Thursday, May 22, 2025

シアトルの春 背後霊の仕事

The work of the spirit behind



  Light from Silver Birch
Edited by Pam Riva


── 一般的に言って指導霊というのは人間のパーソナリティの規模を拡張した、その延長と考えてよろしいでしょうか。それともまったく別個の存在でしょうか。


 とても複雑な問題です。今おっしゃったパーソナリティはインディビジュアリティに置きかえた方がよいと思います。私は物的身体から派生する人物像であるパーソナリティと、その人物像という仮面(マスク)の背後の実像であるインディビジュアリティとを区別しております。

 地上ではあなたという存在はあくまでも独立した一人物ですが、霊的なインディビジュアリティは必ずしもそうではありません。例えばアフィニティというのがあります。これは一個の魂が半分に分かれた存在で、二つが同時に地上へ誕生することがあるのです。

 それから私がダイヤモンドの側面に例えている〝霊相〟とでも呼ぶべきものがあります。一個のダイヤモンドがあって、それに沢山の〝相〟facet があります。それぞれが地上に誕生して体験を持ち帰り、ダイヤモンドの光沢を増します。

 さらにそのダイヤモンドがいくつか集まって一個のインディビジュアリティを構成しております。例えばこの霊媒(バーバネル)と奥さん(シルビア・バーバネル)と私(シルバーバーチ)とは一個のインディビジュアリティに所属しております。一人の支配霊がいくつかの類魂を従えていることがあるわけです。

それを〝延長〟と呼びたければそう呼ばれても結構です。が、結局は同じことに帰一します。つまり地上で肉体を通して顕現するのはインディビジュアリティの極々小さな一部と言うことです。

(訳者注──これまでインディビジュアリティとダイヤモンドが同一であるような表現で説明していたのを、ここで初めて霊側からみた場合の違いを解説している。

 要するに意識の中枢であるインディビジュアリティがあって、その分霊を受けた魂の集団、いわゆるグループソールがある。その魂の一つにも相 facet があり、その相が地上へ誕生してくることもある。一つだけのこともあれば二つ、三つ、あるいはもっと多くの相が一度に一個の人間として誕生してくることもあり、全部が、つまり一個のダイヤモンドがそっくり誕生してくることもある。魂が大きいというのは相が数多く携えているということである。使命が大きいほど多くの相を携えている。

 ダイヤモンドに例えられているのは一個の魂のことであり、その魂がたくさん集まって一個のインディビジュアリティを構成している。地上で〝自分〟として意識しているのは脳を中枢として顕現している地上特有の人物像であって、その中において霊的自我の占める要素は極めて少ない。よほどの切実な試練でも体験しない限り目覚めない。

そこでシルバーバーチは安楽な生活より苦難の生活の方が有難いのです。と言うわけである。

 なお以上の説明は〝霊側からみた場合の違い〟であって、それを人間側からどう理解するのかは、例えや用語の受け止め方によって各人まちまちであろう。シルバーバーチがたびたび言っているように、用語にはあまりこだわらない方がよい)


──霊の導きを受けていることは私にも分かりますし、そのレベルの高さも分かるのですが、分からないのは、その導きの源が普遍的な始源なのか、それとも特定の指導霊なのかという点です。祈りまたは瞑想によってその出所を確かめる方法はあるのでしょうか。

 よく引用される諺をまた使用させていただきましょうか。〝師は弟子に合わせて法を説く〟 と言います。これがご質問への答えにならないでしょうか。このようなことにこだわってはいけません。

すべての導きは宇宙の大霊すなわち神から来ます。神庁から派遣される霊、およびあなたと霊的近親関係にある高級霊が、あなたが地上へ誕生する前から付いてくれているのです。

 必ずしも姿を見せるとは限りませんが、霊によってはきちんと姿を見せて地上での仕事について相談し、よく納得してから誕生させる場合もあります。その霊を何と呼ばれても結構です。今もちゃんと控えて下さっています。

側を離れることはありません。(九巻の解説《〝霊がすぐ側にいる〟ということの意味》参照)。その仕事は聖書(詩篇)にある通りです───〝神は天使を遣わして汝を守り、すべての面倒を見させ給う〟


 いずれも光り輝く存在です。それぞれの受け持ちの人間を取り囲み、保護と指導と援助という、みずから課した責任の遂行に当たります。その最後の目標は霊的発達を促すための道へ導くことです。それは容易なことではありません。岩や石ころだらけです。しかも見慣れた景色を後にするにつれて、ますます困難さを増していくものです。

(同じことを別のところで〝霊的理解が深まるにつれて、ますます孤独感が増していくものです〟と表現している──訳者)

 しかし、低く沈むだけ、それだけ高く上がることもできるのです。志は無限に高くもつことができます。完全というのは、いつかどこかで達成される性質の過程ではありません。到達せんとする過程の無限の連続です。

 霊の褒章を手に入れたければ、それなりの犠牲を払う覚悟がなくてはなりません。しかし、いったん手に入れたら二度と失うことはありません。

 私たちには人間世界の困難な事情、問題、そして欲求のすべてをよく理解しております。物的な世界に住んでおられるのだということを十分認識しております。

そこで、奉仕的な仕事に打ち込んでおられる方が食べるものや飲むものに事欠くことのないように、その供給源との連絡を取りもっております。必要最小限のものは必ず手に入ります。

 皆さんだけでなく、お会いする人すべてに申し上げていることは、人間としての最善を尽くしてさえいればよろしいと言うことです。それ以上のものは要求しません。たとえ倒れてもまた立ちあがることができるのです。


──支配霊にはレッド・インディアンが多いようですが、霊媒が次々と他界していったあと、それを継ぐ人がいないようです。もっと多くのインディアンの支配霊の働きを期待したいのですが・・・・・・

 情けないことを言ってはいけません。時が至れば必ず手段は見つかるものです。もとより霊媒も生身である以上は、いつかは霊界へ来なくてはなりません。神は肉体が永遠の生命を持つようには計画されていません。地球というのはほんの束の間の生活の場です。永遠の住処ではありません。


 (招待客の一人で心霊治療家として活躍している女性が述べる)

──霊媒のバーバネルさんが他界なさる時が来たらどうしようかと心配でなりません。

 心配はお止めなさい。心配してもなんの解決にもなりません。不安を抱いてはいけません。私は時折、私がこの霊媒たった一人を道具として使命を開始した時のことを振り返ってみることがあります。

英語を一言も話すことが出来なかったのです。それが今ではこうして大勢の方とお話ができるようになった幸運をしみじみと味わっているところです。

 あとのことはあとの者が面倒を見ます。ますます発達していく科学技術のお陰で私たちが成し遂げた以上の規模の人々に真理を普及する手段が活用されるようになります。

 あなたが治療家としてどれほどの貢献をなさっておられるかは、あなたご自身にはお分かりになりません。地上的なものさしを超えたものだからです。身体を癒しておられるのは事実ですが、もっと大切なことは魂の琴線に触れることです。

眠ったままの小さな神性の種子が目を覚まし、芽を出し、花を開く、その端緒をつけてあげるのです。最終的には個としての存在価値を成就させてあげることになる、そのスタートとなります。

そうした意義ある仕事をするチャンスを数多く与えられていることを喜んでください。あなたは病人の人を癒すために生まれて来ておられます。


──でも、時たまですが、がっかりさせられることがあります。

 分かっております。半世紀近くも地上で仕事をしてきた私が、人間の煩悩に気が付いていないと思われては心外です。あなたにも莫大な霊的潜在力が宿されております。イザという時に頼りにできる霊的な武器です。

 しかし万が一そこから十分なものを引き出すことができない時は、私たちを頼りにしてください。けっして見放すようなことはいたしません。

 もしもうんざりしたり困惑したり悲観的な気持ちになったりした時は、地上の喧騒から逃れて魂の静寂の中へ引っ込むことです。そうしてそこに溢れる豊かな光輝に馴染み、美しさに思い切り浸り、そこから得られる静けさと落着きと安らぎと自信を味わうことです。こうして気分一新してから再び地上世界へ戻り、はつらつと仕事を始めるのです。

 とかく前向きに進むほかはありません。引き退がってはなりません。どこにいても人のためになることを心掛けるのです。援助を求めてあなたのもとを尋ねる人をけっして拒絶してはなりません。

かといって、そういう人を求め歩いてはいけません。向こうからやってくるものなのです。〝病気を治してほしい人はいませんか〟などと町を触れて回るようなことをしてはなりません。あなたの援助を求めて先方から駆け付けるものなのです。(そういうふうに霊界の方で取り計らってくれるということ───訳者)

 無限なる叡智を具えた神によって霊的才能を賦与された人間は、導かれるところはどこへでも出向き、いかなる人にでも救いの手を伸ばしてあげるべきです。その行為が蒔く種子が肥沃な土地に落ちて魂を豊かにすることになることを期待しながら、どしどし種子を蒔いていくことです。

人間には霊の道具として成し遂げつつある仕事の大きさを測り知ることは出来ませんし、その価値を評価することも出来ません。


──私には二人の指導霊がついて下さっていると聞いております。一人はエジプト人で、もう一人は北米インディアンです。本当かどうか、確認して頂きたいのですが・・・・・・

 なぜそのようなことにこだわるのかが理解できません。その二人がしっかりとした霊であることはお認めになっているのでしょう?


──その点は疑問の余地はございません。

 だったら、その二人の霊が地上でどこに住んでいたかなどということはどうでもよいことではありませんか。大切なのは霊の威力です。間違いなく霊の世界からのものであることを示してくれる力です。あなたを愛し、そして援助してくれる背後霊に密かな信念をお持ちなさい。あなたを迷わせるようなことは致しません。イザという時は必ず道を示してくださいます。

     

シアトルの春 生前と死後

The Life Beyond the VeilVol.Ⅲ 
The Ministry of Heaven By G. V. Owen


1 一兵士の例  

一九一七年十二月七日 金曜日


 地球を取り巻く暗闇──光明界から使命を帯びて降りてくる霊のすべてがどうしても通過せざるを得ない暗闇を通って、地上という名の〝闘争の谷〟から光明と安らぎの丘へと、人間の群れが次から次へと引きも切らずにやってまいります。

これからお話しするのは、その中でも、右も左も弁えない無明の霊のことではなく、〝存在〟の意味、なかんずく自分の価値を知りたくてキリストの愛を人生の指針として生きてきた者たちのことです。彼らは地上においてすでに、その暗闇と煩悩の薄暮の彼方に輝く太陽が正義と公正と愛の象徴であることを知っておりました。

 それゆえ彼らはこちらへ来た時に、過ちではなかろうかと気にしながらも生きてきたものを潔く改める用意と、天界へ向けての巡礼の旅において大きく挫折しあるいは道を見失うことのないよう蔭から指導していた背後霊への信頼を持ち合わせているのです。

 それはそれなりに事実です。が、彼らにしてもなお、いよいよこちらへ到来してその美しさと安らぎの深さを実感した時の驚きと感嘆は、あたかもカンバスの上に描かれた光と蔭だけの平面的な肖像画と実物との差にも似て、その想像を超えた躍動する生命力に圧倒されます。


──判ります。私にはその真実性をすべて信じることが出来ます、リーダーさん・・・・・・あなたがそちらでそう呼ばれていることをカスリーンから聞いております・・・・・・
 でも、何か一つだけ例をあげていただけませんか。具体的なものを。

 無数にある例の中から一つだけと言われても困りますが、では最近こちらへ来たばかりの人の中から一人を選んでみましょう。現段階では吾々の班は地上界との境界近くへ行って新参の案内をする役目は仰せつかっていませんが、それを仕事としている者と常に連絡を取り合っておりますので、その体験を参考にさせてもらっています。

では、つい先ごろ壁を突き抜けてきたばかりで、通路わきの草地に横になっていた若者を紹介しましょう。


──〝壁〟というのは何でしょうか。説明していただけませんか。

 貴殿らの住む物質界では壁といえば石とかレンガで出来ていますが、吾々のいう壁は同じく石で出来てはいても、その石はしっかりと固いという意味で固形をしているのではありません。

その石を構成しているところの分子は、地上の科学でも最近発見されたように常に波動の状態にある。そしてその分子の集合体も地上でエーテルと呼ぶところの宇宙に瀰漫する成分よりもさらに鈍重な波動によって構成されている。

そもそも〝動〟なるものは意念の作用の結果として生じるものであり、また意念を発するのは意識を持つ存在です。

したがって逆に考えれば次のようなことになりましょう。まず一個の、または複数の意識的存在がエーテルに意念を集中するとそこに波動が生じる。そしてその波動から分子が構成される。

それがさらに別のグループ(天使団と呼んでもよい)の意念の働きによって濃度の異なる凝固物を構成し、あるいは水となり、あるいは石となり、あるいは樹木となる。

それゆえ、あらゆる物質は個性的存在である意念の物質化現象であり、その個性的存在の発達程度と、働きかけが一個によるか複数によるかによって、構成と濃度が異なるわけです。つまり意念の不断の放射がその放射する存在の発達程度に相応しい現象を生み出すわけです。

 霊界と物質界との間には常にこうした一連の摂理が働いているのです。

 さきの〝壁〟は実は地上界から放射される地上独特の想念が固まってでき、それが維持されているものです。すなわち天界へ向けて押し寄せてくる地上の想念が地上に近い界層の想念によって押し返される。

これを繰り返すうちに次第に固さが増して一種の壁のようなものを形成する。その固さと素材は吾々霊界の者には立派に感触があるが、地上の人間には一種の精神的状態としてしか感識できません。

貴殿らがよく〝煩悶の暗雲〟だの〝霊的暗黒〟だのと漠然と呼んでいる、あれです。

 従って吾々が〝その壁は地上の人間の想念によって作られている〟と言うとき、霊の想像力の文字どおりの意味において述べているのです。全ての霊に創造力があり、肉体に宿る人間は本質的には霊です。

そしてその一人ひとりが吾々と同じく宇宙の大霊の一焦点なのです。それゆえ霊界との境界へ向けて押し寄せてくるこの想念の雲は霊的創造物であり、それを迎えうって絶えず押し返し続け地上圏内に止めているところの霊界の雲と同じです。

本質において、あるいは種類において同じということです。程度において異なるのみです。つまり程度の高い想念体と低い想念体との押し合いであり、その時々の濃度の割合によって霊界の方へ押し込んで来たり、また地上近くへ押し返されたり、を繰りかえしている。

が、それにも限界があり、全体としてみればほぼ定位置に留まっており、決して地上圏からそう遠ざかることはありません。

 さて、貴殿の質問が吾々に一つの大きなテーマを課す結果になりました。今日の地上においては未だ科学の手の届いていない領域の一つを無理して地上の言語で語ることになってしまいました。

いずれ科学が領域を広げた暁には地上の誰かが人間にとってもっと馴染みやすい用語で、もっと分かり易く説明してくれることでしょう。


──大体の流れは掴めました。どうも済みませんでした。

 さてその男は道路わきの芝生に横になっていましたが、その道は男を案内して来た者たちの住居の入り口に通じる通路でした。間もなく男は目を開いて、あたりの明るい様子に驚きの表情を見せたが、目が慣れてくると彼を次の場所まで案内するために待機している者たちの姿が見えてきた。

 最初に発した質問が変わっていた。彼はこう聞いたのである──「私のキット(*)はどうしたのでしょうか。失くしてしまったのでしょうか」(*ふつうは身の回り品のことであるが、ここでは兵士の戦闘用具──訳者)

 すると、リーダー格の者が答えた。「その通り、失くされたようですね。でも、その代りとして私たちがもっと上等のものを差し上げます」

 男が返事をしようとした時あたりの景色が目に入り,こう尋ねた。「それにしてもこんなところへ私を連れてきたのはどなたですか。この国は見覚えがありません。敵の弾丸(たま)が当たった場所はこんな景色ではありませんでしたが・・・・・・」

そう言って目をさらに大きく見開いて、今度は小声で尋ねた。「あの、私は死んだのでしょうか」

 「その通りです。あなたは亡くなられたのです。そのことに気づかれる方はそう多くはありません。私たちはこちらからずっとあなたを見守っておりました。

生まれてから大きく成長されていく様子、職場での様子、入隊されてからの訓練生活、戦場で弾丸が当たるまでの様子、等々。あなたが自分で正しいと思ったことをなさってきたことは私たちもよく知っております。

すべてとは言えないまでも、大体においてあなたはより高いものを求めてこられました。ではこれから、こちらでのあなたの住居へご案内いたしましょう」

 男は少しの間黙っていたが、そのあとこう聞いた。「お尋ねしたいことがあります。よろしいでしょうか」

 「どうぞ、何なりとお聞きください。そのためにこうして参ったのですから・・・・・・」

 「では、私が歩哨に立っていた夜、私の耳に死期が近づいたことを告げたのはあなたですか」

 「いえ、その方はここにいる私たちの中にはおりません。もう少し先であなたを待っておられます。もっとしっかりなさってからご案内しましょう。ちょっと立ってみてください。歩けるかどうか・・・・・・」

 そういわれて男はいきなり立ち上がり、軍隊のクセで直立不動の姿勢をとった。するとリーダー格の人が笑顔でこう言った。

「もう、それはよろしい。こちらでの訓練はそれとはまったく違います。どうぞ私たちを仲間と心得てついてきて下さい。いずれ命令を授かり、それに従うことになりますが、当分はそれも無いでしょう。

その時が来れば私たちよりもっと偉い方から命令があります。あなたもそれには絶対的に従われるでしょう。叱責されるのが怖くてではありません。偉大なる愛の心からそうされるはずです」


 男はひとこと「有難うございます」と言って仲間たちに付いて歩み始めた。いま聞かされたことや新しい環境の不思議な美しさに心を奪われてか、黙って深い思いに耽っていた。

 一団は登り道を進み丘の端を通り過ぎた。その反対側には背の高い美しい樹木の茂る森があり、足元には花が咲き乱れ、木々の間で小鳥がさえずっている。その森の中の小さく盛り上がったところに一人の若者が待っていて、一団が近づくとやおら立ち上がった。

そして彼の方からも近づいてくだんの兵士のところへ行って、片腕で肩を抱くようにしていっしょに歩いた。互いに黙したままだった。

 すると突如として兵士が立ち止まり、その肩にまわした腕をほどいて若者の顔をしげしげとのぞき込んだ。次の瞬間その顔をほころばせてこう叫んだ。「なんと、チャーリーじゃないか。思ってもみなかったぞ。じゃあ、あの時君はやはりダメだったのか?」

 「そうなんだ。助からなかったよ。あの夜死んでこちらへ来た。すると君のところへ行くように言われた。君にずっと付いて回って、出来るだけの援助をしたつもりだ。が、そのうち君の寿命が尽きかけていることを知らされた。

僕は君にそのことを知らせるべきだと思った。と言うのも、僕が首に弾丸を受けた時君が僕を陣地まで抱きかかえて連れて帰ってくれたが、あのとき君が言った言葉を思い出したんだ。

それで君が静かに一人ぼっちになる時を待って(死期の迫っていることを知らせるべく)できるだけの手段を試みた。あとでどうにか君は僕の姿を見るとともに、もうすぐこちらへ来るぞという僕の言葉をおぼろげながら聞いてくれたことを感じ取ったよ」

 「なるほど〝こちらへ来る〟か・・・・・・もう〝あの世へ行く〟(*)じゃないわけだ」(*第一次大戦ごろから〝死ぬ〟ということを英語で俗に go west 〝西へ行く〟と言うようになった。ここでは死後の世界から見れば〝行く〟ではなく〝来る〟となるので come west と言ったわけである──訳者)

 「そういうわけだ。ここで改めてあの夜の君の介抱に対して礼を言うよ」

 こうした語らいのうちに二人だけがどんどん先を歩んだ。と言うのも、他の者たちが気をきかして歩調を落とし、二人が生前のままの言葉で語り合うようにしてあげたのである。

 さて吾々が特にこの例を挙げたことにはいろいろとわけがあるが、その中で主なものを指摘しておきたい。

 一つは、こちらの世界では地上での親切な行為は絶対に無視されないこと。人のために善行を施した者は、こちらへ来てからその相手から必ず礼を言われるということです。

 次に、こちらへ来ても相変わらず地上時代の言語をしゃべり、物の言い方も変わっていないことです。ために、久しぶりで面会した時にひどくぶっきらぼうな言いかたをされて驚く者もいる。今の二人の例に見られるように軍隊生活を送った者がとくにそうです。

 また、こちらでの身分・階級は霊的な本性に相当しており、地上時代の身分や学歴には何の関係もないということです。この二人の場合も、先に戦死した男は軍隊に入る前は一介の労働者であり、貧しい家庭に育った。

もう一人は世間的には恵まれた環境に育ち、兵役に就く前は叔父の会社の責任のあるポストを与えられて数年間それに携わった。が、そうした地位や身分の差は、負傷した前者を後者が背負って敵の陣地から連れて帰った行為の中にあっては関係なかった。こちらへ来てからは尚のこと、何の関係もなかった。

 こういう具合に、かつての知友はこちらで旧交を温め、そしてともに向上の道に勤しむ。それというのも、地上において己れの義務に忠実であった者は、美と休息の天界において大いなる歓迎を受けるものなのです。

そこでは戦乱の物音一つ聞こえず、負傷することもなく、苦痛を味わうこともない。地上の労苦に疲れた者が避難し、生命の喜びを味わう〝安らぎの境涯〟なのです。
                   



 2 一牧師の場合  
 一九一七年十二月十日 月曜日

 前回のような例は言わば地上の戦場シーンがこの静けさと安らぎの天界で再現されるわけであるから、貴殿にとっては信じられないことかも知れませんが、決して珍しいことではありません。人生模様というものはそうした小さな出来ごとによって織なされていくもので、こちらへ来ても人生は人生です。

かつての同僚がこちらで再会し、地上という生存競争の荒波の中で培った友情を温め合うという風景は決してこの二人に限ったことではありません。

 では、さらにもう一歩踏み込んで、別のタイプの再会シーンを紹介してみよう。吾々との間に横たわる濃霧の下で生活する人々に知識の光を授けたいと思うからです。その霧の壁は人間の限られた能力では当分は突き破ることは不可能です。

いつまでもとは言いません。が、当分の間すなわち人間の霊覚がよほど鋭さを増すまでは、こうした間接的方法で教えてあげるほかはないでしょう。

 第二界には地上界からの他界者が一たん収容される特別の施設があります。そこでは〝選別〟のようなことが行われており、一人ひとりに指導霊が当てがわれて、霊界での生活のスタートとしてもっとも適切な境涯へ連れて行かれます。

その施設を見学すると実にさまざまなタイプの者がいて、興味ぶかいことが数多く観察されます。中には地上生活に関する査定ではなかなか良い評価をされても、確信と信念とかの問題になると、ああでもないこうでもないと、なかなか定まらない者もいます。

誤解しないで頂きたいのは、それは施設でその仕事に当たっている者に判断能力が不足しているからではありません。

新参者もまず自分自身についての理解、つまりどういう点が優れ、どういう点が不足しているか、自分の本当の性格はどうかについて明確な理解がいくまでは、はっきりとした方向決めはしない方がよいという基本的方針があるのです。

そこで新参者はこの施設においてゆっくりと休養を取り、気心の合った人々との睦(むつ)び合いと語らいの生活の中において、地上生活から携えてきた興奮やイライラを鎮め、慎重にそして確実に自分と自分の境遇を見つめ直すことになります。

 最近のことですが、吾々の霊団の一人がその施設を訪れて、ある複雑な事情を抱えた男性を探し出した。その男性は地上では牧師だった人で、いわゆる心霊問題にも関心を持ち、いま吾々が行っているような霊界との交信の可能性についても一応信じていた。

が彼はもっとも肝心な点の理解が出来ていなかった。であるから、内心では真実で有益であると思っていることでも、それを公表することを恐れ、牧師としてお座なりのことをするだけにとどまった。

肝心な問題をワキへやったのです。というのも、彼は自分には人を救う道が別にある・・・が今それを口にして騒がれてはまずい・・・・・・それはもっと世間が理解するようになってからでよい・・・・・・その時は自分が先頭に立って堂々と唱導しよう・・・・・・そう考えたのです。

 そういうわけで、真剣に道を求める人たちが彼を訪ねて、まず第一に他界した肉親との交信は本当に可能かどうか、第二にそれは神の目から見て許されるべきことであるかどうかを質しても、彼はキリスト教の聖霊との交わりの信仰を改めて説き、霊媒を通じての交わりは教会がテストし、調査し、指示を与えられるまで待つようにと述べるにとどまった。

 ところが、そうしているうちには彼自身の寿命が尽きてこちらへ来た。そしてその施設へ案内され、例によってそこで地上の自分の取った職業上の心掛けと好機の活用の仕方についての反省を求められることになっていた。

 そこへ吾々の霊団の一人が──

──まわりくどい言い方をなさらずに、ズバリ、彼の名をおっしゃってください。

 〝彼〟ではなく〝彼女〟、つまり女性です。ネインとでも呼んでおきましょう。

 ネインが訪ねたとき彼は森の小道──群葉と花と光と色彩に溢れた草原を通り抜ける道を散策しておりました。安らかさと静けさの中で、たった一人でした。というのも、心にわだかまっているものを明確に見つめるために一人になりたかったのです。

 ネインが近づいてすぐ前まで来ると、彼は軽く会釈して通り過ぎようとした。そこで彼女の方から声をかけた。

 「すみません。あなたへの用事で参った者です。お話することがあって・・・・・・」
 「どなたからの命令でしょうか」

 「地上でのあなたの使命の達成のために主の命を受けて、あなたを守護し責任を取ってこられた方です」

 「なぜその方が私の責任を取らなくてはならないのでしょう。一人ひとりが自分の人生と仕事に責任を取るべきです。そうじゃないでしょうか」

 「たしかにおっしゃる通りです。ですが残念ながらそれだけでは済まされない事情があることを、私たちもこちらへ来て知らされたのです。

つまりあなたが地上で為さったこと、あるいは為すべきでありながら為さずに終わったことのすべてが、単にあなた一人の問題として片づけられないものがあるのです。

守護の任に当たられたその方も、あなたの幸せのために何かと心を配られましたが、思い通りになったのは一部だけで、全部ではありませんでした。こうして地上生活を終えられた今、その方はその地上生活を総ざらいして、ご自分の責任を取らねばなりません。喜びと同時に悲しみも味わわれることでしょう」


 「私には合点がいきません。他人の失敗の責任を取るというのは、私の公正の概念に反することです」

 「でも、あなたは地上でそれを信者に説かれたのではなかったでしょうか。カルバリの丘でのキリストの受難をあなたはそう理解され、そう信者に説かれました。すべてが真実ではなかったにしても、確かに真実を含んでおりました。

私たちは他人の喜びを我がことのように喜ぶように、他人の悲しみも我がことのように悲しむものではないでしょうか。守護の方も今そういうお立場にあります。あなたのことで喜び、あなたのことで悲しんでおられます」

 「どういう意味でしょうか。具体的におっしゃってくださいますか」

 「慈善という面で立派な仕事をなさったことは守護霊さまは喜んでおられます。神と同胞への愛の心に適ったことだったからです。が、あなたみずから受難について説かれたことを実行するまでに至らなかったことは悲しんでおられます。

あなたは世間の嘲笑の的になるのを潔(いさぎよ)しとしなかった。不興を買って牧師としての力を失うことを恐れられた。つまり神からの称賛より世間からの人気の方を優先し、暗闇の時代から光明の時代へ移り始めるまで待って、その時に一気に名声を得ようと安易な功名心を抱かれました。

が、その時あなたは意志の薄弱さと、恥辱と冷遇を物ともしない使命感と勇気の欠如のために、大切なことを忘れておられました。

つまりあなたが到来を待ち望んでいる時代はもはやあなたの努力を必要としない時代であるかも知れないこと、闘争はすでに信念強固なる他の人々によってほぼ勝ち取られ、あなたはただの傍観者として高見の見物をするのみであるかも知れないこと、又一方、その戦いにおいて一歩も後へ退かなかった者の中には、悪戦苦闘の末に名誉の戦死を遂げた者もいるかも知れないということです」


 「いったい、これはどういうことなのでしょう。あなたはいったい何の目的で私のところへ来られたのでしょうか」

 「その守護霊さまの使いです。いずれその方が直々にお会いになられますが、その前に私を遣わされたのです。今はまだその方とはお会いになれません。あなたの目的意識がもっと明確になってからです。つまりあなたの地上生活を織り成したさまざまな要素の真の価値評価を認識されてからのことです」

 「判りました。少なくとも部分的には判ってきました。礼を言います。実はこのところずっと暗い雲の中にいる気分でした。

なぜだろうかと思い、こうして人から離れて一人で考えておりました。あなたからずいぶん厳しいことを言われました。ではどうしたらよいのかを、ついでにおっしゃっていただけますか」

 「実はそれを申し上げるのが私のこの度の使いの目的だったのです。それが私が仰せつかった唯一の用件でした。つまりあなたの心情を推し量り、ご自身でも反省していただき、あなたに向上の意欲が見られれば守護霊さまからのメッセージをお伝えするということです。

今あなたはその意欲をお見せになられました──もっとも心の底からのものではありませんが・・・・・・。そこで守護霊さまからのメッセージをお伝えしましょう。あなたがもう少し修行なされば、その方が直々にご案内してくださいます。

その方がおっしゃるには、取りあえずあなたは第一界に居所を構えて、そこから地上へ赴いて、こちらの光明の世界の者との交信を求めている人たちの気持ちをよく汲み取り、その人たちをキリストの光明と安らぎへ向けて向上させてあげるために慰めと勇気づけのメッセージを送ることに専念している(光明界の)人たちの援助をなさることです。

あなたの教会の信者だった人の中には、悲しみに打ちひしがれた人たちのために交霊会を開き、他界した肉親との交信をさせて喜ばせ、かつ、自らも喜びを得ようと努力しておられる人もいます。

今こそあなたはその人たちのところへ赴き、あなたの存在を知らしめ、あなたが地上時代に説かれたことを撤回するなり、語るべきでありながら勇気がなくて語らずに終わった真理を説いて聞かせるなりすべきです。これは恥を忍ばねばならないことではあります。

でも、それによって地上の信者は大いに喜びを得るでしょうし、あなたの潔い態度に好意を抱くことでしょう。と言うのは、その方たちはすでに今のあなたの位置よりはるかに高い天界からの愛の芳香を嗅ぎ取っているのです。

でも、どうなさるかはあなたの自由意志に任されております。言われる通りになさるなり、拒否なさるなり、どうぞご自由になさってください」


 彼はしばし黙して下を向いていた。必死で思いを廻らしていた。その心の葛藤は彼のようなタイプの人間にとって決して小さなものではなかった。果たせるかな彼は決断に到着することが出来ず、後でもっとよく考えてからご返事しますとだけ述べた。

怖れと優柔不断という、かねてからの彼の欠点が相も変わらず彼をマントの如くおおい、その一線を突き破りたくても突き破れなくしていた。ネインは自分の界へ戻って行った。
が、彼女が求めに来た嬉しい返事を携えて帰ることはできなかった。


──それで結局彼はどうしました? どういう決断をしたのでしょうか。

 このあいだ聞いたところでは、まだ決めていないとのことでした。もっとも、この話はつい最近のことで、まだ結末に至る段階ではありません。彼の自由意志によって何らかの決断を下すまでは結末はあり得ないでしょう。

貴殿が催される〝交わりの集会〟へは彼のような立場の霊が大勢参加するものです。 


──交わりの集会というのは聖餐式のことでしょうか。それとも交霊会のことでしょうか。

 どう言い変えたところで同じでしょう。確かに地上の人間に取っては両者は大いに違うでしょうが、吾々には地上の基準で考えているのではありません。どちらにせよ同じ目的、つまり両界の者と主イエスとの交わりを得るためです。吾々にとってはそれだけで十分です。

 ところで吾々が派遣した女性のことですが、貴殿はなぜこのような使命を女性が担わされたのか──キリスト教の牧師を相手にしてその行為と態度を論じ合わせたのはなぜかと思っておられる。その疑問にお答えしましょう。

 答えは至って簡単です。実は彼には幼少時代に一人の妹がいたのですが、それがわずか二、三歳で夭折した。そして彼一人が成人した。例の女性がその妹です。

彼はその妹を非常に可愛がっていた。であるから、もしもその人生においてもう一段高い霊性を発揮していたら、たとえその後の彼女が美しく成人していても、すぐに妹と知れたはずです。が、低き霊性故に彼の視界は遮られ、視力は曇らされ、遂に彼女は自分が実の妹であることに気づいてもらえないまま去って行った。

 げに吾々は、喜びにつけ悲しみにつけ一つの家族のようなものであり、それを互いに分かち合わねばならない。主イエスも地上の人間の罪と愛、すなわち喜びと悲しみを身を持って体験されたのですから。

シアトルの春 再生問題を語る 

Talking about revitalization issues



Light from Silver Birch
Edited by Pam Riva


(前にも一度招待されたことのある熱心なスピリチュアリストが再度招かれた。霊的なことにまったく理解を示してくれない夫が重病の床にあって、今夫人はかつてない厳しい精神的試練に立たされているからだった。その夫人に向かってシルバーバーチが語る)

 今あなたが人生最大の試練に立たされていることは私から改めて指摘するまでもないことと思います、しかし、いかなる困難に取り囲まれていようと、あなたはきっと切り抜けていかれることでしょう。背後に控える力が実に強力だからです。決してあなたを見捨てるようなことはいたしません。

 いかなる人生にも、赤裸々な現実に直面させられる時期が必ずあるものです。その時こそあなたの信念が確固たる知識の上に築かれていることを確認しなくてはなりません。

つまりその現実に直面することによって自分の存在価値を試され、いかに身近で切実な問題であろうと、それによってあなたがこれこそ実在であると信じているもの───絶対に裏切ることのない霊的原理から気をそらされることがない(迷わない)ことを立証させられるのです。

 その点あなたは、こうした危機において砦となるべき知識へ導かれてその用意が出来ていたことは幸せというべきです。

 ですから、あなたは決して首をうなだれてはなりません。表情と振舞いによって、あなたが霊的自由をもたらしてくれた真理をいささかも忘れていないことを示すように努力してください。


───子供たちもこの逆境によく耐えてくれておりますが、それとは別の問題があるのです。末の子がスピリチュアリズムや心霊的なことにとても興味を抱いているのですが、夫はまったく理解がなく、私がその子にそれを止めさせようとしないことを咎めるのです。

 夫にしてみれば自分の信仰とことごとく対立することばかりなので、そのことで心を傷めております。私はどちらの気持ちを優先させるべきかが分からず悩んでいるところです。


 私は年輩の者の信仰よりも若者にとっての必要性の方が大切であると考えます。
 一方は地上生活のコースを殆ど終えた段階にあります。他方はこれからという段階であり、全コースが前途に横たわっております。これまでと同じように、あなたの才覚と臨機応変の知恵を探ってください。ただし、あなたの信じる霊的原理から外れたことは絶対にしてはなりません。

 自然に具わっている心霊的能力を抑え付けることが望ましいことでないことは、あなたも理解しておられるはずです。万一抑え付けるようなことをすれば、お子さんの全人的構造に歪みを生じさせることになります。自然に具わっているものを出させないようにするよりも、全人的健全さを身につけさせる方が好ましいことは言うまでもありません。

是非そこのところは、あなたなりの才覚と知恵によって、これまでと同じように、ご主人の為にもなるように工夫してみて下さい。


───その息子は再生というものを信じているらしいのです。しかし今自分の父親が死にかかっているのを見て不安を抱いております。父親が死んで家族が別れ別れになったあと、父親がどこかに再生してしまえば、はたしてうまく再会できるかどうかが心配だと言うのです。

 そういう心配はご無用です。再生するまでには永い永い年月を要することがあるからです。あなた方の世界の諺で私もなかなか良いことを言っていると思うものに〝橋のたもとに来るまでは橋を渡ってはいけない〟(余計な取り越し苦労をするな)というのがあります。

再生は確かにあるのですが、これにはいろんな要素が絡んでおります。そのために、それが理解できない人に説明することは容易でありません。

 私は再生が事実であることを、いささかの躊躇もなく断言します。ただ私は、すべての人が再生するとは言っておりません。私が言っているのは、人間の個性というのはそれ自体が独立した存在ではなくて、大きなダイヤモンドの無数の側面の一つにすぎないこと。

その側面が地上へ誕生して体験を積み、それによって得られる霊的成長をダイヤモンドに持ち帰って、一段と光沢と輝きを増すことになるということです。

 それは、支払うべき霊的借金とでもいうべき宿業(カルマ)を持った人が因果律の働きで戻って来る場合もありますし、進化した高級霊が特定のグループ、時には特定の国家のために貢献する使命を持って降誕する場合もあります。その霊の持つ資質と才能とがその地域の人たちに必要だからです。

 これはとても複雑な問題です。私がダイヤモンドに例えているインディビジュアリティというのがあり(厳密にいうと両者は異なる。その違いを八章で説明している───訳者)、それは、たった一回の地上生活で発揮されるパーソナリティ(人物像)よりもはるかに大きなものであるということが理解できるようでなければ、この問題は扱えません。

 そのパーソナリティとインディビジュアリティとを混同している方が多いようです。一個のインディビジュアリティがいくつもの分霊を出して地上に沢山のパーソナリティを持つことが出来ます。

インディビジュアリティの物的表現、ないしは顕現です。数は沢山ですが、同じインディビジュアリティから出ているのです。

 パーソナリティというのは仮面を意味するラテン語のパーソナから来た言葉で、物的身体にまつわるものを意味します。インディビジュアリティが五つの物的感覚を通して自我を表現するための道具であり、氷山に例えれば水面上に出ているほんの一部に過ぎません。

 パーソナリティは地上でつけているマスクです。インディビジュアリティ、つまり本当の自我はめったに顔を出しません。(五感に邪魔されて)出そうにも出せないのです。死によって肉体から分離した時に自覚される大きな自我に比べると実にお粗末なものしか表現しておりません。

 このようにインディビジュアリティはパーソナリティよりはるかに大きなものです。死後に生き続けるのはパーソナリティではありません。パーソナリティはインディビジュアリティによって投影された影にすぎません。

そのインディビジュアリティが、肉体の死後、地上で発揮されなかった潜在的可能性を少しずつ発揮していきます。

地上での特別な使命が託されている場合はインディビジュアリティの比較的大きい部分───多くの側面───がまとまって一個の肉体に宿ります。この場合にもダイヤモンドの光沢を増すための体験を積むという目的も兼ねているのです。

 二人の人間がアフィニティ(霊的親族)であることがあります。別々の人間でありながら一個の魂の半分ずつなのです。地上でそういう関係の人と一諸になれた時は、物的な富では測れない豊かさがもたらされます。アフィニティは同じダイヤモンドを構成している部分的側面です。こう申し上げても理解できないでしょうが、こうした霊的な問題は言語による説明がとても難しいのです。

 一つの大きな魂(インディビジュアリティ)があって、それに幾つもの部分的側面があります。それらが別々の時代にパーソナリティとして地上に生を受けます。が、寿命を終えて霊界へ戻ってきた時も一個のインディビジュアリティの側面であることに変わりありません。

 一つの家族が霊界へ来ても、自動的に合流するわけではありません。家族のメンバーが自然な霊的親和性を持っている場合にのみ、それが有りえます。親和性がなければ再会はありません。霊的のレベルが違うからです。

 夫婦の場合であれば、身体上の結婚だけでなく魂と精神においても結ばれていなければ、霊界での再会は不可能です。再会を決定づけるのは霊的親和性です。死後しばらくは血縁によるバイブレーションが残っていますが、それには永続性がありません。

 霊は物質に勝ります。霊に関わるものは死後にも残り続けますが、物質に関わるものはそのうち消えます。お子さんにそのことをよく説明してあげないといけません。

なかなかうまく説明できないかも知れませんが、とにかくすべてが不変の法則によって支配されているのです。その法則の根本にあるものは愛です。愛は大霊の表現です。神、創造主、どう呼ばれても結構です。

 首をうなだれてはいけません。あなたはしっかりと導かれ援助を受けておられます。きっと乗り切ることが出来ます。一瞬たりとも挫折の心配を抱いてはなりません。このたびの経験は結果的にはあなたの霊性を強化し、前途に横たわる未来において大きな豊かさをもたらしてくれる貴重な教訓を植え付けてくれることでしょう。

 私は地上の同志の方に気楽な人生、何の障害もない人生をお約束することは絶対にできません。私から言えることは、障害も困難もその一つ一つが挑戦すべき目標だということです。一つ克服するごとに、あなたは霊的に成長するのです。

 地上の人間はいつかは死ななくてはなりません。物的身体を携えて永遠に生きるということは、自然法則上、不可能なことです。

無知と迷信から生まれる死の恐怖さえ克服すれば、地上の人間にとって死が暗闇から光明へ導いてくれる天使であり、地上で活用されることのなかった才覚と能力とを発揮する好機を与えてくれるものとして歓迎するようになることでしょう。


───〝霊〟(スピリット)と〝魂〟(ソウル)の違いについて教えていただけませんか。スピリチュアリズムの七つの綱領の中で私たちは死後の個性の存続をうたっておりますが、次に生まれ変わる時、実際に再生するのは最初の霊の個性とは別のものでしょうか。

 これはまた厄介な質問をしてくださいました。問題は用語にあります。言語を超えたものを説明するための用語を見つけなければならないので厄介なのです。

 魂と霊の違いがその好例です。使用する際にはどういう意味で使用するかを明確にしないといけません。ここでは単純に、魂とは無限なる宇宙の大霊から出た分子、粒子、神性ということにしましょう。そして霊とはその魂の媒質(※)です。

 それが肉体から分離すると地上時代よりはるかに自由自在に機能を発揮するようになります。肉体は物質でできています。それが霊の表現を制約しているのです。

(※現象界においてはこの二者が一体となって初めて存在できるもので、切り離すことができない。日本語の〝霊魂〟という言い方はその意味で当を得ているが、問題はその理解である。しかし厳密に言えば違いはあっても、実際にはシルバーバーチも置き換えて使用することが多い。

次元が異なるので、止むを得ないことであろう。それはちょうど太陽は厳密に言えば東から昇ってもいないし西に沈んでもいないが、地上から見る限りはそう表現するよりほかに方法がないのと同じであろう。第二巻〝霊〟と〝魂〟についての解説参照───訳者)

 それゆえ、あなた方は霊をたずさえた魂であり、それが肉体を通して自我を表現しているのです。パーソナリティというのはその肉体を携えた地上生活において表現されている側面のことでしかありません。それは本当の自我であるインディビジュアリティのごく小さな一部にすぎません。肉体に包まれているために存分に自我を発揮できないのです。


───次に生まれ変わるのはその地上生活で発揮したパーソナリティ(人物像)ではなくて、その奥の霊または魂なのですね。

 その通りです。前回の地上生活の時と同じ人物がそっくり再生してくることは有りえません。人物像は肉体の死と共に消滅します。それはインディビジュアリティの物的表現にすぎません。


───私の考えでは、われわれは皆、かつてはもっと大きな意識を持っていたのを、今こうして地上に存在している間はそれを放棄し、死後霊界へ行ってからそれを取り戻すのだと理解しております。そう考えるといろんな疑問が解けるのです。

  あなたは今歩んでいる道を地上に来る前に選択されたのです。その時はその大きな意識で自覚しておられたのです。それが肉体に宿り脳を通して意識するようになって曇らされているのです。脳の意識では潜在意識の深奥は探れないからです。

 その誕生前の意識を目覚めさせるためには、その触媒となるべき危機的体験を積まねばなりません。いつかは明瞭に意識する日が来ます。


───地上へ誕生しようとするのは何か特別やりたいことがあるからでしょうか、それとも、より多くの知識を得るためでしょうか。

(両方ともそうですが)それ以外にも何か奉仕的な仕事を行い、その中で神から授かった霊的資質を開発するための場合もあります。


───私にとっては霊的知識こそ神からの授かりものです。

 無限なる叡智を持つ神があなたに授けられたのです。


───ある書物に、われわれは同時に二つの場所に生まれ出ることができると書いてありました。事実でしょうか。

 私は、真の自我であるダイヤモンドには無数の側面があり、それがさまざまな体験を持ち帰ってダイヤモンドの光沢を増す、という考えです。ダイヤモンド全体が一度に生まれてくることはありません。いかなる身体もインディビジュアリティのすべてを宿すことは不可能だからです。

 パーソナリティとインディビジュアリティの違いを理解しないといけません。パーソナリティというのは物的身体を通して顕現した地上だけの人物像です。インディビジュアリティというのは魂の全体像です。その全体像を地上で七〇年や八〇年、あるいは九〇年の間に発揮することは到底不可能です。

 〝われわれ〟とおっしゃった同じダイヤモンドの仲間の別の側面が同時に地上へ誕生することは有り得ることです。が、すべては法則と秩序によって規制されております。その時期が来るまでは余計な心配はなさらぬことです。

 もう一度生まれ変わりたいという願望を持つようになる人がいます。奉仕的活動をしたいという場合もあります。成し遂げたい仕事がある場合もあります。償わねばならないカルマ的な〝借金〟が残っている場合もあります。そういう人たちが地上へ再生するのです。

二度、三度と繰り返すこともあります。が、いずれの場合も再生してくるのは真の自我すなわちインディビジュアリティの側面の一つです。

 再生したくないのであれば、何もこの暗いじめじめした陰鬱な世界へ戻ってくる必要はありません。真の自我に目覚めた人は再生してくる必要はありません。

 
───なぜ再生してこない人がいるのでしょうか。そういう人はそれから先どうなるのでしょうか。

 支払うべきカルマの負債もなく、やらねばならない仕事もないからです。地上での用事がすっかり終わったということです。もう地上へ戻ってきてすることがないのです。地上との一切の縁を切って、霊界での向上進化に専念することが出来ます。


 ───もう下層界へ下りることがないわけですね。ひたすら上へ向けて進歩し、下降することがないのですね。

 進化は常に向上です。下降であれば退化となります。もっとも、進化は必ずしも直線的なものではありません。渦巻状(スパイラル)に同じことを繰り返しているようで、実際には着実に向上しています。

 そこには因果律という自然の摂理が働いており、完全な公正が支配しています。人間の法律はごまかせますが、神の摂理はごまかせません。因果律が生み出すものには絶対的に従わねばなりません。あなたが心配なさる必要はありません。

 ここでぜひ指摘しておきたいのは、地上の人間は再生というものを、今の自分にない一種の栄光に憧れる気持ちから信じている場合が多いということです。人間世界でいうところの 〝劣等感〟(コンプレックス)です。現在の自分の身の上がいくら惨めでも、かつて前世では高貴な身の上だったのだと信じることによって慰めを得ようとするのです。

 しかし再生とはそういうものではありません。(前世では〇〇という人物だったというのはナンセンスです、と別のところで述べている──訳者)。 自然の摂理によってきちんと公正が行きわたっております。必ずしも地上生活中にそうなるとは限りませんが、その場合は霊界において清算されます。そういうものなのです。


 ───霊界へ行ってからでもカルマを清算することが出来るのでしょうか。

 無論です。それが普通です。


 ───ではなぜ地上へ戻って来るのでしょうか。

 地上でしか支払えない借りがあるからです。地上の危急存亡の時に当たって何かの貢献をしたいという自発的な願望から、再生の道を選ぶのです。みんな何らかの貢献をするために再生してくるのです。すべてに計画があるのです。


 ───私だったらこの地上よりそちらで償いをしたいですね!

 選択の自由は与えられています。が、忘れないでいただきたいのは、その自由意志も相対的なものであることです。やりたくてもできないことがあり、また、どうしても選べないコースというのがあります。最終的にはあなたがそれまでに到達した霊的進化の程度が、次に取るべき手段を決定づけるからです。


  (スイスからの招待客が質問する)

──地上へ再生するまでに霊界で何年くらい、あるいは何世紀くらい待つのでしょうか。一〇六〇年という説があり、男性だった者は女性に生まれ変わるというのですが、本当でしょうか。

 その数字はどなたが計算されたのでしょうか。 


──ある大学の講演で聞きました。

 地上に戻ってくる人がいることは事実です。再生してくるわけですが、それまでの間隔は別に一定の年数が決められているわけではなく、あくまでも一つの計算に基づいてそうなるのです。

 カルマによる義務の遂行のために戻ってくる人もいれば、自発的に地上での貢献を目的として戻ってくる人もいます。男性として戻ってくるか女性として戻ってくるかは、格別に重大なことではありません。私たちの世界には性差別防止条例はありませんので!
 
 霊的進化の程度が唯一の基準です。男性であるか女性であるかは問題ではありません。大切なのはその人の行為です。

 また、男性と女性にはそれぞれに果たすべき役目があり、双方が一体となって完全な全体ができあがるように、互いに補完し合うようになっているのです。互いがアフィニティであることを見つけ合うことがあるのはそのためです。そうなったら二度と別れ別れにはなりません。


──戻ってくることもあり戻ってこないこともあるということですね。

 為すべき仕事があればそれをしに戻ってきます。仕事が未完のまま残されていればそれを仕上げに戻ってきます。すべては法則と秩序の問題です。ともかく地上で表現する自我は大きなインディビジュアリティのごく一部に過ぎません。


──前世を思い出すのに催眠術を使用するのがブームになっております。あのような体験で教訓が学べるものでしょうか。

 学べることが皆無というわけではありません。が、そうした体験には、単に現在の自分が立派でないことから、潜在意識が立派でありたかった願望を描こうとする、一種の虚栄心の表れであることがあります。

 別のケースとして、それにカルマが絡んでいる場合があり、過去世において大きな影響を及ぼした苦難または悲劇を現世で呼び戻し、それを意識することでカルマが消滅することがあります。

これは好い結果をもたらす例です。が、それがただの取りとめもない想像にすぎないことが多いのです。もう一つのケースとして、催眠状態における憑依霊の仕業である場合もあります。


──普通だったらとっくに死んでいる筈の患者が医術によって何か月も生き続けている場合があるように思うのですが、こういう場合はどうなるのでしょうか。

 死ぬべき時期がくれば、いかなる医師も生かし続けることはできません。


──でも、そう思えるケースがよくあります。例えば最近ではアメリカの少女の例があります。

 その子の場合、医師が死期を延ばしているという証拠はどこにあるのでしょう?私が理解しているかぎりでは、地上の医師はまだ死期について確定的なことは分かっておりません。正確な死の瞬間について論争が続いているではありませんか。

 死の過程は生命の糸(シルバーコード)が切れて霊体が肉体を離れた瞬間をもって終了します。その時初めて〝死んだ〟と言えるのです。いったんその分離が生じたら最後、いかなる医師も肉体を蘇生させることはできません。


──催眠術による遡及によって過去世の証拠が得られるものでしょうか。実際にはただの霊の憑依ないしは支配にすぎないでしょうか。

 いわゆる遡及によって前世とコンタクトできるという事実は否定しません。しかし、必ずしもそうでないところに問題があるのです。

それというのも、人間の精神には莫大な可能性が秘められており、地上の人間には到底その深奥まで掘り下げることはできないからです。創造力もありますし、潜在的願望もありますし、霊によって憑依される可能性もあります。

 こうした要素をすべて考慮に入れなくてはなりません。催眠中に体外遊離(幽体離脱)が起きて、その間の一連の記憶が印象づけられることもあります。こうした場合は過去世を思い出していることにはなりません。


──生れ変わる時は知り合いの霊の仲間ないしは高級霊団による指示と助力を受けるということを米国の心理学者が催眠術による遡及を通じて明らかにしているのですが、これについてどう思われますか。
℘131
 地上で奉仕的な仕事に献身したいという自覚をもった霊は自発的に再生します。が、霊的真理に目覚めるまでに相当な期間を要することがあり、そうした霊の場合は守護霊や指導霊が手助けします。

私はそうした問題については、いわゆる催眠術による遡及は頼りにならないと考えます。催眠術者は、せいぜい、前世とおぼしきものを引き出そうとしているに過ぎません。


──その米国の心理学者は被術者に再生する時に痛みとか恐怖心とかが無かったのかを聞いております。

 施術者の動機がいかに真面目であっても、催眠術による前世への遡及はよくよく用心して掛からないといけません。催眠術の基本は〝暗示性〟にあります。したがって施術者が述べていることは控え目に受け取らないといけません。被術者は必ずしも施術者の暗示通りに反応しているとは限らないからです。


 訳者注───ここで催眠術がテーマとなっているが、基本的には霊能者や審神者(さにわ)についても言えることで、見当違いのことを大まじめにやっていることがあるので用心が肝要である。その弊害に陥らないための最大の武器は、やはり、しっかりとした心霊学の知識である。

 心霊学は霊的なことについての学問であるから、霊的なことに関わる人のすべてが心得ておくべきものであるはずなのに、神道や仏教の当事者はもとよりのこと、霊能者、霊媒及びその審神者が基本的な知識すら持ち合わせていないことに呆れることがあるし、何と危険なことだろうと、恐ろしささえ覚えることがある。



 そうした事実を考慮して私は『霊訓』の続編である 『インペレーター霊訓』 の冒頭で霊的通信の入手経路について概略を述べておいた。またインペレーターの霊言及び自動書記通信の中には霊媒及び霊能者に対する忠言、特に邪霊・悪霊・イタズラ霊の存在について言及しているものが多く見られるので、ぜひ参考にしていただきたい。

 見た目に清潔そうに見えてもバイ菌がうようよしているように、平凡な日常生活の背後にバイ菌のような霊がうようよしている。問題はそうした霊に操られた霊能者や霊媒が多すぎることである。それは最近の書店の心霊コーナーを見れば一目瞭然であろう。

 嘆かわしいことこの上ないが、これも凡人には測り知れない神の計画の一端なのかもしれないと思って諦めつつも、せめてそれが真実でないことを指摘することだけはすべきだという考えから、敢えて付言させていただいた。

事のついでであるが、私が親しくしている米国人のスピリチュアリストに最近の米国の心霊事情を尋ねたところ、英国に比べて精神的なものより現象的なものが多く、しかもいかにも米国らしくスケールの大きい催しがあるが、

いかがわしいものが多いので自分は久しくそういう催しに出席していないと言い、個人的には英国のスピリチュアリズムの方が性分に合っている、とのことだった。

 その英国のサイキックニューズ紙の最新号(二二・八・一九八七)で主筆のオーツセンが、編集手帳のようなコラムの中で面白い話を持ち出して、それに厳しい批判を加えている。

 あらましだけを拾って紹介すると、ある日オーツセンに電話でいい霊媒を紹介してほしいという依頼があった。わけを聞くと、エルビス・プレスリーの十周忌の記念行事としてプレスリーの霊を呼び出すための〝国際的交霊会〟を催したいという。

アメリカとオーストラリアの方はすでに話がついているが、イギリスからも参加してもらいたいという。オーツセンは無論それを断ったと述べてから次のように警告している。

 「正直言って私はジャーナリストやテレビ局からのこの種の依頼にうんざりしている。名前を呼べば簡単に出てきてしゃべってくれると思っているらしいが、霊との交信はそういう調子にはいかないのである。

 いかなる霊媒も、こちらから霊を呼び出すことはできない。あくまで霊の方から親近性と愛を掛け橋として戻ってくるのである。依頼されればどんな霊でも呼び出してあげられると豪語する霊媒は今すぐ霊能養成会へ行って一からやり直すしかない」 
(前にも一度招待されたことのある熱心なスピリチュアリストが再度招かれた。霊的なことにまったく理解を示してくれない夫が重病の床にあって、今夫人はかつてない厳しい精神的試練に立たされているからだった。その夫人に向かってシルバーバーチが語る)

 今あなたが人生最大の試練に立たされていることは私から改めて指摘するまでもないことと思います、しかし、いかなる困難に取り囲まれていようと、あなたはきっと切り抜けていかれることでしょう。背後に控える力が実に強力だからです。決してあなたを見捨てるようなことはいたしません。

 いかなる人生にも、赤裸々な現実に直面させられる時期が必ずあるものです。その時こそあなたの信念が確固たる知識の上に築かれていることを確認しなくてはなりません。

つまりその現実に直面することによって自分の存在価値を試され、いかに身近で切実な問題であろうと、それによってあなたがこれこそ実在であると信じているもの───絶対に裏切ることのない霊的原理から気をそらされることがない(迷わない)ことを立証させられるのです。

 その点あなたは、こうした危機において砦となるべき知識へ導かれてその用意が出来ていたことは幸せというべきです。

 ですから、あなたは決して首をうなだれてはなりません。表情と振舞いによって、あなたが霊的自由をもたらしてくれた真理をいささかも忘れていないことを示すように努力してください。


───子供たちもこの逆境によく耐えてくれておりますが、それとは別の問題があるのです。末の子がスピリチュアリズムや心霊的なことにとても興味を抱いているのですが、夫はまったく理解がなく、私がその子にそれを止めさせようとしないことを咎めるのです。

 夫にしてみれば自分の信仰とことごとく対立することばかりなので、そのことで心を傷めております。私はどちらの気持ちを優先させるべきかが分からず悩んでいるところです。


 私は年輩の者の信仰よりも若者にとっての必要性の方が大切であると考えます。
 一方は地上生活のコースを殆ど終えた段階にあります。他方はこれからという段階であり、全コースが前途に横たわっております。これまでと同じように、あなたの才覚と臨機応変の知恵を探ってください。ただし、あなたの信じる霊的原理から外れたことは絶対にしてはなりません。

 自然に具わっている心霊的能力を抑え付けることが望ましいことでないことは、あなたも理解しておられるはずです。万一抑え付けるようなことをすれば、お子さんの全人的構造に歪みを生じさせることになります。自然に具わっているものを出させないようにするよりも、全人的健全さを身につけさせる方が好ましいことは言うまでもありません。

是非そこのところは、あなたなりの才覚と知恵によって、これまでと同じように、ご主人の為にもなるように工夫してみて下さい。


───その息子は再生というものを信じているらしいのです。しかし今自分の父親が死にかかっているのを見て不安を抱いております。父親が死んで家族が別れ別れになったあと、父親がどこかに再生してしまえば、はたしてうまく再会できるかどうかが心配だと言うのです。

 そういう心配はご無用です。再生するまでには永い永い年月を要することがあるからです。あなた方の世界の諺で私もなかなか良いことを言っていると思うものに〝橋のたもとに来るまでは橋を渡ってはいけない〟(余計な取り越し苦労をするな)というのがあります。

再生は確かにあるのですが、これにはいろんな要素が絡んでおります。そのために、それが理解できない人に説明することは容易でありません。

 私は再生が事実であることを、いささかの躊躇もなく断言します。ただ私は、すべての人が再生するとは言っておりません。私が言っているのは、人間の個性というのはそれ自体が独立した存在ではなくて、大きなダイヤモンドの無数の側面の一つにすぎないこと。

その側面が地上へ誕生して体験を積み、それによって得られる霊的成長をダイヤモンドに持ち帰って、一段と光沢と輝きを増すことになるということです。

 それは、支払うべき霊的借金とでもいうべき宿業(カルマ)を持った人が因果律の働きで戻って来る場合もありますし、進化した高級霊が特定のグループ、時には特定の国家のために貢献する使命を持って降誕する場合もあります。その霊の持つ資質と才能とがその地域の人たちに必要だからです。

 これはとても複雑な問題です。私がダイヤモンドに例えているインディビジュアリティというのがあり(厳密にいうと両者は異なる。その違いを八章で説明している───訳者)、それは、たった一回の地上生活で発揮されるパーソナリティ(人物像)よりもはるかに大きなものであるということが理解できるようでなければ、この問題は扱えません。

 そのパーソナリティとインディビジュアリティとを混同している方が多いようです。一個のインディビジュアリティがいくつもの分霊を出して地上に沢山のパーソナリティを持つことが出来ます。

インディビジュアリティの物的表現、ないしは顕現です。数は沢山ですが、同じインディビジュアリティから出ているのです。

 パーソナリティというのは仮面を意味するラテン語のパーソナから来た言葉で、物的身体にまつわるものを意味します。インディビジュアリティが五つの物的感覚を通して自我を表現するための道具であり、氷山に例えれば水面上に出ているほんの一部に過ぎません。

 パーソナリティは地上でつけているマスクです。インディビジュアリティ、つまり本当の自我はめったに顔を出しません。(五感に邪魔されて)出そうにも出せないのです。死によって肉体から分離した時に自覚される大きな自我に比べると実にお粗末なものしか表現しておりません。

 このようにインディビジュアリティはパーソナリティよりはるかに大きなものです。死後に生き続けるのはパーソナリティではありません。パーソナリティはインディビジュアリティによって投影された影にすぎません。

そのインディビジュアリティが、肉体の死後、地上で発揮されなかった潜在的可能性を少しずつ発揮していきます。

地上での特別な使命が託されている場合はインディビジュアリティの比較的大きい部分───多くの側面───がまとまって一個の肉体に宿ります。この場合にもダイヤモンドの光沢を増すための体験を積むという目的も兼ねているのです。

 二人の人間がアフィニティ(霊的親族)であることがあります。別々の人間でありながら一個の魂の半分ずつなのです。地上でそういう関係の人と一諸になれた時は、物的な富では測れない豊かさがもたらされます。アフィニティは同じダイヤモンドを構成している部分的側面です。こう申し上げても理解できないでしょうが、こうした霊的な問題は言語による説明がとても難しいのです。

 一つの大きな魂(インディビジュアリティ)があって、それに幾つもの部分的側面があります。それらが別々の時代にパーソナリティとして地上に生を受けます。が、寿命を終えて霊界へ戻ってきた時も一個のインディビジュアリティの側面であることに変わりありません。

 一つの家族が霊界へ来ても、自動的に合流するわけではありません。家族のメンバーが自然な霊的親和性を持っている場合にのみ、それが有りえます。親和性がなければ再会はありません。霊的のレベルが違うからです。

 夫婦の場合であれば、身体上の結婚だけでなく魂と精神においても結ばれていなければ、霊界での再会は不可能です。再会を決定づけるのは霊的親和性です。死後しばらくは血縁によるバイブレーションが残っていますが、それには永続性がありません。

 霊は物質に勝ります。霊に関わるものは死後にも残り続けますが、物質に関わるものはそのうち消えます。お子さんにそのことをよく説明してあげないといけません。

なかなかうまく説明できないかも知れませんが、とにかくすべてが不変の法則によって支配されているのです。その法則の根本にあるものは愛です。愛は大霊の表現です。神、創造主、どう呼ばれても結構です。

 首をうなだれてはいけません。あなたはしっかりと導かれ援助を受けておられます。きっと乗り切ることが出来ます。一瞬たりとも挫折の心配を抱いてはなりません。このたびの経験は結果的にはあなたの霊性を強化し、前途に横たわる未来において大きな豊かさをもたらしてくれる貴重な教訓を植え付けてくれることでしょう。

 私は地上の同志の方に気楽な人生、何の障害もない人生をお約束することは絶対にできません。私から言えることは、障害も困難もその一つ一つが挑戦すべき目標だということです。一つ克服するごとに、あなたは霊的に成長するのです。

 地上の人間はいつかは死ななくてはなりません。物的身体を携えて永遠に生きるということは、自然法則上、不可能なことです。

無知と迷信から生まれる死の恐怖さえ克服すれば、地上の人間にとって死が暗闇から光明へ導いてくれる天使であり、地上で活用されることのなかった才覚と能力とを発揮する好機を与えてくれるものとして歓迎するようになることでしょう。


───〝霊〟(スピリット)と〝魂〟(ソウル)の違いについて教えていただけませんか。スピリチュアリズムの七つの綱領の中で私たちは死後の個性の存続をうたっておりますが、次に生まれ変わる時、実際に再生するのは最初の霊の個性とは別のものでしょうか。

 これはまた厄介な質問をしてくださいました。問題は用語にあります。言語を超えたものを説明するための用語を見つけなければならないので厄介なのです。

 魂と霊の違いがその好例です。使用する際にはどういう意味で使用するかを明確にしないといけません。ここでは単純に、魂とは無限なる宇宙の大霊から出た分子、粒子、神性ということにしましょう。そして霊とはその魂の媒質(※)です。

 それが肉体から分離すると地上時代よりはるかに自由自在に機能を発揮するようになります。肉体は物質でできています。それが霊の表現を制約しているのです。

(※現象界においてはこの二者が一体となって初めて存在できるもので、切り離すことができない。日本語の〝霊魂〟という言い方はその意味で当を得ているが、問題はその理解である。しかし厳密に言えば違いはあっても、実際にはシルバーバーチも置き換えて使用することが多い。

次元が異なるので、止むを得ないことであろう。それはちょうど太陽は厳密に言えば東から昇ってもいないし西に沈んでもいないが、地上から見る限りはそう表現するよりほかに方法がないのと同じであろう。第二巻〝霊〟と〝魂〟についての解説参照───訳者)

 それゆえ、あなた方は霊をたずさえた魂であり、それが肉体を通して自我を表現しているのです。パーソナリティというのはその肉体を携えた地上生活において表現されている側面のことでしかありません。それは本当の自我であるインディビジュアリティのごく小さな一部にすぎません。肉体に包まれているために存分に自我を発揮できないのです。


───次に生まれ変わるのはその地上生活で発揮したパーソナリティ(人物像)ではなくて、その奥の霊または魂なのですね。

 その通りです。前回の地上生活の時と同じ人物がそっくり再生してくることは有りえません。人物像は肉体の死と共に消滅します。それはインディビジュアリティの物的表現にすぎません。


───私の考えでは、われわれは皆、かつてはもっと大きな意識を持っていたのを、今こうして地上に存在している間はそれを放棄し、死後霊界へ行ってからそれを取り戻すのだと理解しております。そう考えるといろんな疑問が解けるのです。

  あなたは今歩んでいる道を地上に来る前に選択されたのです。その時はその大きな意識で自覚しておられたのです。それが肉体に宿り脳を通して意識するようになって曇らされているのです。脳の意識では潜在意識の深奥は探れないからです。

 その誕生前の意識を目覚めさせるためには、その触媒となるべき危機的体験を積まねばなりません。いつかは明瞭に意識する日が来ます。


───地上へ誕生しようとするのは何か特別やりたいことがあるからでしょうか、それとも、より多くの知識を得るためでしょうか。

(両方ともそうですが)それ以外にも何か奉仕的な仕事を行い、その中で神から授かった霊的資質を開発するための場合もあります。


───私にとっては霊的知識こそ神からの授かりものです。

 無限なる叡智を持つ神があなたに授けられたのです。


───ある書物に、われわれは同時に二つの場所に生まれ出ることができると書いてありました。事実でしょうか。

 私は、真の自我であるダイヤモンドには無数の側面があり、それがさまざまな体験を持ち帰ってダイヤモンドの光沢を増す、という考えです。ダイヤモンド全体が一度に生まれてくることはありません。いかなる身体もインディビジュアリティのすべてを宿すことは不可能だからです。

 パーソナリティとインディビジュアリティの違いを理解しないといけません。パーソナリティというのは物的身体を通して顕現した地上だけの人物像です。インディビジュアリティというのは魂の全体像です。その全体像を地上で七〇年や八〇年、あるいは九〇年の間に発揮することは到底不可能です。

 〝われわれ〟とおっしゃった同じダイヤモンドの仲間の別の側面が同時に地上へ誕生することは有り得ることです。が、すべては法則と秩序によって規制されております。その時期が来るまでは余計な心配はなさらぬことです。

 もう一度生まれ変わりたいという願望を持つようになる人がいます。奉仕的活動をしたいという場合もあります。成し遂げたい仕事がある場合もあります。償わねばならないカルマ的な〝借金〟が残っている場合もあります。そういう人たちが地上へ再生するのです。

二度、三度と繰り返すこともあります。が、いずれの場合も再生してくるのは真の自我すなわちインディビジュアリティの側面の一つです。

 再生したくないのであれば、何もこの暗いじめじめした陰鬱な世界へ戻ってくる必要はありません。真の自我に目覚めた人は再生してくる必要はありません。

 
───なぜ再生してこない人がいるのでしょうか。そういう人はそれから先どうなるのでしょうか。

 支払うべきカルマの負債もなく、やらねばならない仕事もないからです。地上での用事がすっかり終わったということです。もう地上へ戻ってきてすることがないのです。地上との一切の縁を切って、霊界での向上進化に専念することが出来ます。


 ───もう下層界へ下りることがないわけですね。ひたすら上へ向けて進歩し、下降することがないのですね。

 進化は常に向上です。下降であれば退化となります。もっとも、進化は必ずしも直線的なものではありません。渦巻状(スパイラル)に同じことを繰り返しているようで、実際には着実に向上しています。

 そこには因果律という自然の摂理が働いており、完全な公正が支配しています。人間の法律はごまかせますが、神の摂理はごまかせません。因果律が生み出すものには絶対的に従わねばなりません。あなたが心配なさる必要はありません。

 ここでぜひ指摘しておきたいのは、地上の人間は再生というものを、今の自分にない一種の栄光に憧れる気持ちから信じている場合が多いということです。人間世界でいうところの 〝劣等感〟(コンプレックス)です。現在の自分の身の上がいくら惨めでも、かつて前世では高貴な身の上だったのだと信じることによって慰めを得ようとするのです。

 しかし再生とはそういうものではありません。(前世では〇〇という人物だったというのはナンセンスです、と別のところで述べている──訳者)。 自然の摂理によってきちんと公正が行きわたっております。必ずしも地上生活中にそうなるとは限りませんが、その場合は霊界において清算されます。そういうものなのです。


 ───霊界へ行ってからでもカルマを清算することが出来るのでしょうか。

 無論です。それが普通です。


 ───ではなぜ地上へ戻って来るのでしょうか。

 地上でしか支払えない借りがあるからです。地上の危急存亡の時に当たって何かの貢献をしたいという自発的な願望から、再生の道を選ぶのです。みんな何らかの貢献をするために再生してくるのです。すべてに計画があるのです。


 ───私だったらこの地上よりそちらで償いをしたいですね!

 選択の自由は与えられています。が、忘れないでいただきたいのは、その自由意志も相対的なものであることです。やりたくてもできないことがあり、また、どうしても選べないコースというのがあります。最終的にはあなたがそれまでに到達した霊的進化の程度が、次に取るべき手段を決定づけるからです。


  (スイスからの招待客が質問する)

──地上へ再生するまでに霊界で何年くらい、あるいは何世紀くらい待つのでしょうか。一〇六〇年という説があり、男性だった者は女性に生まれ変わるというのですが、本当でしょうか。

 その数字はどなたが計算されたのでしょうか。 


──ある大学の講演で聞きました。

 地上に戻ってくる人がいることは事実です。再生してくるわけですが、それまでの間隔は別に一定の年数が決められているわけではなく、あくまでも一つの計算に基づいてそうなるのです。

 カルマによる義務の遂行のために戻ってくる人もいれば、自発的に地上での貢献を目的として戻ってくる人もいます。男性として戻ってくるか女性として戻ってくるかは、格別に重大なことではありません。私たちの世界には性差別防止条例はありませんので!
 
 霊的進化の程度が唯一の基準です。男性であるか女性であるかは問題ではありません。大切なのはその人の行為です。

 また、男性と女性にはそれぞれに果たすべき役目があり、双方が一体となって完全な全体ができあがるように、互いに補完し合うようになっているのです。互いがアフィニティであることを見つけ合うことがあるのはそのためです。そうなったら二度と別れ別れにはなりません。


──戻ってくることもあり戻ってこないこともあるということですね。

 為すべき仕事があればそれをしに戻ってきます。仕事が未完のまま残されていればそれを仕上げに戻ってきます。すべては法則と秩序の問題です。ともかく地上で表現する自我は大きなインディビジュアリティのごく一部に過ぎません。


──前世を思い出すのに催眠術を使用するのがブームになっております。あのような体験で教訓が学べるものでしょうか。

 学べることが皆無というわけではありません。が、そうした体験には、単に現在の自分が立派でないことから、潜在意識が立派でありたかった願望を描こうとする、一種の虚栄心の表れであることがあります。

 別のケースとして、それにカルマが絡んでいる場合があり、過去世において大きな影響を及ぼした苦難または悲劇を現世で呼び戻し、それを意識することでカルマが消滅することがあります。

これは好い結果をもたらす例です。が、それがただの取りとめもない想像にすぎないことが多いのです。もう一つのケースとして、催眠状態における憑依霊の仕業である場合もあります。


──普通だったらとっくに死んでいる筈の患者が医術によって何か月も生き続けている場合があるように思うのですが、こういう場合はどうなるのでしょうか。

 死ぬべき時期がくれば、いかなる医師も生かし続けることはできません。


──でも、そう思えるケースがよくあります。例えば最近ではアメリカの少女の例があります。

 その子の場合、医師が死期を延ばしているという証拠はどこにあるのでしょう?私が理解しているかぎりでは、地上の医師はまだ死期について確定的なことは分かっておりません。正確な死の瞬間について論争が続いているではありませんか。

 死の過程は生命の糸(シルバーコード)が切れて霊体が肉体を離れた瞬間をもって終了します。その時初めて〝死んだ〟と言えるのです。いったんその分離が生じたら最後、いかなる医師も肉体を蘇生させることはできません。


──催眠術による遡及によって過去世の証拠が得られるものでしょうか。実際にはただの霊の憑依ないしは支配にすぎないでしょうか。

 いわゆる遡及によって前世とコンタクトできるという事実は否定しません。しかし、必ずしもそうでないところに問題があるのです。

それというのも、人間の精神には莫大な可能性が秘められており、地上の人間には到底その深奥まで掘り下げることはできないからです。創造力もありますし、潜在的願望もありますし、霊によって憑依される可能性もあります。

 こうした要素をすべて考慮に入れなくてはなりません。催眠中に体外遊離(幽体離脱)が起きて、その間の一連の記憶が印象づけられることもあります。こうした場合は過去世を思い出していることにはなりません。


──生れ変わる時は知り合いの霊の仲間ないしは高級霊団による指示と助力を受けるということを米国の心理学者が催眠術による遡及を通じて明らかにしているのですが、これについてどう思われますか。
℘131
 地上で奉仕的な仕事に献身したいという自覚をもった霊は自発的に再生します。が、霊的真理に目覚めるまでに相当な期間を要することがあり、そうした霊の場合は守護霊や指導霊が手助けします。

私はそうした問題については、いわゆる催眠術による遡及は頼りにならないと考えます。催眠術者は、せいぜい、前世とおぼしきものを引き出そうとしているに過ぎません。


──その米国の心理学者は被術者に再生する時に痛みとか恐怖心とかが無かったのかを聞いております。

 施術者の動機がいかに真面目であっても、催眠術による前世への遡及はよくよく用心して掛からないといけません。催眠術の基本は〝暗示性〟にあります。したがって施術者が述べていることは控え目に受け取らないといけません。被術者は必ずしも施術者の暗示通りに反応しているとは限らないからです。


 訳者注───ここで催眠術がテーマとなっているが、基本的には霊能者や審神者(さにわ)についても言えることで、見当違いのことを大まじめにやっていることがあるので用心が肝要である。その弊害に陥らないための最大の武器は、やはり、しっかりとした心霊学の知識である。

 心霊学は霊的なことについての学問であるから、霊的なことに関わる人のすべてが心得ておくべきものであるはずなのに、神道や仏教の当事者はもとよりのこと、霊能者、霊媒及びその審神者が基本的な知識すら持ち合わせていないことに呆れることがあるし、何と危険なことだろうと、恐ろしささえ覚えることがある。


 そうした事実を考慮して私は『霊訓』の続編である 『インペレーター霊訓』 の冒頭で霊的通信の入手経路について概略を述べておいた。またインペレーターの霊言及び自動書記通信の中には霊媒及び霊能者に対する忠言、特に邪霊・悪霊・イタズラ霊の存在について言及しているものが多く見られるので、ぜひ参考にしていただきたい。

 見た目に清潔そうに見えてもバイ菌がうようよしているように、平凡な日常生活の背後にバイ菌のような霊がうようよしている。問題はそうした霊に操られた霊能者や霊媒が多すぎることである。それは最近の書店の心霊コーナーを見れば一目瞭然であろう。

 嘆かわしいことこの上ないが、これも凡人には測り知れない神の計画の一端なのかもしれないと思って諦めつつも、せめてそれが真実でないことを指摘することだけはすべきだという考えから、敢えて付言させていただいた。

事のついでであるが、私が親しくしている米国人のスピリチュアリストに最近の米国の心霊事情を尋ねたところ、英国に比べて精神的なものより現象的なものが多く、しかもいかにも米国らしくスケールの大きい催しがあるが、

いかがわしいものが多いので自分は久しくそういう催しに出席していないと言い、個人的には英国のスピリチュアリズムの方が性分に合っている、とのことだった。

 その英国のサイキックニューズ紙の最新号(二二・八・一九八七)で主筆のオーツセンが、編集手帳のようなコラムの中で面白い話を持ち出して、それに厳しい批判を加えている。

 あらましだけを拾って紹介すると、ある日オーツセンに電話でいい霊媒を紹介してほしいという依頼があった。わけを聞くと、エルビス・プレスリーの十周忌の記念行事としてプレスリーの霊を呼び出すための〝国際的交霊会〟を催したいという。

アメリカとオーストラリアの方はすでに話がついているが、イギリスからも参加してもらいたいという。オーツセンは無論それを断ったと述べてから次のように警告している。

 「正直言って私はジャーナリストやテレビ局からのこの種の依頼にうんざりしている。名前を呼べば簡単に出てきてしゃべってくれると思っているらしいが、霊との交信はそういう調子にはいかないのである。

 いかなる霊媒も、こちらから霊を呼び出すことはできない。あくまで霊の方から親近性と愛を掛け橋として戻ってくるのである。依頼されればどんな霊でも呼び出してあげられると豪語する霊媒は今すぐ霊能養成会へ行って一からやり直すしかない」




Wednesday, May 21, 2025

シアトルの春  四章 サクラメントの秘義

The Secret of Sacramento



The Life Beyond the Veil
Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven
By G. V. Owen



(訳者注───サクラメントというのはキリスト教の儀式の中でもとくに大切にされている儀式で、〝秘跡〟と訳されることが多いが、各派によって異なるのでここでは言語のまま用いた。)


1 聖体拝領(最後の晩餐)        
  一九一七 年十二月四日 火曜日

  貴殿は受け取った観念を文章に綴ってくれればそれで宜しい。そしてそれが吾々の霊団からのものであることに疑念を抱かれる必要はまったくありません。

と言うのも、一方において吾々は貴殿が筆記されている間は貴殿の身柄をしっかりと確保し、他方において吾々の通信を横取りして自分たちの通信に使用せんとする狡賢(ずるがしこ)い霊の集団を排除すべく努力をしているからである。

それが可能なのも、カスリーンを通じて実際に貴殿との通信を始めるずっと以前から貴殿について準備し、また吾々の側の準備をも着々と積み重ねてきたからです。

 さて今夜はキリスト教の聖なる儀式の問題について語ってみたい。キリスト教界において今なお行われており、キリストを主と仰ぐ者にとって大いに関心を持つべきものだからです。中でも聖体拝領の儀式(マタイ26)はキリストを主と仰ぐ者にとって生涯にわたる意味を秘めている。

これには数々の意味が含まれてるので、これより少しばかり述べてみたい。まず、その由来について。

 現存する聖典から推察されるように、キリストの生涯については過去幾世紀にもわたって伝えられてきたものよりも記録されずに終わったものの方がはるかに多い。大ざっぱに読んでもそれが推察できるであろう。

しかも残っている記録も、本質においては相通じるものがあっても、細かい点になると曖昧なところが多い。残っている記録は数多くあったものの中のごく一部に過ぎないことを知らねばならない。

他の記録は完全に地上から消滅したか、未だどこかに残っていて、いつの日か陽の目を見ることになるかもしれない。が、こちらの世界にはその全記録が保存されており、吾々もこの度それを勉強したところです。これから述べることはそれを根拠にしています。

(訳者注──その一例が自動記霊媒カミンズ女史を通じて書き記された The Scripts of Cleophas で聖書の欠落した部分やその後の歴史を物語る通信が見事な散文体で書かれている。これは第一級の聖書研究家やキリスト教の聖職者によって〝正真正銘〟の折紙がつけられている)

 そのとき主イエスは肉体を具えた存在から肉体なき存在へと変化を目前にしていた。死期の迫ったことを知ったイエスは、十二人の弟子との会合の中で、自分の死後もこの弟子たち並びに自分の教えに従う者との霊的交わりを強化し、自分を生命力の源とさせるための、思い出と霊交の儀式を行ったのです。

ここで前回に述べた霊交の三つの型を思い出していただきたい。最高界より流れくるところの脈動する生命力は、その鋭敏さゆえに、主の王国全体(*)に張り巡らされている特殊な組織への針の先でつついたほどの衝撃さえ中心的始源まで波及し、即時に反応が返ってくることが理解していただけよう。


その反応と緻密性(ちみつせい)と即時性を具体的に説明せんとしても、地上にはそれを譬えるべきものが何一つ見当りません。ここではせめて〝運動する粒子はその速度が速ければ速いほどそれに加えられる外的刺激による反応が大きい〟という法則を思い出していただくに留めてきましょう。

(*最高界といい王国というも地球的規模における話。イエスは普遍的キリスト神の地球的表現すなわち地球の守護神の部分的表現である。六章でその詳しい説明が出る─訳者)

 父なる神より湧き出た生命の流れがまず主に至り、主の霊性を加味されて御国のすみずみにまで放散されるのは、その組織があるからこそです。その組織への衝撃が例の〝主の祈り〟(マタイ・6)とともにパンとぶどう酒による儀式によって与えられる。

すると会衆の前に並べられた品々にその生命の流れが注がれ、主の生命と融合し、主みずから述べられた如くに、それが主の聖体とおん血に変わる。貴殿らが使用する祈りは〝祈願〟であると同時に主の生命を受け入れることへの会衆の〝同意〟を意味します。

何となれば、同意なくしてはいかなる恩恵といえども人間に押し付けることは許されないからです。その同意は必ずしも声に出す必要はない。要は〝心〟です。

それが地球へ向けて流れくる主の生命力の流れに遭遇し、オリーブ山を越えてサレムへ来られるイエスを迎えに集まった者たちと同じように、そこで合流し主の流れの即時的反応を受けて再び元の会衆へ戻ってくる。

 こうして与えられる恵みは三つの形を取る。まず第一は霊と霊との交わり、すなわち祈願する者と主との交わりです。第二はその霊を包むところの身体すなわち霊体の健康と活力の増進です。そして第三がその二種類の作用の自然な結果、つまり内的活力と肉体との融合です。

 これを吾々はキリストの総身(*)の活性化と呼びます。すなわち根源からの生命の流れと合流し、一人ひとりが活力を得ることによってキリスト自身も活力を増進していくのです。

(*顕幽にわたる地球規模の自然界そのものをさす。第六章で詳しく解説──訳者)

 この聖体拝領の儀式にはもう一つの意味が秘められています。が、その説明は簡略なものに留めざるを得ません。何となれば、いかに努力してみたところで、その真相の全てを伝えることは無理だからです。吾々にも吾々の言語があるのですが(*)、それでは貴殿の方が理解できず、さりとて地上の言語では全く用を為さない。

その真相は地上の言語の痕跡を留めない上層界にわたることであり、最高界に近い崇高な界層の言語でしか伝え得ないものです。  

(*死後の世界では言語は使用されないと言われるが、音声による形態の言語は無いという意味であって、地上の各民族によって言語が異なる如く、各界層によってその表現形式の異なる言語があるようである──訳者)

 聖書にあるごとくパンとぶどう酒という二つのありふれた品物はイエスの聖体とおん血に変わる。

従ってそれはその言葉(マタイ26・26~29)を発したイエスの一部となったことになります。このことに関してこれまで、一体なぜ肉と骨と血でできた身体をまとっているイエスにそれが出来たのかという疑問があったようですが、実は人間は一人の例外もなく、生涯を通じてひっきりなしに、外部の物体と霊的に反応し合っている。

身にまとったものには、その人の個性が泌みこむ。手を触れるものにも住まう家にも個性が伝わり、それは永遠に消えることがない。そういう性質を生まれながらにして具えているのです。(心霊学でいうサイコメトリ現象がそれを証明している──訳者)

 イエスは、ユダヤとガリラヤにおいて病める人や不自由な者をその生命力で癒したごとく、また弟子たちに霊力を吹き込みその生命力で鼓舞したごとく、そのパンとぶどう酒に生命力の流れを注ぎ、かくしてそれは真実の意味においてイエスの身体(からだ)となり血となったのです。

 今日とて同じです。イエスは晩餐が終わればあとは十字架にかけられるのを最後に、すべてが終わりとなる身であった。そのような身の上の者が自分とからだと血を永遠のものとして授けるはずはありません。

そうではない。その時のパンとぶどう酒、十二人の弟子たち、並びにそこに参集せる者たちへ注がれたのは、その時のイエスが束の間の地上生活のためにまとい、やがて使い古した衣服のごとく棄てられる肉体と血ではなかった。

また、始源から流れくる生命力の流れの通路となったイエスの霊体でもなかった。それはイエスの霊そのもの、今も昔も変わらぬ永遠なるキリストの生命そのものであり、それは肉体があろうと無かろうと同じことであった。

なぜなら霊力や霊的エネルギーに関する限り、そうした形式は問題ではないからです。表現形式はどうあろうと、表現されるもの自体は少しも変わりません。

 それ故、最後の晩餐においてパンとぶどう酒が主の願いと意図のもとに生命力の貯蔵庫となり、その意味において主の聖体とおん血となったと言うのは正しいわけです。

そして又、イエスのからだがこの世から消えたからといって、そのことは主の働きかけを阻止するどころか、むしろ一つの媒体がなくなったことによって、より一層容易にそして直接的に働きかけることが可能となったと言えます。

少なくとも肉体が無いということは、主より流れ出る生命力がパンとぶどう酒に注がれることを妨げることにはなりません。

 それゆえ司祭が会衆の同意のもとに、パンとぶどう酒を食卓に並べ置き高き天界の在(おわ)す主の犠牲を祈願する時、それは実質において主の御胸に手を置き、高き天使の在す天上界へ目を向け、父なる神の顔を見つめ、人類のためにその子イエスの愛と認識を嘆願していることになるのです。

もしその司祭が素直にして幼子の如き心の持ち主であるならば、今日でさえその手の下に主の御胸の静かなる生命の鼓動を感じ取ることができるでしょう。その生命力による援助のもとに、その祈りの念は聖にして純なる天界へと送り届けられ、主の祈りそのものとして嘉納されることになるのです。


  
 2 婚 姻   
一九一七年十二月五日 水曜日


 昨夜はサクラメントの中でもとくに深遠な意味をもつものを取り上げました。今夜はそれよりは重要性は劣るものの、キリストを主と仰ぎ絶対と信じる者の生活において見逃せない意義を持つものを取り上げたい。

吾々がサクラメントと言う時、それはキリスト教界における狭い宗教的意味で用いているのではなく、霊力の始源に一層近い位置においてその働きをつぶさに観察することのできる吾々の境涯における意味で用いております。


 まず最初に、創造的機能を具えた二つの存在の結合としての婚姻について述べましょう。人間はこれを二つの〝性〟のたどるべき自然な成り行きとして捉え、男性と女性とが一体となることで成就されると考えます。

実はそれは絶対不可欠の条件ではありません。ただそれだけのことであれば、人間を両生動物(単性生殖動物)とすればよかったことになります。

が、今日のごとき理想的形態での物的存在が確立されるよりはるか以前、最高神界において議(はか)られしのちに神々は創造の大業を推進するための摂理の一つを定められた。

それは貴殿や地上の思想家が考えるような、人類が男女二つの性に分かれるという単なる分裂としての発達ではなく、性というものを物質という存在形態への霊の発展進出のための一要素とすることであった。霊は物的形態以前から存在する。

それが物的形態に宿ることによって個性が誕生し、物的形態の進化と共にその個性を具えた自我が発達して互いに補足し合うことになった。性はあくまでも一つなのです。それが二種類から成るというまでの話です。

肉と血液とで一個の人体が構成されるように、男と女とで一個の性を構成するわけです。

 神がなぜそう決定したか。吾々の知り得たかぎりにおいて言えば、それは自我をいっそう深く理解するためである。もっとも、これは大いなる謎です。吾々とてその全貌を知るカギは持ち合わせていません。

が、男性と女性の二つの要素を創造することによって〝統一性〟の真意がいっそう理解しやすくなったと解釈しています。つまり統一が分裂して霊の世界より物質の世界へと誕生し、やがて再び霊の世界へと回帰して元の統一体を回復することにより、その統一性への理解を得るということです。

神という絶対的統一体に含まれる二大原理が、それを一つとして理解し得ない者のために、二つに分離して顕現したわけです。

男性が女性を知るということは結局は自我をいっそう明確に理解することであり、女性が男性を知るのも同じく自我への理解を深めることになります。

なぜなら両者はこの物質という形態の中での生活の始まる以前においては別個の存在ではなかったのであり、したがって物質界を後にした生活において、いずれは再び一体となるべき宿命にあるのです。

 つまり天界の深奥を支配するその絶対的統一性が下層界へも及ぶためには、地上人類を構成すべき個々の存在にその二つの原理を包含させる必要があった。かくして婚姻が生じた。実にこの婚姻は人類のたどるべき宿命の折り返し点なのです。

 〝静〟の大根源が無限の発展という目的をもって〝動〟へ顕現したとき、全体を支配した基調はただ一つ〝多様性〟であった。かくしてその無数の存在の中に個性を特質と形態の原理が導入されるに至った。その多様性の最後の、そして究極の作用となったのが、貴殿らがセックスと呼んでいるところの生殖機能としての二つの性の創造であった。

 その段階において再び一体化へ向けて進化せんとする反動的衝動が生まれる。絶対的統一体すなわち神へ向けての第一歩が踏み出されるのです。

 かくして物的意味における両性と同時に霊的意味における両性の融合から、その両性を一つに体現した第三の要素が誕生する。主イエスこそ人類としてのその完璧な体現者であり、その霊的本質は男性的徳性と女性的徳性のほどよく融合せるものでした。

 その大原理は身体上にも同じくあてはまります。男性の胸にはかつての女性の象徴が二つ付いているであろう。生理学者に尋ねてみるがよい。体質的にも女性的なものが含まれており、それが男性的なものと一体となって人間という一個の統一体をこしらえていることを証言してくれるであろう。

 この両性の一体化された完全無欠の人間は、これより究極の完全状態へ向けての無限の奮闘努力を通じて、己れを空しくし他を愛し他へ施しをすることが実は己れを愛し己れに施すことになること、そして又、己れの下らなさを自覚する者ほど永遠の天界において恵みを受けるという叡智に目覚めることであろう。

この叡智を説いた人を貴殿はよく知っている。わざと妙なこと、謎めいた原理を語ったわけではありません。貴殿も吾々も今なおその崇高なる叡智を学びつつあるところであり、その奥義にたどり着くまでにはまだまだ果てしない道が前途に横たわっています。が、主イエスはすでにそこへ到達されたのです。



 3 死              
  一九一七年十二月六日  木曜日

 これまで述べたことはごく手短に述べたまでであって、十分な叙述からほど遠い。述べたくても述べられないのです。たとえ述べても分量が増えるばかりで、しかもそれが貴殿の自由な精神活動の場を奪い、真意の理解を妨げることになるでしょう。

吾々としては取りあえず貴殿が食するだけのケーキの材料として程よい量の小麦を提供する。

それを貴殿が粉にしてケーキを作り、食べてみてこれはいけると思われれば、今度はご自分で小麦を栽培して脱穀し粉にして練り上げれば、保存がきくのみならず、これを読まれる貴殿以外の人へも利益をもたらすことになる。では吾々の叙述を進めましょう。

 前回の通信で婚姻が進化の過程における折り返し点であると述べましたが、この表現も大ざっぱな言い方であって、精密さに欠けます。そこで今回はこの問題の細かい点に焦点をしぼり、その婚姻の産物たる子供──男児あるいは女児──について述べてみましょう。

 生まれくる子供に四つの要素が秘められていることは(前回の通信を理解すれば)貴殿にも判るでしょう。父方から受ける男性と女性の要素と、母方から受ける女性と男性の要素です。

父方における支配的要素は男性であり、母方における支配的要素は女性です。この四つの要素、と言うよりは、一つの要素の四つの側面、もっと正確に言えば二つの主要素と二つの副次的要素とが一個の子孫の中で結合することにより、性の内的原理の外的表現であるところのそうした諸要素がいったん増加して再び一つになるという、一連の営みが行われるわけです。

 かくしてその子も一個の人間として独自の人生を開始する──無限の過去を背負いつつ無限の未来へ向けて歩を進めるのです。

 どうやら貴殿は洗礼とそれに続く按(あん)手礼(手を信者の頭部に置いて祝福する儀式)について語るものと期待しておられたようですが、そういう先入主的期待はやめていただきたい。吾々の思う通りに進行させてほしい。

貴殿からコースを指示されて進むよりも、貴殿の同意を得ながら吾々の予定通りに進んだ方が、結局は貴殿にとっても良い結果が得られます。

吾々には予定表がきちんと出来上がっているのです。貴殿は吾々の述べることを素直に綴ってくれればよいのであって、今夜はどういう通信だろうか、明日はなんの話題であろうかと先のことを勝手に憶測したり期待してもらっては困るのです。

吾々としては貴殿の余計な期待のために予定していない岬を迂回したり危険な海峡を恐る恐る通過することにならないように、貴殿には精神のこだわりを無くしてほしく思います。

吾々の方で予定したコースの方がよい仕事ができます。貴殿に指示されるとどうもうまく行かないのです。


──申しわけありません。おっしゃる通り私は確かに次は洗礼について語られるものと期待しておりました。サクラメントの順序を間違っておられるようです──聖餐式(せいさんしき)、それから婚姻と。でも結構です。次は何でしょうか。

(訳者注──本来の順序は洗礼が第一で聖餐式がこれに続き、婚姻はずっとあとにくる)


 〝死〟のサクラメントである。貴殿にとっては驚きでしょう。もっとも人生から驚きが無くなったらおしまいです。それはあたかも一年の四季と同じで、惰性には進歩性がないことを教えようとするものです。進歩こそ神の宇宙の一大目的なのです。

 〝死〟をサクラメントと呼ぶことには貴殿は抵抗を感じるでしょう。が、吾々は〝生〟と〝死〟を共に生きたサクラメントと見なしています。

〝婚姻〟をサクラメントとする以上はその当然の産物として〝誕生〟もサクラメントとすべきであり、さらにその生の完成へ向けての霊界への誕生という意味において〝死〟をサクラメントとすべきです。

 誕生においては暗黒より太陽の光の中へ出る。死においてさらに偉大なる光すなわち神の天国の光の中へと生まれる。どちらが上とも、どちらが下とも言えない。

〝誕生〟においては神の帝国における公権を与えられ、〝洗礼〟によって神の子イエスの王国の一住民となり、〝死〟によって地上という名のその王国の一地域から解放される。

 誕生は一個の人間としての存在を授ける。それが洗礼によって吾が王の旗印のもとに実戦に参加する資格を自覚させる。そして死によってさらに大いなる仕事に参加する───地上での実績の可なる者は義なる千軍万馬の古兵(ふるつわもの)として、〝良〟なる者は指揮官として、〝優〟なる者は統治者として迎えられるであろう。

 したがって〝死〟は何事にも終止をうつものではなく、〝誕生〟を持って始まったものを携えていく、その地上生活と天界の生活との中間に位置する関門であり、その意味において顕幽両界を取り持つ聖なるものであり、それで吾々はこれを吾々の理解する意味においてサクラメントと呼ぶのです。

 これで結果的には〝洗礼〟についても述べたことになるでしょう。詳しく述べなかったのは、主イエスの僕としての生涯におけるその重大な瞬間を吾々が理解していないからではありません。他に述べるべきことが幾つかあるからです。

そこで〝死〟のサクラメントについてもう少し述べて、それで今回は終わりとしたい。貴殿にも用事があるようですから。

 いよいよ他界する時刻が近づくと、それまでの人生の体験によって獲得しあるいは生み出してきたものの全てが凝縮し始める。これはそれまでの体験の残留エキス──希望と動機と憧憬と愛、その他、内部の自我の真の価値の表現であるところのものの一切です。

ふだんは各自の霊体と肉体の全存在を取り巻き、かつ滲み渡っている。それが死期が近づくにつれて一つに凝縮して霊体に摂り入れられ、そしてその霊体が物的外被すなわち肉体からゆっくりと脱け出て自由の身となる。それこそが天界の次の段階で使用する身体なのです。

 しかし時として死は衝撃的に、一瞬のうちに訪れることがある。そのとき霊体はまだ霊界の生活に十分な健康と生命力を具えるに至っていない。そこで肉体から先に述べた要素を抽出し霊体に摂り入れるまで上昇を遅らせる必要が生じる。

実際問題としてその過程が十分に、そして完全に終了するまでは、真の意味で霊界入りしたとは言い難い。

それは譬えてみれば月足らずして地上へ誕生してくる赤子のようなもので、虚弱であるために胎内にて身につけるべきであった要素を時間をかけてゆっくりと摂取していかねばならない。

 そういう次第で吾々は〝死〟は立派なサクラメントであると言うのです。きわめて神聖なものです。

 人類の歴史において、そのゆるやかな物体の過程──人間の目にはそれが死を意味するのですが──を経ずに肉体を奪われた殉教者がいる。貴殿が想像する以上に大勢いました。が、いずれの過程を経ようと、本質においては同じです。

主イエスは死が少しも恐るべきものでないことを示さんとして、地上的生命から永遠の生命への門出を従容(しょうよう)として迎えた。

その死にざまによって主は、人間の目にいかなる形式、いかなる価値として映じようが、死とは〝神の心〟より流れ出る〝生命の河〟の上流へ向けて人類がたどる、ごく当たり前の旅のエピソードであることを示したのでした。

シアトルの春 音楽を語る

Talking about music



Light from Silver Birch
Edited by Pam Riva



    (神の計画の中で音楽は一種名状しがたい役割を演じているようである。ある日の交霊会でシルバーバーチは英国の音楽界で指導的地位にある音楽家に次のように語りかけた)

 あなたが音楽を通じて世の中のために貢献していらっしゃるその実態は、あなたご自身にはまず理解できないことです。音楽、なかんずくインスピレーション的な曲は、あなた自身はごく自然な形で作曲しているつもりでも、魂を癒し慰め刺激し鼓舞する特質を具えているものです。

それはそれなりに魂の琴線に触れて、五感を通じて得られるものよりはるかに偉大な生命の荘厳さがあることを認識させます。

 これから先どこで演奏なさる時も、あなたは偉大な目的のための道具であること、あなたに感謝の気持ちを伝えられない大勢の人々に心の調和と同情と激励と幸福と健康をもたらす一助となっていることを思い出して下さい。

 こちらの世界へお出でになれば、大変な楽しみがあなたを待っております。と申しますのは、霊界には今のあなたには理解できない性質と卓越性を持った音楽が存在するからです。地上でまだ一度もお聞きになったことのないオクターブがあります。

シンフォニ―もあります。コンチェルトもあります。オーケストラもあります。最高の作曲家や演奏家が無数にいます。地上にはほんのわずかしかおりません。

 地上で大作曲家と言われている人のすべてがこちらへ来ているわけですが、その巨匠がその後さらに向上進化しているのです。鑑賞力を持った人なら立派な音楽をいくらでも聴くことが出来ます。

ミュージックホールは霊界が誇る財産といってもよいほどです。地上のいかなる楽器でも表現できないオクターブの音をあなたも聴くことになるのです。

 それから、もちろん地上を豊かにする音楽はみな霊界を始源としております。人間がこしらえているのではありません。演奏家も作曲家もみな一種の霊媒なのです。


───本日こうして出席させていただきましたことを大へん光栄に存じます。あなたの教えが私の人生において素晴らしい啓示となっていることを是非とも申し上げたいと思っておりました。

 そのことを私と一緒に神に感謝しようではありませんか───私は神の使いとなったことの光栄とその好機を与えていただいたことを、そしてあなたと奥さんはその真理を授かることが出来たことを、です。

 何十年か前、私は同志もなくたった一人でこの地上へやって参りました。是が非でも地上人類に霊的実在の存在を教え、霊力の働きかけの場を設立する必要があるとの理由から、私が霊界においてそれまで獲得したものをお預けして、

(次元が異なるが故の)困難な条件のもとで、この地上へ戻ってくれないかとの要請を受けたのです。それを私は挑戦のつもりでお引き受けしました。

 今夜あなたから、私が光栄にも伝達させていただいた教訓───私が考え出したものではないのです───があなたの人生で大きな啓示となっていることをお聞かせくださいました。そのことに私は感謝したいと思います。

と申しますのは、そのことは私に愛念を覚えさせて下さる方がまた一人増えたことを意味するからです。それは私にとって大へんうれしいことなのです。

 これより先あなたには、ご自身がこれまでに恵みを受けられたように他の人々に恵みを施す機会が次々と与えられることでしょう。その機会を逃さないことです。と言って私は、あなたを始め私の同志のどなたにも、熱狂的な伝道者になってほしいと思っているわけではありません。

しゃにむに他人を信じさせようとなさることは期待しておりません。後で平静を取り戻した時にはもう忘れているような、一時的な興奮状態の群集心理につけ込む非理性的手段で真理を説いて下さることは望みません。

 私が申し上げているのは、あなたにはあなたとのご縁を通じて援助の手を差し伸べるべき機会が与えられることになるということです。その時にあなたなりの最善を尽くせばよいのです。地上世界には為さねばならないことが山ほどあります。

 物的財産は一時的な所有物にすぎません。所有物といっても真に自分のものではなく、ただの一時的保管物にすぎません。一方、霊的財産は錆びることも色あせることもありません。永続性があります。

 人のために自分を役立てることほど立派な宗教的行為はありません。それが霊の通貨(コイン)なのです。自分より恵まれない人のために手を差しのべていれば、そのうち自分の生きるべき道がきっと啓示されます。あなたが窮地にあって啓示を受けられたように、窮地に置かれた人があなたの手の届くところまで導かれてくるようになるでしょう。


(別の招待客が耳障りな現代音楽の話を持ち出して、インスピレーションが形態を変えた結果なのかと尋ねた。すると───)

 インスピレーションが変わることはありません。インスピレーションは片時も休むことなく送られております。ただ、それを受け取る用意の出来た者だけが受け取っているにすぎません。波長がそれに合わなければ受け取れないということです。インスピレーションは休みなく送られております。霊力と同じく、地上へ顕現する通路を求めております。

 要するに波長の一致の問題です。地上には音楽、絵画、その他あらゆる芸術分野に先駆者がいます。その人たちは時代に先んじすぎているために、在世中は一般から理解してもらえないことがあります。が、時代が進むにつれて理解力の水準が上がり、その先駆者たちに正しい評価が為されるようになります。

 しかし、そのことは地上でよく生じる音楽の俗悪化には当てはまりません。それはむしろ今日の地上を蝕んでいる狂暴化の傾向と結びついた問題です。


───現代という世代が音楽に影響しているのではないかと思っておりました。

 物質を霊から切り離すことは出来ません。物質的なものが霊的なものへ、霊的なものが物質的なものへと、互いに反応し合い影響し合っているからです。あなたの身体は霊に影響を及ぼし、あなたの霊は身体に影響を及ぼしております。両者は隔絶したものではありません。



───(スイスの精神医学者の)ユングは内部にあるものは必ず外部に出るものであると述べています。現代の気違いじみた音楽にはその例証といえる要素があるのでしょうか。内部にあるよりも外部へ発散してしまった方がよいのでしょうか。それが狂暴性を発散させることになるのでしょうか。

 いえ、残念ながらそれは、ごく当たり前の反応にすぎません。物的なもの、一種の利己性、つまり他人の幸せに対する完全な無関心の表れです。貪欲が巾を利かしているのです。自分たちの地上生活を自ら蝕んでいる狂暴性の原因はそこにあるのです。それが素行の面のみならず音楽や芸術、その他ありとあらゆる生活面に表れているのです。
  
          

Tuesday, May 20, 2025

シアトルの春  死ぬということはどういうことか

What it means to die



Light from Silver Birch
Edited by Pam Riva


    死ぬということは霊が肉体から脱皮して姿を現す過程のことです。何一つ怖がる要素はありません。死は有難い解放者です。死は自由をもたらしてくれるのです。

 地上では赤ん坊が生まれると喜びます。ところが、いよいよ地上へ誕生しようとする時こちらでは泣いて別れを惜しむ霊が大勢いるのです。それと同じく、地上で誰かが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を出迎えて喜んでいる人たちがいます。

 死とは地上生活がその目的を果たし、霊がこれから始まる霊的生活が提供してくれる圧倒的な豊かさと美しさとを味わう用意が出来たことを意味します。少なくとも本来はそうあらねばならないのです。

 皆さんにも霊が宿っております。生命を与えている霊的本性です。肉体もお持ちですが、それもその霊によって生命を賦与されてはじめて存在しているのです。霊が最終的に引っ込めば───〝最終的に〟と申し上げるのは、一時的には毎晩のように肉体から引っ込み、朝になると戻ってくるからです──肉体に死が訪れます。生命活動が切れたからです。
 
 霊視能力者が見れば、霊体と肉体とをつないでいるコードが伸びて行きながら、ついにぷっつりと切れるのが分かります。その時に両者は永久に分離します。その分離の瞬間に死が発生します。そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても肉体を生き返らせることはできません。


(訳者注──近似死体験というのがあるが、これは医者が〝ご臨終です〟と宣告しても玉の緒がまだ切断していなかった場合である)

──臓器移植の技術的進歩によって新たな問題が生じております。医師たちは死者の心臓とか腎臓を取り出すために死の瞬間を待ちうけております。問題は〝果たして本当に死んだと言えるか──もう臓器を取り出してもよいか〟という点です。

 臓器移植についてはよく存じております。そして又、その動機が立派な場合があることも承知しております。しかし私としては人体のいかなる部分も他人に移植することに反対であると申し上げます。


──死者はある一定期間そっと安置しておいてあげる必要があると信じている人がいます。それと言うのも、最近では人体を使って実験をするために死体をかっさらうように実験室へ持っていくことがよくあるのです。こうしたことは魂ないし霊にとって害があるのでしょうか。

 それはその死者の霊が霊的事実についての知識があるかどうかによります。もし何の知識もなければ、一時的に害が生じる可能性があります。と言うのは、霊体と肉体とをつないでいるコードが完全に切れた後も、地上での長い間の関係によって相互依存の習性が残っているからです。

 その意味では一般的に言って埋葬または火葬迄に死後三日は間を置いた方がよいでしょう。それから後のことは、どうなさろうと構いません。死体を医学的な研究の材料として提供したければ、それも結構でしょう。そちらで判断なさるべきことです。

 ただ一言いわせていただけば、誰にも生まれるべき時があり死すべき時があります。もしも死すべき時が来ていれば、たとえ臓器移植によってもその肉体を地上へ永らえさせることは出来ません。


──飛行機事故で即死するケースがありますが、その場合は霊的にどういう影響があるのでしょうか。

 今申し上げたこととまったく同じです。霊的事実についての知識がある人は何の影響もありません。知識のない人はそのショックの影響があるのでしょう。が、いずれにせよ、時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。


──偶発事故による死があるとなると再生の事実を受け入れたくなります。

 偶発事故という用語は感心しません。私は因果律の働きしか知らないからです。偶発のように思えることも、ちゃんとした因果律の働きの結果なのです。再生の問題ですが、これは大変複雑な問題で、今ここで十分な説明をする余裕がありません。

(訳者注──原書をお持ちの方のために参考までに付言すれば、本章のここのところまでは Silver Birch Speaks <シルバーバーチは語る>というカセットテープに収められた特別交霊会での〝死〟にまつわる部分が引用されているが、ところどころでリーバ女史が修正している。

内容上は別に問題はないが、この最後の再生に関する部分はカセットのままの方が分かりやすいので、その通りに訳してある。なお他の章にも断片的に同じカセットから引用されているが、カセットをお持ちの方の便宜も考えて、それらをまとめて次の第十一巻で紹介する予定である)

     
 (質問者が代わる)

──私はテレビで The Making of Mankind <人類発達史>を見ておりますが、見ているうちに人類の霊魂の起源のことを考え始めました。その当初において人類の霊魂は何らかの動物の種から発生したのでしょうか。

 いいえ。


──ということは、動物界はわれわれ人類と別個の存在ということでしょうか。

 いいえ。

──では人類の霊魂はどこから発生したのでしょうか。

 何処からも発生しておりません。霊魂に起源はありません。


──これまでずっと私は、人類の霊魂は徐々に進化してきたものと思っておりました。

 そうではありません。進化してきたのは身体の方です。霊は大霊の一部であり、無始無終です。霊は無窮の過去から存在しています。それが人間の身体に宿った時に個別性を具えるのです。霊には始まりも終りもありません。

バイブルにも〝アブラハムが生まれる前から私は存在している〟というイエスの言葉があります(第八巻101頁参照)。霊は常に存在しているのです。霊は人間的形体に宿って初めて個別性を持つことになるのであり、霊ないし魂は常に存在していたのです。(P119参照)

 (質問者が代わる)

 ──霊魂の永遠性についてお伺いしたいことがあります。年輩の霊と若い霊という言い方をする人がいますが、霊が新たにこしらえられることがあるのでしょうか。私たちはどこから来たのでしょうか。すべての霊が再生されたものなのでしょうか。それとも大霊から新しい霊が産み出されてくるのでしょうか。

 霊はこしらえられるものではありません。過去も未来もなく常に存在しております。先ほど〝私はアブラハムが生まれる前から存在している〟というイエスの言葉を引用しました。霊としてはあなたも無始無終に存在しているのです。

霊を新たにこしらえなければならなかったことは一度もありません。無が有になる段階というものはこれまで一度もありません。

 生命の原動力、精髄、活力そのものである霊は、過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生まれるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も人間も、全てそうです。霊は存在の大原動力です。

 母胎に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体がしばらくの間地上で機能するわけです。

 しかし霊は様々な側面を持つことができます。その幾つかが地上に再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることはあり得ます。その意味では〝年輩の霊〟〝若い霊〟と呼べる霊は存在します。しかし〝新しい霊〟というものはこしらえられません。地上での自我の表現機関として新しい身体が提供されるだけです。

 胎児が無事に宿り地上生活のための身体が用意されると、霊は個別的存在として地上へ誕生してきます。霊そのものは別に新しいものではありません。個的形態を具えたというだけです。一個の人物となったというだけです。その男性また女性が成長してやがて地上を離れると、大きい自我の一側面として新しい要素を加えることになります。


──各自に生まれるべき時があれば、同じく死ぬべき時もあることになりますが、帝王切開で生まれた場合はどうなるのでしょうか。決っていた誕生の日時を変えることになりませんか。

 「それは地上へ生まれ出る日時を変えるだけです。母胎に宿って個としての表現を開始した日時を変えることにはなりません。また地上的生命に自ら終止符を打つ自由も与えられておりますが、その時はその時で自動的に報いがあります。


──出産を医師が人為的に早めたりすることがあります。するとその子は定められた時期より早く生まれることになりますが、これは占星学的になにか影響を及ぼしませんか。

 「出生の日時がよくよく気になると見えますね! 地上への誕生に関して唯一大切なことは、いつから自我を表現し始めるかということです。それは受胎した瞬間からであって、生まれ出た時からではありません。占星学については私は何の関心もありません。受胎と共に地上的生命が始まります。受胎なしには地上的生命はありません。


──ブラジルに来られたローマ法王が民衆の貧しさに嘆かれ、一方、家族計画(産児制限)は許されるべきでないことを強調されましたが、その矛盾をどう理解すればよいのでしょうか。

 法王はとても立派な方ですが、宇宙の全知識を貯えられているわけではありません。家族計画は人類自身で解決すべきことですから、これからも続く問題です。ただ、一個の霊が人間界へ誕生することになっている時は、いかなる計画を立てても必ず生まれてきます。


 (質問者が代わる)

──死後の生命なんかほしくないと、本心からそう思っている人がいます。そういう人たちにどう説かれますか。

 地上なんかに二度と生まれたくないと本心から思っている霊がいますよ。しかしそれは、いかんともし難いことなのです。自然の摂理との縁を切ることは出来ません。あなたがどう思うかに関係なく摂理は働きます。開けゆく大自然のパノラマが人間の小さな欲求や願望、あるいは反坑にもお構いなく展開していく姿をご覧になれます。


──と言うことは、私たちは地上へ来たくなくても無理やり来させられるということでしょうか。私はその点は自由な選択が許されると思っていました。

 必ずしも強制されるわけではありません。地上からこちらへ来るのにも自由選択が許されるように、こちらから地上へ行くのにも選択の余地が与えられています。

是非とも為さねばならない仕事があることを自覚して地上へ誕生する霊がいます。行きたくはないけど、どうしてもしなければならない用事があるので止むを得ず誕生する霊もいます。あるいは償わねばならない業(カルマ)があって誕生してくる場合もあります。


──自殺することまで計画されていることがあるというのは本当でしょうか。

 とんでもありません! 計画というのは母胎に宿る以前に霊自身によって立てられるのです。


──自殺行為によって学べる教訓は何一つ無いということでしょうか。

 あるわけがありません! 生命は宇宙の大霊が授けるのです。それを縮める権利は人間にはありません。

──死んで霊界入りした人間は自分が死んだことが自覚できるのでしょうか。

 みんながみんな自覚できるとは限りません。大半の者が自覚できます。が、完全な自覚(悟り)に到達するには相当な時間が掛かります。


──霊界の人たちは何もしてくれないのでしょうか。

 いえ、いろいろと指導しております。本人は気付かなくても陰から手助けしております。霊界はすべてが知れるように組織されております。上層界には高級霊による政庁が組織されており、その中には一度も物質界に誕生したことのない霊(天使)がいます。

その霊達が神の計画推進の任に当たっているのです。大規模な総合計画があって、有意識・無意識の区別なく、あらゆる存在を包摂しております。その宇宙的規模の摂理から外れて存在できるものは何一つありません。


──人間が死ぬと肉親や愛する人たちが出迎えて手引きしてくれるそうですが、それらの霊は他界者と同じ霊格の者ばかりでしょうか。

 そうではありません。なぜなら、その霊たちは死後も霊的に進化しているからです。他界してきた者のレベルに合わせて交信するために、いわば階段を下りてくるのです。霊的成長とは成熟していくことであることを理解しないといけません。

 地上の年齢とは一致しません。では、さっき述べた完全な悟りに到達できるのはどの段階においてかということですが、これはお答えしにくい問題です。と申しますのは、悟りというのは固定した限りあるものではなく、いつまでも成長し続ける状態だからです。

悟りには無限の奥行きがあります。これでおしまいという終点がないのです。深まれば深まるほど、さらにその奥に悟るべきものがあることを自覚するものです。

 それは事実上永遠に続く過程です。段階的に少しずつ理解が深まっていく過程です。無知の状態からいきなり悟りが開かれるという、そういう突然の変化ではありません。段階があり、魂がより高い段階への準備が整うにつれて、少しずつ開けていくのです。


──たとえ生活水準が今より向上したところで不老不死ということは有り得ないのは言うまでもないのですが、もしも完全な生活条件が整ったら百五十歳までは生きられるのではないかと思うのですが・・・・・・

 肉体的年齢と霊的成熟度とを混同してはいけません。大切なのは年齢の数ではなく、肉体を通して一時的に顕現している霊の成長・発展・開発の程度です。

 肉体が地上で永らえる年数を長引かせることは神の計画の中にはありません。リンゴが熟すると木から落ちるように、霊に備えが出来ると肉体が滅びるということでよいのです。ですから、寿命というものは忘れることです。長生きをすること自体は大切ではありません。

 地上生活の一番肝心な目的は、霊が地上を去ったのちの霊界生活をスタートする上で役に立つ生活、教育、体験を積むことです。もし必要な体験を積んでいなければ、それはちょうど学校へ通いながら何の教育も身につけずに卒業して、その後の大人の生活に対応できないのと同じです。


 (永年スピリチュアリズムの仕事に努力した夫に先立たれた女性にシルバーバーチが次のような励ましの言葉を述べた)

 本日あなたをここへお迎えして、苦労と試練の時の力となった基本的な霊的真理の真実性を改めて確認して差し上げることを、とてもうれしく思います。

 地上に籍を置く人間にとって、たとえ死後にも生命があるとの知識を手にしている方でも、身近な者が宇宙の別の次元の世界へ連れて行かれた時に平然としていることは、容易なことではありません。

死という身体上の別離には悲しみが伴うものであるという事実を軽視するのは、愚かでもありましょう。しかし、それはあくまでも身体上の別離であって霊的には少しも別れてはいないことを御認識すべきです。

 地上に生を受けた人間にとって死は避けられません。いつかは地上に別れを告げなければならない時がまいります。それは、もはや地上生活がそれ以上その霊に与えるものが無くなり、完全へ向けての進化の不可欠の要素として、次の冒険へ旅立つ用意が出来たということです。

 その死別という試練に直面した時に自分をどう慰められるかは、各自が考えるべきことです。それが容易でないことは私も理解しております。

 しかし死は愛によって結ばれた者を引き裂くことはできません。愛は、生命と同じく不滅です。また愛は、生命と同じく、条件さえ整えば望み通りのことを叶えさせる強烈な威力を秘めております。もとより、心ひそかに声もなく流される涙もあることでしょう。しかし、うなだれてはいけません。霊の力は決して見捨てません。必ずや援助の手が差し伸べられます。

 悩んではいけません。悩みの念はその援助の通路を塞いでしまいます。あなたはご自分ではそうは思えないかも知れませんが、ある意味でとても幸せな方です。と申しますのは、悲哀のドン底を味わうことによって霊的真理を受け入れる資格を身につけられたからです。

そのドン底から這い上がるのは容易ではありませんでしたが、道は間違いなく啓示されました。今あなたは愛する方が身近な存在として実在していることを確信なさっておられます。

 私はいつも思うのですが、地上の人々、中でも特に霊的知識を手にされた方が背後霊の存在を実感を持って認識してくだされば、どんなに有難いことでしょう。地上の愛する者へ無益な害が及ばないように庇い、守り、導いている霊の姿を一目ご覧になることができれば、と思うのです.

 その影響力の大きさを知ることができたら、明日のことを思い煩うようなことは絶対にしなくなることでしょう。それで私はここに集まる同志の方にいつも申し上げているのですが、新しい一日の訪れを素晴らしい霊的冒険の到来として喜んで迎えることです。

 あなたの人生は、手にされた証拠によって一変しました。そこであなたは今、ご自身が有難く思われた同じ思いを人にも体験させてあげようと、いろいろと努力をなさっておいでです。私は実際にそのご様子を拝見して、良く存じております。

 他人がどう言おうと気になさらぬことです。まったく下らぬことばかり言っております。大切なのはあなたの人生をどう生きられるかです。できるかぎりの最善を尽くして人のために力になってあげることです。

 ご主人は肉体の束縛から解放されました。晩年にイヤな思いをされたあの痛みと不自由はもう二度と味わうことはありません。これからは今なお〝わが家〟とされているあなたの住居での生活の中で、ご自分の死後の存在の事実をあなたに実感させてくれることでしょう。

ですから、気を強くお持ちになり堂々と胸を張って、愛する者を失っても霊的知識があればこれだけ立派に生きて行けるのだという、一つに手本を示していただきたいのです。

 別離といっても身体上のことであり、霊的には別れていないのです。愛によって結ばれた者どうしを引き裂く力は地上にも霊界にも何一つありません。愛は、生命と同じく、死よりも強いのです。愛は、生命と同じく霊に属するものであり、霊は決して滅びないのです。
     







Monday, May 19, 2025

シアトルの春 生きがいある人生を送るには     

 How to live a life worth living 



Light from Silver Birch
Edited by Pam Riva  
 

 われわれ一同は神の道具です。神の道具として役立つということは光栄なことです。人の為に役立つことをすることほど立派な宗教的行為はありません。それこそが霊の正貨(コイン)です。人のために自分を役立てることは崇高なことです。

 それは人の生活を豊かにすると同時に自分の生活をも豊かにします。また、この世には自分のことを思ってくれる者はいないと思い込んでいる人々に慰めをもたらします。

 人のために役立っていると思う時、私たちは心の奥に安らぎと静けさと満足感を覚えます。宇宙の絶対的な支配力への全幅の信頼、神へ向けて一歩また一歩近づかんとする努力の支えとなる堅忍不抜さは、人のために尽くしている中でこそ得られるのです。

 目標の頂点は宇宙の大霊すなわち神です。われわれが生活するこの果てしない宇宙を創造し、ありとあらゆる存在に配剤するための摂理を考案した無限の愛と叡智の粋です。

 大霊と離れて何ものも存在しません。大霊が全てなのです。大なるもの、小なるもの、複雑なもの、単純なもの、生命現象のありとあらゆる側面に対して神の配剤があるのです。

霊の働きがあってこそ、すべてが存在できているのです。神の霊がすべてに潜在している以上、神との縁は切ろうにも切ることができないのです。人間がいかなる説を立てようと、神がすべてに宿り給い、したがって神はすべてであり、すべてが神であるという事実は変えることはできません。

 無限なる創造主であり、その愛と叡智によって壮大な宇宙を経綸し、その完全なる知性によって摂理を考案して、壮大といえるほど大きいものから顕微鏡的に小さいものまでの、ありとあらゆる存在を包摂し、その一つ一つに必要な配剤をしてくださっている大霊を超えた存在は、誰一人、何一つありません。

その摂理の作用は完全無欠であり、その支配の外に出られるものはありません。

 小さすぎるからということで無視されたり、見落とされたり、忘れ去られたりすることはありません。それは大霊の一部が生きとし生けるものすべてに宿っているからです。言いかえれば神がその霊性の一部を各自に吹き込んだからこそ存在しているのであり、その霊性が神とわれわれとを結びつけ、また、われわれお互いをつないでいるのです。

 その絆を断ち切ることの出来る力は地上にも死後の世界にも存在しません。その絆があるからこそ、叡智と真理と啓示の無限の貯蔵所を利用することも可能なのです。

 生命力すなわち霊がすべての存在、すべての人間に宿っているのです。その最高の形が他ならぬ人類という存在に見られます。人類の一人一人の中に、永遠に神と結び付け、また人間同士を結びつけている霊性が宿っているのです。その絆こそ万全の宇宙的ネットワークの一環なのです。


 皆さんより永い経験を持つ私達霊団の者も、この果てしない大機構を生み出された神の叡智の見事さに感嘆せずにはいられないことばかりです。

 また私たちの心の視野を常に広げ、自分が何者であり、いかなる存在であるかについての認識を増やし続けてくれる真理と叡智とインスピレーションの絶え間ない流れ、私たちの一人一人に宿る霊の力、わがものとすることができるにも関わらず、霊の豊かさと神と同胞とのつながりについて何も知らずにいる地上の人たちのために活用すべき才能を授かっていることに、私たち霊団の者は改めて感謝の意を表明せずにはいられません。

 大自然の法則は、われわれの一人一人に生命を吹き込んでくださった創造神と常に一体関係にあるように、そして地上世界はおろか霊の世界のいかなる力によってもその絆が断ち切られることが無いように配慮してあるのです。

 さらにその霊の機構を愛の力が導き管理し常に調和を維持して、受け入れる用意のある者が霊力と叡智と真理とインスピレーションとを授かるための手段を用意しております。

 その上われわれ自らが道具となって、地上の人間生活を豊かにし、病める者を癒やし、喪に服する人を慰め、人生に疲れた者に力を与え、道を見失える者に導きを与える、全存在の始源からの崇高な霊力の恩恵をもたらすことができるのです。

 われわれはそのための才能を授かっているのです。それを発達させることによって、われわれが手にした掛けがいのない知識の恩恵にあずかれずにいる不幸な人たちの為に活用することができます。

要するに、この荘厳な霊力の流れる通路として一層磨きをかけ、受け入れる用意のできた人々に惜しみなく恩恵をもたらしてあげられるようになることが、われわれの大切な務めなのです。

 さて、ここで人生体験が霊的に見てどのような意味を持っているかをご説明しましょう。
℘29
地上の人間は、なぜ苦しみがあるのか、病気には何の目的があるのか、なぜ危機、困難、障害といったものに遭遇しなければならないかといった疑問を抱きますが、これらはみなそれに遭遇することによってまず カタルシス(※)を起こさせ、続いてカタリスト(※※)として霊的真理を学ばせる機会を提供してくれる、魂が是非とも体験しなければならない挑戦課題なのです。


(※ 語源的には〝浄化する〟ということで、それが精神医学において、無意識の精神的抑圧を洗い流す作用を意味する。※※ 精神的革命の触媒となるもの───訳者)

 魂は低く落ち込むことが可能であるだけ、それだけ高く向上することもできます。それが両極の原理です。すなわち作用と反作用は相等しいものであると同時に正反対のものであるという法則です。憎しみと愛、光と闇、嵐と静けさ、こうした〝対〟は同じコインの表と裏の関係にあるのです。

 私の好きな諺がバイブルの中にあります。〝信仰に知識を加えよ〟というのですが、私はこれを〝知識を得たら、それに信仰を加味せよ〟と言い変えたいところです。所詮すべての知識を手にすることはできません。あなた方は人の子であり、能力に限界があるからです。

人生の嵐に抵抗し、何が起きようと盤石不動であるためには、その土台として霊的知識を必要としますが、限られた知識ではすべてを網羅(カバー)することは出来ません。その足らざる部分は信仰心で補いなさいと私は言うのです。

 本来の住処である霊界から地上へこうして戻ってきて皆さんの賛同を得るのに私たち霊団が愛と理性に訴えていることを、私は誇りに思っております。有無を言わせず命令することはしません。

ああしてほしいとか、こうしてくれとかの要求もいたしません(※)。あなた方の判断によって自由におやりになられるがよろしい。そして霊の世界から申し上げることがあなた方の理性を納得させることができず反発を覚えさせる時、知性が侮辱される思いをなさる時は、遠慮なく拒絶なさるがよろしい。

(※ この姿勢は頭初からの方針として徹底しており、例えば霊言を公表すべきか否かについてさえバーバネルとスワッハーとの間で意見が対立し激論を闘わせたこともあったのに、シルバーバーチはそのことに一言も口をはさんでいない。

これは霊界の計画だから早く公表するように、といった助言があっても良さそうに思えるのであるが、それすらなく、実際にサイキックニューズ紙に掲載され、やがて霊言集として出版されるまでに十数年の歳月が流れている──訳者)

 私たちとしては皆さんが自発的に望まれた上で協力と忠誠心を捧げて下さるように、皆さんの内部の卑俗なものではなく最高の判断力に訴えなければならないのです。と言って私たちの方からは何もしないというのではありません。

それぞれの活動の分野、日常の仕事において援助を受けていらっしゃることに気づかれる筈です。そしてそれとは別の分野において、人のために役立つことをするように導かれているのです。

 私も私なりに皆さんのお役に立ちたいと願っております。気付いていらっしゃらないかも知れませんが、これまでに味わったことのない精神的ないし霊的な豊かさをきっと手にされることになる生き方にそって導かれていらっしゃいます。

そうした中にあってさえ皆さんの心の中には次々と悩みが生じ疑問を抱かれるのも、地上の人間としては止むを得ないこととして私は理解しております。がしかし、どう理屈をこねたところで、全宇宙の中にあって唯一の実在は〝霊〟であることを改めて申し上げます。

 物質はその本性そのものが束の間の存在であり移ろいやすいものです。物的に顕現している形態そのものには永続性はありません。それが存在を保っているのは霊によって生命を与えられているからです。

原動力は霊なのです。霊こそがあなたを、そして他の全ての人を地上に生かしめているのです。霊が引っ込めば物質は崩壊します。あなたの身体は元の塵に戻りますが、本当のあなたである霊は永遠の進化の旅を続けます。

 あなた方は霊を携えた身体ではありません。身体を携えた霊なのです。本当のあなたは鏡に映る容姿ではありません。それは霊が地上で自我を表現するための物的な道具、複雑な機械に過ぎません。霊は物質に勝ります。霊が王様であり、物質は召使です。

 こうした事実を追及していくうちに、あなたの視野と焦点の置きどころが変わっていくことに気づかれます。自分がなぜ地上にいるのか、真の自我を発揮するにはどうすべきか、そうしたことを理解し始めます。どういう種類のことであっても結構です。自分の能力を伸ばして他人への援助を啓発の為に活用する───それがあなた方のなすべきことです。

 忘れないでいただきたいのは、皆さんは不完全な世界に生きている不完全な存在だということです。もしも完全であれば神はあなた方を地上へ送らなかったでしょう。その不完全な世界においてあなた方は、持てる才能をいかに活用するかについて、自由な選択権が与えられております。

 地上世界の特異性は対照的、ないしは両極性にあります。美点と徳性を具えたものと、それらを欠いたものとが同じ地上に存在していることです。これは霊界では有り得ないことです。各界が同じ性質の霊で構成されていて、対照的なものが存在しません。

 地上生活の目的は善悪様々な体験を通じて魂が潜在的霊性を発揮して、強くたくましく成長するチャンスを提供することです。それで悪事があり、罪があり、暴力があるわけです。進化は一直線に進むものではありません。スパイラルを描きながら進みます。表面的には美しく見えても、その底はあまり美しくないものがあります。

 私が霊界の界層の話をする時、それは必ずしも丸い天体のことを言っているのではありません(※)。さまざまな発達段階の存在の場のことを指しており、それらが地理的に平面上で仕切られているのではなくて、低いレベルから高いレベルへと、段階的に繋がっているのです。

(※〝必ずしも〟と言っていることから察せられるように、地球と同じ丸い形をした界層も存在する。それがとりもなおさず地縛霊の世界で、地球圏の範囲から抜け出られないまま地上と同じような生活の場を形成している。同じことが各天体についても言えると考えて良い──訳者)

 それが無限に繋がっており、これでおしまいという頂上がないのです。霊性が開発されるにつれて、さらに開発すべきものがあることに気づきます。知識と同じです。知れば知るほど、その先にもっと知るべきものが存在することに気づきます。

 各界層にはほぼ同等の霊的発達段階にある者が集まっております。それより高い界層へ進むにはそれに相応しい霊格を身につけなければなりません。それより低い界層へはいつでも行くことができます。現に私たちは今こうして低い界層の人々を啓発する使命を担って地上へ下りて来ております。

 向上とは不完全さを洗い落とし、完全へ向けて絶え間なく努力して成長していくことです。それには今日一日を大切に生きるということだけでよいのです。毎朝の訪れを性格形成のための無限の可能性を告げるものとして迎えることです。それが自我を開発させ、人生に目的性を持たせることになります。残念ながら今の地上の余りに大勢の人たちが人生に対する目的意識を忘れております。

 神の心をわが心とするように心掛けることです。霊力と一体となるように心がけることです。皆さんの一人一人が神の愛の御手が触れるのを感じ取り、常に守られていることを知り、明日が何をもたらすかを恐れないようにならないといけません。そして人のために自分を役立てる機会をいただいたことを喜ぶことです。

 私たちは大きな戦いに参加しております。小競り合い、大規模な戦争がいくつもありました。が、本当に闘っている相手は貪欲、怨念、利己主義という、地上を蝕んでいる物質中心主義の副産物です。

 そこで私たちは全存在の始源は、無限の創造主から発せられる聖なる霊力であることを実証し、死が言語に絶する素晴らしい霊の世界への扉に過ぎないことをお教えするのです。

 それがあなた方も参加しておられる闘いです。その将校や指揮官は、戦闘のあまりの激しさに退却することがないよう、厳しい試練を受けねばなりません。

 あなた方の進むべき道は、霊界からあなた方を愛している大勢の霊が必ず示してくれます。それは地上で血縁関係にあった者だけではありません。霊的な近親関係にある者もいます。その霊たちがあなた方を使って恵まれない人々のために影響力を行使するのです。

 われわれはみな同じ霊的巡礼の旅を続ける仲間です。神への巡礼の道は無数に存在します。いかなる知識も、それがわれわれの視野の地平線を少しでも広げ、この宇宙についての理解を深める上で役立っていることを感謝いたしましょう。

 知識には責任が伴います。それなりの代価を支払わねばなりません。知識を手にしたということは、それを手にしていない人よりも責任が大きいということです。しかし私たち霊界の者は、私たちの道具として協力してくださる地上の人々を見棄てるようなことは決していたしません。

本当ならここで、あなた方地上の人たちも決して私たちを見捨てませんと言うセリフをお聞きしたいところですが、残念ながらそれは有り得ないことのようです。

 皆さんはご自分で気づいていらっしゃる以上に霊界からいろいろと援助を受けておられます。いずれ地上を去ってこちらへお出でになり、地上でなさったことを総合的に査定なされば、きっと驚かれることでしょう。私たちは魂の成長に関わったことで援助しているのです。それが一ばん大切だからです。


 それに引きかえ、地上の各分野での混乱ぶりはどうでしょうか。宗教は本来の目的を果たせなくなっております。科学者は自分たちの発明・発見が及ぼす被害の大きさを十分に認識しておりません。

唯物思想の袋小路に入り込んでしまった思想家たちは、誰一人救えないどころか自分自身すら救えなくなっております。その点われわれは光栄にも神の道具として大切な仕事を仰せつかり、一人ひとりに託された信頼を自覚しております。

 私たち霊界の者は、縁あって皆さんのもとを訪れる人たちに霊と精神と身体に真実の自由をもたらす崇高な真理を理解させ真の自我を見出させてあげるべく、皆さんを導き、勇気づけ、元気づけ、鼓舞する用意が出来ております。本当の自分を見出すこと、それが人生の究極の目的だからです。

 地上には霊的進歩を計るものさしがありませんから、そうした協力関係の中で皆さんがどれほどの貢献をなさっているかがお分かりになりません。しかし、たった一人の人の悲しみを慰め、たった一人の人の病気を治し、たった一人の人に真の自我に目覚めさせてあげることができたら、それだけであなたの全人生が無駄でなかったことになります。私たちはひたすら〝人のために役立つこと〟を心掛けております。

 不安を抱いたり動転するようなことがあってはなりません。不安は無知の産物です。知識を授かった人は、それによって不安を追い払えるようでなくてはなりません。皆さんは宇宙最大のエネルギー源とのつながりが持てるのです。

これまでに知られた物的世界のいかなるエネルギーよりも壮大です。崇高なエネルギーです。それをあなた方を通して流入させ、恵み深い仕事を遂行することが出来るのです。

 落胆したり悲観的になったりしてはなりません。幸いにして不変の基本的な霊的真理を手にした者は、いかなる事態にあっても霊は物質に勝るとの信念を忘れてはなりません。解決策はきっと見つかります。ただ、必ずしもすぐにとはいきません。

しばらく待たされることがあります。(別のところで、忍耐力と信念を試すためにわざとギリギリのところまで待たせることもする、と述べてる───訳者)

 自分より恵まれない人のための仕事に従事することは光栄この上ないことです。われわれが人のために尽くしている時、われわれみずからも、より高い、進化せる存在による働きかけの恩恵を受けているのです。

自分のことは何一つ望まず、ただひたすらわれわれを鼓舞して、暗闇のあるところには光を、無知のはびこっているところには真理を、窮地に陥っている人には援助をもたらすことに精励しているのです。

 そうした強大な霊団───生きがいのある人生を模索している人のために、われわれを道具として尽力している高級霊───の存在をますます身近に感じることが出来るように努力いたしましょう。 

 その崇高なる霊力がますます多くの人間を通じて地上へ注がれ、恩恵を広め、悲しむ人々を慰め、病の人を癒し、道に迷いもはや解決の手段は無いものと思い込んでいる人々に導きを与えることが出来ているということは、本当に有り難いことです。

 霊力がどこかで効を奏すると、そこに橋頭保が敷設され強化されます。続いて新たな橋頭保の敷設と強化を求めます。かくして次第に霊力が地球を取り囲み、ますます多くの人々がその莫大な恩恵にあずかることになります。

 われわれはこれまでに存在の始源から勿体ないほどの多くの恩恵を授かってまいりました。それによって同志の多くが霊的に豊かになりました。なればこそ、われわれより恵まれない人たちが同じ豊かさと美と栄光を分かち合えるように、われわれの奉仕的精神を一段と堅固に、そして強力にすることができるように神に祈りたいと思います。

 知識がもたらすところの責任も片時も忘れないようにいたしましょう。われわれはもはや、知らなかったでは済まされません。精神的自由と霊的解放をもたらす真理を手にしているからです。

人間の一人一人に神性の一部を植え付けて下さった宇宙の大霊とのより一層の調和を求めて、人のために自分を役立てる機会をますます多く与えて下さるように祈ろうではありませんか。

 そうした生き方の中においてこそ、すべて神が良きにはからって下さるという内的な安らぎ、静寂、悟り、落ち着きを得ることが出来ます。そして無限の創造活動を促進する上でわれわれも役目を担っていることになるのです。


 ───あなたは人類全体が霊において繋がっているとおっしゃっていますが、大半の人間はそのことに気づいておりません。その霊性を発見するためになぜ目覚めなくてはならないのでしょうか。そこのところがよく分かりません。

 
 表面をご覧になって感じられるほど不可解な謎ではありません。理解していただかねばならないのは、人間は肉体を携えた霊であって霊を携えた肉体ではないということです。

物質が存在出来るのは霊による賦活作用があるからであり、その霊は神性の火花として存在のすべて、生命を表現しているあらゆる形態の根源的要素となっているのです。

 改めて申し上げるまでもなく、地上へ誕生してくる目的は各自の魂の成長と開発と発達を促進するような体験を積み、肉体の死後に待ち受ける次の段階の生活に相応しい進化を遂げることです。

 地上は幼稚園であり、霊界は大人の学校です。今この地上においてあなたは教訓を正しく身につけ、精神を培い、霊性を鍛えて、神から頂いた才能を心霊治療その他の分野で人のために使用できるまで発達させることを心掛けるべきです。


 ───この世的なものをなるべく捨てて霊的なものを求める生き方が理想なのでしょうか。それとも出来るだけ多くの地上的体験を積むべきなのでしょうか。

 物質と言うものを霊から切り離して、あたかも水も通さない程に両者が仕切られているかに思ってはいけません。両者には密接な相互関係があります。地上にいる間は、霊が物質を支配していても物質がその支配の程度を規制しております。物質を霊から切り離して考えてはいけません。

 地上生活の目的は、いよいよ霊界へ旅立つ時が来たときに霊に十分な備えが出来ているように、さまざまな体験を積むことです。まずこの地球へ来るのはそのためです。地上はトレーニングセンターのようなものです。霊が死後の生活に対して十分な支度を整えるための学校です。

 あなた方にとってイヤな体験こそ本当はいちばん為になるのですよと繰り返し申し上げるのは、そういう理由からです。魂が目覚めるのは呑気な生活の中ではなく嵐のような生活の中においてこそです。雷鳴が轟き、稲妻が走っている時です。

 酷い目に遭わなくてはいけません。しごかれないといけません。磨かれないといけません。人生の絶頂と同時にドン底も体験しなくてはいけません。地上だからこそ味わえる体験を積まないといけません。かくして霊は一段と威力を増し強化されて、死後に待ち受けている生活への備えが出来るのです。

  
 (ベトナムから訪れた青年が質問する)

───私は余暇を利用して人のために何かしたいと思っているのですが、何をしたらよいか分かりません。何かアドバイスをいただきたいのですが・・・・・・


 距離的にも霊的にも、あなたはずいぶん長い旅をしてこられましたね。しかし今こうしてこの交霊界に出席していらっしゃるという事実が、霊力というものがイザという時に導いてくれることの証明です。

 人のために何かをなさりたいという願望に対しては、いずれそのチャンスが用意されます。ただし、急(せ)いては事を仕損じます。地上の大勢の方々に苦言を呈すれば、長い迷いの末に霊的実在に目覚めた方は、とかく何でもいいから心霊的能力を発揮したいという気持ちに駆られすぎます。

 道はそのうち示されます。導きを祈ることです。あなたもこれまでの人生で、もう少しで人間への信頼を失いそうになるほどの精神的打撃を受けてこられました。しかし信頼を地上の人間にのみに置いてはいけません。神すなわち愛と叡智と知識の権化である大霊が存在します。

 疑念が生じた時は精神を統一して物質界の喧騒から逃れるのです。すると霊的理解が得られます。統一状態が深まれば深まるほど内的な安らぎ、静寂、安心感、決意といったものが深まり、自分にとって最良のものが授けられるとの確信を持つことができるようになります。

 私からお答えできるのはそれだけです。あなたは今素晴らしい御手に抱かれております。決して一人ぼっちにはされません。時がたつにつれて人のために仕事をするチャンスが背後霊によってもたらされてまいります。


 (もう一人の招待客が尋ねる) 


───心霊治療を体験したあと私自身もグループを結成して心霊治療を開始したのですが、その後私だけ独立して一人で治療活動を続けております。人のためになるのであればどういう形でやっても同じと考えてよろしいでしょうか。


 あなたご自身はどうお考えですか。

───私は霊的な観点から言うと同じではないと思います。私なりに出来るだけの努力はしているつもりです。が、次々と難しいことが生じてくると、私の取った態度が霊界側に迷惑をかけたのではなかろうかと思うことがあるのです。

 奉仕は霊の正貨です。奉仕に勝る宗教はありません。人のために自分を役立てることは尊い行為です。あなたの望み通りの分野で仕事ができなくても、人のためになると思うことを、その時その時に行えばよろしい。ドアを押してみてすぐに開けば、その道を行けばよろしい。カギの掛かったドアをしつこく叩いてはいけません。時間とエネルギーの無駄です。

 次々と生じる難問に動じてはいけません。困難は挑戦すべき課題です。困難もなく難問もなく、障害を妨害もないようでは、潜在する能力を発揮するチャンスがないことになります。

 人間は危機に直面して初めて、自分の奥に思いも寄らなかった力があることに気づきます。ふだんはその貯えの表面をひっかいている程度に過ぎません。その潜在力と背後霊の導きをもってすれば、克服できないほど大きな困難はありません。

 私たち霊界の者は地上で仕事をしなければならないのです。したがってその限界というものを弁えております。つまり私たちが使用する道具は人間的煩悩を具えており、もろく、かつ気まぐれです。しかし私たちとしては差し当たって使用出来るもので最善を尽くすしかありません。

 このサークルに来られる人々にいつも申し上げていることですが、信念に迷いが生じた時は、かつて自分がドン底にあった時に立ち返ってみることです。もう絶対に救われる見込みはないと思われた奈落の底にいたのです。そしてその絶体絶命のピンチで道が開かれたのです。これからも道は必ず開けてまいります。

 あなたはあなたなりに最善を尽くしていればよいのです。所詮あなたは完全な存在ではありません。地上においても霊界においても、完全というものは達成できないのです。

完全への道は永遠に続くのです。このことは、このサークルのメンバーの方は耳にタコができるほど聞かされております。しくじってもまた立ち直ることができるのです。

(ここでその質問者はシルビア・バーバネルに向って 「私はあなたがお書きになった When a Child Dies <子供の死後> を読んでいろいろと慰められました。私も娘を二人亡くしているものですから。つい最近も男の子を亡くされた方にお貸ししたばかりです。私と同じように大きな慰めを得てくださればと期待しているところです」と述べると、シルバーバーチがこう述べた)

 パン種が発酵するのです。これからも発酵し続けることでしょう。この大規模な戦いにおいて、われわれは勝ち組の方に属しております。最後は必ず勝利者となります。敗者とはなりません。背後に控える勢力は全宇宙でも最大のものです。

大霊の力なのです。地上で知られているいかなる力よりも強大です。これまでその力が成就してきた数々の驚異をこの目で見てきている私は、その力に全幅の信頼を置いております。私の目には何一つ心配すべき理由は見当たりません。


 (霊的指導者としても人生相談にものっている人が述べる)

 ───自分自身、霊的指導者として恥じない生活をしているだろうかという疑問を抱くことがよくあります。人には自信を持って霊的真理を説きながら自分では時おり、ふと、疑いの念を抱くことがあるのです。

 あなたのお名前はまさかトマス(※)ではないでしょうね。疑ってはなりません。霊的現象をその目でご覧になりその耳で聞くことのできた人は幸いです。すぐ身の回りに存在する驚異的生命の世界をかい間見るという大変な光栄に浴されたのです。

その世界には自分のことは何一つ求めず、寄るべない身の上をかこつ人々の救済のために献身している霊がひしめいているのです。それが私たちの仕事でもあるのです。

(※イエスの弟子の一人で非常に疑い深い性格で、イエスの復活についても実際に手と足のクギ跡を見るまでは信じなかった。八日目にイエスが物質化して出現してトマスにその傷を見せて信じさせた。その時の有名なセリフが〝見ずして信じることの出来る者は幸いである〟───現代人にも通じる名言と言うべきであろう───訳者)

 私には人間のもろさ、疑念や取り越し苦労はよく理解できます。しかし、これまで荘厳と美観と光輝と威力と指導力とを見せ付けてくれた霊力に全幅の信頼を置けば、その霊力は絶対にしくじることがないということを、徐々にではあっても理解していかれることでしょう。

人間の方が私たちを裏切った例はたくさんあります。が、私たちがその人達を裏切ったことは一度もありません。

 くり返しますが、あなた方にはご自分がどれほど貢献していらっしゃるかが推し測れないのです。絶体絶命と思いこんだ魂が本当の自我を見出す上で、あなた方もずいぶん手助けしていらっしゃいます。

 自分がいったい誰なのか、何者なのかが分からず、霊的実在に目も耳も塞がれている無数の人を見るのは悲しいことです。道を見失い、沼地に足を取られ、もがきながら生きております。これだと確信できる道が見出せないのです。

 幸いにしてそれを見出しているわれわれは、その責任の重大さを自覚して、われわれを頼ってくる人々を喜んで迎え、暗闇の中で光明を見出させてあげようではありませんか。