Wednesday, March 11, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

  The Spirit Teachings

19節

本節の内容地上人類としての宗教的生活の理想
神は摂理としての働きによってのみ知るもの
未来の不用意な詮索は禁物
神と自己と同胞に対する責務
満足は堕落への第一歩
積極的活動と正しい習慣の生活
身と心の宗教


〔繰り返し反論して来た問題――これまで再三言及して来たもの――が八月三十一日になってようやく本格的な回答を得た。〕


これまでにも言及しながら本格的に扱わずにおいた問題につきて述べたく思う。そなたはわれらの説く教義と宗教的体系とが曖昧で取り止めなく、実体が感じられぬという主張を固持し、それを再三に亙って表明してきた。そなたの主張によればわれらの教説はいたずらに古来の信仰に動揺をもたらし、それに代わる新たなる合理的信仰を持ち合わせぬと言う。その点に関してはこれまでも散発的には述べることはあったが、それらが大衆の中に根づいてくれることを望む宗教を総合的に述べたことはなかった。それをこれより可能なかぎり述べることとする。

まずわれらは全創造物の指揮者であり、審判者であるところの宇宙神――永遠の静寂の中に君臨する全知全能の支配者から説き始めるとしよう。その至高の尊厳の前にわれらは厳粛なる崇敬の念をもって跪(ひざまず)くものである。その御姿を拝したことはない。また御前(おんまえ)に今すぐ近づこうなどとも思わぬ。至純至高にして完全無欠なる神の聖域に至るまでには、地上界の時で数えて何百万年、何億年、何百億年も必要とすることであろう。それは最早や限りある数字では表わせぬであろう。

しかし、たとえ拝したことはなくとも、われらはその御業(みわざ)を通じて神の奥知れぬ完璧さをますます認識する。その力、その叡智、その優しさ、その愛の偉大さを知るばかりである。それはそなたには叶わぬことであるが、われらは無数の方法にてその存在を認識することを得ている。地上という低き界層には届かぬ無数の形で認識する。哀れにも人間はその神の属性を独断し、愚かにも人間と同じ形体を具えた神を想像しているが、われらはその威力を愛と叡智に満ちた普遍的知性として理解し感得している。われらとの繋がりの中に優しさと愛を感得するのである。

過去を振り返れば、慈悲と思いやりに満ち溢れていることを知る。現在にも愛と優しさに満ちた考慮が払われている。未来は……これはわれらは余計な憶測はせぬ。これまでに身をもって味わえる力と愛の御手に全てを託す。詮索好きな人間が好んでするが如き、己の乏しき知性をもって未来を描き、一歩進むごとに訂正する愚は犯さぬ。神への信頼が余りに実感あふれるものであるが故に、敢えて思案をめぐらす必要を感じぬのである。われらは神の為に生き、神に向かいて生きていく。神の意志を知り、それを実践せんとする。そうすることが、己自身のみならず、全ての創造物に対し、なにがしかの貢献をすることになると信ずるからである。またそうすることが神に対する人間としての当然の敬意を表明する所以(ゆえん)であり、神が嘉納される唯一の献上物なのである。われらは神を敬愛する。神を崇拝する。神を敬慕する。神に絶対的に従う。が、神の御計画に疑念を挟み、あるいは神秘を覗き見するが如き無礼はせぬ。

次に人間についてであるが、われらは未だその知るところの全てを語ることを許されておらぬ。いたずらに好奇心を満足させることも、あるいは、精神を惑わせることにしかならぬ知識を明かすことも許されておらぬのである。人間の霊性の起源と宿命――いずこより来りいずこへ行くのか――については、いずれその全てを語るべき時期が到来することを信ずるに留めておいて貰いたい。差し当たりては神学が事細かく語り広く受け入れられているところのアダムとイブの堕罪の物語は根拠なき作り話であることを知られたい。恐らくそなたらキリスト者においても、これにまともな思考を巡らせた者ならばそのような伝説に理性がついて行けぬのが正直な事実であろう。差し当たりては人間が物質をまとえる霊魂であることを認識し、支配する神の法則に従いて進歩していくことこそが地上での幸せと死後の向上を導くことを理解すべく努力することである。遙か遠く高き世界のこと――洗練され浄化され尽くせる霊のみが入ることを許される天界のことは、ひとまず脇へ置くがよい。その秘奥は限りある人間の目には見ることを得ぬ。天界への門扉は聖なる神霊にのみ開かれる。そして、いつの日か十分なる試練と進化の暁に、そなたもその列に加えられる日もきっと来ることを信ずればそれでよい。

それよりも今のそなたには、地上における人間としての義務と仕事について語ることの方が重要であろう。人間はそなたも知る如く一時期を肉体に宿れる“霊魂”なのである。霊体を具えた霊魂であり、その霊体は肉体の死後もなお生き続ける。そのことにつきては聖書でも述べられている。仔細の点には誤りも見られるが、一応正しいと見てよかろう。この霊体を地上という試練の場において発達させ、死後の生活に備えねばならぬ。死後の生活は、そなたの知性の届く限りにおいて、無限である。もっとも、そなたには無限の真の意味は理解できまい。差し当たりてそなたの存在が永続すること、そして肉体の死後にも知性が存続することを述べるに留めておこう。

その存在は、わずかな期間を地上の肉体に宿りて生活するに過ぎぬとは言え、意識を有する責任ある存在であり、果たすべき責任と義務があり、各種の才能を持ち、進歩もすれば退歩もする可能性を有するものと見なしている。肉体に宿るとはいえ、善と悪とを判断する道義心――往々にして粗末であり未熟ではあるが――を先天的に有する。各自その発達に要するさまざまな機会と段階的試練と鍛練の場を与えられ、かつ又、要請があり次第与えられる援助の手段も用意されている。こうした事実についてはすでに述べた。こののちにも更に述べることもあろうが、取り敢えず地上という試練の場における人間の義務について述べたく思う。

人間は責任ある霊的存在として、自己と同胞と神に対する義務を有する。その昔、そなたらの先師たちはその時代の知識の及ぶかぎり、そして表現し得る能力の限りにおいて、霊的生活に適切なる道徳的規範を説いた。しかし彼らの知識の及ばぬところ、そしてまた彼らの伝え得ぬところにも、まだまだ広く深き真理の領域が存在する。霊が霊に及ぼす影響についても、今ようやく人間によりて理解され始めたところである。が、その事実により、人間の進化向上を促進せんとする勢力とこれを妨害せんとする勢力とが存在することを窺い知ることが出来るであろう。このことについては、こののち更に述べる機会もあろう。それはさておき、霊的存在としての人間の最高の義務は向上進化の一語――己に関する知識を始めとして霊的生長を促すあらゆる体験を積むことに要約されよう。次に、精神と知能を有する知的存在として考えた時の義務は教養の一語に要約されよう。一つの枠にかぎられぬ幅広き教養を積むことである。地上生活のためのみならず、死後にも役立つ永遠性を有する能力の開発のための教養活動である。そして肉体に宿れる一個の霊としての己に対する義務は、思念と言葉と行為における純粋の一語に要約されよう。以上の進歩と教養と純粋の三つの言葉の中に、霊的存在として、知的存在として、そしてまた肉体的存在としての人間の己に対するおよその義務が要約されていよう。

最後に、人間と神との関係について申せば、それは最も低き界層の者といえども“無始無終の光の泉”、“万物の創作者”であり“父”であるところの神に近づけるものであらねばならぬ。神を目の前にせる時の人間として相応しき態度は聖書において“天使もその翼もて顔を被う”と表現されているが、まさにその通りである。それは人間の霊に最も相応しき畏敬と崇拝の念を象徴しているのである。敬(うやま)い畏(おそ)れるのである。奴隷的恐怖心ではない。崇(あが)め拝(おが)むのであって、屈従的恐怖に身をすくめるのではない。神と人とを隔てる計り知れぬ距離と、その間を取りもつ天使の存在を意識し、人間はかりそめにも神の御前にすぐに侍(はべ)ることを求めてはならぬ。ましてや天使にしてなお知ることを得ぬ深き神秘を覗き込まんとする倣慢なる態度は控えねばならぬ。畏敬と崇拝と愛、これこそ神とのつながりにおいて人間の霊を美しく飾る特性である。

大略ではあるが、以上が自己と同胞と神に対する人間の義務である。枝葉の点については追って付け加えることになろうが、以上の中に人間が知識を広め、よき住民となり、全ての階層の人間の手本となるべき資質が述べられている。この通信、並びにこれまでの通信の中にパリサイ派の学者が重んじたところの儀式的ないし形式的義務についての叙述が見られぬのは、それはわれらがその必要性を認めぬからである。人間が物的存在である以上、物的行為も当然大切である。われらがその点について詳しく言及せぬのは、その重要性について敢えてわれらが述べずとも事足りていると観たからである。われらの中心的関心は霊性にある。全てを生み出すところの霊性である。その霊性さえ正しく発揮されれば、物的行為も自ずと正しく行なわれるものである。われらはこれまでそなたを一貫した原則のもとに扱って来た。それはそなたの関心を真の自己であるところの霊に向けさせ、全ての行為をその内的自我の発現として捉えさせることである。その霊性が地上を去ったのちの霊的生活の全てを決定づけるからである。そこに真の叡智が存する。全てを動かす霊、千変万化の大自然と人類の移り行く姿の底流に存在する生命の実相を知った時、そなたは真の叡智に動かされていると言えよう。現時点においてわれらがそなたに示し得る義務は以上の如きものであるが、次に、その義務を果たせる時と怠(おこた)れる時にもたらされる結果について述べねばならぬ。

自己の能力の限りにおいて正直に、そして真摯に、ひたすら義務を果たさんとして努力する時、その当然の報いとして生き甲斐と向上とが得られる。われらが敢えて向上を強調するのは、人間はともすれば向上の中にこそ霊は真の生き甲斐を見出すとの不変の真理を見失いがちだからである。これで佳しとの満足は真の魂にとっては後ろ向きの消極的幸福でしかない。魂は過ぎ去りしものの中に腰を下ろすことは許されぬ。過去はせいぜい未来の向上の刺激剤として振り返る価値しかない。過去を振り向く態度は満足の表われであり、未来へ向う態度は一層の向上を求める希望と期待の顕われである。満足感に浸り、それにて目的を成就したかに思うのは一種の妄想であり、そのとき魂は退歩の危機にある。霊的存在としての正しき姿勢は常により高き目標に向いて努力し続けることである。その絶え間なき向上の中にこそ真の幸せを見出す。これで終わりという時は来ぬ。決して来ぬ。絶対に来ぬ。

このことはそなたらが人生と呼ぶところの地上の一時期のみに限らぬ。生命の全存在に関しても言えることである。さよう。肉体に宿りて行なえる行為は肉体を棄てたのちの霊界の生活にも関わりを有する。その因果関係はそなたらが死と呼ぶところの境界には縛られぬ。それのみではない。霊界にて落ち着くところの最初の境涯は、地上の行為のもたらす結果によりて定まるのである。怠惰と不純の生活に浸りし霊は当然の成り行きとして、霊界にてそれ相応の境涯に落着き、積み重ねた悪癖からの浄化を目的とする試練の時期を迎えることになる。犯せる罪を悔恨と屈辱の中に償い、償うごとに浄化し、一歩また一歩と高き境涯へと向上していく。これが神の法を犯せる者に与えられる罰である。決して怒れる神が気まぐれに科する永遠の刑罰ではない。意識的生活の中に犯せる違反が招来する不可避の悔恨と自責の念の懲罰である。これは懲らしめのムチと言えよう。が、それは復讐に燃える神が打ち下ろす恨みのムチではない。愛の神がわが子にその過ちを悟らせんとして用意せる因果律の働きなのである。

同様に、善行の報いは天国における永遠の休息などという感覚的安逸ではない。神の玉座のまわりにて讃美歌三昧に耽ることでもない。悔い改めの叫び、あるいは信仰の告白によりて安易に得られる退屈きわまる白日夢の如き無為の生活でもない。義務を果たせる満足感、向上せる喜び、さらに向上する可能性を得たとの確信、神と同胞への一層の愛の実感、自己への正直と公明正大を保持し得たとの自信。こうした意識こそ善の報酬であり、それは努力した後に始めて味わえるものである。休息の喜びは働かずしては味わえぬ如く、食事の味は空腹なる者にしか味わえぬ如く、一杯の水の有難さは渇ける者にしか味わえぬ如く、そして我が家を目の前にせる時の胸の昂(たか)まりは久しく家を離れし者にして始めて味わえる如く、善の報酬は生活に刻苦し、人生の埃(ほこ)りにまみれ、真理に飢え、愛に渇ける者にして始めて真の味を賞美できるものである。怠惰なる感覚的満足はわれらの望むところではない。あくまでも全身全霊を込めて努力せるのちに漸く得られる心の満足であり、しかもそれは、すぐまた始まる次の向上進化へ向けての刺激剤でしかないのである。

以上に見られる如く、われらは人間を数々の果たすべき義務と数かぎりなき闘争の中を生き抜く一個の知的存在としてのみ扱ってきた。別の要素として人間には背後霊による援助があり、数々の霊的影響の問題もあるが、ここでその問題を取り挙げる必要性を認めぬ。取り敢えずそなたの視野に映りそなた自ら検討し得る範囲内の事柄に限って述べてきた。また、われらとしては罪なき神の御子、というよりは神との共同責任者としてのイエスに己の足らざるところを全て償わせるが如き、都合よき言説は説かぬ。一度の信仰告白によりて魔法の如く罪を消すと説く、かの贖罪説も説かぬ。卑しき邪悪なる魂も死の床にて懴悔すればイエスがその罪の全てを背負うことによりて立ちどころにして“選ばれし者”の仲間に列せられ、神の国へ召されるなどという説は到底認めるわけにはいかぬ。われらは、そのような卑屈にして愚劣なる想像の産物に類することは一切述べたことはない。援助はある。常に手近にあり、いつでも活用できる強力なる霊力が控えている。しかし、放蕩と貪慾と罪悪のかぎりを尽くし、物的満足を一滴残らず味わい尽くせる人間が、その最期の一瞬に聖者の一人として神の聖域に列せられんが為に自由に引き出せる、そのような都合よき徳の貯えなどはどこにも存在せぬ。臆病者が死を恐れ、良心の呵責が呼び起こす死後の苦しみに怯(おび)える余りに縋(すが)らんとする身代わりの犠牲など、どこにも存在せぬ。そのような卑劣なる目的のためには神の使者は訪れぬ。そのような者に慰めを与えに参る霊などおらぬ。万が一にも己の罪に気づき、後悔することがあれば、神の使者はその罪の重さに苦しむに任せるであろう。神の愛のムチを当てられるままに放置することであろう。何となれば、その苦しみを味わってこそ魂が目覚めるからである。然るに神学者はそのような者のために神は御子を遣わし、そして全ての罪を背負いて非業の死を遂げさせたのであると説く。それをもって最高の情けある処置であるとし、神の慈悲の最高の表現であると説く。

そのような作り話はわれらの知識の中には存在せぬ。徳の貯えは自分自ら一つ一つ刻苦勉励の中に積み重ねたるもの以外には存在せぬ。至福の境涯に到る道はかつて聖者たちが辿れる苦難の道と同じ道以外にはない。一瞬にして罪深き人間を聖者に変え、強(したた)かなる無頼漢、卑しむべき好色家、野獣にも比すべき物欲家に霊性を賦与し、洗練し、神の祝福を受けさせ、そなたらの言う天国に相応しき霊となす魔法の呪文など、われらは知らぬ。そのような冒涜的想像の産物はおよそわれらとは縁はない。

人間は一方においてそのような無知にして到底有り得ぬ空想をでっち上げながら、他方、彼らを取り巻く折角の霊的援助と加護には全く気づかずにいる。われらは人間自ら果たすべきことを人間に代わって果たす力は持ち合わせぬ。が、援助は出来る。慰めることは出来る。心の支えとなることは出来る。われらは神より命を受け、地上を含む数界の霊的教化に当たっている。時として余りにあくどく、余りに物質にかぶれ過ぎてわれらの霊力に感応せず、霊的なるものを求めようとせぬ霊に手こずり、あるいは愚弄されることもあるが、霊的援助の手は常に用意されており、真摯なる祈りは必ずやそれを引き寄せ、不断の交わりによりて結びつきを強化することが可能なのである。

ああ、何たる無知! 至聖、至純、至善なる霊が常に援助の手を差し延べんと待機しているものを、祈ることを疎かにするが故に、その霊との交わりを得ることが出来ぬのである。魂を神に近づける崇拝、そして天使を動かす祈り――この二つはいつでも実行可能な行為である。それを人間は疎かにし、来世への希望を身勝手なる信仰、教義、宣誓、身代わり等々、事実とは程遠き謂(いわ)れなき作り話に託している。

われらはそうした個々の信仰は意に介さぬ。何となれば、それは知識の広がりとともに、早晩改められていくものだからである。狂気の如き熱意をもって生涯守り抜いた教義も、肉体より解放されれば一言の不平を言う間もなくあっさりと打ち棄てられる。生涯抱き続けた天国への夢想も、霊界の光輝に圧倒されて雲散する。いかに誠意を込めて信じ、謙虚にそれを告白しようと、われらは信条にはさしてこだわらぬ。それよりもわれらは行為を重要視する。何を信じたるやは問わぬ。何を為せるやを問う。なぜなら人間の性格は行為と習性と気質によって形成され、それが霊性を決定づけていくものと理解するからである。そうした性格も長き苦難の過程を経てようやく改められるものであり、それ故にわれらは言葉より行いに、口先の告白よりも普段の業績に目を向けるのである。

われらの説く宗教は行為と習性の宗教であり、言葉と気まぐれなる信仰の宗教ではない。身体の宗教でもあり魂の宗教でもある。打算なき進歩性に富む真実の宗教である。その教えに終局というものはない。信奉者は数知れぬ年月をかけてひたすらに向上し、地上の垢を落とし、霊性を磨き、やがて磨き尽くされたる霊――苦しみと闘争と経験によりて磨き上げられたる霊――が、その純真無垢の姿にて神の足もとに跪(ひざまず)く。この宗教には怠惰も安逸も見出せぬ。霊の教育の基調は真摯と熱意である。そこに己の行為のもたらす結果からの逃避は見出せぬであろう。不可能なのである。罪科はそれ自らの中に罰を含むものだからである。また己の罪を背負わせる都合よき身代わりも見出せぬであろう。自らの背に負い、その重圧に自ら苦悶せねばならぬからである。さらにまた、われらの宗教には、これさえ信ずれば堕落せる生活をごまかし、これさえ信ずれば魂の汚れを被い隠せるなどという卑怯な期待をもたせて動物的貪慾と利己主義を煽るが如き要素も、いずこにも見出せぬであろう。われらが説く教義はあくまでも行為と習性であり、口先のみの教義や信条ではない。そのような気紛れなる隠蔽物は死と共に一気に剥ぎ取られ、汚れた生活が白日のもとに曝され、魂はそのみすぼらしき姿を衆目に曝す。またわれらの宗教には、そのうち神は情けを垂れ全ての罪に恩赦を下さるであろうなどという、ケチくさきお情けを求める余地などさらさら見出せぬであろう。そのような人間的想像は真理の光の前にあっけなく存在を失う。神の情けは、それを受けるに相応しき者のみが受ける。言い換えるならば、悔恨と償い、浄化と誠心誠意、真理と進化がおのずとその報酬をもたらすことであろう。そこにはもはや情けも哀れみも必要とせぬであろう。

以上がわれらの説く霊と肉体の宗教である。神の真理の宗教である。そして人類がそれを理解する日もようやく近づきつつある。

(†インペレーター)

シルバーバーチの霊訓  霊的新時代の到来

The Spirit Speaks
トニー・オーツセン(編) 近藤千雄(訳)




7章 光の存在を知るのは闇があるからです

    映画女優のマール・オベロンには婚約者(フィアンセ)がいた。そのフィアンセを空港で見送った数秒後に、オベロンの人生に悲劇が訪れた。フィアンセを乗せた飛行機が爆発炎上したのである。事故の知らせを聞いて、当然のことながらオベロンは芒然自失の状態に陥った。

その後間もなく、ふとしたきっかけからハンネン・スワッファーのMy Greatest Story(私の人生最大の物語)という本を手に入れ、その中に引用されているシルバーバーチの霊言を読んで心を動かされた。たった一節の言葉に不思議な感動を覚えたのだった。

オベロンはさっそくスワッファーを訪ねて、できればシルバーバーチという霊のお話を直接聞きたいのですが、とお願いした。その要請をスワッファーから聞いたシルバーバーチは快く承諾した。そして、事故からまだ幾日も経たないうちに、交霊会に出席するチャンスを得た。

その後、さらに幾人かの霊媒も訪ねてフィアンセの存在を確信したオベロンは、その霊的知識のおかげで悲しみのどん底から脱け出ることができた。

では、最初にシルバーバーチの交霊会に出席した時の様子を紹介しよう。当日、スワッファーが交霊会の部屋(バーバネルの書斎)へオベロンを案内し、まずシルバーバーチにこう紹介した。

「ご承知のとおり、この方は大変な悲劇を体験なさったばかりです。非凡な忍耐力をもって耐えていらっしゃいますが、本日はあなたのご指導を仰ぎに来られました」

するとシルバーバーチがオベロンに向かって――


「あなたは本当に勇気のある方ですね。でも、勇気だけではダメです。知識が大きな力になってくれることがあります。ぜひ理解していただきたいのは、大切な知識、大きな悟りというものは、悲しみと苦しみという魂の試練を通してはじめて得られるものだということです。人生というものは、この世だけでなく、あなた方が“あの世”と呼んでおられる世界においても、一側面のみ、一色のみでは成り立たないということです。光と影の両面がなくてはならないのです。

光の存在を知るのは闇があるからです。暗闇がなければ光もありません。光ばかりでは光でなくなり、闇ばかりでは闇でなくなります。同じように、困難と悲しみを通してはじめて、魂が自我に目覚めていくのです。もちろん、それは容易なことではありません。とても辛いことです。でも、それが霊としての永遠の身支度をすることになるのです。なぜなら、地上生活のそもそもの目的が、地上を去ったあとに待ちうける次の段階の生活にそなえて、それに必要な霊的成長と才能とを身につけていくことだからです。

これまでにたどられた道も、決してラクではありませんでした。山あり、谷あり、そして、結婚という最高の幸せを目前にしながら、それが無慈悲にも一気に押し流されてしまいました。

あなたは何事も得心がいくまでは承知しないかたです。生命と愛は果たして死後にも続くものなのか、それとも死をもってすべてが終わりとなるか、それを一点の疑問の余地もないまで得心しないと気が済まないでしょう。そして今、あなたは死がすべての終わりでないことを証明するのに十分なものを手にされました。

ですが、わたしが察するところ、あなたはまだ本当の得心を与えてくれる事実のすべてを手にしたとは思っていらっしゃらない。そうでしょ?」

オベロン「おっしゃる通りです」


「こういうふうに理解なさることです――これがわたしにできる最大のアドバイスです――われわれ生あるものは、すべて、まず第一に霊的存在であるということです。霊であるからこそ生きているのです。霊こそ存在の根元なのです。生きとし生けるものが呼吸し、動き、意識を働かせるのは、霊であるからこそなのです。その霊があなた方のいう神であり、わたしたちのいう大霊なのです。その霊の一部、つまり大霊の一部が物質に宿って、次の段階の生活にふさわしい力を身につけるために地上体験を積みます。それはちょうど、子供が学校へ通って、卒業後の人生にそなえるのと同じです。

さて、あなたも、他のすべての人間と同じく、一個の霊的存在です。物的なものはそのうち色あせて朽ち果てますが、霊的なものは永遠であり、いつまでも残り続けます。物質の上に築かれたものは永続きしません。物質は殻であり、入れ物にすぎず、実体ではないからです。地上の人間の大半が幻影(まぼろし)を崇拝しております。キツネ火を追いかけているようなものです。真実のものを発見できずにいます。こうでもない、ああでもないの連続です。本来の自分を見出せずにいます。

大霊が愛と慈悲の心からこしらえた宇宙の目的・計画・機構の中の一時的な存在として人生をとらえ、自分もその中での不可欠の一部であるとの理解がいけば、たとえ身にふりかかる体験の一つ一つの意義はわからなくても、究極においては全てが永遠の機構の中に組み込まれているのだ、という確信は得られます。

霊にかかわるものは決して失われません。死は消滅ではありません。霊が別の世界へ解き放たれるための手段にすぎません。誕生が地上生活へ入るための手段であれば、死は地上生活から出るための手段ということができます。あなたはその肉体ではありません。その頭でも、目でも、鼻でも、手足でも、筋肉でもありません。つまり、その生物的集合体ではないということです。

それはあなた自身ではありません。あなたという別個の霊的存在が、地上で自我を表現していくための器官にすぎません。それが地上から消滅したあとも、あなたという霊は存在し続けます。

死が訪れると、霊はそれまでに身につけたものすべて――あなたを他と異なる存在であらしめている個性的所有物のすべて――をたずさえて、霊界へまいります。意識・能力・特質・習性・性癖、さらには愛する力、愛情と友情と同胞精神を発揮する力、こうしたものはすべて霊的属性であり、霊的であるからこそ存続するのです。

真にあなたのものは失われないのです。真にあなたの属性となっているものは失われないのです。そのことをあなたが理解できるできないにかかわらず、そしてまた確かにその真相のすべてを理解することは容易ではありませんが、あなたが愛する人、そしてあなたを愛する人は、今なお生き続けております。得心がいかれましたか?」

オベロン「はい」


「物的なものはすべてお忘れになることです。実在ではないからです。実在は物的なものの中には存在しないのです」

オベロン「私のフィアンセは今ここへ来ておりますでしょうか」


「来ておられます。実は先週も来られて、霊媒を通じてあなたに話しかける練習をなさったのです(※)。しかし、これはそう簡単にいくものではないのです。ちゃんと話せるようになるには、大変な訓練がいるのです。でも、あきらめずに続けて出席なさっておれば、そのうち話せるようになるでしょう。ご想像がつくと思いますが、彼は今のところ、非常に感情的になっておられます。まさかと思った最期でしたから、感情的になるなという方が無理です。とても無理な話です」


※――オベロンがスワッファーに出席の申し込みをした時点から霊団側はフィアンセと連絡を取っていたことが、これでわかる。交霊会は毎週金曜日の夜に行われた。

オベロン「今どうしているのでしょう? どういうところにいるのでしょうか。元気なのでしょうか」

この質問に、シルバーバーチは司会のスワッファーの方を向いて、しみじみとした口調で――


「このたびの事故は、そちらとこちらの二人の人間にとって、よほどのショックだったようですな。まだ今のところ調整ができておりません。あれだけの事故であれば、無理もないでしょうね」と述べてから、改めてオベロンに向かって――


「わたしとしては、若いフィアンセが、あなたの身近にいらっしゃることをお教えすることが、精一杯あなたの力になってあげることです。彼は今のところ何もできずにおります。ただお側に立っておられるだけです。これから交信の要領を勉強しなくてはなりません。霊媒を通じてだけではありません。ふだんの生活において、考えや欲求や望みをあなたに伝えることもそうです。それは大変な技術を要することです。それができるまでは、ずっとお側に付き添っているだけでしょう。

あなたの方でも、心を平静に保つ努力をしなくてはいけません。それができるようになれば、彼があなたに与えたいと望み、そしてあなたが彼から得たいと望まれる援助や指導が、確かに届いていることを得心なさることでしょう。

よく知っておいていただきたいのは、そうした交信を伝えるバイブレーションはきわめて微妙なもので、感情によってすぐ乱されるということです。不安・ショック・悲しみといった念を出すと、たちまちあなたの周囲に重々しい雰囲気、交信の妨げとなる壁をこしらえます。

心の静寂を保てるようになれば、平静な雰囲気を発散することができるようになれば、内的な安らぎを得るようになれば、それが、わたしたちの世界から必要なものを受けるための最高の条件を用意したことになります。感情が錯乱している状態では、わたしたちも何の手出しもできません。受容性、受け身の姿勢、これが、わたしたちが人間に近づくための必須の条件です」

このあと、フィアンセについて幾つかプライベートな内容の話が交わされてから、シルバーバーチがこう述べた。


「あなたにとって理解しがたいのは、多分、あなたのフィアンセが今はこちらの世界へ来られ、あなたはそちらの世界にいるのに、精神的にはわたしよりもあなたの方が身近な存在だということでしょう。おわかりになりますか。彼にとっては、霊的なことよりも地上のことの方が気がかりなのです。問題は、彼が霊的なことについて何も知らずにこちらへ来たということです。一度も意識にのぼったことがなかったのです。

でも、今では、こうした形であなたが会いに来てくれることで、彼も、あなたが想像する以上に助かっております。大半の人間が死を最期と考え、こちらへ来てからも記憶の幻影の中でのみ暮らして、実在を知りません。その点あなたのフィアンセは、こうして最愛のあなたに近づくチャンスを与えられ、あなたも、まわりに悲しみの情の壁をこしらえずにすんでおられる。そのことを彼はとても感謝しておられますよ」

オベロン「死ぬ時は苦しがったのでしょうか」


「いえ、何も感じておられません。不意の出来事だったからです。事故のことはお聞きになられたのでしょ?」

オベロン「はい」


「一瞬の閃光のうちに終わりました」

スワッファー「この方もそういうふうに聞かされております」


「そうでした。本当にあっという間の出来事でした。それだけに、長い休養期間が必要なのです」

オベロン「どれくらい掛かるのでしょうか」


「そういうご質問には、お答えするのがとても難しいのです。と申しますのは、わたしたちの世界では、地上のように時間で計るということをしないのです。でも、どのみち普通の死に方をした人よりは長く掛かります。急激な死に方をした人はみな、ショックを伴っているからです。いつまでも続くわけではありませんが、ショックはショックです。もともと霊は、肉体からそういう離れ方をすべきではないからです。そこで調整が必要となるのです」

さらにプライベートなメッセージを聞かされたあと――

オベロン「彼は今しあわせと言えるでしょうか。大丈夫でしょうか」


「しあわせとは申せません。彼にとって霊界は精神的に居心地がよくないからです。地上に戻って、あなたといっしょになりたいという気持ちの方が強いのです。それだけに、あなたの精神的援助が必要ですし、彼自身の方でも自覚が必要です。これは過渡的な状態であり、彼の場合は大丈夫です。霊的な危害(※)が及ぶ心配がありませんし、そのうち調整がなされることでしょう。

宇宙を創造なさった大霊は、愛に満ちた存在です。わたしたち一人一人に存在を与えてくださったその愛の力を信頼して、何事もなるべくしてそうなっているのだということを知らなくてはなりません。今は理解できないことも、そのうち明らかになる機会が訪れます。決して口先で適当なことを言っているのではありません。現実にそうだから、そう申し上げているのです。

あなたはまだ人生を物質の目でごらんになっていますが、永遠なるものは、地上の尺度では正しい価値は計れません。そのうち正しい視野をお持ちになることでしょうが、本当に大事なもの――生命・愛・本当の自分、こうしたものはいつまでも存在し続けます。死は生命に対しても、愛に対しても、まったく無力なのです」


※――邪霊による妨害と誘惑のことで、愛の絆のある霊たちが出迎えてくれるのは、それを防ぐ意味もある。

別の日の交霊会で、英国のみならず海外でも活躍している古くからのスピリチュアリスト(氏名は公表されていない)が招待され、シルバーバーチは「霊的知識に早くから馴染まれ、その道をいちずに歩まれ、今や多くの啓示を授かる段階まで到達された人」として丁重にお迎えした。そしてこう語りかけた。


「思えば長い道のりでしたね。人生の節目が画期的な出来事によって織りなされております。しかし、それもすべて、一つの大きな計画のもとに、愛によって導かれていることに気づいていらっしゃいます。暗い影のように思えた出来事も、今から思えば計画の推進に不可欠の要素であったことをご存知です。あなたがご自分の責務を果たすことができたのも、あなた自身の霊の感じる衝動に暗黙のうちに従っておられたからです。

これより先も、その肉体を大地へお返しになるまでに課せられているあなたの仕事は、とても意義深いものです。これまで一つ一つ段階を追って多くの啓示に接してこられましたが、これから先も、さらに多くの啓示をお受けになられます。これまでは、その幾つかをおぼろげに垣間見てこられたのであり、光明のすべて、啓示のすべてが授けられたわけではありません。それを手にされるには、ゆっくりとした発達と霊的進化が必要です。わたしの言わんとしていることがおわかりでしょうか」

「よくわかります」


「これは一体どういう目的あってのことなのか――あなたはよくそう自問してこられましたね?」

「目的があることは感じ取れるのです。目的があること自体を疑ったことはありません。ただ、自分の歩んでいる道のほんの先だけでいいから、それを照らし出してくれる光が欲しいのです」


「あなたは“大人(おとな)の霊”です。地上へ来られたのはこの度が最初ではありません。それはわかっておられますか」

「そのことについては、ある種の自覚をもっております。ただ、今ここで触れるつもりはありませんが、それとは別の考えがあって、いつもそれとの葛藤が生じるのです」


「わたしにはその葛藤がよく理解できます。別に難しいことではありません。その肉体を通して働いている意識と、あなたの本来の自我である、より大きな意識との間の葛藤です。たわいないこの世的な雑念から離れて霊の力に満たされると、魂が本来の意識を取り戻して、日常の生活において五感の水際(みぎわ)に打ち寄せて、しきりに存在を認めてほしがっていた、より大きな自我との接触が得られます。

さきほどおっしゃった目的のことですが、実は霊の世界から地上圏へ引き返し、地上人類のために献身している霊の大軍を動かしている壮大な目的があるのです。無知の海に知識を投入すること、それが目的です。暗闇に迷う魂のために灯火(ともしび)をかかげ、道を見失った人々、悩める人々、安らぎを求めている人々に安息の港、聖なる逃避所の存在を教えてあげることです。

わたしたちを一つに団結させている大いなる目的です。宗教・民族・国家、その他ありとあらゆる相違を超越した大目的なのです。その目的の中にあって、あなたにもあなたなりの役目が担わされております。そして、これまで数多くの魂の力になってこられました」

「ご説明いただいて得心がいきました。お礼申し上げます」


「わたしたちがいつも直面させられる問題が二つあります。一つは、惰眠(だみん)をむさぼっている魂の目を覚まさせ、地上で為すべき仕事は地上で済ませるように指導すること。もう一つは、目覚めてくれたのはよいとして、まずは自分自身の修養から始めなければならないのに、それを忘れて心霊的な活動に夢中になる人間を抑制することです。大霊は決してお急ぎになりません。宇宙が消滅してしまうことは決してありません。摂理も決して変更になることはありません。じっくりと構え、これまでに啓示されたことは、これからも啓示されていくことがあるとの証明として受け止め、自分を導いてくれている愛の力は、自分が精一杯の努力を怠りさえしなければ、決して自分を見捨てることはないとの信念に燃えなくてはいけません」

この老スピリチュアリストは、今回の交霊に備えて三つの質問を用意していた。次にその問答を紹介しよう。

「私の信じるところによれば、人間は宇宙の創造主である全能の神の最高傑作であり、形態ならびに器官の組織は大宇宙のミクロ的表現であり、各個が完全な組織をそなえ、特殊な変異は生まれません。しかし一体、その各個の明確な個性、顔つきの違い、表情の違い、性向の違い、そのほか知性・身振り・声・態度・才能等の差異も含めた、一見して区別できる個性を決定づけている要素は何なのでしょうか」


「これは大変な問題ですね。まず、物質と霊、物質と精神とを混同なさらないでください。人間は、宇宙の自然法則にしたがって生きている三位一体の存在です。肉体は物的法則にしたがい、精神は精神的法則にしたがい、霊は霊的法則にしたがっており、この三者が互いに協調し合っております。こうして、法則の内側にも法則があることになり、時には矛盾しているかに思えても、その謎を解くカギさえ手にすれば、本質的には何の矛盾もないことがわかります。

法則のウラに法則があると同時に、一個の人間のさまざまな側面が交錯し融合し合って、つねに精神的・霊的・物的の三種のエネルギーの相互作用が営まれているのです。そこでは三者の明確な区別はなくなっております。肉体は遺伝的な生理法則にしたがっており、精神は霊の表現ではあっても、肉体の脳と五官によって規制されております。つまり霊の物質界での表現は、それを表現する媒体である肉体によって制約を受けるということです。かくして、そこに無数の変化と組み合わせが生じます。霊は肉体に影響を及ぼし、肉体もまた霊に影響を及ぼすからです。これでおわかりいただけましたでしょうか」

「だいぶわかってまいりました。これからの勉強に大いに役立つことと思います。では次の質問に移させていただきます。人間はその始源――全生命の根源から生まれてくるのですが、その根源からどういう段階をへてこの最低次元の物質界へ下降し、物的身体から分離したあと(死後)、こんどはどういう段階をへて向上し、最後に“無限なる存在”と再融合するのか、その辺のところをお教えいただけませんか」


「これもまた大きな問題ですね。でも、これは説明が困難です。霊的生命の究極の問題を、物的問題の理解のための言語で説明することは、とてもできません。霊的生命の無辺性を完全に説き明かす言語は存在しません。ただ端的に、人間は霊である、ただし大霊は人間ではない、という表現しかできません。

大霊とは、全存在の究極の始源です。万物の大原因であり、大建築家であり、王の中の王です。霊とは生命であり、生命とは霊です。霊として、人間は始まりも終わりもなく存在しています。それが個体としての存在を得るのは、地上にかぎって言えば、母胎に宿った時です。物的身体は霊に個体としての存在を与えるための道具であり、地上生活の目的はその個性を発揮させることにあります。

霊界への誕生である死は、その個性をもつ霊が巡礼の旅の第二の段階を迎えるための門出です。つまり霊の内部に宿されている全資質を発達、促進、開発させ、完成させ、全存在の始源によりいっそう近づくということです。人間は霊である以上、潜在的には大霊と同じく完全です。しかし、わたしは、人間が最後に大霊の生命の中に吸収されてしまうという意味での“再融合”の時期がくるとは考えません。大霊が無限であるごとく、生命の旅も発達と完全へ向けての無限の過程であると主張します」

「よくわかります。お礼申し上げます。次に三つ目の質問ですが、今おっしゃられたことである程度まで説明されておりますが、人間は個霊として機械的に無限に再生をくり返す宿命にあるというのは事実でしょうか。もし事実でないとすれば、最低界である地上へ降りてくるまでに体験した地球以外における複数の前世で蓄積した個性や特質が、こんどは死後、進化向上していく過程を促進もし、渋滞もさせる、ということになるのでしょうか。私の言わんとすることがおわかりでしょうか」


「こうした存在の深奥にふれる問題を、わずかな言葉でお答えするのは容易なことではありませんが、まず、正直に申して、その輪廻転生論者がどういうことを主張しているのか、わたしは知りません。が、わたし個人として言わせていただけば――絶対性を主張する資格がないからこういう言い方をするのですが――再生というものが事実であることは、わたしも認めます。そのことに反論する人と議論するつもりはありません。理屈ではなく、わたしは現実に再生して戻ってきた人を大勢知っているのです。どうしても再生しなければならない目的があってそうするのです。地上にあずけてきた質(しち)を取り戻しに行くのです。

ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物とは申しておりません。一個の人間は氷山のようなものだと思ってください。海面上に顔を出しているのは、全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのは、その海面上の部分だけです。死後もう一度生まれてくる時は、別の部分が海面上に顔を出します。潜在的自我の別の側面です。二人の人物となるわけですが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。

霊界で進化を続けていくうちに、潜在的自我が、常時、発揮されるようになります。再生問題を物質の目で理解しようとしたり、判断したりしようとなさってはいけません。霊的知識の理解から生まれる叡智の目で洞察してください。そうすれば得心がいきます」

祈り

自然法則の一大パノラマの中に……


ああ大霊よ。無限なる設計者、王の中の王、全大宇宙機構を考案し、叡智によってそれを維持し、愛によってそれを動かしている、崇高なる知性にあらせられるあなた――そのあなたに、わたしたちは少しでも近づき、その無限なる叡智の宝庫から、永遠に続く求道(ぐどう)の旅に必要なものを摂取したいと願っているところでございます。

あなたは無限なる存在であり、あなたについてのわたしたちの認識は必然的に限りあるものとならざるを得ません。したがって、あなたの全体像を理解することは不可能なのでございます。

わたしたちは、果てしなき規模で顕現している宇宙の全生命を経綸する、自然法則の一大パノラマの中にあなたを見出しております。あなたは一部の人間が考えているがごとき、嫉妬心に燃える我儘(わがまま)な暴君ではございません。誰一人として特別に寵愛(ちょうあい)することもなければ、誰一人として特別に呪(のろ)うこともない、無限の知性にあらせられるのでございます。

あなたはその経綸のために絶対的原理を設けられました。原因に対しては必ずそれ相当の結果が自動的に、そして途切れることなく発生するように定められたのでございます。あなたに近づく者、あなたの意思を調和し、あなたの御心を表現する者は、その実りを、静寂と確信とにあふれた生活、輝きと豊かさに満ちた生活の中に刈り取ることになるのでございます。

不幸にしてあなたを見出し得ない者は、暗黒と無知の霧の中に迷い込み、行き先を見えなくする影にいつも取り囲まれていることになるのでございます。

人類の霊的救済に立ちあがったわたしたちにとって、そうした不幸な人々、困窮者、喪の悲しみに暮れている人々、病に苦しむ人々、重荷に耐えかねている人々、道を見失って、いずこへ向かうべきかが分からずにいる人々に手を差しのべることこそ任務と心得ております。進むべき道を照らし出す灯台としての真理を見出させてあげることが、わたしどもの願望なのでございます。

われわれの送り届けようとする霊力が、今、霊的真理と叡智の豊かさを受け入れる用意のある者に広めたいと願う地上の多くの同志を通して、ますます力強く顕現されていることに感謝の意を表したいと思います。

かくして人類は、徐々にではあっても確実に、混沌と利己主義と貪欲と戦争に背を向ける方向へと突き進むことになりましょう。そして霊力がますます人々の生活の中に顕現していくにつれて、平和の勢力がますます勢いを増し、やがて地上天国も現実のものとなることでございましょう。

その目標へ向けてわたしどもは祈り、そして努力するものです。

Tuesday, March 10, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

  The Spirit Teachings


18節

本節の内容

*節制と心身の清潔の必要性
*魂と身体
*ドグマの字句どおりの独善的解釈は自己陶酔 を誘う
*先祖伝来の信仰のみで足れりとする者・考えることをせぬ者・世間的付き合いとしての信仰で佳(よ)しとする者は取り合わない
*みずから光を求める者こそ向上する
*真摯で恐れを知らぬ心が真理探求の必須条件
*その典型をキリストの生涯に見る
*現在のキリスト教はキリストの時代のユダヤ教と同じ
*人間的夾雑物を取り除き霊的真理を明らかに することが霊団の使命
*キリストは宗教改革者であり社会革命家でも       あった
*特殊階級を攻撃し庶民に味方した
*“キリストの再臨”の真意 

〔八月二十六日。私はこれまでの通信を読み返し、それが象徴している意味についてあれこれと思いを巡らした。私は自分の解釈が字句にこだわり過ぎているのだろうかと考えて、その点を霊側に質してみた。するとまだ私の精神状態は通信をするのに相応しい状態になっていないという返事であった。このように交信の難しさをはっきりと言ってきたことは何度もあった。私は気分の転換が必要であることを指摘された。生憎(あいにく)その日は空模様の鬱陶しい憂鬱な日であった。私の身は見知らぬ土地にあり、健康も勝れなかった。私は言われるまま気分転換になることをしたあと机に向かった。すると初めのうち少し書き辛く速度もゆっくりだったが、やがて楽に筆が運ぶようになった。〕


状態はまだ十全とは言えぬが、前よりは良好となってきた。通信を求めるに際しては、精神と肉体の双方を整えることが肝要である。満腹状態の身体が操作し難いことは前に述べたが、逆に機能の低下せる弱々しき身体もまたわれらの目的に適さぬことをここに指摘しておく。飽食と泥酔はもとより感心できぬが、度の過ぎたる節制による体力の低下も感心せぬ。われらは全てに判断の及ぶかぎりの中庸を説く。極端なる節制も、節度なき放縦も、ともに好ましからぬ結果を招く。中庸こそ身体機能を自由に働かしめ、一方精神的能力を曇りなく且つ激することなく自在に発揮させる。われらが求めるのは明晰にして元気はつらつとし、それでいて興奮することなき精神と、活力に溢れ、その活力を使い過ぎもせず欠乏もせぬ身体である。各自がその思慮分別に基いて、己に課せられた地上の仕事に勤しむ上でより一層適切なる身体を具え、同時にその援助のために派遣された背後霊からの指示を素直に受け取れる精神を整えてくれることが大いに望まれるところであるが、日常生活における習慣は往々にして感心せぬものが多く、徐々に心身を蝕(むしば)んでいく。もっとも、われらとしては一般的原則としての注意と節制を説く以上のことは出来ぬ。当人にとりて何が最も適切であるかは当人と深く関わってみなければ判らぬものである。自分のことは自分で判断して最も適切と思うものを決めることである。


われらの使命はもとより魂の宗教を説くことにあるが、その一部として身体の宗教も説かねばならぬ。そなたに、そして全ての人間に宣言するが、身体の健康管理は魂の成長にとりて不可欠の要件である。魂が地上という物質の生活の場において自己を表現していくために肉体に宿るかぎりは、その肉体によりて魂が悪影響を受けぬよう、これを正しく管理していくことが必須である。ところが衣食の選択と日常の生活習慣に賢明なる配慮が為されることは実に稀である。今の地上に見られる人工的傾向、健康に悪影響を及ぼすものに関しての無知、ほぼ地上の全域に見られる暴飲暴食の傾向、こうしたものは全て真の霊的生活にとりては障害であり妨害となる。


そなたの質問であるが、これまで幾度も述べた如く、われらはそなたの精神の中に存在するものを取り出し、付属せる夾雑物を払い落とし、霊的意義を賦与してこれを土台とし、有害なるもの、真実にあらざるものは放棄する。古き言説につきては、イエスがユダヤの律法を扱える如くに扱う。イエスはその字句にこだわることを戒め、その律法の精神に新たなる崇高なる意味を賦与した。われらが現代のキリスト教の言説とドグマを扱うに際しても、イエスがモーセの律法とパリサイ派的学説、並びにラビ的(1)学説を扱える如くに扱う。イエスは中身の精神を生かすためには字句にこだわらぬがよいと説いた。これはいつの時代にも同じであり、われらも聖書の言葉を引用して、儀文は殺し霊は生かす(2)、と述べておこう。律法の字句にあまりに厳格にこだわることは肝心の意味を疎かにすることと同じ、と言うよりは、次第に疎かにさせて行くものである。儀文の一つ一つを几帳面に遵守する信仰態度は高慢不遜にして鼻もちならぬ独善家を生み、やがて神学の流れの中に完全に巻き込まれて、自分は他の者とは違うとの特殊意識を抱き、その意識で神に感謝するようになる。


こうして知らぬ間に進行する信仰上の悪弊に対して、われらは断固たる闘いを挑むものである。人間の勝手な産物である神学の中に束縛されるよりは、たとえ迷いは多くとも、きっと神を見出すとの信念のもとに、いかなる教義にもすがることなく暗中模索するほうが、真理を求むる魂にとりてどれほど良いか知れぬ。神学は神への道を規定する。その道へ入る狭き門は神学という名の鍵なくしては開かぬことになっている。が、それのみに留まらぬ。神学が神そのものを規定するのである。かくして魂はその自然の発露を閉ざされ、思想の高揚を抑えられ、一片の霊性もなき機械的信仰生活へと落ちぶれ果てる。


確かに、そなたの仲間の中には、高位高階の者ばかりとも限らぬが、宗教の深き哲学に関しては出来合いの信仰教義でなければならぬ者がいる。彼らにとりて、その教義から逸脱して自由に思いを巡らすことは即ち疑うことであり、躊躇することであり、絶望することであり、死を意味する。目も眩む高所に登り、隠れたる秘密を覗き込み、曇りなき真理の太陽の輝きを目のあたりにすることなどは思いもよらぬ。永遠の真理の横たわる深き谷間を見下ろす高き峰に登ることは、彼らには出来ぬ。落ちることを恐れて覗き込むことが出来ぬ。その前に、その峰に登ることがすでに苦痛なのである。そこで彼らは、たとえ辛く不確かではあっても、すでに他の者が通れる、より安全なる常道を選ぶことになる。その道は両側に高き壁がそそり立ち、その外側を見ることは出来ぬ。油断なく一歩一歩、転ばぬよう、すべての起伏を避けつつ歩む。そうするようにと教会の教説が説いているのである。疑うことは破滅を意味する。思考することは結局は迷いに終る。信ずることが唯一の安全策である。故に信じて救われよ、信じぬ者は地獄へ落ちるがよい――そう説くのであるが、彼らにはそれが素直には受け入れられぬ。受け入れられる筈がないのである。彼らは知的理解の入口に横たわる真理の断片すら理解することが出来ぬのである。ならば真理を秘納せる奥の院までどうして入ることを得ようか。


中にはまた、神の真理の全てであると教え込まれた古来の神学と相容れぬ教説を受け入れる能力に欠けると同時に、それを喜ばぬ者もいる。


キリスト教の聖徒にとりてはその神学で十分であった。殉教者はその信仰ゆえに笑顔をもって刑台に上がり、死の床にありても心の慰めを得て来た。それは今も昔も変わらぬ。その信仰は先人達の残してくれた大切な教義であり、母親の口から聞かされた救いの福音であった。それは言わば真理の遺産として受け継いだものであり、それを是非とも今度は自分たちが子供たちに譲渡して行かねばならぬものであり、代わってその子供たちがさらにその子供たちへと引き継いで行くことであろう。そうなれば当然彼らの心はその信仰、それほどの伝統的な繋がりと思い出をもつ信仰と少しでも衝突するものには目もくれぬことになる。彼らはその伝統的信仰の擁護者をもって任じているのである。その心の中には殉教者の情熱が燃え続けている。われらの語りかける言葉は彼らの耳には届かぬ。われらとしても、それほどまで居心地よき安住の世界に敢えて踏み込もうとは思わぬ。万一踏み込むとなれば、彼らが作り上げた信仰の殿堂を根底より突き崩さねばならぬであろう。それほどまで大切にせる信仰に対して宣戦布告し、容赦なく切りつけねばならぬことになろう。彼らにとりての絶対神、型にはまりたる宗教――それは何世代にも亙って些かも変わらず、また変わりようもないのであるが――これに攻撃を挑み、たとえ神の観念は変わらずとも人間の心は変化し過去の世代には事足りたものも次の世代には十分ではないかも知れず、現に満足できなくなっている事実を指摘せねばならぬ。また彼らが露ほども気づかずにいる啓示の進歩性、思想の自由の度合に応じた人間の啓発、そして彼らが“神の啓示”と銘うちて崇めている夥(おびただ)しき量の人間的創作に反省を迫られることであろう。が、これも所詮は徒労に終わることであろう。われらは、そうと知りつつ敢えて試みるほど愚かではない。彼らは地上とは別の(死後の)世界において必要なる知識を得るほかはあるまい。


これとは種類を異にし、そうした問題について一切思考を巡らさぬ者もいる。宗教とは名ばかりにて、一種の世間体としての意味しか持たぬ者たちである。故にその信仰心は極めて薄く、慣習としての場を除いては意識することもない。言わばよそ行きの衣服であり、単なる見せかけ以上のものではない。遠くより見てそれらしく見えればそれで良いのである。こうした人種、およびこれに類する人種はわれらにとりて難敵である。彼らにとりては、宗教について思索を強いられること自体がすでに退屈であり迷惑なのである。不愉快きわまる問題であり、慣習によりやむを得ず軽く体裁を繕う程度にしか係わろうとせぬ。人間としてどう在るべきかは牧師が決めてくれるものと考え、言われるがままに信ずるのみなのである。ましてや古き信仰の欠点を指摘され、新しき信仰の美点を説き聞かされることは彼らにとりては二重手間であり、有難迷惑なのである。そのいずれも理解できぬであろう。相変わらず古きものにすがり、その中にて生き続けるのみである。今のままで結構なのである。進歩はご免こうむりたいのである。自由などは思いもよらず、精々、自由とは所詮は屈従に近づくことであるとの教えしか念頭にはない。彼らにとりて自由なる思索は懐疑心と不信感と無信仰を意味する。そのいずれも彼らにとって有難からぬものであり、一種の社交的誤りを犯すことになる。進歩することは国策上からも宗教上からも恐るべきことなのである。単に尻込みするに留まらず、嫌悪と侮蔑とをもって自由を観る。彼らの理想は全て古き良き時代に大切に仕舞い込まれている。その古き良き時代には自由だの進歩だのという問題は一切語られていない。故にそれは彼らにとりては邪悪なるものであり避けねばならぬものなのである。


以上の三種の人間にわれらが一切の係わりをもたぬことはそなたにも明白であることを疑わぬ。同時にその中間に存在し、能力もなければやる気もなく、さりとて堂々と反抗的態度に出るでもない人種にもわれらは関知せぬ。それがわれらの選択を超えた問題であることは、いずれそなたにも判る時が来よう。たとえ手を出したくとも出せぬのである。


神への道は常に開かれ、分け隔てがないこと、進歩より停滞を好む者は生命の基本条件の一つを犯していること、こうしたことをわれらは教えんとしている。神への道を閉ざし、その門戸に鍵を掛け、己の説く道へ進むことを強要する権利を有する者は一人もおらぬと言うのである。硬直化せる神学、人間の発明せる用語にて勝手に規定せる頑(かたくな)な信仰、その道より外れし者は神より見離されると説き、一字一句たりとも動かし難き教説――これらはみな人間的想像の産物であり、羽ばたかんとする魂を引き止め、地上にくぎ付けにせんとする拘束物であると言うのである。そのような宗教を教え込まれるまま受け入れ、自由を束縛されるよりは、背後霊のみを指導者として自ら迷い、自ら祈り、自ら思考し、自ら道を切り開くことによりて真理の日の出を見るに至る方が、どれだけよいか知れぬ。その迷いの道がいかに苦しくそして長く、頼りとすべき教義がいかに乏しく、且つ心を満たしてくれずとも良い。冷たき風に吹きさらされ、嵐に吹きまくられ、身の細る思いをする方が、息苦しく風通しの悪い人間的ドグマの中に閉じ込められ、息を切らしつつ魂の糧を叫び求めても、与えられるものが石ころの如き古き教説であり、化石の如き人間的無知の産物でしかない生活よりは、遙かに良い。複雑怪奇にして魂の欲求にそぐわぬものを不用意に受け入れ、試練の場であるべき地上生活を無為に過ごし、死してその誤りに気づいて後悔するよりは、たとえ単純素朴であっても背後霊の直接の働きかけによりて、自分なりの神の観念のもとに生き、神の息吹きを受ける方がどれほど良いか知れぬ。己に正直であること、そして恐れぬこと、これが真理探求における第一の条件である。これなくしては魂は羽ばたくことが出来ぬ。そしてこれさえあれば必ず進歩する。


このことを主イエスの生活に示されたる模範の中に今少し見てみなければならぬ。


霊性に目覚めた人間の取るべき態度はどうあるべきかについてはすでに述べた。幸いにして勇気をもって因習より脱け出し、神を求むる旅に発(た)てる者は必ずや、聖書の字句どおりのドグマ的解釈に代わりて、われが説くところの崇高なる霊的信仰へと導かれる。霊の啓示には目に映る形而下的意味と同時に霊的意味も含まれているからである。物的傾向の色濃き時代にはこの霊的解釈が完全に疎かにされる。かくして人間はイエスの教説のまわりに、推論と憶測と形而下的解釈によりて作り上げた壁を張り巡らした。それはパリサイ派の学者がモーセの律法のまわりに巡らせる壁と同じである。こうした傾向は人間が霊界の存在を忘れるに比例して強くなる。かくして今やわれらの目に映るのは、本来なら霊性を吹き込み物的儀式を排除すべく意図されたはずの教説より導かれた、硬直化せる冷ややかなる物質偏重の教説である。


われらの任務はイエスがユダヤ教のために行なえるのと同じことをそなたらのキリスト教のために行なうことである。即ち古き形式に霊的意味を賦与し、新しき生命を吹き込むことである。排除しようというのではない。復活させることこそわれらの望むところである。繰り返すが、イエスが地上にもたらせる教えの一つたりともわれらは排除はせぬ。排除するのは人間の勝手な産物であり、それも、その奥に隠されて見失える霊的意味を表に出してみせるためである。われらはそなたを肉体的支配下の日常生活より少しでも救い出し、そこに浸透せる霊的生活の象徴的意義をより一層理解させんと努めている。字句にこだわりて批難する者は、われらの教説の皮相的解釈しか出来ぬ人種である。われらはそなたを身体中心の生活より引き上げ、肉体を棄てたるのちの生活に相応しき生き方へ導かんと願っている。目下のところ、それには程遠き状態である。が、いずれそなたにも、この地上にありながらも真の霊的生活の尊厳と、そこに満ち溢れる隠れたる神秘を見ることを得る日も到来するであろう。それは今のそなたの精神状態ではわれらも説明することは困難である。


その時が到来するまでは、すべてに霊的意義が秘められていること、聖書もその霊的意義に溢れていること、神学に見られる人間的解釈も定義も注釈も、霊的真理の核心を包蔵せる形而下的“殻”に過ぎぬことを知るだけにて佳しとせねばならぬ。もしもわれらがその殻を一気にはぎ取る挙に出れば、その核心が萎(しお)れ、生命を失うであろう。そこでわれらとしてもそなたの理解力の届く範囲において、そなたの長く親しめる形而下的教説の下に隠れたる生きた真相を指摘する程度にて満足せねばならぬ。


キリストの使命もそこにあった。律法を廃止することでもなく、削除することでもなく、正しく成就せしむることこそわが使命であると公言したのである。モーセの戒律の根底に潜む真理を指摘した。パリサイ派の儀式にまつわる夾雑物を取り除き、ユダヤ学者の空理空論を排除し、その奥底に横たわる霊的真理――人間が埋葬しかかっていた崇高なる原理を白日のもとに曝したのであった。キリストは宗教改革者であると同時に社会改革者でもあった。その生涯の大事業は人間を霊肉ともに向上させることであり、偽善者の正体を暴くことであり、偽善的行為の仮面を剥ぎ取ることであり、暴君より逃れんとしてあがく魂をその魔手より救い出すことであり、そして神より託された真理の徳によりて人間を解放することであった。イエスはいみじくも述べた――“汝らに真理を知らしめん。真理は汝らを解き放たん。然して汝らは自由の身とならん(3)”と。


キリストは生と死と永遠の生命について説いた。人間の真の尊厳を説いた。神についての進歩的知識を説いた。律法の偉大なる体現者として地上へ降りた。律法の意図されたる真の目的すなわち人類の改革を身をもって実践する人間として地上へ来たのである。民衆に心の奥底を見つめるよう、生活を反省するよう、動機を吟味するよう、そして行為のすべてを唯一の尺度、つまりそれがもたらすところの結果によりて価値を判断するよう説いた。常に謙虚に、慈悲を忘れず、誠実で純心で私心なく、己に正直であれと説いた。そして自らそれを実践して見せたのであった。


イエスは偉大なる社会改革者であった。その目的は死後の幸福を説くことであると同時に、この世での幸せを説くことであり、偏屈と利己主義と狭量の生活から解放することであった。イエスは言うなれば日常の宗教を説いたのである。より高き真理を求める日々の生活の中においての霊性の道徳的向上の必要性を説いた。過去の過ちを反省し、償い、そして向上する――そこにイエスの訓えのほぼ全てが要約されている。イエスが目にした地上は無知に埋もれ、その信仰は厚顔無恥の聖職者の言うなりとなり、その政治は暴君の圧制下にあった。そこでイエスは信仰と政治の双方の自由を説いた。が、その自由とは気儘の自由ではなかった。神と自己に対する責任をもつ自由であり、置かれた環境における同胞への責任をもつ自由であった。イエスは人間の真の尊厳を示さんと努力した。真理の尊厳――人間性を束縛から解き放す真理の偉大さを民衆に知らしめんとした。身分にはこだわらなかった。同志も伝道者も身分の低き貧しき階層の者の中より選んだ。そして庶民と共に生きた。庶民の味方であり、庶民と交わり、庶民の家に宿をとった。そして人間として必須の、しかも彼らに理解し得る、素朴なる訓えを説いた。伝統的信仰と高貴なる社会的地位に目を曇らされ、打算的知恵に長(た)けた者たちの中には滅多に足を運ばなかった。慣習的に教え込まれた信仰より少しでも気高く少しでも崇高なる真理を求めんとする情熱を庶民の心に湧かしめた。そしてその真理を手にする方法をも説いたのであった。


人類にとりて真の福音と言うべきはイエス・キリストの福音である。これこそ人間にとりて唯一にして必須の真理である。人間の欲求を満たし、その必要性に応える唯一の福音である。


われらはそれと同じ福音をイエスより引き継ぎて説くものである。イエスを地上に送りし神と同じ神の命令を受け、同じ神の権威と霊示を受け、今まさに同じ福音を説きに参ったのである。イエスの説いた真理と同じものをわれらは説く。人間的無知と誤解による夾雑物を払い落として、改めて説く。物欲的生活の下に埋もれた真理を甦らせんと望むものである。


人間が墓場へ葬れる霊的真理を掘り起こし、それが今なお生き続けていることを、聞く耳を持つ者に教えんと欲しているのである。人間の進歩性と、人間への神の絶え間なき係わり合い、そして昼夜を分かたぬ天使の看護という、単純にして荘厳なる真理を教えたいと願っているのである。


独善的宗教家集団が背負わせた荷はわれらが風に吹き飛ばさせよう。魂の生長を妨げ向上心の足を引っぱるドグマはわれらが引き裂き、魂を解き放とう。われらの使命は人間があまりに歪め過ぎた古き教えの真の姿を継承することである。その源は同一であり、その辿る道も同じであり、その向うところもまた同じである。


〔インペレーターの指揮のもとに続けられているこの教化事業はイエス・キリストの命によるものと理解してよいかとの問いに対して――〕


その通りである。先に余は、余の使命が“動”の世界より“静”の世界へと突入せる一柱の霊より授けられ今なおその指令下にあると述べた……イエス・キリストは過去に蓄積せる誤れる信仰を払い清めると同時に、これより一段と啓示を押し進めんがために天使を召集する計画を用意されつつあるところである。


――他の交霊会でもこれに類する話を耳にしましたが、これが“キリストの再来”ということですか。


キリストの再来とは霊的再来のことである。人間が夢想するような、肉体に宿っての再生ではない。使徒を通じて聞く耳をもつ者に語りかけるという意味での再来である。イエス自身もかく述べているであろう――「聞く耳をもつ者は聞くがよい。受け入れ得る者は受け入れるがよい(4)」と。


――こうした通信は多くの人々にもたらされているのでしょうか。


さよう。神がこの時期にとくに影響力を強めておられることを大勢の者に知らしめているところである。が、今はこれ以上は述べぬ。神の祝福のあらんことを。


(†インペレーター)

シルバーバーチの霊訓  霊的新時代の到来

The Spirit Speaks
トニー・オーツセン(編) 近藤千雄(訳)




6章 真理を悟った人間は決して取り越し苦労はしません


熱心なスピリチュアリストである実業家が、ある日の交霊会で質問した。

「背後霊や友人(の霊)に援助を要請するのは、どの程度まで許されるのでしょうか」


「生身の人間である霊媒との接触によって仕事をしているわたしたちは、地上生活における必要性、習慣、欲求といったものを熟知していなければなりません。物的必要性について無頓着ではいられません。現実に地上で生活している人間を扱っているからです。結局のところ、霊も肉体も大霊の僕(しもべ)です。霊の宿である肉体には一定の必需品があり、一定の手入れが必要であり、宇宙という機構の中での役割を果たすための一定の義務というものもあります。肉体には太陽光線が必要であり、空気が必要であり、着るものと食べるものが要ります。それを得るためには地上世界の通貨(コイン)(※)であるお金(マネー)が必要です。そのこともよく承知しております。しかし、次のことも承知しております。


※――“奉仕(サービス)は霊の通貨です”というのがシルバーバーチの決まり文句で、マネーによって物的生活が営まれているように、霊的生活はサービスによって営まれているというのであるが、ここでもそのことを念頭において述べている。


霊も肉体も大霊の僕と申し上げましたが、両者について言えば、霊が主人(あるじ)であり、肉体はその主人に仕える僕です。それを逆に考えるのは大きな間違いです。あなた方は本質的には霊なのです。それが、人間は潜在的に神性を宿していると言われるゆえんです。つまり宇宙の大霊をミニチュアの形で宿していることになります。宇宙という大生命体を機能させている偉大な創造原理が、あなた方一人ひとりに宿っているのです。意識をもった存在としての生命を受けたということが、神的属性のすべてが内部に宿っていることを意味します。全生命を創造し、宇宙のありとあらゆる活動を維持せしめている力があなた方にも宿っており、その無尽蔵の貯蔵庫から必要なものを引き出すことができるのです。

そのためには平静さが必要です。いかなる事態に遭遇しても、心を平静に保てるようになれば、その無尽蔵のエネルギーが湧き出てきます。それは霊的なものですから、あなたが直面するいかなる困難、いかなる問題をも克服することができます。

それに加えて、背後霊の愛と導きがあります。困難が生じた時は、平静な受け身の心を保つよう努力なさることです。そうすれば、あなた自身の貯蔵庫から――まだ十分には開発されていなくても――必要な回答が湧き出てまいります。きっと得られます。われわれはみな進化の過程にある存在である以上、その時のその人の発達程度いかんによっては、十分なものが得られないことがあります。しかし、その場合でも、慌てずに援助を待つことです。こんどは背後霊が何とかしてくれます。

求めるものが正当か否かは、単なる人間的用語の問題にすぎません。わたしたちから見て大切なのは“動機”です。いかなる要求をするにせよ、いかなる祈りをするにせよ、わたしたちが第一に考慮するのは、その動機なのです。動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え、自分への利益を忘れた無私の行為であれば、決して無視されることはありません。それはすなわち、その人がそれまでに成就した霊格の表れですから、祈るという行為そのものが、その祈りへの回答を生み出す原理を作動させるのです」

ここでメンバーの一人が「学識もあり誠実そのものの人でも取り越し苦労をしています」と述べると――


「あなたは純粋に地上的な学識と霊的知識とを混同しておられるのではないでしょうか。霊的実在についての知識の持ち主であれば、何の心配の必要もないことを悟らねばなりません。人間としての義務を誠実に果たし、しかも何の取り越し苦労もしないで生きていくことは可能です。のほほんとしていてもよいと言っているのではありません。そんな教えは、かりそめにも説きません。むしろわたしは、霊的真理を知れば知るほど、人間としての責務を意識するようになることを強調しております。しかし、心配する必要はどこにもないと申し上げているのです。霊的成長を伴わない知的発達も有り得るのです」

最初の質問者「あからさまに言えば、取り越し苦労性の人は霊的に未熟ということでしょうか」


「その通りです。真理を悟った人は決して取り越し苦労はしません。なぜなら、人生には大霊の計画が行きわたっていることを知っているからです。まじめで、正直で、慈悲心に富み、とても無欲の人でありながら、人生の意義と目的を悟るほどの霊的資質を身につけていない人がいます。無用の心配をするという、そのことが、霊的成長の欠如の指標であると言えます。たとえわずかでも心配の念を抱くということは、まだ魂が本当の確信を持つに至っていないことを意味するからです。確信があれば心配の念は出てこないでしょう。

偉大なる魂は、泰然自若(たいぜんじじゃく)の態度で人生に臨みます。確信があるからです。その確信は何ものによっても動揺させられることはありません。このことだけは絶対に譲歩するわけにはいきません。なぜなら、それがわたしたちの霊的教えの土台であらねばならないからです。

その基本法則にもとることでも起こり得るかのように説く教えは、すべて間違いです。原因と結果の間には何一つ、誰一人として介入することはできません。あなたの行為の責任を他人の肩に背負わせる方法はありませんし、他人の行為の責任をあなたが背負うこともできません。各自が自分の人生の重荷を背負わねばならないのです。そうであってはじめて正直であり、道徳的であり、道義的であり、公正であると言えましょう。

それ以外の教説はすべて卑怯であり、臆病であり、非道徳的であり、不公正です(※)。摂理は完璧なのです」


※――提示された話題を、質問者が考えてもみなかった方向へ広く深く敷延していくのがシルバーバーチの特徴の一つであるが、ここでも単なる取り越し苦労の話をキリスト教の贖罪説に結びつけて、これを厳しく断罪している。イエスを信じて洗礼を受ければ全ての罪をイエスが背負ってくれるから安心なさい、という贖罪説は、心配・不安・恐怖といった人間の煩悩をうまく利用した卑怯な教説であることを述べているのであるが、これはキリスト教に限ったことではなく、“ウチの宗教に入信しさえすれば……”といった勧誘方法は、新興宗教のすべてが使う手段で、言うなれば“商売の手口”である。

「広い意味において人間は他のすべての人に対して責任があるのではないでしょうか。世の中を住み良くするのは、みんなの責任だからです」


おっしゃる通りです。その意味においては、みんなに責任があります。同胞として、お互いがお互いの番人(旧約聖書)であるといえます。なぜなら、人類全体が“霊の糸”によって繋がっており、それが一つに結びつけているからです。

しかし、責任とは本来、自分が得た知識の指し示すところにしたがって人のために援助し、自分を役立て、協力し合うということです。しかるに、知識は一人ひとり異なります。したがって、他人が他人の知識に基づいて行ったことに自分は責任がないことになります。

が、この世は自分一人ではありません。お互いが持ちつ持たれつの生活を営んでおります。すべての生命が混じり合い、融合し合い、調和し合っております。そのすべてが一つの宇宙の中で生きている以上、お互いに影響を与え合っております。

だからこそ知識に大きな責任が伴うのです。知っていながら罪を犯す人は、知らずに犯す人より重い責任を取らされます。その行為がいけないことであることを知っているということが罪を増幅するのです。霊的向上の道は容易ではありません。知識の受容力が増したことは、それだけ大きい責任を負う能力を身につけたことであらねばならないのです。

幸と不幸、これはともに大霊の僕です。一方を得ずして他方を得ることはできません。高く登れば登るほど、それだけ低く落ちることもあるということであり、低く落ちるほど、それだけ高く登る可能性があることを意味します。これは理の当然でしょう」

「“恐れ”というのは、人間の本能的要素の一つです。それをなくせと言っても無理だと思うのです。これは自衛のために用意された自然の仕組みです。動物の世界は“恐れ”に満ちております。それがいけないとなると、ではなぜ、それが動物界の基本的要素となっているのかという疑問が出ます」


「なかなかいい質問だと思います。人間は二面性をもつ存在であり、動物時代の名残と、本来の資質である霊性の二つの要素を、地上生活の中で発揮しております。そして、より高く進化していく上で不可欠の“自由意志”を授かっております。それが内部の神性が発揮されていく必須の条件だからです。

このように人間は、その進化の道程において、持てる資質を利己的な目的に使用するか利他的な目的に使用するかの二者択一を、永遠に迫られることになります。これまでにたどってきた進化の道程において植えつけられた肉体的要素に負けてしまえば、生命の根源そのものである霊性の優位を否定していることになります。

恐怖心は大体において動物的先祖から引き継いだものです。そして、わたしが“動物的先祖”という場合は、物的身体が原初から今日に至るまでにたどってきた進化の全側面をさします。しかし、だからといって、やむを得ないこと、ということにはなりません。たしかに自衛本能としての恐怖心もありますが、まったく無意味で筋の通らない、救いようのない恐怖心もあり、それが困難や危険を増幅し、視野を遮ってしまいます。生活の根底であるべき霊的実在に、まったく気づいていないからです」

「動物の場合は、本性そのものが恐怖心を必要としているという意味でしょうか」


「人間は動物よりはるかに高度の意識を発揮していますから、それだけ精神的側面をコントロールできないといけません。が、動物は、人間に飼われているものは例外として、本能的に行動しています。人間には理性があります。そして、高級界からのインスピレーションを受け取り、叡智と知識を活用することによって、暗黒と無知の産物をなくしていく霊的資質をそなえております」

「動物も、進化すると恐怖心を見せなくなります。人間を恐れるのは虐待行為に原因があるのだと思います」


「わたしが今“人間に飼われているものは例外として”と申し上げたのは、そのことがあったからです。人間との接触によって人間的意識をいくらか摂取して個体性をもつようになり、恐怖心を捨てていきます。そこに“愛の力”の働きが見られるのです。人間が愛を発現することによって、その愛が動物から恐怖心を追い出します。人間は、その自由意志によって動物に無用の恐怖心を吹き込むという罪を犯していることを忘れてはなりません。野生動物でさえも、人間の愛によって恐怖心を捨てていくものなのです。そして、現実にライオンと小羊が仲良く寝そべるようになるのです」

「あなたがおっしゃるように、もしも摂理が完璧で、数学的正確さをもって働き、あらゆるものを認知し、誰一人として不公平に扱われることがないようにバランスが取れているとしたら、それはカルマの法則と再生の事実を認めていることになるのでしょうか」


「イエス・ノーの答え方だけで言えば、イエスです」

「ある記事で、きわどい手術をするために医師がその患者の心臓を十五分間ストップさせたという話を読みました。私は、心臓が鼓動をやめたら、その瞬間に霊は身体を離れたはずだと思うのですが……」


「霊が身体から離れはじめると心臓が鼓動を止めはじめるのです。ですが、その離脱の過程はふつう、かなりの時間を要します。自然死の場合の話です。その過程の途中で、一時的に鼓動が止まることがあります。単なる生理反応が原因の場合もありますし、機能上の欠陥が原因の場合もあります。いずれにしても、心臓が止まったから霊が逃げ出すのではありません。逆です。霊が引っ込むから心臓の機能が止まるのです」

「建設的な目的にせよ、原子力を使うために核を分裂させなければなりませんが、それは自然界の調和の原理に違反し、人類自身にとっても危険なことではないでしょうか」


「これは非常に難しい問題です。なぜかといえば、それには現在の地上人類に理解できない要素がたくさん含まれているからです。宇宙に調和の原理があり、それを人間が乱すことはできます。が、大自然の摂理の働きを止めたり変えたりすることはできません。わたしが言わんとしているのは、もしも原子核の分裂が不可能だったら、人間が核分裂を起こすことはできなかったということです。

このことに関連して間違いなく言えることは、この核分裂の発見は調和のとれた進化からズレているということです。つまり、まだその時機でなかった――人類の精神的ないし霊的成熟度が十分でなかったということです。もし十分であれば、原子エネルギーの使用にまつわるさまざまな問題は起きないはずです。この、とてつもない発見のおかげで、人類は霊的に受け入れる用意のできていないものを手にしてしまい、それがもとで、大変な危険の可能性を抱えてしまいました。が、各国の命運を握っている指導者たちが、霊的な叡智に目覚めれば解決できるでしょう。というよりは、それしか道はないでしょう」

「私たちは子供の頃から“愛の神”“天にまします父なる神”を信じるよう教えられてきましたが、地上生活を終えた霊が、地上の人間に憑依することが有り得るものなのでしょうか」


「もちろん有り得ますとも」

「愛の神がそれを許すものなのでしょうか」


「大霊とは法則のことです。ある人間的な存在がいて、それはやってよろしい、それはいけません、といった指図をしている図を想像してはなりません。原因と結果の法則で動いている宇宙なのですから、地上と霊界との交信にもちゃんとした原理があります。その原理は“善人にしか使用できません”という規約をもうけるわけにはいかないのです。同じチャンネルを善霊でも悪霊でも使用できるのです。

他界後に地縛霊となってしまうような地上生活を送った場合、それは利己主義や貪欲や強欲が悪いのであって、大霊が悪いのではありません。また、麻薬やアルコールや貪欲がもとで、そういう地縛霊に憑依されるようなことになった場合、それをどうして大霊のせいにできましょう。自分の自由意志でやったことなのですから」

「これからは心霊治療がもっとも重大な分野となるように計画されているのでしょうか」


「迷うことなく“そうです”と申し上げます。これからは、病気に苦しむ人々の治療の分野に霊力を顕現させていく計画が用意されています。病気や障害のために人生が侘(わび)しく、陰うつで、絶望的にさえ思えている人々に、霊的な治癒エネルギーが存在することを証明してあげるのです。

霊力――生命力そのものであり、数多くの治療家(チャンネル)を通して注入される無限のエネルギーは、病気や障害によって痛めつけられ苦しめられている身体に、新たなエネルギーを注ぎ込んで活気づけ、いかに疑り深い人間でも、地上の用語では説明できない力が存在することを認めざるを得なくしてしまいます。皆さんが生きておられる今の時代にぜひ必要だからこそ、そう計画されているのです」

「治療していただくのに、なぜ治療家にお願いしなければならないのでしょうか」


「要請があるまでは対応のしようがないからです。治療に使用するエネルギーは、こちらから呼び入れなくてはならないのです。生命力は宇宙的活動の一環として全宇宙くまなく巡っております。が、その中の一部を一人の患者のために使用するには、知的操作によって、そのエネルギーを誘導しなくてはなりません。したがって、前もってその要請がなくてはなりません」

「要請がなくても、そちらから知的な操作ができるのではありませんか」


「できます。が、治療家という媒体がいないと、それは純粋に霊的次元での操作にとどまることになります。それを地上に顕現させるには、連結体、ないしは通路にあたる媒体がなくてはなりません。たとえば、あなたが奥さんから遠く離れたところにいるとして、奥さんがあなたと連絡を取るにはどうしますか。電話という連絡手段がいるでしょう。それと同じです」

「その要請をなぜ治療家にお願いしなければならないのでしょうか」


「治療家が“焦点”となるのですから、当然そうなります。別の側面から見れば、そもそも霊的治療を要請するということ自体、その患者の魂が霊性に目覚めはじめ、霊的な援助が叶えられることを自覚しはじめたことの兆候なのです。ご存知の通り、霊的治療のそもそもの目的は――わたしたちの仕事はすべてそうなのですが――人間の本性が霊的なものであることに関心を向けさせることにあるのです」

「その覚醒が治癒を呼び寄せるという要因もあるわけですね?」


その通りです。霊性に目覚めはじめた魂は、当然つながりができるべきエネルギーを自動的に引き寄せるのです」

「“求めよ、さらば与えられん”という言葉はそのことを言っているのでしょうか」


「そうですとも。真摯(しんし)に求めるという行為が、満たされたいという魂の欲求を始動させ、それが、エネルギーが届けられる連鎖反応を起こすのです。祈りが届けられるのです」

「すべての治療家が、たぶん同じ霊的エネルギーを使用しているはずなのに、なぜ治療家によって治り方に差異があるのでしょうか」


「霊力には無限のバリエーションがあります。一人の治療家を通して顕現されるものは、その治療家のもつ肉体的・精神的・霊的資質によって特徴づけられます。気質・霊的進化の程度・性格・人生観――こうした要素が、その人を通過する霊力の質と量とを決定づけるのです。本質的には同じエネルギーですが、真理と同じく、無限の様相を呈するのです」

「患者の態度が治療効果を左右することもありますか」


「もちろんありますとも。霊的治癒力も自然法則の働きにしたがって作用します。その法則が治癒力の強弱を左右することになるのですが、その際に霊と精神と肉体にかかわるさまざまな条件が絡んでまいります。治療家自身だけでなく、患者の条件も絡んでいます。

遠隔治療で患者に知られずに行っても成功した例があることは、わたしもよく知っております。しかし、念のために申し上げておきますが、意識的な自覚はなくても、内奥の魂は自覚しているのです。治療の対象はその魂です。心霊治療はすべて、内部から外部へと働くのです」

「遠隔治療の原理をご説明ねがえませんか」


「目に見えないもの、手で触れることのできないもの、耳に聞こえないものでも実在するものがいくらでもあることが分かってきた現在、霊的放射物が距離に関係なく目標物(患者)へ届けられるのが信じられないというのが、わたしには理解できません。ふだんの肉眼に映じない波長を映像化してくれる器具はいくらでもあります。しかも、それにもきちんとした法則があることも分かっております。

遠隔治療の場合も、確固とした波長、放射物、治癒エネルギー――どう呼ばれてもかまいません――そういうものが使用されており、霊界の専門霊によって治療家を通して患者に注がれるのです」

「自分で自分を治す力は誰にでもあるというのは本当でしょうか」


「潜在的にはみんな持っております。なぜなら、大霊の一部としての霊性を宿しているということは、必然的に生命力ないし原動力を宿していることになるからです。それが機能を正常にします。ですから、それを働かせる方法(こつ)を会得(えとく)しさえすれば、自分で自分を治すことができるという理屈になります」

「心霊治療によって苦しみが取り除かれます。が、一方では、地上人生の教訓を学ぶには苦しみも大切な要素であると説かれています。そうなると、病気が治るということはそのチャンスを奪うことになり、霊的成長の障害となるという理屈にならないでしょうか」


「大自然の摂理の働きには絶対に干渉できません。宇宙は絶対に狂うことも間違うこともない、無限の知性によって規制されております。これだけは避けて通るわけにはいかないものなのです。そこで、それを知らないがために引き起こしている愚かしい過ちによる余計な苦しみ、無くもがなの苦しみが実に多いのです。たしかに地上生活の目的は霊的成長にありますが、その目的を成就する手段はいくらでもあります。苦しみはその中の一つということでして、それしかないわけではありません」

「治療法にも信仰治療、霊的治療、磁気療法、神癒などと、いろいろあるようですが、どこがどう違うのでしょうか」


「大ざっぱに言って、わたしは二つに分類するのがよいと思います。霊界のエネルギーによるものと地上のエネルギーによるものとの、二種類です。催眠療法、磁気療法、暗示療法、こうしたものは治療家自身によるもので、霊界とは何の関係もありません。それはちょうど、心霊(サイキック)能力が霊的(スピリチュアル)能力と違って霊界とは何の関係もないのと同じです。

もう一つの種類は霊界から届けられる治癒エネルギーによるもので、それにもいろいろと治療法があって、それぞれに名称があるようですが、いかなる方法であれ、またいかなる名称であれ、基本的には霊力の作用である点は同じです」

「治癒力を磨くにはどうすればよいのでしょうか」


「我欲を捨て、人のために役立ちたいという心がけで生きることです。霊的能力を開発するための最大の要素は、その“人のために役立ちたい”という欲求です。それは病人だけでなく、同胞すべてに対する愛であり、その愛の中において治癒力が増してまいります」

「治療家が風邪を引いたりインフルエンザにかかったり、その他、いろいろと体調を崩すことがあるのは、なぜでしょうか」


「それは何か摂理に反したことをした、その反応でしょう。治療家も人間です。霊力の道具であるとはいえ、摂理の働きを特別に免れるわけではありません。魔法はありません。摂理は正直に働きます。治療家がそれを犯せば、それなりの結果に直面させられます」

「治療家ですら、自分の病気を治せないことが多いのはなぜでしょうか」


「治療家というのは、大体において霊力の通路にすぎません。霊力の流れを通過させているだけです。治療家でも自分で自分を治せる人はいくらでもいますが、治癒力がその人を通って患者へ流入するというだけの過程では、必ずしもその人自身の病気を治す目的には使用されません。その辺のことは、治療家のタイプによります。

たとえば、治療家が何かの事故で身体機能に障害をきたしたとします。ところが患者の治療には何ら差しつかえがないということがわかった場合、治療家によっては、自分のことはどうでもよいと考えるかも知れません。わたしだったら、そう考えるところです」

「その際、自分は治療家だから、放っといてもちゃんと治してくれるだろうと考えるのは間違いでしょうか」


「“治る”ということは、本来、能動的な作用であって、受動的なものではありません。魂の悟りが原動力となっているものです。真の自我に目覚めるということが重大な要素なのです。目覚める段階までくれば、物的障害を突き破ろうとする欲求が湧いてきます。切望し、希求するその願望を引き出すのが、心霊治療の本来の目的です」

「愛(いと)しい人に先立たれた人には、死後の再会の楽しみがありますが、この投書の質問者には、そういう人がいないとのことです。こういう場合はどうなりますか」


「大霊の摂理は完璧です。幾十億年にもわたって、一度も誤ることなく、そして絶え間なく働いてまいりました。この広大な宇宙機構の中にあって、何一つ見落されることもなければ、忘れ去られることもありません。その投書をなさった方も例外ではありません。その摂理には埋め合わせというものがあります。地上で欠けていたものは、こちらへ来て補われます。つねに完全なバランスが取れており、摂理どおりに落ち着くのです。霊的機構においては誰一人として忘れ去られることはありません」

「ヨガでは身体機能を自在にコントロールする修行をしますが、あれは霊的発達にとって不可欠のものでしょうか。何か役立つことでもあるのでしょうか」


「まず初めのご質問に対する答えですが、これは不可欠のものではありません。身体を鍛練し、自制心を身につけ、物質に対する精神の影響力を披露する方法であって、それによって心霊的能力を開発することにはなりますが、これをやらないとダメというものではありません。方法なら他にいくらでもあります。なお、はっきり申し上げておきますが、このタイプの鍛練方法は西洋人よりも東洋人に向いております」

「それはまた、なぜでしょうか」


「本性において、東洋人の方が西洋人より瞑想的であり、興味を持ちやすいからです。大気そのものに、そういうものに馴染ませる要素があるのです。昔からその道の達人が根拠としてきた宗教思想があり、それを自然に身につけているのです」

「西洋人にはそれに匹敵する別の鍛練法があるわけでしょうか」


「身体をコントロールする精神力の存在を教える鍛練は、それが結果的に霊性を開発することになるのであれば、何でも結構であると信じます。ただ、呼吸を止めたり、脈拍や血行を変えたりすることができるからといって、それで霊的に立派になったことにはなりません」

「質問が少し大きすぎるかも知れませんが、西洋人にとってはどういうタイプの鍛練をすべきでしょうか」


「精神統一です。一日一回、少しの時間を割(さ)いて精神を統一し、霊的な力を表面に出す鍛練をすべきだと思います。生活があまりにせわしく、霊的な気分一新をするゆとりがなさすぎます。内側と外側に存在する霊的エネルギーが顕現するのは、精神が穏やかで、受け身的で、控え目になっている時です」

「睡眠状態には、その効果はないのでしょうか」


「霊性の積極的な発達には、効果はありません。睡眠というのは、霊体が肉体から解放されて霊界を訪れ、死後の生活の準備をするために自然が用意してくれた機能です」

「イエスの姿が見えると言いながら死んでいく人がよくいます。最近でも、ローマ法王がイエスの姿を見たと述べておりますが、この“姿”というのは何なのでしょうか。本当にあのイエスなのでしょうか」


「とても興味ぶかい問題です。ですが、言うまでもないことですが、見た、見えた、といっても、それが実際に何であったかの確認はできません。その時の姿が本当にその人であったとはかぎらないからです。そもそも、わたしたち霊の真実の姿を物的形体でお見せすることはできないのですから、したがって映像化してお見せするしかないのです。

たとえば、わたしが霊界で表現している本来の容姿をみなさんに認識していただきたくても、それをお見せする手段がありません。したがって、わたしを視覚に映じる形でお見せすることはできないわけです。同じ意味で、ナザレのイエスが今霊界で顕現しておられるお姿は、地上の手段では表現のしようがありませんから、人間にはお見せできないわけです。そこで、その人間にわかりやすく映像をこしらえて見せることになるわけです。

今日のいかに熱烈なクリスチャンといえども、イエスの現在の本当の姿をお見せしても、まったく意味がありません。イエスさまの姿を見たとおっしゃっても、それはその人が想像しているイエスの姿を見たという意味であり、実体をご覧になったわけではありません。こしらえられた映像を見たわけです。おわかりでしょうか」

「見たと言っている人の思念の投射である場合もあるわけでしょうか」


「その通りです。人間の精神には映像をこしらえる能力がありますから、それが具象化するほど強烈な場合には、そういうことも起こりうるわけです。一つの思念をある一定の次元で保持し続けると、その通りの形体を取るのです。物的形体ではありません。幽質の場合もあれば、霊的な場合もあります。要するに、非物質の世界のいずれかの次元での映像となるわけです」

「死にぎわだから見えやすいということも、原因と考えてよろしいでしょうか」


「そのことに関して二つの事情を忘れてはなりません。一つは、ナザレのイエスが今どういう容姿をしているかを知っている者は、地上には誰一人いないということです。もう一つは、イエスが地上にいた時の容姿についても、誰一人知る者はいないということです。そうなると、これはイエスだと判断する材料は何もないということになります。

たしかに死にぎわには大変な量の心霊的ならびに霊的エネルギーが放出されます。遠くにいる肉親・縁者に姿を見せることができるのも、そのためです。死んだとはいえ、まだ地上的波動の中にいますから、何マイル先であっても、大体の生前の容姿を取ることができるわけです。あくまでも死にぎわにかぎっての話です。イエスの姿が見えたというのも、同じく死にぎわにおける心霊的ならびに霊的エネルギーの放出によって生じる現象です」

「地獄は存在しないと言ってくる霊がいます。そうなると、真っ暗いところとか薄暗い世界というのは何なのでしょうか」


「地獄はあります。ただ、地獄絵などに描かれているものとはかぎらないというまでのことです。未熟な霊が集まっている暗い世界は、もちろん存在します。そこに住んでいる霊にとっては、そこが地獄です。実在の世界です。

考えてもごらんなさい。地上世界を暗黒と悲劇の淵に陥(おとしい)れた者たち、無益な流血の巷(ちまた)としてしまった張本人たち――こういう人たちがこちらへ来て置かれる境遇がどういうものか、大体の想像はつきませんか。

そうした行為の結果として直面させられる世界が天国であろうはずはありません。まさに地獄です。が、バイブルに説かれているような、業火(ごうか)で焼かれる地獄とは違います。行ったことの邪悪性、非道徳性、利己性を魂が思い知らされるような境遇です。それが地獄です。そこで味わう苦しみは、中世の地獄絵に描かれたものより、はるかに耐え難いものです」

「私たちが他界したあと、それまでの背後はどうなるのでしょうか。私たちが死ぬと同時に用済みとなるのでしょうか」


「あなたとのつながりが、単に地上での仕事のためのものであれば、死によってその仕事も終わったわけですから、その霊とのつながりも終わりとなります。とくに霊媒の支配霊の場合は、その人間の霊的能力を有効に使用することを目的として付き添うわけですから、霊媒の死と同時につながりはなくなります」

「霊媒を通して支配霊とも親しくなった者にとっても、死とともに縁が切れると聞くと、一抹のさみしさを覚えます」


「わたしは、つながりは終わりとなると申し上げているのであって、それは、縁が切れて別れ別れになってしまうという意味ではありません。地上時代のようなつながりは終わりとなるということです」

「さきほどの方は、そういう意味で述べたのだと思います」


「会いたいと思えば会えます」

「死後も特別な関係が続くのでしょうか」


「支配霊と霊媒、という関係にすぎなかった場合は何も残りません。仕事が終わったのですから」

「お互いに会えなくなるという意味ではないのですね?」


「これまでにも何度も申し上げておりますように、この問題に関する答えは、支配霊と霊媒の霊的発達程度の違いによって異なります。意識の程度とインディビジュアリティーに関わる問題でして、これはテーマが大きくなってきます。

あなたがお知りになりたいのは、死後あなたがこのわたしと会えるのか、そして、この霊媒がわたしと会えるのか、ということなのでしょ? もちろん、ここにおいでの皆さんとは再会できるでしょう。が、その時はもう、こうした形でしゃべる必要がないことを期待したいものですね(※)」


※――死後の目覚めと、その後の霊的成長度は各自まちまちであるから、もしかしたら、面会を要請されても、直接の対面はできないことも有りうることを示唆している。

「交霊会で物理的現象を求めている場合の出席者の態度はどうあるべきでしょうか。その場合でも霊視力とか霊聴力を働かせてもよろしいでしょうか。もしいけないとなると、それは意識的に抑えられるものでしょうか。抑えられるとしたら、その方法を教えてください」


「物理的現象を求めている時に精神的現象を起こそうとすると、障害となります。霊視、霊聴、入神談話といったものは抑えて、あくまでも物理的なものが起きるように、辛抱づよく待っていただかねばなりません」

「そのように意識的に抑制できるものなのでしょうか。そのテクニックを教えていただけませんか」


「難しく考えることはありません。精神的心霊能力をもつ人が、精神状態を受け身的にならないようにすればよろしい。この霊媒(バーバネル)がもし拒絶したら、わたしはコントロールできなくなります。いつも受け身の精神状態になってくれるので、ラクに支配できているのです」

「フリーメーソン(※)の団体に加入することをおすすめになりますか」


※――博愛・自由・平等の実現を目指す世界規模の団体。一種の秘密結社で、全容は明らかでない。


「どこかの組合や会派や団体に加入すること自体は何の意義もありません。大切なのは、その人が日常生活で何をするかです。ただし、そういうものに加入することによって、より親切で、より非利己的で、より人のためになる生活を志向することになると思う人は、加入させてあげるがよろしい。

しかし、唯一の、そして厳格な基準は、その人の日常の行為です。為すことのすべてにおいて、責任を負わねばなりません」

「フリーメーソンの教義は、心霊能力の開発にとって有益であるとお考えでしょうか」


「その教義の本当の意味を理解し、他の信者がただの“お題目”と考えているものを霊的開発の糧にすることができれば、それも有益であることになります」

「そういう秘密結社がはびこる風潮は好ましいことでしょうか。真理はすべての者に開かれたものであるべきで、一部の者によって独占されるべきものではないと思うのですが……」


「というよりは、そもそも真理とは独占できる性質のものではないのです。無限なるものであり、これで全部です、などと言える性質のものではないからです。そうした活動は、動機さえ正しければ、秘密のうちに行おうと、公然と行おうと、それは関係ありません。何事も動機によって判断しないといけません。大切なのは各自の人生において何を為すかです。

わたしたちがこうして地上世界へ戻って来たのは、宗教というものを実際的な日常のものにするため、と言ってもいいのです。もう、信条だの、形式だの、儀式だのと結びつける時代ではありません。宗教とは人のためになる()行為(サービス)のことであり、人のために役立つことを志向させるものは、何であってもよいということを、ありとあらゆる手段を講じて主張するものです」

「でも、フリーメーソンでは、そのサービスを会員の者の間だけに限っております」


「そのことも知っております。ですが、少なくとも人のために良いことをしていることは事実であり、それはサービスの第一歩です」

「ある霊視家によると、自殺した者ばかりが集まる場所があるそうですが、本当でしょうか。実際にそこを見てきたと言い、正視できないほど惨めだという話ですが……」


「地上生活をみずから中断させた者が集まっている界層が見えたというのは、ある意味では事実かも知れません。同じ意識レベルの者が類をもって集まっているわけですから。

ですが、そこが自殺者の連れて行かれる固定した場所であると考えるのは間違いです。同じく自殺した人でも、動機によって一人一人裁かれ方が違います。一人一人に公正な因果律が働きます。何度も申し上げておりますように、全事情を決定づける要素は“動機”です。それがその人の魂の指標だからです。

宗教的信仰における頑迷さにおいて程度が同じであることから同じ界層に集まっている人たちもいます。その界層へ行けば、そういう人たちばかりがいるわけです。あなたも、あなたの魂の成長度に似合った場所へ行かれます」

「自殺者には互いに引き合う何か共通の要素があるから集まるのではないでしょうか」


「霊的発達の程度が同じだからです。それが死後に置かれる位置を決定づけるのです。霊的にどの程度の魂であるかが、霊界においてどの界層に落ち着くかを決定づけるのです。こちらでは霊性がそのまま現実となって具象化するからです。

自殺者の中にも霊的レベルの同じ者がいますから、そういう者が集まっている界層を霊視家が見たというのは有り得ることだと申し上げたわけです」

一読者からの投書による質問「私たちは精神的生活が死後もそのまま持続されると信じていますが、精神に異常のある人の場合、とくに永いあいだ錯乱状態にあった人はどうなるのでしょうか」


「精神的に異常のある場合は、精神が地上生活の目的である“発現”のチャンスが与えられなかったということであって、破壊されていたわけではありません。損傷を受けることはありますが、秘められている能力そのものは無傷のままです。発現のチャンスが奪われたということです。

そうした人の場合は、知性が幼児の程度のままでこちらへ来ますので、その発育不足を補うための調整が少しずつ行われます。霊にかかわるものには永遠の傷というものはありません。一時的な状態であり、そのうち調整されます」

「身内の者が出現した時、なぜ霊界での趣味とか研究、今つき合っている人、進歩の程度などについて詳しく話してくれないのでしょうか。何人かの名前をあげたり、花の名前を言ったり、そのうち万事うまく行きますよ、とか、いつもそばにいて力になってあげてますよ、といった簡単なセリフしか言いません。私たちが休日に遊びに行った時の楽しい話を手紙で書き送るような調子で、なぜもっといろいろと語ってくれないのでしょうか」


「それはいささか話が違いますね。もしも、地上との交信が休日の体験を手紙に書くような、そんな簡単なものであれば、もっともっと多くの情報が送れるのですが、残念ながら霊媒を通じて語るのは、手紙で書き送るほど単純なものではないのです。

交信が始まった当初は断片的なものしか語れません。そこで、たとえばあなたがほんの一言でも伝えるチャンスが与えられたとしたら、地上に残した人には“大丈夫よ、みんな元気ですよ”と言ってあげたいと思うのではないでしょうか。それは大いなるメッセージです。とくに初めて霊からのメッセージを聞く人にとっては、大いに意義があります。

ただし、霊は断片的なことしか語らないという言いがかりは、このわたしに関しては当らないと思います。初めのころは断片的でしたが、その後、回を重ねて膨大な量の情報を提供してまいりました。それが多くの書物(霊言集)となって残されております」

祈り


ああ、大霊よ。何はさておき、あなたへの感謝の祈りを捧げることから始めさせていただきます。この驚異に満ちた宇宙のすべてに、あなたの神性の刻印が押されているからでございます。あなたの無限なる知性がこの宇宙を創り出されたからでございます。それを動かすのもあなたの無限なる愛であり、それを維持するのもあなたの無限なる叡智だからでございます。

あなたの霊が千変万化の生命の諸相に行きわたり、その一つ一つの活動をあなたの摂理が認知いたしております。あなたの子等が最高度に魂を高揚された次元において行う行為に顕現されるのは、ほかならぬあなたの神性なのでございます。

あなたは子等のすべてに、あなたの神性の種子を植えつけられました。したがって、この地上生活中のみならず、それを終えたあとの霊の世界においても、あなたと子等の間には、切ろうにも切れない絆があるのでございます。

地上に生をうけている者は、いずこにいようと、いかなる地位にあろうと、階級・肌の色・民族・国家の別なく、すべてあなたの生命の一部であり、あなたの摂理によって維持され、あなたの霊性によって結ばれているのでございます。

かくして子等は、永遠にあなたと結びつけられているのであり、忘れ去られることも、無視されることも有り得ないのでございます。あなたの不変・不易の摂理が、愛と叡智の配剤のもとに支えているのでございます。

わたしどもは、子等が霊と精神と身体を存分に機能させることによって、内部にある神性を自覚し、霊的資質を発現し、あなたから譲りうけた遺産を、豊かで光輝にあふれた人生という形でわがものとしてもらうためには、いかに生きれば良いかを教えたいと念願しているところでございます。

人間は、あなたがその物的器官に宿された霊の資質を行使することによって、物質の領域を超えて高次元の世界の存在と交わることができます。その存在も、かつては物的牢獄に閉じ込められていたのを、今はそれを完全に超越して、愛と奉仕の気持ちから地上圏へ戻ってきているのでございます。

物質と霊の二つの世界が手を握り合い、霊力の流入を妨げている障害を取り除くことによってインスピレーションをふんだんに摂取し、これまであまりに永きにわたって、あまりに多くの者が閉じ込められてきた憂うつと暗黒を打ち払い、霊の光輝によって人生を豊かにすることができるようになることでしょう。

Monday, March 9, 2026

霊訓 「上 」 ステイントン・モーゼス(著)

  The Spirit Teachings

17節

本節の内容著者の不満と要望
拒絶とその理由
これまでの霊訓の復習
著者に反省を求めるために霊団の一時総引き上げを示唆
数学的正確さをもつ証拠は提供不可能
キリストの“私と父は一つである”の真意
著者の旅行先での霊信
性急な要求は事を損ねる
猜疑心の及ぼす影響
著者の忍耐と理性的判断を重ねて要請


〔思うに、私がこうして執拗に霊信に反発しているのを知友たちはさぞかし満足に思っていたことであろう。しかし私としては、激しく私の魂を揺さぶるこの不思議な通信を徹底的に究明すること以外に、それに忠実な道が見出せなかったというに過ぎない。私はどうしても得心がいかないし、得心できぬままでいることも出来なかった。そこで再び論争を挑んだ。インペレーターの通信が終わると私はそれを細かく読み、二日後(一八七三年七月十四日)にその中でどうしても受け入れかねる点について反論した。それは次の三点であった。(一)インペレーターの地上時代の身元、(二)イエス・キリストの本質と使命、(三)通信の内容の真実性を示す証拠。私はこの三点について私以外の霊媒を通じて通信するよう要求し、その霊媒を指定しようと思うがどうかと述べた。同時にこれまでの通信の内容について、いろいろと反論したが、それは今ここで取り挙げるほどのものではない。とにかく、私はその時点での私の確信を正直に表明したが、今にして思えば私の反論は不十分な知識の上で為されていたことが判る。それはその後順次解決されていき、解決されていないものもやがて解決されるであろうとの確信が持てるまでになった。そうは言っても当時の私の心境はおよそ満足と言えるものからは程遠く、私は忌憚なくその不満を打ち明けた。以下がそれに対する回答である――〕


友よ。そなたの述べることには率直さと明快さが窺えて喜ばしく思う。もっとも、そなたはわれらの述べることにそれが欠けていると非難するが……。そなたの(われらの身元についての)要求については、そなたがそう要求する心境は判らぬでもないが、それに応ずるわけには参らぬし、たとえ応じても何の益にもならぬ。申し添えるが、そなたの要求の全てにわれらがすぐに応じぬからとて、われらの側にそなたに満足を与える意志がないわけでは決してない。われらとてそなたの心に確信を植えつけんと切に願っている。が、そうするためにはわれらの側にもその手段と時期に条件がある。計画の一部たりとも阻害され、あるいは遅延のやむなきに至ることは、われらにとりてこの上なく残念なことであり遺憾に思う。そなたにとりてもわれらにとりても残念なことである。が、結果としてこうなった以上は致し方あるまい。われらとて全能ではない。これまで通りの論議と証言の過程による以外に対処する手段はないのである。その論議も証言も今のところそなたの心に得心がいかぬとみえる。ということは、そなたにそれを受け入れる備えが出来ておらぬということと観て、われらはそれが素直にそなたの心に安住の地を見出す日を忍耐強く待つとしよう。

そなたの提出する疑問についてはその殆どに答える必要を認めぬ。現時点にて必要と見たものについてはすでに回答を与えてあるからである。すでに回答を与えたものについて改めて述べても意味があるとは思えぬ。単なる見解の相違の問題につきて深入りするのは無意味であろう。われらの述べたるところがこれまでのわれらの言動に照らしてみて、果たして一致するか否かといったことは些細な問題である。そなたの今の心境はそうした問題について冷静なる判断を下せる状態ではない。また、いわゆるスピリチュアリズムなる思想が究極においてわれらの言う通りのものとなるか、それともそなたが主張する如きものとなるかは、これまたどうでもよい問題である。われらはその問題については一段と高き視野に立って考察しており、それは今のそなたには理解の及ばぬところである。そなたの視野は限られており、それに比してわれらは遥かに広き視野のもとに眺めている。またそなたがわれらの訓えをキリスト教の論理的展開の一つと見るか否かも取るに足らぬ問題である。その道徳的崇高性はそなたも認めている。その論理的根拠についてはここで論ずる必要を認めぬ。そなたが信じようが信じまいが、地上人類が絶対必要としているものであり、そなたが受け入れるか否かに関わりなく、遅かれ早かれ感謝の念をもって人類に受け入れられていく訓えである。そなたがわれらの存在を認め、その布教に手を貸す貸さぬにお構いなく、きっと普及していく訓えである。

われらとしては、そなたのことを良き霊媒を得たと喜んでいた。そして今もそう思っている。何となれば、今のそなたの混乱する心境は一時的な過程に過ぎず、やがて疑うだけ疑った暁に生まれる確信へと変っていくことであろう。が、万一そうではなくそなたが失敗したとなれば、われらは再び神の命令を仰ぎ、われらに託されたる使命達成のために新たなる手段を見出さねばならぬことになる。もっとも霊媒はわれらの究極の目的にとって必ず不可欠というものでもない。が、使用する以上は良き霊媒であることが望ましい。われらがこの上なく嘆かわしく思うのは、そなた自身にとりても啓発と向上の絶好の手段となるべきものを無視せんとする態度に出ていることである。が、それもわれらの手の及ぶところではない。自由意志による判断に基づきてあくまで拒否すると言うのであれば、われらとしてはその決断を尊重し、そなたが精神的にわれらの提供せるものを受け入れる用意のなかったことを残念に思うほかはあるまい。

われらの身元についてであるが、そなたの要求するが如き押しつけがましき方法で証明せんとすることは無益というより、徒に混迷を大きくするのみであろう。

そのような試みは結局は失敗に終わることであろう。そして絶対的確信を得ることは出来ぬであろう。間接的証拠ならば折々に提供していくことも出来ぬではない。好機があればその機を利用するに吝(やぶさ)かではない。われらとの縁が長びけば、それだけそうした機会も多く、証拠も多く蓄積されていくことであろう。が、われらの教説はそのようなもので価値を増すものではない。そのような実体なき基盤の上に成り立つものではない。そのような証拠では“時”の試練には耐え切れぬであろう。われらは精神的基盤の上に訴えるものである。地上的なものでは、一時的にしておよそ得心のいくものでないことを、そなたもそのうち悟る日が来ることを断言しておく。

とは言え、今のそなたの精神状態は得心のいく証拠を要求できる状態ではない。われらは神の味方か、それとも悪魔か、そのいずれかであろう。もしもわれらが自ら公言している如く神の味方であるとすれば、そなたの言うが如き、世間から嘲笑をもって受けとめられるような言説をわざわざでっち上げる気遣いはあるまい。が、もしもわれらがそなたの思いたがるように悪魔の手先であれば、その悪魔の述べる言説が明らかに崇高な神性を帯びているのは何故か、そなた自ら問い直してみるがよかろう。われらとしては、このような問題にこれ以上関わろうとは思わぬ。これまでわれらが述べてきたところを正しく吟味検討してくれさえすれば、それが悪魔の言葉と結論づけられる気遣いは毛頭ない。関心を向けるべきは通信の内容であり、通信者の身元ではない。

われら自身のことはどうでもよいことである。大事なのは神の仕事であり、神の真理である。今のそなたにとりて最も大事な問題はそなた自身のことであり、そなたの未来のことである。そのことを時間をかけてじっくり考え、とくと反省するがよい。そなたを中心として得られた啓示の顕れ方がいささか急激に過ぎ、目を眩ませたようである。言いたいことも多々あろうが、今は黙して真摯に、そして厳粛に熟考するがよい。われらも暫し身を引き、そなたにその沈思黙考に耽る余裕を与えたく思う。と言うことはそなたを一人置き去りにするということではない。より一層の警戒心をもつ複数の守護の霊と、より経験豊かなる同じく複数の指導の霊がそなたのそばに待機するであろう。その方がわれらにとりても得策であるように思う。と言うのも、事態がかくの如くなった以上は、果たしてこれより後もこの仕事を続行すベきや否や、それともこれまでの努力が無駄であったとして改めて仕事を始めからやり直すべきや否やを“時”が判断してくれるかも知れぬからである。いずれにせよ、これほど多くの努力と、これほど多くの祈りを傾注せる仕事が実を結ぶことなく地に落ちるとは、何とも悲しき失望であることには相違なかろう。しかし、われらもそなたもあくまで内に宿せる道義の光に照らして行動せねばならぬ。これまでの経緯に関するかぎり責任はすべてわれらの側にある。故にわれらは問題を解決すべく何らかの手を打たねばならぬ。これまでより一層多くの祈りを、一層の熱意を込めてそなたに送るとしよう。きっと一層の効果をあげるであろうことを確信する。

では、これにてさらばである。神の加護と導きのあらんことを。

(†インペレーター)


〔このあと私は数回に亙って通信を試みた。また始めに示唆した通りに、一面識もない霊媒のところへ行ってみた。そして私の背後霊についての情報、とくにインペレーターの身元の確認を得ようと、出来るかぎりのことを試みた。が、無駄だった。得られた情報は、私についている霊はZOUDと名のるロシア人の歴史家だということだけだった。帰宅すると私はさっそくそのことを書いて通信を求めた。すると、その霊媒の述べたことは間違いであると断言してからこう綴った(1)――〕


われわれとしては、そのような霊言を信じることはとても勧められない。信頼が置けないからである。われわれの忠告を無視して一面識もない、しかも、われわれと何の協力関係もない霊たちと通信を試みれば、信のおけぬ通信を受け取り事態をますます混乱させることになろう。


〔この忠告にも私は強く反発し、あの機会を利用してくれていれば私の合理的要求を満たすことは容易に出来たはずだと述べた。すると同じ霊が――〕


それは違う。われわれとしても満足を与えたい気持は山々である。が、あの会場への出現は(インペレーターから)止められたのである。しかも、われわれは貴殿の出席は阻止できなかった。あのような体験は今の貴殿には毒になるばかりである。禍いを招くことにしかならぬ故に今後一切あのような招霊会には出席せぬよう厳重に忠告しておく。今必要なのは耐えることである。性急に無理強いすることは徒にわれわれにとって迷惑と困惑を生じさせるのみである。それよりも静かに心を休め、待つことのほうが遥かによい。全てインペレーターが良きに計らって下さる。早まった行動は誤りのもとである。


――しかし(と私は反抗的に述べた)あなたたちこそグルになって私を迷わせているようにしか思えません。私の要求には何一つ応じられないというのですか。


友よ。そなたの要求するが如き数学的とも言うべき正確なる証拠は、得ようとしても所詮無理である。われらとしても、そなたの求むる通りのものを授けることは出来ぬ。たとえ出来たとしても、それがそなたにとりて益になるとは思えぬ。全てはわれらの側にて良きに計らってある。


〔これはインペレーターである。私はとても気持が治まらないので、やむなく通信を一たん中止した。そして七月二十四日に神学上の問題について幾つかの質問を提出した。その一つは例の「私と父は一つである(2)」という有名な文句に言及したものだった。以前、霊言による対話の中で私は、インペレーターの言説がこの文句と相容れないものであることを主張したことがあったのである。そういう経緯もあって質問することになったのであるが、それに対してこう回答してきた――〕


そなたの引用せる文句は前後の脈絡の中において理解せねばならぬ。その時イエスはエルサレムでハヌカー祭(3)に出席していた。その折そこに集まれる民衆が“もしもあなたがキリスト神だと言うのであれば、その明確な証を見せてほしい”とイエスに迫った。彼らは今のそなたと同様に疑念を晴らすための何らかの“しるし”を求めたのである。そこでイエスはわれらと同じく、自分の説く訓えとその訓えによりてもたらされる業(わざ)の中に神のしるしを見てほしいと述べた。またそれを理解する備えのある者――イエスの言う“父の羊たち”――はその訓えの中に父の声を聞き、それに答えたも同然であると述べた。が、質問者たちはそのような回答を受け入れることが出来なかった。なぜなら、彼らにはそれが理解できず、信ずる心の準備が出来ていなかったからである。備えある者はイエスの言葉に従って永遠なる生命と進歩と生き甲斐を得た。それこそが神の意図するところであり、誰もそれを妨げることは出来ぬ。彼らは父のもとに預けられたのであり、彼らのみならず、人類の全てに新たなる息吹きを吹き込んだのである。すなわち、父なる神と、その真理の教師たるイエスが一体となった――「私と父は一つである」

イエスはそう述べたのである。が、そのユダヤ人たちはそれを神の名誉を奪うものであるとして非難のつぶてを投げつけた。しかし、イエスの弁明は正しかった。どう正しかったか。己の神性を認め、神の子であることを弁明した点において正しかったのである。それが余にも弁明できるかとな? それは出来ぬ。が、その心に陰日向(かげひなた)の一かけらもなきイエスは、その非難に驚き、こう聞き返した――一体自分の行なえる奇跡のどれをもって非難するのかと。非難者たちは答えた。奇跡のことを非難しているのではない。完全な神と一体であるなどと公言するその倣慢不遜の態度を非難するのであると。そう言われたイエスはこれを無視して取り合わなかった。なぜか。聖書にもある如く、イエスは自分と神とが一体であるとの言葉を霊性に目覚めた者すベてに適用し、「あなたたちも神である」と述べていたからである。ならばイエスほどの特殊なる使命を背負える人物が自分は神の子であると述べて、果たしてそれを不遜なる言葉と言えるであろうか。疑うのなら私の為せる業を見よ、とも言っている。そこには自分こそが神であるなどという意味はかけらもない。むしろその逆である。


〔翌二十五日、私が霊媒となって霊言による交霊会を開き、インペレーターがしゃベった(4)。が、これといって私の精神状態に触れたものは出なかった。他の列席者は私の抱える事情には全く関心がなく、私を通じて彼らなりの問題を提出し彼らなりの解決を得た。その間私の意識は休止状態なので霊言そのものには影響はなかった。そのあと最近他界したばかりの知人が出て私しか知らない事実に言及し、確かな身元の確認が得られた。これには私も感心したが、満足は得られなかった。

それから夏休暇(5)に入り、私はロンドンを発ってアイルランドヘの旅に出た。行った先でロンドンの病床にある友人に関する興味深い通信を得たが、私の一番の悩みを解決するものではなかった。アイルランドからこんどはウェールズへ向かった。そして八月二十四日にインペレーターからの別の通信を受け取った。これは紹介しておく必要があると思うのでこのあと紹介するが、この時も私は懸命に私の要求に対する回答を引き出そうとしたが、どうしてみたところで私の為にはならぬという警告を受けた。その時の私の体調があまり勝れず、精神状態は混乱していた。先のことをあまり考えずに、これまでの経過をよく復習するようにとの忠言を受けた。〕


これまでたどれる道をよく振り返ってみることである。われらに許された範囲でそなたのために尽くせるもろもろのことを細かく吟味し直すことである。その上で今そなたが目の前にしているものの価値を検討してみるがよい。その価値を正しく評価し、われらの言説の崇高性に注目してもらいたい。われらはそなたの今の精神状態が生み出す疑問そのものを咎めはせぬ。そなたが何もかも懐疑的態度でもって検討することはやむを得ぬ。人間は自分と対立する意見はとかく疑ってかかるものだからである。ただ、そなたの性急な性格があまりにも結論をあせり過ぎることを注意しているのである。精神的に混乱するのもその所為である。何かと面倒が生ずるのもその所為である。それは咎めはせぬ。われらが指摘しているのは、そのような心の姿勢では公平無私なる判断は下せぬということである。その性急な態度を和らげ、結論をあせる気持を抑え、一方ではアラ探し的な批判をやめ、われらの言説の中に建設的な面を見出してもらいたい。今のところそなたはあまりに破壊的過ぎるのである。

さらに友よ、そなたの抱ける疑問と混乱は、それが取り除かれるまでは、われらの今後の進展にとっても障害となることを忘れてはならぬ。これまでも大いに障害となり、進展を妨げて来た。が、それは(仕事の性質上)やむを得なかったと言えよう。が、これ以後は思い切り心を切り換え、判断を迷わせる原因となってきたわだかまりを、きれいさっぱりと洗い流してほしい。暫しの休息と隔離のあと、是非そうなってくれることを期待している。われらが出る交霊会も、出席者が和気あいあいたる精神に満ちていることが何より大切である。湧き出る疑念は、旅人を迷わせる靄と同じく、われらの行く手を阻む。靄の中では仕事は出来ぬ。是非とも取り除かねばならぬ。先入観を棄てて正直に過去を点検すればきっと取り除かれるであろうことを信じて疑わぬ。そなたの心の地平線に真理の太陽が昇れば、立ちどころに消滅するであろう。そして眼前に広がる新たなる視野に驚くことであろう。

ムキにならぬことである。そなたにとりて目新しく聞き慣れぬものも、ただそれだけの理由で拒絶することは止めよ。そなたの判断の光に照らして吟味し、必要とあらばひとまずそれを脇へ置き、もう一歩進んだ啓発を求めるがよい。真摯にして真っ正直な心には、時が至れば全てが叶えられる。今のそなたにとりて目新しく聞き慣れぬことも、いつかはしっくりと得心のいく段階に到達するであろう。ともかく、そなたの知らぬ新しき真理、これより学ばねばならぬ真理、改めねばならぬ古き誤りがまだまだ幾らでも存在するという事実を忘れぬことである。

(†インペレーター)


〔注〕

(1)


インペレーターの指揮下にある別の霊による。


(2)


ヨハネ10‥30


(3)


Hanukkah 古代シリアのアンチオコス四世によって奪われたエルサレム神殿を、ユダヤの独立運動の指導者マカベウスが奪回したことを記念する祭。


(4)


スピーア博士宅ではこの霊言が多かったが、モーゼス自身は入神状態なので記憶がなく、したがって客観的な証拠とはなっていない。


(5)


当時モーゼスは学校の教師をしていた。

シルバーバーチの霊訓  霊的新時代の到来

The Spirit Speaks
トニー・オーツセン(編) 近藤千雄(訳)





5章 生命の根元、存在の根元、永遠性の根元は“霊”の中にあります


春という季節は、シルバーバーチが大自然の生命の復活の象徴としてよく引き合いに出す季節で、ある日の交霊会でも、改めてこのように述べた。


「この季節は、わたしの心が小踊りして、思わず讃歌を口ずさみたくなる時期です。絶頂期(夏)まではまだ間があるとはいえ、自然界が美しく着飾る時期だからです。この芽吹きの中――伸びよう、成長しよう、広がろうとする生命の営みの中にこそ、大霊が宇宙を支配していることの証を見るのです。いずこを見ても、花が、葉が、そして草が、大自然の着実な営みへの賛辞を手向(たむ)けております。大霊の隔てなき恩寵をこれ以上わかりやすく教えてくれるものはありませんし、これほど明確に摂理の狂いない働きを認識させてくれるものはありません。

こうした春の営みを見て皆さんが万事うまく行くのだという安心と自信を抱き、こうして地上へ生まれてきたという事実の中に、あなた方を同胞のために活用せんとする愛と叡智の働きを感じて有り難く思わねばならない理由があるのです。大自然の魔術のように思えて、実は絶対不変の摂理の表れであり、それは無窮の過去から寸分の狂いもなく働き、これから無窮の未来へ向けて地上の人間生活の中で狂いなく展開していくことを知って、身も心も喜びに沸き立つ思いをするようでないといけません」

ここでメンバーの一人が健康を害している友人のことで質問したのに対して――


「自然が要求するものを無視するわけにはまいりません。人間も霊的存在であるとはいえ、今生きているのは物質界です。あなたの霊にとっては、その身体を通して表現するしかなく、その身体は物質でできているのですから、ある一定の物質的必要性に応じざるを得ません。運動も必要です。食べるものも必要です。身を宿すところも必要です。光も空気も要りますし、適度の手入れも必要です。疲れた時は休ませてやらねばなりません。器官ないし機能に障害が生じれば、治さなくてはなりません。そうした必要性に無関心でいると、そのうちそのツケが回ってきます。

たとえ医者から薬という薬を貰えるだけ貰っても、それは大霊が用意している治療法の代用にはなりません。痛みは軽減するかも知れません。一時しのぎにはなるでしょう。が、本当の意味での治療にはなりません。痛みを止めることはできます。和らげることはできます。反対に、刺激を与えて興奮させることもできます。が、身体が要求しているのは大自然が与えてくれるものです。わたしが春がもたらしてくれるものを精いっぱい活用しなさいと申し上げるのは、そのためです。

新しい生命の芽生え――それは霊性の発現にほかなりません――これには大自然の強烈な回復力が秘められております。それをご自分の身体に摂取すれば、バッテリーに充電することになります。冬の間どうしても弱まりがちな生命力が増強されます。その時点でしっかりと貯えておけば、夏、秋と過ごし、やがて大自然が――物的活動に関するかぎり――眠りにつく冬に入っても、安心して休めることになります。大霊が有り余るほど用意してくださり、自由に摂取してほしいと望んでおられるものを、存分に我がものとなさることです」

「そうしたことが聡明な人たちでも理解できないのはなぜでしょうか」


「頭脳は聡明でも、心に理解力が欠けている人がよくいるものです。“童子のごとくあらずんば……”といいます。大いなる真理は往々にして単純・素朴であり、心が素直で、ややこしい理屈を必要としない人は、直観的に理解できるものです。

頭脳が明晰すぎると、とかく単純な真理が幼稚に思えて、捨ててしまう傾向があります。これは危険なことです。脳が活発すぎて、単純に片づくものでは物足らなくなり、何やら複雑なものだと脳が仕事らしい仕事を得てうれしくなるのです。本当は、身体が健康であればあるほど、その要求するものが自然の理に適(かな)ったものになるようにできているのです」

「すると脳の働きも理に適ったものになるわけですね?」


「その通りです。そして、それだけ霊性が発揮されやすくなります。その辺が狂うと、次から次へと厄介なことが生じるようになります。健康な身体ほど、精神と霊が顕現しやすいのです。所詮、地上ではその身体を通す以外に、自我の発現の手段はありません。動物をごらんなさい。ネコは暖かい日向に寝そべり、太陽が動くと、そちらへ移動します。本能的に単純な真理を知っているのです。

不幸にして人類は、文明というものに毒されて、ますます人工的になりつつあります。タバコを吸いすぎます。アルコールを飲みすぎます。刺激物を取りすぎます。こうしたものはみないけません。大自然の要求どおりに生きていれば、身体はそうしたものを要求しません。不自然な生き方をしていると、そういった不自然なものを摂取しなくてはならなくなるのです。食欲をそそるものが要るようになるのです」

話題が変わって――

別のメンバー「スピリチュアリズムの現状に満足なさっておられますか」


「満足することは、まずありません。いかなる分野にせよ、真理が広まっていくのを見るのはうれしいことです。が、皆さんによる組織的活動は今、一つの難しい、魅力に乏しい局面にさしかかっております。勃興当初(十九世紀半ば)の、あの輝かしい魅力も次第に色あせ、方向性が十分に定まっていないようです。わたしが見るかぎりでは、霊的真理の存在を皆目知らずにいる人々に、もっともっと積極的な働きかけが必要ですし、すでに手にしておられる人も、さらに奥の深い真理の啓示を受ける受容力の開発を心がけるべきです。主要道路だけでなく、横道に入ってみることも、これから大いに要請される仕事です。

“スピリチュアリズム”の名称で呼ばれている真理普及運動の根幹であり基盤である霊媒現象(※)の真髄は、一体何であるかをお考えになってみてください。それが正しく理解されているでしょうか。霊的能力をお持ちの方に“人のため(サービス)”の精神がどれほど行きわたっているでしょうか。ご自分の仕事の神聖さを自覚し、畏敬の念をもって携わっている人がどれほどいらっしゃるでしょう。少しはいらっしゃるようですが、悲しいかな、大半の人がそうではないようです。

わたしが望んでいる形での真実のサービス精神に徹している方は、大体において、年輩の方に多いようです。大部分の人はご自分の能力を、悲しんでいる人、困っている人のために使おうとは努力なさっていないようです。こういう局面は一日も早く打破していただきたいものです」


※――“霊媒(ミーディアム)”というと、日本では霊言や自動書記、物理現象などで入神してしまうタイプをさす傾向があるが、西洋では霊的能力者一般をさす。ここでもその意味で用いており、したがって霊視や霊聴や心霊治療も霊媒現象ということになる。原理からいうと確かにその通りである。

このあと、別のメンバーがスピリチュアリズムは得心できないことが沢山あるという意見を述べ「とにかく、わけのわからないことだらけなのです」と言うと――


「たった一度の地上生活ですべてを理解することは不可能です」

「でも、わかっていながら実行できないということが、私にとっては悩みのタネなのです」


「知識――これが不動の基盤です。そして悩みに遭遇して、それがそれまでの知識では解決できない時は、大霊はすべてを良きに計らってくださっている、という信念にすがることです。わからないと思っていたことが、そのうち明確になってきます。これは、決して困難から逃避することではありません」

「それはわかります。私たちはそれぞれに責任ある人間であり、自分のすることすべてに責任を負うわけですが、私が悩むのは、知識を得るばかりで一向に進歩しないということです」


「摂理の裏側に別の次元の摂理があります。大自然の成育、国家ならびに民族の進化をつかさどる摂理とともに、一人一人の人間を支配している摂理があります。これらが裏になり表になりながら働いているのです。無限の叡智というカギを手にしないかぎり、その全体に完全な調和が行きわたっていることを悟ることはできません。が、間違いなく調和が行きわたっているのです」

「私が一番理解に苦しむのは、人間と背後霊との関係です。どうも、本当に私たちのことを考えてくれている、あるいは、実際に力になってくれているとは思えないのです――虫が良すぎることもあるかも知れませんが……」


「いかに進化した霊といえども、地上世界に対して為しうることには、一定の限界というものがあります。これには三つの要素がからんでおります。自然の摂理と、その時の環境条件と、本人の自由意志です。環境条件にはさらに、その時どきの特殊な要素がいくつもからんでおります。

しかし、皆さんにはおわかりになれなくても――そして、これはわたしにも証明してさし上げることはできないのですが――目に見えない導き、霊媒を通じてのアドバイスとは違った形での、アイディア、インスピレーション、勇気づけといったものを受けていらっしゃいます。これは実に手の込んだ、難しい操作によって行われ、デリケートなバイブレーションを使用していることを知ってください。しかも、皆さんは、そうした努力を水の泡としてしまうことのできる、自由意志を行使できます」

「そちらから見て意外に思われる、予想外の事態になってしまうこともあるのでしょうか」


「わたしたちにとっても、先のことがすべて分かっているわけではありません。固定した映像の形で見えているわけではないのです。未来の出来事の予見は、ある一定のプロセスによって閃光(フラッシュ)の形でひらめくのです。たとえば、地上でいえば天体望遠鏡をセットし、焦点を合わせ、いざ見ようとすると、雲がよぎって何も見えなくなってしまうようなものです。写真でもそうでしょ? 焦点を合わせて視野を見事にとらえていても、ちょっとした動きでブレてしまいます。

こちらの世界でも人間の視覚器官に相当するものがあり、それが発達すると未来のことを予見することができるようになりますが、それには(複数の次元にわたる)大変な調節が必要であり、その操作は至難のわざです。

わたしたち霊団の仕事には一定の基本の型(パターン)というものがあって、それにしたがって行動します。成就すべき目標はよくわかっているのです。そのパターンの枠内でバランスを取るために、押したり引いたり、つねに調節をしなければなりません。たとえてみればチェス(日本の将棋に似たもの)と同じです。駒の進め方がまずかったと分かれば、それを補うために別の駒を進めないといけません。

時には全体が思いどおりに調子よく進むこともあります。が、霊界と地上という両極の間でバイブレーションないし放射物を取り扱うのですから、ひっきりなしに調節が必要です。ただし、目標だけは明確にわかっていますから、たとえ手段に戸惑うことはあっても、不安はありません。だからわたしは、いつも“辛抱しなさい。これで万事おわったわけではありません”と申し上げるのです。

摂理はかならずや決められた通りに働きます。そのようになっているのです。それは、かならずしも皆さんがこうあってほしいと望まれる通りとはかぎりません。わたしには、わたしが成就しなければならない仕事がよく分かっております。皆さんが地上で成就しなければならない仕事も、わたしにはよく分かっております。そして、いずれは皆さんがそれを成就なさるであろうことも分かっております。

たまたまそういう巡り合わせになったというわけのものではありません。そういう計画ができているのです。皆さんにそれが理解できないのは、物質の目を通して眺め、物質的なモノサシで計ろうとなさるからです。このわたしは、皆さんとはまったく異なる側面から眺めております。ですから、皆さんの物的な問題はよく分かりますし、わたしもそれに関わってはいても、基本的には“こうなる”という見通しが、わたしにはあるのです。

差し引き勘定をすれば、大霊は決して計算違いをなさらないことが分かります。宇宙の背後の知性は完璧なのです。そのことをしっかりと肝に銘じてください。大霊は決して間違いをなさいませんし、欺かれることも決してありません。一つ一つの出来事に、間違いなく摂理が働きます」

別の日の交霊会でシルバーバーチは、霊と物質の関係という基本的なテーマについて語った。その日のゲストはスピリチュアリズムに熱心な夫婦だった。その二人に向かってこう語った。


「あなた方は物質をまとった存在です。身を物質の世界に置いておられます。それはそれなりに果たすべき義務があります。衣服を着なければなりません。家がなくてはなりません。食べるものが要ります。身体の手入れをしなくてはなりません。身体は、要請される仕事を果たすために必要なものを、すべて確保しなければなりません。

物的身体の存在価値は、基本的には霊(自我)の道具であることです。霊なくしては身体の存在はありません。そのことを知っている人が実に少ないのです。身体が存在できるのは、それ以前に霊が存在するからです。霊が引っ込めば身体は崩壊し、分解し、そして死滅します。

こんなことを申し上げるのは、他の多くの人たちと同様に、あなた方もまだまだ、本来の正しい視野をお持ちでないからです。ご自身のことを、一時的に地上的生命をたずさえた霊的存在であるとは得心しておられません。身体にかかわること、世間的なことを必要以上に重要視なさる傾向がまだあります。

いかがですか、私の言っていることは間違っておりましょうか。間違っていれば遠慮なくそうおっしゃってください。わたしが気を悪くすることはありませんから……」

「いえ、おっしゃる通りだと思います。そのことを自覚し、かつ忘れずにいるということは大変むつかしいことです」と奥さんが言う。


「むつかしいことであることは、わたしもよく知っております。ですが、視野を一変させ、その身体だけでなく、住んでおられる地球、それからその地球上のすべてのものが存在できるのは、ほかならぬ霊のおかげであること、あなたも霊であり、霊であるがゆえに大霊の属性のすべてを宿していることに得心がいけば、前途に横たわる困難のすべてを克服していくだけの霊力をさずかっていることに理解がいくはずです。生命の根元、存在の根元、永遠性の根元は“霊”の中にあります。自分で自分をコントロールする要領(こつ)さえ身につければ、その無限の貯蔵庫からエネルギーを引き出すことができます。

霊は、物質の限界によって牛耳られてばかりいるのではありません。全生命の原動力であり、全存在の大始源である霊は、あなたの地上生活において必要なものを、すべて供給してくれます。その地上生活の目的はいたって簡単なことです。死後に待ちうける次の生活にそなえて、本来のあなたであるところの霊性を強固にすることです。身支度を整えるのです。開発するのです。となると、良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることが、あなたの受け止め方一つで、あなたの霊性の成長の糧(かて)となることがお分かりでしょう。

その一つ一つが、大霊の計画の中でそれなりの存在価値を有しているのです。いかに暗い体験も――暗く感じられるのは気に食わないからにすぎないのですが――克服できないほど強烈なものはありません。あなたに耐えきれないほどの試練や危機に直面させられることはありません。そうした真理を、何らかの形でこのわたしとご縁のできた人に知っていただくだけでなく、実感し、実践していただくことができれば、その人は大霊と一体となり、摂理と調和し、日々、時々刻々、要請されるものにきちんと対応できるはずなのです。

ところが、残念ながら敵がいます。取り越し苦労、心配、愚痴という大敵です。それが波長を乱し、せっかくの霊的援助を妨げるのです。霊は、平静さと自信と受容性の中ではじめて伸び伸びと成長します。日々の生活に必要なものすべてが供給されます。物的必需品のすべてが揃います」

ここでご主人が「この霊の道具(身体)にわれわれはどういう注意を払えばよいかを知りたいのですが……肝心なポイントはどこにあるのでしょうか」と尋ねる。


「別にむつかしいことではありません。大方の人間のしていることをご覧になれば、身体の必要性にばかりこだわって(※)、精神ならびに霊の必要性に無関心すぎるという、わたしの持論に賛成していただけると思います。身体へ向けている関心の何分の一かでも霊の方へ向けてくだされば、世の中は今よりずっと住みよくなるでしょう」


※――豪華なファッション、豪邸、美食、そしてそれを得る為の金儲けなどのこと。

「霊のことを放ったらかしにしているということでしょうか。身体にかかわることは、そうまで構わなくてもよいということでしょうか。それとも、もっと総体的な努力をすべきだとおっしゃりたいのでしょうか」


「それは人によって異なる問題ですが、一般的に言って人間は、肉体にかかわることはおろそかにはしておりません。むしろ甘やかしすぎです。必要以上のものを与えています。あなた方が文明と呼んでいるものが不必要な用事を増やし、それに対応するために、また新たな慣習的義務を背負(しょ)い込むという愚を重ねております。肉体にとってなくてはならぬものといえば、光と空気と食べものと運動と住居くらいのものです。衣服もそんなにアレコレと必要なものではありません。慣習上、必要品となっているだけです

わたしは決して肉体ならびにその必要品をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。肉体は霊の大切な道具ではありませんか。肉体的本性が要求するものを無視するように、と勧めているのではありません。一人でも多くの人に、正しい視野をもっていただき、自分自身の本当の姿を見つめるようになっていただきたいのです。自分というものを肉体だけの存在、あるいは、せいぜい、霊をそなえた肉体だと思い込んでいる人が、まだまだ多すぎます。本当は肉体をそなえた霊的存在なのです。それとこれとでは、大違いです。

無駄な取り越し苦労に振り回されている人が多すぎます。わたしが何とかしてなくしてあげたいと思って努力しているのは、不必要な心配です。大霊は無限の叡智であり、無限の愛です。われわれの理解を超えた存在です。が、その働きは宇宙の生命活動の中に見出すことができます。

驚異に満ちたこの宇宙が、かつて一度たりともしくじりを犯したことのない摂理によって支配され、規制され、維持されているのです。その摂理の働きは、一度たりとも間違いを犯したことがないのです。変更になったこともありません。廃止されて別のものと置きかえられたこともありません。いま存在する自然法則はかつても存在し、これからも未来永劫に存在し続けます。なぜなら、完璧な構想のもとに、全能の力によって生み出されたものだからです。

宇宙のどこでもよろしい、よく観察すれば、雄大なものから極小のものまでの、ありとあらゆる相が自然の法則によって生かされ、動かされ、規律正しくコントロールされていることがお分かりになります。途方もなく巨大な星雲を見ても、極微の生命を調べても、あるいは変転きわまりない大自然のパノラマに目を向けても、さらには小鳥・樹木・花・海・山川・湖のどれ一つ取ってみても、ちょうど地球が地軸を中心に回転することによって季節のめぐりが生じているように、すべての相とのつながりを考慮した法則によって統制されていることが分かります。

種子を蒔けば芽が出る――この、いつの時代にも変わらない摂理こそ、大霊の働きの典型です。大霊は絶対にしくじったことはありません。あなた方が見放さないかぎり、大霊は決してあなた方を見放しません。

わたしは、大霊の子すべてに、そういう視野をもっていただきたいのです。そうすれば、取り越し苦労もしなくなり、恐れおののくこともなくなります。いかなる体験も魂の成長にとって何らかの役に立つことを知るようになります。その認識のもとに、一つ一つの困難に立ち向かうようになり、そして首尾よく克服していくことでしょう。その最中にあってはそうは思えなくても、それが真実なのです。

あなた方もいつかはこちらの世界へ来られるわけですが、来てみれば、感謝なさるのはそういう辛い体験の方なのです。視点が変わることによって、暗く思えた体験こそ、その最中にある時は有り難く思えなかったけれども、霊の成長を一番促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明してさしあげることはできませんが、こちらへお出でになれば、みずから得心なさることでしょう。

こうしたことは、あなた方にとっては比較的新しい真理でしょうが、これは大変な真理であり、また多くの側面をもっております。まだまだ学ばねばならないことが沢山あるということです。探求の歩みを止めてはいけません。歩み続けるのです。ただし、霊媒の口をついて出るものをぜんぶ鵜呑(うの)みにしてはいけません。あなたの理性が反発するもの、あなたの知性を侮辱するものは拒絶なさい。理に適っていると思えるもの、価値があると確信できるものだけを受け入れなさい。何でもすぐに信じる必要はありません。あなた自身の判断力にしっくりくるものだけを受け入れればいいのです。

わたしたちは誤りを犯す可能性のある道具を使用しているのです。交信状態が芳(かんば)しくない時があります。うっかりミスを犯すことがあります。伝えたいことのすべてが伝えられないことがあります。他にもいろいろと障害があります。霊媒の健康状態、潜在意識の中の思念、かたくなに執着している観念などが伝達を妨げることもあります。

その上、わたしたちスピリットも誤りを犯す存在であることを忘れてはなりません。死によって無限の知識のすべてを手にできるようになるわけではありません。地上時代より少しだけ先が見通せるようになるだけです。そこで、こうして、皆さんより多く知った分だけをお届けしているわけです。わたしたちも知らないことばかりです。が、少しでも多く知ろうと努力しているところです。

地上より開けたこちらの世界で知った価値ある知識を、わたしたちがこうして皆さんにお授けするわけは、代わってこんどは皆さんが、それを知らずにいる人たちへ伝えてあげていただきたいと思うからです。宇宙はそういう仕組みになっているのです。実に簡単なことなのです。

わたしたちは自分自身のことは何も求めません。お礼の言葉もお世辞もいりません。崇(あが)めてくださっても困ります。わたしたちはただの使節団、大霊の代理人にすぎません。自分ではその任務にふさわしいとは思えないのですが、その依頼を受けた以上こころよくお引き受けし、力のかぎりその遂行に努力しているところなのです」

その日は、二度も夫に先立たれるという悲劇を体験した婦人が招待されていた。その婦人にシルバーバーチがこう語りかけた。


「地上での人生体験の中には、生命の実在に直面させられる酷しい体験というものが、いくつかあるものです。大霊と真実の自我を内と外に求め、宇宙の存在の意図を探り、それがあくまでも謎のままなのか、それとも、れっきとした計画があるのかを知りたくて、なぜそうなのか、なぜこうなのか、なぜ、なぜ、なぜと問い続けます。そのいくつかは解決できても、どうしても分からないものもあります。が、そうして“問う”という事実そのものが、あなたの魂が自覚をもちはじめている証拠なのです。

地上世界は、そうやって魂が勉強する場所なのです。失敗もし、そして願わくば、それから何かを学んでいくのです。犯した間違いを正し、教訓を学び、より立派な行為を心がけ、二度と失敗しないようになっていくのです。そのうち、ある段階まで成長しますと、大切なのは目的の成就そのものよりも、その成就に向けて努力していく過程での体験によって、性格がどう形成されていくかであることに気づくようになります。過酷な体験の末に目からウロコが落ち、真実の価値の評価ができるようになり、最後は、物的なものにはそれなりの価値はあっても、絶対的価値のあるものではないことを悟ります。

暗く辛い人生の体験によって魂がそうした悟りの末に真実の自我に目覚め、大霊とのつながりを強めることになれば、その体験は大いなる価値があったことになります。これから訪れる未来のある時点で過去を振り返ってごらんになれば、辛く苦しくはあっても、霊的理解力の開発の節目となっていた体験を、有り難く感謝するようになることでしょう」

ここでシルバーバーチは、その交霊会の場に、その婦人が可愛がっていたアイリッシュセッター(猟犬の一種)が来ていると述べてから――


「あなたが飼っておられた素敵な犬がやってきましたよ。あなたが可愛がっていたと同じくらい、この犬もあなたに愛着をもっていたのですよ。お見せできるといいのですがね。年も取っていませんし、(死んだ時の)虚弱な様子も見えません――品もあり、格好もよく、気立ての優しい犬ですね。あなたの愛情がそのように進化させたのですよ。

あなたは幸せな方ですね。人間からも愛され、非人間――といってはおかしいですね――この美しい生きものからも愛されて……あなたの人生は人間以外の生きものからの愛によって囲まれております。その種の愛にはまったく反応しない人がいる中で、あなたはとてもよく反応していらっしゃいます」

シルバーバーチはさらに、かのイタリアの大聖人アッシジの聖フランチェスコもその場に来ていると述べてから――


「驚いたでしょ? この人はすべてのものに愛を抱いている方です。今も、物言わぬ生きものたちの救済のために、霊界で活躍しておられます。動物は、進化の途上における人間の仲間として地上へ送られているのです。それが今しばしば虐待され、苦役(くえき)に駆り立てられ、そして、人類にとって何の益にもならない知識を得るための実験に使用されております」

その日の交霊会の後半で、シルバーバーチはふたたび“無益な心配”のテーマを取り上げた。するとメンバーの一人がこんな意見を述べた。

「私は、あなたが説かれるような立派な生き方をしておりませんので、やはり心配が絶えません。人間が正しい心がけで生きていなければ、背後霊の方もしかるべき指導ができないので、それで心配の念が湧くのだと思います。いけないことだとは分かっているのですが……」


「あなたはご自分のことを実際よりよほど悪く評価なさってますね」

「いえ、私は妄想を抱くタイプではありません。間違っている時は間違っていると、はっきり認識しております。ですから、正しい生き方をしていなければ、当然、心配は絶えないものと覚悟しているわけです」


「わたしは、そうは思いませんね。さっきも言いましたように、あなたはご自分で思っておられるほど悪い生き方はしていらっしゃいません。もっとも、あなたにできるはずの立派な生き方もしていらっしゃいませんけどね。ですが、とかく光を見た人は暗闇の意識が強くなるものです」

「それにも代償を払わないといけません」


「いずれ払わないといけないでしょう。摂理には逃げ道はありませんから、犯した間違いに対して、すべての者が代償を払わないといけません」

「そちらの世界へ行けば、また別の形で裁かれるものと覚悟しております」


「お裁きというものはありません。魂がそれにふさわしいものを受ける――因果律です。蒔いたタネを刈り取るのです。地上での行為の結果が死後のあなたを決める――それだけのことです。それより良くもなれませんし、それより悪くもなれません。それより上にもあがれませんし、それより下にもさがれません。あなたの有るがままの姿――それがあなたです。それまでの行為がそういうものを生み出したのです。それだけのことです」

祈り

無窮の過去より永劫の未来に至るまで……


ああ、大霊よ。わたしどもは全生命の大本源、わたしたちをその本性に似せて創造し給い、全人類を愛の抱擁の中に包み給う絶対的な力とのより一層の調和を求めて、その本源へ近づかんとするものです。

あなたは宇宙の大霊におわします。それは窮まるところを知らない存在であるゆえに、わたしどもにはその尊厳のすべてを理解することはできません。崇高さのすべても理解することはできません。しかし、宇宙の森羅万象のすみずみに至るまで、あなたの摂理が絶対的に支配し、目に見えると見えざるとにかかわりなく、不変、不動の自然法則によって規制されていることを認識いたしております。

したがってそこには、偶然のめぐり合わせも不慮の出来事も起こり得ません。すべては、あらかじめ規定され、生命活動の全側面に配剤されたあなたの意匠(デザイン)にのっとっているのでございます。あなたの認知、あるいは、あなたの管理の目の離れて生じるものは何一つございません。いかなる存在も、あなたのもとから連れ去られることも、忘れ去られることもございません。すべてがあなたの慈悲深き計画の範囲に収まるのでございます。

何一つ見落されず、無窮の過去より永劫の未来に至るまで、無限なる知性が考案し無限の叡智によって管理されている原理にしたがって休むことなく機能しつづけるその摂理の恒久性と驚異性に、わたしたちは深甚なる敬意を表するものです。

その絶対的摂理の働きを、受け入れる素地のできた子等に少しでも分かりやすく説き聞かせるのが、わたしどもの仕事の一環でございます。その理解によって目からウロコが落ち、耳栓が取れ、心が開かれ、かくして魂が自己の存在の目的と地上生活で果たすべき役割を教えてくれる大真理のイルミネーションにあふれることになりましょう。

それがひいては、地上世界の悪性腫瘍である暗黒と無知、利己主義と邪心、混沌と破滅、流血と悲劇を廃絶する上で力となることでございましょう。

その目標に向けてわたしどもは祈り、そして精励いたします。

シルバーバーチの霊訓  霊的新時代の到来

 The Spirit Speaks 

トニー・オーツセン(編) 近藤千雄(訳)





4章 すべての病気にそれなりの治療法があります

シルバーバーチにとっては、霊媒と心霊治療家と語り合うことほど楽しいことはなかったようである。霊媒は愛する人を失った者に死後の存続の証拠を提供し、治療家は、医学がどう試みても治せない患者を完治させ、あるいは幾らかでも改善してあげることができるからである。

世界にその名を知られていたハリー・エドワーズ氏が当時の助手のバートン夫妻とともにハンネン・スワッファー・ホームサークルを訪れた時も、シルバーバーチは温かく迎えた。氏は今はもうこの世の人ではないが、氏の名前を冠した治療所Harry Edwards Healing Sanctuaryはブランチ夫妻Ray and Joan Branchに引き継がれて、今も同じShere,Surreyで治療活動を行っている。

まずシルバーバーチから語りかけた。


「これまでに成し遂げられたことは確かに立派ですが、まだまだ頂上は極められておりません。あなた方のこれまでの努力が、今まさに花開かんとしております。これまでのことは全てが準備でした。バプテスマのヨハネがナザレのイエスのために道を切り開いたように、これまでのあなた方の過去は、これから先の仕事のため、つまり、より大きな霊力が降下してあなた方とともに活動していくための準備期間でした。

ほぼ完璧の段階に近づいている、あなた方三人の信頼心と犠牲的精神とそれを喜びとする心情は、それみずからが実りをもたらします。霊の力と地上の力との協調関係がますます緊密となり、それがしばしば“有り得ぬこと”を成就しております。条件が整った時に起きる、その奇跡的治癒のスピードに注目していただきたいと思います」

エドワーズ「何度も目(ま)のあたりにしております」


「大いなる進歩がなされつつあること、多くの魂に感動を与え、それが誘因となって、さらに多くの人々にも、その次元での成功(※)をおさめる努力がなされつつあります。目標をいつもその一点に置いてください。すなわち魂を生命の実相に目覚めさせることです。それがすべての霊的活動の目標――大切な目標です。


※――病気快癒の体験が魂の琴線に触れ、生命の実相に目覚めること。


ほかのことは一切かまいません。病気治療も、霊的交信を通じての慰めも、さまざまな霊的現象も、究極的には人間が例外なく大霊の分霊であること、すなわち今この時点においても霊的存在であるというメッセージに目を向けさせてはじめて意義があり、大霊から授かった霊的遺産を我がものとし、天命を成就するためには、ぜひともその理解が必要なのです。

それが困難な仕事であることは、わたしもよく承知しております。が、偉大な仕事ほど困難が伴うものなのです。霊的な悟りを得ることは容易ではありません。とても孤独な道です。それは当然でしょう。もしも人類の登るべき高所が、いとも簡単にたどり着くことができるとしたら、それは登ってみるほどの価値はないことになります。安易さ、呑気、怠惰の中では魂は目を開きません。刻苦と奮闘と難渋の中にあってはじめて目を覚ますのです。これまで、魂の成長がラクに得られるように配慮されたことは一度もありません。

あなた方が治療なさっている様子を見て、いとも簡単に行っているかに思う人は、表面しか見ていない人です。今日の頂上に到達するまでには、その背景に永年の努力の積み重ねがあったことは、人は知りません。

治療を受ける者が満足しても、あなた方は満足してはなりません。一つの山を極めたら、その先にまた別の山頂がそびえていることを自覚しないといけません。いかがでしょう、わたしの話は参考になりますでしょうか。あなた方はすでによくご存知のことばかりでしょう」

エドワーズ「わかってはいても、改めて認識することは大切なことだと思います」


「こうした交霊の場は、地上の人間でないわたしたちが、あなたたち地上の人間に永遠の原理、不滅の霊的真理、顕幽の別なく全ての者が基盤とすべきものについて、認識を新たにさせることに意義があります。物質界に閉じ込められ、物的身体にかかわる必要性や障害に押しまくられている皆さんは、ともすると表面上の物的なことに目を奪われて、その背後の霊的実在のことを見失いがちです。

肉体こそ自分である、今生きている地上世界こそ実在の世界であると思い込み、実際は地上世界は影であり、肉体はより大きな霊的自我の道具にすぎないことを否定することは、いたって簡単なことです。刻々と移りゆく日常生活の中にあって正しい視野を失わず、問題の一つ一つを霊的知識に照らしてみることを忘れなければ、どんなにか事がラクにおさまるだろうにと思えるのですが……残念ながら現実はそうではありません。

こうした霊界との協調関係の中での仕事にたずさわっておられる人でさえ、ややもすると基本的な義務を忘れ、手にした霊的知識が要求する規範にかなった生き方をしていらっしゃらないことがあります。知識は大きな指針となり頼りになるものですが、手にした知識をどう生かすかという点に大きな責任が要請されます。

治療の仕事にたずさわっておられると、さまざまな問題――説明できないことや当惑させられること――に遭遇させられることでしょうが、それは当然のことです。わたしたちは地上と霊界の双方の人間的要素に直面させられどおしです。治癒の法則は完全です。が、それが不完全な道具を通して作用しなければなりません。その、人間を通して働かねばならない法則がいかなる結果をもたらすかを、数学的正確さをもって予測することは不可能ということになります。

最善の配慮をもって立てた計画さえも挫折させるほどの、思わぬ事情が生じることがあります。この人こそと思って選んで開始した何年にもわたる準備計画が、本人の自由意志による我儘(わがまま)によって、水の泡となってしまうこともあります。

しかし、全体としては、霊力の地上への投入が大幅に増えていることを喜んでよいと思います。現実にあなた方が患者の痛みを和らげ、あるいは完治してあげることができているという事実、苦しむ人々を救うことができているという事実、お仕事が広がる一方で衰えることがないという事実、たとえワラをもつかむ気持ちからではあっても、あなたたちのもとへ大勢の人が救いを求めてくるという事実――こうした事実はみな、霊力がますます広がりつつあることの証拠です。

霊力によって魂がいったん目を覚ましたら、その人は二度と元の人間には戻らないという考えがありますが、わたしもそう考えている一人です。言葉では説明しがたい影響、忘れようにも忘れられない影響を受けているものです」

エドワーズ「その最後の段階で、病気の治癒と真理の理解とがうまく噛み合ってほしいのですが、霊的高揚というのはなかなか望めないように思います」


「見た目にはそうです。が、目に見えない影響力がつねに働いております。霊力というのは磁気性があり、いったんでき上がった磁気的なつながりは、決して失われません。一個の人間があなたの手の操作を受けたということは――“手”といったのは象徴的な意味で用いたまでです。実際には身体に触れる必要はありませんが――その時点でその人との磁気的なつながりができたということです。つまり霊の磁力がその人の“地金(じがね)”を引きつけたということで、その関係は二度と切れることはありません。

その状態を霊の目、すなわち霊視力で見ますと、小さな畑の暗い土の中で小さな灯りがともされたようなものです。理解力の最初の小さな炎でしかありません。種子が芽を出して、土中から頭をもたげたようなものです。暗闇の中から初めて出て来たのです。

それがあなた方の為すべき仕事です。からだを治してあげるのは、もとより結構なことです。それに文句をつける人はいません。が、魂に真価を発揮させること、バイブルの言い方を借りれば、魂におのれを見出させることは、それよりはるかに大切です。魂を、本当の悟りの道に導いてあげることになるからです」

サークルのメンバーの一人「心霊治療で治った人の中には、魔術的な力が働いたと考える人がいます。つまり治療家を一種の魔術師と考え、神の道具とは考えないわけです」


「それは困ったことだと思います。なぜかと言いますと、そういう受け取り方は、せっかくのチャンスによる、もっと大切な悟りの妨げになるからです。霊的な力が治療家を通して働いたのだということを教えてあげれば、病気が治ったということだけで全てが終わらずに、それを契機にもっと深く考えるようになるところですが……」

エドワーズ「治療後も霊的な治癒力が働き続けている証拠として、時おり、治療時には効果が見えなかった人から、一年もたってから“あれ以来、次第に良くなってきました”という手紙を受け取ることがあります」


「当然そういうことがあるはずです。霊的な成長だけは、はたからはどうしようもない問題なのです。このことに関しては以前にも触れたことがありますが、治療の成功・不成功は、魂の進化という要素によって支配されております。それが決定的な要素となります。いかなる魂も、治るだけの霊的資格がそなわらないかぎり、絶対に治らないということです。からだは魂の僕です。主人ではありません」

「未発達の魂は心霊治療によって治すことができないという意味でしょうか」


「そういうことです。わたしが言わんとしていることは、まさにそのことです。ただ“未発達”unevolvedという用語は解釈の難しいことばです(※)。わたしが摂理の存在を口にする時、たった一つの摂理のことを言っているのではありません。宇宙のあらゆる自然法則を包含した摂理のことを言います。それが完璧な型(パターン)にはめられております。ただし、法則の裏側にはまた別の次元の法則があるというふうに、幾重(いくえ)にも重なっております。しかるに宇宙は無限です。誰にもその果てを見ることはできません。それを支配する大霊と同じく無窮なのです。すると摂理も無限であり、永遠に進化が続くということになります。

物質界の人間は肉体に宿った魂です。各自の魂は進化のいずれかの段階にあります。その魂には過去があります。それを切り捨てて考えてはいけません。それとの関連性を考慮しなくてはなりません。肉体は精神の表現器官であり、精神は霊の表現器官です。肉体は霊が到達した発達段階を表現しております。もしもその霊にとって、次の発達段階にそなえる上での浄化の過程として、その肉体的苦痛が不可欠の要素である場合には、あなた方治療家を通していかなる治癒エネルギーが働きかけても、絶対に治りません。いかなる治療家にも治すことはできないということです。

苦痛も大自然の過程の一つなのです。摂理の一部として組み込まれているのです。痛み、悲しみ、苦しみ、こうしたものはすべて摂理の中に組み込まれているのです。話はまた、わたしがいつも述べていることに戻ってきました。日向と日陰、平穏と嵐、光と闇、愛と憎しみ、こうした相対関係は宇宙の摂理なのです。一方なくしては他方も存在し得ません」


※――用語にあまりこだわらないシルバーバーチは質問者の用語をそのまま用いているが、シルバーバーチが好んで用いるのはundevelopedである。霊性の開発が進んでいないという意味であるが、ここでは肉体的苦痛となって現れている霊的罪障(カルマ)が取り除かれる段階まで浄化されていないという意味であるから、unpurifiedつまり“未浄化”が一番適切であろう。霊的浄化が終了すれば、肉体的苦痛となって現れていたカルマが霊性開発の触媒としての用を終えて、その苦痛を取り除いてくれる人との縁を呼び込むという。その辺に奇跡的治癒のメカニズムがある。

メンバーの一人「苦しみは摂理を破ったことへの代償なのですね?」


「摂理を“破る”という言い方は感心しません。“背(そむ)く”と言ってください。たしかに人間は、時として摂理への背反を通して学ぶしかないことがあります。あなた方は完全な存在ではありません。完全性の種子を宿してはいますが、それは、人生がもたらすさまざまな境遇に身を置いて、はじめて成長します。痛みも、嵐も、困難も、苦しみも、病気もないようでは、魂は成長しません。

摂理が働かないことは絶対にありません。もしも働かないことがあるとしたら、大霊は大霊でなくなり、宇宙に調和もリズムも目的もなくなります。その大自然の摂理の正確さと完璧さに全幅の信頼を置かないといけません。なぜなら、人間には、宿命的にこれ以上知ることのできないという段階があり、それは信仰心でもって補うほかはないからです。

わたしは、知識を論拠として生まれる信仰はけっして非難しません。わたしが非難するのは、何の根拠もないのに信じてしまう、浅はかな信仰心です。人間は知識のすべてを手にすることができない以上、どうしてもある程度の信仰心で補わざるを得ません。

といって、その結果、同情心も哀れみも優しさも敬遠して、“ああ、これも自然の摂理なのだ。仕方ない”などと言うようになっていただいては困ります。それは間違いです。あくまでも人間としての最善を尽すべきです。そう努力する中において、本来の霊的責務を果たしていることになるのです」

続いて幾つかの質問に答えたあと――


「魂はみずから道を切り開いていくものです。その際、肉体機能の限界が、その魂にとっての限界となります。しかし、肉体を生かしているのは魂です。この二重の関係がつねに続けられております。ただし、優位に立っているのは魂です。魂は絶対です。魂とは、あなたという存在の奥に宿る神であり、神が所有しているものは全てあなたもミニチュアの形で所有しているのですから、それは当然のことです」

エドワーズ「それはとても基本的なことであるように思います。さきほど心霊治療によって治るか治らないかは、患者自身の魂の発達程度にかかっているとおっしゃいましたが、そうなると、治療家は肉体の治療よりも精神の治療の方に力を入れるべきであるということになるのでしょうか」


「訪れる患者の魂に働きかけられないとしたら、ほかに何に働きかけられると思いますか」

エドワーズ「まず魂が癒やされ、その結果として肉体が癒やされるということでしょうか」


「そうです。わたしはそう言っているのです」

エドワーズ「では、私たち治療家は通常の精神面をかまう必要はないということでしょうか」


精神はあくまでも魂の道具にすぎません。したがって魂が正常になれは、おのずと精神状態も良くなるはずです。ただ、魂がその反応を示す段階まで発達していなければ、肉体への反応も起こりません。魂がさらに発達する必要があります。つまり魂の発達を促すための、さまざまな体験をしなければならないわけです。それには苦痛が伴います。魂の進化は安楽の中からは得られないのです」

エドワーズ「必要な段階まで魂が発達していない時は、霊界の治療家にも治す方法はないのでしょうか」


「その点は地上も霊界も同じです」

メンバーの一人「クリスチャン・サイエンス(※)の信仰と同じですか」


※――十九世紀半ばに米国女性メアリー・ベーカー・エディによって創始された宗教で、信仰の力一つで治すことを説き、医薬品を禁じ、霊の働きかけも認めない。


「真理は真理です。その真理を何と名付けようと、わたしたち霊界の者には何の違いもありません。要は中身の問題です。かりにクリスチャン・サイエンスの信者が霊の働きかけを得て治り、それをクリスチャン・サイエンスの信仰のお蔭だと信じても、それはそれでいいのです」

エドワーズ「私たち治療家も少しはお役に立っていることは間違いないと思うのですが、治療家を通して患者の魂にまで影響を及ぼすというのは、とても難しいことです」


「あなた方は、少しどころか、大いに貴重な役割を果たしておられます。第一、あなた方地上の治療家がいなくては、わたしたちも仕事になりません。霊界側から見れば、あなた方はわたしたちが地上と接触するための通路であり、一種の霊媒であり、言ってみればコンデンサーのような存在です。霊波が流れる、その通路というわけです」

エドワーズ「流れるというのは、何に流れるのでしょうか。肉体ですか、魂ですか」


「わたしたちは肉体には関知しません。わたしの方からお聞きしますが、たとえば腕が曲がらないのは、腕の何が悪いのでしょう?」

エドワーズ「生理状態です」


「では、それまで腕を動かしていた健康な活力はどうなったのでしょう?」

エドワーズ「なくなっています。病気に負けて病的状態になっています」


「その活力が再びそこを流れるようになったらどうなりますか」

エドワーズ「腕の動きも戻ると思います」


「その活力を通わせる力はどこから得るのでしょうか」

エドワーズ「私たちの意志ではどうにもならないことです。それは霊界側の仕事ではないかと思います」


「腕をむりやり動かしてみてもダメでしょう?」

エドワーズ「力ではどうにもなりません」


「でしょう。そこで、もしその腕を使いこなすべき立場にある魂が目を覚まして、忘れられていた機能が回復すれば、腕は自然に良くなるということです」

メンバーの一人「治療家の役目は、患者が生まれつき具わっている機能にカツを入れるということになるのでしょうか」


「そうとも言えますが、それだけではありません。というのは、患者は肉体をまとっている以上、当然、波長が低くなっています。それで、霊界からの高い波長の霊波を注ぐには、いったん治療家というコンデンサーにその霊波を送って、患者に合った程度にまで波長を下げる必要があります。そういう過程をへた霊波に対して患者の魂がうまく反応を示してくれれば、その治療効果は電光石火と申しますか、いわゆる奇跡のようなことが起きるわけですが、患者の魂にそれを吸収するだけの受け入れ態勢ができていない時は、何の効果も生じません。たとえば曲がったまま硬直している脚を真っすぐに伸ばしてあげるのは、あなた方ではありません。患者自身の魂の発達程度です」

別のメンバー「神を信じない人でも治ることがありますが……」


「あります。治癒の法則は、神を信じる信じないにおかまいなく働くからです」

「さきほど治癒は魂の進化の程度と関係があるとおっしゃいましたが……」


「神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がいます。霊格の高さは信仰心の多寡(たか)で測れるものではありません。行為によって測るべきです。

いいですか、あなた方は治るべき条件の整った人を治しているだけです。が、喜んでください。あなた方を通じて、知識と理解と光明へ導かれる人は大勢います。全部は治せなくても、そこには厳然とした法則があってのことですから、気になさらないことです。

と言って、それで満足して、努力することを止めてしまわれては困ります。いつも言っておりますように、大霊の意志は愛の中だけでなく、憎しみの中にも表現されております。晴天の日だけが神の日ではありません。嵐の日にも神の法則が働いております。成功にも失敗にも、それなりの価値があります。失敗なくしては成功もありません」

「信仰心が厚く、治療家を信頼し、正しい知識をもった人でも意外に思えるほど治療に反応を示さない人がいますが、なぜでしょうか。やはり魂の問題でしょうか」


「そうです。最後は同じ問題に帰着します。信仰心や信頼や愛の問題ではありません。魂そのものの問題であり、その魂が進化の過程で到達した段階の問題です。その段階で受けるべきものを受け、受けるべきでないものは受けないということです」

エドワーズ「治療による肉体上の変化は私たちにもわかるのですが、霊的な変化は目で確かめることができません」


「霊視能力者を何人集めても、全員が同じ治療操作を見ることはないでしょう。それほど複雑な操作が行われているのです。かりそめにも、簡単にやっているかに思ってはなりません。物質と霊との相互関係は奥が深く、かつ複雑です。肉体には肉体の法則があり、霊体には霊体の法則があります。両者ともそれぞれにとても複雑なのですから、その両者をうまく操る操作は、それはそれは複雑になります。むろん全体に秩序と調和が行きわたっておりますが、法則の裏に別の次元の法則があり、そのまた裏側にさらに別の次元の法則があり、それらが複雑にからみ合っております」

バートン夫人(※)「肉体上の苦痛は魂に影響を及ぼさないとおっしゃったように記憶しますけど……」


※――オリーブ・バートン女史は夫君のジョージ・バートン氏とともに永年エドワーズ氏のもとで助手として活躍し、今は第一線を退いているが、多彩な霊能の持ち主で、エドウィーナという女の子が生まれる直前にその子の守護霊からインスピレーションによる童話を受け取り、それが「子供のための心霊童話」のタイトルで出版され、今なおロングセラーを続けている。いずれ紹介する予定でいる。


「そんなことを言った覚えはありません。肉体が受けた影響はかならず魂にも及びますし、反対に魂の状態はかならず肉体に表れます。両者を切り離して考えてはいけません。一体不離の関係にあります。つまり肉体も自我の一部と考えてよろしい。肉体なしには自我の表現はできないのですから。本来は霊的存在です。肉体に生じたことは霊にも及びます」

バートン夫人「では、肉体上の苦痛が大きすぎて見るに見かねる時、もしも他に救う方法がないとみたら、魂への悪影響を防ぐために故意に死に至らしめるということも、そちらでなさることがあるのでしょうか」


「それは患者によります。実際は人間の気まぐれから、自然法則の順序を踏まずに、無理やり肉体から分離させられていることの方が多いのですが、それさえなければ、霊は、摂理にしたがって、死ぬべき時に自然に肉体から離れるものです」

バートン夫人「明らかに霊界の医師が故意に死なせたと思われるケースがありますけど……」


「あります。しかし、それは“埋め合わせ(バランス)の法則”にのっとって、周到な配慮の上で行っていることです。それでもなお、魂にショックを与えます。そう大きくはありませんが……」

バートン夫人「肉体を離れるのが早すぎたために生じるショックですか」


「そうです。物事にはかならず償いと報いとがあります。不自然な死をとげると、かならずその不自然さに対する報いがあり、同時にそれを償う必要性が生じます。それがどういう形を取るかは個人によって異なります。あなた方治療家の役目は、患者の魂にそれだけの資格ができている場合に、苦痛を和らげてあげることです。その間に調整がなされ、言わば衝撃が緩和されて、魂がしかるべき状態に導かれます」

エドワーズ「絶対に生き永らえる望みなしと判断した時、少しでも早く死に至らしめるための手段を講じることは許されることでしょうか、許されないことでしょうか」


「わたしはあくまで“人間は死すべき時が来て死ぬべきもの”と考えております」

エドワーズ「肉体の持久力を弱めれば死期を早めることになります。痛みと苦しみが見るに見かね、治る可能性もない時、死期を早めてあげることは正しいでしょうか」


「あなた方の辛い立場はよく理解できます。また、わたしとしても好んで冷たい態度を取るわけではありませんが、法則はあくまでも法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備ができた時に来るべきです。それはちょうど、柿が熟した時に落ちるのと同じです。熟さないうちにもぎ取ってはいけません。

わたしはあくまでも自然法則の範囲内で講ずべき手段を指摘しております。たとえば、薬や毒物ですっかり身体をこわし、全身が病的状態になっていることがありますが、身体は本来そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。そういう観点から考えていけば、どうすればよいかは、おのずと決まってくると思います。

何事も自然の摂理の範囲内で処理すべきです。本人も医者も、あるいは他の誰によっても、その摂理に干渉すべきではありません。もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てば、それなりの結果が生じます。ですが、それが本当に良いことか悪いことかは、霊的法則にどの程度まで適(かな)っているかによって決まることです。つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです。魂にとって最善であれば、肉体にとっても最善であるに違いありません」

同じくエドワーズ氏とバートン夫妻が出席した別の日の交霊会で、シルバーバーチはこう強調した。


「霊力の本当の目的は、病気が縁となってあなた方のもとを訪れる人たちの魂を目覚めさせることにあります。自分が本来は霊的な存在であり、物的身体は自分ではないことに気づかないかぎり、その人は実在に対してまったく無関心のまま地上生活を送っていることになります。言わば影の中で幻影(まぼろし)を追いかけながら生きていることになります。実在に直面するのは、真の自我すなわち霊的本性に目覚めた時です。

地上生活の目的は、帰するところ自我を見出すことです。なぜなら、いったん自我を見出せば、それからは(分別のある人ならば)内部に宿る神性をすすんで開発しようとするからです。残念ながら地上の人間の大半は、真の自分を知らず、したがって不幸や悲劇にあうまでは、自分の霊的本性に気づかないのが実情です。光明の存在に気づくのは人生の闇の中でしかないのです。

あなた方がお会いになるのは、大半が心身に異常のある方です。もしも治療を通じてその人たちに自分が霊的存在であるとの自覚を植えつけることができたら、もしもその人たちの霊的本性を目覚めさせることができたら、もしも内部の神性の火花を点火させることができたら、やがてそれが炎となって、その明かりが生活全体に輝きをもたらします。

もとよりそれは容易なことではありません。でも、たとえ外(はず)れた関節を元どおりにしてあげるだけのことであっても、その治療を通じてその人に自分が肉体をそなえた霊であり、霊をそなえた肉体ではないことを理解させることに成功すれば、あなた方はこの世で最大の仕事をしていることになるのです。

わたしたちは肉体そのものよりも、その奥にある霊の方により大きな関心を向けていることを、よく理解していただかねばなりません。霊が正常であれば肉体も健康です。霊に異常があれば、つまり霊と精神と肉体との関係が一直線で結ばれていなければ、肉体も正常では有り得ません。この点をよく理解していただきたいのです。なぜなら、それはあなた方がご苦労なさっているお仕事において、あなた方自身にも測り知ることのできない側面だからです。完治した人、痛みが和らいだ人、あるいは回復の手応えを感じた人があなた方へ向ける感謝の気持ちも礼も、魂そのものが目覚め、内部の巨大なエネルギー源が始動しはじめた事実にくらべれば、物のかずではありません。

あなた方は容易ならざるお仕事にたずさわっておられるのです。犠牲と献身を要求される仕事です。困難の最中において為される仕事であり、その道は容易ではありません。しかし、先駆者のたどる道はつねに容易ではありません。奉仕的な仕事には障害はつきものなのです。かりそめにもラクな道、障害のない道を期待してはなりません。障害の一つ一つ、困難の一つ一つが、それを乗り越えることによって、霊の純金を磨き上げるための試練であると心得てください」

エドワーズ「魂の治療の点では、私たち治療家の役割よりも霊界の治療家の役割の方が大きいのでしょうか」


「当然そうなりましょう」

エドワーズ「そうすると、私たちが果たしている役目は小さいということでしょうか」


「小さいとも言えますし、大きいとも言えます。問題は波長の調整にあります。大きく分けて、治療には二通りの方法があります。一つは治癒エネルギーの波長を下げて、それを潜在エネルギーの形で治療家に届けます。それを再び活エネルギーに還元して、あなた方治療家が使用するという方法です。もう一つは、特殊な霊波を直接患者の意識の中枢に送り、魂に先天的にそなわっている治癒力を刺激して、魂の不調、すなわち病気を払いのける方法です。こう述べてもお分かりにならないでしょう?」

エドワーズ「いえ、理屈はよく分かります。ただ、現実に適用するとなると……」


「では、説明を変えてみましょう。まず、そもそも生命とは何かという問題ですが、これは地上の人間にはまず理解できないと思います。なぜかと言うと、生命とは本質において物質と異なるものであり、いわゆる理化学的研究の対象とはなり得ないものだからです。

で、わたしはよく、生命とは宇宙の大霊のことであり、大霊とはすなわち大生命のことだと申し上げるのですが、その意味は、人間が意識をもち、呼吸し、歩き、考える、その力、また樹木が若葉をつけ、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後にひそむ力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだというのです。同じ霊力の一部であり、一つの表現なのです。

あなた方が今ここにこうして生きていらっしゃる事実そのものが、あなた方も霊であることを意味します。ですから、同じく霊である患者の霊的進化の程度に応じたさまざまな段階で、その霊力を注入するというのが心霊治療の本質です。

ご承知の通り、病気には魂に起因するものと、純粋に肉体的なものとがあります。肉体的なものは治療家が直接手を触れる必要がありますが、霊的な場合は今のべた生命力を活用します。ただし、この方法にも限界があります。あなた(エドワーズ)の進化の程度、協力者のお二人(バートン夫妻)の進化の程度、それに治療を受ける患者自身の進化の程度、この三つが絡みあって自然にできあがる限界です。また、いわゆる因縁(カルマ)というものも考慮しなくてはなりません。因果律です。これは時と場所とにおかまいなく働きます」

エドワーズ「魂の病にもいろいろあって、それなりに肉体に影響を及ぼしていると思いますが、そうなると、病気一つ一つについて質の異なる治癒エネルギーが必要なのではないかと想像されますが……」


「まったくおっしゃる通りです。人間は三位一体の存在です。一つは今のべた霊(スピリット)、これが第一原理です。存在の基盤であり、種子であり、すべてがそこから出ます。次に、その霊が精神(マインド)を通じて自我を表現します。これが意識的生活の中心となって、肉体(ボディ)を支配します。この三者が融合し、互いに影響しあい、どれ一つ欠けても、あなたの地上での存在はなくなります」

エドワーズ「一方通行ではないわけですね?」


「そういうことです。霊的ならびに精神的発達の程度にしたがって肉体におのずから限界が生じますが、それを意識的鍛練によって、信じられないほど自由に肉体機能を操ることができるものです。インドの行者などは、西洋の文明人には想像もできないようなことをやってのけますが、精神が肉体を完全に支配し思いどおりに操れるように鍛練したまでのことです」

エドワーズ「心霊治療が魂を目覚めさせるためのものであり、霊が第一原理であれば、霊界側からの方がよほどやり易いのではないでしょうか」


「そう言えそうですが、逆の場合の方が多いようです。というのは、死んでこちらへ来た人間でさえ霊的波長よりは物的波長の中で暮らしている霊が多いという事実からもお分かりの通り、肉体をまとった人間は、よほど発達した人でないかぎり、たいていは物的波長にしか反応を示さず、わたしたちが送る波長にはまったく感応しないものです。そこであなた方地上の治療家の存在が必要となってくるわけです。霊的波長にも物的波長にも感応する連結器というわけです。

治療家にかぎらず、霊能者と呼ばれている人が、つねに心の修養を怠ってはならない理由はそこにあります。霊的に向上すれば、それだけ仕事の範囲が広がって、より多くの価値ある仕事ができるようになります。そのように法則ができ上がっているのです。

ですが、そういう献身的な奉仕の道を歩む人は、必然的に孤独な旅を余儀なくさせられます。ただ一人、前人未踏の地を歩みながら、のちの者のための道しるべを立てて行くことになります。あなたにはこの意味がよくお分かりでしょう。すぐれた特別の才能には、それ相当の義務が生じます。両手に花とはまいりません」

エドワーズ「さきほど治癒エネルギーのことを説明された時、霊的なものが物的なものに転換されるとおっしゃいましたが、その転換はどこで行われるのでしょうか。どこかで行われているはずですが……」


「使用するエネルギーによって異なります。信じられない方もいらっしゃるかも知れませんが、いにしえの賢人が指摘している“第三の目”とか太陽神経叢などを使用することもあります(※)。そこが霊と精神と肉体の三者が合一する“場”なのです。これ以外にも患者の潜在意識を利用して、健康な時と同じ生理反応を起こさせることによって、失われた機能を回復させる方法があります」


※――いずれもヨガでいうチャクラに相当し、全部で七つある。この分野ではセオソフィーの研究が進んでいる。

エドワーズ「説明されたところまでは分かるのですが、その“中間地帯”がどこにあるかがよく分かりません。どこで物的状態と霊的治癒エネルギーとつながるのか、もっと具体的に示していただきたいのです。どこかで何らかの形で転換が行われているに違いないのですが……」


「そんな具合に迫られると、どうも困ってしまいますね。弱りました。わかっていただけそうな説明がどうしてもできないのです。強いてたとえるならば、さっきもいったコンデンサーのようなことをするのです。コンデンサーというのは電流の周波を変える装置ですが、大体あんなものが用意されていると想像してください。エクトプラズムを使用することもあります。ただし、実験会での物質化現象や直接談話などに使用するものとは形態が異なります。もっと微妙な、目に見えない……」

エドワーズ「一種の“中間物質”ですか」


「そうです。霊の念波を感じやすく、しかも物質界でも使用できる程度の物質性をそなえたもの、とでも言っておきましょうか。それと治療家のもつエネルギーが結合してコンデンサーの役をするのです。そこから患者の松果体(※)や太陽神経叢を通って体内に流れ込みます。その活エネルギーは全身に行きわたります。電気的な温もりを感じるのはその時です。

知っておいていただきたいのは、とにかくわたしたちの治療法には決まった型というものはないということです。患者によってみな治療法が異なるのです。また、霊界から次々と新しい医学者が協力にまいります。そして新しい患者は新しい実験台として臨み、どの放射線を使用したらどういう反応が得られたかを、細かく検討します。なかなか捗(はかど)らなかった患者が急に快方へ向かいはじめることがあるのは、そうした霊医の研究成果の表れです。また、治療家のところへ行く途中で治ってしまったりすることがあるのも、同じ理由によります。実質的な治療というのは、あなた方が直接患者に接触する以前にすでに霊界側で大部分が済んでいると思って差しつかえありません」


※――脊柱の先端と二つの大脳葉にはさまれた、直径四ミリ、長さ六ミリほどの円柱形の器官で、霊界との連絡に大切な機能を果たしている。松果腺とも。詳しくはルース・ウェルチ著『霊能開発入門』参照。

エドワーズ「そうすると、もう一つ疑問が生じます。いま霊界にも大勢の医者がいると申されましたが、一方で遠隔治療を受けながら、別の治療家のところへ行くという態度は、治療にたずさわる霊医にとって困ったことになりませんか」


「結果をみて判断なさることです。治ればそれでよろしい」

エドワーズ「なぜそれでいいのか、理屈が分からないと、われわれ人間は納得できないのですが……」


「場合によってはそんなことをされると困ることもありますが、まったく支障にならないこともあります。患者によってそれぞれ事情が違うわけですから、一概に言い切るわけにはまいりません。

あなただって、患者を一目見ただけで、これは自分に治せる、とは判断できますまい。治せるか否かは患者と治療家の霊格によって決まることですから、あなたには八分どおりしか治せない患者でも、他の治療家のところへ行けば全治するかも知れません。条件が異なるからです。

その背景、つまり霊界側の複雑な事情を知れば知るほど、こうだ、ああだと、断定的な言葉は使えなくなるはずです。宇宙の法則には無限の奥行きがあります。あなた方人間の立場としては、正当な動機と奉仕の精神にもとづいて、精いっぱい人事を尽くされればいいのです。こうすれば治る、これでは治らない、といった予断のできる者はいません」

エドワーズ「細かい点はともかくとして、私たちが知りたいのは、霊界の医師は、必要とあらばどこのどの治療家にも援助の手を差しのべるのかということです」


「霊格が高いことを示す一番の指標は、人を選り好みしないということです。わたしたちは、必要とあらばどこへでも出かけます。それが高級神霊界の鉄則なのです。あなた方も患者を断るようなことは決してなさってはいけません。精神的にも霊的にも、すでに本質において永遠の価値をもった成果をあげておられます。人間的な目で判断してはいけません。あなた方には物事のウラ側を見る目がないのです。したがって、ご自分のなさったことがどんな影響を及ぼしているかもお分かりになりません。

しかし実際には、ご自分で考えておられるよりはるかに大きな貢献をなさっております。あなた方の貢献は、地上で為しうる最大のものに数えられることに自信をもってください。一生けんめい治療なさってもなお反応がなくても、それはあなたの責任ではありませんし、協力者(バートン夫妻)の責任でもありません。すべては自然の摂理の問題です。ご承知のように、奇跡というものは存在しません。すべては無限の愛と無限の叡智によって支配されているのです。

あなたと、協力者のお二人に申し上げます。常に、霊の光に照準を当てるように心がけてください。この世的な問題(※)に煩わされてはなりません。これまでに幾つもの困難に遭遇し、これからも行く手に数々の困難が立ちはだかることでしょうが、奉仕の精神に徹しているかぎり、克服できない障害はありません。すべてが克服され、奉仕の道はますます広がっていくことでしょう。

あなた方のお仕事は、人々に苦痛の除去、軽減、解放をもたらすだけではありません。あなた方の尊い献身ぶりを見て、それを見習おうとする心を人々に植えつけています。そしてそれが、あなた方をさらに向上の道へと鼓舞することになります。わたしたちは、まだまだ霊的進化の頂上をきわめたわけではありません。まだまだ、先ははるかです。なぜなら、霊の力は大霊と同じく無限の可能性を秘めているからです」


※――エドワーズの治療所は治療費を取らず自発的な献金でまかなっていたために、慢性的な資金不足の問題をかかえ、借り入れ金の返済も滞(とどこお)りがちで、運営の危機に直面したことが何度かある。

サークルのメンバー「患者としては、あくまでも一人の治療家のお世話になるのが好ましいのでしょうか」


「それは一般論としてはお答えしにくい問題です。なぜかと言いますと、大切なのはその患者の霊的状態と治療家の霊的状態との関連性だからです。治療法にも、いろいろと種類があることを忘れてはなりません。霊的な力をまったく使用しないで治している人もいます。自分の身体のもつ豊富な生体エネルギーを注入することで治すのです。霊の世界とは何の関わりもありません。それも治療法の一つというにすぎません。

ですから、患者の取るべき態度について戒律をもうけるわけにはいかないのです。ただし、一つだけ好ましくない態度を申せば、次から次へと治療家を渡り歩くことです。それでは治療家にちゃんとした治療を施すチャンスを与えていないことになるからです。わたしたち霊界の者が何とか力になってあげたいと思って臨んでも、そういう態度で訪れる人のまわりには一種のうろたえ、感情的な迷いの雰囲気が漂い、それが霊力の働きかけを妨げます。ご承知のように、霊力が一番働きやすいのは、受け身的な穏やかな雰囲気の時です。その中ではじめて魂が本来の自分になりきれるからです」

エドワーズ「一人の治療家から直接の治療を受けながら、別の治療家から遠隔治療を受けるというのはいかがでしょうか」


「別に問題はありません。現にあなたがそれを証明しておられます。他の治療家に治療してもらっている人をあなたが治されたケースがいくつもあります」

バートン氏「私は祈りの念が霊界へ届けられる経路について考えさせられることがよくあります。祈り方にもいろいろあり、とくに病気平癒の祈願がさかんに行われております。その一つとして祈念する時間が長いほど効果があると考えている人がいます。いったい祈りは霊界においてどういう経路で届いているのかを知りたいのです」


「この問題も、祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご承知のとおり宇宙はすみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇跡とかは絶対に起こりません。もしもその祈りが利己心から発したものであれば、それはそのままその人の霊格を示すものであり、そんな人の祈りで病気が治るものでないことは言うまでもありません。

反対に、自分を忘れ、ひたすら救ってあげたいという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りは高級神霊界にも届きますし、自動的に治癒効果を生む条件をつくり出す力もそなわっています。要するに祈る人の霊格によって決まることです」

バートン氏「祈りはその人そのものということでしょうか」


「そういうことです」

バートン氏「大主教による仰々(ぎょうぎょう)しい祈りよりも、素朴な人間の素直な祈りの方が効果があるということでしょうか」


「地位には関係ありません。肝心なのは祈る人の霊格です。大主教が霊格の高い人であれば、その祈りには霊力がそなわっていますが、どんなに立派な僧衣をまとっていても、筋の通らない教義に凝り固まった人間でしたら、何の効果もないでしょう。

もう一ついけないのは、集団で行う紋切り型の祈りです。意外に効果は少ないものです。要するに大霊は肩書や人数ではごまかされないということです。祈りの効果を決定づけるのは、祈る人の霊格です。

祈りとは、本来、波長をふだんより高めるための霊的な行為です。波長を高め、人のために役立ちたいと祈る行為は、それなりの効果を生み出します。あなたが抱える問題は、大霊は先刻ご承知です。宇宙の大霊であるがゆえに、宇宙の間の出来事のすべてに通じておられます。大霊とは大自然の摂理の背後の叡智です。したがって、その摂理をごまかすことはできません。大霊をごまかすことはできないのです。あなた自身さえごまかすことはできません」

バートン夫人「治療の話に戻りますが、患者が信仰心をもつことが不可欠の条件だという人がいますし、関係ないと主張する人もいます。どうなのでしょうか」


「心霊治療にかぎらず、霊的なことには奥には奥があって、一概にイエスともノーとも言い切れないことばかりです。信仰心があった方が治りやすい場合がたしかにあります。霊的知識にもとづいた信仰心は、魂が自我を見出そうとする一種の憧憬ですから、魂に刺激を与えます。あくまで自然の摂理に関する知識にもとづいた信仰のことであって、何か奇跡でも求めるような盲目の信仰ではダメです。反対に、ひとかけらの信仰心がなくても、魂が治るべき段階まで達しておれば、かならず治ります」

バートン夫人「神も仏もいないと思っている人が治り、立派な心がけの人が治らないことがあって、不思議でならないことがあります」


「その線引きは魂の霊格によって決まります。人間の観察はとかく表面的になりがちで内面的でないことが多いことを忘れてはなりません。魂そのものが見えないために、その人がそれまでにどんなことをしてきたかが判断できないのです。治療の効果を左右するのは、あくまでも患者の魂です。

ご承知のとおり、わたしも何千年か前に地上でいくばくかの人間生活を送ったことがあります。そして、死後こちらでそれよりはるかに長い霊界生活を送ってまいりましたが、その間、わたしが何にもまして強く感じているのは、大自然の摂理の正確無比なことです。知れば知るほどその正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりです。一分(ぶ)の狂いも不公平もありません。地上だけではありません。わたしたちの世界でも同じです。差引勘定をしてみれば、きちんと答えが合います。

迷わず、ただひたすら心に喜びを抱いて奉仕の精神に徹して仕事をなさることです。そして、あとのことは全て大霊にお任せすることです。それから先のことは人間の力の及ぶことではないのです。誰が治り誰が治らないかは、あなた方が決めるのではありません。いくら願ってみても、それは叶わないことです。あなた方は、所詮、わたしたちスピリットの道具にすぎません。そして、わたしたちもまた、さらに高い神霊界のスピリットの道具にすぎません。自分より偉大なる力がすべてを良きに計らってくださると信じて、すべてをお任せすることです」

最後に、別の日の交霊会でふたたび心霊治療が話題となった時にシルバーバーチが述べた注目すべき霊言を紹介しておこう。

パキスタンから招待された人がこう尋ねた。

「一見なんでもなさそうな病気がどうしても治らないことがあるのはなぜでしょうか」


「不治の病というものはありません。すべての病気にそれなりの治療法があります。宇宙は単純にして複雑です。深い奥行きがあるのです。法則の奥にまた法則があるのです。知識は新しい知識へ導き、その知識がさらに次の知識へと導きます。理解には際限がありません。叡智も無限です。こんなことを申し上げるのは、いかなる質問にも簡単な答えは出せないということを知っていただきたいからです。すべては魂の本質、その構造、その進化、その宿命にかかわることだからです。

地上の治療家から、よくこういう言い分を聞かされます――“この人が治ったのに、なぜあの人は治らないのですか。愛と、治してあげたい気持ちがこれほどあるのに治らなくて、愛を感じない、見ず知らずの人が簡単に治ってしまうことがあるのは、なぜですか”と。

そうしたことはすべて法則によって支配されているのです。それを決定づける法則は魂の進化と関係しており、魂の進化は現在の地上生活だけで定まるのではなく、しばしば前世での所業が関わっていることがあります。

霊的な問題は地上的な尺度では計れません。人生のすべてを物質的な尺度で片づけようとすると誤ります。しかし、残念ながら、物質の中に閉じ込められているあなた方は、とかく霊の目をもって判断することができず、それで、一見したところ不正と不公平ばかりが目につくことになります。

大霊は完全なる公正です。その叡智は完璧です。なぜなら、完全なる摂理として作用しているからです。あなた方の理解力が一定の尺度に限られている以上、宇宙の全知識をきわめることは不可能です。

どうか“不治の病”という観念はお持ちにならないでください。そういうものは存在しません。治らないのは、往々にしてその人の魂がまだそうした治療による苦しみの緩和、軽減、安堵(あんど)、ないしは完治を手にする資格を身につけていないからであり、そこに宿業(カルマ)の法則が働いているということです。こう申し上げるのは、あきらめの観念を吹聴(ふいちょう)するためではありません。たとえ目に見えなくても、何事にも摂理というものが働いていることを指摘したいからです」

祈り

無知に代わって知識が支配し……


ああ、大霊よ。あなたはあらゆる定義と説明を超越した存在にあらせられます。なぜならば、あなたの本性は窮まるところを知らないからでございます。いかなる書物も、いかなる教会も、いかなる建造物も、いかなる言語も、あなたのすべてを包摂することはできませんし、あなたのすべてを説き明かすこともできません。

遠い過去において、特殊な才能に恵まれた数少ない人たちは、見えざる世界からのインスピレーションを受け取り、天上界とその住民の生活を垣間(かいま)見ることができました。しかし、それにも、その霊能者たちの知的ならびに霊的進化の程度による限界があり、したがってあなたについての理解には歪(ゆが)みがあり、不正確であり不完全でした。

今わたしどもは、少数ではなく大勢の霊能者を通して、全大宇宙の背後に控える無限なる精神についての、より実相に近い概念を啓示せんと努力しているところでございます。それは、絶対的支配力を有する大自然の摂理であり、その摂理には例外もなく、変更もなく、廃止もございません。

その絶対的摂理が全生命を管理しているとわたしたちは説くのです。物質の世界に顕現している部分だけに限りません。生命活動のあらゆる側面を統御し、すべてがその支配下にあると説いているのでございます。

かくして無限なる精神によって創案され、愛と叡智を通して働いている摂理は、宇宙的生命活動のすべてを認知していることになり、地上に生活する人類もまた、その例外ではございません。しかも、全生命を創造したあなたの霊が地上の子等の一人一人に例外なく宿っているのでございます。その絆は永遠です。子等をあなたと結びつけている絆は、墓場を超えて彼岸の霊界においてもなお続くのでございます。

もしも幸いにしてあなたの子等があなたを正しく理解すれば、彼らみずからを理解することになり、自分自身の存在の中にあなたの完全性のひな型が写し出されていることを知ることになるのですが、それがまだ実現される段階に至っていないのが残念でなりません。より大きな表現へ向けて呼び覚まされるのを待ちながら居眠りの状態で潜在している、言葉では言い表せないミニチュアのあなたなのでございます。

生命の法則をより多く知るにつれて、あなたの子等はその内部の神性をより大きく発現できるような生活が営めることになりましょう。

霊の資質を開拓することにより、高遠の世界の進化せる霊との、より豊かな交わりが得られ、それまでに蓄積した知識と教養と叡智をふんだんにもたらしていただき、地上をより公正に、より豊かに、そしてより美しくする上で力となってくださることでしょう。

そうなることが、無意味な悲劇と不幸と悩みとをなくすことになりましょう。なぜなら、無知に代わって知識が支配し、健康が病気を駆逐し、慰めが悲哀と所を代え、永きにわたって暗黒が支配してきた場所に真理の光が灯されることになるからでございます。

その目標に向かってわたしどもは、同じく地上の子等のために献身する他の霊団とともに、努力しているところでございます。

ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。