Tuesday, October 28, 2025

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓(四)

 Silver Birch Anthology Edited by William Naylor

八章  質問に答える


 再生の問題、動物実験の是非、犯罪、自殺等々についての質問がシルバーバーチのもとに数多く寄せられる。その中から幾つかを紹介しよう。

質問(一)─── 動物実験は正しいことでしょうか間違ったことでしょうか。
 これによって人類の益になるものが得られるのでしょうか。

「私はかねがね動物を使っての実験のすべてに反対しております。そこに何一つ正当化すべきものは見出せません。動物はあなた方人間が保護し世話すべきものとして地上に存在しているのです。

その成長と進化を促進する責任が、全面的とは言えませんが、人間に託されております。その無力な動物に苦痛を与えることは、動物が人間に示す情愛と献身と忠誠に対するあまりに酷い報復です。

 治癒力は自然界にさまざまな形で存在し、使用されるのを待っております。動物界の創造と進化をそんな形で邪魔しなくてもよいように、必要なものは創造主がちゃんと用意してくださっております。私たちの世界から援助するスピリットは苦痛を軽減したり不治と宣告された病すら治してしまう技術を身につけておりますが、決して生体実験は致しません。

 薬草を使うことがあります。霊波を使うことがあります。いずれも動物に対する残酷な行為は伴いません。宇宙には道義的な意図が行きわたっております。非道義的なものは摂理に反します」

質問(二)───スピリチュアリストの中にはスピリチュアリズムを占星術と同類とみている人がいます。そういう人たちは地上の出来ごとは星によって宿命づけられ操られていると考えています。

 「生命現象は一連のバイブレーション、放射性物質、放散物から成っており、したがって人間も自然界のあらゆる存在ないしは生命体によって影響されていることは確かです。そういったものが影響を及ぼしていることは事実ですが、どれ一つとして、どうしようもない宿命的な力を持ってはおりません。

あなたの誕生日にある星が地平線上にあったからといって、その星によってあなたの生涯が運命づけられていると考えるのは間違いです。

すべての惑星、すべての自然、宇宙間のあらゆる存在、あらゆる生命体が何らかの影響を及ぼします。しかしあなたはあなたの魂の支配者です。あなたには自分で背負わねばならない責任があり、あなたの霊的進歩に応じて自分が運命を定めていくのです。

 占星術でいう惑星には確かに人体に影響を及ぼす放射性物質がありますし、人体に影響を及ぼせば霊も影響を及ぼすことになります。しかし霊は絶対です。全てに優るものです。ですから、いかなる恒星も惑星も星座も星雲も、人体に及ぶ影響を克服するその霊の威力を妨げる力はありません。

 私が言いたいのは、要するにあなた方は神の一部であること、そして神性を宿すがゆえに、創造力を宿すがゆえに、この宇宙を創造した力の一部であるがゆえに、あなた方はその身体を牛耳ろうとする力に打ち克つことができるということです。

 分かりやすく言えば私も影響力の一つです。あなた方が付き合う人たちも何らかの影響を与えます。お読みになる本も影響力を持っております。しかしあくまで影響力にすぎません。それによってあなたが圧倒されることもないし、絶対的に支配されることもないでしょう」


質問(三)───再生は本当にあるのでしょうか。

 「再生は事実です。私はかつて地上へ再生したことのある霊に何人か会っております。 特殊な使命を託された人、預けた質を取り戻したい人がみずからの意志で行うものです。

 ただし再生するのは個的存在の別の側面です。同じ人格がそっくり再生するのではありません。ここに一個の意識的存在があって、そのごく小さな一部がちょうど氷山のように地上に顔を出します。それが誕生です。残りの大きい部分は顕現しておりません。

 次の誕生つまり再生の時にはその水面下の別の一部分が顔を出します。二つの部分に分かれても個的存在全体としては一つです。これが霊界において進化を重ねて行くと、その潜在している部分全体が顕現した状態となります」(表現する身体が精妙となっていき、それだけ神性が発揮しやすくなっていくー訳者)


質問(四)───私は最近、一方において若者による犯罪が激増し、他方においては体罰が禁じられていることについて大いに考えさせられております。暴力以外に青春のはけ口を知らず、けだもの同然となってしまっている若者をどう扱ったらよいのでしょうか。何かよい処罰の方法はないものでしょうか。(第二次大戦後のこと。本書は一九五五年の出版──訳者)

 「戦争が起きると気高い人間的精神(愛国心)が昂揚される半面、敵を殺そうとする、人類の最も残忍な性質が発揮されます。人間精神の極致ともいうべき英雄的行為を生むと同時に、むごたらしい野蛮性も生みます」


───両極端が発揮されるわけですね。

 「そういうことです。しかも、暴力の方は戦争の必然性として大いに奨励されることになります。では戦争が終われば暴力と残忍性がすぐに引っ込むかといえば、そう簡単にはまいりません。

すでに無数の人間が獣性をむき出しにした状態になっております。そうした事態にどう対処すべきかをお尋ねですが、それには二つの方法があります。

 いずれも地上で敬々しく読まれている本(新旧聖書)にはっきりと述べられているものです。古い方は〝目には目を、歯には歯を〟(出エジプト記)と説き、新しい方は〝己を愛するごとく隣人を愛せよ〟(マタイ)と説きます。どちらが良いかは分かり切ったことです。

 前者の方法を取れば解決は得られません。緩和剤、一時しのぎの荒治療にはなっても、罪悪ないし蛮行を根本から無くしたことにはなりません。

後者の方法を取り、そうした邪悪が精神と肉体と霊との不調和から生まれていることを認識し、それを矯正するための適切な手段を講ずれば、彼らもまともな市民となっていくでしょう。私はこの方法をお勧めします」


───それは解るのですが、問題はそうした暴徒にどう近づくか、つまり彼らの従順な側面をどう捉えるかです。

 「従順な側面をとらえるかどうかの問題ではありません。彼らの野獣性を鎮め、本来の姿である霊性を発揮させるような精神的治療を、さらに必要であれば霊的治療をいかに施すかの問題です。言ってみれば彼らは一種の病人であり、肉体と魂とが本来のつながりを失っているのです。

病気を治すにはいろんな方法がありますが、いちばん望ましい方法は身体と精神と霊の狂った関係に終止符を打ち、協調関係を取り戻させることです。すると自動的に健康状態になります。

それと同じで、秀れた心理学の専門家の協力、さらには心霊治療家の参加を得ることが出来れば、きっとうまく行くでしょう。しかし、残念ながら、地上はまだその段階まで来ておりません」


───(別のメンバーが)これは非常に考えさせられる問題です。そういう若者はしっかりと体罰を課せば一応おとなしくなると思うのですが・・・。

 「恐怖心を吹き込むばかりで、病弊の治療にはなりません」

───でも、おとなしくさせることは出来るでしょう。

 「できます。ですが、一個の人間としての問題の解決にはなりません。あなた方は極めて限られた視野で見ておられます。それはちょうど死刑にするのと同じです。

その人間をこの世から抹殺すれば問題は片づくじゃないかとおっしゃるようなものです。たしかに一面から見れば片づいたと言えるでしょう。しかし本人はちゃんと(死後の世界で)生き続けているのです」

(モーゼスの『霊訓』でイムペレーターが死刑にされた人間の霊や戦死者の霊の怨念と激情が地上の犯罪や暴力沙汰に拍車を掛けている事実を生々しく伝えているー訳者)

───一人の堕落者の更生の方が社会全体より大切なのでしょうか。

 「社会は個人が集まって出来あがっているのです。すべての者に注意を向けてやらねばなりません。私が指摘しているのはより良い方法です。つまり暴力に暴力を持って対処するのでなく、理解を持って臨み、凶暴性を鎮めて市民的意識を芽生えさせるということです」

───(さらに別のメンバーが)若者が暴徒と化してしまったことには我々にも責任があります。我々みんなの責任です。

 「私たちみんなに責任があります。なぜなら人類は一つであり、同胞へ及ぼす影響はこの私にも及びます。私たちが生活している宇宙は全生命があらゆる面において互いに依存し合っており、いかなる側面も他と隔絶することは出来ません」


───(最初の質問者)ムチを使うことは一時しのぎであり、単に恐怖心で持っておとなしくさせるに過ぎません。

 「現段階での地上人類はまだ社会悪に対する適切な矯正措置を生み出すところまで至っておりません。これは進化の問題です。かつては羊を一頭盗んだ者でも絞死刑にした時代がありました。死刑にしなかったら残りの羊はどうなるんだという理屈が大真面目でまかり通ったものです」


───未熟な社会では未熟な処罰が許されるのだと思います。

 「より良い方法に目覚めた人が一人でもいる限りは許されません。たとえば恐怖の監獄に放り込むのと、真面目な市民に更生させる目的をもった監獄の改善のために働かせるのと、どちらがより良いでしょうか。たった一人だけ更生に成功して九九人が失敗に終わったとしても、何の更生手段も講じないでいるよりはましです」

───死刑制度は正しいとお考えですか。

 「いえ、私は正しいと思いません。これは〝二つの悪のうちの酷くない方〟とは言えないからです。死刑制度は合法的殺人を許していることにしかなりません。個人が人を殺せば罪になり、国が人を殺すのは正当という理屈になりますが、これは不合理です」


───反対なさる主たる理由は、生命を奪うことは許されないことだからでしょうか。それとも国が死刑執行人を雇うことになり、それはその人にとって気の毒なことだからでしょうか。

 「両方とも強調したいことですが、それにもう一つ強調したいのは、いつまでも死刑制度を続けているということは、その社会がまだまだ進歩した社会とは言えないということです。

なぜなら、死刑では問題の解決になっていないことを悟る段階に至っていないからです。それはもう一つの殺人を犯していることに他ならないのであり、これは社会全体の責任です。それは処罰にはなっておりません。ただ単に、別の世界へ突き落しただけです」


質問(五)───余暇の正しい使い方について教えてください。

 「余暇は精神と霊の開発・陶冶(とうや) に当てるべきです。これはぜひとも必要なことです。なぜかと言えば、身体に関係したことはすでに十分な時間が費やされているからです。

人間は誰しも健康を維持し増進するための食生活には大変な関心を示します。もっとも必ずしも健康の法則に適っておりませんが・・・・・・しかし、精神と霊も発育が必要であることをご存じの方はほとんどいません。

そういう人たちは霊的にみると一生を耳を塞ぎ口をつぐみ目を閉じたまま生きているようなものです。自分の奥に汲めども尽きぬ霊的な宝の泉があることを知りません。

精神と霊が満喫できるはずの美しさを垣間見たことすらありません。誰にも霊的才覚が宿されていることを知らずにおります。それの開発は内的安らぎを生み、人生のより大きい側面の素晴らしさを知らしめます。

 となれば霊性そのものの開発が何よりも大切であることは明らかでしょう。これは個々の人間のプライベートな静寂の中において為されるものです。

その静寂の中で、周りに瀰漫する霊力と一体となるのです。すると、より大きな世界の偉大な存在と波長が合い、インスピレーションと叡智、知識と真理、要するに神の無限の宝庫からありとあらゆるものを摂取することが出来ます。その宝は使われるのを待ち受けているのです」


質問(六)───直感について説明してください。

 「よろしい。ひとことで説明できます。〝霊の即発〟です。直感とは霊が自己を認識する手段です。ふだんの地上的推理の過程を飛躍します。考えに考えた末に到達するような結論でも、電光石火の速さで到達します。

同じ問題について多くの時間と思索ののちにやっと到達することを〝霊の即発〟によって一気に我がものとしてしまう、一種の 〝一体化〟の過程です」


質問(七)───有色人種と白人が結婚して子孫をこしらえることは好ましくないことでしょうか。

 「私も有色人種です。これ以上申し上げる必要があるでしょうか。地上では〝色素〟つまり肌の色で優劣が決まるかのように考えがちですが、これは断じて間違いです。優劣の差はどれだけ自分を役立てるかによって決まることです。ほかに基準はありません。

肌の色が白いから、黄色いから、赤いから、あるいは黒いからといって、霊的に上でもなければ下でもありません。肌の色は魂の程度を反映するものではありません。地上世界ではとかく永遠なるものを物的基準で判断しようとしがちですが、永遠不変の基準は一つしかありません。すなわち〝霊〟です。

 すべての民族、あらゆる肌色の人間が神の子であり、全体として完全な調和を構成するようになっております。大自然の見事なわざをご覧なさい。広大な花園で無数の色彩をした花が咲き乱れていても、そこには、ひとかけらの不調和も不自然さも見られません。すべての肌色の人間が融合し合った時、そこに完璧な人種が生まれます」


質問(八)───現段階の人間社会において、いわゆるハーフカースト(※)の子孫も社会に受け入れられるべきでしょうか。(※宗教または階級を異にする者同士の間の子孫、とくにヨーロッパのキリスト教徒とヒンズー教徒またはイスラム教徒との間の混血児のことー訳者)    

 「偏見を打ち崩し、誤った考えと闘わなければなりません。真理は、いかにその歩みはのろく苦痛を伴っても、真理であるがゆえに、必ず前進するものです。価値あるものほど手に入れるのに困難が伴うものです。成就は奮闘努力の末に得られるものです。

勇気を持って挑戦してそして征服した者こそ称賛に値します。恐怖心から尻込みし困難を避けようとする者に用はありません。人生とは学校です。刻苦と闘争、努力と困難、逆境と嵐の中をくぐってこそ魂は真の自我に目覚めるのです」

Monday, October 27, 2025

シアトルの秋  「スピリティズムによる福音」     アラン・カルデック著

  The Gospel According to Spiritism: Allan Kardec (Author),

第28章 スピリティストの祈り 

 
序文

一、霊はいつも私たちに言ってくれます。「形式はなんの意味も持ちません。思案の内容そのものが全てなのです。各々がそれぞれの信じていることに従って、最も心地の良い状態で祈りなさい。心に響かぬ数知れぬ言葉よりも、たった一つの善い思いの方がずっと値打ちがあるのです」。

 霊は、これと言った絶対的な祈りの方法を示してはいません。ある方法を示す場合というのは、私たちの思いを導こうとする時で、スピリティズムの教義のある原則について私たちの注意をうながす時です。

あるいは、自分の思いをしっかりと決まった形式で表さなければ祈った気がしないと考えるような、自分をうまく表現するのが不得意な人を助ける時です。

 本章に集められた祈りは、さまざまな状況において霊が私たちに書き留めるよう求めたものです。その時の特別な状況や様々な考え方に応じて、それら以外の違った言葉で、違った形の祈りを示したこともあるでしょう。しかしその根底にある思いが同じであるならば、その形式はどうでもいいのです。

祈りの目的とは、私たちの魂を神のところまで高めることです。それぞれの祈りの形式がさまざまであったとしても、神を信じる者にとっては、それらはどれも違わないものであると理解することができます。それはスピリティズムを学ぶ者であればなおさらです。

なぜなら、私たちが誠意を持っていれば、神はすべての人を受け入れてくれることを知っているからです。

 ですから、ここにまとめられた祈りを、絶対的な定型の祈りとしてとらえてはなりません。これらは本書にまとめられた、福音の教える道徳を形に表わしたものなのです。

それは福音が示す、私たちの神と隣人に対し負っている義務を補足したものであり、その中にはスピリティズムの教義の原則が盛り込まれているのです。

 スピリティズムにおいては、口先だけでなく心から唱えられたものであるならば、いかなる宗教の祈りでもよいと考えます。スピリティズムはなにも強要せず、なにも非難することはありません。

スピリティズムによれば神は偉大であり、単にある形式に従わなかったからといって、懇願したり賛美する者の声を聞きいれなかったりすることはありません。形の決まっていない祈りについて批判する人は、神の偉大さを知らないのです。

神が定型の祈りだけを好むのだと信じる者は、神を小さく見ているのであり、人間的な感情の範囲で捉えているのです。

 聖パウロは、祈る上で重要なことの一つとして、祈りが私たちの魂に響くためには、理解できるものでなければならないということをあげています(→第二十七章 16)。しかし、そのためには、私たちの日常で使う言葉で祈るというだけでは不十分です。

なぜなら、日常的な表現を使っていても、知性には外国語のようにしか伝わらず、そのため心に響かない祈りがあるからです。一般に、祈りに込められた少しの思いは、過剰な言葉や言葉の神秘性によって押さえつけられてしまいます。

 祈りはまず第一に明瞭でなければなりません。それは単純、簡潔でなければならず、無意味に飾られた言葉や過剰な修飾語は、偽物をつくる単なる金メッキにしか過ぎません。

言葉の一つ一つがある思いを映し出し、魂に触れ、その価値を持っていなければなりません。そして一つ一つの言葉にもとづき、自分を省みなければならないのです。そうすることによってのみ、祈りはその目的を達成することができるのです。

それ以外の方法であれば、その祈りは無意味な言葉の集まりにしかなりません。しかし、ほとんどの場合、祈る者の気は散っていて、落ち着かない様子が見られます。口は動かしていても、祈る者の表情やその発声を見れば、それが魂の伴わない外面だけの機械的動作であることがわかります。ここにまとめられた祈りは五つの分類に別れています。

1、一般的な祈り、2個人的な祈り、3、他人への祈り、4、霊への祈り、5、病人、憑依に悩まされる者への祈り。

 一つ一つの祈りの目的について特に注意し、より理解し易いものとするため、それぞれの祈りについて序文として記した部分には、前書きとして、その祈りの動機となるものを並べています。


1、一般的な祈り 
「主の祈り」
二、<序文>霊はこの祈りの章を、単に祈りの一つとしてではなく、祈りの象徴として、この「主の祈り」で書きだすように勧めてくれました。この祈りは、すべての祈りの中でも霊がまず第一に考えるものです。

それは、この祈りがイエス自身によって教えられたものであるから(→マタイ 第六章 9-13)かもしれませんし、あるいは、その祈りが祈る者の意向に応じて、他のどんな祈りの代わりにもなるからかもしれません。

簡素で最も完全な形と簡単な言葉に込められた、崇高な真の傑作です。最も短い言葉で人間が神との間に約束する、自分自身に、また隣人との間に果たすべき義務が、すべて効率的に要約されています。

また、それは信仰の誓い、神への賛美、服従の行いであり、地上での生活や慈善の原理に不可欠なものを懇願することも含んでいます。この祈りを他人のために唱えることによって、私たちが自分自身に望むことを他人のために願うことができます。

 しかしながら、その簡潔さゆえに、多くの人々はその言葉の持つ深い意味を見逃しています。それは一般に、一文一文の意味を考えずに唱えているからです。数多く唱えればその回数に応じて効力を増すかの如く、決まりのように唱えるからなのです。

その回数はほとんどいつも神秘的な数です。古くからの迷信的な数の力を信じたり、魔術によくつかわれる、三、七、九と言った数であったりします。

 この祈りがその簡潔さゆえに私たちに残す隙間を埋めるため、善霊の忠告と助けに従って、祈りの一文一文に、その意味を明らかにする解説とその使い方を付して示します。祈る時の状況と、祈ることができる時間に応じて、「主の祈り」は、簡潔な形でも、またもっと詳しく述べる形でも唱えることができます。  


三、<祈り>
ⅰ.天にまします私たちの父よ、御名が崇められますように。

 主よ、私たちはあなたを信じています。なぜなら、すべての存在があなたの力とその善意を示してくれるからです。宇宙の調和は、人類のあらゆる能力を超える英知と理性の証明です。偉大で博識なるあなたの名は、つつましい草花、小さな昆虫から宇宙を飛ぶ星まで、あらゆる被造物に記されています。

あらゆるところに私たちは父なる配慮の証を見ることができます。あなたの創造されたものを見て、あなたを称えぬ者は盲目です。賛美せぬ者は思い上がった者です。また、その恩恵に感謝せぬ者は恩知らずです。


ⅱ.あなたの国(御国)が来ますように。

 主よ、人類がそれを守れば幸せになることができる、英知に満ちた法をあなたは与えてくださいました。この法によって、人類は平和と正義を確立することができ、いましているようにお互いを傷つけあうのではなく、お互いを助け合うことができるようになるでしょう。

強い者は弱い者を圧迫するのではなく、保護することになるでしょう。あらゆるものの過剰や濫用から発する悪は避けられることになるでしょう。全ての惨めさは、あなたの法を守らないために生じるのです。なぜなら、致命的な結果をもたらすことなく、あなたの法を破ることはできないからです。

 あなたは、動物たちには生きるための必要限度に応じて本能を与えられました。動物たちは自然にそれに従って生きています。しかし、人間には本能の他に知性と理性を与えられました。さらに一人一人に関係するあなたの法を守るか守らないかを選択する自由を与えられました。

すなわち、善と悪を選択する能力を与えられ、それによって人間が自分の行動に対して責任を負い、その意味を知ることができるようにされたのです。

 誰もあなたの法を知らないなどと訴えることはできません。なぜなら、あなたは父なる配慮によって、国籍、宗教を問わず、全ての人間の一人一人の良心の中にあなたの法が記されることを望まれたからです。ですから、あなたの法を守らない者はあなたを見くびっているのです。

 あなたが約束されたとおり、いつか人類すべてがあなたの法を守る日がやってくるでしょう。その時、神を信じない者はいなくなり、すべての人間が最高なる万物の主としてあなたを認め、あなたの法によって治められた者たちは、地球上にあなたの国を築き上げるでしょう。

 主よ、人類が真実なる道を歩むことができるように、必要な光をお与えください。そして、あなたの国の到来を早められますように。


ⅲ.あなたの意志(御心)が天で行われるように、地でも行われますように。

 子が父親に従うこと、劣る者が優れる者に従うことが義務であるならば、創造された者がその創造主に従う義務はそれらにいくらかでも劣るでしょうか。主よ、御心が行われるとは、あなたの法を遵守し、神の決定に不平を言うことなく従うことです。

人類は、主がすべての英知の源であり、主なしには何事も存在し得ないのだということを理解した時、あなたに従うことになるのです。その時、天において選ばれた者たちが行っているように、地球でもあなたの意志のとおりに行われることになるでしょう。


ⅳ.私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。

 肉体的な力を維持するために必要な糧を、私たちにお与えください。また、私たちの霊が進歩できますように、霊的な糧をもお与えください。

 動物たちは牧場にその糧を見つけます。しかし人類はその糧を、その知的な財産と自らの活動によって得なければなりません。なぜなら、神は人類を自由な身に創造されたからです。

 あなたは言われました。「額に汗して地を耕し、食物を得なさい」と。そして人間に労働を義務として与えられました。働くことは、肉体労働であれ、知的な労働であれ、人間に知性を使わせ、必要なものや、よりよい生活を得る手段となるのです。労働なしでは人類は不変なものとなってしまい、善霊の幸せを望むことはできません。

 怠惰を楽しみ、努力なくしてすべてを手に入れようとしたり、必要以上のものを求めるのではなく、必要なものを手に入れようと、神の意志を信頼し、意欲的に働く者を見守ってください(→第二十五章)。

自分自身のせいで気力を失ってしまう者がどれだけいるでしょうか。不注意であったり、先見の明がなかったり、あるいは野心を抱き、あなたがお与えになられたものに満足しない者。彼ら自身が不幸を自らつくりだしているのですから、不平を言う権利はありません。

それも、自分で犯した罪そのものに罰せられているのだからです。しかし、無限に慈悲深いあなたは、そんな者たちをも見捨てたりはされません。言うことを聞かぬ子どもが心からあなたの方向へ向き直るよう、天から手を差し延べてくださるのです(→第五章 4)。

 私たちの運命を悲しむ前に、その運命が自分の手によってつくられたものであるか問うてみます。

私たちに降りかかってきた一つ一つの不運を、避けることができなかったかどうかを確かめてみます。神は私たちに苦境から抜け出せるように知性を与えてくれ、それを正しく使うかどうかは私たち自身にかかっているのだと繰り返し言い聞かせます。

 地上の人類は労働の法に従わなければならず、ゆえにその法に従えるように、私たちに勇気と力を与えて下さい。また、慎重さや先見の明、節制によって、私たちが受け取るべき実りを失うことがないようにしてください。

 主よ、ですから、私たちの日ごとの糧をお与えください。つまり労働によって必要なものを得る手段をお与えください。必要以上のものを得ることができないからと不満を言う権利は誰にもありません。

 もし、労働することが不可能である場合には、神意を信じます。

 もし、私たちの努力にもかかわらず、神の計画の中でより厳しい苦難によって私たちが試されることになっているのであれば、現世、もしくは過去の人生において犯したであろう罪の正当なる報いとして受け入れます。なぜなら、あなたが正義であり、不当な罰は存在せず、理由なくして罰せられないことを私たちは知っているからです。

 主よ、私たちが持っていないものを持っている者や、私たちが必要としているものを必要以上に持っている者に対し、私たちが妬みを起こすことがないよう、お守りください。神の教えられた慈善と隣人を愛する法を忘れてしまった人たちをお赦しください(→第十六章 8)。

 悪人の繁栄や、善人たちを襲う不幸を見ても、あなたの正義を否定するような考えを私たちの霊から遠ざけてください。一方、私たちはあなたが与えて下さった新たな光によって、あなたの正義が、誰一人例外とせずに守られることを知りました。

つまり悪人の物質的な繁栄はその肉体の存在と同じようにはかなく、後に恐ろしい不幸を引き起こすことになるでしょう。そして苦しみを甘受する者にとって、その喜びは永遠のものとなるでしょう(→第五章 7,9,12,18)。


ⅴ.私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

 主よ、あなたの法に対する違反の一つ一つは、あなたに対する私たちの攻撃であり、遅かれ早かれ支払わなければならない私たちの負債を増やすことになるのです。これ以上増やさないよう努力することを約束いたしますので、どうか永遠なる慈悲においてお赦し頂けますようにお願いいたします。

 あなたは私たちすべてのために、慈善を明確な法としてつくられました。しかし慈善とは、ただ単に私たちの同胞を必要に応じて助けるだけではなく、同胞の攻撃を忘れ、赦してあげることでもあるのです。

私たちの不満の原因をつくった者たちに対する慈善に欠けておきながら、どうしてあなたの赦免を求めることができましょうか。

 主よ、私たちの周りの人々に対するどんな恨みや憎悪、怒りの気持ちも打ち消す力をお与えください。私たちの心の中に復讐の欲望を抱かせようと、死が不意をついて襲ってきませんように。

もし、あなたが私たちを今日この世から連れて行かれ試されたとしても、処刑の執行者たちのために最期の言葉を残したキリストのように、恨みの感情からまったく解放されてあなたの前へ出向くことができますように(→第十章)。

 私たちを苦しめる悪人たちによる迫害は、地上における私たちの試練の一つです。それらはあなたがイエスの言葉を通じて、「義のために迫害されてきた者は幸いです」と言われたごとく、その他の試練と同じように永遠の幸せへの道を開くのですから、彼らの非道の行いをののしることなく、不平をこぼさずに受け入れなければなりません。

そして、私たちを傷つけはずかしめる者たちに祝福がありますように。なぜなら、肉体の苦しみによって私たちの魂は強化され、私たちは侮辱からも解放されることになるからです(→第十二章 4)。

主よ、御名が崇められますように。なぜなら、私たちの運命が死後に取り消しようもなく決定されてしまうのではないかということを教えてくださったからです。私たちは、さらなる進歩のため、過去の過ちを償い、改めたり、現世で行うことができなかったことを改めて実現させるための手段を、また別の人生において得ることができるのです(→第四章、第五章 5)。

このことによってはじめて、人生におけるすべての見かけ上は変則的な出来事が説明されます。光は私たちの過去にも未来にも差しています。それは、あなたの最高なる正義と永遠の善意の輝かしいしるしです。


ⅵ.私たちが誘惑に負けませんように(→FEB版注1)、悪からお救いください。

 主よ、悪霊の誘惑に抵抗できる力をお与えください。彼らは私たちに悪い考えを思いつかせ、私たちを善の道から逸らそうとします。

 しかし私たちはこの通り、向上と償いのために地球上に生まれた未完成な霊です。悪の原因は私たち自身の中にあり、悪霊は私たちの悪い性癖を利用し、そこへ入り込んで私たちを誘惑しているに過ぎません。

 私たちの一つ一つの未完成な部分が、悪霊の影響に対し開かれた扉のようなものである一方で、悪霊は完璧な者の前には無力であり、対抗しようとはしません。彼らを遠ざけようとして何を行ったとしても、私たちが悪を完全に放棄し、善を行う強固な意志を彼らの前に見せるのでなければまったく無効です。

したがって私たちは、努力を私たち自身に向けなければならないのです。そうすることで悪霊は自然に私たちの周りから遠ざかって行くのです。なぜなら彼らを呼び寄せるものは悪であり、善に対しては拒絶するからです(→第二十八章 81‐84)。

 主よ、私たちが弱くなった時にはお守りください。私たちの守護霊や善霊の声を通じて、私たちの欠点を改めようとする意志をお与えください。そのことによって、不道徳な霊の接近に私たちの魂を閉ざします(→第二十八章 11)。

 主よ、したがって悪とはあなたの仕業ではないのです。なぜなら、全ての善の源からはどんな悪も創られることはないからです。悪とは、私たち自身があなたの法を破り、あなたが与えてくれた自由を悪用することによって、創り出しているものなのです。

人類があなたの法を守るようになった時、より進歩した世界がそうであるように、地球上からも悪は消えるのです。

 誰にとっても宿命的な悪は存在しません。その悪を楽しむ者にとってそれが抵抗できないもののように映るだけなのです。私たちに悪を働こうとする意志を持つことができるのならば、善を働こうとする意志を持つことも出来るのです。

ですから主よ、私たちが誘惑に抵抗できるように、あなたの、そして善霊の助力をお願いいたします。


 ⅶ.アーメン(そうでありますように)。
 主よ、私たちの望みが実現しますように。しかし、すべてをあなたの無限の英知に委ねます。私たちが理解できないことに対しても、私たちの意志ではなく、あなたの聖なる意志が働きますように。

なぜならあなたは私たちの善を望まれ、私たちには何がふさわしいのか、私たちよりも良く知っておられるからです。

 主よ、私たちはこの祈りを私たち自身のために唱えます。しかし、生きている者、死んでいる者を問わず、他の苦しんでいる者や、私たちの仲間、私たちの敵、また、私たちの救済を特に求めている「〇〇」のためにも捧げます。

 すべての人たちのために、あなたの慈善と祝福をお願いいたします。
(ここで神に向かい、与えられた恵み対する感謝と、あなた自身もしくは他人のための願いを形に表わし、唱えることができます)


 スピリティズムの集会
四、私の名において二人でも三人でも集まるのであるならば、私はその間にいます。(マタイ 第十八章 20)


五、<序文>イエスの名において集まるには、物理的に集まるだけでは足りません。善に向いた意志と思考を共有することによって、霊的に集まることが必要です。そうすればイエスはその集会の中にいることになり、イエスもしくは純粋な霊がその代りとなって参加します。

スピリティズムは、霊がどのように私たちの間に存在するのかを私たちに教えてくれます。流動的、霊的な身体によって、または可視状態になる時にはその姿によって、私たちはその存在を知ることができます。

等級が高ければ高いほどその光を放射する力は大きく、その遍在性の力によって同時に多くの場所に存在することができます。思考の光の一筋を送るだけで、そうすることが可能になるのです。

 この言葉によって、イエスは統合と同胞愛の力を示したかったのです。人数の多少が霊を呼ぶのではありません。もし、そうであったなら、イエスは二人、三人と言う代わりに、十人、二十人と言っていたでしょう。

そうではなくて、お互いを励まし合う慈善の気持ちが霊を呼ぶのです。そのためには二人でも十分ですが、たとえ祈りがイエスに向けられたとしても、もし二人が別々に祈るのであれば、また、何よりもお互いを思いやる気持ちが存在しないのであれば、二人の間に思考の共有はありません。

もしお互いに警戒し合い、憎しみ、妬み、嫉妬を抱くなら、流動体の思考の鎖は、同情の衝撃によって一つに結びつく代わりに反発し合うことになり、それでは彼らはイエスの名において集まっていないことになります。そのような場合、イエスはその集会の口実でしかなく、真なる集会の目的ではないのです(→第二十七章 9)。

 だからと言って、イエスがたった一人の言うことを聞いてくれないわけではありません。彼が「私を呼ぶ者には誰にでも耳を傾けましょう」と言わなかったのは、なによりもまず、隣人への愛が不可欠であり、それは個人でと言うよりも、複数の人々が一緒になった方が証明しやすいからです。

なぜなら、いかなる個人的な感情も隣人への愛を否定することになるからです。と言うことは、大勢の集会において、二、三人だけが真なる慈善の気持ちで心から結ばれたとしても、残りの人たちが自己中心的な考えや世俗的な考えに気を取られているとすれば、イエスは後者とではなく、二、三人の者たちだけとともにあるのです。

ですから、言葉や賛美歌や、その他外見的な身振りなどが同時に発せられることによってではなく、イエスの人格そのものであった慈善の精神にもとづいた思考を共有することによって、イエスの名において集会を開くことができるのです(→第十章 7,8、 第二十七章 2-4)。

これが、心から善霊の協力を望む、真剣なスピリティストの集会のあるべき姿です。



六、<祈り・・・集会の始まりにおける祈り>
 私たちの集会に善霊が参加し、私たちを悪へ導こうとする者たちを遠ざけ、真実と偽りを区別するために必要な光が与えられることを全能なる神にお願いいたします。

 生きている者も、死んだ者も含め、私たちの結束を分裂させることによって慈善と隣人への愛から遠ざけようとする邪悪な霊を、私たちのもとから連れ去ってください。もしこの場に入り込もうとする者がいるのであれば、私たちの心の中に彼らが入り込むすきができないようにしてください。

 私たちを指導してくださる善霊よ、私たちがあなたにとって教えやすい生徒となれますように。どんな利己的な考えも、高慢な考えも、また羨み、妬み深い考えも、私たちのもとから遠ざけてください。

ここに集っている人たち、この場にいない人たち、友だち、敵に対しても、寛大さと、慈悲深さをお教えください。私たちを励ます感情によって、あなたたちの道徳的な影響力を私たちが感謝を持って認識することができますように。

 あなたたちの教えを伝える役目を負った霊媒たちに、彼らに託された役目の神聖さ、実践しようとする行いの重要性を自覚させ、それによって献身的に働き、必要な収穫を得ることができますように。

 もし私たちの間に、善とは異なるその他の感情を持った者がいれば、その目を光に向けてあげてください。また、悪意をもってここに参加しているのであれば、その者を赦してあげてください。私たちもその者を赦します。

 私たちの指導霊である「〇〇」には、特に私たちを監視し、見守ってくれますようお願いいたします。


七、<祈りー集会の終わりにおける祈り>
 私たちに教えを伝えに来てくれた善霊に感謝いたします。教えられた事柄を実践できるようお助け下さい。私たち一人一人が、善を実践し、隣人を愛する意欲を強めて、ここを出て行くことができますように。

 これらの教えが、今日の集会に参加することができた苦しむ霊、無知な霊、悪習のある霊にとっても有益なものとなりますように。彼らにも神の慈悲がありますようにお願いいたします。


 霊媒への祈り
八、神は言われる。終わりの日には、私の霊を全ての肉体に注ごう。すると、あなたたちの息子や娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るでしょう。その日、私のしもべたちにも、はしためたちにも、私の霊を注ごう。すると、彼らは預言をするでしょう。(使徒 第二章 17,18)(→FEB版注2)


九、<序文>主は光が人類すべてを照らし、霊の声があらゆるところへ響きわたり、不死の証が示されることを望まれたのです。

今日、霊が世界中のさまざまなところでその存在を示しているのはそのためであり、性別や年齢の差、置かれた状況の違いに関係なく、霊媒力があらゆる人たちの間に見られるのは、そうあるべき時がやって来ている証拠です。

可視の世界を知り、自然の秘密を探るため、神は人類に物理的な視力や肉体的な感覚を与え、また、特別な道具を与えました。

望遠鏡によって、人類は宇宙の彼方を見つめることができるようになり、顕微鏡によって、無限に小さな世界を発見することができるようになりました。そして見えざる世界を知るために、神は霊媒力を与えられました。

 霊媒は霊からの教えの通訳となりますが、さらに分かり易く言い換えるならば、彼らは霊が人間との交信を行うために使用する道具となるのです。霊媒は永遠の生命の地平線を示してくれるのですから、その使命は神聖なものです。

 霊は人類にその未来を教えるためにやってきます。それは人類を善の道へ導くためで、この世で与えられた人類自身の進歩をもたらす物質的な仕事を減らすためではありません。また、人間の野心や欲望を満たすためでもありません。

このことからも霊媒はその与えられた能力を悪用してはならないということをよく心得ておかなければなりません。委任された者で任命されたことの重要性を理解した者は、その能力を信心深く用います。

もう一つの世界に存在する者たちとの関係を結ばせるという真剣な目的の為に与えられた能力を、自分、もしくは他人の娯楽や気晴らしのために用いるなら、神聖を汚す行いとして、良心がその者を咎めるでしょう。

 霊媒は霊の教えの通訳者として、霊の働きかける私たちの道徳的な変化を遂げるための、重要な役割を果たさなければなりません。霊媒が果たすことのできる役割は、その霊能力を向けた方向の正しさに応じます。

間違った方向へ向ける者は、スピリティズムにとっては有益どころか、悪い影響をもたらします。彼らが与える悪い印象は、少なからぬ人々が、道徳的に変化することを遅らせることになります。ですから、同胞の善のために与えられた能力をどのように使ったかと言うことを問われることになるのです。

 善霊の助けを失いたくない霊媒は、自分自身の向上のために働かなければなりません。その能力を伸ばして、大きくしたい者は、自分を神聖なる目的から逸らせてしまうあらゆることを避け、自分自身を道徳的に成長させなければなりません。

 もし時々、善霊が不完全な霊媒を使うのであれば、それはそうすることによってその霊媒を善の道へ導こうとするからです。しかし、その霊媒の心が固く、善霊の忠告が聞きいれられない場合は、善霊はそのもとを離れ、悪が自由にそこへ入り込むことができるようになるのです(第二十四章 11,12)。

 ある期間にわたって、目覚めるようなひらめきを与えられておきながらも、善霊の忠告や通信を利用しなかったり、聞きいれない霊媒は、過ちを犯したり、無意味でばかげたことを訴えるようになり、明らかに善霊が離れていったしるしが見られるようになるということを、私たちの経験は教えてくれています。

 善霊の救済を受け、軽はずみで偽った霊から解放されることが、すべての真剣な霊媒の継続的な努力の目的でなければなりません。そうでないのであれば、霊能力と言うものはそれを持つ者を害し、危険な憑依へと悪化させる不毛な能力でしかありません。

 その責任を認識している霊媒は、いつでも奪われる可能性のある、彼のものではない一つの能力について、自慢するのではなく、それによってどのような善を得ることができるのか神に委ねます。

通信が賞賛に値するものであったとしても、それによって自惚れたりはしません。なぜなら、通信と言うものがその霊媒の個人的な功労とは関係がないことを知っており、彼を通じて善霊が現れることが許されたことを神に感謝するからです。

通信の内容が非難の的となったとしても、そのことによって自分を責めたりはしません。なぜなら、そうした通信内容とは、その霊媒がつくりだすものではないことを知っているからです。

そして彼は、自分が悪い霊の干渉を妨げるのに必要な能力をすべて持っておらず、よい通信手段ではなかったと反省するのです。ですから、そうした能力を得ようとしてください。そして不足している力を祈りによって求めてください。


十、<祈り>全能なる神よ、懇願された霊との通信を、善霊が見守ってくれますようにお許しください。自分は悪い霊に影響されることはないなどとうぬぼれることがありませんように。通信を授かることのできる価値を取り違えてしまうような過ちに導く、自尊心から私をお守りください。

他の霊媒に対し、慈善に反するいかなる感情も持つことがないようお守りください。もし私が過ちを犯しそうになった時には、誰かが私を注意してくれますように。

そのような時には、そうした過ちを自覚し、注意を受け入れることが出来るだけの慎ましさを私にお与えください。また、善霊が私に与えてくれる教えを、他人のためではなく、自分のためとして受けとめることができますように。


 何事であれ、もし、過ちを犯す誘惑に負けそうになったり、私にお与えになった能力によってうぬぼれるようであれば、神聖なる目的のための能力が間違ったことに使われる前に、私自身の道徳的進歩のためにも、私からその力を剥奪してください。


2、  個人的な祈り 
  守護霊や保護霊への祈り
十一、<序文>私たちは生まれた時から、私たちを守護下においてくれた善い霊と関わりをもっています。子どもを守る父親のように、その霊は与えられた任務を果たします。

人生の試練を通じて、私たちを善と進歩の道に導いてくれます。私たちに対する彼の配慮に私たちが応えると、彼は大変幸せに感じますが、私たちが屈服してしまうのを見ると彼は苦しみます。

 彼の名前などは大した問題ではありません。なぜなら、彼の名はこの地球上では知られたものではないかもしれないからです。ですから、私たちの守護霊、もしくは私たちの善き守り神と呼びましょう。彼のことを私たちが親しみを感じる、ある特定の優秀な霊の名で呼んでも構いません。

 私たちには必ず、より優れた霊である守護霊の他に、同じように善く寛大でも、進度のより少ない保護霊がついています。保護霊は、友達の霊だったり、家族の者の霊だったり、あるいは現世においては全く知らない誰かの霊だったりします。

彼らは助言を与えることによって私たちの人生を見守り、しばしば私たちの日常の行動の間に入ってきます。

 親切な霊とは、私たちと趣味や嗜好の上で類似性のある霊のことです。そうした霊を引きつける私たちの性質の傾向により、それは善い霊でも悪い霊でもあり得ます。


 誘惑する霊は、私たちに悪い考えを植えつけ、私たちを善の道から遠ざけようとします。私たちの魂への接近を容易にする開かれた扉のように、私たちの弱点をすべて利用します。私たちを獲物にしようと付きまとう者もいますが、私たちの意志と対抗するには無力であるということを知ると離れていきます。

 神は私たちの第一の案内人として、より優れた守護霊を送り、第二の案内人として保護霊や家族の霊を送ってくれています。しかし、保護霊が私たちに与える善い影響とつり合わせるために、私たちのとなりに悪の力もが強制的に置かれていると考えるのは間違いです。

悪い霊は、自分の優勢を占める機会が私たちの間にあるのを見つけると自発的にやってくるのです。

それは私たちが弱気になったり、善い霊が与えてくれるひらめきに従うことを無視する時です。つまり悪い霊を寄せつけるのは私たち自身なのです。このことから、私たちは善い霊の支援を受けていますが、悪を遠ざけるのは私たち自身であるのだと結論づけることができます。

人間は不完全であるため、自分を苦しめる困難の第一の原因を、多くの場合、自分自身の性質の中に持ち合わせているのです。(第五章 4)。

 守護霊や保護霊への祈りは、神との間を取り持ち、悪い誘いに対抗する強さを与え、日常の偶発的な出来事の中で私たちを見守ってくれるようにお願いすることを目的としなければなりません。


十二、<祈り>神の使いとして人間を見守り、人間を善の道へ歩ませることをその使命としている高尚で慈悲深い霊よ。この人生における試練に向かう私を支えてください。悲嘆することなく試練に耐えることができるよう、力をお与えください。

悪い考えを持たないことによって、私を悪へ導こうとするどんな悪霊も入り込めなくなるようにしてください。私の欠点をはっきりと自覚できるよう、自分の欠点を知り、自分自身に言い聞かせることを阻む自尊心のベールを、私の目の前から取り去ってください。

 私を見守ってくれている私の守護霊である「〇〇」には特に、また、私のことを心配してくれているその他の保護霊すべてには、私があなたたちの保護に値することができますようにお願いいたします。

私の必要としていることが知られ、それらが神の意志に従って聞きいれられますように。


十三、<別の祈り>神よ、私が苦しんでいる時、私の周りにいる善霊が私を助けに来てくれ、私の力が衰えてしまった時には私を支えてくれることをお許しください。彼らが信仰心、希望、慈善の気持ちを私に吹き込んでくれることをお願いいたします。

それらは私にとっての支えと激励であり、彼らの慈悲の証なのです。それらの中に、人生の試練に立ち向かうために私に欠けている力を見出すことができますように。そして悪いひらめきに抵抗するために、私を救ってくれる信仰心と私を慰めてくれる愛をお与えください。


十四、<別の祈り>神のお許しのもと、その無限の慈悲をもって人類を見守ってくれている親愛なる霊、守護霊よ。地上での試練の間、私たちをお守りください。気力、勇気、そして忍従する力をお与えください。善であるものはすべて私たちにお教えください。

悪に傾くことから私たちを引きとめてください。あなたたちの善なる影響が私たちの魂に響きますように。私たちを熟愛してくれる友達が、私たちのとなりで苦しみを見守り、喜びを分かち合ってくれていることを感じることができますように。

 善なる守護霊よ、私を見捨てないでください。神が私のもとにお送りになる試練を、信心と愛を持って乗り切るために、あなたの全てのご加護が必要です。


  悪い霊を遠ざけるために
十五、忌わしいものです。偽善の律法学者、ファリサイ人たちよ。あなたたちは杯や皿の外側は清めるが、その中は貪欲と放縦で一杯です。目の見えぬファリサイ人たちよ。まず、杯の内側を清めなさい。そうすれば、外側も清くなります。

 忌わしいものです。偽善の律法学者、ファリサイ人たちよ。あなたたちは白く塗った墓のようなものです。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れたものでいっぱいなように、あなたたちも、外側は正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。(マタイ 第二十三章 25-28)


十六、<序文> 悪い霊は、その非道を広めることが出来るような場所を探しているのです。彼らを遠ざけるには、彼らに遠ざかるように頼んだり、あるいは遠ざかるように命令しても足りません。人間が自分で引きつけているものを追放しなければなりません。

肉体の傷ついたところを蠅がかぎつけてくるように、悪い霊は魂の傷を嗅ぎつけてやってきます。したがって、虫が付くのを防ぐために肉体をきれいにするように、悪い霊を避けるためには、魂の汚れたところをきれいにする必要があるのです。

悪い霊が多くはびこる世界に住んでいると、心の中の善なる特性は彼らに抵抗する力を与えてくれますが、それだけでは悪霊にその試みを諦めさせるのに不十分な場合があります。


十七、<祈り>全能なる神の名において、悪い霊を私から遠ざけてください。善霊が彼らに対する防壁となってくれますように。

 有害な霊は人間に悪い考えを思いつかせます。ずるい霊、うそつきの霊は人間を騙します。人間の信心を利用しおもしろがる、ひやかしの好きな霊よ。

私は魂のすべての力を使ってあなたたちを追放します。あなたたちの提案には耳を閉ざします。しかし、神の慈悲があなたたちにもあることをお願いいたします。

 私を見守ってくれている善霊よ。悪い霊の影響に抵抗することができる力と、彼らのたくらみの犠牲とならないために必要な光をお与えください。自尊心、うぬぼれに陥らないようにしてください。

羨み、嫉妬、憎悪、敵意、慈善に反するあらゆる感情も、私から取り除いてください。そうした感情は悪い霊を迎え入れるために開かれた多くの扉のようなものだからです。 


 欠点を治すために
十八、<序文> 私たちの持つ悪い性癖は私たちの霊が不完全な結果であり、私たちの肉体がもたらすものではありません。もしそうでないとすれば人間はいかなる責任からも逃れることができるはずです。私たちの進歩は私たち自身にかかっています。

なぜなら、さまざまな能力を授かった人間はみな、物事を行うか行わないかを決める自由を持っており、善を行うために不足しているのは本人の意志のみだからです(→第十五章 10、第十九章 12)。


十九、<祈り>ああ、神よ。あなたは私に善と悪を区別するために必要な知性を与えてくれました。それゆえに、あることを悪いと認識した時は、その誘惑に抵抗しようと努力しなかった自分が悪いのです。

 自分の欠点を認識するための妨げとなる自尊心や、欠点を改めずにいつまでも持ち続けさせようと働く悪い霊から私をお守りください。

 不完全である私は、特に「〇〇」に欠けています。それに対して抵抗できないのは、その悪癖に屈してしまう習慣を身につけてしまったからです。神は正義であるが為に、私を罪ある者としてではなく、善にも悪にも同じように適応できるように創造されました。

私が悪の道を進むのは私の自由意志が働いた結果です。しかし悪を行う自由が与えられたのと同じ理由から私は善を行わなければなりません。それにより、私は進む道を変えなければならないのです。

 私が今もっている欠点は、以前の私の人生から持ち続けている不完全性の一部です。それらは私の原罪ですが、私の意志と善い霊の助けによって取り除くことができます。

 善霊よ、私をお守りください。とりわけ、私の守護霊には、悪の誘いに抵抗し、悪との戦いにおいて勝利を収めることができる力を与えて頂けますようにお願いいたします。

 私たちの欠点は私たちを神から遠ざける障害です。しかし、改められた欠点の一つ一つは、神のもとに近づくために通らねばならない進歩の小道に記される新たな一歩となります。

 主よ、あなたはその無限なる慈悲によって、私の進歩のためにこの人生を与えて下さいました。善霊よ、この機会を無駄にすることがないよう、この人生を有益なものとすることができるように私を助けてください。そして神が私をこの世から連れ去ろうとなされた時、この世に生まれてきた時よりも進歩して戻って行くことができますように(→第五章 5、第十七章 3)。
 

 誘惑に抵抗する力を求めるために
二十、<序文>どんな悪い思いつきにも、その根源として二つ考えられます。それは、私たち自身の霊の不完全性か、私たちの霊に対して働く有害な影響力のいずれかです。

しかし後者の場合、それは私たちが、こうした影響力に対して無防備であるという弱点を示していることになり、やはり私たちの霊が不完全であるということになるのです。したがって、失敗を犯した者は、単に知らない霊の影響を受けたのだと責任逃れすることはできません。 

なぜなら、誘惑に対して屈しない状態であったなら、その霊はその者を悪に導くことはできなかったからです。

 悪い考えを持ったとき、邪悪な霊が私たちに悪をうながしているのだと想像することができますが、それに屈するのも抵抗するのも私たちの完全な自由意志によります。それは、誰かが私たちの目の前に現れ、何かを私たちに頼みに来た時と同じです。

また同時に、私たちの守護霊もしくは保護霊が私たちに及ぼす悪い影響と戦っており、私たちがいかなる選択をするかを心配し、見守っているのだということを思いださねばなりません。

悪行に対するためらいとは、善霊が私たちの良心を通じて訴えている声なのです。ある考えがすべての道徳的価値の基礎である慈善から離れると、その考えは悪いのだということを認識することができます。

自尊心、虚栄心、エゴイズムが先行し、それが他人に損害を与えるものであったり、自分にはして欲しくないことを他人にしようとしているのであれば、それは悪い考えなのだということになります(→第十章 10、第二十八章 15)。


二十一、<祈り>全能なる神よ、失敗へ陥らせる誘惑に、私が負けてしまわないようにしてください。私を守ってくれている慈悲深い霊よ、その悪い考えの矛先を変え、悪の誘いに抵抗する力をお与えください。

もし私が抵抗することに失敗してしまったなら、私の過ちに対する報いをこの人生または次の人生において受けます。なぜなら、選択の自由は私に与えられているからです。


 誘惑に勝つことが出来た時の感謝の祈り
二十二、<序文>ある誘惑に抵抗できたのは、善霊の助けのおかげです。なぜならその人は、善霊の声を聞きいれることができたから、抵抗することができたのです。神と守護霊に感謝をするべきです。


二十三、<祈り>神よ、悪に対して続けた戦いに、私が勝利を得ることをお許しくださいましてありがとうございます。この勝利が、新たなる誘惑に抵抗する力をもたらしてくれますように。

 そして私の守護霊よ、私に助けを与えてくれてありがとうございます。あなたからの助言を受け入れ、新たにあなたの加護を受けることができますように。


 忠告を求めるために
二十四、<序文>あることをすべきか、すべきでないか迷っている時、私たちは何よりもまず、次の疑問を投げかけてみなければなりません。

第一、行動に移すことを躊躇しているそのことは、誰か他人に損害を与えることになるのではないか。
第二、それは誰かのためになることなのか。
第三、もし同じことを誰かが私にしたら、私は満足するのか。

たとえ実行しようとしていることが、自分たちだけにしか関わりがないことだとしても、そのことが自分たちにもたらすことになる利益と不都合を秤にかけてみるべきです。

 もしそのことが他人に関わりがあり、ある人には善をもたらし、別の人には悪をもたらすのであれば、同様にもたらされる善と悪を秤にかけ、実行すべきかやめるべきかを決めるべきです。

つまり、最善のことをやろうとしている時でさえも、それを行う機会や、それに伴う状況について考慮することが大切です。それは、そのこと自体が善いことであったとしても、間違った者の手によって行われたり、用心深く慎重に行われなかったりすれば悪い結果をもたらすこともあるからです。

そのことを行う前に、それを実行しようとする自分たちの力や実行の手段を検討してみるべきです。

 いかなる場合においても、「迷うのであれば、やめておけ」と言う賢明なる金言を思いだすことによって、私たちの守護霊の助けを求めることができます。 


二十五、<祈り>全能なる神の名において、私を守ってくれている善霊よ、疑いに直面した時には、最善の決定を下すことができますように、感得させてください。私の思考を善の方向へ導き、私を迷わそうとする影響から解放してください(→第二十八章 38) 


 人生の苦悩の時
二十六、<序文>真面目で有益な目的があるのなら、私たちはこの地上における利益を神に願うことができます。

しかし、物事が有益であるかどうかということを、いつも私たちは自分たちだけの、その時点においての視点から見てしまい、求めていることの悪い側面と言うのは必ずしも見えていないものです。

神は、私たちよりもずっと良く物事を見ることができ、私たちに有益となることだけを望んでいるので、自分の子どもに害をもたらすものを否定する父親のように、私たちの願いを聞き入れてくれないことがあります。願いが認められなかったからといって、私たちは落胆してはなりません。

その反対に、願い求めたものが奪われたことによって、私たちには試練や償いの機会が与えられたのであり、その報酬は、私たちが耐えぬかねばならないことに対する私たちの甘受の気持ちに応じて受けることができるのだと考えなければなりません(→第二章 5-7、第二十七章 6)


二十七、<祈り>私たちの惨めさを見て、私たちのことを聞いてくださる、慈悲深く全能なる神よ、ここに哀願いたします。もし、私の願いが不合理であれば、私をお赦しください。もし、あなたの目にも正しく映り、同意に値するのであれば、あなたの意志を実行する善霊が、私の願いが叶うように私を助けに来てくれますように。

 いずれにしても、神よ、あなたの意志のとおりになりますように。私の願いが叶わなかったとしても、それは私を試されたあなたの意向であり、私は不平を言うことなく従います。ですから、私が落胆してしまったり、私の信心と甘受の気持ちが揺らいでしまわないようにしてください。(この後に願いを実際に唱える)。  


 願いが叶ったことを感謝して
二十八、<序文>幸いな出来事だけが私たちにとって重要な出来事なのだと思う必要はありません。見かけは小さくとも、私たちの運命にとって大きな影響を及ぼすことがしばしばあります。

人間はすぐに善を忘れてしまい。その人を苦しめることばかりを先に考えがちです。毎日毎日、私たちが頼まないのに受けている恵みと言うものを記録してみれば、多くの者がその数の多さに驚き、またそれらが私たちの記憶から消えてしまっていることを知って、自分が恩知らずであることを恥ずかしく思うことでしょう。

 毎晩、魂を神のもとへと高め、その一日の間に与えてくれた恩恵を思いだし、そのことを感謝しなければなりません。しかし、神の善意と加護の結果を受けた時こそは特に、自然な形で私たちの感謝の気持ちを表さなければなりません。

そのために私たちは仕事をしている手を休める必要はなく、その恩恵が神のおかげであるということを考えればよいのです。神の恵みは物質的なものだけではありません。善い考えや、私たちに勧められる幸いな発想についても、同様に感謝しなければなりません。

自尊心の強い者はそれを自分自身の才能であると思い、神を信じない者は偶然の出来事であると考えますが、信心の強い者はそれを神や善霊のおかげであると感謝します。ですから、長い祈りの文句は必要ないのです。

「神よ、私に善いひらめきを与えて下さり、ありがとうございました」と言う方が、多くの言葉を並べるよりも気持ちが伝わります。私たちに起きた幸いな出来事が神の恩恵によるものだと思う、私たちの自然な心の衝動は、感謝の習慣と慎ましさを証明するもので、善霊の共感を呼ぶことができます。


二十九、<祈り>無限の善意である神よ。私に与えてくださる恵みによって、あなたの名が崇められますように。それらの恵みが偶然であるとか、自分自身の才能によるものだなどと考える者は恥じるべき者たちです。

神の意志を実践する善霊よ、そのうちでも、特に私の守護霊には感謝いたします。受けたものによって私の自尊心が強くなってしまうことが無いように、またそれを善いことだけに利用することができますように。「〇〇」を受けましたことを特に感謝いたします。


 甘受と忍従の気持ち
三十、<序文>苦しみをもたらす出来事が私たちを襲ってきた時、もしその原因を追究するのであれば、しばしばそれは私たちの無謀さや、それ以前の行動における先見の明のなさの結果であることがわかります。その場合の苦しみは自分自身のせいにしなければなりません。

もしある不幸の原因が、私たちの行動とは全く独立したところにあるのであれば、それはその人生における試練であるとか、過去の人生に犯した過ちの報いであると考えることができます。

そして、後者であるなら、私たちは自分の犯した罪と同じ方法によって罰せられる償いの法則から、私たちの過去の過ちがどのようなものだったのかを推し量ることができます(→第五章 4,6,7)。


 一般に、なにかが私たちを苦しめている時、私たちにはその場でおきている悪にしか見えず、その苦しみが未来においてもたらすであろう、好ましい結果までは目に入りません。善とは多くの場合、過去における悪のたまものであり、それは痛ましい手当てを経た結果、病気が回復するのと同じです。

どのような場合でも、耐えた苦しみが自分のためになるようにしたいのであれば、神の意志に従って、人生の苦難に勇気を持って立ち向かわなければなりません。そうすれば、私たちに「苦しむ者は幸いです」と言うキリストの言葉があてはめられることになるでしょう(→第五章 18)。


三十一、<祈り>神よ、あなたは最高の正義です。だから、この世におけるすべての苦しみには、その原因とその必要性があるに違いありません。私が経験している苦しみを過去における過ちの報いとして、また、将来への試練として受け入れます。

 私を守ってくれる善霊よ、悲しむことなく苦しみに耐えることができる力をお与えください。その苦しみを有難い注意としてとらえることができますように。それによって私の経験が増し、自尊心、野心、虚栄心、エゴに打ち克つことができますように。また、それが私の向上のためになりますように。


三十二、<別の祈り>神よ、あなたが送られた試練に耐え抜く力が必要なために、その力が与えられますようお願いします。私の霊の中に必要な理解によって光が輝き、私を救ってくれるために苦しむ愛の広がりを十分に感じ受けることができますように。

神よ、私は忍従し、身を捧げます。しかし、悲しいことに私はとても弱く、神の助けなしには、気力を失ってしまいます。主よ、私を見捨てないでください。神なしに、私は何者でもありません。


三十三、<別の祈り>永遠なる神よ、あなたの方を見上げて、元気づけられました。あなたは私の力です。私を見捨てないでください。神よ、私は自分の不正の重さに押しつぶされてしまっているのです。

私を助けてください。あなたは私の肉体の弱さを知っているのですから、私から目を離さないでください。

 私は燃えるようなのどの渇きに苦しんでおります。命の水のほとばしる泉をお与えください。私はそれで渇きを癒します。私の口が、人生の苦悩に対する不満をこぼすためではなく、あなたを賛美する歌を歌うために開きますように。私はひ弱です。しかし、あなたの愛が私を支えてくれるのです。

 永遠なる神よ、あなただけが偉大で、あなただけが私の人生の目的であり、行き着くところです。私を痛めつけるのであっても、それはあなたが私の主人であり、私が不忠実なしもべであるのですから、あなたの名が崇められますように。

その時、私は悲しむことなく頭を下げます。なぜなら、あなたは偉大で、あなただけが私たちの人生の目指すものであるからです。


 切迫した危険を前に
三十四、<序文> 私たちが出逢う危険を通して、神は私たちの弱さや私たちの命のはかなさを、私たちに思いださせます。神は、私たちの命がその手の中にあり、それは私たちが全く予期せぬ時にいつでも切れる可能性のある、一本の糸によってつながれているのだということを示してくれます。

この点に関しては誰も特権を与えられていません。なぜなら大きな者も小さな者も同じ条件に従っているからです。

 ある危険の原因と、そのもたらす結果を分析してみると、殆どの場合、ある失敗や、義務を怠ったことが罰せられるために、そうした危険が生じていることがわかります。
      
   
三十五、<祈り>全能なる神よ、私の守護霊よ、私を救って下さい。もし死んでしまわなければならないとしても、神の意志の通りになりますように。もし、救われるのであれば、残された人生の中で、いま後悔している私の悪を改め、さらに犯すであろう悪を改めることができますように。
  
   
 危険から免れることが出来たことを感謝して
三十六、<序文>私たちが遭遇する危険によって、人生と言う労働の精算をするために、私たちはある時突然、神に呼び戻されるのだということを神は示してくれます。それによって神は、私たちが自分を見直し、自己の改善をするよう呼びかけてくれるのです。


三十七、<祈り>神よ、そして守護霊よ、私に危険が襲いかかってきた時、救いの手を差しのべてくれたことを感謝いたします。そこの危険が私にとって警告となり、私が陥りやすい過ちをはっきりと見せてくれますように。

主よ、私の命があなたの手中にあり、あなたが認められた時、私をこの世から呼び戻すのだということを理解しています。私を見守ってくれている善霊を通じ、この世で与えられた残された時間を有益に使うことが出来るような考えをお与えください。

 私の守護霊よ、神が私を呼び戻すことを認められた時、できる限り欠点を減らした上で霊の世界へ到着することができるよう、私の欠点を改め、私にできる全ての善を行おうとする私の決意を支えてください。  
   
    
 就寝の時
三十八、<序文>眠りは肉体の休息ですが、霊には休む必要がありません。無感覚になっている間、魂は物質の世界から解放され、霊としての特性を享受します。眠りは、有機的な力と道徳的な力の回復のために人類に与えられているのです。

おきている間の活動で失ったものを肉体が取り戻している間、霊は別の霊とともに元気を回復しに行くのです。

眠りの間、霊は見たり、聞いたりして、忠告を与えられますが、それらは起きている間に直感的に思いだされるのです。眠りは、真なる母国を追放された人類の一時的な帰国であり、眠る者とは、一時釈放された囚人のようなものなのです。


 しかし不道徳な囚人がそうであるように、霊が必ずしも眠りにより解放の時を、その進歩のために有効に使うわけではありません。その霊が善霊とともにいようとする代わりに、悪い資質を持っているのであれば、その霊と同類の霊を探し、その悪癖を自由に行おうとするのです。

 この真実を理解する者は、就寝が近づくとその考えを高めます。善霊の忠告や、善き思い出を抱く人たちの助言を受けるため、与えられた短い時間に彼らと会うことができるようにお願いします。

そうすれば目覚めた時には悪に対してはより強くなり、敵対する者たちに対してはより勇敢になっていることを感じることができるでしょう。
  
      
三十九、<祈り>私の魂は短い間、他の霊に会いに行きます。善なる者たちがその忠告とともに、私を助けに来てくれますように、私の守護霊よ、目覚めた時には、それらの忠告が健全で永続きする印象となって残っていますように。



 近い死を感じた時
四十、<序文>生きている間に未来を信じ、未来の運命に目を向け、気落ちを高めることは霊を肉体につなぎとめている絆を弱めることになり、霊がより早く肉体から離れていくことを促します。

そうすることによって肉体がまだ消滅していないうちから、しばしば我慢しきれない魂は広大な無限の空間へ飛び出そうとしてしまいます。

反対に、すべての考えを物質的なものの中に捉える人間にとって、その絆は強固なもので、それを解くのは痛く、苦しく、死後の世界で目を覚ます時、その人に心配と混乱をもたらします。


四十一、<祈り>神よ、私はあなたを信じ、あなたの無限の善意を信じています。だからこそ、人類が将来、無の世界へ戻るために、知性と未来への熱望を人類に与えたのだとは信じられません。

 私の肉体とは私の魂を取り囲む、消滅すべき被いのようなものでしかなく、生きることを終えた時には霊の世界に目覚めるのだということを信じています。

 全能なる神よ、私の魂を私の肉体につなぎ止めている絆が解かれていくのを感じ、後にしようとしている人生と言う労働の精算を、もう少ししたら行わなければならないのだということを感じます。

 私が行った善と悪の行いの結果に耐え、それを受け入れます。向うの世界にはもう幻は存在しません。ごまかしも効きません。私のすべての過去が私の前で展開され、私の行った行為にもとづいて裁かれるのです。

 地上の富は何も持っていくことができません。名誉や富と言った虚栄心を満足させるものや自尊心など、肉体に結びついているものは、すべてこの世に残されるのです。どんなに小さな荷物も伴うことはできず、それらのうちのどれもが、霊の世界においては全く役に立ちません。

私は魂に結びついたものだけしか持って行くことができません。それらはつまり、私の善と悪の性質であり、厳正なる正義の秤にかけられるのです。地上で与えられた地位に応じて善を行うことができた機会が多ければ多いほど、善を行わなかったときのことが厳しく審査されるのです(→第十六章 9)。

 慈悲深い神よ、私の後悔があなたのもとまで届きますように。あなたの寛容を私のところまで差しのべてください。

 もし私の生存を延長してくださるのであれば残りの人生は、私の中にある悪も、行って居たかも知れない悪も改めるために捧げます。私の順番がついにやってきたのであれば、新たな試練によって償うことが許され、いつか選ばれた者たちの幸せを得るに値することができるであろうという、慰めの気持ちを持つことにします。

 完全なる正義にしか値しない、一つの汚点もない至福をすぐに得ることができなくても、それを得る期待は永遠に妨げられるのではなく、働くことによって、遅かれ早かれ、私の努力次第で目的は達成することができるのです。

 善霊や、私の守護霊が私の近くにいて、私を迎えてくれるのだということを知っています。もう少しすれば、彼らが私を見ることができるように、私も彼らを見ることができるようになるでしょう。

私がそれにふさわしいのであれば、地上で愛した者に会うことも出来るでしょう。また、ここに残していく者たちは、いつかある日、私に会いにやってくることができ、永遠にともにいることができるようになるでしょう。それまでは、私がここまで会いに来ることができるでしょう。

 私が攻撃した者たちにも会うことを知っています。私の自尊心、心の堅さ、不公平など、彼らに非難されるべきことを彼らが赦してくれ、彼らとの再会が私をはずかしめることにならないようにしてください。

 地上において私に対し悪を働いたり、悪を望んだりした者を赦します。彼らに対する憎しみはありません。神には彼らが赦されることをお願いいたします。主よ、この地上の重たい喜びを未練なく棄てることができますように力をお与えください。

そのような喜びとは、いまから入ろうとする世界の純粋な喜びとは似ても似つかぬものです。その世界では、正しい者には苦しみ、悲しみ、惨めさは存在しません。罪のある者だけが苦しみますが、その者にも希望が残されるのです。

 善霊よ、また私の守護霊よ、この崇高なる時に、失敗を犯さぬようにしてください。私の信心が揺らいだ時には、さらに強められるよう、神の光の輝きが私の目に入りますように(→第二十八章 77‐84)。
    
     
 3、 他人への祈り 
 苦しむ者への祈り
四十二、<序文>苦しむ者にとって、その試練が続くことが望ましいのであれば、私たちの願いによってその試練を短縮させることはできないでしょう。

しかし、私たちの祈りを聞いてもらえるわけがないなどと言い訳をし、苦しむ者を見捨ててしまうのは、慈善の気持ちに欠けていると言えるではないでしょうか。

それに、たとえその試練が打ち切られることはなくとも、その人の苦しみを最小限にするための何かしらの慰めを与えることができるはずです。

試練に耐えなければならない者にとって実際に役に立つものとは、勇気と甘受の気持ちであり、それなしには、試練はその人に何ももたらすことが無く、再び同じ試練が与えれることになります。

そのためにこそ私たちは努力し、善霊にお願いをし、忠告や元気づけによって苦しむ者が精神的に回復できるように、また、もし可能であれば、物質的にも援助を受けられるようにするのです。その時、祈りはさらに直接作用し、精神力を強めることになるフルイドの鎖を苦しむ者に与えることができるのです(→第五章 5,27、第二十七章 6,10)。

  
四十三、<祈り>無限なる善意である神よ、もしそれがあなたの意志に沿うのであれば、「〇〇」の苦しい状態を和らげてあげてください。

 善霊よ、全能なる神の名において、苦しみに対しあなたたちが救援してくれることをお願いいたします。あなたたちから見て、それらの苦しみが短縮されることが可能でないのであれば、それらの苦しみが、苦しむ者の進歩のために必要なのだということを理解させてあげてください。

苦しむ者が神と未来を信じ、苦痛をより弱く感じることができるようにしてあげてください。落胆して苦しみに屈服してしまい、苦しむことがもたらす有益な結果を失ってしまうことによって、同じように未来において再び苦しむことにならないように、力を与えてあげてください。

苦しむ者が勇気を失わずにいることを助けるため、私の思いを苦しむ者のところまで運んで行って下さい。 


 他人に与えられた利益への感謝の祈り
四十四、<序文>エゴイズムによって支配されていない者よ、あなたの隣人に起きた良い出来事を喜んでください。たとえあなたが祈りを通じてそれを願ったのでなかったとしても。


四十五、<祈り>神よ、「〇〇」におきた幸せにより、あなたが崇められますように。善霊よ、その幸せの中に彼が神の善意の力を見つけることができるようにしてください。

もし、そのよい出来事が試練であるならば、その出来事が未来において彼の不利益となってしまわないよう、その出来事を正しく利用し、そのことでうぬぼれてはいけないのだということを気づかせてあげてください。

 私を守り、私の幸福を願ってくれている善なる守護霊よ、私の心からすべての羨みと嫉妬の気持ちを取り除いてください。
     

 私たちの敵や私たちの不幸を望んでいる者への祈り
四十六、<序文>「敵を愛しなさい」とイエスは言いました。キリストの慈善であるこの金言は崇高です。しかし、それによってイエスは、私たちが味方に対して抱く親しみを私たちの敵に対しても抱かなければならないということを、規則として与えようとしたのではありません。

その金言により、イエスは私たちに敵の非道を忘れ、私たちに対して働く悪を赦し、その悪を善によって報いることを勧めているのです。神の目から見たその様な行いの価値だけでなく、人間にとって本当の優越とは何かを示しているのです(→第十二章 3,4)。


四十七、<祈り>神よ、「〇〇」が私に対して行った悪、行おうとした悪をお赦しください。同時に私が犯した過ちを彼が赦してくれますように。もし私の試練として彼を私の前に置かれたのであれば、神の意志とおりにされてください。

 神よ、彼をののしろうとする考えや、彼に対するあらゆる悪意からも私を解放してください。彼に起こる不幸を喜ぶなどと言う、キリスト教徒として恥じるべき考えによって魂を汚すことがないようにしてください。

 主よ、あなたの善意が彼のもとに届き、彼が私に対してより好意的な気持ちを持つことができるようにしてください。

 善霊よ、悪を忘れ、善を思いださせてください。憎悪や復讐心とは、生きていようが、死んでいようが、悪い霊だけに属するものなのですから、どんな憎しみも、どんな怒りも、悪を報いようとする他のどんな悪意も、私の中に忍び込んでこないようにして下さい。

反対に、彼に兄弟愛の手を差しのべ、彼の悪を善によって報い、私の手の届く範囲であれば、彼を助けてあげることができるようにしてください。

 私の発言の誠実さを試すために、彼にとって私が有益となる機会が与えられることを望みます。しかし神よ、なによりも、私がそのことで見栄を張ったり、自惚れてしまったり、屈辱的な親切によって彼をけなしてしまい、自分の行動が結んだ実を失うようなことをしないようにしてください。

そのような場合は、「あなたはすでに報いを受け取っています」というキリストの言葉が私にあてはまるのです(→第十三章 1とそれに続く項)。



 私たちの敵に与えられた利益への感謝の祈り
四十八、<序文> あなたたちの敵に対し悪を望まないのと言うことは、慈善の気持ちが半分あるということです。本当の慈善の気持ちとは彼らに対しても善を切望し、彼らに利益がもたらされた時、幸せに感じることです(→第十二章 7,8)


四十九、<祈り>神よ、あなたの正義により、「〇〇」の心を喜びで満たされました。彼が私に対して悪を行ったり、行おうとしたことは考慮に入れず、私はそのことを感謝します。

もし彼がこの良い出来事を、私を侮辱するために利用するならば、私はそれを私の慈善の気持ちに対する試練として受け止めます。

 私を守ってくれている善霊よ、そのことで私が悲しむことがないようにしてください。私の価値を下げる羨みや嫉妬を取り除いてください。逆に私の価値を高める寛大さを私に与えてください。

侮辱は悪の中にあり、善の中にはありません。遅かれ早かれ、その行いに従って、一人一人がみな正義によって裁かれることを知っています。


 スピリティズムの敵対者への祈り
五十、義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満たされるからです。義のために迫害されてきた者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。私のせいで、人々があなたを悪者にし、あなたを迫害し、あなたに対してあらゆる悪口を言うのであれば、あなたたちは幸いです。だから喜びなさい。

 天にはあなたたちへの大きな報いが用意されているのです。あなたたちの前に送られた預言者たちも、同じように迫害されたのです。(マタイ 第五章 6,10‐⒓)

 肉体は殺せても、魂を殺すことのできない者を恐れてはなりません。肉体も魂も地獄で滅ぼす力のある方を恐れなさい。(マタイ 第十章 28)


五十一、<序文>すべての自由の中で、最も冒しにくいものは、良心をも含めた思考の自由です。考えの異なる人に、彼がそのように考えない事柄を押し付けることは、自分のためには思考の自由を求め、他人にはそれを与えないことになり、それはイエスの第一の戒めである隣人に対する愛と慈善の教えを破ることになります。

信念の違いを理由に他人を迫害するということは、それぞれがその理解に従って神を崇め、納得することだけを信じるという、全ての人間が有する最も神聖なる権利を侵害することです。

私たちの外見的な行いだけを他人にまねさせようと圧迫することは、私たちが、物事の根柢に存在するものや、確信することよりも、表面的な形を重んじているのを示すことになってしまいます。

強いられた誓いは決して誰にも信仰心を与えることはできず、偽善者を生むだけなのです。そうした行いは物質的な力の濫用であり、真実を証明するものではありません。

真実とはそれ自体が自立するものです。真実は、説得はしても、迫害することはありません。なぜなら、その必要が無いからです。

 スピリティズムとは一つの見解であり、一つの信仰です。しかし、スピリティズムも一つの宗教であるならば(→FEB版注3)、カトリックであるとか、ユダヤ教であるとか、プロテスタントであるとか、どの哲学的な教義の党派であるとか、どの経済主義の持ち主であるというのと同じように、なぜ自分たちはスピリティズム信徒であると主張しないのでしょうか。

その信仰は本物なのでしょうか、あるいは偽物なのでしょうか。もし偽物であるならば、人々の知性に光が差した時、自ずから消滅していくでしょう。なぜなら、偽りは真実にまさることができないからです。もし真実であれば、迫害さえもそれを偽りに変えることはできないでしょう。 

 迫害は、偉大で正しく、世界の発展と共に成長し、その重要性を増していくことになる新しい考え方が受ける洗礼なのです。その思想に対して敵対者がどれだけ怒りを覚え、乱暴な態度を取るかということは、その思想が彼らにもたらす恐れの大きさに応じているのです。

それが大昔、キリスト教が迫害され、今日スピリティズムが迫害される理由です。しかし、その違いはキリスト教が異教徒たちに迫害されたのに対し、スピリティズムはキリスト教徒たちによって迫害されていることです。もちろん流血の迫害の時代は終わりました。

したがって、もはや肉体を殺すことはありませんが、その代わり魂を痛めつけ、最も大切な愛情を壊すことにより心の奥底の感情を傷つけるのです。家族の崩壊をもたらし、母親を娘に対して怒らせ、妻を夫に敵対させます。肉体に対しても攻撃をします。

物質的な欠乏を悪化させ、信じる者を飢えによって減らすために、生計を奪うのです(→第二十三章 9-18)。

 スピリティストたちよ、あなたたちを襲う攻撃に苦しんではなりません。それらの攻撃は、あなたたちが真実とともにあることを証明しているのです。

もしそうでないのであれば、彼らはあなたたちをそっとしておき、迫害することなどない筈です。迫害はあなたの信仰に対する試練です。あなたにそうした試練を乗り越える勇気、甘受の気持ち、忍耐があるならば、神はあなたを多くの忠実なる信徒の一人として認めることでしょう。

一人一人のために残されたものを、その行いに応じて与えようと、神は今日もそのような者たちを頼りにしているのです。
 
 最初のキリスト教徒たちが模範を示したとおり、自分の十字架を誇りをもって担いでください。「義のために迫害されてきた者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」「肉体は殺せても、魂を殺すことのできない者を恐れてはなりません」と言ったキリストの言葉を信じてください。

キリストはまた、「あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを憎む者に善を行い、あなたたちを迫害し、中傷する者たちのために祈りなさい」とも言いました。キリストが教え、行ったことを自分たちも行うことによって、自分たちは真なる使徒であり、自分たちの教義が善いものであることを示してください。

 迫害は長続きはしません。夜明けがやってくる時を、忍耐強く待つのです。地平線の向こうには明けの明星がもう輝いているのですから(→第二十四章 13とそれに続く項)。


五十二、<祈り>神よ、あなたたちは救世主であるイエスの言葉を通じ、「義のために迫害されてきた者は幸いです。敵を愛しなさい。あなたたちを迫害する者たちのために祈りなさい」と言いました。そして、イエス自身も死刑の執行人たちのために祈ることによって、その模範を示しました。

 神よ、この模範に沿って、この世界ともう一つの世界において平和をもたらすことができる、唯一の神聖なる規律を軽んじる人々に対し、あなたの慈悲を嘆願いたします。キリストのように、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちが何をしているのかわからないのです」と私たちも申し上げます。

 私たちの信仰心と慎ましさが受ける試練である、あざけり、侮辱、中傷、迫害を辛抱と甘受の気持ちをもって耐える力を私たちにお与えください。

また、どんな仕返しの気持ちからも私たちが免れることができますように、なぜなら、すべての者に神の正義が響く時が到来することを知っているからです。その時を、私たちはあなたの聖なる意志に従いながら待ち望んでおります。


  生まれたばかりの子供への祈り
五十三、<序文>霊は、肉体が与えられた生活における試練をくぐり抜けなければ、完成することはありません。幽界にいる霊は、与えられる苦しみを通じて自分の犯した過ちを償ったり、人間に利益をもたらす任務を遂行したり、進歩する方法を備えた人生が再び与えられることを神が許してくれるのを待ち望んでいるのです。

人間の進歩の度合いと未来における幸せは、地上にいる時間をどう利用したかによって決まります。

従って地上で有意義な時間を過ごせるように人間が最初の一歩を踏み出すのを助け、善の方向へ向かうように導いてあげることは、その者の父母の役割であり、父母たちは任された任務をどれだけ成し遂げたかを、神の前で答えることになります。

神は父の愛、子の愛を自然の法とすることによって、人が父母の役割を果たすようにしたのであり、その法を破るものは必ず罰せられることになるのです。


五十四、<祈りー父母によって唱えられる祈り>私たちの子どもの肉体に生まれてきた霊を、私たちは喜んで迎えます。全能なる神よ、私たちが授かった子どもにより、あなたが崇められますように。

 この子どもは私たちに託された預金のようなものであり、その精算をいつかしなければなりません。もしこの子どもが地上に住む新しい世代の霊に属する霊であるならば、神よ、その恵みに感謝いたします。

その子どもが不完全な霊であるならば、その霊が善へ向かって進歩していくのを、忠告や模範によって助けてあげるのは私たちの役割です。私たちのせいで、もし悪の道へ落ちてしまったなら、その子どもとともにあった私たちの任務の遂行を失敗したことになってしまいます。

 主よ、私たちの任務の遂行にあたり、私たちをお守りください。また、その任務を達成しようという気力と意志を私たちにお与えください。もしこの子どもが、私たちの霊にとって試練として生まれてきたのであれば、神の意志のとおりとなりますように。

誕生の時からこの子どもを指導し、その生涯をともにする善霊よ、この子どもをどうか見捨てないでください。この子どもを悪へ導こうとする悪い霊を遠ざけてください。悪い誘いに抵抗する力と勇気と、地上に待ち受ける試練に耐える忍耐力と甘受の気持ちを、この子どもに与えてあげてください(→第十四章 9)。


五十五、<別の祈り>あなたに属する霊のうちの一人を私の運命に託してくれた神よ、私が課された役割に応えることができますように。あなたのご加護をお与えください。

あなたの穏やかさを子供の中に灯すために、私が準備しなければならないことを早いうちから感知することができますよう、私の知性に光をお与えください。


五十六、<別の祈り>善なる神よ、この子どもの霊を再び地上の試練に立ち向かわせることを認められたのは、その霊の進歩のためなのでしょう。神を知り、神を愛し、神を崇めることできますように、その霊に光をお与えください。

全能なるあなたの力によって、その魂があなたの博識なる指導の泉の中で更生していくことができるようにしてください。守護霊の保護のもとにその知性が広がり、発達することによってその霊をよりあなたのもとへ近づけてくれますように。

スピリティズムの知識が輝く光となり、人生の危機においてもその霊を照らしますように。最終的には、私たちの浄化のために私たちに試練を与えてくれる神より広がる、すべての愛を感じ取ることができますように。

 主よ、その魂を託された家族に対し、子を見守る父の眼差しを向けてください。その家族が課された任務の重要性を学び、その子どもの中に善なる種が芽生え、いつの日か自ら望み、自分だけであなたのもとまでたどり着くことができますように。

 おお、神よ。「子どもたちを私のもとへ来させなさい。神の国は、このような者たちのものです」と言われた方の御心にかなうのであれば、その名においてこの慎ましい祈りをどうか聞き入れて下さい。


 危篤状態にある者への祈り
五十七、<序文>危篤は、魂と肉体の離脱の序章です。この時人間は、一方の足でこの世を、もう一方の足でもう一つの世界を踏んでいるのだということができるでしょう。

物質への執着が非常に強く、もう一方の世界のものよりもこの世の富のために生きた者や、良心が後悔や苦悩に動揺している者にとって、この時間は非常に苦しいものです。一方で、物質への執着が弱く、神を求めながら生きた者にとっては、彼らを地上につなぎ止める綱はより容易に解かれ、最期の時に苦痛を与えるものは何もありません。

そのような場合においては、魂と肉体とをつなぐのはたった一本の綱なのです。しかし、もう一方の場合においては、その綱以外に深く生えた根が魂を肉体に縛り付けているのです。いずれにせよ、危篤の時、祈りは魂が肉体から離脱する上で大きな働きをします(→『天国と地獄』第二部 第一章「死」)。


五十八、<祈り>全能で慈悲深い神よ、ここに、いまにも地上でのまといを脱ぎ去り、その本当の故郷である霊の世界へ戻ろうとしている魂がおります。その魂を平穏にするものが与えられ、あなたの慈悲が差しのべられますように。

 地上で生活する間付き添ってくれた善霊よ、この究極の瞬間にその魂をどうか見放さないでください。未来におけるこの魂の進歩のために、この地上で体験すべき最期の苦しみに耐える力を与えてあげてください。

残された知性や、まだやってくる知性の最期のきらめきを、その魂が自分の犯した過ちの後悔に捧げるように導いてください。

 私の思いが、その魂の肉体からの離脱をより楽にし、その魂が地上を後にする時、その魂に取って希望に満ちた慰めとなることができるようにしてください。



 4、 霊への祈り 
 死後間もない人への祈り
五十九、<序文>地上を後にしたばかりの霊へ向けられた祈りの目的は、彼らに対する親しみを示すことだけではありません。霊が肉体から解放されるのを助け、それによって、肉体からの魂の離脱の時にはつきものである混乱を小さくし、霊の世界への目覚めをより安らかなものにするものです。

 しかし、他のいかなる場合でもそうであるように、その祈りの効力というのは思いの誠実さの中にあるのであり、盛大に唱えられてもしばしば心の込められていない言葉の数が効力を与えるのではありません。

 心から放たれた祈りは、眠りから起こしてくれる優しい友の声のように、まだ混乱した状態にある霊の周りに響きわたるのです(→第二十七章 10)


六十、<祈り>全能なる神よ、たったいま、地上よりあなたに呼び戻された「〇〇」の魂に、あなたの慈悲が注がれますように。その魂がこの地上で苦しみ、耐えた試練が、霊界において受けるべき罰を和らげたり、短縮させたりする要因として考慮されますように。

その魂を迎えにきた善霊よ、その中でも特にその守護霊よ。その魂が物質を棄てることを手伝ってあげてください。肉体の生活から霊の世界への移行に伴う混乱から早く抜け出すことができるように、その魂に光と自分自身の自覚をお与え下さい。

永遠なる至福の世界へ向かって行く速度を速めるために、その魂に自分の犯した過ちに対する後悔の気持ちと、それを改める許しを得ようとする意欲をお与えください。

 霊の世界へ入って行ったばかりの「〇〇」よ、それでもあなたはここにこうして私たちの間に存在しているのです。あなたには私たちを見て、聞くことができるのですから、あなたと私たちの違いは、あなたは間もなく灰となってしまう消滅すべき肉体を失ったということだけなのです。

 あなたは、苦しみの原因となったり、死すべき運命にある重いまといを脱ぎ捨てて、苦痛から解放された、消滅することのないエーテル状のまといだけに包まれているのです。

あなたはもう肉体によって生きているのではないのです。霊の生活をしているのであり、その生活に人類を苦しめる悲惨なものは存在しないのです。

 私たちの目の前にある死後の世界の輝きを覆い隠すベールはもうあなたの目の前にはないのです。これからは、私たちが暗闇に居続ける間、あなたは新たな素晴らしい世界を眺めることになるのです。

自由に宇宙を駆け巡り、さまざまな世界を訪れなさい。その間、私たちは重い鎧のような肉体の中に閉じ込められたまま、地上を苦しそうに這いまわっているのです。

 あなたの前には無限の展望が広がっているのです。その広大さを前にすれば、私たちが地上で抱く欲望や、世俗的な野心、人類が好む不毛な喜びなどというものの空しさを知ることができるでしょう。

 人類にとって死とは、ほんのわずかな間に行う物質からの離脱に過ぎないのです。神の意志と、この世で遂げなければならない義務を守り続けながら生きる為に送られてきたこの場所より、あなたが先に逝った者たちと再会したように、私たちもあなたと再会する許しが得られる時まで、私たちは思いによってあなたのお供をいたします。

 私たちはあなたに会いに行くことはできませんが、あなたは私たちのもとまで来ることができるのです。だから、あなたが愛する者、あなたを愛してくれている者のもとへ来て、人生の試練においてそうした者たちを支えてあげてください。

あなたにとって大切な人を守ってあげてください。あなたのできる範囲において彼らを保護してあげてください。

いまのあなたが以前よりも幸せだということや、いつかある日、善い世界においてみなで再会できるのだという慰安となる確信を、彼らの心の中に感じさせることにより、彼らの悲しみを和らげてあげてください。

 あなたがいるその世界では、悪感情も失わなければなりません。あなたの未来の幸せのために、今後はそうした感情から身を遠ざけてください。だから、あなたが悪を働いた者たちがあなたを赦してくれているように、あなたに対して悪を働いた者を赦してあげてください。


<備考>どのような祈りにも当てはまりますが、家庭や人間関係の特別な状況や、死去した者のおかれた立場に応じて、この祈りに特別な言葉をつけ加えてもかまいません。

 死去したものが子供であったとしても、その霊は生まれて間もない霊なのではなく、すでに長い間生きてきた、より進歩した霊であり得るとスピリティズムは教えてくれています。地上における最後の生命が短かったとして、それはその子の試練を補うもの、もしくは、その子の親のための試練であるに過ぎません。


六十一、<別の祈り>全能なる主よ、地上を後にする私たちの兄弟にあなたの慈悲が行きわたりますように。あなたの光が兄弟の目に映り輝きますように。

彼らを暗闇から遠ざけてください。彼らの目と耳を開かせてあげてください。あなたに従う善霊が彼らをとりまき、平和と希望の言葉を聞きいれるようにすることができますように。

 主よ、私たちはそれに値しないかもしれませんが、追放された土地より呼び戻された私たちの兄弟のために、あなたの慈悲深い寛容をあえてお願いいたします。彼の帰還が、放蕩息子の帰宅と同じように迎えられますように。

神よ、彼が行うことのできた善を思いだすことによって、彼の犯した過ちが忘れられますように。

あなたの正義は不変だということを私たちは知っています。しかし、あなたの愛は偉大です。あなたの胸から湧き出る善意の泉によって、あなたの正義が優しくなりますようお願いいたします。

 地上を後にする兄弟よ、あなたの目に光が灯りますように。あなたとともにある善霊が、あなたを地上につなぎとめる鎖をちぎるのを手伝うために、あなたに近づき、寄り添ってくれますように。私たちの主の偉大さを見て、理解することができますように。

不平を言うことなく、神の正義に従い、しかし、神の慈悲に対して、決して落胆することがないようにして下さい。兄弟よ、あなたが真剣に過去を見つめ、後に残してきた過ちとあなたに遂行することが任された過ちを改めるための仕事に気づくことが、未来の扉を開くことになるのです。

神があなたを赦し、善霊があなたを支え、元気づけてくれますように、あなたのために地上の兄弟が祈り、また彼らのためにあなたも祈ってくれることを願っています。


<備考>ある知らない人の棺が家の前を通った時、ボルドーに住むある霊媒にこの祈りが伝えられた。


 私たちが愛情を抱いていた人への祈り
六十二、<序文>恐ろしいものは「無」の概念です。真空の中に全てが失われてしまい、友だちのことを思って泣いてくれる声も、返答の声もこだましないと信じている人の何と憐れなことでしょう。すべてが肉体とともに死んでしまうと考える人は、純粋で聖なる愛情をとても知ることはできません。

そのような考え方のもとでは、広い知性によって世界を啓発した賢人も、物質が組み合わさって形成されたものに過ぎず、一吹きで永遠になくなってしまうのです。最も愛しい人や、父、母、愛する息子も、いやおうなく風に吹かれて散り散りになってしまう塵に過ぎないということになってしまいます。

 心を持った人間が、このような考え方を冷静に受け止めるることができるでしょうか。絶対的な消滅という考えに人は、その恐ろしさに心を凍りつかせ、少なくとも、そうあって欲しくないと考えるのではないでしょうか。

あなたの霊が感じているあらゆる疑いを晴らすための答えが、まだ足りないと思うのであれば、スピリティズムが魂の存続や死後の存在を明らかにする物理的な証拠を通じて、未来に関するあらゆる疑問を晴らしてくれます。余りにも明らかであるため、そうした証拠は大きな喜びをもって受け止められます。

そしてそれ以降、地上における生活はより良い生活へと導く通り道でしかないのだということを知って、再び信じることができるようになります。地上における労働は無駄にはならず、聖なる愛情はどんな希望も引き裂くことができないのです(→第四章 18、第五章 21)。


六十三、<祈り>神よ、「〇〇」の霊のために私が送る祈りを、どうか慈悲深く受け入れてください。永遠の幸福への道を歩むことが容易になるよう、神の灯りを彼に見せてあげてください。善霊が私の言葉と私の思いを彼のもとへ伝えてくれることをお許しください。

 地上に居る間、あなたは私にとって大変大切な存在でした。私の愛情の新たな証を捧げるために、あなたを呼んでいる私の声を聞いてください。神は私よりも先にあなたを自由にされましたが、そのことを前に、私は利己的になれず、不平を言うことはできません。

なぜなら、さもなければ、あなたにもっと地上の苦しみや罰を受けさせることを望むことになってしまうからです。ですから先にあなたが行ってしまったより幸せな世界で私たちが再び一緒になる時を、甘受して待ちます。

 私たちの別離は一時的なもので、それがどんなに私にとって長く感じられようと、神によって選ばれたものに約束された永遠の幸せの時に比べればその時間はなきに等しいのです。

あなたの善意により、熱望されるときの到来を私が遅らすようなことをしないように、また、私が地上の牢から解放された時、あなたに会えない苦しみを味わうことが無いようにしてください。

 おお。あなたと私の間には、あなたを私の目には見えなくしている物質的なベールが存在しているだけで、あなたは私の横に来ることができ、昔からそうであるように私を見、私の声を聞くことができ、私があなたのことを忘れないのと同じようにあなたも私のことを忘れず、

私たちの心がいつも行き交い、あなたの思考はいつも私について来てくれ、私を助けてくれるということを確信することは、何と甘く、何と心をなごませてくれることでしょうか。神の安らぎがあなたとともにありますように。

 
祈りを求める苦しむ魂への祈り
六十四、<序文>
祈りが苦しむ霊をどれほど楽にするかを理解するには、すでに説明した通り、祈りが霊に対してどのように作用するのかを知る必要があります(→第二十七章 9、18-23)。その真実をより深く認識している者は、無駄に祈っているのではないという確信から、より献身的に祈ることができます。


六十五、<祈り>寛大で、慈悲深い神よ、私たちの祈りを求める全ての霊、特に、「〇〇」のもとまで、あなたの善意が行き届きますように。

 善を行うことのみに従事している善霊よ、私とともに彼らを楽にするための仲立ちとなってください。彼らの目の前に希望の光が輝き、彼らを至福の家から遠ざけている彼らの不完全性を、神の光が明るく照らしてくれるようにしてください。

彼らの進歩の速度を速めるために、後悔と浄化しようとする意欲によって彼らが心を開くようにしてください。彼らの努力によって試練の時間は短縮されるのだということを、彼らに理解させてあげてください。

 神がその善意により、彼らに善い決意を保ち続ける力を与えてくれますように。

 慈悲を思いださせるこれらの言葉が彼らへの罰を和らげ、彼らの幸せを望み、同情する者が地上にいるのだということが、彼らに示されますように。


六十六、<別の祈り>神よ、あなたの愛と慈悲の恵みを、宇宙にさまよう霊の間にも、私たち人間の間にも、あらゆる苦しみを持つすべての者にちりばめてください。私たちの弱さを憐れんでください。

あなたは私たちを間違いを犯しやすく創られましたが、同時に悪に抵抗し、克服する能力を与えてくれました。悪への傾向に抵抗しきれず、また悪の道を進んでいる者すべてにあなたの慈悲が届きますように。善霊が彼らを取り囲みますように。

あなたの光が彼らの目に映り、その光の生き生きとした温かさに引かれ、あなたの足元までやって来て、謙遜、後悔、服従の念にひれ伏すことができますように。

 慈悲の父よ、地上での試練においてそれに耐える力が十分でなかった私たちの兄弟のために、同じことをお願いいたします。神よ、あなたは私たちに荷を負わせましたが、それはあなたの前でしか下ろしてはいけないものです。しかし、私たちは弱く、旅の中でしばしば勇気を欠いてしまいます。

決められた時を待たずに仕事を放棄してしまった怠惰なしもべたちに同情してください。あなたの正義が彼らをいたわり、善霊が彼らに安らぎ、慰安、未来への希望をもたらすことを許してくれますように。赦されるであろうという兆しは、魂を補強してくれます。

神よ、途方に暮れた罪ある者たちにその兆しを見せてあげてください。その希望に支えられ、その過ちと苦しみの大きさと同じだけの大きな力を吸い込み、過去を償い、未来への準備をすることができますように。


 他界した敵への祈り
六十七、<序文>私たちの敵に対する慈善の行いは、その敵が他界した後も続けなければなりません。

彼らが私たちに対して行ってきた悪は、私たちにとっての試練であって、それを有益に利用することが出来ていたなら、私たちの進歩にとって良い機会であったはずです。

私たちに勇気、甘受の気持ち、慈善、攻撃を忘れる気持ちを手に入れさせてくれたように、単なる物質的な苦しみよりも、もっと有効な試練であったかもしれません(→第十章 6、第十二章 5,6)。


六十八、<祈り>主よ、「〇〇」の魂を私よりも先に呼ばれたのは、あなたの満足によるものです。彼が私に対して行った悪や、彼が私に抱いていた私に対する悪意をお赦しください。この世の幻想に惑わされなくなったいま、彼がそれらのことを後悔することができますように。

 神よ、あなたの慈悲が彼の上にもくだり、彼の死を喜ぶ気持ちを私から遠ざけてください。もし、私が彼に対して過ちを犯してしまったら、私も彼が私に対して犯した過ちを忘れるように、どうかお赦しください。


 犯罪者への祈り
六十九、<序文>もし、祈りの効果がその長さに応じて変わるのであったなら、清く生きた者よりも罪の重い者の方が祈りを必要としているのですから、長い祈りは、より罪の重い者のためにとっておかなければならないはずです。

犯罪者への祈りを拒否することは慈善の欠如であり、神の慈悲を忘れていることになります。ある罪を犯したからといって、犯罪者を無益な者と決めつけることは、神の正義を勝手に判断していることになります。


七十、<祈り>主よ、慈悲なる神よ、たった今地上を後にしたこの犯罪者の受け入れをどうか拒まないでください。人間の正義は彼を罰しましたが、彼の心の中に後悔の念が浸透していないのであれば、あなたの罰から免れることはできません。

 彼の罪の深さを見えなくしている目隠しを、彼の目から外してあげてください。後悔することによって、あなたの偉大なる保護を受け、その魂が苦しみの緩和に値することができますように。

私たちの祈りや善霊のとりなしが、彼に希望と慰安をもたらしますように。彼の悪行を新たな人生の中で改めようとする望みを抱かせ、辛抱しなければならない新しい戦いに負けてしまわないように、彼に力を与えて下さい。

 主よ、彼にあなたの慈悲をお与えください。


 自殺者への祈り
七十一、<序文>人類には決して自分の生命を放棄する権利はありません。神のみに、適当であると判断された時、地上の牢から人を連れだすことが許されているのです。

神の正義は、状況に応じてその厳格さが緩和されることもありますが、人生の試練から逃れようとした者に対する厳しさは保たれます。自殺者は、刑期を終えることなく、牢から抜け出した囚人のようなものです。

再び捕らえられた時には、より厳しく罰せられます。現世の惨めさから逃れようと決断し、より大きな不幸にはまってしまう自殺者にも、同じことが当てはまります(→第五章 14とそれに続く項)。


七十二、<祈り>神よ、自分から生命の日数を短縮し、あなたの法を破った者を待ち受ける運命がどのようなものであるのかを私たちは知っています。しかし、あなたの慈悲は無限であることも知っています。どうか「〇〇」の魂にあなたの慈悲を差しのべて下さい。

試練が終結するまで待つための勇気が欠如したため、いま彼が経験している苦しみの辛辣さが、私たちの祈りと神の憐れみによって和らげられますように。

 不幸な者を救援する任務を負った善霊よ、彼をあなたの保護のもとに置いてください。彼の犯した罪の重さを感じさせてあげてください。あなたの救援によって、彼の過ちを改めるために立ち向かわねばならない新たなる試練を甘受し、耐え抜く力が与えられますように。

再び彼に悪を強要し、苦しみを長引かせることによって、未来における償いの結果を失わせることになる悪い霊を、彼の側から遠ざけてください。

 私たちの祈りを誘った不幸の持ち主であるあなたにも、あなたの苦悩を短縮させる私たちの同情をあなたが願い、よりよい未来への希望を自分の中に生み出すことができるように祈ります。神はあなたの手の中に存在します。神の善意を信じてください。

神の胸は固くなった心に対しては閉ざし続けますが、すべての後悔に対しては開かれます。


 後悔する霊への祈り
七十三、<序文>祈りを求める苦しむ霊や後悔する霊を、悪い霊の範疇に入れてしまうのは正しいことではありません。

彼らは悪い行いをしたかもしれませんが、自分の過ちを知り、嘆き悲しんでいるのですから、もう悪くはないのです。彼らは不幸なだけなのです。そのように自覚する者たちは、遠からずして相対的な幸せを感じはじめることができるようになります。


七十四、<祈り>生きる者、他界した者を問わず、罪を犯した者の誠実な後悔を聞きいれてくれる慈悲深い神よ、今までは悪に喜びを感じていたものの、これまでの自分の過ちに気づき、善の道に向かおうとしている霊がここにいます。神よ、どうか放蕩息子のように受け入れ、赦してあげてください。

 彼はいままで善霊の声を聞きいれようとはしませんでしたが、いまでは聞こうとしています。神によって選ばれた者の幸せに届くまで、浄化しようという意欲を持ち続けることができるように、そうした幸せを垣間見ることができるようにしてあげてください。

彼の善き決断を支え、悪癖に抵抗する力を与えてあげて下さい。「〇〇」の霊よ、あなたのうちなる変化を祝福し、あなたを助けてくれた善霊に感謝します。

 以前、悪に喜びを感じていたのは、善を行うことの喜びの気持ち良さを知らなかったからであり、また、その喜びを得ることを望むには自分は低すぎると感じていたからです。しかし、善の道に一歩踏み出した時から、あなたの目には新しい光が輝いています。

あなたの心の中に入ったいままで知らなかった幸せと希望を享受し始めたのです。神は後悔する罪人の声を必ず聞きいれてくれます。神を求める者の誰をも拒否することはありません。

 神の恵みの中に再び完全に入るためには、今後悪を働かないだけではなく、善を行うことに努め、なによりも、行ってきた悪を償わなければなりません。そうすれば神の正義にかなうことになります。一つ一つの善い行いが過去の過ちを消していくことになります。

 すでに第一歩を踏み出しているのです。これからは道を進めば進むほど、その道はやさしく、楽しくなるでしょう。だから、根気よく続けてください。いつか善霊や幸福を享受する者の一人として教えられる栄光を得る日が来るでしょう。


 強情な霊への祈り   
七十五、<序文>悪い霊とは、いまだに後悔することを知らない霊のことです。彼らは悪を楽しみ、それによって何ら苦悩を感じることがないのです。強いとがめに対しても鈍感で、祈りを拒否し、多くの場合、神の名を汚します。

強情になってしまったこのような霊は死後、生きていた間に我慢した苦しみの復讐を人間に対して行おうと、生きていた間に自分に対して悪を働いた者を、憑依によって、または、あらゆる有害な影響を与えることによって、憎み、つきまといます(→第十章 6、第十二章 5,6)。

 不道徳な霊は、二つの分類に明確に区別することができます。単に悪い者と偽善的なものといった分け方です。善に導くには後者より、前者の方が限りなく容易です。前者に分類される者は、人間の場合がそうであるように、殆どの場合、荒々しく野蛮な性格をしています。

計算してというよりも、本能的に悪を行いますが、自分のある状態を越えようとはしません。しかし、彼らの中には、潜在的にいずれ発芽する必要のある種子が存在しており、それはほとんどの場合、忍耐や慈悲と結びついた固い意志や、忠告、理性、祈りによって発芽させることが可能となります。

霊媒力を通じて彼らが示す神の名を書くことの難しさは、本質的な恐れのしるしであり、彼らの内なる本心が神の名を書かせようとしないのです。

その点において、彼らは自分を変えることができ、私たちも彼らに対してあらゆる希望を抱くことができるのです。彼らの心の弱点を見出すことさえできればよいのです。

 偽善的な霊はほとんどの場合、知性的ですが、心の中にはほんの僅かな感受性さえも持っていません。なにも彼らを感動させることはできません。

信用を得るためにあらゆる善い情燥をまね、自分たちを神聖な霊だと思い込んでしまう愚かな者に出会うと喜び、そうした者を好きなように支配することになります。神の名は、彼らに恐れを感じさせるにはほど遠く、逆に自分たちの醜行を隠すための仮面としてそれを使います。

目に見えない世界では、目に見える世界と同じように、偽善者は、誰にもそれを疑わせることなく闇の中で行動するので、最も危険な存在です。見せかけだけの信仰を持ち、誠実な信仰を決して持つことはありません。


七十六、<祈り>主よ、いまだ無知の闇の中にあり、自分を見失っている不完全な霊、特に「〇〇」の霊をあなたの善意にあふれる眼差しで見てあげてください。

 善霊よ、人間を悪に導き、憑依によって苦しめることは、自分の苦しみを長引かせることになるのだということを彼に理解させるために、私たちを助けてください。あなたが感じている幸せの例が、彼に取って勇気づけとなるようにして下さい。

 いまだに悪に喜びを感じている霊よ、あなたのために捧げる祈りを聞きに来てください。その祈りは、あなたが悪を働こうと、私たちがあなたのための善を望んでいることの証です。

 悪を行い続けながら幸せになることはできないのですから、あなたは哀れです。その苦しみを避けることがあなた自身にかかっているのに、なぜあなたは苦しみの中にとどまろうとするのですか。あなたを取り囲む善霊を見て下さい。

彼らは何と幸せそうなことでしょう。あなたも同じ幸せを享受することができたら素晴らしいではありませんか。

 あなたは、それは不可能だというかも知れません。しかし、望む者にとって不可能なものは何もなく、神は、そのすべての被造物にそうしたように、あなたにも善と悪、つまり幸せと不幸のどちらかを選ぶ自由を与えたのであり、誰も悪を働くことを強いられているのではありません。

悪を働こうとする意志があるのと同様に、善をしようという意志を抱き、幸せを得ることが可能なのです。

 あなたの目を神の方向に向けてください。神の方へあなたの心を一時運べば、神の光はあなたを照らしてくれるでしょう。私たちとともに次の簡単な言葉を唱えてください。

「神よ、私は後悔しています。私をお赦しください」。自分を省み、悪を行う代わりに、善を行おうとすれば、すぐに神の慈悲があなたにも注がれ、語りようのない良い気分が、あなたの体験している苦痛にとって変わるでしょう。

 善の道を歩み始めることさえできれば、残りを歩み続けるのはあなたにとって容易なことでしょう。そうすれば、幸せの時を自分のせいでどれだけ逃してきたかを知ることができるでしょう。

しかし、希望に満ち溢れた広大な未来があなたの前に開け、あなたの惨めな過去のことは忘れさせてくれるでしょう。混乱と道徳的な拷問がもし永遠に続くとすれば、それはあなたにとって地獄にいるのと同じことです。

どんなに高く支払ってでも、その拷問を止めさせたいと思う日がやってくるでしょう。しかし、その日が遅くなればなるほど、止めさせることは難しくなります。  

 今いる状態に永久にいる等と信じてはいけません。そのようなことはあり得ないことです。あなたの前には二つの見通しがあります。今まで苦しんできたよりもさらにずっと苦しむ見通しと、あなたを取り囲んでいる善霊と同じように幸せになるという見通しです。

一つ目の見通しは、あなたが強情を張り続けるのであれば避けることはできませんが、あなたに小さな努力の意志さえあれば、あなたがいる苦しい状態から抜け出すことができるでしょう。一日遅れることは、あなたの幸せを一日逃すことになるのですから、急ぐことです。

 善霊よ、こうした言葉が、このいまだに遅れている魂にこだまし、神に近づくための助けとなるようにして下さい。イエスキリストの名において、悪い霊に対し、偉大なる力を与えて下さいますようお願いいたします。
      
    
 5、 病人、憑依に悩まされる者への祈り

 病人への祈り
七十七、<序文>病気は地上における試練や苦しみの一部です。私たちの物質的な特徴である粗悪さや、私たちの住む世界の劣等に固有のものです。行き過ぎた情熱やあらゆるものの過剰は、私たちの身体の組織の中に不健全な状態をつくりだしますが、それは時々遺伝によって伝えられます。

物質的にも道徳的にもより進んだ世界では、人間の組織はより浄化され、より非物質的で私たちと同じような病気にはかからず、感情の荒廃によって、身体が知らないうちに浸食されて行くようなことはありません(→第三章 9)。ですから、私たちの劣等が、置かれた環境から来る結果に苦しむことを別の場所へ移されるまでは、甘受することが必要です。

だからといって、そのことは、私たちが現状を改善しようとして戦うことの妨げとなってはなりません。しかし、私たちの努力にもかかわらず、改善することができない時、甘受を持って一時的な悪に耐えることを、スピリティズムは私たちに教えてくれています。

 私たちの身体の苦しみが和らぎ、治癒されることを、神が望まなかったのであれば、私たちの手の届くところに治療の手段を与えはしません。神の配慮は、私たちの保護本能として示されており、私たちの義務とは治療の方法を探し、その方法を応用することであるということを示しています。

 科学によって作り上げられた普通の薬による治療の他に、磁力の発見はフルイドの作用の力を教えてくれ、その後、スピリティズムはもう一つ別の力である、祈りの作用による治療の力を、霊媒力を通じて教えてくれました(→第二十六章 10「治療霊媒の話」)。


七十八、<祈りー病人が唱える祈り>主よ、あなたはすべての正義であり、私はそれに値したがために、あなたは私が病気になることを許しました。なぜなら、動機なしに神は人を苦しめることはないからです。

しかしながら、あなたの慈悲のもとに、私は自らを治療しようとします。あなたの気に添うことであれば、どうか私の健康を回復させてください。私はあなたに感謝いたします。

もしその反対に、私は苦しみ続けなければいけないとしても、同じようにあなたに感謝いたします。あなたが行うすべての目的は、あなたの創造物のために善でしかないのですから、不平を言うことなく、神の定めに従います。

おお、神よこの病気が私にとって有益な注意となり、私が自分自身を試そうとするようになりますように。病気を過去の報いとして、また、私の信仰とあなたの聖なる意志への服従のための試練として受けとめます(→第二十八章 40,41)。


七十九、<祈りー病人への祈り>神よ、あなたの意志は計り知れません。あなたはその英智により、「〇〇」に病を送りました。彼を同情によって見守り、彼の苦しみを終わらせてあげてください。

 全能なる神の使いである善霊よ、彼を楽にしてあげたいという私の望みを支持してくれることを、私はあなたにお願いいたします。私の思いが、彼の身体に有益な慰安の芳香油のように、また彼の魂に慰めとして注がれるようにしてください。

 彼に忍耐と神への服従を感じさせてください。キリスト教徒の甘受の気持ちによって、痛みに耐える力を与え、いま起きているこの試練の結果を無駄にすることがないようにして下さい(→第二十八章   57)。


八十、<祈りー治療する霊媒が唱える祈り>神よ、私がそれだけのことに値しないにもかかわらず、私を使うことを望まれるのであれば、私はあなたの力を信じているので、あなたの意志がそうである以上、私はこの苦しみを治療することができるでしょう。しかし、あなたなしにはなにもできません。

善霊のその健全なフルイドを私にしみ込ませ、それを私がこの病人に伝えることができるようにし、また、フルイドの純度を低下させる可能性のある自尊心やエゴイズムによるどんな考えも私から遠ざけてください。



 憑依に悩まされる者への祈り
八十一、<序文>憑依とは悪い霊がある人に対して不断の作用を働くことです。それには、外見的には感知できるような兆候のない単なる道徳的な影響から、精神的、肉体組織的な能力を完全に混乱させるようなものまで、さまざまな性格が見られます。

憑依はいかなる霊媒力をも妨げます。自動書記、あるいは記述の霊媒力においては、ある特定の霊だけが他の霊には筆記させまいとすることによって憑依が起こります。

 地球に住む人間の道徳的劣等の結果、悪い霊は地球の周りに増えていきます。その悪業はこの世で人類が耐えている苦しみの一部をなしています。憑依は、病気と同じように、また、人生のあらゆる苦悩と同じように、試練、もしくは報いとしてとらえ、その状況を受け入れなければなりません。

 病気が、外部からの有害な影響を受けやすくする肉体的不完全性からくるように、憑依は、悪い霊の影響を受けやすくする道徳的不完全性から常に起こります。病気から身を守るためには肉体を強化します。憑依がおきないように保証するには魂を強化することが必要です。

このことから、憑依に悩まされる者は、自分自身の回復のために、自分で努力をしなければならないということになりますが、ほとんどの場合、他の人に助けを求めなくとも、自分の努力だけでとり憑いた霊から解放されることができます。

しかし、憑依がとり憑かれた者を征服したり、支配するところまで悪化してしまった時には、とり憑かれた者は自分自身の意欲や自由意思を失ってしまうため、他人の助けが必要となります。

 憑依はほとんどの場合、霊の復讐の行為であり、多くの場合、その原因はとり憑く者ととり憑かれた者との前世における関係にあります(→第十章 6、第十二章 5,6)。

 重傷な憑依の場合、健全なフルイドの作用を無効にし、それらを追いはね返す有害なフルイドがとり憑かれた者をとりまき、しみ込んでいます。このフルイドからとり憑かれた 者を解放することが必要です。しかし、悪いフルイドは、同種の別のフルイドによって追い払うことはできません。

治療する霊媒が病気を治す時に行うように、悪いフルイドを、ある種の抵抗作用を生む善いフルイドの助けを借りて追い払う必要があります。これは機械的作用と呼ぶことができますが、それだけでは十分ではありません。

なによりも、道徳の優位性のみが与えてくれる権威によって語りかけ、知性に働きかけることも必要です。道徳性に優位であればあるほど、権威も強大になります。

 とり憑いた霊から確実に解放されるためには、それだけでは不十分で、不道徳な霊の悪いたくらみをあきらめさせることが必要になります。道徳的な教化を目的として、特定の人を呼びおこし、うまく教えを差し向けることによって、後悔と善への欲求に目覚めさせることが必要なのです。

そうすれば、生きた者を解放させることと、不完全な霊を改心させるという二つの満足を得ることができます。

 とり憑かれた者が自分の状況を理解し、その意志または、祈ることにより協力をしてくれるのであれば、解放の仕事はより容易になります。とり憑かれた者が嘘つきの霊にそそのかされ、支配する者の性質を錯覚し続け、その神秘性を楽しむのであればその逆になります。

そうした場合、解放を助けるどころか、とり憑かれた者自身がどんな救援をも受け付けなくなってしまうのです。それは、魅惑されてしまった状態であり、最も暴力的な征服よりも常に反逆的です。(『霊媒の書』第二十三章)。

 すべての憑依において、とり憑く霊から解放されるための最も強力な手段は祈りです。


八十二、<祈りー憑依に悩まされる者が唱える祈り>
 神よ、私にとり憑いた悪い霊から、善霊が私を解放してくれるようにして下さい。もしそれが私の過去において彼に対して行った悪の結果としての彼の復讐であるならば、神よ、私が自分のせいで苦しむことができるようにして下さい。

私の後悔があなたの赦免と私の解放に値するものとなるようにして下さい。しかし、何が原因であれ、彼に対するあなたの慈悲をお願いいたします。神よ、彼が進歩にたどり着けるよう助け、悪の行いを避けることができるようにして下さい。私は、自分の役割として、彼の悪には善で報い、彼をより善い感情へと導くことができますように。

 しかし神よ、不完全な霊の影響を受けやすくするのは、私の不完全性であることを知っています。その不完全性を自覚するのに必要な光をお与えください。なによりも、私の欠点について私を盲目にする、私の自尊心を遠ざけてください。悪い霊に支配されてしまうとは、私は何と恥じるべき者なのでしょうか。

 神よ、私の虚栄心へのこの一撃が、私の未来のための教えとなるようにして下さい。今後、悪い影響からの攻撃に対して防壁を築くことができるよう、善、慈善、慎ましさの実践によって、浄化しようという私の決断を、その教えが補強してくれますように。

 神よ、この試練を、忍耐と甘受をもって耐えるだけの力を私にお与えください。その他の試練と同様に、私が不満をこぼさず、その試練の成果を失うようなことがなければ、私の進歩に結びつくのだということを理解しています。

なぜなら、この試練に耐えることは私の神への服従を示すことであると同時に、不幸な兄弟が私に対して行った悪を赦すという慈善を行う機会でもあるからです(→第十二章 5,6、第二十八章 15とそれに続く項、46,47)。


八十三、<祈りー憑依に悩まされる者への祈り>
全能なる神よ、「〇〇」をとり憑く霊から解放させてあげることができる力を私にお与えください。

もし、御心の中にこの試練を終わりにすることがあるのであれば、必要な権威をもってこの霊に話す機会を私にお恵みください。

私を助けてくれている善霊よ、そして「〇〇」の守護霊よ、あなたたちの助けを私にお与えください。彼をとりまいた不純なフルイドから彼を自由にするのを助けてください。全能なる神の名において、この人を苦しめる悪い霊を遠ざけるようにお願いします。



八十四、 <祈り・・・とり憑いた霊への祈り>
 永遠の善である神よ、「〇〇」にとり憑いた霊にあなたの慈悲が及ぶことを嘆願いたします。彼が神の光に気づき、いまたどっている道の虚偽を知ることができるようにして下さい。善霊よ、悪を行うことによってすべてを失うことになり、善を行うことによってすべてを得ることができるのだということを、彼に理解させるのを助けてください。

「〇〇」を苦しめることに喜びを感じている霊よ、神の名において話す私のことを聞いてください。

 熟考してみれば、悪は善に導く事はできず、あなたは、あなたのいかなるくわだてからも「〇〇」を守ることができる神や善霊より強くなることはできないということを理解することができるでしょう。

神がそうしなかったのは、「〇〇」には苦しむ試練が与えられたからです。しかし、この試練が終わった時には、彼らは「〇〇」に対して行動を起こそうとするあなたを妨げることになるでしょう。

あなたが行う悪は、「〇〇」に損害を与える代わりに、「〇〇」の向上のためになり、「〇〇」をより幸せにすることでしょう。このように、あなたの悪意は無駄になり、しかもそれはあなたにとって致命的となります。

 あなたよりも強大な力を持つ全能なる神、優れた霊、その使者たちは、解きたいときにこの憑依を解くことができ、それによってあなたの強情さは至上の権威によって破壊されることになります。

しかし、神は善であるからこそ、憑依があなた自身の意志によって解かれることの価値をあなたの手に委ねたのです。それはあなたに与えられた許しであり、それをうまく利用しないと嘆かわしい結果に苦しまなければならず、その場合、大きな罰や大きな苦しみがあなたを待っているのです。

あなたのことをすでに赦し、あなたのために祈るあなたの憑依の犠牲者は、神に解放してもらえるようになるため、あなたは彼の慈悲心と祈りを嘆願せざるを得なくなるでしょう。

 だから、まだ間に合う間によく考えてください。なぜなら、他のすべての反抗的な霊と同じように、神の正義はあなたにも下されることになるからです。今行っている悪は必ずや終わりが来るものであるのに、もしあなたが頑固に固執し続けるのであれば、あなたの苦しみは止むことなく増していくでしょう。

 あなたが地上にいた時、大きな善を、小さい一時の満足のために犠牲にすることがばかげたことであるとは考えませんでしたか。霊として存在するいま、同じことが言えます。あなたがいま行っていることでなにを得ることができるのでしょうか。

他人を苦しめるという悲しい喜びは、いくらあなたがそうではないと主張しようとも、あなたを不幸にすることの妨げとはならず、あなたの未来において更に不幸をもたらします。

 それとは別に、あなたが何を失っているかをみてください。あなたを取り囲む善霊を見て、彼らの幸せがあなたにとって望ましいものであるか言ってみて下さい。あなたが望むのであれば、幸せはあなたのものにもなります。

そうなるには何が必要なのでしょうか。神のその助けを嘆願し、悪の代わりに善を行うのです。あなたたちが突然変化できないことはよく知っています。しかし、神はあなたに不可能なことは望みません。あなたの意志だけが望まれるのです。だから、やってみて下さい。

私たちはあなたを助けます。そうすれば、わたしたちはやがてあなたを悪い霊として扱うのではなく、あなたのために後悔する霊への祈り(→第二十八章 73)を唱えることができるようになるでしょう。そして、いずれあなたをよい霊として数えることができるようになるのです(→第二十八章 75,76「強情な霊への祈り」)。


<解説>重篤な憑依の治療には多くの忍耐、勤勉、献身を必要とします。また多くの場合、とても反抗的で、強情で悪賢い霊を善に導くには、そうした霊の中には最も反抗的な者もいることもあって、技術や能力も必要です。ほとんどの場合、状況に応じて進めるべきです。

しかし、霊がどのような性格であっても確実なのは、強迫や強制によって得られるものはなにもなく、どのような影響も治療者が道徳的に上位であるか否かによります。

同様に経験によって確かめられ、論理的に実証されているもう一つの真実は、厄払い、呪文、神聖な言葉、魔除け、お守り、外見上の儀式など、あらゆる物質的なしるしはまったく無力であるということです。

非常な長期にわたる憑依は病理学上の混乱の原因となり、同時に又は連続して、肉体機能の回復のため、磁気的または医学的に治療することが必要です。

原因が遠のいても、その結果を取り除く必要性がまだあるのです(『霊媒の書』第二十二章 憑依について、『レビュー・スピリテ』1864年2月号、1865年4月号 憑依の治療の実例)。


FEB版注1
 いくつかの聖書の翻訳では「私たちを誘惑に引き込まないでください」とありますが、その場合、誘惑というものが神からくるような意味にとらえられてしまい、神が自ら人類を悪へ引き込もうとするかのようになってしまいます。明らかにそれは神への冒涜であり、神とサタンとを同等にしていることになり、そうした祈りがイエスからでたものとは考えられません。しかし、一般的に信じられている悪魔の行為という考え方とは一致しています(『天国と地獄』第十章「悪魔」)

FEB版注2
使徒伝、第二章十八節ー「その時には、私の男女のしもべたちにも私の霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう」ーとヨエル書、第二章、二十九節ー「その日私はまた、わが霊をしもべ、はしためにそそぐ」ーを比較すると、新約聖書が書かれた時、預言という言葉の意味に違いが生じているのが分かります。すなわち、新約聖書においては、神のしもべではなく、人のしもべ(男女のしもべ)が預言をしていることが記されています。

 こうした意味における預言が、今日、私たちの間に見られるのです。なぜなら、霊媒性があらゆる階級の人々において見られ、使徒伝にあるような聖職者(神のしもべ)だけに神の通信が伝えられているのではないからです。ーFEB1947年


FEB版注3
『Reformador』Zeus Wantuil / Francisco Thiesen 第一巻 Ⅲ 百頁『Revue Spirite』(アラン・カルデック著1868)の記載参照。-FEB



  スピリティズムの教義の要約

「生まれ、死に、再び生まれ、さらに進化し続ける。それが法なのである」
ーアラン・カルデック

 スピリティズムの教義はこの言葉に要約されています。宇宙のあらゆる命の本質とは、物質的な存在ではなく、それに働きかける非物質的存在、すなわち霊的存在(霊魂)です。そして、その霊的存在とは永久不滅であり、永久に進歩し続けるのであるとスピリティズムでは考えます。

 私たち人間も、その法のもとに存在しています。つまり、私たちの命とは、何十年かに及ぶ肉体の寿命によって限定された存在ではなく、私たちの個を成している霊魂の命であり、それは肉体が滅んだ後も霊的世界に存在し、未来において再び新たな別の肉体を授かり、物質的世界に生まれてくるのです。

 この法により、スピリティズムは「死」の概念を終焉としてではなく、永遠の存在の中で私たちが経験する変化としてとらえ、私たちの霊的な目標を、死を超えた先に置くことを教えているのです。

 スピリティズムの教義において「人生は一度だけではない」のです。いま生きる私たちは、過去においていろいろな経験をすでにしており、また未来において別の経験をすることになります。

しかし、だからといって、いまの人生を軽んじていいのではなく、反対に、現世にはいまでしか経験できないことがあるため、特別な意味を持つことになるのです。自分の未来の目標のために、現世に最善を尽くす必要があるのです。

 こうした法が支配する宇宙には秩序があります。人類の科学は、その秩序の解明のために進歩し続けています。スピリティズムの教義は、その秩序のある宇宙を次のような原則によってとらえています。

➀神の存在ー神とは万物の第一の原因、至上の英知である。原因(神)なくして結果(宇宙とそこにある物質・非物質的存在)は存在しない。また神は完全なる正義、善である。

②霊魂の不滅ー神によって創られた霊魂とは非物質的存在である。知性、愛、自由意思を持っており、その個性は不滅である。個々の霊が分裂したり、複数の霊が一つの霊になったるすることはない。

③再生(リインカーネイション)ー霊魂は単純、無知に創られるが、自らの意志により、進歩しながら自分の運命を創っていく。霊魂は進歩するために、物質的世界に生まれて経験を積む必要があるが、それは一度だけでは不十分であり、幾度も繰り返す。

霊魂は同一でも別の肉体を受け、物質的世界に生まれてくることを再生(リインカーネション)と呼ぶ。

再生によって霊魂が遂げる進歩とは、知性的進歩と道徳的進歩である。私たちは普通、過去における人生の記憶をはっきり持ってはいない。これは、一時的に過去を忘れさせてくれている神の正義の結果であり、過去を忘れることによって、失敗を恐れず、新しい人生に挑むことができるのである。

④霊とのコミニュケーションの可能性ー霊とは、再生の合間に霊界に存在する肉体を失った人々であり、人間は、霊媒性と呼ばれる知的能力により相互にコミニュケーションをしたり、影響を与えたりすることが可能である。

 こうした原則をもとに私たちの人生を捕えると、世の中の見え方は違ってきます。「人はみな、幸せになるために生きている」──これは誰から教わらなくても信じていることです。しかしそれに反して、この世にこれほど多くの不幸が存在するのは、それぞれの人間の存在の目標が違っており、それがみな違った方向を向いているためにぶつかり合っているからではないでしょうか。

 スピリティズムの教義は、こうした人間に対して、その目標を据えるべき位置を、霊界からの働きかけによって示そうとしてくれるものなのです。幸せになることが私たちにとっての「救い」であるならば、スピリティズムは「慈善なしには救われません」と教えています。

つまり、何を信じるか、なにを崇めるかということが人を幸せにするのではなく、同じ目標に進歩しようとしている人間同士が、お互いに助け合い、手を取り合いながら生きる以外、幸せになる道はないのだということです。

 こうした意味で、スピリティズムの教義は人々に兄弟愛と平和、赦しを自らの行動によって示したイエスキリストの教えを受け継いでいます(→第一章 5-7)。イエス・キリストを教会の創始者としてではなく、人類の生き方の模範として位置づけ、そこに学ぶことによって、私たちの生き方を見つめ直す機会を与えてくれるのです。

 霊魂や霊媒性といった目に見えない世界を扱うために、モーゼの時代からそうであったように、人はそれを誤って用いる危険性を多くはらんでいます。しかし、スピリティズムの教義では、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい(マタイ第十章 8)」(→第二十六章)という教えによって、人と神との関わりにおいて、物質的な対価のやり取りはすべきでないとしています。




  家庭の福音を行いましょう
 たった一人で生まれてくる人はいません。人は、誰もが社会的にその他の人と関わり合って生きています。そして、それは簡単なことではなく、さまざまな困難を乗り越える必要があるということです。

 家庭とはそうした社会の最小単位です。そこは肉体的成長の基盤となるところですが、同時に霊的成長の基盤となるところでもあります。肉体のためにはみな食事をします。では、霊のためには何をしているでしょうか。

「家庭の福音」とは、家族が集まり、参加者が一緒に道徳を学ぶことによって、霊的な糧を受け取ろうとするための家族のミーティングです。本書を用い、次のように行えば、私たちの霊の成長、家族の平和、社会で人とうまくやって行くための力を得ることができるでしょう。

その家庭の信仰を捨てる必要はありません。家族全員で共通の道徳のよりどころを明確にすることで、さらに明るい光を家に灯すことができるでしょう。


 家庭の福音の行い方
1、週に一度、家族が集まれる日と時間を決めましょう。ミーティングは三十分から一時間程度です。参加したく無い人を無理やり誘っても逆効果です。それぞれの自由意思を尊重しましょう。

2、心を落ち着かせ、ミーティングを始めるにあたり、代表がその家族の信仰に応じて祈り、家庭の平和と善霊たちからの加護をお願いします。この時、参加者の人数分のコップを用意し、その中に飲用水を入れておきましょう。

3、『スピリティズムによる福音』を開きます。順序立てて読み進むのでも、気の向いたところを開くのでもかまいません。開いたところから、時間に応じて、何項目か声に出して読み上げます。

4、読んだ内容について、ミーティングに参加したメンバーは、それがどんなことを言っているのかを説明したり、思ったことを他の人たちに話したりします。日常生活での出来事にあてはめたり、疑問を投げかけたりするのでも結構です。他の人たちはそれについてコメントしてみましょう。

5、反対意見があっても、議論するのではなく、それぞれの視点を尊重し合いましょう。

6、一通りコメント終わったら、再び心を落ち着け、祈ります。神への感謝、善霊たちからの加護、家族のメンバーの健康や幸せ、世界中の不幸な人たちに幸せが訪れることなどをお願いします。(祈りについては→第二十八章)。また、2で用意した水の中に、天から光が注がれることをイメージし、霊的な力や薬がもたらされることをお願いします。

7、祈りが終わったら、感謝の気持ちとともにコップの水を飲みましょう。


 最初のうちはなかなか時間が守れなかったり、声を出して祈ることが照れくさかったりしますが、できるところから始めれば、やがてうまくいくようになります。説明するのが得意な人もいれば、不得意な人もいます。

子供でも大人が驚くほど、いい理解の仕方をする場合もあります。批判し合うのではなく、善い考え、健全な態度に触れる機会としましょう。

7シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓(四)

 Silver Birch Anthology Edited by William Naylor

七章  霊媒を励ます


    シルバーバーチの交霊会にはよく霊媒や心霊治療家が招待される。そしてシルバーバーチがその一人ひとりに称賛と激励の言葉を述べる。その中には霊媒現象の裏面に関わることなどが窺われて、同じ仕事に携わる人はもとより、一般の読者にも興味のある話題が豊富である。本章では三人の霊媒と心霊治療家の場合を紹介する。

(本章では前巻の Wisdom of Silver Birchでカットしておいたものを紹介する―訳者)



リリアン・ベイリー女史 Lilian Bailey

シルバーバーチ「あなたは人類の救済のために背後からあなたを使用している素晴らしい霊団が存在している事実を喜ぶべきです。あなたのお蔭でどれほどのことが成し遂げられているか、あなたご自身は(入神しているので)ご存知でありません。

意識が消えて、やがて意識が戻る───あなたにはただそれだけのことのように思えるでしょうけど、実際はその間に誰かの魂が目を覚まし、誰かの心の荷が軽減され、悲しみに暮れる人が慰めを受け、挫折した心が癒され、混乱した精神が安らぎを見出しております。 あなたに感謝の気持ちを抱いている人が長い列をなすほどいらっしゃいます。

私たち霊団としても、神から授かった才能を自分のことを忘れてひたすら人類のために捧げんとする霊媒の存在をどれほど誇りに思っているかを、何とかして言い表わしたいとじれったく思っているところです。 あなたは神の豊かな恩寵を受けられた方です。本当に豊かな恵みを受けておられます。

地上で大物とか大家と言いはやされている人たちより、あなたの方がはるかに立派な仕事をしておられます。残念ながら今のところ一握りの人によってしか活用されていない霊力をあなたは存分に活用しておられます。

それはどしどし活用されるべきものです。 迷信という名の闇を地上から一掃するために、その霊力をできるだけ多くの人間の魂の中で胎動させなければなりません。

それが私たち───あなたと私、そして他のすべての神の道具───が偏見と無知という名の霧とモヤを一掃し、真理という名の光が世界中に射し込むようにするために全身全霊を打ち込んでいる大事な仕事なのです。偉大な仕事です。あなたもその光栄ある仕事の一翼を担っておられるのです。

 私たち神の道具はひたすら前進あるのみです。その道程においてはしばしば落胆させられます。些細ないざこざにうんざりさせられることもしばしばです。歓迎されてよいはずの場でしばしば反撃に会います。

そこで、あなたより少しばかり先の見透しの利く私から申し上げましょう。どうか、そうした邪魔は相手になさらず、かつてあなたに閃いたビジョン(先見の明・理想像・悟り)にすがっていただきたい。そして、あなたの霊的能力を最善に、純粋に、そして最高に活用することのみに専念していただきたい。

それ以外のことは構わないことです。そうしておればきっと愛の恵みが届けられ、ご自分が使用されている能力は神がその発現の通路を求めて間断なく行使しておられる霊力に他ならないことを認識されることでしょう」

 ここでベイリー女史が感謝の言葉を述べかけると、シルバーバーチはそれを制して───

 「私は暗闇に呼ばわる声の一つにすぎません。私を地上へ派遣した高き神霊の仕事を推進せんとしているだけです。私もこれまでに易しい真理を少しばかり学んできて、それを形を変え、言いまわしを変えながら説いておりますが、同じ単純・素朴な真理であることに変わりはありません。 それを地上の方々が受け入れてくだされば、すべての難問が解決されるのですが・・・・・・」と述べてから「このサークルに参加されてどんな感想をお持ちですか」と尋ねた。



ベイリー女史 「素晴らしいと思います。全体にみなぎる力がとても感じが良いです。もっとも、私には少し強すぎるようです。私の意識から離れて作用しているみたいです。この意味お分かりいただければ有難いですが・・・」

 このサークルでも直接談話をはじめ数々の現象が行われており、それぞれに霊媒が揃っている。ベイリー女史は霊視力もあり霊感も鋭いので、その〝舞台裏〟が見えたのである。女史は続けて「このボリューウムあふれるエネルギー、迫りくるパワーは物質化現象に使われるものですね?」と述べた。

シルバーバーチ 「そうです。このサークルにいつも潜在しているものです。今日はそれがあなたの存在によって刺激されております」


ベイリー女史 「何人かのスピリットがそのエネルギーを部屋の中央へ運んで一つの固まりをこしらえているようです。珍しい光景ですね。次の機会にはもっとしっかりと確かめたいものです。どうやら声が出されるみたいです」

シルバーバーチ 「声の準備ですよ。いつも行われているものです。以前はそれを使って発声器官をこしらえていたのですが、戦争の影響で大気が混乱しているためにそれができなくなり、今のところ私の入神談話だけで間に合わせているのです」

ベイリー女史 「私が見たところでは大きな柱のようですね。白い柱です。コチコチに固いものではありません。そこから何本かの紐状のものが伸びてメンバーの一人ひとりとつながろうとしています。各メンバーから何かを摂取しようとしてるみたいです」

 そう述べてからその〝触手〟 を霊界の技師たちが操っている様子を細かく説明した。


シルバーバーチ 「地上の方々はこうした霊界の働きの現実を理解してくださらないのです。いつでも使用できる態勢になってるのです。あなたはその眼でご覧になったのですから、ぜひその事実を伝えて下さらないといけません」


ベイリー女史 「ときどき人間の探求は表面的すぎるという印象を抱くことがあります。ですからその背後に働く単純な現実を理解させるのが難しいのです」

シルバーバーチ 「おっしゃる通りです。しかし私たちの世界には、かつて地上で一見とても勝算はないと思えた逆境の中で、長いこと忠誠心に燃えて戦った古強者が沢山おります。彼らはその仕事が引き継がれ少しずつ成果が実っていくのを見守っております。

 私があなた方にひたすら前進なさいと申し上げるのはそのためです。あなた方はそれだけで(他のことは何も心配しないで)よろしい。霊的知識だけを広めることだけを考えておればよろしい。

理解力を広めるのです。思いやりの心を広めるのです。無知をなくすのです。光明へ向けて進むべき者を引き止めんとする勢力を打ち砕くのです。私たちが掲げる光明は決してささやかなものではありません。

なぜなら、いったん霊の力がいかに働きかけているかを知ったら、いったん死の扉を開くカギを手にしたら、いったん死の向こうに広がる生命躍如たる世界をご覧になったら、その時こそその人は霊的実在を理解し、神の永遠の計画の中における自分の位置を悟ることになるからです。

あなたはひたすらご自分の信じる道を突き進まれることです。後は私が力の限り鼓舞し援助します」


 W・H・リリー氏  W.H. Lilley
 A・リチャーズ氏  Arthur Richards

心霊治療家のリリー氏が同僚のリチャーズ氏を伴って出席したことがある。まずリリー氏が、二人でロンドンに心霊クリニックを設立しようとしているが偏見と無理解から来るさまざまな難問に遭遇している事情を説明してから、面接に出た役人が 〝この連中は一体何者なのか〟といった目つきで二人をじろじろ見つめ回した話をした。

 すると シルバーバーチが───
 
 「この連中はいったい何者か───このセリフは遠い昔にも言われたものです。霊力が一握りの男たちを鼓舞し真理普及のために自分を捨てて邁進させたのは二千年足らず前のことでした。

不変の摂理を啓示し、地上のいかなる力よりも偉大な力───人を導き霊感を注ぐことの出来る力、訓え諭すことの出来る力、病を癒し、傷つき衰弱した身体を回復させる力が存在することを身を持って証明しました。

すると人々は言いました───いったいこの者たちは何者かと。別に耳新しいセリフではありません。これから何度も何度も聞かされることでしょう。

 あなたがこうした光栄ある仕事に携われることになったのは神から才能を授かっておられるからこそです。使用するために授かったのです。私どもの世界から援助せんとする者と全面的に協調する姿勢を持ち続けるかぎり、その才能を行使することを妨げる力は地上にはありません。

問題や障害が立ちはだかっているとおっしゃいましたが、それは克服すべきものとして与えられているのです。ただし、その中にはあなたご自身が自ら招かれた問題もあることを忘れてはなりません。あなた自身が蒔いたタネもあるということです。

と申しますのは、あなたは(操り人形のように)ただ黙って言うなりになる道具ではないからです。(自由意志が尊重されているから過ちも犯しているということー訳者)ですが、背後にはいかなる困難の中をも導きとおす力を具えた霊団、永年の霊界での研鑽によってその能力を立証している霊団が控えております。

これまでも数多くの困難を克服し、数多くの悩みごとを解消してきております。いつか、これまでのあなたの辿って来られた人生を振り返りじっくりと見つめられれば、そこに霊による導きがあったことを明確にお認めになるはずです。

 あなたは心霊治療家です。病を癒す仕事です。それを阻止する力は誰にもありません───あなたご自身が拒否なされば別ですが。ぜひとも使用しなければならない力を授かっておられます。地上の力ではありません。はるか高級界から送られてくる力です。

 それは病に苦しむ数知れぬ人々に恩恵をもたらし祝福を与えることになりましょう。あなたに決意さえあれば、地上にはそれを阻止できる権力はありません。

問題はあなたの心のどこにも心配の念を宿らせないことです。これまで導いてくれた霊団が自分を見放すはずはないという断固たる信念を持たねばなりません。まだまだ越えねばならない険しい道があるからです。

まだまだ献身を必要とする仕事の場がたくさんあるからです。怖じ気づいてはなりません。かつてあなたがもう絶対にダメだと思ったことが霊の力によって克服されてきたように、これから先もきっとその力は凱旋を続け、あとで振り返った時、今のあなたには難問に思えることが他愛ない杞憂にすぎなかったことを知って、にっこりなさることでしょう。

 為さねばならない仕事があるのです。治療の手を必要とする人が大勢いるのです。悩める魂が大勢いるのです。怖(こわ)ごわ生きている人が大勢いるのです。

身体の異状と病に苦しんでいる人が大勢いるのです。あなたはそうした人々を救うことの出来る霊力を授かっている数少ない人間の一人です。いかに祝福された方であり、いかに素晴らしい能力を授かっている方であるか、あなたご自身の想像も及ばないほどです」


 続いてリチャーズ氏が、この交霊会に出席できたことを光栄に思うという挨拶をしたあと次のように述べた。

リチャーズ氏 「私はこれまで、あなたが毎週毎週お説きになっている訓えを忠実に信じておられる患者さんを大ぜい治療しております。そして私自身もあなたのお説きになる思想を細かく読み、それを道しるべとしてまいりました。

私の理解したところを言わせていただけば、あなたは神についての誤った観念を打ち砕き、それに代わって理知的な概念を説き、それを〝無色の大霊〟the Great White Spirit と呼ばれたり〝法則〟と呼ばれたりしております。

私にとって、あなたを始めとする霊団の方々は人間より高等な知的存在であり、したがって個的人格を具えた存在ですが 〝大霊〟 は非人格的存在であるように思えます。この私の理解の仕方はさらに深い理解への中途の段階にすぎないのでしょうか」

シルバーバーチ 「永い間地上を毒し続けてきた無知が私の力によって幾らかでも取り除かれたことを嬉しく思います。しかし、無知を無くしていく仕事はゆっくりとした、時間の要る仕事であることを忘れてはなりません。眼の見えなかった人に視力が戻る時はゆっくりと光に慣れさせていかねばなりません。

真っ暗闇からいきなり真昼の太陽の中に出せば逆に眼をひどく痛めてしまいます。そこで、ある意味で、〝教える〟立場にあるこの私は、教える相手の意識の程度に合わせて、叡智を噛みくだいてあげなければなりません。それは段階を経ながら徐々に行うしかありません。

地上にはこれまで余りにも誤りが多すぎました。間違った神々を信じてきました。あまりに永いあいだ叡智を拒絶してきたために、そのすべての誤りを正すには弛まぬ忍耐を持って臨むしかないのです。

 人格を具えた神の概念は、いつの時代にも個人はもとより民族・人種・国家にもそれを導く霊がいるという信仰にさかのぼります。つまり知識というものが今日ほど広がることのなかった時代にあっては、霊界から時おり姿を見せる指導者を畏怖の心を持って崇めたものです。そしてそれがいつの間にか神の座に祭り上げられていったのです。それだけのことなのです。

地球の歴史において、人類の痕跡のあるところには必ずそうした信仰があるといってよろしい。そして遠くさかのぼればさかのぼるほど、その信仰には神話と寓話がごたまぜになっております。

 さて、神とは法則です。私が思想や観念を述べるにはどうしても地上の言語を使用せざるを得ませんが、実はその言語そのものが障害となり、制約となり、限界となっているのです。

と申しますのは、観念を言語に移しかえる時、言いかえれば大なるものを小なるものに合わせようとする時、必然的に脱落する要素が沢山あるのです。ですから、私が述べたいと思っている思想や考えの符号またはシンボルとして言葉を使用しなければならない───それも往々にしてきわめてぎこちないものです───という事実そのものが、それを聞かれてあなた方が脳裏に画かれるものが必ずしも私が本当に述べたいと思っていることと同じではないことを意味します。お判りでしょうか」

 すると司会者のハンネン・スワッハーが意見を述べた。

スワッハー 「こう解釈してよろしいでしょうか。あなたはアメリカ・イディアンを霊界の霊媒として使用しておられるので、たとえば神のことをインディアンの古い用語である Great White spirit を使用することになる───このほうが国教会で使用されている God よりも自然の摂理の表現として確かに適切です」

シルバーバーチ「それがまさしく私の言わんとしていたことです。どうやらここで詳しく解説しておく必要がありそうですね。このインディアンは私の道具です。ですが、道具とはいえ(さきほど述べたとおり)これを使用している間はその個性によって条件づけられ、したがって私は私の言いたいことを表現する上で役に立つ要素を精一杯活用することになります。

たとえば大自然を支配する法則を私はアメリカ・インディアンの用語である〝大霊〟を使用しますが、それは一つには今なお残っている〝神は人間である───えらく威張った人間である〟とする観念、しかもむろん女性ではなく、自分の言うことを聞く者だけを可愛がりそして特権を与え、気に入らぬ者には腹を立て憎むことすらする男性であるとする、いわゆる神人同形同性説との相違をはっきりさせるためです。

 が、もう一つの理由として、それをどう表現しようと、その用語を超えた観念として私が何とかして明らかにしたい完璧な摂理の働き───あなた方や私の願望にはおかまいなしに働く法則、全宇宙を支配する法則、四季のめぐり潮の満ち引きを調節する法則、地上の生命の生長と活動と運動とリズムを管理している法則の観念があるのです。

その法則は全存在の行為の一つたりとも、言葉の一つたりとも、思念の一つたりとも、観念の一つたりとも見逃すことはありません。表に出る出ないに関わりなく、生活現象の全てを管理しています。その法則こそ私が最高の崇敬を捧げているものです。

それを大霊と呼ぼうと神と呼ぼうと、その他いかなる名称で呼ぼうと、その背後にある意味を理解してくだされば、それはどうでもよいことです。それが全存在をあらしめている力です。

その力なくしては生命は存在しえないのです。いかなる形態を取ろうと、その力なしには存在しえないのです。生命に存在を与えている根源的エネルギーなのです。それを神と呼ぶのも結構でしょう。大霊と呼ぶのも結構でしょう。全知全能の知的存在と呼ぶのも結構でしょう。しかし、いずれも、所詮は言葉にすぎません。

 私がそれを法則として説くのは、人間の意志ではどうしようもない絶対的な理法というものがあることを指摘したいからです。それを正しく認識すれば、そのワク内でお互いが協調的に生きることができ、それに背いて不和と仲違いと利己主義と貪欲と腐敗と戦争を生むことにならなくて済むはずです。

その摂理を理解しさえすれば、人生の図式が分かるようになり、進むべき方向と道しるべと目的が見えるようになります。そして同時にそれに自分を合わせていく方法も分かるようになります。なぜなら、自分も一個の霊、全生命の親である神の一部として、永遠の営みに参加できることを悟るようになるからです」


リリー氏 「病気はすべて治せるのでしょうか」

シルバーバーチ 「病気はすべて治せます。さらに言えば、正しい生き方をしておれば病気にはなりません。病気とは根源からいえば不調和、不協和音、つまり神の摂理に適った生活をしていないことから生じています。が、人類にはさまざまなタイプがあることを考えれば、病気にもさまざまなタイプがあるわけであり、それがさらに細かく変化していきつつあります。

したがって治療に使う霊力もそれぞれのタイプに合わせていく必要があります。あらゆるタイプの病気に効くたった一つのバイブレーションというものはありません。治療が成功するか否かは、それぞれの病気に合ったバイブレーションの霊力を見出せるか否かに掛かっております。

 しかし治療の不成功を単純に霊界側の責任、担当した専門の霊の責任、あるいは治療家の責任と決めつけることは出来ません。数え切れないほどの要素が絡んでいるからです。(訳者注ー別のところで百人の霊視家が見てもすべての要素を見究めることはできないと述べている)。

そこで治療家であるあなたにとって一ばん大切なことはこう考えることです───自分を使用する霊力と完全にそして完璧に一体となるためにはいかなる生き方をすべきか、ということです。言うまでもなくあなたと背後霊団との間にはさまざまな相違点があります。

それを一つでも少なくすることが、治療霊団にとって、一人ひとりの患者に適切なバイブレーションをあなたを通して注ぐことを容易にすることになります。

こちらの世界には莫大な種類の治療エネルギーがあり、かつて地上で病気治療に当たった者や科学者たちが弛まぬ研究を重ねております。しかし無数の治療エネルギーのうちのどれをどれだけ活用できるかは、ひとえに治療家に掛かっているのです。そこにあなたの役割があります。すなわち魂の成長と精神の啓発と身体の管理です」

リチャーズ氏 「心霊治療についての偏見を無くす必要もあると思います」
  
シルバーバーチ 「おっしゃる通りです。だからこそ私たちが援護射撃をしているのではありませんか。数年前でしたらあなた自身も私の言うことなどには耳を貸さなかったでしょう。

それが今はこうして熱心にお聞きになるということは、私たちの働きよって偏見を一つ減らすことができたということです。強烈な体験によって魂が目を覚まし、奉仕的精神を鼓舞された人を一人ずつ私たちの霊力の活動範囲の中に導いていくのです。

あなた方はお一人お一人が私たちの働きかけによる成果の生き証人なのです。そのつど一つの偏見が取り除かれたということです。それだけ私たちの仕事がラクになったということです。

まだまだ取り除くべき偏見が山のように立ちはだかっているという事実に、私どもは別に途方に暮れることはありません。それが私たちの仕事なのです。すなわち神の子がその魂の奥に秘めた霊性を発揮することによって生命の喜びを味わい、当然受けるべき神の遺産を存分に我がものとするように導いてあげることです。

 お二人もその役割を担っておられるのです。ひたすらお仕事に邁進なさることです。数々の困難に遭遇することでしょう。しかし背後に控える霊団がいかなる試練にも荒波にも支えになってくれます。首をうなだれてはなりません。

堂々と背筋を伸ばし、決して自分を見棄てるようなことをしない援助の手によって支えられていること、そして心の奥に芽生えた信念への忠誠心を失わず真摯な気持ちで奉仕し、神に召された今の仕事に良心的に仕えておれば、決して挫折することはないことを確信してください。

あなた方が一心に努力しておれば強力なる霊団が参加し、援助し、偉大な勝利へと導いてくれます。これから為し遂げていく仕事を大いなる期待を持って楽しみにするくらいの気構えが必要です。そしてそのお陰で数知れぬ人々が喜んでくれることを知ってください。

 人のために自分を役立てるということは大いなる特権です。その機会を与えられたことをお二人は誇りに思うべきです。それと同時に、私たちの世界から協力する者にも使命が託されていること、重大な使命、神からの使命が託されていること、そしてあなた方の方から見放さないかぎり決してあなた方を見放すことはないことを信じることです。

これまでも大いなる成果が上がっております。これからもさらに多くの仕事が成就されていくことでしょう」



 パリッシュ夫妻  Mr. and Mrs. Parish

イーストシーン治療所を滅多に離れることのない心霊治療家のパリッシュ氏が夫人を伴って出席した。この交霊会の長老格である。早朝から一六時間もぶっ通しで治療した後なのに、出席者の中でも一番元気そうに見える。シルバーバーチがこう語りかけた。

 「私はあなたとお話できる時はいつも楽しくてなりません。光栄にも私は現在の治療所で微力ながら毎日のように背後よりお手伝いさせていただいておりますが、こうして二人で人間らしく語り合えば、ほかの方々はまた別の意味でよろこばれます。

お二人の献身的なお仕事によって霊の力が着々と広がり、多くの魂が感動して目を覚まし、暗黒の中にいる人々が光を見出していることを私たち霊界の者がどれほどうれしく思い、世界中の人々が(遠隔治療を)どれほど有難く思っているかを知っていただきたいと思います。

 今ではあなた方を通して真理と悟りの光を見出した人が世界のほとんどの国におられます。あなたのこれまでの人生、そして今なお続けておられる毎日の献身的活躍によって巨大な奉仕の金字塔が築かれております。

憶えておいででしょうが、何年か前に初めてお会いした時、私はあなたにこれから後のお仕事の発展ぶり、どういう具合に世界の隅々まで広がり、いかに多くの人々が祝福を受けに来ることになるかを申し上げました。

すべての人が治るとは限りません。それぞれに地上との縁の切れ時(寿命)というものがあります。が、たとえすべての人の病気を治してあげられなくても、わずかな光明、暗闇の中に一条の光を見出させてあげていることを知ってください。

前にも一度申し上げたことがありますが、病気を治してあげることは確かに大切ですが、もっと大切なことは魂を目覚めさせること───真の自分を見出し、自分を見出すことによって生命の大霊であるところの神とのつながりをより緊密にしてあげることです。

 私たち霊界側でも絶え間なく活躍しております。あなた方に協力している高級霊団、あなた方を地上への働きかけの道具としている霊団では常に新しい霊波の研究をしており、また、あなた方が徐々に体験しておられる精神統一における意識の深まりが、治療エネルギーをより多く地上へ注ぎ込む可能性を大きくしてくれております。

治療に入る前にあなた方が背後霊団との完全な連繋態勢と調和を得るために行っておられる心掛けと工夫もその一環となっております。

どういうことかと言えば、精神統一が深まりあなたという個的存在が消滅する直前においての治癒エネルギーとの融合が完全に近づけば近づくほど、そのエネルギーの威力がより多くあなたの身体を通して流れるからです。それは治療所における直接治療の場合でも、世界各地への遠隔治療の場合でも同じです。

(訳者注ー私の師である間部詮敦氏が予言について語ったところによると、精神統一を深めていくと次から次へといろんな情報が飛び込んでくる。が、それにすぐに飛びついてはいけない。どんどん統一が深まっていき、もうすこしで意識が消えるというギリギリのところまで行った時に閃いたものが一番信頼できるということだった。

ある時は地震を何時何分何秒まで正確に当てたことがある。シルバーバーチが別のところで、霊媒の霊格が向上するほど程度の高い叡智を授かるようになると述べているが、これは言いかえれば精神統一の深さの程度のことであり、波長が高くなるということであろう)

 そうは言うものの、時にはうんざりなさることもありましょう。無意味に思えることもあることでしょう。しかしそれも詮ずるところ厳然たる計画と目的を持った仕事の一環です。あなたはそのための道具です。ただ一人で悟りへ向けて、孤独な道、犠牲の道を徐々に手引きされております。

かつても申し上げたことをあるのを覚えておいででしょうが、その道は行くほどに見慣れた景色を一つひとつ後にしていかねばならない寂しい道です。しかしそれしか道がないのです。みずから魂を高揚しなければなりません。高き憧憬を抱き続けねばなりません。

魂の受容性を高めねばなりません。内的意識を拡大していかねばなりません。しかし、それが順調にいくだけ、それだけ多く霊界からの生命力が流れ込むことになるのです。

 あなたとともに大ぜいのスピリットが働いております。地上で医者だった者、病気治療の専門家だった者はもとよりのこと、こちらで永い永い年月にわたって研究を重ね、各種の治癒エネルギーを扱って人間の霊的身体への影響を調べているスピリットもいます。

 ご承知のとおり私たちの世界は決して終局の世界ではありません。すべてのことが分かる世界ではありません。すべてが成就されてしまって、もう何もすることがないという世界ではありません。

私達も実験・研究が必要なのです。が、治療家としてふさわしい身体を持ち、人のためにという願望一つに燃え、大方の人間が追い求めるチャチな物的ぜいたくには目をくれず、ただひたすら魂と精神と身体を完全にマスターするための修行の道に勤む人間がいないことには、私たちとの協力関係も完璧は期しがたいのです。

その修養は一種の霊的浄化の過程です。純金が姿を現わすためには不純物を取り除かねばなりません。あなたも人間である以上、多少の不純物はかならずあります。しかし、あなた方はいま正道を歩んでおられます。そして、それは偉大なことと言うべきです」

 パリッシュ夫人も治療能力を持っておられ、シルバーバーチがその養成についての助言を与えた。夫人も霊の道具として活躍できることのよろこびを語った。

夫妻は霊媒として大望を抱く者にとって一つの模範である。といって、二人の治療がすべて奇跡的な効果を上げているわけではない。シルバーバーチも言っているように〝困難があり、失敗があり、そして心を大いに痛めることもある〟が、それでもお二人は尚も前向きの姿勢を失わない。

 二時間に及んだその日の交霊会の最後に、シルバーバーチはサークル全員にこう励ました。

 「決して弱気になってはいけません。堂々と胸を張り、宇宙の全生命を創造した力、夜空にきらめく星空を支えている力、花に香を添え、太陽を昇らせそして沈ませる力、虹にあの美しい色彩を施し小鳥にあの可憐なさえずりを与えた力、全生命に存在価値を与え、人間に神性を賦与した力、その力がいつもあなた方を支え、守り、そして導いていることを忘れてはなりません」

              
 

Sunday, October 26, 2025

シアトルの秋  「スピリティズムによる福音」     アラン・カルデック著

The Gospel According to Spiritism: Allan Kardec (Author),
第二十七章 求めなさい、そうすれば与えられます  

祈りの条件

一、また、祈る時には、偽善者たちのように祈ってはいけません。彼らは人に見られたくて教会や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。誠に言います。彼らはすでに自分の報いを受け取っています。しかし、あなたたちは、祈る時には自分の寝室に入りなさい。

そして、戸を閉め、隠れたところにおいでになる、あなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いを見ておられるあなたの父は、あなたに報いてくださるでしょう。

又、祈る時には異邦人のように言葉を多く唱えてはなりません。彼らは言葉を多く唱えれば聞き入れられるものと思って居るのです。だから、彼らのようにしてはいけません。あなたたちの父なる神は、あなたたちがお願いをするより先に、あなたたちに必要なものを知っておられるのです。(マタイ第六章 5―8)


二、また、立って祈る時、心の中に誰かに対する恨みを持っているなら、その者を赦してあげなさい。そうすれば天におられるあなたたちの父も、あなたたちの罪を赦してくださるでしょう。もし、あなたたちが赦さないのであれば、あなたの父も、あなたたちの罪を赦してくださらないでしょう。(マルコ第十一章 25,26)


三、自分を正しいと自ら認め、他の人々を見下している者たちに対し、このような例えをお話しになった。

「二人の人が、祈るために宮に上った。一人はファリサイ人で、もう一人は徴税官であった。ファリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私は他の人々のように貪欲な者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のような人間ではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるもの全ての十分の一を捧げております』

ところが、徴税官は遠く離れてたち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて言った、『神様。こんな罪人の私を憐れんでください』。

誠に言います。神に正しい者と認められて家に帰ったのはこの徴税官であって、ファリサイ人ではありませんでした。なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(ルカ 第18章 9-14)


四、祈りの条件は、イエスによって明確に示されています。イエスは言いました。「祈る時には自分の寝室に入りなさい。そして、戸を締め、隠れたところにおいでになる、あなたの父に祈りなさい」と。たくさん祈っているふりをしてはなりません。

なぜなら、祈りの言葉の数ではなく、祈る人の誠意によって祈りは伝わるからです。誰かに対し、何か一つでも敵対の気持ちがあるのであれば、祈る前にその人を赦してあげなければなりません。なぜなら、慈善に反する感情の一切を捨てて、清い心を持って祈るのでなければ、その祈りが気持ちよく神に伝わるわけがないからです。

「徴税官」のような謙虚な気持ちで祈りなさい。「ファリサイ人」のような虚栄心をもって祈ってはいけません。見るべきものはあなたたちの短所であり、長所を見てはなりません。もし、他人と比較するのであれば、あなた自身に存在する悪を探しなさい。(→第十章 7、8)


 祈りの効果
五、「だから誠に言います。求めるものがなんであろうと、祈って求める時には、もうそれが叶えられたものだと信じなさい。そうすれば、その通りになるでしょう」(マルコ 第十一章 24)


六、神が私たちの必要としていることをすべて知っているのであれば、私たちはそれを神に対して言い直すまでもないと、祈りの効果を否定する人がいます。また、宇宙の全てが永遠の法則によって動いているのであれば、私たちの願いで神の意向を変えることはできないと言います。

一人一人の気まぐれに応じて神が取り消したりするようなことが出来ない不変の自然の法則は、間違いなく存在します。しかし、だからと言って、人生の全ての状況下で、運命にただ身を任せなければならないと信じるのは大きな間違いです。

もしそうなのであれば、人類は単に受動的な存在でしかありえず、自由意志も自発性も持つことができなくなります。運命のもたらす出来事の前に、人はただ頭を下げるだけでしかなくなってしまいます。

そうした出来事を避けようともせず、危機から遠ざかろうともせずに、神は、使いもしない理解力と知性を私たちに与えてくれたのではありません。

欲しがらぬように欲求を与えてくれたのではありません。何もしないように行動力を与えてくれたのではありません。人は、自由に行動できるからこそ、その人の下した決定に応じた結果を、その人自身も。また他の人も、得ることが出来るのです。

その人の自発性によって運命から取り除くことのできる出来事というものが存在するのです。しかし、だからと言って、それは宇宙の法則の調和を崩すということではありません。言うならば、時計の差す針が遅れていようが進んでいようが、針を動かす時計の仕組みに変わりはないのと同じことです。

つまり神は、全体を支配する法則の不変性を取り消すことなく、意志に応じてある程度の願いを聞き入れてくれることがあるのです。


七、「求めなさい。そうすれば与えられるでしょう」と言う金言を、得るためには求めるだけでよいのだと解釈してしまっては不合理ですし、求めたものをすべて得ることが出来なかったといって神を非難するのも不当です。

なぜなら、神は私たちにとって何が相応しいのかを、私たちよりもよく知っているからです。それは常識のある父親が、自分の子供にとって不利益となるものは断るのと同じことです。

一般に人には現在しか目に入りません。しかし、もし苦しむことが、ある人にとって幸せな将来をもたらすのであれば、神は、外科医が病気を治すために手術を病人に受けさせるのと同じように、その人に苦労させるでしょう。

神を信じ、求めるのであれば、神は勇気、辛抱、甘受の気持ちを与えてくれます。更に与えてくれるものは、善霊たちからの暗示から導き出される、苦労から解放されるための手段であり、後はそれを本人が実行すれば、その暗示の真価を知ることができます。

「あなた自身を助けなさい。そうすれば天があなたを助けてくれます」と言う金言のように、神は自分自身を助ける者を補助してくれるのです。自分の能力を使わず、何もせずに他人任せの助けを求め、全てを待つものを助けるのではありません(→第25章 1とそれに続く項)。


八、例をあげてみましょう。ある人が砂漠で迷っているとします。ひどく喉が渇き苦しんでいるとします。衰弱し、地面に倒れてしまうとします。その人は祈り、神の助けを求めますが、どんな天の使いも飲み物を持って来てくれるわけではありません。

しかし、善霊は、ある一定の方向へ向かって進むという考えを暗示します。すると本能的な衝動によって、その人は全身の力を込めて起き上がり、思いついた方向へ向かって進み出します。

ある高台に辿り着き、遠くに小川が流れているのを発見して、それによって勇気を得るのです。信仰のある者であれば、「神様、よい考えを私にひらめかせてくれて、ありがとうございました」と言うでしょう。神を信じないものであれば「私は何と素晴らしい考えを持っていたのだろう。

左を選ばず、右の道を選び、私は何と運が良かったのだろう。思い付きも実際役に立つものだ。倒れてしまわなかった自分の勇気がうれしい」と言うでしょう。

では、なぜ善霊ははっきりと、「この道を進みなさい、そうすればあなたの必要としているものが見つかります」と言わなかったのかという疑問が残ります。何故、その人が衰弱していた時、その人を導き助けるために、その善霊は姿を現さなかったのでしょうか。

そうしていれば、神による干渉というものを理解させることができていたはずです。それはまず、自分自身の力で自分を助けなければいけないということを教えるためです。次に、はっきりと示さないことによって、その人の信心を試し、その人の意志に従うためです。

神はその人を、転んだ時、誰かが見ていれば泣き叫んで起こしてもらうのを待ち、誰も見ていなければ自分で努力して立ち上がる子供のような状況に置いたのです。

もしトピアスの旅の供をして彼を守っていた天の使いが、「あなたを旅の間守り、全ての危険から保護するよう、神によって送られてきました」と旅の出発前に言っていたとすれば、トピアスにとって何の価値もなかったでしょう。だから、その天の使いは旅から戻ってきた後に初めてその存在を現したのです。  

         
祈ること──思考の伝達  
九、祈るということは神や霊の加護を求めることです。祈りによって私たちは、私たちを指導してくれている者と精神的に関係を結ぶことができます。祈ることの目的には、願い、感謝、または賛美があります。私たち自身のためにも、また他人のためにも祈ることが出来ます。

生きている者のためにも、また、死んだ者のためにも祈ることが出来ます。神への祈りは、神意にもとづいて行動する善霊たちに伝わります。善霊に伝わった祈りは、神にも伝わります。

神以外の者に向かって祈る時、それらの者は単なる仲介者としての役割を果たします。何故なら、何事も神の意思なしには生じないからです。


十、スピリティズムは、私たちが祈る相手が私たちの訴えに応えてくれる時も、祈る相手に私たちの考えが伝わる時も、どうやって思考の伝達がなされるのかを教えてくれています。

このことは、祈ることに対する私たちの理解を深めてくれます。祈ることによって何が起きるのかを理解するためには、空間を埋め尽くす宇宙フルイドの中にある、生きている者、死んでいる者のすべての存在を思い浮かべる必要があります。

空間を埋め尽くす宇宙フルイドは、地球上の空間を大気が包み、埋め尽くしているような状態にあります。宇宙フルイドは、意志によって衝撃を与えられると、空気が音を伝達するように思考の伝達の媒体となります。

但し、その違いは、空気の振動は制限されたものであるのに対し、宇宙フルイドの振動は無限に広がるということです。

ある思考が、地上の人間や、宇宙に存在する何者かに伝わる時、または、生きた者から死んだ者に伝わる時、あるいはその反対の場合に、空気が音を伝達するように、宇宙フルイドは連鎖状態となって思考を伝えるのです。
この連鎖状態のエネルギーは、思考と意志の強さに直接関係があります。これによって、霊がどこにいたとしても祈りは伝わります。

また、霊たちはお互いに交信し合うのです。同じような方法で、霊たちは私たちにインスピレーションを伝えてくれるのです。また、私たち人間も、これによって遠隔地同士で連絡を取り合うのです。

この説明を、祈りを単なる神秘ととらえ、その効力を理解しない人たちのために送ります。しかし、祈りを物体化するためではありません。ただ、祈りの効力というものをより理解しやすくするためのもので、祈りが直接的に、積極的に物事に働きかける力があるということを知るためなのです。

しかし、だからといって、祈りの効力と神の意志が関係ないわけではありません。神は万物に対する最高の正義です。祈りを有効なものとすることができる唯一の存在であるのです。 


十一、祈りによって人は善霊を引きつけます。善霊は、人が良い決断をするように助けるため、良い考えを閃かせてくれます。それによって、人は困難を乗り越えるのに必要な道徳的な力を受け、正しい道から外れている場合には、正しい道に戻されます。

また、過った行動がひきつける悪い考えから、自分を遠ざけようとする意思を与えてくれます。何かの過剰な摂取によって健康を悪化させた人がいたとします。死ぬ直前まで過剰な摂取を改めることなく、健康状態が悪いまま苦しい人生を続けたとします。

この人は自分の健康が回復できなかったことに関して、神に対する不満を訴える権利があるでしょうか。ありません。なぜなら、祈りによって誘惑に耐える力は得ようとすれば得ることがが出来ていた筈だからです。


十二、もし、人生の中で出遭う不幸を二つに分類するならば、一つは、人間にとって避けることのできないもので、もう一つは、その人自身の不注意や不品行によって起きる苦労からくるもの(→第五章 4)ですが、一般に後者の方がずっと多いことが分かります。

人間自身がその苦しみを自らつくっているということは明らかであり、したがって、常に知恵と慎重さをもって生きることが出来れば、苦しみを軽減することが可能であるということが分かります。

こうした不幸が、私たちが神の法に違反することから生まれるというのは確かであり、もしこの神の法を厳重に守ることができれば、私たちは完全に幸福になれるということも明らかです。

私たちが生命を維持するために最低限必要なものを満たしたことに飽きたらず、必要限度を超えて何かを摂取してしまうようなことが無ければ、摂取過剰によって引き起こされる病に罹ったり、その病がもたらす苦しみに悩まされることは無いでしょう。私たちの野心を抑えることが出来れば、没落する恐怖を味わうこともありません。

私たちの能力以上に向上することを望まなければ、落ちぶれることを心配する必要はありません。もし謙虚でいることが出来れば、プライドを傷つけられて失望をすることはありません。

慈善に身を捧げることが出来れば、不満、不服、妬み、嫉妬を感じることもなく、けんかや別れを防ぐことができます。誰に対しても悪いことをしないでいることが出来るのであれば、人に恨まれる心配をする必要はありません。


 さて、もう一方の苦しみに対しては、人間は何もすることが出来ず、どのような祈りもそこから解放されるためには役に立たないと考えることができます。しかし、そうであったとしても、自分自身に起因する苦しみの全てを避けることが出来るのであれば、それだけでも十分ではないでしょうか。

そうした場合には、祈ることは何であるのか、容易に理解することができます。祈ることの目的は善霊たちの道徳的なインスピレーションを引きつけることであり、また行動に移せば私たちにとって致命的となり得る悪い考えに抵抗するのに必要な力を得ることなのです。

そうした目的が果たされるように、善霊たちは苦しみを私たちから遠ざけてくれるのではなく、苦しみを生じさせるような悪い考えから私たちを遠ざけてくれるのです。善霊たちは、神の意向を妨げることはありません。自然の法則の流れを遮ることはありません。

反対に私たちの自由意志を指導しながら、私たちが神の法を破ることを禁じるのです。しかし、私たちが気付かぬ間に、目には見えない形で、私たちが苦しみを避けようとする意欲を失わないように、それを行います。

その時人間は、良い忠告を求め、それを実行しようとする姿勢にありますが、同時にその忠告に従うか否かを選択する自由を有しています。

神はそのように、人間がその行動に対する責任を持つことを望み、善か悪かの選択をした後、それによって得たものの真価がその人に理解されることを望んでいます。祈りの結果は、人間が熱烈に求めた時には、いつも得ることが出来るのです。つまり、「求めなさい。そうすれば与えられるでしょう」という言葉がそこに当てはまるのです。


 祈りの効果と言うものが、私たちを悪い考えから遠ざけてくれることだけに限られていたとしても、非常に大きな効果をもたらすことになるのではないでしょうか。

物質世界と霊の世界の関係を明らかにすることによって祈りの効果を証明することは、スピリティズムに課せられた役割です。しかし、実際の祈りの効果は私たちを悪い考えから遠ざけてくれるだけではありません。

祈りはすべての霊によって勧められています。祈りを放棄することは、神の好意を無視することです。神の加護を自分から拒むことであり、また、他人に対して行うことのできる善い行いを拒むということです。


十三、 神は、神に向かって祈る者に応える時、多くの場合、祈る者の意向、献身、信仰に報いることを望みます。だからこそ、善い人の祈りの方が神の目にはより値打ちがあるものに映り、その祈りはより強い効力を持つのです。

なぜならば、悪意を持つよこしまな者は、本当に信心深い者だけが感じることが出来る信頼と熱意をもって祈ることはできないからです。

自己中心的で、口先だけの祈りを唱える者からは、単なる言葉しか出て来ず、祈りに力をもたらす慈善の気持ちが生まれてくることはありません。

ですから、私たちが誰かに祈ってもらうとすれば、神を喜ばすことのできそうな行いの善い人に本能的に頼むだろうということは明らかです。なぜなら、そうした祈りの方が神には良く聞き入れてもらえるからです。


十四、祈りとは一種の磁気的な力の働きなので、その効力はその人の持つフルイドの力によって変化すると仮定することが出来るかも知れません。しかし、そうではありません。霊たちは人間の祈りに応える時、その祈る者にとって不足しているものを必要に応じて補うのです。

それはそのようにすることがその人にとって有益であり、そうした恵みを受けるに値すると判断された時であって、霊たちはその人に代って直接的に働きかけたり、一時的に特別な力を与えたりするのです。

 健全な影響を他人に与えるにはまだ自分の善さは不十分だと考える者は、どうせ聞いてもらえないだろうと考えて、他人のために祈ることを忘れてしまうようなことになってはいけません。自分の劣等を自覚することは謙虚であることの証拠であり、それはいつも神を喜ばせることになります。

そして神は何時もそうする者の慈善的な志を汲んでくれます。神に寄せる信頼と熱意は、善へ向かうための第一歩です。

そして善霊たちも、喜んでそのような方向へ私たちを向けようとするのです。自分の権力や価値しか信じることができず、それが永遠の神の意志を超えるものだと考えるプライドの高い者の祈りは、拒絶されます。


十五、祈りの力とは、思考の中にあるもので、祈りに使う言葉、祈る場所、祈る時間とは全く関係がありません。ですから、いつでも、どこでも、一人でも、また大勢でも祈ることができます。場所と時間は、単に黙想するための環境に影響を与えるものです。

どんな祈りも、祈るすべての者が、同じ目的で同じ考えを持ち、心を一つにした時、より強い力を持つことになります。そうすることは、ユニゾンで声をそろえて歌うようなものだからです。

しかし、一人一人が個別にその人自身だけのために祈るのであれば、大勢で集まることがどれほど重要であり得ましょうか。百人集まって、それぞれが利己的に祈る一方で、二、三人が息を合わせて真なる神の子の兄弟の様に祈れば、その祈りは百人の祈りよりもずっと強いものとなるでしょう(第二十八章 4,5)。


 理解できる祈り
十六、もし、言葉の意味を理解していないのであれば、語っている人にとって私は異国人であり、語っている人も私にとっては異国人です。

 もし、私が誰も知らない言葉で祈るのであれば、私の霊は祈っていることになりますが、私の知性は実を結びません。

 あなたが、あなたの霊において神を賛美しても、あなたの言っていることがわからないのであれば、初心者の席にいる人たちは、どうしてあなたの感謝の言葉に合わせ、「アーメン(そうでありますように)」と言うことができるでしょうか。あなたの感謝は伝わりますが、他の人の徳を高めることにはなりません。(第一コリント 第十四章 11,14,16,17)


十七、祈りは、その祈りを形成している考えによってのみその価値が決まります。理解できない考えに意を傾けることはできません。なぜなら、理解できない考えというのは心に響かないものだからです。

多くの人が捧げる、理解していない言葉による祈りというのは、霊には何も訴えることのない、ただの言葉の羅列に過ぎないのです。祈りが心に響くには、一つ一つの言葉がある考えを映し出していなければなりません。

もし、一つ一つの言葉を理解できないのであれば、どんな考えをも映し出すことはできません。祈ることの利点が単に繰り返しの回数に比例すると考え、簡単なきまり文句のように何度も唱え返す人がいます。多くの人は義務として祈ります。

また、単に習慣として祈る人もいます。決められた順番で何回か祈りを繰り返すことによって、義務から逃れることができると考えるからです。しかし、

神は人の心の底を読み、私たちの思考や誠意を知るのです。それゆえ、神が祈りの根底にある意味よりも、祈りの形にこだわると考えることは、神を卑しめることになるのです。(→第二十八章 2)


 死者や苦しむ霊たちへの祈りについて
十八、苦しむ霊たちは祈りを求めますが、それは祈りが彼らにとってとても有益なものだからです。なぜなら、彼らは思いだされることにより、自分が忘れ去られた存在ではないことを知り、その悲しみも軽くなるからです。

しかし、祈りはその他にもっと直接的にも働きかけます。彼らに再び勇気を与え、反省と改心によって気持ちを高めようとする意志を刺激し、悪い考えから遠ざけるのです。

祈りによって彼らの苦しみを軽くするだけでなく、短縮することができるのです。(→『天国と地獄』第二部 例)


十九、ある人は死者への祈りを否定します。なぜなら、魂には、永遠に救われるか、永遠に罰せられるかのいずれかの選択しか与えられないと信じているからです。そうなのであれば、救われようが、罰せられようが、祈りは役に立たないことになります。

こう信じることの価値は別として、避けることのできない永遠の罰というものが実際に存在し、それは私たちの祈りでは中断させることができないものであると、少しの間仮定して考えてみましょう。

では、だからと言って、罰せられる者への祈りを拒絶するのは正しく、慈悲深いことでしょうか。それがキリストの教えに則っているのでしょうか。死者への祈りは死者を自由にするには至らないかもしれませんが、それは彼らに対する憐れみの表現となり、彼らの苦しみを和らげるものではないでしょうか。

地上である人が終身刑に処された時、その囚人には減刑の可能性はなかったとしても、その人の背負う拘束の重荷を軽く感じることができるようにと、慈悲深い人がその囚人を助けてあげようとすることが禁止されていますか。

誰かが不治の病に犯された時、治る見込みがないからと言って、その人を助けることなく、見放すべきなのでしょうか。罰せられる者の中に、あなたにとってとても大切だった人がいるかもしれません。友人、父親、母親、息子だった人が。

それなのに、彼らが赦されることはないと信じているからと言って彼らののどの渇きを癒すコップ一杯の水をあげることも拒否するのですか。彼らの傷口を癒す薬を塗ってあげることを拒否するのですか。

親愛なる者の為に、囚人にしてあげられるのと同じことをしてあげようとは思いませんか。彼らに愛の証と慰めを与えないのですか。それではキリストの教えに則っているとは言えません。心を固くしてしまう信念は、何よりもまず隣人を愛せよと教える神への信仰と調和することができません。

 永遠の罰を否定するからと言って、一時的な罰を否定するわけではありません。なぜなら、神はその正義によって善と悪を間違えるわけはないからです。

しかし、罰に処されているからと言って祈りの効力を否定することは、慰めや良い忠告、励ましの力を否定することです。そして、それは私たちを愛してくれている人たちからの道徳的な救済によって得ることができる力をも否定するのと同じです。


二十、神の意向の不変性といった、もっと特殊な理由をあげることによって死者への祈りを否定する人もいます。神はすでに決めてしまったことを人間の願いに応じて変えることはできず、さもなければ世界は何一つ安定することがない、と彼らは言います。

したがって、人間は神に服従し賛美する義務はあるが、神に願う必要はないと考えるのです。

 この考え方には、神の法の不変性の解釈に誤りがあります。言うならば、その人は未来における罰を示す神の法を全く知らないのです。

今日、人間は十分に成熟し、その信仰によって、なにが神の善良に属し、なにが属さないかを理解できるようになりました。そこで、この神の法が、神意に従って行動する善霊たちによって示されたのです。

 罰の絶対性と永遠性を教える教義によると、後悔の念も、悔恨も念も、罰を受ける者にとって有益ではありません。罰を受ける者にとって、いかなる向上の意欲も無益だということになります。彼は永遠に悪にとどまることを強いられるのです。

しかし、もし決められた期間だけ罰に処されたのであれば、刑期の終わりが来ればその刑は終了します。しかし、その時、罰せられた者が改心することができたと誰が断言できるでしょうか。

地上で罰を受ける者の多くの例が示すように、刑務所から出てからも、以前と同じように悪くなることはないでしょうか。罰が永遠であるという考え方の場合であれば、向上し善くなった人でさえも罰の苦しみのもとに置かれることになります。

罰が特定の期間だけ与えられるという考えの場合であれば、罪を負い続けながらも自由を得た者が得をすることになります。

神の法とは、より深い配慮にもとづいた摂理です。常に公平であり、平等で、慈悲深いものです。どのような罰であれ、その期間を決められることはありません。神の法は次のように要約することができます。


二十一、 「人は常に自分で犯した失敗の結果に苦しみます。罰を受けることの無い神の法の違反は存在しません」「罰の厳しさは、違反の度合いによって決まります」

「どのような罰であれ、その長さは決まってはいません。それは罰せられる者の反省と改善する意欲次第だからです。だから、悪に執着すればするほど罰は長引きます。頑固である間は、罰に終わりはありません。すぐに反省するのであれば罰は短いものとなるでしょう」
 
「罰を受ける者が慈悲を求めれば、神はそれを聞き入れ、希望を与えてくれます。しかし、ただ後悔するだけでは足りません。過ちを正すことが必要です。

そのため、罰を受ける者は新たな試練の中に身を置き、その中で、自分自身の意志によって自分が過去に犯した過ちを正すために、善行に励むことになるのです」

「人間はこのように、自分で自分の運命を決めているのです。与えられた罰を短縮することも、不定の期間長引かすことも出来るのです。人間の幸、不幸は、善を行おうとする意志にかかっているのです」

 これが神の法なのです。神の善良と正義による、不変の法です。罪を負った不幸な霊も、このように自分自身を救うことが出来るのです。神の法はどのような条件のもとでそうすることが可能なのかを教えてくれています。不足しているものは向上するための意志、気力、勇気でしかありません。

 もし祈りによってこの意志を感じさせ、加護を与え、勇気づけることが出来るのであれば。もし、私たちの忠告によって、彼らに不足している光を与えることができるのであれば、神にその法の撤廃を願うのではなく、自らその愛と慈善の法の実践手段となろうではありませんか。

神が認めているように、そうすることによって、私たちはその法に参加することができ、私たち自身の慈善の証を示すことが出来るのです。(『天国と地獄』第一部 4,7,8章)





    霊たちからの指導
      
   祈り方
二十二、眠りから目覚め、日々の暮らしに戻った時、すべての人が第一番に思いださねばならないのが祈りです。ほとんどの人が祈るでしょう。しかし本当に祈り方を知っている者は何と少ないことでしょうか。

他の義務がそうであるように、祈りを義務として負担に感じ、反復することに慣れてしまい、ただ機械的につなぎ合わされて、発音されるだけの言葉が、神にとってどんな意味があるでしょうか。

キリスト教徒はどの宗派であったとしても、特にスピリティズムを勉強する者の場合は、霊が肉体に戻った時には祈らなければいけません。謙虚な気持ちで偉大なる神の足元まで気持ちを引き上げ、同時に今日まで授かったすべての恩恵に対し、深い感謝の気持ちを抱かなければなりません。

また、あなたたちは覚えていなくても、新たな力と辛抱を得るために、親しい友達や、私たちを守ってくれている人たちに、昨夜あなたの眠りの中で再会させてくれたことを感謝しなければなりません。

神の足もとに謙虚な気持ちで身を寄せ、自らの弱さを感じ、神の支え、赦免、慈悲を授かるよう懇願しましょう。その気持ちは心の底からのものでなければなりません。あなたは、その魂を神のもとに通じさせ、愛と希望に白く光を放つまで、タボール山でその姿を変えたイエスのように、祈らなければならないのです。

あなたたちは、あなたたちにとって本当に必要な神の恵みだけを祈りの中でお願いしなければなりません。あなたたちに与えられた試練を乗り越えるための近道や、喜びや、富を神にお願いしても無意味です。

それらをお願いする前に、より大切な辛抱、忍耐、信仰の心をお願いして下さい。あなたたちの多くが口にするように、「神は願いを叶えてくれないのだから祈ってもしょうがない」などと言わないことです。あなたたちは神にいつも何をお願いしていますか。

あなたたち自身の道徳的な改善を何回お願いしたか憶えていますか。何と少ないのでしょうか。

あなたたちが最も多くお願いすることは地上での生活や事業において成功するということばかりで、後になれば「神は私たちのことなどかまってくれない。かまってくれるのであれば、こんな不公平な世界の中であるはずがない」などと叫ぶでしょう。

あなたたちは愚かな恩知らずです。あなたたちの良心の奥深く探ってみれば、ほとんどの場合、愚痴のもととなっている不平の原因を見つけることができるはずです。

なによりも先に、あなたたちが向上することをお願いしてください。そうすれば、あなたたちの上に注がれる大量の恵みと慰めを見ることができるでしょう。(→第五章 4)

 何時も祈っていなければなりませんが、そのために公の広場で跪いたり、祈る場所を求めたりしてはなりません。日々の祈りは、それ自体があなたに与えられた義務を果たすことになりますが、他のいかなる種類の義務をも果たすことを怠ってはなりません。

あなたの兄弟が道徳的、物理的に何かを必要としている時、それを助けることは神への愛の行いではありませんか。

なにか嬉しいことがあった時や、何かの事故から逃れることができた時、何かの誘惑が私たちの魂をかすめ、通り過ぎて行った時、気持ちを高めて、神のことを考えることは神への感謝の行為です。その時、心の中で唱えることを忘れてはいけません。「神よ、祝福されますように」。

失敗してしまったと感じた時、ほんの一時思い浮かべるだけでも、謙虚に最高の審判者に向かって、「神よ赦してください。(自尊心が強すぎ、身勝手な考えを持ち、慈善の気持ちが欠けていたために)罪を犯しました。同じ失敗を繰り返さぬよう、力を与えて下さい。私の欠点を改める勇気を与えて下さい」と考えることは、悔罪の行いではありませんか。

 こうした祈りは、朝、夜、神聖な日に捧げる定期的な祈りの他に行わねばなりません。

つまり、あなたたちの習慣を断つことなく、いかなる時にも祈りは行われるべきなのです。そのようにすることによって、あなたたちの習慣までもが、神聖なものとなるのです。

そして、こうした心の底より生まれる考えは、たった一つの思考であったとしても、直接の動機が殆どの場合存在しないにもかかわらず、単に習慣となっている時間が機械的にあなたを呼ぶからと言って繰り返される長い祈りよりも、天の神には聞きいれられるのです。(V・モノ― ボルドー、1862年)


 祈りの喜び
二十三、信じたい者はみな来てください。天の霊たちがやって来て素晴らしいことを教えてくれます。子どもたちよ、神はその宝を広げ、その恵みをあなたたちに分けてくれるのです。

信心のない者よ、信仰というものがどれだけあなたたちの心をなごませてくれ、魂を後悔と祈りに導いてくれるか、もしあなたたちが知ることができるならば。祈り、ああ、祈りの時、唇から出る言葉とは、なんと感動を与えるものなのでしょう。

祈りとは、熟しすぎた情熱を覚ましてくれる、神が降らせた夜露のようなものなのです。信仰から生まれた愛しい娘は、私たちを神に通じる道へと案内してくれるのです。

孤独の中で一人で深く考え込むとき、神に出会うことができるでしょう。その時あなたの謎は消えてなくなります。なぜなら神は、彼の方から現れてくれるからです。

信じる者よ、あなたたちのために本当の人生というものが開かれるのです。あなたたちの魂は肉体を離れ、人類がいまだ知ることのない無限なるエーテルの世界に放たれるのです。

 前進しましょう。祈りの道に沿って進み、天使の声を聞くのです。なんとすばらしいハーモニーでしょう。もはや地球で聞いた叫びや、混乱した雑音ではありません。

大天使の竪琴の音、森林の木々の枝葉にたわむれる朝のそよ風よりも優しい、甘い熾天使の声、なんという喜びを感じて進むことができるでしょうか。この祈りの喜びを、地上のあなたの言葉ではとうてい表現することはできないでしょう。

あなたの身体の隅々までしみ込む、この鮮明でさわやかな喜びは、祈ることによって飲むことのできる泉なのです。祈りによって知られざる生命の住む世界へ放たれる甘い言葉、芳香は、霊たちによって聞きいれられ、吸い込まれます。

肉体の世界の欲望から切り離された熱望は、いかなるものも神のものとなります。ゴルゴタからカルバリオまであなたたちの十字架を運んだキリストのように、あなたたちも祈ってください。あなたの十字架を担いでください。

そうすれば、屈辱の十字架を担ぎながらもキリストの魂が感じていた、やさしい感動を得ることができるでしょう。

キリストは死ななければなりませんでした。しかし、死ぬということは、彼の父のすみかのある世界で生きるということだったのです。(聖アグスティヌス パリ、1861年)