Saturday, February 28, 2026

霊訓 「上 」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings



7節

本節の内容新プラトン主義
スーフィズム
霊的真理の普及を妨げるもの
似非神学者
似非科学者
先入的ドグマによる偏見
宗教の名に値するもの
理性こそ最高の指針


〔新プラトン主義哲学(1)に関する通信があった。見覚えのある容貌をした霊が写真に写ったが、衣服は見慣れないものだった。私の質問に対し、心霊写真に写るためにはある程度の物質化が必要で、霊視に写る時の像とは違うということだった。

新プラトン主義の特徴的教義についての説明は実に克明で、私のまったく知らないものだった。忘我の状態で神性に背くものを全て排除し、ひたすら神との合一をはかるスーフィズム(2)という恍惚的瞑想行為について長々と説明し、その理想的人物として新プラトン主義学者の一人の名を挙げた。その時教わったもの、とくに右の学者の説教についてはその後なるほどと思わせるものがある。もっとも私自身はすでに体験していたこともあって、驚きの度合いが和らげられているが。

その後短期間ではあったが通信が途絶えた。その間に出席したある交霊会でイタズラ霊による偽名行為が再び発覚し、私も大いに考えさせられた。その後の通信でよその交霊会には絶対出席しないようにとの忠告があった。霊媒には強い磁力があり、他の霊媒の交霊会に出るとそこでの現象に悪影響を及ぼし、同時に悪影響を持ち帰ることになるから、霊媒同士の接触は絶対避けることが大切であるとのことだった。

宮廷詩人だったリドゲート(3)のものを中心とする素晴らしい詩が、それによほど興味をもっているように見うけられる霊によって書かれた。その霊はただ詩を綴ること以外は何もしなかったが、その筆跡は見事で特徴があった。

その後一八七三年六月十三日に開かれた交霊会で神学に関する質問を数多く用意しておいたところ、それに対して入神講演の形で長々と回答が述べられた。当然その全部は筆記できず、部分的で不完全な筆録しか残されていない。が、その翌日、その入神講演をした霊が、こちらからの要請もないのに、次のような自動書記通信を送って来た。〕


昨夜述べた事の中には、先を急ぐあまり十分に意を尽くし得なかった事が多く、筆録も正確とは言えぬ。あのような重要な問題は十分に念を入れ、是非とも正しく理解して貰わねばならぬ。そこで、十分に意を尽くし得なかった事をここでより分かり易く述べたく思う。交霊会でそなたの口を借りて語るのは必ずしもこうした方法(自動書記)で伝えるほど正確を期することが出来ぬものである。完全に隔離された状態の方が緻密さと正確さの得られる状態に入るのが容易である。

昨夜はわれらが神より託された使命について述べたつもりである。その使命の前途を遮(さえぎ)る多くの困難の中でも最大のものは、その使命達成においてわれらが何よりも頼りとしている気心の知り合った同志が余りに神学的先入主に捉われ、あるいはそれまで説き聞かされて来た信仰と相容れぬことに強い恐怖を覚えるために、われらにとりて為すすべがなく、挙句の果ては、悲しい哉、われらの説く神の教えが邪霊の言葉とされ、その背後にて操る強力なる悪魔のさしがねと決めつけられることである。われらにとりては、こうした人材ほど嘆かわしきものはない。

自分の定めた勝手な条件のもとに、自分のお気に入りの手段でしか物事を判断しようとせぬ似非(えせ)科学者たち――われらを単に人間をたぶらかす者、嘘つき、狂える者のたわごとと決めつける材料として以外には取り扱おうとせぬ科学者たち――彼らはわれらにとりてまず用はない。その曇れる目には真理は見えず、長年の偏見によりて被われ束縛された知性は、われらには何の役にも立たぬ。どう気張ったところで霊界との交信の真相を垣間見ることすら出来ぬ。彼らが獲得する知識はたとえそれ自身は有用であり、価値あるものであろうと、われらの特殊なる使命には先ずもって役に立たぬ。われらが目指すものは、われらの使命の一局面でしかない現象面にのみ目を向けたがる科学者がとやかく言うものとは、いささか方角が異なるのである。長きに亙り物理学的観察に馴らされた知能は、その分野の事実の解明に向けるのが最も適切であろう。われらの分野はそれとはまた異なるのである。霊と霊との関係であり、霊のたどる宿命に関する知識を扱うのである。

更に、われらが述べんとする真理に皆目知識を持ち合わせず、その理解にはこののち長年に亙る人生試練を必要とする無知にして未熟なる者たち――この種の者は、いつの日にかわれらの真理を理解し得る段階にまで向上してくるであろうが、今の段階にては用はない。

況(いわん)や高慢にして傲慢なる知識人、自分の世界にしか通用せぬ道学者、慣例と体面を守ることに汲々たる宗教家――彼らについては言葉もない。彼らを納得させるには更に多くの物的証拠を必要とする。われらが述べる言葉はたわごとにしか聞こえぬであろう。

われらが真に頼りとするのは、神とその天使の存在を知り、愛と慈悲を知り、いずれ死後に赴く境涯について知らんと欲する人物である。然るに悲しい哉、神により植えつけられ、霊に育まれし天賦の宗教的本能が人間の勝手な宗教的教義――幾世紀にも亙って知らず識らずのうちに築き上げられた、無知と愚行の産物によりてがんじがらめにされている。どこを突ついても、返ってくるのは真理から外れたことばかりである。われらが父なる神の啓示を説けば、神の啓示はすでに全てを手にしていると言う。われらがその啓示の矛盾点を指摘し、そこに終局性も不謬性もないことを告げれば、教会が拵えた取り留めもない決まり文句を繰り返すか、それとも“絶対に誤ることなき人”として選びし人物の説を引用するのみである。つまり彼らは、一時期、一地方の特殊なる必要性に応じて授けられた、限られた啓示をもって普遍的真理と思い込み、それを物差しとしてわれらを裁かんとするのである。

また古代において霊覚者を通じて行なえる如く、われらが信頼するに足る神の使者であることを表明し、その証拠として奇跡的現象を演出してみせても、彼らは、奇跡の時代は終わった、神の啓示の証として奇跡を行なうことを許されたのは聖霊のみであると主張する。そして悪魔――これは彼らの勝手な想像の産物にすぎぬのであるが――は神を装うことが出来るとし、われら及びわれらの使命を神と善に対抗する外敵であり、暗黒界の使者であると決めつけるのである。またこうも言う――出来ることなら力になってあげたい。なぜなら言っていること自体はなるほどと思わせることばかりだからである。が、それが悪魔が使う誘惑の手だから困るのだ、と。確かに彼らがそう思うのも無理はない。なぜなら、やがて善を装える邪霊集団がやって来ることを聖書が予言しているからである。われらこそその邪霊なのであろう。彼らにとりてはそうであるに相違ない。なんとなれば神聖にして犯し難き古(いにしえ)の神学が神の子イエスを否定せんとする勢力の到来を予言しているではないか。現にわれらの説はキリスト神の定めしイエスの位置とその使命を根底より否定している。またわれらは理性を信仰の上に置いている。われらの説く福音は(信仰よりも)善行を説く福音であり(忠実なる信仰でなく)善の実行者こそ佳(よ)しとする教えである。彼らにとりては、こうした教えを説く霊はすべて光の天使を装う大悪魔の手先であり、魂を破滅に陥(おとしい)れんとの企(たくら)みにほかならないのである。

が、われらにとりては、協力を期待する真摯なる信心家からこうした態度に出られることこそ痛恨の極みである。彼らの多くは愛すべき真面目な人間である。ただその明るき魂の炎が地上の暗闇を照らすに至るには、是非とも進歩性を必要とする。われらは是非とも彼らにメッセージを送りたい。が、すでに築き上げられた神および人間の義務についての確固たる信仰基盤を当てにするには、その前に進歩を阻む夾雑物を取り除かねばならぬ。

宗教がその名に値するためには二つの側面を持たねばならぬ。一つは神への信仰であり、もう一つは人間についての教えである。その道の専門家により“正統”と呼ばれている伝来の信仰は一体その二点についてどう説いているであろうか。その教えとわれらの教えとはどこがどう違うのであろうか。その“違う”部分はどこまで理性を納得させるであろうか。何故かく問うのかと言えば、われらは何よりも先ず神が植えつけ給うた理性こそ唯一の判断基準であると主張するものだからである。われらはあくまで理性に訴える。何故なら、古(いにしえ)の聖賢がこれこそ神の唯一にして最後の啓示であると断定して聖典を編纂した時も、彼らなりの理性に訴えたのである。その断定に際して彼らなりに理性に訴えたのである。故にわれらもまた理性に訴える。そなたはわれら霊団の同志が啓示の永遠不変の支柱とすべきものを神自ら規定されたと主張しているとでも思われるか。われらもまた神の使者にほかならぬ。かのヘブライの預言者たちを導いた霊たち、そして啓示を神の言葉と断定せる人間を指導した霊たちと同様に、われらもまた神によりて導かれた霊なのである。

われらも彼らと同じ神の使者である。携え来るメッセージも同じである。ただ、より一層進んでいるというまでである。われらの説く神も彼らの説ける神と同一である。ただ、その神性をより明確に説いているまでである。つまり人間臭が減り、より神々しき存在となっている。

こうしたわれらの訴えをその言葉どおりに神聖なるものと受け取るか否かは、そなたらの理性(とは言え背後霊の指導を受けることは間違いないが、理性であることには変わりない)が最後の判断を下すことである。この上われらの訴えを否定する者は自らの理性の愚昧さを証言する者に他ならぬ。盲信を理性的信仰と同等に見なすことは出来ぬ。なんとなれば信仰にも根拠ある信仰と根拠なき信仰とがある。根拠ある信仰は論理的裏付けが可能であり、その場合にも理性が最終的判断を下す。後者は論理的裏付けなき信仰であり、これでは人を動かすことは出来ぬ。況(ま)して全く根拠なき盲信に至っては、われらもその頼りなさと信用のなさについてこれ以上論ずる必要さえ認めぬ。

故にわれらは理性に訴えるのである。理性的に判断してわれらがどこまで悪魔性を証しているというのか。われらの説く教義がどこまで邪霊的であるのか。何をもってわれらを悪魔的と言うのか。こうした点については、これよりのちに説くことにしよう。



古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze




七章  国家の指導者と自由意志

 シルバーバーチの交霊会には、シルバーバーチが一方的に語る日もあれば、霊言集の読者から寄せられた質問に答えるだけの日もある。時にはシルバーバーチの方から〝難しい質問〟を所望することもある。

 本章に集めた質疑応答は霊言集の読者から寄せられた投書を中心にしたもので、霊媒のバーバネルには前もって見せないことになっているが、シルバーバーチの答えは、それが読み上げられた次の瞬間に出る。


───霊界の指導者は、地上の政治的組織にどの程度まで関与するのでしょうか。〝人類はみな兄弟〟の理念にそって指導するのでしょうか、それとも各国独自の計画にそって指導するのでしょうか。

 「ご承知のとおり私たちは、人間がとかく付けたがる肩書(ラベル)きにはこだわりません。政党というものにも関与しません。私たちが関心を向けるのはどうすれば人類にとってためになるかということです。

 私たちの目に映る地上世界は、悪習と不正と既成の権力とが氾濫し、それが神の豊かな恩恵が自由に行きわたるのを妨げております。そこで私たちは、その元凶である利己主義の勢力に立ち向かっているのです。永遠の宣戦を布告しているのです。

 そのための道具となる人であれば、いかなる党派の人であっても、いかなる宗派の人であっても、いかなる信仰をもった人であっても、時と場所を選ばずに働きかけて、改革なり、改善なり、改良なり、一語にして言えば〝奉仕〟のために活用します」


───それには本人の自由意思はどの程度まで関わっているのでしょうか。

 「自由意思の占める要素はきわめて重大です。ただ、忘れてならないのは、自由意思という用語には、一つの矛盾が含まれていることです。いかなる意志でも、自らの力ではいかんともし難い環境条件、どうしても従いざるを得ないものによって支配されています。

物的要素があり、国の法律があり、宇宙の法則があり、それが各自の霊的進化の程度の問題があります。

℘114
 そうした条件を考慮しつつ私たちは、人類の進歩に役立つことなら何でも影響力を行使します。あなた方の自由意識に干渉することは許されませんが、人間生活において、より良い、そして理にかなった判断をするよう指導することはできます。

 前にもお話したことがありますが、私たちにとって最も辛い思いをさせられるのは、時として苦境にある人を目の前にしながら、その苦境を乗り切ることがその人の魂の成長にとって、個性の開発にとって、また霊的強化にとって薬になるとの判断から、何の手出しもせずに傍観せざるを得ないことがあることです。

 各自に自由意思があります。が、それをいかに行使するかは、各自の精神的視野、霊的進化の程度、成長の度合いが関わってきます。それを、私たちが許される範囲内でお手伝いをするということです」


───各国の指導的立場にある人々の背後でも指導霊が働いているのでしょうか。

 「すべての国にそれなりの計画が用意されております。すべての生命に計画があるからです。地上で国家的な仕事に邁進してきた人は、死の過程をへたあとも、それをやめてしまうわけではありません。

そんなことで愛国心が消えるものではありません。愛国心は純粋な愛の表現ですから、その人の力は、引き続きかつての母国のために使用されます。

 さらに向上すれば、国家的意識ないし国境的概念が消えて、すべては神の子という共通の霊的認識が芽生えてきます。しかし私どもは、あらゆる形での愛を有効に活用します。

少なくても一個の国家を愛し、それに身を捧げんとする人間の方が、愛の意識が芽生えず、役に立つことを何一つしない人間よりはましです」


───人類の福祉の促進のために、霊界の科学者が地上の科学者にインスピレーションを送ることはあるのでしょうか。

 「あえて断言しますが、地上世界にとっても恵み、発明・発見の類のほとんど全部が霊界から発しております。人間の精神は、霊界のより大きな精神が新たな恵みをもたらすために使用する受け皿のようなものです。

 しかし、その分量にも限度があるということを忘れないでください。残念ながら人間の霊的成長と理解力の不足のために、せっかくのインスピレーションが悪用されているケースが多いのです。科学的技術が建設のためでなく破壊のために使用され、人類にとっての恩恵でなくなっているのです」


───そちらからのインスピレーションの中には悪魔的発明もあるのでしょう?

 「あります。霊界は善人ばかりの世界ではありません。きわめて地上とよく似た自然な世界です。地上世界から性質(タチ)の悪い人間を送り込むことを止めてくれない限り、私たちはどうしようもありません。

 私たちが地上の諸悪を無くそうとするのはそのためです。こちらへ来た時にちゃんと備えができているように、待ち受ける仕事にすぐ対処できるように、地上生活で個性をしっかりと築いておく必要性を説くのはそのためです」




℘117
    八章  新しい世界秩序の構築


 特定の日を決めて合同で祈ること、たとえばスピリチュアリストがそういう催しを行うことに意義があるのだろうか。そういう質問が発展して、スピリチュアリズムのそもそもの目的、すなわち魂の自由と解放による新しい世界の誕生が話題となった。まずシルバーバーチがこう語る。

 「私たちは時には冗談を言っては笑い、楽しい雰囲気の中で会を進めておりますが、こうしたささやかな集まりの背後に、大きな、そして深刻な目的が託されております。出席なさっている皆さんも、自分たちの力でどれほど多くの人々が光明を得ているかをご存じないでしょう。

 この霊媒の口から出る言葉は、高い界から送られてくるメッセージの一部を私が取り次いでいるのですが、これも皆さんにはすっかりお馴染となりました。

皆さんの生活の背景として、ごく当たり前の位置を占めるに至っております。もはや皆さんにとって、私の述べることに取り立てて耳新しいことや革命的なものはなくなりました。

 十数年前、あなた方は精神的ならびに霊的な自由を手にされました。永いあいだ尋ね求め、あれを取り、これを拒否し、神から授かった理性で試し、検討した末に、ついに私の述べるメッセージを真実のものと認められたわけです。

今では、私の説く単純で素朴な教えこそ永遠の真理であることを得心しておられます。

 しかし一方には、永いあいだ暗闇と懐疑と苦悩の中でさ迷っている人、こうした真理が魂の解放のメッセージとなるべき人が大勢いることを忘れてはなりません。

気の毒な状態から救い出してあげなければなりません。霊的真理には一人ひとりの人間を束縛から解放する意図が託されているのです。私たちの仕事は必ず一個の人間から始めます。人類全体も、個が集まって構成されているからです。

 一人、そして又一人と、非常にゆっくりとした根気のいる仕事ではありますが、それ以外に方法がないのです。大勢の人を一度に変えようとしても、必ず失敗します。

暗示が解け、普通の感覚に戻った時、すべてが忘れ去られます。そうした一時の興奮から目覚めたものは、気恥ずかしささえ味わうものです。

 ですから私たちは、あらゆる反抗と敵意と妨害の中にあっても〝点滴、岩をも穿つ〟の譬えで、一人また一人と、光明が射し真理を悟ってくれることを信じて、素朴ながらも繰り返し繰り返し説いてまいります。

その訓えの意味を十分に理解して価値を正しく評価して下さる方は、それ以後は後ろ髪を引かれる思いをすることなく、それまで永いあいだ魂を束縛してきた古い因襲的信仰に、きれいさっぱりと決別することでしょう。

 暗闇からはい出て、光明の世界へ辿り着いたのです。真実の光を見出したのです。それを〝理性〟で確認したのです。私たちが説く教えには、人間の理性が納得する筋が通っていること、人間の常識を怒らせる要素がないこと、人間の知性を反発させるものではないことを、皆さんはご存知です。

むしろ皆さんは、これほど明白な真実がなぜ受け入れられないのだろうかと、悩みにさえ思っておられるくらいです。

 私たちに反抗する大きな勢力がまだまだ存在することを忘れてはなりません。その中でも特に警戒を要するのが、キリスト教会という宗教のプロが有する既得の権力です。

彼らはそれを振りかざして、私たちの使命を阻止せんとすることでしょう。彼らはもはや何ら新しい恩恵は持ち合わせません。持ち出すものと言えば、カビの生えた古い教説ばかりです。
℘120
 彼らは、身は今の世にあっても精神は古い時代に生きていて、その過去の栄光を現代に蘇らせようとします。今の彼らには、それしか持ち合わせがないからです。教会は倒れかけた墓のごとく陰うつな空虚さに満ち、およそ神の霊の宿るところではなくなっております。

そういう宗教家が私たちを非難し、悪魔の手先である───信心深いお人好しや妄想に取りつかれ易い人間をだまそうと企てているのだ、と宣伝します。

 私たちはそういう宗教家を見て情けなく思わずにはいられません。彼らは、往々にして自分でもそうとは気付かずに、宗教家としての職責を裏切り、民衆を神へ導くことをしないどころか、神との間に垣根をこしらえ、

ただの書物に過ぎないもの、ただの教義に過ぎないもの、ただの建造物に過ぎないものに自らの魂を縛られ、それを真理より大切なものであると信じ切っております。

 私たちが酷しい言葉で非難のつぶてを投げるのは、そう言う宗教家に対してです。彼らは宗教家としては落第しているのです。苦しみと悲しみの海にさまよう無数の人々を導く資格を失っているのです。

神学と言う粗悪品を混入して、イエスがせっかくこの世にもたらした素朴な啓示の言葉を忘れてしまっております。

℘121
 私たちが説く宗教とはお互いがお互いのために尽くし合う宗教です。人のために役立つことが霊の通貨なのです。大霊の子である同胞のために自分を役たてるということは、とりもなおさず大霊のために役たてることであり、それを実行した人は。立派に宗教的人間といえます」


───伝統的宗教に対するわれわれの態度は寛容的であるべきでしょうか。厳しい態度で臨むべきでしょうか。

 「相手が誰であろうと、臆せず真実を述べることです。あなたも神の僕の一人です。間違いは排除し、虚偽は論破すべきです。恐れてはいけませ。怖じける必要は少しもありません。

大堂伽藍を建て、妙なる音楽を流し、ステンドグラスを飾り、厳かな儀式を催したからといって、そんなことで宇宙を創造した大霊が心を動かされるものではありません。宇宙の大霊すなわち神を一個の建物の中に閉じ込めることはできないのです」


 これに関連した質問を受けて、さらにこう述べた。
℘122 
 「大衆に目隠しをして暗闇に閉じ込めようと思えば、出来ないことはありません。かなりの年月にわたってそうすることも可能です。しかし、いつかは大衆も、自分たちが本来は光の子であることを思い出して、真理の光明を求めはじめます。

その時期を権力によって遅らせることはできます。妨害もできます。しかし、最後は真理は真理としてあるべき位置に落着きます。

 あなた方人間も霊的存在です。肉体だけの存在ではないのです。無限の可能性を秘め、神性を宿しているがゆえに、その霊的可能性が発現を求め始めます。一時的に無視することはできます。が、永遠に抹殺してしまうことはできません。

だからこそ真理の普及が急務なのです。人間が霊的存在であるということは内部に宿る霊がこの驚異に満ちた大宇宙を創造した力の一部であるということです。いかなる宗教的権力を持ってしても、霊の声を永遠に封じ込めることはできません」


 伝統的宗教の失敗と新しい世界の誕生のテーマにもう一度言及してこう述べている。

 「地上世界では今、古い体制の崩壊と衰亡が進行し、かつて我がもの顔だった説教者たちも、もはやこれでは民衆の心を捉えることができないことを認め始めております。

永いあいだ盲目の民を好きに操って来た盲目の指導者達───真理の行進に抵抗し、現代に生きる聖霊の存在を否定せん(霊界からの働きかけを認めないこと)としてきた者たち、そうした者たちが今、その代償、つまり霊的法則の存在を認めようとしなかったことへの代償を払わされつつあります。

 そこに、あなた方が肝に命じていただきたい教訓があります。真理のために闘う者は、最後は必ず勝利を収めるということです。善の勢力を完全に封じ込めることはできないからです。一時的には抑えることはできます。邪魔することもできます。進行を送らせることもできます。

しかし、真理を永遠に破壊したり、あるべき位置に落ち着くことを阻止し続けることは誰にもできません。

 これは宗教にかぎったことではありません。人生のあらゆる面についていえることです。何事につけても、誤った説に抵抗し、偽りの言説を論破し、迷信に反抗していく者は、決してうろたえてはなりません。

全生命を支え、最後の勝利を約束してくれる、永遠にして無限の霊力に全幅の信頼を置かなければいけません。

 死によって隔てられた二つの世界の交信を可能にしてくれる霊的法則の存在を知った者にとって、こうした戦争(第二次大戦)によって惹き起される不利な条件の中で真理を普及していくことがいかに困難であるかは、私もよく承知しております。

しかし、何が何でも、この霊的真理にしがみついていかねばなりません。やがては、真理に飢え魂の潤いを渇望する者が次第に増え、いつかは知識の水門が大きく開かれる時機が熟します。

その時に備えておかねばなりません。対立紛争が終わった時、戦火が消えた時、無数の人が今度は知識を土台とした生き方の再構築を望むことでしょう。

 彼らは、宗教の名のもとに押しつけられた古い神話には、うんざりしております。戦争という過酷な体験をし、人生の意義を根本から問い直し、なぜ生まれてきたのか、いかに生きるべきなのか、いつになったら・・・・・・といった疑問に直面させられた者は、その真実の答えを何とか知りたいと思い始めます。真理を渇望し始めます。

その時あなた方は、そうした魂の理性と確信と論理性と叡智でもって対応し、新しい世界の住民としての生き方を教えてあげられる用意が出来ていなければなりません。

 過ぎ去ったことは、そこから教訓を学ぶためでなければ、つまり、失敗をどう正すか、二度と過ちを犯さないためにはどうすべきかを反省するためでなければ、むやみの振り返るべきでものではありません。未来へ目をやり、今日行うことをこれから訪れる、より立派な日の素地としてなければなりません。

世界中があなた方を必要とする時代が来ます。無数の人が、希望と慰めとインスピレーションと指導を求めて、あなた方に目を向ける日がきっときます。

 もう教会へは足を運びません。聖職者のもとへは訪れません。教師のもとへは参りません。あなた方の方へ足を向けます。なぜなら、死と隣り合わせの体験をし、その厳しい現実の中で、ある種の霊的体験をした者は、心の目が開いているからです。

目の前を遮っていたモヤが晴れたのです。真理が受け入れる用意ができたのです。ならば、それを授けてあげる用意ができていなければなりません」


───新しい世界が生まれつつあるということは何を根拠におっしゃるのでしょうか。

 「私は厳とした計画、神の計画が見て取れるのです。私は、霊の力こそ宇宙最大の力であると信じています。人間がその働きを歪め、遅らせることはできます。妨害を押し止めることはできるかもしれません。しかし、永遠にその地上への権限を阻止することはできません。

 あなた方が霊的真理を手にしたということは、人類が抱える全ての問題を解くカギを手にしたことを意味します。

私は決して、世にいう社会改革者たち───義憤に駆られ、抑圧された者や弱き者への止むにやまれぬ同情心から悪と対抗し、不正と闘い、神の物的な恵みがすべての人間に平等に分け与えられるようにと努力している人々を、ないがしろにするつもりは毛頭ありません。
℘126
 ただ、その人たちは問題の一部しか見ていない───物的な面での平等のために闘っていることに過ぎないということです。もちろん精神的に平等であるべきことも理解しておられることでしょう。が、人間はまず何より〝霊〟なのです。大霊の一部なのです。宇宙を創造した力の一部なのです。

決して、宇宙の広大な空間の中に忘れ去られた、取るに足らぬ存在ではないのです。宇宙の大霊の一部として、常に無限の霊性に寄与しているのです。

 その霊力の息の根を止めることは誰にもできません。いつかは必ず表に出てきます。残酷な仕打ちにも、憎しみの行為にも負けません。こん棒で叩かれても、強制収容所へ入れられても、独裁政治で抑えられても、決して窒息死することはありません。

なぜならば、人間の霊は、人間が呼吸している空気と同じように自由であるのが、本来のあるべき姿なのです。それが生来の、神から授かった、霊的遺産なのです。

℘127   
 その理想像の素晴らしさを理解した人々、新しい世界のあるべき姿を心に描いた人々は、当然そうあらねばならないことを十分に得心しています。なぜなら、それが人間に息吹を与える動物から人類へと進化させた、その背後の目的の一部だからであり、それはさらに人間を神的存在へと向上させていくものです。

あなた方の使命はその松明を引き継ぎ、新しい炎を燃え立たせ、次の世代にはより大きな光明が道を照らしてあげることです。

 基盤はすでに出来上がっているのです。何年も前から、その基盤作りはこちらの世界で終わっているのです。苦痛は伴いながらも、ゆっくりと各界の名士あるいは名もなき男女が、永遠の霊の実在の証言に立ちあがり、神の計画の一刻も早い実現のために刻苦したのです。新しい世界は必ず実現します」


───その新しい世界は、われわれ人間自らの努力によって実現しなければならないはずなのに、なぜその基盤作りがそちらの世界で行われたのでしょうか。

 「あなた方の世界は影です。光はこちらから出ているのです。あなた方は、こちらで建てられてプランを地上で実行し実現させていきつつあるところです。オリジナルの仕事───と呼ぶのが適切か否かは別として───は全てこちらで行われます。

なぜなら全てのエネルギー、全ての原動力は物質から出るのではなくて、霊から出るのです。みなさんは、意識するしないに関係なく、霊力の道具なのです。受信と送信をする道具なのです。霊的影響力をどこまで受けとめられるかによって、成功するしないが決まるのです」

℘128
───ということは、結局、そちらからの援助をえて私たちが努力することから新しい世界が生まれるということでしょうか。

 「その通りです。何ごとも人間の力だけでは成就し得ません。人間が何かを始める時、そこには必ずこちらからの援助が加味されます。私たちは常に道具を探し求めております。

人間の方から霊力の波長に合わせる努力をしていただかねばなりません。完ぺきは決して望めません。常に困難を克服し邪魔を排除する仕事は永遠に続きます」


───私たち自身の努力で地上に新しい世界を招来しなければならないわけですね?

 「努力してはじめて得られるのです。私から申し上げられることは、神の計画の一部として成就しなければならないことは、すでに決まっている───が、それがいつ実現されるかは、あなた方人間の努力次第ということです。計画はできているのです。

しかし、その計画は自動的に実現されるわけではありません。それはあなた方人間の自由意思に任されております。人間は自由意思を持った協力者です。ロボットでも操り人形でもありません。宇宙の大霊の一部なのです」


───新しい世界が来るとおっしゃっても、私たちにはそれらしい兆候は見当たらいのですが・・・・・・

 「古い秩序が崩壊していくのと同じ速さで、新しい秩序が生まれます。現にその目でご覧になったばかりではありませんか。大帝国がくずれさりました。お金の力が絶対ではなくなりました。

利己主義では割に合わないことが証明されました.戦争体験によって、普通の一般男女の力の本当の価値が証明されました。

 どうか、この私に〝進歩が見られない〟などとおっしゃらないでいただきたい。
℘130
教訓ならあなた方の目の前にいくらでもあります。別に、霊眼は必要ではありません。肉眼で見えるところにあります。これほど切実な体験をした現代の人々に、新しい世界が訪れて当然です。

もしもその恩恵に浴せないとしたら、その人はまだまだ内部の霊的な力を使用するまでに至っていないことを意味します。それだけの努力をした人々は、その犠牲と引き換えに恩恵を受けておられます。

 私はそれが機械的なプロセスで与えられると申しているのではありません。皆さんにやっていただかねばならない仕事があります。それは、一方では霊的知識を広め、他方では古い権力構造の面影に貪欲にしがみついている、因襲的既得権に対して、あくなき闘いを挑む事です」


 シルバーバーチのもとには、数えきれない程の質問が寄せられている。その一つ一つが読み上げられるのをシルバーバーチは熱心に聞き入るが、余りプライベートな内容のものには答えたがらない。

その理由を、プライベートな悩みに答えるには、その悩みを抱えている本人がすぐ目の前にいる必要がある───が、それは、私が委ねられた使命ではないから、と説明する。自分の本来の使命は、すべての人に共通した真理を説くことにあるという。その一つが次の質問である。

℘131
───あなただけがご存じの、何か新しい真理がありますか。

 「新しい真理というものは一つもありません。真理は真理です。単なる知識は、それを受け取る人次第で内容が異なります。子供時代には、その知能程度に似合ったものを教わります。まずアファベットから始まり、知能の発達と共に単語を覚え、文章が読めるようになります。

どの程度のものが読めるかは、その段階の理解力一つに掛っております。知識は無限に存在します。際限がありません。が、そのうちのどこまでを自分のものにできるかは、精神的ならびに霊的受容力の問題です。

 しかし、いくら知識を蓄えても、それによって真理を変えることはできません。いくら知恵を絞っても、真理の中身を変えることはできません。過去において真理であったものは今日でも真理であり、明日の時代でも真理です。真理は不変であり不滅です。

新しい叡智を身につけることはできます。新しい知識を増やすことも出来ます。が、あたらしい真理を生み出すことはできません。

 地上人類はすでに地上生活にとって必須の真理───親切と助け合いと愛についての基本的真理のすべてを授かっております。世界をより良くするには如何にすべきかは、すでに分かっております。

成長と発展と向上と進化にとって必要なものは、過去幾世紀にもわたって啓示されてきております。それに素直に従いさえすれば、今この地上において、内部に宿された神性をより多く発揮することができるのです。

 偉大な指導者、地上に光をもたらした〝霊力の道具〟は、根本においてはみな同じことを説いております。人間の霊性───各自に宿る不滅の資質に目を向けさせるべく、地上を訪れたのです。

言語こそ違え、みな人間のすべてが無限の魂、神の火花、宇宙の大霊の一部を宿していることを説きました。そして素直に従い実行しさえすれば、それより多くを発揮させてくれる指導原理も説いております。

霊的理念に従って生きれば、この世から悪夢のような悲劇、永いあいだ無益な苦しみを与えてきた、恐怖と悲惨と苦悩を一掃できることを説いてきております。

 自分を愛するごとく他人を愛せよ。苦しむ者に手を差し伸べよ。人生に疲れた人、心に潤いを求める者に真理を語って聞かせよ。病の人を癒し、悲しむ人を慰め、不幸な人を訪ねてあげよ・・・・・・こうした教えは、遠い昔から説かれてきた真実です。こうしたことを実践しさえすれば、地上は一変し、二度と恐ろしい悲劇をもたらす戦争も生じなくなるでしょう。
℘133
 そこで、私たち霊団の取るべき態度はどうあるべきか。人間は自分の成長と死後への霊的準備に必要なものは、すでに掌中に収められております。聖なる者も数多くあります。〝師〟と呼ばれる者も数多く輩出しております。

内的世界を垣間見て、その人なりに解釈した霊覚者が大勢います。しかし不幸にして、そうした形で地上に啓示された素朴な真理が埋もれてしまいした。

 人間はその上に教義だの、ドグマだの、信条だの、儀式だのという、余計なものを築き上げてしまいした。単純で素朴な真理の上に、神学という名の巨大な砦を築いてしまい、肝心の基盤がすっかり忘れさられております。

そこで私達は、その埋もれた真理を本来の純粋な姿───何の飾り気も無い素朴なままの姿をお見せするための道具、つまり霊界からのメッセージをお届けするための霊媒を探し求めてきたのです。

 私たちは人間の精神的産物によって色づけされた信仰体制には関心はありません。大切なのは、地上界のように錯覚によって惑わされることのない、霊の世界からの真理です。

なぜかと言えば、余りに多くの落後者、精神的浮浪者のような人間が霊界へ送り込まれる一方で、一見立派そうな人間が、霊的事実について誤った概念と偏見のために、

死後に直面する生活に何一つ備えが出来ていないと言うケースが余りに多過ぎると言う現実をみて、私たちは、いずれ誰もが訪れる永続的な実在の世界、すなわち死後の生活に備えるために、単純な真理を地上にいる間に知ってもらえば、私達の手間も大いに省けるだろうと考えたのです。
℘134
 そこで、あらゆる宗教的体系と組織、進歩を妨げる信仰、不必要な障害、人間の精神を曇らせ、心を惑わせる迷信に対して敢然と宣戦布告し、神の子が神の意図されたとおりに生きられるように、不変の真理を授けようと努力しているわけです。

 他人がどう言おうと気にしてはいけません。非難、中傷など、すべて忘れることです。霊的真理こそが、永遠に変わらぬ真理なのです。理性が要求するテストのすべてに応えうる真理です。決して知性を欺きません。単純。明快で、誰にでも理解できます。

聖職者によるあらゆる方策が失敗したのちも止まることなく普及発展していく真理です。不変の自然法則に基づいた単純素朴な永遠の真理だからです。

 これには、法王も大主教も、司祭も牧師も教会も聖堂も礼拝堂もいりません。私たちも、これを捏ねまわして神学体系を造ろうなどとは思いません。

こうして説くだけです。が、理解ある伝道者さえいれば、それが社会のあらゆる階層に浸透し、すべての人間が身体的にも霊的にも自由を享受し、二度と束縛の中で生きていいくことはなくなるでしょう。無知の暗闇が消滅し、代わって真理の光がふんだんに注がれることでしょう」

℘135
 別の日の交霊会でも、人間の真の自由獲得のための闘争についてこう語っている。

 「私たちは、本当はあってはならない無知に対して闘いを挑まなくてはなりません。神は、内部にその神性の一部を宿らせたはずの我が子が、無知の暗闇の中で暮らし、影とモヤの中を歩み、生きる方角も分からず、得心いく答えはないと思いつつも問い続けるようには意図されておりません。

真に欲するものには存分に分け与えられるように、無限の知識の宝庫を用意してくださっております。

 しかしそれは、当人の魂と成長と努力と進化と発展を条件として与えられるものです。魂がそれにふさわしくならなければなりません。精神が熟さなければなりません。心が受け入れ体制を整えなくてはなりません。その段階で初めて、知識がその場を見出すのです。

 それも、受け入れる能力に応じた分しか与えられません。目の見えなかった人が見えるようになる場合でも、その視力に応じてすこしずつ見せてあげなくてはなりません。一気に全て見せてあげたら、かえって目を傷めます。霊的真理も同じです。

はしごを一段一段とのぼるように、一歩一歩と真理の源へと近づき、そこからわずかずつ我がものとしていくのです。

℘136  
 いったん糸口を見出せば、つまり行為なり思念なりによって受け入れ態勢ができていることを示せば、その時からあなたは、そのたどり着いた段階にふさわしい知識と教訓を受け入れる仕組みとつながります。そのあとはもう、際限がありません。

これ以上は無理という限界がなくなります。なぜならば、あなたの魂は無限であり、知識もまた無限だからです。

 しかし、闘わねばならない相手は無知だけではありません。永いあいだ意図的に神の子を暗闇に閉じ込め、あらゆる手段を弄して自分たちででっち上げた教義を教え込み、真の霊的知識を封じ込めてきた既成宗教家とその組織に対しても、闘いを挑まなくてはなりません。

 過去を振り返ってみますと、人間の自由と解放への闘争のために、私たちが霊界からあらゆる援助を続けてきたにもかかわらず、自由を求める魂の自然な欲求を満足させるどころか、逆に牢獄の扉を開こうとする企てを、宗教の名にもとに阻止しようとする勢力と闘わねばなりませんでした。

 今なお、その抵抗が続いております。意図的に、あるいは、そうとは知らずに、光明の勢力に対抗し、私たちに対して悪口雑言の限りを浴びせ、彼ら自身も信じなくなっている教義の誤りを指摘せんとする行為を阻止し、

勝手にこしらえた神聖不可侵思想にしがみつき、自分で特権と思い込んでいるものがどうしても捨てきれずに、擦り切れた古い神学的慣習を後生大事にしている者が、まだまだ存在します。

 そこで私たちは、人間のすぐ身のまわりに片時も休むことなく打ち寄せる、より大きな、素晴らしい霊の世界のエネルギーがあることを教えに来るのです。そうした数々の障害を破壊し、莫大な霊力───すべての存在に活力を与えるダイナミックな生命力をすべての人間が自由に享受できるようにするためです。

その生命力が、これまでの人類の歴史を通じて多くの人々を鼓舞してまいりました。今でも多くの人々に啓示を与えております。そして、これから後も与え続けることでしょう。

 荒廃しきった世界には為さねばならないことが数多くあります。悲哀に満ち、涙に、むせび苦痛にあえぐ人にあふれ、何のために生きているかを知らぬまま、首をうなだれ、行き先が分からずに、さ迷っている人が大勢います。

そうした人たちにとって、目にこそ見えませんが、霊の力こそ本当の慰めを与え、魂を鼓舞し、元気づけ、導きを必要とする人々に方向を指し示してあげる不変の実在があることを、その霊力が立証してくれます。

 そこにこそ、霊的知識を授かった人々のすべてが参加し、自由の福音、解放の指導原理を広め、人生に疲れ果て、意気消沈した人々の心を鼓舞し、魂の栄光を知らしむべく、この古くて新しい真理の普及の道具として、一身を捧げる分野が存在します。

私たちが提供するのは、霊の力です。あらゆる困難を克服し、障害を乗り越えて、真理の光と叡智と理解力を顕現せしめ、神の子等に恒久的平和を築かせることができるのは、霊の力を措いて他にはないのです」
℘138

───戦死の場合でも、誰がいつ死ぬかということは、霊界では前もって分かっているのでしょうか。

 「そういうことを察知することのできる霊がいるものです。が、どれくらい先のことを察知できるかは、その時の事情によって異なります。

愛の絆によって結ばれている間柄ですと、いよいよ肉体との分離が始まると必ず察知します。そして、その分離がスムースに行われるのを手助けするために、その場に赴きます。

 霊界のすべての霊に知られるわけではありません。いずれにせよ、死んだ時一人ぼっちの人は一人もいません。必ず、例外なく、周りに幾人かの縁故のある人がいて、暗い谷間を通ってくる者を温かく迎え、新しい、そして素晴らしい第二の人生を始めるための指導に当たります」


 総じてシルバーバーチは誰が聞いても分かるようなことを説き、理屈っぽい、難解な質問には答えたがらない傾向がある。その理由をこう弁明する───

 「難解な質問を回避したいからではありません。私は、今すぐ応用のきく実用的な情報をお届けすることに目標をしぼっているからです。基本の基本すら知らずにいる大勢の人々、真理の初歩すら知らない人が大勢いることを思うと、もっと後になってからでもよさそうな難解な理屈を捏ねまわすのは、賢明とは思えません。

 今の時代に最も必要なのは、簡単な基本的真理───墓場の向こうにも生活があること、人間は決して孤独な存在ではなく、見捨てられることもないこと、宇宙のすみずみまで大霊に愛の温もりをもつ慈悲深い力がいきわたっていて、一人一人に導きを与えていること、それだけです。

 これは人間のすべてが知っておくべきことです。また誰にでも手に入れることのできる、掛けがいのない財産なのです。そうした基本的真理すら知らない人間が何百万、いや何千万、いや、何億といる以上は、私たちはまず第一に、そういう人たちから考えようではありませんか。それが私たちにとって最も大切な義務だと思うのです」

℘140
 別の日の交霊会でも同じ話題について───

 「わたしたち霊界の者がこうして地上へ戻ってくる目的の真意が、ほかならぬ宗教の指導者であるべき人から曲解されております。いつの時代にあっても、宗教とは基本的には霊力との関わり合いでした。

それはまず、地上の人間の霊的向上を指向し規制する摂理を教える使命を帯びた者が、地上へ舞い戻ってくるということから始まります。つまり宗教の本来の目的は、人間の霊性に関わっているからです。

 そこから出発し、ではその霊性を正しく発達させる上で、霊界からの指導を受けるにはどうすべきかを説くのが、宗教の次の仕事です。霊的摂理は広範囲にわたっております。

ところが、それが不幸して誤って解釈され、その上、それとは別の意図を持った聖職者が割り込んできたために、そこに混乱が生じたのです。

 人間も根本的には霊であり、それが肉体を使用しているのであって付属品として霊を宿した肉体的存在ではないわけです。肉体は霊に従属しているのです。地上生活の全目的は、その内在する霊に修業の場を与え、さまざまな体験を通じてそれを育み、死によってもたらされる肉体からの解放の時に備えて、身支度をさせることにあります。

そこから本当の意味での〝生活〟が始まるのです。宗教とは、霊が霊として本来の生活ができるように指導するための処世訓であり、道徳律であると言えます。

 ところが不幸にして、古い時代 (イエスの時代の少し後) に、霊の道具である霊媒と聖職者との間に衝突が生じたのです。聖職者の本来の仕事は、聖堂や教会といった宗教的行事の執り行われる建造物の管理でした。

原初形態においては両者の関係はうまく行っておりました。が、ある時代から聖職者の方が、紳示(霊界通信)を受ける霊媒にばかり関心をむけられることに不快感を抱くようになりました。

そしてそれまでに入手した神示を資料として、信条・儀式・祭礼・ドグマ・教説等を分類して綱領をこしらえる、いわゆる神学的操作を始めたのです。今日まで引き継がれているもののうち、どれ一つとして霊の資質と実質的に関わりのあるものはありません。

 かくして、真の宗教の概念が、今日では曖昧となってしまいした。宗教というと何かお決まりの儀式のことを思い浮かべ〝聖典〟と呼ばれるものを読み上げることと考え、賛美歌を歌い、特別の衣装を着ることだと思うようになりました。何やら難しい言説を有り難く信奉し、理性的に考えれば絶対におかしいと思いつつも、なおそれにしがみつきます。
℘142  
 私たちはいかなる神学、いかなる教義、いかなる信仰告白文にも関心はありません。私たちが関心を持つのは人間の霊性であり、私たちの説くこともすべて、絶対的に従わねばならないところの霊的自然法則に向けられています。人間がこしらえたものを崇めるわけにはいきません。

宇宙の大霊によって作られたもののみを実在として信じます。そこに、宗教の捉え方の違いの核心があります。

 人のために役立つ行為、霊性に動かされた行為、無私と利他的行為、自分より恵まれない人へ手を差し伸べること、弱き者へ力を貸してあげること、多くの重荷に喘ぐ人の荷を一つでも持ってあげること、こうした行為こそが私たちの説く宗教です。

 〝神とイエスと聖霊は三にして一、一にして三である〟などと説くことが宗教ではありません。宗教的であるとも言えません。それを口にしたからといって、霊性はみじんも成長しません。朝から晩まで賛美歌を歌ったからといって霊性が増えるわけではありません。

 バイブルを読んでも(キリスト教)、タルムードを読んでも(ユダヤ教)、コーランを読んでも(イスラム教)、バカバット・ギ―タ―を読んでも(ヒンズー教)、その他、いかなる聖なる書と呼ばれているものを、目が疲れるほど読んでも、それだけで霊性が成長するわけではありません。

 〝宗教的〟とみなされている行事のすべてを行っても、それによって一段と価値ある人生へ魂を鼓舞することにならなければ、私たちが考えている意味での宗教的人間になるわけではありません。

 肩書(ラベル)はどうでもいいのです。形式はどうでもいいのです。口先だけの文句はどうでもいいのです。大切なのは〝行為〟です。どういうことをしているかです。つまり各自の日常の生活そのものです。

 私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人として神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすことはできません。自分が自分の救い主であり、贖い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。

 また、神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。すなわち、親切・寛容・同情・奉仕の行為が自動的に、それ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義・罪悪・不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も、安価な赦免もありません。
℘144
神の公正が全宇宙に行きわたっております。霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。死後の床での悔い改めも通用しません。

 巨大なる宇宙の中で生じるもの全てに責任を持つ大霊の、不変にして絶対的威力を有する摂理に目を向けましょう。私は常にその摂理を念頭に置いています。

なぜなら私たちの説く神は、人間的弱点───激情や憤怒に動かされたり、好きな人間と嫌いな人間とを選り分けたりするような、そんな人間的存在ではないからです。

 私が見る宇宙は法則によって支配されています。すみずみまで行きわたり、これからも常に永遠に存在しつづける法則です。

地上の人間に永い間振り回され、隷属させられてきた誤った概念と虚偽、偏見と無知を無くしていくには、地上の生命現象と生活現象のすべてが、その絶対的法則によって支配されていることを教える以外に方法はありません。

 その知識が少しでも増えれば、それだけ理解力も豊かになるでしょう。本来の美しさを遮っていたベールが取り除かれ、有限の地上的存在の視野を超えた所に存在する、より大きな生活を少しでも垣間見ることになるでしょう。

 かくして私たちは、常に神の永遠の自然法則、絶対に狂うことも過つこともない法則、地位の高い低いに関わりなく、すべての存在に等しく働く法則に、忠誠と感謝の念を捧げるものです。

誰一人として等閑(なおざり) にされることはありません。誰一人として独りぼっちの者はいません。法則の働きの及ばない者。範囲からはみ出る者など、一人もいません。あなたがこの世に存在するという事実そのものが、神の摂理の証しです。

 人間の法則は機能しないことがあります。改められることがあります。人間の成長と発達に伴って視野が広がり、知識が無知をなくし、環境が変化するに伴って新たな法令が要請されると、従来の法律が廃止されたり、別の法律と置き換えられたりすることもあります。

 しかし、神の法則に新しい法則が付け加えられことは絶対にありません。改正もありません。解釈上の変化も生じません。いま機能している法則は、これまでずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能してまいります。一瞬の休みもなく機能し、そして不変です」


Friday, February 27, 2026

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

 Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze


六章  霊界の審議会

 今からほぼ二千年前、一人の男が十字架上で死に、その男の影響力がその後の世界の歴史と多くの人々の心を動かし、それは今なお続いている。が、そのイエス自身は、その後どこで何をしているのであろうか。

 ある日の交霊会でシルバーバーチは、イエスは今すっかり教義とドグマと権力という雑草におおわれてしまった霊的真理の本来の姿を今一度明らかにするための、霊界からの地球的規模の働きかけの最高責任者であると述べた。

 「ほぼ二千年前にイエスは磔刑にされました。それはただ、当時の司祭たちがイエスを憎んだからにすぎません。イエスを通して、霊力のほとばしりを見せつけられたからでした。

まさに神の子に相応しい人物だったからにほかなりません。このままでは自分たちの立場が危ないと思ったのです。

 私たちが今、それと全く同じ反抗に遭っております。宗教界がこぞって〝真理〟を磔刑にしようとしております。しかし、それは不可能なことです。真理は真理であるがゆえに、あらゆる反抗、あらゆる敵対行為の中にあっても、厳然と存在し続けます。

キリスト教界の外部では次々と霊力が顕現しているのにもかかわらず、空虚で侘しい限りの巨大な建造物の中には、その陰気な暗闇を照らす霊力の光は一条も見られません」


───そんなキリスト教は、むしろ死滅してしまった方が増しだとおっしゃるのでしょうか。

 「私は、レンガとモルタル、祭壇と尖塔でできた教会には何の興味もありません。何の魅力も感じません。建造物にはまるで関心がないのです。

私が関心を向けるのは〝魂〟です。それで私は、神とその子の間に横たわる障壁を取り除くことに奮闘しているのですが、不幸にして今日では、教会そのものが障壁となっているのです。

 これほど大きな罪悪があるでしょうか。宇宙の大霊である神は、一個の教会に極限されるものではありません。一個の建造物の中に閉じ込められるものではないのです。

神の力は、人間各自がその霊性を発揮する行為の中に、すなわち自我を滅却した奉仕的行為、困窮している無力な同胞の為に一身を捧げんとする献身的行為の中に顕現されるのです。そこに宇宙の大霊の働きがあるのです。

 確かにキリスト教にも奇特な行いをしている真摯な人材が、そこここにいます。が、私が非難しているのは、その組織です。それが障害となっており、是非とも取り除かねばならないからです。

 真の宗教には儀式も際礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も、豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役たてることです。同胞のために自分を役たてることによって神に奉仕することです。


 私はそのことを、何度申し上げてきたことでしょう。然るに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨念と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。人類の知識と発明と科学の発見の前進に抵抗してきました。

新しい波に飲み込まれるのを恐れて、危篤の権力の確保に汲々としてきました。しかし、新しい霊的真理はすでに地上に根付いております。最早その流れをせき止めることはできません」

℘104   
───イエスの意気込みは大変なものがあろうと察せられます。

 「誤解され、崇められ、今や神の坐に祭り上げられてしまったイエス、そのイエスは今どこにおられると思いますか。カンタベリ大聖堂ではありません。セントポール寺院でもありません。ウェストミンスター寺院でもありません。

実はそうした建造物がイエスを追い出してしまったのです。イエスを近づき難い存在として、人類の手の届かぬところにおいてしまったのです。

 今なおイエスは、人類のために働いておられます。それだけのことです。それを人間が、神学や儀式によって難しく複雑にしてしまったのです。しかも、こうして同じ真理を説く私たちのことを、天使を装った悪魔の勢力であり、サタンの声であり、魔王のそそのかしであると決めつけております。

 しかし、キリスト教の時代はもう過ぎ去りました。人類を完全に失望させました。人生に疲れ、絶望の淵にいる地上世界に役立つものは、何一つ持ち合わせていません」

℘105
 シルバーバーチによると、イエスは、イースターとクリスマスとほぼ同じ時期に霊界で開かれる指導霊ばかりの会議を主宰しているという。それにはシルバーバーチも出席するために、交霊会も二、三週間にわたって休暇となる。

時おり、その前後の交霊会で、その会議の様子を説明しくれることがある。次に紹介するのは、休暇に入る前の最後の交霊会での霊言である。

 「この機会は私にとって何よりの楽しみであり、心待ちにしているものです。その時の私は、わずかな期間ですが本来の自分に立ち帰り、本来の霊的遺産の味を噛みしめ、霊界の古き知己と交わり、永年の向上と進化の末に獲得した霊的洞察力によって実在を認識することのできる界層で、生命の実感を味わいます。

 自分だけ味わって、あなた方に味わわせてあげないというのではありません。味わわせてあげたくても、物質界に生きておられるあなた方、感覚が五つに制限され、肉体という牢獄に閉じ込められて、そこから解放された時の無上のよろこびをご存じないあなた方、

たった五本の鉄格子の間から人生をのぞいているあなた方には、本当の生命の何たるかを理解することはできないのです。

霊が肉体から解放されて本来の自分に返った時、より大きな自分、より深い自我意識に宿る神の恩寵をどれほど味わうものであるか、それはあなた方には想像できません。

 これより私はその本来の自分に帰り、幾世紀にもわたる知己と交わり、私が永い間その存在を知りながら地上人類へ奉仕のためによろこんで犠牲にしてきた〝生命の実感〟を味わいます。これまでに大切に仕舞ってきたものがこの機会に味わえることを、私がうれしくないと言ったらウソになりましょう。

 お分かりと思いますが、この機会は私にとって、数あるフェステバル(うれしい催し)の中でも最大のものであり、あらゆる民族、あらゆる国家、あらゆる分野の者が大河をなして集結し、一堂に会し、それまでの仕事の進捗のようすを報告し合います。

その雄大にして崇高な雰囲気は、とても地上の言語では表現できません。人間がインスピレーションに触れて味わう最大級の感謝も、そのフェステバルで味わう私たちの実感に比べれば、まるで無意味な、ささいな出来事でしかありません。

 その中でも最大の感激は、再びあのナザレのイエスにお会いできることです。キリスト教の説くイエス・キリストではありません。偽り伝えられ、不当に崇められ、そして手の届かぬ神の座に祭り上げられたキリストではありません。

人類のためのみ思う、偉大な人間としてのイエスであり、その父、そして我々の父でもある大霊のために献身する者すべてに、その偉大さを分かち合うことを願っておられるイエスです」


 休暇に入る前の交霊会では、シルバーバーチがサークルのメンバーに、それまでの成果を語って協力に感謝するのが常である。

 「あなた方と私たち霊団との愛の親密度が年と共に深まるにつれて、私は、ぞれがほかならぬ大霊の愛のたまものであると感謝していることを知っていただきたいと思います。

つまり大霊のお許しがあったればこそ、私はこうして地上の方々のために献身できるのであり、週にたった一度あなた方とお会いし、それも私の姿をお見せすることなく、ただこうして語る声としての存在を認識していただいているにすぎないにもかかわらず、

私を信じ、人生のすべてを委ねるまでに私を敬愛してくださる方々の愛を一身に受けることが出来るのも、大霊のお力があればこそだからです。

 そのあなた方からの愛と信頼を私はこの上なく誇りに思います。あなた方の心の中に湧き出る私への熱烈な情愛───私にはそれがひしひしと感じ取れます───を傷つけるようなことだけは絶対に口にすまい、絶対にするまい、といつも誓っております。
℘108
 私たちのそうした努力が大きな実りを生んでいることが私にはうれしいのです。私たちのささやかな仕事によって多くの同胞が真理の光を見出していることを知って、私はうれしいのです。真理が前進していること、そしてその先頭に立っているのが、ほかならぬ私たちであることがうれしいのです。

 絶え間なく仕掛けてきた大きな闘いにおいて、あなた方が堪忍不抜の心を失わず、挫折することがなかったことを、うれしくおもいます。

役割を忠実に果たされ、あなた方に託された大きな信頼を裏切ることがなかったことを、うれしく思います。私の使命があなた方の努力の中に反映して成就されていくのを、謙虚な眼で確かめているからこそ、私はあなた方のその献身をうれしく思うのです」


 このあと、いつもの慣例にしたがって、メンバーの一人ひとりに個人的なメッセージを送り、そのあとこう述べて別れを告げた。

 「さて、分かれを告げる重苦しい気持ちの中にも、再びお会いできる日を心待ちにしつつ、私は皆さんのもとを去ります。これより私は、気分一新のために霊的エネルギーの泉へと赴きます。

高遠の世界からのインスピレーションを求めにおもむきます。そこで生命力を充満させてから、再び、いっそうの献身と、神の無限の恩寵のいっそうの顕現のために、この地上へ戻ってまいります。

 あなた方の情愛、今ひしひしと感ずる私への餞別(ハナムケ)の気持ちを抱いて、私はこれより旅立ちます。そうして再び戻ってくるその日を楽しみにいたしております。どうか、常に希望と勇気を失わないでいただきたい。冬の雪は絶望をもたらしますが、再び春が巡ってくれば、大自然は装いを新たにしてほほえみみかけてくれます。

希望に夢をふくらませ、勇気を持って下さい。いかに暗い夜にも、必ず登りゆく太陽の到来を告げる夜明けが訪れるのです。

 では、これにてお別れします。神は常にあなた方を祝福し、その無限の愛をふんだんにもたらしてくださっております。神の愛があなた方すべての人の霊に行きわたり、日々の生活の中に誇らしく輝いております。

 これより地上の暗闇を後にして、高き世界の光明を迎えに参ります。そしてお別れに際しての私の言葉は、再び訪れる時の挨拶の言葉と同じです───大霊の祝福の多からんことを」
℘110
 こうして地上を去り、霊界での大集会に列席したあと、再び地上へ戻って来たシルバーバーチはこう述べた。


 「その会合において私は、かつての私の栄光の幾つかを再び味わってまいりました。地上世界の改善と進歩のために奮闘している同志たちによる会議に、私も参加を許されました。これまでの成果が細かく検討され、どこまで成功し、どの点において失敗しているかが明らかにされました。

そこで新たな計画が立て直され、これから先の仕事───地上人類の進化の現段階において必要な真理を普及させる上で、ぜひとも為さねばならない仕事のプログラムが組まれました。

 地上世界のために献身している大勢の人々───死によって博愛心を失うことのなかった人々ともお会いしました。そして、ちょっぴり私ごとを言わせていただけば───こんなことは滅多にないのですが───過去数カ月間において私が為し遂げたことに対して、お褒めの言葉を頂戴しました。

 もちろん私はお褒めにあずかる資格はないと思っております。私は単なる代弁者にすぎないからです。私を派遣した高級霊団のメッセージを代弁したにすぎず、それをあなた方が広めて下さったのです。

 ともあれ、こうして私たちの説く真理が、人生に迷っている人々、心は重く悲しみに満ち、目に涙を溜めた大勢の人々に、知識と慰めと励ましをもたらしていることはたしかです」

霊訓 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


6節

本節の内容ダービーによる悪影響
祭日の功罪
通信を可能にする条件と不可能にする条件
極端な節制の弊害
中庸こそ大切
死後の結婚の絆
進歩の法則と親和力の法則
通信内容に矛盾の生じる原因


〔この頃ホーム氏(1)と会った。その日は、たまたまダービーの日で、ホーム氏を通じて、ダービーのために霊的状態が悪く、仕事にならないと言ってきた。そこで翌日(五月二十九日)その点を質してみたところ、いろんなことを述べたあと次のように書いた。〕


そうした催しは道徳的雰囲気を乱し、われらを近づき難くする。そこにはわれらに敵対心をもつ邪霊が集結し、物欲を満たさんとして集まれる人間に取り入る隙(すき)を窺うのである。昨日はそうした物欲に燃える者が大挙して集結した。邪霊たちにとって彼らは恰好の標的である。アルコールが入り、野獣の如く肉欲に燃える者。大金を当てにして興奮する者。その当てが外れて絶望の淵に落とされる者、等々がいる。邪霊の誘いに最も乗りやすい者はこの最後に挙げた人種である。たとえそこまで落ち込まぬとしても、道徳的感覚が狂い、感情を抑え邪霊からの攻撃の盾となるべき冷静さと心の平衡が崩れ、つけ入る隙を与えることになる。絶対的悪とまでは行かぬが、自制心を失い狂乱状態に陥れる精神が攻撃の恰好の条件を用意することになる。こうしたものは須(すべか)らく避けねばならぬ。そうした心は霊的悪影響、未熟にして有難からぬ邪霊にまんまと掛かり易い。興奮のあまり節度と理性を失える精神にはくれぐれも用心されたい。

以上の如き理由のため、そなたが質せるような日は善の使者の努力が最も要請されることになる。総攻撃をしかけんとして集結せる邪悪な未熟霊の計画を不首尾に終わらせんがためである。


――しかし、そうなると全ての祝日もいけないことになりませんか。


必ずしもそうではない。祝日の雰囲気が感情の手綱(たづな)をゆるめさせ、喉を焼くアルコールと、欲情の満足と、霊を忘れた振舞いに追いやることになれば、その祭日は許し難きものと言えよう。手綱を奪われた肉体が霊の思うがままの支配下に置かれることになるからである。

しかし祝日が身体に休息を与え、魂に憩のひと時を与えることになれば、話はまた別である。過労によって疲弊した身体が心地よき適度な休息によって生気を回復するであろう。毎日の気苦労と煩事に悩み苦しめられている精神も、適度な娯楽に興じることによって緊張がほぐれ、しばし煩わしさを忘れることになろう。そうした心地よき気分転換がむしろ精神を引き締め、刺激することになるのである。そうしているうちに穏やかな静けさが魂を支配し、それが何にも増して天使の暖かき支配を容易にする。かくして天界の使者の威力が強化され、いかに強力なる悪霊の計画も功を奏さぬこととなる。祝日を人間の堕落の日とせぬためには、善霊の働きと人間の義務についての認識を深めねばならぬ。暴動と放蕩、肉欲とギャンブル、邪念と絶望しか生まぬ祝日はわれらにとりて少しも祝うべき日どころではなく、恐るべき日であり、警戒と祈りを忘れぬ日である。

神よ、無分別なる愚行に耽る理性なき魂を救い、守り給わんことを!


〔そのころ催した実験会がどうやらいい加減な現象によって邪魔されていたらしく、通信霊の心霊写真を撮ろうとした試みも失敗に終わった。写っていた霊は自らはレクターだと名のったが、友人の判断でわれわれとは何の係わりもない、いい加減な霊で、出席者の誰も知らないことが判った。私は何か通信を得たいと思って机に向かったが、一向にまともな通信が得られないので、やむなく諦めた。

その翌日いつもの受け身的な精神状態を取り戻した。すると、こちらから求めないうちに向こうから(ドクターが)通信を送ってきた。私は前日の実験会のことに言及して、あのような場合われわれのほうで為すべきことはどんなことか尋ねた。〕


レクターはそなたの混乱した精神状態のために、通信を送ることが出来なかった。そなたの混乱は実験会でのエネルギーの負担が大きすぎる所為(せい)である。あの実験会での霊言はまったく当てにならぬ。そなたの精神状態は異常なほど反抗的であった。写真に写った人物をレクターと思ったらしいが、レクターはあの種の現象には不慣れなので、そなたの度の過ぎた興奮が今のべた精神状態と相まって通信を不可能にしている事実までは彼自身も気づいておらぬ。あのような精神状態を感じた時は、いかなる話題についても通信を求めてはならぬ。そのような時に得た通信は当てにならず、不完全であり、往々にして危険でもある。


〔私の当惑は大きかった。そこであのような現象を度々見せられては私のささやかな信念がすっかり失われてしまうと不平を述べた。それまでは一度も体験したことがなかったからである。すると――〕


そなたはこれまで、われらのうちの誰かが付き添い、注意と保護を与え得る時以外は、あのような実験会には出席していない。昨日の実験会には物質的成分を操る霊しかいなかった。その結果あのような混乱となったのである。あの時も前もって注意を与えたが、ここで改めて警告しておく。あの時のそなたの反抗的精神状態では到底レクターには支配できぬ。そなたの興奮状態が通信を不可能にしたのである。


〔それ以来私は身体の調子が悪い時や、どこかに痛みのある時、あるいは精神的な悩みや心配事のある時、さらにまた、そうした人が近くにいる時や、混乱を来しそうな雰囲気の中にいる時は、絶対に自動書記をしないよう慎重を期した。その所為だと私は思うのであるが、その後の通信は実に規則正しく、且つ落ち着いた感じを与える。大体において筆致は驚くほど流暢で、書かれたノートを見ても一箇所の削除も訂正も見当たらない。内容の論調も全然ムラがなく一貫している。〕


可能なかぎり精神を受け身に、冷静に保つことである。仕事で過労ぎみの時、心配事で気分が苛立っている時、あるいは滅入っている時、こうした時はわれらとの交信を求めてはならぬ。交霊会に新たなメンバーを加えてはならぬ。調子を狂わせ、妨げにしかならぬ。余計な干渉をせず、全てを任せてほしい。メンバーの構成について変更すべきところはわれらから助言するであろう。会合する部屋を変更せぬように。そして出来るだけ受容性に富める心構えと健康体をもって出席してもらいたい。


――確かに、一日中身体と頭を働かせたあとは条件として良くないとは思いますが、日曜日はさらに良くないように見うけます。


日曜日はわれらにとりても好ましくない。何となれば、そなたの心身から緊張が消え失せ、魂が行動する意欲を失い、休息を求めんとするために、われらの働きかけに反応しなくなるのである。こうなると、われらはそなたに新たに現象を試みることに恐れを感じる。そなたへの危険を恐れて物理的実験を手控えるのである。

理由はそれのみにかぎらぬ。物理現象はわれらの本来の目的ではなく、補助的なものに過ぎぬからでもある。これまで述べてきたわれらの使命の証として見せているのであり、それのみに安住してもらっては困る。

日曜が好ましからぬ特殊な事情がもう一つある。人間は気づかぬであろうが、平日と条件が変わることによってわれらが被(こうむ)る困難である。前にも述べたことであるが、食事のあとすぐに交霊会に臨むことは好ましくない。われらが求める身体的条件は、受容性と反応の敏速性である。その受容性も、怠惰と無気力から生じるものであってはならぬ。アルコール類と共に腹一杯食した後の、あの眠気と無気力状態ほど交霊にとって危険なものはない。アルコールの飲用が物理現象を促す場合も無きにしもあらずであるが、われらにとっては障害でしかない。より物質的に富める霊の侵入を許し、われらの霊力が妨害されるのである。これまでもそうした妨害を頻繁に受けて参った。そなたはその点をよく考慮し、われらとの交信を求めるに際しては、何事につけ度を過ごさぬよう注意を払うがよい。身体が刺激物でほてり、食べ過ぎで倦怠感を覚えるようであってはならぬ。精神が眠気を催し、不活発となるのも良くない。いずれの状態もわれらにとっては思うように仕事が出来ぬ。状態そのものが醸(かも)し出す影響力がわれらにも及び、われらのエネルギーを大いに阻害する。出席者の中に一人でもそうしたメンバーがいる時、もしくは身体を病み苦しむ者がいても、われらには如何ともし難き状態が発生するのである。


――しかし栄養不足による虚弱な心身では仕事にならぬと思いますが。


われらは節制を説いているまでである。食事によって体力をつけねばならぬが、食したものが消化するまでは交霊に入ってはならぬ。日常の仕事のためには適度に刺激物を摂ることも必要であるが、それも常に用心して摂取すべきであり、まして、われらとの交霊は先に述べた条件を厳守した上でなければ絶対に始めてはならぬ。心または身体が眠気を覚えたり注意を持続できぬような時、もしくはどこかを病んでいたり痛みを感じている時は、こちらからの指示がないかぎり机に向かってはならぬ。同じく、満腹している時は低級霊の活動が優勢となることが予想され、われらには近づけぬ。そのような条件のもとでは物理現象も質が低下し、粗暴となり、好条件のもとで行われる時の如き品の良き美しき現象は望めぬ。

われらにとっては極端が困るのである。断食で衰弱しきった身体ではもとより仕事にならぬが、飽食によって動けぬほど詰め込まれたる身体もまた用を為さぬ。節制と中庸、これである。友よ、そなたたちが少しでもわれらの仕事をやり易くし、最良の成果を望むのであれば、交霊会には是非とも感覚明晰にして鋭敏なる身体と、柔順にして受容性に富める精神状態にて臨んでもらいたい。そうすればそなたたちの期待以上のものが披露できよう。列席者全員が調和し構成が適切であれば現象は一層上質となり、述べられる教訓も一層垢抜けし、信頼性に富むものとなろう。先にそなたの言及せる光――〔当時よく交霊会で無数の燐光性の発光体が見られた。〕あれも好ましき条件のもとでは淡く澄み曇りが見られぬ。好ましからぬ状態の時は、鈍く薄汚く曇って見えるであろう。


〔しばしば交霊会に出現していた夫婦の霊が、別の仕事の境涯へ向上して行ったと聞いていたので、夫婦の絆は永遠のものかどうかを尋ねた。〕


それはひとえに霊的嗜好の類似性と霊格の同等性による。その両者が揃えば二者は相寄り添いて向上できる。われらの世界には共通の嗜好をもつ者、同等の霊格をもち互いに援助し合える者同士の交わりがあるのみである。われらの生活においては魂の教育が全てに優先し、刻一刻と進化している。同質でなければ協同体は構成されぬ。従って当然互いの進化にとって利益にならぬ同士の結びつきは永続きせぬ。地上生活において徒らに魂を傷つけ合い、向上を妨げるのみであった夫婦の絆は、肉体の死とともに終わりを告げる。逆に互いに支え合い援助し合う関係にあった結びつきは、肉体より解放されたのちも、さらにその絆を強め発展していく。そして二人を結ぶ愛の絆が互いの発達を促す。かくの如く両者の関係が永続するのは、それが地上で結ばれた縁であるからではなく、相性の良さゆえに、互いが互いの魂の教育に資するからである。かくの如き結婚の絆は不滅である。但しその絆は親友同士の関係程度の意味である。それが互いの援助と進化によって一層強化されていく。そして互いに資するところがあるかぎり、その関係は維持されていく。やがてもはや互いに資するものがなくなる時期が到来すると、両者は別れてそれぞれの道を歩み始める。そこには何の悲しみもない。なぜなら相変わらず心を通じ合い、霊的利益を分かち合う仲だからである。もしも地上的縁が絶対永遠のものであるとすれば、それは悲劇までも永遠であることを意味し、向上進化が永遠に妨げられることになる。そのような愚行は何ものにも許されていない。


――それは分かります。しかし私の観たかぎりでは、知的にも道徳的にも同等とは思えない者同士が互いに深く愛し合っているケースがあるように思えるのですが。


愛し合う者同士を引き裂くことは絶対に出来ぬ。そなたたちはとかくわれら霊同士の関係を時間と空間の観念にて理解せんとする故に納得がいかぬのである。霊同士はそなたたちの言う空間的に遠く離れていても親密に結び合うことが出来るということが理解できぬであろう。われらには時間も空間も存在せぬ。われらは知性の発達程度が完全に同一でない限り直接の交流は有り得ぬ。それはわれらには全く有り得ぬことなのである。が、たとえわれらの言う同一の発達程度まで到達していなくとも、真実の愛があれば、その絆によって結ばれることは可能である。愛は距離をいかに隔てても霊同士を強く結びつける。それは地上においても見られることである。離ればなれになった兄弟も、たとえ海を隔て、別れて何年経ようとも、兄弟愛はいささかも失われぬ。求めるものは異なるかも知れぬ。物の考え方も違うであろう。が、共通の愛は不変である。夫に虐待され死ぬ思いに耐えつつ、なおその夫を愛し続ける妻もいる。

肉体の死は妻をその虐待の苦しみから救ってくれる。そして天国へと召される。一方地上の夫はさらに地獄の道を下り続けるであろう。が、たとえ二人は二度と結ばれることはなくとも、夫への妻の愛は不滅である。その愛の前に空間は消え失せるのである。われらにとりても空間は存在せぬ。これでそなたも朧気(おぼろげ)ながらも理解がいくことと思うが、われらにとりての結合関係とは発達程度の同一性と、嗜好の共通性と、進化の協調性を意味するのであり、そなたたちの世界の如き一体不離の関係などというものは存在せぬ。


――では聖書の「天国では嫁を貰うとか嫁にやるとかいうことはなく、すべて神の使いとして暮らすのみである」という言葉は真実ですか。


その言葉どおりである。さきにわれらは進歩の法則と交わりの法則について述べたが、その法則は不変である。現在のそなたにとりて立派と思えることも、肉体の死とともに捨ててしまうであろうことが数多くある。地上という環境がそなたの考えを色づけしているのである。故にわれらとしても、比喩を用い、地上的表現を借りて説明せざるを得ぬことが多々ある。それ故われらの世界にのみ存在して人間の世界に存在せず、現在のそなたの知識を超越し、従って地上の言語によって大凡(おおよそ)のことを伝えるほかなき事情のもとで用いた字句にあまりこだわりすぎてはならぬわけである。


――なるほど。それで霊界通信に食い違いが生じることがあるわけですか……


そうした食い違いは通信を送る霊の無知から生ずる場合、それから霊媒を通じて伝える能力に欠けている場合、さらにまたその時の交霊の状態が完全さを欠く場合などによく生ずる。他にも原因はある。その一つが、人間側が単なる好奇心から下らぬ質問をするために、つい霊の方も人間の程度に合わせて下らぬ返答をしてしまう場合である。


――しかし高級霊ならば、“愚か者の愚かな質問に答える”ことをせずに、その質問者を諭(さと)せばいいでしょう。


無論できることならそうしたい。しかし愚かしき精神構造はそうした配慮を受けつけようとせぬものである。類は類を呼ぶ。一時の気まぐれや愚かな好奇心の満足、あるいはわれらを罠にはめんとする魂胆からしか質問せぬ者は、同程度の霊と感応してしまう。そのような心構えではわれらとの交信は得られぬ。敬虔にして真摯なる精神ならば、その受容性に応じた情報と教訓を自ら引き寄せる。自惚れが強く、軽薄で、無知で、ふざけた質問しかせぬ者は、似たような類の霊しか相手にせぬ。もとよりわれらは相手にせず、たとえ相手にしても、適当にあしらっておく。そうした連中は避けるがよい。下らぬ愚か者ばかりである。


〔注〕

(1)


D.D.Home(1833-1886)心霊史上最大・最高と評される英国の霊媒で、霊能の種類においても驚異性においても他に類を見ない。とくに空中浮揚現象は有名で、いつでもどこでもやってみせた。

Thursday, February 26, 2026

霊訓 ステイントン・モーゼス(著)

The Spirit Teachings

5節

本節の内容霊的能力の種類
インスピレーションを受けるための条件
ドグマと偏見と懐疑と不安が難敵
イエスに見る理想の人間像
人間に完全は不可能
瞑想のための魂の個室を設けよ


〔その翌日、私は現在地上にはびこっていると言われる邪霊の影響について長々と議論した。私はその働きの個人への影響について尋ねると、邪霊によって完全に憑依されてしまった例を幾つか挙げた。またそうした力が広がりつつあるので、誠実で叡智に富む霊が働きやすい条件を配慮し、憑依しようとする低級霊を追い払い、あるいは近づきやすい環境を少なくしていく必要があると述べた。さらに霊力そのものは距離や地域に関係なく働くもので、したがって善良な霊力を受けるか邪悪な霊力を受けるかは人間自身の心がけ一つに掛かっていると述べた。そこで私は、ではどういう心がけが最も望ましいかと尋ねた。〕


霊的現象に多くの種類があることはそなたの知る通りであるが、霊力の行使にもさまざまな方法がある。ある者は身体的特質の故に直接身体そのものが霊力の支配を受ける。身体的機能が目に見える最も単純な形での霊力の証に適しているのである。この種の霊媒は知的な支配は受けぬ。よって彼らを通じて届けられる情報は取るに足らぬもの、あるいは愚にもつかぬものさえあり、信頼性に欠ける。彼らはあくまで客観的現象を演出することの出来る霊力を証明する手段として使用されるのである。

要するに彼らは初歩的現象の演出のための道具であると認識してよいが、だからと言ってその現象が他の種類の霊能力を通じて現れる霊能と比較して重要性が劣るわけではない。霊力の存在を信じさせるための基盤を築く上で不可欠なのである。

一方、情愛に満ちた優しき性格ゆえに選ばれる者もいる。彼らは物的現象の道具ではない。往々にして霊界との意識的通信の通路でもないことすらある。それでいて常に霊的指導を受けており、その純粋にして優しき魂は天使の監督のもとにますます洗練され向上していく。そうするうちに徐々に天使から霊示を意識的に受ける能力が開発されていき、あるいは霊視能力により死後に落ち着くべき住処(すみか)を垣間(かいま)見ることを許されることもある。霊界に住むかつての友が親和力によって彼らに近づき、昼となく夜となく、教化と指導に当たることもある。彼らのまわりには平静と至純なる愛の雰囲気が漂う。実に彼らは地上生活の輝ける模範であり、やがて寿命とともにその地上生活によりて培われた休息と平和の境涯へと旅立つ。

これとは別に、知的能力に優れたるが故に、幅広き知識と奥深き真理の通路として訓練される者もいる。高級なる霊が彼らの思考力に働きかけ、思想を示唆し、知識の獲得と普及の手段とを用意する。その働きかけの方法は実に複雑多岐を極める。所期の目的達成のために仕組む出来事への配慮にはそなたの想像も及ばぬ手段を行使するのである。

われらにとりての最大の難事は進化せる高級霊からの通信を受け取るに相応しき霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならぬ。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ぬのが道理だからである。次に、愚かなる地上的偏見に捉(とら)われぬ者でなければならぬ。若き時代の誤れる思想を潔(いさぎよ)く捨て去り、たとえ世間に受け入れられぬものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主であらねばならぬ。

まだある。独断主義(ドグマ)より解放されねばならぬ。この世的思想から抜け出せぬようではならぬ。神学的独断主義と派閥主義と偏狭なる教義より解放されねばならぬ。己の無知に気づかぬ一知半解の弊に陥ってはならぬ。常に捉われなき、探求心に燃えた魂であらねばならぬ。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富める者であらねばならぬ。常により多き真理の光、より豊かなる知識を求める者であらねばならぬ。つまり真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならぬのである。

また、われらの仕事は頑固なる敵対心からの自己主張、または高慢なるでしゃばりと利己心によりて阻害されることがあってはならぬ。さような霊媒ではわれらは仕事らしき仕事を為し得ぬし、為し得たわずかな仕事というのも、利己主義と独断主義を取り除くことに向けねばならぬ仕末となる。われらが求むるのは有能にして真摯(しんし)なる、そして飽くなき真理探究心に燃えた無欲の心の持ち主である。そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解できよう。まさに至難のわざであり、まず不可能に近い。さればわれらは見出し得るかぎりの最高の人材を着実に鍛練した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、己の知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。こうすることによって独断的偏見より超脱させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物ではないとの悟りへの地ならしを行なう。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と賦与し、基盤さえ出来あがれば、安心して上部構造を築き上げて行くことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、われらの所期の目標に調和させて行く。

ここに至って多くの者が脱落していく。そしてわれらも、彼らは地上にては真理を受け入れることが不可能なること、また古来の地上的偏見が固く、ドグマ的信仰が容易に拭えざるものであること、それ故、時の流れに任せるほかなく、われらにとって用なきものであることを悟って諦めるのである。

また真理への完全なる忠実性と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、われらの教化によって着実に培われていくものである。われらは神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いていく。そしてわれらが神より許されたる範囲の行為と霊的訓えを忍耐強く待つ心構えを培う。こうした心構えは多くの霊媒に見られる、苛立(いらだ)てる落ち着きなき不満と正反対である。

この段階にてまた多くの者が脱落していく。恐怖心と不安に駆られ、疑念に襲われる。古き神学の説く神は自分の如き人間の破滅を今か今かと見守っているかに思い、悪魔が自分の如き人間を罠にかけんと油断なく見張っていると思い込む。確かに古き信仰の基盤は揺さぶられてはいても、まだ新しき信仰基盤は敷かれておらぬ。その間隙に邪霊がつけ入り、揺れ動く心を誘惑する。ついに恐怖に堪(たま)りかねた者が脱落し、われらにとりて用なきものとなっていく。

それでも尚われらは人間のあらゆる利己心を払拭しなければならぬ。われらの仕事には私心の出しゃばりは許されぬ。さもなくば、われらには何も為し得ぬ。霊界からの指導において、人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れほど致命的なるものはない。小知を働かせてはならぬ。われらからの知的働きかけの妨げとなるからである。独断主義に偏れる知性は使用しようにも使いものにはならぬ。ましてそれが高慢と自惚れに満ちておれば、近づくことすら出来ぬ。

いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の最大の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にせる予言者たちはみな我欲を滅却して使命に生きた人たちであった。そなたらの聖書にその名を留めるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送った。とくにイエスはその地上生活を通して使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した偉大にして崇高なる模範であった。イエスの中に、人類の全歴史を通して最大限の、人間の可能性の証を見ることが出来る。

この世より誤りを駆逐し真理の光をもたらせる人々はみな己に課せられた使命のために無私と献身の生涯を送れる者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者はみな無私無欲の人物――我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らぬ人々であった。一途(ず)なる誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人々である。それなくしては彼らの仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲に捉われていたならば、その成功の核心が蝕(むしば)まれていたことであろう。謙虚さと誠実さと一途さがあればこそ成就し得たのである。

われらが求むる人材とはそのような資質の持ち主である。情愛にあふれ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。一途に神の仕事に目を据(す)え、一切の地上的打算を忘れた性格。かくの如き麗しき魂の持ち主が稀であることは確かである。が、友よ、平静にして、しかも頼れる誠実かつ一途なる哲学者の心を心とせよ。情愛にあふれ寛容性に富み、いついかなる時も進んで救いの手を差し伸べる博愛主義者の心を心とせよ。さらに報酬を求めぬ神の僕(しもべ)としての無欲の心を心とせよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主を措(お)いて他に成就し得る者はおらぬ。われらもそうした人材を油断なく見守り警戒を怠らぬであろう。神より遣わされたる天使も笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれるであろう。


――でも、これでは完全な人格を求めることになります。


何と! これをもって完全とな? そなたは“完全なる霊”が如何なるものか、皆目知らぬ。知り得ぬのである。想像することすら叶わぬ。忠実なる魂が霊の訓えによって培われ、刻一刻と守護霊に似ていくその過程もそなたは知り得ぬ。われらが植えつけ手がけて来た種子が次第に成長して行く様子はそなたらには見えぬ。そなたらに知り得るのは、魂が徐々に美徳を身につけ、より高潔に、より愛すべき人間となりゆくことだけである。右に述べた人格の資質はそなたらの用語にして表現し得るかぎりのものを述べたるに過ぎず、まだまだ完全より程遠く、これより成就し得る完全さを思えば、漠然とそれらしき程度のものに過ぎぬ。そなたらに完全は有り得ぬ。死後になお不断の進歩と発達と成長が待ち受けている。そなたらの画く完全性も、われらの霊眼をもって見れば、欠点によって汚され曇らされているのである。


――確かにそうかも知れません。でもそれほどの人物は極めて少ないでしょう。


少ない。少ない。それもようやく芽を出した程度のものに過ぎぬ。われらはそれを地上への働きかけの大切な足がかりとして感謝して育てる。われは完全を求めているのではない。誠実さと一途な向上心、捉われなき受容性に富む精神、清純にして善良なる心の持ち主である。忍耐強く待つことである。性急は恐ろしき障害となる。所詮そなたの手の届かぬことに対する過度の用心と不安を捨てよ。われらに任せるがよい。今は外部との接触を避け、忍耐強くわれらの述べたることを吟味するがよい。


――都会の喧噪から隔絶した生活のほうがあなたたちの影響を受け易いのでしょう。


〔ここで急に筆跡が変わり、ドクターの例の細かいキチンとした文字から、非常に変わった古書体になり、プルーデンス(1)と署名された。〕


騒々しき世界は常に霊的なるものを拒絶する。人間は物的なるもの、すなわち目に見え手に触れ貯(たくわ)え得るものに心を奪われ、死後に霊的生活が待ち受けていることを知らぬ。あまりに地上的になりすぎ、われらの働きかけに無感覚である。あまりに地臭が強すぎ、近づくことすら出来ぬ。暮らしがあまりに地上的打算に満ちているが故に、死後にも価値の残るものに心を配る余裕をもたぬ。

それのみに留まらぬ。心が常時そうしたものに捉われ、心静かに瞑想する余裕をもたぬために霊的栄養が不足し、魂が衰弱している。霊的雰囲気に力が見られぬ。おまけに身体も仕事の重圧と気苦労のために衰弱している。これではわれらもほとんど近づくことすら出来ぬのである。

さらに、啀(いが)み合いの情念と不平不満、妬(ねた)み合いと口論のために、その場が不快な重苦しき雰囲気に包まれている。悉(ことごと)くわれらにとって障害となるものばかりである。無数の悪徳の巣、忌(い)まわしき誘惑、そしてその不徳と罪悪に魂を奪われし人間のあふれる大都会には邪霊の大軍がうろつきまわり、破滅の道へ引きずり込まんとして虎視眈々(こしたんたん)とその機を窺っている。多くの者がその餌食となって悲劇への道をたどり、それだけわれらの悲しみを増し、手を煩わすことにもなるのである。

瞑想の生活こそわれらとの交信にとりて最も相応しきものである。もとより行為の生活が無用というのではない。両者の適度な取り合わせこそ望ましい。煩わしき気苦労もなく、過労による体力の消耗もなき時こそ最も瞑想に入り易い。しかし魂の奥底に、それを求める欲求がなければならぬ。その欲求さえあれば、日常の煩事も世間の誘惑も、霊界の存在の認識と霊との交わりを妨げることは有り得ぬ。が、やはり環境が清浄にして平穏な時の方がわれらの存在を知らしめることが容易である。

 

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze



五章  霊力の働き

 スピリチュアリズム的な霊的原理を理解した者は、健全な意味で楽天的人生をもつようになるのであるが、どんなに悟ったつもりでいる人でも、人生の荒波に疲れ果てる時期が必ず訪れるものだ。思わぬ災難が重なる・・・・・・腹の煮えかえるかのような不快な思いをさせられる・・・・・・

 が、そうした耐えがたい苦難の体験もそれぞれに意義を持っており、長い視野で眺めれば、ごく些細な出来事にすぎないものらしい。

 シルバーバーチの教えも楽天主義を基調としており、またその必要性を強調する。ある日の交霊会でも、スピリチュアリズムがキリスト教を始めとする数々の既得権力による反抗にもかかわらず、振り返って見ると大きな前進を勝ち得ていることを強調してこう述べた。

 「私たちの仕事が始まった当初、世間の人は、何とたわいもないことをして・・・・・・と軽蔑の眼差しを向けたものでした。〝テーブルラッパー〟(※)そう呼んで軽蔑し嘲笑しました」
℘90
 ※───初期の頃はテーブルの叩音(ラップ)による通信が盛んにおこなわれた。出席者がテーブルを囲んで両手をテーブルの上において瞑目していると、蓄積したエネルギーを利用して霊団側がそのテーブルを浮上させ、少し傾斜させて脚の一本で床を叩いて、一定の符牒で通信を送ってくる。極めて幼稚な通信法で、したがって高等な内容のものは送ってこないが、心霊実験の中では簡単に行えてしかも危険性の少ない現象である───訳者


 しかし実はそうした現象も大きな目的を持った一大計画に組み込まれていたのです。私たちの意図した影響力は次第に強くなり、世界中に広がっていきました。各分野で名声を得ている名士を次々とその影響下に誘っていきました。

偏見によって目隠しをされ、理性が迷信によって曇らされている者は別として、やはり著名人の証言は一般の人から尊重されるという考えから、そういう手段を選んだのです。

 その後もますます多くの人材が、同じ影響下に置かれていきました。霊媒も増えました。サークル活動が広まり盛んになりました。科学・医学・思想・宗教その他、ありとあらゆる分野の人をこれに参加させ、当時すでに猛威をふるっていた誤った物質万能主義を否定する現象、新しい高度な生命観を思考する霊的事実、

唯物思想の終焉を予告する眼に見えない力の存在へ目を向けさせました。ほどなくして───実に短期間のうちに───そのテーブルラッパーたちは、宗教を腐敗から守る運動の旗手となっていったのです。

 わずか百年足らずの間にどれだけ多くのことが成就されたか───それをこうした経過の中から読み取って、それを教訓として、それ以後どれだけのことが成就できるか、そこに皆さんの先見の明を働かせて下さい。

 私たちが今まさに欲しているのは、もっと多くの道具───背後から導き鼓舞している霊の力に満腔の信頼を置いてくれる人材です。霊的実在を悟り、それは他の同胞のために使用してくれる人、真理を生活の灯として持ち歩いてくれる人です。

 私たちが望んでいるのは、まずそうした霊的真理のメッセンジャー自らが日常生活においてそれを実践し、その誠実さと公明正大さに貫かれた生活を通して、見る人の目に、なるほど神のメッセンジャーであることを認識させることです。

それから今度は積極的に世に出て、社会生活のすべての面にそれを応用していってほしいのです。
℘92
 つまり、まずみずからが身を修め、それから他人のために自分を役たてる仕事に着手するということです。これまでも、あなた方が想像なさる以上に多くの仕事が成就されてまいりましたが、これから先さらに成就されていく可能性に較べればそれは物の数ではありません。

 世の中を見回して、あなた方の努力のしるしを読み取ってごらんなさい。古くて使い物にならない教義やドグマの崩壊が見て取れるはずです。誤った信仰の上に築かれた構築物が、いたるところで崩壊しつつあります。

 私たちの説く霊的真理(スピリチュアリズム)は、心霊学という知識を土台として築かれております。その土台はいかなる嵐にもビクともしません。なぜなら、それは事実を───霊的事実を───土台としているからです。

 あなた方が建造の一役を担ったその殿堂は、あなたがたが地上を去って物質界に感応しなくなったのちも、あなた方の奮闘努力の記念碑として、末永くその勇姿をとどめることでしょう」

 同じテーマについて別の交霊会で───

 「真理は前進し、暗黒と無知と迷信と混迷を生み出す勢力は後退します。霊力はますます勢いをつけ、これまで難攻不落と思われていた分野にまで浸透しながら凱旋し続けます。それが、私たちが繰り返し宣言しているメッセージです。

 皆さんは今まさに、地上に新しい存在の秩序を招来するために貢献しておられるのです。ゆっくりとではありますが、変革が生じつつあります。新しいものが旧いものととって代る時、数々の変動が生じるのは避けられません。それも神の計画のうちに組み込まれているのです。

 常に基本的な霊的真理を忘れぬように、と私は申し上げております。常にそれを念頭に置き、その上に宗教感・科学感・哲学感・倫理感・道徳観を打ち立てて下さい。口を開くと大言壮語をする御仁に惑わされてはなりません。

 私たちの説く真理は至って単純であるがゆえに、誰にでも分かり、誰にでも価値を見出すことができます。神の子としての人間のあるがままの姿を何の虚飾もなしに説いているからです。

 すなわち神の分霊を宿し、その意味において真実〝神の子〟であり、永遠にして不変の霊的な絆によって結ばれているという意味において真実〝同胞〟であり、人類全体が一大霊的家族であり、神の前に平等であるということです。

℘94
 霊の目を持って見る者は、民族・国家・気候・肌の色・宗教の別を超えて見つめ、全人類を一つにつなぐ霊の絆を見て取ります。地上世界は今こそ、そうした単純な真理を見直す必要があります。余りに永い間教義とドグマ、祭礼と儀式といった宗教の本質、ないしは生命の大霊とは何の関係もないのに躓(つまず)いてきました。

 私は、魂をより意義ある生活へ誘ってくれるものでないかぎり、教義とか信条、ドグマといったものには関心がありません。日常の行い以外のものには関心を向けません。根本的に重要なのは、日常生活の生き方だからです。

いかなる教義も、いかなるドグマも、いかなる儀式も、原因と結果の法則を一寸たりとも変えることはできません。霊性を一分たりとも増すことも減らすことも出来ません。それは日常生活によってのみ決定づけられるものだからです。

私たちが忠誠を捧げるのは、宇宙の大霊すなわち神と、永遠不変の摂理であって教義でもなく、書物でもなく、教会でもありません。

  霊の力がこうした形で地上に顕現するようになったことを喜んでください。真理を普及するための新しい人材が次々と霊力の支配下に導かれて行きつつあることに着目して下さい。新しい通信網ができたことに着目してください。

人類の進歩を妨げてきた既得権力が崩され、障害が取り除かれていきつつあることに目を向けてください。

私たちは刀剣や銃を手にせずに愛と寛容心と慈悲と奉仕の精神を持って闘っている大軍の一翼を担っております。私たちの武器は真理と理性です。そして目指すのは、人間として当然受け取るべきものを手に出来ずにいる人々の生活に、豊かさと美しさをもたらしてあげることです。

神とその子等の間に立ちはだかろうとする者には、いかなる地位にあろうと、いかなる人物であろうと、容赦は致しません。地上に神の王国を築くためには、地上のいずこであろうと赴く決意はけっして揺らぎません。

これまでも数々の虚言・中傷・敵意・迫害にあってまいりました。しかし勇気ある心の持ち主、断固たる決意を秘めた魂が闘ってくれたお陰で、こうして霊の力が地上に顕現することができたのです。

今も、新しい世界の前哨地に、多くの勇士が歩哨に立ってくれております。ですから私は、みなさんに、元気をお出しなさい、と申し上げるのです。心に迷いを生じてはなりません。

変転極まりない世の中の背後にある神の計画を読み取り、あなた方もその新しい世界の建設の一翼を担っていることを自覚して下さい。真理は絶え間なく前進しているのです。
℘96
意気消沈した人、悲しげにしている人たちに、元気を出すように言ってあげてください。先駆者たちの努力のたまものを、これから獲り入れるのです。そしてそれが、明日を担う子供たちにより大きな自由、より大きな解放をもたらすための地ならしでもあるのです。

不安は無知という暗闇から生まれます。勇気は自信から生まれます。すなわち、自分は神であるとの真理に目覚めた魂は、いかなる人生の嵐を持ってしても挫かせることはできないという自信です。

私がお教えしているのは、ごく単純な真理です。しかし単純ではあっても、大切この上ない真理です。地上人類が自らの力で自らを救い、内在する神性を発揮するようになるためには、そうした単純な霊的真理を日常生活において実践する以外にはないからです。

皆さんはその貴重な霊的な宝を手にされていること、それが全ての霧とモヤを払い、悟りの光によって暗闇を突き破ることを可能にしてくれることを知ったからには、自信を持って生きて下さい。

しかし同時に、知識には必ず責任が伴うことも忘れてはなりません。知った以上は、知らなかった時のあなたとは違うからです。知っていながら霊的真理を無視した生き方をする人は、知らないために霊的摂理にもとる生き方をする人よりも大きな罪を犯していることになります。

℘97    
その知識を賢明に、そして有効に生かして下さい。一人でも多くの人がその知識を手にすることができるように、そしてそれによって魂が鼓舞され、心が開かれる機縁となるように配慮してあげてください。

私たちの方でも、一人でも多くの人の涙を拭い、心の痛みを癒し、燦然たる霊的真意を見えなくしている目隠しを取り除いてあげる為の態勢を整えているのです。

言いかえれば、親である神を子等に近づかせ、子等を神に近づかせ、人生の奥義に関わる摂理を実践に移させようと、心を砕いているのです。そうすることによって利己主義が影をひそめ、生命の充足感を地上に生きる人の全てが味わえることになるでしょう」


 ここでメンバーの一人が、こうした霊的真理の普及を既成宗教の発端と同列に並べようとする意見を述べたのに対して、シルバーバーチはこう説いた。

 「私たちはこれまで、確かに成功を収めてまいりました。しかし、そうしたスピリチュアリズムの発展を他の宗教と同列に並べて考えてはいけないことを銘記してください。

私たちにとってスピリチュアリズムは、宇宙の自然法則そのものなのです。これを体系化して幾つかの信条とすべきものではありません。」


キリスト教の発生とて、当初は自然法則の一つの顕現でした。ユダヤ教もそうですし、仏教もそうです。そのほか地上に誕生した宗教のすべてが最初はそうでした。

それぞれの創始者が霊覚によって、その時代の民衆の成長・発展・進化・慣習・鍛錬・理解力などの程度にふさわしいビジョン、インスピレーション、悟りを手にしました。

それがさらに、受けいれる用意のある者に受け継がれていきました。それは全体の一部であったとはいえ、真理であることには間違いありませんでした。ところが残念なことに、そのささやかな真理が人間的不純物の下に埋もれてしまいした。

真理の持つ純粋な美しさを留めておくことができなかったのです。周りに世俗的な信仰や神学的なドグマ、宗教的慣習、伝承的習俗などが付加されて、玉石混交の状態となってしまいました。やがて神性が完全に息の根を止められてしまいした。そして新たにそれを蘇生させる必要性が生じたのです。


 過去の宗教はすべて───例外なしに───今日こうして届けられつつあるものと同じ啓示の一部であり、ひとかけらなのです。一つの真理の側面に過ぎないのです。それらを比較して、どちらがどうということは言えません。届けられた時の事情がそれぞれに異なるのです。

 たとえば今日の世の中ですと、昔では考えられなかった通信手段が発達しております。伝達し合うことに、あなた方は何の不自由も感じません。何秒とかからずに、お互いがつながり、メッセージを送り、地球を一周することができます。

 唯一これまでの啓示と異なるところは、入念な計画にしたがって組織的な努力が始められたということです。それが地上の年代でいえば、十九世紀半ばのことでした。

今度こそは何としてでも霊的知識を地上に根づかせ、いかなる勢力を持ってしても妨げることのできない態勢にしようということになったのです。

 その計画は予定通りに進行中です。その事は霊的知識が世界各地で盛んに口にされるようになってきていることでもお分かりでしょう。霊力は霊媒さえいれば、そこがどこであろうとお構いなく流入し、新しい前哨地が設立されます。


 ご承知のように、私は常づね、一人でも多くの霊能者が排出することの必要性を強調しております。霊界からの知識・教訓・愛・慰め・導きが地上に届けられるためには、ぜひとも霊的中継者が必要なのです。

一人の霊媒の排出は物質万能思想を葬る棺に打ち込まれるクギの一本を意味します。神とその霊的真理の勝利を意味するのです。

 霊媒の存在が重要である理由はそこにあります。両界をつなぐ媒体だからです。

 知識の光と叡智の世界から私に届けられるものを、こうした形で皆さんにお伝えすることを可能にしてくれる、このバーバネルという霊媒を見出したことを嬉しく思うのも、そこに理由があります」

Wednesday, February 25, 2026

霊訓 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


4節

本節の内容作曲家アーンに関する詳細な記述
霊の情報入手方法
その実験


〔以上の通信は一八七三年の四月から五月にかけて受け取った厖大な量の通信からの抜粋である。この頃には自動書記も楽にそして流暢に書けるようになり、適切な用語も前ほど苦労せずに見つかるようになっていった。

関係している霊の地上時代のことや正確な記録もいくつか明らかにされた。例えば五月二十二日にまったく別の問題について綴っていたところ突如その通信が途切れて、トーマス・オーガスチン・アーン(1)という名が書かれた。そしてスピーア博士(2)のご子息で素晴らしい才能の持ち主である私の生徒との縁で出られることになったと、その経緯を書いてきた。

その頃の私は自動書記通信に大いに関心を抱き、その内容にも注目していた。そこでさっそく当時の筆記者のドクターにアーンの身元を証明する地上時代の事実があれば提供してもらいたいと頼んでみた。すると間髪を入れず返答が書かれた。生年(一七一〇年)、学校名(イートン)、バイオリンの教師名(フェスティング)(3)。作品集――少なくともそのうちの八曲ないし九曲の曲名。さらに彼の作曲した英国の愛国歌「ブリタニアよ統治せよ」(4)が「アルフレッドの仮面劇」(5)の中に収められていること。その他、実に細かいことが数多く、しかもすらすらと書かれた。その全てが私の知らないことであるのみならず、私はその方面のことに関心がないので――私は音楽のことは全く無知で音楽に関する本は一冊も読んだことがなかった――私はそれほど細かいことが何故わかるのか尋ねてみた。すると、実際はそう簡単に書けるものではなく、霊媒がよくよく受容的な精神状態の時にのみ可能であると書かれた。同時に、霊界には知識の貯蔵所のようなところがあって、不明確なことはそこから情報を得ることが出来るとも述べた。

私はそれはどういう手段でやるのか尋ねた。すると、ある条件のもとで、知りたい目標を心に描いて“読み取る”のだという。人間がするように問い合わせる方法もあるが、それは読み取るのがあまり上手でない霊にかぎられるという。

ではあなたにもそれが出来るかと尋ねると、自分には出来ないと答え、そのわけは地上を去ってからの期間が長すぎるからだという。そう述べてから、地上の情報を蒐集することを得意とする二人の霊の名前を挙げた。そこで私はどちらか一方を呼んでほしいとお願いした。

その時のこの筆記をしている部屋は私自身の部屋ではないが、書斎として使用しており、まわりの壁はすべて書棚になっている。

そこでいったん筆記が中断した。そして数分後にこんどは全く筆跡の違う文章が出はじめた。そこでさっそく尋ねた。〕


――あなたは読み取りが出来ますか。


いや、私には出来ない。が、ザカリー・グレイ(6)が出来るし、レクターにも出来る。私には物的操作が出来ない――つまり物的要素を意念で操作することが出来ないのです。


――どちらか来られてますか。


一人ずつ呼んでみましょう。まず……あ、レクターが来ました。


――あなたは読み取りがお出来になると聞いています。その通りですね? 書物から読み取れますか。


〔筆跡が変わる。〕


出来ます、なんとか。


――「アエネイス」(7)の第一巻の最後の文を書いてみて下さいますか。


お待ち下さい――Omnibus errantem terris et fluctibus aestas.


〔この通りであった。〕


――その通りです。でもそれが私の記憶にあったということも考えられますので、書棚の二番目の棚の最後から二番目の本の九四ページの最後の一節を読み取ってみて下さい。私はその本を読んだことがありませんし、書名も知りませんので。


I will curtly prove, by a short historical narrative, that popery is a novelty, and has gradually arisen or grown up since the primitive and pure time of Christianity, not only since the apostolic age, but even since the lamentable union of Kirk and the state by Constantine.(8)


〔調べてみたところ面白いことにその本はロジャース著『僭称的教皇長老主義者――キリスト教をカトリック的因習と政治性と長老支配から解放、浄化するための一試論』(9)とあった。引用された文章は正確だった。ただnarrativeがaccount(10)となっていた。〕


――意味深長な本を選んだのには何かわけがあるのでしょうか。


それは知りません。偶然でしょう。一語間違いました。書いた時すぐに気づいたのですが、敢えて改めませんでした。


――どうやって読み取るのですか。今の文はさっきよりゆっくりと、しかも時おり思い出したように書いておられましたが。


憶えていた個所もあり、判らない個所は見に行ったりしたからです。読み取るというのは特殊な操作であって、こうしたテストの時以外は必要でありません。昨夜ドクターが言っていた通り、われわれも幾つかの条件が整った時しか出来ません。もう一度試してみましょう。まず読んでから書き、それからあなたに印象づけてみます。

Pope is the last great writer of that school of poetry, the poetry of the intellect, or rather of the intellect mingled with the fancy.(11)

これは正確です。さっきと同じ書棚の十一番目の本を取って来て下さい。〔それは『詩とロマンスとレトリック』(12)という本だった。〕開いてみて下さい。ちょうどその文章の書かれているページが開くはずです。われわれのこうした霊力をよく確かめ、物質的なものを超えた力を人間に啓示することを許された神の意図をよく認識していただきたい。神に栄光あれ。アーメン。


〔その本を開いたら一四五ページが出た。そこに書かれた通りの引用文が出ていた。私はその本を一度も見たことがないし、まして内容については何も知らなかった。〕


〔注〕

(1)


Thomas Augustine Arne.


(2)


Dr.Speer 巻末「解説」参照。


(3)


Festing.


(4)


Rule,Britannia.


(5)


The Masque of Alfred.


(6)


Zachary Gray.


(7)


Aeneid ローマの詩人バージルのラテン語の叙事詩で全十二巻ある。


(8)


大意――私はこれより、カトリック的制度などというものが本来のキリスト教にはなかったものであり、純粋な原始キリスト教時代――伝道者時代はもとより、コンスタンチヌスによる教会と都市国家との嘆かわしき結合以来、徐々に台頭もしくは発生して来たものであることを簡略に論証してみようと思う。


(9)


Antipopopriestian-an attempt to liberate and purify Christianity from Popery, Politikirkality, and Priestrule,by Rogers.


(10)


双方ともほゞ同じ意味を有する。


(11)


大意――ポープはその流派、知性の詩、というよりは詩的想像力と渾然一体となった詩の流派の最後の偉大な詩人であった。


(12)


Poetry, Romance, and Rhetoric.