Sunday, June 7, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック



第17章 完全でありなさい  

完全性の特徴  

一、あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを憎む者に善を行い、あなたたちを迫害し、中傷する者たちのために祈りなさい。あなたたちを愛してくれる者たちだけを愛するのであれば、いったい何を報酬として受けることが出来るでしょうか。

徴税官でさえそのようにしているではありませんか。あなたたちの兄弟だけに挨拶をするのであれば、他人に比べて何を多く行っているということになるでしょうか。ゆえに、あなたたちは、天の父が完全であられるように、完全でありなさい。(マタイ 第五章 44、46-48)


二、神はすべてにおいて永遠の完全性を有していることから、「あなたたちは天の父が完全であられるように、完全でありなさい」という命題は、文字どおりに受け取ると絶対的完成に到達できる可能性を推測させます。

もし創造物に、創造主と同様に完全になることが許されていたとすれば、創造物は創造主と等しくなってしまい、それは認められないことになります。しかし、イエスが話をした人々は、こうしたニュアンスを理解することができなかったので、イエスは彼らにこのような模範を示し、達成するために努力することを伝えたのです。

 ゆえに、この言葉は相対的な完全性、神に最も近い人類にとって可能な完全性と言う意味で理解するべきです。そうした完全性とは、なにからなっているのでしょうか。

イエスは「私たちの敵を愛し、私たちを憎む者に対して善を尽くし、私たちを迫害する者たちのために祈ること」にあると言いました。このようにしてイエスは、完全性の本質とは、そのもっとも広い意味における慈善であることを示しており、なぜならそれは、他のあらゆる美徳の行使を含むものだからです。

 あらゆる悪徳を、本当に単純な欠点に至るまで、そのもたらす結果において実際に観察してみると、そこには慈善の感覚を多少とも変化させないものはないということが分かるでしょう。

なぜなら悪徳は、多かれ少なかれ、その本質がエゴイズムと自尊心の中にあり、慈善とはそれを否定するものだからです。また、アイデンティティーの感情を過剰に刺激するものはみな、真なる慈善の要素である善意、寛大さ、自己の放棄、献身を破壊するか、少なくとも弱めることになるからです。

敵に対する愛にまで引き上げられた隣人愛は、慈善に反するどんな欠点にも結びつくことはなく、したがって、そうした愛は、いつも道徳性の優劣を示すしるしとなります。

そのことから、完全性の度合いは、その愛をどこまで広げることができるかということに直接かかわっていることになります。

そうであるがこそ、イエスはその使徒たちに慈善のきまりを教えた後、そのうちの最も崇高な教えである、「あなたたちは、天の父が完全であられるように、完全でありなさい」と言うことを言ったのです。


 善人
三、真なる善人とは、正義、愛、慈善の法を、その最も純粋な意味において遵守する人のことです。

このような人が自分自身の行動について良心に問いかける時には、自分に対して、その法を破っていないか、悪を行っていないか、可能な限りの善を尽くしているか、有益な機会を自ら無駄にしていないか、誰かが自分に対して不平を持っていないか、つまりは、自分にして欲しいように他人に対して行っているか、を問い詰めることでしょう。

神とその善意、その正義、その英知に対して信心を持っています。神の許可なしには何も起こることはないことを知っており、すべてにおいて神の意志に従うことを知っています。

 未来に対する信頼を抱き、そのために霊的な富を一時的な富の上に位置付けています。
 人生における全ての苦しみと痛み、あらゆる落胆は試練か報いであることを知っており、それらを不平を言わずに受け入れます。

 慈善と隣人愛の感覚を持ち、善のために善を、いかなる報酬を期待することなく行います。悪に対して善で報い、強者から弱者を守り、正義に対して自分の利益を犠牲にします。

 善意を広めること、仕事に打ち込むこと、他人を幸せにし、他人の涙を乾かし、苦しむ者に慰安を与えることに満足を見出します。第一の衝動は自分のことを考える前に他人を思うこと、他人の関心事の面倒を、自分の関心事の前に見ることです。

反対に利己的な人は、あらゆる寛大な活動について、そこから生じる損害や利益を計算します。

 善人とは良識を持ち、暖かく、すべての人に対して親切であり、人種や信仰の差別をせず、人類すべてをその兄弟として見ることが出来るのです。

 私たちすべての誠意ある確信を尊重し、彼と同じように考えない人を敵視することはありません。

 どのような状況に置いても慈善をその指針とし、悪口によって他人を害したり、自尊心によって傷つけたり、他人の感受性を軽んじたり、どんなに小さな苦しみや不一致であれ、それを引き起こすことを避けようとしないことが、隣人を愛する義務を怠っていることであり、そうあることは主の慈悲に値しないのだ、という確信があります。

 憎しみや怒り、復讐の欲を抱くことさえありません。イエスの規範に従って、赦し、攻撃することを忘れ、自分が赦したことに応じて自分も赦されることを知っているため、受けた恩恵の記憶だけを心に残します。

 他人の弱さに対して寛容で、なぜなら、自分も他人の寛容を必要としていることを知っており、次のキリストの言葉を覚えています。「罪を犯したことの無い者が最初の石を投じなさい」。

 他人の欠点を探すことを決して好まず、それを証言することも好みません。たとえそれを見ることが強いられても、常にその悪を緩和する善を求めます。

 自分自身の不完全性について研究し、それを無くすことができるように絶え間なく勉めます。次の日になって、前日に比べ何か良いことが自分にもたらさせたといえるように、あらゆる努力を用います。

 他人を犠牲にして自分自身の霊や才能の価値を高めようとはしません。反対に、他人にとって有益なことが目立つようにあらゆる機会を利用します。

 自分に与えられたものは、すべて奪われる可能性があることを知っているため、所有する富や個人的な優位性によって自惚れることはありません。

 自分に与えられた富について、それが預かりもので、何れ精算をしなければならないことを知っており、また、自分の情熱を満足させるためにそれを用いることが最も危害を与えることになることを知っているため、それを用いることはあっても濫用することはありません。

社会秩序がその人の支配下に他の人々を置いたとしても、神の前にはみな平等であるため、それらの人々を善意と寛容さによって扱います。その権威を彼らの道徳性を高めるために用い、傲りによって彼らを押し潰すことはありません。彼らの位置する従属的な立場がより辛いものとなるようなことはみな避けます。

 他人に従う立場にある場合は、自分のために、自分の占める位置における義務を理解しており、それを良心的に遂行します(→ 第十七章 9)。最後に、善人は自然の法が自分の同胞たちに与えるあらゆる権利を、自分が尊重して欲しいのと同じように尊重します。

 人を善人として区別するすべての特徴を詳細に述べることはできません。しかし、以上に述べた特徴を得ようと努力する者は、残りのすべての特徴をその道程で見つけることになるでしょう。


 善いスピリティスト   
四、善く理解され、なによりもよく意識されることにより、スピリティズムは前に記したような結果を導きますが、それは真なるスピリティストを特徴づけることであり、同時に真なるキリスト教徒を特徴づけることです。なぜなら双方は同じものであるからです。

スピリティズムは新しい道徳を定めるのではありません。単に人類に対してキリストの教えの理解と実践を容易にし、疑ったりぐらつく者に、揺るがぬ明確な信仰を与えようとしているのです。

 しかし、心霊現象を信じる多くの人は、その結果や、そのことが及ぶ道徳性を学ばず、あるいは、学んでも自分自身に適応させることがありません。それはどんな理由からなのでしょうか。スピリティズムの教義に何かしら明確さが欠けているのでしょうか。

いいえ、なぜなら、教義には誤った理解をもたらすような装飾や形を含んでいないからです。その明確さは本質そのものであり、直接知性に働きかけ、すべての力がその本質から来ています。

神秘的なものは何もなく、それに接したばかりの人も、そこにどんな秘密や俗世間に隠されたこともないということが分かるでしょう。

 それでは、それを理解するには並ならぬ知性が必要なのでしょうか。いいえ。著しい能力の持ち主でそれを理解することが出来ない人たちがいる一方で、一般的な知性の持ち主で、まだ青年期を終えたばかりの若者でも、それを賞賛すべき正確さによって、最も繊細な意味合いについても、学び取る人がいます。

このことは、いわば、科学の物質的な部分が、それを観察する目を必要とするのに対し、本質的な部分は、道徳性の成熟度と呼ぶことのできるある程度の感受性を必要としていることを証明しています。

その成熟度とは、年齢や教育の度合いからは独立したもので、それは特に肉体を持って生きる霊そのものの進歩に固有のものなのです。

 ある人たちにとっては、地上のものから解放されるには物質との絆が未だ強すぎることがあります。彼らを取り巻く霧は無限の視野を遮り、そのことから彼らには、自分たちの癖や習慣をそう容易には断ち切ることができず、彼らが取り入れていることよりも良い何かが存在することに気づくことができなくなるのです。

単なる事実として霊の存在を信じますが、そのことがその人の本能的な傾向を変化させることはほとんどないか、まったくありません。一言で言うなら、遠くから眺める一筋の光以上のものではなく、そのことが彼らを導き、傾向に打ち勝つだけの強烈な熱望を与えるには至らないのです。

彼らには、道徳は陳腐で単調に見え、現象にすがります。すでに創造主の秘密を知るにふさわしくなったかどうか知ろうともせず、霊たちに対して、絶えず新しい神秘について話をはじめることを依頼します。

こうした人たちは不完全なスピリティストで、彼らのうちの何人かは途中で学ぶことを止めてしまったり、同じ信仰を持つ同胞たちから遠ざかったりします。

なぜなら、自己を改革する義務から逃れたり、同じ欠点や偏見を有する人たちと共感し続けることになるからです。その場合、彼らは教義の原則を受け入れるという第一歩を簡単に踏み出しますが、第二歩目は、次の人生で踏むことになるのです。

 理性に則り、真の誠実なスピリティストとして分類されることのできる人は、道徳的進度においてより優れた段階にあります。その人を物質よりも完全な形で支配するその霊は、未来に対してより明確な感覚を与えます。教義の原則はその人を、他の人の中では反応することの無い神経までも震わせます。

一言で言うならば、その人は揺らぐことのない信仰によって心を支配されています。それは、音楽家がある和音を聞いただけで感動する一方で、他人にはそれがただの音にしか聞こえないのと同じです。

真のスピリティストは、その人の道徳的変化や、その悪しき傾向を抑制するために払う努力をしているかどうかで見極められます。ある人たちが有限の地平線に満足する一方で、別の人たちはより善いことを学び、そこから解放されようと努力し、それを固い意志をもって必ず達成することになるのです。


 種を蒔く者の話
五、その日、家を出ると、イエスは海岸に座っておられた。ところがその周りに大勢の群衆が集まってきたので、舟に乗って座られた。人々は海岸に居たままだった。

すると次の様に多くのことをたとえ話で語られた、「種蒔きが種を蒔きに出かけた。蒔いていると、道端に落ちた種があり、すると鳥がやって来て食べてしまった。石が多く土の少ない場所に落ちた種もあった。その場所は土が浅かったので種はすぐに芽を出した。

しかし芽が伸びると太陽が照り付け、根がないために乾いてしまった。別の種は茨の間に落ちたが、その茨が伸びると芽の成長をさえぎってしまった。そして良い土地に落ちた種は実を結び、一つの種から百、あるいは六十、あるいは三十の種がもたらされた。聞く耳を持つ者は聞きなさい」。(マタイ 第十三章 1‐9)

「ゆえに、種を蒔く者の話を聞きなさい。天の国よりの言葉を聞きながらも、それに注意を払わなければ、悪意のある霊がやって来て、その者の心の中にまかれた種を持って行ってしまいます。

そうした者は、種を道端で受けたのと同じことです。石の間に種を受ける者とは、御言を聞き、それをすぐに喜ばしく受け止める者のことです。しかし、そこには根が生えていないために、短い時間しか持続しません。反対や迫害を受けると、それを堕落と不正の理由にしてしまいます。

茨の間に種を受ける者とは、御言を聞きいれる者のことです。しかしやがて、その時代や富への関心が御言を押しつぶし、実を結ばなくなってしまいます。

良い土地に種を受ける者は、御言を聞き、それに注意を払い、それによって実を結ぶことができ、一つの種から百、六十、三十もの種がもたらされるのです」。(マタイ第十三章 18-23)


六、種を蒔く人の話は、福音の実際の受け止められ具合いを正しく表現しています。実際に、その人にとって福音が死んだ文字にしか映らず、石の上に落ちた種のように、全く実を結ばない人が何と多いことでしょうか。

 さまざまなスピリティストの分類の中にも全く同じことが当てはまります。物質的現象ばかりに気を取られ、珍しいものしか見ることがないために、そこからどんな結果も重要性も導くことが無い人々が、この話の中に象徴されているのではないでしょうか。

霊の通信の輝かしい部分ばかりに気をとられ、それで自分の想像を満足させることだけに興味を持ち、通信を聞いた後も、以前そうであったのと変わらず冷たく無関心でいる人はどうでしょうか。

忠告を良いと認識し、それを賞賛しながらも、それは他人に当てはめられるもので、自分自身にあてはめられるものではないと考えてはいないでしょうか。では、そうした教えを、良い土地に落ちて実を結ぶ種のように受け止める人とはどういう人でしょうか。  







   霊たちからの指導

 義務
七、義務とは、まず第一に自分自身に対する、そしてその次に他人に対する、人間の道徳的任務のことです。義務は人生の法です。最もささいな事柄においても、より高尚な行動の中にも、そ れに出合うことができます。ここでは職業上要求される義務ではなく、道徳的義務についてだけ述べたいと思います。 

 感情の秩序の中で、義務は、心や興味を引き付けるものと相反するものであるために、とても果たすのが難しいものです。その勝利に証人は存在せず、またその敗北は罰せられるものではありません。

人類のうちなる義務遂行は、その自由意志に委ねられます。良心の痛みが、内心の誠実なる番人であり、人に警告を与え、人を支えています。しかし多くの場合、それは感情の詭弁の前に無力となってしまいます。心の義務は、忠実に守られれば人類を高尚にします。

しかしそれをどのように正確に定めればよいのでしょか。それはどこに始まり、何処に終わるのでしょうか。義務はまさに、あなたたち一人一人が同胞の幸福や平和を脅かしはじめる点にはじまります。そして、他人には超えないように望まれる、あなたたちの辛抱の限度の境界で終わります。

 神はすべての人類を、痛みに対して平等に創造しました。小さな者も大きな者も、教育のある者も無知な者も、一人一人がその健全な良心によって引き起こし得る悪を判断することができるように、すべての人が同じ原因によって苦しむようになっています。

善に関しては、その表現が無限に多様化しており、その基準は同一ではありません。痛みに対する平等は神の崇高なるはからいであり、神はその子すべてが、共通した体験に教えられることによって、自分の無知による弁明をしながら悪を働くことがなくなることを望んでいるのです。

 あらゆる道徳的な思惑の実践は、義務に要約されます。それは戦いの苦しみに立ち向かう魂の勇敢な行動です。それは厳しくも寛大です。

多様で複雑な場面の前に屈する準備がありますが、その企てにおいて不屈であり続けます。義務を果たす人は、神を被造物よりも愛し、自分自身よりも創造主を愛していることになります。それはその原因自体に対する判事であると同時に奴隷でもあるということです。

 義務とは理性の最も美しい褒美です。母親から子供が生まれるように、理性からそれは生れます。人類は義務を愛さねばなりません。それは、義務が人生の悪や人類が逃れることの出来ない悪から守ってくれるからではなく、人類の進歩に必要な力を魂に与えてくれるからです。

 義務は、人類のより優れた向上のための期間のそれぞれの場面において、あらゆる高尚な形に育ち、輝きます。被造物の神に対する道徳的義務は、途切れることはありません。

被造物自身の美しさが自らの目の中に輝くことを神は望むため、不完全に終わることの無い永遠なる神の美徳を、義務は写し出しているのです。(ラザロ パリ、1863年)


 徳
八、最高位の徳とは、善人の持ち合わせるすべての本質的な特徴の集まりです。善くあり、慈善を行い、努力家であり、質素で、慎ましくあることは徳の高い人の特徴です。しかし残念なことに、大抵こうした徳とともに、小さな道徳的な病が同居し、徳を弱めてしまっています。

自分の徳を見せびらかす人は徳が高いとは言えません。なぜならそこには謙虚さという最も重要な特徴が欠けているからです。反対に、そこには謙虚さとまったく反する悪癖である自尊心が存在しているのです。

美徳と呼ばれるにふさわしい徳は、目立つことを好みません。そうした徳とはたとえその存在が想像できても、闇の中に隠れ、人々の賞賛から逃れようとします。聖ヴィンセンティオ・デ・パウロは、徳の高い人でした。

クーラ・ダール(アルスの司祭・聖ウ“ィアンネー)やその他の大勢の人々も高徳で、世界的に知られてはいませんが、神には知られているのです。

これらの善人たちはみな、自分たちが徳が高いということなど気にもしませんでした。自らの聖なるインスピレーションに任せ、完全に私心を捨て、完全なる自己の放棄によって善を行いました。

 子供たちよ、私はこのように理解され、実践される徳にあなたたちを招きます。この真にキリストの教えを守る、真なるスピリティストの徳にこそ、あなたたちに身を捧げて欲しいとお誘いします。しかし、あなたの心から自尊心、虚栄心、自己愛といった、最も美しい特徴をいつも失わせてしまうものはすべて遠ざけてください。

模範として自ら現れ、自分から自分の特徴を嫌がらずに聞いてくれる耳に向かって言いふらす者のマネをしてはいけません。そのように目立つ徳には多くの場合、多数の小さな醜行や憎まれるべき臆病が隠されています。

 概して、目立とうとする者、徳によって自分自身の彫像を建てようとする者は、そのことだけによって手に入れることのできたあらゆる実際の功労を打ち消してしまいます。

では、実際の姿とは違った姿で現れることばかりに価値を置いている人については、どう言えばよいのでしょうか。善を行う者は、間違いなく心のうちに満足感を抱くものです。しかし、その満足を外面的に現し、他人からの賞賛を得ようとした時、それは自己愛に転落してしまうのではないでしょうか。

 スピリティズムの信仰によって心を熱くしたあなたたちは、人類がその完成からどれだけ遠いところにあるかを知っているのですから、決して他人の賞賛を得ようとしてつまずいてはいけません。

すべての誠実なスピリティストに私は徳を積むことを望みます。しかしながら、あなたたちに申しあげます。謙虚さを伴う少ない徳の方が、自尊心を伴う多くの徳よりも価値があります。

自尊心によって人類は代々迷うことになるのです。いつか人類は謙虚さによって贖罪することになるでしょう。(フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ、1863年)  
 

 上位の者、下位の者
九、権威にせよ、富みにせよ、それらは委任されたものであり、委ねられた者はいずれその精算をする必要があります。それらが単に無益な、命令する喜びを作るためにだけ与えられたのであるとか、地上においてそうした力を与えられた者の大半が思っているように、それが権利であり、所有物であるなどと考えてはなりません。

もっとも神は絶えずそのことを証明するため、そうと決めた時に、彼らからその権威や富を奪います。もしそれらが個人に属する特権であるなら、譲渡し得ないものであるはずです。

あるものが自分の同意なしに奪われる可能性があるとすれば、誰にもそのものがその人に属しているのだということはできません。神はそうあるべきだと判断した時、権威を使命または試練として託し、最も適したときにそれを奪います。

 権威を委託された者は誰であれ、主人と奴隷から君主と国民の関係に至るまで、その権威がどこに及ぶものであろうと、その責任が及ぶ範囲の中には、与える方向性の善し悪しに応じて、権威に従って変化する魂が含まれていることを忘れてはなりません。

彼らに対して犯した過ちや、悪しき模範や方向性を示した結果によって生まれた悪癖は、権威を託された者へ降りかかります。同様に、従う者たちを善へと導くように権威を行使する者は、その配慮の結果を得ることになります。すべての人が、大なり小なり、地上においてある使命を持っています。

その使命がどのようなものであれ、それは常に善のために与えられています。その根本においてあざむく者は、その使命の達成に失敗します。

 金銭的に裕福な者に対して、「あなたの周りに泉のように実りを溢れさせるはずであった、あなたの手中にあった富をあなたはどうしましたか」と尋ねるように、ある種の権威を有するものに対しても神は尋ねます。

「あなたの権威をどのように用いましたか。どんな悪を避けることができましたか。どんな進歩をもたらしましたか。あなたに従う者たちを与えましたが、それはあなたの意志に応じて働く奴隷とするためでもなければ、あなたの貪欲さや気まぐれに従順な道具とするためでもありません。

あなたが彼らを助け、彼らが私の胸もとまで上ってくることが出来るようにと、あなたを強い立場におくことによって権威を与え、弱い者たちをあなたに託したのです」。

 キリストの言葉に納得している上位の者は、自分に従う者を軽んじることはありません。なぜなら、神の目に社会的な区別は存在しないことを知っているからです。今日その人に従う者は、かつてはその人に対して命令を下していたかもしれません。

あるいは、後になって命令を下すことになるかもしれず、だからその人は権威を行使していた時に自分が従う者たちをどう扱ったかに応じて扱われるのだと言うことをスピリティズムは教えてくれるのです。

 上位の者に達成しなければならない義務があるのであれば、下位の者にも上位の者と同様に神聖な義務が存在します。

スピリティストであるならば、例えばその上司が自分に対する義務を遂行しないからと言って、自分の義務を遂行する必要がないと考えてはいけないのだ、と言うことを強制力をもってその良心が主張します。

なぜなら、ある者が過ちを犯したからと言って、悪に対して悪で応酬することが正当でないことをよく知っており、そのことが他人の過ちを正当化するものでないことをスピリティストは知っているからです。たとえその立場が苦しみをもたらしたとしても、それが疑いもなく自分にふさわしいことだと認識します。

なぜなら、おそらく、自分も過去に持っていた権威を濫用したために他人を苦しめており、今はそのことを自分自身が経験しているのだと感じるからです。その立場に耐えることが求められ、その他によりよい場所が見当たらないのであれば、それはその人の進歩に必要な謙虚さを養うための試練となっているのであり、スピリティズムはそれを甘受することを教えています。

スピリティズムを信じることは、自分がもし上司であったとしたら、自分に対してとることが望ましいような行動を部下たちに起こさせることができるように、自分の行動を導くことです。だからこそ、自分の義務を遂行することはより気がかりになります。

なぜなら、自分に与えられた仕事を怠けることは、報酬を払ってくれる人にも、時間と努力を負っている人にも、損失をもたらすのだということを理解しているからです。

一言で言うなら、スピリティズムを信じる人の心には、信仰から生まれた義務感があり、正しい道から離れることが、何れ支払わねばならなくなる債務を生むことになる、という確信があるのです。(モロー枢機卿フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ、1863年)


 この世の人類
十、主の視野のもとに集まって善霊たちの支援を懇願する者たちの心を、常に慈悲の心が励まします。ですから、あなたたちの心を清めて下さい。その心の中にあらゆる世俗的な考えや無益な考えが長居することを許してはいけません。

あなたたちが呼ぶその霊のもとへあなたたちの霊を引き上げ、あなたたちがその魂の中で発芽させ、慈善と正義の実を結ばせなければならない種を彼らが豊富に蒔くことができるように、あなたたちの中に必要な準備を整えて下さい。

 しかし、私たちが祈りと精神を呼び起こすことを絶えずあなたたちに勧めるからと言って、私たちがあなたたちに、生きるように言いわたされた社会の法から逃れた、神秘的な生活を送ることを望んでいるのだと判断してはいけません。

そうです、あなたたちは、人類がそうあるべきであるように、あなたたちの時代の人々とともに生きなければなりません。その日のつまらぬことに対しても、必要性に応じて自分を犠牲にし、それらを神聖なものとすることができるように純粋な気持ちで自分を捧げて下さい。

 あなたたちは違った性格を持つ霊たち、相反する特徴を持った霊たちと接触するように呼ばれたのです。あなたたちがともに人生を過ごす彼らの誰とも衝突してはいけません。快活に、幸せであって下さい。

しかし、その快活さが潔白な良心のもとからもたらさせるように、その幸運が、あなたたちが遺産を手に入れる日までの残された日々を教える、天の相続人のものであるように。

 徳とは、あなたたち人類に許された快楽を嫌って厳しく陰気な表情を見せることではありません。

あなたたちに人生を与えてくれた創造主に対して、人生のあらゆる行動を報告すればよいのです。ある仕事を開始したり、終えたりした時、創造主のもとに思考を引き上げ、魂の喜びや、成功するための保護、あるいはその仕事を完成したのであれば、その祝福をお願いすればよいのです。

何を行うにおいても、あらゆるものに対してあなたの額を上げ、あなたのどんな行動さえも、神の記憶によって神聖化され、清純化されないことがないようにして下さい。

 キリストが言ったように、完成とは、絶対的な慈善の実践中の中にすべてが存在します。しかし、慈善の義務は小さい者から大きな者にいたるまで、あらゆる社会階級に及びます。孤立して生きる人間にはどんな慈善も行うことはできません。唯一、同胞たちとの接触において、その最も厳しい戦いの中でのみ、人は慈善を行う機会に出合うのです。

ゆえに、自ら孤立し、自分を完成させる最も強力な手段を失ってしまう人は、自分のことしか考えることがなく、その人生は利己的なものとなってしまいます。(→第五章 26)。

ですから、私たちと絶えず通信を取りながら、神の御心に叶うように生きるために自らを痛めつけたり、灰を被ったりする必要があると考えてはなりません。そうではないのです。繰り返し申し上げます。

人類の必要性に応じて幸せでありなさい。しかし、あなたたちの幸せの中に、あなたたちを愛しあなたたちを導く者を攻撃したり、彼らの顔を悲しませたりするようなことが決してあってはいけません。神は愛であり、神を純粋に愛する者を祝福するのです。(ある守護霊 ボルドー 1863年)

 
  肉体と霊を大切にしなさい
十一、 道徳的完成は肉体の苦行がもたらすのでしょうか。この問題を解決するために、基本的な原則に則り、まず肉体を大切にする必要性を示したと思います。なぜなら、健康か病気かと言うことは、肉体の虜と考えられる魂にとって大きな影響を及ぼすからです。

この虜が生き生きとし、その広がりを見せ、自由の幻想を抱くようになるには、肉体は健全で、すぐれ、強くなければなりません。ある例を示してみましょう。

ここに肉体と魂のいずれもが完全な状態にある人がいるとします。必要性や性質のまったく異なるこれらの二つの要素の均衡を保つためには何をしなければならないでしょうか。両者間の戦いは避けられず、それらを均衡に導く秘訣を見出すのは困難です。

 肉体と魂の扱いについては、二つの考え方が対立しています。一つは修行者の考え方で、その基本は肉体を痛めつけることであり、もう一つは唯物主義者の考え方で、その基本は魂を卑しめることです。

いずれも曲解であり、勝るとも劣らずばかげています。しかし、これら二つの両極端な考え方には、大勢の無関心な群衆が、確信もなく情熱を抱くこともなく群がります。彼らは愛に対して冷たく、喜びに対してケチな人々です。その時、知性はどこにあるのでしょうか。

生きるための科学はどこにあるのでしょうか。どこにもありません。スピリティズムが到来し、研究家たちを助け、肉体と魂の間に存在する関係を示し、お互いが他方に依存しているために、両方を大切にしなければならないと言わなければ、この大きな問題は解決されることはありません。

だから、あなたたちの魂を愛し、また、同様に、魂の道具であるあなたたちの肉体を大切にしてください。自然そのものが示す必要性を軽んじることは、神を軽んじることです。あなたの自由意志から犯された過ちによって肉体を痛めつけないでください。

そうした過ちに対しては、自由意志も、下手に操られた馬と同様に、それが引き起こす事故の責任を負っているのです。

肉体を苦行にさらし、あなたたちの隣人に対して慈善を行うことも、へりくだることも、自己中心的でなくなることもなしに、肉体を痛めつけることによって、あなたたちはより完全になることができるのでしょうか。いいえ、完成とはそうしたものではありません。

完成とは、あなたたちの霊に対して行う改革にあります。魂を曲げ、服従させ、へりくだり、苦しめて下さい。それが神の意志に対して従順になり、完成に至ることのできる唯一の手段です。(守護霊 ジョルジュ パリ、1863年)

シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch 
 by Stella Storm


四章 不変・不滅・不可避の摂理

≪万が一にも大自然の摂理に欠陥が見つかったら、私はこのたびの使命をすべて放棄します。もしどこかに摂理のとおりに行っていないところが見つかったら教えてください。しかし、そういうことは絶対にありません。原因にはかならず結果が伴います。蒔いたタネを刈るのです。それ以外には有りようがないのです≫   シルバーバーチ


 「皆さんがスピリチュアリズムと呼んでおられるものは大自然の法則のことです。神はこの宇宙を不変の法則によって支配し顕現していくように定めました。宇宙のあらゆる側面が法則によって治められているのです。

みなさんが親しんでいる物的地上界であろうと、人間に感知できない、それよりはるかに大きな霊界であろうと、法則が行き届かないというところはどこにもありません。

 この法則を通して神の意志が働いているのです。人間の法律には変更と修正がつきものです。不完全であり、あらゆる情況を考慮に入れていないからです。が、神の法則は、起こりうるあらゆる事態に備えてあります。すべてが規制され、すべてが管理され、神の配剤がすべてに行きわたっております。

 人間には一種の機械としての物的身体が与えられています。あなたはその身体を通して自我を表現している一個の霊なのです。あなたが悩みを抱くと、霊と身体との間の水門が閉ざされ、身体は生命力の補給路を失うことになります。

補給源とのつながりを断たれることになります。そのことに気づいて心構えを改めないかぎり、あなたの身体はその不健康な作用と反作用の法則に従いつづけることになります。

 心配の念はあなたの霊的大気であるオーラの働きを阻害し、その心霊的波長を乱します。 (オーラには磁気性と電気性の二種類がある。詳しくは『母と子の心霊教室』を参照───訳者) 

その障害を取り除くまでは生命力は流れ込みません。泰然自若の境地に至るには長く厳しい修行、過酷な試練、そして心配の念の侵入を許すまいとする不断の努力が要請されます。

 無限の愛と叡智を有する神がこの摂理を創案したのです。完璧に出来あがっており、必ずその通りに作用します。心配することに費やしているエネルギーを建設的な思念へ転換すれば、健康上の問題は生じなくなります。神の計画は完全であり、あなたもその計画の中に組み込まれているのです。

あなたも自分自身を完成しなくてはいけません。そのための機会は日常生活の中にいくらでも用意されております。

 私には自然法則を変える力はありません。因果律という不変の法則に私が干渉することは許されません。たとえばあなたの身体が衰弱している兆候を見つければ、大切にするよう警告してあげることしかできません。

身体は一種の機械です。したがってそれなりの手入れがいります。手入れを怠れば故障するにきまっています。すると休息と修理によって機能を回復させるほかはありません。法則はごまかせないのです。

 あなたはその身体を通して自我を表現しているのです。その身体のすることにも限界があり、それを超えてしまえばバッテリーを補充しなければなりません。それはあなたの責任です。あなたの身体だからです。

 いくら愛があるとはいえ、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念の責任を私が肩代わりしてあげるわけにはまいりません、行為の一つひとつ、言葉の一つひとつ、思念の一つひとつについて、あなた自身が責任を取るのです。
身体はその責任ある自己表現の媒体なのですから、その遂行において支障がないように十分な手入れをしておく必要があります。人体は地上のいかなる機械よりもはるかに入り組んだ、すばらしい組織体です。まさしく驚異というにふさわしい道具です。が、それにも手入れがいります。

 自然の摂理と調和した生き方をしていれば病気も異状も不快感もありません。こうしたものは不調和から生じるのです。摂理に反することをすれば、その代償を払うことになります。摂理の範囲内で生活していれば恩恵を受けます。

 何よりも動機が優先されます。が、摂理に違反したことをすれば、それに対してペナルティが科せられます。自分の気持ちを満足させようとして身体を痛めるところまで行ってしまうか否かは、一人ひとりがその霊的進化の程度にしたがって判断することです。

地上生活にも神の計画の中でのそれなりの役割があります。無理を重ねて次の段階の生活への準備が十分に整わないうちに地上を去るようなことになってはいけません。

 たとえば、ここに人類の福祉に貢献している高潔な人物がいるとしましょう。その人がもしもその道での超人的活動で健康を損ねた場合、それは立派と言えるでしょうか。それも本人自身が判断すべきことです。

ただ残念なことに、そうした決断を下すに当たって必ずしも自分自身に真っ正直になり切っていないということです。どこかに自惚れの要素───オレ以外に出来るヤツはいないのだという考えが潜んでいるものです。

 法則にも、次元の違いによっていろいろあります。物的次元のもの、精神的次元のもの、霊的次元のもの、さらにはそれらが入り組んで作用する場合もあります。悲しいかな、人間は物的次元のことがギリギリの絶望的段階に至るまで、霊的次元の真理が理解できません。

それは実在を無視した生活に終始しているからです。物的なものだけが大切と思い込んでいるからです。

 しかし魂はいつかは真の自我に目覚めなくてはなりません。その時から内在する神性が発現しはじめるのです。それも神が定めた埋め合わせの法則の一環なのです。苦難が大きいだけ、そこから得られる悟りもそれだけ大きいものとなります。

 神は宇宙の会計士のようなものです。生命の帳簿は常に帳尻が合っており、すべてがきちんと清算されております。霊的機構は整然と規制されておりますから、あなたが霊的に受けるものはあなたに相応しい分だけであり、多すぎることもなければ少なすぎることもありません。

その計算はあなたがそれまでの努力によって到達した霊的進化の程度を基準にして行われます。霊的なことは常に完全な清算が行き届いており、ごまかしも見せかけも通用しません。

 法則は無限なる愛と叡智の働きによって完璧に機能しています。各自が受け取るのはそれまでの努力にふさわしい分だけです。私がそのように定めたのではありません。そのようになっていることを私が知ったというだけです。

それを因果律といいます。原因と結果の間にはいかなる者も干渉できません。偶発事故とか不測の事態というものは起きません。すべては自然の摂理でそうなっているのです。

 その摂理が廃止されたり、一時停止されたり、妨害されたりすることは絶対にありません。自然の摂理は絶え間なく作用しており、変わることもなければ修正することもできません。その摂理と調和して生きることです。

すると良い結果が得られます。摂理にひっかからないように上手にすり抜ける方法はありません。その作用は絶対です。宇宙の大霊は摂理の精髄であり、権化であり、哀願も弁解も通用しません」


 《私たちがこれまでに賜った知識のすべて───いま生きている宇宙について、その宇宙を法則によって管理している絶対的な力について、そしてその力と私たちとの関係ならびに私たち相互の関係について、より明確な理解を得させてくれた知識を有難く思っております。

 私たちは宇宙の摂理の働きについてより多くのことを学び、それが一つの手落ちもなく私たちの幸福にとって不可欠のものをいかに美事に用意してくれているか───無限なる叡智によって考案され、無限なる愛によって管理されている摂理が私たちすべてを包摂し、私たちのあらゆる必要性に備え、誰一人としてその支配からはみ出ることがないことを理解しております》                          
                         シルバーバーチ

シルバーバーチの霊訓(九)

 Philosophy of Silver Birch 

 by Stella Storm


 三章 霊の威力

 《もしも霊力が働かなくなるようなことがあったら、地球は回転を止め、四季は巡ってこなくなることでしょう。もしも霊力が働きを中止したら、太陽の炎は消滅し、月はあの幽玄な輝きを見せなくなるでしょう。もしも霊力がしくじることがあったら、種子は花を咲かせず実を結ばなくなることでしょう。》                    シルバーバーチ


 「私たちは、霊が生命を吹き込んでくれたおかげで共通の絆を与えられているのです。そのことによって全世界の神の子が根源において結ばれていることになるからです。人間が地上でも、そして死後も生き続けることを可能にしているのは、神を共通の親として、全人類を一つの家族に結びつけているのと同じ霊力なのです。

 この崇高な事実こそ私たちが啓示せんとしている真理です。あらゆる物的差違、あらゆる障害、あらゆる障壁を超えるものです。肌の色の違い、言語の違い、国家の違いを超越するものです。物的存在の表面の内側に、断とうにも絶つことのできない同胞性で全人類を結びつけている、共通の霊的属性があることを教えております。

 今の地上世界にはぜひともこの真理が必要です。その理解さえ行きわたれば戦争は無くなります。世界中ではびこり過ぎている利己主義と貪欲と既得の権利が撲滅されます。人間の唯一の、そして真の尊厳すなわち霊性が、今あまりにはびこっている低俗な物的価値基準に対する優位を発揮するようになります。

 その理解が行きわたるにつれて、無限の豊かさと輝きと崇高さと愛と指導力と治癒力とを秘めた霊の力がそれだけ多く発揮され、これまであまりに永いあいだ支配して混沌と災禍をもたらしてきた無知と偏見と迷信を駆逐して行くことでしょう。

 あなた方も、お一人お一人がミニチュアの大霊すなわち神なのです。その霊はあなた方の努力次第で生長と発達と拡大を続け、成熟して開花する可能性を秘めているのです。どこまで発揮できるかを決定づけるのはあなた自身です。他の誰もあなたに代わってあげることはできません。それが地上生活の目的なのです。

あなたも大霊であることを自覚することです。そうすれば神の王国があなた自身の中にあることに理解がいくはずです。霊力は絶対に裏切りません。

 必需品を永遠に供給していくための摂理があり、それに順応しさえすれば、あなたは必要なものに事欠くことは有り得ません。空腹や渇きに苦しむようなことは決してありません。

しかし、必要以上のものは授かりません。あなたの成長度に合ったものを授かるのであって、多すぎることも少なすぎることもなく、高すぎることも低すぎることもありません。摂理ですから、それ以外に有りようがないのです。

 霊は物質による制約には負けません。全生命の原動力であり、全存在の始源である霊は、あなたが地上生活において必要なものはすべて供給してくれます。その地上生活の目的はいたって単純です。本来のあなたである霊的本性を開発・強化して、死後に待ちかまえる次の生活の身支度をすることです。

となると、ありとあらゆる人生体験───楽しいことも苦しいことも、光も蔭も、有利なことも不利なことも、愛も憎しみも、健康も病気も、その一つ一つがあなたの霊的成長にとって何らかのプラスになるということです。

 真理の顕現には無限の形態があります。真理とは無限なる大霊から出るものであり、顕現の媒体となる人物の進化の程度によってその形態が違ってくるからです。その真理の理解は単純・素朴さを通して行われます。

やたらに綴りの長い単語や聞きなれない難解な用語を用いたからといって、それで真理にハクがつくわけではありません。むしろそれが無知の仮面となっていることがよくあるものです。

 私たちの説く真理は、無辺・無限の大霊の真理です。すべての人のためのものであり、一宗一派、一個人のものではありません。全人類を愛の抱擁の中に包まんとして働きかけております。

 実在は物質の中には見出せません。その肉体の中にも発見できません。存在の種子は物的器官の中には見出せません。あなたは今からすでに霊的存在なのです。私たちの世界へ来てはじめて霊性を身につけるのではありません。

 受胎の瞬間から人間も霊的存在なのです。その存在の源である霊という実在からあなた自身を切り離そうとしても、それは絶対にできません。地上世界のすべてが霊のおかげで存在しているのです。霊なくしては生命はありません。なぜなら生命とは霊であり、霊は生命だからです。

 (物的表面にとらわれず)肝心かなめのものにすがることです。目を逸らしてはいけません。これこそ真実であると確信したものにしっかりとすがることです。そして煩雑な物的生活の中で何が何やらわけが分からなくなった時は、大霊の力と安らぎの住む内部へ退避して、その雑念を忘れることです。

そうすればその静寂の中にあなたにとって必要なものを見出すことでしょう。あなたという存在の組織は必ず神の定めたパターンにしたがって織っていくことが大切です。

 そのためには一体われわれは何の目的で神によって創造されたかを忘れないようにしましょう。その神とのつながりに汚点を残すような行為は絶対にしないようにいたしましょう。そうなることが全生命の根源たる神の意図を正しく理解している者すべてに必ず与えられる恩寵に、われわれも常に浴すことになるのです」


 シルバーバーチの祈りから。

《私たち子等を互いに結び、そして私たちとあなたとを永遠に結びつけているのは、全生命の息吹であるあなたの霊にほかなりません。私たちすべてを霊的大家族としてつないでいるその霊的きずなを断絶させうるものは、地上にも霊の世界にも、何一つ存在いたしません》

Saturday, June 6, 2026

シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch

by Stella Storm




二章 活字の効用

 《印刷された文字には絶大な影響力があります。話し言葉は忘れ去られるということがあります。人間の脳という小さなスクリーンにゆらめく映像はいたって儚いもので、それに付随して生まれる言葉には不滅の印象を残すほどの威力はありません。その点、活字には永続性があります。

いつでも参照することができます。目に見えますし、その意味をくり返し吟味することもできます。また人から人へと伝えられ、海をも超えて、悲運をかこつ孤独な人のもとに届けられることもあります。

幸いにして私は、これまでに手にすることの出来た叡智をこうして皆さんにお聞かせしておりますが、それが速記者の仲介をへて次々と活字になっております。そのおかげで各地で魂が目を覚まし、種子が実を結んでおります》
シルバーバーチ


  Brother John (ブラザージョン)のペンネームで二十年以上(一九六九年現在)にわたってサイキックニューズ紙上で心霊知識の解説と人生相談を担当してきたコラムニストが初めてシルバーバーチ交霊会に招かれた。冒頭の引用句はそのジョンが〝なぜあなたは説教者としての仕事を選び、またその霊媒としてバーバネルを選んだのですか〟と質したのに対して答えたものである。

 ブラザー・ジョンが二十年あまり一週も欠かすことなく執筆し続けた記事は、延べにして一千回を超える。その中には読者から寄せられた質問に対する情愛あふれる回答も含まれている。たとえば一九六七年の一年間に寄せられた手紙は千四百通にのぼり、人生相談的なものからコラムの内容についての質問まであるが、彼はそのすべてに、ていねいに回答している。

 その真摯にして謙虚な態度はシルバーバーチと同じで、死後の存続の事実と、それが有する重大な意義について十年一日のごとく、倦むことなく語り続けている。その彼が媒体としているのも又、活字である。

(訳者注──その間の膨大な記事をまとめ上げた本が一九七七年に Truth Has No Label 〝真理にラベルはない〟の題名で出版されている。その〝まえがき〟の中でブラザー・ジョンは「サイキックニューズ紙上に毎週掲載してきた記事を一冊の本にまとめてはどうかという勧めを聞くようになって久しいが、私はそれをずっと遠慮してきた。

このたびついに説得されて出版の運びとなったが、やはり戸惑いを禁じえない」と謙虚に述べている)

 これまでの霊言集の編者のうちの二人が、冷ややかな活字ではシルバーバーチの温かい人間味と愛を伝えることは到底できないと述べている。確かにその通りである。交霊会に出席する光栄に浴した人は例外なく、顕と幽との二つの世界の言うに言われぬ交わりを体験して感動するものである。

 しかし、私自身はそうたびたび出席したわけではないが、そうした人間味とか愛のみがシルバーバーチという一個の霊の個性のもっとも重要な要素とは思えないし、その使命の主たる目的でもないと考えている。

私自身が出席した交霊会の霊言が活字になったのを読んでも、私は改めて感動を覚える。要するにシルバーバーチの述べていることそのものが魂に訴えるものをもっているということである。

 このたび本書を編纂するに当たってこれまでの霊言記録に目を通してみて私は、改めてシルバーバーチという霊の述べた言葉の威力───一つのフレーズ(句)、一つのセンテンス(文)を何の準備もなしに当意即妙に述べる、その〝言葉の錬金術〟に驚嘆させられた。

 これまでに出版された霊言集はすべて読んでいるし、またサイキックニューズ社での仕事の一つが月刊誌ツーワールズに連載されている霊言の校正もある。その私が本書を編纂しながら一度も退屈さを感じなかった。

シルバーバーチは自分のことを〝古いメッセージをたずさえた同じ古い霊です〟と言うが、その助言、その内側に秘めた真理と率直さは常に生き生きとして新鮮である。

 かの手厳しい評論家のハンネン・スワッハーでさえ十五年前にこう書いている───〝私はシルバーバーチの教え・指導・助言に毎週一回一時間あまりにわたって耳を傾けることをずっと続けているが、地上のいかなる人物よりも敬愛し尊敬するようになった〟と。

 今では録音技術の進歩のおかげでカセットテープにまで収められて、シルバーバーチのナマの声が世界各国で聞けるようになった。が、シルバーバーチがみずからに課した使命のエッセンスは、いつも哀れみを込めて語り続ける言葉が活字となって広く読まれることにあると私は確信している。その思想の真価は、少なくともこの地上においては直々に会うことは望めない世界各地の人々に及ぼす影響力によって計られるのである。

 みずから述べているように、シルバーバーチにとっては、基本的な霊的真理を一人でも多くの人に伝えるための霊媒の発見が第一の仕事であった。そして、最終的にモーリス・バーバネルに白羽の矢が立てられたことはなるほどと思わせる。なぜならバーバネルは週刊と月刊の二つの心霊ジャーナルの主筆であり、シルバーバーチの霊訓を遠く広く流布する手段として打ってつけの人物だったからである。 

 さて、初めての交霊会の印象をブラザー・ジョンは次のように書いている。

 〝永い年月の中で、このシルバーバーチ交霊会での体験ほど素晴らしいものはなかった。シルバーバーチが語ってくださった言葉に私は思わず涙を流した。シルバーバーチという霊に何か強烈な親近感を覚え、それでつい、ほろっとしてしまった。私にとって忘れ難い夜となった〟

 その夜のシルバーバーチ霊言の中から幾つかを抜粋して紹介しておこう。


 「今夜はようこそお出でになりました。まっ先にご注意申し上げておきますが、私についていささか誇張された宣伝がなされており、私がまるで全ての叡智を具えているかのように書かれておりますが、とんでもないことです。

私もあなたと同じ、いたって人間的な存在であり、弱点もあれば欠点もあり、誤りも犯します。ただ私は、霊的真理について少しばかり知識の蓄えがあり、それを、受け入れる用意のできた人たちにお分けしたいと思っているところです。

 それとても私自身の所有物ではありません。私はただの代弁者にすぎません。私はその仕事を要請されたのです。仕事が完了して地上から引き上げる時期が来るまでは続けることになりましょう。が、

今はまだその時期ではありません。まだもう少し時間が掛かります。これまで多くのことが成就されてまいりましたが、まだまだ為さねばならないことがあります。

 霊力は条件さえ整えば、つまり一かけらの心配の念もなく、知識を基盤とした信仰と体験から生まれた確信とがあれば、時として驚異的なことをやってのけます。


 あなたが今の職責を果たしていらっしゃるのも霊力のお陰です。それは私から申し上げるまでもないこととは思いますが、ただ、あなたはその貢献度、奉仕度を過小評価していらっしゃる。それはいけません。読者のために施しておられる援助の大きさはあなた自身にはお分かりになりません。

多くの魂に感銘を与えていらっしゃいます。そしてそれは、地上で為しうる最も大切な仕事の一つなのです。

 地上に肉体をたずさえて生まれて来るそもそもの目的は、魂が真の自我を見出すこと、言いかえれば、宿された神性に点火し、燃え上がらせ、輝かしい炎とすることです。残念ながら必ずしもそういう具合に行かないのが実情です。迷信と無知の暗闇、疑念と恐怖と困惑の泥沼の中で過ごす人が多すぎるのです。

そうした中で一人でも真理に目覚めさせてあげることができれば、それだけであなたの存在価値があったことになります。たった一人でいいのです。それで十分なのです。それをあなたはすでに数え切れないほどの人に施しておられます。

 その程度はどうあれ、神の使徒として働けるわれわれは光栄この上ないことです。これはキリスト教の教会にはもはや望めないことです。心の奥ではもう信じていない古い教えを決まり文句として口にするだけとなっております。とっくの昔に意味を失ってしまった紋切り型の語句、使い古した慣習と儀式をくり返すのみです。

 そうした教会、大聖堂、寺院などが陳腐で空しい死物と化してしまったのは、そこに霊の力が働かなくなったからです。生命を与えているのは霊なのです。なのに、そうした建造物の中で行われていることは、霊力、キリスト教でいう聖霊を拒絶することばかりなのです。

そこで、われわれのように、風変わりな式服もまとわず、祭壇もしつらえず、ただ霊力の流れる通路となり、この世で誰一人として無視されたり見落とされたりすることのない神の摂理の存在を教えることだけを心掛ける者を利用せざるを得なくなったのです。

 あなたの場合も、人生が暗く荒涼として、いずこへ向かうべきかも分からず、あたかも絶望の壁に四方を仕切られた思いをさせられていた時に、啓示をうけられました。これ以上申し上げる必要はないでしょう。愛、情愛、友情、同情、慈悲、哀れみ、寛容心、こうしたものは不滅の霊性です。愛に死はないのです。

死は生命に対しても愛に対しても無力なのです。いま申し上げた霊性もみな元をただせば愛の諸相なのです。私はけっしてナゾナゾを申し上げているのではありません」


 ここでシルバーバーチはその日の交霊会に、かつてブラザー・ジョンといっしょに仕事をしたこともある偉大な心霊治療家で、今はブラザー・ジョンの背後霊の一人として働いているフレッド・ジョーンズが来ていることを述べてから、さらにこう続けた。

 「今この会場に訪れているあなたの霊団は実にすばらしい方ばかりです。あなたをこの道に導いたのはこの方たちであり、今もずっと指導しておられます。フレッド・ジョーンズは偉大な霊です。

彼にとって物的身体が小さすぎるほど霊性が大きくなったためにこちらへ来られましたが、地上に立派な足跡を残されました。この道の先駆者としての仕事をしたのです。その努力は無駄ではありませんでした。

 彼が地上で仕事をしていた頃は、心霊治療を施す者はほんの一にぎりにすぎませんでした。が、今日では数え切れないほどになっております。身体と精神と魂を病んだ人がいたるところにいる病める地上では、それだけの数が必要なのです。残念ながら物質中心主義から生まれる病は感染力が強く、すぐにまん延する一種の伝染病です。

しかし、光が闇を駆逐するごとく、心霊治療は正しい生き方を教えることによってその病弊を駆逐していくことでしょう。

 健康を増進するのは医学でも医薬でも劇薬でもありません。不自然なものを体内に注ぎ込むことによって健康にすることはできません。それは言わば医学的愚行です。正しい生き方さえしていれば、つまり思念に邪なところがなく、

霊と精神と身体とが調和していれば健康でいられるのです。日常生活のストレスと心労、あるいは利己心や邪心や強欲が生み出す不自然な緊張───こうしたものは物的存在のすべての息の根を止める毒薬です。

 もしも私の話をお聞きになられて今後も頑張ろうという気持ちになってくだされば、本日ここにお出でになられた甲斐があったことになります。思うにまかせぬことがあることはよく存じております。が、霊的な褒章を求める者にはラクな道はありません。

 大霊は完全です。摂理は完全です。必ず摂理どおりに働きます。が、そのワクの中に自由意志の要素が存在し、その中に、自分の意志で貢献するチャンスが与えられているわけです。全世界を破滅に追いやる力はありません。大混乱を巻き起こすくらいならできるでしょう。が、人間のすることにはおのずと限界があります。

 神の計画が狂うということは絶対にありません。もし狂えば、ないしは狂うことも有りうるとしたら、神は神でなくなります。完全が間違いを犯すはずがないのです。もし犯せば完全が完全でなくなります。自然法則という形での神の定めは無窮の過去から常に存在し、一度たりともその定め通りに働かなかったことはありません。

 地球が一瞬でも回転を止めたことがあるでしょうか。汐が満ちてこなかった日が一日でもあったでしょうか。昼のあとにはかならず夜が来ていないでしょうか。蒔いたタネは正直にその果実を実らせていないでしょうか。

 狂いません。神の計画は絶対に狂いません。本来は人間もその定められた計画にそって進まねばならないのです。しかし人間は愚かさと無知と利己心から誤った道へ外れる可能性もあるのです。

美しい花を咲かせるべき庭園に雑草を生い茂らせることも有りうるということです。正し生き方とは何であるかを、みずから学んで行かねばなりません。そうすることが人間としての神への貢献となるのです。潜在的には無限の霊的属性を秘めておりますが、それを駆使できるようになるには、それなりの努力をしなければならないということです」


 交霊会が終わったあとブラザー・ジョンは、何よりもシルバーバーチの素朴さと謙虚さに一ばん心を打たれたと語り、こう続けた。

 「その素朴さとは二つの世界を一体ならしめる素朴さ───偉大なる魂が素朴にして深遠な真理を説くために地上のもう一つの魂の身体と精神とを支配するための素朴さである。

 それに謙虚さ───シルバーバーチの言葉の中にはこの偉大な特質の表現と思えるものが何度も出て来たが、私との対話の中でとくに心に沁みる思いがした場面が三回あった。それは私が思わずお礼の言葉を口にした時で、そのたびにシルバーバーチは穏やかに、そして優しく〝私への礼はおやめ下さい。私が感謝を頂戴するわけにはまいりませんから〟と述べるのだった」

 《こうした人材の操作、つまり適時に適材を適所に活用することは、入りくんだ複雑な協力態勢を必要とする大へんなわざです。今や神の教えが多くの人々に届けられるようになりました。私の教えではありません。

私はそれを中継してお届けしているだけです。同志の協力を得て、霊光と霊力をいくらかでも悩める地上世界へお届けすることができております。いつの日か皆さんが私のもとへ来られて、書物なり心霊誌に書かれていたのを読んだことが救いになったと告げてくだされば、私は、こうした協調的努力が無駄でなかったことを知ることになります》 
                         シルバーバーチ
 



スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

 本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック




第16章 富と神の両方に仕えることはできません   
財産家の救い

一、 誰にも二人の主人に仕えることはできません。なぜなら、一方を愛し、他方を憎むことになるか、一方に親しんで、他方の気持ちを疎んじることになるからです。(ルカ 第十六章 13)


二、すると彼のもとに青年がやって来て言った、
「善き師よ、永遠の命を得るためには何をすればよいのでしょうか」。するとイエスは答えて言われた、「なぜ私を善いというのですか。善いのはただ神のみです。永遠の命に入りたいのであれば戒めを守りなさい」。「どんな戒めですか」。青年は問い返した。

「殺してはなりません。姦淫をしてはなりません。盗んではなりません。偽証をしてはなりません。父母を敬い、自分と同じように隣人を愛しなさい」。青年は言った、

「私はそれらすべての戒めを守っています。それでもまだやらなければならないことはなんでしょうか」。イエスは言われた、「もし完全になりたいのであれば、帰って所有するものをすべて売り払い、貧しい者にそれらを与えれば、天における富を得ることができます。

その後来て、私について来なさい」。この言葉を聞くと、青年は多くの財産を所有していたので悲しくなり、去って行った。

するとイエスは使徒たちに言われた、「誠に言いますが、富んだ者が天の国に入ることは難しいことです。また、更に申し上げますが、ラクダが針の穴を通る(→FEB版注1)ことの方が、富んだ者が天の国に入るよりも容易なことなのです」。(マタイ第十九章 16-24 ルカ 第十八章 18-25 マルコ 第十章 17-25)


 強欲から身を守る
三、 群集の中のある者が言った、「先生、私の兄弟に相続した財産を分けるようにおっしゃってください」。イエスは言われた、「おお、人よ。誰が私を、あなたたちを裁き、あなたたちの財産の分割をするように仕向けたのですか」。そして更に言われた、「いかなる強欲からも身を守るように注意しなさい。
℘281
人がなにに富んでいようが、その者の命はその者の所有する財産には関係がありません」。 
   
 そこで続けて次のたとえ話を語られた、「畑が豊作だったある金持ちがいた。そしてこのように自分の中で思いを巡らせていた、『もはや収穫物を蓄える場所がなくなってしまったが、どうすればよいだろうか』。 

そしてこのように言った、『私の穀物倉庫を壊し、もっと大きな穀物倉庫を建て、そこに私の全財産とすべての収穫物を保管しよう。そして自分の魂にこう言おう。魂よ、何年分もの食料が沢山蓄えてある。安心して休み、食べ、飲み、楽しめ』。

すると神はその者に言われた、『何と気が狂ってしまったことか、まさに今夜あなたの魂を奪うであろう。そうしたら、あなたが蓄えたものはなんの役に立つであろうか』。

自分だけのために富を蓄える者には、このことが当てはまり、そのような者は神の前には豊かではありません」。(ルカ 第十二章 13-21) 


  ザアカイの家でのイエス
四、 エリコに入ると、 イエスはその町をお通りになった、そこにはザアカイという名の、徴税官の頭で大変富んだ者がいた。彼はイエスと知り合いたくて、イエスがどんな人か一目見ようと望んでいたが、背が低かったため、群集にさえぎられて見ることができなかった。

そこで群集の前へ走って行くと、そこを通られるはずのイエスを見ようと、イチジクの木に登った。イエスはそこへやって来られると目線を上の方へ向け、ザアカイを見ると彼にこう言われた、「ザアカイよ早く下りて来なさい。今夜あなたの家に泊めてもらう必要があります」。

ザアカイは直ちに木から下りると喜んでイエスをお迎えした。それを見てみな不満げに言った、「イエスは罪人の家に泊まりに行かれた」(→序章 Ⅲ 「パブリカン(徴税官))。

 ザアカイは主の前に出ると言った、「主よ、私は財産の半分を貧しい者に分け与え、なんであろうと、もし誰かから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。

するとイエスは言われた、「今日この家には救いが来た。なぜなら彼もアブラハムの子供であるからです。人の子が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためなのです」(ルカ 第十九章 1‐10)

 ℘282   
  悪しき金持ちの話
五、 ある金持ちがいて、彼は紫の衣や高級な布をまとい、毎日贅沢な生活を送っていた。また、ラザロと言う名の乞食がいて、その全身はできもので覆われており、金持ちの家の扉の前に横たわって、その家の食卓から落ちるパンくずでその飢えを癒そうとしていた。

しかし、誰もそれを与えてくれる者はなく、ただ犬がそのできものをなめに寄って来るだけであった。

 さてこの乞食は死に、天使たちによって、アブラハムのもとへ連れて行かれた。金持ちも死んだのだが、その墓場は地獄であった。苦しみに遭っている時、目を上げると遠くにアブラハムとラザロが見えた。そこで金持ちは言った。

「父アブラハムよ、私を哀れに思い、私の舌を冷やすために指先を水で濡らしたラザロをこちらへ送ってください。この炎に包まれた苦しみは大変恐ろしいものです」。

 しかし、アブラハムは答えて言われた、「息子よ、あなたは生きている間に富を受け取り、ラザロは悪いものを受けたことを思い出しなさい。だからいま彼は慰められ、あなたは苦しみの中にいるのです。

また、私たちとあなたたちの間には永遠に深い淵が存在しており、それ故にここからそちらに行こうとする者はそちらへ行くことが出来ず、また、あなたのいる場所から誰もこちらに来ることは出来ないのです」。

 金持ちは言った、「そうであるならば、父なるアブラハムよ、お願いいたします。ラザロを私の父の家へ送ってください。私には五人の兄弟がいますが、彼らがこの苦しみの場所へ来ることが無いように、ラザロにこのことを警告していただきたいのです」。

アブラハムは彼に言われた、「彼らにはモーゼや預言者たちがおり、その者たちの話を聞くがよかろう」。

「違います、父アブラハムよ。もし死者の誰かが彼らに会いに行けば、彼らは懺悔することでしょう」。アブラハムは答えられた、「彼らがモーゼや預言者の話を聞かないのであれば、たとえ死者が生き返ろうとも、その者の助言を信じることはありません」。 (ルカ 第十六章 19-31)


℘283     
  タラントの話
六、 また天国は、ある人が旅に出る時、そのしもべどもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。ある主人が、それぞれの能力に応じ、一人には五タラントを、別の者には二タラントを、そしてまた別の者には一タラントを与えて旅に出た。

すると、五タラントを受け取った者はそのお金で商売をし、もう五タラントをもうけた。二タラントを受け取った者は、同じようにしてもう二タラントをもうけた。

しかし、一タラントしか受け取らなかった者は地面に穴を掘ると、主人のお金をそこに隠した。長い年月が経過し、しもべたちの主人が戻って来ると、勘定をするために彼らを呼んだ。

五タラントを受けた者はもう五タラント差し出すと言った。「ご主人様。あなたは私に五タラントを預けました。ここにそのお金とそれによって稼いだもう五タラントをお返しします」。

主人は答えて言った。「良き忠実なしもべよ。お前は小さなことにも大変忠実であったので多くのものを管理させよう。主人の喜びをともに分かち合うがよい」。

二タラント受けた者は自分の番になると言った。「ご主人様。あなたは私に二タラントを授けられました。ここにその二タラントと、私の稼いだもう二タラントをお返しします」。

主人は答えて言った、「良き忠実なしもべよ。お前は小さなことにも忠実だったので多くのものを管理させよう。主人の喜びを共に分かち合うがよい」。

次に一タラントだけを受けた者が来ると言った、「ご主人様。あなたは厳しいお方で種を蒔かぬところを刈り、なにも散らさないところからも集めます。ですから、あなたを恐れ、預かった一タラントを地中に隠しておきました。ここにそのお金があります。あなたのお金をお返しいたします」。

すると主人は答えて言った、「悪しき怠惰なしもべよ。あなたは私が、蒔かないところから刈り、散らさないところから集めることを知っているのか。それなら、私の金を銀行に預けておくべきであった。

そうしたら私が帰ってきて、利子と一緒に私の金を返してもらえたであろうに。その者より一タラントを取り戻し、十タラントを持つ者に渡すがよい。

すでに持つ者には与えられ、それらは富をより蓄えることになるが、持っていない者は、わずかばかりの持っているものまで取り上げられるであろう。この役に立たないしもべを外の暗闇へ放り出しなさい。そこで彼は泣き、歯を震わせるであろう」。(マタイ 第二十五章 14-30)


  神意に従った富の使い方。富と貧困の試練
七、 イエスの幾つかの言葉を、霊によってではなく、文字通りに解釈した場合に受け取れるように、富がもし救いの絶対的な障害となるのであったとすれば、富を容認した神は、富に抗しきれないような人々を破滅に導く手段を与えたことになりますが、それは道理に反しています。

富と言うのは、それが与える魅力や誘惑に人を引き込むので、貧困よりも危険な試練であることは疑う余地もありません。富は自尊心やエゴイズム、みだらな生活への欲求を強く刺激します。

それは人類を地上につなぎ止める最も強い絆であり、人々の考えを天の方向から遠ざけることになります。貧困から豊かになってしまうと、しばしばそれに有頂天となってしまい、すぐに元の境遇や、ともに貧困を生き抜いてきた仲間や助けてくれた仲間のことを忘れてしまい、それらに対し鈍感で、利己的になり、うぬぼれてしまいます。

しかし、富によって道のりが困難になるとは言え、救済が不可能になったり、それが救済の手段となり得ないのではありません。ある種の毒が、思慮と分別を持って用いられれば、健康を取り戻すことに役立つように、富が何に役立つのかを知る者にとっては、富は救済の手段ともなり得るのです。

 永遠の命を得る手段を尋ねた青年に対してイエスが、「所有するものをすべて売り払い、私について来なさい」と言った時、絶対的な条件として、一人一人が所有するものを捨て、救済はその代償として得られるのだということを確立させようとしたのではもちろんありません。

そうではなく、地上の財産への執着が救済の障害になる、と言うことを示したかったのです。戒めを守っているのだから自分は永遠の命を得るにふさわしいと考えていた青年は、自分が所有する財産を放棄するということを拒否しました。

永遠の命を得たいという彼の願望は、それを犠牲にしてまで得ようというところまで到達していなかったのです。

 イエスが彼に示した提案は、彼の考えの根底を裸にするため決定的な試験であったのです。彼は、疑いなく、世俗的な考え方においてはまったく正直で、誰にも損害を与えず、隣人の悪口を言わず、うぬぼれず、高慢でなく、父母を敬っていたかもしれません。

しかし真なる慈善に欠けていました。彼の美徳は自己放棄にまでは達していなかったのです。イエスはそのことを示したかったのです。「慈善なしには救われません」という原則をあてはめたのです。

 この言葉を厳密にとらえるのであれば、その意味は、地上の限りない悪の原因であり未来の幸せにとって有害である富の廃止と言うことになります。又拡大解釈するならば、富を得る手段としての労働の否定と言うことになります。

しかし、それはばかげた解釈であって、それでは人類を再び原始的な生活へ戻すことになってしまい、それゆえに神の法である進歩の法に矛盾するものとなってしまいます。

 富が多くの悪の原因となり、悪い感情をかき立てて、多くの罪を引き起こすのであれば、それは富を責めるのではなく、神から授かったすべての能力と同じように、それを濫用してしまう人類を責めなければならないのです。

人類にとって最も役立つものも、濫用すれば有害なものになってしまうのです。それは地上の世界が劣った状態にあるということの結果です。もし富が、悪しか生み出すことのできないものであったなら、神はそれを地上に与えることは無かったでしょう。

富が善を生むように仕向けるか否かは、人類の権限に属するのです。もしそれが道徳的進歩に関わる要素でなかったとしても、知性的な進歩に関わる強力な要素であることは間違いありません。
℘286   
 実際に、人類には地球上の物質的向上のために働くという役割があります。いつの日か地表が受け入れるべき人口の全てを迎えることができるように、地球上の障害物を除き、衛生的にし、準備することが人類の裁量に任されています。絶え間なく膨らむこの人口に食物を与えるには、生産性を上げる必要があります。

食料が不十分である国は、不足する食糧を国外に求める必要があります。だからこそ、異国民同士のつながりが必要になってくるのです。

それをより容易にするためには、人々を画する物理的な障害を取り除き、通信をより早くすることが必要なのです。こうした仕事は何世紀にもわたる事業ですが、人類は地球の奥底より物質を取り出さなければなりませんでした。それをより迅速に、安全に行える手段を科学に求めました。

しかしそれを実現させるためには資力が必要でした。人類が科学を生んだように、必要性が富を生み出したのです。この様に、物質的向上の為に働くことは、人類の知性を広げ、発展させますが、

最初は物質的な必要性を満足させるために集中させた知性は、後になって偉大なる道徳的真理の理解を助けることになります。富は実行するための最初の手段であり、それなしでは大きな役割も、活動も、刺激や調査も生まれません。

だから富は、進歩の原理以外の何ものでもないと考えられるのです。


  富の不平等
八、 富の不平等は、現世のみに限って考えれば、解決しようとするだけ無駄な問題の一つでしょう。最初に問われるのが次のような問題です。「どうして人類のすべてが同じように豊かではないのだろうか」。富が平等に分配されないのは、一つの単純な理由からです。

それは、人類のすべてが富を手に入れるために同等に知性的、活発、勤勉ではないからであり、また富を保つために同等に知性的、活発、勤勉ではないからであり、また富を保つために同等に節制できるのでもなければ先見の明があるわけでもないからです。

ただし富が平等に分配されれば、一人一人に必要最低限のものが行きわたるはずだというのは、あくまで数学的に言えることであって、平等に分配したとしても、それぞれの性格や能力の違いから、その均衡はあっという間に崩れてしまうのです。

たとえ均衡を保ち、長続きさせることが可能であったとして、一人一人が生きるために必要なものを所有していたとしたら、それは人類の厚生と進歩のためのあらゆる偉業を廃止することになってしまいます。

そして、分け前が一人一人の必要性を十分満たすものだと認識されてしまえば、もはや人類を発見や有益な事業に取り組むことに駆り立てる刺激は存在しなくなります。神が特定の場所に富を集中させるのは、必要性に応じて、十分な量の富がそこからひろがっていくようにするためなのです。

 このことを認めたところで、今度は、みなの善のために富を役立たせる能力のない人々に、なぜ神は富を与えるのかと言う疑問が出てきます。しかしそこにも神の善意と英知の証が存在するのです。

神は自由意思を与えることで、人類が自分自身の経験によって善と悪との区別をつけ、自分の意志と努力の結果として善を実践するようになることを望んだのです。人類は、善や悪に必然的に導かれるものではなく、そうだとすれば人類は動物と同じく無責任で受動的な道具だということになってしまいます。

富は人間を道徳的に試すものなのです。しかし、それは同時に進歩のための強力な活動手段であるため、神はその富が長い間非生産的であることを望まず、そのためにいつでもそこから取り去るのです。

誰もが富を得、それを費やすために行動し、富のどのような使い方を知っているかを立証しなければなりません。

しかし、すべての者が同時に富を所有することは数学的に不可能であるため、また、その上、もしすべての者が富を所有していたならば、惑星の向上を約束する労働に誰も就かなくなってしまうため、一人一人に富を得る順番があるのです。

このように、今日富を所有しない者は、別の人生においてすでに富を得たことがあるか、もしくはこれから得ることになるのです。その他の、今日所有する者たちは、もしかすると明日にはそれを所有していないかもしれません。富める者も貧しい者もいます。

なぜなら神は正義であり、一人一人が順番に働くように命じるからです。貧困は、それによって苦しむ者にとっては辛抱と忍従の試練なのです。他の者にとって、富は慈善と献身の試練なのです。
℘288  
 ある人に見られるような富の悪用や、野心が引き起こす卑しい感情を見て、「あのような者に富を与えて、神は正しいのだろうか」と嘆くことには一理あります。確かに、もし人類にたった一度の人生しかなかったとしたら、地上の富のこのような分配を正当化するものはなにも存在しません。

しかし、もし私たちが現世だけに目を向けるのではなく、その反対に、複数の人生全体を考慮するのであれば、すべてが正義によって釣り合っているのです。ですから、貧しい者が神意を非難する理由も、富める者を羨ましがる理由も、また富める者がその富によって自らを讃える理由もないことになります。

富が濫用されるとき、悪を防ぐのは法律や奢侈(シャシ)禁止令ではありません。法律は一時的に外見だけを変化させることができますが、心を変えることはできません。そのため、そうした法律はつかの間しか持続せず、いつもその後には手に負えぬ反動が訪れるのです。

悪の根源はエゴイズムと自尊心の中に存在します。いかなる種類の濫用も、人類が慈善の法によって支配された時、なくなることになるのです。 






   霊たちからの指導
   
真なる財産
九、 人間は、この世から持ち出せるように与えられたものだけを、本当の財産として所有しています。地球に到着した時に手に入れ、離れる時に置いていくものは、この世にいる間にだけ享受することができます。

ですから、全ての放棄を強いられるのであれば、その富は、実際に所有しているのではなく、単に使有権だけを得ているのだということになります。では、人間は何を所有しているのでしょうか。肉体を使うことによるものは、何も所有していないのです。

魂を使うことによるもの、すなわち、知性、知識、道徳的な性質は、全て所有しています。それらは人間が地球に来るときに持参し、また持ち帰るもので、誰にもそれを奪い取ることが出来ないものであり、この世においてよりも、別の世界において、より有用となるものなのです。

この世から旅立つ時に、到着した時よりも豊かになっているかどうかは、その人自身にかかっています、したがって、善においてその人が獲得したものが、その人の将来の位置をもたらすことになります。

誰でも遠い国へ旅立つときには、行く先の国で役に立つものを荷物としてまとめます。

そこで役に立たないと思われるもののことは気に掛けません。未来の人生に対しても同じように進んでください。そこであなたたちに役に立つものだけを蓄えておいてください。

 宿に到着した旅人に、代金が払えるのであれば、良い宿が与えられます。ケチな蓄えしかない者には、あまり快適でない宿が与えられます。自分のものとして何も持たない者は、粗末な寝台に寝なければなりません。霊の世界に辿りついた人間にも同じことが起こります。

どこへ行くかはその人の持ち物によります。しかし支払いは金でするのではありません。「地球ではどれだけ持っていたか」「どんな地位にあったのか」「あなたは王子でしたか、それとも労働者でしたか」などとは誰も尋ねません。「あなたは何をもってきましたか」。このように尋ねられるでしょう。

財産や、地位によってではなく、持ちあわせている美徳の合計によってあなたを評価するのです。この点に置いて、労働者の方が王子よりも豊かであることもあり得ます。

地球を離れる前にどれだけの重さの金を別の世界への入場料として払ったかを申し立てても無駄です。そうした人はこう返されるでしょう。

「この場所は買うことはできません。善の実践により獲得できるのです。地上のお金で、あなたは農場や家や城を買うことができました。ここでは、すべてを魂の質によって支払うのです。あなたはそうした質において豊かですか。そうであるならば、あらゆる幸福が待っている第一級の場所へ迎えられます。

そうした質に置いて乏しいのですか。それなら最低の場所へ行って下さい。ここではあなたたちの所有しているものに応じてあつかわれます」。(パスカル ジュネーヴ、1860年) 


十、地上の財は神に属し、神はその望みに応じて分配します。人間はその利用権を与えられているに過ぎず、知性によってほぼ完全な形でその管理を行うことができます。

しかし、それは人間の固有の財産ではないため、神はしばしばすべての予見を取り消すことがあり、富はそれを所有するに最もふさわしい地位にあると信じる者からも逃げて行くことになります。

 あなたたちは、相続される財産に関してこのようなことが起こるのは理解できるが、労働によって得られた財産についてはそうなることは理解しがたい、と恐らく言うでしょう。

疑いようもなく、正当な財産が存在するとすれば、それは正しく得られたこの後者の方であり、入手する時に誰にも損害を与えず、誠実に得られた場合にのみ財産が正当に得られたと考えることができます。

不当に得られたお金、つまり他人の損害のもとに得られたものに対しては、最後の一銭に対してもその精算が求められることになります。しかし、ある人の財産が、所有する人自身の努力によるものであったという事実は、その人が他界する時に何らかの利益をもたらすでしょうか。

財産を子孫に残そうとその人が苦心したところで、多くの場合それは無駄なことではないでしょうか。

もし神が、彼らの手にわたしたいとまったく望まないのであれば、何事もそれにあらがうことはできないのです。精算の必要なしに人間は、生きている間その所有物を利用し、濫用することが出来るでしょうか。いいえ、できません。その所有を許すことによって、恐らく神はその人生の間の努力、勇気、勤勉さに対して報おうとしたのです。

しかし、もしその人が自分自身の自尊心と欲求を満足させるためにそれを用いたとしたなら、そして、もしそうした所有物が破産の原因となるのであれば、それらのものは所有しないほうが良いのであり、一方で得たものを他方で失い、働きの功労を打ち消してしまうことになります。

地上を後にする時、神はその人に対して、もう報酬は受け取っているのだということになるのです。 (守護霊M ブリュッセル、1861年)


 富の使い方
十一、富と神の両方に仕えることはできません。心を黄金への愛に支配されてしまったあなたたちは、このことをよく覚えていてください。

 あなたたちは、財宝が、他の人々よりも優位に立たせ、あなたたちを束縛する欲求を満たしてくれるからと言って、あなたたちはそれを得るために魂を売ってしまいます。それではいけません。富と神の両方に仕えることはできません。

もしあなたの魂が肉体の欲に支配されていると感じるのであれば、あなたたちを締め付けるくびきを急いで取り去りなさい。なぜなら、正義である厳しい神はこう言うからです。

「不誠実なしもべよ、私があなたに託した財産をどうしましたか。善行の為のこの強力な動力をあなたは自己の満足のためにだけ用いました」と。

 では富の最良の利用とはどのようなことでしょうか。その答えを次の言葉の中に探し求めてください。

「お互いに愛し合いなさい」。この言葉の中には、富の正しい利用の秘訣が込められています。隣人愛によって行動する者が辿るべき道が、そこにはすべて示されています。神を最も喜ばせる富の利用は、慈善の中に存在します。

もちろん、有り余る黄金を周りにばらまくことによって行われる、冷たく利己的な慈善のことを私は言っているのではありません。不幸を探し出して、はずかしめることなくそれを立ち直らせる、愛に溢れた慈善のことを言っているのです。富める者よ、あなたの余しているものを与えて下さい。

そしてそれ以上のことをしてください。あなたにとって必要なもののうちの少しを与えて下さい。なぜなら、あなたが必要と思っているものも、現実には過分なものでしかないからです。しかし、知恵を用いて与えて下さい。

騙されるのではないかと心配して、不満を訴える者を拒否してはなりません。悪の根源を突き止めてください。まず苦しみを和らげてあげてください。その次に状況を知り、仕事、助言、愛情があなたの与えるお金よりも役に立つのではないかと考えてみて下さい。

あなたの周りに、物質的な救済と共に神への愛、労働への愛、隣人への愛を広めてください。尽きることなく、またあなたに大きな利益をもたらすことになる善行と言う基盤の上に、あなたの富を投じてください。知性的な富も、金銭的な富と同じように用いなければなりません。

教えの宝をあなたの周りに広めてください。あなたたちの兄弟にあなたたちの愛の宝をふりまけば、それらは実を結ぶことになるでしょう。(シェウ“ェルス ボルドー 1861年)


十二、人生の短さについて考える時、あなたたちにとって、絶えることのない心配は物質的な豊かさであり、道徳的完成には重きを置かず、その方が永遠に重要であるにもかかわらず、それに対してはほとんど時間を割かないか、もしくはまったく従事することがないのを見ると、私は心が痛みます。 

自分たちの行っている活動を前に、それらが人類の最も大切な利益を扱っているのだと言われるでしょうが、たいていそれらは、行き過ぎたあなたたちの必要性や虚栄心を満足させる状況に自分たちを置こうとしているか、不品行に身を任せているに過ぎません。

苦しみや悩み、不幸をどれほど一人一人が自分自身に強いていることでしょうか。多くの場合、十分すぎる財産をさらに増やそうと、眠れない夜を幾晩も過ごしているのです。

無知の積み重ねの中には働きがもたらす富と快楽に対する過度の執着によって苦しい仕事の奴隷と化してしまっていながらも、犠牲と功労の大きい人生を過ごしているのだ──自分のためにではなく、あたかも他人のために働いているかのように──とうぬぼれてしまっている人をたびたび目にします。

なんと気の狂っていることでしょうか。あなたたちの未来や、社会的な便宜を有する者すべてに課せられる兄弟愛の義務を無視しておきながら、エゴイズム、貪欲、自尊心によって生まれた手間と努力が認められるとあなたたちは本当に信じるのですか。

あなたたちは肉体のことしか考えていないのです。あなたの快適な生活、快楽だけがあなたたちの利己的な配慮の対象だったのです。いずれ死ぬ肉体によって、永遠に生きるあなたたちの霊を軽んじたのです。だからこそ、この活発で愛される主があなたたちの君主となったのです。

その主はあなたたちの霊に命令し、その奴隷としてしまうのです。神があなたたちに任せてくれた人生の目的とはこう言うことであったのでしょうか。(ある守護霊 クラクフ 1861年)


十三、人間は、神が手渡す富の管理者であり受託者であるがゆえに、自由意思によって決めたその富の使い方については厳しく精算が行われます。悪用は、個人的な満足なのためにばかり使用したことからなります。

反対に、あらゆる使い方において他人の役に立つ結果を生む場合には、善い使い方であると言えます。

一人一人の功績は、自分自身に強いる犠牲の割合によります。善行は富の使い方の一つでしかありません。富は今日の貧困を緩和します。飢えを和らげ、寒さから守り、避難所の無い者にはそれを与えます。しかし、貧困を未然に防ぐという義務も、与えることと同様に不可欠で価値があることです。

それが特に大きな富の使命であり、富が創り出すあらゆる種類の仕事を通じて、その使命は達成されます。このように富を使った者が創り出した仕事から正当な利益を得るからと言って、もたらされる善が消失してしまうわけではありません。

というのも、仕事は、人間の知性を発展させ威厳を高めるとともに、生きる手段として自分で稼いでいるのだということを、誇りをもって言うことを可能にしてくれるからです。

施し物を受け取ることは人間をはずかしめ、いやしくさせることになります。一人の手もとに集中した富は、それを負う者に快適さと豊かさを広める生きた水とならなければならないのです。おお、富めるあなたたちよ。主の視点に従って富を使って下さい。

あなたたちの心は、その有益な泉に癒される最初の者となるのです。この人生のうちに、心の中に空しさをもたらす利己的な物質的な快楽の代わりに、得も言えぬ魂の喜びを享受することが出来るでしょう。

あなたたちの名は地上で祝福され、地上を後にする時、至上の主は、タラントのたとえ話のようにあなたたちに言います。

「良き忠実なしもべよ、主人の喜びをともに分かち合うがよい」。このたとえ話の中で預けられたお金を地中に埋めた使いは、自分の手中で富を何の役にも立たせずに保管する貪欲な人々のことを表しています。

しかし、イエスが施しもののことをおもに言うのは、イエスが住んでいた当時のその国では、富が職業や産業が後に生んだ労働や一般的なために為に、有益に運用されることができる、ということがまだ知られていなかったからなのです。

よって、多かれ少なかれ、与えることができる者に対して私は言います。必要な時には施しものを与えなさい。しかし、可能な限り、それを受け取る者が恥じることがないように、それを報酬に変えてください。(フェヌロン アルジェ1860年)



  地上の財産への執着心を捨てること
十四、 友よ、あなたたちがすでに入った完成への道を、安心して前進するのを助けるために、私の施しものを持って参りました。私たちはお互いに恩を被っています。霊たちと生きる者たちとが誠実に同胞的に結びつくことによってのみ、更生は可能となるのです。

 地上の財産に対する愛着は、あなたたちの霊的、道徳的進歩の最も大きな妨げとなっています。そうした財産を所有することへの執着は、あなたたちの愛する能力を物質的なものに注ぐことで破壊してしまいます。誠実であってください。

財産は混ざり気のない幸せをもたらしてくれるでしょうか。あなたたちの金庫が一杯の時、いつも心の中には空洞が存在しませんか。この花の篭の底には何時も蛇が隠れていませんか。

あなたたちが感じる正当な満足感、すなわち敬われるべき勤勉な労働を通じて人間が体験するものについては理解することができます。

しかし、神が認めたこの極めて自然な満足感と、他の感情を吸収し、心の衝動を麻痺させてしまう執着心との間には大きな隔たりがあります。

又行き過ぎた道楽と卑しい貪欲さの間にも同様な隔たりがあり、神はこれら二つの悪癖の間に、貧しい者が卑屈になることなく受け取れるように、富める者が見せびらかすことなく与えることを教える、聖なる健全な美徳である慈善を位置付けたのです。
℘295   
 あなたの財産があなたの家族から受けたものであれ、あなたの労働によって得たものであれ、決して、忘れてはならないことが一つあります。全てが神より生じているということです。

あなたのささやかな肉体でさえ、地上であなたに属するものは何もありません。その他の物質的な財産と同様に、死はあなたたちからそれを奪います。あなたたちは所有者ではなく、受託者なのですから、錯覚してはなりません。

神はそれらをあなたたちに貸し与えたのであり、あなたたちはそれを返還しなければならないのです。神は少なくとも、余剰なものが必要なものを欠く人たちの手にわたることを条件に貸し与えるのです。

 あなたたちの友達が、ある金額を貸してくれるとします。あなたはどんなに正直でなかったにせよ、それをきちんと返そうとし、その人について感謝するでしょう。よいでしょうか。豊かな人は皆こうした条件が当てはまります。

神は、富を貸してくれた天にある友達であり、神は、富める者が自分の富についてきちんと認識し、神を愛する心を持つこと以外には、何も望んでいないのです。しかし、その代りにその人と同様に自分の子である貧しい者たちに与えることを、富める者たちに求めるのです。

 神があなたたちに信託した財産を手にすると、あなたたちのうちに熱く狂った欲が目覚めます。あなたたち自身がそうであるように、一時的で消滅する運命にある財産に節度無く執着するのを止め、いつの日か神より与えられたものに対して、主と精算を行わなければならないということを考えたことがありますか。

富によってあなたたちは、知性的な富の分配人と言われるように、地球上における慈善の神聖なる役割を身に付けたのだということを忘れたのですか。

ですから、あなたたちに信託されたものをあなたたちの利益のためだけに用いるのであれば、あなたたちは不忠実な受託者以外の何であると言えるでしょうか。あなたたちの義務を自ら忘れてしまうことがもたらす結果はどんなものでしょうか。

無情で容赦のない死は、あなたたちが身を隠すベールを引き裂き、忘れていた友とあなたたちが精算を行うことを強要することになり、そしてその時、その友はあなたたちの前で裁判官の服を身に付けることになるのです。

 地球上であなたたちは、しばしばエゴにしか過ぎないものを美徳の名によって彩り、自分たちを無駄にあざむこうとしています。貪欲やケチにしかすぎないものを経済性や用心と呼び、自分たちのための浪費にしか過ぎないものを寛大さだと呼びます。

例えばある家族の父親は、慈善を行わずにお金を節約し、貯めることを、子供たちが貧困に陥ることがないように出来る限り多くの財産を残すためだというでしょう。それは全く正当で父親らしいことであり、誰にも非難すべきことではないと認めます。

しかし、それが本当に彼の従う唯一の動機でしょうか。多くの場合、それは、地上の財産への個人的な執着を自分の目と世間の目の前で正当化するための、自分の良心との約束であるのではないでしょうか。

しかしながら、取りあえずは父性愛がその唯一の動機であると認めましょう。ではそのことは、神の前に兄弟たちのことを忘れる理由として十分なものでしょうか。すでに余剰がある時、その余剰が少し少なく与えられたからと言って、子供たちが貧困に陥ることになるでしょうか。

その前に、子供たちにエゴイズムを教え、その心を堅くさせてしまうことになりませんか。彼らの中の隣人愛を衰弱させてしまうことになりませんか。

父親たち、そして母親たちよ、その方法によってあなたたちが子供たちから最大の愛情を獲得できると信じているのであれば、あなたたちは大きく誤っています。他人に対して利己的であることを子供たちに教えることは、彼らに、あなたたち自身に対してもそうあれと教えていることになるのです。

 多く働き、その汗によって財産を蓄えた人が、金は稼ぐほどにその価値を知る、と言うのはごく一般的なことです。それほど正確な言葉もありません。

それならばお金の価値を知っているという人は、可能な範囲の中で慈善を行って下さい。そうすれば、豊かさの中に生まれ、労働から来る荒々しい疲労を感じない人々よりも大きな価値があることになります。

しかしまた、自分の苦労や努力を覚えているその人が、利己的で、貧しい者に対して慈悲心を持たないのであれば、他の人たちよりも責任は重いことになります。と言うのも、貧困に隠された痛みを自分で知っていればいるほど、他人を助けようと感じなければならないからです。
℘297  
 不幸にも、豊かな財産を所有する人々の心の中には、その財産への執着心と同じくらいに強い、ある感情が存在します。それは自尊心です。成り上がり者が自分の仕事と能力の話に酔いしれ、哀れな者が助けを求めると、助ける代わりに「私がやったようにやればよいのだ」というのを目にするのは珍しいことではありません。

彼らの見方からすれば、蓄えることのできた富の所有と神の善意とは全く関係ないことなのです。それを所有する功労は彼だけに属すると考えています。

自尊心が彼の目を覆い、耳をふさいでしまうのです。彼の大した知性と能力にも関わらず、神はたった一言によって彼を地面に倒すことが出来るのだということを理解できないのです。

 財産を浪費することが地上の財産への執着心を捨てたことを示すのではありません。それは不注意と無関心です。これらの財産の受託者である人間は、それらを乱費する権利も、自分の利益のために取り上げる権利も有していません。浪費は寛大さではありません。

それはしばしばエゴイズムの一種なのです。自由にすることの出来る金を、幻想を満足させるために派手に費やす者は、雑務に対しては一銭も支払わないことでしょう。

地上の財産への執着心を捨てるということは、その財産を正しい価値において評価し、自分のためばかりではなく、他人のためにそれを振る舞うことを知り、未来の人生における利益を犠牲にすることなく、例え神がそれを奪うことを決めたとしても、不平を言うことなくそれを失うことが出来るということです。

もし、予見できない不慮の出来事によって、あなたたちがヨブのようになった時には、彼のように、「主よ、あなたは私に与えられ、私から奪われました。あなたの意のままにされてください」と言うべきなのです。それが本当に執着心を捨てるということです。

何よりもまず従順であってください。あなたたちに与え、あなたたちから奪った神を信頼してください。神はあなたたちから奪ったものを再び戻してくれるでしょう。

あなたたちの力を麻痺させる落胆と絶望に勇ましく抵抗してください。神は一撃を響かせるとき、最も激しい試練の横にいつも慰安を与えるのだということを決して忘れてはなりません。

そしてとりわけ、地上の財産よりも無限に貴重な財産が存在するのだということを熟考してください。その考えは、地上の財産への執着心を捨てる上であなたたちを助けてくれます。あるものに対する評価を低くするほど、それを失った時の喪失感は少なくなります。

地上の財産にしがみつく人は、その時ばかりしか目に入らない子供のようです。それから解放されることのできる人は、救世主の次の預言を理解することによって、より大切な事が見える大人のようです。

「私の国はこの世のものではありません」。

 主は、誰もが、所有するものを捨てて、自ら物乞いになれとは命令しません。なぜなら、もしそのようにすれば社会の負担になってしまうからです。そのように行う者は、地上の財産に対する執着心を捨てるということを誤って理解していることになります。

それはまた別の類のエゴイズムであり、なぜなら財産を所有する者に重くかかる責任からその人は免れるということになるからです。

神は財産を、みなの利益のために管理するに適していると思われる者に与えます。ですから裕福な者には使命があり、それを美化し自分の為に役立たせることが出来るのです。神が信託する財産を拒否することは、分別を持ってそれを管理することによってもたらされる善の恩恵を放棄することです。

それを所有しない時には断念することを知り、それを所有する時には有益に利用することを知り、必要な時には犠牲を払うことを知ることによって、その人は主の意向に沿って進むことができます。

ですから、自分たちの手元にこの世で大きな富と呼ばれるものがもたらされた人は次のように唱えてください。「神よ、あなたは私に新しい役割を与えられました。その役割を果たすための力を、あなたの神聖なる意志に沿ってお与えください」。

 友よ、ここに私が教えたかった地上の財産への執着心を捨てることの意味が存在します。私が説いたことを要約して次のように申し上げます。
℘299  
「少ないもので満足することを覚えてください」。もしあなたが貧しいのであっても、財産は幸福には必要ないものなのですから富める者を羨ましがってはなりません。もしあなたが裕福であるならば、あなたたちが自由にできる財産とはあなたたちに預けられたものに過ぎず、弁護人のように、その用途について証明し弁明しなければならないことを忘れないでください。

あなたたちの自尊心と享楽を満足させる為だけにそれを使うことで、不誠実な受託者になってしまわないようにしてください。

受け取ったものをあなたたちの独占的な利益のために自由に扱うことのできる権利なのだとも、寄贈されたものだとも判断してはならず、それが単に貸与なのであると考えてください。

それを返還することができないのであれば、あなたはそれを求める権利も持っておらず、また、貧しい者に与える人は神から受けた負債を精算しているのだということを覚えておいてください。 (ラコルデ-ル コンスタンティーヌ、1863年)


 財産の相続
十五、人間が、生きている間にのみ享受することを神によって許された財産の単なる受託者に過ぎないという原理は、財産をその子孫に相続させる権利を人間から奪うことになりませんか。


 人間が死別する時、生きている間に享受出来た財産を、完全に相続させることはまったく問題のないことです。なぜなら、この権利の結果も常に神の意志に従うものであり、神が望めば、相続を受けた財産を子孫たちが享受することを妨げることも出来るからです。

確実に形成されたかに見える財産が崩壊するのは、まさにそのようなことが原因なのです。すなわち、人間の意志は、子孫に相続された財産の所有を守るところにまでは及ばないのです。

しかし、だからと言って、神から受けた借り入れを子孫に譲る権利を人は失うわけではありません。なぜなら、神は好機であると判断した時には、その財産を奪うことが出来るからです。(聖ルイ パリ、1860年)


FEB版注1
・・・この強いたとえの表現は多少強引であるようにも思えます。と言うのも、ラクダと針との間にどのような関係があるのか理解することが出来ないからです。実は、ヘブライ語のラクダという言葉は、綱(ロープ)と言う意味にも使われるのです。翻訳では、最初の意味で訳してしまっているわけですが、イエスは別の意味でこの言葉を用いたことが考えられます。少なくともその方が自然です。・・・

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック



第14章 あなたたちの父母を敬いなさい

一、あなたたちは戒めを知っています。姦淫をしてはなりません。殺してはなりません。盗んではなりません。偽証をしてはなりません。誰をもあざむいてはなりません。あなたたちの父母を敬いなさい。(マルコ 第十章 19、ルカ 第十八章 20、マタイ 第十九章 18-19)


二、主であるあなたたちの神が、あなたたちに地上で生きるための長い時間を与えてくれるよう、あなたたちの父母を敬いなさい。(十戒 出エジプト 第二十章 十二)


 孝心
三、 自分の父親と母親を愛することが出来ない人には、隣人を愛することができないことから、「あなたたちの父母を敬いなさい」という戒めは、慈善と隣人愛の一般的な法から導き出すことができます。

しかし「敬いなさい」という表現は、父母に対して更に負う義務、すなわち、孝心を含んでいます。

神はこのように顕すことで、両親に対する愛には彼らに対して守らねばならない義務である敬意、注意、服従、寛大さなどが伴わねばならないことを示し、それは、隣人に対して一般に求められる慈善のすべてよりも、さらに厳しく守らなければならないことなのです。

この義務は当然、父親や母親に代わる人に対してもあてはまりますが、献身の義務が少なければ少ないほどその功労も大きいのです。この戒律を守れない者を、神はいつも厳しく罰します。

「あなたたちの父母を敬いなさい」という言葉は、単に尊敬しなさいということからなるのではありません。彼らが必要とする時には、彼らの介護をしなければなりません。

彼らが年老いた時、彼らが静養できるようにしてあげなければなりません。私たちが幼かった頃、彼らが私たちにしてくれたように、彼らを優しく囲んであげなければなりません。

 特に、何も持たない父母に対してそうすることは、真なる孝心を表しています。自分たちに必要なものをなに一つ失うことなく、両親が飢え死にすることだけはないようにと必要最低限のことだけを行い、また、自分たちには最高のものや、最も心地良いものを残しておき、両親については道に放置しないまでも、家の最も居心地の悪いところに追いやりながら、自分たちは偉大なことを行っていると考えている人々は、この戒律を守っていることになるでしょうか。

嫌々ながらそれを行ったり、両親に家事を行うことの重圧を負わせ、残された人生の代償を高く支払わせたりしないのであればまだましです。年老いた親たちが、若くて強い子供たちのために、仕えなければならないというのでしょうか。

子供たちに母乳を与えてくれていた時、母親はその母乳を子供たちに売ろうとしたでしょうか。子供たちが病気だった時夜通し看病したことや、必要なものを手に入れようとして歩いた道のりを、母親は果たして数えていたでしょうか。

子供たちは、貧しい両親に対して最低限必要なものだけではなく、可能な範囲の中で、ちょっとした小さな気遣いや、愛情のこもった介護の義務を負っているのであり、それらは子供たちがすでに受け取った神聖なる借金の金利を支払うことにしか相当しないのです。

こうした孝心だけが神を喜ばすことになります。弱かった時に自分を守ってくれた人たちに、自分が何を負って居るのかを忘れてしまう人は哀れです。

彼らは子供たちの安らかな生活を確保するために何度も厳しい犠牲を払い、子供たちに物質的な生活を与えながら道徳的な生活をも与えたのです。恩知らずな者たちは哀れです。

そのような者たちはやがて、恩知らずと放棄によって罰せられます。彼らは、最も大切な愛情によって傷つけられることになりますが、それは時として現世のうちに起こり、そうでなければ別の人生において必ず、人に対して行ったのと同じことで苦しむことになります。

 中には義務を無視し、子供たちに対してあるべき姿を持たない父母がいることも確かです。しかし、そうした親を罰するのは神の義務であり、その子供たちの役割ではありません。子供たちはこうした親たちを非難する権限はないのです。なぜなら、その子供たちは恐らくそのような親を持つに価したからなのです。

慈善の法が、悪を善によって返すことや、他人の不完全性に対して寛大であること、隣人の悪口を言わないこと、他人の侮辱を赦し忘れること、敵をも愛することを命じているのであれば、子供にとって、これらの義務を親との関係において果たすことが、どれだけ重要なことであるか判ります。
℘258    
したがって、子供たちは自分たちの親に対する品行の中で、隣人との関係についてイエスが教えたことの全てを規則として取り入れ、他人との関係で非難される行動は、両親との関係においては更に大きな非難を受けることになるということを、いつも覚えておかなければなりません。

そして前者との関係においては、単なる過ちに過ぎないことが、後者との関係においては、罪と考えられることがあるということを覚えておかなければなりません。なぜなら後者の場合においては、慈善の欠如ばかりか、忘恩が加わるからです。



四、「主であるあなたたちの神が、あなたたちに地上で生きるための長い時間を与えてくれるよう、あなたたちの父母を敬いなさい」と神は言いました。

なぜこの言葉は天の生活ではなく、地上での生活を報酬として約束しているのでしょうか。その説明は次の言葉に見ることができます。

「主であるあなたたちの神が与えてくれる」と言う言葉は、現代の十戒の形式からは除かれていますが、こうした言葉が特別な意味を与えているのです。言葉を理解するには当時のヘブライ人たちの考え方や状況について言及しなければなりません。

彼らはいまだ死後の世界について知ることは無く、その視野は肉体を持った人生を超えるものではありませんでした。従って目で見えないものよりも、目で見えるものによって印象付けられる必要があったのです。

そこで神は、子供たちに話しかけるように、彼らの理解の届く言葉によって、彼らを満足させることができるもので期待を持たせたのです。ヘブライ人たちは砂漠に住んでいました。神が彼らに与えるのは、約束された土地、それは彼らの熱望するものでした。

彼らはそれ以外の物は何も望んでいなかったのです。神は、彼らがもし戒律を守るのであれば、その地で彼らが長く生きるであろう、つまり、その土地を長い間所有するであろうと、言ったのです。

 しかし、キリストの出現の時代を確かめると、彼らはその考え方より発展させていたことが分かります。より物質的でない糧を取るべき時代が到来すると、イエス自身が彼らに対し、「私の国はこの世のものではありません」と言いながら、霊的人生について教え始めます。

℘259       
「地上ではなく、向こう側で、あなたたちは善行の報酬を受けることになるのです」。これらの言葉によって、約束された土地は物質的な土地ではなくなり、天の母国となるのです。

こうした理由によって、「あなたたちの父母を敬いなさい」と言う戒めを守ることが呼び掛けられる時、彼らに地上の土地が約束されるのではなく、天が約束されるのです。(→第二章、第三章)


 誰が私の母親で、誰が私の兄弟なのでしょうか
五、 そしてイエスが家へ戻られると、そこには大勢の人々が集まっており、食事をとることもできなかった。そのことを知ると、身内の者たちはイエスを取り押さえに出て来た、気が狂ったと思ったからである。

 しかし、母親と兄弟たちが外で待っているのを見ると、人々はイエスを呼ぶように言った。するとイエスの周りに座っていた人々はイエスに言った、「あなたのお母さんと兄弟たちがあなたを外で呼んでいます」。イエスは答えて言われた。

「誰が私の母親で、誰が私の兄弟なのでしょうか」。そして自分の周りに座っていた人たちを見回すと、「ここに私の母親と兄弟がいます。神の意志によって行う者はみな、私の兄弟、姉妹、そして母親なのです」と言われた。(マルコ 第三章 20,21、 31-35 マタイ第十二章 46-50)

 
六、イエスの善意とあらゆる人に対する普遍の慈悲心からすると、イエスの言葉の幾つかは一見、風変わりに聞こえます。不信心な者はそうした部分を取り上げ、イエスが矛盾していると言って攻撃するための武器とします。

しかしイエスの教義には原則として、その基盤に愛と慈悲の法があることを否定することはできません。イエスが一方で築いたものを、もう一方で崩しているとは考えられません。

ゆえに結果として、まさに次のことが言えます。もしイエスの言ったあることが基本原則と矛盾しているのであれば、伝えられた言葉が正しく再生されなかったか、正しく理解されなかったか、もしくはそれらの言葉はイエスのものではないことになります。


七、この場面では、驚くことに、イエスの親戚に対する無関心が見受けられ、ある意味で母親を裏切ったようにとらえることができます。

 イエスの兄弟については、彼らはあまりイエスを好んでいませんでした。進歩の遅れた霊たちであり、イエスの任務を理解することができませんでした。イエスを変わり者と考え、イエスの行動や教えは彼らの心を動かすことは無く、誰一人イエスの使途として従う者はいませんでした。

それでも、イエスの敵から彼らもある程度は警戒されていたと言われています。そして、実際にはイエスが家族の前に現れると、彼らはイエスを兄弟としてと言うよりも変わり者として扱いました。

ヨハネははっきりと、「彼らはイエスを信じていなかった(→ヨハネ 第七章 五)」と記しています。 

 母親に関して、イエスに対するその優しさを誰も否定することはないでしょう。しかしながら、彼女も息子の任務について正確に理解していなかったことを知るべきで、彼女はイエスの教えを守ることは無く、パブテスマのヨハネのようにイエスの証人となることはありませんでした。

 彼女の中で勝っていたのは母親としての気遣いだったのです。イエスが母親を裏切ったと見るのは、イエスのことを知らない者の見方です。「父母を敬いなさい」と教えた者の考えの中に、母親への裏切りが隠されている筈がありません。

したがって、たとえ話の形をほとんどいつもとることによって、ベールに隠されたイエスの言葉が持つ、本来の意味を求めることが必要です。

 イエスはどんな機会をも無駄にすることなく教えを説きました。そこで家族が到着したのを見て、肉体的な親族と霊的な親族との違いについてはっきりと示すためにその機会を利用したのです。

℘261                
 肉体的な親族と霊的な親族
八、血液のつながりは必ずしも霊的なつながりを生むわけではありません。肉体は肉体より生じますが、霊は霊から生まれるのではなく、霊は肉体の形成以前から既に存在しているのです。

父親が息子の霊を創造するのではありません。父親は息子のために肉体的な被いを用意したに過ぎませんが、そのことが息子の進歩のための知的・道徳的発展を補助する役割を果たしているのです。

 一つの家族に生まれてくる者たち、特に近い親族として生まれる者たちは、多くの場合、過去の人生での関係から結びついている好意的な霊たちであり、地上における人生で、お互いにその愛情を表します。

しかし、その霊たちが、前世でお互いの反感によって引き離された霊たちで、お互いにまったく馴染まない者同士であることから、地上ではそれをお互いの敵意として表すこともあり、その場合、その人生はその霊にとって試練となります。

家族の真なる絆とは、血液の絆ではなく、観念の共有や共感によって結ばれる絆であって、その絆は生れる以前、生きている間、そして死後にも霊たちを結びつけます。違った両親を持つ二人が、血のつながる兄弟以上に結びつきの強い霊的な兄弟であり得ます。

このようなことから、霊的絆で結ばれた兄弟はお互いに引かれ、求め合うことになり、一方で、私たちが日々目にすることが出来るように、血縁のある兄弟同士が拒絶し合うことがあるのです。

そこには道徳的な問題が存在するのですが、それを、スピリティズムだけが存在の複数性の理解によって説明することが出来るのです。(→第四章 13)

 すなわち家族には二種類あります。霊的な絆で結ばれた家族と、肉体的な絆で結ばれた家族です。前者の方が継続性があり、霊の浄化によってより絆が強まり、魂のさまざまな移住を通じて霊界で永続します。

後者の絆は物質と同じように時間が立つと消滅し、多くの場合、道徳的には現世中に消えてしまいます。これらのことをイエスは理解し易いように伝えるため、使徒たちに、ここに私の母親と兄弟がいます。

つまり私の霊的絆によって結ばれた家族であると言い、神の意志によって行う者はみな、私の兄弟、姉妹、そして母親なのです。と言ったのです。

 血縁のある兄弟たちがイエスに抱いた敵意はマルコの話の中に明確に表わされており、イエスを独占しようとして霊を失ったと言ってきた部分に見られます。彼らの到着が知らされると、イエスは彼らが自分に抱く気持ちを承知の上で、霊的な視点からそのことを使徒たちに述べたのです。

「ここに私の(真なる)母親と兄弟がいます」。イエスの母親は兄弟たちと共にいましたが、イエスは教えを一般的に述べたのであり、決して肉体的絆を持つ母親が霊的な絆を持つ母親と違って無関心の対象となるべきだということを言ったのではないのであって、そのことをイエスは、他のさまざまな場面で十分に証明しています。


 



    霊たちからの指導

恩知らずな子供と家族の絆
九、 忘恩は、エゴイズムから直接的に生み出された結果の一つです。誠実な心は何時もそれに抵抗します。しかし、子供たちの親に対する忘恩は、さらに憎悪のこもったものです。

この視点から特に忘恩について考慮し、原因と結果について分析してみましょう。この場合にも、他の場合がそうであるように、スピリティズムは人間の心が抱く大きな問題の一つに光をあててくれます。

 霊は地上を後にする時、その霊の質的に固有の感情や美徳を持ち合わせて行き、宇宙において完成を遂げたり、光を受けようと望むまでそのまま止まったりします。したがって、多くの霊たちは暴力的な憎悪に溢れ、満たされない反逆の欲望を抱いています。

しかし、彼らの一部は、他の一部よりも進歩しており、真実の一片を垣間見ることになります。

すると、憎悪に溢れた感情がもたらす不幸な結果を味わうことになり、善き決意をしようと言う気持ちを抱くことになります。神のもとへ辿りつくには、慈善というたった一つの合い言葉しかありません。

しかし、侮辱や不正の忘却なき慈善は存在しません。赦しなき慈善も、憎悪に満ちた心による慈善も存在し得ません。

 すると、そうした霊たちは今までにしたことのないような努力によって、それまで地上で誰を憎んでいたのかを見ることができるようになります。しかし、憎んだ相手を見ると、彼らの心に中には恨みがこみ上げてきます。

赦したり、自分自身を犠牲にしたり、彼らの財産、家族、もしくは名誉を破壊した相手を愛すると言った観念に抵抗します。しかし、不幸な彼らの心は動揺します。

彼らは躊躇し、ためらい、相反する感情によって気持ちが乱されます。その試練の最も決定的な時に、善の決意が優勢であれば、彼らは神に祈り、善霊たちが彼らに力を授けてくれるように懇願することになります。

 結果的には、何年もの瞑想と祈りの後に、その霊は自分が嫌った者の家族の一員の肉体を利用することになります。新たに生まれようとする肉体の運命を自ら満たしに行けるよう、上位からの命令を伝える霊たちに許可を求めます。選ばれた家族の中で、その霊の行いはどうなるでしょうか。

それはその霊の善き決意に強く固執するかどうかにかかっているのです。かつて憎んだ相手と常に接触することは恐ろしい試練であり、いまだ十分に強い意志をもっていなければ、そこで挫折してしまうことも珍しくありません。

この様に善き決意を持ち続けるかどうかによって、ともすれば、共に生きるように招かれた相手の友達までもが敵になってしまうことがあるのです。ある子供たちに見られる、理解しがたい本能的な反発や憎悪は、この様にして説明することが出来るのです。

その時の人生の中に、そのような反感を実際に生む原因となるようなことは何も起きていません。その原因を知るには、私たちの目を過去の人生へ向ける必要があるのです。

 ああ、スピリティストたちよ、人類のもつ大きな役割を理解しなければいけません。肉体が創られるとき、その中に宿る魂は進歩するために宇宙からやってくるのです。あなたたちの義務についてよく知り、その魂が神に近づくことができるように、あなたたちの全ての愛情を注いでください。

それが神によってあなたたちに任された任務であり、それを忠実に遂げることができればその報酬を受け取ることが出来るのです。その魂にあなたたちが払う注意と与える教育は、その魂の未来での完成と平安を助けることになります。

神はすべての父親にも母親にも、「私があなたに加護を任せた子を、あなたたちはどうしましたか」と尋ねるのだということを覚えておいてください。

もしあなたの責任でその子の進歩が遅れたままであったなら、罰としてその魂を苦しむ霊たちの間に見ることになり、その時、あなたはその魂の幸せの責任を負っていることになります。すると、あなたたちは後悔の念に悩まされ、あなたたちの犯した過ちの謝罪を求めます。

あなたたちのために、そしてその魂のために、再び地上に生まれてその魂をより注意深く見守り、その魂もそのことを認識したうえで、その愛によって返礼することになります。

 だから、母親を拒絶する子供やあなたたちに対して恩知らずな子供を追い出してはなりません。そうしたことやそうした子供があなたに与えられたことは、単なる偶然ではありません。それは過去についての不完全な直感の現れなのであり、そのことから、あなたたちはある過去の人生においてすでに大いに憎んだか、あるいは大いに攻撃されたかのいずれかであると推測することが出来ます。

どちらかが、償うためか、試練の為にやって来たのです。母親たちよ、あなたたちを不愉快にさせる子供を抱きしめ、自分に言って下さい。「私たち二人のどちらかに責任があるのです」と。

神が母性に結び合わせた神聖なる喜びを享受するのに、あなたたちが相応しくなるように、子供たちに、私たちは地上で完成し、愛し合い、祝福されるために生まれてきたのだということを教えてあげてください。

ああ、しかしあなたたちの多くは、過去の人生から引き継いでいる生まれつきの悪の傾向を、教育を通じて摘み取る代わりに、罪深い弱さか、あるいは不注意によってそれらを保ち、大きくしてしまっており、やがてあなたたちの心は子供たちの忘恩で痛めつけられ、それがあなたたちにとって試練の始まりとなるのです。

 任務はあなたたちの目に映るほど難しくはありません。地上の知識は必要としません。無知な者にも知識のある者にも、その役割を果たすことができ、スピリティズムは人類の魂の不完全性の原因について知らしめることにより、その役割の達成に役立ちます。

 小さい時から子供は、前世から持ち越した善または悪の本性の兆候を表します。両親はそれを研究しなければなりません。いかなる悪も、エゴと自尊心からもたらされます。

ですから、両親はそうした悪癖の芽の存在を示す小さな兆候を警戒し、より深く根を張る前に、それらと戦うように注意をしなければなりません。樹木から欠陥となる芽を摘み取る善き庭師のようにしなければなりません。

エゴイズムと自尊心を成長させてしまったのであれば、後になってから忘恩によって報いられても驚いてはなりません。両親が子供の道徳的進歩に応じて、すべてやるべきことを行ったのにもかかわらず、その成果がないのであれば、自分自身を負い目に感じる必要はなく、良心は平静を保つことができます。

そうした時、努力の成果が生まれないことから来るごく自然な苦しみに対して、神は、それが単にその子どもの遅れから来るものであり、今開始された事業は次の人生において完了し、その忘恩の息子はその愛によって償ってくれるのだという確信を与えてくれることによって、偉大な慰安を残してくれているのです(→第十三章 19)。

 神は試練を求める者の能力を超えた試練を与えることはありません。達成することのできる試練がもたらされることしか許しません。もし成功を収めることが出来ないのであれば、それは可能性が不足したからではありません。意欲が欠けていたのです。

悪の傾向に抵抗する代わりに、それらを楽しんでいる人たちのなんと多いことでしょうか。こうした人たちには、後の人生における涙と苦しみが待ち受けているのです。しかし、後悔に対して決して扉を閉ざすことの無い神の善意を賞賛してください。

苦しむことに疲れ、自尊心を捨て去った罪人は、いつの日か足元に身をひれ伏す放蕩息子を迎えようと神は両腕を広げてくれていることに気づくのです。よく聞いてください。

厳しい試練は、神への思いを抱きながら受け止められるのであれば、それはほとんどいつも苦しみの終わりと霊の完成を告げるものなのです。

それは至上の時であり、その時、そうした試練がもたらす成果を失って再びやり直すことを望まないのであれば、その霊は何よりもまず、不平を言うことによって失敗しないようにしなければなりません。

不満を述べる代わりに、あなたたちに与えられた勝つための機会を神に感謝し、神が勝利の褒美をあなたたちの為にとっておいてくれるようにしなければなりません。そうすれば、地上の世界の渦から出て霊の世界に入った時、あなたたちは戦闘から勝利を収めて戻ってきた兵士のように、そこで喝采を受けることになるのです。

 あらゆる試練の中で最も厳しいのは、心に害を及ぼすものです。勇気を持って物質的な損失や貧困に耐える者も、家族の忘恩に傷つけられ、家庭内の苦しみに負けてしまいます。おお、それは何と痛々しい苦しみであることでしょうか。

しかし、そうした時、神の創造物が無期限に苦しむことは神の望むところではないのだから、魂の破壊が長引こうとも永遠の絶望は存在しないのだ、という確信と、悪の原因の認識以外に、なにが有効に道徳的な勇気を立て直してくれるでしょうか。

苦しみの短縮が、悪の原因そのものを破壊するための一つ一つの努力にかかっているのだという考え以上に、力を与え、励ましとなるものがあるでしょうか。

しかし、そのためには、人間はその視線を地球上だけにとどめたり、人生が一度きりだと考えたりしないようにする必要があります。視線を高く上げ、過去と未来の無限へと向けなければなりません。

そうして忍耐強く待てば、神の正義があなたたちに明らかにされます。なぜなら、地上では本当に恐ろしいものとして見えていたものが、解釈可能となるからです。

そこで開いた傷口も、単なるかすり傷であると考えることができるようになります。こうして全体に向けて投げかけられた視線によって、家族の絆の真の姿があなたたちに明らかにされます。

もはやメンバーが単なる壊れやすい物質的な絆で結びついているようには見えなくなり、再生によって破壊されるのではなく、浄化されて行くことによってより固く結びつき、永続していく霊の絆によって結びついているように見えるようになるのです。

 好みの類似性、道徳的進度、集まろうと導く愛情によって、霊たちは家族を形成します。その霊たちは、地上に住む間、グループを形成するために探し合いますが、それは宇宙においてもそうしているのであり、均質でまとまった家族というのはここに起因しているものなのです。

もし、その人生の巡歴の間に一時的には別々になっても、新しい進歩を成し遂げ、後に幸せな再会をすることになります。しかし、自分だけのために働くのではいけないために、進歩のためになる慰めとよき模範を受けることができるように、進歩の遅れた霊が彼らの間に生まれてくることを神は許されるのです。

そうした霊が、時として他の霊たちにとって混乱の種となることがありますが、これがそれらの霊たちにとって試練や遂行せねばならない義務となるのです。

 だから、進歩の遅れた霊たちを兄弟の様に迎え入れてください。助けてあげて下さい。そうすれば、あなたが何人かの遭遇者たちを救済したことを、後に霊界において家族が祝福してくれるでしょうし、また遭難者たちも、自分が救済する立場になった時には他の人を助けることができるでしょう。(聖アウグスティヌス パリ、1862年)

シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch 
 by Stella Storm


まえがき
 
 十二人の出席者が扇形に席を取った。みんなヒソヒソと話を交わしているが、私の目はソファの右端に座っている小柄で身ぎれいな男性に注がれていて、まわりの人たちの話の内容は分からない。

 その眠気を催すような低音の話声だけを耳にしながら、私はその男性が少しづつ変身していく様子をじっと見守っていた。ふだんは実に弁舌さわやかな人間が、そうした取りとめもない雑談から身を引くように物を言わなくなっていった。

 やがて黒縁の眼鏡と腕時計をはずし、頭を下げ、両目をこすってから、その手を両膝の間で組んだ。顎が、居眠りをしているみたいに腕のところに来ている。

 それから二、三分してから新しい変化を見せ始めた。背をかがめたまま顔を上げた。出席者たちはそんなことにはお構いなしに雑談に耽りながらも、すでに霊媒(ホスト)が肉体を離れていることを感じ取っていた。そして代って主賓(ゲスト)の挨拶の第一声が発せられると同時に、水を打ったように静寂が支配した。

 その霊媒モーリス・バーバネルが肉体を離れ、代わって支配霊のシルバーバーチがその肉体を〝拝借〟して、今われわれの真っ只中にいる。霊媒とは対照的にゆっくりとした、そして幾分しわがれた感じの声で情愛溢れる挨拶をし、いつものように開会の祈りを述べた。

 「神よ、自らに似せて私たちを造り給い、自らの神性の一部を賦与なされし大霊よ。私たちは御身と私たち、そして私たち相互の間に存在する一体関係を一層緊密に、そして強くせんと努力しているところでございます。

 これまでに私たちに得させてくださったものすべて、かたじけなくもお与えくださった叡智のすべて、啓示してくださった無限なる目的への確信のすべてに対して、私たちは感謝の意を表し、同時に、これ以後もさらに大いなる理解力を受けるにふさわしき存在となれるよう導き給わんことを祈るものでございます。

 私たちは、これまであまりに永きに渡って御身をおぼろげに見つめ、御身の本性と意図を見誤り、御身の無限なる機構の中における私たちの位置について誤解しておりました。しかし今ようやく私たちも、御身の永遠の創造活動に参加する測り知れない栄誉を担っていることを知るところとなりました。

その知識へ私たちをお導きくださり、御身について、私たち自身について、そして私たちの置かれている驚異に満ちた宇宙について、いっそう包括的な理解を得させてくださったのは御身の愛に他なりません。

 今や私たちは御身と永遠につながっていること、地上にあっても、あるいは他界後も、御身との霊的な絆が切れることは絶対にないことを理解いたしております。それゆえに私たちは、いかなる時も御身の視界の範囲にあります。

いずこにいても御身の摂理のもとにあります。御身がいつでも私たちにお近づきになられるごとく、私たちもいつでも御身に近づけるのでございます。

 しかし、子等の中には自分が永久に忘れ去られたと思い込んでいる者が大勢おります。その者たちを導き、慰め、心の支えとなり、病を癒し、道案内となる御身の霊的恩寵の運び役となる栄誉を担った者が、これまでに数多くおりました。

 私たちは死のベールを隔てた双方に存在するその先駆者たちの労苦に対し、また数々の障害を克服してくれた人達に対し、そして又、今なお霊力の地上への一層の導入に励んでくださっている同志に対して、深甚なる感謝の意を表明するものでございます。

 どうか私たちの言葉のすべてが常に、これまでに啓示していただいた摂理に適っておりますように。また本日の交霊会によって御身に通じる道を一歩でも前進したことを知ることができますように。
 ここに常に己を役立てることをのみ願うインディアンの祈りを捧げます」


 私(女性)はバーバネル氏のもとで数年間、最初は編集秘書として、今は取材記者(レポーター)として、サイキックニューズ社に勤めている。

 私にとってはその日が多分世界一と言える交霊会への初めての出席だった。英国第一級のジャーナリストだったハンネン・スワッハー氏の私宅で始められたことから氏の他界後もなおハンネン・スワッハー・ホームサークルと呼ばれているが、今ではバーバネル氏の私宅(ロンドンの平屋のアパート)の一室で行われている。

 その日開会直前のバーバネル氏は、チャーチル(元英国首相)と同じようにトレードマークとなってしまった葉巻をくわえて、部屋の片隅で出番を持っていた。一種の代役であるが、珍しい代役ではある。主役を演じるのは北米インディアンの霊シルバーバーチで、今では二つの世界で最も有名な支配霊となっている。

そのシルバーバーチが憑ってくるとバーバネルの表情が一変した。シルバーバーチには古老の賢者の風格がある。一分のスキもなくスーツで身を包んだバーバネルの身体がかすかに震えているようだった。

 そのシルバーバーチとバーバネルとの二つの世界にまたがる連繋関係は、かなりの期間にわたって極秘にされていた。シルバーバーチの霊言が一九三〇年代にはじめてサイキックニューズ誌に掲載された時の英国心霊界に与えた衝撃は大きかった。活字になってもその素朴な流麗さはいささかも失われなかった。

 当初からその霊言の価値を認め、是非活字にして公表すべきであると主張していたのが他ならぬスワッハー氏だった。これほどのものを一握りのホームサークルだけのものにしておくのは勿体ないと言うのだった。

 初めはそれを拒否していたバーバネルも、スワッハー氏の執拗な要請についに条件付きで同意した。彼がサイキックニューズ誌の主筆であることから、〝もし自分がその霊媒であることを打ち明ければ、霊言を掲載するのは私の見栄からだと言う批判を受けかねない〟と言い、〝だから私の名前は出さないことにしたい。

そしてシルバーバーチの霊言はその内容で勝負する〟という条件だった。

 そういう次第で、暫くの間はサークルのメンバーはもとより、招待された人も霊媒がバーバネルであることを絶対に口外しないようにとの要請を受けた。とかくの噂が流れる中にあって、最終的にバーバネル自身が公表に踏み切るまでその秘密が守られたのは立派と言うべきである。

 あるとき私が当初からのメンバーである親友に「霊媒は誰なの?」と密かに聞いてみた。が、彼女は秘密を守りながらも、当時ささやかれていた噂、すなわち霊媒はスワッハーかバーバネルかそれとも奥さんのシルビアだろうという憶測を、否定も肯定もしなかった。

 当時の私にはその中でもバーバネルがシルバーバーチの霊媒としていちばん相応しくないように思えた。確かにバーバネルはスピリチュアリズムに命を賭けているような男だったが、そのジャーナリズム的な性格は霊媒のイメージからは程遠かった。まして温厚な霊の哲人であるシルバーバーチとはそぐわない感じがしていた。

 サイキックニューズとツーワールズの二つの心霊誌の主筆として自らも毎日のように書きまくり、書物も出し、英国中の心霊の集会に顔を出しまわって〝ミスター・スピリチュアリズム〟のニックネームを貰っているほどのバーバネルが、さらにあの最高に親しまれ敬愛されているシルバーバーチの霊媒までしているというのは、私には想像もつかないことだった。

そのイメージからいっても、シルバーバーチは叡智に溢れる指導者であり、バーバネルは闘う反逆児だった。

 今から十年前(一九五九年)、バーバネル自身によるツーワールズ誌上での劇的な打ち開け話を読んだ時のことをよく覚えている。

 〝永い間秘密にされていたことをようやく公表すべき時期が来た。シルバーバーチの霊媒は一体誰なのか。その答えは───実はこの私である〟とバーバネルは書いた。

 「それ見ろ、言った通りだろう!───こうしたセルフがスピリチュアリストの間で渦巻いた。

 シルバーバーチが霊媒の〝第二人格〟でないことの証拠としてあげられるのが、再生説に関して二人が真っ向から対立していた事実である。バーバネルは各地での講演ではこれを頭から否定し、その論理に説得力があったが、交霊会で入神して語り出すと全面的に肯定する説を述べた。が、

バーバネルもその後次第に考えが変わり、晩年には「今では私も人間が例外的な事情のもとで特殊な目的をもって自発的に再生してくることがあることを信じる用意が出来た」と述べていた。

 シルバーバーチの叡智と人間愛の豊かさは尋常一様のものではない。個人を批判したり、けなしたり、咎めたりすることが絶対にない。それに引き換えバーバネルは、自らも認める毒舌家であり、時には癇癪を起すこともある。

交霊会でシルバーバーチの霊言を聞き、他方で私のようにバーバネルと一緒に仕事をしてみれば、二人の個性の違いは歴然としていることが分かる。

 バーバネルは入神前に何の準備も必要としない。一度私が、会場(バーバネルの自宅)へ行く前にここ(サイキックニューズ社の社長室)で少し休まれるなり、精神統一でもなさってはいかがですかと進言したことがあるが、

彼はギリギリの時間まで仕事をしてから、終わるや否や車を飛ばして会場へ駆け込むのだった。交霊会は当時はいつも金曜日の夕刻に開かれていたから、一週間のハードスケジュールが終わった直後と言うことになる。

 私も会場まで車に乗せて頂いたことが何度かある。後部座席に小さくうずくまり、一切話しかけることは避けた。そのドライブの間に彼は、間もなく始まる交霊会の準備をしていたのである。と言っても短い距離である。目かくしをしても運転できそうな距離だった。 

 会場に入り、いつも使用しているイスに腰を下ろすと、はじめて寛いだ様子を見せる。そしてそれでもうシルバーバーチと入れ替わる準備が出来ている。その自然で勿体ぶらない連繋プレーを見ていて私は、職業霊媒が交霊会の始めと終わりに大袈裟にやっている芝居じみた演出と較べずにはいられなかった。

 シルバーバーチが去ることで交霊会が終わりとなるが、バーバネルには疲れた様子は一切見られない。両目をこすり、眼鏡と時計をつけ直し、一杯の水を飲み干す。ややあってから列席者と軽い茶菓をつまみながら談笑にふけるが、シルバーバーチの霊言そのものが話題となることは滅多にない。そういうことになっているのである。

 シルバーバーチを敬愛し、その訓えを守り、それを生活原理としながら、多分地上では会うことの無い世界中のファンのために、シルバーバーチとバーバネル、それにサークルの様子をおおざっぱに紹介してみた。霊言集はすでに八冊が出版され、世界十数か国語に翻訳されている。その世界にまたがる影響力は測り知れないものがある。

 本書はそのシルバーバーチのいつも変わらぬ人生哲学を私なりに検討してみてまとめ上げた、その愛すべき霊の哲人の合成ポートレードである。
                             ステラ・ストーム


  
  一章 シルバーバーチはなぜ戻ってきたか

  《正直言って私は、あなた方の世界に戻るのは気が進みませんでした。地上というのは、いったんその波長の外に出てしまうと、これといって魅力のない世界です。私がいま定住している世界は、あなた方のように物質に閉じ込められている者には理解の及ばないほど透き通り、光り輝く世界です。

 くどいようですが、あなた方の世界は私には魅力ある世界ではありませんでした。しかし、やらねばならない仕事があったのです。しかもその仕事が大変な仕事であることを聞かされました。まず英語を勉強しなければなりませんでした。地上の同志を見つけて、その協力が得られるよう配慮しなくてはなりませんでした。

 それから私の代弁者となるべき霊媒を養成し、さらにその霊媒を通じて語る真理をできるだけ広く普及させるための手段も講じなくてはなりませんでした。しかし同時に、私が精一杯やっておれば上方から援助の手を差し向けるとの保証も得ました。そして計画は順調に進められました》                                        シルバーバーチ


 「ずいぶん前の話ですが、私は物質界に戻って霊的真理の普及に一役買ってくれないかとの懇請を受けました。そのためには霊媒と同時に心霊知識をもつ人のグループを揃えなくてはならないことも知らされました。私は霊界にある記録簿を調べあげた上で、適当な人物を霊媒として選び出しました。

それはその人物がまだ母胎に宿る前の話です。私はその母体に宿る瞬間を注意深く見守りました。そしていよいよ宿ったその霊が自我を表現しはじめた時から影響力を行使し、以来その関係が今なお続いているわけです。

 私はこの霊媒の霊と小さな精神の形成に関与しました。誕生後も日常生活のあらゆる面を細かく観察し、霊的に一体となる練習をし、物の考え方や身体のクセを呑み込むように努めました。要するに私はこの霊媒を、霊と精神と身体の三つの側面から徹底的に研究したのです。

次に私は霊的知識の理解へ向けて指導しなければなりませんでした。まず地上の宗教を数多く勉強させました。そして最終的にはそのすべてに反発させ、いわゆる無神論者にさせました。これで霊媒となるべき準備がひと通り整いました。

 その上で、ある日私はこの霊媒を初めて交霊会へ出席するように手引きしました。そこで、用意しておいたエネルギーを駆使して───いかにもぎこちなく内容も下らないものでしたが、私にとってはきわめて重大な意義をもつ───最初の霊的コンタクトをし、他人の発声器官を通じてしゃべるという初めての体験をしました。

 その後は回を追うごとにコントロールがうまくなり、ごらんの通りになりました。今ではこの霊媒の潜在意識にあるものを完全に支配して、私自身の考えを百パーセント述べることができます。

 要請された使命をお引き受けしたとき私はこう言われました───〝あなたは物質の世界へ入り、そこであなたの道具となるべき人物を見出したら、こんどはその霊媒のもとに心が通い合える人々を集めて、あなたがメッセージを述べるのを補佐してもらわねばなりません〟と。私は探しました。そして皆さん方を見出してここへ手引きしました。

 私が直面した最大の難問は、同じく地上に戻るにしても、人間が納得する(死後存続の)証拠つまり物理現象を手段とするか、それとも(霊言現象による)真理の唱道者となるか、そのいずれを選ぶかということでした。結局私は難しい方を選びました。

 自分自身の霊界生活での数多くの体験から、私は言わば大人の霊、つまり霊的に成人した人間の魂に訴えようと決意したのです。真理をできるだけ解りやすく説いてみよう。常に慈しみの心をもって人間に接し、決して腹を立てまい。そうすることで私がなるほど神の使者であることを身をもって証明しよう。そう決心したのです。

 同時に私は生前の姓名は絶対に明かさないという重荷をみずから背負いました。仰々しい名前や称号や地位や名声を棄て、説教の内容だけで勝負しようと決心したのです。

 結局私は無位無冠、神の使徒であるという以外の何者でもないということです。私が誰であるかということが一体なんの意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは、私のやっていることで判断していただきたい。私の言葉が、私の誠意が、そして私の判断が、暗闇に迷える人々の灯となり慰めとなったら、それだけで私はうれしいのです。

 人間の宗教の歴史を振り返ってごらんなさい。謙虚であったはずの神の使徒を人間は次々と神仏にまつり上げ、偶像視し、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。私ども霊団の使命はそうした過去の宗教的指導者に目を向けさせることではありません。

そうした人たちが説いたはずの本当の真理、本当の知識、本当の叡智を改めて説くことです。それが本物でありさえすれば、私が偉い人であろうがなかろうが、そんなことはどうでもよいことではありませんか。

 私どもは決して真実から外れたことは申しません。品位を汚すようなことも申しません。また人間の名誉を傷つけるようなことも申しません。私たちの願いは地上の人間に生きるよろこびを与え、地上生活の意義はいったい何なのか、宇宙において人類はどの程度の位置を占めているのか、

その宇宙を支配する神とどのようなつながりをもっているのか、そして又、人類同士がいかに強い霊的家族関係によって結ばれているかを認識してもらいたいと、ひたすら願っているのです。

 と言って、別に事新しいことを説こうというのではありません。すぐれた霊格者が何千年もの昔から説いている古い古い真理なのです。それを人間がなおざりにしてきたために、私たちが改めてもう一度説き直す必要が生じてきたのです。要するに神という親の言いつけをよく守りなさいと言いに来たのです。


 人類はみずからの過った考えによって、今まさに破滅の一歩手前まで来ております。やらなくてもいい戦争をやります。霊的真理を知れば、殺し合いなどしないだろうにと思うのですが・・・。

 神は地上に十分な恵みを用意しているのに、飢えに苦しむ人が多すぎます。新鮮な空気も吸えず、太陽の温かい光にも浴さず、人間の住むところとは思えない場所で、生きるか死ぬかの生活を余儀なくされている人が大勢います。欠乏の度合いがひどすぎます。貧苦の度がすぎます。そして悲劇が多すぎます。

 物質界全体を不満の暗雲が覆っています。その暗雲を払いのけ、温かい陽光の射す日が来るか来ないかは、人間の自由意志一つに掛かっているのです。

 一個の人間が他の人間を救おうと努力するとき、その背後には数多くの霊が群がってこれを援助し、その気高い心を何倍にもふくらませようと努めます。善行の努力は絶対に無駄にはされません。奉仕の精神も決して無駄に終わることはありません。

誰かが先頭に立って藪を切り開き、あとに続く者が少しでも楽に通れるようにしてやらないといけません。やがてそこに道ができあがり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。

 高級神霊界の神々が目にいっぱい涙をうかべて悲しんでおられる姿を時おり見かけることがあります。今こそと思っていたせっかくの善行のチャンスが、人間の誤解と偏見とによって踏みにじられ無駄に終わってしまうのを見るからです。

そうかと思うと、うれしさに顔を思いっ切りほころばせているのを見かけることもあります。名もない平凡人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。

 私はすぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志とともに、波長を物質界の波長に近づけて降りてまいりました。その目的は、神の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受けることが出来ることを教えてあげたいと思ったからです。

 物質界に降りてくるのは、正直言ってあまり楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっとうしくて単調で、生命力に欠けています。例えてみれば弾力性のなくなったヨレヨレのクッションのような感じで、何もかもだらしなく感じられます。

どこもかしこも陰気でいけません。したがって当然、生きるよろこびに溢れている人はほとんど見当たらず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。

 私が定住している世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心には真の生きるよろこびがみなぎり、適材適所の仕事にたずさわり、奉仕の精神にあふれ、互いに己れの足らざるところを補い合い、充実感と生命力とよろこびと輝きに満ちた世界です。

 それにひきかえ、この地上に見る世界は幸せであるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たさるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょう。神は必要なものはすべて用意してあるのです。問題はその公平な分配を妨げる者がいるということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。

 それを取り除いてくれと言われても、それは私たちには許されないのです。私たちに出来るのは、物質に包まれたあなた方に神の摂理を教え、どうすればその摂理が正しくあなた方を通じて運用されるかを教えてさしあげることです。ここにお出での方にはぜひ、霊的真理を知るとこんなに幸せになれるのだということを身をもって示していただきたいのです。
 
 もしも私の努力によって神の摂理とその働きの一端でも教えてさしあげることができたら、これに過ぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことができれば、こうして地上に降りてきた努力の一端が報われたことになりましょう。

 私たちは決してあなたたち人間の果たすべき本来の義務を肩がわりしようとするのではありません。なるほど神の摂理が働いているということを身をもって悟ってもらえる生き方をお教えしようとしているだけです。

 今こうして語っている私は、(四十年ほど前に)はじめて語った、あの霊と同じ年輩の霊です。説くメッセージも同じです。古くからある同じ真理です。ただ、語り聞かせる相手は同じ古い世界ではなくなりました。世の中は変わっており、霊的叡智に耳を傾ける人が増え、霊力の受容力が増しております。

 霊的真理も大きく前進しました。私たちの影響力がどれほど行きわたっているか、できることならそれを皆さんにお見せしたいところです。努力がこれほど報われたことを私はとても誇りに思っております。かつては悲しみに打ちひしがれていた心が今ではよろこびを味わいはじめています。

光明が暗闇を突き通したのです。かつては無知が支配していたところに知識がもたらされました。

 うぬぼれているわけではありません。宇宙について知れば知るほど私は、ますます謙虚の念に満たされてまいります。が同時に、導いてくださる霊力の存在も知っているのです。それが私のような者にも頂けるのです。私が偉いからではありません。私が志している真理普及への努力を多としてくださってのことです。

これまでの永い年月を通じて、この交霊関係はずっとその霊的援助を受けてまいりました。これからも皆さんが望むかぎり、与えられ続けることでしょう。

 改めて申し上げますが、私はただの道具にすぎません。地上への霊的真理、霊についての単純な真理、すなわち人間も一人ひとりが神の一部としての霊であるという認識をもたらさんとしている多くの霊のうちの一人にすぎません。

 人間も神の遺産を宿しているのであり、その潜在する神性のおかげで神の恩寵のすべてを手にする資格があります。そのための努力を続ける上において手かせ足かせとなる制度や習慣をまず取り除かないといけません。また私たちの仕事は魂と精神だけの解放を目的としているのではありません。肉体的にも(病気や障害から)解放してあげないといけません。

 それが今私たちが全霊を捧げている仕事なのです。微力ながら奮闘努力している仕事なのです。もしもこの私が一個の道具として皆さんのお役に立つ真理をお届けすることができれば、私はそれを光栄に思い、うれしく思います。

 私が皆さんとともに仕事をするようになって相当な期間になりますが、これからも皆さんとの協同作業によって地上世界にぜひとも必要な援助をお届けしつづけることになるでしょう。皆さんは知識をお持ちです。霊的真理を手にされています。そしてそれを活用することによっていっそう有効な道具となる義務があります。

 私のことを、この交霊会でほんのわずかな時間だけしゃべる声としてではなく、いつも皆さんのお側にいて、皆さんの霊的開発と進化に役立つものなら何でもお届けしようと待機している、脈動する生きた存在とお考え下さい。

 これまで私は、皆さんが愛を絆として一体となるように導いてまいりました。より高い界層、より大きな生命の世界の法則をお教えし、また人間が(そうした高級神霊界の造化活動によって)いかに美事に出来あがっているかを解き明かそうと努力してまいりました。

 また私は、そうして学んだ真理は他人のために役立つことに使用する義務があることをお教えしました。儀式という形式を超えたところに宗教の核心があり、それは他人のために自分を役立てることであることを知っていただこうと努力してまいりました。

 この絶望と倦怠と疑念と困難とに満ちあふれた世界にあって私は、まずはこうして皆さん方に霊的真理をお教えして、その貴重な知識を皆さん方が縁ある人々に広め、ゆくゆくは全人類に幸せをもたらすことになるように努力してまいりました。

 もしも皆さんの行く手に暗い影がよぎるようなことがあったら、もしも困難がふりかかったら、もしも疑念が心をゆさぶり、不安が宿るようなことがあったら、そうしたものはすべて実在ではないことを自分に言い聞かせるのです。翼を与えて追い出してやりなさい。


 この大宇宙を胎動させ、有機物と無機物の区別なく全生命を創造した巨大な力、星も惑星も太陽も月もこしらえた力、物質の世界へ生命をもたらし、あなた方人間の意識に霊性を植えつけてくださった力、完璧な摂理として全生命活動を支配している力、その大いなる霊的な力の存在を忘れてはなりません。

 その力は、あなた方が見捨てないかぎり、あなた方を見捨てることはありません。その力をわが力とし、苦しい時の避難場所とし、心の港とすることです。神の愛が常に辺りを包み、あなた方はその無限の抱擁の中にあることを知ってください」


 一読者の手紙から───

 《文章の世界にシルバーバーチの言葉に匹敵するものを私は知りません。眼識ある読者ならばそのインスピレーションが間違いなく高い神霊界を始源としていることを認めます。一見すると単純・素朴に思える言葉が時として途方もなく深遠なものを含んでいることがあります。その内部に秘められた意味に気づいて思わず立ち止まり、感嘆と感激に浸ることがあるのです》