Wednesday, January 7, 2026

ベールの彼方の生活(三)

The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen
三章 天界の経綸




1 寺院の建造        
 一九一七年十一月二十七日 火曜日

話題はこちらで用意してあり、いつでも述べられる態勢にあります。再び貴殿の精神をお貸しいただきたい(*)。こちらで進行中の仕事を吾々が監督する要領を知っていただくために、つい最近吾々の界で起きた出来ごとをぜひ貴殿に語って聞かせたいと思うのです。

(*前にも述べたことであるが、霊界の者から見ると人間の精神は人間自身が想像しているような無形の観念ではなく、具体的な実質があり触れると実感がある。訳者)

 それは、ほかでもない、寺院風の建物の建造です。その建造の目的は強いて言えば天界のエネルギーが地上へ届き易いようにそこで調整するためである。今ゆっくりと最後の仕上げをしており、完成も間近い。

これよりまずその建物に使用する資材を説明し、続いてその用途を述べるとしよう。

 資材にはさまざまな色彩と密度とがある。さりとて地上の如くレンガや石等を積み重ねるのではない。全体として一つなのである。吾々は設計図が出来上がったところで、こぞって予定された敷地へ向かった。

その敷地は第五界の低地と高地の中間に位置する台地にある。なお吾々の通信における界層の数え方はザブディエル殿に倣っていることを承知されたい。数え方は霊団によってさまざまですが、貴殿にとってはすでに親しんでいるものが良かろうということでそうすることにしました。

また、それが他の数え方と較べてなかなかうまく出来ています。他のものはあまりに複雑すぎたり、反対にあまりに大ざっぱすぎたりします。その点ザブディエル殿の数え方は言わば中庸を得ているので、ここではそれに倣(なら)うことにします。

 さて敷地に到着すると吾々は、まず全員の創造エネルギーを一丸とするための精神統一を行ったのち、そのエネルギーを基礎工事へ向けた。すると、そのエネルギーが敷地からゆっくりと湧き出て来て、そのまま高く伸びて頂上にドーム形の屋根を拵えた。

そこへ大天使が姿を現わし、吾々のエネルギーを一つにまとめて一たんご自分の霊力の中に収められ、それを少しずつ放射しつつ、穏やかに吾々の仕事に細かい手を加えられた。その間、吾々は念波の放射を手控えて見守っていた。

 何ゆえ大天使までお出ましになるのか──貴殿にはそれが不思議に思われるであろう。

理由(わけ)を述べよう。一つの霊団として吾々もそれ相当の修養を積み、協調的仕事にも長いあいだ携わってきた。

しかし脆弱(ぜいじゃく)な第一段階の基礎工事の仕上げに当たっては、吾々より遥かに強烈な霊力をお持ちの大天使によって、吾々の放射したエネルギーを調節していただく必要がある。

それを怠ると形体にキズが残ったり、思わぬ不備から構造が崩れ、折角の努力が烏有(うゆう)に帰することも有りうる。そのほかにも理由はあるが、それは吾々の言語を理解してもらえない以上は説明困難です。

もっとも、次のように考えていただけば、手段はともかくとして、理由だけは多分わかっていただけるであろう。

つまり原理的に言えば誕生時の〝へその緒〟の切断、死亡時の〝たまの緒〟の切断、もしくは堰の水門の急激な閉鎖、大体そういったものに類似したものを想像していただけばよい。そうすれば地上の言語で表現できないものを、おぼろげにでも理解していただけるでしょう。

 こうして第一期工事はまず外形の完成に集中する。が、あくまで外形であって、そのまま手を引けば見る間に消滅してしまう。一服したのち吾々は引き続き第二期の基礎工事に着手した。第二期は柱、門、大小の塔を強固にすることである。

最下部から始めて徐々に上方へ向けて手を加えて行き、最後にドームにまで達する。

これを幾回となく繰り返した。まだ外形のみである。が、外形としては一応完成した。残るは色彩を鮮明にすることと、細かい装飾、そしてそれが終わると最後に全体を引き締めて、幾世期にも亘る持続性を与えることである。

 吾々はしばし工事に携わっては少し休み、その間にエネルギーを補充し、再び工事に着手するといった過程を幾度となく繰りかえし、その寺院風の建物に全身全霊を打ち込んだ。

美の創造に携わることほど楽しく且つ有難いものはない。吾々の建造せるその建物は大きさといい、デザインといい並はずれて雄大なものであり、同時に又、その雄姿が自分たちの力で着々と美しさを増していったのであるから尚のことであった。

 こちらの世界における建築が全てこれと同じ方法で行われるとは限らない。が、いかなる方法にせよ、出来上がったものは建築家による建造物というよりは〝吾が子〟のような存在となる。すべてが建造者のエネルギーと創造力とによって作られたものだからです。

そうして出来あがった建物が、のちにその建物において仕事をする者の理想に叶って居ることも論を俟(ま)たない。

何となれば、その建物にはすでに生命がこもっている。意識的生命ではないが、一種の感性を宿しているからです。こう言えばよかろうか。つまりこちらの世界の建物とその創造者との関係は、言うなれば肉体とそれに宿る霊との関係のようなものである。

肉体と霊とは覚醒時は言うに及ばず、睡眠中でも常に連絡を保持している。それと同じく、吾々建造者はたとえ完成後に各地へ分散しても、常にその建物を意念の焦点として互いに連絡を取り合っているのです。

その生き生きとした実感と満足感は実際にこちらへ来て創造の仕事に携わってみなければ判らないであろう。もっとも、こちらへ来た者のすべてが創造の仕事に携わるとは限らないが・・・・・・。

 さて建物としての一応の形が整い、さらにそれを強固にし終ると、あとに残された仕事は内部装飾の仕上げである。すなわち各室、ホール、聖堂等々にそれなりの装飾を施し、柱廊は柱廊らしく仕上げ、噴水には実際に水を通してその流れ具合を確かめる。

それをするのに吾々はまず外部に立って念波を送り、それから内部に入って仕上がり具合を点検する。手先はあまり使用しない。主役を務めるのは頭と心である。

 そこまで終了すると、以後は吾々が実際にその建物で生活して、地上の言い方をすれば毎日のように部屋から部屋へ、ホールからホールへと足を運び、設計図に照らして少しずつ手直しをする。そして最後に全体を美しく飾って終わりとする。

 こうして吾々による仕事が完了した暁に、畏れ多くも大天使が再度遥か高遠の世界から降りて来られ、細かく点検して回られた。そしてもし不備の点があれば大天使みずから手を加えられた。が、時として吾々の勉強のためを思われて、吾々に直々にお言いつけになることもある。

 かくして落成の日が訪れると、その大天使がもう一人の大天使を伴って再びお出でになられた。霊格がさらに上の方である。

その権威はイスラエルで言えばアロン(*)とその弟子たちのそれにも相当しよう。ギリシャならば神官、キリスト教ならば主席司祭にも相当しよう。その時の目的は建物の〝聖化〟とでも呼ぶべきものである。(*ユダヤの最初の大司祭。モーゼの兄──訳者)


──献堂式(*)でしょうか。(*新築の教会堂を神に奉納する儀式──訳者)


 それで良かろう。地球を含む低級界とを結ぶ保護のための拠点となり、同時に又、それ以後そこに住む人々が神の恩寵と霊力に与る中継の場となるのである。

 地上の寺院は天界の寺院のお粗末な模倣に過ぎない。が、その目的と機能は本質的には同一である。イスラエルにおいては雲が地上界とエホバ神との中継をすると考えられた。

古代エジプトにも同じ考えがあった。ギリシャの都市国家においては寺院の霊的活力が衰えていたが、まだ少しは残っていた。イスラエルにおいては天界からの援助と高揚という特殊な側面にはまったく関心を示さないようである。

私はイスラムの霊界を訪ねてみたことがあるが、そこには顕幽の交わりが根本的に違った形で行われていることを知った。キリスト教の(霊界の)教会堂にも同じくその観念はあるが、程度の差が著しい。

キリストを祀(まつ)る幾つかの教会堂においてはキリストとその側近の大天使の顕現がもう少しで見られる段階に至っている。実際に見られるようになるのも遠い先のことではなさそうに私には思える。

 そういう次第で、地上の寺院も基本理念においては同じものを持っており、遠い過去が引き継がれているのであるが、それがこちらの世界では目に見えて霊験あらたかとなり、見た目に美しくもあり、天界の高地へ向けて一界又一界と上昇して行く者への祝福に満ち満ちているのである。


──今回お建てになった寺院には特別な使用目的があるのでしょうか。

 あれは第五界の各地、時にはそれより下の界から訪れる者が身を浸すエネルギーの貯蔵所としての機能を開始しかけているところです。

訪れた者は色彩の持つ霊妙な波動に浸り、堂内を流れる生命を秘めた小川と噴水に身を洗われ、すみずみまで漲(みなぎ)る霊妙な旋律に包まれて、欠乏した生命力を補い、鈍化した知力を啓発される。そこに注目されたい。単なる保養所ではありません。


もっと質の高い機能を有している。それから先の魂の向上の旅に備えて体力をつけ、入手する知識を即座に、そして効率よく理解する知性を身に付ける場でもあることは確かであるが、同時に、その聖堂を焦点として愛と生命力を注ぎ、彼ら巡礼者の向上を待ち受ける高級神霊との霊的交わりを得るところでもあるのです。


──向上する者は必ずそこを通過しなければならないのでしょうか。

 そうと決まっているわけではありませんが、第五界の者は大半がそこを通過します。この界は永く滞在する者がわりに、いや、ずいぶん多いところです。各自の特性を点検し調整して円満さを身に付けなければならない、大切な界だからです。

(第二巻八章参照)その意味では卒業しにくい界であり、滞在が永びいている者が多く見出される理由はそこにある。聖堂の建立もそのためであった。その必要性が生じたのである。出来上がってまだ日も浅く、これからいろいろと機能を発揮していくことであろう。

また経験を積むにつれて細かい手直しも施されることであろう。

 が、その聖堂まで来て中を覗いてみて学ぶべきものが特に見当たらず、自己の中に改めるべきものも見当たらないほどのゆとりをもってこの界を卒業して行く者もいる。

そうした優等生的霊魂はさっさと上の界へと進み、その道すがら祝福を垂れ、通過する道が一段と輝きを増すほどである。近くの者はそれを有難がり、その姿を見て勇気を鼓舞される。地上ではこうしたことは見かけぬであろう。

が第五界まで向上した者は品性卑しからず、己れより美しく且つ高き霊力を具えた者を見ることが己れ自身の美徳を高め、かくして〝全て神の子〟の真実味をいやが上にも確認することになるのである。

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