Thursday, September 3, 2026

シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

 崇高な存在との対話

スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




第7章 霊的治療(スピリチュアル・ヒーリング)その原理の目的と問題点

 【ヒーリングの原理(治療家グループを前にしてのシルバーバーチの霊言)】

 ヒーリングによって奇跡的に病気が治る───それはそれなりに素晴らしいことですが、その体験によって、その人が霊的真理に目覚めるところまでいかなかったら、そのヒーリングは失敗に終わったことになります。魂の琴線にふれたときこそ、本当に成功したといえるのです。なぜなら、その体験によって、魂の奥にある大霊の火花が放電し、輝きと威力とを増すことになるからです。

 ヒーリングの背後には、必ずそうした目的があるのです。あなた方は、そうして大霊の計画の一部を担って、この世に生まれてきているのです。すなわち、この世に在りながら、自分で自分が何者であるかを知らず、何のために生まれてきたかが悟れず、したがって、死ぬまで何をなすべきかがわからぬまま右往左往する大霊の子らに、霊的真理と永遠の実在を教えるために、人を癒すという力を与えられて生まれてきたのです。

 これほど大切な仕事はありません。その治療力で、たった一人でも魂を目覚めさせてあげることができれば、それだけでも、この世に生まれてきたことが無駄でなかったことになります。

 ヒーリングにも、いろいろあります。最も基本的なものは、磁気治療(マグネティック・ヒーリング)で、治療家の身体から出る豊富な磁気の一部を患者に分けてあげるものです。一種の物理療法と考えてもよろしい。これには霊界の治療家は関与しません。

 次の段階は、その磁気治療と、この後述べる純粋な霊的治療の中間に位置する心霊治療(サイキック・ヒーリング)で、遠隔治療(アブセント・ヒーリング)は主としてこの方法で行なわれます。

 そして最後が、本格的な霊的治療(スピリチュアル・ヒーリング)で、治療家が精神統一によって波動を高め、同時に患者の側の受け入れ態勢が整ったときに、一瞬のうちに行なわれます。

 人間の側から見れば奇跡に思えるかもしれませんが、因果律の働きによって、そういう現象が起きる機が熟していたのです。

 しかし、痛みや苦しみを取り除いてあげることが、ヒーリングの目的ではありません。あくまでも手段なのです。つまり、居眠りをしている魂を目覚めさせ、真の自分を見出させるための手段に過ぎないのです。

 病気で苦しみ続けてきた人が、あなた方による治療で奇跡的に治り、その体験によって霊的真理に目覚めて地上生活の意義を悟れば、あなた方は、遠大な地球浄化計画における責務を果たしたことになり、そうなってこそ、私たち霊界の者が援助したかいがあったことになるのです。



【Q1】
ヒーリングを行なうということは、どういうことでしょうか?

 生命力、すなわち霊的エネルギーが、そのヒーラーを通して患者に注ぎ込まれて魂と接触し、病気を引き起こした要因が何であれ、それによって乱されている調和を修復し、枯渇しているバッテリーに充電することです。

 大切なことは、ヒーラー自身も、それまでの人生で苦痛の何たるかを味わっていて、訪れる患者を真に思いやることができることです。治療の法則は、それを基盤にして働くのです。


【Q2】
病気になりやすい生活環境にいる患者の場合、体調を崩すたびに治療を施してあげるべきなのでしょうか?

 ヒーラーの役目は、救いを求めて訪れる魂に癒しを与えることです。その後、その患者がどうなるかは、あなたが関わることではありません。患者自身の責任です。身体が健康になっただけであれば、そのヒーリングは失敗だったことになります。本来の目的は、魂が目を覚まして活動的になることです。

 霊的治療の体験の結果として、患者がその後の人生のあり方について深く考えるようにならなければ、失敗だったとみなければなりません。ヒーラーを通して注がれるエネルギーは、身体の病気を癒すだけでなく、精神にも感動を与えて、人生とは何かについて革命的な理解をもたらさなければならないのです。時間がかかるゆえんです。


【Q3】
求められれば、同じ病気を何度でも治療してあげるべきだということでしょうか?

 あなたのほうから拒否してはなりません。一つの魂が救いを求めてきたのです。依頼されたヒーラーは、どう対処すべきかについて、勝手な規定を設けるべき立場にはありません。癒すことが仕事なのです。

それによって、患者の魂が感動すれば霊的啓発を得ることでしょう。かりに感動するまでに至らなくても、たとえ短い期間でも、身体が健康を取り戻すことになるでしょう。

 求められれば最善を尽くし、決して断ってはなりません。いつでも応じる態勢でいるべきです。その後、患者自身の不摂生によってさらに健康を害しても、それは患者自身の責任であって、あなたがかまうことではありません。


【Q4】
「魂に受け入れる用意ができる」とは、どういう意味でしょうか?

 黄金にたとえれば、掘り出されたままの土塊が、精製の過程をへて純金となったときです。浮き沈みのないモノトーンの人生───光ばかりで暗闇がなく、喜びばかりで悲しみがなく、食べるものが豊富にあって空腹を知らない人生を送っていたら、本当のありがたさはわかりません。人生の両極を体験してこそ、地上生活の目的と意義を理解することができるのです。


【Q5】
心霊手術によって治療できるようになるためには、ヒーラーは新たにどのような勉強が必要でしょうか?

 ヒーリングというものを、肉眼で確認できるかたちで見せるもののように考えてはなりません。ヒーリングの本質は霊的なものです。基本的には、患者の魂を目覚めさせることが目的です。

魂に受け入れる用意ができていれば、精神も正常となり、身体も正常となります。魂と精神と身体、この三者が正常な調和を取り戻すということです。その状態を健康というのです。全体の一体化であり、調和状態のことです。

 心霊手術で腫瘍を摘出すること自体は、ヒーリングの目的ではありません。目的は、あくまでも魂に感動を与えることです。その意味では、霊にもガンが生じることがあり得ることになります。

利己主義、その他の悪性の腫瘍が潜在しているかぎりは、真の霊的成長は得られません。生命現象で支配的な立場にあらねばならないのは霊性です。霊性が支配的になるまでは、調和も健康も幸せも充実感も得られません。


【Q6】
一瞬の間の治療も、霊的発達程度とカルマ、その他もろもろの要素が絡んでいるとおっしゃっていますが、ブラジルやフィリピンでは心霊手術によって簡単に治っています。どう違うのでしょうか?

 それもすべて因果律という自然法則の働きの結果です。患者の魂のヒーリングを受ける機が熟すると、そのチャンネルとなるべきヒーラーと出会うように環境条件が整うものです。そして、結果的に心霊手術がうまくいったとします。

が、たとえ腫瘍が摘出されて身体がらくになっても、それだけで自動的に魂の霊性が目覚めるわけではありません。霊的摂理の働きでそういう段階に到達し、これから魂の霊性が点火されて大きな焔となって燃えあがる、千載一遇のチャンスが訪れたということです。

 つまり、二つの要素が働いているわけです。一つは、その患者の魂のヒーリングを受ける用意が整い、その結果を出せるヒーラーと出会う、というめぐりあわせです。

もう一つは、そのヒーリングの影響によって患者の霊性が目覚め、霊的自覚の光のなかで生きるようになる絶好のチャンスとのめぐりあわせです。病的症状は消えても、霊的感性が芽生えなかったら、物的には成功しても、霊的には失敗だったことになります。


【Q7】
その種の霊的な外科手術は、治療法として問題ないのでしょうか?
 「果実によりて木を知るべし」(『マタイ伝』)「毛を刈り取られた羊には神は風を和らげる」(フランスのことわざ)といいます。霊的エネルギーは、時と場所、国と時代によって条件が異なります。

また、霊的現象の操作と霊的エネルギーの注入は、総合的な判断のもとで計画的に実施されます。基本的には、患者の身体的、精神的、そして霊的必要性にあわせて行ないます。具体的には体質、教育、環境、理解力を勘案したうえで、どういう治療法が最も適切かを決めます。


【Q8】
心霊手術がブラジルやフィリピンで行なわれて、英国で見られないのはなぜでしょうか?

 霊的気候が異なるからです。精神的風土も異なります。(それらの国では)目に見える現象的な方法のほうが、より霊妙な影響力を使用する方法よりも要求されるのです。それはちょうど一〇〇年前(一九世紀後半)の英国で、目に見えない霊的なものを物理的な現象で演出する必要があったのと同じです。現在の英国ではその必要はありません。

 しかし、教育水準、文化程度、理解力などが英国と大きく異なる国においては、現在でも現象的なものが要請されています。そこに生活する人々の必要性にあわせなければならないのです。


【Q9】
でも、現在の英国でも、そういう手術に興味をもちながら、要望がかなえられずにいる人が大勢います。やはり、気候が大きな要素なのでしょうか?

 一つには気候です。大気が手術に大きく影響するからです。しかし、同時に霊的な条件もあります。心霊手術は、英国に住んでいる人には向いていません。問題は、人間が何を望んでいるかではなくて、何がいちばん向いているかです。高度な霊的資質を秘めていながら、最低の物的次元のものを求めている人が多過ぎます。これでは進歩も発達も望めません。


【Q10】
私は、たった今、ガン患者を治療してきたのですが、痛みが出始めました。納得がいかないのですが‥‥。

 痛みをやわらげるだけなら可能でしょう。医学的な方法もあります。痛みだけを問題とするなら、むずかしくはありません。耐え切れないほどになっても、霊的に見れば、まだまだ最終判断を下す段階ではないというのが私の持論です。

 もしも一個の霊の地上的生命について、きわめて限られた医学的知識しかもちあわせない医師に、その最終判断を下す権利を与えてよいと私が申し上げたら、これまで私が説いてきた教えを裏切ることになるでしょう。


【Q11】
霊界の医師には、ガンの治療法がわかっているのでしょうか?

 あらゆる種類のガンを治す一つの治療法という意味での、特殊な治療法はありません。原因が同じではないからです。肉体的原因もあれば精神的原因もあり、霊的原因もあります。それらを同じ方法で治療することはできません。

 さらに、それ以前の問題として、霊界と地上界の関係のあり方について理解していただかねばならないことがあります。私たちは、あなた方がてこずっている問題に関して「こうしなさい、ああしなさい」と要請されれば、何でも簡単に解決策を教えるというようなことはしません。地上界の問題は、地上界の人間が解決するのが本筋です。

しかし、いくら努力を重ねてみても、罪のない動物に残酷な苦しみを与えたり、人間としての本来の生き方を間違えたり、あるいは患者がまだ癒されるだけの資格が整っていなければ、本当の治療法は見つかりません。

 霊界からの働きかけは二通りあります。一つは、霊的な理解のある人間が真摯に、そして献身的に霊的治療にたずさわっていれば、親和力の法則で同じ分野を専門とする高級霊を呼び寄せて、援助を受けます。

 もう一つは、患者の魂に受け入れ態勢が整ったときに摂理が働いて、霊的な治療エネルギーが注入されます。ヒーリングはすべて、霊的エネルギーによって行なわれるのです。

魔法の杖があるわけではありません。霊力がその患者の魂に引き寄せられるのです。したがって、魂に受け入れる用意ができていなければ、反応は生じないことになります。魂の霊的意識が開かれるまでは、磁気的なつながりはできません。閉じられたままであれば、何の接触も生じません。
 もちろん、ほかにもいろいろと要素があります。病気の原因が何であるかによっても違ってきます。何を目的に生まれてきたかによっても違ってきます。誕生するに当たって特殊な体質の身体を選んだ場合は、それも考慮に入れなくてはなりません。この問題は単純ではないのです。


【Q12】
癲癇になる原因は何でしょうか?また、治るのでしょうか?

 原因は脳に障害があって、精神からの連絡を正しく受け止められなくしていることです。もちろん、いかなる病気も治ります。“不治の病”というものはありません。治してもらえない人がいるだけです。


【Q13】
幼い子供が激痛を伴った不治の病に苦しんでいる場合、何に原因があるのでしょうか?また、公正といえるでしょうか?
 霊的な問題を物的な尺度で解くことはできません。永遠という時を、地上生活というカケラほどの体験で裁いてはいけません。無限の摂理によって支配されている神の公正を、目の前の束の間の現象だけで理解することはできません。

小さいものが大きいものを理解することはできません。一滴の水が大海を裁けるでしょうか。部分に全体がわかるでしょうか。

 宇宙は私たちの想像を絶した摂理によって経綸されており、これに私は常に敬虔な敬意を払っています。完全な英知から生み出されたものだからです。誤りというものがあり得ないのです。人間の目から見れば公正とは思えないかもしれませんが、それは限られた一部しか見ていないからです。

全体を見ることができれば、ご意見も変わるでしょう。ほんの短い地上人生を送っている人間には、永遠は理解できません。埋めあわせ、ないしは償いというものが、どういう具合に行なわれるか、人間には理解できません。

 あなた方には、霊の世界の豊かさ、美しさ、不思議さを理解する手だてがありません。地上のどこを探しても、比較・対照するものが見当たらないからです。

ならば当然、理不尽と思える事態の裏側にどのような摂理が働いているかを、判断力も視野も限られているはずのあなた方に、どうして説明できましょう?不公平や理不尽を口にされる方は、まだ人間を身体だけの存在として考えている、つまり物的世界の観点から考えており、永遠の観点から見ていないのです。

 霊そのものは、性病を患うことはありません。霊が不具になったり、奇形になったり、腰が曲がったりすることはありません。親の遺伝的体質や後天的性癖は受け継ぎません。地上で自我を表現するために宿っている身体には影響しますが、それが個性を変えてしまうことはありません。

 たしかに、地上的観点から見れば、つまり物的見地からのみ人生を見つめれば、病弱な身体で生まれてきた人のほうが、健康な身体で生まれてきた人より辛い思いをすることでしょうが、それは宿っている霊については当てはまりません。

身体が病弱だからといって霊も貧弱ということはなく、身体が健康だからといって、霊も健全というわけではありません。それどころか、霊的進化にとってかけがえのない体験である痛みと苦しみを数多く味わっただけ、それだけ霊的に豊かになっているとも言えるのです。


【Q14】
治らない患者は、治る資格がまだできていないからだとおっしゃいましたが、それでは単純すぎるように思えるのです。それでは悪人はいつまでたっても治らず、善人はいつでも治るということになるからです。

 そんなに単純なものではありません。それは、あまりに皮相な見方です。問題を霊の目で見ていないからです。たとえば、苦難は人間にとってはご免こうむりたいものでしょうが、私たちから見れば実にありがたいものなのです。凶事に遭うと、人間は万事休すと思いますが、私たちの立場から見ると、それが新たな人生の始まりであることがあるのです。

 善とか悪とかいった用語を、あたかも善人という人種、悪人という人種がいるかのように、物的基準で用いてはいけません。私たちの価値基準は、あなた方の価値基準とは必ずしも同じではありません。私は、治るためにはそれだけの霊的な資格がなければならないと言っているのです。善人とか悪人といった言い方はしていません。

魂が真の自我に目覚めれば治る資格ができたことになります。そうなったときに、治療が効を奏するのです。


【Q15】
カルマとの関係はどうでしょうか?

 患者のなかには、前世でこしらえたカルマをもち越している人がいます。そのカルマ、つまり因果律が成就されずに残っている場合は、治療効果が出ないでしょう。

 霊的進化の過程で因果律が成就している場合、つまり、原因に対する結果が出切って、カルマが清算されている場合は、治療は成功するでしょう。魂に霊的治癒エネルギーを受け入れる準備ができているからです。


【Q16】
その治癒エネルギーをそちらで準備する、つまり、一人ひとりの患者の特殊な条件にあわせて調合する方法を教えていただけませんか?
 これは、説明がとても困難です。非物質的なものを叙述する用語が見当たらないからです。よく理解していただきたいのは、そのエネルギーは生命力そのもの、生命素そのものであることです。生気そのものです。無限に存在するものです。融通無碍(ユウズウムゲ)、つまり無限の形態をとることができます。どんな組み合わせでも可能です。

 その仕事にたずさわる者として、知識と経験と理解力を身につけた、さまざまな次元の霊がひかえています。地上の化学者や科学者に相当する人たちもいます。そうした霊は、この生命力、この霊的エネルギーのさまざまな成分を調合して、一つの特性をもったものをこしらえる、英語で言えば「characterize」するのです。

これはよい表現です。絶えず実験を繰り返しています。チャンネルである治療家を通して、病状を念頭において可能なかぎり調整しています。

 こうした説明しかできません。要するに、訪れる患者に応じてエネルギーが調整されるのです。これには、患者のオーラが大いに参考になります。オーラには、病気を生み出した霊的および精神的状態が正直に残っていますから、それを参考にして調合します。


【Q17】
それには霊界の担当医の精神的(mental)な努力を要するのでしょうか?

 「mental」という用語は不適切です。実体のある作業だからです。実際に混合するのです。私たちも、あなた方のいう化学物質に相当する霊的素材を使用します。もちろん、精神(マインド)も使用します。霊界では、精神がすべてをこしらえるうえでの実体のある媒体だからです。


【Q18】
その治療エネルギーの通路として、ヒーラーの肉体または霊体は、どの程度まで使用されるのでしょうか?遠隔治療の場合とは違うことを念頭においての質問ですが‥‥。

 でも、遠隔治療でも、あなた方ヒーラーの身体が使われるのですよ。


【Q19】
肉体や霊体が使われるのですか?それとも単に患者と霊とを一体化するためのつなぎ役として使われるのでしょうか?

 ヒーラーの霊体を使用しなければなりません。


【Q20】
その過程を説明していただけませんか?

 ヒーラーは、テレビジョンのようなものです。霊的なバイブレーションがヒーラーに届けられ、それが半物質的治療光線に転換されて、それが患者に注がれます。ヒーラーは、変圧器のような役を果たしています。


【Q21】
それが、どうやって患者に届けられるのでしょうか?

 患者が治療を要請したということで、つながりができています。思念がヒーラーへ向けてのバイブレーションを生んでいます。そこに絆ができたわけで、その波長で治癒力が患者へ送られるのです。


【Q22】
自分のために、だれかが遠隔治療を要請してくれていることを患者自身が知らない場合は、どうなりますか?

 患者と関わりのあるだれかが知っているはずです。そうでなかったら、その患者に向けて治療が行なわれるはずがないでしょう。


【Q23】
ヒーラーが、病状を察して、一方的に遠隔で治療を施してあげる場合はどうなりますか?

 それだけで、霊的なつながりができています。


【Q24】
でも、患者のほうからは思念が出ていません。

 いえ、出ています。ヒーラーがその絆をこしらえています。こちらの世界では、思念に実体があることを忘れてはいけません。私があなたを見ても、肉体は見えません。霊媒の目を使えば見えるかもしれませんが…。

 私たちにとっては実体があるのは思念のほうであり、実体がないのは肉体のほうです。ですから、あなたが思念を出せば、それが実在物となるのです。それがバイブレーション──波動をこしらえ、それが遠隔治療で使用されるのです。


【Q25】
治療のたびに、それをこしらえる必要があるのでしょうか?

 一度つながりができれば、その必要はありません。霊界とのつながりはすべて磁気的なもので、一度できたら、二度と切れることはありません。


【Q26】
霊的治療を受けるうえで、信仰のあるなしは関係ないと理解していますが、患者が邪悪な思念を抱いていると、それが治療を妨げると考えてよろしいでしょうか?
 私は信仰をもつこと自体には反対していません。それが理性を土台としていて盲目的でなければ結構です。スピリチュアリズムの思想を正しく理解した方なら、手にした真理が全体のほんのひとかけらに過ぎないことはご存じと思います。

 物的身体に閉じ込められているあなた方が、真理のすべてを手にすることは不可能なことです。霊界へ来ても同じことです。となると、手にしたかぎりの知識を土台とした信仰をもたねばならないことになります。

 さて、そうした知識を土台とした理性的信仰をもっていることは、大いに結構なことです。そのこと自体に何ら問題はないと思います。それが治療にとって好ましい楽観的な雰囲気をこしらえるからです。霊的エネルギーは明るく楽しい、愉快な精神状態のときに最も有効に作用し、反対に、いじけて疑い深く、動揺しやすい心は、霊的雰囲気をかき乱して、治療の妨げとなります。


【Q27】
ヒーラー自身が病気になった場合は、他のヒーラーにお願いすべきでしょうか?それとも自分で治す方法があるのでしょうか?
 ほかのヒーラーにお願いする必要はありません。それよりも、いつも使用している霊的エネルギーを直接自分に奏効させる方法を工夫すべきです。神に祈るのに教会まで行く必要がないように、治癒エネルギーを自分自身に向けることができれば、他のヒーラーのところへ行く必要はありません。そのためには自分の心、自分の精神、自分の魂を開かないといけません。


【Q28】
サークル活動(勉強会・霊能養成会など)に参加できるヒーラーは、能力を発達させるうえで有利ですが、そういう機会に恵まれていない人のために何かアドバイスをいただけないでしょうか?それに、交霊会に出席することはヒーラーにとって不可欠でしょうか?

 あとのご質問からお答えしますと、これにはきっぱりと「ノー」と申しあげます。霊の能力はあくまでも霊の能力です。それを授かって生まれたのであり、授かった以上はそれを発達させる責任があります。ピアニストとしての才能をもって生まれた人は、練習と鍛錬によってそれを発達させなければならないのと同じです。

 では、治療能力はどうやって発達させるか。その答えは、サークル活動に参加することではありません。それもプラスにはなります。心に宿す動機によっても発達を促されます。日常生活の生き方によっても発達します。可能なかぎりの純粋性と完全性を目標とした心がけによっても発達します。できるだけ多くの人を治してあげたいという願望によっても発達します。

自我を発達させる唯一の方法は、自我を忘れることです。他人のことを思いやれば思いやるほど、それだけ立派になります。よい治療家になる方法を教えてくれる書物はありません。ひたすら他人のために役に立つことをしたいと願い、こう反省することです───「大霊は自分に治病能力を与えて下さったが、はたしてそれにふさわしい生き方をしているだろうか?」と。これを基本的姿勢として生きていれば、治病能力は自然に力を増し、質を高めていきます。


【Q29】
治療にたずさわるときは、ヒーラーは完璧な健康状態であるべきでしょうか?

 霊的なエネルギーで治療する人は、他の霊的現象の霊媒と同じく、道具です。つまり、受けたものを伝達するチャンネルです。自分の内部にためるのではなくて外部に送り出すのです。ですから、ヒーラーの身体のどこかが病んでいても、必ずしもそれが治病能力を阻害するとは限りません。治病能力は霊的なものであり、病気は物的なものです。


【Q30】
医者は、大病にもストレスや仕事上の心痛が原因であるものがあるといいます。そうしたケースでは(身体と精神と霊の)不調和は、どの程度まで関わっているのでしょうか?

 今、おっしゃったことは、私が別の言葉で言っているのと同じことです。仕事上の心痛と呼んでおられるのは、私の言う「不調和状態」のことです。精神と肉体と霊とが正しい連携関係にあれば、仕事上の心配も、その他いかなる心配も生じません。心配する魂は、すでに調和を欠いているのです。

 霊的実在についての知識を手にした者は、心配の念を宿してはなりません。とりこし苦労は陰湿な勢力です。霊性の進化した魂には縁のないものです。あなたは、それを仕事上の心痛と呼び、私は不調和状態と呼ぶのです。

 自分が永遠の霊的存在であること、それゆえ物質界には何一つおそれるものはないことを悟ったら、心配のタネはなくなります。


【Q31】
ほんの数分で治してしまうヒーラーもいれば、長時間かけても一向に変化が見られないヒーラーもいます。どうなっているのでしょうか?

 果実を見て木を知るべし、です。大切なのは結果です。ヒーラーは、霊団との最高の調和をめざして日常生活を律すべきです。そうすれば必ずよい結果が得られます。

 あなた方は、身を正すことだけを心がければよろしい。あとは私たちがやります。援助の要請が拒否されることはありません。霊力を出し惜しむようなことは絶対にいたしません。私たちは常に、お役に立つための努力を重ねています。人を選り好みしません。どんな人でも歓迎します。霊力は、すべての人に恩恵をもたらすべく存在しているのですから。

訳注───この質問に対する答え方には、いろいろな視点が考えられるが、この回答は抽象的過ぎるきらいがある。総合的にはQ13,14,15に尽くされているが、次のQ32がその具体例と言えるであろう。


【Q32】
幼児の両脚が奇形である場合に、片方は治ったのに、もう一方は何の反応も見せないことがあります。なぜでしょうか?

 それぞれの脚にそれぞれの原因があって、同じ治療法では治せないということです。一つ一つ治療法が異なります。それぞれの実情にあわせた治療が行なわれます。それぞれに特徴があるのです。

 こうした問題を地上のみなさんにできるだけ平易に説明しようとすると、とても骨が折れます。ほかにも考慮しなければならない条件がいろいろとあるのです。奥に隠れた原因があって、それに絡んだ霊的摂理が働いており、さらにその奥にも次元の異なる摂理が働いているのです。

 霊的治療は、見かけほど単純ではないのです。ただ、患部を治せばよいというものではありません。考慮されるのは、患者の魂の資質に関わることです。それにいかなる影響が及ぶか、治療がいかなる意味をもつことになるか、なぜその治療家のもとを訪れたのか、魂が目を覚ます霊的進化の段階に到達しているか、といったことです。

 いずれも物的尺度では、はかれないことばかりです。が、霊的治療にはそれらがすべて関わっているのです。なぜなら、治療にたずさわっている間は、生命力そのものを扱っているからです。ということは、宇宙の永遠の創造活動に参加していることになります。私が治療の重大性を強調する理由は、そこにあります。


【Q33】
精神に異常のある方は本当に気の毒でならないのですが、ヒーラーとして無力であることを痛感させられます。

 精神の病も治すことができます。私たちに身をゆだねる───あなたに要請されるのは、それだけです。自分を通して霊的エネルギーが流れるようにするのです。じかに治療できない患者には遠隔治療を施してあげなさい。霊的治療は、もはや地上に根づいています。退散させられることはありません。

 ヒーラーとしてのあなたにも、あなたなりの貢献ができます。しかも、とても重要な役割です。忘れないでいただきたいのは、無限の進化の計画のなかにおいて、あなたも神聖なる通路として大霊のお役に立っているということです。光栄このうえない仕事です。が、それだけに責任も重いということです。


【Q34】
心臓移植の問題ですが、霊的視点からどう見ておられますか?

 何ごとも動機が大切です。心臓移植にも、命を永らえさせてあげようという動機に発しているものがあることは、疑いの余地はありません。が、一度実験的に移植手術をしたことがはずみになって、次から次へと手術が行なわれるようになり、いつしか患者を救うという目的からはずれていくことになりかねません。

 それに、そもそも動物を残酷な目にあわせて治療法を開発しようとすること自体、霊的に見て許されることではありません。残酷な手段では健康は発見できません。人間のエゴに発した手段からは、大自然の秘密は見出せません。

 臓器を一人の人間から別の人間に移植することに、私は賛成できません。私は、輸血すら賛成できないのです。私は、あくまで私個人としての考えですが、そもそも物的生命を永らえさせることが、医学の至上目的であるとは思いません。地上の人間は、あくまで日常生活を霊的・精神的・物的の面で良心に恥じない生き方を心がけるように教育すればよい、という考えです。心に宿すことが正しければ行ないも正しくなり、身体も正常に働きます。

 臓器を移植することでは、病気の解決にはなりません。本当の解決法は大霊の意志にのっとった生き方に徹することです。同胞のことを思いやると同時に、この地球という天体を共有している生き物のすべてに対しても、思いやりの情をもたねばなりません。動物は、人間の物的寿命を延ばすための実験材料として地上に送られているのではありません。


【Q35】
現段階では、心臓移植は必ず失敗すると考えてよろしいでしょうか?

 成功することもあることは十分に考えられます。私が心配しているのは、霊的観点から見て、動物実験が間違った方向へ向かい始めていることです。

現在の医学界は、人間の幸せのために献身すべき者がとるべき方向へ進んでいません。今のやり方では、健康は見出せません。健康とは、調和のことです。医学がやっていることは、一時的な人体のパッチワークに過ぎません。

 人間の本質を理解しないといけません。いたって簡単なことです。人間は物的身体と精神と霊の三位一体の存在として、一人ひとりが独自に創造されています。三位一体ですから分解することはできません。

臓器だけを交換することはできないのです。三者で一つの全体を構成しているのです。健康というのは、その三者の一体化、調和、リズム、協調です。それが健康の要諦であり、薬品や医術によって健康になるのではありません。それは一時的な症状の緩和に過ぎません。
 人間は、あまりに無知の度が過ぎます。相変わらず 「死」 をおそろしい怪物のように扱っています。たしかに、死ぬことは怖いかもしれません。しかし、死も大自然の摂理の一環であることは、明らかな事実です。死なないようにすることが地上生活の目的ではありません。地球は、トレーニング・センターです。必ずおもむくことになっている次の生活の場にそなえて、教訓を学ぶところです。

 死すべきときが訪れたときは、いかなる医術をもってしても生き永らえさせることはできません。どうやら医学者も、何をもって死とするかは自信がないようです。死の瞬間について論争しています。が、本当の死は、玉の緒 (シルバーコード) が切れて、霊的身体が物的身体を離れたときです。その現象が起きたら最期、いかなる名医も生き返らせることはできません。

ベールの彼方の生活(四)

 著者: G・V・オーエン(George Vale Owen)

近藤千雄 訳



三章 霊の親族(アフィニティ)
(アフィニティと言う用語はいわゆる類魂(グループソール)よりも親和性の強い間柄に使用される──訳者)

1 二人の天使 2 双子の霊 3 水子の霊


1 二人の天使
一九一八年 二月十一日 月曜日 

 では今夜もまた貴殿の精神をお借りして、前回私が〝歓送の儀〟ならびに〝顕現〟と呼んだところの行事を叙述してみたいと思います。この度の行事にはその両方がいっしょに取り行われたのです。

 今しも中央大ホールには大聖殿の総監からの召集で第十一界の各地から晴れやかな面持ちの群集が列をなして集まっていました。が、面持は晴れやかでも、姿全体にどこか緊張感が漂っています。

というのも、彼らにはこれより厳粛な儀式が行われることが分かっており、この機会に自分の進歩を促進させるものを出来るかぎり摂取しておこうという心構えで来ているのです。

その儀式には神秘的かつサクラメント的な性格があり、吾々はその意味を理解し、意図されている恩恵のすべてを身に受けるべく、上層界より届けられる高き波長に合わせる修行を存分に積んでいるのです。

 全員が集合した時、前回申し上げた天上の雲状のものを見上げたところ、その色彩が変化しつつあるのが分かりました。

私がそのホールへ入ったときは青い筋の入った黄金色をしていました。それが今は次々と入場する群集が携えてくる色調を吸収し融合していき、数が増えるにつれて色彩が変化し、そしてついに全員が集結した時は濃い深紅のビロードの色調となっていました。

地上の色彩の用語で説明すれば以上が精一杯です。実際にはその色彩の表情に上層界からの高度なエネルギーの影響が加わっており、すでに何かの顕現が行われる準備が出来ていることを窺わせておりました。

 そう見ているうちに、その雲状のものからあたかも蒸溜されたエッセンスのようなものが霧状となって降下し、甘美な香気と囁きの音楽とともに個々の列席者にふりそそぎ、心に歓喜と安らぎの高まりを引き起こし、やがて吾々全員が完全なる融和状態へと導かれていきました。

その状態はあたかも細胞のすべてが一体となって一個の人体を構成しているごとくに、出席者全員がもはや個人としてでなく全体として一つの存在となっているのでした。それほどまで愛と目的とが親和性において一つになり切っていたのです。

 やがて謁見の間へ通じる道路の前に一個の雲状の固まりが現われ、凝縮しつつ形体を整えはじめました。

さて私はこれより展開することを精一杯描写するつもりですが、貴殿によくよく留意しておいていただきたいのは、かりに貴殿がその通りを私と同じ界の者に語って聞かせたら、その人は確かにそういう現象があったことは認めても、言い落していること、用語の不適切さ等のために、実際に起きたものとは違うことを指摘するであろうと言うことです。

 その雲状の固まりは表面は緑色で、内側に琥珀色の渦巻状の筋が入っており、それに青色の天蓋がかぶさっておりました。

それが休みなくうごめいており、やがてどっしりとしたパピリオン──濃い青紫色の天井と半透明の緑と琥珀色の柱をした館──の姿を見せました。半円形をした周囲に全部で七本の柱が並び、さらに表面玄関の両わきに二本見えます。

この二本は全体が濃紫色で、白の縁どりのある深紅の渦巻状の帯が巻いています。

パピリオン全体がその創造に携わる神霊の意念によって息づき、その構造から得も言われぬメロディの囁きが伝わってくるのが感じ取れました───聞くというよりは感じ取ったのです。こちらでは貴殿らのように聞くよりも感じ取る方がいっそう実感があるのです。


 やがて天蓋の下、七本の柱のちょうど中央に当たる位置に一台の四輪馬車が出現しました。後部をこちらへ向けております。五頭の美しい馬が頭を上げ、その厳かなドラマに一役買っていることをさも喜ぶかのような仕草をするのが見えます。

肌はほのかな黄金色に輝き、たてがみと尾はそれより濃い黄金色をしております。見るからに美しく、胴を飾る繻子(サテン)の掛けものもパピリオンの色彩を反映してうっすらと輝いております。

 続いてその馬車の中に現れたのは美しい若い女性の姿でした。吾々の方を向いておられ、私の目にはその美しさのすべてを見ることができました。見れば見るほど、ただただ美しいの一語に尽きます。全身が地上に存在しない色合いをしております。

琥珀色といってもよろしいが、同じ琥珀でもパピリオンの柱のそれとは感じが異なります。

もっと光輝が強く、もっと透明ですが、柱には見られない実在感と永続性を具えております。上腕部には紫の金属でできた腕輪(バンド)をつけ、手首のところにルビーの金属の輪が見えます。

頭部には白と黄色の筋の入った真っ赤な小さい帽子をつけておられ、髪はあたかも沈みかかった太陽の光を受けているような、オレンジ色の光沢をした茶褐色をしております。目は濃紫に青の混じった色をしておられます。

 さて、そうしたお姿に見入っているうちに突如として私は天上界からお出ましになられたこの女神が・・・・・・いけません。

その方が吾々にいかなる意味を持つのか、本来の界においていかなるお立場にあるのかをお伝えしたいのですが、それを適確に言い表わす用語が思い当たりません。しばらく間を置かせてください。それからにしましょう。


 では、こう綴ってください。母なる女王。処女性。一民族を懐に抱きつつ、進歩と善へ向けての力として、その民族の存在目的の成就へと導く守護神。

一方において惰眠をむさぼり進歩性を失える民族に啓示をもたらしてカツを入れ、騒乱の危険を冒してでも活動へとかきたて、他において、永遠の時がこのいっときに集約され、すべてが安寧の尊厳の中に融和し吸収され尽くしたかの感覚をすべての者に降り注ぐ。

すべてを曝しても恥じることなく、美への誘惑がことごとく聖(キヨ)さと哀れみと愛へ向かうところの、恐れることを知らぬ心と純粋性。

以上のものをひとまとめにして、これを〝女王〟という一語で表してみてください。その時のお姿から吾々が得たものをお伝えするにはそれが精一杯です。

 さて、その女王が後ろを振り向いて一ばん近い二頭の馬に軽く手を触れられると、馬車はくるりと向きを変えて吾々の方へ向きました。

するとそこへホールの反対側の二階の回廊から一人の若者が降りてきて、中央の通路を通って馬車の近くで歩を止められました。そこで女王がにっこりと笑みを送ると、若者は後部から馬車に乗り、女王のそばに立ちました。

そのお二人が立ち並んでいる時の愛と聖なる憧憬の中の、得も言われぬ睦み合い───互いが己れの美を与え合って互いの麗しさを増しております。


──その若者の様子を述べていただけませんか。

 若者は右に立たれる女王をそのまま男性としたようなものです。両者は互いに補足し合うもの、言わば〝対〟の存在です。ただし一つだけ異なるところがありました。

身にまとわれた衣装がわずかながら女王のそれより赤みがかっていたことです。それ以外にお二人を見分けるものはとくにありませんでした。

性別も身体上ではなく霊性に表われているだけでした。にもかかわらず、一方はあくまで女性であり、他方はあくまで男性でした。ですが、お二人には役割があります。

 お二人は、これより、ある雄大な構想を持つ画期的な計画を推進する大役を仰せつかった一団の指揮者として参られたのです。

その計画の推進には卓越した才能と多大な力とを要するために、一団はそれまでに大聖堂を中心とした聖域において準備を整えてきたのでした。その計画というのはこうです。

 現在ある天体上の生命がようやく〝知性〟が芽生えはじめる進化の階梯に到達していて、その生命を動物的段階からヒトの段階へと引き上げ、人類としての種を確立させるためにその天体へ赴くというものです。

人類といっても、現在の地上人類のタイプと同一のものとはならないでしょうが、大きく異なるものでもなく、本質においては同種です。

一団はその人類のこの画期的段階における進化を指導する仕事を引き受けることになっているわけです。計画のすべてを受け持つのではありません。

また今ただちに引き受けるのではありません。今回は彼らの前任者としてその天体を現在の段階にまで導いてきた〝創造の天使たち〟と初めて面会することになっております。彼らは時おり休息と指示を仰ぎに帰ってきます。

その間、一部の者が残留して仕事を続行し、休息を得た者は再びその天体へ赴いて、残留組と交替し、そうやって徐々に仕事を広げて生きつつありますが、他方では(今回の一団のように)この界または他の界において、次の新たな進化の段階を迎える時に備えて、さらに多くの天使からなる霊団を組織して鍛錬を積んでいるのです。

彼らはその天体が天界の虚空を旅しながら首尾よくモヤの状態から組織体へ、単なる組織体から生ける生命体へ、そして単なる生命体から知性を具えた存在へ──これを地上に擬(なぞら)えて言えば、動物的段階から人間的存在を経て神格を具えた存在へと進化していくのを陰から援助・促進するのです。

 間もなく吾々の見送りを受ける一団は、これから最初の試練を受けることになります。

といって、いきなり創造に携わるのではなく──それはずっと先の話です──創造的大業の末端ともいうべき作業、すなわち、すでに創造された生命を別の形体へと発展させる仕事を割り当てられます。

それも、原理的には創造性を帯びておりますが、まったく新しい根源的な創造ではなく、低級な創造物の分野にかかわる仕事です。

 ここで注目していただきたいのは、お二人が出現なさった時、順序としてまず女性の方が馬車の中に姿をお見せになり、それから男性が姿を見せたことです。

この王国においては女性原理が優位を占めているからです。が、お二人は並んでお立ちになり、肩を並べて歩まれます。

そこに謎が秘められているのです。つまり一方が主であり他方が従であるはずのお二人がなぜ等位の形で一体となることが出来るかということです。現実にそうなっているのです。しかし私からこれ以上話さないことにします。

あなた方ご自身でお考えいただくことにいたしましょう。理屈でなしに、真実性を直感していただけると思うのです。(章末にその謎を解くカギが出てくる──訳者)

 いよいよその厳粛なる使命のために選ばれた霊団──遠く深い暗黒の虚空の最果てへ赴く霊団がやってまいりました。彼らが赴くところは霊質に代って物質が支配する世界です。

ああ、光明の天界より果てしなく濃密な暗黒の世界へ──環境はもとより、吾々と同じ根源を有する生命の火花を宿す身体も物質で出来ている奈落の底へと一気に下がって行くことが吾々にとっていかなることを意味するか、貴殿にはまず推し測ることはできないであろう。

 かつて私も霊団を従えて同じような境涯へ赴いたのです。不思議といえば不思議、その私と霊団が今こうして物的身体に閉じ込められた貴殿に語りかけているとは。

もっとも、吾々の目には貴殿の霊的身体しか映じません。それに向けて語りかけているのです。が、可憐なるカスリーン嬢が彼女特有の不思議な魔力を駆使して吾々よりさらに踏み込み、直接貴殿の物的脳髄と接触してくれております。

 さて今回はこれ以上述べることはありません。質問が幾つかおありのようですね。私にはそれが見て取れます。お書きになってください。次の機会にお答えしましょう。
                           アーネル ±

 訳者註──ここには記載されていないが、実際にはこのあと質問事項が箇条書きにしたことが四日後の次の通信の冒頭から窺われる。




2 双子の霊
一九一八年 二月十五日 金曜日

──前回お話しくださった儀式のことは、あれでおしまいですか。まだお話しくださることがあるのでしたら、私の質問に対する答えはあとまわしにしてくださって結構です。そちらのご都合に合わせます。

 どちらでも結構ですが、(前回のおしまいのところで)お書き留めになった質問の中に今ここでお答えしておいた方がよいものがあるようです。


──〝二人の天使は地上ではどこの民族に属していたか〟──この質問のことでしょうか。

 それです。そのことに関連してまずご承知おき願いたいのは、あの二人の若い天使の誕生は実は太古にまで遡るということです。

あれほどの霊力と権威とを悠久の鍛錬と進化の過程を経ずして獲得し、それをあのような任務に行使するに至るという例はそう滅多にないことです。お二人は双子霊なのです(※)。

地球がまだ現在のような環境となっておらず、人類がまだこれからお二人が霊団を率いて赴く天体上の人種と同じ発達段階にあったころに地上で生活なされました。その段階の期間は随分永く続きました。その間にお二人は知性の黎明期を卒業し、それから霊界入りしました。

その時点から本格的な試練がはじまり、同じ人種の中でも格別に進歩性の高いお二人は、各種の天体を低いものから高いものへと遍歴しながら、最後は再び地上圏へ戻って来て、さらに進化を遂げられました。

そのころは地球も合理的思考の段階、ほぼ今日の人類と同じ発達段階に到達しておりました。(※ Twin souls シルバーバーチはこれを一つの霊の半分ずつが同時に物質界に誕生した場合のことで、典型的なアフィニティであるという──訳者)


──青銅器時代、それとも石器時代、どっちですか。

 同じ人類でも今おっしゃった青銅器時代にある人種もいれば鉄器時代にある人種もおり、石器時代にある人種もいます。人類全体が同じ歩調で進化しているのではありません。そのくらいのことはご存知でしょう。今の質問は少し軽率です。

 地上人類が知性的発達段階にあった時期──こう言えば一ばん正確でしょう。それは歴史的に言えばアトランティスよりもずっと前、あるいはレムリアと呼ばれている文明が登場するより前のことです(※)。

お二人は地上近くの界層まで降りて強力な霊力を身につけ、さらに知識も身につけ、もともと霊性の高いお方でしたから、一気に地球圏を卒業して惑星間の界層へと進まれ、さらには恒星間の界層へと進まれたものと想像されます(第一巻六章参照)。

と言うのも、敢えて断言しますが、それほどの使命を仰せつかる方が、自転・公転の運動と相互作用を続ける星雲の世界を統率する途方もない高級エネルギーに通暁していないはずはないからです。

(※アトランティス大陸もレムリア大陸も共に伝説上のものとする説があるが、実際に存在していたことがこれで知れる──訳者)

 お二人が自分たちがアフニィティであることを悟ったのはそのあと霊界へ戻ってからのことで、霊的親和力によって自然に引き寄せられ、以来ずっと天界の階梯を向上し続けておられるのです。


──地球以外の惑星との接触はどういう形で行ったのでしょうか。再生したのでしょうか。


 再生という用語は前生と同じ性質の身体にもう一度宿るということを意味するものと思われます。もしそうだとすれば、そして貴殿もそう了解してくださるならば、地球以外の天体上の身体や物質に順応させていく操作を〝再生〟と呼ぶのは適切ではありません。

というのは、身体を構成する物質が地上の人間のそれと非常に似通った天体もあるにはありますが、全く同じ素材で出来ている天体は二つとなく、全く異なるものもあります。

 それ故、貴殿が今お考えになっているような操作を再生と呼ぶのは適切でないばかりか、よしんば惑星間宇宙を支配する法則と真っ向から対立するものではないにしても、物的界層の進化の促進のためにこの種の問題を担当している神霊から見れば、そう一概に片づけられる性質ものでないとして否定されることでしょう。

そうではなくて、お二人はこの太陽系だけでなく他の恒星へも地上の場合と同じように、今私が行っている方法で訪れたのです。

 私はこの地上へ私の霊力の強化のために戻ってまいります。そして時には天体の創造と進化についての、より一層の叡智を求めて、同じ方法で他の天体を訪れます。が、物質的身体をまとうことは致しません。そういうことをしたら、かえって障害となるでしょう。

私が求めているのは内的生活、その世界の実相であり、それは内部から、つまり霊界からの方がよく判ります。物的世界のことはそこの物質を身にまとって生まれるよりも、今の霊としての立場から眺めた方がより多く学べるのです。

魂をそっとくるんでくれる霊的身体よりはるかに鈍重な器官を操作しなければならないという制約によって、霊的感覚がマヒしてしまうのです。

 お二人の体験を私自身の体験を通してお答えしてみたのですが、これでお分かりいただけたでしょうか。


──どうも恐縮です。よく分かりました。

 結構です。お気づきでしょうが、創造全体としては一つでも、崇高なる喜悦の境涯にまでも〝多様性〟が存在し、その究極の彼方において成就される〝統一性〟の中において初めて自我についての悟りに到達する。

それまでは神の時計の振子が永遠から永遠へと振り、その調べのリズムがダイナミックな創造の大オーケストラの演奏の中で完全に融合し全体がたった一つの節となってしまう。

その崇高なる境涯へ向けて一日一日を数えながら辿った来(こ)し方を振り返るごとに、それまでの道程が何と短いものであるかを痛感させられるものです。

 私が今置かれているところもやはり学校のようなところです。この界へ上がり聖堂へ入ることでようやく卒業した試練の境涯から、ほんの一段階うえの学校の低学年生というところです。お二人の天使もここを通過されてさらに高い学校へと進級して行かれました。

そしてこのたびのように、かつてのご自分と同じ鍛錬の途上にある者の教師として、あるいは指導者として戻って来られるのです。


──お二人の名前を伺いたいと思っていたのですが・・・・・・

 思ってはいたが前と同じように断られるのではないかと思って躊躇された・・・・・・のですね? さてさて、困りました。やはり(アルファベットで)書き表せる名前ではないのです。こうしましょう。貴殿の思いつくままの名前をおっしゃってみて下さい。それを差し当たってのお名前といたしましょう。


──これまた思いも寄らなかったことです。

 いやいや、今お考えになって書いてくださればよろしい。本当の名前を知っていながらそれが書き表せない私よりも(何もご存知でない)貴殿が適当に付けてくださる方がいいでしょう。本当のお名前はアルファベットでは書こうにも書けないのです。さ、どう呼ばれますか。


──マリアとヨセフではいかがでしょう。

 これはまた謎めいたことをなさいました。その謎は貴殿にはよくお判りにならないでしょうが、ま、その名前で結構です。いけないと言っているのではありません。

結構ですとも。お二人をお呼びするにふさわしい意味をもつ名前を歴史上に求めれば、それしかないでしょうから。その意味については述べないでおきます。〝聞く耳ある者は聞くべし〟(マルコ4・9)です。

ではその名前で話を進めましょう。マリアにヨセフ。貴殿はその順序で述べられました。その順序でまいりましょう。ぜひそうしてください。それにも意味があるのです。


──地上時代の名前や年代はとても伝えにくいようですね。そちらからの通信を受けている者には一様にそう感じられます。どうしてなのでしょう?

 貴殿は少し問題を取り違えてますね。今おっしゃったのはかつての地上での名前と生活した時代のことでしょう。


──そうです。

 そうでしょう。では名前のことからお話ししましょう。これは死後しばらくは記憶しています。しかしそのうち新しい名前をもらってそれをいつも使用するので、地上時代の名前は次第に使わなくなります。

すると記憶が薄れ、おぼろげとなり、ついにほとんど、ないしは完全に記憶が消滅してしまいます。地上に親族がいる間はさほどでもありませんが、全員がこちらへ来てしまうと、その傾向が促進されます。

やがて何世紀もの時の流れの中で他の血族との境界線がぼやけて混り合い、一つの血族だけのつながりも薄れて、最後は完全に消滅します。例外もあるにはあります。

が、それも僅かです。それと同時に少しずつ名前の綴りと発音の形態が変わっていき、そのうちまったく別の形態の名前になります。しかし何といっても進化に伴って地上圏との距離が大きくなるにつれて地上時代への関心が薄れていくことが最大の要因でしょう。

霊界でのその後の無数の体験をへるうちに、すっかり忘れ去られていきます。記録を調べれはいつでも知ることはできます。が、その必要性も滅多に生ずるものではありません。

 地上時代の年代が思い出しにくいのも似たような理由によります。吾々の関心は未来にありますので、この問題はさしあたっての仕事にとっても無意味です。

もう一つの事情として、地上時代のことが刻々と遠ざかり、一方では次々と新しい出来ごとがつながっていくために、今ただちに地上時代のことを拾い出してそれが地上の年代でいつだったかを特定するのはとても困難となります。

もっとも地上の人間からのそうした問い合わせに熱心に応じる霊がいるものでして、そうした霊にとっては簡単に知ることができます。

が吾々のように他に大切な用件があり、今という時間に生きている者にとっては、急に航行先の変更を命じられて回れ右をし、すでに波がおさまってしまった抗行跡を引き返して、その中の一地点を探せと言われても困るのです。

その間も船は大波をけって猛スピードで前進しているのです。その大波の一つ一つが地上の一世紀にも相当すると思って下さい。そうすれば私の言わんとしていることが幾らかでもお分かり頂けるでしょう。

 では今回はこの辺で打ち切って、次の機会に同じ話題を取り上げ、神の名代である二人の天使、マリアとヨセフについて今少し述べることにしましょう。
  アーネル ±


3 水子の霊の発育
一九一八年 二月二十二日 金曜日

 今夜お話することは多分貴殿には本題から外れているように思えるかも知れません。が地上で当たり前と思われている生活とは異なる要素を正しく理解する上で大切なことがらについて貴殿の認識を改めておく必要があるのでお話します。

 それは、同じく地上から霊界へ誕生してくる者の中でも、地上で個的存在としての生活を一日も体験せずにやってくる、いわゆる死産児のことです。

そういう子供は眠ったままの状態でこちらへやって参ります。その子たちにとってのこちらでの最初の目覚めは、地上での誕生時と同じ過程であることは理解していただけるでしょう。

ただ、地上の空気を吸ったことが無く、光を見たこともなく、音を聞いたこともありません。要するに五感のどれ一つとして母胎内での自然な過程の中で準備してきた、その本来の形で使用されたことがありません。

従ってそれぞれの器官はほぼ完全に近い状態であっても完全に出来上がってはいません。その上、脳髄が五官からのメッセージを処理する操作をしたことがありません。

そういうわけで、死産児としてこちらへ来た子供は潜在的には地上的素質は具えてはいても、経験的にはそれが欠けています。ただ、たとえ数分間にせよ、あるいはそれ以下にせよ、実際に生きて地上に誕生したあと他界した子供はまた事情が異なります。

 こういう次第ですから、死産児の霊の世話に当たる人たちが解決しなければならない問題はけっして小さいものではないのです。まずその霊が自然な発育をするように霊的感覚器官を発達させてやらねばなりません。

それから霊的脳髄にその器官からの情報を処理する訓練をさせてやらねばなりません。
数分間でも生きていた子の場合であれば脳と器官との連絡がわずかながらも出来ておりますから、その経験をその後の発達の土台として使用することができます。

が、死産児にはそれが欠けていますから、こちらの世界でそれをこしらえてやる必要があります。それが確立されさえすれば、あとは普通の子供と同じように、発育の段階を一つ一つ重ねていくだけとなります。

 この段階での育児には、たとえ面倒でも、さまざまな手段が講じられます。たとえばその子供と地上の両親との間、とくに母親との間には特殊なつながりがあります。

そこで、出来るだけ母胎からの出産に似た体験をその子にさせて、その体験を通じて母胎からの肉体的分離つまり独立した個体となったという感触を味わわせます。

むろんこれは肉体では出来ませんから、子供の霊的身体と母親の霊的身体とを使って行います。これによって自然な出産がもたらすほどの密接な脳と器官との連絡関係が得られるわけではありませんが、一応、地上の親との関係は確立されます。そしてその時点からその子供は地上の母親とのつながりを保ち、可能な限り普通の子供と同じような発育をするよう配慮されます。

それでもやはり、地上に誕生した体験を持つ子供との間にある種の相違点がどうしてもあります。地上体験から得られるきびしさに欠けている面がある一方、地上体験のある子供よりも性格と考え方に霊性が見られます。

しかし、成長とともに地上体験のある子供は霊性を身につけ、死産児は母親との繋がりを通じて、さらに成長してからは他の家族とのつながりを通じて、地上の知識を身につけていきますから、その相違点は次第に小さくなり、ついにはほぼ同等の友情関係まで持てるようになり、互いに自分に欠けているものを補い合えるようになります。

 かくして一方は柔らかさを身につけ、他方は力強さを身につけ、一つの共同体の中で、有益であると同時に楽しい〝多様性〟の要素をもたらすことになります。

 以上の話から貴殿も、地上の両親の責任が死後の世界の子孫にとっていかに大きいかがお分かりになるでしょう。死後の育児にとっても両親との接触が必要だからです。地上の血縁関係の人との接触の無い子供は正常な発育が得られない──他の何ものによっても補えない、欠落した要素があるのです。

かりに両親が邪悪な生活を送っている場合は、地上の時間にして何年もの間その両親に近づかないようにしておいて、そうした子供の保育に当たっている人たち(※)からみて大丈夫と思えるだけの体力と意志力と叡智を身につけるように指導する必要があります。

(※地上において子宝に恵まれず母胎本能が満たされないまま他界した女性であることがこのあとに出てくる──訳者)

ところが、子供が地上的影響力にさらされても安全という段階に至らないうちに、親の方が地上の寿命が尽きてこちらの世界へ来るというケースがよくあります。そうなった場合子供は祈りを頼りとするほかなくなります。

 その場合の親にはもはや地上で乳房をふくませた子供に対する情愛は持ち合わせません。あるいは自分にそんな子がいたことすら知らないでしょう。

ですから、二人の間の絆は──かりに残っていても弱いものですが──子供が向上していくにつれてますます薄れていき、一方母親の方は浄化のための境涯へと下りて行きます。その浄化のための期間を終えて再び戻ってきた頃には、子供の方は既に母親の手の届かない高い境涯へと進化していることでしょう。

 子供の方では母親を認識しております。そして母親の気付かないうちにもいろいろと援助しております。しかし親と子を結びつける本来の温かい情愛の絆は、向上進化を基調とした天界での通常の生活では存在しないし、有り得ないことになります。

 この話を持ち出したのは、吾々から見ると地上にはこうした(水子の)問題において母性が持つ重責が余りに無視されているからです。

地上にて花開くことなく蕾のうちにむしり取られた、そうした優しい花は余りにも可憐であり、親を知らないことからくる物憂げな表情が歴然としているために、それを見る者は悲痛な思いをさせられるものです。

といって今その子供たちが不幸だと言っているのではありません。およそ不幸といえるものとは縁遠いものです。

ただ、さきも言った通り、他の何ものによっても補えない欠落した要素があり、これは地上で母性本能を満たされなかった女性が母親代わりに世話してあげても、ほんの部分的に補えるだけです。

そこで(永い永い進化の旅の中で)一方が他方の欠けているものを与え、また自分に欠けているものを受け取っていくということになるのです。その関係は見ていて実に美しいものです。


──お伺いしますが、このような話をなぜここに挿入されたのでしょうか。これまでの話題と何の関係もなさそうですが・・・・・・

 それが実は、あるのです。
今お書きになった質問が貴殿の精神の中で形成されていくのが私には分かっておりました。そしていずれお聞きになるものと思っておりました。

 今夜この話題を持ち出したことは、れっきとした意図がありました。こうしたことを知っていただかないことには、貴殿がマリヤとヨセフと名付けられたあの女王とその配偶者についての理解は不可能だからです。

実は遠い昔、お二人は今夜お話したような関係にあったのです。それで初めにお二人の話をしておいたのです。お二人はついにあのような形で愛の絆を成就されたのです。
                            アーネル ±

 追伸──この十字のしるしに注目されたい。いろいろと大切な意味が込められていますが、その一つが〝両性の一体化〟です。ここではその意味で記しております。

ベールの彼方の生活(四)

著者: G・V・オーエン(George Vale Owen)
近藤千雄 訳



二章 
聖なる山の大聖堂
1起 源   2構 造



1 起 原
一九一八年二月五日 火曜日


 貴殿はかの聖なる山の大聖堂の起源と構造について語ってほしがっておられる。
 それは第十界と第十一界の中間に位置している。ということは、両方の界から見ることが出来るということであり、どちらにも属していないということです。

 その起源はこうです。ずいぶん昔のことですが、試練の末に首尾よく第十界から第十一界へと向上していく者が大勢いた時代がありました。

しかし第十界は下層界での修行の旅の中で身につけた霊力と霊性の全属性が仕上げられ、まとめあげられる界であると言えないこともありません。

つまりここで雄大な旅程の一段界を終え、次からはそれまでとは次元の異なる進化と発達の段階が始まる、その大きな節目に当たる界なのです。

 そうしたスピリットが向上の過程において果たしてきた仕事はおおむね守護と強化の目的を帯びていた。多分貴殿は守護霊と呼びたいであろう。その任務はたしかに発達を促進するし、向上するにつれてますます崇高性を帯びていきます。

が、地上ならびにそのあとに続く下層界において見守られ援助を受けている者との関係においては、さまざまな様相を呈していても、本質においては同じ次元に属することです。

 しかし、この第十一界に突入するスピリットには別の次元の仕事が待ち受けております。いよいよ〝創造性〟を帯びたものとなっていきます。

同じく宇宙の大いなる神秘を学ぶにしても現象として顕現しているところの〝動〟のエネルギーではなく、父の館に住める大天使のもとに近づくにつれて見出されるところの潜在的創造エネルギーについて学ぶのです。

そうすることによって彼らはそれまで身につけた霊性に加えて、より高い霊性を身につけ、一界又一界と上の界へ融合していき、創造の神秘の巨大さを崇高なる美しさの中で明かされる境涯への突入に備えるのです。それが聖堂の使用目的の一つであり、実はそれが最大の目的でもあります。

その他はここで述べるほどのものではありません。それよりは貴殿は聖堂の建物の平面図と立面図を描写して欲しがっておられるようです。

吾々もそのつもりでおりますが、それに先立ってぜひ心しておいていただきたいことがあります。それは、今述べた使用目的の叙述においてもそうなのですが、その様相についての吾々の叙述は不完全を免れないということです。

それというのも、聖堂は物質ではなく霊質によって出来上がっているのみならず、その霊的大気と環境が昇華作用によって強烈さを測り知れないほど増しております。

それを力学ないしエネルギーの潜在力の用語に置き換えて何と呼ぶべきか───吾々はいい加減な当てずっぽうは控えたい。何となれば地上の言語ではとても当を得た表現は不可能だからです。

 聖堂建立の目的を一言にしていえば、さまざまな異質の様相を持つ二つの界の融和です。

つまり第十界を去って第十一界へと突入する段階に至ったスピリットたちがここに集結し、かなりの期間滞在しながら折りある毎に第十界ないしそれ以下の界へ降りては、それまでと同じように、その界の住民の援助と守護と指導と啓発に従事する。

しかしそれと同時に上層界のスピリットに付き添って第十一界へと足を踏み入れることも始める。初めのうちはあまり深く入りません。またあまり長く滞在しません。

が、霊力を強化し、その界の精妙なバイブレーションに慣れるにつれて少しずつ奥へ踏み入り、かつ又、滞在期間を長くしていきます。戻ってくるとその聖堂で休息を取ります。

と言っても、多分その間に下層界への任務を言いつけられて降りていくことになろう。

現に貴殿はそうした任務の一つとして私が霊団とともに下層界、それも地獄ともいうべき境涯まで降りていった話を受け取っておられる。あの任務は吾々にとって実に厳しい試練でした。

何しろ吾々が足を踏み入れた界は一つや二つではなく、地上からこの界に至るまでの全域に亘った上に、さらに地上より低い界までも踏み込んだのです。

忍耐力と環境への適応能力と、霊団全体が身体的並びに精神的に一丸となって吾々の通常の生活環境と気候とはまったく懸け離れた条件下での問題を処理していく能力をこうまで厳しくテストされたことには、それなりの意図がありました。

聖堂の居住者であり、第十一界への突入の段階を迎えた私にとってはそれが最終的な試練であり、私に付き添った霊団のうち十二名にとっては第九界より第十界への向上のための試練であり、残りの二名にとっては第十界よりこの聖堂へ入ってそこの居住者となるための試練でした。

 また私が例の一団を暗黒界から救出し光明界へ向けて導く任務を与えられたことには特別の意味があったことに気づかれるでしょう。いよいよ創造的能力が威力を増し鍛えられていく上層界へ召される前の、私にとっての最終的な試練だったのです。

その時はそれが理解できず、今なお本当に理解しているとは言えませんが、こうした中にも私の最終的な啓発はすでに始まっているらしく、かつてあれほどの苦界に身を沈めていたのが今はどうにか寛ぎを見出し、少なくとも約束した道に励む者にとって幸せとは何かを知ることが出来るまでになったあの者たちを待ち受けている栄光が、私にも少しばかり見透すことができるように思えるのです。


──ではあなたはすでに第十界から第十一界へ入られたわけですか。

 まだ恒久的に十一界の住民になったわけではありません。今のところまだ聖堂の住民の一人です。ですが次第に十一界の環境条件に調和していきつつあります。

そうした生活を構成する要素は数かぎりなく、しかもそのうちのどれ一つを取ってみても極めて重要なことばかりなので、そのうちの一つでも見逃さずにお伝えしたいと思う一方、その千分の一を語るにしても、貴殿にはその時間も用語もないという情況なのです。

 聖堂での滞在はまず必ずといってよいほど長期間に及びます。私の場合は格別に永くなることでしょう。その理由はこうです。

 私には監督し援助し向上の道から外れないようにしてやらねばならない大事な預かりものがあります。バーナバスの民のことです。今でも私は時おり彼らの目に映じる身体をまとって自ら訪ねなければなりません。

ですから、いつ何どきでもその状態になれるよう体調を整えておかねばなりません。それも現在の界層から一つや二つ下がった境涯ならまだしも、はるか下界の、言うなれば宇宙の暗い果てに降りていかねばならないのです。

 従って今の私には二重の仕事があるわけです。この聖堂のある台地へ立って一方の手は天上へ向けて何ものかを得んとし、もう一方の手は下界へ下ろして何ものかを与えんとしている。

そうです。そういうわけです。どうやら分かっていただけたようですので、これ以上駄弁は要らないですね。私の言わんとするところはお分かりでしょう。


──ザブディエル霊は第十一界へ入られたのでしたね。

 いかにも。重要な任務は十一界へ移ったわけです。ですが、時おり聖堂へ立ち寄られ、そこで曽ての身体的条件をまとわれて下界へと降りていかれる。戻られるとやはり聖堂を通過して本来の任務地へと向かわれる。

 さて、聖堂の様子や環境についてはこの度はこれまでとしよう。引き続き聖堂の内部を紹介することにしようと思います。が、今回はこれにて終わりとします。貴殿は力を使い果たしておられる。


──最後にひとことお名前のことでお聞かせください。〝リーダー〟というのが唯一私が存じ上げてるお名前ですが、これが私はどうも感心しません。

 これは恐れ入りました。しかし、地上の聖賢がいかなる名言を吐こうと(※)名前というものにはある種の力があるものです。私は聖堂より上の界においては別の名で知られておりますが、下層界では〝アーネル〟の名で呼ばれております。よろしかったら貴殿もそうお呼びくださって結構です。

(※どの名言を指すのかは心当たりがないが、私の知る限りではシェークスピアの「ロメオとジュリエット」にこんな一節がある。

 いったい名前に何の意味があるというのか
 バラと呼んでいるあの花、
 あれをどう呼びかえようと
 あの美しさに何の変りもあるまいに──訳者)


──私の母からの通信に〝アーノル〟という名前の方が出てきましたが・・・・・・

 地上には天上の名前をうまく表現する文字の配列も語句もありません。ご母堂が紹介されたのはこの私です。どちらでもお好きなようにお呼びください。いずれにせよ、これからはその名前でいきましょう。その名前でよろしいか──いや、貴殿に〝感心〟していただけるであろうか?

──これは一本やられました。結構です。そうお呼びすることにしましょう。

ぜひそうしていただきましょう。何しろ今までの名前では貴殿に耐えがたい思いをさせ、あまり好意を持っていただけなかったのですから。ではお寝みを申し上げましょう。
                              アーネル ±

  原著者注──アーネルが署名したのはこの日が最初で、それ以後は必ず署名し、さらに十字の記号を付した。(見慣れない記号であるが、その象徴的意味を三章の終わりのところで説明している──訳者)



2 構 造
一九一八年 二月 八日 金曜日

 〝聖なる山の大聖堂〟の使用目的についてはすでに述べました。今度はその構造そのものについて少しばかり述べてみましょう。と言っても、詳しいことは説明しません。不可能だからです。

 広大な草原に切り立った崖が聳えております。その頂上の台地に聖堂が建っております。草原から目に入る部分は小さな翼廊だけで、本館は見えません。何千何万もの大群集が集結して見上げた時にまず目に入るのは、こちら側に面した翼廊のポーチとその側壁とアーチ型の窓である。

高々と聳えるその位置、雄大な規模、均整のとれた建築様式は、その位置から見上げただけでも実に堂々としていて、且つまた美しいものです。

 そのポーチから入り、それを通り抜けて中へ入ると、吾々は右へ折れ、天蓋はあっても側壁の無い柱廊(コロネード)を通って進みます。

そのコロネードは、通路と交叉する幾つかの箇所を除いては、本館全体をかなりの距離を置いて取り囲むように走っており、吾々の位置から左手へ行くと中央聖堂へ至り、右手へ行くと別の幾つかの翼廊へと至る。

その翼廊の一つひとつにポーチが付いている。しかしそれは全部第十一界の方角へ向いており、吾々が通った翼廊だけが第十界へ向いている。

翼廊は全部で十一個あり、その一つひとつに特殊な使用目的がある。その〝十〟という数字は下界の十の界層とは関係ありません。それから上の十の界層と関連しているのです。


──その〝十〟という数字には第十界の方を向いているポーチも含まれているのですか。

 いえ、あれはあれのみの独立した存在で、関係するのは下界のことのみです。十個の翼廊は第十一界およびその後に続く十の界層と関連しております。それぞれの翼廊に大きなホールがあります。翼廊は一つひとつ形が違っており、二つとして同じものはありません。

貴殿には理解しかねることかも知れませんが、各翼廊はそれと関連した界を構成する要素の特質を帯びており、常にその界と連絡が取れております。上層界の情報はぜんぶそこの翼廊に集められ、第十一界の言語に翻訳された上で、その場で処理されるか、必要とあれば関連した地域へ発信される。

 また、聖堂内の住民が上層界へ赴いている間もこの翼廊と間断なく連絡が維持され、一界また一界と上昇していくのを追いながら絶えず連絡を取っている。

 吾々はコロネードと交叉している通路の一つを左へ折れます。その通路は中庭を通り、庭園を過(よぎ)り、そして森を突き抜けています。

いずれも美しく手入れされ、噴水あり、彫像あり、池あり、色とりどりの玉砂利を敷きつめた小道、あずまや、寺院──その幾つかは上層界の寺院の複製ですが実物ほど雄大ではない──があります。そしてついに(複数の建物から成る)本館へ辿り着きました。

本館にも十個のポーチがついています。ただしここのポーチは通路とは連絡されておらず一つひとつが二本の通路から等間隔の位置にあり、通路はすべて本館と直接つながっております。

つまりポーチは通路にはさまれた地域に立っており、各地域がかなりの広さを持っております。地上ならさしずめ公園(パーク)と呼ぶところでしょう。

何しろ聖堂全体は途方もなく広く、各地域に常時何万を数える住民が住んでいるのです。それほど一つひとつの地域は広く、そこに家屋と庭園が点在しているのです。

 さて吾々は第十二界の翼廊と第十三界の翼廊───こういう呼び方をしているわけではありませんが、貴殿の頭の混乱を避けるために便宜上そう呼ぶまでのことです───の中間に位置するポーチの前まで来て足を止めました。

その一帯に広大なテラスが広がっています。ポーチとつながっていて、美しい土地を次第に上昇しながら、はるか地平線の彼方に見える山々の方へ向けて広がっている。

実はそこから本来の第十一界が始まります。大聖堂は第十一界の一番端に位置していることになります。つまりポーチからいきなりテラスとなり、それがその地域全体に広がっているわけです。

目も眩まんばかりの琥珀色の石段があってそれを登っていくのですが、足元を照らす光が外の光と融合し、それが登りゆく人の霊的性格によって輝きを変えます。

 ここで銘記していただきたいのは、貴殿らが死物ないし無生物と呼んでいるものも、ここでは他の存在に対して反応を示すのです。

石は緑草や木々に影響を及ぼすと同時に、自分も影響を受けます。木々のすぐ側に人間が立つと、お互いの性質によってさまざまな影響を及ぼし合います。家屋や建造物のすべてについて同じことが言えます。

 ポーチそのものがまた実に美しいのです。形はまるくもなく角ばってもおらず、ちょっと人間には想像できない形をしております。私がもしこれを〝形というよりは芸術的情感〟とでも表現したら、貴殿はそれを比喩として受け取ることでしょう。

しかしその情感に地上のいかなる建造物よりもしっかりとした永続性が具わっているのです。その成分を真珠層のようだと言ってもよろしい。液晶ガラスのようであると言ってよろしい。そんなものと思っていただけば結構です。

 さて、中へ入ると大きな楕円状の空間があります。天井は植物と花をあしらった格子細工がほどこしてあり、それらの植物はポーチの外側に根をはっているものと内側に根を下ろしているものとがあります。しかしこんな話はやめて先へ進みましょう。吾々はついに聖堂の大ホールへと入っていくことになります。


──暗黒界からお帰りになってすぐにキリストをご覧になったホールですか。

 同じホールです。地上で屋根と呼んでいるのと同じ意味での屋根は付いておりません。といって青空天井でもありません。屋根のあるべきところに堂々たるアーチ形をした天蓋が高く聳えており、色とりどりの液晶の柱によって支えられております。

しかし天蓋のへりは流動する線状を呈し、光の固まりのようなものとつながっております。と言ってもその固まりは普段そこに参集する者にも貫通できない性質をしております。しかも、いっときとして同じ色を呈しておらず、下のホールで催される儀式の内容によってさまざまな変化をしております。

 そこの祭壇、それとその背後にある〝謁見の間〟については既に述べました。大ホールに隣接して、そうした〝間〟がまわりに幾つもあります。

その一つが〝式服着用の間〟です。いかにも地上的感じがするかも知れませんが、そこで行われるのは単なるコートやマントの着更えだけでなく、実に重大な儀式が行われることを知っていただきたいと思います。それについて述べてみましょう。

 その大ホールにおいて、時おり、はるか上層界から送られてくる電気性を帯びた霊力の充満する中で厳かな儀式が行われることがあります。

その際、その霊力を帯びる第十一界を最低界とする下層界の者は、各々その霊力によって傷つくことなく吾が身にとって益となるように身仕度を整える必要があります。そこで〝式服着用の間〟において着更えの作業が真剣に行われることになります。

その行事は神聖さと霊力とを具えた専門の霊が立ち会い、式服が儀式に要求される色合いと生地と様式を整えるように、こまごまと指導します。

そのすべてに、着用する当人の霊的本性が影響します。つまり当人の内的資質が式服の外観に出てくるわけです。そうなってはじめて大ホールへの入場を許され、やがて行われる儀式に参列することになるのです。

 その儀式はある一団が使命を帯びて他の界層へ赴くに際しての〝歓迎の儀〟であることもありましょう。その場合は参列した者が霊力を一つにまとめて、送られる者へ与えることが目的となります。従ってすべてが完璧な融合・調和の中で行う必要があります。

そこで霊格の劣る者、ないしは新参の者は、その目的で〝着用の間〟において周到な調整をしておかねばなりません。

 さらには、大ホールでの〝顕現〟が近づいていることもありましょう。キリストと同等の神格を具えた方かもしれませんし、大天使のお一人かも知れませんし、もしかしたらキリストご自身かも知れません。そんな時は式服の着用も入念に行われます。

さもないと益を受けるどころか、反対に害をこうむることにもなりかねません。もっとも、私が聞いたかぎりでは、一度もそのような例はありません。しかし理屈の上では十分に有り得ることなのです。

 しかし、この界へ来たばかりの霊が、強烈な霊力を具えた神霊の顕現ないし何らかの強烈な影響力が充満しているホールに近づくと、次第に衰弱を覚えるということは往々にしてあることです。

そこでその人はいったん引き返すことになりますが、それは実は霊力が試されているのです。その体験に基づいて自分にいかなる鍛錬が欠けているかを認識することになります。それはそれで恩恵を受けたことになります。

 この大聖堂を先に述べた山の頂(イタダキ)から眺めれば、おびただしい数の塔とアーチ道とドームと樹木と風致地区(家屋を建ててはいけない土地)を具えた一つの都市のように見えることでしょう。

その中央の宝石からあふれ出る光輝は遠く彼方まで届き、言うに言われぬ美しさです。

宝石と言ったのは、ドームあるいは尖塔の一つひとつが宝石のような造形をしており、それが天上的な光と言葉となって光り輝いているのです。言葉と言ったのは、一個の建物、一個の色彩、または一群の色彩が、そこの住民には一個の意味として読み取れるからです。

また住民が柱廊玄関、バルコニー、屋上、あるいは公園を行き来する姿もまた実に美しいものです。あたりの美観や壮観とほどよく調和し、その輝きと同時に安らぎをも増しています。

と言うのも、住民と聖堂とは完全に一体関係にある──言い換えれば、以前に述べたように一種の呼応関係にありますから、そこには不調和の要素はいささかも存在せず、配置具合もすべて完璧な調和を保っております。

もしこの聖堂都市を一語にして命名するとしたら、私は〝調和の王国〟Kingdom of Harmony とでも呼びたいということです。そこにおいて音と色と形、それに住民の気質とが和合の極致を見せているからです。
                             アーネル ± 

Wednesday, September 2, 2026

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話
スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




第6章 生 ・ 老 ・ 病 ・ 死 ・ 苦・・・・・・地上人生の意義


【Q1】
人間(ヒト)として地上に誕生してくるのは、進化のどの段階でしょうか?

 霊としては常に存在していました。霊とは生命であり、生命とは霊だからです。あなたという存在は、常に存在してきたのです。
 あなたも大霊の一部ですから、いつから存在し始めたという〝始まり〟はないのです。しかし、一個の独立した意識的存在としては、生命の流れのなかのどこかで存在を得なければなりません。

 受胎というのは、男性と女性の細胞が合体して、その個的存在に自我を表現する媒体を提供する現象です。媒体を得るまでは、生命力は発現しないのです。その媒体を提供するのが、地上の両親です。双方の細胞が合体して一個の生命体を形成した時点で、霊的粒子がそれに付着し、物的世界での表現を開始します。

それが意識の始まりだというのが私の説です。その瞬間から意識のある個的生活が始まります。それからは永遠に個的実在であり続けます。


【Q2】
胎児のどの段階で霊が入るのでしょうか?

 何度も出された質問ですが、回答はいつも同じです。受胎が発生した時点で、すでに生命があります。そして、生命のあるところには霊が存在します。

 納得できない方がいるであろうことは、私も承知しています。しかし、私は断言します───精子と卵子が一体となり、ミニチュアのかたちで媒体としての機能をそなえた瞬間から、霊は地上生活を開始します。


【Q3】
次から次へと霊が地上へ誕生しています。一方、地上では人口増加が問題となっています。霊を生産すれば人口は増えるに決まっていますが、霊は一体どこからやってくるのでしょうか?
 その質問には誤解があるようです。霊は、あなた方人間がこしらえるのではありません。人間は、霊が自我を発現するためのチャンネルをこしらえるだけです。根源的存在である霊は、時空を超越したものであり、ものさしで計量することはできません。人間が行なっているのは、霊が身体に宿って、個別的存在を獲得するための手段(媒体)を提供することです。


【Q4】
スピリチュアリズムを占星術と同類と見ている人がいます。その人たちは、人生の出来事が星によって宿命づけられ操られていると考えていますが。

 人生は、一連の振動(Vibrations)、放射線(Radiations)、放散物(Emanations)から成り立っており、森羅万象のあらゆる相の影響を受けています。それらが、あなたに何らかの影響を及ぼしていることは事実ですが、どれ一つとして、抵抗できないほど強力なパワーをもつものではありません。

 生まれた日に、ある星が東の地平線上にあったからといって、その星によって人生が運命づけられるというのは事実ではありません。

 あらゆる天体、あらゆる自然物、宇宙のあらゆる存在物、あらゆる生命体が、何らかの影響を及ぼすことでしょう。しかし、あくまでも主人は、あなたです。最終責任はあなたにあり、霊的進化の程度によって自分の運命を決定づけています。

 私が言いたいのは、要するにあなたも神の一部であること、そして、神性を宿すがゆえに、創造力を宿すがゆえに、この宇宙を創造した力の一部であるがゆえに、その身体を牛耳ろうとする力に打ち克つことができるということです。
 わかりやすく言えば、私も影響力の一つです。あなたがつきあう人たちも何らかの影響を与えます。お読みになる本も影響力をもっています。しかし、あくまでも影響力に過ぎません。それによって、あなたが圧倒されることもないし、絶対的に支配されることもないでしょう。


【Q5】
死ねばおしまいと思って他界していった者は、どうなるのでしょう?

 自然法則によって死のうにも死ねないのですから、覚醒してから現実に直面せざるを得ません。霊的事実に得心がいくのにどれほどの時間がかかるかは、霊的進化の程度、霊性がどの程度発達しているか、新しい環境にどう適応していくかによって決まります。

 霊的事実に得心がいくのは、霊的理解力が目覚めたときです。あらかじめ霊的知識があれば、得心はよほど早いでしょう。ですから、私たちは無知と誤解と迷信、人工の教義や間違った神学と闘わねばならないのです。こうしたものは、どれ一つとして死後の目覚めに役立ちません。そうした夾雑物をすっかり払い落とすまでは、魂は長い長い休息(注)のなかで自己改造を強いられるのです。

訳注───ここで言う 「休息」 は二つの解釈ができる。一つは睡眠と同じ状態で、地上生活の過酷な辛苦によって疲弊した魂が、安らぎを得て無意識状態となり、その間に霊界の医師団によって治癒エネルギーによる癒しを受ける。

その長さは人によってまちまちで、長い人は何ヶ月も何年もかかることがあり、地上的時間では、はかりしれない要素があるようだ。

 もう一つは、その状態から覚醒して現実と直面し、地上時代の認識を改めて、霊的実在に目覚めていくのが通例であるが、シルバーバーチの回答にもある 「地上的夾雑物」 を完全に払い落とすまでには何百年、何千年、ときには何万年もかかることがあり、人によっては地上へ再生する必要が生じる場合もあるという。その次元の魂は、いわば夢幻のなかで生きており、実在界の高級霊から見れば酔生夢死の休息状態と変わらないらしい。


【Q6】
そもそも地上生活の目的とは何でしょうか?

 そもそもの目的は、本来の自分を理解することです。そのためには、物的身体の機能と霊としての資質を存分に発揮することが必要です。物的なことに偏って、霊的存在としての義務をおろそかにするのもいけませんが、霊的なことに偏って物的存在としての義務をおろそかにするのも間違いです。両者のバランスをとり、この世にありながら、この世的人間に堕することのないようにすべきです。

 肉体は神の分身である霊の神殿ですから、十分な手入れが必要です。そして成長と進化の過程にある霊は、その肉体を通して、成長と進化のための機会を与えられる必要があります。

 地上生活の目的は、地上を去った霊が次の階層での生活になじめるように、さまざまな体験を積むことです。そこで、まず地球へやってくるのです。地球は、トレーニングセンターです。肉体に宿った霊が、次の次元の生活への装備を提供してくれる教訓を学ぶための学校のようなものです。

 そういう理由から、私は改めて申しあげます。あなた方が嫌な体験と思っているものが、最高の薬になっていることがあるのです。本当の自分を見出すのは日向の生活のなかではなく、嵐のような生活のなかなのです。雷鳴が鳴り響き、稲光がひらめいているときです。

 人間は厳しく磨かれ、清められ、純化されなければなりません。絶頂もどん底も体験しなければなりません。地上生活だからこそ体験できるものを、体験しなくてはいけません。そうした体験によって霊性が強化され、補強され、死の向こうに待ち受ける生活への準備が整うのです。

 地上生活の目的は、霊性を活気づけることです。そのために、地上界の出来事は二面性と二極性を鮮烈に体験するようになっており、そこに地上生活の地上生活たるゆえんがあるのです。たとえば、善と善でないものが同居しています。これは、私たちの世界にはないことです。高次元の世界には、対照的なものが存在しないのです。

 地上生活の目的は、魂がその霊的資質を発揮できるように、さまざまな体験をするチャンスを与えて、霊性を一段と強化することです。そのために悪もあれば罪もあり、暴力も存在するのです。

 地上の全生命の存在目的は、人類をはじめ動物、その他の全生命に宿る神性に火がともされて火種となり、灯火となり、火焔となって燃えさかるように、刺激的体験を得ることです。霊的意識が目覚め、地上にありながら、生命の現象的側面にとどまらず、もっと大切な内的側面をも理解して、その恵みを享受するようになります。


【Q7】
永遠の時の観念からすると、地上生活はあまりにも短く、どれほどの意義があるのかといいたくなりますが‥‥。

 永遠も無限の小さな体験のつながりです。一つ一つの経験、一つ一つの行為、一つ一つの言葉や思念が、いくら小さなものであっても、永遠の時のなかで、それなりの役割を果たしています。それらの体験の蓄積が、永遠を形成するのであり、どれか一つを欠いても完全でなくなります。オーケストラによる演奏と同じです。

 たとえば、トライアングルの演奏家は、二〇〇人あるいは三〇〇人で構成されたオーケストラのなかでは最もめだたない存在でしょう。しかし、たった一回だけめぐってくる自分の演奏箇所で、もしも音階を間違えたり、音量が足らなかったりしたら、全シンフォニーが台無しになってしまいます。それはおわかりですね?地上生活も同じです。魂の鍛錬にとっては欠かせない一部なのです。そして、それが魂に消すことのできない跡形を印していくのです。


【Q8】
戦争、痛み、精神的ならびに肉体的苦しみ、病気、悲しみ、愛、憎しみ、喜び、幸せといった地上的体験は、人類の発達と進歩にとって欠かせない神の計画の一部なのでしょうか?
 神の計画という見方は間違いです。戦争は大霊が起こすのではありません。病気は大霊が与えるのではありません。そうしたものは、物質界の人間が自由意志の使用を過ったために引き起こされるのです。もちろん、学ぶべき教訓はあるでしょう。が、それは人間同士で身の毛もよだつ残虐行為をしなくても学べるはずです。人間同士で勝手にやっていることを、大霊のせいにしてはなりません。


【Q9】
地球上の自然災害は、神の計画の範囲内で起きているのでしょうか?

 そう言ってよいでしょう。因果律という動かし難い法則によって支配されているという意味で、神の配剤からはみ出ることはあり得ないからです。絶対的支配力をもつその因果律が、人間に制約を加えるということです。

 少し乱暴なたとえですが、人間の科学がいくら発達しても、物的宇宙を完全に破壊するほどの爆薬を開発することはできません。そこに限界があります。
 一夜にして地球が破壊されることはありません。大霊は、その無限の愛と英知によって宇宙間のあらゆる次元の存在(極大のものから極小のもの、複雑なものから単純なものに至るまでの全存在)に配慮した自然法則を用意しておられます。その自然法則は、進化という目的にそって機能するのであって、変革によって機能するのではありません。

となれば、当然、その法則によって人間の力は制約を受けます。どうしようもないこともある、ということです。自由意志はあります。しかし、ある一定限度内でのことです。


【Q10】
本当の自由とはどういうことでしょうか?

 私は、いかなるテーマも霊の体験という光に照らして考察します。人間というのは、物的身体を通して自我を表現している霊です。ところが、いく百万とも知れない地上の霊が窒息させられ、踏みつぶされ、抑圧され、踏みにじられています。
 本当の自由とは、好き勝手なことをする権利のことではありません。出来心や気まぐれや性癖のおもむくままにする権利のことではありません。自由には責任が伴います。そして、何のためにこの地上におかれているかという、存在の目的についての理解がなければなりません。


【Q11】
自由意志とカルマは、どう関係づけたらよいのでしょうか?

 生命のすべてが、自然法則による規制を受けています。筋の通らないことや奇跡や偶然によって起きることはありません。すべてが原因と結果、種まきと刈り取りの摂理の働きによります。そうでないと、宇宙は大混乱に陥ります。無限の配剤、無限の知性の働きを示す証拠なら、どこへ目をやっても存在します。

 四季のめぐり、惑星や星雲、潮の満ち引き、無数の姿かたちをした花々にも見られます。どれ一つとっても、法則によって営まれているのです。その法則の枠を離れることがないということですから、そこに制約があるということになります。しかし、法則の裏に別の次元の法則が存在します。物的法則だけに限りません。精神の働きにも法則があり、霊的次元にも法則があります。
 自由意志という要素、ある条件下で、右か左かを選択する力と能力をそなえているということは、神の配剤の一つです。それを最善に、そして最高に活用すれば、あなたの所属する民族、この地上世界、宇宙、森羅万象の霊的発展と進化の一翼を担うことができるのです。なぜなら、あなたも、霊的には大霊の一部だからです。

 全存在物に生命を付与している神性が、あなたにも内在しているのです。その意味で、あなたはミクロの大霊なのです。大霊が所有する無限の属性をあなたも所有しているのであり、それを発現していくための無限の時も用意されているのです。
 明朝、あなたはいつもより一時間早く起きてもよろしいし、一時間遅く起きてもよろしい。起きたくなければ、そのままベッドのなかにいてもよいでしょう。起きてから散歩に行ってもよいし、ドライブに行ってもよいでしょう。かんしゃくを起こしてもかまいませんし、思い直して我慢するのも、あなたの自由です。このように、あなたに許されていることはいろいろとあります。

 しかし、太陽の輝きを消すことは、あなたにはできません。嵐を鎮めることは、あなたにはできません。あなたの力を超えているからです。このように、選択の範囲が限られているという意味で、あなたの自由意思にも制約があります。

 そしてもう一つ、あなたの精神的ならびに霊的発達の程度による制約があります。たとえば、人を殺めるという行為は、だれにでもできます。が、あなたにはできないでしょう。これまでに築いてきた人間性および霊性が、それを許さないからです。

 ですから、どちらかの選択をするとき、そこには人間性と霊性の程度が関わっているのです。ここにも、宇宙によくあるパラドックス(一見矛盾しているかに思えること)があります。自由といっても、一定限度内の自由ということです。
 さて、ここからもう一歩踏み込まねばなりません。カルマの問題が出されたからです。これも、たしかに考慮に入れなくてはならない重大なテーマです。なぜかといえば、地上へ誕生するに当たって、前もって、カルマの解消をスケジュールのなかに入れている人が少なくないからです。その自覚は、すぐには意識の表面に出てきませんが、意識するしないに関係なく、そのことも自由意志に制約を加えます。

(原書では、この項目はここで終了しているが、カルマへの言及が足りないので、霊的治療家のハリー・エドワーズとのQ&Aのなかから、参考になる部分を編集して紹介しておく)

あなたのもとを訪れる患者は、その人なりの霊的成長段階にあります。人生というはしごの一つの段の上に立っているわけです。それがどの段階であるかが、その人に注がれる治癒力の質・量を決します。それが私のいう「カルマ的負債」です。

 あなたにも手の施しようのない人がいます。肉体を犠牲にする、つまり、死ぬこと以外に返済の方法がないほど負債が大きい人もいます。もう一度チャンスを与えられる人もいます。そんな人が、あなたとの縁で完治することになる場合もあります。
 精神的要素のために治らない人もいます。そんな場合は、一時的に快方に向かっても、また別の症状となってぶり返すでしょう。それは、当人に賦課された税金のようなものであり、自分で綴っている物語(ストーリー)であり、その筋書きは他の何者によっても書き換えることはできません。

 はじめに私は、すべては法則の枠のなかに存在すると申しあげました。何ごとも、それを前提として働きます。人間のいう「奇跡」は生じません。自然法則の停止も変更も廃止もありません。すべてが原因と結果から成り立っています。そこに自由の制約があります。もしも因果関係がキャンセルできるとしたら、神の公正が崩れます。

 治療家にできることは魂を解放し、精神に自由を与えることです。その結果が、自然に身体にあらわれます。それが、カルマ的負債を返済する手助けになるのです。私が、霊的治療家はその患者の魂の琴線にふれ、自我に目覚めさせ、生きる目的を自覚させることが最も重要な役目であると申しあげる理由はそこにあります。


【Q12】
航空機事故は、犠牲者のカルマ的負債を償却するためにもくろまれるのでしょうか?もしそうだとすると、予言や虫の知らせがあるのはなぜでしょうか?それによって人生が一八〇度変わってしまいます。

 むずかしい問題です。まず 「もくろまれる」 という言い方は適当でありません。いかにも悲劇を引き起こすために、わざと事故を計画したことになるからです。何ごとも原因と結果の法則によって生じています。そうした悲劇の犠牲者(あなた方にならってそう呼んでおきますが) には別の見方があることを忘れないでください。

 死は地上の人間にとっては恐ろしいことのようですが、私たちにとっては喜ぶべきことなのです。赤ちゃんが地上へ誕生して行ったとき、こちらでは泣いて見送る者が大勢いるのです。そして、死んで肉体から解放された者を喜んで迎えているのです。
 しっくり理解できないかもしれませんが、永遠の時の流れのなかでの宇宙の大機構において、宿命という要素が役割を演じています。定められたことと自由意志という二つの矛盾した要素が絡んだ、複雑なテーマです。両方とも真実です。定められた運命のなかで、自由意志が許されているということです。このように説明するのが最もわかりやすいでしょう。

 予知の問題ですが、これは三次元の脳の意識から離れて、たとえ一瞬にせよ、より高い次元の階層に入り、その次元での時間に接したときに体験するものです。そもそも時間とは〝永遠の現在〟なのです。あなた方が、過去とか未来と呼んでいるものを決定づけるのは、地上次元でのあなたと時間とのつながりです。その三次元の物的束縛から離れて本来の時間と接したとき、人間にとって未来であるものが現時点で感得できるのです。


【Q13】
人間の一人ひとりに守護霊(注)がついているというのは本当でしょうか?

 受胎の瞬間から、ときにはそれ以前から、誕生してくる魂を守護する霊が付き添います。「神がそなたの管理を配下の天使に託し、諸事にわたりて配慮させ給う」という 『祈祷書』 の言葉は、文字どおり真実です。その霊は、あなたが死の関門を通過してこちらへ来るまで、能力の限りを尽くして守護してくれます。

その関係は、あなたがその事実を知っているほど行き届いたものになります。まったく知らずにいると、何かとやりにくいものです。守護霊は一人ですが、それを補佐する指導霊が何人かいます。

 あなたの人生にどういうことが待ち受けているかは、守護霊にはわかっていますし、そのことに関して勝手な干渉は許されません。だれの守護霊になるかについて選り好みも許されません。私たちの世界は組織の行き届いた世界です。

訳注──「守護霊」は、英語でも 「Guardian Angel(守護天使)」で、ともに「守る」という意味が込められているために、とかく母親がヨチヨチ歩きのわが子を、ころばないように、ケガをしないようにと守っているかの印象を与えがちであるが、「諸事にわたりて配慮させ給う」 という 『祈祷書』 の表現どおり、当人のカルマの解消や使命の成就のために、大所高所から配慮するのが本来の使命であり、そのためには病気や困難もあえて体験させることもあることを知らねばならない。Q15の回答の波動の原理も考慮する必要があろう。


【Q14】
だれが任命するのでしょうか?

 親和力の法則です。

訳注──シルバーバーチの言う「アフィニティ」、マイヤースの言う「類魂」のなかの一人が、全体を統括している高級霊によって任命されるのであるが、その基本において働いているのは親和力である。


【Q15】
災害から救われるケースと救われないケースとがありますが、守護霊との関係はどうなっているのでしょうか?

 すべては、その時点での環境条件によって支配されます。だれにも守護霊がついているのは事実ですが、その事に気づいている人はどれほどいるでしょうか?もし気づいていなければ、無意識のうちに霊感でも働いていないかぎり、守護霊は地上界と感応することはできません。

 このように、霊の働きかけというのは、地上界の人間が条件を整えることが大前提なのです。条件がそろうと、つまり人間側が霊界の波動と調和した道具になってくれると、守護霊や指導霊が物質界と感応し、物質に強く働きかけることができます。

 奇跡的救出や保護や導きの話が数多く語られていますが、いずれもそうした条件が整ったときなのです。人間側が条件を整えないといけないのです。私たち霊にとって、人間は〝手〟のようなものです。手がなくては、地上界で何の仕事もできません。


【Q16】
愛する伴侶を失って、失望のあまり自殺する人がいますが、許されることでしょうか?

 許されません。あくまでも摂理にのっとって生きなければなりません。摂理の働きは常に完璧なのです。その摂理の背後では、すべてのものに内在し、すべてのものを通して働く大霊の愛と英知が働いているのです。その摂理に干渉する権利は、だれにもありません。それを無視して自らの命を絶てば、その代償を支払わねばなりません。

 リンゴを熟さないうちにもぎとれば、まずくて食べられません。霊が然るべき準備もなしに無理やり次の次元へ行くと、その調整に長い長い時間をかけて代償を支払わねばなりません。そのうえ、願いとは裏腹に、乱れた波動のために、愛する人との間にみぞをつくってしまい、かえって離ればなれになってしまいます。


【Q17】
自殺は、すべて許されないのでしょうか?

 一概にすべていけないとは言えません。その人がそれまで生きてきた人生、その間に発達させた資質、霊性の進化の程度、そして何よりも大切なものとして、動機は何かによって、死後におかれる状態が違ってきます。

キリスト教では自殺を一つのカテゴリーに入れて、すべて罪悪であると説いていますが、そういうものではありません。もちろん基本的には、生命を自ら断つ権利はありませんが、そういう行為に至るには、それなりに考慮すべき要素、情状酌量すべき事情があることは疑いの余地がありません。

 地上生活を中断して魂にプラスになることは、何一つありません。が、だからといって、自殺した魂がすべて、気の遠くなるほど長い間、暗黒界でもいちばん暗いところに押し込められるわけではありません。


【Q18】
自殺が、霊的進化の大きなつまずきであることは間違いないでしょう?

 もちろんです。何ごとにも例外はありますが、それはきわめて少数です。ご承知のように、私は、何ごとも動機が大きな比重を占めると申しあげています。が、魂の裁きは、行為そのものが受けます。

 あなたは、自分の人生の書を、自分の筆で書いているのです。書いたものは消せません。ごまかすことはできません。自分で自分を裁くのです。摂理は決まっており、改められることはありません。ですから、私は「自分の責任には、臆せず正面から立ち向かいなさい」と申しあげるのです。いかなる窮地も、案じているほど暗いものではありません。



【Q19】
死刑制度をどう見られますか?

 人を殺した人間だから殺してもよいという理屈は、霊的には通らないということを、これまで私は躊躇することなく申しあげてきました。

 地上界の人間は、正義と復讐とを区別しないといけません。復讐心という最低の人間的感情からすれば、憎いやつを地上界から消すことは正義と思えるかもしれませんが、それでは未熟な魂を霊界へ送り込むだけで、それによって成就されるものは何一つありません。公正な裁きがなされないといけません。

国による殺人を行なっても、地上界はカケラほども霊的に進化しません。それどころか「目には目、歯には歯」の復讐の場に堕落してしまいます。激情が理性を凌駕したところに正義は生まれません。

 肉体の死後にも生命が存続することは、議論の余地のない事実なのですから、それに基づいた原理・原則を信念としなければなりません。死後の生活に何の準備もしていない者が、次々と地上界から送られてくるために、こちらでは面倒なことがますます増えています。なかには、冤罪によって処刑されているケースや、不当な刑を受けているケースもあります。

 生命は神聖なものであり、人間が与えたり奪ったりすべきものではありません。生命は物質から創造されるのではありません。物質が生命によって創造され、維持されているのです。生命は霊的なものであり、大霊を始原としており、神性を帯びているのです。ですから、生命とその物的顕現を扱うときは、最高の慈悲心と思いやりと同情心をもってのぞむべきです。そして、動機は間違っていないかを確認することを忘れないでください。

 死刑制度では、問題は何一つ解決しません。罪を犯した人のことを思いやる心こそが、摂理を成就させるのです。いかなる方法をとるにせよ、更生を促進するものであるべきで、決して復讐心を生み出すようなものであってはなりません。


【Q20】
人間の誕生は自然法則によって支配されているとおっしゃっていますが、そうなると産児制限はその自然法則に干渉することになり、間違っていることになるのでしょうか?

 いいえ、間違ってはいません。経済的理由、健康上の理由、その他の理由でそうせざるを得ないと判断したのであれば、出産を制限することは正しいことです。この問題でも動機が大切です。何ごとも動機が正しければ正しい決着をみます。出産を制限することも、その動機が正しければ、少しも間違ったことではありません。

 しかし、霊の世界には、地上での生活を求めている者が無数にいて、物的身体を提供してくれる機会を待ちかまえているという現実も忘れないでください。


【Q21】
妊娠中絶はいけないとおっしゃっていますが、どの段階からいけないことになるのでしょうか?

 中絶行為をしたその瞬間からです。(妊娠してすぐでもいけないかと念を押されて)とにかく中絶が実施された瞬間から間違いを犯したことになります。いいですか、あなた方人間には、生命を創造する力はないのです。あなた方は、生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。

 中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から、霊は子宮に宿っています。中絶されれば、その霊は、未熟な霊的身体に宿って霊界で生き続け、成長しなければなりません。中絶によって物的表現の媒体をなきものにすることはできても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児の自然な成長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機しだいで事情が違ってきます。常に動機というものが考慮されるのです。

 私の住む世界の高級霊で、人工中絶を支持する霊は一人もいません。が、動機を考慮しなければならない特殊なケースがあることも事実です。行為そのものは、絶対にいけないことですが。

 あなた方が生命をこしらえているのではないのです。したがって、その生命が物質界に顕現するための媒体を、勝手に滅ぼすべきではありません。物質をなきものにしたことで、すべてが終わったわけではないこと、それに関わった当事者は、いつの日か、その中絶によって地上への誕生を阻止された霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなると、私は考えています。

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話

スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳





第5章 再 生 生まれかわり

【Q1】
意識がいくつかに分かれて働くということは、あり得ることでしょうか?
 今、あなたは物質の世界で自分を意識していますが、それは本源の大きな意識のほんの一部です。同じ本源の意識には、他の階層で発現している小さな意識がいくつもあります。

【Q2】
それぞれに独立しているのでしょうか?

 いえ、独立はしていません。あなたを含めた小さな意識は、一個の大きな霊的実在の部分的表現です。全体を構成する部分的意識であり、それらが(さまざまな階層で)質的に異なる媒体で自我を表現しています。

 ときおり、それらが合体することはあります。ですから、小我同士は必ずしも見ず知らずというわけではありませんが(注)、互いの存在を意識するのは、何らかの媒体を通して自己表現をし始めてからのことです。そして、最終的には合流点にたどり着いて、すべての小我が大我と一体となります。

訳注───熱心なシルバーバーチの愛読者なら気づかれたかもしれないが、十数年前に潮文社から出した 『シルバーバーチの霊訓』 第四巻にこれと同じQ&Aがあり、今、それを念のために目を通してみると、明らかな誤訳の箇所が見つかった。「必ずしも見ず知らずというわけではない」のところを「気づかないこともある」と訳している。翻訳者にありがちな思い込み違いによる誤訳である。「訳者あとがき」参照。


【Q3】
二つの部分的意識(ダイヤモンドの一側面・分霊)が、地上で会っていながら、そうと気づかないことがあるでしょうか?

 大きな意識を一つの大きな円であると想像してください。その円を構成する分霊が離ればなれになって中心核のまわりを回転しています。ときおり、分霊同士が会ってお互いが同じ円のなかにいることを認識しあいます。そのうち回転しなくなり、各分霊がそれぞれの場を得て、再びもとの円が完成されます。


【Q4】
分霊同士で連絡しあうことができますか?

 必要があれば、できます。


【Q5】
二つの分霊が、同時に、地上に誕生することがありますか?

 ありません(注)。全体の目的に反することだからです。個々の意識があらゆる階層での体験を積むということが、本来の目的です。同じ階層へもう一度戻ってくることはありますが、それは成就すべきことが残っている場合に限られます。

訳注───これは 「原則として」 という文言を入れるべきであろう。前章のQ9の回答の最後の一節では「affinity」という用語を用いて、二つのアフィニティが出会うことがあると述べている。ただし「まれにですが」と断っている。

その直前の回答の最後で「それらの側面が、別々の時期に地上に生まれ出て体験を積み、ダイヤモンド全体としての進化に寄与するのです」と述べているが、これが原則であって、アフィニティ同士が出会うのは例外的であると理解すべきである。


【Q6】
体験による教訓は仲間から得られても、進化のための因果律は自分で解消していかねばならないと考えてよいでしょうか?
 そのとおりです。個々の分霊は一個の大きな意識の構成分子であり、それらがさまざまな形態で自我を表現しているわけです。進化するにつれて自我の本体を意識していくわけです。


【Q7】
そうやって、進化のある一点において、すべてが一体となるわけですね?

 そういうことです。無限の時をへてのことですが‥‥。


【Q8】
個々の分霊の地上への降誕は一回きり、つまり自我の本体としては再生はあっても、分霊としては再生はないと考えてよいでしょうか?

 それは、成就すべき目的が何であるかによります。同じ分霊が二度も三度も降誕してくることがありますが、それは特殊な使命がある場合に限られます。


【Q9】
一つの意識の個々の部分、というのはどういうものでしょうか?
 これは説明の難しい問題です。あなた方地上の人間には「生きている」ということの本当の意味が理解できないからです。あなた方のいう生命は、実は最も下等な形態で顕現しているのです。生命の実体───思いつくかぎりのものすべてを超越した意識をもって生きる、高次元での生命の実情は、とても想像できないでしょう。

 宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションにふれたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかな影を見たに過ぎません。

鈍重なる物質によって表現が制限されているあなた方に、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問いにどうして答えられましょう?

 私の苦労を察してください。たとえるものがあればどんなにからくでしょうが、地上にはそれがありません。あなた方には、せいぜい光と影、日向と日陰の比較くらいしかできません。虹の色はたしかに美しいでしょう。ですが、地上の言語で説明できないほど美しい霊界の色彩を虹にたとえてみても、美しいという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです。


【Q10】
分霊の一つ一つを本霊の徳性の表現と見てよろしいでしょうか?
 それはまったく違います。こうした問いにお答えするのは、生まれつき目の不自由な方に、晴天の日の、あの澄みきった青空の美しさを説明するようなもので、たとえるものがないのですから困ります。


【Q11】 
フレデリック・マイヤースのいう「類魂」(注)と同じものと考えてよいでしょうか?

 まったく同じものです。ただし、単なる魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する小意識の集団で、その全体の進化のために体験を求めて降誕してくるのです。

訳注───「類魂説」 は俗に 「マイヤースの通信」 と呼ばれている 『永遠の大道』 と 『個人的存在の彼方』 のうち、前編でその基本原理が述べられ、後編でそれを敷衍・発展させたもので、スピリチュアリズムに画期的な発展をもたらした。参考までに、前編の第六章 「類魂」 の章をかいつまんで紹介しておく。

 「類魂は見方によっては単数でもあり複数でもある。一個の高級霊が複数の霊を一つにまとめているのである。脳のなかに幾つかの中枢があるように、霊的生活においても一個の統括霊によって結ばれた霊の一団があり、それが霊的養分を右の高級霊からもらうのである。(中略)

 一個の統括霊のなかに含まれる魂の数は二十の場合もあれば百の場合もあり、また千の場合もあり、その数は一定しない。ただ仏教でいうところのカルマは確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世のカルマではなくて、私よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型のことを指すことがある。

 同様に私も、自分で送った地上生活によって類魂の他の一人に型を残すことになる。かくして我々は、いずれも独立した存在でありながら同時にまた、いろいろな界で生活している他の霊的仲間たちからの影響を受け合うのである。(中略)

 我々は、この死後の世界へ来て向上していくにつれて、次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そして遂には個人的存在に別れを告げて類魂のなかに没入し、仲間たちの経験までも我がものとしてしまう。結局のところ人間の存在には二つの面があると理解していただきたいのである。

即ち一つは形態に宿っての客観的存在であり、もう一つは類魂の一員としての主観的存在である」


【Q12】
その本霊に戻ったときに、分霊は個性を失ってしまうのではないかと思われるのですが。

 川の水が大海へ注ぎ込んだとき、その水は存在が消えてしまうのでしょうか? オーケストラが完全なハーモニーで演奏しているとき、たとえばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか?


【Q13】
再生の決定的な証拠を、なぜそちら側から提供してくれないのでしょうか?

 霊言という手段によっても説明しようのない問題に証拠などあり得るでしょうか? 意識に受け入れ態勢が整い、再生が法則であることに理解がいってはじめて、事実として認識されるのです。再生はないと説く者が私の世界にもいるのはそのためです。まだ、その事実を悟れる段階に達していないから、そう言うに過ぎません。

宗教家が、その神秘的体験をビジネスマンに語っても仕方ないでしょう。芸術家が、インスピレーションの体験話を芸術的センスのない者に聞かせてどうなるでしょう。理解できるわけがないでしょう。意識の次元が違うのです。


【Q14】
そろそろ再生するということが、自分でわかるのでしょうか?

 魂そのものは本能的に自覚します。しかし、精神を通して(知覚的に)意識するとは限りません。大霊の一部である魂は、永遠の時の流れのなかで一歩一歩、少しずつ自我を表現していきます。しかし、どの段階でどう表現しても、その分量はわずかであり、表現されていない部分が大半を占めています。


【Q15】
では、無意識の状態で再生するのでしょうか?
 それも霊的進化の程度によって違います。再生する霊のなかには、自分が以前にも地上生活を送ったことがあることを知っている者もいれば、まったく知らない者もいます。

魂が自覚している、つまり霊的意識では自覚していても、それが精神によって知覚されていないことがあるのです。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題でして、あなた方の言語で説明するのはとても困難です。


【Q16】
生命がそのように変化と進歩を伴ったものであり、生まれかわりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか?

 愛は必ず成就されます。なぜなら、愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛は、必ず愛する者を引き寄せ、また愛する者を探し当てます。愛する者同士を永久に引き裂くことはできません。

 
【Q17】
でも、再生を繰り返せば、互いに別れの連続ということになりませんか? これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが‥‥。

 一致しないのは、あなたの天上の幸せの観念と、私の天上の幸せの観念のほうでしょう。宇宙とその法則は大霊がこしらえたのであって、その子どもであるあなた方がこしらえるのではありません。賢明な人間は、新しい事実を前にすると、自分の考えを改めます。自分の考えに一致させるために事実を曲げようとしてみても、しょせんは徒労に終わることを知っているからです。


【Q18】
これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間であってもよいと思うのですが‥‥。
 物質界にあっても聖人は聖人ですし、最低の人間はいつまでも最低のままです。体験を積めば、必ずそれだけ成長するというものではありません。要は、魂の進化の問題です。


【Q19】
これからも無限に苦難が続くのでしょうか?

 そうです。無限に続きます。何となれば、苦難の試練をへてはじめて、神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられてはじめて、その輝きを見せるように、神性も苦難の試練にさらされてはじめて、強くたくましい輝きを見せるのです。


【Q20】
そうなると、死後に天国があるという概念の意味がなくなるのではないでしょうか?

 今のあなたには天国に思えることが、明日は天国とは思えなくなるものです。というのは、真の幸福というものは、今より少しでも高いものをめざして努力するところにあるからです。


【Q21】
再生するときは前世と同じ国に生まれるのでしょうか?たとえば、インディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人にという具合に。

 そうとは限りません。めざしている目的のために最も適当と思われる国や民族を選びます。


【Q22】
男性か女性かの選択も同じですか?

 同じです。必ずしも前世と同じ性に生まれるとは限りません。


【Q23】
死後、霊界で地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してからまた同じ罪の償いをさせられるというのは本当でしょうか?神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのでしょうか?

 償うとか罰するとかの問題ではなく、要は進化の問題です。つまり、学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。生まれかわるということは、必ずしも罪の償いのためとは限りません。ギャップ、つまり、欠けているものを補う目的で再生する場合がよくあります。

もちろん、償いをする場合もあり、前世で学ぶべきだった教訓を改めて学びにくるという場合もあります。償いのためとは限りません。

 ましてや、二度も罰せられることはあり得ないことです。大霊の摂理を知れば、その完璧さに驚かされるはずです。決して不十分ということがないのです。完璧なのです。大霊そのものが完璧だからです。


【Q24】
自分は、地上生活を何回経験しているということを明確に認識している霊がいますか?

 います。それがわかる段階まで成長すれば、自然にわかるようになります。必然的にそうなるのです。光に耐えられるようになるまでは光を見ることはできません。名前をいくつかあげても結構ですが、それでは〝証拠〟にはならないでしょう。何度もいってきましたように、再生の事実はこうして〝説く〟だけで十分なはずです。

 私は、大霊の摂理について、自分がこれまでに理解したことを述べているのです。知ったとおりを述べているだけです。私の言うことに納得がいかない人がいても、それは一向にかまいません。受け入れてもらえなくてもよいのです。私と同じだけの年数の霊界生活を送れば、考えが変わるでしょう。


【Q25】
再生問題は異論が多いからそれは避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼるほうがいいという考えはいかがでしょう?

 闇のなかにいるよりは、光のなかにいるほうがよろしい。無知のままでいるよりは、摂理を少しでも多く知ったほうがよろしい。何もしないでじっとしているよりは、真面目に根気よく真理の探究に励むほうがよろしい。向上をめざして奮闘するのがよいに決まっています。

 死後存続の事実を知ることが真理探究の終着駅ではありません。そこから始まるのです。自分が大霊の分霊であること、それゆえに〝死の関門〟を、何の苦もなく、何の変化もなく通過できるという事実を知ったら、それですべてがおしまいになるのではありません。そこから、本当の意味での〝生きる〟ということが始まるのです。

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話

スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




第4章 死後の世界

【Q1】
 死後の世界は、どこにあるのでしょう?

 今、あなた方が生活している世界の別の側面、肉眼に見えず肉耳にも聞こえない世界です。今こうして存在しているのと同じ場所に存在しているのです。死後、わざわざそこへおもむく必要はありません。今いるところが霊界なのです。

 それが感識できないのは、霊的な感覚が発達していないからで、それが発達して霊界の波動あるいは振動(何と呼ばれても、かまいません)と調和すれば見えるようになります。

 つまり、霊界という別の世界が存在するわけではないのです。顕と幽にまたがる大宇宙を構成する無数の側面の、一つの側面に過ぎません。


【Q2】
 死んだ後、生前のアイデンティティーはどうなるのでしょうか? たとえば二、三〇年前に他界した妻を夫が確認できるのでしょうか? 向上が著しくて近づくことができないということもあり得るのでしょうか?
 アイデンティティーは変わりません。個性も変わりません。意識も変わりません。霊的品性が増し、容姿が大きくなっていることがありますが、個的存在としては生前とまったく同じです。霊的感覚が鋭くなり能力も深まっています。シミや障害や傷跡は消えてなくなっていても、本人とはっきりと認識できます。容姿も(すぐには)変わりません。

自我を表現するための道具ないしは手段は霊となっても必要だからです。その道具、つまり霊的身体は、地上で生活しているときから存在しているのです。


【Q3】
 死に方というものが霊界へ行ってから影響するでしょうか? 自然な死に方のほうが霊界に溶け込みやすいのでしょうか?

 もちろんです。大いに影響します。すべての人間が霊的知識をもち自然な生き方をすれば、いわゆる死ぬということが、らくで苦痛のないものになります。また、肉体が死滅した後、霊体になじむための調整をしなくてすみます。ですが、残念ながら、そういうケースは、めったにありません。

 地上を去って、私たちの世界へやってくる人間の大半は、自分の霊的宿命や構成、霊的実在の本質について極端に無知です。それに加えて、死ぬべき時期が熟さないうちにこちらへやってくる人があまりに多過ぎます。そういう人は、私がよくたとえているように、熟さないうちにもぎとられた果物がおいしくないのと同じで、未熟です。果物は熟せば自然に落ちます。同じように肉体に宿っている霊が熟せば、肉体は自然に朽ちて霊体から離れるものです。

 今、こちらの世界には、すっぱい果物やしぶい果物がどんどん送られてきています。そういう霊を霊的環境へ適応させるために、私たちはいろいろと手を尽くし、監視し、世話をやかねばなりません。あらかじめ霊的知識をたずさえていれば、私がたずさわっているような仕事はずっと楽になるのですが・・・・・・。

 死に方によって、間違いなく死後の目覚めが大きく違ってきます。死ぬということは、霊体が肉体から脱皮して態勢を整えることです。決して痛みを伴うものではありません。何らかの病気で死んだ場合は、その反応が残る場合があるかもしれません。その影響が大きい場合は、医者に相当する霊界の専門家が立ちあいます。

集まっている縁故の霊とともに、その死体とつながっている生命の糸(シルバーコード)が完全に切れて、無事に霊界へ誕生するように手助けします。

 次に考慮しなければならないのは、死後の目覚めの問題です。それが早いか遅いかは、その新参者の霊的意識の程度によって違います。死後の生命の存続についてまったく無知である場合、あるいは間違った死後の概念を吹き込まれていて、正しい理解に時間を要する場合は、肉体の睡眠に相当する霊的休息という過程が必要になります。
 その過程は自覚が芽生えるまで続きます。地上の時間感覚で長いこともあれば、短いこともあります。個人によって違います。正しい知識があれば問題はありません。物的波動の世界から脱け出て霊的波動の世界へと入り、新しい環境への順応もすみやかです。目覚めの瞬間は歓喜に包まれます。その目覚めをじっと待ち望んでいた、縁ある人々との再会となるからです。

 そもそも死というものは、少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。死は自由をもたらしてくれます。みなさんは、赤ちゃんが生まれると喜びます。が、私たちの世界では、これから地上へ誕生していく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。

同じように地上ではだれかが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは、地上生活で果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意が、その霊にそなわったことを意味するからです。

 次のことをぜひ理解してください。すなわち、死は死んでいく者にとっては悲劇ではなく、後に残された者にとっての悲劇に過ぎないということです。暗黒から光明へとおもむくことは悲しむべきことではありますまい。悲しんでいるのは、実は、その人に先立たれた自分のことであって、肉体の束縛から解放されたその人のことを悲しんでいるのではありません。その人はより幸せになっているのです。

もう肉体の病に苦しめられることがなくなったのです。激痛にさいなまれることがなくなったのです。天賦の霊的資質が発現し、何の障害もなくそれを発揮し、援助を必要としている人々のために役立てることになるのです。

 毛虫が美しい蝶になったことを悲しんではいけません。鳥かごが開け放たれて、小鳥が大空へ飛び立ったことを泣き悲しんではいけません。肉体を離れた魂が自由を獲得したことを喜び、そして、あなたも大霊から授かった能力を発揮すれば、その魂が味わっている美しさと喜びをいくらかでも知ることができることを知ってください。

 死というものが存在することにも意味があるのです。一つの踏み石ないしはドアのようなものであり、そこを通過することによって、より自由な霊の世界へと入ることになるのです。


【Q4】
 唯物主義者をもって任じている人は、死後どうなるのでしょうか?

 地上人類は長い間、信心深い人間は、信仰心のない人間よりも優れているという思い違いをしてきました。必ずしも、そうとはいえないのです。ある宗教的信条を信じたからといって、それだけで霊的に立派になるわけではありません。判断の基準になるのは日常生活です。

 現在の霊的本性は、本人のこれまでの日常生活での心と体の行為がこしらえたものです。ですから、神の存在を信じ教義を受け入れたことで〝選ばれし者〟の一人となったと信じている人よりも、唯物主義者、無神論者、合理主義者、懐疑論者をもって任じている人のほうが、霊的に上である場合が多いのです。大切なのは、何を信じるかではなくて何をしたかです。そうでないと〝神の公正〟が根本から崩れます。
〝神の公正〟を人間の思惑で判断してはいけません。大霊の意志の反映ですから、大自然と同じように、人間の望み・思惑・願望などにおかまいなく働きます。神の公正と人間の公正とを比較して論じることは無意味です。

人間の公正は必ずしも正しくありません。判断を誤ることがあり得ます。無実の者が罪人にされたり、罪人が無実になったりすることもあります。人間であるからには間違うということは避けられません。絶対的不謬性(誤りを犯さない)はあり得ないからです。


【Q5】
たとえばH・G・ウェルズ(注)のように、スピリチュアリズムを否定し、生涯にわたって合理主義者で通した知性派の人間が他界して、死後にも生活があると知ったときは、どういう反応をするのでしょうか?

 生涯をかけて築いた人生哲学がひっくり返されるわけですから、とても納得がいきません。宇宙そのものがどこか狂ったに違いないと思います。自分が自信をもって、論理的かつ科学的に論証した宇宙観とそぐわないからです。それを調整していかねばならないわけですが、それには長い長い論争と語らいが続きます。
訳注───H.G.Wells(1866~1946)は、英国が生んだ世界的な文明評論家で 『The Outline of History (文明の概論)』 がその代表作であるが、Q4の回答のなかでシルバーバーチが述べているように、霊格が高くても生まれ落ちた国家や環境によって間違った人生観・宇宙観を抱いていることがよくあり、知性が強いだけに死後の〝調整〟がむずかしいことになる。特に宗教的指導者は信奉者とともに自分の想念でこしらえた孤立した世界で何千年、何万年と暮らしているという。 『マイヤースの通信』 では、これを「知的牢獄」と呼んでいる。


【Q6】
 間違った信仰をたずさえて霊界入りする者が多いとのことですが、『ヨハネ福音書』では、信ずる者こそ救われると説かれています。

 それは間違いです。死後も生き続けるのは、信条や教義やドグマを信じるからではなく、自然法則によって生き続けるようになっているからです。宗教とは何の関係もありません。因果律と同じく自然の摂理なのです。


【Q7】
死んでいく者の多くが死後の存続の事実を知らず、めまいのような状態にあるそうですが、それは子どもにも言えることでしょうか?

 その子どもの知識がどのようなものかによります。地上界の無知と迷信の産物によって汚染され過ぎていないかぎりは、本来そなわっている霊的資質が生み出す感性が、直観的理解へと導きます。


【Q8】
 死後どれくらいたつと、地上界へ意思を伝えることができるようになるのでしょうか?

 事情によって異なります。死後何世紀もたっているにもかかわらず、真相に目覚めない者がいます。一方、真理を明確に理解していて、霊媒現象の原理にも通じている者もいます。そういう者なら、死んで何分もしないうちにでも出現できます。


【Q9】
 魂はいくつもの側面があり、そのうちの一つが地上に誕生できるとおっしゃっていますが、他の側面は、どこか別の階層で進化しているのでしょうか?

 私たち霊的世界に住む者は、霊的なものを説明するにあたって地上界の言語を使用しなければなりません。言語は物的なものであり、魂は非物的なものです。物的でないものを物的な言語でどう説明するか───これはあなた方の言う語義論に関わる大問題です。

私に言わせれば、魂とは、すべての人間に宿っている神 (God)、私が 「大霊(Great Spirit)」 と呼んでいるものの一部です。それはこういうものですと、形状や寸法を述べることは不可能なのです。魂とは、生命力(life force)、動力(dynamic)、生気(vitality)、実質(real essence)、神性(divinity)といった用語で表現するしかありません。
 魂というものを、多分、あなた方は自分と同じような〝人物像〟や〝個的存在〟の観念で想像なさるのでしょう。

でも、もし私が 「あなたは、だれですか?」 と尋ねたらどう答えますか?名前をおっしゃっても、それだけではあなたが何者であるかはわかりません。それはあなたを呼ぶときの名称に過ぎません。では、一体あなたという魂は何なのか? 個性をもつ存在、理非曲直を判断する能力をもつ存在、思考力をもつ存在、愛を知り地上界の人間的体験の綾を織りなす情感を表現できる存在、それが魂です。

 人間が地上で生活できているのは、魂が物的身体に活力を与えているからです。魂が引っ込めば、身体は活力を失って死にます。その魂に地上で使われているような名前はありません。本質的には大霊と同じですから、無限の存在です。そして、無限ですから無限の表現が可能です。

魂には多くの側面があるというのは、そういう意味です。それを私はダイヤモンドにたとえているわけです。それらの側面が、別々の時期に地上に生まれ出て体験を積み、ダイヤモンド全体としての進化に寄与するのです。

 まれにですが、同じダイヤモンドの二つの側面が降誕して地上で出会うことがあります。これを 「アフィニティ(affinity)」 (注)といいます。そういう場合は、両者の間に完全な調和が見られます。同じグループを構成する魂同士だからです。これは再生(生まれかわり)の問題とつながってきます。

つまり、同じダイヤモンドの各側面が、それぞれに何度も地上へ生まれ出て知識を増やし、自己開発し、体験を積んで、ダイヤモンド全体としての進化を促すのです。

訳注───affinityはもともと「親近性」を意味する語で、霊的な親近性をもった魂、同じ霊系に属する魂を指す。『マイヤースの通信』 では 「Group Soul」 という用語を用いているが、両者がまったく同じものであることをシルバーバーチ自身が認めている。

日本語では浅野和三郎氏が 「類魂」 と訳しそれが定着しているが、「affinity」はそのまま英語読みが定着している。なお、次のQ10の回答の後半の表現から推察すると、シルバーバーチは 「Group soul」 を人間的要素の残っている段階、言い換えると地球圏内に限っているふしがうかがわれる。


【Q10】
類魂というのは家族のことでしょうか? 霊的発達程度の同じ者の集まりでしょうか?趣味・性向 の似た者同士でしょうか? それとも何かもっと別のものでしょうか?

 「家族」という用語の意味が文字通りの意味、つまり血族や結婚によってつながった者を意味するのであれば、それは違います。純粋に肉体に起因する地上的な縁は、必ずしも死後も続くとは限りません。

 霊的関係には、究極的にはアフィニティがあり、親近性が少し劣るものとして血縁の要素が残っているものがあります。血縁関係は、永遠・不変の原理に基づくものではありません。永続性のあるものは、永遠・不変の原理に基づくものだけです。
 類魂は、人間的要素を含む霊的親近関係にある魂によって構成されています。同じダイヤモンドの側面同士ですから、自動的に引きあい、引かれあうのです。ある特殊な目的を成就するために同じダイヤモンドの複数の側面が地球上に生まれ出て、〝より大きな自我〟であるダイヤモンド全体の進化に寄与するということはあり得ますし、現に行なわれています。


 【Q11】
 大きなダイヤモンドの一側面という言い方をされました。つまり、私もある魂の集団の一人ということになりますが、これは、われわれが永遠に生き続ける存在であるとすると、他の大勢の仲間のために地上経験を積む必要があるというのが、私には論理的に納得がいかないのですが・・・。

 全宇宙を通じて作用と反作用が生じています。はるか遠くにいる人間でも、あなたの存在に大きな影響を及ぼし、結果として宇宙全体の情報が増えていくことになるのです。肉体的にも精神的にも霊的にも、あなたが孤立するということはあり得ないのです。その仲間をグループと呼んでもダイヤモンドと呼んでも、しょせんは言語を超えたものを言語で表現しようとしているに過ぎません。

 一体 「あなた」 とは何者なのでしょう? また、「あなた」 という存在はいつから始まったのでしょう? 受胎の瞬間から始まったのでしょうか? ナザレのイエスは 「アブラハムが生まれる前から私は存在していた」 と言いましたが、これは何を意味しているのでしょう?霊としては、常に存在していたという事実を述べたに過ぎません(注)。

あなたも常に存在していましたし、私も常に存在していました。そうした霊的存在の側面が、肉体をまとって地上界で生活することはあり得ることです。
 私の言うことが納得できないとおっしゃる方と論争するつもりはありません。常々私は、自分の理性が反発することは拒絶なさってくださいと申しあげています。

 私たちがもし、みなさんの好意、あるいは愛と言えるものをいただけるとしたら、それは私たちが真実を述べていることを、みなさんの理性が認めたからに違いありません。もしも好意がいただけないとしたら、私たちの意図した目的が果たせていないことになりましょう。

 私たちは、しょせん、私たちが手にした知識を、これこそは間違いないと確認したうえで積み重ねていくしかありません。そこから始めてゆっくりと、そして段階的に、より高い道をめざして探求の歩みを続けようではありませんか。

訳注───イエスのセリフは 『ヨハネ福音書』 のユダヤ教のリーダーたちとの論争のなかで述べられたもので、アブラハムはユダヤ人の祖とされている人物なので、イエスがその人物より前から存在していたと述べたことに「生意気だ」と言って憤慨し、石を投げつける場面である。シルバーバーチが「‥‥と述べたに過ぎません」と言ったのは、「アブラハムが生まれる前から存在していた」 という言葉は別に失礼でも生意気でもないのに、その意味がわからずにリーダーたちが憤慨したからである。


【Q12】
地上で魂の琴線にふれる体験をしなかった者は、そちらへ行ってどういうことになりますか?

 とてもやっかいな問題です。何の予備知識もなしに初体験をさせられる大人に似ています。霊的なことにまったく疎い状態で新しい生活を始めるわけですから、地上界でも霊界でも不適応者というわけです。霊界生活にそなえた教訓を学んでいないから、そういうことになるのです。準備不足だったわけです。


【Q13】
そちらで、どういった処置をとられるのでしょうか?

 自覚の芽生えない者は手のほどこしようがありませんから、再び地上界へ送り込むことがあります。霊的感性が芽生えるのに何百年もかかることがあります。


【Q14】
霊界の知人・友人などが手助けしないのですか?

 できるかぎりのことはします。が、霊的感性が芽生えるまでは暗闇のなかにいるのです。覚醒のないところに光は届きません。

 そういう人たちのことを気の毒に思ってあげるべきです。せっかくの地上生活が無駄に終わったのですから。霊的資質を発揮することができなかったのです。学生時代に学ぶべきことを学ばなかったために、卒業してからの大人の生活への準備ができていないのと同じです。
 地上生活は、死後に必ず訪れる霊的生活へのかけがえのない準備期間です。体験の一つ一つが進化のために支払う代価なのです。地上生活は一本調子では終わりません。光と影があり、晴天の日と嵐の日があります。


【Q15】
 導きにも一般的な摂理・法則があるのでしょうか?それとも、それを届ける特殊な施設があるのでしょうか?祈りや瞑想にも効用があるのでしょうか?

 すでに何度も申しあげたことを、もう一度言わせていただきましょう。「師は弟子に応じて法と説く」───この名言が何よりの答えではないでしょうか? あなた方が心配なさることではありません。

導きはすべて、大霊から届けられるのです。地上圏に関わる神庁から派遣される使者や他の高級神霊が、ときとして、あなた方が地上へ降誕する以前から、指名を受けて背後霊団に加わっている場合があります。

 そうした高級霊が、あなた方の誕生以前に、自分の存在を知らせてくれる場合があります。ときには特殊な仕事を言いつけて、本人の了承を得る場合もあります。そういう霊を何と呼ぼうとかまいません。

そういう高級霊がひかえている場合があるということです。使命を置き去りにすることは絶対にありません。その使命は、『祈祷書』 の言葉を借りれば、「神がそなたの管理を配下の天使(注)に託し、諸事にわたりて配慮させ給う」のです。

訳注───ここで言う 「神庁からの使者」 「高級神霊」 「天使」 は、もちろん守護霊と考えてよいが、言い回しから感じられるところでは、特殊な使命を帯びた、守護霊以外の超高級霊も含まれているようである。その一例が、ほかでもない、このシルバーバーチや 『霊訓』 のインペレーターである。

 シルバーバーチは、バーバネルの守護霊ではないし、インペレーターは、モーゼスの守護霊ではない。スピリチュアリズムのような人類史に残るような大イベントを遂行するに当たっては、守護霊は直接タッチしないもので、神庁から派遣された高級霊がたずさわっている。

バーバネルの守護霊はついに一度も出現しなかったし、モーゼスの守護霊も、「The Controls of Stainton Moses by A.W.Trethewy (モーゼスの背後霊団)」によると、インペレーターを指揮官とする四九名の霊団のほかにもう一人「プリセプター(「教師」の意味の仮の名)」と名のる総監督がいたというから、多分これがそうではないかと筆者は見ている。一度だけ姿を見せて、すぐに引っ込んだという。前出の原書には、BC九年のヘブライの預言者エリヤであることをにおわせる箇所がある。

Tuesday, September 1, 2026

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

 崇高な存在との対話

スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




第3章 ナザレのイエスとキリスト教

【Q1】
 聖書(バイブル)には、真実が語られているのでしょうか?

 聖書は、霊的真理と人間的夾雑物の混ぜものです。


【Q2】
 キリスト教でもそうですが、宗教の指導者の生と死と復活を、太陽系や四季のめぐりといった、自然現象と関連した神話上の神々になぞらえているものが多いのはなぜでしょうか?

 それは、人間が自分たちの指導者には超自然的能力があったのだと思いたいために、太古の神話からそうしたものを借用したからです。

当時の人間は、まだ自然法則という概念をもちあわせていませんでした。それで彼らは、自分たちの指導者は、自分たちにはない超越的資質をそなえた超常的人物であったことにしたいと思い、民族同士でそれぞれの神話を借用しあったわけです。

 それはしかし、大霊の使者によってもたらされた教えを汚染するまでには至っていません。それぞれの時代、それぞれの民族において、それぞれの必要性に応じて、大霊の真理と英知と愛を反映したものが届けられています。


【Q3】
 そうした宗教上の人物は、大自然の運行と連動しているのだと、信奉者は信じています。つまり、自分たちの教祖さまの生涯は自然現象を暗示している(たとえば、死後の復活は冬のあとに春が訪れるのと同じ)と信じているのですが、これは単なる偶然でしょうか?

 あなたのおっしゃるのが、聖書にあるようにナザレのイエスが磔刑(はりつけ)になったときに、天地が慟哭するかのように、稲光とともに嵐が吹きまくったという話のことであれば、それは事実ではありません。死んだ人間もみな、地上へ戻ってくることを意味するのであれば、それは事実です。さきほど述べた大霊の使者の生涯に関しても、同じようなこじつけがみられます。


【Q4】
 「聖霊に対する罪」というのは、どういう罪でしょうか?

 聖霊に対する罪は、聖霊の存在を否定することです。

訳注───このシルバーバーチの答えは、キリスト教を代弁したものではなく、霊的真理に照らして批判的に答えたもの。つまり、キリスト教神学でいう 「三位一体説」、すなわちゴッドとイエスと聖霊が一体であるとの説が誤りであるとの立場から、次の質問(Q5)に対する答えで述べているように、キリスト教では実質的には聖霊の存在をみずから否定しているのだから、その意味でキリスト教者自身が罪を犯していることを指摘している。


【Q5】
 聖霊とは何なのでしょう?

 霊界から届けられる霊的エネルギーのことです。キリスト教では教義の一つとして抽象的には認めていますが、私たちが 「地上界のすべての人間が、その恩恵に浴しているものです。こうしてみなさんと語りあえるのも、その霊力のおかげです」 と言うと、それは聖霊ではないと反発します。たとえ一時であっても、霊の世界と物質の世界が目的において、こうして一つになることを可能にしてくれるのは、聖霊すなわち大霊のエネルギーのおかげなのです。


【Q6】
 聞くところによると、キリスト教のどの教派においても、洗礼を受けることによって、死後その教派の霊団に迎えられて、新しい環境に順応するように世話をしてもらえるのだそうですが、それが事実だとすると、洗礼を受けていない者はどうなるのでしょうか?

 この大宇宙を稼動させている力、この物的身体に生命の息吹を吹き込んで霊的存在としてくれている力、無数の天体のすべてに存在を与え、自然法則として顕現している力、無数の次元の生命として顕現している大霊、太古より多くの預言者や霊媒を通して顕現してきた大霊、すべての存在の内部と背後にあって働いている力、その無限大の力である大霊が、人間が水をかけられているかどうかでお困りになることはありません。

大切なのは、各自の人生が摂理にかなっているか否かです。赤子に数滴の水をかけたからといって、摂理がごまかせるわけではありません。摂理は変えられないのです。原因には、それ相当の結果が出るようになっているのです。


【Q7】
 キリスト教は、多くの立派な人間を生み出したのではないでしょうか?

 その人はクリスチャンになろうとなるまいと、立派な人間になっていたはずです。


【Q8】
 でも、イエスの教えにしたがったからこそ、立派になったのではないでしょうか?

 地上界の人間が本当にナザレのイエスを見習った生き方をしたら、人類の歴史に新たな一章が始まったことになるでしょう。残念ながら、まだ始まっていません。私の目にはその兆候はどこにも見えません。

 忠誠を尽くすべき人物を裏切るような生き方をしながら、この私に向かって 「クリスチャン」 という用語を用いることはやめてください。イエスも言っているではありませんか───「私に向かって主よ、主よ、と言っている者のすべてが天国に入れるわけではない。天に在します父の御心を実践する者のみが入れるのである」 と。


【Q9】
 クリスチャンのなかには教義にあまりこだわらず、それでいて我欲のない立派な生涯を送った人物がいく人もいましたね?

 そういう人物は、立派なクリスチャンとは言えません。だめなクリスチャンということになりましょう。ですが、立派な人物だったのです。忘れないでください。いかなる教義も必ず魂を束縛します。

 人間は、教義を守ることによって立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人類は教義の名のもとに殺しあい、火刑に処してきました。魂を縛るもの、手かせ足かせとなるもの、自由な生き方を阻むものは、いかなるものであっても排除しなくてはいけません。


【Q10】
 イエスは教会がいっているように 「神の唯一の子」 だったのでしょうか?それとも、ふつうの人間の子で、偉大な霊的能力をそなえていたのでしょうか?

 イエスは、大霊の使命を帯びて物質界へ降誕した使者の一人でした。地上での使命は成就しましたが、まだ全使命の一部が残っています。今、それを成就するために霊界から指揮しているところです。忘れてならないのは、イエスという一人物を崇めるのは間違いだということです。

 崇拝の対象とすべきものは大霊のみであって、その大霊の使者を崇めてはいけません。またイエスは、自然法則にのっとって地上界へ降誕してきました。自然法則を無視して物的生命を授かることはできません。法則を無視して地上へ生まれてくることも、地上界から私たちの世界へ来ることもできません。


【Q11】
 そのことを、イエスは聖書のどこかで言っていますか?

 私が訴えるのは大霊の法則のみです。何かというと言葉の松葉杖にすがるような人は、大霊が今も働いている、今もインスピレーションを地上の人間に届けてくださっている、今も真理を啓示してくださっているということを悟るまで、霊性の進化を待つしかありません。

 霊的法則は、今でも同じように働いているのです。霊的エネルギーは、今でも霊媒を通して働くことができるのです。あの聖書の時代と同じように、大霊の道具となることができるのです。聖書は立派な本かもしれませんが、もっと立派な〝本〟があります。大宇宙そのものです。

大霊の摂理で構成されており、その本からみなさんは、他のいかなる本───それがいかに立派で、いかに大切にされ、いかに崇められていても、それよりはるかに多くのことを学ぶことができます。


【Q12】
 イエスは今、どこにいて、何をなさっているのでしょうか?

 ナザレのイエスなる人物を通して顕現した霊は、二〇〇〇年前に開始した使命を果たすべく、今も働いています。その霊は二〇〇〇年前に十字架に架けられましたが、実はその後も数え切れないほど架けられ、今では毎日のように架けられています。しかし、その霊は大霊の分霊ですから、地上界に秩序と安寧をもたらすべく、これからも道具のあるところに働きかけて、その影響力を広げていくことでしょう。


【Q13】
 あなたがイエスについて語るとき、それは人間イエスのことですか? それともイエスを通して働きかけた霊的勢力の総合ですか?

 人間イエスのことです。ですが、その後イエスは大きく進化し、地上時代よりもはるかに高等な意識を発現しています。地上で発現する意識の高さが、生まれ落ちた時代と土地柄に相応したものにならざるを得ない以上、やむを得ないことです。それでも、ナザレのイエスを通じて発現した霊性は、地上に降誕したいかなる人物をも凌ぐものでした。イエスほど霊性を強烈に顕現した者は、ほかにいないということです。


【Q14】
この二〇〇〇年間に、でしょうか?

 前にも後にもいません。イエスが発現した霊性は、地上界で発現した大霊の霊性のなかでも最大のものでした。だからといって私たちは、イエスという一個の人物を崇めることはしません。イエスを通じて発現した霊力には敬意を表します。どれだけ霊力の道具になったかで受けるべき敬意の度合が決まる、というのが私たちの認識の仕方だからです。


【Q15】
 霊界では、イエスのような人物を地上へ送って、さらに啓示を届ける計画があるのでしょうか?

 必要性が変われば、それに応じて手段も変えないといけません。忘れてならないのは、地上世界は、ますます複雑になり、ますます相互依存の傾向が強まっていますから、霊界とのコミュニケーションのチャンネルも新たに開かねばならなくなっていることです。

 霊界側は、地上界のさまざまな気質、さまざまな慣習、ものの考え方、生活様式を考慮しなければなりません。メッセージの内容も自然環境や特質、民族的習慣にあわせなくてはなりません。言語による制約もあり、それを読んだり聞いたりする人たちの程度にあわせなくてはなりません。しかし、その背後で鼓舞している根源的エネルギーは同じです。
 キリスト教界では、死者からよみがえって姿を見せ、生命が永遠であることを証明して見せた人物に敬意を表しています。その人物は物質化して、証拠として磔刑の傷跡を見せています。その後も顕現しています。こうした現象をキリスト教界では、証明はできなくても事実として信じているのです。ところが、それは神の子イエスだから発生した奇跡であると独断します。

 しかし、私たち霊界の者が、こうして交霊会に出現し、死後の世界の実在を証言し、大霊の永遠性とその摂理・法則の不変性を説くことができるのも、奇跡ではなく、イエスのよみがえりと同じく、法則にのっとった自然現象なのです。つまり、すべての人間がよみがえるのです。生命の法則がそうなっているからです。


【Q16】
 伝統的宗教を扱うに際しては、寛大な態度でのぞむべきでしょうか、厳しい態度でのぞむべきでしょうか?

 おそれることなく、真実を語ることです。あなたは大霊の使いです。邪説を論破し、虚偽を暴きなさい。おそれることはありません。


【Q17】
 スピリチュアリズムを受け入れれば、伝統的宗教は捨て去るべきでしょうか?

 私はラベルには関心がありません。はたしてスピリチュアリストなのかも定かでありません。確認する儀式をしたことがないからです。自分がどういう信者であるかを宣言しても何の意味もありません。私たちが関心をもつのは、日常生活をどう生きているかです。
 宗教とは何なのでしょう? 教会やシナゴーグやチャペルや寺院に通うことでしょうか? 人間のこしらえた信条の受け入れを宣言することでしょうか? ローマ・カトリック教徒ですとか、プロテスタントですとか、仏教徒ですとか、ユダヤ教徒ですとかいうことでしょうか?

 宗教とは、大霊に少しでも近づくような生き方をすることです。大霊の御心があなたを通じて発現することです。宗教とはサービスです。
 霊界からの啓示のすべてを手にしながら、あいかわらず伝統的宗教の教義にしがみついている人がいたら、その人のことを気の毒に思ってあげなさい。心のなかで、その人のために祈ってあげなさい。その人は、まだまだ初歩の段階にいるのですから。



【Q18】
 宗教の指導的立場にいる者が霊的真理に目覚めたとき、旧式の概念は捨て去るべきでしょうか?

 人間各個の義務というものを、私たちは至上の原則と位置づけています。自分のすることには自分が責任を負うということです。

 霊的真理に関して屁理屈で言い逃れをしても何にもなりません。霊的意識が芽生えれば、良心の声がどうすべきかを教えてくれるものです。それをなるほどと認識したら、そのとおりに実行しなければなりません。それができない人はその程度の人なのですから、それをとがめることは正しくありませんし、適切でもないと考えます。


【Q19】
 スピリチュアリズムは、いずれ普遍的な宗教となるのでしょうか?
 スピリチュアリズムというのは、いくつかの霊的真理の存在と意義と作用について与えられた名称に過ぎません。私にとって宗教とは生き方そのものであって、特定の信仰を受け入れることではありません。


【Q20】
 教会やチャペル、シナゴーグなどは存在価値があると思われますか?

 あるものもあれば、ないものもあります。そういう場所にいる者が、無意識のうちにせよ霊の影響を受け、インスピレーションを受けるようであれば、光明と知識と英知と真理を広めるための道具となりますから、大いに役立つでしょう。

 インスピレーションもなく、古い形式や儀式、朽ち果てた教義の繰り返しで、神学の一字一句にこだわった説教しかできないようでは、何の役にも立ちません。

いずれにしても、一概にはどちらとも言えません。だめ呼ばわりするところばかりでもありませんし、絶賛したくなるようなところばかりでもありません。それぞれに長所と短所があり、本来のサービスをしているところもあれば、していないところもあります。