シルバーバーチの
スピリチュアルな生き方Q&A
【Q1】
死後の世界は、どこにあるのでしょう?
今、あなた方が生活している世界の別の側面、肉眼に見えず肉耳にも聞こえない世界です。今こうして存在しているのと同じ場所に存在しているのです。死後、わざわざそこへおもむく必要はありません。今いるところが霊界なのです。
それが感識できないのは、霊的な感覚が発達していないからで、それが発達して霊界の波動あるいは振動(何と呼ばれても、かまいません)と調和すれば見えるようになります。
つまり、霊界という別の世界が存在するわけではないのです。顕と幽にまたがる大宇宙を構成する無数の側面の、一つの側面に過ぎません。
【Q2】
死んだ後、生前のアイデンティティーはどうなるのでしょうか? たとえば二、三〇年前に他界した妻を夫が確認できるのでしょうか? 向上が著しくて近づくことができないということもあり得るのでしょうか?
アイデンティティーは変わりません。個性も変わりません。意識も変わりません。霊的品性が増し、容姿が大きくなっていることがありますが、個的存在としては生前とまったく同じです。霊的感覚が鋭くなり能力も深まっています。シミや障害や傷跡は消えてなくなっていても、本人とはっきりと認識できます。容姿も(すぐには)変わりません。
自我を表現するための道具ないしは手段は霊となっても必要だからです。その道具、つまり霊的身体は、地上で生活しているときから存在しているのです。
【Q3】
死に方というものが霊界へ行ってから影響するでしょうか? 自然な死に方のほうが霊界に溶け込みやすいのでしょうか?
もちろんです。大いに影響します。すべての人間が霊的知識をもち自然な生き方をすれば、いわゆる死ぬということが、らくで苦痛のないものになります。また、肉体が死滅した後、霊体になじむための調整をしなくてすみます。ですが、残念ながら、そういうケースは、めったにありません。
地上を去って、私たちの世界へやってくる人間の大半は、自分の霊的宿命や構成、霊的実在の本質について極端に無知です。それに加えて、死ぬべき時期が熟さないうちにこちらへやってくる人があまりに多過ぎます。そういう人は、私がよくたとえているように、熟さないうちにもぎとられた果物がおいしくないのと同じで、未熟です。果物は熟せば自然に落ちます。同じように肉体に宿っている霊が熟せば、肉体は自然に朽ちて霊体から離れるものです。
今、こちらの世界には、すっぱい果物やしぶい果物がどんどん送られてきています。そういう霊を霊的環境へ適応させるために、私たちはいろいろと手を尽くし、監視し、世話をやかねばなりません。あらかじめ霊的知識をたずさえていれば、私がたずさわっているような仕事はずっと楽になるのですが・・・・・・。
死に方によって、間違いなく死後の目覚めが大きく違ってきます。死ぬということは、霊体が肉体から脱皮して態勢を整えることです。決して痛みを伴うものではありません。何らかの病気で死んだ場合は、その反応が残る場合があるかもしれません。その影響が大きい場合は、医者に相当する霊界の専門家が立ちあいます。
集まっている縁故の霊とともに、その死体とつながっている生命の糸(シルバーコード)が完全に切れて、無事に霊界へ誕生するように手助けします。
次に考慮しなければならないのは、死後の目覚めの問題です。それが早いか遅いかは、その新参者の霊的意識の程度によって違います。死後の生命の存続についてまったく無知である場合、あるいは間違った死後の概念を吹き込まれていて、正しい理解に時間を要する場合は、肉体の睡眠に相当する霊的休息という過程が必要になります。
その過程は自覚が芽生えるまで続きます。地上の時間感覚で長いこともあれば、短いこともあります。個人によって違います。正しい知識があれば問題はありません。物的波動の世界から脱け出て霊的波動の世界へと入り、新しい環境への順応もすみやかです。目覚めの瞬間は歓喜に包まれます。その目覚めをじっと待ち望んでいた、縁ある人々との再会となるからです。
そもそも死というものは、少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。死は自由をもたらしてくれます。みなさんは、赤ちゃんが生まれると喜びます。が、私たちの世界では、これから地上へ誕生していく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。
同じように地上ではだれかが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは、地上生活で果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意が、その霊にそなわったことを意味するからです。
次のことをぜひ理解してください。すなわち、死は死んでいく者にとっては悲劇ではなく、後に残された者にとっての悲劇に過ぎないということです。暗黒から光明へとおもむくことは悲しむべきことではありますまい。悲しんでいるのは、実は、その人に先立たれた自分のことであって、肉体の束縛から解放されたその人のことを悲しんでいるのではありません。その人はより幸せになっているのです。
もう肉体の病に苦しめられることがなくなったのです。激痛にさいなまれることがなくなったのです。天賦の霊的資質が発現し、何の障害もなくそれを発揮し、援助を必要としている人々のために役立てることになるのです。
毛虫が美しい蝶になったことを悲しんではいけません。鳥かごが開け放たれて、小鳥が大空へ飛び立ったことを泣き悲しんではいけません。肉体を離れた魂が自由を獲得したことを喜び、そして、あなたも大霊から授かった能力を発揮すれば、その魂が味わっている美しさと喜びをいくらかでも知ることができることを知ってください。
死というものが存在することにも意味があるのです。一つの踏み石ないしはドアのようなものであり、そこを通過することによって、より自由な霊の世界へと入ることになるのです。
【Q4】
唯物主義者をもって任じている人は、死後どうなるのでしょうか?
地上人類は長い間、信心深い人間は、信仰心のない人間よりも優れているという思い違いをしてきました。必ずしも、そうとはいえないのです。ある宗教的信条を信じたからといって、それだけで霊的に立派になるわけではありません。判断の基準になるのは日常生活です。
現在の霊的本性は、本人のこれまでの日常生活での心と体の行為がこしらえたものです。ですから、神の存在を信じ教義を受け入れたことで〝選ばれし者〟の一人となったと信じている人よりも、唯物主義者、無神論者、合理主義者、懐疑論者をもって任じている人のほうが、霊的に上である場合が多いのです。大切なのは、何を信じるかではなくて何をしたかです。そうでないと〝神の公正〟が根本から崩れます。
〝神の公正〟を人間の思惑で判断してはいけません。大霊の意志の反映ですから、大自然と同じように、人間の望み・思惑・願望などにおかまいなく働きます。神の公正と人間の公正とを比較して論じることは無意味です。
人間の公正は必ずしも正しくありません。判断を誤ることがあり得ます。無実の者が罪人にされたり、罪人が無実になったりすることもあります。人間であるからには間違うということは避けられません。絶対的不謬性(誤りを犯さない)はあり得ないからです。
【Q5】
たとえばH・G・ウェルズ(注)のように、スピリチュアリズムを否定し、生涯にわたって合理主義者で通した知性派の人間が他界して、死後にも生活があると知ったときは、どういう反応をするのでしょうか?
生涯をかけて築いた人生哲学がひっくり返されるわけですから、とても納得がいきません。宇宙そのものがどこか狂ったに違いないと思います。自分が自信をもって、論理的かつ科学的に論証した宇宙観とそぐわないからです。それを調整していかねばならないわけですが、それには長い長い論争と語らいが続きます。
訳注───H.G.Wells(1866~1946)は、英国が生んだ世界的な文明評論家で 『The Outline of History (文明の概論)』 がその代表作であるが、Q4の回答のなかでシルバーバーチが述べているように、霊格が高くても生まれ落ちた国家や環境によって間違った人生観・宇宙観を抱いていることがよくあり、知性が強いだけに死後の〝調整〟がむずかしいことになる。特に宗教的指導者は信奉者とともに自分の想念でこしらえた孤立した世界で何千年、何万年と暮らしているという。 『マイヤースの通信』 では、これを「知的牢獄」と呼んでいる。
【Q6】
間違った信仰をたずさえて霊界入りする者が多いとのことですが、『ヨハネ福音書』では、信ずる者こそ救われると説かれています。
それは間違いです。死後も生き続けるのは、信条や教義やドグマを信じるからではなく、自然法則によって生き続けるようになっているからです。宗教とは何の関係もありません。因果律と同じく自然の摂理なのです。
【Q7】
死んでいく者の多くが死後の存続の事実を知らず、めまいのような状態にあるそうですが、それは子どもにも言えることでしょうか?
その子どもの知識がどのようなものかによります。地上界の無知と迷信の産物によって汚染され過ぎていないかぎりは、本来そなわっている霊的資質が生み出す感性が、直観的理解へと導きます。
【Q8】
死後どれくらいたつと、地上界へ意思を伝えることができるようになるのでしょうか?
事情によって異なります。死後何世紀もたっているにもかかわらず、真相に目覚めない者がいます。一方、真理を明確に理解していて、霊媒現象の原理にも通じている者もいます。そういう者なら、死んで何分もしないうちにでも出現できます。
【Q9】
魂はいくつもの側面があり、そのうちの一つが地上に誕生できるとおっしゃっていますが、他の側面は、どこか別の階層で進化しているのでしょうか?
私たち霊的世界に住む者は、霊的なものを説明するにあたって地上界の言語を使用しなければなりません。言語は物的なものであり、魂は非物的なものです。物的でないものを物的な言語でどう説明するか───これはあなた方の言う語義論に関わる大問題です。
私に言わせれば、魂とは、すべての人間に宿っている神 (God)、私が 「大霊(Great Spirit)」 と呼んでいるものの一部です。それはこういうものですと、形状や寸法を述べることは不可能なのです。魂とは、生命力(life force)、動力(dynamic)、生気(vitality)、実質(real essence)、神性(divinity)といった用語で表現するしかありません。
魂というものを、多分、あなた方は自分と同じような〝人物像〟や〝個的存在〟の観念で想像なさるのでしょう。
でも、もし私が 「あなたは、だれですか?」 と尋ねたらどう答えますか?名前をおっしゃっても、それだけではあなたが何者であるかはわかりません。それはあなたを呼ぶときの名称に過ぎません。では、一体あなたという魂は何なのか? 個性をもつ存在、理非曲直を判断する能力をもつ存在、思考力をもつ存在、愛を知り地上界の人間的体験の綾を織りなす情感を表現できる存在、それが魂です。
人間が地上で生活できているのは、魂が物的身体に活力を与えているからです。魂が引っ込めば、身体は活力を失って死にます。その魂に地上で使われているような名前はありません。本質的には大霊と同じですから、無限の存在です。そして、無限ですから無限の表現が可能です。
魂には多くの側面があるというのは、そういう意味です。それを私はダイヤモンドにたとえているわけです。それらの側面が、別々の時期に地上に生まれ出て体験を積み、ダイヤモンド全体としての進化に寄与するのです。
まれにですが、同じダイヤモンドの二つの側面が降誕して地上で出会うことがあります。これを 「アフィニティ(affinity)」 (注)といいます。そういう場合は、両者の間に完全な調和が見られます。同じグループを構成する魂同士だからです。これは再生(生まれかわり)の問題とつながってきます。
つまり、同じダイヤモンドの各側面が、それぞれに何度も地上へ生まれ出て知識を増やし、自己開発し、体験を積んで、ダイヤモンド全体としての進化を促すのです。
訳注───affinityはもともと「親近性」を意味する語で、霊的な親近性をもった魂、同じ霊系に属する魂を指す。『マイヤースの通信』 では 「Group Soul」 という用語を用いているが、両者がまったく同じものであることをシルバーバーチ自身が認めている。
日本語では浅野和三郎氏が 「類魂」 と訳しそれが定着しているが、「affinity」はそのまま英語読みが定着している。なお、次のQ10の回答の後半の表現から推察すると、シルバーバーチは 「Group soul」 を人間的要素の残っている段階、言い換えると地球圏内に限っているふしがうかがわれる。
【Q10】
類魂というのは家族のことでしょうか? 霊的発達程度の同じ者の集まりでしょうか?趣味・性向 の似た者同士でしょうか? それとも何かもっと別のものでしょうか?
「家族」という用語の意味が文字通りの意味、つまり血族や結婚によってつながった者を意味するのであれば、それは違います。純粋に肉体に起因する地上的な縁は、必ずしも死後も続くとは限りません。
霊的関係には、究極的にはアフィニティがあり、親近性が少し劣るものとして血縁の要素が残っているものがあります。血縁関係は、永遠・不変の原理に基づくものではありません。永続性のあるものは、永遠・不変の原理に基づくものだけです。
類魂は、人間的要素を含む霊的親近関係にある魂によって構成されています。同じダイヤモンドの側面同士ですから、自動的に引きあい、引かれあうのです。ある特殊な目的を成就するために同じダイヤモンドの複数の側面が地球上に生まれ出て、〝より大きな自我〟であるダイヤモンド全体の進化に寄与するということはあり得ますし、現に行なわれています。
【Q11】
大きなダイヤモンドの一側面という言い方をされました。つまり、私もある魂の集団の一人ということになりますが、これは、われわれが永遠に生き続ける存在であるとすると、他の大勢の仲間のために地上経験を積む必要があるというのが、私には論理的に納得がいかないのですが・・・。
全宇宙を通じて作用と反作用が生じています。はるか遠くにいる人間でも、あなたの存在に大きな影響を及ぼし、結果として宇宙全体の情報が増えていくことになるのです。肉体的にも精神的にも霊的にも、あなたが孤立するということはあり得ないのです。その仲間をグループと呼んでもダイヤモンドと呼んでも、しょせんは言語を超えたものを言語で表現しようとしているに過ぎません。
一体 「あなた」 とは何者なのでしょう? また、「あなた」 という存在はいつから始まったのでしょう? 受胎の瞬間から始まったのでしょうか? ナザレのイエスは 「アブラハムが生まれる前から私は存在していた」 と言いましたが、これは何を意味しているのでしょう?霊としては、常に存在していたという事実を述べたに過ぎません(注)。
あなたも常に存在していましたし、私も常に存在していました。そうした霊的存在の側面が、肉体をまとって地上界で生活することはあり得ることです。
私の言うことが納得できないとおっしゃる方と論争するつもりはありません。常々私は、自分の理性が反発することは拒絶なさってくださいと申しあげています。
私たちがもし、みなさんの好意、あるいは愛と言えるものをいただけるとしたら、それは私たちが真実を述べていることを、みなさんの理性が認めたからに違いありません。もしも好意がいただけないとしたら、私たちの意図した目的が果たせていないことになりましょう。
私たちは、しょせん、私たちが手にした知識を、これこそは間違いないと確認したうえで積み重ねていくしかありません。そこから始めてゆっくりと、そして段階的に、より高い道をめざして探求の歩みを続けようではありませんか。
訳注───イエスのセリフは 『ヨハネ福音書』 のユダヤ教のリーダーたちとの論争のなかで述べられたもので、アブラハムはユダヤ人の祖とされている人物なので、イエスがその人物より前から存在していたと述べたことに「生意気だ」と言って憤慨し、石を投げつける場面である。シルバーバーチが「‥‥と述べたに過ぎません」と言ったのは、「アブラハムが生まれる前から存在していた」 という言葉は別に失礼でも生意気でもないのに、その意味がわからずにリーダーたちが憤慨したからである。
【Q12】
地上で魂の琴線にふれる体験をしなかった者は、そちらへ行ってどういうことになりますか?
とてもやっかいな問題です。何の予備知識もなしに初体験をさせられる大人に似ています。霊的なことにまったく疎い状態で新しい生活を始めるわけですから、地上界でも霊界でも不適応者というわけです。霊界生活にそなえた教訓を学んでいないから、そういうことになるのです。準備不足だったわけです。
【Q13】
そちらで、どういった処置をとられるのでしょうか?
自覚の芽生えない者は手のほどこしようがありませんから、再び地上界へ送り込むことがあります。霊的感性が芽生えるのに何百年もかかることがあります。
【Q14】
霊界の知人・友人などが手助けしないのですか?
できるかぎりのことはします。が、霊的感性が芽生えるまでは暗闇のなかにいるのです。覚醒のないところに光は届きません。
そういう人たちのことを気の毒に思ってあげるべきです。せっかくの地上生活が無駄に終わったのですから。霊的資質を発揮することができなかったのです。学生時代に学ぶべきことを学ばなかったために、卒業してからの大人の生活への準備ができていないのと同じです。
地上生活は、死後に必ず訪れる霊的生活へのかけがえのない準備期間です。体験の一つ一つが進化のために支払う代価なのです。地上生活は一本調子では終わりません。光と影があり、晴天の日と嵐の日があります。
【Q15】
導きにも一般的な摂理・法則があるのでしょうか?それとも、それを届ける特殊な施設があるのでしょうか?祈りや瞑想にも効用があるのでしょうか?
すでに何度も申しあげたことを、もう一度言わせていただきましょう。「師は弟子に応じて法と説く」───この名言が何よりの答えではないでしょうか? あなた方が心配なさることではありません。
導きはすべて、大霊から届けられるのです。地上圏に関わる神庁から派遣される使者や他の高級神霊が、ときとして、あなた方が地上へ降誕する以前から、指名を受けて背後霊団に加わっている場合があります。
そうした高級霊が、あなた方の誕生以前に、自分の存在を知らせてくれる場合があります。ときには特殊な仕事を言いつけて、本人の了承を得る場合もあります。そういう霊を何と呼ぼうとかまいません。
そういう高級霊がひかえている場合があるということです。使命を置き去りにすることは絶対にありません。その使命は、『祈祷書』 の言葉を借りれば、「神がそなたの管理を配下の天使(注)に託し、諸事にわたりて配慮させ給う」のです。
訳注───ここで言う 「神庁からの使者」 「高級神霊」 「天使」 は、もちろん守護霊と考えてよいが、言い回しから感じられるところでは、特殊な使命を帯びた、守護霊以外の超高級霊も含まれているようである。その一例が、ほかでもない、このシルバーバーチや 『霊訓』 のインペレーターである。
シルバーバーチは、バーバネルの守護霊ではないし、インペレーターは、モーゼスの守護霊ではない。スピリチュアリズムのような人類史に残るような大イベントを遂行するに当たっては、守護霊は直接タッチしないもので、神庁から派遣された高級霊がたずさわっている。
バーバネルの守護霊はついに一度も出現しなかったし、モーゼスの守護霊も、「The Controls of Stainton Moses by A.W.Trethewy (モーゼスの背後霊団)」によると、インペレーターを指揮官とする四九名の霊団のほかにもう一人「プリセプター(「教師」の意味の仮の名)」と名のる総監督がいたというから、多分これがそうではないかと筆者は見ている。一度だけ姿を見せて、すぐに引っ込んだという。前出の原書には、BC九年のヘブライの預言者エリヤであることをにおわせる箇所がある。
今、あなた方が生活している世界の別の側面、肉眼に見えず肉耳にも聞こえない世界です。今こうして存在しているのと同じ場所に存在しているのです。死後、わざわざそこへおもむく必要はありません。今いるところが霊界なのです。
それが感識できないのは、霊的な感覚が発達していないからで、それが発達して霊界の波動あるいは振動(何と呼ばれても、かまいません)と調和すれば見えるようになります。
つまり、霊界という別の世界が存在するわけではないのです。顕と幽にまたがる大宇宙を構成する無数の側面の、一つの側面に過ぎません。
【Q2】
死んだ後、生前のアイデンティティーはどうなるのでしょうか? たとえば二、三〇年前に他界した妻を夫が確認できるのでしょうか? 向上が著しくて近づくことができないということもあり得るのでしょうか?
アイデンティティーは変わりません。個性も変わりません。意識も変わりません。霊的品性が増し、容姿が大きくなっていることがありますが、個的存在としては生前とまったく同じです。霊的感覚が鋭くなり能力も深まっています。シミや障害や傷跡は消えてなくなっていても、本人とはっきりと認識できます。容姿も(すぐには)変わりません。
自我を表現するための道具ないしは手段は霊となっても必要だからです。その道具、つまり霊的身体は、地上で生活しているときから存在しているのです。
【Q3】
死に方というものが霊界へ行ってから影響するでしょうか? 自然な死に方のほうが霊界に溶け込みやすいのでしょうか?
もちろんです。大いに影響します。すべての人間が霊的知識をもち自然な生き方をすれば、いわゆる死ぬということが、らくで苦痛のないものになります。また、肉体が死滅した後、霊体になじむための調整をしなくてすみます。ですが、残念ながら、そういうケースは、めったにありません。
地上を去って、私たちの世界へやってくる人間の大半は、自分の霊的宿命や構成、霊的実在の本質について極端に無知です。それに加えて、死ぬべき時期が熟さないうちにこちらへやってくる人があまりに多過ぎます。そういう人は、私がよくたとえているように、熟さないうちにもぎとられた果物がおいしくないのと同じで、未熟です。果物は熟せば自然に落ちます。同じように肉体に宿っている霊が熟せば、肉体は自然に朽ちて霊体から離れるものです。
今、こちらの世界には、すっぱい果物やしぶい果物がどんどん送られてきています。そういう霊を霊的環境へ適応させるために、私たちはいろいろと手を尽くし、監視し、世話をやかねばなりません。あらかじめ霊的知識をたずさえていれば、私がたずさわっているような仕事はずっと楽になるのですが・・・・・・。
死に方によって、間違いなく死後の目覚めが大きく違ってきます。死ぬということは、霊体が肉体から脱皮して態勢を整えることです。決して痛みを伴うものではありません。何らかの病気で死んだ場合は、その反応が残る場合があるかもしれません。その影響が大きい場合は、医者に相当する霊界の専門家が立ちあいます。
集まっている縁故の霊とともに、その死体とつながっている生命の糸(シルバーコード)が完全に切れて、無事に霊界へ誕生するように手助けします。
次に考慮しなければならないのは、死後の目覚めの問題です。それが早いか遅いかは、その新参者の霊的意識の程度によって違います。死後の生命の存続についてまったく無知である場合、あるいは間違った死後の概念を吹き込まれていて、正しい理解に時間を要する場合は、肉体の睡眠に相当する霊的休息という過程が必要になります。
その過程は自覚が芽生えるまで続きます。地上の時間感覚で長いこともあれば、短いこともあります。個人によって違います。正しい知識があれば問題はありません。物的波動の世界から脱け出て霊的波動の世界へと入り、新しい環境への順応もすみやかです。目覚めの瞬間は歓喜に包まれます。その目覚めをじっと待ち望んでいた、縁ある人々との再会となるからです。
そもそも死というものは、少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。死は自由をもたらしてくれます。みなさんは、赤ちゃんが生まれると喜びます。が、私たちの世界では、これから地上へ誕生していく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。
同じように地上ではだれかが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは、地上生活で果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意が、その霊にそなわったことを意味するからです。
次のことをぜひ理解してください。すなわち、死は死んでいく者にとっては悲劇ではなく、後に残された者にとっての悲劇に過ぎないということです。暗黒から光明へとおもむくことは悲しむべきことではありますまい。悲しんでいるのは、実は、その人に先立たれた自分のことであって、肉体の束縛から解放されたその人のことを悲しんでいるのではありません。その人はより幸せになっているのです。
もう肉体の病に苦しめられることがなくなったのです。激痛にさいなまれることがなくなったのです。天賦の霊的資質が発現し、何の障害もなくそれを発揮し、援助を必要としている人々のために役立てることになるのです。
毛虫が美しい蝶になったことを悲しんではいけません。鳥かごが開け放たれて、小鳥が大空へ飛び立ったことを泣き悲しんではいけません。肉体を離れた魂が自由を獲得したことを喜び、そして、あなたも大霊から授かった能力を発揮すれば、その魂が味わっている美しさと喜びをいくらかでも知ることができることを知ってください。
死というものが存在することにも意味があるのです。一つの踏み石ないしはドアのようなものであり、そこを通過することによって、より自由な霊の世界へと入ることになるのです。
【Q4】
唯物主義者をもって任じている人は、死後どうなるのでしょうか?
地上人類は長い間、信心深い人間は、信仰心のない人間よりも優れているという思い違いをしてきました。必ずしも、そうとはいえないのです。ある宗教的信条を信じたからといって、それだけで霊的に立派になるわけではありません。判断の基準になるのは日常生活です。
現在の霊的本性は、本人のこれまでの日常生活での心と体の行為がこしらえたものです。ですから、神の存在を信じ教義を受け入れたことで〝選ばれし者〟の一人となったと信じている人よりも、唯物主義者、無神論者、合理主義者、懐疑論者をもって任じている人のほうが、霊的に上である場合が多いのです。大切なのは、何を信じるかではなくて何をしたかです。そうでないと〝神の公正〟が根本から崩れます。
〝神の公正〟を人間の思惑で判断してはいけません。大霊の意志の反映ですから、大自然と同じように、人間の望み・思惑・願望などにおかまいなく働きます。神の公正と人間の公正とを比較して論じることは無意味です。
人間の公正は必ずしも正しくありません。判断を誤ることがあり得ます。無実の者が罪人にされたり、罪人が無実になったりすることもあります。人間であるからには間違うということは避けられません。絶対的不謬性(誤りを犯さない)はあり得ないからです。
【Q5】
たとえばH・G・ウェルズ(注)のように、スピリチュアリズムを否定し、生涯にわたって合理主義者で通した知性派の人間が他界して、死後にも生活があると知ったときは、どういう反応をするのでしょうか?
生涯をかけて築いた人生哲学がひっくり返されるわけですから、とても納得がいきません。宇宙そのものがどこか狂ったに違いないと思います。自分が自信をもって、論理的かつ科学的に論証した宇宙観とそぐわないからです。それを調整していかねばならないわけですが、それには長い長い論争と語らいが続きます。
訳注───H.G.Wells(1866~1946)は、英国が生んだ世界的な文明評論家で 『The Outline of History (文明の概論)』 がその代表作であるが、Q4の回答のなかでシルバーバーチが述べているように、霊格が高くても生まれ落ちた国家や環境によって間違った人生観・宇宙観を抱いていることがよくあり、知性が強いだけに死後の〝調整〟がむずかしいことになる。特に宗教的指導者は信奉者とともに自分の想念でこしらえた孤立した世界で何千年、何万年と暮らしているという。 『マイヤースの通信』 では、これを「知的牢獄」と呼んでいる。
【Q6】
間違った信仰をたずさえて霊界入りする者が多いとのことですが、『ヨハネ福音書』では、信ずる者こそ救われると説かれています。
それは間違いです。死後も生き続けるのは、信条や教義やドグマを信じるからではなく、自然法則によって生き続けるようになっているからです。宗教とは何の関係もありません。因果律と同じく自然の摂理なのです。
【Q7】
死んでいく者の多くが死後の存続の事実を知らず、めまいのような状態にあるそうですが、それは子どもにも言えることでしょうか?
その子どもの知識がどのようなものかによります。地上界の無知と迷信の産物によって汚染され過ぎていないかぎりは、本来そなわっている霊的資質が生み出す感性が、直観的理解へと導きます。
【Q8】
死後どれくらいたつと、地上界へ意思を伝えることができるようになるのでしょうか?
事情によって異なります。死後何世紀もたっているにもかかわらず、真相に目覚めない者がいます。一方、真理を明確に理解していて、霊媒現象の原理にも通じている者もいます。そういう者なら、死んで何分もしないうちにでも出現できます。
【Q9】
魂はいくつもの側面があり、そのうちの一つが地上に誕生できるとおっしゃっていますが、他の側面は、どこか別の階層で進化しているのでしょうか?
私たち霊的世界に住む者は、霊的なものを説明するにあたって地上界の言語を使用しなければなりません。言語は物的なものであり、魂は非物的なものです。物的でないものを物的な言語でどう説明するか───これはあなた方の言う語義論に関わる大問題です。
私に言わせれば、魂とは、すべての人間に宿っている神 (God)、私が 「大霊(Great Spirit)」 と呼んでいるものの一部です。それはこういうものですと、形状や寸法を述べることは不可能なのです。魂とは、生命力(life force)、動力(dynamic)、生気(vitality)、実質(real essence)、神性(divinity)といった用語で表現するしかありません。
魂というものを、多分、あなた方は自分と同じような〝人物像〟や〝個的存在〟の観念で想像なさるのでしょう。
でも、もし私が 「あなたは、だれですか?」 と尋ねたらどう答えますか?名前をおっしゃっても、それだけではあなたが何者であるかはわかりません。それはあなたを呼ぶときの名称に過ぎません。では、一体あなたという魂は何なのか? 個性をもつ存在、理非曲直を判断する能力をもつ存在、思考力をもつ存在、愛を知り地上界の人間的体験の綾を織りなす情感を表現できる存在、それが魂です。
人間が地上で生活できているのは、魂が物的身体に活力を与えているからです。魂が引っ込めば、身体は活力を失って死にます。その魂に地上で使われているような名前はありません。本質的には大霊と同じですから、無限の存在です。そして、無限ですから無限の表現が可能です。
魂には多くの側面があるというのは、そういう意味です。それを私はダイヤモンドにたとえているわけです。それらの側面が、別々の時期に地上に生まれ出て体験を積み、ダイヤモンド全体としての進化に寄与するのです。
まれにですが、同じダイヤモンドの二つの側面が降誕して地上で出会うことがあります。これを 「アフィニティ(affinity)」 (注)といいます。そういう場合は、両者の間に完全な調和が見られます。同じグループを構成する魂同士だからです。これは再生(生まれかわり)の問題とつながってきます。
つまり、同じダイヤモンドの各側面が、それぞれに何度も地上へ生まれ出て知識を増やし、自己開発し、体験を積んで、ダイヤモンド全体としての進化を促すのです。
訳注───affinityはもともと「親近性」を意味する語で、霊的な親近性をもった魂、同じ霊系に属する魂を指す。『マイヤースの通信』 では 「Group Soul」 という用語を用いているが、両者がまったく同じものであることをシルバーバーチ自身が認めている。
日本語では浅野和三郎氏が 「類魂」 と訳しそれが定着しているが、「affinity」はそのまま英語読みが定着している。なお、次のQ10の回答の後半の表現から推察すると、シルバーバーチは 「Group soul」 を人間的要素の残っている段階、言い換えると地球圏内に限っているふしがうかがわれる。
【Q10】
類魂というのは家族のことでしょうか? 霊的発達程度の同じ者の集まりでしょうか?趣味・性向 の似た者同士でしょうか? それとも何かもっと別のものでしょうか?
「家族」という用語の意味が文字通りの意味、つまり血族や結婚によってつながった者を意味するのであれば、それは違います。純粋に肉体に起因する地上的な縁は、必ずしも死後も続くとは限りません。
霊的関係には、究極的にはアフィニティがあり、親近性が少し劣るものとして血縁の要素が残っているものがあります。血縁関係は、永遠・不変の原理に基づくものではありません。永続性のあるものは、永遠・不変の原理に基づくものだけです。
類魂は、人間的要素を含む霊的親近関係にある魂によって構成されています。同じダイヤモンドの側面同士ですから、自動的に引きあい、引かれあうのです。ある特殊な目的を成就するために同じダイヤモンドの複数の側面が地球上に生まれ出て、〝より大きな自我〟であるダイヤモンド全体の進化に寄与するということはあり得ますし、現に行なわれています。
【Q11】
大きなダイヤモンドの一側面という言い方をされました。つまり、私もある魂の集団の一人ということになりますが、これは、われわれが永遠に生き続ける存在であるとすると、他の大勢の仲間のために地上経験を積む必要があるというのが、私には論理的に納得がいかないのですが・・・。
全宇宙を通じて作用と反作用が生じています。はるか遠くにいる人間でも、あなたの存在に大きな影響を及ぼし、結果として宇宙全体の情報が増えていくことになるのです。肉体的にも精神的にも霊的にも、あなたが孤立するということはあり得ないのです。その仲間をグループと呼んでもダイヤモンドと呼んでも、しょせんは言語を超えたものを言語で表現しようとしているに過ぎません。
一体 「あなた」 とは何者なのでしょう? また、「あなた」 という存在はいつから始まったのでしょう? 受胎の瞬間から始まったのでしょうか? ナザレのイエスは 「アブラハムが生まれる前から私は存在していた」 と言いましたが、これは何を意味しているのでしょう?霊としては、常に存在していたという事実を述べたに過ぎません(注)。
あなたも常に存在していましたし、私も常に存在していました。そうした霊的存在の側面が、肉体をまとって地上界で生活することはあり得ることです。
私の言うことが納得できないとおっしゃる方と論争するつもりはありません。常々私は、自分の理性が反発することは拒絶なさってくださいと申しあげています。
私たちがもし、みなさんの好意、あるいは愛と言えるものをいただけるとしたら、それは私たちが真実を述べていることを、みなさんの理性が認めたからに違いありません。もしも好意がいただけないとしたら、私たちの意図した目的が果たせていないことになりましょう。
私たちは、しょせん、私たちが手にした知識を、これこそは間違いないと確認したうえで積み重ねていくしかありません。そこから始めてゆっくりと、そして段階的に、より高い道をめざして探求の歩みを続けようではありませんか。
訳注───イエスのセリフは 『ヨハネ福音書』 のユダヤ教のリーダーたちとの論争のなかで述べられたもので、アブラハムはユダヤ人の祖とされている人物なので、イエスがその人物より前から存在していたと述べたことに「生意気だ」と言って憤慨し、石を投げつける場面である。シルバーバーチが「‥‥と述べたに過ぎません」と言ったのは、「アブラハムが生まれる前から存在していた」 という言葉は別に失礼でも生意気でもないのに、その意味がわからずにリーダーたちが憤慨したからである。
【Q12】
地上で魂の琴線にふれる体験をしなかった者は、そちらへ行ってどういうことになりますか?
とてもやっかいな問題です。何の予備知識もなしに初体験をさせられる大人に似ています。霊的なことにまったく疎い状態で新しい生活を始めるわけですから、地上界でも霊界でも不適応者というわけです。霊界生活にそなえた教訓を学んでいないから、そういうことになるのです。準備不足だったわけです。
【Q13】
そちらで、どういった処置をとられるのでしょうか?
自覚の芽生えない者は手のほどこしようがありませんから、再び地上界へ送り込むことがあります。霊的感性が芽生えるのに何百年もかかることがあります。
【Q14】
霊界の知人・友人などが手助けしないのですか?
できるかぎりのことはします。が、霊的感性が芽生えるまでは暗闇のなかにいるのです。覚醒のないところに光は届きません。
そういう人たちのことを気の毒に思ってあげるべきです。せっかくの地上生活が無駄に終わったのですから。霊的資質を発揮することができなかったのです。学生時代に学ぶべきことを学ばなかったために、卒業してからの大人の生活への準備ができていないのと同じです。
地上生活は、死後に必ず訪れる霊的生活へのかけがえのない準備期間です。体験の一つ一つが進化のために支払う代価なのです。地上生活は一本調子では終わりません。光と影があり、晴天の日と嵐の日があります。
【Q15】
導きにも一般的な摂理・法則があるのでしょうか?それとも、それを届ける特殊な施設があるのでしょうか?祈りや瞑想にも効用があるのでしょうか?
すでに何度も申しあげたことを、もう一度言わせていただきましょう。「師は弟子に応じて法と説く」───この名言が何よりの答えではないでしょうか? あなた方が心配なさることではありません。
導きはすべて、大霊から届けられるのです。地上圏に関わる神庁から派遣される使者や他の高級神霊が、ときとして、あなた方が地上へ降誕する以前から、指名を受けて背後霊団に加わっている場合があります。
そうした高級霊が、あなた方の誕生以前に、自分の存在を知らせてくれる場合があります。ときには特殊な仕事を言いつけて、本人の了承を得る場合もあります。そういう霊を何と呼ぼうとかまいません。
そういう高級霊がひかえている場合があるということです。使命を置き去りにすることは絶対にありません。その使命は、『祈祷書』 の言葉を借りれば、「神がそなたの管理を配下の天使(注)に託し、諸事にわたりて配慮させ給う」のです。
訳注───ここで言う 「神庁からの使者」 「高級神霊」 「天使」 は、もちろん守護霊と考えてよいが、言い回しから感じられるところでは、特殊な使命を帯びた、守護霊以外の超高級霊も含まれているようである。その一例が、ほかでもない、このシルバーバーチや 『霊訓』 のインペレーターである。
シルバーバーチは、バーバネルの守護霊ではないし、インペレーターは、モーゼスの守護霊ではない。スピリチュアリズムのような人類史に残るような大イベントを遂行するに当たっては、守護霊は直接タッチしないもので、神庁から派遣された高級霊がたずさわっている。
バーバネルの守護霊はついに一度も出現しなかったし、モーゼスの守護霊も、「The Controls of Stainton Moses by A.W.Trethewy (モーゼスの背後霊団)」によると、インペレーターを指揮官とする四九名の霊団のほかにもう一人「プリセプター(「教師」の意味の仮の名)」と名のる総監督がいたというから、多分これがそうではないかと筆者は見ている。一度だけ姿を見せて、すぐに引っ込んだという。前出の原書には、BC九年のヘブライの預言者エリヤであることをにおわせる箇所がある。
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