Monday, June 22, 2026

ベールの彼方の生活(一) G・V・オーエン著


『霊界通信 ベールの彼方の生活』の第1巻は、英国の牧師G・V・オーエンを通じて伝えられたスピリチュアリズムの代表的古典です。死後の世界(天界の低地)の具体的な様子を詳細に描写しており、現代でも高い評価を受けている著作です。



推薦の言葉    ノースクリッフ卿

 私はまだオーエン師の霊界通信の全篇を読む機会を得ていないが、これまで目を通した部分だけでも実に美しい章節を各所に発見している。

 こうした驚異的な資料は霊媒自身の人格が浅からぬ重要性を有ち、それとの関連性において考察さるべきであるように思われる。

私はオーエン師とは短時間の会見しか持っていないが、その時に得た印象は、誠実さと確信に満ちた人物を前にしているということであった。ご自分に霊能があるというような言葉はついぞ師の口からは聞かれなかった。

出来るだけ名前は知られたくないとの気持ちを披瀝され、これによる収益の受取りを一切辞退しておられる。これだけ世界中から関心を寄せられた霊界通信なら大変な印税が容易に得られたであろうと思われるのだが。

(ノースクリッフ卿 Lord Northcliffe―本名 ウィリアム・ハームズワース Alfred Charles William Harmsworth。アイルランド生まれの英国の新聞経営者で、有名なDaily Mail デイリーメールの創刊者。

死後〝フリート街の法王〟と呼ばれたハンネン・スワッハー Hannen Swaffer がよく出席していた直接談話霊媒デニス・ブラッドレーの交霊会に出現、スワッハーがそれを「ノースクリッフの帰還」 Northcliffe,s Return と題して出版、大反響を呼んだ───訳者 )

   
序                  

アーサー・コナン・ドイル

永かった闘いにも勝利の日が近づいた。今後もなお様々なことが起きるであろう。後退もあれば失望もあることであろう。が勝利は間違いない。

 新しい霊的啓示の記録が一般大衆の手に入った時、それに天啓的美しさと合理性とがあれば必ずや全ての疑念、あらゆる偏見を一掃してしまうものであることは、いつの時代においても、真理なるものに触れた者ならば断固たる確信をもつものである。

 今その内の一つ───至純にして至高、完璧にして崇高なる淵源を持つ啓示が世界の注目を浴びつつある。まさに、主の御手ここに在り、の思いがする。

 それが今あなたのすぐ目の前にある。そしてそれが自らあなたに語りかけんとしている。本文の冒頭を読んだだけで素晴らしさを評価してはならない。確かに劈頭から素晴らしい。が読み進むに従っていよいよその美しさを増し、ついには荘厳さの域にまで達する。

 一字一句に捉われたアラ探しをすることなく、全体を通しての印象によって判断しなくてはいけない。同時に、ただ単に新しいものだから、珍しいから、ということで無闇に有難がってもいけない。

 地上のいかなる教説も、それがいかに聖なるものであろうと、そこから僅かな文句だけを引用したり、霊的であることを必要以上に強調しすぎることによって嘲笑の的とされることが十分あり得ることを銘記すべきである。

この啓示が及ぼす影響力の程度と範囲を判断する規準は、読者の精神と魂へ及ぼす影響全体であり、それ以外には有り得ない。

 神は二千年前に啓示の泉を閉鎖された、という。一体何の根拠をもってこんな非合理きわまる信仰を説くのであろうか。

 それよりも、生ける神は今なお、その生ける威力を顕示し続けており、苦難により一段と浄化され受容力を増した人類の理解力の進化と威力に相応しい新たな援助と知識とをふんだんに授けて下さっている、と信じる方がどれほど合理的であろうか。

 驚異的と言われ不可思議とされた過去七十年間のいわゆる超自然現象は、明々白々たる事実であり、それを知らぬ者は自らの手を持って目を蔽う者のみと言ってよいほどである。現象そのものは成るほど取るに足らぬものかも知れない。

がそれは実は吾々人間の注意を引きつける為の信号(シグナル)だったのであり、それをきっかけとして、こうした霊的メッセージへ誘わんとする意図があったのである。その完璧な一例がこの通信と言えるかも知れない。


 啓示は他にも数多く存在する。そしてその内容は由ってきたる霊界の階層によっても異なるし、受信者の知識の程度によっても異なる。

通信は受信者を通過する際に大なり小なり色づけされることは免れないのである。完全に純粋な通信は純心無垢な霊媒にして初めて得られる。本通信における天界の物語は、物的人間の条件の許すかぎりにおいて、その絶対的純粋さに近いものと考えてよいであろう。

 その内容は古き信仰を覆すものであろうか。私は絶対にそうでないことを断言する。むしろ古き信仰を拡大し、明確にし、美化している。

これまで吾々を当惑させてきた空白の部分を埋めてくれる。そして一字一句に拘わり精神を忘れた心狭き変屈学者を除いては、限りない励みと啓発を与えてくれる。

 真意を捉え難かった聖書の文字が本通信によって明確に肉付けされ意味を持つに至った部分が幾つあることであろうか。

 例えば「父の家には住処多し」も、パウロの「手をもて造られたるにあらざる住処」も、本書の中に僅かに見られるところの、人間の知能と言語を超越した、かの栄光を見ただけで理解がいくのではなかろうか。

 それはもはや捉え難き遠い世界のまぼろしではなく、この〝時〟にしばられた暗き人生を歩むにつれて前方に真実にして確固たる光として輝き、神の摂理と己の道義心に忠実に生きてさえいれば言語に絶する幸せが死後に待ち受けるとの確信を植え付けてくれることによって、よろこびの時にはより一層その喜びを増し、悲しみの時には涙を拭ってくれるのである。

 言葉即(イコール)観念の認識に固執する者は、この通信はすべてオーエン氏の潜在意識の産物であると言うであろう。そう主張する者は、では他にも多くの霊覚者が程度の差こそあれ同じような体験をしている事実をどう説明するのであろうか。

 筆者自身も数多くの霊界通信を参考にして死後の世界の概観を二冊のささやかな本にまとめている。それはこの度のオーエン氏の通信とはまるで無関係に編纂された。オーエン氏の通信が私の二冊とは無関係に綴られたのと同じである。

どちらも互いに参考にし合っていない。にも拘らず、この度読み返してみて、私のものより遥かに雄大で詳しいオーエン氏の叙述の中に、重要と思える箇所で私が誤りを犯したところは一つも見当たらない。

 もしも全体系が霊的インスピレーションに基づいていなかったら、果たしてこうした基本的一致が有りうるであろうか。

 今や世界は何らかの、より強力な駆動力を必要としている。これまでは言わば機関車を外されたまま古きインスピレーションの上を走って来たようなものである。今や新しい機関車が必要なのである。

もしも既成宗教が真に人間を救うものであったのなら、それは人類史の最大の苦難の時にこそ威力を発揮したはず───例えば第一次世界大戦も起きなかったはずである。その厳しい要請に応え得た教会が有ったであろうか。

今こそ霊的真理が改めて説かれ、それが人生の原理と再び渾然一体となる必要があるのは明々白々たる事実ではなかろうか。

 新しい時代が始まりつつある。これまで貢献してきた者が、その立証に苦労してきた真理が世間から注目を集めつつあるのを見て敬虔なる満足を覚えても、それは無理からぬことかも知れない。そして、それは自惚れの誘因とはならない。

目にこそ見えないが実在の叡智に富める霊団の道具に過ぎないことを自覚しているからである。

 しかし同時に、もしも新たなる真理の淵源を知り、荒波の中を必死に邁進して来た航路が間違っていなかったことを知って安堵の気持ちを抱いたとしても、それが人間味というものではなかろうか。

(コナン・ドイル Arthur Conan Doyle ───言わずと知れた名探偵シャーロック・ホームズの活躍する推理小説の作者であるが、本職は内科医であった。

そのシャーロック・ホームズ・シリーズによって知名度が最高潮に達した頃にスピリチュアリズムとの出会いがあり、さまざまな非難中傷の中を徹底した実証主義で調査研究し、その真実性を確信してからは〝スピリチュアリズムのパウロ〟の異名を取るほど、その普及に献身した。──訳者)




まえがき             
G・V・オーエン

 この霊界通信すなわち自動書記または(より正確に言えば)霊感書記によって綴られた通信は、形の上では四部に分かれているが、内容的には一貫性を有つものである。いずれも、通信を送ってきた霊団が予(アラカジ)め計画したものであることは明白である。

 母と子という肉親関係が本通信を開始する絶好の通路となったことは疑う余地がない。

その点から考えて本通信が私の母と友人たちで構成された一団によって開始されていることは極めて自然なことと言える。

 それが一応軌道に乗った頃、新しくアストリエルと名告る霊が紹介された。この霊はそれまでの通信者に比べて霊格が高く、同時に哲学的なところもあり、そういった面は用語の中にもはっきり表われている。

母の属する一団とこのアストリエル霊からの通信が第一巻『天界の低地』を構成している。

 この言わば試験的通信が終わると、私の通信はザブディエルと名告る私の守護霊の手に預けられた。母たちからの通信に較べると流石(サズガ)に高等である。第二巻『天界の高地』は全部このザブディエル霊からの通信で占められている。

第三巻 
『天界の政庁』はリーダーと名告る霊とその霊団から送られたものである。その後リーダー霊は通信を一手に引き受け、名前も改めてアーネルと名告るようになった。

その名のもとで綴られたのが第四巻『天界の大軍』で、文字どおり本通信の圧巻である。前三巻のいずれにも増して充実しており、結局前三巻はこの第四巻の為の手馴らしであったとみても差し支えない。

 内容的にみて本通信が第一部から順を追って読まれるべき性質のものであることは言うまでもない。初めに出た事柄があとになって説明抜きで出て来る場合も少なくないのである。

 本通信中の主要人物について簡単に説明しておくと──

 私の母は一九〇九年に六十三歳で他界している。アストリエルは十八世紀半ばごろ、英国ウォ―リック州で学校の校長をしていた人である。ザブディエルについては全然と言ってよいほど不明である。アーネルについては本文中に自己紹介が出ている。

霊界側の筆記役をしているカスリーンは英国リバプール市のアンフィールドに住んでいた裁縫婦で、私の娘のルビーが一八九六年に僅か十五ヶ月で他界するその三年前に二十八歳で他界している。

 さて〝聖職者というのは何でもすぐに信じてしまう〟というのが世間一般の通念であるらしい。なるほど〝信仰〟というものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかも知れない。

が、私は声を大にして断言しておくが、新しい真理を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。

因(チナミ)に私が本通信を〝信ずるに足るもの〟と認めるまでにちょうど四分の一世紀を費している。すなわち、確かに霊界通信というものが実際にあることを認めるのに十年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適っていることをはっきりと得心するのに十五年かかった。

 そう得心して間もなく、その回答とも言うべき現象が起こり出した。最初まず私の妻が自動書記能力を発揮し、やがてその手を通じで、お前も鉛筆を握って机に向かい頭に浮かぶ思念を素直に書き下ろしてみよ、という注文が私宛に送られて来た。

正直のところ私はそれが嫌で、しばらく拒否し続けた。が他界した私の友人たちがしきりに私を通じて通信したがっていることを知るに及んで、私の気持ちにもだいぶ変化が起き始めた。

こうした事実からも十分納得して頂けることと思うが、霊界の通信者は通信の目的や吾々に対する希望は述べても、そのために吾々の都合や意志を無視したり強制したりするようなことは決して無かった。結果論から言えば少なくとも私の場合は強引に書かせた方が手間ひまが掛からずに済んだろうにと思われるのだが・・・・・・。

 が、それでも私はすぐには鉛筆を握らなかった。しかし、その内注文する側の真摯な態度に好感を覚え、多分に懐疑の念を抱きつつも遂に意を決して、晩課が終わってからカソック姿(法衣の一種)のまま机に向かったのであった。

 最初の四、五節は内容に統一性が無く、何を言わんとしているのか見当がつかなかったが、その内次第にまとまりが見えてきて、やがて厳とした筋が読み取れるようになった。

それからというものは書けば書くほど筆が速くなった。読者が今まさに読まんとされているのがその産物である。
       一九二五年秋



一章 暗黒の世界
霊界の風景  偏見→卒業   
悲しみの館     
バイブレーションの原理
光のかけ橋         
キリスト神の〝顕現〟  
暗黒街の天使


1 霊界の風景             
  一九一三年九月二三日  火曜日 

──どなたでしょうか。(オーエン氏の質問──訳者)

 あなたの母親です。ほかに援助してくださる方が幾人かお出でです。私たちは順調に進歩しております。しかしまだ、述べたいことの全てを伝えることができません。それはあなたの精神状態がこちらが期待するほど平静で受身的でないからでもあります。


──住んでおられる家屋と、今携わっておられる仕事について教えてください。

 仕事はその対象となる人間の必要性によって異なります。非常に多種多様です。しかし現在地上にいる人々の向上に向けられている点は一様に同じです。

例えばローズ(オーエン氏の妻──訳者) にまず働きかけて自動書記をやらせ、その間の危険から護ってあげる霊団を組織したのは私たちです。

今でもその霊団が彼女の面倒を見ております。時おり近くに存在を感じているのではないでしょうか。多分そのはずです。必要とあればすぐに近くに参りますから。

 次は家屋について。これは、とても明るく美しく出来あがっております。そして高い界におられる同志の方々がひっきりなしに訪れては向上の道へ励まして下さいます。


──(ここで一つの疑問が浮かんだ。母たちの目にはその高級界からの霊の姿が見えるのだろうか、それとも吾々人間と同じなのだろうか、ということである。

断わっておきたいのは、この霊界通信を読んで行かれるうちに読者は、私が明らかに口に出していない思念に対する答えが〝イエス〟あるいは〝ノー〟で始まって綴られているのを各所に発見されるはずである。

その点をご諒承いただいて、特に必要がないかぎり、それが実際に口に出した質問なのか、それとも私の思念を読み取ったものかは断わらないことにする。)

 はい、見えます。その方たちが私たちに姿を見せようと思われた時は見られます。しかし私たちの発達の程度と、その方たちの私たちに対する力量次第です。

℘22
──では、今住んでおられるところ──景色その他を説明をしていただけますか。

 完成された地上、といった感じです。でも、もちろん四次元の要素が幾分ありますから、うまく説明できないところがあります。丘もあれば小川もあり、美しい森もあり、家々もあります。それに、私たちが地上から来た時のために前もって先輩たちがこしらえてくれているものもあります。

今は代わって私たちが、今しばらく地上の生存競争の中に生き続けなければならない人々のために、環境をこしらえたり整えたりしてあげております。こちらへ来られた時には万事がうまく整っており、歓迎の準備も出来ているというわけです。


 ここで、最近私が目撃した興味深い光景(シーン)をお話いたしましょう。そうです、こちらのこの土地でのシーンです。私たちの住んでいる家からほど遠からぬ広い平地である儀式が取り行われると聞かされ、私たちもそれに出席するようにとのことでした。
 
儀式というのは、一人の霊が〝偏見〟と呼ばれている段階、つまり自分の特殊な考えと異なる人々へのひがみ根性からすっかり卒業して一段と広く充実した世界へと進んで行くことになったのを祝うものです。

 言われるままに私たちも行ってみました。すると方々から大勢の人が続々とやってまいります。中には馬車で・・・・・なぜ躊躇するのですか。私たちは目撃したことを有りのままに述べているのです。馬車で来る人もいます。

お好きなように別の呼び方をしても構いませんよ。ちゃんと馬に引かれております。御者の言うことがすぐ馬に通じるようです。

と言うのは、地上の御者のように手綱を持っていないのです。それでも御者の思う方向へ走っているようでした。歩いて来る人もいました。空を飛んで来る人もいました。いえ、翼はついておりません。要らないのです。

 さて皆さんが集まると円座が作られました。そこへさっきの方が進み出ました。祝福を受ける霊です。その方はオレンジ色の長い礼服を着ておられます。明るいオレンジ色で、地上では見かけない色です。こちらの世界の色はどれも地上では見られないものばかりです。

 ですが、地上の言葉を使うほかはありません。さて指導霊がその人の手を取って円座の中央の小高い芝生のところに位置させ、何やら祈りの言葉を述べられました。すると実に美しい光景が展開しはじめました。

空の色───殆ど全体が青と金色です───が一段と強さを増しました。そしてその中から一枚のベールのようなもの、小鳥や花を散りばめた見事なレースで出来たように見えるものが降りてきました。白いというよりは金色に輝いておりました。

それがゆっくりと広がって二人を蔽うようにかぶさり、二人がそのベールに融けこみ、ベールもまた二人と一体となって、やがてその場からゆっくりと消えて行きました。二人ともそれまでとは格段の美しさ、永遠の美しさに輝いておりました。

何しろ二人とも一段階上の光明の世界へと向上して行ったのですから。


 それから合唱が始まりました。楽器は見えないのですが、間違いなく楽器による演奏が聞こえ、それが私たちの歌声と融合し一体となっておりました。

それはそれは美しい光景でした。それは、向上して行く二人にとってはそれまでの努力を祝福する餞別(ハナムケ)であり、見送る者、二人が辿った道をこれから辿らねばならない者にとっては、一層の努力を鼓舞するものでした。

あとで尋ねてみましたらその音楽は円座の外側にある寺院の森から流れてきていたとのことで、道理で一定の方向から聞こえて来るようには思えませんでした。それがこちらの音楽の特徴なのです。大気の一部となり切っているように感じられるのです。

 お二人には宝石まで付いておりました。蔽っていたベールが消えた時、祝福を受けた霊の額に金色と赤色の宝石が見えました。そして指導霊──この方にはすでに一つ付いておりましたが──にも新たにもう一つ左肩に付いており、それが大きさと明るさを一段と増しておりました。どういう過程でそうなるのかは判りません。

私なりの推測をしておりますが、あなたに言えるほどの確信はありません。それに、私たちが理解していることを地上の言葉で伝えること自体が難しいのです。

儀式が終わると、みんなそれぞれの仕事に戻りました。実際の儀式は今述べたよりも長時間にわたるもので、参加した人たちに深い感銘を与えました。

 儀式の最中のことですが、私たちが立っていた位置から丘越しに見える平地の向こう端に一個の光が輝いて見え、それが私たちには人間の容姿をしているように見えました。

今思うにそれは主イエスではなく、その儀式のためのエネルギーを供給し、目的を成就させるために来られた大天使のお一人であったようです。

もちろん私より鮮明にその御姿を拝した人もおられます。なぜなら霊的進化の程度に応じて見え方も理解の程度も異なるものだからです。

 さて、ここであなたに考えてみて頂きたいのです。こうした話をあなた自身の頭から出たものだと思われますか、それとも、あなたを通してあなたの外部から来たものだと思われますか。今日その机に向かって腰かけた時、あなたはまさかこうした話が綴られるとは予想しなかったはずです。

私たちもあらかじめその点に配慮して先入観を入れないように用心したのです。でも、こうしてあなたと霊的つながりが出来たとたんに、今の話を綴られました。そうではありませんか。


───その通りです。その点は正直に認めます。

 そうですとも、では、これでお別れです。あなたとお別れするというのではありません。私たちはあなたに理解できない或る意味で常にあなたの側におります。あなたの手を借りて書くという仕事と暫しお別れという意味です。

神の祝福のあらんことを祈りながら、ではまた明日まで、さようなら。

2 悲しみの館               
  一九一三年九月二四日  水曜日
  
 あなたとの間に始められたこうした通信が究極においてどういう影響をおよぼすか──そのことを少し遠い先へ目をやって現在のご自分の心理状態の成り行きとの関連において考察してごらんなさい。

私たち霊界の者から見た時、これまでの事の成り行きが私たちの目にどのように映っていたと思われますか。

それはちょうど霧の海に太陽の光が差し込んだのと同じで、霧が次第に晴れ上がり、それまで隠されていた景色がはっきりと、そしてより美しくその姿を見せてまいります。

 あなたの精神状態もいずれそうなると私たちは見ております。しばらくは真理という名の太陽に目がくらみ、真相が分かるよりはむしろ当惑なさるでしょうけど、目指すものは光明であること、究極においては影を宿さぬ光だけの世界となることを悟られるでしょう。

光は必ずしも有難がられるものとは定(き)まっておりません。日光で生長するようにできていない種類の生物がいるのと同じです。

 そういう人はそれでよろしい。そしてあなたはあなたの道を歩まれることです。進むにつれてより強い光、神の愛のより大きな美しさに慣れてくるでしょう。光を好まぬ者には、無限の叡智と融合したその光の強さは迷惑でしかないのでしょうけど・・・・・・。

 では、ここでもう一つ、神の御光そのものに輝くこの地域で見かけた楽しい光景をお伝えしましょう。

 つい先ごろの事ですが、私たちは美しい森の多い土地を散策しておりました。歩きながらおしゃべりを始めたのですが、それもほんの少しの間でした。と言うのは、全てを聖なる静寂の中に吸い込んでしまうような音楽を感じ取ったのです。

その時です。前方に間違いなく上級界の天使と思われる神々しいお姿が目に入りました。その方は立ったまま笑みを浮かべて私たちを見つめておられます。

何も語りかけません。がそのうち私たちのうちの一人に特別のメッセージを持って来られたことを私は感じ取りました。そしてそれが他ならぬ私であることもすぐに判りました。

私たちが立ち止まって待ち受けていますとすぐ近くまでお出でになり、身につけておられるマント風のもの── 琥珀色でした──を片手で少し持ち上げて私の肩に掛け、手も肩に置き、さらに頬を私の髪に当てて──私よりはるかに背の高い方でした──優しくこうおっしゃいました。


 「私はあなた方が信仰しておられる主イエス(※)の命を受けて参りました。主はすべてをお見通しです。あなたはまだ先のことがお判りでない。

そこでこれからあなたがおやりになる仕事のための力をお授けしましょう。実はあなたはこちらでの新たな使命に携わる一人として選ばれております。

もちろんそちらにおられる仲間の方々とお会いになろうと思えばいつでも出来ますが、申し訳ないが暫くお別れいただいて、これからあなたが新しく住まわれる場所と、やっていただかねばならない仕事の案内をさせて下さい」(※他界後しばらく霊界の指導霊は当人の地上での信仰に応じた対応をするのが定石である。イエス・キリストの真実については第三巻で明かされる。)


 天使様がそう言い終わると仲間の者が私のまわりに集まってきて頬にキスをしたり手を握ったりして祝福してくれました。みんな自分のことのように喜んでくれました。いえ、この言い方ではぴったりといたしません。うれしさを十分に言い表わしておりません。

さきほどのお言葉の真意を私たちが語り合うのをお待ちになってから天使様が再び私に近づき、今度は私の手を取ってどこかへ連れて行かれました。

 しばらく歩いて行くうちに、ふわっと両足が地面から離れ空中を飛びはじめました。別に怖いとは思いませんでした。私にはすでにそれだけの力が与えられていたわけです。

数々の宮殿のような建物の見える高い山並みの上空を通過し、かなりの長旅の末にようやく降りました。そこは一度も来たことのない都市でした。

 その都市を包む光は決して悪くはないのですが、私の目がその明るさに慣れていないために、まわりのことがよく判りませんでした。が、そのうち大きな建物を取り囲む庭の中にいることが判ってきました。玄関へ向けて階段状に長い道がついており、その一ばん上にテラスのようなものがあります。

建物全体が各種の色彩──ピンクと青と赤と黄──の一つの素材で出来ており、それが全体として黄金のような輝き、柔らかさを持った輝きを見せておりました。

その昇り段を天使の方へ上がって行き入口のところまで来ました。そこにはドアは付いておりませんでした。そこで一人の美しい女性が迎えてくださいました。

堂々としておられましたが決して尊大には見えません。実はその方は「悲しみの館」の主です。こんなところで不似合いな言葉と思われるでしょう。実はこういうことなのです。

 悲しみというのはここに住んでおられる方の悲しみではなく、世話を仰せつかっている人間の身の上のことです。悲しみに打ちひしがれている地上の人々のことです。

この館に勤める人はそうした地上の不幸な人々へ向けて霊波を送り、その悲しみを和らげてあげるのが仕事なのです。こちらでは物事の真相に迫りその根源を知らなくてはなりません。それには大変奥の深い勉強が必要であり、少しずつ段階的に進んでいくほかはありません。

いま〝霊波〟という用語を用いたのも、それが真相をズバリ言い表わした言葉であり、あなたにとっても一ばん理解しやすいと思うからです。


 その女性はとても優しく私を迎えて中へ案内し、建物の一部を紹介して下さいました。地上とはまるで趣の異なるもので、説明するのが困難です。強いて言えば建物全体が生命で脈打っている感じで、私たちの意志の生命力に反応しているようでした。

 以来そこでの仕事が現段階での私の最も新らしい仕事で、とても楽しいものになりそうです。でも私はまだ、地上から届いて感識される祈りと、耳に聞こえてくる──と言うよりやはりこれも感識されると言った方がよいでしょう──悶え苦しむ人々の嘆きがやっと判るようになり始めたばかりです。

 私たちはそれを言わば感じ取り、それに対する回答をバイブレーションで送り返します。慣れれば無意識にできるようになるものですが、最初のうちは大変な努力がいります。私にはとても大変なことです。でもその努力にも、携わる者にはそれなりの恵みがあるものです。

 送り届けた慰めや援助などの効果は再びはね返って来るものなのですが、勉強していくうちに判ってきたのは、地上と接触を保っているこちらの地域でも、この送り届ける慰めとか援助のほかは私には何も知り得ない地域があるということです。

今のところ私がその仕事に携わるのは一度にほんの僅かな間だけで、すぐにその都市や近郊の見学に出かけます。どこを見ても荘厳で、前にいたところよりもずっと美しいです。

今ではかつての仲間を訪ねに行くことがあります。会った時にどんな話をするか、あなたにも大体の想像がつくと思います。

仕事も楽しいですが、それに劣らず語り合うのも楽しいものです。あたりは主イエス・キリストのもとにおける安らかさに包まれております。そこは暗闇のない世界です。あなたも、初めに述べた霧が晴れればこの土地を訪れることになるでしょう。その時は私が何もかも案内してさしあげましょう。

そのうち多分あなたも向上して、今度はあなたの方が、あの天使様がして下さったように、私の手を取ってあなたの携わるお仕事を見せに案内して下さることになるでしょう。

ずいぶん意欲的だと思っておられるようですね。それはそうですよ。それが母親の、そうね、煩悩というものかしら。いえ、母親ならではの喜びではないかしら。

 では又にしましょう。今のあなたの心の状態を見れば、すべてを真実と信じておられるのが判ります。うれしそうに明るく輝いて見えますよ。それは母親である私にもうれしいことです。では、おやすみなさい。神よ、安らぎを垂れ給え。
                           


         
 3 バイブレーションの原理     
 一九一三年九月二十五日  木曜日

 聖書の中に主イエスがペテロのことを自分への反逆者であるかの如く述べた部分があり、あなたはその真意を捉えかねている様子だから、今夜は、十分ではないかも知れないけど是非そのことを明らかにしてみたいと思います。

ご存知の通り、その時イエスはエルサレムへ行く途中でした。そして弟子達に対し自分はエルサレムで殺されるであろうと述べます。

その時のイエスの真意は、自分が殺されることによって一見自分たちの使命が失敗に終わったかの如く思われるかも知れないが、見る目を持つ者には──弟子達がそうであって欲しいとイエスは思ったことでしょうが──自分の真の目的はそれまでの伝導の道よりもはるかに強力にして栄光ある発展のための口火を切ることであり、それが父なる神より授かった地上人類の霊的高揚のための自分の使命なのだということでした。

 ペテロはそれが理解できないことを彼なりの態度で示しました。当然であり無理もないことです。が、このことに関して何時も見落とされていることがあります。

それは、イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑(ハリツケ)はその使命の中における一つの出来事に過ぎない。それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような〝喜び〟の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。

なぜならば、テコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍を転じて福となし、神の計画を推進することになるということでした。

悲劇をただの不幸と受け止めることがいかに狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の〝価値〟を理解して初めて判ることです。さてイエスは今まさに未曾有(ミゾウ)の悲劇を弟子たちにもたらさんとしておりました。

もし弟子たちがその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子たちに託す使命が成就されません。

そこでイエスは言いました。──「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」 と。そして遂にそうなりました。もっともそれは悲しみの奥義を理解できるようになってからのことです。理解といっても限られた程度のものでした。が、ある程度の理解は確かにできたのでした。

 こうして文章で綴ってしまえばずいぶん簡単なことのように感じられます。またある意味では現に単純なのです。神の摂理の基本的原理はすべて単純だからです。ですが私たち、とくに現在の私にとっては、あなたにも判然としないかもしれない重要性を秘めております。

と言いますのは、今の私の生活の大半を過ごしている新しい建物に中での主な課題がそれと同じこと、つまり人間界の悲しみのバイブレーションを喜びを生み出すバイブレーションに転換することだからです。とても素敵な仕事です。

ですが自由意志の尊厳がもたらすところの数々の制約がいろいろと面倒な問題を生み出します。いかなる人間であっても、その人の自由意志を無視することは許されないのです。

当人の意志を尊重しつつ、当人にとって望ましくもあり同時に相応しい結果、少なくともまずまずと言える程度のものを授けなければなりません。

時にはうんざりすることもあります。が、この仕事に携わることによって強くなるにつれて、そうした念も消えて行くことでしょう。ところであなたの質問は何ですか。尋ねたいと思っていることがあるようでしたが。


──いえ、ありません。特別な質問はありませんが。

 尋ねたいと思われた事がありませんでしたか。あなたにこうして霊感を印象づける方法と関連した事で・・・・・


──そう言えば今朝がたそのことをお聞きしようと思ったことは事実です。すっかり忘れておりました。でも大して説明していただくほどのことでもないように思いますが如何でしょうか。私は〝精神感応〟と呼んではどうかと思いますが。

 なるほど、当たらずといえども遠からずですね。でもピッタリというわけでもありません。精神感応というのは未知の分野も含めた大ざっぱな用語です。私たちがあなたに印象付ける手段は各種のバイブレーションです。本質がそれぞれ少しずつ異なります。

それをあなたの精神に向けて集中するのです。ですが、どうやらあなたはこの種の問題は今はあまり気が乗らないようですね。又の機会に改めて述べることにしましょう。

今あなたが関心を抱いているものがあればおっしゃってみてください。


──では、あなたの住んでおられる家と、新しく始められた仕事についてもう少し話して下さい。

 よろしい。では出来るだけ分かりやすくお話いたしましょう。

 住居(すまい)は内側も外側も実に美しく設備が整えられております。浴室(バス)もあれば音楽室もあり、私たちの意念を反映させていく上で補助的な役割をする道具もあります。

ずいぶん広いものです。私は今〝住居〟と言いましたが、本当はひと続きの建物で、その一つ一つがある種の仕事を割り当てられていて、それが段階的に進んでいくように工夫されております。

どの家からでも始めて次の建物へ進むことができます。でもこんな話は人間にはあまりに不思議すぎて理解することも信じることも出来ないでしょうから、もっと分かりやすいものを取り上げてみましょう。

 土地は広々としており、その土地と建物との間に何らかの関係、一種の共鳴関係のようなものがあります。

たとえば樹木は地上と同じ樹木そのもので、同じように生長しておりますが、その樹木と建物との間に共鳴関係のようなものがあり、樹木の種類が異なると共鳴する建物も異なり、建物が目的としている仕事の効果を上げる作用を及ぼしております。

それと同じことが森の中の一つのグループについても言えますし、小道の両脇の花壇、各所に見られる小川や滝の配置についても言えます。

すべてが驚くべき叡智から生み出され、その効果は〝美しい〟の一語に尽きます。

 実を言うと同じ作用が地上でもあるのです。ただバイブレーションがそれを放射する側もそれに反応する側も共にこちらに比して鈍重であるために、その効果がほとんど目立たないだけです。

でも実際にあることはあるのです。例えば花や樹木の栽培が特に上手な人がいるのをご存じでしょう。それから、花が他家(よそ)よりも長持ちする家── そういう家族があるものです。

切り花のことです。荒けずりではありますが、すべて同じことです。こちらでは影響力が強力で、受ける側も鋭敏なのです。ついでに言えば、このことは私たちがいま携わっている仕事で個々のケースを正確に診断する上でよい参考になります。

大気も当然ここの植物と建物によって影響を受けます。と言いますのは、繰り返すことになりますが、そうした建物は単なる技術で建造されるのではなく、この界の高位の天使の方々の意念の結晶──産物と言っても良いでしょう──であり、従って大変強力な創造的念力によるものだからです。(その詳しい原理は第六章でアストリエル霊が解説。──訳者)

 大気はまた私たちの衣服にも影響を及ぼします。さらにはその生地と色への影響が私たちの性格そのものまで沁みこんで来ます。

ですから霊的に性格が似ている者同士は同じ大気の影響を受けているわけですから、身にまとっているものも色合いと生地がよく似ておりますが、実際には一人一人その個性の違いによって少しずつ違っております。

 さらに私たちがたまたま位置したその地面の影響で衣服の色合いが変化することがあります。あたり一面に色とりどりの草花が繁茂している歩道やさまざまな品種の植物の配置具合が異なる場所を通りかかると衣服の趣が変化していくのを見るのは面白くもあり、ためにもなり、また見た目にも美しくもあります。

 小川がまた美しいのです。水の妖精の話はあなたも聞いたことがあるでしょう。地上の話ですよ。あれは少なくともこちらでは本当の話です。その場全体に生命がみなぎり、すみずみまで浸透しております。ということは生命の存在がそこにあるということです。

このことは前にいた界でもある程度は知っておりましたが、この界へ来て辺りの不思議さ目新しさに慣れてくると、そうしたことが一層はっきり認識され、同時にこの調子で行くとこれから先の界は一体どうなってるのだろうと驚異を抱き始めております。

この界の不思議さなどどこへ行ってもあたり前のように思えるからです。


 でも、今日はこの辺で止めにしましょう。この美わしい御国の片隅を見せて下さった神はまた別の片隅を見せて下さることでしょう。これはあなたへの言葉ですよ。今日はこの言葉で終わりとしましょう。それでは。


<原著者ノート>この日のメッセージの最初の部分を綴っている時、私はその話の流れが読み取れず、まとまりがなくて混乱しているように思えた。が、今読み返してみると決してそうではないことが判る。

 悲しみのバイブレーションについて述べていることを〝神の摂理の基本的原理〟についての単なるヒントと受け取り、波動の原理を光や熱の解釈に当てはめるのと同じ推理を行えば次のようになりそうである。

 悲しみを生ずるバイブレーションの組み合わせは〝置き換え〟ではなく〝調整〟によって行われる。つまり悲しみに沈む魂へ向けて別種のバイブレーションを送ることによって、悲しみのバイブレーションのうちの幾つかが中和され、幾つかは修正されて別種のものに変化し、その効果が喜び、あるいは安らぎとなる。

 こう観れば、この日のメッセージも意味を持ち、多分人生における悩みごとを実際に解決していく方法に光を当てることになるかも知れない。確かにそれが神の一つの手法なのであろう。悲しみを生み出す外的条件が取り除かれるという意味ではない(極端な場合はそうするかも知れないが)。

別種のバイブレーションを吹き込むことによって悲しみを喜びへと転換してしまうという意味である。これなら日常生活でよく見かけることである。

こうした説は科学的思考に慣染めない人には突拍子もない話に聞こえるであろうし〝別種のバイブレーション〟が実際に同じ〝交換価値〟を持つ数種のバイブレーションであるとする説を別に非合理的とは思わない人もいることであろう。

 なお最初に言及しているイエスの言葉はヨハネ第一六章二〇である。
                      


4 光のかけ橋   
       
 一九一三年九月二六日 金曜日

 前回の通信は、あなたにもう少し深入りした感応の仕方を試して見るべきであるとの霊団の一人の要請を受けてやってみたものです。が、説明できるようにはなりましたが、説明の内容はまだまだ十分とは言えません。

そこで、あなたがお望みであれば引き続き同じ問題を取り上げようと思いますが。


──有難うございます。お願いします。

 では、あなたにも暫く私たちと共にベールのこちら側から考えていただかねばなりません。まず理解していただきたいのは、こちらへ来て見ると地上で見ていたものとはまったく異なった様相を呈していること──恐らく現在地上にいる人の目には非現実的で空想的にさえ思えるのではないかということです。

どんなに小さなことでも驚異に満ちておりますから、こちらへ来たばかりの人は地上での三次元的な物の考え方から脱しない限り、飛躍的な進歩は望めません。そしてそれが決して容易なことではないのです。

 さて、ここで例のバイブレーションという用語を使用しなくてはなりません。しかしこれを物的なもののように考えては真相は理解できません。

私たちのいうバイブレーションは作用においても性質においても単なる機械的な波動ではなく、それ自体に生命力が宿っており、私たちはその生命力を活用して物をこしらえているのです。 

言わば私たちの意志と環境とを結ぶかけ橋のようなものです。つきつめればすべての現象はその生命力で出来ているからです。環境は私たちを始め全存在を包む深い生命力の顕現したものに過ぎません。それを原料として私たちは物をこしらえ成就することが出来るのです。

バイブレーションというと何だか実体のないもののように思われがちですが、それがちゃんとした耐久性のあるものを作り上げるのです。


 たとえば光明界と暗黒界との間の裂け目(一二七頁参考)の上に橋を掛けるのもその方法によります。その橋がただの一色ではないのです。暗黒の世界の奥深い処から姿を見せ、次第に輝きを増しながら裂け目を越え、最後に燦々たる光輝を発しながら光明の世界へと入り込んでおります。

その光明界の始まる高台に掛かる辺りはピンク色に輝き、大気全体に広がる何とも言えない銀色、アラバスターと言った方が良いでしょうか、そんな感じの光の中で輝いて見えます。

 そうですとも。その裂け目に立派に〝橋〟が掛かっているのです。もし無かったら暗黒の世界から光明へと闇を通り抜けて霊魂はどうやって向上進化してくるのですか。

本当なのです。言い落としておりましたが、怖ろしい暗闇の世界をくぐり抜けてその橋をよじ登り、裂け目のこちら側へやってくる霊魂が実際にいるのです。

もっとも数は多くありません。大ていはその道案内の任に当たっておられる天使様の言うことが聞けずに後戻りしてしまうのです。

 また、こういうことも知っておく必要があります。そうした天使様の姿は魂の内部に灯された霊的明かりの強さと同じ程度にしか映らないということです。ですから天使様の言うことを聞いて最後まで付いて行くには、天使様に対する信頼心も必要となってきます。

その信頼心は同時に光と闇とをある程度まで識別できるまで向上した精神の産物でもあるわけです。実際人間の魂の複雑さはひと通りでなく、捉え難いものですね。

そこで、もう少し言葉で表現しやすい話に移りましょう。私はそれを〝橋〟と呼びました。しかし 「目は汝の身体の光である」 という言葉がありますね。

この言葉をここで改めて読んでいただきたいのです。そうすれば、それが地上の人間だけでなく、こちらの霊魂についても言えることがお判りになると思います。


 私はこれまで〝橋〟という呼び方をして来ましたが、実際には地上の橋とはあまり似ていないのです。第一、巾がそれはそれは広いのです。〝地域〟と呼ぶのが一番当たっているようです。

私はまだ死後の世界のほんの一部しか見ておらず、その見たかぎりのものだけを話していることを念頭に置いて聞いて下さいよ。同じような裂け目や橋が他にも──たぶん数えきれないほど── 有るに相違ありません。

その畝(うね)つまり私が橋と呼んでいるものを通って光明を求める者が進んで来ます。実にゆっくりした足どりです。しかもその途中には幾つかの休泊所が設けてあり、暗黒界から這い上がって来た霊魂がその内の一つに辿り着くと、そこで案内役が交替して、今度は別の天使の一団が次の休泊所まで付き添います。

そうやって漸くこちら側に着きます。私が属している例のコロニーでの仕事も、地上の救済の他に、そうやって向上して来る霊魂の道案内も致しております。

それは先ほど述べた仕事とはまた別の分野に属します。私はまだあまり勉強しておりませんので、そこまでは致しません。そちらの方が難しいのです。

というのは、こちらの世界の暗黒界にいる者を取り巻く悪の影響力は地上のそれに比して遥かに邪悪なのです。地上はまだ善の中に悪が混じっている程度ですからましです。

こちらへ来た邪悪な人間がうっかりその暗黒界へ足を踏み入れようものなら、その途轍もなく恐ろしい世界から抜け出ることの大変さを思い知らされます。想像を超えた長い年月にわたって絶望と諦めの状態で過ごす霊が多い理由はそこにあります。

 暗黒の世界から這い上がってきた霊魂が無事その橋を渡りきると天使様が優しく手を取って案内してあげます。やがて草木の茂った小高い緑の丘まで来ると、そこまで実にゆっくりとした足どりで来たはずなのに、あたりの美しさに打たれて喜びで気絶せんばかりの状態になります。

正反対の暗黒の世界に浸り切っていた霊魂には、僅かな光明にさえ魂が圧倒されんばかりの喜びを感じるのです。


 私は今〝小高い丘〟と言いましたが、高いと言っても、それは暗黒の世界と比べた場合のことです。実際には光明の世界の中でも一ばん低い所なのです。

 〝裂け目〟とか〝淵〟とかをあなたは寓話のつもりで受け止めているようだけど、私が述べた通りに実際にそこに在るのです。このことは以前にも何処かで説明があったはずです。

それから、なぜ橋をトコトコ歩いて来るのか、なぜ〝飛んで〟来ないのかと言うと、まだ霊的発達が十分でなくてそれが出来ないということです。もしそんな真似をしたら、いっぺんに谷底へ落ちて道を見失ってしまいます。

 私はまだまだ暗黒の世界へ深入りしておりません。ほんの少しだけですが、悲劇を見るのは当分これまで見たものだけで十分です。

しばらく今の仕事に精一杯努力して、現在の恵まれた環境のもとで気の毒な人々に援助してあげれば、もっと暗黒界の奥まで入ることを許されるかも知れません。多分許されるでしょう。しかしそれはまだ先の話です。

 あと一つだけお話しましょう。── あなたはそろそろ寝(やす)まなくてはならないだろうからね。霊魂が暗黒の世界から逃れて橋のところまで来ると、後から恐ろしい叫び声や怒号が聞こえ、それとともに狐火のようなものがチラチラと見えるそうです。

 私は実際に見ていないのではっきりしたことは言えませんが、それは仲間を取り逃がした暗黒界の霊魂が悔しがって怒り狂う時に発するのだと聞いております。悪は所詮、善には勝てないのです。

いかに小さな善にでもです。が、このことについては今はこれ以上深入りしません。

 私が今述べたことは私が実際に見たものではなく、又聞(まやぎ)き、つまり人から間接的に聞いたことです。ですが、本当のことです。

 ではおやすみ。神の御光と安らぎが注がれますように。その御光の中にこそ光明を見出されることでしょう。そうしてその輝きこそ無限に開け行く安らかなる魂の黎明なのです。
                            


 5 キリスト神の〝顕現〟 
     
 一九一三年九月二七日  土曜日

──もう少し鮮明に感応できないものですか。

 これまで以上に鮮明にする必要はありません。私たちからのメッセージは一応意図したとおりに通じております。

つまりこちらでの私たちの生活ぶりや環境は一応理解していただけております。ただ一つだけ付け加えておきたいことは、こちらへ来たばかりの私たちは、まだ霊としての本来の能力を発揮しておらず、あなた方が実感を得ている環境が私たちにはモヤのように漠然としか映らず、その状態で最善を尽くさねばならないということです。   


──私がこうして書いている姿が見えますか。

 見えますとも。ただし肉眼とは別のもので見ております。私たちの眼は地上の明かりには慣れておりません。こちらの世界の明かりは種類が異なり、内部まで貫通する作用があります。

それであなたの心の中を見て取り、また心に直接話しかける ── あなたそのものに語りかけるのであって、もちろんあなたのその左右の耳ではありません。同じように、私たちがあなたを見る時はあなたそのものを見ており、その肉体ではありません。

肉体は外套のようなものに過ぎません。ですから、かりに私があなたに触れた場合、あなたはそれを肉体的に感じるのではなく霊的に感じるわけです。私たちの感応の具合を理解するにはその点を念頭において、身体や脳といった器官の奥を見なければいけません。

 どうやらあなたは、こちらでの私たちの働きぶりや暮らしの環境についてもっと知りたがっておいでのようですね。こちらへ来てからの進歩にとって是非理解しておく必要のある基本的な真理の一つは、神というものは地上と同じくこちらでも直接そのお姿を拝することは出来ないということです。

これは必ずしもこちらへやって来る人間の全てが得心してくれるとは限らないのです。みんなこちらへ来たらすぐに神々しいお姿を拝せるものと期待します。そこで、その信仰が間違っており神とはそういうものではないと言い聞かされて非常にがっかりします。

神の生命力と崇高さは別にこちらへ来なくても地上において、大自然の内奥を洞察する力を持つ者には明瞭に感得できるものです。こちらでも同じことです。

ただ異なるのは、生命力により実感があり、その本性を知った者にはその活用が容易にできること──あたりに脈動しており、より鋭敏な感覚を身につけた私たちには、それを地上にいた時よりも強く感得できるということです。

以上は一般的な話として述べたのですが、これにもう一つ付け加えておく必要があるのは、時おり〝神の存在〟を実感させる現象が特別の目的のために顕現されることがあることです。ではその一つをお話してみましょう。


 ある時、私たちは田園地帯のある場所に招集されました。そこには地上時代の宗教も信仰も国籍も異なる人々が大勢集まることになっておりました。到着すると一団の霊が地上との境界付近の一地域における救済活動の任期を終えて帰ってくるところでした。

地上を去って霊界入りしながら、自分が死んだことが自覚できずにいる霊を指導する仕事に携わっていた霊の一団です。その方たちに連れられて、首尾よく死を自覚した霊が大勢まいりました。それぞれの落ち着くべき界へ行く前にそこで私たちとともに感謝の祈りを捧げるためです。年齢はさまざまです。

年ばかり取って若さも元気もない者、若くてまだまだ未熟な者などいろいろです。みんな一様に何か嬉しいことを期待している表情です。

そして新しい仲間が次々と連れて来られるのを見て、民族による顔かたちの違い、地位や財産の違いからくる色とりどりの服装などを不思議そうにじろじろ見つめ合っておりました。

 やがて全員が到着しました。すると突如として音楽が押し寄せる波の如く鳴り響いて、その大集団を家族的一体感で包み込みました。その時私たちの目に大きな光の十字架が見えました。

その平野と接する大きな山の背に乗っているように見え、見ているとそれが砕けて細かい光の小片になり始めました。

だんだん判ってみると、それは高級界の天使の大集団で、それが山の上に十字架状に集結していたのでした。その辺り一面が金色(こんじき)に輝き、遠くに位置する私たちにも暖かい愛の息吹となって伝わって来ます。

 天使の集団がこの低い環境(その天使から見て低いということですが)に慣染むにつれて、その御姿が次第に私たちの視界に明瞭になってまいりました。するとです。ちょうど十字が交叉するあたりの上方にさらにもう一つの、一段と大きい天使の御姿が現われました。

それがどなたであるかは、そこに居合わせた者には直感的に判りました。それはあなたにはもう察しがつくと思いますが、具象体(※)としてのキリスト神の一表現でした。

(※本来は形体を持たない存在が一時的にその存在を示すためにとる形態。それを見る者の理解度・宗教的信仰・先入観等によりさまざまな形態をとる。キリスト神とは地球神界の最高神つまり地球の守護神である。詳しくは第三巻で明かされる──訳者)

 大天使はしばらく黙ってじっと立っておられましたが、やがて右手を高々と上げられました。すると一本の光の柱が見え、それがその右手に乗りました。

それは一種の通路だったのです。その光の柱の上を別の天使の一団が降りて来るのが見え、手のところまで来ると一旦立ち止まり、それぞれに両手を胸にあてて頭(こうべ)を垂れ、拝むような格好でじっとしています。

すると大天使の手が大きく弧を画いて一回転し、その指先を平地へ向けられました。するとその光の柱が私たちの方向へ延びて来て、山の頂上と平地との間の架け橋となり、その一ばん端がそこに集結していた私たちの上に掛かりました。

 見るとその光のかけ橋を通って先ほどの天使の一団が降りて来て、私たちの真上まで来ました。そこで両手を広げ、一斉に大天使のおられる山頂へ向きました。すると語るとも歌うともつかない大天使への讃歌が聞こえてまいりました。

その光景の美しさ、崇高さと言ったらありません。私たちは初めのうちはただただ畏れ多くて黙するのみでした。が、やがて私たちも一緒に歌いました。と言うよりは詠唱しました。

それを教えるのが天使様たちの来られた目的だったのです。詠唱していると、私たちとその山との間に青っぽいピンクの靄が発生し、それが不思議な働きをしたのです。

まるで天体望遠鏡のレンズのように大天使の姿が大写しになり、そのお顔の表情まで見えるようになったのです。同時に、すぐ下に立ち並ぶ天使の一団の姿も同じように大きく映って見えました。が私たちにはその優雅なお顔とお姿が見えるだけで、その真の霊格を読み取る力はありませんでした。その表情はとても私には述べることはできません。

言葉では言い尽くせないさまざまな要素が渾然一体となっておりました。愛と慈悲と喜びと威厳とが混じり合っておりました。その時に私が感じたのは、こうして神と私たちとが一体となった時、生命というものが実に聖なる尊さに溢れたものであるということです。

仲間の者も同じものを感じ取ったと思いますが、その時はお互いに語り合うどころではなく、大天使様の御姿にただ魅入れられておりました。

  やがてその靄が大気の中へ融け入ってしまいました。山頂の十字架と大天使のお姿は同じ位置にありましたが、前より鮮明度が薄れ、私たちの真上におられた天使の一団も今は去って大天使の上方に見えました。

そして次第に全体が薄れて行き、やがて消滅しました。しかし大天使の存在感はその後も強烈に残っております。多分今回のシーンを見せた目的はその存在感を印象付けることにあったのでしょう。

私たちのように少しでもこちらにいる者に比べて、地上から来たばかりの者にはその見え方は鮮明ではなかったでしょうけど、それでも魂を鼓舞し安らぎを与えるには十分であったと思われます。

 私たちはそれから少しの間その辺りを散策してから静かな足取りで家路につきました。誰れもあまりしゃべりません。今見たシーンが余りに印象的だったからです。そして又、こうした顕現にはいろいろと考えさせられるものがあるのです。

その場にいる時はあまりの荘厳さに圧倒されて全部の意味を考えている余裕が無いのです。ですから、後になって段々に考えさせられることになります。

私たちは一緒に語り合い、お互いに印象を述べ合い、それを総合して、それまで余り理解していなかったことが啓示されていることを発見します。

今回の顕現で私たちが最も強い印象を受けたことは大天使様の沈黙のうちに語るその威力でした。一言も語られなかったにも拘わらず、その動き一つ一つが声となって私たちに語りかけてくるように思えたのです。

それが何を語っているかは、実際に声に出しておられないのに、よく理解できました。

 今日はこれくらいにしておきましょう。では、さようなら。求める者に主が何を用意されているか、そのうちあなたにも判る日が来ることを祈ります。
                        


 6 暗黒街の天使

 一九一三年九月二九日   月曜日

 これまでの通信をお読みになるに当たっては、地上より高い視野から観るということが実際にどんなものであるかを、十分に理解しておいていただく必要があります。

そうしないと私たちが述べた事柄に一見すると矛盾するかに思えるところがあって、あなたが不可解に思うことが少なくなかろうと思うのです。

前回の通信におけるキリスト神の具象体の出現と前々回の巨大な裂け目に橋が掛けられる話とは、私にはきわめて自然につなぐことが出来ます。

と言うのは、実体のあるものとして──もちろん霊界の私たちにとって実体があるということです── 実感をもって私が目撃した暗黒界との間のかけ橋は、大天使と配下の霊団がいま私たちが働いている界とその霊団のいる高級界との間に掛けた〝光の柱〟と、実質的には同じ目に見えないエネルギーによる現象だからです。


 私たちにとってその具象化の現象が、あなた方人間にとっての物質化現象のようなものであることがこれでお判りでしょう。

あれは私たち低い界にいる者には使いこなせない高次元のバイブレーションによって、高級霊がこの〝父の王国〟(※)の中の二つの土地を結んだわけです。

どういう具合にするのかは今のところ推察するほかはないのですが、私たちのように地上からやって来た者には、この界と一段上の界とを結ぶことは別に不思議なこととは思えないのです。

(※本書ではキリスト教的表現がそのまま使用されることが多い。これも聖書の中のイエスの言葉で、広義には死後の世界全体、狭義にはその上級界すなわち神界を指すことがある。──訳者)

 あなたにもっともっと私たちの世界の驚異について勉強していただきたいというのが私たちの願いです。そうすれば地上生活にありながらもそうしたことが自然なことに思えるようになるでしょうし、さらにこちらへ来てから全くの不案内ということもなくて済むのではないでしょうか。

地上生活にあってもという意味は、つまりは地上は天上界の胚芽期のようなもので、天上界は地上を磨き上げて完成させたものだということを悟るということです。こちらへ来てからのことは言うまでもないでしょう。

 そこで、この問題に関してあなたの理解を助ける意味で、私たちが大切なものと大切でないものとを見分け区別する、その分類法についてお話してみようかと思います。

私たちは何か困ったことが生じると──私たちの仲間うちだけの話ですが──どこかの建物の屋上とか丘の頂上など、どこか高いところで周囲が遠くまで見渡せるところに登ります。そこでその困りごとを口で述べ、言い終わると暫く、言わば自分の殻の中に退避するように努めます。

すると普段の自分より高い次元のものを見聞きするようになり、大切なものがその視力と聴力に反応し、そのままいつまでも高い次元に存在し続けるのが判ります。

一方、大して重要でないものについては何も見えもせず聞こえもせず、それで大切か否かが区別できることになります。


──判るような気もしますが、何かよい例を挙げていただけませんか。

 よろしい。では、ある婦人の例で〝不信感〟の為に進歩を阻害され満足感が得られないまま過ごしていた人の話をしてみましょう。その方は決して悪い人ではないのですが、自分自身のことも、周りの人のことも、どうも確信が持てないのでした。

 中でも一番確信が持てないのが天使のこと──果たして本当に光と善の存在なのか、もしかしたら天使の身分でありながら同時に暗黒の存在ということも有り得るのではないかと疑ったりするのでした。

私たちは当初なぜそんな事で悩むのか理解できませんでした。と言うのは、ここでは何もかもが愛と光明に溢れているように私には思えるからです。

が、そのうち判ったことは、その方には自分より先に他界した親戚の人が何人かいて、こちらへ来てもその人たちの姿が一人も見当たらず、どこにいるのかも判からないということが原因なのでした。

そうと判ってから私たちはいろいろと相談したあげくに、ある丘に登ってその方を救ってあげる最良の方法を教えて下さいと祈ったのです。すると思いも寄らない驚くべきことが起きました。

 跪(ひざまず)いていると丘の頂上が透明になり、私たちは頭を垂れていましたから丘を突き抜けて下の界の一部がくっきりと見え始めたのです。

そのとき私が見た情景──私たち五人全員が見たのですから幻影ではありません──は薄暗い闇の中に荒涼とした平地で、一人の大柄な男が岩に背をもたれて立っております。

そしてその男の前にはもう一人、少し小柄な人が顔を手で覆った恰好で地面に跪いております。それも男性でした。そしてどうやら立っている男に何か言い訳をしているみたいで、それを立っている男が不審の表情で聞いております。

やがて突然その男が屈み込み、伏せている男を摑えて自分の胸のあたりまで立ち上がらせ、そのまま遠くの地平線の、ほのかな明かりの見える方向へと、平地を大股で歩いて行きました。


 彼は小柄な男を引きずりながら相当な道のりを歩きました。そしてやがて明かりがずっと大きく見える辺りまで来ると手を離し、行くべき方角を指さしました。すると小柄な男が盛んに礼を言っている様子が見えます。やがてその男は明かりの方向へ走って行きました。

私たちはその男の後を目で追いました。あるところまで来ると大柄な男の方が橋の方角を指さします。それは前にお話したあの橋です。但しそこは例の〝裂け目〟の暗黒界側の端です。

その時点でも私たちはなぜこんな光景を見せられるのかが理解できませんでした。が、とにかく後を追い続けると、その橋の入口のところに建てられた大きな建物に辿り着きました。見張りのための塔ではなく、暗黒界からやって来た者に休養と介助を施すところです。

 その塔からは、その男がずっと見えていたことが判りました。というのは、その男が辿り着くとすぐに、橋の上の次の塔へ向けて合図の明かりが点滅されるのが見えたのです。

 その時点で丘が普通の状態に戻りました。そしてそれ以上何も見えませんでした。
 
 私たちはますます判らなくなりました。そして丘を降りて帰ろうとしました。するとその途中で私たちの霊団の最高指導者であられる女性の霊が迎えて下さり、そしてその方と一緒にもう一人、私たちの界のある地域の高い地位の方と思(おぼ)しき男の方がおられました。

私たちがまだ一度もお会いしたことのない方でした。指導霊がおっしゃるには、その男の方は今しがた私たちが見た光景について説明するためにお出で下さったとのことでした。お話によりますと小柄な男性は例の私たちが何とかしなければと思っている女性の曽てのご主人で、私たちからその婦人に早くあの橋へ行き、そこで暫く滞在しておればご主人がやって来るであろうことを告げてあげるようにとのことでした。

例の大柄な男はその婦人ならさしずめ〝闇の天使〟とでも呼びたがりそうな存在で、暗黒界でも相当強力な勢力を持つ霊の一人だということです。でもあのシーンからも想像できますように、良いこともするのです。ではなぜいつまでも暗黒の世界に留まっているのですか、と私たちは尋ねてみました。

 その方は笑顔でこう答えられました。「父なる神の王国はあなた方が想像されるより遥かに素晴らしいところです。これまであなた方には、いかなる地域もいかなる界層も他と完全に離れて独立し、それ自体で完全というところは一つも見当たらなかったはずです。

そのような処は一つも存在しないのです。あの暗黒の天使の本性の中にも各界層の知識と善性と邪悪性とが混ざり合っております。あの土地に留まっているのは、一つにはその本性の中の邪悪性のせいで、それが光明の土地に慣染めなくしているのです。

もう一つの理由は、心掛け次第で向上できるのに本人がそれを望まないということです。それは一つには強情さのせいでもありますが、同時に光明を憎むところがあり、あの途方もなく急な坂道を登って行こうとする者を大バカ者だと思っております。

光明界と暗黒界の対比のせいで、その坂道を登る時の苦痛と煩悶が事さらに大きく感じられるからです。

それで彼はその土地に留るのです。彼のように一種の憂うつと麻痺的絶望感のために光明界へ来ようとしない霊が無数におります。

そうかと思うと彼は憎しみと錯乱から残忍性をむき出しにすることがあります。あなた方が先ほどご覧になったあの男にもさんざん残酷な行為を働き、いじめあげておりました。

それも臆病なごろつきに良くみられる残忍さを持ってやっておりました。が、その残忍性も尽き果てたのでしょう。ご覧になったように、男の嘆願が彼の魂の柔らかい琴線に少し触れると、気持ちが変わらないうちにと男を放してやり、道まで教えてやりました。

きっと心の奥ではあの愚か者が・・・・・・と思いながらも、自分よりはましな愚か者だと思っていたことでしょう。」


 こうした話は私にとって初めてのことでした。あの暗黒の世界にも少しでも善性があるとは知りませんでした。でも今にして思えば、そうであって当然だと思います。なぜかと言えば、もし完全な悪のかたまりであれば私たちの居る光明界へ来ようなどという心は起きないでしょうから。


──それにしてもこの話は、最初に言われた大切なものとそうでないものとを見分けることと一体どういう関わりがあるのでしょうか。

 善なるものが全て神のものであることは言うまでもありませんが、われわれ神の子にとっては光明も暗黒も絶対ではなく、又絶対では有り得ないということです。両者は相対的に理解しなくてはいけません。


今にして判ったことは〝暗黒界の天使〟が大勢いるということです。その人たちは魂の本性に何か歪んだもの、善なるものへの志向を妨げる強情なところがあるために、今のところは暗黒界にいる。が、そのうちいつか、長い長い生命の旅路において、もしかしたら今のところ彼らより祝福されている私たちを追い越し、神の王国において高い地位を占めることになるかも知れないのです。

 ではお寝みさない。私たちが書いたことをよく熟考して下さい。私たちにとっても大変勉強になりました。こうしたことが地上にいる人々の多くの方々にも学んでいただければ有難いと思うのですが。

シルバーバーチの霊訓(十一)

 More Philosophy of Silver Birch

Edited by Tony Ortzen


二章 霊媒的能力 
            霊的知識を得るための必須の手段

 霊媒的能力は霊界側の真理普及の計画にとって欠かすことの出来ないものである。霊媒なくしては地上界と霊界との連絡は不可能である。いかなる教訓も、いかなる証拠も提供できないであろう。その大切さをシルバーバーチが改めて説く───

 霊媒は人間が霊的宿命を持つ霊的存在であることを証明してくれるものです。狂暴性に満ちたこの病める地上世界に是非とも必要な霊的真理を普及させる上で協力してくださる方にこうしてお会いできることは、私にとって大きな喜びであり、光栄なことでもあります。人助けのチャンスはその心掛けのある人には何処にでも見つかります。

 実はあなた方みずからが、ここぞという時に陰から援助を受けておられることを必ずしも気づいていらっしゃいません。死は情愛によって一度つながりのできた人との間を裂くことはできません。

そのことはあなた方みずから説いていらっしゃることですから、日常の生活においてもそれを常に念頭に置いた心掛けが大切です。

 本来なら最も緊密な同志であるべき人たちの敬意と協力が必ずしも得られるとはかぎらないものです。その時は、せっかく徳積みのチャンスを目の前にしながらそれをつかみ損ねた人のことを気の毒に思ってあげないといけません。

 霊的大事業の計画が挫折することはありません。霊の力が退散させられることは絶対にありません。すでに始まった躍進の歩みが止まるようなことは決してありません。築かれた橋頭堡は着々と強化されております。機会と条件さえ整えば、これからもますます拡大し増強されていくことでしょう。


───片づけなければならない障害や、どうしても避けられない困難や反抗があるようです。

 だからいいのです。挑戦・障害・困難・失望・焦燥といったものに遭遇しないといけないのです。その中には本来そういうものを引き起こしてはならないはずの人たちみずからが引き起こしているものも、よくあります。しかし、同じ問題で私たち霊団の者も常に悩まされているのです。

 〝天使も涙する〟という文句をご存知でしょう。私たち霊は、難しい条件の中にあって地上の人間のために心を砕いているからこそ、思わず涙を流すことにもなるのです。せっかくの貢献度の高い道を歩みかけながら、ふと脇道へそれて絶好のチャンスを取り逃がしているのです。しかし、それでも計画は進行しています。


───私が気掛かりなのは、かつてはこの道の仕事に献身する素晴らしい人が大勢いたのに、もっと多くを必要とする今、そういう人が見出せないことです。

 なぜそうなってきたかと言うと、挑戦すべきことや克服すべき障害が少なすぎるからです。だからこそ私は、そういうものを歓迎しなさいと申し上げているのです。こちらへお出でになってから地上生活を振り返ってご覧になれば、ラクだったことには何の感慨も覚えずに、むしろ苦しかったことに感謝なさるはずです。ラクだったことはどうでもよかったことばかりです。


───霊媒が次々と他界していきました。スピリチュアリズムは霊媒能力が頼りです。新しい霊媒は準備されているのでしょうか。

 われわれの仕事の背後には高級界の神庁において企画された総合的な計画があることを認識しなくてはいけません。私も何度かその神庁における会議に出席させていただいておりますが、その計画には、考えうるかぎりの有りとあらゆる要素が考慮されております。

青写真(ブループリント)はちゃんと出来ているのです。それが地上で着々と実施されてまいります。

 無限の叡智を具えた大霊は相対的な自由意志をもつ存在として人間を創造されました。ということは、人間は自分よがりの物的な欲望ばかり追い求めたければ、それも許されるということです。

そこに選択の余地があるということですが、今私は、〝相対的な自由意志〟という言い方を意図的に使用しました。私が〝無限の創造活動〟と呼んでいるものを一時的に邪魔したり遅らせたり妨害したりすることはできても、完全に阻止することはできないということです。神の計画の地上での実現を阻止することはできないのです。

 今あなたは霊媒の不足を口にされました。しかし人類の現在の進化の段階において必要な霊媒は十分に用意されております。もっと必要な段階がくれば、さらに多くの霊媒が用意されることでしょう。

 もっとも、そうした配慮がなされているという事実が必ずしもスピリチュアリズムの組織の視界に入るとはかぎりません。ささやかなホームサークルの形を取ったり、個人で独自の手段で行われる場合もあります。

そういう人たちは自分のことをスピリチュアリストであるとか、霊媒であるとか、霊能者(超能力者)であるとは思っていないかも知れません。

 この仕事において援助を求める声、知識を広めたいと願う心は、私たちに関する限り絶対に無視されることはありません。私たちには皆さんの霊的な必需品、精神的必需品、および物質的必需品は先刻承知しております。

その時点において是非とも必要とみたものは必ず用意してあげます。ただし、それは私達霊界側の法則にのっとって私たちの判断でタイミングを計って行います。人間界の都合に合わせて行うわけにはいかないのです。

 こう申しては失礼かも知れませんが、霊力をいつ行使するのが適切かの判断は、あなた方人間にはできません。すべて当人の魂の発達程度によって決められるのです。もし受け入れる用意ができていると見た時はただちに行います。もし受け入れる段階ではないと見た時は、私たちにはなすすべがないのです。

 地上に霊的教育が欠如していることは間違いありません。また虚栄心、自惚れ、指導霊崇拝がはびこっていることも残念ながら事実です。基本的な真理がおろそかにされて、実質的には地上に何の益ももたらさない脇道が開拓されております。

 が、あなたがもし私と同じ位置に立って眺められたら、明日はどうなるかについての一切の心配も恐れも不安も消えてしまうことでしょう。あなたの背後には宇宙最大の霊力が控えているのです。その力は決して裏切りません。

 
───迷いながらも自分で決断を下さなければならないことがあるのです。

 そこにあなたの自由意志の要素があるわけです。ご自分で精一杯のことをする───私たちから皆さんに要求するのはそれだけです。もしもあなたが完ぺきに振舞える方だったら今この地上にはいらっしゃらないでしょう。

 あなたは他人のために役立つことができるという測り知れない光栄に浴していらっしゃいます。それがあなたにとって地上における最大の貢献です。あなたはそのために生まれて来られたのです。

 地上へ誕生してくる魂には例外なく自我の開発のための機会が用意されております。誰一人として放ったらかしにならないように摂理ができあがっているのです。それは絶対不変ですし、しくじるということがありません。

 四季は間違いなく巡ります。潮は数学的正確さをもって満ち引きします。花、小鳥、樹木、自然界の全生命がその素晴らしい配剤を生んだ背後の大霊への讃歌を奏でております。

 私たちも決して皆さんを放ったらかしにはいたしません。引き上げてしまうようなことはいたしません。 霊力はすでに地上にしっかりと根づいております。それを打ち消せるものは何一つ存在しません。必ずや所期の目的を成就します。

 これまでの永い人類の歴史において、散発的に何度か霊力の奔流が地上へ流れ込みましたが、さまざまな原因からいずれも一過性のもので終わりました。が、このたびばかりは違います。

 地上世界は今、進化の過程における一つの危機に差し掛かっております。一触即発の状態にあると言ってもよいでしょう。しかし、人類はこれをきっと切り抜けることでしょう。地球の最期、人類の終焉が近づきつつあるかの予言や警告に耳を貸してはなりません。

 神は地上の人間によってもたらされる破壊や損害にも限界をもうけております。地球全体を破滅させるほどの力は地上には存在しません。人類全体を殺りくするほどの力は存在しません。人間がいかに複雑で性能のいい科学技術を発明しても、それによって為しうることにはおのずから限界があります。

 霊的な力は人間が製造しうるいかなる物的な力よりも強大です。物質は本性そのものが霊に劣るのです。霊が王様で物質は召使いです。霊こそ実在であり、物質は霊の働きかけがあるからこそ存在できているのです。霊が引っ込めば物質は分解します。人類がその危機的段階を首尾よく切り抜ける上で霊が圧倒的な支えとなります。

 あなたの人生思想の根幹となるべき霊的知識にまず絶対的自信を置くことです。そしてその知識だけでは処理できない事態が生じた時は、それに信仰(信念)を加えるのです。

手にされた知識を根拠とした信仰です。信仰心も、筋が通っていて論理性があり、納得のいくものであれば、それなりの効用はあるものです。

 背後霊の存在を信じることです。機が熟した時に必要な援助があります。条件が整い、正当な必要性がある時は、背後霊は地上に物的な結果を生じさせる力があります。私たちもそれを何度もお見せしてきました。これからも必要に応じて行使します。

霊的知識を人に説く時は、背後霊は決して見棄てないことをよく言って聞かせてください。ですから、人間の方から背後霊を見棄てないように、ということも言い添えて下さい。

 お金が足りなければ工面してあげます。せっかくの奇特な行為のチャンスが資金がないために失われるようなことには決してなりません。その点をあなたはどう思われますか。必要なだけの資金は不思議にどこからか入るものだと思われたことはありませんか。

霊の道具としての仕事に励んでいる者は、物的生活の必需品に事欠くことには決してなりません。こちらから用意してあげます。飢えに苦しむようなことにはなりません。渇きに苦しむようなことにはなりません。きっと何とか切り抜けられるものです。

 ラテン語の sursum corda (スルスム コルダ)という言葉をご存知でしょうか。〝汝ら心を上げよ〟 という意味です。霊の崇高な力、宇宙最高の力、光輝と美と荘厳さと威力に満ちたエネルギーについてはすでに十分な証しをお見せしております。それは絶対に裏切ることはありません。

あなた方は人間としての最善を尽くしておればよいのです。それ以上のことは要求いたしません。そして今のラテン語の通り、決して悲観的にならないことです。

 皆さんは太陽の光をご覧になられたのです。もしもそれが雲によって遮られた時は、その雲はいつか消えて、また明るい太陽が顔をのぞかせるのだと自分に言い聞かせるのです。あなたの目に見えなくても太陽は常に照り輝いているのです。

      ※         ※                         

 初めて交霊会に出席したある女性霊媒に温かい歓迎の挨拶をしてから、こう述べた───

 あなたのために私が何かのお役に立てば、あなたが神から授かった霊的能力を使って天命を全うしておられるように、私も私の天命を全うしていることになります。


───私はとても幸せ者だと思っております。

 そうです。私たちはみんな幸せ者です。自分を豊かな存在としてくれている霊的知識の所有者だからです。ことにあなたのような、霊の道具として働いておられる方にお会いすると、私は大へん幸せな気持ちになります。

なぜなら、私にはその仕事の大変さ、遭遇する困難の厳しさがよく分かるからです。懐疑と困難と絶望から、知識と確信と啓発への巡礼の旅をしてこられた、その大変さを私はよく理解しております。

 霊的指導者の人生は全て同じパターンをたどります。むごい仕打ちを受ける試練の時期があります。基盤としていたものが全て瓦礫したかに見えて、悲哀が身に染み煩悶する危機的な時期もあります。もはや導きと理解を求めるところはいずこにも無いかに思うことがあるものです。

 いやしくも人のために生涯を捧げる使命をもつ者は、過酷な試練を体験しなければならないのです。もはやこれ以上は耐え切れないと思うギリギリの淵まで追いつめられ試されなければならないのです。地上のいかなる者からも救いの手は差し伸べてもらえないと思える深淵まで落ちてみなければならないのです。

 それに至って初めて魂が目を覚まし、霊界から届けられる豊かさと力と導きと叡智と愛とを受け入れる用意が整うのです。過酷な体験の目的は慈悲の心を芽生えさせることにあるのです。

なぜかと言えば、慈悲の心なくしては霊覚者も治療家も真の意味で人を救う仕事はできないからです。

 それしか方法がないのです。太陽が燦々と輝き、何不自由ない安楽な生活の中で、果たして自我の開発が望めるものでしょうか。試練を経ずして魂の崇高性が発揮されるでしょうか。何一つ学ぶことのない生活を送っていて、一体どういう精神的発達が望めるでしょうか。

 そのうちあなたも地上生活を振り返って〝厄介な問題こそ有難かったのだ。あの苦労があったからこそ人生の目的を悟り自我の開発の道が見出せたのだ〟と思われる日が来ることでしょう。

 人生の出来事の一つ一つに償いがあり、差引き勘定がきちんと行われるようになっております。神には絶対に手違いというものがありません。過去を振り返ってご覧になれば、この道にたずさわる他の全ての同志と同じく、あなたの人生も間違いなく霊の導きにあずかっていることがお分かりになります。

 他に類のない地上最強のエネルギーの通路となっておられることは名誉なことです。あなたを通じてそのエネルギーが流れるのです。あなたを鼓舞するのです。そのお陰で、寄る辺ない身の上をかこつ人々を元気づけてあげることが出来るのです。

あなた自身もかつてその援助にあずかったのです。それは牧師にも科学者にも思想家にも出来ないことです。なぜなら彼らには、悲しいかな、霊の働きかける余地がないからです。

 あなたがたった一人の人間に自我を見出させてあげることができたら、たった一人の人間を喪の悲しみから救い出してあげることができたら、たった一人でも病の人を癒してあげることができたら、それだけであなたの人生は価値をもつことになるのです。

 それを可能にさせる力があなたの身の回りに存在し、あなたを包み、守り、指示を与え、あなたの大切な財産である神性と霊的能力の開発を続けさせてくれていることを認識しておられるあなたは、何と恵まれた方でしょう。


───優れた霊媒になるためには苦しまねばならないのでしょうか。苦労の連続で生涯を終えている霊媒を数多く知っております。私はスピリチュアリストとしての生活を心掛けてきましたが、霊媒になりたいとは思いませんでした。それが子供を失ってからその気になりはじめました。

 光を見出すのは暗闇の中にあってこそです。人生は全て両極性です。苦労なしには魂は自我を見出すチャンスがありません。苦難がその触媒となるのです。霊的に向上し、霊的資質をより多く具え、喜んで人のために自分を犠牲にする覚悟ができるようになる、その手段として用意されるのです。


───霊媒は霊媒としての素質を具えて生まれてくるほかはないのでしょうか。つまり素質がなければ、いくら鍛錬しても無駄なのでしょうか。

 能力そのものは生まれながらに具わっていなければだめです。それは授かりものです。しかし人間は、霊の属性を具えているという意味においては、みんな霊媒です。

(訳者注───日本語で〝霊媒〟という場合は物理現象を起こしたり自動書記通信を書いたり霊言を告げたりする為の〝霊の媒体〟という意味にかぎる傾向があり、心霊治療家や霊視能力者などは含まれない。が、英語では霊的な能力を持った人をひっくるめて medium (ミーディアム)つまり霊媒と呼ぶことが多い。

私はそうした日本での傾向を踏まえて、その時々に応じて訳し分けているが、ここでシルバーバーチが言っていることが ミーディアム の本来の意味である。

 モーゼスの 『霊訓』 の続編である 『インペレーターの霊訓』 に参考になる部分があるので引用しておきたい。これはシルバーバーチと同じくインペレーターが入神したモーゼスの口を借りて語った霊言である。

≪人間とは何か。人間とは所詮はインスピレーションの媒体にすぎません。地上で崇められているいかに立派な人物も、神がその叡智のうち、人間にとって適切とみたごくわずかな一部を伝達するための道具にすぎません。そのなすところのものは、偉大なるものも、気高きものもすべて守護霊の影響でないものはありません。

 霊媒が特別の能力ゆえに選ばれることは事実ですが、その能力とて、取り立てて崇めるべき性質のものではありません。ある啓示のための適切な道具として選ばれ、その啓示が託されたというにすぎません。霊媒自身の功績とすべきものではないということです。

 また真に忠実な僕としての心得のある者ならば、そうは思わないものです。ただの媒体、神の啓示の栄誉ある道具に過ぎません。その栄誉も霊界側から見ての栄誉であり、世俗的な意味での栄誉ではありません。神の僕───神のメッセージの受け皿として選ばれたという意味において、われわれの側にとって有難い存在ということです。


 その任務を忠実に遂行するにつれて霊媒も恩恵を受け、地上を去ってのち、こんどは自分が神のメッセンジャーとして地上の霊媒にメッセージを届ける役目にふさわしい人物として成長していきます。その受け皿はおのずと気高い芳香に満ちております。

その神の僕として仕えれば仕えるほど、その気高さを増していきます。神の真理という名の宝石箱として、人間と天使の双方から敬意を受けるに足る存在となってまいります。

 しかし万が一にも不純なるもの、不正なるもの、臆病あるいは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、あるいはもし神のみに帰すべき栄光を私(ワタクシ)せんとする傲慢無礼を働くようなことがあれば、

さらには又、俗世への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は神の道具として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いなる害を被ることになります。

 それが不変の神の摂理なのです。大いなる栄誉は大いなる責任を伴うということです。善行の絶好機を手にしながら無為に過ごした者、あるいはそれを故意に悪用した者には、神の意志を知りながらその実践を怠った僕としての禍いが降りかかります。

前者が向上するところを後者は下降します。霊的能力は没収され、道徳的にもまた知的にも堕落していきます。栄誉を投げ棄て、そして、恩恵に代わって禍いが降りかかります。

 それ故、そうした経歴の持ち主が他界した後にもし通信を送ってくるとすれば、その通信は、その人物の地上での評判から想像されるものより必然的に低いものとなりましょう。

地上で彼が語った言葉は彼自身のものではなくインスピレーションによる霊の言葉でした。が、今や神より授かった霊的能力は没収されています。彼の語る言葉は、親和力によって引かれ行く低次元の世界に似つかわしいものとなっています≫


───物質中心の考えをしているために、一生涯、霊的なものに気づかずに終わる人が大勢います。

 そういう人のことを気の毒に思ってあげないといけません。せっかくの地上人生を無駄にしたのです。真の自我を見出せずに終わったのです。それはちょうど正規の義務教育を受けながらそれが身につかず、卒業後の大人の人生に何の備えもないまま学校生活を終えたのと同じです。

 地上は死後に否応なしに始まる次の段階の生活にとって不可欠の準備をさせてくれるところです。一つ一つの体験が進化していくために支払う代価なのです。地上人生は一本調子ではありません。光があれば影があり、日和の日があれば嵐の日がなければなりません。

 両極端があり、対照となるものがあるからこそ人生の意義が理解できるのです。作用と反作用は正反対であると同時に相等しいと言われます。人を憎むことの出来る者はそのエネルギーを愛に転換することができるのです。愛と憎しみとは同じコインの表と裏です。どちらを選ぶかはあなた次第です。

 摂理の働きは完ぺきです。一つ一つの行為に褒賞があるように、天罰もあります。その摂理をごまかすことはできません。地上では自分を偽り他人をごまかすことができます。しかし死がその化けの皮をはがし、魂のあるがままの姿がさらけ出されます。もはや見せかけは通用しません。

地上にあっても、霊視能力をもった人には仮面の内側の本当の顔が見えます。地上にはマスクをかぶった人が多すぎます。

 でも、あなたは今そうした人たちを救ってあげているのです。人間として正しい道を教えてあげているわけです。人間の可能性を見せてあげているわけです。それから先のこと、つまりその知識を日常生活の中においてどう活用するかは、その人自身の責任です。

あなたが考え込むことはありません。常に堂々と胸を張って生きることです。なさねばならないことが沢山あります。悲しいことですが、霊的真理を知らない人が無数におります。その人たちをわれわれが何とかしてあげないといけません。

 あなたは、霊的能力を開発していない他の人々には出来ない貢献ができるという、測り知れない光栄を担っておられます。毎日のように到来する素晴らしい好機を前に、あふれんばかりの喜びを覚えてしかるべきです。

 しかし同時に、知識には責任が伴うことを忘れてはなりません。あなたには崇高な真理が託されているだけではありません。崇高な力、神の力、あらゆる可能性をもった生命力そのものも託されているのです。

 自分を改造し、生きる意欲を覚えさせてあげる、そういうお手伝いをするということは、大変な責任を伴う仕事です。ですから、あなたが迷うことがないように霊界からの導きがあります。きっと道は示されます。迷うことなく突き進みなさい。一日一日が霊的高揚の源泉となる奉仕的仕事の機会をもたらしてくれます。

 あなた方も私たちも、ともに大いなる事業に参加しております。地上にはなさねばならないことが山ほどあります。これまでにも多くを成し遂げてまいりましたが、これからなさねばならないことに較べれば、まだまだわずかなものです。

 頑張らないといけません。そして訪れる機会を逃さず、どこででも人のためになることができるようでないといけません。そして又、霊力というものが、それをみずから手にしてそこから恩恵を摂取した人の生活を本当の意味で豊かにしてくれることを立証するために、お互いの役割を果たさないといけません。

 あなたのお仕事は人のために役立つからこそ尊いのです。さらに大きな徳積みのためにもっと大きな力、もっと多くの叡智を求めて神に祈りなさい。そして又、こうして協力している私たちの姿が見えず声は聞こえずとも、私たちはこれからもあなたを見守り、導き、元気づけ、支援していくことを信じて下さい。

 かくしてお互いの協力によって、神の子のすべてに生きる道を教えるべく意図された計画を成就していくことができるのです。そしてその仕事に勤しめば勤しむほど、大霊の絶対的な力にいっそう調和していくのです。

        ※          ※                              

 別の日の交霊会である霊媒に次のような励ましの言葉を述べた───


 この私について、いささか誇張されたことが喧伝されておりますが、私は全知でも全能でもありません。あなたと同じく一個の人間的存在です。ただ私は、あなたより少しばかり永い人生を歩み、霊的進化の道をずっと先まで進んでおります。

 その結果として私はより多くの知識を獲得し、これこそ地上人類を悩ます問題の多くを解決する上で最も啓発性に富んでいることを知りました。そこで、これまでの道を後戻りして、その知識を、受け入れる用意のある人たちと分かち合いたいと思ったのです。

 あなたの場合、こうした真理がダマスカスへ向かうパウロの場合のような目を眩ます光としてではなく、理性的で、知性を侮辱することのない形で届けられたという点において幸せであったと言えます。

それによってあなたはより広い人生の視野を開かれ、地上への誕生の目的を知り、この地上生活を終えたあとに待ちうける、より大きい、より豊かな生命の世界に備えるためには何をすべきかを理解されました。

 その知識を授けられたのは、あなたにそれを受け入れる用意ができた時でした。それまでのあなたには解決を迫られる危機的状態や問題がいくつもありました。もはや地上にはその解決策は見出せないかに思える中で、あなたはなおもそれを一心に求めておられました。

 そのカギは魂の覚醒にあるのです。大部分の人間の魂は居眠りをしております。活動していないということです。内在する神性の火花を煽らないことには魂の啓発はできないのです。

その点火の触媒となるのが危機的体験であり、悲しみであり、別離であり、病気なのです。

 人生は相対性の原理ででき上がっております。スペクトルの両極、コインの両面、あなた方が〝善〟と呼んでいるものと〝悪〟と呼んでいるもの、という具合です。

いかなる経験にも魂を目覚めさせる上で役立つものを含んでおります。バラ色の人生ではだめなのです。先ほど述べたような触媒によって魂の琴線に触れるところまで行かないとだめなのです。

 あなたは心霊治療の能力を未発達の状態でお持ちになっています。それを他人のために役立てるところまで発達させることができます。あなたにはなすべきことがいろいろ用意されております。

そのための道が今開かれつつあるところです。すでになすべきことは終わったと思われるかも知れませんが、実際はまだまだ新しいサイクルが始まったばかりであり、それが多くの精神的ならびに霊的褒賞をもたらしてくれることでしょう。

 あなたの前途は大いなる可能性に満ちております。あなたにとってのみならず他の人々にとっても測り知れない恩恵をもたらす精神的ならびに霊的冒険へ誘ってくれます。奥さんとのご縁はそのために結ばれたのですよ、ご存知ですか。

お二人は常に導かれ霊感を受けておられることを自覚なさらないといけません。少なくとも扉が開かれ道が示されたことだけはお気づきと思いますが・・・・・・

 ここにお集りの同志の方にいつも申し上げていることですが、私たちは私たちのやり方で私たちのタイミングで事を運ぶしかないのです。魂が自覚するのを辛抱強く待たねばなりません。

それには何十年も掛かることがあります。そして、その甲斐あってやっと受容力を発揮しはじめると、とたんに人間の方が高慢になって〝さあ、どしどしやろう〟といった調子で性急に事を運ぼうとします。

 私たちがそれまで辛抱強く時機の熟するのを待ったことをご存知ないのです。私たちは霊的な世界から物的な世界へ向けて影響力を行使しなければなりません。

そのための通路として霊媒を使用しなければなりません。もしも適当な霊媒が見当たらなければ、霊感的に導き指示を与えて、せっかくの通路を無意識のうちにでも塞いでしまうことのないように細心の注意をもって監視しなければなりません。これが又とても厄介な仕事なのです。

 確固たる霊的知識に裏打ちされた完ぺきな信頼と自信と信仰(信念)とがある時はその通路が開いており、受容性が高いのですが、そこへ不安の念が入り込むと、とたんに雰囲気が乱れて、通路を塞いでしまう要素が生まれます。

取り越し苦労は無知の産物です。霊的知識をたずさえた者が不安の念を抱くようなことがあってはなりません。同じく、悩みの念も、その中身が何であれ、成就されるはずのものを成就されなくしてしまいます。

私は何時も交霊会の開会に際してこう述べています─── 〝心配、悩み、疑い、不安の念のすべてを、しばし、わきへ置きましょう〟と。霊力が存分に、そして自由に流入するのを、そうした念が妨げるからです。

 私たちを信頼してください。きっと道をお教えします。扉を開いて差し上げます。閉め切られた扉をノックしてみて開かない時は、あきらめることです。ノックしてみてすぐに開いた時は、真っ直ぐに突き進まれるがよろしい。

それがあなたにとって正しい道なのです。私たちとしてはそういう形でしか援助できないのです。良い知恵を絞って導いてあげるということでしか援助できないのです。(人間的努力の範囲まで踏み込むわけにはいかないということ───訳者)

 あせってはなりません。快く私達の協力者となってくれるだけでよいのです。そうすれば私たちなりの役割を果たします。

           ※          ※

 霊聴能力を持っている人に勇気づけの言葉を述べる───

 背後霊があなたの存在を忘れてしまうようなことは絶対にありません。かつてあなたがいずこへ向かうべきかを悩んだ時、あたかも絶望の淵に落ち込んでしまったかに思えた時にもしっかりと保護され導かれていたように、前途に横たわるこれからの日々にも霊の力がきっと支援してくれます。

 無限なる叡智を具えた大霊からいただいた能力を存分に発揮し続けて下さい。かつて霊力が顕現したことのない所でそれを発揮し、受け入れる用意のある人にもたらす光明をますます増していってください。

 あなたのお蔭で人生の視野が一変することによってどれほどの恩恵がもたらされるか、あなたご自身にはお分かりになりません。あなたのお蔭で霊的知識という掛けがえのない啓示がもたらされております。

そのあなたが落胆したり明日はどうなるかなどという不安をいささかでも宿すようなことがあってはなりません。あなたはすでにこれまでも数々の危機をくぐり抜けてこられました。これからもイザとなれば必ず道が開けます。

 あなたは霊力の通路なのです。あなたが存在することによって成し遂げられてきたことを誇りに思うべきです。同時に、あなたの協力のもとにこれから成し遂げられていく仕事を自覚なされば、なお一層誇りに思うべきところです。

 あなたも生計を立てていくための費用がいります。地上世界ならではの必要品を備えないといけません。衣服を着なければなりません。その他、物質の世界であるがゆえの費用を支払わねばなりません。そのことは私もよく存じております。私が申し上げているのは、そうしたことを悩みのタネとしてはいけないということです。責任は大いに自覚すべきです。が、心配の念はいささかも抱いてはなりません。

 私も今では現代社会ならびにそこでの生活の仕組みをよく知っております。時には(生活費など)物的なものが手に入るよう、ある程度の物的法則を操作しなければならなかったこともあります。

 私が何時も強調していること───むろん聞く耳を持つ人に対してのことですが───物的なものは実在の投影もしくは殻に過ぎないということです。

物質は霊によって活力を与えられているからこそ存在しているのです。霊が正常であれば、つまり霊と精神と身体とが調和して機能しているかぎり、物的生活に必要なものは必ず手に入ります。

 霊が主人であり物質は従僕です。霊は殿様であり物質は家臣です。霊の方が物質に勝るのです。地上生活に必要な物的必需品まで無視しなさいと言うのは愚かなことですが、それに心を奪われて精神と霊にとって必須のものを疎かにするのも同じく愚かしいことです。

 このことは現在の地上の人間にとってぜひとも心しなければならない重大な教訓です。大半の人間が物質を優先させ、霊に関わることにはほとんど関心を向けておりません。

 霊的実在についての知識を手にした者は、不安・心配・悩みの念を宿すようなことがあってはなりません。この種の感情は陰湿な性質を帯びております。活力に満ちた霊的エネルギーが届けられる通路を塞いでしまいます。生き甲斐ある人生にとっての必須の要素が流入する上で不可欠な調和状態を妨げ、乱してしまいます。

 視点を何時も永続性のある価値をもつものに置くことが大切です。そして、受け入れる用意のできた人に、いかに生きれば、本来自分のものであるべき生命の豊かさを味わい、地上に借りを残さずに済むかを教えてあげる必要があります。

 地上を見渡してみますと、霊的に貧しい人が無数におります。物的な貧しさゆえに悲しい思いをすることがあるのは地上の常ですが、霊的な貧しさを見るのも同じく悲しいものです。

 心をいつも開放的にして精神に宿された能力を開発しさえすれば、霊の持つ栄光、光輝、威厳、崇高さ、気品に満たされるようになっているのです。そうしてあげること、つまり地上人生を生きていく上において何を優先させるべきかを認識してくださるように配慮するのが私たち霊団の使命なのです。

 その点あなたは無限なる叡智を備えた大霊からの霊的才能のいくつかを授かっておられる、実に恵まれた方です。そのお陰で主教や牧師よりもはるかに宗教的な仕事をなさっておられます。

悲しみに暮れる人の涙を拭い、精神的ならびに霊的に弱った人に力を与え、病いの人を癒やし、人生に迷っている人に道を教えてあげてこられました。その人たちは、かつてのあなたと同じように、もはやこの世には自分の力になってくれる人はいないと思い込むほどの絶望的段階にあったのです。

 そういう人助けをするための霊的才能を授かるには、みずから苦しみと悲しみを味わうという条件が付きものなのです。霊の道具としての自覚をもつに至るには苦を体験しなければならないということです。

苦の体験の本質は霊的才能を手段として仕事をする者の試金石です。それを耐え抜いて初めて自分のもとを訪れる人の力になってあげることができるのです。

 霊の僕であることを自覚する者は安楽な人生を期待してはなりません。霊的使命を帯びた仕事にたずさわっている者は、それが決してラクな道でないことを覚悟しないといけません。もしもラクな道であれば、無理してその道に踏み入るほどの価値はないでしょう。

 霊の褒章は刻苦勉励の末に手に入れなくてはなりません。しかし一度手にしたら絶対に失われることはありません。霊の富は永遠です。

地上で得られる富は地上時代だけの一時的なものでしかありません。霊的な熟練はそう簡単に達成されるものではありません。霊的褒賞もまたそう簡単に手に入るものではありません。

 あなたはこの道に献身するために生まれてこられました。これまで立派に献身され、今も献身なさっておられます。そうした素晴らしい霊の力の通路となっておられる方とお話しできることは私にとってこの上なくうれしいことです。

その通路のお陰で霊力が、受け入れる用意のある人に豊かな恩恵をもたらします。受け入れる用意ができていなければ、その通路としてのあなたにも為す術がありません。

 ある人があなたのもとへ導かれてきたということは、その方にとって掛け替えのない、真の自我発見のチャンスが目の前にあるということです。もしうまく行けば、あなたも大いに喜ばれるがよろしい。万が一失敗に終われば、せっかくのチャンスが失われたことに密かに涙を流してあげなさい。

 あなたにはまだまだ仕事があります。あなたは今まさに天命を全うしつつあります。霊的な仕事に献身できていることをこの上ない幸せと思わないといけません。

 残念ながら地上には存在の根源である霊的実在について何一つ知らない人間が無数におります。何のために生きているのか、天命を全うするにはどうすべきか、他人に天命を全うさせてあげるために自分の才能や能力をどう活用すべきか、そうしたことについてまったく無知なのです。


 そうした現実の中にあって、たった一人でも魂が感動し、ゆっくりではあっても真の自我に目覚めていく、その手段となるたびに、あなたは貴重な貢献をしていることになるのです。

 私たち霊団の者が四苦八苦の末にこうして地上へ戻ってくる理由もそこにあります。地上人生は道を見失い、物的利己主義と貪欲と強欲の沼地に足を取られ、それが戦争と暴力と憎しみを生んでおります。

 霊の優位性を認識し、人間が肉体をたずさえた霊であることに得心がいく───言いかえればすべての人間が神の分霊であり、それゆえに人類はみな兄弟であり姉妹であり、神を父とし母とした一大家族であることに理解がいった時、その時初めて戦争も暴力も憎しみも無くなることでしょう。代わって愛と哀れみと慈悲と寛容と協調と調和と平和が支配することでしょう。

 人間世界だけではありません。この惑星を共有する動物の世界にもそれが行きわたることでしょう。かくして地上の汚点である動物への虐待行為も影をひそめることでしょう。それが私たちの努力の背後に託された目的なのです。

 皆さんは気落ちしたり悲観したりする必要はどこにもありません。信念に基づいた希望に胸をふくらませて、常に楽観的であらねばなりません。その信念が盲目的であってはなりません。

理性的検討を加えずに安直に信じているのではいけません。生命が永遠の霊的実在であるとの、もはや争う余地のない事実を基盤とした信念であらねばなりません。


───〝なせば成る〟 の教えを説くある指導者が、物的なものであろうと霊的なものであろうと 〝必ずそうなるのだ〟 と信じて行えば何ごとも成就すると述べています。これは心霊的能力(サイキック)の悪用になるのでしょうか。

 何もかもが自分の思い通りになるわけがない以上、その指導者の言葉は言い変える必要があります。人間にできることというのは自然法則によって一定の限界というものが設けられております。

もしもそうした限界がなかったら、この地球を始めとして物的宇宙全体が基盤としている原理のすべてを人間が破壊してしまうこともできることになります。

 私はその〝なせば成る〟式の生き方の背景にある積極的な物の考え方そのものに反対しているわけではありませんが、そのつもりになれば何もかも自分の思い通りになると考えるのは愚かです。例えば人間に太陽が思い通りになるでしょうか。

 
───(霊媒能力が出始めたばかりの人) ごく自然な状態で能力を発揮したいと思っているのですが、昼間はなかなか思うにまかせません。やり始めたばかりですので、いろいろと解決しなければならない問題があります。そのうちうまく行くようになると思っておりますが・・・・・・

 何ごとも自然ということが大切です。気負わず、受身の心境になり、迷ったり不安に思ったりせず、信念を持つことです。ここまで導いてくれた霊の力はこれから先も裏切ることはしません。あなたをしっかりと保護している愛の腕がほどかれて、あなたをおっぽり出すようなことは致しません。

 あなたはあなたなりに自然に振舞ってください。そうすれば霊側としての役目を果たします。その準備としてまず、〝静寂の時〟を持つように心掛けて下さい。日常生活の喧騒から離れた状態へ身を引くのです。すると内部の霊力がより大きく顕現して、人のために仕事をする上で必要な落着きと調和と愛と寛容が整います。

 あせってはいけません。じっくりと構えるのです。背後霊があなたをここまで導くのにもずいぶん時間が掛かったのです。そのうちあなたも、この道にも総合的な計画があって、我々にもそれに即応した役目があるということが分かるようになります。

最後は人間にとってだけでなく私たち霊側にとっても好都合に展開するようになっているのです。

        ※           ※

 別の日の交霊会で、かつては物理的心霊現象が盛んに見られたのが今日では珍しくなってきたのはどういうわけかと尋ねられて───

 それは物的側面の進化の法則だけでなく霊的側面の進化もあるからです。地上世界の思想的動向は当初と今とでは大きく変化しております。霊的実在を物的手段で証明して見せなければならない時代には物理的心霊現象が必要でした。当時の科学者は物的ものさしで計れないものを受け入れる用意ができていなかったのです。

 今や核融合という目に見えない化学反応を利用して大災害も大恩恵も被ることができることを知りました。唯物科学の根底が崩れてしまいました。物質の究極と思っていた原子も、さらに細かく分解されてしまいました。今や科学者も物質は固体でなく、実在は見えざる世界にあることを認めています。

 そうした思想的動向と歩調を合わせて、霊的治療が発達し発展しております。それによっても物質を超えた霊力の存在を証明することが出来ます。


───心霊能力を軍事面に利用しようとする実験が、とくにソ連において行われていると聞いておりますが、このまま行くと実際に心霊能力が好ましからざる方面で使用される危険がありそうです。

 私は少しも心配しておりません。私は皆さん方のどなたよりも永く生きてまいりました。その間に見聞し理解したことによって私は、無限なる叡智と愛をもって全星雲、全天体を包摂する大宇宙機構を考案した大霊に対して、大いなる崇高と畏敬と感嘆の念を禁じ得ないのです。

 すべての人間、すべての事柄が自然の摂理によって規制されております。それには手落ちというものがなく、数学的正確さをもって働き、絶対に間違いを犯しません。宇宙間のありとあらゆる存在がその中に包摂されていますから、何一つ、誰一人として排除されたり忘れ去られたり無視されたりすることがないのです。

壮大なものから微細なものに至るまで、単純な物から複雑なものに至るまで、あらゆる存在を自然の摂理が支配し支え規制しているのです。

 地上での人間の行為にも制約というものがあります。その自然の制約に背いたことはできません。人間がなしうる害悪と破壊の程度にも、その制約による限界が設けられているのです。

 そういう次第で私は楽観主義者であり、悲観的な考えは持ち合わせません。今おっしゃった実験は軍事的な利用価値を検討するものですが、それによっていかなる害悪がもたらされようと、他方において科学的技術その他あらゆる力を駆使して人類に恩恵をもたらさんとしている人たちによってもたらされる利益の方が大です。

 心配してはいけません。心配の念はロクなものをもたらしません。心配の念は魂を蝕みます。心配の念は精神も錆びつかせます。心配の念はせっかくの霊的援助の通路を塞いでしまいます。地球をはじめとして宇宙間のあらゆる天体の責任者は大霊なのです。いつかは善が悪を駆逐します。


───するとあなたは、心霊能力が邪悪な目的に使用される可能性があることは否定なさらないわけですね。

 大霊はあなた方人間をロボットや操り人形になさりませんでした。一定範囲内の自由意志、選択の自由を与えて下さっています。が、それにも制約があり、限度があります。その摂理に背いたことはできません。

 心霊能力というものを持ち合わせる以上は、それを悪用しようと思えば出来ないことはありません。ただし、それには責任が伴います。いかなる知識もそれ相当の責任というものが付加されずして手に入れることはできません。






Sunday, June 21, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


 


第28章 スピリティストの祈り  

序文

一、霊はいつも私たちに言ってくれます。「形式はなんの意味も持ちません。思案の内容そのものが全てなのです。各々がそれぞれの信じていることに従って、最も心地の良い状態で祈りなさい。心に響かぬ数知れぬ言葉よりも、たった一つの善い思いの方がずっと値打ちがあるのです」。

 霊は、これと言った絶対的な祈りの方法を示してはいません。ある方法を示す場合というのは、私たちの思いを導こうとする時で、スピリティズムの教義のある原則について私たちの注意をうながす時です。

あるいは、自分の思いをしっかりと決まった形式で表さなければ祈った気がしないと考えるような、自分をうまく表現するのが不得意な人を助ける時です。

 本章に集められた祈りは、さまざまな状況において霊が私たちに書き留めるよう求めたものです。その時の特別な状況や様々な考え方に応じて、それら以外の違った言葉で、違った形の祈りを示したこともあるでしょう。しかしその根底にある思いが同じであるならば、その形式はどうでもいいのです。

祈りの目的とは、私たちの魂を神のところまで高めることです。それぞれの祈りの形式がさまざまであったとしても、神を信じる者にとっては、それらはどれも違わないものであると理解することができます。それはスピリティズムを学ぶ者であればなおさらです。

なぜなら、私たちが誠意を持っていれば、神はすべての人を受け入れてくれることを知っているからです。

 ですから、ここにまとめられた祈りを、絶対的な定型の祈りとしてとらえてはなりません。これらは本書にまとめられた、福音の教える道徳を形に表わしたものなのです。

それは福音が示す、私たちの神と隣人に対し負っている義務を補足したものであり、その中にはスピリティズムの教義の原則が盛り込まれているのです。

 スピリティズムにおいては、口先だけでなく心から唱えられたものであるならば、いかなる宗教の祈りでもよいと考えます。スピリティズムはなにも強要せず、なにも非難することはありません。

スピリティズムによれば神は偉大であり、単にある形式に従わなかったからといって、懇願したり賛美する者の声を聞きいれなかったりすることはありません。形の決まっていない祈りについて批判する人は、神の偉大さを知らないのです。

神が定型の祈りだけを好むのだと信じる者は、神を小さく見ているのであり、人間的な感情の範囲で捉えているのです。

 聖パウロは、祈る上で重要なことの一つとして、祈りが私たちの魂に響くためには、理解できるものでなければならないということをあげています(→第二十七章 16)。しかし、そのためには、私たちの日常で使う言葉で祈るというだけでは不十分です。

なぜなら、日常的な表現を使っていても、知性には外国語のようにしか伝わらず、そのため心に響かない祈りがあるからです。一般に、祈りに込められた少しの思いは、過剰な言葉や言葉の神秘性によって押さえつけられてしまいます。

 祈りはまず第一に明瞭でなければなりません。それは単純、簡潔でなければならず、無意味に飾られた言葉や過剰な修飾語は、偽物をつくる単なる金メッキにしか過ぎません。

言葉の一つ一つがある思いを映し出し、魂に触れ、その価値を持っていなければなりません。そして一つ一つの言葉にもとづき、自分を省みなければならないのです。そうすることによってのみ、祈りはその目的を達成することができるのです。

それ以外の方法であれば、その祈りは無意味な言葉の集まりにしかなりません。しかし、ほとんどの場合、祈る者の気は散っていて、落ち着かない様子が見られます。口は動かしていても、祈る者の表情やその発声を見れば、それが魂の伴わない外面だけの機械的動作であることがわかります。ここにまとめられた祈りは五つの分類に別れています。

1、一般的な祈り、2個人的な祈り、3、他人への祈り、4、霊への祈り、5、病人、憑依に悩まされる者への祈り。

 一つ一つの祈りの目的について特に注意し、より理解し易いものとするため、それぞれの祈りについて序文として記した部分には、前書きとして、その祈りの動機となるものを並べています。


1、一般的な祈り 
「主の祈り」
二、<序文>霊はこの祈りの章を、単に祈りの一つとしてではなく、祈りの象徴として、この「主の祈り」で書きだすように勧めてくれました。この祈りは、すべての祈りの中でも霊がまず第一に考えるものです。

それは、この祈りがイエス自身によって教えられたものであるから(→マタイ 第六章 9-13)かもしれませんし、あるいは、その祈りが祈る者の意向に応じて、他のどんな祈りの代わりにもなるからかもしれません。

簡素で最も完全な形と簡単な言葉に込められた、崇高な真の傑作です。最も短い言葉で人間が神との間に約束する、自分自身に、また隣人との間に果たすべき義務が、すべて効率的に要約されています。

また、それは信仰の誓い、神への賛美、服従の行いであり、地上での生活や慈善の原理に不可欠なものを懇願することも含んでいます。この祈りを他人のために唱えることによって、私たちが自分自身に望むことを他人のために願うことができます。

 しかしながら、その簡潔さゆえに、多くの人々はその言葉の持つ深い意味を見逃しています。それは一般に、一文一文の意味を考えずに唱えているからです。数多く唱えればその回数に応じて効力を増すかの如く、決まりのように唱えるからなのです。

その回数はほとんどいつも神秘的な数です。古くからの迷信的な数の力を信じたり、魔術によくつかわれる、三、七、九と言った数であったりします。

 この祈りがその簡潔さゆえに私たちに残す隙間を埋めるため、善霊の忠告と助けに従って、祈りの一文一文に、その意味を明らかにする解説とその使い方を付して示します。祈る時の状況と、祈ることができる時間に応じて、「主の祈り」は、簡潔な形でも、またもっと詳しく述べる形でも唱えることができます。  


三、<祈り>
ⅰ.天にまします私たちの父よ、御名が崇められますように。

 主よ、私たちはあなたを信じています。なぜなら、すべての存在があなたの力とその善意を示してくれるからです。宇宙の調和は、人類のあらゆる能力を超える英知と理性の証明です。偉大で博識なるあなたの名は、つつましい草花、小さな昆虫から宇宙を飛ぶ星まで、あらゆる被造物に記されています。

あらゆるところに私たちは父なる配慮の証を見ることができます。あなたの創造されたものを見て、あなたを称えぬ者は盲目です。賛美せぬ者は思い上がった者です。また、その恩恵に感謝せぬ者は恩知らずです。


ⅱ.あなたの国(御国)が来ますように。

 主よ、人類がそれを守れば幸せになることができる、英知に満ちた法をあなたは与えてくださいました。この法によって、人類は平和と正義を確立することができ、いましているようにお互いを傷つけあうのではなく、お互いを助け合うことができるようになるでしょう。

強い者は弱い者を圧迫するのではなく、保護することになるでしょう。あらゆるものの過剰や濫用から発する悪は避けられることになるでしょう。全ての惨めさは、あなたの法を守らないために生じるのです。なぜなら、致命的な結果をもたらすことなく、あなたの法を破ることはできないからです。

 あなたは、動物たちには生きるための必要限度に応じて本能を与えられました。動物たちは自然にそれに従って生きています。しかし、人間には本能の他に知性と理性を与えられました。さらに一人一人に関係するあなたの法を守るか守らないかを選択する自由を与えられました。

すなわち、善と悪を選択する能力を与えられ、それによって人間が自分の行動に対して責任を負い、その意味を知ることができるようにされたのです。

 誰もあなたの法を知らないなどと訴えることはできません。なぜなら、あなたは父なる配慮によって、国籍、宗教を問わず、全ての人間の一人一人の良心の中にあなたの法が記されることを望まれたからです。ですから、あなたの法を守らない者はあなたを見くびっているのです。

 あなたが約束されたとおり、いつか人類すべてがあなたの法を守る日がやってくるでしょう。その時、神を信じない者はいなくなり、すべての人間が最高なる万物の主としてあなたを認め、あなたの法によって治められた者たちは、地球上にあなたの国を築き上げるでしょう。

 主よ、人類が真実なる道を歩むことができるように、必要な光をお与えください。そして、あなたの国の到来を早められますように。


ⅲ.あなたの意志(御心)が天で行われるように、地でも行われますように。

 子が父親に従うこと、劣る者が優れる者に従うことが義務であるならば、創造された者がその創造主に従う義務はそれらにいくらかでも劣るでしょうか。主よ、御心が行われるとは、あなたの法を遵守し、神の決定に不平を言うことなく従うことです。

人類は、主がすべての英知の源であり、主なしには何事も存在し得ないのだということを理解した時、あなたに従うことになるのです。その時、天において選ばれた者たちが行っているように、地球でもあなたの意志のとおりに行われることになるでしょう。


ⅳ.私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。

 肉体的な力を維持するために必要な糧を、私たちにお与えください。また、私たちの霊が進歩できますように、霊的な糧をもお与えください。

 動物たちは牧場にその糧を見つけます。しかし人類はその糧を、その知的な財産と自らの活動によって得なければなりません。なぜなら、神は人類を自由な身に創造されたからです。

 あなたは言われました。「額に汗して地を耕し、食物を得なさい」と。そして人間に労働を義務として与えられました。働くことは、肉体労働であれ、知的な労働であれ、人間に知性を使わせ、必要なものや、よりよい生活を得る手段となるのです。労働なしでは人類は不変なものとなってしまい、善霊の幸せを望むことはできません。

 怠惰を楽しみ、努力なくしてすべてを手に入れようとしたり、必要以上のものを求めるのではなく、必要なものを手に入れようと、神の意志を信頼し、意欲的に働く者を見守ってください(→第二十五章)。

自分自身のせいで気力を失ってしまう者がどれだけいるでしょうか。不注意であったり、先見の明がなかったり、あるいは野心を抱き、あなたがお与えになられたものに満足しない者。彼ら自身が不幸を自らつくりだしているのですから、不平を言う権利はありません。

それも、自分で犯した罪そのものに罰せられているのだからです。しかし、無限に慈悲深いあなたは、そんな者たちをも見捨てたりはされません。言うことを聞かぬ子どもが心からあなたの方向へ向き直るよう、天から手を差し延べてくださるのです(→第五章 4)。

 私たちの運命を悲しむ前に、その運命が自分の手によってつくられたものであるか問うてみます。

私たちに降りかかってきた一つ一つの不運を、避けることができなかったかどうかを確かめてみます。神は私たちに苦境から抜け出せるように知性を与えてくれ、それを正しく使うかどうかは私たち自身にかかっているのだと繰り返し言い聞かせます。

 地上の人類は労働の法に従わなければならず、ゆえにその法に従えるように、私たちに勇気と力を与えて下さい。また、慎重さや先見の明、節制によって、私たちが受け取るべき実りを失うことがないようにしてください。

 主よ、ですから、私たちの日ごとの糧をお与えください。つまり労働によって必要なものを得る手段をお与えください。必要以上のものを得ることができないからと不満を言う権利は誰にもありません。

 もし、労働することが不可能である場合には、神意を信じます。

 もし、私たちの努力にもかかわらず、神の計画の中でより厳しい苦難によって私たちが試されることになっているのであれば、現世、もしくは過去の人生において犯したであろう罪の正当なる報いとして受け入れます。なぜなら、あなたが正義であり、不当な罰は存在せず、理由なくして罰せられないことを私たちは知っているからです。

 主よ、私たちが持っていないものを持っている者や、私たちが必要としているものを必要以上に持っている者に対し、私たちが妬みを起こすことがないよう、お守りください。神の教えられた慈善と隣人を愛する法を忘れてしまった人たちをお赦しください(→第十六章 8)。

 悪人の繁栄や、善人たちを襲う不幸を見ても、あなたの正義を否定するような考えを私たちの霊から遠ざけてください。一方、私たちはあなたが与えて下さった新たな光によって、あなたの正義が、誰一人例外とせずに守られることを知りました。

つまり悪人の物質的な繁栄はその肉体の存在と同じようにはかなく、後に恐ろしい不幸を引き起こすことになるでしょう。そして苦しみを甘受する者にとって、その喜びは永遠のものとなるでしょう(→第五章 7,9,12,18)。


ⅴ.私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

 主よ、あなたの法に対する違反の一つ一つは、あなたに対する私たちの攻撃であり、遅かれ早かれ支払わなければならない私たちの負債を増やすことになるのです。これ以上増やさないよう努力することを約束いたしますので、どうか永遠なる慈悲においてお赦し頂けますようにお願いいたします。

 あなたは私たちすべてのために、慈善を明確な法としてつくられました。しかし慈善とは、ただ単に私たちの同胞を必要に応じて助けるだけではなく、同胞の攻撃を忘れ、赦してあげることでもあるのです。

私たちの不満の原因をつくった者たちに対する慈善に欠けておきながら、どうしてあなたの赦免を求めることができましょうか。

 主よ、私たちの周りの人々に対するどんな恨みや憎悪、怒りの気持ちも打ち消す力をお与えください。私たちの心の中に復讐の欲望を抱かせようと、死が不意をついて襲ってきませんように。

もし、あなたが私たちを今日この世から連れて行かれ試されたとしても、処刑の執行者たちのために最期の言葉を残したキリストのように、恨みの感情からまったく解放されてあなたの前へ出向くことができますように(→第十章)。

 私たちを苦しめる悪人たちによる迫害は、地上における私たちの試練の一つです。それらはあなたがイエスの言葉を通じて、「義のために迫害されてきた者は幸いです」と言われたごとく、その他の試練と同じように永遠の幸せへの道を開くのですから、彼らの非道の行いをののしることなく、不平をこぼさずに受け入れなければなりません。

そして、私たちを傷つけはずかしめる者たちに祝福がありますように。なぜなら、肉体の苦しみによって私たちの魂は強化され、私たちは侮辱からも解放されることになるからです(→第十二章 4)。

主よ、御名が崇められますように。なぜなら、私たちの運命が死後に取り消しようもなく決定されてしまうのではないかということを教えてくださったからです。私たちは、さらなる進歩のため、過去の過ちを償い、改めたり、現世で行うことができなかったことを改めて実現させるための手段を、また別の人生において得ることができるのです(→第四章、第五章 5)。

このことによってはじめて、人生におけるすべての見かけ上は変則的な出来事が説明されます。光は私たちの過去にも未来にも差しています。それは、あなたの最高なる正義と永遠の善意の輝かしいしるしです。


ⅵ.私たちが誘惑に負けませんように(→FEB版注1)、悪からお救いください。

 主よ、悪霊の誘惑に抵抗できる力をお与えください。彼らは私たちに悪い考えを思いつかせ、私たちを善の道から逸らそうとします。

 しかし私たちはこの通り、向上と償いのために地球上に生まれた未完成な霊です。悪の原因は私たち自身の中にあり、悪霊は私たちの悪い性癖を利用し、そこへ入り込んで私たちを誘惑しているに過ぎません。

 私たちの一つ一つの未完成な部分が、悪霊の影響に対し開かれた扉のようなものである一方で、悪霊は完璧な者の前には無力であり、対抗しようとはしません。彼らを遠ざけようとして何を行ったとしても、私たちが悪を完全に放棄し、善を行う強固な意志を彼らの前に見せるのでなければまったく無効です。

したがって私たちは、努力を私たち自身に向けなければならないのです。そうすることで悪霊は自然に私たちの周りから遠ざかって行くのです。なぜなら彼らを呼び寄せるものは悪であり、善に対しては拒絶するからです(→第二十八章 81‐84)。

 主よ、私たちが弱くなった時にはお守りください。私たちの守護霊や善霊の声を通じて、私たちの欠点を改めようとする意志をお与えください。そのことによって、不道徳な霊の接近に私たちの魂を閉ざします(→第二十八章 11)。

 主よ、したがって悪とはあなたの仕業ではないのです。なぜなら、全ての善の源からはどんな悪も創られることはないからです。悪とは、私たち自身があなたの法を破り、あなたが与えてくれた自由を悪用することによって、創り出しているものなのです。

人類があなたの法を守るようになった時、より進歩した世界がそうであるように、地球上からも悪は消えるのです。

 誰にとっても宿命的な悪は存在しません。その悪を楽しむ者にとってそれが抵抗できないもののように映るだけなのです。私たちに悪を働こうとする意志を持つことができるのならば、善を働こうとする意志を持つことも出来るのです。

ですから主よ、私たちが誘惑に抵抗できるように、あなたの、そして善霊の助力をお願いいたします。


 ⅶ.アーメン(そうでありますように)。
 主よ、私たちの望みが実現しますように。しかし、すべてをあなたの無限の英知に委ねます。私たちが理解できないことに対しても、私たちの意志ではなく、あなたの聖なる意志が働きますように。

なぜならあなたは私たちの善を望まれ、私たちには何がふさわしいのか、私たちよりも良く知っておられるからです。

 主よ、私たちはこの祈りを私たち自身のために唱えます。しかし、生きている者、死んでいる者を問わず、他の苦しんでいる者や、私たちの仲間、私たちの敵、また、私たちの救済を特に求めている「〇〇」のためにも捧げます。

 すべての人たちのために、あなたの慈善と祝福をお願いいたします。
(ここで神に向かい、与えられた恵み対する感謝と、あなた自身もしくは他人のための願いを形に表わし、唱えることができます)


 スピリティズムの集会
四、私の名において二人でも三人でも集まるのであるならば、私はその間にいます。(マタイ 第十八章 20)


五、<序文>イエスの名において集まるには、物理的に集まるだけでは足りません。善に向いた意志と思考を共有することによって、霊的に集まることが必要です。そうすればイエスはその集会の中にいることになり、イエスもしくは純粋な霊がその代りとなって参加します。

スピリティズムは、霊がどのように私たちの間に存在するのかを私たちに教えてくれます。流動的、霊的な身体によって、または可視状態になる時にはその姿によって、私たちはその存在を知ることができます。

等級が高ければ高いほどその光を放射する力は大きく、その遍在性の力によって同時に多くの場所に存在することができます。思考の光の一筋を送るだけで、そうすることが可能になるのです。

 この言葉によって、イエスは統合と同胞愛の力を示したかったのです。人数の多少が霊を呼ぶのではありません。もし、そうであったなら、イエスは二人、三人と言う代わりに、十人、二十人と言っていたでしょう。

そうではなくて、お互いを励まし合う慈善の気持ちが霊を呼ぶのです。そのためには二人でも十分ですが、たとえ祈りがイエスに向けられたとしても、もし二人が別々に祈るのであれば、また、何よりもお互いを思いやる気持ちが存在しないのであれば、二人の間に思考の共有はありません。

もしお互いに警戒し合い、憎しみ、妬み、嫉妬を抱くなら、流動体の思考の鎖は、同情の衝撃によって一つに結びつく代わりに反発し合うことになり、それでは彼らはイエスの名において集まっていないことになります。そのような場合、イエスはその集会の口実でしかなく、真なる集会の目的ではないのです(→第二十七章 9)。

 だからと言って、イエスがたった一人の言うことを聞いてくれないわけではありません。彼が「私を呼ぶ者には誰にでも耳を傾けましょう」と言わなかったのは、なによりもまず、隣人への愛が不可欠であり、それは個人でと言うよりも、複数の人々が一緒になった方が証明しやすいからです。

なぜなら、いかなる個人的な感情も隣人への愛を否定することになるからです。と言うことは、大勢の集会において、二、三人だけが真なる慈善の気持ちで心から結ばれたとしても、残りの人たちが自己中心的な考えや世俗的な考えに気を取られているとすれば、イエスは後者とではなく、二、三人の者たちだけとともにあるのです。

ですから、言葉や賛美歌や、その他外見的な身振りなどが同時に発せられることによってではなく、イエスの人格そのものであった慈善の精神にもとづいた思考を共有することによって、イエスの名において集会を開くことができるのです(→第十章 7,8、 第二十七章 2-4)。

これが、心から善霊の協力を望む、真剣なスピリティストの集会のあるべき姿です。



六、<祈り・・・集会の始まりにおける祈り>
 私たちの集会に善霊が参加し、私たちを悪へ導こうとする者たちを遠ざけ、真実と偽りを区別するために必要な光が与えられることを全能なる神にお願いいたします。

 生きている者も、死んだ者も含め、私たちの結束を分裂させることによって慈善と隣人への愛から遠ざけようとする邪悪な霊を、私たちのもとから連れ去ってください。もしこの場に入り込もうとする者がいるのであれば、私たちの心の中に彼らが入り込むすきができないようにしてください。

 私たちを指導してくださる善霊よ、私たちがあなたにとって教えやすい生徒となれますように。どんな利己的な考えも、高慢な考えも、また羨み、妬み深い考えも、私たちのもとから遠ざけてください。

ここに集っている人たち、この場にいない人たち、友だち、敵に対しても、寛大さと、慈悲深さをお教えください。私たちを励ます感情によって、あなたたちの道徳的な影響力を私たちが感謝を持って認識することができますように。

 あなたたちの教えを伝える役目を負った霊媒たちに、彼らに託された役目の神聖さ、実践しようとする行いの重要性を自覚させ、それによって献身的に働き、必要な収穫を得ることができますように。

 もし私たちの間に、善とは異なるその他の感情を持った者がいれば、その目を光に向けてあげてください。また、悪意をもってここに参加しているのであれば、その者を赦してあげてください。私たちもその者を赦します。

 私たちの指導霊である「〇〇」には、特に私たちを監視し、見守ってくれますようお願いいたします。


七、<祈りー集会の終わりにおける祈り>
 私たちに教えを伝えに来てくれた善霊に感謝いたします。教えられた事柄を実践できるようお助け下さい。私たち一人一人が、善を実践し、隣人を愛する意欲を強めて、ここを出て行くことができますように。

 これらの教えが、今日の集会に参加することができた苦しむ霊、無知な霊、悪習のある霊にとっても有益なものとなりますように。彼らにも神の慈悲がありますようにお願いいたします。


 霊媒への祈り
八、神は言われる。終わりの日には、私の霊を全ての肉体に注ごう。すると、あなたたちの息子や娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るでしょう。その日、私のしもべたちにも、はしためたちにも、私の霊を注ごう。すると、彼らは預言をするでしょう。(使徒 第二章 17,18)(→FEB版注2)


九、<序文>主は光が人類すべてを照らし、霊の声があらゆるところへ響きわたり、不死の証が示されることを望まれたのです。

今日、霊が世界中のさまざまなところでその存在を示しているのはそのためであり、性別や年齢の差、置かれた状況の違いに関係なく、霊媒力があらゆる人たちの間に見られるのは、そうあるべき時がやって来ている証拠です。

可視の世界を知り、自然の秘密を探るため、神は人類に物理的な視力や肉体的な感覚を与え、また、特別な道具を与えました。

望遠鏡によって、人類は宇宙の彼方を見つめることができるようになり、顕微鏡によって、無限に小さな世界を発見することができるようになりました。そして見えざる世界を知るために、神は霊媒力を与えられました。

 霊媒は霊からの教えの通訳となりますが、さらに分かり易く言い換えるならば、彼らは霊が人間との交信を行うために使用する道具となるのです。霊媒は永遠の生命の地平線を示してくれるのですから、その使命は神聖なものです。

 霊は人類にその未来を教えるためにやってきます。それは人類を善の道へ導くためで、この世で与えられた人類自身の進歩をもたらす物質的な仕事を減らすためではありません。また、人間の野心や欲望を満たすためでもありません。

このことからも霊媒はその与えられた能力を悪用してはならないということをよく心得ておかなければなりません。委任された者で任命されたことの重要性を理解した者は、その能力を信心深く用います。

もう一つの世界に存在する者たちとの関係を結ばせるという真剣な目的の為に与えられた能力を、自分、もしくは他人の娯楽や気晴らしのために用いるなら、神聖を汚す行いとして、良心がその者を咎めるでしょう。

 霊媒は霊の教えの通訳者として、霊の働きかける私たちの道徳的な変化を遂げるための、重要な役割を果たさなければなりません。霊媒が果たすことのできる役割は、その霊能力を向けた方向の正しさに応じます。

間違った方向へ向ける者は、スピリティズムにとっては有益どころか、悪い影響をもたらします。彼らが与える悪い印象は、少なからぬ人々が、道徳的に変化することを遅らせることになります。ですから、同胞の善のために与えられた能力をどのように使ったかと言うことを問われることになるのです。

 善霊の助けを失いたくない霊媒は、自分自身の向上のために働かなければなりません。その能力を伸ばして、大きくしたい者は、自分を神聖なる目的から逸らせてしまうあらゆることを避け、自分自身を道徳的に成長させなければなりません。

 もし時々、善霊が不完全な霊媒を使うのであれば、それはそうすることによってその霊媒を善の道へ導こうとするからです。しかし、その霊媒の心が固く、善霊の忠告が聞きいれられない場合は、善霊はそのもとを離れ、悪が自由にそこへ入り込むことができるようになるのです(第二十四章 11,12)。

 ある期間にわたって、目覚めるようなひらめきを与えられておきながらも、善霊の忠告や通信を利用しなかったり、聞きいれない霊媒は、過ちを犯したり、無意味でばかげたことを訴えるようになり、明らかに善霊が離れていったしるしが見られるようになるということを、私たちの経験は教えてくれています。

 善霊の救済を受け、軽はずみで偽った霊から解放されることが、すべての真剣な霊媒の継続的な努力の目的でなければなりません。そうでないのであれば、霊能力と言うものはそれを持つ者を害し、危険な憑依へと悪化させる不毛な能力でしかありません。

 その責任を認識している霊媒は、いつでも奪われる可能性のある、彼のものではない一つの能力について、自慢するのではなく、それによってどのような善を得ることができるのか神に委ねます。

通信が賞賛に値するものであったとしても、それによって自惚れたりはしません。なぜなら、通信と言うものがその霊媒の個人的な功労とは関係がないことを知っており、彼を通じて善霊が現れることが許されたことを神に感謝するからです。

通信の内容が非難の的となったとしても、そのことによって自分を責めたりはしません。なぜなら、そうした通信内容とは、その霊媒がつくりだすものではないことを知っているからです。

そして彼は、自分が悪い霊の干渉を妨げるのに必要な能力をすべて持っておらず、よい通信手段ではなかったと反省するのです。ですから、そうした能力を得ようとしてください。そして不足している力を祈りによって求めてください。


十、<祈り>全能なる神よ、懇願された霊との通信を、善霊が見守ってくれますようにお許しください。自分は悪い霊に影響されることはないなどとうぬぼれることがありませんように。通信を授かることのできる価値を取り違えてしまうような過ちに導く、自尊心から私をお守りください。

他の霊媒に対し、慈善に反するいかなる感情も持つことがないようお守りください。もし私が過ちを犯しそうになった時には、誰かが私を注意してくれますように。

そのような時には、そうした過ちを自覚し、注意を受け入れることが出来るだけの慎ましさを私にお与えください。また、善霊が私に与えてくれる教えを、他人のためではなく、自分のためとして受けとめることができますように。


 何事であれ、もし、過ちを犯す誘惑に負けそうになったり、私にお与えになった能力によってうぬぼれるようであれば、神聖なる目的のための能力が間違ったことに使われる前に、私自身の道徳的進歩のためにも、私からその力を剥奪してください。


2、  個人的な祈り 
  守護霊や保護霊への祈り
十一、<序文>私たちは生まれた時から、私たちを守護下においてくれた善い霊と関わりをもっています。子どもを守る父親のように、その霊は与えられた任務を果たします。

人生の試練を通じて、私たちを善と進歩の道に導いてくれます。私たちに対する彼の配慮に私たちが応えると、彼は大変幸せに感じますが、私たちが屈服してしまうのを見ると彼は苦しみます。

 彼の名前などは大した問題ではありません。なぜなら、彼の名はこの地球上では知られたものではないかもしれないからです。ですから、私たちの守護霊、もしくは私たちの善き守り神と呼びましょう。彼のことを私たちが親しみを感じる、ある特定の優秀な霊の名で呼んでも構いません。

 私たちには必ず、より優れた霊である守護霊の他に、同じように善く寛大でも、進度のより少ない保護霊がついています。保護霊は、友達の霊だったり、家族の者の霊だったり、あるいは現世においては全く知らない誰かの霊だったりします。

彼らは助言を与えることによって私たちの人生を見守り、しばしば私たちの日常の行動の間に入ってきます。

 親切な霊とは、私たちと趣味や嗜好の上で類似性のある霊のことです。そうした霊を引きつける私たちの性質の傾向により、それは善い霊でも悪い霊でもあり得ます。


 誘惑する霊は、私たちに悪い考えを植えつけ、私たちを善の道から遠ざけようとします。私たちの魂への接近を容易にする開かれた扉のように、私たちの弱点をすべて利用します。私たちを獲物にしようと付きまとう者もいますが、私たちの意志と対抗するには無力であるということを知ると離れていきます。

 神は私たちの第一の案内人として、より優れた守護霊を送り、第二の案内人として保護霊や家族の霊を送ってくれています。しかし、保護霊が私たちに与える善い影響とつり合わせるために、私たちのとなりに悪の力もが強制的に置かれていると考えるのは間違いです。

悪い霊は、自分の優勢を占める機会が私たちの間にあるのを見つけると自発的にやってくるのです。

それは私たちが弱気になったり、善い霊が与えてくれるひらめきに従うことを無視する時です。つまり悪い霊を寄せつけるのは私たち自身なのです。このことから、私たちは善い霊の支援を受けていますが、悪を遠ざけるのは私たち自身であるのだと結論づけることができます。

人間は不完全であるため、自分を苦しめる困難の第一の原因を、多くの場合、自分自身の性質の中に持ち合わせているのです。(第五章 4)。

 守護霊や保護霊への祈りは、神との間を取り持ち、悪い誘いに対抗する強さを与え、日常の偶発的な出来事の中で私たちを見守ってくれるようにお願いすることを目的としなければなりません。


十二、<祈り>神の使いとして人間を見守り、人間を善の道へ歩ませることをその使命としている高尚で慈悲深い霊よ。この人生における試練に向かう私を支えてください。悲嘆することなく試練に耐えることができるよう、力をお与えください。

悪い考えを持たないことによって、私を悪へ導こうとするどんな悪霊も入り込めなくなるようにしてください。私の欠点をはっきりと自覚できるよう、自分の欠点を知り、自分自身に言い聞かせることを阻む自尊心のベールを、私の目の前から取り去ってください。

 私を見守ってくれている私の守護霊である「〇〇」には特に、また、私のことを心配してくれているその他の保護霊すべてには、私があなたたちの保護に値することができますようにお願いいたします。

私の必要としていることが知られ、それらが神の意志に従って聞きいれられますように。


十三、<別の祈り>神よ、私が苦しんでいる時、私の周りにいる善霊が私を助けに来てくれ、私の力が衰えてしまった時には私を支えてくれることをお許しください。彼らが信仰心、希望、慈善の気持ちを私に吹き込んでくれることをお願いいたします。

それらは私にとっての支えと激励であり、彼らの慈悲の証なのです。それらの中に、人生の試練に立ち向かうために私に欠けている力を見出すことができますように。そして悪いひらめきに抵抗するために、私を救ってくれる信仰心と私を慰めてくれる愛をお与えください。


十四、<別の祈り>神のお許しのもと、その無限の慈悲をもって人類を見守ってくれている親愛なる霊、守護霊よ。地上での試練の間、私たちをお守りください。気力、勇気、そして忍従する力をお与えください。善であるものはすべて私たちにお教えください。

悪に傾くことから私たちを引きとめてください。あなたたちの善なる影響が私たちの魂に響きますように。私たちを熟愛してくれる友達が、私たちのとなりで苦しみを見守り、喜びを分かち合ってくれていることを感じることができますように。

 善なる守護霊よ、私を見捨てないでください。神が私のもとにお送りになる試練を、信心と愛を持って乗り切るために、あなたの全てのご加護が必要です。


  悪い霊を遠ざけるために
十五、忌わしいものです。偽善の律法学者、ファリサイ人たちよ。あなたたちは杯や皿の外側は清めるが、その中は貪欲と放縦で一杯です。目の見えぬファリサイ人たちよ。まず、杯の内側を清めなさい。そうすれば、外側も清くなります。

 忌わしいものです。偽善の律法学者、ファリサイ人たちよ。あなたたちは白く塗った墓のようなものです。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れたものでいっぱいなように、あなたたちも、外側は正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。(マタイ 第二十三章 25-28)


十六、<序文> 悪い霊は、その非道を広めることが出来るような場所を探しているのです。彼らを遠ざけるには、彼らに遠ざかるように頼んだり、あるいは遠ざかるように命令しても足りません。人間が自分で引きつけているものを追放しなければなりません。

肉体の傷ついたところを蠅がかぎつけてくるように、悪い霊は魂の傷を嗅ぎつけてやってきます。したがって、虫が付くのを防ぐために肉体をきれいにするように、悪い霊を避けるためには、魂の汚れたところをきれいにする必要があるのです。

悪い霊が多くはびこる世界に住んでいると、心の中の善なる特性は彼らに抵抗する力を与えてくれますが、それだけでは悪霊にその試みを諦めさせるのに不十分な場合があります。


十七、<祈り>全能なる神の名において、悪い霊を私から遠ざけてください。善霊が彼らに対する防壁となってくれますように。

 有害な霊は人間に悪い考えを思いつかせます。ずるい霊、うそつきの霊は人間を騙します。人間の信心を利用しおもしろがる、ひやかしの好きな霊よ。

私は魂のすべての力を使ってあなたたちを追放します。あなたたちの提案には耳を閉ざします。しかし、神の慈悲があなたたちにもあることをお願いいたします。

 私を見守ってくれている善霊よ。悪い霊の影響に抵抗することができる力と、彼らのたくらみの犠牲とならないために必要な光をお与えください。自尊心、うぬぼれに陥らないようにしてください。

羨み、嫉妬、憎悪、敵意、慈善に反するあらゆる感情も、私から取り除いてください。そうした感情は悪い霊を迎え入れるために開かれた多くの扉のようなものだからです。 


 欠点を治すために
十八、<序文> 私たちの持つ悪い性癖は私たちの霊が不完全な結果であり、私たちの肉体がもたらすものではありません。もしそうでないとすれば人間はいかなる責任からも逃れることができるはずです。私たちの進歩は私たち自身にかかっています。

なぜなら、さまざまな能力を授かった人間はみな、物事を行うか行わないかを決める自由を持っており、善を行うために不足しているのは本人の意志のみだからです(→第十五章 10、第十九章 12)。


十九、<祈り>ああ、神よ。あなたは私に善と悪を区別するために必要な知性を与えてくれました。それゆえに、あることを悪いと認識した時は、その誘惑に抵抗しようと努力しなかった自分が悪いのです。

 自分の欠点を認識するための妨げとなる自尊心や、欠点を改めずにいつまでも持ち続けさせようと働く悪い霊から私をお守りください。

 不完全である私は、特に「〇〇」に欠けています。それに対して抵抗できないのは、その悪癖に屈してしまう習慣を身につけてしまったからです。神は正義であるが為に、私を罪ある者としてではなく、善にも悪にも同じように適応できるように創造されました。

私が悪の道を進むのは私の自由意志が働いた結果です。しかし悪を行う自由が与えられたのと同じ理由から私は善を行わなければなりません。それにより、私は進む道を変えなければならないのです。

 私が今もっている欠点は、以前の私の人生から持ち続けている不完全性の一部です。それらは私の原罪ですが、私の意志と善い霊の助けによって取り除くことができます。

 善霊よ、私をお守りください。とりわけ、私の守護霊には、悪の誘いに抵抗し、悪との戦いにおいて勝利を収めることができる力を与えて頂けますようにお願いいたします。

 私たちの欠点は私たちを神から遠ざける障害です。しかし、改められた欠点の一つ一つは、神のもとに近づくために通らねばならない進歩の小道に記される新たな一歩となります。

 主よ、あなたはその無限なる慈悲によって、私の進歩のためにこの人生を与えて下さいました。善霊よ、この機会を無駄にすることがないよう、この人生を有益なものとすることができるように私を助けてください。そして神が私をこの世から連れ去ろうとなされた時、この世に生まれてきた時よりも進歩して戻って行くことができますように(→第五章 5、第十七章 3)。
 

 誘惑に抵抗する力を求めるために
二十、<序文>どんな悪い思いつきにも、その根源として二つ考えられます。それは、私たち自身の霊の不完全性か、私たちの霊に対して働く有害な影響力のいずれかです。

しかし後者の場合、それは私たちが、こうした影響力に対して無防備であるという弱点を示していることになり、やはり私たちの霊が不完全であるということになるのです。したがって、失敗を犯した者は、単に知らない霊の影響を受けたのだと責任逃れすることはできません。 

なぜなら、誘惑に対して屈しない状態であったなら、その霊はその者を悪に導くことはできなかったからです。

 悪い考えを持ったとき、邪悪な霊が私たちに悪をうながしているのだと想像することができますが、それに屈するのも抵抗するのも私たちの完全な自由意志によります。それは、誰かが私たちの目の前に現れ、何かを私たちに頼みに来た時と同じです。

また同時に、私たちの守護霊もしくは保護霊が私たちに及ぼす悪い影響と戦っており、私たちがいかなる選択をするかを心配し、見守っているのだということを思いださねばなりません。

悪行に対するためらいとは、善霊が私たちの良心を通じて訴えている声なのです。ある考えがすべての道徳的価値の基礎である慈善から離れると、その考えは悪いのだということを認識することができます。

自尊心、虚栄心、エゴイズムが先行し、それが他人に損害を与えるものであったり、自分にはして欲しくないことを他人にしようとしているのであれば、それは悪い考えなのだということになります(→第十章 10、第二十八章 15)。


二十一、<祈り>全能なる神よ、失敗へ陥らせる誘惑に、私が負けてしまわないようにしてください。私を守ってくれている慈悲深い霊よ、その悪い考えの矛先を変え、悪の誘いに抵抗する力をお与えください。

もし私が抵抗することに失敗してしまったなら、私の過ちに対する報いをこの人生または次の人生において受けます。なぜなら、選択の自由は私に与えられているからです。


 誘惑に勝つことが出来た時の感謝の祈り
二十二、<序文>ある誘惑に抵抗できたのは、善霊の助けのおかげです。なぜならその人は、善霊の声を聞きいれることができたから、抵抗することができたのです。神と守護霊に感謝をするべきです。


二十三、<祈り>神よ、悪に対して続けた戦いに、私が勝利を得ることをお許しくださいましてありがとうございます。この勝利が、新たなる誘惑に抵抗する力をもたらしてくれますように。

 そして私の守護霊よ、私に助けを与えてくれてありがとうございます。あなたからの助言を受け入れ、新たにあなたの加護を受けることができますように。


 忠告を求めるために
二十四、<序文>あることをすべきか、すべきでないか迷っている時、私たちは何よりもまず、次の疑問を投げかけてみなければなりません。

第一、行動に移すことを躊躇しているそのことは、誰か他人に損害を与えることになるのではないか。
第二、それは誰かのためになることなのか。
第三、もし同じことを誰かが私にしたら、私は満足するのか。

たとえ実行しようとしていることが、自分たちだけにしか関わりがないことだとしても、そのことが自分たちにもたらすことになる利益と不都合を秤にかけてみるべきです。

 もしそのことが他人に関わりがあり、ある人には善をもたらし、別の人には悪をもたらすのであれば、同様にもたらされる善と悪を秤にかけ、実行すべきかやめるべきかを決めるべきです。

つまり、最善のことをやろうとしている時でさえも、それを行う機会や、それに伴う状況について考慮することが大切です。それは、そのこと自体が善いことであったとしても、間違った者の手によって行われたり、用心深く慎重に行われなかったりすれば悪い結果をもたらすこともあるからです。

そのことを行う前に、それを実行しようとする自分たちの力や実行の手段を検討してみるべきです。

 いかなる場合においても、「迷うのであれば、やめておけ」と言う賢明なる金言を思いだすことによって、私たちの守護霊の助けを求めることができます。 


二十五、<祈り>全能なる神の名において、私を守ってくれている善霊よ、疑いに直面した時には、最善の決定を下すことができますように、感得させてください。私の思考を善の方向へ導き、私を迷わそうとする影響から解放してください(→第二十八章 38) 


 人生の苦悩の時
二十六、<序文>真面目で有益な目的があるのなら、私たちはこの地上における利益を神に願うことができます。

しかし、物事が有益であるかどうかということを、いつも私たちは自分たちだけの、その時点においての視点から見てしまい、求めていることの悪い側面と言うのは必ずしも見えていないものです。

神は、私たちよりもずっと良く物事を見ることができ、私たちに有益となることだけを望んでいるので、自分の子どもに害をもたらすものを否定する父親のように、私たちの願いを聞き入れてくれないことがあります。願いが認められなかったからといって、私たちは落胆してはなりません。

その反対に、願い求めたものが奪われたことによって、私たちには試練や償いの機会が与えられたのであり、その報酬は、私たちが耐えぬかねばならないことに対する私たちの甘受の気持ちに応じて受けることができるのだと考えなければなりません(→第二章 5-7、第二十七章 6)


二十七、<祈り>私たちの惨めさを見て、私たちのことを聞いてくださる、慈悲深く全能なる神よ、ここに哀願いたします。もし、私の願いが不合理であれば、私をお赦しください。もし、あなたの目にも正しく映り、同意に値するのであれば、あなたの意志を実行する善霊が、私の願いが叶うように私を助けに来てくれますように。

 いずれにしても、神よ、あなたの意志のとおりになりますように。私の願いが叶わなかったとしても、それは私を試されたあなたの意向であり、私は不平を言うことなく従います。ですから、私が落胆してしまったり、私の信心と甘受の気持ちが揺らいでしまわないようにしてください。(この後に願いを実際に唱える)。  


 願いが叶ったことを感謝して
二十八、<序文>幸いな出来事だけが私たちにとって重要な出来事なのだと思う必要はありません。見かけは小さくとも、私たちの運命にとって大きな影響を及ぼすことがしばしばあります。

人間はすぐに善を忘れてしまい。その人を苦しめることばかりを先に考えがちです。毎日毎日、私たちが頼まないのに受けている恵みと言うものを記録してみれば、多くの者がその数の多さに驚き、またそれらが私たちの記憶から消えてしまっていることを知って、自分が恩知らずであることを恥ずかしく思うことでしょう。

 毎晩、魂を神のもとへと高め、その一日の間に与えてくれた恩恵を思いだし、そのことを感謝しなければなりません。しかし、神の善意と加護の結果を受けた時こそは特に、自然な形で私たちの感謝の気持ちを表さなければなりません。

そのために私たちは仕事をしている手を休める必要はなく、その恩恵が神のおかげであるということを考えればよいのです。神の恵みは物質的なものだけではありません。善い考えや、私たちに勧められる幸いな発想についても、同様に感謝しなければなりません。

自尊心の強い者はそれを自分自身の才能であると思い、神を信じない者は偶然の出来事であると考えますが、信心の強い者はそれを神や善霊のおかげであると感謝します。ですから、長い祈りの文句は必要ないのです。

「神よ、私に善いひらめきを与えて下さり、ありがとうございました」と言う方が、多くの言葉を並べるよりも気持ちが伝わります。私たちに起きた幸いな出来事が神の恩恵によるものだと思う、私たちの自然な心の衝動は、感謝の習慣と慎ましさを証明するもので、善霊の共感を呼ぶことができます。


二十九、<祈り>無限の善意である神よ。私に与えてくださる恵みによって、あなたの名が崇められますように。それらの恵みが偶然であるとか、自分自身の才能によるものだなどと考える者は恥じるべき者たちです。

神の意志を実践する善霊よ、そのうちでも、特に私の守護霊には感謝いたします。受けたものによって私の自尊心が強くなってしまうことが無いように、またそれを善いことだけに利用することができますように。「〇〇」を受けましたことを特に感謝いたします。


 甘受と忍従の気持ち
三十、<序文>苦しみをもたらす出来事が私たちを襲ってきた時、もしその原因を追究するのであれば、しばしばそれは私たちの無謀さや、それ以前の行動における先見の明のなさの結果であることがわかります。その場合の苦しみは自分自身のせいにしなければなりません。

もしある不幸の原因が、私たちの行動とは全く独立したところにあるのであれば、それはその人生における試練であるとか、過去の人生に犯した過ちの報いであると考えることができます。

そして、後者であるなら、私たちは自分の犯した罪と同じ方法によって罰せられる償いの法則から、私たちの過去の過ちがどのようなものだったのかを推し量ることができます(→第五章 4,6,7)。


 一般に、なにかが私たちを苦しめている時、私たちにはその場でおきている悪にしか見えず、その苦しみが未来においてもたらすであろう、好ましい結果までは目に入りません。善とは多くの場合、過去における悪のたまものであり、それは痛ましい手当てを経た結果、病気が回復するのと同じです。

どのような場合でも、耐えた苦しみが自分のためになるようにしたいのであれば、神の意志に従って、人生の苦難に勇気を持って立ち向かわなければなりません。そうすれば、私たちに「苦しむ者は幸いです」と言うキリストの言葉があてはめられることになるでしょう(→第五章 18)。


三十一、<祈り>神よ、あなたは最高の正義です。だから、この世におけるすべての苦しみには、その原因とその必要性があるに違いありません。私が経験している苦しみを過去における過ちの報いとして、また、将来への試練として受け入れます。

 私を守ってくれる善霊よ、悲しむことなく苦しみに耐えることができる力をお与えください。その苦しみを有難い注意としてとらえることができますように。それによって私の経験が増し、自尊心、野心、虚栄心、エゴに打ち克つことができますように。また、それが私の向上のためになりますように。


三十二、<別の祈り>神よ、あなたが送られた試練に耐え抜く力が必要なために、その力が与えられますようお願いします。私の霊の中に必要な理解によって光が輝き、私を救ってくれるために苦しむ愛の広がりを十分に感じ受けることができますように。

神よ、私は忍従し、身を捧げます。しかし、悲しいことに私はとても弱く、神の助けなしには、気力を失ってしまいます。主よ、私を見捨てないでください。神なしに、私は何者でもありません。


三十三、<別の祈り>永遠なる神よ、あなたの方を見上げて、元気づけられました。あなたは私の力です。私を見捨てないでください。神よ、私は自分の不正の重さに押しつぶされてしまっているのです。

私を助けてください。あなたは私の肉体の弱さを知っているのですから、私から目を離さないでください。

 私は燃えるようなのどの渇きに苦しんでおります。命の水のほとばしる泉をお与えください。私はそれで渇きを癒します。私の口が、人生の苦悩に対する不満をこぼすためではなく、あなたを賛美する歌を歌うために開きますように。私はひ弱です。しかし、あなたの愛が私を支えてくれるのです。

 永遠なる神よ、あなただけが偉大で、あなただけが私の人生の目的であり、行き着くところです。私を痛めつけるのであっても、それはあなたが私の主人であり、私が不忠実なしもべであるのですから、あなたの名が崇められますように。

その時、私は悲しむことなく頭を下げます。なぜなら、あなたは偉大で、あなただけが私たちの人生の目指すものであるからです。


 切迫した危険を前に
三十四、<序文> 私たちが出逢う危険を通して、神は私たちの弱さや私たちの命のはかなさを、私たちに思いださせます。神は、私たちの命がその手の中にあり、それは私たちが全く予期せぬ時にいつでも切れる可能性のある、一本の糸によってつながれているのだということを示してくれます。

この点に関しては誰も特権を与えられていません。なぜなら大きな者も小さな者も同じ条件に従っているからです。

 ある危険の原因と、そのもたらす結果を分析してみると、殆どの場合、ある失敗や、義務を怠ったことが罰せられるために、そうした危険が生じていることがわかります。
      
   
三十五、<祈り>全能なる神よ、私の守護霊よ、私を救って下さい。もし死んでしまわなければならないとしても、神の意志の通りになりますように。もし、救われるのであれば、残された人生の中で、いま後悔している私の悪を改め、さらに犯すであろう悪を改めることができますように。
  
   
 危険から免れることが出来たことを感謝して
三十六、<序文>私たちが遭遇する危険によって、人生と言う労働の精算をするために、私たちはある時突然、神に呼び戻されるのだということを神は示してくれます。それによって神は、私たちが自分を見直し、自己の改善をするよう呼びかけてくれるのです。


三十七、<祈り>神よ、そして守護霊よ、私に危険が襲いかかってきた時、救いの手を差しのべてくれたことを感謝いたします。そこの危険が私にとって警告となり、私が陥りやすい過ちをはっきりと見せてくれますように。

主よ、私の命があなたの手中にあり、あなたが認められた時、私をこの世から呼び戻すのだということを理解しています。私を見守ってくれている善霊を通じ、この世で与えられた残された時間を有益に使うことが出来るような考えをお与えください。

 私の守護霊よ、神が私を呼び戻すことを認められた時、できる限り欠点を減らした上で霊の世界へ到着することができるよう、私の欠点を改め、私にできる全ての善を行おうとする私の決意を支えてください。  
   
    
 就寝の時
三十八、<序文>眠りは肉体の休息ですが、霊には休む必要がありません。無感覚になっている間、魂は物質の世界から解放され、霊としての特性を享受します。眠りは、有機的な力と道徳的な力の回復のために人類に与えられているのです。

おきている間の活動で失ったものを肉体が取り戻している間、霊は別の霊とともに元気を回復しに行くのです。

眠りの間、霊は見たり、聞いたりして、忠告を与えられますが、それらは起きている間に直感的に思いだされるのです。眠りは、真なる母国を追放された人類の一時的な帰国であり、眠る者とは、一時釈放された囚人のようなものなのです。


 しかし不道徳な囚人がそうであるように、霊が必ずしも眠りにより解放の時を、その進歩のために有効に使うわけではありません。その霊が善霊とともにいようとする代わりに、悪い資質を持っているのであれば、その霊と同類の霊を探し、その悪癖を自由に行おうとするのです。

 この真実を理解する者は、就寝が近づくとその考えを高めます。善霊の忠告や、善き思い出を抱く人たちの助言を受けるため、与えられた短い時間に彼らと会うことができるようにお願いします。

そうすれば目覚めた時には悪に対してはより強くなり、敵対する者たちに対してはより勇敢になっていることを感じることができるでしょう。
  
      
三十九、<祈り>私の魂は短い間、他の霊に会いに行きます。善なる者たちがその忠告とともに、私を助けに来てくれますように、私の守護霊よ、目覚めた時には、それらの忠告が健全で永続きする印象となって残っていますように。



 近い死を感じた時
四十、<序文>生きている間に未来を信じ、未来の運命に目を向け、気落ちを高めることは霊を肉体につなぎとめている絆を弱めることになり、霊がより早く肉体から離れていくことを促します。

そうすることによって肉体がまだ消滅していないうちから、しばしば我慢しきれない魂は広大な無限の空間へ飛び出そうとしてしまいます。

反対に、すべての考えを物質的なものの中に捉える人間にとって、その絆は強固なもので、それを解くのは痛く、苦しく、死後の世界で目を覚ます時、その人に心配と混乱をもたらします。


四十一、<祈り>神よ、私はあなたを信じ、あなたの無限の善意を信じています。だからこそ、人類が将来、無の世界へ戻るために、知性と未来への熱望を人類に与えたのだとは信じられません。

 私の肉体とは私の魂を取り囲む、消滅すべき被いのようなものでしかなく、生きることを終えた時には霊の世界に目覚めるのだということを信じています。

 全能なる神よ、私の魂を私の肉体につなぎ止めている絆が解かれていくのを感じ、後にしようとしている人生と言う労働の精算を、もう少ししたら行わなければならないのだということを感じます。

 私が行った善と悪の行いの結果に耐え、それを受け入れます。向うの世界にはもう幻は存在しません。ごまかしも効きません。私のすべての過去が私の前で展開され、私の行った行為にもとづいて裁かれるのです。

 地上の富は何も持っていくことができません。名誉や富と言った虚栄心を満足させるものや自尊心など、肉体に結びついているものは、すべてこの世に残されるのです。どんなに小さな荷物も伴うことはできず、それらのうちのどれもが、霊の世界においては全く役に立ちません。

私は魂に結びついたものだけしか持って行くことができません。それらはつまり、私の善と悪の性質であり、厳正なる正義の秤にかけられるのです。地上で与えられた地位に応じて善を行うことができた機会が多ければ多いほど、善を行わなかったときのことが厳しく審査されるのです(→第十六章 9)。

 慈悲深い神よ、私の後悔があなたのもとまで届きますように。あなたの寛容を私のところまで差しのべてください。

 もし私の生存を延長してくださるのであれば残りの人生は、私の中にある悪も、行って居たかも知れない悪も改めるために捧げます。私の順番がついにやってきたのであれば、新たな試練によって償うことが許され、いつか選ばれた者たちの幸せを得るに値することができるであろうという、慰めの気持ちを持つことにします。

 完全なる正義にしか値しない、一つの汚点もない至福をすぐに得ることができなくても、それを得る期待は永遠に妨げられるのではなく、働くことによって、遅かれ早かれ、私の努力次第で目的は達成することができるのです。

 善霊や、私の守護霊が私の近くにいて、私を迎えてくれるのだということを知っています。もう少しすれば、彼らが私を見ることができるように、私も彼らを見ることができるようになるでしょう。

私がそれにふさわしいのであれば、地上で愛した者に会うことも出来るでしょう。また、ここに残していく者たちは、いつかある日、私に会いにやってくることができ、永遠にともにいることができるようになるでしょう。それまでは、私がここまで会いに来ることができるでしょう。

 私が攻撃した者たちにも会うことを知っています。私の自尊心、心の堅さ、不公平など、彼らに非難されるべきことを彼らが赦してくれ、彼らとの再会が私をはずかしめることにならないようにしてください。

 地上において私に対し悪を働いたり、悪を望んだりした者を赦します。彼らに対する憎しみはありません。神には彼らが赦されることをお願いいたします。主よ、この地上の重たい喜びを未練なく棄てることができますように力をお与えください。

そのような喜びとは、いまから入ろうとする世界の純粋な喜びとは似ても似つかぬものです。その世界では、正しい者には苦しみ、悲しみ、惨めさは存在しません。罪のある者だけが苦しみますが、その者にも希望が残されるのです。

 善霊よ、また私の守護霊よ、この崇高なる時に、失敗を犯さぬようにしてください。私の信心が揺らいだ時には、さらに強められるよう、神の光の輝きが私の目に入りますように(→第二十八章 77‐84)。
    
     
 3、 他人への祈り 
 苦しむ者への祈り
四十二、<序文>苦しむ者にとって、その試練が続くことが望ましいのであれば、私たちの願いによってその試練を短縮させることはできないでしょう。

しかし、私たちの祈りを聞いてもらえるわけがないなどと言い訳をし、苦しむ者を見捨ててしまうのは、慈善の気持ちに欠けていると言えるではないでしょうか。

それに、たとえその試練が打ち切られることはなくとも、その人の苦しみを最小限にするための何かしらの慰めを与えることができるはずです。

試練に耐えなければならない者にとって実際に役に立つものとは、勇気と甘受の気持ちであり、それなしには、試練はその人に何ももたらすことが無く、再び同じ試練が与えれることになります。

そのためにこそ私たちは努力し、善霊にお願いをし、忠告や元気づけによって苦しむ者が精神的に回復できるように、また、もし可能であれば、物質的にも援助を受けられるようにするのです。その時、祈りはさらに直接作用し、精神力を強めることになるフルイドの鎖を苦しむ者に与えることができるのです(→第五章 5,27、第二十七章 6,10)。

  
四十三、<祈り>無限なる善意である神よ、もしそれがあなたの意志に沿うのであれば、「〇〇」の苦しい状態を和らげてあげてください。

 善霊よ、全能なる神の名において、苦しみに対しあなたたちが救援してくれることをお願いいたします。あなたたちから見て、それらの苦しみが短縮されることが可能でないのであれば、それらの苦しみが、苦しむ者の進歩のために必要なのだということを理解させてあげてください。

苦しむ者が神と未来を信じ、苦痛をより弱く感じることができるようにしてあげてください。落胆して苦しみに屈服してしまい、苦しむことがもたらす有益な結果を失ってしまうことによって、同じように未来において再び苦しむことにならないように、力を与えてあげてください。

苦しむ者が勇気を失わずにいることを助けるため、私の思いを苦しむ者のところまで運んで行って下さい。 


 他人に与えられた利益への感謝の祈り
四十四、<序文>エゴイズムによって支配されていない者よ、あなたの隣人に起きた良い出来事を喜んでください。たとえあなたが祈りを通じてそれを願ったのでなかったとしても。


四十五、<祈り>神よ、「〇〇」におきた幸せにより、あなたが崇められますように。善霊よ、その幸せの中に彼が神の善意の力を見つけることができるようにしてください。

もし、そのよい出来事が試練であるならば、その出来事が未来において彼の不利益となってしまわないよう、その出来事を正しく利用し、そのことでうぬぼれてはいけないのだということを気づかせてあげてください。

 私を守り、私の幸福を願ってくれている善なる守護霊よ、私の心からすべての羨みと嫉妬の気持ちを取り除いてください。
     

 私たちの敵や私たちの不幸を望んでいる者への祈り
四十六、<序文>「敵を愛しなさい」とイエスは言いました。キリストの慈善であるこの金言は崇高です。しかし、それによってイエスは、私たちが味方に対して抱く親しみを私たちの敵に対しても抱かなければならないということを、規則として与えようとしたのではありません。

その金言により、イエスは私たちに敵の非道を忘れ、私たちに対して働く悪を赦し、その悪を善によって報いることを勧めているのです。神の目から見たその様な行いの価値だけでなく、人間にとって本当の優越とは何かを示しているのです(→第十二章 3,4)。


四十七、<祈り>神よ、「〇〇」が私に対して行った悪、行おうとした悪をお赦しください。同時に私が犯した過ちを彼が赦してくれますように。もし私の試練として彼を私の前に置かれたのであれば、神の意志とおりにされてください。

 神よ、彼をののしろうとする考えや、彼に対するあらゆる悪意からも私を解放してください。彼に起こる不幸を喜ぶなどと言う、キリスト教徒として恥じるべき考えによって魂を汚すことがないようにしてください。

 主よ、あなたの善意が彼のもとに届き、彼が私に対してより好意的な気持ちを持つことができるようにしてください。

 善霊よ、悪を忘れ、善を思いださせてください。憎悪や復讐心とは、生きていようが、死んでいようが、悪い霊だけに属するものなのですから、どんな憎しみも、どんな怒りも、悪を報いようとする他のどんな悪意も、私の中に忍び込んでこないようにして下さい。

反対に、彼に兄弟愛の手を差しのべ、彼の悪を善によって報い、私の手の届く範囲であれば、彼を助けてあげることができるようにしてください。

 私の発言の誠実さを試すために、彼にとって私が有益となる機会が与えられることを望みます。しかし神よ、なによりも、私がそのことで見栄を張ったり、自惚れてしまったり、屈辱的な親切によって彼をけなしてしまい、自分の行動が結んだ実を失うようなことをしないようにしてください。

そのような場合は、「あなたはすでに報いを受け取っています」というキリストの言葉が私にあてはまるのです(→第十三章 1とそれに続く項)。



 私たちの敵に与えられた利益への感謝の祈り
四十八、<序文> あなたたちの敵に対し悪を望まないのと言うことは、慈善の気持ちが半分あるということです。本当の慈善の気持ちとは彼らに対しても善を切望し、彼らに利益がもたらされた時、幸せに感じることです(→第十二章 7,8)


四十九、<祈り>神よ、あなたの正義により、「〇〇」の心を喜びで満たされました。彼が私に対して悪を行ったり、行おうとしたことは考慮に入れず、私はそのことを感謝します。

もし彼がこの良い出来事を、私を侮辱するために利用するならば、私はそれを私の慈善の気持ちに対する試練として受け止めます。

 私を守ってくれている善霊よ、そのことで私が悲しむことがないようにしてください。私の価値を下げる羨みや嫉妬を取り除いてください。逆に私の価値を高める寛大さを私に与えてください。

侮辱は悪の中にあり、善の中にはありません。遅かれ早かれ、その行いに従って、一人一人がみな正義によって裁かれることを知っています。


 スピリティズムの敵対者への祈り
五十、義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満たされるからです。義のために迫害されてきた者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。私のせいで、人々があなたを悪者にし、あなたを迫害し、あなたに対してあらゆる悪口を言うのであれば、あなたたちは幸いです。だから喜びなさい。

 天にはあなたたちへの大きな報いが用意されているのです。あなたたちの前に送られた預言者たちも、同じように迫害されたのです。(マタイ 第五章 6,10‐⒓)

 肉体は殺せても、魂を殺すことのできない者を恐れてはなりません。肉体も魂も地獄で滅ぼす力のある方を恐れなさい。(マタイ 第十章 28)


五十一、<序文>すべての自由の中で、最も冒しにくいものは、良心をも含めた思考の自由です。考えの異なる人に、彼がそのように考えない事柄を押し付けることは、自分のためには思考の自由を求め、他人にはそれを与えないことになり、それはイエスの第一の戒めである隣人に対する愛と慈善の教えを破ることになります。

信念の違いを理由に他人を迫害するということは、それぞれがその理解に従って神を崇め、納得することだけを信じるという、全ての人間が有する最も神聖なる権利を侵害することです。

私たちの外見的な行いだけを他人にまねさせようと圧迫することは、私たちが、物事の根柢に存在するものや、確信することよりも、表面的な形を重んじているのを示すことになってしまいます。

強いられた誓いは決して誰にも信仰心を与えることはできず、偽善者を生むだけなのです。そうした行いは物質的な力の濫用であり、真実を証明するものではありません。

真実とはそれ自体が自立するものです。真実は、説得はしても、迫害することはありません。なぜなら、その必要が無いからです。

 スピリティズムとは一つの見解であり、一つの信仰です。しかし、スピリティズムも一つの宗教であるならば(→FEB版注3)、カトリックであるとか、ユダヤ教であるとか、プロテスタントであるとか、どの哲学的な教義の党派であるとか、どの経済主義の持ち主であるというのと同じように、なぜ自分たちはスピリティズム信徒であると主張しないのでしょうか。

その信仰は本物なのでしょうか、あるいは偽物なのでしょうか。もし偽物であるならば、人々の知性に光が差した時、自ずから消滅していくでしょう。なぜなら、偽りは真実にまさることができないからです。もし真実であれば、迫害さえもそれを偽りに変えることはできないでしょう。 

 迫害は、偉大で正しく、世界の発展と共に成長し、その重要性を増していくことになる新しい考え方が受ける洗礼なのです。その思想に対して敵対者がどれだけ怒りを覚え、乱暴な態度を取るかということは、その思想が彼らにもたらす恐れの大きさに応じているのです。

それが大昔、キリスト教が迫害され、今日スピリティズムが迫害される理由です。しかし、その違いはキリスト教が異教徒たちに迫害されたのに対し、スピリティズムはキリスト教徒たちによって迫害されていることです。もちろん流血の迫害の時代は終わりました。

したがって、もはや肉体を殺すことはありませんが、その代わり魂を痛めつけ、最も大切な愛情を壊すことにより心の奥底の感情を傷つけるのです。家族の崩壊をもたらし、母親を娘に対して怒らせ、妻を夫に敵対させます。肉体に対しても攻撃をします。

物質的な欠乏を悪化させ、信じる者を飢えによって減らすために、生計を奪うのです(→第二十三章 9-18)。

 スピリティストたちよ、あなたたちを襲う攻撃に苦しんではなりません。それらの攻撃は、あなたたちが真実とともにあることを証明しているのです。

もしそうでないのであれば、彼らはあなたたちをそっとしておき、迫害することなどない筈です。迫害はあなたの信仰に対する試練です。あなたにそうした試練を乗り越える勇気、甘受の気持ち、忍耐があるならば、神はあなたを多くの忠実なる信徒の一人として認めることでしょう。

一人一人のために残されたものを、その行いに応じて与えようと、神は今日もそのような者たちを頼りにしているのです。
 
 最初のキリスト教徒たちが模範を示したとおり、自分の十字架を誇りをもって担いでください。「義のために迫害されてきた者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」「肉体は殺せても、魂を殺すことのできない者を恐れてはなりません」と言ったキリストの言葉を信じてください。

キリストはまた、「あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを憎む者に善を行い、あなたたちを迫害し、中傷する者たちのために祈りなさい」とも言いました。キリストが教え、行ったことを自分たちも行うことによって、自分たちは真なる使徒であり、自分たちの教義が善いものであることを示してください。

 迫害は長続きはしません。夜明けがやってくる時を、忍耐強く待つのです。地平線の向こうには明けの明星がもう輝いているのですから(→第二十四章 13とそれに続く項)。


五十二、<祈り>神よ、あなたたちは救世主であるイエスの言葉を通じ、「義のために迫害されてきた者は幸いです。敵を愛しなさい。あなたたちを迫害する者たちのために祈りなさい」と言いました。そして、イエス自身も死刑の執行人たちのために祈ることによって、その模範を示しました。

 神よ、この模範に沿って、この世界ともう一つの世界において平和をもたらすことができる、唯一の神聖なる規律を軽んじる人々に対し、あなたの慈悲を嘆願いたします。キリストのように、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちが何をしているのかわからないのです」と私たちも申し上げます。

 私たちの信仰心と慎ましさが受ける試練である、あざけり、侮辱、中傷、迫害を辛抱と甘受の気持ちをもって耐える力を私たちにお与えください。

また、どんな仕返しの気持ちからも私たちが免れることができますように、なぜなら、すべての者に神の正義が響く時が到来することを知っているからです。その時を、私たちはあなたの聖なる意志に従いながら待ち望んでおります。


  生まれたばかりの子供への祈り
五十三、<序文>霊は、肉体が与えられた生活における試練をくぐり抜けなければ、完成することはありません。幽界にいる霊は、与えられる苦しみを通じて自分の犯した過ちを償ったり、人間に利益をもたらす任務を遂行したり、進歩する方法を備えた人生が再び与えられることを神が許してくれるのを待ち望んでいるのです。

人間の進歩の度合いと未来における幸せは、地上にいる時間をどう利用したかによって決まります。

従って地上で有意義な時間を過ごせるように人間が最初の一歩を踏み出すのを助け、善の方向へ向かうように導いてあげることは、その者の父母の役割であり、父母たちは任された任務をどれだけ成し遂げたかを、神の前で答えることになります。

神は父の愛、子の愛を自然の法とすることによって、人が父母の役割を果たすようにしたのであり、その法を破るものは必ず罰せられることになるのです。


五十四、<祈りー父母によって唱えられる祈り>私たちの子どもの肉体に生まれてきた霊を、私たちは喜んで迎えます。全能なる神よ、私たちが授かった子どもにより、あなたが崇められますように。

 この子どもは私たちに託された預金のようなものであり、その精算をいつかしなければなりません。もしこの子どもが地上に住む新しい世代の霊に属する霊であるならば、神よ、その恵みに感謝いたします。

その子どもが不完全な霊であるならば、その霊が善へ向かって進歩していくのを、忠告や模範によって助けてあげるのは私たちの役割です。私たちのせいで、もし悪の道へ落ちてしまったなら、その子どもとともにあった私たちの任務の遂行を失敗したことになってしまいます。

 主よ、私たちの任務の遂行にあたり、私たちをお守りください。また、その任務を達成しようという気力と意志を私たちにお与えください。もしこの子どもが、私たちの霊にとって試練として生まれてきたのであれば、神の意志のとおりとなりますように。

誕生の時からこの子どもを指導し、その生涯をともにする善霊よ、この子どもをどうか見捨てないでください。この子どもを悪へ導こうとする悪い霊を遠ざけてください。悪い誘いに抵抗する力と勇気と、地上に待ち受ける試練に耐える忍耐力と甘受の気持ちを、この子どもに与えてあげてください(→第十四章 9)。


五十五、<別の祈り>あなたに属する霊のうちの一人を私の運命に託してくれた神よ、私が課された役割に応えることができますように。あなたのご加護をお与えください。

あなたの穏やかさを子供の中に灯すために、私が準備しなければならないことを早いうちから感知することができますよう、私の知性に光をお与えください。


五十六、<別の祈り>善なる神よ、この子どもの霊を再び地上の試練に立ち向かわせることを認められたのは、その霊の進歩のためなのでしょう。神を知り、神を愛し、神を崇めることできますように、その霊に光をお与えください。

全能なるあなたの力によって、その魂があなたの博識なる指導の泉の中で更生していくことができるようにしてください。守護霊の保護のもとにその知性が広がり、発達することによってその霊をよりあなたのもとへ近づけてくれますように。

スピリティズムの知識が輝く光となり、人生の危機においてもその霊を照らしますように。最終的には、私たちの浄化のために私たちに試練を与えてくれる神より広がる、すべての愛を感じ取ることができますように。

 主よ、その魂を託された家族に対し、子を見守る父の眼差しを向けてください。その家族が課された任務の重要性を学び、その子どもの中に善なる種が芽生え、いつの日か自ら望み、自分だけであなたのもとまでたどり着くことができますように。

 おお、神よ。「子どもたちを私のもとへ来させなさい。神の国は、このような者たちのものです」と言われた方の御心にかなうのであれば、その名においてこの慎ましい祈りをどうか聞き入れて下さい。


 危篤状態にある者への祈り
五十七、<序文>危篤は、魂と肉体の離脱の序章です。この時人間は、一方の足でこの世を、もう一方の足でもう一つの世界を踏んでいるのだということができるでしょう。

物質への執着が非常に強く、もう一方の世界のものよりもこの世の富のために生きた者や、良心が後悔や苦悩に動揺している者にとって、この時間は非常に苦しいものです。一方で、物質への執着が弱く、神を求めながら生きた者にとっては、彼らを地上につなぎ止める綱はより容易に解かれ、最期の時に苦痛を与えるものは何もありません。

そのような場合においては、魂と肉体とをつなぐのはたった一本の綱なのです。しかし、もう一方の場合においては、その綱以外に深く生えた根が魂を肉体に縛り付けているのです。いずれにせよ、危篤の時、祈りは魂が肉体から離脱する上で大きな働きをします(→『天国と地獄』第二部 第一章「死」)。


五十八、<祈り>全能で慈悲深い神よ、ここに、いまにも地上でのまといを脱ぎ去り、その本当の故郷である霊の世界へ戻ろうとしている魂がおります。その魂を平穏にするものが与えられ、あなたの慈悲が差しのべられますように。

 地上で生活する間付き添ってくれた善霊よ、この究極の瞬間にその魂をどうか見放さないでください。未来におけるこの魂の進歩のために、この地上で体験すべき最期の苦しみに耐える力を与えてあげてください。

残された知性や、まだやってくる知性の最期のきらめきを、その魂が自分の犯した過ちの後悔に捧げるように導いてください。

 私の思いが、その魂の肉体からの離脱をより楽にし、その魂が地上を後にする時、その魂に取って希望に満ちた慰めとなることができるようにしてください。



 4、 霊への祈り 
 死後間もない人への祈り
五十九、<序文>地上を後にしたばかりの霊へ向けられた祈りの目的は、彼らに対する親しみを示すことだけではありません。霊が肉体から解放されるのを助け、それによって、肉体からの魂の離脱の時にはつきものである混乱を小さくし、霊の世界への目覚めをより安らかなものにするものです。

 しかし、他のいかなる場合でもそうであるように、その祈りの効力というのは思いの誠実さの中にあるのであり、盛大に唱えられてもしばしば心の込められていない言葉の数が効力を与えるのではありません。

 心から放たれた祈りは、眠りから起こしてくれる優しい友の声のように、まだ混乱した状態にある霊の周りに響きわたるのです(→第二十七章 10)


六十、<祈り>全能なる神よ、たったいま、地上よりあなたに呼び戻された「〇〇」の魂に、あなたの慈悲が注がれますように。その魂がこの地上で苦しみ、耐えた試練が、霊界において受けるべき罰を和らげたり、短縮させたりする要因として考慮されますように。

その魂を迎えにきた善霊よ、その中でも特にその守護霊よ。その魂が物質を棄てることを手伝ってあげてください。肉体の生活から霊の世界への移行に伴う混乱から早く抜け出すことができるように、その魂に光と自分自身の自覚をお与え下さい。

永遠なる至福の世界へ向かって行く速度を速めるために、その魂に自分の犯した過ちに対する後悔の気持ちと、それを改める許しを得ようとする意欲をお与えください。

 霊の世界へ入って行ったばかりの「〇〇」よ、それでもあなたはここにこうして私たちの間に存在しているのです。あなたには私たちを見て、聞くことができるのですから、あなたと私たちの違いは、あなたは間もなく灰となってしまう消滅すべき肉体を失ったということだけなのです。

 あなたは、苦しみの原因となったり、死すべき運命にある重いまといを脱ぎ捨てて、苦痛から解放された、消滅することのないエーテル状のまといだけに包まれているのです。

あなたはもう肉体によって生きているのではないのです。霊の生活をしているのであり、その生活に人類を苦しめる悲惨なものは存在しないのです。

 私たちの目の前にある死後の世界の輝きを覆い隠すベールはもうあなたの目の前にはないのです。これからは、私たちが暗闇に居続ける間、あなたは新たな素晴らしい世界を眺めることになるのです。

自由に宇宙を駆け巡り、さまざまな世界を訪れなさい。その間、私たちは重い鎧のような肉体の中に閉じ込められたまま、地上を苦しそうに這いまわっているのです。

 あなたの前には無限の展望が広がっているのです。その広大さを前にすれば、私たちが地上で抱く欲望や、世俗的な野心、人類が好む不毛な喜びなどというものの空しさを知ることができるでしょう。

 人類にとって死とは、ほんのわずかな間に行う物質からの離脱に過ぎないのです。神の意志と、この世で遂げなければならない義務を守り続けながら生きる為に送られてきたこの場所より、あなたが先に逝った者たちと再会したように、私たちもあなたと再会する許しが得られる時まで、私たちは思いによってあなたのお供をいたします。

 私たちはあなたに会いに行くことはできませんが、あなたは私たちのもとまで来ることができるのです。だから、あなたが愛する者、あなたを愛してくれている者のもとへ来て、人生の試練においてそうした者たちを支えてあげてください。

あなたにとって大切な人を守ってあげてください。あなたのできる範囲において彼らを保護してあげてください。

いまのあなたが以前よりも幸せだということや、いつかある日、善い世界においてみなで再会できるのだという慰安となる確信を、彼らの心の中に感じさせることにより、彼らの悲しみを和らげてあげてください。

 あなたがいるその世界では、悪感情も失わなければなりません。あなたの未来の幸せのために、今後はそうした感情から身を遠ざけてください。だから、あなたが悪を働いた者たちがあなたを赦してくれているように、あなたに対して悪を働いた者を赦してあげてください。


<備考>どのような祈りにも当てはまりますが、家庭や人間関係の特別な状況や、死去した者のおかれた立場に応じて、この祈りに特別な言葉をつけ加えてもかまいません。

 死去したものが子供であったとしても、その霊は生まれて間もない霊なのではなく、すでに長い間生きてきた、より進歩した霊であり得るとスピリティズムは教えてくれています。地上における最後の生命が短かったとして、それはその子の試練を補うもの、もしくは、その子の親のための試練であるに過ぎません。


六十一、<別の祈り>全能なる主よ、地上を後にする私たちの兄弟にあなたの慈悲が行きわたりますように。あなたの光が兄弟の目に映り輝きますように。

彼らを暗闇から遠ざけてください。彼らの目と耳を開かせてあげてください。あなたに従う善霊が彼らをとりまき、平和と希望の言葉を聞きいれるようにすることができますように。

 主よ、私たちはそれに値しないかもしれませんが、追放された土地より呼び戻された私たちの兄弟のために、あなたの慈悲深い寛容をあえてお願いいたします。彼の帰還が、放蕩息子の帰宅と同じように迎えられますように。

神よ、彼が行うことのできた善を思いだすことによって、彼の犯した過ちが忘れられますように。

あなたの正義は不変だということを私たちは知っています。しかし、あなたの愛は偉大です。あなたの胸から湧き出る善意の泉によって、あなたの正義が優しくなりますようお願いいたします。

 地上を後にする兄弟よ、あなたの目に光が灯りますように。あなたとともにある善霊が、あなたを地上につなぎとめる鎖をちぎるのを手伝うために、あなたに近づき、寄り添ってくれますように。私たちの主の偉大さを見て、理解することができますように。

不平を言うことなく、神の正義に従い、しかし、神の慈悲に対して、決して落胆することがないようにして下さい。兄弟よ、あなたが真剣に過去を見つめ、後に残してきた過ちとあなたに遂行することが任された過ちを改めるための仕事に気づくことが、未来の扉を開くことになるのです。

神があなたを赦し、善霊があなたを支え、元気づけてくれますように、あなたのために地上の兄弟が祈り、また彼らのためにあなたも祈ってくれることを願っています。


<備考>ある知らない人の棺が家の前を通った時、ボルドーに住むある霊媒にこの祈りが伝えられた。


 私たちが愛情を抱いていた人への祈り
六十二、<序文>恐ろしいものは「無」の概念です。真空の中に全てが失われてしまい、友だちのことを思って泣いてくれる声も、返答の声もこだましないと信じている人の何と憐れなことでしょう。すべてが肉体とともに死んでしまうと考える人は、純粋で聖なる愛情をとても知ることはできません。

そのような考え方のもとでは、広い知性によって世界を啓発した賢人も、物質が組み合わさって形成されたものに過ぎず、一吹きで永遠になくなってしまうのです。最も愛しい人や、父、母、愛する息子も、いやおうなく風に吹かれて散り散りになってしまう塵に過ぎないということになってしまいます。

 心を持った人間が、このような考え方を冷静に受け止めるることができるでしょうか。絶対的な消滅という考えに人は、その恐ろしさに心を凍りつかせ、少なくとも、そうあって欲しくないと考えるのではないでしょうか。

あなたの霊が感じているあらゆる疑いを晴らすための答えが、まだ足りないと思うのであれば、スピリティズムが魂の存続や死後の存在を明らかにする物理的な証拠を通じて、未来に関するあらゆる疑問を晴らしてくれます。余りにも明らかであるためそうした証拠は大きな喜びをもって受け止められます。

そしてそれ以降、地上における生活はより良い生活へと導く通り道でしかないのだということを知って、再び信じることができるようになります。地上における労働は無駄にはならず、聖なる愛情はどんな希望も引き裂くことができないのです(→第四章 18、第五章 21)。


六十三、<祈り>神よ、「〇〇」の霊のために私が送る祈りを、どうか慈悲深く受け入れてください。永遠の幸福への道を歩むことが容易になるよう、神の灯りを彼に見せてあげてください。善霊が私の言葉と私の思いを彼のもとへ伝えてくれることをお許しください。

 地上に居る間、あなたは私にとって大変大切な存在でした。私の愛情の新たな証を捧げるために、あなたを呼んでいる私の声を聞いてください。神は私よりも先にあなたを自由にされましたが、そのことを前に、私は利己的になれず、不平を言うことはできません。

なぜなら、さもなければ、あなたにもっと地上の苦しみや罰を受けさせることを望むことになってしまうからです。ですから先にあなたが行ってしまったより幸せな世界で私たちが再び一緒になる時を、甘受して待ちます。

 私たちの別離は一時的なもので、それがどんなに私にとって長く感じられようと、神によって選ばれたものに約束された永遠の幸せの時に比べればその時間はなきに等しいのです。

あなたの善意により、熱望されるときの到来を私が遅らすようなことをしないように、また、私が地上の牢から解放された時、あなたに会えない苦しみを味わうことが無いようにしてください。

 おお。あなたと私の間には、あなたを私の目には見えなくしている物質的なベールが存在しているだけで、あなたは私の横に来ることができ、昔からそうであるように私を見、私の声を聞くことができ、私があなたのことを忘れないのと同じようにあなたも私のことを忘れず、

私たちの心がいつも行き交い、あなたの思考はいつも私について来てくれ、私を助けてくれるということを確信することは、何と甘く、何と心をなごませてくれることでしょうか。神の安らぎがあなたとともにありますように。

 
祈りを求める苦しむ魂への祈り
六十四、<序文>
祈りが苦しむ霊をどれほど楽にするかを理解するには、すでに説明した通り、祈りが霊に対してどのように作用するのかを知る必要があります(→第二十七章 9、18-23)。その真実をより深く認識している者は、無駄に祈っているのではないという確信から、より献身的に祈ることができます。


六十五、<祈り>寛大で、慈悲深い神よ、私たちの祈りを求める全ての霊、特に、「〇〇」のもとまで、あなたの善意が行き届きますように。

 善を行うことのみに従事している善霊よ、私とともに彼らを楽にするための仲立ちとなってください。彼らの目の前に希望の光が輝き、彼らを至福の家から遠ざけている彼らの不完全性を、神の光が明るく照らしてくれるようにしてください。

彼らの進歩の速度を速めるために、後悔と浄化しようとする意欲によって彼らが心を開くようにしてください。彼らの努力によって試練の時間は短縮されるのだということを、彼らに理解させてあげてください。

 神がその善意により、彼らに善い決意を保ち続ける力を与えてくれますように。

 慈悲を思いださせるこれらの言葉が彼らへの罰を和らげ、彼らの幸せを望み、同情する者が地上にいるのだということが、彼らに示されますように。


六十六、<別の祈り>神よ、あなたの愛と慈悲の恵みを、宇宙にさまよう霊の間にも、私たち人間の間にも、あらゆる苦しみを持つすべての者にちりばめてください。私たちの弱さを憐れんでください。

あなたは私たちを間違いを犯しやすく創られましたが、同時に悪に抵抗し、克服する能力を与えてくれました。悪への傾向に抵抗しきれず、また悪の道を進んでいる者すべてにあなたの慈悲が届きますように。善霊が彼らを取り囲みますように。

あなたの光が彼らの目に映り、その光の生き生きとした温かさに引かれ、あなたの足元までやって来て、謙遜、後悔、服従の念にひれ伏すことができますように。

 慈悲の父よ、地上での試練においてそれに耐える力が十分でなかった私たちの兄弟のために、同じことをお願いいたします。神よ、あなたは私たちに荷を負わせましたが、それはあなたの前でしか下ろしてはいけないものです。しかし、私たちは弱く、旅の中でしばしば勇気を欠いてしまいます。

決められた時を待たずに仕事を放棄してしまった怠惰なしもべたちに同情してください。あなたの正義が彼らをいたわり、善霊が彼らに安らぎ、慰安、未来への希望をもたらすことを許してくれますように。赦されるであろうという兆しは、魂を補強してくれます。

神よ、途方に暮れた罪ある者たちにその兆しを見せてあげてください。その希望に支えられ、その過ちと苦しみの大きさと同じだけの大きな力を吸い込み、過去を償い、未来への準備をすることができますように。


 他界した敵への祈り
六十七、<序文>私たちの敵に対する慈善の行いは、その敵が他界した後も続けなければなりません。

彼らが私たちに対して行ってきた悪は、私たちにとっての試練であって、それを有益に利用することが出来ていたなら、私たちの進歩にとって良い機会であったはずです。

私たちに勇気、甘受の気持ち、慈善、攻撃を忘れる気持ちを手に入れさせてくれたように、単なる物質的な苦しみよりも、もっと有効な試練であったかもしれません(→第十章 6、第十二章 5,6)。


六十八、<祈り>主よ、「〇〇」の魂を私よりも先に呼ばれたのは、あなたの満足によるものです。彼が私に対して行った悪や、彼が私に抱いていた私に対する悪意をお赦しください。この世の幻想に惑わされなくなったいま、彼がそれらのことを後悔することができますように。

 神よ、あなたの慈悲が彼の上にもくだり、彼の死を喜ぶ気持ちを私から遠ざけてください。もし、私が彼に対して過ちを犯してしまったら、私も彼が私に対して犯した過ちを忘れるように、どうかお赦しください。


 犯罪者への祈り
六十九、<序文>もし、祈りの効果がその長さに応じて変わるのであったなら、清く生きた者よりも罪の重い者の方が祈りを必要としているのですから、長い祈りは、より罪の重い者のためにとっておかなければならないはずです。

犯罪者への祈りを拒否することは慈善の欠如であり、神の慈悲を忘れていることになります。ある罪を犯したからといって、犯罪者を無益な者と決めつけることは、神の正義を勝手に判断していることになります。


七十、<祈り>主よ、慈悲なる神よ、たった今地上を後にしたこの犯罪者の受け入れをどうか拒まないでください。人間の正義は彼を罰しましたが、彼の心の中に後悔の念が浸透していないのであれば、あなたの罰から免れることはできません。

 彼の罪の深さを見えなくしている目隠しを、彼の目から外してあげてください。後悔することによって、あなたの偉大なる保護を受け、その魂が苦しみの緩和に値することができますように。

私たちの祈りや善霊のとりなしが、彼に希望と慰安をもたらしますように。彼の悪行を新たな人生の中で改めようとする望みを抱かせ、辛抱しなければならない新しい戦いに負けてしまわないように、彼に力を与えて下さい。

 主よ、彼にあなたの慈悲をお与えください。


 自殺者への祈り
七十一、<序文>人類には決して自分の生命を放棄する権利はありません。神のみに、適当であると判断された時、地上の牢から人を連れだすことが許されているのです。

神の正義は、状況に応じてその厳格さが緩和されることもありますが、人生の試練から逃れようとした者に対する厳しさは保たれます。自殺者は、刑期を終えることなく、牢から抜け出した囚人のようなものです。

再び捕らえられた時には、より厳しく罰せられます。現世の惨めさから逃れようと決断し、より大きな不幸にはまってしまう自殺者にも、同じことが当てはまります(→第五章 14とそれに続く項)。


七十二、<祈り>神よ、自分から生命の日数を短縮し、あなたの法を破った者を待ち受ける運命がどのようなものであるのかを私たちは知っています。しかし、あなたの慈悲は無限であることも知っています。どうか「〇〇」の魂にあなたの慈悲を差しのべて下さい。

試練が終結するまで待つための勇気が欠如したため、いま彼が経験している苦しみの辛辣さが、私たちの祈りと神の憐れみによって和らげられますように。

 不幸な者を救援する任務を負った善霊よ、彼をあなたの保護のもとに置いてください。彼の犯した罪の重さを感じさせてあげてください。あなたの救援によって、彼の過ちを改めるために立ち向かわねばならない新たなる試練を甘受し、耐え抜く力が与えられますように。

再び彼に悪を強要し、苦しみを長引かせることによって、未来における償いの結果を失わせることになる悪い霊を、彼の側から遠ざけてください。

 私たちの祈りを誘った不幸の持ち主であるあなたにも、あなたの苦悩を短縮させる私たちの同情をあなたが願い、よりよい未来への希望を自分の中に生み出すことができるように祈ります。神はあなたの手の中に存在します。神の善意を信じてください。

神の胸は固くなった心に対しては閉ざし続けますが、すべての後悔に対しては開かれます。


 後悔する霊への祈り
七十三、<序文>祈りを求める苦しむ霊や後悔する霊を、悪い霊の範疇に入れてしまうのは正しいことではありません。

彼らは悪い行いをしたかもしれませんが、自分の過ちを知り、嘆き悲しんでいるのですから、もう悪くはないのです。彼らは不幸なだけなのです。そのように自覚する者たちは、遠からずして相対的な幸せを感じはじめることができるようになります。


七十四、<祈り>生きる者、他界した者を問わず、罪を犯した者の誠実な後悔を聞きいれてくれる慈悲深い神よ、今までは悪に喜びを感じていたものの、これまでの自分の過ちに気づき、善の道に向かおうとしている霊がここにいます。神よ、どうか放蕩息子のように受け入れ、赦してあげてください。

 彼はいままで善霊の声を聞きいれようとはしませんでしたが、いまでは聞こうとしています。神によって選ばれた者の幸せに届くまで、浄化しようという意欲を持ち続けることができるように、そうした幸せを垣間見ることができるようにしてあげてください。

彼の善き決断を支え、悪癖に抵抗する力を与えてあげて下さい。「〇〇」の霊よ、あなたのうちなる変化を祝福し、あなたを助けてくれた善霊に感謝します。

 以前、悪に喜びを感じていたのは、善を行うことの喜びの気持ち良さを知らなかったからであり、また、その喜びを得ることを望むには自分は低すぎると感じていたからです。しかし、善の道に一歩踏み出した時から、あなたの目には新しい光が輝いています。

あなたの心の中に入ったいままで知らなかった幸せと希望を享受し始めたのです。神は後悔する罪人の声を必ず聞きいれてくれます。神を求める者の誰をも拒否することはありません。

 神の恵みの中に再び完全に入るためには、今後悪を働かないだけではなく、善を行うことに努め、なによりも、行ってきた悪を償わなければなりません。そうすれば神の正義にかなうことになります。一つ一つの善い行いが過去の過ちを消していくことになります。

 すでに第一歩を踏み出しているのです。これからは道を進めば進むほど、その道はやさしく、楽しくなるでしょう。だから、根気よく続けてください。いつか善霊や幸福を享受する者の一人として教えられる栄光を得る日が来るでしょう。


 強情な霊への祈り   
七十五、<序文>悪い霊とは、いまだに後悔することを知らない霊のことです。彼らは悪を楽しみ、それによって何ら苦悩を感じることがないのです。強いとがめに対しても鈍感で、祈りを拒否し、多くの場合、神の名を汚します。

強情になってしまったこのような霊は死後、生きていた間に我慢した苦しみの復讐を人間に対して行おうと、生きていた間に自分に対して悪を働いた者を、憑依によって、または、あらゆる有害な影響を与えることによって、憎み、つきまといます(→第十章 6、第十二章 5,6)。

 不道徳な霊は、二つの分類に明確に区別することができます。単に悪い者と偽善的なものといった分け方です。善に導くには後者より、前者の方が限りなく容易です。前者に分類される者は、人間の場合がそうであるように、殆どの場合、荒々しく野蛮な性格をしています。

計算してというよりも、本能的に悪を行いますが、自分のある状態を越えようとはしません。しかし、彼らの中には、潜在的にいずれ発芽する必要のある種子が存在しており、それはほとんどの場合、忍耐や慈悲と結びついた固い意志や、忠告、理性、祈りによって発芽させることが可能となります。

霊媒力を通じて彼らが示す神の名を書くことの難しさは、本質的な恐れのしるしであり、彼らの内なる本心が神の名を書かせようとしないのです。

その点において、彼らは自分を変えることができ、私たちも彼らに対してあらゆる希望を抱くことができるのです。彼らの心の弱点を見出すことさえできればよいのです。

 偽善的な霊はほとんどの場合、知性的ですが、心の中にはほんの僅かな感受性さえも持っていません。なにも彼らを感動させることはできません。

信用を得るためにあらゆる善い情燥をまね、自分たちを神聖な霊だと思い込んでしまう愚かな者に出会うと喜び、そうした者を好きなように支配することになります。神の名は、彼らに恐れを感じさせるにはほど遠く、逆に自分たちの醜行を隠すための仮面としてそれを使います。

目に見えない世界では、目に見える世界と同じように、偽善者は、誰にもそれを疑わせることなく闇の中で行動するので、最も危険な存在です。見せかけだけの信仰を持ち、誠実な信仰を決して持つことはありません。


七十六、<祈り>主よ、いまだ無知の闇の中にあり、自分を見失っている不完全な霊、特に「〇〇」の霊をあなたの善意にあふれる眼差しで見てあげてください。

 善霊よ、人間を悪に導き、憑依によって苦しめることは、自分の苦しみを長引かせることになるのだということを彼に理解させるために、私たちを助けてください。あなたが感じている幸せの例が、彼に取って勇気づけとなるようにして下さい。

 いまだに悪に喜びを感じている霊よ、あなたのために捧げる祈りを聞きに来てください。その祈りは、あなたが悪を働こうと、私たちがあなたのための善を望んでいることの証です。

 悪を行い続けながら幸せになることはできないのですから、あなたは哀れです。その苦しみを避けることがあなた自身にかかっているのに、なぜあなたは苦しみの中にとどまろうとするのですか。あなたを取り囲む善霊を見て下さい。

彼らは何と幸せそうなことでしょう。あなたも同じ幸せを享受することができたら素晴らしいではありませんか。

 あなたは、それは不可能だというかも知れません。しかし、望む者にとって不可能なものは何もなく、神は、そのすべての被造物にそうしたように、あなたにも善と悪、つまり幸せと不幸のどちらかを選ぶ自由を与えたのであり、誰も悪を働くことを強いられているのではありません。

悪を働こうとする意志があるのと同様に、善をしようという意志を抱き、幸せを得ることが可能なのです。

 あなたの目を神の方向に向けてください。神の方へあなたの心を一時運べば、神の光はあなたを照らしてくれるでしょう。私たちとともに次の簡単な言葉を唱えてください。

「神よ、私は後悔しています。私をお赦しください」。自分を省み、悪を行う代わりに、善を行おうとすれば、すぐに神の慈悲があなたにも注がれ、語りようのない良い気分が、あなたの体験している苦痛にとって変わるでしょう。

 善の道を歩み始めることさえできれば、残りを歩み続けるのはあなたにとって容易なことでしょう。そうすれば、幸せの時を自分のせいでどれだけ逃してきたかを知ることができるでしょう。

しかし、希望に満ち溢れた広大な未来があなたの前に開け、あなたの惨めな過去のことは忘れさせてくれるでしょう。混乱と道徳的な拷問がもし永遠に続くとすれば、それはあなたにとって地獄にいるのと同じことです。

どんなに高く支払ってでも、その拷問を止めさせたいと思う日がやってくるでしょう。しかし、その日が遅くなればなるほど、止めさせることは難しくなります。  

 今いる状態に永久にいる等と信じてはいけません。そのようなことはあり得ないことです。あなたの前には二つの見通しがあります。今まで苦しんできたよりもさらにずっと苦しむ見通しと、あなたを取り囲んでいる善霊と同じように幸せになるという見通しです。

一つ目の見通しは、あなたが強情を張り続けるのであれば避けることはできませんが、あなたに小さな努力の意志さえあれば、あなたがいる苦しい状態から抜け出すことができるでしょう。一日遅れることは、あなたの幸せを一日逃すことになるのですから、急ぐことです。

 善霊よ、こうした言葉が、このいまだに遅れている魂にこだまし、神に近づくための助けとなるようにして下さい。イエスキリストの名において、悪い霊に対し、偉大なる力を与えて下さいますようお願いいたします。
      
    
 5、 病人、憑依に悩まされる者への祈り

 病人への祈り
七十七、<序文>病気は地上における試練や苦しみの一部です。私たちの物質的な特徴である粗悪さや、私たちの住む世界の劣等に固有のものです。行き過ぎた情熱やあらゆるものの過剰は、私たちの身体の組織の中に不健全な状態をつくりだしますが、それは時々遺伝によって伝えられます。

物質的にも道徳的にもより進んだ世界では、人間の組織はより浄化され、より非物質的で私たちと同じような病気にはかからず、感情の荒廃によって、身体が知らないうちに浸食されて行くようなことはありません(→第三章 9)。ですから、私たちの劣等が、置かれた環境から来る結果に苦しむことを別の場所へ移されるまでは、甘受することが必要です。

だからといって、そのことは、私たちが現状を改善しようとして戦うことの妨げとなってはなりません。しかし、私たちの努力にもかかわらず、改善することができない時、甘受を持って一時的な悪に耐えることを、スピリティズムは私たちに教えてくれています。

 私たちの身体の苦しみが和らぎ、治癒されることを、神が望まなかったのであれば、私たちの手の届くところに治療の手段を与えはしません。神の配慮は、私たちの保護本能として示されており、私たちの義務とは治療の方法を探し、その方法を応用することであるということを示しています。

 科学によって作り上げられた普通の薬による治療の他に、磁力の発見はフルイドの作用の力を教えてくれ、その後、スピリティズムはもう一つ別の力である、祈りの作用による治療の力を、霊媒力を通じて教えてくれました(→第二十六章 10「治療霊媒の話」)。


七十八、<祈りー病人が唱える祈り>主よ、あなたはすべての正義であり、私はそれに値したがために、あなたは私が病気になることを許しました。なぜなら、動機なしに神は人を苦しめることはないからです。

しかしながら、あなたの慈悲のもとに、私は自らを治療しようとします。あなたの気に添うことであれば、どうか私の健康を回復させてください。私はあなたに感謝いたします。

もしその反対に、私は苦しみ続けなければいけないとしても、同じようにあなたに感謝いたします。あなたが行うすべての目的は、あなたの創造物のために善でしかないのですから、不平を言うことなく、神の定めに従います。

おお、神よこの病気が私にとって有益な注意となり、私が自分自身を試そうとするようになりますように。病気を過去の報いとして、また、私の信仰とあなたの聖なる意志への服従のための試練として受けとめます(→第二十八章 40,41)。


七十九、<祈りー病人への祈り>神よ、あなたの意志は計り知れません。あなたはその英智により、「〇〇」に病を送りました。彼を同情によって見守り、彼の苦しみを終わらせてあげてください。

 全能なる神の使いである善霊よ、彼を楽にしてあげたいという私の望みを支持してくれることを、私はあなたにお願いいたします。私の思いが、彼の身体に有益な慰安の芳香油のように、また彼の魂に慰めとして注がれるようにしてください。

 彼に忍耐と神への服従を感じさせてください。キリスト教徒の甘受の気持ちによって、痛みに耐える力を与え、いま起きているこの試練の結果を無駄にすることがないようにして下さい(→第二十八章   57)。


八十、<祈りー治療する霊媒が唱える祈り>神よ、私がそれだけのことに値しないにもかかわらず、私を使うことを望まれるのであれば、私はあなたの力を信じているので、あなたの意志がそうである以上、私はこの苦しみを治療することができるでしょう。しかし、あなたなしにはなにもできません。

善霊のその健全なフルイドを私にしみ込ませ、それを私がこの病人に伝えることができるようにし、また、フルイドの純度を低下させる可能性のある自尊心やエゴイズムによるどんな考えも私から遠ざけてください。



 憑依に悩まされる者への祈り
八十一、<序文>憑依とは悪い霊がある人に対して不断の作用を働くことです。それには、外見的には感知できるような兆候のない単なる道徳的な影響から、精神的、肉体組織的な能力を完全に混乱させるようなものまで、さまざまな性格が見られます。

憑依はいかなる霊媒力をも妨げます。自動書記、あるいは記述の霊媒力においては、ある特定の霊だけが他の霊には筆記させまいとすることによって憑依が起こります。

 地球に住む人間の道徳的劣等の結果、悪い霊は地球の周りに増えていきます。その悪業はこの世で人類が耐えている苦しみの一部をなしています。憑依は、病気と同じように、また、人生のあらゆる苦悩と同じように、試練、もしくは報いとしてとらえ、その状況を受け入れなければなりません。

 病気が、外部からの有害な影響を受けやすくする肉体的不完全性からくるように、憑依は、悪い霊の影響を受けやすくする道徳的不完全性から常に起こります。病気から身を守るためには肉体を強化します。憑依がおきないように保証するには魂を強化することが必要です。

このことから、憑依に悩まされる者は、自分自身の回復のために、自分で努力をしなければならないということになりますが、ほとんどの場合、他の人に助けを求めなくとも、自分の努力だけでとり憑いた霊から解放されることができます。

しかし、憑依がとり憑かれた者を征服したり、支配するところまで悪化してしまった時には、とり憑かれた者は自分自身の意欲や自由意思を失ってしまうため、他人の助けが必要となります。

 憑依はほとんどの場合、霊の復讐の行為であり、多くの場合、その原因はとり憑く者ととり憑かれた者との前世における関係にあります(→第十章 6、第十二章 5,6)。

 重傷な憑依の場合、健全なフルイドの作用を無効にし、それらを追いはね返す有害なフルイドがとり憑かれた者をとりまき、しみ込んでいます。このフルイドからとり憑かれた 者を解放することが必要です。しかし、悪いフルイドは、同種の別のフルイドによって追い払うことはできません。

治療する霊媒が病気を治す時に行うように、悪いフルイドを、ある種の抵抗作用を生む善いフルイドの助けを借りて追い払う必要があります。これは機械的作用と呼ぶことができますが、それだけでは十分ではありません。

なによりも、道徳の優位性のみが与えてくれる権威によって語りかけ、知性に働きかけることも必要です。道徳性に優位であればあるほど、権威も強大になります。

 とり憑いた霊から確実に解放されるためには、それだけでは不十分で、不道徳な霊の悪いたくらみをあきらめさせることが必要になります。道徳的な教化を目的として、特定の人を呼びおこし、うまく教えを差し向けることによって、後悔と善への欲求に目覚めさせることが必要なのです。

そうすれば、生きた者を解放させることと、不完全な霊を改心させるという二つの満足を得ることができます。

 とり憑かれた者が自分の状況を理解し、その意志または、祈ることにより協力をしてくれるのであれば、解放の仕事はより容易になります。とり憑かれた者が嘘つきの霊にそそのかされ、支配する者の性質を錯覚し続け、その神秘性を楽しむのであればその逆になります。

そうした場合、解放を助けるどころか、とり憑かれた者自身がどんな救援をも受け付けなくなってしまうのです。それは、魅惑されてしまった状態であり、最も暴力的な征服よりも常に反逆的です。(『霊媒の書』第二十三章)。

 すべての憑依において、とり憑く霊から解放されるための最も強力な手段は祈りです。


八十二、<祈りー憑依に悩まされる者が唱える祈り>
 神よ、私にとり憑いた悪い霊から、善霊が私を解放してくれるようにして下さい。もしそれが私の過去において彼に対して行った悪の結果としての彼の復讐であるならば、神よ、私が自分のせいで苦しむことができるようにして下さい。

私の後悔があなたの赦免と私の解放に値するものとなるようにして下さい。しかし、何が原因であれ、彼に対するあなたの慈悲をお願いいたします。神よ、彼が進歩にたどり着けるよう助け、悪の行いを避けることができるようにして下さい。私は、自分の役割として、彼の悪には善で報い、彼をより善い感情へと導くことができますように。

 しかし神よ、不完全な霊の影響を受けやすくするのは、私の不完全性であることを知っています。その不完全性を自覚するのに必要な光をお与えください。なによりも、私の欠点について私を盲目にする、私の自尊心を遠ざけてください。悪い霊に支配されてしまうとは、私は何と恥じるべき者なのでしょうか。

 神よ、私の虚栄心へのこの一撃が、私の未来のための教えとなるようにして下さい。今後、悪い影響からの攻撃に対して防壁を築くことができるよう、善、慈善、慎ましさの実践によって、浄化しようという私の決断を、その教えが補強してくれますように。

 神よ、この試練を、忍耐と甘受をもって耐えるだけの力を私にお与えください。その他の試練と同様に、私が不満をこぼさず、その試練の成果を失うようなことがなければ、私の進歩に結びつくのだということを理解しています。

なぜなら、この試練に耐えることは私の神への服従を示すことであると同時に、不幸な兄弟が私に対して行った悪を赦すという慈善を行う機会でもあるからです(→第十二章 5,6、第二十八章 15とそれに続く項、46,47)。


八十三、<祈りー憑依に悩まされる者への祈り>
全能なる神よ、「〇〇」をとり憑く霊から解放させてあげることができる力を私にお与えください。

もし、御心の中にこの試練を終わりにすることがあるのであれば、必要な権威をもってこの霊に話す機会を私にお恵みください。

私を助けてくれている善霊よ、そして「〇〇」の守護霊よ、あなたたちの助けを私にお与えください。彼をとりまいた不純なフルイドから彼を自由にするのを助けてください。全能なる神の名において、この人を苦しめる悪い霊を遠ざけるようにお願いします。



八十四、 <祈り・・・とり憑いた霊への祈り>
 永遠の善である神よ、「〇〇」にとり憑いた霊にあなたの慈悲が及ぶことを嘆願いたします。彼が神の光に気づき、いまたどっている道の虚偽を知ることができるようにして下さい。善霊よ、悪を行うことによってすべてを失うことになり、善を行うことによってすべてを得ることができるのだということを、彼に理解させるのを助けてください。

「〇〇」を苦しめることに喜びを感じている霊よ、神の名において話す私のことを聞いてください。

 熟考してみれば、悪は善に導く事はできず、あなたは、あなたのいかなるくわだてからも「〇〇」を守ることができる神や善霊より強くなることはできないということを理解することができるでしょう。

神がそうしなかったのは、「〇〇」には苦しむ試練が与えられたからです。しかし、この試練が終わった時には、彼らは「〇〇」に対して行動を起こそうとするあなたを妨げることになるでしょう。

あなたが行う悪は、「〇〇」に損害を与える代わりに、「〇〇」の向上のためになり、「〇〇」をより幸せにすることでしょう。このように、あなたの悪意は無駄になり、しかもそれはあなたにとって致命的となります。

 あなたよりも強大な力を持つ全能なる神、優れた霊、その使者たちは、解きたいときにこの憑依を解くことができ、それによってあなたの強情さは至上の権威によって破壊されることになります。

しかし、神は善であるからこそ、憑依があなた自身の意志によって解かれることの価値をあなたの手に委ねたのです。それはあなたに与えられた許しであり、それをうまく利用しないと嘆かわしい結果に苦しまなければならず、その場合、大きな罰や大きな苦しみがあなたを待っているのです。

あなたのことをすでに赦し、あなたのために祈るあなたの憑依の犠牲者は、神に解放してもらえるようになるため、あなたは彼の慈悲心と祈りを嘆願せざるを得なくなるでしょう。

 だから、まだ間に合う間によく考えてください。なぜなら、他のすべての反抗的な霊と同じように、神の正義はあなたにも下されることになるからです。今行っている悪は必ずや終わりが来るものであるのに、もしあなたが頑固に固執し続けるのであれば、あなたの苦しみは止むことなく増していくでしょう。

 あなたが地上にいた時、大きな善を、小さい一時の満足のために犠牲にすることがばかげたことであるとは考えませんでしたか。霊として存在するいま、同じことが言えます。あなたがいま行っていることでなにを得ることができるのでしょうか。

他人を苦しめるという悲しい喜びは、いくらあなたがそうではないと主張しようとも、あなたを不幸にすることの妨げとはならず、あなたの未来において更に不幸をもたらします。

 それとは別に、あなたが何を失っているかをみてください。あなたを取り囲む善霊を見て、彼らの幸せがあなたにとって望ましいものであるか言ってみて下さい。あなたが望むのであれば、幸せはあなたのものにもなります。

そうなるには何が必要なのでしょうか。神のその助けを嘆願し、悪の代わりに善を行うのです。あなたたちが突然変化できないことはよく知っています。しかし、神はあなたに不可能なことは望みません。あなたの意志だけが望まれるのです。だから、やってみて下さい。

私たちはあなたを助けます。そうすれば、わたしたちはやがてあなたを悪い霊として扱うのではなく、あなたのために後悔する霊への祈り(→第二十八章 73)を唱えることができるようになるでしょう。そして、いずれあなたをよい霊として数えることができるようになるのです(→第二十八章 75,76「強情な霊への祈り」)。


<解説>重篤な憑依の治療には多くの忍耐、勤勉、献身を必要とします。また多くの場合、とても反抗的で、強情で悪賢い霊を善に導くには、そうした霊の中には最も反抗的な者もいることもあって、技術や能力も必要です。ほとんどの場合、状況に応じて進めるべきです。

しかし、霊がどのような性格であっても確実なのは、強迫や強制によって得られるものはなにもなく、どのような影響も治療者が道徳的に上位であるか否かによります。

同様に経験によって確かめられ、論理的に実証されているもう一つの真実は、厄払い、呪文、神聖な言葉、魔除け、お守り、外見上の儀式など、あらゆる物質的なしるしはまったく無力であるということです。

非常な長期にわたる憑依は病理学上の混乱の原因となり、同時に又は連続して、肉体機能の回復のため、磁気的または医学的に治療することが必要です。

原因が遠のいても、その結果を取り除く必要性がまだあるのです(『霊媒の書』第二十二章 憑依について、『レビュー・スピリテ』1864年2月号、1865年4月号 憑依の治療の実例)。


FEB版注1
 いくつかの聖書の翻訳では「私たちを誘惑に引き込まないでください」とありますが、その場合、誘惑というものが神からくるような意味にとらえられてしまい、神が自ら人類を悪へ引き込もうとするかのようになってしまいます。明らかにそれは神への冒涜であり、神とサタンとを同等にしていることになり、そうした祈りがイエスからでたものとは考えられません。しかし、一般的に信じられている悪魔の行為という考え方とは一致しています(『天国と地獄』第十章「悪魔」)

FEB版注2
使徒伝、第二章十八節ー「その時には、私の男女のしもべたちにも私の霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう」ーとヨエル書、第二章、二十九節ー「その日私はまた、わが霊をしもべ、はしためにそそぐ」ーを比較すると、新約聖書が書かれた時、預言という言葉の意味に違いが生じているのが分かります。すなわち、新約聖書においては、神のしもべではなく、人のしもべ(男女のしもべ)が預言をしていることが記されています。

 こうした意味における預言が、今日、私たちの間に見られるのです。なぜなら、霊媒性があらゆる階級の人々において見られ、使徒伝にあるような聖職者(神のしもべ)だけに神の通信が伝えられているのではないからです。ーFEB1947年


FEB版注3
『Reformador』Zeus Wantuil / Francisco Thiesen 第一巻 Ⅲ 百頁『Revue Spirite』(アラン・カルデック著1868)の記載参照。-FEB



  スピリティズムの教義の要約

「生まれ、死に、再び生まれ、さらに進化し続ける。それが法なのである」
ーアラン・カルデック

 スピリティズムの教義はこの言葉に要約されています。宇宙のあらゆる命の本質とは、物質的な存在ではなく、それに働きかける非物質的存在、すなわち霊的存在(霊魂)です。そして、その霊的存在とは永久不滅であり、永久に進歩し続けるのであるとスピリティズムでは考えます。

 私たち人間も、その法のもとに存在しています。つまり、私たちの命とは、何十年かに及ぶ肉体の寿命によって限定された存在ではなく、私たちの個を成している霊魂の命であり、それは肉体が滅んだ後も霊的世界に存在し、未来において再び新たな別の肉体を授かり、物質的世界に生まれてくるのです。

 この法により、スピリティズムは「死」の概念を終焉としてではなく、永遠の存在の中で私たちが経験する変化としてとらえ、私たちの霊的な目標を、死を超えた先に置くことを教えているのです。

 スピリティズムの教義において「人生は一度だけではない」のです。いま生きる私たちは、過去においていろいろな経験をすでにしており、また未来において別の経験をすることになります。

しかし、だからといって、いまの人生を軽んじていいのではなく、反対に、現世にはいまでしか経験できないことがあるため、特別な意味を持つことになるのです。自分の未来の目標のために、現世に最善を尽くす必要があるのです。

 こうした法が支配する宇宙には秩序があります。人類の科学は、その秩序の解明のために進歩し続けています。スピリティズムの教義は、その秩序のある宇宙を次のような原則によってとらえています。

➀神の存在ー神とは万物の第一の原因、至上の英知である。原因(神)なくして結果(宇宙とそこにある物質・非物質的存在)は存在しない。また神は完全なる正義、善である。

②霊魂の不滅ー神によって創られた霊魂とは非物質的存在である。知性、愛、自由意思を持っており、その個性は不滅である。個々の霊が分裂したり、複数の霊が一つの霊になったるすることはない。

③再生(リインカーネイション)ー霊魂は単純、無知に創られるが、自らの意志により、進歩しながら自分の運命を創っていく。霊魂は進歩するために、物質的世界に生まれて経験を積む必要があるが、それは一度だけでは不十分であり、幾度も繰り返す。

霊魂は同一でも別の肉体を受け、物質的世界に生まれてくることを再生(リインカーネション)と呼ぶ。

再生によって霊魂が遂げる進歩とは、知性的進歩と道徳的進歩である。私たちは普通、過去における人生の記憶をはっきり持ってはいない。これは、一時的に過去を忘れさせてくれている神の正義の結果であり、過去を忘れることによって、失敗を恐れず、新しい人生に挑むことができるのである。

④霊とのコミニュケーションの可能性ー霊とは、再生の合間に霊界に存在する肉体を失った人々であり、人間は、霊媒性と呼ばれる知的能力により相互にコミニュケーションをしたり、影響を与えたりすることが可能である。

 こうした原則をもとに私たちの人生を捕えると、世の中の見え方は違ってきます。「人はみな、幸せになるために生きている」──これは誰から教わらなくても信じていることです。しかしそれに反して、この世にこれほど多くの不幸が存在するのは、それぞれの人間の存在の目標が違っており、それがみな違った方向を向いているためにぶつかり合っているからではないでしょうか。

 スピリティズムの教義は、こうした人間に対して、その目標を据えるべき位置を、霊界からの働きかけによって示そうとしてくれるものなのです。幸せになることが私たちにとっての「救い」であるならば、スピリティズムは「慈善なしには救われません」と教えています。

つまり、何を信じるか、なにを崇めるかということが人を幸せにするのではなく、同じ目標に進歩しようとしている人間同士が、お互いに助け合い、手を取り合いながら生きる以外、幸せになる道はないのだということです。

 こうした意味で、スピリティズムの教義は人々に兄弟愛と平和、赦しを自らの行動によって示したイエスキリストの教えを受け継いでいます(→第一章 5-7)。イエス・キリストを教会の創始者としてではなく、人類の生き方の模範として位置づけ、そこに学ぶことによって、私たちの生き方を見つめ直す機会を与えてくれるのです。

 霊魂や霊媒性といった目に見えない世界を扱うために、モーゼの時代からそうであったように、人はそれを誤って用いる危険性を多くはらんでいます。しかし、スピリティズムの教義では、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい(マタイ第十章 8)」(→第二十六章)という教えによって、人と神との関わりにおいて、物質的な対価のやり取りはすべきでないとしています。




  家庭の福音を行いましょう
 たった一人で生まれてくる人はいません。人は、誰もが社会的にその他の人と関わり合って生きています。そして、それは簡単なことではなく、さまざまな困難を乗り越える必要があるということです。

 家庭とはそうした社会の最小単位です。そこは肉体的成長の基盤となるところですが、同時に霊的成長の基盤となるところでもあります。肉体のためにはみな食事をします。では、霊のためには何をしているでしょうか。

「家庭の福音」とは、家族が集まり、参加者が一緒に道徳を学ぶことによって、霊的な糧を受け取ろうとするための家族のミーティングです。本書を用い、次のように行えば、私たちの霊の成長、家族の平和、社会で人とうまくやって行くための力を得ることができるでしょう。

その家庭の信仰を捨てる必要はありません。家族全員で共通の道徳のよりどころを明確にすることで、さらに明るい光を家に灯すことができるでしょう。


 家庭の福音の行い方
1、週に一度、家族が集まれる日と時間を決めましょう。ミーティングは三十分から一時間程度です。参加したく無い人を無理やり誘っても逆効果です。それぞれの自由意思を尊重しましょう。

2、心を落ち着かせ、ミーティングを始めるにあたり、代表がその家族の信仰に応じて祈り、家庭の平和と善霊たちからの加護をお願いします。この時、参加者の人数分のコップを用意し、その中に飲用水を入れておきましょう。

3、『スピリティズムによる福音』を開きます。順序立てて読み進むのでも、気の向いたところを開くのでもかまいません。開いたところから、時間に応じて、何項目か声に出して読み上げます。

4、読んだ内容について、ミーティングに参加したメンバーは、それがどんなことを言っているのかを説明したり、思ったことを他の人たちに話したりします。日常生活での出来事にあてはめたり、疑問を投げかけたりするのでも結構です。他の人たちはそれについてコメントしてみましょう。

5、反対意見があっても、議論するのではなく、それぞれの視点を尊重し合いましょう。

6、一通りコメント終わったら、再び心を落ち着け、祈ります。神への感謝、善霊たちからの加護、家族のメンバーの健康や幸せ、世界中の不幸な人たちに幸せが訪れることなどをお願いします。(祈りについては→第二十八章)。また、2で用意した水の中に、天から光が注がれることをイメージし、霊的な力や薬がもたらされることをお願いします。

7、祈りが終わったら、感謝の気持ちとともにコップの水を飲みましょう。


 最初のうちはなかなか時間が守れなかったり、声を出して祈ることが照れくさかったりしますが、できるところから始めれば、やがてうまくいくようになります。説明するのが得意な人もいれば、不得意な人もいます。

子供でも大人が驚くほど、いい理解の仕方をする場合もあります。批判し合うのではなく、善い考え、健全な態度に触れる機会としましょう。