The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen
七章 善悪を超えて2 使命への旅立ち
一九一七年十二月十八日 火曜日
お話を給わった拝謁(はいえつ)の間を出て、吾々はその高き聖所を後にした。お話は私がお伝えしたよりもっと多かった。それを愛をこめて話してくださり、吾々は使命へ向けて大いに勇気づけられた。
ポーチまで進み、やがて立ち止まって広い視界に目をやった。下方には草原地帯が横たわり、左右のはるか彼方まで広がっている。
その先に丘が聖所を取り巻くように連なっており、そこから幾すじかの渓流が平野へ向けて流れ、吾々から見て左方向にある湖で合流している。
それがさらに左方向へ流出し、その行く手に第十界と第九界との間に聳える山脈が見える。そう見ているうちに、さきほど話をされた方が吾々の中央に立たれ、ご自身の霊力で吾々を包んで視力をお貸しくださり、ふだんの視力では見えない先、これから赴かねばならない低い界層をのぞかせてくださった。
初め明るく見えるものが次第に明るさが薄れ、かすんで見えるものがおぼろげに見え、ついには完全なモヤとなった。その先は吾々が位置した最も見えやすい位置からでも見透すことは不可能だった。
と言うのも、そこはすでに地球に隣接する界層及びそれ以下の境涯であり、地上界へ行きたい者はひとまずその境涯から脱出しなければならず、一方地上で正しい道を踏み外した者は自然の親和力の作用によってその境涯へと降りて行く。地獄と呼んでいるのがそれである。
なるほど、もし地獄を苦痛と煩悶と、魂を張り裂ける思いをさせることを意味するのであれば、そこを地獄と呼ぶのも結構であろう。
さて必要な持ち物と、これより先に控える仕事を吟味し終えると、吾々はその方に向かって跪き、祝福をいただくとすぐに出発した。まず左手の坂道を下り、山間(あい)を通り抜けて、そこからまっしぐらの長い旅なので、四つの界層を山腹に沿って一気に空中を飛翔(ひしょう)した。
そして第五界まで来て降下し、そこでしばし滞在し、そこの住民が抱える悩みごとの解決にとって参考になるように、入念に言葉を選んで話をした。
──旅の話を進められる前に第五界でのお仕事の成果をお話ねがえませんか。
吾々の仕事は各界で集会を開いて講演をすることでしたが、そこでの話がその最初となりました。まずそこの領主──第五界の統率者の招きにあずかりました。
その領主は、どの界でもそうですが、本来はその界よりも高い霊格を具えた方です。が、吾々が滞在したのは行政官の公舎でした。
行政官はその界でいつまでも向上出来ずにいる者たちの問題点に通暁しておられ、吾々がいかなる立場に立っていかなる点に話題をしぼって講演すべきかについて、よきアドバイスを与えて下さる。
さて、そういう悩みを抱えた人々が公舎の大ホールに集まった。実に大きなホールで、形は長円形をしています。ただし、片方の端がもう一方より圧縮された格好をしています。
──西洋ナシのようにですか。
はて、これはもう、ほとんど忘れかけた果実ですのでしかとは申せませんが、さよう、大体の格好は似ていましょう。ただしあれほど尖った形ではありません。その細い方の外側には大きなポーチがかぶさるように付いており、会衆はそこから入りました。
演壇は左右の壁から等距離の位置にあり、吾々はそこに上がりました。実は吾々の霊団の中に歌手が一人いて、まず初めにその時のために自分で作曲した魅力あふれる曲を歌いました。
その内容は──すでにお話したものも含まれていますが──究極の実在である神がいかなる過程でその霊力を具象化し、愛がいかにして誕生し、神の子等(造化に携わる高級神霊のこと──訳者)がその妙味に触れてそこから美が誕生するに至ったかを物語り、それ故にこそすべての美に愛が宿り、すべての愛が純朴であり、いかなる形で表現されても美にあふれていること。
しかし現象界の発展のために働く者の意志が愛に駆られた美の主流に逆らう方向へと働いた時、そこに元来の至純さと調和しない意志から生まれる或る種の要素が生じ、そのあとに創造される存在は美しくはあっても完全なる美とは言えず、また、ますます激しさを増す混沌たる流れに巻き込まれてさらに美的要素を欠く存在が出現したが、それでも根源より一気に一直線に下降を続けた者の目には見えない美しさを、おぼろげながら具えていた・・・・・・
そう歌いました。会衆は身じろぎひとつせず聴き入っていた。それほどその曲が美と愛の根源から流れ出て来るような雰囲気を帯びていたのです。
またその言葉そのものが〝究極にして絶対〟の存在とは〝統一〟であり、それ自体に多様性はあり得ず、それまでに生じた多様性はてこ的存在としての意義を持つ──つまり多様性の中に表現されたものが抵抗によって再び高揚され統一へ向かうという哲学を暗示しておりました。
さて、歌が終わると会場を重厚な静けさが支配し、全員が静粛にしていた。身じろぎ一つする者がいない。立っている者は立ったまま、ベンチあるいはスツールに腰を下ろしている者もそのまま黙しており、何かに寄り掛かってしゃがみ込んでいる者もそのままの気楽な姿勢でいた。
そのことをはっきりと見てとった。誰ひとり位置を変える者もいなかった。それは、はるか彼方の生命とエネルギーの力強い脈動の中に生まれた歌の魔力が彼らを虜にし、今の境涯と知識とで精一杯頑張ろうという決意を秘めさせたからです。
ややあって、いよいよ私が語る段取りとなった。すでに先の歌い手が、抑え気味に、しかし甘美な声で歌い始めていた。それでも、天体の誕生の産みの痛みの時代の物語に至るとその痛みに声が激しさを増し、勢いとエネルギーが魂の中で激しく高まり、痛ましいほどの壮大な声量となってほとばしり出るかの如くであった。
それからカオス(混沌)が自ら形を整えてコスモス(宇宙)となり、さらに創造主の想像の中から各種の生命体が誕生する段階になると、声と用語の落着いたリズムが整然たる進行の中で次第に平穏となり、最後は単一音で終わった。
それはあたかも永遠の創造活動が今始まったばかりで未だ終局していないことを暗示するために、そのテーマを意図的に中天で停止させたかのようでした。
そのあとを継いで語り始める前に私は一呼吸の間を置いた。それは私の話に備えて頭の中を整理させ、あたりに漂う発光性の雲の中でその考えをマントのごとく身にまとわせ、話をしている私の目に各自の性格と要求とが読み取れ、私の能力において出来うるかぎりの援助を与えるためでした。
それからいよいよ講演に入った。全員に語りかけながら同時に個々の求めるものを順々に満たしていった。多様性となって顕現し虚空に散らばったものを再び一点に集約し、美そのもの、愛そのものである究極の実在からの熱と光りとを吸収しそして発散するところの大いなる霊的太陽について語った。
また、ペテロとユダの背信行為と裏切りとその後の後悔の話──一方は地上において束の間の地獄を味わい、一千年もの悔恨を一カ月で済ませて潔白の身となった。
そこに秩序ある神の家族内での寛恕と復権の可能性が見られること。もう一方は最後まで懺悔の念が生じず、自分が絶望の狂乱の中で金で売った人物(イエス)が死を迎えた時に、いつもの自暴自棄的気性のために早まって(首を吊って)この世から逃げた。が、
これで消えてしまったと思い込んだ思惑とは裏腹に彼は生き続けていた。しかし彼はなおも懺悔の念は生じず、イエスみずからが、迷える小羊を探し求めるごとくに、奥深き地獄の峡谷へユダその他の罪人に会いに赴いた。
そして陰気さと、触れられるほどの真実味のある暗闇の中にいる彼らに光と愛そのものである神の存在と、その聖なる御子を通じて愛の輝きが想像を絶した宇宙の果てまで、そしてその地獄の世界までも投射されている事実を語って聞かせた。
彼らは最後に光を見てから何十年何百年ものあいだ光というものを見ておらず、今では光とは何か、どのように目に映じるものかもほとんど忘れている。
その彼らの目に久しぶりに一条(ひとすじ)の光が見えてきた。もとよりイエスは彼らの視力に合わせてご自分の身体を柔らかい、優しい、ほのかな光輝で包み込んでおられた。
その足元へ一人また一人と這い寄ってくる。その目から涙がこぼれ落ちている。それがイエスの光に照らされてダイヤモンドのしずくの如く輝いて見える。その中の一人に裏切り者のユダもいた。そしてイエスから赦しの言葉を聞かされた。
ペテロがのちにイエスにあったとき主の寛恕の愛を聞かされたごとくにであった。
聴衆はじっと聞き入り、そして私の述べていることが、宇宙の君主であり愛そのものであるところの神への一体化についてであり、そして又その神への従順さが生み出すところの産物──それは人間から見れば難問でありながら実はその一体化を促すためのてこ的意義を持つものであることを理解し始めていた。
私は静寂のうちに講演を終わり、同じく静寂のうちに他の者とともに演壇を下り、ホールを出て公舎を後にし、次の旅へ向かった。行政官が総出で吾々をていねいな感謝の言葉とともに見送ってくださり、吾々も祈りでもってこれに応えた。かくしてその界を後にしたのであった。
一九一七年十二月十八日 火曜日
お話を給わった拝謁(はいえつ)の間を出て、吾々はその高き聖所を後にした。お話は私がお伝えしたよりもっと多かった。それを愛をこめて話してくださり、吾々は使命へ向けて大いに勇気づけられた。
ポーチまで進み、やがて立ち止まって広い視界に目をやった。下方には草原地帯が横たわり、左右のはるか彼方まで広がっている。
その先に丘が聖所を取り巻くように連なっており、そこから幾すじかの渓流が平野へ向けて流れ、吾々から見て左方向にある湖で合流している。
それがさらに左方向へ流出し、その行く手に第十界と第九界との間に聳える山脈が見える。そう見ているうちに、さきほど話をされた方が吾々の中央に立たれ、ご自身の霊力で吾々を包んで視力をお貸しくださり、ふだんの視力では見えない先、これから赴かねばならない低い界層をのぞかせてくださった。
初め明るく見えるものが次第に明るさが薄れ、かすんで見えるものがおぼろげに見え、ついには完全なモヤとなった。その先は吾々が位置した最も見えやすい位置からでも見透すことは不可能だった。
と言うのも、そこはすでに地球に隣接する界層及びそれ以下の境涯であり、地上界へ行きたい者はひとまずその境涯から脱出しなければならず、一方地上で正しい道を踏み外した者は自然の親和力の作用によってその境涯へと降りて行く。地獄と呼んでいるのがそれである。
なるほど、もし地獄を苦痛と煩悶と、魂を張り裂ける思いをさせることを意味するのであれば、そこを地獄と呼ぶのも結構であろう。
さて必要な持ち物と、これより先に控える仕事を吟味し終えると、吾々はその方に向かって跪き、祝福をいただくとすぐに出発した。まず左手の坂道を下り、山間(あい)を通り抜けて、そこからまっしぐらの長い旅なので、四つの界層を山腹に沿って一気に空中を飛翔(ひしょう)した。
そして第五界まで来て降下し、そこでしばし滞在し、そこの住民が抱える悩みごとの解決にとって参考になるように、入念に言葉を選んで話をした。
──旅の話を進められる前に第五界でのお仕事の成果をお話ねがえませんか。
吾々の仕事は各界で集会を開いて講演をすることでしたが、そこでの話がその最初となりました。まずそこの領主──第五界の統率者の招きにあずかりました。
その領主は、どの界でもそうですが、本来はその界よりも高い霊格を具えた方です。が、吾々が滞在したのは行政官の公舎でした。
行政官はその界でいつまでも向上出来ずにいる者たちの問題点に通暁しておられ、吾々がいかなる立場に立っていかなる点に話題をしぼって講演すべきかについて、よきアドバイスを与えて下さる。
さて、そういう悩みを抱えた人々が公舎の大ホールに集まった。実に大きなホールで、形は長円形をしています。ただし、片方の端がもう一方より圧縮された格好をしています。
──西洋ナシのようにですか。
はて、これはもう、ほとんど忘れかけた果実ですのでしかとは申せませんが、さよう、大体の格好は似ていましょう。ただしあれほど尖った形ではありません。その細い方の外側には大きなポーチがかぶさるように付いており、会衆はそこから入りました。
演壇は左右の壁から等距離の位置にあり、吾々はそこに上がりました。実は吾々の霊団の中に歌手が一人いて、まず初めにその時のために自分で作曲した魅力あふれる曲を歌いました。
その内容は──すでにお話したものも含まれていますが──究極の実在である神がいかなる過程でその霊力を具象化し、愛がいかにして誕生し、神の子等(造化に携わる高級神霊のこと──訳者)がその妙味に触れてそこから美が誕生するに至ったかを物語り、それ故にこそすべての美に愛が宿り、すべての愛が純朴であり、いかなる形で表現されても美にあふれていること。
しかし現象界の発展のために働く者の意志が愛に駆られた美の主流に逆らう方向へと働いた時、そこに元来の至純さと調和しない意志から生まれる或る種の要素が生じ、そのあとに創造される存在は美しくはあっても完全なる美とは言えず、また、ますます激しさを増す混沌たる流れに巻き込まれてさらに美的要素を欠く存在が出現したが、それでも根源より一気に一直線に下降を続けた者の目には見えない美しさを、おぼろげながら具えていた・・・・・・
そう歌いました。会衆は身じろぎひとつせず聴き入っていた。それほどその曲が美と愛の根源から流れ出て来るような雰囲気を帯びていたのです。
またその言葉そのものが〝究極にして絶対〟の存在とは〝統一〟であり、それ自体に多様性はあり得ず、それまでに生じた多様性はてこ的存在としての意義を持つ──つまり多様性の中に表現されたものが抵抗によって再び高揚され統一へ向かうという哲学を暗示しておりました。
さて、歌が終わると会場を重厚な静けさが支配し、全員が静粛にしていた。身じろぎ一つする者がいない。立っている者は立ったまま、ベンチあるいはスツールに腰を下ろしている者もそのまま黙しており、何かに寄り掛かってしゃがみ込んでいる者もそのままの気楽な姿勢でいた。
そのことをはっきりと見てとった。誰ひとり位置を変える者もいなかった。それは、はるか彼方の生命とエネルギーの力強い脈動の中に生まれた歌の魔力が彼らを虜にし、今の境涯と知識とで精一杯頑張ろうという決意を秘めさせたからです。
ややあって、いよいよ私が語る段取りとなった。すでに先の歌い手が、抑え気味に、しかし甘美な声で歌い始めていた。それでも、天体の誕生の産みの痛みの時代の物語に至るとその痛みに声が激しさを増し、勢いとエネルギーが魂の中で激しく高まり、痛ましいほどの壮大な声量となってほとばしり出るかの如くであった。
それからカオス(混沌)が自ら形を整えてコスモス(宇宙)となり、さらに創造主の想像の中から各種の生命体が誕生する段階になると、声と用語の落着いたリズムが整然たる進行の中で次第に平穏となり、最後は単一音で終わった。
それはあたかも永遠の創造活動が今始まったばかりで未だ終局していないことを暗示するために、そのテーマを意図的に中天で停止させたかのようでした。
そのあとを継いで語り始める前に私は一呼吸の間を置いた。それは私の話に備えて頭の中を整理させ、あたりに漂う発光性の雲の中でその考えをマントのごとく身にまとわせ、話をしている私の目に各自の性格と要求とが読み取れ、私の能力において出来うるかぎりの援助を与えるためでした。
それからいよいよ講演に入った。全員に語りかけながら同時に個々の求めるものを順々に満たしていった。多様性となって顕現し虚空に散らばったものを再び一点に集約し、美そのもの、愛そのものである究極の実在からの熱と光りとを吸収しそして発散するところの大いなる霊的太陽について語った。
また、ペテロとユダの背信行為と裏切りとその後の後悔の話──一方は地上において束の間の地獄を味わい、一千年もの悔恨を一カ月で済ませて潔白の身となった。
そこに秩序ある神の家族内での寛恕と復権の可能性が見られること。もう一方は最後まで懺悔の念が生じず、自分が絶望の狂乱の中で金で売った人物(イエス)が死を迎えた時に、いつもの自暴自棄的気性のために早まって(首を吊って)この世から逃げた。が、
これで消えてしまったと思い込んだ思惑とは裏腹に彼は生き続けていた。しかし彼はなおも懺悔の念は生じず、イエスみずからが、迷える小羊を探し求めるごとくに、奥深き地獄の峡谷へユダその他の罪人に会いに赴いた。
そして陰気さと、触れられるほどの真実味のある暗闇の中にいる彼らに光と愛そのものである神の存在と、その聖なる御子を通じて愛の輝きが想像を絶した宇宙の果てまで、そしてその地獄の世界までも投射されている事実を語って聞かせた。
彼らは最後に光を見てから何十年何百年ものあいだ光というものを見ておらず、今では光とは何か、どのように目に映じるものかもほとんど忘れている。
その彼らの目に久しぶりに一条(ひとすじ)の光が見えてきた。もとよりイエスは彼らの視力に合わせてご自分の身体を柔らかい、優しい、ほのかな光輝で包み込んでおられた。
その足元へ一人また一人と這い寄ってくる。その目から涙がこぼれ落ちている。それがイエスの光に照らされてダイヤモンドのしずくの如く輝いて見える。その中の一人に裏切り者のユダもいた。そしてイエスから赦しの言葉を聞かされた。
ペテロがのちにイエスにあったとき主の寛恕の愛を聞かされたごとくにであった。
聴衆はじっと聞き入り、そして私の述べていることが、宇宙の君主であり愛そのものであるところの神への一体化についてであり、そして又その神への従順さが生み出すところの産物──それは人間から見れば難問でありながら実はその一体化を促すためのてこ的意義を持つものであることを理解し始めていた。
私は静寂のうちに講演を終わり、同じく静寂のうちに他の者とともに演壇を下り、ホールを出て公舎を後にし、次の旅へ向かった。行政官が総出で吾々をていねいな感謝の言葉とともに見送ってくださり、吾々も祈りでもってこれに応えた。かくしてその界を後にしたのであった。
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