Saturday, January 3, 2026

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(三)

 The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen

天界の政庁

一章 天使による地上の経綸



2 憩いの里
一九一七年一月六日 火曜日

 讃美歌に〝岸辺に生命(いのち)の木は茂れり〟という句がありますが、この言葉はよく考えると、二つの意味があるようです。もちろん植物がその養分を河(※)から摂取するという表面的な意味もありますが、こちらの世界へ来てみて私たちは、地上の営みの一つ一つがいかに霊的な意味を持っているかを理解します。

つまりその表面的な現象が、人間の目に映るのと同じ程度の自然味をもって私たちに訴える霊的真理を秘めているのです。

作者がその天界の事情によく通じていたかどうか、それは知りません。ですが、少なくともそれを書かせた霊には、聞く耳を持つ者に対して地上的現象以上のものを伝えんとする意図があったことは考えられます。

そこで、これから私は天界の科学に私以上に通じておられる方々のご援助を得て、それを天界の事情に当てはめ、私の知識の及ぶかぎり拡大解釈してご覧に入れようと思います。(※ここに言う〝岸辺〟は次の八日付の通信に引用される〝生命の河〟と同じく、〝ヨハネ黙示録〟に画かれている霊界の河のことである。──訳者)

 もっとも、今の私の念頭にあるのは河というよりは、地上なら内海(うちうみ)とでも呼ぶべき大きな湖で、この第六界を大きく二つに分ける独立した境界域を形成しております。岸辺はとても変化に富み、岩だらけで切り立った崖となっているところもありますが、なだらかな芝生と庭園の趣も持ったところもあります。

また私の目には一本一本の樹木よりも、ぎっしりと繁った森が青味がかった黄金色に輝く湖を帯状に取り巻いているのが見えます。それはさらに丘を越え高原をおおい、一方、切り立った崖を新緑で縁(ふち)どっています。

その岸辺の近くに、とくに繁った木立ちに囲まれて、大きな施設(ホーム)が建っております。そこは湖を渡ってくる人々のための憩いの場です。ある者は陸と海を越えての長距離の旅で疲れきっております。

第五界からようやくこの界へ辿り着いた新参がいます。この新しい国をさらに奥深く入るために身体をこの界の条件に順応させる必要があるので、ここで一服するのです。

また、使命を帯びて下層界へ、時には今の私のように地上界まで降りてきた人もいます。

その帰途、必ずとも言えませんが、しばしこの土地に立寄って、これよりそれぞれの界の領主あるいは霊団の指揮者に成果を報告しに行くために、体力を回復させるのです。

中には再び下層界へ赴くためにいったんここに戻って元気を回復し、急を要するので内陸を通らずにその湖を通って下り、未完のまま残されている仕事の完遂に奮闘する人もいます。

それから時折──これは決して珍しいことではないのですが──上層界の高級霊が地上ないしはその途中のどこかの界へ訪れる時、あるいはその帰途にここにお立ち寄りになり、しばし滞在なさってその光輝あふれる霊性で招待者を喜ばせることがあります。

まさしくここは憩いの里──この里に入った時の安らぎは入ってみた者でないと分かりません。援助を必要とする者のために危険を伴う高き使命に奮闘したあとのこの里での憩いは、私たちの最大の愉しみの一つなのです。

湖の岸辺のいかにも相応しい位置に、こんもりとした木立に囲まれて佇(たたず)む住処──そこは薄暗い天界の低地に蒔かれた善意の種子が実を結び、それを領主にご報告申し上げる処なのです。

愛の旗印のもと、激しくかつ鋭い痛撃のやり取りの中に勝ち取った数々の戦勝記念品もまたここに持ち帰り、英気を養い心を癒す縁(よすが)とされます。かつて主イエスが勇気を持って闘いそして勝ち得た、生きた戦利品と同じなのです。

 そろそろお疲れのようです。こうして書いていくうちに無理なくラクにあなたの腕が使えるようになるでしょう。私からの愛と感謝の気持ちをお受けください。ではお寝み。

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(三)

The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen

天界の政庁

一章 天使による地上の経綸



 1 霊界の霊媒カスリーン           
 一九一七年九月八日 土曜日

 私(※)は今あなたの精神を通して述べております。感応したままを綴っていただき、評価はその内容をみて下してください。そのうち私の思念をあなたの思念と接触させることなく直接書き留めることが出来るようになるでしょう。

そこでまず述べておきたいのは、こうした方法による通信を手掛ける人間は多くいても、最後まで続ける人が少ないことです。それは人間の思念と私たちの思念とが正面衝突して、結果的には支離滅裂なことを述べていることになりがちだからです。

 ところで私が以前もあなたの手を使って書いたことがある──それもたびたび──と聞かされたら、あなたはどう思われますか。実は数年前この自動書記であなたのご母堂とその霊団が通信を送ってきた時に、実際に綴ったのはこの私なのです。

あれは、あの後の他の霊団による通信のための準備でもありました。今夜から再び始めましょう。あっけない幕開きですが・・・・・・。書いていけば互いに要領が良くなるでしょう。

(※ここで〝私〟と言っているのはカスリーンである。第一巻並びに第二巻の通信も実はこのカスリーンが霊界の霊媒として筆記していたのであるが、未発表のものは別として少なくとも公表された通信の中では、カスリーンの個性が顔をのぞかせたことは一度もなかった。

それが、本書ではこうして冒頭から出て来てみずからその経緯を述べ、このあと署名(サイン)までしている。しかし回を追うごとに背後の通信霊による支配が強くなっていき、八日付けの通信では途中でオーエン氏が〝どうも内容が女性のお考えになることにしては不似合のように感じながら綴っているのですが、やはりカスリーンですか〟と、確かめるほどになる。

そして第二章になるとリーダーと名告(なの)る男性の霊が前面に出て来る。─訳者)


「神を愛する者には全てのこと相働きて益となる」(ロマ8・28) ───この言葉の真実性に気づかれたことがありますか。真実なのですが、その真意を理解する人は稀です。人間の視野が極めて限られているからです。〝全てのこと〟とは地上のことだけを言っているのではなく、こちらの霊の世界のことも含まれております。

しかもその〝全てのこと〟が行き着く先は私どもにも見届けることが出来ません。それは高き神庁まで送り届けられ、最後は〝神の玉座〟に集められます。が、働きそのものは小規模ではありますが明確に確かめることが出来ます。

右の言葉は天使が天界と地上界の双方において任務に勤しんでいることを指しているのであり、往々にして高き神庁の高級霊が最高神の命のもとに行う経綸が人間の考える公正と慈悲と善性の観念と衝突するように思えても、頂上に近い位置にある高級霊の視野は、神の御光のもとにあくまでも公正にして静穏であり、私たちが小規模ながら自覚しているように、その〝神の配剤の妙〟に深く通じているのです。

 今日、人間はその神の使徒に背を向けております。その原因はもしも神が存在するならこんなことになる筈がないと思う方向へ進んでいるかに思えるからです。

しかし深き谷底にいては、濃く深く垂れこめる霧のために、いずこを見ても何一つ判然とは見えません。あなたたちの地上界へは霊的太陽の光がほとんど射し込まないのです。

 このたびの(第一次)大戦も長い目で見ればいわば眠れる巨人が悪夢にうなされて吐き出す喘(あえ)ぎ程度のものに過ぎません。安眠を貪(むさぼ)る脳に見えざる光が射し込み、音なき旋律がひびき、底深き谷、言わば〝判決の谷〟(ヨエル書)にいて苛立(いらだ)ちの喘ぎをもらすのです。これからゆっくりと目を覚まし、霧が少しずつ晴れ、

(眠っている間に行われた)殺戮(さつりく)の終わった朝、狂気の夜を思い起こしては驚愕(きょうがく)することでしょうが、

それに劣らず、山頂より降り注ぐ温かき光に包まれたこの世の美しさに驚き、つい万事が愛によって経綸されていること、神はやはり〝吾らが父〟であり、たとえそのお顔は沸き立つ霧と冷たき風と谷底の胸塞ぐ死臭に遮られてはいても、その名はやはり〝愛〟であることを知ることでしょう。

 それは正にこの世の〝死〟を覆い隠す帳であり、その死の中から生命が蘇るのです。その生命はただただ〝美しい〟の一語に尽きます。なぜならば、その生命の根源であり泉であるのが、ほかならぬ〝美〟の極致である主イエス・キリストその人だからです。

 ですから、神の働きは必ずしも人間が勝手に想像するとおりではないこと、その意図は取り囲む山々によって遮られるものではなく、光明と喜悦の境涯より届けられることを知らねばなりません。私たちの進むべき道もそこにあるのです。では今夜はこれまでにします。

 これも道を誤った多くの魂の暗き足元を照らすささやかな一条(ひとすじ)の光です。

 願わくば神が眠れる巨人をその御手にお預かり下さり、その心に幼な子の心を吹き込まれんことを。主の御国は幼な子の心の如きものだからです。そして、その安眠を貪り、何も見えず何も聞こえぬまま苛立つ巨人こそ、曽て主が救いに降りられた人類そのものなのです。                                カスリーン

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch Edited by Pam Riva

二章 何のために生まれてくるのか

 
    地上生活の目的は人間の霊性の発現を促すことです。

 地球という天体上に住む人間の一人一人に生きる目的があります。なのに大半の人間がその生活の基盤となっている霊的実在に気づいていないのは悲しいことです。まるで穴居人のように、ガランとした暗がりの中で暮らしております。視角がズレているのです。焦点が狂っているのです。

ビジョンが間違っているのです。人生がもたらしてくれる莫大な豊かさをまったく知らずにいます。霊的真理に気がつけば自分がいま何をしなければならないかを自覚して、そこに人間革命が生じます。

 われわれはみんな人間的存在です。ということは、内部に不完全であるが故の欠点を宿しているということです。もしも完全であれば、あなた方は地上に存在せず私は霊界に存在しないでしょう。宇宙における唯一の完全な存在である大霊に帰一してしまっていることでしょう。

 私には皆さんの人間であるが故の弱点がよく理解できます。しかし、一つ一つの問題を自分への挑戦(チャレンジ)として平然と受け止めると同時に、内部の霊性を強化し、開発し、発展させて霊性を高めるための触媒として、それを克服していかねばなりません。

 地上的環境の中に置かれている以上あなた方は、地上ならではのさまざまな条件が生み出す幸福の絶頂と不幸のドン底、いわゆる人生の浮き沈みというものに直面しないわけにはまいりません。
℘19
 しかし、そこにこそ皆さんが地上に生を受けた意味があるのです。つまりそうしたさまざまな浮き沈みの体験が皆さんの霊、真実の自我に潜在する資質を顕現させることになるのです。困難と逆境とに遭遇してはじめて発揮されるものなのです。
 
 魂が真の自我に目覚めるのは太陽が光り輝いている時ではありません。バラ色の人生の中では霊性は発揮されません。危機、挑戦、困難、障害、妨害の中にあってこそ発揮されるのです。それが魂に潜在する神性を自覚する唯一の触媒を提供してくれるのです。

 これは、霊的叡智を求める求道者のすべてに言えることです。断腸の思い、悲痛、苦痛を体験しないことには、そのあとに訪れる恩寵の有難さが十分に理解できません。人のために役立とうとする人間は試練を覚悟しなければなりません。時には力の限界までしごかれることもあります。

 人間一人一人に神の計画があるのです。偶然の事故、偶然のチャンス、偶然の一致というものはありません。すべてが大自然の摂理によって動いており、そこには奇跡も摂理への干渉も有り得ません。摂理そのものが完璧にできあがっているのです。なぜなら完全な叡智によって生み出されているからです。

 神の法則に例外というものはありません。存在するもののすべて───地上の森羅万象だけでなく、無辺の大宇宙のあらゆるもの───が神の配剤にあずかっているのです。どちらへ目をやっても、そこに神の法則の働きがあります。

小さすぎて見落とされたり、大きすぎて法則のワクからはみ出たりすることは有り得ません。それと同じ法則があなたにも働いているのです。もちろん私にも、そして他のすべての人にも働いております。

 これで、作用と反作用とが正反対のものであると同時に相等しいものであることがお分かりでしょう。幸福の絶頂に至るにはドン底の苦しみを味わわねばならないこともお分かりでしょう。

そして又、皆さんが自分ではドン底を味わったつもりでいても、まだまだ絶頂を極めてはいらっしゃらないこともお分かりでしょう。その証拠に、心の奥のどこかにまだ死後の世界についての疑念をおもちです。


 しかし人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在に不滅ということは有り得ないのです。物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。

大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。

 ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教や信仰や憧れや願いごととは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです。

 そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当たり前なのです。

元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです。

 その無限の宇宙機構の中にあって神の子は、一人の例外もなく必ず何らかの役目があります。そして、それを果たそうとすると、いろいろと困難が生じます。が、それは正面から迎え撃って克服していくべき挑戦と心得るべきです。困難と障害は、霊性を発達させ進化させていく上において必要不可欠の要素なのです。

 地上というところはバイブレーションが重く鈍く不活発で、退屈な世界です。それに引きかえ霊の世界は精妙で繊細で鋭敏です。その霊妙なエネルギーを地上に顕現させるには、各自に触媒となる体験が必要です。

 太陽がさんさんと輝いている時、つまり富と財産に囲まれた生活を送っているようでは霊的真理は見出せません。何一つ難門が無いようでは霊的真理は理解できません。困苦の真っ只中に置かれてはじめて触媒が働くのです。

 霊性の開発には青天よりも嵐の方がためになることがあるものです。鋼が鍛えられるのは火の中においてこそです。黄金が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程を経てこそです。人間の霊性も同じです。何度も何度も鍛えられてはじめて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。

 黄金はそこに存在しているのです。しかしその純金が姿を見せるには原鉱を破砕して磨かねばなりません。鋼は溶鉱炉の中で焼き上げねばなりません。同じことが皆さん方すべてに言えるのです。

 霊に関わるもの、あなたの永遠の財産であり、唯一の不変の実在である霊に関わるものに興味を抱くようになるには、それを受け入れるだけの用意ができなくてはなりません。そこで鋼と同じように試練を受けることが必要となるのです。

 苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何らかの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がりはじめます。それ以外に方法はありません。

光を見出すのは闇の中においてこそです。知識を有難く思うのは無知の不自由を味わってこそです。人生は両極です。相対性といってもよろしい。要するに作用と反作用とが同等であると同時に正反対である状態のことです。

 魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。

絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至ってはじめて魂が目を覚ますのです。

 ですから、私たち霊界の者は魂にその受け入れ準備ができるまで根気よく待つほかないのです。馬を水辺に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない、という諺があります。本人がその気にならなければどうしようもないのです。

 私には皆さんのどなたよりも長い経験があります。そのおかげで、われわれのすべてを包摂し全存在に配剤した自然法則の完璧さについて、皆さんよりも深く理解しております。

 時おり私は地上の同志のもとを訪ねてみることがありますが、霊的知識をたずさえているはずの人が悩み、そして心配しているのを見て、不可解でならないことがあります。霊的知識は、永遠の霊にはいかなる危害も及ばないことを保証する基盤であるはずです。

霊的知識を手にした者は常に光の中に生き、明日を思い煩うことがあってはなりません。

 地上には人間が思い煩う必要のあることは何一つありません。あなたの内部には霊的兵器───非常事態や危機に際して活用できる霊的資質が宿されているのです。その潜在力を呼び起こし、待機している霊に訴えれば、解決できない問題は何一つありません。

Friday, January 2, 2026

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen
八章 祝福されたる者よ、来たれ! 



 4 イエス・キリストの出現       
 一九一四年一月二日  金曜日

 ここで再び私の界へ心の中で戻ってもらいたい。語り聞かせたいことが幾つかある。神とその叡智の表われ方について知れば知るほど吾々は、神のエネルギーが如何に単純にして同時にいかに複雑であるかを理解することになる。

これは逆説的であるが、やはり真実なのである。単純性はエネルギーの一体性とそのエネルギーの使用原理に見出される。

 例えば創造の大事業のために神から届けられるエネルギーの一つ一つは愛によって強められ、愛が不足するにつれて弱められていく。この十界まで辿りつくほどの者になれば、それまで身につけた叡智によって物事の流れを洞察することが可能となる。

〝近づき難き光〟すなわち神に向けて歩を進めるにつれて、全てのものが唯一の中心的原理に向かっており、それがすなわち愛であることが判るようになる。愛こそ万物の根源であることを知るのである。

 その根源、その大中心から遠ざかるにつれて複雑さが増す。相変わらず愛は流れている。が、創造の大事業に携わる霊の叡智の低下に伴い、必然的にそれだけ弱められ、従って鮮明度が欠けていく。

その神の大計画のもとに働く無数の霊から送られる霊的活動のバイブレーションが物的宇宙に到達した時、適応と調整の度合が大幅に複雑さを増す。

この地上にあってさえ愛することを知る者は神の愛を知ることが出来るとなれば、吾々に知られる愛がいかに程度の高いものであるか、思い半ばに過ぎるものであろう。

 しかし、吾々がこれより獲得すべき叡智はある意味ではより単純になるとは言え、内的には遥かに入り組んだものとなる。なぜならば吾々の視野の届く範囲が遥かに広大な地域にまで及ぶからである。

一界一界と進むにつれて惑星系から太陽系へ、そして星団系へと、次第に規模が広がっていく世界の経綸に当たる偉大な霊団の存在を知る。その霊団から天界の広大な構成について、あるいはそこに住む神の子について、更には神による子への関わり、逆に子による神への関わりについて尋ね、そして学んでゆかねばならない。

 これで、歩を進める上では慎重であらねばならないこと、一歩一歩の歩みによって十全な理解を得なければならないことが判るであろう。吾々に割り当てられる義務はかぎりなく広がってゆき、吾々の決断と行為の影響が次第に厳粛さを帯びてゆき、責任の及ぶ範囲が一段と広い宇宙とその住民に及ぶことになるからである。

 しかし今は地球以外の天体には言及しない。貴殿はまだそうした地球を超えた範囲の知識を理解する能力が十分に具わっていない。

私および私の霊団の使命は、地球人類が個々に愛し合う義務と、神を一致団結し敬愛する義務についての高度な知識を授け、さらに貴殿のように愛と謙虚さをもって進んで吾々に協力してくれる者への吾々の援助と努力──つまり吾々はベールのこちら側から援助し、

貴殿らはベールのそちら側で吾々の手となり目となり口となって共に協力し合い、人類を神が意図された通りの在るべき姿──本来は栄光ある存在でありながら今は光乏しい地上において苦闘を強いられている人間の真実の姿を理解させることにあるのである。

 では私の界についての話に戻るとしよう。

 ある草原地帯に切り立つように聳える高い山がある。あたかも王が玉座から従者を見下ろすように、まわりの山々を圧している。その山にも急な登り坂のように見える道があり、そのところどころに建物が見える。四方に何の囲いもない祭壇も幾つかある。

礼拝所もある。そして頂上には全体を治める大神殿がある。この大神殿を舞台にして時おりさまざまな〝顕現〟が平地に集結した会衆に披露される。


──前に話されたあの大聖堂のことですか(五章4)

 違う。あれは都の中の神殿であった。これは〝聖なる山〟の神殿である。程度において一段と高く、また目的も異なる。そこの内部での祈りが目的ではなく、平地に集結した礼拝者を高揚し、強化し、指導することを主な目的としている。

専属の聖職者がいて内部で祈りを捧げるが、その霊格はきわめて高く、この十界より遥かに上の界層まで進化した者が使命を帯びて戻って来た時にのみ、中に入ることが許される。

 そこは能天使(※)の館である。すでにこの十界を卒業しながら、援助と判断力を授けにこの大神殿を訪れる。そこには幾人かの天使が常駐し、誰ひとり居なくなることは決してない。が、私は内部のことは詳しくは知らない。

霊力と崇高さを一団と高め、十一界、十二界と進んだ後のこととなろう。(※中世の天使論で天界の霊的存在を九段階に分けた。ここではその用語を用いているまでで、用語そのものに拘わる必要はない。──訳者)

 さて平地は今、十界の全地域から召集された者によって埋め尽くされている。地上の距離にしてその山の麓から半マイルもの範囲に亘って延々と群がり、その優雅な流れはあたかも〝花の海〟を思わせ、霊格を示す宝石がその動きに伴ってきらきらと輝き、色とりどりの衣装が幾つもの組み合わせを変えて綾を織りなしてゆく。

そして遠く〝聖なる山〟の頂上に大神殿が見える。集まった者たちは顕現を今や遅しと期待しつつ、その方へ目をやるのであった。

 やがてその神殿の屋根の上に高き地位(くらい)を物語る輝く衣装をまとった一団が姿を現わした。それから正門と本殿とをつなぐ袖廊(ポーチ)の上に立ち並び、そのうちの一人が両手を上げて平地の群集に祝福を述べた。

その一語一語は最も遠方にいる者にも実に鮮明に、そして強い響きをもって聞こえた。遠近に関わりなく全員に同じように聞こえ、容姿も同じように鮮明に映じる。

それから此の度の到来の目的を述べた。それは、首尾よくこの界での修行を終え、さらに向上していくだけの霊力を備えたと判断された者が間もなく第十一界へ旅立つことになった。そこで彼らに特別な力を授けるためであるという。

 その〝彼ら〟が誰であるのか──自分なのか、それとも隣にいる者なのか、それは誰にも判らない。それはあとで告げられることになった。そこで吾々はえも言われぬ静寂のうちに、次に起きるものを待っていた。ポーチの上の一団も無言のままであった。

 その時である。神殿の門より大天使が姿を現わした。素朴な白衣に身を包んでいたが、煌々と輝き、麗わしいの一語に尽きた。頭部には黄金の冠帯を付け、足に付けておられる履き物も黄金色に輝いていた。

腰のあたりに赤色のベルトを締め、それが前に進まれるたびに深紅の光を放つのであった。右手には黄金の聖杯(カリス)を捧げ持っておられる。

左手はベルトの上、心臓の近くに当てておられる。吾々にはその方がどなたであるかはすぐさま知れた。他ならぬイエス・キリストその人なのである。(※)いかなる形体にせよ、あるいは顕現にせよ、愛と王威とがこれほど渾然一体となっておられる方は他に類を求めることが出来ない。

その華麗さの中に素朴さを秘め、その素朴さの中に威厳を秘めておられる。それらの要素が、こうして顕現された時に吾々列席者の全ての魂と生命とに秘み込むのを感じる。

そして顕現が終了した後もそれは決して消えることなく、いつまでも吾々の中に残るのである。(※その本質と地上降誕の謎に関しては第三巻で明かされる。──訳者)

 今そのイエス・キリストがそこに立っておられる。何もかもがお美しい。譬えようもなくお美しい。甘美にして優雅であり、その中に一抹の自己犠牲的慈悲を漂わせ、それが又お顔の峻厳な雰囲気に和みを添えている。

その結果そのお顔は笑顔そのものとなっている。といって決して笑っておられるのではない。そしてその笑みの中に涙を浮かべておられる。悲しみの涙ではない。

己の喜びを他へ施す喜びの涙である。その全体の様子にそのお姿から発せられる実に多種多様な力と美質が渾然一体となった様子が、側に控える他の天使の中にあってさえ際(きわ)立った存在となし、まさしく王者として全てに君臨せしめている。

 そのイエス・キリストは今じっと遠くへ目をやっておられる。吾々群集ではない。吾々を越えた遥か遠くを見つめておられる。やがて神殿の数か所の門から一団の従者が列をなして出てきた。男性と女性の天使である。その霊格の高さはお顔と容姿の優雅さに歴然と顕れていた。

 私の注目を引いたことが一つある。それを可能なかぎり述べてみよう。その優雅な天使の一人一人の顔と歩き方と所作に他と異なる強烈な個性が窺われる。同じ徳を同じ形で具えた天使は二人と見当たらない。霊格と威光はどの方もきわめて高い。が、一人一人が他に見られない個性を有し、似通った天使は二人といない。

その天使の一団が今イエス・キリストの両脇と、前方の少し低い岩棚の上に位置した。するとお顔にその一団の美と特質と霊力の全てが心地よい融和と交わりの中に反映されるのが判った。一人一人の個性が歴然と、しかも渾然一体となっているのが判るのである。

さよう、主イエスは全ての者に超然としておられる。そしてその超然とした様子が一層その威厳を増すのである。

 以上の光景を篤と考えてみてほしい。このあとのことは貴殿が機会を与えてくれれば明日にでも述べるとしよう。主イエスのお姿を私は地上を去ってのち一度ならず幾度か拝してきたが、そこには常に至福と栄光と美とが漂っている。

常に祝福を携え、それを同胞のために残して行かれる。常に栄光に包まれ、それが主を高き天界の玉座とつないでいる。そしてその美は光り輝く衣服に歴然と顕れている。

 しかも主イエスは吾々と同じく地上の人間と共にある。姿こそお見せにならないが、実質となって薄暗い地上界へ降り、同じように祝福と栄光と美をもたらしておられる。が、そのごく一部、それもごく限られた者によって僅かに見られるに過ぎない。

地球を包む罪悪の暗雲と信仰心の欠如がそれを遮るのである。それでもなお主イエスは人間と共にある。貴殿も心を開かれよ。主の祝福が授けられるであろう。  ♰


シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen
八章 祝福されたる者よ、来たれ! 



5 ザブディエル十一界へ召される   

 一九一四年一月三日  土曜日

主イエスは黙したまましばし恍惚たる表情で立っておられた。何もかもがお美しい。やがて天使団に動きが生じた。ゆっくりと、いささかも急ぐ様子もなく、その一団が天空へ向けて上昇し、イエスを中心にして卵型に位置を取った。後部の者は主より高く、前方の者は主の足より下方に位置している。かくして卵形が整うと、全体が一段と強烈な光輝を発し、吾々の目にはその一人一人のお姿の区別がつかぬほどになった。

今や主の周りは光輝に満ち満ちている。にもかかわらず主の光輝はそれよりさらに一段と強烈なのである。但し、主の足元のすぐ前方に一個所だけ繋がっていないところがある。つまり卵形の一番下部に隙間が出来ているのである。

 その時である。主が左手を吾々の方へ伸ばして祝福をされた。それから右手のカリスを吾々の方へ傾けると、中から色とりどりの色彩に輝く細い光の流れがこぼれ出た。

それが足もとの岩に落ち、岩の表面を伝って平地へと流れ落ちて行く。落ちながら急速に容積を増し、平地に辿り着くと一段と広がり、なおも広がり続ける。今やそれは光の大河となった。その光に無数の色彩が見える。

濃い紫から淡いライラック、深紅から淡いピンク、黄褐色から黄金色等々。それらが大河のそこここで各種の混合色を作りつつ、なおも広がり行くのであった。

  かくしてその流れは吾々の足もとまで来た。吾々はただその不思議さと美しさに呆然として立ちつくすのみであった。今やその広大な平野は光の湖と化した。が、吾々の身体はその中に埋没せず、その表面に立っている。だが、足もとを見つめても底の地面まで見通すことはできない。あたかも深い深い虹色の海のような感じである。

しかも吾々は地面に立つようにその表面にしっかりと立っている。が、表面は常に揺らめき、さざ波さえ立てている。それが赤、青、その他さまざまな色彩を放ちつつ吾々の足元を洗っている。何とも不思議であり、何とも言えぬ美しさであった。

  やがて判ってきたことは、その波の浴び方が一人一人違うことであった。群集のところどころで自分が他と異なるのに気づいている者がいた。そう気づいた者はすぐさま静かな深い瞑想状態に入った。側の者の目にもそれが歴然としてきた。

まず周囲の光の流れが黄金色に変わり、それがまず踝(くるぶし)を洗い、次に液体のグラスのような光の柱となって膝を洗い、更に上昇して身体全体が光の柱に囲まれ、黄金色の輝きの真っ只中に立ちつくしているのだった。

頭部には宝石その他、それまで付いていたものに代って今や十一個の星が付いている。それまた黄金色に輝いていたが、流れの黄金色より一段と強烈な輝きを発し、あたかも〝選ばれし者〟を飾るために、その十一個の星に光が凝縮されたかのようであった。

その星の付いた冠帯が一人一人の頭部に冠せられ、両耳の後ろで留められていた。かくして冠帯を飾られた者はその輝きが表情と全身に行き亘り、他の者より一段と美しく見えるのであった。

 そこで主がカリスを真っ直ぐに立てられた。と同時に流れが消えた。光の流れにおおわれていた岩も今やその岩肌を見せている。平地も次第に元の草原の姿を現わし、ついに光の海は完全に消滅し、吾々群集は前と同じ平地の上に立っていた。

 さて、その〝選ばれし者〟のみが最後まで光輝に包まれていたが、今はもうその光輝も消滅した。が、彼らはすでにもとの彼らではなかった。

永遠に、二度ともとに戻ることは無いであろう。表情には一段と霊妙さが増し、身体もまた崇高さを加え、衣装の色調も周りの者に比して一段と明るさを加え、異った色彩を帯びていた。十一個の星は相変わらず光り輝いている。包んでいた光の柱のみが今は消滅していた。

 その時である。〝聖なる山〟の神殿からもう一人の天使が姿を現わし、優しさを秘めた力強い声で、星を戴いたものはこの山の麓まで進み出るように、と言われた。それを聞いて私を含めて全員が集結し───実は私も星を戴いた一人だったのである───そして神殿の前に立たれる主イエスのお姿を遥かに見上げながら整列した。

 すると主がおよそ次のような趣旨のことを述べられた。「あなた方は託された義務をよくぞ果たされた。父なる神と余に対し、必ずしも完璧とは言いかねるが、出来うるかぎりの献身を為された。これより案内いたす高き界においても、これまでと変わらぬ献身を希望する。では、ここまで上がって来られたい。

あなた方を今や遅しと待ち受ける新たな館まで案内いたそう。さ、来るがよい。」

 そう言われたかと思うと、すぐ前に広い階段が出来あがった。一ばん下は吾々の目の前の平野にあり、一ばん上は遥か山頂に立たれる主の足元まで伸びている。その長い階段を吾々全員が続々と登り始めた。数にして何万人いたであろうか。

が、かなりの位置まで登って平野を見下ろして別れの手を振った時、そこにはそれに劣らぬ大群集が吾々を見上げていた。それ程その時の群集は数が多かったのである。

 かくして吾々全員が神殿の前の広場に勢揃いした時、主が下に残った群集へ向けて激励と祝福を述べられた。仮に吾々と共に召されなかったことを悲しんだ者がいたとしても、私が見下ろした時は、そこには悲しみの表情は跡形もなかった。

主イエス・キリストの在(ましま)すところに誰一人悲しむ者はあり得ず、ひたすらにその大いなる愛と恩寵を喜ぶのみである。

 その時吾々と同じ神殿の前から幾人かの天使が階段を降り始めた。そしてほぼ中途の辺りで立ち止まった。全員が同じ位置まで来ると〝天に在す栄光の神〟を讃える感謝の賛美歌を斉唱した。平地の群集がこれに応えて交互に斉唱し、最後は大合唱となって終わった。

 聖歌隊が再び上がって来た。そして吾々と同じ場所に立った。その時はすでに階段は消滅していた。どのようにして消えたか、それは私にも判らなかった。

見た時はもうすでにそこに無かったのである。そこで主が両手をお上げになって平地の群集に祝福を与えた。群集はただ黙って頭を垂れていた。それからくるりと向きを変えられて神殿の中へお入りになった。吾々もその後に続いたのであった。




 ザブディエル最後のメッセージ

 さて、私の同志であり、友であり、私が守護を託されている貴殿に、最後に申し置きたいことがある。別れの挨拶ではない。これよりのちも私は常に貴殿と共にあり、貴殿の望みに耳を傾け、そして答えるであろう。

いついかなる時もすぐ近くに居ると思うがよい、たとえ私の本来の住処が人間の距離感では遥か彼方にあっても、吾らにとってはすぐ側に居るのも同然であり、貴殿の考えること望むことそして行うことにおいて、常に接触を保ち続けている。

なぜなら、私にはその全てについて評価を下す責務があるからである。それ故、もしも私が友として援助者として貴殿に何らかの役に立ってきたとすれば、私が下した評価において貴殿が喜ぶように私も貴殿のことを喜んでいるものと心得るがよい。

七つの教会の七人の天使のこと(七章2)を思い出し、私の立場に思いを馳せてほしい。

更に又、いずれの日か貴殿も今の私と同じように、自分の責任において保護し指導し監視し援助し、あるいは人生問題に対処し、正しい生き方を教唆すべき人間を託されることになることを知りおくがよい。

では祝福を。もしかして私は再び貴殿と語る手段と許しとを授かることになるかも知れない。同じ手段によるかも知れないし、別の簡単な手段となるかも知れない。それは私も今は何とも言えない。貴殿の選択に任されるところが多いであろう。

ともあれ、何事が起ころうと常に心を強くもち、辛抱強く、あどけない無邪気さと謙虚さと祈りの心を持って事に当たることである。

 神の御恵みのあらんことを。私はこれをもって終わりとするに忍びないが、これも致し方ないことであろう。

 主イエス・キリストの御名のもとに、その僕として私は常にすぐそばに居ることをつゆ忘れるでないぞ。 アーメン    ♰   
              ザブディエル

シアトルの冬  シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch Edited by Pam Riva
まえがき
一章 シルバーバーチの挨拶



まえがき

 人間は何のために生まれてくるのだろうか。死んだらどうなるのだろうか。もっと幸せで生き甲斐のある生活を送るにはどうすればよいのか。天地万物の背後には知的な〝こころ〟が存在するのだろうか。物的宇宙に、そして人間に、何か〝計画〟というものがあるのだろうか。

 知性の芽生えとともに、人類はこうした謎を追求しつづけてきた。そして今その解答が、かつて同じこの地球で生活し今は一段と次元の高い世界へ進化して行っている人類の先輩霊の一人によってもたらされつつある。

 その霊は人間の無知の暗闇を照らす松明の持ち手としての使命を引き受け、地上で語るための霊媒としてモーリス・バーバネルを選んだ。

 間もなくそのバーバネルを通して語るメッセージに耳を傾ける小さなグループができた。そしてそのうちの一人で〝フリート街の法王〟(英国ジャーナリズム界の御意見番)の異名をもつハンネン・スワッハーの名を冠して〝ハンネン・スワッハー・ホームサークル〟を正式の名称とした。

 そのメンバーのうちの三人は世襲的にはユダヤ教徒であり、さらに三人はキリスト教徒だった。が、シルバーバーチと名のるその霊は 
 「我々が忠誠を捧げるのは一つの教義でもなく、一冊の書物でもなく、一個の教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の大自然の摂理です」
と語るのだった。

 一人の人間が人類全体の命運を左右することは現実に有りうることである。イエスがそうだったし、ヒトラーがそうだった。このモーリス・バーバネルとシルバーバーチという二つの世界にまたがるコンビは、以来、数え切れないほどの人々の人生を変え、悲しむ人には慰めを、絶望の淵に沈む人には希望を与え、今や世界のすみずみまでその愛好者が増えつつある。

 ところで、そのシルバーバーチとはいったい何者であろうか。

 それについては、最も身近かな存在である霊媒のバーバネルも、一九二〇年に始めて入神させられてシルバーバーチのマウスピースとなった時に何も知らなかったことは、間違いない事実である。そしてそれから六十一年後に他界するまで、もしかしたら知っていたかも知れないが、ひとことも口にしていない。

 が、彼はその六十一年の歳月を支配霊シルバーバーチの語るメッセージを世界中に広めることに献身した。他界する当日まで倦むことなく忠実にその使命を全うし続けた。本書には彼による最後の交霊会の霊言が収録されている。

 私はこの霊言集を次の三人の先達に捧げたい。すなわち優れた編集者であり、ジャーナリストであり、作家であり、また実業家としての才も見せた霊媒のモーリス・バーバネル、四十九年間にわたってその地上での良き伴侶であった奥さんのシルビア、そしてサークルのメンバーであり同時に霊言の速記者でもあったフランシス・ムーア女史である。                  パム・リーバ



 一章 シルバーバーチの挨拶

 私たち霊団の者は、一種名状しがたい暗闇に包まれている地上各地において、大々的救済活動に従事しております。霊の光がその暗闇を突き破り、人間が全生命の根源──物質的に精神的に霊的に豊かにする崇高な霊力の恩恵にあずかれるようにしてあげなければならないのです。

 進歩は遅々たるものです。克服しなければならない障害が山ほどあります。が、着実に進展しつつあります。各地に新しい橋頭堡が築かれつつあります。霊力はすでに地上に根づいております。それが、幾百万とも知れぬ人々に恩恵をもたらすことでしょう。

 私をはじめ、私を補佐してくれる霊団の者、そして地上にあって私たちの道具となってくれるあなた方は、この気高い事業に奉仕する栄誉を担っているわけです。それ故にこそわれわれは、双肩に託された信頼をいかなる形にても汚すことのないように心掛ける責任があると言えます。

あなた方は霊力を活用する立場にあります。私も同じです。そして必要とあれば私は、こうして私たちがあなた方のために尽力しているように、あなた方が他人のために自分を役立てるための霊力を、さらに余分に引き出すこともできます。

 これまでに啓示していただいた知識のおかげで、われわれは背後に控える力が地上のいかなる霊力よりも強大であるとの認識によって、常に楽観と希望をもって臨んでおります。敗北意識を抱いたり意気消沈したりする必要はありません。

すべて神の計画どおりに進行しており、今後もそれは変わりません。人間が邪魔することはできます。計画の進展を遅らせることはできます。が、宇宙最高の霊が地球救済のために開始した計画を台なしにしてしまうことはできません。

 われわれが有難く思うべきことは、地上的なものが提供してくれるいかなるものにも優る、物質の領域を超えた、より大きくより美しい生命の世界をかいま見ることを可能にしてくれる霊的知識を手にしていることです。

その世界には、地上に豊かな恩恵をもたらす霊力の道具としての人間を援助し鼓舞し活用することを唯一の望みとしている、進化せる高級霊が存在することをわれわれは、信仰ではなく事実として認識しております。

 その霊力は病気を癒やし、悲しむ人を慰め、道を失った人を導き、無知を知識に置きかえ、暗闇を光明に置きかえ、生きる意欲を失った人には元気を与え、真理に渇いた人の心をうるおし、真の自我を見出そうとする人には神の計画に基づいたガイドラインを提供してあげます。

 援助を求める祈りが聞かれないままで終わるということはありません。人のために何か役立つことをしたいという願いが何の反応もなしに終ることはありません。霊界においては、自分より恵まれない人のために役立てる用意のある地上の人間を援助せんとして万全の態勢を整えております。

ただ単に霊感や啓示を手にすることができるというだけではありません。霊力という具体的なエネルギーの働きかけによって、受け入れる用意のできた魂にふんだんに恩恵がもたらされるのです。
 
 その道具として、内部の神性をより多く発揮すべく、進化と発達と開発のために不断の努力を怠らないというのが、われわれの絶対的な義務です。

 生命に死はありません。墓には生命を終わらせる力はありません。愛にも死はありません。なぜなら愛は死を超えたものだからです。この生命と愛こそ、われわれが所有しかつ利用することのできる大霊の絶対的神性の双子(ツイン)です。それを発達させ開発させることによって、われわれより恵まれない人々のために、他の資質とともに活用することができます。

 今の地上は大霊すなわち宇宙の神よりも富の神マモンを崇拝する者の方が多くなっております。本来ならば人間生活を豊かにする霊的知識を携えた霊的指導者であるべきはずの宗教家がまずもって無知なのです。

霊的真理とは何の関係もない、人間が勝手にこしらえた教義や信条やドグマを信じ、それに束縛されているからです。洞察力に富んでいなければならない立場の人みずからが、悲しいかな、一寸先も見えなくなっているのです。

 そのために、霊の力を地上に顕現させ、生命と愛とが永遠であるとの証拠を提供し、医者に見放された患者を治してあげることによって霊力の有難さを味わわせてあげるためには、いろいろとしなければならないことがあるわけです。

 霊力の機能はそれ以外にもあります。日常の生活において他のすべての策が尽きたと思えた時の支えとなり、指示を与え、導きます。

宇宙機構の中における地上の人生の目的を認識することによって、各自がその本性を身体的に精神的に霊的に発揮できる道を見出し、かくして、たとえわずかな間とはいえ、この地上での旅によって、これ以後にかならず訪れる次のより大きい生命の世界に備えて、大自然の摂理の意図するままに生きられるように導いていきます。

 自分はこれからどうなるだろうかという不安や恐怖を抱く必要はどこにもありません。霊は物質に勝るのです。大霊はいかなる地上の人間よりも強大な存在です。いつかは必ず神の計画どおりになるのです。

 そのためには、あなた方人間の一人ひとりに果たすべき役割があります。いま住んでおられるところを、あなたがそこに存在するということによって明るく豊かにすることができるのです。そのための指針はあなたが霊的に受け入れる用意ができたときに授けられます。

 いったん宇宙の最大の力とのつながりができたからには挫折は有り得ないことをご存知ならば、いつも明るく信念と希望に燃えてください。あなたを愛する霊たちがいつでも援助に参ります。

あなたと地上的な縁によってつながっている霊だけではありません。霊的知識を地上全体に広めるためにあなたを霊的通路として活用せんとしている上層界の霊である場合もあります。

 私からのメッセージはいつも同じです───くよくよせずに元気をお出しなさい、ということです。毎朝が好機の訪れです。自己開発のための好機であると同時に、あなた自身ならびに縁によってあなたのもとを訪れる人々の地上での目的が成就される、その手段を提供してくれる好機の訪れでもあります。


  シルバーバーチの祈り

 私ども一同は、暗黒と無知と迷信と利己主義と暴力、そのほか地上のガンともいうべき恐ろしい害毒を駆逐することによって、神の永遠の創造活動にわれわれならではの役目を果たすことができますよう祈ります。

 私どもの仕事は、そうした害毒に代わって、神の子等が内部にその可能性を宿している燦爛たる光輝を発揮させる崇高な知識を授けることです。

これまでに私どもが授かった恩恵への感謝の表明として、私どもは今後ともその崇高な叡智と霊力の通路たるにふさわしい存在であり続け、恵まれない人々を救い他の人々に救いの手を差しのべ、生き甲斐ある人生の送り方を教える、その影響力の及ぶ範囲を強化し、そしてますます広げていく上で少しでもお役に立ちたいと祈る者です。

 ここに、常に己を役立てることのみを願うインディアンの祈りを捧げます。

Thursday, January 1, 2026

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen
八章 祝福されたる者よ、来たれ! 



 話を進める前に、前回に述べた面会が行われた都を紹介しておこう。と言うのは、私の知る限りでは、第五界にはこの界特有の特徴が幾つかあるのである。

例えば大ていの界──全てとは言わないが──には中心となる都が一つあるのみであるが、この五界には三つあり、従って三人の領主がおられることになる。

 この三重統治の理由は、この界の置かれた位置が、ここまで辿り着いた者がこのあとどちらの方向に進むかについて重大な選択を迫られる位置にあるからである。一種の区分所のようなものであり、住民はここでの生活中にそれぞれに相応しいグループに配属され、最も相応しい仕事に携わるべく上層界へと進む。

 三つの都は途方もなく広い平坦な大陸の境界域近くに位置し、その三つを線で結ぶと二等辺三角形となる。それ故、それぞれ都から出る何本かの広い道路が扇状に一直線に伸びている。こうして三つの都は互いに連絡し合っている。その三角形の中心に拝殿がある。

森の中央の円形広場に建てられている。各都市から伸びる広い道路は途中で互いに交叉しており、結局全てがこの拝殿とつながっていることになる。そうして、折ある毎に三つの都市の代表を始めとして、その統治下にある住民の代表が礼拝を捧げるために一堂に会する。

 その数は何万あるいは何十万を数え、見るからに壮観である。三々五々、みな連れだって到着し、広場に集合する。そこは広大な芝生地である。そこで大群集が合流するわけであるが、五界にある全ての色彩が渾然一体となった時の美しさは、ちょっとした見ものである。

 が、それ以上に素晴らしいのは多様性の中に見られる一体感である。それぞれの分野でもうすぐ次の界へ向上して行く者がいて、決して一様ではない。が、その大集団全体を通じて〝愛の調べ〟が脈うっている。そしてそれが不変不朽であり、これよりのち各自がいかなる道を辿ろうと、この広き天界のいずこかにおいて相見(まみ)えることを可能にしてくれることを全員が自覚している。

それ故誰一人として、やがて訪れる別れを悲しむ者はいない。そのようなものは知らないのである。愛あるところには地上でいう別れも、それに伴う悲しみもない。それは〝人類の堕罪〟さえなければ、地上においても言えるところである。

人間がその資質を取り戻していくのは容易ではあるまい。が、不可能ではない。なぜなら、今は目覚めぬままであるとは言え、よくよくの例外を除いては、その資質は厳然と人間に宿されているからである。

 さて吾々は旅の次の段階、すなわち例の女性の一団を第六界へと送り届け、そこの領主へ引き渡す用事へ進まねばならぬ。

 いよいよ第六界へ来ると、首都から少し離れた手前で歓迎の一団の出迎えを受けた。あらかじめ第五界との境界の高地において到着の報を伝えておいたのである。歓迎の一団の中には女性たちの曽ての知友も混じっており、喜びと感謝のうちに旧交を温めるのであった。

 女性たちのしばしの住処となるべき市(まち)に到着すると、明るい衣装をまとった男女に僅かばかりの子供の混じった市民が近づいて来るのが見えた。あらかじめ指定しておいた道である。両側に樹木が生い茂り、ところどころで双方の枝が頭上で重なり合っている。

一行はそうした場所の一つで足を止め、吾々の到着を待った。あたりはあたかも大聖堂の如く、頭上高く木の葉が覆い、その隙間を通して差し込む光はあたかも宝石の如く,そして居合わせる者はあたかも聖歌隊の如くであり礼拝者の如くでもあった。

出迎えの人々は新参の女性たちのための花輪と衣装と宝石を手にしていた。それを着飾ってもらうと、それまでのくすんだ感じの衣装が第六界に相応しい新しい衣装に負けて立ちどころに消滅した。それから和気あいあいのうちに全員が睦み合ったところで、出迎えの市民が市の方へ向きを変え、ある者は手にしていた楽器で行進曲を演奏し、ある者は歌を合唱しつつ行進しはじめた。

沿道にも塔にも門前にも市民が群がって歓迎の挨拶を叫び、喜びを一層大きなものにしていった。

新参者は皆こうした体験を経て自分たちへ向けられる歓迎の意向を理解していくのである。そして界を二つ三つと経ていくうちに新しい顔と景色の奇異な点が少しも恐れる必要がないこと──全てが愛に満ちていることを悟るに至るのである。

 さて、門を通過して市中へ入ると、まず聖殿へ向かった。見事な均整美をした卵形の大きな建物で、その形体は二つの球体が合体して出来たものを思わせる。

一つは愛を、もう一つは知識を意味する。それが内部の塔を中央にして融合しており、その組み合わせが実に美事で巧みなのである。照明は先日叙述した液晶柱のホールと同じく一時として同じ色彩を見せず、刻一刻と変化している。全体を支配しているのはたったの二色──濃いバラ色と、緑と青の混じったスミレ色である。

 やがて新参の女性たちが中へ案内された。中にはすでに大会衆が集まっている。彼女たちは中央の壇上に案内され、そこにしばらく立っていた。

すると聖殿の専属の役人がリーダーの先導で神への奉納の言葉を捧げ、すぐそのあと会衆が唱和すると、場内に明るい光輝をした霧状の雲が発生し、それが彼女たちのまわりに集結して、この第六界の雰囲気の中に包み込んでしまった。

 やがてそれが上昇し、天蓋の如く頭上に漂ったが、彼女たちは深く静かな恍惚状態のままじっと立ちつくし、その美しい雲がさらに上昇して他の会衆まで広がるのを見ていた。

すると今度は音楽が聞こえてきた、遥か遠くから聞こえてくるようであったが、その建物の中に間違いなかった。そのあまりの美しさ、柔らかさ、それでいて力強さにあふれた旋律に、吾々は神の御前にいるような崇高さを覚え、思わず頭を垂れて祈り、神の存在を身近かに感じるのであった。

 やがて旋律が終わったが、余韻はまだ残っていた。それはあたかも頭上に漂う光輝性の雲の一部になり切っているように感じられた。実は、貴殿には理解できない過程を経てそれは、真実、雲の一部となっていたのである。

そしてその輝く雲と愛の旋律とが一体となって吾々にゆっくりと降りてきて吾々の身体を包み込むと、聖なる愛の喜びに全会衆が一体となったのであった。

私を除く全会衆にはそれ以上の顕現は見えなかった。が、修行をより長く積んできた私には他の者に見えないものが見え、上層界からの参列者の存在にも気づいていた。

また旋律の流れくるところも判っていた。祝福の時に授けられる霊力がいかなる種類のものであるかも判っていた。それでも他のすべての者はこの上なく満足し、ともに幸せを味わった。十五人の女性たちはいうまでもなかった。



──その間あなたは何をなさっていたのでしょうか。そこではあなたが一ばん霊格が高かったのではありませんか。

 ただお世話をするために同行したに過ぎない私自身について語るのは感心しない。この度の主役は十五人の女性であった。私の界からは他に三名の者が同行し、それより上の界の者は一人もいなかった。吾々四人に全ての人が友好的で親切で優しくしてくれた。

それが吾々にとって大いなる幸せであった。いよいよ十五人が落着くべき住処へ案内されることになった時、彼女たちはぜひもう一度礼を述べたいといって戻ってきて、感謝の言葉を述べてくれた。

吾々も言葉を返し、そのうち再び戻ってその後の進歩の様子を伺い、多分、助言を与えることになろうと約束した。彼女たちからの要請でそうなったのである。

そこに彼女たちの立派な叡智が窺えた。私もそうすることが彼女たちにとって大きな力となるものと確信する。こうした形での助言は普通はあまり見られない。そうたびたび要請されるものではないからである。

 「真理は求める者には必ず与えられる」──このイエスの言葉は地上と同じくこちらの世界にも当てはまることが、これで判るであろう。この言葉の意味を篤と考えるがよい。  ♰