Monday, October 19, 2026

霊訓〈完訳・下〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。





33節

本節の内容
*霊の身元を裏づける証拠の数々
*著者の結びの言葉



〔四節において作曲家アーンの生涯について綴られた極めて細かい事実を紹介したが、一八七三年九月十二日には他の作曲家――ベンジャミン・クック(1)、ヨハン・ペプシュ(2)、ウェレスリ・アール(3)の生前の事実や日時についても同じように細かく且つ正確な言及が為された。三人とも私の知らない名前であった。まるで人名辞典のような簡略な記述で内容的にはばかばかしいほどの些細なこともあった。いずれもドクターの署名が記されたが、その中でドクター自身も“実に下らぬ内容である。貴殿の確信のためと思えばこそのことで、それだけがわれらの目的である。地上生活のこまごましたことは今のわれらには興味はない”と述べている。

一八七四年七月十六日。病気で部屋に籠っていたところ右の三人の音楽家に関連した情報がさらに送られてきた。私個人としては何の関わりもないのであるが、私が毎日のように会っていた一人の人物と密接な関連のある内容であった。この度の霊はジョン・ブロウ(4)と言い、“クリストファー・ギボン(5)の教え子で、ウェストミンスター寺院のヘンリー・パーセル(6)の後継者。少年時代からすでに作曲家だった”と書かれた。生没年を質すと一六四八年~一七六八年と書かれた。これなどは表面的には私が異常に過敏な状態でたまたま部屋に引き籠っていたから得られた情報である。

一八七三年十月五日に更にプライベートな証拠がもたらされた。四節において書物からの読み取りが出来る霊として紹介された霊が、古代の年代記から幾つかを抜き書きした。それは凡そのことは私も不案内というわけではなかった。と言うのも、その主題が私の研究範囲に属することだったからであるが、その内容の極端な細かさと正確さは私には付いて行けないものだった。私はこまごまとした事実、とくに年月日を記憶することが苦手な性質(たち)なのである。生まれつきそうした細かいことを扱いきれないのと、幅広い視野で物事を総合的に把握することの方が実際的であるという信念から、私は常日頃からそういう習慣を付けるべく努力してきた。

その観点から見て奇妙に思えるのは、私の手を通して書かれた通信のほとんど全てが顕微鏡的細かさをもち、インペレーターからのものを除いては、視野の広さと多様性に欠けていることである。

同じ頃、中世の錬金術学者ノートン(7)の著書からの二十六行が、それまでのどの通信とも異なる奇妙な古書体で書き出された。その抜粋をのちに校合(きょうごう)しようとしたが困難を極めた。と言うのは、関係書が乏しく、ノートンに関しては生没年すら曖昧なほどで、ほとんど知られていないからである。通信によると、古代のオカルト学者で霊媒的素質があり、それで地上へ戻りやすいということだった。そして彼の著作に詩文で書かれた The Ordinal or Manual of Chemical Art(8)というのがあり、ヨーク大主教のネビル(9)に捧げられたものであった。

他にも紹介しようと思えば幾つかあるが、以上紹介したものに優る証拠性をもつものではない。相当な量の資料の中から適当に抜き出したものである。

が、もう一つだけ、通信の真実性の証明の仕方に特徴があるので紹介しておこうと思う。事実を提供した霊が自らその証明の方法に言及しているように思える。しかもその情報は出席していた者の誰一人として知らないことであったところにメリットがある。私の記録から引用する。

一八七四年三月二十五日。ある女性がテーブル通信で列席者の誰も知らない氏名と事実を伝えてきた。そこで翌日私の背後霊に事情を尋ねた。〕


あの霊はシャーロット・バックワース(10)と名のっていたが、その通りである。われわれとは特に関わりはないのであるが、たまたまあの場に居あわせ、貴殿にとって証拠になると考えて通信を許した。交霊会の状態はわれわれにとって良くはなかった。われわれの手で改善することも出来なかった。非常に乱れていた。あのような日の後は得てしてそういうものである。貴殿の巻き込まれたあの連中の異質の雰囲気がわれわれの手ではどうしようもない混乱の要素を誘い込んだのである。


――霊媒的能力を持つ四人と一緒になってしまいました。私はいつもあの種の人間から悪い影響を受けるようです。


貴殿はあの種の人間の影響にどれほど過敏であるかをご存知ないようだ。あの時に通信した霊は百年以上も前に地上を去った者で、一七七三年に急死し、何の備えもないまま霊界へきた。ジャーミン通り(11)の友人の家で他界している。そこで娯楽パーティーに出席していた。多分彼女自身からもっと詳しい話が聞けると思うが、われわれにはどうしようもない。


〔ここへ連れて来てほしいと言ったところ、通信霊がそれは自分たちには出来ないと言う。そこで彼女について何か他に知っていることがあるかと尋ねた。〕


ある。実は彼女自身もあの時もう少し述べたかったのであるが、エネルギーが尽きた。死後の長い眠りから覚めてしばらく特殊な仕事に従事し、その間ずっと最近に至るまで地上の雰囲気に近づいていない。雰囲気が調和性のある場所に引かれている。それは彼女の性格に愛らしさがあるからである。他界のしかたは急死であった。娯楽パーティで倒れ、その場で肉体から離れた。


――死因は?


心臓が弱かった。それが激しいダンスで負担を増した。優しく愛らしい性格ではあったが、至って無頓着な娘であった。


――何という人の家で、どこにありましたか。


われわれには判らぬ。彼女自身から告げることになろう。


〔このあと別の話題が綴られたが、彼女に関する話はそれ以上出なかった。同日の午後になって簡単な通信がきた。私は忙しくて寛いだ気分になれないのでペンを手にする気がしなかったが、次のような一節を書かされてしまった。〕


ロッティ(12)が他界したのはドクター・ベーカー(13)とかいう人の家であったことを確認した。十二月五日であった。それ以上のことは判らぬ。が、以上で十分であろう。

(レクター)


通信そのものもそうであったが、内容の確認が思いがけない形で為された。当初その事実を確認する手掛りはまずないとあきらめていた。そしてその件をすっかり忘れてしまっていた。その後少しして、スピーア博士が古書の好きな知人を自宅に呼び、私を入れた三人で談笑したことがあった。その部屋には滅多に読まれたことのない莫大な数の本が床から天井までぎっしりと書棚に並べられていた。話の途中でスピーア博士の友人――A氏と呼んでおく――が一番上の棚の本を取り出すために椅子を持っていった。そこには「記録年鑑」ばかりが並んでいる。A氏は埃の中から一冊を取り出し、一年一年の貴重な出来事の記録が載っていて、まず載っていないものはないほどだと言った。それを聞いた時、私の頭に例の女性の死について確認する記録があるかも知れないという考えが閃いた。インスピレーションの経験のある人ならよくご存知の、曰く言い難い閃きであった。内的感覚に語りかけられた声のようなものであった。私は一七七三年版の年鑑を探し出し、当時話題になった死亡事故の記録の中に、右の通信にある通りの、ある上流家庭でのパーティで起きたセンセーショナルな女性死亡事件を発見した。その本は厚く埃を被り、五年ほど前にそこに置かれてから一度も動かされていなかった。私の記憶ではその年鑑はきちんと配列されていた。そして一度も手を触れた形跡がなく、A氏の古書趣味がなかったら、われわれの誰一人として取り出して調べてみる考えは起きなかったのではないかと思われる。

このことに関連して一つだけ付け加えておくと、一八七四年三月二十九日に私のノートにあるメッセージが綴られ、最初私にはそれが読めなかった。一度も見たことのない筆跡で、まるで体力の衰えた老人が震えながら書いたような感じであった。署名もされているのであるが、いつもの書記が判読して教えてくれるまでは私には読めなかった。結局それは私の知らないかなり老齢の婦人からのメッセージで、われわれがいつも交霊会を催す家からあまり遠くない所にある家で百歳近い高齢で他界している。姓名も住所も公表できない。理由はご理解いただけると思う。今生きておられる縁故者に許しを乞う立場にないし、その気にもなれない。邸宅の名前と位置、死亡年月日がいずれもメッセージの通りであったとだけ述べておく。メッセージを伝えたそもそもの目的(と思われるの)はその婦人が一八七二年十二月に他界しているという注目すべき事実で、“寿命を全うして、地上生活の疲れを癒して来た”ということであった。

この件にかぎらず、霊の身元の件に関するものは全てインペレーターが指示し、私がしつこく要求した身元の確認――というよりは、死後の個性の存続の証拠を提供するという確固たる意図があったものと信じている。そのいずれも明らかにある計画性をもって運ばれている。私からの勝手な要求が容れられたことは一度もなく、その計画を変更させることは遂に出来なかった。

通信の連続性がこの頃から途切れ、通信らしい通信が来なくなった。時たま思い出したように通信が出ることはあっても、この厖大な量の“霊訓”を一貫して支えてきた強烈なエネルギーは見られなくなった。所期の目的が達成され、その後も通信はあっても間隔が開くようになり、やがて一八七九年頃を境にこの自動書記による通信は事実上終わりを告げ、もっと容易で単純なものに代わってしまった。私が保存してある通信ノートの中から他の貴重な個所を抜き出すのは簡単である。多分これからその作業に取り掛かることになろう。が、取り敢えず以上紹介した通信がそれなりに完結しており、他に類を見ない貴重な体験の標本として、十分にその意義をもつものと思う。

本書を締めくくるに当たり敢えて言わせていただきたいのは、この“霊訓”は人間とは別個の知性の存在を強力に示唆する証拠として提供するものである。その内容は読む人によって拒否されるかも知れないし、受け入れられるかも知れない。しかし、真摯に、そして死に物狂いで真実を求めんとして来た一個の人間のために、人間の脳とは別個の知的存在が弛(たゆ)むことなく働きかけ、そして遂に成功したという事実をもし理解できないとしたら、その人は本書の真の意義を捉え損ねたことになるであろう。〕

(完)



〔注〕

(1)Benjamin Cooke  (2)Johann Pepusch  (3)Wellesley Earl
(4)John Blow  (5)Christopher Gibbon  (6)Henry Purcell  (7)Norton
(8)直訳「化学的技法の手引き」 
(9)Richard Neville 15世紀の英国の貴族・政治家。
(10)*Charlotte Buckworth(女性) (11)Jermyn Street ロンドンの中心に位置する。
(12)シャーロットの愛称 (13)*Doctor Baker





解説(訳者)

内容
霊団の構成について
霊団の身元について
スピリチュアリズムにおける『霊訓』の価値
シルバーバーチの霊訓との比較
モーゼスの経歴と人物像
あとがき



本書は形の上ではモーゼスという霊媒的素質をもつキリスト教信者を通して、目に見えぬ知的存在が全ての人間の辿る死後の道程を啓示し、モーゼスが幼少時より教え込まれ、絶対と信じ、かつ人に説いて来た思想的信仰を根底から改めさせ、真実の霊的真理を理解させんとする働きかけに対し、モーゼスがあくまで人間的立場から遠慮容赦のない反論を試みつつも、ついに得心していく過程をモーゼス自身がまとめて公表したものである。

モーゼス自身が再三断わっているように、本書に収められたのはほぼ十年間にわたって送られて来た厖大な量の通信のほんの一部である。主としてインペレーターと名のる最高指揮霊が右に述べたモーゼスの霊的革新の目的にそって啓示した通信を採録してあるが、記録全体の割合から言うとプライベートなこと、些細なこと、他愛ないことの方が圧倒的に多いようである。が、それはモーゼスの意向に従って公表されていない。実際問題としては些細なこと、プライベートなことのほうがむしろ科学的ないし論理的なものよりも人間の心に訴えるという点においては重要な価値をもつことがあり、その意味では残念なことではあるが、もともと霊団の意図がそこになかったことを考えれば、それもやむを得なかったと言わざるを得ない。

通読されて実感されたことであろうが、モーゼスにとってその十年間の顕幽にまたがる論争は、モーゼスの名誉と人生の全てを賭けた正に真剣勝負そのものであった。全ての見栄と打算を排した赤裸々な真理探求心のほとばしりをそこに見ることが出来る。それだけに、自分に働きかける目に見えざる存在が地上時代にいかなる人物であろうと、何と説こうと、己の理性が得心し求道心が満足するだけでは頑として承服しなかった。その点は今の日本に見られるような、背後霊に立派そうな霊がいると言われただけで有頂天になったり、何やら急に立派な人間になったかのように錯覚する浅薄な心霊愛好家とは次元が異なる。ほゞ三十年後の同じくキリスト教の牧師オーエンが名著『ベールの彼方の生活』Life Beyond the Veil by R.V.Owenを出すまでに二十五年の歳月をかけた事実と相通じるものがあろう。

なおこの『霊訓』には『続霊訓』More Spirit Teachingsという百ページばかりの続編がある。これはモーゼス自身の編纂によるものではなく、モーゼスの死後、モーゼスのこの道での恩師であったスピーア博士夫人が、博士邸で定期的に催されていた交霊会での霊言と自動書記による通信の記録の中から“是非とも公表されるべきである”と判断したものをまとめたものである。背後霊団の意図と霊的真理の中枢においては何ら変わりなく、その意味で目新しいものは見当たらないとも言えるが、第一部の霊言集と(第二部は自動書記通信)第三部のモーゼスの人物像に関するものには参考になるものが少なくない。その紹介も兼ねて、このあとの解説には主としてこの『続霊訓』(潮文社刊)を参考にさせて頂くことにする。

●霊団の構成について


『続霊訓』の冒頭でインペレーターが霊言でこう述べている。

「神の使徒たる余は四十九名より成る霊団の頭(かしら)であり、監督と統率の任にあり、他の全ての霊は余の指導と指令によりて仕事に当たる。

余は全知全能なる神の意志を成就せんが為に第七界より参った。使命完遂の暁には二度と地上に戻れぬ至福の境涯へと向上して行くであろう。が、それはこの霊媒が地上での用を終えた後となるであろう。そしてこの霊媒は死後において地上より更に広き使命を与えられるであろう。

余の下に余の代理であり副官であるレクターがいる。彼は余の不在の折に余に代わって指揮し、とりわけ物理的心霊現象に携わる霊団の統率に当たる。

レクターを補佐する三番目に高き霊がドクター・ザ・ティーチャーである。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率下に、あとで紹介するところの、知恵と知識を担当する一団が控えている。

次に控えるのが地上の悪影響を避け、あるいは和らげ、危険なるものを追い払い、苦痛を軽減し、よき雰囲気を作ることを任務とせる二人の霊である。この二人にとりて抗し切れぬものはない。が、内向的罪悪への堕落は如何ともし難い。そこで霊界の悪の勢力――霊媒の心変わりを画策し聖なる使命を忘れさせんとする低級霊の誘惑より保護することを役目とする二人の霊が付いている。余の直属のこの四人を入れた七人で第一の小霊団(サークル)を構成する。われらの霊団は七人ずつのサークルより成り、各々一人の指揮官が六人を統率している。

第一のサークルは守護と啓発を担当する霊――霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊より成る。

次のサークルは愛の霊のサークルである。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、そのほか優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類のもの全てを配慮する。

次のサークル――これも同じく一人が六人を主宰している――は叡智を司る霊の集団である。直感、感識、反省、印象、推理、等々を担当する。直感的判断力を観察事実からの論理的判断力を指導する。叡智を吹き込み、且つ判断を誤らせんとする影響を排除する。

次のサークルは知識――人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識――を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当する。また霊媒の辿る困難きわまる地上生活を指導し、有益なる実際的知識を身につけさせ、直感的知恵を完成せしめる。これはドクターの指揮のもとに行なわれる。

その次に来るのが芸術、科学、文学、教養、詩歌、絵画、音楽、言語等を指揮するグループである。彼らは崇高にして知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さとに溢れる言葉に触れさせる。美しきもの、芸術的なもの、洗練され教養溢れるものへ心を向けさせ、性格に詩的潤いを与え、気品あるものにする。

次の七人は愉快さとウィットとユーモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を担当する。これが霊媒の性格に軽快なタッチを添える。すなわち社交上大切な生気溢るる明るさであり、これが日々の重々しき苦労より気分を開放する。愛想良き心優しき魅力ある霊たちである。

最後の霊団は物理的心霊現象を担当する霊たちである。高等なる霊的真理を広める上で是非必要とみた現象を演出する。指揮官代理であるレクターの保護監督のもとに、彼ら自身の厚生を兼ねてこの仕事に携わっている。霊媒ならびにわれら背後霊団との接触を通じて厚生への道を歩むのである。それぞれに原因は異なるが、いずれも地縛霊の類に属し、心霊現象の演出の仕事を通して浄化と向上の道を歩みつつある者たちである。

いずれのグループに属する霊も教えることによりて自ら学び、体験を与えることによりて自ら体験し、向上せしめることによりて自ら向上せんとしている。これは愛より発せられた仕事である。それはわれらの徳になると同時に、この霊媒の徳ともなり、そしてこの霊媒を通じて人類への福音をもたらすことになるのである。」

以上がインペレーター自身の霊言による霊団の説明であるが、「ステイントン・モーゼスの背後霊団」The Controls of Stainton Moses by A.W.Trethewyによると、この最高指揮官であるインペレーターの上に更にプリセプターと名のる総監督が控え、これが地球全体の経綸に当たる言わば地球の守護神の命令を直接受け取り、それがインペレーターに伝えられる、という仕組みになっていたようである。

●霊団の身元について


本文でもインペレーターが繰り返し述べているように、霊の地上時代の身元を詮索することは単なる好奇心の満足にはなっても、それによって『霊訓』の信頼性が些かも増すものではないし、減じるものでもない。第一、地上の記録自体が信頼が置けないのである。が、しかし、一応興味の対象であることには違いないので、主な霊の地上時代の名前を紹介しておくと――

インペレーターは紀元前五世紀のユダヤの預言者で旧約聖書の“マラキ書”の編纂者マラキMalachi、レクターは初期キリスト教時代のローマの司教だった聖ヒポリタスHippolytus、ドクターは紀元二世紀頃のギリシャの哲学者アテノドラスAthenogoras、プルーデンスは“新プラトン主義哲学”の創始者プロティノスPlotinus、その他、本書に登場していない人物で歴史上に名のある人物としてプラトン、アリストテレス、セネカ、アルガザリ等の名が見られる。

ここに参考までに訳者の個人的見解を述べさせて頂くと、スピリチュアリズムの発展に伴って守護霊、指導霊、支配霊等のいわゆる背後霊の存在が認識されてきたことは意義深いことであり、背後霊のほうも、自分たちの存在を認識してくれるのと無視されるのとでは霊的指導において大いに差がある、と言うのが一致した意見であるが、そのことと、その背後霊の地上時代の名声とか地位とかを詮索することは全く別問題である。地位が高かったとか名声が高かったということは必ずしも霊格の高さを示すものではない。そのことは現在の地上の現実を見れば容易に納得のいくことである。シルバーバーチやマイヤースの通信を見ると、偉大な霊ほど名声とか地位、権力といった“俗世的”なものとは縁のない道を選んで再生するという。従ってその生涯は至って平凡であり、その死も身内の者を除いて殆ど顧みられないことが多い。そうした人物が死後誰かの守護霊として、あるいは指導霊として働いた時、その身元をとやかく詮索して何になろう。満足のいく結果が得られる筈がないのである。しかも霊は死後急速に向上し変化していくという事実も忘れてはならない。インペレーターの霊言に次のようなところがある。

「地上へ降りて来る高級霊は一種の影響力であり、言わば放射性エネルギーである。そなたらが人間的存在として想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物の如きものである。高等な霊信の非個人性に注目されたい。この霊媒との関わりをもった当初、彼はしつこくわれらの身元の証明を求めた。が、実はわれらを通して数多くの影響力が届けられている。死後首尾よく二段階三段階と上りたる霊は、そなたらのいう個体性を失い、形体なき影響力となり行く。余はそなたらの世界に戻れるぎりぎりの境涯まで辿り着いた。が、距離には関係なく影響力を行使することが出来る。余は今、そなたらより遙か彼方に居る。」

西洋においても日本においても霊能者は軽々しく背後霊や前世のことを口にしすぎる傾向があるが、その正確さの問題もさることながら、そのこと自体が本人にとって害こそあっても何ら益のないことであることを強く主張しておきたい。辿ればすべて神に行き着くのである。その途中の階梯において高いだの低いだのと詮索して何になろう。霊的指導者の猛省を促したい。

●スピリチュアリズムにおける『霊訓』の価値


スピリチュアリズムSpiritualismというのは用語だけを分析すれば主義・主張を意味することになるが、本来は人為的教義を意味するものではなく、地上では名称なしには存在が示されないからやむを得ずそう銘打っているまでで、“発明”ではなく“発見”――目に見えぬ内的世界と霊的法則の発見である。

そのきっかけが一八四八年の米国における心霊現象であったことは周知の通りである。インペレーターの霊言に次のような個所がある。

「今夜は大勢の霊が活発に動いている。本日が記念すべき日であるからに他ならぬ。そなたらが“近代スピリチュアリズム”と呼ぶところのものが勃興した当初、高級霊界より強力なる影響力が地球へ差し向けられ、霊媒現象が開発された。かくして地球的雰囲気に縛りつけられた多くの霊を地球圏より解放し、新たなる生活へ蘇らしめるための懸け橋が設けられた。このことを記念してわれらはこの日を祝うのである。スピリチュアリズム――われらはこれをむしろ“霊界からの声”と呼びたいところであるが、これは真理に飢えし魂の叫びに応えて授けられるものである。」

この霊言からも判る通り、スピリチュアリズムは本来は霊界からの新たな啓示を地上人類にもたらす運動であり、その目的のために霊媒が養成され、霊的存在の威力の証としてさまざまな心霊現象が演出されたのであった。新たな啓示とは突き詰めれば人間の死後存続の事実と、その生活場としての霊界の存在と、その顕と幽とに跨る因果律の存在の三つに要約されよう。ところが現実にはスピリチュアリズムヘの一般の関心の多くは霊の存在の物的証拠に過ぎないところの“現象面”に注がれ、肝心の霊的教訓が等閑(なおざり)にされている。インペレーターは続けてこう語っている。

「スピリチュアリズムには徐々に募りつつある致命的悪弊が存在する。現象のみの詮索から由来する言わば一種の心霊的唯物主義である。人間は物理現象の威力のみに興味を抱き、その背後のさまざまな霊的存在を理解しようとせぬ。物質は付帯的要件に過ぎず、実在はあくまで霊なのである。世界の全ての宗教は来るべき死後の世界への信仰に拠り所を求めている。が、地球を取り巻く唯物的雰囲気に影響され、霊的真理が視覚的現象の下敷きとなり、息も絶えだえとなっている。もしもこのまま現象のみの満足にて終わるとすれば、初めよりこの問題に関わらぬ方が良かったかも知れぬ。が、しかし、一方にはそうした現象的段階を首尾よく卒業し、高き霊的真理を希求する者もまた多い。彼らにとりて心霊現象は霊的真理への導入に過ぎなかったのである。」

要するにスピリチュアリズムの究極の目的はこの『霊訓』に象徴される霊的真理の普及にあるのである。インペレーターも述べている通り、こうした霊的啓示を地上へ送り届ける霊団は古来いくつも結成され、その時代に必要とするものを霊覚者を通して送って来た。そして今なお世界各地で送られて来ている。『霊訓』はあくまでそのうちの一つに過ぎない。そして霊媒のモーゼスがキリスト教の牧師(三十歳の時に病を得て辞職)であったこと、その時期がスピリチュアリズムの勃興期に当たったという事情から来る特殊性を見落としてはならないであろう。つまり、その内容を煎じつめれば、キリスト教的ドグマの誤謬を指摘し、それに代わる真正なる霊的意義を説くことに集中され、その他の一般の人間にとっての関心事、たとえば再生――生まれ変り――の問題等については、少なくとも本書に採録されたものの中には見当たらないし、『続霊訓』の中で言及しているものも概念的なことを述べているだけで、深入りすることを避けんとする意図が窺える。インペレーターは自動書記通信でこう述べている。

「霊魂の再生の問題はよくよく進化せる高級霊にして初めて論ずることの出来る問題である。最高神ご臨席のもとに神庁において行なわれる神々の協議の中身については、神庁の下層の者にすら知り得ぬ。正直に申して、人間にとりて深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが霊の究極の運命である。神庁において神議(かむはか)りに議られしのちに一個の霊が再び地上へ肉体に宿りて生まれるべきと判断されるか、それとも否と判断されるかは誰にも判らぬ。誰も知り得ぬのである。守護霊さえ知り得ぬのである。全ては佳きに計らわれるであろう。

すでに述べた如く、地上にて広く喧伝されている形での再生は真実ではない。また偉大なる霊が崇高なる使命と目的とを携えて地上に戻り、人間と共に生活を送ることは事実である。他にもわれらなりの判断に基づきて広言を避けている一面もある。未だその機が熟しておらぬからである。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはならぬ。そう広言する霊はみずから己の虚偽性の証拠を提供していることに他ならぬ。」

●シルバーバーチの霊訓との比較


インペレーター霊団がモーゼスを通じて活動を開始したのは一八七〇年代初期からであるが、それからほぼ半世紀後の一九二〇年代には、霊言霊媒モーリス・バーバネルを通じてシルバーバーチ霊団が活動を開始している。そして一九八一年にバーバネルが他界するまでのほぼ半世紀にわたって厖大な量の霊言を残し、『シルバーバーチ霊言集』全十六巻となって出版されている。

訳者はこれを全て翻訳して上梓しているが、その内容は基本的にはモーゼスの『霊訓』と完全に符節を合している。強いて異なる点を挙げるならば、インペレーターが控え目に肯定した再生の事実を思い切り前面に押し出し、これを魂の向上進化のために必要不可欠の要素として説いている点である。察するにモーゼスの『霊訓』その他によっていわゆる“夾雑物”が取り除かれ、人類が神の神秘にもう一歩踏み込める段階に来たことを意味するのであろう。

このことに関連して興味深いのは、キリスト教の根本教理を論駁するインペレーター霊団の霊媒がキリスト教会のかつての牧師であり、再生を根本教理として説くシルバーバーチ霊団の霊媒が再生説を嫌悪する人物であったことである。訳者個人としてはそこに霊界の意図的配慮があったものと推察している。
●モーゼスの経歴と人物像


ウィリアム・ステイントン・モーゼスは一八三九年に小学校の校長を父として生まれた。小学生時代に時おり俗にいう夢遊病的行動をしている。一度は真夜中に起きて階下の居間へ行き、そこで前の晩にまとまらなかった問題についての作文を書き、再びベッドに戻ったことがあったが、その間ずっと無意識のままであった。書かれた作文はその種のものとしては第一級であったという。しかし幼少時代に異常能力を見せた話はそれだけである。

オックスフォード大学を卒業後、国教会(アングリカン)の牧師としてマン島に赴任している。二十四歳の若さであったが、教区民からは非常な尊敬と敬愛を受けた。とくに当地で天然痘が猛威をふるった時の勇気ある献身的行為は末永く語り継がれている。

一八六九年三十歳時に重病を患いS・T・スピーア博士の世話になったことが、生涯にわたるスピーア家との縁の始まりであると同時に、スピリチュアリズムとの宿命の出会いでもあった。博士の奥さんが大変なスピリチュアリストだったのである。翌年病気回復と共に再びドーセット州で牧師の職についたが病気が再発し、ついに辞職して以後二度と聖職に戻ることはなかった。そして翌年ロンドンの小学校の教師を任命され、一八八九年に病気で辞職するまで教鞭をとった。

その間の一八七一年から一八八二年のほぼ十年間がこの『霊訓』を生み出した重大な時期である。モーゼス自身にとっては死に物狂いで真理を追求した時期であり、スピリチュアリズムにとっては大いなる霊的遺産を手にした時期であったと言える。

最後に『続霊訓』の第三部に載っているモーゼスの人物評を紹介しておく。いずれもモーゼスの死に際して贈られた言葉である。まずスピーア夫人はこう語っている。

「自然を愛する心と、気心の合った仲間との旅行好きの性格、そして落着いたユーモア精神が、地名や事物、人物、加えてあらゆる種類の文献に関する厖大な知識と相まって、氏を魅力ある人間に造り上げていました。

二年前の病さえなければ『霊訓』をもう一冊編纂して出版し、同時に絶版となっている氏の著作が再版されていたことでしょう。健康でさえあったら、いずれ成就されていた仕事です。霊界の人となった今、氏は、あとに残された同志たちが氏が先鞭をつけた仕事を引き継いで行ってくれることを切望しているに相違ありません。」

次は心霊誌『ライト』に載った記事。

「氏は生まれついての貴族であった。謙虚さの中にも常に物静かな威厳があった。これは氏が手にした霊的教訓と決して無縁ではなかった。氏ほどの文学的才能と、生涯を捧げた霊的教訓と、稀有の霊的才能は、氏を倣慢不遜にし苛立(いらだ)ちを生み嫌悪感を覚えさせても決しておかしくないところである。しかし、氏にとってそれは無縁であった。モーゼス氏は常に同情心に満ち、優しく、適度の同調性を具えていた。」

スピーア博士の子息でモーゼスが七年もの間家庭教師をしたチャールトン・スピーア氏は、氏の人間性の深さと暖かさ、性格の優しさ、真摯な同情心、そして今こそ自己を犠牲にすべきとみた時の徹底した没我的献身ぶりを称えてから、こう結んでいる。

「真理普及ヘの献身的態度はいくら称賛しても称賛しきれない。氏はまさに燃える炎であり、輝く光であった。恐らくこれほどの人物は二度と現われないであろう。」
●あとがき


訳者としてお断わりと謝意を述べなければならないことがある。

まず、この度の翻訳に当たり、聖書関係の人名及び訳語については、研究社の『新英和大辞典』、小学館の『ランダムハウス英和大辞典』、それに各種の日本語訳聖書を参照したが、辞典ごとによる違い、プロテスタントとカトリックとの違い、ラテン語読みと英語読みの違い等があり、その選択に迷ったものは近くのプロテスタント系の教会で司牧されている方の助言を得た。またイエス語録の訳についても教えを乞うたが、いずれの場合も最終的には私なりの判断で訳した。それ故、全責任は訳者の私にある。

本書の内容に鑑みて、その牧師の氏名を公表できないのが残念であるが、快く助言を下さったことに陰ながら深く謝意を表したい。

本書は“スピリチュアリズムのバイブル”と呼ばれて今なお世界各地に熱烈な愛読者をもっている。日本にも浅野和三郎氏の抄訳がある。それを読んでぜひ全訳を読みたいと思われた方も多いことであろう。実は訳者自身その一人であった。訳者はその後、原典でその全編と続編を読み、こんどは、それを全訳したいとの希望を抱き続けてきた。それがこの度、国書刊行会から『世界心霊宝典』の一冊として上梓されることになり、この私が訳すことになった。永くスピリチュアリズムに親しんできた者としてこの事をこの上ない光栄と思い、まる一年、この翻訳に体力と知力の全てを投入してきた。

今こうして上梓するに当たり、その名誉をよろこぶ気持ちと同時に、こうした訳し方でよかっただろうかという一抹の不安と不満を禁じ得ない。もっと平易な現代語に訳すことも出来たであろう。訳者も当初それを試みてはみた。が、原典のもつあの荘重な雰囲気を出すには現代語では無理と判断し、結果的にこうした形に落着いた。この最大の要因は、この霊界通信が単なる霊的知識の伝授ではなく、霊媒のモーゼスと指導霊インペレーターとの壮絶とも言うべき知的並びに人間的葛藤の物語であり、そこに両者の個性がむき出しになっている点にある。そこにこそ本霊界通信の、他に類を見ない最大の魅力があり、その生々しさを表現するには文体を操るしかないと判断したのである。

その出来不出来は読者の批判を仰ぐこととして、訳者としては、いつの日か別のスピリチュアリストが別の形での訳を試みられることを期待しつつ、今はただ、お粗末ながらもこうした歴史に残る霊的啓示の書が日本でも出版されることになったことを素直によろこび、一人でも多くの方がこの“泉”によって魂の渇きを潤して下さることを祈るのみである。

なお、『霊訓』初版は一八八三年に刊行された。翻訳に当たっては一九四九年版を使用した。

一九八五年七月

近藤 千雄

霊訓〈完訳・下〉

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。






32節

本節の内容
*真理とは
*一般向けの真理と魂の“秘宝”としての真理
*真理は他人へ押しつけるべきものにあらず
*甲の薬は乙の毒
*真理のための真理探求こそ人間としての最高の道



〔その後のインペレーターからの通信の一例として、次のメッセージを紹介しておく。内容的には一層崇高さを増した霊訓の典型を見る思いがする。驚異的なスピードで書かれたもので、書かれたままを紹介するが、一語の訂正の必要もなかった。綴られている間の私は、強力にして崇高な影響力が全身に染みわたるのを感じていた。〕

『真 理』


イエス・キリストの祝福を。この度は二度と訪れぬかも知れぬこの機に、そなたの疑問に答え必須の真理を授けたく思う。このところそなたのもとに届けられた何通かの手紙によりて、われらが警告しておいた艱難辛苦の時代の到来がわれらのみならず、他の霊団によりても予期されていることが判るであろう(1)。備えを怠るでない。間違いなく到来する。苦悩は必要だからこそ訪れるのである。イエスもそう悟り、そう説いているであろう。魂には鍛錬が必要なのである。それなくして深き真理は理解できぬ。何人(なんぴと)といえども、悲しみの試練を経ずして栄光ある頂上へ登ることは許されぬ。真理へのカギは霊界にある。試練によりて鍛えられた真摯なる魂にあらずんば、何人といえども勝手に真理をもぎ取ることは許されぬ。

安逸と放縦の道は夏の日を夢見心地で過ごす者には楽しいかも知れぬ。それに引きかえ、克己と自己犠牲と自己修養の道はトゲと岩だらけの上り道である。が、それが悟りと力の頂上へ辿り着く道なのである。イエスの生涯をよく吟味し教訓を学び取るがよい。

さらに、今こそわれらと邪霊との烈しき闘争の時期でもある。その煽(あお)りがそなたにも感じられるであろうことを述べたことがあるが、神の摂理の大いなる発展の時期には付きものなのである。言わば夜明け前の暗黒であり、成長の前提条件として憂鬱の体験であり、真摯なる魂が浄化される試練の時期なのである。イエスはそれを、かのゲッセマネにおける苦悩の時に“今やお前たちの時、そして暗黒の時(2)”と述べた。今こそその時である。しかも容易には過ぎ去らぬであろう。辛酸をなめ尽くさねばならぬのである。

それぞれの時代に授けられた啓示は、時の流れと共に人間的誤謬が上乗せされ、勝手な空想的産物が付加される。次第に生気を失い訴える力を失う。批判の声に抗し切れず、誤謬が一つまた一つと剥ぎ取られていき、信仰の基盤が揺さぶられ、ついに大声をあげて叫ぶ――真理とは何ぞや! と。それに答えて新たな、より高き真理の誕生となる。産みの苦しみが世界を揺るがせ、その揺り籠のまわりに霊界の力が結集してこれを守る。その闘争の噴煙と轟音はまさに熾烈である。

その新たな真理の光に空が白み、雲が晴れると、高き塔より眺める霊的洞察力に富める者はいち早く新時代の到来を察知し、その夜明けを歓迎する。“喜びは暁と共に来らん(3)”“悲しみと歎きは消え行かん(4)”かくして夜の恐怖――“暗黒の力”が過ぎ去る。が、全ての者にとりてのことではない。相も変わらず光を見る目を持たず、真理の太陽が煌々と頭上に輝くまで気づかぬ者が圧倒的多数を占める。彼らは新たな真理の夜明けに気づくことなく、ただ眠り続ける。

故に、全ての人間が等しく真理を理解する時代は決して訪れぬであろう。いつの時代にも真理に対して何の魅力も感じぬ者、なまじ上り坂をいくことが危険を伴う者、古き時代より多くの者によりて踏みならされた道を好む者が数多くいるものである。暁の到来を告げる空の白みをいち早く察知する者がいる如く、そうした人種もいつの時代にもいるものである。故に、全ての者に同じ視野が開かれることを期待してはならぬ。そのような夢の如き平等性は不可能である。不可能である以上に、望ましくもない。

神秘の奥義を詮索するに足る力を授かれる者がいる一方、極力それを避けねばならぬ者もいるのである。そこで大衆を導く指導者と先達が必要となる。その任に当たる者はそれなりの準備と生涯にわたる克己の修養が要請される。それを理性によりて律し、我欲を抑え、魂が一切の捉われを棄てて自由に振舞えるようであらねばならぬ。そのことについては、とうに述べてある。心するがよい。

大方の者が真理なりと信ずることが、そなたには空(うつ)ろに、かつ気まぐれに見えるからとて、少しも案ずるに及ばぬ。そういうものなのである。真理にもさまざまな段階がある。多くの側面をもつ水晶から無数の光が発せられる。その光の一条たりとも全ての魂によって曇りなき目で受け止められるとは限らぬ。僅かな者、ごく僅かな数の者に、その無数の光の中よりはぐれた一条――もしかしてそれ以上――の光が届くに過ぎぬ。それも多くの媒介者を通して届けられる故に、ようやく届いた時はすでにその透明度が曇らされている。それは如何ともし難きことである。それ故にこそさまざまな真理の観方が生ずるのである。それ故にこそさまざまな見解、誤謬、誤解、錯誤が罷り通ることにもなるのである。真理を見たと言うも、その多くは束の間の真理を見ているに過ぎぬ。それに己の見解を付加し、敷衍(ふえん)し、発展させ、そうするうちに折角の光を消し、一条の貴重なる真理の光が歪められ破壊される。かくして真理が台無しにされて行く。咎めらるベきは真理の中継者の不完全さである。

或いはこうも観ることが出来る。一人の向上心に燃える魂の熱望に応えて授けられたものを当人は万人に等しく分け与えらるべきものと思い込む。独り占めにするには余りに美しく、余りに崇高であり、余りに聖純なるが故に、全ての人に授けるべきであると思い込む。そこで宝石が小箱より取り出され、一般に披露される。ユリの花が切り取られて人前に飾られる。とたんに純粋さが失われ、生気が半減し、萎縮し、そして枯死する。彼にとりてあれほど美しく愛らしく思えた真理が忙(せわ)しき生存競争の熱気と埃(ほこり)の中で敢えなく新鮮味を失いゆくのを見て驚く。己の隠れ処(が)においてはあれほど純にして真なるものが、世に喧伝されると見る間に精彩を失い、場違いの感じを受けることに驚異を覚える。彼がもし賢明であればこう悟る――へルモン(5)の露は魂の静寂と孤独の中でこそ純化されるものであること、花は夜の暗闇の中でこそ花弁を開き、真昼の光の中では萎(しぼ)むものであること、即ち至聖にして至純なる真理は霊感によりて魂より魂へと密かに伝達されるものであり、声高らかに世に喧伝さるべきものではない、と。

むろん真理には、あたかも切り出したばかりの磊々(らいらい)たる岩石の如き粗野なるものもある。これは言わば全ての建築者が等しく使用すべき土台石なのである。が、至純なる宝石は魂の神殿に仕舞い置き、独り静かに眺むるべきものである。故にヨハネが天界の都市の宝石を散りばめた壁と門の話(6)をした時、彼は全ての者の目に映ずるはずの真理の外形を物語ったのだった。但し、彼がこの奥の院に置いたのは至純なる真理の光ではなく、主イエス・キリストの存在と栄光のみであった。

そなたがこうした事実を悟れぬことこそ驚異と言わねばならぬ。そなたにとりて絶対的真理と思えるものも実は、そなたの求めに応じて、完全なる真理の輪を構成する粒子の一つ、ほんの一かけらが授けられたに過ぎぬ、そなたがそれを必要としたからこそ授けられたのである。そなたにとりては完璧であり、それが“神”であろう。が、別の者にとりては不可解なるものであり、魂の欲求を満たしてくれる声は聞けず、求める美を見出すことは出来ぬ。衆目に曝したければそれもよかろう。が、すぐに生気を失い、その隠された魅力も人の心を改めさせるだけの力は持たぬであろう。それはあくまでもそなたのものであり、そなた一人のものなのである。そなたの魂の希求に応じて神より授けられたる、特殊な需要に対する特殊な施しなのである。

真理なるものは常に秘宝的要素をもつ。必然的にそうなるのである。何となれば真理はそれを受け入れる用意のある魂にのみ受け入れられるものだからである。日用品として使用するにはその香気が余りに儚(はか)なすぎる。その霊妙なる芳香は魂の奥の院においてのみ発せられるものである。このことを篤と心に留めておかれたい。さらにまた、受け入れる用意の出来ておらぬ者に押しつけることは真理を粗暴に扱うことになり、そなたにとりては天啓ではあっても、そうとは思えぬ者には取り返しのつかぬ害すら及ぼしかねぬことも心されたい。

さらに忘れてならぬことは、真理のための真理探求を、人生の至上目的として生きることこそ、地上にありての最高の目標であり、いかなる地上的大望よりも尊く、人間の為し得るいかなる仕事にもまして気高きものであるということである。人間生活に充満する俗悪な野心は今は取り合わぬ。虚栄より生まれ、嫉妬の中に育まれ、ついには失望に終る人類の闘争と野心――これらは紛(まご)うかたなきソドムの林檎(7)である。然るに一方には目覚めし魂への密かなる誘惑――同胞のために善行を施し、先駆者の積み上げたケルン(8)にもう一つの石を積み上げんとする心である。彼らは己の生活を大きく変革する真理を熱誠を込めて広めんと勇み立つ。すでにその真理に夢中である。胸に炎が燃え上がり、その訓えを同胞へ説く。その説くところは気高きものかも知れぬ。そして、もし聞く者の欲求に叶えば同類の心にこだまして魂を揺るがせ、何らかの益をもたらすかも知れぬ。が、その逆となるかも知れぬ。ある者にとりて真理と思えることはその者にとりて真実であるに過ぎず、その声は荒野に呼ばわる声に過ぎず、聞く者の耳には戯言(たわごと)にしか響かぬ。彼の殊勝なる行為が無駄に終わる。それだけのエネルギーを一層の真理の探求のために温存し、人に説く前により多くを学ぶべきであった。

教えることは結構である。しかし学ぶことはさらに望ましい。また両者を両立させることも不可能ではない。ただ、学ぶことが教えることに先立つものであることを忘れてはならぬ。そして真理こそ魂が何よりも必要とするものであることを、しかと心得よ。真理を宿す神秘の園に奥深く分け入る求道者は、その真理が静かに憩う聖域を無謀に荒らすことがあってはならぬ。その美しさはつい語りたくなるであろう。己が得た心の慰安を聞く耳を持つ者に喧伝したく思うかも知れぬ。が、己の魂の深奥に神聖なる控えの間、清き静寂、人に語るには余りに純粋にして、余りに貴重なる秘密の啓示を確保しておかねばならぬ。


〔ここで大して重要ではない質問をしたのに対してこう綴られた――〕


違う。それについてはいずれ教えることになろう。われらはそなた自身の試練の一つであるものを肩代わりすることは出来ぬ。迷わずに、今歩める道を突き進むがよい。それが真理へ直接続く道である。しかし不安と苦痛の中を歩まねばならぬ。これまで導いた道は、過去の叡智を摂り入れ先駆者に学ぶ必要があると観たからである。地上とわれらの世界との交霊関係の正道を歩まんとする者は、その最も通俗的な現象面にまとわりつく愚行と欺瞞によりて痛撃を食らうであろうことは、早くより予期していた。愚行と欺瞞が横行するであろう時を覚悟して待ち、これに備えてきた。その学問には過去の神秘学と同じく二つの側面があり、またそうあらねばならぬことを教えたく思う。一つの側面を卒業した今、そなたはもう一つの側面を理解せねばならぬ。

そのためには、人間と交信せんとする霊が如何なる素性の者であるかを知らねばならぬ。それを措(お)いて今そなたを悩ませる謎を正しく読み取ることは出来ぬ。一体真理なるものが如何なる方法により如何なる条件のもとに得られるものであるか、また如何にすれば誤謬と策謀と軽薄なる行為と愚行とを避け得るかを知らねばならぬ。人間が安全な態勢でわれらの世界との関わりを持つには予(あらかじ)めこうしたことを全て理解せねばならぬ。しかも、それを学び終えた暁、あるいは学びつつある時も、その成功如何はほとんど、あるいは全て人間側に掛かっていることを忘れてはならぬ。我欲を抑え、最奥の魂を清め、不純なる心を悪疫として追い払い、目指す目的を出来得るかぎり崇高なるものとせよ。真理を万人が頭(こうべ)を垂れるべき神そのものとして崇敬せよ。いずこへ到るかを案ずることなく、ひたすらに真理の探求を人生の目標とせよ。そうすれば神の使徒が見守り、そなたは魂の奥に真理の光を見出すことであろう。

(†インペレーター)


〔注〕

(1)具体的に何のことかは述べられていないが、歴史的にみて、ほぼ30年後の第一次世界大戦、さらには、50年後の第二次大戦も含めてのことと推測される。
(2)ルカ22:53。“お前たち”とは、イエスを捕縛に来た兵士と裏切り者のユダたちを指すが、それは同時に背後の邪霊集団を意味している。
(3)詩篇30:5。
(4)イザヤ書35:10。
(5)Mount Hermon シリアとレバノンの間に位置するアンチレバノン山脈の最高峰。
(6)ヨハネ黙示録21:11~21。
(7)odom apples 外観は美しいが口に入れると灰に化すと伝えられるリンゴで、失望の種子、幻滅を意味する。
(8)記念・道標などとしてピラミッド型に積み上げた石塚。

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks
AgainEdited by S. Phillips
近藤千雄訳



十二章 苦難にこそ感謝を

 「私は霊的な目を通して眺めることができるという利点のおかげで真理のさまざまな側面が見える立場にあります。あなた方は残念ながら肉体の中に閉じ込められているという不利な条件のために、私と同じ視点から眺める事ができません」


 これは今スピリチュアリズムを熱心に勉強しはじめた初心者の夫婦を招いた時に、霊と物質という基本的なテーマについて語るにあたっての前置きである。続けてこう語る。

 「あなた方は物質をまとった存在です。身を物質の世界に置いておられます。それはそれなりに果たすべき義務があります。衣服を着なければなりません。家が無くてはなりません。食べるものが必要です。身体の手入れをしなくてはなりません。身体は、要請される仕事を果たすために必要なものをすべて確保しなければなりません。

物的身体の存在価値は基本的には霊の道具であることです。霊なくしては身体の存在はありません。そのことを知っている人が実に少ないのです。身体が存在出来るのはまず第一に霊が存在するからです。霊が引っ込めば身体は崩壊し、分解し、そして死滅します。

 このことを申し上げるのは、多くの人たちと同様に、あなた方もまだ本来の正しい視野をお持ちでないからです。ご自身のことを一時的な地上的生命を携えた霊的存在であるとは見ておられません。
℘201
身体に関わること、世間的なことを必要以上に重大視される傾向がまだあります。いかがですか。私の言っていることは間違っていますか。間違っていれば遠慮なくそうおっしゃってください。私が気を悪くすることはありませんから…」


 「いえ、おっしゃる通りだと思います。そのことを自覚し、かつ忘れずにいるということは大変難しいことです」と奥さんが答える。

 「むつかしいことであることは私もよく知っております。ですが、視野を一変させ、その身体だけでなく、住んでおられる地球、それからその地球上のすべてのものが存在できるのは霊のおかげであること、あなたも霊であり、霊であるがゆえに神の属性のすべてを宿していることに得心がいくようになれば、前途に横たわる困難のすべてを克服していくだけの霊力を授かっていることに理解がいくはずです。

生命の根元、存在の根元、永遠性の根元は霊の中にあります。自分で自分をコントロールする要領(コツ)さえ身につければ、その無限の貯蔵庫からエネルギーを引き出すことができます。

 霊は物質の限界によって牛耳られてばかりはいません。全生命の原動力であり全存在の大始源である霊は、あなたの地上生活において必要なものをすべて供給してくれます。その地上生活の目的は極めて簡単なことです。死後に待ち受ける次の生活に備えて、本来のあなたであるところの霊性を強固にするのです。

身支度を整えるのです。開発するのです。となれば、良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることがあなたの霊性の糧となるのです。

 その一つ一つが神の計画の中でそれなりの存在価値を有しているのです。いかに暗い体験も───暗く感じられるのは気に食わないからにすぎないのですが───克服できないほど強烈なものはありません。あなたに耐えられないほどの試練や危機に直面させられることはありません。

その事実を何らかの形で私とご縁のできた人に知っていただくだけでなく、実感し実践していただくことができれば、その人は神と一体となり、神の摂理と調和し、日々、時々刻々、要請されるものにきちんと対応できるはずなのです。

 ところが、残念ながら敵があります───取越苦労、心配、不安と言う大敵です。それが波長を乱し、せっかくの霊的援助を妨げるのです。霊は平静さと自信と受容力の中ではじめて伸び伸びと成長します。日々の生活に要請されるものすべてのが供給されます。物的必需品の全てが揃います」

 ここでご主人が 「この霊の道具にわれわれはどういう注意を払えばよいかを知りたいのですが・・・肝心なポイントはどこにあるのでしょうか」と尋ねる。


 「別にむつかしいことではありません。大方の人間のしていることを御覧になれば、身体の必要性にばかりこだわって精神ならびに霊の必要性に無関心すぎるという私の意見に賛成していただけると思います。身体へ向けている関心の何分の一かでも霊の方へ向けて下されば、世の中は今よりずっと住みよくなるでしょう。」


 「霊を放ったらかしにしているということでしょうか。ということは身体上のことはそうまで構わなくてよいということでしょうか。それとも、もっと総体的な努力をすべきなのでしょうか」

 「それは人によって異なる問題ですが、一般的に言って人間は肉体のことはおろそかにしていません。むしろ甘やかしすぎです。必要以上のものを与えています。あなた方が文明と呼んでいるものが不必要な用事を増やし、それに対応するためにまた新たな慣習的義務を背負い込むという愚を重ねております。

肉体にとって無くてはならぬものといえば光と空気と食べ物と運動と住居くらいのものです。衣服もそんなにあれこれと必要なものではありません。慣習上、必需品となっているだけです。

 私は決して肉体ならびにその必要条件をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。肉体は霊の大切な道具ではありませんか。肉体的本性が要求するものを無視するようにとお願いしているのではありません。私は一人でも多くの人間に正しい視野をもっていただき、自分自身の本当の姿を見つめるようになっていただきたいのです。

まだ自分というものを肉体だけの存在、あるいは、せいぜい霊を具えた肉体だと思い込んでいる人が多すぎます。本当は肉体を具えた霊的存在なのです。それとこれとでは大違いです。

 無駄な取越苦労に振り回されている人が多すぎます。私が何とかして無くしてあげたいと思って努力しているのは不必要な心配です。神は無限なる叡智と無限なる愛です。われわれの理解を超えた存在です。が、その働きは宇宙の生命活動の中に見出すことができます。

驚異に満ちたこの宇宙が、かつて一度たりともしくじりを犯したことのない神の摂理によって支配され規制され維持されているのです。その節理の働きは一度たりとも間違いを犯したことがないのです。変更になったこともありません。廃止されて別のものと置きかえられたこともありません。

今存在する自然法則はかつても存在し、これからも永遠に存在し続けます。なぜなら、完璧な構想のもとに全能の力によって生み出されたものだからです。

 宇宙のどこでもよろしい。よく観察すれば、雄大なものから極小のものに至るまでのあらゆる相が自然の法則によって生かされ、動かされ、規律正しくコントロールされていることがお分かりになります。

途方もなく巨大な星雲を見ても、極微の生命を調べても、あるいは変転きわまりない大自然のパノラマに目を向けても、さらには小鳥、樹木、花、海、山川、湖どれ一つ取ってみても、ちょうど地球が地軸を中心に回転することによって季節の巡りが生まれているように、すべての相とのつながりを考慮した法則によって統制されていることが分かります。

種子を蒔けば芽が出る───この、いつの時代にも変わらない摂理(きまり)こそ神の働きの典型です。神は絶対にしくじったことはありません。あなたがたの方から見放さないかぎり神はあなた方を見放すことはありません。

(訳者注───〝神がしくじる〟という言い方はいかにも幼稚にひびくが、われわれが不安や心配を抱き取越苦労が絶えないということは、裏返せば神の絶対的叡智に対する信仰が不足していることを意味し、これを分かりやすく表現すれば神がしくじるかも知れないと思っていることになる)

 私は、神の子すべてにそういう視野を持っていただきたいのです。そうすれば取越苦労もなくなり、恐れおののくこともなくなります。

いかなる体験も魂の成長にとっては何らかの役に立つことを知ります。その認識のもとに一つ一つの困難に立ち向かうようになり、首尾よく克服していくことでしょう。そのさ中にあってはそうは思えなくても、それが真実なのです。あなた方もいつかは私達の世界へお出でになりますが、こちらへ来れば、感謝なさるのはそういう暗い体験の方なのです。

視点が変わることによって、暗く思えた体験こそ、そのさ中にある時は有難く思えなくても、霊の成長をいちばん促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明して差し上げることはできませんが、こちらへお出でになればみずから証明なさることでしょう。

 こうしたことはあなたにとっては比較的新しい真理でしょうが、これは大へんな真理であり、また多くの側面をもっています。まだまだ学ばねばならないことが沢山あるということです。探求の歩みを止めてはいけません。歩み続けるのです。ただし霊媒の口を突いて出るものを全部鵜呑みにしてはいけません。

あなたの理性が反撥するもの、あなたの知性を侮辱するものは拒絶なさい。理に適っていると思えるもの、価値があると確信できるもののみを受け入れなさい。何でもすぐに信じる必要はありません。あなた自身の判断力にしっくりくるものだけを受け入れればいいのです

 私たちは誤りを犯す可能性のある道具を使用しているのです。交信状態が芳しくない時があります。うっかりミスを犯すことがあります。伝えたいことのすべてが伝えられないことがあります。他にもいろいろ障害があります。

霊媒の健康状態、潜在意識の中の思念、頑なに固執している観念などが伝達を妨げることもあります。その上に、私たちスピリット自身も誤りを犯す存在だということを忘れてはなりません。死によって無限の知識のすべてを手にできるようになるわけではありません。地上時代より少し先が見えるようになるだけです。

そこであなた方より多くを知った分だけをこうしてお授けしたいと思うわけです。私たちも知らないことが沢山あります。が、少しでも多く知ろうと努力を続けております。

 より開けたこちらの世界で知り得た価値ある知識をこうしてお授けするのは、代わってこんどはあなた方が、それを知らずにいる人々へ伝えていただきたいと思うからです。宇宙はそういう仕組みになっているのです。実に簡単なことなのです。私たちは自分自身のことは何も求めません。

お礼の言葉もお世辞も要りません。崇めてくださっても困ります。私たちはただの使節団、神の代理人にすぎません。自分ではその使命にふさわしいとは思えないのですが、その依頼を受けた以上お引き受けし、力の限りその遂行に努力しているところなのです」 
          
 

   
  解説 〝霊〟と〝幽霊〟 
 
 四章の 「ジョン少年との対話」 に出てくる〝霊〟と〝幽霊〟はどう違うかという質問は、シルバーバーチも〝なかなかいい質問ですよ〟と言っているように、西洋ではとかく誤解されがちな問題であるが、現下の日本の心霊事情を見てもその誤解ないしは認識不足によってとんでもない概念が広がっているので、ここでシルバーバーチの答えを敷延(ふえん)する形で解説を施しておきたい。

 誤解には二通りある。〝霊〟を〝幽霊〟と思っている場合と、〝幽霊〟を〝霊〟と思っている場合である。日本人は何かにつけてそうであるが、霊についても極めて曖昧な概念を抱いている。次に紹介する話はそれを典型的に示しているように思う。

 私も時たま墓地の清掃に行くが、同じ墓園に殆ど毎日墓参する人がいる。その人は先祖は家の根であり、根を培わずして子孫の繁栄はないという信仰から供養を欠かさないのだという話を聞かされたことがあるが、その後またいっしょになった時にその信仰をほじくってやろうというイタズラ心から 「やはり霊というのが存在していて、どこかに霊の世界というのがあるのでしょうね」と聞いてみた。すると案の定、言下にこう言い放った。

 「何をおっしゃるんです。人間この肉体が滅びたらもうおしまいですよ。私はその霊を供養しているだけですよ」

 いったいその霊とは何なのであろう。何かしら得体のしれない、実態の無いものを漠然と思い浮かべているらしいのであるが、そんなものを供養してそれが子孫の繁栄になぜ繋がるのか───そんな理屈っぽいことはみじんも考えないところが、いかにも日本人らしいのである。

 が、先日のテレビで〝心霊相談〟にのっている自称霊能者(女性)が古い先祖霊の供養に言及して「霊の中には一千年でも生きている場合がありますから」うんぬんと述べているのを聞いて私は自分の耳を疑った。どの程度の霊能があるのか知らないが、今紹介したような信心深い平凡人ならまだしも、心霊相談にのるためにテレビに出るほどの専門家(プロ)がこの程度の理解しかしていないことに私は唖然とした。

この自称霊能者にとっては相も変わらず肉体が実在であって、霊は一種の〝名残り〟のようなものとしてどこかにふわっと残っていて、やがて消滅していくものらしいのである。そして多分、大方の日本人が大体そんな風に漠然とした認識しか抱いていないのではなかろうか。

 では一体霊とは何なのか───これはシルバーバーチが繰り返し説いていることなので、ここで改めて私から説くことは控えたい。ただ一言だけ述べておきたいのは、知識を持つことと、それを実感を持って認識することとの間にはかなりの距離があるということである。霊には、実体があるのです、

と言われても、それをなるほどと実感するには、その知識を片時も忘れずに念頭において生活しながら、その実生活の中で霊的意識を高めていくほかはない。その内、ふとしたこと───大自然の驚異を見たり何でもない日常の出来ごとを体験して───あ、そうか、という悟りを得るようになる。

それが本当に分かったということであろう。シルバーバーチが単純素朴な真理を繰り返し繰り返し説くのも、そうした霊的意識の深まりを期待しているからであることを銘記していただきたい。

 次に〝幽霊〟を〝霊〟と勘違いしている場合であるが、 これはシルバーバーチの答えの通りであるが、それに付け加えて言えば、いわゆる心霊写真の大半がその類だということである。

 その説明に先だって認識しておいていただきたいのは、人間の想念というものはその人の人相と同じ形体を取る傾向があるということである。次の例からそれを理解していただきたい。

 私の家によく来ていただいている僧侶───ひじょうに霊感の鋭い方である───が仏壇の前でいつものようにお経を上げている最中に、その僧侶には珍しく途中で詰まってお経が乱れ、ややあってからどうにか普通の調子に戻ったことがあった。

 終わってからその僧が私に、今読経している最中にかくかくしかじかの人相の人が目の前に現われたと言って、その人相を説明した。さらにおっしゃるには、その霊は死者の霊ではなく、まだ生きている人だという。いわゆる生霊である。「何か怨みか嫉妬でも買う様なことをされましたか」と僧侶が私に聞いた。

 私はすぐにピンと来た。確かに思い当たる人がいて、私に嫉妬心を抱いてもやむを得ない事情があった。そのせいか、家族中でなんとなく不調を訴えることが多かったが、その僧の処置ですっかり良くなった。

 恩師の間部詮敦氏は 「念は生き物です」 というセリフをよく口にされ、したがって自分から出た念は必ず自分に戻って来るから、何時も良い念を出すように心がけなさいという論法で説教しておられた。

 私がここでそれを付け加えて言いたいのは、その念はその人の人相、時には姿恰好までそっくりの形体を取る傾向があるということである。これは謎の一つで、なぜだかは分らない。

 よく肉親や知人が枕元に立った夢を見て目を覚まし、後で分かってみると、ちょうどその人が死亡した時刻と一致したという話が語られる。この場合すぐに、その死者の霊が自分の死を知らせに来たのだとか別れを言いに来たのだと解釈され、それがいかにもドラマチックなのでそう思い込まれがちであるが、実際問題として、よほどの霊覚者でないかぎり、死んですぐに意識的に自分で姿を見せるような芸当のできる者はいない。

 これには二つのケースが考えられる。一つはその死者の背後霊が本人を装って姿を見せた場合で、これは意外に多いようである。もう一つはその死者の念が最も親和性の強い人のところへ届き、それがその人の姿かたちを取った場合で、私はこのケースがはるかに多いと見ている。

 心霊写真の中で生気が感じられないものは大半が浮遊している念が感応したか、または地上に残された幽質の殻が当人の念の働きを受けて感応したかである。もちろん実際にその場に居合わせた霊───大抵は自分でこしらえた磁場から脱け出られなくてその辺りをうろついている、いわゆる地縛霊であるが───が親和力の作用で近づいたのがたまたま霊能のある人の写真に写ったという場合もあることはあるであろう。

 反対に生気はつらつとして、まるで地上の人間と変わらないような雰囲気で写っている場合は、霊界の写真技術師の指示を受けてエクトプラズムをまとって出た場合であり、A・R・ウォーレスの 『心霊と進化と』 にはその詳しい説明が出ている。

 幽霊話に出てくるのは大抵地上に残した殻───セミの脱け殻とまったく同じと思えば、よい───が何かのはずみで動き出した場合で、不気味ではあっても少しも恐ろしいものではない。

 よく怪談ものを映画や芝居で演じる場合に奇怪な出来ごとが相次ぎ、話が話だけにいやが上にも恐怖心が煽られるが、それを、例えば四谷怪談であればお岩の亡霊がやっていると考えるのは間違いで、単なるイタズラ霊の仕業、西洋でいうポルターガイストに過ぎない。スタッフの中に霊格の高い人がいたらそういう奇怪な現象は起こらない。その人の守護霊がイタズラ霊を抑えてしまうからである。

 こうした解説を施しながら私はいつも、スピリチュアリズム的霊魂観の普及の必要性を痛感せずにはいられない。
                 一九八六年九月    近藤 千雄

Sunday, October 18, 2026

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks
AgainEdited by S. Phillips
近藤千雄訳



十一章 みんな永遠の旅の仲間

 ある日の交霊会で、開会を前にして出席者の間で〝実存主義〟についての議論が戦わされたことがあった。(訳者注───霊媒のバーバネルが入神しシルバーバーチが憑ってくると開会となるが、霊団はその前から準備しているので、シルバーバーチはその議論のようすを全部知っている)

  出現したシルバーバーチがこう述べた。
 「ただ今の議論と真理の本質に関するご意見をとても興味ぶかく拝聴いたしました」

───私たちの意見に賛成なさいますか。それとも的外れでしょうか。

 「いえ、ちゃんと的を射ておられます。みなさんには道しるべとなる知識の用意があるからです。ですが、みなさんも人間である以上各自に歩調というものがあります。進化とは絶え間ない成長過程です。成長は永遠に続くものであり、しかもみんなが同時に同じ段階に到達するとはかぎりません。各自が自分の魂の宿命を自分で成就しなければなりません。

それまでに手にした光明(悟り・理解力)と、直面する困難を媒体として、その人独自の教訓を学んでいかねばなりません。それを自分でやらねばならないのです。他人からいくら知恵の援助を受けることができても、魂の成長と開発と発達はあくまで当人が自分の力で成就しなければならない個人的問題なのです。

 真理は永遠不滅です。しかも無限の側面があります。なのに人間は自分が手にした一側面をもって真理の全体であると思い込みます。そこから誤りが始まります。全体などではありません。進化するにつれて理解力が増し、他の側面を受け入れる用意ができるのです。生命活動とは断え間なく広がり行く永遠の開発過程のことです。真理の探究は無限に続きます。

あなた方はそちらの地上において、私はこちらの世界において、真理の公道(ハイウェー)を旅する巡礼の仲間であり、他の者より少し先を歩んでいる者もいますが、究極のゴールにたどり着いた者は一人もいません。

 不完全さが減少するにつれて霊的資質が増し、当然の結果として、それまで手にすることの出来なかった高度の真理を受け入れることができるようになります。人類のすべてが一様に従うべき一個のパターンというものはありません。神の顕現が無限であるからには神の真理に近づく道にも又無限のバリエーションがあることになります。お分かりでしょうか」

 「分かります。その道にも直接的に近づく道と迂回する道とがあるのではないでしょうか」

 「その通りです。直接的なものと迂回的なものとがあります。が、それはその道を歩む本人の発達程度によって決まることです。直接的な道が歩めるようになるまでは、それが直接的な道であることが読み取れません。環境は当人の魂の本性によって条件づけられています。全生命は自然法則によって規制されています。その法則のワクを超えた条件というものは望めませんし、あなた自身そのワクの外に出ることも出来ません。

 かくして、いかなる体験も、これがあなたの住む地上であろうと私の住む霊界であろうと、ことごとく自然法則によって位置付けられていることになります。偶然にそうなっているのではありません。奇跡でもありません。あなたの進化の本質的核心の一部を構成するものです。そうでないといけないでしょう。常に原因と結果の法則によって織りなされているのです」

 「環境条件が自分の進化と無関係のものによってこしらえられることがありますか」

 「それは一体どういう意味でしょうか」

 「もしかしたら私は明日誰かの行為によって災難に遭うかも知れません」

 「そうかも知れません。が、それによって苦しい思いをするか否かはあなたの進化の程度の問題です」

 「でも、その他人がその様な行為に出なかったら私は災難に遭わずに済みます」

 「あなたは永遠の霊的規範を物的尺度で測り、魂の視点からでなく肉体の視点、言いかえれば今物質を通して顕現している精神だけの視点から眺めておられます」

 「それを災難と受け取るのも進化のある一定段階までのことだとおっしゃるのでしょうか」

 「そうです。それを災難と受け取る段階を超えて進化すれば苦しい思いをしなくなります。苦は進化と相関関係にあります。楽しみと苦しみは両極です。同じ棒の両端です。愛と憎しみも同じ力の二つの表現です。

愛する力が憎しみとなり得ますし、その逆もあり得ます。同じく、苦しいと思わせる力が楽しいと思わせることもできます。あなたの体験の〝質〟を決定づけるのはあなたの進化の〝程度〟です。ある段階以上に進化すると憎しみを抱かなくなります。

愛のみを抱くようになります。苦を感じず幸せばかりを感じるようになります。難しいことですが、しかし真実です。苦しみを何とも思わない段階まで到達すると、いかなる環境にも影響されなくなります」


 ここで別のメンバーが 「同じ環境に二人の人間を置いても、一方は愛を持って反応し、他方は憎しみを持って反応します」 と言うと、もう一人のメンバーが 「他人のために災難に遭うということもありませんか。例えばイエスは他人のために災難を受けました」と言う。するとシルバーバーチが質問の意味が分からないと述べるので、改めてこう質問した。

 「あなたは先ほど他人の行為によって自分が災難に遭うこともあり得ることを認められました。他人の苦しみを知ることによって自分が苦しむという意味での苦しみもあるのではないでしょうか。それは無視してもよいのでしょうか。そしてそれは良いことなのでしょうか」

 「少しずつ深みに入ってきましたね。でも思い切って足を踏み入れてみましょう。円熟した魂とは人生の有為転変のすべてを体験しつくした魂のことです。苦しみの淵を味わわずして魂の修練は得られません。

底まで下りずして頂上へはあがれません。それ以外に霊的修練の道はないのです。あなた自ら苦しみ、あなたみずから艱難辛苦を味わい、人生の暗黒面に属することのすべてに通じて初めて進化が得られるのです。進化とは低いものから高いものへの成長過程にほかならないからです。

 さて、苦しみとは一体なんでしょうか。苦しみとは自分自身または他人が受けた打撃または邪悪なことが原因で精神又は魂が苦痛を覚えた時の状態を言います。が、もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。

なぜなら各人が置かれる環境はその時点において関係している人々の進化の程度が生み出す結果であると得心しているからです。進化した魂は同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えますが、苦痛は覚えません」


 「そうだと思います。私もそういう意味で申し上げたのですが、用語が適切でありませんでした」

 「要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。十分な理解がいけば苦しい思いをしなくなります。また、すべきではありません」


 別のメンバー「バイブルにはイエスはわれわれのために苦しみを受けたとあります」

 「バイブルには事実でない事が沢山述べられています。いかなる人間も自分以外の者の為に代って苦しみを受けることはできません。自分の成長を管理するのは自分一人しかいない───他人の成長は管理できないというのが摂理だからです。

贖罪説は神学者が時代の要請にしたがってでっち上げた教説の一つです。自分が過ちを犯したら、その荷は自分で背負ってそれ相当の苦しみを味わわなくてはなりません。そうやって教訓を学ぶのです。もしも誰か他の者が背負ってあげることが出来るとしたら、過ちを犯した本人は何の教訓も学べないことになります。

 苦と楽、悲しみと喜び、平静さと怒り、嵐と晴天、こうしたものがみな魂の成長の糧となるのです。そうしたものを体験し教訓を学んで初めて成長するのです。その時はじめて宇宙が無限なる愛によって支配され、その愛から生み出された摂理に間違いはないとの自覚を得ることができるのです。

〝まず神の国と義を求めよ。さらばそれらのものもすべて汝のものとならん〟(マタイ6・33)というのは真実です。

その心掛けになり切れば、つまり宇宙の摂理に不動の、そして全幅の信頼を置くことができるようになれば、人生で挫折することはありません。なぜならばその信念が内部の霊力を湧き出させ、何ごとも成就させずにはおかないからです。

 その霊力を枯渇させマヒさせる最たるものは〝心配〟の念です。全幅の信頼心───盲目的な信仰ではなく知識を土台とした完全なる信念は、人生のあらゆる体験に心配も迷いも不安もなく立ち向かわせます。

神の子である以上は自分の魂にも至聖所があり、そこに憩うことを忘れないかぎり、自分を焼き尽くす火も吹き倒す嵐も絶対にないとの確信があるからです」


 「すばらしいことです」

 「本当にそうなのです。本当にそうなのです。物質に包まれた人間にはその理解はとても困難です。魂そのものは知っていても、その物質による束縛がどうしても押し破れないのです。しかし、それを押し破っていくところに進化があるのです。

人生問題を霊の目で眺めれば、その一つ一つに落着くべき場がちゃんと用意されているのです。地上的な目で眺めるから混乱と困難と誤解が生じるのです。そこで私たちの出番が必要となります。すなわち霊的真理の光をお見せするのです。

 ナザレのイエスが〝神の御国は汝自身の中にある〟と述べたのは寓話ではなく真実を述べたのです。神は全生命の中心です。宇宙は神が内在するがゆえに存在しているのです。地上のあらゆる存在物も神が内在するからこそ存在しているのです。あなた方もミニチュアの神なのです。

あなた方の心掛け次第でその内部の力が成長し、発展し、開花するのです。その成長の度合を決定づけるのはあなた方自身です。他の誰も代わってあげることはできません。それが地上生活の目的なのです。

 自分も神であることを自覚なさることです。そうすれば神の御国(摂理)は他ならぬ自分の魂の中にあることを悟られるはずです。それは絶対に裏切ることがありません。無限の補給源である神の摂理に調和した生き方をしているかぎり、何一つ不自由な思いも空腹も渇きも感じなくなります。といって必要以上のものはいただけません。

魂の成長の度合にふさわしいだけのものが与えられ、それより多くも、それより少なくも、それより程度の高いものも低いものも受けません。それ以外にありようがないのです」



シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks
AgainEdited by S. Phillips
近藤千雄訳



十章 あらためて基本的真理を

 シルバーバーチが霊媒を招待した時はいつも温かい歓迎の言葉で迎えるが、古くからの馴染の霊媒であればその態度はいっそう顕著となる。これから紹介する女性霊媒とご主人はハンネン・スワッハー・ホームサークルの結成当初からのメンバーで、最近は永らく自宅で独自の交霊会を催しておられ、今回は久しぶりの出席である。

 夏休みあとの最初の交霊会となったこの日もシルバーバーチによる神への祈願によって開始され、続いて全員にいつもと同じ挨拶の言葉を述べた。

 「本日もまた皆さんの集まりに参加し、霊界からの私のメッセージをお届けすることができることをうれしく思います。

 僅の間とはいえ、こうして私たちが好意を抱きかつ私たちに好意を寄せてくださる方々との交わりを持つことは、私たちにとって大きな喜びの源泉です。こうした機会に自然の法則にしたがってお互いが通じ合い、お互いの道において必要なものを、よろこびと感謝のうちに学び合いましょう。

 もとより私は交霊会という地上世界と霊界との磁気的接触の場のもつ希少価値はよく理解しており、私が主宰するこの会の連絡網の一本たりとも失いたくない気持ちですが、次のことは一般論としてもまた私個人にとっても真実ですので、明確に述べておきます。
℘175
それは、私はしつこい説教によって説き伏せる立場にはないと考えていることです。面白味のない霊的内容の教えを長い説教調で述べることは私の望むところではありません。

 そのやり方ではいかなる目的も成就されません。私が望むやり方、この交霊会で私がせめてものお役に立つことができるのは、ここに集われたすべての方に───例外的な人は一人もいません───ともすると俗世的な煩わしさの中で見失いがちな基本的真理を改めて思い起こさせてあげることです。

物的生活に欠かせない必然性から問題が生じ、その解決に迫られたとき、言いかえれば日常生活の物的必需品を手に入れることに全エネルギーを注ぎ込まねばならないときに、本来の自分とは何か、自分はいったい何者なのか、なぜ地上に生活しているかといったことを忘れずにいることは困難なことです。


 そこで私のような古い先輩───すでに地上生活を体験し、俗世的な有為転変に通じ、しかもあなた方一人一人の前途に例外なく待ち受けている別の次元の生活にも通じている者が、その物的身体が朽ち果てたのちにも存在し続ける霊的本性へ関心を向けさせていただいているのです。それが基本だからです。

あなた方は霊的な目的のためにこの地上に置かれた霊的存在なのです。そのあなた方を悩まし片時も心から離れない悩みごと、大事に思えてならない困った事態も、やがては消えていく泡沫(うたかた)のようなものに過ぎません。
℘176
 といって、地上の人間としての責務を疎かにしてよろしいと言っているのではありません。その物的身体が要求するものを無視しなさいと言っているのではありません。大切なのは正しい平衝感覚、正しい視点を持つこと、そして俗世的な悩みや心配ごとや煩わしさに呑み込まれてしまって自分が神の一部であること、ミニチュアの形ながら神の属性の全てを内蔵している事実を忘れないようにすることです。

そのことを忘れず、その考えを日常生活に生かすことさえできれば、あなた方を悩ませていることがそれなりに意義を持ち、物的、精神的、霊的に必要なものをそこから摂取していくコツを身につけ、一方に気を取られて他方を忘れるということはなくなるはずです。

 こう言うと多分〝あなたにとってはそれで結構でしょう。所詮あなたは霊の世界の人間です。家賃を払う必要もない、食料の買い出しに行く必要もない、衣服を買いに行かなくてもよい。そういうことに心を煩わせることがないのですから〟とおっしゃる方がいるかもしれません。たしかにおっしゃる通りです。

しかし同時に私は、もしもあなた方がそうしたことに気を取られて霊的なことを忘れ、霊の世界への備えをするチャンスを無駄にして、身につけるべきものも身につけずにこちらへ来られた時に果たしてどういう思いをなさるか、それも分かっているのです。こんな話はもう沢山ですか?」

℘177
 「とんでもございません。いちいちおっしゃる通りです」とその女性霊媒が答えると、

 「私の言っていることが間違いでないことは私自身にも確信があります。地上の全ての人にそれを確信させてあげれば視野が広がり、あらゆる困難に打ち克つだけの力が自分の内部に存在することを悟って取越苦労をしなくなり、価値ある住民となることでしょうが、なかなかその辺が分かって頂けないのです。

霊の宝は神の子一人一人の意識の内部に隠されているのです。しかし、そうした貴重な宝の存在に気づく人が何と少ないことでしょう。あなたはどう思われますか」と言って、今度はご主人の方へ顔を向けた。


 「まったく同感です。ただ、そのことをいつも忘れないでいることが出来ない自分を情けなく思っています」と御主人が答えると、
 
 「それが容易でないことは私も認めます。しかし、もしも人生に理想とすべきもの、気持ちを駆り立てるもの、
℘178
魂を鼓舞するものがなかったら、もしも目指すべき頂上が無かったら、もしも自分の最善のものを注ぎ込みたくなるものが前途に無かったら、人生はまったく意味が無くなります。もしもそうしたものが無いとしたら、人間は土中の中でたくる虫ケラと大差ないことになります」


 「本当に良い訓えを頂きました」

 「そう思っていただけますか。私には、してあげたくてもしてあげられないことが沢山あるのです。みなさんの日常生活での出来事にいちいち干渉できないのです。

原因と結果の法則の働きをコントロールすることはできないのです。また、あなた方地上の人間は大切だと考え私は下らぬこととみなしている事柄が心に重くのしかかっていることがありますが、その窮状を聞かされても私はそれに同情するわけにはいかないのです。

 私にできることは永遠不変の原理をお教えすることだけです。物質の世界がすみずみまで理解され開拓され説明しつくされても、宇宙にはいかなる人間にも完全に知りつくすことのできない神の自然法則が存在します。それは構想においても適応性においても無限です。
℘179
もしも日常生活に置いて決断を迫られた際に、あなた方のすべてが自分が霊的存在であること、大切なのは物的な出来事ではなく───それはそれなりに存在価値はあるにしても───そのウラ側に秘められた霊的な意味、あなたの本性、永遠の本性にとっていかなる意味があるかということです。

 物的存在物はいつかは朽ち果て、地球を構成するチリの中に吸収されてしまいます。と言うことは物的野心、欲望、富の蓄積は何の意味もないということです。一方あなたという存在は死後も霊的存在として存続します。あなたにとっての本当の富はその本性の中に蓄積されたものであり、あなたの価値はそれ以上のものでもなく、それ以下のものでもありません。

そのことこそ地上生活において学ぶべき教訓であり、そのことを学んだ人は真の自分を見出したという意味において賢明なる人間であり、自分を見出したということは神を見出したということになりましょう。

 地上生活を見ておりますと、あれやこれやと大事なことがあって休む間もなくあくせくと走りまわり、血迷い、ヤケになりながら、その一ばん大切なことを忘れ、怠っている人が大勢います。私たちの説く教訓の中でもそのことが一ばん大切ではないでしょうか。

それが、いったん霊の世界へ行った者が再び地上へ戻って来る、その背後に秘められた意味ではないでしょうか。
℘180
それを悟ることによって生きる喜び───神の子として当然味わうべき生き甲斐を見出してもらいたいという願いがあるのです。

 それは、いわゆる宗教あるいは教会、教義、信条の類い、これまで人類を分裂させ戦争と混沌と騒乱を生んできたものより大切です。少しも難しいことではありません。自分という存在の本性についての単純きわまる真理なのです。なのに、それを正しく捉えている人はほんの僅かな人だけで、大方の人間はそれを知らずにおります」


 再び霊媒である奥さんが、自分の支配霊も心霊治療を行うことがあると述べ、遠隔治療によって本人の知らないうちに治してあげていることもある事実を取り上げて、こう尋ねた。

 「そういう場合はなぜ治ったかを本人に教えてあげるべきだと思うのです。つまりそれを契機として、自分が神の子であることを知るべきだと考えるのですが、私の考えは正しいでしょうか、それとも多くを望みすぎでしょうか」

 「理屈の上では正しいことです。が、とりあえずあなたの治療行為が成功したことに満足し、そのことを感謝し、同時にその結果としてその人の魂を目覚めさせてあげるところまで行かなかったことを残念に思うに留めておきましょう。
℘181
大切なのは、まず病気を治してあげることです。その上に魂まで目覚めさせてあげることはなお一層大切なことです。が、一方は成就できても他方は成就出来ない条件のもとでは、その一方だけでも成就して、あとは〝時〟が解決してくれるのを待ちましょう。魂にその準備が出来るまでは、それ以上のものは望めないからです。

 肉体は治った。続いて魂の方を、ということになるべきところですが、そこから進化という要素が絡んできます。魂がそれを受け入れる段階まで進化していなければ無駄です。しかし、たとえ全面的に受け入れてもらえなくても、何の努力もせずにいるよりは何とか努力してみる方が大切です。それは私たちすべてが取るべき態度です。

ともかくも手を差しのべてあげるのです。受け入れてくれるかどうかは別問題として、ともかく手をさしのべてあげることです。努力のすべてが報われることを期待してはなりません。

 病気が治り魂も目覚める、つまり治療の本来の意義が理解してもらえるのが最も望ましいことです。次に、たとえ魂にまで手が届かなくても、病気だけでも治してあげるという段階もあります。さらにもう一つの段階は、たとえ治らなくても治療行為だけは施してあげるという場合です。
℘182
 要請された以上はそう努力しなければなりません。が、たとえ要請されなくても施すべき場合があります。受けるよりは施す方が幸いです。施した時点を持ってあなたの責任は終わります。そして、その時点からそれを受けた人の責任が始まります。


 「人間は自分の前生を思い出してそれと断定できるものでしょうか」

 「もしその人が潜在意識の奥深くまで探りを入れることが出来れば、それは可能です。ですが、はたして地上の人間でその深層まで到達できる人がいるかどうか、きわめて疑問です。その次元の意識は通常意識の次元からは遥かにかけ離れていますから、そこまで探りを入れるには大変な霊力が必要です」


 「そうした記憶は現世を生きている間は脇へ置いておかれるとおっしゃたことがあるように思いますが」

 「それなりの手段を講ずることが出来るようになれば、自分の個性のすべての側面を知ることができます。
℘183
しかし、あなたの現在の進化の段階においては、はたして今この地上においてそれが可能かとなると、きわめて疑問に思えます。つまり理屈ではできると言えても、あなたが今までに到達された進化の段階においては、それは不可能だと思います」

  
 「神は特別な場合に備えて特殊な力を授けるということをなさるのでしょうか」 と、かつてのメソジスト派の牧師が尋ねた。

 「時にはそういうこともなさいます。その人物の力量次第です。最も、神が直接干渉なさるのではありません」

 「神学には〝先行恩寵〟という教義があります」 (苦を和らげるために前もって神が人の心に働きかけて悔悟に導くという行為のこと───訳者)

 「ありますね。神は毛を刈り取られた羊への風を和らげてあげるという信仰です(※)時にはそういうこともあることは事実です。が、神といえども本人の受け入れ能力以上のものを授けることはできません。
℘184
それは各個の魂の進化の問題です。私がそういう法則をこしらえたわけではありません。法則がそうなっていることを私が知ったということです。

 みなさんもいつかは死ななくてはなりません。霊の世界へ生まれるために死ななくてはなりません。地上の人にとってはそれが悲しみの原因になる人がいますが、霊の世界の大勢の者にとってそれは祝うべき慶事なのです。要は視点の違いです。 私たちは永遠の霊的観点から眺め、あなた方は地上的な束の間の観点から眺めておられます」

(※ 英国の小説家ロレンス・スターンの小説の中の一節で、弱き者への神の情けを表現する時によく引用される───訳者)


 ここでサークルの二人のメンバーが身内や知人の死に遭遇すると無常感を禁じ得ないことを口にすると、シルバーバーチはこう述べた。

 「霊に秘められた才覚のすべてが開発されれば、そういう無常感は覚えなくなります。が、これは民族並びに個人の進化に関わる問題です。私にはそのすべての原理を明らかにすることはできません。私とて、すべてを知っているわけではないからです。あなた方より少しばかり多くのことを知っているだけです。

そしてその少しばかりをお教えすることで満足しております。知識の総計と較べれば微々たるものです。が、私は神の摂理が地上とは別個の世界においてどう適用されているかをこの目で見て来ております。
℘185
数多くの、そしてさまざまな環境条件のもとでの神の摂理の働きを見ております。そして私がこれまで生きてきた三千年の間に知り得たかぎりにおいて言えば、神の摂理は知れば知るほどその完璧さに驚かされ、その摂理が完全なる愛から生まれ、完全なる愛によって管理され維持されていることを、ますます思い知らされるばかりなのです。

 私も摂理のすみずみまで見届けることはできません。まだまだすべてを理解できる段階まで進化していないからです。理解出来るのはほんの僅かです。しかし、私に明かされたその僅かな一部だけでも、神の摂理が完全なる愛によって計画され運営されていることを得心するには十分です。

私は自分にこう言い聞かせているのです───今の自分に理解できない部分もきっと同じ完全なる愛によって管理されているに相違ない。もしそうでなかったら宇宙の存在は無意味となり不合理な存在となってしまう。

もしこれまで自分が見てきたものが完全なる愛の証であるならば、もしこれまでに自分が理解してきたものが完全なる愛の証であるならば、まだ見ていないもの、あるいはまだ理解できずにいるものも又、完全なる愛の証であるに違いない、と。

 ですから、もしも私の推理に何らかの間違いを見出されたならば、どうぞ遠慮なく指摘していただいて結構です。私はよろこんでそれに耳を傾けるつもりです。私だっていつどこで間違いを犯しているか分からないという反省が常にあるのです。無限なる宇宙のほんの僅かな側面しか見ていないこの私に絶対的な断言がどうしてできましょう。

ましてや地上の言語を超越した側面の説明は皆目できません。こればかりは克服しようにも克服できない、宿命的な障壁です。そこで私は、基本的な真理から出発してまずそれを土台とし、それでは手の届かないことに関しては、それまでに手にした確実な知識に基づいた信仰をおもちなさい、と申し上げるのです。

 基本的真理にしがみつくのです。迷いの念の侵入を許してはなりません。これだけは間違いないと確信するものにしがみつき、謎だらけに思えてきた時は、ムキにならずに神の安らぎと力とが宿る魂の奥の間に引き込もることです。そこに漂う静寂と沈黙の中にその時のあなたにとって必要なものを見出されることでしょう。

 常に上を見上げるのです。うつ向いてはなりません。うなだれる必要はどこにもありません。あなたの歩む道に生じることの一つ一つがあなたという存在を構成していくタテ糸でありヨコ糸なのです。これまでにあなたの本性の中に織り込まれたものはすべて神の用意された図案(パターン)にしたがって織られていることを確信なさることです。

 さて本日もここから去るに当たって私から皆さんへの愛を置いてまいります。私はいつも私からの愛を顕現しようと努力しております。お役に立つことならばどんなことでも厭わないことはお分かりいただけてると思います。

しかし、楽しく笑い冗談を言い合っている時でも、ここにこうして集い合った背後の目的をゆめゆめ忘れないようにいたしましょう。神は何を目的としてわれわれを創造なさったのかを忘れないようにいたしましょう。

その神との厳粛なつながりを汚すようなことだけは絶対にしないように心がけましょう。こうした心がけが、神の御心に適った生き方をする者にかならず与えられる祝福、神の祝福を受けとめるに足る資格を培ってくれるからです」

(訳者注───本章は一見なんでもないことを述べているようで、その奥に宇宙の厳粛な相(すがた)を秘めたことを何の衒(てらい)もなく述べた、シルバーバーチ霊言集の圧巻であるように思う。特に〝私は自分にこう言い聞かせているのです〟で始まる後半の部分は熟読玩味に値する名言で、その中にシルバーバーチの霊格の高さ、高級霊としての証が凝縮されているように思う。

霊格の高さを知る手掛かりの一つは謙虚であるということである。宇宙の途方もない大きさと己れの小ささ、神の摂理の厳粛さと愛を真に悟った者はおのずと大きなことは言えなくなるはずである。

 反対に少しばかり噛(かじ)った者ほど大言壮語する。奥深い厳粛なものに触れていないからこそ大きな口が利けるのであろう。それは今も昔も変わらぬ世の常であるが、霊的なことが当然のこととして受け入れられるようになるこれからの世の中にあっては、人を迷わせる無責任きわまる説が大手を振ってのさばることが予想される。そうしたものに惑わされないためにはどうすべきか。

 それはシルバーバーチが本章で述べている通り、基本的真理にしがみつくことである。われわれ人間は今この時点においてすでに霊であること、地上生活は次の段階の生活に備えて霊的資質を身につけることに目的があること、人生体験には何一つ無駄なものはないこと、ただそれだけのことを念頭において地道に生きることである。

 本章を訳しながら私はシルバーバーチの霊訓の価値を改めて認識させられる思いがしてうれしかった)

Saturday, October 17, 2026

霊訓〈完訳・下〉

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。






31節

本節の内容
*著者の友人の自殺の波紋 *自殺霊の運命
*利己的人生の破滅性   *悔恨が向上の第一歩
*天使の救い *浄化の炎 *己の罪は己が償う
*人生は“旅”、そのよろこびは“向上進化”
*生活の三つの側面(自己反省と祈り、神への崇敬と讃仰、三種の敵との葛藤)


『生と死――進歩と堕落』


〔一八七六年四月二十八日。本節で紹介する通信は通信霊の身元が強力な証拠によって確認されたケースに関するものである。数多い同類のケースの中でもこれが一段と際立っており、こうしたケースがとかく騙され易く、かつその可能性が十分あり得る点を考慮しても、果たしてこれほど一貫した完璧な一連の証拠が単なる詐称や自己欺瞞といった説で説明がつくであろうかと考えると、まずそれは不可能であるとしか言いようがない。通信は私が生涯親しくしていた友人の気の毒な死に関するものである。ある時ハドソン氏(1)邸での交霊会でその友人の映像が写真に出て、その後ずっと私の身辺にいるのを霊視し、かつ感じ取ってもいた。その写真を撮った時、私は入神していた。撮り終わってから別の霊がその霊の名前を教えてくれて、その像の乾板上の位置まで指摘してくれたが、現像してみるとその通りに写っており、映像は良くなかったが、その会に出席する前から脳裏をかすめていた友人の面影が容易に見て取れた。実はこのケースにはもう一つ特徴的な要素が付随しているのであるが、残念ながら内容上それは公表できない。とにかく映像的にも性格的特徴の点においても、その友人であるとの確認が得られたと述べるに留めさせて頂く。

この写真に関して最初に得た通信は、心霊写真の製造方法についてのものであった。それによると、一人の霊が私の周りで活撥に動いて、複数の霊界の技術者に指示を与えていたという。像の周りの例の被(おお)いのようなものは時間とエネルギーを節約するための処置だということで、頭部は完全に形を整えていたが、他の部分は言わば“スケッチ”ほどのものだという。そうした部分的物質化という機械的な仕事にも、それなりの勉強を積んだ大勢の技術者が携わるという。一人の心霊写真霊媒が撮る写真の映像が全体的にどれも似た傾向があるのはそのためだという。

インペレーターとしては二度と物理的心霊現象には関わりたくなかったし、協力するのはどうしても協力せざるを得ぬ時のみに限って来たので、この度のこともインペレーターの意向にそったものではないとの説明があった。

その友人の霊は生前ずっと私の仲間であり、当日その交霊会に出たのには特殊な理由があった。従って彼の方が他の誰よりも写真に出るのが容易であった。もっとも私は二人の友人を伴い、その二人のための証拠を得ることが目的だったのであって、私個人のためではなかった。

そういうわけで、その友人はM霊の世話でその会に出席し、M霊が技術者を指揮して顔を整え、被(おお)いをスケッチしたというのである。面影は霊質の素材で拵え、実際にポーズを取り、それから撮影した。

こうした通信のあとインペレーターが次のように述べた。〕


これよりそなたの友人のことについて述べる。が、その前に一言申しておくが、われらはそなたが再び物理的現象に関わるのを防がんとして出来得るかぎりのことをした。ようやく落ち着いて来た正常なエネルギーが再びその方面へ駆り立てられるのを望まなかったからである。そこでわれらは、そなたがその気持にさせられる環境に置かれるのを阻止せんとした。以前にも説明したが、われらはそなたがいつまでも物理的段階に留まっているのを不可として交霊会を中止した。友人がそなたに付きまとうのも好ましからぬことと観ていた。彼は霊性が低い。故になるべくなら彼のことを構わずにいて欲しかった。が、一旦こうして関わった以上は、彼を向上の道へ向けて手助けしてやらねばならぬ。M霊はそなたが○○との交際と会話を通じてその友人へ強く思いを寄せたことで、彼の境涯へ引きつけられたと説明していたが、その通りである。霊と霊との間の親和力の法則である。そなたも知っていよう。


――知ってます。ですが親和力は必ずしも法則どおりに働いていないし、むしろ、その通りの結果が現実に見られるのは稀なように見受けられます。で、彼は今幸せではないのですか。


彼がどうして幸せで有り得よう。神が進歩と発展を願いてその魂を宿した聖なる神殿(2)に向かいて冒とく行為(3)を働いたのである。霊的成長の機会を無駄にし、己自身であるところの神の火花の宿る聖殿を思いのかぎり破壊した。そして今、魂に何の用意も出来ておらぬ見知らぬ土地へ、道連れもなしに一人で旅立ったのである。父なる神の前から逃亡したも同然である。その彼がどうして幸せであり得よう。死しては不敬にして不遜、かつ強情であり、生きては無分別にして怠惰、かつ利己的であり、更には寿命を全うせずして他界することによりて、地上的縁故の人々に苦痛と悲しみをもたらした。その彼にどうして心の安らぎが見出せよう。無益に過ごせる生活がその代償を求める。長年にわたりて培われた利己性が今なお彼を支配し、心の落着きを見出せぬようにする。生活そのものが利己的であり、地上で目指せるものが利己的であり、今なお自己中心にしか考えぬ。哀れにして分別を欠き、未熟であり、さような者には、悔恨の情が目覚め精神的再生に至るまで、心の安らぎは得られぬ。今彼はまさしく“宿無し”の身である。


――向上の望みはあるのでしょうか。


有る。望みはある。すでに魂の奥に罪の意識が目覚めつつある。霊的暗闇を通して、朧気ながら地上時代の愚かさと邪悪性が見えつつある。幽(かす)かながらも、己の置かれた荒廃せる状態についての知識に目覚め、光を求め始めている。そなたの近くに留まっているのはそのためである。そなたは犠牲を払ってでも彼を救ってやらねばならぬ。


――それは喜んで……ですが、どういう具合に?


まず祈ってあげることである。祈りの力によりて高き世界の曙を招来してあげることである。不幸なる魂に働くことの楽しき雰囲気を味わわせてあげることである。彼の魂は、聖純にして爽快なる雰囲気が如何なるものであるかを知らぬ。そなたにとりては彼の存在は不快かも知れぬが、そなたがそれを教えてやらねばならぬ。そもそもそなたが彼を呼び寄せたのである。そして彼はそなたの誘いに素直に従っている。彼の存在は我慢せねばならぬ。われらの警告と願いを無視してやったことであり、最早や取り返しはつかぬ。せめてもの慰めは、かくすることによりてそなたも神の聖なる仕事に携われるということである。


――私が呼び寄せたと言うのはどうかと思います。でも、私は何でも致します。彼は精神に異常を来していたのであり、責任を問うわけには行かないと思います。


責任は問われるべきであったし、今なお問われて然るべきである。彼自身も今そのことに気づき始めている。彼が自らを殺(あや)めた最後の罪業(4)の種子は怠惰な無為の生活の中にすでに蒔かれていた。彼は病的とも言うべき内向的性癖を培い助長していた。自己のみを考察した。それも進歩や発展のためではなく、欠点を反省し、徳を培うためでもなく、利己的排他性の中で行なった。いわば歪められた利己主義の暗闇に包まれていた。それが彼に病をもたらし、挙句には霊界の誘惑者の餌食となり、破滅へと追いやられた。霊界より鵜の目鷹の目で見張る邪霊に身を曝してしまった。その意味において彼はそなたの言う如く狂っていた。が、その狂気の行為も彼のそれまでの所業の結果に他ならぬ。しかも、彼は今その死によって心に傷を負わせた縁故者に同じ邪悪な影響を及ぼしている。己自身への災禍(わざわい)が今や他の愛する人々ヘの災禍となっているのである。


――本当に恐ろしいことです! 天罰の厳しさを見せつけられる思いです。怠惰で利己的な人生がいかに霊的な病を生むかがよく判ります。利己的な罪悪の根源であるように思えます。


利己主義は魂の病巣であり、そなたが想像する以上に多くの魂がこれに蝕まれている。まさしく魂を麻痺させるものである。その上さらにその利己主義が内向的となれば、いよいよもって致命的となる。利己主義にも極めて毒性の少ないものがある。つまり活動性によってその毒性が中和され、場合によっては善性につながる行為の原動力となることすらある。たとえば他人から褒められたいとの欲求から善行に励む利己主義もある。やかましく言われまい、面倒を起こすまいとの配慮から善行に励み、それで満足する程度の利己主義もある。あくまで余計な気遣いを避けんが為にいかなる指図にも従う。いずれも魂の進歩にとりては障害となるものであり、褒められるべきものではないが、魂を蝕み、破滅と死へ追いやる悪疫とは言えぬ。

彼の場合はいかなる善行も、いかなる活動も伴わぬ卑劣なる利己主義であった。怠惰にして無益、自己満足以外の何ものでもなかった。否、自己満足以上でさえあった。何となれば全生涯が病的な自己詮索によって曇らされ、汚され、その輪郭が侵蝕されていたからである。この種の利己主義は己にとりても縁ある人々にとりても残酷なる影響を及ぼす。罪にも段階がある。彼の罪はとりわけ深かった。これは彼の話であるが、他人事(ひとごと)としてでなく、そなた自身のこととして聞くがよい。が、暫し休むがよい。その間にわれらがそなたの心より邪気を取り除いておこう。


〔私は大いに動揺した。が、やがて入神に似た深い眠りに落ち、その間に、ある心和(なご)む光景を見せられ、目を覚ますとすっかり気分が爽快になっていた。〕


いま彼の無益なる人生を事細かく詮索する必要はあるまい。魂が異常なる利己主義によって蝕まれ、その終末は自我意識の破壊であった。そなたのいう意味では確かに狂っていった。が、その狂える精神が支配するかぎり自殺の手を押し止めることは何者にも出来得なかった。平衡感覚を失い、取り巻く誘惑霊の餌食となっていったのである。

が、そなたの罪の評価は幼稚である。あの状態を誘発したのは彼自身なのである。魂そのものが己を敵に売り渡し、破壊するに任せたのである。彼の場合は遺伝的精神病が正しき判断と行為を狂わせたのとは異なる。自殺は利己的怠惰の所産に他ならぬ。理性の力を奪い、自殺という罪へ追いやったのは誘惑の魔手であった。その誘惑は人によりては別の形を取ることもある。が、自己破滅にせよ他人への危害にせよ、その他いかなる形の自己満足にせよ、その根源は同一である。

授かれる才能の使用を怠り、行為の生活を欠き、病と苦痛を自ら想像してそれに没入し、病的快感を覚えるが如き魂は間違いなく病を得る。存在の原理は働くことにある――神のため、同胞のため、そして自己のためにである。一人のためでなく全ての人のためにである。その摂理を犯す時、必ず悪が生ずる。停滞する生活は腐敗し、周囲への腐敗をもたらす。邪悪にして有毒である。同胞の精神をも骨抜きにし、悪徳の中枢たる堕落の素地を築く。悪がいかなる形態を取るかは問題ではない。根源は同じなのである。彼の場合は個人的危害の形をとり、無益なる生涯をご破算にした。悲しみと恥辱の中での終焉であり、縁ある人々の心をも傷つけることになった。

生命の糸(5)が切れた時、彼は暗黒と苦痛の中に自分を見出した。生命の糸が切れても当分肉体から離れることが出来なかった。自ら殺めた魂の宮が墓地へ葬られた後も、そのまわりを漂っていた。無意識のまま、自ら動く力もなく、衰弱し、傷つき、困惑していた。落着く場がない。招かれざる世界には歓迎される場はないのである。一面暗闇に包まれ、その暗闇の中に、彼と同様自ら破滅を招き、寄るべなき孤独の中に閉じ込められし同類の霊が次々と薄ぼんやりとした姿を見せる。彼らが近づくと、半醒半夢の彼の不快さが一段と強化されていく。

その悲劇――本人は悲劇であることを半分も自覚しておらぬが――それを少しでも和らげ魂を癒すための手段が講じられることになったのは、良心の苛責の初めての身震いが天使に届いた時であった。暗闇の中で良心が目を覚ました時、天使はすぐさま近づいてその麻痺せる良心の回復を加速せしめ、悔恨の情を目覚めさせるべく手段を講じた。見た目には残酷に映るかも知れぬが、天使は敢えて彼の置かれた惨めな状態に気づかしめ、その罪の深さを映像として眼前に写し出す手段に出たのである。悔恨の門をくぐり抜けずして、魂の安住の地へは辿り着けぬ。故に苦痛という犠牲を払ってでも良心の回復を加速せねばならぬ。

その努力も暫し効を奏さなかった。が、徐々にではあるが、ある程度まで罪の意識を目覚めさせることに成功し、彼は今や嫌悪さえ覚えるに至ったその悲劇より抜け出る道を手探りで求め始めた。が、しばしば元へ引き戻されたりもした。誘惑霊が周りを取り囲んでそうするのである。が、そうした経緯の中にも彼の罪に対する当然の報いが容赦なく計算されていたのである。霊たちはそれとは気づかぬ。彼らはただその低劣きわまる本能の赴くままに動いているに過ぎぬ。が、その実、彼らも因果律の行使者なのである。

彼が救出される道はただ一つ、何らかの善行への欲求が芽生え、その行為を通じて自らの救済に勤しむことである。そこに辿り着くまでには悔恨と不愉快な労苦の道を旅せねばならぬ。それを措いて他に魂の清められる道はない。利己主義は自己犠牲によりて拭わねばならぬ。怠惰は労苦によりて根絶せねばならぬ。彼の魂は苦難によりて清められねばならぬ。それが向上進歩の唯一の道である。その道は過去の誤れる生活によりて歩行困難、否、ほぼ不可能にされている。が、努力によりてたとえ一歩でも進まねばならぬ。しばしば転倒することであろう。後戻りすることもあろう。が、それによりて、これでもか、これでもかと徹底的に忍耐力を試されるのである。一歩一歩と、悲しみと悔恨と恥辱の中に、時には意気消沈し、時には絶望の底から叫びつつも、その道を歩まねばならぬ。しかも、回りを取り巻く誘惑――向上せんとする魂を挫折させんとする邪霊の囁きと闘いつつ歩まねばならぬ。言うなれば“火の洗礼”を受けつつ進まねばならぬ。これを罰というのである。それが、他のいかなる手段によりても得られぬ、天国への唯一の道なのである。

むろん天使の援助の手は片時たりとも控えられることはない。向上せんとする霊を援助し、挫折しかける霊を元気づけることが、彼らにとりて光栄ある使命なのである。とは言え、たとえ慰めることは出来ても、当人の痛み一つたりとも代わりに贖(あがな)うことは出来ぬ。背反の天罰を一分(ぶ)たりとも和らげてやるわけには参らぬ。代償として支払うべき余徳などもない。友人といえども重荷を肩代わりすることは出来ぬし、疲れ果てたる肩よりそれを下ろしてやるわけにも行かぬ。衰え行く精力を補い扶助するための補助的援助は与えられても、その重荷はあくまでも罪を犯せる本人が背負わねばならぬ。

これは、無為に過ごせる人生の避け難き天罰である。これによりて半ば消えかかれる火花が再び点火され、魂を導く灯として大きく燃え上がることになるかも知れぬ。あるいはそうした天使の声に耳を貸さず、相も変わらず暗闇と孤独の中をさ迷い、奮い立つ気力も持たず、繰り返される煉獄の苦痛に苛(さいな)まれることによりてのみ、魂の毒々しさが浄化されることになるかも知れぬ。そうした罪障消滅に費される期間(とき)は、永遠の如く感じられるかも知れぬ。あるいは状況が固定化する以前に魂が目覚め奮い立つこともある。そうして必死の努力によりて光明へと近づき、自ら進んで浄化のための苦難を求め、残れる気力を以って地上の悪癖をかなぐり捨て、新たな生命に目覚めることになるかも知れぬ。

それは有り得ることではある。が、そう滅多にあるものではない。性癖はそう簡単に変えられるものではない。浄化の炎も、そう易々と燃え立つものでもない。利己主義、あるいは不徳の中に死を迎えたる者は往々にして死後もなお利己的であり、不道徳であり、死後の環境が地上生活の証でしかない。幽(かす)かながらも向上心の芽生えた彼に援助の力の授からんことを祈るがよい。光が暗闇を照らし、迷える魂が天使の働きかけによりて慰められんことを祈るがよい。彼の病にとりてはそうした祈りこそ最良の薬である。


〔右の通信を読んだ時、私はこれでは向上のために努力しようとする者の気勢を殺(そ)ぐことになりはしないか――人間にとっては理想が余りに高すぎる、と述べた。〕


否! 否! われらの述べたるところもまだまだ実情の全てではない。また、いささかの誇張も潤色も施しておらぬ。彼の如き無為の生涯が招来する孤独的荒廃と悲劇の境遇の真の恐ろしさは、われらにはとてもその全てを語ることは出来ぬ。そうした生涯の後に魂が抱く悔恨の情が如何に痛烈なるものであるかは、とても言葉では言い尽くせぬ。その後に魂が辿る過程は、いかに立派な理屈をもってしても、われらにも如何ともし難きことである。われらとしては永遠にして不変なる因果律の働きを述べることしか出来ぬ。身に染みた利己主義と犯せる罪悪が完全に焼き清められるまでは、悲惨と悔恨の情から免れることは出来ぬ。われらがそう定めたのではない。永遠にして全知全能なる神の定めた摂理なのである。そなたの身近に証を見ることの出来る法則の働きを指摘したまでである。何時(いつ)のことかも判らぬ死後の遠い遠い先の或る日、全人類が召集され“記録天使”が“審判の書”を提出し、それを手にキリスト神が一人一人に判決を下し、罪人は永遠の火刑に処せられるなどということはない。断じてない。が、行為の一つ一つが確実に魂に刻み込まれ、思念の一つ一つが記録され、全ての性癖が死後の性格の要素として持ち越されるという形での審判はある。そのことを人間が忘れがちであるために指摘したく思ったのである。罪状の評決には参考とすべき手回り品も何も要らぬ。魂そのものの深奥に静かに進行するものであることを教えたく思うのである。審判者は魂自身なのである。魂が己と語り合い、己自身の命運を読み取るのである。参考とすべき書類は道義の記録のみである。地獄とは魂自らが罪悪を焼き尽くさんとする悔恨の炎のことである。

しかもそれは全人類が他界せる遠い遠い先にて一斉に行なわれるのではなく、死と同時に、良心の目覚めと同時に、新たなる生命への再生と同時に始まるのである。気絶状態でもあるまいが、遠き彼方のうっすらとした靄の如き光の中で行なわれるのではなく、確固にして確実、瞬時にして必定なのである。なぜかく申すかと言えば、われらについて世間では、われらの述べる霊訓は宗教から恐怖心を取り除き、人間は動機によりてのみ支配され、いかなる行為を為そうと、いかなる教義を信じようと、全ての者が無条件に救われると説いているかに宣伝されているからである。われらはそのような無分別きわまる教理を説いているのではない。今はそなたもその点を理解していよう。が、そなたもそこに至るまでは繰り返し繰り返し説かねばならなかった。すなわち、人間は自らの将来を自ら築き、自らの性格に自ら押印し、自らの罪悪の報いに自ら苦しみ、自ら救済して行かねばならぬということである。

われらがこうした人生の暗黒面を取り挙げたのは、彼の生涯がまさにその見本のようなものであったからに過ぎぬ。気品と美と天使の支配に満ちた明るき面については、これまで度々言及してきた。神の溢れんばかりの慈悲と愛、その神と人間との間を絶え間なく取りもつ天使の優しき心くばりについては、改めて述べるまでもなかろう。時にはこうした暗き一面――孤独と荒廃、邪霊の誘惑の存在に意識を向けるのも無駄ではあるまい。

理想が高すぎると言うが、そのようなことはない。もしも高すぎるということになれば、高き理想は向上心に燃える魂のみを鼓舞するためにしか役立たぬことになる。確かに向上心なき魂にとりては高すぎるであろう。が、人生が利己主義と罪悪によりて蝕まれておらぬ者、熱誠に燃え、ますます向上せんと心がける魂にとりては決して高すぎることはない。友よ、いかなる者にも逃がれ得ぬ摂理というものがあることを明記するがよい。人生とは旅であり、闘争であり、発展である。その旅は常に上り坂であり、しかも道中は茨(いばら)に満ち、難路の連続である。闘争は目的成就まで絶え間なく続く。発展は低次元より高次元への霊的向上であり、地上の幼児的人格よりキリスト的霊格への発達である。この摂理だけは曲げることは出来ぬ。悪との闘争なくしては完全なる善への到達は叶わぬ。己を取り巻く邪悪との葛藤を通して純化されて行くのが永遠の必然性である。神より放たれし火花がその父なる神のもとに帰り、その御胸に安住の地を見出すに至る道なのである。

真の幸福は最高の理想を目指して生きることによりてのみ獲得されることをそなたは今さら説き聞かされることもあるまいと思うが如何? 怠惰なる者、無精者はそれを知らぬこと、邪悪なる者――自ら選び自ら好んで悪事を働く者には縁なきものであることは改めて説くには及ぶまいと思うが如何? 地上の幸福は天上界を目指す魂の中にのみ湧き出ずるものであり、その道程において克服せる危険と困難を振り返ることの中に見出されるものであることも改めて述べるまでもなかろうと思われるが如何? 天使は常にそうした魂を補佐せんとして見守っていること、天使はそれを名誉と心得ていること、そして理想に燃える魂は決して致命的危害は被らぬものであることを改めて説くまでもあるまいと思うが如何? たとえ勝利の宣言が為されても、闘争もなく、利己的かつ恥ずべき安逸の中に得られたものは真の勝利とは言えぬ。勝利は葛藤の末に得られるもの。平和は艱難の後に得られるもの。そして発展は着実なる成長の末に得られるものである。


〔私は当然そうであると思うと答え、人生の準備期においては出来るだけ多くの知識を蓄え、出来るだけ多く仕事をし、その上で叶うかぎりの平和を享受すべきであると思う、と述べた。しかし仕事と知識、とくに神そのものと未来のことについての知識が、平和または安息の前提条件である以上、十分な瞑想の余裕がなくなることになる、と述べた。〕


違う。人生には三つの要素がある。瞑想と祈り、崇拝と讃仰、そして三種の敵(6)との葛藤である。瞑想の生活は自己認識にとりて必須のものである。着実なる成長の重要素である。それには当然祈りが伴う。すなわち肉体に閉じ込められし魂と父なる神及びわれら神の使者との霊的交わりである。次に魂が己を見出し行く無数の局面――神の声なき声に耳を傾ける静かなる孤独、あるいは神の物的表現であるところの大自然との触れ合い、あるいは人間のしつらえたる厳(おごそ)かな神殿にて神を恭(うやうや)しく讃える聖歌の斉唱、さらにまた、言葉に出ず、他人の耳にも届かざる魂の奥底からの止むに止まれぬ向上心――こうしたものを通じて、神によりて植えつけられし讃仰の本能がその捌(は)け口を求めるのである。これは絶え間なき悪との闘争に欠くべからざるものである。われらはそれを過小評価するどころか、その必要性を主張する者である。そなたも今少し安らかな思索の時をもつよう配慮することを勧める。そなたの生活は静寂を欠いている。


――彼の無節操な行為の中には、必ずしも彼の責任に帰すべきでないものもあったことをお認めになるでしょう。


無論である。人間の身体に欠陥のある場合、あるいは調子を狂わせている場合があり、そのためにそこに宿れる魂の意思に反した行為に出ることがある。狂気が脳の病から来ている場合も多い。その場合は魂に責任はない。事故による傷害によって精神に異常を来すこともあり、先天的異常の場合もあり、過度の不幸や懊悩による場合もある。そうした原因に由来する時は誰にも咎められることはない。ましてや公正なる神による咎めは絶対にない。神は霊的動機と意図によりて審判を下すからである。

われらがそなたの友を咎めたのは、あの不幸なる結末が生涯にわたる罪悪の生み出せるものであるからに他ならぬ。それに関しては彼に責任があったし、今もなお責任がある。そして彼も今そのことに気づき始めている。

全能なる神よ、叡智を育み授け給え。

(†インペレーター)


〔注〕

(1)F.A.Hudson 英国最初の心霊写真霊媒。
(2)肉体。(3)自殺。
(4)いかなる形での自殺かは述べていない。
(5)霊的身体と肉体とを結びつけている帯状の紐。
(6)30節。イースターメッセージ一

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks
AgainEdited by S. Phillips
近藤千雄訳



九章 良心の声

 More Wisdom of Silver Birch (次の第七巻として翻訳の予定───訳者) を読んだ読者からサークル宛に長文の手紙が寄せられた。その大要を紹介すると───

 〝私の知っている人の中には神を畏(おそ)れ教会を第一主義とする信心深い人が大勢います。その人たちは確かに親切心に富み喜んで人助けをする人たちで、教会が善いこと正しいこととして教えるものを忠実に守っております。

ところが何でもないはずの霊的事実を耳にすると、それを悪魔のしわざであるとか罪深きこととか邪悪なことと言って恐れます。その無知は情けなくなるほどです。

 ところで、こうした人たち及びこれに類する、言わば堅実に生きる善人は、私の考えでは、偏見のない良心と、何世代にもわたって教え込まれてきた幼稚な教説によって汚染された良心との区別がつかなくなっているのだと思います。

たとえば日曜日に教会へ出席しなかっただけで悩んだりします。彼らにとっては礼拝に出席することが神の御心に適ったことであり、善であり、正しいことであり、したがって欠席することは間違ったことであり、罪深いことであるかに思えるのです。

 そうした思考形式が魂に深く植えつけられた場合、いったいどうすれば正常に戻すことが出来るでしょうか。彼らが呵責(かしゃく)を覚えているのは本当はシルバーバーチ霊がおっしゃる偏りのない良心ではありません。
℘161
一種の偏見によって本当の良心が上塗りをされております。そこでシルバーバーチ霊にお願いしたいのは、本当の良心とは何か、それと見せかけの良心とを見分けるにはどうしたらよいかを教えていただきたいのです〟云々・・・


 この手紙の主旨を聞かされたシルバーバーチは次のように答えた。

 「地上においても霊界においても、道徳的、精神的ないし霊的問題に関連してある決断を迫られる事態に直面した時、正常な人間であれば〝良心〟が進むべき道について適確な指示を与える、というのが私の考えです。神によって植えつけられた霊性の一部である良心が瞬間的に前面に出て、進むべきコースを指示します。

 問題は、その指示が出たあとから、それとは別の側面がでしゃばりはじめることです。偏見がそれであり、欲望がそれです。良心の命令を気に食わなく思う人間性があれこれと理屈を言い始め、何かほかに良い解決方法があるはずだと言い訳を始め、しばしばそれを〝正当化〟してしまいます。しかし、いかに弁明し、いかに知らぬふりをしてみても、良心の声がすでに最も正しい道を指示しております」
℘162
 サークルの一人 「この手紙にはスピリチュアリズムは間違いであると思いこんでいる実直で真面目な教会第一主義の信心家のことが述べられておりますが・・・」


 「それはもはや良心の問題ではなく、精神的発達の問題です。問題が全く別です。それは間違った前提に立った推理に過ぎません。私のいう良心は内的な霊性に関わる問題において指示を必要とする時に呼び出されるものです」


───でも、良心は精神的発達と密接につながっていませんか。

 「つながっている場合とつながっていない場合とがあります。私は良心とは神が与えた霊的監視装置で、各自が進むべき道を的確に指示するものであると主張します」


─── 一人の人間は正しいと言い、別の人間は間違いだと言う場合もあるでしょう?

 「あります。が、そのいずれの場合においても、自動的に送られてくる良心による最初の指示が本人の魂にとってもっとも正しい判断であると申し上げているのです。
℘163
問題はその指示を受けたあとで、それに不満を覚え、ほかにもっとラクで都合のいい方法はないものかと、屁理屈と正当化と弁解を始めることです。

しかしモニターによってすでに最初の正しい指示が出されているのです。この説はあまり一般受けしないかも知れませんが、私の知る限り、これが真実です」


───東洋の宗教は古くから人間の内部に宿る神を強調していますね。

 「私なら神の内部に宿る人間を強調したいところです。私に言わせれば〝人間の中の大霊〟といっても〝大霊の中の人間〟と言ってもまったく同じことです。神と人間とは永遠の繋がりがあります。神は絶対に切れることのない愛の絆によって創造物と繋がっております。

進化の程度において最下等のものから最高の天使的存在にいたるまでの全存在が神の愛と生命の活動範囲の中におさまっています。程度が低すぎて神から見放されることもなければ、高すぎて神を超えてしまうこともあり得ません」
℘164
───すべてが大霊の一部だからですね。


 「そうです。〝一部〟といっても説明が困難ですが、人類のすべてが神性の一部を有しております。これは大切な真理で、これさえ理解され生活の規範とされるようになれば、世界のすべての人間が霊的な威力を呼び覚まし、日々生じる問題について新しい視野で対処できるようになることでしょう」


───神はすべての界層において平等に顕現しているのでしょうか。それとも地上の人間だけがそれを悟れないでいる、あるいは捉らえ損ねているのでしょうか。それとも人間が死後の界層を進化していくにつれて神の顕現の分量が増していくのでしょうか。

 「それは要するに受容力の問題です。神は無限です。無限なるものには際限がありません。制限がありません。神の恵みは果てしなく広がっています。知りつくすということは絶対にできません。人間はいつまでも進化し続ける存在です。進化するにつれて受容力が増します。受容力が増すにつれて理解力が増し、かくしてその分だけ神を理解できることになります」
℘165      
───ここに二人の人間がいて、一人は元気盛りでもう一人は死期を迎えて肉体との関係が稀薄になっているとします。この場合、後者の方が霊的な影響を受けやすいのでしょうか。


 「必ずしもそうとは言い切れません。肉体から離れるということは必ずしも進化を決定づけるものではありません。私の世界にも地上の人間より進化の程度の低い霊がそれはそれは大勢います。たしかに肉体はその本性そのもののために人間の精神の表現を制約しておりますが、人類全体として言えば、地上のいずれにおいても霊性の発達のための余地がふんだんに存在します」


───その発達の為に努力することが霊のためになるのだと思います。そうでなかったら地上に存在する意味が無いことになるからです。肉体というハンディを背負いながら成長しようと刻苦することが魂にとって薬になるのだと思います。

 「もちろんですとも。困難を克服しようと努力するとき、次々と振りかかる障害に必死に抵抗していくとき、不完全さを補い完全へ向けて努力するとき、そのときこそ神性が発揮されるのです。それが進化の諸相なのです」

℘166
───地上というとこは魂の修行場としていろんな面で有利であるといった趣旨の話をよく耳にします。地上的闘争をくぐり抜けねばならないということそれ自体が地上の良さでもあると言えると思うのです。

 「おっしゃる通りです。当然そうあらねばなりません。もしそうでなかったら地上へ生れてくることもないでしょう。宇宙の生命の大機構の中にあって、この地上もそれなりの役割があります。地上は保育所です。訓練所です。いろんなことを学ぶ学校です。身支度をする場です。

潜在している才能が最初に目を出す場であり、それを人生の荒波の中で試してみる所です。そうした奮闘の中ではじめて真の個性が形成されるのです。闘争もなく、反抗もなく、困難もなく、難問もないようでは、霊は成長しません。進化しません。奮闘努力が最高の資質、最良の資質、最大の資質、最も深層にある資質を掘り起こすのです」


───若くして他界した場合はどうなるでしょうか。
℘167
 「そうくると思ってました」


───これには二つのケースがあると思うのです。一つは、もしそれがその人の寿命であれば、それまでに霊的にはすでに他界する準備が出来ていた場合。もう一つは死後その埋め合わせのために物質界との接触を通じて進化を得る場合です。

 「あなたは親切な方ですね。質問なさると同時に二つも答えを用意して下さいました。ご質問に対する答えは、古くからある恐怖の輪廻転生思想と、私の説く再生説即ち前回の地上生活での不足分を補う為に地上のどこかに誕生するという、この二つの説のうちのどちらかをお選びください。

あなたの気に入られた方をお取りになればよろしい。私の説はすでによくご存じでしょう。しかし、ここで強調しておきたいのは次の点です。

 よく分らないことが沢山あります。私たちも所詮すべての知識は持ち合わせておりません。しかし同時に、矛盾を恐れずに申し上げれば、神は完全であるゆえに摂理も完全です。

(訳者注───すべての知識は持ち合せないといいながら神は完全であると断定するのは明らかに矛盾しているが、第十章の後半で、過去三千年の体験からそう信じるに足るだけの証を手にしているのだと述べている)
℘168
いかなる困難が生じても、そして、たとえそれに対して私たちがあなたに満足のいく回答をお授けすることができなくても、それは神の計画に欠陥があるということではありません。絶対にそういうことはありません。〝愛〟が宇宙を支配しているのです。無限の範囲と適用性を持つ愛です。

いったんその愛があなたを通じて働くようになれば、あなたは一変し、あなたに生を与えた霊力と一体になります」(先に述べた矛盾を超越してなるほどと実感を持って得心できるということ───訳者)


───こうした問題は限られた人間的理解力を超えているというのは本当でしょうか。私たちは宿命的に理解不可能なのでしょうか。

 「無限の顕現を持つ宇宙を理解しようとするとき人間の肉体的構造が一つの限界となることは、一般的に言って事実です(霊覚者は別ということ───訳者)。決して知識欲に水を差すつもりで申し上げるのではありません。が、

私たちはあくまでも現実を見失ってはなりません。幾十億と知れぬ人間が生活する地上に目を向けてみましょう。その大半がここにいらっしゃる方が当たり前と思っている霊的真理にまったく無知なのです。その知識からあなた方が得ている喜びが彼らには保証されていないのです。
℘169
その生活は悲劇と哀しみに満ちております。しかも、いずこに救いを求めるべきかも知らずにおります。ならば、私たちこそ、これまでに得た知識を少しでもそういう人たちに分けてあげることでお役に立つことができるのではないでしょうか。そうすることが知識を獲得した者が担う責任、つまりそれをさらに他の人々にも分けてあげるという責任を遂行することになるのではないでしょうか」


───それこそが、こうして私たちがこの部屋に集まっているそもそもの目的だと思います。

 「そうです。それが目的でここに集まっているのです。それこそが私たちの双肩に掛かっている仕事です。あらんかぎりの力を尽くしてその遂行に当たらなければなりません。われわれにとって可能な限りの人数を達成するまでは気を抜いて安心してはなりません」


 ここで話題が変わって、もう一人の招待客が 「夜空に見える星はただの物体でしょうか。それとも生命が存在するのでしょうか」と尋ねた。
℘170
 「どうやら少し深みに入ってきたようですね。地上世界の知識もまだまだ限界に到達しておりませんが、私たちの世界にいたっては遥かに限界からほど遠い状態です。宇宙には最高界の天使的存在から、意識がようやく明滅する程度の最低の魂に至るまでの、さまざまな意識的段階にある生命が無数に存在します。

意識的生命が地球だけに限られていると思ってはなりません。地球は数限りなく存在する天体のうちの、たった一つに過ぎません。無限なる叡知を持つ宇宙の大霊が、無限なる宇宙において無限なる意識的段階にある無数の生命に無限の生活の場を与えることができないはずがありません。

有機的生命の存在する天体は無数にあります。ただし、その生命は必ずしもあなた方が見慣れている形態をとるわけではありません。以上の説明が私としては精一杯です」


───それもやはり人間的存在なのでしょうか。

 「今私は、少し深みに入ってきたと申し上げました。ある種の形態、すなわち形と大きさと運動を持ち、環境に働きかけることができる意識的存在という意味では人間と同じ組織的存在ですが、例外はあるにしても、そのほとんどはあなた方が親しんでおられる形態の組織体と同じではありません。どうやらこれ以上の説明は無理のようです」

℘171
───あなたはそうした存在を御覧になったり話を交わしたことがおありですか。

 「私の方からその天体にまで赴いて話をしたことはありませんが、あなた方の死に相当する過程を経たあと霊的形態に宿って話を交わしたことはあります。ですが、忘れないでいただきたいのは、あなた方が地上の生命とまったく類似性のない生命に言及されると、それをなぞらえるべき手段を見出すのが困難なのです」

訳者注───地球人類が他の天体上の意識的生命をうんぬんするとき、とかく人間的身体と同じ形態を具えたものを想像しがちであるが、各種の霊界通信から推察すると、むしろ地球人類の方が特殊な部類に属し、幾千億と知れぬ天体上には人間の想像を超える形態を具えた存在が躍如たる生命活動を営んでいるようである。

シルバーバーチが説明困難といったのは、なぞらえるべきものが見当たらないのも一つの理由であるが、うっかり説明し始めるとつい〝深み〟にはまり込んでしまって、にっちもさっちもいかなくなるという危惧があるようである。むろんそれ以前に、今の人類にそんなものは必要ないという配慮もあることであろう。
                

        
  十章 あらためて基本的真理を
℘174
 シルバーバーチが霊媒を招待した時はいつも温かい歓迎の言葉で迎えるが、古くからの馴染の霊媒であればその態度はいっそう顕著となる。これから紹介する女性霊媒とご主人はハンネン・スワッハー・ホームサークルの結成当初からのメンバーで、最近は永らく自宅で独自の交霊会を催しておられ、今回は久しぶりの出席である。

 夏休みあとの最初の交霊会となったこの日もシルバーバーチによる神への祈願によって開始され、続いて全員にいつもと同じ挨拶の言葉を述べた。

 「本日もまた皆さんの集まりに参加し、霊界からの私のメッセージをお届けすることができることをうれしく思います。

 僅の間とはいえ、こうして私たちが好意を抱きかつ私たちに好意を寄せてくださる方々との交わりを持つことは、私たちにとって大きな喜びの源泉です。こうした機会に自然の法則にしたがってお互いが通じ合い、お互いの道において必要なものを、よろこびと感謝のうちに学び合いましょう。

 もとより私は交霊会という地上世界と霊界との磁気的接触の場のもつ希少価値はよく理解しており、私が主宰するこの会の連絡網の一本たりとも失いたくない気持ちですが、次のことは一般論としてもまた私個人にとっても真実ですので、明確に述べておきます。
℘175
それは、私はしつこい説教によって説き伏せる立場にはないと考えていることです。面白味のない霊的内容の教えを長い説教調で述べることは私の望むところではありません。

 そのやり方ではいかなる目的も成就されません。私が望むやり方、この交霊会で私がせめてものお役に立つことができるのは、ここに集われたすべての方に───例外的な人は一人もいません───ともすると俗世的な煩わしさの中で見失いがちな基本的真理を改めて思い起こさせてあげることです。

物的生活に欠かせない必然性から問題が生じ、その解決に迫られたとき、言いかえれば日常生活の物的必需品を手に入れることに全エネルギーを注ぎ込まねばならないときに、本来の自分とは何か、自分はいったい何者なのか、なぜ地上に生活しているかといったことを忘れずにいることは困難なことです。


 そこで私のような古い先輩───すでに地上生活を体験し、俗世的な有為転変に通じ、しかもあなた方一人一人の前途に例外なく待ち受けている別の次元の生活にも通じている者が、その物的身体が朽ち果てたのちにも存在し続ける霊的本性へ関心を向けさせていただいているのです。それが基本だからです。

あなた方は霊的な目的のためにこの地上に置かれた霊的存在なのです。そのあなた方を悩まし片時も心から離れない悩みごと、大事に思えてならない困った事態も、やがては消えていく泡沫(うたかた)のようなものに過ぎません。
℘176
 といって、地上の人間としての責務を疎かにしてよろしいと言っているのではありません。その物的身体が要求するものを無視しなさいと言っているのではありません。大切なのは正しい平衝感覚、正しい視点を持つこと、そして俗世的な悩みや心配ごとや煩わしさに呑み込まれてしまって自分が神の一部であること、ミニチュアの形ながら神の属性の全てを内蔵している事実を忘れないようにすることです。

そのことを忘れず、その考えを日常生活に生かすことさえできれば、あなた方を悩ませていることがそれなりに意義を持ち、物的、精神的、霊的に必要なものをそこから摂取していくコツを身につけ、一方に気を取られて他方を忘れるということはなくなるはずです。

 こう言うと多分〝あなたにとってはそれで結構でしょう。所詮あなたは霊の世界の人間です。家賃を払う必要もない、食料の買い出しに行く必要もない、衣服を買いに行かなくてもよい。そういうことに心を煩わせることがないのですから〟とおっしゃる方がいるかもしれません。たしかにおっしゃる通りです。

しかし同時に私は、もしもあなた方がそうしたことに気を取られて霊的なことを忘れ、霊の世界への備えをするチャンスを無駄にして、身につけるべきものも身につけずにこちらへ来られた時に果たしてどういう思いをなさるか、それも分かっているのです。こんな話はもう沢山ですか?」

℘177
 「とんでもございません。いちいちおっしゃる通りです」とその女性霊媒が答えると、

 「私の言っていることが間違いでないことは私自身にも確信があります。地上の全ての人にそれを確信させてあげれば視野が広がり、あらゆる困難に打ち克つだけの力が自分の内部に存在することを悟って取越苦労をしなくなり、価値ある住民となることでしょうが、なかなかその辺が分かって頂けないのです。

霊の宝は神の子一人一人の意識の内部に隠されているのです。しかし、そうした貴重な宝の存在に気づく人が何と少ないことでしょう。あなたはどう思われますか」と言って、今度はご主人の方へ顔を向けた。


 「まったく同感です。ただ、そのことをいつも忘れないでいることが出来ない自分を情けなく思っています」と御主人が答えると、
 
 「それが容易でないことは私も認めます。しかし、もしも人生に理想とすべきもの、気持ちを駆り立てるもの、
℘178
魂を鼓舞するものがなかったら、もしも目指すべき頂上が無かったら、もしも自分の最善のものを注ぎ込みたくなるものが前途に無かったら、人生はまったく意味が無くなります。もしもそうしたものが無いとしたら、人間は土中の中でたくる虫ケラと大差ないことになります」


 「本当に良い訓えを頂きました」

 「そう思っていただけますか。私には、してあげたくてもしてあげられないことが沢山あるのです。みなさんの日常生活での出来事にいちいち干渉できないのです。

原因と結果の法則の働きをコントロールすることはできないのです。また、あなた方地上の人間は大切だと考え私は下らぬこととみなしている事柄が心に重くのしかかっていることがありますが、その窮状を聞かされても私はそれに同情するわけにはいかないのです。

 私にできることは永遠不変の原理をお教えすることだけです。物質の世界がすみずみまで理解され開拓され説明しつくされても、宇宙にはいかなる人間にも完全に知りつくすことのできない神の自然法則が存在します。それは構想においても適応性においても無限です。
℘179
もしも日常生活に置いて決断を迫られた際に、あなた方のすべてが自分が霊的存在であること、大切なのは物的な出来事ではなく───それはそれなりに存在価値はあるにしても───そのウラ側に秘められた霊的な意味、あなたの本性、永遠の本性にとっていかなる意味があるかということです。

 物的存在物はいつかは朽ち果て、地球を構成するチリの中に吸収されてしまいます。と言うことは物的野心、欲望、富の蓄積は何の意味もないということです。一方あなたという存在は死後も霊的存在として存続します。あなたにとっての本当の富はその本性の中に蓄積されたものであり、あなたの価値はそれ以上のものでもなく、それ以下のものでもありません。

そのことこそ地上生活において学ぶべき教訓であり、そのことを学んだ人は真の自分を見出したという意味において賢明なる人間であり、自分を見出したということは神を見出したということになりましょう。

 地上生活を見ておりますと、あれやこれやと大事なことがあって休む間もなくあくせくと走りまわり、血迷い、ヤケになりながら、その一ばん大切なことを忘れ、怠っている人が大勢います。私たちの説く教訓の中でもそのことが一ばん大切ではないでしょうか。

それが、いったん霊の世界へ行った者が再び地上へ戻って来る、その背後に秘められた意味ではないでしょうか。
℘180
それを悟ることによって生きる喜び───神の子として当然味わうべき生き甲斐を見出してもらいたいという願いがあるのです。

 それは、いわゆる宗教あるいは教会、教義、信条の類い、これまで人類を分裂させ戦争と混沌と騒乱を生んできたものより大切です。少しも難しいことではありません。自分という存在の本性についての単純きわまる真理なのです。なのに、それを正しく捉えている人はほんの僅かな人だけで、大方の人間はそれを知らずにおります」


 再び霊媒である奥さんが、自分の支配霊も心霊治療を行うことがあると述べ、遠隔治療によって本人の知らないうちに治してあげていることもある事実を取り上げて、こう尋ねた。

 「そういう場合はなぜ治ったかを本人に教えてあげるべきだと思うのです。つまりそれを契機として、自分が神の子であることを知るべきだと考えるのですが、私の考えは正しいでしょうか、それとも多くを望みすぎでしょうか」

 「理屈の上では正しいことです。が、とりあえずあなたの治療行為が成功したことに満足し、そのことを感謝し、同時にその結果としてその人の魂を目覚めさせてあげるところまで行かなかったことを残念に思うに留めておきましょう。
℘181
大切なのは、まず病気を治してあげることです。その上に魂まで目覚めさせてあげることはなお一層大切なことです。が、一方は成就できても他方は成就出来ない条件のもとでは、その一方だけでも成就して、あとは〝時〟が解決してくれるのを待ちましょう。魂にその準備が出来るまでは、それ以上のものは望めないからです。

 肉体は治った。続いて魂の方を、ということになるべきところですが、そこから進化という要素が絡んできます。魂がそれを受け入れる段階まで進化していなければ無駄です。しかし、たとえ全面的に受け入れてもらえなくても、何の努力もせずにいるよりは何とか努力してみる方が大切です。それは私たちすべてが取るべき態度です。

ともかくも手を差しのべてあげるのです。受け入れてくれるかどうかは別問題として、ともかく手をさしのべてあげることです。努力のすべてが報われることを期待してはなりません。

 病気が治り魂も目覚める、つまり治療の本来の意義が理解してもらえるのが最も望ましいことです。次に、たとえ魂にまで手が届かなくても、病気だけでも治してあげるという段階もあります。さらにもう一つの段階は、たとえ治らなくても治療行為だけは施してあげるという場合です。
℘182
 要請された以上はそう努力しなければなりません。が、たとえ要請されなくても施すべき場合があります。受けるよりは施す方が幸いです。施した時点を持ってあなたの責任は終わります。そして、その時点からそれを受けた人の責任が始まります。


 「人間は自分の前生を思い出してそれと断定できるものでしょうか」

 「もしその人が潜在意識の奥深くまで探りを入れることが出来れば、それは可能です。ですが、はたして地上の人間でその深層まで到達できる人がいるかどうか、きわめて疑問です。その次元の意識は通常意識の次元からは遥かにかけ離れていますから、そこまで探りを入れるには大変な霊力が必要です」


 「そうした記憶は現世を生きている間は脇へ置いておかれるとおっしゃたことがあるように思いますが」

 「それなりの手段を講ずることが出来るようになれば、自分の個性のすべての側面を知ることができます。
℘183
しかし、あなたの現在の進化の段階においては、はたして今この地上においてそれが可能かとなると、きわめて疑問に思えます。つまり理屈ではできると言えても、あなたが今までに到達された進化の段階においては、それは不可能だと思います」

  
 「神は特別な場合に備えて特殊な力を授けるということをなさるのでしょうか」 と、かつてのメソジスト派の牧師が尋ねた。

 「時にはそういうこともなさいます。その人物の力量次第です。最も、神が直接干渉なさるのではありません」

 「神学には〝先行恩寵〟という教義があります」 (苦を和らげるために前もって神が人の心に働きかけて悔悟に導くという行為のこと───訳者)

 「ありますね。神は毛を刈り取られた羊への風を和らげてあげるという信仰です(※)時にはそういうこともあることは事実です。が、神といえども本人の受け入れ能力以上のものを授けることはできません。
℘184
それは各個の魂の進化の問題です。私がそういう法則をこしらえたわけではありません。法則がそうなっていることを私が知ったということです。

 みなさんもいつかは死ななくてはなりません。霊の世界へ生まれるために死ななくてはなりません。地上の人にとってはそれが悲しみの原因になる人がいますが、霊の世界の大勢の者にとってそれは祝うべき慶事なのです。要は視点の違いです。 私たちは永遠の霊的観点から眺め、あなた方は地上的な束の間の観点から眺めておられます」

(※ 英国の小説家ロレンス・スターンの小説の中の一節で、弱き者への神の情けを表現する時によく引用される───訳者)


 ここでサークルの二人のメンバーが身内や知人の死に遭遇すると無常感を禁じ得ないことを口にすると、シルバーバーチはこう述べた。

 「霊に秘められた才覚のすべてが開発されれば、そういう無常感は覚えなくなります。が、これは民族並びに個人の進化に関わる問題です。私にはそのすべての原理を明らかにすることはできません。私とて、すべてを知っているわけではないからです。あなた方より少しばかり多くのことを知っているだけです。

そしてその少しばかりをお教えすることで満足しております。知識の総計と較べれば微々たるものです。が、私は神の摂理が地上とは別個の世界においてどう適用されているかをこの目で見て来ております。
℘185
数多くの、そしてさまざまな環境条件のもとでの神の摂理の働きを見ております。そして私がこれまで生きてきた三千年の間に知り得たかぎりにおいて言えば、神の摂理は知れば知るほどその完璧さに驚かされ、その摂理が完全なる愛から生まれ、完全なる愛によって管理され維持されていることを、ますます思い知らされるばかりなのです。

 私も摂理のすみずみまで見届けることはできません。まだまだすべてを理解できる段階まで進化していないからです。理解出来るのはほんの僅かです。しかし、私に明かされたその僅かな一部だけでも、神の摂理が完全なる愛によって計画され運営されていることを得心するには十分です。

私は自分にこう言い聞かせているのです───今の自分に理解できない部分もきっと同じ完全なる愛によって管理されているに相違ない。もしそうでなかったら宇宙の存在は無意味となり不合理な存在となってしまう。

もしこれまで自分が見てきたものが完全なる愛の証であるならば、もしこれまでに自分が理解してきたものが完全なる愛の証であるならば、まだ見ていないもの、あるいはまだ理解できずにいるものも又、完全なる愛の証であるに違いない、と。

 ですから、もしも私の推理に何らかの間違いを見出されたならば、どうぞ遠慮なく指摘していただいて結構です。私はよろこんでそれに耳を傾けるつもりです。私だっていつどこで間違いを犯しているか分からないという反省が常にあるのです。無限なる宇宙のほんの僅かな側面しか見ていないこの私に絶対的な断言がどうしてできましょう。

ましてや地上の言語を超越した側面の説明は皆目できません。こればかりは克服しようにも克服できない、宿命的な障壁です。そこで私は、基本的な真理から出発してまずそれを土台とし、それでは手の届かないことに関しては、それまでに手にした確実な知識に基づいた信仰をおもちなさい、と申し上げるのです。

 基本的真理にしがみつくのです。迷いの念の侵入を許してはなりません。これだけは間違いないと確信するものにしがみつき、謎だらけに思えてきた時は、ムキにならずに神の安らぎと力とが宿る魂の奥の間に引き込もることです。そこに漂う静寂と沈黙の中にその時のあなたにとって必要なものを見出されることでしょう。

 常に上を見上げるのです。うつ向いてはなりません。うなだれる必要はどこにもありません。あなたの歩む道に生じることの一つ一つがあなたという存在を構成していくタテ糸でありヨコ糸なのです。これまでにあなたの本性の中に織り込まれたものはすべて神の用意された図案(パターン)にしたがって織られていることを確信なさることです。

 さて本日もここから去るに当たって私から皆さんへの愛を置いてまいります。私はいつも私からの愛を顕現しようと努力しております。お役に立つことならばどんなことでも厭わないことはお分かりいただけてると思います。

しかし、楽しく笑い冗談を言い合っている時でも、ここにこうして集い合った背後の目的をゆめゆめ忘れないようにいたしましょう。神は何を目的としてわれわれを創造なさったのかを忘れないようにいたしましょう。

その神との厳粛なつながりを汚すようなことだけは絶対にしないように心がけましょう。こうした心がけが、神の御心に適った生き方をする者にかならず与えられる祝福、神の祝福を受けとめるに足る資格を培ってくれるからです」

(訳者注───本章は一見なんでもないことを述べているようで、その奥に宇宙の厳粛な相(すがた)を秘めたことを何の衒(てらい)もなく述べた、シルバーバーチ霊言集の圧巻であるように思う。特に〝私は自分にこう言い聞かせているのです〟で始まる後半の部分は熟読玩味に値する名言で、その中にシルバーバーチの霊格の高さ、高級霊としての証が凝縮されているように思う。

霊格の高さを知る手掛かりの一つは謙虚であるということである。宇宙の途方もない大きさと己れの小ささ、神の摂理の厳粛さと愛を真に悟った者はおのずと大きなことは言えなくなるはずである。

 反対に少しばかり噛(かじ)った者ほど大言壮語する。奥深い厳粛なものに触れていないからこそ大きな口が利けるのであろう。それは今も昔も変わらぬ世の常であるが、霊的なことが当然のこととして受け入れられるようになるこれからの世の中にあっては、人を迷わせる無責任きわまる説が大手を振ってのさばることが予想される。そうしたものに惑わされないためにはどうすべきか。

 それはシルバーバーチが本章で述べている通り、基本的真理にしがみつくことである。われわれ人間は今この時点においてすでに霊であること、地上生活は次の段階の生活に備えて霊的資質を身につけることに目的があること、人生体験には何一つ無駄なものはないこと、ただそれだけのことを念頭において地道に生きることである。

 本章を訳しながら私はシルバーバーチの霊訓の価値を改めて認識させられる思いがしてうれしかった)