Wednesday, January 28, 2026

シルバーバーチの教え(新版・上)

Treasury of Spiritual Wisdom
Teachings of Silver Birch
A.W.オースチン(編) 近藤千雄(訳)


10章 霊的進化の道を歩む神の子供たち

〔キリスト教の神学者たちは「原罪(人間の堕落)」を説く。しかしシルバーバーチはそれを否定し、人類は誕生以来、ずっと進化の道をたどっており、その歩みに終着点はないと明言する。(原罪とは、最初の人類であるアダムとイブが神の掟を破ったところから発生し、人間は皆、その子孫として生まれながらに罪を負うようになったとする説――訳注)〕


種子が暗い土の中に埋められるのは、養分を摂取して発芽後の成長に備えるためです。それと同じく、人間の生命の種子が物質界という暗黒の世界に生まれてくるのは、霊界へ戻ってからの進化に備えて地上生活での体験を積むためです。

地上人生のあらゆる体験は、大きな計画の中の一つです。落胆・挫折・悲しみ・痛み……これらは人間的心情からすればあって欲しくないものかもしれませんが、魂の進化にとっては、とても貴重な体験なのです。

しかしあなた方は、その体験の最中(さなか)にあってはそうは思えないでしょう。人生体験の価値を明確に認識できるようになるのは、こちらへ来て地上人生の一部ではなく、全体を振り返ることができるようになったときです。さまざまな逆境を通して人間性が試され、悲哀を通して魂が強化されたことを知るようになるのです。

私たちは地上人生を、地上的視点ではなく霊的視点から眺めます。賢明な人間とは、すべての体験を魂の養分として摂取しようとする人のことです。辛いことや煩悩(ぼんのう)の誘惑に流されず、心の奥深くにある霊的な力を活用して困難に立ち向かおうとする人のことです。そうした精神で臨んでこそ、人間性が磨かれ強化されるのです。

摂理は完璧であり、自動的に働きます。誰ひとり摂理から逃れることはできません。自由意志そのものでさえ摂理の一つであり、その摂理の働きは一定の進化の段階に至っている者には明瞭に見て取ることができます。

自由意志を行使できるといっても、あくまでもあなた方が到達した進化の段階の範囲内でのことです。何でも思うようにできるというものではなく、各自が到達した進化のレベルによって制約を受けるのです。

あなた方は大霊の一部であり、発現すべき無限の神性を秘めています。その神性が発現した分だけ、より高い次元の摂理との関わり合いが生じます。その摂理は、それまでの低次元の摂理と矛盾するものではありません。霊性が進化したために関わり合うことになった摂理です。

無限とは、文字どおり“限りがない”ということです。美の完全性にも音楽の壮麗さにも限りというものはありません。霊性が進化するにつれて、より高度な美と調和の世界を自分のものにすることができるようになります。魂が向上するにともない、もっと素晴らしい調和の世界が待ち受けているのです。

低い次元にいる者が高い次元の世界を理解することはできません。が、高い次元にいる者は低い次元の世界を理解することができます。宇宙の全側面をつかさどっている摂理は自動的に働きますが、それぞれの次元で作動している摂理との関わりは、その次元まで霊性を高めないかぎり生じません。

あなた方はこれまでの霊的成長によって、今後の成長の道を選択することになります。しかしあなた方は、霊的成長を遅らせるような選択をすることもできるのです。その時点における方向性は、さまざまな摂理の相互作用によって自動的に決定します。あなた方の意識は進化のレベルに応じて変化し、それによって選択がなされます。魂が目覚めていれば進化を促す方向を選ぼうとしますが、肉体の脳を通して顕現している意識(顕在意識)は、それに歩調を合わせることができません。

あなた方は、霊性の進化を通して自然の法則(摂理)を学んでいきます。何よりもまず、事実に反するもの、理性が反発するもの、大霊の愛と叡智に一致しないものを、すべて捨て去ることを学ばなければなりません。新たな知識を取り入れるに先立って、それまでの間違った知識を捨て去らなければなりません。正しい思考を妨げるものを、すべて取り除かなければなりません。そうしてようやく魂が成長し、より高次の知識を取り入れる用意ができることになるのです。

このサークル(交霊会)に出席している皆さんは、魂が成長し、大霊の無限の叡智に接する機会が多くなっています。霊的現象を演出するための法則や、日常生活に関連する法則についても学んでいます。あなた方は進歩するにつれて、より多くの知識を手にすることができるようになるのです。

皆さんからシルバーバーチと呼ばれているこの私がお届けしている知識は、無限の界層に存在する知識のうちのごく一部にすぎません。皆さんがさらに成長すれば、私よりも一段と高い指導霊が、私を使ってより高度な知識と叡智をお届けすることになるでしょう。

霊的進化には、これで終わりという段階は存在しません。また、完全というものも存在しません。あなた方も、そしてこの私も、刻一刻と進化向上しています。そして私よりも進化している霊から聞いたところによれば、彼らの背後にはさらに高級な霊たちが控えているとのことです。とにかく霊的進化には終着点というものはありません。もしあるとしたら、大霊による創造の営みはそこで停止してしまうことになります。

何百万年もの間、人間の肉体は進化してきました。それにともなって人間の魂も、大地から空に向かって上昇するように、ゆっくりと少しずつ低い段階からより高い段階へと進化してきました。獣性が徐々に拭われ、神性が現れるようになってきました。

人間の肉体が現在の進化のレベルに至るまでには、何百万年もの永い時がかかりました。そしてその進化は、まだ終わったわけではありません。今後もそうした肉体の進化とともにあなた方の魂は、永い永い時をかけてどこまでも進化していくことになります。

それほど遠くない昔、人間はサルでした。実際にサルであったということではなく、サルに似た肉体を通して働いていた「霊」であったという意味です。その霊は、大霊の分霊にほかなりません。生命のあるところならどこでも、大霊の息吹が存在します。大霊の息吹がなければ、生命は存在しません。大霊の息吹にはランク(段階)があり、その息吹によって人間は進歩し、低い段階から高い段階へと進化することになったのです。

生命を持っているもののすべてに大霊の息吹があればこそ、物質界の最下等の生命体から聖人君子に至るまで、大霊につながっていると言えるのです。いかなる極悪人も、限りなく美しい心の持ち主も、内部に大霊の息吹を宿しているという意味で兄弟姉妹なのです。摂理から逃れられる者は一人もいません。全人類がお互いに責任を持っているということです。
質疑応答


――本人には何の罪もないのに、身体的欠陥や盲目といった障害を持って生まれてくる子供がいるのはなぜでしょうか。


肉体という外形だけで魂を判断してはいけません。魂の進化と、魂が地上生活で使用する身体の進化とを混同してはいけません。父親または母親、あるいは双方から受け継いだ遣伝的法則の結果として障害を持って生まれてくる子供がいるのは事実ですが、それが魂の進化を阻害することはありません。

肉体に障害を持って地上に生まれてくる子供には、その魂に埋め合わせの摂理が働いています。そうした子供たちは、優しさや忍耐力や他人への思いやりを持っています。永遠の埋め合わせの摂理があり、それによって誰もが公平に扱われているのです。

次代の子孫に物的身体を提供する責任を担っている両親は、可能なかぎり完全な身体を提供すべきです。もし親がその責任を怠るなら、大霊の摂理が肉体の不完全さを補うことはできません。


――精神障害者として自らの行為に責任を持てない人は、死後どうなるのでしょうか。私たちは地上生活で形成された人間性によって裁かれると聞いておりますが……。


あなたは、物的なことと霊的なことを混同しています。地上では、脳に障害があると混乱が生じます。宿っている霊は脳に欠陥があることで自我を正常に表現できなくなりますが、自分自身の責任は自覚しています。

大霊の摂理は、あくまでも魂の進化を大前提として機能します。魂は、地上的な尺度ではなく永遠の叡智を尺度として評価されます。したがって地上的な善悪の基準では“悪”とされる行為であっても、魂そのものに責任がなければ、霊的には“悪”とは見なされません。

例えば、発狂状態で他人または自分自身の生命を奪った場合などです。それは知的判断力をつかさどる器官が正常に機能しなかった結果ですから、その霊が責任を問われることはありません。私の世界(霊界)では魂の動機を最優先して判断します。動機を基準とするかぎり、判断を誤ることはありません。


――肉体器官の欠陥によって地上生活で教訓を学べなかった霊は、霊界でどうなりますか。


肉体器官の欠陥のために霊が必要な地上体験を学ぶことができなかった、つまり地上人生の価値が失われたということです。しかし、埋め合わせの摂理は常に働いています。


――私たちは、地上生活でのさまざまな試練をくぐり抜けながら形成した人間性を携えて霊界へ行くわけですが、精神障害者の場合も同じように、地上で形成された人間性によって裁かれるのでしょうか。


魂の進化の程度と動機だけを基準として裁かれます。


――飲んだくれや精神異常、道徳的腐敗や心身の堕落が蔓延するスラムの中に生を享けて、過酷な人生を歩まされる子供がいる一方で、美しいものに囲まれた環境に生を享けて、何の不自由もない人生を送る子供もいます。この不公平はどう理解したらよいのでしょうか。


魂の進化は、魂そのものに刻み込まれていきます。ところが地上の人間はとかく、霊的なものではなく物的なもので判断しがちです。高い身分に生まれようと低い身分に生まれようと、人のために役立つことをするチャンスは必ず与えられます。魂が内部の神性に目覚め、それを発揮するチャンスはすべての人に訪れるのです。それこそが唯一の判断基準です。物的基準で計るかぎり、地上界は不公平だらけに思えるかもしれません。しかし、真の埋め合わせとは魂の次元におけるものであり、魂は自らを顕現させるために、あらゆる苦難を通して学ぶのです。


――でも、なぜ悪人が栄えるのでしょうか。


それもまた、地上的尺度による見方です。どうしてあなた方は、恵まれた生活をしている人の魂は不幸も悩みも苦痛も知らないと思うのでしょうか。いつも笑顔を絶やさないからでしょうか。豪華なものに囲まれているからでしょうか。紫の衣と亜麻糸の布が、そのまま満ち足りた魂を表すのでしょうか。永遠の基準は霊を基準としたものであり、物質を基準としたものではありません。そうでないなら神の公正が存在しないことになります。


訳注――「紫の衣と亜麻糸の布」は聖書のルカ伝十六章のイエスの説話に出てくる語句で、恵まれた環境と高い地位を象徴する言葉としてよく用いられる。


――しかし、飢えに苦しみ、悪徳や低俗なものばかりがはびこる環境よりは、恵まれた環境の方が明らかに善なる動機を発揮しやすいと思うのですが……。


私はそうは思いません。その証拠に、私が知るかぎりでは、地上の偉人はほぼ間違いなく低い身分の出身です。偉大な精神的指導者に至っては、まず間違いなく低い階層から出ています。葛藤を余儀なくさせられる困難が多いほど、それだけ魂が成長するものです。霊的自我に目覚めるのは、厳しい環境を克服しようとする闘いの中においてこそです。人生を外面からではなく、内部から見るようにしてください。


――人間の霊は、肉体的生命と同時に進化してきたのでしょうか。


たしかに霊は進化してきましたが、肉体と同じ進化の道をたどってきたのではありません。というのは、霊が肉体を通して自我を表現するためには、ある一定の段階までの肉体機能の進化が必要だったからです。


――死後にも進化向上することができるということは、霊界において邪悪な動機から罪を犯し、より低いレベルの界層に堕ちることもあり得るのでしょうか。


もちろんです。すでに霊の世界に来ていながら、何百年、時には何千年ものあいだ進化することなく、地上時代と同じ煩悩を抱き続けている者が少なくありません。彼らは貪欲で本能的欲望に満ちており、霊的摂理を理解しようとしません。霊的なことに対する感性が芽生えないのです。身は霊界にありながら、意識としては完全に地上で生活しており、しかも下降の一途をたどっています。


――人間の魂はあまりにも下降し過ぎると、最後には消滅してしまうのでしょうか。


いいえ、内在する大霊の炎が今にも消えそうに点滅することはあっても、消滅してしまうことはありません。大霊との霊的な絆は永遠であり、決して切れることはないからです。いくら下降しても、二度と向上できなくなるということはありません。また、いくら向上しても、最も低い界層の魂に救いの手を差し伸べるために下降できなくなるということはありません。


――個的生命は死後、ありとあらゆる界層を通過して個性を失い、最終的に大霊と融合し、その後さまざまな要素に振り分けられるのでしょうか。


私は、完全なる大霊と融合するほど完成の域に到達した霊を知りません。完全性を高めれば高めるほど、さらに高い領域があることを知るようになります。言い換えれば、意識にはどこまでも開発する余地があるということです。あなた方の意識は大霊の一部ですから、無限の奥行きがあります。私たちは究極の完全性というものを知りません。


――複数の個霊が進化して、どこかで一個のグループとして融合し、その中で個性を失うというようなことはないのでしょうか。


私の知るかぎりでは、ありません。ただ、次のようなことは確かにあります。ある重大な仕事が生じ、その達成のために一丸となった霊の集団が各自の知識と情報を持ち寄り、そのうちの一人が全体を代表して行動するというケースです。その仕事の進行中は、残りの者のアイデンティティーは薄れて一つになっています。しかし、それはその仕事の期間中だけのことです。


――ペットは死後も存続するそうですが、他にも存続する動物がいるのでしょうか。


はい、います。私たちが地上にいたとき友人のようにしていた多くの動物たちや、(あなた方がかわいがっていた)犬や猫などのペットは、死後も人間の中に混じって生きています。これらの動物たちは、人間の愛情を受けて一種の個性(パーソナリティー)を発現するようになり、そのパーソナリティーを携えて死後も人間の霊に混じって生きているのです。しかし、長続きはしません。ほんの一時期のことで、やがてそれぞれの「種」の母体であるグループ・スピリットの中に融合していきます。

大霊の子供である人間は、大霊の力を有しているお蔭で、まだ発現していない意識を持った動物に、死後に存続する力を与える能力が備わっていることを知ってください。本来の進化の過程においてその意識が発現する時期を一歩早め、進化を促すことができるのです。それが「愛の力」なのです。


――ペットは別として一般の動物も死後、個別に存続するのでしょうか。


いいえ、個別には存続しません。


――もしペットではない動物が死後、個として存在しないなら、まったく世話をされていない動物や虐待されている動物と大霊との関係はどうなっているのでしょうか。「創造した者」と「創造された者」という関係から見て、そうした動物の生命に大霊の愛ないしは公正がどういう形で現れているのでしょうか。


地上の人間の理解力が及ばないテーマを説明するのは、とても難しいことです。私は、動物が死んだときグループ・スピリットに融合していくことについて説明しました。そこには埋め合わせの摂理が働いています。その埋め合わせの摂理は、神の公正さの中で正しく機能します。とは言っても、それはあくまでも動物の進化の話であって、人間の進化とは次元が異なります。

あなた方は、大切に育てられて(自然に)枯れていく花と、放っておかれて枯れていく花を見て、その違いを説明しようとするかもしれませんが、あなた方にはそれぞれの花の背後にある摂理について理解することはできません。しかし、そこには同じ(埋め合わせの)摂理が働いているのです。


――動物には一匹ごとに埋め合わせの摂理が働いているのでしょうか。


いいえ、種のグループ全体に働いています。埋め合わせの摂理によって、地上で受けた苦痛がグループ・スピリット全体の進化を促します。


――グループ全体として扱われるとなると、そのグループの中に虐待された動物とそうでない動物とがいれば摂理の働きに偏りが生じるはずで、その点が理解できません。


それぞれのグループは似たような体験をした動物で構成されています。


――ということは、虐待されたグループとそうでないグループがあるということでしょうか。


さまざまな部分からグループ全体が構成されています。それはちょうど、あなた方の身体がさまざまな形態の細胞が集まって全体を構成しているのと同じことです。


――下等動物がなぜ存在するのか、またそれが創造されながら自然淘汰されていくという現実は、宇宙が神の愛によって経綸されているという事実と、どう辻褄(つじつま)を合わせたらよいのでしょうか。


人間には自由意志が与えられています。大霊から授かった力を駆使し、正しいことと間違ったことを判断する叡智を働かせるなら、地上界を“エデンの園”にすることができるのです。それを怠り、地上界をゴミやホコリで汚しておいて、人間が招いた悪い結果をどうして大霊に押しつけることができるのでしょうか。


――創造進化の大業が殺戮(さつりく)の血に染められてきたという事実のどこに、神の善意と愛のしるしが見いだせるのでしょうか。


なぜそのように小さな一部分を見るだけで、全体を見ようとしないのでしょうか。創造進化があるという事実そのものが、神の愛のしるしと言えるのではないでしょうか。あなたは、そういう考えに思い至ったことはありませんか。低い次元から高い次元へと進化するという事実は、摂理の背後に「愛の力」があるということの証拠ではないでしょうか。


――なぜ神は、地震や火山の噴火などの発生を許すのでしょうか。


そのように「なぜ神は……」という問いを発するとき、あなた方は大自然の法則の働きに疑念を抱いているのだということを忘れないでください。私は、法則というものが存在すること、そしてその法則に関わる私の体験をお教えしようとしているだけです。地震というのは物質界の進化における浄化作用の一つです。物質界はまだ進化の完成段階にまで達していないのです。


――その場合、地震によって亡くなった何の罪もない多くの人々は、地球の進化の犠牲者ということになります。それで公正と言えるでしょうか。


死者になることが悲劇であるかのようなご意見ですが、私はそのようには考えません。私に言わせれば、死は魂が自由を獲得するための素晴らしい時なのです。


――地震で亡くなった人々はすべて、それが他界する時期だったということでしょうか。


はい、そうです。ただ、そうした形で死を迎えたことについては、前世での所業(カルマ)が絡んでいます。


――我々より霊的に進化している、あるいは劣っている人間的存在が住んでいる天体がありますか。


ありますとも! あなた方より進化している人間的存在の住む天体はたくさんあります。地球と呼ばれている惑星は、この大宇宙に存在する無数の惑星の一つにすぎません。しかも、地球より劣っている天体は一つあるだけです。


――よくあることですが、重要だと思う一連の仕事を進めようとすると、しつこく邪魔が入ることがあります。それはなぜでしょうか。


価値のあること、成し遂げるに値することほど大きな困難がともなうものです。それを達成する道は楽ではありません。困難があり、妨害があり、邪魔が入るものです。

そうしたことは人間形成の一環なのです。困難や障害にどう対処するかによって、あなた方の魂の成長が決まります。何の困難もなしに、魂に内在する最高のものを顕現させられるとしたら、それは価値あるものとは言えません。

ですから、とにかく挫(くじ)けないことです。潜在する力を活用しても克服できないほどの大きな困難や障害は絶対に生じません。他人が故意に与える困難も、内在する力を発揮して立ち向かえば必ず消滅します。あなた方は地上生活において、自分の力のほんの一部しか発揮していないことがお分かりになっていません。


――今なお数えきれないほど多くの新生児が生まれてすぐに、あるいはその後に、間引きの慣習とか、その他もろもろの原因によって死んでいます。そうした子供たちが生まれてくることには、いったいどういう意味があるのでしょうか。


物的なものさしで判断するかぎり、永遠の摂理は理解できないでしょう。地上のいかなる賢者といえども、地上的知識を超えたことは分かりません。霊的叡智の光が見える段階まで進化すれば大霊の計画に納得がいくでしょうが、現段階では地上のいかなる覚者もガラス越しにぼんやりと見ているだけで、まだ理解してはいません。

皆さんがある人の人生を評価するのに、その人の学生時代だけを見て、卒業後のもっと長い人生を無視して判断するようなことはないでしょう。あなた方には、今生きている地上よりもはるかに素晴らしい生活が待ち受けているのです。美と色彩にあふれた世界です。愛の世界、真摯(しんし)な願いが成就される世界、地上では叶えられなかったことが実現する世界です。そうした世界をご覧になるまでは、大霊を批判するようなことを言ってはなりません。


――あなたが指導を仰いでおられる高級霊たちは、時にはこの交霊会を訪れることがあるのでしょうか。


いいえ、そうしたことはありません。高級霊たちは皆、強い絆で結ばれています。この霊媒(バーバネル)は私とあなた方とをつなぎ、私はあなた方と私よりも高い霊たちとをつないでいます。彼らはこの私と、さらなる高級霊たちとをつないでいるのです。それが霊の世界の深奥(しんおう)へ向かって、私の目の届かないところまで延々とつながっているのです。


――私たちは、いつかその最高の次元まで到達するようになるのでしょうか。


最高の次元まで到達するということはありません。こうしたことは、あなた方にはまだ理解できません。あなた方は地上では、魂のほんの一部分を顕現させることしかできません。魂の全部を顕現させようとしても、まだその準備ができていないのです。

私は霊界の奥深くへ戻るほど、本来の私をより多く発揮するようになります。それで私は年に二回、クリスマスとイースターに本来の所属界へ帰り、真の自我を取り戻すのです。


訳注――スピリチュアリズムまたはスピリティズムの名のもとに霊的真理の普及に携わっている霊団の連絡網は地球規模で構成されていて、その指導霊たちがクリスマスとイースターに一堂に会し、計画の進捗状況の報告と次の計画の指示を仰ぐ。その最高責任者が地上で「ナザレのイエス」と呼ばれた霊で、モーゼスの『霊訓』のインペレーター霊も同じことを述べている。


あなた方は皆、霊的進化の道を歩んでいる大霊の子供です。あなた方は愛する人との死別を悲しみますが、他界した人たちはこちらの世界で、地上時代よりもいっそう自我を発現するようになっていることを忘れてはいけません。


――それにしても、なぜ早いうちに死んでしまう子供たちがいるのでしょうか。地上で学ぶべきものを学べないように思えるのですが……。


早死にする子供たちは、(前世で)何か摂理に反したことをしているのです。それを償うには、そうした厳しい体験を通して大霊の戒めを学ぶしかないのです。

もしもその戒めが簡単に学べるとしたら、人類は自分自身を必死になって救おうとはしなくなるでしょう。そうしたら何世代も経ないうちに、大霊の意思はこの地上に顕現しなくなってしまいます。

苦悶(くもん)と病苦と悲哀を体験した人間は、他人の苦しみに心を配る、大きな魂へと成長するようになります。やりたい放題の人生を送り、はかない幻(まぼろし)を追い求めている魂は、いつかは真実に直面しなければならなくなります。安楽な日々を送っている人を見て羨(うらや)ましがることはありません。その行く先には過酷な人生が待ち受けているのです。

地上界にあっても霊界にあっても人間は、ありとあらゆる体験を積まなければならないようになっています。いかなる体験にも必ず学ぶべき教訓があります。あらゆる体験を乗り越えて初めて本当の自我を確立し、魂の内奥(ないおう)の完全性に至ることが許されるようになるのです。

それは確かに難しいことです。難しくないはずがありません。簡単に聖人や殉教者になれるでしょうか。簡単に宗教指導者や社会革命家になれるでしょうか。簡単になれるはずがありません。自己の責任から逃れようとするような人間に、人を導く資格はありません。

シルバーバーチの教え(新版・上)

Treasury of Spiritual Wisdom
Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編) 近藤千雄(訳)


7章 正しい祈りとは

〔祈りは、スピリチュアリズムに限らず、あらゆる宗教においてよく論じられるテーマである。「祈れば神が聞き届けてくださるか」ということであるが、祈りは摂理の支配を受けており、摂理に適えば効果を生み、摂理に適わなければ何も生じないということを知っている人は少ないようである。シルバーバーチは祈りについての質問に対して、次のような見解を示している。〕
質疑応答


――祈るということは大切でしょうか。


その祈りがどういうものであるかによって答えが異なります。目的のないきまり文句のただの繰り返しでは、空気に振動を起こすだけです。が、魂の奥底からの誠心誠意の祈り、大霊との一体化を深め、大霊の道具として有用な存在になりたいとの願望から出た祈りは、祈る者の霊性を強化し、大霊の道具としてより相応しい存在にします。そうした祈りは自我を顕現しようとする行為であり、心を開く行為であり、私たち霊界の者との結束を固めることになります。


――それは、祈りが生み出す結果は主観的なものだけで客観的なものは生み出さないということでしょうか。人間性を高めることはあっても、具体的なものは生み出さないのでしょうか。


真実の祈りは、あなた方にとって奉仕(サービス)の準備を整えるためのものです。あなた方を、より高度なエネルギーと調和させるための手段です。本当の祈りとは、誰かがつくった祈りの文句を意味も分からずに繰り返すことではなく、全身全霊を込めて到達できる最も高い次元にまで魂を引き上げようとする行為のことです。そのとき、祈りの結果としてもたらされるインスピレーションによって魂が満たされ、霊性が強化されるのです。


――他人のために祈ることにも何か効用があるのでしょうか。


あります。真摯(しんし)な祈りは決して無駄にはなりません。そうした祈りの意念には効力があります。


――治療家による遠隔治療の祈りには現実的な効果があるのでしょうか。


あります。これまでの質問には個人的な祈りを念頭にお答えしてきましたが、同じことがどの祈りにも当てはまります。祈りによって心霊的(サイキック)エネルギーが放出され、それが霊的治療家の背後霊団によって活用されることになります。


――祈りによって霊界の人々の援助を得ることは可能でしょうか。


もしあなたが、真心を込めて祈るなら、それによってより高度なエネルギーを受け入れやすくなります。祈るという行為そのものが魂を開かせるのです。もちろん全身全霊を傾けた祈りのことです。単なる願い事は祈りではありません。真実の祈りは重要な霊的修練なのです。「祈りは、あくまでも目的に至るための手段であって目的そのものではない」――これが最も正しい祈りの定義です。

私が勧める祈りの言葉は、たった一言しかありません。「何とぞ私を人のために役立てる方法を教え給え」――これです。大霊のため、そして大霊の子供たちのために一身を捧げたいとの祈りほど、崇高なもの、偉大な愛、これに優る宗教、これより深い哲学はありません。どのような奉仕でもかまいません。大霊の摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、飢えに苦しむ人に食べ物を与えてあげることでも、あるいは暗い心を明るくしてあげることでもよいのです。人々のために役に立ちさえすれば、どのような方法であってもかまいません。

自分のことを忘れて他人への奉仕を優先すればするほど、それだけ霊性が発達します。それは、あなた方一人ひとりの内部に宿る大霊が発揮されるということです。至って単純なことなのです。ところが人間は教会を建立し、何やら奇妙な説教をします。彼らは私にも理解できない長たらしい言葉を用いて、これぞ宗教とばかりに仰々しい儀式を行います。

そんなことよりも、生きる意欲を失くしている人のところへ出かけていって元気づけ、疲れた人に眠る場所を与え、飢えに苦しむ人の空腹を満たし、渇いた人の喉を潤し、暗闇に閉ざされた人の心に明るい真理の光を灯してあげることです。そうしたことを実行しているとき、あなた方を通して大霊の摂理が働いていることになるのです。


――しばしば、祈りが聞き届けられないように思えることがあるのですが、なぜでしょうか。


すべての人間の内面では、常に“人間臭いもの”と“神性を帯びたもの”との間で葛藤があります。後者が勝てば大霊と一体となった喜びを味わいますが、前者が勝ったときには霊性が低下します。私たち霊界の者は、皆さん方が望む方向ではなく、最高の奉仕に役立つ方向に導こうとしております。

地上の人間はとかく、魂の成長にとって良くないもの、進歩を遅らせることになるものを要求しがちです。これは叶えてあげるわけにはいきません。また、手にする資格のないものを要求することもあります。これも叶えられません。さらに、こちら側ですでに授ける準備をしていて、そのタイミングをはかっているものを要求することもあります。大霊はすべての人間の祈りを、たとえ口には出さなくても先刻ご承知であることを知ってください。

身を横たえる家もなく、風雨にさらされ、夜空の下で寝なければならない者、また肉体を養うだけの食べ物にありつけない者がいるというのに、あなた方の取るに足りない心配事が大霊の目から見て大事だと思われますか。

この(サークルが開かれている)家には、絶えず一団の霊が訪れています。その一人ひとりが高い世界へ向上する権利を一時的に放棄して、地上の暗闇に光明をもたらすための環境づくり(光のサークルづくり)に携わっているのです。そうした使命に比べれば、地上の些細なトラブルなど物の数ではありません。

忘れないでいただきたいのは、皆さん方一人ひとりが大霊の素晴らしい計画に参加し、わずかではあってもその目的達成のために貢献しているということです。いつの日か計画のすべてが達成され、地上のあらゆる人種・民族が、それぞれの役割を担うことになります。その時、完全な地上世界が実現することになります。

交霊会で何の動きも生じていないと思われるようなときでも、実は静寂の中で霊的な反応が起きています。それが刺しゅうの中に織り込まれることになるのです。昼も夜も、巨大な織物は休むことなく織り続けられ、ついには地上全体を被うことになります。皆さんは、その仕事の一端を担っているのです。


――各地の教会で日々繰り返されている祈りには、何か効果があるのでしょうか。


祈る人によります。口先だけの祈りは、虚しい音声の羅列にすぎません。魂からの祈り、大霊に近づきたいと切望する本心からの祈りであれば、その熱誠が祈りに翼を与え、霊界の深奥(しんおう)へと運ばれていくことになります。


――酒浸りの親を更生させたいという幼い子供による祈りは効果を発揮するでしょうか。


真摯な祈りには必ず霊力がともなうものです。が、その霊力がどこまで物的次元に転換されるかとなると、いろいろな条件を考慮しなければなりません。今おっしゃった例で言えば、子供の父親の霊性レベルが問題となります。祈りが父親の魂に届くか、あるいはあまりにも霊性が低いために霊的なことに何の反応も示さないかのどちらかが考えられます。したがってご質問に対しては、イエスともノーとも言えません。


――でも、何らかの影響はあるのではないでしょうか。


すべての祈りは自らを高めようとするところから発するものです。人の役に立つことを願う祈り、知識や光明、叡智や導きを求める祈り、こうした祈りはすべて魂の進化の現れです。あなたの精神は肉体の一部ではなく、霊の一部、大霊の一部なのです。そしてそれは大霊に由来する力を秘めています。しかし、あなたがその力を使用できるようになるには魂の進化が先決です。それなくして内在する大霊を顕現させることはできません。


――祈りの言葉は霊に聞こえるのでしょうか。それともある種のバイブレーションに調和し反応するような力が必要なのでしょうか。


祈りは魂の表現です。そのことを分かりやすく説明しましょう。祈りは光明と導きを願い求める魂の叫びです。祈るという行為そのものが回答をもたらすのです。なぜなら、その行為が思念の力を生み出すからです。

その力が原因となって回答を生み出します。その回答が結果です。霊は、あなたの祈りの言葉を待っているわけではありません。祈りに込められたあなたの思念が、ただちにそれにふさわしい界層の霊に届くのです。あなたの魂の進化の程度に応じた界層です。

その霊たちは地上世界のために役に立ちたいと切望していますから、あなたの思念の力に、その霊たちの力が加わるのです。大霊の一部である思念のバイブレーションが、新たな活動を呼ぶことになります。それは、あなたの霊性のレベルに応じた宇宙のエネルギーを動かすことが可能になったということです。宇宙のエネルギーを、あなたも活用することができるようになったということを意味しています。

祈る人の進化の程度によっては、ある理想に向けて意念を集中しなければならないことがあるかもしれません。その方が有効だという人に、私は異論は唱えません。ただ私が申し上げたいのは、祈りをするうえで常に意識しなければならない対象とは、大霊、生命の摂理、宇宙の自然法則であるということです。

大霊は完全なる存在ですから、大霊の摂理も完全です。その完全なる大霊の一部があなたの内部に潜在していて、発現を求めているのです。祈りや奉仕によってそれを発現させるなら、大霊があなたを通して顕現することになります。祈りや奉仕といった魂の向上のために為すすべての実践は、あなたの霊性の進化を促すことになるのです。


――すべてのものが不変の法則によって支配されているのであれば、大霊に祈っても意味がないのではないでしょうか。というのは、祈りとは大霊に法則を変えてくれるように依頼することではないかと思うからです。


それは私が理解している祈りとは違います。祈りとは、大霊に近づこうとする魂の願望です。自己の内部の大霊を顕現しようとする行為であり、その行為が魂を開かせ、それまで届かなかった段階に至ることを可能にするのです。

そこには不公平もえこひいきもありません。祈りは内部の大霊をより多く顕現させ、より多くの恩寵(おんちょう)を引き寄せるための魂の活動です。大霊の恩寵は無限であり、あなたの魂は、その無限性を顕現させようと学んでいるのです。


――人間はなぜ、神に罪の許しを乞うのでしょうか。摂理を犯せば必然的に罰が与えられると思うのですが……。


許されたからといって、それで償いが済むわけではありません。代償は必ず払わなければなりません。しかし祈りによって許しを乞うということは、大霊の摂理に調和しようとする行為であり、償いの始まりです。これまでの歩みを見直し、自己を省みるところから本当の償いと霊的進化が始まるのです。


 

シルバーバーチの教え(新版・上)

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A.W.オースチン(編) 近藤千雄(訳)



9章 キリスト教の人工的教義の間違い

〔英国国教会内部にも教義の解釈についての意見の衝突がある。そこで二十五人の神学者が十五年の歳月を費やして、国教会としての統一見解をまとめる作業を続け、一九三八年一月にようやく「英国国教会の教義」と題する大部の報告書を発行した。その中のいくつかの項目が読み上げられるのを聞いてから、シルバーバーチがその一つひとつにコメントを加えた。〕(太文字が引用文)


■「イエス・キリストの復活」は、人類史上におけるきわめて特殊な神の御業(みわざ)である。


そんな結論に達するのに十五年もかかったのですか。ナザレのイエスを裏切っているのは自ら“クリスチャン”を名乗っている人たちであるとは、まさにその通りです。

「復活」は生命の法則の一環です。肉体の死とともに、すべての魂は復活するのです。復活はイエス一人だけのものではなく、大霊の子のすべてに生じるものです。いずれすべての人間が死の関門を通過し、物的身体を捨て去り、霊的身体で新しい生活を始めるようになります。地上人は、すべての時を霊界での生活に備えて過ごしているのです。

イエスは自然法則に反するようなことは一度もしていません。そもそもイエスが地上界へ降りてきたのは、大霊の摂理を実行するためでした。イエスのすべての行為、すべての教えは、大霊の摂理の一部でした。イエス自身こう述べているではありませんか――「こうしたことのすべては、あなた方にもできるし、あなた方はもっと大きなこともできるようになる」と。

イエスを、大霊の子供たちが近づけない天界のはるか高い位置に持ち上げるなら、せっかく彼が地上へ降誕した使命は台なしになってしまいます。なぜならイエスの地上人生の究極の目的は、「地上の人間も内在する大霊を人生の中で顕現させるなら、これほどのことが可能なのだ」ということを証明するところにあったからです。

そしてイエスは霊界へ戻った後、再び同じ姿を取って地上で縁のあった人々の前に現れました。これをキリスト教では「復活」と呼んでいます。イエス以前にも死者が生前の姿で現れた例はたくさんありますし、イエス以後にも数えきれないほどあります。

この宇宙に“特別”というものは存在しません。すべてが大霊の摂理(法則)によって統制されており、常に何かが起きているという事実そのものが、法則が実在することを証明しているのです。


■洗礼は、幼児洗礼であっても、罪を犯させようとする影響力の支配から逃れる手段である。聖人とされる人物でも、もし洗礼を受けていなければ、その意味で欠陥があることになる。


いかなる聖職者(司祭)も魔法の力は持ち合わせていません。水を水以外のものに変える力はありません。赤子の額に水を二、三滴振りかけたからといって、それでその子の人生――地上だけでなく死後も含めて――に何も変化が生じるわけではありません。振りかける前も振りかけた後も、ただの水です。司祭にはその成分を変える力はありませんし、法則と違った結果を生み出す力もありません。

魂は洗礼によって何の影響も受けません。あなたの魂を進化させる力を持った人間はいません。魂の進化は、地上での生活を通して、あなた方自身が達成していくものなのです。自分の行為が生み出す結果を、他人が取り除くことはできません。自分で償い、自分で報いを受けることによって成就していくものなのです。

“聖人”と洗礼とは何の関係もありません。日常生活の中で、可能なかぎり完全に近い行いをすることによって大霊を顕現させ、少しでも多く神性を発揮しようとする人が“聖人”なのです。


■当委員会は、神がその気になれば奇跡を生じさせることができるという点では一致をみたが、果たして奇跡的現象というものが起きるものであるか否かについては意見が分かれた。


さらに十五年も討議すれば、委員会は結論を出せたのでしょうか。何という情けない話でしょう! (聖書にある)盲人が盲人を手引きしているとは、まさにこのことです。その程度の者たちが人類を導いているのです。そして奇跡的な現象が起きるか否かは分からないと、まるで他人事(ひとごと)のように言っています。(原因がないという意味での)奇跡は存在しません。これまで一度も起きておりませんし、これからも絶対に発生しません。

大霊はあくまでも大霊です。大霊の法則の働きは完璧です。それは大霊の完全無欠性によって生み出されたものだからです。その法則が万一機能しなくなったとしたら、宇宙は大混乱をきたします。大霊が予測しなかった事態が生じて創造機構の手直しをしなければならなくなるとしたら、大霊は完全無欠ではなくなります。

(キリスト教で言うように)もしも選ばれた少数の者を寵愛するために奇跡を生じさせるとしたら、大霊は分け隔てをする不公平な神であることになり、全生命の源である無限の存在ではないことになります。委員会のメンバーは、そのお粗末な概念によって、大霊を何とちっぽけな存在に貶(おとし)めていることでしょう。

彼らは高次元の摂理について無知であり、霊力の存在についても知らず、霊界の上層からもたらされる霊力に触れたことがないために、霊媒を通して演出される現象が理解できないのです。

委員会のメンバーは、イエスにまつわる現象(しるしと不思議)が今日の物理法則に矛盾すると思い、“奇跡”というものを考え出さなければならなかったのです。彼らが霊的法則の働きを知れば、大霊は昔も今も未来永劫、不変であることを理解するようになります。地上人生において大霊から授かった霊的資質を発揮するならば、誰もが大霊の力を活用することができるようになるのです。


■もし奇跡が生じるなら、それは秩序の破壊ではなく神の意思の表現であり、それが自然界の新たな秩序を決定づけることになる。それゆえ決して不合理なものでも気まぐれなものでもないのである。


委員会のメンバーは、大霊の法則は無窮(むきゅう)の過去から存在し、無窮の未来まで存在し続けるということを理解していません。地上人類が新しい法則を発見したといっても、それは性能のよい器機の発明によって、それまで知らなかった宇宙の生命活動の一端を知ったというだけで、人間が新しいものを創造したというわけではありません。もともと存在していたものを見つけ出したにすぎません。

あなた方が何かを創造するということは不可能です。すでに存在している被造物の一部を発見することしかできません。また、大霊の法則に反して何かが発生することもあり得ません。人間がその存在を知ると知らないとに関係なく、大霊の法則のすべては、ずっと存在しているのです。

したがって大霊が新たに法則を考案する必要はありません。宇宙の経綸に必要な法則は残らず用意されており、それは未来にわたっても働き続けます。大霊は完全無欠であるがゆえに、あらゆる状況に適応する法則を準備しておられるのです。


■クリスチャンの立場からすれば、聖書は神の特殊な啓示を記録したもので、唯一無二のものである。


何という精神の暗さでしょう! いったいどこまで盲信の暗闇に閉ざされているのでしょう! 彼らを取り囲む壁は何と厚く、盲信の砦(とりで)を守る暫壕(ざんごう)の何と深いことでしょう!

物質界というものが出現して以来、多くの大霊の使徒が地上界へ降誕して啓示をもたらしてきました。それは当然、その時代の言葉で語られました。啓示の内容はその時代の必要性や、その国の事情に応じたものであり、人々の精神的・霊的な発達程度に合わせたものでした。要するにその啓示の意味が理解されやすい形で――レベルが高すぎて手が届かないことにならないようにとの配慮のもとに――与えられました。

一方、進化のプロセスはどこまでも続いていきます。地上人類が成長し進化すれば、それに相応しい新たな指導者、新たな預言者、新たな霊能者が派遣され、その時代が必要とするビジョン、理想、預言、メッセージ、インスピレーション、真理等が授けられます。啓示には終わりというものがありません。なぜなら大霊は完全無欠の存在だからです。

新たな啓示は古い啓示と一貫しており、矛盾していません。今私たちが説いている真理は、ナザレのイエスによって説かれた真理を否定するものではありません。イエスも、モーセの説いた真理を否定してはいません。そして私たちのあとに現れるであろう次代の指導者も、今私たちが説いている真理を否定することはありません。

しかし明日の大霊の子らは、今日の子らよりも一段と高い進化の段階にいますから、彼らに明かされる真理は、今あなた方に説かれている真理よりも一段と進歩的なものになります。


■クリスチャンにとってキリストは、唯一の、そして不可欠の(神との)仲介者である。父(神)とキリストとのつながりは直接的であったが、我々クリスチャンとのつながりはキリストを介して行われる。


これは間違いです。大霊は、あなた方一人ひとりの内に存在しています。同時にあなた方一人ひとりは、大霊の内に存在しているのです。イエスも「神の王国はあなた方の中にある」と述べているではありませんか。クリスチャンはなぜ、こんなにもイエスの教えを理解していないのでしょう!

(クリスチャンだけでなく)いかなる人間も大霊から切り離されることはありませんし、大霊が人間から切り離されることもありません。いかに重い罪を犯した人間であっても、それによって大霊から切り離されることは絶対にありません。人間と大霊とを結んでいる絆は永遠に断ち切ることができないものであり、大霊との関係が失われてしまうようなことは決してないのです。

人間は、内在する神性を日常生活の中で顕現させるにつれて大霊に直接的に接近していくことになります。あなた方一人ひとりに大霊の分霊が宿されているのであり、大霊とあなた方との間に仲介者を立てる必要などありません。

ナザレのイエスは、そんな目的のために降誕したのではありません。人間はいかに生きるべきか、いかにすれば内部の神性を顕現させられるかを教えるために地上界へ降りてきたのです。

キリスト教の神学は、地上世界にとってまさしく“災いのもと”です。人類にとって大きな手かせ・足かせとなっています。人々の魂を牢獄に閉じ込めています。それから逃れるためには、自らを縛っている人工的教義と間違った信条を断ち切り、霊的インスピレーションによって示される本物の真理に目覚めることです。人間の知性は大霊のインスピレーションに優るものではありません。


■「キリストの復活」は、永遠の生命という希望を裏付けるものである。


またしても何というお粗末な認識でしょう! 人間は内部に大霊の分霊を宿しているからこそ存在しているのです。物質は霊によって存在しているのです。霊は永遠の実在であり、破壊できないものです。霊は不滅にして無限なる存在です。

あなた方は霊であるからこそ、墓場を越えて火葬の炎の向こうまで生き続けるのです。物質界にも霊界にも、内部に秘められた神性を破滅させることができるものはありません。人間の内部の神性は、誕生とともに大霊から授かった最も重要な贈り物なのです。

あなた方が今生きているのは霊だからこそです。墓場を越えて生き続けるのも霊だからこそです。霊であればこそどこまでも永遠に生き続けるのです。霊はいかなる指導者とも無関係です。霊は、あなた方が生まれつき持っている権利であり、大霊からの賜物(たまもの)なのです。

なぜかクリスチャンは、宇宙の創造主であり、千変万化の大宇宙の営みを経綸する大霊(神)を限定して考えようとします。彼らのしていることがお分かりでしょうか。物質界でわずか三十三年を生きた人物(イエス)と大霊を同列に扱っているのです。しかも大霊の恩寵(おんちょう)は、イエスを信じた者だけに与えられると説いています。何と情けないことでしょう! 「宗教」という言葉をこれほど辱(はずかし)める教義はありません。イエスご自身がどれほど悲しみと嘆きの涙を流しておられるか、知っているのでしょうか。いまだにクリスチャンは、イエスを磔(はりつけ)に処し続けているのです。

自らを“クリスチャン”と名乗ったからといって、また、教会に所属したからといって、それで「地の塩(模範的人間)」になれるわけではありません。地上で身につけたラベル(名誉ある地位や肩書き)は霊界では通用しません。教義を厳格に守ったからといって大したことではありません。あなた方にとって大切なことはただ一つ――地上にいる間にどれだけ内在する大霊を顕現させたか、それだけなのです。


■キリスト教の「贖罪(しょくざい)」の教義の根本にあるのは、それが本質的に神の御業であり、神がキリストの調停によって人類と和解したとの確信である。


これは、嫉妬と怒りに燃えた神をなだめすかすために、最愛の子を血の犠牲にしなければならなかったという、あの古くからの贖罪説の焼き直しでしょうか。大霊は怒りっぽい人間より、もっと残酷で無慈悲だとでも言うのでしょうか。我が子と和解するのに血の犠牲を要求するとでも言うのでしょうか。大霊とイエスをこれほど哀れな存在に貶める説はありません。

イエスみずからが愛と慈悲と優しさに満ちた“父”のごとき存在と説いた大霊のご機嫌を取るために、なぜ血を流さなくてはならないのでしょうか。地上の人間は一人の例外もなく、自分の努力で人格を形成し、自分の努力で霊的進化を達成するために地上界へ来ているのです。

もし、あなた方が利己的な生き方を選ぶなら、それなりの代償を払わなくてはなりません。人のために役立つ道を選ぶなら、人間性の発達という形で報われます。摂理の働きによってそのようになっているのであり、いかに偉大な指導者といえども、その働きを変えることはできません。

もしも間違いを犯したら、潔くその代価を支払えばいいのです。屁理屈をこねて、他人に責任を転嫁するようなことをしてはいけません。

私たちの世界では利他的で霊性が優れた者は、利己的な者よりも高いレベルの界層にいます。それ以外にありようがないのです。もしも、利己的な生活を送った人が死後、生涯を他人のために捧げた人と同じように高い界層に行けるとしたら、それは大霊と大霊の完全な正義を愚弄(ぐろう)することになります。

もちろん、そんなことはありません。人生は、あなた方自身が形成していくものです。どのような地位にあろうと、職業が何であろうと、家柄が高かろうと低かろうと、問題ではありません。肩書きや階級、人種や民族や国家といったものとは関わりなく、すべての人間に奉仕(サービス)のチャンスは等しく与えられているのです。もし、あなた方がそのチャンスを無視するなら、それ相当の代償を払うことになります。その摂理の働きを妨げられる者はいません。

イエスの言葉を引用して終わります――「自分が蒔いた種は自分で刈り取らなければならない。」


〔当日の交霊会を総括してシルバーバーチが次のように述べた。〕


私は皆さん方に、イエスが説き、私たちが語っているシンプルな真理と、今地上において宗教界のリーダーと目されている人たちが説いている教説とを比較していただきたいのです。

私たちはあなた方に、メッセージをお届けしています。それはあなた方の理性に反することのない、知性を侮辱(ぶじょく)することのないメッセージです。それはシンプルな霊的真理をもたらします。

私たちはまず、あなた方地上人がいちばん求めていること、すなわち他界した愛する人々は今も生き続けており、「死」は永遠の別れではないという証拠を示します。

次に私たちは、霊界からもたらされる霊力は、人類を向上させるために献身している人々を鼓舞しているという事実を明かします。霊力は、人生を生き甲斐のあるものに、そして調和のとれたものにするための“豊かさ”をもたらしてくれるのです。

さらに私たちは、病んでいる人々の苦痛を和らげるために霊的治療エネルギーをもたらします。私たちは、地上の人々に互いに助け合って生きる方法を教えるという神聖な使命を果たすために、力を結集して努力しているのです。

私たちは、これまでの人類の歴史の中で大霊のインスピレーションに触れた者たちが説いたのと同じ真理を繰り返し述べています。神の摂理の存在を強調し、それらがどのような形で働いているかを明らかにしています。そして私たちは同じ法則を使用して、過去に起きた現象を今、再現させているのです。

しかし実際には、本来なら霊力の働きを認めるべき人々(聖職者たち)から拒絶されています。彼らは“神学”という名の隔離された世界に身を隠しています。“教条主義”という名の修道院に閉じこもっています。

彼らは、内心では怖いのです。霊的真理が地上人類の間に広まれば、司祭も牧師も主教も大主教も要らなくなってしまうことを知っているからです。

本日、国教会の「報告書」の一部を聞かせていただき、教条主義が徐々に勢力を失い、代わって私たちの使命が成功しつつあることを改めて確信いたしました。

ベールの彼方の生活(四)

The Life Beyond the Veil Vol. IV The Battalions of Heaven by G. V. Owen
五章 造化の原理




1 スパイラルの原理
一九一八年 三月十一日  月曜日

──創造的活動にたずさわる天使の大群とともに例の大学の大ホールで体験されたことや学ばれたことについて語っていただけませんか。

 私が仲間の学徒とともに大学を見学することになってすぐさま気がついたことは、すべてが吾々の理解を促進する知識の収集に好都合に配置されていることでした。

すべてが整然と構成されているのです。巨大な造化の序列の間には向うの端が遠くかすんで見えるほどの長い巾広いもの (avenues とあるが並木道、本通り、通路等の訳語しか見当たらない──訳者)で仕切られています。

と言っても、序列のどれ一つとして他から隔離されたものではないので、それはただの〝仕切り〟division ではなく、横切って通るための〝路〟road でもなく、実はそれ自体が両隣りを融和させる機能を具えた〝部門〟department なのです。

 そこを見学しているうちに吾々は、創造活動において造化の天使が忠実に守っている基本原則が幾つかあることを知らされて感心しました。その原則は無機物にも植物にも動物にも本質的には同じものが適用されています。

しかし最も進化せる界層に顕現されている叡智と巧みさに満ちた豪華絢爛たる多様性も、原初におては単純な成分の結合に端を発し、永い進化の時を閲しながら単純なものから複雑なものへと発達し、ついに今日見るがごとき豪華な豊かさへと至っていることを思えば、その事実は当然のことと言えるでしょう。

 私が言わんとすることを例を挙げて説明してみましょう。

 その仕切りの一つを通って行くと、天体がいかにして誕生したかが分かるようになっていました。左側は神の思念が外部へ向けて振動し鼓動しつつ徐々に密度を増し、貴殿らのいうエーテルそのものとなっていく様子が分かるようになっていました。

それを見ると〝動き〟の本質が分かります。本質的には螺旋状(スパイラル)です。それが原子の外側を上昇して先端までくると、今度は同じくスパイラル状に、しかし今度は原子の内部を下降しはじめます(これが象徴的表現に過ぎないことをこの後述べている──訳者)。

空間が狭いために小さなスパイラルでも上昇時よりもスピードを増します。そして猛烈なスピードで原子の底部から出ると再び上昇スパイラルとなりますが、スピードは少しゆるやかになり、上昇しきると再びスピードを増しながら内部を下向していきます。

 原子は完全な円でなく、といって卵形でもなく、内部での絶え間ない動きの影響で長円形をしています。その推進力は外部からの動力作用で、もしその動力源をたどることができれば、きっと神の心に行き着くのではないかと私は考えています。

お気付きと思いますが、〝先端〟とか〝底部〟とか〝上昇〟とか〝下降〟という言い方は便宜上そう表現したまでのことです。エーテルの原子に上も下もありません。

 さて、エーテルの原子を例に挙げたのは、これを他のさらに密度の高い性分へとたどっていくためのモデルとしていただくためです。たとえば地上の大気のガス物質を構成する原子にまでたどっても、やはり同じ運動をしております。

エーテルの原子の運動とまったく同じ循環運動をしております。細かい相違点はあります。

同じスパイラルでも細長い形もあれば扁平なのもあります。スピードの速いのもあれば遅いのもあります。いずれにせよ原子の内側と外側のスパイラル運動であることに変わりはありません。

 鉱物の原子を見てもやはり同じ原理になっていることが分かります。また一つの原子について言えることは、原子の集合体についても言えます。たとえば太陽系の惑星の動きもスパイラルです。但し、惑星を構成する物質の鈍重さのせいで動きはずっとゆっくりしています。

 同じことが衛星の運動にも言えます。さらに銀河系の恒星をめぐる惑星集団、さらに銀河の中心をめぐる恒星集団についても言えます。

 ただし各原子の質量と密度の双方がスパイラル運動の速度に影響します。密度の高い原子から成る物質においては速度が遅くなります。しかしその場合でも原子の内部での速度の方が外部での速度より速いという原則は同じです。

内側の運動から外側の運動へと移る時は、動くのがおっくうそうな、ゆっくりとしたものになります。しかしあくまできちんと運動し、その運動は軸を中心としたスパイラルの形をとります。

月もいまだに軌道運動に関してその性則を維持しようとしています。地球を中心とするかつてのスパイラル運動をしようとしながら出来ずにいるかのごとく、みずからを持ち上げようとしては沈みます。地球も同じことを太陽の周りで行ってなっております。

完全な円運動ではなく、完全な平面上の円運動でもありません。地軸に対しても平面に対しても少しずつずれており、それで楕円運動となるのです。

 以上のようにエーテルの原子、地球のガス物質、および地球そのものについて言えることは太陽ならびに銀河の世界についても言えます。その運動は巨大なスパイラルで、恒星とその惑星が楕円を描きながら動いております。

 こうした情況を吾々はその巾広い通りの左側に見たのです。がその反対側には物的創造物の霊的側面を見ました。つまり両者は表裏一体の関係になっているのです。

そして吾々が位置している通りが両者を結びつける境界域となっているのです。地上生活から霊界へ入る時はそれに似た境界域を横切るのです。そしてやがてその〝部門〟から次の〝部門〟へと移行することになります。

横切る通りは言わば地球の人間と天界の人間とを隔てる境界ということになります。


──さっき述べられた原理すなわちスパイラル運動の原理の他にも何か観察されたのでしょうか。

 しました。あの原理を紹介したのは説明が簡単であり、同時に基本的なものでもあるから・・・・・・いや多分基本的だから単純なのでしょう。

 では、もう一つの原理を紹介しましょう。基本的段階を過ぎると複雑さを増し説明が困難となります。が、やってみましょう。

 吾々が知ったことは造化の神々は先に述べたエーテルの原子よりさらに遡った全存在の始源近くにおいて造化に着手されているということです。またエーテルの進化を担当するのも太古より存在する偉大なる神々であるということです。

そこで吾々はずっと下がって材質の密度が運動を鈍らせるに至る段階における思念のバイブレーションを学習することになりました。

そしてまず知ったことは、吾々学徒にとって最も困難なことの一つは、正しく思惟し正しく意志を働らかせることだということです。物質を創造していく上でまず第一にマスターしなければならないことはスパイラル状に思惟するということです。

これ以上の説明は私には出来ません。スパイラルに思惟する───これを習慣的に身につけるのは実に困難な業です。

 しかし貴殿は別の原理を要求しておられる。それでは感覚的創造物───植物的生命の創造を観てみましょう。

 例の〝通り〟の一つを進んでいくと片側に地球ならびに他の惑星上の植物的生命が展示され、反対側にその霊的裏面が展示されていました。

それを観察して知ったことは、植物界の一つ一つの種に類似したものが動物界にも存在するということでした。それにはれっきとした理由があります。

そしてそれは樹皮、枝、葉という外部へ顕現した部分よりもむしろ、その植物の魂に関連しております。が、それだけでなく、よく観察するとその外見と魂との関係にも動物と植物の関連性を垣間みることができます。


──どうもお話について行けないのですが・・・・・・もう少し説明していただけますか。

 では、いったん動物と植物の対比から離れて、それからもう一度その話に戻ってきましょう。その方が分かりやすいでしょう。

 天界はさまざまな発達段階の存在──権威において異なり、威力において異なり、性格において異なり、さらには各分野における能力において異なる存在がいます。

 このことは途上に関しても言えることです。

 従ってそれは動物界についても言えることであることがお分かりでしょう。動物は種類によって能力がさまざまです。それぞれに優れた能力を発揮する分野があります。性格的にそうなっているのです。馬は蛇よりも人間と仲良くなり易いですし、ハゲワシよりオウムの方が人間によく懐(なつ)きます。

 さて先程述べかけた類似に原理は、大ていの場合さほど明確でないにしても、植物界と動物界にも存在することが分かります。たとえば植物の代表としてカシの木を、動物の代表として小鳥を例にとって考えてみましょう。

カシの木は種子(どんぐり)を作って地上に落とします。これが土に埋もれて大地で温められ、内部の生命が殻を破って外部へと顕現します。

実はそのどんぐりと小鳥は構造においても発生のメカニズムにおいても本質的にはまったく同じなのです。

 この〝内部から外部へ〟という生命の営みは普遍的な法則であって、けっして敗れることはありません。それは又、現在の宇宙を生んだ根源的物質の奥深く遡っても同じです。エーテルの原子の説明を思い出してください。原子の最初の運動は内部に発します。

そこでは速度が加速され、運動量が集積されます。外部に出ると両方とも鈍ります。


 同じルールが他の分野についても言えることが分かりました。創造界の神々が順守すべき幾つかの統一的原理が確立されているということです。

そのうちの一つが、まず外皮があってその内部の美がそれを突き破って顕現し、その有用性に似合っただけの喜びが見る者の目を楽しませるということであり、また一つは二つの性──能動的と受動的──であり、循環器系でいえば樹液と血液であり、呼吸器系で言えば毛穴と気孔であり、その他にもいろいろと共通の原理があります。

 これ以上貴殿のエネルギーが続きそうにありません。これにて中止されたい。
                                アーネル ±


 訳者注──最後の部分がよく理解できないが、これは次の通信の冒頭でアーネル霊も指摘し、通信が正しく伝わっていないと言って、その補足説明を行っている。

しかし年代的にアーネル霊は中世の人間であり、オーエンは現代の人間であっても科学的には素人なので、内容の表現や用語に素人くささが出ている。

大巾な書き変えは許されないので原文のまま訳しておいたが、読者はその趣旨を読み取る程度にお読みいただきたい。

シルバーバーチの教え(新版・上)

Treasury of Spiritual Wisdom
Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編) 近藤千雄(訳)



8章 地上の宗教の間違い

〔これから紹介するシルバーバーチのキリスト教批判に対して多くの人は、いささか酷(こく)なのではないかと思われることであろう。が、シルバーバーチをよく知る人なら、よほどの根拠がないかぎり批判は口にしないことをご存じであろう。シルバーバーチは常に理性に訴え、理性が納得できない宗教の教えに鋭い批判を向けている。〕


宗教の教義(信条)による束縛は、地上界の悲劇の一つです。それは重い疫病よりも悪質で、肉体の病気の苦しみよりも、はるかに酷(ひど)い苦痛をもたらします。なぜならそれは「魂の病(やまい)」を生み出し、霊に目隠しをしてしまうからです。

地上人類は、大霊の無限の叡智が存在するにもかかわらず、いまだに教義にしがみついています。なかには教義に縛られている方が気楽だと考える人もいます。「自由」とは、自由であることのありがたさを知った人のためのものです。ここに集っている皆さんは、教義の牢獄から脱したことを喜んでください。そして喜ぶだけでなく、今なお隷属状態にある人々を解放してあげるために努力してください。

私たちはあなた方に、いかなる教義も儀式も作法も要求しません。ただひたすら、大霊の愛がその子供たちを通して顕現するように努力しているだけなのです。そのためには、いかなる書物にも、いかなるドグマ(教義)にも縛られてはいけません。いかなるリーダーにも、いかなる権威にも、いかなる学識にも、また崇敬の対象とされるいかなる聖遺物にも縛られてはいけません。あなた方はひたすら、大霊の摂理に従うようにしてください。大霊の摂理こそが宇宙で最も偉大なものであり、唯一最高の権威あるものなのです。

教会と呼ばれているものの多くは、中世の暗黒時代の遺物です。大霊は、どのような建物の中にも閉じ込められることはありません。大霊はあらゆる所に存在しています。人間は石を積み重ね、その上に尖塔(せんとう)をそびえ立たせ、ステンドグラスで窓を飾って大霊を喜ばせようとしてきました。しかし、そんなもので大霊が喜ばれるわけはありません。

大霊は、自らが用意した太陽の光が地上の子供たちの心を明るく照らし、降り注ぐ雨が子供たちのための作物を実らせることを喜ばれます。ところが残念なことに、その大霊の恩寵(おんちょう)と子供たちとの間に、とかく教会が、政治家が、そして金持ちが介入します。こうしたものを何としても取り除かなければなりませんし、今まさに取り除かれつつあります。

霊力を過去の時代のものとして考えるのはやめにしなければいけません。ナザレのイエスを通して働いた霊力は、今も働いているのです。あの時代のユダヤの聖職者たちは、イエスを通して働いている霊力を悪魔のものであるとして認めませんでしたが、今日の聖職者たちも同じ霊力を同様の理由で拒絶します。しかし、地上界も進歩しました。その霊力を駆使する者を十字架にかけることはしなくなりました。

イエスが放った光輝は、あの時代だけのものではなく、今も輝き続けています。イエスは今、どこにいると思いますか。イエスの人生はエルサレムで終わったと思っているのでしょうか。それともイエスの偉大なる霊は、苦悩と混乱と敵意に満ちた地上世界にいるとお考えでしょうか。

私たち霊界の者からの働きかけを信じず、悪魔のささやきであると決めつけているキリスト教の聖職者たちは、その昔、ナザレのイエスに非難のつぶてを浴びせたユダヤ教の聖職者たちと同じです。私たちは、イエスと同じ大霊の霊力を携えて地上界へ降り、奇跡(心霊現象)を起こし、大霊のメッセージを届けています。それは「喪の悲しみに暮れる人を慰め、病める人を癒し、暗闇に閉ざされた人に光をもたらし、疲れ果てた人には生きる勇気を与え、真理を知らずにいる人には霊的知識を教えよ」とのメッセージです。

私たちもあなた方も、等しく大霊の僕(しもべ)です。ただ私たちは進化の道程において、あなた方よりも少しだけ先を歩んでいます。そこで私たちは、あなた方に奉仕するために地上世界に戻ってきました。奉仕(サービス)こそ大霊の摂理だからです。奉仕精神のないところには荒廃が生まれます。奉仕精神のあるところには平和と幸せが生まれます。地上世界は「互いに奉仕し合う」という新しい生活形態を築かなければなりません。それは本当は至って簡単なことなのですが、なぜか現実には、とても難しいことになっています。

誠に残念なことですが、“神の使徒”をもって任ずるキリスト教の聖職者たちには、一から学び直してもらわなければならないことがたくさんあります。彼らは不安定な砂の上に自分たちの宗教を築き上げました。その“砂上の楼閣”は、スピリチュアリズムの霊的真理の猛攻撃を受けて崩れかけようとしています。彼らは、それを必死に支えようとしているのです。

そもそも土台が間違っているのです。彼らは、イエスを作り話で塗り固めてきました。そうすることでイエスを神と同じ位(くらい)に祭り上げたのですが、その根拠には何の正当性もないため、徐々にそれを撤回せざるをえなくなっています。ところが撤回しようとすると、彼らの心に恐怖が湧いてくるのです。「それを失ってしまったら、あとには何も残らない」との危惧(きぐ)を抱くのです。キリスト教が真実を土台としていたなら、すなわち自然の摂理の上に築き上げられた宗教であったなら、撤回しなければならないものは何ひとつなかったはずなのです。

そこに、私たちが地上界へ舞い戻ってきた理由があるのです。いかなる人物であろうと、一人の人間に服従してはいけません。いかなる書物であろうと、いかなる教会であろうと、それを盲信してはいけません。地上界の人間であれ霊界の存在であれ、どのような指導者にも盲目的に服従してはいけません。絶対的忠誠を捧げるべきは「大霊の摂理(法則)」だけです。それだけが誤ることもなければ裏切ることもないからです。

だからこそ私たちは、大霊の摂理を説いているのです。それを“スピリチュアリズム”と呼ぼうと何と呼ぼうとかまいません。大霊の摂理があらゆる世界――目に見える物質界であろうと目に見えない霊界であろうと、そのすみずみまで支配していることを理解していただけばよいのです。

地上界では指導者たちが重んじられてきました。そして過大評価され、“神学”という厄介なものをつくり出すことになりました。その神学が、科学者や思想家、そして精神だけは自由でありたい、理性が反発するものは受け入れたくないと思っている真っ正直な人々を困惑させることになりました。

そこで私たちは大霊の摂理を強調するのです。摂理に対する正しい理解こそが、すべての知識を調和させるからです。摂理は、科学者や哲学者や自由思想家、その他いかなる分野の人々にも反発を覚えさせることはありません。それは永遠にして不変の大霊の働きを土台としているからです。

あなた方は、私たちが説いている叡智の背後に、高級霊団の存在があることを知ってください。地上人類は叡智と理解力が増すにつれて、大霊の摂理に従って生活を規制していくようになります。摂理に従って生きることの大切さを自覚するようになります。地上界の悲惨さや窮乏(きゅうぼう)、苦難や悲嘆はすべて、大霊の摂理が守られていないところから引き起こされていることを悟るようになるのです。

そうした理解が行きわたったときには、大霊の庭にはびこっている醜悪な雑草は取り除かれることになります。私たちは、人類の魂を解放し、精神を自由にしてあげるだけでなく、身体的にも大霊の摂理と調和して生きていけるようにしてあげるという目的を持って、大霊の摂理の存在を説いているのです。

私は、真理を説くチャンスがいくらでもあるのに、それをしようとしないキリスト教会を認めることはできません。忠実に仕えなければならないイエスを裏切るようなことばかりしていること、イエスを人間の生き方の模範としてではなく神の座に祭り上げ、物質界の子らの手が届かない存在にしてしまったことに我慢がなりません。

本当なら教会の入り口には「我らが忠誠を捧げるのは真理、ただ真理のみ」とあるべきところを、実際には「我らは信条を説き、教義を旨とし、儀式を重んじ、祭礼を絶対視する」と書かれています。教会は真理に敵対する手段となっているのです。

私は、聖職者として神に仕えたいと真摯(しんし)に望んでいる人を非難しているのではありません。そういう人が少なからずいることを、私はよく知っています。私が非難しているのは“組織”です。組織が真理への道を閉ざし、古い慣習を温存し、精気みなぎる霊力が顕現するための場所を奪い去っているからです。そんな教会に、どうして霊力が顕現することができるでしょうか。教会は自分たちの説教に対して“立入禁止区域”を設けているのです。

私たちは、大霊と自然法則の存在を説きます。私たちは大霊の法則の働きを示す道具です。イエスもやはり大霊の道具であり、地上の人間にとっての良き手本です。あなた方も大霊から授かった霊力を発揮しさえすれば、イエスと同じ生き方ができるようになるのです。

信条・ドグマ・教義・儀式・祭礼・ステンドグラス・祭壇・法冠・外衣――こうしたものがいったい宗教と何の関係があると言うのでしょうか。宗教は霊と一体関係にあります。霊はすべての創造物に宿り、生命のあらゆるリズムと生命現象の中で自らを現し、大自然のあらゆる側面に顕現し、人類の進歩のために寄与している理想主義者や改革者を鼓舞しています。その霊が一つの教義と何の関わりがあると言うのでしょうか。

「自由」とはどういうものであるかを学ばなければなりません。魂を牢獄に閉じ込めておいてはなりません。自分のまわりに障壁を築いて、新しいインスピレーションを拒絶するようなことをしてはなりません。真理探求の道は無限に続きます。

知識にも真理にも、叡智にも成長にも、これで終わりという限界がないことを悟ったとき、あなたは自由になるのです。心の中で間違っていると感じていること、理性が得心していないことを潔く捨て去ったとき、その時こそあなたは自由になるのです。あなたの知性が反乱の雄叫(おたけ)びを上げたのです。新しい真理の光によって自分の間違いに気づき、ひるむことなくそれを捨て去ったとき、あなたは本当の意味で「自由」を手にすることができるのです。

知識は、それを求める用意の整ったすべての魂に分け与えられるものです。が、そのためには大いなる冒険の旅に出る覚悟が要求されます。未知の領域を探求する準備、障害と危険に対する準備も必要です。誰も足を踏み入れたことがない土地を歩まなければならないかもしれません。しかし、真理の指し示すところならどこへでも突き進み、間違いと分かったものは、いかに長いあいだ“金科玉条”とされてきたものであっても捨て去る勇気がなくてはなりません。

地上人類は古い神話や伝説を、ただ古くからあるものというだけの理由で大切にし過ぎています。真理と時間(とき)とは必ずしも手を携えて進むものではありません。幼少時代に教え込まれ大切にしてきた信仰を捨て去るのが容易でないことは、私もよく承知しています。しかし、魂が真に自由になるためには、理性が納得しないものは潔く捨て去ることができるようでなくてはなりません。

(教義や儀式などの形骸にとらわれて)霊の力を活用しなかったために、地上は何とみすぼらしい世界になってしまったことでしょう。迷信や無知の壁を取り壊そうとする努力を、私たちはこれから先、いつまで続けなければならないのでしょうか。

とは言え、あなた方が想像するほど長くはかからないでしょう。まわりを見回してご覧なさい。崩壊の兆しが至るところに見られます。堅牢を誇っていた砦(とりで)が、今まさに崩れ落ちつつあります。そのうち真理を求めるあなた方の叫び声が高まり、その壁を完全に突き崩してしまうことでしょう。
質疑応答


――キリスト教でもそうですが、古い時代の偉大な宗教家の人生や死が、自然現象や天体や季節などに関連する神話上の神々と似ているのはなぜでしょうか。


それは地上の人間が、自分たちのリーダーを超自然的な能力を持った存在とするために、太古の神話や伝説を借用したからです。自然法則の働きについて知らなかったのです。彼らは、自分たちが最も偉大だと信じた人物を人々の手の届かない位地に祭り上げようとして、神話や伝説を利用したのです。


――そうした人物の人生には、自然法則を連想させるような多くの出来事が記録されています。例えば、冬のあとに春がめぐってくるように、死のあとに復活が起きたことが記録されています。これは偶然でしょうか。


あなたがおっしゃるのが、ナザレのイエスが処刑されたとき雷鳴が轟(とどろ)き稲妻が走ったという聖書の中の話でしたら、それは事実ではありません。ですが、死んだ人間が地上に戻ってきたという話であれば、それは事実です。歴史的な使命を担った大霊の使者が死後、再び地上に戻ってくることはあります。


――聖霊に対する罪というのは何でしょうか。


聖霊の存在を否定することです。


――聖霊とはそもそも何なのでしょうか。


物質界へ注がれる“霊力”のことです。キリスト教では漠然と聖霊を崇拝していますが、それが人類の誰にでも与えられるものであることは否定します。こうして皆さんと語り合うことを可能にしているのも霊力が働いているからです。その大霊の力が、ほんのわずかな時間ではあっても、霊界と地上界とが一つの目的のために一体となることを可能にしてくれているのです。


――聞くところによると、洗礼を受けることによって死後、その宗派の霊の一団が迎えてくれ、新しい環境を整えてくれるということです。もしそうだとすると、洗礼を受けていない者はどうなるのでしょうか。


この大宇宙を動かし、物的身体に生命の息吹を吹き込んだのは大霊です。すべての世界と宇宙を支配する全法則を創造し、ありとあらゆる次元の生命として顕現しているのも大霊です。太古から予言者や霊能者を通して顕現し、すべてのものの内部と背後に存在するのが大霊なのです。その大霊が、一人の人間に水滴が垂らされているか否かでお困りになるようなことはありません。

大切なことは、自分自身の最高の理想に従って地上生活を送ったかどうかです。赤子に二、三滴の水を垂らしたからといって、それで摂理が変えられるわけではありません。摂理は絶対に変えられません。原因には必ずそれ相当の結果がともなうのです。


――キリスト教は多くの優れた人物を生み出しているのではないでしょうか。


そうした人物は、クリスチャンであろうとなかろうと立派な人間だったはずです。


――でも、イエスの教えに従おうと心がけることで立派になった人もいるのではないでしょうか。


地上人がナザレのイエスを本当に見習うようになったとき、新たな人類の歴史が始まることになります。現在は、まだそこまでには至っておりません。私にはその兆しが見えないのです。“イエスの僕”と公言しているにもかかわらず、実際にはイエスを裏切るような生活を送っている人たちのことを、私の前で“クリスチャン”と呼ばないでください。イエス自身、「私に向かって、主よ、主よ、と呼びかける者のすべてが天国に召されるわけではない。天にまします父の意思を実践した者だけが召されるのである」と言っているではありませんか。


――教義というものにあまりこだわらず、無欲で立派な人生を送っているクリスチャンも大勢いると思うのですが……。


そういう人はクリスチャンとしては立派とは言えないでしょう。言わばダメなクリスチャンですが、人間としては立派です。教義は必ず魂の足かせになるということを忘れないでください。教義を重んじることで立派になれるのではありません。教義を無視しても立派になれるのです。キリスト教では教義の名のもとに、殺し合いと火刑(かけい)を行ってきました。魂を縛るもの、魂を閉じ込めるもの、魂の自由な顕現を妨げるものは排除しなくてはなりません。


――ハンセン病患者の居住地へ支援のために赴く聖職者たちについて、どう理解したらよいのでしょうか。


彼らは教義に動かされて赴くのではありません。魂が「患者を助けたい」と望んでいるからです。宗教は教義を超えたものです。教義は宗教ではありません。


――イエス・キリストは、教会が言っている通り「神の唯一の御子」なのでしょうか。それとも我々と同じ人間であって、ただ並外れた霊的能力を持っていたということなのでしょうか。


ナザレのイエスは、大霊から託された使命を達成するために物質界へ降誕した大霊の使者の一人でした。イエスは地上でなすべき使命は果たしましたが、それで使命のすべてが終わったわけではなく、今なお霊の世界から働きかけています。そのイエスを崇拝の対象とするのは間違いです。崇拝の念は大霊に捧げるべきであって、大霊の使者に捧げるべきではありません。

イエスは、大霊が定めた“自然法則”――すべての人間がこの地上界へ誕生するに際して支配を受ける法則に従って誕生しています。いかなる人間も、大霊の自然法則の関与なしに地上界へ生まれ、そこで生活し、霊界へと旅立つことはできません。


――そのことを立証する言葉が聖書の中にあるでしょうか。


私が訴えるのは大霊の摂理だけです。いまだに聖書の一言一句にこだわる人間は、大霊が今なお活動し、霊の息吹を注ぎ、自らを顕現させていることを理解するようになるまで放っておくしかありません。

大霊の摂理は今も働いており、ふさわしい道具が用意されたなら、霊力はいつでも流入することができるのです。あなた方が“バイブル”と呼ぶ書物は立派なものかもしれませんが、もっと素晴らしい“バイブル”があるのです。それが大霊の法則によって維持されている“宇宙”なのです。あなた方は、そこから地上界のいかなる書物よりも多くのことを学ぶことができます。地上でどれほど偉大なものとされ、尊重され、崇(あが)められている書物(聖書)であっても、宇宙とは比べものになりません。


――イエスは今どこにいるのでしょうか。また何をしているのでしょうか。


“ナザレのイエス”と呼ばれた人物を通して顕現した霊は、二千年前に開始した使命を成就すべく今なお地上界へ働きかけています。その間、数え切れないほど十字架にかけられ、今も毎日のように十字架にかけられています(本当の教えが踏みにじられているということ――訳注)。しかし、地上でイエスと呼ばれた霊も大霊の一部ですから、大霊のために地上界へ平和と幸せをもたらすことができる道具さえあれば、どこであってもその影響力を拡大し続けます。


――あなたが“ナザレのイエス”とおっしゃるとき、それはあのイエスと呼ばれた人物のことですか、それとも彼を通して働いている霊力のことですか。


イエスと呼ばれた人物のことです。ただしその後、イエスは進化し、彼を通して現れる霊的意識は、地上時代とは比較にならないほど次元が高くなっています。当時、地上で現れていた意識は、必然的に時代的な制約を受けざるをえませんでした。とは言え人類史上、イエスほどその霊を顕現させた人物はいません。彼ほど大霊の摂理をはっきりと体現してみせた人物はいないのです。


――この二千年の間にですか。


はい、後にも先にもいません。大霊の顕現としては地上界が受けた最大級のものです。しかし、私たちは、地上に降誕したナザレのイエスという人物を崇拝するようなことはしません。私たちは、イエスを通して働いた霊力に賛辞を捧げます。私たちは、イエスは霊力の道具としてのみ尊敬されるべきであると考えているのです。


――霊界では、さらなる啓示をもたらすためにイエスのような指導者を地上へ派遣する計画があるのでしょうか。


時代が異なれば、その必要性に応じて別の手段を講じることになります。忘れてはならないのは、現代の地上界は(イエスの時代に比べて)はるかに複雑化しており、いろいろな面で相互の結びつきが強くなっているために、さらに多くの交信チャンネルを開かなければならなくなっているということです。人々のさまざまな性格や習慣、思想、行動様式、生き方の違いを考慮しなくてはなりません。(別のところでシルバーバーチは、もうイエスのような霊的巨人が出現することはないし、その必要もないと述べている――訳注)

霊界からのメッセージは、それぞれの国の環境や特性、民族的習慣に適応するものでなければなりません。多様な民族の言語による制約も受けます。しかしその背後には、イエスの時代と同じ霊力の働きがあるのです。

キリスト教では、“死者”から蘇り、“死後”に姿を現し、“死の彼方(かなた)”まで生命が続くことを証明してみせたイエスを崇拝の対象としてきました。イエスは死後に姿を現したのが自分であることを証明するために、十字架にかけられたときの傷跡まで見せています。その後も、弟子たちの前に姿を現しています。

イエスの復活は証明できないにもかかわらず、キリスト教会はそのすべてを事実として信じています。(イエスが神の御子であるからこそ)奇跡が起きたのだと言います。私たちは、死後にも生命が続くことを証明するために、イエスに働いたのと同じ摂理を通して地上界へ戻ってまいりました。大霊は永遠に存在し、その摂理は不変であることを示すために戻ってきたのです。イエスの復活は今、私たちに働きかけているのと同じ摂理の働きによるものであり、その摂理を通してすべての人間が蘇ることになるのです。





Tuesday, January 27, 2026

ベールの彼方の生活(四)

The Life Beyond the Veil Vol. IV The Battalions of Heaven by G. V. Owen

四章 天界の大学


 
3.曼荼羅模様の顕現
一九一八年三月 八日 金曜日

 吾々招待にあずかった者が全員集合すると、主のお伴をしてきた天使群が声高らかに讃美の聖歌を先導し、吾々もそれに加わりました。貴殿はその聖歌の主旨(モチーフ)を知りたがっておられる。それはおよそ次のようなものでした。


 「初めに実在があり、その実在の核心から神が生まれた。
 神が思惟し、その心からことばが生まれた。
 ことばが遠く行きわたり、それに伴って神も行きわたった。神はことばの生命(イノチ)にして、その生命がことばをへて形態をもつに至った。

 そこに人間(ヒト)の本質が誕生し、それが無窮の時を閲(ケミ)して神の心による創造物となった。さらにことばがそれに天使の心と人間の形体とを与えた。

 顕現のキリストはこの上なく尊い。ことばをへて神より出て来るものだからである。そして神の意図を宣言し、その生命がキリストをへて家族として天使と人間に注がれる。

 これがまさしくキリストによることばを通しての天使ならびに人間における神の顕現である。神の身体にほかならない。

 ことばが神の意志と意図を語ったとき虚空が物質に近い性質を帯び、それより物質が生じた。そして神より届けられる光をことばを通して反射した。

 これぞ神のマントであり、神のことばのマントであり、キリストのマントである。

そして無数の天体がことばの音楽に合わせて踊った。その声を聞いてよろこびを覚えたのある。なぜならば、天体が創造主の愛を知るのはことばを通して語るその声によるのみだからである。

 その天体はまさに神のマントを飾る宝石である。

 かくして実在より神が生まれ、神よりことばが生じ、そのことばより宇宙の王としてその救済者に任じられたキリストが生まれた。

 人間は永遠にキリストに倣う。永遠の一日の黄昏どきに、見知らぬ土地、ときには荒れ果てた土地を、わが家へ向けて、神へ向けて長き旅を続けるのである。今はまさにその真昼どきである。

 ここが神とそのキリストの王国となるであろう」


 こう歌っているうちにホール全体にまず震動がはじまり、やがて分解しはじめ、そして消滅した。そしてそれまで壁とアーチに散らばっていた天使が幾つかのグループを形成し、それぞれの霊格の順に全群集の前に整列しました。

その列は主の背後の天空はるか彼方へと続いていました。さらに全天にはさまざまな民族の数え切れないほどの人間と動物が満ちておりました。全創造物が吾々のまわりに集結したのです。

 動物的段階にあった時代の人間の霊も見えます。さまざまな段階を経て今や天体の中でも最も進化した段階に到達した人種もいます。さらには動物的生命───陸上動物と鳥類──のあらゆる種類、それに、あらゆる発達段階にある海洋生物が、単純な形態と器官をしたものから複雑なものまで勢揃いしていたのです。

 さらには、そうした人類と動物と植物を管理する、これ又さまざまな段階の光輝をもつ天使的存在も見えました。その秩序整然たる天使団はこの上ない崇高性にあふれていました。それと言うのも、ただでさえ荘厳なる存在が群れを成して集まっていたからであり、

王冠のまわりに位置していた天使団も今ではそれぞれに所属すべきグループのメンバーとしての所定の位置を得ておりました。

 全創造物と、中央高く立てるキリスト、そしてそのまわりを森羅万象が車輪のごとく回転する光景は、魂を畏敬と崇拝の念で満たさずにはおかない荘厳そのものでした。

 私がその時はじめて悟ったことですが、顕現されるキリストは、地上においてであれ天界においてであれ、キリストという全存在のほんの小さな影、その神性の光によって宇宙の壁に映し出されたほのかな影にすぎないこと、そしてその壁がまた巨大な虚空の中にばらまかれたチリの粒から出来ている程度のものであり、その粒の一つ一つが惑星を従えた恒星であるということです。


 それにしても、その時に顕現された主の何とお美しかったこと、そしてまた何という素朴な威厳に満ちておられたことでしょう。全創造物の動きの一つ一つが主のチュニック、目、あるいは胴体に反映しておりました。

主の肌の気孔の一つ一つ、細胞の一つ一つ、髪の毛の一本一本が、吾々のまわりに展開される美事な創造物のどれかに反映しているように思えるほどでした。


──あなたが見たとおっしゃる創造物の中にはすでに地上から絶滅したものやグロテスクなもの、どう猛な動物、吐き気を催すような生物──トラ、クモ、ヘビの類──もいたのでしょうか。


 ご注意申し上げておきますが、いかなる存在もその内側を見るまでは見苦しいものと決めつけてはいけません。

バラのつぼみも身をもちくずすとトゲになる、などという人がいますが、そのトゲも神が存在を許したからこそ存在するわけで、活用の仕方次第では美しき女王のボディガードのようにバラの花を護る役目にもなるわけです。

 そうです、その中にはそういう種類のものもいました。バラとトゲといった程度のものだけでなく、人間に嫌われているあらゆる生物がいました。神はそれらをお捨てにならず、活かしてお使いになるのです。

 もっとも吾々は、そうした貴殿がグロテスクだとか吐き気を催するようなものと呼んだものを、地上にいた時のような観方はせず、こちらへ来て教わった観方で見ております。その内面を見るのです。

すると少しもグロテスクでも吐き気を催すようなものでもなく、自然の秩序正しい進化の中の一本の大きな樹木の枝分かれとして見ます。

邪悪なものとしてではなく、完成度の低いものとして見ます。どの種類もある高級霊とその霊団が神の本性の何らかの細かい要素を具体的に表現しようとする努力の産物なのです。

 その努力の成果の完成度が高いものと低いものとがあるというまでのことで、神の大業が完成の域に達するまでは、いかなる天使といえども、ましてや人間はなおのこと、これは善であり、これは邪性から生じたものであるなどと宣言することは許されません。

内側から見る吾々は汚れなき主のマントの美しさに固唾(かたず)をのみます。中心に立たれたそのお姿は森羅万象の純化されつくしたエッセンスに包まれ、それが讃仰と崇敬の香りとなって主に降り注いているように思えるのでした。

 その時の吾々はもはや第十界の住民ではなく全宇宙の住民であり、広大なる星辰の世界を流浪(さすら)い、無限の時を眺望し、ついにそれを計画した存在、さらには神の作業場においてその創造に従事した存在と語り合ったのです。

そして新しいことを数多く学びました。その一つひとつが、今こうしてこちらの大学において高等な叡智を学びつつある吾々のように創造界のすぐ近くまでたどり着いた者のみが味わえる喜びであるのです。

 かくして吾々はかの偉大なる天使群に倣い、その素晴らしい成果───さよう、虫けらやトゲをこしらえたその仕事にも劣らぬものを為すべく邁進しなければならないのです。

それらを軽視した言い方をされた貴殿が、そのいずれをこしらえようとしても大変な苦労をなさるでしょう。そう思われませんか。ま、叡智は多くの月数を重ねてようやく身につくものであり、さらに大きな叡智は無限の時を必要とするものなのです。

 そこで吾々大学で学んでいた者がこうして探究の旅から呼び戻されて一堂に招集され、いよいよホールの中心に集結したところで突如としてホール全体が消滅し、気が付くと吾々は天使の塔のポーチの前に立っているのでした。

 見上げると王冠はもとの位置に戻っており、すべてがその儀式が始まる前と同じになっておりました。ただ一つだけ異なっているものがありました。

こうした来訪があった時は何かその永遠の記念になるものを残していくのが通例で、この度はそれは塔の前の湖に浮かぶ小さな建物でした。ドームの形をしており、水面からそう高くは聳えておりません。

水晶で出来ており、それを通して内部の光が輝き、それが水面に落ちて漂っております。

反射ではありません。光そのものなのです。かくしてその湖にそれまでにない新しいエネルギーの要素が加えられたことになります。


──どんなものか説明していただけませんか。

 それは無理です。これ以上どうにもなりません。地上の人間の知性では理解できない性質のものだからです。それは惑星と恒星のまわりに瀰漫するエネルギーについての吾々の研究にとっては新たな一助となりました。

そのエネルギーが天体を包む鈍重な大気との摩擦によっていわゆる〝光〟となるのです。

吾々はこの課題を第十一界においてさらに詳しく研究しなければなりません。新しい建造物はその点における吾々への一助としての意味が込められていたのです。
                               アーネル ±

──カスリーン、何か話したいことありますか。

  あります。こうして地上へ戻って来てアーネルさんとその霊団の思念をあなたが受け取るのをお手伝いするのがとても楽しいことをお伝えしたいのです。

みなさん、とても美しい方たちばかりで、わたしにとても親切にしてくださるので、ここでこうして間に立ってその方たちの思念を受信し、それをあなたに中継するのが私の楽しみなのです。


──アーネルさんはフローレンスに住んでおられた方なのに古いイタリア語ではなく古い英語で語られるのはどうしてでしょう?

 それはきっと、確かにフローレンスに住んでおられましたが、イタリア生まれではないからでしょう。

私が思うにアーネルさんは英国人、少なくとも英国のいずれかの島(※)生まれだったのが、若い時分に移住したか逃げなければならなかったか──どちらかであるかは定かでありませんが──いずれにしても英国から出て、それからフローレンスへ行き、そこに定住されたのです。

その後再び英国へ帰られたかどうかは知りません。当時はフローレンスに英国の植民地があったのです。(※英国は日本に似て大小さまざまな島から構成されているからこういう言い方になった──訳者)


──誰の治世下に生きておられたかご存知ですか。

 知りません。でも、あなたがルネッサンスのことを口にされた時に想像されたほど古くはないと思います。どっちにしても確かなことは知りませんけど。


──どうも有難う。それだけですか。

 これだけです。私たちのために書いてくださって有難う。


──これより先どれくらい続くのでしょう?

そんなに長くはないと思います。なぜかって? お止めになりたいのですか。


──とんでもない。私は楽しんでやってますよ。あなたとの一緒の仕事を楽しんでますよ。それからアーネルさんとの仕事も。でも最後まで持つだろうかと心配なのです。つまり要求される感受性を維持できるだろうかということです。このところ動揺させられることが多いものですから。

 お気持ちは分かります。でも力を貸してくださいますよ。そのことは気づいていらっしゃるでしょう? 邪魔が入らなくなったことなど・・・・・・アーネルさんがこれから自分が引き受けるとおっしゃってからは一度も邪魔は入っていませんよ。


──まったくおっしゃる通りです。あの時までの邪魔がぴたっと入らなくなったのが明らかに分かりました。ま、あなたが〝これまで〟と言ってくれるまで続けるつもりです。神のみ恵みを。では又の機会まで、さようなら。
 おやすみなさい。 カスリーン


ベールの彼方の生活(四)

The Life Beyond the Veil Vol. IV The Battalions of Heaven by G. V. Owen
四章 天界の大学


2 摂理(ことば)が物質となる
一九一八年 三月 四日 月曜日

 五つの塔から成る大学の構内は常時さまざまな活動に溢れていますが、せわしさはありません。中央水路へ通じる数々の小水路を幾艘もの船が往き来して、次々と渡航者を舟着き場へ下ろしています。

その水辺近くまで延びているテラスや上り段には幾千ともつかぬ参列者が群がっており、新しい一団がその明るい賑わいを増しています。いずれもある大きな顕現を期待してやって来るからです。

参加者はそれぞれ個人としての招待にあずかった人ばかりです。その地域の者なら誰でも参加できるのではありません。ある一定の霊格以上の者にかぎられています。

 招待者が全員集合したところで天使の塔から旋律が流れてきました。続いて何が起きるのであろうかと一斉に注目しています。ではそのあとの顕現の様子を順を追って叙述しましょう。

 音楽がボリュームを増すにつれて、その塔を包む大気が一種の霞を帯びはじめました。しかし輪郭が変わって見えるほどではありません。そして塔は次第に透明度を増し、それが上下に揺れて見えるのです。

つまり色彩に富んだ液晶ガラスのように、外側へ盛り上がったかと思うと内側へのめり込んでいくのです。

 やがて吾々の耳にその音楽よりさらに大きな歌声が聞こえてきました。それは絶対紳とその顕現であるキリストへの讃歌(テデウム)でした。そのキリストの一つの側面がこれより顕現されるのです。


──そのテデウムの歌詩を教えていただけませんか。

 いえ、それは不可能です。その内容だけを可能な限り地上の言語に移しかえてみましょう。こうです──

「遠き彼方より御声に聞き入っております私どもは、メロディの源であるキリストこそあなたであると理解しております。あなたのみことばを聞いて無窮が美をもたらしたのでございます。

 あなたの直接の表現であらせられるキリストの目にあなたのお顔を拝している私どもは、あなたは本来無形なる存在であり、その御心より形態を生じ、美がむき出しのままであることを好まず、光を緯(よこ)糸とし影を経(たて)糸として編まれた衣にて包まれいると理解しております。

 あなたの御胸の鼓動を感じ取っております私どもは、美がそのように包まれているのはあなたが愛のすべてであり、あなたの愛でないものは存在しないからでございます。

あなたのその美を私どもはキリストの美によって知り得るのみであり、そのキリストはあなたが私どもに与え給うたのと同じ形態をまとって顕現されることでございましょう。

 私どもはあなたを讃えて頭(コウベ)を垂れます。私どもはあなたのものであり、あなたを生命と存在の源として永遠におすがりいたします。この顕現せる生命の背後に恵み深き光輝が隠されております。

 キリストの顕現とその安らぎを待ち望む私どもにお与えくださるのは、御身みずからのことに、ほーかーなーりーまーせーぬ」

 最後の歌詞はゆっくりと下り調子で歌われ、そして終わった。そして吾々は頭を垂れたまま待機していました。

 次に聞こえたのは〝ようこそ〟という主の御声でした。その声に吾々が一斉に顔を上げると、主は天使の塔の入り口の前に立っておられます。その前には長いそして広い階段が水際まで続いています。その階段上には無数の天使が跪いています。

その塔に所属する天使の一団です。総勢幾千もの数です。主は塔へ通じる大きなアーチ道から遠く離れた位置にお一人だけ立っておられます。

が、その背後には階段上の天使よりさらに霊格の高い天使の別の一群が立ち並んでいます。主の降臨に付き添ってきた天使団です。

 今や天使の塔は躍動する大きな炎のごとく輝き、大気を朱に染めてそれがさらに水面に反映し、灼熱に燃えあがるようにさえ思えるのです。

 その時です。主がまず片足をお上げになり、続いてもう一方の足をお上げになって宙に立たれました。塔の頂上を見上げると、その先端に載っている王冠状のものが変化しはじめているのが分かります。あたかも美しい生きもののように見えます。

レース状の線条細工がみな躍動しており、さらによく見ると、そのヤシの葉状の冠には数々の天使の群れが宝石を散りばめたように光って見えます。

ある群れは葉に沿って列をなして座し、ある群れは基底の環状部に曲線をなして立ち、またある群れは宝石の飾り鋲に寄りかかっています。王冠を構成しているあらゆる部分が天使の集団であり、宝石の一つ一つがセラピム(※)の一団であり、炎のごとく輝き燃え上がっているのでした。(※キリスト教で最高神に直接仕える第一級の天使──訳者)

やがてその塔の頂上部分がゆっくりと塔から離れて主ならびに付き添いの天使団が立ち並ぶ位置の上空高く上昇し、それからゆっくりと下降してテラスに着地しました。

内部にはすでに千の単位で数えるほどの天使がいます。そして吾々も水路を横切ってその内部へ入るように命じられました。(その大塔は湖の中央に聳えている──訳者)

 私が階段の頂上まで来て見下ろすと、滔々(とうとう)とした人の流れが、喜びの極みの風情で、新しくしつらえた宮殿の中へ入って行くのが見えました。私もその流れに加わって何の恐れの情もなく中へ入りました。すべてが静寂、すべてが安らぎとよろこびに溢れておりました。

 入ってみると、その王冠の内側は広く広大なホールとなっており、天井が実に高く、下から上まで宝石と宝玉に輝いておりました。透し細工に光のみなぎった薄もやが充満し、それがそのままホールの証明となっておりました。

壁は少し垂直に伸びてからアーチを描いて穹陵(きゅうりょう=西洋建築における天井の一形式)となり、その陵線がサファイア色をした大きな宝玉のところで合流しています。

壁の材質は透明なクリスタルで、外側の天界の様子を映し出す性質をしており、どの天使が飛来しどの天使が去って行ったかが、いながらにして分かるようになっています。

この王冠はテラスへ下降してくる間にそのように模様替えされたに相違ありません。普段は完全に青空天井になっておりますから。



──出席者は全部で何名だったのでしょうか。

 私には分かりません。でも主のお伴をした霊は少なくとも千五百名を数えたに相違ありません。そして吾々招待を受けた者はその六倍を下りませんでした。それに塔の直属の霊がおよそ三千名はいました。大変な集会だったのです。

 このたびの顕現はその大学における科学に関する指導の一環として行われたものです。それがどんなものであるかはすでにお話しました。

それまで吾々は研究を重ね、資料を豊富に蓄積しておりました。そこへ主が訪れてそうした知識がそれより上の境涯へ進化して行きながら獲得される神についての知識といかに調和したものであるかをお示しになられたのです。


──もう少し詳しくお話ねがえませんか。今のでは大ざっぱすぎます。

 そうでしょう。私もそれを残念に思っているのですが、といってこれ以上分かりやすくといっても私には出来そうにありません。でも何とか努力してみましょう。

 冗漫な前おきは抜きにして一気に本論へ入りましょう。あのとき主は神のことばがそのまま顕現したのでした。すでに(第二巻で述べたので)ご承知の通り、宇宙創造の当初、神の生命のエネルギーが乳状の星雲となり、それが撹拌されて物質となり、その、物質から無数の星が形成されるに至った時の媒介役となったのが、ほかならぬことばでした。ことばこそ創造の実行者だったのです。

すなわち神がそのことばを通して思惟し、その思念がことばを通過しながら物質という形態をとったということです。(※Word は聖書などでことばと訳されているので一応それに倣ったが、シルバーバーチの言う宇宙の摂理、自然法則のことである──訳者)

 この問題は永いあいだの吾々の研究課題でした。主が降臨されて宇宙の創造における父なる神の仕事との関連においてのことばの意味について吾々が学んだことに、さらに深いことを説明なさったのは、上層界における同種の、しかしさらに深い研究につなげていくためでした。残念ながらこれ以上のことは伝達しかねます。


──このたび主がお出でになられた時の容姿を説明していただけませんか。

 主は大ホールの中空に立っておられ、最後まで床へ下りられませんでした。最初私はそれがなぜだか分かりませんでした。が顕現が進行するにつれて、その位置がこのたびの主の意図に最も相応しいことが分かってきました。

視覚を使って教育するためだけではありません。中空に立たれたのは、その時の主の意図が自然にそのような作用をしたのです。

そしてお話をされている間も少しずつ上昇して、最後は床と天井の中間あたりに位置しておられました。それはその界層における力学のせいなのです。そう望まれたのではなく、科学的法則のせいだったのです。

 さらに、冠の外側に群がっていた天使が今は内側の壁とドームの双方に、あたかも生きた宝石のごとく綴れ織(タベストリ)り模様に群がって飾っているのでした。

 さて貴殿は主の容姿を知りたがっておられる。衣装は膝までのチュニックだけでした。

澄んだ緑色をしており、腕には何も──衣服も宝石も──付けておられませんでした。宝石はただ一つだけ身につけておられました。胴のベルトが留め金でとめてあり、その留め金が鮮血の輝くような赤色をした宝石でした。

腰の中央に位置しており、そのことは、よくお考えいただくと大きな意味があります。

と言うのは、主は父なる神と決して断絶することはありませんが、この界層における仕事に携わるために下りて来られるということは確かに一種の分離を意味します。造化の活動のためにみずから出陣し、そのために父より顔をそむけざるを得ません。

意念を〝霊〟より〝物質〟へと放射しなければならないのです。その秘密が宝石の位置に秘められているのです。このことは語るつもりはなかったのですが、貴殿の精神の中にその質問が見えたものですから、ついでに添えておきます。

 マントは付けておられませんでした。膝から下は何も付けておられませんでした。両手両脚とお顔は若さ溢れる元気盛りのプリンスのそれでした。頭髪にも何も付けておられず、中央で左右に分けておられ、茶色の巻き毛が首のあたりまで下がっておりました。

いえ、目の色は表現できません──貴殿の知らない色ばかりです。それにしても貴殿の精神は主についての質問でいっぱいですね。これでも精一杯お答えしてあげてるつもりです。


──主についてのお話を読むといつもその時のお姿はどうだったのかが知りたくなります。私にとっても他の人たちにとっても、それが主をいっそう深く理解する手掛かりになると思うからです。主そのものをです。

 お気持ちはよく分かります。しかし残念ながら貴殿が地上界にいる限り主の真相はほとんど理解し得ないでしょう。現在の吾々の位置に立たれてもなお、そう多くを知ることはできません。それほど主は偉大なのです。

それほど地上のキリスト教界が説くような窮屈な神学からはほど遠いものなのです。キリスト者は主を勝手に捉えて小さな用語や文句の中に閉じ込めようとしてきました。

主はそんなもので表現できるものではないのです。天界においてすら融通無碍であり、物的宇宙に至っては主の館の床に落ちているほこり一つほどにしか相当しません。にもかかわらずキリスト者の中には主にその小さなほこりの中においてすら自由を与えようとしない人がいます。この話はこれ以上進めるのは止めましょう。


──それにしても、アーネルさん、あなたは地上では何を信仰しておられたのでしょうか。今お書きになられたことを私は信じます。が、あなたは地上におられた時もそう信じておられたのですか。

 恥ずかしながら信じていませんでした。と言うのも、当時は今日に較べてもなお用語に囚れていたのです。しかし正直のところ私は神の愛について当時の人たちには許しがたい広い視野から説いていました。それが私に災いをもたらすことになりました。

殺されこそしませんでしたが、悪しざまに言われ大いに孤独を味わわされました。今日の貴殿よりも孤独なことがありました。貴殿は当時の私よりは味方が多くいます。

貴殿ほど進歩的ではありませんでしたが、当時の暗い時代にあっては、私はかなり進んでいた方です。現代は太陽が地平線を緩めはじめております。当時はまさに冬の時代でした。


──それはいつの時代で、どこだったのでしょう?

 イタリアです。美しいフローレンスでした。いつだったかは憶えてはいません。が神が物事を刷新しはじめた時代で、人々はそれまでになかった大胆な発想をするようになり、教会が一方の眉をひそめ国家がもう一方の眉をひそめたものです。

そして──そうでした。私は人生半ばにして他界し、それ以上の敵意を受けずに済みました。


──何をなさっていたのでしょう。牧師ですか?

 いえ、いえ、牧師ではありません。音楽と絵画を教えておりました。当時はよく一人の先生が両方を教えたものです。


──ルネッサンス初期のことですね?

 吾々の間ではそういう呼び方はしませんでした。でも、その時代に相当しましょう。そうです! 今日と同じように神がその頃から物事を刷新しはじめたのです。

(それが何を意味するのかがこれからあとの通信の主なテーマとなる──訳者)そして神がそのための手を差しのべるということは、それに応えて人間もそれに協力しなければならないことになります。大いに苦しみも伴います。

が刷新の仕事は人間一人苦しむのではありません。主のベルトのルビーの宝石を思い出して、主がいつもお伴をして下さっていると信じて勇気を出していただきたいのです。
アーネル ±