Wednesday, February 25, 2026

霊訓 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


4節

本節の内容作曲家アーンに関する詳細な記述
霊の情報入手方法
その実験


〔以上の通信は一八七三年の四月から五月にかけて受け取った厖大な量の通信からの抜粋である。この頃には自動書記も楽にそして流暢に書けるようになり、適切な用語も前ほど苦労せずに見つかるようになっていった。

関係している霊の地上時代のことや正確な記録もいくつか明らかにされた。例えば五月二十二日にまったく別の問題について綴っていたところ突如その通信が途切れて、トーマス・オーガスチン・アーン(1)という名が書かれた。そしてスピーア博士(2)のご子息で素晴らしい才能の持ち主である私の生徒との縁で出られることになったと、その経緯を書いてきた。

その頃の私は自動書記通信に大いに関心を抱き、その内容にも注目していた。そこでさっそく当時の筆記者のドクターにアーンの身元を証明する地上時代の事実があれば提供してもらいたいと頼んでみた。すると間髪を入れず返答が書かれた。生年(一七一〇年)、学校名(イートン)、バイオリンの教師名(フェスティング)(3)。作品集――少なくともそのうちの八曲ないし九曲の曲名。さらに彼の作曲した英国の愛国歌「ブリタニアよ統治せよ」(4)が「アルフレッドの仮面劇」(5)の中に収められていること。その他、実に細かいことが数多く、しかもすらすらと書かれた。その全てが私の知らないことであるのみならず、私はその方面のことに関心がないので――私は音楽のことは全く無知で音楽に関する本は一冊も読んだことがなかった――私はそれほど細かいことが何故わかるのか尋ねてみた。すると、実際はそう簡単に書けるものではなく、霊媒がよくよく受容的な精神状態の時にのみ可能であると書かれた。同時に、霊界には知識の貯蔵所のようなところがあって、不明確なことはそこから情報を得ることが出来るとも述べた。

私はそれはどういう手段でやるのか尋ねた。すると、ある条件のもとで、知りたい目標を心に描いて“読み取る”のだという。人間がするように問い合わせる方法もあるが、それは読み取るのがあまり上手でない霊にかぎられるという。

ではあなたにもそれが出来るかと尋ねると、自分には出来ないと答え、そのわけは地上を去ってからの期間が長すぎるからだという。そう述べてから、地上の情報を蒐集することを得意とする二人の霊の名前を挙げた。そこで私はどちらか一方を呼んでほしいとお願いした。

その時のこの筆記をしている部屋は私自身の部屋ではないが、書斎として使用しており、まわりの壁はすべて書棚になっている。

そこでいったん筆記が中断した。そして数分後にこんどは全く筆跡の違う文章が出はじめた。そこでさっそく尋ねた。〕


――あなたは読み取りが出来ますか。


いや、私には出来ない。が、ザカリー・グレイ(6)が出来るし、レクターにも出来る。私には物的操作が出来ない――つまり物的要素を意念で操作することが出来ないのです。


――どちらか来られてますか。


一人ずつ呼んでみましょう。まず……あ、レクターが来ました。


――あなたは読み取りがお出来になると聞いています。その通りですね? 書物から読み取れますか。


〔筆跡が変わる。〕


出来ます、なんとか。


――「アエネイス」(7)の第一巻の最後の文を書いてみて下さいますか。


お待ち下さい――Omnibus errantem terris et fluctibus aestas.


〔この通りであった。〕


――その通りです。でもそれが私の記憶にあったということも考えられますので、書棚の二番目の棚の最後から二番目の本の九四ページの最後の一節を読み取ってみて下さい。私はその本を読んだことがありませんし、書名も知りませんので。


I will curtly prove, by a short historical narrative, that popery is a novelty, and has gradually arisen or grown up since the primitive and pure time of Christianity, not only since the apostolic age, but even since the lamentable union of Kirk and the state by Constantine.(8)


〔調べてみたところ面白いことにその本はロジャース著『僭称的教皇長老主義者――キリスト教をカトリック的因習と政治性と長老支配から解放、浄化するための一試論』(9)とあった。引用された文章は正確だった。ただnarrativeがaccount(10)となっていた。〕


――意味深長な本を選んだのには何かわけがあるのでしょうか。


それは知りません。偶然でしょう。一語間違いました。書いた時すぐに気づいたのですが、敢えて改めませんでした。


――どうやって読み取るのですか。今の文はさっきよりゆっくりと、しかも時おり思い出したように書いておられましたが。


憶えていた個所もあり、判らない個所は見に行ったりしたからです。読み取るというのは特殊な操作であって、こうしたテストの時以外は必要でありません。昨夜ドクターが言っていた通り、われわれも幾つかの条件が整った時しか出来ません。もう一度試してみましょう。まず読んでから書き、それからあなたに印象づけてみます。

Pope is the last great writer of that school of poetry, the poetry of the intellect, or rather of the intellect mingled with the fancy.(11)

これは正確です。さっきと同じ書棚の十一番目の本を取って来て下さい。〔それは『詩とロマンスとレトリック』(12)という本だった。〕開いてみて下さい。ちょうどその文章の書かれているページが開くはずです。われわれのこうした霊力をよく確かめ、物質的なものを超えた力を人間に啓示することを許された神の意図をよく認識していただきたい。神に栄光あれ。アーメン。


〔その本を開いたら一四五ページが出た。そこに書かれた通りの引用文が出ていた。私はその本を一度も見たことがないし、まして内容については何も知らなかった。〕


〔注〕

(1)


Thomas Augustine Arne.


(2)


Dr.Speer 巻末「解説」参照。


(3)


Festing.


(4)


Rule,Britannia.


(5)


The Masque of Alfred.


(6)


Zachary Gray.


(7)


Aeneid ローマの詩人バージルのラテン語の叙事詩で全十二巻ある。


(8)


大意――私はこれより、カトリック的制度などというものが本来のキリスト教にはなかったものであり、純粋な原始キリスト教時代――伝道者時代はもとより、コンスタンチヌスによる教会と都市国家との嘆かわしき結合以来、徐々に台頭もしくは発生して来たものであることを簡略に論証してみようと思う。


(9)


Antipopopriestian-an attempt to liberate and purify Christianity from Popery, Politikirkality, and Priestrule,by Rogers.


(10)


双方ともほゞ同じ意味を有する。


(11)


大意――ポープはその流派、知性の詩、というよりは詩的想像力と渾然一体となった詩の流派の最後の偉大な詩人であった。


(12)


Poetry, Romance, and Rhetoric.

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

 Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze


四章  霊媒とは何か

 バイブルには霊的能力に関する言葉がいろいろと出ている。特にコリント前書のパウロの言葉は有名である。十二章の冒頭から抜粋すると───

 ≪霊的能力についてよく知ってほしい。
 能力はいろいろあっても、すべては同じ霊力の顕現したものである。
 それは森羅万象が一つの神の御業であると同じである。
 一人ひとりが他の人を益するために、霊力を賜っている。
 ある者は叡智を賜り、ある者は知識を賜っている。
 ある者には信仰の力が与えられ、ある者には病気治療の力が与えられている。
 ある者には奇跡を起こす力が、ある者には予知能力が、そして又、ある者には霊を見分ける眼力が与えられている。
 言語能力に優れている者もいるし、翻訳する能力に長けている者もいる。
 が、いずれも霊力の働きなのである≫

℘74
 ある日の交霊会で霊媒が果たしている役割が話題となった。そのきっかけは、シルバーバーチが霊媒のバーバネルがトランス状態から昏睡状態へ移りそうなので、コントロールがしにくくなったと述べたことにある。

そして「そうなると私にとってはまずいのです」と言ったので、サークルのメンバーの一人が「なぜですか」と尋ねた。すると───

 「私はこの霊媒の身体を調節している機能の全体をコントロールしなければならないのです」


───霊媒が眠ってしまうとコントロールできないのですか。

 「できません。身体を操るには潜在意識を使用しなければならないのですが、眠ってしまうと潜在意識が活動を停止します」


───でも、どっちにせよ、霊媒はその身体から出るのではないでしょうか。

 「いえ、霊媒自身が身体の中にいるか外にいるかの問題ではありません。潜在意識とその機能の問題であり、それは、中でもなく外でもありません」


───私は、霊媒はわきへ押しやられていると思っていました・・・・・・

 「それはそうなのですが、一時的に身体から離れているというだけのことです。それは霊媒みずから進んで身を任せている状態で、潜在意識まで引っ込めてしまうものではありません。そうなると睡眠状態になってしまいます。

 霊媒現象はすべて霊界と地上界との意識的な協力関係で行われます。無意識のうちに潜在能力が一時的に使用されるケースがないわけではありませんが、支配霊と霊媒という関係で本格的な霊的交信の仕事をするとなると、

その関係は意識的なものでなければなりません。つまり霊媒現象に関係するあらゆる機構に、霊媒が進んで参加することが必要となります」


───睡眠中の霊媒が使用されて通信が届けられたケースがあったように思いますが・・・・・・


℘76
 「そういうことがあったかも知れませんが、それは通常のプロセスが逆転した状態です」

───その場合、睡眠中のそういう形で使用されることを、霊媒自身も同意していたということが考えられますか。

 「それは考えられます。ただ、ご承知のように、私たちは霊媒の望みはよほどつまらないものでないかぎりは敬意を払い、しかるべき処置をとります。しかし、言うまでもなくこの身体は私たちの所有物ではありません。モーリス・バーバネルのものです。

こうして私たちが少しの間お借りすることを許してくれれば結構なことであり、有難いことですが、その許可もなしに勝手に使用することは道義に反します。

その身体を通して働くさまざまな霊的エネルギーに対して霊媒と私たちの双方が敬意を払った上で、気持ちよく明け渡すというのが正しい在り方です」

℘77
───その潜在意識がどのように使用されるかについて聞かれて───

 「そのことに関して、ずいぶん誤解があるようです。精神にはさまざまな機能があります。人間というのは、自我意識を表現している存在といってよろしい。意識がすべてです。

意識そのものが〝個〟としての存在であり〝個〟としての存在とは意識のことです。意識のあるところには必ず〝個としての霊〟が存在し、〝個としての霊〟が存在するところには必ず意識が存在します。

 しかし、この物質界においては、自我のすべてを意識することはできません。なぜなら───あなた方に分かり易い言い方をすれば───自我を表現しようとしている肉体(脳)よりも、本来の自我の方がはるかに大きいからです。小は大を兼ねることができません。弱小なるものは強大なるものを収容することができないのが道理です(※)。

 ※───物質という形あるものに包まれた生活に慣れ切っている人間には、意識とか自我といった、形のないものを想像することはできない。したがって〝大きい〟とか〝小さい〟とかの形容で説明ずるのは適当ではないのであるが、地上の人間にはそれ以外に説明のしようがない。

それは、太陽は昇ったり沈んだりしているわけではないのに、やはり〝東から昇り西に沈む〟という表現しかできないのと同じであろう。それでシルバーバーチは〝あなた方に分り易い言い方をすれば〟と断ったわけで、実際は、自我とか意識は、脳を通じての思考では絶対に理解できない存在である───訳者。

 ℘78   
 人間は地上生活を通じて、その大きな自我のホンの一部しか表現していません。大きい自我は、死んでこちらへ来てから自覚するようになります。

といって死後ただちに全部を意識するようになるのではありません。やはりこちらでの生活で、それなりの身体を通して、霊的進化とともに少しずつ意識を広げていくことになります。

 意識的生活のディレクターであり、個的生活の管理人である精神は、肉体的機能のすべてを意識的に操作しているわけではありません。

日常生活において必要な機能の多くは、自動的であり機械的です。筋肉・紳径・細胞・繊維等がいったん意識的指令を受け、更に連係的に働くことを覚えたら、その後の繰り返し作業は潜在意識に委託されます。

 たとえば物を食べる時、皆さんは無意識のうちに口を開けています。それは、アゴが動く前に、それに関連した神経やエネルギーの相互作用があったことを意味します。

すなわち、精神の媒体である脳から神経的刺激が送られ、それから口を開け、物を入れ、そして噛むという一連の操作が行われています。すべてが自動的に行われます。一口ごとに意識的にやっているわけではありません。無意識のうちにやっております。

潜在意識がやってくれているのです。赤ん坊の時は、その一つ一つを意識的にやりながら記憶して行かねばなりませんでした。しかし、今は、いちいち考えずに、純粋に機械的にやっております。

 このように、皆さんの身体機能、そして、かなりの程度まで精神的機能も、大部分が潜在意識に委託されている事がお分かりになるでしょう。潜在意識というのは言わば顕在意識の地下領域に相当します。たとえば皆さんが本を読んでいる途中で、これはどういうことだろうと自問すると、即座に答えがひらめくことがあります。

それは潜在意識がふだんから顕在意識の思考パターンを知っているので、それに沿って答えを出すからです。誰かの話を聞いている時でも同じです。〝あなたはどう思われますか〟と不意に聞かれても、即座に潜在意識が返事を用意してくれます。

 ところが、日常的体験の枠から外れた問題に直面すると、潜在意識が体験したことも解決したこともないことですので、そこに新たな意識的操作が必要となります。新しい回線が必要となるわけです。

 しかし、そうした例外ともいうべきオリジナルな思考───という言い方が適当かどうかは別として───を必要とする場合を除いて、人間の日常生活の大部分は、潜在意識によって営まれております。

潜在意識は倉庫の管理人のようなものです。あらゆる記憶を管理し、生きるための操作の大半をコントロールしています。その意味で人間の最も大切な部分ということができます。

 その原理から霊媒現象を考えれば、これは、それまで身体機能を通して表現してきた自分とは別の知的存在が代って操作する現象ですから、顕在意識の命令に従って機能することに慣れている潜在意識を操作する方がラクであるにきまっています。

命令を受けることに慣れているわけです。仕事を割り当てられ、それを、よほどのことがない限り中断することなく実行することに慣れております。

 霊媒現象のほとんど全部に霊媒の潜在意識が使用されております。その中に霊媒の人物の本当の姿があるからです。倉庫ともいうべき潜在意識の中に、その人物のあらゆる側面がしまい込まれているのです。

こうした現象において支配霊が絶対に避けなければならないことは、支配霊の仕方が一方的すぎて、霊媒がふだんの生活で行っている顕在意識と潜在意識の自動的連係操作が、いつものパターンどおりにいかなくなってしまうことです。その連係パターンこそが、この種の現象のいちばん大切な基盤となっているからです」

℘81
───霊媒自身が潜在意識をおとなしくさせる必要があるということでしょうか。

 「そうではありません。支配霊の個性と霊媒の個性とが完全に調和し、その調和状態の中で支配霊自身の思念を働かさなければなりません。他方、支配霊は、ちょうどタイプライターのキーを押すと文字が打たれるような具合に、

霊媒の潜在意識の連係パターンをマスターして、他の知的存在の指令にもすぐさま反応するように仕向けなければなりません。それが支配霊として要求される訓練です。先ほど述べたことを絶対に避けるための訓練といってもよろしい。

 これで皆さんも得心していただけることと思いますが、霊媒現象は霊媒という生きた人間を扱う仕事であり、霊媒には霊媒として考えがあり、偏見があり、好き嫌いがありますから、今も述べたように〝支配する〟といっても、ある程度はそうした特徴によって影響されることは免れません。

 霊媒を完全に抹殺することはできません。どの程度までそうした影響が除去できるかは、支配霊がどの程度まで霊媒との融合に成功するかに掛っています。もし仮に百%融合できたとしたら、霊媒の潜在意識による影響はゼロということになるでしょう。

 霊媒を抹殺するのではありません。それはできません。融合するのです。霊媒現象の発達とは、それを言うのです。円座(サークル)の形をとっていただくのはそのためです。

列席者から出るエネルギーが、その融合を促進する上で利用されるのです。調和が何より大切ですと申し上げるのはそのためです。

 出席者の中に不協和音があると、それが霊媒と支配霊との融和を妨げるのです。交霊会の進行中は、絶え間なく精神的エネルギーが作用しています。お見せすることはできませんが、出席者の想念、思念、意思、欲求、願望のすべてが、通信に何らかの影響を及ぼしています。

支配霊が熟練しているほど、経験が豊富であるほど、それだけ霊媒との調和の程度が高く、それだけ潜在意識による着色が少なくなります」


───そうすると、霊媒はなるべく支配霊と似通った願望や性格の持ち主がよいということになりませんか。
℘83
 「一概にそうとも言い切れません。これは異論の多い問題の一つでして私たちの世界でも意見の相違があります。忘れないでいただきたいのは、私たちスピリットも人間的存在であり、地上との霊的交信の方法について、必ずしもすべての点で意見が一致しているわけではないということです。

 たとえば、無学文盲の霊媒の方が潜在意識による邪魔が少ないから、成功率が高いと主張する者がいます。それに対して、いや、その無知であること自体が障害となる───それが一種の壁をこしらえるので、それを突き崩さねばならなくなるのだ、と反論する者がいます。

安もの楽器よりも名匠の作になる楽器の方が良い音楽を生むのと同じで、霊媒も教養が高いほどよい───良い道具ほど良い通信を受けやすいのだと主張するわけです。私はこの意見の方が正しいと思います」


───なぜ、教養の有る無しが問題とされるのでしょうか。人格の問題もあるのではないでしょうか。

 「私は今、トランス状態での通信の話をしているのです。人間性の問題は又別の要素の絡んだ問題です。今は、霊言が送られる過程を述べているのです。通信のメカニズムといってもよいでしょう。
℘84 
 分かりやすい譬えで言いますと、バイオリ二ストにとっては名器のストラディバリウスの方が、安ものよりも弾きやすいでしょう。楽器の質の良さが、良い演奏を生むからです。安ものでは、折角の腕が発揮できません。

 霊媒の人間性の問題ですが、これは霊言の場合ですとその通信内容に、物的現象の場合ですと現象そのものに、その影響が出ます。物理霊媒の場合、霊格が低いほど───程度の問題として述べているだけです───たとえばエクトプラズムの質が落ちます。物質的にでなく霊的観点から見てです。

 霊側と霊媒とをつなぐ霊力の質は、霊媒の人間性が決定づけるのです。たとえば地上ならさしずめ〝聖者〟とでもいえる高級霊が、人間性の低い霊媒を通して出ようとしても、その霊格の差のために出られません。接点が得られないからです」


───物理現象においても霊媒の潜在意識が影響を及ぼすように思えるのですが、その点についてご説明願えませんか。

 「交霊会のカギを握っているのは霊媒です。霊媒は電話機のようなものではありません。電信柱ではありません。モールス信号のキーではありません。生きた機械です。その生命体のもつ資質のすべてが通信に影響を及ぼします。

 だから良いのです。もしも霊界と地上との交信のための純粋の通信機が出来たら───そう言うものは作れませんが───それによって得られる通信は、美しさと荘厳さが失われるでしょう。

 いかなる交霊会においても、カギを握るのは霊媒です。霊媒なしでは交霊会はできません。霊媒の全資質が使用されるのです。たとえばメガホン一本が浮遊するのも、物質化像が出現するのも、その源は霊媒にあります。そして霊媒の持つ資質が何らかの形でその成果に現れます」


───霊が憑ってくると霊媒の脈拍が変化するにはなぜでしょうか。その脈拍は霊の脈拍なのでしょうか。

 「霊が霊媒を支配している時は、霊媒の潜在意識を使用しています。すると当然、霊媒の本質的な機能、つまり心臓、脈拍、体温、血液の循環などを支配することになります。トランス状態に入ると呼吸が変化するのはそのためです。
℘86
 一時的なことです。ですが、一時的にせよ、その間は支配霊は物質界と接触して、自分の個性を物質的身体を通して再現しているわけです。

たとえば私は今、元アメリカ・インディアンの霊的身体を使用しております(※)。そのインディアンが霊媒の潜在意識を支配していますから、その間の脈拍は、そのインディアンの身体の脈拍です。このような形で行う方が一から始めるよりも手間が省けます」

※───通信の始原であるシルバーバーチと名のる霊は、ほぼ三千年前に地上生活を送ったことがあるということ以外は、民族も国家も地位も明かしていないが、その三千年前の体験の知識と霊的進化によって、その霊格から出る波動は、すでに地上的波動と直接の接触ができなくなっている。そこで地上でインディアンだった霊の身体を変圧器として通信を送っている。インディアンは霊界の霊媒である───訳者


───では、バーバネルの今の脈拍は三十分前とは違うわけですか?

 「違います」

 別のメンバーが、ある霊媒に少年の霊が憑って来た時に、ガラッと様子が一変した話をして、そういう場合は誰かが操作するのか、それとも自動的にそうなるものかを訊ねると───

 「自然にそうなるのです」


───支配霊が操作をするわけではないのですね?

 「その必要はありません。霊媒の潜在意識はそうした事態にすぐに対応できるのです。子供が乗り移ると、自動的にその子供のバイブレーションをキャッチして、脈拍と心臓がそれに応じた打ち方をするのです」


─── いう対応ができるようになるのは支配霊の力量ですか、それとも霊媒自身の能力ですか。

 「両者の連帯関係の進歩です。私の場合、バーバネルの脈拍を正常、異常のどちらにも変えることができます」


 これを聞いてもう一人のメンバーが、ある実験会で支配霊が、霊媒の左右の腕の一方の脈拍を止め、他方を打たせ続けたことがある話をした。するとシルバーバーチが───

 「それは可能です。あなたもできるのです。ヨガの修行僧は全身の神経中枢を自在にコントロールすることができます。すべては精神統一(集中力)と鍛錬に掛っております」

Tuesday, February 24, 2026

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

 Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze




三章  死後はどうなるか

 ある日の交霊会で、死後の世界とそこでの生活の様子が主な話題となった。その中でシルバーバーチは、最近他界したばかりの人の現在の状態を説明して、地上に隣接した下層界は何もかも地上とそっくりであると述べた。すると次のような質問が出された。


───幽界がこの世とそっくりであるというのが、私には理解できないのですが・・・・・・

 「地上界の次の生活の場は、地上界の写しです。もしそうでなかったら、何の予備知識もない幼稚な霊に、耐えきれないショックを与えることでしょう。

ですから、霊界への導入は優しい段階をへながら行われることになります。こちらへ来てすぐの生活の場は、地上と非常によく似ているということです。自分の死んだことに気づかない人が大勢いるのは、そのためです。
℘54
 こちらは本質的には思念の世界、思念が実在である世界です。思念の世界ですから、思念が生活と活動の表現のすべてに形態を与えます。

他界直後の世界は地表のすぐ近くにあり、ものの考え方が極めて物質的な男女が集まっていますから、思念の表現も極めて地上的で、考えることがすべて物的感覚によって行われます。

 そう言う人たちは〝物〟を離れての存在をかんがえることができません。かつて一度も、生命というものが物的なものから離れた形で意識にのぼったことがないのです。霊的な活動を心に思い浮かべることができないのです。精神構造の中に、霊的なものを受け入れる余地がないのです。

 ですが、死後の世界の生活にも段階があり、意識の開発とともに、徐々に、確実に地上臭が取れていきます。そして、生命というものが物的な相を超えたものであることが分かりはじめます。

そして、自覚が芽生えると、次第にそこの環境に反応しなくなり、いよいよ本当の霊の世界での生活が始まります。こうして、死と誕生(に相当するもの)が何度も繰り返されるのです」


───死後の世界での体験は主観的なのでしょうか。客観的なのでしょうか。

 「客観的です。なぜかと言えば、こちらの世界はそれぞれの界層で生活している同じレベルの住民の思念で構成されてるからです。意識がその界のレベルを超えて進化すると、自然にそこから離れていきます。成長と向上と進化によって霊的資質が身に着くと、自然の摂理によって次の段階へ移行するのです」


───ということは夢の世界ではないということですね?

 「そこを通過してしまえば夢の世界だったことになります。そこで生活している間は現実の世界です。それを〝夢〟と呼ぶか呼ばないかは、観点の違いの問題です。あなた方も夢を見ている間は、それを夢だとは思わないでしょう。夢から覚めて初めて夢だったことを知り〝なんだ、夢だったのか〟と思うわけです。

ですから夢が夢幻的段階を過ぎてしまうと、その時の体験を思い出して〝夢だった〟と言えるわけです。ですが、その夢幻を体験している間は、それがその霊にとっての現実です」

℘56
───全ての人間が必ずその低い界層からスタートするのでしょうか。

 「いえ、いえ、それはあくまでも何の予備知識も持たずにきた者や幼稚な者にかぎっての話です。つまり霊的実在があることを知らない人、物的なものを超越したことを思い浮かべることのできない人の場合です。

 あなた方が〝幽界〟と呼んでいるところは、霊の世界の中の小さな区域です。それは低い境涯から高い境涯へと至る、無数の階段の一つにすぎません。周囲がしきられているわけではありません。それを〝界〟と呼んでいるのは、あなた方に理解できる用語を用いるしかないからです」


引き続き霊界での成長について───

 「一つの界から次の界へよじ登っていくのではありません。自然に成長し、自然に進化していくのです。程度の低い要素が、程度の高い要素にその場を譲って行くのです。何度も死に、何度も誕生するのです。

幽体は、肉体の死のような過程で失われていくのではありません。低級なものが消えるに連れて、浄化され精妙になっていくのです。それが幽体の死です。


 そもそも〝死〟とは変化であり、復活であり、低いものから高いものへの上昇です。時間と空間にしばられた地上的制約から解放された霊の世界を説明しようとすると、何かと困難に遭遇します。低いものは高いものを理解できません。

有限なるものは無限なるものを包含することはできません。小さい器は大きい器を入れることはできません。奮闘努力の生活の中で理解を増していくしかありません」


───幽界では、例えば心臓なども残っていて、やはり鼓動するのでしょうか。

 「肉体器官の機能が残っている否かは、その霊の自覚の問題です。地上生活の後にも生活があることを知らず、霊の世界があることなど思いもよらない人の場合は、地上で具えていた肉体器官がそっくりそのまま残っていて、肉体的機能を続けています。あらゆる機能です」


───では、霊の世界について理解を持った人の場合はどうなりますか。

 「幽体の精妙化の過程がスムーズに進行します。ある器官が霊の生活に不要となったことを自覚すると、その器官が退化し始め、そのうち消滅してしまいます」

℘58
───死の直後からそういう現象が生じるのでしょうか。それともゆっくりとした過程なのでしょうか。

 「それも霊的自覚の程度によります。程度が高ければ、それだけ調整期間が短くてすみます。忘れてならないのは、私たちの世界は精神的な世界、霊の世界であり、そこでは自覚というものが最優先されるということです。精神が最高の権威を持ち支配しています。精神が指示したことが現実となるのです。

 昔から、高級界からやってきた霊のことを〝光り輝く存在〟というふうに述べていて、姿かたちをはっきり述べていないことにお気づきになったことはありませんか。外形というものが無くなっていくのです。つまり形による表現が少なくなっていくのです」


───最後にはどういう形態になっていくのでしょうか。

 「美はどういう形態をしているのでしょう? 愛はどういう形態をしているのでしょう? 光はどういう形態をしているのでしょう?」


───形態を超越してしまうと、色彩が認識の基本になるのでしょうか。

 「その通りです。但し、地上世界の基本的色彩となっているものが幾つかありますが、私たちの世界には、あなた方の理解力を超えた別の色彩の領域が存在します。

私たちは高級霊の姿から発せられる光輝、そのメッセージとともに届けられる光によって、その方がどなたであるかを認識することができます。形態というものがまったく無いことがあるのです。ただ思念があるのみで、それに光輝が伴っているのです」


───翼がついている天使の絵をよく見かけるのですが、あの翼の概念はどこから来たのでしょうか。

 「太古の人は宇宙を三段に分けて想像しました。自分たちが立っている大地(地球)が真ん中にあって、その上に天国が、その下に地獄があると考えました。そして、その天国からも、地獄からも訪問者がやってくると信じ、そうなると天空を降りてくる天使には翼があるはずだと想像しました。

鳥と同じ翼がなければ遠い距離を飛んで来られるはずはないと考えたわけです。こうして翼のある天使の概念が生まれました」

℘60
───実際に翼のある天使はいるのでしょうか。

 「います。ですが、それはただの想念体に過ぎません。霊の世界に翼は必要ありません。私たちが霊媒にある概念を伝える場合にも想念による絵画(ピクチャー)を使用することがあるのですが、地上の幼い子供たちが天使には翼があるものと思い込んでいる場合には、それに合わせて、翼のある天使をイメージして届けることがあります。それが守護の天使として定着したのです」


 話題が変わって、他界した身内のものや友人・知人は、姿こそ見えなくても、地上にいた時よりいっそう身近な存在となっていることを説いて、こう述べた。

 「その方たちは今なお実在の人物であり、地上にいた時と同じように、あなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはなりません。彼らにはもはや言葉で話かけることはできませんし、あなた方もその声を聞くことはできませんが、あなた方のすぐ身の回りにいて、何かと面倒を見てくれております。

 そう言えばそんな感じがすると思われるでしょうが、実際はもっととっと密接な関係にあります。彼らはあなた方の心の秘密、口に出さないでいる欲求、願望、希望、そして心配なさっていることまで、全部読みとっております。そして地上的体験から、あなた方の魂の成長にとって必要なものを、摂取するように導いてくれております。

決して薄ぼんやりとした、影のような、あるいはもやのような存在ではありません。今なお皆さんのことを愛し、以前よりさらに身近な存在となっている。実態のある男性であり。女性なのです」


───霊界でも心霊治療を受ける人がいるそうですが、どういう人たちでしょうか。

 「さまざまな原因から、霊的身体に欠陥が生じている場合です。たとえば無残な事故で急死した場合は、新しい霊的生活に順応するための調整が必要です。

それを霊的エネルギーの注入によって行います。また地上時代ずっと、脳の欠陥のために精神に正しく情報が届かず、結果的に霊性が発揮されずに終わった人の場合などです」

℘62  
───戦争で爆弾の直撃を受けて、こっぱみじんになって死んだ場合はどうなりますか。

 「これも、こちらの世界へ次々とやってくる他界者のための受け入れ施設が受け持っている仕事の一環にすぎません。

地上でも、道ばたに倒れている人がいれば病院へ運ぶという仕事が、戦争になると負傷兵を看護する施設へと発展するように、こちらでも、通常の受け入れ体制の他に、さまざまな原因からいきなり放りこまれた霊界の生活に順応させる施設がたくさん用意されております」


 別の日の交霊会で、前に一度シルバーバーチを通じて出席者の一人に、地上時代に掛けた迷惑についての詫びを述べたことのある霊が、その日にまた同じことについての詫びを改めて届けてきた。その詫びの言葉を述べたあと、シルバーバーチがこう語った。

 「あなたが、もういいのにと、思われる気持は私にはよく理解できます。でも、彼には詫びの気持ちを述べずにはいられない事情があるのです。懺悔をするということは、あなたに対してというよりは、彼自身にとって意味があるのです。

 他界した者が地上時代の行為について懺悔の気持ちを何らかの形で届けたいと思うようになるということは、本当に自我に目覚めつつあることの証拠です。あなた方にとってはもう過ぎたことであり、忘れていらっしゃるかも知れません。が、

その行為、ないしは事実は、霊的自我に刻み込まれていて、霊性が成長し、それについての正しい評価が下されるまでは、絶対に消える事はありません」


 さらに別の日の交霊会でも、他界したあとに抱く地上への思いを、こう述べた。

 「皆さんは、いったん霊の世界へ来てから地上界へ戻り、何とかして働きかけたいと思いながら、それが叶えられずにいる人たちの気持ちがどんなものか、考えてみたことがおありですか。

地上界を去ってこちらへ来てみて視野が変わり、人生を初めて正しい視野で捉えるようになって、そのよろこびを何とかして地上の愛する人たちに教えてあげたいと、一生けんめいになっている霊が大勢いることをご存じでしたか。
℘64
 ところが人間は、そういう人たちの働きかけにまったく鈍感なのです。見ることはおろか、聞くこともできません。愚かにも五感だけが実在のすべてであると思い込み、その粗末で気のきかない五つの感覚が捉えている世界以外には何も存在しないと考えています。

 私たちがこちらでよく見かける光景は、死後も立派に生き続けていることを知らせてあげようと、手を思いきり差しのべてあれこれと尽くすのに、そのうち、どうしても気づいてもらえないことを知ってがっかりとした表情を浮かべている人たちです。

呼びかけても聞いてもらえず、目の前に立ちはだかっても見て貰えず、思念を送っても感じてもらえません。

 悲しみに暮れている人たちばかりを相手にした話ではありません。楽しく暮らしている明るい家庭においてもそうです。そこで私たちは、重苦しい気持ちを引きずれながらその人たちに近づいて、人間側が交霊会にでも出席してくれるようになるまでは、どう努力しても無駄ですよ、と告げるしかないのです」


 シルバーバーチはさらに次のような、他界後の霊界の実情を打ち明けた。

 「これまでに私は、何人もの〝国教会の大黒柱〟と呼ばれていた人を連れて、かつて彼らが勤めていた礼拝堂、大聖堂、教会等へ行ったことがあります。

そこで彼らが目にするのは、当然、かつて自分も説いたことのある教説の繰り返しですが、今ではそれが間違っていることがよく分かるものですから、彼らの心は次第に重苦しく沈み込んでいきます。間違いと迷信で出来上った組織を助長したのは、ほかならぬ自分たちであることを自覚するからです」


───針のむしろに座らされる思いでしょうね?

 「それが彼等にとっての煉獄(れんごく)なのです。辛いでしょうが、それが摂理なのです。自分が犯した過ちは自分で改めないといけません。

自分が送った間違った人生の代償を払わないといけないのです。永遠なる公正のもとにおいて、ありとあらゆる勘定が清算させられます。この摂理から逃れる人は一人もいません」



───その司祭たちはどういう方法で償うのでしょうか。
℘66
 「間違った教えを説いた信者の一人一人に会って、その間違いを修正してあげないといけません」


───説教をした信者の一人一人に面接しないといけないのでしょうか。

 「そうです」


───でも、それまでに信者自身が修正していることもあるでしょう?

 「そういう場合は、それだけ負担が軽くなります」


───正しいと確信して説いていた場合はどうなるのでしょうか。少しは違うのでしょうか。

 「その場合は事情が違ってきます。何事も〝動機〟が大切だからです」

℘67
───その場合でもやはり一人一人に会わないといけませんか。

 「本心からそう信じていた場合は、その必要はありません。ですが、実際は、命をかけてそう信じている人は少ないようです。高慢と、地位、財産の方が真理よりも大切な人が多いようです。いったん教会という組織の中に組み込まれて、その中に浸りきってしまうと、それが鎖のように魂を縛りつけてしまいます。

心の奥では納得できずにいながら、お座なりの説教を繰り返すことによって理性を麻痺させようという卑劣な態度をとるようになります。

 私たちは、そうとは知らずに間違ったことを説いている真面目な牧師を咎めようとは思いません。咎めたいのは、心の奥では真理なんかどうでもいい───教会という組織を存続させることが第一だ、と考えている指導者たち、あるいは、間違っていると知りつつも、ではそれを捨てたら、これから先自分たちはどうなるのだ、という単純な不安から、伝統的教義を守ろうとしている牧師たちです。


 間違っていることに気づかずに、一生けんめい説いている者を咎めるつもりはありません。自分たちの説いている教えや行っている儀式が何の根拠もないことを知りつつも、奇弁を弄してつくろい〝これを捨てたら、ほかに何があると言うのか───教えることが何もなくなるではないか〟という幼稚な自己弁護をしている連中のことを咎めているのです。
℘68
 とは言うものの、たとえ知らなかったとはいえ、やはり間違っていたことは正さないといけません。ただし、その場合は煉獄の苦しみではなく、むしろ喜びすら覚えるものです。魂が進んでそれを求めてすることですから、それは一種のサービスの喜びとなります」


 これを聞いてかつてメソジスト派の牧師だったメンバーが訊ねた。

───では、私もこれまでの説教してきた信者のすべてに会って正さないといけないことになるのでしょうか。

 「そういうことです。会った時にまだ間違った教えを信じている場合、言いかえると、あなたの教えを信じたために光明を見出すのが遅れている場合は、光明への正しい道を教えてあげないといけません」

℘69
───それは大変です。大変な数の人に教えを説いてきましたから・・・・・・

 「あなただけではありません。すべての牧師が直面させられる摂理なのです。でも、あなたの場合そう苦になさることはないでしょう」


 ここで別のメンバーが 「たぶん、この方の場合は、牧師を止められてから救ってあげた人たちが協力してくれるはずです」 というとシルバーバーチが───

 「その通りです。永遠に不変の公正は決してごまかされません。叶えられることなら皆さんにも、私が見ている通りの摂理の働き具合をご覧にいれて、公正の天秤がいかに見事にバランスがとれているかを知っていただきたいのですが・・・・・・大霊のなさることに寸分の狂いもないことを得心なさるはずです。

 教えを説く者には深刻な責任があることは、ここのおいでの皆さんがご存じないはずはありません。知識には責任が伴うことを何度申し上げたことでしょう。

自分を他の人たちより高め、人を教え導きたいと思うのであれば、まずは自分自身が拠って立つ足場をしっかりと固めないといけません。

 徹底的に探究し試してみることを怠り、批判に身をさらすこともせずに自己満足し、本当かどうかの確信もないまま人に教えを説くようなことをしていると、その怠慢と軽率さに大きな代償を払わされる時が必ず来ます」

℘70
 別の日の交霊会で、地上時代に受けた間違った教えのために魂の進化が阻害されている例が話題になった。メンバーの一人が、最後の審判日を待ちながら死体の埋葬されている墓地で暮らしている霊がいるという話を聞いたが、そんなことが本当にあるのかと尋ねると───

 「事実その通りなのです。それが私たちにとって厄介な問題の一つなのです。教会で聞かされた通りのことが本当に起きるものと信じ切っているものですから、自分からその考えに疑問を感じるようにならないかぎり、側からはどうしようもないのです。  

 死ねばガブリエルのラッパが聞こえるまで墓地で待つものという想念体を、全生涯をかけて作り上げて来ているわけですから、その想念体が崩れないかぎりは、いつまでのその牢獄から抜け出られないのです。

 死んだことが信じられない霊の場合も同じです。信じることを拒んでいるかぎり、私たちも為すすべがありません。もう死んで霊の世界に来ているという事実を信じさせることがどんなに難しいか、みなさんには理解できないでしょう。

 ずいぶん前の話ですが、クリスタデルフィアン(一九五〇年代に米国で生まれたキリスト教の一派)だという霊と長々と話し合ったことがあります。

私は何とかしてその人がすでに死んでいる事実を納得させようとしたのですが、〝こうして生きているのに、なぜ私が死んでいるのですか〟と言い返して、どうしても信じてくれませんでした。復活の日まで待ちますと言って、その場から離れようとしませんでした」


───時間をどうやって過ごすのでしょうか。

 「ただ待つだけです───〝待つ〟という想念の中にいるだけです。自分でこしらえた想念体の牢獄の中に閉じ込められているのです。そのことに気づけば、想念体が崩れて眼が覚めるのですが、こうした事実を地上の人に説明するのはとても困難です。

 こちらの世界には〝時間〟というものがないのです。地球の自転によって昼と夜とが生じるようなことがないからです。昼と夜とで一日、といった計算をすることがない世界において、どうやって昨日と今日とを区別するのでしょう?」


───時間の単位はなくても、時間の経過はあるのでしょう?

 「それもありません。まわりで生じる変化との関連において成長と進化を意識することはありますが、時間の経過はありません。霊的な成長と、それに伴う環境の変化があるのみです。時間というのは、そうした変化との関連における尺度にすぎません。

 無意識でいる間は時間は存在しません。環境との関係が変わったからです。夢の中では環境との関係が変わっていますから、肉体につながれている時よりも物事が早く推移するわけです」

霊訓 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings



3節

本節の内容筆記の激しさによる著者の頭痛
その説明
現行法律の欠陥
霊的知識の欠如
地縛霊
早世した霊の得失
体験と試練の必要性
“動”の世界と“静”の世界
宇宙の内的世界の分類と地上生活の位置
悪の世界への堕落
極悪霊のたどる運命
イエスの述べた“赦し難き罪”とは


〔前節の通信が書かれた時の勢いはこれまでになく激しいものだった。一ページ一ページきちんと余白を取り、段落をつけ、実に細かい文字で書き、God(神)の文字だけは必ず大文字で書いた。書き上がったものを見るとまさに書き方の手本のようだった。が、書き綴っている時は手がヒリヒリし、腕ががくがくして、強烈なエネルギーが身体を流れるのを感じた。書き終わった時はぐったりとして横になるほど疲れ果て、頭の奥に激しい痛みを覚えた。そこで翌日さっそくその頭痛の原因を尋ねた。すると非常に穏やかな筆致でこう綴られた――〕


あの時の頭痛はエネルギーの強さと、それをそなたより引き出す時の速さが度を越したからである。あのような重大なる問題については熱烈さを伴わずしては書けぬ。われらが地上へ派遣されたそもそもの目的が、その種の問題にそなたの関心を向けさせることにあるからである。われらは神の定めたる不変の法則に従うことの重大性を何としても強く印象づけておきたく思う。それを犯すことは己を危うくすることでしかないからである。

戦争は人間の欲望と野心、怒りと驕(おご)りと復讐心の産物にほかならぬ。然して戦争のあとに残されるものは一体何か。神の美(うる)わしき自然が破壊され踏みにじられる。人間のすばらしき平和な勤勉の産物が無残にも破壊される。到るところが血の海となる。そうして未熟で無知で未浄化の霊魂が肉体から引き離されて洪水の如く霊界へと送られてくる。ああ、何たる愚行! 何たる蛮行! 地上自ら悪を生み、そして常に悲劇に終わる。その愚かさに目覚めぬかぎり人類の進歩は遅々として進まぬであろう。然るに人間はひきも切らず悪のタネを蒔き続け、それがわれらの仕事の障害ともなっている。

人間の社会制度と国家機構には改めねばならぬことが数多くある。取り入れねばならぬものが数多く存在する。

例えば人間の社会は大衆のための法律と言いつつその実、犯罪人を懲(こ)らしめるための法律でしかない。もとより法律には懲罰的要素もなくてはならぬ。が、同時に更生的要素も持たねばならぬ。然るに異常者とみた者をすぐに逮捕し、他の者へ危害を及ぼさぬようにと隔離する。数年前に大規模にそれを行ない、拷問にかけ、精神病棟をぎゅうぎゅう詰めにした。彼らのどこに罪があると言うのか。何のことはない。その口にすることが普通一般の常識と異なるというに過ぎぬ。あるいは――古(いにしえ)より狂人とされた者の多くがそうであり、今なおよくあることであるが――単に未熟霊にそそのかされたに過ぎぬのである。いつの日かその真相を知って後悔することであろうが、常識の道からはずれることが必ずしも狂える証拠とはかぎらぬ。霊の訓えの道具となることが精神に異常を来したことにはならぬのである。人間の愚行によりて多くの神の使徒が公然とその使命を遂行する自由を奪われ、さらに、われらが精神病棟を溢れさせ、霊媒を発狂させた元凶であるという誤れる認識が行なわれている。盲目にして無知なる為政者がわれら霊とその訓えと関わりをもつ者すべてを精神病者と決めつけたからに他ならぬ。愚かにも人間は霊の世界と関わりをもつことそれ自体を狂気の証と決めつけ、従って霊的真理を口にする者は悉(ことごと)く狂人であり、故に精神病院に隔離せねばならぬと決定した。そして偽りの供述書を作成することによって霊媒に狂人の汚名を着せ、幽閉することに成功すると、今度は、霊媒を狂わせたのは霊であるとの口実のもとに、その罪をわれらに押しつけたのである。

もしこれを無知の産物と言うのでなければ、神への冒涜と言わねばなるまい。われらは神の恵み以外の何ものももたらさぬ。地上の同胞にとって、われらは神の真理の担い手にほかならぬ。人間がその罪深き心と卑しき生活によりて同類の邪霊を引き寄せその邪性を倍加すれば、その罪は人間自らが背負わねばならぬ。邪霊たちは人間の蒔いたタネを刈り取っているに過ぎぬ。邪霊を咎める前にまず人間自らがその過ちを知らねばならぬ。魂と身体(からだ)の管理をおろそかにしたために道を間違えたのである。これを言い換えれば、神聖なる霊の影響力から遠ざかったという意味において迷っているのである。が、われらはその種の人間には取り合わぬ。彼らはまだしも良い。彼らより遥かに道を踏み外せるのは、道を踏み外せる者と思わずにいる飲んだくれの肉欲集団である。彼らは快感に浸りて己を忘れ、汚れたる肉体の官能を飽くことなく刺戟し、堕落者、不道徳者と交わり、挙句には、いま一度肉体的快楽を求めてうろつきまわる邪霊・悪霊の餌食となって行く。われらの目にとりて、こうした邪心と不純の巣窟ほど恐ろしきものはない。この上なく卑しく、この上なく恐ろしき堕落の巣窟である。言うなれば、人類の文明の汚点であり、知性の恥辱である。


――いま一度肉体的快楽を求めるとはどういう意味ですか。


こうした地縛の霊たちは、地上時代の肉体的欲望と性向とを多分に残している。それを直接感識する器官はすでにないが、欲求だけは消えぬ。飲んだくれは相変わらず酒と性の味が忘れられぬ。否、むしろ一段と強く求める。いくら耽っても満足を得ることができぬためである。魂の中に欲望の炎が燃えさかる。その欲望に駆られて、かつての通いつめた悪徳の巣窟へと引きつけられ、そこで快楽に耽る人間に取り憑き、その者の堕落を一層深めていく。かくして再び地上生活を味わい、同時にその人間が深みにはまり行くのを見て、悪魔の如く、してやったりと、ほくそえむ。悪徳が引きつがれ、罪悪と悲しみを産み続ける。魂を奪われたその哀れなる者は目に見えぬ悪の使者に駆りたてられ、泥沼に深く深く沈んで行く。家では妻と子が飢えと悲しみに言葉もなく打ち暮れている。そのまわりを、打つべき手を全て失いたる守護霊(1)が、為すすべもなく徘徊する。

こうした例を持ち出すのは、地縛霊が酒色に耽る人間を虜(とりこ)にして、今一度地上的快楽を味わっている現実を知らしめんがためである。一度酒色に溺れし者の更生が困難であるのは、かくの如くに悪徳の悪循環が行われているためである。その悪循環を断ち切る方法は人類全体の道徳的意識の高揚と物的生活の向上に俟(ま)つほかはない。それにはまず、より垢(あか)抜けした真実の霊的知識の普及が必要である。つまり幅広き真の意味での高等教育が要請されるのである。


――そうすることによって、いま例を挙げられたような憑依が防げるということですか。


さよう。最後には防げる。人間の側より餌を撒くが如き愚を続ける現状が維持されるかぎりは、それ以外には方法はあるまい。


――幼くして死んだ子供は一気に高い世界へ行くのでしょうか。


そういうことは有り得ぬ。地上生活ならではの体験は決して免除されることはない。確かに、汚れを知らぬという利点のおかげで“浄化のための境涯”は速やかに通過できよう。が、体験と知識の不足は、それを補い鍛練することを仕事とする霊による指導を仰がねばならぬ。故に、地上生活を中途で打ち切られることは、このままでは魂の成長を遅らせ損失を招くのみと見なされた場合を唯一の例外として、決して得にはならぬ。与えられし宿命に甘んじ、己の成長と同胞の福祉のために精を出し、神を崇め、神に奉仕し、背後霊の指導に素直に従う者こそ、地上生活を最大限に活用した者と言えよう。そうした地上生活を送れる人間たちは改めて学び直すものはなく、従って霊界での向上も速やかである。魂の向上を妨げるのは、あらゆる種類の自惚(うぬぼ)れと利己心、無精と怠慢、そしてわがままである。公然たる罪悪と悪徳、それに偏見から真理の受け入れを拒否する頑迷固陋(ころう)の態度――こうしたものは言うに及ばぬ。魂の肥やしは愛と知識である。子供には愛はあるかも知れぬ。が、知識は教育されぬかぎり身につくものではない。これは、霊媒の背後霊の一人となりて生活を共にすることによりて獲得されることがよくある。が、夭折する子の中には、もしもそのまま地上生活を続けていれば、徒に悪徳と苦しみにさらされたであろうと見なされた子が少なくない。そうした子は知識の上での損失を純粋性で補ったと言える。が、不利な環境の中で闘い、そして克服した者の方が遥かに気高い。試練によって一段と清められたるが故に、そうした魂のために用意された境涯へと進むことを得る。地上的体験は貴重なのである。その体験を得んとして大勢の霊が地上に戻り、霊媒の背後霊となりて己に必要な体験を積まんとしている。それは、ある者にとりては情愛の開発であり、ある者にとりては苦しみと悲しみの体験であり、またある者にとりては知性の開発であり、感情の抑制つまり心の平静の涵養であったりする。かくの如く、地上に戻り来る霊には、われらの如き特殊な使命を帯びたる者を除いては、それ自身にとりて必要な何らかの目的がある。つまり、われら並びにそなたたちとの接触を通じて向上進化を遂げんとしているのである。それは魂の自然の欲求なのである。より高き向上! より多くの知識! より深き愛! かくして不純物が一掃され、神に向いて高く、より高く向上して行くのである。


――地上に戻ることだけが進歩のための唯一の手段ではないでしょう。


無論である。しかもそれが普通一般のことでもない。われらの世界には数多くの教育施設が用意されている。また、一度失敗した方法は二度と採用せぬ。


〔このあと霊の住居と仕事について通信が続いたが、私には今一つ理解がいかないので、筆記者は自分の境涯以外のこと、というよりもむしろ、その上の界の事情にも通じているのかどうか、また、地上よりもっと低い境涯への誕生もあるのかどうかを尋ねてみた。すると、霊にも霊界の全てに通暁する能力はないこと、また魂が向上発達し完成されていく、いわゆる“試練”もしくは“浄化”の環境と、そのあとに来るいわゆる超越界――いったん突入したら(よくよく特殊な場合を除いて)二度と戻ることのない“無”の世界――との間には大きな懸隔があるということだった。そしてこう綴られた。〕


七つの試練界の最高界から超越界の最低界への突入は人間の死にも似ていよう。が、その超越界につきてはわれらも殆ど聞かされていない。ただ、われらがこうしてそなたを見守っている如く、その世界の至聖なる霊もわれらを援助し導いて下さっていることは承知している。が、それ以外の客観的な事実については何も知らぬ。判っているのはその世界の霊はいよいよ神的属性が完成に近づき、宇宙の根源に通じ、神を身近に拝むことを得るらしいということのみである。われらとてまだまだその至福の境涯からは程遠い。まだまだ為さねばならぬことがある。その遂行の中に喜びを見出しているところである。霊といえども己の得た経験と知識に基いて語っていることを承知しておく必要があろう。奥深き問題についても、それまで知り得たかぎりの知識の範囲で解答を出す。故に真実から外れたことを述べることも有り得るわけであるから、そうした霊を咎めてはならぬ。霊の世界についてわれらが間違いなく言えることは、そなたらの住む地球が七つの下層界のうちの最高界であり、その上に七つの活動の世界があり、さらにそのあとに七つの超越的瞑想界が存在するということである。(2)但しその七つの各界には数多くの“境涯”が存在する。自ら堕落の道を選べる者が遂に後戻りの出来ぬ境涯まで落ち込んで行く理由については、すでに少しばかり述べた。絶え間なく悪を求め、善を拒絶していくことは必然的に純粋なるもの善なるものへの嫌悪感を育(はぐく)み、邪悪なるものを求めさせることになる。こうした性癖の霊は、普通、獣欲に支配された肉体に宿ることが多い。成長とともに獣欲の誘惑に負け、挙句の果てにその奴隷となる。高尚なるものへの憧憬も、神への崇拝心も、聖なるものへの望みもすべて消え失せ、霊に代わりて肉体が完全に支配し、己の思うがままに行動し、道徳的規範も知的判断力も持ち合わせぬ。かくして魂は邪臭ふんぷんたる雰囲気に包まれていく。ここに至る者は危険この上なき状態にあると言わねばならぬ。もはや背後霊は恐怖におののきてその場を逃れる。その雰囲気に息が詰まるのである。すると代わって別の霊たちが群がり寄る。かつて地上で同じ悪癖に身を亡ぼした者たちである。彼らは今一度官能の快楽を味わい、その人間を罪深き生活へと追い込んでは快哉を叫ぶ。こうした肉体的罪悪を再び繰り返さんとする性向は自然の法則(おきて)を意識的に犯せる報いの中でも取りわけ恐ろしきものの一つである。彼は遂に肉体的快楽の味の虜になり果ててしまった。そして見よ! その肉体が滅んでも彼は相変わらずかつての快楽を求めて、行きつけの店をうろつきまわる。そうして、そこに屯(たむろ)する同類の飲んだくれに憑依して再び酒色に耽る。都会に軒を連ねる酒場、哀れなる道楽者の屯する悪徳の巣窟にはかつて地上で同じように酒色と悪徳に耽りたる霊がうろつきまわる。彼らは地上で飲んだくれの生活を送った。それを今また繰り返し、あまつさえ、そこに通いつめる人間を深みに引きずり込んでは、してやったりとほくそえむ。そなたがもしその邪霊の群がる場を一目見れば、悪のはびこる謎の一端を知ることが出来るであろう。悪の道にはまりし人間の再起を困難にし、地獄への堕落を容易にし、光明への帰還を妨げるのは、実にこれら邪霊なのである。地獄への坂道には狂えるが如き勢いで破滅への道を急ぐ邪霊がそこかしこに屯する。その一人一人が邪霊集団の拠点であり、人間を次々に破滅へ追いやっては、彼らと同じ惨めな境遇にまで引きずり下ろすことに快感を味わっているのである。引きずり下ろされた者は肉体から離れるとすぐさま地上よりさらに下層の同種の境涯に引き寄せられて行く。そして誘惑者と暮らしつつ、肉体を失いし後もなお消えやらぬ激しき情念と酒色に耽るのである。

こうした境涯の霊たちの更生は、神の救済団による必死の働きかけにより、魂の奥に善への欲求が芽生えるのを待つほかはない。首尾よくその欲求の芽生えた時が更生への第一歩である。その時より神聖にして気高き波長に感応するようになり、救済団による手厚き看護を受けることになる。地上にも自らを犠牲にして悪徳の世界に飛び込み、数多くの堕落者を見事に更生せしめている気高き人物がいる如く、われらの世界にもそうした奈落の底に沈める霊の救済に身を投じる霊がいる。そうした霊の努力によりて善に目覚め、堕落の生活より救済され、浄化の境涯における長く辛き試練を経てついに悪の影響と断絶し、清らかにして善なる霊の保護のもとに置かれた霊は決して少なくない。かくして聖なるものへの欲求が鼓舞され、霊性が純化されていく。それより更に深く沈みたる境涯についてはわれらも多くを知らぬ。漠然と知りたるところによれば、悪徳の種類と程度によって、さまざまな区別がなされている。中には善なるものへの欲求を全て失い、不純と悪徳に浸りきり、奈落の底へと深く深く沈んで行く者がいる。そして遂には意識的自我を失い、事実上、個的存在が消滅していく。少なくともわれらはそう信ずる。

ああ、なんと悲しきことであることか! が、有難きことに、こうした霊は稀にしか存在せず、よくよくの事情にて善と聖へ背を向けた者に限られる。これがイエスが弟子たちに語れる“死に到る罪”である。聖書に言う“聖霊に対する罪”(3)である。すなわち聖なる神の使徒の声に背を向け、聖と純と愛の生活を棄てて悪徳と不純の生活を選びし罪である。動物性が霊性を駆逐し、身体までも蝕(むしば)み、情欲を刺激し、最も下賤なる感情をさらに汚し、人間性を最下等の獣性にまで引き降ろしてしまう罪である。そこまで至れる者はもはや神性は消え失せ、野獣性が異常に助長され、強化され、発達し、すべてを支配し、霊の光を消してしまい、向上心の息の根を止める。悪徳の念のみが燃えさかり、魂を向上の道から遠くへ遠くへと引きずり下ろし、ついに動物性を病的なものにする。もはや霊の声も届かぬ。魂は一路奈落の底へ深く深く沈み行き、ついに底知れぬ暗闇の中へ消滅する。

これぞ聖書に言うところの、聖霊を汚す“赦し難き罪”(4)である。赦し難きとは神が赦さぬというのではない。自らその道を選びたるが故である。その道が性分に合い、いささかの悔い改めの念も感じぬためである。

罰は常に罪そのものが生み出す。それが罰の本質であり、決して第三者によりて割り当てられるものではない。法を犯したことによる不可避の結果なのである。その罰より完全に免れることは絶対に出来ぬ。もっとも、悔い改めによりてその苦しみが和らぐことは有り、その結果として罪悪への嫌悪感と善への志向を培(つちか)うことにもなる。これが、誤れる方向より戻し、過ちを償わせ、その結果として魂に新たなる希望を育んで行く、その第一歩と言えよう。彼を包む霊的雰囲気はすっかり変わり、天使も気持よく近づき、援助の手を差し伸べることも出来る。悪の影響より完全に隔離される。やがて悔恨と無念の情が湧いてくる。性格は優しく温順となり、善の影響に感じ易くなる。かつての頑(かたくな)で冷酷で反発的態度は消え失せ、魂が進化しはじめる。過去の罪の償いも終わり、良心の苛責もすっかり和らいでいる。こうした過程はいつの時代にも同じである。

さきに地上の法の違反者の取り扱いの愚かさを指摘したのは、こうした観点に基づいてのことであった。万一われらが同じ要領で過ちを犯せる霊を扱ったならば、真の救済は有り得ず、堕落霊の境涯はすっかり身を滅ぼせる霊でひしめき合うことであろう。が、神はそうはさせぬ。そうしてわれらはその神の命を受けし者なのである。


〔注〕

(1)


GuardianまたはGuardian angel地上に生をうけた霊(人間)と同じ霊系に属する類魂の一人で、誕生時あるいはそれ以前から付き添い、他界したのちも、事実上永遠に、切っても切れない絆で結ばれている。

英語と同様、守護霊(ガーディアン)という文字に“守る”という意味があるために、とかく守護霊とは何ごとにつけて守ってくれる霊とばかり想像されがちであるが、本来の使命は本人の地上での使命の達成と罪障消滅すなわち因果律を成就させることであって、それを挫折させまたは阻止せんとする勢力から守ってくれることはあっても、ぜひとも体験せざるを得ない不幸や病気等の“魂の試練”まで免除してくれることはしない。

ただ、各家庭によって躾の仕方が異なるように、守護霊によって考え方や方針が異なる。従って守護霊とはこういう働きかけをするもの、と一概に論ずることはできない。


(2)


死後の世界の分類の仕方は、視点の置きどころによって諸説がある。したがって他の説と数字だけで比較するのは適当でない。


(3)


マタイ 12-31~32


(4)


同右

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze



  二章  死は第二の人生の始まり


 一寸先は闇の世の中といわれる人生において、一つだけ確実に予言できることがある。みんな〝いつかは死ぬ〟ということである。若くして死ぬ人がいる───往々にして悲劇的環境の中で・・・・・・長寿番付に名を連ねて、大往生を遂げる人もいる。が、おそかれ早かれ、みんないつかは死ぬのである。

 死について、また死後の生命について、いくら明るく健全な知識を手にした人でも、やはり身近な人の死は辛く悲しい体験であることには間違いない。ある日の交霊会でシルバーバーチは、こう述べた。

 「私の説く真理を極めてあたり前のことと受け取る方がいらっしゃるでしょう。すでにたびたびお聞きになっておられる方はそうでしょう。が、驚天動地のこととして受け止める方もいらっしゃるでしょう。所詮、さまざまな発達段階にある人類を相手にしていることですから、それは当然のことでしょう。

 私の述べることがどうしても納得できない方がいらっしゃるでしょう。頭から否定なさる方もいらっしゃるでしょう。あなた方西洋人から野蛮人とみなされている人種の言っていることだということで一蹴される方もいらっしゃるでしょう。しかし、真理は真理であるがゆえに真理であり続けます。

 あなた方にとって当たり前となってしまったことが、人類史上最大の革命的事実に思える人がいることを忘れてはなりません。人間は霊的な存在であり、神の分霊であり、永遠に神とつながっている───私たち霊団が携えてくるメッセージは、いつもこれだけの単純な事実です。

神とのつながりは絶対に切れることはありません。時には強められ、時には弱められたりすることはあっても、決して断絶してしまうことはありません。

 人間は向上もすれば堕落もします。神のごとき人間になることもできれば、動物的人間になることもできます。自由意志を破壊的なことに使用することもできますし、建設的なことに使用することもできます。しかし、何をしようと、人間は永遠に神の分霊であり、神は永遠に人間に宿っております。

 こうした真理は、教会で朗唱するためにあるのではありません。日常生活において体現していかなくてはなりません。飢餓、失業、病気、貧民街(スラム)といった、内部に宿る神性を侮辱するような文明の恥辱を無くすることにつながらなくてはいけません。
℘41
 私たちのメッセージは全人類を念頭においております。いかなる進化の段階にあろうと、そのメッセージには、人間の全てが手に取り、理解し、そして吸収すべきものを十分に用意してあります。

 人類が階段の一つに足を置きます。すると私たちは、次の階段でお待ちしています。人類がその段まで上がってくると、また次の段でお待ちします。こうして一段又一段と宿命の成就へ向けて登っていくのです」

 
 別の交霊会で肉親を失って、その悲しみに必死に耐えている人に対して、シルバーバーチがこう述べた。

 「あなたの、霊の世界を見る目が遮られているのが残念です。霊の声を聞く耳が塞がれているのが残念です。その肉体の壁を越えてご覧になれないのが残念です。今生きておられる世界が影であり実在でないことを悟っていただけないのが残念です。

あなたの背後にあって絶え間なく世話を焼いている霊の働きをご覧に入れられないのが残念でなりません。数々の霊───あなたのご存じの方もいれば、人類愛から手を指しのべている見ず知らずの人もいます───が、あなたの身のまわりに存在していることが分かっていただけたなら、どんなにか慰められるでしょうに・・・・・・。地上は影の世界です。実在ではないのです。

 私たちの仕事は、こうした霊媒を通してのものばかりではありません。もちろん、人間世界特有の (言語によって意思を伝える) 手段によって私たちの実在を知っていただけることを有り難く思っておりますが、実際には、皆さんの目に見えず耳に聞こえずとも、みなさんの現実の世界に影響を及ぼし、導き、鼓舞し、指示を与え、正しい選択をさせながら、みなさんの性格を伸ばし、魂を開発しております。

そうした中でこそ死後の生活に備えて、霊的な成長に必要なものを摂取できる生き方へと誘うことができるのです」



 ある年の復活祭(イースター)の季節にシルバーバーチは〝死〟を一年の四季の巡りになぞらえて、こう語った。

 「四季の絶妙な変化、途切れることのない永遠の巡りに思いを馳せて御覧なさい。すべての生命が眠る冬、その生命が目覚める春、生命の世界が美を競い合う夏、そして又、次の春までの眠りに備えて大自然が声をひそめはじめる秋。

 地上は今まさに大自然の見事な顕現───春・イースター・蘇り───季節を迎えようとしております。新しい生命、それまで地下の暗がりで安らぎと静けさを得てひっそりと身を横たえていた生命が、いっせいに地上へ顕現する時期です。

間もなくあなた方の目にも樹液の活動が感じられるようになり、やがてつぼみが、若葉がそして花が目に入るようになります。地上全体の新しい生命の大合唱が響きわたります。
℘44
 こうしたことから、皆さんに、太古においては宗教というものが大自然の動きそのものを儀式の基本としていたことを知っていただきたいのです。

彼らは移り行く大自然のドラマの星辰の動きの中に神々の生活、自分たちを見つめている目に見えない力の存在を感じ取りました。自分たちの生命を支配する法則に畏敬の念を抱き、春を生命の誕生の季節として、最も大切に考えました。

 同じサイクルが人間一人一人の生命において繰り返されております。大自然の壮観と同じものが一人一人の魂において展開しているのです。

 まず意識の目覚めと共に春が訪れます。続いて生命力が最高に発揮される夏となります。やがてその力が衰え始める秋となり、そして疲れ果てた魂に冬の休眠の時が訪れます。が、それですべてが終わりとなるのではありません。

それは物的生命の終わりです。冬が終わると、その魂は次の世界において春を迎え、かくして永遠のサイクルを続けるのです。

 この教訓を大自然から学びとってください。そして、これまで自分を見捨てることのなかった摂理は、これ以降も自分を、そして他のすべての生命を見捨てることなく働き続けてくれることを確信して下さい」


 スピリチュアリズムの普及に活躍していた同志が他界したとの報に接して、シルバーバーチはこう語った。

 「大収穫者である神は、十分な実りを達成した者を次々と穫り入れ、死後に辿る道をより明るく飾ることをなさいます。

 肉眼の視野から消えると、あなた方は悲しみの涙を流されますが、私たちの世界では、また一人、物質の束縛から解放されて、言葉では言い表せない生命のよろこびを味わい始める魂を迎えて、うれし涙を流します。

私はつねづね〝死〟は自由をもたらすものであること、人間の世界では哀悼の意を表していても、本人は新しい自由、新しいよろこび、そして地上で発揮できずに終わった内部の霊性を発揮するチャンスに満ちた世界での生活が始まったことを知って、よろこんでいることを説いております。
℘46
 ここにおいでの方は、他界した者は決してこの宇宙からいなくなったわけではないとの知識を獲得された幸せな方たちですが、それに加えてもう一つ知っていただきたいのは、こちらへ来て霊力が強化されると、必ず地上のことを思いやり、こうして真理普及のために奮戦している私たちの仕事に協力してくれているということです。

 その闘いは地上の至る所で、日夜続けられております───霊の勢力と、醜い物的利己主義の勢力との戦いです。たとえ一時は後退のやむなきに至り、一見すると霊の勢力が敗北したかに思えても、背後に控える強大な組織のお陰で勝利は必ず我がものとなることを確信して、その勝利へ向けて前進しつづけます。

 いずれあなた方も、その戦いにおいて果たされたご自分の役割、すなわち大勢の人々に慰めと知識を与えてあげている事実を知って、大いなる喜びに浸ることになりましょう。

今は、それがお分かりにならない。私たちと共に推進してきた仕事によって、生きるよろこびを得た人が世界各地に無数にいることを、今はご存じありません。

 実はあなた方も、こうした霊的真理の普及に大切な役割を果たしておられるのです。その知識は、なるほどと得心がいき、心の傷と精神の煩悶と魂の憧憬のすべてに応えてくれる真実を求めている、飢えた魂にとって何ものにも替え難い宝となっております。
℘47
 太古の人間が天を仰いで福音を祈り求めたように、古びた決まり文句にうんざりしている現代の人間は、新しいしるしを求めて天を仰いできました。

そこで私たちが、あなた方の協力を得て、真実の知識をお持ちしたのです。それは、正しく用いさえすれば、必ずや神の子の全てに自由を───魂の自由・精神の自由だけでなく、身体の自由までも───もたらしてくれます。

 私たちが目的としているのは、魂を解放することだけではありません。見るも気の毒な状態に置かれている身体を救ってあげることも大切です。つまり私たちの仕事には三重の目的があります。すなわち精神の解放と、魂の解放、身体の解放です。

 そのことを世間へ向けて公言すると、あなた方はきっと、取り越し苦労性の人たちから、そう何もかもうまく行くものではないでしょうという反論に遭うであろうことは、私もよく承知しております。

しかし事実、私たちの説いている真理は人生のあらゆる面に応用が利くものです。宇宙のどこを探しても、神の摂理の届かないところがないように、地上生活のどこを探しても、私たちの説く霊的真理の適用できない側面はありません。
℘48  
 挫折した人を元気づけ、弱き者、寄るべなき者に手を差し伸べ、日常の最小限の必需品にも事欠く人々に神の恩寵を分け与え、不正を無くし、不平等を改め、飢餓に苦しむ人々に食を与え、雨露をしのぐほどの家とてない人々に住居を提供するという、こうした物質界ならではの問題にあなた方が心を砕いておられる時、それは実は、私たち霊の世界からやってくる者の仕事の一部であることを知っていただきたいのです。

そうした俗世的問題から超然とさせる為に霊的真理を説いているのではありません。霊的真理を知れば知るほど、自分より恵まれない人々への思いやりの気持ちを抱く様でなければなりません。

 その真理にいかなる肩書き(ラベル)をつけようと構いません。政治的ラベル、経済的ラベル、宗教的ラベル、哲学的ラベル───どれでもお好きなものを貼られるがよろしい。が、

それ自体は何の意味もありません。大切なのは、その真理が地上から不正を駆逐し、当然受けるべきものを受けていない人々に、生得の権利を行使させてあげる上で役立たせることです」

℘49  
 そして最後に〝死〟にまつわる陰湿な古い概念の打破を説いて、こう述べた。

 「その身体があなたではありません。あなたは本来、永遠の霊的存在なのです。私たちはこうした形で週一回お会いしてわずかな時を過ごすだけですが、そのことがお互いの絆を強化し、接触を深めていく上で役立っております。

毎週毎週、あなた方の霊そのものが影響力を受けて、それが表面へ出ております、その霊妙な関係は物的身体では意識されませんが、より大きな自我は実感しております。


 また、こうしたサークル活動は、あなた方が霊的存在であって物的存在でないことを忘れさせないようにする上でも、役に立っております。人間にはこうしたものがぜひとも必要です。

なぜなら、人間は毎日、毎時間、毎分、あくせくと物的生活に必要なものを追い求めているうちに、つい、その物的なものが殻に過ぎないことを忘れてしまいがちです。それは実在ではないのです。

 鏡に映るあなたは、本当のあなたではありません。真実のあなたの外形を見ているに過ぎません、身体は人間がまとう衣服であり、物質の世界で自分を表現する為の道具にすぎません。

 その身体があなたではありません。あなたは永遠の霊的存在であり、全大宇宙を支えている生命力───全天体を創造し、潮の干満を支配し、四季の永遠の巡りを規制し、全生命の成長と進化を統制し、太陽を輝かせ、星をきらめかせている大霊の一部なのです。

 その大霊と同じ神性をあなたも宿しているという意味において、あなたも神なのです。本質において同じなのです。程度において異なるのみで、基本的には同じなのです。

それは、あらゆる物的概念を超越した存在です。全ての物的限界を超えております。あなた方が想像するいかなるものよりも偉大なる存在なる存在です。

 あなたはまさに一個の巨大な原子───無限の可能性を秘めながら、今は限りある形態で自我を表現している、原子のような存在です。身体の内部に、いつの日か、全ての束縛を押し破り、真実のあなたにとって相応しい身体を通して表現せずにはいられない力を宿しておられるのです。

そうなることをあなた方は〝死〟と呼び、そうなった人のことを悼み悲しんで涙を流されます。それは、相も変わらず肉体がその人であるという考えが存在し、死が愛する人を奪い去ったと思いこんでいる証拠です。

 しかし、死は生命に対して何の力も及ぼしません。死は生命に対して何の手出しもできません。死は生命を滅ぼすことはできません。物的なものは、所詮、霊的なものには敵わないのです。

もしあなたが霊眼を持って眺めることができたら、もし霊耳を持って聞くことができたら、もしも肉体の奥にある魂が霊界の霊妙なバイブレーションを感じ取ることができたら、その時こそ、肉体という牢獄からの解放をよろこんでいる、自由で、意気揚々として、うれしさいっぱいの、蘇った霊をご覧になることができるでしょう。


 その自由を満喫している霊のことを悲しんではいけません。毛虫が美しい蝶になったことを嘆いてはいけません。カゴの鳥が空に放たれたことに涙してはいけません。よろこんであげるべきです。

そして、その魂が真の自由を見出したことで、いま地上にいるあなた方も神より授かった魂の潜在能力を開発すれば、同じ自由、同じ喜びを味わうことができることを知って下さい。

 これで死の意味がお分かりになるはずです。そして、死とは飛び石の一つ、ないしは大きな自由を味わえる霊の世界への関門に過ぎないことを得心なさるはずです。

 他界してその自由を味わったのちに開発される霊力を、今ここであなた方に身を持って実感していただけないことを、私は実に残念に思います。しかし、あなた方には知識があります。それをご一緒に広めているところです。それによってきっと地上に光をもたらし、暗闇をなくすことができます。

 人間はもう、何世紀にもわたって迷わされ続けてきた古い教義は信じません。教会の権威は失墜の一途をたどっております。霊的真理の受け入れを拒んできた報いとして、霊力を失いつつあるのです」


Monday, February 23, 2026

霊訓 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


2節

本節の内容真の博愛主義者
真の哲学者
永遠の生命

善と悪との葛藤
戦死霊、自殺霊、死刑霊の影響
犯罪人の扱い方の問題点
集団収容と絞首刑の弊害
更生を目的とした処罰
死刑は復讐心を増幅させる
神の認識の誤り
慈悲と愛
新しい霊的福音の必要性


〔本章の通信も前章と同様インペレーターからのものである。地上という人格養成学校における最も望ましい生活はいかなる生活かという質問から始まった。インペレーターは頭脳と同様に心の大切さを強調し、身体と知性と愛情の調和の取れた発育が望ましいことを説いた。要するにバランスの欠如が進歩を妨げる大きな要因であると言う。そこで私は博愛主義者が理想的人間像なのかと尋ねた。すると――〕


真実の博愛主義者、全てに先んじて同胞の利益と進歩を慮(おもんぱか)る人こそ真実の人間、真の神の子である。なぜなら神こそ真の博愛主義者だからである。真の博愛主義者とは時々刻々と神に近づきつゝある者のことである。絶え間なき努力によりて永遠にして不滅の同情心を広げつつ、その不断の同情心の行使の中に、汲めども尽きぬ幸福感を味わう。博愛主義者と哲学者、すなわち人類愛に燃える人間と偏見なき道理探求者こそ神の宝――比類なき価値と将来性に満ちた珠玉である。前者は民族の違い、土地の違い、教義の違い、名称の違い等の制約に捉われることなく、一視同仁、全人類を同胞としてその温かき心の中に抱き込む。全ての人間を、友としてまた兄弟として愛するのである。思想の如何を問わず、ひたすらにその者の必要とするものを洞察し、それに相応(ふさわ)しい進歩的知識を授けることに無上の喜びを覚える。これぞ真の博愛主義者である。もっとも、しばしば似て非なる博愛主義者がいる。己の名声を広めんがために己に同調する者、それに媚(こ)びへつらい施しをする者のみを愛する。かくの如き似非(えせ)博愛主義者はその真実の印である“博愛”を傷つける者である。

一方哲学者は一切の宗教、いかなる教派のドグマにも媚びず、一切の偏見を捨て、いかなる真理でも、いやしくも証明されたものは潔(いさぎよ)く受け入れる。即ち、かくあるべき――従ってかくあらねばならぬという固定観念に捉われることなく、神的叡智の探求に邁進し、そこに幸せを見出す。彼には宝庫の尽きることを懸念する必要はない。何となれば神の真理は無限だからである。生命の旅を通じてひたすらに、より豊かな知識の宝の蒐集に喜びを見出す。言い換えれば神についてのより正しき知識の蒐集である。

この二者の結合、すなわち博愛主義者的要素と哲学者的要素とが一体となりし時、そこに完璧なる理想像ができあがる。両者を兼ね備えし魂は片方のみを有する魂より大いなる進歩を遂げる。


――“生命の旅”と言われましたが、これは永遠ですか。


然り。生命は永遠である。そう信ずるに足る十分なる証(あかし)がある。生命の旅には二つの段階がある。即ち進歩的“動”の世界と超越的“静”の世界である。今なお“動”の世界にあり(そなたらの用語で言えば)幾十億年――限りある知性の範囲を超えて事実上無限の彼方までも進化の道程を歩まんとするわれらとて、超越界については何一つ知らぬ。が、われらは信ずる――その果てしなき未来永劫の彼方に、いつかは魂の旅に終止符をうつ時がある。そこは全知全能なる神の座。過去の全てを捨て去り、神の光を浴びつつ宇宙の一切の秘密の中に寂滅(じゃくめつ)する、と。が、それ以上は何一つ語れぬ。あまりに高く、あまりに遠すぎるのである。そなたたちはそこまで背伸びすることはない。生命には事実上終末はなきものと心得るがよい。そしてその無限の彼方の奥の院のことよりも、その奥の院に通じる遥か手前の門に近づくことを心がけておればよい。


――無論そうであろうと思います。あなたご自身は地上に居られた時より神について多くを知ることを得ましたか。


神の愛の働き、無限なる宇宙を支配し導く暖かきエネルギーの作用についてはより多くを知ることを得た。つまり神については知ることを得た。が、神そのものを直接には知り得ぬ。これより後も、かの超越界に入るまでは知り得ぬであろう。われらにとっても神はその働きにより知り得るのみである。


〔ひき続いての対話の中で私は再び善と悪との闘いに言及した。それに対して、と言うよりは、その時の私の脳裏にわだかまっていた疑問に対して、長々と返答が書かれた。そして、これから地上に霊的な嵐が吹きすさび、それが十年ないし十二年続いて再び一時的な凪(なぎ)が訪れると語った。予言めいたことを述べたのはこれが最初である。次に掲げるのは、内容的にはその後も繰り返し語られたことであるが、その時に綴られたまゝを紹介しておく。〕


そなたが耳にせるものは、これよりのちも続く永くかつ厳しい闘いのささやき程度に過ぎぬ。善と悪との闘いは時を隔てて繰り返し起きるものである。霊眼をもって世界の歴史を読めば、善と悪、正と邪の闘いが常に繰り返されて来たことを知るであろう。時には未熟なる霊が圧倒的支配を勝ち得た時期があった。ことに大戦のあとにそれがよく見られる。機の熟せざるうちに肉体より離れた戦死者の霊が大挙して霊界へ送り込まれるためである。彼らは未だ霊界への備えができておらぬ。しかも戦いの中で死せる霊の常として、その最期の瞬間の心は憤怒に燃え、血に飢え、邪念に包まれている。死せるのちもなお、その雰囲気の中にて悪のかぎりを尽くす。

霊にとりて、その宿れる肉体より無理やりに離され、怒りと復讐心に燃えたまま霊界へ送られることほど危険なるものはない。いかなる霊にとりても、急激にそして不自然に肉体より切り離されることは感心せぬ。われらが死刑を愚かにして野蛮なる行為であるとする理由もそこにある。死後の存続と進化についての無知が未開人のそれに等しいが故に野蛮であり、未熟なる霊を怨念に燃えさせたまま肉体より離れさせさらに大きな悪行に駆り立てる結果となっているが故に愚かと言うのである。そなたらはみずから定めた道徳的並びに社会的法律に違反せる者の取り扱いにおいてあまりに盲目的であり無知である。幼稚にして低俗なる魂が道徳を犯す。あるいは律法を犯す。するとそなたらはすぐにその悪行の道を封じる手段に出る。本来ならばその者を悪の力の影響から切り離し、罪悪との交わりを断ち切らせ、聖純なる霊力の影響下に置くことによって徐々に徳育を施すべきところを、人間はすぐに彼らを牢獄に閉じ込める。そこには彼と同じ違反者が群がり、陰湿なる邪念に燃えている。それのみか、霊界の未熟なる邪霊までもそこにたむろし、双方の邪念と怨恨とによって、まさに巣窟と化している。

何たる無分別! 何たる近視眼! 何たる愚行! その巣窟にわれらが入ろうにも到底入ることを得ぬ。神の使者はただ茫然として立ちすくむのみである。そうして、人間の無知と愚行の産物たる悪の集団(人間と霊の)を目(ま)のあたりにして悲しみの涙を流す。そなたらが犯す罪の心は所詮癒せぬものと諦めるのも不思議ではない。何となればそなたら自らが罪の道に堕ちる者を手ぐすね引いて待ちうける悪霊にまざまざと利用されているからである。いかに多くの人間が自ら求めて、あるいは無知から、悪霊の虜(とりこ)にされ、冷酷なる心のまま牢獄より霊界へ送り込まれているか、そなたらは知らぬし、知り得ぬことでもあろう。が、もしも人間が右の如き事実を考慮して事に臨めば、必ずや功を奏し、道を踏みはずせる霊、悪徳の世界に身を沈めし霊に計り知れぬ救いを授けることになろう。

罪人は訓え導いてやらねばならぬ。罰するのはよい。われらの世界でも処罰はする。が、それは犯せる罪がいかに己自身を汚し、いかに進歩を遅らせているかを悟らせるための一種の見せしめであらねばならぬ。神の摂理に忠実に生きる者たちの中に彼らを置き、罪を償い、真理の泉にて魂を潤すことを体験させてやらねばならぬ。そこには神の使者が大挙して訪れ、その努力を援助し、暖かき霊波を注ぎ込んでくれることであろう。然るにそなたらは罪人を寄せ集め、手を施す術(すべ)なき者として牢に閉じ込めてしまう。その後、さらに意地悪く、残酷に、そして愚か極まる方法にて処罰する。かくの如き扱いを受けし者は、刑期を終えて社会に復したのちも繰り返し罪を犯す。そしてついに最後の、そして最も愚かなる手段に訴えるべき罪人の名簿に書き加えられる。即ち死刑囚とされ、やがて斬首される。心は汚れ果て、堕落しきり、肉欲のみの、しかも無知なる彼らは、その瞬間、怒りと憎悪と復讐心に燃えて霊界へ来る。それまでは肉体という足枷(あしかせ)があった。が、今その足枷から放たれた彼らは、その燃えさかる悪魔の如き邪念に駆られて暴れまわるのである。

人間は何も知らぬ! 何も知らぬ! 己の為すことがいかに愚かであるか一向に知らぬ。己こそ最大の敵であることを知らぬ。神とわれらと、そしてわれらに協力せる人間を邪魔せんとする敵を利することになっていることを知らぬ。

知らぬと同様に、愚かさの極みである。邪霊がほくそえむようなことに、あたら努力を傾けている。凶悪人から身体的生命を奪う。単なる過ちを犯したに過ぎぬ者に復讐的刑罰を与える。厚顔にも、法の名のもとに流血の権利を勝手に正当化している。断じて間違いである。しかも、かくして傷つけられし霊が霊界より復讐に出ることをそなたらは知らぬ。神の優しさと慈悲――堕落せる霊を罪悪と憤怒の谷間より救い出し、聖純と善性の進歩の道へ導かんとして、われら使者を通じて発揮される神の根本的原理の働きを知らねばならぬ。右の如き行為を続けるのは神の存在を皆目知らぬが故である。そなたらは己の本能的感覚をもって神を想像した。すなわち、いずこやら判らぬ高き所より人間を座視し、己の権威と名誉を守ることにのみ汲々とし、己の創造物については、己に媚び己への信仰を告白せる者のみを天国へ召して、その他に対しては容赦も寛恕もなき永遠の刑罰を科してほくそえむ、悪魔の如き神をでっち上げた。そうした神を勝手に想像しながら、さらにその神の口を通じて、真実の神には身に覚えもなき言葉を吐かせ、暖かき神の御心には到底そぐわぬ律法を定めた。

何たる見下げ果てたる神! 一時の出来心から罪を犯せる無知なるわが子に無慈悲なる刑を科して喜ぶとは! 作り話にしてもあまりにお粗末。お粗末にして愚かなる空想であり、人間の残忍性と無知と未熟なる心の産物に過ぎぬ。そのような神は存在せぬ! 絶対に存在せぬ! われらには到底想像の及ばぬ神であり、人間の愚劣なる心の中以外のいずこにも存在せぬ。

父なる神よ! 願わくは無明(むみょう)の迷える子らに御身を啓示し、御身を知らしめ給え。子らが御身につきて悪夢を見ているに過ぎぬこと、御身につきて何一つ知らぬこと、御身につきてのこれまでの愚かなる概念を拭い去らぬかぎり真の御姿を知り得ぬことを悟らしめ給え。

然り。友よ、そなたらが設けたる牢獄、法的殺人、その他、罪人の扱い方の全てにおいて、その趣旨がことごとく誤りと無知の上に成り立っている。

戦争および大量虐殺に至っては尚のこと恐ろしきことである。本来同胞として手を繋ぎ合うべき霊たち――われらは身体にはかまわぬ。一時的に物的原子をまとえる“霊”こそわれらの関心事である――その霊たちの利害の対立をそなたらは戦闘的手段によりて処理せんとする。血に飢えし霊たちは怨念と憤怒を抱きつつ肉体より引き裂かれ、霊界へと送り込まれる。肉体なき霊たちは燃えさかる激情にさらに油を注がれたる如き激しさをもって地上界を席巻し、残虐と肉欲と罪悪に狂う人間の心を一層駆り立てる。然るにその拠(よ)って来るそもそもの原因は単なる野心の満足、一時のきまぐれ、あるいは王たる資格に欠ける王子の愚かなる野望に類するものであったりする。

ああ、友よ、人間は何も知らぬ。まだまだ知らねばならぬことばかりである。しかもそれを、これまで犯せる過ちを償うため、苦くかつ辛き体験を通じて知らねばならぬ。人間は何よりもまず、愛と慈悲こそ報復的処罰に勝(まさ)る叡智なることを知らねばならぬ。かりにもし神がそなたたちが想像せる如く、人間が同胞を処罰する如くに人間を扱うとすれば、そなたたち自らも間違いなくそなたらの想像せる地獄へ堕ちねばならぬ。神につきて、われら神の使者につきて、そして自身(みずから)につきて、そなたたちはまだまだ知らねばならぬ。それを知った時はじめて真の進歩が始まり、邪霊を利する行為でなく、われら神の使者の使命達成のために協力することになろう。

友よ、もしもわれのメッセージの有用性と利益につきて問う者があれば、それは無慈悲と残虐と怨念の産物に代わりて、優しさと慈悲と愛の神を啓示する福音であると告げよ。神ヘの崇敬の念と共に、愛と慈悲と憐憫(れんびん)の情をもって全生命を人間のために尽くさんとする霊的存在につきて知らしめんがためであると告げよ。人間が己の過ちを悟り、神学的教義の他愛なさに目覚め、知性を如何にして己の進歩のために使用するかを学び、与えられたる好機を己の霊性の向上のために活用し、死してのち同胞と再会せる時に、地上での言動を非難されることのなきよう、常に同胞のために生きることを教えるものであることを告げよ。これこそがわれらの使命であることをその者たちに告げるがよい。これを聞いてもし彼らが嘲笑し、己のお気に入りの説にて事足れりと自負するならば、その者たちには構わず、真理を求めてやまぬ進取的霊に目を向けるがよい。そして彼らに地上生活の改革と向上を意図せる神のメッセージを告げるがよい。そして彼ら真理に目覚めぬ者のために祈れ。死して目を覚ませる時、己の惨憺(さんたん)たる光景に絶望することのなきよう祈ってあげるがよい。

Sunday, February 22, 2026

霊訓 ステイントン・モーゼス(著)

The Spirit Teachings

序論


内容自動書記について

文体の特徴

通信霊について
通信が来る時の状況
霊媒による脚色の問題
霊媒が意志を行使できる限界
インペレーター霊の使命
著者モーゼスの意図


本書の大半を構成している通信は、自動書記(1)ないし受動書記(2)と呼ばれる方法によって得られたものである。これは直接書記(3)と区別されねばならない。前者においては霊能者がペンまたは鉛筆を手に握るか、あるいは、プランセントに手を置くと、霊能者の意識的な働きかけなしにメッセージが書かれる。一方後者においては霊能者の手を使わず、時にはペンも鉛筆も使わずに、直接的にメッセージが書き記される。

自動書記というのは、われわれが漠然と“霊(スピリット)”と呼んでいる知的存在の住む目に見えない世界からの通信を受け取る手段として、広く知られている。読者の中には、そんな得体の知れない目に見えぬ存在――人類の遺物、かつての人間の殻のような存在――を霊と呼ぶのは勿体ないとおっしゃる方がいるであろうことはよく承知している。が、私は霊という用語が一番読者に馴染みやすいと思うからそう呼ぶまでで、今その用語の是非について深く立ち入るつもりはない。とにかく、私に通信を送って来た知的存在はみな自分たちのことを霊と呼んでいる。多分それは私のほうが彼らのことを霊と呼んでいるからであろう。そして少なくとも差し当たっての私の目的にとっては、彼らは“霊(スピリット)”でいいのである。

その霊たちからのメッセージが私の手によって書かれ始めたのはちょうど十年前の一八七三年三月三十日のことで、スピリチュアリズムとの出会いからほぼ一年後のことであった。もっとも、それ以前にも霊界からの通信は(ラップ(4)や霊言(5)によって)数多く受け取っていた。私がこの自動書記による受信方法を採用したのは、このほうが便利ということと同時に、霊訓の中心となるべく意図されているものを保存しておくためでもあった。ラップによる方法はいかにもまどろこしくて、本書のような内容の通信にはまったく不適当だった。一方、入神した霊媒の口を使ってしゃべると部分的に聞き落とすことがあり、さらに当初のころはまだ霊媒自身の考えが混じらないほど完全な受容性を当てにすることは不可能でもあった。

そこで私はポケットブックを一冊用意し、それをいつも持ち歩くことにした。すると私の霊的オーラがそのノートに染み込んで、筆記がより滑らかに出てくることが判った。それは、使い慣れたテーブルのほうがラップが出やすく、霊媒自身の部屋のほうが新しい部屋より現象が起きやすいのと同じ理屈である。スレートを使った通信(6)の専門霊媒であるヘンリー・スレードも、新しいスレートを使ってうまく行かない時は、使い古したものを使うとまず失敗がなかった。今このことにこれ以上言及しない。その必要がないほど理屈は明瞭だからである。

最初の頃は文字が小さく、しかも不規則だったので、ゆっくりと丁寧に書き、手の動きに注意しながら、書かれていく文章をあとから追いかけねばならなかった。そうしないとすぐに文意が通じなくなり、結局はただの落書きのようなものになってしまうのだった。

しかし、やがてそうした配慮も必要でなくなってきた。文字はますます小さくなったが、同時に非常に規則的で字体もきれいになってきた。あたかも書き方の手本のような観のするページもあった。(各ページの最初に書いた)私の質問に対する回答にはきちんと段落をつけ、あたかも出版を意図しているかのように、きちんと整理されていた。神 God の文字はかならず大文字で、ゆっくりと、恭(うやうや)しげに綴られた。

通信の内容は常に純粋で高尚なことばかりであったが、その大部分は私自身の指導と教化を意図した私的(プライベート)な色彩を帯びていた。一八七三年に始まって八〇年まで途切れることなく続いたこの通信の中に、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言説、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類いは、私の知るかぎり一片も見当たらなかった。知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわないものはおよそ見かけられなかった。虚心坦懐に判断して、私はこの霊団の各霊が自ら主張した通りの存在であったと断言して憚らない。その言葉の一つ一つが誠実さと実直さと真剣さに満ちあふれていた。

初期の通信はさきに説明した通りの、きちんとした文字で書かれ、文体も一貫しており、署名(サイン)はいつもドクター・ザ・ティーチャー(7)だった。通信の内容も、それが書かれ続けた何年かの間ずっと変わらなかった。いつ書いても、どこで書いても筆跡に変化がなく、最後の十年間も、私自身のふだんの筆跡が変わっても、自動書記の筆跡はほとんど変わることがなかった。文章上のクセもずっと同じで、それは要するに通信全体を通じて一つの個性があったということである。その存在は私にとって立派な実在であり、一人の人物であり、大ざっぱな言い方をさせていただければ、私がふだんつき合っている普通の人間とまったく同じように、独自の特徴と個性を具えた存在であった。

そのうち別の通信が幾つか出はじめた。筆跡によっても、文体および表現の特徴によっても、それぞれの区別がついた。その特徴は、いったん定着すると等しく変わることがなかった。私はその筆跡をひと目見て誰からの通信であるかがすぐに判断できた。

そうしているうちに徐々に判ってきたことは、私の手を自分で操作できない霊が大勢いて、それらがレクター(8)と名のる霊に書いて貰っているということだった。レクターは確かに私の手を自在に使いこなし、私の身体への負担も少なかった。不慣れな霊が書くと、一貫性がない上に、私の体力の消耗が激しかった。そういう霊は自分が私のエネルギーを簡単に浪費していることに気づかず、それだけ私の疲労も大きかったわけである。

さらに、そうやって代書のような役になってしまったレクターが書いたものは流暢で読み易かったが、不慣れな霊が書いたものは読みづらい上に書体が古めかしく、しばしばいかにも書きづらそうに書くことがあり、ほとんど読めないことがあった。そういうことから、当然の結果としてレクターが代書することになった。しかし、新しい霊が現れたり、あるいは、特殊なメッセージを伝える必要が生じた時は本人が書いた。

断っておきたいのは、私を通じて得られた通信の全てが一つの源から出たものではないということである。本書に紹介した通信にかぎって言えば、同じ源から出たものばかりである。すなわち、本書はインペレーター(9)と名のる霊が私と係わり合った期間中の通信の記録である。もっともインペレーター自身は直接書くことをせず、レクターが代書している。その他の期間、とくにインペレーターとの関係が終わったあとは明らかに別の霊団から通信があり、彼らは彼らなりの書記を用意した。その通信は、その霊団との係わりが終わる最後の五年間はとくに多くなっていった。

通信の書かれた環境はそのときどきでみな異なる。原則としては、私は一人きりになる必要があり、心が受身的になるほど通信も出やすかったが、結果的にはいかなる条件下でも受け取ることができた。最初の頃は努力を要したが、そのうち霊側が機械的に操作する要領を身につけたようで、そうなってからは本書に紹介するような内容の通信が次から次へと書かれていった。本書はその見本のようなものである。

本書に紹介したものは、初めて雑誌に発表した時と同じ方法で校正が施してある。最初は心霊誌『Spiritualist』に連載され、その時は筆記した霊側が校正した。もっとも内容の本質が変えられたところはない。その連載が始まった時の私の頭には、今こうして行なっている書物としての発行のことはまったく無かった。が、多くの友人からサンプルの出版をせがまれて、私はその選択に取りかかった。が、脈絡のことは考えなかった。その時の私を支配していた考えは、私個人の私的(パーソナル)な興味しかないものだけは絶対に避けようということだけで、それは当然まだ在世中の人物に言及したものも避けることにもつながった。私個人に係わることを避けたのは、ただそうしたいという気持からで、一方、他人に言及したものを避けたのは、私にそのような権利はないと考えたからである。結果的には私にとって或る意味で最も衝撃的で感動的な通信を割愛することになってしまった。本書に発表されたものは、そうした、今は陽(ひ)の目を見ることができないが、いずれ遠い将来、その公表によって私を含めて誰一人迷惑をこうむる人のいなくなった時に公表を再考すべき厖大な量の通信の、ほんの見本にすぎないと考えていただきたい。

通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは確かに一考を要する問題である。私としてはそうした混入を防ぐために異常なほどの配慮をしたつもりである。最初の頃は筆致がゆるやかで、書かれて行く文をあとから確かめるように読んでいかねばならなかったほどであるが、それでも内容は私の考えとは違っていた。しかも、間もなくその内容が私の思想信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのである。でも私は筆記中つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を一行一行推理しながら読むことさえできたが、それでも通信の内容は一糸乱れぬ正確さで筆記されていった。

こうしたやり方で綴られた通信だけでも相当なページ数にのぼるが、驚くのはその間に一語たりとも訂正された箇所がなく、一つの文章上の誤りも見出されないことで、一貫して力強く美しい文体で綴られているのである。

だからといって、私は決して私自身の精神が使用されていないと言うつもりはないし、得られた通信が、それが通過した私という霊媒の知的資質によって形体上の影響を受けていないと言うつもりもない。私の知るかぎり、こうした通信にはどこか霊媒の特徴が見られるのが常である。影響がまったく無いということはまず考えられない。しかし、確実に言えることは、私に送られて来た通信の大部分は私の頭の中にあることとはおよそ縁のないものばかりであり、私の宗教上の信念ともその概念上において対立しており、さらに私のまったく知らないことで、明確で確実で証明可能な、しかもキメの細かい情報がもたらされたことも幾度かあったということである。テーブルラップによって多くの霊が自分の身許についての通信を送ってきて、それを後にわれわれが確認したりしたのと同じ要領で、私の自動書記によってそうした情報が繰り返し送られて来たのである。

私はその通信の一つ一つについて議論の形式で対処している。そうすることで、ある通信は私に縁もゆかりもない内容であることが明確に証明され、またある通信では私の考えとまったく異なる考えを述べる別個の知的存在と交信していることを確信することができるわけである。実際、本書に集録した通信の多くはその本質をつきつめれば、多分、まったく同じ結論に帰するであろう。

通信はいつも不意に来た。私の方から通信を要求して始まったことは一度もない。要求して得られることはまずなかった。突如として一種の衝動を覚える。どういう具合にかは私自身にも判らない。とにかくその衝動で私は机に向かって書く用意をする。一連の通信が規則正しく続いている時は一日の最初の時間をそれに当てた。私は起きるのが早い。そして起きるとまず私なりの朝の礼拝をする。衝動はしばしばその時に来た。といってそれを当てにしていても来ないことがあった。自動書記以外の現象もよく起きた。健康を損ねた時(後半よく損ねたが)を除き、いよいよ通信が完全に途絶えるまで、何の現象も起きないということは滅多になかった。

さて、厖大な量の通信の中でもインペレーターと名のる霊からの通信が私の人生における特殊な一時期を画している。本書の解説の中で私は、そのインペレーターの通信を受け取った時の魂の高揚、激しい葛藤、求めても滅多に得られなかった心の安らぎに包まれた時期について言及しておいた。それは私が体験した霊的発達のための教育期間だったわけで、結果的には私にとって一種の霊的新生となった。その期間に体験したことは他人には伝えようにも伝えられる性質のものではない。また伝えたいとも思わない。しかし内的自我における聖霊の働きかけを体験したことのある方々には、インペレーターという独立した霊が私を霊的に再教育しようとしたその厚意ある働きかけの問題は、それでもう十分解決されたと信じていただけると思う。表面的にはあれこれと突拍子もないことを考えながらも、また現に問い質すべきいわれは幾らでもあるにもかかわらず、私はそれ以来インペレーターという霊の存在を真剣に疑ったことはただの一度もない。

この序論は、私としてはまったく不本意な自伝風のものとなってしまった。私に許される唯一の弁明は、一人の人間の霊体験の物語は他の人々にとっても有益なものであることを確信できる根拠が私にある、ということだけである。これから披露することを理解していただくためには、不本意ながら、私自身について語る必要があったのである。私は、その必要性を残念に思いながらも、せめて本書に記載したことが霊的体験の一つの典型として心の琴線に触れる人には有益であると確信した上で、その必要性におとなしく従うことにした。真理の光を求めて二人の人間がまったく同じ方法で努力することはまずないであろう。しかし、私は人間各自の必要性や困難には家族的とも言うべき類似性があると信じている。ある人にとっては私のとった方法によって学ぶことが役に立つ日が来るかも知れない。現にこれまでもそうした方がおられたのである。私はそれを有難いと思っている。

こうしたこと、つまり通信の内容と私自身にとっての意義の問題以外にも、自動書記による通信の形式上の問題もあるが、これは極めて些細な問題である。通信の価値を決定づけるのはその通信が主張する内容そのもの、通信の目的、それ本来の本質的真理である。その真理が真理として受け入れられない人は多いであろう。そういう人にとっては本書は無意味ということになる。また単なる好奇心の対象でしかない人もいるであろう。愚か者のたわごととしか思えぬ人もいるであろう。私は決して万人に受け入れて貰えることを期待して公表するのではない。その人なりの意義を見出される人のために本書が少しでも役立てば、それで私は満足である。

ステイントン・モーゼス

一八八三年三月


〔注〕

(1)


Automatic Writing


(2)


Passive Writing


(3)


Psychography又はDirect Writing


(4)


Rapping 文字どおり叩く音によって通信する方法であるが、一番多いのはテーブルが傾斜して、上下運動をしながら一本の脚が床を叩いて通信する。したがってモールス信号のような符牒を取り決めておく必要がある。


(5)


Trance Speaking 入神した霊媒の発声器官を使って霊がしゃべる。


(6)


Slate Writing 二枚のスレートを合わせて置いておくだけで、その片面または両面に通信が書かれる。一種の直接書記。


(7)


Doctor, the Teacher 巻末「解説」参照。


(8)


Rector 巻末「解説」参照。


(9)


Imperator 巻末「解説」参照。