Sunday, September 6, 2026

シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話
スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳





第11章 大自然の摂理

【Q1】

宇宙の全生命を統率している摂理について説明していただけませんか?

 私たち(注1)は、大霊の定めた永遠不変の自然法則を第一義として、これに敬虔なる忠誠とまごころを捧げます。絶対にしくじることのない摂理、絶対に誤ることのない法則、身分の上下に関係なく、すべての存在にわけへだてなく配剤されている英知だからです。

 だれ一人として無視されることはありません。だれ一人として見落とされることはありません。だれ一人として忘れ去られることはありません。だれ一人として孤立無援ということはありません。大霊の摂理・法則が行き届かなかったり、その枠からはずれたりする者は一人もいないのです。この宇宙に存在するという、その事実そのものが、大霊の法則が働いたことの証しなのです。

 人間がこしらえる法律は、そのまま適用できないことがあります。書き換えられることがあります。成長と発展が人間の視野を広め、知識が無知を駆逐し、情況の変化が新たな法律を必要とすることになれば、古い法律は破棄されたり改められたりします。しかし、大霊が定めた摂理は、新たに書き加えられることがありませんし、〝改訂版〟を出す必要もありません。修正されることもありません。今働いている摂理はすべて、無限の過去から働いてきたものであり、これからもそのまま永遠に働き続けます。不変にして不滅です。

 ここで、根源的摂理である因果律について、霊言集の各所で述べているものを集めて紹介しておきましょう。

 因果律の働きは完璧です。原因があれば数学的正確さをもって結果が生じます。その原因と結果のつながりに寸毫たりとも影響を及ぼす力をもつ者は一人もいません。刈り取る作物はまいた種から生じているのです。人間はみな、地上生活での行ないの結果を魂に刻み込んでおり、それを消し去ることは絶対にできません。その行ないのなかに過ちがあれば、その行為の結果はすでに魂に刻み込まれており、その一つ一つについて、然るべき償いを終えるまでは霊性の進化は得られません。

 因果律は根源的なものであり、基盤であり、変更不能のものです。自分が種をまいたものは自分で刈り取る──これが絶対的摂理なのです。原因があれば、それ相当の結果が数学的正確さをもって生じます。それ以外にはあり得ないのです。かわって、その結果が新たな原因となって結果を生み出し、それがまた原因となる──この因果関係が途切れることなく続くのです。咲く花は、間違いなく、まいた種に宿されていたものです。

 無限の変化に富む大自然の現象は、大きいものも小さいものも、単純なものも複雑なものも、みな因果律にしたがっているのです。だれ一人として、また何一つとして、その因果関係に干渉することはできません。もしも原因に不相応の結果が出ることがあるとすれば、地上界も物的宇宙も、霊的宇宙も大混乱に陥ります。私の言う大霊もあなたの言うゴッドも、創造神も絶対神も、愛と英知の権化でもなく全存在の極致でもなくなります。

 宇宙は、絶対的公正によって支配されています。もしも犯した過ちが、呪文やマントラを口にするだけで消し去ることができるとしたら、摂理が完全でなかったことになります。自然の大原則が簡単に変えられたことになるからです。

 大自然は、人間的な願望におかまいなく、定められたコースをたどります。成就すべき目的があるからであり、それはこれからも変わることはありません。人間も、その大霊の意志と調和した生き方をしている限りは、恵みある結果を手にすることができます。あなたの心の持ち方次第で、大自然は豊かな実りをもたらしてくれるということです。

 善い行ないをすれば、それだけ霊性が増します。利己的な行ないをすれば、それだけ霊性が悪化します。それが自然の摂理であり、これだけはごまかすことができません。死の床にあっていくら懺悔の言葉を述べても、それで悪行がもたらす結果から逃れられるというものではありません。

 どの法則も大法則の一部です。いずれも大霊の計画の推進のためにこしらえられたものですから、全体としての調和を保ちながら働きます。これは、物質界の人間は男性・女性の区別なく、自分が犯した罪は自分の日常生活における苦難のなかで自分で償うしかないこと、それを自分以外のだれかに転嫁できるかに説く誤った教義(注2)は捨て去らなければいけないことを教えています。

 人間は自分自身が、自分の魂の庭師です。英知と優雅さ、美しさといった霊性の豊かさを身につけるうえで必要なものは、すべて大霊が用意してくださっています。道具は全部そろっているのです。あとは各自がそれをいかに賢明に、いかに上手に使うかにかかっています。

 大霊は無限なる存在であり、あなた方はその大霊の一部です。完全な信念をもって摂理に忠実な生活を送れば、大霊の豊かな恵みにあずかることができます。これは地上のだれについても、例外なく言えることです。真理に飢えた人が完全な信念に燃えれば、きっと然るべき回答を得ることでしょう。

 摂理とはそういうものです。何事にも摂理があります。その摂理に忠実であれば、求める結果が得られます。もし得られないとしたら、それはその人の心がけが摂理にかなっていないことの証しでしかありません。歴史書をひもといてごらんなさい。最下層の極貧の出でありながら、正しい心がけで真理を求めて、決して裏切られることのなかった人は少なくありません。求めようとせずに不平をかこつ人を例にあげて、なぜあの人は…といった疑問を抱いてはなりません。

 もう一つの摂理をお教えしましょう。代償を支払わずして、価値あるものを手にすることはできないということです。優れた霊媒現象を手にするには、霊的感性を磨かねばなりません。それが代償です。それをせずに金銭を蓄えることに専念すれば、それにも代償を支払わなければいけなくなります。

 金儲けに目がくらんで本来の使命をおろそかにすれば、この地上では物的な豊かさを手にすることができるかもしれませんが、こちらへ来てから本来の自我がいかに貧しいかを思い知らされます。

 訳注1──シルバーバーチが「私たち(we)」と言うときは、自分を中心とした霊団を指す場合と、シルバーバーチの言う「liberated beings」、つまり「物」による束縛から解放された高級霊を指す場合とがある。ここでは後者である。

 訳注2──改めて指摘するまでもなく〝誤った教義〟は、キリスト教の「贖罪説」のことで、「イエスへの信仰を告白した者」といった条件つきの法則は全体の調和を乱すという意味。

【Q2】

では、悪人が健康で仕事もうまくいき、善人が苦しい思いをしていることがよくあるのはなぜでしょうか?

 自然の摂理を地上界の現実に照らして判断するのは、基準があまりにもお粗末過ぎます。地上人生は途方もなく巨大な宇宙人生のほんの短い一面に過ぎず、個々の生命は死後も永遠に生き続けるのです。

 が、それはそれとして、地上の現実を、今おっしゃったような表面的な実情で判断してよいものでしょうか。心の奥、魂の中枢、精神の内側までのぞき見ることができるものでしょうか。一人ひとりの内的生活、ひそかに抱いている思い、心配、悩み、苦しみ、痛みがわかるものでしょうか。わかるのはほんの一部でしかありません。

 実際は、あらゆる体験が魂に刻み込まれているのです。楽しみと苦しみ、喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐の体験を通して、霊性は磨かれていくようになっているのです。

【Q3】

人生の教訓が愛と哀れみを身につけることであるのなら、なぜ大自然は肉食動物という、むごい生き物を用意したのでしょうか?

 大自然が悪い見本を用意したかに受け止めるのは間違いです。大自然は大霊の表現です。大霊は完全ですから、大霊の用意した摂理も完璧です。大自然は、その摂理のおもむくままに任せれば、必ずバランスと調和を保つようにできています。
 ですから、人間が大自然と調和した生き方をしていれば、地上世界はパラダイス、いわゆる〝神の王国〟となるはずです。

 たしかに、肉食動物はいます。が、それは〝適者生存〟という大自然のおきての一環としての存在であり、大自然の一側面に過ぎません。全体としては「協調・調和」が自然のあるべき姿です。「共存共栄」と言ってもいいでしょう。人間がきちんと手入れをして自然と調和していれば、素晴らしい〝庭〟になることでしょう。

 実は、ほかならぬ人類こそが、地球上の最大の肉食動物なのです。何百万年もの歴史のなかでこれほど破壊的な創造物を私は知りません。

【Q4】

摂理の働き方は、地上界も霊界も同じなのでしょうか?

 いえ、同じではありません。霊界では、ある一定の進化のレベルに達した者が、同じ階層で生活しているからです。ということは、地上のように同じ界に対照的な体験をもつ者がいないということです。全員が同じ霊格に達した者ばかりなのです。未発達な霊が、高級な霊と同じ階層にいるということがないのです。地上では、毎日毎日、さまざまな知的ならびに霊的発達レベルの者と交わります。霊界では、そういうことがないのです。

 もっとも、特殊な使命を帯びて自分の界より低い界へ下りていくことはあります。そういうことでもないかぎり、私たちが出会うのは、霊的に同じ発達レベルの者ばかりです。霊性が向上すれば、それ相応の階層へ向上していきます。そこでも同じ霊格の者ばかりが生活しています。

 とにかく、私たちの世界には、暗黒と光明といった対照的なものは存在しません。影というものが存在しないのです。霊的光明のなかで生きる段階にまで到達した者は、光明とは何かについての理解ができています。そうでなかったら、光明界にはいられないでしょう。その段階にまで到達していない者は、光と闇で織りなされる夢幻の階層から抜け切っていないことを意味します。

 霊性がさらに向上すれば、そういう対象を必要としない理解の仕方が身につきます。実在についての理解力が増し、実相を実相として悟るようになります。

 霊的洞察力が身につけば、たとえば一本の花を見ても、その美しさの内側と外側まで見えるので、地上では理解できない、その花の全体像がわかるようになります。色彩一つをとってみても、地上界にない無限のバリエーションがあります。微妙な色調があり、また肉眼では理解できない、素材そのものに託された霊的な意味もあります。

 私たちの世界は、地球の引力の影響は受けません。夜はなく、常に明るい光に包まれています。霊性が高まるほど、美しさの内奥が顕現されていきます。

 その意味で、私たちの世界は、創造的な世界です。すなわち、そこに住む者が自らの霊力で創造していく世界です。

【Q5】

地上での行為、地上生活中に、因果律が働くのでしょうか?

 そういうこともありますし、そうでないこともあります。因果律は、必ずしも地上生活中に成就されるとは限りません。が、必ず成就されます。そういうように宿命づけられているからです。原因と結果とを切り離すことはできません。

 ただ、原因の性質によって、それが結果を生み出すまでの時間的要素に違いがあります。ですから、行為によっては地上生活中に反応が出る場合もあり、出ない場合もあります。が、霊的な余波は機械的に影響を及ぼしています。

 なぜなら、たとえば他人を傷つけた場合、その行為は機械的に行為者の魂に刻み込まれていますから、その罪の深さに応じて行為者自身の魂も傷ついて霊性が弱まっています。その結果が、地上生活中に表面化するか否かはわかりません。そのときの環境条件によって違ってきます。当人の永遠の霊的生命を基準にして配剤されるものです。

 埋め合わせの原理は、自動的に働きます。絶体絶命の窮地にあって援助と導きを叫び求めても、何の働きかけの兆候もないかに思えるときがあることでしょう。が、実は、そんななかにあっても、人のために役立つことができるという事実そのものが、豊かな埋め合わせを受けていることの証しなのです。自分も、だれかのおかげで霊的真実に目覚めたのです。このことは、治療家や霊媒としての仕事にたずさわる人に、特に申しあげたいことです。

 もしも埋め合わせと懲罰の原理がなかったら、大霊の絶対的公正はどうなるのでしょう?罪悪の限りを尽くした者と、聖人君子に列せられるような有徳の人物とが、同等の霊性を身につけることができるでしょうか?もちろん、できません。人のために役立つことをすれば、それだけ霊性が高まります。利己的なことをすれば、それだけ霊性が下がります。

 あなたの霊的宿命をよくするのも悪くするのも、あなた自身です。責任はすべて、あなた自身にあります。もしも死の床で懺悔して、それで生涯で犯した罪がもたらす結果からすっかり逃れることができるとしたら、それはお笑いものであり、悪ふざけです。

【Q6】

若いときに犯した罪の償いを、死んで霊界へ行ってからさせられるということがあるのでしょうか?地上にいる間に償いをさせられることもあるのでしょうか?

 すべては環境条件によって決まることです。自分が犯した罪は自分で償う──これは不変の摂理です。魂に刻み込まれた汚点を完全に消し去るまでは、向上進化は得られません。その過ちがいつなされたか(若いときか、中年か、年老いてからか)は関係ありません。能力のすべてを駆使して償わねばなりません。

 その努力を始めたとき、あるいはそう決意したとき、あなたの魂のなかで過ちを正すための別の側面が動き始めます。摂理の仕組みは、そのように簡単なのです。

 若いときに犯した間違いは、肉体を通して顕現している間のほうが償いやすいでしょう。地上で犯したのですから、地上のほうが償いやすいはずです。償いが遅れるほど修正もむずかしくなり、霊的進化を妨げます。
 大切なのは、自分の過ちを素直に悔いて償いを決意したとき、ふだんから見守っている霊団の者(類魂)が、間髪を入れずに、力添えに馳せ参じるということです。向上進化を志向する努力を、人間界の経綸に当たっている高級霊は、決して無駄に終わらせません。


第12章 霊性の進化


【Q1】

本人の罪でもなく親の罪でもないのに、子どもが手足や目の障害を抱えて生まれてくるのはなぜでしょうか?

 魂というものを外見だけで判断してはいけません。魂の霊性の進化と、それが地上で使用する身体の進化とを混同してはいけません。

 たとえ遺伝の法則で、父親または母親、あるいは双方から障害を受け継いでいても、それが霊性の進化を妨げることはありません。

 よくご覧になれば大抵おわかりになると思いますが、身体上の欠陥をもって生まれた人は、魂のなかに埋め合わせの原理をもちあわせているものです。五体満足の人よりも他人への思いやり、寛容心、やさしさをその性格のなかに秘めています。因果律の働きから逃れられるものは何一つありません。

 親となる人は来るべき世代の人間に物的身体を授ける責任があるわけですから、当然その身体をできるだけ完全なものにする義務があります。その義務を怠れば(注)、それなりの結果が出ます。法則は変えられないのです。

 訳注──一般的には食生活が考えられるが、タバコやアルコール、麻薬などの弊害を示唆しているようにも思える。母親からの直接の影響はいうまでもないが、父親からの間接的な影響も無視できないであろう。

【Q2】

精神に異常があれば責任はとれません。(あなたがおっしゃるように)霊界では、地上で培った性格と試練への対処の仕方によって裁かれるとなると、そういう人が霊界へ行った場合、どのような扱いになるのでしょうか?

 あなたも、物的なものと霊的なものとを混同しておられます。脳細胞が異常をきたせば、地上生活は支離滅裂となります。表現器官が異常をきたしているために自我を正常に表現できないわけですが、そうした状態のなかでも魂そのものは自分の責任を自覚しています。

 大霊の摂理は、魂の発達程度に応じて働きます。地上的な尺度ではなく、永遠の英知が魂を裁くのです。ですから、地上的な常識では間違いと思えることをした魂が、地上において(不当な)裁きを受けることはあるでしょうが、実質的には魂に責任はないわけですから、霊界に行ってその責任をとらされることはありません。

 同じことが、狂乱状態のなかで、人の命を奪ったり自殺したりした場合にもいえます。表現器官が正常でなかったのですから、責任は問われません。

 こちらの世界の絶対的な判定基準は、魂の動機です。これを基準とするかぎり、誤りは生じません。

【Q3】

脳の障害のために地上生活の体験から何も学ぶことができなかった場合、霊界ではどういう境涯におかれるのでしょうか?

 表現器官が正常でないために、地上で体験すべきものが体験できなかったわけですから、それだけ損失を強いられたことになります。貴重な物的生活の価値を身につけることができなかったわけです。しかし、そうしたなかにも「埋め合わせの原理」が働いています。

【Q4】

われわれは地上でのさまざまな試練によって身につけた人間性をたずさえて霊界へ行くわけですが、精神異常者の場合はどうなるのでしょうか?やはり、そのままの人間性で裁かれるのでしょうか?

 そういう人の場合は、それまでの魂の進化の程度と動機(注)だけで裁かれます。
 訳注──この〝動機〟についてさらに質問してほしかったところである。訳者の推察では、これは再生(生まれかわり)とつながる問題であり、質問者がさらに突っ込んで問いただせば説明してくれたはずである。

【Q5】

地上では、精神的にも道徳的にも衛生的にも、不潔きわまるスラムのような環境に生まれついて、つらい、そして面白くない生活を送らねばならない者がいる一方、美しいものに囲まれ、楽しい人生が約束された環境で育つ者もいます。こうした不公平には、どのような配慮がなされるのでしょうか?

 魂には、その霊性の進化の程度が刻み込まれています。地上の人間は、物的尺度で価値判断をし、魂の発現という観点からの判断をしません。身分の上下にかかわらず、すべての人間に、他人のために自分を役立てるチャンスが訪れます。それは言い換えれば、自我意識に目覚めて、その霊性を発現するチャンスです。その霊性こそが唯一の判定基準です。

 物的基準で判定すれば、地上界は不公平ばかりのように思えますが、本当の埋め合わせの原理が魂の次元で働いています。それによって、魂があらゆる艱難を通して、自我を顕現していくように意図されているのです。

【Q6】

でも、悪い人間がよい思いをしていることがありますが、なぜでしょうか?

 それも、あなた自身のこの世的な基準による判断に過ぎません。よい思いをしているかに見える人が、惨めな思い、虐げられた思い、懊悩や苦痛に悩まされていないと、何を根拠に判断なさるのでしょう?いつもニコニコしているからでしょうか?贅沢なものに取り囲まれた生活をしているからでしょうか?豪華な服装をしていれば魂も満足しているのでしょうか?永遠の判断基準は霊であって、物を基準にしてはいけません。そうしないと、真の公正がないことになります。

【Q7】

でも、やはり罪悪や飢餓、その他、低俗なものばかりがはびこる環境よりもよい環境のほうが、立派な動機を生みやすいのではないでしょうか?

 私は、そうは思いません。私が見てきたかぎりでは、偉大なる魂は必ずといってよいほど低い階層に生まれついています。偉人と呼ばれている人はみな、低い階層の出です。耐え忍ばねばならない困難が多いほど、魂はそれだけ偉大さを増すのです。本来の自我を見出させてくれるのは困難との闘争です。ものごとを外側からではなく、内側から見るようにしてください。

【Q8】

霊性は、物的生命と同時進行で進化してきたのでしょうか?

 同時進行ではありましたが〝同じ道〟ではありませんでした。霊が顕現するための道具として、物的身体のほうが霊よりも先に、ある程度の進化を遂げておく必要があったからです。

【Q9】

われわれは、死後も努力次第で向上進化するのであれば、罪深い動機から転落することもあるのでしょうか?

 ありますとも!こちらの世界に来ても、地上的な欲望から抜け切れずに、何百年も、ときには何千年も、進化らしい進化を遂げない者が大勢います。地上時代と同じ欲求と願望に明け暮れる生活を送り、霊的な摂理など理解しようとしません。身は霊界にあっても、地球の波動のなかで生活しており、霊的なものにまったく反応しないまま、刻一刻と霊性が堕落していきます。

【Q10】

そうやって際限もなく堕落していって、最後は消滅してしまうのでしょうか?

 そういうことはありません。内部に宿された大霊の火花が今にも消えそうに明滅するまでになることはあっても、完全に消えてなくなることはありません。大霊と結びつける絆は永遠なるものだからです。いかに低級な魂も、もはや向上できなくなるというほど堕落することはありません。いかに高級な魂も、もはや低級界の魂を救えないほど向上してしまうことはありません。

【Q11】

個霊は死後さまざまな階層をへて、最後は大霊と融合し、その後、物質その他の成分となって宇宙にばらまかれるのでしょうか?

 私は、完全の域まで達して完全性のなかに融合してしまったという個霊の話を聞いたことがありません。完全性が深まれば深まるほど、まだまだ完全でないところがあることに気づくことの連続です。そうやって意識が開発されていくのです。意識は、大霊の一部ですから無限であり、無限性へ向けて永遠に開発し続けるのです。究極の完全性というものを私たちも知りません。

【Q12】

でも、個霊が進化していくうちに類魂のなかに融合し切って、個々のアイデンティティーを失ってしまうのは事実ではないでしょうか?

 私の知るかぎり、そういうことはありません。ただ、次のようなことはあります。成就すべき大切な仕事があって、心を一つにする霊団が、知識と情報源を総動員してそれに没頭し、そのなかの一人が残り全員を代表してスポークスマンとなる、ということです。その間は全員が一つの心のなかに埋没してアイデンティティーを失っています。が、それも一時的なことです。

【Q13】

ペットは死後もそのまま存続しているそうですが、ふつうの動物でも存続しているのをご覧になることがありますか?

 あります。現在では犬や猫が人間のペットになっていますが、私たちが地上にいた頃は、ふつうの動物でも、私たちの仲間だったものがたくさんいました。人間との交わりで個性を発現した動物は、そのままの個性をたずさえて存続していました。もっとも、動物の場合は永遠ではありません。わずかな期間だけ存続して、やがて類魂のなかに融合していきます。その類魂が種を存続させるのです。

 大霊の子である人類は、大霊の霊力を授かっているがゆえに、意識がまだ人類の進化の次元にまで達していない存在に対して、その霊力を授けることができることを知らねばなりません。それが愛であり、その愛の力によって、まだその次元に達していない存在の進化を促進してあげることができるのです。

【Q14】

そのように人間にかわいがられた場合は別として、原則として動物も個性をたずさえて死後に存続するのでしょうか?

 存続しません。

【Q15】

動物が原則として個性をたずさえて存続しないとなると、たとえば人間にかまってもらえない動物や虐待されている動物と大霊との関係はどうなるのでしょうか。創造した者と創造された者との関係として見たとき、そういう動物の生命に大霊の公正はどのようなかたちで示されるのでしょうか?

 地上の人間の理解力を超えた問題を解説するのは容易ではありません。これまで私は、動物は死後、類魂のなかに融合していくと述べるにとどめてきましたが、その段階で埋め合わせの原理が働くのです。絶対的公正の摂理の働きによって、受けるべきでありながら受けられなかったもの、すべてについて埋め合わせがあります。

 しかしそれは、人間の進化の行程とは次元が異なります。しいてたとえれば、十分な手入れをされた花と、ほったらかしにされてしぼんでいく花のようなものでしょう。あなた方には、その背後で働いている摂理が理解できないかもしれませんが、ちゃんと働いているのです。

【Q16】

個々の動物について埋め合わせがあるのでしょうか?

 いえ、類魂としてです。受けた苦痛が類魂の進化を促すのです。

【Q17】
そのグループのなかには苦痛を受けた者とそうでない者とがいるはずですが、それがグループ全体として扱われるとなると、埋め合わせを受けるべき者とその必要のない者とが出てきます。そのへんはどうなるのでしょうか?

 体験の類似性によって、各グループが構成されます。

【Q18】

ということは、虐待された者とそうでない者とが、別々のグループを構成しているということでしょうか?

 あなた方の身体が、さまざまな種類の細胞から構成されているように、類魂全体にもさまざまな区分けがあります。

【Q19】

ばい菌のような原始的生命はなぜ存在するのでしょうか?また、それが発生し消毒されるということは、宇宙が愛によって支配されていることと矛盾しませんか?
 人間には自由意志が与えられています。大霊から授かっている霊力と、正しいことと間違ったこととを見分ける英知とを用いて、地上界を〝エデンの園〟にすることができます。それをしないで、ほこりと汚れで不潔にしておいて、それが生み出す結果について大霊に責任を求めるというのは虫がよ過ぎないでしょうか?

【Q20】

地上的生命の創造と進化が、弱肉強食という血染めの行程をたどったという事実のどこに、善性と愛という神の観念が見出せるのでしょうか?

 そういう意見を述べる人(注)は、なぜそういう小さな一部だけを見て全体を見ようとしないのでしょうか?進化があるということ、そのことが神の愛の証しではないでしょうか?その人たちは、そういう考えが一度も浮かんだことがないのでしょうか?人間が低い次元から高い次元へと進化するという事実そのものが、進化の背後で働いている摂理が愛の力であることの証しではないでしょうか?

 訳注──答えが直接質問者に向けられていないのは、多分、質問が読者からの投書だったのであろう。主語が「you」でなく「they」となっているところからそう判断したのであるが、もしかしたら質問が「という意見を述べる人がいますが…」となっていたのかもしれない。




  訳者あとがき 
 読者というのは、はじめてその本を読む人のことと理解してよいと思うが、本書に関するかぎりは、はじめての方に加えてすでにシルバーバーチを繰り返し読んでいる方が多い──むしろ、そういう方のほうが圧倒的に多いに違いないという想定のもとに、「あとがき」を書かせていただく。

 そのあと新しい読者のために、シルバーバーチ霊からのメッセージの中継者として生涯を捧げたモーリス・バーバネルの手記を紹介する。

 「編者まえがき」の冒頭で述べられているように、本書はすでに霊言集として十数冊の単行本として発行されているもののなかから、Q&A、つまり交霊会の出席者からの質問にシルバーバーチが答えたものばかりを編集したものである。

私は霊言集の原書をすべてそろえており、そのすべてを翻訳して一六冊の日本語版として四つの出版社から上梓した(巻末参照)。
 したがって、本書の原書を手にしたときは、その日本語版にあるものばかりなのだから、あえて訳す必要性はないと考えていたのであるが、「勉強会」を進めていくうちに、こういう問答形式のテキストも使い勝手がよい、むしろそのほうが効用が大きいように思えてきた。

 そこで翻訳に着手して、一章ごとに「勉強会」で披露していったのであるが、そのうち気がついたのは、部分的には訳した覚えがあっても、全体としては別個のものが、かなりの頻度で出てくることだった。

同じシルバーバーチが述べたことであるから、どこか似ていることを述べていても不思議はないのであるが、そのうち〝編纂〟という作業に関して、日本人と英国人との間に考え方の違い、大げさに言えば、精神構造の違いをほうふつさせる事実が明るみになってきた。

 それは、原書の編集者は、単に霊言を集めてテーマ別に区分けするというだけではなく、ときには別々の交霊会での霊言をつぎはぎして新しい文章をこしらえることがあるということである。

無駄、ないしはなくてもよいと思える文章を削るのはまだしも、そこで述べていないもの──たとえ別の箇所で述べていても──それをつぎ足してかたちだけ整えるのは、いささか悪趣味が過ぎるのではないかと思うので、私はそれを発見したときは削除した。
 そんな次第で、既刊の霊言集に出ているものと本書に出ているものとの間に〝似て非なるもの〟があるときは、本書のほうが正しい、つまりよけいなつけ足しをしていないと受け取っていただきたい。もちろん、表現を改めたところは少なからずあるが‥‥。

 もう一つ気づいたことは──これは嬉しい発見であるが──どの霊言集にも掲載されていない問答がいくつか見られることである。

そこで考えたのであるが、どうやら二人の編者は、前任者たちが霊言集を編纂したときの資料、つまり交霊会の速記録やテープ録音を文字に転写したもののなかから、新たに拾い出したものを採用したのではないかということである。

 これは、そうした資料に直接アクセスできない者にとっては実にありがたいことで、もしも条件が整えば、私自身がそうしたものの発掘の旅に英国まで行ってきたい心境である。未公開のものがいくらでもあるはずであるから‥‥。

 さて、回答で指摘したとおり、私自身の誤訳も見つかった。ある意味では大切な発見で、本文でもお詫びかたがた注を施しておいた。「not」を見落とした単純ミスで、いわゆる「思い込み違い」である。

が、その単純ミスがその後の文章の意味をわかりにくくしてしまうという、二重の過ちを犯したことになる。この一節はシルバーバーチ特有の、簡潔にして含蓄の深い文章の典型で、たった数行であるがきわめて難解である。

テーマは「アフィニティ」説で、二十世紀初頭に入手されたフレデリック・マイヤースの「類魂」説と基本的に同一である。

 けがの功名で、はからずも今回の誤訳の発見によって解説がしやすくなったので、ここで「霊魂」とは何か、それが「進化する」とはどういうことかを、改めて解説しておきたい。

 まず用語の意味を整理しなければならない。日本人は「霊」と「魂」を並べて「霊魂」という呼び方をする。見方によってはそれで問題ない場合もあるが、スピリチュアリズムでは明快に区別している。
 それをシルバーバーチの言葉で説明すると──「霊」とは全存在の根源的生命力で、無形・無色、影もかたちもないという。われわれ人間について言えば、身体のどこそこにあるという〝場所をもつ〟存在ではなく、「しいて言えば、意識です」とシルバーバーチは言うのであるが、この「しいて言えば」と断ること自体が、必ずしも「意識」とは言えない状態での存在もあることを示唆している。

 それについては後述するとして──「魂」とは、その霊が自我を表現するための媒体をまとった状態を指す。地上では、物的身体という媒体に宿って生命活動を営んでいるわけで、その意味で、人間も「霊」であると言ってもよいし、「魂」であると言ってもよいし、「霊魂」であると言っても間違いではないことになる。

シルバーバーチが用語にこだわらずに、ときには矛盾するかのような使い方をするのは、決していい加減な表現をしているわけではない。シルバーバーチがわれわれの実体を鳥瞰図的に見ているのに対し、われわれは脳の意識を焦点として考えているので、どうしても視野が狭くなり、字句にこだわることになる。

 日本の古神道には「一霊四魂」という思想がある。霊は自我で、その表現媒体として四つの魂、すなわち荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)があるというもので、スピリチュアリズムでいう自我と肉体・幽体・霊体・神体(または本体)の四つの身体という説とまったく同一である。

 さらには、これらの身体に相応した物質界・幽界・霊界・神界があるというわけであるが、ここではこれ以上は踏み込まないことにする。

    
 さて、自我である「霊」は、無始無終の存在として、単細胞生物にはじまって植物、動物と、その媒体を変えながら進化し、最後に「霊的流入(Spiritual Influx)」という過程をへてヒトの身体に宿る。そして、この段階ではじめて自我意識が芽生える。霊的生命の発達と進化の過程における「画期的飛躍」と呼んでよいであろう。

 シルバーバーチが「見ず知らずというわけではない」と述べたのは「意識的には知らない」という意味に解釈してよいであろう。無限の資質と可能性を秘めた霊的生命が、無意識の静的状態から動的状態へと移行し、機能的進化を重ねたあげくに「霊的流入」という飛躍をへてヒトとなり、自我意識と個性をそなえて、精神的ならびに霊的進化の旅に出ることになる。その旅に終点はないという。

 では、本書に掲載されていないシルバーバーチの霊言で、「霊的流入」を考慮してはじめて理解できる一節を紹介しておく。



「いく百万年とも知れない歳月をかけて、あなた方は下等な種から高等な種へと、媒体を徐々に発達させながら、泥のなかから天空へ向けて一段また一段と、ゆっくりと進化してきたのです。その間、少しずつ動物性を捨てては霊性を発揮するという過程を続けてきました。今あなた方が宿っている身体がそこまで発達するのに、はたして何百万年かかったことでしょう。しかし、まだ進化は終わっていないのです。

 そして他方において、魂も進化させなければならないのですが、それにも、これから何百万年かけることになるでしょうか。
 かつて、あなたはサルでした。サルそのものだったという意味ではありません。サルという種を通して顕現した時期もあったという意味です。それも大霊の機構の一部なのです。生命のあるところには、大霊の息吹があります。それなくしては、生命活動は存在しません。ただ、その息吹に段階的な差があるということです。発達と開発があり、下等な段階から高等な段階への転移があるということです。」


 では、このたびはじめてシルバーバーチと出会ったという方のために、シルバーバーチの専属霊媒としての生涯を送ったモーリス・バーバネルの手記を紹介する。
 これはバーバネルの後継者として週刊紙『サイキック・ニューズ(Psychic News)』の編集長となったトニー・オーツセンに「自分が死んでから公表してほしい」といって手渡したもので、その遺言どおり、一九七九年七月の他界後に同紙に掲載された。


 シルバーバーチと私                 モーリス・バーバネル

私の記憶によれば、スピリチュアリズムなるものをはじめて知ったのは、ロンドンで催されていた文人による社交クラブで無報酬の幹事をしていた18歳のときのことで、およそドラマティックとは言えないことがきっかけとなった。

 クラブで私の役目は二つあった。一つは著名な文人や芸術家を招待し、さまざまな話題について無報酬で講演してもらうことで、どうにか大過なくやりこなしていた。

 もう一つは、講演の内容いかんにかかわらず、私がそれに反論することでディスカッションへと発展させていくことで、いつも同僚が「なかなかやるじゃないか」と誉めてくれていた。

実はその頃、数人の友人が、私を交霊会なるものに招待してくれたことがあった。もちろん、はじめてのことで、私は大真面目で出席した。ところが、終わってはじめて、それが私をからかうための悪ふざけであったことを知らされた。

たとえ冗談とはいえ、十代の私は非常に不愉快な思いをさせられ、潜在意識的にはスピリチュアリズムに対し、むしろ反感を抱いていた。

 同時に、その頃の私は、他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教には背を向けていた。母親は信心深い女だったが、父親は無神論者で、母親が、「教会での儀式に一人で出席するのはみっともないから、ぜひ同伴してほしい」と嘆願しても、頑として聞かなかった。

二人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃からずいぶん聞かされた。理屈のうえでは必ずといってよいほど、父のほうが母をやり込めていたので、私は次第に無神論に傾き、それからさらに不可知論へと変わっていった。

 こうしたことを述べたのは、次に述べるその社交クラブでの出来事を理解していただく、その背景として必要だと考えたからである。
 ある夜の会で、これといった講演者のいない日があった。そこで、ヘンリー・サンダースという青年がしゃべることになった。彼は、スピリチュアリズムについて、彼自身の体験に基づいて話をした。終わると、同僚が例によって私のほうを向き、反論するようにとの合図を送ってきた。

 ところが、自分でも不思議なのだが、つい最近、にせの交霊会で不愉快な思いをさせられたばかりなのに、その日の私はなぜか反論する気がせず、こうした問題にはそれなりの体験がなくてはならないと述べ、したがって、それをまったくもちあわせない私の意見では価値がないと思うと述べた。これには出席者一同が驚いたようだった。当然のことながら、その夜は白熱した議論のないまま散会した。

 終わると、サンダース氏が近づいてきて「体験のない人間には意見を述べる資格はないとのご意見は、あれは本気でおっしゃったのでしょうか。もしそうだったら、ご自分でスピリチュアリズムを勉強なさる用意がおありですか」と尋ねた。「ええ……」──私は、つい、そう返事をしてしまった。が、「結論を出すまで六カ月の期間がいると思います」と付け加えた。

 そのことがきっかけで、サンダース氏は、私を近くで開かれていた交霊会へ招待してくれた。約束の日時に、私は、当時、婚約中だったシルビアを伴って出席した。会場に案内されてみると、ひどくむさ苦しいところで、集まっているのはユダヤ人ばかりだった。

若い者もいれば、老人もいる。あまり好感はもてなかったが、真面目な集会であることはたしかだった。

 霊媒は、ブロースタインという中年の女性だった。その女性がトランス状態に入り、その口を借りていろんな国籍の霊がしゃべるのだと聞いていた。

そして事実、そういう現象が起きた。が、私には何の感慨もなかった。少なくとも私の見るかぎりでは、彼女の口を借りてしゃべっているのが「死者」であることを得心させる証拠は、何一つ見当たらなかった。

 しかし、私には、六カ月間、スピリチュアリズムを勉強するという約束がある。そこで再び同じ交霊会に出席して、同じような現象を見た。ところが、会が始まって間もなく、退屈からか疲労からか、私はうっかり居眠りをしてしまった。目を覚ますと、私はあわてて非礼を詫びた。ところが驚いたことに、私は居眠りをしていたのではなく、レッド・インディアンが、私の身体を借りてしゃべっていたことを知らされた。

 それが私の最初の霊媒的トランス体験だった。何をしゃべったかは、自分にもまったくわからない。聞いたところでは、ハスキーで、のどの奥から出るような声で少しだけしゃべったという。その後、現在に至るまで大勢の方々に聞いていただいている、地味ながら人の心に訴えるとの評判を得ている響きとは、似ても似つかぬものだったらしい。

 しかし、そのことがきっかけで、私を霊媒とするホーム・サークルが誕生した。シルバーバーチも回を重ねるごとに、私の身体のコントロールがうまくなっていった。

コントロールするということは、シルバーバーチの個性と私の個性とが融合することであるが、それがピッタリうまくいくようになるまでには、何段階もの意識上の変化を体験した。

 はじめのうち、私は、トランス状態に入るのはあまり好きではなかった。それは多分に、私の身体を使っての言動が、私自身にわからないのは不当だという、生意気な考えのせいであったと思われる。

 ところが、あるとき、こんな体験をさせられた。交霊会を終わってベッドに横たわっていたときのことである。眼前に映画のスクリーンのようなものが広がり、その上にその日の会の様子が音声、つまり私の口を使っての霊言とともに、ビデオのように映し出されたのである。そんなことが、その後もしばしば起きた。

 が、その後、それは見られなくなった。それは、ほかならぬハンネン・スワッファーの登場のせいである。その後「フリート街の法王」(フリート街は、ジャーナリズム界の通称)と呼ばれるほどのご意見番となったスワッファーも、当時からスピリチュアリズムには彼なりの体験と理解があった(別の交霊会で劇的な霊的体験をして死後存続の事実を信じていた)。

 そのスワッファーが、私のトランス霊言に非常な関心を示すようになり、シルバーバーチ霊をえらく気に入り始めていた。そして、これほどの霊的教訓がひと握りの人間にしか聞けないのはもったいない話だといい出した。

元来が宣伝好きの男なので、それをできるだけ多くの人に分けてあげるべきだと主張し、『サイキック・ニューズ』(週刊の心霊紙)に連載するのがいちばんいいという考えを示した。

 はじめ、私は反対した。自分が編集している新聞に、自分の霊的現象の記事を載せるのはまずい、というのが私の当然の理由だった。しかし、ずいぶん論議したあげくに、私が霊媒であることを公表しないことを条件に、私もついに同意した。

 その頃から、私の交霊会は「ハンネン・スワッファー・ホームサークル」と呼ばれるようになり、同時に、その会での霊言が毎週定期的に掲載されるようになった。

当然のことながら、霊媒は一体だれなのかという詮索がしきりになされたが、かなりの期間、内密にされていた。しかし、顔の広いスワッファーが次々と著名人を招待するので、いくら箝口令を敷いても、いつまでも隠し通せるものではないと観念し、ある日を期して事実を打ちあける記事「シルバーバーチの霊媒はだれか──実はこの私である」を掲載したのだった(カッコ内は訳者。わかりやすく編集した箇所もある)。

Saturday, September 5, 2026

天界の大学 ベールの彼方の生活(四)

 著者: G・V・オーエン(George Vale Owen)

近藤千雄 訳



五章  
造化の原理
1 スパイラルの原理     
二人三脚の原理   4 通信の中断



1 スパイラルの原理
一九一八年 三月十一日  月曜日

──創造的活動にたずさわる天使の大群とともに例の大学の大ホールで体験されたことや学ばれたことについて語っていただけませんか。

 私が仲間の学徒とともに大学を見学することになってすぐさま気がついたことは、すべてが吾々の理解を促進する知識の収集に好都合に配置されていることでした。

すべてが整然と構成されているのです。巨大な造化の序列の間には向うの端が遠くかすんで見えるほどの長い巾広いもの (avenues とあるが並木道、本通り、通路等の訳語しか見当たらない──訳者)で仕切られています。

と言っても、序列のどれ一つとして他から隔離されたものではないので、それはただの〝仕切り〟division ではなく、横切って通るための〝路〟road でもなく、実はそれ自体が両隣りを融和させる機能を具えた〝部門〟department なのです。

 そこを見学しているうちに吾々は、創造活動において造化の天使が忠実に守っている基本原則が幾つかあることを知らされて感心しました。その原則は無機物にも植物にも動物にも本質的には同じものが適用されています。

しかし最も進化せる界層に顕現されている叡智と巧みさに満ちた豪華絢爛たる多様性も、原初におては単純な成分の結合に端を発し、永い進化の時を閲しながら単純なものから複雑なものへと発達し、ついに今日見るがごとき豪華な豊かさへと至っていることを思えば、その事実は当然のことと言えるでしょう。

 私が言わんとすることを例を挙げて説明してみましょう。

 その仕切りの一つを通って行くと、天体がいかにして誕生したかが分かるようになっていました。左側は神の思念が外部へ向けて振動し鼓動しつつ徐々に密度を増し、貴殿らのいうエーテルそのものとなっていく様子が分かるようになっていました。

それを見ると〝動き〟の本質が分かります。本質的には螺旋状(スパイラル)です。それが原子の外側を上昇して先端までくると、今度は同じくスパイラル状に、しかし今度は原子の内部を下降しはじめます(これが象徴的表現に過ぎないことをこの後述べている──訳者)。

空間が狭いために小さなスパイラルでも上昇時よりもスピードを増します。そして猛烈なスピードで原子の底部から出ると再び上昇スパイラルとなりますが、スピードは少しゆるやかになり、上昇しきると再びスピードを増しながら内部を下向していきます。

 原子は完全な円でなく、といって卵形でもなく、内部での絶え間ない動きの影響で長円形をしています。その推進力は外部からの動力作用で、もしその動力源をたどることができれば、きっと神の心に行き着くのではないかと私は考えています。

お気付きと思いますが、〝先端〟とか〝底部〟とか〝上昇〟とか〝下降〟という言い方は便宜上そう表現したまでのことです。エーテルの原子に上も下もありません。

 さて、エーテルの原子を例に挙げたのは、これを他のさらに密度の高い性分へとたどっていくためのモデルとしていただくためです。たとえば地上の大気のガス物質を構成する原子にまでたどっても、やはり同じ運動をしております。

エーテルの原子の運動とまったく同じ循環運動をしております。細かい相違点はあります。

同じスパイラルでも細長い形もあれば扁平なのもあります。スピードの速いのもあれば遅いのもあります。いずれにせよ原子の内側と外側のスパイラル運動であることに変わりはありません。

 鉱物の原子を見てもやはり同じ原理になっていることが分かります。また一つの原子について言えることは、原子の集合体についても言えます。たとえば太陽系の惑星の動きもスパイラルです。但し、惑星を構成する物質の鈍重さのせいで動きはずっとゆっくりしています。

 同じことが衛星の運動にも言えます。さらに銀河系の恒星をめぐる惑星集団、さらに銀河の中心をめぐる恒星集団についても言えます。

 ただし各原子の質量と密度の双方がスパイラル運動の速度に影響します。密度の高い原子から成る物質においては速度が遅くなります。しかしその場合でも原子の内部での速度の方が外部での速度より速いという原則は同じです。

内側の運動から外側の運動へと移る時は、動くのがおっくうそうな、ゆっくりとしたものになります。しかしあくまできちんと運動し、その運動は軸を中心としたスパイラルの形をとります。

月もいまだに軌道運動に関してその性則を維持しようとしています。地球を中心とするかつてのスパイラル運動をしようとしながら出来ずにいるかのごとく、みずからを持ち上げようとしては沈みます。地球も同じことを太陽の周りで行ってなっております。

完全な円運動ではなく、完全な平面上の円運動でもありません。地軸に対しても平面に対しても少しずつずれており、それで楕円運動となるのです。

 以上のようにエーテルの原子、地球のガス物質、および地球そのものについて言えることは太陽ならびに銀河の世界についても言えます。その運動は巨大なスパイラルで、恒星とその惑星が楕円を描きながら動いております。

 こうした情況を吾々はその巾広い通りの左側に見たのです。がその反対側には物的創造物の霊的側面を見ました。つまり両者は表裏一体の関係になっているのです。

そして吾々が位置している通りが両者を結びつける境界域となっているのです。地上生活から霊界へ入る時はそれに似た境界域を横切るのです。そしてやがてその〝部門〟から次の〝部門〟へと移行することになります。

横切る通りは言わば地球の人間と天界の人間とを隔てる境界ということになります。


──さっき述べられた原理すなわちスパイラル運動の原理の他にも何か観察されたのでしょうか。

 しました。あの原理を紹介したのは説明が簡単であり、同時に基本的なものでもあるから・・・・・・いや多分基本的だから単純なのでしょう。

 では、もう一つの原理を紹介しましょう。基本的段階を過ぎると複雑さを増し説明が困難となります。が、やってみましょう。

 吾々が知ったことは造化の神々は先に述べたエーテルの原子よりさらに遡った全存在の始源近くにおいて造化に着手されているということです。またエーテルの進化を担当するのも太古より存在する偉大なる神々であるということです。

そこで吾々はずっと下がって材質の密度が運動を鈍らせるに至る段階における思念のバイブレーションを学習することになりました。

そしてまず知ったことは、吾々学徒にとって最も困難なことの一つは、正しく思惟し正しく意志を働らかせることだということです。物質を創造していく上でまず第一にマスターしなければならないことはスパイラル状に思惟するということです。

これ以上の説明は私には出来ません。スパイラルに思惟する───これを習慣的に身につけるのは実に困難な業です。

 しかし貴殿は別の原理を要求しておられる。それでは感覚的創造物───植物的生命の創造を観てみましょう。

 例の〝通り〟の一つを進んでいくと片側に地球ならびに他の惑星上の植物的生命が展示され、反対側にその霊的裏面が展示されていました。

それを観察して知ったことは、植物界の一つ一つの種に類似したものが動物界にも存在するということでした。それにはれっきとした理由があります。

そしてそれは樹皮、枝、葉という外部へ顕現した部分よりもむしろ、その植物の魂に関連しております。が、それだけでなく、よく観察するとその外見と魂との関係にも動物と植物の関連性を垣間みることができます。


──どうもお話について行けないのですが・・・・・・もう少し説明していただけますか。

 では、いったん動物と植物の対比から離れて、それからもう一度その話に戻ってきましょう。その方が分かりやすいでしょう。

 天界はさまざまな発達段階の存在──権威において異なり、威力において異なり、性格において異なり、さらには各分野における能力において異なる存在がいます。

 このことは途上に関しても言えることです。

 従ってそれは動物界についても言えることであることがお分かりでしょう。動物は種類によって能力がさまざまです。それぞれに優れた能力を発揮する分野があります。性格的にそうなっているのです。馬は蛇よりも人間と仲良くなり易いですし、ハゲワシよりオウムの方が人間によく懐(なつ)きます。

 さて先程述べかけた類似に原理は、大ていの場合さほど明確でないにしても、植物界と動物界にも存在することが分かります。たとえば植物の代表としてカシの木を、動物の代表として小鳥を例にとって考えてみましょう。

カシの木は種子(どんぐり)を作って地上に落とします。これが土に埋もれて大地で温められ、内部の生命が殻を破って外部へと顕現します。

実はそのどんぐりと小鳥は構造においても発生のメカニズムにおいても本質的にはまったく同じなのです。

 この〝内部から外部へ〟という生命の営みは普遍的な法則であって、けっして敗れることはありません。それは又、現在の宇宙を生んだ根源的物質の奥深く遡っても同じです。エーテルの原子の説明を思い出してください。原子の最初の運動は内部に発します。

そこでは速度が加速され、運動量が集積されます。外部に出ると両方とも鈍ります。


 同じルールが他の分野についても言えることが分かりました。創造界の神々が順守すべき幾つかの統一的原理が確立されているということです。

そのうちの一つが、まず外皮があってその内部の美がそれを突き破って顕現し、その有用性に似合っただけの喜びが見る者の目を楽しませるということであり、また一つは二つの性──能動的と受動的──であり、循環器系でいえば樹液と血液であり、呼吸器系で言えば毛穴と気孔であり、その他にもいろいろと共通の原理があります。

 これ以上貴殿のエネルギーが続きそうにありません。これにて中止されたい。
                                アーネル ±


 訳者注──最後の部分がよく理解できないが、これは次の通信の冒頭でアーネル霊も指摘し、通信が正しく伝わっていないと言って、その補足説明を行っている。

しかし年代的にアーネル霊は中世の人間であり、オーエンは現代の人間であっても科学的には素人なので、内容の表現や用語に素人くささが出ている。

大巾な書き変えは許されないので原文のまま訳しておいたが、読者はその趣旨を読み取る程度にお読みいただきたい。



2  文明の発達におけるスパイラル
 一九一八年 三月十五日 金曜日

──今夜はどういう目的でいらしたのでしょうか。

 例の顕現で学んだ教訓についての叙述を続けたいと思います。


──例の類似性についてのお話の最後の部分がよく理解できませんでした。私には今一つ要領を得ない感じがしました。私は正しく受け止めていたでしょうか。

 結構でした。取り損ねられたのは応用についての部分です。あの時はすでに消耗が度を越していたようです。今夜はその補足説明しようと思います。

 さて、物的世界を支配する原理、すなわち物質の形態による外部への生命の顕現は霊的世界にも当てはまります。


 まずスパイラルですが、これはそれ自体まさしく霊的世界に見られる原理の物的類似物と言えます。それは当然のことで、物的原子のすべてが意念の操作による産物だからです。その意念の大根源が神です。その神から湧き出た動的意念が中間の界層を整然たる順序をへて降下し、物質の中に究極の表現を見出しているのです。

したがって物的世界に見られるものは、そうした中間層を通過してきたエネルギーの産物なのです。前の例ではそのエネルギーがスパイラル運動によって発せられているのが分かります。

これは、もしそのエネルギーが流れる霊的界層においてもスパイラルの原理が働いているからこそであって、もしそうでなかったら有り得ないことです。ではどういう具合に働いているかを述べてみたいと思います。

 実はヤシの葉状の王冠がそのスパイラルの原理の一つの象徴でした。スパイラル状に編まれておりましたし、例の顕現の中で王冠のまわりに集結した天使群も当然スパイラル状に整列しておりました。

それが彼らの仕事の象徴のようなもので、その位置の取り具合によって吾々に教訓を読み取らせる意図があったのです。

 では次にこれを動物的生命の創造に見てみましょう。

 そもそも〝感覚〟による動作が最初に見られるのは植物です。そしてそこにもスパイラルの原理がはっきりとした形で現れているのが分かります。

たとえば豆科の植物は他のつる科の植物もみなそうであるように、スパイラル状に伸びます。典型的なスパイラルを描くものもあれば、少し形の崩れたものもありますが・・・・・・

 樹液の流れも幹を上昇しながら直線から曲線へ移行しようとする傾向を見せます。巻きひげによって登って行く植物も、ひげをスパイラル状に巻き付けて支えています。空中を遠く飛び散る種子も同じような曲線を描きながら地面へ落下します。

こうしたことは全てスパイラルの原理の働きの結果で、太陽から送られるバイブレーションが地上の植物にまで届くのにもそれが作用しています。つまり虚空を通過してくる際にはミニチュアの形でスパイラル運動が生じ、みずから天体の回転を真似ているのです。

 さてこれを動物界に見てみると、やはり同じ原理が働いていることが分かります。たとえば、小鳥は空中を飛ぶのにも滑空するのにも決して一直線は描かずに曲線を描く傾向があり、長い距離を行くとやはりスパイラル運動をしていることが明らかになります。

同じことが海中の動物にも陸上の動物にも言えます。ただ、進化すると、高等なものほどそれが明確に認められなくなります。

自由意志が行使されるようになるからで、それが中心的原則から外れた行動を生むようになります。逆に自由意志が少なくなるほどその原則が明確に見られます。

たとえばカタツムリの殻をご覧になればよく分かります。海の動物の殻にも同じものが数多く見られます。自由意志に代って本能が作用しているからです。



 一方、人間に関して言えば、個々の人間の個性よりも各民族全体を指導する大精神(※)に関わる事象においてそれは顕著に見られます。たとえば文明は東から西へと進行し、幾度か地球を楯回(じゅんかい)しています。その地球は太陽を中心として動いている。

しかし太陽の子午線は赤道に沿って直線上に走っているわけではなく、地球がどちらかに傾くたびに北に振れたり南に振れたりしている。

こうした地球の動きは太古における地球の動きの名残りであり、同じスパイラル運動が支配している星雲から誕生したことを示しております。こうして現在は顕著なスパイラル運動はしていないとはいえ、地球上の文明の進路が続けて二度同じコースをたどることは決してありません。

文明の波が前と同じ経線のところまで戻ってきた時には地球自身の両極は何度か───北極が南へ、南極が北へ──傾いております。かくして太陽からの地球へのエネルギーの放射の角度が変わると、文明の進路も変化します。

こうしてその文明は言うなれば地球にとっての〝新たな発見〟という形を取っていくわけです。

(幻の大陸と言われている)レムリアとアトランティスの位置についての憶測を考えていただけば、私の言わんとするところがお分かり頂けるでしょう。(※地球の守護神のこと。これを人間的容姿を具えた神様のように想像してはならない。

地球の魂そのものであり、無形の霊的存在であり、前巻で述べた通り、これがキリストの地球的顕現である。人間はすべてその分霊を受けて生まれる。それを最も多くそして強力に体現したのがイエス・キリストということである──訳者)

 それだけではありません。この原理は文明のたどるコースだけでなく文明の産物そのものをも支配しています。これは説明がさらに困難です。

こちらの世界ではそれを鮮明に認識することができます。と言うのも、人類の精神的活動の様子が地上より生き生きと見えるだけでなく、広範囲の年代のことを一度に見ることが出来るからです。

そういう次第で私は、人類の歩みが着実に上へ向いていること、しかしそれは巨大なスパイラルを描いていると明言することができます。

 その意味を分かっていただくには、〝太陽の下に新しいものなし〟(旧約・伝道の書1・9)という言葉を思い出していただくのが一番良いでしょう。

これは文字通りの真理というわけではありませんが、ある程度は言い当てております。貴殿は、新しい発見が為されたあとでそれに似たものがすでに何千年も前に予測されていたということを聞かされたことがあるでしょう。

私は予測されていたという言い方は賛成できません。そうではなくて、このたびの新しい発見はそれに先立つ発見が為された時に科学が通過しつつあったスパイラル状の発達過程の位置のすぐ上の時期に当たるということです。

発明・発見のスパイラルはあくまでも上昇しながら楯回しているわけです。ですから発明・発見が〝新しい〟というのは、前回の楯回の時のものの新しい翻案という意味においてのみ言えることです。


──例を挙げていただけませんか。

 エーテル分子(※)の人類の福祉のための活用がそのよい例といえるでしょう。この分野の科学は実にゆっくりとした段階で研究されてきたことにお気づきでしょう。

とりあえず〝燃焼〟の段階から始めてみましょう。燃焼によって固体が気化されました。次に、これによって熱を発生させることを知り、さらに熱によって生産した蒸気を利用することを知りました。

続いて同じ気化熱を蒸気を媒介とせずに利用することを知り、さらに微細なバイブレーションを活用することを知り、今日では急速に蒸気が電気へと変わりつつあります。

が、さらに次の段階への一歩がすでに踏み出されており、いわゆる無線の時代へ移行しつつあります。

(※エーテルの存在はかつてオリバー・ロッジなどが主張していたが今日の科学では否定される傾向にある。

がこの通信霊アーネルは第三巻でも明らかにその存在を認めた説明をしている。〝エーテル〟といい〝霊〟といい、地上の人間がそう呼ぶから霊の方でもそう呼んでいるまでのことで、科学が存在を認めようと認めまいと、あるいは、たとえ認めてそれをどう呼ぼうと、霊の方は存在の事実そのものを目の当たりにした上で語っているのであるから、

現在の科学理論でもって通信の内容の是非を論じるのは主客転倒であろう。なおこの一節は過去一世紀間の科学の発達を念頭に置いてお読みいただけば理解がいくであろう──訳者)

 ところが実はこうした一連の発達は、完成の度合いこそ違え、現代の人間には殆ど神話の世界の話となっている遠い過去の文明の科学者によって為されたことがあるのです。

そしてさらに次の段階の発達も見えているのです。それは〝エーテルの活動〟に代わって〝精神の波動〟(※)の時代が来ているということです。

このことも実はすでに優れた先駆者の中にはその先見の明によって捉らえた人がいたのです。が、道徳的に十分に発達していない人間によって悪用されるといけないので、その発表を止められていたのです。

現代の人類でもまだ科学として与えられるにはもう少し霊的進化が必要でしょう。今の段階で与えられたら、益になるより害になる方が大きいでしょう。

(※エーテルの波動は言わば物的科学の原理ということであり、精神の波動は霊的科学の原理のことと解釈できるが、ただ最近見られる程度のもので超能力の威力を予測してはならない。まだまだ幼稚すぎるからである──訳者)

 それは別として、現段階の科学の発達は、同じ分野に関して、前回の周期(サイクル)の時にストップしたままの段階よりはさらに発達することでしょう。

前回のサイクルにおいて科学の発達が下降しはじめ、それまでに成就されたものが霊界側に吸収されて、次のサイクルが巡ってきた時点で、それまでの休息の時代に霊界で担当の霊によってさらに弾みをつけられたものが、受け入れるだけの用意の出来た人類に授けられることになります。

 霊界を内側と呼ぶならば地上界は外側ということになり、すでに述べたエーテル原子の動きと同じ原理が地上界に再現されていることになります。

 この問題にはまだまだ奥があるのですが、それを貴殿が理解できるように言語で述べることは不可能です。

要するにこれまで説明してきた原理が今私が例を挙げたような力学においてだけでなく、政治においても、植物及び動物の〝種〟の育成においても、天文学においても、化学においても働いていると理解していただけば結構です。


──占星術と錬金術とは現代の天文学と化学との関係と同じ類似性をもつものだったのでしょうか。

 それは違います。断じてそうではありません。

今夜の話は(人間の歴史の)世紀(センチュリー)を単位としたものではなくて(地球の歴史の)代(エオン)を単位としています。

占星術と錬金術はその二つの時代の科学の直接の生みの親であり、私のいう巨大なスパイラルの中の同じサイクルに属し、その距離はわずかしか離れておらず、すこし傾斜した同じ平面にあります。

 私のいう類似物とは違いますが、ただ、化学については一言だけ付け加えておきたいことがあります。それで今夜はおしまいにしましょう。

 化学というのは高級神霊が中心的大精神に発したバイブレーションが多様性と変異性とへ向けての流れを統御していく活動の中でも最も外的な表現であるということです。

すなわち神に発した生命の流れが霊の段階を通過して物質となって顕現する活動の中で、化学的物質が分化の過程によって細分化され、さらに分子となっていきます。

そして最低の次元に到達するとその衝動が今度は逆方向へ向かい、上方へ、内部へ、と進行します。分析化学に携わる人はその統一性から多様性へと向かう衝動に従っているわけです。

反対にそれを統合しようとする化学者はその流れに逆らっているわけですから、試行錯誤の多い、効率の悪い仕事に携わっていることになります。

多様性から統一性へと向かわせようとしているからです。言わば内部におけるコースがまだまだ外部へ向けてあくまでスパイラル状に行進を続けようとしているのに、その人だけは宇宙原子の一ばん外側のスパイラルで踵(きびす)を返してしまっているのです。

 この通信は前回の通信と照らし合わせて検討してください。
アーネル ±


3  二人三脚の原理
  一九一八年 三月二十二日 金曜日

 今夜も例の顕現の場における宇宙創造に関する研究から得た原理をテーマとして述べてみたいと思います。

 エネルギー作用におけるスパイラルの原理についてはすでに述べました。そこでもう一つ吾々が学んだ原理をお教えしましょう。

 創造的生命のあらゆる部門においてその発展を司る者が必ず遭遇し適応しなければならないものに、潜在的な反抗的衝動があります。

その影響力が生ずるに至った始源をたどれば悠久の太古にさかのぼり、しかもそれは神の心を物質という形態での顕現を完遂させようとする天使群の努力の中から生じたものなのです。

 当時──はるか太古のことですが──その完遂へ向けての道程に関して天使群の間で意見が二つに分かれました。時間をかけるべきと主張する側と早く仕上げるべきと主張する側です。と言っても真っ向から対立したわけではありません。

その考え方には共通した部分がいろいろとありました。が、不一致から生じた混乱によって今日人間が〝悪〟と呼ぶ要素が生まれたのです。今すべてが完成へ向けて進行していることは事実です。

が、そのための活動の分野は無限といえるほど広大であり、当然それに要する期間は地上の年数で計算すれば無限といってもいいでしょう。

永遠の存在である神の目から見れば長いも短いもないのですが、川の流れと同じで、上から見下ろせば一つの流れであっても、これを始源からたどれば全体をカバーするに延々とした道のりとなります。

 造化の進展におけるその多様性が現時点の地球意識が機能している外的界層にいかに顕現しているかは貴殿にもお分かりでしょう。

と言うのは、地球の表面には一方においては今なお発達途上にある才能の蓄積を生み、他方においては進化の大機構における目的に寄与して今や生命の質の向上によっていっそう入り組んだより敏感な媒体が必要となったために捨てられてしまった、かつての天使の叡智の試練の贈(タマモノ)があふれている──否、地球全体がそれによって構成されていると言えるほどだからです。

遠い太古の遺物にもそのことが言えますが、他方、発展せんとする衝動の強さにとって媒体が不適当であることが表面化し、窮屈となり、生命の鼓動が小さくなり、無力化し、ついにその系統の進化活動が停止するに至ったことを物語るものがあります。


 現在化石として残っている巨大な哺乳動物や爬虫類は創造物としては高度の技術を要した素晴らしい産物でした。が、現時点から見るとお粗末で不格好な作品に見えます。

ただ見落としてならないのは、そうしたぎこちない創造物の中にも、今なお造化の過程にある生き生きとして進歩性に富む生命力の宿る神殿(媒体)の基礎を据える上で役に立ったものがあるということです。

そうした基礎工事に較べれば神殿のデザインがいかに改良されてきたかがお分かりになると思います。今貴殿らが立って眺めている階段の標高がいかに高いかもお分かりでしょう。

その位置からは、今日の地上の生命の基礎が据えられた時の地球と同じ段階にある新しい天体の造化に当たっている他の天使群の作業場が、はるか虚空の彼方に見晴らせるのです。

 そこで私のいうもう一つの原理はこうです。発展というのは必ず二重のコースが並行して進みます。

一つはすでに述べた通りの統一性から多様性へ向けるのコースですが、それと並行して必ず、その対であるところの霊的なものから物的なものへのコースが伴うということです。両者は常に並んで走る二人のランナーのようなものです。

一人は〝統一性から多様性へ〟のランナー、もう一人は〝霊から物質へ〟のランナーです。二人は常に同じペースで走らなければなりません。一方が他方を追い越すことは許されません。競争ではなく、同時にゴールインしなければならないのです。

 ところが、その造化の大業にたずさわる者の中にタイミングの読みを間違えて、まだゴールの標識に至らないうちに外部への進展を止め、その創造的生命力をふたたび霊の方向へ向かわせる操作をした者がいたのです。

その標識とは地上の科学者が〝宇宙〟と呼んでいるところの、創造的活動の物質的表現のことです。実はそれが宇宙の全てではありません。

もっと奥深い次元での内的顕現の物質的側面に過ぎません。その背後には造化を司る天使群が控え、意念の活性化によって、銀河の世界の恒星の大艦隊が首尾よく物質の大海原を航海し、目指す港に到着すればくるりと向きを変えて帰路につけるように、たゆみなくその操作に当たっているのです。

 しかし、帰路に着くといっても、来た時と同じ航路を逆戻りするのではありません。

と言うのは、疾風怒濤の荒波を乗り越えてきた航路において生命の多彩な表現の豊かさを身につけて、最初に船出した時はただの漕ぎ手と荷上げ人足に過ぎなかったのが今や一人ひとりが船長の資格を持ち、指導者としての霊格を身につけていますから、来た時よりはるかに陽光にあふれた航路を進むことになるのです。

 さて私が先ほど混乱が生じたと申し上げたのは、その造化の天使群のうちの一部が目指す港への到着を待ちきれずに旋回しようと企てたことです。

艦隊はすでに悠久の時を閲しながら航海してきて、その大海のど真ん中で帆をいっぱいに膨らませたまま旋回しようというのです。疾風と怒涛の真っ只中です。

各船体が大きく揺れ、激突し合って今にも沈没しかけるものもありました。そこに至って彼らもやはり順風を受けて進むべきであることを思い知らされ、ふたたび当初の目的地へ向きを戻したのでした。

そうしてようやく目指す港へ着いた時は船体は傷つき、帆は破れ、くぐり抜けてきた嵐の跡がそこかしこに見られるのでした。

 以上の物語の意味を説明しましょう。大海は無限絶対の心すなわち神が外部へ向けて顕現していく存在の場です。艦隊は神の命を受けて造化に当たる天使群によって創造された顕幽にまたがる宇宙です。

外部へ向けてのコースの目指す港は現在の地球が一部を占めている物的宇宙です。帰路のコースは貴殿らがいま向かいつつあるものです。

最も外部の地点まで辿り着き、そこの標識を今まさに折り返しつつあるところです。

今日地上に何かと不穏な状態が生じているのは、人類がその折り返し点に来ているから──不活潑な物質の港から活潑な外洋へと船出せんとしている、その旋回が原因です。

そのうち帆に風いっぱいに受けてぶじ帰路に着くことでしょう。そして士官も乗組員も上機嫌となり、艦隊が存在の場を波を切って進むにつれて、悠久の港に船出した母港へと近づきます。すでに光が射しはじめ神の微笑が見えるはるか遠い東の空に待ちうける歓待へ向けて進むにつれて、喜びと安らぎが次第に増していくのです。


──混乱が生じたのはいつ頃のことだったのでしょうか。つまり造化にたずさわる天使群が過ちを犯しはじめたのは進化のどの段階でのことだったのでしょうか。

 私にもたどることができないほど遥か遠い昔のことでした。さらに言えば、地上の視点からすれば〝読み間違えた〟ように思えるかもしれませんが、実際には必ずしもそうではないのです。私は貴殿からは見えないところに位置しておりますが、進歩の程度からいえば、ほんの一歩先を歩んでいるだけです。

私およびここにいる私の仲間たちには、その〝間違えた〟と言っているものも、目指す港に着いてみれば現在の吾々が考えているものとは異なったものであるように思えるのです。

我々が〝悪〟だとか〝不完全〟だとか決めつけ、そう思い込んでいるものも、そこへ行き着けばまるでミニチュアの小島の岩に打ち寄せる小さな波のようなもの──無限なる大海の真っ只中の小さな一滴にすぎないのです。

その波が砕けて(大げさに)しぶきを上げているように思えます。が、落ちゆくところは母なる海であり、しょせん元の大海は増えてもいなければ減ってもいないのです。

吾々はその真っ只中の一点の島に当たって砕け散ったカップ一杯ほどの水でもって海の深さを測ってはならず、豊かなその懐の威厳を推し測ってもならないように、無限なるもののほんの一かけらを取り上げて神の偉大なる叡智に評価を下してはなりません。

 あるとき一匹のアリが仲間に言いました。

 「なあ、オレたちはアリマキよりは頭がいいんだよな。あいつらを働かせてオレたちが要るものを作らせてるんだから・・・・・・」

 「そりゃあそうさ」と仲間は答えました。

ところがそこへアリ食いが現われて、そのアリたちの知恵も一瞬のうちに消えてしまいました。アリ食いは日なたで寝そべってこうつぶやきました。

「アリたちはあんなことを言ってやがったが、みろ、オレはその上を行ったじゃないか。だが、オレよりもっと大きな知恵をもったヤツがいるに違いないんだ・・・・・・」

 人間がアリと同じような考えでいても、宇宙にはもっと大きい、そしてそれに似合った力を具えた存在がいるのです。そういう大きな存在はせっかちな結論は下しません。それを知恵が足りないからだと考えてはなりません。 
                                アーネル ±



 4 通信の中断

 一九一八年三月二十五日  月曜日


 吾々がこれまでに述べたことは、言ってみれば神の衣のふさべりに触れた程度にすぎません。その衣は神の光と美をおおい隠すと同時に、それを明かすこともします。


貴殿が精神をお貸しくだされば吾々はもう少し深入りできそうです。お伝えしたいことはいくらでもあります。貴殿の伝達能力の範囲で可能なかぎりのことをお話してみましょう。
 そのことでお願いしておきたいのは、日常生活の身のまわりに生じる出来ごとの裏側に存在する神の意図を吾々が説き明かすのを、根気よく聞いていただきたいということです。霊界の者は人間の一人一人に生じる出来ごとに細かく通じております。

そこでこちらから手助けしようとするのですが、さまざまな障害のために見過さざるを得ないことがあります。吾々霊団の者としても、際限なく広がり何一つ行く手を遮るもののないエネルギーを秘めた生命の海の中にあっては、ほんの小さな存在にすぎません。

 物質となって顕現している宇宙と、全存在の源であり、収穫の時期にはすべての稔りが取り入れられる大中心との因果関係については、すでにいくつか述べました。

 ところで、吾々が例の王冠状の大ホールの中に立った時、大中心から流れくる強烈なエネルギーによる圧迫感を身辺に感じ取って、みな陶然となりました。

そこには静寂と威厳と美の中にことばがキリストとなって顕現していたのです。

ここのところによく注目してください。そのとき吾々はキリストの霊と、そのキリストを通して奥深き未知なる存在から流れ来たったものを目のあたりにしていたのです。

それはキリストを通して垣間みる以外には吾々にとってまったく未知の世界なのです。それが今キリストを通して吾々の同化吸収力を超えた重みとスケールをもって放射され、強烈なエネルギーの威圧を感じていたのです。

しかもキリストがすぐ目の前におられてその個性の内部と背後の光のいくばくかを吾々の教化と高揚とより完全なる喜びを味わわせるために放射されていることだけは確実に理解することができました。

 キリストは例の創造活動の大展覧が周囲に展開し終るまで完全な静止状態のまま立っておられました。その様子はあたかも創造の驚異を吾々に展示せんがために全能力を最高に緊張させておられるようでした。

それが終り、雄大な展覧が完了すると、そこで一息入れられました。するとその背後に玉座が出現し、同時に玉座の背後に得も言われぬ美しい天使の姿が次々と出現し、礼拝の姿勢でじっとしています。

するとキリストがくるりと背をこちらへ向け、七つの階段を上がって玉座に腰かけられました。するとその上がり段の前に通路が現われ、それが伸びて人類を展示してある区画を取り囲むように位置する天使群のところまで来ました。

すると天使の群れはその通路を通って玉座の前まで足を運び、そこで全員が立ち止まり、視線を地面へ向けました。

するとその背後の人類の区画の方角から歌声が響いてきました。遠い遠い虚空の腹部から出てくる壮大なダイヤペーソン(音域の全てが一つになった音)のようなハミングで、あたかも天体と天体との間にハーブの弦を張ったのかと思われるほどの壮大さでした。

その低音のハミングの調和のとれた響きはキリストの前に整列した天使群の一体化を象徴しておりました。

 そう見ていると、玉座の背後から一人の輝く大天使が現われ、キリストの右に立って、集結した天使群に語りかけました。

その言葉は吾々にも鮮明に聞き取ることができました。が、その間も遠き虚空の彼方から響いてくる歌声は止まず、その歌声の響く中でその大天使はキリストが全宇宙による愛を顕現されるために払われた犠牲が立証されたことを語って聞かされたのでした。

 原著者注──この時点で私の霊力が尽き、それ以降(まる一年間)交信が途絶えた。霊力が尽きたのは牧師としての仕事と第一次大戦に関連した仕事による私の過労のせいである。この二つの足枷は私には大きすぎ、このように突然、通信がストップしてしまった。

 (半月後の)四月十日の水曜日に妻がプランセットで通信していた中で父親にこう質問した。

 「ジョージ(オーエン)との通信はなぜストップしたのでしょうか」

 すると次のような返事が綴られた。

 「説明しよう。あのころジョージは疲労がひどく、そのうえ夏も近づいていて、自分でも通信を中止したい気持になっていた。たしかに休息が必要な状態になっており、これで良くなるだろう。これで通信が終わってしまったと思ってはいけない」


 訳者注──その疲労のせいと思われるが、この第五章の通信はこれまでになく読みづらく、従って訳しにくかった。

とくに最後の通信はオーエン自身のキリスト教的先入観がかなり混入しているのではないかと思われるふしがある。が、

かつてのナザレのイエスが死後その本来の霊的資質を取り戻し、地上経綸の主宰霊として大々的に活躍していることは、イムペレーターもシルバーバーチも異口同音に述べていることであり、本通信に出てくる〝キリストの顕現〟は、イムペレーターのいう〝高級神霊による讃仰の祈りのための会合〟、シルバーバーチのいう

〝指導霊ばかりの途方もない大集会〟などの催しにおいてもそのイエスが主宰していることを考え合わせると、民族・国家の違いによって大小さまざまな形はあるにしても、今なおひんぱんに行われているものと私は信じている。









シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話
スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳


第10章 神──大霊とは

【Q1】
神とは何でしょうか?


 神とはこういうものですと、ひとまとめにしてお見せすることはできません。無限なる存在だからです。いかなる言語も概念も説明図も有限です。小なるものが大なるものを包含することはできません。ただ、宇宙をご覧になれば私のいう大霊がいかなるものかが、いくらかはおわかりになるでしょう。

あくまで自然法則(注)によって規制され、千変万化の現象のすみずみに至るまで配剤が行き届いています。極微の世界から荘厳をきわめた極大の世界に至るまで、生を営み運動し呼吸するもの、要するに宇宙に存在するものすべてが、大自然の法則によってコントロールされています。

法則の支配を受けないものは何一つ存在しません。季節は一つ一つ順を追ってめぐり、地球は地軸に乗って回転し潮は満ち引きを繰り返します。どんな種をまいても芽を出すのは内部にあったものです。本性が出るのです。

法則は絶対です。新しい発見も、いかなるものであろうと、どこで行なわれようと、同じ法則によってコントロールされています。何一つ忘れ去られることはありません。何一つ見落とされることはありません。何一つ無視されることもありません。

 その法則として働いているものは一体何か?無限なる存在です。旧約聖書に出てくる巨人のような人間ではありません。復讐心に満ち、機嫌を損ねると地上に疫病をまき散らすような、そんな気まぐれで憤怒に燃えた神ではありません。歴史と進化のあとをたどれば、人類社会は未開から徐々に向上進化しており、その背後で働いている力が慈愛を志向する性質のものであることがわかります。

ですから、すべてを支配し、すべてを治め、すべてを監督し、しかもすべてのなかに存在する無限なる愛と英知は、みなさんが霊性の進化に伴って徐々に悟っていくものです。それを私は「大霊」と呼んでいるのです。
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 訳注──「法則」と訳したのは原語では「laws」となっている。最初に出ている「自然法則」は「natural laws」であるが、この用語には「物理的法則」の感じが強い。シルバーバーチが「laws」というときは倫理・道徳でいう「摂理」も含まれているので、その色彩が強いときは「摂理」を用いることにしている。ときには「摂理・法則」と訳すこともある。「man’s laws」となれば「人間が定めた法律」となる。


【Q2】
大霊はいずこにも存在する──私たち人間のすべてにも宿っているとおっしゃるのでしょうか?

 (顕幽にまたがる)全創造物として顕現している大霊の総和とは別個の大霊というものは存在しません。

 人間的存在としての神は、人間がこしらえたもの以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間がこしらえたもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火炎もうもうたる地獄も、人間がこしらえたもの以外には存在しません。そうしたものは限られた視野しかもたない人間の想像的産物に過ぎません。大霊は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。

 なぜなら、すべてが不変にして不滅、完璧にして全能の法則によって治められていることを悟れば、完全無欠の公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構のなかにあって、だれ一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。

【Q3】

大霊とはだれなのでしょうか、あるいは何なのでしょうか?愛の精神ないしは愛の情感でしょうか?

 大霊とは宇宙の自然法則のことです。顕幽にまたがる全生命の背後の創造力です。完全なる愛であり、完全なる英知です。大霊は全宇宙に瀰漫しています。あなた方がご存知のその小さな物的宇宙だけでなく、まだご覧になっていない宇宙にも瀰漫しています。

 大霊はすべての生命に充満しています。あらゆる存在の内部に息づいています。あらゆる法則、あらゆる摂理にも大霊が宿っています。生命であり、愛であり、すべてです。創造された私たちに、どうして創造者が叙述できましょう。無限の壮大さをもつものを、お粗末な概念しか描けない私たちにどうして叙述できましょう。

【Q4】

人類の歴史を通じて大霊が、個としての霊を通してではなく直接語りかけたことがありますか?

 大霊は人物ではありません。神々しい個的存在ではありません。個的存在を超えたものです。摂理と愛と英知と真理の究極的権化です。大霊はこの広大無辺の宇宙で絶えまなく作用している無限の知性です。

【Q5】

その大霊を幼い子どもに、どう説いて聞かせたらよいでしょうか?

 説く人みずからが、全生命の背後で働いている力について明確な認識をもっていれば、それは別にむずかしいことではありません。

 私だったら、大自然の仕組みの見事な芸術性に目を向けさせます。ダイヤモンドのような夜空の星に目を向けさせます。太陽のあの強烈な輝きと名月のあの幽玄な輝きに目を向けさせます。ささやきかけるようなそよ風、それになびいて揺れる松の林に目を向けさせます。さらさらと流れるせせらぎと怒涛の大海原に目を向けさせます。そうした大自然の一つ一つの営みが確固とした目的をもち、法則によって支配されていることを指摘します。

 そしてさらに、人間がこれまで自然界で発見したものはすべて、法則の枠内に収まること、自然界の生成発展も法則によって規制されていること、その全体に広大にして複雑な、それでいて調和のとれた一つのパターンがあること、全大宇宙のすみずみに至るまで秩序が行きわたっており、惑星も昆虫も嵐もそよ風も、その他ありとあらゆる生命活動が、いかに複雑をきわめていても、その秩序によって経綸されていることを説いて聞かせます。

 そう説いてから私は、その背後の力、すべてを支えているエネルギー、途方もなく大きい宇宙の全パノラマと、まだ人間に知られていない見えざる世界までも支配している霊妙な力、それを大霊と呼ぶのだと結びます。

【Q6】

あなたは大霊はすべてのものに宿る──全存在の根源であるから愛にも憎しみにも英知にも不道徳にも宿っているとおっしゃいます。そうなると、過ちを犯す人間も正しいことをする人間と同じように、大霊の摂理のなかで行動していることになります。愛と平和を説く者と同様に、憎悪と戦争を説く者も、摂理のなかで行動していることになります。すべてが大霊の摂理の一部である以上、その摂理に違反する者はいないことになってしまいますが、この矛盾をどう説明されますか?

 完全が存在する一方には、不完全も存在します。が、その不完全も完全の種子を宿しています。完全も、不完全から生まれるのです。完全は、完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。

 生きるということは進化することです。前に向かって進むことであり、上へ向かって努力することであり、発達であり開発であり発展であり進展です。あなた方のおっしゃる善も悪も、その進化の工程における途中の階梯に過ぎません。終わりではありません。

 あなた方は不完全な理解力でもって判断しておられます。その時点においては善であり、その時点においては悪だといっているに過ぎません。それはあなただけに通用する考えです。あなたと何の関わりもなければ、また別の判断をなさるでしょう。いずれにせよ、大霊は全存在に宿っています。

【Q7】

では、大霊は、地震にも責任を負うのでしょうか?

 大霊は法則です。万物を支配する摂理です。宇宙のどこにもその支配を受けないものは存在しません。地震、嵐、稲妻──こうしたものが地上の人間の頭脳を悩ませているのは承知しています。しかし、それらもみな、宇宙間の現象の一部です。宇宙も進化しているのです。そこで生活を営む生命が進化しているのと同じです。

 物質の世界は完全からはほど遠い存在です。しかもその完全は、いつまでたっても達成されることはありません。より高く、あくまでも高く進化していくものなのです。

【Q8】

ということは、大霊も進化しているということでしょうか?

 そうではありません。大霊は法則であり、その法則は完璧にできあがっています。が、物質の世界に顕現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。地球も進化していることを忘れてはいけません。地震や嵐や稲妻はその進化のあらわれです。地球は火焔と嵐のなかで誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。

 日没と日の出の美しさ、夜空のきらめく星座、たのしい小鳥のさえずりは大霊のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は、大霊とは関係ないというものではありません。そうしたものもすべて、大霊の絶対的法則によって営まれているのです。
 同じように、あなた方は、堕落した人間や他人に害を及ぼすような人間を、大霊はなんとかしてくれないのかとおっしゃいます。しかし、人間一人ひとりは、自由意志が与えられており、霊性の進化とともにその正しい活用法を身につけていきます。霊的進化の階梯を上がるにつれて、それだけ多くの自由意志が行使できるようになります。言い換えれば、現在のあなたの霊格があなたの限界ということになります。

 しかし、あなたも大霊の一部である以上、人生のあらゆる困難、あらゆる障害を克服することができます。霊は物質に勝ります。霊が王様で、物質は召使いです。霊がすべてに君臨しています。全生命のエッセンスです。霊は生命であり、生命は霊なのです。

【Q9】

大霊は、自分が創造した宇宙とは別個の存在なのでしょうか?

 そうではありません。宇宙は大霊の反映そのものです。つまり、大霊が宇宙組織となって顕現しているのです。
 ハエに人間界のことが理解できるでしょうか?魚が鳥の生活を理解できるでしょうか?犬に人間のような理性的思考ができるでしょうか?星が虚空を理解できるでしょうか?すべての存在を超えた大霊を、あなた方人間が理解できるはずはありません。

 しかし、あなた方も魂を開発することによって、一言も語らずとも、魂の静寂のなかにあって大霊と直接の交わりをもつことができるのです。そのときは、大霊とあなたとが一つであることを悟ります。それは言葉では言い表わせない体験です。あなたの、そして宇宙のすべての魂の静寂のなかにおいてのみ、味わえるのです。

【Q10】

霊が意識をそなえた個的存在となるには、物質の世界との接触が必要なのでしょうか?

 そうです。意識を獲得するためには、物的身体に宿って誕生し、物的体験を得なければなりません。「物(matter)」から「霊(spirit)」へと進化していくのです。つまり、物的身体との結合によって、物的人物像を通して自我を表現することが可能となります。「霊」は「物」に宿ることによって自我を意識するようになるのです。

【Q11】

となると、大霊は、われわれ人間を通して体験を得ているということでしょうか?

 そうではありません。あなた方の進化が、すでに完全であるものに影響を及ぼすことはありません。

【Q12】

でも、われわれは大霊を構成する分子です。部分の進化は全体に影響を及ぼすのではないでしょうか?

 それは、あなた方を通じて顕現している部分に影響を及ぼすだけです。それ自体も本来は完全です。が、あなた方一人ひとりを通じての顕現の仕方が完全ではないということです。霊それ自体は、もともと完全です。

宇宙を構成している根源的素材です。生命の息吹です。それがあなた方を通じて顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるために顕現の仕方も不完全なのです。

あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されます。あなた方が霊という別個の存在を進化させているのではありません。あなた方自身であるところの霊が顕現する媒体(注)を発達させているのです。

 訳注──これはQ10の回答との関連において理解しなければならない。原語で「bodies」となっているところから、シルバーバーチが「物(matter)」を地上の物質だけに限っていないことがわかる。幽体も霊体も、厳密な意味では「物的身体」である。

【Q13】

霊が自我を表現する媒体も、さまざまな形態の「物」でできているということでしょうか?

 そういうことです。法則は完全です。しかしあなた方は不完全であり、したがって完全な法則があなた方を通して働けないから、あなた方を通して顕現している法則が完全でないということになります。あなた方が完全へ近づくほど、より多く完全な法則があなた方を通して顕現するようになります。
 こう考えてください。光と鏡があって、鏡が光を反射している。鏡がお粗末なものであれば光のすべてを反射させることができない。その鏡を磨けば磨くほど、より多くの光を反射するようになります。要するに、すべての存在がよりいっそうの顕現を求めて、絶えまえまなく努力しているのです。前に私は、原石を砕きながらコツコツと宝石を磨いているのが人生だと申しあげたつもりです。原石はいらない、宝石だけがほしい、という虫のいい話は許されません。

【Q14】

でも、人間一人ひとりに、善いものと悪いものの概念があるのではないでしょうか?

 それは、その時点での話です。進化の途上において到達した一つの段階を表現しているだけです。魂がさらに向上すれば、その概念は捨て去られます。あるべき道から逸脱してしまった人間を通して完全な摂理・法則が顕現しようとして生じた、不完全な考えであったわけです。すべてが大切だと申しあげるのは、そこに理由があります。

【Q15】

それでは、大霊は原初においては善ではなかったということになるのでしょうか?

 私は、原初のことは何も知りません。終末のことも何一つ知りません。知っているのは、大霊は常に存在し、これからも常に存在し続けるということだけです。大霊の法則は完璧なかたちで機能しています。(今のたとえで言えば)あなたは完全な光をおもちです。
 ですが、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。それを「光は不完全だ。光は悪だ」とは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上界で「悪」と呼んでいるものは、不完全な段階で大霊を表現している〝不完全さ〟を意味しているに過ぎません。

Friday, September 4, 2026

シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話
スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




第9章 さまざまな問題

【Q1】
もしも放送番組でスピリチュアリズムについて語るとしたら、どのように説明されますか?

生命に「死」はないことを説きます。人間は不滅・不死の存在であること、死を悲しみ、頬を涙で濡らして別れた人が、無言ですぐ傍に立っていること、「無言で」といっても、人間の耳に聞こえないからであって、本人は自分の存在を知らせようと悲痛な声で、長いこと叫び続けるという事実を話します。

 むしろ、地上の人間のほうが死者、生命の実相に気づかずにいるという意味で、死んでいるのも同然であること、大霊が創造した宇宙の無限の美に目を閉じていることを説いて聞かせます。

 つまり、人間は無限の宇宙のなかのほんのかけらほどに過ぎない、地上という物質界のことしか感識できないようになっているのです。目に映じない大気中では、莫大な生命活動が繰り広げられています。魂の窓を開きさえすれば、その強大な霊的エネルギーを認識して強くたくましくなることでしょう。

 スピリチュアリズムは、大霊を共通の父として、世界の民族のすべてが霊的な兄弟であるという福音を説きます。その認識を妨げているのが、地上だけにしか通用しない概念、間違った教義のうえに建てられている教会、特権の占有、暴君の傲慢と権力、ムチを手にしたお粗末な支配者です。

 スピリチュアリズムの教えが広まるということは、民族間の反目がなくなることを意味します。国家間のバリア、人種差別、階級差別、肌色による差別の消滅を意味します。その他、教会、礼拝堂、寺院、モスク(イスラム教の教会)、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)などによる差別の消滅を意味します。なぜなら、それぞれ大霊の真理の一部を秘めており、他のいかなる宗教も、自分たちの宗教と根幹において矛盾しないことを理解するようになるからです。

【Q2】
幽界を脱して霊界へおもむいた霊が、地上界と通信をするときは、幽界まで降りてくるのでしょうか?

 いえいえ、そうではありません。メッセージを中継してくれる霊を見つけます。いわば、中継のための道具を採用するわけですが、道具とはいえ、霊性が幽界のレベルを超えているだけでなく、それ以上のものが求められます。

 物質界の次の段階である幽界にいるものだけが、地上界と通信できると思ってはいけません。その先の上層界にいる者でも、直接の交信が可能です。ただし、上層階のバイブレーションを中継できる霊媒を見つけることができるか否かにかかっています。

【Q3】

霊は、睡眠中の私たちの意識に、きちんと印象づけられたかどうかがわかるものでしょうか?

 いいえ、必ずしもわかるとは限りません。こうした交霊会においても、どの程度のことが伝えられたかは、その時点ではわからないものです。平常時に、こちらから指導しようとして意念を送った場合でも同じです。

 訳注──シルバーバーチと霊媒のバーバネルとの関係に限っていえば、バーバネルが母親の胎内に宿った瞬間から関わり、その成長の過程をつぶさに観察し、自分の専属霊媒として操作方法を研究したので、意図したことが一〇〇%伝わっていると明言している。

 これほどまで用意周到に準備した通信霊と霊媒の関係は、他に例を見ないもので、それだけに霊的な人類史におけるシルバーバーチの出現の意義は想像以上に大きいものと思われる。訳者の直観的判断では、その霊的教訓の真価が本格的に衆目を集めるようになるのは、今世紀半ばから後半にかけてではないかと推察している。

【Q4】

霊的通信のなかでも、自動書記による通信がいちばん頼りにならないように思えるのですが、なぜでしょうか?

 すべては霊媒の能力次第です。未熟な霊媒ですと、地上界で行き交っている想念と霊界から送られてくる想念との区別ができないのです。霊的能力の発達程度の問題であって、発達すればするほど、地上界の想念を排除し、霊界の影響力を受けやすくなるものです。道具が未熟なのに、私たちをとがめてはいけません。霊界側は、そちらが用意してくれる道具で仕事をするしかないのです。

【Q6】

もしも善人が、死後存続の真理を聞かされていながら信じなかった場合、そちらへ行って何か報いがあるのでしょうか?

 善人とか悪人とかの意味が私にはわかりませんが、肝心なことは、どういう人生を送ったかということ、どれほど人のために役立つことをしたかということ、潜在する大霊の資質を開発する機会をどれだけもったかということです。それがすべてです。

 死後存続の事実は、知らないよりは知っていたほうがいいでしょう。が、最後の試金石は、どのような日常生活を送ったかということです。

【Q6】

霊的真理を知った者は、この現代社会をどう生きていくべきでしょうか?

 真理を知った者は、とりこし苦労をするようなことがあってはなりません。これまで地上界にはトラブルが絶えませんでしたが、社会の秩序が霊的原理のうえに築かれるようになるまでは、これからもトラブルは絶えないでしょう。物的原理のうえに築こうとすることは、砂上に楼閣を築こうとするようなものです。内部に争いごとがありながら、外部に平和が得られるわけがありません。憎しみと暴力と敵意と貪欲と怠惰に溢れた世界に、どうして協調的生活があり得ましょう?

 愛とは、摂理を成就させることです。地上のすべての人間が、互いに兄弟であり姉妹であること、そして人類という大家族は、霊的な親類知己によって構成されていることを知ったみなさんは、互いに睦みあうことができなくてはなりません。

 大霊がその神性の一部を全存在に植えつけて、霊の鎖が全地球を取り巻いているからこそ、それは可能なのです。

 しかし現在のところ、人類は、自分たちが基本的には霊的存在であり、一人として孤立無援の人間はいないこと、進化も退歩も共同体としての運命をたどるという、不変の事実の認識が欠けています。

 それを認識することは、あなた方の責任です。いつも申しあげているとおり、知識を手にした者は、それをいかに実践に生かすかについての責任をとらされます。霊的真理の存在を知った以上は、つまり霊力というものが働いていることを知ったら、もはや今日や明日のことで不安を抱くようであってはなりません。

 あなたの霊が危害を被ることはありません。あなたが手にした真理、あなたに啓示された真理に忠実に生きていれば、いかなる試練の業火に遭っても、やけどを負うことはありません。地上生活で生じるいかなる災難によっても、霊的に傷ついたり打ちひしがれたりすることはありません。条件さえ整えば、霊力がどれほどのことを生み出すことができるかを示すものなら、日常生活のなかにいくらでも見出すことができます。

 残念ながら、こうした霊的真理を手にした人は少数であり、多数ではありません。大半の人間は物的財産こそ、武力こそ、支配力こそ、傍若無人な生き方こそ、奴隷を使役することこそ、力があることの証拠だと思い込んでいます。

 しかし、大霊の子は、生まれながらにして、身体・精神・霊的に自由でなければならないのです。こうした真理が徐々に広がり、すみずみまで浸透していくにつれて、地球人はより大きな自由のなかで生き、日々の生活に光沢も増すことでしょう。神性を帯びた進化の力がゆっくりと、そして少しずつ顕現していきます。妨害することはできます。遅らせることもできます。しかし、そのために大霊が、その意志を変更することは絶対にありません。

 もしも人間の力が、大霊の意志を凌駕することがあるとしたら、地球はとっくの昔に壊滅していたことでしょう。霊は物質に勝ります。大霊が宇宙を絶対的に支配しているのです。その大霊の真理を手にしたあなた方に、元気を出しなさい、真っ直ぐに前を向いて歩きなさい、地上にも死後の世界にも、おそれるものは何一つありません、と申しあげているのはそのためです。道は必ず開けます。

【Q7】

霊の立場から見て、死体は火葬がよいと思われますか?

 はい、常々そのほうがよいと思っています。焼却してしまったほうが、自分は肉体だという観念に終止符を打つ効果があるからです。

【Q8】

夢はどう理解したらよいのでしょう?なかには霊界旅行の記憶とはいえないものがあるように思えますが‥‥。

 夢は、実に多様です。しばらく脳が沈黙している間に、残像が反応する純粋に物質的なものもありますし、食べたものの影響が反応する場合もあります。それとは別に、霊界での体験の記憶を断片的に思い出す場合があります。なぜ歪んだかたちで見えるのかといえば、霊界へ来ている間は物的束縛から解放されていて、その間に見たものを脳という窮屈な機能で再現しようとするからです。

【Q9】
睡眠中は霊体が肉体から脱け出て、肉体はいわば空き家になるわけですが、その肉体に地縛霊が入り込んだり憑依したりしないのはなぜですか?背後霊のだれかが〝当番〟で警護にあたるのでしょうか?

 そのようなことにならないように自然法則ができあがっているからであって、憑依されるような条件を宿していないかぎり、低級霊に憑依されることはあり得ません。霊は身体のなかにいるのではありません。霊と身体とはバイブレーションが違うからです。あなた(本当のあなた)は、その肉体のなかにいるのではありません。心臓と肺の間に押し込められているのではありません。あなたという存在は、肉体という地上の機械をとおして自我を表現している〝意識〟です。

睡眠中は、その意識が肉体をとおしてではなく、霊体をとおして自我を表現しているのであり、したがって、その間は霊的階層で生活していることになるわけです。他の霊が、あなたの肉体に入り込んでくるとか、こないとかの問題は生じません。寝入ると同時にドアが開き、だれかがのこのこ入ってきてドアを閉める、といった図を想像してはいけません。そんなものではありません。その間も自我は肉体を管理しながらも、意識は別の次元で表現しており、肉体に戻るべき時間がくるとすぐに意識が戻ります。

【Q10】

すると、憑依された場合は、霊的自我が憑依することを許したということでしょうか?

 そうではなくて、憑依を可能にする条件を、当人みずからがこしらえていたということです。あくまでも当人の問題です。

 たとえば、あなた方人間が、愛と献身の心を宿せば、それに感応して高級霊が引き寄せられます。それと同じ法則です。親和力の法則は善にのみ働くのではありません。悪にも働くのです。最大の福祉に役立つ法則でも、悪用することができるのです。高く上がっただけ、それだけ下がることもありますし、堕落しただけ、それだけ高尚な次元まで霊性を高めることもできます。

【Q11】

人類は自然界の恵みを破壊し、もはや、とりかえしのつかないものがたくさんあることはお認めになると思いますが、地下資源も同じで、地球と言う人類の住みかも心細くなってきました。

 でも、地球には莫大な潜在資源が秘められているのですよ。これから明かされていくもの、発見されていくものがたくさんあります。人類は、進化の最終局面に到達したのではありません。まだまだ初期の段階です。

 霊的真理を理解した人は、決して絶望しません。その楽観主義は、啓示された知識から生まれます。その知識を手にした人は、絶対的な霊力に全幅の信頼をおくことができます。

 その長い歴史を通じて人類は、幾多の災厄に遭ってきましたが、それを見事に生き抜いてきました。気づかないうちに進歩しています。進化は自然法則の一環ですから、これからも進化し続けます。霊的進化も、その一環です。

【Q12】

地上生活を何度か体験した後、人間は究極的にどうなるのでしょうか?

 究極の運命ですか?私は「究極」のことは何も知りません。始まりと終わりについては、私はどう扱っていいのかわかりません。生命には限りがないのです。進化も無限に続くのです。サイクルには、終わりも始まりもありません。生成発展は、無限に続くのです。

【Q13】

あなたは霊側としてよけいな手出しができず、人間の判断に任せるしかないことがあるとおっしゃったことがあります。つまり、自由意志による選択に任せるということですが、それが機械のなかにスパナを投げ入れる(予定の計画をぶち壊しにする)ことになったらどうなりますか?

 自由といっても、ある一定限度内でのことで、無制限の自由というのはあり得ません。霊的成長と、進化に伴う情況によって条件づけられ制約された自由意志です。何でも好きにできるという、まったく制約のない完全な自由意志ではありません。

【Q14】

われわれ人間が投げ入れるスパナが、機械全体に及ぼす影響はたいしたことはないという見方も可能ではないでしょうか?

 スパナを投げ入れて機械の一部を破壊することはできますが、全部をぶち壊すことはできません。及ぼす影響は、全体のごく一部だということです。大霊の意図を根本から台無しにしてしまう、あるいは大霊の計画を行き詰まらせるほどのダメージを与える手段をもっている人は、地上世界にはいません。

【Q15】

地上界にはさまざまな思想・信仰がありますが、どう対処すべきでしょか?スピリチュアリズムに批判的な者は自分たちの信仰を押しつけてきますが、寛容的な態度でのぞむべきでしょうか?それとも徹底的に排除して〝わが道〟を行くべきでしょうか?私自身の考えとしては、キリスト教の活動に関しては寛容的であるべきですが、思想・信仰に関してはスピリチュアリズム的なものを、こちらから押しつけていくべきだと思うのです。スピリチュアリズムは、信仰薄き者に宗教心を植えつけるうえで格好のものだと考えます。

 「スピリチュアリズム」といった用語は、ただの言葉に過ぎません。私たちは、言葉には関心がありません。言葉というのは、観念や真理を表現する道具に過ぎません。私たちとしては、霊の力(あなた方のいう神、私のいう大霊の力)が地上のどこでもよいから根づいてくれることを願っているのです。私たちが行なうことの背後には、必ずそういう目的があるのです。

 なぜ霊力を根づかせたいか?それは魂の琴線にふれさせ、本当の意味で生き甲斐を感じさせてあげたいからです。それがどこであってもよいのです。教会のなかであっても、教会の外であっても、家庭内であってもよいのです。目標とするのは個々人の魂です。手の届くかぎりのところで行ないます。

 物的な眠りから覚める段階に来ている者のほうから、あなた方のもとを訪れる場合もあるでしょうし、あなた方のほうから訪れて、霊的真理の種子を植えつけることもできるでしょう。もしも効を奏さなかったら、涙を流してあげなさい───自分のためではなく、種子が根づかなかった人のためにです。せっかくのチャンスなのに、それが生かせなかったのですから…。しかし、根づく条件の整った人は、そこここにいるものです。やがて芽を出し、花を咲かせ、ついには美と愛の結晶を実らせます。神性を帯びた種子だからです。そのときはじめて、真の自我に目覚めたことになるのです。

 地上生活のそもそもの目的は、人間的存在の全側面、すなわち物的資質、精神的資質、霊的資質を発現することであり、それがまんべんなく発現されるまでは、自己実現ができているとはいえません。肉体と精神のみで生きているだけで、幻影を追い求め、実在を知らずにいます。それが霊性に目覚め始めると、霊的資質の開発と冒険へのドアを開くことになります。それが地上に誕生した、そもそもの目的です。魂が、真の自我を見出すためです。

 ですから、大切なのは、どういう場で真理に目覚めるかではなくて、真理に目覚めるということ、そのことです。地上生活に苦痛と悩みが絶えないのはそのためです。つまり、もはや物的なものでは解決のつかない窮地に追い詰められ、霊的なものを受け入れる用意が整うのです。バイブルにも「風はおのが好むところに吹く」(『ヨハネ3』)とあります。どこでもよろしい、吹きたいところを吹いていればよろしい。受け入れる者に出会えば、精いっぱい自分を役立てることです。

【Q16】

物欲や権勢欲は、死後の世界でも存在するのでしょうか?

 死後の世界でも、幽界の低階層では、あいかわらず物欲と権勢欲が残っています。忘れてならないのは、死ぬということは肉体がなくなるだけで、霊的には生前と少しも変わっていないということです。しかも地上と違って、死後の世界は思念が実体をもつ世界です。あなたの考えることがリアルであり、実体があるのです。

 やっかいなのは、地上時代の物欲や権勢欲が鎖となって、地球圏へ縛りつけることです。物的に死んだのですが、霊的にも死んでいて、こちらの世界よりもそちらの世界のほうに近い存在となっています。困ったことに、そういう存在が、地上界の欲望と権力欲にとりつかれた人間を、ますます深みに引きずり込んでいくのです。

【Q17】

霊媒の口を借りてしゃべるとき、その身体のなかに入るのでしょうか?

 必ずしも、そうではありません。たいていは霊媒のオーラをとおしてしゃべります。

【Q18】

霊媒の発声器官を利用することもあるのでしょうか?

 あります。現に今の私は、霊媒の発声器官を使用しています。私自身の発声器官をこしらえることもできないことはないのですが、エネルギーの無駄になります。今の私は、霊媒の潜在意識をコントロールしています。これで全身の機能をコントロールすることができます。

 つまり、霊媒の意識と入れかわっているわけで、霊媒の同意を得たうえでやっていることです。こうしているときは、霊媒の身体をお預かりしているわけで、用事が終わるとオーラから脱け出ます。すると、霊媒本人の意識が戻って、ふだんのコントロールを再開します。

【Q19】

霊媒の霊的身体も入れかわっているのでしょうか?

 ときどき入れかわることがありますが、その霊的身体は、常に物的身体とつながっています。

【Q20】

古い屋敷で修道士が歩きまわる足音のような、意味もなく繰り返される機械的な現象は、何が原因でしょうか?

 霊によって引き起こされるものもありますが、今おっしゃったような現象は、地上に残した強烈な意念の幽質の印象が引き起こしています。しかし、幽霊騒ぎは、大体において地縛霊の仕業と思ってよろしい。

【Q21】

催眠状態での退行現象は、過去世の証拠でしょうか、それとも憑依現象でしょうか?

 退行現象において前世との接触を得ることは、時として可能です。しかし、語られることが必ずしも前世であるとは限りません。

 精神の潜在的可能性は莫大なもので、その全貌に通じた人はまだ一人もいません。創造力もあります。潜在的な願望もあります。一時的に霊に憑依される可能性もあります。こうしたことを全部、考慮に入れなくてはいけません。さらには、いわゆる幽体離脱の場合もありますし、催眠的トランス状態で飛び込んでくる一連の印象に過ぎないこともあります。そうしたケースでは、過去世を述べているとはいえません。

【Q22】

神童と呼ばれる子どもについて、ご説明願えませんか?

 三つのケースがあります。過去世の記憶をそのままもちこして再生した場合が一つ。もう一つは、本人は無意識であっても霊的影響に鋭敏で、霊界からの教養や英知や真理をそっくり受け取ることができる場合。そして三つめが、人類の進化の先駆けとしての、いわゆる天才です。

【Q23】

蚊によって伝染するマラリヤや眠り病などを予防するために、殺虫剤をスプレーするのは間違っているでしょうか?

 すべての生命を尊重しなければならないことはいうまでもありませんが、これは動機と程度問題です。ある事情で病気をまん延させる悪条件がそろっている場合は、スプレーを使用する動機は正しいでしょう。生命への敬意も、それが繁殖し過ぎて危害を及ぼすことが間違いなければ、程度をやわらげざるを得ないでしょう。同じように、ナンキンムシが繁殖した家屋には、殺虫剤をスプレーして生活しやすくしてあげるのは間違ってはいません。

【Q24】

直観とは何でしょうか?

 直観(注)とは、霊が直接的に働く手段です。通常の地上的な推論の過程を飛び越えて、電光石火の速さで結論を導きます。同じ問題について、ふつうならじっくりと時間と思索を重ねた末に到達するものを一瞬のうちに入手する、一種のインスピレーションです。

 訳注──英語では「Intuition」となっていて、同義語に近いものとしては「虫の知らせ」を意味する「hunch」くらいしか思い浮かばないが、日本語にはこの「直観」のほかに、「直感」「直覚」「勘」というように、意味が微妙に異なる表現がいくつもある。ここで「直観」としたのは、シルバーバーチの答えがまさにそれを意味しているからで、「直覚」もこれに入るであろう。「直感」とか「勘」は、必ずしも霊的なインスピレーションではなく、長年の経験から生まれたものであろう。

【Q25】

進化の極致において神と合一したとき、われわれは個性を失ってしまうのでしょうか?

 進化の極致は涅槃(ニルバーナ)に到達することではありません。霊的進化は、個性の無限の開発へ向けての歩みです。個性が薄らいでいくのではなく、逆に鮮烈になっていくのです。潜在能力が開発され、より多くの知識を身につけ、性格が強化され、神性がますます発揮されていきます。大霊は無限の存在ですから、開発は無限に続きます。完全というものは達成されません。完全へ向けての無限の努力が続くのです。自分を失うことは永遠にありません。逆に、永遠に自分を発見していくのです。

【Q26】

その極致を言語で説明することはできませんか?

 できません。なぜなら、そこは言語を超越した境地であり、階層だからです。意識と直覚だけの次元で成り立っている世界であり、そこへ到達してみないと理解できません。大いなる意識の海に、個性を埋没してしまうのではありません。大海の深淵が、あなたの個性のなかに包み込まれていくのです。

【Q27】

地上で孤独な人生を強いられた人は、死後も孤独な人生を送ることになるのでしょうか?

 いえ、いえ、そんなことはありません。摂理は常に完璧です。魂は地上生活の試練の報奨をみずから受け、怠惰をみずから罰するのです。愛と情愛で結ばれた者たちは死後、必ず再会します。魂が自然に引きあうのです。

【Q28】
死後低級界へおもむく者は、どんな状態におかれるのでしょうか?睡眠中に訪れた階層(多分、低級界だと思うのですが)での体験が役に立つのでしょうか?

 低級界へおもむくような人間が、睡眠中に訪れる階層はやはり低級界ですから、その間の記憶は役に立ちません。環境が地上界とそっくりですから…。

【Q29】

物質化現象は、心霊現象としては高級でしょうか、低級でしょうか?

 一つの魂にしたがって幸せをもたらす者、あるいは霊的摂理の知識を授けるきっかけとなるものは、どんなものでも役に立ったことになります。高級とか低級とかの判定を下してはいけません。それを必要としている人の役に立ったか否かで評価すべきです。

【Q30】

心霊現象は、霊媒が霊的に向上するにしたがって質がよくなるのでしょうか?

 生活の質が高まるほど、その霊媒による現象の質が高まるのが常です。自分を役立てるためなら、喜んで自分を犠牲にする覚悟ができていない人間からは、価値あるものは生まれません。私たちはみな、そのことを学ぶために地上へ戻ってくるのではないでしょうか?

【Q31】

現代になって、物理現象が見られなくなったのは、なぜでしょうか?

 それは物理的進化の法則だけでなく、霊的進化の法則もあるからです。地上界におけるものの考え方の風潮が変わったのです。物理現象は、霊的実在を物理的に証明しなければ承知してくれない時代には必要でした。当時の科学者は、自分の専門の範疇になじまないものは受け入れる準備ができていなかったのです。

 現代の地上人類は、核分裂によって生じる「功」と「罪」の双方を体験しています。唯物主義の基盤が完全に崩れてしまいました。これ以上分解できないと思っていた原子が、どんどん分解されていって、物理学者も物質が個体ではないこと、実在は不可視の世界にあることを受け入れるようになりました。

 そうしたものの考え方の変化に呼応して、霊的治療が発達し普及しています。条件がそろったときは、物理的な医療に勝るエネルギーの存在を見せつけます。

【Q32】

花や植物にも意識があるのでしょうか?

 あなた方が考える意識とは異なりますが、人間のバイブレーションとは次元の異なるバイブレーションに反応します。偶然の体験でその秘密を知り、それを応用して花や野菜や植物の栽培で成功している人が大勢います。

【Q33】

「精神一到何事か成らざらん」の気概でのぞめば、何でもかなえられますか?

 その質問には、条件つきでないとお答えできません。望むものが何でもかなえられるわけがないからです。人間にできることには、自然法則によって一定の制約があります。もしなかったら、地球を含む宇宙全体が基盤としている大原則を、破壊したり止めたりすることができることになります。

ことわざの主旨に反対しているわけではありません。ただ、ほしいものが何でもかなえられるかに受けとるのは愚かです。極端な例ですが、太陽がほしいと思っても手に入るわけがありません。

【Q34】

道徳・不道徳は、何を基準に判断すべきでしょうか?

 あなた方地上の人間から見て道徳的に思えることが、私たち霊界の者にはきわめて不道徳に思えることがあります。生命観の違いが、その違いを生むのです。私に言わせれば、道徳的であるということは、自分が悟った最高の原理に照らして行動しているという理念を信念として生きることです。それは、たとえば人にやさしくするということであり、人の役に立つということであり、哀れみの心を忘れないということです。

 またそれは、いかなる意味においても人を傷つけないということであり、人の進歩を妨げないということであり、自分の理想としている真理に忠実でなかったと、後になって恥じ入るような振る舞いをしないということです。

 以上が、私が理解している道徳性、私だったらこう説くと思う道徳観です。地上界の道徳性が高いか低いかは、あなた方人間がそれをどう解釈するかによります。本質的に、経済的に、霊的に見て向上している面もありますが、遅れている面もあります。進化というのは一直線に進むものではないのです。

【Q35】

核エネルギーは、善でしょうか悪でしょうか?

 私は、核エネルギーそのものを悪だとは見ていません。その使用法によっては悪になりうるものを秘めていることは事実ですが、同時に莫大な恩恵をもたらすものを秘めています。それは、それを管理する者の判断にかかっているということです。

【Q36】

すべての道は神に通じる、つまり同じ場所に行き着くのでしょうか?

 同じ「場所」という用語が問題です。私だったら、すべての道は創造の大始原としての神に通じる、と表現します。

 あなた方の言う「神」、私の言う「大霊」は無限の存在です。となれば、完全なる愛と英知そのものである大霊へ通じる道は、無限に存在することになります。

 大霊は生命であり、生命は霊です。生命を授かったものはすべて、誕生の宿命的遺産の一部として神性を秘めています。そして、地球という惑星で生を営む存在はすべて、永遠の巡礼の旅を歩んでいるのであり、それは究極においては大霊という一つのゴールへ向かっているのです。

 どういう道を歩むかは問いません。巡礼者が正直な目的意識をもち、真摯に自己実現を求め、授かった資質を発揮して、あなたという存在がいたことで地球が少しでも豊かになったと言われるような人生を生きることです。

【Q37】

霊界にもプライバシーはあるのでしょうか?

 ありません。何一つ隠すことができません。すべてが知れるのです。ということは、何一つ恥じることがないということでもあります。地上界では騙すこともできますし、裏切ることもできます。姓名を変えることも法的に可能です。しかし、個性を変えることはできません。

【Q38】

霊界側がスピリチュアリズムを広めようとしておられるのであれば、なぜマスコミなどを通じて宣伝活動をなさらないのでしょうか?
 おやおや、これは驚きました。あなたはおわかりになっていないようですね。知識が広まるのは結構なことであるに決まっています。ですが、宣伝という手段を用いることにどれほどの価値があるのでしょう?魂の琴線にふれるということがどういうことかを、あなたはご存じないようです。霊界側では霊界側なりの手段を用意しています。計画はできているのです。あとは、地上界のみなさんの協力なのです。

 といって、私たちは魔法の杖を振るわけではありません。神秘的な処方箋があるわけではありません。私たちがすることは、宇宙の霊的摂理を啓示することだけです。その摂理と出会った人の魂が感動を覚え、自分も大霊の一部であり、したがって、自分を通じて大霊が働くこともあるということを理解していただくことです。それがいわば、霊界側の宣伝活動であり、これは今後とも決してやめることはありません。ブームという一時的な大騒ぎによってではなく、魂と心情に訴える、つまり本来の自分である霊的自我に訴えることによって、ゆっくりと着実に広めてまいります。

【Q39】

予知夢は、霊界から「送り届けられる」のでしょうか?

 そういう場合もあります。背後霊が危険を察知して送り届けるのです。が、本人自身が肉体の束縛から解き放たれている間に未来の出来事を察知して、夢のかたちでもち帰る場合もあります。

【Q40】

有色人種と白人との結婚は好ましくないことでしょうか?

 私も有色人種です。これ以上申しあげる必要があるでしょうか?地上では色素、つまり肌の色で人間の優劣が決まるかに考えがちですが、これは断じて間違いです。

 人のために自分を役立てたその仕事の価値が高い人ほど、優秀なのです。それ以外に基準はありません。肌の色が白いから、黄色いから、赤いから、あるいは黒いからといって、霊的に上でもなければ下でもありません。肌の色は、魂の程度を反映するものではありません。地上世界では、とかく永遠なるものを物的基準で判断しようとしがちですが、永遠不変の基準は一つしかありません。すなわち、霊性です。

 すべての民族、あらゆる民族、あらゆる肌色の人間が大霊の子であり、全体として完全な調和を構成するようになっています。

 大自然の見事なわざをご覧なさい。広大な花園に無数の色彩をした花々が咲き乱れていても、ひとかけらの不調和も不自然さも見られません。すべての肌色の人間が融合しあったとき、そこに完璧な人種が生まれます。

【Q41】

宗教とは何でしょうか?
 宗教とは、同胞に奉仕することによって大霊に奉仕することです。本来の宗教は、地上の世俗的概念とはほとんど関係ありません。人間の魂に内在する神性を、地上生活において発揮させるものでなければなりません。自分と大霊とのつながり、そして自分と同胞とのつながりを強化するものでなければなりません。

自分一人の世界に閉じこもらずに、広く同胞のために自分を役立てるように導くものでなければなりません。宗教とは、人のために自分を役立てることであり、自分を役立てることが、すなわち宗教です。

 それ以外のこと(教義とか儀式など)は、どうでもよろしい。肉体が朽ちてしまえば、それまで後生大事にしていたもの、そのために争うことまでした教義のすべてが、空虚で無価値で無意味で無目的であったことを知ります。

魂の成長を微塵も助長していないからです。魂の成長は、自分を役立てることによってのみ促進されるのです。他人のために自分を忘れているうちに、大きさと強さを増すのです。

 これまで地上には、あまりに長い間、あまりに多くの宗教が存在し、それぞれに異なった教えを説いてきました。しかし、その宗教が最も大事にしてきたものは、実質的には何の価値もありません。過去において流血・虐待・手足の切断・火刑といった狂気の沙汰まで生んだ教義や信条への忠誠心は、人間の霊性を一センチたりとも増していません。

 それどころか、いたずらに人類を分裂させ、障壁をこしらえ、国家間、さらには家族間にも無用の対立関係を生みました。論争のタネともなっています。分裂と不和を助長することばかりを行なってきました。大霊の子らと一つに結びつけることに失敗しています。私が宗教的建造物や組織としての宗教に関心がないのは、そのためです。主義・主張はどうでもよいのです。大切なのは、日常の行ないです。

【Q42】

青少年の宗教教育は、どうあるべきでしょうか?

 そもそも教育とは何かといえば、住んでいる世界の価値ある住民となるために必要な知識を授けることです。宇宙の自然法則を教える必要があります。授かっている才能を知らしめる必要があります。それを開発することが、自分のみならず、社会全体への貢献につながるからです。

 さて、お尋ねの宗教教育の問題ですが、若い魂がこれから始まる人生の闘争に堂々と立ち向かい打ち克っていくための備えとして、最も重大な役割を果たすものです。青少年もすべて大霊の一部であり、本質的には霊的存在ですから、「自由」がもたらすあらゆる恩恵のなかで生きていくべく意図されているのです。

その魂を幼いうちから小さな枠に押し込めてしまうということは、自由という、霊的存在としての基本的権利を否定することになります。鎖につなぐことであり、霊的奴隷にしてしまうことです。

 自由であるということが、教育の最も大切な点です。私の考えでは、宗教の真のあり方について学んだ子どもは、自由のなかで成長します。宗教を教える者が、私的な魂胆に基づいた指導をして、古い神話や寓話を詰め込むようなことをすれば、それは子どもの精神の泉を汚すことになります。もしも知性が十分に発達していれば反発を覚えるはずの間違った教義を、判断力のない幼い時期から教え込むことは、宗教にとって、教育にとって、そして何よりも子ども自身にとって不幸なことです。

 そうした不自然な教育は、必ず反動を生みます。抵抗する術を知らない年齢で間違った指導をされた魂は、いずれそうした教育に背を向けます。若い芽は、真っ直ぐに伸びるように意図されています。その芽に間違った水を与えれば、霊的存在の根そのものを傷めることになり、成長が阻害されます。


【Q43】

もう一度やり直すチャンスは、だれにでも与えられているのでしょうか?

 もちろんです。やり直すチャンスが与えられないとしたら、宇宙は愛と公正によって支配されていないことになります。もしも地上人生の物語が墓場で一巻の終わりになるとしたら、地上世界は矛盾だらけで、せっかく送った人生への報奨も罰も与えられない人が無数にいることになります。

 地上界の人間にお届けしようと、私たちが奮闘している知識のなかでも最高に輝いているのは、墓場で人生が終わるのではないこと、苦難の生涯を送った人や挫折の人生に終わった人にも、埋め合わせとやり直しのチャンスが与えられ、地上界のために貢献しながら逆賊の汚名を着せられた人にも、悔し涙をぬぐうチャンスが与えられるという知識です。

 生命は、死後にも続くのです。続くからこそ、内部の資質(地上での発現を妨げられた資質)を改めて発現させるチャンスが与えられますし、逆に、愚かにも地上で威張り散らし、自然の摂理も逃れられるのだと思い込んでいた者は、その誤りを矯正するための試練を体験しなければなりません。

 そうした事実を知って、少しもおそれを抱く必要はありません。他人を思いやり、慎み深い生活を送っている人は、何一つ怖がることはありません。怖がるべきは、利己的な人生を送っている人たちです。

【Q44】

こうした交霊会を開くに当たっては、前もって準備をなさることがあるのでしょうか?

 あります。不純な影響力を排除しなければなりません。私たち霊団のオーラと、あなた方地上のメンバーのオーラとの融合を図らねばなりません。最高の成果が得られるように、あらゆる要素を点検しないといけません。

 その目的に向かって、高度な組織体制で交霊会にのぞみます。

【Q45】

交霊会を台無しにしようとして侵入する邪霊を、排除する手段も講じるのでしょうか?

 もちろんです。そのかなめとなるのは、地上のメンバーのすべてが、愛の心に満たされることです。そうすれば、愛に満たされた霊しか近づきません。

【Q46】

霊的知識の程度は受け入れ能力によって決まるそうですが、そうなると、霊的に受け入れ準備のできていない人間には、霊媒を通して「証拠」を提供するのが賢明ということになるのでしょうか?
 証拠を手にすることと魂の成長とは、何の関係もありません。受け入れる能力によって決まるという意味は、真理を理解するために霊界のどの次元まで入り込めるかで決まるという意味です。いい換えれば、その人の魂の発達程度によるということであって、そのことと証拠を手にするということとを混同してはなりません。両者は必ずしも連携しません。生命が死後も続くという証拠を十分に手にしていながら、その魂の霊性がまったく開発されていない人がいるものです。

【Q47】

霊の僕として働く者は、安楽な生活を期待してはならないというのは事実でしょうか?

 地上に霊的真理を根づかせる仕事にたずさわっている人はみな、なまやさしい道ではないことを実感しているに相違ありません。もしも楽に達成されるものであれば、たいした価値はないことになりましょう。霊的報奨は、刻苦勉励の末に得られるものです。が、いったん手にしたら、決して失われることはありません。

【Q48】

スピリチュアリズムの第一線で活躍している人が、とかく世俗的なことで挫折することが多いのはなぜでしょうか?

 霊の僕として活動する者は、とことんしごかれ、試されなければならないからです。霊の大軍の兵士であらんと志す者は、襲いかかるいかなる困難にも耐え、障害をものともせず、すべての難題に挑むだけの強靭さがなくてはなりません。

最初の困難の一撃であっさりと怖じけづくような兵士で何の役に立ちましょう?大いなる貢献をする者は、清めの業火でしごかれ、試されなければなりません。それを潜り抜けてはじめて、鋼鉄のごとき強靭さとがまん強さが身につくのです。

 世間の目に挫折として映るものは、実は霊界で用意した試練なのです。使命を帯びて生まれてきた者が、安楽な生活に甘んじ、何の試練もストレスも嵐も困難も体験しないようでは、期待していた性格は築かれず、待ち受ける仕事を完遂するだけの力は発揮できないでしょう。

【Q49】

世間から隔絶し、孤独のなかで瞑想にふける隠遁者によって、何かよいものが成就されるものでしょうか?

 その「よいもの」というのが、何を意味するのかによって返答が違ってきます。世俗の喧騒から逃れるということは、霊的なものを発現させるうえでは好条件であるかもしれません。その意味ではよいことかもしれませんが、私にいわせれば、世俗のなかにいてなお世俗にまみれず、奮闘と努力と修行によって自己開発して、大霊から授かった資質によって社会に貢献するほうがよほど立派です。

【Q50】

心霊的(サイキック)と霊的(スピリチュアル)とを使い分けておられますが、どう違うのでしょうか?同じものでしょうか?

 よく似ていますが、まったく同じではありません。いわゆる超能力はすべて「サイキック」(注)なものですが、これに霊界の存在が働きかけて(この交霊会のように)高等な目的のために活用するようになると「スピリチュアル」なものになります。

超能力はみな、霊的身体から出ているのですが、それが発達して高等な霊的エネルギーと融合するようになると「霊的能力」となります。

 訳注──人間をはじめとして動物や鳥類、魚類には、先天的にサイキックな能力がそなわっている。渡り鳥の習性や、サケが生まれた川へ戻ってくる感覚が不思議がられているが、これもサイキックな能力で、動物がもっとも鋭い。

かつては人間が最も鋭かったのであるが、知性の発達による文明化によって、そういう能力、いわゆる第六感が不必要となって退化したといわれている。

 ユリ・ゲラー以来、超能力がもてはやされているが、物理的な解釈のつかないものはすべて、サイキックなものと考えてよいであろう。次元的には物質のレベルに近く、それなりの次元での法則が働いているのであって、決して摩訶不思議なものではない。

ただ「そんなことができて、だからどうだというの?」と聞かれて返答のしようがないところに、サイキックの次元の悲しさがある。

【Q51】

霊界でも過ちを犯すことがあるのでしょうか?

 あります。死の直後の世界は地上と非常によく似ていて、住んでいる者も、地上の平均的な発達程度の者です。天使でもなければ悪魔でもありません。ごく平凡で、高級霊でもなく低級霊でもありません。ですから、判断の誤り、英知の欠如から過ちを犯します。妬みや憎しみ、我欲などから判断を誤ります。要するに未熟なのです。

【Q52】

霊界が地上界の写しのようなものだとすると、スラムやひどい労働環境のようなみにくい側面も再現されているのでしょうか?

 死の直後の世界でも、低い階層にはそういうものが再現されています。それ以外の環境での生活を知らない未熟な霊にとっては、それが似合いの環境だからです。もちろん、実在の世界ではなく、そこに住む者の精神的発達程度の反映にすぎません。

 「なぜこんなむさ苦しいところで、生活しなきゃならんのだ」と反発を覚えるようになったその瞬間に、その環境から脱け出ます。いつまでも居残るのは、思考力が乏しくて、それ以外の環境が思いつかない者、そして次に、まだ霊性に向上する意欲がめばえていない者、この二種類です。

 忘れてならないのは、そうした環境の存在も、霊的生命の発達上の急激な変化に面食らわないようにとの、大自然の配剤の一環だということです。もしそうした似合いの環境がなければ、新しい環境が与えるショックは精神を混乱させるほど大きなものとなるでしょう。

【Q53】

昨今のスピリチュアリズムの動向をどう見ておられますか?

 潮に満ち潮と引き潮があるように、ものごとには活動の時期と静止の時期とがあるものです。いかなる運動も一気呵成に進めるわけにはいきません。表面的にはスピリチュアリズムも、かなりの進歩を遂げ、(キリスト教界との論争などで)大きな勝利を収めたように見えますが、霊的真理についてまったく無知な人が多過ぎます。

何度も言ってきましたように、スピリチュアリズムというのは単なる名称に過ぎません。

 私にとってそれは大自然の法則、大霊の摂理を意味します。私の使命は、その知識を広めることによって、少しでも無知をなくすことです。その霊的知識の普及に手を貸してくださるのであれば、一個人であってもグループであっても、私はその努力に対して賞賛の拍手を送りたいと思います。

 大霊の計画は、きっと成就します。私が得ている啓示によっても、それは間違いありません。地上における霊的真理普及の大事業が始まっています。ときには潮が引いたように活動のめだたない時期があるでしょう。そうかと思うと、ブームのような時期があり、そして再び無関心の時期が来ます。普及に努力するのがいやになる人もいるでしょう。しかし、それは大霊の全体から見れば、部分的現象にすぎません。

 この計画のなかでも、特に力を入れているのが霊的治療です。世界各地で起きている奇跡的治癒は、計画的なものであって、決して偶発的なものではありません。その治癒の原因が霊力にあることを知らしめるように、霊界から意図的に行なっていることです。

 私は、真理の普及に関して決して悲観的になることはありません。常に楽観的です。というのも、背後で援助してくれている強大な霊団の存在を知っているからです。私は、これまでの成果に満足しています。

 地上の無知な人々が、われわれの仕事を邪魔し、遅らせ、滞らせることはできても、真理の前進を完全に阻止することはできません。ここが大切な点です。遠大な大霊の計画の一部だということです。牧師が何と説こうと、医学者がどうケチをつけようと、科学者がどう反論しようと、それは好きにさせておくがよろしい。時の進展とともに、霊的真理が普及していくのをストップさせる力は、彼らにはないのです。

【Q54】

スピリチュアリズムは組織的信仰としてよりも、これまでと同じように影響力として伸びていくほうがよいのでしょうか?

 スピリチュアリズムを信仰とするご意見には賛成できません。知識です。あなた方には風の向きを変えることができないように、知識の発展ないしは普及をコントロールすることはできません。真理は、自然の営みで花開いていくのです。あなた方の力で開かせることはできないのです。あなた方にできることは、一人でも多くの人々が、その真理を手に入れることができるように、あなた方みずからが、その提供の手段となることだけです。

 ですから、その知識がどういう影響を及ぼすかは、あなた方には査定できません。普及していく通路を、前もって規制することもできません。

 あなた方にできるのは、自分の責務に忠実であること、自分の判断力に照らして業務を遂行すること、どこにいても人のために自分を役立てること、自分が入手したものは人にも譲り渡すこと、そしてあなた方の存在がかもし出す霊の芳香を漂わせることです。それが発酵素の役割を果たします。それが人間界のあらゆる活動分野に浸透し、吸収されていきます。あなた方のお一人お一人が自分でベストだと信じることに精を出し、きっと役に立つと信じる方法で、霊的真理を広めていくことです。

【Q55】

私たちも内部に大きな問題を抱えています。力を発揮するためには団結する必要があるのですが、今のところ、それができていません。この問題を解決するための方策を考えているのですが、何かコメントをいただけませんでしょうか?

 団結は容易に達成されるものではありません。号令をかけて団結させるわけにはいきません。理解力の発達とともに、徐々に成長して達成されるものです。

 問題は、人類は知性・道義心・霊性において、一人として同じレベルの者はいないということです。一つの共通の基準というものがないのです。あなた方の組織内においても、会員の一人ひとりが異なった進化の段階にあるという単純な事実から生じる衝突が少なくありません。

 霊的な悟りというのは、霊性が進化してはじめて得られるものです。高級霊との一体化によって得た悟りは、あなたにとっては明々白々であっても、その段階まで到達していない人とは分かちあうことができないのです。したがって、あなたは、今のあなたにとって可能な手段によって、あなた一人の判断で最大限の貢献をする以外にありません。

 実は、私たちも常に同じ問題に直面しているのです。私たちは、地上の人間の協力を得なければならないのですが、なかにはこちらの要求する基準に満たない者がいます。でも、それで最善を尽くすしかありません。それでも、光明が少しずつ広がっていきつつあることに気づかれるはずです。

 大切なことは、このサークルのような集会を催すと、さまざまな伝統と環境をもち、異なった言語や慣習をもったさまざまな国の人々が顔をあわせることになり、お互いに学びあうことができるということです。たとえば、自分たちの国が遅れていることを思い知らされることがあれば、それがよい刺激となります。

 案ずることはありません。最善を尽くすことです。これ以上は力が及ばないと思えば、むきにならずに、私たちに任せることです。人間は、最善を尽くすことが求められているのであって、それ以上を求められることはありません。

【Q56】

霊界は一つでしょうか?

 そうです。たった一つあるだけですが、無限の表現形態があるということです。地上界はもとよりのこと、他の惑星上の生命もそのなかに含まれています。それぞれに霊的階層が存在するからです。

【Q57】
死後の世界についての通信がまちまちなのは、なぜでしょうか?

 忘れてならないのは、私たちは無限の世界に住んでいること、したがってそこで生活する者が体験することには無限のバラエティーがあるということです。死後の世界には無限の次元があり、同じくこの場に存在する者でも、それぞれに違った体験があるということになります。

 かりに、今あなたが霊界のだれかと対話をするとします。その男性または女性の霊があなたに語って聞かせる内容は、その霊がその時点までに体験したことに限られます。その後、その霊が一段と高い階層へ向上すれば、前に語ったことを撤回せざるを得ないような体験をすることでしょう。

 ですから、どういう内容の通信が地上界へ届けられるかは、その通信霊の進化の程度次第ということになります。地上の波動に近い階層の霊ほど、これから向上していくことになっている階層に関する表現能力が限られていることになります。

 私からのアドバイスは、いつもと同じです。霊界からの通信は(うのみにせずに)理性をもって検討しなさいということです。「おかしい。これは納得できない」と思ったら、躊躇なく拒絶することです。私も含めて霊界からの通信者も、絶対に間違いを犯さないということはあり得ないのです。まだまだ完全の域に到達していないからです。完全に至るには、永遠の時を要します。それは、何度もいっていますように、終わりのない過程なのです。

【Q58】

「時間」は人工的なものでしょうか?

 人工的というよりは、無数の次元があるということです。人工的なのは時間の計り方です。「時間」そのものは実在です。存在します。「空間」も存在します。ただ、その計り方が正確でないのです。人間が時空を見る焦点距離に限りがあるからです。他の要素に関する知識が増えていけば、焦点距離がそれだけ真実に近づき、鮮明度を増します。

【Q59】

こちらから送る思念はすべて、他界した霊に伝わっているのでしょうか?

 単純に「イエス」とも「ノー」とも答えられません。相手の霊的進化の程度によって違ってくるからです。もしも精神的・霊的に地上の人間と同じレベルのままであれば、その思念は届くでしょう。が、その後の進化が著しくて、はるか上層界へ向上していれば次元が異なりますから、その思念は届かないでしょう。

【Q60】

動物の肉を食べたことで、他界してから罰せられるでしょうか?

 大霊のか弱い創造物を殺して食べることが間違っていることを確信する段階まで進化した人は、いけないことと知りながら犯した行為に対する報いを受けます。

 その段階まで達していない人であれば、いけないことという自覚が魂に芽生えていないのですから、罰を受けることはありません。知識には必ず代価を払わされます。その代価が義務というわけです。

【Q61】

人類のすべてが肉食をやめて菜食にすれば、より幸せな世のなかになるでしょうか?

 ご質問に対する答えは「イエス」であることを断言します。いろいろな点から見て、肉食は好ましくありません。身体的・精神的・霊的視点から見て、そう断言します。道義的問題だけでなく、健康上の問題も含まれます。そして何よりも、霊的観点から私は、人類の進化に伴って、いつかは人類の大半が、ますます菜食主義になっていくであろうことを断言します。


           

 

天界の大学 ベールの彼方の生活(四)

 著者: G・V・オーエン(George Vale Owen)

近藤千雄 訳



四章 天界の大学  
1 五つの塔 2 摂理(ことば)が物質となる
マンダラ模様の顕現 の発育





1 五つの塔
  一九一八年 三月十八日 金曜日

 第十界の森林地帯の真っ只中に広大な空地があります。周囲を林に囲まれたその土地から四方へ数多くの道が伸びており、その道からさらに枝分かれして第十界のすみずみまで連絡が取れております。

その連絡網は、瞑想と他の界層との通信を求めてその空地へ集まってくる人々によってよく利用されています。その一帯を支配する静穏の美しいこと。茂る樹木、咲き乱れる花々、そこここに流れる小川、点在する池、群がる小鳥や動物たちが、修養を心がける者たちを自然に引きつけ、その静穏の雰囲気に浸らせます。

 が、これから述べるのはその中心にある空地のことです。空地といっても地上ならさしずめ平野と呼ばれそうな広大な広さがあります。そこには庭園あり、噴水あり、寺院あり、建物あり。それらがみな研究と分析・調査の目的に使用されています。

そこは一種の大学ですが、その性格は〝美の都市〟とでも呼ぶにふさわしいものを具えております。と言うのは、そこでは美と知識とがまったく同等の意図を持つに至っているかに思えるのです。

 形は長円形をしています。その片方の端には森の緑から巾の広い背の高いポーチが突き出ており、その両側に木が立ち並び、その樹木の上空に建物の翼廊が姿を見せています。 その翼廊の壁の高い位置にバルコニーが付いていて、そこから空地全体を見晴らすことができます。

建物の残りの部分はすっぽり森林に包まれており、塔とドームだけがポーチよりはるかに高く聳え立っております。それが無かったら森林の中に一群の建造物が存在することに誰も気づかないでしょう。それほど周囲に樹木が密生しているのです。

 塔は五つあります。うち四つは型は違っていても大きさは同じで、その四つにかぶさるようにドームが付いています。残りの一つは巨大なものです。あくまでも高く聳え、その先端が美しいデザインの帽子のようになっています。

あたかも天界のヤシの木のようで、その葉で王冠の形に線条細工が施され、それに宝石が散りばめてあり、さらにその上は銀河に似たものが同じく宝石をふんだんに散りばめて広がっております。

 これら四つの塔とドームと大塔には神秘的な意味が込められており、その意味は例の大聖堂を通過した者でなければ完全な理解はできません。それが大きな儀式の際に理解力に応じた分だけが明かされる。その幾つかは〝顕現〟に形で説明されることもあります。

そのうちの一つをこれからお話するつもりですが、その前にそこの建物そのものについてもう少し述べておきましょう。


 ポーチの前方に左右に広がる池があり、その池に至る道は段々になっています。大学の本館はその水面から聳え立っており(※)、周辺の庭園と群立する他の小館とは橋でつながっており、その大部分に天蓋が付いています。

ドームのあるホールは観察に使用されています。観察といっても大聖堂の翼廊での観察とは趣きが異なり、援助を送ったり連絡を維持するためではなく、他の界層の研究が目的です。そこでの研究は精細をきわめており、一つの体系の中で類別されています。

それというのも、天界においては他の界との関連性によって常に情況が変化しているからです。ですから、こうした界層についての知識の探求には際限がありません。

(※霊界の情況は地上の情況になぞらえて描写されるのが常であるが、地上圏から遠ざかるにつれてそれも困難となる。この部分もその一つで、一応文章のままに訳しておいたが、これでは地上の人間には具体的なイメージが湧いて来ないであろう。が、私の勝手な想像的解釈も許されないので、やむを得ずこのままに留めておいた──訳者)


 四つの小塔にはそれぞれ幾つかの建物が付属しています。それぞれに名称がありますが、地上の言語では表現ができないので、取りあえずここでは〝眠れる生命の塔〟──鉱物を扱う部門、〝夢見る生命の塔〟──植物を扱う部門、〝目覚める生命の塔〟──動物を扱う部門、そして〝自我意識の塔〟──人間を扱う部門、と呼んでおいてください。


 大塔は〝天使的生命の塔〟です。ここはさきの四つの生命形態を見おろす立場にあり、その頂点に君臨しているわけです。その段階へ向けて全生命が向上進化しつつあるのです。

 それらの塔全体を管理しているのが〝ドームの館〟で、各塔での分析調査の仕事に必要な特殊な知識はそこから得ます。つまりその館の中で創造・生産されるものを各分野に活用しています。

 四つの小塔は一つ一つデザインが異なり、平地から四つを一望するとすぐに、全体としていかなる創造の序列になっているかが知れます。

そういう目的をもってデザインされているのです。内部で行われる仕事によって各塔にそれ特有の性格がみなぎり、それが滲み出て外形をこしらえているのです。

 大塔は見るからに美しい姿をしております。その色彩は地上に見出すことはできません。が、取りあえず黄金のアラバスターとでも表現しておきましょう。それにパールを散りばめた様子を想像していただければ、およその見当がつくでしょう。

 それは言うなれば液晶宝石の巨大にして華麗な噴水塔という感じです。水が噴き出る代わりに囁くようなハーモニーが溢れ出て、近づく者に恍惚状態(エクスタシー)に近い感動を覚えさせずにはおきません。

 周辺の水がまた美しいのです。花園をうねりながら流れるせせらぎもあれば大きな池もあり、その水面(みなも)に五つの塔やドーム、あるいは他の美しい建物が映っており、静かな、落ち着いた美しさを見せています。

その感じを貴殿に分かりやすく表現すれば、揺りかごの中の天使の子供のようです。では、これより貴殿を大塔の中にご案内して、その特徴を二、三ご紹介しましょう。

 この塔は何かの建物の上にあるのではなく、基礎からいきなり聳え立っております、その内部に立って見上げたら、貴殿は唖然とされるでしょう。階が一つもなく、屋根のようなものもなく、ただ虚空へ向けて壁(四方にあります)が山の絶壁のように上へ上へと伸びているだけです。

そしてその頂上は星辰の世界のど真ん中へ突きささっているかの如くです。その遥かはるか遠くにその塔の先端の縁(ヘリ)が、あたかも塔そのものから離れてさらにその上にあるかのように見えます。それほど高いのです。

 その壁がまた決してのっぺりとしたものではないのです。四方の壁が二重になっていて、間(ま)が仕切ってあり、各種のホールや天使の住居(すまい)となっております。外部を見ると通路あり、バルコニーあり、張り出し窓あり、さらには住居から住居へと橋がループ状につながっております。

壁の上に対角線状に見えるものは、そこの部屋から部屋へ、あるいは楽しみのための施設から別の施設へとつなぐ階段です。庭園もあります。塔の側壁から棚状に突き出た広大な敷地にしつらえてあります。

この方尖塔は実に高くそして広大なので、そうした付属の施設──中へ入ってみるとそれぞれに結構大きなものなのですが──少しも上空を見上げた時の景色の妨げにならず、また一ばん先端の輪郭を歪めることもありません。

 また、よく見ると光が上昇しながら各部屋を通過していく際に変化したり溶け合ったり、輝きを増すかと思えば消滅していったりしております。

たとえば塔の吹き抜けに面したある住居のところでは真昼の太陽に照らされているごとくに輝き、別の住居のところでは沈みゆく夕日が庭を照らし、夕焼空を背景にして緑の木々やあずま屋が美しく輝いて見えます。

さらに別のところでは春の爽やかな朝の日の出どきの様相、さよう、そんな感じを呈しております。小鳥がさえずり、小川がさざ波を立てて草原へ流れていきます。この驚異の世界にも〝流れる水〟は存在するのです。

 音楽も流れています。あの部屋から一曲、この部屋から一曲と聞こえてきます。時には数か所から同時に聞こえてくることもありますが、塔の広さのせいでお互いに他のメロディの邪魔になることはありません。

 さて、以上お話したこと──全体のほんの一かけらほどでしかありませんが──を読まれて貴殿はもしかしたら、その大塔の中がひどく活気のない所のように思えて、建立の動機に疑問を持たれるかもしれません。

が、先ほど私が各塔に名付けた名称を思い出していただけば、決してそうでないことが分かっていただけるでしょう。

この大塔は四つの小塔を指揮・監督する機能を有し、そのためのエネルギーを例のドームから抽(ひ)き出すのです。そこにはきわめて霊格の高い天使が強烈な霊力と巾広い経験を携えて往き来し、かつて自らが辿った道を今歩みつつある者たちの援助に当たります。

すなわち測り知れぬ過去において自分が行ったことを、四つの小塔とドームの館に住む者が永遠の時の流れの中の今という時点において励んでいるということです。進化の循環(サイクル)の中で、先輩の種族が去って新しい種族が今そこに住まっているのです。

 これでお気づきと思いますが、そこでの仕事がいかに高度なものであるとはいえ、そこはあくまでも第十界であり、従ってあくまでも物事の育成の場であって創造の界ではないのです。

でも、創造へ向かいつつあることに間違いはなく、第十界では最高の位置にある施設の一つです。


──アーネルさんご自身もその大学を卒業されたのですか。

しました。四つの塔を全部通過するコースを終えました。それが普通のコースです。


──ドームも館もですか。

 学徒として入ったことはありません。別の形で同じことを修了しておりましたから。実は私は四番目の塔を終えたのちに大塔直属の天使のお一人に仕える身となったのです。大聖堂へ行けるまでに修行できたのもその方のお陰です。

例の暗黒界への旅の間にずっと力をお貸しくださったのもその方で、そのことは旅から帰って初めて知りました。その方はそうした援助の仕事を他の者にもしておられました。それがその方の本来の仕事だったのです。(※)

 神の祝福を。        アーネル ±
(※過去形になっているのは現在は別の仕事に携わっているからであろう。〝その方〟について何も述べていないが、同じ霊系の一人、つまり類魂の一人であるに違いなく、こうした関係は地上に限らず上級界へ行っても同じであることが分かる──訳者)




2 摂理(ことば)が物質となる
一九一八年 三月 四日 月曜日

 五つの塔から成る大学の構内は常時さまざまな活動に溢れていますが、せわしさはありません。中央水路へ通じる数々の小水路を幾艘もの船が往き来して、次々と渡航者を舟着き場へ下ろしています。

その水辺近くまで延びているテラスや上り段には幾千ともつかぬ参列者が群がっており、新しい一団がその明るい賑わいを増しています。いずれもある大きな顕現を期待してやって来るからです。

参加者はそれぞれ個人としての招待にあずかった人ばかりです。その地域の者なら誰でも参加できるのではありません。ある一定の霊格以上の者にかぎられています。

 招待者が全員集合したところで天使の塔から旋律が流れてきました。続いて何が起きるのであろうかと一斉に注目しています。ではそのあとの顕現の様子を順を追って叙述しましょう。

 音楽がボリュームを増すにつれて、その塔を包む大気が一種の霞を帯びはじめました。しかし輪郭が変わって見えるほどではありません。そして塔は次第に透明度を増し、それが上下に揺れて見えるのです。

つまり色彩に富んだ液晶ガラスのように、外側へ盛り上がったかと思うと内側へのめり込んでいくのです。

 やがて吾々の耳にその音楽よりさらに大きな歌声が聞こえてきました。それは絶対紳とその顕現であるキリストへの讃歌(テデウム)でした。そのキリストの一つの側面がこれより顕現されるのです。


──そのテデウムの歌詩を教えていただけませんか。

 いえ、それは不可能です。その内容だけを可能な限り地上の言語に移しかえてみましょう。こうです──

「遠き彼方より御声に聞き入っております私どもは、メロディの源であるキリストこそあなたであると理解しております。あなたのみことばを聞いて無窮が美をもたらしたのでございます。

 あなたの直接の表現であらせられるキリストの目にあなたのお顔を拝している私どもは、あなたは本来無形なる存在であり、その御心より形態を生じ、美がむき出しのままであることを好まず、光を緯(よこ)糸とし影を経(たて)糸として編まれた衣にて包まれいると理解しております。

 あなたの御胸の鼓動を感じ取っております私どもは、美がそのように包まれているのはあなたが愛のすべてであり、あなたの愛でないものは存在しないからでございます。

あなたのその美を私どもはキリストの美によって知り得るのみであり、そのキリストはあなたが私どもに与え給うたのと同じ形態をまとって顕現されることでございましょう。

 私どもはあなたを讃えて頭(コウベ)を垂れます。私どもはあなたのものであり、あなたを生命と存在の源として永遠におすがりいたします。この顕現せる生命の背後に恵み深き光輝が隠されております。

 キリストの顕現とその安らぎを待ち望む私どもにお与えくださるのは、御身みずからのことに、ほーかーなーりーまーせーぬ」

 最後の歌詞はゆっくりと下り調子で歌われ、そして終わった。そして吾々は頭を垂れたまま待機していました。

 次に聞こえたのは〝ようこそ〟という主の御声でした。その声に吾々が一斉に顔を上げると、主は天使の塔の入り口の前に立っておられます。その前には長いそして広い階段が水際まで続いています。その階段上には無数の天使が跪いています。

その塔に所属する天使の一団です。総勢幾千もの数です。主は塔へ通じる大きなアーチ道から遠く離れた位置にお一人だけ立っておられます。

が、その背後には階段上の天使よりさらに霊格の高い天使の別の一群が立ち並んでいます。主の降臨に付き添ってきた天使団です。

 今や天使の塔は躍動する大きな炎のごとく輝き、大気を朱に染めてそれがさらに水面に反映し、灼熱に燃えあがるようにさえ思えるのです。

 その時です。主がまず片足をお上げになり、続いてもう一方の足をお上げになって宙に立たれました。塔の頂上を見上げると、その先端に載っている王冠状のものが変化しはじめているのが分かります。あたかも美しい生きもののように見えます。

レース状の線条細工がみな躍動しており、さらによく見ると、そのヤシの葉状の冠には数々の天使の群れが宝石を散りばめたように光って見えます。

ある群れは葉に沿って列をなして座し、ある群れは基底の環状部に曲線をなして立ち、またある群れは宝石の飾り鋲に寄りかかっています。王冠を構成しているあらゆる部分が天使の集団であり、宝石の一つ一つがセラピム(※)の一団であり、炎のごとく輝き燃え上がっているのでした。(※キリスト教で最高神に直接仕える第一級の天使──訳者)

やがてその塔の頂上部分がゆっくりと塔から離れて主ならびに付き添いの天使団が立ち並ぶ位置の上空高く上昇し、それからゆっくりと下降してテラスに着地しました。

内部にはすでに千の単位で数えるほどの天使がいます。そして吾々も水路を横切ってその内部へ入るように命じられました。(その大塔は湖の中央に聳えている──訳者)

 私が階段の頂上まで来て見下ろすと、滔々(とうとう)とした人の流れが、喜びの極みの風情で、新しくしつらえた宮殿の中へ入って行くのが見えました。私もその流れに加わって何の恐れの情もなく中へ入りました。すべてが静寂、すべてが安らぎとよろこびに溢れておりました。

 入ってみると、その王冠の内側は広く広大なホールとなっており、天井が実に高く、下から上まで宝石と宝玉に輝いておりました。透し細工に光のみなぎった薄もやが充満し、それがそのままホールの証明となっておりました。

壁は少し垂直に伸びてからアーチを描いて穹陵(きゅうりょう=西洋建築における天井の一形式)となり、その陵線がサファイア色をした大きな宝玉のところで合流しています。

壁の材質は透明なクリスタルで、外側の天界の様子を映し出す性質をしており、どの天使が飛来しどの天使が去って行ったかが、いながらにして分かるようになっています。

この王冠はテラスへ下降してくる間にそのように模様替えされたに相違ありません。普段は完全に青空天井になっておりますから。



──出席者は全部で何名だったのでしょうか。

 私には分かりません。でも主のお伴をした霊は少なくとも千五百名を数えたに相違ありません。そして吾々招待を受けた者はその六倍を下りませんでした。それに塔の直属の霊がおよそ三千名はいました。大変な集会だったのです。

 このたびの顕現はその大学における科学に関する指導の一環として行われたものです。それがどんなものであるかはすでにお話しました。

それまで吾々は研究を重ね、資料を豊富に蓄積しておりました。そこへ主が訪れてそうした知識がそれより上の境涯へ進化して行きながら獲得される神についての知識といかに調和したものであるかをお示しになられたのです。


──もう少し詳しくお話ねがえませんか。今のでは大ざっぱすぎます。

 そうでしょう。私もそれを残念に思っているのですが、といってこれ以上分かりやすくといっても私には出来そうにありません。でも何とか努力してみましょう。

 冗漫な前おきは抜きにして一気に本論へ入りましょう。あのとき主は神のことばがそのまま顕現したのでした。すでに(第二巻で述べたので)ご承知の通り、宇宙創造の当初、神の生命のエネルギーが乳状の星雲となり、それが撹拌されて物質となり、その、物質から無数の星が形成されるに至った時の媒介役となったのが、ほかならぬことばでした。ことばこそ創造の実行者だったのです。

すなわち神がそのことばを通して思惟し、その思念がことばを通過しながら物質という形態をとったということです。(※Word は聖書などでことばと訳されているので一応それに倣ったが、シルバーバーチの言う宇宙の摂理、自然法則のことである──訳者)

 この問題は永いあいだの吾々の研究課題でした。主が降臨されて宇宙の創造における父なる神の仕事との関連においてのことばの意味について吾々が学んだことに、さらに深いことを説明なさったのは、上層界における同種の、しかしさらに深い研究につなげていくためでした。残念ながらこれ以上のことは伝達しかねます。


──このたび主がお出でになられた時の容姿を説明していただけませんか。

 主は大ホールの中空に立っておられ、最後まで床へ下りられませんでした。最初私はそれがなぜだか分かりませんでした。が顕現が進行するにつれて、その位置がこのたびの主の意図に最も相応しいことが分かってきました。

視覚を使って教育するためだけではありません。中空に立たれたのは、その時の主の意図が自然にそのような作用をしたのです。

そしてお話をされている間も少しずつ上昇して、最後は床と天井の中間あたりに位置しておられました。それはその界層における力学のせいなのです。そう望まれたのではなく、科学的法則のせいだったのです。

 さらに、冠の外側に群がっていた天使が今は内側の壁とドームの双方に、あたかも生きた宝石のごとく綴れ織(タベストリ)り模様に群がって飾っているのでした。

 さて貴殿は主の容姿を知りたがっておられる。衣装は膝までのチュニックだけでした。

澄んだ緑色をしており、腕には何も──衣服も宝石も──付けておられませんでした。宝石はただ一つだけ身につけておられました。胴のベルトが留め金でとめてあり、その留め金が鮮血の輝くような赤色をした宝石でした。

腰の中央に位置しており、そのことは、よくお考えいただくと大きな意味があります。

と言うのは、主は父なる神と決して断絶することはありませんが、この界層における仕事に携わるために下りて来られるということは確かに一種の分離を意味します。造化の活動のためにみずから出陣し、そのために父より顔をそむけざるを得ません。

意念を〝霊〟より〝物質〟へと放射しなければならないのです。その秘密が宝石の位置に秘められているのです。このことは語るつもりはなかったのですが、貴殿の精神の中にその質問が見えたものですから、ついでに添えておきます。

 マントは付けておられませんでした。膝から下は何も付けておられませんでした。両手両脚とお顔は若さ溢れる元気盛りのプリンスのそれでした。頭髪にも何も付けておられず、中央で左右に分けておられ、茶色の巻き毛が首のあたりまで下がっておりました。

いえ、目の色は表現できません──貴殿の知らない色ばかりです。それにしても貴殿の精神は主についての質問でいっぱいですね。これでも精一杯お答えしてあげてるつもりです。


──主についてのお話を読むといつもその時のお姿はどうだったのかが知りたくなります。私にとっても他の人たちにとっても、それが主をいっそう深く理解する手掛かりになると思うからです。主そのものをです。

 お気持ちはよく分かります。しかし残念ながら貴殿が地上界にいる限り主の真相はほとんど理解し得ないでしょう。現在の吾々の位置に立たれてもなお、そう多くを知ることはできません。それほど主は偉大なのです。

それほど地上のキリスト教界が説くような窮屈な神学からはほど遠いものなのです。キリスト者は主を勝手に捉えて小さな用語や文句の中に閉じ込めようとしてきました。

主はそんなもので表現できるものではないのです。天界においてすら融通無碍であり、物的宇宙に至っては主の館の床に落ちているほこり一つほどにしか相当しません。にもかかわらずキリスト者の中には主にその小さなほこりの中においてすら自由を与えようとしない人がいます。この話はこれ以上進めるのは止めましょう。


──それにしても、アーネルさん、あなたは地上では何を信仰しておられたのでしょうか。今お書きになられたことを私は信じます。が、あなたは地上におられた時もそう信じておられたのですか。

 恥ずかしながら信じていませんでした。と言うのも、当時は今日に較べてもなお用語に囚れていたのです。しかし正直のところ私は神の愛について当時の人たちには許しがたい広い視野から説いていました。それが私に災いをもたらすことになりました。

殺されこそしませんでしたが、悪しざまに言われ大いに孤独を味わわされました。今日の貴殿よりも孤独なことがありました。貴殿は当時の私よりは味方が多くいます。

貴殿ほど進歩的ではありませんでしたが、当時の暗い時代にあっては、私はかなり進んでいた方です。現代は太陽が地平線を緩めはじめております。当時はまさに冬の時代でした。


──それはいつの時代で、どこだったのでしょう?

 イタリアです。美しいフローレンスでした。いつだったかは憶えてはいません。が神が物事を刷新しはじめた時代で、人々はそれまでになかった大胆な発想をするようになり、教会が一方の眉をひそめ国家がもう一方の眉をひそめたものです。

そして──そうでした。私は人生半ばにして他界し、それ以上の敵意を受けずに済みました。


──何をなさっていたのでしょう。牧師ですか?

 いえ、いえ、牧師ではありません。音楽と絵画を教えておりました。当時はよく一人の先生が両方を教えたものです。


──ルネッサンス初期のことですね?

 吾々の間ではそういう呼び方はしませんでした。でも、その時代に相当しましょう。そうです! 今日と同じように神がその頃から物事を刷新しはじめたのです。

(それが何を意味するのかがこれからあとの通信の主なテーマとなる──訳者)そして神がそのための手を差しのべるということは、それに応えて人間もそれに協力しなければならないことになります。大いに苦しみも伴います。

が刷新の仕事は人間一人苦しむのではありません。主のベルトのルビーの宝石を思い出して、主がいつもお伴をして下さっていると信じて勇気を出していただきたいのです。
アーネル ± 


3 マンダラ模様の顕現
一九一八年三月 八日 金曜日

 吾々招待にあずかった者が全員集合すると、主のお伴をしてきた天使群が声高らかに讃美の聖歌を先導し、吾々もそれに加わりました。貴殿はその聖歌の主旨(モチーフ)を知りたがっておられる。それはおよそ次のようなものでした。


 「初めに実在があり、その実在の核心から神が生まれた。
 神が思惟し、その心からことばが生まれた。
 ことばが遠く行きわたり、それに伴って神も行きわたった。神はことばの生命(イノチ)にして、その生命がことばをへて形態をもつに至った。

 そこに人間(ヒト)の本質が誕生し、それが無窮の時を閲(ケミ)して神の心による創造物となった。さらにことばがそれに天使の心と人間の形体とを与えた。

 顕現のキリストはこの上なく尊い。ことばをへて神より出て来るものだからである。そして神の意図を宣言し、その生命がキリストをへて家族として天使と人間に注がれる。

 これがまさしくキリストによることばを通しての天使ならびに人間における神の顕現である。神の身体にほかならない。

 ことばが神の意志と意図を語ったとき虚空が物質に近い性質を帯び、それより物質が生じた。そして神より届けられる光をことばを通して反射した。

 これぞ神のマントであり、神のことばのマントであり、キリストのマントである。

そして無数の天体がことばの音楽に合わせて踊った。その声を聞いてよろこびを覚えたのある。なぜならば、天体が創造主の愛を知るのはことばを通して語るその声によるのみだからである。

 その天体はまさに神のマントを飾る宝石である。

 かくして実在より神が生まれ、神よりことばが生じ、そのことばより宇宙の王としてその救済者に任じられたキリストが生まれた。

 人間は永遠にキリストに倣う。永遠の一日の黄昏どきに、見知らぬ土地、ときには荒れ果てた土地を、わが家へ向けて、神へ向けて長き旅を続けるのである。今はまさにその真昼どきである。

 ここが神とそのキリストの王国となるであろう」


 こう歌っているうちにホール全体にまず震動がはじまり、やがて分解しはじめ、そして消滅した。そしてそれまで壁とアーチに散らばっていた天使が幾つかのグループを形成し、それぞれの霊格の順に全群集の前に整列しました。

その列は主の背後の天空はるか彼方へと続いていました。さらに全天にはさまざまな民族の数え切れないほどの人間と動物が満ちておりました。全創造物が吾々のまわりに集結したのです。

 動物的段階にあった時代の人間の霊も見えます。さまざまな段階を経て今や天体の中でも最も進化した段階に到達した人種もいます。さらには動物的生命───陸上動物と鳥類──のあらゆる種類、それに、あらゆる発達段階にある海洋生物が、単純な形態と器官をしたものから複雑なものまで勢揃いしていたのです。

 さらには、そうした人類と動物と植物を管理する、これ又さまざまな段階の光輝をもつ天使的存在も見えました。その秩序整然たる天使団はこの上ない崇高性にあふれていました。それと言うのも、ただでさえ荘厳なる存在が群れを成して集まっていたからであり、

王冠のまわりに位置していた天使団も今ではそれぞれに所属すべきグループのメンバーとしての所定の位置を得ておりました。

 全創造物と、中央高く立てるキリスト、そしてそのまわりを森羅万象が車輪のごとく回転する光景は、魂を畏敬と崇拝の念で満たさずにはおかない荘厳そのものでした。

 私がその時はじめて悟ったことですが、顕現されるキリストは、地上においてであれ天界においてであれ、キリストという全存在のほんの小さな影、その神性の光によって宇宙の壁に映し出されたほのかな影にすぎないこと、そしてその壁がまた巨大な虚空の中にばらまかれたチリの粒から出来ている程度のものであり、その粒の一つ一つが惑星を従えた恒星であるということです。


 それにしても、その時に顕現された主の何とお美しかったこと、そしてまた何という素朴な威厳に満ちておられたことでしょう。全創造物の動きの一つ一つが主のチュニック、目、あるいは胴体に反映しておりました。

主の肌の気孔の一つ一つ、細胞の一つ一つ、髪の毛の一本一本が、吾々のまわりに展開される美事な創造物のどれかに反映しているように思えるほどでした。


──あなたが見たとおっしゃる創造物の中にはすでに地上から絶滅したものやグロテスクなもの、どう猛な動物、吐き気を催すような生物──トラ、クモ、ヘビの類──もいたのでしょうか。


 ご注意申し上げておきますが、いかなる存在もその内側を見るまでは見苦しいものと決めつけてはいけません。

バラのつぼみも身をもちくずすとトゲになる、などという人がいますが、そのトゲも神が存在を許したからこそ存在するわけで、活用の仕方次第では美しき女王のボディガードのようにバラの花を護る役目にもなるわけです。

 そうです、その中にはそういう種類のものもいました。バラとトゲといった程度のものだけでなく、人間に嫌われているあらゆる生物がいました。神はそれらをお捨てにならず、活かしてお使いになるのです。

 もっとも吾々は、そうした貴殿がグロテスクだとか吐き気を催するようなものと呼んだものを、地上にいた時のような観方はせず、こちらへ来て教わった観方で見ております。その内面を見るのです。

すると少しもグロテスクでも吐き気を催すようなものでもなく、自然の秩序正しい進化の中の一本の大きな樹木の枝分かれとして見ます。

邪悪なものとしてではなく、完成度の低いものとして見ます。どの種類もある高級霊とその霊団が神の本性の何らかの細かい要素を具体的に表現しようとする努力の産物なのです。

 その努力の成果の完成度が高いものと低いものとがあるというまでのことで、神の大業が完成の域に達するまでは、いかなる天使といえども、ましてや人間はなおのこと、これは善であり、これは邪性から生じたものであるなどと宣言することは許されません。

内側から見る吾々は汚れなき主のマントの美しさに固唾(かたず)をのみます。中心に立たれたそのお姿は森羅万象の純化されつくしたエッセンスに包まれ、それが讃仰と崇敬の香りとなって主に降り注いているように思えるのでした。

 その時の吾々はもはや第十界の住民ではなく全宇宙の住民であり、広大なる星辰の世界を流浪(さすら)い、無限の時を眺望し、ついにそれを計画した存在、さらには神の作業場においてその創造に従事した存在と語り合ったのです。

そして新しいことを数多く学びました。その一つひとつが、今こうしてこちらの大学において高等な叡智を学びつつある吾々のように創造界のすぐ近くまでたどり着いた者のみが味わえる喜びであるのです。

 かくして吾々はかの偉大なる天使群に倣い、その素晴らしい成果───さよう、虫けらやトゲをこしらえたその仕事にも劣らぬものを為すべく邁進しなければならないのです。

それらを軽視した言い方をされた貴殿が、そのいずれをこしらえようとしても大変な苦労をなさるでしょう。そう思われませんか。ま、叡智は多くの月数を重ねてようやく身につくものであり、さらに大きな叡智は無限の時を必要とするものなのです。

 そこで吾々大学で学んでいた者がこうして探究の旅から呼び戻されて一堂に招集され、いよいよホールの中心に集結したところで突如としてホール全体が消滅し、気が付くと吾々は天使の塔のポーチの前に立っているのでした。

 見上げると王冠はもとの位置に戻っており、すべてがその儀式が始まる前と同じになっておりました。ただ一つだけ異なっているものがありました。

こうした来訪があった時は何かその永遠の記念になるものを残していくのが通例で、この度はそれは塔の前の湖に浮かぶ小さな建物でした。ドームの形をしており、水面からそう高くは聳えておりません。

水晶で出来ており、それを通して内部の光が輝き、それが水面に落ちて漂っております。

反射ではありません。光そのものなのです。かくしてその湖にそれまでにない新しいエネルギーの要素が加えられたことになります。


──どんなものか説明していただけませんか。

 それは無理です。これ以上どうにもなりません。地上の人間の知性では理解できない性質のものだからです。それは惑星と恒星のまわりに瀰漫するエネルギーについての吾々の研究にとっては新たな一助となりました。

そのエネルギーが天体を包む鈍重な大気との摩擦によっていわゆる〝光〟となるのです。

吾々はこの課題を第十一界においてさらに詳しく研究しなければなりません。新しい建造物はその点における吾々への一助としての意味が込められていたのです。
                               アーネル ±

──カスリーン、何か話したいことありますか。

  あります。こうして地上へ戻って来てアーネルさんとその霊団の思念をあなたが受け取るのをお手伝いするのがとても楽しいことをお伝えしたいのです。

みなさん、とても美しい方たちばかりで、わたしにとても親切にしてくださるので、ここでこうして間に立ってその方たちの思念を受信し、それをあなたに中継するのが私の楽しみなのです。


──アーネルさんはフローレンスに住んでおられた方なのに古いイタリア語ではなく古い英語で語られるのはどうしてでしょう?

 それはきっと、確かにフローレンスに住んでおられましたが、イタリア生まれではないからでしょう。

私が思うにアーネルさんは英国人、少なくとも英国のいずれかの島(※)生まれだったのが、若い時分に移住したか逃げなければならなかったか──どちらかであるかは定かでありませんが──いずれにしても英国から出て、それからフローレンスへ行き、そこに定住されたのです。

その後再び英国へ帰られたかどうかは知りません。当時はフローレンスに英国の植民地があったのです。(※英国は日本に似て大小さまざまな島から構成されているからこういう言い方になった──訳者)


──誰の治世下に生きておられたかご存知ですか。

 知りません。でも、あなたがルネッサンスのことを口にされた時に想像されたほど古くはないと思います。どっちにしても確かなことは知りませんけど。


──どうも有難う。それだけですか。

 これだけです。私たちのために書いてくださって有難う。


──これより先どれくらい続くのでしょう?

そんなに長くはないと思います。なぜかって? お止めになりたいのですか。


──とんでもない。私は楽しんでやってますよ。あなたとの一緒の仕事を楽しんでますよ。それからアーネルさんとの仕事も。でも最後まで持つだろうかと心配なのです。つまり要求される感受性を維持できるだろうかということです。このところ動揺させられることが多いものですから。

 お気持ちは分かります。でも力を貸してくださいますよ。そのことは気づいていらっしゃるでしょう? 邪魔が入らなくなったことなど・・・・・・アーネルさんがこれから自分が引き受けるとおっしゃってからは一度も邪魔は入っていませんよ。


──まったくおっしゃる通りです。あの時までの邪魔がぴたっと入らなくなったのが明らかに分かりました。ま、あなたが〝これまで〟と言ってくれるまで続けるつもりです。神のみ恵みを。では又の機会まで、さようなら。
 おやすみなさい。 カスリーン