Jesus of Nazareth and Christianity
【Q1】
聖書(バイブル)には、真実が語られているのでしょうか?聖書は、霊的真理と人間的夾雑物の混ぜものです。
【Q2】
キリスト教でもそうですが、宗教の指導者の生と死と復活を、太陽系や四季のめぐりといった、自然現象と関連した神話上の神々になぞらえているものが多いのはなぜでしょうか?
それは、人間が自分たちの指導者には超自然的能力があったのだと思いたいために、太古の神話からそうしたものを借用したからです。
当時の人間は、まだ自然法則という概念をもちあわせていませんでした。それで彼らは、自分たちの指導者は、自分たちにはない超越的資質をそなえた超常的人物であったことにしたいと思い、民族同士でそれぞれの神話を借用しあったわけです。
それはしかし、大霊の使者によってもたらされた教えを汚染するまでには至っていません。それぞれの時代、それぞれの民族において、それぞれの必要性に応じて、大霊の真理と英知と愛を反映したものが届けられています。
【Q3】
そうした宗教上の人物は、大自然の運行と連動しているのだと、信奉者は信じています。つまり、自分たちの教祖さまの生涯は自然現象を暗示している(たとえば、死後の復活は冬のあとに春が訪れるのと同じ)と信じているのですが、これは単なる偶然でしょうか?
あなたのおっしゃるのが、聖書にあるようにナザレのイエスが磔刑(はりつけ)になったときに、天地が慟哭するかのように、稲光とともに嵐が吹きまくったという話のことであれば、それは事実ではありません。死んだ人間もみな、地上へ戻ってくることを意味するのであれば、それは事実です。さきほど述べた大霊の使者の生涯に関しても、同じようなこじつけがみられます。
【Q4】
「聖霊に対する罪」というのは、どういう罪でしょうか?
聖霊に対する罪は、聖霊の存在を否定することです。
訳注───このシルバーバーチの答えは、キリスト教を代弁したものではなく、霊的真理に照らして批判的に答えたもの。つまり、キリスト教神学でいう 「三位一体説」、すなわちゴッドとイエスと聖霊が一体であるとの説が誤りであるとの立場から、次の質問(Q5)に対する答えで述べているように、キリスト教では実質的には聖霊の存在をみずから否定しているのだから、その意味でキリスト教者自身が罪を犯していることを指摘している。
【Q5】
聖霊とは何なのでしょう?
霊界から届けられる霊的エネルギーのことです。キリスト教では教義の一つとして抽象的には認めていますが、私たちが 「地上界のすべての人間が、その恩恵に浴しているものです。こうしてみなさんと語りあえるのも、その霊力のおかげです」 と言うと、それは聖霊ではないと反発します。たとえ一時であっても、霊の世界と物質の世界が目的において、こうして一つになることを可能にしてくれるのは、聖霊すなわち大霊のエネルギーのおかげなのです。
【Q6】
聞くところによると、キリスト教のどの教派においても、洗礼を受けることによって、死後その教派の霊団に迎えられて、新しい環境に順応するように世話をしてもらえるのだそうですが、それが事実だとすると、洗礼を受けていない者はどうなるのでしょうか?
この大宇宙を稼動させている力、この物的身体に生命の息吹を吹き込んで霊的存在としてくれている力、無数の天体のすべてに存在を与え、自然法則として顕現している力、無数の次元の生命として顕現している大霊、太古より多くの預言者や霊媒を通して顕現してきた大霊、すべての存在の内部と背後にあって働いている力、その無限大の力である大霊が、人間が水をかけられているかどうかでお困りになることはありません。
大切なのは、各自の人生が摂理にかなっているか否かです。赤子に数滴の水をかけたからといって、摂理がごまかせるわけではありません。摂理は変えられないのです。原因には、それ相当の結果が出るようになっているのです。
【Q7】
キリスト教は、多くの立派な人間を生み出したのではないでしょうか?
その人はクリスチャンになろうとなるまいと、立派な人間になっていたはずです。
【Q8】
でも、イエスの教えにしたがったからこそ、立派になったのではないでしょうか?
地上界の人間が本当にナザレのイエスを見習った生き方をしたら、人類の歴史に新たな一章が始まったことになるでしょう。残念ながら、まだ始まっていません。私の目にはその兆候はどこにも見えません。
忠誠を尽くすべき人物を裏切るような生き方をしながら、この私に向かって 「クリスチャン」 という用語を用いることはやめてください。イエスも言っているではありませんか───「私に向かって主よ、主よ、と言っている者のすべてが天国に入れるわけではない。天に在します父の御心を実践する者のみが入れるのである」 と。
【Q9】
クリスチャンのなかには教義にあまりこだわらず、それでいて我欲のない立派な生涯を送った人物がいく人もいましたね?
そういう人物は、立派なクリスチャンとは言えません。だめなクリスチャンということになりましょう。ですが、立派な人物だったのです。忘れないでください。いかなる教義も必ず魂を束縛します。
人間は、教義を守ることによって立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人類は教義の名のもとに殺しあい、火刑に処してきました。魂を縛るもの、手かせ足かせとなるもの、自由な生き方を阻むものは、いかなるものであっても排除しなくてはいけません。
【Q10】
イエスは教会がいっているように 「神の唯一の子」 だったのでしょうか?それとも、ふつうの人間の子で、偉大な霊的能力をそなえていたのでしょうか?
イエスは、大霊の使命を帯びて物質界へ降誕した使者の一人でした。地上での使命は成就しましたが、まだ全使命の一部が残っています。今、それを成就するために霊界から指揮しているところです。忘れてならないのは、イエスという一人物を崇めるのは間違いだということです。
崇拝の対象とすべきものは大霊のみであって、その大霊の使者を崇めてはいけません。またイエスは、自然法則にのっとって地上界へ降誕してきました。自然法則を無視して物的生命を授かることはできません。法則を無視して地上へ生まれてくることも、地上界から私たちの世界へ来ることもできません。
【Q11】
そのことを、イエスは聖書のどこかで言っていますか?
私が訴えるのは大霊の法則のみです。何かというと言葉の松葉杖にすがるような人は、大霊が今も働いている、今もインスピレーションを地上の人間に届けてくださっている、今も真理を啓示してくださっているということを悟るまで、霊性の進化を待つしかありません。
霊的法則は、今でも同じように働いているのです。霊的エネルギーは、今でも霊媒を通して働くことができるのです。あの聖書の時代と同じように、大霊の道具となることができるのです。聖書は立派な本かもしれませんが、もっと立派な〝本〟があります。大宇宙そのものです。
大霊の摂理で構成されており、その本からみなさんは、他のいかなる本───それがいかに立派で、いかに大切にされ、いかに崇められていても、それよりはるかに多くのことを学ぶことができます。
【Q12】
イエスは今、どこにいて、何をなさっているのでしょうか?
ナザレのイエスなる人物を通して顕現した霊は、二〇〇〇年前に開始した使命を果たすべく、今も働いています。その霊は二〇〇〇年前に十字架に架けられましたが、実はその後も数え切れないほど架けられ、今では毎日のように架けられています。しかし、その霊は大霊の分霊ですから、地上界に秩序と安寧をもたらすべく、これからも道具のあるところに働きかけて、その影響力を広げていくことでしょう。
【Q13】
あなたがイエスについて語るとき、それは人間イエスのことですか? それともイエスを通して働きかけた霊的勢力の総合ですか?
人間イエスのことです。ですが、その後イエスは大きく進化し、地上時代よりもはるかに高等な意識を発現しています。地上で発現する意識の高さが、生まれ落ちた時代と土地柄に相応したものにならざるを得ない以上、やむを得ないことです。それでも、ナザレのイエスを通じて発現した霊性は、地上に降誕したいかなる人物をも凌ぐものでした。イエスほど霊性を強烈に顕現した者は、ほかにいないということです。
【Q14】
この二〇〇〇年間に、でしょうか?
前にも後にもいません。イエスが発現した霊性は、地上界で発現した大霊の霊性のなかでも最大のものでした。だからといって私たちは、イエスという一個の人物を崇めることはしません。イエスを通じて発現した霊力には敬意を表します。どれだけ霊力の道具になったかで受けるべき敬意の度合が決まる、というのが私たちの認識の仕方だからです。
【Q15】
霊界では、イエスのような人物を地上へ送って、さらに啓示を届ける計画があるのでしょうか?
必要性が変われば、それに応じて手段も変えないといけません。忘れてならないのは、地上世界は、ますます複雑になり、ますます相互依存の傾向が強まっていますから、霊界とのコミュニケーションのチャンネルも新たに開かねばならなくなっていることです。
霊界側は、地上界のさまざまな気質、さまざまな慣習、ものの考え方、生活様式を考慮しなければなりません。メッセージの内容も自然環境や特質、民族的習慣にあわせなくてはなりません。言語による制約もあり、それを読んだり聞いたりする人たちの程度にあわせなくてはなりません。しかし、その背後で鼓舞している根源的エネルギーは同じです。
キリスト教界では、死者からよみがえって姿を見せ、生命が永遠であることを証明して見せた人物に敬意を表しています。その人物は物質化して、証拠として磔刑の傷跡を見せています。その後も顕現しています。こうした現象をキリスト教界では、証明はできなくても事実として信じているのです。ところが、それは神の子イエスだから発生した奇跡であると独断します。
しかし、私たち霊界の者が、こうして交霊会に出現し、死後の世界の実在を証言し、大霊の永遠性とその摂理・法則の不変性を説くことができるのも、奇跡ではなく、イエスのよみがえりと同じく、法則にのっとった自然現象なのです。つまり、すべての人間がよみがえるのです。生命の法則がそうなっているからです。
【Q16】
伝統的宗教を扱うに際しては、寛大な態度でのぞむべきでしょうか、厳しい態度でのぞむべきでしょうか?
おそれることなく、真実を語ることです。あなたは大霊の使いです。邪説を論破し、虚偽を暴きなさい。おそれることはありません。
【Q17】
スピリチュアリズムを受け入れれば、伝統的宗教は捨て去るべきでしょうか?
私はラベルには関心がありません。はたしてスピリチュアリストなのかも定かでありません。確認する儀式をしたことがないからです。自分がどういう信者であるかを宣言しても何の意味もありません。私たちが関心をもつのは、日常生活をどう生きているかです。
宗教とは何なのでしょう? 教会やシナゴーグやチャペルや寺院に通うことでしょうか? 人間のこしらえた信条の受け入れを宣言することでしょうか? ローマ・カトリック教徒ですとか、プロテスタントですとか、仏教徒ですとか、ユダヤ教徒ですとかいうことでしょうか?
宗教とは、大霊に少しでも近づくような生き方をすることです。大霊の御心があなたを通じて発現することです。宗教とはサービスです。
霊界からの啓示のすべてを手にしながら、あいかわらず伝統的宗教の教義にしがみついている人がいたら、その人のことを気の毒に思ってあげなさい。心のなかで、その人のために祈ってあげなさい。その人は、まだまだ初歩の段階にいるのですから。
【Q18】
宗教の指導的立場にいる者が霊的真理に目覚めたとき、旧式の概念は捨て去るべきでしょうか?
人間各個の義務というものを、私たちは至上の原則と位置づけています。自分のすることには自分が責任を負うということです。
霊的真理に関して屁理屈で言い逃れをしても何にもなりません。霊的意識が芽生えれば、良心の声がどうすべきかを教えてくれるものです。それをなるほどと認識したら、そのとおりに実行しなければなりません。それができない人はその程度の人なのですから、それをとがめることは正しくありませんし、適切でもないと考えます。
【Q19】
スピリチュアリズムは、いずれ普遍的な宗教となるのでしょうか?
スピリチュアリズムというのは、いくつかの霊的真理の存在と意義と作用について与えられた名称に過ぎません。私にとって宗教とは生き方そのものであって、特定の信仰を受け入れることではありません。
【Q20】
教会やチャペル、シナゴーグなどは存在価値があると思われますか?
あるものもあれば、ないものもあります。そういう場所にいる者が、無意識のうちにせよ霊の影響を受け、インスピレーションを受けるようであれば、光明と知識と英知と真理を広めるための道具となりますから、大いに役立つでしょう。
インスピレーションもなく、古い形式や儀式、朽ち果てた教義の繰り返しで、神学の一字一句にこだわった説教しかできないようでは、何の役にも立ちません。
いずれにしても、一概にはどちらとも言えません。だめ呼ばわりするところばかりでもありませんし、絶賛したくなるようなところばかりでもありません。それぞれに長所と短所があり、本来のサービスをしているところもあれば、していないところもあります。
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