Monday, June 1, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

 本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック




第13章 右手が行うことを左手に知られてはなりません

見せびらかすことなく善を行うこと

一、人々に見てもらおうと、人前で善を行うことがないように気をつけなさい。なぜなら、そうしないと、天の父からの報いを受けることはできないからです。
 
 人に施しを与える時には、偽善者たちが路上や神殿でしているように、人に誉められようとして、そのことを言いふらしてはなりません。誠に言いますが、彼らはすでにその報いを受け取っているのです。

施しを与える時には、右手が行うことを左手に知られてはなりません。そうすれば、その施しは誰にも知られないものとなり、あなたたちの父は、密かに行われていることを見て、あなたたちに報いを与えて下さるのです。(マタイ第六章 1‐4)


二、イエスが山から降りて来られると、大勢の人々がその後を追った。その時ハンセン病を患う者がイエスに会おうとやって来て、イエスを讃えながら言った、「主よ、もしあなたがそう望むのであれば、私の病を癒してください」。

イエスは手を伸ばすと彼に触れて言われた、「私はそれを望みます。病が癒されますように」。とすると、ハンセン病の症状が消えた。そしてイエスは彼に言われた、「誰にもこのことを言ってはなりません。しかし、祭司たちにあなたの姿を見せ、モーゼによって教えられた恵みを捧げ、人々に証明しなさい」。 (マタイ第八章 1‐4)


三、見せびらかすことなく善を行うことには大きな価値があります。与える手を隠すことは更に価値のあることです。それは確実な道徳的優位性の証ですが、と言うのも、一般世間より高いところからもたらされるものに対して目を向けるということは、今生から自分を切り離し、来世に身を置くことが必要となるからです。

一言で言うならば、人類の上に身を置き、人間の証言によって得られる満足を棄て、神に認められるのを待つことです。神にではなく、人々に認められることを好む者は、神にではなく人々の方を信じているということであり、未来における生活よりも、現世により価値を置いていることになります。

もし、そんな筈はない、と言うのであれば、自分の言っていることと信じていることが違っていることになります。
℘229     
 与えたものを受け取った者が、その恩恵を声を大にして言い振らしてくれることが期待できなければ、人に与えない人がどれだけいることでしょうか。公の場では多くを与えながらも、隠れた場所では小銭一枚さえも与えない人がどれだけいるでしょうか。

だからこそ、イエスは言ったのです。「人に見せびらかすように善を行った者は、すでにその報いを受け取っているのです」。真に善行によって自分自身の栄光を地上に求める者は、すでに自分に対してその支払いを行っているのです。その人に対して、神はもはや何も負うものがありません。その人にはただその自尊心への罰が残されているのです。
         
 右手が行うことを左手に知られてはなりません。という言葉は、謙虚な善行の特徴を見事に示しています。しかし、真の謙虚さが存在するとすれば、偽りの謙虚さ、見せかけの謙虚さも存在します。

与える手を隠しながらも、そのほんの一端だけが見えるようにしておき、周りを見まわし、それを隠すのを誰かが見てくれているかどうかを気に掛ける人がいます。これはキリストの金言の恥ずべき物まねです。

自尊心の強い善行者が、人間の間でさえもその価値を下げられてしまうのであれば、神の前でもそうではないでしょうか。このような人々も地上においてすでにその報いを受けているのです。人々に見られることにより、彼らは満足しているのです。彼らが受けることが出来るのはそれがすべてなのです。

 では、善行の恩恵の重さを、それを受ける人に負わせ、恩恵を受けていることを認識していることの証を示すことを強要し、その置かれた立場を意識させ、恩恵を与えるために払われている犠牲の大きさや、その値段の高さを自慢する人々は、どのような報いを受けることが出来るでしょうか。

おお、こうした者からは、その自尊心に対する最初の罰として、その名前を人々に祝福され口にしてもらう機会さえも奪われ、地上における報いを受けることはできません。
℘230   
虚栄心のために乾かされた涙は、天に昇っていくのではなく、恩恵を受ける立場にある苦しむ者の心に再び落ち、その心を痛めることになります。

このようにして行われた善からもたらされる益は何もなく、自尊心の強い善行者はそのことを嘆くことになりますが、嘆き悲しまれた恩恵とは、偽りの、価値のない貨幣でしかありません。

 見せびらかすことなく行われた善行には二重の価値があります。受ける人の感受性を守るのであれば、受ける人は人間としての威厳を保ち、自分自身に対して不快を感じることなく恩恵を受けることが出来、そうであるならばその善行は、物質的な慈善であるばかりでなく、道徳的な慈善でもあります。

というのも、ある仕事による対価を受け取ることと、施しを受け取ることでは大いに違うからです。一方仕事を施しの形に変えることは、その方法によっては、恩恵を受ける者を侮辱することであり、他人を侮辱する時、そこには常に自尊心と悪意が存在します。

真なる慈善は、それとは反対に、善行を隠したり、気を悪くさせる可能性のある最も小さなことさえも防ごうと細やかに気を遣い、工夫を凝らさなければなりません。

なぜなら、どんな小さな道徳的な不和でさえも、必要以上に問題を大きくすることになるからです。自尊心の強い者の慈善は受ける人を圧迫しますが、真なる慈善は温和で優しい言葉を身に付け、それによって受ける人を、善行を働く者の前に気楽にさせます。

本当の寛大さは崇高で、善行者は自らの立場を逆にし、善を働く相手の前に自分が受益者であるのだと感じる方法を知っています。これが「右手が行うことを左手に知られてはなりません」ということの意味なのです。


 見えざる不幸
四、大きな災害の時には、災害から復旧するための感情に駆られ、寛大な衝動に満ちた慈善を見ることができます。しかし、こうした一般的な災害と並行して、人目につくことのない幾千もの個人的な災害が発生しています。

これらの見えざる目立たない不幸は、救済を求めることを待たずに、真の寛大さによって見つけ出されるものです。
℘231           
 きちんとした簡素な衣服に身を包み、同じように質素な服装をした女の子を連れたその品の良い女性は誰でしょうか。あるみすぼらしい家に入っていきますが、もちろんそこの住民のことを知っているのでしょう、玄関で丁寧に挨拶をしています。彼女はどこへ行くのでしょうか。

子供たちに囲まれたある母親が横たわる屋根裏まで上がってきます。彼女がやって来ると、そこにいる者たちの痩せた顔に喜びの笑みがこぼれます。彼女はそこにいる者たちの苦しみを和らげに行ったのです。

彼女は優しく心休まる言葉とともに、彼らが必要としているものを持って来ましたが、その言葉は、乞食ではない彼らが、恥ずかしいと感じることなくその善意を受け止めることができるようにします。

父親は入院しており、その間、母親は労働によって家族の必要としているものを賄うことが出来ないのです。

その女性のお蔭でその可哀想な子供たちは寒さに凍えることもなければ、お腹を空かすこともありません。子供たちはしっかりとした服を着て学校へ行くことができ、母親の胸から弟たちに与える母乳が無くなる心配もありません。

彼らの間で誰かが病気になったとしても、この善き婦人は彼らの必要とするであろう物質的援助を拒むことは無いでしょう。彼らの家を出ると彼女は病院へ行き、そこにいる父親を慰問し、その家族の様子を伝えることによって父親を安心させます。

道の曲がり角には車が彼女を待っており、その車にはみなが必要としている物が全て積まれ、次から次へと人々を訪ねていきます。訪ねる人々に対して、どのような宗教を持っているのか、どんな意見をもっているのかなどと尋ねることはありません。

なぜなら、すべての人が神の子であり、自分の兄弟であるのだと思っているからです。一回り終えると自分に、良い一日が始まったと言います。彼女の名前は何と言うのでしょうか。どこに住んでいるのでしょうか。誰もそのことを知る人はいません。

貧しい人々に彼女は何の意味も持たない名前を教えてあります。しかし、彼女が人々を慰める天使であることに間違いありません。毎晩、天の父へ向けた彼女に対する感謝の言葉をカトリック教徒からも、ユダヤ教徒からも、プロテスタントからも聞くことができます。
℘232      
 どうしてそんな質素な服装をしているのでしょうか。外見によって人々の貧しさを辱めないためです。なぜ、彼女の娘について来させるのでしょうか。どうやって善行を行うのかを娘が学ぶことが出来るようにするためです。若い娘も慈善を行いたいと思っています。しかし母親は彼女に言います。

「あなた自身が何も持っていないのに、何を人に与えることが出来るのですか。たとえ私があなたに何かを手渡し、それをあなたが誰かに与えたとしても、あなたにとってどんな価値があるでしょうか。

その場合、実際に慈善を行っているのは私だということになります。それによってあなたにはどんな功労があったことになるでしょうか。それでは正しくありません。病気の人たちを訪ねる時、あなたは私が彼らの面倒を見るのを手伝って下さい。それだけでもたくさんだと思いませんか。

これ以上簡単なことはありません。役に立つ技術を身に付けてこの子供たちに洋服を縫ってあげなさい。そうすればあなた自身が持つ物を人に与えることができます」。

このようにして、真なるキリスト教徒であるその母親は、キリストの教えてくれた美徳の実践をその娘に教えているのです。彼女はスピリティストでしょうか。そのようなことは重要なことではありません。
     
 家の中では自分の置かれた立場上、全く普通の女性として振る舞います。しかし、彼女は神と自分自身の良心によって認められることしか求めないため、彼女が何をしているのか知る者はいません。

ところがある日、予期せぬ時に、彼女が世話をしている人の一人が手作りの作品を売りに彼女の家にやってきました。この女性は彼女を見てそれが自分の世話をしてくれている人だということに気づきました。

すると彼女は、「静かに。誰にも言ってはいけませんよ」と言うのでした。それはイエスが言っていたのと同じことです。

℘233 
 やもめの寄付
五、 イエスは賽銭箱の前に座り、人々がどのようにそこにお金を入れて行くのかを見守られていると、多くの豊かな人々が賽銭箱にたくさんのお金を入れて行くのが見られた。そこへ、ある貧しいやもめがやってきて、レプタ銅貨を二枚だけ賽銭箱へ入れた。

するとイエスは使徒たちを呼んで言われた。「誠に言いますが、あの貧しいやもめは、誰よりもたくさん寄付をしました。他の者たちは皆、豊富にあるものを与えましたが、彼女は、乏しい中から持っている生活を支えるものすべてを与えたからです」。(マルコ 第十二章 41-44、ルカ 第二十一章 1‐4)


六、多くの人が、必要なものが不足しているから望むだけの善を行うことが出来ないと歎き、豊かになることを望むのは、その富を有効に活用したいからだと言います。それは紛れもなく賞賛に与えすることであり、それがまったく誠実な願いである人もいます。

しかしながら、ほとんどの人が、善を行うことに対してまったく無関心なのではないでしょうか。他人に対して善を行いたいと望みながらも、まず自分自身に対して善を行うことを重んじ、自分に不足している贅沢をもう少し楽しみ、その残りを貧しい人たちに与えようとしている人がいないでしょうか。

こうしたもう一つの欲望は、おそらくそうした欲望を持つ自身の目にさえも見えていないのですが、もし彼らが自分自身をよく調べてみるなら、それを心の底に見つけ出すことが出来るでしょう。

真なる慈善とは、自分のことよりも優先して他人のことを考えることなのですから、そうした欲望はよい意図の功労をまったく打ち消してしまいます。

この場合の事前の高尚さとは、各々がその労働の中で、自分の力、知性、才能を活かすことによって、それぞれの寛大な意向を実現させるために不足しているものを求めるところにあります。その中には神を最も喜ばせる自己犠牲が存在します。

不幸にして大多数の人々は、財宝探しをしたり、偶然の好機を待ったり、予期せぬ遺産相続を期待したりなどといった、途方もない計画に走り、最も手っ取り早く、努力なしに豊かになる方法ばかりを夢見ています。

また、そうした目的を遂げるために霊的な援助が受けられると期待する人たちには、何と言えばよいのでしょうか。

彼らはまったくスピリティズムの神聖なる目的が何であるかをわかっておらず、また、神が人間と交信することを許した霊たちの役割というものについてはなおさら知らないのです。結局彼らは失望によって罰せられることになるのです。([霊媒の書]第二部 294,295) 
℘234  
 その意図にまったく私欲的な考えを含んでいない人々は、自分に必要なものを少しも失うことなく人に与える金持ちの金よりも、必要なものを失ってまでも人に与える貧しい者の寄付の方が、神の天秤にはより重く計られるのだということを思いだし、心に望む全ての善を行うことは不可能であるということを知って、慰められなければなりません。

実際、貧困を大規模に救済することが出来るのであれば、前者の行いの方が偉大です。しかし、もしそうした行いができないのであれば、状況に従って、可能な限りを行わなければなりません。ただ、人の涙を乾かすことが出来るのはお金だけで、お金がないからと言って黙っていて良いものなのでしょうか。

心からその兄弟のために役に立とうと思う者にはみな、その望みを叶えることの出来る機会が何回も与えられます。そうした機会は見つけようとすればその姿を現します。ある方法が見つからなかったとしても、別の方法が見つかるでしょう。

なぜなら、自分の能力を、仕事をしたり、人の肉体的、もしくは道徳的な苦しみを和らげたり、人の役に立つ努力に向けることのできない人はいないからです。

誰もが、お金がない、仕事がない、時間がない、休みがないと言っているうちは、なにも隣人の為に捧げることはできません。しかしそこには、貧しい者の寄付、やもめの寄付が存在するのです。
 
 
 貧しい者、身体の不自由な者を招くこと。
見返りを求めずに与えること
七、 イエスは自分を招いた者に言われた、「晩餐をしたり、食事の席を設ける時には、あなたたちの友だちや、兄弟、親類あるいは裕福な隣人を招いてはいけません。なぜなら彼らはその後、あなたたちから受けたものを返そうとあなたたちを招くからです。

小宴を催す時はむしろ、貧しい者や身体の不自由な者、足や目の不自由な人を招きなさい。彼らにはお返しをする方法がないので、あなたたちは祝福されるでしょう。正しい人々が復活する時、あなたたちは報いられるでしょう」。

 これらの言葉を聞いていた列席者の一人がイエスに言った、「神の国でパンを食べる者は幸いです」。(ルカ 第十四章 12-15)


八、祝いの宴を行う時には、あなたたちの友だちや兄弟、親類、あるいは裕福な隣人を招いてはいけません、と言ったイエスの言葉は、言葉通りに取ればばかげたものですが、そこにある精神を理解するならば、崇高なものです。

友だちの代わりに、道にいる物乞いを集めてともに食卓につくことをイエスが意図したわけはありません。

イエスの言葉が殆どいつも比喩的に使われているのは、思考の繊細な色合いを感じとることが出来ない人には、強いイメージによって鮮明な色彩を放つように見せることが必要だからです。

この考えの核となる部分は次の言葉に示されています。「彼らにお返しをする方法がないので、あなたたちは祝福されるでしょう」。

つまり報われることを考えに入れた上で善を行ってはならず、単に善を行うことに対する喜びの為に行わなければならないということです。強烈な比較を使うことによって、イエスは言いました。

「小宴を催す時はむしろ、貧しい者や身体の不自由な者、足や目の不自由は人を招きなさい。彼らにはお返しをする方法がないのです」。小宴と言う言葉は、大きな宴のことではなく、あなたたちがふだん楽しんでいる贅沢に加わる場合であると理解しなければなりません。

しかしながら、この注意を促す言葉は文字通りに理解することもできます。何と多くの人が、招かれたことを光栄に思い、お返しに招いてくれる人だけを宴の席に招いていることでしょうか。

反対に、自分より不幸な親類や友人を招くことで満足する人もいます。あなたたちのうちの何人がこの中に数えられるでしょうか。この様にすれば、目立たずに大きな事業を行うことができます。

誠心誠意、見せびらかすことなく、善を目立たなくさせることができるのであれば、このように行う人は、目の不自由な人や身体の不自由な者を探しに行かなくとも、イエスの教えを守ることができるのです。


℘236



霊たちからの指導

  物質的な慈善と道徳的な慈善
九、「お互いに愛し合い、他人には私たちがして欲しいと思うようなことをしてあげましょう」。どんな宗教も、どんな道徳も、これら二つの考えに要約されています。これらがこの世で守られたなら、みなが幸せになるでしょう。そこには反感や不快は存在しないでしょう。

さらに、貧困もなくなるでしょう。なぜなら、裕福な者の贅沢な食卓から、多くの貧しい者が食事をすることができるようになるからで、そうなれば私が最後の人生を過ごした薄暗い街角にいたような、すべてに事欠いた、惨めな子どもたちを引き連れた可哀想な女性たちをもう見ることもなくなるでしょう。

豊かな者たちよ、このことを少し考えてみて下さい。出来る限り不幸な者たちを助けてあげてください。

神がいつの日か、あなたの行った善に対する報いを与えてくれるように、また、あなたたちが住んでいた地上から出てくる時、あなたたちに感謝する霊たちが並んであなたたちをより良い幸せな世界へ迎えてくれるように、他人に対し与えて下さい。

 私の最後の人生において、役に立つことが出来た相手と、死後の世界において再会した時の喜びをあなたたちも知ることができたなら。

 ですから、あなたたちも隣人を愛してください。自分たちを愛するように愛してください。なぜなら、不幸な者を寄せつけまいとする時、あなたたちは過去の友人、父親、兄弟を自分から遠ざけようとしているのかもしれないのだということをすでに知っているからです。

だから、霊の世界に戻って不幸な者たちが誰であったのかを知った時、どんな失望を感じることになるかを考えてみて下さい。

物質的には何の負担もなく、誰にでも行うことができるのに、実践するとなると最も難しい道徳的な慈善というものがどういうものであるのか、よく理解してほしいと思います。

道徳的な慈善とは、生きる者たちがお互いに辛抱し合うことであり、それはこの遅れた世界、あなたたちが現在肉体を持って生まれている世界においては、非常にまれにしか行われていないことです。

私の言うことを信じてください。自分よりも愚かな者には話をさせておき、自分は黙っていることが、人間にとって大きな利益をもたらすのです。人を冷かしているばかりの人の口から洩れる冷やかしの言葉に耳を傾けないことや、あなたを侮辱の笑みを浮かべて見下す人たちを無視することは、一種の慈善なのです。

彼らは多くの場合、自分たちがあなたたちよりも優れていると誤って思い込んでおり、唯一の真の世界である霊の世界においては、あなたたちよりも劣っていることが珍しくありません。この場合、必要なのは謙虚さではなく、慈善です。なぜなら、他人の悪に関心を持たないことは、道徳的な慈善であるからです。

だからと言って、この慈善は他の慈善の妨げとなってはいけません。ゆえにあなたたちの同胞を軽んじることが無いように、特に注意してください。私があなたたちにすでにお伝えしたことをすべて覚えておいてください。

今日あなたが拒む一人の貧しい者は、今日より劣った条件に置かれていた過去のあなたたちにとっての大切であった誰かなのかも知れません。地上で幸いにして幾度か助けることができた貧しかった人と、私はこちらで会うことができましたが、今度はその人に、私が助けを懇願することになりました。

貧しい者や、病気の者を拒む前に、私たちは皆兄弟なのだとイエスが言ったことを覚えておいてください。さようなら。苦しんでいる人たちのことを考え、祈ってください。(ロザリア修道女 パリ、1860年)



十、友よ、私はあなたたちの多くが次のように言うのを聞いたことがあります。「私自身に必要なほんの少しの物さえも所有していないのに、どうして慈善を行うことが出来るでしょうか」。

 友よ、慈善を行う方法は幾千もあります。思考によっても、言葉によっても、行動によっても、慈善を行うことはできます。思考によって行うには、光を見ることなく他界していった、見捨てられた貧しい人々のために祈ることができます。心を込めて放たれた祈りは彼らに慰安を与えます。

言葉によって行うには、日々出会うあなたたちの仲間によい助言をしたり、落胆し、失うことによって神を冒涜するようになってしまった者には、「私もあなたと同じでした。自分が惨めだと思って居ました。しかしスピリティズムを信じました。そしていまはご覧の通り私は幸せです」ということができます。

「無駄だ、私の人生は終わろうとしており、生きてきたとおりに私は死んで行くのだ」と言う年老いた者には、「神は誰に対しても平等にその正義を用います。最後の労働者のことを思いだしてください」ということができます。

この世のことばかりに気を取られてしまっている仲間たちによって悪癖が付いてしまい、悪の誘惑に負けてしまう子どもたちには、「親愛なる子どもたちよ、神はあなたたちのことを見ているのです」と言うことができ、あなたたちはその温かい言葉を繰り返すことに飽きてはなりません。

そうした言葉は、子供たちのその幼い知性を芽生えさせ、彼らを怠け者ではなく、立派な人間にすることになります。これも慈善の一つです。

あなたたちのうち、「ああ。地上には余りにも多くの人間がおり、神はすべての者を見ることはできまい」という人がいます。友よこの言葉をよく聞いてください。

「山の頂上にいる時、そこから何十億もの砂粒に目が届きませんか」。いいですか。神も同じようにあなたたちを見ることが出来るのです。あなたたちはそれらの砂粒が風にまかれ、まき散らされるのを許しますが、神も同じようにあなたたちがその自由意思を働かせることを許すのです。

ただし、神はその無限の慈悲により、あなたたちの心の底に良心という名の注意深い番人を置いてくれました。彼の声を聞いてみて下さい。その声はあなたたちに良い忠告だけをしてくれます。時々あなたたちは、悪の心と戦わせることによって彼を無感覚にしてしまいます。

すると彼は黙ってしまいます。しかし追い払われたその哀れな番人は、あなたたちの中に後悔が陰をのぞかせると、再びあなたたちに自分を聞いてもらおうとします。

その声を聞き問うてみて下さい。多くの場合、彼から受け取る忠告によって、あなたたちは慰めを得ることができます。

 友よ、新しい連隊が現れる度に将軍は旗を掲げるものです。私はあなたたちに標語として次のキリストの言葉を捧げます。「お互いに愛し合いなさい」。この規律を守り、その旗の下に集まれば、幸運と慰安を得ることができるでしょう。(ある守護霊 リヨン、1860年)


   善行
十一、友よ、善行はあなたたちに最も純粋で甘い喜び、つまり後悔にも無関心にも邪魔されることのない心の喜びを与えてくれます。ああ、

美しい魂たちの持つ寛大さが、どれほど偉大で柔らかいものであるのかを理解することができれば、その感覚は、自分自身を見つめる時と同じように他人を見つめることができるようになり、そのことによって、兄弟に衣服を与えるために自分の服を脱ぐことができるようになります。

友よ、他人を幸せにするということだけに身を捧げることが出来たなら、神の代理人として、辛さと苦しみばかりの人生しか知らない家族に喜びを届けることができた時、彼らの苦しめられた表情が、とたんに希望に輝くのを見た時の喜びは、地上のどんな宴にも例えることはできません。

なぜなら、食べるものにも不足した不幸な彼らは、「お腹が減った」と言う、鋭い刃物のように母親の心を突き刺す言葉が、生きることが苦しむことであることをまだ知らぬ子供たちによって、繰り返し泣き叫ばれるのを聞いたことしかなかったからです。

おお、その時、一寸前には失望しか感じていなかった者に再び喜びが生まれるのを見た時に受ける印象が、どんなに素晴らしいものかを理解しなければなりません。あなたたちがあなたたちの兄弟との間に持つ義務を理解しなければ なりません。
℘240     
不幸な者たちに会いに出掛けてください。中でも、より苦しみの大きい、目立たぬ不幸の救済に出掛けて下さい。愛する者たちよ、救い主の次の言葉を心に抱き出かけて行って下さい。「これらの小さい者たちに服を着せる時、あなたは私を通じて服を着せているのです」 

 慈善。すべての美徳を一つにまとめる崇高な言葉よ、それが人々を幸せに導くのです。慈善を実践することにより、その人は自分自身の未来における無限の喜びを創っているのであり、地球上に追放されている間は、やがて後に愛に溢れる神のもとに集まる時に受けることができる喜びを、試しに味わうことで慰安としているのです。

神なる美徳よ、地上で満足を味わうことのできた唯一の時を与えてくれたのはあなたでした。肉体を持って生きる私の兄弟たちよ、「人生の苦しみの為の薬となる、心の安らぎ、魂の喜びは、慈善に求めなさい」と伝える友の声を信じてください。

おお、神を非難しそうになった時には、あなたたちよりも下方に目を向けてください。和らげてあげるべき不幸がどれだけあることか、家族を持たぬ子供たちがどれだけいることか、死が訪れた時、親しい助けの手を誰からも差し伸べられることなく目を閉じて行く老人がどれだけいることか見てください。

やらなければならない善が、何と多く存在することか!おお!不平を言ってはなりません。

反対に神に感謝し、あなたたちの同情、あなたたちの愛、あなたたちのお金を、この世の富を受け継ぐことができず、苦しみと孤立に衰弱した者たちすべての為に、精一杯費やしてください。この世で最も甘い喜びを感じることができるようになり、また、その後には――それは神のみが知っているのです。(アルジェルの司教アドルフ ボルドー、1861年)


十二、「善を行い、慈善的になりなさい」。これがあなたたちの手の中に握られた天に入るための鍵です。永遠の幸福は、どれもが「お互いに愛し合いなさい」という戒律の中に含まれているのです。

魂は隣人への献身なしに霊的に高い次元へ昇っていくことはできません。魂は慈善の衝動の中にのみ幸運と慰安を見つけることが出来るのです。善人となり、あなたたちの兄弟を助け、恐ろしいエゴイズムの傷を捨て去りなさい。この勤めを遂げることが出来れば、永遠の幸福への道が開かれます。

さらに、美しい献身の行動や真の慈善の行動が語られるのを聞いて、歓喜と内なる喜びによって心がうち響くのをいまだに聞いたことがない人が、あなたたちの間にどれだけいるでしょうか。

もしあなたたちが、善を行うことがもたらす快楽だけを求めることが出来れば、いつも霊的成長の道を歩むことができるでしょう。模範に事欠くことはありません。意欲を見るのがまれなだけなのです。

あなたたちの歴史は、大勢の善人たちの慈悲深い思い出を守っているのだということを覚えておいてください。

 イエスは、愛と慈善に関することを全てあなたたちに伝えませんでしたか。なぜ神からの教えを軽んじるのですか。なぜ神からの言葉に耳を閉ざし、そこにあるあらゆる善なる規律に心を閉ざすのですか。

私はあなたたちに、もっと福音の朗読に関心を持ち、それをもっと信じてほしいと思います。それなのに、あなたたちはその本を軽んじ、中身のない言葉の倉庫であるかのように考え、封の切られぬ手紙のように扱い、その見事な法のことを忘れ去ってしまいます。

あなたたちの悪はすべて、神の法の要約をあなたたちが自ら放棄することによって生まれるのです。イエスの献身を伝える頁を読み、それを学んで下さい。

 強い者たちよ、お互いに愛し合ってください。弱い者たちよ、あなたたちの温情、信心をあなたたちの武器としてください。人の心を動かし、いつもあなたたちの教義を広めるようにしてください。私たちがやってきたのは、あなたたちに勇気を与えるためです。

神によって許されたためにこうして私たちは現れ、あなたたちの熱望と美徳を刺激しにきたのです。しかし、一人一人が望むのであれば、各々の意欲と神の助力で事足りるのです。霊現象は、目の閉じた人、不従順な心の持ち主のためにのみおきるのです。

 地上のあらゆる美徳は、慈善という根本的な美徳がその礎とならなければなりません。慈善という美徳なしに、他の美徳は存在し得ません。慈善なしには幸運を期待することもできなければ、慈善のない道徳的な手引きというものも存在しません。

慈善なしには信仰心も存在しません。というのも、信仰心とは慈善に満ちた心を光らせる、純粋な輝きのことに過ぎないからです。
℘242          
 慈善はどの世界においても、永遠の救いの支えです。創造主の放つ最も純粋な放射です。慈善は被創造物に与えられる創造主の美徳そのものです。この至上の神意を私たちはどうして軽んじることができるでしょうか。

そのことを知りながら、自分の中にある慈善を妨げ、神からもたらされるこの感情を退けるほど非道な心を持っているのは誰でしょうか。慈善、この甘い慈愛に反抗するほど悪い息子となっているのは誰でしょうか。

 私が行ってきたことについては、あえて言うつもりはありません。なぜなら、霊たちも自分たちが行ってきたことに対して恥ずかしい気持ちを抱くからです。しかし、私がはじめたことは、あなたたちの同胞たちの慰安に最も貢献することの一つであったと考えています。

私が行ってきたことを引き継ぐ任務が、責務として自分に与えられることを霊たちが願うのをしばしば見ることができます。神の慈悲深い任務についている、親愛なる情け深い兄弟、姉妹たちの間にそうした霊たちを見ることができます。

彼らは犠牲と献身のみがもたらす喜びを感じながら、私があなたたちに勧める美徳を実践しています。彼らの状況がどれだけ敬意に値し、彼らが果たす任務がどれだけ守られ、尊ばれているかを見ることは、私の計り知れない喜びです。

善意に満ちた堅実な意欲に溢れる善人たちよ、力を合わせ、慈善を広める事業を大々的に継続してください。この美徳を実践することにより、あなたたちのための報酬を見つけることができます。

現世を生きるうちから現れることのない霊的な喜びは存在しません。力を合わせ、キリストの教えに則ってお互いに愛し合ってください。そうありますように。(聖ブィンセント・デ・パウロ パリ、1858年)

℘243        
十三、人々は私のことを「慈善」と呼びます。私は神のもとへ続く本道を歩んでいます。私についてきて下さい。あなたたちのすべてが心がけるべき目標を知っているからです。

 今朝、いつもの散歩にでかけてきて、心が悲しくなり、あなたたちに次のことを伝えにやってきました。おお、友よ、貧困、涙、それらすべてをぬぐおうにも、そのなんと多いことでしょうか。無駄だとは思いながらも何人かのかわいそうな母親たちを慰めようと、彼女たちの耳元で囁きました。

「勇気を出してください。あなたたちのことを見守る善き心を持った人々がいるのですよ。あなたたちは見捨てられることはありません。辛抱強くいてください。神はそこにいるのです。あなたたちは神に愛され、神に選ばれたのです」。

彼女たちには私の声が聞こえたようで、驚きに目を丸くして私の方へ向きました。彼女たちの外見から、霊を束縛する彼女たちの肉体は飢えていることが分かります。

私の言葉は確かに彼女たちの心を静めたでしょうが、彼女の空腹を満たすことはできませんでした。彼女たちに向かって繰り返しました。「勇気を持ってください。勇気を出してください」。

すると、子どもに母乳を飲ませていたまだ若い一人の哀れな母親は、痩せた胸から十分な栄養を得ることのできないその小さな命を私に守ってほしいと願うかのように、その子を腕に抱え、空に向かって差し出したのでした。

 友よ、別の場所では、仕事を失った老人たちが、ついには家もなく、貧困のあらゆる苦しみに縛られながらも、その惨めさを恥じて物乞いなどしたことが無いために、道行く人々の慈悲を懇願しているのを私は見ました。

私は何も持ってはいませんが、心が同情で一杯になり、彼らのために物乞いとなって、寛大で情け深い人々の心によい思考をもって貰おうと、あらゆる場所へ行き人々の善意を刺激して回りました。友よ、そのために私はここへ参り、あなたたちに伝えに来たのです。

「家に食料もなく、かまどに火をつけることも出来ず、寝床には毛布もない可哀想な人々がその辺にたくさんいます」。私はあなたたちには何をするべきかは申し上げません。あなたたちの善なる心の自発性に任せます。

私がその方法をあなたたちに教えたとしたら、あなたたちの善行は何のメリットももたらさなくなってしまいます。次のことだけを申し上げます。「私は慈善であり、私はあなたたちの苦しむ兄弟たちのために手を差し伸べます」。  
℘244                        
 しかし、頼むこともあれば、与えることもあり、与える時には多くを与えます。あなたたちを大きな宴に招き、あなたたちの全てを満足させることのできる木を提供します。その木がどれほど美しく、どれほど多くの花が咲き、実を結んでいるか見てください。

行きなさい、行きなさい。善意という名のこの偉大なる木がもたらす果実をすべて収穫することができるように。あなたたちが実を収穫したその枝に、私はあなたたちが行ってきた全ての善行を括りつけ、その木を神のところへ持っていきます。すると神は、再びその木を沢山の実で茂らせてくれます。

善意は尽きることがないからです。友よ、私の掲げる旗に従う者たちのうちに数えられるように、私についてきて下さい。恐れることはありません。私はあなたたちを救いの道へと導きます。なぜなら、私は「慈善」だからです。(ローマで殉教したカリタ リヨン、1861年)


十四、慈善を行うことを、あなたたちの多くは、施しを与えることばかりだと間違えていますが、実際にはさまざまな方法があります。そしてそれらの間には大きな違いがあります。

友よ、施しは、貧しい者たちの負担を軽くするという意味で、時によっては大切です。しかし、それはほとんどの場合、施しを与える側にとっても、受け取る側にとっても屈辱的です。慈善は、逆に、与える側と受け取る側とを結びつけ、さまざまな見えない形で実践されているのです。

家族内で、または友達同士でも、お互いに寛大になり、相互の弱みを赦し合い、誰の自尊心をも傷つけないようにすることによって、慈善的になることができます。

あなたたちスピリティストは、あなたたちと同じように考えない人たちに対する接し方の中で、相手に衝撃を与えたり、彼らの確信していることに対して攻撃するのではなく、私たちの集会に親切に誘って、私たちの考えを聞いてもらい、彼らの心の中に私たちが入っていくことの出来る入り口を見つけることによって、慈善的になることが出来るのです。これも慈善の一つの在り方です。

 今度は、貧しい人たち、富を受け継ぐことのできなかった人々に対する慈善とはどういうものなのかを聞いて下さい。彼らは、自分たちの貧困を不平を言うことなく受け入れることが出来れば、神に報われることになりますが、そのようにできるかどうかはあなたたちにかかっているのです。そのことを例をもちいて明らかにしましよう。

 毎週、あらゆる年代の女性が参加するある集会を私はよく見ます。私たちにとって、ご承知の通り、彼女たちはみな姉妹です。何をしているのでしょうか。忙しそうに、とても機敏に働いています。

指を早く動かしています。彼女たちの心が一つとなって鳴り響き、彼女たちの表情が何と楽しそうであるか見てください。一体何の目的で彼女たちは働いているでしょうか。冬が近づき、貧しい家々には生活の厳しさが増していきます。

夏の間、忙しく蟻のように働いても必要なだけの蓄えをすることができず、殆どの道具が質に入れられてしまっているのです。可哀想な母親たちは、この冬の季節の間に寒さと飢えに苦しむであろう子供たちのことを思って心配し、泣いています。

不幸な女性たちよ、どうか忍耐強くいてください。神はあなたたちよりも、より多く富の分配を受けている人たちの感情に訴えたのです。

彼女たちは集まり、衣服をつくっているのです。後日、そのうち雪が地表を覆い、あなたたちがそのいつも苦しむ身の口から「神は不公平だ」とこぼす時、貧しい人々の為に働くことを自任した、この善なる働き手たちの一人が現れるのを見ることが出来るでしょう。

彼女たちがそのように働くのはあなたたちのためであり、あなたたちの苦しみは祝福に変わります。なぜなら、苦しむ者の心の中には、憎しみのすぐ後ろに愛が潜んでいるからです。

 これらの働き手たちには元気づけが必要ですが、彼女たちのところには、善霊たちからの通信があらゆる方向から届いているのを見ることができます。この会には、活動に参加する男性たちも協力し、それらの朗読を行って人々を喜ばせます。
℘246                     
そして私たち霊はすべての人々の熱意に、それも一人一人に対して応えることができるように、そのような働き手たちに祝福と言う天の国で唯一流通する貨幣によって、即金で支払う善い顧客を連れて行くことを約束し、そればかりではなく、彼らにとってその貨幣が欠くことが無いよう、間違いなく保証いたします。(カリタ リヨン、1861年)


十五、親愛なる友たちよ、私はあなたたちが、「私は貧乏だから、慈善を行うことはできない」と言うのを毎日聞き、あなたたちが同胞たちに対して寛大さを欠いているのを毎日見ています。

あなたたちはなにを赦すこともなく、とても厳しい判事であるかのようにとりすまし、自分に対してそのように振る舞われたら満たされるかどうかなど考えようともしません。寛大であることも慈善ではありませんか。 

寛大になることによってのみ慈善を行うことが出来るあなたたちは、それを広く行わなければなりません。物質的な慈善については、一つ別の世界での話をしましょう。

 二人の人がたった今亡くなりました。「この二人が生きている間、一人一人の善行を別々の袋に入れ、亡くなった時にその袋の重さを量ることができるようにして下さい」。と神は言ってあったのでした。

二人が最期を迎えると、神は二人の袋を持ってこさせました。一方の袋は大きく膨らみ、一杯に詰まった金が袋の中で鳴っていました。もう一つの袋は小さく、殆ど空っぽで、中に入っていた硬貨を数えることができました。一人が言いました。

「この袋は私のだ。見ればわかる。私は金持ちであったため、多くを人に与えることが出来た」。

もう一人が言いました。こっちの袋が私のです。私は貧乏で人と分けあうものをほとんど持っていませんでした」。

しかし驚いたことに、二つの袋を秤にかけると、大きく膨らんでいた袋の方が軽く、もう一方の袋の方が重いことを示し、殆ど空っぽだった袋が、最初の大きく膨らんだ袋の乗った天秤の皿を高々と持ち上げたのでした。すると神は金持ちに言いました。「あなたは確かに多くを与えました。

しかし見栄を張り自尊心を奉る寺院にあなたの名前が現れるようにするために与えました。更に、自分自身で何を失うこともなく与えました。左側へ行き、僅かな施しに満足しなさい」。

次に、貧しい者に言いました。「友よ、あなたは少ししか与えませんでした。しかし秤にかけられているこれらの硬貨一枚一枚は、あなたが自分から無理矢理奪って与えたことを示しています。

あなたは施しを与えることは無くても、慈善を行い、何よりも価値があるのは、そのことが自分のために数えられるかどうかなど考えることもなく、慈善を自然に行ったことです。あなたは寛大で、同胞のことを勝手に判断することはありませんでした。

反対にあなたの全ての行いは同胞を赦すものでした。右側へ行き、あなたの報酬を受け取りなさい」 (ある守護霊リヨン、1861年)


十六、家の仕事に時間を費やす必要のない、ある裕福で幸運な女性は、同胞たちの役に立つ仕事のために、幾らかの時間を費やすことが出来ないでしょうか。

娯楽に費やすお金の残りで、寒さに震える不幸な者たちのために上着を買ってあげてください。その繊細な手で粗末でも温かい服を縫ってあげてください。生まれてくる子供に服を着せようとしている母親を手伝ってあげてください。

そうすることによってあなたの子供を飾るレースの飾りが少なくなったとしても、貧しい母親の子供は身体を温める衣類を得ることができるのです。貧しい者たちのために働くことは、神のぶどう園で働くことです。

 貧しい職人であるあなたは、余剰の富を持っていなくても、兄弟たちに対する愛に満ち、少ない中からでもなにかを人に与えようとするのであれば、所持する唯一の宝であるあなたの時間のうちから、一日の何時間かを与えて下さい。

裕福な人たちを引きつける優雅な細工をつくるのです。夜業の成果を売れば、あなたの兄弟たちを助けるために、あなたの役割を担うことができます。細工に用いるリボンの数は何本か減るかもしれませんが、はだしで歩く者に靴を与えることが出来るでしょう。

そして、神に人生を捧げたあなたたち女性も、あなたたちにできる仕事をしてください。しかし、あなたたちの仕事は、あなたの能力と忍耐力によってあなたたちの注意を引くために礼拝堂を飾るばかりではいけません。

娘たちよ、あなたたちの仕事の生産物は、神の前にいるあなたたちの兄弟たちを助けることに向けられるのですから、大いに働いてください。貧しい者たちは神の愛する子供たちです。彼らのために働くことは神を讃えることです。

「空を飛ぶ鳥たちに神は食物を与える」と言う神の言葉のようになってください。あなたたちの手の中で編む金と銀を、衣類や食物を得ることができない者たちへのそれに変えてください。それを行えばあなたたちの仕事は祝福されます。

 生産することができる者はみな、与えて下さい。あなたの才能を、あなたたちのひらめきを、あなたたちの心を与えて下さい。そうすれば神はあなたたちを祝福します。

世俗的な人々にしか作品を読まれない詩人たち、文学者たちよ。彼らの娯楽を満足させるだけでなく、あなたたちの作品のいくつかを、苦しむ者を助けるために捧げることも忘れないで下さい。画家、彫刻家、あらゆる分野の芸術家たちよ。

あなたたちもその知性を、兄弟たちを助けるために使って下さい。そのことによってあなたたちの栄光が衰える訳ではなく、いくらかの苦しみが軽減されることになるのです。

 誰にも与えることはできます。どんな階級に属していようと、分かち合えるものをなにか持ちあわせています。

神があなたたちに与えてくれたものがなんであろうと、その一部は、生きるために必要なものさえも不足している者たちのために負っているのであり、なぜなら、その立場になれば、他人に対して、自分たちにも分けて欲しいと思うに違いないからです。

地上におけるあなたたちの宝は減るかもしれません。しかし、天におけるあなたたちの宝は増やされます。そこではこの世で蒔いた善行の種が、百倍になって収穫されることでしょう。(ヨハネ ボルドー、1861年)



 慈悲
十七、慈悲はあなたたちを天使たちに近づける美徳です。あなたたちを神のもとへ導く慈善の姉妹です。ああ、あなたたちの同胞の苦しみと貧困の悲しい光景を見て、あなたたちの心に同情をおこしてください。

あなたたちの涙が薬となって彼らの傷の上に流れ、善意に溢れる同情によって希望と甘受の気持ちを彼らに届ける時、なんと大きな喜びを感じることができることでしょうか。この喜びは、不幸の隣で生まれるものですから、ある種の苦痛を伴っているのは確かです。

しかしその中には、世俗的な快楽の辛い味はなく、そうした快楽が後に残す刺すような空しい失望感もありません。人の心の中に浸透するような優しさによって彼らを包み、魂を喜びで満たしてください。心から感じられる慈悲は愛です。

愛とは献身です。献身とは自分自身の忘却であり、不幸な者たちに捧げられたこの忘却と克己は優れた美徳であり、それは聖なる崇高な教義と、神より送られた救い主が一生の中で教えてくれた美徳です。

 この教義が、その根元の純粋さによって確立されるとき、全ての民がその教義に従う時、地球は幸せになり、そこには調和、平和、そして愛が君臨することになるのです。

 あなたたちを進歩させるもっとも正しい感情とは、あなたたちの中にある、エゴと自尊心を征服し、あなたたちの魂を謙虚にし、隣人への愛と善意を持ち合わせるようにする慈悲の気持ちです。

慈悲の気持ちは、兄弟たちの苦しみの奥底まであなたたちを入り込ませ、あなたたちが彼らに手を差し延べ、同情の涙を流すことをうながします。だから、この天から来る感情をあなたたちの中で抑制するようなことがあってはなりません。

苦しむ者たちの惨めな光景を見ることによって楽しい生活が幾らかの時間でも邪魔されることになるといって、苦しむ者たちのそばから身を遠ざけようとする心の堅くなった利己的な人々のように振る舞ってはなりません。

自分が役に立てる時に、無関心であり続けようとする自分を恐れてください。後ろめたい無関心と言う対価によってあがなわれた安堵は死海の静けさであり、海面下には腐り、堕落した泥沼が隠されているのです。
℘250        
 しかし、慈悲とは利己的な人々が恐れているような混乱や嫌悪と、どれほどかけ離れていることでしょうか。疑いもなく、他人の不幸に接すると、自分のことばかり考える魂は自然に深い苦痛を感じることになり、その感情はその人全体を震わせ、その人を痛々しく動揺させます。

しかし、そこで勇気と希望を不幸な兄弟に与えることが出来れば、その報酬は大きなものとなります。その兄弟は、友情に満ちた手で手を握られたことに感動し、時には目に涙を浮かべあなたたちに優しい眼差しを向け、後にその目を天に向け、支えとなってくれる慰め手を送ってくれたことに感謝します。

慈悲は憂鬱ですが、天から届く、第一の美徳である慈善の前触れであり、慈善の姉妹として慈善の恩恵を準備し、高尚なものとするのです。(ミカエル ボルドー、1862年) 
 

 孤児たち
十八、兄弟たちよ、孤児たちを愛してください。特に幼少期において、孤独に見捨てられることがどんなに悲しいことか、あなたたちにお教えすることができたならば、神は孤児たちが存在することを許しますが、それは私たちが彼らの両親となって支えることを、私たちに勧告するためです。

神なる慈善が、可愛そうな見捨てられた存在を寒さと飢えの苦しみから遠ざけるようにし、その魂が悪癖へと道を外してしまうことがないようにして下さい。

見捨てられた子供に手を差し延べる者は、神の法を理解し、それを実践していることになるのですから、神を喜ばせることになります。

あなたが助ける子供が、別の人生においては大切な人であったということも多々あるということを考えると、その場合には、そのことを思いだすことが出来たとすれば、もはやそれは慈善を行っているのではなく、義務を遂行しているに過ぎないのです。

友よ、この様に苦しむ者はみながあなたの兄弟であり、あなたの慈善を受ける権利を持っているのです。とはいっても、それは人の心を悲しめる慈善や、受け取る手にやけどをさせる施しであってはなりません。というのは、あなたたちの施しはしばしば苦い味を持っているからです。
℘251           
苦しむ者の粗末な家が病に見舞われたために悲惨な状況に追い込まれているのでなかったとしたら、そうした苦い施しのうち、どれほどが受け取ることを拒まれていたでしょうか。

あなたの与える利益に、あらゆる利益のうちでも最も貴重な利益である、言葉による利益、慈愛による利益、友情による溢れる笑みによる利益を、一緒に優しく与えて下さい。

自分を守ろうとする態度は、血の流れる心に剃刀の刃を立てるのに等しいことなので避けてください。そして、善を行うことは、あなた自身の利益のためであり、また、あなたの愛する人たちのためでもあるということを心にとめておいてください。(ある親しい霊 パリ、1860年)


  感謝されない善行
十九、恩知らずの人々と出会わないようにと、善行を行いながらも感謝されなかったからといって、善を行うことを止めてしまう人たちのことをどう考えるべきでしょうか。

 こうした場合、そこには慈善よりもエゴイズムが多く存在します。なぜなら、善に対して感謝することを示す態度を見せてもらうために行われる善行とは、私心を棄てて行われる善ではないからであり、私心を棄てて行われる善だけが、神に喜ばれるのです。そこには自尊心も存在します。

なぜなら、そのような人は自分の足元に感謝の証を示そうとひれ伏す、恩恵を受ける人たちの謙虚さを見て楽しんでいるからです。自分の行う善に対する報酬を地上に求める者は、天においてその報酬を受け取ることができません。神は、善行に対する報酬をこの世に求めない者たちを評価するのです。

 善を行った相手が、そのことに対して感謝することがないことが前もってわかっていたとしても、弱い者をいつも助けなければなりません。

あなたが助けた相手がそのことを忘れた時には、恩恵を受けた者があなたに感謝した時よりも、より価値あることとして神は考慮してくれるということを確信してください。あなたたちが善行に対して感謝されないことを神が赦すのは、善を行うあなたたちの忍耐力を試すためなのです。
℘252        
 一時的に忘れられた善行が、後になって善い実を結ばないと誰に言い切ることができるでしょうか。反対にそれは、時間を掛けて発芽する種であるのだということを信じて下さい。不幸なことに、あなたたちは現在のことしか目に入りません。

あなたたちは他人のために働くのではなく、自分たちのために働いてばかりいます。善行は最も冷え切った心をも和らげます。この世においては忘れられてしまうかも知れませんが、肉体の被いから自由になった時、善行を受けたその霊はそのことを思いだし、その記憶がその人に対する罰となります。

彼は自分が恩知らずであったことを嘆き悲しむことになります。次の人生で自分の過ちを改め、恩義を返そうとし、善を施してくれた人に仕える人生を求めようとすることもまれではありません。

このように、疑わずともあなたはその道徳的進歩に貢献することができたことになり、次の教訓の意味を正確に理解することができるようになります。

「善が無駄になることは決してありません」。そればかりではなく、落胆することによって善を行う気力を失うことなく、私心を棄てて善を行ったことの功績を得ることが出来るのですから、自分自身に対しても働いたことになります。

 ああ、友よ。あなたたちの前世と現世のすべてのつながりを知ることが出来たなら、お互いの進歩のための、人類の一人一人を結びつける関係の広さを、一目で見ることが出来たなら、創造主の善意と英知に大いに感心するでしょう。

神はあなたたちがいつか神のもとにたどり着くことができるように、生まれ変わることを許すのです。(守護霊 サンス、1862年)


 排他的な善行
二十、 同じ考え方、同じ思想、同じ政党の人同士の間だけで行われる善行とは正しいものですか。

 正しくありません。なぜなら、人類はみな兄弟であり、政党、宗派といった考え方は必然的に廃止されるべきものであるからです。真のキリスト教徒は同胞たちを兄弟として見ることができ、助けを必要としている者を救済する前に、その人が何を信じ、どう考えているかなどということを知ろうとはしません。

あるいは、あるキリスト教徒が自分とは違う信仰を持っているからといって、苦しむ者を拒否したとしたら、そのキリスト教徒は、私たちに敵を愛さなければならないと教えたイエス・キリストの教訓を守っていることになるでしょうか。

ですから、何も意識することなくその苦しむ人を救済してください。もしその人が宗教上の敵であるとすれば、そうすることが彼にあなたの宗教を受け入れてもらえるようにする方法であり、あなたがその人を拒否したとすれば、その人はあなたの宗教を憎むことになるでしょう。(聖ルイ パリ、1860年)



第14章 あなたたちの父母を敬いなさい

一、あなたたちは戒めを知っています。姦淫をしてはなりません。殺してはなりません。盗んではなりません。偽証をしてはなりません。誰をもあざむいてはなりません。あなたたちの父母を敬いなさい。(マルコ 第十章 19、ルカ 第十八章 20、マタイ 第十九章 18-19)


二、主であるあなたたちの神が、あなたたちに地上で生きるための長い時間を与えてくれるよう、あなたたちの父母を敬いなさい。(十戒 出エジプト 第二十章 十二)


 孝心
三、 自分の父親と母親を愛することが出来ない人には、隣人を愛することができないことから、「あなたたちの父母を敬いなさい」という戒めは、慈善と隣人愛の一般的な法から導き出すことができます。

しかし「敬いなさい」という表現は、父母に対して更に負う義務、すなわち、孝心を含んでいます。

神はこのように顕すことで、両親に対する愛には彼らに対して守らねばならない義務である敬意、注意、服従、寛大さなどが伴わねばならないことを示し、それは、隣人に対して一般に求められる慈善のすべてよりも、さらに厳しく守らなければならないことなのです。

この義務は当然、父親や母親に代わる人に対してもあてはまりますが、献身の義務が少なければ少ないほどその功労も大きいのです。この戒律を守れない者を、神はいつも厳しく罰します。

「あなたたちの父母を敬いなさい」という言葉は、単に尊敬しなさいということからなるのではありません。彼らが必要とする時には、彼らの介護をしなければなりません。

彼らが年老いた時、彼らが静養できるようにしてあげなければなりません。私たちが幼かった頃、彼らが私たちにしてくれたように、彼らを優しく囲んであげなければなりません。

 特に、何も持たない父母に対してそうすることは、真なる孝心を表しています。自分たちに必要なものをなに一つ失うことなく、両親が飢え死にすることだけはないようにと必要最低限のことだけを行い、また、自分たちには最高のものや、最も心地良いものを残しておき、両親については道に放置しないまでも、家の最も居心地の悪いところに追いやりながら、自分たちは偉大なことを行っていると考えている人々は、この戒律を守っていることになるでしょうか。

嫌々ながらそれを行ったり、両親に家事を行うことの重圧を負わせ、残された人生の代償を高く支払わせたりしないのであればまだましです。年老いた親たちが、若くて強い子供たちのために、仕えなければならないというのでしょうか。

子供たちに母乳を与えてくれていた時、母親はその母乳を子供たちに売ろうとしたでしょうか。子供たちが病気だった時夜通し看病したことや、必要なものを手に入れようとして歩いた道のりを、母親は果たして数えていたでしょうか。

子供たちは、貧しい両親に対して最低限必要なものだけではなく、可能な範囲の中で、ちょっとした小さな気遣いや、愛情のこもった介護の義務を負っているのであり、それらは子供たちがすでに受け取った神聖なる借金の金利を支払うことにしか相当しないのです。

こうした孝心だけが神を喜ばすことになります。弱かった時に自分を守ってくれた人たちに、自分が何を負って居るのかを忘れてしまう人は哀れです。

彼らは子供たちの安らかな生活を確保するために何度も厳しい犠牲を払い、子供たちに物質的な生活を与えながら道徳的な生活をも与えたのです。恩知らずな者たちは哀れです。

そのような者たちはやがて、恩知らずと放棄によって罰せられます。彼らは、最も大切な愛情によって傷つけられることになりますが、それは時として現世のうちに起こり、そうでなければ別の人生において必ず、人に対して行ったのと同じことで苦しむことになります。

 中には義務を無視し、子供たちに対してあるべき姿を持たない父母がいることも確かです。しかし、そうした親を罰するのは神の義務であり、その子供たちの役割ではありません。子供たちはこうした親たちを非難する権限はないのです。なぜなら、その子供たちは恐らくそのような親を持つに価したからなのです。

慈善の法が、悪を善によって返すことや、他人の不完全性に対して寛大であること、隣人の悪口を言わないこと、他人の侮辱を赦し忘れること、敵をも愛することを命じているのであれば、子供にとって、これらの義務を親との関係において果たすことが、どれだけ重要なことであるか判ります。
℘258    
したがって、子供たちは自分たちの親に対する品行の中で、隣人との関係についてイエスが教えたことの全てを規則として取り入れ、他人との関係で非難される行動は、両親との関係においては更に大きな非難を受けることになるということを、いつも覚えておかなければなりません。

そして前者との関係においては、単なる過ちに過ぎないことが、後者との関係においては、罪と考えられることがあるということを覚えておかなければなりません。なぜなら後者の場合においては、慈善の欠如ばかりか、忘恩が加わるからです。



四、「主であるあなたたちの神が、あなたたちに地上で生きるための長い時間を与えてくれるよう、あなたたちの父母を敬いなさい」と神は言いました。

なぜこの言葉は天の生活ではなく、地上での生活を報酬として約束しているのでしょうか。その説明は次の言葉に見ることができます。

「主であるあなたたちの神が与えてくれる」と言う言葉は、現代の十戒の形式からは除かれていますが、こうした言葉が特別な意味を与えているのです。言葉を理解するには当時のヘブライ人たちの考え方や状況について言及しなければなりません。

彼らはいまだ死後の世界について知ることは無く、その視野は肉体を持った人生を超えるものではありませんでした。従って目で見えないものよりも、目で見えるものによって印象付けられる必要があったのです。

そこで神は、子供たちに話しかけるように、彼らの理解の届く言葉によって、彼らを満足させることができるもので期待を持たせたのです。ヘブライ人たちは砂漠に住んでいました。神が彼らに与えるのは、約束された土地、それは彼らの熱望するものでした。

彼らはそれ以外の物は何も望んでいなかったのです。神は、彼らがもし戒律を守るのであれば、その地で彼らが長く生きるであろう、つまり、その土地を長い間所有するであろうと、言ったのです。

 しかし、キリストの出現の時代を確かめると、彼らはその考え方より発展させていたことが分かります。より物質的でない糧を取るべき時代が到来すると、イエス自身が彼らに対し、「私の国はこの世のものではありません」と言いながら、霊的人生について教え始めます。

℘259       
「地上ではなく、向こう側で、あなたたちは善行の報酬を受けることになるのです」。これらの言葉によって、約束された土地は物質的な土地ではなくなり、天の母国となるのです。

こうした理由によって、「あなたたちの父母を敬いなさい」と言う戒めを守ることが呼び掛けられる時、彼らに地上の土地が約束されるのではなく、天が約束されるのです。(→第二章、第三章)


 誰が私の母親で、誰が私の兄弟なのでしょうか
五、 そしてイエスが家へ戻られると、そこには大勢の人々が集まっており、食事をとることもできなかった。そのことを知ると、身内の者たちはイエスを取り押さえに出て来た、気が狂ったと思ったからである。

 しかし、母親と兄弟たちが外で待っているのを見ると、人々はイエスを呼ぶように言った。するとイエスの周りに座っていた人々はイエスに言った、「あなたのお母さんと兄弟たちがあなたを外で呼んでいます」。イエスは答えて言われた。

「誰が私の母親で、誰が私の兄弟なのでしょうか」。そして自分の周りに座っていた人たちを見回すと、「ここに私の母親と兄弟がいます。神の意志によって行う者はみな、私の兄弟、姉妹、そして母親なのです」と言われた。(マルコ 第三章 20,21、 31-35 マタイ第十二章 46-50)

 
六、イエスの善意とあらゆる人に対する普遍の慈悲心からすると、イエスの言葉の幾つかは一見、風変わりに聞こえます。不信心な者はそうした部分を取り上げ、イエスが矛盾していると言って攻撃するための武器とします。

しかしイエスの教義には原則として、その基盤に愛と慈悲の法があることを否定することはできません。イエスが一方で築いたものを、もう一方で崩しているとは考えられません。

ゆえに結果として、まさに次のことが言えます。もしイエスの言ったあることが基本原則と矛盾しているのであれば、伝えられた言葉が正しく再生されなかったか、正しく理解されなかったか、もしくはそれらの言葉はイエスのものではないことになります。


七、この場面では、驚くことに、イエスの親戚に対する無関心が見受けられ、ある意味で母親を裏切ったようにとらえることができます。

 イエスの兄弟については、彼らはあまりイエスを好んでいませんでした。進歩の遅れた霊たちであり、イエスの任務を理解することができませんでした。イエスを変わり者と考え、イエスの行動や教えは彼らの心を動かすことは無く、誰一人イエスの使途として従う者はいませんでした。

それでも、イエスの敵から彼らもある程度は警戒されていたと言われています。そして、実際にはイエスが家族の前に現れると、彼らはイエスを兄弟としてと言うよりも変わり者として扱いました。

ヨハネははっきりと、「彼らはイエスを信じていなかった(→ヨハネ 第七章 五)」と記しています。 

 母親に関して、イエスに対するその優しさを誰も否定することはないでしょう。しかしながら、彼女も息子の任務について正確に理解していなかったことを知るべきで、彼女はイエスの教えを守ることは無く、パブテスマのヨハネのようにイエスの証人となることはありませんでした。

 彼女の中で勝っていたのは母親としての気遣いだったのです。イエスが母親を裏切ったと見るのは、イエスのことを知らない者の見方です。「父母を敬いなさい」と教えた者の考えの中に、母親への裏切りが隠されている筈がありません。

したがって、たとえ話の形をほとんどいつもとることによって、ベールに隠されたイエスの言葉が持つ、本来の意味を求めることが必要です。

 イエスはどんな機会をも無駄にすることなく教えを説きました。そこで家族が到着したのを見て、肉体的な親族と霊的な親族との違いについてはっきりと示すためにその機会を利用したのです。

℘261                
 肉体的な親族と霊的な親族
八、血液のつながりは必ずしも霊的なつながりを生むわけではありません。肉体は肉体より生じますが、霊は霊から生まれるのではなく、霊は肉体の形成以前から既に存在しているのです。

父親が息子の霊を創造するのではありません。父親は息子のために肉体的な被いを用意したに過ぎませんが、そのことが息子の進歩のための知的・道徳的発展を補助する役割を果たしているのです。

 一つの家族に生まれてくる者たち、特に近い親族として生まれる者たちは、多くの場合、過去の人生での関係から結びついている好意的な霊たちであり、地上における人生で、お互いにその愛情を表します。

しかし、その霊たちが、前世でお互いの反感によって引き離された霊たちで、お互いにまったく馴染まない者同士であることから、地上ではそれをお互いの敵意として表すこともあり、その場合、その人生はその霊にとって試練となります。

家族の真なる絆とは、血液の絆ではなく、観念の共有や共感によって結ばれる絆であって、その絆は生れる以前、生きている間、そして死後にも霊たちを結びつけます。違った両親を持つ二人が、血のつながる兄弟以上に結びつきの強い霊的な兄弟であり得ます。

このようなことから、霊的絆で結ばれた兄弟はお互いに引かれ、求め合うことになり、一方で、私たちが日々目にすることが出来るように、血縁のある兄弟同士が拒絶し合うことがあるのです。

そこには道徳的な問題が存在するのですが、それを、スピリティズムだけが存在の複数性の理解によって説明することが出来るのです。(→第四章 13)

 すなわち家族には二種類あります。霊的な絆で結ばれた家族と、肉体的な絆で結ばれた家族です。前者の方が継続性があり、霊の浄化によってより絆が強まり、魂のさまざまな移住を通じて霊界で永続します。

後者の絆は物質と同じように時間が立つと消滅し、多くの場合、道徳的には現世中に消えてしまいます。これらのことをイエスは理解し易いように伝えるため、使徒たちに、ここに私の母親と兄弟がいます。

つまり私の霊的絆によって結ばれた家族であると言い、神の意志によって行う者はみな、私の兄弟、姉妹、そして母親なのです。と言ったのです。

 血縁のある兄弟たちがイエスに抱いた敵意はマルコの話の中に明確に表わされており、イエスを独占しようとして霊を失ったと言ってきた部分に見られます。彼らの到着が知らされると、イエスは彼らが自分に抱く気持ちを承知の上で、霊的な視点からそのことを使徒たちに述べたのです。

「ここに私の(真なる)母親と兄弟がいます」。イエスの母親は兄弟たちと共にいましたが、イエスは教えを一般的に述べたのであり、決して肉体的絆を持つ母親が霊的な絆を持つ母親と違って無関心の対象となるべきだということを言ったのではないのであって、そのことをイエスは、他のさまざまな場面で十分に証明しています。

霊たちからの指導

  物質的な慈善と道徳的な慈善
九、「お互いに愛し合い、他人には私たちがして欲しいと思うようなことをしてあげましょう」。どんな宗教も、どんな道徳も、これら二つの考えに要約されています。これらがこの世で守られたなら、みなが幸せになるでしょう。そこには反感や不快は存在しないでしょう。

さらに、貧困もなくなるでしょう。なぜなら、裕福な者の贅沢な食卓から、多くの貧しい者が食事をすることができるようになるからで、そうなれば私が最後の人生を過ごした薄暗い街角にいたような、すべてに事欠いた、惨めな子どもたちを引き連れた可哀想な女性たちをもう見ることもなくなるでしょう。

豊かな者たちよ、このことを少し考えてみて下さい。出来る限り不幸な者たちを助けてあげてください。

神がいつの日か、あなたの行った善に対する報いを与えてくれるように、また、あなたたちが住んでいた地上から出てくる時、あなたたちに感謝する霊たちが並んであなたたちをより良い幸せな世界へ迎えてくれるように、他人に対し与えて下さい。

 私の最後の人生において、役に立つことが出来た相手と、死後の世界において再会した時の喜びをあなたたちも知ることができたなら。

 ですから、あなたたちも隣人を愛してください。自分たちを愛するように愛してください。なぜなら、不幸な者を寄せつけまいとする時、あなたたちは過去の友人、父親、兄弟を自分から遠ざけようとしているのかもしれないのだということをすでに知っているからです。

だから、霊の世界に戻って不幸な者たちが誰であったのかを知った時、どんな失望を感じることになるかを考えてみて下さい。

物質的には何の負担もなく、誰にでも行うことができるのに、実践するとなると最も難しい道徳的な慈善というものがどういうものであるのか、よく理解してほしいと思います。

道徳的な慈善とは、生きる者たちがお互いに辛抱し合うことであり、それはこの遅れた世界、あなたたちが現在肉体を持って生まれている世界においては、非常にまれにしか行われていないことです。

私の言うことを信じてください。自分よりも愚かな者には話をさせておき、自分は黙っていることが、人間にとって大きな利益をもたらすのです。人を冷かしているばかりの人の口から洩れる冷やかしの言葉に耳を傾けないことや、あなたを侮辱の笑みを浮かべて見下す人たちを無視することは、一種の慈善なのです。

彼らは多くの場合、自分たちがあなたたちよりも優れていると誤って思い込んでおり、唯一の真の世界である霊の世界においては、あなたたちよりも劣っていることが珍しくありません。この場合、必要なのは謙虚さではなく、慈善です。なぜなら、他人の悪に関心を持たないことは、道徳的な慈善であるからです。

だからと言って、この慈善は他の慈善の妨げとなってはいけません。ゆえにあなたたちの同胞を軽んじることが無いように、特に注意してください。私があなたたちにすでにお伝えしたことをすべて覚えておいてください。

今日あなたが拒む一人の貧しい者は、今日より劣った条件に置かれていた過去のあなたたちにとっての大切であった誰かなのかも知れません。地上で幸いにして幾度か助けることができた貧しかった人と、私はこちらで会うことができましたが、今度はその人に、私が助けを懇願することになりました。

貧しい者や、病気の者を拒む前に、私たちは皆兄弟なのだとイエスが言ったことを覚えておいてください。さようなら。苦しんでいる人たちのことを考え、祈ってください。(ロザリア修道女 パリ、1860年)



十、友よ、私はあなたたちの多くが次のように言うのを聞いたことがあります。「私自身に必要なほんの少しの物さえも所有していないのに、どうして慈善を行うことが出来るでしょうか」。

 友よ、慈善を行う方法は幾千もあります。思考によっても、言葉によっても、行動によっても、慈善を行うことはできます。思考によって行うには、光を見ることなく他界していった、見捨てられた貧しい人々のために祈ることができます。心を込めて放たれた祈りは彼らに慰安を与えます。

言葉によって行うには、日々出会うあなたたちの仲間によい助言をしたり、落胆し、失うことによって神を冒涜するようになってしまった者には、「私もあなたと同じでした。自分が惨めだと思って居ました。しかしスピリティズムを信じました。そしていまはご覧の通り私は幸せです」ということができます。

「無駄だ、私の人生は終わろうとしており、生きてきたとおりに私は死んで行くのだ」と言う年老いた者には、「神は誰に対しても平等にその正義を用います。最後の労働者のことを思いだしてください」ということができます。

この世のことばかりに気を取られてしまっている仲間たちによって悪癖が付いてしまい、悪の誘惑に負けてしまう子どもたちには、「親愛なる子どもたちよ、神はあなたたちのことを見ているのです」と言うことができ、あなたたちはその温かい言葉を繰り返すことに飽きてはなりません。

そうした言葉は、子供たちのその幼い知性を芽生えさせ、彼らを怠け者ではなく、立派な人間にすることになります。これも慈善の一つです。

あなたたちのうち、「ああ。地上には余りにも多くの人間がおり、神はすべての者を見ることはできまい」という人がいます。友よこの言葉をよく聞いてください。

「山の頂上にいる時、そこから何十億もの砂粒に目が届きませんか」。いいですか。神も同じようにあなたたちを見ることが出来るのです。あなたたちはそれらの砂粒が風にまかれ、まき散らされるのを許しますが、神も同じようにあなたたちがその自由意思を働かせることを許すのです。

ただし、神はその無限の慈悲により、あなたたちの心の底に良心という名の注意深い番人を置いてくれました。彼の声を聞いてみて下さい。その声はあなたたちに良い忠告だけをしてくれます。時々あなたたちは、悪の心と戦わせることによって彼を無感覚にしてしまいます。

すると彼は黙ってしまいます。しかし追い払われたその哀れな番人は、あなたたちの中に後悔が陰をのぞかせると、再びあなたたちに自分を聞いてもらおうとします。

その声を聞き問うてみて下さい。多くの場合、彼から受け取る忠告によって、あなたたちは慰めを得ることができます。

 友よ、新しい連隊が現れる度に将軍は旗を掲げるものです。私はあなたたちに標語として次のキリストの言葉を捧げます。「お互いに愛し合いなさい」。この規律を守り、その旗の下に集まれば、幸運と慰安を得ることができるでしょう。(ある守護霊 リヨン、1860年)


   善行
十一、友よ、善行はあなたたちに最も純粋で甘い喜び、つまり後悔にも無関心にも邪魔されることのない心の喜びを与えてくれます。ああ、

美しい魂たちの持つ寛大さが、どれほど偉大で柔らかいものであるのかを理解することができれば、その感覚は、自分自身を見つめる時と同じように他人を見つめることができるようになり、そのことによって、兄弟に衣服を与えるために自分の服を脱ぐことができるようになります。

友よ、他人を幸せにするということだけに身を捧げることが出来たなら、神の代理人として、辛さと苦しみばかりの人生しか知らない家族に喜びを届けることができた時、彼らの苦しめられた表情が、とたんに希望に輝くのを見た時の喜びは、地上のどんな宴にも例えることはできません。

なぜなら、食べるものにも不足した不幸な彼らは、「お腹が減った」と言う、鋭い刃物のように母親の心を突き刺す言葉が、生きることが苦しむことであることをまだ知らぬ子供たちによって、繰り返し泣き叫ばれるのを聞いたことしかなかったからです。

おお、その時、一寸前には失望しか感じていなかった者に再び喜びが生まれるのを見た時に受ける印象が、どんなに素晴らしいものかを理解しなければなりません。あなたたちがあなたたちの兄弟との間に持つ義務を理解しなければ なりません。
℘240     
不幸な者たちに会いに出掛けてください。中でも、より苦しみの大きい、目立たぬ不幸の救済に出掛けて下さい。愛する者たちよ、救い主の次の言葉を心に抱き出かけて行って下さい。「これらの小さい者たちに服を着せる時、あなたは私を通じて服を着せているのです」 

 慈善。すべての美徳を一つにまとめる崇高な言葉よ、それが人々を幸せに導くのです。慈善を実践することにより、その人は自分自身の未来における無限の喜びを創っているのであり、地球上に追放されている間は、やがて後に愛に溢れる神のもとに集まる時に受けることができる喜びを、試しに味わうことで慰安としているのです。

神なる美徳よ、地上で満足を味わうことのできた唯一の時を与えてくれたのはあなたでした。肉体を持って生きる私の兄弟たちよ、「人生の苦しみの為の薬となる、心の安らぎ、魂の喜びは、慈善に求めなさい」と伝える友の声を信じてください。

おお、神を非難しそうになった時には、あなたたちよりも下方に目を向けてください。和らげてあげるべき不幸がどれだけあることか、家族を持たぬ子供たちがどれだけいることか、死が訪れた時、親しい助けの手を誰からも差し伸べられることなく目を閉じて行く老人がどれだけいることか見てください。

やらなければならない善が、何と多く存在することか!おお!不平を言ってはなりません。

反対に神に感謝し、あなたたちの同情、あなたたちの愛、あなたたちのお金を、この世の富を受け継ぐことができず、苦しみと孤立に衰弱した者たちすべての為に、精一杯費やしてください。この世で最も甘い喜びを感じることができるようになり、また、その後には――それは神のみが知っているのです。(アルジェルの司教アドルフ ボルドー、1861年)


十二、「善を行い、慈善的になりなさい」。これがあなたたちの手の中に握られた天に入るための鍵です。永遠の幸福は、どれもが「お互いに愛し合いなさい」という戒律の中に含まれているのです。

魂は隣人への献身なしに霊的に高い次元へ昇っていくことはできません。魂は慈善の衝動の中にのみ幸運と慰安を見つけることが出来るのです。善人となり、あなたたちの兄弟を助け、恐ろしいエゴイズムの傷を捨て去りなさい。この勤めを遂げることが出来れば、永遠の幸福への道が開かれます。

さらに、美しい献身の行動や真の慈善の行動が語られるのを聞いて、歓喜と内なる喜びによって心がうち響くのをいまだに聞いたことがない人が、あなたたちの間にどれだけいるでしょうか。

もしあなたたちが、善を行うことがもたらす快楽だけを求めることが出来れば、いつも霊的成長の道を歩むことができるでしょう。模範に事欠くことはありません。意欲を見るのがまれなだけなのです。

あなたたちの歴史は、大勢の善人たちの慈悲深い思い出を守っているのだということを覚えておいてください。

 イエスは、愛と慈善に関することを全てあなたたちに伝えませんでしたか。なぜ神からの教えを軽んじるのですか。なぜ神からの言葉に耳を閉ざし、そこにあるあらゆる善なる規律に心を閉ざすのですか。

私はあなたたちに、もっと福音の朗読に関心を持ち、それをもっと信じてほしいと思います。それなのに、あなたたちはその本を軽んじ、中身のない言葉の倉庫であるかのように考え、封の切られぬ手紙のように扱い、その見事な法のことを忘れ去ってしまいます。

あなたたちの悪はすべて、神の法の要約をあなたたちが自ら放棄することによって生まれるのです。イエスの献身を伝える頁を読み、それを学んで下さい。

 強い者たちよ、お互いに愛し合ってください。弱い者たちよ、あなたたちの温情、信心をあなたたちの武器としてください。人の心を動かし、いつもあなたたちの教義を広めるようにしてください。私たちがやってきたのは、あなたたちに勇気を与えるためです。

神によって許されたためにこうして私たちは現れ、あなたたちの熱望と美徳を刺激しにきたのです。しかし、一人一人が望むのであれば、各々の意欲と神の助力で事足りるのです。霊現象は、目の閉じた人、不従順な心の持ち主のためにのみおきるのです。

 地上のあらゆる美徳は、慈善という根本的な美徳がその礎とならなければなりません。慈善という美徳なしに、他の美徳は存在し得ません。慈善なしには幸運を期待することもできなければ、慈善のない道徳的な手引きというものも存在しません。

慈善なしには信仰心も存在しません。というのも、信仰心とは慈善に満ちた心を光らせる、純粋な輝きのことに過ぎないからです。
℘242          
 慈善はどの世界においても、永遠の救いの支えです。創造主の放つ最も純粋な放射です。慈善は被創造物に与えられる創造主の美徳そのものです。この至上の神意を私たちはどうして軽んじることができるでしょうか。

そのことを知りながら、自分の中にある慈善を妨げ、神からもたらされるこの感情を退けるほど非道な心を持っているのは誰でしょうか。慈善、この甘い慈愛に反抗するほど悪い息子となっているのは誰でしょうか。

 私が行ってきたことについては、あえて言うつもりはありません。なぜなら、霊たちも自分たちが行ってきたことに対して恥ずかしい気持ちを抱くからです。しかし、私がはじめたことは、あなたたちの同胞たちの慰安に最も貢献することの一つであったと考えています。

私が行ってきたことを引き継ぐ任務が、責務として自分に与えられることを霊たちが願うのをしばしば見ることができます。神の慈悲深い任務についている、親愛なる情け深い兄弟、姉妹たちの間にそうした霊たちを見ることができます。

彼らは犠牲と献身のみがもたらす喜びを感じながら、私があなたたちに勧める美徳を実践しています。彼らの状況がどれだけ敬意に値し、彼らが果たす任務がどれだけ守られ、尊ばれているかを見ることは、私の計り知れない喜びです。

善意に満ちた堅実な意欲に溢れる善人たちよ、力を合わせ、慈善を広める事業を大々的に継続してください。この美徳を実践することにより、あなたたちのための報酬を見つけることができます。

現世を生きるうちから現れることのない霊的な喜びは存在しません。力を合わせ、キリストの教えに則ってお互いに愛し合ってください。そうありますように。(聖ブィンセント・デ・パウロ パリ、1858年)

℘243        
十三、人々は私のことを「慈善」と呼びます。私は神のもとへ続く本道を歩んでいます。私についてきて下さい。あなたたちのすべてが心がけるべき目標を知っているからです。

 今朝、いつもの散歩にでかけてきて、心が悲しくなり、あなたたちに次のことを伝えにやってきました。おお、友よ、貧困、涙、それらすべてをぬぐおうにも、そのなんと多いことでしょうか。無駄だとは思いながらも何人かのかわいそうな母親たちを慰めようと、彼女たちの耳元で囁きました。

「勇気を出してください。あなたたちのことを見守る善き心を持った人々がいるのですよ。あなたたちは見捨てられることはありません。辛抱強くいてください。神はそこにいるのです。あなたたちは神に愛され、神に選ばれたのです」。

彼女たちには私の声が聞こえたようで、驚きに目を丸くして私の方へ向きました。彼女たちの外見から、霊を束縛する彼女たちの肉体は飢えていることが分かります。

私の言葉は確かに彼女たちの心を静めたでしょうが、彼女の空腹を満たすことはできませんでした。彼女たちに向かって繰り返しました。「勇気を持ってください。勇気を出してください」。

すると、子どもに母乳を飲ませていたまだ若い一人の哀れな母親は、痩せた胸から十分な栄養を得ることのできないその小さな命を私に守ってほしいと願うかのように、その子を腕に抱え、空に向かって差し出したのでした。

 友よ、別の場所では、仕事を失った老人たちが、ついには家もなく、貧困のあらゆる苦しみに縛られながらも、その惨めさを恥じて物乞いなどしたことが無いために、道行く人々の慈悲を懇願しているのを私は見ました。

私は何も持ってはいませんが、心が同情で一杯になり、彼らのために物乞いとなって、寛大で情け深い人々の心によい思考をもって貰おうと、あらゆる場所へ行き人々の善意を刺激して回りました。友よ、そのために私はここへ参り、あなたたちに伝えに来たのです。

「家に食料もなく、かまどに火をつけることも出来ず、寝床には毛布もない可哀想な人々がその辺にたくさんいます」。私はあなたたちには何をするべきかは申し上げません。あなたたちの善なる心の自発性に任せます。

私がその方法をあなたたちに教えたとしたら、あなたたちの善行は何のメリットももたらさなくなってしまいます。次のことだけを申し上げます。「私は慈善であり、私はあなたたちの苦しむ兄弟たちのために手を差し伸べます」。  
℘244                        
 しかし、頼むこともあれば、与えることもあり、与える時には多くを与えます。あなたたちを大きな宴に招き、あなたたちの全てを満足させることのできる木を提供します。その木がどれほど美しく、どれほど多くの花が咲き、実を結んでいるか見てください。

行きなさい、行きなさい。善意という名のこの偉大なる木がもたらす果実をすべて収穫することができるように。あなたたちが実を収穫したその枝に、私はあなたたちが行ってきた全ての善行を括りつけ、その木を神のところへ持っていきます。すると神は、再びその木を沢山の実で茂らせてくれます。

善意は尽きることがないからです。友よ、私の掲げる旗に従う者たちのうちに数えられるように、私についてきて下さい。恐れることはありません。私はあなたたちを救いの道へと導きます。なぜなら、私は「慈善」だからです。(ローマで殉教したカリタ リヨン、1861年)


十四、慈善を行うことを、あなたたちの多くは、施しを与えることばかりだと間違えていますが、実際にはさまざまな方法があります。そしてそれらの間には大きな違いがあります。

友よ、施しは、貧しい者たちの負担を軽くするという意味で、時によっては大切です。しかし、それはほとんどの場合、施しを与える側にとっても、受け取る側にとっても屈辱的です。慈善は、逆に、与える側と受け取る側とを結びつけ、さまざまな見えない形で実践されているのです。

家族内で、または友達同士でも、お互いに寛大になり、相互の弱みを赦し合い、誰の自尊心をも傷つけないようにすることによって、慈善的になることができます。

あなたたちスピリティストは、あなたたちと同じように考えない人たちに対する接し方の中で、相手に衝撃を与えたり、彼らの確信していることに対して攻撃するのではなく、私たちの集会に親切に誘って、私たちの考えを聞いてもらい、彼らの心の中に私たちが入っていくことの出来る入り口を見つけることによって、慈善的になることが出来るのです。これも慈善の一つの在り方です。

 今度は、貧しい人たち、富を受け継ぐことのできなかった人々に対する慈善とはどういうものなのかを聞いて下さい。彼らは、自分たちの貧困を不平を言うことなく受け入れることが出来れば、神に報われることになりますが、そのようにできるかどうかはあなたたちにかかっているのです。そのことを例をもちいて明らかにしましよう。

 毎週、あらゆる年代の女性が参加するある集会を私はよく見ます。私たちにとって、ご承知の通り、彼女たちはみな姉妹です。何をしているのでしょうか。忙しそうに、とても機敏に働いています。

指を早く動かしています。彼女たちの心が一つとなって鳴り響き、彼女たちの表情が何と楽しそうであるか見てください。一体何の目的で彼女たちは働いているでしょうか。冬が近づき、貧しい家々には生活の厳しさが増していきます。

夏の間、忙しく蟻のように働いても必要なだけの蓄えをすることができず、殆どの道具が質に入れられてしまっているのです。可哀想な母親たちは、この冬の季節の間に寒さと飢えに苦しむであろう子供たちのことを思って心配し、泣いています。

不幸な女性たちよ、どうか忍耐強くいてください。神はあなたたちよりも、より多く富の分配を受けている人たちの感情に訴えたのです。

彼女たちは集まり、衣服をつくっているのです。後日、そのうち雪が地表を覆い、あなたたちがそのいつも苦しむ身の口から「神は不公平だ」とこぼす時、貧しい人々の為に働くことを自任した、この善なる働き手たちの一人が現れるのを見ることが出来るでしょう。

彼女たちがそのように働くのはあなたたちのためであり、あなたたちの苦しみは祝福に変わります。なぜなら、苦しむ者の心の中には、憎しみのすぐ後ろに愛が潜んでいるからです。

 これらの働き手たちには元気づけが必要ですが、彼女たちのところには、善霊たちからの通信があらゆる方向から届いているのを見ることができます。この会には、活動に参加する男性たちも協力し、それらの朗読を行って人々を喜ばせます。
℘246                     
そして私たち霊はすべての人々の熱意に、それも一人一人に対して応えることができるように、そのような働き手たちに祝福と言う天の国で唯一流通する貨幣によって、即金で支払う善い顧客を連れて行くことを約束し、そればかりではなく、彼らにとってその貨幣が欠くことが無いよう、間違いなく保証いたします。(カリタ リヨン、1861年)


十五、親愛なる友たちよ、私はあなたたちが、「私は貧乏だから、慈善を行うことはできない」と言うのを毎日聞き、あなたたちが同胞たちに対して寛大さを欠いているのを毎日見ています。

あなたたちはなにを赦すこともなく、とても厳しい判事であるかのようにとりすまし、自分に対してそのように振る舞われたら満たされるかどうかなど考えようともしません。寛大であることも慈善ではありませんか。 

寛大になることによってのみ慈善を行うことが出来るあなたたちは、それを広く行わなければなりません。物質的な慈善については、一つ別の世界での話をしましょう。

 二人の人がたった今亡くなりました。「この二人が生きている間、一人一人の善行を別々の袋に入れ、亡くなった時にその袋の重さを量ることができるようにして下さい」。と神は言ってあったのでした。

二人が最期を迎えると、神は二人の袋を持ってこさせました。一方の袋は大きく膨らみ、一杯に詰まった金が袋の中で鳴っていました。もう一つの袋は小さく、殆ど空っぽで、中に入っていた硬貨を数えることができました。一人が言いました。

「この袋は私のだ。見ればわかる。私は金持ちであったため、多くを人に与えることが出来た」。

もう一人が言いました。こっちの袋が私のです。私は貧乏で人と分けあうものをほとんど持っていませんでした」。

しかし驚いたことに、二つの袋を秤にかけると、大きく膨らんでいた袋の方が軽く、もう一方の袋の方が重いことを示し、殆ど空っぽだった袋が、最初の大きく膨らんだ袋の乗った天秤の皿を高々と持ち上げたのでした。すると神は金持ちに言いました。「あなたは確かに多くを与えました。

しかし見栄を張り自尊心を奉る寺院にあなたの名前が現れるようにするために与えました。更に、自分自身で何を失うこともなく与えました。左側へ行き、僅かな施しに満足しなさい」。

次に、貧しい者に言いました。「友よ、あなたは少ししか与えませんでした。しかし秤にかけられているこれらの硬貨一枚一枚は、あなたが自分から無理矢理奪って与えたことを示しています。

あなたは施しを与えることは無くても、慈善を行い、何よりも価値があるのは、そのことが自分のために数えられるかどうかなど考えることもなく、慈善を自然に行ったことです。あなたは寛大で、同胞のことを勝手に判断することはありませんでした。

反対にあなたの全ての行いは同胞を赦すものでした。右側へ行き、あなたの報酬を受け取りなさい」 (ある守護霊リヨン、1861年)


十六、家の仕事に時間を費やす必要のない、ある裕福で幸運な女性は、同胞たちの役に立つ仕事のために、幾らかの時間を費やすことが出来ないでしょうか。

娯楽に費やすお金の残りで、寒さに震える不幸な者たちのために上着を買ってあげてください。その繊細な手で粗末でも温かい服を縫ってあげてください。生まれてくる子供に服を着せようとしている母親を手伝ってあげてください。

そうすることによってあなたの子供を飾るレースの飾りが少なくなったとしても、貧しい母親の子供は身体を温める衣類を得ることができるのです。貧しい者たちのために働くことは、神のぶどう園で働くことです。

 貧しい職人であるあなたは、余剰の富を持っていなくても、兄弟たちに対する愛に満ち、少ない中からでもなにかを人に与えようとするのであれば、所持する唯一の宝であるあなたの時間のうちから、一日の何時間かを与えて下さい。

裕福な人たちを引きつける優雅な細工をつくるのです。夜業の成果を売れば、あなたの兄弟たちを助けるために、あなたの役割を担うことができます。細工に用いるリボンの数は何本か減るかもしれませんが、はだしで歩く者に靴を与えることが出来るでしょう。

そして、神に人生を捧げたあなたたち女性も、あなたたちにできる仕事をしてください。しかし、あなたたちの仕事は、あなたの能力と忍耐力によってあなたたちの注意を引くために礼拝堂を飾るばかりではいけません。

娘たちよ、あなたたちの仕事の生産物は、神の前にいるあなたたちの兄弟たちを助けることに向けられるのですから、大いに働いてください。貧しい者たちは神の愛する子供たちです。彼らのために働くことは神を讃えることです。

「空を飛ぶ鳥たちに神は食物を与える」と言う神の言葉のようになってください。あなたたちの手の中で編む金と銀を、衣類や食物を得ることができない者たちへのそれに変えてください。それを行えばあなたたちの仕事は祝福されます。

 生産することができる者はみな、与えて下さい。あなたの才能を、あなたたちのひらめきを、あなたたちの心を与えて下さい。そうすれば神はあなたたちを祝福します。

世俗的な人々にしか作品を読まれない詩人たち、文学者たちよ。彼らの娯楽を満足させるだけでなく、あなたたちの作品のいくつかを、苦しむ者を助けるために捧げることも忘れないで下さい。画家、彫刻家、あらゆる分野の芸術家たちよ。

あなたたちもその知性を、兄弟たちを助けるために使って下さい。そのことによってあなたたちの栄光が衰える訳ではなく、いくらかの苦しみが軽減されることになるのです。

 誰にも与えることはできます。どんな階級に属していようと、分かち合えるものをなにか持ちあわせています。

神があなたたちに与えてくれたものがなんであろうと、その一部は、生きるために必要なものさえも不足している者たちのために負っているのであり、なぜなら、その立場になれば、他人に対して、自分たちにも分けて欲しいと思うに違いないからです。

地上におけるあなたたちの宝は減るかもしれません。しかし、天におけるあなたたちの宝は増やされます。そこではこの世で蒔いた善行の種が、百倍になって収穫されることでしょう。(ヨハネ ボルドー、1861年)



 慈悲
十七、慈悲はあなたたちを天使たちに近づける美徳です。あなたたちを神のもとへ導く慈善の姉妹です。ああ、あなたたちの同胞の苦しみと貧困の悲しい光景を見て、あなたたちの心に同情をおこしてください。

あなたたちの涙が薬となって彼らの傷の上に流れ、善意に溢れる同情によって希望と甘受の気持ちを彼らに届ける時、なんと大きな喜びを感じることができることでしょうか。この喜びは、不幸の隣で生まれるものですから、ある種の苦痛を伴っているのは確かです。

しかしその中には、世俗的な快楽の辛い味はなく、そうした快楽が後に残す刺すような空しい失望感もありません。人の心の中に浸透するような優しさによって彼らを包み、魂を喜びで満たしてください。心から感じられる慈悲は愛です。

愛とは献身です。献身とは自分自身の忘却であり、不幸な者たちに捧げられたこの忘却と克己は優れた美徳であり、それは聖なる崇高な教義と、神より送られた救い主が一生の中で教えてくれた美徳です。

 この教義が、その根元の純粋さによって確立されるとき、全ての民がその教義に従う時、地球は幸せになり、そこには調和、平和、そして愛が君臨することになるのです。

 あなたたちを進歩させるもっとも正しい感情とは、あなたたちの中にある、エゴと自尊心を征服し、あなたたちの魂を謙虚にし、隣人への愛と善意を持ち合わせるようにする慈悲の気持ちです。

慈悲の気持ちは、兄弟たちの苦しみの奥底まであなたたちを入り込ませ、あなたたちが彼らに手を差し延べ、同情の涙を流すことをうながします。だから、この天から来る感情をあなたたちの中で抑制するようなことがあってはなりません。

苦しむ者たちの惨めな光景を見ることによって楽しい生活が幾らかの時間でも邪魔されることになるといって、苦しむ者たちのそばから身を遠ざけようとする心の堅くなった利己的な人々のように振る舞ってはなりません。

自分が役に立てる時に、無関心であり続けようとする自分を恐れてください。後ろめたい無関心と言う対価によってあがなわれた安堵は死海の静けさであり、海面下には腐り、堕落した泥沼が隠されているのです。
℘250        
 しかし、慈悲とは利己的な人々が恐れているような混乱や嫌悪と、どれほどかけ離れていることでしょうか。疑いもなく、他人の不幸に接すると、自分のことばかり考える魂は自然に深い苦痛を感じることになり、その感情はその人全体を震わせ、その人を痛々しく動揺させます。

しかし、そこで勇気と希望を不幸な兄弟に与えることが出来れば、その報酬は大きなものとなります。その兄弟は、友情に満ちた手で手を握られたことに感動し、時には目に涙を浮かべあなたたちに優しい眼差しを向け、後にその目を天に向け、支えとなってくれる慰め手を送ってくれたことに感謝します。

慈悲は憂鬱ですが、天から届く、第一の美徳である慈善の前触れであり、慈善の姉妹として慈善の恩恵を準備し、高尚なものとするのです。(ミカエル ボルドー、1862年) 
 

 孤児たち
十八、兄弟たちよ、孤児たちを愛してください。特に幼少期において、孤独に見捨てられることがどんなに悲しいことか、あなたたちにお教えすることができたならば、神は孤児たちが存在することを許しますが、それは私たちが彼らの両親となって支えることを、私たちに勧告するためです。

神なる慈善が、可愛そうな見捨てられた存在を寒さと飢えの苦しみから遠ざけるようにし、その魂が悪癖へと道を外してしまうことがないようにして下さい。

見捨てられた子供に手を差し延べる者は、神の法を理解し、それを実践していることになるのですから、神を喜ばせることになります。

あなたが助ける子供が、別の人生においては大切な人であったということも多々あるということを考えると、その場合には、そのことを思いだすことが出来たとすれば、もはやそれは慈善を行っているのではなく、義務を遂行しているに過ぎないのです。

友よ、この様に苦しむ者はみながあなたの兄弟であり、あなたの慈善を受ける権利を持っているのです。とはいっても、それは人の心を悲しめる慈善や、受け取る手にやけどをさせる施しであってはなりません。というのは、あなたたちの施しはしばしば苦い味を持っているからです。
℘251           
苦しむ者の粗末な家が病に見舞われたために悲惨な状況に追い込まれているのでなかったとしたら、そうした苦い施しのうち、どれほどが受け取ることを拒まれていたでしょうか。

あなたの与える利益に、あらゆる利益のうちでも最も貴重な利益である、言葉による利益、慈愛による利益、友情による溢れる笑みによる利益を、一緒に優しく与えて下さい。

自分を守ろうとする態度は、血の流れる心に剃刀の刃を立てるのに等しいことなので避けてください。そして、善を行うことは、あなた自身の利益のためであり、また、あなたの愛する人たちのためでもあるということを心にとめておいてください。(ある親しい霊 パリ、1860年)


  感謝されない善行
十九、恩知らずの人々と出会わないようにと、善行を行いながらも感謝されなかったからといって、善を行うことを止めてしまう人たちのことをどう考えるべきでしょうか。

 こうした場合、そこには慈善よりもエゴイズムが多く存在します。なぜなら、善に対して感謝することを示す態度を見せてもらうために行われる善行とは、私心を棄てて行われる善ではないからであり、私心を棄てて行われる善だけが、神に喜ばれるのです。そこには自尊心も存在します。

なぜなら、そのような人は自分の足元に感謝の証を示そうとひれ伏す、恩恵を受ける人たちの謙虚さを見て楽しんでいるからです。自分の行う善に対する報酬を地上に求める者は、天においてその報酬を受け取ることができません。神は、善行に対する報酬をこの世に求めない者たちを評価するのです。

 善を行った相手が、そのことに対して感謝することがないことが前もってわかっていたとしても、弱い者をいつも助けなければなりません。

あなたが助けた相手がそのことを忘れた時には、恩恵を受けた者があなたに感謝した時よりも、より価値あることとして神は考慮してくれるということを確信してください。あなたたちが善行に対して感謝されないことを神が赦すのは、善を行うあなたたちの忍耐力を試すためなのです。
℘252        
 一時的に忘れられた善行が、後になって善い実を結ばないと誰に言い切ることができるでしょうか。反対にそれは、時間を掛けて発芽する種であるのだということを信じて下さい。不幸なことに、あなたたちは現在のことしか目に入りません。

あなたたちは他人のために働くのではなく、自分たちのために働いてばかりいます。善行は最も冷え切った心をも和らげます。この世においては忘れられてしまうかも知れませんが、肉体の被いから自由になった時、善行を受けたその霊はそのことを思いだし、その記憶がその人に対する罰となります。

彼は自分が恩知らずであったことを嘆き悲しむことになります。次の人生で自分の過ちを改め、恩義を返そうとし、善を施してくれた人に仕える人生を求めようとすることもまれではありません。

このように、疑わずともあなたはその道徳的進歩に貢献することができたことになり、次の教訓の意味を正確に理解することができるようになります。

「善が無駄になることは決してありません」。そればかりではなく、落胆することによって善を行う気力を失うことなく、私心を棄てて善を行ったことの功績を得ることが出来るのですから、自分自身に対しても働いたことになります。

 ああ、友よ。あなたたちの前世と現世のすべてのつながりを知ることが出来たなら、お互いの進歩のための、人類の一人一人を結びつける関係の広さを、一目で見ることが出来たなら、創造主の善意と英知に大いに感心するでしょう。

神はあなたたちがいつか神のもとにたどり着くことができるように、生まれ変わることを許すのです。(守護霊 サンス、1862年)


 排他的な善行
二十、 同じ考え方、同じ思想、同じ政党の人同士の間だけで行われる善行とは正しいものですか。

 正しくありません。なぜなら、人類はみな兄弟であり、政党、宗派といった考え方は必然的に廃止されるべきものであるからです。真のキリスト教徒は同胞たちを兄弟として見ることができ、助けを必要としている者を救済する前に、その人が何を信じ、どう考えているかなどということを知ろうとはしません。

あるいは、あるキリスト教徒が自分とは違う信仰を持っているからといって、苦しむ者を拒否したとしたら、そのキリスト教徒は、私たちに敵を愛さなければならないと教えたイエス・キリストの教訓を守っていることになるでしょうか。

ですから、何も意識することなくその苦しむ人を救済してください。もしその人が宗教上の敵であるとすれば、そうすることが彼にあなたの宗教を受け入れてもらえるようにする方法であり、あなたがその人を拒否したとすれば、その人はあなたの宗教を憎むことになるでしょう。(聖ルイ パリ、1860年)

シルバーバーチの霊訓(八)

More Wisdom of Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell  




三章 質問に答える    ──地上の生活──
          
 本章では誕生から死に至る人間の一生をたどりながら、その間のさまざまな問題を取りあげる。

まず受胎の問題から始めて肉体にまつわるさまざまな疑問、さらには寿命というものがあらかじめ定まっているのかどうか、そして死、それに伴う悲しみといったテーマについて、シルバーバーチの見解を質すことにする。(小見出しは訳者による)

 
 発達と進化
──アメーバから今日の人類にいたる進化の過程のどの段階において、霊的存在としての人間が登場したのでしょうか。最初の細胞の中ですでに宿っていたのでしょうか。

 「ご質問が人類としての個霊のことを意味しておられるのでしたら、それはアメーバの段階ではまだ存在しておりません。が、生命のあるところには必ず霊が存在します。

なぜならば霊とは生命そのものであり、生命とはすなわち霊だからです。最も原始的なものから最高の組織体へ、つまり最も単純なものから最も複雑なものに至るあらゆる発達過程と生命形態を通じて霊が顕現していると言えます。

 人間的要素はアメーバの段階的発達の中で発生します。そして人類(ひと)へ向けて絶え間ない発達過程を続けます。そして人間としての意識に目覚めた段階で、つまり自我意識をもつに至ったときに、いわゆる人間となります。

しかし、進化は絶え間なく続いているのです。進化に始まりの一点というものはありません。常に始まりであり、終わりがないのです。なぜなら進化とは完全へ向けての永遠の過程だからです」

 訳者注──シルバーバーチは発達 development と進化 evolution とを区別している。ここでも問題となるのはやはり用語についての認識の仕方であろう。これまでの進化論はあくまで地上の生命にかぎっての話であって、ただ一人アルフレッド・ウォーレスのみが〝霊的流入〟spiritual influxによって動物が人類へと進化したという説を立てた。

スピリチュアリズム的に言えばそれが本当の意味での〝進化〟であって、その段階までは〝造化の霊団〟によってこしらえられた〝種〟が発現し、精霊の働きによって促進される〝発達〟である。それを進化と呼ぶのなら、次元が異なることを認識した上で使用しなければならない。

シルバーバーチも重複して用いることがあるが、基本的には霊的向上つまり霊格が上がることを〝進化〟と呼び、その霊が使用する機能が開発されることを〝発達〟と呼んでいる。


 霊が身体に宿る時期
──霊はどの段階で身体に宿るのでしょうか。受胎の瞬間でしょうか。それとも胎動期つまり十八週ごろでしょうか。

 「この問題はこれまで何度も尋ねられました。そしていつも同じお答えをしております。生命は受胎の瞬間から始まります。そして生命のあるところには必ず霊が存在します」


──受胎の瞬間から霊が宿り、そこから個性が発達していくということでしょうか。

 「個性という用語を持ち出されるとまたややこしくなります。生命は霊であり霊は生命です。両者は二つにして一つです。受胎と呼んでいるものは、そこに生命があるということを意味します。受胎がなければ生命は存在しません。したがって霊は受胎の瞬間に物質に宿ることになります。

 その後の発達の問題ですが、これは環境条件によって異なりますのでさらに問題がやっかいです。受胎時に宿る霊も、霊としてはそれまでずっと存在していたのです。ですから、個性の問題は、その個性よりはるかに大きい霊全体のどの部分が表現されるかの問題となります」


──受胎後のどの段階で人間(ひと)となるのでしょうか。胎内生活の正確に何か月目から人間となるのでしょうか。(三か月後の)胎児はすでに人間と呼べるでしょうか。

 「受胎の瞬間から生命が存在し、したがって霊が存在します。流産とか中絶とかがあっても、それは生命を破壊したことにはなりません。その生命の表現の場をあなた方の世界から私たちの世界へと移しただけです」


──子宮内の生命もれっきとした人間だとおっしゃるのでしょうか。

 「潜在的には受胎の瞬間から人間であり、人間性のすべてを宿しております」


──受胎の瞬間からですか。

 「受胎の瞬間から身体的機能のすべてを潜在的に宿しているごとく、霊的機能もすべて宿しております。霊的機能が存在しなければ身体機能も存在しません。物質は霊の影だからです」


──ということは、霊は誕生に際して地上で使用する身体をみずから選択する自由はないと理解してよろしいでしょうか。

 「それは正しくありません。逆に、霊はあらゆる自由が与えられています。大半のケースにおいて、霊は地上で果たさねばならない目的をもって生れてきます。そしてその仕事に合った身体に宿ります。ただ、自分は地上でかくかくしかじかのことをしようと決意したその仕事に実際に目覚めるまでに相当な時間を要します」


訳者注──ここでいう決意とは肉体に宿る前の〝霊〟としての意識による決意であって、肉体に宿ってからの脳を焦点とした意識にはそれがなかなか自覚されない。シルバーバーチがそれに目覚めるまでには相当な時間を要しますと述べているのは、必ずしも誕生前の霊としての決意と同じものを記憶として思い出すことを言っているのではなく、

食べて働いて寝るだけの物的生活を超えて、何のために生きているのだろうという疑問をはじめた時点からその段階に入るものと私は理解している。そのうち〝自分はこれでいいのだ〟という得心ともあきらめとも悟りともつかないものを自覚し、同時に生きる意欲が湧いてくる。シルバーバーチはそのことを言っているのであろう。


  物的身体に関連して
 「誕生の瞬間から肉体は死へ向かいます。この現象は誰にも変えられません。もともと肉体は不老不死を目指すようには意図されていないのです。本性そのものが儚い存在であることを自覚しております。従わねばならないサイクルというものがあるのです。

まず、ゆっくりと機能的成熟を目指します。成熟すると同時に、やはりゆっくりと、全機能が衰えはじめます。そして、リンゴが熟すると自然に木から落ちるように、肉体も与えられた寿命をまっとうして死を迎えます。何度も申し上げているように、人間は本来そうなるようにできているのです。

 私たち霊界の者も完全ではありません。まだ霊的進化の頂点を究めたわけではありません。まだまだ延々と先が続いております。しかし地上での仕事を困難にする物的条件に直面したときは、私たちにできるかぎりのエネルギーを活用して、その克服につとめます。

 いつも申し上げ、これからも繰り返し申し上げることでしょうが、私たちといえども全ての知識を手にしているわけではありません。無限に存在するからです。が、地上のあなた方は私たちにない肉体的条件によって制約を受けていますから、手にすることのできる知識はきわめて限られております」


 こう述べてから、メンバーの一人で非常に疲れた様子をしている人に向かって───

 「休息が不足すると身体がその代償を支払うことになります。その代償の度合いが大きすぎると、完全な休息を要求されて、あなたは床につかねばならなくなります。各人各個の責務という教理を説きながら、その働きに例外があるかのようなことを申し上げるわけにはまいりません。

無理して一度に多くのことをなさってはいけません。肉体は所詮は機械です。その限度を超えたことを要求してはなりません」


 別のメンバーが意見を述べる。

───疲れすぎると床につかねばならなくなるとおっしゃいますけど、休むわけにはいかないこともあります。休まなくてはいけないことは分かっていても、世話をしてあげなくてはならない人たちとの関係においては、自分より気の毒な状態にあるのを見ていながら自分だけ休むわけにはいきません。

 「自然の摂理の働きは変えようにも変えられません。私には皆さんに対する愛があります。もし無かったら今こうしてここにいることもないでしょう。私たちにとって地上という世界は何一つ魅力はありません。なのにこうして戻ってきて皆さんの中に混って皆さんとともに仕事をするのは、皆さんに対する愛があるからです。

そうすることで何の利益を受けるわけでもありません。私たちの多くには(※)これまでに身につけたものを惜しげもなく犠牲にして皆さんのお役に立ちたいという願いがあるのです。

(※〝私たち〟と言わずに〝私たちの多く〟という言い方をしたことには意味がある。 『霊訓』 のモーゼスの背後霊団をはじめとしてスピリチュアリズムの初期の霊団には、地縛霊の状態からやっと脱したばかりの低級霊が大勢いて、複数の高級霊の監督のもとに物的証拠を見せるための物理現象を担当した。

言うなれば〝勤労奉仕〟のようなもので、ある程度その仕事にたずさわって霊的に向上してくると、代って別の低級霊団が同じ仕事を受けもつというふうにして、よく入れ替りが行われた。

その種の霊にとっては、それまでの怠惰や罪の償いをする絶好のチャンスなのであるが、それを監督・指導する立場の霊にとっては光輝あふれる世界からどんよりとした息も詰まらんばかりの地上圏に降りてくるのは大きな犠牲を強いられることになる───訳者)


 私たちは情愛に満ちた心で皆さんを愛しております。しかし、だからといって皆さんの都合のよいように摂理を変えてあげるわけにはまいりません。皆さんは肉体という機械をお持ちです。どんなに優秀な機械でも休息が与えられます。皆さんの肉体のように片時も休むことがないという機械は他にありません。機械は休ませないと故障します。

 肉体はあなたのものですから、その健康管理はあなたの責任です。神はそのための能力として知性と理性とを与えてくださっております。宇宙の摂理について知り得たかぎりの真実を有りのままに述べている私を責めてもはじまりません。私は、私が間違いない真理だと信じたものを欺くようなことは申せません。

目的とすべき理想、霊的真実に基いた処生訓、それを忠実に人生に応用すれば、霊としての当然の遺産であるべき豊かさをもたらしてくれるもの、それをお教えするだけです。

 最終的にどう決めるかはあなたご自身です。私もできるかぎりの援助はいたします。が、時として私たちにも如何ともしがたい情況というものが生じます。

あなたの自由意志を無視するわけにはまいりません。側に立ってあなたがなさることを見つめるしかないことがあります。あなたの霊的進化にとってはあなた自身による決断が重大な要素となるからです」


──その際には摂理にもとることをしても許されるのでしょうか。
 
 「そのときの動機が大切な要因となります」


──でも、人間生活においては愛する人を救わんがために、悪いと知りつつも善意から、摂理にもとる行為をせざるを得ないというケースも有り得るのではないでしょうか。

 「私に申し上げられることは、あくまで摂理は摂理であるということが摂理である、ということだけです。摂理は摂理であるがゆえに、その摂理どおりに働くしかありません。もしも私が原因と結果の関係に干渉することができるとしたら、これは大変なことになります。良かれと思ってしても、結果的には大へんな害をもたらすことでしょう。

摂理は完璧にできているのです。定められた通りに働くのが一ばん良いのです」


──事態を収拾するためにさまざまな法則を集中的に動員することがあるとおっしゃたことがありますが。

 「あります。絶対的窮地に陥ったときに救ってさしあげた方が皆さんの中に何人かいらっしゃいます。私たちが干渉できないのは原因と結果の関係です。また、いわゆるお情けというものも一切ありません。

私は指導霊としての立場から、あなたの身体が機械であることを指摘しているのです。休ませてやらねばならないことがあることを申し上げているのです。疲労が度を過すと機能が停止します。停止すると再び機能を回復するまでに床についていなければならなくなります。

 私がつくづく思うのは、これまでに啓示していただいた真理のすばらしさをみて、われわれ一同はほんとうに恵まれた者たちだということです。それに加えてわれわれは又、霊力のすばらしさを見ることができました。

事態を一変させ、進むべき道を指し示し、導きを与え、各自が天命をまっとうするための理想の生き方を教えてあげることができることを知りました。これは、ただごとではない大切なことです。

(訳者注──ここでいつものように〝私たち〟とせず〝われわれ〟という言い方にしたのは、気持の中でサークルのメンバーも含めているからである。ここではシルバーバーチは、霊団としても霊の力にこれほどすばらしいことができるのかという驚きを抱いている気持を表明している。

前巻の八章の〝シルバーバーチの最大の発見〟の中でも同じことを述べている。人間のために大きな犠牲を払いながら、これほどのことをやらせていただいていることに、その恩恵を受けるサークルのメンバーと共に感謝している気持が私には読み取れるのである。謙虚さが自然に出ていて、読んでいてこちらの方が恐縮させられる)

 肉体は霊が自我を表現するための道具です。存分に発揮したいと思われれば、十分な手入れをしなくてはなりません。疲労が重なると本来の機能が発揮できなくなります。そこで神は、その無限の叡知によって、肉体を休息させ、活力を取り戻させるための〝睡眠〟を用意したのです。

 地上の四季の移り変わりをよくご覧なさい。秋になると大自然は冬の眠りのための準備をし、春になると再び目醒め、夏にその壮観を披露します。人体も同じです。休息によって元気を回復しなければなりません。休息はぜひとも必要です」


──ここで過労によって健康を害している二人のメンバーにこう説いた。

 「無理をしていることを知りつつも無理を重ねて、けっきょく中途で倒れる人がいるものです。倒れたら休息するほかはありません。私たちはあなた方に自助の心構えを説き、霊と精神にかかわる摂理だけでなく、その肉体を支配している生理的法則にも絶対的に従わねばならないことをお教えしています。

それを忠実に守り、霊と精神と肉体が調和状態にあるかぎり、あなた方は健康であり健全です」


 メンバーの一人が「どうやら私は言うことを聞かない部類に入るようです」と述べると──

  「言うことを聞くようにと、神は二つの耳をお与えになったのです。〝スピリチュアリズムには七つの綱領〟(※)というのがあります。その一つに〝各個の責任〟というのがありますが、たぶんこれが七つの中で一ばん大切でしょう。

異論や反論の余地のない真実が秘められているからです。あなた方は他人のすることではなく自分のすることに自分一人で責任を取るのです。

あなたの責任を免除してくれるものは誰一人、何一つありません。注意を怠れば、それだけの代償を自分が払わねばなりません。それが原因と結果の自然法則なのです」

(訳者注──心霊誌 Two Worlds の創刊者である女性霊媒エマ・ハーディング・ブリテンを通じて地上で社会主義思想家として有名だったロバート・オーエンが提唱した基本原理で、あえて直訳のまま紹介すると次の通りである。

(一)神の父性 (二)人類の同胞性 (三)霊の交信と天使の支配 (四)人間の霊魂の存続 (五)各自の責任 (六)地上生活における善行と悪行に対する死後の応報 (七)すべての霊魂に開かれている永遠の向上。

以上を基本として、さらに、キリスト教的信仰を忘れきれない一派や、反対にキリスト教的色彩を徹底的に抹殺したい一派などによって、それぞれに拡大したり敷延したりした綱領もある。


──各自に責任があることは知識としては知っていましたが、これまでは他人事のように考え、自分の問題として真剣に自覚したことはありませんでした。これからは心掛けようと思います。

 「ぜひ心掛けてください。あなたが自覚するしないにおかまいなく、自然法則は働き続けるものだからです。冷淡なのではありません。法則として定められたように働かざるを得ないのです。それは、私たちがこの仕事を定められた一定の線に沿って、進めざるを得ないのと同じです。

 このサークルのメンバーの方には常づね申し上げていることですが、私たち霊団は、私たちのやり易い時に、私たちのやり易い方法でやるしかありません。あなた方の都合に合わせるわけにはいかないのです。あなた方と同じように私たちも、霊的にみてこれは是非やらなくてはならないと判断したことを行うに際して、やはり一定の法則による制約を受けています。

みなさんの生活を蔭で操ることはできます。物質を動かすこともできます。必要とみれば金策もいたします。が、それも一定の自然法則に従って行わねばなりません。

 いつも申し上げることですが、人間は自分で正しいと判断したこと、良心が命じたことに素直に従わなくてはいけません。最終的には自分自身が裁判官なのです。反省してみて自分の行ったことはすべて正しかったか、どこかに間違いはなかったかを自分で判断することができるようになっております。

動機さえ正しければ絶対に間違ってはいません。何よりもまず動機が最優先されるのです。

(ここで〝間違ってはいません〟というのは霊性を傷つけることはないという意味であって、それによる結果に対して責任は問われないという意味ではない──訳者)

 あなた方も元来が霊的存在であって、それが今は物的身体を通して自我を表現しているにすぎないという、この基本的真理をつねに念頭においてください。霊をたずさえた肉体ではなく、肉体をたずさえた霊だということです。その認識のもとに内部の霊性をできるだけ多く発揮することになるような生活を心掛けることです」



 寿命の問題
 みずからも霊媒である人が招かれて、シルバーバーチと語り合った中で 「人生は目まぐるしく過ぎていくのに、やりたいことは山ほどあります」 と述べると、シルバーバーチがこう語った。

 「人生を達観することが大切です。あなたが生まれるずっと以前から質実剛健な先輩がいて道を切り開いてくれていたこと、その人たちもその仕事の大変さを痛感して、自分たちの地上生活が終わったあとはどうなるのだろうかと案じていたことを知らなくてはいけません。

しかし、その人たちが巨木や巨石を取り除いてくれていたからこそ、その道をあなた方はその人たちよりラクに通れるのです。そこであなたがさらに幾つかを取り除けば、それがあなたとしての貢献をしたことになります。

あなたのあとにさらに次の人材が用意されてることでしょう。そしてその人たちがさらに多くのものを取り除いていけば、やがてきれいな道ができあがります。

 地上は体験学校のようなものです。その地上世界は完全ではありません。あなた自身も完全ではありません。あなたはその不完全な世界で少しでも多くの完全性を発揮しようとしている不完全な存在です。ですから、自分なりの最善を尽くしておれば、それでいいのです。それ以上のものは要求されません。

 縁あってあなたのもとを訪れた人に真の自分というものに目覚めるきっかけを与えてあげることは重大な意味のあることです。つまり人間が神に似せて作られていること、言い変えれば神と本質的に同じものが内在していること、その資質を発揮することによって生活に美と愛と光輝をもたらすことができ、それがすべての体験を価値あるものにするということを理解させてあげることです。

 ですから、仕事上の厄介なできごとを、神が与えてくれた挑戦のチャンスとして感謝して受け止めることです。それを処理していくことで結果的にあなたがそれだけ霊的に成長するのです。

もしも仕事仲間の中にあなたの信念についていけないという人がいたら、もしもその人の信念に迷いが見えはじめたら、その時は構わず見棄てることです。果たすべき大目的についての荘厳な洞察力を抱き続けている人とのみ仕事をなさることです」


──人間の寿命は前もって決められているのでしょうか。それとも肉体の強健さ、そのほかの要因の問題でしょうか。

 「肉体の強健さなども寿命を決定づける要因の中に入っております。物的身体構造すなわち肉体は、魂が成長するための地上的体験を得る上で無くてはならないものです。霊と肉体とは一体不離です。そして地上生活の期間、いわゆる寿命が切れる時期は大方の場合あらかじめ分かっております。

 肉体を霊から切り離して考えることはできません。肉体は霊に制約を加え、霊は肉体に生命を与えるという具合に、両者は切っても切れない関係にあります。一個の存在を構成している二つの要素を分離して考えてはいけません。

あなたという存在は数々の要素が互いに反応し合いながら一個の総合体を構成しているのです。すべての側面が融合し結合し混ざり合って、あなたという一つの統一体すなわち霊魂を構成しているのです」


──寿命が定まっているということから出る疑問ですが、もしも、たとえば千人の乗客が一度に溺死した場合、その人たちは皆その特殊な時期に死ぬことになっていたということになるのでしょうか。つまり彼らの魂の成長のために定められた寿命は同じだったのでしょうか。

 「問題は用語です。あなたは今〝定められた〟という言い方をされましたが、そういう言い方をすると、では一体だれが何を基準に、という疑問が生じます。そして多分その裏には神によって摩訶不思議な方法でそう仕組まれるのだという漠然とした考えがあるはずです。が、

そういうものではありません。生命現象の広大なパノラマの一つ一つが自然法則によって支配されているのです。

  地上の科学者がいかなる説を立てようと、いつかは必ず肉体に死が訪れます。それは霊を解放するという役目を果たすことになるのです。つまり肉体の死は肉体の誕生と同じです。前者は霊の〝退場〟であり、後者は〝入場〟です。

 地上では死を悲劇と考えますが、私たち霊の立場からすれば悲劇ではありません。解放です。なぜなら、魂の霊的誕生を意味するからです。地上のあらゆる悩みごとからの解放です。よくよくの場合を除いて、死は苦労への褒賞であって罰ではありません。

死は何を犠牲にしてでも避けるべきものという考え方は改めなくてはいけません。生命現象に不可欠の要素であり、魂が自我を見出すための手段と見なすべきです」


 命日は記念すべきか
 招待客が友人からの質問として「悲しい命日は心の痛みを呼び覚ますだけだから愚かで無意味だという考えはいかがでしょうか」と述べ、それに自分の考えとしてこう付け加えた。

──今さらどうしようもないことは分かっているのに年に一回、心の痛みを思い出すのは間違いだと思います。
 
 「その質問者のいう〝悲しい命日〟というのは何のことでしょうか」
 
──故人が亡くなった日です。その日に何もしたがらない人がいます。改めて悲しい思いをしたくないのだと思います。


 「誰にとって悲しいのでしょうか」
 
──その人を失った家族です。亡くなった本人ではありません。私はあなたのお考えに同感です。亡くなった人を悲しむのは一種の利己主義だと思います。

 「一種の自己憐憫の情です。自分自身への哀れみであり、愛する者を失ったことを嘆いているのです。苦の世界から解放された人のために涙を流すべきではありません。もちろん地上生活が利己的すぎたために死後もあい変わらず物質界につながれている人(地縛霊)がいますが、それは少数派に属します。

 大部分の人にとって死は牢からの解放です。新しく発見した自由の中で、潜在する霊的資質を発揮する手段を見出します。無知の暗闇でなく、知識の陽光の中で生きることが出来るようになるのです。

 過ぎ去った日々の中に悲しい命日をもうけて故人を思い出すとおっしゃいますが、いったい何のために思い出すのでしょう。そんなことをして、その霊にとってどんな良いことがあるというのでしょうか。何一つありません! 過ぎ去ったことをくどくどと思い起こすのは良くありません。

それよりも一日一日を一度きりのものとして大切に生き、毎朝を霊的に成長する好機の到来を告げるものとして、希望に夢をふくらませて迎えることです。それが叡智の道です」

訳者注──〝シルバーバーチは語る〟と題されたカセットテープの中で司会者が 「ルドルフ・シュタイナーの一派では死者に向かってリーディング(仏教でいう〝読経〟で、読心術ではない) をするのですが、何らかの効用があるのでしょうか」 と質問したのに対してシルバーバーチは 「害もありませんが、さして薬になるとも思いません。

こちらはこちらで救済のための施設がたくさん用意されています」と述べている。


 たしかに、たとえば 『ベールの彼方の生活』 を読むと高級霊団が地上各地から地縛霊を大ぜい救出して戻ってくる一行を描写しているところがある。国籍が入り混じっているので服装もさまざまで、救出された者どうしがキョロキョロと互いの衣服を見くらべて不思議そうな顔をするユーモアあふれる場面もある。

そのほか慰安や看護のための施設も何度か出てくる。その観点からいうとシルバーバーチの言う通りなのであるが、私は日本人特有の問題として、供養とか戒名とか院号とかにまつわる日本的しきたりに余りにこだわった地上生活を送った人の中には、向こうへ行ってから自分もそうしてもらわないと気が済まない──いわゆる〝成仏できない〟

霊がいて、霊界の指導者を手こずらせていることが多いことは、事実として認めざるを得ないように思う。この種の地縛霊は日本ではけっして少数派とは言えない。そういう霊は言わば〝わからず屋〟なのであるから、そのわがままをある程度は聞いてやる必要があるので、それは地上の人間の協力を要する問題となってくる。

 ただ、シルバーバーチはつねに永遠の時を念頭において説いていることを忘れてはならない。人間が余計な心配しなくても、いつかは霊界の方で何とかします、という意味に解釈すべきであろう。


──肉体に宿っているとそれが悟れないのが悲しいことです。みんな物質に惑わされて、物的なものには価値がないことが理解できないのです。そういう人にとって人生は舞台劇のようなもので、カーテン(幕)が下りるとそれでお終いです。

 「それは要するに無知と知識の差です。そこで私どもは出来るだけ知識を広め、その境界線をできるだけ広げていくように努力しているのです。知識を手にすれば、人生を正面から見つめ、そして悟ります。無知のままでいることは暗闇の中にいることです。

 私たちはひたすら力になってあげたいと願っているだけに尚のこと嘆かわしく思えるのですが、地上の人間が無知と偏見と、みずからこしらえた迷信という壁に取り囲まれているために、それが目覚めを阻害して、容易に破壊できないのです。その厚い壁は真理も突き通せないのです。

嘆かわしいと表現したのは、その人たちの地上の身内の人でも手の出しようがないからです。そこで死後しばらくはベールのそちらとこちらの双方に悲しみがあります。が、地上を去った者のために涙を流すことはありません。

その事実を認識し受け入れることによって、死んでいった者を引き止めるようなことが無くなります。感情的障壁をこしらえなくなります。精神と霊を正しく調整することが出来るようになります」


 これを聞いてサークルのメンバーが尋ねた。

──一つの人生の旅が終わったのを見て悲しく思うのが人間の情だと思うのです。それは一時的な情ですから、たとえ悲しんでも、死を嘆いているのとは違うと思うのです。

 「私の世界へやって来た人は死が階段を一つ昇ったことを意味すること、大きな解放を得たことを理解します。潜在的能力を発揮するチャンス、地上でなし得なかった仕事をするチャンス、かつては考えられなかったほど生気はつらつとした生活ができるチャンスを得ます。

もちろん地上生活に断絶が生じたことに悲しみの情を覚えるのは当然です。が、他界して行った者に何ら悲しむべきものはないという事実を知ることによって、その悲しみを少しでも小さくすることは出来るはずです。(無理な要求をするようですが)私たちは皆さんに対して常に理想を目標として掲げなければならないのです」


──愛し合う二人のうち片方が先に他界した場合、残された方がのちに他界した時に間違いなく幸せの楽園が待ってくれていると考えてよいでしょうか。

 「その通りです。ただし、互いに愛し合っていた場合のことであって、一方的な愛ではそうはなりません。愛はその対象から切り離して存在することはできません。地上というのはほんの一時的な生活の場にすぎません。肉体に不老不死はありえません。

ですから、いずれは地上を去る時が来るのであれば、いよいよその時(死期)が近づいた人を祝ってあげるのが本当なのです。そして又、いずれは自分もあとから行って、地上では想像できない、より大きな光明と美と驚異の世界でいっしょに生活することになることを知ってください」


──そのことを私たちは物的観点から考えなくてはならないところに難しさがあるのです。死ぬまで待つことになりますが、ただ待ってはいられない──いろいろと生きるためのことをしなければなりません。生き続けなければならないのです。その辺がとても難しいのです。


  「霊的真理を物的観点から考えるとなぜ難しくなるのでしょう?」

──私たちは物的存在だからです。

 「でも本質的には霊的存在です。物的身体をたずさえているというだけです。あくまでも霊が上位で肉体は下位です。そうした観点から、お手持ちの知識に照らして、正しい判断を下さないといけません。何ごとも価値あるものは困難がつきまとうものです。霊的褒賞が簡単に手に入るとしたら、それは手に入れる価値はないことになりましょう」

──死後の世界について多くのことを聞かされていても、死後に備えた生き方を心掛けている人は少ないように思います。本日お聞きしたことを肝に銘じて、たとえばテレビばかり見ていないで、美術とか工芸に手を染めるなどして今から準備を始めるのも一つの生き方だと思うのですが、何か良いアドバイスをいただけますでしょうか。

 「その問題は結局は悟りの問題に帰着します。あなたが肉体をたずさえた霊的存在であること、地上はいつまでも住み続ける場ではないこと、物的なものは儚い存在であることを悟れば・・・・・・もしもあなたが、死後、霊としてのあなた、不滅のあなた、神性を宿したあなたが蘇って永遠の進化の旅を続けることの意味を悟ることができれば・・・・・・

もしもあなたが、そうした悟りに到達すれば、そしてそこで叡智の導きに素直にしたがうことができれば、あなたは自然に死後の生活に備えた生き方をするようになります。あなたの行為はすべてあなたが到達した霊的自覚の程度によって支配されるのです」


  災害・事故による死
──霊的発達程度におかまいなく地震などによって一度に何千、何万もの人が死んでいくのはなぜでしょうか。

 「なぜあなたは死をそんなに禍のようにお考えになるのでしょうか。赤ん坊が生まれると地上ではめでたいこととして喜びますが、私たちの方では泣いて別れを惜しむこともしばしばなのです。地上を去ってこちらの世界へ来る人を私たちは喜んで迎えます。が、あなた方は泣いて悲しみます。

死は大部分の人にとって悲劇ではありません。しばらく調整の期間が必要な場合がありますが、ともかくも死は解放をもたらします。死は地上生活が霊に課していた束縛の終わりを意味します。

 あなた方はどうしても地上的時間の感覚で物ごとを見つめてしまいます。それはやむを得ないこととして私も理解はします。しかしあなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で六〇歳、七〇歳、もしかして一〇〇歳まで生きたとしても、無限の時の中での一〇〇年など一瞬の間にすぎません。

 大自然の摂理の働きに偶然の出来ごとというものはありません。あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです」

(霊としての意識と肉体に宿ってからの脳を焦点としての意識とは別である。地上での時間と場所の感覚は脳を焦点とした地上独特のもので、そこから人間的煩悩が生まれる。悟りの程度というのはその地上的感覚による束縛から脱する程度と等しいということであろう──訳者)


──地震その他の災害の話に戻りますが、その災害で生き残る人がいます。が、その人たちはそれから他界するまでの永い年月を苦しみながら生きることがあります。たとえば家を失ったまま我が家を持つことなく生涯を終える人もいます。そうした場合、その人たちはそういう体験を得るためにその土地に生を受けたのでしょうか。

 「地上生活にまつわる幸とか不幸のあらゆる体験から逃れることはできません。明るい側面と同時に暗い側面も体験しなくてはなりません。〝蓮の台〟(はすのうてな)の生活では魂は成長しません。困難と闘争と危機の時こそ魂は自我を発揮するのです。あなたにはそれが得心できないお気持ちは分かります。

地上的感覚でお考えになっているからです。しかし永遠の観点から見れば、恵まれた条件よりも困難な事態の方が有難いことなのです。


  別の交霊会でもこう述べている。

 「私たちの世界の素晴らしさ、美しさ、豊かさ、その壮観と光輝は、地上のあなた方にはとても想像できません。それを描写しようとしても言葉が見出せないのです。ともかく私は矛盾を覚悟の上であえて断言しますが〝死〟は独房の扉のカギを開けて解放してくれる看守の役をしてくれることがよくあるのです。

地上の人間は皆いつかは死なねばなりません。摂理によって、永遠に地上に生き続けることはできないことになっているのです。

ですから、肉体はその機能を果たし終えると、霊的身体とそれを動かしている魂とから切り離されることは避けられないのです。かくして過渡的現象が終了すると、魂はまた永遠の巡礼の旅の次の段階へと進んでいくことになります」

Sunday, May 31, 2026

シルバーバーチの霊訓(八)

More Wisdom of Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell  


二章 自由意志──人間はどこまで自由か
    
 過去幾世紀ものあいだ人間は自由意志の問題に追いかけられ続けてきた。はたして人間は自分の運命を変えることができるのだろうか。絶対的自由というものはあるのだろうか。それとも限定的自由なのだろうか。

これは人間にとってきわめて理解の難しい問題であるが、関心を寄せる方が多いので本章をこの問題に当てて、シルバーバーチの意見に耳を傾けていただくことにした。

 「男性と女性とがお互いに足らざるところを補い合って全体を完成させる──理性で解答の出ないところは直感で補う──これは〝補完の摂理〟の一つの側面です。人間には自我の開発のためのチャンスが常に与えられております。それをどう活用するかは本人の自由意志に任されております。

 人生に偶然はありません。偶発事故というものはありません。偶然の一致もありません。すべてが不変の自然法則によって支配されております。存在のどの側面を分析しても、そこには必ず自然法則が働いております。人間もその法則の働きの外には出られません。全体を構成する不可欠の一部だからです。

 その法則はあなた方が何らかの選択をした際に確実に働いてきました。選択をするのはあなた方自身です。その際あなた方を愛する霊による導きを受けておられます。足元を照らす光としての愛です。それに素直に従えば意義ある人生を歩むことになる、そういう愛です。

 愛は生命と同じく不滅です。物的なものはその本性そのものが束の間の存在ですから、いつかは滅ぶ運命にありますが、霊的なものは永遠に不滅です。愛の本性は霊的なものです。だからこそ永続性があるのです。死を超えて存在し続けます。バイブルにあるように愛とは神の摂理を成就することです」


──全ての道は同じ目的地に通じているのでしょうか。それとも目的地というものは無いのでしょうか。

 「〝目的地〟という用語がやっかいです。私なりに言わせていただけば、すべての道は造化の霊的大始源に通じております。宇宙の大霊、あなた方の言う神(ゴッド)は無限なる存在です。となると、完全なる愛と叡知の権化であるその大霊に通じる道もまた無限に存在することになります。

大霊とは生命であり、生命とは大霊です。生命ある存在は誕生によっていただく遺産として神性を宿しております。そして地球という惑星上の全生命は究極において唯一の霊的ゴールに通じる道をたどりつつ永遠の巡礼の旅を続けております。どの道をたどるかは問題ではありません。

巡礼者の一人ひとりが真摯に自我の向上を求め、責任を遂行し、与えられた才能を開発して、その人が存在したことによって他の人が霊的な豊かさを得ることができるようにという、誠実な動機をもって生きればそれでよいのです」


──(核実験のような)人間の行っていることが原因で地球が滅びるのでないかと心配している若者が多いのですが・・・・・・

 「この惑星が滅びてしまうことはありません」


──人類が滅びることもないのでしょうか。

 「ありません。人類も生存し続けます。人間がこの惑星に対して為しうることは、自然法則によっておのずから限界があります。惑星全体をそこの生命もろともに消滅させてしまうことはできません。しかし、そこにも自由意志の要素が絡んでおります。つまり内部に宿る神性に目覚めるか、それともそれを無視するかです。

無視すれば霊的向上は望めません。霊的な身支度ができないまま私たちの世界へやってまいります。そうしてもう一度初めからやり直さなければなりません。いかなる人間も、たとえ集団組織をもってしても、神の意志の実現を挫けさせることはできません。

その進行を遅らせることはできます。手を焼かせることはできます。妨害することはできます。しかし宇宙を支配しているのは無限なる叡知と愛です。いつかは必ず行きわたります。それが神の意志だからです」


──私たち人類はすでに多くのものを破壊し、それはもう元には戻せません。その多くは私たちの住むこの大地にあったものでした。その大地も限りある存在です。

 「しかしその大地には莫大な潜在的資源が隠されています。まだまだ多くのものが明かされていきます。多くのものが発見されてまいります。人類は進化の終局を迎えたわけではありません。まだまだ初期の段階です。

 霊的真理を悟った方は決して絶望しません。それまでに明かされた知識が楽観的にさせるからです。その知識を基礎として、霊力というものに絶対的な信頼を抱くことができるのです。永い人類の歴史には数々の災禍がありました。

が、人類はそれを立派に乗り越えてきました。我ながら感心するほどの強靭さをもって進歩してまいりました。これからも進歩し続けます。なぜなら、進化することが自然の摂理だからです。霊的進化も同じ摂理の顕れです」


 (別の日の交霊会で)
──自由意志は、たとえば宿業(カルマ)によってどの程度まで制約を受けるのでしょうか。

 「人生はすべてが自然の摂理によって規制されております。気まぐれな偶然や奇跡などによって動かされているものは何一つありません。すべてが原因と結果、種まきと刈入れです。さもなければ宇宙は混乱状態におちいります。

いずこをご覧になっても無限の叡知から生まれた無限の構想の中で自然法則が働いている証拠を見出すことができます。

 たとえば四季のめぐりがそれです。惑星と星雲の動きがそれです。潮の満ち引きがそれです。花々の見事な生育ぶりがそれです。それらにすべてが自然法則によって支配されているのです。

となれば、その法則の枠組みを超えたものは絶対に起きないということですから、いくら自由といっても、そこにはおのずから限界がある───法則という神の力による制約があることになります。

しかし、法則の裏側にも法則があります。物理法則だけではありません。精神的法則もあり、霊的法則もあります。

 あなたが生き、呼吸し、存在しているのは、あなたという霊が受胎によって物質と結合して個的存在を得たからです。その個的存在が徐々に発達していきつつあるのです。その発達過程においてあなたには自由意志という要素、つまりその時どきの環境条件の中で道を選択する力あるいは判断力を駆使できることになっております。

あなたが最良にして最高の選択をなされば、あなたの民族のために、世界のために、森羅万象のために、宇宙の霊的発達と進化のために貢献することになります。なぜなら、あなたの霊は宇宙の大霊の一部だからです。

 宇宙のすみずみまで支配している神性とあなたもつながっているということです。あなたはミクロの大霊なのです。大霊が具えている神性のすべてをあなたも所有しており、それを開発していくための永遠の時が用意されているのです。

 明日の朝あなたはいつもより一時間はやく起きようと遅く起きようと、あるいは起きずに終日ベットにもぐっていようと、それはあなたの自由です。起きてから散歩に出かけようとドライブしようと、それも自由です。腹を立てるのも自由です。冷静さを取り戻すのも自由です。そのほか、あなたには好き勝手にできることがいろいろとあります。

 しかしあなたは太陽の輝きを消す力はありません。嵐を止める力はありません。あなたの力を超えたものだからです。その意味であなたの自由意志にも限界があります。それからもう一つ別の限界もあります。

これまでにあなたが到達した精神的ならびに霊的進化の程度です。たとえば人を殺める行為は誰にでもできます。が、その行為に至らせるか否かは、その人の精神的ならびに霊的進化によって決まることです。

ですから、あなたに選択の自由があるとはいっても、その自由はその時点でのあなたの霊的本性によって制約を受けていることになります。宇宙にはこうしたパラドックス──一見すると矛盾しているかに思える真実──がいろいろとあります。自由意志といっても常に何らかの制約を受けているということです。

 さて、ここで私はもう一歩踏み込まねばなりません。あなたがカルマの問題をお出しになったからです。このカルマも非常に大きな要素となっております。なぜなら、地上に誕生してくる人の中にはあらかじめそのカルマの解消を目的としている人が少なくないからです。たとえ意識へのぼってこなくても、その要素が自由意志にもう一つ別の制約を加えております」


──良心の問題ですが、これは純粋に自分自身のものでしょうか、それとも背後霊の影響もあるのでしょうか。

 「あなた方人間は受信局と送信局とを兼ねたような存在です。純粋に自分自身の考えを生みだすことはきわめて稀です。地上のラジオやテレビにチャンネルとかバイブレーション(振動)──フリークエンシー(周波数)が適切でしょう──があるように、人間にもそれぞれのフリークエンシーがあって、その波長に合った思想、観念、示唆、

インスピレーション、指導等を受信し、こんどはそれに自分の性格で着色して送信しています。それをまた他の人が受信するわけです。(地上の人間どうしの場合もある──訳者)

 その波長を決定するのは各自の進化の程度です。霊的に高ければ高いほど、それだけ感応する思念も程度が高くなります。ということは、発信する思念による影響も高度なものとなるわけです」


 改めて自由意志についての質問に答えて──

 「完全に自由な意志が行使できる者はいません。自由といってもある限られた範囲内での自由です。あなたの力ではどうにもならない環境条件というものがあります。魂は、再生するに当たってあらかじめ地上で成就すべき目的を自覚しております。

その自覚が地上で芽生えるまでには長い長い時間を要します。魂の内部には刻み込まれているのです。それが芽生えないままで終わったときは、また再生して来なければなりません。首尾よく自覚が芽生えれば、ようやくその時点から、物質をまとった生活の目的を成就しはじめることになります。(次章48頁〝訳者注〟参照)

 人間の本性を私が変えるわけにはまいりません。その本性は実に可変性に富んでおります。最高のものを志向することもできれば、哀れにもドン底まで落ち込むこともできます。そこに地上へ再生してくる大きな目的があるのです。

内部には霊的な可能性のすべてが宿されております。肉体は大地からもらいますが、それを動かす力は内部の霊性です。

 人生をどう生きるか──霊のことを第一に考えるか、それとも物質(もの)を優先させるか、それは本人の自由意志の選択にまかされております。そこに人間的問題の核心があるのですが、援助を求めてやってきた人にあなたは、その選択に余計な口出しをせずに、必要な援助を与えなければいけません。

援助が効を奏さなければそれ以上かまう必要はありません。(それであなたの責任は終わったということです。と別のところで述べている──訳者)

縁あってあなたのもとを訪れたということは、その人にとって自我を見出す絶好機がめぐってきたということです。成功すれば、あなたは他人のために自分を役立てる機会が与えられたことに感謝なさることです。もし失敗したら、その人のことを気の毒に思ってあげることです」

別の招待客がこう尋ねた。──「自由意志はどういう具合に働くのでしょうか。私がこの疑問を抱いたのは Two Worlds の記事の中であなたが〝時間は永遠の現在です〟とおっしゃっているのを読んだからです。

もしも私がこれまでの人生をつぶさに点検することができれば、自分が下した決断や因果律の働きのすべてがつながって見えるはずです。またもし未来をのぞくことができれば、これから先のこともすべて分かることになります。もしそうだとすると、どこに私の自由意志の働く余地があるのでしょうか」


 「こういう言い方は失礼かも知れませんが、あなたの認識は少し混乱しております。時間は永遠の現在です。過去でもなく未来でもありません。それがあなたの過去となり未来となるのは、その時間との関わり方によります。とても説明しにくいのですが、たとえば時間というものを回転し続ける一個の円だと思ってください。

今その円の一点に触れればそこが現在となります。すでに触れたところを、あなた方は過去と呼び、まだ触れていないところを未来と呼んでいるまでのことです。時間そのものには過去も未来も無いのです。

 〝未来を覗く〟とおっしゃいましたが、それは三次元の物質界との関わりから離れて霊視力ないしは波長の調整によってこれから生じるものを見る、その能力が働いたにすぎません。

つまりあなたの行為によって作動させた原因、言いかえれば自由意志が生み出した原因から生じる結果をごらんになるだけです。それは時間そのものには影響を及ぼしません。時間との関係が変わるだけです」


 訳者注──〝時間は永遠の現在〟というのは、〝宇宙は無限〟というテーマと同じく、この肉体に宿っているかぎり絶対に理解できないことであろう。ただそれが事実であることを暗示する体験はたしかに存在する。

ガケから落下するわずか二、三秒の間にそれまでの全体験をじっくり見てその一つ一つを反省したとか、車にはねられて数メートル飛ばされるその一瞬の間にやはり全生涯を思い出したとかいうのがそれである。

信じられないことであるが、本人は事実それを体験したのであるから、そういうことも有り得るということを認めざるを得ない。それがシルバーバーチのいう〝三次元の物質界から離れる〟ということで、実在の側から見れば別だん驚くほどのことではないのであろう。

逆の見方をすれば、人間というのは所詮は物質によって三次元の世界に閉じ込められた小さな存在だということであろう。がしかし、だからこそこの地球という物的生活環境にもそれならではの体験もあるということになる。

Friday, May 29, 2026

シルバーバーチの霊訓(八)

More Philosophy of Silver Birch 
 Edited by Tony Ortzen




まえがき

 本書はハンネン・スワッハー・ホームサークルでの過去七年におけるシルバーバーチの霊言の速記録を読み返し、ふるいにかけ、そしてまとめ上げたものである。夏期を除いて、交霊会は月に一回の割合で開かれた。

 私のねらいはシルバーバーチの哲学と教訓を個人的問題、社会的問題、および国際的問題との関連においてまとめることである。選んだ題目はなるべく多岐にわたるよう配慮した。

シルバーバーチはとかく敬遠されがちな難題、異論の多い問題を敢えて歓迎する。それを、ぎこちない地上の言語の可能性を最大限に発揮して、わかり易い、それでいて深遠な響きを持った言葉で解き明かしてくれる。

 私はこの穏やかな霊の聖人から受けた交霊会での衝撃をひじょうに印象ぶかく思い出す。開会直前のバーバネル氏の落着かぬ様子を見るに見かねて目を外らすことがしばしばだった。

いつもはジャーナリズムとビジネスの大渦巻のど真ん中に身を置いて平然としている、この精力的でエネルギッシュ過ぎるほどの人物がシルバーバーチに身をゆだねんとして、その訪れを待っている身の置き所のなさそうな何分間かは、本人にとっては神の裁きを待っている辛い瞬間のようで、私には痛々しく思えるのだった。

 しかし、シルバーバーチの訪れはいたって穏やかである。そしてそのメッセージはいたって単純素朴であるが、今崩壊の一途をたどりつつあるキリスト教の基盤にとっては、あたかもダイナマイトのような衝撃である。十八歳の青年だった懐疑論者のバーバネルをある交霊へ誘って入神させて以来ほぼ半世紀たった今、その思想は一貫して変わっていない。

 変わっていないということは進歩がないということではない。その間にいくつかの世界的危機と社会的変革がありながら、それを見事に耐え抜いてきたということは、その訓えの本質的な強固さと実用性を雄弁に物語っていると言えよう。

 これからシルバーバーチに登場していただくお膳立てのつもりのこの前書きも、結局はシルバーバーチの霊言を引用するのが一ばん良いように思われる。ある日の交霊会でシルバーバーチがこの私にこう語ったことがある。

  「活字になってしまった言葉の威力を過小評価してはいけません。活字を通して私たちは海を越えて多くの人とのご縁ができているのです。読んでくださる私の言葉、と言っても、高級界の霊団の道具として勿体なくもこの私が取り次いでいるだけなのですが、それが、読んでくださった方の生活を変え、歩むべきコース、方角、道しるべとなっております。

無知が知識と取って代わり、暗闇が光明に変わり、模索が確信に代わり、恐怖が平静と取って代わります。地上の人間としての義務である天命の成就に向かって踏み出しております。

 それほどのことが活字によって行われているのです。それにたずさわるあなたは光栄に思わなくてはいけません。話し言葉はそのうち忘れてしまうことがありますが、活字にはそれがありません。永久にそこにあります。何度でも繰り返して読むことができます。理解力が増すにつれて新しい意味を発見することにもなります。

 かくして私たちは、この世には誰一人、また何一つ希望を与えてくれるものはないと思い込んでいた人々に希望の光を見せてあげることが出来るのです。あなたも私も、そして他の大勢の人々が参加できる光栄な仕事です。

それはおのずと、その責任の重さゆえに謙虚であることを要求します。その責任とは、自分の説く霊的真理の気高さと荘厳さと威厳をいささかたりとも損なうようなことは行わないように、口にしないように、伝達しないように慎むということです」

 そういう次第で、本書には私個人の誉れとすべきものは何一つない。関係者一同による協力の産物である。では、主役の古代霊、穏やかな老聖人、慈愛あふれる支配霊にご登場願うことにしよう。
     トニー・オーツセン


 訳者注──本書はシリーズの中で一ばんページ数が多く、一ばん少ない第一巻に較べると倍以上の霊言が収められている。しかも〝再生〟の章を除いて、重複するところがまったくない。そこで、ぺージ数をほぼ平均にしたいという潮文社の要望も入れて、わたしはこれを二冊に分けることにした。

というのは、オーツセンが編集したものがもう一冊あるが、これが本書とうって変わってその九〇パーセントが他と重複するものばかりであること、さらに本書の後半が全霊言集の中から名文句を断片的に厳選して収録してあることから、それとこれとを一緒にして最終巻としたいと考えている。


 なおサイキックニューズ紙とツーワールズ誌には今なお断片的ながらシルバーバーチの霊言が掲載されている。その中には霊言集に出ていないものもある。最終巻にはそうしたものも収録してシルバーバーチの〝総集編〟のようなものにしたいと考えている。 





  一章 シルバーバーチのアイデンティティ

 シルバーバーチとはいったい誰なのか。なぜ地上時代の本名を明かさないのか。アメリカ・インディアンの幽体を使用しているのはなぜなのか。こうした質問はこれまで何度となく繰り返されているが、二人の米国人が招待された時もそれが話題となった。そしてシルバーバーチは改めてこう答えた。

 「私は実はインディアンではありません。あるインディアンの幽体を使用しているだけです。それは、そのインディアンが地上時代に多彩な心霊能力をもっていたからで、私がこのたびの使命にたずさわるように要請された際に、その道具として参加してもらったわけです。私自身の地上生活はこのインディアンよりはるかに古い時代にさかのぼります。

このインディアンも、バーバネルが私の霊媒であるのとまったく同じ意味において私の霊媒なのです。私のように何千年も前に地上を去り、ある一定の霊格を具えるに至った者は、波長のまったく異なる地上圏へ下りてそのレベルで交信することは不可能となります。

そのため私は地上において変圧器のような役をしてくれる者、つまりその人を通して波長を上げたり下げたりして交信を可能にしてくれる人を必要としたのです。

同時に私は、この私を背後から鼓舞し、伝えるべき知識がうまく伝えられるように配慮してくれている上層界の霊団との連絡を維持しなくてはなりません。ですから、私が民族の名、地名、あるいは時代のことをよく知っているからといって、それは何ら私のアイデンティティを確立することにはなりません。それくらいの情報はごく簡単に入手できるのです」


 では一体地上でいかなる人物だったのか、またそれはいつの時代だったのか、という質問が相次いで出されたが、シルバーバーチはその誘いに乗らずにこう答えた。

「私は人物には関心がないのです。私がこの霊媒とは別個の存在であることだけ分かっていただければよいのでして、その証拠ならすでに一度ならず確定的なものをお届けしております。

(訳者注──たとえばある日の交霊会でバーバネルの奥さんのシルビアにエステル・ロバーツ女史の交霊会でかくかくしかじかのことを申し上げますと予告しておいて、その通りのことを述べたことがある。

ロバーツ女史はまったく知らないことなので、バーバネルを通じてしゃべったのと同じ霊がロバーツ女史を通じてしゃべったことになる。つまりシルバーバーチはバーバネルの潜在意識ではない──二重人格の一つではないことの証拠となる)

 それさえ分かっていただければ、私が地上で誰であったかはもはや申し上げる必要はないと思います。たとえ有名だった人物の名前を述べたところで、それを証明する手段は何一つ無いのですから、何の役にも立ちません。

私はただひとえに私の申し上げることによって判断していただきたいと望み、理性と知性と常識に訴えようと努力しております。 もしもこうした方法で地上の方々の信頼を勝ち取ることができないとしたら、私の出る幕でなくなったということです。

 かりに私が地上でファラオ(古代エジプトの王)だったと申し上げたところで、何にもならないでしょう。それは地上だけに通用して、霊の世界には通用しない地上的栄光を頂戴することにしかなりません。私たちの世界では地上でどんな肩書き、どんな財産をもっていたかは問題にされません。要はその人生で何を為したかです。

私たちは魂そのものを裁くのです。財産や地位ではありません。魂こそ大切なのです。地上では間違ったことが優先されております。あなた方のお国(アメリカ)では黄金の仔牛(旧約聖書に出てくる黄金の偶像で富の象徴)の崇拝の方が神への信仰心をしのいでおります。

圧倒的多数の人間が神よりもマモン(富の神)を崇めております。それが今日のアメリカの数々の問題、困難、争いごとの原因となっております。

 私がもしアリマタヤのヨセフ (※) だったとかバプテスマのヨハネ (※※)だったとか申し上げたら、私の威信が少しでも増すのでしょうか。それともイロコワ族(※※※)の酋長だったとでも申し上げればご満足いただけるのでしょうか」

(※ イエスの弟子。 ※※イエスに洗礼を施した人物。 ※※※北米インディアンの五つの部族で結成した政治同盟。イロコイ、イロカイオイとも──訳者)


その後の交霊会で 「あなたは代弁者(マウスピース)にすぎないとおっしゃってますが、その情報はどこから伝達されるのですか」との質問に答えて──

「数え切れないほどの中継者を通じて、無尽蔵の始源から届けられます。その中継者たちは真理の本来の純粋性と無垢の美しさが失われないようにするための特殊な仕事を受け持っているのです。

あなた方のいう〝高級霊〟のもとに大霊団が組織されています。が、高級などという表現をはるかに超えた存在です。神の軍団の最高指令官とでも言うべき位置にあり、それぞれが霊団を組織して責務の遂行に当たっております。

 各霊団の組織は真理が首尾よく地上世界に滲透することを目的とすると同時に、それに伴って霊力がより一層地上へ注がれることも意図しております。生命力といってもよろしい。 霊は生命であり、生命は霊なのです。

生命として地上に顕現したものは、いかなる形態であろうと、程度こそ違え、本質において宇宙の大霊と同じものなのです。お分かりでしょうか。

 忘れないでいただきたいのは、私たちはすべて(今述べた最高指令官による)指揮、監督のもとに仕事をしており、一人で勝手にやっているのではないということです。私は今、私が本来属している界、言わば〝霊的住処〟から帰ってきたばかりです。

その界において私は、私を地上へ派遣した上司との審議会に出席し、これより先の壮大な計画と、これまでに成し遂げた部分、順調にはかどっているところ、しっかりと地固めができた部分について教わってきました。

 その界に戻るごとに私は、天界の神庁に所属する高級霊団によって案出された計画の完璧さを再確認し、巨大な組織による絶妙の効果に驚嘆の念を禁じ得ないのです。そして、地上がいかに暗く、いかに混沌とし、仕事がいかに困難を極めようと、神の霊力がきっと支配するようになるとの確信を倍加して地上へ戻ってまいります。

 そのとき他の同志たち(他の霊媒や霊覚者を通じて地上に働きかけている霊団の支配霊)とともに私も、これからの仕事の継続のために霊的エネルギーを補充してまいります。指揮に当たられる方々から計画が順調に進行していることを聞かされることは、私にとって充足感の源泉です。すでに地上に根づいております。

二度と追い帰されることはありません。 かつてのような気紛れな働きかけではありません。絶え間なく地上にその影響力を滲透させんとして働きかけている霊力の流れを阻止できる力は、もはや地上には存在しません。

 ですから、悲観的になる材料は何一つありません。明日を恐れ、不安におののき、霊的真理なんか構ってはいられないと言う人は、好きにさせておくほかはありません。幸いにも霊的光明をかいま見ることができ、背後に控えている存在に気づかれた方は、明日はどうなるかを案ずることなく、常に楽観的姿勢を維持できなければいけません」


 シルバーバーチは交霊会の途中ないしは終了時にサークルのメンバーや招待客から感謝の言葉を述べられると必ず「私に礼を言うのは止めてください」と言う。ある日の招待客からそのわけを聞かれて──

 「それはいたって単純な理由から自分で自分に誓ったことでして、これまで何度もご説明してきました。私は自分がお役にたっていることを光栄に思っているのです。ですから、もしも私の努力が成功すれば、それは私がみずから課した使命を成就しているに過ぎないのです。ならば、感謝は私にそのチャンスを与えてくださった神に捧げるべきです。


 私は自分の意志でこの仕事をお引受けし、これまでに学んだことを、受け入れる用意のできている方々にお分けすることにしたのです。もし成功すれば私が得をするのです。わずかな年数のうちに多くの方々に霊的実在についての知識を広めることができたことは私にとって大きな喜びの源泉なのです。

 これほどのことが成就できたことを思うと心が喜びに満たされるのです。ほんとうならもっともっと大勢の方々に手を差しのべて、霊的知識がもたらしてくれる幸せを味わっていただきたいのです。

なのに地上の人間はなぜ知識よりも無知を好み、真理よりも迷信を好み、啓示よりも教理を好むのでしょうか。それがどうしても理解できないのです。私の理解力を超えた人間的煩悩の一つです。

 あなた(質問者)の人生が決して平坦なものでなかったことは私もよく承知しております。スピリチュアリズムという大きな知識を手にするために数々の大きな困難を体験しなければならない──それが真理への道の宿命であるということがあなたには不可解に思えるのではありませんか。けっして不可解なことではありません。そうでないといけないのです。

 ぜひともご注意申し上げておきたいのは、私はけっして叡知と真理と知識の権化ではないということです。あなた方より少しばかり多くの年数を生き、地上より次元の高い世界を幾つか体験したというだけの一個の霊にすぎません。

そうした体験のおかげで私は、素朴ではありますが大切な真理を学ぶことができました。その真理があまりに啓発性に富み有益であることを知った私は、それを受け入れる用意のできた人たちに分けてあげたいと思い、これまでたどってきた道を後戻りしてきたのです。

 しかし私もいたって人間的な存在です。絶対に過ちを犯さない存在ではありません。間違いをすることがあります。まだまだ不完全です。書物や定期刊行物では私のことをあたかも完全の頂上を極めた存在であるかのように宣伝しているようですが、とんでもありません。

私はただ、こうして私がお届けしている真理がこれまで教え込まれてきた教説に幻滅を感じている人によって受け入れられてきたこと、そして今そういう方たちの数がますます増えていきつつあること、それだけで有難いと思っているのです。

 私は何一つややこしいことは申し上げておりません。難解な教理を説いているわけではありません。自然の摂理がこうなっていて、こういう具合に働くのですと申し上げているだけです。そして私は常に理性に訴えております。

そうした摂理の本当の理解は、それを聞かれた方がなるほどという認識が生まれた時にはじめて得られるのです。何が何でも信じなさいという態度は私たちの取るところではありません。

  霊界からのメッセージが届けられて、その霊がいかに立派そうな名をなのっていようと、もしもその言っていることにあなたの理性が反撥し知性が侮辱されているように思われた時は、遠慮なく拒否しなさいと申し上げております。理性によって協力が得られないとしたら、それは指導霊としての資格がないということです」


 とくに最近になってシルバーバーチは〝指導霊崇拝〟の傾向に対して警告を発するようになった。その理由をこう述べている。

 「指導霊といえども完全ではありません。誤りを犯すことがあります。絶対に誤りを犯さないのは大霊のみです。私たちも皆さんと少しも変わらない人間的存在であり、誤まりも犯します。ですから私は、霊の述べたものでも(すぐに鵜呑みにせず)かならず理性によってよく吟味しなさいと申し上げているのです。

私がこうして皆さんからの愛と好意を寄せていただけるようになったのも、私自身の理性で判断して真実であるという確信の得られないものは絶対に口にしていないからです。

 私は何一つ命令的なことを述べたこともなければ、無理やりに押しつけようとしたこともありません。私は霊的にみて一ばん良い結果をもたらすと確信した案内指標(ガイドライン)(これはなかなか良い言葉です)をお教えしているのです。霊的にみてです。物的な結果と混同してはいけません。

時にはあなた方人間にとって大へんな不幸に思えることが霊的には大へんな利益をもたらすことがあるのです。

 人間は問題をことごとく地上的な視点から眺めます。私たちは同じ問題を霊的な視点から眺めます。しかも両者は往々にして食い違うものなのです。たとえば〝他界する〟ということは地上では〝悲しいこと〟ですが、霊の世界では〝めでたいこと〟なのです。

  人間の限られた能力では一つ一つの事態の意義が判断できません。ですから、前にも申し上げたように、判断できないところは、それまでに得た知識を土台として(すべては佳きに計らわれているのだという)信念で補うしかありません。しかし、所詮、そこから先のことは各自の自由意志の問題です。

自分の生き方は自分の責任であり、ほかの誰の責任でもありません。他人の人生は、たとえ肉親といえども代わりに生きてあげるわけにはいかないのです。その人がしたことはその人の責任であって、あなたの責任ではありません。もしそうでなかったら神の判断基準は地上の人間の公正な観念よりお粗末であることになります。

 自分が努力した分だけを霊的な報酬として受け、努力を怠った分だけを霊的な代償として支払わされます。それが摂理であり、その作用は完璧です。

こうした仕事を通じて私たちが皆さんにお教えしなければならない任務の一つは、私たち自身は実に取るに足らぬ存在であることを認識していただくことです。どの霊もみな神の使者にすぎないのです。

ですから、自分以外の誰かがその神の意志(こころ)と霊力(みちから)にあやかれるようにしてあげれば、それは自分に課せられた仕事を成就していることですから、その機会を与えられたことに感謝すべきだと考えるわけです。

 私がこうしてこの霊媒を使用するように、私を道具として使用する高級霊団の援助のもとに素朴な真理をお届けすることに集中していると、時として私自身の存在が無くなってしまったような、そんな感じがすることがあります。

 私はこれまでたどってきた道を後戻りして、その間に発見したものを受け入れる用意のある人たちに分けてあげるようにとの要請を受け、そしてお引受けしたのです。

私は絶対に誤りを犯さないなどとは申しません。まだまだ進化のゴールに到着したわけではありません。が、これまでに発見したもの、学んだことを、それが皆さんのお役に立つものであれば、なんでも惜しみなくお分けします。

 その教えが悲しみと悩みと困難の中にある人たちの救いになっていることを知るのが、私にとって充足感の源泉の一つなのです。その教えは私個人の所有物ではないのです。

それは全ての者がたどるべき道があることを教え、その道をたどれば自分自身についての理解がいき、全生命を支配している無限の霊力の存在に気づき、各生命がその霊力の一部をいただいていること、それ故に絶対に切れることのない絆で結ばれていることを知ります。

 そういう次第ですから、指導霊ないしは支配霊としての資格を得るにいたった霊は、自分自身が崇拝の対象とされることは間違いであるとの認識があるのです。

崇拝の念は愛と叡智と真理と知識と啓示と理解力の完全な権化であるところの宇宙の大霊、すなわち神へ向けられるべきなのです。神とその子等との間の一層の調和を目的とした感謝の祈りをいつ、どこで、どう捧げるべきかについて、間違いのないようにしないといけません。

もっとも、皆さんからの愛念は大歓迎です。私がこうして使命を継続できているのも地上に愛があるからこそです。その愛を私がいただけるということは、私が託された仕事を成就しつつあるということです。これからも、この冷ややかな地上世界に降りた時の何よりの支えとなる愛の温かさを頂戴しつづけるつもりです。

 自我の開発──これが人間としてもっとも大切な目的です。それがこうして私たちが霊界から地上へ戻ってくる目的でもあるのです。すなわち人間に自己開発の方法、言いかえれば霊的革新の方法をお教えすることです。内在する神の恩寵を味わい、平和と調和と協調と友愛の中で生きるにはそれしかないからです。今の地上にはそれとは逆の〝内紛〟が多すぎます。

 数からすれば私たちの霊団は比較的少数ですが、計画は発展の一途をたどっております。着実に進歩しております。確実な大道を見出す巡礼者の数がますます増えております。まことに悦(よろこ)ばしいことです」


 招待客の夫婦がシルバーバーチの霊言集を読んで感動と勇気づけをうけていることを述べて感謝すると──

 「私はマウスピースにすぎませんが、この私を通して届けられた訓えがお役に立っているということは、いつ聞かされても嬉しいものです。私たちがこの仕事を始めた当初はほんの一握りの少数にすぎませんでした。

それが地上の皆さん方の協力を得て、素朴ではありますが深遠な霊的真理が活字になって出版されるに至りました。それによって霊的真理に目覚める人が大幅に増えつつあることは何と有難いことでしょう。

 地上の霊的新生のための大計画をはじめて教えられ、並大抵の苦労では済まされない大事業だが一つあなたもこれまでに手にしたもの(霊的幸福)を犠牲にして参加してみないかと誘われたとき、私のような者でもお役に立つのであればと、喜んでお引受けしました。

 進化の階梯を相当高くまで昇った光輝あふれる存在の中で生活している者が、その燦爛たる境涯をあとにして、この暗くてじめじめした、魅力の乏しい地上世界で仕事をするということは、それはそれは大変なことなのです。

しかし幸いなことに私は地上の各地に協力者を見出すことに成功し、今ではその方たちとの協調的勢力によって、そこここに心の温かみを与えてくれる場をもうけることができました。おかげでこの地表近くで働いている間にも束の間の安らぎを得ることができるようになりました。

 他の大勢の方々と同じように、お二人からも私がお役に立っていることを聞かされると、こうして地上圏へ突入して来なければならない者が置かれる冷えびえとした環境にまた一つ温かみを加えることになります」

 ここでメンバーの一人が「今のご気分はいかがですか」と言い、「こういう質問をした者はいないみたいですね」と述べる。

 「有難いことに私は地上の病気や悩みに苦しめられることがありません。私はすこぶる健康です。あなた方のように年を取ることもありません」


──私はそのことをお聞きしたのではありません。(地上圏が冷えびえとしていると聞かされたので、その日の交霊会へ来てみてどんな気分かと尋ねたのであろうが、それに対する次の返事も何となく噛み合っていない──訳者)

 「これからも霊的成長を続けたいと願っております」

──悩みごとというのはないのですね。

 「この地上へ来た時しかありません」

──死後の世界がそんなに素晴らしいところだとは知りませんでした。地上を去ったときと同じ状態でいるとばかり思っていました。


 「同じ死後の世界でも、どこに落着くかによって違ってきます。バラにもトゲがあります」
(質問者が〝素晴らしい世界〟のことを a bed of roses 〝バラの花壇〟と表現したのでそう述べた───訳者)

──何の悩みもないのでしょうか。

 「あります。が、それもすべて今たずさわっている使命に関わったことだけです。だからこそ時おり地上を去って、私を地上へ派遣した霊団の人たちのもとへ帰り、こんど地上へ行ったらこうしなさいとの指示を仰ぐのです。私たちも数々の問題を抱えています。が、それはすべて神の計画の達成という目的に付随して起きることです」


 ここで、最近新しい方法でスピリチュアリズムの普及を始めている二人のメンバーにシルバーバーチが 「何かお困りになっていることがありますか」 と尋ねると、一人が 「大した問題はありません。とにかくお役に立つことができれば嬉しく思っております」 と述べた。するとシルバーバーチが──

 「あなた方は本当に恵まれた方たちです。私はいつも思うのですが、あなた方のような(真理普及にたずさわる)人たちが、いつか、ご自分の身のまわりで立ち働いている霊の存在をぜひ目のあたりにできるようになっていただきたいのです。そうすれば、たずさわっておられる仕事の偉大さについて一段と認識を深められることでしょう」


 別のメンバーの関連質問に答えて──

 「私たちはまだまだ舵取りに一生けんめいです。あらんかぎりの力を尽くしております。が、地上的条件による限界があります。やりたいことが何でもできるわけではありません。私たちが扱うエネルギーは実にデリケートで、扱い方が完全でないと、ほとんど成果は得られません。

コントロールがうまくいき、地上の条件(霊媒及び出席者の状態)が整えば、物体を私たちの意のままに動かすこともできます。が、いつでもできるというものではありません。そこでその時の条件下で精一杯のことをするしかないわけです。ですが、最終的な結果については私たちは自信を持っております。


 神の地上計画を妨害し、その達成を遅らせることはできても、完全に阻止することはできません。そういう態度に出る人間は自分みずからがみずからの進歩の最大の障害となっているのです。愚かしさ、無知、迷信、貪欲、権勢欲、こうしたものが地上で幅をきかせ、天国の到来を妨げているのです。

 物的な面では、すべての人にいきわたるだけのものがすでに地上にはあります。そして霊的にも十分すぎるほどのものがこちらに用意されています。それをいかにして受け入れる用意のある人にいきわたらせるか、その手段を求めて私たちは一層の努力をしなければなりません。問題はその受け入れ態勢を整えさせる過程です。

何かの体験が触媒となって自我を内省するようになるまで待たねばならないのです。外をいくら見回しても救いは得られないからです。

 これまでこの仕事にたずさわっている方々の生活において成就されたものを見ても、私たちは、たとえ一時的な障害はあっても、最後は万事がうまくいくとの自信があります。
皆さんのすべてが活用できる莫大な霊力が用意されているのです。
 
精神を鎮め、受容性と協調性に富んだ受身の姿勢を取れば、その霊力がふんだんに流入し、人間だけでなく動物をも治癒させる、その通路となることができます。

 ここにおいでの皆さんの多くはみずから地上への再生を希望し、そして今この仕事にたずさわっておられます。地上にいらっしゃる間に自我の可能性を存分に発揮なさることです。そして最後に下される評価は、蓄積した金銀財宝で問われるのではありません。霊的なパスポートで評価されます。それを見ればあなたの霊的な本性が一目瞭然です」


──霊媒が他界した場合、それまでの支配霊は別の霊媒を探すのでしょうか。

 「それは霊媒現象の種類によります。物理的現象が盛んだった初期のころは、そうした現象を起こすための難しい技術をマスターした指導霊が大勢いました。その種の霊はそれまでの霊媒が他界すると別の霊媒を探し出して仕事を継続しました。

 精神的心霊現象の場合には滅多にそういうことはありません。なぜかというと支配霊と霊媒とのつながりが物理霊媒の場合よりはるかに緊密だからです。オーラの融合だけの問題ではありません。時には両者の潜在的大我の一体化の問題もあるのです。そんな次第で、霊媒が他界すると同時に支配霊としての仕事も終わりとなります。

そして支配霊は本来の所属界へ帰っていきます。私の場合、この霊媒が私の世界へ来てしまえば、別の霊媒を通じて通信することはありませんし、通信を試みるつもりもありません。なぜならば、この霊媒を通じて語るための訓練に大変な年数を費やしてきましたので、同じことを初めからもう一度やり直す気にはなれません。

 私の場合、霊媒との関係は誕生時から始まりました。仕事がご承知のような高度なものですから、まず初期の段階は、通信をできるだけ容易にするために必要な霊体と霊体、幽体と幽体の連係プレーの練習に費やさねばなりませんでした。

 そのうち霊媒が生長して自意識に目覚め、人間的に成長しはじめると、今度は発声器官を使用して、どんな内容のものでも伝えられるようにするための潜在意識のコントロールという、もう一つの難しい仕事に取りかかりました」

 人間的な年齢でいうと何歳になるのかと尋ねられて──

 「私がお教えしようとしている叡知と同じ年季が入っているとお考えくださればよろしい。有難いことに私はこうしてお教えしている自然の摂理の驚異的な働きをこの目で確かめることができました。つまり、あなたがこれから行かれる霊的世界において神の摂理がどう顕現しているかを見ております。

その素晴しさ、その大切さを知って私は、ぜひとも後戻りしてそれを地上の方にも知っていただこう──きっと地上にもそれを受け入れて本当の生き方、すなわち霊的なことを最優先し、物的なことをそれに従属させる生き方に目覚めてくれる人がいるはずだと思ったのです」