Tuesday, April 21, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

The Mediums' Book    Allan Kardec
スピリチュアリズムの真髄「現象編」




3章 説諭に際しての心得

霊的真理に目覚めた者が、今度はそれを一人でも多くの人に知ってもらいたいと思うようになるのは自然の成り行きであり、むしろそうあって然るべきことであろう。本章はそういう願望を抱いている人のために、我々の体験にもとづいて最も有効な方法をお教えし、せっかくの意気込みが徒労に終わることのないように、という意図に発している。

すでに述べたように、スピリチュアリズムは新しい学問であり、新しい人生哲学である。となると、それを理解するには、第一条件として真剣さが要求される。つまり、どの学問でも同じであるが、遊び半分の態度ではとても理解できるものではないとの自覚がなくてはならない。

スピリチュアリズムは人類という存在のあらゆる問題に係わっている。その範囲は広大であり、実験会に参加した者が痛切に感じるのは、現象が暗示するところが途方もなく大きく、かつ深刻であることである。

その基本にあるものが霊の実在の真実性であることは論をまたないが、意欲的なタイプの人間は自分がそれを確信するだけでは満足しない。それは神学者が神の存在を自分が信じるだけでは満足できないのと同じである。そこで、これからそういうタイプの者にとってどういう方法が最も効果的であるかをみていこう。

“百聞は一見にしかず”という諺があるように、疑う人間には事実(物証)を見せるのが一番であるかに思われているが、実際は必ずしもそうではない。どんな現象を見せてもまったく考えを変えない人間がいることを知らねばならない。その原因はどこにあるかを明らかにしてみよう。

スピリチュアリズムにおいては、霊界通信と呼ばれている霊からのメッセージは言わば副産物であって、二次的な意義しかもたない。言いかえれば、霊からのメッセージはスピリチュアリズムの出発点ではないということである。

霊は人間の魂が肉体を捨てたあとに存続しているものにほかならないのであるから、議論はまず人間にその魂が内在していることから始めねばならない。ところが唯物論者は人間はこの肉体でしかないと信じているのであるから、この物的世界とは別の世界があって、そこに何らかの存在がいるなどということを信じさせるのは、まず不可能である。

自分に魂が内在することを信じない者が目に見えない霊の世界が存在するなどということが信じられるわけがないのであるから、そういうテーマについていくら議論しても無益である。どこからどう説いても、ことごとく論破されてしまう。原理そのものを認めないのであるから当然であろう。

秩序ある説諭というものは、すでに明らかとなっていることから始めて、さらに未知の分野へと進むべきである。この場合、唯物論者にとって明らかとなっているのは“物質”のみであるから、我々もまず物質科学に足場を定め、そこから唯物論者を我々の見地へと誘(いざな)い、人間には物質の法則を超越したものが内在していることを説いて聞かせる、ということになる。しかし、その説明のためには、物的次元を超えたさまざまな次元の法則を持ち出し、証拠としてさまざまな論拠を持ち出さねばならない。

自分に魂が宿っていることを信じない人間にいきなり霊の話を持ち出すのは、最終目的とすべきところから出発するようなもので、前提を認めない者が結論を認めるはずがないから、賢明とは言えない。うたぐり深い人間に霊的真理を納得させるためには、前もってその人が魂についてどう考えているか、つまり魂の存在を認めるかどうか、死後にそれが存続することを信じるかどうか、死後にも個性が残ることを信じるかどうかを確かめておく必要がある。

もしもそうした問いにいずれも「ノー」と答えるのであれば、霊について説くことは徒労に終わるに決まっている。絶対にとまでは言わない。中には例外的人間もいるであろう。が、その人の場合は何か別の要素があるものと察せられる。

唯物論者には大きく分けて二つのタイプがある。一つは、理論上そう考えているタイプ。このタイプの人間にとって霊的なものは“疑わしい”のではなくて、理論上の観点から“存在しない”のである。人間というのはゼンマイ仕掛けの機械と同じで、ゼンマイが巻かれている間は動くが、ゼンマイが切れると動かなくなる。後に残るのは死骸だけであり、他には何も残らない。

幸いこのタイプの人間は少ないので、こうした思想の蔓延による弊害を声高にあげつらう必要はない。

もう一つは無関心から取りあえずそういう立場を取っているタイプ。確信をもって唯物論を主張しているわけではない――言うなれば、それよりもっと良い説があれば喜んで信じるタイプで、こういう人が数としてはいちばん多い。

このタイプの唯物論者も、おぼろげながら来世へのあこがれのようなものを抱いている。が、これまでの伝統的信仰で聞かされている来世観は理性が納得しない。そこで疑念が生じ、その疑念が不信へと進行する。が、その不信には何一つ理論的裏付けがないのであるから、合理的な説を提示されれば喜んで受け入れるであろう。ということはスピリチュアリズムを理解する可能性があるということで、本人が自覚しているよりも我々と通じ合えるものをもった人々なのである。

その点から言うと、第一のタイプの唯物論者には啓示だの天使だのパラダイスだのといったものを持ち出しても意味がない。彼らには、この宇宙には現在の物理学の法則では説明しつくせないことが沢山あることを証明することから始めねばならない。その点、第二のタイプの唯物論者は信仰心がまったく無いわけではなく、いわば胚芽の状態で潜在していて、それが在来の根拠のない教義によって抑圧されているだけであるから、真理の光を当ててやれば生気を取り戻す可能性があるわけである。

以上の二つのタイプは“唯物論者”と呼ばれる人たちであるが、これ以外に、唯物論者の範疇には属さず、どちらかというと目に見えないものの存在を認めるタイプでありながら、我々にとって同じように扱い難いグループがいる。それは、我がままな感情から信じたがらない人たちである。

彼らは物的快楽を味わいたいという欲望を多分に持っている。だから、スピリチュアリズムを信じてしまうと野心や利己的欲望や見栄を捨てないといけなくなるのであるが、それは彼らにとっては困るのである。そこでわざと真実を見まいとし、真理の言葉を聞くまいとする。このタイプの人間は哀れに思ってあげるしか為す術(すべ)がない。

さらにもう一つのタイプに、打算または不誠実さから反対する人たちがいる。彼らはスピリチュアリズムの説くところをちゃんと知っている。その正当性も知っている。しかし、自分に都合のよい打算を動機として、表向きは否定論者の側にまわっているに過ぎない。このタイプもひじょうに扱い難い存在である。為す術がないからである。完全な唯物論者でも、思い違いをしている場合は、それを指摘してあげることによって考えを改めさせることができる。少なくともそこには誠実さが窺える。が、この打算から発している者は初めから反対することに決めてかかっているのであるから、議論の余地がないのである。

この種の人間は“時”を待つしかない。そして、多分、痛い思いをしてようやく自分の打算的態度の間違いに気づくであろう。しょせん真理の流れには抗し切れないのであるから、都合のよい打算にいくらしがみついても、最後は真理の激流がその打算といっしょに押し流してしまうであろう。

以上のようなタイプ以外にも、数え上げたらきりがないほど多種多様のタイプの人間がいる。たとえば憶病から信じまいとするタイプ。このタイプの人は、ある人が信念を堂々と告白しても何の危害もこうむらないことを知って勇気を得るという体験でもないかぎり、自発的に公言することはない。また信仰上のためらいから信じるに至らない人。このタイプの人は、しっかり勉強して、スピリチュアリズムが宗教の基本原理にのっとっていること、すべての信仰の存在価値を認めていること、そして、かつて抱いたことのない宗教的情念を生み出し、あるいは強化する要素があることを知るに至るのを待つほかはない。

その他にも、見栄や軽率な判断から信じようとしない人などがいる。

もう一つ見落とせないタイプに、“失望が原因で信じなくなった人”とでも呼ぶべき人たちがいる。たとえば、しっかりとした理解もなしに大ゲサに信じて交霊会に出席し、結果が期待どおりでなかったことから一気に不信に陥り、ついにはスピリチュアリズムの全てを捨ててしまったという人たちである。ニセの交霊会で見事に騙されて、それでスピリチュアリズム全体を茶番と決めつけてしまう人たちとよく似ている。要するにきちんとした勉強をしていないからそういうことになるのである。

スピリチュアリズムを新しいタイプの占いのように考えている人も少なくない。霊が自分の将来を語ってくれると思って出席するのであるが、その程度の人間が簡単に出席を許されるような交霊会は、ふざけた低級霊に支配されるに決まっているから、出席者を煙(けむ)にまき、あげくには失望の淵に蹴落として、ほくそえむことを許してしまうことになる。

数として最も多いのが“どっちつかずの中間派”で、我々としては反対派の中に入れていない。どちらかというと大半の者が霊的なものに関心があるのであるが、自分ではそれがいかなるものであるかについて確たる認識がないまま、ただ何となく魅力を感じている。こういうタイプの人に必要なのは秩序だった説諭で、それが功を奏せば、夜明けの太陽のごとく、それまでのモヤモヤとした霧をスピリチュアリズムの教説が一気に晴らしてしまう。すべての迷いから救い出し、本人もそれを歓喜して迎えるであろう。

以上、唯物論者を筆頭に、目に見えないもの、ないしは霊的存在を認めない人にもさまざまなタイプがいることを見てきたが、今度は、霊的なものの存在を信じる側に目を転じてみよう。

まず注目すべきことは、スピリチュアリズムという用語を知らず、その教義の何たるかも知らないのに、物の考え方、生き方、あるいは人生観に、本質的にスピリチュアリズムの精髄(エキス)のようなものがにじみ出ている人がいることである。それが著作や言動にも表れていて、あたかも立派な師のもとで訓戒を受けているかの印象を受ける。そういう人が、聖職にある人の中にも平凡な世俗の人の中にもいる。詩人、説教者、モラリスト、哲学者、その他さまざまな分野に見られるし、古今を通じても同じである。

そうした例外的な人は別として、スピリチュアリズムを調査・研究して十分に納得して信じるに至った人にも、いくつかのタイプがある。

第一のタイプは言うなれば“実験派”のスピリチュアリスト。心霊実験会に出席してその真実性を信じるようになった人であるが、興味は現象面に限られていて、スピリチュアリズムとは不思議な現象を研究する学問である、という認識にとどまっている。

第二のタイプはそうした現象の裏に思想的にも倫理・道徳的にも高度なものがあることに気づいてはいるが、それを実生活とは切り離して捉え、人間性との関連も稀薄、ないしはゼロの人。強欲な人間は相変らず強欲であり、高慢な人間は相変らず高慢であり、嫉妬深い人間は相変らず嫉妬深いままで、そこに内省というものが伴わない。こういうタイプを“無節操派”と呼んでいる

第三のタイプはスピリチュアリズムの教義の道徳性の高さを称賛するだけにとどまらず、それを日常生活で実践している人たちで、これが本物のスピリチュアリストというべきであろう。地上生活が束の間の試練であることを納得し、一刻(とき)一刻を大切にして善行に励み、自己の悪い面を抑制し、死後の霊的生活に備える。

最後のタイプは“急進派”。どの世界にも急進派はいるもので、スピリチュアリズムにも、熱心ではあるが思慮分別に欠けるために、結果的には誤解されるもとになっている人がいる。こういうタイプの人は日常の人間生活においても信頼されていないから、こういう人がスピリチュアリズムを吹聴してくれると、スピリチュアリズムの拠って立つ大義が台なしになってしまう。

昔から「人を見て法を説け」という。否定論者はもとより、スピリチュアリストをもって任じている人たちにも、以上見てきたように、さまざまなタイプがあるので、いかに説くかは相手によって変わってくることになる。ある人にうまく功を奏したからといって別の人にもうまくいくとは限らない。物理現象で得心する人もいれば、思想性の高い霊界通信で得心する人もいる。が、大部分に共通して言えることは、理性的判断力が伴わないといけないということである。

理性的な考察力を持ち合わせていない者には、物理的現象を見せてもほとんど意味がない。現象が驚異的であるほど、あるいは日常的体験から懸け離れているほど疑念の目で見られやすい。その理由は簡単である。人間というのは合理的に解明されないものは疑ってかかる性向があるからである。そして、それを各自の視点で捉え、自己流に解釈する。

唯物論者はあくまでも物理的な原因、要するに何らかのトリックがあると決めつける。無知で迷信を信じやすい者は悪魔的な、あるいは超自然的な何ものかの仕業にしたがる。が、あらかじめ霊的原理の解説をしておくと偏見を解き、真実性までは行かなくても、少なくともそうした現象の可能性を得心させる効果はある。みずから解説を求めてから実験に立ち会う者は、すでに理解ができているから、現象を目のあたりにすることで、容易にその真実性の確信に到達する。

頑固に信じようとしない人間を説得する必要が果たしてあるかどうかを考えてみると、これは、すでに述べたように、その“不信”の原因がどこにあるのか、あるいはどういう魂胆があるかによって決まる。中には、しつこく説得されることで却ってつけ上がって、ますます意地を張る人間がいる。

論証をもってしても、あるいは実証をもってしても得心しない人間は、まだ当分の間、不信という名の牢の中で暮らすしかないのであろう。いつの日か事情の変化で目覚めるよう神が計らってくださるのを祈るしかない。真理の光に目覚める準備の整った人間が大勢いるというのに、ただ心の扉を閉じることしか知らない人間に構っている暇はないのである。

霊的真理を正しく理解した人は自然に善行に励むようになるものである。苦しみの中にいる人に慰めを与え、絶望の淵に沈んでいる人に希望を与え、道徳の向上に役立つ仕事に進んで協力する。そこにその人たちの使命があると同時に、生きる喜びを見出すのである。するとそこに自然発生的に真の幸せのムードが漂うようになる。そのムードに影響されて頑迷な否定論者は自分の孤立した生き方に気づく。そこから内省が始まって、真理の光へ向かって進む者と、なおも意地を張って黙りこくる者とが出てくる。

他の分野の科学と同じ要領でスピリチュアリズムを考究しようとすれば、心霊現象のすべてを単純なものから複雑なものへと実験的に検証していく必要があるが、実際問題としてそれは不可能である。というのは、心霊現象の実験は物理学や化学のような要領で追試をするわけにはいかないのである。

では、なぜ追試ができないかということになるが、それは、自然科学の場合は知性も感情もない物質そのものを扱うから、同じ条件のもとで行えば同じ結果が出るが、心霊現象を発生させているのは霊という知的存在であり、自由意志をそなえ、人間の側から命令的に要求を出しても、必ずしもそれに応じてくれないのである。これは、これまでの経験で我々が繰り返し思い知らされてきていることである。

結局人間の側としては、いかなる現象が生じるかの見通しのないまま受身の姿勢で待ち、発生した現象を注意深く観察するしかない。お望みの現象をお見せしますという宣伝文句で客を集める霊媒は、無知であるか、さもなくばペテン師である。人間側の意志ではどうにもならない現象なのだから、要望通りのものは起きないかも知れないし、たとえ同種の現象は起きても、要望したものとは全く異なる条件下で発生するかも知れないのである。

これに加えてもう一つ問題がある。それは霊媒にも得手不得手があって、全ての現象を生ぜしめる霊媒はまずいないということである。となると、全ての心霊現象を研究するためには全てのタイプの霊媒を確保しなければならないことになり、それは現実的に不可能である。

さて、こうした問題を解決するのは至って簡単である。思想面から入ることである。あらゆる現象の観察結果の説明を読み、その要旨をつかみ、可能性の全てを理解し、それらが発生するための条件と、遭遇する可能性のある困難を知ることである。その上で実験に臨めば、いかなる現象が発生しても理解がいくし、不意をつかれることもない。反対に、期待がはずれて失望することもないし、困難や危険の予備知識もあるので、痛い目にあうこともない。

スピリチュアリズムに思想面から入ることには別の利点がある。その思想のスケールの大きさと本来の目的を認識することになることである。たとえばテーブル通信(テーブルが浮揚して、その脚の一本が床を叩いてメッセージを伝える現象)だけを見た者は、かりに興味を抱いても面白半分の気持ちからであって、まさか宇宙・人生の千古の謎を解き明かす深遠な思想を生むに至るとは想像も及ばないであろう。証拠を見ずして信じるに至る人は決して軽薄ではないどころか、論説をよく読み理解しているがゆえに、最も知的であり、最も思慮深いと言えよう。

この種のタイプの人は形体よりも実質に重きを置く。現象は付属的なものでしかなく、かりに現象が発生しなくなっても、思想そのものは人類にとって未解決の難問を解く唯一のカギであり、これまでに提示されてきたいかなる説、否、将来提示されるであろういかなる説よりも合理的なものとして存在し続けることを認識している。その理論を確認する物証としての現象の価値は認めるが、現象が基本だとは考えていないのである。

では理論から入った者は現象による確認はしないのかというと、決してそうではない。それどころか、その理論を裏づける事実を豊富な自然発生的心霊現象で確認している。この言わば“突発的心霊現象”については後章で取り扱う予定であるが、これは意外に多くの人が体験していて、ただ、あまり関心を向けなかっただけのことである。

実はこの突発的現象というのは、物的証拠が残っていないという弱点はあるが、信頼のおける証言があれば大いに価値がある。かりに実験会における心霊現象というものが存在しなくても、突発的現象の中にそれに代わりうるほどの証拠性のあるものが豊富にあるのである。


訳注――ここではカルデックは物的証拠ないしは客観的物証の観点から述べているが、霊の実在、つまり死後存続の確信というものは、あくまでも主観的なものであって、物証がなく他人に信じてもらえなくても、自分の内的直観力で「間違いない」と確信できる体験は、意外に多くの人が体験しているものである。

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch

ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳




十一章  霊と意識の起原

───霊の力とはどんなものでしょうか。

 「人間によって認識されている如何なるものさしにもかからないものです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さも色も容積も味も臭いもありません。ですから、常識的な地上の計量法でいけば霊力というものは存在しないことになります。

つまり実在とは人間のお粗末な五つの感覚で捉えられるものと決めてかかっている唯物的自然科学者にとっては、霊力は存在しないことになります。しかし愛は目に見えず耳にも聞こえず、色もなく味もなく寸法もないのに、立派に実感があります。

それは深い愛の感動を体験した者が証言してくれます。確かに愛の力は強烈です。しかし霊の力はそれよりも無限大に強烈です。

 あなたが生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いめぐらすのも霊の力があればこそです。

物を見、音を聞き、動き回り、考え、言葉をしゃべるのも霊の力があればこそです。あなた方の行動の全て、あなた方の存在の全ては霊の力のおかげです。物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって存在と目的と指針と生活を与えられているのです。物質界のどこを探しても意識の秘密は見つかりません。

科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質その物の中には存在しないからです。物質はそれが一時的に借りている宿に過ぎません。

 霊の力はあなた方が神と呼んでいるものそのものなのです。最も〝神〟というものを正しく理解していただけないかも知れませんし、誤解してその意を限定してしまっておられるかも知れません。ともかくその霊力が曽て火の固まりであったものに今日見るがごとき生命を吹き込んだのです。その霊が土塊から身体をこしらえて、それに生命を吹き込んだのです。魂がまとう衣服です。

地上のあらゆる生命を創造し、自然界のあらゆる動き、あらゆる変化を支配し、四季を調節し、一粒の種子、一本の植物、一輪の花、一本の樹木の生長まで関与している力、要するに千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが霊の力です。

 それが強大であるゆえんは、物質界に限られていないことにあります。すなわち無数の物的現象を通じて絶え間なく働いているだけでなく、見えざる世界の霊的活動のすべて、今のあなた方には到底その存在を知ることのできない幾重にもつながった高い界層、そしてそこで展開するこれ又あなた方の想像を絶した光輝あふれる生命現象までも、その霊力が支配しているのです。

しかし、いかに強大であっても、あるいは又いかにその活動が驚異的であるといっても、それにも制約があります。すなわち、それが顕現するにはそれに適した器、道具、媒体、通路、霊媒───どうお呼びになっても構いません───そうしたものが無ければならないということです。

壮大な霊の流れも、そうしたものによる制約を受けるのです。地上にどの程度のものが流れ込むかは人間側が決定づけるということです。

 私がいつも、心配の念を追い払いなさい、自信を持ちなさい、堅忍不抜の精神で生きなさい、神は絶対にお見捨てにならないから、と申し上げてきたのは、そうした雰囲気、そうした条件のもとでこそ霊力が働きやすいからです。

地上的な力はいつかは衰え、朽ちます。人間が築く王国は儚いものです。今日は高い地位にいても明日は転落するかも知れません。しかし霊の王国はけっして滅びることはありません。霊の尊厳は不変です。神の力はけっして衰えません。しかしその働きの程度を決定づけるのはあなた方であり、現に決定づけております。

 スピリチュアリズムを少しばかりかじった人は、よく、なぜ霊界の方からこうしてくれないのか、ああしてくれないのかと文句を言うようですが、実際にはそう言う人ほど、霊界からそうしてあげるための条件を整えてくれないものです。

この苦境に満ちた世界、暗闇と不安におおわれた世界にあって、どうか皆さんは灯台の光となっていただきたい。

あなた方の自信に満ちた生きざまを見て人々が近づき、苦悩のさなかにおける憩いの場、聖域、波静かな港を発見することができるようにしてあげていただきたい。皆さんはそういう人たちの心の嵐を鎮め、魂に静寂を取り戻してあげる霊力をお持ちになっています」


───霊は何時肉体に宿るのでしょうか。
 
 「霊としてのあなたは無始無終の存在です。なぜなら霊は生命を構成するものそのものであり、生命は霊を構成するものそのものだからです。あなたという存在は常にありました。生命力そのものである宇宙の大霊の一部である以上、あなたには始まりというものはありません。

が、個体として、他と区別された意識ある存在としては、その無始無終の生命の流れの中のどこかで始まりをもつことになります。受胎作用は精子と卵子が結合して、生命力の一分子が自我を表現するための媒体を提供することです。生命力はその媒体が与えられるまでは顕現されません。

それを地上の両親が提供してくれるわけです。精子と卵子が合体して新たな結合体を作ると、小さな霊の分子が自然の法則に従ってその結合体と融合し、かくして物質の世界での顕現を開始します。私の考えでは、その時点が意識の始まりです。

その瞬間から意識をもつ個体としての生活が始まるのです。それ以降は永遠に個性を具えた存在を維持します」


───何の罪もないのに無邪気な赤ん坊が遺伝性疾患や性病その他の病を背負ってこの世に生れてきます。これは公平とは思えません。子供には何の罪もないのですから。この問題をどうお考えでしょうか。

 「不公平を口にされるのは問題を肉体の問題としてだけ、つまり物質界のみの問題としてお考えになり、無限の生命の観点からお考えにならないからです。霊そのものは性病なんかには罹りません。霊は不具になったり奇形になったりしません。両親の遺伝的特質や後天的性格を受け継ぐことはありません。

それは霊が自我を表現する媒体であるところの肉体に影響を及ぼすことはあっても、霊そのものを変えることはありません。確かに地上的観点から、つまり物質的観点からのみ人生を見れば、病弱なからだを持って生れた人は健全なからだを持って生れた人よりも物的には不幸の要素が多いと言えますが、その意見は霊には当てはまりません。

からだが病的だから霊も気の毒で、からだが健全だから霊も豊かであるという方程式は成り立ちません。実際にはむしろ宿命的な進化のための備えとして多くの痛みや苦しみを味わうことによって霊が豊かになるということの方が正しいのです」


───では、この世をより良くしようとする衝動はどこから出て来るのでしょうか。

 「帰するところ神がその無限の創造事業への参加者としての人間に与えた自由意志から出ています」

───物的な苦痛によって霊が進歩するのであれば、なぜその苦痛を無くする必要があるのでしょうか。

 「私はそのような説き方はしておりません。私がその事実を引き合いに出したのは、人生には寸分の狂いもなしに埋め合わせの原理が働いていることを指摘するためです。

ここに二人の人間がいて、一人は五体満足でもう一人はどこかに障害があるとした場合、後者は死後も永遠にその障害を抱えていくわけではないと言っているのです。

要するに肉体の健康状態がそのまま霊の状態を表わすのではないことをお教えしようとしているまでです。霊には霊としての辿るべき進化の道程があります。その霊がいかなる身体に宿っても、必ず埋め合わせと償いの法則が付いてまわります」


───でも、やはり身体は何の障害も無い状態で生まれるのが望ましいのではないでしょうか。

 「もちろんです。(同じ意味で)地上にスラム街が無い方が良いに決まっています。しかし、そのスラム街をこしらえるのも地上天国をこしらえるのも、結局は同じ自由意志の問題に帰着します。人間に自由意志がある以上、それを正しく使うこともあれば誤って使うことがあるのは当然です」


───でも、不幸が霊のためになると知ったら、地上をより良くしようとする意欲を殺がれる人もいるのではないでしょうか。
 
 「地上の出来ごとで埋め合わせのないものは何一つありません。もしも神の働きが妨害されて、当然報われるべき行為が報われずに終わることがあるとすれば、これは神の公正を嘲笑う深刻な事態となります。

私が指摘しているのは、埋め合わせの原理が厳として存在すること、そして進化の法則に逆らった行為を犯しながら神の摂理とは別の結果が出るようにいくら望んでみたところで、神の計画は少しもごまかされないということです。

 しかし同時に次の事実も知っておく必要があります。すなわち、たとえ現代の地上の不幸の原因がすっかり取り除かれたとしても、人間はまたみずからの自由意志によって、みずからの複雑な文明の中から更に新たな不幸を生じさせる原因を生み出していくということです。

所詮、人生は完全へ向けての無限の階段の連続です。一段一段、自らの力で向上して行かねばなりません。しかも、いつかは最後の一段に辿り着くと思ってはいけません」(訳者注ー質問と答えに少しズレが見られるが、このあともう一度同じ内容の質問が出る)


───肉体の病気は霊的な進化を促進するかも知れませんが、同時にその逆もあり得る、つまり性格を損ねることもあるでしょう。

 「損ねることもあるし損ねないこともあります。どちらのケースもあります。病気になるのは摂理に反した行為をするからです」


───ではあなたは病気または病気に相当するものは絶対不可欠のものとおっしゃるわけですね。

 「いえ、私は病気に相当するものとは言っておりません。何らかの〝苦〟に相当するものです。人間に自由意志がある以上、選択の仕方によって楽しい体験となったり苦しい体験となったりするのは当然でしょう」


───それは分かります。苦しみを味わわなければ幸福も味わえないからです。が、どうも私には、もしもあなたがおっしゃるように、こういうことがあれば必ずこういう埋め合わせがあるというのが事実であれば、世の中を良くしようとして苦労する必要は無さそうに思えるのですが・・・・・・。


 「人間に選択の自由があるのに、ほかにどうあって欲しいとおっしゃるのでしょうか」

───私はこの度の戦争のことはさて措いて、今日の世界は三百年前よりはずっと幸せな世の中になっていると思うのです。世界中のほとんどの国が、戦争はあっても、やはり幸せな世の中となっております。

 「おっしゃる通りですが、それが私の言うこととどう矛盾するのでしょう」

───われわれ人間は(取り立てて人のためと説かれなくても)常に世の中を良くしてきているということです。

 「でもそれは、世の中を良くしたいという願望に燃えた人がいたからこそですよ。魂に宿された神性が自然な発露を求めた人たちです。神の一部だからこそです。かりに今日要求したことが明日、法の改正によって叶えられても、明日はまた不満が出ます。進化を求めてじっとしていられない魂が不満を覚えるのです。
 
それは自然の成り行きです。魂が無意識のうちにより完全へ近づこうとするからです。今日の地上の不幸はその大半がその自由意志による選択を間違えたことに起因しています。

それには必ず照合がなされ、更に再照合がなされます。そうすることで進歩したり退歩したりします。そうした進歩と退歩の繰り返しの中にも少しずつ向上進化が為されております。先んずる者があれば後れを取る者もあります。先を行っている者が後れている者の手を取って引き上げてやり、後れている者が先を行き過ぎている者に取って適当な抑制措置となったりしています。

そうやって絶え間なく完成へ向けての努力が為されているわけです。が、その間の人生のあらゆる悲劇や不幸には必ず埋め合わせの原理が働いていることを忘れてはなりません」


───改めるべきことが山ほどありますね。

 「あなた方は自由主義を誇りにしておられますが、現実には少しも自由とはいえない人々が無数におります。有色人種をごらんなさい。世界中のどの国よりも寛容心を大切にしているあなた方の国においてすら、劣等民族としての扱いを受けております。

私がいつも、これで良いと思ってはいけない、と申し上げる理由はそこにあります。世の中は幾らでも明るく、幾らでも清らかに、そして幾らでも幸せになるものなのです」


───葛藤や苦悩が霊的進化にとって不可欠なら、それは霊界においても必要なのではないでしょうか。なのに、あなたはそちらには悪と邪の要素がないようにおっしゃっています。


 「ご質問者は私の申し上げたことを正しく理解していらっしゃらないようです。私は邪と悪には二種類ある───この〝悪〟という言葉は嫌いなのですが───すなわち既得権に安住している利己主義者によって生み出されているものと、人類の未熟さから生まれるものとがあると申し上げたつもりです。

私たちの世界には邪悪なものは存在しません。もちろん死後の世界でもずっと低い界層へ行けば、霊性があまりに貧弱で環境の美を増すようなものを何も持ち合わせない者の住む世界があります。が、そうした侘しい世界を例外として、こちらの世界には邪悪なものは存在しません。

邪悪なものを生み出す原因となるものが取り除かれているからです。そして、各自が霊的発達と成長と進化にとって、適切かつ必要なことに心ゆくまで従事しております。

 葛藤や苦悩はいつになっても絶えることはありません。もっともその意味が問題ですが・・・地上では人間を支配しようとする二つの力の間で絶え間ない葛藤があります。

一つは動物的先祖とでもいうべきもの、つまり身体的進化に属する獣的性質と、神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を付与してくれた神の息吹です。

その両者のどちらが優位を占め維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で自由意志によって選択することです。私達の世界へ来てからも葛藤はあります。

それは低い霊性の欠点を克服し、高い霊性を発揮しようとする絶え間ない努力という意味です。完全へ向けての努力、光明へ向けての努力というわけです。その奮闘の中で不純なものが捨て去られ、強化と精錬と試練をへてようやく霊の純金が姿を現わします。

私たちの世界にも悩みはあります。しかしそれは魂が自分の進歩に不満を覚えたことの表れであって、ほんの一時のことに過ぎません。完成へ向けての長い行進の中での短い調整期間のようなものです」


───でも、葛藤と進歩、それに努力の必要性は常にあるわけでしょう。

 「おっしゃる通りです。だからこそ私は先ほど言葉の解釈の仕方が問題だと申し上げたのです。自然界の常として、より高いものがより低いものを無くそうとします。それは当然のことで、そうでなかったら進化というものが真実でなくなります。

人間は低い段階から高い段階へ向けて成長しようとする進化性を持った存在です。進化するためには光明へ向けての絶え間ない葛藤がなければなりません。その場合の葛藤は成長の為の必須の過程の一つであるわけです。

先ほど私が言いたかったのは、地上には不必要な葛藤、無益な努力が多すぎるということです。それは自由意志の使用を過って、薄汚い知恵、病気、スラム街といった、あってはならない環境を生み、それが霊界からの働きかけをますます困難にしているのです」

Monday, April 20, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

 The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄「現象編」




2章 驚異的現象と超自然現象

    霊および霊的現象の存在を肯定する説が単なる理論上の産物にすぎないとすれば、目撃されたものは全て幻覚だったことになるかも知れない。しかし、太古から現代に至るまで、あらゆる民族の民間信仰、および“聖なる書”と呼ばれている経典の中にその事実への言及が見られるという事実は、どう理解すべきであろうか。

この問いに対して、いつの時代にも人間は驚異的なものを求めるものなのだ、と答える人がいる。では、驚異的なものとは何であろうか。それは超自然的な現象のことだと答えるであろう。では“超自然的”という用語はどう解釈しているのであろうか。たぶん、大自然の法則と矛盾するもの、と答えるであろう。

実は、これは傲慢この上ない答えである。大自然の法則を全て知りつくした者にしか言えないことだからである。もし全てを知りつくしているとおっしゃるなら、霊および霊的現象の存在が大自然の法則とどう矛盾しているかを証明していただきたいものである。なぜ自然法則でないのか、なぜ自然法則とは言えないかを証明していただきたいのである。

さらにお願いしたいのは、スピリチュアリズムの教説をしっかりと検証していただき、観察した現象から引き出す推論の流れにもきちんとした法則があること、そして、これまでの哲人の頭脳をもってしても解き得なかった千古の謎を見事に解決していることを確認していただきたいのである。

思念は霊の属性の一つである。霊が物質に働きかけることができるのも、人間の感覚に反応することができるのも、そしてその当然の結果として思念を伝達することができるのも、言うなれば“魂の生理的構造”に起因している。この事実には何一つ超自然的なものも驚異的なものもない。

仮に死んだ人間が生き返り、バラバラの肢体が元通りになったとしたら、これは確かに驚異的なことであり、超自然的であり、途方もないことであろう。絶対神のみが奇跡という形で生ぜしめることができるものかも知れない。しかし、それは、みずからこしらえた摂理を神自身が犯すことになる。スピリチュアリズムにはその種の奇跡は一切ない。

そう言うとこう反論する人がいるであろう――「霊がテーブルを持ち上げ、空中に浮いた状態を保つことができるというが、それは大自然の法則の一つである“引力の法則”に反するのではないか」と。

その通りである。たしかに一般に理解されている引力の法則には反している。が、そう反論なさる方は、大自然の法則の全てが明らかになったと思っておられるのであろうか。上昇する性質をもつガスが発見される前に、気球にガスを詰めて数人の人間を乗せて空高く舞い上がるなどという光景を想像した人がいたであろうか。無線電信が発明される前に、地球の反対側から発信したメッセージが何秒もかからずに届く機械の話をしたら、その人は狂人扱いをされたことであろう。

同じことが心霊現象についても言える。従来の科学では存在が確認されていないエクトプラズムという特殊な物質があって、それを霊が操作して物体を持ち上げたり動かしたりするのである。それは厳然たる“事実”なのである。そして、いかなる否定論をもってしても、その事実だけは否定できない。なぜなら、否定することと、誤りを立証することとは別だからである。数多くの実験を見てきた我々から見れば、そこに何ら自然法則を超越したものは存在しない。今のところ我々はそう表現するしかない。

次のように反論する人もいるであろう。「その事実が証明されれば、おっしゃる通りに受け入れよう。エクトプラズムとかいう物質の存在も認めよう。しかしそれに霊が関与しているということをどうやって証明するのか。もしそれが事実であれば、まさしく驚異的であり、それこそ超自然現象である」と。

この種の疑問に対しては実際に実験に立ち会っていただくのがいちばんいいのであるが、取りあえず簡単に説明すれば、まず論理的には、知的な現象には知的な原因が作用しているに相違ないこと。次に実際的には、スピリチュアリズム的な現象は今も言った通りの知的な作用が証明されているので、物質とは異質のものに原因があるに相違ないということである。言いかえれば、実験会の出席者が行っているのではなく――これは実験で十分に証明されている――何か目に見えないもので、しかも知性を備えているもの、ということである。

それが何ものであるかについて、これまで繰り返し観察してきて、次のような確信に帰着している。すなわち、その目に見えない存在は我々が“霊(スピリット)”と呼んでいるもので、しかもそれはかつて地上で生活したことのある人間の魂であり、死によって肉体という鈍重な衣服を脱ぎ捨て、今では肉眼に映じないエーテル質の身体をまとって異次元の世界で生活しているということである。

肉眼に映じない知的存在が霊であることが証明されれば、物質に働きかける力は霊そのものに備わっているとみてよい。その働きかけには知性が見られる。それは当然のことで、死は肉体だけの崩壊であって、個性も知性もまったく失われないのである。

このように、霊の実在は、事実にうまく合うようにこしらえた理論ではなく、また、ただの仮説でもない。実験と観察の末に得られた結論であり、人間に魂が内在するという事実からの当然の帰結なのである。霊の実在を否定することは魂とその属性を否定することになる。もしもこれ以外にもっと合理的に心霊現象を解明する説があるとおっしゃる方がいれば、ぜひともお聞かせいただきたいものである。心霊現象の全てを明快に説き明かすものでないといけない。もしあればスピリチュアリズムの説と並べて検討するにやぶさかではない。

自然界には物質しか存在しないと考えている唯物主義者にとっては、物理法則で説明できないものは全て“驚異的”で“超自然的”であろう。その意味での驚異的現象とは“迷信”と同義語にほかならない。そういう概念を抱いている人にとっては、物質を超越した原理の存在の上に成り立っている宗教も迷信の一組織でしかあり得ない。

と言って、そのことを大っぴらに公言する人はほとんどいない。みんな陰でささやき合っているだけである。そして公的場面で意見を求められると、宗教的人間にとって必要であり、また子供に規律ある生活を送らせる上で必要である、といった表現で体面を保とうとする。そういう態度をとる人たちにスピリチュアリズムは次のような主張を提示したい。すなわち、宗教的原理というものは真理であるか、さもなければ間違っているかのどちらかであり、もし真理であれば、それは万人にとって真理なのであり、もし間違っているとすれば、英知に富む人々にとってだけでなく、無知な人々にとっても何の価値もないことになる、と。

スピリチュアリズムのことを驚異的現象をもてあそぶだけの一派として攻撃する人々は、唯物主義者の音頭をとっているようなものである。なぜなら、物質的範疇をこえたものを全て否定することは、人間に魂が内在することを否定することになるからである。

否定論者の論説を突き詰め、その主張の流れを検討してみると、結局は唯物論の原理から出発していることが分かる。彼らはそれを公然とは露呈しない。が、いかに論法を合理的につくろってみても、彼らの否定的結論は、当初からの否定的前提の結果に過ぎないことが分かる。人間に不滅の魂が宿っていることを頭から否定しているから、魂の存在を前提とした説にはことごとく反論する。原因を認めない者に結論を認めることを要求するのは、しょせん無理な話なのである。

以上の論説をまとめると次の八項目になろう。

一、全ての霊的現象は、その根本的原理として、魂の存在とその死後の存続を示唆していること。つまり現象は死者の霊が起こしているのである。

二、その現象はあくまでも自然法則にのっとって生じているのであり、通常の意味での“驚異的”でも“超自然的”でもない。

三、“超自然現象”とされてきたものの多くは原因が分からないからに過ぎない。スピリチュアリズムではその原因を突き止めることによって、全てが自然現象の範疇におさまることを証明している。

四、ただし“超自然現象”とされているものの中には、スピリチュアリズム的観点から検討して絶対にあり得ないこと、したがって単なる迷信の産物に過ぎないものもある。

五、スピリチュアリズムは、古来の民間信仰の中に真理と認められるものもあることは認めるが、それは、他愛もない想像上の産物の全てを真理と認めるということではない。

六、虚偽の事実でもってスピリチュアリズムの真実性を否定する行為は、無知であることを証言するようなものであり、一顧の価値も認められない

七、スピリチュアリズムが本物と認めた霊現象を正しく解明し、そこから引き出される道徳的教訓を確認することによって、新しく心霊科学というものが生まれ、新しい霊的思想が生まれている。これは忍耐づよく、真剣に、そして注意ぶかく考究していくべき重大な課題である。

八、スピリチュアリズムを根本から論破するためには、まず心霊現象を徹底的に検証して、良心的態度で根気よく、その意味するところの深奥を考究し、さらにはスピリチュアリズムの説を各分野にわたって一つ一つきちんと反論できなくてはならない。否定するばかりではいけない。きちんと論理的に反論できなくてはいけない。要するに、これまでにスピリチュアリズムが出してきた結論よりもさらに合理的な説を提示できなくてはいけない。が、これまでのところ、そのような立派な反論を唱えた人はいない。

シルバーバーチの霊訓(三)

 Wisdom of Silver Birch

ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳



十章  前世・現世・来世  

 ある日の交霊会に米国人ジャーナリストが招かれた。そして最初に出した質問が「霊界というところはどんなところでしょうか」という、きわめて基本的な質問だった。その時レギラーメンバーの一人が「この方は心霊研究家とお呼びしてもよいほどの方ですよ」と言ったことが、次のようなユーモラスな答えを誘い出すことになった。

(訳者注────ここでは心霊学に詳しい方という程度の意味で言ったのであるが、その心霊学が〝心霊現象の科学的研究〟を目的としているだけで、霊魂の存在も幾つかの学説の中の一つとして扱われているだけである。その点を念頭に置いてシルバーバーチがその〝学説〟を並べ立てて皮肉っぽく答えているところがユーモラスである)

 「私は地上の人たちから〝死んだ〟と思われている者の一人です。存在しないことになっているのです。私は本日ここにお集まりの方々による集団的幻影に過ぎません。

私は霊媒の潜在意識の産物です。私は霊媒の第二人格であり、二重人格であり、多重人格であり、分離人格です。これらの心霊用語のどれをお使いになっても結構ですが、私もあなたと同じ一個の人間です。ただ私は今あなたが使っておられる肉体をずいぶん前に棄ててしまいました。

あなたと私の根本的な違いはそれだけです。あなたは物的身体を通して自分を表現しているスピリットであり、私は霊的身体を通して表現しているスピリットであるということです。         

 私はほぼ三千年前に霊の世界へ来ました。つまり三千年前に〝死んだ〟のです。三千年というとあなたには大変な年数のように思われるかも知れませんが、永遠の時の流れを考えると僅かなものです。その間に私も少しばかり勉強しました。

霊の世界へ来て神からの授かりものである資質を発揮していくと、地上と同じ進化の法則に従って進歩していきます。つまり霊的な界層を一段また一段と向上していきます。界層という言い方をしましたが、一つ一つが仕切られているわけではありません。

霊的な程度の差があり、それぞれの段階にはその環境条件にふさわしい者が存在するということです。霊的に向上進化すると、それまでの界層を後にして次の一段と高い界層へ融け込んでいきます。それは階段が限りなく続く長い長い一本の梯子のようなものです。

 そう考えていけば、何百年、あるいは何千年か後には物質界から遠く離れていき、二度と接触する気持ちが起きなくなる段階に至ることは、あなたにも理解出来るでしょう。所詮、地上というところはたいして魅力ある世界ではないのです。

地上の住民から発せられる思念が充満している大気にはおよそ崇高なものは見られません。腐敗と堕落の雰囲気が大半を占めております。人間生活全体を暗い影がおおい、霊の光が届くのはほんの少数の人に限られております。

一度あなたも私と同じように、経済問題の生じない世界、お金が何の価値も無い世界、物的財産が何の役にも立たない世界、各自が有るがままの姿をさらされる世界、唯一の富が霊的な豊かさである世界、唯一の所有物が個性の強さである世界、生存競争も略奪も既得権力も無く、弱者が窮地に追いやられることもなく、

内在する霊的能力がそれまでいかに居眠りをしていても存分に発揮されるようになる世界に一度住まわれたら、地上という世界がいかにむさ苦しく、いかに魅力に乏しい世界であるかがお判りになると思います。

その地上世界を何とかしなければならない───私のようにまだ地上圏へ戻ることのできる程度のスピリットが援助し、これまで身に付けた霊的法則についての知識を幾らかでも教えてあげる必要があることを、私は他の幾人かの仲間とともに聞かされたのです。

人生に迷い、生きることに疲れ果てている人類に進むべき方向を示唆し、魂を鼓舞し、悪戦苦闘している難問への解決策を見出させるにはそれしかないということを聞かされたのです。

 同時に私たちは、そのために必要とする力、人間の魂を鼓舞するための霊力を授けてくださることも聞かされました。しかし又、それが大変な難事業であること、この仕事を快(よ)く思わぬ連中、それも宗教的組織の、そのまた高い地位にある者による反抗に遭遇するであろうことも言い聞かされました。

悪魔の密使とみなされ、人類を邪悪の道へ誘い、迷い込ませんとする悪霊であると決めつけられるであろうとの警告も受けました。要するに私たちの仕事は容易ならざる大事業であること、そして(ついでに付け加えさせていただけば)その成就のためには、それまでの永い年月の中で体験してきた霊界生活での喜びも美しさも、すべてお預けにされることになるということでした。

しかし、そう言い聞かされた私たちのうちの誰一人としてそれを断わった者はいませんでした。かくして私は他の仲間と共に地上へ戻ってまいりました。地上へ再生するのではありません。地上世界の圏内で仕事をするためです。

 地上圏へ来てまず第一にやらねばならなかったのは霊媒を探すことでした。これはどの霊団にとっても一ばん骨の折れる仕事です。次に、あなた方の言語(英語)を勉強し、生活習慣も知らねばなりませんでした。あなた方の文明も理解する必要がありました。

 次の段階ではこの霊媒の使用法を練習しなければなりませんでした。この霊媒の口を借りて幾つかの訓え───誰にでも分る簡単なもので、従ってみんなが理解してくれれば地上が一変するはずの真理を説くためです。

同時に私は、そうやって地上圏で働きながらも常に私を派遣した高級霊たちとの連絡を保ち、より立派な叡智、より立派な知識、より立派な情報を私が代弁してあげなければなりませんでした。初めのころは大いに苦労しました。今でも決してラクではありませんが・・・。

そのうち私の働きかけに同調してくれる者が次第に増えてまいりました。すべての人が同調してくれたわけではありません。居眠りしたままの方を好む者も大勢いました。自分で築いた小さな牢獄にいる方を好む者もいました。

その方が安全だったわけです。自由に解放されたあとのことを恐れたのです、が、そうした中にも、そこここで分かってくれる人も見出しました。私からの御利益は何もありません。

ただ真理と理性と常識と素朴さ、それに、近づいてくれる人のためをのみ考える、かなり年季の入った先輩霊としての真心をお持ちしただけです。

 それ以来私たちの仕事は順調に運び、多くの人々の魂に感動を与えてまいりました。無知の暗闇から抜け出た人が大勢います。迷信の霧の中からみずからの力で這い出た人が大勢います。自由の旗印のもとに喜んで馳せ参じた人が大勢います。死の目的と生の意味を理解することによって二度と涙を流さなくなった人が大勢います。」


───魂は母体に宿った時から存在が始まるのでしょうか。それともそれ以前にも存在(前世)があるのでしょうか。

 「これは又、ややこしい問題に触れる質問をしてくださいました。私は自分はこう思うということしか述べるわけにはまいりません。私は常に理性と思慮分別に訴えております。

いつも申し上げていることですが、もしも私の述べることがあなたの理性を反発させ、知性を侮辱し、そんなことは認められないとおっしゃるのであれば、どうぞ捨て去っていただきたい。拒絶していただいて結構です。

拒絶されたからといって私は少しも気を悪くすることはありません。腹も立ちません。愛の気持ちは変わりません。ここにおいでのスワッハーも相変わらず考えを変えようとしない者の一人です。

他の者はみな私の口車にのって前生の存在を信じるようになった(と思っている)のですが・・・・・・私の知るかぎりを言えば、前世はあります。つまり生まれ変わりはあるということで、その多くは、はっきりとした目的をもった自発的なものです」

 これを聞いたスワッハーが「私は再生の事実を否定したことはありませんよ。私はただ魂の成長にとって再生が必須であるという意見に反対しているだけです」と不服そうに言うと、

 「それは嬉しいことを聞きました。あなたも私の味方というわけですな、全面的ではなくても」と皮肉っぽく言う。

 するとスワッハーは「あなたは私も今生(こんじょう)に再生してきているとおっしゃったことがあるじゃないですか。私はただ再生に法則は無いと言っているだけです」と言う。するとシルバーバーチが穏やかにそれを否定して言う。

 「何かが発生するとき、それは必ず法則に従っております。自発的な再生であっても法則があるからこそ可能なのです。ここに言う法則とは地上への再生を支配する法則のことです。この全大宇宙に存在するものは、いかに小さなものでも、いかに大きなものでも、すべて法則によって支配されているというのが私の持論です」

 ここで米人ジャーナリストが関連質問をした───「人間にとって〝時間〟が理解しにくいということが再生問題を理解しにくくしているというのは事実でしょうか」

 「例によって私なりの観点からご説明しましょう。実はあなたはあなたご自身を御存じないのです。あなたには物質界へ一度も顔を出したことのない側面があるのですが、それをあなたはお気づきになりません。

物的身体を通して知覚したごくごく小さな一部分しか意識しておられませんが、本当のあなたはその身体を通して顕現しているものよりはるかに大きいのです。ご存知の通りあなたはその身体そのものではない。

あなたは身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではない。その証拠に、あなたの意識はその身体を離れて存在することが出来ます。たとえば睡眠中がそうです。しかし、その間の記憶は物的脳髄の眼界のために感識されません。

 結局あなたに感識出来る自我は物質界に顕現している部分だけということになります。他の、より大きい部分は、それなりの開発の過程をへて意識できるようにならない限りごく稀に、特殊な体験の際に瞬間的に顔をのぞかせるだけです。しかし一般的に言えば大部分の人間は死のベールをくぐり抜けて始めて真の自分を知ることになります。

以上があなたのご質問に対する私なりの回答です。今あなたが物的脳髄を通して表現しておられる意識は、それなりの開発法を講ずるか、それともその身体を棄て去るかのいずれかがないかぎり、より真実に近いあなたを認識することはできません」


───この地上にはあなたの世界に存在しない邪悪なものがあふれているとおっしゃいますが、なぜ地上にはそうした邪と悪とが存在するのでしょうか。

 「権力の座にある者の我がままが原因となって生じる悪───私は無明という言葉の方が好きですが───そして邪、それと、人類の進化の未熟さゆえに生じる悪と邪とは、はっきり区別する必要があります。

地上の邪と悪には貧民街(スラム)が出来るような社会体制の方が得をする者たち、儲けることしか考えない者たち、私腹を肥やすためには同胞がどうなろうと構わない者たち、こうした現体制下の受益者層の存在が原因となって発生しているものが実に多いことを知らなければなりません。悪の原因にはそうした卑劣な人種がのめり込んでしまった薄汚い社会環境があるのです。

 しかし一方において忘れてならないことは、人間は無限の可能性を秘めていること、人生は常に暗黒から光明へ、下層から上層へ、弱小から強大へ向けての闘争であり、進化の道程を人間の霊は絶え間なく向上していくものであるということです。

もし闘争もなく、困難もなければ、霊にとって征服すべきものが何もないことになります。人間には神の無限の属性が宿されてはいますが、それが発揮されるのは努力による開発を通してしかありません。その開発の過程は黄金の採取と同じです。粉砕し、精錬し、磨き上げなければなりません。

地上もいつかは邪悪の要素が大幅に取り除かれる時が来るでしょう。しかし、改善の可能性が無くなる段階は決して来ません。なぜなら人間は内的神性を自覚すればするほど昨日の水準では満足できなくなり、明日の水準を一段高いところにセットするようになるものだからです」

───隣人を愛すべしとの黄金律(※)と適者生存の法則とは時として矛盾することがあるように思えるのですが・・・・・・(※ The Golden Rule キリストの山上の垂訓の一つで、自分が人からしてもらいたいと思う通りを人にもしてあげなさいということ。マタイ7・12-訳者)

 「私は進化の法則を、無慈悲な者ほど生き残るという意味での適者生存と解釈することには賛成できません。適者生存の本当の意味は生き残るための適応性をもつ者が存続していくということです。言いかえれば存続するための適性を発揮した者が存続するということです。

そして注目していただきたいことは生き残っている動物を観察してみると、それが生き残れたのは残虐性のせいでもなく、適者だったからでもなく、進化の法則に順応したからであることが明らかなことです。もし適者のみが生き残ったとすると、なぜ有史以前の動物は死滅したかという疑問が生じます。

その当時は最も強い生物だったはずですが、生き残りませんでした。進化の法則とは生長の法則の一つです。ひたすらに発展していくという法則です。他の生命との協調、互助の法則です。つまるところ黄金律に帰着します」


 続いて〝偶然〟の要素について質問されて───
 「世の中が偶然によって動かされることはありません。どちらを向いても───天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、顕微鏡で極小の生物を検査しても、そこには必ず不変不滅の自然法則が存在します。あなたも偶然に生れてきたのではありません。

原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした宇宙には、偶然の入る余地はありません。全生命を創造した力はその支配のために規制ないし法則を用意したのです。その背景としての叡知においても機構においても完璧です。その法則は霊的なものです。

すべての生命は霊だからです。生命が維持されるのはその本質が物質でなく霊だからです。霊は生命であり生命は霊です。生命が意識を持った形態をとる時、そこには個としての霊が存在します。そこが下等動物と異なるところです。人間は個別化された霊、つまり大霊の一部なのです。

 人生には個人としての生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応したり逆らったりしながら生きております。逆らえば暗黒と病気と困難と混乱と破産と悲劇と流血が生じます。順応した生活を送れば叡知と知識と理解力と真実と正義と公正と平和がもたらされます。それが黄金律の真意です。

 人間はロボットではありません。一定の枠組みの中での自由意志が与えられているのです。しかし決断は自分で下さなければなりません。個人の場合でも国家の場合でも同じです。摂理に叶った生き方をしている人、黄金律を生活の規範として生きている人は、大自然から、そして宇宙から、良い報いを受けます」

 続いて〝汝の敵〟に対する態度のあり方をこう説く。

 「私にとってはどの人間もみな〝肉体を具えた霊魂(スピリット)〟です。私の目にはドイツ人もイギリス人もアメリカ人もありません。みなスピリットであり、大霊の一部であり、神の子供です。時にはやむを得ず対症療法として罰を与えねばならないこともあるかも知れませんが、すでに述べた通り、新しい世界は憎しみや復讐心からは生まれません。

すべての人類のためを思う願望からしか生まれません。復讐を叫ぶ者───目には目を、歯には歯をの考えをもつ者は、将来の戦争のタネを蒔いていることになります。すべての人間に生きる場が与えられております。理性と常識によって問題を解決していけば、すべての者に必要なものが行きわたるはずです。

こういう説明よりほかに分かりやすい説明が見当たりません。あなたの国(米国)はなぜあの短い期間にあれだけの進歩を為し遂げたのか。それは一語に尽きます───寛容心です。英国が永い歴史の中で発展してきたのも寛容心があったからこそです。

米国は人種の問題、国籍の問題、宗教の問題を解決してきました。黒人問題もほぼ解決しました。その歴史を通じて全ての人種にそれぞれの存在価値があること、人種が増えるということは、いずれは優れた国民を生むことになることを学んできました。

 今あなた方の国が体験していることは、やがて世界全体が体験することになります。米国は世界問題解決のミニチュア版のようなものです。例えばあなたの存在を分析してみても遺伝的要素の一つ一つは確認できないでしょう。

それと同じで、米国は雑多な人種から構成されておりますが、その一つ一つがみな存在意識をもっており、雑多であるがゆえに粗末になるということはありません。逆に豊かさを増すのです。成長の途上においては新しい要素の付加と蓄積がひっきりなしに行われ、その結果として最良のものが出来あがります。

それは、自然というものが新しい力、新しい要素の絶え間ない付加によって繁栄しているものだからです。限りない変化が最高の性質を生むのです。大自然の営みは一ときの休む間もない行進です」


 その日のもう一人の招待客にポーランドの役人がいた。そしてまず最初に次のような質問をした。


 ───霊界の美を味わうことが出来るのは地上界で美を味わうことが出来た者だけというのは本当でしょうか。

 「そんなことはありません。それでは不公平でしょう。地上では真の美的観賞力を養成する教育施設がないのですから、数知れぬ人々が美を味わえないことになります。霊の世界は償いの世界であると同時に埋め合わせの世界でもあります。地上世界では得られなかったものが補われてバランスを取り戻すのです」

 これを聞いて別のメンバーが「今の質問の背景には人間が死ぬ時はこの世で培った資質を携えていくという事実があるように思うのですが」と述べると、シルバーバーチは───

 「地上の人間は無限の精神のほんの一部を表現しているにすぎないことを銘記しないといけません。精神には僅かに五つの窓があるだけです。それも至ってお粗末です。肉体から解放されると一段と表現の範囲が大きくなります。

精神が本領を発揮し始めます。自我の表現機関の性能がよくなるからです。霊界にはあらゆる美が存在しますが、それを味わう能力は霊性の発達の程度いかんに掛かっています。

たとえば二人の人間に同じ光景を見せても、一人はその中に豊かさと驚異を発見し、もう一人は何も発見しないということも有りえます。

それにもう一つ別の種類の美───魂の美、精神の美、霊の美があり、そこから永遠不滅のものの有する喜びを味わうことができます。充実した精神───思考力に富み、内省的で、人生の奥義を理解できる精神には一種の気高さと美しさがあります。

それは、その種のものとは縁遠い人、従って説明しようにも説明できない者には見られないものです」


───美の観賞力を養う最良の方法は何でしょうか。

 「大体において個人の霊的発達の問題です。適切な教育施設がすべての人に利用できることを前提として言えば、美を求める心は魂の発達とともに自然に芽生えてくるものです。価値観が高まれば高まるほど、精神が成長すればするほど、醜い卑劣な環境に不満を覚えるようになります。波長が合わなくなるからです。

自分の置かれた環境を美しくしたいと思い始めたら、それが進化と成長の最初の兆しと思ってよろしい。地上界をより美しくしようとする人間の努力は、魂が成長していく無意識の表われです。

それは同時に無限の宇宙の創造活動へ寄与していることでもあります。神は人間にあらゆる材料を提供しています。その多くは未完の状態のままです。そして地上のすみずみにまで美をもたらすには、魂、精神、理性、知性、成長度のすべてを注ぎ込まなければなりません。

 最後は必ず個人単位の問題であり、その成長度に帰着します。開発すればするほど、進化すればするほど、それだけ内部の神性を発揮させることになり、それだけいっそう美を求めることになります。

私がいつも霊的知識のもつ道徳的ないし倫理的価値を強調するのはそのためです。スラム街があってはならないのは、神性を宿す者がそんな不潔な環境に住まうべきではないからです。飢餓がいけないのは、神性を宿す肉体が飢えに苦しむようであってはならないからです。

すべての悪がいけないのは、それが内部の神性の発現を妨げるからです。真の美は物質的、精神的、そして霊的のすべての面において真の調和が行きわたることを意味します」


───美的観念を人々の心に植えつけるにはどうしたらよいでしょうか。

 「個々の魂が成長しようとすることが必須条件です。外部からありとあらゆる条件を整えてやっても、本人の魂が成長を望まなければ、あなたには為す術がありません。ですから、あなたにできることは霊的知識を広めること、これだけです。

正しい知識を広めることによって無知を無くし、頑迷な信仰を無くし、偏見を無くしていくことです。とにかく知識のタネを蒔くのです。時にはそれが石ころだらけの土地に落ちることもあるでしょう。が、根づき易い土地も方々にあるものです。蒔いたタネはきっと芽を出します。われわれの仕事は真理の光を可能な限り広く行きわたらせることです。

その光は徐々に世界中を広く照らし、人間が自分たちの環境を大霊の分子すなわち神の子が住まうに相応しいものにしようと望めば、迷信という名の暗闇に属するものすべて、醜さと卑劣さを生み出すものすべてが改善されていくことでしょう」

Sunday, April 19, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

The Mediums' Book    Allan Kardec
スピリチュアリズムの真髄「現象編」





1章 霊の実在


霊の実在に関する疑問は、その本性についての“無知”に起因している。霊というと大ていの人が目に見える地上の創造物とは別個のものを想像し、その実在については何一つ証明されていないと考えている。

想像上の存在と考えている人も多い。すなわち霊というのは子供時代に読んだり聞かされたりしたファンタスティックな物語の中に出てくるもので、実在性がないという点においては小説の中の登場人物と同じと思っている。実はそのファンタスティックな物語にも、表面の堅い皮をむくと、その核心に真髄が隠されていることが分かるものなのだが、そこまで解明の手を伸ばす人は稀で、大ていは表面上の不合理さだけにとらわれて全体を拒絶してしまう。それはちょうど宗教界の極悪非道の所業にあきれて、霊に係わるもの全てを拒絶する人がいるのと同じである。

霊というものについていかなる概念を抱こうと、その存在の原理は、当然のことながら物質とはまったく別の知的原理に基づくのであるから、その実在を信じることと、物的原理からそれを否定することとは、まったく相容れないことなのである。

魂の実在、およびその個体としての死後存続を認めれば、その当然の帰結として次の二つの事実をも認めねばならない。一つは、魂の実質は肉体とは異なること。なぜならば、肉体から離脱したあとは、ただ朽ち果てるのみの肉体とは“異次元の存在”となるからである。

もう一つは、魂は死後も“個性と自我意識”とを維持し、したがって幸不幸の感覚も地上時代と同じであること。もしそうでないとしたら、霊として死後に存続しても無活動の存在であることになり、それでは存在の意義がないからである。

以上の二点を認めれば、魂はどこかへ行くことになる。では一体そこはどこなのか、そしてどうなっていくのか。かつては単純に天国へ行くか、さもなくば地獄へ行くと信じられてきた。ではその天国とはどこにあるのか。地獄はどこにあるのか。人々は漠然と天国は“ずっと高い所”にあり、地獄は“ずっと低い所”にあるという概念を抱いてきたが、地球がまるいという事実が明らかになってしまうと、宇宙のどっちが“上”でどっちが“下”かということは意味をなさなくなった。しかも二十四時間で一回転しているから、“上”だと思った所が十二時間後には“下”になるのである。

こうした天体運動が果てしない大宇宙の規模で展開している。最近の天文学によると地球は宇宙の中心でないどころか、その地球が属している太陽系の太陽でさえ何千億個もの恒星の一つに過ぎず、その恒星の一つ一つが独自の太陽系を構成しているという。この事実によって地球の存在価値も遠くかすんでしまう。大きさからいっても位置からいってもその特質からいっても、砂浜の砂の一粒ほどしかない地球が、この宇宙で唯一、知的存在が生息する天体であるなどと、よくぞ言えたものと言いたくなる。理性が反発するし、常識からいっても、当然、他の天体のすべてに知的存在が生息し、それゆえにそれなりの霊界も存在すると考えてよかろう。

次に持ち出されそうな疑問は、そのように天体が事実上無限に存在するとなると、すでにそこを去って霊的存在となった者たちの落ち着く先はどうなるのか、ということであろう。が、これも旧式の宇宙観から生じる疑問であって、今では新しい科学理論に基づく宇宙観が合理的解釈を与えてくれている。(オリバー・ロッジなどによるエーテル理論をさすものと察せられる――訳注)

つまり霊の世界は地上のような固定した場所ではなく、内的宇宙空間とでもいうべき壮大な組織を構成していて、地球はその中にすっぽりと浸っている。ということは我々の上下左右、あらゆるところに霊の世界が存在し、かつ絶え間なく物質界と接触していることになる。

固定した存在場所がないとなると、死後の報いと罰はどうなるのかという疑問を抱く方がいるかも知れない。が、この種の疑念は報いや罰が第三者から見て納得のいかない形で行われることを懸念することから生じるもので、善行に対する報いも悪行に対する罰も、本質的にはそういうものではないことを、まず理解しなければならない。

いわゆる幸福と不幸は霊そのものの意識の中に存在するもので、第三者から見た外的条件で決まるものではない。たとえば波動の合う霊との交わりは至福の泉であろう。が、その波動にも無限の階梯があり、ある者にとっては至福の境涯であっても、それより高い階梯の者にとっては居づらい境涯に思えるかも知れない。このように、何事も霊的意識の進化のレベルを基準として判断する必要がある。そうすれば全ての疑問が氷解する。

これをさらに発展させれば、その霊的意識のレベルというのは、魂の純化のための試練として何度か繰り返される地上生活において、当人がどれだけ努力したかによって自ずと決まるものである。“天使”と呼ばれる光り輝く存在は、その努力によって最高度の進化の階梯にまで達した霊のことであり、すべての人間が努力次第でそこまで到達できるのである。

そうした高級霊は宇宙神の使徒であり、宇宙の創造と進化の計画の行使者であり、彼らはそのことに無上の喜びを覚える。最後は“無”に帰するとした従来の説よりもこの方がはるかに魅力がある。無に帰するということは存在価値を失うことにならないだろうか。

次に“悪魔”と呼ばれているものは邪悪性の高い霊ということで、言いかえれば魂の純化が遅れているということである。遅れているだけであって、試練と霊的意識の開発によって、いつかは天使となり得る可能性を秘めている点は、他のすべての魂と同じである。キリスト教では悪魔は悪の権化として永遠に邪悪性の中に生き続けるとしているが、これでは、その悪魔は誰がこしらえたのかという問いかけに理性が窮してしまう。

“魂(ソウル)”と“()霊(スピリット)”の区別であるが、結論から言えば同じものを指すことになる。ただ、肉体をまとっている我々人間は“魂を所有している”というように表現し、肉体を捨て去ったあとに生き続けるものを“霊”と呼ぶ。同じものを在世中と死後とで言い分けているだけである。もしも霊が人間と本質的に異なるものだとしたら、その存在は意味がないことになる。人間に魂があって、それが霊として死後に生き続けるのであるから、魂がなければ霊も存在しないことになり、霊が存在しなければ魂も存在しないことになる。(この“霊”と“魂”の使い分けはスピリチュアリズムでも混乱していて、霊界通信でも通信霊によって少しずつズレが見られる。ここでカルデックが解説していることは明快であるが、その前の節では“魂の純化”という、その解説の内容からはみ出た意味に用いている。ここは本来は“霊性の進化”と言うべきところであろうが、要するに地上の言語には限界があるということである――訳注)

以上の説が他の説より合理性が高いとはいえ、一つの理論に過ぎないことは確かである。が、これには理性とも科学的事実とも矛盾しないものがある。それにさらに事実による裏付けがなされれば、理性と実体験による二重の是認を受けることになることは認めていただけるであろう。

その実体験を提供してくれるのが、いわゆる“心霊現象”で、これが死後の世界の存在と人間個性の死後存続という事実を論駁(ろんばく)の余地のないまでに証明してくれている。

ところが大抵の人間はそこのところでストップする。人間に魂が存在し、それが死後、霊として存続することは認めても、その死者の霊との交信の可能性は否定する。「なぜなら、非物質的存在が物質の世界と接触できるはずがないから」だと彼らは言う。

こうした否定論は、霊というものの本質の理解を誤っているところから生じている。つまり彼らは霊というものを漠然として捉えどころのない、何かフワフワしたものを想像するらしいのであるが、これは大きな間違いである。

ここで霊というものについて、まず肉体との結合という観点から見てみよう。両者の関係において、霊は中心的存在であり、肉体はその道具にすぎない。霊は肉体を道具として思考し、物的生活を営み、肉体が衰えて使えなくなればこれを捨てて次の生活の場へ赴く。

厳密に言うと“両者”という言い方は正しくない。肉体が物質的衣服であるとすれば、その肉体と霊とをつなぐための半物質的衣服として“ダブル”というのが存在する。(カルデックは“ペリスピリット”という用語を用いているが、その後“ダブル”という呼び方が一般的になっているので、ここではそう呼ぶことにする――訳注)

ダブルは肉体とそっくりの形をしていて、通常の状態では肉眼に映じないが、ある程度まで物質と同じ性質を備えている。このように霊というのは数理のような抽象的な存在ではなく、客観性のある実在であり、ただ人間の五感では認知できないというに過ぎない。

このダブルの特質についてはまだ細かいことは分かっていないが、かりにそれが電気的な性質、ないしはそれに類する精妙なもので構成されているとすれば、意念の作用を受けて電光石火の動きをするという推察も、あながち間違いとも言えないであろう。

死後の個性の存続および絶対神の存在はスピリチュアリズムの思想体系の根幹をなすものであるから、次の三つの問いかけ、すなわち――

一、あなたは絶対神の存在を信じますか。

二、あなたに魂が宿っていると信じますか。

三、その魂は死後も存続すると信じますか。

この三つの問いに頭から「ノー」と答える人および「よく分からない」とか「全部信じたいが確信はもてない」といった返答をする人は、本書をこれ以上お読みになる必要はない。軽蔑して切り捨てるという意味ではない。そういうタイプの人には別の次元での対話が必要ということである。

そういう次第で私は本書を、魂とその死後存続を自明の理としている人を対象として綴っていくつもりである。それが単なる蓋然(がいぜん)性の高いものとしてではなく、反論の余地のない事実として受け入れられれば、その当然の帰結として、霊の世界の実在も認められることになる。

残るもう一つの疑問は、はたして霊は人間界に通信を送ることができるか否か、言いかえれば、思いを我々と交換できるかどうかということである。が、できないわけがないのではなかろうか。人間は、言うなれば肉体に閉じ込められた霊である。その霊が、すでに肉体の束縛から解き放たれた霊と交信ができるのは、くさりに繋がれた人間が自由の身の人間と語り合うことくらいはできるのと同じである。

人間の魂が霊的存在として死後も生き続けるということは、情愛も持ち続けていると考えるのが合理的ではなかろうか。となると地上時代に親しかった者へ通信(メッセージ)を届けてやりたいと思い、いろいろと手段を尽くすのは自然なことではなかろうか。地上生活を営む人間は、魂という原動力によって肉体という機関を動かしている。その魂が、死後、霊として地上の誰かの肉体を借りて思いを述べることができて、当然ではなかろうか。

人間に永遠不滅の魂が宿っていて、それが肉体の死とともに霊的存在として個性と記憶のすべてを携えて次の世界へ赴くこと、そして適当な霊媒を通して通信を地上へ送り届けることができることは、これまでに繰り返し行われてきた実験と理性的推論によって疑問の余地のないまでに証明されている。

一方、これを否定せんとする者も後を絶たないが、彼らは実験に参加することを拒否し、ただ「そんなことは信じられない。したがって不可能である」という筋の通らない理屈を繰り返すのみである。これでは「太陽はどう見ても地球のまわりを回っている。だから地動説は信じられない」と言うのと同類で、そう思うのは自由であるが、それではいつになっても無知の牢獄から脱け出られないことになる。

霊媒の書  アラン・カルデック編

The Mediums' Book    Allan Kardec
スピリチュアリズムの真髄「現象編」
訳者まえがき  アラン・カルデックの生涯と業績   序文


 
訳者まえがき

本書は一九世紀のフランスの思想家アラン・カルデックの古典的名著『Le Livre de Mediums』の英語版の日本語訳である。

フランス語と英語はともにアルファベットを使用する言語なので、その翻訳は比較的やさしいと言われるが、日本語は世界のどの言語とも異なる複雑な形態をもつ言語なので、訳し方一つでまったく異質のものになってしまう危険性がある。

本書の翻訳に当たっても私は、フランス語→英語→日本語と、二段階の翻訳をへるうちに原典の“味”が損なわれることを懸念したが、有り難いことに私の長年の愛読者の一人でフランス語の原典をお持ちの方と不思議な縁でめぐり会い、私の訳文の一部を読んでいただいて、大体においてこうした感じであることが確認できた。

訳していくうちに表面化した問題として、カルデックが本書を書いた時代がハイズビル事件をきっかけにスピリチュアリズムが勃興してわずか十数年後という事実から想像がつくように、その後の心霊研究の発達とモーゼスの『霊訓』や「シルバーバーチの霊言」に代表される高等な霊界通信によって、用語の上でも新しいものが生まれていることで、霊的真理の内容においてはいささかも見劣りはしないが、用語には、そのままでは使用できないものが目立つ。

その最たるものが“スピリチュアリズム”を“スピリティズム”と呼んでいることで、ラテン諸国では今なおそう呼んでいる。

カルデックはスピリチュアリズムのことを“唯物主義Materialismと相対したもの”として、いわば“精神主義”的な意味に捉えていたらしい。日本で“心霊主義”とか“神霊主義”と訳す人の認識と似たところがある。

ご承知の通り、スピリチュアリズムは“地球を霊的に浄化する”という意味のspiritualiseから来たもので、“主義”という意味はみじんもない。そこで私はこれまで“スピリチュアリズム”という原語で通してきたのであるが、本書でも一貫してそれで通すことにした。

もう一つの問題は“霊(スピリット)”と“魂(ソウル)”の区別で、英米でも日本でも混同して用いられているが、カルデックは両者はまったく同じものであるとし、肉体に宿っているものを“魂”と呼び、肉体を捨てたあとの存在を“霊”と呼ぶ、という解説をしている。

そう言いつつも時おり混同して用いているところがあるが、私は上の解説は的を射ていると思うので、それに従うことにした。

カルデックの人物像と業績については次に詳しく述べることにして、ここで参考までに述べておきたいのは、カルデックが交霊会に出席するようになってから高等な自動書記通信が届けられるようになり、その編纂と出版を霊団側から依頼されたという事実である。カルデックには特に霊能はなかったが、上の事実は彼の霊格の高さと使命を物語っているとみてよいであろう。



アラン・カルデックの生涯と業績

Allan Kardec (1804 – 1869)

カルデックは本名をイポリット=レオン=ドゥニザール・リヴァイユといい、一八〇四年にフランスのリヨンで生まれている。アラン・カルデックというペンネームは、いくつかの前世での名前の中から背後霊団の一人が選んで合成して授けたものである。

家系は中世のいわゆるブルジョワ階級で、法官や弁護士が多く輩出している。初等教育はリヨンで修めたが、向学心に燃えてスイスの有名な教育改革家ペスタロッチのもとで科学と医学を学んだ。


帰国して二十八歳の時に女性教師と結婚、二人で新しい教育原理に基づいた私塾を開設する。が、偶発的な不祥事が重なって、塾を閉鎖せざるを得なくなり、リヨンを離れ、幾多の困難と経済的窮乏の中で辛酸をなめる。が、その間にあっても多くの教育書や道徳書をドイツ語に翻訳している。

その後名誉を回復して多くの学会の会員となり、一八三一年にはフランス北部の都市アラスの王立アカデミーから賞を授かっている。一八三五年から数年間、妻とともに自宅で私塾を開き、無料で物理学、天文学、解剖学などを教えている。

スピリチュアリズムとの係わり合いは、一八五四年に知人に誘われて交霊会に出席したことに始まる。そこでは催眠術によってトランス状態に入ったセリーナ・ジェイフェットという女性霊媒を通して複数の霊からの通信が届けられていた。

すでにその通信の中にも“進化のための転生”の教義が出ていて、一八五六年にはそれが「The Spirits'Book」のタイトルで書物にまとめられていた。が、その内容にはまだ一貫性ないし統一性がなかった。それが本格的な思想体系をもつに至るのは、カルデックがビクトーリャン・サルドゥーという霊能者が主催するサークルに紹介されて、そこで届けられた通信の中で、カルデックが本格的な編纂を委託されてからだった。それが同じタイトルで一八五七年に出版され、大反響を呼んだ。

このように、カルデックは霊界通信によってスピリチュアリズムに入り、当初は物理的心霊現象を軽視していた。さらに、スピリチュアリズム史上もっとも多彩な現象を見せたD・D・ホームと会った時に、ホームが個人的には再生(転生)説を信じないと言ったことで、ますます物理現象を嫌うようになった。

その後カルデックも物理現象の重要性に目覚める。「本書」がその証と言えるが、フランスでの心霊現象の研究は、カルデックの現象嫌いで二十年ばかり遅れたと言われている。

一八六九年に心臓病で死去。六十五歳。遺体はペール・ラシェーズ墓地にあり、今なお献花する人が絶えない。

業績は多方面にわたり、多くの学術論文を残しているが、著書としては『The Spirits'Book』(霊の書)、『The Mediums'Book』(本書)の他に『Heaven and Hell』(『天国と地獄』)、『The Four Gospels』(『四つの福音書』)など、スピリチュアリズム関係のものが多い。



序文


スピリチュアリズムの実践面(交霊実験会・霊能開発等)において遭遇する困難や失望が霊的基本原理についての無知に起因していることは、何よりも日頃の経験が雄弁に物語っている。

これまで我々はそのことを警告する努力を重ねてきたが、その努力の甲斐あって、本書にまとめたようなことを精読することで危険を回避することができた人が少なくないことを知って、喜びに堪えない。

スピリチュアリズムに関心を抱くようになった人は、霊と交信してみたいと思うようになる。それは極めて自然なことで、本書を上梓する目的も、これまでの長くそして労の多かった調査研究の成果を披露することによって、健全な形でその願望を叶えさせてあげることにある。

本書をしっかりお読みいただけば、テーブル現象はテーブルに手を置くだけでよい、通信を受け取るにはエンピツを握りさえすればよいかに想像している人は、スピリチュアリズムの全体像を大きく見誤っていることに気づかれるであろう。

とは言うものの、本書の中に霊能養成のための絶対普遍の秘策が見出せるかに期待するのも、同じく間違いである。と言うのは、全ての人間に霊的能力が潜在していることは事実であるが、その素質にはおのずと程度の差があり、それがどこまで発達するかは、自分の意志や願望ではどうすることもできない、さまざまな要因があるのである。

それは、たとえば詩や絵画や音楽の理論をいくら勉強しても、先天的に優れた才能を持って生まれていないかぎりは、形だけは詩であり、絵画であり、音楽といえるものはつくれても、詩人・画家・音楽家といえるほどの者になれるとは限らないのと同じである。

本書についても同じことが言える。その目的とするところは、各自の受容力が許す範囲での霊的能力の発達を促す手段をお教えすることであり、とりわけその能力の有用性を引き出す形で行うことである。

ただし、それだけが本書の目的の全てではないことをお断りしておく。本格的な霊能者といえる人以外にも、霊的現象を体験したいと思っている人が大勢いる。そういう人たちのさまざまな試みのためにガイドラインを用意してあげ、その試みの中で遭遇するかも知れない――というよりは、必ず遭遇するに決まっている障害を指摘し、霊との交信の手ほどきをしてあげ、すぐれた通信を入手するにはどうすべきかを教えてあげること、それが、十分とは言えないかも知れないが、本書が目的としているところである。

であるから、読者によってはなぜそんなことを述べるのか理解に苦しむことにも言及しているが、それは経験を積んでいくうちに「なるほど」と納得がいくであろう。前もってしっかりと勉強しておけば、目撃する現象についてより正しい理解が得られるであろうし、霊の述べることを奇異に思うことも少なくなるであろう。そのことは、霊媒や霊感者としてすでに活躍している人だけでなく、スピリチュアリズムの現象面を勉強したいと望んでいる人すべてに言えることである。

そうした指導書(マニュアル)をこんな分厚い書物でなしに、ごく短い文章で述べた簡便なものにしてほしいという要望を寄せた人がいた。そういう人たちは、小冊子の方が価格が安くて広く読まれるであろうし、霊媒や霊感者の増加にともなって強力なスピリチュアリズムの宣伝の媒体となると考えたようである。しかし、少なくとも現時点でそういう形で出すことは、有用どころか、むしろ危険ですらあると考える。

スピリチュアリズムの実践面には常に困難がつきまとうもので、よくよく真剣な勉強をしておかないと危険ですらある。従ってそうした複雑な世界に簡便なマニュアルだけで安易に入り込むと、取り返しのつかない危害をこうむることがあるのである。

このようにスピリチュアリズムは軽々しく扱うべき性質のものではないし、危険性すらはらむものであるから、まるで暇つぶしに死者の霊を呼び出して語り合うだけの集会のように考える人間がこの道に手を染めてもらっては困るのである。本書が対象としているのは、スピリチュアリズムの本質の深刻さを認識し、その途轍もなく大きい意義を理解し、かりそめにも面白半分に霊界との交信を求めることのない人々である。

本書には、これまでの我々の長年にわたる実体験と慎重な研究の末に得た資料の全てが収められている。これをお読みいただくことによって、スピリチュアリズムが、人生を考える上で見過ごすことのできない重大な意義を秘めているとの認識が生まれ、軽薄な好奇心と娯楽的な趣味の対象でしかないかに受け取られる印象を拭い去ることになるものと期待している。

以上のことに加えてもう一つ、それに劣らず重大なことを指摘しておきたい。それは、心霊現象のメカニズムについての正しい知識もなしに軽率に行われた実験会は、出席した初心者、およびスピリチュアリズムに良からぬ先入観を抱いている者に、霊界というものに関して誤った概念を植えつけ、そのことがさらにスピリチュアリズムは茶番だと決めつける口実にされてしまうことである。

半信半疑で出席した者は当然その種の交霊会をいかがわしいものと結論づける。そしてスピリチュアリズムに深刻な側面があることを認めるまでには至らずに終わる。スピリチュアリズムの普及にとって、肝心の霊媒や霊感者みずからが、その無知と軽薄さによって、想像以上に大きい障害となっているのである。

一八四八年に勃興したスピリチュアリズムは、当初の現象中心から霊的思想へと重点が移行してきたここ数年(一八六一年の時点)で飛躍的な発達を遂げた。このことには、多くの学者や知識人がその真実性と重大性を認識したことが大きく貢献している。もはや、かつてのような見世物(ショー)的な段階から脱して、確固とした教説としての認識を得ている。

確信をもって断言するが、こうした霊的教説を基盤とするかぎりスピリチュアリズムはますます有能な同志を引き寄せるであろう。すぐに現象を見せようとして安直な交霊会を催すのは得策ではないし、危険でもある。この確信は、前著『The Spirits' Book』をひと通り目を通しただけで我々のもとへ駆せ参じた人の数の多さが雄弁に物語っている。

その思想的側面については前著で詳しく語ったので、本書では、自分の霊能で霊的現象を求めておられる人、および霊媒による交霊会で現象を正しく理解したいと思っておられる方のために、おもにその実際的側面を扱うことにした。これをしっかりとお読みいただけば、遭遇する障害についてあらかじめ理解し、かつそれを回避することにもなるであろう。

最後に付言すれば、本書の校正は、内容そのものに係わった霊、いわゆる通信霊みずからが行った。全体の構成についても、かなりの部分に彼らの思う通りの修正を加え、彼ら自身が述べた意見の一つ一つについても確認作業を行っている。

通信霊は自分の所見にはかならず署名(サイン)をしているが、本書ではその全てを付記することは避け、通信者が誰であるかをはっきりさせた方がよいと思うものだけにとどめた。

が、本来、霊的なことに関するかぎり、通信霊が地上でどういう名前の人物であったかは、ほとんど意味をなさない。要はその通信の内容そのものだからである。

アラン・カルデック

一八六一年 パリにて。


シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch

ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳



九章  人間的思念と霊的思念

 英国フリート街に立ち並ぶ新聞社の一つの主筆でスピリチュアリズムにも興味を持つジャーナリストが、ある日の交霊会で思念とインスピレーションの違いについて質問した。それについてシルバーバーチはこう答えた。


 「物質の世界に住んでおられるあなた方はきわめて創造性の乏しい存在です。よくよくの例外を除いて、まず何も創造していないと言ってよろしい。受信局であると同時に発信局のような存在です。まず外部から思念が送られて来る。

それがいったんあなたならあなたという受信局で受け止められ、それに何かが付加されて発信され、それを別の人が受信するという具合です。あなたに届いた時の思念と、あなたから発信される時の思念とはすでに同じではありません。

あなたの個性によって波長が高められることもあり低くなることもあり、豊かになっていることもあり貧弱になっていることもあり、美しくなっていることもあり醜くなっていることもあり、新たに生命力を付加されていることもあり衰弱していることもあります。

しかし、それとはまったく別に、霊的な波長の調整によってあなたと同じ波長をもつ霊からのインスピレーションを受けることもできます。人間が(あなた方の言い方で)死んで私たちの世界へ来ます。その時(肉体は捨てても)精神と魂に宿されているものは何一つ失われません。

それは霊的であり、無限であり、霊的にして無限なるものは絶対に無くならないからです。その魂と精神に宿された資質はその後も生長し、広がり、発達し、成熟していきます。そうした霊性を宿しているからこそ、こちらへ来てしばらくすると、地上の人間のために何か役立つことをしたいと思うようになるわけです。やがて自分と同質の人間を見出します。あるいは見出そうと努力し始めます。

 地上で詩人だった人は詩人を探すでしょう。音楽家だった人は音楽家を探すでしょう。そして死後に身に付けたことの全てを惜しげもなく授けようとします。問題は波長の調整です。インスピレーションが一瞬の出来ごとでしかないのは、私たちの側が悪いのではありません。

二つの世界の関係を支配している法則が完全に理解されれば───別の言い方をすれば、地上の人間が両界の自由な交信の障害となる偏見や迷信を取り除いてくれれば、無限の世界の叡知が人間を通してふんだんに流れ込むことでしょう。

要は私たちの側から発信するものを受信する装置がなければならないこと、そしてその装置がどこまで高い波長の通信を受け取れるかという、性能の問題です。すべてのインスピレーション、すべての叡知、すべての真理、すべての知識は、人間側の受信能力に掛かっております」


───それだけお聞きしてもまだ、なぜインスピレーションというものが一瞬のひらめきで伝わるのかがよく理解できません。

 「その瞬間あなたの波長が整って通信網に反応するからです」と答えたあと、そういう思念が霊界からのものか地上の人間からのものかの区別の仕方について質問されて、こう述べた。

 「両者をはっきりと線引きすることはとても困難です。思念には地上の人間の発したものが地上の他の人間によって受け取られることもありますが、霊界からのものもあります。思念は常に循環しております。そのうちのある種のものが同質の性格の人に引き寄せられます。

これはひっきりなしに行われていることです。しかし、インスピレーションは霊界の者がある種の共通の性質、関心、あるいは衝動を覚えて、自分がすでに成就したものを地上の人間に伝えようとする、はっきりとした目的意識をもった行為です。地上の音楽、詩、小説、絵画の多くは実質的には霊界で創作されたものです」


───祈りは叶えられるものでしょうか。

 「叶えられる時もあります。祈りの中身と動機次第です。人間はとかく、そんな要求を叶えてあげたら本人の進歩の妨げになる、あるいは人生観をぶち壊してしまいかねない祈りをします。そもそも祈りとは人間が何かを要求してそれをわれわれが聞き、会議を開いて検討してイエスとかノーとかの返事を出すのとは違います。

祈るということは、叶えられるべき要求が自動的に授かるような条件を整えるために自分自身の波長を高めて、少しでも高い界層との霊的な交わりを求める行為です」


───〝天才〟をどう説明されますか。

 「まず理解していただきたいのは、大自然あるいは法則───どう呼ばれても構いませんが───は決して一本の真っすぐな線のように向上するようには出来ていないことです。さまざまな変異(バリエーション)、循環(サイクル)、あるいは螺旋(スパイラル)を画きながら進化しています。

全体からみればアメーバから霊に至る段階的進化がはっきりしておりますが、その中にあって時に一足跳びに進化するものと後退するものとが出てきます。先駆けと後戻りが常にあります。天才はその〝先駆け〟に当たります。

これから何十世紀、何百世紀かのちには地上の全人類が、程度の差こそあれ、今の天才と同じ段階まで発達します。天才は言わば人類の進化の前衛です」


───現在地上で行われている進化論とだいぶ違うようですが・・・。

 「私の見解はどうしても地上の説とは違ってきます。霊の目をもって眺めるからです。地上的な視野で見ていないからです。皆さん方はどうしても物的観点から問題を考察せざるを得ません。物的世界に生活し、食料だの衣服だの住居だのといった物的問題を抱えておられるからです。

そうした日々の生活の本質そのものが、その身を置いている物的世界へ関心を向けさせるようになっているのです。日常の問題を永遠の視点から考えろと言われても、それは容易にできることではありません。が、私達から見れば、あなた方も同じく霊的存在なのです。

いつ果てるともない進化の道を歩む巡礼者である点は同じです。いま生活しておられるこの地上が永遠の住処でないことは明白です。これから先の永遠の道程を思えば、地上生活などはほんの一瞬のできごとでしかありません。私達の視界は焦点が広いのです。

皆さんから受ける質問も霊的真理に照らしてお答えしております。その真理が人間生活においてどんな価値をもつか、どうやって他の同胞へ役立てるべきか、どんな役に立つか、そう考えながらです。

これまで私は私の説く真理は単純素朴なものであること、唯一の宗教は人のために自分を役立てることであることを、皆さんもいい加減うんざりなさるのではないかと思うほど繰り返し述べてきました。私たちの真理の捉え方が地上の常識と違う以上、そうせざるを得ないからです。

 大半の人間は地上だけが人間の住む世界だと考えています。現在の生活が人間生活の全てであると思い込み、そこで物的なものを───いずれは残して死んでいかねばならないものなのに───せっせと蓄積しようとします。

戦争、流血、悲劇、病気の数々も元はと言えば人間が今その時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。

人間は肉体を通して自我を表現している霊魂(スピリット)なのです。それが地上という物質の世界での生活を通して魂を生長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです」


 このシルバーバーチの言葉がきっかけとなってサークルのメンバーの間で、〝進化〟についての議論にひとしきり花が咲いた。それを聞いたシルバーバーチは、やおら次のように述べた。

 「人間はすべて、宇宙の大霊の一部である───言いかえれば無限の創造活動の一翼を担っているということです。一人ひとりがその一分子として進化の法則の働きを決定づけているということです。霊としての真価を発揮していく階梯の一部を構成しているのです。

霊は自我意識が発現しはじめた瞬間から存在し、その時点から霊的進化が始まったのです。身体的に見れば人類は、事実上、進化の頂点に達しました。が、霊的にはまだまだ先は延々と続きます」


 別の交霊会に世界的に名の知れた小説家が出席した。(姓名は紹介されていない、手掛かりになるものも出てこない──訳者)シルバーバーチが出る前に地上で世界的に有名だった人物で今ではシルバーバーチ霊団のメンバーとして活躍している複数の霊がバーバネルの口を借りて挨拶し、それに応えてサークルのメンバーが挨拶している様子を見つめていた。

(訳者注──シルバーバーチ霊団はシルバーバーチ自身がそうであるように地上時代の氏名は───無名だった人物を除いて───いっさい明かしていない。余計な先入観となるからであろう)

その作家に対してシルバーバーチは「私にはあなたが今日はじめての人とは思えません。実質的に霊力に無縁の方ではないからです」とまず述べてから、こう続けた。

 「あなたの場合は意識的に霊力を使っておられるのではありません。あなたご自身の内部で表現を求める叫び、使って欲しがる単語、言語で包んで欲しがるアイディア、湧き出てあなたを包み込もうとする美、時として困惑させられる不思議な世界、そうしたものが存在することを知っている人間の持つ内的な天賦の才能です。違いますか」


───まったくおっしゃる通りです。

 「しかし同時に、これは多くの方に申し上げていることですが、ふと思いに耽り、人生の背後で動めいているものに思いを馳せ、いかにして、なぜ、いずこへ、といった避け難い人生の問題に対する回答をみずから問うた時、宿命的といえる経緯(いきさつ)によって道が開けてきました。幼少の頃からそうであったはずですが、いかがですか」


───その通りです。

 「私たちは、方法は何であれ、自分の住む世の中を豊かにし、美と喜びで満たし、いかなる形にせよ慰めをもたらす人を誇りをもって歓迎いたします。しかし、あなたにはこれまでなさったことより、はるかに立派なことがお出来になります。お判りでしょうか」


───ぜひ知りたいものです。

 「でも、何となくお感じになっておられるのではありませんか」


───(力強い口調で)感じています。

 ここでシルバーバーチはサークルの一人に向かって 「この方は霊能をお持ちです」 と言うと、そのメンバーも「そうですね、心霊眼をお持ちです」と答えた。するとシルバーバーチは、

 「しかし、この方の霊能はまだ鍛錬されておりません。純粋に生まれつきのものです」 と述べてからその作家の方を向いて「あなたは蔭から指導している(複数の)霊の存在をご存じでない。あなたが感じておられるよりはるかに多く援助してくれているのですよ」
 
 すると別のメンバーが 「この方がこれからなさるべきことは何でしょう」と尋ねた。

 「それは、これまでなさったことよりはるかに大きな仕事です。そのうち自然に発展していきます。が、すでにその雰囲気がこの方の存在に充満していますから、ご自分では気づいておられるはずです。じっとしていられないことがあるはずです。私の言わんとしていることはお判りでしょう?」 と言ってその作家の方を向いた。


───非常によく分かります。

 「次のことをよく理解しておいてください。他の全ての人間と同じく、あなたにも小さな身体に大きな魂を宿しておられるということです。どうもぎこちない、大ざっぱな言い方をしましたが、あなたという存在は肉体という、魂の媒体として痛ましいほど不適当な身体を通して表現せざるを得ないということです。

あなたの真の自我、真の実在、不滅の存在であるところの魂に宿る全能力───芸術的素質、霊的能力、知的能力の全てを顕現させるにつれて、それだけ身体による束縛から逃れることになります。

魂そのものは本来は物質を超越した存在ですから、たとえ一時的には物質の中に閉じ込められても、そのうち鍛錬や養成をしなくても、無意識のうちに物質を征服して優位を得ようとあらゆる手段を試みるようになります。それが今まさにあなたの身の上に起きつつあるわけです。

インスピレーション、精神的活動、目に見えない側面のすべてが一気に束縛を押し破り、あなたの存在に流入し、充満し、あなたはそれに抗し切れなくなっておられる。私の言っていることがお分かりでしょうね」

───非常によく分かります。
 
 「しかし、同時にあなたは私たちの世界の存在によって援助されております。すでに肉体の束縛から解放された人たちです。その人たちは情愛によってあなたと結ばれております。愛こそ宇宙最大の絆なのです。

愛は自然の成り行きで愛する者同士を結びつけ、いかなる者もいかなる力もいかなるエネルギーも、その愛を裂くことはできません。

愛がもたらすことのできる豊かさと温もりのすべてを携えてあなたを愛している人たちは、肉体に宿るあなた自身には理解できない範囲であなたのためにいろいろと援助してくれております。が、それとは別に、そうした情愛、血縁、家族の絆で結ばれた人々よりは霊性においてはるかに偉大な霊が、共通の興味と共通の目的意識ゆえに魅かれて、あなたのために働いてくれております。

今ここで簡単には説明できないほど援助してきており、こののち、もしその条件が整えば、存在をあなたに知らしめることにもなるでしょう」


───ぜひ知らせてほしいものです。それと、こうした背後霊の皆さんに私からの感謝の気持ちを伝えていただけますでしょうか。


 「もう聞こえていますよ。今日私があなたにぜひ残していきたいのは、あなたのまわりに存在する霊力の身近かさの認識です。私は古い霊です。私にも為しうる仕事があることを知り、僅かですが私が摂取した知識が地上の人々のお役に立てばと思って、こうして戻ってまいりました。

すでに大勢の友───その知識を広めるために私の手足となってくれる同僚をたくさん見つけております。私の大の友人パリッシュ(心霊治療家で、その日の交霊会にも出席していた)のように特殊な使命を帯び、犠牲と奉仕の記念碑を打ち立てている者もいます。

しかし、すべての友が自分が利用されていることを意識しているわけではありません。でも、そんな人たちでも時たま、ほんの瞬間にすぎませんが、何とも言えない内的な高揚を覚え、何か崇高な目的の成就のために自分も一翼を担っていることを自覚することがあるものです」