、まわりには光り輝く大勢の霊が援助の態勢で取り囲んでおります。裏切ることのないその霊の力に満腔の信頼を置き、それを頼りとすることです。物質の世界にはこれだけは安全というものは何一つはありません。

真の安全は人間の目に映じぬ世界──地上のいかなる器具をもってしても測ることのできない永遠の実在の世界にしかありません。

 人間にとっての真の安全は霊の力であり、神が宇宙に顕現していく手段であるところの荘厳なるエネルギーです。他の全ての存在が形を変え、あるものは灰に帰し、またあるものは塵と砕けても、霊的実在のみは不変・不易であり、不動の基盤として存在し続けます。

全てを物的感覚によって推し量る世界に生きているあなた方にとって、その霊的実在の本質を理解することが極めて困難であることは私もよく承知しております。捉えようとしてもなかなか捉えられないものです。

ですが、私のこうした説教によって、たとえ不十分ながらも、霊こそが永遠の実在でありそれ以外は重要でないことをお伝えすることができ、流砂のような移り変わりの激しい物的存在ではなく、不変の霊的真理を心を支えとして生きようとする志を抱いて下さることになれば、及ばずながら私なりの使命を達成しつつあることになりましょう。
         

Monday, September 15, 2025

シアトルの秋 霊の書 アラン カルデック著

 9章 平等の法則

このページの目次〈さまざまな不平等〉〈貧富による試練〉

〈男女の権利の平等〉



〈さまざまな不平等〉



――神はなぜ全ての人間に同じ才能を与えていないのでしょうか。


「全ての霊は神によって平等に創造されています。が、創造されてから今日に至るまでの期間に長短の差があり、結果的には過去世の体験の多い少ないの差が生じます。つまり各自の違いは体験の程度と、意志の鍛練の違いにあり、それが各自の霊的自由を決定づけ、自由の大きい者ほど急速に進化します。こうして現実に見られるような才能の多様性が生じて行きます。

この才能の多様性は、各自が開発した身体的ならびに知的能力の範囲内で神の計画の推進に協力し合う上で必要なことでもあります。ある人にできないことを別の人が行うという形で、全体の中の一部としての有用性を発揮できるわけです。さらには宇宙の全天体が連帯性でつながっていますから、より発達した天体の住民――そのほとんどが地球人類より先に創造されています――が地上に再生して範を垂れるということもあります」


――高級な天体から低級な天体へと転生しても、それまでに身につけた才能は失われないのでしょうか。


「失われません。すでに申しているごとく、進化した霊が退化することは有り得ません。物質性の強さのために以前の天体にいた時より感覚が鈍り、生まれ落ちる環境も危険に満ちた所を選ぶかも知れませんが、ある一定レベル以上に進化した霊は、そうした悪条件を糧として新たな教訓を悟り、さらなる進化に役立てるものです」


――社会の不平等も自然の法則でしょうか。


「違います。人間が生み出したものであり、神の業ではありません」


――最終的には不平等は消滅するのでしょうか。


「永遠に続くものは神の摂理以外にはありません。人間社会の不平等も、ご覧になっていて、少しずつではあっても日毎に改められて行っていることに気づきませんか。高慢と利己主義が影をひそめるにつれて不平等も消えて行きます。そして最後まで残る不平等は功罪の評価だけです。いずれ神の大家族が血統の良さを云々(うんぬん)することを止めて、霊性の純粋性を云々する日が来るでしょう」


訳注――“功罪の評価”の不平等というのは、功も罪も動機や目的によってその報いも違ってくるという意味で、“不公正”とは異なる。逆の場合の例を挙げれば、キリスト教には“死の床での懺悔”というのがある。イエスの信仰を告白して他界すればいかなる罪も赦されるという教義であるが、これは間違った平等であって、不公正の最たるものであろう。


――貧富の差は能力の差でしょうか。


「そうだとも言えますし、そうでないとも言えます。詐欺や強盗にも結構知恵が要りますが、これをあなたは能力と見ますか」


――私のいう能力はそういう意味ではありません。たとえば遺産には悪の要素は無いでしょう?


「どうしてそう断言できますか。その財産が蓄積される源にさかのぼって、その動機が文句なしに純粋だったかどうかを確かめるがよろしい。最初は略奪のような不当行為で獲得したものではないと誰が断言できますか。

百歩譲ってそこまでは詮索しないとしても、そもそもそんな大金を蓄えるという魂胆そのものが褒められることだと思われますか。神はその動機を裁かれます。その点に関するかぎり神は人間が想像するより遥かに厳正です」


――仮に蓄財の当初に不当行為があった場合、その遺産を引き継いだ者は責任まで引き継がされるのでしょうか。


「仮に不当行為があったとしても、相続人はまったく知らないことですから、当然その責任までは問われません。しかし、これから申し上げることをしっかりと理解してください。遺産の相続人は、必ずとは言いませんが、往々にして、その蓄財の当初の不正の責任を取ってくれる者が選ばれるということです。その点を正直に理解した人は幸せです。その罪を最初の蓄財者の名において償えば、その功は、当人と蓄財者の双方に報われます。蓄財者が霊界からそのように働きかけた結果だからです」
〈貧富による試練〉


――ではなぜ貧富の差があるのでしょうか。


「それなりに試練があるからです。ご存じの通り、再生するに際して自分でどちらかを選んでいるのです。ただ、多くの場合、その試練に負けています」


――貧と富のどちらが人間にとって危険でしょうか。


「どちらも同じ程度の危険性があります。貧乏は神への不平不満を抱かせます。一方、富は何かにつけて極端な過ちに陥(おとしい)れます」


――富は悪への誘惑となると同時に善行の手段にもなるはずです。


「そこです。そこに気づいてくれれば意義も生じるのですが、なかなかその方向へは向かわないものです。大抵は利己的で高慢で、ますます貪欲になりがちです。財産を増やすことばかり考え、これで十分という際限が無くなるのです」
〈男女の権利の平等〉


――女性が肉体的に男性より弱くできていることには何か目的があるのでしょうか。


「女性に女性としての機能を発揮させるためです。男性は荒仕事に耐えられるようにつくられ、女性は穏やかな仕事に向いています。辛い試練に満ちた人生を生き抜く上で互いが足らざる所を補い合うようにできています」


――機能的にも男女の重要性はまったく平等なのでしょうか。


「女性の機能の方がむしろ重要性が大きいと言えます。何しろ人間としての生命を与えるのは女性なのですから」


――神の目から見て平等である以上は人間界の法律上でも平等であるべきでしょうか。


「それが公正の第一原理です。“他人からして欲しくないことは、すべからく他人にもすべきではない”と言います」


訳注――これはキリストの“山上の垂訓”の一つである「他人からして欲しいことは、すべからく他人にもそのようにすべし」という有名な“黄金律”を裏返して表現したもの。


――法律が完全に公正であるためには男女の権利の平等を明言すべきでしょうか。


「権利の平等は明言すべきです。機能の平等はまた別問題です。双方がそれぞれの特殊な存在価値を主張し合うべきです。男性は外的な仕事に携わり、女性は内的な仕事に携わり、それぞれの性の特質を発揮するのです。

人間界の法律が公正を期するためには男女の権利の平等を明言すべきであり、どちらに特別の権利を与えても公正に反します。文明の発達は女性の解放を促すもので、女性の隷属は野蛮のレベルに属します。

忘れてならないのは、性の違いは肉体という組織体だけの話であって、霊は再生に際してどちらの性でも選べるという霊的事実です。その意味でも霊は男女どちらの権利でも体験できるわけです」


訳注――この問答を見るかぎりでは、当時はまだ自由と平等の先進国のフランスでも男女の平等は法律で謳われていなかったようで、今日の自由主義国の人間が読むと奇異にすら感じられる。しかし“権利”の平等と“機能”の平等を区別し、機能は平等・不平等次元で論じるべきものではないとしている点は、昨今いささか行き過ぎた平等主張、いわゆる“悪平等”が幅をきかせている、日本を始めとする文明先進国に良い反省材料を提供しているのではなかろうか。


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第3部10章 自由の法則
8章 進歩の法則

このページの目次〈野生と進歩〉
〈滅びゆく民族〉
〈文明の進歩〉
〈社会的法律の進歩〉
〈スピリチュアリズムの役割〉

〈野生と進歩〉


――野生のままの状態と自然の法則とは一致しますか。


「しません。野生のままということは原始的状態のことです。文明は野生の状態とは相容れません。一方、自然の法則は人類の進歩に貢献します」


――人間は進歩を促す力を内部に秘めているのでしょうか、それとも進歩は外部からの働きかけの結果なのでしょうか。


「人間は自らの力で自然に発達します。ただ、全ての人間が同じ速度で同じ形で進歩するわけではありません。従って最も進歩している者が社会という形態の中での接触を通じて他の者の進歩を助ける仕組みになっているのです」


――道徳的進歩は知的発達に続くものでしょうか。


「知的発達の結果として道徳的進歩が生じますが、必ずしもすぐにというわけではありません」


――知的発達がどうして道徳的進歩を促すのでしょうか。


「知的発達によって善と悪とを理解するようになり、続いて、そのどちらかを選択するようになります。知性が発達すると自由意志が発達し、そこから人類の行動の責任が増してきます」


――人間にはそうした進歩を止める力がありますか。


「ありません。もっとも、時おり遅らせることをします」


――人類の進歩のためと思って真剣にやっていることが実際には進歩の邪魔をしているというケースがあるように思えるのですが……。


「あります。大きな車輪の下に小石をばらまく人がいますが、そんなことで進歩が阻止されるものではありません」


――人類の進歩は常にゆっくりとしたペースなのでしょうか。


「時の勢いで必然的に生じる一定の速度の進歩がありますが、それがあまりに遅すぎると、思い切った転換を促すために、時として物理的ないしは精神的ショックを神が用意します」


――進歩の最大の障害は何でしょうか。


「高慢と利己主義です。ただし道徳的進歩に限っての話です。と言うのは、知的進歩は時の勢いで常に進んでおります。そして、一見すると野心や富への欲望といった悪徳を煽るかに見えますが、代わってそれが精神を修養するための探求へ駆り立てます。

このように人間生活の全てが物的のみならず精神的にもどこかでつながっていて、悪と思えるものからでも善が生まれるのです。ただ、そういう形での因果関係は永続性がありません。それよりも、霊性が開眼して地上的享楽のレベルを超えた、限りなくスケールの大きい、そして限りなく永続性のある至福の境涯があることを悟るようになります」(十二章〈利己主義〉参照)
〈滅びゆく民族〉


――進歩性を完全に失ってしまった民族もあるように見受けられるのですが……。


「あります。ただしそれは一度にではなく、日を追って少しずつ人口が減少するという形を取ります」


――究極的には世界の全民族が一つの国家に統一されるのでしょうか。


「一つの国家にはなりません。それは有り得ないことです。気候の違いが多様な慣習と必要性を生み、それが自ずと多様な国民性を生み出します。そしてその一つ一つが特殊な慣習と必要性に適応した法律を必要とします。しかし思いやりの摂理には地域の差はありません。神の摂理にのっとった法律を施行していれば、国家と国家の間にも人間どうしと同じ思いやりによって結ばれ、互いが平和で幸せな生活が送れるようになります。誰一人として他を傷つけたり他を犠牲にして利益を得ようとする者はいなくなるからです」
〈文明の進歩〉


――文明は人類の進歩の現れでしょうか、それとも何人かの学者が言っているように、デカダンスでしょうか。


「進歩には違いありません。が、まだまだ完全からは程遠いです。人類は幼児期から一気に理性の時代へと移行するわけではありません」


訳注――デカダンスというのは、ちょうど本書が編纂されている頃、すなわち一九世紀末にフランスを中心にヨーロッパで広まった官能主義的頽廃思想のことで、現代のアメリカに代表される機械的物質文明とは質を異にする。


――文明をいけないものとする考えはいかがでしょうか。


「文明を悪用する者を非難すべきであって、神の配剤に文句を言うべきではありません」


――いずれは文明も浄化されて、それが生み出していた悪弊も消えるのでしょうか。


「そうです。人間の道徳性が知性と同じ程度にまで発達すればそうなります。花が咲く前に実がなることはありません」


――文明が頂点に達したことは何をもって知ることができるのでしょうか。


「道徳的発達です。あなた方は少しばかり発明や発見をし、立派な家に住んでシャレた服を着るようになると、えらく文明が発達したかに思い込んでいるようですが、本当の意味で“開化”したと言えるのは、不名誉な悪徳が消え、イエスの説く慈悲を実践して兄弟のごとく仲良く暮らせるようになった時です。それまでは“知的に啓発された”だけの国家であって、文明化の初期の段階を通過したにすぎません」
〈社会的法律の進歩〉


――人間社会を治めるには、人間がこしらえた法律の助けなしに自然の法律だけで十分なのでしょうか。


「自然の法則が正しく理解され、それを人間が素直に実践するのであれば、それで十分でしょう。が、社会には無法者がいますから、それに応じた特別の法律が必要となります」


――現段階の人間社会では刑法にも厳しさが必要でしょうか。


「堕落した社会には厳格な刑法も必要ですが、不幸にして現在の刑法は罰することにばかり偏って、悪の発生源を改めることに意を用いていません。人類を啓発するのは教育しかありません。教育さえしっかりすれば現在のような厳しさは必要でなくなります」


――法律を改めるにはどうすればよいでしょうか。


「時勢の流れによっても改められて行きますが、地上界をリードする偉大なる人物の影響によっても改められて行きます。これまでに多くの悪法が改められてきましたし、これからも改められて行くでしょう。焦らぬことです」
〈スピリチュアリズムの役割〉


――スピリチュアリズムはいずれは世間一般に受け入れられて行くのでしょうか、それとも限られた少数派のものであり続けるのでしょうか。


「間違いなく一般に受け入れられて行き、人類史上における画期的な時代が到来するでしょう。本質的に自然界の秩序に属するものであり、人類の知識の一部門として位置づけられるべきものだからです。しかしそれまでには、まだまだ烈しい抵抗に遭うでしょう。それは教義の真偽を問われるというよりも損得から生じる抵抗です。スピリチュアリズムの普及で経済的に被害をこうむる者、虚栄心を守ろうとする者、さらには世俗的面子(めんつ)にこだわる者などがいることを忘れてはなりません。しかしそのうち自分たちが少数派になってしまったことを知ると、恥を承知の上でも、手のひらを返すような態度に出ることでしょう」


――なぜ霊界側は人類発生の初期からこうした真理を説かなかったのでしょうか。


「あなただって大人に教えるようなことを子供に説くようなことはしないでしょうし、赤ん坊が消化しきれないものを食べさせるようなことはしないでしょう。何事にも時期というものがあります。これまでだって全く説かれていないわけではありません。が、その意義が理解されず、あるいは曲解されたりしています。そして今ようやく正しく理解してもらえる段階が到来したということです。が、これまでの教えも、不完全だったとは言え、これから本格的な実りを得るタネ蒔きのための土地を耕してくれていたのです」


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第3部9章 平等の法則
7章 社会生活の法則

このページの目次〈社会生活の必要性〉
〈隠遁生活〉

〈社会生活の必要性〉


――社会生活は自然なことでしょうか。


「もちろんです。神は人間を社会という形態の中で生活するように意図されています。言語を始めとして人間関係に必要な能力を授けてあるのはそのためです」


――すると社会から隔絶した生き方は自然法則に反するのでしょうか。


「そうです。人間は本能的に他の人間との交わりを求めるものであり、お互いがお互いの進歩を援助し合うように意図されているからです」


――他との交わりを求めても結局は利己的な感情に負けるのではないでしょうか。それとも、そうした点にこそ神の配剤があるのでしょうか。


「人間は進化という宿命があります。それは一人だけの生活では達成されません。誰一人として才能の全てを所有してはいないからです。そこに他との接触の必要性が生じます。隔絶した一人の生活では人間らしさが失われ、太陽に当たらない植物のように弱々しくなります」
〈隠遁生活〉


――原則として社会志向の生活が自然であることは理解できますが、その社会から遁(のが)れた生活への志向も、それで本人が満足するのであれば、悪いとは言えないと思うのですが……


「そういう満足は利己的満足だからいけないのです。酒びたりの生活を送っている人がいますが、あなたはそれを、満足しているのだから良いとおっしゃるつもりですか。自分をその立場に置いてみて、自分以外の人に何の意味も持たないと思ったものは、神はお喜びにならないと思ってください」


――不幸な人々のために生涯を捧げる決意をして世を捨てる人々はどう理解すべきでしょうか。


「そういう人は自ら身を低くすることによって魂を高めています。物的享楽を捨てることと、仕事の法則を成就することによる善行の二つの点で大きな功績があります」


――ある種の仕事の成就のために世俗から遁れて静寂の中で生活している人はいかがでしょうか。


「そういう動機からであれば利己的ではありません。実質的には人のためなのですから、社会から隔絶してはおりません」


――ある宗派では“無言の誓い”というのを教義としておりますが、これはいかがでしょうか。


「言語能力が自然な能力であること、神から授かったものであることをお考えになれば、自ら答えが出るはずです。神は能力の悪用は咎めますが、正しい使用は決して咎めません。もっとも、静寂の時を持つこと自体は結構なことです。そういう時こそ本来の自我が顕現し、霊的な自由が増し、背後霊との内的コミュニケーションが持てます。ですから、そういう目的のために自発的な苦行を行うのは、動機の点で有徳の行為と言えます。が、基本的に見てそういう行に終始する生活は、神の摂理を十分に理解していないという点で、やはり間違いです」

Sunday, September 14, 2025

シアトルの秋 霊の書 アラン カルデック著

 8章 進歩の法則

このページの目次〈野生と進歩〉〈滅びゆく民族〉〈文明の進歩〉

〈社会的法律の進歩〉〈スピリチュアリズムの役割〉




〈野生と進歩〉


――野生のままの状態と自然の法則とは一致しますか。


「しません。野生のままということは原始的状態のことです。文明は野生の状態とは相容れません。一方、自然の法則は人類の進歩に貢献します」


――人間は進歩を促す力を内部に秘めているのでしょうか、それとも進歩は外部からの働きかけの結果なのでしょうか。


「人間は自らの力で自然に発達します。ただ、全ての人間が同じ速度で同じ形で進歩するわけではありません。従って最も進歩している者が社会という形態の中での接触を通じて他の者の進歩を助ける仕組みになっているのです」


――道徳的進歩は知的発達に続くものでしょうか。


「知的発達の結果として道徳的進歩が生じますが、必ずしもすぐにというわけではありません」


――知的発達がどうして道徳的進歩を促すのでしょうか。


「知的発達によって善と悪とを理解するようになり、続いて、そのどちらかを選択するようになります。知性が発達すると自由意志が発達し、そこから人類の行動の責任が増してきます」


――人間にはそうした進歩を止める力がありますか。


「ありません。もっとも、時おり遅らせることをします」


――人類の進歩のためと思って真剣にやっていることが実際には進歩の邪魔をしているというケースがあるように思えるのですが……。


「あります。大きな車輪の下に小石をばらまく人がいますが、そんなことで進歩が阻止されるものではありません」


――人類の進歩は常にゆっくりとしたペースなのでしょうか。


「時の勢いで必然的に生じる一定の速度の進歩がありますが、それがあまりに遅すぎると、思い切った転換を促すために、時として物理的ないしは精神的ショックを神が用意します」


――進歩の最大の障害は何でしょうか。


「高慢と利己主義です。ただし道徳的進歩に限っての話です。と言うのは、知的進歩は時の勢いで常に進んでおります。そして、一見すると野心や富への欲望といった悪徳を煽るかに見えますが、代わってそれが精神を修養するための探求へ駆り立てます。

このように人間生活の全てが物的のみならず精神的にもどこかでつながっていて、悪と思えるものからでも善が生まれるのです。ただ、そういう形での因果関係は永続性がありません。それよりも、霊性が開眼して地上的享楽のレベルを超えた、限りなくスケールの大きい、そして限りなく永続性のある至福の境涯があることを悟るようになります」(十二章〈利己主義〉参照)
〈滅びゆく民族〉


――進歩性を完全に失ってしまった民族もあるように見受けられるのですが……。


「あります。ただしそれは一度にではなく、日を追って少しずつ人口が減少するという形を取ります」


――究極的には世界の全民族が一つの国家に統一されるのでしょうか。


「一つの国家にはなりません。それは有り得ないことです。気候の違いが多様な慣習と必要性を生み、それが自ずと多様な国民性を生み出します。そしてその一つ一つが特殊な慣習と必要性に適応した法律を必要とします。しかし思いやりの摂理には地域の差はありません。神の摂理にのっとった法律を施行していれば、国家と国家の間にも人間どうしと同じ思いやりによって結ばれ、互いが平和で幸せな生活が送れるようになります。誰一人として他を傷つけたり他を犠牲にして利益を得ようとする者はいなくなるからです」
〈文明の進歩〉


――文明は人類の進歩の現れでしょうか、それとも何人かの学者が言っているように、デカダンスでしょうか。


「進歩には違いありません。が、まだまだ完全からは程遠いです。人類は幼児期から一気に理性の時代へと移行するわけではありません」


訳注――デカダンスというのは、ちょうど本書が編纂されている頃、すなわち一九世紀末にフランスを中心にヨーロッパで広まった官能主義的頽廃思想のことで、現代のアメリカに代表される機械的物質文明とは質を異にする。


――文明をいけないものとする考えはいかがでしょうか。


「文明を悪用する者を非難すべきであって、神の配剤に文句を言うべきではありません」


――いずれは文明も浄化されて、それが生み出していた悪弊も消えるのでしょうか。


「そうです。人間の道徳性が知性と同じ程度にまで発達すればそうなります。花が咲く前に実がなることはありません」


――文明が頂点に達したことは何をもって知ることができるのでしょうか。


「道徳的発達です。あなた方は少しばかり発明や発見をし、立派な家に住んでシャレた服を着るようになると、えらく文明が発達したかに思い込んでいるようですが、本当の意味で“開化”したと言えるのは、不名誉な悪徳が消え、イエスの説く慈悲を実践して兄弟のごとく仲良く暮らせるようになった時です。それまでは“知的に啓発された”だけの国家であって、文明化の初期の段階を通過したにすぎません」
〈社会的法律の進歩〉


――人間社会を治めるには、人間がこしらえた法律の助けなしに自然の法律だけで十分なのでしょうか。


「自然の法則が正しく理解され、それを人間が素直に実践するのであれば、それで十分でしょう。が、社会には無法者がいますから、それに応じた特別の法律が必要となります」


――現段階の人間社会では刑法にも厳しさが必要でしょうか。


「堕落した社会には厳格な刑法も必要ですが、不幸にして現在の刑法は罰することにばかり偏って、悪の発生源を改めることに意を用いていません。人類を啓発するのは教育しかありません。教育さえしっかりすれば現在のような厳しさは必要でなくなります」


――法律を改めるにはどうすればよいでしょうか。


「時勢の流れによっても改められて行きますが、地上界をリードする偉大なる人物の影響によっても改められて行きます。これまでに多くの悪法が改められてきましたし、これからも改められて行くでしょう。焦らぬことです」
〈スピリチュアリズムの役割〉


――スピリチュアリズムはいずれは世間一般に受け入れられて行くのでしょうか、それとも限られた少数派のものであり続けるのでしょうか。


「間違いなく一般に受け入れられて行き、人類史上における画期的な時代が到来するでしょう。本質的に自然界の秩序に属するものであり、人類の知識の一部門として位置づけられるべきものだからです。しかしそれまでには、まだまだ烈しい抵抗に遭うでしょう。それは教義の真偽を問われるというよりも損得から生じる抵抗です。スピリチュアリズムの普及で経済的に被害をこうむる者、虚栄心を守ろうとする者、さらには世俗的面子(めんつ)にこだわる者などがいることを忘れてはなりません。しかしそのうち自分たちが少数派になってしまったことを知ると、恥を承知の上でも、手のひらを返すような態度に出ることでしょう」


――なぜ霊界側は人類発生の初期からこうした真理を説かなかったのでしょうか。


「あなただって大人に教えるようなことを子供に説くようなことはしないでしょうし、赤ん坊が消化しきれないものを食べさせるようなことはしないでしょう。何事にも時期というものがあります。これまでだって全く説かれていないわけではありません。が、その意義が理解されず、あるいは曲解されたりしています。そして今ようやく正しく理解してもらえる段階が到来したということです。が、これまでの教えも、不完全だったとは言え、これから本格的な実りを得るタネ蒔きのための土地を耕してくれていたのです」


シアトルの秋 霊の書 アラン カルデック著

 7章 社会生活の法則

このページの目次〈社会生活の必要性〉〈隠遁生活



〈社会生活の必要性〉

――社会生活は自然なことでしょうか。

「もちろんです。神は人間を社会という形態の中で生活するように意図されています。言語を始めとして人間関係に必要な能力を授けてあるのはそのためです」


――すると社会から隔絶した生き方は自然法則に反するのでしょうか。


「そうです。人間は本能的に他の人間との交わりを求めるものであり、お互いがお互いの進歩を援助し合うように意図されているからです」


――他との交わりを求めても結局は利己的な感情に負けるのではないでしょうか。それとも、そうした点にこそ神の配剤があるのでしょうか。


「人間は進化という宿命があります。それは一人だけの生活では達成されません。誰一人として才能の全てを所有してはいないからです。そこに他との接触の必要性が生じます。隔絶した一人の生活では人間らしさが失われ、太陽に当たらない植物のように弱々しくなります」
〈隠遁生活〉


――原則として社会志向の生活が自然であることは理解できますが、その社会から遁(のが)れた生活への志向も、それで本人が満足するのであれば、悪いとは言えないと思うのですが……


「そういう満足は利己的満足だからいけないのです。酒びたりの生活を送っている人がいますが、あなたはそれを、満足しているのだから良いとおっしゃるつもりですか。自分をその立場に置いてみて、自分以外の人に何の意味も持たないと思ったものは、神はお喜びにならないと思ってください」


――不幸な人々のために生涯を捧げる決意をして世を捨てる人々はどう理解すべきでしょうか。


「そういう人は自ら身を低くすることによって魂を高めています。物的享楽を捨てることと、仕事の法則を成就することによる善行の二つの点で大きな功績があります」


――ある種の仕事の成就のために世俗から遁れて静寂の中で生活している人はいかがでしょうか。


「そういう動機からであれば利己的ではありません。実質的には人のためなのですから、社会から隔絶してはおりません」


――ある宗派では“無言の誓い”というのを教義としておりますが、これはいかがでしょうか。


「言語能力が自然な能力であること、神から授かったものであることをお考えになれば、自ら答えが出るはずです。神は能力の悪用は咎めますが、正しい使用は決して咎めません。もっとも、静寂の時を持つこと自体は結構なことです。そういう時こそ本来の自我が顕現し、霊的な自由が増し、背後霊との内的コミュニケーションが持てます。ですから、そういう目的のために自発的な苦行を行うのは、動機の点で有徳の行為と言えます。が、基本的に見てそういう行に終始する生活は、神の摂理を十分に理解していないという点で、やはり間違いです」

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓

四章〝物〟に惑わされない生き方
Guidance from Silver Birch Edited by Anne Dooley



 その日その日の煩わしい雑事に追いまくられ、心配事や悩み事を抱えた生活を送っていると、時としてあなた方は、なぜこんな目に遭わなければならないのかと思ったり、また、これもよくあることですが、気持の通じ合った仲だと思っていた人から冷たい態度に出られたりして、理想を求める旅路で初めて光を見た時の感激をつい忘れてしまいがちです。

 その感激的体験の純粋無垢の美しさは時の経過とともにある程度その輝きを失いがちなものであり、体験当初のあの喜悦を今一度味わうことは必ずしも可能ではありません。しかし、今私たちが携っている仕事は、それぞれの持ち場において測り知れない重大性をもっております。

肉体という物質の牢に閉じ込められ、意識を制限された状態で物的生活を送っているあなた方には、霊と心と身体の関係について明確な理解をもつことは不可能です。

気苦労の絶え間がありません。身体の要求を満たしてやらなくてはなりません。金銭の問題にも関わらなくてはなりません。そうした息つく暇もない生活の中であなた方はつい意識の焦点を外し、支援しようとして待機している背後霊の存在を忘れがちです。

 この交霊会での私のうれしい役目の一つは、そうした状況下に置かれているあなた方が、所期の聖なる目的に向けて導かんとする愛の力によって、意識するしないにお構いなく見守られているということを思い出させてあげることです。

その愛の光の証をお見せしたり、あなた方を取りまいているところの霊の世界の美しさを披露することは、たとえ要求されてもなかなか叶えられるものではありません。しかし、事実、間違いなく存在するのです。

 霧が視野を遮ることがあるかもしれません。しかし、しょせんは霧です。私どもの世界から光を射し込むことができるし、現にこうして射し込んでおります。

これまで何年もの準備期を経て、こうしてあなた方を奉仕の仕事に導いてきたように、これからもその光と力とがあなた方が道を迷わぬよう導き続けることでしょう。そして万一迷ってもすぐ元の道に立ち戻らせ、神への道を歩み続けさせるよう配慮することでしょう。

 あなた方は本当の意味で祝福を受けられた方たちです。なぜならば、あなた方は地上のいかなる富も影が薄くなるほど高価な霊的知識の所有者だからです。こう申し上げるのは、あなた方も是非私どもと同じ視野から人生を理解していただきたいからです。

私どもは地上生活を物的視野でなく、価値観も異なれば判断の基準も異なる霊的世界から眺めております。その視野からの判断の方が遥かに真実に近いと信じています。

 人間は物質の中に埋もれた生活をしているためにバイブレーションが低くなっております。朝、目を覚まし、まだ意識が完全に働かないうちから、あれやこれやと煩わしいことや心配事の波にのみ込まれていきます。大きい悩み、小さい悩み、真実の悩み、取り越し苦労に過ぎぬもの等々いろいろあります。

が、いずれにせよ全ては一時的なものにすぎないのですが、そういうものに心を奪われてしまうと、背後で霊が働いてくれている事実を忘れ、あなた方の思考の流れの中から霊的要素を閉め出してしまい、霊的流入を遮断する一種の壁をこしらえてしまいます。

 これは真理普及の仕事に携る人にも〝よくある話〟なのです。奉仕の情熱、落胆、試練、そして悟り、このパターンの繰り返しです。これは魂が自我に目覚め、内在する神性を開発せんとして必死にあがく一種のシーソーゲームのようなものです。

神の使徒の一人ひとりが、先覚者の一人ひとりが、預言者の一人ひとりが、その他霊感鋭き男女の一人ひとりが辿った道なのです。

悟りの道にも満ち潮と引き潮にも似た盛衰があるということです。しかし大勢の方々に申し上げたことですが、一人ひとりの人生にはあらかじめ定められた型(パターン)があります。静かに振り返ってみれば、何者かによって一つの道に導かれていることを知るはずです。

 あなた方には分らなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです。定められた仕事を成就すべく、そのパターンが絶え間なく進行しています。人生の真っただ中で時としてあなた方は、いったいなぜこうなるのかとか、いつになったらとか、どういう具合にとか、何がどうなるのかといった疑問を抱くことがあることでしょう。

無理もないことです。しかし私には、全てはちゃんとした計画があってのことです、としか言いようがありません。天体の一分一厘の狂いのない運行をみれば分かるように、宇宙には偶然の巡り合わせとか偶然の一致とか、ひょんな出来事といったものは決して起きません。

 全ての魂がそうであるように、あなたの魂も、地上でいかなる人生を辿るかを誕生前から承知していたのです。その人生で遭遇する困難、障害、失敗の全てがあなたの魂を目覚めさせる上での意味を持っているのです。価値ある賞ほど手に入れるのが困難なのです。

容易にもらえるものはもらう価値はないことになります。簡単に達成したものほど忘れやすいものです。内部の神性の開発は達成困難なものの中でも最も困難なものです。

 人生は全て比較対象の中で展開しております。光も闇もともに神を理解するうえでの大切な要素です。もし光と闇とが存在しなければ、光は光でなくなり闇は闇でなくなります。つまり光があるから闇があり、闇があるから光があるのです。同じく昼と夜がなければ昼は昼でなくなり夜は夜でなくなります。

愛と憎しみがなければ愛は愛でなくなり憎しみが憎しみでなくなります。その違いが分かるのは相対的だからです。しかし実は両者は一本の棒の両端にすぎないのです。元は一つなのです。しかしその一つを理解するには両端を見なければならないのです。

それが人生です。光と闇の両方がなければなりません。温かさと寒さの両方がなければなりません。喜びと悲しみの両方がなければなりません。自我を悟るにはこうしたさまざまな経験が必要です。

 〝完全〟は絶対に成就出来ません。なぜなら、それには〝永遠〟の時が必要だからです。私は謎めいたことを言っているのではありません。要するに完成へ向けての絶え間ない過程において、一歩前進すればそのまた一歩先が見えてくるということです。

知識と同じで、知れば知るほど知らなければならないことがあることを自覚するものです。知識にはこれでおしまいというものはありません。叡知にも真理にも理解にも霊的悟りにも、おしまいというものはありません。なぜなら、それらは全て無限なる神の一部だからです。

 地上生活に何一つ怖いものはありません。取り越し苦労は大敵です。生命力を枯渇させ、霊性の発現を妨げます。不安の念を追い払いなさい。真実の愛は恐れることを知りません。その愛が宇宙を支配しているのです。そこに恐怖心の入る余地はないのです。

それは無知の産物に他なりません。つまり知らないから怖がるのです。ですから知識を携えて霊的理解の中に生きることです。取り越し苦労の絶えない人は心のどこかにその無知という名の暗闇があることを示しています。そこから恐怖心が湧くのです。

人間が恐るべきものは恐怖心それ自体です。恐怖心は闇の産物です。霊力に不動の信念をもつ魂は恐れることを知りません。

 あなた方の〝呼吸する〟というなんでもない動作一つでも、それを可能にしているのは、宇宙を創造し惑星や恒星の運行を司り、太陽に無尽蔵のエネルギーを与え、大海の干満を司り、あらゆる植物の種子に芽を出させ、地上に千変万化の彩りを添えさせているところの根源的生命力と同じものです。

その力はかつて一度たりとも働きを狂わせたことはありません。海の干満が止まったことが一度でもあったでしょうか。地球が回転を止めたことがあったでしょうか。自然法則が機能しなかったことがあったでしょうか。

 物質界は生活の一側面にすぎません。あなたの生活の全体ではないのです。人間の多くが悩みが絶えないのは、無意識の内に物質の世界にのみ生きていると思い込んでいるからです。本当はあなた方と私とは同じ宇宙の中に存在するのです。

霊界と地上とが水も漏らさぬように区別されているのではありません。互いに融合し合い調和し合っています。死ぬということは物的身体による認識をやめて霊的身体によって魂の別の側面を表現し始めるということに過ぎません。

 あなた方が直面する悩みごとは私にもよく分かっております。しかし霊的知識を有する者はそれを正しく運用して、物的要素に偏らないようにならなければなりません。霊的要素の方に比重を置かなければいけないということです。

正しい視野に立って考察すれば、焦点を正しく定めれば、日常生活での心の姿勢さえ正しければ、物的要素に対して最小限度の考慮を払い、決して偏ることはないでしょう。そうなれば霊的自我が意のままに働いてあなたを支配し、生活全体を変革せしめるほどの霊力が漲り、ついには物的要素に絶対に動かされない段階にまで到達することでしょう。

 永遠なるものを日常の出来ごとを基準にして判断しても駄目です。あなた方はとかく日常の精神によって色づけされた判断、つまり自分を取りまく環境によって判断を下しがちです。

そして、それまで成就してきた成果の方は忘れがちですが、これは物質の中に閉じ込められ、朝目を覚ました瞬間から夜寝るまで日常的問題に追いまくられているからです。

今と昔を較べるために過去のページを繙いてごらんなさい。そこに背後霊による指導のあとがありありと窺えるはずです。霊的知識に恵まれた者は決して首をうなだれることなく、脇目も振らず前向きに進めるようでなくてはなりません。背後霊は決して見捨てないことをご存じのはずです。 

人間が神に背を向けることはあっても、神は決して人間に背を向けることはありません。無限の可能性を秘めたこの大宇宙の摂理と調和した生活を営んでさえいれば、必要な援助は必ず授かります。これは決して忘れてはならない大切な真理です。

 霊の世界の存在を知った者は、より大きな生活の場をかいま見たことになります。宇宙の構造の内奥に触れたが故に無責任なことができなくなります。置かれた世界に対する義務と責任をいっそう自覚するからです。決してそれを疎かにせず、また物的なことに心を奪われたり偏ったりすることもありません。

安全も援助も全て〝霊〟の中に見出すことができます。地上の全ての物的存在も、あなた方の身体も、霊の顕現であるからこそ存在し得るのです。

 この真理があなたの生活を支配しはじめた時、それに伴う内的静寂と冷静さが生まれ、日常生活の一つひとつに正しい認識を持つことができるようになります。あほらしく思えていい加減に処理したり、義務を怠るようになると言っているのではありません。

私が申し上げたいのは、そうした知識を手にした人でも、ややもすると日常生活の基盤である霊的真相を忘れてしまいがちであるということです。

霊的な目で日常生活を眺め、その背後に霊的基盤があることを忘れずにいれば、最大の敵であるところの取り越し苦労と決別できるようになります。知識は我身を守る鎧です。不安は魂を蝕み錆つかせます。

 もしも神が私に何か一つあなた方へプレゼントすることを許されたとしたら、私が何よりも差し上げたいと思うのは〝霊的視力〟です。この薄暗い地上に生きておられるあなた方を私は心からお気の毒に思うのです。

あなた方は身の回りの見えざる世界の輝きがどれほど素晴らしいものかをご存知ない。宇宙の美しさがご覧になれない。物質という霧が全てを遮断しています。

それはちょうど厚い雲によって太陽の光が遮られているようなものです。その輝きを一目ご覧になったら、この世に悩みに思うものは何一つ無いことを自覚される筈です。

 私たちは法則と条件による支配を受けます。その時々の条件に従って能力の範囲内のことをするほかはありません。が、目に見えようと見えまいと、耳に聞こえようと聞こえまいと、手に触れられようと触れられまいと、あなた方を導き、援助し、支えんとする力が常に存在します。

人のために役立とうと心掛ける人に私はいつも申し上げてきたことですが、見通しがどんなに暗くても、いつかは必ず道は開けるものです。

霊の力は生命の力そのものだからです。生命は霊なしには存在しません。生命──その本質、活力、潜在力、こうしたものは全て〝霊〟であるからこそ存在するのであり、程度の差こそあれ、本質において全存在の創造主と同じものなのです。

 これは、全てが夢幻に過ぎない物質界に生きているあなた方にとっては理解の困難なことです。しかし、だからこそ、実在が見えざる世界にあること、おぼろげに見ている世界を実在と錯覚しないようにと警告することが私の任務であるわけです。

曇りのない視覚を持って実在が認識できるようになるのは、物質界から撤退して内的世界つまり霊界へ来た時です。私は地上の思想上の名称にはこだわりません。

団体や組織にも頓着致しません。霊力の顕現の道具であってくれればよいのです。受け入れてくれる備えのある人であればどんな人でも導き、教え、私なりの体験から得た叡知を僅かでもお授けするのが私の仕事なのです。

もう一つの側面として、こうして同志の協力のもとに、その霊的真理をより分かりやすい形で披露し、それによって一人でも多くの人が調和のとれた地上生活を送ることが出来るようにしてあげることです。

 私にとって大事なのは〝道具〟です。霊が地上に働きかけるには人間という道具が必要です。そこで、確実に霊波を受け止めてくれる霊能者を一人でも多く見出さねばならないというのが、いつもながら私どもにとって難題であるわけです。霊力は無限です。

然るに霊能者の数には限りがあります。霊力は無尽蔵ですから、霊媒はいくらいても多すぎることはありません。しかし〝師は弟子に応じて法を説く〟と言われるように、霊力も霊媒の受容力に応じたものしか授けられません。能力以上のものは受けられないのです。

 進化の法則は民族全体、国民全体、人類全体の単位で働いているように、個人単位でも働いております。となると当然あなたは、満ちては引き、引いては満ちながら進化していく霊力の流れによる様々な影響を受けるわけですが、問題はその霊力の流れそのものと、霊力が顕現される〝場〟──民族、国家等の組織の集合体をはじめ、その働きの場である建物とを混同しないことです。

人間はとかく自分の関わった組織や団体にのみに霊力が顕現されているかに錯覚しがちですが、霊力というものは何ものによっても独占されるものではありません。人間側から勝手に操ることもできません。

個人としてあなた方にできることは、その霊力の流れる一個の場として出来るだけ純粋であるよう心がけ、できるだけ多くの霊力が顕現されるようにする──つまり人のために役立つようになることです。

 ついでに申せば、現代の地上には無数の〝通路〟を通してかつてなかったほどの霊力が注がれております。その通路は霊媒にかぎりません。それとは気づかぬままに通路となっている人も大勢います。また同じ霊力が他の分野においても活用されております。

 神の計画が変わることはありません。あなた方が自らを変えてその計画に合わせなくてはなりません。神の霊力の流れに調和し、日々の生活をその流れに乗って送れば、あなた方の地上での存在意義が完うされます。

霊力は地上的基準に従って働くのではありません。人間の勝手な打算的欲望で働きを早めたり自分の方へ引き寄せたりはできません。〝風は思いのままに吹く。いずこより来たりいずこへ行くか汝らは知らず〟(ヨハネ3-8)

 星は寸分の狂いもなくその軌道上を回り、潮は間違いなく満ち引きを繰り返し、四季は一つ一つ巡りては去り、それぞれに荘厳にして途方もなく雄大かつ崇高なる宇宙の機構の中での役割を果たしております。今あなたがそれを変えようとしても変えられるものではありません。が、

その大自然の営みの原動力である霊力と同じものを自分を通して働かせ、そうすることであなた自身もその営みに参加することができるのです。

神からの遺産を受け継いだ霊的存在として、あなたも神の一部なのです。神はあなた方一人ひとりであると同時にあなた方一人ひとりが神なのです。ただ規模が小さく、胚芽的存在にすぎず、言ってみれば神のミニチュアです。

あなた方は神の縮図であり、その拡大が神というわけです。霊性の高揚と成長と進化を通じて無限の神性を少しずつ発揮していくことによって、一歩一歩、無限なる神に近づいて行くのです。

 徐々にではありますが、光が闇を照らすように知識が無知の闇を明るく照らしていきます。生長、変化、進化、進歩、開発、発展 ──これが宇宙の大原則です。一口に進化と言っても、そこには必ず潮の干満にも似た動きがあることを知ってください。

循環(サークル)運動、周期(サイクル)運動、螺旋(スパイラル)運動 ──こうした運動の中で進化が営まれており、表面は単調のようで内面は実に複雑です。その波間に生きるあなた方も、寄せては返す波に乗って進歩と退歩を繰り返します。

物的繁栄の中にあっては霊的真理を無視し、苦難の中にあっては霊的真理を渇望します。それは人生全体を織りなすタテ糸とヨコ糸であるわけです。

 もしも現在の自分に満足し始めたら、それは退歩しはじめたことを意味します。今の自分に飽き足らず常に新しい視野を求めている時、その時こそ進歩しているのです。あなた方の世界には〝自然は真空を嫌う〟という言葉があります。じっとしている時がないのです。前進するか、さもなくば後退するかです。

 霊は全生命の創造力であるからこそじっとしていることができず、どこかに新しい捌け口を求め、従って満足することがないのです。何も霊媒現象を通して働くばかりが霊力ではありません。

芸術家を通して、哲学者を通して、あるいは科学者を通しても発現することができます。要するにあなた方自身の霊的自覚を深める行為、あなた方より恵まれない人々に何か役に立つ仕事に携わることです。看板は何であっても構いません。

かかわる宗教、政治、芸術、経済がいかなる主義・主張を掲げようと問題ではありません。実際に行う無私の施しが進化を決定づけるのです。

 神は絶対にごまかされません。法則は法則です。原因はそれ相当の結果を生み、自分が蒔いた種子は自分で刈り取ります。そこに奇跡の入る余地もなければ罰の免除もありません。摂理は一分一厘の狂いもなく働きます。不変・不易であり、数学的正確さを持って作用し、人間的制度にはお構いなしです。

地上生活では勝者がいれば敗者がいるわけですが、霊性に目覚めた人間はそのいずれによっても惑わされてはなりません。やがてはその人間的尺度があなたの視野から消える時が来ます。その時は永遠の尺度で判断することができるようになるでしょう。

 と言って私は、あなた方の悩みや苦労を見くびるつもりは毛頭ありません。それは私にも痛いほどよく分かります。ただ、もしも私が現在のあなた方に評価できない永遠の価値を指摘せずにおけば、それは私が神界から授けられた義務を怠ることになります。

永い歴史を振り返れば、余りの悲劇に指導者も〝世も末だ〟と嘆いた時代が幾度かありました。万事休すと観念し、暗黒にのみ込まれ、全ての真理が埋もれてしまうと思い込んだものでした。しかし宇宙はこうして厳然として存在し続け、これからもずっと存在し続けることでしょう。

 私にできることは、いつの時代にも適用できる真理を繰り返し説くことです。それを受け入れ、生活の基盤とするのはあなた方の役目です。それは容易なことではありません。しかし、もしも容易であったらそれだけの価値はないことになりましょう。霊的探検に容易なものは何一つありません。霊の歩むべき本来の道は何にも増して困難なものです。

聖者の道、悟りへの道、円熟への道は容易には達成されません。自己犠牲を伴う長くゆっくりとして根気のいる、曲がりくねった道です。己れを棄てること──これが進化の法則です。

 もしも霊の最高の宝が努力なしに手に入るものだとしたら、これは永遠の叡知を嘲笑うことになります。これは絶対的摂理として受け入れなくてはいけません。私はかつて一度たりとも神が光と善にのみ宿ると述べたことはないつもりです。

善と悪の双方に宿るのです。無限絶対の存在である以上、神は存在の全てに宿ります。宇宙間の出来ごとの一部だけを除外して、これだけは神とは別個のもの、何かしら、誰かしら、とにかく別種のエネルギーの仕業であるなどとは言えません。

私はいつも宇宙は全て両極性によって成り立っていると申しております。

 暗闇の存在が認識されるのは光があればこそです。光の存在が認識されるのは暗闇があるからこそです。善の存在を認識するのは悪があるからこそです。悪の存在を認識するのは善があるからこそです。

つまり光と闇、善と悪を生む力は同じものなのです。その根源的な力がどちらへ発揮されるかは神の関わる問題ではなく、あなた方の自由意志に関わる問題です。そこに選択の余地があり、そこに発達のチャンスがあるということです。

 地球は完全な状態で創造されたのではありません。個々の人間も完全な状態で創造されたのではありません。完全性を潜在的に宿しているということです。その潜在的完全性が神からの霊的遺産であり、これを開発することが個人の責務ということです。

それには自由意志を行使する余地が与えられています。善か悪か、利己主義か無私か、慈悲か残酷か、その選択はあなたの自由ということです。ただし忘れてならないのは、どちらの方向へ進もうと、神との縁は絶対に切れないということです。

神の力とエネルギーと援助を呼び込むための手段は常に用意されています。しかしそのためには時には魂の奥の間に引きこもり、その静寂の中でできるだけ神との融合を保つことを怠ってはなりません。

 私たちは相互援助と相互扶助の縁によって結ばれ、互いに役立つものを施し合っております。ここまで目を開かせていただいたことを神に感謝しましょう。これを土台として、私たちを創造し育み続けて下さる御力の存在を信じましょう。

その御力が自分より恵まれぬ人々に施されるための通路となるよう心掛けましょう。私たちは神の御前にいるのだという自覚を常に忘れず、手を差しのべさえすれば必要なものが能力に見合っただけ施されることを忘れないように致しましょう。それは無限の可能性を秘めた無限なる霊の無限なるエネルギーなのです。