Saturday, May 23, 2026

シルバーバーチの霊訓(七)

More Wisdom of Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell



四章 若き軍人と語る

 シルバーバーチと語ることを永年の夢にしていた英国陸軍第八部隊所属の一軍人が、念願かなってハンネン・スワッハー・ホームサークルに招かれた。本来はフリート街の青年ジャーナリストである。

(訳者注──フリート街は英国の一流新聞社が軒を連ねているところで、そこの御意見番的存在だったのがほかならぬハンネン・スワッハーで、そういう関係からこの青年軍人も出席が叶えられたのであろう)

 青年は早くからシルバーバーチの霊訓に魅せられ、これまでの霊言の一語として読んでないものはないというほどだった。そして輸送船の中で、野営地において、あるいは戦場において戦友と議論を闘わせてきた。それだけにシルバーバーチへの質問には〝永遠〟の問題など難解なものも飛び出したが、例によってシルバーバーチは直截簡明(ちょくせつかんめい)に答えている。

 まずシルバーバーチからこう語りかけた。
 「あなたは英国の軍人でいらっしゃいますが、あなたにもぜひ参加していただかねばならない、もっと大きな戦いがあります。何世紀にもわたって強大な霊的軍団が組織されております。霊的真理に対して絶対的忠誠心を持って臨めば、あなたの強力な味方となってくれます。

 あなたへ届けられる〝召集令状〟は人のために自分を役立てることを求めています。勲章は授けてくれません。バッジもくれません。襟章もつけてくれません。等級もありません。しかし、絶対的な忠誠心と堅忍不抜の献身的精神を持って臨めば、必ずや勝利を手にすることが出来ることを私たちがお約束します。

どうかあなたも地上世界を毒している諸悪の駆逐のために私たちの味方になってください。私たちの新たな道具として一命を捧げていただけませんか。あなたの行為によってたった一人の魂でも救われれば、それだけで、あなたの人生は無駄でなかったことになります。私たちの仕事はそのようにして推進されていくのです」


── 一人の人間のすることは多寡(たか)が知れてるように思えるのです。軍隊にいるとただ語り合うことしかできません。

 「そのたった一人の人間も、霊の力を背後にすれば大きな仕事ができるのです。私は決して自惚れてでかい口をきいているのではありません。私にも謙虚な精神と哀れみの情はあります。私もかつてはとても無理と思える仕事を仰せつかりました。地上の方にはまったく無名のこの私が、この声と素朴な訓え以外には何の資産もなしに、たった一人で地上へ赴き、自分で道具(霊媒)を見つけ、愛と理性のみで勝利してみよと言われたのです。

 おっしゃる通り、たった一人のすることです。見た目にはたった一人です。が、その背後には自分を役立てたいとの願望を抱く者に必ず授けられる強大な霊力が控えております。

私はあらゆる逆境と困難と障害の中にあって一人の人間(バーバネル)に目星をつけました。その人間を私の目的に沿って鍛錬し、さらに、試行錯誤を繰り返しつつも忍耐づよく、真理普及という仕事に協力してくれる人間(サークルのメンバー)を探し求めました。

何かの報酬と引き替えに募ったのではありません。献身的精神を吹き込んでみたときの反応だけで募ったのです。そして、ごらんなさい、僅かな年数のうちに、われわれを伝達手段として、誇りある道具として、霊的真理が全世界に広まりました。

 かつても、大きな仕事をたった一人で始めた人がいました。その名をナザレのイエスと言いました。そのたった一人の人間が愛を基本理念とした新しい宗教の規範を地上にもたらしました。

 たった一人で大きな仕事を始めた人はほかにもいます。その名をリンカーンと言いました。彼は奴隷を解放し、あの大きな大陸を一つにまとめました。

 いかがです? たった一人でも大きな仕事ができることを示す例をもっと上げてほしいですか。あきらめてはなりません。真理普及というこの大きな戦いにおいて私たちの味方となった方には〝敗北〟はありません。

時として後退のやむなきに至ることはあるでしょう。が、知識が無知を追い払い、光が闇をかき消しながら、我々は絶え間なく前進し続けております。

 私は古い霊です──皆さんからそう見られております。(訳者注──old(オールド)という用語を用いているが、時間のない霊界には古いとか新しいとか若いとか年老いたといった表現は存在しない。ただ紀元前一千年頃に地上生活を送ったことがあり、地上的年齢計算でいくと三千歳になるという意味でそう言ったわけである。霊界には魂の成熟度しかない)

私くらいになると人間の可能性というものがわかります。その私からあなたに激励の言葉を述べさせていただきましょう。一切のあきらめの念を駆逐しなさい。そうです。私たちには為さねばならない仕事があるのです。偉大な仕事です。

よろこんでその手を、その心を、その精神を貸してくれる人の協力を必要とする大仕事があるのです。あなたもぜひ参加してください。あなた自身が手にされた知識を寛容の精神で他人に披露して、その良さを知ってもらうための努力を忍耐ずよく続けてください。そのうちきっと少しずつ変革が生じていることに気づかれます。

 それしか方法が無いのです。集団的暗示や熱狂的説教による陶酔ではいけません。理性と叡智と論理と常識、そして何よりも愛を持って、真実を説くことによって、一人ひとり得心させて行かねばなりません。結局はそれしかないのです。そう思われませんか」


──そう思います。しかしそれには気の遠くなるような時間が掛かります。  

 「ある人が言ってますよ。地球はあなたが生まれる前から存在し、あなたが去った後もずっと存在するであろう、と。その地上でのご自分の束の間の人生を、なんとか価値あるものにすることに(余計な心配をせずに)専心なさることです。

たった一個の魂のためにあなたを役立てることが出来れば、それだけであなたの人生は失敗でなかったことになります」


──でも、生涯を何一つ他人のためになることをせずに終わる人が大勢います。

 「若者はとかくせっかちに考えがちなものです。が、世の中は急激な革命によってではなく、ゆっくりとした進化によって改められていく──それが摂理なのです。私は若者特有の熱誠や情熱に水をさすつもりは毛頭ありません。私がこれまでに見てきたままを申し上げているのです。ご自分の経験から得られる叡智を道しるべとする──これが一ばんです。

人間を導く上で私たちはそれを一ばんの拠りどころとしています。だからこそ説得力があるのです。そうした方針でやってきて、結構私たちは、多くの方が気づいておられる以上に大きな進歩を遂げております。

 失望なさってはいけません。私たちは決してあなた方を失望させるようなことはしません。自惚れているのではありません。霊的法則に関する知識を駆使して霊的資源を活用する用意があるからです。この資源は無尽蔵なのです。

それを活用して、あなたがどんな境遇に置かれてもそれを克服できるように導き支援して、あなたの存在をできるだけ有効に生かす道を歩んでいただくように致します。

 奉仕こそ霊の通貨(コイン)なのです。宗教とは何かと問われれば私は躊躇なく申し上げます。──いつどこにいても人のために自分を役立てることです。と、神学などはどうでもよろしい。教義、儀式、祭礼、経典などは関係ありません。祭壇に何の意味がありましょう。尖塔に何の意味がありましょう。

ステンドグラスの窓にしたからどうなるというのでしょう。法衣をまとったからといってどう違うというのでしょう。そうしたものに惑わされてはいけません。何の意味もないのです。

 自分を人のために役立てること、それが宗教です。あなたの住むその世界のために役立てるのです。世の中を明るくするために役立てるのです。人の心を思いやり、やさしくいたわり、気持ちを察してあげなさい。しかし同時に、邪悪なものに対しては敢然と闘ってください。

 私がわざわざ地上へお伝えに戻ってきた真理とは、こうした何でもないことばかりなのです。しかし、こうした基本的な真理にしがみついていさえすれば、道を誤ることはありません。知識を広めることです。時には拒否され、時には嘲笑され、軽蔑され、愚弄されることもあることでしょう。

しかし、気になさってはいけません。そんなことで傷つけられてはなりません。用意のできていない者は当然受け入れることはできません。でも、それであなたはあなたの為すべきことをなさったのです。

 しかし一方には、それが干天の慈雨である人もいます。そういう人こそ大切なのです。その人たちの役に立てば、それだけで少なくともあなたの人生は存在価値を持つことになります。

 どうか私がこれまで述べてきた知識の中から物的生活の背後で働いている霊的活動、あなたの身のまわりにほうはいとして存在する莫大な霊力、あなた方を善のために活用せんとして待ち構えている霊の存在を認識してください。あなた自身の中に潜在する可能性をしっかりと認識してください。

それが自我の霊的本性の持つ莫大な兵器庫、魂の宝庫を開くカギとなるからです。神の叡智は無限であるということ、宇宙の宝物(ほうもつ)は無尽蔵であるということの意味を、しっかりと理解してください。

 私たちは金や銀の財宝をお持ちしてあげるわけにはまいりません。が、それより無限大に貴重な霊的真理という名の宝石をお持ちしております。これは色褪せる心配がありません。永遠に価値を発揮し続けます。これさえ携えていれば、人生を生き抜く上での光輝あふれる照明となってくれます」


──私たち兵士が外地を転戦したとき、敵の方が悪いのだと思って戦いました。しかし、その敵軍を構成している一人一人も、その戦いにかける理想があればこそ戦っているのだということが分かってきました。こうした場合、罪の報いはどうなるのでしょうか。我々は敵が悪いと思って戦い、敵は自分たちこそ正しいと思って戦っているのです。


 「いかなる問題においても、私たちは決して地上的観点から物ごとを見ないということ、地上的尺度で判断しないということ、人間的な憎しみや激情には絶対に巻き込まれないということ、往々にして人間の判断力を曇らせている近視眼的無分別に振り回されることはないということを忘れないでください。

さらに大切なこととして、今定住している霊的世界における神の摂理の働きを体験してきた私たちは、地上の人間を悩ませる問題を人間自身の受け止め方とは違った受け止め方をしていること、あなた方と同じ視野で捉えていないということを知ってください。

 以上の大切な前置きを大前提として申し上げますが、そうした問題において何よりもまず第一に考慮すべきことは〝動機〟です。自分は正しいことをしているのだと真剣に思い込んでいる人は、魂に罪過を負わせることにはなりません。いけないことと知りつつなおも固執する人間は明らかに罪過を犯していることになります。

なぜなら道義心を踏みにじり魂の進化を阻害していることになるからです。私たちの目には国家の別はありません。全体が霊的存在で構成された一つの民族であり、一人一人が国家の法律でなく大自然の摂理によって裁かれるのです」


──善と悪は何を規準にして判断したらよいのでしょうか。人間一人ひとりの問題でしょうか、それとも霊的法則の中に細かく規定されているのでしょうか。

 「一人ひとりの問題です。一人ひとりの霊的自我の中に絶対に誤ることのない判定装置(モニター)が組み込まれているのです。これまでに何度となくこの問題を持ち出されましたが、私には一貫して主張している見解があり、それをみじんも変更する必要を認めません。これまでに獲得した霊的知識を総合的に検討した結果として私はこう申し上げております。

すなわち、正常な人間であるかぎり、言いかえれば精神的・知的に異常または病的でないかぎり、自分の思考と行動を監視する、絶対に誤ることのない装置が内蔵されております。いわゆる道義心です。

考えること、口にすること、行うことを正しく導く不変の指標です。それがいかなる問題、いかなる悩みに際しても、そのつど自動的に、直感的に、そして躊躇なく、あなたの判断が正しいか間違っているかを告げます。

 それを人間は、時として揉み消し、時として言い訳や屁理屈で片づけようとします。が、真の自我はちゃんと分かっているのです」


 このあと議論が発展して難解な哲学的思考(スペキュレーション)の域まで入った時、シルバーバーチは一応それに対応したあと、こう述べた。

 「私は実用志向のタイプです。今日の地上世界が置かれている窮状を救う上で何の役にも立たないと思われる方向へ議論が流れかけた時はいつもお断りしております。私は今地球が必要としているのは基本的な霊的知識であるとみています。

人間社会の全組織を改め、そこに巣くっている汚毒、汚物、スラム、不平等、不正を一掃する上で役立つ知識です。そうした環境が人間の霊性の発現を妨げているからです。

 地上世界を見回すと、素晴らしい花園であるべきところに醜い雑草が生い繁り、花がその美しさを発揮する場所がなくなっています。そこで私はこう言うのです───まずそうした基本的な問題と取り組みなさい──戦場で戦ういかなる敵よりもはるかに強力なその敵に宣戦布告なさい、と。

 人間の霊性を踏みにじっている敵と戦うのです。人間の霊性を抑圧し、魂を束縛する敵と戦うのです。霊的存在としての基本的権利──神の直射日光を浴び、自由の喜びを味わう権利を奪う、あらゆる敵と戦うのです。

 人間はまずそうした問題に関心を向けるべきです。そしてもしあなたとの縁によって霊的知識に何らかの価値を見出した人々がその普及に意欲を燃やしてくれた時は、その方たちにこう忠告してあげてください──基本的な目的は難解なスペキュレーションを満足させることにあるのではなく、この地上生活において霊的教訓を学べるような環境にすること、言いかえると、現在のように大勢の者が悲しむべき哀れな姿で霊界へ来るような事態を改めることにあるのです、と」


──私もそう思います。しかし、インドのような国に目をやり、食べるもの、着るものさえ満足に恵まれない民衆のことを思うと、複雑な気持ちになります。いかにしてインドを救うべきか──これは大変な仕事のように思えます。


 「いいえ、霊界からの声と力による導きと援助を素直に受け入れるようになりさえすれば、さほど大変なことではありません。多くの魂を束縛し、怨念と敵意と憎しみを助長し、神の子を迷信と偏見と無知による真っ暗闇の中で暮らさせている教条主義の呪いから解放しさえすればよいのです。

 永い間〝宗教〟の名を持って呼ばれてきた、ただの古代神話、伝説にすぎないものを棄ててその拘束から脱する方法を教え、代わって霊的真理の陽光を浴びる方法を教えてあげれば──〝宗教〟の名のもとに行われている欺瞞と誤謬を地上から一掃することが出来れば、地上を毒している問題の多くが解決されていきます。

私はここで改めて、私に可能な限りの厳粛な気持ちで申し上げますが、地上はこれまで教条主義によって呪われ続けてまいりました」


──経済的な側面はいかがでしょうか。

 「それも同じ問題の一つの側面に過ぎません。私はどうやら〝人騒がせ者〟のようです。キリスト教の教えを違うことばかり説いていると批難されております。しかし自分では、そう言って批難する人たちよりもキリスト教の本質についてより多くのことを知っていると思っております。

あらゆる地上の問題を煮つめれば、その原因はたった一つの事実を知らないことに帰着するのです。すなわち人間は本来が霊的存在であり、神からの遺産を受け継いでいるがゆえに、生まれながらにしていくつかの権利を有しているということです。

 その権利は、次の生活の場に備えるために、地上生活においてその属性を十分に発揮させるためのものです。その妨げとなるものはいかなるものでも排除する──それだけのことです。それをどう呼ばれようと構いません。私はラベルや党派には関心はありません。私が関心を持っているのは〝真理〟だけです。

 もしもあなたが私と同じ立場に立って、毎日のように発育を阻害された者、挫折した者、精神を歪められた者、未発達者、何の用意もできていない者が続々と私たちの世界へやってくるのをご覧になれば、多分あなたも私と同じように、この繰り返しに終止符を打つために何とかして地上を改革しなければという気持ちを抱かれるはずです。

 どうか、その若さで霊的知識を手にされたことを喜んでください。それを人生の冬(晩年)になってようやく手にして悔しがる人が多い中で、あなたは人生の春にそれを手にされました。しかし、あなたにはそれを成就すべき夏がこれから訪れます」

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

   本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


第8章 心の清い者は幸いです

素朴さと心の清さ

一、心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです。(マタイ 第五章 8)


二、さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちをみもとに連れてきた。ところが、使徒たちは彼らを叱った。イエスはそれをご覧になって憤り、彼らに言われた、「子どもたちを私のもとへ来させなさい。止めてはいけません。

神の国は、このような者たちのものです。誠に言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」。そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(マルコ 第十章 13-16)


三、素朴さや慎ましさと心の清さは切り離すことができません。いかなる利己的な考えや自尊心をも取り除かねばなりません。だからイエスは、慎ましさと同じように、心の清さの象徴として子どもを例に取り上げるのです。

しかし、子どもの霊であっても、その霊が歳を取っており、肉体を持った生活に生まれ変わった時点で、その前世において脱することのできなかった不完全性を持ち合わせていると考えた場合、心の清さと子どものたとえは矛盾するように見えます。

完全性を達成した霊だけが本当の心の清さと言うものを私たちに教えてくれることが出来るのだと言えます。それはまったく正しい考え方です。しかし、現在の人生の視点から見た場合、子供のうちと言うのはまだ非道徳的な意図を示すことも出来ず、私たちの目には無邪気で純粋な姿に映ります。

そのことからも明らかなように、イエスは天の国が子どもたちのためにあると言ったのではなく、子どもたちのように心の清い者のためにあると言ったのです。


四、子どもの霊が、すでに過去において地上に生きたことがあるのであれば、なぜ生まれたその時から、その霊がどのような霊であるかを示さないのでしょうか。神のなされる業は常に最高の英知であることを忘れてはなりません。
℘157           
子どもには、母親の優しさだけが与えることが出来る特別な心遣いが必要です。同時に、その母親の優しさは、子どもの無邪気さと弱さのためにさらに増すものです。母親に取ってその子どもは常に天使であり、また、そうあるべきなのです。

それにより子どもは母親の配慮を引きつけることが出来るのです。もし母親がその子どもの飾り気のない恵みを受ける代わりに、その子どもの幼稚な振る舞いの中に大人のような性格や考えを感じ取り、ましてやその子どもの過去を知ってしまったら、その母親は同じように献身的に子どもを世話することはできないでしょう。

 一方で、極端に早熟な子どもの肉体はその霊の大きな活動に耐えられないことから、知性の活動は肉体の弱さと釣り合っていなければなりません。再生が近づくに従って霊は変化し、少しずつ自分自身の認識を失っていき、ある一定の期間一種の眠りの様な状態になり、あらゆる能力が潜在的なものとだけなってしまうのはそのためです。

この変化する状態は、霊が新たな出発点に立ち、その新しい人生において妨げとなるものは忘れてしまうために必要なのです。しかし、その者の過去はその者の上に働きます。そのため、獲得された経験から得た直感によって支えられ、助けられ、道徳的にも知性的にもより大きく、より強く、生まれ変わるのです。

 生まれたときから霊の思考は、その器官が発達するに従って徐々に刺激を受けていくのですが、最初の何年間かは、その霊の性格の基盤を築く考えがまだ眠っている状態にあり、その霊は本当に子どもの状態にあるということができます。

子どもの本能が無意識の間、その霊は従順な状態に在り、その霊を進歩させる本質を変化させる印象を受け易く、その間、親にとってはその課された任務を行い易くなっているのです。
 このように、霊は一時的に無垢の衣をまとうことになります。それ故イエスは、魂のもつ過去に関わらず、子どもを清さと素朴さの象徴とし、真実を示したのです。

℘158      
  思考による罪。姦淫
五、「姦淫してはならない」と言われていたことは、あなたたちの聞いているところです。しかし、誠に言います。ある女を見つめ、その女に対し情欲を抱くのであれば、心の中ではその女と姦淫を犯したことになるのです。(マタイ 第五章 27,28)


六、ここで使われている「姦淫」と言う言葉は、決してその言葉が持つ通常の意味だけによって理解されてはならず、もっと広義に捉える必要があります。イエスは幾度もこの言葉の意味を広げ、悪、罪、すべての悪い考えを示すために使いました。

たとえば、「誰でも、この罪深い邪悪な世代にあって、私と私の言葉を恥じるものに対しては、人の子もまた、聖なる使いたちと共に父の栄光のうちに到来する時、その者を恥じるでしょう」(マルコ 第八章 38)

真の清さは行動の中だけにあるのではありません。それは思考の中にも存在し、心の清い者は悪いことを考えることさえもないのです。イエスが言いたかったのはそのことです。イエスは思考による罪をも非難するのです。なぜならそれは不純のしるしだからです。


七、この考え方から、自然と次の疑問が出てきます。「どんな行動も伴わない悪い思考の影響を、私たちは受けているのでしょうか」。

 ここで重要な区別をする必要があります。霊の世界において、魂がその進歩の過程を進んでいくと、悪の道に導かれていた魂も、向上しようとする意欲を示すに従って、その自由意思によって少しずつその不完全性を失っていきます。

どんな悪い考えも魂の不完全性がもたらします。しかし、浄化しようとして抱く欲求の強さによっては悪い考えさえもその魂の進歩のための機会となります。

なぜなら、その魂はその悪い考え方を精力的に拒絶しようとするからです。悪い考えを拒絶することは、汚点を消そうとする努力のしるしです。その場合、悪い欲望を満たす機会が現れても、それに負けまいとします。それに耐えることが出来ると、その勝利によってより強く、より満足を得ることができるでしょう。

 反対に、悪い考えを拒絶しようという正しい決心をすることができない者は、悪い行動を実現させる機会を求めます。たとえ実現しなかったとしても、その者の意志によってではなく、実現の機会が不足したからなのです。したがって、彼は、実現していた時と同等に罪深いことになるのです。

 要約するならば、悪い考えを心に抱くことさえも望まない者は、すでにある程度の進歩が実現していると言えます。また、悪い考えが浮かびながらも、それを追い払おうとする者にとっては、進歩は実現しつつあります。

そして、悪い思考を抱き、それに喜びを感じるものにとっては、悪がその完全な形のまま、いまだに存在しているということができます。

一方の者たちにおいては、なされるべきことはすでに行われていますが、もう一方の者たちにおいてまだこれから始めなければなりません。正義である神は、人間の思考や行動に対する責任を問う時、こうしたすべての段階的な変化を考慮するのです。
      
 
   真なる清さ。洗っていない手
八、その頃、ファリサイ人たちと律法学者たちが、エルサレムからイエスの許に来て言った、「なぜあなたの使徒たちは昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」。

 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために神の戒めを破っているのですか。神は『父母を敬いなさい』また、『父母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言われています。しかし、あなたたちはこう言います。

『父または母に向かって、あなたたちに差し上げるべきものは、神への供え物にします、と言えば、父または母を敬わなくてもよい』。こうして、あなたたちは自分たちの言い伝えによって、神の言葉を無にしています。

偽善者たちよ、イザヤはあなたたちのことをうまく預言したものです。『この民は私を口先で敬うが、その心は私から遠く離れています。人間の戒めを教えながら私を無駄に崇めています』」。
℘160     
 それからイエスは群集を呼び寄せて言われた。「このことを聞き、よく理解してください。人間を汚すものは口から入るものではありません。人間の口からでるものが人を汚すのです」

 すると使徒たちがイエスに近づいて言った、「いま言われたことをファリサイ人たちが聞いて、つまずいたことをご存知ですか」。イエスは答えて言われた、「天の父が植えられなかった木はすべて引き抜かれます。盲人を案内する盲人はそのままにしておきなさい。盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちてしまうでしょう」(マタイ 第十五章 1-14)

 しかし、口からでるものは心の中より出ており、それが人間を不純にするのです。悪い考え、すなわち、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、冒涜、悪口は心の中から出ているのです。これらのことが人間を不純にするのです。手を洗わないで食事をしたからと言ってその者が不純になるわけではありません。(マタイ 第十五章 18-20)


九、イエスが話をされていた時、あるファリサイ人が食事に招待した。イエスはその家に行き、食卓につかれた。ファリサイ人も家に入ると、イエスを見て不審に思った、「イエスは食事をする前になぜ手を洗わなかったのだろうか」。

するとイエスは言われた、「あなたたちファリサイ人たちは、杯や皿の外側をきれいにすることには大変気を遣います。しかし、あなたたちの心の内側は強欲と悪意に満ち溢れています。あなたたちは愚かな者たちです。外側を造った神は内側も造られたのではありませんか」。(ルカ 第十一章 37-40)


十、ユダヤ人たちにとって、人間の定めた規則を実践し、その規則を厳重に守ることが重要であったため、彼らは神の本当の戒めを破ったのです。単純な物体は形が崩れると消滅してしまいます。

道徳的に改善するよりも表面的に行動する方がより簡単であるように、心を清めるよりも手を洗う方が易しいのです。人間は人間の決めた規則を、何をどうするべきか教えられた通りに実践すれば、それ以上神に求められることはなく、神との約束を果たしていると自分で錯覚してしまうのです。

それを指して預言者は言いました。「この民が人間の戒めを教えながら、口先で私を崇めても無駄です」。
℘161          
 キリストの道徳的教義の中にも、同じことを確かめることができます。しかし、それは置き去りにされ、その結果、多くのキリスト教徒が、昔のユダヤ人たちのように、神の救いは道徳的な実践よりも外見的な実践によって保証されると思っているのです。

こうした神の法に人間が付け加えたことに対して、「天の父が植えられなかった木はすべて引き抜かれます」とイエスは言ったのです。

 宗教の目的は人間を神のもとへ導くことです。それは、人は完成しなければ神のもとへ届くことはできないからです。一方、人間を善に向かって向上させない宗教は、どんな宗教であれ、その目的を果たすことが出来ないことになります。人間が悪を働く為の拠り所とするものは、偽りか、あるいはその根本から歪んでいることになります。

外見上の行いが信念よりも先行してしまっている宗教がそれにあたります。外見的な偶像を信じても、それが殺人、姦淫、強奪、中傷、隣人に対して損害を与えることなどの妨げとならないのであればその効力は皆無です。そのような宗教は迷信、偽善者、狂信者を生み、善なる人を生みません。

 見かけだけが清いだけでは足りません。なによりも心の清さを持たなければならないのです。
            
      
 恥。もしあなたの手が恥の原因となっているのであれば、切り落としてしまいなさい
十一、もし誰かが、私を信じるこの小さい者を恥じるのであれば、ロバがまわしている臼を一つ首にかけられて、海の底深く沈められる方が、その者にとって益となります。恥じることばかりの世の中は不幸です。なぜなら、恥じるべきことは行われなければならないからです。

しかし、恥ずべき行動をとってしまう者たちのかわいそうなことよ。この小さい者たちの誰をも見くびることが無いように充分に気をつけなさい。誠に言います。彼らの天使たちは天にいる私の父と、いつも顔を向い合せているのです。
℘162         
もしあなたの片手か片足が恥の原因となっているのであれば、それを切り落として、あなたから遠く離れたところへ投げ捨ててしまいなさい。あなたたちにとって、片手あるいは片足だけで生きる方が、両手両足を持ちながら永遠の炎の中に投げ込まれるよりもいいのです。

そしてもし、あなたの片方の目が恥の原因となっているのであれば、その目をえぐり取ってあなたから遠く離れたところへ投げ捨てなさい。あなたたちにとって片方の目だけで生きる方が、両眼が揃ったままで地獄の火に投げ入れられるよりも良いのです。(マタイ 第十八章 6-10 第五章 29,30)

℘162
十二、一般的な意味において、恥とはある表面的な方法で道徳や品行に反するすべての行動を指します。

恥とはその行動そのものの中にではなく、その行動がもたらす反響の中にあるのです。恥と言う言葉はいつも、多くの非難を浴びるものであるという意味を含んでいます。多くの人は恥をかくことから免れたことに満足します。

なぜなら恥をかくことによって自尊心は傷つき、その者に対する人からの敬意が低下してしまうからです。もし、自分の恥が見逃されたならば、それだけで良心は落ち着くのです。イエスの言葉によれば、こうした人たちは「外見的には真っ白だが中身は腐敗に満ちた墓、外側は綺麗だが内側は汚れた壷」なのです。

 福音の中で数多く用いられている恥という言葉の意義はより広く、したがって、場合によってはその意味が理解しがたいことがあります。他人の良心を咎めるものという意味として、悪癖や不完全性がもたらすすべてのことを指し、反響の有無を問わず、ある個人から個人への悪い作用を意味します。恥とはこの場合、悪徳のもたらす結果のことなのです。


十三、この世では「恥じるべきことは行われなければならない」とイエスは言いました。なぜなら、地上の人間は不完全であり、悪い木が悪い実を結ぶように、悪を働く傾向にあるからです。したがって、このイエスの言葉から、悪とは人間の不完全性の結果であり、人間にとって行わなければならないものではないということを理解しなければなりません。


十四、「恥じるべきことは行われなければならない」。なぜなら人間は、地上で自分の罪を償おうとする中で、自分自身の悪癖に接し、その悪癖の第一の犠牲者となることによって、自らに罰を与え、その悪さを理解するようになるからです。

悪の中で苦しむことに疲れた時、善の中にその薬を求めることになるのです。こうした悪癖に対する反応は、ある者には罰となり、ある者には試練となります。この様にして、神は悪の中から善を浮かび上がらせ、人間に自らの悪や値打ちの無いことをも利用させるのです。


十五、そうであるならば、悪は必要であり、永久に続くのだということができるかもしれません。なぜなら、もし悪が消滅してしまったら、神は罪ある者たちを罰する強力な手段を奪われてしまい、よって、人間が向上することは無意味なのだと言われるかもしれません。しかし、その時、すでに罪ある者がいなくなっていたとしたら、罰することさえも必要なくなるのです。

仮に、人類がみな、善なる人間に変わったとしてみましょう。皆が善人なのですから、誰も隣人に悪を働こうとはせず、みなが幸せになることができます。悪の追放されたより進歩した世界とはそのような状態なのです。

そして、地球もさらに十分に進歩すればそのようになるのです。しかし、幾つかの世界が前へ進んでいく間、一方ではより原始的な霊によって他の世界が形成されていきます。

そして、そうした世界は、幸せになった世界から拒絶され、悪に固まった反抗的な不完全な霊たちを追放する世界、または、不完全な霊たちが報いを受けるための世界となるのです。


十六、「しかし恥ずべき行動をとってしまう者たちの可哀想なことよ」とはつまり、いつまでたっても悪であり続け、その悪い本能を利用されて無意識のうちに神の正義の道具となったとしても、そのことによって悪が軽く見られることは無く、彼らは罰せられなければならないのだということです。

たとえば、ある恩知らずな息子は、その子を育てなければならない父親にとっては罰、あるいは試練です。なぜなら、その父親は多分、過去において彼の父親を苦しませた悪い息子であったからで、だから報復の罰を与えられているのです。

しかし、その息子は許される訳ではなく、彼の順番が来た時には、自分自身の息子によって、あるいは別の方法によって罰せられなければなりません。


十七、「もし、あなたの手が恥の原因となっているのであれば、切り落としてしまいなさい」。この激しい表現を文字通り理解してしまっては馬鹿げており、これは、自分のうちにある恥の原因、つまり悪を破壊してしまうことが必要なのだということを意味しているのです。

あなたの心から、全ての不純な気持ちや悪癖の源を根絶することです。さらには、人間にとって手を切り落とす方が、その手が悪い行動のための道具として使われるより、そして盲目である方が、ある物を見た時に悪い考えを与える目を持つことよりも、ましなのだということを意味しています。

イエスは、その言葉の持つ深い例えの意味を理解する者に対しては、何もばかげたことなど言っていません。しかし多くの事柄は、スピリティズムが与えてくれる鍵なしには理解することができないのです。





 霊たちからの指導
 
  子供たちを私のもとへ来させなさい
十八、キリストは、「子どもたちを私のもとへ来させなさい」と言いました。簡単でありながら深い意味を持つこの言葉は、単に子供たちへ向けられた呼びかけなのではなく、希望のない不幸が支配する、より劣った世界にいる魂たちへ向けられた呼びかけなのです。

イエスは人類のうちの弱者、奴隷、悪徳な者たちのように、知性的に幼少なものを自分のもとへ呼んだのです。物質的な制約を受け、本能のくびきにつながれ、まだ、自分の中や周りに働く理性と意志の秩序を守ることが出来ない肉体的に幼少な者たちには、イエスは何も教えることはできませんでした。

 イエスは、愛嬌のある姿によって、母親である女性すべての心を征服してしまうよちよち歩きの子どもが、母親を信頼し母親の方へ向かっていくように、人類に、イエスのことを信じて寄ってきてほしかったのです。そのような魂たちはイエスの優しく神秘的な権威に従うことが出来たのです。

イエスは暗闇を照らすたいまつであり、人々の目を覚ます夜明けの光であったのです。彼はスピリティズムの開始者であり、その周りには子供たちではなく、やる気を持った大人たちが集まるのです。雄々しい行動は始まりました。もはや本能的に信じたり、機械的に従うのではないのです。人類は、普遍性を示す英知の法に則ることが必要なのです。

 愛する者たちよ、説明されることによって偽りが真実となる時はすでに到来したのです。あなたたちにイエスのたとえ話の本当の意味とその教え、過去のものと現在のものとの間に存在する強い相互関係を示しましょう。私は真実を伝えます。

霊たちの出現は地平線を広げ、それは人類へ送られた使者として、山頂の太陽のように輝くのです。(伝道者ヨハネ パリ、1863年)


十九、子供たちを私のもとへ来させてください。私のもとには弱い者を強くする母乳があります。いたわりと慰めを必要としている臆病で弱い者をみな、私のもとへ来させてください。無知な者を、光を与えるために私のもとへ来させてください。

不幸な者たち、苦悩する者たちの群れ、苦しむ者をみな、私のもとへ来させてください。
人生の悪を和らげる偉大なる薬を私が教えてあげましょう。そして、あなたたちの傷を治す秘密を明らかにしましょう。

あらゆる心の病を治し傷口をきれいにする、それほど多くの美徳を持ったその崇高なる香油とは、なんなのでしょうか。それは愛であり、慈善であるのです。
℘166             
あなたがこれらの神聖なる火を手にしているのであれば、何を恐れる必要があるのでしょうか。生きている間、絶え間なく、次のように言いましょう。

「父よ、私の意志ではなく、あなたの意志の通りに行われますように。あなたを喜ばすことであるならば、痛みと苦しみによって私をお試しください。そのことが祝福されますように。それが私のためになるのであれば、私の上にかざされたあなたの手は、振り下ろされるのだということを私は知っています。

主よ、あなたを喜ばすことであるならば、弱い者に慈悲を与え、その者の心に健全な喜びをお与えください。それにより、更に祝福されますように。しかし、神の愛が魂の中に眠ってしまわないようにしてください。感謝の気持ちの証として、その愛が絶え間なく魂をあなたの足元まで引き上げてくれますように。

 あなたに愛があるなら、地上に望まれる全てのものを有していることになります。あなたを憎み、迫害するためにあなたを取り囲む者たちの悪意や、どんな事件さえも奪い去ることが出来ない、貴重な真珠を手にしていることになるのです。

 あなたに愛があるならば、あなたの宝を蝕まれることの無い場所にしまえることになり、あなたの魂からはあなたの魂を不純にするあらゆるものを消すことができるようになるのです。愛があれば日々、物質の重みは軽減していくのを感じ、それは空を舞う鳥たちが地上のことを忘れてしまったように、そのまま天に昇っていき、やがてあなたの魂は主の胸元で生命力に満たされ、陶酔することになるでしょう。(ある守護霊 ボルドー、1861年)


  目が閉じている者は幸いです
二十、良き友よ、なぜ私を呼んだのですか。ここにいるかわいそうな苦しむ者の上に手をかざし、病を治すためですか。ああ、善き神よ、何と言う苦しみでしょう。彼女は視力を失い、暗闇に包まれてしまいした。可哀想な子よ、祈り、待つのです。

私はよき神の意志なしに、奇跡を起こすことはできません。私が行うことが可能であった、あなたたちの知っているすべての治療は、私たちみなの父である神によるものです。
℘167            
あなたたちが苦しむ時には、いつも目を天に向け、心の底からこう言いなさい。「父よ、私の病を治してください。しかし、私の魂の病が、肉体の病よりも先に治されるようにしてください。必要であるならば、私の肉体が罰せられ、それによって私の病んだ魂が、創造されたときと同じように純白になってあなたのもとへ引き上げられますように」。

良き友よ、善なる神は何時も聞いてくださり、この祈りの後、力と勇気があなたたちに与えられ、また恐る恐る願った治療も、あなたたちの献身への代償として与えられるかもしれません。

 しかし何よりも、今ここに学ぶことを目的とした集会に参加して、視力を奪われた者は、幸いにも報いの機会が与えられたと考えるべきなのだと私は申し上げます。目が邪魔になっているのであれば、目をえぐり取ってしまいなさい、それがあなたの堕落の原因になっているのであれば、火の中に投じた方が良い、とキリストが言ったのを思いだしてください。

ああ、地上に生きる者のうちで、いつか暗闇の中で、光を見てしまったことを苦しむ者がどれだけいるでしょうか。おお、そうです、報いとして、目を罰せられた者は何と幸いなことでしょうか。

もうその目は恥や堕落の原因となることは無く、その者は完全に魂の世界に生きることができ、視力の良い者よりも良く見ることができるのです。私がこうしたかわいそうな苦しむ者の瞼を開き、再び光のもとへ戻すことを神が許されるときには、この様に申し上げます。

「愛しき魂よ、なぜ思慮と愛に生きる霊としてのすべての喜びを知ろうとしないのですか。それを知ることが出来れば、盲目のあなたを暗闇に包む、不純で、重たい像を見ようと頼んだりはしないでしょう」。

 おお、神と共に生きようとする盲目の者は幸いです。ここにいるあなたたちよりも、彼は幸せを感じ、それに触れることが出来るのです。魂に会い、地上での運命を定められた者たちには見ることができない霊の世界へ、共に飛び立っていくことが出来るのです。

開かれた目は何時も魂を堕落させる原因となります。閉じられた目は、反対に、いつも魂を神のもとへ引き上げることができます。
℘168        
親愛なる友よ、私を信じてください。盲目は、ほとんどいつも心の真なる光をもたらしてくれます。一方で視力はほとんどいつも、魂を死に追いやる恐ろしい使いなのです。

 今度は、かわいそうな、苦しむあなたのために言葉を送ります。勇気を持って待つのです。「娘よ、あなたの目は開かれるのです」と、もし私が言えば、あなたはどんなに喜ぶことでしょう。しかしその喜びがあなたの大きな損失となるということを誰が知っているでしょうか。

幸福を作りながら、苦しみと言うものを認めた、善なる神を信じてください。あなたのためになることはすべて致します。しかし、あなた自身も祈らなければいけません。そして、何よりも私が来て申し上げることすべてについて考えてみて下さい。

 ここを去る前に、ここにいるあなたたちすべてに、私からの祝福がもたらされますように。(聖ウ“ィアンネー パリ、1863年)



<備考>ある苦しみが現世の行いの結果でないのであれば、その原因は前世に求めなければなりません。運命のいたずらと私たちが呼ぶものは、神の正義の行いに過ぎないのです。神は仲裁的な罰は与えません。なぜなら、過ちと罰との間には、必ず相互関係が存在しなければならないからです。

神がその善意によって、私たちの過去の行いをベールで覆い隠したとしても、次のような言葉によって私たちの道を指してくれるのです。

「剣によって人を殺したものは、剣によって殺される」。この言葉は、「私たちはつねに犯した過ちと同じ方法によって罰せられるのだ」と、解釈することができます。ですから、もし、誰かが視力を失うことによって苦しんでいるならば、その者にとって視力は堕落の原因であったからなのです。

他人の視力を失ったことが原因であったのかもしれません。重すぎる仕事を強制したことで誰かを失明させたのかもしれません。あるいは、他人を悪く扱ったり、注意不足によって失明させたのかもしれません。だから今、報復の罰に苦しんでいるのです。

盲目な者自身が、自分を省みた時、この報いを選んだのかもしれません。その時その者は、「もし、あなたの目が恥の原因であるならば、えぐり取ってしまいなさい」というイエスの言葉を自分自身に当てはめていることになるのです。
(この通信はある盲目の人のために呼び起こされたアルスの司祭聖ウ“ィアンネーの霊Curê d',Arsによって伝えられた)
   

シルバーバーチの霊訓(七)

More Wisdom of Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell



三章 戦地でも愛読された霊訓

 ハンネン・スワッハー・ホームサークルにとっての最大の危機は第二次世界大戦の勃発だった。波長の乱れによって霊的回線が混乱し、時には切れてしまったりして、その補修工事をしながらどうにか切り抜けたが、霊団の中には 「もう無理です。当分中止しましょう」 と進言する者もいたらしい。

が、シルバーバーチは地上人類もかつてない危機にひんしている、今こそ自分たちの存在価値があるとの主張を貫き通し、週一回の交霊会を止めなかった。

 そのシルバーバーチの期待どおり、霊言集は遠い戦地へも届き、傷心と孤独の中の軍人に生きる希望と自信を与えた。陸軍、海軍、空軍はもとより、商船隊の乗組員、本国の民間軍属、防空対策員、家庭にあって子供を守る母親、負傷した人たち、そして病気の人々と、ありとあらゆる階層の人がシルバーバーチの霊訓によって慰めを得ていた。その大戦もそろそろ終局へと向かいつつあったころ、シルバーバーチはこう述べた。


 「今はまさに地上のあらゆる思想・制度がるつぼの中へ放り込まれ、改革を余儀なくさせられている重大な時期です。古い制度が消滅し、昨日の権威への敬意を失った男女が、果たして明日は何をもたらしてくれるであろうかと期待しております。

 無数の平凡な男女が、かつてない苦しみの中でかつてない勇気を出すことによって、そこに人間の到達しうる限りの高所と、理想に燃えたときの人間の忍耐力の可能性を示しました。

 しかし同時にこの時期は、短かったとはいえ人間の残忍性の奥をのぞかせた時期でもありました。つまり人間の到達しうる限りの気高さと醜さの極限を見せてきました。言いかえれば人間の霊性の素晴らしさを見せると同時に、堕落した時の極悪非道ぶりも見せつけたのです。

 しかし、いずれも同じく人間のしたことです。霊と肉の両極から成り立っている存在だからです。そのどちらがより強く人間を操るかによって生じる差にすぎません。霊の道を選ぶか、それとも肉の道を選ぶかの差です。私たち霊界の者にはもはや肉体はありません。ですから、民族、国家の別、肌の色、教義、階級の違いの観点から物事を処理することはしません。

 人間がとかくこだわる境界線とか制限区域といった観念にはとらわれません。全人類を神性という共通の要素をもった霊的存在としてみます。一人一人が全体にとって無くてはならぬ存在なのです。

 肉体が死ぬと人間は霊界の存在となり、地上的束縛のすべて───それまで自分の本来の姿を見る目を曇らせてきたもの、無意味な残酷さへ追い立ててきた狭量さ、長い間地上のガンとなってきたケチくさい不寛容精神と利己主義のすべてをかなぐり棄てます。

 大切なのは、あなた方はもともと霊的存在であり、果たすべき霊的宿命を持ってこの地上にあるという認識です。ですから、これからの新しい時代は霊的真理を土台として築かなければなりません。証拠を持って立証されたという意味において真理といえるものを土台としなければなりません。

(その霊的真理から生まれる)寛容精神と善意と愛と奉仕精神と協調心を持って臨めば、地上に恒久的平和と調和のとれた世界を招来することが出来るでしょう。

古い概念にとらわれ、憎み合い、国家間の不和、民族と肌の色と階級の違いにこだわり続けているかぎり、地上に戦争のタネは尽きないことになります。戦争は、とどのつまりは、憎悪と利己心と物質的な私利私欲から生れるものだからです。

 かつて崇高な精神の持ち主たちを暴虐と暗黒の地上の浄化へと駆り立てたのと同じ精神が、この度の大戦が終結したあとに訪れる世界においても人々を鼓舞しなければいけません。それ以外に地上再生の道はありません。私たちの世界には、かつて地上において自由解放の理念のために、いわゆる〝一死奉公〟の精神に殉じた人々が数えきれないほどいます。

その人たちを二度と裏切ることがあってはなりません。かつての暗黒時代に見事に開花した理想主義の理念を忘れてはなりません。すべてが荒涼として絶望的に見えた時代になお息づいていた僚友精神を忘れてはなりません。

 人類はイザとなれば至善至高のものを出すだけの力を具えているのです。奉仕活動への呼びかけ、すべての者にとって地上をより良く、より公平に、より豊かにしようとする願望に対して応える資質を、人間は立派に具えているのです。ところが残念ながら、いつの時代にも、飽くなき欲望に駆られる人間、自分の利益しか考えない人間、人類全体の福祉、人の理想、人類の全てに宿る神からの霊的遺産に対してまるで無頓着な人種がいるものです。

そうした種類の人間に対して皆さんは敢然と立ち向かわなくてはいけません。これは終りなき闘いです。貪欲と利己主義への闘いです。人類を本来の歩むべき道から堕落させ、折角の遺産を詐取しようとする連中です。

 私たちの説く真理はもとより愛する者を失った悲しみの人々に慰めをもたらしてあげることも大切な目的ですが、開発可能な人間の霊的資質の奥を披露し、虐げられた人々や生活に困窮している人たちの救済に身を捧げようとする者、地上の豊かな恵みをすべての人に平等に行きわたらすための活動に奉仕する人たちに、よろこびと勇気とを与えてあげることも目的としております。

 そうした使命を持つ私たちに、この戦時下にあって愛慕の念を失うことなく協力し続けて下さった皆さんを私は心から誇りに思っております。あなた方の協力なくしては推進できなかった困難な仕事でしたが、あなた方は、私にそれをお受けする資格があるとの自信が持てない程の忠誠心を持って、私への協力を惜しみませんでした。

 いついかなる時も、皆さんは私がきっと成就して見せますと約束した使命の継続を可能にしてくださいました。そのことに私は心から感謝しております。なぜなら、それが不安を抱えながら生きている人々に確信を与え、霊的知識の聖域へと導き、その聖域において生気を取り戻したその人たちが私たちに代わって霊的知識の普及に邁進してくれることになったからです。

 しかし、これまで成就してきたことは、これから成就していくべきものに較べれば、物の数ではありません。数えきれないほどの人々があなた方のなさっていることに、一抹の恐れを抱きつつも期待の眼差しを向け、苦悶の中にあって自分たちに幾らかでも慰めを与えてくれるだろうか、絶望の中にある自分たちに一かけらでも希望の光を与えてくれるだろうか、混沌としているこの時代に少しでも平穏をもたらしてくれるだろうかと思っております。

 そこに私達の耕す土地があります。そこに、何時かはきっと花を咲かせてくれる知識の種子を蒔いてあげたいのです。

 われわれは見せかけは独立した存在ですが、霊的には一大統一体を構成する部分的存在です。そうして、どこにいても、まわりには物的束縛から解放された先輩霊の一大軍勢が待機し、地上へ働きかけるための手段(受容性に富む人間)を求めて常時見張りを続けており、過去の過ちを繰り返さぬために、

そして平凡な日常生活から人間が叡知を学び地上生活が実のあるものになってくれるように霊的知識を少しでも多く授けたいと願っている、そうした事実を認識して、これからの仕事に臨もうではありませんか。われわれは愛と叡知によって導かれ、知識とインスピレーションによって支えられている、偉大にして遠大な目的のための道具であることを片時も忘れぬようにいたしましょう。

 願わくは託された使命に恥じないだけの仕事に励むことが出来ますように」

 同じ趣旨のことを別の交霊会で次のように訴えている。

 「私たちの仕事はこちら側とそちら側の双方に存在する〝無明〟という名のベール、人間精神が暗黒であるがゆえに生み出される愚かさと無知と迷信のベールを取り除くことです。

 あなた方は今まさに、その無知を助長し真理の普及を妨げ啓発と改善に抵抗してきた勢力の崩壊と解体を目の当たりにしておられます。そうした勢力はけっきょく私たちに霊的生活への備えが何もできていない人間的難破貨物、人生への海をいずこともなく漂う漂流物というツケを回してくれました。そうした人生の落伍者を啓発し、地上で犯した悪行のすべての償いをさせるための努力がえんえんと続けられねばならないのです。

 とは言っても、私たちは別に難解な真理を説いているのではありません。いたって単純なことばかりなのです。いたって分かり易い、筋の通ったことばかりであり、それがなぜこうまで誤解を受けなければならないのか、なぜこうまで反撃されねばならないのか、なぜこうまで敵意を向けられねばならないのか、ただただあきれ返るばかりなのです。

 もしも私たちのもたらすメッセージが人類に永遠の地獄行きを宣告し、いったん神に見放されたら二度と救われるチャンスはないと説き、神とは人間を憎しみをもって罰し、責め立て、ムチ打つことまでする恐ろしい魔神であると述べているのであれば、こうした敵対行為も容易に理解できましょう。

しかし私たちのメッセージは愛と奉仕のメッセージなのです。生命は永遠にして無限であり、死は存在しないこと、人間の一人一人が宇宙の創造という大目的の一翼を担う存在であると説いているのです。

人間は物的身体ではなく永遠なる霊的存在であり、年令とともに衰えることなく、内部の神性が開発されるに連れてますます光輝を増していく存在であると説いているのです。

 また私たちは老化も病気も霊の成長を妨げることはないこと、死によって物的身体がもたらしていた一切の痛みと苦労と障害から解放されると申し上げております。

死は決して愛する者との間を永遠に引き裂くものでないこと、いつかは必ず再会の時が訪れること、それも、どこやら遠い遠いところにある摑みどころのない空想的な境涯においてではなく、物的世界に閉じ込められている人間が理解しうるいかなる生活よりも遥かに実感のある実在の世界において叶えられると申し上げているのです。

 善はみずから報酬をもたらし、罪と悪はみずから罰と断罪を受けると私は説くのです。向上するのも堕落するのも本人の行為一つに掛かっているのです。人生のあらゆる側面を神の摂理が支配しており、それをごまかすことも、それから逃れることも出来ません。誰にも出来ません。

たとえ豪華な法衣をまとっていても、あるいは高貴な〝上級聖職階〟を授かっていても、神とあなたとの間の仲介役の出来る人は一人もいないのです。

あなたに存在を与え、全生命を創造された大霊の力から片時も離れることは無いのです。苦しみを味わった者にはそれ相当の償いがあり、しくじった者には何度でも更生のチャンスが与えられるのです。神から授かった才能が永遠に使用されることなく放置されることはありません。何時かはそれを存分に発揮できる環境が与えられます。

 以上、私たちが宣言する良い知らせの幾つかを述べてみました。真面目な男女の心にきっと喜びをもたらす事柄ばかりであるはずです。なのに私達は宗教界のリーダーを持って任じる者達からの反抗に遭っております。

地上世界を暗黒の奈落へと突き落とした張本人たち、復讐心に燃える神、残忍にして嫉妬深く、専横で独裁的で執念深い存在の物語をあふれさせた宗教家たち、教義の方が行為に優先するなどと説き、神の裁きも信仰の告白によってお目こぼしがあるかのように説く者たち、こうした者たちが私たちに反抗し、私たちの説く霊的真理は悪の親玉、暗黒の魔王が仕かけているワナであると宣伝する仕末です。

 しかし時すでに遅しです。彼らにはもはや人類の宿命をねじ曲げる力はありません。人間の一人一人に宿る霊性の発露を妨げることはできません。それが神の摂理なのです。いま私は彼らに対して酷しい言葉を用いましたが、私の心の奥では彼らに対する大いなる憐みの情を抱いております。

なぜなら私の目的は彼らを非難することではなく、真理と知識と叡知を普及することにあるからです。

 知識こそすべての者が所有すべき宝です。無知は未知なるものへの恐怖心を生みます。この恐怖心こそ人間の最大の敵なのです。判断力を曇らせ、理性を奪い、いい加減な出来心で行動する人間にしてしまいます。これでは人生から喜びと美しさと豊かさを見出すことはできません」

Friday, May 22, 2026

シルバーバーチの霊訓(七)

More Wisdom of Silver Birch
Edited by Sylvia Barbanell




巻頭言
 
 頑固(かたくな)な心、石ころのような精神では真理の種子(たね)は芽を出しません。受容性に富む魂───率直に受け入れ、それが導くところならどこへでも付いて行ける魂においてのみ花開くものです。

 あなたがそのような気持ちになるまでには、つまり真理を魂の中核として受け入れる備えができるまでには、あなたはそのために用意される数々の人生体験を耐え忍ばなくてはなりません。

 もしもあなたがすでにその試練を経ておられるならば、その時点においては辛く苦しく無情に思え、自分一人この世から忘れ去られ、無視され、一人ぼっちにされた侘しさを味わい、運命の過酷さに打ちひしがれる思いをされたことでしょう。しかし魂は逆境の中にあってこそ成長するものです。黄金は破砕と精錬を経て初めてその純金の姿を見せるのです。

 あなたがもしもそうした体験をすでに積まれた方ならば、今手にされている本書の中で私が語り明かす真理に耳を傾ける資格があることを、堂々と宣言なさることができます。しかしそのことは私が語ることのすべてを受け入れることを要求するものではありません。あなたの理性が反撥することは遠慮なく拒絶なさってください。あなたの常識的感覚にそぐわないものはどうぞお捨てになってください。

 私もあなた方と少しも変わるところのない一個の人間的存在です。ただ私は、死後もなお続く人生の道を少し先まで歩んできました。今その道を逆戻りしてきて、あなたが死の敷居をまたいだのちに絶対的宿命として直面することになっている新しい、そしてより広大な人生がどのようなものであるかを語ってあげております。

 どうか謙虚に、そして畏敬の念をもって真理を迎えてやってください。謙虚さと畏敬の念のあるところには真理は喜んで訪れるでしょう。そして、せっかく訪れてくれた真理が少しでも長居をしてくれるよう、手厚くもてなしをあげてください。

真理こそがあなたに自信と確信と理解力と、そして何にもまして、永遠に失われることのない、掛けがえのない霊的叡智をもたらしてくれることでしょう。
                               シルバーバーチ
                                         

 編者まえがき    

 私はこれまでシルバーバーチの交霊会に何百回も出席しているが、その霊言を聞き飽きたという感じを抱いたことは一度もない。 

 三千年前に地上で北米インディアンとしての生涯を送ったというシルバーバーチは、現在では大へんな高級霊であるらしいことは容易に察しが付くが、その本来の霊的位階をけっして明かそうとしない。そのわけは、こうして霊界から戻ってくるのは地上人類のための使命を遂行するためであって、自分を崇めてもらうためではないからだという。

 その使命とは、聞く耳を持つ者に永遠不変の霊的真理を説くこと、これに尽きる。その説くところは常に単純・素朴であり、そして単刀直入的である。宗派や信条やドグマにはいっさい囚れない。

その主張するところはきわめて単純・明快である。すなわち、われわれの一人一人に神の火花───完全なる摂理として顕現している宇宙の大霊の一部が宿っているのであるから、お互いがお互いのために尽くし合うのが神に尽くすゆえんとなるというのである。

 そうした内容もさることながら、シルバーバーチが語るときのその用語の巧みさ、美しさ、流暢さは、初めて出席した者が等しく感動させられるところである。美辞麗句を並べるというのではない。用語はきわめて素朴である。それがいかなる質問に対しても間髪を入れずに流れ出てくる。

それを耳にしていて私は時おり、シルバーバーチが初めて霊媒(編者の主人モーリス・バーバネル)の口を使って語り始めた時のことを思い出すことがある。

 もう二十年以上も前のことになるが、私たち夫婦は、あるスピリチュアリストの招きで、ロンドンでも貧民層が集まっている地域のある家で開かれている交霊会に出席した。第一回目の時は女性霊媒を通じていろんな国籍の霊がしゃべるのを聞いて主人はあほらしいといった気持ちしか抱かなかったが、第二回目の時にいきなり入神させられ、何やらわけのわからないことを喋った。

その時はシルバーバーチとは名のらなかったが、今のシルバーバーチと同じ霊である。そのころはぎこちない英語、どうにか簡単な単語をつなぐことしか出来なかったころのことを思うと、今は何という違いであろう。が、ここまでに至るのには大変な時間と経験を要したのである。

 そのシルバーバーチの道具として選ばれた十八歳の青年霊媒は、その後の用意されている仕事の遂行に備えて、さまざまな試練と訓練を耐え忍ばねばならなかった。その目指す目標はただ一つ───シルバーバーチの語る教説を少しでも遠く広く地上に行きわたらせるための機会をもつことにあった。

 良く知る者から見ればシルバーバーチは良き助言者、よき指導者であると同時に、よき友人でもある。決して人類から超然とした態度を取らず、世俗的な問題や人間的煩悩に対しても深い同情心を見せてくれる。

 当初にくらべてシルバーバーチも性格が発達し深みを増した───というよりは、本来の霊的個性がより多く霊媒を通じて発揮できるようになったといった方が適切であろう。最初のころはふざけっぽく、時には乱暴なところさえ見せながらも、つねに愛すべき支配霊という感じだった。

それが次第に今日の如き叡智に長けた、円熟した指導者へと徐々に〝進化〟してきた。声の質も変化して、今では霊媒の声とはまったく異質のものとなった。

 今でも、続けて出席していないと同一霊であるかどうかを疑うかも知れないほどの異質の側面を見せることがある。が、いつも変わらぬ側面がある。特にユーモアのセンスと当意即妙の応答の才能は少しも変わらない。

 シルバーバーチの霊言はサイキック・ニューズ紙にずっと連載されてきており、書物にもなっている。その間には第二次世界大戦が勃発したこともあって各地の戦地においても読まれている。そして陸軍・海軍・空軍の兵士から、苦悶と苦難と疑問の中にあってシルバーバーチの言葉から何ものにも変え難い慰めと勇気を得ることが出来たとの喜びの手紙が数多く寄せられた。そのうちの一つを紹介しておこう。これは陸軍の一下司官からの手紙で、こう述べている。

〝私はたった今〟 More Teachings of Silver Birch (邦訳シリーズ第五巻)を読み終えたところです。終わりの部分はオランダを転戦中に読みました。その壮麗な説得力とさまざまな疑問に対する明快そのものの応答は深い感銘を受けました。

 ぜひシルバーバーチ霊に、こうした戦地においても霊言が愛読され掛け替えのない影響を及ぼしていることを知っていただきたいと思って筆をとりました。どうかシルバーバーチの努力が今後とも何らかの形で認識されていくことを心から願っております。シルバーバーチ霊に神の祝福のあらんことを!

 私はこうした霊的真理を折ある毎に僚友に伝え、それがこの戦地においてさまざまな波紋を呼び起こしております。私がスピリチュアリズムに関心を抱いて十五年にもなりますが、その測り知れない深さと高さを私の魂が身に沁みて味わったのは、やっとこの一、二年のことです云々・・・。

 同じくシルバーバーチを知り尊敬してきた者の一人として、このたび新たに本書を編纂することになったのも、私にとっては愛の行為の結実に他ならない。その編纂の作業が終わったのは(第二次大戦の)戦乱が終わって間もなくのことだった。(それから二か月後に日本が降伏して全面的に終結する───訳者)

 願わくは戦乱によって傷ついた暗い西欧世界にようやく訪れた平和がシルバーバーチのいう〝新しい世界〟の夜明けであってくれればと祈らずにはいられない。シルバーバーチが〝必ず来ます〟と述べ、そのためにわれわれに求めてきた視野も常にその方角である。そこにおいて初めて真の同胞精神が招来される。シルバーバーチの霊訓の基盤もまたそこにあるのである。
        一九四五年六月  シルビア・バーバネル


 訳者注───この〝まえがき〟の原文はかなり長文のものであるが、他のまえがき、特に第一巻の〝古代霊シルバーバーチと霊媒モーリス・バーバネル〟と重複する部分と、重複しなくてもあまり重要と思えない部分とがあり、それよりは霊言そのものを少しでも多く載せた方がよいとの私の判断で、それらは省いてある。 



一章 二つの世界が交わる場所    

───ある日の交霊会───

 その日の出席者は六人だった。ロンドンのアパートの一室で小さなテーブルを囲んで座り、全員が両手をそのテーブルの上に軽く置いた。そしてスピリチュアリスト用に作られた、霊力の素晴らしさを讃える讃美歌を歌っているうちにテーブルが動きはじめる。

 そこでシルバーバーチ霊団の各メンバーがかわるがわるそのテーブルを動かすことによって挨拶した。最も、これは誰であるかが明確に分かるのは二人だけで、それ以外は挨拶の仕方にこれといった特徴はないのであるが、霊団を構成しているのが複数の男性のインディアンと英国人、二人のかつての国教会の牧師、著名なジャーナリスト一人、

アラブ人が一人、ドイツ人の化学者が一人、中国人が一人、英国人の女性が二人であることは分かっている。その全員がテーブルによる挨拶を終わるころには、そろそろ霊媒のモーリス・バーバネルの入神(トランス)の用意が整う。

 トランスは段階的に行われる。軽いトランスの段階でシルバーバーチが〝主の祈り〟を述べ、出席者との間で挨拶ていどの会話を交わす。その間によくシルバーバーチは、霊媒をもっと深くトランスさせたいのでもう少し待ってほしい、と述べることがある。

 いよいよ望み通りのトランス状態になるとシルバーバーチはまず祈りの言葉をのべ、それが速記されていく。その日の祈りは次のようなものだった。


 「神よ。私たちは到達しうるかぎりの高く尊く清きものとの調和を求めて祈りを捧げるものです。私たちはあなたの中に完全なる愛と叡知の精髄と、宇宙の全生命活動を支配する永遠不減の大精神の存在を確信いたしております。小さき人間の精神ではあなたのすべてを捉らえることはできませぬ。それゆえに人間が抱くあなたについての概念は、ことごとく真理の全体像のおぼろげな反映にすぎないのでございます。

 しかし同時に私たちは、全宇宙をその愛の中に抱擁し、規律と不変性をもって、過失も欠陥も汚損もなく統括し支配している絶対的摂理の驚異を理解することはできます。

すなわち、あなたはその叡知によって全存在の一つ一つの側面、活動の一つ一つが管理され、すべてが一つのリズムのある、調和のとれた宇宙機構の中で滞ることなく流動しております。その中にあってあなたの子等はそれぞれの定められた位置を有し、全体に対して必須にして不可欠の役割を演じているのでございます。

 その一つ一つの小さな火花があなたの巨大なる炎の存在に貢献いたしております。私どもは各自に潜在する未熟なる霊の萠芽がその始源であるあなたとのつながりに気づき、永遠に切れることのない霊的きずなによって結ばれていることを悟ることによって、その霊性を存分に発揮することになるよう指導いたしております。

 私たちの仕事は、人間が今発揮している資質よりさらに精妙なる霊的資質を発揮することによって、今は手の届かない高所を目指し、待ち受ける霊の宝庫へ一歩でも近づこうとする向上心を鼓舞すべく、力と知識と叡知の源であるあなたの存在を説くことにあります。

 宇宙には、資格ある者なら自由にそして存分にわがものとすることのできる、莫大な霊的宝庫が存在いたします。そして地上よりはるかに広大な生活の場における新たな体験から生み出された叡知によって、地上世界に光明と豊かさをもたらさんとしている進化せる先輩霊もまた無数に存在いたします。

その活動の障害となるのは偏見と歪曲、迷信と無知、そして人間生活の暗黒面に所属するものすべてが蓄積せるものです。

 私たちは地上世界を知識の照明によって満たし、人間がつねに真理によって導かれ、あなたの愛の存在に気づいてくれることを望んでやみませぬ。そうすることがあなたからの豊かな遺産と崇高なる宿命を悟らせ、手にした真理に則った生活を送らせてあげるゆえんとなるからに他なりませぬ。
 ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます」

 少し間を置いてから一同に向かって───

 本日もこうして皆さんとともに一堂に会し、霊の世界からの私の挨拶の言葉と愛をお届けできることをうれしく思います。前回お会いして皆さんの愛の温もりを感じて以来久しぶりですが、またこの部屋を訪れて霊的仕事の回線をつなぎ、地上の人々のためにお役に立つことができることになりました」

 そう述べてから、まず最初に、しばらく病気のために欠席していた女性に向かって、
 「ようこそお出でになりました。あなたのお姿が見えないと、どうも物足りなく思えるのです」と言うと、その女性が、

 「これはまた有難いお言葉をいただいて恐縮です」 と月並みな挨拶をした。するとシルバーバーチが、

 「いえ、事実を申し上げているのです」 と真剣な調子で述べた。 (訳者注───すぐれた指導霊による交霊会ではレギュラーメンバーは何らかの存在価値を持った者が厳選されている。中にはただ出席して椅子に腰かけているだけで好影響を及ぼす人もいる)

 続いてその女性のご主人で、交霊会の速記係をしている人に挨拶をし、それから二言三言出席者と軽いやり取りをしたあと、いよいよ本題へと入っていく。たとえばその日は次のような話をした。

 「ここにおいでの皆さんは人類全体の役に立つ才能、能力をお持ちの方ばかりです。これまで、その能力ゆえに、さらに豊かな才能を持つこちらの世界の者から援助を受けてこられました。

ぜひその能力を実らせて、代わって皆さんが多くの人々によろこびを与え、さらにその人たちが自分にも世の中の役に立つ資質があることに気づいてくれるようになる───こうしてお互いがお互いにのためにという輪がどんどん広がっていきます。

 世間の中傷を気にしてはいけません。反発に動揺してはなりません。嫌悪の態度を見せられても気になさらないことです。あなた方がこの地上に生を受けたそもそもの使命に向かってひたすら努力している限り、そんなものによって困った事態になることはありません。

 地上世界にはまだまだ奉仕の精神が足りません。絶望の淵にあえぐ人が多すぎます。心は傷つき、身体は病に冒され、解決できない問題に苦悶する人が無数にいます。

 そういう人たちを真理の光の届くところまで連れてきてあげれば、悩みへの解答を見出し、乱れた生活を規律あるものにしようとする心が芽生え、すべての人間が平和と調和の中で生きていける環境作りに意欲を燃やすことになりましょう。

 休暇中に私は、長い間住みなれた界層に戻ってまいりました。そこで多くのことを見聞して、それを出来るだけ皆さんにお分けしてあげるべく、こうしてまた帰ってくるのです。

 そのとき私はあなた方のまったくご存知ない霊たち───私が誇りを持って兄弟と呼び姉妹と呼べる進化せる霊たちからの愛と善意をたずさえてまいります。その霊たちも地上の悩める者、苦しむ者、人生に疲れはてた者のために献身している私の仲間であり協力者なのです」


 こう述べてから、一転してシルバーバーチ一流のユーモアを混じえて、

 「ああ、そうそう、うっかり忘れるところでした。あなた方のことをなかなかしっかりした人たちだと感心しておりました」

 「誰がですか」 と一人のメンバーが聞くと
 「ですから、私が話をしてきた上層界の霊たちです」

 「あなたの〝秘密の参謀(ブレーン)〟ですか」 と、別のメンバーが冗談めかして聞いた。

 「いえ、いえ、そんなんじゃありません。〝父の住処〟にいる人たちです」(訳者注───ヨハネ14・2〝わが父の家には多くの住処がある〟からの引用で、これがキリスト教においてどの程度の現実味をもって理解されているか疑問であるが、 『ベールの彼方の生活』 によると、それが地上を最低界とする広大な宇宙を経綸する〝政庁〟とも言うべき実在の世界であることが分かる。

〝秘密のブレーン〟かと聞かれて〝とんでもない〟といった調子で答えているのは、人間からすれば目に見えないから秘密であるかに思えるだけで、シルバーバーチにすればごく当たり前の現実の世界なのである)

  続いて別のメンバーが友人が他界した話を持ち出すと、

 「この会(の霊団)も最初は小さな人数で始めましたが、その後どんどん数が増えて、今では大所帯となってきました。しかし、いくら増えても、これ以上入れられなくなるようなことはありませんから、ご心配なく」とユーモアを交えて述べた。


 交霊会も終わりに近づいて、シルバーバーチは最後に次のようなメッセージを述べた。

 「私はあなた方のすべてに好意を抱き、これからのちも援助の手を引っ込めるようなことは致しません。そして、きっとあなた方も私に対して好意を抱いてくださり、私の意図することに献身して下さるものと信じております。

どうか、どこのどなたであろうと、私に好意をお寄せ下さる方のすべてに私からの愛の気持ちをお伝え頂き、さらに次のメッセージをお届けください。

 私に対して愛念と思念と善意と祝福をお届けくださる大勢の見知らぬ方々に対して、私は喜びと感謝の気持ちをお伝えしたく思います。私は自分がそういう情愛の運び役であることを誇りに思っております。

それは私がその方たちにとって何らかのお役に立っているからこそであると信じるからであり、たとえ私の姿を御覧になることはなくても、私はその方たちのご家庭へお邪魔していることをご承知ください。実際にお伺いしてお会いしているのです。

 私にとっては愛こそが生活であり、人のために自分を役立てることが宗教であるからです。そうした私の考えにご賛同くださり、同じ生活信条を宗(むね)とされる方すべてを心から歓迎するものです」

 そして最後を次の言葉でしめくくった。

 「さて、みなさん、ほんの僅かな時間でもよろしい、時には日常的な意識の流れを止めて、まわりに溢れる霊の力に思いを寄せ、その影響力、そのエネルギー、永遠なる大霊の広大な顕現、その抱擁、その温もり、その保護を意識いたしましょう。

 願わくはその豊かな恵みに応えるべく日常生活を律することが出来ますように。その中で神の永遠なる摂理に適っているとの認識が得られますように。どうか神の道具としての存在価値を存分に発揮し、豊かな祝福をもたらしてくれた真理の光を輝かせて、人々がわれわれの生活をその真理の模範となすことができますように」

 そう言い終わると霊媒がいつものモーリス・バーバネルに戻り、一杯の水を飲み干して、それで会が終わりとなる。以上がある日のホームサークルであり、いつもこれと似たようなことが行われているのである。

シルバーバーチの霊訓(七)

More Wisdom of Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell



二章 今なぜスピリチュアリズムか

 シルバーバーチの交霊会には時おりレギュラーメンバーのほかに新参者が招かれる。その日も一人の招待客が出席していた。その客の質問に対するシルバーバーチの答えは、さながらスピリチュアリズムの要約の観があるので紹介しよう。

 「私たち霊団の仕事の一つは、地上へ霊的真理をもたらすことです。これは大変な使命です。霊界から見る地上は無知の程度がひどすぎます。その無知が生みだす悪弊は見るに耐えかねるものがあります。それが地上の悲劇に反映しておりますが、実はそれがひいては霊界の悲劇にも反映しているのです。

地上の宗教家は、死の関門をくぐった信者は魔法のように突如として言葉では尽くせない程の喜悦に満ちた輝ける存在となって、一切の悩みと心配と不安から解放されるかに説いていますが、それは間違いです。真相とはほど遠い話です。

 死んで霊界へ来た人は───初期の段階においては───地上にいた時と少しも変わりません。肉体を棄てた───ただそれだけのことです。個性は少しも変わりません。性格は全く一緒です。習性も特性も性癖も個性も地上時代そのままです。利己的な人は相変わらず利己的です。

貪欲な人は相変わらず貪欲です。無知な人は相変わらず無知のままです。悩みを抱いていた人は相変わらず悩んでいます。少なくとも霊的覚醒が起きるまではそうです。

 こうしたことが余りに多すぎることから、霊的実在についてある程度の知識を地上に普及させるべしとの決断が下されたのです。そこで私のような者が永年にわたって霊的生命についての真理を説く仕事にたずさわってきたわけです。

霊的というと、これまではどこか神秘的な受けとられ方をされてきましたが、そういう曖昧なものでなしに、実在としての霊の真相を説くということです。そのためには何世紀にもわたって受け継がれてきた誤解、無知、偏見、虚偽、偽瞞、迷信───要するに人類を暗闇の中に閉じ込めてきた勢力のすべてと闘わねばなりませんでした。

 私たちはそうした囚れの状態に置かれ続けている人類に霊的解放をもたらすという目的を持って一大軍団を組織しました。お伝えする真理はいたって単純なものですが、それにはまず証拠になるものをお見せすることから始めなければなりません。

 すなわち偏見を棄てて真摯な目的、真実を知ろうとする欲求を持って臨む者なら誰にでも得心がいくものであることを明らかにしなければなりません。あなた方の愛する人々はそちら側からそのチャンスを与えてくれさえすれば、然るべき通路(霊媒)を用意してくれさえすれば、死後もなお生き続けていることを証明してくれます。

 これは空想の産物ではありません。何千回も何万回も繰り返し証明されてきている事実を有りのままに述べているまでです。もはや議論や論争のワクを超えた問題です。もっとも、見ようとしない盲目者、事実を目の前にしてもなお認めることができなくなってしまった、歪んだ心の持ち主は論外ですが。

 以上が第一の目的です。〝事実ならばその証拠を見せていただこう。われわれはもはや信じるというだけでは済まされなくなっている。あまりに永い間気まぐれな不合理きわまる教義を信じ込まされてきて、われわれは今そうしたものにほとほと愛想をつかしてしまった。

われわれが欲しいのはわれわれ自身で評価し、判断し、測定し、考察し、分析し、調査できるものだ〟───そうおっしゃる物質界からの挑戦にお応えして、霊的事実の証拠を提供するということです。

 それはもう十分に提供されているのです。すでに地上にもたらされております。欲しい人は自分で手にすることができます。それこそが私がこれまであらゆる攻撃を耐え忍び、これからもその砦となってくれる〝確定的事実〟というスピリチュアリズムの基礎なのです。もはや、〝私は信じます。私には信仰というのがあります。

私には希望があります〟といったことでは済まされる問題ではなくなったのです。〝事実なのだからどうしようもありません。立証されたのです〟と断言できる人が数え切れないほどいる時代です。

 人類史上初めて宗教が実証的事実を基礎とすることになりました。神学上のドグマは証明しようのないものであり、当然、議論や論争がありましょう。が、死後の存続という事実はまともな理性を持つ者なら必ず得心するだけの証拠が揃っております。

しかし、証明された時点から本当の仕事がはじまるのです。それでおしまいとなるのではありません。まだその事実を知らない人が無数にいます。その人たちのために証拠を見せてあげなくてはなりません。少なくとも死後にも生命があるという基本的真理は間違いないのだという確証を植え付けてあげる必要があります。

 墓の向こうにも生活があるのです。あなた方が〝死んだ〟と思っている人たちは今もずっと生き続けているのです。しかも、地上へ戻ってくることもできるのです。げんに戻ってきているのです。しかし、それだけで終わってはいけません。

死後にも生活があるということはどういうことを意味するのか。どういう具合に生き続けるのか。その死後の生活は地上生活によってどういう影響を受けるか。二つの世界の間にはいかなる因果関係があるのか。

 死の関門を通過したあと、どういう体験をしているのか。地上時代に口にしたり、行ったり心に思ったりしたことが役に立っているのか、それとも障害となっているのか。こうしたことを知らなくてはいけません。

 また、死後、地上に伝えるべき教訓としていかなることを学んでいるのか。物的所有物のすべてを残していった後に一体何が残っているのか。死後の存続という事実は宗教に、科学に、政治に、経済に、芸術に、国際関係に、はては人種差別問題にいかなる影響を及ぼすのか、といったことも考えなくてはいけません。

そうなのです。そうした分野のすべてに影響を及ぼすことなのです。なぜなら、新しい知識は永い間人類を悩ませてきた古い問題に新たな照明を当ててくれるからです。
 いかがです?大ざっぱに申し上げた以上の私の話がお役にたちましたでしょうか」

 「お話を聞いて、すっきりと理解がいったように思います」

 「もう一つ申し上げたいことがあります。そうした問題と取り組んでいく上において私達は暗黒の勢力と反抗勢力、そして、そうした勢力に加担することで利益を確保している者たちに対して間断なき闘いを続けていかねばなりませんが、同時に、不安、取越苦労といった〝恐怖心〟との闘いも強いられているということです。

 地上の人間と霊界の人間との間にはその関係を容易にする条件と、反対に難しくする条件とがあります。誤解、敵意、無知、こうした障害はお互いの努力によって克服していけるものです。そのために私たちが存分に力を発揮する上で人間側に要求したい心の姿勢というものがあります。あなた方は肉体を携えた霊であり、私たちは肉体のない霊です。そこに共通したものがあります。〝霊〟というつながりです。

 あなたも今この時点において立派に霊的存在なのです。死んでから霊的存在となるのではありません。死んでから霊体をさずかるのではありません。死はただ単に肉体という牢獄から解放するだけです。小鳥が鳥カゴを開けてもらって大空へ飛び立つように、死によってあなた方は自由の身となるのです。

 基本的にはあなた方人間も〝霊〟としてのあらゆる才能、あらゆる属性、あらゆる資質が具わっております。今はそれが未発達の形で潜在しているわけです。もっとも、わずかながらすでに発現しているものもあります。

その未発達のものをこれからいかにして発現していくか、本当のあなたを表現していくにはどうしたらよいか、より大きな自我を悟り、神からの素晴らしい遺産を真に我がものとするにはどうすればよいかを私たちがお教えすることができるのです。

 しかし、いかなる形にせよ、そうした使命を帯びて地上へ戻ってくる霊は、必然的にある種の犠牲を強いられることになります。なぜならば、そのためには波長を地上の低い波長に合わさなければならない───言いかえれば、人間と接触するために霊的な波長を物的な波長へと転換しなければならないからです。

 人類の大半を占める人たちがまだ霊的なものを求める段階まで達していません。言いかえれば、霊的波長を感受する能力を発揮しておりません。ごく少数の人たちを除いて、大部分の人々はそのデリケートな波長、繊細な波長、高感度の波長を感じ取ることが出来ないのです。

 そこで私たちの方から言わば階段を下りなければならないのです。そのためには当然、それまで身につけた霊的なものの多くをしばらくのあいだ置き去りにしなければなりません。

 本当ならば人間側にも階段を上がってもらって、お互いが歩み寄るという形になれば有難いのですが、それはちょっと望めそうにありません。

 しかし、人間が霊的存在であることに変わりはありません。霊的資質を発揮し、霊的な光輝を発揮することが出来れば、不安や疑いの念などはすべて消滅してしまいます。霊は安心立命の境地において本来の力を発揮するものです。

 私たちが闘わねばならない本当の敵は無用の心配です。それが余りに多くの人間の心に巣くっているのです。単なる観念上の産物、本当は実在しない心配ごとで悩んでいる人が多すぎるのです。そこで私は、取越苦労はおやめなさいと、繰り返し申し上げることになるのです。

自分の力で解決できないほどの問題に直面させられることは決してありません。克服できない困難というものは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷物というものは決して与えられません。しかも、あふれんばかりの自信に満ちた雰囲気の中で生きていれば、霊界から援助し、導き、支えてくれるあらゆる力を引き寄せることになるのです。

 このように、霊的な問題は実に広大な範囲にまたがる大きな問題なのです。人生のあらゆる側面にかかわりを持っているのです。ということは、これからという段階にいらっしゃるあなたには、探検旅行にも似た楽しみ、新しい霊的冒険の世界へ踏み込む楽しさがあるということでもあるのです。どうか頑張ってください」


 「死後どのくらいたってから地上へ戻って来るのでしょうか」

 「それは個々の事情によって異なります。こちらへ来て何世紀にもなるのに自分の身の上に何が起きたかが分からずにいる人もいます」

 「自分が死んだことに気づかないのです」 とレギュラーメンバーの一人が口添えをするとシルバーバーチが───

 「一方にはちゃんとした霊的知識を携えた人もいます。そういう人は、適当な霊媒さえ見つかれば、死んですぐにでもメッセージを送ることはできます。そのコツを心得ているのです。このように、この問題は霊的知識があるか否かといった条件によって答えが異なる問題であり、単純にこうですとはお答えできません。

 私たちが手を焼くのは、多くの人が死後について誤った概念を抱いたままこちらへ来ることです。自分の想像していた世界だけが絶対と思い、それ以外ではあり得ないと思い込んでいます。一心にそう思い込んでいますから、それが彼らにとって現実の世界となるのです。私たちの世界は精神と霊の世界であることを忘れないでください。思ったことがそのまま現実となるのです」


 ここでシルバーバーチはレギュラーメンバーの中で心霊治療能力を持っている人にひとこと助言してから、再びその新参者に───

 「この心霊治療というのも私たちの大切な仕事の一つなのです。治療家を通路として霊界の治癒エネルギーが地上の病的身体に注がれるのです。このように私たちの仕事は、いろんな側面、いろんな分野を持った、ひじょうに巾の広い仕事です。初心者の方は面食らうこともあると思いますが、間違い無く真理であり、その真実性を悟られた時にあなたの生活に革命が起こります。

 宗教の世界では〝帰依〟ということを言います。おきまりの宣誓文句を受け入れ、信仰を告白する──それでその宗教へ帰依したことになるというのですが、本当の帰依というのは霊的真理に得心がいって、それがあなたという存在の中にしっくりと納まることをいうのです。

 その時からその人は新しい眼を通して、新しい確信と新しい理解とをもって人生を見つめます。生きる目的が具体的に分かるようになります。神が全存在のために用意された計画の一端がわかりはじめるからです。

 ある人は政治の分野において生活の苦しい人々、社会の犠牲となっている人々、社会に裏切られた人々、よるべなき人々のためにその霊的知識を生かそうと奮い立ちます。ある人は宗教の世界へ足を踏み入れて、死に瀕している古い教義に新しい生命を吹き込もうとします。

ある者は科学の実験室に入り、残念ながらすっかり迷路にはまってしまった科学者の頭脳に霊的なアイディアを吹き込もうと意気込みます。また芸術の世界へ入っていく者もいることでしょう。

 要するに霊的真理は人生のすべての分野に関わるものだということです。それは当然のことです。なぜなら生命とは霊であり、霊がすなわち生命だからです。霊が目を覚まして真の自分を知った時、すなわち霊的意識が目覚めたとき、その時こそ自分とは何者なのか、いかなる存在なのか、なぜ存在しているのかということに得心がいきます。

それからの人生はその後に宿命的に待ち受ける、より豊かでより大きな生命の世界への身支度のために〝人のために自分を役立てる〟ことをモットーとして生きるべきです。

 どうぞこれからも真理探求の旅をお続けください。求め続けるのです。きっと与えられます。要求が拒絶されることは決してありません。ただし、解答は必ずしもあなたが期待した通りのものであるとはかぎりません。あなたの成長にとって最善のものが与えられます」


 最後に出席者全員に向かって次のような別れの言葉を述べた。

 「われわれは大いなる神の計画の中に組み込まれていること、一人ひとりが何らかの存在価値を持ち、小さすぎて用の無い者というのは一人もいないこと、忘れ去られたりすることは決してないことを忘れないようにしましょう。

そういうことは断じてありません。宇宙の大霊の大事業に誰しも何らかの貢献ができるのです。霊的知識の普及において、苦しみと悲しみの荷を軽くしてあげることにおいて、病を癒してあげることにおいて、同情の手を差し伸べることにおいて、寛容心と包容力において、われわれのすべてが何らかの役に立つことができるのです。

 かくして各自がそれぞれの道において温かき愛と悠然たる自信と確固たる信念を持って生き、道を失った人々があなた方を見て、光明への道はきっとあるのだと、感じ取ってくれるような、そういった生き方をなさってください。それも人のために役立つということです。では、神の祝福の多からんことを」


 その日の交霊会はそれで終わり、続いて次の交霊会に出たシルバーバーチは、その間に帰っていた本来の上層界での話に言及してこう述べた。

 「いつものことながら、いよいよ物質の世界に戻ることになった時の気分はあまり楽しいものではありません。課せられた仕事の大変さばかりが心にあります。しかし皆さん方の愛による援助を受けて、ささやかながら私の援助を必要としている人たち、そしてそれを受け止めてくださる人たちのために、こうして戻ってくるのです。

 これまでのしばしの間、私は本来の住処において私の僚友とともに過ごしてまいりましたが、どうやら私たちのこれまでの努力によって何とか成就できた仕事についての僚友たちの評価は、私が確かめたかぎりにおいては満足すべきものであったようです。これからも忠誠心と誠実さと協調精神さえ失わなければ、ますます発展していく神の計画の推進に挫折が生じる気遣いは毛頭ありません。

 その原動力である霊の力が果たしてどこまで広がり行くのか、その際限を推し量ることは私にもできません。たずさわっている仕事の当面の成果と自分の受け持ちの範囲の事情についての情報は得られても、その努力の成果が果たして当初の計画どおりに行っているのかどうかについては知りませんし、知るべき立場にもないのです。

私たちの力がどこまで役立っただろうか───多くの人が救われているだろうか、それとも僅かしかいなかっただろうか───そんな思いを抱きながらも私たちはひたすら努力を重ねるだけなのです。しかし上層界にはすべての情報網を通じて情報を集めている霊団が控えています。必要に応じて大集会を催し、地上界の全域における反応をあらゆる手段を通じてキャッチして、計画の進捗具合を査定し評価を下しているのです。

 かくして私たちにすら知り得ない領域において、ある種の変化がゆっくりと進行しつつあるのです。暗闇が刻一刻と明るさを増しつつあります。霧が少しずつ晴れていきつつあります。モヤが後退しつつあります。無知と迷信とドグマによる束縛と足枷から解放される人がますます増えております。

自由の空気の味を噛みしめております。心配も恐怖もない雰囲気の中で、精神的に、霊的に自由に生きることのすばらしさに目覚めつつあります。自分がこの広い宇宙において決して一人ぼっちでないこと、見捨てられ忘れ去られた存在でないこと、無限なる愛の手が常に差しのべられており、今まさに自分がその愛に触れたのだということを自覚し、そして理解します。

人生は生き甲斐のあるものだということを今一度あらためて確信します。そう断言できるようになった人が、今日、世界の各地に広がっております。かつてはそれが断言できなかったのです。

 こうしたことが私たちの仕事の進捗具合を測るものさしとなります。束縛から解放された人々、二度と涙を流さなくなった人々がその証人だということです。これから流す涙はうれし涙だけです。

心身ともに健全となった人々、懊悩することがなくなった人々、間違った教義や信仰が作り出した奴隷状態から逃れることが出来た人々、自由の中に生き、霊としての尊厳を意識するようになった人々、こうした人達はみな私たちの努力、人類解放という気高い大事業に携わる人たち全ての努力の成果なのです。

 これからもまだまだ手を差し伸べるべき人が無数にいます。願わくは私たちの手の届く限りにおいて、その無数の人々のうちの幾人かでも真の自我に目覚め、それまで欠けていた確信を見出し、全人類にとって等しく心の拠りどころとなるべき永遠の霊的真理への覚醒をもたらしてあげられるように───更生力に富み活性力と慰安力にあふれ、

気高い目標のために働きかける霊の力の存在を意識し、代わって彼らもまたいずれはその霊力の道具となって同じ光明をますます広く世界中に行きわたらせる一助となってくれるよう、皆さんとともに希望し、祈り、決意を新たにしようではありませんか。

 真理はたった一人の人間を通じてもたらされるものではありません。地球上の無数の人々を通じて滲透していくものです。霊力の働きかけがある限り人類は着実に進歩するものであることを忘れないでください。今まさに人類は霊的遺産を見出し始め、霊的自由をわがものとし始めました。

そこから湧き出る思い、駆り立てられるような衝動、鼓舞されるような気持ちは強烈にして抑え難く、とうてい抑え通せるものではありません。霊の自由、精神の自由、身体の自由にあこがれ、主張し、希求してきた地球上の無数の人々を、今、その思いが奮い立たせております。

 こうして、やがて新しい世界が生まれるのです。王位は転覆され、権力的支配者は失脚し、独裁者は姿を消していきます。人類はその本来の存在価値を見出し、内部の霊の光が世界中に燦然と輝きわたることでしょう。

 それは抑え難い霊的衝動の湧出(ゆうしゅつ)によってもたらされます。今まさにそれが更生の大事業を推進しているのです。私がけっして失望しない理由はそこにあります。私の目に人類の霊的解放というゴールへ向けての大行進が見えるからです」


 ここでメンバーの一人が 「歴史を見ても人類の努力すべき方向はすでに多くの模範が示してくれております」 と言うと、

 「そうなのです。訓えは十分に揃っております。いま必要なのはその実行者です」と述べ、最後にこう締めくくった。

 「そこで、その実行者たるべきわれわれは、悲しみに打ちひしがれた人々、重苦しい無常感の中にあって真実を希求している無数の人々の身の上に思いを馳せましょう。われわれの影響力の行使範囲まで来た人々に精一杯の援助を施し、慰めを与え、その悲しみを希望に変え孤独感を打ち消して、人生はまだお終いではないとの確信を持たせてあげましょう。

 無限の宝を秘めた神の貯蔵庫から霊力を引き出しましょう。われわれに存在を与え給い、みずからのイメージに似せて創造し給い、神性を賦与してくださった大霊の生きた道具となるべく、日常生活においてわれわれ自身を律してまいりましょう。

われわれがその大霊の計画の推進者であることを片時も忘れず、謙虚さと奉仕の精神と、託されたその信託への忠誠心を持って臨む限り何一つ恐れるものはないこと、いかなる障害物も太陽の輝きの前に影のごとく消滅していくとの確信のもとに邁進いたしましょう」
          

Thursday, May 21, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


第7章 魂の貧しい者は幸いです
 
魂が貧しいとはどういうことか

一、魂の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ 第五章 三)

二、魂の貧しい者は幸いです。信心のない者は、他の多くの金言と同様に、この金言を理解せず、ばかにします。しかし、イエスは知性に貧しい者を意味したのではなく、慎ましい者を意味したのです。天の国は慎ましい者のためであり、傲慢な者のためではないと言ったのです。

 教養があり、知性的な人は、この世を見る限り一般的には自分たちを高く評価し、その優秀さを強調し、神のことなどその関心に値しないと考えています。彼ら自身のことだけが心配で、神のことまでその考えを持ち上げることができません。

このように自分たちをあらゆるものより優秀であると考える傾向は、自分たちを優秀と考えるために自分たちを低くするものを否定し、しばしば神さえも否定します。

あるいは神を認める時には、自分を最も優秀な神の属性のうちの一人と考えるのです。天命を受けこの世のことだけに対し働きかけることで、この世を統治するのは十分であるとうぬぼれているのです。

自分の知性を宇宙の知性の大きさを持つと考え、何事も理解することができると信じ、理解できないこともあり得るのだということを認めることが出来ないのです。彼らは何かについて発言する時、彼らの判断に対する反論を受けつけないのです。

 見えない世界と人類を超えた力を認めないのは、それらが手の届かないところにあるからではなく、彼らの考えの土台を掘り崩してしまうような、立脚することのできない観念に対して自尊心が反発するからです。だから、目に見え、手に取ることのできる世界以外のものに対しては、軽蔑の笑みを見せることしかできないのです。

そうしたことを信じるには、自分たちの知性は高過ぎ、多くの知識を持っており、彼らの考えるには、そうしたことは無知な人々に向いているのであり、そうした人を魂の貧しい者とみなしているのです。しかし、何を言おうと、いつかは他の人たちと同じように皮肉を込めて馬鹿にしている目に見えない世界に入らねばならないのです。

その時、彼らは目を開き、過ちに気づくのです。しかし、公平である神は、その力を認めなかった者たちを、神の法を慎み深く守った者たちと同じように迎えるわけにはいかず、同じ者として割り当てることもできません。

℘141
素朴な者だけに神の国があるという言葉のなかで、イエスは、心の純真さと魂の慎ましさがなければ神の国で認められることはないと教えたのです。これらの資質を持った無知な者の方が、神よりも自分を信じる賢人よりも好ましいのです。

いかなる場合に置いてもイエスは、神に近づける徳として慎ましさを、神から遠ざける欠点として傲(おご)りを述べています。慎ましさは神に対する服従の態度であり、傲りとは神に対する反発のしるしであるという、とても自然な理由からです。

したがって、人間の幸せのためには、この世で言う、魂が貧しくとも、道徳的な資質に富んでいることがより大切なのです。

   
 自分を高くする者はさげられます

三、その時、使徒たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか」。そこで、イエスは小さい子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて言われた、

「誠に言います。悔い改めて子どもたちのようにならない限り、天の御国には入れないでしょう。だから、この子どものように、自分を謙遜し自分を低くする者が、天の御国で一番偉いのです。また、誰でも、このような一人の子どもを私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのです」。(マタイ 第十八章 1-5)


四、その時、ゼベダイの子どもたちの母が、子どもたちと一緒にイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った、「私のこの二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるようにお言葉を下さい」。

イエスは答えて言われた。「あなたたちは自分が何を求めているのか、分かっていないのです。私の飲もうとしている杯を飲むことができますか」。

彼らは「できます」と言った。イエスは言われた、「あなたたちは私の杯を飲みはします。しかし、私の右と左に座ることは、この私の許すことではなく、私の父によって備えられている人々にだけ許されることなのです」。このことを聞いた他の十人は、この二人の兄弟たちのことで腹を立てた。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたたちも知っているとおり異邦人の支配者たちはその民を支配し、偉い人たちはその民の上に権力をふるいます。あなたたちの間ではそうであってはなりません。あなたたちの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

あなたたちの間で人の先に立ちたいと思う者は、しもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人のための救済の代価として、自分の命を与えるためであるのと同じです」。(マタイ 第二十章 20-28)


五、ある安息日に、食事をしようとして、ファリサイ人のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。招かれた人々が上座を選んでいる様子をご覧になっておられたイエスは、彼らにたとえを話された。「婚礼の披露宴に招かれた時には、上座に座ってはいけません。

あなたより身分の高い人が招かれているかもしれないし、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』とあなたに言うなら、その時あなたは恥入って、末座に着くことになるでしょう。

招かれるようなことがあって行ったなら、末座に着きなさい。そうすればあなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上座にお進みください』というでしょう。その時は満座の中で面目を施すことになります。なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。(ルカ 第十四章 1、7-11)


六、これらの金言は、神に選ばれた者に約束された幸せを得るための根本的な条件として、イエスが絶えず教えている慎ましさの原則から生まれたもので、イエスは次の言葉にそれをまとめて示しました。

「魂の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。イエスは純心であることの象徴として子どもを選び、「子どものように自分を謙遜し、自分を低くする者が、天の御国で、一番偉いのです」と言ったのです。それは上の者や強い者に媚びを売るということではありません。

 同じような基本的な考え方が、別の金言に結びつきます。「偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。

 スピリティズムは実例によって理論を確認し、私たちに、地上で小さくあった者たちの霊界における偉大さを教えてくれます。そして多くの場合、地上において最も偉大で強い権力を持っていた者たちが、霊界においてはとても小さいのです。これは、霊界において彼らを偉大にさせる、決して失われることの無い美徳を、人間は死んでも持ち続けるからです。

一方で、富、地位、栄光、生まれた家族の高貴さなど、地上で人間を偉大にしていたものは、別の世界へ持って行くことが出来ないのです。それら以外に何も持っていなかった者は、別の世界へ入ると、着るものまでも失った遭難者のようにすべてを失います。

自尊心だけを失いきれずにいることが、地上において軽蔑していた者たちが自分より上に、栄光に輝いて置かれているという新しい位置づけを、更に屈辱的なものにします。

 スピリティズムは同じ原理の応用を、連続する人生と言う視点から別の方法で示しています。ある人生において最も高い地位にあった者は、野心や自尊心を克服できなかったのであれば、次の人生において最も低い地位に降ろされます。

ですから、強制的に次の人生において地位を下げられたくないのであれば、地上において一番高い地位を求めたり自分を他人より高い地位においてはなりません。

反対に、最も慎ましく、質素な地位を求めなさい。あなたがより高い地位におかれるに値するのであれば、神は天においてより高い場所を与えて
くれるでしょう。

℘144         
 博学な者や知識人に隠された謎
七、その時イエスは声を上げて言われた、「天と地の主なる父よ、これらのことを博学の者や知識のある人には隠し、素朴で小さい者たちに顕してくださったことを称賛いたします」。(マタイ 第十一章 25) 


八、これらのことを魂の貧しい、素朴で小さい者たちに見せてくれたことをイエスが感謝しているのは、少し不思議に感じられるかもしれません。

なぜなら、見かけ上は博学な者や知識人の方がこれらのことを理解し易いように見えるからです。しかし私たちは、この慎ましい者とは、神の前で自分を低め、他人に対して自分が優れていると感じない者のことであるということを理解しなければなりません。

また、一方の自尊心の高い者とはこの世における知識によってうぬぼれてしまい、自分が賢者であると思い、そのために神の存在を否定したり、あるいは神を否定しないまでも、昔、知識人が賢者であるつもりになって話したように、自分を神と同様に扱う者のことであるということを理解しなければなりません。そのため、神は地上の秘密の探求を知識人たちに任せ、神の前に屈服する慎ましい者たちに天の秘密を見せてくれるのです。


九、スピリティズムによって今日明らかにされた偉大なる真実についても同様です。信心のない人たちは、彼らを納得させ、改心させようとする霊たちの側の努力が不足しているのだと言います。

しかし、それは、霊たちにとっては、強い信仰と慎ましさをもって光を求める者たちのことの方が、もうすでにすべてを知っていると信じていて、神がその存在を証明して彼らを神の方向へ導くことが出来れば神は喜ぶであろうと考えている者たちのことよりも、気にかかるからなのです。

 神の力は、大きな物にも小さな物にも示されています。神はその光を隠すのではなく、あらゆるところへ放っています。盲目な者たちはそれを見ることが出来ないのです。

神は彼らの目を無理やり開こうとはしません。なぜなら、彼ら自身が目を閉じていることを好んでいるからです。しかし自ら目を開く時が来る前に、暗闇にあることの苦しさを感じ、神の存在を認識し、彼らの自尊心が必然的に傷つけられる時が来なければなりません。

不信心な者たちに神の存在を示すために、神は彼ら一人一人にそれぞれあった方法を取ります。しかし不信心である者が「私を納得させるにはどれそれをやってください。いつ、どうしてください。そうすれば私は納得します」というように、何をし、何を言うべきなのかを決めるのではありません。

 神や、神の意志を伝える霊たちが、こうした不信心な者たちの要望に応えてくれないからと言って驚いてはいけません。そうではなく、もし自分の最も身分の低い家来に何かを強要されたとしたら、何と応えるかを考えてみるべきです。

神が条件を決めるのであり、神が条件を強要されるのではありません。神は慎ましく求める者には温かく耳を傾けてくれますが、神より勝っていると考える者たちのことは聞いてはくれません。


十、最も神を信じない者までもが屈してしまうような奇蹟的な証拠によって、神は不信心な者たちに個人的に触れることができないのかとよく訊かれます。それが可能であることに、まったく疑う余地はありません。しかしそのようにしたとして、そうすることの価値はどこにあるでしょうか。

更に、それが何の役に立つと言えるでしょうか。彼らは、毎日あらゆる証拠を見せられていながらそれを受け入れず、「見ることはできたが信じることはできない。なぜならそのようなことは不可能であることを知っているからだ」とまで言うのです。

真実を認めることを拒否するのは、それを理解するその者の霊も、それを感じるその者の心も、まだそうなるところまで発達しきっていないからです。

自尊心は彼らの目を覆う目隠しのようなものです。盲目の者の前に光をかざしてどうなるというのでしょうか。したがって、まず悪の原因を治すことが必要です。

そうであるからこそ、優秀な医者のように、神はまず傲りを罰します。神が迷う子供たちを見捨てることはありません。なぜなら、遅かれ早かれ彼らの目は開かれることを知っているからです。

しかし神はそれが各々の自分の意志によって開かれることを望んでいるのです。そうなれば、不信心であったことによって受けた苦しみに打ち勝ち、父親に赦しを求めた放蕩息子の様に、自ら神の腕の中にやってきます。

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks AgainEdited 

by S. Phillips



十二章 苦難にこそ感謝を

 「私は霊的な目を通して眺めることができるという利点のおかげで真理のさまざまな側面が見える立場にあります。あなた方は残念ながら肉体の中に閉じ込められているという不利な条件のために、私と同じ視点から眺める事ができません」


 これは今スピリチュアリズムを熱心に勉強しはじめた初心者の夫婦を招いた時に、霊と物質という基本的なテーマについて語るにあたっての前置きである。続けてこう語る。

 「あなた方は物質をまとった存在です。身を物質の世界に置いておられます。それはそれなりに果たすべき義務があります。衣服を着なければなりません。家が無くてはなりません。食べるものが必要です。身体の手入れをしなくてはなりません。身体は、要請される仕事を果たすために必要なものをすべて確保しなければなりません。

物的身体の存在価値は基本的には霊の道具であることです。霊なくしては身体の存在はありません。そのことを知っている人が実に少ないのです。身体が存在出来るのはまず第一に霊が存在するからです。霊が引っ込めば身体は崩壊し、分解し、そして死滅します。

 このことを申し上げるのは、多くの人たちと同様に、あなた方もまだ本来の正しい視野をお持ちでないからです。ご自身のことを一時的な地上的生命を携えた霊的存在であるとは見ておられません。
℘201
身体に関わること、世間的なことを必要以上に重大視される傾向がまだあります。いかがですか。私の言っていることは間違っていますか。間違っていれば遠慮なくそうおっしゃってください。私が気を悪くすることはありませんから…」


 「いえ、おっしゃる通りだと思います。そのことを自覚し、かつ忘れずにいるということは大変難しいことです」と奥さんが答える。

 「むつかしいことであることは私もよく知っております。ですが、視野を一変させ、その身体だけでなく、住んでおられる地球、それからその地球上のすべてのものが存在できるのは霊のおかげであること、あなたも霊であり、霊であるがゆえに神の属性のすべてを宿していることに得心がいくようになれば、前途に横たわる困難のすべてを克服していくだけの霊力を授かっていることに理解がいくはずです。

生命の根元、存在の根元、永遠性の根元は霊の中にあります。自分で自分をコントロールする要領(コツ)さえ身につければ、その無限の貯蔵庫からエネルギーを引き出すことができます。

 霊は物質の限界によって牛耳られてばかりはいません。全生命の原動力であり全存在の大始源である霊は、あなたの地上生活において必要なものをすべて供給してくれます。その地上生活の目的は極めて簡単なことです。死後に待ち受ける次の生活に備えて、本来のあなたであるところの霊性を強固にするのです。

身支度を整えるのです。開発するのです。となれば、良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることがあなたの霊性の糧となるのです。

 その一つ一つが神の計画の中でそれなりの存在価値を有しているのです。いかに暗い体験も───暗く感じられるのは気に食わないからにすぎないのですが───克服できないほど強烈なものはありません。あなたに耐えられないほどの試練や危機に直面させられることはありません。

その事実を何らかの形で私とご縁のできた人に知っていただくだけでなく、実感し実践していただくことができれば、その人は神と一体となり、神の摂理と調和し、日々、時々刻々、要請されるものにきちんと対応できるはずなのです。

 ところが、残念ながら敵があります───取越苦労、心配、不安と言う大敵です。それが波長を乱し、せっかくの霊的援助を妨げるのです。霊は平静さと自信と受容力の中ではじめて伸び伸びと成長します。日々の生活に要請されるものすべてのが供給されます。物的必需品の全てが揃います」

 ここでご主人が 「この霊の道具にわれわれはどういう注意を払えばよいかを知りたいのですが・・・肝心なポイントはどこにあるのでしょうか」と尋ねる。


 「別にむつかしいことではありません。大方の人間のしていることを御覧になれば、身体の必要性にばかりこだわって精神ならびに霊の必要性に無関心すぎるという私の意見に賛成していただけると思います。身体へ向けている関心の何分の一かでも霊の方へ向けて下されば、世の中は今よりずっと住みよくなるでしょう。」


 「霊を放ったらかしにしているということでしょうか。ということは身体上のことはそうまで構わなくてよいということでしょうか。それとも、もっと総体的な努力をすべきなのでしょうか」

 「それは人によって異なる問題ですが、一般的に言って人間は肉体のことはおろそかにしていません。むしろ甘やかしすぎです。必要以上のものを与えています。あなた方が文明と呼んでいるものが不必要な用事を増やし、それに対応するためにまた新たな慣習的義務を背負い込むという愚を重ねております。

肉体にとって無くてはならぬものといえば光と空気と食べ物と運動と住居くらいのものです。衣服もそんなにあれこれと必要なものではありません。慣習上、必需品となっているだけです。

 私は決して肉体ならびにその必要条件をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。肉体は霊の大切な道具ではありませんか。肉体的本性が要求するものを無視するようにとお願いしているのではありません。私は一人でも多くの人間に正しい視野をもっていただき、自分自身の本当の姿を見つめるようになっていただきたいのです。

まだ自分というものを肉体だけの存在、あるいは、せいぜい霊を具えた肉体だと思い込んでいる人が多すぎます。本当は肉体を具えた霊的存在なのです。それとこれとでは大違いです。

 無駄な取越苦労に振り回されている人が多すぎます。私が何とかして無くしてあげたいと思って努力しているのは不必要な心配です。神は無限なる叡智と無限なる愛です。われわれの理解を超えた存在です。が、その働きは宇宙の生命活動の中に見出すことができます。

驚異に満ちたこの宇宙が、かつて一度たりともしくじりを犯したことのない神の摂理によって支配され規制され維持されているのです。その節理の働きは一度たりとも間違いを犯したことがないのです。変更になったこともありません。廃止されて別のものと置きかえられたこともありません。

今存在する自然法則はかつても存在し、これからも永遠に存在し続けます。なぜなら、完璧な構想のもとに全能の力によって生み出されたものだからです。

 宇宙のどこでもよろしい。よく観察すれば、雄大なものから極小のものに至るまでのあらゆる相が自然の法則によって生かされ、動かされ、規律正しくコントロールされていることがお分かりになります。

途方もなく巨大な星雲を見ても、極微の生命を調べても、あるいは変転きわまりない大自然のパノラマに目を向けても、さらには小鳥、樹木、花、海、山川、湖どれ一つ取ってみても、ちょうど地球が地軸を中心に回転することによって季節の巡りが生まれているように、すべての相とのつながりを考慮した法則によって統制されていることが分かります。

種子を蒔けば芽が出る───この、いつの時代にも変わらない摂理(きまり)こそ神の働きの典型です。神は絶対にしくじったことはありません。あなたがたの方から見放さないかぎり神はあなた方を見放すことはありません。

(訳者注───〝神がしくじる〟という言い方はいかにも幼稚にひびくが、われわれが不安や心配を抱き取越苦労が絶えないということは、裏返せば神の絶対的叡智に対する信仰が不足していることを意味し、これを分かりやすく表現すれば神がしくじるかも知れないと思っていることになる)

 私は、神の子すべてにそういう視野を持っていただきたいのです。そうすれば取越苦労もなくなり、恐れおののくこともなくなります。

いかなる体験も魂の成長にとっては何らかの役に立つことを知ります。その認識のもとに一つ一つの困難に立ち向かうようになり、首尾よく克服していくことでしょう。そのさ中にあってはそうは思えなくても、それが真実なのです。あなた方もいつかは私達の世界へお出でになりますが、こちらへ来れば、感謝なさるのはそういう暗い体験の方なのです。

視点が変わることによって、暗く思えた体験こそ、そのさ中にある時は有難く思えなくても、霊の成長をいちばん促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明して差し上げることはできませんが、こちらへお出でになればみずから証明なさることでしょう。

 こうしたことはあなたにとっては比較的新しい真理でしょうが、これは大へんな真理であり、また多くの側面をもっています。まだまだ学ばねばならないことが沢山あるということです。探求の歩みを止めてはいけません。歩み続けるのです。ただし霊媒の口を突いて出るものを全部鵜呑みにしてはいけません。

あなたの理性が反撥するもの、あなたの知性を侮辱するものは拒絶なさい。理に適っていると思えるもの、価値があると確信できるもののみを受け入れなさい。何でもすぐに信じる必要はありません。あなた自身の判断力にしっくりくるものだけを受け入れればいいのです

 私たちは誤りを犯す可能性のある道具を使用しているのです。交信状態が芳しくない時があります。うっかりミスを犯すことがあります。伝えたいことのすべてが伝えられないことがあります。他にもいろいろ障害があります。

霊媒の健康状態、潜在意識の中の思念、頑なに固執している観念などが伝達を妨げることもあります。その上に、私たちスピリット自身も誤りを犯す存在だということを忘れてはなりません。死によって無限の知識のすべてを手にできるようになるわけではありません。地上時代より少し先が見えるようになるだけです。

そこであなた方より多くを知った分だけをこうしてお授けしたいと思うわけです。私たちも知らないことが沢山あります。が、少しでも多く知ろうと努力を続けております。

 より開けたこちらの世界で知り得た価値ある知識をこうしてお授けするのは、代わってこんどはあなた方が、それを知らずにいる人々へ伝えていただきたいと思うからです。宇宙はそういう仕組みになっているのです。実に簡単なことなのです。私たちは自分自身のことは何も求めません。

お礼の言葉もお世辞も要りません。崇めてくださっても困ります。私たちはただの使節団、神の代理人にすぎません。自分ではその使命にふさわしいとは思えないのですが、その依頼を受けた以上お引き受けし、力の限りその遂行に努力しているところなのです」 
          
 

   
  解説 〝霊〟と〝幽霊〟 
 
 四章の 「ジョン少年との対話」 に出てくる〝霊〟と〝幽霊〟はどう違うかという質問は、シルバーバーチも〝なかなかいい質問ですよ〟と言っているように、西洋ではとかく誤解されがちな問題であるが、現下の日本の心霊事情を見てもその誤解ないしは認識不足によってとんでもない概念が広がっているので、ここでシルバーバーチの答えを敷延(ふえん)する形で解説を施しておきたい。

 誤解には二通りある。〝霊〟を〝幽霊〟と思っている場合と、〝幽霊〟を〝霊〟と思っている場合である。日本人は何かにつけてそうであるが、霊についても極めて曖昧な概念を抱いている。次に紹介する話はそれを典型的に示しているように思う。

 私も時たま墓地の清掃に行くが、同じ墓園に殆ど毎日墓参する人がいる。その人は先祖は家の根であり、根を培わずして子孫の繁栄はないという信仰から供養を欠かさないのだという話を聞かされたことがあるが、その後またいっしょになった時にその信仰をほじくってやろうというイタズラ心から 「やはり霊というのが存在していて、どこかに霊の世界というのがあるのでしょうね」と聞いてみた。すると案の定、言下にこう言い放った。

 「何をおっしゃるんです。人間この肉体が滅びたらもうおしまいですよ。私はその霊を供養しているだけですよ」

 いったいその霊とは何なのであろう。何かしら得体のしれない、実態の無いものを漠然と思い浮かべているらしいのであるが、そんなものを供養してそれが子孫の繁栄になぜ繋がるのか───そんな理屈っぽいことはみじんも考えないところが、いかにも日本人らしいのである。

 が、先日のテレビで〝心霊相談〟にのっている自称霊能者(女性)が古い先祖霊の供養に言及して「霊の中には一千年でも生きている場合がありますから」うんぬんと述べているのを聞いて私は自分の耳を疑った。どの程度の霊能があるのか知らないが、今紹介したような信心深い平凡人ならまだしも、心霊相談にのるためにテレビに出るほどの専門家(プロ)がこの程度の理解しかしていないことに私は唖然とした。

この自称霊能者にとっては相も変わらず肉体が実在であって、霊は一種の〝名残り〟のようなものとしてどこかにふわっと残っていて、やがて消滅していくものらしいのである。そして多分、大方の日本人が大体そんな風に漠然とした認識しか抱いていないのではなかろうか。

 では一体霊とは何なのか───これはシルバーバーチが繰り返し説いていることなので、ここで改めて私から説くことは控えたい。ただ一言だけ述べておきたいのは、知識を持つことと、それを実感を持って認識することとの間にはかなりの距離があるということである。霊には、実体があるのです、

と言われても、それをなるほどと実感するには、その知識を片時も忘れずに念頭において生活しながら、その実生活の中で霊的意識を高めていくほかはない。その内、ふとしたこと───大自然の驚異を見たり何でもない日常の出来ごとを体験して───あ、そうか、という悟りを得るようになる。

それが本当に分かったということであろう。シルバーバーチが単純素朴な真理を繰り返し繰り返し説くのも、そうした霊的意識の深まりを期待しているからであることを銘記していただきたい。

 次に〝幽霊〟を〝霊〟と勘違いしている場合であるが、 これはシルバーバーチの答えの通りであるが、それに付け加えて言えば、いわゆる心霊写真の大半がその類だということである。

 その説明に先だって認識しておいていただきたいのは、人間の想念というものはその人の人相と同じ形体を取る傾向があるということである。次の例からそれを理解していただきたい。

 私の家によく来ていただいている僧侶───ひじょうに霊感の鋭い方である───が仏壇の前でいつものようにお経を上げている最中に、その僧侶には珍しく途中で詰まってお経が乱れ、ややあってからどうにか普通の調子に戻ったことがあった。

 終わってからその僧が私に、今読経している最中にかくかくしかじかの人相の人が目の前に現われたと言って、その人相を説明した。さらにおっしゃるには、その霊は死者の霊ではなく、まだ生きている人だという。いわゆる生霊である。「何か怨みか嫉妬でも買う様なことをされましたか」と僧侶が私に聞いた。

 私はすぐにピンと来た。確かに思い当たる人がいて、私に嫉妬心を抱いてもやむを得ない事情があった。そのせいか、家族中でなんとなく不調を訴えることが多かったが、その僧の処置ですっかり良くなった。

 恩師の間部詮敦氏は 「念は生き物です」 というセリフをよく口にされ、したがって自分から出た念は必ず自分に戻って来るから、何時も良い念を出すように心がけなさいという論法で説教しておられた。

 私がここでそれを付け加えて言いたいのは、その念はその人の人相、時には姿恰好までそっくりの形体を取る傾向があるということである。これは謎の一つで、なぜだかは分らない。

 よく肉親や知人が枕元に立った夢を見て目を覚まし、後で分かってみると、ちょうどその人が死亡した時刻と一致したという話が語られる。この場合すぐに、その死者の霊が自分の死を知らせに来たのだとか別れを言いに来たのだと解釈され、それがいかにもドラマチックなのでそう思い込まれがちであるが、実際問題として、よほどの霊覚者でないかぎり、死んですぐに意識的に自分で姿を見せるような芸当のできる者はいない。

 これには二つのケースが考えられる。一つはその死者の背後霊が本人を装って姿を見せた場合で、これは意外に多いようである。もう一つはその死者の念が最も親和性の強い人のところへ届き、それがその人の姿かたちを取った場合で、私はこのケースがはるかに多いと見ている。

 心霊写真の中で生気が感じられないものは大半が浮遊している念が感応したか、または地上に残された幽質の殻が当人の念の働きを受けて感応したかである。もちろん実際にその場に居合わせた霊───大抵は自分でこしらえた磁場から脱け出られなくてその辺りをうろついている、いわゆる地縛霊であるが───が親和力の作用で近づいたのがたまたま霊能のある人の写真に写ったという場合もあることはあるであろう。

 反対に生気はつらつとして、まるで地上の人間と変わらないような雰囲気で写っている場合は、霊界の写真技術師の指示を受けてエクトプラズムをまとって出た場合であり、A・R・ウォーレスの 『心霊と進化と』 にはその詳しい説明が出ている。

 幽霊話に出てくるのは大抵地上に残した殻───セミの脱け殻とまったく同じと思えば、よい───が何かのはずみで動き出した場合で、不気味ではあっても少しも恐ろしいものではない。

 よく怪談ものを映画や芝居で演じる場合に奇怪な出来ごとが相次ぎ、話が話だけにいやが上にも恐怖心が煽られるが、それを、例えば四谷怪談であればお岩の亡霊がやっていると考えるのは間違いで、単なるイタズラ霊の仕業、西洋でいうポルターガイストに過ぎない。スタッフの中に霊格の高い人がいたらそういう奇怪な現象は起こらない。その人の守護霊がイタズラ霊を抑えてしまうからである。

 こうした解説を施しながら私はいつも、スピリチュアリズム的霊魂観の普及の必要性を痛感せずにはいられない。
                 一九八六年九月    近藤 千雄