Tuesday, June 23, 2026

シルバーバーチの霊訓(十一)

 More Philosophy of Silver Birch

Edited by Tony Ortzen


  
三章 心霊治療        
   霊的覚醒のための手段
                           
 無限なる叡智と愛を具えた大霊は、医学によって〝不治〟の宣告を受けた人たちにもう一度チャンスを用意してくださっております。

 大切なのは魂の琴線に触れることです。そのとき霊の力が、それまで有るか無いかの状態で明滅していた神性の火花を美しい大きな炎と燃え上がらせ、潜在する霊的エネルギーを活気づけ、それが身体の病を治し、精神に教訓を学ばせ、霊的本性を開発させるのです。

それが首尾よく行われた時は、治療家はその貢献の栄誉を授かったことを大霊に感謝すべきです。

 もしも身体は治っても魂を目覚めさせるまでに至らなかった時は、それは残念この上ないことです。その患者は霊的真理に目覚めるチャンスを目の前にしながら、それを手にすることができなかったことを意味するからです。いずれにせよ治療家は精一杯の努力をして、霊力が存分に流入し神の意志が届けられるようにすることです。

 すべての魂が受け入れる用意ができているとはかぎりません。それは有り得ないことです。治療家のもとを訪れる患者のすべてが治せるわけではありません。が、

もしも絶望視されていた患者に何らかの改善が見られたら、それは、いやしくも思考力と理性とを具えた人間にとって、物質より遥かに勝る力が働いたことを示す明確な証拠というべきです。

 起源においても本質においても霊的であるその治癒力は、今日の地上界へ流入している大切なエネルギーの一つです。地上界は今とても病んでおります。あまりに多くの人が調和の乱れた生活環境が生み出すストレスと不自然さによって病気になっております。

みずから〝文明〟と呼んで誇っているものが実は、本来ならエネルギーを供給してくれる大自然から人間を絶縁させているのです。

 そのために人間のバッテリーである魂が枯渇しており、それを霊の力によって再充電してあげなくてはならないわけです。それが功を奏してバッテリーが働き始めると、身体と精神と霊との間に調和が戻ります。それが健康です。神はその無限の叡智によって、人体の骨格及びその関連器官を、霊の自然治癒力が働くようにこしらえてあるのです。

 その身体と精神と霊という三位一体の関係が乱れた時に病気になるのです。健康とは全体の調和状態のことです。

 では治療家がその治癒エネルギーの通路となると、どういうことが起きるのか。生命力、すなわち霊の力が治療家を通って患者に流入し、その魂と接触をとり、先ほど述べたバッテリーを補給し、原因はともあれ、乱れてしまった調和を取り戻させるのです。

 心霊治療の肝要な点は、治療家自身が苦痛を体験していて、訪れる方々に対する思いやりの心が培われていることです。それが摂理の働く唯一の道なのです。

ここにお集まりの方のどなたよりも永い人生を生きてきた私は、今なお、全存在を包摂する宇宙的摂理を考案した大霊の無限の叡智に感嘆させられることばかりなのです。

 平穏の有難さが分かるのは嵐の中においてこそです。晴天の気持ちよさが分かるのは雨の日があるからです。このようにすべてが両極の原理で成り立っているのです。もしも全体が光ばかりだったら、光の有難さは分かりません。そうした違いが分かり自然の摂理の素晴らしさが分かるのは、そのコントラスト、比較対照の原理のお陰です。

 そこで苦しみがあるのです。苦しみの中において霊性が目を覚まし、その結果として治病能力が開発され、自分のもとを訪れる人の苦しみも分かるのです。

 このサークルへご招待する〝霊の道具〟(心霊治療家)のすべての方に申し上げていることは、明日のことを思い煩ってはいけないということです。治すべき患者はちゃんと導かれてまいります。

自分から出歩いて〝私は治療家です。どなたか治してほしい方はいませんか〟などと触れて回る必要はありません。霊界からの働きかけはそういう方法は取りません。

 治療してあげて、取りあえず身体上の痛みや症状が消えれば、それはそれなりに結構なことです。が、それよりさらに一歩踏み込んで、そうした変化が何を意味しているかを患者が理解してくれれば、なお結構なことです。

 その段階から患者の霊性が目を覚まし、真の自我を知り、地上に生まれてきた目的を成就し始めることになります。そこが大切な点です。症状が取れれば、それはそれなりに結構です。が、霊的実在に目覚めることになれば、なおいっそう結構なことです。


───治る患者と治らない患者とがあるのはなぜでしょうか。

 霊的に治る段階まで来ている人とそうではない人とがいるからです。しかし、治りさえすればよいのではありません。心霊治療の試金石は魂を目覚めさせるか否かです。


───明らかに摂理に背いているために病気になっているケースがあります。一応治療は施してあげるのですが、相変わらず心掛けが間違っているためにぶり返して、また治療を受けにやってまいります。お聞きしたいのは、そうやって何度も治療を繰り返すというのも計画の中に組み込まれているのでしょうか。

 私たちが取るべき態度として一ばん大切なことは、訪れる患者がどんな人であろうと分け隔てなく援助の手を差しのべることです。それからあとのことは、その患者自身の責任に帰すべきことです。身体上の病だけが良くなった場合は、心霊治療としては失敗だったことになります。本当は魂が目を覚まして活動を開始するようにならないといけません。

 つまり治療を受けた結果その患者がそれまでの生活を反省して本来の生き方を学ぶところまで行かなければ、その治療は失敗したと見なさねばなりません。

治療家を通じて働いている力は身体上の症状を癒すだけでなく精神も癒やして、人生とはいったい何なのかを理解させることを目的としていることを得心なさるべきです。時間が掛かるのです。


───ということは、同じことを必要なかぎり何度でも繰り返すべきだということでしょうか。

 治療家は患者を断るような態度を取ってはなりません。患者は治療を求めてやって来ます。その時治療家は、その患者について勝手な判断を下してはなりません。

治療家の仕事は治療を施すことです。それによって患者の魂が目を覚ませば、そこから啓発が始まります。たとえ霊的に何の反応も生じなくても、少なくとも身体だけは、短期間とはいえ、前よりは良くしてあげたわけです。

 いかなる患者に対しても、できるだけのことをしてあげ、決して断わってはいけません。治療家はいつでも患者を迎えてあげる用意ができていないといけません。仮に治療の後間違った生活をしてさらに厄介なことになっても、それはその患者の責任です。

 魂というものはいつかは必ず目覚める可能性をもっております。なぜならば魂とは大霊の一部であり、各自の内部に宿る神性だからです。それは無限なるものですから無限に発達する可能性を秘めております。それが基本の論理です。

 〝治る段階〟とは何かと問われれば、それは金塊が精錬の過程をへて不純物が取り除かれた後に見せる純金の姿と同じだと申し上げます。

 もしも人生が一本調子のものだったら、もしも光だけで闇がなかったら、もしも楽しいことばかりで苦しいことがなかったら、食べるものに事欠かず空腹というものを知らなかったら、その光も、楽しいことも、食べられることの有難さも分からないはずです。

人生の目的と可能性についての理解をもたらしてくれるのは、その両極性です。愛と憎しみは正反対であると同時に相等しいものです。愛を憎しみに変えることができるように、憎しみを愛に変えられることもできます。

鋼(ハガネ)が溶鉱炉から取り出されて鍛えられるように、金塊が製錬されて初めて純金となるように、ダイヤモンドが磨かれて初めて輝きを見せるように、魂も辛酸をなめて初めて真の自我に目覚めるのです。それ以外に、地上で魂が目覚めそして活動を開始するための手段はありません。

 苦痛や困難は不幸なことのように思われがちですが、本当はそうではありません。各自の霊的進化にとってそれなりの役割があるのです。

 あなたのなすべきことは、あなたのもとに導かれてくる人にあなたなりの援助をしてあげることです。もしその人が〝大人の霊〟であれば、死後の生命の実在についての証拠を提供することによって、愛が生命と同じく不滅であることを教えて慰めておあげなさい。

 もしも病弱の人であれば、心霊治療とは物的なはかりでは測れない力が働いていることを実演してみせるものであることを教えておあげなさい。

 あなたの望めるのはそのための触媒を提供する懸け橋となることです。もしうまく効を奏すればその人が自我を見出す手助けをしてあげたことになります。それによってあなたは心に大いなる喜びを感じられるはずです。

たとえ失敗しても、それはあなたが悪いのではありません。その人は絶好なチャンスを目の前にしながら、まだそれを生かす用意が出来ていなかったことを意味するのです。


───特殊な理由から治して欲しいと思わない、だから治らない (と私は考えるのですが)、 そういう人は別として、カルマというのはどのように働くのでしょうか。治りたい一心で治療を受けていながら一向に良くならない人がいます。これはカルマのせいでしょうか、それとも治療家の力不足でしょうか。

 これは難しい問題です。なぜかと言いますと、治療行為が行なわれている時にその背後でどのようなことがなされているかは、ひと口では説明できないからです。

 ご承知の通り心霊治療の本来の目的は魂の琴線に触れることです。あなたは先の質問で心掛けに問題のある患者のことを持ち出されました。いわゆる〝心身症〟です。身体上の病いも大半は内部の不調和が外部に現れているにすぎないものです。

 今の地上には過度の緊張やストレス、欲求不満から生じている病気や異常が増えております。純粋に身体に起因している病気はほとんどありません。

 霊的治療においては造化の根源から発している霊的なエネルギーを使用します、そのエネルギーの質、量、種類は、それが通過する治療家の霊的発達の程度によって決まります。

次にその病気の原因となっている根本的な事情(カルマその他)によって支配されます。さらにはその時点における治療家と患者双方の精神的ならびに身体的状態によっても影響を受けます。

 治療が成功したと言えるのは、患者が霊的な受け入れ準備ができていて魂が感動を覚えた時のみです。その時初めて霊的覚醒がもたらされるのです。それ以外は単なる身体上の反応にすぎません。それが一時的な場合もあれば、それきり全治してしまうこともありますが、肝心なのは患者の霊性への影響です。

 地上生活のそもそもの目的は人類および動物その他、ありとあらゆる生命体に宿る霊的要素が、ほんの火花に過ぎなかった状態から揺らめく炎となり、ついには美事な火焔となるための条件を提供することです。そこで魂が真の自我を見出し、人生が提供する物的な側面だけでなく、さらに大切な霊的側面をも味わうようになります。

 さてあなたはカルマの問題を出されました。因果律、タネ蒔きと刈り取りの原理のことで、あらゆる生活の場でいっときの休みもなく働いております。患者の中には前世から持ち越したカルマ的状態によって病を得ている人がいます。

その因果関係が完全に解消されていない場合は、治療が表向きは失敗したような結果となります。もしも完全に解消されていてそれ以上カルマが出なくなっていれば、治療が効を奏するわけです。それが〝魂に受け入れの用意ができている〟ということです。


───あなたはよく〝心が正常であれば身体も正常です〟とおっしゃっていますが、霊能者も大ていどこか調子が悪かったり異常を抱えていたりするようです。霊能者であるからにはその心はきっと〝正常〟であろうと思うのです。もしもこの世で苦がカルマのせいであるとすれば、それとこれとはどう結びつけたらよいのでしょうか。

 霊能者といえども自然の摂理から逃れることはできません。摂理はすべての存在を包摂し、そこには例外も逸脱もありません。病気が生じるのは二つの理由があります。

 一つは霊と精神(心)と身体の調和によって健康が維持されている、その調和が崩れていることです。もう一つの可能性はいわゆるカルマです。地上でしか償えない前世での出来事があって、それがまだ解消されていないということです。
 理想的な世の中であれば霊能者も理想的な人物なのでしょうが、あなたが住んでおられるのは理想的な世の中ではありません。


───心霊治療家の目的は患者の魂の琴線に触れることで、霊と精神とが正常であれば効を奏するとおっしゃっていますが、赤ん坊や動物の場合はどうなるのでしょうか。

 やはり同じです。調和を取り戻すには霊が正常であらねばなりません。赤ん坊の場合でも魂の琴線に触れる必要がありますし、動物の場合でも同じです。私には別に問題は見当たりません。

 私が先ほど申し上げたのは、永いあいだ患った末に霊的な治療を求めてくる人々についての一般的な話です。心霊治療というのは複雑な問題です。そのもっとも純粋な形においては霊から霊を通して霊へ向けて行われます。つまり太霊から出たものが治療家の霊を通して患者の霊へ届けられるものです。

 さて、これが赤ん坊や動物の病気となりますと、そこに絡んでくる要素が違います。正すべき要素は大てい霊的状態だけです。それも霊的方法で行うしかありません。

直接身体的に行うわけには行きません (※)。 健康を取り戻す唯一の手段である霊と精神と身体の調和を妨げている障害物を取り除くために、魂そのものに充電してやらねばなりません。

赤ん坊の場合はカルマの要素が絡んでいることがよくあります。が、この問題はここでは深入りしないでおきます。 

(※ これはすぐ前のところで、〝永い間患った末に霊的治療を求めてくる人についての一般的な話です〟と述べているものと関連したことで、大人の場合はそうした苦しい体験があるので症状が取れるという身体上のことだけでも魂が感動を覚えるが、赤ん坊や動物の場合はそれが期待できないという意味。なおこの問題は再生の問題と深く関わっているので、詳しくは第四巻三章を参照されたい───訳者)


───内在する神性を呼び覚ますことによって治癒されると理解しておりますが、今あなたは霊的治療は霊から霊を通して霊へ向けられ、それによって魂が充電されるとおっしゃいました。それが大霊から届けられるとなると、それは外部からの影響であるように思えるのですが・・・・・・

 治療家自身に具わっているものを使用するのであれば、それは本来の霊的治療ではありません。それは磁気療法(マグネチックヒーリング)とでも言うべき範疇に属します。純粋の霊的治療は大霊から発する霊力の伝導によって行われます。大霊が始源です。発電所です。水源池です。貯蔵庫です。それをスピリチュアル・ヒーリングというのです。


───私たちはみな大霊の一部であり神性を宿しているのですね?
 
 そうです。皆さんもミニチュアの大霊です。それは間違いない事実です。が、皆さんの内部に宿る潜在力は、大霊から届けられる無限の霊力にくらべれば、ごくごく小さなものです。自分で自分を治癒するセルフヒーリングには精神統一と受容性、つまり内在する力を働かせると同時に大霊から送られてくる力を受け入れるという、内と外とのコンビネーションが必要です。


───セルフヒーリングが広まれば治療家のお世話にならなくて済むので、これを開発促進すべきでしょうか。

 これは簡単にお答えしにくい質問です。霊的覚醒に関わることだからです。治療家としてあなたの機能は、治癒エネルギーの通路となることです。患者が霊的に治る段階に来ておれば効を奏します。魂が感動し覚醒することによって治ることもあります。

身体上の症状が取れただけではまだ目標は達成されていません。目標は霊的覚醒にあるのです。


───感情についてお聞きしたいことがあります。私たちが立派と思っている愛国心その他の愛でも、実際は一種の利己主義であることがあります。

 何ごとも動機が大切です。愛国心でも、自分の国家と国民のことだけを考えて、よその国のことは一切眼中にないようでは、それは一種の利己主義です。

 最高の指針となるのは人のために役立つこと、思いやり、謙虚さ、寛容心、協調性といった形で表現される愛です。愛は宇宙最大の力です。

 あなた方は人間です。完全ではありません。完全は地上では絶対に達成されません。こちらの世界でも達成されません。絶えず発達し進化し伸びていく存在です。内部には神性を帯びた潜在力が秘められています。また、一定限度内での自由意志も授けられています。

 したがってあなたは神の意図された通りのイメージにしたがって行動して内部の神性を発揮することもできますし、低級な感情と欲望の赴くままに生き、永遠の持ちものとはならない俗物を求めるだけの人生で終わることも許されます。それは神が地上の人間のすべてに与えられた自由選択の権利です。

 しかし人間である以上はその選択を誤ることがあります。そして途中で挫折してしまいます。そこで私たちは、善悪の判断に際して〝動機〟を重要視します。神は一人一人に良心という絶対に狂うことのない監視装置(モニター)を用意してくださっております。それがあなたの行為が正しいか間違っているかを正確に教えてくれます。


───うつ病患者が多いのですが、私たちにはどういうことがしてあげられるでしょうか。

 人生の視野を変え、知識を基盤とした信念を持つように指導してあげないといけません。何の根拠もない信念は砂上の楼閣のように、あっさりと崩れてしまいます。知識の上に築いてこそ永続きするのです。

 その点、皆さんは霊力の証しをご覧になっておられる光栄な方たちです。無限なる力によって案出された崇高な知的計画があることを実感をもってご存知です。その計画はあなた方一人一人を包摂しております。そうした意識をお持ちである以上、常に前途に希望を抱き、楽観して、憂うつや恐れという暗闇を近づかせないようにすべきです。

             ※              ※

 サークルのメンバーの中に過労から病気がちになっている人が何人かいることについてシルバーバーチが忠告する───

 危険信号が見えた時はいつも注意してあげているのですが、それが無視されて倒れられる方がいるのは残念です。が、すべては各自の責任に帰されるというのが私たちの教えの絶対的な基本です。

 許されることなら代わって荷を背負ってあげたであろうと思われることが何度あったか知れません。が、霊的向上の道は自分の力で切り開かないといけない以上、それは私には許されないと理解しております。

 (女性のメンバーに向かって) あなたの場合この季節(冬)は特に身体を大切にし、酷使しないように注意しないといけません。休息は大切です。今のあなたにとって必要なのは休息です。それを欠くと霊が地上で機能するための道具を台無しにしてしまいます。

 別に咎めているわけではありません。人生の基盤である不変の摂理の存在を指摘しているだけです。それを怠ると私の義務を果たしていないことになります。


───(古くから彼女を知っている人が弁護して) 翻訳の仕事が多くて原稿の締切期限(デッドライン)に間に合わせようとして過労になったようです。

 この私にデットラインの話を持ち出されるとは愉快ですね。私が今の世の中をこしらえたわけではありませんし、そこで生活する人の身体も私がこしらえたわけではありません。

ただ、出来上った身体を見てみると実に複雑でありながら美事にまとまった機械であることが分かります。地上のいかに腕のいい技術者も到底これほどのものはこしらえられないでしょう。

 幾億もの細胞が集まって血液、腱、筋肉、その他もろもろの組織をこしらえ、さらに各種のミネラルが昼となく夜となく働いて、霊が効果的に表現されるようにしております。

 私が思うに、地上に存在する機械で、瞬時の休みもなく働きオーバーホール(修理・点検のための解体)されることもないのは人間の体だけでしょう。その度が過ぎると、使い過ぎによる欠陥が生じて使用中止の命令を下さねばならなくなります。

 大霊がもしも人間に完全であることを望むならば、完全な身体を用意されたはずです。が、地上というところは永遠の進化のための無数の生活の場の一つに過ぎません。今この地上にあるかぎりは、その身体を大切に維持・管理する責任があります。使い過ぎると本来の機能が果たせなくなります。

 もう一人の方にも同じことを申し上げたいと思います。悩みや困難に追いまくられるとおっしゃいます。が、私はいつも申し上げております───〝それは百も承知しております。もしも悩みも困難もなかったら、あなたはこの世にいらっしゃらないでしょう。なぜなら、それを処理するために地上へ来ていらっしゃるのですから〟と。

  遭遇しなければならない困難というものが必ずあります。それに挑戦することによって内部の貯え、潜在する霊的資質、神的属性の幾つかが呼び覚まされるのです。ですが、度を過してはなりません。からだが〝疲れました。もうこれ以上はムリです〟と訴え始めたら、休息を与えてあげて下さい。

 皆さんへの愛の気持ちはあっても代わって生きてあげるわけには参りません。手引きはしてあげます。援助はします。支えにもなってあげます。道を教えてあげることはできます。しかし皆さんがみずから背負うべき責任を私が肩代わりしてあげるわけにはまいりません。

 私たちの力の限りを尽くして、是非とも必要な守護は受けられるようにしてあげましょう。が、自分のすることには自分で責任を取るのです。


───角膜移植には反対ですか。霊的には何ら問題はないように思えますが・・・・・・

 私は原則として臓器の移植手術には反対です。他人のために自分の臓器を提供する方の誠意を疑うわけではありません。

 神は霊が地上で自我を表現するための道具として物的身体をお与えになりました。そこに身体と霊との緊密な関係があるわけです。もしも臓器移植が不可欠のものであったら、心臓や腎臓の移植手術に失敗は有り得ないはずです。

 角膜の問題はとても厄介です。人間の苦痛に対して冷淡であるかに思われたくないのですが、時として失明の原因がカルマにあることがあります。

何もかもカルマのせいにしてしまうのは卑怯だと思われかねないことは私も承知しておりますが、地上でも、あるいは霊界でも、偶然にそうなったというものは一つもありません。因果律は絶対であり、ありとあらゆる出来事を規制しております。

 目が見えないということも因果律の結果です。目の見えない人が角膜を移植してもらって見えるようになるということが、霊的にみて果たしてその人にとって良いことであるか否かは、一概に片づけられる問題ではなく、議論したら延々と続くことです。

 身体的には良いことかも知れません。が、霊的には必ずしも良いこととは言えません。皆さんより永い人生体験をもつ霊界の存在という有利な立場から申し上げれば、もっとも大切なのは霊的にみて良いことかということです。


───それは病気全般について言えることでしょうか。

 カルマが絡んでいるものに限っての話であれば、そうです。その場合は霊的治療も奏効しません。したがって角膜移植をしても視力は戻りません。


───しかし、もしも臓器移植が許されないとすれば、手術はできなくなります。

 人間には自由意志があります。操り人形ではありません。十字路で右へ曲がるか左へ曲がるかは自分で決められます。選択は自由です。もしも神が人間を操り人形にした方がよいとお考えになっていれば、皆さんは操り人形になっていたはずです。

 しかし皆さんも私が〝無限の創造活動〟と呼んでいるものに参加するだけの力を秘めているのです。が同時にそれを邪魔し、妨害し、遅らせることもできます。ただし、変更させることはできません。


───医術の発達はよいとしても、肉体をつぎはぎ細工のようにいじくりまわすのは霊的な間違いを犯すことになる可能性があるということですね。各自に霊的な存在価値があるわけですから。

 私たちがお教えしたいと思っているのは、まさしくそのことです。身体は霊の宮であるからこそ大切なのです。いかなる形にせよその根本的な摂理を犯せば病気は発生します。その代償を支払わねばならないということです。それだけは避けられません。

 私は外科医の仕事そのものに反対しているわけではありません。皮膚の移植には反対しません。人を喜ばせてあげたいという誠意には反対しません。ただ私が置かれている立場上、すべての問題をその根底にある霊的な意義という観点から申し上げるしかないのです。




 四章 既成宗教のどこが間違っているか  ───キリスト教を中心に

 〝今もしナザレのイエスが地上へ戻ってきて自分の名のもとに説かれている教えを聞いたら、いったい何のことだか理解できないでしょう。その多くはイエスが説いたものではないからです。後世の聖職者たちがでっち上げたものだからです〟

 これは聖公会(アングリカン)の牧師が初めて交霊会へ出席した時にシルバーバーチが語った言葉である。以下その二人の問答を皮切りに、既成宗教のそもそもの間違いはどこにあるのかを総合的に検証してみよう。まず牧師から質問する───


───あなたの霊訓によってずいぶん教えられております。私は牧師ですが、ドグマと組織化された宗教というものに幻滅を感じております。でも私はキリスト教にもある種の良さを見出しております。そこで、果たして教会内に留まって改革の仕事をすべきか、それとも教会を脱退して外部から仕事をすべきかで迷っております。

 話を教会そのものの起源から始めましょう。他の宗教の教会に相当するもの、つまり寺院、教会堂、礼拝堂と同じく、キリスト教の教会も、その昔、霊力が地上に降りたということがその起源となっております。

それには聖書にいう〝しるしと驚異〟もしくは〝奇跡〟と呼ばれるものが伴っております。霊力というものはその時代の古びた信仰、間違った教義やドグマへの挑戦という形で届けられました。

それが霊的起源であるとの証拠は、病人を癒やすこと、迷える者に導きの光を授けること、物質は殻であり霊こそ実在であるという基本的原理を教えるということで示されたのでした。しかし残念ながら歴史をご覧になれば分かるように、そうした霊力のほとばしりも、ほんの短い期間しか続きませんでした。

 そうした中で神学者というのが次第に勢力を持ち始め、勝手な教義をでっち上げ、それが純粋な霊性を具えていた啓示と置き代えられていきました。不毛の人間的産物が神の声を押しのけてしまったのです。

その後も〝しるしと驚異〟あるいは〝奇跡〟と信じられるものを伴った霊力のほとばしりがあり、それがまたもや人間的産物によって置き代えられるということが何度となく繰り返されました。

 そうしたことばかりしている教会をイエスは〝白塗りの墓〟と表現しました。霊力がすっかり抜き取られているからです。繰り返される作業によって築きあげられた壁の余りの頑強さに、崇高なる霊の力も突き通すことが出来ないのです。そのことをまず率直に申し上げねばなりません。

 さて、あなたがいちばん良い例ですが、それまで信じてきた伝統的な信仰と真っ向から対立する霊的真理に真実性を自覚し始めた時に問題が生じます。

板ばさみの状態の中でどう身を処すべきかということになるのですが、あなたに限って言えば、現在の立場に留まって、その世界の中であなたに耳を傾ける人を啓発していきなさいと申し上げます。スピリチュアリズムという用語を用いる必要はありません。

これは単なるラベルにすぎません。私たちはラベルには拘りません。私たちの関心は魂を解放すること、大霊の意図される生き方を可能にしてくれる自由を与えてあげることです。

 地上世界の問題の大半が物質中心の考え方に起因しております。物的欲望は地上界を毒する悪性のガンです。これは是非とも人生の基盤が霊であり物質ではないという知識、理解、悟りによって駆逐しないといけません。

 それなら教会内でもできるはずです。導きを求めてあなたのもとを訪れる人に教えてあげることができます。あなたの今の実力をもってすれば、真の自我を見出す手引きをしてあげられる立場にいらっしゃいます。人間はいつかは必ず自己革新の過程を経なければならないものです。

自分を救うのは自分でしかないのです。誰も救ってはくれないのです。その手引きをしてあげる方法は教会においても見出せることにお気づきになられます。

 教会を去ってしまえば霊媒その他、スピリチュアリズム関係の人たちとの接触に限られてしまいます。ということは、スピリチュアリズムの啓蒙活動の側からいえば、同志が一人増えただけということになります。

その点キリスト教界に留まっていれば、伝導の使命を帯びた正式の牧師として、あなたの教会に精神的指導を求めてくる人々に手を差し伸べてあげることができます。

 ナザレのイエスは今なおわれわれのこうした仕事の背後の中心的指導者として活躍しておられます。その他にもかつて地上であなたと同じように牧師の聖衣をまとっていた人が大勢参加しております。

他界後に身に付けた知識と霊力とをたずさえて、地上の人類に幅広く援助の手を差し伸べるための道具を求めております。使命感は死とともに終わるものではないのです。

 神は人間に〝疑う心〟を植えつけております。真実性を確かめるための批判的精神です。正直な批判は少しも悪いものではありません。真実を知りたいがために疑ってかかる人を私たちは大いに歓迎します。ですが、口先だけの議論や用語の詮索ばかりする人はご免こうむります。

 私はいつでもどこでも援助します。悲しみや苦しみが触媒となって霊性が目覚め始めた魂を見つけ次第援助します。受け入れる用意ができたからです。


 その牧師には夫人の他にもう一人、学校で宗教教育を担当している女性が同伴していた。その女性が尋ねる───

───私はあなたの霊言集を読み続けております。その中のどこかであなたは、人格神は人間が発明したもの以外には存在しないとおっしゃっています。〝大霊とは法則です〟と述べておられるのですが、別のところでは〝未来永劫にわたって神の愛と愛の神が存在します。

皆さんが愛念を表現するごとに神がみずからを顕現なさるお手伝いをしているのです〟とも述べておられます。これらの表現や他のもろもろの言い回しを拝見しておりますと、私にはあなたは神を人格を具えた存在であるかに表現しておられる印象を受けるのですが、その辺を明確にしていただけないでしょうか。


 分かりました。でも、これはとても難しい問題です。なぜならば、無限なる存在を有限なる言語で定義することは事実上不可能なことだからです。大霊は人間が考えるような意味での人物的存在ではありません。人間を大きく拡大したような存在ではありません。男性でもなく女性でもありません。

 大霊は宇宙最高の力、無限の知性、愛、慈悲、叡智、要するにありとあらゆる霊的資質の原理の総合的化身です。が、その概念をお伝えしようとすれば、どうしても人間の言語を使用せざるを得ません。もしも私が大霊のことを中性名詞で〝それ〟と呼んだら、男性名詞で〝彼〟と呼ぶよりもさらに厄介な問題が生じます。

 物的世界は、他のすべての世界と同じく、絶対不変の摂理によって支配されております。その摂理は無限の過去から存在していましたし、これからも無窮の未来まで存在し続けます。予期しなかった事情が生じて改めざるを得なくなることはありません。

これまでの摂理では間に合わない新たな事態が生じるということも絶対にありません。その作用は完ぺきであり、停止することも、無効になることもありません。無限の知性によって考案されたものだからです。

 生命の存在するところには必ず摂理が働いております。原因には必ず結果が生じます。タネ蒔きには刈り取りが付随します。その因果関係に干渉して、生じるべき結果を変えてしまうような力をもつ存在はありません。

地上世界のどこで何が起きようと、それも摂理のもとに生じています。突発事故も偶然の出来事もありません。大自然の摂理はありとあらゆるものを包摂しております。

 こうした事実は、その背後に崇高なる知性が存在してそれが摂理を生み出し、万物の全側面と全活動を維持・管理していることの証ではないでしょうか。同時に又、その全摂理を通じて愛が支配し、従って完全なる公正が行きわたっているに違いないことを暗示してはいないでしょうか。

悪いことをすればそれ相当の罰が与えられるように、善いことをすればそれ相当の報いがもたらされます。

 死の床での牧師による最後の儀式も、自然の摂理の働きを変えることはできません。いくら誠心誠意の祈りであっても、それだけで摂理が変えられるものではありません。いかなる教義を忠実に受け入れても、摂理を変えることはできません。

なぜならば摂理は完全な公正が行きわたるように働かねばならないからです。あなたの行為が招いた結果を代わりに背負ってあげられる人はいません。

あなたのすること考えることの一つ一つにあなた自身が責任を取らねばなりません。聖人と罪人とが同じ霊格を具えるようなことはあり得ません。霊格をごまかしたり偽ったりすることはできません。そこに神の意志があり、神とはそういうものなのです。

 あなたは〝人間性〟を問題にされましたが、神はあらゆる人間に内在しているという意味では人間性があると言えます。が、神は摂理であるという意味においては非人間的存在です。ましてや、自分を信じる者は可愛がり、信じない者には意地悪くするような、そんな恨み深い神さまではありません。

 摂理によって原因と結果とがきちんと定められております。神はあなたの中に存在するのです。受胎の瞬間から神性の種子が植え付けられているのです。それに芽を出させ、花を開かせ、豊かな実りをもたらすためのチャンスは、日常生活の中でいくらでも用意されております。


───すべてが神がふところの中で行われている、という言い方は正しいでしょうか。

 結構です。神はあらゆる場所に存在します。神のいない場所というものは存在しません。


───新約聖書の中(マタイ9・17)でイエスは、古い皮袋に新しいぶどう酒は入れられないと述べております。これとあなたが説いておられることとはどう結びつけたらよろしいでしょうか。

 古い皮袋に新しいぶどう酒を入れることは出来ません。古いぶどう酒を新しい皮袋に入れるのです。霊力というものを人間が勝手にこしらえた信仰に合わせて働かせることはできません。霊的真理を自分の信仰の型にはめ込むことはできません。

いかなる信仰も、いかなる教義も、いかなる名句も、自分がこれは真実ではあり得ないと確信したものは、いかに古くから伝えられているものであっても、即座に拒絶なさらないといけません。

 イエスはよく寓話を用いました。が、言わんとしていることはきわめて明瞭です。もしもあなたが霊力の存在を自覚していらっしゃるのなら、もしも霊的真理を確信していらっしゃるのなら、それと食い違う教説は一切説いてはなりません。ただそれだけのことです。

 例えば、先ほど大霊についての質問がありましたが、大霊とは、どこかで説かれているような三位一体などというものではありません。大霊はすべてであり、いずこにでも存在します。宇宙の全生命を包摂しております。

もしも神とは三つの部分に分けられるものと信じているとしたら、その信仰は間違いです。それに、そう信じたからといって一体どうなるというのでしょう。神とは一にして三、三にして一であると信じたら、何か霊的に救われることでもあるのでしょうか。


───(最初に質問した牧師) 私には何のことだか、わけが分かりませんでした。

 私にも分かりません。あなたはあなたに啓示された真理に忠誠を尽くすことです。信じられる筈もないものを信じようとするのは、あなたの知性の信用に関かわります。また、あなたの魂の成長にとってもプラスになりません。

        ※          ※

 別の日の交霊会に同じく〝国教会の不満分子〟の一人が夫人とともに招待され〝妻とともに生涯忘れ難い夕べ〟を体験した。まずシルバーバーチが歓迎の言葉を述べる───

 あなたが私の説く真理のいくつかをご存知であることはよく承知しております。あなたなりの厳しい自己批判と精神的苦悶の末に、過去の教条と教説に背を向けられ、これこそ人生に光明をもたらしてくれると信じる霊的真理を手にされました。

 本当を言えばあなたと同じ立場にある他の聖職者たちも、あなたと同じように霊の力とその崇高な真理を手にしてほしいのですが、それが思うに任せないのが残念です。本来ならばその霊力の守衛であり、大霊の大使であり特使であるべき人たちが石の壁を張り巡らして、霊力も真理も突き通せなくしてしまっている光景は、見るも悲しいことです。

 当然の結果として教会は冷たく荒涼として、生命力に欠けた不毛の場と化しております。生気あふれる霊力の顕現がそこにないからです。その点あなたは、悲痛な思いを経た上でのことではありましたが、真理の道を見出されたことを喜ぶべきです。

自分をそこまで導いてくれた光明の存在を知ることになりました。それはこれからも引き続き光輝溢れる光を放ち、あなたの辿るべき道を照らしてくれることでしょう。


───私どもは大霊があなたのような高級界の霊を通して語りかけてくださっていると理解しておりますが、人間の歴史を通じて、かつて大霊が霊を経ないで直接語りかけたことがあるのでしょうか。

 大霊は個的存在ではありません。大霊は個性が神格化されたものではありません。大霊は個性を超越した存在です。摂理・愛・叡智・真理の粋(エッセンス)です。巨大な宇宙で休みなく作用している無限の知性です。

 それは数かぎりない自然現象の中に見ることができます。その子等が英雄的行為、滅私の行為、滅私の行為、慈悲の行為を通じて、自分より恵まれない人のために尽くす時の、その愛の表現の中にも見ることが出来ます。

 又、病の人を癒し、喪中の人を慰め、意気消沈した人を元気づけてあげる時の霊力の流れの中にも見ることができます。
 一個の男性あるいは女性として出現することはできません。個々の人間に宿る神性の発現という形で、部分的に顕現されることはありうるわけです。


───私たちから大霊に直接語りかけることはできるのでしょうか。もしできるとしたら、それは私達自身に内在する神性のことでしょうか。

 あなたは大霊であり、大霊はあなたなのです。その違いは種類でも本質でもなく顕現の度合いに過ぎません。大霊は完全の極致です。あなたはそれに向っての努力を限りなく続けるわけです。したがって大霊は内部と外部の双方に存在するわけです。

あなたが愛・寛容心・慈悲・哀れみ・仁といった神性を発揮すれば、その時あなたは大霊と通じ合っていることになります。なぜなら、あなたを通じて大霊が表現されているからです。

 一方、大霊には無数のメッセンジャー、無数のチャンネルがあります。神意を行きわたらせることを任務とした高級神霊の一大組織が張りめぐらされております。ですから、もしもあなたが大霊に向かって語りかければ、黙って念じるだけでも、精神統一でも、あるいは声に出して祈ることによってでも、

あなたの意志が大霊に届けられます。声に出すということは良いことです。念じるだけではとかく乱れやすい思念を明確にまとめ、具象化することになるからです。

 しかし声に出す出さないに関係なく、衷心からの切望は大霊に知られると同時に、神意の行政を司る任にある高級霊に届きます。


───あなたは霊界でイエスにお会いになったことがありますか。

 あります。何度もお会いしております。このことはこのサークルの皆さんにはすでにお話してあります。定期的にクリスマス(冬至)とイースター(夏至)の二度、この地上から引き上げて、そのイエスが主催される大集会に参列する際に拝謁しております。

今イエスは二千年前にご自身が身をもって示しながら、その信奉者をもって任ずる人々によって台無しにされてしまった霊的真理の普及に携わっておられます。

 その働きによって、二千年前にイエスを通じて顕現したのと同じ霊力による現象(心霊現象及び病気治療)を伴って、その霊的真理が地上に蘇りつつあります。

イエスにとって、又その輩下の神霊にとって、地上の宗教界の指導的立場にある者が基本的な真理について救いようのないほど無知である様子を見ることほど嘆かわしい思いをさせられるものはありません。

 あなたは光明を見出されました。そのことを大いに喜ぶべきです。そして、ここまであなたを導き、間違いない道標を提供してくれた霊力と同じものが、これからも引き続き導いてくれることを信じて下さい。これまでも決してラクな道ではありませんでしたが、使命を担った者にラクな道はないのです。

 もしも使命を担った者が降りかかる困難を克服できないとしたら、地上の寄生虫的営利第一主義に対抗して霊界から挑んでいるこの霊的大戦の将校としては失格であることになります。

 皆さんの心に温もりと愛とをもたらしてくれた真理、そして又、失ったと思っていたのが再び見つかり、さらにここまで導いてくれた愛を、神に感謝しなくてはなりません。

 喜んでください。皆さんはバイブル(マタイ6・19)に言う 〝虫が食いサビがつく〟 ことのない宝を手にされたのです。清澄で光輝に溢れ、永遠に曇ることがなく、決してあなた方の手から離れることはありません。なぜなら、苦難の末に手にされたものだからです。

        ※            ※

             
 米国から訪れた二人の聖職者───うち一人はキャノン(功績のあった牧師に贈られる名誉称号)───に対してシルバーバーチが次の様な歓迎の言葉を述べた───

 お二人は立派なお仕事をなさっておられます。容易なことではありませんが、今日の米国を広く支配している暗黒を霊の光によって駆逐し、黄金の仔牛(富の象徴)に代わって霊的真理を崇拝の対象とするように導くことが是非とも必要です。

 なぜ必要か。それは、無数の魂がいずこへ向かうべきかも分からずに絶望の淵をさ迷っているからです。
 言いにくいことを敢えて言わせていただきますが、残念ながら今の米国には、そうした危機的状態にある人たちの力となり霊的・精神的・物的自由をもたらしてあげられる牧師は何百人、たぶん何千人もいないのではないでしょうか。

 お二人は今その仕事にたずさわっておられるわけです。もともと霊的真理の啓示の場として建立された教会が、人間のこしらえた障害物(教義・教典)のために霊力の働かない場所となってしまっているのは悲しいことです。

 又、もともと霊的問題の指導者、教師、人間の模範であるべき牧師が肝心の霊的基本真理について何一つ知らず、あまつさえ今の時代でも手にすることのできる神のインスピレーションよりも人間の勝手な産物である教義の方を後生大事にしているのも情けないことです。

 こんな手厳しいことを私は決して非難するつもりで申し上げているのではありません。あるがままの事実を申し上げ、それが残念なことであることを指摘しているまでです。

 しかし、霊的光明はそうした障害を突破して、今や地上に根づいております。これ以後もますます増えていく人間的チャンネル(霊媒・霊能者・心霊治療家)を通じて霊力が流入し続けることでしょう。神の証人は今の時代にも大勢いること、全ての人間が神の恩恵に浴することが出来ることを立証していくことでしょう。

 そのためには先ず日常生活を、それを受けるにふさわしいものに整えなければならないことも思い知らされていくことでしょう。困難、死別、病苦を体験して初めて、魂にその素地ができあがるのです。

 神学上の教義やドグマの解釈について討論し合うことに生き甲斐を覚える様な人種を相手に、あなたの貴重な時間を浪費してはいけません。何の価値もないことですし、霊性をひとかけらたりとも伸ばすことには成りません。不毛で無意味です。

 そういう人たちよりも、すでに受ける用意のできた人との出会いを待つことです。そして、そういう人をいつでも受け入れてあげられる準備をしておくことです。いつでもどこでも、真理を説く用意をしておくことが大切です。

その上で、もしも拒絶されたら、せっかくのチャンスを目の前にしながらそれを手にすることの出来なかった人を気の毒に思ってあげるがよろしい。

 神の摂理は完ぺきですから、地上の人間が一人の例外もなく、生涯に一度は必ず真の自分を見出すチャンスに巡り会えるように配慮されております。魂が揺さぶられて神性の火花が炎と燃え上がり、内在する霊の豊かさ、威厳、美しさ、壮大さ、高貴さ、崇高さをいくらでも発揮することができます。

そのチャンスはすべての人に訪れます。そういう人のうちのたった一人でもあなたが手助けをしてあげることになれば、それは掛けがえのない価値をもつことになります。

 霊界には地上の様々な状態───動乱・混とん・暴力・破壊・強欲・大欲・嫉妬、要するに人類全体にはびこっている物的優先の産物の処理に深く関わっている高級霊団が存在します。宇宙の大経綸組織の一部を担っている霊団です。

 人間が真の自我に目覚め、自分とは何なのか、なぜこの地上に存在しているのか、この地上を天国のような住処にする上で人間は何をなしうるのかを自覚するには、先ずそうした物欲優先の産物を根絶しなければなりません。

全ての人間が霊的光明のもとで生きるようになれば、必ずや地上天国が実現するように意図されているのです。

 お二人はそれを実現するという壮大な目的のために貢献する、測り知れない光栄に浴しておられます。そこまで導かれてきたわけです。どんなに辛い思いをしている時でも、どんなにうんざりする思いをさせられている時でも、決して孤独ではないということを忘れてはなりません。

霊の光が常にあなた方の足元を照らし、霊の愛がいついかなる時もあなた方を包み込んでおります。

 何度も申し上げていることですが、人のために役立つことをすることは気高いことです。同胞のために尽くすことによって、共通の親である大霊の役に立つということほど気高い貢献はありません。これに勝る宗教はありません。

 形式を守り教義に盲従するというだけの宗教では何の価値もありません。真の宗教とはみずから世に出て、少しでも住み良い環境にするような行為を心掛けることです。

 自分を取り囲む事情が険しくなってきた時───暗黒が低く垂れこめ、稲光が走り、雷鳴が轟きはじめた時は、心を静かにして、これまで自分を導いてきた力はきっとこれからも導き続けて、次に進むべき道を示してくれるはずだという確信をもつことです。

 力強く前進なさい。最善を尽くすことです。それ以上のものは人間に求められていません。しくじった時は立ち直ればよろしい。しくじるということは立ち直れることを意味します。皆さんは不完全な世の中の不完全な存在である以上、必ず失敗を犯します。完全へ向けての巡礼の旅は永遠に続くのです。これまでに啓示された真理に感謝しなくてはいけません。

                     ※           ※

  別の日の交霊会でサークルのメンバーが質問した───

───こうした霊的真理に目覚めた宗教界の指導者は、それまでに抱いてきた宗教観を棄てるべきでしょうか。

 各人各個の責任ということが絶対的原理の一つです。各自が自分の行為に責任を持つということです。真理をごまかすことはできません。理解の芽生えとともに良心の声が次にとるべき行為を指示します。

その指示を素直に受け止め、なるほどと納得がいったら、何をおいてもその指示に従わなければなりません。それが原理です。その原理を無視している人たちを個人的に私が非難することは控えたいと思います。私がそのようなことをするのは適当ではないからです。


───非難するのは間違いですが、とるべき態度を説くのは許されるのでないでしょうか。

 あなた方のなすべきことは、いつどこにおいても真理を説くということです。人との出会いがそれを目的としている(背後霊によって導かれている)場合があります。

あなたも、あなたにとって最も必要な時にそうした出会いによって救われたのです。そこに摂理の働きがあり、真理はそういう形で広められていくものなのです。

 それからあとのことは、もうあなたの責任ではありません。地上の人間は一人一人がみな異なった進化と発達の段階を歩んでいるのです。すべての者にアピールするたった一つの真理というものは無いのです。したがって、こと霊的な問題に関するかぎり〝集団回心〟ということは有り得ないのです。

 〝風は思いのままに吹く〟(ヨハネ3・8)と申します。霊力はそれを受け入れてくれるところへ浸透していきます。パン種が絶え間なく働いているのです。各自が各自の成長と進化の段階に応じてその真理の意味するところを理解し、そしてそこから次の段階へと進むほかありません。

 大切なのは真理がその人の自我に居場所を見出すということです。前にも申した通り、霊的なつながりは、いったん出来あがったら二度と切れることはありません。それをこしらえることが、霊力が地上へ顕現していくためのチャンネル、つまり通路をこしらえることになるのです。

 自分が理解した限りの真理───あなた方はもとより私自身もまだそのすべてを理解したわけではありません───に照らして行動する以外に生きる道はありません。それ以上のこともそれ以下のことも求められることはありません。何度も申しておりますように、自分としてのベストを尽くすことです。

それ以上のことができるわけがありませんし、又それ以下のことをすべきではありません。

 あなた方が真理を広め、間違いと迷信と無知とを駆逐するために行う努力の一つ一つに、霊界からの祝福と援助があります。私たちがこうして地上世界へ戻ってきた目的もそこにあります。

 それにつけても情けなく思うのは、本来ならば霊的な問題について最も多く知っていなければならないはずの聖職者が、一番無知であることです。

現在の地上世界の既成宗教のすべてが委縮し、霊的啓示の根源からあまりに遠ざかりすぎて、それを最初に受け止めた霊覚者の教えと、その後継者たちによって歪められた教説との間の見分けがほとんどつけられなくなっている現実は、大いに反省すべきであると思います。

 私のような者がこうして地上へ戻ってきて、霊的な教訓、霊的な哲理、霊的な倫理を説き、宗教がその基盤とすべき真実の原理を述べるよう要請されることになったのも、地上の既成宗教がその本来の機能を失い、道を求めて訪れる人に真の導きを与えることができなくなってしまったことが大きな理由の一つなのです。

 そもそもそうした宗教の誕生の基盤となったのが霊力であったのに、選りによってその宗教が作り上げた建造物の中がいちばん霊力がお留守になっているというのは、何とも皮肉なことです。

しかも、その組織のリーダーたちは、他の面(社会奉仕等のこと。第三巻六章参照───訳者)では殊勝な心掛けの人たちかも知れませんが、肝心の霊力に対する受容力に欠け、それを見る目も聞く耳も語る口も持ち合わせなくなっております。

その無知ゆえに今の時代でも聖霊の働きかけがあることを認めようとしません。歴史に語られている大きな事象を起こしたのと同じ霊力が今日でも働きかけているのです。

 その点あなた方は光栄にもその強大な霊力の保管者であり頒布者でいらっしゃいます。為政者の無知と盲目ゆえに危機に陥り、今なおその危機から脱しきれずにいる地上世界のために大切な貢献をしていらっしゃいます。

 あなた方のように真理に目覚めた方は世界中に大勢いますが、そういう人のなすべきことは、自分が受けた影響力をさらに他の人々へ広げていくことです。それによってさらに大勢の人が自分とはいったい誰なのか、何者なのか、なぜこの地上に存在しているのかを知り、その目的を成就するには何をなすべきかを理解していくことでしょう。

 悲しいことですが今の地上世界には、まるで暗い土中に住むモグラのように、人生について、生きる力の始原について、その目的について何一つ理解せず、生命の持つ物的・精神的・霊的な喜びを味わうすべを知らない人が無数に存在します。


───(招待された科学者) 科学者としてのこれまでの人生は悩みの連続でした。その第一は神の概念で、スピリチュアリズムを知ってからは、あなたが 〝大霊〟 と呼んでおられるものを信じておりますが、それまではキリスト教の神の概念が受け入れられなくて私なりの概念を抱いておりました。

それは、神とは広い意味での大自然の法則と同一視できる存在であり、キリスト教で説かれているような個体性をもつ存在ではないということです。いかがでしょうか。


 まず、真実からほど遠いキリスト教の概念から始めてみましょう。ここですぐ問題となるのは、有限の言語では無限なるものは表現できないということです。ゴット、神、あるいは私のいう大霊は永遠の存在であり、初めもなく終わりもなく、無窮の過去から存在し、これからも永遠に存在し続けます。

霊ないし生命力も同じように永遠の存在であり、初めもなく終わりもありません。かくして神、生命、霊、こうしたものは常時存在しているもので、時間的にいつから発生したという性質のものではないということです。

 限りある存在であるあなた方人間には全体を把握するということは不可能ですから、宇宙の背後の壮大な力は、限られた形でしか想像できないことになります。

 今あなたは神を大自然の法則と同一視しているとおっしゃいました。しかし神は大自然の法則よりもっと大きい存在です。なぜなら、その法則を支配しているのが神だからです。神とはその自然法則と同時にそれが作動する仕組みをもこしらえた無限なる知性です。

 残念ながら地上の大部分の人間にとって、神はどうしても人間に似た存在とならざるを得ません。個的形態を具えていない存在というものが想像できないのです。しかし神は、あなた方が想像するような個的存在ではありません。あなた方が存在するような人物的存在ではありません。

 神とは非人間的存在でありながら同時に人間性のすべてを表現する存在です。これはあなた方には理解できないでしょう。神はすべての生命の中に宿っています。その生命が人間という形で個別性をもつことによって、神は森羅万象を支配する法則としてだけでなく、個性をもつ存在として顕現したことになります。

 ですから、神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を具えた実在そのもの、人間に想像しうるかぎりの神性の総合的統一体と考えて下さい。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性でもあり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。

 神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れては誰一人存在出来ません。神から切り離されるということがありえないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在を有するかぎりはすべてのものに宿っているのです。

 私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難のわざです。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。


───(もう一人のゲスト)神が完全な叡智と知性と愛を具えた普遍的な霊であり、全生命を支配し、しかも人間を自分に似せて創造したのであれば、なぜ人間は不完全なのでしょうか。

 それはミクロとマクロの問題です。人間は神の完全性の要素をミクロの状態で内臓しております。人間はそれを発現させ完成させなくてはならないのです。それは無限の時間を要する過程です。

 別に難しい問題ではありません。人間的精神と霊と身体とが完成された状態で創造されたわけではありません。が、内部に神性という完全性の火花が宿されております。その火花を大きな炎と燃え上がらせるために、人生を自然の摂理に順応させるのが人間の務めなのです。

 地上の人間が厄介なのは、自分で勝手な神を想像することです。人間的存在として想像する場合でも、女性ではなく男性として想像します。男性である方が女性であるより勝れているかに信じているわけです。

 神は人間を霊的にご自分に似せて創造されたのです。生命は霊であり霊は生命です。霊的に似せて創造された以上、あなたは永遠に神とつながっており、神性を共有しているのです。

ということは必然的に人間は霊的大家族の一員であることになります。同じ神性が宿っているからです。ですから人間は霊的に神に似ているのであり、姿が似ているというのではありません。

 地上世界を一気に変革することはできません。人々を変えるのも容易ではありません。が、自分を変えることは今すぐからでも始められます。いつどこにいても人のためを心掛けるのです。

力になってあげるのです。自分が教わったものを分けてあげるのです。もしもそれが受け入れられれば喜び、拒否されればその人の思う道を行かせてあげればよろしい。あなたが導いてあげるべき人が次々とあなたのもとに案内してこられるのです。

 神は、愛と知性をもってこしらえその霊力によって活力を与えている地上世界から分離して存在することはできません。


───神は地上世界の人間にはほとほと手を焼いておられることでしょう。

 それは今に始まった話ではありません。太古からずっとそうです。しかし、我慢の大切さを説いている私たちは、それをみずから実行しなければなりません。もしも皆さんに対する愛がなければ、わざわざこれほど暗い世界へ戻ってくるようなことはいたしません。

 同時に又、地上に救いの手を差し伸べるべき時期が到来したからこそでもあります。つまり私たちの援助を受け入れる準備ができた人がいるということです。ただ悲しいかな、魂が目を覚まし真の活動を開始するようになるまでには、霊的な絶望の淵を体験しなければならないことがよくあるものです。

 霊の光は、これからも媒体のあるところならどこでも照らし続けます。場所によってはほのかな明かり程度に過ぎないこともあります。が、神性を帯びたものであるからには完全に消えてしまうようなことは絶対にありません。

自然の摂理はあなた方の地球だけでなく、あるいは銀河系宇宙だけでなく、全大宇宙を支配し経綸しております。神はその無限の叡智をもって全大宇宙のすみずみまで配剤してくださっています。心配してはいけません。心配は何の役にも立ちません。そして、少しも事態を改善することにはなりません。


───イエスは何回も再生を繰り返しながら進化した一個の人間だったのでしょうか、それとも地球の創造以前から存在していたのでしょうか。

 私に言えることは、イエスを通して発現した霊力は、今日の地上のすべての人間を通して発現している霊力と本質的においてまったく同じものだということだけです。程度の差、霊的進化の違いはあっても、霊の本質において何の違いもありません。

霊はすべて同じです。それが永い年月に多くの個的存在を通してさまざまな形で再生を繰り返すことは有りうることです。


───祈りの効用について説明してください。

 知識の領域を少しでも広めようとする努力、病める人を一人でも多く治してあげたいと思う心、死別の悲しみに暮れる人をもっと慰めてあげたいと思う気持ち、人生に疲れた人があなたという灯台を見つけられるように一層の輝きを増したいという願い───いずれも私たちがたずさわっている仕事なのですが───こうした真摯な祈りが何の反応もなく見過ごされることは絶対にありません。

 あなたは一人ぼっちではないのです。大軍の一員なのです。われわれの背後、見えざる次元には、多分あなたには想像もできないほど進化した霊の大集団が控えているのです。あなたも、私も、そして私達と志を同じくする者は、いつでもその援助を授かることができるのです。

 唯一の制約条件は、それを受け入れ吸収する能力です。霊的資質を培うほど、それだけ多くの美しさと輝きと壮大さと高潔さと光沢を身につけることになります。それが魂を刺戟して、地上への誕生とともに賜わった遺産である内部の神性をますます発現したいと願う気持ちにさせるのです。

 うなだれてはいけません。教会や礼拝堂や寺院よりも、あなたの方がはるかに大きな仕事ができるのです。皆さんは霊力を発揮することができます。そういう建造物にはそれができません。逆に霊の出口を閉じ、外へ出られなくしている不毛の神学の方を後生大事にしております。


───(サークルのメンバー)祈りの対象は自然の摂理であるべきでしょうか。

 いえ、対象は内にも外にも存在する大霊であるべきです。その大いなる霊力とのより緊密な関係を築くべく、先ほど述べたような真摯な願望と精神統一を通して努力すべきです。より多くの啓示、より多くの知識、より多くの叡智、より深い理解を求めての祈りであるべきです。

そうした祈りは必ずや聞き届けられます。なぜなら、それを祈願するというその事実が、内部の神性の発現を促しているからです。

───あることで霊界からの働きかけがあったことを確信することがあるのですが、こちらから別に祈ったわけではありません。どうやってわれわれの必要性に気づいてくれるのでしょうか。

 真摯な祈りは必ずその標的を見出します。皆さんが心から祈る時───〝祈る〟 のであって何かを〝欲しがる〟 のではありません───その祈りの念は必ず聞き届けられます。霊視能力をお持ちの方であれば、皆さんの周囲に何らかの絆、親近感、及び特殊な分野での共通の奉仕的精神をもつ霊がいつも待機しているのが分かります。祈りの念がその霊をいっそう身近なものにするのです。

 磁気力にも似た吸引力の法則が働くのです。祈ることによって霊がそれに応えて働きかける懸け橋ができあがるのです。私がいつも取り越し苦労はお止めなさいと申し上げるのはそのためです。心配の念はその人の周囲の物的ならびに霊的雰囲気を乱し、私たちによる援助が届けにくくなるのです。


───霊の方では人間が神のお助けを祈るまで待つのでしょうか。それとも祈る祈らないに関係なく、放っておくべき時は放っておき、援助すべき時は援助するのでしょうか。

 大自然の摂理の働きは完ぺきですから、その機構の中にあって誰一人、何一つ忘れ去られることは有りえないのです。すべての存在を包摂するように完全な摂理が行きわたっているのです。何一つ、誰一人その外にはみ出ているものはありません。

あなたが神に見落とされるということは有りえないのです。どこにいても神の管理下にあり、すべてを包摂する自然の摂理の活動範囲の中にあります。

 ということは、あなたに必要なものはすべて知れているということです。祈ることによって受ける援助は、その時点までに到達した精神的ならびに霊的発達段階に応じたものとなります。

 ただ祈り方についてこちらから注文させていただくとすれば、黙禱よりも声に出した方が、その人が本当に目指しているものは何かが明確になるという利点があります。


───祈るどころではなくて絶望のドン底に沈んでいるような人はどうなるのでしょうか。神なんかいるものかと思っている場合は援助は届けられないのでしょうか。

 人間が神なんかいるものかと思ったからとて、別にどうということはありません。それが神を困らせることはありません。


───そういう人にも救いの手は差しのべられるのでしょうか。いろいろな事情から祈ることができない人、あるいは神が信じられない人がいるとします。そしてその人が今苦しい境遇にあり、救いの手を必要としています。こういう場合はどうなりますか。

 援助を受ける能力は神の存在を信じる信じないには関係ありません。その段階での精神的ならびに霊的発達程度によります。それが受け入れるものの中味を決定します。それが最もふさわしいということです。それも原因と結果の関係であり、自然のきまりです。


───聖書には多くの真理が語られているのでしょうか。

 神の真理と人間の作り話の混ぜ物です。


───宗教心をもった人に死後の生命の話を持ち出すと、すぐに聖書から〝死者と語ってはならない〟という文章を引用します。このことをどう思われますか。

 二つの要素が重なっております。聖書は永い間に随分いじくりまわされてきました。誤訳があり、脱落があり、それに元来がコピーのコピーのその又コピーであるということです。誰一人として、原典を持ち出して 〝これが聖書の始まりです〟 と言える人はいません。(第五巻一八四頁参照)

 聖書の中には〝この言葉は本物です〟 といえるものは一つもありません。聖書に述べられていることが神の許可を得たものであるという証拠はどこにもないのです。

身の毛もよだつような話があります。特に旧約聖書がそうです。ペテン、極悪非道、殺人、暴力等、誰が考えてもおよそ神の啓示とは思えない話がたくさんあります。

 旧約聖書がもし本当のことを述べているとすると、神(ゴット)、私のいう大霊は、地上の悪の権化のような暴君でもしそうにない振舞いをすることがあることになります。ですから、聖書に述べられているからといって、それだけで正しいということにはならないのです。

もしも正しいと主張するなら、一点の疑問の余地もないまでそれを証明しないといけません。

 聖書を絶対とする信仰家に申し上げたいのは、もしも本当に死者と語ってはならないというのであれば、ではなぜイエスと三人の弟子が山頂で行った交霊の場に、モーゼとエリヤが出現して語りかけたかということです。モーゼとエリヤはとっくの昔に死んでいるのです。

そのうちのモーゼが 〝死者と語るべからず〟 と述べたというのですが、そのモーゼ自身が死者であり、それが地上に戻ってきて語っているではありませんか。これは信仰厚き方には困ったことであるに相違ありません。


───(質問者が変わる)妻と私の間に子供ができた場合、宗教問題についてその子にどう教えたらよろしいでしょうか。特に私の場合はキリスト教信仰に全面的には納得していませんし、スピリチュアリズムの真実性を理解しております。

 思っていらっしゃるほど難しい問題ではありません。親としてのあなたの責任は、その子が自然な成長をとげるようにしてあげることです。幼少期は精神が柔軟なために、教え込まれたものは思慮分別なしに吸収してしまいます。そういう時期に間違ったことを教えないように、正しい宗教的知識の中で個性を発揮させることが大切です。

 ご承知のように、幼少期に受け入れたものは潜在意識の中に固着し蓄積して、その後の真理の受け入れの障害となります。私たちが人間に真理を教え込もうとする際に一ばん困るのは、幼少期に受けた間違った教育が無意識のうちに抵抗させる働きをすることです。すっかり根づいてしまっているために、それを排除するのに大変な時間が掛かります。

 また時折あるのが一種のカタルシス的反応です。つまり、成人してから、それまでに蓄積したものを良いものも悪いものも一切投げ棄てて、世の中の全てのものへの反抗することに快感を覚えるようになります。

 親としてのあなたの責任は、子供の心に間違った教えを植え付けないようにすることです。どうか子供にはすべての宗教の基本となっている真理、共通した真理を教え、大きくなって神学的教義を教えられても魅力を感じず、単純・素朴な真理を求めるようになる、そういう素地をこしらえてあげて下さい。


───すでに何らかの宗教を教え込まれて育っている人がいます。その教えがもし新しいものの理解を妨げている時は、それをぶち壊すべきでしょうか。

 それは難しいでしょう。不幸なことに、そういう人はすでに子供時代にいわゆる洗脳をされています。これこそ宗教的であると信じられている概念を───実はそうではなく、ただの神学上の概念にすぎないのですが───疑うことを知らない、従って全く無抵抗の柔軟な精神に植えつけられております。

その柔軟な精神が、成人していくにつれて固くなっていきます。やがてその概念はただの概念として所有されている状態から、逆にその人間をがんじがらめに縛り付けるようになります。

 だから厄介なのです。といって、その人が後生大事にしているものをいきなりぶち壊すようなことはしてはなりません。それ以外にもいろんな宗教的概念があることを教えてあげることです。

宗教の起源について読むべき本が沢山あります。キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、仏教徒も、あるいはイスラム教徒も、生まれる国が違っていたら別の宗教の信徒になっていた可能性があることを教えてあげることです。

 地上には数えきれないほどの宗教があります。しかし神は一つ、大霊は一つなのです。その神はクリスチャンでもなければユダヤ教徒でもありません。スピリチュアリストでもありません。

 真の意味で宗教的であるということは、同胞に対してだけでなく動物に対しても思いやりの心を持つことです。他の存在を思いやる心が無いようでは霊性を欠くことになります。

 霊能者や心霊治療家が人生の辛酸をなめさせられることが多いその理由の一つは、自ら苦しんで初めて他人への思いやりの心が芽生えるからです。神の道具としての道が常に酷しく、ラクをさせてもらえないのは、そこに理由があります。


───政治をあずかる人も同じですね。

 でも神の道具の方が酷しいでしょう。為政者というのは、たとえば他国へ戦争を仕掛けておいて、実際に前線で戦うのは一等兵、二等兵ばかりです。物質偏重思想との戦いにおいても、その最前線で酷しい目にあっているのは為政者ではなくて神の道具なのです。

 他人へは哀れみをもって接し、信仰が間違っているからといってそれをぶち壊すのではなく、ほかにもいろいろな信仰があることを教えてあげることです。ハンマーを振り回すのではなく、ほかにも素晴らしい教えがあることをそれとなく気付かせる手段を考えて下さい。

 魂に受け入れる用意ができていれば、それが効を奏するでしょう。用意ができていなければ、残念ながらその人は霊的にも精神的にも地上では暗闇の中を歩む運命であり、霊界へ来てからも当分は同じ状態が続くことになります。


───世界の宗教を統一しようとする運動をどう思われますか。

 そうやってまた混乱に混乱を重ねていくのです。一体それがそんなに大事なことなのでしょうか。当事者は自分たちのことを大そう重要な人物であると考えているのかも知れませんが、霊の力も光も発揮されないただの建造物では、イエスの言った通り、それは〝白塗りの墓〟でしかありません。

 私は、儀式や教義が違うからというだけで共通の場が持てずにいる人たちのことは、あまり構う必要はないと思います。霊は常に一体化の方向へ働きます。仲違いをさせているのは人間の勝手な思想です。霊は、チャンスさえ与えられれば、その統合的意志を働かせるものです。

 本来ならば一つの大きな流れであるべきはずのそうした宗教を誕生させた、そもそもの起源が霊力であったことは歴史的事実です。が、それが何世紀も前から支流に分かれてしまいました。もう、そのまま好きな方向へ進むに任せておけばよろしい。

 私たちは霊力そのものに全幅の信頼を置き、それを唯一の拠り所としております。それが善意の人々を鼓舞し、授かっている才能を駆使して同胞の為に役立たせるように導きます。又、人類に自己革新の道を教えることによって、各自が自分のみならず地上世界そのものを救っていくことになるでしょう。

 霊力は建造物を通して流れるのではありません。一般の大衆が、無限の叡智を具えた神から授かった才能を発揮することによって流入するのです。真の魂の自由をもたらし、本当の生き方を教えてくれるのは、その才能の活用以外にはありません。


──(質問者代わる)あなたのおっしゃる 〝宗教的寛容〟 とはどういうものでしょうか。と申しますのは、私は 〝シルバーバーチの訓え〟 といっても基本的には他の宗教で説かれているものと同じだと信じます。が、それすら独断的で非寛容的であると見なされる可能性があるのではないかと思うのです。たとえば宇宙は自然法則によって支配されていて、それは完全であり、不可変である、といったことです。


 私はそれまで一度たりとも不可謬性(絶対に間違ったことを言わないこと)を主張したことはございません。私もあなた方と同じく一個の人間的存在です。ただ、あなた方の理性に訴えるべき真理を説いているだけです。私はこうだと申し上げても、その裏にはそれを拒否したら罰が当たりますという含みはみじんもありません。

 これが私が真理だと信じているものです。ということしか言えません。それを皆さんに検討していただくために提供しているだけです。仮にそれを押し付けて何が何でも受け入れさせようとしても、私たちにはその手立てがないのです。

 いかなる霊媒であろうと、その霊媒を通して語られたことにあなたの理性が反感を覚えたら、それには構わぬがよろしい。神はあなた方に理性と良識というものを与えておられます。それを使用すべきです。ドグマというのは理性的判断なしに受け入れるべきもののことです。

 私は、霊的な教えは知性でもって厳しく是非を判断すべきであると申し上げております。その厳しい詮索に耐えられるものは受け入れられるがよろしい。耐えられなければ拒否なさるがよろしい。それ以外に何か良い方法があるでしょうか。ご利益でしょうか、それとも罰でしょうか。

 それはいけません。私たちは愛と良識によって共通の場で交われることを確認することによって、皆さんの協力を得なければなりません。


                 ※           ※

 同じ問題について別の交霊会で───

 皆さんとともにたずさわっている仕事の大変な重大性を見過ごさないようにしてください。永年にわたって幾億と知れぬ人々の心を束縛と隷属の状態に置いてきた迷信を駆逐しなければなりません。

人間は本来ならば肉体と精神と霊の調和がもたらす、のびのびとした喜びの中で生活すべきなのです。霊的真理を知ることによって本当に自分とは誰なのか、何なのか、いずこへ向かいつつあるのかを理解し、心の豊かさを味わうことができるはずなのです。それが、その迷信のためにほとんど不可能な状態になっているのです。

 その仕事は、当然、皆さんに辛酸をなめさせることになります。しかし困難はクスリなのです。私たち霊団の者も、こうして地上との接触が得られるようになるまでには大変な苦労がありました。

 世界各地でそうした努力が為され、そして成功しております。今では世界中に霊の光が灯されております。霊力が届けられていない国はもはや一国もありません。

霊力の道具は往々にして隠密裏に仕事をしなければならないことがあります。が、仕事は着実に運ばれてまいります。その真実性に否定の余地がないからです。

 そういう次第で、困難というのは霊の真の資質、神から授かった才能を発揮させるための挑戦として歓迎なさることです。皆さんの内部には地上最大の力が潜在的に宿っているのです。

いかなるハンディキャップも、いかなる障害も、いかなる困難も、その潜在力で克服できないものはありません。

もしもそれまでに開発したものでは敵わないほどのものであれば、祈ることによって、さらに強力な援助を要請することができます。

             ※           ※

 宗教の教義の問題が取りあげられ、それがただの人間的産物であり人間性の霊的向上にとって何の益もないのに、そのツケは結局霊界へ回されてくる事実を指摘して───

 地上の大半の人間が生命とは目に見え手に触れるものにあると考えております。その当然の結果として、人生には深い目的などはないと信じています。

 それに加えて不幸なことに、肝心の霊的・精神的指導者たるべき人たちが、これ又、霊的実在について無知なのです。その証しを見たことも聞いたこともなく、したがって人に説くこともできないのです。今日では宗教とは教義のことであると思われており、それが後生大事にされているために、肝心の霊力の働く余地がないのです。

 教義というのは人間の考えによって作りあげられたものです。霊力は大霊から発せられますから、神性を帯びております。ですから本来は霊力による啓示の方が教義に優先されるべきなのです。

 現代の地上世界には義務教育を行う国が沢山あります。子供たちは一つの目的つまり学校を出たあとの社会生活に適応できるような教育を実施するためのカリキュラムの中で学習するために学校へ通います。

それを首尾よく学んだ子は、大人になって必ず直面する問題を、ある程度の理解をもって迎えることができます。きちんと学ばなかった子は卒業後の人生に備えができていません。

 あなたの地上生活は霊の幼稚園のようなものと思えばよろしい、真の自我である霊が私たちの世界つまり霊界での生活に備えるために、この地上で学習をするのです。

 しかし現実には、あまりに多くの人間が何の備えもなくやってまいります。そのため、こちらで改めて教育しなければなりません。地上でも、学校へ行かなかった大人に基本から教え直すのは難しいものですが、こちらへ来た人間に基本的な霊的教育をするのは、それよりはるかに困難となります。

 死後にも生活があり、そこでは地上生活の言動の一つ一つについて責任を問われるということを知れば、それからの人生観は一変するに違いありません。いえ、一変すべきなのです。

 聖書には〝大地とそこに満つるものは主のものなり〟(コリント①10・26)という言葉があります。一度手にしたら、霊的知識はいくら人にあげても減ることはありませんが、地上の富は、人にあげればそれだけ減ります。そこに霊的財産と物的財産の違いがあります。

 物的財産はいくら貯めても、それを永久に所持することはできません。地上に生きている間だけの管理人であり預かり人であるに過ぎません。失うことがあります。盗まれることがあります。価値が下がることがあります。色褪せてきます。美しさを失います。いずれにしても、何時までも自分のものではあり得ないのです。

 それに引き換え霊的財産は、いったん手にしたら永遠に失うことはありません。

             ※   ※

  〝真理〟は必ずしもすべての人に受け入れられるものではないことを説いて───

 真理は魂の方にそれを受け入れる用意ができるまでは真理として受け入れられることができません。これは真理のあらゆる側面について言えることです。真理とは無限性をもつものですから、その全体を理解するには永遠の時を要します。それがまた無限の過程なのです。

 受け入れる用意のできていない人に真理を押しつけることはできません。そこには必ず混乱・論争・討論・議論といったものが生じます。が、それにもそれなりの意義があります。

その混乱の中から、受け入れる用意のある人にとっての真理が出てきます。その用意というのは霊的進化の程度、発達段階によって決まります。それは各自が自分で決めていくというのが宿命です。

 もしも私がある人たちにとっての真理を説き、それを聞いてあなたが 〝私には信じられません〟 と正直におっしゃっても、私は少しも不愉快には思いません。あなたへの愛の気持ちはそれによっていささかも減りません。

なぜなら、あなたはこの地上においてあなたなりの理性、あなたなりの良識を使い、納得しないものは拒絶することで自己開発するようになっているという理解が私にあるからです。

 その最終的な裁定者として私が敬意を表しているところの理性によってあなたの賛同を得ることができなければ、それは私が役に立たなかったことを意味します。


───私もこうした霊的真理を説きたいと思いながら、今、同じ問題に逢着しているように思います。難しさを痛感しております。教会で説くにしてもサークルで説くにしても、これが真理なのだ、これ以外にはないのだと信じて話します。その際、これが自分の信じていることであると述べて、後は(押しつけがましいことは)何も言わない方がよろしいのでしょうか。

 そうです。後は各自の判断に任せることです。


───拒絶されても構わずにおくということですね。

 真理というものは拒絶されたからといって少しも損なわれるものではありません。そういう人は受け入れる用意ができていないのです。ですから、待ってあげるのです。そして霊性の火花を煽ってみる程度に留めるのです。それ以上のことはできないのです。それで何の反応もなければ、その人のことを気の毒に思ってあげないといけません。


───スピリチュアリズムの組織には事務的なことや物的な問題が多すぎるのはなぜでしょうか。その種のことは(霊的知識のない)事務員を雇うことで処理できることなのですが、肝心の霊的指導者はどうやって探せばよいのでしょうか。霊的な飢餓というものもあることを痛感しております。

 聖書の言葉をご存知ですか。よくご存知のはずの言葉を引用してみましょう。〝まず神の国とその義を求めよ。しからば他のものもすべて添えて与えられん〟(マタイ6・33)これはどういう意味だと思われますか。


───まず第一に霊的なものを求めなければいけないことだと思います。たぶん私たちは方向を間違えているのだと思います。

 霊が王様で物質は従者です。霊は物質に先んじるものです。霊的に正しければ物的な面もおのずと整います。要はどちらを優先させるかの問題です。お金が不足したからといって大義が台無しになることはありません。霊性が発揮されるにはまずお金がなくてはいけない、という発想から金儲けを優先させても、事はそうは運びません。

 私たちは物的エネルギーを操りながら皆さんのもとへやってまいります。私たちのバイブレーションは速くてデリケートなので、この遅鈍で緩慢なエネルギーを操る要領を会得しなければなりません。このサークルの方なら、必要とあらば私たちが物質を操ることができることをご存知です。

(訳者注──シルバーバーチの交霊会でも初期の頃は〝霊の威力〟を見せるために物理的心霊現象を演出していた。とくにテーブルを動かす程度のことは末期に至るまでひんぱんに行っていた。)

 もう一つ聖書の言葉を引用しましょう。〝大地とそこに満つるものは主のものなり〟───物的なものは一つとしてあなたのものではないということです。本当の意味で自分のものとすることはできないのです。

たとえ手に入れてもあなたのものではありません。あなたは地上生活中はただの財産管理人に過ぎません。すべては大霊のものなのです。

 心から人のためという気持ちになれば、必要なものはそのうち必ず揃うものです。霊的なものを優先した仕事をする人は必ず私たちが援助の手を差し伸べていることを知ってくださるはずです。

自然の摂理として、誰一人見落とされるようなことも忘れ去られることもないようになっているのです。その神の力を信じて、その意志が働く通路を神に提供してあげて下さい。


───随分簡単なことのようにおっしゃいますが・・・・・・

 事実、簡単なのです。地上にはややこしく考えるのがお上手で、分かったような分からないような結論を出されるご仁が多すぎます。そこで、幼な子のごとき素直さで持って問題の核心に一直線に突き進む態度が要請されることになるのです。〝幼な子のごとくあらずんば・・・・〟(マタイ18・3)というわけです。

 私たち霊界の者は人のために役立つことをしている人の努力を無駄に終わらせたことは一度もありません。必要なものは必ず手に入ります。それは私たちがこれまでに数知れず試されてきていることです。霊的なものも物的な物も、必要なものは必ず手に入れてさしあげます。

あなた方はあなた方の役割を果たしておればよろしい。私たちは私たちの役割を果たします。

(訳者注───ここでいう〝私たち霊界の者〟とは各自の背後霊のことと考えればよい。つまり守護霊を中心として、同じ霊系や地上的縁でつながった霊の集まりがあって、その霊たちが本人の地上での天命を全うさせるために、いろいろと世話を焼いてくれている。

そのことだけを考えると万事がうまく行ってもよさそうに思えるが、地上界と霊界との関係には二つの絶対条件があり、それが事を厄介にしている。一つは自由意志の要素であり、もう一つは波長の原理である。

 守護霊といえども本人がどうしてもやりたいと思うことを止めさせることはできないし、やりたくないと思うことを無理やりやらせることもできない。守護霊も摂理を無視したことは許されないのである。

 もう一つのは波長の原理というのは、先ほどのシルバーバーチの〝心から人のためにという気持ちになれば必要なものはそのうち必ず揃うものです〟という言葉に暗示されている。そこには〝正しい心掛け〟というものが要請されているわけである。それが波長を整える作用をするのである。

シルバーバーチが〝心配の念を抱いてはいけません〟と口を酸っぱくして言っているのも同じ原理を言っている。

 そのこととは別に、シルバーバーチが言及していないことで私から注意を促しておきたいことがある。それは、金銭上の問題は高級霊ほどニガ手なので、守護霊は直接には関与せずに配下の霊、それもどちらかというと地上臭の抜け切っていない霊に任せるということで、その意味でもわれわれは霊のことを高級・低級のみで安直に区別してはならない。それぞれに得手不得手があり、それぞれに〝役に立つこと〟をしているのであるから。

 もとよりこうしたことは原則として守護霊の管理下で行われていることであるから、その通りに行っていれば問題はないが、本人の方が欲の皮が突っ張り見栄や慢心が出はじめたら、波長の原理でもはや守護霊の管理下から離れ、同じ波長をもつ低級霊、それも邪心をもった悪霊に操られることになる。

 必要以上の金が儲かったり、思わぬ大金が転がり込んだり、預金が面白いほど増え始めたら危険と思わねばならない。それは言わば欲望の肥満体になることであり、魂は活力を失い、霊的病いが出始める。悪霊の思うツボにはまったのである。

 シルバーバーチが〝人のために役立つ〟という心掛けを説く裏にはそういう意味合いも含まれていると理解されたい)


───たしかに私はあなたから大きな援助と叡智のお言葉をいただいて感謝いたしております。

 あなたには霊視能力があります。願わくはその能力がもう少し広がって、神の計画の推進に当たっている神庁の組織、高級神霊の働きの一端をかい間見ることがお出来になればよろしいのですが・・・そうすれば一瞬たりともうろたえたり、ひとかけらの心配の念を宿すことがなくなるはずです。

それを私はこの目で見ているのです。そして、これまでの実際の成果を逐一知っているのです。

 私はここで満身の力を込めて断言いたします。真理普及という大義に身を捧げておられる皆さん方は、宇宙最大の力、生命力そのものの援助にあずかることができるのです。それはもはや義務ともいうべきものと心得るべきです。

 すなわち、それを賢明に、有意義に使うのです。あなたの生活の範囲内で触れ合う人たちの全てに導きの手を差しのべるのです。もしもその手が拒絶されれば、それはそれでよろしい。その人の思う道を進ませてあげればよろしい。

その辺の判断はあなた方自身の叡智の光と良識に照らしてなさるがよろしい。動機がすべてを決します。動機が正しければ、いかなる事態が生じようと最後は必ず勝利します。

 人生には二つの大切な要素があります。一つは知識であり、もう一つは信仰(信念)です。知識の裏付けのない信仰は〝折れた葦〟(マタイ12・20その他)のようなもので、いざという時に頼りになりません。が、知識に信仰を上のせする───これが最高の組み合わせです。
 
 あなたは人生とその意義についての理解をもたらしてくれた知識はすでにお持ちです。が、それとて、これから先あなたが入手していくべき知識に比べれば、ほんのひとかけらに過ぎません。そこでその不足を補うための信仰というものが必要となります。

 しかしそれも、あくまで事実に即した知識を根拠とした信仰です。軽々しい信仰、理不尽な信仰、知性を侮辱する様な信仰ではなく、事実を根拠とした信仰、つまり、かくかくしかじかの事実がある以上はそう信じてもよいはずだという論拠をもった信仰です。それはあなたにとって大切なものです。

 本日お集まりの方の中には、このことを耳にタコが出来るほど聞いておられる方がいらっしゃいます。さぞかしうんざりされることでしょうが、でもやはり真実です。平凡な真理は、たとえ何度繰り返しても真理です。くり返すことによって真実性が減じることはありません。

 私から申し上げたいのは、皆さんは有限の世界で生活する有限の存在だということです。無限の知識から手にすることのできる分量は、皆さんが霊的・精神的に到達した発達段階によって制限されます。

これまでに受け入れられた知識はしっかりと吟味したうえで真実であると確信されたものです。その知識の上に、まだ掲示されずにいるものに対する信仰心(信念)を築くのです。それは理不尽なものではありません。立証可能な事実を土台としています。

 地上の人間の態度をみていてどうも理屈に合わないと思うことの一つは、物的な惰眠から目覚めるまでにはさんざん時間が掛かっているのに、いったん目覚めると、今度は急にせっかちになることです。どんどん事が運ぶことを期待するのですが、そうはまいりません。

霊的な進歩は着実でないといけません。近道というものはないのです。一歩一歩をしっかりと足固めしながら進まないといけません。一歩進むごとに次に進むべき方角が開けます。

 これまでに啓示していただいたものを基盤にして,ひとまずそれに甘んじるのです。そしてもしも疑問が生じたら───きっと生じるものです、あるいはもしも疑念が湧いたら───必ず湧くものです、

そしてもしも困難が厄介な頭をもたげはじめたら、慌てず我慢するのです。霊の力は物質に勝ることを忘れないことです。霊界から働きかけやすい条件さえ提供してくれれば、いかなる障害も、いかなる困難も、いかなるハンディキャップも、霊の力で克服できないものはありません。

 そもそも教会というものが存在するようになったのは、霊力がさまざまな形で顕現したからです。奇跡と思われた現象も、霊力によって演出されていたのです。が、今日の教会にはそれが見られません。かつて〝聖地〟と呼ばれたところも、今は霊的砂漠となり、オアシス一つ見当たらない不毛の土地となっております。

 しかし神の摂理は少しも変わっておりません。そこが 〝聖い処〟 とされたのは霊力が崇高な形で顕現したことによって神聖視されたからです。それと同じ霊力が今あなたを通して顕現し、大きな恩恵をもたらしつつあるのです。

 私はそれぞれの宗教界において真面目に勤しんでいる人たちを非難しようとは思いません。が、その人たちは、苦しんでいる世の中の人のために役立つことは何もしておりません。教義は無味乾燥です。ドグマは不毛です。視野は旧態依然としており、新しい流れがどんどん通り過ぎていきつつあることに気づきません。

 われわれは地上の多くの場所で悪性のガンを生み出している貪欲、強欲、私利私欲が一掃された新しい世界の到来を告げる使者なのです。

あらゆる宗教的行為の中の最高の行為として〝人のために自分を役立てること〟 を掲げ、互いに扶助し合い、寛容(ユル)し合い、人間と動物の区別なしにすべてに哀れみの心をもつべきであると説きます。本当にその気になれば地上天国は叶えられるのです。

 それが今私達が皆さんに協力のもとにたずさわっている仕事です。俗世の悩みに襲われ、暗闇に閉ざされて気が滅入り、疲れ果てあるいは塞ぎ込みそうになった時は、霊的知識を手にした皆さんは、このまま野放しにしたら地上を破滅状態に陥れかねない物質第一主義の風潮に挑む、戦いの中の戦いに選ばれた霊の大軍の一員であることを思い出して、奮い立たないといけません。

 いつまでも絶望感に浸っていてはいけません。私たちは決して見殺しにはしません。援助を届ける通路さえあれば、奇特な心掛けを無為に終わせることは致しません。必要とあらば、いかなる援助でも致します。このインフレの時代にも皆さんに不足の思いをさせないように配慮しております。

 われわれは大事な仕事に携わっているのです。すでに何度も申し上げていることですが、大義に身を捧げることは気高いことであることを今こそ肝に銘ずべきです。人間の気高さは人の為に役立つことをすることから生まれるのです。

 地上の人間は自己改善によってみずからを救済するようにならないといけません。また地上生活ならではの恩恵のすべてが味わえるようになるのは、協調と互助という霊的原理を実行するしかないことを理解しなければなりません。物的恩恵だけのことを言っているのではありません。精神的ならびに霊的恩恵も味わえます。

 人間は精神的にも身体的にも霊的にも自由であらねばなりません。私たちはいかなる形であっても〝隷属〟というものを許しません。人間はみずからの束縛状態をみずからの力で解かないといけません。

そのためには先ず自分を生かしめている力が地上世界の他のすべての存在、生きとし生けるものすべてを生かしめている霊力と同じであることを、しっかりと認識しないといけません。霊力がそれらすべてを取り巻き、すべてを一体とさせ、その存在の究極の責任者である宇宙の大霊すなわち神の前において一つにしているのです。

 私たちが生命の実在について霊的な実感をもたらしてあげるために行っている仕事の背景には、そうした事実があるのです。その目的はそうたやすくは達成されません。

なぜなら、こうした教訓は困難・危機・病気・死別等を体験して初めて学べるものだからです。絶望の底に叩き落とすような苦悩でありながら、実は真実の自我を見出すための手段なのです。

 ですから、皆さんには是非ともやっていただかねばならない役目があります。が、それにはたっぷりと時間を掛けないといけません。われわれの背後には宇宙最大の力、大霊の霊力が控えております。後退させられることはあります。潮は満ちるだけではありません。

必ず引きます。それと同じです。が、霊力の働きが止まってしまうことはありません。常に働きかけております。

 生命のあるものには霊があります。停滞と不活発はわれわれの敵です。なぜなら、そういう条件下では霊力は流入しないからです。あなた方は私たちに通路を提供し、その通路を通って霊力が流入するのです。私たちが欲しいのは献身的な協力者です。操り人形ではなく、私たちが協力するように私たちに協力してくれる、自発的参加者です。

 奉仕は霊の通貨です。宗教とは自分を役立てる行為であり、またそうであるべきです。そうでなかったら宗教は何の意義もありません。


 ───(若い女性のゲスト)あなたのおっしゃる通り私たちは生命を唯一の生命力すなわち神から受けていますから、みんなして愛と奉仕を目的とすれば、すべてがうまく収まると思うのです。そこでお聞きするのですが、平均的な一般人もこうした深い霊的な教えを理解する必要があると思われますか。

一般の人には私たちが同じ神から生命力を受けているという一つの事実を理解させ、それを生活の基盤として、さらに大霊についてより多く知るように持って行けば、スピリチュアリズムだのキリスト教だのという形で理解するよりも、非常に多くの人が理解できるのではないかと思うのです。

 おっしゃることは本質的には結構な事ですし、異議を唱える人は誰一人いないでしょう。ですが、人間は一人ひとり成長と開発と発達と進化の程度が異なるものです。ある人にとってすぐに受け入れられることが、別の人からは拒絶されることもあります。もしも全員が画一的なレベルにあるのであれば画一的なメッセージで済むでしょうけど・・・・・・

 たとえば、ある人に大霊とは愛と叡智の極致であると説いて、それがすんなりと受け入れられても、神の存在を頭から信じない人は即座に否定するでしょう。ですから、メッセージを与える場合は、内容をその人の受容力に応じたものにしないといけません。

 あなたが説くことの単純な素朴さがアピールする人もいるでしょうし、しない人もいるでしょう。人によっては世の中の不公平、さまざまな矛盾、一見無実と思える人の受難、利己的な人間がうまく罰を免れている現実を指摘して、それは一体どうなるのだと言うかもしれません。そこであなたは、延々と骨の折れる議論に巻き込まれてしまいます。

 そういうタイプの人には霊的実在の動かし難い証拠、たとえば〝不治〟の宣告を受けた病気が治った人の例を持ち出すにかぎります。そうすれば常識的な言葉では説明できなくても、実際に慈悲または愛の働きを見せた非物質的エネルギーの存在だけは認めざるを得ないでしょう。

 もう一つ大切なことがあります。知識と叡智と真理は無限に存在しますから、人間が手にすることのできる分量にも限界はないということです。

うわべだけを見るかぎりでは普遍的な愛のテーマは単純に思えるかも知れませんが、その内側はとても複雑です。その複雑な裏側の理解の必要性を痛感するようになるのは、それだけの理解力が具わってからのことです。


───言い替えれば、あらゆる学派や宗派はそれなりの存在価値があるということですね。それぞれが、ある一定水準(レベル)に達した者に何かを与えるようになっている───他の者には満足できない宗教でもその人には満足できるということなのでしょう。

 無限なる霊は無限の表現形態を取ります。生命全体が段階的になっているのです。あなたは休みなく進化しつつあります。一段上がるごとに、その上にもう一段あることを知ります。山頂を一つ克服してみたら、その向こうにもっと高い山頂が見えてくる、と言ってもよいでしょう。

 人類は異なる成長段階にある者で構成されています。したがって、すべての者にアピールする一つの教えというものは提供できないのです。相手がどの程度のものを受け入れる用意ができているかを見きわめる必要があります。あなたの説く思想がそれである人もいるでしょう。

別の論拠を持ち出してそれを論ぱくする人がいるかもしれません。そういう人には五感に訴えるもの───何か常識を超えたもので、根源は霊的でも顕現の仕方が物質的なものを持ち出さないといけません(奇跡的な病気治療などー訳者)

 しかし、いかなる能力を駆使するにせよ、要はその人に成長の機会を与えることになれば、それが一ばん大切なことです。

Monday, June 22, 2026

ベールの彼方の生活(一) G・V・オーエン著


『霊界通信 ベールの彼方の生活』の第1巻は、英国の牧師G・V・オーエンを通じて伝えられたスピリチュアリズムの代表的古典です。死後の世界(天界の低地)の具体的な様子を詳細に描写しており、現代でも高い評価を受けている著作です。



推薦の言葉    ノースクリッフ卿

 私はまだオーエン師の霊界通信の全篇を読む機会を得ていないが、これまで目を通した部分だけでも実に美しい章節を各所に発見している。

 こうした驚異的な資料は霊媒自身の人格が浅からぬ重要性を有ち、それとの関連性において考察さるべきであるように思われる。

私はオーエン師とは短時間の会見しか持っていないが、その時に得た印象は、誠実さと確信に満ちた人物を前にしているということであった。ご自分に霊能があるというような言葉はついぞ師の口からは聞かれなかった。

出来るだけ名前は知られたくないとの気持ちを披瀝され、これによる収益の受取りを一切辞退しておられる。これだけ世界中から関心を寄せられた霊界通信なら大変な印税が容易に得られたであろうと思われるのだが。

(ノースクリッフ卿 Lord Northcliffe―本名 ウィリアム・ハームズワース Alfred Charles William Harmsworth。アイルランド生まれの英国の新聞経営者で、有名なDaily Mail デイリーメールの創刊者。

死後〝フリート街の法王〟と呼ばれたハンネン・スワッハー Hannen Swaffer がよく出席していた直接談話霊媒デニス・ブラッドレーの交霊会に出現、スワッハーがそれを「ノースクリッフの帰還」 Northcliffe,s Return と題して出版、大反響を呼んだ───訳者 )

   
序                  

アーサー・コナン・ドイル

永かった闘いにも勝利の日が近づいた。今後もなお様々なことが起きるであろう。後退もあれば失望もあることであろう。が勝利は間違いない。

 新しい霊的啓示の記録が一般大衆の手に入った時、それに天啓的美しさと合理性とがあれば必ずや全ての疑念、あらゆる偏見を一掃してしまうものであることは、いつの時代においても、真理なるものに触れた者ならば断固たる確信をもつものである。

 今その内の一つ───至純にして至高、完璧にして崇高なる淵源を持つ啓示が世界の注目を浴びつつある。まさに、主の御手ここに在り、の思いがする。

 それが今あなたのすぐ目の前にある。そしてそれが自らあなたに語りかけんとしている。本文の冒頭を読んだだけで素晴らしさを評価してはならない。確かに劈頭から素晴らしい。が読み進むに従っていよいよその美しさを増し、ついには荘厳さの域にまで達する。

 一字一句に捉われたアラ探しをすることなく、全体を通しての印象によって判断しなくてはいけない。同時に、ただ単に新しいものだから、珍しいから、ということで無闇に有難がってもいけない。

 地上のいかなる教説も、それがいかに聖なるものであろうと、そこから僅かな文句だけを引用したり、霊的であることを必要以上に強調しすぎることによって嘲笑の的とされることが十分あり得ることを銘記すべきである。

この啓示が及ぼす影響力の程度と範囲を判断する規準は、読者の精神と魂へ及ぼす影響全体であり、それ以外には有り得ない。

 神は二千年前に啓示の泉を閉鎖された、という。一体何の根拠をもってこんな非合理きわまる信仰を説くのであろうか。

 それよりも、生ける神は今なお、その生ける威力を顕示し続けており、苦難により一段と浄化され受容力を増した人類の理解力の進化と威力に相応しい新たな援助と知識とをふんだんに授けて下さっている、と信じる方がどれほど合理的であろうか。

 驚異的と言われ不可思議とされた過去七十年間のいわゆる超自然現象は、明々白々たる事実であり、それを知らぬ者は自らの手を持って目を蔽う者のみと言ってよいほどである。現象そのものは成るほど取るに足らぬものかも知れない。

がそれは実は吾々人間の注意を引きつける為の信号(シグナル)だったのであり、それをきっかけとして、こうした霊的メッセージへ誘わんとする意図があったのである。その完璧な一例がこの通信と言えるかも知れない。


 啓示は他にも数多く存在する。そしてその内容は由ってきたる霊界の階層によっても異なるし、受信者の知識の程度によっても異なる。

通信は受信者を通過する際に大なり小なり色づけされることは免れないのである。完全に純粋な通信は純心無垢な霊媒にして初めて得られる。本通信における天界の物語は、物的人間の条件の許すかぎりにおいて、その絶対的純粋さに近いものと考えてよいであろう。

 その内容は古き信仰を覆すものであろうか。私は絶対にそうでないことを断言する。むしろ古き信仰を拡大し、明確にし、美化している。

これまで吾々を当惑させてきた空白の部分を埋めてくれる。そして一字一句に拘わり精神を忘れた心狭き変屈学者を除いては、限りない励みと啓発を与えてくれる。

 真意を捉え難かった聖書の文字が本通信によって明確に肉付けされ意味を持つに至った部分が幾つあることであろうか。

 例えば「父の家には住処多し」も、パウロの「手をもて造られたるにあらざる住処」も、本書の中に僅かに見られるところの、人間の知能と言語を超越した、かの栄光を見ただけで理解がいくのではなかろうか。

 それはもはや捉え難き遠い世界のまぼろしではなく、この〝時〟にしばられた暗き人生を歩むにつれて前方に真実にして確固たる光として輝き、神の摂理と己の道義心に忠実に生きてさえいれば言語に絶する幸せが死後に待ち受けるとの確信を植え付けてくれることによって、よろこびの時にはより一層その喜びを増し、悲しみの時には涙を拭ってくれるのである。

 言葉即(イコール)観念の認識に固執する者は、この通信はすべてオーエン氏の潜在意識の産物であると言うであろう。そう主張する者は、では他にも多くの霊覚者が程度の差こそあれ同じような体験をしている事実をどう説明するのであろうか。

 筆者自身も数多くの霊界通信を参考にして死後の世界の概観を二冊のささやかな本にまとめている。それはこの度のオーエン氏の通信とはまるで無関係に編纂された。オーエン氏の通信が私の二冊とは無関係に綴られたのと同じである。

どちらも互いに参考にし合っていない。にも拘らず、この度読み返してみて、私のものより遥かに雄大で詳しいオーエン氏の叙述の中に、重要と思える箇所で私が誤りを犯したところは一つも見当たらない。

 もしも全体系が霊的インスピレーションに基づいていなかったら、果たしてこうした基本的一致が有りうるであろうか。

 今や世界は何らかの、より強力な駆動力を必要としている。これまでは言わば機関車を外されたまま古きインスピレーションの上を走って来たようなものである。今や新しい機関車が必要なのである。

もしも既成宗教が真に人間を救うものであったのなら、それは人類史の最大の苦難の時にこそ威力を発揮したはず───例えば第一次世界大戦も起きなかったはずである。その厳しい要請に応え得た教会が有ったであろうか。

今こそ霊的真理が改めて説かれ、それが人生の原理と再び渾然一体となる必要があるのは明々白々たる事実ではなかろうか。

 新しい時代が始まりつつある。これまで貢献してきた者が、その立証に苦労してきた真理が世間から注目を集めつつあるのを見て敬虔なる満足を覚えても、それは無理からぬことかも知れない。そして、それは自惚れの誘因とはならない。

目にこそ見えないが実在の叡智に富める霊団の道具に過ぎないことを自覚しているからである。

 しかし同時に、もしも新たなる真理の淵源を知り、荒波の中を必死に邁進して来た航路が間違っていなかったことを知って安堵の気持ちを抱いたとしても、それが人間味というものではなかろうか。

(コナン・ドイル Arthur Conan Doyle ───言わずと知れた名探偵シャーロック・ホームズの活躍する推理小説の作者であるが、本職は内科医であった。

そのシャーロック・ホームズ・シリーズによって知名度が最高潮に達した頃にスピリチュアリズムとの出会いがあり、さまざまな非難中傷の中を徹底した実証主義で調査研究し、その真実性を確信してからは〝スピリチュアリズムのパウロ〟の異名を取るほど、その普及に献身した。──訳者)




まえがき             
G・V・オーエン

 この霊界通信すなわち自動書記または(より正確に言えば)霊感書記によって綴られた通信は、形の上では四部に分かれているが、内容的には一貫性を有つものである。いずれも、通信を送ってきた霊団が予(アラカジ)め計画したものであることは明白である。

 母と子という肉親関係が本通信を開始する絶好の通路となったことは疑う余地がない。

その点から考えて本通信が私の母と友人たちで構成された一団によって開始されていることは極めて自然なことと言える。

 それが一応軌道に乗った頃、新しくアストリエルと名告る霊が紹介された。この霊はそれまでの通信者に比べて霊格が高く、同時に哲学的なところもあり、そういった面は用語の中にもはっきり表われている。

母の属する一団とこのアストリエル霊からの通信が第一巻『天界の低地』を構成している。

 この言わば試験的通信が終わると、私の通信はザブディエルと名告る私の守護霊の手に預けられた。母たちからの通信に較べると流石(サズガ)に高等である。第二巻『天界の高地』は全部このザブディエル霊からの通信で占められている。

第三巻 
『天界の政庁』はリーダーと名告る霊とその霊団から送られたものである。その後リーダー霊は通信を一手に引き受け、名前も改めてアーネルと名告るようになった。

その名のもとで綴られたのが第四巻『天界の大軍』で、文字どおり本通信の圧巻である。前三巻のいずれにも増して充実しており、結局前三巻はこの第四巻の為の手馴らしであったとみても差し支えない。

 内容的にみて本通信が第一部から順を追って読まれるべき性質のものであることは言うまでもない。初めに出た事柄があとになって説明抜きで出て来る場合も少なくないのである。

 本通信中の主要人物について簡単に説明しておくと──

 私の母は一九〇九年に六十三歳で他界している。アストリエルは十八世紀半ばごろ、英国ウォ―リック州で学校の校長をしていた人である。ザブディエルについては全然と言ってよいほど不明である。アーネルについては本文中に自己紹介が出ている。

霊界側の筆記役をしているカスリーンは英国リバプール市のアンフィールドに住んでいた裁縫婦で、私の娘のルビーが一八九六年に僅か十五ヶ月で他界するその三年前に二十八歳で他界している。

 さて〝聖職者というのは何でもすぐに信じてしまう〟というのが世間一般の通念であるらしい。なるほど〝信仰〟というものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかも知れない。

が、私は声を大にして断言しておくが、新しい真理を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。

因(チナミ)に私が本通信を〝信ずるに足るもの〟と認めるまでにちょうど四分の一世紀を費している。すなわち、確かに霊界通信というものが実際にあることを認めるのに十年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適っていることをはっきりと得心するのに十五年かかった。

 そう得心して間もなく、その回答とも言うべき現象が起こり出した。最初まず私の妻が自動書記能力を発揮し、やがてその手を通じで、お前も鉛筆を握って机に向かい頭に浮かぶ思念を素直に書き下ろしてみよ、という注文が私宛に送られて来た。

正直のところ私はそれが嫌で、しばらく拒否し続けた。が他界した私の友人たちがしきりに私を通じて通信したがっていることを知るに及んで、私の気持ちにもだいぶ変化が起き始めた。

こうした事実からも十分納得して頂けることと思うが、霊界の通信者は通信の目的や吾々に対する希望は述べても、そのために吾々の都合や意志を無視したり強制したりするようなことは決して無かった。結果論から言えば少なくとも私の場合は強引に書かせた方が手間ひまが掛からずに済んだろうにと思われるのだが・・・・・・。

 が、それでも私はすぐには鉛筆を握らなかった。しかし、その内注文する側の真摯な態度に好感を覚え、多分に懐疑の念を抱きつつも遂に意を決して、晩課が終わってからカソック姿(法衣の一種)のまま机に向かったのであった。

 最初の四、五節は内容に統一性が無く、何を言わんとしているのか見当がつかなかったが、その内次第にまとまりが見えてきて、やがて厳とした筋が読み取れるようになった。

それからというものは書けば書くほど筆が速くなった。読者が今まさに読まんとされているのがその産物である。
       一九二五年秋



一章 暗黒の世界
霊界の風景  偏見→卒業   
悲しみの館     
バイブレーションの原理
光のかけ橋         
キリスト神の〝顕現〟  
暗黒街の天使


1 霊界の風景             
  一九一三年九月二三日  火曜日 

──どなたでしょうか。(オーエン氏の質問──訳者)

 あなたの母親です。ほかに援助してくださる方が幾人かお出でです。私たちは順調に進歩しております。しかしまだ、述べたいことの全てを伝えることができません。それはあなたの精神状態がこちらが期待するほど平静で受身的でないからでもあります。


──住んでおられる家屋と、今携わっておられる仕事について教えてください。

 仕事はその対象となる人間の必要性によって異なります。非常に多種多様です。しかし現在地上にいる人々の向上に向けられている点は一様に同じです。

例えばローズ(オーエン氏の妻──訳者) にまず働きかけて自動書記をやらせ、その間の危険から護ってあげる霊団を組織したのは私たちです。

今でもその霊団が彼女の面倒を見ております。時おり近くに存在を感じているのではないでしょうか。多分そのはずです。必要とあればすぐに近くに参りますから。

 次は家屋について。これは、とても明るく美しく出来あがっております。そして高い界におられる同志の方々がひっきりなしに訪れては向上の道へ励まして下さいます。


──(ここで一つの疑問が浮かんだ。母たちの目にはその高級界からの霊の姿が見えるのだろうか、それとも吾々人間と同じなのだろうか、ということである。

断わっておきたいのは、この霊界通信を読んで行かれるうちに読者は、私が明らかに口に出していない思念に対する答えが〝イエス〟あるいは〝ノー〟で始まって綴られているのを各所に発見されるはずである。

その点をご諒承いただいて、特に必要がないかぎり、それが実際に口に出した質問なのか、それとも私の思念を読み取ったものかは断わらないことにする。)

 はい、見えます。その方たちが私たちに姿を見せようと思われた時は見られます。しかし私たちの発達の程度と、その方たちの私たちに対する力量次第です。

℘22
──では、今住んでおられるところ──景色その他を説明をしていただけますか。

 完成された地上、といった感じです。でも、もちろん四次元の要素が幾分ありますから、うまく説明できないところがあります。丘もあれば小川もあり、美しい森もあり、家々もあります。それに、私たちが地上から来た時のために前もって先輩たちがこしらえてくれているものもあります。

今は代わって私たちが、今しばらく地上の生存競争の中に生き続けなければならない人々のために、環境をこしらえたり整えたりしてあげております。こちらへ来られた時には万事がうまく整っており、歓迎の準備も出来ているというわけです。


 ここで、最近私が目撃した興味深い光景(シーン)をお話いたしましょう。そうです、こちらのこの土地でのシーンです。私たちの住んでいる家からほど遠からぬ広い平地である儀式が取り行われると聞かされ、私たちもそれに出席するようにとのことでした。
 
儀式というのは、一人の霊が〝偏見〟と呼ばれている段階、つまり自分の特殊な考えと異なる人々へのひがみ根性からすっかり卒業して一段と広く充実した世界へと進んで行くことになったのを祝うものです。

 言われるままに私たちも行ってみました。すると方々から大勢の人が続々とやってまいります。中には馬車で・・・・・なぜ躊躇するのですか。私たちは目撃したことを有りのままに述べているのです。馬車で来る人もいます。

お好きなように別の呼び方をしても構いませんよ。ちゃんと馬に引かれております。御者の言うことがすぐ馬に通じるようです。

と言うのは、地上の御者のように手綱を持っていないのです。それでも御者の思う方向へ走っているようでした。歩いて来る人もいました。空を飛んで来る人もいました。いえ、翼はついておりません。要らないのです。

 さて皆さんが集まると円座が作られました。そこへさっきの方が進み出ました。祝福を受ける霊です。その方はオレンジ色の長い礼服を着ておられます。明るいオレンジ色で、地上では見かけない色です。こちらの世界の色はどれも地上では見られないものばかりです。

 ですが、地上の言葉を使うほかはありません。さて指導霊がその人の手を取って円座の中央の小高い芝生のところに位置させ、何やら祈りの言葉を述べられました。すると実に美しい光景が展開しはじめました。

空の色───殆ど全体が青と金色です───が一段と強さを増しました。そしてその中から一枚のベールのようなもの、小鳥や花を散りばめた見事なレースで出来たように見えるものが降りてきました。白いというよりは金色に輝いておりました。

それがゆっくりと広がって二人を蔽うようにかぶさり、二人がそのベールに融けこみ、ベールもまた二人と一体となって、やがてその場からゆっくりと消えて行きました。二人ともそれまでとは格段の美しさ、永遠の美しさに輝いておりました。

何しろ二人とも一段階上の光明の世界へと向上して行ったのですから。


 それから合唱が始まりました。楽器は見えないのですが、間違いなく楽器による演奏が聞こえ、それが私たちの歌声と融合し一体となっておりました。

それはそれは美しい光景でした。それは、向上して行く二人にとってはそれまでの努力を祝福する餞別(ハナムケ)であり、見送る者、二人が辿った道をこれから辿らねばならない者にとっては、一層の努力を鼓舞するものでした。

あとで尋ねてみましたらその音楽は円座の外側にある寺院の森から流れてきていたとのことで、道理で一定の方向から聞こえて来るようには思えませんでした。それがこちらの音楽の特徴なのです。大気の一部となり切っているように感じられるのです。

 お二人には宝石まで付いておりました。蔽っていたベールが消えた時、祝福を受けた霊の額に金色と赤色の宝石が見えました。そして指導霊──この方にはすでに一つ付いておりましたが──にも新たにもう一つ左肩に付いており、それが大きさと明るさを一段と増しておりました。どういう過程でそうなるのかは判りません。

私なりの推測をしておりますが、あなたに言えるほどの確信はありません。それに、私たちが理解していることを地上の言葉で伝えること自体が難しいのです。

儀式が終わると、みんなそれぞれの仕事に戻りました。実際の儀式は今述べたよりも長時間にわたるもので、参加した人たちに深い感銘を与えました。

 儀式の最中のことですが、私たちが立っていた位置から丘越しに見える平地の向こう端に一個の光が輝いて見え、それが私たちには人間の容姿をしているように見えました。

今思うにそれは主イエスではなく、その儀式のためのエネルギーを供給し、目的を成就させるために来られた大天使のお一人であったようです。

もちろん私より鮮明にその御姿を拝した人もおられます。なぜなら霊的進化の程度に応じて見え方も理解の程度も異なるものだからです。

 さて、ここであなたに考えてみて頂きたいのです。こうした話をあなた自身の頭から出たものだと思われますか、それとも、あなたを通してあなたの外部から来たものだと思われますか。今日その机に向かって腰かけた時、あなたはまさかこうした話が綴られるとは予想しなかったはずです。

私たちもあらかじめその点に配慮して先入観を入れないように用心したのです。でも、こうしてあなたと霊的つながりが出来たとたんに、今の話を綴られました。そうではありませんか。


───その通りです。その点は正直に認めます。

 そうですとも、では、これでお別れです。あなたとお別れするというのではありません。私たちはあなたに理解できない或る意味で常にあなたの側におります。あなたの手を借りて書くという仕事と暫しお別れという意味です。

神の祝福のあらんことを祈りながら、ではまた明日まで、さようなら。

2 悲しみの館               
  一九一三年九月二四日  水曜日
  
 あなたとの間に始められたこうした通信が究極においてどういう影響をおよぼすか──そのことを少し遠い先へ目をやって現在のご自分の心理状態の成り行きとの関連において考察してごらんなさい。

私たち霊界の者から見た時、これまでの事の成り行きが私たちの目にどのように映っていたと思われますか。

それはちょうど霧の海に太陽の光が差し込んだのと同じで、霧が次第に晴れ上がり、それまで隠されていた景色がはっきりと、そしてより美しくその姿を見せてまいります。

 あなたの精神状態もいずれそうなると私たちは見ております。しばらくは真理という名の太陽に目がくらみ、真相が分かるよりはむしろ当惑なさるでしょうけど、目指すものは光明であること、究極においては影を宿さぬ光だけの世界となることを悟られるでしょう。

光は必ずしも有難がられるものとは定(き)まっておりません。日光で生長するようにできていない種類の生物がいるのと同じです。

 そういう人はそれでよろしい。そしてあなたはあなたの道を歩まれることです。進むにつれてより強い光、神の愛のより大きな美しさに慣れてくるでしょう。光を好まぬ者には、無限の叡智と融合したその光の強さは迷惑でしかないのでしょうけど・・・・・・。

 では、ここでもう一つ、神の御光そのものに輝くこの地域で見かけた楽しい光景をお伝えしましょう。

 つい先ごろの事ですが、私たちは美しい森の多い土地を散策しておりました。歩きながらおしゃべりを始めたのですが、それもほんの少しの間でした。と言うのは、全てを聖なる静寂の中に吸い込んでしまうような音楽を感じ取ったのです。

その時です。前方に間違いなく上級界の天使と思われる神々しいお姿が目に入りました。その方は立ったまま笑みを浮かべて私たちを見つめておられます。

何も語りかけません。がそのうち私たちのうちの一人に特別のメッセージを持って来られたことを私は感じ取りました。そしてそれが他ならぬ私であることもすぐに判りました。

私たちが立ち止まって待ち受けていますとすぐ近くまでお出でになり、身につけておられるマント風のもの── 琥珀色でした──を片手で少し持ち上げて私の肩に掛け、手も肩に置き、さらに頬を私の髪に当てて──私よりはるかに背の高い方でした──優しくこうおっしゃいました。


 「私はあなた方が信仰しておられる主イエス(※)の命を受けて参りました。主はすべてをお見通しです。あなたはまだ先のことがお判りでない。

そこでこれからあなたがおやりになる仕事のための力をお授けしましょう。実はあなたはこちらでの新たな使命に携わる一人として選ばれております。

もちろんそちらにおられる仲間の方々とお会いになろうと思えばいつでも出来ますが、申し訳ないが暫くお別れいただいて、これからあなたが新しく住まわれる場所と、やっていただかねばならない仕事の案内をさせて下さい」(※他界後しばらく霊界の指導霊は当人の地上での信仰に応じた対応をするのが定石である。イエス・キリストの真実については第三巻で明かされる。)


 天使様がそう言い終わると仲間の者が私のまわりに集まってきて頬にキスをしたり手を握ったりして祝福してくれました。みんな自分のことのように喜んでくれました。いえ、この言い方ではぴったりといたしません。うれしさを十分に言い表わしておりません。

さきほどのお言葉の真意を私たちが語り合うのをお待ちになってから天使様が再び私に近づき、今度は私の手を取ってどこかへ連れて行かれました。

 しばらく歩いて行くうちに、ふわっと両足が地面から離れ空中を飛びはじめました。別に怖いとは思いませんでした。私にはすでにそれだけの力が与えられていたわけです。

数々の宮殿のような建物の見える高い山並みの上空を通過し、かなりの長旅の末にようやく降りました。そこは一度も来たことのない都市でした。

 その都市を包む光は決して悪くはないのですが、私の目がその明るさに慣れていないために、まわりのことがよく判りませんでした。が、そのうち大きな建物を取り囲む庭の中にいることが判ってきました。玄関へ向けて階段状に長い道がついており、その一ばん上にテラスのようなものがあります。

建物全体が各種の色彩──ピンクと青と赤と黄──の一つの素材で出来ており、それが全体として黄金のような輝き、柔らかさを持った輝きを見せておりました。

その昇り段を天使の方へ上がって行き入口のところまで来ました。そこにはドアは付いておりませんでした。そこで一人の美しい女性が迎えてくださいました。

堂々としておられましたが決して尊大には見えません。実はその方は「悲しみの館」の主です。こんなところで不似合いな言葉と思われるでしょう。実はこういうことなのです。

 悲しみというのはここに住んでおられる方の悲しみではなく、世話を仰せつかっている人間の身の上のことです。悲しみに打ちひしがれている地上の人々のことです。

この館に勤める人はそうした地上の不幸な人々へ向けて霊波を送り、その悲しみを和らげてあげるのが仕事なのです。こちらでは物事の真相に迫りその根源を知らなくてはなりません。それには大変奥の深い勉強が必要であり、少しずつ段階的に進んでいくほかはありません。

いま〝霊波〟という用語を用いたのも、それが真相をズバリ言い表わした言葉であり、あなたにとっても一ばん理解しやすいと思うからです。


 その女性はとても優しく私を迎えて中へ案内し、建物の一部を紹介して下さいました。地上とはまるで趣の異なるもので、説明するのが困難です。強いて言えば建物全体が生命で脈打っている感じで、私たちの意志の生命力に反応しているようでした。

 以来そこでの仕事が現段階での私の最も新らしい仕事で、とても楽しいものになりそうです。でも私はまだ、地上から届いて感識される祈りと、耳に聞こえてくる──と言うよりやはりこれも感識されると言った方がよいでしょう──悶え苦しむ人々の嘆きがやっと判るようになり始めたばかりです。

 私たちはそれを言わば感じ取り、それに対する回答をバイブレーションで送り返します。慣れれば無意識にできるようになるものですが、最初のうちは大変な努力がいります。私にはとても大変なことです。でもその努力にも、携わる者にはそれなりの恵みがあるものです。

 送り届けた慰めや援助などの効果は再びはね返って来るものなのですが、勉強していくうちに判ってきたのは、地上と接触を保っているこちらの地域でも、この送り届ける慰めとか援助のほかは私には何も知り得ない地域があるということです。

今のところ私がその仕事に携わるのは一度にほんの僅かな間だけで、すぐにその都市や近郊の見学に出かけます。どこを見ても荘厳で、前にいたところよりもずっと美しいです。

今ではかつての仲間を訪ねに行くことがあります。会った時にどんな話をするか、あなたにも大体の想像がつくと思います。

仕事も楽しいですが、それに劣らず語り合うのも楽しいものです。あたりは主イエス・キリストのもとにおける安らかさに包まれております。そこは暗闇のない世界です。あなたも、初めに述べた霧が晴れればこの土地を訪れることになるでしょう。その時は私が何もかも案内してさしあげましょう。

そのうち多分あなたも向上して、今度はあなたの方が、あの天使様がして下さったように、私の手を取ってあなたの携わるお仕事を見せに案内して下さることになるでしょう。

ずいぶん意欲的だと思っておられるようですね。それはそうですよ。それが母親の、そうね、煩悩というものかしら。いえ、母親ならではの喜びではないかしら。

 では又にしましょう。今のあなたの心の状態を見れば、すべてを真実と信じておられるのが判ります。うれしそうに明るく輝いて見えますよ。それは母親である私にもうれしいことです。では、おやすみなさい。神よ、安らぎを垂れ給え。
                           


         
 3 バイブレーションの原理     
 一九一三年九月二十五日  木曜日

 聖書の中に主イエスがペテロのことを自分への反逆者であるかの如く述べた部分があり、あなたはその真意を捉えかねている様子だから、今夜は、十分ではないかも知れないけど是非そのことを明らかにしてみたいと思います。

ご存知の通り、その時イエスはエルサレムへ行く途中でした。そして弟子達に対し自分はエルサレムで殺されるであろうと述べます。

その時のイエスの真意は、自分が殺されることによって一見自分たちの使命が失敗に終わったかの如く思われるかも知れないが、見る目を持つ者には──弟子達がそうであって欲しいとイエスは思ったことでしょうが──自分の真の目的はそれまでの伝導の道よりもはるかに強力にして栄光ある発展のための口火を切ることであり、それが父なる神より授かった地上人類の霊的高揚のための自分の使命なのだということでした。

 ペテロはそれが理解できないことを彼なりの態度で示しました。当然であり無理もないことです。が、このことに関して何時も見落とされていることがあります。

それは、イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑(ハリツケ)はその使命の中における一つの出来事に過ぎない。それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような〝喜び〟の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。

なぜならば、テコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍を転じて福となし、神の計画を推進することになるということでした。

悲劇をただの不幸と受け止めることがいかに狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の〝価値〟を理解して初めて判ることです。さてイエスは今まさに未曾有(ミゾウ)の悲劇を弟子たちにもたらさんとしておりました。

もし弟子たちがその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子たちに託す使命が成就されません。

そこでイエスは言いました。──「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」 と。そして遂にそうなりました。もっともそれは悲しみの奥義を理解できるようになってからのことです。理解といっても限られた程度のものでした。が、ある程度の理解は確かにできたのでした。

 こうして文章で綴ってしまえばずいぶん簡単なことのように感じられます。またある意味では現に単純なのです。神の摂理の基本的原理はすべて単純だからです。ですが私たち、とくに現在の私にとっては、あなたにも判然としないかもしれない重要性を秘めております。

と言いますのは、今の私の生活の大半を過ごしている新しい建物に中での主な課題がそれと同じこと、つまり人間界の悲しみのバイブレーションを喜びを生み出すバイブレーションに転換することだからです。とても素敵な仕事です。

ですが自由意志の尊厳がもたらすところの数々の制約がいろいろと面倒な問題を生み出します。いかなる人間であっても、その人の自由意志を無視することは許されないのです。

当人の意志を尊重しつつ、当人にとって望ましくもあり同時に相応しい結果、少なくともまずまずと言える程度のものを授けなければなりません。

時にはうんざりすることもあります。が、この仕事に携わることによって強くなるにつれて、そうした念も消えて行くことでしょう。ところであなたの質問は何ですか。尋ねたいと思っていることがあるようでしたが。


──いえ、ありません。特別な質問はありませんが。

 尋ねたいと思われた事がありませんでしたか。あなたにこうして霊感を印象づける方法と関連した事で・・・・・


──そう言えば今朝がたそのことをお聞きしようと思ったことは事実です。すっかり忘れておりました。でも大して説明していただくほどのことでもないように思いますが如何でしょうか。私は〝精神感応〟と呼んではどうかと思いますが。

 なるほど、当たらずといえども遠からずですね。でもピッタリというわけでもありません。精神感応というのは未知の分野も含めた大ざっぱな用語です。私たちがあなたに印象付ける手段は各種のバイブレーションです。本質がそれぞれ少しずつ異なります。

それをあなたの精神に向けて集中するのです。ですが、どうやらあなたはこの種の問題は今はあまり気が乗らないようですね。又の機会に改めて述べることにしましょう。

今あなたが関心を抱いているものがあればおっしゃってみてください。


──では、あなたの住んでおられる家と、新しく始められた仕事についてもう少し話して下さい。

 よろしい。では出来るだけ分かりやすくお話いたしましょう。

 住居(すまい)は内側も外側も実に美しく設備が整えられております。浴室(バス)もあれば音楽室もあり、私たちの意念を反映させていく上で補助的な役割をする道具もあります。

ずいぶん広いものです。私は今〝住居〟と言いましたが、本当はひと続きの建物で、その一つ一つがある種の仕事を割り当てられていて、それが段階的に進んでいくように工夫されております。

どの家からでも始めて次の建物へ進むことができます。でもこんな話は人間にはあまりに不思議すぎて理解することも信じることも出来ないでしょうから、もっと分かりやすいものを取り上げてみましょう。

 土地は広々としており、その土地と建物との間に何らかの関係、一種の共鳴関係のようなものがあります。

たとえば樹木は地上と同じ樹木そのもので、同じように生長しておりますが、その樹木と建物との間に共鳴関係のようなものがあり、樹木の種類が異なると共鳴する建物も異なり、建物が目的としている仕事の効果を上げる作用を及ぼしております。

それと同じことが森の中の一つのグループについても言えますし、小道の両脇の花壇、各所に見られる小川や滝の配置についても言えます。

すべてが驚くべき叡智から生み出され、その効果は〝美しい〟の一語に尽きます。

 実を言うと同じ作用が地上でもあるのです。ただバイブレーションがそれを放射する側もそれに反応する側も共にこちらに比して鈍重であるために、その効果がほとんど目立たないだけです。

でも実際にあることはあるのです。例えば花や樹木の栽培が特に上手な人がいるのをご存じでしょう。それから、花が他家(よそ)よりも長持ちする家── そういう家族があるものです。

切り花のことです。荒けずりではありますが、すべて同じことです。こちらでは影響力が強力で、受ける側も鋭敏なのです。ついでに言えば、このことは私たちがいま携わっている仕事で個々のケースを正確に診断する上でよい参考になります。

大気も当然ここの植物と建物によって影響を受けます。と言いますのは、繰り返すことになりますが、そうした建物は単なる技術で建造されるのではなく、この界の高位の天使の方々の意念の結晶──産物と言っても良いでしょう──であり、従って大変強力な創造的念力によるものだからです。(その詳しい原理は第六章でアストリエル霊が解説。──訳者)

 大気はまた私たちの衣服にも影響を及ぼします。さらにはその生地と色への影響が私たちの性格そのものまで沁みこんで来ます。

ですから霊的に性格が似ている者同士は同じ大気の影響を受けているわけですから、身にまとっているものも色合いと生地がよく似ておりますが、実際には一人一人その個性の違いによって少しずつ違っております。

 さらに私たちがたまたま位置したその地面の影響で衣服の色合いが変化することがあります。あたり一面に色とりどりの草花が繁茂している歩道やさまざまな品種の植物の配置具合が異なる場所を通りかかると衣服の趣が変化していくのを見るのは面白くもあり、ためにもなり、また見た目にも美しくもあります。

 小川がまた美しいのです。水の妖精の話はあなたも聞いたことがあるでしょう。地上の話ですよ。あれは少なくともこちらでは本当の話です。その場全体に生命がみなぎり、すみずみまで浸透しております。ということは生命の存在がそこにあるということです。

このことは前にいた界でもある程度は知っておりましたが、この界へ来て辺りの不思議さ目新しさに慣れてくると、そうしたことが一層はっきり認識され、同時にこの調子で行くとこれから先の界は一体どうなってるのだろうと驚異を抱き始めております。

この界の不思議さなどどこへ行ってもあたり前のように思えるからです。


 でも、今日はこの辺で止めにしましょう。この美わしい御国の片隅を見せて下さった神はまた別の片隅を見せて下さることでしょう。これはあなたへの言葉ですよ。今日はこの言葉で終わりとしましょう。それでは。


<原著者ノート>この日のメッセージの最初の部分を綴っている時、私はその話の流れが読み取れず、まとまりがなくて混乱しているように思えた。が、今読み返してみると決してそうではないことが判る。

 悲しみのバイブレーションについて述べていることを〝神の摂理の基本的原理〟についての単なるヒントと受け取り、波動の原理を光や熱の解釈に当てはめるのと同じ推理を行えば次のようになりそうである。

 悲しみを生ずるバイブレーションの組み合わせは〝置き換え〟ではなく〝調整〟によって行われる。つまり悲しみに沈む魂へ向けて別種のバイブレーションを送ることによって、悲しみのバイブレーションのうちの幾つかが中和され、幾つかは修正されて別種のものに変化し、その効果が喜び、あるいは安らぎとなる。

 こう観れば、この日のメッセージも意味を持ち、多分人生における悩みごとを実際に解決していく方法に光を当てることになるかも知れない。確かにそれが神の一つの手法なのであろう。悲しみを生み出す外的条件が取り除かれるという意味ではない(極端な場合はそうするかも知れないが)。

別種のバイブレーションを吹き込むことによって悲しみを喜びへと転換してしまうという意味である。これなら日常生活でよく見かけることである。

こうした説は科学的思考に慣染めない人には突拍子もない話に聞こえるであろうし〝別種のバイブレーション〟が実際に同じ〝交換価値〟を持つ数種のバイブレーションであるとする説を別に非合理的とは思わない人もいることであろう。

 なお最初に言及しているイエスの言葉はヨハネ第一六章二〇である。
                      


4 光のかけ橋   
       
 一九一三年九月二六日 金曜日

 前回の通信は、あなたにもう少し深入りした感応の仕方を試して見るべきであるとの霊団の一人の要請を受けてやってみたものです。が、説明できるようにはなりましたが、説明の内容はまだまだ十分とは言えません。

そこで、あなたがお望みであれば引き続き同じ問題を取り上げようと思いますが。


──有難うございます。お願いします。

 では、あなたにも暫く私たちと共にベールのこちら側から考えていただかねばなりません。まず理解していただきたいのは、こちらへ来て見ると地上で見ていたものとはまったく異なった様相を呈していること──恐らく現在地上にいる人の目には非現実的で空想的にさえ思えるのではないかということです。

どんなに小さなことでも驚異に満ちておりますから、こちらへ来たばかりの人は地上での三次元的な物の考え方から脱しない限り、飛躍的な進歩は望めません。そしてそれが決して容易なことではないのです。

 さて、ここで例のバイブレーションという用語を使用しなくてはなりません。しかしこれを物的なもののように考えては真相は理解できません。

私たちのいうバイブレーションは作用においても性質においても単なる機械的な波動ではなく、それ自体に生命力が宿っており、私たちはその生命力を活用して物をこしらえているのです。 

言わば私たちの意志と環境とを結ぶかけ橋のようなものです。つきつめればすべての現象はその生命力で出来ているからです。環境は私たちを始め全存在を包む深い生命力の顕現したものに過ぎません。それを原料として私たちは物をこしらえ成就することが出来るのです。

バイブレーションというと何だか実体のないもののように思われがちですが、それがちゃんとした耐久性のあるものを作り上げるのです。


 たとえば光明界と暗黒界との間の裂け目(一二七頁参考)の上に橋を掛けるのもその方法によります。その橋がただの一色ではないのです。暗黒の世界の奥深い処から姿を見せ、次第に輝きを増しながら裂け目を越え、最後に燦々たる光輝を発しながら光明の世界へと入り込んでおります。

その光明界の始まる高台に掛かる辺りはピンク色に輝き、大気全体に広がる何とも言えない銀色、アラバスターと言った方が良いでしょうか、そんな感じの光の中で輝いて見えます。

 そうですとも。その裂け目に立派に〝橋〟が掛かっているのです。もし無かったら暗黒の世界から光明へと闇を通り抜けて霊魂はどうやって向上進化してくるのですか。

本当なのです。言い落としておりましたが、怖ろしい暗闇の世界をくぐり抜けてその橋をよじ登り、裂け目のこちら側へやってくる霊魂が実際にいるのです。

もっとも数は多くありません。大ていはその道案内の任に当たっておられる天使様の言うことが聞けずに後戻りしてしまうのです。

 また、こういうことも知っておく必要があります。そうした天使様の姿は魂の内部に灯された霊的明かりの強さと同じ程度にしか映らないということです。ですから天使様の言うことを聞いて最後まで付いて行くには、天使様に対する信頼心も必要となってきます。

その信頼心は同時に光と闇とをある程度まで識別できるまで向上した精神の産物でもあるわけです。実際人間の魂の複雑さはひと通りでなく、捉え難いものですね。

そこで、もう少し言葉で表現しやすい話に移りましょう。私はそれを〝橋〟と呼びました。しかし 「目は汝の身体の光である」 という言葉がありますね。

この言葉をここで改めて読んでいただきたいのです。そうすれば、それが地上の人間だけでなく、こちらの霊魂についても言えることがお判りになると思います。


 私はこれまで〝橋〟という呼び方をして来ましたが、実際には地上の橋とはあまり似ていないのです。第一、巾がそれはそれは広いのです。〝地域〟と呼ぶのが一番当たっているようです。

私はまだ死後の世界のほんの一部しか見ておらず、その見たかぎりのものだけを話していることを念頭に置いて聞いて下さいよ。同じような裂け目や橋が他にも──たぶん数えきれないほど── 有るに相違ありません。

その畝(うね)つまり私が橋と呼んでいるものを通って光明を求める者が進んで来ます。実にゆっくりした足どりです。しかもその途中には幾つかの休泊所が設けてあり、暗黒界から這い上がって来た霊魂がその内の一つに辿り着くと、そこで案内役が交替して、今度は別の天使の一団が次の休泊所まで付き添います。

そうやって漸くこちら側に着きます。私が属している例のコロニーでの仕事も、地上の救済の他に、そうやって向上して来る霊魂の道案内も致しております。

それは先ほど述べた仕事とはまた別の分野に属します。私はまだあまり勉強しておりませんので、そこまでは致しません。そちらの方が難しいのです。

というのは、こちらの世界の暗黒界にいる者を取り巻く悪の影響力は地上のそれに比して遥かに邪悪なのです。地上はまだ善の中に悪が混じっている程度ですからましです。

こちらへ来た邪悪な人間がうっかりその暗黒界へ足を踏み入れようものなら、その途轍もなく恐ろしい世界から抜け出ることの大変さを思い知らされます。想像を超えた長い年月にわたって絶望と諦めの状態で過ごす霊が多い理由はそこにあります。

 暗黒の世界から這い上がってきた霊魂が無事その橋を渡りきると天使様が優しく手を取って案内してあげます。やがて草木の茂った小高い緑の丘まで来ると、そこまで実にゆっくりとした足どりで来たはずなのに、あたりの美しさに打たれて喜びで気絶せんばかりの状態になります。

正反対の暗黒の世界に浸り切っていた霊魂には、僅かな光明にさえ魂が圧倒されんばかりの喜びを感じるのです。


 私は今〝小高い丘〟と言いましたが、高いと言っても、それは暗黒の世界と比べた場合のことです。実際には光明の世界の中でも一ばん低い所なのです。

 〝裂け目〟とか〝淵〟とかをあなたは寓話のつもりで受け止めているようだけど、私が述べた通りに実際にそこに在るのです。このことは以前にも何処かで説明があったはずです。

それから、なぜ橋をトコトコ歩いて来るのか、なぜ〝飛んで〟来ないのかと言うと、まだ霊的発達が十分でなくてそれが出来ないということです。もしそんな真似をしたら、いっぺんに谷底へ落ちて道を見失ってしまいます。

 私はまだまだ暗黒の世界へ深入りしておりません。ほんの少しだけですが、悲劇を見るのは当分これまで見たものだけで十分です。

しばらく今の仕事に精一杯努力して、現在の恵まれた環境のもとで気の毒な人々に援助してあげれば、もっと暗黒界の奥まで入ることを許されるかも知れません。多分許されるでしょう。しかしそれはまだ先の話です。

 あと一つだけお話しましょう。── あなたはそろそろ寝(やす)まなくてはならないだろうからね。霊魂が暗黒の世界から逃れて橋のところまで来ると、後から恐ろしい叫び声や怒号が聞こえ、それとともに狐火のようなものがチラチラと見えるそうです。

 私は実際に見ていないのではっきりしたことは言えませんが、それは仲間を取り逃がした暗黒界の霊魂が悔しがって怒り狂う時に発するのだと聞いております。悪は所詮、善には勝てないのです。

いかに小さな善にでもです。が、このことについては今はこれ以上深入りしません。

 私が今述べたことは私が実際に見たものではなく、又聞(まやぎ)き、つまり人から間接的に聞いたことです。ですが、本当のことです。

 ではおやすみ。神の御光と安らぎが注がれますように。その御光の中にこそ光明を見出されることでしょう。そうしてその輝きこそ無限に開け行く安らかなる魂の黎明なのです。
                            


 5 キリスト神の〝顕現〟 
     
 一九一三年九月二七日  土曜日

──もう少し鮮明に感応できないものですか。

 これまで以上に鮮明にする必要はありません。私たちからのメッセージは一応意図したとおりに通じております。

つまりこちらでの私たちの生活ぶりや環境は一応理解していただけております。ただ一つだけ付け加えておきたいことは、こちらへ来たばかりの私たちは、まだ霊としての本来の能力を発揮しておらず、あなた方が実感を得ている環境が私たちにはモヤのように漠然としか映らず、その状態で最善を尽くさねばならないということです。   


──私がこうして書いている姿が見えますか。

 見えますとも。ただし肉眼とは別のもので見ております。私たちの眼は地上の明かりには慣れておりません。こちらの世界の明かりは種類が異なり、内部まで貫通する作用があります。

それであなたの心の中を見て取り、また心に直接話しかける ── あなたそのものに語りかけるのであって、もちろんあなたのその左右の耳ではありません。同じように、私たちがあなたを見る時はあなたそのものを見ており、その肉体ではありません。

肉体は外套のようなものに過ぎません。ですから、かりに私があなたに触れた場合、あなたはそれを肉体的に感じるのではなく霊的に感じるわけです。私たちの感応の具合を理解するにはその点を念頭において、身体や脳といった器官の奥を見なければいけません。

 どうやらあなたは、こちらでの私たちの働きぶりや暮らしの環境についてもっと知りたがっておいでのようですね。こちらへ来てからの進歩にとって是非理解しておく必要のある基本的な真理の一つは、神というものは地上と同じくこちらでも直接そのお姿を拝することは出来ないということです。

これは必ずしもこちらへやって来る人間の全てが得心してくれるとは限らないのです。みんなこちらへ来たらすぐに神々しいお姿を拝せるものと期待します。そこで、その信仰が間違っており神とはそういうものではないと言い聞かされて非常にがっかりします。

神の生命力と崇高さは別にこちらへ来なくても地上において、大自然の内奥を洞察する力を持つ者には明瞭に感得できるものです。こちらでも同じことです。

ただ異なるのは、生命力により実感があり、その本性を知った者にはその活用が容易にできること──あたりに脈動しており、より鋭敏な感覚を身につけた私たちには、それを地上にいた時よりも強く感得できるということです。

以上は一般的な話として述べたのですが、これにもう一つ付け加えておく必要があるのは、時おり〝神の存在〟を実感させる現象が特別の目的のために顕現されることがあることです。ではその一つをお話してみましょう。


 ある時、私たちは田園地帯のある場所に招集されました。そこには地上時代の宗教も信仰も国籍も異なる人々が大勢集まることになっておりました。到着すると一団の霊が地上との境界付近の一地域における救済活動の任期を終えて帰ってくるところでした。

地上を去って霊界入りしながら、自分が死んだことが自覚できずにいる霊を指導する仕事に携わっていた霊の一団です。その方たちに連れられて、首尾よく死を自覚した霊が大勢まいりました。それぞれの落ち着くべき界へ行く前にそこで私たちとともに感謝の祈りを捧げるためです。年齢はさまざまです。

年ばかり取って若さも元気もない者、若くてまだまだ未熟な者などいろいろです。みんな一様に何か嬉しいことを期待している表情です。

そして新しい仲間が次々と連れて来られるのを見て、民族による顔かたちの違い、地位や財産の違いからくる色とりどりの服装などを不思議そうにじろじろ見つめ合っておりました。

 やがて全員が到着しました。すると突如として音楽が押し寄せる波の如く鳴り響いて、その大集団を家族的一体感で包み込みました。その時私たちの目に大きな光の十字架が見えました。

その平野と接する大きな山の背に乗っているように見え、見ているとそれが砕けて細かい光の小片になり始めました。

だんだん判ってみると、それは高級界の天使の大集団で、それが山の上に十字架状に集結していたのでした。その辺り一面が金色(こんじき)に輝き、遠くに位置する私たちにも暖かい愛の息吹となって伝わって来ます。

 天使の集団がこの低い環境(その天使から見て低いということですが)に慣染むにつれて、その御姿が次第に私たちの視界に明瞭になってまいりました。するとです。ちょうど十字が交叉するあたりの上方にさらにもう一つの、一段と大きい天使の御姿が現われました。

それがどなたであるかは、そこに居合わせた者には直感的に判りました。それはあなたにはもう察しがつくと思いますが、具象体(※)としてのキリスト神の一表現でした。

(※本来は形体を持たない存在が一時的にその存在を示すためにとる形態。それを見る者の理解度・宗教的信仰・先入観等によりさまざまな形態をとる。キリスト神とは地球神界の最高神つまり地球の守護神である。詳しくは第三巻で明かされる──訳者)

 大天使はしばらく黙ってじっと立っておられましたが、やがて右手を高々と上げられました。すると一本の光の柱が見え、それがその右手に乗りました。

それは一種の通路だったのです。その光の柱の上を別の天使の一団が降りて来るのが見え、手のところまで来ると一旦立ち止まり、それぞれに両手を胸にあてて頭(こうべ)を垂れ、拝むような格好でじっとしています。

すると大天使の手が大きく弧を画いて一回転し、その指先を平地へ向けられました。するとその光の柱が私たちの方向へ延びて来て、山の頂上と平地との間の架け橋となり、その一ばん端がそこに集結していた私たちの上に掛かりました。

 見るとその光のかけ橋を通って先ほどの天使の一団が降りて来て、私たちの真上まで来ました。そこで両手を広げ、一斉に大天使のおられる山頂へ向きました。すると語るとも歌うともつかない大天使への讃歌が聞こえてまいりました。

その光景の美しさ、崇高さと言ったらありません。私たちは初めのうちはただただ畏れ多くて黙するのみでした。が、やがて私たちも一緒に歌いました。と言うよりは詠唱しました。

それを教えるのが天使様たちの来られた目的だったのです。詠唱していると、私たちとその山との間に青っぽいピンクの靄が発生し、それが不思議な働きをしたのです。

まるで天体望遠鏡のレンズのように大天使の姿が大写しになり、そのお顔の表情まで見えるようになったのです。同時に、すぐ下に立ち並ぶ天使の一団の姿も同じように大きく映って見えました。が私たちにはその優雅なお顔とお姿が見えるだけで、その真の霊格を読み取る力はありませんでした。その表情はとても私には述べることはできません。

言葉では言い尽くせないさまざまな要素が渾然一体となっておりました。愛と慈悲と喜びと威厳とが混じり合っておりました。その時に私が感じたのは、こうして神と私たちとが一体となった時、生命というものが実に聖なる尊さに溢れたものであるということです。

仲間の者も同じものを感じ取ったと思いますが、その時はお互いに語り合うどころではなく、大天使様の御姿にただ魅入れられておりました。

  やがてその靄が大気の中へ融け入ってしまいました。山頂の十字架と大天使のお姿は同じ位置にありましたが、前より鮮明度が薄れ、私たちの真上におられた天使の一団も今は去って大天使の上方に見えました。

そして次第に全体が薄れて行き、やがて消滅しました。しかし大天使の存在感はその後も強烈に残っております。多分今回のシーンを見せた目的はその存在感を印象付けることにあったのでしょう。

私たちのように少しでもこちらにいる者に比べて、地上から来たばかりの者にはその見え方は鮮明ではなかったでしょうけど、それでも魂を鼓舞し安らぎを与えるには十分であったと思われます。

 私たちはそれから少しの間その辺りを散策してから静かな足取りで家路につきました。誰れもあまりしゃべりません。今見たシーンが余りに印象的だったからです。そして又、こうした顕現にはいろいろと考えさせられるものがあるのです。

その場にいる時はあまりの荘厳さに圧倒されて全部の意味を考えている余裕が無いのです。ですから、後になって段々に考えさせられることになります。

私たちは一緒に語り合い、お互いに印象を述べ合い、それを総合して、それまで余り理解していなかったことが啓示されていることを発見します。

今回の顕現で私たちが最も強い印象を受けたことは大天使様の沈黙のうちに語るその威力でした。一言も語られなかったにも拘わらず、その動き一つ一つが声となって私たちに語りかけてくるように思えたのです。

それが何を語っているかは、実際に声に出しておられないのに、よく理解できました。

 今日はこれくらいにしておきましょう。では、さようなら。求める者に主が何を用意されているか、そのうちあなたにも判る日が来ることを祈ります。
                        


 6 暗黒街の天使

 一九一三年九月二九日   月曜日

 これまでの通信をお読みになるに当たっては、地上より高い視野から観るということが実際にどんなものであるかを、十分に理解しておいていただく必要があります。

そうしないと私たちが述べた事柄に一見すると矛盾するかに思えるところがあって、あなたが不可解に思うことが少なくなかろうと思うのです。

前回の通信におけるキリスト神の具象体の出現と前々回の巨大な裂け目に橋が掛けられる話とは、私にはきわめて自然につなぐことが出来ます。

と言うのは、実体のあるものとして──もちろん霊界の私たちにとって実体があるということです── 実感をもって私が目撃した暗黒界との間のかけ橋は、大天使と配下の霊団がいま私たちが働いている界とその霊団のいる高級界との間に掛けた〝光の柱〟と、実質的には同じ目に見えないエネルギーによる現象だからです。


 私たちにとってその具象化の現象が、あなた方人間にとっての物質化現象のようなものであることがこれでお判りでしょう。

あれは私たち低い界にいる者には使いこなせない高次元のバイブレーションによって、高級霊がこの〝父の王国〟(※)の中の二つの土地を結んだわけです。

どういう具合にするのかは今のところ推察するほかはないのですが、私たちのように地上からやって来た者には、この界と一段上の界とを結ぶことは別に不思議なこととは思えないのです。

(※本書ではキリスト教的表現がそのまま使用されることが多い。これも聖書の中のイエスの言葉で、広義には死後の世界全体、狭義にはその上級界すなわち神界を指すことがある。──訳者)

 あなたにもっともっと私たちの世界の驚異について勉強していただきたいというのが私たちの願いです。そうすれば地上生活にありながらもそうしたことが自然なことに思えるようになるでしょうし、さらにこちらへ来てから全くの不案内ということもなくて済むのではないでしょうか。

地上生活にあってもという意味は、つまりは地上は天上界の胚芽期のようなもので、天上界は地上を磨き上げて完成させたものだということを悟るということです。こちらへ来てからのことは言うまでもないでしょう。

 そこで、この問題に関してあなたの理解を助ける意味で、私たちが大切なものと大切でないものとを見分け区別する、その分類法についてお話してみようかと思います。

私たちは何か困ったことが生じると──私たちの仲間うちだけの話ですが──どこかの建物の屋上とか丘の頂上など、どこか高いところで周囲が遠くまで見渡せるところに登ります。そこでその困りごとを口で述べ、言い終わると暫く、言わば自分の殻の中に退避するように努めます。

すると普段の自分より高い次元のものを見聞きするようになり、大切なものがその視力と聴力に反応し、そのままいつまでも高い次元に存在し続けるのが判ります。

一方、大して重要でないものについては何も見えもせず聞こえもせず、それで大切か否かが区別できることになります。


──判るような気もしますが、何かよい例を挙げていただけませんか。

 よろしい。では、ある婦人の例で〝不信感〟の為に進歩を阻害され満足感が得られないまま過ごしていた人の話をしてみましょう。その方は決して悪い人ではないのですが、自分自身のことも、周りの人のことも、どうも確信が持てないのでした。

 中でも一番確信が持てないのが天使のこと──果たして本当に光と善の存在なのか、もしかしたら天使の身分でありながら同時に暗黒の存在ということも有り得るのではないかと疑ったりするのでした。

私たちは当初なぜそんな事で悩むのか理解できませんでした。と言うのは、ここでは何もかもが愛と光明に溢れているように私には思えるからです。

が、そのうち判ったことは、その方には自分より先に他界した親戚の人が何人かいて、こちらへ来てもその人たちの姿が一人も見当たらず、どこにいるのかも判からないということが原因なのでした。

そうと判ってから私たちはいろいろと相談したあげくに、ある丘に登ってその方を救ってあげる最良の方法を教えて下さいと祈ったのです。すると思いも寄らない驚くべきことが起きました。

 跪(ひざまず)いていると丘の頂上が透明になり、私たちは頭を垂れていましたから丘を突き抜けて下の界の一部がくっきりと見え始めたのです。

そのとき私が見た情景──私たち五人全員が見たのですから幻影ではありません──は薄暗い闇の中に荒涼とした平地で、一人の大柄な男が岩に背をもたれて立っております。

そしてその男の前にはもう一人、少し小柄な人が顔を手で覆った恰好で地面に跪いております。それも男性でした。そしてどうやら立っている男に何か言い訳をしているみたいで、それを立っている男が不審の表情で聞いております。

やがて突然その男が屈み込み、伏せている男を摑えて自分の胸のあたりまで立ち上がらせ、そのまま遠くの地平線の、ほのかな明かりの見える方向へと、平地を大股で歩いて行きました。


 彼は小柄な男を引きずりながら相当な道のりを歩きました。そしてやがて明かりがずっと大きく見える辺りまで来ると手を離し、行くべき方角を指さしました。すると小柄な男が盛んに礼を言っている様子が見えます。やがてその男は明かりの方向へ走って行きました。

私たちはその男の後を目で追いました。あるところまで来ると大柄な男の方が橋の方角を指さします。それは前にお話したあの橋です。但しそこは例の〝裂け目〟の暗黒界側の端です。

その時点でも私たちはなぜこんな光景を見せられるのかが理解できませんでした。が、とにかく後を追い続けると、その橋の入口のところに建てられた大きな建物に辿り着きました。見張りのための塔ではなく、暗黒界からやって来た者に休養と介助を施すところです。

 その塔からは、その男がずっと見えていたことが判りました。というのは、その男が辿り着くとすぐに、橋の上の次の塔へ向けて合図の明かりが点滅されるのが見えたのです。

 その時点で丘が普通の状態に戻りました。そしてそれ以上何も見えませんでした。
 
 私たちはますます判らなくなりました。そして丘を降りて帰ろうとしました。するとその途中で私たちの霊団の最高指導者であられる女性の霊が迎えて下さり、そしてその方と一緒にもう一人、私たちの界のある地域の高い地位の方と思(おぼ)しき男の方がおられました。

私たちがまだ一度もお会いしたことのない方でした。指導霊がおっしゃるには、その男の方は今しがた私たちが見た光景について説明するためにお出で下さったとのことでした。お話によりますと小柄な男性は例の私たちが何とかしなければと思っている女性の曽てのご主人で、私たちからその婦人に早くあの橋へ行き、そこで暫く滞在しておればご主人がやって来るであろうことを告げてあげるようにとのことでした。

例の大柄な男はその婦人ならさしずめ〝闇の天使〟とでも呼びたがりそうな存在で、暗黒界でも相当強力な勢力を持つ霊の一人だということです。でもあのシーンからも想像できますように、良いこともするのです。ではなぜいつまでも暗黒の世界に留まっているのですか、と私たちは尋ねてみました。

 その方は笑顔でこう答えられました。「父なる神の王国はあなた方が想像されるより遥かに素晴らしいところです。これまであなた方には、いかなる地域もいかなる界層も他と完全に離れて独立し、それ自体で完全というところは一つも見当たらなかったはずです。

そのような処は一つも存在しないのです。あの暗黒の天使の本性の中にも各界層の知識と善性と邪悪性とが混ざり合っております。あの土地に留まっているのは、一つにはその本性の中の邪悪性のせいで、それが光明の土地に慣染めなくしているのです。

もう一つの理由は、心掛け次第で向上できるのに本人がそれを望まないということです。それは一つには強情さのせいでもありますが、同時に光明を憎むところがあり、あの途方もなく急な坂道を登って行こうとする者を大バカ者だと思っております。

光明界と暗黒界の対比のせいで、その坂道を登る時の苦痛と煩悶が事さらに大きく感じられるからです。

それで彼はその土地に留るのです。彼のように一種の憂うつと麻痺的絶望感のために光明界へ来ようとしない霊が無数におります。

そうかと思うと彼は憎しみと錯乱から残忍性をむき出しにすることがあります。あなた方が先ほどご覧になったあの男にもさんざん残酷な行為を働き、いじめあげておりました。

それも臆病なごろつきに良くみられる残忍さを持ってやっておりました。が、その残忍性も尽き果てたのでしょう。ご覧になったように、男の嘆願が彼の魂の柔らかい琴線に少し触れると、気持ちが変わらないうちにと男を放してやり、道まで教えてやりました。

きっと心の奥ではあの愚か者が・・・・・・と思いながらも、自分よりはましな愚か者だと思っていたことでしょう。」


 こうした話は私にとって初めてのことでした。あの暗黒の世界にも少しでも善性があるとは知りませんでした。でも今にして思えば、そうであって当然だと思います。なぜかと言えば、もし完全な悪のかたまりであれば私たちの居る光明界へ来ようなどという心は起きないでしょうから。


──それにしてもこの話は、最初に言われた大切なものとそうでないものとを見分けることと一体どういう関わりがあるのでしょうか。

 善なるものが全て神のものであることは言うまでもありませんが、われわれ神の子にとっては光明も暗黒も絶対ではなく、又絶対では有り得ないということです。両者は相対的に理解しなくてはいけません。


今にして判ったことは〝暗黒界の天使〟が大勢いるということです。その人たちは魂の本性に何か歪んだもの、善なるものへの志向を妨げる強情なところがあるために、今のところは暗黒界にいる。が、そのうちいつか、長い長い生命の旅路において、もしかしたら今のところ彼らより祝福されている私たちを追い越し、神の王国において高い地位を占めることになるかも知れないのです。

 ではお寝みさない。私たちが書いたことをよく熟考して下さい。私たちにとっても大変勉強になりました。こうしたことが地上にいる人々の多くの方々にも学んでいただければ有難いと思うのですが。

シルバーバーチの霊訓(十一)

 More Philosophy of Silver Birch

Edited by Tony Ortzen


二章 霊媒的能力 
            霊的知識を得るための必須の手段

 霊媒的能力は霊界側の真理普及の計画にとって欠かすことの出来ないものである。霊媒なくしては地上界と霊界との連絡は不可能である。いかなる教訓も、いかなる証拠も提供できないであろう。その大切さをシルバーバーチが改めて説く───

 霊媒は人間が霊的宿命を持つ霊的存在であることを証明してくれるものです。狂暴性に満ちたこの病める地上世界に是非とも必要な霊的真理を普及させる上で協力してくださる方にこうしてお会いできることは、私にとって大きな喜びであり、光栄なことでもあります。人助けのチャンスはその心掛けのある人には何処にでも見つかります。

 実はあなた方みずからが、ここぞという時に陰から援助を受けておられることを必ずしも気づいていらっしゃいません。死は情愛によって一度つながりのできた人との間を裂くことはできません。

そのことはあなた方みずから説いていらっしゃることですから、日常の生活においてもそれを常に念頭に置いた心掛けが大切です。

 本来なら最も緊密な同志であるべき人たちの敬意と協力が必ずしも得られるとはかぎらないものです。その時は、せっかく徳積みのチャンスを目の前にしながらそれをつかみ損ねた人のことを気の毒に思ってあげないといけません。

 霊的大事業の計画が挫折することはありません。霊の力が退散させられることは絶対にありません。すでに始まった躍進の歩みが止まるようなことは決してありません。築かれた橋頭堡は着々と強化されております。機会と条件さえ整えば、これからもますます拡大し増強されていくことでしょう。


───片づけなければならない障害や、どうしても避けられない困難や反抗があるようです。

 だからいいのです。挑戦・障害・困難・失望・焦燥といったものに遭遇しないといけないのです。その中には本来そういうものを引き起こしてはならないはずの人たちみずからが引き起こしているものも、よくあります。しかし、同じ問題で私たち霊団の者も常に悩まされているのです。

 〝天使も涙する〟という文句をご存知でしょう。私たち霊は、難しい条件の中にあって地上の人間のために心を砕いているからこそ、思わず涙を流すことにもなるのです。せっかくの貢献度の高い道を歩みかけながら、ふと脇道へそれて絶好のチャンスを取り逃がしているのです。しかし、それでも計画は進行しています。


───私が気掛かりなのは、かつてはこの道の仕事に献身する素晴らしい人が大勢いたのに、もっと多くを必要とする今、そういう人が見出せないことです。

 なぜそうなってきたかと言うと、挑戦すべきことや克服すべき障害が少なすぎるからです。だからこそ私は、そういうものを歓迎しなさいと申し上げているのです。こちらへお出でになってから地上生活を振り返ってご覧になれば、ラクだったことには何の感慨も覚えずに、むしろ苦しかったことに感謝なさるはずです。ラクだったことはどうでもよかったことばかりです。


───霊媒が次々と他界していきました。スピリチュアリズムは霊媒能力が頼りです。新しい霊媒は準備されているのでしょうか。

 われわれの仕事の背後には高級界の神庁において企画された総合的な計画があることを認識しなくてはいけません。私も何度かその神庁における会議に出席させていただいておりますが、その計画には、考えうるかぎりの有りとあらゆる要素が考慮されております。

青写真(ブループリント)はちゃんと出来ているのです。それが地上で着々と実施されてまいります。

 無限の叡智を具えた大霊は相対的な自由意志をもつ存在として人間を創造されました。ということは、人間は自分よがりの物的な欲望ばかり追い求めたければ、それも許されるということです。

そこに選択の余地があるということですが、今私は、〝相対的な自由意志〟という言い方を意図的に使用しました。私が〝無限の創造活動〟と呼んでいるものを一時的に邪魔したり遅らせたり妨害したりすることはできても、完全に阻止することはできないということです。神の計画の地上での実現を阻止することはできないのです。

 今あなたは霊媒の不足を口にされました。しかし人類の現在の進化の段階において必要な霊媒は十分に用意されております。もっと必要な段階がくれば、さらに多くの霊媒が用意されることでしょう。

 もっとも、そうした配慮がなされているという事実が必ずしもスピリチュアリズムの組織の視界に入るとはかぎりません。ささやかなホームサークルの形を取ったり、個人で独自の手段で行われる場合もあります。

そういう人たちは自分のことをスピリチュアリストであるとか、霊媒であるとか、霊能者(超能力者)であるとは思っていないかも知れません。

 この仕事において援助を求める声、知識を広めたいと願う心は、私たちに関する限り絶対に無視されることはありません。私たちには皆さんの霊的な必需品、精神的必需品、および物質的必需品は先刻承知しております。

その時点において是非とも必要とみたものは必ず用意してあげます。ただし、それは私達霊界側の法則にのっとって私たちの判断でタイミングを計って行います。人間界の都合に合わせて行うわけにはいかないのです。

 こう申しては失礼かも知れませんが、霊力をいつ行使するのが適切かの判断は、あなた方人間にはできません。すべて当人の魂の発達程度によって決められるのです。もし受け入れる用意ができていると見た時はただちに行います。もし受け入れる段階ではないと見た時は、私たちにはなすすべがないのです。

 地上に霊的教育が欠如していることは間違いありません。また虚栄心、自惚れ、指導霊崇拝がはびこっていることも残念ながら事実です。基本的な真理がおろそかにされて、実質的には地上に何の益ももたらさない脇道が開拓されております。

 が、あなたがもし私と同じ位置に立って眺められたら、明日はどうなるかについての一切の心配も恐れも不安も消えてしまうことでしょう。あなたの背後には宇宙最大の霊力が控えているのです。その力は決して裏切りません。

 
───迷いながらも自分で決断を下さなければならないことがあるのです。

 そこにあなたの自由意志の要素があるわけです。ご自分で精一杯のことをする───私たちから皆さんに要求するのはそれだけです。もしもあなたが完ぺきに振舞える方だったら今この地上にはいらっしゃらないでしょう。

 あなたは他人のために役立つことができるという測り知れない光栄に浴していらっしゃいます。それがあなたにとって地上における最大の貢献です。あなたはそのために生まれて来られたのです。

 地上へ誕生してくる魂には例外なく自我の開発のための機会が用意されております。誰一人として放ったらかしにならないように摂理ができあがっているのです。それは絶対不変ですし、しくじるということがありません。

 四季は間違いなく巡ります。潮は数学的正確さをもって満ち引きします。花、小鳥、樹木、自然界の全生命がその素晴らしい配剤を生んだ背後の大霊への讃歌を奏でております。

 私たちも決して皆さんを放ったらかしにはいたしません。引き上げてしまうようなことはいたしません。 霊力はすでに地上にしっかりと根づいております。それを打ち消せるものは何一つ存在しません。必ずや所期の目的を成就します。

 これまでの永い人類の歴史において、散発的に何度か霊力の奔流が地上へ流れ込みましたが、さまざまな原因からいずれも一過性のもので終わりました。が、このたびばかりは違います。

 地上世界は今、進化の過程における一つの危機に差し掛かっております。一触即発の状態にあると言ってもよいでしょう。しかし、人類はこれをきっと切り抜けることでしょう。地球の最期、人類の終焉が近づきつつあるかの予言や警告に耳を貸してはなりません。

 神は地上の人間によってもたらされる破壊や損害にも限界をもうけております。地球全体を破滅させるほどの力は地上には存在しません。人類全体を殺りくするほどの力は存在しません。人間がいかに複雑で性能のいい科学技術を発明しても、それによって為しうることにはおのずから限界があります。

 霊的な力は人間が製造しうるいかなる物的な力よりも強大です。物質は本性そのものが霊に劣るのです。霊が王様で物質は召使いです。霊こそ実在であり、物質は霊の働きかけがあるからこそ存在できているのです。霊が引っ込めば物質は分解します。人類がその危機的段階を首尾よく切り抜ける上で霊が圧倒的な支えとなります。

 あなたの人生思想の根幹となるべき霊的知識にまず絶対的自信を置くことです。そしてその知識だけでは処理できない事態が生じた時は、それに信仰(信念)を加えるのです。

手にされた知識を根拠とした信仰です。信仰心も、筋が通っていて論理性があり、納得のいくものであれば、それなりの効用はあるものです。

 背後霊の存在を信じることです。機が熟した時に必要な援助があります。条件が整い、正当な必要性がある時は、背後霊は地上に物的な結果を生じさせる力があります。私たちもそれを何度もお見せしてきました。これからも必要に応じて行使します。

霊的知識を人に説く時は、背後霊は決して見棄てないことをよく言って聞かせてください。ですから、人間の方から背後霊を見棄てないように、ということも言い添えて下さい。

 お金が足りなければ工面してあげます。せっかくの奇特な行為のチャンスが資金がないために失われるようなことには決してなりません。その点をあなたはどう思われますか。必要なだけの資金は不思議にどこからか入るものだと思われたことはありませんか。

霊の道具としての仕事に励んでいる者は、物的生活の必需品に事欠くことには決してなりません。こちらから用意してあげます。飢えに苦しむようなことにはなりません。渇きに苦しむようなことにはなりません。きっと何とか切り抜けられるものです。

 ラテン語の sursum corda (スルスム コルダ)という言葉をご存知でしょうか。〝汝ら心を上げよ〟 という意味です。霊の崇高な力、宇宙最高の力、光輝と美と荘厳さと威力に満ちたエネルギーについてはすでに十分な証しをお見せしております。それは絶対に裏切ることはありません。

あなた方は人間としての最善を尽くしておればよいのです。それ以上のことは要求いたしません。そして今のラテン語の通り、決して悲観的にならないことです。

 皆さんは太陽の光をご覧になられたのです。もしもそれが雲によって遮られた時は、その雲はいつか消えて、また明るい太陽が顔をのぞかせるのだと自分に言い聞かせるのです。あなたの目に見えなくても太陽は常に照り輝いているのです。

      ※         ※                         

 初めて交霊会に出席したある女性霊媒に温かい歓迎の挨拶をしてから、こう述べた───

 あなたのために私が何かのお役に立てば、あなたが神から授かった霊的能力を使って天命を全うしておられるように、私も私の天命を全うしていることになります。


───私はとても幸せ者だと思っております。

 そうです。私たちはみんな幸せ者です。自分を豊かな存在としてくれている霊的知識の所有者だからです。ことにあなたのような、霊の道具として働いておられる方にお会いすると、私は大へん幸せな気持ちになります。

なぜなら、私にはその仕事の大変さ、遭遇する困難の厳しさがよく分かるからです。懐疑と困難と絶望から、知識と確信と啓発への巡礼の旅をしてこられた、その大変さを私はよく理解しております。

 霊的指導者の人生は全て同じパターンをたどります。むごい仕打ちを受ける試練の時期があります。基盤としていたものが全て瓦礫したかに見えて、悲哀が身に染み煩悶する危機的な時期もあります。もはや導きと理解を求めるところはいずこにも無いかに思うことがあるものです。

 いやしくも人のために生涯を捧げる使命をもつ者は、過酷な試練を体験しなければならないのです。もはやこれ以上は耐え切れないと思うギリギリの淵まで追いつめられ試されなければならないのです。地上のいかなる者からも救いの手は差し伸べてもらえないと思える深淵まで落ちてみなければならないのです。

 それに至って初めて魂が目を覚まし、霊界から届けられる豊かさと力と導きと叡智と愛とを受け入れる用意が整うのです。過酷な体験の目的は慈悲の心を芽生えさせることにあるのです。

なぜかと言えば、慈悲の心なくしては霊覚者も治療家も真の意味で人を救う仕事はできないからです。

 それしか方法がないのです。太陽が燦々と輝き、何不自由ない安楽な生活の中で、果たして自我の開発が望めるものでしょうか。試練を経ずして魂の崇高性が発揮されるでしょうか。何一つ学ぶことのない生活を送っていて、一体どういう精神的発達が望めるでしょうか。

 そのうちあなたも地上生活を振り返って〝厄介な問題こそ有難かったのだ。あの苦労があったからこそ人生の目的を悟り自我の開発の道が見出せたのだ〟と思われる日が来ることでしょう。

 人生の出来事の一つ一つに償いがあり、差引き勘定がきちんと行われるようになっております。神には絶対に手違いというものがありません。過去を振り返ってご覧になれば、この道にたずさわる他の全ての同志と同じく、あなたの人生も間違いなく霊の導きにあずかっていることがお分かりになります。

 他に類のない地上最強のエネルギーの通路となっておられることは名誉なことです。あなたを通じてそのエネルギーが流れるのです。あなたを鼓舞するのです。そのお陰で、寄る辺ない身の上をかこつ人々を元気づけてあげることが出来るのです。

あなた自身もかつてその援助にあずかったのです。それは牧師にも科学者にも思想家にも出来ないことです。なぜなら彼らには、悲しいかな、霊の働きかける余地がないからです。

 あなたがたった一人の人間に自我を見出させてあげることができたら、たった一人の人間を喪の悲しみから救い出してあげることができたら、たった一人でも病の人を癒してあげることができたら、それだけであなたの人生は価値をもつことになるのです。

 それを可能にさせる力があなたの身の回りに存在し、あなたを包み、守り、指示を与え、あなたの大切な財産である神性と霊的能力の開発を続けさせてくれていることを認識しておられるあなたは、何と恵まれた方でしょう。


───優れた霊媒になるためには苦しまねばならないのでしょうか。苦労の連続で生涯を終えている霊媒を数多く知っております。私はスピリチュアリストとしての生活を心掛けてきましたが、霊媒になりたいとは思いませんでした。それが子供を失ってからその気になりはじめました。

 光を見出すのは暗闇の中にあってこそです。人生は全て両極性です。苦労なしには魂は自我を見出すチャンスがありません。苦難がその触媒となるのです。霊的に向上し、霊的資質をより多く具え、喜んで人のために自分を犠牲にする覚悟ができるようになる、その手段として用意されるのです。


───霊媒は霊媒としての素質を具えて生まれてくるほかはないのでしょうか。つまり素質がなければ、いくら鍛錬しても無駄なのでしょうか。

 能力そのものは生まれながらに具わっていなければだめです。それは授かりものです。しかし人間は、霊の属性を具えているという意味においては、みんな霊媒です。

(訳者注───日本語で〝霊媒〟という場合は物理現象を起こしたり自動書記通信を書いたり霊言を告げたりする為の〝霊の媒体〟という意味にかぎる傾向があり、心霊治療家や霊視能力者などは含まれない。が、英語では霊的な能力を持った人をひっくるめて medium (ミーディアム)つまり霊媒と呼ぶことが多い。

私はそうした日本での傾向を踏まえて、その時々に応じて訳し分けているが、ここでシルバーバーチが言っていることが ミーディアム の本来の意味である。

 モーゼスの 『霊訓』 の続編である 『インペレーターの霊訓』 に参考になる部分があるので引用しておきたい。これはシルバーバーチと同じくインペレーターが入神したモーゼスの口を借りて語った霊言である。

≪人間とは何か。人間とは所詮はインスピレーションの媒体にすぎません。地上で崇められているいかに立派な人物も、神がその叡智のうち、人間にとって適切とみたごくわずかな一部を伝達するための道具にすぎません。そのなすところのものは、偉大なるものも、気高きものもすべて守護霊の影響でないものはありません。

 霊媒が特別の能力ゆえに選ばれることは事実ですが、その能力とて、取り立てて崇めるべき性質のものではありません。ある啓示のための適切な道具として選ばれ、その啓示が託されたというにすぎません。霊媒自身の功績とすべきものではないということです。

 また真に忠実な僕としての心得のある者ならば、そうは思わないものです。ただの媒体、神の啓示の栄誉ある道具に過ぎません。その栄誉も霊界側から見ての栄誉であり、世俗的な意味での栄誉ではありません。神の僕───神のメッセージの受け皿として選ばれたという意味において、われわれの側にとって有難い存在ということです。


 その任務を忠実に遂行するにつれて霊媒も恩恵を受け、地上を去ってのち、こんどは自分が神のメッセンジャーとして地上の霊媒にメッセージを届ける役目にふさわしい人物として成長していきます。その受け皿はおのずと気高い芳香に満ちております。

その神の僕として仕えれば仕えるほど、その気高さを増していきます。神の真理という名の宝石箱として、人間と天使の双方から敬意を受けるに足る存在となってまいります。

 しかし万が一にも不純なるもの、不正なるもの、臆病あるいは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、あるいはもし神のみに帰すべき栄光を私(ワタクシ)せんとする傲慢無礼を働くようなことがあれば、

さらには又、俗世への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は神の道具として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いなる害を被ることになります。

 それが不変の神の摂理なのです。大いなる栄誉は大いなる責任を伴うということです。善行の絶好機を手にしながら無為に過ごした者、あるいはそれを故意に悪用した者には、神の意志を知りながらその実践を怠った僕としての禍いが降りかかります。

前者が向上するところを後者は下降します。霊的能力は没収され、道徳的にもまた知的にも堕落していきます。栄誉を投げ棄て、そして、恩恵に代わって禍いが降りかかります。

 それ故、そうした経歴の持ち主が他界した後にもし通信を送ってくるとすれば、その通信は、その人物の地上での評判から想像されるものより必然的に低いものとなりましょう。

地上で彼が語った言葉は彼自身のものではなくインスピレーションによる霊の言葉でした。が、今や神より授かった霊的能力は没収されています。彼の語る言葉は、親和力によって引かれ行く低次元の世界に似つかわしいものとなっています≫


───物質中心の考えをしているために、一生涯、霊的なものに気づかずに終わる人が大勢います。

 そういう人のことを気の毒に思ってあげないといけません。せっかくの地上人生を無駄にしたのです。真の自我を見出せずに終わったのです。それはちょうど正規の義務教育を受けながらそれが身につかず、卒業後の大人の人生に何の備えもないまま学校生活を終えたのと同じです。

 地上は死後に否応なしに始まる次の段階の生活にとって不可欠の準備をさせてくれるところです。一つ一つの体験が進化していくために支払う代価なのです。地上人生は一本調子ではありません。光があれば影があり、日和の日があれば嵐の日がなければなりません。

 両極端があり、対照となるものがあるからこそ人生の意義が理解できるのです。作用と反作用は正反対であると同時に相等しいと言われます。人を憎むことの出来る者はそのエネルギーを愛に転換することができるのです。愛と憎しみとは同じコインの表と裏です。どちらを選ぶかはあなた次第です。

 摂理の働きは完ぺきです。一つ一つの行為に褒賞があるように、天罰もあります。その摂理をごまかすことはできません。地上では自分を偽り他人をごまかすことができます。しかし死がその化けの皮をはがし、魂のあるがままの姿がさらけ出されます。もはや見せかけは通用しません。

地上にあっても、霊視能力をもった人には仮面の内側の本当の顔が見えます。地上にはマスクをかぶった人が多すぎます。

 でも、あなたは今そうした人たちを救ってあげているのです。人間として正しい道を教えてあげているわけです。人間の可能性を見せてあげているわけです。それから先のこと、つまりその知識を日常生活の中においてどう活用するかは、その人自身の責任です。

あなたが考え込むことはありません。常に堂々と胸を張って生きることです。なさねばならないことが沢山あります。悲しいことですが、霊的真理を知らない人が無数におります。その人たちをわれわれが何とかしてあげないといけません。

 あなたは、霊的能力を開発していない他の人々には出来ない貢献ができるという、測り知れない光栄を担っておられます。毎日のように到来する素晴らしい好機を前に、あふれんばかりの喜びを覚えてしかるべきです。

 しかし同時に、知識には責任が伴うことを忘れてはなりません。あなたには崇高な真理が託されているだけではありません。崇高な力、神の力、あらゆる可能性をもった生命力そのものも託されているのです。

 自分を改造し、生きる意欲を覚えさせてあげる、そういうお手伝いをするということは、大変な責任を伴う仕事です。ですから、あなたが迷うことがないように霊界からの導きがあります。きっと道は示されます。迷うことなく突き進みなさい。一日一日が霊的高揚の源泉となる奉仕的仕事の機会をもたらしてくれます。

 あなた方も私たちも、ともに大いなる事業に参加しております。地上にはなさねばならないことが山ほどあります。これまでにも多くを成し遂げてまいりましたが、これからなさねばならないことに較べれば、まだまだわずかなものです。

 頑張らないといけません。そして訪れる機会を逃さず、どこででも人のためになることができるようでないといけません。そして又、霊力というものが、それをみずから手にしてそこから恩恵を摂取した人の生活を本当の意味で豊かにしてくれることを立証するために、お互いの役割を果たさないといけません。

 あなたのお仕事は人のために役立つからこそ尊いのです。さらに大きな徳積みのためにもっと大きな力、もっと多くの叡智を求めて神に祈りなさい。そして又、こうして協力している私たちの姿が見えず声は聞こえずとも、私たちはこれからもあなたを見守り、導き、元気づけ、支援していくことを信じて下さい。

 かくしてお互いの協力によって、神の子のすべてに生きる道を教えるべく意図された計画を成就していくことができるのです。そしてその仕事に勤しめば勤しむほど、大霊の絶対的な力にいっそう調和していくのです。

        ※          ※                              

 別の日の交霊会である霊媒に次のような励ましの言葉を述べた───


 この私について、いささか誇張されたことが喧伝されておりますが、私は全知でも全能でもありません。あなたと同じく一個の人間的存在です。ただ私は、あなたより少しばかり永い人生を歩み、霊的進化の道をずっと先まで進んでおります。

 その結果として私はより多くの知識を獲得し、これこそ地上人類を悩ます問題の多くを解決する上で最も啓発性に富んでいることを知りました。そこで、これまでの道を後戻りして、その知識を、受け入れる用意のある人たちと分かち合いたいと思ったのです。

 あなたの場合、こうした真理がダマスカスへ向かうパウロの場合のような目を眩ます光としてではなく、理性的で、知性を侮辱することのない形で届けられたという点において幸せであったと言えます。

それによってあなたはより広い人生の視野を開かれ、地上への誕生の目的を知り、この地上生活を終えたあとに待ちうける、より大きい、より豊かな生命の世界に備えるためには何をすべきかを理解されました。

 その知識を授けられたのは、あなたにそれを受け入れる用意ができた時でした。それまでのあなたには解決を迫られる危機的状態や問題がいくつもありました。もはや地上にはその解決策は見出せないかに思える中で、あなたはなおもそれを一心に求めておられました。

 そのカギは魂の覚醒にあるのです。大部分の人間の魂は居眠りをしております。活動していないということです。内在する神性の火花を煽らないことには魂の啓発はできないのです。

その点火の触媒となるのが危機的体験であり、悲しみであり、別離であり、病気なのです。

 人生は相対性の原理ででき上がっております。スペクトルの両極、コインの両面、あなた方が〝善〟と呼んでいるものと〝悪〟と呼んでいるもの、という具合です。

いかなる経験にも魂を目覚めさせる上で役立つものを含んでおります。バラ色の人生ではだめなのです。先ほど述べたような触媒によって魂の琴線に触れるところまで行かないとだめなのです。

 あなたは心霊治療の能力を未発達の状態でお持ちになっています。それを他人のために役立てるところまで発達させることができます。あなたにはなすべきことがいろいろ用意されております。

そのための道が今開かれつつあるところです。すでになすべきことは終わったと思われるかも知れませんが、実際はまだまだ新しいサイクルが始まったばかりであり、それが多くの精神的ならびに霊的褒賞をもたらしてくれることでしょう。

 あなたの前途は大いなる可能性に満ちております。あなたにとってのみならず他の人々にとっても測り知れない恩恵をもたらす精神的ならびに霊的冒険へ誘ってくれます。奥さんとのご縁はそのために結ばれたのですよ、ご存知ですか。

お二人は常に導かれ霊感を受けておられることを自覚なさらないといけません。少なくとも扉が開かれ道が示されたことだけはお気づきと思いますが・・・・・・

 ここにお集りの同志の方にいつも申し上げていることですが、私たちは私たちのやり方で私たちのタイミングで事を運ぶしかないのです。魂が自覚するのを辛抱強く待たねばなりません。

それには何十年も掛かることがあります。そして、その甲斐あってやっと受容力を発揮しはじめると、とたんに人間の方が高慢になって〝さあ、どしどしやろう〟といった調子で性急に事を運ぼうとします。

 私たちがそれまで辛抱強く時機の熟するのを待ったことをご存知ないのです。私たちは霊的な世界から物的な世界へ向けて影響力を行使しなければなりません。

そのための通路として霊媒を使用しなければなりません。もしも適当な霊媒が見当たらなければ、霊感的に導き指示を与えて、せっかくの通路を無意識のうちにでも塞いでしまうことのないように細心の注意をもって監視しなければなりません。これが又とても厄介な仕事なのです。

 確固たる霊的知識に裏打ちされた完ぺきな信頼と自信と信仰(信念)とがある時はその通路が開いており、受容性が高いのですが、そこへ不安の念が入り込むと、とたんに雰囲気が乱れて、通路を塞いでしまう要素が生まれます。

取り越し苦労は無知の産物です。霊的知識をたずさえた者が不安の念を抱くようなことがあってはなりません。同じく、悩みの念も、その中身が何であれ、成就されるはずのものを成就されなくしてしまいます。

私は何時も交霊会の開会に際してこう述べています─── 〝心配、悩み、疑い、不安の念のすべてを、しばし、わきへ置きましょう〟と。霊力が存分に、そして自由に流入するのを、そうした念が妨げるからです。

 私たちを信頼してください。きっと道をお教えします。扉を開いて差し上げます。閉め切られた扉をノックしてみて開かない時は、あきらめることです。ノックしてみてすぐに開いた時は、真っ直ぐに突き進まれるがよろしい。

それがあなたにとって正しい道なのです。私たちとしてはそういう形でしか援助できないのです。良い知恵を絞って導いてあげるということでしか援助できないのです。(人間的努力の範囲まで踏み込むわけにはいかないということ───訳者)

 あせってはなりません。快く私達の協力者となってくれるだけでよいのです。そうすれば私たちなりの役割を果たします。

           ※          ※

 霊聴能力を持っている人に勇気づけの言葉を述べる───

 背後霊があなたの存在を忘れてしまうようなことは絶対にありません。かつてあなたがいずこへ向かうべきかを悩んだ時、あたかも絶望の淵に落ち込んでしまったかに思えた時にもしっかりと保護され導かれていたように、前途に横たわるこれからの日々にも霊の力がきっと支援してくれます。

 無限なる叡智を具えた大霊からいただいた能力を存分に発揮し続けて下さい。かつて霊力が顕現したことのない所でそれを発揮し、受け入れる用意のある人にもたらす光明をますます増していってください。

 あなたのお蔭で人生の視野が一変することによってどれほどの恩恵がもたらされるか、あなたご自身にはお分かりになりません。あなたのお蔭で霊的知識という掛けがえのない啓示がもたらされております。

そのあなたが落胆したり明日はどうなるかなどという不安をいささかでも宿すようなことがあってはなりません。あなたはすでにこれまでも数々の危機をくぐり抜けてこられました。これからもイザとなれば必ず道が開けます。

 あなたは霊力の通路なのです。あなたが存在することによって成し遂げられてきたことを誇りに思うべきです。同時に、あなたの協力のもとにこれから成し遂げられていく仕事を自覚なされば、なお一層誇りに思うべきところです。

 あなたも生計を立てていくための費用がいります。地上世界ならではの必要品を備えないといけません。衣服を着なければなりません。その他、物質の世界であるがゆえの費用を支払わねばなりません。そのことは私もよく存じております。私が申し上げているのは、そうしたことを悩みのタネとしてはいけないということです。責任は大いに自覚すべきです。が、心配の念はいささかも抱いてはなりません。

 私も今では現代社会ならびにそこでの生活の仕組みをよく知っております。時には(生活費など)物的なものが手に入るよう、ある程度の物的法則を操作しなければならなかったこともあります。

 私が何時も強調していること───むろん聞く耳を持つ人に対してのことですが───物的なものは実在の投影もしくは殻に過ぎないということです。

物質は霊によって活力を与えられているからこそ存在しているのです。霊が正常であれば、つまり霊と精神と身体とが調和して機能しているかぎり、物的生活に必要なものは必ず手に入ります。

 霊が主人であり物質は従僕です。霊は殿様であり物質は家臣です。霊の方が物質に勝るのです。地上生活に必要な物的必需品まで無視しなさいと言うのは愚かなことですが、それに心を奪われて精神と霊にとって必須のものを疎かにするのも同じく愚かしいことです。

 このことは現在の地上の人間にとってぜひとも心しなければならない重大な教訓です。大半の人間が物質を優先させ、霊に関わることにはほとんど関心を向けておりません。

 霊的実在についての知識を手にした者は、不安・心配・悩みの念を宿すようなことがあってはなりません。この種の感情は陰湿な性質を帯びております。活力に満ちた霊的エネルギーが届けられる通路を塞いでしまいます。生き甲斐ある人生にとっての必須の要素が流入する上で不可欠な調和状態を妨げ、乱してしまいます。

 視点を何時も永続性のある価値をもつものに置くことが大切です。そして、受け入れる用意のできた人に、いかに生きれば、本来自分のものであるべき生命の豊かさを味わい、地上に借りを残さずに済むかを教えてあげる必要があります。

 地上を見渡してみますと、霊的に貧しい人が無数におります。物的な貧しさゆえに悲しい思いをすることがあるのは地上の常ですが、霊的な貧しさを見るのも同じく悲しいものです。

 心をいつも開放的にして精神に宿された能力を開発しさえすれば、霊の持つ栄光、光輝、威厳、崇高さ、気品に満たされるようになっているのです。そうしてあげること、つまり地上人生を生きていく上において何を優先させるべきかを認識してくださるように配慮するのが私たち霊団の使命なのです。

 その点あなたは無限なる叡智を備えた大霊からの霊的才能のいくつかを授かっておられる、実に恵まれた方です。そのお陰で主教や牧師よりもはるかに宗教的な仕事をなさっておられます。

悲しみに暮れる人の涙を拭い、精神的ならびに霊的に弱った人に力を与え、病いの人を癒やし、人生に迷っている人に道を教えてあげてこられました。その人たちは、かつてのあなたと同じように、もはやこの世には自分の力になってくれる人はいないと思い込むほどの絶望的段階にあったのです。

 そういう人助けをするための霊的才能を授かるには、みずから苦しみと悲しみを味わうという条件が付きものなのです。霊の道具としての自覚をもつに至るには苦を体験しなければならないということです。

苦の体験の本質は霊的才能を手段として仕事をする者の試金石です。それを耐え抜いて初めて自分のもとを訪れる人の力になってあげることができるのです。

 霊の僕であることを自覚する者は安楽な人生を期待してはなりません。霊的使命を帯びた仕事にたずさわっている者は、それが決してラクな道でないことを覚悟しないといけません。もしもラクな道であれば、無理してその道に踏み入るほどの価値はないでしょう。

 霊の褒章は刻苦勉励の末に手に入れなくてはなりません。しかし一度手にしたら絶対に失われることはありません。霊の富は永遠です。

地上で得られる富は地上時代だけの一時的なものでしかありません。霊的な熟練はそう簡単に達成されるものではありません。霊的褒賞もまたそう簡単に手に入るものではありません。

 あなたはこの道に献身するために生まれてこられました。これまで立派に献身され、今も献身なさっておられます。そうした素晴らしい霊の力の通路となっておられる方とお話しできることは私にとってこの上なくうれしいことです。

その通路のお陰で霊力が、受け入れる用意のある人に豊かな恩恵をもたらします。受け入れる用意ができていなければ、その通路としてのあなたにも為す術がありません。

 ある人があなたのもとへ導かれてきたということは、その方にとって掛け替えのない、真の自我発見のチャンスが目の前にあるということです。もしうまく行けば、あなたも大いに喜ばれるがよろしい。万が一失敗に終われば、せっかくのチャンスが失われたことに密かに涙を流してあげなさい。

 あなたにはまだまだ仕事があります。あなたは今まさに天命を全うしつつあります。霊的な仕事に献身できていることをこの上ない幸せと思わないといけません。

 残念ながら地上には存在の根源である霊的実在について何一つ知らない人間が無数におります。何のために生きているのか、天命を全うするにはどうすべきか、他人に天命を全うさせてあげるために自分の才能や能力をどう活用すべきか、そうしたことについてまったく無知なのです。


 そうした現実の中にあって、たった一人でも魂が感動し、ゆっくりではあっても真の自我に目覚めていく、その手段となるたびに、あなたは貴重な貢献をしていることになるのです。

 私たち霊団の者が四苦八苦の末にこうして地上へ戻ってくる理由もそこにあります。地上人生は道を見失い、物的利己主義と貪欲と強欲の沼地に足を取られ、それが戦争と暴力と憎しみを生んでおります。

 霊の優位性を認識し、人間が肉体をたずさえた霊であることに得心がいく───言いかえればすべての人間が神の分霊であり、それゆえに人類はみな兄弟であり姉妹であり、神を父とし母とした一大家族であることに理解がいった時、その時初めて戦争も暴力も憎しみも無くなることでしょう。代わって愛と哀れみと慈悲と寛容と協調と調和と平和が支配することでしょう。

 人間世界だけではありません。この惑星を共有する動物の世界にもそれが行きわたることでしょう。かくして地上の汚点である動物への虐待行為も影をひそめることでしょう。それが私たちの努力の背後に託された目的なのです。

 皆さんは気落ちしたり悲観したりする必要はどこにもありません。信念に基づいた希望に胸をふくらませて、常に楽観的であらねばなりません。その信念が盲目的であってはなりません。

理性的検討を加えずに安直に信じているのではいけません。生命が永遠の霊的実在であるとの、もはや争う余地のない事実を基盤とした信念であらねばなりません。


───〝なせば成る〟 の教えを説くある指導者が、物的なものであろうと霊的なものであろうと 〝必ずそうなるのだ〟 と信じて行えば何ごとも成就すると述べています。これは心霊的能力(サイキック)の悪用になるのでしょうか。

 何もかもが自分の思い通りになるわけがない以上、その指導者の言葉は言い変える必要があります。人間にできることというのは自然法則によって一定の限界というものが設けられております。

もしもそうした限界がなかったら、この地球を始めとして物的宇宙全体が基盤としている原理のすべてを人間が破壊してしまうこともできることになります。

 私はその〝なせば成る〟式の生き方の背景にある積極的な物の考え方そのものに反対しているわけではありませんが、そのつもりになれば何もかも自分の思い通りになると考えるのは愚かです。例えば人間に太陽が思い通りになるでしょうか。

 
───(霊媒能力が出始めたばかりの人) ごく自然な状態で能力を発揮したいと思っているのですが、昼間はなかなか思うにまかせません。やり始めたばかりですので、いろいろと解決しなければならない問題があります。そのうちうまく行くようになると思っておりますが・・・・・・

 何ごとも自然ということが大切です。気負わず、受身の心境になり、迷ったり不安に思ったりせず、信念を持つことです。ここまで導いてくれた霊の力はこれから先も裏切ることはしません。あなたをしっかりと保護している愛の腕がほどかれて、あなたをおっぽり出すようなことは致しません。

 あなたはあなたなりに自然に振舞ってください。そうすれば霊側としての役目を果たします。その準備としてまず、〝静寂の時〟を持つように心掛けて下さい。日常生活の喧騒から離れた状態へ身を引くのです。すると内部の霊力がより大きく顕現して、人のために仕事をする上で必要な落着きと調和と愛と寛容が整います。

 あせってはいけません。じっくりと構えるのです。背後霊があなたをここまで導くのにもずいぶん時間が掛かったのです。そのうちあなたも、この道にも総合的な計画があって、我々にもそれに即応した役目があるということが分かるようになります。

最後は人間にとってだけでなく私たち霊側にとっても好都合に展開するようになっているのです。

        ※           ※

 別の日の交霊会で、かつては物理的心霊現象が盛んに見られたのが今日では珍しくなってきたのはどういうわけかと尋ねられて───

 それは物的側面の進化の法則だけでなく霊的側面の進化もあるからです。地上世界の思想的動向は当初と今とでは大きく変化しております。霊的実在を物的手段で証明して見せなければならない時代には物理的心霊現象が必要でした。当時の科学者は物的ものさしで計れないものを受け入れる用意ができていなかったのです。

 今や核融合という目に見えない化学反応を利用して大災害も大恩恵も被ることができることを知りました。唯物科学の根底が崩れてしまいました。物質の究極と思っていた原子も、さらに細かく分解されてしまいました。今や科学者も物質は固体でなく、実在は見えざる世界にあることを認めています。

 そうした思想的動向と歩調を合わせて、霊的治療が発達し発展しております。それによっても物質を超えた霊力の存在を証明することが出来ます。


───心霊能力を軍事面に利用しようとする実験が、とくにソ連において行われていると聞いておりますが、このまま行くと実際に心霊能力が好ましからざる方面で使用される危険がありそうです。

 私は少しも心配しておりません。私は皆さん方のどなたよりも永く生きてまいりました。その間に見聞し理解したことによって私は、無限なる叡智と愛をもって全星雲、全天体を包摂する大宇宙機構を考案した大霊に対して、大いなる崇高と畏敬と感嘆の念を禁じ得ないのです。

 すべての人間、すべての事柄が自然の摂理によって規制されております。それには手落ちというものがなく、数学的正確さをもって働き、絶対に間違いを犯しません。宇宙間のありとあらゆる存在がその中に包摂されていますから、何一つ、誰一人として排除されたり忘れ去られたり無視されたりすることがないのです。

壮大なものから微細なものに至るまで、単純な物から複雑なものに至るまで、あらゆる存在を自然の摂理が支配し支え規制しているのです。

 地上での人間の行為にも制約というものがあります。その自然の制約に背いたことはできません。人間がなしうる害悪と破壊の程度にも、その制約による限界が設けられているのです。

 そういう次第で私は楽観主義者であり、悲観的な考えは持ち合わせません。今おっしゃった実験は軍事的な利用価値を検討するものですが、それによっていかなる害悪がもたらされようと、他方において科学的技術その他あらゆる力を駆使して人類に恩恵をもたらさんとしている人たちによってもたらされる利益の方が大です。

 心配してはいけません。心配の念はロクなものをもたらしません。心配の念は魂を蝕みます。心配の念は精神も錆びつかせます。心配の念はせっかくの霊的援助の通路を塞いでしまいます。地球をはじめとして宇宙間のあらゆる天体の責任者は大霊なのです。いつかは善が悪を駆逐します。


───するとあなたは、心霊能力が邪悪な目的に使用される可能性があることは否定なさらないわけですね。

 大霊はあなた方人間をロボットや操り人形になさりませんでした。一定範囲内の自由意志、選択の自由を与えて下さっています。が、それにも制約があり、限度があります。その摂理に背いたことはできません。

 心霊能力というものを持ち合わせる以上は、それを悪用しようと思えば出来ないことはありません。ただし、それには責任が伴います。いかなる知識もそれ相当の責任というものが付加されずして手に入れることはできません。