Tuesday, January 13, 2026

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(三)

The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen
七章 善悪を超えて


1 聖堂へ招かれる         
一九一七年十二月十七日  日曜日

 これまで吾々は物的宇宙の創造と進化、および、程度においては劣るが、霊的宇宙の神秘について吾々の理解した限りにおいて述べました。

そこには吾々の想像、そして貴殿の想像もはるかに超えた境涯があり、それはこれより永い永い年月をかけて一歩一歩、より完全へ向けて向上していく中で徐々に明らかにされて行くことでしょう。吾々がそのはるか彼方の生命と存在へ向けて想像の翼を広げうるかぎりにおいて言えば、向上進化の道に究極を見届けることはできません。

それはあたかも山頂に源を発する小川の行先をその山頂から眺めるのにも似て、生命の流れは永遠に続いて見える。流れは次第に大きく広がり、広がりつつその容積の中に水源を異にするさまざまな性質の他の流れも摂り入れていく。人間の生命も同じです。

その個性の中に異質の性格を摂り入れ、それらを融合させて自己と一体化させていく。

川はなおも広がりつつ最後は海へ流れ込んで独立性を失って見分けがつかなくなるごとく、人間も次第に個性を広げていくうちに、誕生の地である地上からは見きわめることの出来ない大きな光の海の中へ没入してしまう。

が、海水が川の水の性分を根本から変えてしまうのではなく、むしろその本質を豊かにし新たなものを加えるに過ぎないように、人間も一方には個別性を、他方には個性を具えて生命の大海へと没入しても、相変わらず個的存在を留め、それまでに蓄積してきた豊かな性格を、初めであり終わりであるところの無限なるもの、動と静の、エネルギーの無限の循環作用の中の究極の存在と融合していきます。

また、川にいかなる魚類や水棲動物がいても、海にはさらに大きくかつ強力な生命力を持つ生物を宿す余裕があるごとく、その究極の境涯における個性とエネルギーの巨大さは、吾々の想像を絶した壮観を極めたものでしょう。

 それゆえ吾々としては差し当たっての目標を吾々の先輩霊に置き、吾々の方から目をそらさぬかぎり、たとえ遠くかけ離れてはいても吾々のために心を配ってくれていると知ることで足りましょう。

生命の流れの淵源は究極の実在にあるが、それが吾々の界そして地上へ届けられるのは事実上その先輩霊が中継に当たっている。そう知るだけで十分です。吾々は宿命という名の聖杯からほんの一口をすすり、身も心も爽やかに、そして充実させて、次なる仕事に取り掛かるのです。


──どんなお仕事なのか、いくつか紹介していただけませんか。

 それは大変です。数も多いし内容も複雑なので・・・・・・。では最近吾々が言いつけられ首尾よく完遂した仕事を紹介しましょう。

 吾々の本来の界(第十界)の丘の上に聖堂が聳えています。


──それはザブディエル霊の話に出た聖堂──〝聖なる山〟の寺院のことですか。(第二巻八章4参照)


 同じものです。〝聖なる山〟に聳える寺院です。何ゆえに聖なる山と呼ぶかと言えば、その十界をはじめとする下の界のためのさまざまな使命を帯びて降りて来られる霊が格別に神聖だからであり、又、十界の住民の中で次の十一界に不快感なしに安住できるだけの神聖さと叡智とを身につけた者が通過して行くところでもあるからです。

それには長い修行と同時に、十一界と同じ大気の漂うその聖堂と麓の平野をたびたび訪れて、いずれの日にか永遠の住処となるべき境涯を体験し資格を身につける努力を要します。

 吾々はまずその平野まで来た。そして山腹をめぐって続いている歩道を登り、やがて正門の前の柱廊玄関(ポーチ)に近づいた。


──向上するための資格を身につけるためですか。

 今述べた目的のためではありません。そうではない。十一界の大気はいつもそこに漂っているわけではなく、向上の時が近づいた者が集まる時節に限ってのことです。

 さてポーチまで来てそこで暫く待機していた。するとその聖地の光輝あふれる住民のお一人で聖堂を管理しておられる方が姿を現わし、自分と一緒に中に入るようにと命じられた。吾々は一瞬ためらいました。吾々の霊団には誰一人として中に入ったことのある者はいなかったからです。

するとその方がにっこりと微笑まれ、その笑顔の中に〝大丈夫〟という安心感を読み取り、何の不安もなく後ろについて入った。その時点まで何ら儀式らしいものは無かった。そして又、真昼の太陽を肉眼で直視するにも似た、あまりの光輝に近づきすぎる危険にも遭遇しなかった。

 入ってみるとそこは長い柱廊になっており、両側に立ち並ぶ柱はポーチから聖堂の中心部へ一直線に走っている梁(はり)を支えている。ところが吾々の真上には屋根は付いておらず無限空間そのもの──貴殿らのいう青空天井になってる。

柱は太さも高さも雄大で、そのてっぺんに載っている梁には、吾々に理解できないさまざまなシンボルの飾りが施してある。中でも私が自分でなるほどと理解できたことが一つだけある。

それはぶどうの葉と巻きひげはあっても実が一つも付いてないことで、これは、その聖堂全体が一つの界と次の界との通路に過ぎず、実りの場ではないことを思えば、いかにもそれらしいシンボルのように思えました。

その長くて広い柱廊を一番奥まで行くとカーテンが下りていた。そこでいったん足を止めて案内の方だけがカーテンの中に入り、すぐまた出て来て吾々に入るように命じられた。

が、そのカーテンの中に入ってもまだ中央の大ホールの内部に入ったのではなく、ようやく控えの間に辿り着いたばかりだった。その控えの間は柱廊を横切るように位置し、吾々はその側面から入ったのだった。

これまた実に広くかつ高く、吾々が入ったドアの前の真上の屋根が正方形に青空天井になっていた。が、他の部分はすべて屋根でおおわれている。

 吾々はその部屋に入ってから右へ折れ、その場まで来て、そこで案内の方から止まるように言われた。すぐ目の前の高い位置に玉座のような立派な椅子が置いてある。それを前にして案内の方がこう申された。


 「皆さん、この度あなた方霊団をこの聖堂へお招きしたのは、これより下層界の為の仕事をしていただく、その全権を委任するためです。これよりその仕事について詳しい説明をしてくださる方がここへお出でになるまで暫くお持ちください」

 言われるまま待っていると、その椅子の後方から別の方が姿を見せられた。先程の方より背が高く、歩かれる身体のまわりに青と黄金色の霧状のものがサファイヤを散りばめたように漂っていた。

やがて吾々に近づかれると手を差し出され、一人ひとりと握手をされた。そのとき(あとで互いに語りあったことですが)吾々は身は第十界にありながら、第十一界への近親感のようなものを感じ取った。それは第十一界の凝縮されたエッセンスのようなもので、隣接した境界内にあってその内奥で進行する生命活動のすべてに触れる思いがしたことでした。

 吾々は玉座のまわりの上り段に腰を下ろし、その方は吾々の前で玉座の方へ向かって立たれた。それからある事柄について話されたのであるが、それは残念ながら貴殿に語れる性質のものではない。秘密というのではありません。

人間の体験を超えたものであり、吾々にとってすら、これから理解していくべき種類のものだからです。が、そのあと貴殿にも有益な事柄を話された。

 お話によると、ナザレのイエスが十字架上にあった時、それを見物していた群集の中にイエスを売り死に至らしめた人物がいたということです。


──生身の人間ですか。

 さよう、生身の人間です。あまり遠くにいるのも忍びず、さりとて近づきすぎるのも耐え切れず、死にゆく〝悲哀(かなしみ)の人〟イエス・キリストの顔だちが見えるところまで近づいて見物していたというのです。すでに茨の冠は取られていた。

が、額には血のしたたりが見え、頭髪もそこかしこに血のりが付いていた。その顔と姿に見入っていた裏切り者(ユダ)の心に次のような揶揄(からかい)の声が聞こえてきた───

〝これ、お前もイエスといっしょに天国へ行って権力の座を奪いたければ今すぐに悪魔の王国へ行くことだ。お前なら権力をほしいままに出来る。イエスでさえお前には敵わなかったではないか。さ、今すぐ行くがよい。

今ならお前がやったようにはイエスもお前に仕返しができぬであろうよ〟と。

 その言葉が彼の耳から離れない。彼は必死にそれを信じようとした。そして十字架上のイエスに目をやった。彼は真剣だった。しかし同時に、かつて一度も安らぎの気持ちで見つめたことのないイエスの目がやはり気がかりだった。

が、死に瀕しているイエスの目はおぼろげであった。もはやユダを見る力はない。

唆(そそのか)しの声はなおも鳴りひびき、嘲(あざけ)るかと思えば優しくおだてる。彼はついに脱兎のごとく駆け出し、人気のない場所でみずから命を捨てた。

帯を外して首に巻き、木に吊って死んだのである。かくして二人は同じ日に同じく〝木〟で死んだ。地上での生命は奇しくも同じ時刻に消えたのでした。

 さて、霊界へ赴いた二人は意識を取り戻した。そして再び相見えた。が二人とも言葉は交わさなかった。ただしイエスはペテロを見守ったごとく(*)、今はユダを同じ目で見守った。そして〝赦〟しを携えて再び訪れるべき時期(とき)がくるまで、後悔と苦悶に身を委ねさせた。

つまりペテロが闇夜の中に走り出て後悔の涙にくれるにまかせたようにイエスは、ユダが自分に背を向け目をおおって地獄の闇の中へよろめきつつ消えて行くのを見守ったのでした。

(*イエスの使徒でありながら、イエスが捕えられたあと〝お前もイエスの一味であろう〟と問われて〝そんな人間は知らぬ〟と偽って逃れたが、イエスはそのことをあらかじめ予見していて〝あなたは今夜鶏の鳴く前に三度私を知らないと言うだろう〟と忠告しておいた。訳者)

 しかしイエスは後悔と悲しみと苦悶の中にあるペテロを赦したごとく、自分に孤独の寂しさを味わわせたユダにも赦しを与えた。いつまでも苦悶の中に置き去りにはしなかった。その後みずから地獄に赴いて探し出し、赦しの祝福を与えたのです。(後注)

 以上がその方のお話です。実際はもっと多くを語られました。そしてしばらく聖堂に留まって今の話を吟味し、同時にそれを(他の話といっしょに)持ちかえって罪を犯せる者に語り聞かせるべく、エネルギーを蓄えて行われるがよいと仰せられた。

犯せる罪ゆえに絶望の暗黒に沈める者は裏切られた主イエス・キリストによる赦しへの希望を失っているものです。げに、罪とは背信行為なのです。

 さて吾々が仰せつかった使命については又の機会に述べるとしましょう。貴殿はそろそろ疲れてこられた。ここまで持ちこたえさせるのにも吾々はいささか難儀したほどです。

 願わくは罪を犯せる者の救い主、哀れみ深きイエス・キリストが暗闇にいるすべての者とともにいまさんことを。友よ、霊界と同じく地上にも主の慰めを深刻に求めている者が実に多いのです。貴殿にも主の慈悲を給わらんことを。


 訳者注──ここに言う〝赦し〟とはいわゆる〝罪を憎んで人を憎まず〟の理念からくる赦しであって、罪を免じるという意味とは異なる。

イエスもいったんはユダを地獄での後悔と苦悶に身をゆだねさせている。因果律は絶対であり〝自分が蒔いたタネは自分で刈り取る〟のが絶対的原則であることに変わりないが、ただ、被害者の立場にある者が加害者を慈悲の心でもって赦すという心情は霊的進化の大きな顕れであり、誤った自己主張の観念からすべてを利害関係で片づけようとする現代の風潮の中で急速に風化して行きつつある美徳の一つであろう。

Monday, January 12, 2026

シルバーバーチの霊訓(十一)

 More Philosophy of Silver Birch Edited by Tony Ortzen



七章 人類の宿題      
   地上天国の建設
 
 科学技術の急速な発達は目を見張るものがあるが、最近の情勢を見ていると、それがうっかりすると今よりさらに恐ろしい戦争と破壊の凶器をこしらえることになりかねない気がする。人間の人間に対する非人間的行為が相変らず後を絶たない。

果たして完全に終止符が打たれる日が来るのだろうか。お互いが霊的に兄弟であり姉妹であるという認識のもとに暮らせる真に平和な時代が本当に来るのだろうか。殺し合いは避けがたい人間の宿命なのだろうか。戦争は正当化されうるものだろうか。霊界はこうした地上世界をどう見ているのだろうか。  

 本章はこうした問題についてのシルバーバーチの知恵に耳を傾けることにしよう。


───今日の世界の風潮、物的利益優先の考え、暴力、そのほか〝文明国〟と呼ばれる国においてますます増加しつつある恐ろしいことを憂慮する人たちへ何かメッセージをいただけないでしょうか。果たして希望はあるのでしょうか。

 大霊の御心は必ずや行きわたります、と申し上げます。人類の霊的革新及び動物問題の改善に関わる仕事にたずさわる者、無駄な苦しみから救い、残虐行為を止めさせ、いつどこにいても人の力になってあげる仕事に献身する者は、絶対に弱気になってはいけません、と申し上げます。


 地上天国はいつの日かきっと成就されますが、それはゆっくりとした段階をへながら、そして時には苦痛を伴いながら成就されてまいります。おっしゃるような暴力・混乱・衝突・戦争・残虐行為が増えつつあるのは、今地上世界がオーバーホール(修理・点検の為の全面的解体作業)の過程にあるからです。

 すでに多くの伝統的思想が葬り去られました。若者は自由を求めて騒ぎたてております。又、あまりに永いあいだ手枷足枷となってきた制度、しかも何の努力もしない一部の階層の特権をこしらえている制度に対する不満がもはや抑制できなくなっております。

 そうしたるつぼの真っ只中にいる人間にとっては、その背後の神の意図を読み取ることは難しいことです、しかし歴史を振り返ってごらんになれば、そこには段階的な進化の跡があることに気づかれるはずです。

 総体的にみて人類はかつてより親切心と寛容心が増え、その一方において偏見と残虐行為と抑圧政策がのさばっております。これは物的宇宙の進化の仕組みの一環なのです。つまり対立する勢力が激突して、そこからより良いものが生まれ、全体として進化していくということです。


 気を落としてはなりません。大切なのは霊的真理と霊力とが世界の多くの土地にしっかりとした足場をつくり、退却させられることがないようにすることです。それが至るところに恵み多い影響力を及ぼし、全体としてパン種の働きをしつづけます。

その影響力が浸透するにつれて暗闇と無知と愚行と蛮行を追い払い、地上世界を汚している醜悪と邪悪を駆逐していくことでしょう。

 明るい希望と楽観の根拠がいつでも十分に揃っているのです。なぜなら大霊の働きの休む時はないからです。


───われわれがスピリチュアリズムと呼んでいる神のメッセージが届けられたのも、その働きの現れだと私は思います。

 それでこのたびの大事業を敢行する決断が下されたのです。それも、これまでに幾度かあったような一時的暴発に終わらせてはならないということになっているのです。ですから、いったん根づいたものは徹底的に地固めが行われ、地上の永続的な要素となっていくことでしょう。


───地上世界は渦巻き状(スパイラル)に進化しているように思います。

 おっしゃる通りです。その渦巻の一ばん底は恐ろしい様相を呈していても上層部は実に明るい展望が開けております。落胆してはいけません。霊的知識を携えた者が絶望感を抱くようなことがあってはなりません。このことはすでに何度も申し上げてまいりました。大霊は宇宙創造の当初からずっと地球を管理しておりますから、次になすべきこともちゃんとご存知です。

 もう一つ別の側面もあります。人間社会のあらゆる分野で古い概念が覆され廃棄されていきつつあります。その多くはあまりに永いあいだ人間を迷わせてきた間違った概念です。これから徐々に愛と善の勢力が欲得づくの勢力と取って代わり、生活状態が改善されていくことでしょう。

 大切なのは取り越し苦労をしないということです。心配の念は私たち霊界から援助する者にとって非常に厄介な障害です。拒否的性質があります。腐食性があります。恐れ・心配・不安、こうしたものはその人を包む物的・精神的・霊的雰囲気を乱し、私たちが近づくのを一段と困難にします。

  真理を知った者は、それがわずかであっても───たとえ多くを知ったとて、無限の真理からすれば多寡が知れています───いついかなる事態に直面しても、穏やかで平静で受容的態度を維持すべきですし、又そう努力すべきです。

全生命に存在を与えている霊力より強力なものはないとの断固たる自信に満ちていなければなりません。

 何度でも繰り返し申し上げられる私からのメッセージがあるとすれば、それは〝心配の念を棄てなさい。そうすれば内部に静穏が得られます。内部が静穏になれば外部も静穏になります〟ということです。


───暴漢やチンピラによる被害が多くて、散歩に出るのにも防具を用意しなければならないのかと本気で考えている始末です。ぶん殴られて金を巻き上げられるのを許すわけにはいきません。そういう時はやり返すべきでしょうか。

 悪を大目に見たり暴力を助長することになってもよいということは絶対にありません。剣を取るものは剣にて滅ぶと申します。あなたの身体は霊が地上で自我を表現する唯一の手段ですから、それを守るのはあなたの義務です。が、そのことに限らず、地上生活に関わることはすべて自分の理性によって判断しなくてはなりません。

 ですから、ご自分で正当だと思う手段によって身を守ってよいことは言うまでもありませんが、同時にそうした愚かな若者、自分のしていることの理非曲直も弁えないほど道を間違えている若者のことを可哀そうに思う心も忘れてはなりません。

それは一種の群集心理、劣等感から生まれるヒステリー症状です。つまり自分たちの存在を認めさせる唯一の手段としてそういう態度に出て関心を引こうとする、幼稚な自己憐憫の情です。

 もとより私たちには暴力への同情心はひとかけらもありません。霊力は暴力という形では表現されません。霊力も常に冷静・平穏・安らぎ・落ち着いた自信の中で表現されるものです。そうした心理状態が調和を醸し出し、物質の世界と霊の世界との間の障害を取り除くのです。

 それとは反対に暴力は調和を乱します。激情を噴出させます。挙げ句にその反動が自分に戻ってきます。本人にとって何一つ良いことはありません。これも物質偏重思想の副産物です。

 暴力的になっているのは若者だけではありません。若者はその元気さゆえに衆目にさらされやすくて非難の的とされているだけです。暴力的傾向は私利私欲の追及に目がくらんで人間としての道を見失っている、病める地上社会の一症状です。

無明の中で、他人の幸福にまったく無とん着に、ますます暴力的になってまいります。しかもそれは人間どうしだけでなくて、可哀そうにも、何の罪のない動物にも向けられています。

それは若者が見せているような破壊的エネルギーがたまたまその方向へ切り換えられているにすぎないという考えは、大変な見当違いです。全体としての調和ということを考えないといけません。

他の存在への慈善(チャリテイ)の心を発揮するには貧乏人の存在が必要だという意見がありますが、そういうものではありません。仁愛の心があってはじめて慈善が施せるのです。哀れな人の姿を見ないと慈悲の心が生まれないというものではありません。

 若者がその持てる強烈なエネルギーを社会のために活用する分野はたくさんあります。不幸なことに、正しい指導を受けていない若者が多すぎるのです。が、正しい指導を受けた場合、そして又、霊的な動機づけから行動した場合は、大人が心を洗われる思いをさせられるようなことをやってのけます。

 若者が若者としてのベストを見せた時は、敬服に値するものを発揮します。道を誤ると手の施しようのないほど惨めなことになります。

 皆さんは暴力やテロ行為の生み出す陰惨さに巻き込まれないようにしないといけません。超然とした態度、俗世にあって俗世に染まらない生き方を心掛け、自分の霊的本性、神から授かった潜在的可能性を自覚して、せめて皆さんだけでも、小さいながらも霊の灯台となって、導きの光を放ってあげて下さい。


─── 戦争はどう理解したらよいのでしょうか。

 無限なる叡智と愛を具えた大霊は地球人類を創造するとともに、ある範囲内での自由意志を授けられました。同時に大霊は、人間が個的存在としていかに生きるべきかについての誤りない指標としての神性が開発されるように、人類全体の霊と精神と身体とに配剤なさっております。

 大霊は人間をただの操り人形───選択する自由も力も持たない、機械仕掛けのような存在にすることもできたのです。が大霊は自由意志を与えて下さいました。しかし自由意志があるということは、同時に自分の行為への責任もあるということになります。

 あなたは〝善いこと〟をしてもいいし〝悪いこと〟をしてもいいのです。善と悪とは一つのコインの表と裏のようなものです。愛と憎しみ、光と闇、嵐と静けさもそうです。これを両極性といいます。そのどちらを選ぶかにあなたの選択権があるということです。

 そこで戦争のことですが、あなたはその動機に立ち帰って、こう自問するのです───〝なぜ戦争をしなくてはならないのか〟〝両者が共通して求めているものはいったい何なのか〟 〝それは互いに相手を支配することなのか〟  

 そうした問いにあなた自身が考えて答えを出さないといけません。所詮はあなた方の世界です。パラダイスとするも地獄とするもあなた方人間次第です。どちらかを選ぶ自由と、どちらにもできる手段を具えているからです。

───私個人にはできません。一人の人間ではどうしようもありません。

 〝個〟が集まって地上人類全体ができ上がっているのです。一人でも多くの〝個〟が貪欲と強欲と残虐と横暴を止めれば、その数だけ平和に貢献するのです。あなたはあなたの生活、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念に責任を負うのです。

他人のしたことで償いをさせられたり報酬を受けたりすることはありません。それが摂理なのです。

 平和を求めて祈り、霊界の高級霊の道具として協力しようとなさる努力は必ず報われます。人間の協力を得てはじめて霊力を地上へ届け、戦争や暴力行為、その他、地上の文明を混乱させ存在を脅かすものすべてに終止符を打たせることができるのです。


しかし、これより先もまだまだ地上から戦火の消えることはないでしょう。なぜなら、人類全体が一つの巨大な霊的家族であるという、この単純な真理が未だに理解されていないからです。

肉体は撃ち殺せても霊は死ないのです。この事実が世界各国の国政をあずかる人たちによって理解され、その関連分野を通じて実行に移されるようにならないかぎり、戦争の勃発は避けられないでしょう。

 人間が人間に対して行う非人間的行為に対して、私たちは何の責任もありません。これは因果律の働きが片付ける問題です。もちろん人類にとって〝より良き時代〟は到来します。

是非ともそうあらねばなりません。が、失望のドン底から一気に幸福の絶頂へと一夜の内に転換するようなわけにはまいりません。一歩一歩の段階的過程をへるほかはありません。

 霊的真理を理解する人が増えるにつれて、その知識にのっとった生き方をする人が増え、その人たちの生活が依存している各種の制度も、霊と精神と身体がその幸福と成長と成熟にとって必要な体験が得られるように改善されていくことでしょう。

 あなた方がスピリチュアリズムと呼んでおられる霊的思想が前世紀(一八四八年)に勃興したのもそこに目的があります。それはかつてのように突発的ですぐに立ち消えになるようなものではなく、総合的な計画のもとに行われて、すでに霊力は完全に地上に根づいております。
 
これからもその前線基地は誇張しつづけ、ますます多くの人間がその恩恵に浴することになるでしょう。

 ある人は〝黄金時代〟と呼び、ある人は〝地上天国〟と呼んでいるものは、いつかは成就されます。それまでにどれほどの時が掛かるかは、私の口からはあえて予言しないでおきましょう。ただ、物的進化が絶え間なくその目的を果たしつつあるように、それと併行して霊的進化もそれなりの役割も果たしつつあることを申し上げておきます。


───人間はどの程度まで殺すことが許されているのでしょうか。

 〝許されている〟という言い方は感心しません。確かに人類には自由意志が与えられておりますが、それは条件つきであり制約があります。やりたいことは何をやってもよいという意味での、無制約の自由ではありません。

 そもそも自由意志の授与は、人間が大自然の創造の過程に参加し、大自然の摂理と調和して生き、健康と理解と悟りを得て天命を全うするための神の計画の一環なのです。そうでなかったら進化も発展もありません。

 自由意志がなかったら皆さんは成長と進化のチャンスのない、ただの操り人形となってしまいます。せいぜいロボットのような行動しかできません。が、自由意志があるということは、その行使の仕方に責任を持たねばならないということになります。

 殺すという行為は、たとえやむを得ない事情はあるにしても、いけないことであることは明らかです。生命を与える力はないのですから、奪う権利もないはずです。が、酌量すべき情状というものがあることも事実です。

 霊的に進化するにつれて人間は、霊的実在についての知識を基盤とした明確な原理にのっとって生きなければならないことを自覚するようになります。所詮完璧な生き方は望むべくもありませんが、改善の余地は大いにあります。

 地球は生命活動の場の一つに過ぎません。これからもっともっと多くの生活の場を体験することになっております。

それが永遠に続くのです。地上生活なんかいい加減に送ればよいと言っているのではありません。あなたが送るべき全生活のほんのひとかけらに過ぎないことを申し上げているのです。

 その地球をよりよい生活の場とするために努力なさってください。地球は宇宙の惑星の中で最も進化の程度の低い部類に属します。が、それなりの進化の目標があります。

同時に、進化とは永遠の過程でもあります。完全ということは永遠に達成できないのです。なぜなら、完全に近づけば近づくほど、その先にまだ達成すべきものがあることを知るからです。


───(ゲストの一人)われわれスピリチュアリストは形骸化しつつある古い宗教と対決し反抗することに多大な時間とエネルギーを注ぎ込んでいるようですが、もう一つの宗教である───信奉者は宗教と呼ばれることを拒否なさるかも知れませんが───マルキシズムないしはコミュニズム(共産主義)についてはまったく言及しておりません。

今では少なくとも思想上の共鳴者は人類の三分の一にも達しています。既成宗教のいずれよりも遥かに頑強で、その影響力は強烈です。これこそ純粋な唯物観を説いている点で、われわれの本当の敵ではないかと思うのですが・・・・・


 コミュニズムというのは何のことでしょうか。

───マルクスとレーニンとエンゲルスの著作をもとにした政治的、経済的、ならびに社会的思想と言ってよいかと思います。

 もしもコミュニズムが真の協調性を意味し、階級上の差別もなく、住民がお互いに助け合う心をもった社会のことであるとすれば、現在の地上世界で思想的にコミュニズムを標榜している国家には、そういうものは存在しておりません。私の言わんとするところを明確に述べてみましょう。 

 地上社会の問題のそもそもの根源はマテリアリズム(物質偏重・唯物思想)にあります。皆さんはそれと真っ向から対立するスピリチュアリズムを提唱し唱道なさっているわけです。そして霊が実在であることが単なる理論ではなくて事実であることの証拠を提供しております。

私と同じく皆さんは、ナザレのイエスをリーダーとする神庁の霊団によって考案された霊的大計画の一環として、霊力を地上へ送り届けるだけでなく、そこにしっかりと根付かせ、いかなる地上の勢力がたとえ束になってかかっても、それを駆逐できないようにするために、本日もこうして集まっているわけです。

 今まさに世界中にそのための霊的橋頭保が設営され地固めされつつあります。それはさらに多くの橋頭保を築くためです。霊力はすでに地上にしっかりと根付き、その恵み深い影響力を発揮しております。公的には禁じられている国々においてすら働いており、これからも働き続けます。
                       
 皆さんは明日のことを思い煩う必要はどこにもありません。最善を尽くして私たちに協力してくださればよいのです。そのうち徐々にではありますが、地上のガンである物欲が除去されていきつつあることに気づかれるでしょう。


───(もう一人のゲストが息子から依頼された質問として)〝共産主義者(コミュニスト)の指導霊〟というのも存在するのでしょうか。

 そういう質問をされて私がどういう受け取り方をするかを説明しますので、しっかりと理解してください。

 私はラベルというものにはまったく関心がありません。私にとっては何の意味もありません。地上世界ではラベルが大切にされます───共産主義者、社会主義者、保守党、労働党、スピリチュアリスト、セオソフィスト、オカリスト、等々、挙げていったらキリがありません。

しかし、大切なのはラベルではなく、その中身です。コミュニストという用語の起源は、物的財産は共有するのが正しいと信じた遠い昔にさかのぼります。それ自体はとても結構なことです。

 いかがでしょう。有り余るほど持っている人が足りない人に分けてあげるというのは公正なことではないでしょうか。教師というのは持てる知識を持たざる生徒に譲ってあげようとする人のことではないでしょうか。

 分かち合うというのは立派な原理です。私たち霊がこうして地上へ戻ってくるそもそもの目的も、やはりそこにあります。皆さんは私たちから学び、私たちは皆さんから学ぶということです。

 聖書にも〝地球とそこにあるものすべては主のものなり〟(コリント①10・26)とあります。これは人間は地上のものは何一つとして所有できない───自分のものとはなり得ないことを意味します。地上にいる間だけリースで所有しているようなものです。永遠に自分のものではありません。

地上のゴタゴタは皆が自分がいちばんいいと思うものを少しでも多く自分のものとしようとする───いちばん悪いものを欲しがる者はいません───そこから生じております。その結果として強欲、貪欲、私利私欲が王座に祭り上げられ、物欲第一主義が新しい神として崇拝されることになります。

 地上には物欲優先の副産物が、見るも痛ましいほどはびこっております。悲劇・卑劣行為・飢餓・栄養失調・残虐行為・動物実験、こうしたものはすべて物欲を優先させることから生じる恐ろしい産物です。

 みんなで分け合うという理念は結構なことです。共産主義者(コミュニズム)という用語そのものに怯えてはいけません。初期のクリスチャンには全財産を共有し合った時期が、少しの間でしたがありました。ということは彼らのことをコミュニストと呼んでもよいことになります。

 一つの理念をもつことと、それを実現するために拷問や抑圧や迫害や専制的手段を用いることとは別問題です。そこに大事な違いがあります。

 ですから、ご質問に対するお答えは、大霊の恩恵を惜しみなく分かち合うべきであると信じて働いているコミュニストの指導霊はいます、ということになります。そこに何ら問題とすべきものはないと思います。
   
           ※ ※

 別の日の交霊会で戦争がもたらす地上と霊界双方の弊害について語る───

 私たちは霊界が再び傷ついた魂の病院となるのは御免こうむります。こうして地上の皆さんとともに仕事をしている私たちから申し上げたいことは、皆さんは私たちがお教えしていることのすべてを地上生活に摂り入れていくだけの用意ができていなければならないということです。

 私たちが代わりにやってあげるわけにはいかないのです。私たちには人間のしている間違ったことがもたらす結果が分かります。地上でそういうことをしていたら霊界へ来てからこうなりますよ、ということをお教えすることしかできません。

 そのことをわざわざこうして地上へ戻ってきて教えねばならないのは、戦争のもたらす結果が破綻と害悪でしかないからです。霊界へ送り込まれてくるのは霊的に未熟な魂ばかりです。

言ってみれば、熟さないうちにもぎ取られた果実のようなものです。地上で使用していた肉体という表現機関を破壊されて分別を失った魂を一体なぜ私たちが癒やしてあげねばならないのでしょうか。

人間が人間としての義務を果たさないがために霊界へ送られてくる未熟な魂の世話をしに、一体なぜ私たちが巡礼の旅先からこの地上へ後戻りしなければならないのでしょうか。

 もしも私たちに愛の心がなければ、つまりもしも大霊の愛が私たちを通して表現されなかったら、こうして同じ大霊の子である地上の皆さんと交わるようなことはしていないでしょう。

どうか私たちの説く真理を唯一の判断の基準として私たちを裁いて下さい。〝あなたの教えは間違っている───われわれの常識に反するから〟などという幼稚なことを言ってはなりません。 

霊界にとっての迷惑はさておいても、地上での戦争を正当化することが許されるわけがありません。物質的な面にかぎってみても、ただ破壊するのみです。

霊界にとっても正当化の根拠はありません。なぜならば、神の摂理への干渉にほかならないからです。霊はその機が熟した時に肉体から離れるべきであるとの摂理に、よくも平気で逆らえるものだと呆れます。

 皆さんもかくあるべきという原理を何としても擁護しなくてはなりません。分別のない人たちに霊の仕事の邪魔を許してはなりません。ご存知でしょうが、進歩と平和と調和を求めて戦う私たち霊団の向こうを張って、それを阻止せんとする組織的な活動をしている邪霊集団もいるのです。(章末注参照)

 地上世界は人類というものを民族別に考えず、すべてが大霊の子であるという観点から考えないといけません。障壁をこしらえているのは人間自身なのです。大霊ではありません。大霊は人間の一人ひとりに神性を賦与しているのです。したがって人類の全てが大霊の一部なのです。

 地上は建設すべきものが山ほどあるというのに、上に立つ〝お偉方〟はなぜ破壊することばかりしたがるのでしょう。大霊はそうした人間の行為のすべてを規律的に治めるための摂理を用意しております。

それに干渉するようなことをしてはなりません。逆らったことをすれば、その結果は破壊と混乱でしかありません。そのことは(世界大戦で)目のあたりにしたばかりではないでしょうか。

 ここにお集まりの皆さん方の一人ひとりが積極的にその影響力を行使して、大霊の計画の推進のために尽力する人たちを先導していただきたいのです。大霊が流血を望まれると思いますか。

戦争による悲劇、苦痛、失業、飢餓、貧民窟を大霊が望まれると思いますか。子等が味わえるはずの恵みを奪われて喜ばれると思いますか。戦争で親を奪われて、幼な子が路頭に迷う姿を見て大霊が喜ばれると思いますか。

 殺意が芽生えた時、理性が去ります。人間には神性が宿っていると同時に、動物進化の名残りとしての獣性もあります。人間としての向上進化というのは、その獣性を抑制し神性をより多く発揮できるようになることです。獣性が優勢になれば戦争と衝突と殺人が横行します。

神性が発揮され、お互いに援助し合うようになれば、平和と調和と豊かさが得られます。

 地上世界を国別、民族別に考えてはなりません。すべてが大霊の一部であることを教えないといけません。みんな大霊の子なのです。海で隔てられていても大霊の前では兄弟であり姉妹なのです。私たちの教えは単純です。しかし真実です。自然の摂理に基づいているからです。
  
摂理を無視した方法で地上世界を築こうとすると混乱と無秩序が生じます。必ず破綻をきたします。

 忍耐強い努力と犠牲を払わないことには、これからも数々の戦争が起きることでしょう。タネを蒔いてしまった以上は、その産物を刈り取らねばなりません。因果律はごまかせないのです。

流血の争いというタネを蒔いておいて平和という収穫は刈り取れません。他国を物理的に支配せんとする欲望の張り合いをしながら、その必然の苦い結果を逃れるわけにはまいりません。

 愛のタネを蒔けば愛が実ります。平和のタネを蒔けば平和が実ります、互助のタネを地上の至る所に蒔いておけば、やがて互助の花が咲き乱れます。

 単純な真理なのです。あまりに単純すぎるために、かえって地上の“〝お偉方〟を当惑させるのです。


───〝大戦〟(※) で戦死した人たちの犠牲は何一つ良い結果を生み出さなかったのでしょうか。(※英語で〝大戦〟Great War という時は第一次世界大戦のことをさすが、ここでは第二次大戦も含む戦争一般のこととして訳したー訳者)

 何一つありません。今の世界の方が〝偉大なる戦争〟勃発以前よりさらに混とん状態に近づき、破壊が増しております。


───数多く見られた英雄的行為が無駄に終わってしまうこともありうるのでしょうか。霊的に何の報いもないのでしょうか。

 その犠牲的行為をした当事者個人にはあります。動機が正しかったからです。ただ忘れないでいただきたいのは、そうした英雄を後世の人間が裏切っていることです。犠牲を無駄に終わらせています。その原因は相変わらず物的欲望を優先しているからです。


───毎年のように〝終戦記念日〟の催しがありますが、少しは役に立っているのでしょうか。

 たとえわずか二分間であっても、まったく思い出さないよりはましでしょう。が、その日をライフル銃と銃剣と花火という、戦争で使用する軍事力の誇示で祝って、いったいどうなるというのでしょう。何か霊的な行事で祝えないものでしょうか。


───同じ日にスピリチュアリストの集会で行っている記念行事を続けることには賛成なさいますか。

 真実が表現されているところには必ず価値あるものが生まれます。説教も奉仕的精神を生むものであれば結構です。ただ聴くだけで終わる説教では無意味です。聴衆をいかにも平和の味方であるかの気分に浸らせるだけのキザな説教ではいけません。

 私が望むのは実際の活動を生み出すような説教、人のために役立つことをしたいと思わせるような説教、弱者に勇気を与えるような説教、喪の悲しみに暮れる人を慰めてあげるような説教、住む家さえない人たちの心の支えとなるような説教、物質界の汚点である虐待行為のすべてに終止符を打たせるような説教です。

 お互いがお互いのためになることをする以外に平和の道はありません。すべての人間が互助の精神に満たされ、人のためになる行為を実践するようになるまでは、平和は到来しません。これまで続けられてきた終戦記念日も、今日では次の戦争の準備のための小休止でしかありません。


───不戦主義(兵役拒否)の運動に賛成なさいますか。
 
 私はどの〝主義〟にも属しません。私にはラベルはありません。名目に惑わされはいけません。その目的としているものは何か、何を望んでいるのか、そこが大切です。なぜなら、敵と味方の双方に誠実で善意の人がいるからです。

 私たちの教えは至って単純ですが、それを実行に移すには勇気がいります。一つの糸口をつかんだら、つまり霊的真理を知ることによって覚悟を決め、物的生活のあらゆる事柄に奉仕と無私の精神で臨めるようになれば、地上に平和と和合が招来されます。

 それは主義・主張からは生まれません。神の子がそうした精神の真実性を悟り、それを日常生活において、政治活動において、工場において、政府機関において、あるいは国際政策において応用していくことによって初めて実現されるのです。

 私たちにできるのは、これこそ真実に基づいていると確信した原理を説き、それを応用すれば、必ずや地上世界に良い結果がもたらされることを自信をもって申し上げるのみです。

 その地上世界にいるのはあなた方です。最後の責任はあなた方にあります。しかし皆さんが人の道を誤ることさえなければ、私たちも精一杯の愛と厚意をもって導き、万全の協力を惜しまないことだけはお約束します。

訳者注───私が〝英国の三代霊訓〟と呼んでいる 『シルバーバーチの霊訓』 と 『ベールの彼方の生活』 と 『霊訓』のうち、邪霊集団の存在についていちばん強く説き警告しているのは 『霊訓』 である。その中から参考とすべき箇所を部分的に紹介しておきたい。通信は自動書記によるインペレーターからのもの。

≪すでに聞き及んでいようが、今汝を中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。われわれ霊団と邪霊集団との反目であり、言い替えれば人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせんとする働きとの闘いである。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。

 逆行派の軍団には悪意と邪心と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟なる霊の抱く憎しみによって煽られる者もいれば、真の悪意というよりは悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。

要するに程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれる。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われわれをはじめとする他の多くの霊団の仕事に対し、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中である。

 汝にそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できぬのは、どうやらその現状が汝の肉眼に映らぬからのようである。となれば汝の霊眼が開くまでは、その大きさ、その実在ぶりを如実に理解することは出来ぬであろう。

 その集団に集まるのは必然的に地爆霊、未発達霊の類である。彼らにとって地上生活は何の益ももたらさず、その意念の赴くところは彼らにとっては愉しみの宝庫とも言うべき地上でしかなく、霊界の霊的な喜びには何の反応も示さぬ。

かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつき回り、同質の地上の人間に憑依し、哀れなる汚らわしき地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとする。(中略)

 一方、人間の無知の産物たる死刑の手段によって肉体より切り離された殺人者の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつき回り、決しておとなしく引っ込んではおらぬ。毒々しき激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみ───その罪は往々にして文明社会の副産物に過ぎず、彼らはその哀れなる犠牲者なのである───を抱き、

その不当行為への仕返しに出る。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽る。次々と罪悪をそそのかし、自分が犠牲となったその環境の永続を図る。(中略)

 かくの如く地上の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上へ舞い戻るこうした邪霊は、当然のことながら進歩と純潔と平和の敵である。われらの敵であり、われらの仕事への攻撃の煽動者となる。至極当然の成り行きであろう。

 久しく放蕩と堕落の地上生活に浸れる霊が、一気に聖純にして善良なる霊に変わりうるであろうか。肉欲の塊りが至純なる霊に、獣の如き人間が進歩を求める真面目な人間にそう易々と変われるであろうか。それがあり得ぬことぐらいは汝にも分かるであろう。

 彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙いにおいて、他の邪霊の大軍とともに、まさに地上人類とわれらの敵である。真理の普及がしつこき抵抗にあうのは彼らの存在のせいであり、汝にそうした悪への影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力の存在を無視し、彼らに攻撃のスキを見せることがあってはならぬ≫
                                                   

シルバーバーチの霊訓(十一)

 More Philosophy of Silver Birch Edited by Tony Ortzen




 六章 霊界でも祝うクリスマスとイースター               
    その本来の意味
 
 クリスマスもイースターも本来は宗教的祭礼であるが、今では物質的観念に汚染されてその基本的な光彩をすっかり失っている。


 本書で紹介する講演でシルバーバーチはその本来の意義を説明し、それが霊界においてどのように祝われているかを語っている。シルバーバーチらしく最後は、狼と小羊とが一緒に寝そべるような平和、つまり地上天国という理想を説き、そのためには人類が愛と哀れみと慈悲と責任意識を持たねばならないことを力説している───


 私たち地上の霊的啓蒙活動に従事している霊団の指導的立場にある者は、キリスト教でいうクリスマスとイースターに相当する時期に霊界の奥深く帰還する習わしになっております。

 ご承知の通りその二つの祝祭はキリスト教よりさかのぼる太古において、一年を通じての太陽の勢いの変化を神の働きかけの象徴と受け止めたことがその起源です。

 太古において太陽がその輝きを最高度に発揮する時期(夏至、6月下旬、旧暦5月中旬)が〝復活〟(ヨミガエリ)の時、つまり大自然が讃歌を奏で、見事な美しさを披露する時とみなされました。言いかえれば、蒔かれたタネがその頃に華麗なる成長を遂げると考えたのです。

 それに呼応して冬至(12月下旬、旧暦1月中旬)があります。最高の輝きを見せた太陽が衰え始めると、大自然はエネルギーを蓄え、根を肥やしながら季節の一巡の終わりを迎えると考えたのです。来るべき夏至にその成長ぶりを披露するのに備えるというわけです。

 そういうわけでクリスマスは永い一年の巡りの終わりであると同時に、太陽の誕生、新たなる生命が地上へ誕生する、その最初の兆しを見せる時期だと、太古の人は考えました。

 この二つの時期は太古において大切な意味をもっておりました。と申しますのは、〝神のお告げ〟はその二つの時期に授けられると信じられたからです。あなた方現代人は太陽の持つ神秘的な影響力をご存知ありません。

太古の人はその時期に今でいう交霊会を何日にもわたって大々的に催したものでした。その時期にたっぷりと啓示を頂いたのです。

 そこで私たち霊団の指導的役割を担う者は、誕生に相当する人生で最も大切なこの時期(クリスマス)に一堂に会して祝い合うのです。その始まりは太陽の影響力への讃美ということでしたが、それは一種の象徴(シンボル)であり、実質的には生命が他の生命へ及ぼす影響力、物質が他の物質へ及ぼす影響力、惑星が他の惑星へ及ぼす影響力、などが含まれております。

 とくに一年のこの時期が選ばれたのは、私たちに協力してくれている霊たちの地上時代に属していた民族が大自然の摂理を基盤とした宗教をもっていたからです。古い時代の私たちにとっては太陽の誕生の祝いが最大の祝いでした。

それは新しい年の始まりに他ならないからです。四季のめぐりの終わりであると同時に新しいめぐりの始まりでもあるわけです。

 そうした祝いがかつて地上で催されていたことから、これを霊界でも祝うことになりました。もとより、今では霊的な意味をもつようになっております。つまり新しい生命の誕生を祝うのではなく、地上からいったん引き上げて、新しい光を地上へもたらすために霊力の回復を図ることを目的としております。

今この仕事に従事している霊団の者は、地上時代は西洋文明を知らない古い民族に属していましたから、(キリスト教的な祝い方と違ってこの時期を地上から引きげて私たちの本来の所属界へ帰還する機会としております。

 帰還すると評議会のようなものを開き、互いに自分たちの霊団の経過報告をし、どこまで計画通りに行き、どこが計画通りに行っていないかを検討し合います。それとともに新たな計画を討議し合います。私達を地上へ派遣した神庁の方々とお会いするのもその時です。

 その中にかのナザレのイエスの雄姿があるのです。イエスは今なお人類に古来の大真理すなわち〝愛は摂理の成就なり〟を教える大事業に携わっておられます。そのイエスが私たちの業績に逐一通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的をもって邁進するようにと励まして下さる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し聞きそして感じ取らせてあげられればと思うのですが・・・・・

 もとよりそれはキリスト教によって神の座に祭り上げられているイエスではありません。数知れない道具を通して人類に働きかけておられる、一個の偉大なる霊なのです。

 その本来の界に留まっているのは短い期間ですが、私はその間に改めて生命力溢れる霊力、力強さと美しさに溢れるエネルギーに浸ります。

それに浸ると、生命とは何かがしみじみと感じ取れるのです。私はそのことをあくまで謙虚な気持ちであるがままに申し上げているつもりです。見栄を張る気持ちなどひとかけらもございません。

 仮に世界最高の絵画のすべて、物質界最高のインスピレーションと芸術的手腕、それに大自然の深くかつ壮大な美を全部集めて一つにまとめてみても、私の本来の所属界の荘厳美麗な実在に比べれば、至ってお粗末な反映程度のものでしかありません。


 芸術家がインスピレーションに浸ると、手持ちの絵具ではとても表現できそうにないことを痛感して、魂で感じ取ったその豊かな美しさを表現するための色彩を求めます。が、それは地上のどこにも存在しません。霊的な真理と美しさは物的なものでは表現できないのです。

 そうした界層での私の霊的な高揚状態がどうして言語などで表現できましょう。大霊の光輝を全身から放っている存在となっているのです。(章末注参照)

 叡智と理解力と慈悲と優しさに満ち、人間の側から訴えられる前にすべてを察知し、心の中を読み取り、心の動きに通じ、成功も失敗も知り尽くしております。

 全ての宗教の根幹でありイエスの教えの集約でもある、かの愛の名言(愛とは摂理の成就なり)は、全生命の主、無限の創造者たる大霊の名において私たちもその真実性を宣言するものです。

 かくして私たちは本来の霊的状態へ戻り、本来の環境である光彩と喜びと光輝と笑いと豊かさと崇高さと荘厳さを味わいます。その中に浸り、その喜びを味わい、私たちにとってはごく当たり前の状態である壮観を取り戻します。それが私たちのお祝いです。

 助言を頂き、感激を味わい、気分を一新し、元気百倍し、心身ともにすっかり生き返った私たちは、やおらこの冷ややかで陰うつでじめじめとして味気ない、暗い地上世界へと赴き、厚く包み込むそのモヤと霧を払い、真理の光を輝かせるための仕事を再開します。

 地上のクリスマスシーズンにも愛の精神の発露が見られないわけではありません。それが親切と寛容の形をとり、また施しの精神となって表現されております。旧交を温め、縁を確認し合い、離ればなれになった者が一堂に会するということの中にもそれが見られ、又、かつての恨みはもう忘れようという決意をさせることにもなります。

 しかし残念でならないのは、それに先立って大量の動物が殺害されることです。物言わぬ神の子が無益な犠牲とされていることです。〝平和の君〟キリストの誕生がそうした恐ろしい虐殺によって祝われるということは何と悲しいことでしょう。

なぜ平和を祝うために罪もない動物の血が流されねばならないのでしょう。これはまさに地上世界の磔刑(ハリツケ)です。罪なき動物に流血の犠牲を強いて平和を祝うとは・・・・・・

 いつの日か愛と哀れみと慈悲と責任感とが人間を動かし、助けを求める動物たちへの態度を改めることになるでしょう。そうした資質が発揮されるようになってはじめて、罪もない動物への容赦ない流血と残酷と無益な実験も行われなくなることでしょう。地上に真実の平和が訪れ、狼が小羊と並んで寝そべることになりましょう。

訳者注──シルバーバーチはよく〝光り輝く存在〟shining ones という言い方をする。日本でいう〝八百万の神々〟西洋でいう〝天使〟で、『ベールの彼方の生活』第三巻<天界の政庁>篇ではその存在の様子がアニメ風に語られている。

 ただ注意しなければならないのは、その通信霊のアーネルやシルバーバーチが述べているのはあくまでも地球神界つまり地球の創造界のことで、その上には太陽神界があり、さらにその上には太陽系が属する銀河系神界があり、さらには星雲が幾つか集まった規模の神界があり、最後は(少なくとも理屈の上では)宇宙全体の神界があることになる。

 シルバーバーチはその内奥界を含めた宇宙を Cosmos (コズモス)と呼び、物的宇宙を Universe (ユニバース)と呼んで使い分けている。が、そのコズモスは無限・無辺であるとも言っている。

こうなると人間の粗末な脳味噌などではもはや付いて行けない。アーネル霊でさえ〝茫然自失してしまいそうだから、これ以上想像力を広げるのは止めましょう〟と言っているほどである。

 先ほどシルバーバーチが〝私はあくまで謙虚な気持ちであるがままを申し上げているつもりです。見栄を張る気持などひとかけらもございません〟と述べたことにはそうした背景がある。もはや〝謙虚〟などということを超越した次元の話である。

シルバーバーチの霊訓(十一)

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五章 霊界から見た地上の科学  

 ウィリアム・クルックス、オリバー・ロッジ、その他の世界的科学者が心霊現象を調査研究したビクトリア時代(ビクトリア女王が王位にあったのは一八三七~一九〇一年であるからスピリチュアリズム勃興からほぼ半世紀と重なるー訳者)と違って今日では心霊的能力が言わば顕微鏡的精密さをもって厳しく観察されているが、霊界では地上の科学をどう見ているであろうか。まず科学者の質問から始めよう。


───私は人のために役立つことをすることが大切であることはあなたの霊言で読み、かつそう信じておりますが、それと同時に大切なのは知識を集積すること、つまり学問だと思います。

霊界では学問はどういう具合に行われるのでしょうか。この物質界を科学的に研究するには実験ということをしますが、霊界でも実験を行うのでしょうか、それともやはり純粋に精神的なプロセスで行われるのでしょうか。

 知識は大霊と同じく無限に存在します。それには終止符(ピリオド)を打つところがありません。進歩すれば、さらに多くの知識を手にする資格ができます。

頂上を求めて永遠に登り続けるようなもので、ここが頂上だと思ったら、その上に別の頂上が見えるということの連続です。知識・進化・発達・開発・発展───こうしたものはすべて永遠のプロセスです。

 この物質界ではAをBでやってみたらどういう結果が出るかということを知るために実験を行います。霊界でも実験を行いますが、物質界のやり方とはまったく異なります。なぜかと言いますと、私たちの関心は〝霊〟が見せる千変万化の顕現の仕方に向けられているからです。ある意味ではいつも実験をしていると言えます。

 簡単な例をあげてみましょう。霊界には死後もなお、地上の病気で苦しんでいる人を救うことに専心している医師がおります。その医師たちは地上で身に付けた技術があります。人体のメカニズム、その働き具合をさまざまな反応の仕方についての知識も具えております。

 さて一方、こちらの世界には地上にない種類のエネルギー、程度を異にする霊力、つまり生命力があり、それに地上で得た知識を組み合わせて地上の患者を治すことを研究しております。それは患者に応じてさまざまなエネルギーを組み合わせる、絶え間ない実験であるといえます。

 強すぎてもいけないのです。強すぎると、それが通過する治療家に障害が起きます。治療家の受容力が発達し、より高い運動速度、威力、どう呼ばれても結構ですが、それに耐えられるようになると、治療エネルギーの強度を増すことができます。

 ここでもまた言語を超越したものを表現するための用語を見つけるのに苦労しますが、要するにこちらの世界でも常に実験し、休みなく知識を増やす努力をしております。

                ※          ※

 別の日の交霊会でシルバーバーチが〝一世紀前の科学的宇宙像は今日とは雲泥の差があります〟と述べたのに対して───

───それは、これからは科学者も物的次元の研究から高度な次元へと進歩していくことを意味しているのでしょうか。

 (原子の様な)目に見えない世界とその未開発の潜在的エネルギーの研究が進むにつれて、自らの論理でそうならざるを得なくなるでしょう。科学者が霊的に成長すれば、その途方もないエネルギーを善の方向へ使用する方法も分かってくることでしょう。

 そうするうちに自分自身にもそうした無尽蔵の見えざる能力が潜在していることを知って、次第にその開発へ目を向けるようになるでしょう。外部にあるものは内部にあるものが顕現したに過ぎません。

 (驚異としか言いようのない人体も内部にある霊すなわち生命力が顕現したものであることを言っている―訳者)
 その生命力は物質のように切り刻むことはできません。

分割して別々の容器に入れておけるような性質のものではありません。原子の生命も本質的には人間や動物や花や樹木の生命と同じものです。全体が一つの生命体であり、それが無限の形態で顕現しているのです。


───地上の科学者はもうそのレベルまで理解が達しているでしょうか。

 いえ、まだまだですが、理解している人もいます。オリバー・ロッジなどは現象の裏側の実在についての霊的な理解ができた科学者のよい例です。


───今後その理解が科学者一般に行きわたるまでには多くの人間と多くの物を犠牲にすることになるのでしょうか。

 いえ、科学者のすることにも限界があります。どんなに間違ったことをしても地球全体を破壊してしまうまでには至りません。自然の摂理によって、地上でなされる被害は一部の人間が考えているほど恐ろしいものとはならないようになっているのです。

しかも究極的には大霊の意志が地上に行きわたることになっているのです。その計画を挫けさせるほどの力を持った人間は地上にはいません。遅らせることはできます。邪魔することもできます。しかし大霊を支配することはできません。

 大自然の摂理の仕組みと働きについて幾ばくかの見識を得たわれわれは、いかなる事態が起きようと、あるいは人間がいかに愚かしいことをしでかそうと、大霊の意志は必ず行きわたるとの確信をもつことができます。そしてその摂理によってますます多くの愛と哀れみと慈悲と互助とが地上で行使されるようになります。

 科学も絶対に誤りを犯さないわけではありません。科学者とて間違いを犯す可能性をもった、ただの人間にすぎません。私は科学を神のごとく絶対視してはいません。地球には科学者が言っているような終末はありません。永遠に存在し続けます。

 いかがです、あなたも科学者の見解が間違っていた例をいくつかご存知でしょう?


───私は科学者ではないのですが、正直言ってその点を真剣に考えさせられることがありました。

 科学者の見解が間違っていた例をいくつかご存知なのでしょう?


───実にたくさんあります。

 ですから地球の未来について科学者が述べたからといって、それが必ず正しいという保証はどこにもないのです。(訳者注───部分的にしか紹介されていないので、この前にどういう対話があったのかは憶測の域を出ないが、

私の推測では、例えば最近さかんに警告されている、スプレーなどに使用されているフロンガスによる成層圏の破壊の問題が出て、このまま破壊が進めば紫外線が大量に地球に届いて、地球の生命が死滅するという説が出されたのであろう)

                     ※                ※

 ローデシアから訪れた科学者に向かって───

 これまでたどられたあなたの足跡も、背後霊によって暗闇から光明へと導かれてまいりました。これは、低く下がれるだけ高く上がれるという償いの法則によって本当の意味での人間的向上が得られる過程の一環なのです。

光を見出すのは闇の中においてこそです。喜びを見出すのは悲しみの中においてこそです。真実の自我を見出し始めるのは、地上にはもはや頼りになるものは何もないと思えた時です。

 これは人生の両極性という、魂が真の自我を見出すための原理の一つです。果てしない宇宙に展開する生命活動の一つ一つが、規律づけられた何らかの役割をもっております。嵐も、青天と同じく、無くてはならないものなのです。

闇も、光と同じく、無くてはならないものです。人間性が鍛えられるのは苦しい試練の中においてこそです。その両極性を体験してはじめて成長しはじめるのです。

 私は屁理屈を言っているのではありません。大霊がその無限の叡智によって地上の人類のために案出した進化の法則がそうなっているということを申し上げているのです。言い替えれば、必要なものは時が熟せば与えられるということです。

困難・試練・試金石・障害、こうしたものは魂がその潜在的資質を発揮するために欠かせない体験です。一種の触媒を提供してくれるのです。 

 これまでを振り返ってごらんになれば、最大の窮地と思えた時に道が開かれ、真実の自我を発揮する方向へと導かれていることに気づかれるはずです。同じ道をたどった人からあなたがそうして援助していただいたように、今度はあなたが人に手を差し伸べてあげるチャンスが与えられることになるでしょう。

 それが神が意図されている仕組みなのです。すなわち集団ではなく一人ひとりが自我の開発を促す永遠の真理を手にし、さらにそれを縁ある人に授けていくという仕組みなのです。

援助を求める人を絶対に拒否してはなりません。同時に、たとえ援助の手を拒否されても、それは、折角の自己革新のチャンスを目の前にしながら、その人がまだ受け入れる用意ができていなかったためにそれを生かし切れなかったのですから、気の毒に思ってあげることです。

 あなたはそれだけのものを授かることができたことを喜ばないといけません。同時に、それとて、これから先あなたを待ち受けている無限の真理のほんの一かけらに過ぎないことを知ってください。まだまだ掘り起こすべき霊的財産が山ほどあるのです。人のために尽くすチャンスも数多く与えられてまいります。

             ※      ※

 別の日の交霊会で───

 私たちは片時も休むことなく研究に勤しんでおります。特に病気治癒、霊視能力、入神現象(トランス)の質を高めるための新しい方法、アイディアを実験しております。しかし所詮は、そちらから提供してくれる材料次第です。そこには自由意志と個人的義務の問題がからんでおります。

 私たちはそちらから提供していただくものより多くのものをお返ししております。それが私たちの義務なのです。扶助し支援すると同時に、人間としての基本的な必要品に事欠くことのないように計らうことになっております。それから先のことは本人が決めることです。


(あくまで謙虚に神の道具として辛抱するか、金銭欲や虚栄心といった煩悩に負けて堕落していくかは、自由意志と個人的義務の問題であって、そこまで立ち入ることは許されないということ──訳者)

 私たちはあくまでも謙虚に献身してくれる道具が欲しいのです。何度も申し上げていることをここで改めて申し上げますが、献身こそ霊の正貨です。大義のために献身することこそ気高いのです。なぜならその時あなたは内部の神性を発揮していることになるからです。

 私たちからお願いしたいのは、倫理的意識をできるだけ高く持っていただきたいということです。私は常に皆さんを成就というゴールへ向けて、ゆっくりではありますが確実に進歩するように援助しています。申し上げていることは至って単純なことです。

人間として最善を尽くしていて下さればよいのです。そうすれば私たちの協力のもとに、縁あって訪れてくる人の力になってあげることができるのです。

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(三)

The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen
六章 宇宙の創造原理・キリスト


3 究極の実在
一九一七年十二月十四日 金曜日

  前回は貴殿の質問にお答えして物質界へのキリストの降下について述べました。ではこれより本題に戻って、これまでの続きを述べさせていただこうと思います。

今回の話は物的コスモスの深奥へ下って行くのではなく霊的コスモスへの上昇であり、その行き着く先は貴殿らが〝父なる住処〟と呼ぶところの境涯です。そこが現段階での人類の想像力の限界であり、存在の可能性へ向けての人類の思考力もそこから先へ進むことは不可能です。

 それに、こちらへ来て見て吾々も霊というものが本質は確かに崇高この上ないとは言え、まだ存在のすべてではないということを知るに至りました。

物質界を超えたところに霊界があるごとく、人智を超えた光と、至純の中に至誠を秘めた、遠く高き界層のそのまた彼方に、霊のみの存在にあらずして、霊たるものの本質をすべて自己の中に収めてしまい、霊的存在のすべてを包含して、さらに一段と高き崇高さを秘めた宇宙を構成している実在が存在するということです。

(訳者注──モーゼスの『霊訓』によると地上を含めた試練と浄化のための境涯のあとに絶対無の超越界があるという。右の説はそれを指しているものと推察される。が、その超越界の一歩手前まで到達しているイムペレーター霊でも、その先がどうなっているかについては何も知らないという)

 惑星の輝きは中心に位置する太陽の放射物のごく一部にすぎず、しかもそれ自体の惑星的特質による色彩を帯びているごとく、物的宇宙は霊の影響をごく僅かだけ受け、その特質による色彩を帯びたものを反射することによって、同じように霊的宇宙の質を向上させ豊かにする上で少しづつ貢献している。

がその太陽とて自己よりはるかに大きい、恒星の集団である星雲の中のごく小さな一単位である太陽系の一部にすぎないように、霊の世界も吾々の理解力をはるかに超えた規模と崇高性を具えたもう一つ別の存在の宇宙の一部にすぎない。

そして星雲もさらに広大な規模の集合体の一単位に過ぎない──これ以上広げることは止めにしましょう。理性と理解力を頼りとしながら道を探っている吾々には、これ以上規模を広げていくと、あまりの驚異に我を忘れてしまう恐れがあるからです。

 それ故に吾々としては本来の栄光の玉座へと戻られたキリストの後に付いて、いつの日かそのお側に侍(はべ)ることを夢見て、幾百億と知れぬ同志と共に数々の栄光に満ちた天界の道を歩むことで満足しようではありませんか。

 無窮の過去より無窮の未来へと時が閲するにつれてキリストの栄光もその大きさを増していきます。

何となれば天界の大軍に一人加わるごとに王国の輝きにさらに一個の光輝を添えることになるからです。吾々が聞き及んだところによれば、その光輝は、天界の最も遠く高き界層の目も眩まんばかりの高所より眺めれば、あたかも貴殿らが遠き星を見つめるごとくに一点の光として映じるという。

瀰漫する霊の海の中にあってはキリスト界の全境涯は一個の巨大な星であり、天界の高所より眺めればその外観を望むことができる。もっとも、このことは今の吾々には正しく理解することはできません。が、ささやかながらも、およそ次のようなことではあるまいかと思う。

 地上から太陽系全体を一つの単位として眺めることは不可能であろう。地球はその組織の中に包まれており、そのごく一部に過ぎないからです。が、アークツルス(牛飼座の一つ)より眺めれば太陽系全体が一つの小さな光球として見えることであろう。その中に太陽も惑星も衛星も含まれているのです。

同じように。そのアークツルスと他の無数の恒星を一個の光球と見ることのできる位置もあるでしょう。かくして、キリストの王国と各境涯を一望のもとに眺めることのできる超越的境涯がはるか彼方に存在するというわけです。

そしてその全組織は、それを構成する生命が物質性を脱して霊性へと進化してゆく悠久の時の流れの中で少しずつ光輝を加えていく。

つまり私は霊的宇宙全体を一つの恒星に見立て、それを一望できる位置にある高き存在を、霊の界層を超越した未知と無限の大いなる〝無〟の中の存在と見なすのです。

 その超越界と吾々第十界まで向上した者との隔たりは、貴殿ら地上の人間との隔たりとも大して差がないほど大きいものです。かりに人間から吾々までの距離を吾々と超越界との距離で割ったとすれば、その数値は計算できないほどの極小値となってしまうでしょう。

 が、恒星の集団のそのまた大集団が、悠久とはいえ確実なゴールへ向けて秩序整然たる行進を続けているごとく、霊の無数の界層もその宿命へ向けて行進している。その究極においては霊の巡礼の旅路は超越界へと融合し、そこに完全の極地を見出すことでしょう。

 その究極の目標へ向けてキリストはまず父の御胸より降下してその指先でそっと人類に触れられた。その神的生命が、魂の中に息づく同種の生命に衝動を与えて、人類は向上進化の宿命に目覚めた。そして至高の君主の後に付いて、他の天体の同胞に後れを取らぬように、ともに父の大軍として同じ目標へ向けて行進し続けているのです。


──一つよく理解できないことがあります。吾らが主は幼な子の純心さについて語ってから〝神の御国はかくの如き者のものなり〟と述べています。あなたのこれまでのお話を総合すると、私たちは年を取るにつれて子供らしさの点において御国に相応しくなくなっていくという風に受け取れるように思います。

たしかに地上生活については私も同感です。が、これでは後ろ向きに進行する、一種の退行現象を意味することになるでしょう。

しかも地上生活が進化の旅の最初の段階であり、それが死後のいくつもの界層まで続けられるとすると、子供らしさを基準として進化を測るのは矛盾するように思えます。その点をどう理解したらよいでしょうか。


 子供はいくつかの資質と能力とを携えてこの世に生まれてきます。ただし幼少時の期間は無活動で未発達の状態にある。存在はしていても居睡りをしているわけです。それが精神的機能と発達とともに一つ一つ開発され使用されるようになる。

そうすることによって人間はひっきりなしに活動の世界を広げ、そして、広げられた環境が次から次に新しいエネルギーを秘めた界層と接触することによって、そのエネルギーを引き寄せることができるようになる。

私のいうエネルギーは創造性と結合力と霊的浄化力とを秘め、さらには神の本性を理解させる力も有しています。

それらの高度なエネルギーをどこまで活用できるか──霊的存在としても人間の発達はそれに掛かっています。幼な子を御国の者になぞらえるのはその心が父なる神の心に反しない限りにおいてのことです。

人間の大人もその能力の開発の道程においてはそのことを銘記し幼な子の如き心を失わなければ、その限りなく広がりゆく霊的能力は壮大な神の目的に沿って、人類ならびに宇宙的大家族の一員であるところの他の天体の知的存在の進化のために使用されることになるでしょう。

が、もし年齢的ならびに才能上の成長とともに幼児的特質であるところの無心の従順さを失っていくとしたら、それは神の御心にそぐわなくなることを意味し、車輪の回転を鈍らせる摩擦にも似た軋みが生じ、次第に進化の速度が鈍り、御国の辺境の地へと離れていき、離れるにつれて旅の仲間との調和が取れにくくなる。

一方その幼児的従順さを失わず、生命の旅において他の美徳を積む者は、退行することなくますます御国の子として相応しい存在となって行く。

ナザレのイエスがまさしくその見本でした。その生涯の記録の書から明確に読み取れるように、父なる神の御子として、その心は常に御心と完全に一体となっていた。少年時代にあってもその心を占めていたのは父なる神についてのことばかりであった。

(修行時代に)自己中心的にならず世俗的欲望から遠ざけたのは父の館であった(*)。

ゲッセマネの園にあってもあくまで父の御心と一体を求めた(**)。十字架上にあっても父のお顔を振り返ろうとした。しかしそのお顔は地上時代の堕落の悪気によって完全に覆いかくされていた。が、それでもその心は神の御心から片時もそれることなく、肉体を離れるや否や神へ向けて一気に旅立って行った。

さらにイースターの日にはマグダラのマリヤに約束された如く(***)その日を神への旅路の道標としてきっと姿をお見せになる。

パトモス島の予言者ヨハネが天界の大聖堂にて主イエスと再会した時、イエスはヨハネに対してご自分が父の御心と完全に一体となっていたことを父が多とされて、天界にても地上と同じように、霊力と共に最高の権威を委ねられたと述べた。

吾々のごとく地上にてはささやかな記録(バイブル)を通じて知り、こちらへ来てからは直々にそのお姿を拝した者が、汚れなき霊性に霊力と完成された人間性の威厳が融合し、その上に神性の尊厳を具えた童子性を主に見出して何の不思議があろう。

 さよう。友よ、父の御国の童子性を理解するのは天界の高き境涯にまで至った者のみなのです。


(*モーゼスの『霊訓』によると、イエスの背後霊団は一度も肉体に宿ったことのない天使団、日本神道で言う〝自然霊〟によって構成され、イエスも自分が出世前その霊団の最高の地位(クライ)にあったことを自覚し、一人でいる時は大てい肉体から脱け出てその霊団と交わっていたという。

**ゲッセマネとはイエスがユダに裏切られ生涯で最大の苦悶に遭遇した園。父との一体を求めたというのはその時に発した次の言葉のことで、祈りの最高の在り方としてよく引用される──〝父よ、願わくばこの苦しみを取り除き給え。しかし私の望みより、どうか御心のままになさらんことを〟。***マルコ16・9~11。訳者)
 

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(三)

The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen
六章 宇宙の創造原理・キリスト


2 イエス・キリスト
一九一七年十二月十二日 水曜日

 吾々のことを想像なさる時、はるか遠くにいると思ってはなりません。すぐ近くにいます。貴殿は直接書いているのがカスリーンであるから吾々はどこか遠く離れたところから彼女へ思念を送っていると考えておられるようですが、そうではない。

霊的身体を調節しながら降下してくる難しさを克服した今、貴殿のすぐ近くに来るために思念を統一することは容易です。天界においても同じですが、地上にも霊格の格差というものがあります。

吾々にとっては、動物的次元からさほど霊的に進化していない人類に近づくことは敢えて不可能とは言わないにしても、きわめて困難なことです。一方、吾々に憧憬の念を抱いてくれている人に対しては、吾々としても精一杯努力してその人が背のびできる最高の段階で折合うようにする。

貴殿の場合もそうです。これで少しは貴殿の気休めになると思うのですが如何でしょう。


──初めの説明は私もそう理解しておりました。しかし、あとの方の説明が事実だとするとカスリーンは必要ないことになりませんか。

 そのことに関しては以前に少なくとも部分的には説明したつもりですが、ここで少しばかり付け加えておきましょう。貴殿に知っておいていただきたい事実が二、三あります。

すなわち──まず霊団の大半がかなり古い時代の人間であるのに較べてカスリーンは貴殿の時代に近いことがあげられます。

そのため平常時においては吾々より貴殿の霊的状態に近く、吾々は貴殿の内的自我とは接触できても、言語能力とか指の運動能力を司る部分つまり肉体の脳への働きかけとなるとカスリーンの方が容易ということになります。

また吾々の思念を言語に転換する際にも彼女が中継してうまくやってくれます。もっとも、それはそれとして、貴殿と吾々とは完全に調和状態で接触していることは事実です。


──質問があるのですが・・・・・・

 どうぞ──ただ一言ご注意申し上げるが、貴殿は知識が旺盛な余り先を急ぎすぎる嫌いがあります。一つ尋ねて、それが片付いてなお余裕のある時にさらに次の質問をお受けしましょう。


──どうも。キリストの地上への降下の問題についてですが、肉体に宿るべく父の住処を離れたあと地上へ至るまでの途中の界層の一つ一つで環境条件に波長を合わせていく必要があったと思われます。キリストほどの高い境涯から降りてくるには余ほどの〝時〟を閲(けみ)する必要があったと思うのですが・・・・・・。

 吾々が教わったかぎりにおいて言えば、キリストは地球がまだ形体を持つに至る以前、すなわち非物質的存在の時から存在していた。

そして、いよいよ物質が存在し始めたとき宇宙神は、物的宇宙を今貴殿らが知るところの整然とした星座とするために、キリストをその霊力の行使の主宰霊 Master Spirit とされた。

が、存在はしても、当時まだ物的宇宙に形態がなかったごとくキリストの霊みずからも形態を具えていなかった。そして宇宙が物的形態を賦与された時にまず霊的形態を具え、それから物的形態を具えるに至った。

当時の天地創造の全現象の背後にキリストの霊が控え、無限の時を閲して混沌(カオス)より整然たる宇宙(コスモス)へと発展するその道程はすべてキリストの霊を通して行われたのであった。それは混沌たる状態を超越するあの強大な存在による外部からの働きかけなくしては不可能であった。

何となれば、秩序に欠けるものから秩序を生ずるということは、新たな要素を加えずしては有り得ないからである。かくして宇宙はキリスト界とカオスとの接触の産物にほかならない。

 カオスとは物質が 未知の可能性を秘めた状態である。コスモスとは物質がその潜在力を発現した状態である。とは言え、その顕現されたものは〝静〟の状態を〝動〟の状態へと転じさせた、その原動的エネルギーの現象的結果に過ぎない。

動とはつまるところ潜在的意念の活動の総計である。意念はその潜在的状態から顕現へと転換する過程においては、その創造力として働く意念の性質に相応しい動の形を取る。

かくして万物の創造主はキリストの意念を通してその創造活動を悠久の時の流れの中で行使し続け、ついにコスモスを生んだのである。

 さて以上の説明によって吾々が抱いている概念をいくらかでも明確にすることが出来たとすれば、キリストが物質的宇宙の創造の当初より存在していたこと、それ故に地球が徐々に物質性を帯び、形態を整え、ついには顕著な年代的特徴を刻んでいくに至るその全過程において存在し続けていたことが解るであろう。

言いかえれば地球それ自体が創造原理を宿し、それに物的表現を与えていったということである。そのことは地球そのものから鉱物と植物と動物という生命形態が生まれてきた事実によって知れる。そこで、友よ、結局いかなることになると思われるか。

ほかでもない。地球並びに物的全宇宙はキリストの身体にほかならないということです。


──地上に誕生したあのキリストですか。

父と一体なるキリスト、そして一体なるが故に父の個性の一部であったところのキリストです。ナザレ人イエスは父の思念の直接の表現体であり、地球人類救済のためのキリストとして肉体をまとったのです。

友よ、貴殿の心に動揺が見られるが、どうか思念の翼を少しばかり広げていただきたい。

 太陽系の他の惑星上には人類とは異なる知的存在が生活を営んでいる。他の太陽系の惑星上にもまた別の存在が生活を営んでいる。さらに他の星雲にも神およびそのキリストとの間に人類と同じつながりを持つ存在がいて、人類と同じように霊的交わりを持つことが出来る。

が彼らの形態は人類とは異なり、思念の伝達も、人類が言語と呼んでいる方法とは異なる。それでいて創造神とそのキリストとの関係は人類の場合と同じなのです。

彼らにとってもキリストは彼らなりの形態を持って顕現する必要があったのであり、今なお必要です。が、それはナザレ人イエスと同じ人間的形態をまとって現われるのではありません。それでは彼らには奇異に思われるでしょう。否、それ以上に、意味がないでしょう。

彼らには彼らなりの形態をとり、交信方法も彼ら独自のものがあり、彼らなりの合理的プロセスを活用している。こうしたことは、地動説を虚空にかなぐり棄てながらも精神的には相も変わらずまるでミイラの如く物的観念によってぐるぐる巻きにされている者にとっては、およそ納得のいかないことでしょう。

彼らはその小さい世界観から一歩も出ることが出来ず、創造神にとって重大な意義を持つ天体がこの地球以外にも存在することが得心できないのです。

 そこで吾々はこう表現しておきましょう──ガリラヤに来たキリストは宇宙的キリストの地球的顕現に過ぎない。が、真のキリストであるという点では同じである、と。

 では結論を述べるとしよう。もっとも、以上述べた程度では無窮の宇宙の美事な韻律が綴った荘厳にして華麗なる物語、星雲の誕生と結婚、そしてそこから生まれた無数の恒星の物語のほんの一章節ほどにも満たないでしょう。

 要するにキリストは、エネルギーが霊的原動力の活性化によって降下──物質化と呼んでもよい──していく過程の中で降下していったということです。鉱物もキリストの生命の具現です。

何となればあらゆる物質がキリストの生命から生まれているからです。バラもそうです。

ユリもそうです。あらゆる植物がキリストの生命を宿しており、一見ただの物質でありながら美しさと素晴らしさを見せるのはその生命ゆえであり、そうした植物的生命も理性へ向けて進化しているのです。

しかし植物に宿っているかぎりその生命は、たとえ最高に進化しても合目的的活動の片鱗を見せるに留まるでしょう。キリスト的生命はまた地上の動物にも顕現しています。

動物も人間と同じくキリスト的生命の進化したものだからです。キリストの意念の最高の表現が人間であった。

それがやがて不可視の世界から可視の世界へと顕現した。つまり人間を創造したキリストみずからが人間となったのです。つまり人間に存在を与え存続させているキリストがその思念を物質に吹き込み、それがナザレ人イエスとなって顕現したのです。

それゆえ創造神より人類創造のための主宰権を委託されたキリストみずからが、その創造せる人間の子となったということです。

(質問に対する答えは)以上で十分であろう。さらに質問があれば、それは次の機会まで待っていただくことにしましょう。神とそのキリストは──その共同作業が人間を生んだのですが──貴殿がその親子関係と宿命を理解し、さらに他の者にも理解させんとする努力を多とされることでしょう。

 














2 イエス・キリスト
一九一七年十二月十二日 水曜日

 吾々のことを想像なさる時、はるか遠くにいると思ってはなりません。すぐ近くにいます。貴殿は直接書いているのがカスリーンであるから吾々はどこか遠く離れたところから彼女へ思念を送っていると考えておられるようですが、そうではない。

霊的身体を調節しながら降下してくる難しさを克服した今、貴殿のすぐ近くに来るために思念を統一することは容易です。天界においても同じですが、地上にも霊格の格差というものがあります。

吾々にとっては、動物的次元からさほど霊的に進化していない人類に近づくことは敢えて不可能とは言わないにしても、きわめて困難なことです。一方、吾々に憧憬の念を抱いてくれている人に対しては、吾々としても精一杯努力してその人が背のびできる最高の段階で折合うようにする。

貴殿の場合もそうです。これで少しは貴殿の気休めになると思うのですが如何でしょう。


──初めの説明は私もそう理解しておりました。しかし、あとの方の説明が事実だとするとカスリーンは必要ないことになりませんか。

 そのことに関しては以前に少なくとも部分的には説明したつもりですが、ここで少しばかり付け加えておきましょう。貴殿に知っておいていただきたい事実が二、三あります。

すなわち──まず霊団の大半がかなり古い時代の人間であるのに較べてカスリーンは貴殿の時代に近いことがあげられます。

そのため平常時においては吾々より貴殿の霊的状態に近く、吾々は貴殿の内的自我とは接触できても、言語能力とか指の運動能力を司る部分つまり肉体の脳への働きかけとなるとカスリーンの方が容易ということになります。

また吾々の思念を言語に転換する際にも彼女が中継してうまくやってくれます。もっとも、それはそれとして、貴殿と吾々とは完全に調和状態で接触していることは事実です。


──質問があるのですが・・・・・・

 どうぞ──ただ一言ご注意申し上げるが、貴殿は知識が旺盛な余り先を急ぎすぎる嫌いがあります。一つ尋ねて、それが片付いてなお余裕のある時にさらに次の質問をお受けしましょう。


──どうも。キリストの地上への降下の問題についてですが、肉体に宿るべく父の住処を離れたあと地上へ至るまでの途中の界層の一つ一つで環境条件に波長を合わせていく必要があったと思われます。キリストほどの高い境涯から降りてくるには余ほどの〝時〟を閲(けみ)する必要があったと思うのですが・・・・・・。

 吾々が教わったかぎりにおいて言えば、キリストは地球がまだ形体を持つに至る以前、すなわち非物質的存在の時から存在していた。

そして、いよいよ物質が存在し始めたとき宇宙神は、物的宇宙を今貴殿らが知るところの整然とした星座とするために、キリストをその霊力の行使の主宰霊 Master Spirit とされた。

が、存在はしても、当時まだ物的宇宙に形態がなかったごとくキリストの霊みずからも形態を具えていなかった。そして宇宙が物的形態を賦与された時にまず霊的形態を具え、それから物的形態を具えるに至った。

当時の天地創造の全現象の背後にキリストの霊が控え、無限の時を閲して混沌(カオス)より整然たる宇宙(コスモス)へと発展するその道程はすべてキリストの霊を通して行われたのであった。それは混沌たる状態を超越するあの強大な存在による外部からの働きかけなくしては不可能であった。

何となれば、秩序に欠けるものから秩序を生ずるということは、新たな要素を加えずしては有り得ないからである。かくして宇宙はキリスト界とカオスとの接触の産物にほかならない。

 カオスとは物質が 未知の可能性を秘めた状態である。コスモスとは物質がその潜在力を発現した状態である。とは言え、その顕現されたものは〝静〟の状態を〝動〟の状態へと転じさせた、その原動的エネルギーの現象的結果に過ぎない。

動とはつまるところ潜在的意念の活動の総計である。意念はその潜在的状態から顕現へと転換する過程においては、その創造力として働く意念の性質に相応しい動の形を取る。

かくして万物の創造主はキリストの意念を通してその創造活動を悠久の時の流れの中で行使し続け、ついにコスモスを生んだのである。

 さて以上の説明によって吾々が抱いている概念をいくらかでも明確にすることが出来たとすれば、キリストが物質的宇宙の創造の当初より存在していたこと、それ故に地球が徐々に物質性を帯び、形態を整え、ついには顕著な年代的特徴を刻んでいくに至るその全過程において存在し続けていたことが解るであろう。

言いかえれば地球それ自体が創造原理を宿し、それに物的表現を与えていったということである。そのことは地球そのものから鉱物と植物と動物という生命形態が生まれてきた事実によって知れる。そこで、友よ、結局いかなることになると思われるか。

ほかでもない。地球並びに物的全宇宙はキリストの身体にほかならないということです。


──地上に誕生したあのキリストですか。

父と一体なるキリスト、そして一体なるが故に父の個性の一部であったところのキリストです。ナザレ人イエスは父の思念の直接の表現体であり、地球人類救済のためのキリストとして肉体をまとったのです。

友よ、貴殿の心に動揺が見られるが、どうか思念の翼を少しばかり広げていただきたい。

 太陽系の他の惑星上には人類とは異なる知的存在が生活を営んでいる。他の太陽系の惑星上にもまた別の存在が生活を営んでいる。さらに他の星雲にも神およびそのキリストとの間に人類と同じつながりを持つ存在がいて、人類と同じように霊的交わりを持つことが出来る。

が彼らの形態は人類とは異なり、思念の伝達も、人類が言語と呼んでいる方法とは異なる。それでいて創造神とそのキリストとの関係は人類の場合と同じなのです。

彼らにとってもキリストは彼らなりの形態を持って顕現する必要があったのであり、今なお必要です。が、それはナザレ人イエスと同じ人間的形態をまとって現われるのではありません。それでは彼らには奇異に思われるでしょう。否、それ以上に、意味がないでしょう。

彼らには彼らなりの形態をとり、交信方法も彼ら独自のものがあり、彼らなりの合理的プロセスを活用している。こうしたことは、地動説を虚空にかなぐり棄てながらも精神的には相も変わらずまるでミイラの如く物的観念によってぐるぐる巻きにされている者にとっては、およそ納得のいかないことでしょう。

彼らはその小さい世界観から一歩も出ることが出来ず、創造神にとって重大な意義を持つ天体がこの地球以外にも存在することが得心できないのです。

 そこで吾々はこう表現しておきましょう──ガリラヤに来たキリストは宇宙的キリストの地球的顕現に過ぎない。が、真のキリストであるという点では同じである、と。

 では結論を述べるとしよう。もっとも、以上述べた程度では無窮の宇宙の美事な韻律が綴った荘厳にして華麗なる物語、星雲の誕生と結婚、そしてそこから生まれた無数の恒星の物語のほんの一章節ほどにも満たないでしょう。

 要するにキリストは、エネルギーが霊的原動力の活性化によって降下──物質化と呼んでもよい──していく過程の中で降下していったということです。鉱物もキリストの生命の具現です。

何となればあらゆる物質がキリストの生命から生まれているからです。バラもそうです。

ユリもそうです。あらゆる植物がキリストの生命を宿しており、一見ただの物質でありながら美しさと素晴らしさを見せるのはその生命ゆえであり、そうした植物的生命も理性へ向けて進化しているのです。

しかし植物に宿っているかぎりその生命は、たとえ最高に進化しても合目的的活動の片鱗を見せるに留まるでしょう。キリスト的生命はまた地上の動物にも顕現しています。

動物も人間と同じくキリスト的生命の進化したものだからです。キリストの意念の最高の表現が人間であった。

それがやがて不可視の世界から可視の世界へと顕現した。つまり人間を創造したキリストみずからが人間となったのです。つまり人間に存在を与え存続させているキリストがその思念を物質に吹き込み、それがナザレ人イエスとなって顕現したのです。

それゆえ創造神より人類創造のための主宰権を委託されたキリストみずからが、その創造せる人間の子となったということです。

(質問に対する答えは)以上で十分であろう。さらに質問があれば、それは次の機会まで待っていただくことにしましょう。神とそのキリストは──その共同作業が人間を生んだのですが──貴殿がその親子関係と宿命を理解し、さらに他の者にも理解させんとする努力を多とされることでしょう。

 

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(三)

The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen
六章 宇宙の創造原理・キリスト

 

1 顕現としてのキリスト  
一九一七年十二月十一日 火曜日

こうして通信を送るために地上へ降りてくる際に吾々が必ず利用するものに〝生命補給路〟(ライフライン)とでも呼ぶべきものがあります。それを敷設するのにかなりの時間を要しましたが、それだけの価値は十分にありました。初めて降りた時は一界また一界とゆっくり降りました。

各界に特有の霊的な環境条件があり、その一つひとつに適応しなければならなかったからです。

 これまで何度往復を繰り返したか知れませんが、回を重ねるごとに霊的体調の調節が容易になり、最初の時に較べればはるかに急速に降下できるようになりました。

今では吾々の住まいのある本来の界での行動と変わらぬほど楽々と動くことができます。かつては一界一界で体調を整えながらだったのが、いまでは一気に地上まで到達します。最初に述べたライフラインが完備しており、往復の途次にそれを活用しているからです。


──あなたの本来の界は何界でしょうか。

 ザブディエル殿の数え方に従えば第十界となります。その界についてはザブディエル殿が少しばかり述べておられるが、ご自身は今ではその界を後にして次の界へ旅立っておられる。

その界より上の界から地上へ降りて来れる霊は少なく、それも滅多にないことです。

降りること自体は可能です。そして貴殿らの観念でいう長い長い年月の間にはかなりの数の霊が降りてきていますが、それは必ず何か大きな目的───その使命を自分から買って出るほどの理解力を持った者が吾々の十界あるいはそれ以下の界層に見当たらないほどの奥深い目的がある時にかぎられます。

ガブリエル(第二巻三章参照)がその一人であった。今でも神の使者として、あるいは遠くへあるいは近くへ神の指令を受けて赴いておられる。が、そのガブリエルにしても地上近くまで降りたことはそう滅多にない。

 さて、こうして吾々が地上界へ降りて来ることが可能なように、吾々の界へも、さらに上層界から高級な天使がよく降りて来られる。それが摂理なのです。

その目的も同じです。すなわち究極の実在へ向けて一歩一歩と崇高さを増す界を向上していく、その奮闘努力の中にある者へ光明と栄光と叡智を授けるためです。

 かくして吾々は、ちょうど貴殿ら地上の一部の者がその恩恵に浴するごとく、これからたどるべき栄光の道を垣間見ることを許されるわけです。そうすることによって、はるか彼方の道程についてまったくの無知であることから免れることができる。

同時に、これは貴殿も同じであるが、時折僅かの間ながらもその栄光の界を訪れて、そこで見聞きしたことを土産話として同胞に語り聞かせることも許されます。

 これで判るように、神の摂理は一つなのです。今おかれている低い境涯は、これより先の高い境涯のために役立つように出来ています。

吾々の啓発の使命に喜んで協力してくれる貴殿が未来の生活に憧れを抱くように、吾々は吾々で今おかれている境涯での生活を十分に満喫しつつ、神の恩寵と自らの静かな奮闘努力によって、これよりたどる巡礼の旅路に相応しい霊性を身につけんと望んでいるところです。

 そういう形で得られる情報の中に、キリストの霊と共に生活する大天使の境涯に関する情報が入ってくる。渾然一体となったその最高界の生活ぶりは、天使の表情がすなわちキリストの姿と目鼻だちを拝すること、と言えるほどです。

 底知れぬ静かな潜在的エネルギーを秘めた崇高なる超越的境涯においては、キリストの霊は自由無碍なる活動をしておられるが、吾々にとってその存在は〝顕現〟の形をとって示されるのみです。が、その限られた形体においてすら、はや、その美しさは言語に絶する。

それを思えば、キリストの霊を身近に拝する天使たちの目に映じるその美しさ、その栄光はいかばかりであることであろう。


──では、あなたもそのキリストの姿を拝されたことがあるわけですね。

 顕現としては拝しております。究極の実在としてのキリストの霊はまだ拝したことはありませんが・・・・・・。


──一度でなく何度もですか。

 いかにも。幾つかの界にて拝している。権限の形においては地上界までも至り、その姿をお見せになることは決して珍しいことではない。ただし、それを拝することの出来る者は幼な子のごとき心の持主と、苦悶の中にキリストの救いを痛切に求める者にかぎられます。


──あなたがキリストを拝された時の様子を一つだけお話ねがえませんか。

 では、先日お話した〝選別〟の行われる界で、ちょっとした騒ぎが生じた時のお話をお聞かせしましょう。その時はことのほか大ぜいの他界者がいて大忙しの状態となり、少しばかり混乱も起きていた。

自分の落着くべき場所が定まらずにいる者をどう扱うかで担当者は頭を痛めていた。群集の中の善と悪の要素が衝突して騒ぎが持ち上がっていたのです。

というのも、彼らは自分の扱われ方が不当であると勝手に不満を抱きイラ立ちを覚えていたのです。こうしたことはそう滅多に起きるものではありません。が、私自身は一度ならずあったことを知っております。

 誤解しないでいただきたいのは、そこへ連れて来られる人たちは決して邪悪な人間ではないことです。みな信心深い人間であり、あからさまに不平を口にしたわけではありません。心の奥では自分たちが決して悪いようにはされないことを信じている。

ただ表面では不安が過(よぎ)る。その明と暗とが複雑に絡んで正しい理解を妨げていたのです。

口先でこそ文句は言わないが、心では自分の置かれた境遇を悲しみ、正しい自己認識への勇気を失い始める。よく銘記されたい。自分を正しく認識することは、地上でそれを疎かにしていた者にとっては大変な苦痛なのです。

地上よりもこちらへ来てからの方がなお辛いことのようです。が、この問題はここではこれ以上深い入りしないことにします。

 さきの話に戻りますが、そこへその界の領主を勤めておられる天使が館より姿を見せられ、群集へ向けて全員こちらへ集まるようにと声を掛けられた。

みな浮かぬ表情で集まって来た。多くの者がうつ向いたまま、その天使の美しい容姿に目を向ける気さえ起きなかった。柱廊玄関から出て階段の最上段に立たれた天使は静かな口調でこう語り始めた──なぜ諸君はいつまでもそのような惨めな気持ちでいるのか。

これよりお姿をお見せになる方もかつては諸君と同じ立場に置かれながらも父の愛を疑わず、首尾よくその暗雲を突き抜けて父のもとへと帰って行かれた方であるぞ、と。

 首をうなだれたまま聞いていた群集が一人また一人と顔を上げて天使の威厳ある、光輝あふれる容姿に目を向け始めた。その天使は本来はずっと高い界層の方であるが、今この難しい界の統治の任を仰せつかっている。

その天使がなおも叡智に溢れた話を続けているうちに、足もとから霧状のものが発生しはじめ、それが全身を包みこみ、包まれた容姿がゆっくりとその霧と融合し、マントのようなものになった。その時はもはや天使の姿は見えなかった。が、それが凝縮して、見よ! 

今度は天使に代って階段上の同じ位置に、その天使より一段と崇高な表情と一段と強烈な光輝を放つ姿をした、別の天使の姿となりはじめたではないか。

その輝きがさらに強烈となっていき、眼前にその明確な容姿を現わした時、頭部に巻かれたイバラの飾り輪の下部と胸部には、いま落ちたばかりかと思われるほどの鮮血の跡が見て取れた。が、

いやが上にも増していく輝きに何千何万と数える群集の疲れた目も次第に輝きを増し、その神々しい容姿に呆然とするのであった。

今やそのイバラの冠帯は黄金色とルビーのそれと変わり、胸部の赤き血痕は衣装を肩で止める締め金具と化し、マントの下にまとうアルバ(祭礼服の一種)は、その生地を陽光の色合いに染めた銀を溶かしたような薄地の紗織の中で、その身体からでる黄金の光に映えていた。

その容姿はとても地上の言語では説明できない。その神々しき天使は他ならぬ救世主イエス・キリストであるという以外に表現のしようがないのである。

その顔から溢れでる表情は数々の天体と宇宙の創造者の一人としての表情であり、それでありながらなお、頭髪を額の中央で左右に分けた辺りに女性的優しさを漂わせていた。冠帯は王として尊厳を表わしていたが、流れるようなその頭髪の優しさが尊大さを掻き消していた。

長いまつげにはどこかしら吾々に優しさを求める雰囲気を漂わせ、一方、その目には吾々におのずと愛と畏敬の念を起こさせるものが漂っていた。

 さて、その容姿はゆっくりと大気の中へ融合していった──消えていったとは言わない──吾々の視力に映じなくなっていくのをそう感じたまでだからです。その存在感が強化されるにつれて、むしろその容姿は気化していったのです。

 そしてついに吾々の視界から消えた。するとその場に前と同じ領主の姿が現われた。が、その時は直立の姿勢ではなかった。片ひざをつき、もう一方のひざに額を当て、両手を前で組んでおられた。

まだ恍惚たる霊的交信状態にあられるので、吾々はその場を失礼した。その時はじめて吾々の足取りが軽く心が高揚されているのに気づいた。もはや憂うつさは消え、いかなる用事にも喜んでいつでも取り掛かれる心境になっていた。

入神状態にあられる領主は何も語られなかったが、〝私は常にあなたたちと共にあるぞ〟という声が吾々の心の中に響いてくるのを感じた。吾々は満足と新たな決意を秘めて再び仕事へ向かったのでした。