Friday, January 31, 2025

シアトルの冬 ナザレのイエスとキリスト教

Jesus of Nazareth and Christianity




【Q1】

 聖書(バイブル)には、真実が語られているのでしょうか?

 聖書は、霊的真理と人間的夾雑物の混ぜものです。


【Q2】
 キリスト教でもそうですが、宗教の指導者の生と死と復活を、太陽系や四季のめぐりといった、自然現象と関連した神話上の神々になぞらえているものが多いのはなぜでしょうか?

 それは、人間が自分たちの指導者には超自然的能力があったのだと思いたいために、太古の神話からそうしたものを借用したからです。

当時の人間は、まだ自然法則という概念をもちあわせていませんでした。それで彼らは、自分たちの指導者は、自分たちにはない超越的資質をそなえた超常的人物であったことにしたいと思い、民族同士でそれぞれの神話を借用しあったわけです。

 それはしかし、大霊の使者によってもたらされた教えを汚染するまでには至っていません。それぞれの時代、それぞれの民族において、それぞれの必要性に応じて、大霊の真理と英知と愛を反映したものが届けられています。


【Q3】
 そうした宗教上の人物は、大自然の運行と連動しているのだと、信奉者は信じています。つまり、自分たちの教祖さまの生涯は自然現象を暗示している(たとえば、死後の復活は冬のあとに春が訪れるのと同じ)と信じているのですが、これは単なる偶然でしょうか?

 あなたのおっしゃるのが、聖書にあるようにナザレのイエスが磔刑(はりつけ)になったときに、天地が慟哭するかのように、稲光とともに嵐が吹きまくったという話のことであれば、それは事実ではありません。死んだ人間もみな、地上へ戻ってくることを意味するのであれば、それは事実です。さきほど述べた大霊の使者の生涯に関しても、同じようなこじつけがみられます。


【Q4】
 「聖霊に対する罪」というのは、どういう罪でしょうか?

 聖霊に対する罪は、聖霊の存在を否定することです。

訳注───このシルバーバーチの答えは、キリスト教を代弁したものではなく、霊的真理に照らして批判的に答えたもの。つまり、キリスト教神学でいう 「三位一体説」、すなわちゴッドとイエスと聖霊が一体であるとの説が誤りであるとの立場から、次の質問(Q5)に対する答えで述べているように、キリスト教では実質的には聖霊の存在をみずから否定しているのだから、その意味でキリスト教者自身が罪を犯していることを指摘している。


【Q5】
 聖霊とは何なのでしょう?

 霊界から届けられる霊的エネルギーのことです。キリスト教では教義の一つとして抽象的には認めていますが、私たちが 「地上界のすべての人間が、その恩恵に浴しているものです。こうしてみなさんと語りあえるのも、その霊力のおかげです」 と言うと、それは聖霊ではないと反発します。たとえ一時であっても、霊の世界と物質の世界が目的において、こうして一つになることを可能にしてくれるのは、聖霊すなわち大霊のエネルギーのおかげなのです。


【Q6】
 聞くところによると、キリスト教のどの教派においても、洗礼を受けることによって、死後その教派の霊団に迎えられて、新しい環境に順応するように世話をしてもらえるのだそうですが、それが事実だとすると、洗礼を受けていない者はどうなるのでしょうか?

 この大宇宙を稼動させている力、この物的身体に生命の息吹を吹き込んで霊的存在としてくれている力、無数の天体のすべてに存在を与え、自然法則として顕現している力、無数の次元の生命として顕現している大霊、太古より多くの預言者や霊媒を通して顕現してきた大霊、すべての存在の内部と背後にあって働いている力、その無限大の力である大霊が、人間が水をかけられているかどうかでお困りになることはありません。

大切なのは、各自の人生が摂理にかなっているか否かです。赤子に数滴の水をかけたからといって、摂理がごまかせるわけではありません。摂理は変えられないのです。原因には、それ相当の結果が出るようになっているのです。


【Q7】
 キリスト教は、多くの立派な人間を生み出したのではないでしょうか?

 その人はクリスチャンになろうとなるまいと、立派な人間になっていたはずです。


【Q8】
 でも、イエスの教えにしたがったからこそ、立派になったのではないでしょうか?

 地上界の人間が本当にナザレのイエスを見習った生き方をしたら、人類の歴史に新たな一章が始まったことになるでしょう。残念ながら、まだ始まっていません。私の目にはその兆候はどこにも見えません。

 忠誠を尽くすべき人物を裏切るような生き方をしながら、この私に向かって 「クリスチャン」 という用語を用いることはやめてください。イエスも言っているではありませんか───「私に向かって主よ、主よ、と言っている者のすべてが天国に入れるわけではない。天に在します父の御心を実践する者のみが入れるのである」 と。


【Q9】
 クリスチャンのなかには教義にあまりこだわらず、それでいて我欲のない立派な生涯を送った人物がいく人もいましたね?

 そういう人物は、立派なクリスチャンとは言えません。だめなクリスチャンということになりましょう。ですが、立派な人物だったのです。忘れないでください。いかなる教義も必ず魂を束縛します。

 人間は、教義を守ることによって立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人類は教義の名のもとに殺しあい、火刑に処してきました。魂を縛るもの、手かせ足かせとなるもの、自由な生き方を阻むものは、いかなるものであっても排除しなくてはいけません。


【Q10】
 イエスは教会がいっているように 「神の唯一の子」 だったのでしょうか?それとも、ふつうの人間の子で、偉大な霊的能力をそなえていたのでしょうか?

 イエスは、大霊の使命を帯びて物質界へ降誕した使者の一人でした。地上での使命は成就しましたが、まだ全使命の一部が残っています。今、それを成就するために霊界から指揮しているところです。忘れてならないのは、イエスという一人物を崇めるのは間違いだということです。

 崇拝の対象とすべきものは大霊のみであって、その大霊の使者を崇めてはいけません。またイエスは、自然法則にのっとって地上界へ降誕してきました。自然法則を無視して物的生命を授かることはできません。法則を無視して地上へ生まれてくることも、地上界から私たちの世界へ来ることもできません。


【Q11】
 そのことを、イエスは聖書のどこかで言っていますか?

 私が訴えるのは大霊の法則のみです。何かというと言葉の松葉杖にすがるような人は、大霊が今も働いている、今もインスピレーションを地上の人間に届けてくださっている、今も真理を啓示してくださっているということを悟るまで、霊性の進化を待つしかありません。

 霊的法則は、今でも同じように働いているのです。霊的エネルギーは、今でも霊媒を通して働くことができるのです。あの聖書の時代と同じように、大霊の道具となることができるのです。聖書は立派な本かもしれませんが、もっと立派な〝本〟があります。大宇宙そのものです。

大霊の摂理で構成されており、その本からみなさんは、他のいかなる本───それがいかに立派で、いかに大切にされ、いかに崇められていても、それよりはるかに多くのことを学ぶことができます。


【Q12】
 イエスは今、どこにいて、何をなさっているのでしょうか?

 ナザレのイエスなる人物を通して顕現した霊は、二〇〇〇年前に開始した使命を果たすべく、今も働いています。その霊は二〇〇〇年前に十字架に架けられましたが、実はその後も数え切れないほど架けられ、今では毎日のように架けられています。しかし、その霊は大霊の分霊ですから、地上界に秩序と安寧をもたらすべく、これからも道具のあるところに働きかけて、その影響力を広げていくことでしょう。


【Q13】
 あなたがイエスについて語るとき、それは人間イエスのことですか? それともイエスを通して働きかけた霊的勢力の総合ですか?

 人間イエスのことです。ですが、その後イエスは大きく進化し、地上時代よりもはるかに高等な意識を発現しています。地上で発現する意識の高さが、生まれ落ちた時代と土地柄に相応したものにならざるを得ない以上、やむを得ないことです。それでも、ナザレのイエスを通じて発現した霊性は、地上に降誕したいかなる人物をも凌ぐものでした。イエスほど霊性を強烈に顕現した者は、ほかにいないということです。


【Q14】
この二〇〇〇年間に、でしょうか?

 前にも後にもいません。イエスが発現した霊性は、地上界で発現した大霊の霊性のなかでも最大のものでした。だからといって私たちは、イエスという一個の人物を崇めることはしません。イエスを通じて発現した霊力には敬意を表します。どれだけ霊力の道具になったかで受けるべき敬意の度合が決まる、というのが私たちの認識の仕方だからです。


【Q15】
 霊界では、イエスのような人物を地上へ送って、さらに啓示を届ける計画があるのでしょうか?

 必要性が変われば、それに応じて手段も変えないといけません。忘れてならないのは、地上世界は、ますます複雑になり、ますます相互依存の傾向が強まっていますから、霊界とのコミュニケーションのチャンネルも新たに開かねばならなくなっていることです。

 霊界側は、地上界のさまざまな気質、さまざまな慣習、ものの考え方、生活様式を考慮しなければなりません。メッセージの内容も自然環境や特質、民族的習慣にあわせなくてはなりません。言語による制約もあり、それを読んだり聞いたりする人たちの程度にあわせなくてはなりません。しかし、その背後で鼓舞している根源的エネルギーは同じです。
 キリスト教界では、死者からよみがえって姿を見せ、生命が永遠であることを証明して見せた人物に敬意を表しています。その人物は物質化して、証拠として磔刑の傷跡を見せています。その後も顕現しています。こうした現象をキリスト教界では、証明はできなくても事実として信じているのです。ところが、それは神の子イエスだから発生した奇跡であると独断します。

 しかし、私たち霊界の者が、こうして交霊会に出現し、死後の世界の実在を証言し、大霊の永遠性とその摂理・法則の不変性を説くことができるのも、奇跡ではなく、イエスのよみがえりと同じく、法則にのっとった自然現象なのです。つまり、すべての人間がよみがえるのです。生命の法則がそうなっているからです。


【Q16】
 伝統的宗教を扱うに際しては、寛大な態度でのぞむべきでしょうか、厳しい態度でのぞむべきでしょうか?

 おそれることなく、真実を語ることです。あなたは大霊の使いです。邪説を論破し、虚偽を暴きなさい。おそれることはありません。


【Q17】
 スピリチュアリズムを受け入れれば、伝統的宗教は捨て去るべきでしょうか?

 私はラベルには関心がありません。はたしてスピリチュアリストなのかも定かでありません。確認する儀式をしたことがないからです。自分がどういう信者であるかを宣言しても何の意味もありません。私たちが関心をもつのは、日常生活をどう生きているかです。
 宗教とは何なのでしょう? 教会やシナゴーグやチャペルや寺院に通うことでしょうか? 人間のこしらえた信条の受け入れを宣言することでしょうか? ローマ・カトリック教徒ですとか、プロテスタントですとか、仏教徒ですとか、ユダヤ教徒ですとかいうことでしょうか?

 宗教とは、大霊に少しでも近づくような生き方をすることです。大霊の御心があなたを通じて発現することです。宗教とはサービスです。
 霊界からの啓示のすべてを手にしながら、あいかわらず伝統的宗教の教義にしがみついている人がいたら、その人のことを気の毒に思ってあげなさい。心のなかで、その人のために祈ってあげなさい。その人は、まだまだ初歩の段階にいるのですから。


【Q18】
 宗教の指導的立場にいる者が霊的真理に目覚めたとき、旧式の概念は捨て去るべきでしょうか?

 人間各個の義務というものを、私たちは至上の原則と位置づけています。自分のすることには自分が責任を負うということです。

 霊的真理に関して屁理屈で言い逃れをしても何にもなりません。霊的意識が芽生えれば、良心の声がどうすべきかを教えてくれるものです。それをなるほどと認識したら、そのとおりに実行しなければなりません。それができない人はその程度の人なのですから、それをとがめることは正しくありませんし、適切でもないと考えます。


【Q19】
 スピリチュアリズムは、いずれ普遍的な宗教となるのでしょうか?
 スピリチュアリズムというのは、いくつかの霊的真理の存在と意義と作用について与えられた名称に過ぎません。私にとって宗教とは生き方そのものであって、特定の信仰を受け入れることではありません。


【Q20】
 教会やチャペル、シナゴーグなどは存在価値があると思われますか?

 あるものもあれば、ないものもあります。そういう場所にいる者が、無意識のうちにせよ霊の影響を受け、インスピレーションを受けるようであれば、光明と知識と英知と真理を広めるための道具となりますから、大いに役立つでしょう。

 インスピレーションもなく、古い形式や儀式、朽ち果てた教義の繰り返しで、神学の一字一句にこだわった説教しかできないようでは、何の役にも立ちません。

いずれにしても、一概にはどちらとも言えません。だめ呼ばわりするところばかりでもありませんし、絶賛したくなるようなところばかりでもありません。それぞれに長所と短所があり、本来のサービスをしているところもあれば、していないところもあります。

シアトルの冬  啓示と宗教

Revelation and Religion


【Q1】

 霊媒というのは生まれながらのものなのでしょうか?それとも養成することも可能なのでしょうか?

 霊的能力がそなわっているということが第一条件です。それは授けられるものです。人間は、霊的存在であるからには霊的属性を備えていますから、その意味では、潜在的にはすべての人間が霊媒であるといえます。


【Q2】
 霊が支配するためには、霊媒は深いトランス状態に入る必要があるのでしょうか?

 その必要はありません。霊媒が深いトランス状態に入らなくても、支配霊や指導霊はメッセージを伝えることができます。トランス状態の利点は、霊媒の構成要素(肉体・精神・霊)を自由に操ることができるという点にあります。霊媒の意識のでしゃばりを抑えるほど、仕事がやりやすくなります。しかし、支配霊や指導霊にとって、霊媒がトランス状態に入ることは必須というわけではありません。


【Q3】
 霊媒現象およびスピリチュアリズム全体の普及のために、われわれは何をすべきかについて助言をいただけませんか?

 スピリチュアリズムのあらゆる側面において、常に新しい要素が生まれ出ています。霊媒現象でも物理的なものが次第に影をひそめ、病気治療と霊的知識の分野で高次元の側面が徐々に出始めています。進化のサイクルが変わったということです。

 どうすべきかとお尋ねですが、鼓舞されるままに進めばよろしい。あらかじめ用意されたものというものは何もありません。現在のあなたも、何かに鼓舞されてここまで来たのです。それと同じ力に任せればよろしい。その力は、これまで一度もあなたを見捨てたことはありませんでした。

地上のいかなるものよりも大切な霊的知識を手にするよう、今日まで導いてくれたのです。ひたすら前進することです。ベストを尽くすことです。その力が導き支えてくれます。


【Q4】
 トランスを伴う現象は、健康に影響があるでしょうか?

 ありますが、よい影響しかありません。ただし、トランス現象に関わる法則を守っていれば、のことです。たとえば、一日に三回も四回も交霊会を催せば、当然のことながら健康に害を及ぼすでしょう。常識的な線で定期的に行ない、演出される現象に進歩が見られれば、健康はむしろ増進するはずです。

 なぜかといえば、そういう状態のときに、霊媒の身体を流れる霊的エネルギーは活力に富んでいて、会を催すたびに少しずつその活力を残していくからです。使い方一つで、健康を増進することにもなれば、阻害することにもなります。


【Q5】
 心に念じたことは、必ず霊に通じるものでしょうか?

 そうとは限りません。波動的に合致しているか否かによります。合致していれば通じます。もっとも、霊的な親和性のある魂同士であれば、地上と霊界の隔たりに関係なく、思念や要望は即座に通じます。


【Q6】
 以前に比べて、霊界から通信を届けるのが容易になってきているのでしょうか?

 容易になりました。混沌とした状態が次第に消え、秩序ができてきました。(戦争が生み出した)激しい、凶暴な感情が後退し、消えていきつつあります。地球を取り巻いていた怨恨の霧に晴れ間が見えるようになり、それだけ地上界に近づきやすくなりました。この傾向は今後も進展することでしょう。


【Q7】
 霊視能力者が霊の姓名を伝えるときに、「姓」が伝えられないことがありますが、なぜでしょうか?

 大体において、姓は呼び名よりも受け取りにくいのです。これは音のバイブレーションの感得力の問題に帰します。呼び名のように聞き慣れているものは、伝えやすく受け取りやすいのです。変わった名前、一般的でない名前ほど伝えにくく、また受け取りにくいものです。

 さらにいえば、こちらの世界から霊媒または霊能者に送り届ける情報の多くは、絵画またはシンボルのかたちをとりますから、姓のような抽象的なものは伝えにくいのです。もちろん、霊視力ないしは霊聴力が格別に鋭い人は、鮮明に受け取ることができます。

 ですが、ここで忘れてならないのは、霊的能力の善し悪しは姓が正しく受け取れるか否かで決まるわけではないということです。要は、霊の身元の証拠になるものが示せるか否かです。


【Q8】
 ホームサークル(交霊会・実験会)には、ドアキーパー(玄関番・門衛)がいるそうですが、どういう役目をしているのでしょうか?
 ドアキーパーの役目は、ドアキーパーであることです。当たり前のことのようですが、邪霊やヤジ馬霊を排除するためのバリアをこしらえる力を操ることができるようにならないことには、その役目は果たせません。その力の源は、実はあなた方出席者であり、その集合的な力であることをご存じでしょうか?出席者一人ひとりから引き出し、担当の指導霊(ドアキーパー)がそれを素材にバリアをこしらえるのです。要するに、霊界のエネルギーと人間から引き出したエネルギーとを混合してバリアをこしらえ、サークル活動に使うのです。


【Q9】
 スピリチュアリズム勃興以前にも、霊的な啓示があったのでしょうか?

 突発的な啓示はいくつかありましたが、持続しませんでした。スピリチュアリズムと銘打った今回の啓示は組織的なものであり、コントロールされたものであり、規制されたものです。

 人間の想像をはるかに超えた協調関係のもとに計画されたプロジェクトで、その背後の組織は途方もなく広大であり、緻密な計算のもとに実行に移されています。すべてに打ち合わせがなされているのです。

 霊界の扉が地上へ向けて開かれることに決したとき、それは十分な熟慮の末に決したのであり、したがって、いったん開かれた以上は二度と閉じられることはありません。
 私たちの使命は、目的性のあるもの、意義のあるものを授けることであり、霊的なことにも法則があることを証明する一方で、死後の世界についての知識と慰めを与えることです。つまり、死後の世界にも摂理・法則があることを説きあかすだけでなく、霊に関わる真理をお教えすることです。

 私たちの使命に立ちはだかるものとして、間違った教えのうえに築かれた巨大な宗教的組織があります。何世紀にもわたって築きあげられてきたものを切り崩さねばなりません。誤った教義・信条のうえに築かれた聖職者の支配構造を破壊しなければならないのです。

 私たちは、物質界の子らに、いかにすれば迷信から解放され、霊的真理の陽光を浴びることができるか、いかにすれば誤った教義の奴隷状態から脱け出ることができるかをお教えしようと努力しているところです。これは容易ならざる仕事です。なぜなら、いったん宗教の罠にかかってしまうと、正しい霊的真理が、その迷信の厚い壁を突き抜けるには、長い長い年月を要するからです。

 私たちは、霊的真理の宗教的意義を説きあかしたいと努力しています。地上界の人間が、その霊的な意義を理解したとき、戦争や流血による革命より偉大な革命が成就されるからです。それは魂の革命であり、世界中の人間が本来享受すべきもの、霊的存在としての自由を満喫する権利を要求するようになります。

そのとき、足かせとなっていたものすべてが、ひとたまりもなく消し飛んでしまいます。私たちが忠誠を尽くすのは教義でもなく、書物でもなく、教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の自然法則です。


【Q10】
 私は、ドグマや組織宗教には、すっかり落胆しています。しかし、教会には存在価値を認めるのですが・・・。

 教会設立の起源に立ち戻ってみましょう。キリスト教の教会も、他の宗教の教会、寺院、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)、チャペルなどと同じく、遠い過去においても霊界から地上界への働きかけがあったからこそ、存在するようになったのです。そこでは常に(霊媒がいて)、いわゆる〝しるしと不思議〟、ときには奇跡的現象が発生していました。

 それは、当時の信仰や教義やドグマの間違いを教える目的をもっていました。霊界からの働きかけが、本来は、病人を癒し、正しい生き方を教え、人生の基本原理、すなわち、物質は殻であり、霊こそ実在であることを強調することにあるという点において、神性を帯びていることを証明するものでした。

 ところが残念ながら、これまでの歴史を見ればおわかりのとおり、そういう霊力のほとばしりは一時的なもので終わっています。
 次第に神学者が(霊媒を押しのけて)支配するようになり、俗世的な頭で教義をこしらえ、霊的啓示にとってかわるようになりました。不毛の言葉が生きた啓示を凌ぎ始めたのです。その後も霊力のほとばしりに伴って、〝しるしと不思議〟と奇跡が発生してきました。同じことがいく度も繰り返されたのです。


【Q11】
 あなたのおっしゃる「宗教的寛容」を明確に説いていただけませんか?宇宙が絶対的な自然法則によって支配されているとか、その法則は完璧で永遠不滅であるといった教えは、ある意味ではドグマ的で、寛容性に欠けていると言えないでしょうか?

 私はこれまで、絶対に間違ったことは言わないと主張したことは一度もありません。あなた方と同じ人間的存在であり、理性に訴えることを第一の心がけとして真理を説いてきました。私のいうことを拒絶したら罰が当たるようなことは、暗に、におわせることもしていないつもりです。こちらへ来てみてわかった真相はこうなっていますということをお伝えしているだけです。

 どう受け取るかは、あなた方の判断に任せます。なるほどと納得がいけば受け取ってください。納得がいかなければ拒否なさればよろしい。信頼を勝ち取る方法がほかにあるでしょうか?

 ご利益(あめ)と天罰(むち)ですか?とんでもない。私たちは、愛と常識で信頼を勝ち取り、共通の基盤のうえで語りあえることをモットーとしてのぞんでいます。


【Q12】
 あなたの教えは、一般の人々を対象にしておられるのでしょうか?もしそうであれば、初期のキリスト教が説いたような単純なもの、たとえば、贖い(あがな)の教義を説いたほうがよろしいのではないでしょうか?高級霊による霊界通信よりも、そのほうが現代人には役に立つのではないでしょうか?

 ご質問の根底にあるものは間違っていると、あえて申しあげます。私の教えが大衆を意図したものであることは認めます。また、大衆が理解し、吸収し、ありがたく思うような真理は単純なものであり、その単純なものこそが、大衆が宗教に求めているものを提供するというのが私の考えです。

教訓の真髄は単純そのもの、すなわち、真実であるということに尽きます。他の条件はどうでもよろしい。
 その点、ひきあいに出された教え(キリスト教)が支持を失ってしまったのは、その教義が真実でないからです。そのなかの一つである贖罪説を例に出されましたが、罪を贖うのはあくまでも自分自身であって、他のだれにも贖うことはできません。

あなたの人生の責任は、あなたが背負うのです。あなたが犯した罪を赦してくれる者はいません。原因と結果の法則を阻止したり変更したりすることのできる者はいません。寸分たがわぬ正確さをもって働きます。


【Q13】
 スピリチュアリズムと伝統的宗教との融合が望ましいのでしょうか?

 それは言葉の遊戯に過ぎません。私は、タイトルやラベルや種類分けには興味はありません。要は真理を普及させ、人類を迷信から解放し、大霊の子が死後に待ち受ける生活にそなえた、生き甲斐ある生活ができるようにしてあげる───そうした目的に沿ったものであれば私は大歓迎ですし、魂の解放にとって意義があります。

スピリチュアリズムといい、伝統的宗教といい、いずれも漠然としていて、これを言葉で解説しようとすると混乱してしまいます。私の関心は、光明を求め内部の神性を発現して、自分より恵まれない人々の役に立つことをしようと心がけている一人ひとりの人間です。

 一人ひとりの人間が授かった資質を活用して最善を尽くし、日々、大霊の計画とその子らのために寄与しているのだと実感する、それだけで十分です。霊能を授かった人は、一般の人にはできないかたちでの人助けができるという、はかりしれない恩恵に浴しています。ほとんど毎日のように訪れる素晴らしいサービスのチャンスに、心躍るほどの喜びを感じるようでなければいけません。

 が、知識には責任が伴うことを忘れてはいけません。霊能者は、崇高な真理を授かっているばかりでなく、崇高なエネルギー、神性を帯びた生命力そのものも授かっていることを忘れてはいけません。

 地上界を霊的に浄化し再生させる仕事にたずさわるということは、大変な責任を伴います。が、常に導きがあります。自信をもって進んでください。毎日、霊的歓喜を覚えるほどのサービスのチャンスがもたらされます。

シアトルの冬 生命の四つの形態

The Four Forms of Life






――自然界の生命を鉱物と植物と動物、それに人類の四つに分ける説と、有機的生命と無機的生命の二つに分類する説とがありますが、どちらがよろしいでしょうか。


「どちらでも結構です。どちらにするかは観点の違いでしょう。物質に観点を置けば有機物と無機物の二つだけになります。生命に観点を置けば四つになることは明らかです」


――植物にも存在の意識があるのでしょうか。


「ありません。思考作用はありません。有機的生命活動のみです」


――感覚はあるのでしょうか。むしり取られたら痛みを感じるのでしょうか。


「植物は物的に反応する感覚はありますが、知覚はありません。従って痛みは感じません」


――オジギソウのように素早く反応する草や食虫植物のようにワナを仕掛ける植物には思考力があるのではないでしょうか。この種のものは植物と動物の中間に位置していて、次の段階へ変移しかかっているのではないでしょうか。


「自然界の全てのものが変移しています。種(しゅ)が全て異なり、それでいて全てがつながっているという事実がそれを物語っています。植物には思考力はありません。従って意志もありません。カキやイソギンチャクのような海中動物も意志があるかのような反応を示しますが、思考力はありません。自然の本能だけです」


――植物には自分に役立つものを摂取し害になるものは避けるという本能があるのではないでしょうか。


「それを本能と呼びたければそう呼ばれて結構です。本能という用語をどこまで拡大解釈するかによって違ってきますが、あれは純粋に機械的なものです。ご存じのように化学物質の中には簡単に結合するものがあります。親和性があるからですが、それを本能とお呼びになりますか」


――上層界へ行けば植物も完全に近づくのでしょうか。


「上層界では何もかもが完全に近づくことは事実です。が、動物があくまでも動物であり、人間があくまでも人間であるように、植物はあくまでも植物です」
〈動物と人間〉


――動物は本能だけで行動していると言えるでしょうか。


「大半の動物において本能が圧倒的に支配していることは事実です。ですが、動物が頑とした意志で行動するのを見かけませんか。あれは知性が働いている証拠です。しかし極めて限られています」


――動物にも言語があるのでしょうか。


「“言語”の意味が単語や音節でできたものということでしたら、そういうものはありません。が、仲間どうしでのコミュニケーションという意味でしたら、それはあります。あなた方が想像する以上に言語を発しています。が、その内容は身体上の欲求に限られています」


――動物にはその行為に関して自由意志がありますか。


「あなた方が想像するほど機械的ではなく自由意志の要素もありますが、それは身体的な欲求に限られており、人間の自由意志と比較することはできません」


――ある程度の行動の自由があるということは知性があるということになりますが、そうなると物質から独立した生命素があるのでしょうか。


「その通りです。それが死後に残るわけです」


――その生命素は人間の魂と同じものですか。


「“魂”をどう定義づけるかによって違ってきますが、そう呼ばれても結構です。ただし人間の魂よりは下等です。人間の魂と動物の魂の違いは、人間の魂と神との差ほどの大きな違いがあります」


――動物の魂は死後にも個性と自我意識を維持していますか。


「個性は維持していますが、自我意識はありません。知的生命は潜在の状態にあります」


――動物の魂が死後にも存在するとなると、人間の魂と同じようにさすらいの状態があるのでしょうか。


「身体につながっていないために一種のさすらいの状態にあると言えますが、“さすらいの霊”とは意味が違います。さすらいの霊は自由意志で考え行動します。動物にはその能力はありません。霊の基本的属性は“自我意識”だからです。動物には自我意識はなく、死後その魂はその道の担当の霊によって種ごとに分類され、すぐさま活用されます」


訳注――最後の“活用され”るのは何の目的に活用されるのかが言及されていない。そこが知りたいところであるが、他の霊界通信によると、種ごとの類魂に吸収され、類魂全体としての進化に寄与するという。


――動物にもある程度の知性があるとおっしゃいましたが、それはどこから摂り入れるのでしょうか。


「宇宙の普遍的要素からです」


――すると、人間の知性も動物の知性も同じ始源から発しているのでしょうか。


「もちろんです。ただ違うのは、人間の知性はそれに磨きがかけられて進化しているということです」


――そうなると魂は下等な段階の創造物の知的要素だった時期もあることになりそうですが……。


「自然界は全てがつながっていて一体化へ向かっていると申し上げたことがあったはずですが……あなた方には全てを知ることは不可能ですが、その下等な段階の創造物の知的要素に磨きがかけられ、少しずつ個別化され、発芽現象に似た一種の準備段階をへて形質変換が行われ、ようやく“霊”となったのです。各霊が未来時制の感覚と善悪の判断力、そして自己の行為に対する責任意識をもって生きることを始めたのはその時からです。人間が、誕生後、幼児期から青年期、成人期、そして老成期へと変化するのと同じです」


――人間の身体に宿ったことのある霊が動物の身体に宿ることがありますか。


「ありません。そのような再生は退化を意味します。霊は決して退化しません。川の水が水源に逆戻りすることはありません」(第二部・一章〈霊の進化〉の項参照)

Thursday, January 30, 2025

シアトルの冬 霊の物質界への関与

Spirit’s involvement in the material world

アラン・カルデック
The Spirits' Book
アラン・カルデック(編)
近藤千雄(訳)


〈霊界から覗いた人間の生活〉

――霊には人間のすることが全部見えますか。


「その気になれば見ることができます。絶えず人間の身の周りにいるのですから。ですが、実際問題として、関心のないことには注意を払いませんから、受け持ちの範囲のことにしか注意を向けていません」


――完ぺきに秘密にしていることでも分かりますか。


「あなた方が隠そうとしていることをよく見かけます。行為も思念も霊には隠せません」


――そんな時、霊の方ではどんな気持ちで見ているのでしょうか。


「それはその霊自身の質によります。低級ないたずら霊だったら人間がイライラするような事態を生じさせ、カッカするのを見て面白がるでしょう。高級霊であればその愚行を憐れんで、その欠点を改めさせる方向で指導するでしょう」
〈人間の思念・行動に及ぼす霊的影響〉


――人間の思念や行動は霊の影響を受けているのでしょうか。


「あなた方が想像する以上に影響を受けています。と言うのも、そもそも人間は霊の指示で動いているのですから」


――我々自身から出た思念と、霊によって吹き込まれた思念があるのでしょうか。


「人間も思考力をもった霊です。従って当然、自分から出た思いもありますが、次から次へと考えが湧き、しかも同じ問題に関してしばしば対立する考えが入り込んでくることも経験しているはずです。そうした場合、どちらかが自分のもので、どちらかが霊に吹き込まれたものです。二つが相反するものですから決心が揺れるのです」


――そんな時はどのようにして区別したら良いのでしょうか。


「強いて言えば霊からの示唆は、あたかも語りかけられたような感じで、自分自身が考えたことは大抵最初に思い浮かんだものと言えますが、実際問題としてはその区別はどうでも良いことです。区別できない方が良い場合もあります。それだけ自分一人による自由な判断の範囲が広がるわけで、結果的に正しい選択であれば、自分の判断力に自信がつきますし、間違っていれば自分自身の間違いとして責任を一身に背負えることにもなるからです」


――科学者や天才による発明・発見は自分で生み出すのでしょうか。


「自分の霊的産物であることもありますが、大抵は背後霊が教える価値があると判断し、正しく受け入れてくれると確信した上で示唆しています。その程度の科学者や天才になると、自分自身では生み出せないと自覚すると、無意識のうちにインスピレーションを求めるものです。一種のエボケーション(招霊)で、本人はそうとは気づいていません」


――示唆されたアイディアが善霊からのものか邪霊からのものかは何によって判断すれば良いのでしょうか。


「内容をよく検討することです。善悪を見分けるのは人間自身です」


――悪の道に誘い込もうとする邪霊の影響を排除することは可能でしょうか。


「可能です。と言うのは、邪霊が付きまとうのはその人間自身の思念や欲望が邪だからです」


――人間側が悪の誘惑を拒絶した場合、邪霊は誘惑をあきらめますか。


「あきらめるしかないではないですか。もくろみ通りに行かないと分かれば、彼らは誘惑を止めます。ですが、ネコが常にネズミを狙っているように、その後もずっとスキを狙っているものと思ってください」


――邪霊が人間を悪の道に誘う時、その人間の置かれた境遇につけ入るのでしょうか、それとも彼らの思うツボにはまるような事情をつくり出すことまでするのでしょうか。


「都合の良い条件が発生すればどんなことでも利用しますが、人間が良からぬ願望を抱くと、その目的の成就に向けて欲望を煽ります。人間はそれに気づきません。

例を挙げましょう。どこかの通りに大金の札束が落ちているとします。そこへその人間が通りかかりました。まさか霊が札束をそこへ置くはずはありません。そこを通りかかるように仕向けたのです。その札束を見つけてその人間はどういう態度に出るか――邪霊はそれを我がものとするように吹き込み、一方善霊は然るべきところへ届け出る考えを吹き込みます。どちらを選ぶか、それは当人の道義心の問題です。すべての誘惑は大体こんな風にして行われるのです」
〈憑依〉


――霊は人間の肉体に取り憑いて、その人間に代わって肉体を使用することができるのでしょうか。


「霊が憑依するといっても、部屋の中に入るような調子で人体に入り込むわけではありません。同じ欠点、同じ性癖をもつ人間と波動上でつながることはありますが、主体性を持つのはあくまでも肉体に宿っている霊です。霊と肉体とは一体不離の関係で結ばれており、神が定めた寿命が尽きるまで切り離されることはありません」


――俗に言う“取り憑く”ことはなくても、肉体に宿っている魂が低級霊によって支配され、思うように操られ、ついには自我意識がマヒしてしまうに至ることはないでしょうか。


「それは有り得ます。それが本来の意味での憑依の実態です。ですが、忘れないでいただきたいのは、そういう憑依現象は憑依される側の“弱み”または“自由意志”によってそういう事態になることを許しているということで、それがないかぎり発生しません。人間は永い間そういう現象をてんかんのような脳障害による症状と同じに考えて、霊的治療家よりも医者による治療にまかせてまいりました」(『霊媒の書』十三章参照


ブラックウェル注――霊的憑依現象を発生させる“弱み”とは、現世または前世における悪行への罰であり罪滅ぼしのことである。


――憑依された状態から自力で脱することは可能でしょうか。


「可能です。本気でその気になれば、いかなる束縛状態でも解くことができます」


――邪霊によって完全に憑依され、本人の自我意識が奪われたとします。そんな場合に第三者がその呪縛状態を解くことができるでしょうか。


「高潔な人格者が存在すれば、その意志の力で救済のための善霊の協力を引き寄せることが出来るかも知れません。人格が高潔であるほど霊力が強いですから、邪霊を追い払い、善霊(霊医)を呼び寄せることが出来るという理屈になります。ですが、そういう事態にまで至った場合、いかに優れた人物がいても、憑依されている本人が意識的に自由を取り戻そうとする意志を見せないかぎり、まったく無力です。

と言うのは、そういう人間は得てして依頼心が強く、堕落した好みや願望につけ入られても、それをむしろ快く思うものなのです。霊性の低い霊は高級霊から軽蔑されているというひがみ根性から救済に協力しようとしませんし、仮に協力しても邪霊集団の相手ではありません」


――悪魔払(エクソシズム)いの儀式は邪霊集団を追い払うのに役立ちますか。


「役には立ちません。真面目くさってそういう儀式をやっているのを見て、邪霊たちは小ばかにします。そして、ますます憑依状態を続けます」


――祈りはどうでしょうか。


「祈りが援助を呼び寄せることは事実です。ですが、その祈りがただ文句を唱えるだけのものでは何の効果もありません。天は自ら助くる者を助くとは至言です。自らは何も努力せずに、ただ願いごとを並べるだけの者には援助の手は差し延べません。ですから、憑依されている人間が、そもそも邪霊につけ入られることになった(依頼心が強いという)弱点・欠点を正すということがまず肝要です」
〈守護霊・指導霊〉


――人間各自には守ったり援助したりする目的で付いている霊がいるそうですが……。


「います。霊的同志です。あなた方が指導霊(ガイド)と呼んでいるものです」


――守護霊(ガーディアン)というのはどういう存在でしょうか。


「霊格の高い指導霊のことです」


――守護霊の使命は何でしょうか。


「父と子供との関係と同じです。ある目的をもって、その成就のための道から外れないように、時には忠告を与え、悲しみの中で慰めを与え、苦難の中にあっては生き抜く勇気を与えたりします」


――誕生の時から付いているのでしょうか。


「誕生から死に至るまでです。しばしば死後霊界でも、あるいはその後の幾つかの再生生活でも守護霊として付くことがあります。霊的観点から見れば、物的生活を幾つ重ねても、ごく短いものです」


――守護霊という役目は自発的なものでしょうか、強制的なものでしょうか。


「あなた(カルデック)の守護霊の場合は要請されて引き受けていますから、義務としてあなたを見守っています。が、一般的に言えば守護霊は自分で親和性の強い人間を選ぶことを許されております。楽しみとして進んで引き受ける場合もありますし、使命ないしは義務として引き受ける場合もあります」


訳注――私が“英国の三大霊訓”と呼んでいるモーゼスの『霊訓』、オーエンの『ベールの彼方の生活』、そして『シルバーバーチの霊訓』のうち、守護霊が出てくるのは『ベールの彼方の生活』の第三巻のザブディエルと名のる霊だけで、他は守護霊以外の者が携わっている。

インペレーターもモーゼスの守護霊ではない。その上にもう一人プリセプターと名のる最高級霊が控えていたというが、多分それが守護霊であろう。シルバーバーチもバーバネルの守護霊ではない。六十年間についに一度も出現していない。

このカルデックの守護霊も誰であるかは分からない。聖ルイは守護霊ではないはずである。そう判断する理由は、大きな仕事においては守護霊は総監督として見守るだけで、直接的には携わらないというのが、私の知るかぎり、通例だからである。


――一人の人間の守護霊となった以上は他の人間の面倒は見ないのでしょうか。


「そうとは限りません。が、控え目にはなるでしょう」


――守護霊が人間を見捨てるということが有り得ますか。


「いくら忠告を発しても聞く耳を持たず、低級霊の誘いに完全にはまってしまったと見た場合は、手を引くことがあります。と言っても見捨てるわけではありません。わずかなチャンスを狙って善の道に引き戻そうとします。守護霊が人間を見捨てるのではなく、人間の方が守護霊の言うことに耳を貸さなくなるということです。霊性が目覚めて善性を求めるようになれば、喜んで受け入れます。

それほど労が多く、報われることが少なく、忍耐のいる仕事に高級霊が携わるのが信じられないと思われる方には、こうお答えしましょう。まず第一は、我々は高遠の世界からわざわざ地上まで下降してくるわけではありません。計り知れないほどの距離も我々には何の障害にもならず、次元を異にする世界にいても交信は可能だということです。

もう一つは、我々には人間には想像もできない資質があるということです。神は我々の手に負えないほどの仕事は決して課しませんし、人間を、友も援助者(背後霊団)も付けずに地球という孤島に島流しにしたわけではありません。一人一人に必ず守護霊が付いており、父が我が子を見守るように、一瞬の休みもなく見守っています。言うことを聞いてくれれば喜び、無視されると残念がっております」


――人間が悪の道に入って行くのを守護霊も許すことがあるとおっしゃいましたが、それは邪霊集団に太刀打ちできないからでしょうか。


「そうではありません。太刀打ちする、つまり邪霊集団と張り合うよりも、思い切ってその道に入らせても本人は必ずや間違いを悟って大きく成長するという確信があるからです。

守護霊は常に賢明な助言の思念を送っていますが、必ずしも聞き入れてもらえません。邪霊がつけ入るのはそうした弱点、スキ、慢心などを通してです。それに負けるのは、抵抗するだけの霊性が身についていないことを意味します」


――守護霊を必要としなくなる段階があるのでしょうか。


「あります。生徒が十分に学んで先生を必要としなくなる時期があるように、守護霊がいなくても一人で十分にやって行ける段階が来ます。しかし、地上界に関するかぎり、そういうことは有り得ません」


――歴史上の有名人の名を名のっている守護霊は間違いなくその人物でしょうか。


「そうとは限りません。同じ霊系に属する、ほぼ霊格の同じ霊である場合があり、多くの場合、当人から依頼を受けて出ています。(偽っているわけではなく)人間の方が名前にこだわるものですから、それで安心させる意味でその名を使用するのです。あなた方だって使いの用事を言いつけられて、どうしても都合がつかない時は代理の者を行かせることがあるでしょう。それと同じです」


――霊界へ行って守護霊に会えばそれと分かりますか。


「分かります。と言うのは、多くの場合、再生する前まで顔見知りの間柄だからです」


――未開人や文明人で道徳的意識の低い人にでも守護霊がついているのでしょうか。


「守護霊の付いていない人間はいません。ただ、割り当てられる責務によって守護霊の霊格も違ってきます。読み書きを習い始めたばかりの子供に大学教授を家庭教師に付けますか。神は常に一人一人の人間の本性とそれまでに到達した霊性に応じて守護霊を付けます」


――守護霊とは別に、善悪の判断力を試す目的で邪霊も一人一人に付けられているのでしょうか。


「“付けられている”という言い方は正しくありません。確かに、悪の道へ誘い込もうとしてスキを伺っている複数の低級霊が必ずいるものです。が、仮にその邪霊の一人が実際に人間に付きまとうようになったら、それはその邪霊が何らかの意図をもってやっていることです。その場合は言わば善と悪との闘いとなるわけで、どっちに軍配が上がるかは当人の判断力にかかっております」


――守護霊のほかにも面倒をみてくれている霊がいるのでしょうか。


「今述べたように悪の道に誘惑しようとする邪霊が何人もいるように、守護霊(ガイド)の指示のもとで面倒をみてくれている指導霊が何人かいます。霊格の高さはまちまちですが、親和性があり、情愛で結ばれております」


――そうしたガイドは使命があって付くのでしょうか。


「霊によっては一時的な使命を仰せ付かっている場合がないでもありませんが、一般的には、良きにつけ悪しきにつけ、情緒的に共通する霊が付くものです」


――今のお言葉ですと親和力で結ばれている霊でも善霊と悪霊とがいることになりますが……


「その通りです。性格のいかんにかかわらず、相通じ合う霊に取り囲まれていると思うがよろしい」


――“親しい霊”は“親和力で結ばれている霊”および“守護してくれる霊”と同じでしょうか。


「“守護に当たる”とか“親和性に富む”という表現にもいろいろと意味合いがあります。どう呼んでも構いませんが、“親しい霊”という場合は“身内の霊”といった家族的な意味合いが強いです」


――社会、一都市、一国家にも特別の霊団が付いているのでしょうか。


「付いています。そういう集団には共通した目的があり、その目的によって指示を与える霊格の高い霊団が付いています」


――その種の霊団は一般個人の霊団よりも霊格が高いのでしょうか。


「個人の場合でも集団の場合でも人間側の霊性の発達程度に応じた霊団が組織されます」
〈人間生活への霊力の行使〉


――霊団は道徳上の忠告や指導をするだけでなく、日常生活のことも気遣ってくれているのでしょうか。


「その人間に関わるあらゆる側面に気を配っています。責務としてやらねばならないことに関連して、いろいろと忠告を発しています。問題は人間側がそれに耳を傾けてくれないことで、結局は自分の判断の誤りで問題を大きくしているのです」


――思念で忠告する以外に、直接的に霊力で働きかけることはないのでしょうか。


「あります。ですが、それにも許される自然法則の範囲があり、それを超えることはありません」


――例えばある人が梯子をのぼっていて、途中で梯子の段が折れて落下して死亡したとします。このような場合、そういう宿命を果たすために霊力でその梯子を折るようなことをするのでしょうか。


「霊が物質に働きかける力を持っていることは明らかですが、それはあくまでも自然法則の運用のためであって、ある予期せぬ出来事を起こすために法則に逆らって演出するようなことは許されません。

今おっしゃった事故の場合は梯子の材木が腐っていたか、その人間の体重が重すぎたかの、いずれかの原因で折れたのでしょう。つまり自然法則の結果です。そのことと、その人間の死との関連は、そういう梯子を使用するような事態に至るというところに運命的な働きがあったと見るべきであって、殺すために超自然現象で梯子を折るということをするわけではありません」


――もう一つ例を挙げますと、急に嵐になって近くの大木の下に雨宿りをしていたら、その木に雷が落ちて死亡したとします。この場合、霊がその木を目がけて雷を落としたのでしょうか。


「これも先ほどの例と同じです。雷は自然法則に従ってその木に落ちたのであって、その人を殺す目的でその木に命中させたわけではありません。その人がその木の下にいようがいまいが雷は落ちたでしょう。肝心な点はその木に雨宿りしようという考えを抱いたことです」


――地上時代に他人に危害を与えた者が霊界へ戻ると、その時に抱いた敵意は消えるものでしょうか。


「自分の行為の間違いに気づき後悔の念を抱く者が多いのですが、相変わらず敵意を抱き続けているケースも少なくありません。そういう関係は試練の延長として神が認めているのです」


――我々第三者がその種の迫害に終止符を打たせる方法はないものでしょうか。


「多くの場合、祈ることによって終止符を打たせることができます。憎しみの念に対して愛の念を送り返すことによって、邪念に燃える霊に徐々に反省の気持ちを芽生えさせます。そして忍耐強く続けることによって愛は邪悪な企みに優ることを知らしめ、憎しみの空しさを抱かせ、かくして攻撃することを止めさせることになります」
〈自然界における霊の働き〉


――自然界の大変動は偶発的なものでしょうか、全てに神の意図があるのでしょうか。


「何事にも理由があります。神の許しなしに生じることは何一つありません」


――そうしたものは全て人間との関連性があるのでしょうか。


「人間に関連したものも時にはありますが、大部分は大自然が均衡と調和を取り戻そうとする働きに過ぎません」


――全ての現象の根源には神の意図があるに違いないことは認めますが、霊が物質に働きかけることが出来るからには、霊が神の意志の行使者として自然界の構成要素に働きかけて自然現象を起こしているのではないかと思うのですが……


「その通りですし、それ以外には考えられません。神が直接物質に働きかけることはありません。無限の階梯の一つ一つの界層に神の意志の行使者が控えています」


――例えば嵐を起こす場合、一人の霊の仕業でしょうか、それとも大勢の霊の仕業でしょうか。


「大勢の霊です。数え切れないほどの大群と言った方がいいでしょう」


――その場合、自由意志によって、知識と意図をもって現象を起こすのでしょうか、それとも理性のない本能的衝動から発しているのでしょうか。


「知識と意図をもって携わっている者もいれば、本能だけで働いている者もいます。譬え話で説明しましょう。

今大海のどまん中に一群の島ができつつあるとします。その島の生成について神が認知していないはずはありませんし、その群島の出現が大海という地球の表面の調和に影響を及ぼさないはずはありません。ところが、その生成に携わるのは最下等の極微動物であり、神の道具として使用されているという認識などみじんもありません。ただ動物の本能で働いているだけです。

同じことが最下等の霊的存在についても言えます。自由意志もなく、何の目的なのかについての自覚もないまま大自然のさまざまな側面での現象の演出に携わっております。指令を発する存在がいて、それに反応して働く存在(精霊)がいます。それが知的進化を遂げて指令を発する立場にまわり、造化の仕事から倫理・道徳の摂理の管理へと進みます。

このように大自然は根本の原子から始まって大天使に至るまでの雄大なスケールの存在の調和によって進化しており、その全体像は地上の人間の理解力では遠く及びません」
〈戦争と霊〉


――戦争が行われている時は霊界でも敵と味方がいるのでしょうか。


「当然います。そして戦闘意欲をかき立てています」


――戦争はどちらかの側に非があると思うのですが、なぜ非のある側に味方する霊がいるのでしょうか。


「改めて申すまでもないことですが、霊の中には混乱と破壊だけを楽しみにしている邪霊集団がいます。そういう連中にとっては戦争のための戦争であって、正当とか不当とかはどうでも良いことなのです」


――司令官が作戦を練るに当たって霊団から指示が与えられるでしょうか。


「当然です。他の生活面と同様に、作戦にも参加します」


――敵方の霊がまずい作戦を吹き込むことも有り得ますか。


「有り得ます。しかし司令官にも自由意志があります。守護霊団が吹き込む作戦と敵方の霊団が吹き込む作戦のどちらに決断するかに迷い、結果的に作戦に失敗した時は、その責任は自分が負わねばなりません」


――司令官の中には予知能力のある人がいて作戦の行方を予見することがあるそうですが……


「天才的な軍人によくあることです。いわゆるインスピレーションを的確に受け取れる人で、それを受けた時は自信をもって命令を発します。霊団から送られてくるもので、それを天賦の霊能で受け取ります」


――戦闘中に戦死した霊はどうなるのでしょうか。霊界でも戦い続けるのでしょうか。


「戦い続ける者もいますし、撤退する者もいます」


――戦場の爆音や鬨(とき)の声などは相変わらず聞こえるのですか。


「聞こえます、そっくりそのまま」


訳注――シルバーバーチの霊言に次のような一節がある。

「これが戦時下となると、いろいろと問題が厄介となります。何しろ何の準備もできていない、何の用意もしていない人間が大挙して霊界へ送り込まれてくるのですから……みんな自分が死んだことすら知りません。(中略)死んだことにも気づかずに死んだ時と同じ行為を続けております。地上戦で死んだ者は地上戦を、海上戦で死んだ者は海上戦を、空中戦で死んだ者は空中戦を戦い続けております。そのうち、期間は各自まちまちですが、少し様子が違うことに気づき始めます。

全体としては以前と変わらないのに気をつけて見るとどうも辻褄が合わない。奇妙な、あるいは無気味なことがくり返されていることに気づきます。殺したはずの相手が死んでいない。銃を撃ったはずなのに弾丸が飛んで行かない。敵兵に体当たりしても少しも動かない。触っても気がつかない。大声で話しかけても知らん顔をしている。そしてその光景全体に霧のような、靄のような、水蒸気のようなものが立ち込めていて、薄ぼんやりとしている。自分の方がおかしいのか相手の方がおかしいのか、それも分からない。時には自分が幻影に惑わされているのだと思い、時には相手の方が幻影の犠牲者だと考えたりします。

が、そのうち――霊的意識の発達程度によってそれが何分であったり何時間であったり何日であったり何か月であったり何年であったり何世紀であったりもしますが――いつかは自覚が芽生えます。その時やっと援助の手が差しのべられるのです。」


――仮に霊が傍観者として冷静に戦場の様子を見つめていれば、斃(たお)れた人間から霊が次々と離脱して行く様子が見えますか。


「全ての戦死者の死が一瞬の間に成就されるわけではありません。大抵は、肉体的には即死の状態でも、霊はそのことに気づきません。精神的に落ち着きを取り戻すと自分の死体がそばに横たわっていることに気づきます。が、その過程が実に自然なので動揺することはありません」
〈魔よけ・呪術〉


――邪悪な人間が邪霊の助けを借りて怨みの相手に危害を加えることはできますか。


「できません。そういうことは神が許しません」


――でも、呪術をかける力を持った人間がいるという信仰がありますが……


「強力な生体磁気を持っている人間がいます。その人間の心が邪悪であればそれを悪用することは考えられます。その場合に似たような邪悪な霊が加担することも有り得ることです。しかし、それを超自然的な魔力のせいにしてはいけません。それは自然法則に無知な迷信的人間の想像力の中にのみ存在するものです。魔力が存在する証拠とされているものは自然な原因の働きによるものを間違って観察し、さらに間違った解釈をした結果です」


――霊の意念を操ることが出来るとされる呪文や秘法の効果は実際にあるのでしょうか。


「本当にそういうものを信じているとしたら、その効果はその人が嘲笑の的になることだけです。もしも信じていないのにそういうことをしているとしたら、それは詐欺師であり、処罰に値します。その種の儀式は全てペテンです。霊を操るような秘密の言葉やしるし、魔よけなどは存在しません。なぜなら、霊は思念で感応するのであって、物的なものではないからです」


――でも、そういう儀式の中には霊が伝授してくれたものがあるのではないでしょうか。


「おっしゃる通りです。霊の中には摩訶不思議な加持や呪文を教える者がおり、それをもとに、いわゆる“おまじない”をする人がいますが、そういう人たちは低級霊の良い遊び相手にされており、摩訶不思議をすぐに信じたがる性格をもてあそばれています」


――良い悪いは別として、魔よけの威力を信じることが実際に霊の力を呼び寄せることにならないでしょうか。魔よけが精神を集中する媒体となって、その人の思念を活発にすると思うのです。


「そういう働きは一応考えられます。しかし呼び寄せる霊の程度を決めるのは、霊を呼び寄せる動機とその人間の心証の純粋性です。魔よけなどの効果を信じるほど単純な人間が高尚な動機で行うということはまず考えられません。

つまるところ、この種の儀式や行事にこだわるのは、人間を騙すことばかり考えている未熟な霊に取り憑かれやすい低俗な精神構造の人間であることを証明していると考えてよろしい」


――では“魔法使い”はどう理解したらよいのでしょうか。


「そう呼ばれている人間がもし性格的に真面目であれば、予知能力に類する超常能力でもそなえている人と考えられます。普通の人間に理解できないことをやってみせるために超能力の持ち主とされているだけです。学者だって無学な人間から見れば超人的に見えるのではないでしょうか」

シアトルの冬 霊の仕事と使命

The Work and Mission of the Spirit




〈霊にとっての仕事〉



――霊は向上・進化のための体験以外に何か仕事があるのでしょうか。


「神の意思を成就させることによって宇宙に調和をもたらすべく協力し合っております。つまりは神の使徒というわけです。霊の生活は絶え間ない仕事の連続ですが、仕事といっても地上における辛い労務とはまったく異なります。身体的疲労もありませんし、身体の欲求(飲食等)を耐え忍ぶということもありません」


――低級霊や未熟霊にも宇宙における役割があるのでしょうか。


「全ての霊に何らかの仕事があります。偉大な設計者による壮大な殿堂も、名もない大勢の石工(いしく)がいてこそ建てられるのです」


――各霊に特有の属性があるのでしょうか。


「霊は宇宙のすみずみまで統括することによって最終的には全ての地域に住み、全ての事についての知識を獲得しなければなりません。しかし『伝道の書』にもあるように“天が下の全ての事には季節があり”ます。かくして、ある霊は今は地上にあって自分の運命を成就しつつあるのであり、またある霊は別の時節に地球上で、水中で、あるいは空中で、それぞれの運命を成就するであろうし、すでに成就し終えた者もいるわけです」


訳注――『伝道の書』は旧約聖書にある十一章から成る比較的短い書で、エルサレムの王だった伝道者の言葉といわれる。ちなみに右の引用文の続きをもう少し紹介すると――

“天が下の全ての事には季節があり、全ての業には時がある。生まるるに時があり、死するに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり” 云々……。


――霊は絶え間なく仕事に従事しているのでしょうか。


「絶え間なく、ですか? 霊は思念で生活しており、思念は活動を止めることがないことを理解していただけば、そうですと申し上げます。ただし、人間の職業と同じものを想像してもらっては困ります。自分が役に立っているとの意識を通して、活動そのものに喜びを覚えるのです」


――それは善霊に関しては容易に理解できますが、低級霊についても同じなのでしょうか。


「低級霊は低級霊で、その霊性に似合った仕事があります」
〈霊にとっての使命〉


――霊がある使命を言いつけられた場合、それはさすらいの期間中に果たすべきものなのでしょうか、それとも再生して成就することもあるのでしょうか。


「両方のケースがあります。さすらいの状態にある霊でも使命を託されて忙しく活動している場合があります」


――どのような使命でしょうか。


「いろいろとあって一概には言えません。それに、人間に理解できない仕事もあります。霊は神の意思を代行するのであり、人間にはその神の意図の全てに通暁することは不可能です」


――霊は託された神の意図をきちんと理解できているのでしょうか。


「そうとは限りません。わけも分からずに携わっている者もいます。が、その意図されていることをしっかりと理解している者もいます」


――それは強制的に課せられるのでしょうか、それとも自由意志で引き受けるのでしょうか。


「自ら求めます。そして、それが許されれば喜びます」


――同じ使命に何人もの霊が志願することもあるのではないでしょうか。


「あります。一つの使命に数名の志願者がいる場合もあります。が、志願者の全てに同じものが与えられることはありません」


――使命をもって再生する場合の使命とはどのようなものでしょうか。


「人間を教育し、向上・進化を促し、また間違った慣習を改めることに直接携わります。もっとも、こうした使命は高尚で重大なものですが、その配下でコツコツと働く陰の功労者がいることも忘れてはなりません。世の中の全てがどこかでつながっているものです。霊は再生して人間的形体に宿って霊性を磨く一方で、神の計画の推進にも寄与しているのです。一人一人に使命があり、何らかの形で役立つものを秘めているからです」


――怠惰な人生を送っている者がいますが、そういう人間にも使命は授けてあるのでしょうか。


「人間の中には、一生涯、自分のためにだけ生きて、何一つ世の中のために貢献しない者がいることは事実です。実に哀れむべき人間で、その無為の生涯への償いとして大変な苦しい目に遭うことでしょう。しばしば今生(こんじょう)にあるうちにそれが始まります。厭世観と嫌悪感に嘖(さいな)まれます」


――人間が何か有意義な仕事を成し遂げた場合、それは再生前から使命として決まっていたことなのでしょうか。前もって決まったことを再生後に使命として授かることもあるのでしょうか。


「人間のすることが全てあらかじめ使命として命じられていたこととは限りません。人間界のために何か有意義なことをしたいと思っている霊が、適当な人物を利用して成し遂げることがよくあります。

例を挙げますと、あるテーマについて一冊の本を書きたいと思っている霊がいるとします。その霊は適当な人物を物色してそのテーマを吹き込み、構想を授け、そして書かせます。この場合、その書物の出版は使命だったわけではありません。

同じようなことが科学の発明・発見や芸術の分野でもよくあることです。肉体の睡眠中に、再生中の霊とさすらいの状態の霊とが直接会って、そうした構想について語り合うこともあります」


――人類に多くの真理をもたらした天才的霊能者が人間的に大きな過ちを犯したり、貴重な真理と同時にとんでもない間違った思想を説いている人がいます。こういう人たちの場合、使命とは何だったのでしょうか。


「自分で自分を裏切ったということです。引き受けた仕事に耐え切れなかったということです。ただし、そうした先輩を批判する時に考慮しなければならないのは、彼らが置かれた時代的背景です。天才的霊能力はあっても、その時代のレベルに合わせて語らねばならなかったということです。後世の者の目から見れば間違っており幼稚に思えても、その時代としてはそれで十分だったのです」


――親となることも使命であることがありますか。


「ありますとも。しかも重要この上ない義務でもあります。その義務の遂行は人間が想像するより遥かに大きく将来に重大な影響を及ぼします。

そもそも神が両親に子を授けるのは、後見人としてその子がまっとうな人生を送るように指導と監督をさせるためです。子供がか弱くデリケートにできているのは親の関与を多く必要とさせるためで、それだけ子供は親を通して新しいものを得るわけです。ところが現実には多くの親は“我が家”中心に考えて、一人間として立派な性格の子に育てるよりも、金(かね)のなる木になってくれるように腐心します。

その結果としてもしもその子が親のエゴの通りの人間になったとしたら、それは親としての信義に背くものとして罰を受けると同時に、いびつに育ったその子がこうむる苦しみの数々の責任も問われます。親としての本来の義務を遂行しなかったからです」


訳注――このあと細かい質問が幾つか続くが、いずれもこれまでの返答に出たものばかりで、通信霊も「神は公正です」という一言でぶっきら棒に片づけているのもある。霊格の高い親があえて邪悪な霊を我が子に迎えることもあれば、その逆もある。前世あるいは前々世と絡んだ問題であるから、いちいち具体例を挙げていったらキリがない。

シアトルの冬 霊の解放

release of spirits

The Spirits' Book
アラン・カルデック(編)
近藤千雄(訳)


〈睡眠と夢〉


――霊にとって物的身体は居心地の良いものでしょうか。

「その質問は牢に入れられている囚人に向かって居心地はどうかと尋ねるようなものです。霊は、本性的には、一瞬の間もおかずに常に物的束縛からの解放を望んでいるものです。身体が鈍重であるほど一層それを望みます」


――肉体の睡眠中は霊も休息を取るのでしょうか。


「いいえ、霊が活動を停止することはありません。睡眠中は肉体につなぎ止めている絆(魂の緒(シルバーコード))が緩み、肉体も霊の存在を必要としなくなっているので、空間を自在に行き来し、他の霊と遥かに直接的なコミュニケーションを取っています」


――その睡眠中のことをなぜ思い出さないのでしょうか。


「あなた方が睡眠と呼んでいるものは肉体の休息のことです。霊は常に活動しています。その肉体の休息中に霊はかなりの程度の自由を回復し、この地上ないしは他の天体の親しい人とコミュニケーションを持ちます。その間の記憶が覚醒時に回想できないのは、肉体器官の物質性があまりに鈍重で粗野であるために、霊的波動の中での体験は感知できないからです」


――夢そのものに意味があるかに説く人がいますが、いかがでしょうか。


「夢には、占い師がもっともらしくこじつけるような意味はありません。つまり、夢がある種の出来事の予兆であるなどというのは滑稽きわまる話です。しかし、地上生活での出来事には何の関係もなくても、霊そのものにとって真実味のあるイメージであることは有り得ます。

さらに夢は、すでに述べたように(肉体の)睡眠中の霊の体験の回想である場合があり、時にはその中に虫の知らせが入っていたり、どこかへ連れて行かれて見せられた自分の将来の光景であったりすることもあります。むろん神の許しがあってのことです」


――虫の知らせのようなものが現実には発生しないことがあるのはなぜでしょうか。


「その種のものは霊としての体験の中で生じているもので、肉体の体験とのつながりはありません。つまり霊の願望がそういうものを感じさせているのです。

これに関連して忘れてならないのは、睡眠中といえども霊は大なり小なり物的波動の影響を受けていることです。と言うことは、日常生活における思念や願望から完全に抜け切っていないわけですから、昼間の願望や恐怖が夢に反映し、事実上は想像の産物に過ぎないものを生み出すのです。覚醒中の精神が強く意識したものは、どんなものとでもつながりがちなものです」


――霊が自由になるためには熟睡していないといけませんか。


「そんなことはありません。霊というのは、肉体の感覚が鈍りはじめるとすぐに活発になり始めます。本性的に常に自由になりたくて、肉体が与えてくれるちょっとした緩みに乗じて自由を得ようとします。例えば生命力が衰え始めると霊は肉体から離れます。肉体が弱るほど霊は自由になります」


――睡眠中ないしはウトウトとした時などに素晴らしいアイディアが浮かびながら、覚醒してから思い出そうとしても記憶から消えていることがありますが、そういう時のアイディアはどこから来るのでしょうか。


「霊が自由になった時の産物です。つまり肉体から離れ、物的波動から抜け出た時に霊的感覚が働くのです。背後霊からの助言である場合が多いです」


――どうせ思い出せない、あるいは記憶に残らないものを貰って何の益があるのでしょうか。


「そうしたアイディアは霊界に通用する性質のもので、地上界では役に立たないことがよくあります。しかし、一般的に言って脳の記憶の層には反応しなくても霊そのものは記憶していて、それが日常生活の中でインスピレーションのように顕現することがあります」


――そうした肉体の睡眠中の霊の活動が肉体を疲労させることがありますか。


「あります。その時の霊は肉体という柱にくくりつけられたアドバルーンのようなもので、バルーンの動きによって柱が左右に揺れるように、霊の活動がシルバーコードを通して肉体に反映し、疲労させることがあります」


――睡眠中のそうした肉体と霊との関係をお聞きしていると、結局人間は同時に二つの生活を送っている――一つは肉体に宿っての物的生活、もう一つは魂の霊的生活――ということになりそうですが、そう理解してよろしいでしょうか。


「魂が肉体から離れている間は魂の霊的生活の方が肉体の物的生活よりも優位に立っていることは事実です。ですが、厳密に言えばその両者の生活を二つに分けて考えるのは正しくありません。一つの生命の二つの側面と見るべきです」


――顔見知りどうしが睡眠中に訪問し合うことがありますか。


「ありますとも。顔見知りでない人とも大勢の人と会って話を交わしております。別世界に知人がいて、少しも怪しむことなくお付き合いをしています。寝入ると肉体から離れて友人・知人・親戚等々、会って為になる人のもとへ頻繁に通っております。ほとんど毎晩です」


――同じ地上の親しい者どうしが霊界で会合をもつことができますか。


「できますとも。友情の絆は、古いものでも新しいものでも、霊界で互いに呼び合って楽しい時を過ごしております」


編者注――ここでいう“古いもの”というのは前世・前々世のものという意味にとるべきであろう。
〈共時性(シンクロニシティー)の原理〉


――同じアイディア、例えば発明・発見などを遠く離れた数人の人間が同時に思いつくというのはなぜでしょうか。


「前にも述べたように霊は睡眠中にもコミュニケーションを行っています。それが目が覚めてから頭に浮かび、本人はそれを自分で発明したと思い込みます。それと同じことが何人かの人間に同時に起きるのです」


――昼間の覚醒時でも霊的なコミュニケーションがもてますか。


「霊というのは箱の中に納められたように肉体の中に閉じ込められているのではなく、全方向へ向けて思念を発散しています。ですから、覚醒時でも他の人間と交信が可能です。もちろん睡眠中よりは難しいですけど……」


――完全な覚醒時に二人の人間が同時に同じ考えを抱くのは?


「親和性の強い二人が互いに思念を交換し合っている場合が考えられます」
〈昏睡状態・仮死状態〉


――昏睡状態や仮死状態では本人は周りの状況をちゃんと見聞きしていながら、それが表現できないようですが、その時に見聞きしているのは肉体の目と耳の機能によるのでしょうか。


「そうではありません。いずれも霊の能力によります。霊そのものは意識しているのですが、それが表現できないのです」


――なぜ表現できないのでしょうか。


「肉体器官が使用できない状態にあるからです。この特殊な状態を見ても、人間が肉体だけの存在ではないことが分かるはずです。肉体はそこにありながら機能せず、一方、霊の方は全てを見聞きしているのです」


――昏睡状態において霊は、いったんその肉体から離れて見かけ上どこから見ても死亡した状態にしておいて、再び戻ってその肉体を使用することはできますか。


「昏睡状態は死とは違います。肉体としての生理機能は続いているからです。生命力はさなぎのように潜伏状態にあり、消滅してしまったわけではありません。その状態にあるかぎり霊は肉体とつながっております。が、つないでいるコードが切れてしまえば両者は完全に分離し、霊は二度と肉体に戻れません。完全に死亡したと思われていた人が生き返った場合は、肉体と霊との分離が完全でなかったことを意味します」
〈夢遊状態〉


訳注――英語でsomnambulismと呼んでいるものを便宜上こう訳した。その状態下にある人をソムナンビュリストと言い、心理学ではそれぞれ「夢遊病」「夢遊病者」と訳されているが、実際は病的なものではないので、これは使用できない。また英語の原義は「夢遊歩行」であるが、〝歩行〟はその現象の一つにすぎないので、これも使えない。このあとに出てくる(トランス(入神状態))の項目の冒頭で「トランスとは無遊状態の一段と垢抜けのしたもの」という説明があることからも察せられるように、セミ・トランス(半入神状態)のことで、原理的には前項の昏睡状態や仮死状態とも共通したものと見てよいと考える。


――自然な夢遊状態と夢を見ている時の状態との間に何か関係があるのでしょうか。


「夢遊状態においては魂は夢を見ている時よりも肉体による束縛が少なく、それだけ霊的機能が多く発揮されています。夢を見ている時に働いていない霊的感覚が働いているということです。言い変えれば、夢は不完全な夢遊状態の産物と言えます。

夢遊状態では肉体は硬直状態になっていて、外部からの刺激には何の反応も示しません。この状態が睡眠中にいちばん起きやすいのは、肉体に不可欠の休息を与えるために霊が肉体から離れているからです。セミ・トランス状態になるのは、霊が物理現象や自動書記のように人体を使用しなければならない現象のことを強く意識するからです。

夢を思い出すのは、記憶機能を含む肉体機能が覚醒しかけた時に見たものだからで、その印象がおぼろげなまま霊に伝わるために、肉体に戻って間もない霊は脈絡のない支離滅裂な状態で受け止め、それに日常生活や前世での記憶などが入り交じって、一段と混乱するわけです。

これで、夢遊状態での体験が本人には記憶がないこと、そして大半の夢が合理的な意味をもたないことがお分かりでしょう。“大半の”と言ったのは、夢の中には前世での体験や未来の出来事の正確な知識も入っているからです」


――セミ・トランス状態にある者でも霊視力が働くのであれば、見えないものがあったり観察したものに間違いがあったりするのはなぜでしょうか。


「第一に言えることは、霊性が低い場合は全てを見通し理解することはできないということで、人間と同じように間違いや偏見があります。次に言えることは、大なり小なり物的波動の中にあるかぎりは、霊的能力の全てを使うことは不可能ということです。神は厳粛で意義のある目的のためにのみ霊視力を授けてあり、ただ見てみたいと思う程度の興味本意の人には授けません。トランス状態でも見えるものに限りがあるのはそのためです」


――セミ・トランス状態でも不透明な物体が突き抜けて見えるのはなぜでしょうか。


「不透明なのは人間の肉眼にとっての話です。何度も申しているように、霊にとっては物質は何の障害でもありません。自由自在に突き抜けます。トランス状態の者が額で見たとか膝で見たとか言うのを奇異に思うのは、肉体に閉じ込められている人間が物を見るためには肉眼が必要という先入観があるからです。霊視力をもっている人間でも目で見ているつもりでいる人がいますが、実際に霊視力を働かせている状態では肉体のどこからでも見える――つまり肉体とは無関係に見えるのです」


――覚醒時には知らないことを正確に述べたり当人の通常の知性を超えた能力を見せることがありますが、その原因は何なのでしょうか。


「夢遊状態にある時は覚醒時よりも多くの知識を使用することができます。ただしその知識は覚醒時は潜在状態にあり、霊としては知っていても、肉体器官があまりに鈍感であるために回想できません。

しかし一体人間とは何なのかを、今一度おさらいしてみてください。人間も我々と同じく霊であって、何らかの目的をもって物質界に生まれてきているのです。昏睡状態に陥るということは、そのマンネリ化した物的生活にカツを入れることが目的であることがあるのです。誰しもすでに幾つかの人生を体験していることは、これまで何度も述べてきた通りです。その人生の変転が、新しい肉体との結合によって、前世で知っていたことを分からなくさせます。昏睡状態に陥るようないわゆる危機的体験は、そうした潜在している知識を思い出させます。と言っても、全てではありません。なぜかは分からないまま、思い出すのです。が、危機が去るとともにその記憶も次第に薄れ、またもや物的生活の闇の中に入って行きます」


――夢遊状態で遠距離のものを見る力はどこから出るのでしょうか。


「睡眠中でも魂は遠距離まで行けるのですよ。夢遊状態でも同じことです」


――その霊視力の強弱は肉体組織から来るのでしょうか、それとも宿っている霊の本性によるのでしょうか。


「両方です。が、それ以外にもう一つ、肉体の性質には霊が離れやすいものと離れにくいものとがあります」


――夢遊状態で使用する霊的能力は死後霊界で使用するのと同じものですか。


「同じものです。ただし、限界があります。肉体につながれている間は物的波動による制約があります」


――霊界の霊の姿が見えますか。


「その人の霊能の質と発達程度によります。大半の人には見えますが、必ずしもそれが霊界の霊であることには気づかず、普段の人間を見ているつもりでいます。夢遊状態を体験した人の大半がそのように錯覚するようで、スピリチュアリズムの知識のない人は特にそうです」


編者注――これは死の直後の一般人の感覚と同じである。自分はいつもの通りに生きているつもりでいて、従って周りに見える人をみな肉体をもった人間と錯覚するらしい。


――夢遊状態で遠距離まで行っているのに、その土地の暑さや寒さが肉体にまで伝わるのはなぜでしょうか。


「肉体から離れているといっても絶縁したわけではなく、シルバーコードで結ばれています。そのコードが物的感覚を伝えるのです。地上でも遠く離れた二つの都会で電話をすれば、電線が伝導体となって、すぐ近くにいる人と語り合うように通じ合えるのと同じです」


――夢遊状態で体験したことも死後の生活にプラスになるでしょうか。


「大いにプラスになります。神から授かった能力を日常生活でいかに活用するかが死後に大きく影響するのと同じです」
〈トランス〉


――トランス(入神)状態と夢遊状態との違いは何でしょうか。


「トランス状態は夢遊状態が一段と垢抜けのしたものです。トランス状態での魂は夢遊状態の時よりさらに自由を得ます」


――その状態での魂は実際に高級界へ入ることができますか。


「できます。その世界を見物し、そこに住まう霊たちの幸せな波動を感じ取ることができます。しかし、霊性がある一定の水準以上まで純化していない者は近づけない世界もあります」


――仮にトランス状態の人間を放置しておいたら、そのまま他界してしまうことが有り得ますか。


「有り得ます。ですから、地上界との絆を切らせないようにあるゆる手段を尽くして呼び戻す必要があります。特に大切なのは、トランス中に訪れて味わった幸福感に魅せられてその界層に居つづけたいと思わせないようにすることで、シルバーコードを意図的に切断するようなことは間違いであることを理解させないといけません」


――トランス状態にある者が、時おり地上的な信仰や偏見の混じった想像力の産物に過ぎないものを見て、それを口にすることがあります。その場合は必ずしも実在物を見ていないことになるわけですね?


「見ているものは本人には実在感があります。しかし普段は常に地上的観念の影響にさらされていますから、その観点から霊界の事物を見ます。もっと正確に言えば地上的に偏向した観念、あるいは生まれ育った因習的概念に合わせた表現をするかも知れません。その方が正確に理解してもらえると思ってしまうのです。そこに霊能者が犯す間違いがあります」


――ではトランス状態で述べられたことにはどこまで信頼が置けるのでしょうか。


「ずいぶん誤りがあります。特に人間界に漏らしてはならないことにまで入り込むと、それを表現する言葉がないために自分勝手な解釈を施して表現したり、例によって邪霊集団の餌食となり、その熱心さをうまく利用されて大変な高級霊であるかに思い込まされ、いいようにあしらわれます」


――夢遊現象やトランス現象は何を教えているのでしょうか。


「過去世および来世のごく一部を垣間見せてくれるもの、といった程度に理解しておけば良いでしょう。が、現象そのものには、それを深く究めれば、ただの理性では入り込めない謎の解明のカギが秘められております」


訳注――同じくトランス状態に入る霊能者でも、バーバネルのようにシルバーバーチと名のる高級霊が乗り移って語る場合と、エドガー・ケーシーやスウェーデンボルグのように、本人が霊界入りして霊的知識を持ち帰る場合とがある。ここでいうトランスは後者の場合を言っている。自らチャネラーと称している人たちもみなこの部類に入るとみてよい。要するに自分の霊能だけでやっている人で、それをもって大変な霊能者であるかに錯覚しているのであるが、ここで通信霊がいみじくも言っているように、肉体につながれたままですることなど多寡が知れていて、しかも「ずいぶん誤りがある」ので用心が肝要である。
〈透視・千里眼〉


訳注――英語のsecond sight、直訳すれば“第二の視力”で、“第三の眼”と同じである。これはシルバーバーチのいう“サイキック”の次元の霊視力で日本語の透視に相当する。地球的波動を超えた高次元の世界で使用する霊視力をシルバーバーチは“スピリチュアル”と呼んでいるが、同じことを本章の最後の回答の中で暗示している。


――俗に透視とか千里眼と呼ばれている現象は夢を見る現象や夢遊現象と何か関係がありますか。


「全て同じものです。透視現象と呼ばれているのは、肉体は睡眠状態ではなくても霊が肉体の束縛から離れている状態での現象です。透視力は魂の眼です」


――これは永久的な能力ですか。


「能力は永久的に存在します。が、永続的に働かせられるわけではありません。地上界より物質性の薄い世界では肉体から簡単に離れ、ある程度の言語の使用は欠かせませんが、大体、以心伝心で交信できます。そこの住民の視力は大半が透視力です。人間界での健全な夢遊状態が彼らにとっては普通の状態です」


――透視力は突発的に出るものでしょうか、それとも見ようという意志を働かせないと出ないものでしょうか。


「一般的には自然発生的に働きますが、意志の働きも大きな役割をすることがよくあります。たとえば占い師――そういう能力を持っている人なら誰でもよろしい――が未来を意識的に見ようとすれば透視力を働かせることになり、いわゆる“ビジョン”(未来の映像)を見ることになります」


――訓練によって発達させることも可能でしょうか。


「可能です。何事につけ、努力は進歩を生み、包み隠しているベールを取り払って行きます」


――この能力は肉体組織から出ているのでしょうか。


「もちろん体質が大いに関係しています。この能力が馴染まない体質の人もいます」


――遺伝的と思われる家族があるようですが……


「それは体質の類似性から生じるもので、他の体質と同じく、その体質が透視力の伝導体の役をしているのです。また、ある種の教育によって能力が開発され、それが世代から世代へと伝達されることもあります」


――環境によって発現することがあるというのは本当でしょうか。


「大病、危機一髪、動乱などがきっかけで突如として発現することがあります。そうした体験で身体が、普段の肉眼で見えないものが魂の眼に見えるような状態になることがあるのです」


――特に目立った才能も教養もない人が日常生活で際立った明晰な判断力を見せることがあるのですが、これは透視力のせいでしょうか。


「そうした判断力の鋭さは(透視力とは関係なく)魂の働きが物的波動に埋もれている人よりも活発で、物事の直観力が正確であることから生まれます」


――その判断力の鋭さは未来の出来事の予知能力も生むのでしょうか。


「そうです。予感が鋭くなります。この透視力、つまり魂の視力には幾つもの段階があり、どの段階でも使える人もいれば、ほんの一部しか使えない人もいます」

シアトルの冬 祈り

prayer   


                  

【Q1】
祈るということは大切でしょうか?

 それは、その祈りがどういうものであるかによって違ってくることです。祈りの文句を目的もなしに繰り返すだけでは、ただ大気中に波動を起こすだけです。

 が、誠心誠意、魂の底からの祈り、大霊 (第10章参照) の心と一体となり、大霊の道具として有意義な存在でありたいと願う心は、その波動そのものが、その人を大霊の僕として、よりふさわしく、よりたくましくします。祈るということ、真実の自分を顕現すること、心を開くこと、これが背後霊との一体化を促進するのです。


【Q2】 
祈りは主観的なもので、客観的な結果は生み出さないとおっしゃるのでしょうか?人間的に立派になるだけで、具体的には何も生み出さないのでしょうか?

 真実の祈りは、人のために役立つ行為への心の準備であらねばなりません。より高い波長に適合させるための手段です。

 私のいう祈りは、他人の書いた意味のわからない文句を繰り返すことではありません。誠心誠意の祈り、魂の波長を最高度に高めようとする真摯な願いです。その結果として、感応するインスピレーションに満たされて一段とたくましい存在となります。


【Q3】
他人のために祈ることにも、何か効用がありますか?

 あります。真摯な祈りは決して無駄になりません。思念は生きものだからです。


【Q4】
遠隔治療にたずさわる治療家による祈りにも、実質的な効果があるのでしょうか?

 あります。先ほどの質問に対しては個人としての祈り (注) を念頭においてお答えしましたが、あらゆるかたちの祈りについてもいえることです。祈っているときは、サイキックな (心霊的) エネルギーを出しており、これを治療専門の霊が利用するのです。

 訳注──「個人としての祈り」 と断ったときのシルバーバーチの念頭には、グループで行なう遠隔治療のことがあったことが前後の文脈からうかがえる。グループで円座をつくり、中心に特定の患者がいるとの想定のもとに祈る方法である。


【Q5】
他に援助が得られないとき、祈りを通じて霊界からの援助を要請してもよいものでしょうか?

 誠心誠意の祈りは、その行為そのものがより高い波長に感応させます。祈るということ自体が心を開かせるのです。ただし、その祈りは、心と魂と精神を込めたものであらねばなりません。こうしてほしい、ああしてほしといった、ただの要求は祈りではありません。真実の意味での祈りは大きな霊的活動です。

それは何かの目的への手段であって、目的そのものであってはならない、というのがいちばん的確な表現かと思います。

 「何とぞ私を役立たせ給え」───これ以上の祈りの言葉はありません。「大霊とその子らのために、自分を役立たせたい」 と祈ることよりも偉大なる仕事、大いなる愛、崇高なる宗教、高邁なる哲学はありません。

 どういうかたちでもよろしい。摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、お腹をすかしている人に食べるものを与えてあげることでも、あるいは暗い思いに沈んでいる人を明るい気持ちにしてあげることでもよろしい。つまりは、その人のためになることであれば、どんなことでもよいのです。

自分のことをあとまわしにしてでも、他人のために役立つことをする術を身につければ、それだけ内部の霊性、すなわち大霊が発現することになるのです。ことは、簡単なのです。
 ところが、聖職者たちは教会を建立し、そのなかで得体の知れない説教をします。私にも理解できないようなむずかしい用語を散りばめ、〝宗教的〟であると信じている儀式をします。が、そんなことはどうでもよろしい。

くじけそうになっている人のところへ行って元気づけてあげ、疲れた人に休息の場を与えてあげ、空腹の人に食べ物を施してあげ、のどの渇いた人に飲み物を与えてあげ、暗闇のなかに沈んでいる人に新しい光明を見出させてあげるのです。そのとき、あなたを通して大霊の摂理が働いています。


【Q6】
祈りに何の回答もないように思えることがありますが、そんなとき、霊的にはどうなっているのでしょうか?

 人間の内部には人間くさいものと神性を帯びたものとが同居していて、両者の間で常に葛藤があります。霊性に軍配があがったときは大霊と一体となったときで、崇高な喜びに浸ります。人間性に軍配があがったときは、霊的自我は落胆しています。

 人生には、しばしば本人がこうあってほしいと思っている道ではなく、当人の存在意義が最大限に発揮される道へ、いやおうなしに導かれることがあります。たとえば、この部屋には、毎日毎晩、霊の一団が訪れています。

その霊団の一人ひとりが、本来なら一直線に向上の道を歩みたいところを、それをしばらくおあずけにして、この部屋に光の環(サークル)を構築するための環境条件を整えるために参加しているのです。いずれここが、暗い地上の片隅まで照らす灯りの始原の一つとなります。そういう仕事に比べれば、地上の人間的な悩みごとなど、ものの数ではありません。
 身を横たえる家もなく、星空のもとで寝て雨風にさらされ、満足に食べるものにもありつけない人が現実に大勢いるというのに、ここにお出でのみなさんの祈り求めるものが、大霊の目から見て、そんなに大切だと思われますか。

 みなさんに自覚していただきたいのは、みなさんも大霊の大計画に参画しているということ、そのなかでみなさんご自身の小さな人生模様を織っているということです。今は、その大計画がどういう図柄であるかはわからなくても、そのうちすべてが明かされる日が来ます。そのとき、すべての人種、すべての肌色が、それぞれに役割を果たしていることがわかります。そのときが地上天国となったときです。

 表向きは何事も生じていないかに思えるときでも、霊的刺繍は着々として織り込まれているのです。昼となく夜となく、大霊の計画は休むことなく続けられており、最終的には人間の一人ひとりがいくばくかの貢献をしています。

 人間から、ときおり自分の魂の成長にとってためにならないもの、かえって進化を遅らせることになるものを要求されます。それは、かなえてあげるわけにはいきません。またときおり、それを手にするに値するだけの努力をしていないものを要求されます。それも与えられません。

そしてときとして、(要求を)受け入れるだけの十分な準備をなさっているものを要求されます。それは、ここという好機を見はからって与えられます。みなさんの祈りは、口に出す前から、大霊は、先刻ご承知なのです。


【Q7】
教会で毎日のように唱えられている祈りに、効用があるのでしょうか?
 祈る人それぞれで違うでしょう。口先だけの祈りは空虚な音の響きに過ぎません。魂を込めた祈り、熱誠と憧憬に満ちた祈り、大霊に一歩でも近づきたいとの熱望に燃えた祈りであれば、その熱望そのものが祈りに翼を与え、霊界の深奥(シンオウ)まで届くことでしょう。


【Q8】
たとえば、幼な子が飲んだくれの親に更生してもらいたいと思って祈る祈りに、効用はあるのでしょうか?

 誠意ある祈りには、それなりのパワーがあります。そのパワーがどこまで物的次元に転換されるかは、さまざまな条件によって違ってきます。今あげられた例の場合ですと、飲んだくれの父親の魂が問題となります。つまり、その祈りのパワーがその琴線にふれるか、それとも霊的なものから遠ざかり過ぎて何の反応も示さないかによって違ってきます。この質問には 「イエス」 「ノー」 では答えられません。


【Q9】
でも、何らかの影響はあるでしょう?

 人のために役立ちたいという祈り、真理、光明、導きを求めての祈り、これはすべてその人の魂の進化の指標です。その心は物的身体から出たものではなく、霊そのもの、すなわち大霊の一部であり、したがって大霊のパワーを秘めているのです。しかし、それを発揮するためには艱難辛苦の体験を通じて、霊性が進化しなければなりなせん。それまでは、パワーは発揮できません。


【Q10】
祈りは霊界のだれかが聞き届けてくれるのでしょうか?それとも、その祈りと調和するバイブレーションに反応するパワーを、人間のほうで想定する必要があるのでしょうか?

 そもそも祈りとは魂の発現です。そこのところをまず明確にしておきたいと思います。光明すなわち導きを求めて叫ぶ魂の渇望です。その熱誠そのものが回答をもたらすのです。それが思念のパワーを起動させるのです。それが回答を引き寄せる原因であり、回答が結果です。霊界のだれかが、人間が祈るのを待っている必要はありません。

 なぜなら、人間の祈りの性質によって、それが届く範囲というものが自動的に決まり、その人間の霊性の進化の度合いに応じて、引き寄せられるべき霊が自然に引き寄せられるのです。その霊たちは、地上人類のために働く決意ができていますから、そのパワーが人間の祈りが生み出したパワーを増幅させます。それは思念の波動であり、霊性の一部です。
 つまり、祈る人間の霊性に応じて、宇宙のエネルギーが働くのです。ということは、稼動させることができる宇宙エネルギーは、祈る者の霊格によって、その範囲が自然に決まるということです。

 祈る人の霊性の進化の程度によっては、何らかの理想の観念を思い浮かべて、それに意念を集中するほうがいい場合があるでしょう。そのほうがやりやすいというのであれば、私はあえて否定はしません。
 しかし肝心なのは大霊であり、生命の原則であり、大自然の摂理です。大霊は完全ですから、摂理も完全です。あなたがたの内部に宿る大霊も完全であり、それがあなた方を通じて発現しようとしているのです。祈りにしても、人のための献身にしても、大霊を発現しようとする魂の行為です。そうした魂を開発しようとする行為が、霊性の進化を促すのです。


【Q11】
あらゆることが変えようにも変えられない法則によって支配されている以上は、大霊に祈っても何にもならないのではないでしょうか?祈りとは、大霊に法則を変更してくれるように頼むことではないかと思うのです。

 私は、祈りをそのようには理解していません。祈りとは、大霊に近づかんとする魂の切実な願いです。その行為そのものが内部に宿る大霊を発現させ、未踏の階層まで至らしめてくれるのです。そこに不公平も特別の配慮もありません。祈りという行為によって魂が身を引き締め、大霊をより多く発現し、それだけ多くの恵みをわがものとすることができるということです。大霊の恵みは無限です。そして、あなたの魂も無限に開発されていきます。


【Q12】
なぜ人間は、神に罪の赦しを乞うのでしょうか?摂理を犯せば自動的に罰が下されるのではないでしょうか?
 赦しを求めて祈っても、摂理が手直しされることはありません。支払うべき代償は支払わねばなりません。しかし、赦しを求めて祈るということは、自分の間違いに気付いて大霊との調和を求め始めたことを意味します。自我を見つめ、内省し始めたことを意味します。本当の意味での霊性の進化が始まったのです。


【Q13】
われわれは、摂理に向かって祈るべきなのでしょうか?

それは違います。自分の内部と外部に存在する大霊に向かって祈るのです。波動の調整とひたむきな向上心によって、大霊という無限のパワーとの一体化を少しでも促進しようとする営みです。より多くの光明、より多くの知識、より多くの英知と理解力を求める切実なものであらねばなりません。そういう祈りならば、必ず報われます。なぜならば、誠心誠意の訴えそのものが、内部の神性を発現させるからです。


【Q14】
ときおり、こちらが祈り求めないうちに霊界からの援助をいただくことがありますが、われわれの必要性をどうやってお知りになるのでしょうか?

 切実な祈りは、然るべき目標に届くものです。必死に祈れば (私の言う 「祈り」 は 「要求」 ではありません)、その祈りは必ず目標に届きます。磁気的引力の法則が働くのです。祈りがかけ橋となって回答が届けられるのです。


【Q15】
大霊に直接語りかけることができますか?

 あなたは大霊であり、大霊はあなたです。あなたと大霊との違いは、「性質」 ないしは 「本質」 にあるのではなく 「程度」 にあります。大霊は完全の極致であり、あなたはそれに向かって、はてしない努力を続けるのです。

 したがって、大霊は内部にも外部にもあることになります。あなたが神性を発現したとき、すなわち愛、寛容、慈悲、哀れみ、慈善などの行為を実行に移したとき、あなたは大霊と通じあっていることになります。なぜならそれは、大霊があなたを通して働きかけていることにほかならないからです。


【Q16】
悲しみのどん底にありながら、祈るということをしない人がいますが、どうなのでしょう?神の存在を信じない以上、救いようがないのでしょうか?

 大霊の存在を信じる信じないは問題ではありません。そのことで、大霊がお困りになることはありません。


【Q17】
ですが、そういう人でも救いがあるのでしょうか?さまざまな理由から神に祈ることも信じることもできないでいながら、大変な悩みを抱え、救いが必要な人がいます。

 救いをいただく資格は、大霊の存在を信じるか信じないかで決まるのではありません。その時点までに到達した精神的、ならびに霊的進化の程度によって決まることです。手助けをいただく資格があるからいただくのです。これも原因と結果の自然法則です。


【Q18】
霊側では、人間側が祈るまで待っているのでしょうか? それとも、人間側が要求するしないにかかわらず、聞き届けたり無視したりするのでしょうか?
 絶対的な法則によって経綸されている宇宙の大機構のなかにあって、人間、あるいは何らかの形態の存在が忘れ去られるということはあり得ません。自然法則は完壁ですから、すべての存在を包含しており、何一つ、だれ一人その枠からはみ出ることはありません。

 地上の人間が、大霊の目からもれるということはあり得ません。人間の一人ひとりがおかれている情況は、すべて把握されています。祈りがかなえられた場合は、その時点までに到達した精神的ならびに霊的進化の段階で、当人にとってふさわしいものがかなえられたのです。


【Q19】
宗教集団で行なう日課の祈祷は、霊界に何か影響を及ぼすのでしょうか?
 ほんのわずかな間でも、波動が一つにまとまれば影響が出るでしょう。が、祈りとは、本来はやむにやまれず発する魂の叫びです。組織的な体制で、機械的に行う行事は祈りではありません。


【Q20】
スピリチュアリストの集会のなかには、祈りの日を設けているところがありますが・・・・・・。

 日常生活において霊的真理の意義を生かした生き方をしていなければ、自分たちを 「スピリチュアリスト」 と呼んでみても何の意味もありません。大切なのは、自分たちはこういう者ですと名のることではなく、実生活において何をしているかです。


【Q21】
祈れば、聞き届けてもらえるのでしょうか?

 聞き届けてもらえることもありますが、それは祈りの中身と動機によります。人間はよく、中身の性質上、聞いてあげるわけにはいかないものを要求します。要求通りにしてあげたら霊性の進化を妨げ、あるいは人生観を狂わせてしまうからです。

 祈りというものを、人間の側からの要求を聞いて霊界で審議会を開き、「よかろう」とか「それはならぬ」といった返事をするような図を想像してはいけません。祈ることによって波動を高め、より次元の高い階層と通じることによって、然るべき回答が届けられる条件を整えるのです。


【Q22】
祈りの機能は何でしょうか?

 本当の祈りとご利益信仰との違いを述べれば、祈りが、本来、どうあるべきかがおわかりいただけると思います。ご利益信仰は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい、お金がほしい、家がほしいといった物的欲望には、霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな欲求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。

 一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、万物の背後にひかえる霊力との融合を求める祈りといった、真実の祈りがあります。こうした祈りには魂の内省があります。つまり、自己の不完全さと欠点を自覚するがゆえに、真摯に祈ります。それが内在する霊的エネルギーを発現することになり、その姿勢そのものが祈りの回答を受け入れる態勢となるのです。

 これまで何度か述べたように、人間の祈りのなかには、それを完全に無視することが最高の回答であるものがたくさんあります。言うとおりにしてあげることが、かえって当人にとってプラスにならないとの判断があるのです。

 しかし、魂の奥底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める願望は、自動的に成就されます。つまり、その願望が霊的に一種のバイブレーションを巻き起こし、そのバイブレーションによって、当人の霊的成長に応じた分だけの援助が、次のステップのために引き寄せられます。

危険のなかにあっての祈りであれば、保護のためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。そのなかには血縁関係によってつながっている霊もいれば、愛の絆によって結ばれている類魂もいます。そうした霊たちはみな、かつて地上時代に、自分も同じようにして救われた体験があるので、その要領を心得ています。


【Q23】
霊界側は、祈りをどう見ているのでしょう。

 祈りは、人間としての義務を逃れるための臆病者の〝避難所〟ではありません。祈りは、実際の行為で果たさねばならないことの代用となるものではありません。祈りは、義務を免除してもらうための手段ではありません。祈りは、大霊の摂理を出し抜くための手段ではありません。

それはいかなるかたちの祈りによっても不可能ですし、途切れることのない原因と結果のつながりを寸毫(スンゴウ)も変えることはできません。

 自分を役立てたいという願い、義務と責任を自覚した心から発していない祈りを、すべて無視してください。そしてその後に、サイキックないしはスピリチュアルなものとして、ある種のバイブレーションを生み出す祈りが残ります。そのバイブレーションが回答を呼び寄せるのです。それは必ずしも、当人が期待したとおりのものではありません。当人が発したバイブレーションが生み出した自然な結果です。


【Q24】
本当の祈りは、自分の意志を大霊の意志と調和させることだとおっしゃいましたが、どうやって調和させるかについては述べておられませんが・・・・・・。  

 祈り方がわからないという方は、無理して祈るべきではありません。祈りとは、精神と霊の行為、自分の意志を大霊の意志と調和させるための手段です。いくらやっても調和させることができないときは、それはあなたの祈りが効果を生み出さなかったということを意味します。真実の祈りには、その後に行為が伴わなければなりません。

 つまり、祈りの行為によって、自分を大いなる生命の力と荘厳さと支配力に調和させることで、それを満身に受け、宇宙的意識と一体となり、精神・霊的に一段と強くなって、より大きな貢献ができるようにならねばなりません。これが、私が理解している祈りです。











【Q25】
 公式の祈りの日に、どういう意義があるのでしょうか?

 祈りに公式も非公式もありません。昼と夜の区別もありません。祈りを発する当人以外の何者によっても影響を受けることはありません。当番の者が先導して述べる機械的な祈りには、何の価値もありません。

 そういう規約になっているため、あるいはそういう習慣になっているために顔をあわせて行なう祈祷───すっかり慣れっこになっているために、何の感慨もわいてこないような祈祷では、大霊に一歩たりとも近づけてくれません。人間にとって必要なものは、大霊は先刻ご承知です。人数を多くして嘆願する必要はありません。

シアトルの冬 物質界への再誕

Rebirth into the material world




〈再生の前兆〉


――物質界へ再生する時期は予知されるのでしょうか。


「目をつぶっていても火に近づくと体で熱を感じるように、再生する時期が近づくと自然に直感するものです。死を予期するのと同じ調子で、また生まれ変わることを予知します。が、それが正確にいつであるかは知ることはできません」


――近づく再生にそなえての準備もあるのでしょうか。


「一向に気に掛けない者もいますし、何も知らずにいる者もいます。それはその霊の霊性の発達程度による問題です。将来のことが何も分からないという不安な状態に置かれることが罰であることもあります」


――再生の時期を早めたり遅らせたりすることは出来るのでしょうか。


「強烈な意念でもって望めば早めてもらうことは出来るでしょう。待ち受ける試練にしり込みして拒否の態度を続ければ延期してもらうことも出来るでしょう。人間界と同じで、霊界にも臆病者や横着者がいるものです。ですが、延期が叶えられても、それだけの代償は必ず払わされます。病気の治療と同じです。こういう療法で必ず治ると分かっているのにそれを拒否すれば、治るのが遅れるのは当たり前です」


――さすらいの状態にありながらも今の状態が結構楽しくて幸せであると感じている場合は、その状態を無期限に延ばすことは許されるでしょうか。


「無期限にというわけには行きません。向上の必要性は遅かれ早かれどの霊もが感じるものです。霊は例外なく向上しなくてはなりません。それが宿命なのです」


――宿る身体はあらかじめ決まっているのでしょうか。それとも最初の段階で選択するのでしょうか。


「生まれ出る新生児にどの霊が宿るかは決まっています。霊が次の人生で体験することに意を決すると、再生の手続きに入ります。神はその霊について裏も表も全てを知り尽くしていますから、新しい人生も予見して、かくかくしかじかの霊はかくかくしかじかの身体がよいということを判断なさるのです」


――霊には宿る身体を選択する自由はないのでしょうか。


「身体を選ばせてもらえることもあります。なぜなら、障害の多い身体に宿れば大変な試練の人生となりますから、それを選ぶことによって遭遇する苦難を首尾よく克服すれば、それは大いに進歩の多い人生となるからです。ただし、それだけにまた挫折も多いわけですから、一人で勝手に選ぶことは許されません。そういう願いを出して許しを乞うということになります」


――選んだ身体に宿る直前になってそれを拒絶することもできますか。


「もし拒絶した場合は、新たな試練を求めなかった場合よりも多くの苦難をこうむります」


――生まれ出る胎児に宿る霊がいないという事態は起こり得ますか。


「神はあらゆる不慮の事態に備えています。生まれ出る胎児には必ずそれに宿るべき霊も決められています。計画なしに創造されるものは何一つありません」


――肉体に宿りきった瞬間は死後の意識の混乱と同じものを伴うのでしょうか。


「伴います。死後の混乱よりも大きく、とくに期間がずっと長く続きます。死後は肉体への隷属状態からの解放ですが、誕生は再びその状態に入り込むのですから」


――再生する瞬間は霊自身にとって厳粛な気持ちになるものでしょうか。


「譬えてみれば危険な航海に出て行く時の心境です。果たして無事荒海を乗り切ることができるかどうか、大いなる不安の中での船出です」


――その不安というのは新しい人生での試練を無事克服できるかどうかということから生じるのでしょうか。


「そうです。とても不安です。それにどう対処するかによって霊的進化を遅らせることになるか速めることになるかが決まるからです」


――再生する時、見送ってくれる仲間がいるのでしょうか。


「それはどの界層に属するかによって違ってきます。情愛の強い界層であれば、愛する者たちが最後の別れの間際まで付き添い、勇気づけ、再生後もずっと付き添うこともよくあります」


――夢などによく姿を見せながらその容貌に記憶がないということがよくあるのですが、それはその類いの霊でしょうか。


「そうです、そういうことが非常に多いです。牢に入れられた者を見舞うのと同じように、あなたのもとを訪れてくれているのです」
〈魂と肉体の合体〉


――魂が肉体と合体するのはいつでしょうか。


「受胎の瞬間から結合作用が開始されますが、完了するのは誕生の瞬間です。受胎の瞬間に、その肉体に宿ることになっている霊と受胎した細胞とが流動質の紐でつながります。そのつながりは日を追って緊密になり、出産後の産声(うぶごえ)によって地上の人間の一人となったことを告げることになります」


――霊と胎児との結合は受胎の瞬間において確定的なものになるのでしょうか。つまり、結合して間もない頃に霊がその肉体に宿ることを拒否することが出来るのでしょうか。


「両者の結合は、他の霊には絶対に侵入を許されないという意味において確定的と言えます。しかし、物質的なつながりは脆弱(ぜいじゃく)ですから、自ら選択した試練にしり込みして霊が強烈に拒否すれば、そのつながりは切断されます。その場合は胎児は死亡します」


――宿った胎児が何らかの原因で死亡した場合、霊はどうなりますか。


「別の肉体を選びます」


――生後二、三日で死亡するような嬰児に宿って再生することにどんな意味があるのでしょうか。


「その場合、新しい存在としての意義はまだ芽生えていませんから、死そのものの影響はほとんどありません。前にも述べましたが、こうした死は主として両親にとっての試練である場合が大半です」


――霊自身はあらかじめその身体が生き永らえる可能性がないことを知っているのでしょうか。


「知っていることもあります。もし知っていたとすれば、それは新しい人生での試練にしり込みして、そういう身体を選んでいます」


――そうやって、原因は何であれ、せっかくの再生に失敗した場合、すぐに次の再生が準備されるのでしょうか。


「すぐにとは限りません。失敗にそなえて次の再生の準備が整えられていた場合は別として、一般的には新たな選択をするのに時間を要します」


――胎児との結合が確定的となり、もはや拒否することができなくなった時点で霊が後悔することがありますか。


「ご質問の意味が、人間となってからその人生に不平を言ったり、生まれてくるんじゃなかったと思うことがあるかということであれば、そういうことはあるでしょう。が、再生する際の人生の選択を間違えたと後悔することがあるかという意味であれば、そういうことはありません。なぜなら、その時点ではすでに霊としてそういう選択をした記憶は消えているからです。いったん再生してしまうと、霊の時代に意識して選択したことは思い出せません。しかし人生の重荷に耐えかねて絶望することはあります。その場合、自殺ということも起こり得ます」


――受胎から誕生までの期間中に、霊は霊的能力を使用しているのでしょうか。


「妊娠期間中のさまざまな時点で大なり小なり使用しています。新しい物的身体と結合したといっても、まだ合体するまでには至っていないからです。一般的には受胎の瞬間から意識の混濁が始まり、その時点で自分がいよいよ再生の過程に入ったことを直感します。その混濁は日を追って強まり、分娩に至ります。その期間中の霊の意識状態は睡眠状態に近いと思ってよろしい。分娩時が近づくにつれて意識は消え、過去の記憶も消え、それは誕生後もずっと思い出せません。死後霊界に戻ると徐々に記憶が蘇ります」


――いわゆる死産の場合、当初から再生が意図されていなかったケースもあるのでしょうか。


「あります。当初から霊が宿る予定はなく、霊的には何も為されないことがあります。そういうケースは両親にとっての試練としての意義しかありません」


――そういう胎児でも一通りの妊娠期間があるわけですか。


「全てではありませんが、あります。ですが、生きて産まれ出ることはありません」


――堕胎は霊にどういう影響を及ぼすでしょうか。


「無駄に終わったことになり、一からやり直さなければなりません」


――人工中絶はどの段階であっても罪悪でしょうか。


「神の摂理を犯す行為はすべて罪悪です。母親であろうと誰であろうと、生まれ出るべき胎児の生命を奪う者は必然的に罪を犯したことになります。生まれ出る身体に宿って再生し試練の一生を送るはずだった霊から、そのせっかくの機会を奪ったことになるからです」


――かりにその母親の生命が出産によって危機にさらされると診断された場合でも、中絶することは罪になるのでしょうか。


「すでに完成されている人体(母親)を犠牲にするよりも、まだ完成されていない人体(胎児)を犠牲にすべきでしょう」
〈霊的属性の発達〉


――人間の道徳性はどこから生まれるのでしょうか。


「その身体に宿っている霊の属性です。霊が純粋であるほど、その人からにじみ出る善性が際立ってきます」


――そうすると善人は善霊の生まれ変わりで、悪人は悪霊の生まれ変わりということでしょうか。


「それはそうなのですが、悪霊と言わずに“未熟霊”と言い変えた方がいいでしょう。そうしないと常に悪であり続ける霊、いわゆる悪魔が存在するかに想像される恐れがあります」


――非常に知的な人で、明らかに高級霊の生まれ変わりであると思われる人が、一方において極端に非道徳的なことをやっていることがあるのは、どう理解したらよいのでしょうか。


「それはその身体に宿っている霊が道徳的に本当に純化されていないからです。そのためにその人よりも波動的に低い霊の誘惑に負けて悪の道に陥るのです。霊の進化は一本道を上昇していくのではありません。霊のもつ多くの属性が少しずつ進化して行きます。進化の長い旅路において、ある時は知性が発達し、またある時は道徳性が発達するといった具合です」


――霊的属性は物的身体の器官によって制約を受けるのでしょうか。


「肉体器官は霊的属性を発現させるための魂の道具です。ですから、その発現の程度は肉体器官の発達程度によって制約を受けます。名人の腕も道具次第であるのと同じです」


――すると、頭脳の発達程度から道徳的ならびに知的属性の発達程度を推しはかることが出来るのですね?


「原因と結果を混同してはいけません。能力や資質は霊に所属しているのです。肉体器官がそれを生み出すのではなく、それが肉体器官の発達を促すのです」


――その視点から言えば、各自の素質はひとえに霊の発達程度によるのでしょうか。


「“ひとえに”と極言するのは正確ではありません。物質界に再生した霊の資質が持って生まれたものであることに疑いの余地はありません。が、宿った物的身体の影響も考慮に入れなくてはなりません。大なり小なり、内在する資質の発現を阻害するものです」
〈白痴と錯乱〉


――一般に白痴は普通の人間よりも下等と信じられていますが、そう信じてよい根拠があるのでしょうか。


「ありません。人間の魂であることに変わりはなく、実際には外見から想像するより遥かに高い知性を秘めていることがあります。ただ、それを発現させる機能が大きく阻害されているだけです。耳が聞こえない人、物が見えない人がいるのと同じです」


――そういう不幸な扱いを受けている人がいることにも神意があると思うのですが、一体どういう目的があるのでしょうか。


「白痴は大きな懲罰を受けている霊の再生です。そうした発育不全ないしは障害のある器官に拘束され、発現できない状態での苦痛を体験させられているのです」


――白痴のような、善も悪も行えず従って進歩が得られない状態での人生に何のメリットがあるのでしょうか。


「そういう人生は何らかの才能を悪用したその罪の代償として科せられているのです。その霊の進化の旅程の一時的中断です」


――と言うことは、その白痴の人物の身体に宿っている霊は、かつては天才だったということも有り得るのでしょうか。


「大いに有り得ます。天才も、その才能を悪用した時は天罰を受けます」


――その身体に宿っている霊は、霊的にはそれを自覚しているのでしょうか。


「自覚していることがよくあります。自分の行動を阻止しているクサリが試練であり罪滅ぼしであることを理解しているものです」


――精神的錯乱状態の人間の場合、霊はどういう状態になっているのでしょうか。


「霊は、完全に自由な状態(霊界に所属している間)では、全ての機能が自在に働き、物質へも直接的に働きかけることができます(心霊現象を生じさせる場合)が、いったん物質界に再生してしまうと条件が一変し、肉体器官という特殊な媒体を通して能力を発揮することになります。ですから、もしもその器官のどれか一つ、あるいは器官の全てが損傷を受けると、その人間の行為ないしは受信機能が阻害されます。眼球を失えば見えなくなり、聴覚を損なえば聞こえなくなるといった具合です。

そういう次第で、かりに知性や意思の表現を司る機能が部分的に、あるいは完全に阻害されれば、器官はそなわっていても、まったく機能しないか、異常な反応をするために、表向きは錯乱した行動を取ります。霊的には異常であることに気づいていても、どうしようもないのです」


――それが自殺という行為を生むことがあるのはなぜでしょうか。


「今も述べたように霊的次元では本当の自我は異状に気づいていて、その機能不全による拘束状態に苦しんでいます。その拘束を断ち切る手段として自ら死を選ぶのです」


――死後も地上時代の錯乱状態が続くのでしょうか。


「しばらく続くかも知れませんが、そのうち物的波動から抜け出ます。それはちょうど、あなた方が朝目を覚ましてしばらくは意識がぼんやりとしているのと同じです」


――脳の病気がどうして死後の霊にまで影響を及ぼすのでしょうか。


「一種の記憶の残影の影響で、重荷のように霊にのしかかっています。本人には自分の錯乱状態での行為の記憶はありませんので、本来の自分を取り戻すのに普通より時間が掛かります。死後の不安定な状態が地上時代の病的状態の長さによって長かったり短かったりするのはそのためです。霊は肉体から解放されたあとも、多かれ少なかれ、肉体とのつながりによる影響を引きずっているものです」
〈幼児期〉


――霊はなぜ再生の度毎に幼児の段階を経なくてはならないのでしょうか。


「地上へ降誕する目的は霊性の進化です。物的身体に宿った霊は(生長するにつれて物的器官による束縛が大きくなって行くけれども)幼児期は霊的感覚がまだ強く残っているので、指導を任された背後霊団からの印象を受け易く、それが発達を促します」


――最初の意志表示がただ泣くだけということには何か意味があるのでしょうか。


「母親の関心を引きつけて看護に落ち度がないようにするためです。考えてもごらんなさい。もしも赤ん坊がいつも機嫌よく笑い声ばかり立てていたらどうなります? 母親だけでなく周りの者も、その時に必要としているものに気づかずに放っておくはずです。そうした配慮の中にも大霊の叡知を読み取ってください」


――そうした幼児期から成人へ向けて変化して行くのは、内部の霊そのものが変化するからでしょうか。


「霊が、内在する本来の資質を発揮しはじめるのです。

あなた方は表面上の無邪気さの裏に隠された秘密をご存じないようですね。我が子が一体いかなる人間になるのか、生まれる前は何者だったのか、これからどんな人間に成長するかも知らないまま、あたかも自分の分身であるかのごとくに愛撫し、全てを忘れて育て、その愛は海よりも深いと称(たた)えられていますが、他人でさえ感じる幼な子のあの愛らしさ・優しさはどこから来ると思いますか。その始源は何だと思いますか。ご存じないでしょう。では、それをじっくりお聞かせしましょう。

子供は神の許しを得て新しい物的生活の場へ送られてきます。その際、神は、その人生の酷しさが不当であるとの不満を抱くことのないよう、どの霊も表向きは無邪気そのものの赤子として誕生させます。たとえ宿っている霊が極悪非道の過去を持っていても、その悪行に関する記憶はまったく意識されないようにしてあります。無邪気さによって悪行が払拭(ふっしょく)されているわけではありません。一時的に意識されないようにしてあるだけです。その純真無垢の状態こそ霊の本来の姿なのです。だからこそ、それが汚れて行くことについては、その霊が全責任を負わねばならないことが明らかとなるのです。

赤子が純真無垢の状態で生まれてくるのは、それに宿る霊のためだけではありません。その赤子に愛を注ぐ両親のためにも――むしろ両親のためにこそ――神の配慮があるのです。もしも過去の残虐な行為がそのまま容貌に現れたらどうしますか。愛は大きく殺(そ)がれることでしょう。邪気もなく、従って従順だからこそ愛の全てを注ぎ、細心の看護を施すことが出来るのです。

しかし、親による扶養も必要でなくなる十五才あるいは二十才頃になると、本来の性癖と個性が赤裸々に表に出て来ます。もともと善性の強い霊であれば、いわゆる“良い子”に育つでしょう。が、それでも幼少時は見られなかった性癖や性格の陰影が見られるようになります。

生まれてくる子の霊は、親とは全く異なる世界からやってくることを忘れてはいけません。親とは全く異なる感情、性癖、嗜好をもってやって来た者が、いきなり地上世界に馴染めるでしょうか。やはり神の配剤、すなわち純真無垢の幼児期という篩(ふるい)を通過することによって、その準備をするのです。生成発展の過程にある無数の天体が生み出す全想念、全性格、全生命が最終的に入り交じることが出来るのは、この幼児期の篩の過程があるからこそなのです。

無邪気な幼少時代にはもう一つの効用があります。霊が地上生活に入るのは霊性の発達、言わば自己改革のためです。その観点からすれば、幼少時代の物質性の弱さが背後霊による指導に反応しやすくします。その結果、邪悪な性向が抑えられ、問題のある性格がある程度まで改善されます。この抑制と改善は親たるべく神から運命づけられている者にとって、厳粛な使命でもあるのです。

このように、幼児期というのは有用であり必要不可欠であるばかりでなく、それ以上に、宇宙を支配する神の摂理の自然な配剤でもあるのです」
〈親しみを感じる人・虫の好かぬ人〉


――前世で知り合ったり愛し合ったりした二人が次の地上生活で出会った時、それと分かるものでしょうか。


「互いに認識し合うことはできません。しかし互いに親しみを感じるかも知れません。そうした前世での縁が親和力となって次の地上生活で愛情関係へと発展することはよくあることです。偶然としか思えない事情の重なりで一緒になることはよくあることで、それは実は偶然ではなく、このごった返した人間の集まりの中にあって無意識のうちに二人の霊が求め合っていた、その結果です」


――認識し合えればもっと良いのではないでしょうか。


「必ずしもそうとは言えません。過去世の記憶には、あなた方が単純に想像するのと違って、大きな不都合が伴うものです。死後には互いに認識し合い、それまでの過去世を思い出すことになります」


――親しみを感じる場合は決まって前世での縁があるからでしょうか。


「そうとは限りません。人間としての前世での縁がなくても、霊的に親和性がある場合は自然に打ち解けます」


――反対になぜか初対面の時から虫が好かない間柄というのがありますが、何が原因でしょうか。


「霊的な斥力(せきりょく)が働いて、互いに言葉を交わさなくても互いの本性を直感して反発し合うのです」


――その場合、どちらか一方または双方に邪悪な性質があることの表れでしょうか。


「反発を感じるからといって必ずしも邪悪であるとは限りません。反発を感じるのは類似性が欠けているからに過ぎないこともあります。その場合でも互いに霊性が向上すれば相違の陰影が薄れていき、反発心も消えていきます」
〈過去世の記憶〉


――再生した霊はなぜ過去の記憶が消えるのでしょうか。


「神がその無限の叡知によって人間に全てを知ることができないように、また知らしめないようにしているのです。遮ってくれている忘却という名のベールがもし無かったら、暗闇からいきなり直射日光にさらされたように、人間は目が眩んでしまいます。過去世のことを忘れているからこそ自分を確保できているのです」


――地上生活の艱難辛苦は、それもやむを得ないほどの過去の悪事を思い出すことができて初めて納得がいくと思うのです。ところが再生の度に前世を忘れていけば、どの地上人生も初体験と同じであることになります。神の公正はどうなるのでしょうか。


「新しい物的生活を体験するごとに霊は叡知を身につけ、善悪を見分ける感覚が鋭敏になって行きます。そして死の現象を経て本来の生活(霊界での生活)に戻ると、地上での全生活が披露されます。犯した罪、苦しみを生み出した悪行を見せつけられ、同時に、その時どうすればそれが避けられたかも見せられます。その結果各自は、自分に割り当てられた善悪両面の摂理による裁きについて得心がいきます。

そこまで来ると今度は、地上に残してきた罪科の後始末のために、もう一度再生したいという願望が生じます。前回しくじったのと同じ環境条件のもとでの新たな挑戦を求め、先輩霊たちにも援助を要請します。その中には守護霊となるべき霊もいます。守護霊は前回の地上生活での失敗原因を熟知していますから、同じ条件下で遠慮のない試練を与えます。悪想念、罪悪への誘惑によって彼を試します。それに対して、親の躾のお蔭で誘惑に打ち勝ったと思えるケースもあることでしょう。が、実際は彼自身にそなわった善悪判断のモニター、いわゆる良心の声に従ったからなのです。

しかし、その良心の声にこんどこそ従うことが出来たのは、二度と同じ過ちを犯すまいと誓った過去の体験があるからなのです。新たな物的生活に入った霊は、このように堅忍不抜の覚悟で臨み、悪行への誘惑に抵抗し、かくして少しずつ霊性を高めて、霊の世界へ戻った時には一段と向上しているのです」


――そうした過去世についての啓示は地上生活中には得られないのでしょうか。


「誰でもというわけには行きません。どういう人物だったとか、どういうことをしたといった程度のことなら、垣間見ている人は少なくないでしょう。が、それについて語らせたら、奇妙な啓示になってしまうでしょう」


訳注――霊感者とかチャネラーとかが人の前世を語るのを私は、かねがね、霊的原理から言って有り得べくもないことなので奇妙なことだと思っていたが、この回答はそれを見事に指摘してくれていて、すっきりした気分になった。前世についてはシルバーバーチも「一瞬のひらめきの中で垣間見るだけ」と言っているように、人間がとかく想像しがちな、まるでビデオを見ているようなものとは違うのである。

それを、まるで小説でも書くような調子で、さる女優の前世を長編の物語にした米国人チャネラーがいて、それが翻訳されて日本でもベストセラーになったことがあるが、私にとっては一般の人々のいい加減さに幻滅を覚えるだけだった。案の定その後それがチャネラーの作り話にすぎないことが判明して、当の女優も「人を惑わすようなことは二度としたくない」とサイキックニューズ紙で語っていた。確かに“人を惑わすもの”で、これに係わった者は全員、霊的に罪を犯したことになる。


――自分の過去世について漠然とした記憶があって、それが目の前をさっと通り過ぎ、もう一度思い出そうとしても思い出せないという人がよくいるのですが、そういう場合は幻影でしょうか。


「真実の場合もありますが、大体において幻影であり、用心が肝要です。想像力が興奮状態になった時の反映に過ぎないことが多いからです」


訳注――『霊媒の書』に“憑依に至る三つの段階”というのがあるが、これはその第二段階で、低級霊が当人の思考過程の中に入り込もうとしているケースである。だから“用心が肝要”と言っているのである。


――地球より発達した天体上では前世をもっと正確に思い出せるのでしょうか。


「その通りです。まとう身体の物質性が薄らぐにつれて、宿る霊の回想力が鮮明になります。波動の高い天体で生活している者にとっては、過去の記憶は地球の人類より遥かに鮮明です」


――人生の有為転変は過去世の罪滅ぼしであるとなると、その有為転変を見て、その人の前世についておよその推察は可能でしょうか。


「可能なことはよくあるでしょう。受ける罰は犯した悪行に対応するのが鉄則ですから。しかし、それを全てに当てはまる尺度とするのは関心しません。直観的判断の方が確実です。霊にとっての試練は過去の行いに対応すると同時に未来のためを考慮に入れたものなのですから」

シアトルの冬 訳者あとがき

 The Spirit Speaks

Afterword by the translator


訳者あとがき

シルバーバーチの霊言が始まったのは一九二〇年、霊媒のバーバネルが十八歳の時でしたが、正式に記録に残すことを始めたのは、多分一九三〇年代、つまりハンネン・スワッファーが司会者(さにわ)となって定期的に開催するようになってからであろうと推察されます。

まだテープ録音というものがなかった当初は速記によって記録され、その後テープに録音されて保存されるようになりましたが、一般公開、つまり市販を目的として録音されたものは、“Silver Birch Speaks”と題するカセットが一つあるだけです。これに“S.B.1”という記号がついているところをみると、つづいて“S.B.2”“S.B.3”……と出していく予定だったことが窺われますが、バーバネルが一九八一年七月に他界するまでにそれが実現しなかったのは、返すがえすも残念なことです。

このたびコスモ・テン・パブリケーションの厚意ある企画によって、その唯一のカセットテープの中から冒頭の祈り、いわゆるインボケーションの部分を電話でお聞かせできることになり、大変うれしく思っております。

本来この企画はそのシルバーバーチの生の声――といっても声帯はバーバネルのものなので、本当の意味での“ナマ”とは言えないかも知れませんが、その声も語り口も、ふだんのバーバネルとはまったく異なります――を聞きたいという、多くのファンのご要望にお応えするのが目的で考え出されたものですが、折しもあちらこちらで、シルバーバーチが出たとか、シルバーバーチと語りませんか、といった、言わば霊言のモノマネをして金儲けを企む者が現れはじめた事態に対処する必要が生じてきたことも事実です。つまり、ホンモノを紹介しておこうというわけです。(※現在はコスモ・テン・パブリケーションの企画は行われておりません。代わってハート出版より、CD版が発売されております)

本書の編者のオーツセンがサイキックニューズ紙上でこんなことを言っております。

(要旨)

「いかなる霊媒でも、高級霊をこちらから呼び出すことはできない。愛を絆として、向こうから出てくるのである。どんな霊でも呼び出してみせると豪語する霊媒は、霊能養成会に戻って一からやり直すしかない」

これを裏返せば、低級霊なら呼び出せることになりますが、事実その通りで、神話・伝説上の神さまや天使、歴史上の人物の名をなのって出てくる霊はみな低級霊で、パフォーマンスよろしく、それらしく語ってみせます。中には本当に自分は神さまのつもりで、大まじめで語っているおめでたい霊もいるようですが……。

同じく低級霊でも、その種のイタズラ霊とは別に、因縁霊・地縛霊の類も呼び出すことができますが、この場合は霊媒の背後霊団が連れてきて、霊媒の言語中枢が使えるように手取り足取りの指導をしているのであって、その大半が、自分が他人(霊媒)の身体に宿っていることを知らないまましゃべっております。

いずれにしても、低級霊の場合は高次元の話はしませんから、ただ言語中枢を使って低次元のことばかりペラペラしゃべることになります。名前だけは仰々しいのに、言っていることは軽薄短小で、何の感興も湧いてこないという印象をうけるのは、その辺に理由があります。

その点、高級霊になると波長の関係で直接的に霊媒を操作できませんから、シルバーバーチの場合のインディアンのように、霊界の霊媒を使用せざるを得なくなります。その連係プレーがスムーズに行くようになるまでには大変な予備練習が必要ですから、そう易々と出てこられるはずがないのです。そんなわけですから、たとえ三顧の礼をつくしてお願いしても、シルバーバーチはもう二度と出てこないことを、私がここに断言しておきます。

これを別の角度から見れば、高級霊ないしは、そこそこの霊的覚醒を得た霊になると、宇宙というものが厳然たる摂理と計画性のもとに運行していることを知っていますから、お呼びが掛かったからといって、すぐに安請け合いでノコノコと出てきて、わずか三十分や一時間そこらのインタビューに応じるはずはないのです。

これは人間界でも同じではないでしょうか。要職にある人物が、電話一本で、どこの誰だか知らない人のところへ出向くものでしょうか。ましてや“神”や“天使”のタイトルのついた霊がそう簡単に出てくるはずはないのです。うっかり出ようものなら、霊界のお笑いぐさにされてしまいます。もっとも、出ようにも出られないのですから、そんな気の毒なことになる心配はご無用ですが……。

結局のところ“霊言”と称しているものには、高級霊による計画的なもののほかに、イタズラ霊によるモノマネ的なもの、低級なのに本人は高級と思っている霊によるもの、腹話術等による詐術的なもの、そして、ただ書いただけの創作もの、こうしたものがあることになります。これは日本に限ったことではありません。モーリス・バーバネル著『これが心霊の世界だ』(潮文社)の中にこんな一節があります。

「詐術にもよく出会った。これには意図的にやっているものもあれば、無意識のうちにやってしまうものもある。いずれにせよ、この世界での詐術を私ほど多く暴いた人間もいないのではないかと思う。私にそれができたのは、取りも直さず、ホンモノを見てきているからである。結局ニセモノはホンモノのコピーなのである。もしもホンモノが存在しなければ、ニセモノも存在しないはずである」

ではホンモノを見聞きする機会のない一般人はどうするか――この問い、ないしは悩みに対して私がいつもお答えしているのは、心霊科学をしっかり勉強してほしいということです。目に見えない知的存在の実在を証拠づけてくれた、十九世紀から二十世紀にかけての英米の科学者による業績に目を通して、霊の実在と死後の存続についての確信と、霊的原理についての理解を身につけていただきたいのです。

それなしに一足飛びに霊言や自動書記といったいわゆる霊界通信を手当り次第に読みあさるのは、言わば、のべつ駄菓子をつまみ食いするようなもので、それでは肝心の食事どきに食欲が出ないように、真偽もわからないまま片っ端から霊界通信の類を読んでいると、ホンモノに出会った時にその良さがわからないということになります。

高級霊による啓示はそうやたらに届けられるものではありませんし、また、そうたくさん必要でもありません。私にとってはこのシルバーバーチの霊言と、このたび改訳新版(上)が発行されたばかりのモーゼスの『霊訓』、それにオーエンの『ベールの彼方の生活』――私の手もとにホンモノと思える霊界通信がいくつもある中で、――この三つだけは何年たっても、何回読んでも、いつ読んでも、生きていることの喜びと、生きる勇気と、宇宙へのロマンをかきたててくれる宝として大切にし、また、こうして日本の同胞のために翻訳してご紹介しているわけです。

このたび、十分とは言えないまでも、そのシルバーバーチのナマの霊言をお聞かせすることができることになって、大変うれしく思います。(中略)これが愛読者の皆さんのシルバーバーチへの親密感を深める縁(よすが)となれば、と心から願っております。

平成元年十一月

近藤干雄

シアトルの冬 死後の世界

afterlife
シルバーバーチの
スピリチュアルな生き方Q&A

【Q1】

 
死後の世界は、どこにあるのでしょう?

 今、あなた方が生活している世界の別の側面、肉眼に見えず肉耳にも聞こえない世界です。今こうして存在しているのと同じ場所に存在しているのです。死後、わざわざそこへおもむく必要はありません。今いるところが霊界なのです。

 それが感識できないのは、霊的な感覚が発達していないからで、それが発達して霊界の波動あるいは振動(何と呼ばれても、かまいません)と調和すれば見えるようになります。

 つまり、霊界という別の世界が存在するわけではないのです。顕と幽にまたがる大宇宙を構成する無数の側面の、一つの側面に過ぎません。


【Q2】
 死んだ後、生前のアイデンティティーはどうなるのでしょうか? たとえば二、三〇年前に他界した妻を夫が確認できるのでしょうか? 向上が著しくて近づくことができないということもあり得るのでしょうか?
 アイデンティティーは変わりません。個性も変わりません。意識も変わりません。霊的品性が増し、容姿が大きくなっていることがありますが、個的存在としては生前とまったく同じです。霊的感覚が鋭くなり能力も深まっています。シミや障害や傷跡は消えてなくなっていても、本人とはっきりと認識できます。容姿も(すぐには)変わりません。

自我を表現するための道具ないしは手段は霊となっても必要だからです。その道具、つまり霊的身体は、地上で生活しているときから存在しているのです。


【Q3】
 死に方というものが霊界へ行ってから影響するでしょうか? 自然な死に方のほうが霊界に溶け込みやすいのでしょうか?

 もちろんです。大いに影響します。すべての人間が霊的知識をもち自然な生き方をすれば、いわゆる死ぬということが、らくで苦痛のないものになります。また、肉体が死滅した後、霊体になじむための調整をしなくてすみます。ですが、残念ながら、そういうケースは、めったにありません。

 地上を去って、私たちの世界へやってくる人間の大半は、自分の霊的宿命や構成、霊的実在の本質について極端に無知です。それに加えて、死ぬべき時期が熟さないうちにこちらへやってくる人があまりに多過ぎます。そういう人は、私がよくたとえているように、熟さないうちにもぎとられた果物がおいしくないのと同じで、未熟です。果物は熟せば自然に落ちます。同じように肉体に宿っている霊が熟せば、肉体は自然に朽ちて霊体から離れるものです。

 今、こちらの世界には、すっぱい果物やしぶい果物がどんどん送られてきています。そういう霊を霊的環境へ適応させるために、私たちはいろいろと手を尽くし、監視し、世話をやかねばなりません。あらかじめ霊的知識をたずさえていれば、私がたずさわっているような仕事はずっと楽になるのですが・・・・・・。

 死に方によって、間違いなく死後の目覚めが大きく違ってきます。死ぬということは、霊体が肉体から脱皮して態勢を整えることです。決して痛みを伴うものではありません。何らかの病気で死んだ場合は、その反応が残る場合があるかもしれません。その影響が大きい場合は、医者に相当する霊界の専門家が立ちあいます。

集まっている縁故の霊とともに、その死体とつながっている生命の糸(シルバーコード)が完全に切れて、無事に霊界へ誕生するように手助けします。

 次に考慮しなければならないのは、死後の目覚めの問題です。それが早いか遅いかは、その新参者の霊的意識の程度によって違います。死後の生命の存続についてまったく無知である場合、あるいは間違った死後の概念を吹き込まれていて、正しい理解に時間を要する場合は、肉体の睡眠に相当する霊的休息という過程が必要になります。
 その過程は自覚が芽生えるまで続きます。地上の時間感覚で長いこともあれば、短いこともあります。個人によって違います。正しい知識があれば問題はありません。物的波動の世界から脱け出て霊的波動の世界へと入り、新しい環境への順応もすみやかです。目覚めの瞬間は歓喜に包まれます。その目覚めをじっと待ち望んでいた、縁ある人々との再会となるからです。

 そもそも死というものは、少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。死は自由をもたらしてくれます。みなさんは、赤ちゃんが生まれると喜びます。が、私たちの世界では、これから地上へ誕生していく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。

同じように地上ではだれかが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは、地上生活で果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意が、その霊にそなわったことを意味するからです。

 次のことをぜひ理解してください。すなわち、死は死んでいく者にとっては悲劇ではなく、後に残された者にとっての悲劇に過ぎないということです。暗黒から光明へとおもむくことは悲しむべきことではありますまい。悲しんでいるのは、実は、その人に先立たれた自分のことであって、肉体の束縛から解放されたその人のことを悲しんでいるのではありません。その人はより幸せになっているのです。

もう肉体の病に苦しめられることがなくなったのです。激痛にさいなまれることがなくなったのです。天賦の霊的資質が発現し、何の障害もなくそれを発揮し、援助を必要としている人々のために役立てることになるのです。

 毛虫が美しい蝶になったことを悲しんではいけません。鳥かごが開け放たれて、小鳥が大空へ飛び立ったことを泣き悲しんではいけません。肉体を離れた魂が自由を獲得したことを喜び、そして、あなたも大霊から授かった能力を発揮すれば、その魂が味わっている美しさと喜びをいくらかでも知ることができることを知ってください。

 死というものが存在することにも意味があるのです。一つの踏み石ないしはドアのようなものであり、そこを通過することによって、より自由な霊の世界へと入ることになるのです。


【Q4】
 唯物主義者をもって任じている人は、死後どうなるのでしょうか?

 地上人類は長い間、信心深い人間は、信仰心のない人間よりも優れているという思い違いをしてきました。必ずしも、そうとはいえないのです。ある宗教的信条を信じたからといって、それだけで霊的に立派になるわけではありません。判断の基準になるのは日常生活です。

 現在の霊的本性は、本人のこれまでの日常生活での心と体の行為がこしらえたものです。ですから、神の存在を信じ教義を受け入れたことで〝選ばれし者〟の一人となったと信じている人よりも、唯物主義者、無神論者、合理主義者、懐疑論者をもって任じている人のほうが、霊的に上である場合が多いのです。大切なのは、何を信じるかではなくて何をしたかです。そうでないと〝神の公正〟が根本から崩れます。
〝神の公正〟を人間の思惑で判断してはいけません。大霊の意志の反映ですから、大自然と同じように、人間の望み・思惑・願望などにおかまいなく働きます。神の公正と人間の公正とを比較して論じることは無意味です。

人間の公正は必ずしも正しくありません。判断を誤ることがあり得ます。無実の者が罪人にされたり、罪人が無実になったりすることもあります。人間であるからには間違うということは避けられません。絶対的不謬性(誤りを犯さない)はあり得ないからです。


【Q5】
たとえばH・G・ウェルズ(注)のように、スピリチュアリズムを否定し、生涯にわたって合理主義者で通した知性派の人間が他界して、死後にも生活があると知ったときは、どういう反応をするのでしょうか?

 生涯をかけて築いた人生哲学がひっくり返されるわけですから、とても納得がいきません。宇宙そのものがどこか狂ったに違いないと思います。自分が自信をもって、論理的かつ科学的に論証した宇宙観とそぐわないからです。それを調整していかねばならないわけですが、それには長い長い論争と語らいが続きます。
訳注───H.G.Wells(1866~1946)は、英国が生んだ世界的な文明評論家で 『The Outline of History (文明の概論)』 がその代表作であるが、Q4の回答のなかでシルバーバーチが述べているように、霊格が高くても生まれ落ちた国家や環境によって間違った人生観・宇宙観を抱いていることがよくあり、知性が強いだけに死後の〝調整〟がむずかしいことになる。特に宗教的指導者は信奉者とともに自分の想念でこしらえた孤立した世界で何千年、何万年と暮らしているという。 『マイヤースの通信』 では、これを「知的牢獄」と呼んでいる。


【Q6】
 間違った信仰をたずさえて霊界入りする者が多いとのことですが、『ヨハネ福音書』では、信ずる者こそ救われると説かれています。

 それは間違いです。死後も生き続けるのは、信条や教義やドグマを信じるからではなく、自然法則によって生き続けるようになっているからです。宗教とは何の関係もありません。因果律と同じく自然の摂理なのです。


【Q7】
死んでいく者の多くが死後の存続の事実を知らず、めまいのような状態にあるそうですが、それは子どもにも言えることでしょうか?

 その子どもの知識がどのようなものかによります。地上界の無知と迷信の産物によって汚染され過ぎていないかぎりは、本来そなわっている霊的資質が生み出す感性が、直観的理解へと導きます。


【Q8】
 死後どれくらいたつと、地上界へ意思を伝えることができるようになるのでしょうか?

 事情によって異なります。死後何世紀もたっているにもかかわらず、真相に目覚めない者がいます。一方、真理を明確に理解していて、霊媒現象の原理にも通じている者もいます。そういう者なら、死んで何分もしないうちにでも出現できます。


【Q9】
 魂はいくつもの側面があり、そのうちの一つが地上に誕生できるとおっしゃっていますが、他の側面は、どこか別の階層で進化しているのでしょうか?

 私たち霊的世界に住む者は、霊的なものを説明するにあたって地上界の言語を使用しなければなりません。言語は物的なものであり、魂は非物的なものです。物的でないものを物的な言語でどう説明するか───これはあなた方の言う語義論に関わる大問題です。

私に言わせれば、魂とは、すべての人間に宿っている神 (God)、私が 「大霊(Great Spirit)」 と呼んでいるものの一部です。それはこういうものですと、形状や寸法を述べることは不可能なのです。魂とは、生命力(life force)、動力(dynamic)、生気(vitality)、実質(real essence)、神性(divinity)といった用語で表現するしかありません。
 魂というものを、多分、あなた方は自分と同じような〝人物像〟や〝個的存在〟の観念で想像なさるのでしょう。

でも、もし私が 「あなたは、だれですか?」 と尋ねたらどう答えますか?名前をおっしゃっても、それだけではあなたが何者であるかはわかりません。それはあなたを呼ぶときの名称に過ぎません。では、一体あなたという魂は何なのか? 個性をもつ存在、理非曲直を判断する能力をもつ存在、思考力をもつ存在、愛を知り地上界の人間的体験の綾を織りなす情感を表現できる存在、それが魂です。

 人間が地上で生活できているのは、魂が物的身体に活力を与えているからです。魂が引っ込めば、身体は活力を失って死にます。その魂に地上で使われているような名前はありません。本質的には大霊と同じですから、無限の存在です。そして、無限ですから無限の表現が可能です。

魂には多くの側面があるというのは、そういう意味です。それを私はダイヤモンドにたとえているわけです。それらの側面が、別々の時期に地上に生まれ出て体験を積み、ダイヤモンド全体としての進化に寄与するのです。

 まれにですが、同じダイヤモンドの二つの側面が降誕して地上で出会うことがあります。これを 「アフィニティ(affinity)」 (注)といいます。そういう場合は、両者の間に完全な調和が見られます。同じグループを構成する魂同士だからです。これは再生(生まれかわり)の問題とつながってきます。

つまり、同じダイヤモンドの各側面が、それぞれに何度も地上へ生まれ出て知識を増やし、自己開発し、体験を積んで、ダイヤモンド全体としての進化を促すのです。

訳注───affinityはもともと「親近性」を意味する語で、霊的な親近性をもった魂、同じ霊系に属する魂を指す。『マイヤースの通信』 では 「Group Soul」 という用語を用いているが、両者がまったく同じものであることをシルバーバーチ自身が認めている。

日本語では浅野和三郎氏が 「類魂」 と訳しそれが定着しているが、「affinity」はそのまま英語読みが定着している。なお、次のQ10の回答の後半の表現から推察すると、シルバーバーチは 「Group soul」 を人間的要素の残っている段階、言い換えると地球圏内に限っているふしがうかがわれる。


【Q10】
類魂というのは家族のことでしょうか? 霊的発達程度の同じ者の集まりでしょうか?趣味・性向 の似た者同士でしょうか? それとも何かもっと別のものでしょうか?

 「家族」という用語の意味が文字通りの意味、つまり血族や結婚によってつながった者を意味するのであれば、それは違います。純粋に肉体に起因する地上的な縁は、必ずしも死後も続くとは限りません。

 霊的関係には、究極的にはアフィニティがあり、親近性が少し劣るものとして血縁の要素が残っているものがあります。血縁関係は、永遠・不変の原理に基づくものではありません。永続性のあるものは、永遠・不変の原理に基づくものだけです。
 類魂は、人間的要素を含む霊的親近関係にある魂によって構成されています。同じダイヤモンドの側面同士ですから、自動的に引きあい、引かれあうのです。ある特殊な目的を成就するために同じダイヤモンドの複数の側面が地球上に生まれ出て、〝より大きな自我〟であるダイヤモンド全体の進化に寄与するということはあり得ますし、現に行なわれています。


 【Q11】
 大きなダイヤモンドの一側面という言い方をされました。つまり、私もある魂の集団の一人ということになりますが、これは、われわれが永遠に生き続ける存在であるとすると、他の大勢の仲間のために地上経験を積む必要があるというのが、私には論理的に納得がいかないのですが・・・。

 全宇宙を通じて作用と反作用が生じています。はるか遠くにいる人間でも、あなたの存在に大きな影響を及ぼし、結果として宇宙全体の情報が増えていくことになるのです。肉体的にも精神的にも霊的にも、あなたが孤立するということはあり得ないのです。その仲間をグループと呼んでもダイヤモンドと呼んでも、しょせんは言語を超えたものを言語で表現しようとしているに過ぎません。

 一体 「あなた」 とは何者なのでしょう? また、「あなた」 という存在はいつから始まったのでしょう? 受胎の瞬間から始まったのでしょうか? ナザレのイエスは 「アブラハムが生まれる前から私は存在していた」 と言いましたが、これは何を意味しているのでしょう?霊としては、常に存在していたという事実を述べたに過ぎません(注)。

あなたも常に存在していましたし、私も常に存在していました。そうした霊的存在の側面が、肉体をまとって地上界で生活することはあり得ることです。
 私の言うことが納得できないとおっしゃる方と論争するつもりはありません。常々私は、自分の理性が反発することは拒絶なさってくださいと申しあげています。

 私たちがもし、みなさんの好意、あるいは愛と言えるものをいただけるとしたら、それは私たちが真実を述べていることを、みなさんの理性が認めたからに違いありません。もしも好意がいただけないとしたら、私たちの意図した目的が果たせていないことになりましょう。

 私たちは、しょせん、私たちが手にした知識を、これこそは間違いないと確認したうえで積み重ねていくしかありません。そこから始めてゆっくりと、そして段階的に、より高い道をめざして探求の歩みを続けようではありませんか。

訳注───イエスのセリフは 『ヨハネ福音書』 のユダヤ教のリーダーたちとの論争のなかで述べられたもので、アブラハムはユダヤ人の祖とされている人物なので、イエスがその人物より前から存在していたと述べたことに「生意気だ」と言って憤慨し、石を投げつける場面である。シルバーバーチが「‥‥と述べたに過ぎません」と言ったのは、「アブラハムが生まれる前から存在していた」 という言葉は別に失礼でも生意気でもないのに、その意味がわからずにリーダーたちが憤慨したからである。


【Q12】
地上で魂の琴線にふれる体験をしなかった者は、そちらへ行ってどういうことになりますか?

 とてもやっかいな問題です。何の予備知識もなしに初体験をさせられる大人に似ています。霊的なことにまったく疎い状態で新しい生活を始めるわけですから、地上界でも霊界でも不適応者というわけです。霊界生活にそなえた教訓を学んでいないから、そういうことになるのです。準備不足だったわけです。


【Q13】
そちらで、どういった処置をとられるのでしょうか?

 自覚の芽生えない者は手のほどこしようがありませんから、再び地上界へ送り込むことがあります。霊的感性が芽生えるのに何百年もかかることがあります。


【Q14】
霊界の知人・友人などが手助けしないのですか?

 できるかぎりのことはします。が、霊的感性が芽生えるまでは暗闇のなかにいるのです。覚醒のないところに光は届きません。

 そういう人たちのことを気の毒に思ってあげるべきです。せっかくの地上生活が無駄に終わったのですから。霊的資質を発揮することができなかったのです。学生時代に学ぶべきことを学ばなかったために、卒業してからの大人の生活への準備ができていないのと同じです。
 地上生活は、死後に必ず訪れる霊的生活へのかけがえのない準備期間です。体験の一つ一つが進化のために支払う代価なのです。地上生活は一本調子では終わりません。光と影があり、晴天の日と嵐の日があります。


【Q15】
 導きにも一般的な摂理・法則があるのでしょうか?それとも、それを届ける特殊な施設があるのでしょうか?祈りや瞑想にも効用があるのでしょうか?

 すでに何度も申しあげたことを、もう一度言わせていただきましょう。「師は弟子に応じて法と説く」───この名言が何よりの答えではないでしょうか? あなた方が心配なさることではありません。

導きはすべて、大霊から届けられるのです。地上圏に関わる神庁から派遣される使者や他の高級神霊が、ときとして、あなた方が地上へ降誕する以前から、指名を受けて背後霊団に加わっている場合があります。

 そうした高級霊が、あなた方の誕生以前に、自分の存在を知らせてくれる場合があります。ときには特殊な仕事を言いつけて、本人の了承を得る場合もあります。そういう霊を何と呼ぼうとかまいません。

そういう高級霊がひかえている場合があるということです。使命を置き去りにすることは絶対にありません。その使命は、『祈祷書』 の言葉を借りれば、「神がそなたの管理を配下の天使(注)に託し、諸事にわたりて配慮させ給う」のです。

訳注───ここで言う 「神庁からの使者」 「高級神霊」 「天使」 は、もちろん守護霊と考えてよいが、言い回しから感じられるところでは、特殊な使命を帯びた、守護霊以外の超高級霊も含まれているようである。その一例が、ほかでもない、このシルバーバーチや 『霊訓』 のインペレーターである。

 シルバーバーチは、バーバネルの守護霊ではないし、インペレーターは、モーゼスの守護霊ではない。スピリチュアリズムのような人類史に残るような大イベントを遂行するに当たっては、守護霊は直接タッチしないもので、神庁から派遣された高級霊がたずさわっている。

バーバネルの守護霊はついに一度も出現しなかったし、モーゼスの守護霊も、「The Controls of Stainton Moses by A.W.Trethewy (モーゼスの背後霊団)」によると、インペレーターを指揮官とする四九名の霊団のほかにもう一人「プリセプター(「教師」の意味の仮の名)」と名のる総監督がいたというから、多分これがそうではないかと筆者は見ている。一度だけ姿を見せて、すぐに引っ込んだという。前出の原書には、BC九年のヘブライの預言者エリヤであることをにおわせる箇所がある。

Wednesday, January 29, 2025

シアトルの冬 再生

 The Spirits' Book  

Rebirth


――物質界での生活で完全性を達成できなかった魂は、その後、浄化のための試練をどのような方法で行うのでしょうか。



「新たな生活での試練を体験することによって行います」


――その新たな生活をどう生かすのでしょうか。霊として何らかの変身を遂げるのでしょうか。


「浄化するにはもちろん変身が伴います。しかしそれには物的生活での試練が必要です」


――となると魂は多くの物的生活を体験するということでしょうか。


「その通りです。あなた方も私も皆、それぞれに何回かの物的生活の経験があります」


――その説から推理しますと、魂は一つの身体を離れたあと別の身体をまとう――つまり新しい身体で再生するということになりますが、そう理解してよろしいでしょうか。


「まさにその通りです」


――再生の目的は何でしょうか。


「罪障消滅、人類の進歩・向上です。これなくしてどこに神の公正がありましょう」


――再生の回数には限りがあるのでしょうか、それとも永遠に再生を繰り返すのでしょうか。


「一回の再生ごとに霊は一歩向上します。それを重ねて不純なものを浄化しきれば、もう物的生活による試練は必要でなくなります」


――再生の回数はどの霊も同じなのでしょうか。


「一人一人違います。進歩の速い者は試練は少なくて済みます。とは言え、再生の回数は多いのが常です。進化の道は無限といっても良いほどですから」


――最後の物的生活を終えたあと、霊はどうなるのでしょうか。


「浄化され尽くした霊として、至福の境涯へと入ります」


――再生説の哲学的根拠は何でしょうか。


「神の公正、そして新たな真理の啓示です。前にも述べたことですが、我が子がいかなる過ちを犯そうと、愛情ある父親は、いつでも帰ってくるのを扉を開けて待つものです。そういう我が子に過ちの償いをする機会を与えずに、永遠に悦びを奪い続けることが公正でないことくらい、少し理性を働かせれば分かることではないでしょうか。人間は全て神の子ではなかったでしょうか。不公正、容赦ない憎悪、無慈悲な刑罰が横行しているのは、利己主義のはびこる人間界だけです」
〈地球外天体への生まれ変わり〉


――物的生活の体験は全てこの地球上で行うのでしょうか。


「全てというわけではありません。他の天体で行うことも少なくありません。今のあなたの地上生活は最初でもなく最後でもなく、最も物質的で、完全性から最も遠くかけ離れた世界での体験の一つです」


――魂は物的生活を、毎回、新しい天体で行うのでしょうか、それとも同じ天体で何回か体験するのでしょうか。


「十分な進歩が得られない場合は何度でも同じ天体で生活することになります」


――では、私たちは何度かこの地上へ生まれてくるかも知れないわけですか。


「もちろんです」


――その前に他の天体で生活して、それから再びこの地球へやってくることもできるのでしょうか。


「もちろんできます。あなたはすでに地球以外の天体で生活していらっしゃいます」


――再びこの地上へ戻ってくる必要があるでしょうか。


「ありません。ですが、もしも進歩がなければ、この地球と同等か、もっと低い天体へ行くことになるかも知れません」


――地上生活は(私にとって)もう一度戻ってくるほどのメリットがあるでしょうか。


「とくにメリットというほどのものはありません。もっとも、使命が十分に果たせていない場合に、その仕上げに戻ってくることはあるかも知れません。その場合は霊的な向上も得られます。それは地球だけに限りません。他のどの天体でも同じことです」


――いっそのこと再生せずに霊のままでいた方が良いのではないでしょうか。


「とんでもない! そんなことでは進歩が止まってしまいます。霊はひたすら進化向上を求めるのです」


――他の天体をいくつか体験したあと初めてこの地球へやってくることもあるのでしょうか。


「あります。今地上で生活している人でも次は別の天体へ行くかも知れません。宇宙の全ての天体は連帯関係によって結ばれています。一つの天体で成就できなかったことを他の天体で成就することができるようになっています」


――では今地上にいる人間の中には今回初めて地球へやってきた人もいるわけですね?


「大勢います。しかも、霊性の進化の程度もまちまちです」


――この人は今回が初めてだと分かる特徴がありますか。


「そんなことを知っても何の役にも立ちません」


――人類の究極の目的である完全性と至福の境涯に到達するためには宇宙に存在する天体の全ての生活を体験しなくてはならないのでしょうか。


「そんなことはありません。その天体の中には発達程度の同じものが沢山あって、そこでは新しい体験が得られないからです」


――ではなぜ同じ天体に何度も再生しなくてはならないのでしょうか。


「訪れる度に新たな環境に置かれ、新しい経験を見出すことになります」


――前回よりも発達程度の低い天体へ再生することもありますか。


「あります。進化を促進する意味も含めて一つの使命を持たされる場合があります。そういう場合は使命に伴う酷しい苦難を喜んで受け止めるものです。霊性の進化を促進してくれることを理解しているからです」


――それが罪滅ぼしの場合もあるのではないのでしょうか。また、言うことを聞かない霊が程度の低い天体へ送られることもあるのではないのでしょうか。


「霊は進化が止まることはあっても決して退化することはありません。言うことを聞かない霊は進化を止められるという形で罰を受けることがあり、また無駄に終わらせた物的生活を、その本性に合った条件のもとで、もう一度やり直しをさせられることがあります」


――もう一度やり直しをさせられるのはどういう霊の場合ですか。


「与えられた使命を怠った者、あるいは用意された試練に耐え切れずに安易な道を選んだ者などです」


訳注――ここでカルデックは何のコメントもしていないが、世間を見ても自分の心の中をのぞいてみても、こういうことは思い当たることが多いのではなかろうか。単純な例では自殺や一家心中が挙げられるが、宗教家や霊能者の中には功名心や金銭欲から良心がマヒし、取り巻き連中に担がれてとんでもない方向へ歩んでいる者が多いことは、ご存じであろう。要するに霊的真理、峻厳な摂理の理解が本物でないことに帰するようである。


――この地球から別の天体へ再生する場合、地上時代と同じ知性を携えて行くのでしょうか。


「当然です。知性は決して失われません。ただ問題は、別の天体へ再生した時のその知性の表現手段が同じでないかも知れないことです。それはその霊の進歩の程度と身にまとう身体の性質によって違ってきます」


――地球外の天体に住む者も我々と同じ身体を持っているのでしょうか。


「身体はあります。物質に働きかけるためには物質で身をくるまないといけないからです。しかし、その外衣は霊が成就した純粋さに応じて物質性の度合いが異なります。その度合いが再生していく天体の程度を決定づける要素となるのです。“我が父の家には住処(すみか)多し”とイエスが述べておりますが、それだけ霊格の差があるということでもあります。そのことを地上生活中から直観している人がいますが、まったく感じていない人もいます」


――地球外の天体の地質的および精神状態(霊性の程度)について細かい知識を得ることは許されるでしょうか。


「我々霊団としては人類の到達したレベルに応じた対応をするしかありません。言い変えれば、そうした知識をむやみに啓示することは許されていないということです。それが理解できるレベルに達していない者がいて、そういう者にとってはただ混乱させるだけだからです」


――一つの天体から別の天体へ再生するに際しては、霊はやはり幼児期を通過しなくてはならないのでしょうか。


「いかなる天体にあっても、幼児期は必然の通過過程です。ただし、同じ幼児期でも分別の程度にそれぞれの差があります。地球での幼児期ほど分別心の芽生えの遅い天体はそう多くはありません」


――再生する新しい天体は自分で選べるのでしょうか。


「必ずしも選べるとは限りません。要望を出すことはできますし、それが叶えられることもありますが、それはその霊にとって相応しい場合に限られます。その霊の霊性の発達の程度によっては相応しくない天体がいろいろとあるからです」


――本人から要望を出さない場合は、どの天体にするかを決める基準は何なのでしょうか。


「霊性の発達程度です」


――各天体上の生活者はいつの時代にも、身体的にも霊的にも一定のレベルの者ばかりなのでしょうか。


「そうではありません。そこに居住する者と同じく天体そのものも進化の法則に従っております。どの天体も最初は地球と同じ粗悪な状態から始まりました。地球もこれから先輩の天体と同じ変質を遂げることになっています。そしていつの日か居住者の全てが善性の強い霊性を身につけるようになれば、いわゆる地上天国が出現します」


――物的身体が浄化しきってペリスピリットだけになっている天体があるのでしょうか。


「あります。しかもそのペリスピリットもさらに精妙となって、人間の目には映じない、つまり存在しないかに思えるほどになります。完全に浄化しきった霊の状態です」


――今のお説から判断しますと、その程度の霊になると物的天体に降誕している霊と霊界の純粋霊との間に明確な境界線はないように思えますが……


「そういう境界線は存在しません。その差異は徐々に無くなっていき、ちょうど夜が次第に明けて昼になるように、一つにつながってしまいます」


――ペリスピリットの成分は全ての天体において同じでしょうか。


「同じではありません。精妙化の度合いが異なります。一つの天体から別の天体へと移動する時、霊は電光の速さで外衣(ペリスピリット)を更え、その天体に相応しい成分で身をくるみます」


――純粋霊は特別の天体に集まっているのでしょうか、それとも、どの天体ということなく、普遍的宇宙空間に存在するのでしょうか。


「純粋霊にも所属する天体はありますが、人間が地球にしばりつけられているような意味でその天体に所属しているのではありません。神速自在の動きを身につけていますから、事実上は遍在と同じです」
〈創造的輪廻転生〉


――霊は個的存在として創造された当初から霊的属性を存分に発揮できるのでしょうか。


「そういうものではありません。霊も人間と同じく幼児期というものがあります。その期間は本能による存在だけで、ほとんど自我意識も意識的行為もありません。知性の発達は実にわずかずつです」


――初めて物質界へ誕生した時の魂はどんな状態でしょうか。


「人間の人生でいう幼児期と同じです。知性はやっと目覚めはじめたばかりで、言うなれば“生活しようとし始めた”ばかりです」


――地上の未開人の魂はその幼児期の状態にあるのでしょうか。


「相対的な意味で幼児期にあると言えるでしょう。が、彼らはすでにある程度の発達を遂げております。その証拠に、彼らには感情があります」


――すると感情は発達のしるしなのでしょうか。


「発達のしるしです。ただし完成のしるしではありません。活動をしていることのしるしであり、“自分”というものを意識しているしるしです。ただ、他面においては原始的な魂です。知性と霊力は萌芽の状態で存在しているのみです」


――現在の地上生活を完ぺきに送ることによって途中の階梯を飛び越えて純粋霊の境涯に到達することは可能でしょうか。


「それはとても不可能なことです。あなた方が“完ぺき”という用語から想像しておられる概念は、真実の完ぺき性からは程遠いものだからです。人間には全く知られていない要素があるのです」


――少なくとも来世(次の地上生活)を現世よりは苦難の少ないものにすることは可能でしょうか。


「それは可能です。苦難の道を短くそして軽くすることはできます。いつまでも苦難から逃れられないのは向上の意志のない者に限られます」


――現世で到達した位置から低い位置に下がるということはありますか。


「社会的地位ならあるでしょう。霊としての進化の程度のことであれば、そういうことはありません」


――善性の高かった魂が悪党になって再生するということはありますか。


「ありません。善性は決して退化しません」


――逆に悪人が善人に生まれ変わることはありますか。


「それはあります。ただし、死後によほど改心した場合のことです。その悔恨の報いとして新しい再生生活が与えられます」


――いけないことと知りつつ悪の道を歩んでいる者が再生の事実を知って、どうせいつかは真っ当な人間になってみせるさと自己弁解することも有り得るのではないでしょうか。


「そんな狡(ずる)い計算のできるほどの人間になると、もはや何事も信じるということができなくなっています。かりに永遠の刑罰の話を聞かされても悪事は止めないでしょう。

確かに地上にはその種の人間がいます。が、そういう人間もイザ死んでみると考えが変わるものです。自分の計算の狡さに気づき、その反省が次の再生生活に反映して真っ当な人生を送ろうと心掛けるものです。こうして進歩が得られるのです。またこうして地上には進歩的な人とそうでない人とが出てくるのです。その原因は前世での体験にあります。が、誰しもいつかは体験します。進歩を促進するのも阻害するのも、みな“自分”です」


――物的生活の苦難を体験することによってのみ進化向上が得られるとなると、物的生活というのは一種の篩(ふるい)ないしは濾過器のようなもので、霊界の存在が完全の域に到達するためには必ず通過しなければならないものということになりますが……


「その通りです。物的生活の試練の中にありながら悪を忌(い)み善を志向することによって向上して行きます。しかし、それも一度や二度ではなく、幾回もの再生を繰り返すことによって可能なことであり、それに要する時の長さは、完全のゴールへ向けての努力の量によって長くもなれば短くもなります」
〈幼児の死後の運命〉


――幼くして他界した子供の霊でも大人の霊と同じくらい進化していることがあるのでしょうか。


「時には大人よりずっと進化していることがあります。前世が多く、それだけ経験も豊富な場合で、その間の進歩が著しい場合は特にそうです」


――すると父親よりも霊性の高い子供もいるわけですね?


「しばしばそういうケースがあります。世間を見ていてそういうケースをよく見かけませんか」


――幼くして他界して悪事を働くこともなかった霊は霊界の高い界層に所属するのでしょうか。


「悪事を働かなかったということは善行もしていないということです。神が、経験すべき試練を免除することは決してありません。霊が高い界層に所属するのは純真無垢な子供のまま霊界へ来たからではありません。幾つもの前世の体験でそれ相当の進化を遂げたからです」


――なぜ幼児の段階で人生に終止符を打たれることが多いのでしょうか。


「子供の観点からすれば、前世で中途で終わった人生をその短い期間で補完をするためである場合があります。親の観点からすれば我が子を失うことによる試練または罪滅ぼしである場合がよくあります」


――幼児期に他界した霊はどうなるのでしょうか。


「新しい生活を始めます」
〈霊の性別〉


――霊にも性別があるのでしょうか。


「人間の概念でいう性別はありません。人間の場合は肉体器官の違いを言います。霊の場合は愛と親和性で引かれ合いますが、その基盤として高尚な情緒が存在します」


――今生(こんじょう)では男性の身体に宿っていた霊が来世は女性として再生するということはありますか。


「あります。同じ霊が男性にもなり女性にもなります」


――これから再生していく霊としては男性と女性のどちらに生まれたいと思うのでしょうか。


「そういう選り好みは霊は無関心です。どちらになるかは、これから始まる新しい物的生活での試練に視点を置いて決められることです」
〈家族関係〉


――親は子に魂の一部を分け与えるのでしょうか、それとも動物的生命を与えるのみで、それに別の霊が宿るのでしょうか。


「両親から貰うのは動物的生命だけです。魂は分割できません。愚かな父親に賢い子が生まれ、その逆もあるのではありませんか」


――お互いに幾つかの前世があるとなると、家族関係は今生を超えたものも存在するわけですね?


「当然そうなります。物的生活が繰り返されていくうちに霊と霊との関係が複雑になり、初めて会った間柄のはずなのに、それが仲の良い関係や仲の悪い関係を生むことにもなります」


――再生説は霊どうしの関係を今生以前にまでさかのぼらせるから、折角の家族の絆をぶち壊すことになると受け取る人がいますが……。


「家族の絆をさかのぼらせることはあっても、ぶち壊すことにはなりません。むしろ今生の家族の家族関係は前世での縁の上に成り立っているのだという自覚が危機を救うことにすらなるのではないでしょうか。互いに愛し合うべきとの義務感を強くさせるはずです。なぜかと言えば、前世で愛し合った間柄、あるいは親子の間柄だった者が、今生では隣の家族の一人になっているかも知れない、あるいは自分の家のお手伝いさんとして働いているかも知れないからです」


――そうはおっしゃっても、やはり多くの人間が抱いている自分の先祖への誇りを減じることは否めないのではないでしょうか。純粋と思っていた血統の中に、かつては全く別の人種に属していた者や、あまり誇れない社会的地位にあった者がいたことになるからです。


「おっしゃることはよく分かります。ですが、今“誇り”とおっしゃったものは大体において“高慢”に根ざしているものです。その証拠に、誇りに思っているのは爵位であったり、身分階級であったり、財産であったりします。父親が謹厳篤実な靴職人であることを口にするのを憚る人が、得てして、放蕩者の貴族の末裔(まつえい)であることを自慢にするものです。しかし人間が何と言おうと、また何をしようと、全ては神の摂理にのっとって進行しているのです。人間の見栄から出た欲求に従って神が摂理を変えるわけにはいかないのです」


――同じ家系の子孫に次々と生まれてくる霊どうしの間に必ずしも家族関係はないとなると、立派な先祖がいたことを誇りに思うのは愚かということになるのでしょうか。


「とんでもない。高級霊が降誕したことのある家系に属することになったことを誇りに思うべきです。もちろん霊は順序よく再生してくるわけではありませんが、家族の絆で結ばれた霊どうしの愛は、離れていても同じです。そしてそうした愛の親和力によって、あるいは幾つかの前世で培われた人間関係による親和力によって、どこそこの家族に、と申し合わせて再生してくることもあります。

念のために申し添えますが、先祖の霊たちは、自分たちのことを自慢のタネにして誇ってくれても少しも嬉しくは思いません。かつて彼らがいかに立派な功績を残したとしても、その功績自体は子孫にとっては徳行への励みとなる以上の意義はないのです。と言うよりは、それを見習うことによってこそ先祖の霊を喜ばせ、徳行に意義を持たせることになるのです」
〈容貌と性格の類似〉


――子供が親にそっくりということがよくありますが、性格上でも似るということがあるのでしょうか。


「そういうことはありません。それぞれに魂ないし霊が異なるからです。身体は親の身体から受けますが、霊は他のいかなる霊からも受けません。一つの人種の子孫のつながりは血縁関係しかありません」


――性格的にもそっくりという親子を時おり見かけますが、その原因は何でしょうか。


「霊的親和力の影響で似たような情緒や性向をもった者が同じ家族として一緒になることがあります」


――では、誕生後の親の霊的影響はないということでしょうか。


「大いにあります。すでに申し上げた通り霊は互いの進化向上のために影響し合うようになっています。その目的で親の霊に子の霊の成長を委託することがあります。この場合はそれが親としての使命であり、それが達成されないと罪悪となることさえあります」


――善良で徳の高い親に歪んだ性格の子供ができることがありますが、さきほどおっしゃったように親和力で善良な霊が引き寄せられそうなものですが、なぜそうならないのでしょうか。


「邪悪な霊が、徳の高い親のもとで更生したいという希望が受け入れられて誕生してくることがあります。その親の愛と心遣いによって良い影響を受けさせるために、神が徳の高い親にあずけることがよくあります」


――親は、心掛けと祈願によって、善良な子を授かることができるでしょうか。


「それはできません。しかし、授かった子の霊性を高めることはできます。それが親としての義務なのです。が、同時に親自身の試練のために霊性の低い子を授かることもあります」


――子供どうし、とくに双子の性格がそっくりの場合があるのは何が原因でしょうか。


「性格の類似性から生まれる親和力によって同じ家に生まれ合わせたのです。そういう場合はいっしょに再生できてうれしいはずです」


――身体の一部がつながっている双子、しかも器官のどれかを共有し合っている双子の場合でも二人の霊なのでしょうか。


「そうです。あまりによく似ているので一人の霊しか宿っていないように思えるでしょうけど……」


――親和力で引かれ合って生まれてくるのであれば、双子の中には憎み合いをするほどのものがあるのはなぜでしょうか。


「双子として生まれてくるのは親和力の強い者だけという法則があるわけではありません。邪悪な霊どうしが物質界を舞台として争いをしたいという欲求から生まれてくる者もいます」


――母胎の子宮の中にいる時からケンカをしているという話は本当でしょうか。


「憎しみの深さ、しつこさを象徴的に表現しているまでです。あなた方は象徴的ないし詩的な表現の理解が少し足りませんね」


――一つの民族に見られる明確な特徴はどこから出るのでしょうか。


「霊には、性向の類似性によって形成された霊的家族(類魂)があります。それにも霊性の浄化の程度によって上下の差がありますが、民族というのはそうした親和力で結ばれた家族の集合体であると思えばよろしい。それらの家族が一体となろうとする傾向が、各民族の明確な特徴を生み出すのです。善良で慈悲に富んだ霊が粗野で野蛮な民族に再生したいと思うでしょうか。思わないはずです。個人どうしで働く親和力は民族という集合体でも働きます。霊も、地上の人類の中でも最も霊的に調和する地域へ赴くものです」


――再生してくる霊は前世での性格の面影を残しているものでしょうか。


「残していることがあるかも知れませんが、成長するにつれて変化します。幾つも再生すれば社会的地位もいろいろと体験していることでしょう。たとえば大邸宅の主人だったこともあれば召し使いだったこともあるでしょう。するとその好みも大いに異なっていて、かりに両者を一度に見たら同一人物とは思えないほどでしょう。もちろん霊そのものは同一人物ですから、何度再生してもどこかに類似点は残っているかも知れません。しかしそれも、再生した国や家柄その他の諸条件の影響を受けてどんどん変わっていきます。そして遂には性格的にすっかり別人になっていきます。たとえば高慢で残忍だった者が悔恨と努力によって謙虚で人間味のある性格の持ち主になっていきます」


――前世での身体上の特徴の痕跡はどうでしょうか。


「身体は滅びます。従って新しい身体は前世での身体とは何の関係もないはずです。ところが霊性がその身体に反映します。そして身体は物質にすぎないとはいえ、霊性の特徴が身体に反映し、それが顔、とくに目に出ます。目は心の窓とは至言です。つまり目を中心とした人相が、身体の他のどの部分よりも霊性を強烈に反映します。形の上のハンサムとか美形とかの意味ではありません。かりに形は悪くても、それに善良で賢明で人間味のある霊が宿れば、見る人に好感を与えます。逆にいくら美形でも宿っている霊しだいでは不快感、時には反発心すら起こさせる人もいます。

一見すると五体満足の身体には円満な霊が宿っているかに思われがちですが、障害のある身体をした人で高潔で徳の高い人なら毎日のように見かけるはずです。そんなわけですから、かりに形の上では前世と今生とでは少しも似たところはなくても、同じ霊が何回も再生するうちに俗に言う“親族間の似寄り”を身体に与えるものです」
〈生得観念〉


――再生した霊は前世で知覚したことや入手した知識の記憶を留めているものでしょうか。


「うっすらとした記憶の形で残っています。それが俗にいう“生得観念”です」


――すると生得観念と呼ばれているものは実際にあるもので、幻想ではないのですね?


「幻想ではありません。物的生活で獲得した知識は決して失われません。物的生活を終えて物質から解放されると、それまでの何回かの生活の記憶が蘇ります。物的身体に宿っている間は具体的には回想されませんが、潜在的な直観力がそのエキスを感識して、霊的進歩を促進します。もしその直観力が無ければ、物質界へ誕生するたびに一から教育をやり直さなくてはなりません。その直観力のお蔭で霊は、次の物的生活を、前世が終わった時点で到達していた発達段階から開始するのです」


――そうなると、前世と現世との間には密接な関係があることになりますね?


「あなたが想像しているような意味での密接な関係はありません。というのは、二つの物的生活の間には生活環境の条件に大きな違いがあり、さらに忘れてならないのは、再生するまでの霊界での期間で大きく進歩することがあるからでもあります」


――予備的な学習もしないのに、たとえば言語とか数学、音楽などで驚異的な才能を見せる人がいますが、何が原因でしょうか。


「今言った過去世の記憶です。かつてそういう才能を磨いていたもので、現在は意識的な記憶がないだけです。もしそうでなかったら一体どこからそういう才覚が出ますか。身体は代わっても霊は同一人物ということです。衣服を着更えただけです」


――その衣替えの時に知的才能、たとえば芸術的センスなどを失うことがありますか。


「あります。その才能に泥を塗るようなことをする――つまり邪(よこしま)なことに使ってしまったりした場合です。これは罰ですが、それとは別に、才能を失うのではなく、今生では別の才能を伸ばすためにそれをしばらく潜在的に眠らせておく場合があります。この場合はまたいつか使用することができます」


――人類に共通して見られるもので原始的生活を送っている者にも見られる、神への信仰心と死後の存続の直観も、やはり遡及的回想の反応でしょうか。


「そうです。再生する前の霊としての知識の回想です。ですが、人間は往々にして自惚れによってその直観をもみ消しております」


――スピリチュアリズムで説かれている霊的真理と同じものが、いずこの民族にも見られますが、これも前世の回想でしょうか。


「こうした霊的真理は地球の歴史と同じくらい古くからあったもので、それが世界中のいたるところで発見されるのは当然のことです。いわゆる遍在で、真理であることの証拠です。再生してきた霊は、霊としての存在の時の直観力を保持していて、見えざる世界の存在を直観的に意識しているのです。ただその直観力が往々にして偏見によって歪められ、無知から生じた迷信とごっちゃになって質を落として行くのです」