Wednesday, May 6, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

 The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄

第2部 本論




15章 “招霊”にまつわる様々な問題

訳注――本章は英語でEvocation(エボケーション)となっている。英和辞典を引いてみられると分かるが、語源的には霊にかぎらず記憶や感情などを呼び起こしたり呼び覚ましたりすることで、スピリチュアリズムでは霊を霊媒に乗り移らせて語らせる、いわゆる“招霊会”をさす。

が、そうした概念は人間側の受け止め方であって、霊側としては祈りなどに感応してその人の身辺に来る場合や生者の霊、つまりすでに再生している人間が幽体離脱して出現する場合も念頭にあるようである。カルデックは前置きで低級霊の場合と高級霊の場合とを区別して詳しく論じているが、煩雑すぎる嫌いがあるので割愛した。日本語では招喚・招請・招聘といった用語が居ながらにしてその違いを適確に表現してくれているので便利である。

この招霊ないし降霊の行事は世界でも日本が遥かに先輩格であると断言できる。大嘗祭などにも純粋な形で取り入れられている。もちろん世界各国で太古からあったが、西洋ではキリスト教が広まってからは忌み嫌われ、魔女狩りなどの原因ともなった。キリスト教には死者の霊は最後の審判の日まで墓地で眠っているという信仰があり、それを無理やり呼び起こしてはいけないとの信仰からで、キリスト教によるスピリチュアリズムへの弾圧はすべてそこから発したと言ってもよいほどである。

しかしその信仰が間違っていることが明らかになった今日では西洋でもよく行われるようになり、ウィックランドの『迷える霊との対話』に見られるような地縛霊の救済活動の一環として、霊界側の主導のもとに行われているものもある。

一方、安直に霊を呼び出してお告げを聞いたり自動書記などを受け取っているサークルが、日本でも西洋でもずいぶんあるようである。が、前にも述べたように、スピリチュアリズム活動の一環として霊団の守護と指揮のもとに行われているもの以外は極めて危険であることを、本章の一問一答からしっかり理解していただきたい。
一問一答


――霊は霊能者でなくても呼び出すことができますか。


「誰にでもできます。客観的に姿を見せることはできなくても、ちゃんと近くにいて、あなた方の要望を聞くことができます。」


――呼ばれたら必ず出るものなのですか。


「それはその時の霊の置かれている条件によって違ってきます。出たくても出られない事情もあります。」


――出られなくする事情はどんなものでしょうか。


「まず第一に本人に出る“意志”があるかどうかの問題があります。次に、すでに再生している場合であれば、その身体の状態(睡眠中か覚醒中か)が問題です。また、再生にそなえて待機している場合であれば、その使命がいかなるものであるかによります。さらには、通信が許されているのにそれが破棄される場合もあります。

現在の霊性の発達程度が地球レベルより低い場合は、通信したくてもできません。また贖罪界に身を置いている場合は、地上の人間にとって有益と見なされた場合にかぎって高級霊の援助を得て出ることが許されますが、通常は出られません。

要するに呼ばれて出るためにはその世界の霊的発達レベルに相応しい霊性を身につけた者でないといけません。そうしないと、たとえ出てもその世界に馴染みがなく、従って親和力によるつながりが取れません。

もっとも、例外として特殊な使命を帯びている者、あるいは高い霊性を有しながら大きな悪行を犯し、その贖罪のために一時的に下層界へ“追放”されている者が出ることを許されることがあります。その豊富な体験的知識が役に立つからです。」


――通信が許されていたのにそれが破棄されるとおっしゃいましたが、どういう理由によるのでしょうか。


「その霊自身もしくは呼び出そうとしている人間のどちらかへの試練ないしは懲罰です。」


――この広大な宇宙にあまねく散在する霊や他の天体上で生活している霊が、どうやってこの遠い地球からの呼び出しに応じられるのでしょうか。


「その霊をよく知っている親和性のある他の霊が前もって察知し、あなた方の意図を伝えます。が、その連絡はあなた方には説明できない霊界特有の方法で行われます。霊の思念による伝達は人間には理解できません。強いて言えば、招霊に際してあなた方が発する思念の衝撃波が、どんなに遠く離れていても一瞬の間にその霊に届き、それが電気ショックのように意識に伝わります。そこでその霊は注意をその方向へ向けます。地上では“話された言葉を聞く”わけですが、こちらでは“思念を聞く”とでも表現しておきましょうか。」


――地上では空気が音の媒体をしているわけですが、そちらでは普遍的流動体(エーテル)が思念の媒体をしていると考えてよろしいでしょうか。


「いいでしょう。ただ違うのは、音が伝わる距離には限界がありますが、思念には限界がない――無辺際だということです。招霊される霊というのは、言うなれば、広大な平原を旅している時に突如として呼び止められて、その声のする方向へ足を向けるようなものです。」


――霊にとって距離が問題でないことは知っております。ですが、招霊会で時おり驚くのは、呼び出すと同時に、あたかもあらかじめ呼ばれることを承知していてそこに待機していたかのように、間髪を入れず出現することです。


「招霊されることが予知されていた時にはそういうことがあります。前にも述べたように、霊によっては招霊されることをあらかじめ察知していて、正式に呼ばれた時にはすでにその場にいるということがよくあります。」


――呼び出す人間の思念は、事情にもよるでしょうけど、その霊に簡単に届くものでしょうか。


「もちろんです。両者の関係が霊的に親和性ないし好感度が高い場合はインパクトが強くなります。親しみ深い声のように響きます。そういうものがない時は“流産”することがあります。霊的摂理にのっとった形で行われた招霊の思念は見事にその霊に突きささりますが、ぞんざいに行われたものは宇宙空間に消滅してしまいます。皆さんでもそうでしょう? ぞんざいな、あるいは無礼な呼びかけられ方をされたら、声は聞こえていても、耳を傾ける気にはならないでしょう。」


――お呼びがかかった霊は自ら進んでそれに応じるのでしょうか。それとも仕方なく出てくるのでしょうか。


「高級霊は常に大霊の意志、つまり宇宙を支配する摂理に従います。ただ、“仕方なく”という言い方は適切ではありません。出るべきかどうかの判断を自ら下しますし、そこに自由意志があります。高級霊でも、自分が出ることに意義があると判断すれば必ず出ます。面白半分に呼ばれた時は絶対に出ません。」


――要請を拒否できるということでしょうか。


「当然です。もし拒否できないとしたら自由意志はどうなりますか。宇宙の全存在が人間の命令に従うべきだとでも思っていらっしゃるのですか。呼ばれる側の立場にご自分を置いてごらんなさい。名前を呼ばれたらいちいち出なければならないとしたらどうなります? 私が今、霊は要請を拒否できる、と申し上げたのは、人間側の勝手な要請のことであって、出るべきでありながら拒否するという意味ではありません。低級霊が招喚された時は、たとえ嫌がっても、高級霊が強制的に出させます。」


訳注――“強制的に出させる”といっても、その関係は高級霊と低級霊との関係だけで成立するものではなく、招霊会の司会者(さにわ)の霊格・霊力がカギとなる。

私は師の間部詮敦氏のもとでさまざまな霊の招霊に立ち会ったが、ワルの親玉みたいのが出た時は恐怖心を覚えたので今でも鮮明に覚えている。霊媒は浅野和三郎氏によって養成された宮地進三という方で、真夏のことなので間部氏は浴衣(ゆかた)姿であぐらをかいて、うちわで扇ぎながら気楽な態度で霊と語っておられた。が、いよいよそのワルが出た時は鬼気迫る雰囲気となった。そして開口一番こう言い放った――

「うーむ、お前には参った。とうとう負けたな。これまでは陰に隠れていて見つからなかったが、今度ばかりはやられた。ところで、まずは一杯酒をくれんか」

すると間部氏は姿勢を正して正座し、手を合わせて瞑目し、

「はい、どうぞ」と言うと、霊はさもうまそうにゴクゴクと飲む仕草をした。むろん本物の酒ではなく、意念でこしらえたものだった。そのあと二言三言交わしてから霊団側に引き渡された。

間部氏は昼間に霊査をして招霊する必要のある霊に目星をつけておき、夜中にそうした処置をしておられた。間部氏の霊力が強かったからこそ霊団側も威力が発揮できたのである。


――招霊会の司会者(さにわ)はどんな霊でも強引に呼び出すことができるのでしょうか。


「とんでもない。霊格の高い霊ないしは同等の霊に対してはそういう権限は許されません。が、霊格の低い霊に対しては許されます。ただし、招霊することがその霊にとって有益である場合に限られます。その場合には霊団による援助が得られるということです。」


――悪霊・邪霊の類いを呼び出すことは感心しないでしょうか。呼び出すことは彼らの影響下にさらす危険を冒すことになるのでしょうか。


「悪霊・邪霊の類いはただ威張り散らすだけですから、高級霊団の援助のもとに行うのであれば何一つ恐れることはありません。イザとなれば霊団の方で抑え込みます。彼らの餌食になる心配はありません。ただし、たった一人で行う時、あるいは出席者がいても初心者ばかりの時は、その種の招霊は控えた方がよろしい。」


――招霊会では何か特別の雰囲気をかもし出す必要がありますか。


「高級霊との対話を求める上で何よりも大切なのは、目的の真摯さと集中力です。そして高級霊を招聘する上で最も強力な力となるのは大霊への信仰心と善を志向する熱意です。招霊に先立っての数分間の祈りを通して魂を高揚し、高き界層の霊と感応し、交霊会へお出でいただくよう取り計らうのです。」


――信仰心は招霊のための不可欠の条件でしょうか。


「大霊への信仰心は必要です。が、真理探求と霊性の向上を志向する真摯なる願望があれば、それは自ずと信仰心を高めることになり、改めて信仰心を意識する必要はありません。」


――思念と動機において一致したサークルでは善霊を呼び寄せる力が増すものでしょうか。


「最高の成果が得られるのは、メンバー全員が慈悲心と善意によって結ばれている時です。人間側の思念と感情の乱れほど招霊を妨げるものはありません。」


――交霊会の初めに全員が手を結び合って輪をつくるのは効果的でしょうか。


「手を結び合うのは物理的行為であり、思念と感情においてつながっていなければ何にもなりません。それよりも大切なのは、お出でいただきたいと願っている高級霊にその願いを発信する上で、全員が思念と動機において一体となることです。人間的煩悩の一切から解放された真摯な求道者が、互いを思いやる心において一体となって忍耐強く努力する時、どれほど素晴らしい成果が得られるか、あなた方はご存じありません。」


――招霊会の日時はあらかじめ決めて表明しておいた方がよろしいでしょうか。


「その方がよろしい。そして、なるべく同じ部屋で催すことが望ましいです。霊が容易に、そして気持ち良く訪れることができます。出席者の真面目さと同時に志操の堅固さも、霊の訪れと交信を容易にします。霊にも仕事があるのです。不意に呼ばれて、人間の下らぬ好奇心のために仕事を放っておいて出てくるわけにはまいりません。

今、同じ部屋が望ましい、と言いましたが、それにこだわる必要はありません。霊はどこへでも行けます。私が言いたかったのは、招霊のために用意した一定の部屋の方が、集まるメンバーの意念の集中が得られやすいということです。」


――魔よけとかまじない札を用いる人がいますが、こうしたものに善霊を引き寄せたり悪霊を追い払ったりする力があるのでしょうか。


「今さらそのような質問をなさることもないでしょう。物には霊に対して何の影響力もないことくらい、ご存じのはずです。少し気の利いた霊ならそんな愚かなことは説きません。お守りの効用は信じやすいお人好しの想像の中にしか存在しません。」


ブラックウェル脚注――そうは言ってもお守りの力を信じるということが、霊に対してではなく当人の意念の集中力を助け、結果的には招霊の力を増すことになるとも考えられるのではなかろうか。


――霊によってはひどく陰湿な場所や、なぜこんな時刻にと思われる時刻を指定してくることがあるのですが、これはどう理解したらよろしいでしょうか。


「人間を困惑させて喜んでいるにすぎません。そういう注文に応じるのは無意味であると同時に、時には危険でさえあります。無意味というのは、担がれるだけで何も得るものがないこと。危険というのは、霊から何かをされるという意味ではなく、そういう理不尽な指定をされることによって、あなた方の脳に悪影響が及ぶからです。」


――霊を招くのに都合の良い日にちや時刻というのがあるのでしょうか。


「物質界の条件で霊にとって重要なことというものは何もありません。日にちや時刻に影響力があるかに考えるのは迷信です。最も都合のよい日時というのは招霊する側(司会者と出席者)に日常的な雑念がなく心身ともに平静な時です。」


――そもそも招霊というのは霊にとって有り難いことでしょうか、迷惑なことでしょうか。呼ばれると喜んで出てくるものでしょうか。


「それはその招霊会の性格と動機しだいです。気高い意義のある目的のためのもので、出席者やその場の波動に親和性を感ずれば、気持ちよく出てくるでしょう。霊の中にはそれを楽しみに待っている者もいるのです。というのも、死後、人間界から見捨てられた気分で悲嘆にくれている者が多いからです。

ですが、前にも述べたことですが、全ては本人の性格によります。人間嫌いもいます。そういう霊はたとえ出てきても不快をあらわにするでしょう。とくに見ず知らずの人間から呼ばれたら、まともには相手にしません。出なければならない理由がないからです。とくに好奇心から招霊された時は、たとえ出ても直ぐに帰るか、初めから出ないこともあります。自分が出ることに何か特別な意義でもあれば別ですが……」


――招霊されて喜ぶのは善霊と邪霊のどちらでしょうか。


「邪霊というのは人間を騙して操る目的で自分から出るもので、招霊されることは喜びません。悪行をとっちめられるのではないかと警戒するからです。ちょうどイタズラをした子供が隠れて出てこないように、呼ばれてもしらばっくれています。が、高級霊が折檻と向上と人間への教訓を目的として強制的に招喚することがあります。

下らぬ目的のための招霊会には高級霊は出たがりません。まったく出ないか、たとえ出ても直ぐさま引き上げます。皆さんでも同じと思いますが、遊び半分の好奇の対象とされることを嫌います。人間は、あの霊はどんな話をするだろうか、地上でどんな生活をしたのだろうかといった、余計なおせっかいと言いたくなるようなことを聞くために霊を呼び出そうとしますが、考えてもごらんなさい。まるで証人席に立たされて尋問されるような立場に置かれるのを快く思うでしょうか。少し目を醒ましていただかないと困ります。地上でされることが嫌なことは霊になっても嫌なものです。」


――霊は招かれないかぎり出ないものでしょうか。


「そんなことはありません。霊は呼ばれなくてもしばしば来ております。自らの意志でです。」


――自ら進んで出る場合は、その述べる身元も信じられるのでしょうか。


「とんでもない。邪霊はしばしばその手を使います。人間を騙しやすいからです。」


――霊を呼び出すのは思念で行うわけですが、自動書記とか霊言その他の現象はなくても来ているのでしょうか。


「現象は霊の実在の証しにすぎません。呼び寄せるのは思念です。」


――出てきたのが低級霊だと判明した時、引き下がってもらうにはどうすればよいでしょうか。


「取り合わないことです。ですが、そもそもそういう低級霊につけ入られるような愚かなことをしていながら、それに感応して出てきた霊がどうして簡単に引き下がりましょう? 人間界と同じで、魚心あれば水心です。」


――神の御名のもとに招霊すれば邪霊の出現は防げるでしょうか。


「全ての邪霊に通用するとはかぎりません。神の御名の響きでたじろぐ者はかなりいるでしょう。信仰心と誠意をもって唱えれば低級霊は逃げますし、それに強烈な信念が加わればさらに効果的でしょう。ただの紋切り型の呪文を唱えるだけではだめですが……」


――名前を呼ぶことによって複数の霊を同時に招霊できますか。


「別に難しいことではありません。またもし三人ないし四人の自動書記霊媒がいれば同時に三人ないし四人の霊からのメッセージが綴られるでしょう。数人の霊媒を用意しても同じことができます。」


――複数の霊を招霊し、霊媒は一人という場合、優先順位はどうなるでしょうか。


「霊媒との親和性がいちばん高い霊が代表して総合的な内容の通信を書きます。」


――逆に一人の霊が同時に二人の霊媒を通して自動書記通信を送ることができますか。


「地上でも複数の書記に同時に書き取らせることができるのと同じです。」


――一人の霊が複数の場所から同時に招霊された場合、同じ質問に同時に答えることができますか。


「できます。高級霊にかぎりますが……」


――その場合、霊は自分を分割するのでしょうか、それとも同時にどこにでも存在する能力があるのでしょうか。


「太陽は一つです。が、その光は全方向へ放射し、桁外れの距離まで届きます。霊も同じです。高級霊から発した想念は閃光のようなもので、一瞬のうちに全方向へ飛散し、どこにいても感得されます。霊性の純粋度が高ければ高いほど遠くまで届き、幅広く飛散します。低級霊は物質性が強いためにそうした能力はなく、一度に一人の質問にしか答えられません。別のところに招霊されている時は出られません。

なお、高級霊が同時に二つの場所から呼ばれた時、双方の霊媒の真摯さと熱意が同等であれば双方に出ますが、大きな差があれば、より真摯で熱意の強い方に出ます。」


――再生の必要がなくなった超高級霊でも出てくださいますか。


「出ます。しかし滅多にないものと思ってください。よほど純粋で真摯な心の持ち主としか語り合いません。高慢さや私利私欲が目立つような人間とは絶対に語り合いません。ですから、大変な高級界からやってきたかのような言説を軽々しく吐くような霊にはよくよく注意が肝要です。低級霊ですから。」


――歴史上の大変な著名人がいたって平凡な人間の招きに応じて簡単に、そして気さくに出てくるのはどう理解したらよいでしょうか。


「人間はとかく霊を人間的尺度で評価しがちですが、それは間違いです。地上時代の地位は肉体の死とともに消滅します。残るのは善性だけです。そして人間を見る尺度も、同じく霊的な善性のみです。善霊は善が行われる所ならどこへでも赴きます。」


――死後どれくらいたつと招霊できるのでしょうか。


「死の直後でもできないことはありません。ですが、霊的意識が混乱していますから、まともな対話はできないでしょう。」


――ということは死後しばらくしてからの方が良いということでしょうか。


「大体においてそうです。死の直後は眠りから覚めたばかりの人間に語りかけるようなものです。ですが、別に問題ないケースもあります。むしろ招霊して語りかけてやった方がその意識の混乱状態から脱け出るきっかけとなることもあります。」


――死ぬ前は自我意識さえ覚束なかったほどの幼な子が、招霊してみるとしっかりとした知性をそなえていることがあるのは、どうしてでしょうか。


「幼児の魂といっても魂そのものが幼いわけではなく、肉体という産着(うぶぎ)でくるまれているために幼く見えるだけです。死によってその束縛から放たれると、本来の霊としての能力を取り戻します。霊には年齢はありません。幼児の霊が大人のような知性で対話に応じることができるということは、その霊はかつて大人にまで成長した前世があるということを意味します。もっとも、死後しばらくは幼児としての個性をいくらか留めてはいるでしょう。」


編者注――死の直前までの状態が死後しばらく尾を引くのは、精神病患者にも見られる。霊そのものは異常ではないのであるが、正常な人間と同様に死んだことに気づかずに地上的波動の中で過ごしているので、精神が正常な働きを取り戻せないでいることがある。その反応は精神病の原因によってさまざまであるが、中には死の直後から完全な精神機能を取り戻す人もいる。


――動物の霊を呼び出すことができますか。


「動物を生かしめている知的原理は、死後“潜伏状態”とでもいうべき状態に入ります。が、それも一時期で、すぐに担当の霊団によって新たな存在の知的原理として活用されます。このように、動物の霊には人間のような、次の再生までの反省期間はありません。これでご質問の答えになると思います。」


――すると動物を呼び出して対話をしたという話はどうなるのでしょうか。


「岩の霊でも呼び出してみられるがよろしい。ちゃんと対話をしてくれます。が、それは岩の霊ではありません。いたずら霊です。霊はそこらじゅうにウヨウヨしているのですから、すぐに出て誰の真似でも何の真似でもします。」


編者注――同じ理由から、神話上の人物や架空の人物が出てしゃべったというのも、いたずら霊の仕業のようである。


――霊が再生してしまうことは招霊にとって致命的障害ですか。


「そんなことはありません。しかし、招霊された時の肉体が霊にとって離脱しやすい状態であることが必要です。再生した天体が進化しているほど離脱しやすいです。進化するほど物質性が希薄になるからです。」


訳注――私の師の間部詮敦氏の実兄の詮信(あきのぶ)氏は霊能の多彩さでは詮敦氏を凌ぐものがあり、日常茶飯事に使っておられた。その詮信氏が育てた物理霊媒の津田江山氏の実験会に出席した時、直接談話現象に「間部(まなべ)です」と言って出現して皆を驚かせた。書にも堪能だった詮信氏は用意しておいた三枚の色紙に真っ暗闇の中で見事な文字を直接書記で揮毫されたが、後でお会いした時に「あの時はどちらにおられたのですか」とお尋ねしたら、福岡の自宅で寝ていたとおっしゃった。幽体離脱して出られたのだった。


――この地上で今生活している人間の霊でも招霊できますか。


「できます。今も述べた通り、他の天体上で生活している霊を招霊できるのと同じです。招霊でなくて幽体離脱して物質化して姿を見せることもできます。」(七章および八章参照)


――招霊されている時の肉体の状態はどうなっているのでしょうか。


「眠っているか、うたた寝をしています。そういう時は霊が自由に活動しやすいのです。」


――霊が留守にしている間に肉体が目を覚ますことができますか。


「できません。もし何らかの事情で起きる必要が生じた時は、霊は強制的に戻らされます。地上生活中は肉体が“我が家”なのですから。それが招霊されて対話中であれば、理由を述べて対話を中断するでしょう。」


――肉体から離れていて、どうやって戻る必要性を知るのでしょう?


「離れているといっても完全に分離しているわけではありません。どんなに遠くへ出かけていても流動性の紐(玉の緒)でつながっていて、それが戻る必要が生じたことを知らせます。この紐は死の瞬間まで切れることはありません。」


編者注――この流動性の紐は霊視能力のある人にも見える。霊の話によると睡眠中などに霊界を訪れる霊にはこの紐がついているので、それが霊界の霊と区別する目印になるという。


――睡眠中ないし霊の留守中に肉体が致命傷を受けた場合はどうなりますか。


「そうなる前に知らせを受け、即座に肉体に戻ります。」


――では、霊の留守中に肉体が死亡し、霊が戻ってみたら“我が家”に入れなくなっていたというような事態は起きないということでしょうか。


「絶対に起きません。もしそんなことが起き得るとしたら、霊と肉体との合体を支配する摂理に反することになります。」


――でも、まったく予期せぬことが突如として起きることも考えられませんか。


「危険が差し迫っている時は、そうならないうちに霊に警告があります。」


訳注――現実問題として睡眠中に地震などで死亡することがあるのであるから、そういう問題よりも、ここでは“霊と肉体との合体を支配する摂理”について、もう少し突っ込んでほしかったところである。カルデックの質問の主旨はよく分かるが、回答している霊は別の捉え方をしているように思えてならない。


――生者の霊と死者の霊とでは、対話をする上で全く同じですか。


「いえ、肉体につながっている以上、大なり小なり物的波動の影響を受けます。」


――呼び出した時点ですでに肉体から離れている時は何か不都合がありますか。


「ないことはありません。たとえば赴いている先から帰りたくない時が考えられます。まして、招霊会の司会者が全く見ず知らずの人間である場合はとくにそうでしょう。」


――普通の覚醒状態で生活している人間の霊を招霊するのは絶対に不可能でしょうか。


「難しいですが、絶対に不可能というわけではありません。というのは、招霊の波動が届いて霊が反応すると、急に眠くなって寝入る人がいます。が、基本的には霊が出て対話をする時は、その肉体にとって霊の知的活動が必要でない時にかぎられます。」


――睡眠中に招霊された時、目覚めてからその間のことを思い出しますか。


「ほとんどの場合、思い出しません。実を言うとあなた方も、ご自分では記憶にないでしょうが、何度か招霊されているのですよ。が、その記憶は霊の意識に残っているだけです。時には夢のようにおぼろげに意識にのぼることもあるでしょうけど……」


――誰が招霊するのでしょうか。私のような無名の人間を……。


「幾つかある前世では結構名の知れた人物だったかも知れませんよ。ということはこの地上ないしは別の天体上で、あなたには記憶はなくても、あなたを知っている人が大勢いるわけです。そういう人が招霊するのです。たとえば前世であなたがこの地上かどこかの天体上にいる誰かの父親だったとします。その人物が今のあなたを呼び出した場合、出て行くのはあなたの霊であり、その霊が対話をするわけです。」


――生者の霊が招霊された時、霊として対応するのでしょうか、それとも通常の意識で対応するのでしょうか。


「それは霊性の進化の程度が問題です。ですが、どっちみち通常意識の状態よりは判断力は明晰で地上的偏見による影響は少ないでしょう。というのは、招霊されている時は夢遊病(セミトランス)的状態に似ており、死者の霊と大差はないからです。」


――セミ・トランスの状態で招霊された場合は通常の状態で招霊された時よりも判断力は明晰でしょうか。


「遥かに明晰でしょう。通常よりは物質による束縛が少ないからです。そうした違いは全て霊が物的身体からどの程度独立しているかに掛かっています。」


――セミ・トランスの状態にある霊が招霊されている時に、遠距離にいる別の人から招霊された場合はそれに応じられますか。


「二つの場所で同時に交信する能力は、物的波動から完全に脱した霊しか持ち合わせません。」


――妊娠中の胎児の霊の招霊は可能でしょうか。


「不可能です。妊娠期間中の霊は意識が混濁していて、対話はできません。」


編者注――霊は受胎の瞬間から活動を開始するが、意識は混濁している。その混濁は誕生が近づくにつれて増幅し、自意識を完全に失った状態で誕生する。


――招霊された霊に代わっていたずら霊が出現することは有り得ますか。


「有り得るどころではありません。しょっちゅうやっています。とくに興味本位でやっている招霊会ではほとんどがそうだと思ってよろしい。」


――生者の霊を招霊することに何か危険がありますか。


「危険が全くないとは言えませんが、問題があるとすれば体調です。何か病気があれば招霊によって悪化する恐れがあります。」


――絶対にいけないことといえば、どういうことでしょうか。


「幼児、少年少女、重病人、虚弱体質の人、老人――要するに体力の弱い人は絶対に招霊してはいけません。」


――ということは、招霊中の霊の活動が身体を疲れさせるのでしょうか。(この質問に対して、実際に招霊された霊がこう述べた。)


「私の霊はまるで柱につながれたバルーンのようです。身体が柱で、バルーンにぐいぐい引っぱられて揺すられます。」


――生者を不用意に招霊することが危険であるとなると、死者の霊のつもりで呼び出したら、すでに再生していたという場合も害を及ぼすことになりませんか。


「いえ、その場合は条件が異なります。そういう場合の霊は招霊に対応できる者にかぎられます。それに、すでに忠告したはずですが、招霊会を催す時は、あらかじめ霊団側にお伺いを立てないといけません。」


――眠くなるはずもない時に急に睡魔におそわれた時は招霊されていることも有り得るわけですか。


「理屈の上ではそういうケースも十分に考えられます。が、実際問題としては純粋に身体上の反応に過ぎないことがほとんどでしょう。つまり身体が休息を求めているか、もしくは霊が自由を求めているかのどちらかです。」


――遠く離れた二人の人間がお互いに招霊し合い、想念を交換し合うという形での交信も可能なのでしょうか。


「まさに可能です。そうした、言うなれば“人間電信”が当たり前の通信法となる日が必ず来ます。」


――現在ではできませんか。


「できないわけではありませんが、ごく限られた人だけです。地上の人間が身体から自由自在に離脱できるようになるには、霊性が純粋でなければなりません。霊性が高度な発達を遂げるまでは、そうした芸当は一握りの、純粋で物質臭を克服した魂にしかできないでしょう。そうした魂は現段階の地上では滅多にお目に掛かれません。」

シルバーバーチの霊訓(五)

 More Teachings of Silver Birch 

 Edited by A.W. Austen


五章 迷いの過去から悟りの未来へ

 スピリチュアリズムの前途には大きな仕事が待ち受けている。霊的交信の目的はただ単に地上の人間に慰めをもたらすことではない。

ある日の交霊会でシルバーバーチは〝生命の法則について精神的側面、道徳的側面、物的側面、ならびに霊的側面から理解を深めるように指導し、身体的に不健全な人が少なくなると同時に霊的に未熟な人も少なくしていくことが我々の使命の一端です〟と述べて、スピリチュアリズムの目指すべき方向を暗示した。それを別の日の交霊会で次のように敷衍(ふえん)した。

 「私どもは自己中心主義、物質万能主義、無知、暗黒等々、人生の楽しさ、明るさ、安らぎを奪う勢力のすべてを一掃すべく努力しております。地上のため───それだけを望んでおります。それなのに、つまり地上のためになることをのみ望み、何一つ邪なものを持ち合わせず、人間性の中に下品なもの、あるいは低俗なものには決して訴えることがないのに、なぜ人間は私たち霊の働きかけを毛嫌いするのでしょうか。

 より次元の高い真理、より深い悟りの道をお教えしようとしているのです。人生の基盤とすべき霊的原理を理解していただこうと努力しているのです。人間の内部に宿る霊的可能性を認識し、真の自我とその内奥に存在する神性を見出していただきたいと願っているのです。

私たちは人間の理性───人間として最高の判断力に訴えております。一段と次元の高い生命の世界を支配する摂理をお教えし、宇宙の物的側面だけで無く、もっと大きな部分を占めているところの永遠不滅の霊的側面を理解していただこうと願っているのです。

 私たちの努力目標は人類が幻を追い求め影を崇めることのないように、霊的真理の実在を得心させることによって人生観を誤った信仰でなく確実な知識の上に確立し、大自然の法則に基づいた本当の宗教心を持ち、たとえ逆境の嵐が吹き荒れ、環境が酷しく、いずこに向かうべきかが分らなくなった時でも〝事実〟に裏打ちされた信仰心によってあらゆる試練、あらゆる苦難に耐えていけるようにしてあげることです。私たちの使命は霊的使命なのです。

人間が内奥に神すなわち実在の生命を宿していることをお教えし、従って人間は動物ではなく一人ひとりが神であることを自覚し、同じ神性が宇宙の他のすべての生命にも宿っていることを知っていただくことを使命としているのです。

 その認識が行きわたれば地上は一変します。理解が広まるにつれて新しい光が射し込み、永遠の大機構の中での人間の位置を悟ることになります。私たちが訴えるのはややこしい神学ではありません。時代遅れの教説ではありません。

素朴な理性───あらゆる真理、あらゆる知識、あらゆる叡知の真偽を判断する手段に訴えております。

もしも私の述べることにあなた方の知性を侮辱し理性を反撥させるようなものがあれば、それを無理して受け入れることは要求しません。最高の判断基準に訴えることによって人間が真の自分を見出し、真の自分を見出すことによって神を見出してくださることを望んでいるのです。

 真理は決して傷つけられることはありません。決して破壊されることはありません。後退させられることはあります。抑えつけられることもあります。しかし永久に埋もれてしまうことはありません。

真なるものが損なわれることはあり得ません。嘘言を持っていかに深くいかに固く埋め尽くされても、いつかは必ず表に出てきます。真理を永遠に抑えつけることはできません。

いま私たちが旗印としている真理は地上にとって重大な役割を担っております。人間というものは煩悶の時代になると永いあいだしがみついていた教説を改めて検討し、それが果たして苦難と困難のときに慰めとなり力となってくれるであろうかと思いはじめるものです。

 霊的実在についての真理を片隅に押しやることはできません。人間がひとりの例外もなく神の子であり成就すべき霊的宿命を背負った存在であるとの証は、宇宙における人類の本当の位置を認識し無限にして永遠の創造の大業の一翼を担う上で絶対必要なことです。

私たちの存在自体を疑う人がいることでしょう。存在は認めても影響力を疑う人がいることでしょう。もとより私たちは万能を主張するつもりはありません。私たちも常に数々の限界とさまざまな制約に直面していることは、これまでたびたび述べてきたことです。しかし私たちがあなた方を援助することができるという事実に疑う余地はないでしょう。

 私たちには霊力というパワーがあります。これは宇宙の全生命を生み、それに形態を与えている力です。正しい環境と条件さえ整えてくれれば、私たちはそのパワーを活用してあなた方を導き、保護し、援助することができます。

それも決してあなた方だけという限られた目標のためでなく、あなた方を通じて顕現した霊力がさらに他の人へも波及して、その人たちも霊的なパワーを感得できるようになるのです。

前途に横たわる道は決して容易ではありません。しかし協調精神をもって臨み、平和的解決を希求し、慈悲心に裏打ちされた公正を求め、憎しみと復讐心に根ざした観念を完全に排除して臨めば、明るい未来をすぐ近くまで招来することができることでしょう」

 これは一九三九年に第二次大戦が勃発して間もない頃の交霊会での霊言で、最後の部分はその大戦のことを指している(本書の出版は一九四一年──訳者)

 さらにメンバーからの質問を受けてこう語っている。

 「物質の世界に生きておられるあなた方は実在から切り離されております。あなた方自身にとって、そのことを理解することが難しいことは私もよく承知しております。なぜならば、あなた方なりに何もかもが実感があり実質があり永遠性があるように思えるからです。

ご自分を表現しておられるその身体、地上と言う大地、住んでおられる住居、口にされる食べ物───どれをとってもこれこそが実在であると思いたくなります。でも、それはことごとく〝影〟であり〝光〟でないことを申し上げねばなりません。

あなた方は五感に感応しない世界を想像することができません。従ってその想像を超えた世界における活動と生活ぶりを理解することができないのは当然です」


 そうした地上とはまったく異なる世界についての知識を得ているサークルのメンバーの一人に〝その知識はあなたにどういう変革をもたらしましたか〟とシルバーバーチの方から質問したことがあった。それを全部聞き終わったあとこう語った。

 「こうしてお聞きしてみますと、あなた方ひとにぎりの方たちにあっても、わずか二、三年間の霊力との接触によっていかに大きな変革がもたらされたかが分ります。となれば、これを世界中に普及させることによってその数を百万倍にもすることができるということです。

それは無知を一掃し、暗闇の中で進むべき道を見失った人々に灯を与え、全宇宙の背後に存在する大目的を教えてあげることによって達成されることでしょう。
℘71
 人類がいかに永いあいだ道を見失なってきたかご存知でしょうか。人類を先導すべき人たち、霊的指導者であるべき人たちみずからが盲目だったのです。玉石混交の信仰を持って事足れりとしてきました。宗教的体系をこしらえ、その上に教義とドグマで上部構造を築きました。

儀式と祭礼を発明しました。教会(チャーチ)(キリスト教)、寺院(テンプル)(仏教)、礼拝堂(シナゴーグ)(ユダヤ教)、モスク(イスラム教の礼拝堂)等々を建造しました。神とその子等との間に仕切りを設けたのです。それぞれに経典をこしらえ、わが宗教の経典こそ本物で宇宙の真理のすべてを包蔵していると主張し合いました。

かんかんがくがく、宗教家としての第一の心掛けであるべき愛の心を忘れ、その上なお情けないことに、憎悪と敵意を持って論争を繰り返してきました。

 予言者、霊覚者、哲人、聖者の類をすべて追い払いました。真の〝師〟たるべき人々を次々と迫害していきました。神の声の通路であるべき人々の口を塞いでしまいました。腐敗した組織にはもはや神の生きた声が聞かれる場がなくなってしまいました。

開かれたビジョンを閉ざし、すべての権力を聖職者に帰属させ、神へ近づける力は自分たち以外にはないことにしてしまいました。聖職者の中にも高徳の人物は数多くいました。ただ、惜しむらくは、その人たちも(そうした環境の影響のために)宗教の唯一の礎石(いしずえ)であり人類にその本領を発揮せしめる原動力である霊力の働きかけに無感覚となっておりました。
℘72
 人類の歴史において大きな革命を生んできたのは全て霊の力です。素朴な男性または女性が霊感に鼓舞されて素朴なメッセージを威信を持って語り、それを素朴な平凡人がよろこんで聞いたのです。今その霊力が、かつてと同じ〝しるしと奇跡〟を伴って再び顕現しております。

目の見えなかった人に光が戻り、耳の聞こえなかった人が聴覚を取り戻し、病の人が健康を回復しております。邪霊を払い、憑依霊を取り除き、肉親を失った人たちに慰めをもたらしております。

 多くの魂が目を覚まし、霊の大軍が存分にその威力を見せることが出来るようになりました。〝死〟の恐怖を取り除き、〝愛〟が死後もなお続きその望みを成就している事実を示すことができるようになりました。インスピレーションは(イエスの時代に限らず)今なお届けられるものであること、人間の心は(他界した時点のままでなく)死後も改めていくことが出来ること、(宗教的束縛から)

精神を解放することが可能であること、自己改革への道が(宗教的教義に関係なく)開かれていること、(宗教的活動から離れたところにも)自分を役立てる機会はいくらでもあること、霊力に鼓舞されて報酬を求めずこの世的な富への欲望を持たずに〝よい知らせ〟を教えてあげたい一心で、すべての人に分け隔てなく近づく用意の出来た魂が存在している事実を立証しております。

℘73
 これほどまで美しい話、これほどまで分り易い話、人生の本質をこれほど簡明に説き明かしてくれる話に耳を傾けようとしない人が多いのは一体なぜでしょうか。光明を手にすることができるのに一体なぜ多くの人が暗黒への道を好むのでしょうか。なぜ自由よりも束縛を好むのでしょうか。

 しかし、われわれはあなた方が想像される以上に大きな進歩を遂げております。難攻不落と思えた古い壁───迷信、既成権力、ご生大事にされている教義、仰々しい儀式を堅固に守り続けてきた壁が音を立てて崩れつつあります。急速に崩壊しつつあります。

一方では多くの魂が霊的真理に感動し、精神に光が射しこみ、心が受容性を増し、よろこんで私たちの教説に耳を傾けてくれております。過去数年間の進歩ぶりを見れば、われわれの勝利はすでにゴールが目に見えていると宣言してもよい時機が到来したと言えます。

その確信を私は語気を強く宣言します。もはや絶望の戦いではなくなりました。私たちが自己中心の物質第一主義に根ざした古い時代は終わった、新しい時代が誕生している、と述べる時、それは有るがままの事実を述べているのです。

 かつて地上において苦難と犠牲の生涯を送った人々、強者と権力者によって蔑まれる真理を護るためにすべてを犠牲にした人々───その人たちがいま霊界から見下ろし、霊的大軍の前進ぶりを見て勝利を確信しております。
℘74
むろんこれは比喩的に述べたまでです。銃を手にした兵士がいるわけではありません。われわれの弾薬は霊力であり、兵器は理性と良識です。私たちは常に人間の知性に訴えます。もっとも、時としてその知性が無知と迷信と依怙地な強情の下敷きとなってしまっているために、果たして(普遍的判断基準であるべき)知性が存在するのだろうかと迷うこともあるでしょう。

しかし、よく目を見開いて自分でそのしるしを求めることです。あなた方にはその判断力があり、囚われなきビジョンを手にする能力をお持ちです。その力で、暗闇を突き通す光を見届けて下さい。

 われわれはもはや軽蔑の対象とされた曽ての少数派ではありません。片隅で小さくなっていた内気な小集団ではありません。科学的立証を得て、やはり真実だったと確信した堂々たる大軍であり、恥じることない社会的位置を獲得し、霊的事実の福音を誇りを持って説いております。

霊的なことを口にしたからといって軽蔑されることはもうありません。それは過去の無知な人間がしたことです。今はそれを知っていることで尊敬される時代です」

 訳者注───モーゼスの『霊訓』によると、かの 〝十戒〟を授かったモーゼが従えていた七十人の長老はみな霊格の高い人物だったという。これは世界に共通した事実であって、古代においては霊感が鋭くかつ霊的なことに理解のある者が要職につき、いわゆる祭政一致が当然のこととされた。
℘75
 それが物質科学の発達と共に意識の焦点が五感へと移行し、物的なものさしで測れないものが否定されていった。ところが皮肉なことに、その物質科学みずからが物質の本質は常識的に受け止めてきたものとは違ってただのバイブレーションに過ぎないことを突き止めたのと時を同じくして、再び霊的なものへと関心が高まりつつある。

 シルバーバーチはそうした潮流の背後には霊界からの地球的規模の働きかけがあることを指摘している。オーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻〝天界の大軍〟篇はそれを具体的に叙述して、その総指揮官がキリストであると述べている。シルバーバーチ霊団も、イムペレーター霊団もその大軍に属し、最前線で活躍していたことになる。

Tuesday, May 5, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

 The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄

第2部 本論



14章 霊の身元と霊格の問題

一、生前の身元の証明はどこまで可能か

スピリチュアリズムの難問の中でも霊の地上時代の身元ほど異論の多い問題はない。その原因は、問題の性質上、確実な証拠とすべきものが霊側から提供できないということ、そしてまた、時として適当な氏名を名乗る霊がいるということである。

そうした理由から、霊の身元の確認は憑依現象に次いで、スピリチュアリズムの現象面における難題の一つである。もっとも、身元が絶対に間違いないか否かは二次的な意味しかなく、実質的な価値はほとんど無いということを念頭に置いておく必要がある。とくに高級霊になると尚さらである。なぜか。

霊は、霊性が純化されてそれ相応の界層へと進化向上して行くにつれて、本来の個性は変わらないが、言うなれば霊的資質の完成度の均一性において、互いに融合していく。我々が“高級霊”と呼んでいる段階がそうであるが、さらに進化した“純白霊”になると尚さらで、その段階にまで至った霊について、それまでに数知れず体験したであろう物的生活(地球以外の天体上の生活も含めて)の一つに過ぎない地上時代の姓名などを詮索しても意味はないであろう。

さらに留意すべきことは、霊はその霊性の親和性によって互いに引き合い引かれ合って一つの大きな霊的集団ないしは霊的家族(類魂団)を構成する。そうなると、我々人間との交信において、我々が知っていると思われる名前をその同族の中の誰かから借用して間に合わせることをする。

と言うのも、無数にいる同族霊の中には人類の歴史にその名を残している者よりも、まったく知られていない者の方が遥かに多い。その“無名”の高級霊が人間と交信をして高等なメッセージを送る時に氏名を述べる必要が生じたとしよう。その時まったく知られていない氏名を名乗っても意味がない。そこでそのメッセージの内容に相応しい名前を選んで使用するのである。

従って、かりに誰かの守護霊が“聖ペテロ”と名乗っても、それは必ずしもキリストの使徒だったあのペテロであるとは限らないのである。もしかしたら人類には全く知られていない人物で、今はあのペテロが属している霊団の一人なのかも知れないのである。

その場合、こちらから何という名で呼び出してもその霊が出てくるであろう。と言うのは、霊との交信はあくまでも“思念”で行われるので、ペテロと呼ばれようがパウロと呼ばれようが、その霊が出てくる。すでに交信状態ができ上がっているからである。それゆえ高等な通信に関するかぎり、その通信霊が地上時代に誰であったかは意味がないのである。

それが地上を去ってあまり年月が経っていない霊、つまり地上感覚から脱け切っていなくて記憶も習性もあまり変化していない霊となると、警戒すべきことが二つある。

一つは、そういう霊が歴史上の大人物や神話・伝説上の神仏の名を騙(かた)る場合、もう一つは、肉親や友人・知人の声色や話振りを真似て、人間を喜ばせたり感激させたりして面白がるケースである。

そうしたケースでその霊の身元を確認する方法の一つは、「神に誓ってそのお名前に偽りはございませんね?」と尋ねてみることである。中には平然と振る舞う曲者もいるが、大抵はすぐに怒り出すか、自動書記であれば用紙を破ったりエンピツを放り投げたりする。また平然とした態度を装う者に対しては、その述べるところに矛盾撞着がないかを見極めて、その点を突っ込んでいくことである。たとえば――

ある自動書記でいきなり「私は神(ゴッド)である」と名乗ってきたことがあった。霊媒は嬉しくて、一も二もなく信じた。そこでその霊を霊言霊媒を使って招霊して、さきほど述べたように

「神に誓って神様であることに偽りはございませんね?」と尋ねたところ、少し動揺した様子を見せ、

「神様であるとは言っておらぬ。神の子である」と言い出した。そこで、

「では、イエス様でいらっしゃるわけですか。神に誓ってイエス・キリストであることに偽りはございませんね?」と聞き返すと、さすがに畏れ多いと思ったのか、

「イエスであるとは言っておらぬ。神の息子だと言っているまでである。なんとなれば神に創造されたものだからである」と、わけの分からぬことを言ってきた。

低級霊の集団には、世界各地の交霊会に出没しては、出席者と縁故のある霊の声色を使ったり話し方を真似て、感激的な再会の場面を演出することを得意とする者がいる。その場合、名前や住所、家族名などを確かめても何にもならない。その程度の情報なら低級霊にも簡単に入手できるからである。

また証拠などが得られない高級霊の場合の身元の判断の材料は、名乗って出てくる名前や歴史上の史実ではなく、“言っていること”そのものの内容である。
二、霊格の程度と正邪の見分け方


霊の身元の証明は多くの場合、とくに高級霊の場合は二次的な問題でほとんど意味がないとしても、その霊が善霊か邪霊か、高級か低級かの判断はきわめて重大な問題である。というのは、その述べるところが一体何という名の霊からのものであるかは、事情によってはどうでもよいことであるが、その内容つまり何を述べているかということは、それを送ってくる霊の信頼度を計る唯一の手掛かりとなるからである。

今も述べたように、通信霊がいかなる霊格の持ち主であるかは、人間の人格を推し量る時と同じように、その言っていることによって判断しなくてはならない。かりに見知らぬ人々から二十通の手紙が届いたとしよう。その一通一通について文体と内容その他、こまごまとした特徴から、どの程度の人物からのものであるかは大よその見当がつくはずである。

霊からの通信についても同じことが言える。一度も会ったことのない霊からメッセージを受け取ったら、その文体と内容から大よそどの程度の霊格の持ち主であるかの見当をつけるべきで、立派そうな名前のサインがしてあるからというだけで有頂天になってはいけない。霊格はその言葉に表れる――これは間違いない尺度であって、まず例外は有り得ないと思ってよい。

高級霊からのメッセージはただ内容が素晴らしいというだけではない。その文体が、素朴でありながら威厳に満ちている。低級霊になると、やたらに立派そうな派手な用語を用いながら、訴える力がこもっていない。

用心しなければならないのは、知性である。ふんだんに知識をひけらかしているからといって高級霊と思ってはならない。知性は必ずしも徳性ないし霊性の証明ではないのである。非常に霊性の高い霊でも哲学的には深いことを語らないことがあるし、博覧強記で、知らないものはないかに知識を披露しても、霊格の低いことがある。

そうしたことから推察できる事実として、通信霊が地上時代に著名な科学者だったからといって、その後もその分野でますます高度の知識を蓄えているとは限らないことである。霊性の発達が遅れているために相変わらず地上的波動から脱け切れず、地上時代に名声を博した理論をいつまでも後生大事にして、それが進歩の足枷となっていることに気がつかない。

もちろん全ての科学者がそうだと言うつもりはない。ただ、これまでにそうした霊を数多く招霊しており、地上時代の名声は必ずしも霊性の高さの証明とはならないことを指摘しておくまでである。

繰り返すが、霊的通信を受け取った時は、内容的に見て理性と常識に反するものはないか、文章や言葉に品位があるか、偉ぶったところや尊大な態度は見られないか、といった点を徹底的に検証しないといけない。そうした態度に出られて、もしも機嫌を損ねるようであったら、それは低級霊・未熟霊・邪霊の類いと思って差し支えない。高級霊ないし善霊は絶対に機嫌を損ねないどころか、むしろそうした態度を歓迎する。何一つ恐れる必要がないからである。
一問一答


――通信霊の優劣は何を手掛かりに判断すればよいのでしょうか。


「文章(自動書記の場合)ないし言葉づかい(霊言の場合)です。人間の場合と同じです。すでに述べたように、高級霊の述べることには矛盾撞着がなく、全体が善性で貫かれております。善への志向しか持ち合わせないからです。それが高級霊の思念と行為の目的なのです。

低級霊はいまだに地上的感覚に支配されています。その語るところに無知と不完全さがさらけ出されます。知識の崇高さと冷静な判断力、これが高級霊のみの属性です。」


――優れた科学的知識は霊格の高さの指標でしょうか。


「そうとは言い切れません。その霊が今も地上的波動の中で生きているとすれば、人間的な煩悩と偏見を留めているはずです。地上を去ってすぐにそうした煩悩を捨て去ることができると思いますか。とんでもありません。こちらへ来ても相変わらず高慢で嫉妬ぶかく、その波動が地上時代と同じように魂を覆っています。

低級霊というのは、ただ単に無知である者よりも、なまじ知性が発達した者の方が始末に負えないものです。その生半可な知性にずる賢さと高慢とが結合するからです。彼らは大威張りで、怪しむことを知らない人間や無知な人間を標的にして働きかけます。また働きかけを受けた人間もそれを躊躇することなく受け入れます。

無論そうした誤った論説は最終的には真理には勝てませんが、一時的には混乱を引き起こし、スピリチュアリズムの発展を阻害します。霊能者は無論のこと、スピリチュアリズムの普及に携わる人々は、その点をしっかりと認識して、真理と虚偽とを明確に選り分けるように努力すべきです。」


――通信霊の中には歴史上に名を留めている聖人や有名人の名を名乗る者が多いのですが、どう対処すべきでしょうか。


「歴史に名を残している聖人や大人物がいったい何人いるというのでしょう? 通信を送る高級霊の中で地上の人間にその名を知られている者の数はたかが知れています。知られていない霊の方が遥かに多いのです。地上時代の氏名を聞かれても名乗りたがらない者が多いのは、そのためです。ところが、人間はそれでは承知せず、しつこくせがみます。そこでやむを得ず適当な人物の名を使用することにもなるのです。」


――それは一種の“詐称”と見なされるのではありませんか。


「邪霊が騙す目的でそういうことをすれば詐称と言えるでしょう。ですが、高級霊がそういうことをすることは、同じ霊格を持つ霊団の中では許されていることなのです。思想上の同一性と責任の連帯意識があるからです。」


――そうなると、霊団の一人がたとえば“聖パウロ”だと名乗っても、あのキリストの使徒のパウロだとは限らないということですか。


「その通りです。自分の守護霊は聖パウロだと言われた人が何千何万といる事実を見れば分かるはずです。が、霊格がパウロと同じ程度であれば名前はどうでもいいではありませんか。ですが、あなた方はすぐに地上時代の名前を知りたがります。そこで霊の方では適当な名前を選んで、それを自分の“呼び名”にするのです。それはちょうど地上の家族が同じ姓のもとで呼び名をつけて区別にするのと同じです。時にはラファエルとかミカエルといった大天使の名をつけて、問題が生じない範囲で用いることもあります。

さらに言えば、霊格が高まれば高まるほど、その影響力の及ぶ範囲も広がります。そこで、一人の高級霊が地上の何百何千という人間の面倒を見ることもあります。地上には弁護士というのがいて何十人何百人という人の世俗的問題の処理に当たりますが、それと同じと思えばよろしい。霊的な側面から面倒を見るわけです。」


訳注――マイヤースの“類魂説”でいうと、類魂団の親に当たる“中心霊”がいて、それが幾つでも分霊を出して地上その他の天体に生みつけ、その一人一人を類魂の中の誰かに面倒を見させるという。中心霊が全体を統括しながら個々の人間にも守護霊を付けているようである。「一人の高級霊が地上の何百何千という人間の面倒を見る」というのは“統括している”という意味に取るべきであろう。


――通信霊が聖人の名を使うことが多いのはなぜでしょうか。


「通信を受け取る側の人間の信仰上の慣習に合わせて、最も感銘を与えやすい名を選びます。」


ブラックウェル脚注――聖人に列せられている名を使うのはカトリック系の国に多く、プロテスタントの国では歴史上に名を残した人物や科学界の著名人の名を用いる傾向がある。


――高級霊は招霊されると自ら出てくるのでしょうか、それとも代理の者を差し向けることもあるのでしょうか。


「出られる場合は自ら出ます。出られない場合は代理の者を送ります。」


――その代理の霊は高級霊の代理として申し分ないだけの資格を身につけているのでしょうか。


「高級霊が自分の代理として選ぶのですから、十分にその資格をそなえた者にきまっています。さらに言えば、霊格が高まるほど霊団内の思想に緊密度が増しますから、その中の誰が出ても大して変わりはないのです。

お聞きしていると、地上の歴史に名を残している人物でないとその通信に価値がないかに思っておられる節がありますね。どうやらあなた方は、自分たち地上の人間だけがこの宇宙の住民であるかのように思い込み、そこから先が見えないようですが、そんなことでは、まるで孤島で暮らしている原始人と同じで、その島が全世界であると思い込んでいるようなものです。」


――重大な内容の通信の場合であれば異論はありませんが、低級霊が道を誤らせるような内容の通信を送ってくる時に聖人の名を騙るのをなぜ高級霊は許すのでしょうか。


「別に許しているわけではありません。地上と同じで、そういう騙しの行為をした霊は罰せられます。それは確かです。そしてまた、その騙しの悪辣さに応じて罰が酷しくなることも確かです。

しかし一方、もしもあなた方が完全な人間であれば常に善霊に取り囲まれていることでしょうが、万が一騙された時は、それはあなた方がまだまだ不完全であることの証左であると受け取るべきでして、その場合の責任は人間側にもあることになります。

そういう事態が生じるのは、一つには天の配剤としての試練であり、また一つには真実と虚偽との見分けが必要であることを教えることによって啓発するためでもあります。それでも啓発されなかったら、それはあなた方の霊性が十分に進化していない証拠であり、まだまだ失敗による教訓を必要としていることを物語っています。」


――霊格はあまり高くなくても真理の普及と向上心に燃える霊を、通信法の練習の機会を与える目的で、本来の高級霊に代わって出させることはありますか。


「スピリチュアリズムの大計画に基づく交霊会では絶対にそのようなことはさせません。もともとそうした重大な交霊会に出現する高級霊は自らその難しい仕事を買って出るものだからです。中には霊格は高くても、たとえば自動書記であれば“書く”という練習も兼ねることがあり、霊媒の知識の不足もあって、最初のうちは通信内容が粗悪である場合が少なくありません。が、プライベートな内容の通信の場合を除いて、代理の者に書かせることはしません。」


訳注――本書の二十年後に出たモーゼスの『霊訓』では、レクターその他の複数の霊が最高指揮霊インペレーターの“書記”をつとめている。また、さらに五十年後に出現したシルバーバーチはインディアンをマウスピースとして使用している。時代とともに変遷しているようである。


――お粗末きわまる通信の中に時としてびっくりするような名文が出てくることがありますが、この不合理をどう理解すべきでしょうか。霊格の異なる複数の霊が入れ替わり立ち替わり書いたように見受けられるのですが……。


「低級霊ないしは無知な霊が大した内容もない文章を綴ることがあります。地上でもそうではないでしょうか。文筆家がみな立派な人ばかりとは限らないのと同じです。が、その程度の霊と高級霊とが共同で書くようなことはしません。高級霊からの通信には一貫して崇高さが窺われます。」


――霊が間違ったアドバイスをして、それがもとで人間が誤りを犯した場合、そこには必ず意図的な作為があるのでしょうか。


「そんなことはありません。善意に満ちた霊でも真理に無知なことがあり、真実と思い込んで間違ったアドバイスをすることがあります。ただし自分の誤りに気づくと、それからは用心して間違いない範囲に限るようにします。」


――間違った内容の通信を送ってくる場合、良からぬ意図に発しているのでしょうか。


「これもそうとは言い切れません。霊でもよく軽はずみなことを述べてしまうことがあるものです。誤解しているわけでもなく、これといった意図があるわけでもないのですが、明確に理解していないことをいかにも分かっているかのごとき態度でまくし立て、煙(けむ)に巻くことがあります。」


――霊が声色を使ったり話し方を真似たりすることができるとなると、姿を偽装することによって霊視能力者をごまかすこともできるのでしょうか。


「そういうことが時おりあります。しかし霊言や自動書記でごまかすよりも難しく、しかも高級霊による配慮で、その霊能者を戒める目的で特別に雇われた霊だけに許されることです。その場合、霊自身は高級霊に雇われていることには気づきません。また霊視能力者もそうした軽薄な低級霊が見えてもごまかされていることには気づきません。霊聴能力で話を聞き取り自動書記で綴るのと同じことです。いたずら霊はそうした霊媒能力を逆手に取って偽装した姿を見せるのですが、それが可能かどうかは霊能者自身の霊性の程度に掛かっています。」


――騙されないようにするには真面目な心掛けが肝心なのでしょうか、それとも、どんなに真面目な真理探求者でも騙されるものなのでしょうか。


「真面目であればあるほど騙されることが少ないということは言えます。しかし、いかなる人間にもどこかに弱点があり、それが邪霊につけ入らせることになります。本当は弱いくせに自分では強いと思っている人がいます。自惚れや偏見はないと思っている人でも、自分で気づいていないだけの人がいます。霊能者はそうした点を十分に反省せずに霊的な仕事に携わるために、そこがいたずら霊のつけ入るスキとなります。自惚れや偏見を煽ればいい気になって、思うツボにはまることを彼らは知っているのです。」


――なぜ神はそういう邪(よこしま)な下心をもつ霊が人間に通信を送ることを許すのでしょうか。


「いかに邪悪な霊からの通信にも教訓を垂れるという目的がもくろまれているのです。そこから教訓を引き出し、それを有益な体験としていくことです。正邪を区別し、それを鏡として自分を映して反省するために、ありとあらゆる程度と種類の通信に当たってみる必要があるのではないでしょうか。」


――霊は通信の中に邪な猜疑心を煽るようなことを含ませて、サークルを仲違いさせるようなこともできるのでしょうか。


「根性のひねくれた妬み深い霊は、地上の悪人がするのと同じあらゆる悪事を企むことができます。常に油断を怠らないようにする必要があります。

高級霊が人間に仕置きをする時は、慎重さと節度を弁えた上で行います。決して非難のつぶてを投げるようなことはしません。警告はしますが、そこに優しさがあります。仮に二人のメンバーが今は会わない方がいいと判断した時は、会えなくなるような事情を生じさせて会わないようにします。トラブルや不信を生じさせるような通信は、どんな立派な署名がしてあっても、邪霊の仕業と思って間違いありません。ですから、メンバーの中の誰かを揶揄(やゆ)するようなことを述べている時は用心しないといけません。そして自分自身を厳しく反省し、偏見のないように心掛けることを忘れてはなりません。

霊界通信に関するかぎり、知性と良心に悖(もと)ることのない、上品で寛大で合理的な内容のものだけを受け取ることです。」


――それほどまでに邪霊・悪霊がつけ入りやすいとなると、霊界通信はどれ一つとして安心して受け取れないことになりそうですが……。


「その通りです。だからこそ理性という判断力が与えられているのです。仮に一通の手紙を読んだ時、それが悪逆非道の人物からのものか、育ちの良い人物からのものか、教養があるかないかは、一読しただけで分かるはずです。霊からの通信も同じです。

遠く離れた古い友人から久しぶりに便りが届いたとしましょう。それが間違いなくその友人からものであることをどうやって確認しますか。筆跡と内容で、とおっしゃるかも知れません。が、筆跡を真似たりプライベートなことを覗き見する者はいくらでもいます。が、直観的判断で間違いなくあの友人だと確信させる何ものかがその文面にはあるはずです。霊界通信も同じです。」


――高級霊がその気になれば、邪霊が偽名を使うのを阻止できるのではないでしょうか。


「もちろんできます。が、邪悪性が強い者ほど、その執拗性も強く、しつこく抵抗して容易に止めようとしません。それに、こういうことも知っておいてください。高級霊はその判断力でもって、成り行きに任せる場合と全力をあげて守る場合とがあります。高級霊が全力で守護する場合はいかなる邪霊も無力です。」


――そういう差別をする動機は何でしょうか。


「差別ではありません。公正です。言うことを素直に聞いて向上を心掛ける霊能者にはそれに相応しいことをします。言わば高級霊のお気に入りであり、いろいろと援助します。口先だけ立派なことを言いながら実行の伴わない者には、高級霊はまず構いません。」


――高貴な人物の名を騙るという冒涜行為を神はなぜ許すのでしょうか。


「そういう質問をなさるのなら、なぜ地上にはウソつきや不敬を働く者がいるのかを質問なさるがよろしい。人間と同じく霊にも自由意志があるのです。そして神の公正は善行についても悪行についても、きちんと働きます。」


――そういう邪霊を(悪魔払いのような)儀式で追い払うことはできませんか。


「儀式はあくまでも形式的なものです。大霊を志向した真摯な思念の方が遥かに効果があります。」


――ある霊が、自分たちには誰にも真似のできない図形的な標章をこしらえることができると言い、それを用いることによって絶対的な確実性をもって高級であることを証明できると言うのですが、本当でしょうか。


「高級霊であることの標章は説くところの思想とその言葉の崇高性以外にはありません。図形的な標章ならどんな霊にでも似たものをつくることができます。低級霊が幾ら悪知恵を働かせても、その素性を隠すことはできません。幾らでもボロを見せているのですが、それでも騙される人間はよほど物を見分ける目がないとしか言いようがありません。」


――低級霊は高級霊の思想まで真似ることができるのではないでしょうか。


「できるといっても、それは映画のスクリーンに映る大自然の風景がまがいものであるのと同じ程度のものです。」


――注意して観察すれば化けの皮はすぐに剥がれるということでしょうか。


「そうですとも。騙される人間は自ら騙されることを許しているのです。低級霊が騙すのはそういう人間だけです。本物かニセ物かを見分けるには宝石商のような鑑識眼を持たないといけません。自分で見分けられない時は鑑定家のところへ持って行って見てもらうことです。」


――勿体ぶった言説に簡単に参ってしまう程度の人間、つまり思想よりも美辞麗句に弱い人間は、反対に崇高なものは陳腐で下らぬものと見誤りがちです。こうした人間は、霊どころか、人を見抜く目も持たないと思えるのですが、どうしたらよいでしょうか。


「その人が本当に謙虚であれば自分の無力さを自覚して、都合のいい判断は下さないはずです。高慢で、自分がいちばん賢いと思い込んでいる人間は、自らその自惚れを生み出す結果を招きます。

純心ではあるが教養に欠ける者と、知識と教養は豊富ではあるが自惚れの強い者とがいるものですが、案外前者の方が騙されることが少ないものです。邪霊は、その自惚れ屋の感情をくすぐることによって好きに操るのです。」


――霊能者の中には霊が接近してくる時の雰囲気で善霊か悪霊かの判断をする人が多いようですが、けいれんを伴った興奮状態やイライラといった不快な反応は、間違いなく、働きかけている霊の邪悪性の証拠とみてよろしいでしょうか。


「霊能者は働きかける霊の精神状態を敏感に察知します。霊が幸福感に満ちていれば霊能者も冷静で心も軽やかで穏やかです。不快感を抱いていれば霊能者もイライラしたり興奮したりします。そしてそのイライラは当然霊能者の神経組織にも悪影響を及ぼします。人間と同じです。心に何一つやましいところがなければ沈着冷静です。腹に一物ある人間は落ち着きがなく、とかく興奮しがちです。」

シルバーバーチの霊訓(五)

 More Teachings of Silver Birch 

 Edited by A.W. Austen


四章 軽蔑と嘲笑の中で
        ───スピリチュアリズムの歩み

 一九世紀半ばから始まった科学的心霊研究、そしてその結果としてスピリチュアリズムの名のもとに盛んになり始めた霊的知識は、既成宗教界の侮蔑と弾圧の中にあっても着実に普及してきている。スピリチュアリズムの発端からほぼ百年の歩みを振り返ってシルバーバーチはこう述べた。(本書の初版は一九四一年───訳者)


 「私たちの仕事が始まった当初、(その表面の現象だけを見て)世間の人は何とたわいもないことをして、と軽蔑の眼差しで見たものでした。〝テーブルラッパー〟(※)───彼らはサークルのメンバーをそう呼んで軽蔑し嘲笑しました。しかし、そうした現象も実は大きな目的を持った一大計画に組み込まれていたのです。私たちの意図した影響力は次第に大きくなり世界中へ広がっていきました。

各分野で名声を得ていた名士を次々とその影響力に誘っていきました。偏見によって目隠しをされ理性が迷信によって曇らされている者は別として、やはり著名人の証言が全ての人に尊重されるという考えからそういう手段を選んだのです。(※初期の頃はテーブルの叩音(ラップ)による通信が盛んに行われた───訳者)

 その後もますます多くの人材が同じ霊的影響下に置かれていきました。霊媒も増えました。サークル活動が広まり盛んになりました。科学、医学、思想、宗教、その他ありとあらゆる分野の人をこれに参加させ、当時すでに猛威をふるっていた誤った物質万能主義を否定する現象、新しい高度な生命感を示唆する霊的事実、唯物思想の終焉を予告する目に見えない力の存在へ目を向けさせました。

ほどなくして───実に短期間のうちに───そのテーブルラッパーたちは宗教を腐敗から守る運動の旗手となっていったのです。

 僅か百年足らずの間にどれだけのことが成就されたか、それをこうした経過の中から読み取り、それを教訓としてこれ以後どれだけのことが成就できるか、そこに皆さんの先見の明を働かせてください。しかし私たちが今まさに欲しているのは、もっと多くの道具───背後から導き鼓舞してくれる霊の力に満腔の信頼を置いてくれる人材です。

霊的実在を悟りそれを他の同胞のために使用してくれる人、真理を暗い生活の灯火として持ち歩いてくれる人です。

  私たちが望んでいるのは、まずそうした霊的真理のメッセンジャー自らがそれを日常生活において体現し、その誠実さと公明正大さに貫かれた生活を通して、見る人の目になるほど神のメッセンジャーであることを認識させることです。

それから今度は積極的に世に出て社会生活のすべての面にそれを応用していってほしいのです。つまり、まず自らが身を修め、それから他人のために自分を役立てる仕事に着手するということです。これまでもあなた方が想像なさる以上に多くの仕事が成就されてまいりましたが、これから先に成就されていく可能性に較べれば、それは物の数ではありません。

 世の中を見回して、あなた方の努力のしるしを読み取ってごらんなさい。古くて使いものにならない教義やドグマの崩壊が見て取れるはずです。誤った信仰の上に築かれた構築物が至る所で崩壊しつつあります。私達の説く霊的真理(スピリチュアリズム)は(心霊学という)知識を土台として築かれております。

その土台はいかなる嵐にもビクともしません。なぜなら真実───霊的事実───を土台としているからです。あなた方が建造の一役を担ったその殿堂は、あなた方が(死んで)物質界に感応しなくなったのちも、あなた方の奮闘努力の記念碑として末永くその勇姿を失うことはないでしょう」

  同じテーマについて別の交霊会で───

 「真理は前進し、暗黒と無知と迷信と混迷を生む勢力は後退します。霊力はますます勢いをつけ、これまで難攻不落と思われていた分野にまで浸透しながら凱旋し続けます。これが私たちが繰り返し繰り返し宣言しているメッセージです。あなた方は今まさに地上に新しい存在の秩序を招来するために貢献しておられるということです。ゆっくりとではありますが、変革が生じつつあります。

新しいものが旧(ふる)いものと取って替わるとき数々の変動は避けられません。それも神の計画のうちに組み込まれているのです。

 常に基本的な霊的真理を忘れぬように、と私は申し上げております。常にそれを念頭におき、その上に宗教観、科学観、哲学観、倫理観、道徳観をうち立ててください。すぐにご大層なことを想像なさる御仁に惑わされてはなりません。私たちの説く真理は至って単純であるがゆえに、誰にでも分かり誰にでも価値を見出すことができます。神の子としての人間の有るがままの姿を何の虚飾もなく説いているからです。

すなわち神の分霊を宿し、その意味において真実〝神の子〟であり、永遠にして不変の霊の絆によって結ばれているという意味において真に同胞であり、人類全体が一大霊的家族であり神の前に平等であるということです。

 霊の目を持って見る者は民族、国家、気候、肌の色、宗教の別を超えて見つめ、全人類を一つに繋ぐ霊の絆を見てとります。地上世界は今こそそうした単純な真理を見直す必要があります。余りに永いあいだ教義とドグマ、祭礼と儀式といった宗教の本質ないしは生命の大霊とは何の関係もないものに躓(つまず)いてきました。

 私は魂をより意義ある生活へ誘うものでないかぎり教義、信条、ドグマといったものには関心がありません。日常の行い以外のものには関心がないのです。根本的に重要なのは日常生活の生き方だからです。いかなる教義もいかなるドグマもいかなる儀式も、原因と結果の関係を寸毫(すんごう)だに変えることはできません。

霊性を一分(ぶ)たりとも増すことも減らすことも出来ません。それは日常生活によってのみ決定づけられるものだからです。私たちが忠誠を捧げるのは宇宙の大霊すなわち神とその永遠不変の摂理であって、教義でもなく書物でもなく教会でもありません。

 今や霊の力がこうして地上に顕現する新しい手掛かりが出来たことを喜んでください。真理を普及するための新しい人材が次々と霊力の支配下に導かれていることに着目してください。

新しい通信網が出来たことに着目してください。人類の進歩を妨げてきた既成権力が崩され障害が取り除かれていきつつあることに目を向けて下さい。私たちは刀剣や銃を手にせず愛と寛容心と慈悲と奉仕の精神でもって闘っている大軍の一翼を担っております。私達の武器は真理と理性です。

そして目指すのは人間として当然受け取るべきものを手にできずにいる人々の生活に豊かさと美しさをもたらしてあげることです。

 神とその子等の間に立ちはだかろうとする者には、いかなる地位にあろうと、いかなる人物であろうと容赦は致しません。地上に神の王国を築くためには地上のいずこであろうと赴く決意は決して揺らぎません。これまでも数々の虚言、中傷、敵意、迫害に遭ってまいりました。が、

勇気ある心の有ち主、断固たる決意を秘めた魂が闘ってきてくれたおかげで、こうして霊の力が地上に顕現することができたのです。今も新しい世界の前哨地に多くの勇士が歩哨に立ってくれております。ですから私は皆さんに、元気をお出しなさい、と申し上げるのです。

心に迷いを生じてさせてはなりません。変転きわまりない世の中の背後にも神の計画を読み取り、あなた方もその新しい世界の建設の一翼を担っていることを自覚してください。真理は絶え間なく前進しているのです。

 意気消沈した人、悲しげにしている人に元気を出すように言ってあげてください。先駆者たちの努力のたまものをこれから刈り入れるのです。そしてそれが明日を担う子供たちにより大きな自由、より大きな解放をもたらす地ならしでもあるのです。不安は無知という暗闇から生まれます。

勇気は自信から生まれます。すなわち自分は神であるとの真理に目覚めた魂はいかなる人生の嵐を持ってしても挫かせることはできないとの自信です。

 私がお教えしているのはごく単純な真理です。しかし単純でありながら大切この上ない真理です。地上人類がみずからの力でみずからを救い、内在する神性を発揮するようになるためには、そうした霊的真理を日常生活において実践する以外にないからです。 

あなた方はその貴重な霊的な宝を手にされていること、それがすべての霧とモヤを払い、悟りの光によって暗闇を突き破ることを可能にしてくれることを知ったからには、自信を持って生きてください。しかし同時に、知識には必ず責任が伴うことも忘れてはなりません。

知った以上は、知らなかった時のあなたとは違うからです。知っていながら霊力を無視した生き方をする人は、知らないために霊的真理にもとる生き方をする人よりも大きな罪を犯していることになります。

 その知識を賢明にそして有効に生かしてください。一人でも多くの人がその知識を手にすることが出来るように、それによって魂を鼓舞され心が開かれる機縁となるように配慮してあげてください。私たちの方でも一人でも多くの人の涙を拭い、心の痛みを癒し、燦然たる霊的真理を見えなくしている目隠しを取り除いてあげようとの態勢でいるのです。

親である神を子等に近づかせ、子等を神に近づかせ、人生の奥義に関わる摂理を実践に移させようとして心を砕いているのです。そうすることによって利己主義が影を潜め、生命の充実感を地上に生きる人の全てが味わえることになるでしょう」


 ここでメンバーの一人がこうした心霊知識の普及を既成宗教の発端と同列に並べて考えようとする意見を聞いて、シルバーバーチはこう説いた。

 「私たちはこれまで確かに成功を収めてまいりました。しかし、そうしたスピリチュアリズムの発展を私たちは他の宗教と同列に並べて考えていないことを銘記してください。私たちにとってスピリチュアリズムというのは宇宙の自然法則そのものなのです。

これを体系化して幾つかの信条箇条とすべき性質の教えではありません。キリスト教とて頭初は自然法則の一つの顕現でした。ユダヤ教もそうですし仏教もそうです。その他地上に誕生した宗教の全てが最初はそうでした。それぞれの教祖が霊覚でもってその時代の民衆の成長、発展、進化、慣習、鍛錬、理解力等の程度にふさわしいビジョン、インスピレーション、悟りを手にしました。

それがさらに受け入れる用意のある者に受け継がれていきました。それは一部とはいえ真理であることには間違いありませんでした。ところが残念なことに、そのささやかな真理が(人間的夾雑物の下に)埋もれてしまいました。

 真理の持つ純粋な美しさを留めることができなかったのです。まわりに世俗的信仰、神学的概念、宗教的慣習、伝承的習俗などが付加されて、玉石混交の状態となってしまいました。やがて神性が完全に影をひそめてしまいました。そして新たにそれを掘り起こし蘇生させる必要性が生じたのです。

過去の宗教はすべて───例外なしに───今日こうして地上へ届けられつつあるものと同じ啓示の一部であり一かけらなのです。一つの真理の側面に過ぎないのです。それらを比較して、どちらがどうということは言えません。届けられた時の事情がそれぞれに異なるのです。

たとえば今日の世の中ですと、昔では考えられなかった通信手段が発達しています。伝達し合うことにあなた方は何の不自由も感じません。何秒とかからずにお互いがつながり、メッセージを送り、地球を一周することができます。

 これまでの啓示と異なるところは、入念な計画にしたがって組織的な努力が始められたということです。それが地上の計算でいけば約百年前のことでした。こんどこそは何としてでも霊的知識を地上に根づかせ、いかなる勢力を持ってしても妨げることのできない態勢にしようということになったのです。

その計画は予定どおりに進行中です。そのことは、霊的知識が世界各地で盛んに口にされるようになってきていることで分ります。霊力は霊媒さえいれば、そこがどこであろうとお構いなく流入し、新しい前哨地が設立されます。

 ご承知のように私は常に、一人でも多くの霊媒が輩出することの必要性を強調しております。霊界からの知識、教訓、愛、慰め、導きが地上に届けられるためには、ぜひとも霊媒が必要なのです。一人の霊媒の輩出は物質的万能思想を葬る棺に打ち込まれるクギの一本を意味します。

神とその霊的真理の勝利を意味するのです。霊媒の存在が重要である理由はそこにあります。両界を繋ぐ霊媒だからです。知識と光と叡知の世界から私に届けられるものをこうした形で皆さんにお伝えすることを可能にしてくれる(バーバネルと言う)霊媒を見出したことを嬉しく思うのも、そこに理由があります」

 こうした霊媒を仲介役として始められたスピリチュアリズムに対する抵抗がよく話題にされるが、その中から典型的なシルバーバーチの霊言を紹介しよう。

 「私たちはほぼ一世紀にわたって、霊的真理を基本とした訓えを地上に根づかせようと努力してまいりました。それこそがこれから築かれていく新しい秩序の土台である以上、何としでも困難を切り抜けなくてはならないからです。本来は最大の味方であるべき陣営の抵抗と敵意に耐え抜き闘い抜いてまいりました。

宗教的分野において子羊たちを導こうとする人間(キリスト教の指導者)ならもろ手をあげて歓迎すべきものなのに、逆に自分たちの宗教の始祖(イエス)の教えであるとして広めんとしてきた主義・信条のすべてにみずから背いて、そういう立場の人間にあるまじき酷い言葉でわれわれを非難してきました。

そこには愛も寛容心も見られません。それどころか、私たちを悪魔の使いであると決めつけ、神の子羊を正義の道から邪な行為、不道徳、利己主義へ誘導せんとする闇の天使であるとして、悪口雑言の限りを浴びせます。

 しかし、そうした激しい抵抗の中にあっても、私たちの説く真理は今や世界中に広がり、これまで抵抗してきた勢力は退却の一途をたどっております。私たちは現今のキリスト教が基盤としている教説を否認する者です。愛と正義と慈悲と叡知の根源である大霊が地上人類に対して呪うべき行為を働くはずがないことを主張する者です。

神の怒りを鎮めるのに残酷な流血の犠牲(いけにえ)が必要であった。などという言い訳は断じて認めません。いかなる権力を持ってしても自然の摂理に介入出来たためしは一度もないことを主張します。神学の基盤と構造の全てを否定する者です。

なぜならば、それは人類の進歩の時計を逆まわりさせ、その狭苦しいひとりよがりの世界に合わないものはいかなる発見も発明も進歩も拒絶してきたからです。

 そうしたものに代わって私は、啓示というものが常に進歩的であること、かつて指導者の一人ひとりが神の叡知の宝庫からひと握りずつを地上へもたらしてきたこと、そしてその一連の系譜の最後を飾ったのがかのナザレのイエスであり、私たちはそのイエスを鼓舞したのと同じ霊の力の直系の後継者として、同じ福音、同じ真理を説いている者であることを宣言します。

人間に贖(あがな)い主はいらないのです。神との仲介者は不要なのです。自分の荷は自分で背負う義務があり、日々の生活の中の行為によって霊的生命を高めもすれば傷つけもするのです。内部に神性を宿していることは今も、そしてこれから先も永遠に変わりません。

変るのは程度の上下であって、本質は決して変わりません。向上進化というのはその潜在的神性をより多く顕現していく過程にほかならないのです。

 いかなる教義、いかなる信条をもってしても、過った行為がもたらす結果をねじ曲げることはできません。私たちの説く神は永遠・不変の法則によって宇宙を統治しており、その法則の働きによって地上の人間は地上で送る人生によってみずからを裁くようになっていると説くのです。

かつて地上においてこうした真理を説き、それ故に迫害を受けた先駆者たちに対して私たちは、今や彼らの努力が実りの時代(トキ)を迎え、古き秩序が廃れ新しき秩序のもとに霊的生命が芽生え始めている兆しを地上のいたるところに見ることが出来るようになった事実をお知らせしております。

 永いあいだ真理の太陽をさえぎってきた暗雲が足ばやに去りつつあります。そして光明が射して無数の人々の生活を明るく照らし、こんどはその人たちが、自分を自由にしてくれた真理の伝道者となっていきます。それだけの備えができている人たちです。

私どもは地上の人々がみずからの力でみずからを救い、死せる過去と訣別し、精神と霊を物質による奴隷的束縛から解放する方法をお教えするために戻ってまいりました。古くからの教えだからといって有難がってはいけない───知的な目を持って真理を探究し、常識に反し理性を反撥させるものは一切拒絶しなさい、と申し上げているのです」


 しばしの休暇ののちに再会された交霊会でシルバーバーチは年二回開かれるという霊界での指導霊の総会(※)に出席していたと言い、〝光の世界から影の世界へ、実在の世界から幻影の世界へ戻って来るのは気が進まないものです〟と述べてからこう続けた。

(※これはスピリチュアリズム思想推進のために経過報告と次の計画の指示を仰ぐための会合で、世界的規模で行われる。これが年に二回ということであるが、このほかにも実質的に地上の経綸に当たっている霊界の上層部において慣例的に行われる。〝讃仰のための集い〟もある。

オーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻に、通信霊のアーネルがその会場に入った時の雰囲気を〝音が無いという意味での静けさではなく静寂という実体が存在する〟と表現している。

又モーゼスの『霊訓』にはイムペレーターからの通信がしばらく途絶えたのでモーゼスがその理由を尋ねると〝地上の用事とは別の用事があって留守にしていた〟と言い、霊界の上層部における神への厳かな崇拝と讃仰の祈りを捧げるために他の多くの霊とともに一堂、集結したのだと言う。その時の日付けが十月十二日となっている。

日本で十月のことを神無(かんな)月と呼ぶことには〝神の月〟と〝神がいなくなる月〟の二つの説があるようであるが、私は両者は詰まるところ同じことに帰すると思う。古代の日本人はそれを直感していたのである───訳者)


 「そもそも私がこの利己主義と残酷に満ちた地上へ降りてくることになったのは、人類への愛と使命があったからです。そこでこの度も(総会を終えたあと)こうしてあなた方のもとへ戻ってまいりました。

私なりに出来るかぎりの援助を与えるためです。人類を霊的奴隷状態から解放し、神性を宿す者が当然わがものとすべき神の恩寵───霊的生活、精神的生活、そして身体的生活における充足───を得させると言う(地球規模の)大使命の推進の一翼を担う者として戻ってまいりました。

 その使命の成就を妨げんとするものは何であろうと排除しなければなりません。私たちが目指す自由は(霊的・精神的・身体的の)あらゆる面での自由です。その道に立ちはだかる既成の特権と利己主義の全勢力に対して、永遠の宣戦を布告します。

あなた方より少しばかり永く生きてきたこの私、あなた方がこれより辿らねばならない道を知っている先輩としての私からあなた方に、どうか勇気を持って邁進されるよう申し上げます。お一人おひとりがご自分で思っておられる以上に貢献なさっておられるからです」

 更に地球規模の霊的活動における指導霊と交霊会の役割りに言及して───

 「過去数年の間に私たちは数多くの人々を知識の大通りへと案内してまいりました。しかしまだまだ大きな仕事が為されます。世界各地で数多くの心霊治療家によって行われている霊的治療の成果に目を向けて下さい。大地に再び視界が開けていく様子を思い浮かべてください。

予言者の声が再び地上にこだまするようになり、夢かと紛(まご)うものを見るようになります。先見の明が開けはじめます。病める人々が癒され、肉親の死を悲しんでいる人々が慰められつつあります。あなた方は本当に恵まれた方たちです。

人間が永遠の魂の旅の中にあってほんの束の間をこの地上という生活の場で過ごしている、永遠にして無限の霊的存在であることをご存知だからです。

 私はそのメッセージをあなた方の助力を得ながら広め、私を地上へ派遣した霊団の使命を推進したいと望んでおります。私たちはいま勝利へ向けて前進しております。誤謬と利己主義、迷信と無知、自惚れと悪逆無道の勢力を蹴散らし過去のものとしなければなりません。

 もはやそうしたものが許される時代は終わったのです。真理が理解されるに従って暗闇が光明へとその場を譲ってまいります。人々はその目を上へ向けて新しい世界の夜明けを待ち望んでおります。新しい世界は新しい希望と新しい悟りを与えてくれます。
 神のみ恵みの多からんことを」

シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch 

 Edited by A.W. Austen




三章 死後の後悔

 「皆さんは他界した人がぜひ告げたいことがあって地上へ戻ってきても、有縁の人たちが何の反応も示してくれない時の無念の情を想像してみられたことがあるでしょうか。

大勢の人が地上を去ってこちらへ来て意識の焦点が一変し、初めて人生を正しい視野で見つめるようになり、何とかして有縁の人々にうれしい便りを伝えたいと思う、その切々たる気持ちを察したことがおありでしょうか」

 ある日の交霊会でシルバーバーチは出席者にこう問いかけて、人間がいかに五感の世界だけに浸り切り、いかに地上生活の意義を捉えそこねているか、そしてそれが原因となって死後の生活にいかに深刻な問題を生じさせているかに焦点を当てた。

 「ところが人間が一向に反応を示してくれません。聞く耳を持たず、見る目も持ちません。愚かにも人間の大半はこの粗末な五感が存在の全てでありそれ以外には何も存在しないと思い込んでおります。

 私たちは大勢の霊が地上へ戻って来るのを見ております。彼らは何とかして自分が死後も生きていることを知らせたいと思い、あとに残した人々に両手を差しのべて近づこうとします。やがてその顔が無念さのこもった驚きの表情に変わります。もはや地上世界に何の影響も行使できないことを知って愕然とします。

どうあがいても、聞いてもらえず見てもらえず感じてもらえないことを知るのです。情愛に溢れた家庭においてもそうなのです。その段階になって私たちは、まことに気の毒なのですが、その方たちにこう告げざるを得なくなります───こうした霊的交流の場へお連れしないかぎりそうした努力は無駄ですよと」


 以上の話は一般家庭の場合であるが、シルバーバーチはこれを宗教界の場合にも広げて、宗教的指導者もご多分にもれないことを次のように語る。

 「私はこれまで何度か地上で教会の中心的指導者として仰がれた人たちに付き添って、かつての信仰の場、大聖堂や教会を訪ねてみたことがあります。彼らはこちらへ来て誤りであることを知った教義がそこで今なお仰々しく説かれ続けているのを見て、そうした誤りと迷信で固められた組織を存続させた責任の一端が自分達にもあることを認識して悲しみにうなだれ、重苦しい思いに沈みます」

 ───針のむしろに座らされる思いをさせられることでしょう。

 「罪滅ぼしなのです。それが摂理なのです。いかなる大人物も自分の犯した過ちは自分で責任を取らねばなりません。各自が自分の人生への代価を自分で支払うのです。収支の勘定は永遠の時の流れの中で完全な衡平(つりあい)のもとに処理され、だれ一人としてその法則から逃れることはできません」

 ───その人たちはどうすれば過ちを正すことになるのでしょうか。

 「間違った教えを説いた人々の一人一人に会わなければなりません」

 ───説教をした相手の一人ひとりに会わねばならないのでしょうか。

 「そうです」

 ───でも、その時までにすでに本人が真理に目覚めていることもあるでしょう。

 「そういう場合は、それだけその宗教家はラクをすることになります」

 ───正しいことをしていると信じていた場合はどうなりますか。そに点も考慮されるのでしょうか。

 「もちろん考慮されます。常に動機が大切だからです」


 ───その場合でも一人ひとりに会わなければならないのでしょうか。

 「魂がそう信じていたのならその必要はありません。が、現実はそうでない人が多いのです。名誉心と思いあがり、所有欲と金銭欲が真理よりも優先している人が多いのです。

いったん一つの組織に帰属してしまうと、いつしかその組織に呑み込まれてしまい、今度はその組織がその人間をがんじがらめに束縛し始めます。そうなってしまうと(心の奥では信じていない)古いお決まりの教説を繰り返すことによって理性をマヒさせようとしはじめるものです。

 私たちが非難するのは、誤りとは知らずに一心に説いている正直な宗教家のことではありません。心の奥では真実よりも組織の延命を第一と心得ている者たち、言いかえれば今もし旧来のものを捨てたらこれから先自分の身の上がどうなるかを心配している者たちです。

間違っているとは知らずに説いている人を咎めているのではありません。自分の説いていること、言っていることが間違っていることを知りながら、なおかつ詭弁を弄して〝これ以外に民を導く方法が無いではないか。説くべき教えが他に無いではないか〟と開き直っている人たちです。

 しかし、たとえそうとは知らずに間違った教えを説いた場合でも、過ちは過ちとして正さなければなりません。その場合は罪滅ぼしとは言えません。魂そのものが良心の咎めなしに行ったことですから、一種の貢献としての喜びさえ感じるものです」


 ここでかつてのメソジスト派の牧師が尋ねた。

 ───私もこれまでに説教した相手のすべてに会って間違った教えを正さなければならないということでしょうか。

 「そうです。その時点までにその相手がまだ真実に目覚めていなければ───言いかえればその魂があなたの間違った教えによって真理の光を見出すのを遅らされていれば、それを正してあげないといけません」

 ───そうなると大変です。私は随分多くの人々に説いてきましたから。

 「他の全ての人と同じようにあなたも自分のしたことには全責任を取らなければなりません。でも、あなたの場合はそうご心配なさることはありません」

 別のメンバーが口添えしてこう述べた。
 ───この方は牧師をおやめになられてから多くの人たちのために献身しておられ、その人たちが力になってくれるでしょう。


 「その通りです。永遠・不変の公正はけっしてごまかしが利きません。私がいつも見ているとおりの摂理の働きをあなたにもぜひお見せして、公正の天秤がいかに見事なつりあいを保っているかをご覧にいれたいものです。神の摂理は絶対に誤りを犯さないことを得心なさることでしょう。

 人に法を説く者が重大な責任を担っていることはお分かりでしょう。私はたびたび言っております───あなた方は知識を手にされた。しかし同時にその知識に伴う責任も担われた、と。

一般の人よりも高いものを求め、さらにその人たちを導き教えんとする者は、まず自らが拠って立つ足場をしっかりと固めなくてはなりません。

厳しい探求も吟味もせず、あらゆる批判に耐えうるか否かを確かめもせず、自分の説いていることが真実であるとの確信もないまま、そんなことには無頓着に型にはまった教義を説いていれば、その怠慢と無とん着さに対する代償を払わなければなりません」

 このことに関蓮して、別の日の交霊会で興味深い死後の事実が明かされた。メンバーの一人が、最後の審判の日を待ちながら何世紀もの間暗い埋葬地で暮らしている霊(地縛霊の一種)を大ぜい救ってあげた話を聞かされたがそんな霊が本当にいるかと尋ねた。

 「それは本当の話です。それが私達にとって大きな悩みのタネの一つなのです。そういう人たちはその審判の日をただ待つばかりで、その信仰に変化が生じるまでは手の施しようがありません。
 
死んだら大天使ガブリエルのラッパが聞こえるまで待つのだという思念体を事実上地上の全生涯を通じて形成してきております。その思念体をみずから破壊しない限り、それが一つの思想的牢獄となって魂を拘留し続けます。

 死んだことを認めようとしない人も同じです。みずからその事実を認めない限り、私たちはどうしようもないのです。

自分がすでに地上の人間でないことを得心させることがいかに難しいことであるか、あなた方には想像がつかないでしょう。あるとき私は地上でクリスタデルフィアン(※)だった人と会って、えんえんと議論を交わしたことがあります。彼は私を見据えてこう言うのです───〝こうして生きている私がなぜ死んでるとおっしゃるのでしょう〟と。どうしても私の言うことが信じてもらえず、〝復活〟の日まで待つと言い張るのです。そしてそこに留まっていました」

(※奇しくもスピリチュアリズム勃興の年である一八四八年に設立されたキリスト教系の新興宗教。バイブルを唯一の教義として既成神学の三位一体説を否定し、キリストの再臨とエルサレムを中心とするキリストによる祭政一致の地上王国の到来を信じた───訳者)



 ───何をして過ごすのでしょうか。

 「ただ待つだけです。こちらには〝時間〟というものがないことを忘れないでください。もし自分が待っているという事実に気がつけば、その思念体が破れるはずなのですが───自分でこしらえた牢獄なのですから。ですが、こうした事実を地上の人間に伝えるのは大変です。

あなた方がお考えになるような時間が無いのです。なぜなら、私たちの世界は軸を中心に回転する天体ではありませんし、昼と夜を生じさせる太陽も無いからです。昼と夜の区別がなければ昨日と今日の数えようがないでしょう」

 ───時間的な刻みはなくても時間の経過はあるのでしょう?

 「ありません。まわりの出来ごととの関連によって成長と進化を意識していくのでして、時間が刻々と過ぎてゆくというのとは違います。魂が成長し、それにつれて環境が変化していきます。

時間というのは出来ごととの関連における地上独自の尺度にすぎません。あなたが無意識であれば時間は存在しません。出来ごととの関連が無くなるからです。夢を見ている間も出来ごとの関連が普通とは変化しています。肉体に繋がれている時よりも出来ごとが速く経過するのはそのためです」

Monday, May 4, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄

第2部 本論




13章 低級霊に憑依されるまでの三つの段階

スピリチュアリズムの現象面につきものの問題の中でも第一位にランクされるものは、憑依現象、つまり霊が地上の人間を完全に支配してしまう現象であろう。ただしこの場合の霊は決まって低級霊で、諒解なしに良からぬ意図をもって操っている。

高級霊が憑依する時は、本書で紹介している通信霊のように、人類の啓発という目的をもって、霊媒の諒解を得て書いたり語ったりしている。終われば憑依状態を解き、霊媒は普段の精神状態に戻る。また霊媒自身あるいは立会人に理解力がないとみたら、二度と出なくなる。

これと違って低級霊が悪意をもって取り憑く場合は、いったん目をつけたらしつこく付きまとい、子供を扱うように手玉に取る。そして当人だけでなく、その親族にまで迷惑を及ぼす。

“憑依”というのは概括的な用語で、そのメカニズムと、憑依された人間に表れる霊障によって、三つのタイプに分けられる。まず“付きまとわれる”だけの場合。次が“幻惑される”場合。そして“取り憑かれる”場合である。詳しく解説しよう。
(一)しつこく付きまとわれる


前章の問答の中でも述べられているように、どんなに優秀な霊媒でも低級霊につけ入られて、愚劣きわまる通信を受けたり霊言を述べたりする。この事実から想像がつくように、霊媒や霊能者は常に低級霊や邪霊につけねらわれていると思ってよい。が、その段階ではまだ憑依ではない。かりに波動が合って通信状態に入っても、それは一時的であって、すぐに縁は切れる。いくら用心していても正直な人間ほど人に騙されることがあるのと同じである。また霊団側でも一つの警告として体験させることすらある。これには実害はない。(ここでは霊的なことに携わっている人に限った言い方になっているが、実際には普通一般の者にも当てはまる。『霊の書』の中に、一人の人間が殺意を抱いた時、それに感応して邪霊が一気に群がってくるという主旨の一文がある――訳注)
(二)幻惑される


(一)のようにしつこく付きまとって、日常生活に支障を来す程度のものに“幻惑”が加わると、さらに深刻となる。邪霊が思念そのものに直接的に働きかけて幻想を生じさせ、正邪・善悪の判断力をマヒさせるのである。

たとえば自分は神の化身であると思い込ませ、それらしき勿体ぶった態度でご託宣を述べさせる。誰が聞いても滑稽きわまる内容なのであるが、その辺の判断力がマヒしているから、本人はみじんもおかしいとは思わずに大まじめで大言壮語をする。

こうしたケースは無知で無学の者にかぎられると思うのは大間違いである。知的職業に携わる者でも、安直に霊能開発などを始めると、こういう醜態をさらす。見えない次元で異常なことが起きていることは明らかで、それが邪霊・悪霊の画策である。

今、この種の憑依を“さらに深刻”と述べたのは、憑依霊によって幻惑されてしまうと、どんなにバカげた話でも大まじめに信じ込み、時には無分別で、不名誉で、危険なことでも平気でするようになるからである。

(一)の段階と(二)の段階は容易に見分けがつく。それはそのまま低級霊の種類の違いでもある。

(一)の段階では“しつこく付きまとわれる”という点が厄介なだけで、本人もその状態を客観的に見つめることができる。そして、こんなことではいけないと判断すれば、危険から逃れることは可能である。

が、人間には見栄がある。異常なことが起きることから自分が特殊な人間であるかに思い始めると、次第に(二)の段階へと移行する。憑依霊の方も狡猾で手練手管に富んでいるから、巧みに思考活動にまで入り込んで、“慈悲心”だの“人類救済”だの“神の愛”といった美辞麗句を吹き込む。当人はすでに魅入られているから、救世主にでもなったかのような錯覚に陥って、大まじめにそれらしいことを口にする。

この際、低級霊にとっていちばん困るのは洞察力に富んだ立会人(司会者・さにわ)が存在することで、自分の画策が見抜かれ、当人が説諭されて理性を取り戻すことを恐れる。そこで自分たちがこしらえた“お告げ”の矛盾に気づかれないようにと知恵を絞る。が、全体としての低劣さ、歯の浮くようなキザな表現は覆うべくもない。
(三)憑依される


最終段階には当人の自由意志は完全にマヒし、人格全体が憑依されてしまう。ただし、この憑依状態にも精神的と肉体的の二種類がある。

精神が憑依されていく場合は、支離滅裂な行為をしながら、それを正常で立派な行為と思っている。(二)の幻惑状態の一種であるが、異なるのは、思考活動だけでなく自由意志まで奪われていることである。

肉体的に憑依されている場合は肉体器官そのものも支配されて、不随意筋まで自由に操られるようになる。メカニズム的には自動書記や霊言現象と同じであるが、憑依している霊の霊格と動機が異なる。

自動書記や霊言の場合は、終了すれば霊は去り、霊媒の人格は通常に戻る。が、邪霊による憑依の場合は、書くもの(ペンやエンピツなど)も持たずに通路上とかドアとか壁に書く仕草を延々と続けるようになる。

かつては異常行動をする者はすべて“悪魔の憑依”とされた。が、“悪の化身”という意味での“悪魔”は存在しない。霊性の進化の程度が低いという意味での低級霊で、その発想に邪悪な要素が強いというにすぎない。

では一体そうした低級霊はいかなる動機から憑依しようとするのであろうか。招霊して聞き質してみたところによると、その憑依霊によってそれぞれ違うようである。

怨みを抱きながら他界した者が霊界から復讐しようとしている場合がある。前世または前前世での怨念が絡んでいる場合すらある。

別にそうした怨念があるわけではなく、困らせてやりたいという、ただそれだけの動機からの場合もある。

地上時代に苦労が多かった者が、幸せに暮らしている子孫が癪に思えて取り憑くこともある。

善なるものに対する憎しみから、真面目に生きている人間を困らせようとする者もいる。同じ取り憑くなら悪事を働く者を選んだらどうかと尋ねたら「悪いヤツらのことは羨ましくは思わんよ」と答えた者がいた。

気の弱そうな真面目人間を選んで取り憑こうとする者もいる。そのわけを尋ねたら「オレは誰かをいじめたくて仕方がないんだ。が、しっかりしたヤツには追っ払われる。この間抜け(取り憑いている人間)にはオレを追い出すほどの徳の力がないもんな」などとうそぶいていた。

さらにまた、悪意というほどのものは持たなくても、軽薄なプライドから尊大になり、科学や社会問題、倫理・道徳・政治問題等に関する自分の考えが最高であると思い上がって、それを伝えてくれる人間を求めることもある。

このように人間に取り憑こうとする低級霊への対抗措置や防御措置も、その動機の違いに応じて違ってくる。それを次の一問一答から読み取っていただきたい。


――霊に付きまとわれて困っている霊能者が自分でそれを排除できなかったり、高級霊に援助を求めても何もしてくれず、直接のコミュニケーションが持てないことがあるのはなぜでしょうか。


「高級霊に力が足りないわけではありません。そうした場合、力が足りないのは霊能者自身の方で、高級霊が援助する条件を整えてくれないことが原因です。

もともと霊能者というのは特殊な体質をしていて、霊との関係が容易にでき上がります。その流動エネルギーが使いやすい霊は必ずいます。霊性やモラルの感覚が低いと、当然低級霊が付きまとって、そのエネルギーを大いに利用しようとします。」


――ですが、一点非のうちどころのない人格をそなえた立派な霊媒が高級霊からの通信を阻害されているケースがよくあるようですが……。


「そういうケースは、罪滅ぼしというよりは一種の試練として、あえて邪霊にそうさせていることがあります。と言うのも、一点非のうちどころがないとおっしゃいますが、そういう人にも心の奥に隠れた不純さが絶対にないと誰が断言できるでしょうか。見かけの立派さの裏に高慢さが潜んでいないと誰が断言できますか。そういう試練には、霊媒のそうした弱点をさらけ出して謙虚さを身につけさせようという意図があります。

完全な人間だなどと言える人間は地上には一人もいません。側(はた)から見ていかに徳が高そうに思える人でも、その魂には必ずといってよいほど隠れた欠点、古くからの欠陥の酵母が潜んでいるものです。

たとえば不正なことは一切せず、人間関係でも真っ正直で尊敬に値する名士として知られている人でも、その実、魂の奥にはそうした表向きの徳性を台なしにしてしまうような高慢さや利己心の残滓(ざんし)が潜んでいることがあるものです。また、側からは分からないところで貪欲で妬み深く、冷酷で毒気のある性格をしている人もいます。普段のお付き合いではそうした面が出ないから気づかれないだけで、魂の奥には巣くっていることがあるものです。

邪霊に付け込まれないようにする最も確実な方法は高級霊の資質を可能なかぎり見習うことです。」


――低級霊に邪魔をされて高級霊からの通信が受け取れなくなった場合、それはその霊媒が霊媒として不適格であることの証拠なのでしょうか。


「一概にそうは言い切れませんが、その霊媒に道徳的ないしその他の面で通信にとって障害となる何かがあることを示していることは確かです。その障害は常に魂の中に存在するわけですから、その霊媒はそれを取り除くべく努力しないといけません。願望や祈りを表明するだけでは何にもなりません。病気の人が医者に向かって“健康をください。私は健康になりたいのです”と言っても意味がないのと同じです。健康になるための処方に素直に従ってもらう以外に医者には為すすべがないでしょう。」


――では通信の途絶は一種の罰ということでしょうか。


「場合によりけりですが、まさしく天罰である場合があります。通信の再開という形で報われるように努力すべきです。」


――邪魔をしている低級霊を向上の道へ導くという方法もあるのではないでしょうか。


「おっしゃる通りです。そこまで考える霊能者は滅多にいないのですが、実はそれこそが大切な責務でもあるのです。優しい心と宗教心でもって低級霊を諭すのも霊能者の役目です。後悔の念が芽生え、向上への道が開けます。」


――その場合、人間は高級霊のような影響力がありませんが、どうしたらいいのでしょうか。


「人間を悩ませ邪魔をする低級霊は、波動的には高級霊より人間の方に近いのです。高級霊とはあまりに波動が違いすぎるために、敬遠して係わり合わないようにするものです。

そうした低級霊が人間界への悪さを画策していることが明らかになると、それを思い止どまらせることを仕事とする一団が差し向けられます。影響力が程よく向いている霊の集団です。しかし、諭されてあっさりと手を引くような連中ではありません。まず一笑に付して耳を貸そうとしないものです。

そんな時に重要なのが霊能者自身の判断力です。付きまとわれて、これは低級霊の仕業だと覚って無視する態度に出ると、そのうち霊の方も諦めます。

高級霊ではあまりに格差が大きすぎて、光線のあまりの強烈さに低級霊は目が眩み、恐れをなして退散します。(が、高級霊が去るとまたやってくるために、そこに理解と向上は望めないということ――訳注)

確かに人間は高級霊ほどの霊力を持ち合わせません。波動的にはどちらかというと低級霊に近いのですが、だからこそ低級霊への影響力を行使しやすいということが言えるのです。人間の努力で邪霊が目を覚まし、向上の道を歩み始めるのを見て、高級霊は天界と地上界の間の連帯関係を一段と明確に認識して喜ぶものです。

人間が霊に対して優位に立つか否かは霊性の発達程度で決まります。その意味で、高級霊に影響を行使することはできません。まだ霊界の高い界層まで至っていないが高潔で愛に満ちた霊に対しても、やはり行使できません。が、霊性の発達程度が劣る霊に対しては、その影響力でもって向上の道へ誘(いざな)うことは必ずできます。」


――肉体的に憑依された場合、それが精神異常に発展することがありますか。


「あります。原因が世間一般に知られていないもので、(脳の機能障害からくる)いわゆる精神病とは異なる異常を来します。精神病と呼ばれているものの中には低級霊のとりこになっているに過ぎないものがあり、これはその霊を諭して向上の道へ導いてやる以外には治療法はありません。それを薬の投与といった物理的な治療法しか講じないために、本当の精神病になってしまうのです。

地上の医師がスピリチュアリズムの思想を正しく理解すれば、その二種類の異常の違いが区別できるようになるでしょう。すると当然これまでよりも多くの患者を治すことができるはずです。」


――スピリチュアリズムには危険性があると勝手に思い込み、それを防ぐには霊界との交信を止めさせるしかないと信じている者がいますが、どう理解すればよいでしょうか。


「霊界との交信を求めている者を止めさせることはできるでしょうが、突発的に生じる現象を起きなくすることは不可能でしょう。霊が出られないようにすることはできませんし、霊力の行使を阻止することもできないのですから。そういうことを言う人間は、まるで子供が手で自分の目を覆って、誰からも見られないと思っているようなものです。

これほど重大な情報をもたらしてくれるものを、一部の不届きな霊能者の行状だけで止めにすることほど愚かなことはありません。スピリチュアリズムを正しく理解しない者によって生じるそうした迷惑を阻止する方法は、止めにするのではなくて、反対に世間一般に知らしめて正しく理解してもらうことです。」


訳注――仕事柄、私は霊能者・チャネラー・心霊治療家を自称する人々から面会を求められることが多い。中には謙虚そのものの方もいないわけではないが、大抵の人の口から“地球浄化・人類救済”の大任を担わされているとの“大言壮語”を聞かされる。その一端を担わされている人なら大勢いるに違いないが、自分一人が救世主であるかに思い込んでいる人が多い。そういう人は一種の憑依状態にあることが、本章を訳しながら理解がいった。

スピリチュアリズムというのは地球浄化の大事業そのものであるが、その計画は神界で立てられ、霊界で準備され、幽界の浄化に始まって十九世紀半ばになって地球圏にまで波及してきたもので、やっと緒についたばかりである。幽界の浄化の様子はオーエンの『ベールの彼方の生活』に生々しく描写されているが、幾百幾千とも知れぬ地縛霊(の状態から脱しかけたばかりの未浄化霊)を引き連れて地球圏から引き上げてくる集団に出会った話などを訳しながら私は、「地上の人間一人のすることなんかたかが知れてる!」と叱るような口調でおっしゃった恩師の間部詮敦氏の言葉を思い出したものだった。霊界では地上より遥かに大きな規模で救済運動が進行していることをご存じだったのである。だからこそ偉ぶった言動がみじんもなかったのである。

この“憑依”についてカルデックが三つのカテゴリーにまとめたものを訳しながら、年来のおぼろげな理解が鮮明になる思いがした。とくに印象的なのは、邪霊集団が人間に悪さを画策していると、それを思い止どまらせることを任務とする霊団が差し向けられるということで、それが不首尾に終わると、後は霊媒や霊能者のモラルの感覚に全てが掛かってくるという。私のもとへ大言壮語をしに来る者は、すでに“幻惑”される状態にまで進行しているのであろう。

ところで憑依の問題を扱ったもので忘れてならないのはカール・ウィックランドの『迷える霊との対話』であろう。その中でウィックランドは、遊び半分でプランセットなどで受信しているうちに憑依され、発狂状態になった例や、幸せそのものの家庭を羨んだ霊に憑依されて母親が発作的に首つり自殺した話などを挙げて注意を喚起している。本章の一問一答を訳しながらそのことを思い出したが、本章で触れられていないタイプの憑依現象として、迷い歩いているうちに人間のオーラに引っ掛かり、それが進行して、その霊の欲求や思念が脳に反応するようになり、いわゆる二重人格・多重人格になってしまうというケースがある。憑依されやすいタイプの場合には十人、十五人と、信じられないほどの数の霊がオーラに入り込んでいることがある。そういうタイプの憑依もあることを知っておく必要があろう。

シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch 

 Edited by A.W. Austen



二章 死は第二の誕生
 
 シルバーバーチは〝死〟を悲しむべき出来ごととは見ていない。それどころか、より大きな意識、より広い自由、潜在意識をより多く表現できる機会(チャンス)を与えてくれる、喜ぶべき出来ごとであると説く。

 「この交霊会も死が幻影であることを証明する機会の一つです。すなわち死の淵を霊的知識で橋渡しをして、肉体という牢獄を出たあとに待ち受ける充実した新たな生活の場の存在を紹介するために私たちはこうして戻ってきているということです。

何でもない、実に簡単なことなのです。ですが、その簡単なことによって、これまでどれほど意義ある仕事が成し遂げられてきたことでしょう。

手を変え品を変えての普及活動も、結局は古くからの誤った認識を駆逐するためにその簡単な事実を繰り返し繰り返し述べているにすぎません。その活動によって今や霊的知識(スピリチュアリズム)への抵抗が少しずつ弱まり、橋頭堡が少しずつ広がりつつあります。

われわれの活動を歯牙にかけるに足らぬものと彼らが多寡をくくっていたのも、つい先ごろのことです。それがどうでしょう。今やあなた方の周りに、崩れゆく旧態の瓦礫が散乱しております。

 私たちは施設はどうでもよいのです。関心の的は人間そのものです。魂と精神、そして両者を宿す殿堂としての身体───これが私たちの関心事です。人間も神の一部であるが故に永遠の霊的存在である───この単純にして深遠な真理に耳を傾ける人すべてに分け隔てなく手を差しのべんとしているのです。

実に単純な真理です。が、その意味するところはきわめて深長です。いったんこの真理の種子が心に宿れば、大いなる精神的革命をその人にもたらします。

 皆さんはよく、かつての偉大な革命家を鼓舞したのはいったい何であったかが分からないことが多いとおっしゃいます。しかし人間の思想を一変させるのは、何気なく耳にする言葉であることもあります。ほんのささやき程度のものであることもあります。

一冊の書物の中の一文であることもあります。新聞で読んだたった一行の記事である場合だってあります。私たちが求めているのも同じです。単純素朴なメッセージによって、教義でがんじがらめとなった精神を解放してあげ、自らの知性で物ごとを考え、人生のあらゆる側面に理性の光を当てるようになっていただくことです。

古くからの教えだから、伝来の慣習だからということだけで古いものを大切にしてはいけません。真理の宝石、いかなる詮索にも、いかなるテストにも、いかにしつこい調査にも耐えうる真理を求めなくてはなりません。

 私の説く真理を極めて当たり前のことと受け取る方がいらっしゃるでしょう。すでにたびたびお聞きになっておられるからです。が、驚天動地のこととして受け止める方もいらっしゃるでしょう。所詮さまざまな発達段階にある人類を相手にしていることですから当然のことです。

私の述べることがどうしても納得できない方がいらっしゃるでしょう。頭から否定する方もいらっしゃるでしょう。あなた方西洋人から野蛮人とみなされている人種の言っていることだということで一蹴される方もいらっしゃるでしょう。しかし真理は真理であるが故に真理であり続けます。

 あなた方にとって当り前となってしまったことが人類史上最大の革命的事実に思える人がいることを忘れてはなりません。人間は霊的な存在であり、神の分霊であり、永遠に神と繋がっている───私たち霊団が携えてくるメッセージはいつもこれだけの単純な事実です。

神とのつながりは絶対に切れることはありません。時には弱められ、時には強められたりすることはあっても、決して断絶することはありません。人間は向上もすれば堕落もします。神の如き人間になることもできれば動物的人間になることもできます。

自由意志を破壊的なことに使用することもできますし、建設的なことに使用することもできます。しかし、何をしようと、人間は永遠に神の分霊であり、神は永遠に人間に宿っております。

 こうした真理は教会で朗唱するためにあるのではありません。日常生活において体現して行かなくてはなりません。飢餓、失業、病気、スラム等々、内に宿す神性を侮辱するような文明の恥辱を無くすことにつながらなくてはいけません。

 私たちのメッセージは全人類を念頭においております。いかなる進化の階梯にあっても、そのメッセージには人類が手に取り理解しそして吸収すべきものを十分に用意してあります。人類が階段の一つに足を置きます。すると私たちは次の段でお待ちしています。

人類がその段まで上がってくると、また次の段でお待ちします。こうして一段また一段と宿命の成就へ向けて登って行くのです」

 別の交霊会で、肉親を失ってその悲しみに必死に耐えている人に対してシルバーバーチがこう述べた。

「あなたの(霊の世界を見る)目がさえぎられているのが残念でなりません。(霊の声を聞く)耳が塞がれているのが残念でなりません。その肉体の壁を超えてご覧になれないのが残念でなりません。あなたが生きておられる世界が影であり実在でないことを知っていただけないのが残念でなりません。

あなたの背後にあって絶え間なくあなたのために働いている霊の力をご覧にいれられないのが残念でなりません。数多くの霊───あなたのご存じの方もいれば人類愛から手を差しのべている見ず知らずの人もいます───があなたの身の回りに存在していることが分かっていただけたら、どんなにか慰められるでしょうに。地上は影の世界です。実在ではないのです。

 私たちの仕事はこうした霊媒だけを通して行っているのではありません。もちろん人間世界特有の(言語によって意志を伝える)手段によって私たちの存在を知っていただけることをうれしく思っておりますが、実際にはその目に見えず、その耳に聞こえずとも、あなた方の生活の現実に影響を及ぼし、導き、鼓舞し、指示を与え、正しい選択をさせながら、あなた方の性格を伸ばし、魂を開発しております。そうした中でこそ(死後の生活に備えて)霊的な成長に必要なものを摂取できる生き方へと誘うことが出来るのです」


 ある年のイースタータイム(※)シルバーバーチは〝死〟を一年の四季のめぐりに見事になぞらえて、こう語った。

(※イースターはキリストの復活を祝う祭日で、西洋ではクリスマスと並んで大々的に祝う。その時期は国によって少しずつズレがあるが、当日をイースターサンデー、その日を含む週をイースターウィーク、五〇日間をイースタータイムという───訳者)

 「四季の絶妙な変化、途切れることの無い永遠のめぐりに思いを馳せてごらんなさい。全ての生命が眠る冬、その生命が目覚める春、生命の世界が美を競い合う夏、そしてまた次の春までの眠りに具えて自然が声をひそめはじめる秋。

 地上は今まさに大自然の見事な顕現───春、イースター、復活───の季節を迎えようとしております。新しい生命、それまで地下の暗がりの中で安らぎと静けさを得てひっそりと身を横たえていた生命がいっせいに地上へ顕現する時期です。

間もなくあなた方の目に樹液の活動が感じられ、やがてつぼみが、若葉が、群葉が、そして花が目に入るようになります。地上全土に新しい生命の大合唱が響きわたります。

 こうしたことから皆さんに太古の非文明化時代(※)において宗教というものが大自然の動きそのものを儀式の基本としていたことを知っていただきたいのです。彼らは移り行く大自然のドラマの星辰の動きの中に、神々の生活───自分たちを見つめている目に見えない力の存在を感じ取りました。

自分たちの生命を支配する法則に畏敬の念を抱き、春を生命の誕生の季節としてもっとも大切にいたしました。

(※シルバーバーチは文明の発達そのものを少しも立派なものとは見ていない。それによって人類の霊的な感覚がマヒしたとみており、その意味でこの表現に〝野蛮〟と言うイメージは込められていない───訳者)

 同じサイクルが人間一人ひとりの生命においても繰り返されております。大自然の壮観と同じものが一人ひとりの魂において展開しているのです。まず意識の目覚めとともに春が訪れます。続いて生命力が最高に発揮される夏となります。やがてその力が衰えはじめる秋となり、そして疲れ果てた魂に冬の休眠の時が訪れます。しかし、それですべてが終りとなるのではありません。それは物的生命の終りです。

冬が終わるとその魂は次の世界において春を迎え、かくして永遠のサイクルを続けるのです。この教訓を大自然から学び取ってください。そしてこれまで自分を見捨てることの無かった摂理はこれ以後も自分を、そして他のすべての生命を見捨てることなく働き続けてくれることを確信して下さい」

 スピリチュアリストとして活躍していた同志が他界したことを聞かされてシルバーバーチは───

 「大収穫者すなわち神は、十分な実りを達成した者を次々と穫り入れ、死後にたどる道をより明るく飾ることをなさいます。

 肉眼の視野から消えると、あなた方は悲しみの涙を流されますが、私たちの世界ではまた一人物質の束縛から解放されて、言葉で言い表せない生命のよろこびを味わいはじめる魂を迎えて、うれし涙を流します。

私はいつも〝死〟は自由をもたらすものであること、人間の世界では哀悼の意を表していても、本人は新しい自由、新しいよろこび、そして地上で発揮せずに終わった内部の霊性を発揮する機会(チャンス)に満ちた世界での生活を始めたことを知って喜んでいることを説いております。

ここにおいでの方々は、他界した者が決してこの宇宙からいなくなったのではないとの知識を獲得された幸せな方たちですが、それに加えてもう一つ知っていただきたいのは、こちらへ来て霊力が強化されると必ず地上のことを思いやり、こうして真理普及のために奮闘している吾々を援助してくれているということです。

 その戦いは地上のいたるところで日夜続けられております───霊の勢力と醜い物的利己主義の勢力との戦いです。たとえ一時は後退のやむなきにいたり、一見すると霊の勢力が敗北したかに思えても、背後に控える強大な組織のおかげで勝利は必ず我がものとなることを確信して、その勝利へ向けて前進しつづけます。

いずれあなた方もその戦いにおいて果たされたご自分の役割───大ぜいの人々の慰めと知識を与えてあげている事実を知って大いなるよろこびに浸ることになりましょう。

今はそれがお分かりにならない。私たちと共に推進してきた仕事によって生きるよろこびを得た人が世界各地に無数にいることを今はご存じでありません。

 実際はあなた方はこうした霊的真理の普及に大切な役割を果たしておられるのです。その知識は、なるほどと得心がいき心の傷と精神の疑問と魂の憧憬の全てに応えてくれる真実を求めている飢えた魂にとって、何ものにも替えがたい宝となっております。

太古の人間が天を仰いで福音を祈ったごとくに、古びた決まり文句にうんざりしている現代の人間は、新たなしるしを求めて天を仰いできました。

そこで私たちがあなた方の協力を得て真実の知識をお持ちしたのです。それは正しく用いさえすれば必ずや神の子すべてに自由を───魂の自由と精神の自由だけでなく身体の自由までももたらしてくれます。

 私たちの目的は魂を解放することだけが目的ではありません。見るも気の毒な状態に置かれている身体を救ってあげることにも努力しております。

つまり私達の仕事には三重の目的があります───精神の解放と魂の解放と身体の解放です。そのことを世間へ向けて公言すると、あなた方はきっと取越苦労性の人たちから、そう何もかもうまく行くものでないでしょうといった反論に会うであろうことは私もよく承知しております。

しかし、事実、私たちの説いている真理は人生のあらゆる面に応用が利くのものです。宇宙のどこを探しても、神の摂理の届かないところがないように、地上生活のどこを探しても私たちの説く霊的真理の適用できない側面はありません。

 挫折した人を元気づけ、弱き者、寄るべなき者に手を差しのべ、日常の最小限の必需品にも事欠く人々に神の恩寵を分け与え、不正を無くし、不平等を改め、飢餓に苦しむ人々に食を与え、雨露をしのぐほどの家とてない人々に住居を提供するという、

こうした物質界ならではの問題にあなた方が心を砕いている時、それは実は私たち霊の世界からやって来る者の仕事の一部でもあることを知っていただきたいのです。

その種の俗世的問題から超然とさせるために霊的真理を説いているのではありません。霊的な真理を知れば知るほど、自分より恵まれない人々への思いやりの気持ちを抱くようでなければなりません。その真理にいかなる名称(ラベル)を付けようと構いません。

政治的ラベル、経済的ラベル、宗教的ラベル、哲学的ラベル───どれでもお好きなものを貼られるのがよろしい。それ自体なんの意味もありません。大切なのはその真理が地上から不正を駆逐し、当然受けるべきものを受けていない人々に生得の権利を行使させてあげる上で役立たせることです」


 そして最後に〝死〟にまつわる陰湿な古い観念の打破を説いて、こう述べた。

 「その身体があなたではありません。あなたは本来、永遠の霊的存在なのです。私たちはこうした形で週に一度お会いして僅かな時を過ごすだけですが、そのことがお互いの絆を強化し接触を深めていく上で役に立っております。毎週毎週あなた方の霊そのものが霊的影響力を受けて、それが表面へ出ております。

その霊妙な関係は物的身体では意識されませんが、より大きな自我は実感しております。また、こうしたサークル活動はあなた方が霊的存在であって物的存在でないことを忘れさせないようにする上でも役立っております。人間にはこうしたものが是非とも必要です。

なぜなら人間は毎日毎日、毎時間毎時間、毎分毎分、物的生活に必要なものを追い求めてあくせくしているうちに、つい、その物的なものが殻に過ぎないことを忘れてしまいがちだからです。それは実在ではないのです。

 鏡に映るあなたは本当のあなたではありません。真のあなたの外形を見ているに過ぎません。身体が人間がまとう衣服であり、物質の世界で自分を表現するための道具に過ぎません。

その身体はあなたではありません。あなたは永遠の霊的存在であり、全宇宙を支えている生命力、全天体を創造し、潮の干満を支配し、四季の永遠のめぐりを規制し、全生命の生長と進化を統制し、太陽を輝かせ星をきらめかせている大霊の一部なのです。

その大霊と同じ神性をあなたも宿しているという意味において、あなたも神なのです。本質において同じなのです。

程度において異なるのみで、基本的には同じなのです。それはあらゆる物的概念を超越した存在です。すべての物的限界を超えております。あなた方の想像されるいかなるものよりも偉大なる存在です。

あなたはまさに一個の巨大な原子───無限の可能性を秘めながらも今は限りある形態で自我を表現している原子のような存在です。

身体の内部に、いつの日かすべての束縛を押し破り、真実のあなたにより相応しい身体を通して表現せずにはいられない力を宿しておられるのです。そうなることをあなた方は死と呼び、そうなった人のことを悼み悲しんで涙を流されます。

それは相も変わらず肉体がその人であるという考えが存在し、死が愛する人を奪い去ったと思い込んでいる証拠です。

 しかし死は生命に対して何の力も及ぼしえません。死は生命に対して何の手出しもできません。死は生命を滅ぼすことはできません。物的なものは所詮、霊的なものには敵わないのです。

もしあなたが霊眼をもって眺めることができたら、もし霊耳をもって聞くことができたら、もしも肉体の奥にある魂が霊界の霊妙なバイブレーションを感じ取ることができたら、肉体という牢獄からの解放をよろこんでいる、自由で意気揚々として、うれしさいっぱいの蘇った霊をご覧になることができるでしょう。

 その自由を満喫している霊のことを悲しんではいけません。毛虫が美しい蝶になったことを嘆いてはいけません。カゴの鳥が空へ放たれたことに涙を流してはいけません。

よろこんであげるべきです。そしてその魂が真の自由を見出したこと、いま地上にいるあなた方も神より授かった魂の潜在力を開発すれば同じ自由、同じよろこびを味わうことができることを知ってください。

死の意味がお分かりになるはずです。そして死とは飛び石の一つ、ないしは大きな自由を味わえる霊の世界への関門に過ぎないことを得心なさるはずです。

 他界してその自由を味わったのちに開発される霊力を今すぐあなた方に身を持って実感していただけないことは私は実に残念に思います。しかしあなた方には知識があります。それをご一緒に広めているところです。それによってきっと地上に光をもたらし、暗闇を無くすることができます。

人類はもう、何世紀も迷わされ続けてきた古い教義は信じません。教会の権威は失墜の一途を辿っております。霊的真理の受け入れを拒んできた報いとして、霊力を失いつつあるのです」