The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen
八章 暗黒街の探訪
7 救出
一九一八年一月十八日 金曜日
そこまで来てみると、はるか遠くの暗闇からやってきた者たちも加わって、吾々に付いてくる者の数は大集団となっていた。いつもなら彼らの間で知らせが行き交うことなど滅多にないことなのですが、この度は吾々のうわさは余程の素早さで鉱山じゅうに届いたとみえて、その数は初め何百だったのが今や何千を数えるほどになっていた。
今立ち止まっているところは、最初に下りてきたときに隙間から覗き込んだ場所の下に当たる。その位置から振り返っても集団の前の方の者しか見えない。が、私の耳には地下深くの作業場にいた者がなおも狂ったようにわめきながら駆けて来る声が聞こえる。
やがてボスとその家来たちの前を通りかかると急に静かになる。そこで私はまずボスに向かって言って聞かせた。
「そなたの心の中をのぞいてみると、さきほど口にされた丁寧なお言葉に似つかわしいものが一向に見当たりませんぞ。が、それは今は構わぬことにしよう。こうして天界より訪れる者は哀れみと祝福とを携えて参る。
その大きさはその時に応じて異なる。そこで吾々としてもそなたを手ぶらで帰らせることにならぬよう、今ここで大切なことを忠告しておくことにする。
すなわち、これよりそなたは望み通りにこれまでの生き方を続け、吾々は天界へと戻ることになるが、その後の成り行きを十分に心されたい。
この者たちはそなたのもとを離れて、そなたほどには邪悪性の暗闇の濃くない者のもとで仕えることになるが、そのあとで、どうかこの度の出来ごとを思い返して、その意味するところをとくと吟味してもらいたい。
そして、いずれそなたも、そなたの君主であらせられる方の、虚栄も残忍性も存在しない、芳醇(ほうじゅん)な光の国より参った吾々に対する無駄な抵抗の末に、ほぞをかみ屈辱を覚えるに至った時に、どうかこうした私の言葉の真意を味わっていただきたい」
彼は地面に目を落とし黙したまま突っ立っていた。分かったとも分からぬとも言わず、不機嫌な態度の中に、スキあらば襲いかかろうとしながら、恐ろしさでそれも出来ずにいるようであった。そこで私は今度は群集へ向けてこう語って聞かせた。
「さて今度は諸君のことであるが、この度の諸君の自発的選択による災難のことは一向に案ずるに足らぬ。諸君はより強き方を選択したのであり、絶対に見捨てられる気遣いは無用である。
ひたすらに忠実に従い、足をしっかりと踏まえて付いて来られたい。さすれば程なく自由の身となり、旅の終わりには光り輝く天界の高地へとたどり着くことが出来よう」
そこで私は少し間を置いた、全体を静寂がおおった。やがてボスが顔を上げて言った。
「おしまいかな?」
「ここでは以上で留めておこう。この坑道を出て大地へ上がってから、もっと聞きやすい場所に集めて、これから先の指示を与えるとしよう」
「なるほど。この暗い道を出てからね。なるほど、その方が結構でしょうな」
皮肉っぽくそう述べてる彼の言葉の裏に企みがあることを感じ取った。
彼は向きを変え、出入口を通り抜け、家来を引き連れて都市へ向かって進みはじめた。
吾々は脇へ寄って彼らを見送った。目の前を通り過ぎて行く連中の中に私はキャップテンの姿を見つけ、この後の私の計略を耳打ちしておいた。彼は連中と一緒に鉱山を出た。そして吾々もその後に続いて進み、ついに荒涼たる大地に出た。
出てすぐに私は改めて奴隷たちを集めて、みんなで手分けして町中の家という家、洞窟という洞窟をまわってこの度のことを話して聞かせ、いっしょに行きたい者は正門の広場に集まるように言って聞かせよと命じた。
彼らはすぐさま四方へ散っていった。するとボスが吾々にこう言った。
「彼らが回っている間、よろしかったら拙者たちとともに御身たちを拙宅へご案内いたしたく存ずるが、いかがであろう。御身たちをお迎えすれば拙者の家族も祝福がいただけることになるのであろうからのお」
「無論そなたも、そしてそなたのご家族にも祝福があるであろう。が、今ただちにというわけには参らぬし、それもそなたが求める通りとは参らぬ」
そう言ってから吾々は彼について行った。やがて都市のド真ん中と思われるところへ来ると、暗黒の中に巨大な石の構築物が見えてきた。住宅というよりは城という方が似つかわしく、城というよりは牢獄という方が似つかわしい感じである。
周囲を道路で囲み、丘のように聳え立っている。が、いかにも不気味な雰囲気が漂っている。どこもかしこも、そこに住める魂の強烈な暗黒性を反映して、真実、不気味そのものである。住める者が即ち建造者にほかならないのである。
中に通され、通路とホールを幾つか通り抜けて応接間へきた。あまり大きくはない。そこで彼は接待の準備をするので少し待ってほしいと言ってその場を離れた。彼が姿を消すとすぐに私は仲間たちに、彼の悪だくみが見抜けたかどうかを尋ねてみた。
大半の者は怪訝な顔していたが、二、三人だけ、騙されていることに気づいていた者がいた。そこで私は、吾々がすでに囚われの身になっていること、周りの扉は全部カギが掛けられていることを教えた。
すると一人がさっき入って来たドアのところ行ってみると、やはり固く閉ざされ、外から閂(かんぬき)で締められている。その反対側には帝王の間の一つ手前の控えの間に通じるドアがあるが、これも同じく閂で締められていた。
貴殿はさぞ、少なくとも十四人のうち何人かは、そんな窮地に陥って動転したであろうと思われるであろう。が、こうした使命、それもこの暗黒界の奥地へ赴く者は、長い間の鍛錬によって恐怖心というものはすでに無縁となっている者、善の絶対的な力を、いかなる悪の力に対しても決して傷つけられることなく、確実に揮(ふる)うことのできる者のみが選ばれていることを忘れてはならない。
さて吾々はどうすべきか──それは相談するまでもなく、すぐに決まったことでした。十五人全員が手をつなぎ合い、波長を操作することによって吾々の通常の状態に戻したのです。それまではこの暗黒界の住民を装って探訪するために、鈍重な波長に下げていたわけです。
精神を統一するとそれが徐々に変化して身体が昇華され、まわりの壁を難なく通過して正門前の広場に出て、そこで一団が戻ってくるのを待っておりました。
ボスとはそれきり二度と会うことはありませんでした。吾々の想像通り、彼は自分に背を向けた者たちの再逮捕を画策していたようです。そして、あのあとすぐに各方面に大軍を派遣して通路を封鎖させ、逃亡せんとする者には容赦ない仕打ちをするように命じておりました。
しかし、その後はこれといってお話しすべきドラマチックな話はありません。衝突もなく、逮捕されてお慈悲を乞う叫びもなく、光明界からの援軍の派遣もありません。
いたって平穏のうちに、と言うよりは意気地のない形で終息しました。それは実はこういう次第だったのです。
例の帝王の間において、彼らは急きょ会議を開き、その邸宅の周りに松明を立て、邸内のホールにも明りを灯して明るくしておいて、ボスが家来たちに大演説を打(ぶ)ちました。それから大真面目な態度で控えの間のドアの閂を外し、使いの者が接待の準備が出来たことを告げに吾々の(いるはずの)部屋へ来た。
ところが吾々の姿が見当たらない。そのことがボスの面目をまるつぶしにする結果となりました。すべてはボスの計画と行動のもとに運ばれてきたのであり、それがことごとくウラをかかれたからです。
家来たちは口々に辛らつな嘲笑の言葉を吐きながらボスのもとを去って行きました。そしてそのボスは敗軍の将となって、ただ一人、哀れな姿を石の玉座に沈めておりました。
以上の話からお気付きと思いますが、こうした境涯では悲劇と喜劇とが至るところで繰り返されております。しかし全てはそう思い込んでいるだけの偽りばかりです。すべてが唯一絶対の実在と相反することばかりだからです。
偽りの支配者が偽りの卑下の態度で臣下から仕えられ、偽りのご機嫌取りに囲まれて、皮肉と侮りのトゲと矢がこめられたお追従を無理強いされているのです。
<原著者ノート>救出された群集はその後〝小キリスト〟に引き渡され、例のキャプテンを副官としてその鉱山からかなり離れた位置にある広々とした土地に新しい居留地(コロニー)をこしらえることになる。鉱山から救出された奴隷のほかに、暗黒の都市の住民の男女も含まれていた。
実はこのあとそのコロニーに関する通信を受け取っていたのであるが、そのオリジナル草稿を紛失してしまった。ただ、この後(第四巻の)一月二十八日と二月一日の通信の中で部分的な言及がある。
訳者あとがき
一つの問題についての意見が各自まちまちであるのは人間世界の常であるが、宗教問題、とくにこうした霊界通信の解釈においてそれが顕著であるように思われる。東洋では仏典、西洋ではバイブルの解釈の違いがそれぞれの世界で無数といってよいほどの宗派を生み、今なお新興させつつある事実がそれを如実に物語っている。
それは死後の下層界、つまり地球に隣接した世界においても同様であるらしく、むしろ地上の現状はその反映にほかならないというのが真相であるらしい。
それはともかく、本書を含めて、筆者がこの二、三年来紹介してきた西洋的啓示、いわゆるスピリチュアリズム的霊界通信に対する読者の反応もさまざまであろう。
頭から否定してかかる人がまず多いであろう。その否定派にも、霊言とか自動書記という事実そのものを否定する人と、その事実は認めても、その原因は霊媒の潜在意識にあると簡単に片づけている人とがいる。そういう人にとっては、人間の潜在意識とはいかなるものなのか──その潜在意識に思想的通信を語る能力。
あるいは綴る能力があるかどうかは別に問題ではないらしい。筆者にはその方がよほど有りそうにないことのように思えるのだが・・・・・・
他方、霊的なものとなったら何でも有難がる人もいる。霊媒と自称する人が口にすること、あるいは綴ることはすべて有難いものとして、その真偽性、内容の程度、思想的矛盾といったことは一切問わない。
この種の人は、死後の下層界にはそういう信じ易いお人好しを相手にして、空よろこびさせては快哉(かいさい)を叫んでいる低級霊の集団が世界を股に掛けてドサ回りしている事実をご存知ない。霊界の者にとって他界者の声色やしぐさを真似たり身元を調査するくらいのことは朝めし前であることも又ご存知ない。
さて霊界通信の信憑性を計る尺度には主観・客観の双方に幾通りもあろうが、それを今ここで論じる余裕はない。それだけで一巻の書となるほど大きな問題だからである。
が、そのいずれにも属さない尺度として、時代の波に洗われてなお揺るぎない信頼を得ているもの──言いかえれば霊界通信のロングセラーであるということがあげられる。
筆者がこれまで紹介してきたもの──この『ベールの彼方の生活』をはじめとして『シルバーバーチの霊訓』、モーゼスの『霊訓』の三大霊訓はいずれも世界的ロングセラーである。
人によっては、なぜそんな古いものばかりを、と思われるかも知れない。が、筆者は古いからこそ信憑性が高いとみているのである。いい加減なものはいずれアラが出る。
その点右の三つの通信はいずれも百年前後の時代の波に洗われてなお一点のケチもつけられたことのない、正真正銘の折紙付きのものばかりである。
今その三者を簡単に比較してみるに、シルバーバーチは〝誰にでも分る霊的教訓〟をモットーとしているだけに、老若男女の区別なく、幅広い層に抵抗なく受け入れられているようである。神をインディアンの用語である〝大霊〟the Great Spirit と呼び、キリスト教の用語である God をなるべく用いないようにしている。
イエス・キリストについても、本質はわれわれ一般人と同じである──ただ地上に降誕した霊の中で最高の霊格を具えた人物、としているだけで決して特別扱いをしていない。
交霊会が開かれたのが英国というキリスト教国だっただけにキリスト教に関連した話題が多いのは当然であるが、それを普遍的観点から解説しているので、どの民族にも受け入れられるものを持っている。世界中に熱烈なファンがいるのもむべなるかなと思われる。
一方、モーゼスの『霊訓』はかつてのキリスト教の牧師である霊媒モーゼスと霊団の最高指導霊イムペレーターとの間のキリスト教を主題とした熾烈な問答集であり、結果的にはモーゼスのキリスト教的先入観が打ち砕かれてスピリチュアリズム的解釈が受け入れられていくことになるが、イムペレーター自身はキリスト以前の人物であり、内容的には普遍的なものを含んでいても、主題が主題だけに、キリスト教に縁のない方には読みづらいことであろう。
これがさらに『ベールの彼方の生活』になると、オーエン自身はもとより背後霊団が地上時代に敬虔なクリスチャンだった霊ばかりなので、徹頭徹尾キリスト教的である。
そして第三巻の本書に至っていよいよ(オーソドックスなキリスト教からみて)驚天動地の内容となってきた。そのことはオーエン自身が通信を綴りながら再三にわたって書くのを躊躇している事実からも窺えよう。
その重大性に鑑みて、この〝あとがき〟は頭初は「解説」として私見を述べるつもりでいたのであるが、いざ書き始めてみると、リーダー霊の述べていることが日本古神道の宇宙創成説、いわゆる造化の三神ならびに国生みの物語と余りに付節を合することにますます驚きを覚え、これを本格的に、そしてまた責任ある態勢で扱うには筆者の勉強が余りに未熟であることを痛感し、差し当たって断念することにした次第である。
これ以外にも本書には注目すべき事柄が幾つも何気ない形で語られている。シンボルの話は〝九字を切る〟ことの威力を思い起こさせ、天使の名をみだりに口にすることを戒める話は言霊(ことだま)の存在をほうふつとさせ、最後のところでボスの館を脱出した方法は物品引寄現象も同じ原理であることを教えている。
その他、一つひとつ指摘してそれに心霊的ないし古神道的解釈を施していけば、ゆうに一冊の書となるであろう。将来の興味ぶかいテーマであることは間違いない。
筆者がこの霊界通信全四巻を入手したのは二十数年前のことである。それ以来何度か目を通しながらも、その文章の古さと内容の固さのせいで、正直いって一種の取っつきにくさを拭えなかった。
しかし、いずれは世に出すべきものであり、また必ずや重大な話題を提起することになるとの認識は変わることがなかった。いよいよ今回それを訳出するに当たって、訳者としての良心の許す限りにおいて、その〝取っつきにくさ〟を取り除くよう工夫し、キリスト教的なものには、素人の筆者の手の届くかぎり注釈を施し、出典もなるべく明記して(本文には出ていない)読者の便宜を計ったつもりである。
ついでにもう一つ付け加えれば、実はこの全巻の各章には題がついているが各通信の一つひとつには何も付いていない。ただ日付と曜日が記されているのみである。このままでは余りにも芸が無さすぎるので、筆者の判断で内容に相応しいと思う題を考えて付した。老婆心ていどのこととして受け取っていただきたい。
これであと一巻を残すのみとなった。オーエン自身も第四巻が圧巻であると述べている。どの巻も同じであるが、いよいよ翻訳に取りかかる時は、はたして自分の力で訳せるだろうかという不安が過り、恐れさえ覚えるものである。あと一巻──背後霊団並びにオーエン氏のかつての通信霊の援助と加護を祈らずにはいられない心境である。
一九八六年一月 近藤 千雄
一九一八年一月十八日 金曜日
そこまで来てみると、はるか遠くの暗闇からやってきた者たちも加わって、吾々に付いてくる者の数は大集団となっていた。いつもなら彼らの間で知らせが行き交うことなど滅多にないことなのですが、この度は吾々のうわさは余程の素早さで鉱山じゅうに届いたとみえて、その数は初め何百だったのが今や何千を数えるほどになっていた。
今立ち止まっているところは、最初に下りてきたときに隙間から覗き込んだ場所の下に当たる。その位置から振り返っても集団の前の方の者しか見えない。が、私の耳には地下深くの作業場にいた者がなおも狂ったようにわめきながら駆けて来る声が聞こえる。
やがてボスとその家来たちの前を通りかかると急に静かになる。そこで私はまずボスに向かって言って聞かせた。
「そなたの心の中をのぞいてみると、さきほど口にされた丁寧なお言葉に似つかわしいものが一向に見当たりませんぞ。が、それは今は構わぬことにしよう。こうして天界より訪れる者は哀れみと祝福とを携えて参る。
その大きさはその時に応じて異なる。そこで吾々としてもそなたを手ぶらで帰らせることにならぬよう、今ここで大切なことを忠告しておくことにする。
すなわち、これよりそなたは望み通りにこれまでの生き方を続け、吾々は天界へと戻ることになるが、その後の成り行きを十分に心されたい。
この者たちはそなたのもとを離れて、そなたほどには邪悪性の暗闇の濃くない者のもとで仕えることになるが、そのあとで、どうかこの度の出来ごとを思い返して、その意味するところをとくと吟味してもらいたい。
そして、いずれそなたも、そなたの君主であらせられる方の、虚栄も残忍性も存在しない、芳醇(ほうじゅん)な光の国より参った吾々に対する無駄な抵抗の末に、ほぞをかみ屈辱を覚えるに至った時に、どうかこうした私の言葉の真意を味わっていただきたい」
彼は地面に目を落とし黙したまま突っ立っていた。分かったとも分からぬとも言わず、不機嫌な態度の中に、スキあらば襲いかかろうとしながら、恐ろしさでそれも出来ずにいるようであった。そこで私は今度は群集へ向けてこう語って聞かせた。
「さて今度は諸君のことであるが、この度の諸君の自発的選択による災難のことは一向に案ずるに足らぬ。諸君はより強き方を選択したのであり、絶対に見捨てられる気遣いは無用である。
ひたすらに忠実に従い、足をしっかりと踏まえて付いて来られたい。さすれば程なく自由の身となり、旅の終わりには光り輝く天界の高地へとたどり着くことが出来よう」
そこで私は少し間を置いた、全体を静寂がおおった。やがてボスが顔を上げて言った。
「おしまいかな?」
「ここでは以上で留めておこう。この坑道を出て大地へ上がってから、もっと聞きやすい場所に集めて、これから先の指示を与えるとしよう」
「なるほど。この暗い道を出てからね。なるほど、その方が結構でしょうな」
皮肉っぽくそう述べてる彼の言葉の裏に企みがあることを感じ取った。
彼は向きを変え、出入口を通り抜け、家来を引き連れて都市へ向かって進みはじめた。
吾々は脇へ寄って彼らを見送った。目の前を通り過ぎて行く連中の中に私はキャップテンの姿を見つけ、この後の私の計略を耳打ちしておいた。彼は連中と一緒に鉱山を出た。そして吾々もその後に続いて進み、ついに荒涼たる大地に出た。
出てすぐに私は改めて奴隷たちを集めて、みんなで手分けして町中の家という家、洞窟という洞窟をまわってこの度のことを話して聞かせ、いっしょに行きたい者は正門の広場に集まるように言って聞かせよと命じた。
彼らはすぐさま四方へ散っていった。するとボスが吾々にこう言った。
「彼らが回っている間、よろしかったら拙者たちとともに御身たちを拙宅へご案内いたしたく存ずるが、いかがであろう。御身たちをお迎えすれば拙者の家族も祝福がいただけることになるのであろうからのお」
「無論そなたも、そしてそなたのご家族にも祝福があるであろう。が、今ただちにというわけには参らぬし、それもそなたが求める通りとは参らぬ」
そう言ってから吾々は彼について行った。やがて都市のド真ん中と思われるところへ来ると、暗黒の中に巨大な石の構築物が見えてきた。住宅というよりは城という方が似つかわしく、城というよりは牢獄という方が似つかわしい感じである。
周囲を道路で囲み、丘のように聳え立っている。が、いかにも不気味な雰囲気が漂っている。どこもかしこも、そこに住める魂の強烈な暗黒性を反映して、真実、不気味そのものである。住める者が即ち建造者にほかならないのである。
中に通され、通路とホールを幾つか通り抜けて応接間へきた。あまり大きくはない。そこで彼は接待の準備をするので少し待ってほしいと言ってその場を離れた。彼が姿を消すとすぐに私は仲間たちに、彼の悪だくみが見抜けたかどうかを尋ねてみた。
大半の者は怪訝な顔していたが、二、三人だけ、騙されていることに気づいていた者がいた。そこで私は、吾々がすでに囚われの身になっていること、周りの扉は全部カギが掛けられていることを教えた。
すると一人がさっき入って来たドアのところ行ってみると、やはり固く閉ざされ、外から閂(かんぬき)で締められている。その反対側には帝王の間の一つ手前の控えの間に通じるドアがあるが、これも同じく閂で締められていた。
貴殿はさぞ、少なくとも十四人のうち何人かは、そんな窮地に陥って動転したであろうと思われるであろう。が、こうした使命、それもこの暗黒界の奥地へ赴く者は、長い間の鍛錬によって恐怖心というものはすでに無縁となっている者、善の絶対的な力を、いかなる悪の力に対しても決して傷つけられることなく、確実に揮(ふる)うことのできる者のみが選ばれていることを忘れてはならない。
さて吾々はどうすべきか──それは相談するまでもなく、すぐに決まったことでした。十五人全員が手をつなぎ合い、波長を操作することによって吾々の通常の状態に戻したのです。それまではこの暗黒界の住民を装って探訪するために、鈍重な波長に下げていたわけです。
精神を統一するとそれが徐々に変化して身体が昇華され、まわりの壁を難なく通過して正門前の広場に出て、そこで一団が戻ってくるのを待っておりました。
ボスとはそれきり二度と会うことはありませんでした。吾々の想像通り、彼は自分に背を向けた者たちの再逮捕を画策していたようです。そして、あのあとすぐに各方面に大軍を派遣して通路を封鎖させ、逃亡せんとする者には容赦ない仕打ちをするように命じておりました。
しかし、その後はこれといってお話しすべきドラマチックな話はありません。衝突もなく、逮捕されてお慈悲を乞う叫びもなく、光明界からの援軍の派遣もありません。
いたって平穏のうちに、と言うよりは意気地のない形で終息しました。それは実はこういう次第だったのです。
例の帝王の間において、彼らは急きょ会議を開き、その邸宅の周りに松明を立て、邸内のホールにも明りを灯して明るくしておいて、ボスが家来たちに大演説を打(ぶ)ちました。それから大真面目な態度で控えの間のドアの閂を外し、使いの者が接待の準備が出来たことを告げに吾々の(いるはずの)部屋へ来た。
ところが吾々の姿が見当たらない。そのことがボスの面目をまるつぶしにする結果となりました。すべてはボスの計画と行動のもとに運ばれてきたのであり、それがことごとくウラをかかれたからです。
家来たちは口々に辛らつな嘲笑の言葉を吐きながらボスのもとを去って行きました。そしてそのボスは敗軍の将となって、ただ一人、哀れな姿を石の玉座に沈めておりました。
以上の話からお気付きと思いますが、こうした境涯では悲劇と喜劇とが至るところで繰り返されております。しかし全てはそう思い込んでいるだけの偽りばかりです。すべてが唯一絶対の実在と相反することばかりだからです。
偽りの支配者が偽りの卑下の態度で臣下から仕えられ、偽りのご機嫌取りに囲まれて、皮肉と侮りのトゲと矢がこめられたお追従を無理強いされているのです。
<原著者ノート>救出された群集はその後〝小キリスト〟に引き渡され、例のキャプテンを副官としてその鉱山からかなり離れた位置にある広々とした土地に新しい居留地(コロニー)をこしらえることになる。鉱山から救出された奴隷のほかに、暗黒の都市の住民の男女も含まれていた。
実はこのあとそのコロニーに関する通信を受け取っていたのであるが、そのオリジナル草稿を紛失してしまった。ただ、この後(第四巻の)一月二十八日と二月一日の通信の中で部分的な言及がある。
訳者あとがき
一つの問題についての意見が各自まちまちであるのは人間世界の常であるが、宗教問題、とくにこうした霊界通信の解釈においてそれが顕著であるように思われる。東洋では仏典、西洋ではバイブルの解釈の違いがそれぞれの世界で無数といってよいほどの宗派を生み、今なお新興させつつある事実がそれを如実に物語っている。
それは死後の下層界、つまり地球に隣接した世界においても同様であるらしく、むしろ地上の現状はその反映にほかならないというのが真相であるらしい。
それはともかく、本書を含めて、筆者がこの二、三年来紹介してきた西洋的啓示、いわゆるスピリチュアリズム的霊界通信に対する読者の反応もさまざまであろう。
頭から否定してかかる人がまず多いであろう。その否定派にも、霊言とか自動書記という事実そのものを否定する人と、その事実は認めても、その原因は霊媒の潜在意識にあると簡単に片づけている人とがいる。そういう人にとっては、人間の潜在意識とはいかなるものなのか──その潜在意識に思想的通信を語る能力。
あるいは綴る能力があるかどうかは別に問題ではないらしい。筆者にはその方がよほど有りそうにないことのように思えるのだが・・・・・・
他方、霊的なものとなったら何でも有難がる人もいる。霊媒と自称する人が口にすること、あるいは綴ることはすべて有難いものとして、その真偽性、内容の程度、思想的矛盾といったことは一切問わない。
この種の人は、死後の下層界にはそういう信じ易いお人好しを相手にして、空よろこびさせては快哉(かいさい)を叫んでいる低級霊の集団が世界を股に掛けてドサ回りしている事実をご存知ない。霊界の者にとって他界者の声色やしぐさを真似たり身元を調査するくらいのことは朝めし前であることも又ご存知ない。
さて霊界通信の信憑性を計る尺度には主観・客観の双方に幾通りもあろうが、それを今ここで論じる余裕はない。それだけで一巻の書となるほど大きな問題だからである。
が、そのいずれにも属さない尺度として、時代の波に洗われてなお揺るぎない信頼を得ているもの──言いかえれば霊界通信のロングセラーであるということがあげられる。
筆者がこれまで紹介してきたもの──この『ベールの彼方の生活』をはじめとして『シルバーバーチの霊訓』、モーゼスの『霊訓』の三大霊訓はいずれも世界的ロングセラーである。
人によっては、なぜそんな古いものばかりを、と思われるかも知れない。が、筆者は古いからこそ信憑性が高いとみているのである。いい加減なものはいずれアラが出る。
その点右の三つの通信はいずれも百年前後の時代の波に洗われてなお一点のケチもつけられたことのない、正真正銘の折紙付きのものばかりである。
今その三者を簡単に比較してみるに、シルバーバーチは〝誰にでも分る霊的教訓〟をモットーとしているだけに、老若男女の区別なく、幅広い層に抵抗なく受け入れられているようである。神をインディアンの用語である〝大霊〟the Great Spirit と呼び、キリスト教の用語である God をなるべく用いないようにしている。
イエス・キリストについても、本質はわれわれ一般人と同じである──ただ地上に降誕した霊の中で最高の霊格を具えた人物、としているだけで決して特別扱いをしていない。
交霊会が開かれたのが英国というキリスト教国だっただけにキリスト教に関連した話題が多いのは当然であるが、それを普遍的観点から解説しているので、どの民族にも受け入れられるものを持っている。世界中に熱烈なファンがいるのもむべなるかなと思われる。
一方、モーゼスの『霊訓』はかつてのキリスト教の牧師である霊媒モーゼスと霊団の最高指導霊イムペレーターとの間のキリスト教を主題とした熾烈な問答集であり、結果的にはモーゼスのキリスト教的先入観が打ち砕かれてスピリチュアリズム的解釈が受け入れられていくことになるが、イムペレーター自身はキリスト以前の人物であり、内容的には普遍的なものを含んでいても、主題が主題だけに、キリスト教に縁のない方には読みづらいことであろう。
これがさらに『ベールの彼方の生活』になると、オーエン自身はもとより背後霊団が地上時代に敬虔なクリスチャンだった霊ばかりなので、徹頭徹尾キリスト教的である。
そして第三巻の本書に至っていよいよ(オーソドックスなキリスト教からみて)驚天動地の内容となってきた。そのことはオーエン自身が通信を綴りながら再三にわたって書くのを躊躇している事実からも窺えよう。
その重大性に鑑みて、この〝あとがき〟は頭初は「解説」として私見を述べるつもりでいたのであるが、いざ書き始めてみると、リーダー霊の述べていることが日本古神道の宇宙創成説、いわゆる造化の三神ならびに国生みの物語と余りに付節を合することにますます驚きを覚え、これを本格的に、そしてまた責任ある態勢で扱うには筆者の勉強が余りに未熟であることを痛感し、差し当たって断念することにした次第である。
これ以外にも本書には注目すべき事柄が幾つも何気ない形で語られている。シンボルの話は〝九字を切る〟ことの威力を思い起こさせ、天使の名をみだりに口にすることを戒める話は言霊(ことだま)の存在をほうふつとさせ、最後のところでボスの館を脱出した方法は物品引寄現象も同じ原理であることを教えている。
その他、一つひとつ指摘してそれに心霊的ないし古神道的解釈を施していけば、ゆうに一冊の書となるであろう。将来の興味ぶかいテーマであることは間違いない。
筆者がこの霊界通信全四巻を入手したのは二十数年前のことである。それ以来何度か目を通しながらも、その文章の古さと内容の固さのせいで、正直いって一種の取っつきにくさを拭えなかった。
しかし、いずれは世に出すべきものであり、また必ずや重大な話題を提起することになるとの認識は変わることがなかった。いよいよ今回それを訳出するに当たって、訳者としての良心の許す限りにおいて、その〝取っつきにくさ〟を取り除くよう工夫し、キリスト教的なものには、素人の筆者の手の届くかぎり注釈を施し、出典もなるべく明記して(本文には出ていない)読者の便宜を計ったつもりである。
ついでにもう一つ付け加えれば、実はこの全巻の各章には題がついているが各通信の一つひとつには何も付いていない。ただ日付と曜日が記されているのみである。このままでは余りにも芸が無さすぎるので、筆者の判断で内容に相応しいと思う題を考えて付した。老婆心ていどのこととして受け取っていただきたい。
これであと一巻を残すのみとなった。オーエン自身も第四巻が圧巻であると述べている。どの巻も同じであるが、いよいよ翻訳に取りかかる時は、はたして自分の力で訳せるだろうかという不安が過り、恐れさえ覚えるものである。あと一巻──背後霊団並びにオーエン氏のかつての通信霊の援助と加護を祈らずにはいられない心境である。
一九八六年一月 近藤 千雄