Saturday, October 17, 2026

霊訓〈完訳・下〉

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。






30節

本節の内容
*イースター・メッセージ(一八七四年)キリストに学べ
真の信仰とは
*イースター・メッセージ(一八七五年)“復活”の真意
*キリストの身体とその生涯が意味するもの
*各種祭日の意義(クリスマス、レント、グッドフライデー、イ ースター、ペンテコステ、アセンション)
*イースター・メッセージ(一八七六年)再びキリストの生涯
*三種の“敵”(俗世、肉体、悪魔)
*イースター・メッセージ(一八七七年)再びキリストに学ぶ
*俗世に在りて俗世に超然とせよ
*苦難の時こそ進歩の時


〔霊は何かと祝祭日が好きである。その所為でキリスト教の祝祭日に関する特別のメッセージが数多く寄せられている。一例として三年連続して送られて来たイースターメッセージを紹介しておく。一八七四年のインペレーターによるメッセージに較べると、一八七五年に別の霊がサインしたものが雰囲気も異なり観点も異なる点に気づかれるであろう。〕

〔イースター。一八七四年。前の年の同日にドクターとプルーデンスから送られた通信に言及したところ、次のようなメッセージが書かれた。〕


あの通信が届けられた頃のそなたの心境と現在の知識とを較べれば、そなたの進歩のよき指標となろう。重大なる問題についてその後いかに多くを学び、どれほど考えを改めたかがよく判るであろう。あの頃われらはいわゆる“復活”が肉体の復活ではなく“霊”の復活であることを説いた。遠い未来ではなく死の瞬間における霊の蘇(よみがえ)りの真相を説明した。その時点におけるそなたにとりては初耳であった。が、今は違う。当時理解に苦しんだことについて今は明確な理解がある。イエスの地上での使命と、今その使者を通じて進行中の仕事についても説いた。イエスの真の神性――そなたらが誤って崇拝してきた“主”の本来の偉大さについても説いた。イエス自ら述べた如く、イエスがそなたらと同じ一個の人間であったこと、ただ比類なき神性を体現する至純至高の人間の理想像であったことを説いた。愚かなる人間的神学が糊塗せるイエスの虚像を取り除くことによりて、そこに地上の人間の理想像としての人間イエス・キリストの実像を明らかにすることが出来た。

イエスは肉体を持って昇天したのではなかった。が、決して死んでしまったわけでもない。霊として弟子たちに姿を見せ、共に歩み、真理を説いた。われらも同様のことをする日が来るかも知れぬ。

今そなたが見ているのはこれから始まる新しき配慮――人間が空想し神学者が愚かにも説ける人類の最後の審判者としての“主”の出現ではなく、われら使者を通じての新たなる使命(実は古き真理の完成)、地上への新しき福音の啓示という形による“主”の出現の前ぶれとしての“しるしと奇跡(1)”なのである。すでに地上に進行しつつあるその働きの一環をわれらも担っている。イエス・キリストの指揮のもとに新しき福音を地上にもたらすことがわれらの使命なのである。今はまだその一部しか理解できぬであろう。が、いずれ、のちの時代にそれが神より授けられた人類への啓示の一環であり、過去の啓示の蓄積の上に実現されたものとして評価されることであろう。

このところそなたの精神の反抗性が減り、受容的態度が増したことにより、われらは直接的働きかけが目立って容易となってきた。これに加えて忍耐力と同時に祈りの気持ちと不動の精神をぜひ堅持してもらいたい。われらの目指す目的から目をそらせてはならぬ。今まさに地上に届けられつつある神の聖なるメッセージを繰り返しじっくりと噛みしめることである。進歩の妨げとなる障害物をつとめて排除せよ。もっとも、日々の勤めを疎かにしてもらっては困る。そのうち今より頻繁にそなたを利用する時期も来よう。が、今はまだその時期ではない。そのためにはまだまだ試練と準備とが必要である。友よ、その時期までにそなたは火の如き厳しき鍛練を必要とすることを覚悟せよ。地上的意識を超えて高級霊の住める高き境涯へと意識を高めねばならぬぞ。これがわれらからの復活祭(イースター)のメッセージである。死せるものより目覚め、魂を蘇らせよ。地上世界の低俗なる気遣いより超脱せよ。魂を縛り息を詰まらせる物質的束縛を振り捨てよ。死せる物質より生ける霊へ、俗世的取越苦労より霊的愛へ、地上より天界へと目を向けよ。地上生活にまつわる気苦労より霊を解放せよ。これまでの成長の補助的手段に過ぎなかった物的証拠並びに物理的現象を捨て去り、興味の対象を地上的なものより霊的真理の正しき理解へ向けよ。イエスが弟子たちに申したであろう――「この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ(2)」と。次の聖書の言葉も心の糧とせよ。「汝ら、眠れる者よ、目覚めよ。死せる者の中より起きよ。キリストが光を与えん。(3)」


――私がこの世的なことに無駄な時間を費して来たとおっしゃっているように聞こえますが。


そうは言っておらぬ。たとえ霊的教育を一時的に犠牲にしても、物理的実験等、地上の人間として必要なことは為さねばならぬと言って来たつもりである。が、われらの願いはそうした客観的証拠がもはや必要とせぬ段階においては、そこより霊的教訓の段階へと関心を向けてくれることである。向上心を要求しているのである。そしてそなたに求めることを全ての人間に求むるものである。


〔さらに幾つか質問したあと私は、霊的に向上していくと俗世的な仕事に全く不向きとなり、ガラスケースにでも入れておく他ないほど繊細となる――つまり霊界との関係にのみ浸り切り世間的な日常生活に耐えられなくなるが、それが霊媒としての理想の境地なのかと尋ねた。〕


霊媒には環境も背後霊も異なる別のタイプがある。その種の霊媒にとりてはそうなって行くことが理想であろう。そなたもいずれはそのように取り扱うことになろう。もともとそなたを選んだのはそうした目論見(もくろみ)があってのことである。それ故にこそ、自制心に欠け邪霊の餌食となり易き人間となるのを防がんとして、時間を犠牲にしてきたのである。時間を掛けるだけ掛ければ疑念と困難が薄れ、代わりて信念が確立され、過度の気遣いも必要でなくなり、その後の進歩が加速され、安全性が付加されると考えたのである。焦ったからとてその時期の到来が早まるものではない。たとえ早まるとしても、われらは焦らぬ。が、霊的向上心の必要性だけは、われらの仕事に関わる全ての人間に促してきた。同時に、物理的基盤が確立した以上、こんどは霊的構築の段階に入るべきであることも常に印象づけてきたつもりである。


〔ここで私はかつて述べたことがあることを再度述べた。すなわち、私はあくまでも私の信じる道を歩むつもりであること、世間でスピリチュアリズムの名のもとに行なわれているものの多くが無価値で、時に有害でさえあること、霊媒現象というものはおよそ純粋な福音であるとは思えず、無闇に利用すると危険であるといったことであった。さらに私は、信念が必要であることは論を俟(ま)たないが、私には私なりの十分な信念が出来ていること、これ以上いくら物的証拠を積み重ねても、それによって信念が増すものではないことを付け加えた。〕


そなたの信念が十分に確立されていると思うのは間違いである。信念が真に拡充され純粋さを増した時、今そなたが信念と呼んでいるところの冷ややかにして打算的かつ無気力なる信念とはおよそ質を異にするものとなるであろう。今の程度の信念では本格的な障害に遭遇すれば呆気なく萎(しぼ)むことであろう。まだまだそなたの精神に染み込んでおらぬ。生活の重要素となっておらぬ。ある種の抵抗に遭うことで力を付けることはあろうが、霊界の邪霊集団の強力なる総攻撃に遭えば、ひとたまりもないであろう。真実の信念とは“用心”の域を脱し、打算的分析や論理的推理、あるいは司法的公正を超越せる無条件の“あるもの”によりて鼓舞されたものであらねばならぬ。魂の奥底より燃えさかる炎であり、湧き出ずる生命の源泉であり、抑えようにも抑え難きエネルギーであらねばならぬ。イエスが“山をも動かす(4)”と表現せる信念はこのことだったのである。それは死に際しても拷問に際しても怯(ひる)まぬ勇気を与え、長く厳しき試練を耐え忍ぶ勇気を与え、勝利達成への道程にふりかかる幾多の危険の中を首尾よくゴールへ向けて導いてくれる筈のものである。

この種の信念をそなたは知らぬ。そなたの信念はまだ信念とは言えぬ。ただの論理的合意に過ぎぬ。自然に湧き出ずる生きた信念にはあらずして、常に知的躊躇を伴う検討のあげくに絞り出した知的合意に過ぎぬ。安全無事の人生を送るには間に合うかも知れぬが、山をも動かすには覚束(おぼつか)ぬ。証拠を評価し、蓋然性を検討するには適当かも知れぬが、魂を鼓舞し元気づけるだけの力はない。知的論争における後ろ楯としての効用はあろうが、世間の嘲笑と学者の愚弄の的とされる行為と崇高なる目的の遂行において圧倒的支配力を揮うところの、魂の奥底より絶え間なく湧き出ずる信念ではない。そなたにはその認識が皆無である。が、案ずるには及ばぬ。そのうちそなたも過去を振り返り、よくも今の程度の打算的用心をもって信念であると勿体ぶり、かつまた、その及び腰の信念でもって神の真理の扉の開かれるのを夢想したものであると驚き呆れる時も到来しよう。その時節を待つことである。その時節が到れば、信念に燃え崇高なる目的に鼓舞された生ける身体の代わりに、大理石の彫像を置くこともせぬであろう。そなたにはまだ信念はない。


――あなたは物事を決めつけるところがあります。おっしゃることは正しくても、些(いささ)か希望を挫けさせるものがあります。それにしても“信仰は神からの授かりもの(5)”である以上、私のどこが責められるべきなのか理解に苦しみます。私は“拵えられた”ものです。


違う。今のそなたは内と外より影響を受けつつ自ら造り上げて来たものである。外なる環境と内なる偏向と霊的指導の産物である。そなたには誤解がある。われらが批難したのは、その名に値せぬものを信念であると広言したことに過ぎぬ。案ずるには及ばぬ。そなたはより崇高なる真理への道を歩みつつある。(なるべくならば)現象的なものを控え、内的なるもの、霊的なるものの開発を心がけよ。信念を求めて祈れ。そなたがいみじくも“神からの授かりもの”と呼べるものが魂に注がれ、その力によりてより高き知識へと導かれるよう祈れ。そなたのそのあらぬ気遣いがわれらを妨げる。

(†インペレーター)


〔イースター。一八七五年。午前中かなりの数の霊が集まっているのを感じていた。そのことに言及した後、それまでとは全く異質の影響力のもとに次のようなメッセージが書かれた。但し筆記者はいつもの霊である。〕


すでに述べたように、われわれもよく祭日を祝う。イースターも貴殿たちと同じようにわれわれにとっても祭日である。尤もわれわれは祝う理由が異なり、その意義についての知識も次元が異なる。われわれにとってもイースターは復活を祝う日であるが、肉体の復活ではない。われわれにとっては物質の復活ではなく、物質からの復活であり、霊の復活である。それのみではない。物的信仰と物的環境からの復活であり、用を終えた死せる肉体から霊が昇天するように、地上的・物的なものから魂が解放されることである。

全ての物的存在に霊が内在するように、何事にも霊的な意味があることは貴殿も学んだ。その意味においてキリスト教が祝うこの復活の教理は、われわれにとっても格別の意味をもつ。キリスト教徒は主イエスの死の支配からの脱出を祝う。その際、それを肉体のままの復活であると信ずるのは誤りであるが、霊にとっては死は存在せぬという偉大なる真理を、無知の中にも祝ってはいる。それはわれわれにとっては、人間が真理を部分的にせよ霊的に理解していることを喜ぶ日であり、さらにまた、この日に結実せるイエスの大使命の成就を喜ぶ気持はさらに大である。貴殿たちが信じたがるように、死が征服されるというのではない。生命の永遠性について朧気ながら理解し始めたということである。


〔私はイエス・キリストの身体の体質と、その生涯の霊的意義について尋ねた。〕


人類救済のために偉大なる霊が地上に降誕することはイエス一人に限られたことではない、と言うに留めておこう。そうした救世主によって人類が得る救いは、その時代の必要性に応じたものである。そうした特殊な降誕については、こののち更に述べることになろう。差し当たっては、人間の身体にも民族性によって程度の差があるように、そうした救世主にも平凡な人間とは異なる次元において程度の差があると言うに留めておく。俗性と官能性とを多分に具えた者もいれば、霊性高き洗練された者もいる。中でもイエスは最も洗練された霊性高き身体を具え、しかもそれが僅か三年の活動に備えて三十年もの鍛練と修養を重ねたのであった。〔この時私の脳裏に、三年のために三十年を費すのは不釣合だ――勿体ないという思いが走った。〕

救世主の為せる仕事が地上生活の期間にのみかぎられていると思うのは間違いである。イエスの場合に見られるように、真の影響はその死後の余波にある場合がよくある。イエスの仕事はその三年の間に始まったのであり、そして今なお続いているのである。

イエスの生活の特質は威厳と謙虚の合体であった。威厳さと平凡さとの結合にあった。威厳さが発揮されたのは誕生時と死亡時、その他、ヨルダンにおいて霊がイエスを試し、その使命を神聖なるものと認めた時等(6)、その生涯の節目にいくつか見られる。住民はイエスがその生誕より死に至るまで尋常の人間でないことに気づいていた。その生涯が俗世間の社会生活や家族的関係によって束縛されるべき人物でないことを知っていた。と言っても、イエスを取り巻く生活の和気あいあいたる雰囲気は、イエスにとって心地良きものであった。それを住民は理解していた。聖書はそうしたイエスと住民との関わりについての叙述がきわめて不十分である。イエスの言葉と行為が住民に及ぼした影響に関する言及が余りに少なく、一方、いつの時代にもあるように、新しき真理に楯ついた当時の学者並びに貴族階級の愚かなる誤解についての言及が余りに多すぎる。律法学者、為政者、パリサイ派、並びにサドカイ派の学者は挙(こぞ)ってイエスの敵にまわった。今もしイエスが当時の真の姿のまま教えを説いたならば、現代の知識人、博士、神学者、科学者と呼ばれる階層の者も挙ってイエスを嫌い、あるいは迫害することであろう。

仮に貴殿がわれわれのこうした仕事について語ることになった時、貴殿はまさかそうした階層の人たちから証言を得ようとは思わぬであろう。イエスの言行についての記録がそうした無知なる知識階層による迫害の叙述に偏り、平凡なる住民と共に暮らせる生活の中で見せた道徳的気高さについての叙述が余りに少な過ぎるところに問題がある。編纂者たちはイエスの直接の教えを受けた者との接触がなく、当時の風聞(うわさ)をもとに間接的に資料を得た。それではあたかも何世紀ものちになって歴史を編纂するのにも似ていよう。その点をよく心しておくがよい。

イエスの生涯は世間に知られているかぎりでは三年と数か月であった。それまでの三十年間はそのための準備期間であった。その間イエスはずっとその使命達成に意欲と愛を寄せる天使の一団(7)からの指示を受けていた。イエスは常に霊界と連絡を取っていた。その身体が霊の障害とならなかっただけ、それだけ自然に天使の指導を受け入れることが出来たのである。

地上の救済のために遣わされる霊はそのほとんどが肉体をまとうことによって霊的視覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されるのが常である。が、イエスは例外であった。その肉体の純粋さ故に霊的感覚を鈍らせることがほとんどなく、同等の霊格の天使たちと連絡を取ることが出来た。天使たちの生活に通じ、地上への降誕以前の彼らの中における地位まで記憶していた。天使としての生活の記憶はいささかも鈍らず、一人の時は、ほとんど常時、肉体を離れて天使と交わっていた。長時間に亙る入神も苦にならなかった。そのことは聖書に幾つか例を見ることが出来よう――荒野の誘惑の話、瞑想の習慣の話、山上における祈り、あるいはゲッセマネの園での苦悶。いずれも誤り伝えられてはいるが。

さらにまた、イエスが語ったという天地創造以前の神の栄光の中での生活の回想についても、すでに貴殿もわれわれが授けた知識によって思い当たるものがあろう。そうしたものが数多くあるのである。

イエスにとっては肉体が殆ど束縛とならず――それはまさに仮の上着であり物質界と接触する時にしか必要でなく――その生涯は普通一般の人間とは質こそ同じであったが程度において異なっていた。より清らかにして素朴であり、より崇高にして情愛に満ち、また人々から愛される人間であった。そうした生活は同時代の者には決してその真価を理解されることは有り得なかった。誤解され、曲解され、誹(そし)られ、思い違いをされるのは当然の結果であった。それは大なり小なり一般より抜きん出た者に共通して言えることであるが、イエスにおいてはまた格別であった。

その聖なる生活は人間の無知と悪意とによって、その半ばにして終焉を迎えた。キリスト教徒がイエスは地上人類の犠牲となるために降誕したと述べる時、彼らはその真実の意味を理解していない。確かにイエスは人類の犠牲となるために来た。が、その意味は熱烈なるキリスト教徒の説く意味とは異なる。カルバリの丘(8)でのあの受難のドラマは人間の為せる業であり、神の意図せるものではなかった。使命遂行に着手したばかりの時点においてイエスを葬ることは、神の悠久の目的の中にはなかった。それは人間の為せる行為であり、邪悪にして憎むべき、かつ忌まわしき出来ごとであった。

イエスは、他のすべての改革者が救世主であったのと同じ意味において(程度は他に抜きん出ていたが)人類のために死にに来た。そして至上の目的のために己の肉体を犠牲にしたのである。その意味においては確かにイエスは人類を救い、人類のために死ぬために地上に降りた。しかし、あの愚かしきカルバリの丘での終末のシーンがあらかじめ神によって予定されていたという意味においては、イエスはそのような目的をもって来たのではなかった。これは重大なる意味をもつ問題である。

もしイエスが地上生活を全(まっと)うしておれば人類がいかに大きな恩恵をこうむっていたか、それは計り知れぬものがある。が、時期尚早であった。当時の人間はその施された恵みを僅かに味わっただけで棄て去った。それを受け入れる用意が出来ていなかったのである。同じことが全ての偉大なる指導者について言える。まわりの人間は理解し得るものだけを取って残りを後の世へ遺し、あるいは性急のあまり脇へ押しやって目を呉れようともしない。そして後世の人間がその時期尚早に過ぎた霊を崇め敬慕することになる。これまた由々しき問題である。

受け入れの機が熟さぬうちに真理を押しつけることは、われわれには許されていない。否、それは神ご自身の計画の中にもなかろう。神の統(おしな)べる全宇宙は整然たる進化と組織的発展の中に営まれねばならない。今も同じである。今もし人類にわれわれの授ける真理を受け入れる用意があれば、地上はかつて天使が神の真理の光を届けた時以来の全啓示に浴することが出来ることであろう。が、今はまだその時期ではない。僅か一握りの備えある者のみが、後の世の者が喜んで喉の渇きを潤すであろう真理を受け入れるのみである。その意味においてイエスの地上での生涯は失敗であり、後世への潜在的影響力となることで終わってしまったと言えよう。

のちにキリストの名を標榜する教会が天使の影響のもとにイエスの生涯が象徴する真理をかき集めた。が、悲しい哉、今やその真理も、長き慣習によって慢性化し、真の威力を失うに至った。

貴殿も知る如く、キリスト教界の三大勢力(9)はイエスの生涯の出来ごとの幾つかを祝う点においては一致している。その三大勢力以外に精進日と祭日を祝うことを拒否する派があるが、これは感心しない。彼らは真理の一部を自ら切り取ったも同然である。が、教会は主イエスの記念として、クリスマス、エピファニー、イースター、アセンション、ペンテコスト等を祝う。これらはイエスの生涯の節目であり、各々が霊的意義を秘めた出来ごとなのである。

クリスマス(キリスト降誕祭(10))――これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴する。尊き霊が肉体を仮の宿りとし、人類愛から己を犠牲にする。われわれにとってクリスマスは無私の祭日である。

エピファニー(救世主顕現祭(11))――これはその新しき光の地上への顕現を祝う祭日であり、われわれにとっては霊的啓発の祭日である。すなわち、地上に生まれ来るすべての霊を照らす真実の光明の輝きを意味する。光明を一人一人に持ち運び与えるのではなく、光明に目覚めた者がそれを求めて来るように、高揚するのである。

レント(受難節(12))――これはわれわれにとっては真理と闇との闘いを象徴する。敵対する邪霊集団との格闘である。毎年訪れるこの時節は絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴する。葛藤のための精進潔斎の日であり、悪との闘いのための精進日であり、地上的勢力を克服するための精進日である。

グッドフライデー(聖金曜日(13))――これはわれわれにとっては闘争の終焉、そうした地上的葛藤の末に訪れる目的成就、すなわち“死”を象徴する。但し新たな生へ向けての死である。それは自己否定の勝利の祭日である。キリストの生涯の認識と達成の祝日である。われわれにとっては精進潔斎の日ではなく愛の勝利を祝う日である。

イースター(復活祭(14))――これは復活を祝う日であるが、われわれにとっては完成された生命、蘇れる生命、神の栄光を授けられた生命を象徴する。己に打ち克てる霊、そしてまた打ち克つベき霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた蘇れる生命の祭りである。

ペンテコステ(聖霊降臨祭(15))――キリスト教ではこれも霊の洗礼と結びつけているが、われわれにとっては実に重大な意義をもつ日である。それはキリストの生涯の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日である。人間がその愚かさから、自分に受け入れられぬ真理を抹殺し、一方その踏みにじられた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を授かる。霊の奔流を祝う日であり、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理の一層の豊かさを祝う日である。

アセンション(昇天祭(16))――これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的訣別を祝う日である。クリスマスをもって始まる人生がこれをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉である。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化されたささやかな生涯の終焉である。使命の完遂の祭りである。

以上がキリスト教徒の祝日に秘められた霊的な意味である。われわれ及びわれわれの仕事の最高指揮者であられる霊(インぺレーター)がキリスト教的独善主義の壁を打ち崩し、迷信に新たな光を当てて下さったおかげで、われわれが今こうして全ての行事に秘められた真理の芽を披露することを許されたのである。人間的誤謬が取り除かれれば、それだけ多くの神の真理が明らかにされるのである。

われわれは貴殿がこれまでに授かった教訓を補足し、完成せしめたいと望んできた。これまでは破壊することが必要であったが、今や構築を必要とする段階となった。神の子羊、人類の救い主イエス・キリストがユダヤの無知と迷信の中から神の真理を救い出したように、今度はわれわれが同じ真理を人間的神学の破壊的重圧から救い出さねばならない。イエスは真理を求めて喘ぐ魂を地上的煩悩より救い出し、邪霊の支配から解き放った。われわれは魂を人間的ドグマの束縛より解放し、自由の真理を高揚して人間に知らしめ、それが神からの啓示であることを悟らしめんと思うのである。

イースターメッセージ。一八七六年。

『磔刑(たくけい)と復活――自己犠牲と新生』


〔私は“死”と“生命”の問題、とりわけ霊性に係わる象徴的側面について一層踏み込んだ教えを請うた。質問の中で私は“死”と“復活”との霊的関係に言及し、肉体の死は新たな生への入口を象徴し、霊的な死は霊的新生ヘの道であると考えて良いかと尋ねた。(17)〕


その件に関しては昨年のイースターに述べたことを参照するがよい。そなたの言う象徴性が説明されている。すなわち、物質からの復活であり、物質の復活ではないということである。キリスト教会が祝い続けて来たさまざまな祭日のもつ霊的意義についても説明してある。参照するがよい。


〔言われるまま私は一八七五年のイースターメッセージを読んだ。教会の祭日が象徴的に解説してある。クリスマスは自己否定、顕現祭は霊的啓発、受難節は霊的葛藤、聖金曜日は愛の勝利、復活祭は蘇れる生命、聖霊降誕祭は豊かな霊的真理、昇天祭は使命の成就を意味するとある。〕


その通りである。理想的人間像の手本であったイエスの生涯は、地上に始まれる生命の進歩的発展が(そなたらの用語で言えば)天国にて完成される――自己否定の中に誕生し昇天の中に終焉を迎えることを象徴している。人間はイエスの生涯の中に霊の肉体との結合と解放の過程を一つの物語を読む如くに読み取ることが出来よう。天使の加護のもとでの三十年余の準備期間はイエスの使命にとりて相応しきものであり、三年の短かき期間も、人間の受け入れ能力に相応しきものを行使する上では十分であった。人間の霊もその発達過程においては、教会が祝う祭りに象徴される過程を辿る。すなわち自己否定の誕生に始まり、完成された生命の祝福に終わる。自己否定の中に誕生せる生命が犠牲的生活の中にて進化を遂げつつ、敵対するもの(日常生活、自己、及び敵の中に見出される反作用の原理)との不断の葛藤の中に成長し、ついに物的なるものより超脱し、イースターの朝、物質の墓より昇天し、それを機に豊かなる聖霊の洗礼を受けて新しき生命として生まれ変わり、ついに地上生活の徳性によりて用意された境涯(18)へと進む。

これぞ霊の進化であり、磔刑(はりつけ)と復活によりて端的に象徴された霊的新生の過程と言えよう。古き自我が死に、その墓場より新たな自我が誕生する。肉体的欲求に縛られて来た自我が十字架にかけられ、新たなる自我が神聖なる霊的生活を送るべく昇天する。肉体的生活の終焉は霊の新生である。そしてその過程が自我の磔刑――パウロの言う“日毎(ひごと)の死(19)”である。霊的進化の生活に停滞があってはならぬ。麻痺があってはならぬ。不断の成長であリ、日々の生活における真理の体得であらねばならぬ。地上的なもの、物質的なものの抑制と、それに呼応せる霊的なるもの、天上的なるものの啓発であらねばならぬ。言い換えるならば、美徳を積むこと、そして人間生活の模範として示されたイエスの生涯につきての理解を深めることである。物質的なるものからの超脱と霊的なるものへの発展――あたかも火によりて、全てを焼き尽くすほどの熱誠によりて焼き払う如く、物的汚れを清めて行くことである。それは自我と自我にまつわる全てのものとの闘いであり、神の真理の終わりなき悟りのための行(ぎょう)である。

これを除いて他に霊の浄化の方法はない。鍛練の炉は自己犠牲である。これに例外はない。ただ、霊的“炎”が一段と大きく燃えさかる偉大なる霊においては、その過程が急速であり、かつ一時期に凝縮されることがある。一方鈍重なる霊においては、その炎がくすぶり、浄化の過程も延々と幾度も繰り返されることになる。いち早く地上的なるものより脱し、浄化の炎を有難く受け入れる者は幸いである。そうした者は進化も急速であり浄化も確実である。


――その通りだと思います。が、その闘争は厳しくて何から克服して行くべきか迷います。


先ず自己より始めよ。古(いにしえ)の賢人は魂の敵の表現において見事であった。魂には三つの敵がある――自分自身とそれを取り囲む物的環境、そして向上を阻止せんとする邪霊集団である。これを古人は“俗世”と“肉体”と“悪魔”と表現している。

まず自己すなわち“肉”の克服より始めよ。肉体的欲求と感情と野心の奴隷とならぬよう、そして自我を殺し、隠者的独房より出でて宇宙的同胞主義の自由なる視野の中に生き、呼吸し、そして行動すべく、まず己自身を克服せよ。これが第一歩である。まず己を十字架にかけよ。そうすれば、己を埋葬せる墓地より、束縛なき魂が自由に羽ばたくことであろう。

これさえ成就すれば、その魂にとりて目に映じる物を忌み永遠なる価値に憧れるに至るのはさして困難ではない。真理は永遠なるものの中にのみ発見されるものであることを悟り、そう悟ったかが最後、それ以後は外界の物的形体を真理の影――人を迷わせ真の満足を与えぬ外敵として、ひたすらそれとの闘争を続けることになろう。物質は殻であり、それを剥ぎ取って始めて真理の核が得られることを知るであろう。また物質は往々にして人を誤らせる儚(はかな)き幻影であり、その奥に悟れる者のみが見出せる霊的真理が隠されている。そう悟れる魂にとりては最早や、物的なるものを避けその殻を通して内部の真理を求めよと、改めて説く必要はない。その魂にとりては、表面上(うわべ)の意味がいわば霊的理解力において幼児の段階にある者のためのものであること、その奥に象徴的なる霊的真理が潜んでいることを悟っている。物質と霊との相関関係を理解し、その表面的事象が幼児のささやかなる理解力に適う真理を伝えるための粗末な証でしかないことも理解している。その魂にとりては真実の意味において“身を棄ててこそ浮かぶ瀬(20)”もあるのである。その生活は魂のための生活である。何となれば、すでに“肉”を征服し、“世間”も最早や魅力はないからである。

が、霊的知覚が鋭敏さを増すにつれて邪霊の敵対行為も目立ってくる。不倶戴天の敵とも言うべき邪霊集団が行く手を阻み、この試練の境涯を通じて絶え間なく煩悶の種子を蒔き散らす。信仰厚き魂はその一つ一つを首尾よく克服して行くことであろう。が、地上生活においてそれが完全に絶える時はついぞ訪れぬであろう。何となればそれはより高級なる霊的才能を発達させるための手段なのであり、より幸せな境涯へ向上する資格を得るための踏台だからである。

以上が、簡単ではあるが、進歩的人間の辿る生活である。すなわち、己を十字架にかける自己犠牲と、世間の誘惑に打ち克つための自制と、邪霊との対抗に耐えるための霊的葛藤の生活である。そこに停滞は許されぬ。休息もない。そして終息もない。一日一日が死であり、そこより新たなる生活が始まる。不断の闘争であり、そこより止まることなき進歩が得られる。魂に内在せる霊的ともしびが徐々にその光度を増し、ついに完全なる光輝となるための絶え間なき闘争である。そなたらの言う天国はこうした厳しき闘争の末においてのみ得られるものである。


――Sic itur ad astra.(21)これこそがキリスト教において、仏教において、それから神秘学においても中心的思想となっています。キリストの言葉の中にも生涯キリスト自身を鼓舞し続けたその思想が随所に見られます。問題はいかにしてその理想をこの俗世で生かすかということです。


そこに、キリストの言える如く、地上の住民とならず地上を旅する者であらんとするための闘争があるわけである。この高度な理想は日常の雑務に心を奪われている者にはまずもって実現不可能である。だからこそわれらはそなたの関心を出来るかぎり物理的交霊実験より逸(そ)らさんとしてきたのである。危険と見たのである。物理的現象より超脱するよう努力せねばならぬ。構わず放っておくがよい。その種の交霊は隠遁生活でも送れる者にのみ相応しかろう。


――ずっと以前に私は、霊媒に徹しようとすれば世俗的生活と相容れなくなると思うと述べたことがあります。つまり霊的過敏性が急速に発達していくために世間との接触に適応できなくなる。あるいは、とにかくその霊媒の性格が普通の生活をし難くさせるものとなり、そういう種類の影響力ばかりを惹き寄せるようになる、と。


そうした傾向は多分にある。だからこそわれらは余りに物質的すぎる現象を控え、危険性の少なき精神現象を発達させてきたのである。とにかく、われらが全てを良きに計らっていると信ずるがよい。危険なのは背後霊が背後霊としての仕事がやり難くなった時である。そうなりたる時の危険性は深刻である。が、案ずるには及ばぬ。そなたの歩むべき道は見通しがついている。ただ、今は闇の力がはびこる暗黒の時期に差しかかっている。辛抱づよく待つことである。

(†インペレーター)


〔イースター。一八七七年〕


神の祝福のあらんことを! この時節の恒例として、生命の復活と再生について述べたく思う。

このキリスト教の祭日のもつ素朴なる象徴的意義については述べぬ。すでに述べてあるからである。すなわち葛藤の後に得られる勝利について説いてある。そなたも人間イエス・キリストの生涯の中にいかに霊の向上進歩が象徴的に表現されているかを学んだことであろう。その認識を改めて促しておきたい。

さて救世主イエスは神の使命を帯びて、至福の天界における霊的生活より地上へと降りられた。至純なる霊が一個の人体に宿り、ベツレヘムの飼い葉おけの中にて誕生した。ありとあらゆる不完全さと煩悩を具え、進歩のための唯一の手段である悲しみと誘惑と試練から遁れることの出来ぬ一個の人間となられたのである。

そこに進歩の唯一の手段としての霊から物質への降誕の一つの典型を読み取って貰いたい。遠き過去より存在し続け、必要かつ十分なる発達を遂げたる霊が、他の手段にては絶対に得られぬ進化に不可欠の葛藤と試練を求めて、いよいよ物質的身体による生活の場に降りたということである。

かくして人類の境涯へと誕生せるイエスは、たちまちにして“この世の君(22)”悪魔(サタン)による迫害に身を曝された。時の権力者たちは一斉にイエスに敵対し、神の子であることの証を要求した。そして遂に磔刑に処する命令を下した。イエスの説くところが彼らの主張するところと相容れなかったからである。

すでに述べた如く、向上進歩の道程において新たな段階に差しかかる毎に天使の一団が見守っているのであるが、その恩恵は格闘と煩悶〔のちに葛藤の意味であるとの説明があった〕の末でなくしては得られぬ。危険を冒すこともなく、必死の努力もせずに、ただのんびりと夢見る如き生活の中からは得られぬ。もし得られるとすれば、それはもはや恩恵とは言えぬ。葛藤の中にこそ恵みがあるのであり、敵対するものを克服し、闘い抜いた末の勝利の中にこそ存在するのである。このことをよく心するがよい。肉体を持ちて生を享けた霊には常にこれを滅ぼさんとする霊が付きまとうことを知るがよい。

幼な子イエスもそうした外敵の危険を察知する両親によりて安全の地を求めてエジプトへと連れて行かれた。そしてイエスはその地にて豊かなる霊的知識を身につけることになる。エジプトは太古より神秘的知識の宝庫であり、のちにイエスが披露せる知識の多くはそのエジプトにて摂取したものであった。

そなたにとりてはもはやそうした闘争の意味について改めて深く探る必要もあるまい。敵に取り囲まれ、怯えるその霊は、エジプトを措いて他のいずこに避難と武装の場所を求めるべきか。先人が苦闘の中に蓄積せる神秘的知識と体験の記録の中に求めたのは蓋(けだ)し賢明であった。神秘的知識の豊富なるエジプトこそ、闘う霊が悪との闘争に備えて知識を身につけ徳性を涵養して霊的武力を具える兵器庫であった。と言うのも、実を言えばエジプトへの脱出には二つの意味があったのである。一つには安全の地への逃避であったが、今一つは教育のための一時的逗留の意味もあった。すなわち徳性を涵養し、その中より霊的闘争の武器を身につけんがために、エジプトという深遠なる神秘的哲学の地へ隠棲したのであり、一方、他の地に比して平穏無事の雰囲気の中にて安らぎと憩いを求めたのである。瞑想、徳育、そして霊的闘士としての成長――イエスもそのか弱き幼少時代より青年期に至る時代をこうして過ごし、体力の増強と並行して獲得せる知識の中に徳性を涵養して行ったのである。まさに叡智と身体の双方の増強の時代であった。

救世主イエスの象徴的生涯の一つの典型とも言うべき時代がこれにて終わる。準備期が終わり公的生活が始まる。大衆の求むるものを遙かに超えた進歩と発達を限られた地上時代に成就すべく自らを鼓舞し続ける霊に、いよいよ第二の時期――われらのいう伝道期間に入るに先立ち、その準備を整える時期を与えられ、摂取し得るかぎりの真理を摂取するということである。そなたには改めて説くまでもなかろうが、霊的進歩にとりては、ありとあらゆる形式の利己主義を粉砕し、才能を己の利益のために使用せず、生活の全てにおいて“惜しみなく授かれる者は惜しみなく与えよ(23)”の戒律を厳守することが必須の条件なのである。

故に己に与えられたものは、それを求むる者と分かち合わねばならぬ。真理は、少なくとも通俗的なものは、世の人々に等しく分け与えられねばならぬ。が、より深く、より天上的なる真理は、イエスが一人山頂にこもりて孤独なる瞑想の中に己自身と対峙し、背後霊団(24)との交わりの中に霊的生気を取り戻さんとした如く、その葛藤の合間の魂の憩いとすべく、大切に、純粋のまま取っておかねばならぬ。その時のイエスには仲間はいなかった。ただ一人霊体に宿りて地上を遠く高く離れた(25)。その時の真相は、一人を除いて、弟子たちにも見ることを得なかった。その一人だけは幾度か神の使徒イエスを包むその最高の霊的現象を見る栄誉に浴したのだった。


〔のちに、その一人とは聖ヨハネ(26)であるとの説明があった。いつ、どこで、という指摘はなかったが、ヨハネはたびたびイエスの光輪現象(27)を目撃している。〕


この意味において、背後霊との交わりと同時に地上の同志との交わりの中に霊的真理の救いと喜びを分かち合うことを得る者は幸いである。霊的真理は分かち合うことによりて些かもその恩恵が減少するものではない。一途なる目的と、真摯にして完全なる共感の絆さえあれば、見る者が増えたからとて真理の光が減少するものではない。しかし、求道の世界には、たとえ同じ道を歩もうとも、二人三脚はそう滅多に望めるものではない。たとえ目指すものは同じでも、それぞれに辿る道があることを知り、それぞれに瞑想と祈りのための山頂をもち、一人そこに引きこもる時を持たねばならぬ。

その宗教的向上心の生活と相まてる陶冶(とうや)の生活は来るべき奉仕的社会生活への準備なのである。

救世主イエスは、エジプトにて霊的知識を身につけ、瞑想の生活によりて霊性を涵養し、純粋性をまとい、慈悲心に駆り立てられ、熱意に燃えて隠遁の生活よりようやく福音を授けるべく大衆の中へと入って行った。彼は真理に対する不敵なる信念に燃えていた。が、決して破壊主義者ではなかった。破壊することではなく真理を成就することこそ彼の眼目であった。荒れ果てた荒野とすることではなく、実りをもたらし花を咲かせんが為に土地を掘り起こし、耕作し、種子を蒔くことであった。材料は手もとにあるものを使用し、その垢を取り除き、生命を失える儀式も彼のまことの言葉の魔法にふれて生きた真理の象徴と化した。骨と皮ばかりの痩せこけた人間が生気を取り戻し、死体に霊が戻り、死者が蘇り、そして立ち上がったのである。

誠実なる目をもってすれば、こうした流れの中に突然の断絶も、一時期の粗暴なる終焉も、現在と過去との懸隔もなかったことが判るであろう。すべては推移であり、緩やかなる目覚めであり、それは今もなお自然界に見る通りである。一年の終わりと始まりとに急激なる断絶はない。人間の目には前年に埋められし墓の石蓋が如何なる力によりて取り除かれて来たかが判らぬ。ある時は全てが冷ややかにして生気なく、陰うつであり、もはや過去のものとなるかに思える栄光を悲しむ。が、やがて変化が生じる。人間的武力や権力によるのではなく、目に見えぬ霊力によりて起こされるのである。太陽が再び光を放つ。その光は死せる年が閉じ込められた牢獄のカギを開け、花が芽を出し、恥ずかしげに、そして半ば恐怖を抱きつつ頭をもたげる。やがて足もとはエメラルドの絨毯(じゅうたん)と化し、緑の平野が広がり、見よ! 痩せ細れる者が生気を取り戻す復活の季節(とき)が勢いよく訪れる。と言うよりは、死せる過去が静かに地上に戻る。これが大自然に年毎に黙示される霊的再生の寓話なのである。

同じ教訓を救世主イエスの生涯の中にも読み取らねばならぬ。伝道のために祖国に戻りし時、ユダヤの民の生活はあたかも冬の木々の如く霊性の全てを失い、寒々としていた。樹液がその流れを止めたかに見えた。枝に一葉も見られず、無気味ささえ漂っていた。疲れし旅人の喉を潤す果実一つなく、目を楽しませる一輪の花すら見当たらなかった。まさしく死の疫病が全てに蔓延していた。そうした中に“神の使者”、“選ばれし救世主”イエス、“正義と真理の太陽(サン)”――これは“息子(サン)”でもあった(28)、両者に差異はない――が、死せるが如き裸の枝に啓蒙の光と暖かさを注いだ。そして、見よ、その変化を! 空虚なる形式主義が霊的真理に輝き、冷ややかなる説教が健全なる生命によりて生気を取り戻す。古き時代につきての説話に新たなる奥深き意義がもたらされる。社会生活は向上し、改められ、尊さを増していく。宗教はかつてなく高度にその霊性を増す。イエスは形式に代わりて霊的意義を、けばけばしき儀式に代わりて静かなる人知れぬ祈りを、見せびらかし的宗教――人に見せんがための行事――に代わりて、人目につかぬ隔離された部屋での、己と神との二人きりの交わりを説いた。これを要するに、野蛮にして空虚、高慢にして偽りだらけの形式主義を排し、代わりて温順にして霊性に富める求道の生活を説いたのである。その真実の例証は騒々しき市場にはなく、静かなる個室にあり、パリサイ派にあらずして収税吏にあり(29)、大衆の目にあらずして神の監視の中にあった。

大自然とイエスの生涯に寓された教訓は魂の旅路にも見られる。学び得たかぎりの知識を携え、徳性を培える魂は、試練の生活ののちに新たなる生命の旅へと旅立つ。形式と儀式にこだわれる過去が霊性を賦与されて新たなる道が開ける。信仰に目覚めし魂の目には、それまで単なる現象であったものの裏に秘められた霊的意味が見える。むき出しの枝が緑の衣をまとう。死せる如く放置された儀式の形骸が霊性を賦与されて新たな生命の息吹きを取り戻す。古きものが廃棄されるのではない。質が変えられるのである。為すべき義務が免除されるのではない。逆に、より鋭き熱意と配慮をもって果たすことになるのである。憂き世の苦労の繰り返しが短縮されるのではない。その長き過程がささやかな善行の霊的意義によりて楽しく、かつ誇り高きものと感じられるようになるということである。

あまりの冷たさ、あまりの生気のなさに絶望し、“ああ、主よ、この形骸に果たして生命はありや”と幾度も叫ばしめた無味乾燥の儀式が復活霊の息吹きによりて生命と温(ぬく)もりと現実味を帯びる。それなりの効用を果たせる古き儀式が新たなる環境に適応せる生活へと再生される。古き生命力より一層強き生命力をもち、過去の美わしさより一段と霊性を増せる美わしさをもって新生される。若さを取り戻したのである。霊的に啓発された目をもって見れば、真理はひとかけらたりとも滅びることはなく、必要に応じて神の研究室にて再化合され再生されて行くものであることを知るのである。

要するに魂はそれを取り巻く自然界全体の復活に参加するのである。生命を新たにし、高き知識を獲得し、奥深き真理を悟り、そうして貯えた力を携えて、啓発と発展と成長のための手段を授けに同胞のもとに赴くのである。その時は最早や平凡なる人間とは物の観方が異なる。行為も異なる。何の変哲もなき外観の内側に神的可能性を見る。如何ともし難き厄介物といえども、剪定によりて発育を促し、枯れ枝の刈り込みによりて若き枝が成長すると観れば、これを見捨てることはせぬ。かくして同胞のための公共的奉仕の生活に勤みつつ、一方においては絶え間なく霊的向上のための生活――真理への憧れと発展、霊との交わり、物質的・地上的なものからの超脱によりて一歩でも主イエスの完全なる模範に近づかんとする修養を怠らぬ。

この隠れた霊的向上の生活こそ、同胞への伝道の生活の源泉なのである。

主イエスの地上生活の終末のシーンもまた象徴的意義を秘めている。それは敵意と侮蔑と迫害を煽(あお)るところの時代的偏見と闘う伝道者の宿命であり、気に入らぬ真理に対する地上的報復なのである。イエスの生涯の記録を歴史的事実として理解できるそなたには、その悲劇的最期に至る一連の迫害の生涯が当然予想されるものであり、それ以外の生涯は到底有り得べくもなかったことに理解がいくことであろう。恐れることを知らぬ革命家イエスの出現に危惧を覚えた卑劣なる学者たちは、民衆をけしかけて一勢にイエスを攻撃させた。そうしなければ自分たちがその虚飾の姿を赤裸々に曝されることになっていたかも知れぬ。尊大にして虚飾に満ちたパリサイ主義は、若しもパリサイ人をしてイエスに対する怨恨を抱かしめなかったならば、イエスがマグダラのマリヤ(30)と収税吏を戒めた以上の厳しき言葉で糾弾されていたかも知れぬ。見せかけのみの儀式主義に堕落し、金の力にて容易に地位と権力を獲得できた当時のユダヤ教は、もしもそうした地位と権力を有する者が、聖櫃(31)にさえ不敬をはたらく忌まわしきナザレ人を憎むべき人物に仕立てなかったならば早晩大革命が生じ、律法学者やパリサイ派教徒よりも収税吏や売春婦のほうが高き地位と権力とを手中にすることになっていたかも知れぬ――が、こうしたことは到底有り得なかったであろうことは、そなたにも理解がいくであろう。

イエスの至純さと至善は怨恨を呼ばずにはおかなかった。妥協を排する真摯なる態度は嫉妬心を惹起せずにはおかなかった。その説くところの教義は余りに厳しく、一般民衆には付いて行けなかった。その生活上の戒律は余りに霊的に過ぎ、放縦と安逸の時代にはそぐわなかった。詰まるところ、そうした高度の訓えを受け入れる用意のない時代がイエスを十字架にかけたのであった。空虚と不純の時代が、罪悪の首謀者たちの立てた恥辱の木にイエスを磔(はりつけ)にすることにより、至純至聖なる“真理の子”に報復したのであった。

そういう次第であった。今なお、形而下的にはともかく、形而上的には多くの例証を見ることが出来る。中には神の使者の活動の波がちょうど通過せし時代にその波に乗って時代相応の真理を説き、それが首尾よく世に入れられ、その功ゆえに名誉と賞讃を得た改革者がいた。また中には、さらに多くの世俗的叡智と分別に長(た)け、より多く世の為に尽くした人物もいた。が、そうした指導者は稀である。大抵の指導者はイエスの如く真理の代償として屈辱と恥辱の中に死を迎える。真理を説ける指導者には死が与えられる。が、その訓えには復活と新たな生命が与えられる。そしてその指導者の姿がこの世より消えて始めて、その訓えの真価が理解される。その例は改めて長々と説くまでもなかろう。

キリストが十字架にかけられた時、そこには実に少数の同志しか居合わせなかった。悲劇の底にありてもなお鋭き直感と情愛が変わることのなかった二、三の女性と、公然と信仰の告白をせず最も臆病でさえありながら、実は最も忠実なる側近であった隠れた弟子のヨセフ(32)とニコデモ(33)の二人のみであり、他はすべて逃走したのだった。そして新しき真理の伝道者、新たなる福音の宣教師――彼は今いずこに在りや。身罷(みまか)ったのである。そして彼の説ける福音はいずこに在りや。これ又どうみても葬られたとしか思えなかった。それ故、誰一人として福音のこともイエスのことも思い出さず注意すら払わなかった。しかしそれは、人間の性急なる判断であった。かの埋葬場所の入口の蓋を取り除いたのは誰なのかは知るよしもなかった。ただ時おり地上に新生をもたらす“霊”の力が石を取り払い、死せる肉体に生命を吹き込んだとのみ信じた。それは実は天使の仕業であった。それと同じ力――完全に死せるものと思い埋葬せる肉体に新たな生命を吹き込める同じ力が、イエスの福音に生気を吹き込み、善悪さまざまな風説の中で育て上げ、ついに諸国にまで波及させ、当時の霊的真理の強大なる動力とならしめたのであった。

これを個々の革命家に当てはめてみよ。辿るベき宿命は同じである。神の真理として説くところがその時代の心に訴えようが訴えまいが、あるいは仮に訴えたとして、それが時宜を得たものとして喜んで受け入れられようが、それとも余計なことをする革新者のおせっかいと受け取られようが、真理は真理として受け入れられるべく闘いの道を歩まねばならぬ。それが神の選別の手段なのである。そして抵抗が大なれば大なるほど、それだけ真理普及に対する意気込みも大となる。踏みつけられれば踏みつけられるほど、信念は深く固く根を下ろす。その闘いの生涯がイエスの如き終焉を迎えるか、あるいは信念の弱さ、または慎重なる配慮によりてその悲劇的運命が避けられるか、それは大した問題ではない。真理の言葉そのものが最後の勝利へ向けて首尾よく闘争をくぐり抜けることが肝要なのである。それはちょうど修行時代において孤独と瞑想の生活の中に誘惑者と敵対者と闘い、苦悩の中に身を修め、受難の末に勝利を手にしたのと同じである。

修行時代を終え、新たなる生命を携えて公的生活に入ったのちのイエスの生涯は、覚醒せる魂に訪れる変化の象徴であった。この世に在りつつこの世の住民とならぬ生活――地上への“訪問者”としてこの世の慣習に順応しつつ、しかもそれに隷属せぬ生き方をイエスは示した。常に、全ての霊的影響力に見られる、かの最も強力なる原理すなわち“愛の摂理”によりて鼓舞され続けた。イエスがその姿を現わす時、あるいは何か事を為す時、それは常に愛に発していた。そなたらの手に残された記録は乏しく、かつ誤謬に満ちているとは言え、その原理を示す事象は十分に盛り込まれている。イエスは愛の摂理を成就し、そして相応しき境涯へと昇天して行った。二度と御姿を拝することも、じかに接することも出来ぬ。もはや形体を具えた存在ではない。今や霊的恩寵の源泉であり、“影響力”としての存在となっている。

自らの発意によりて地上界を訪れる霊はことごとくその愛に鼓舞されているのである。言い換えれば彼らの使命はイエスと同じ愛の原理に発しているのである。人間的情愛にせよ、宇宙的博愛にせよ、その愛は高級霊界の存在を惹き寄せる。そして果たすべき使命を終えれば、彼らもまた父なる神、普遍的宇宙神のもとへ帰って行く。

希望に燃えよ! そなたはとかく真理の枯渇を嘆き過ぎる。暗く寒き冬にありてはその寒さに震え、冬の後には必ず春が訪れている事実を忘れる。つまり“死”ありてこそ“再生”があり、新たなる生活、より広き視野と有用性と崇高なる目標と真実の意図を具えた生活へと導かれるものであることを忘れている。そうした生活には必ず死が先立つものであること――人間が死と呼ぶところのものは、神的真理に関するかぎり、豊かなる実りをもたらす必須条件としての“種子の死”に過ぎぬことをそなたは知らぬ。生へ向けての死――これこそが魂のモットーなのである。より高き生へと昇華され行く死である。墓場における勝利であり、死を通じての勝利である。霊的真理を扱うに当たりては、このことを忘れてはならぬ。

輝きと静けさの中にある時に恐れを抱くのは構わぬ。空気は淀み、焼けつく炎熱の時、潤いが渇き切り、太陽が容赦なく照りつける時、か弱き植物はしぼみ萎(しな)びていく。故に安逸と安楽の時、事が順調に運ぶ時、そして世を挙げて“真理の言葉”を賞讃する時、その時こそ、やがてそれが萎び、輪郭が翳(かげ)り、伝来の世俗的信仰の中に埋没して行くことを恐れる必要があるのである。全ての者が無条件に真理を受け入れる時こそ、その真理もやがて改められる必要が生じ、より深き真理が要求される時が到来しつつあるものと思うがよい。それとは逆に、強烈なる抵抗の中にある時こそ大いに意を強くするがよい。何となれば、その産みの痛みによりてこそ頼もしき後継者が誕生し、その気力と精力とによりて抵抗を跳ね除け、神の規範を一層有利なる戦いの場へと導いてくれるであろうからである。

救世主イエスの誕生から復活への生涯の過程にはそうした趣旨が込められている。これは永遠に変わることなき比喩である。

(†インペレーター)


〔注〕

(1)使徒行伝2:43。
(2)Be in the world,but not of the world. 身はこの世にあっても“この世的”人間になるな、ということ。この通りの言葉は聖書に見当たらないが、多分ヨハネ17の場面で実際に述べたのであろう。
(3)エペソ5:14。(4)マタイ17:20。(5)聖書全体に流れる基本的教説。
(6)マタイ3~4その他。
(7)医師のスピーア博士宅で行なわれた霊言現象の中でインペレーターが「主イエスはかつて一度も物質界に生を受けたことのない霊団によりて支配され元気づけられていた」と述べている。日本で言う自然霊である。
(8)Calvary ゴルゴタGolgothaのラテン名。キリストが十字架にかけられた土地の名。
(9)カトリック、プロテスタント、東方教会。(10)Christmas.(11)Epiphany.
(12)Lent.(13)Good Friday.(14)Easter.(15)PentecostまたはWhitsuntide.
(16)Ascension.(17)インペレーターが回答。
(18)人間は日常生活において、死後に落着く環境を築きつつあるというのが高級霊界通信に共通した説である。
(19)コリント前15-31。(20)“to die has been gain”.
(21)ローマの詩人バージルの叙事詩「アエネイス」の中の名句で、星への道すなわち不滅への道はかくの如し、という意味。(ラテン語)
(22)the Prince of the World(ヨハネ12-31その他)。(23)マタイ10-8。
(24)西洋でいう天使、日本でいう自然霊によって構成されていたという。注(7)参照(25)幽体離脱現象。
(26)イエスの弟子のヨハネ。前出のバプテスマのヨハネとは別。
(27)俗に後光がさす、と言っているもので、一種の変容、または変貌現象。
(28)Sun(太陽)とSon(息子)は語源も発音も同じ。
(29)当時の民衆の尊敬を得ながら、現実は空理空論を弄んでいるに過ぎないパリサイ派の宗教学者よりも、人に嫌われ軽蔑される職業でありながら、社会にとってなくてはならぬ存在である収税吏のほうが上であるということ。
(30)伝説的にはかつて売春婦でイエスの教えで信仰に目覚めた女性とされる。(ルカ7-37~50)
(31)モーセの律法の巻物が納めてあるもので、イエスは平気で手を触れたりした。
(32)Joseph of Arimathea(マタイ27-57~60)イエスの死体を手厚く葬ったという。
(33)(前出)ヨセフと共にイエスの死体を葬ったという。


霊訓〈完訳・下〉

  The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。






29節

本節の内容
*低級霊に関する警告
*現実の裏側の怖るべき実情
*邪悪霊・堕落霊・復讐霊・偽善霊
*物質文明と大都会の悪弊
*興味本位の心霊実験の危険性
*物理的心霊現象の価値
*物的次元より霊的次元への脱皮の必要性
*氏名を詐称する霊の危険性
*いたずら霊の存在
*個人的関心事は避けるが賢明


〔一八七四年三月十五日。この頃までに他人の名を詐称する霊が出没しているから注意せよとの警告がしきりに出され、その特殊なケースが実際に他のサークルで起きたことで一段としつこくなっていた。その問題に関連して数多くの通信が送られて来たが、その中で唯一普遍的な内容のものを紹介する。〕


このところわれらの要請がしつこくなっているが、それは人間を騙さんとして他人の名を詐称する霊にはめられる危険性について、これまでも再三警告してきたことを改めて繰り返す必要を痛感しているからである。そうした連中も“未熟霊”の中に入る。その種の霊による面倒や困惑の危険性がそなたの身辺に迫っており、その餌食とならぬようにと、最近特に注意を促したばかりであろう。如何にもわれらに協力せんとしているかに見せかける霊が存在することをわれらは確かめている。その目的とするところはわれらの仕事に邪魔を入れ進行を遅らせることにある。

この点については十分に説明しておく必要がある。すでに聞き及んでいようが、今そなたを中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。われらの霊団と邪霊集団との反目であり、言い換えれば人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いである。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟なる霊の抱く憎しみによりて煽られる者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。要するに、程度を異にする未熟な霊が全てこれに含まれる。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われらを始めとする他の多くの霊団の仕事に対し、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中である。

そなたにそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できぬのは、どうやらその現状がそなたの肉眼に映らぬからであるようである。となれば、そなたの霊眼が開くまではその大きさ、その実在ぶりを如実に理解することは出来ぬであろう。その集団に集まるのは必然的に地縛霊、未発達霊の類である。彼らにとりて地上生活は何の利益ももたらさず、その意念の赴くところは彼らにとりては愉しみの宝庫とも言うべき地上でしかなく、霊界の霊的喜びには何の反応も示さぬ。かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつきまわり、同質の地上の人間に憑依し、哀れなる汚らわしき地上生活に浸ることによりて、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとする。

肉欲の中に生き、肉欲のためにのみ生き、今その肉体を失える後も、肉欲のみは失うことの出来ぬこの哀れなる人間は、地上に感応しやすき同類を求め、深みに追いやることをもって生きる拠り所とする。それを措いて他に愉しみを見出し得ぬからである。地上では肉体はすでに病に蝕まれ精神はアルコールによりて麻痺されていた。それが、かつての通い慣れた悪徳の巣窟をさ迷い歩き、取り憑きやすき呑んだくれを見つけてはけしかける。けしかけられた男らは一段と深みにはまる。それが罪もなき妻や子の悲劇を広げ、知識と教養の中心たるベき都会の片隅に不名誉と恥辱の巣窟を生む。そうすることに彼らは痛快を覚え、満足の笑みをもらすのである。こうした現実がそなたらの身のまわりに実在する。それにそなたらは一向に気づかぬ。かくの如き悪疫の巣がある――あるどころか、ますます繁栄しのさばる一方でありながら、それを批難する叫び声は一体地上のいずこより聞こえるであろうか。何故どこからも批難の声が上がらぬのであろうか。何故か? それも邪霊の働きに他ならぬ。その陰湿なる影響によりて人間の目が曇らされ、真理の声が麻痺されているからに他ならぬ。その悪疫は歓楽街のみに留まらぬ。そこを中心として周囲一円に影響を及ぼし、かくして悪徳が絶えることがないのである。かつての呑んだくれは――人間の目には死んだと思えようが――相も変わらず呑んだくれであり、その影響もまた、相も変わらず地上の同類の人間の魂を蝕み続けているのである。

一方人間の無知の産物である死刑の手段によりて肉体より切り離された殺人者の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつきまわり、決しておとなしく引っ込んではおらぬ。毒々しき激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみ――その罪は往々にして文明社会の副産物に過ぎず、彼らはその哀れなる犠牲者なのである――を抱き、その不当行為への仕返しに出る。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽る。次々と罪悪を唆(そそのか)し、己が犠牲となりしその環境の永続を図る。人間は一体いつになれば毎日の如く、否、時々刻々と処罰している罪悪が実は混雑せる都会生活の産み出す必然の副産物に過ぎぬことを悟るのか。根本の腐敗の根源をそのままにして、何故に醜き枝葉のみを切り落とすのか。協同責任において生み出せる哀れむべき仲間を何故に無慈悲に処分するのか。そなたらは実は利己主義者なのである。その利己主義者が何故に憎悪に燃える霊を敵にまわす行為をしでかすのか。ああ、友よ、そなたらの旧時代的刑法が誤れる認識の上に成り立っており、犯罪防止よりむしろ悪用を生んでいることに気づくまでには、そなたら人間はまだまだ幾多の苦難を体験せねばならぬであろう。

かくの如く、地上の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上に舞い戻るこうした邪霊は当然のことながら進歩と純潔と平和の敵である。われらの敵であり、われらの仕事への攻撃の煽動者となる。至極当然の成り行きであろう。久しく放蕩と堕落の地上生活に浸れる霊が、一気に聖にして善なる霊に変り得るであろうか。肉欲の塊りが至純なる霊に、獣の如き人間が進歩を求める真面目な人間にそう易々と変われるものであろうか。それが有り得ぬことくらいはそなたにも判るであろう。彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙いにおいて、他の邪霊の大軍と共に、まさに地上人類とわれらの敵である。真理の普及がしつこき抵抗に遭うのは彼らの存在の所為であり、そなたにそうした悪への影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力の存在を無視し彼らの攻撃にスキを見せることがあってはならぬ。

この警告はいくら強調しても強調しすぎることはない。その働きが常に潜行的であり、想像を超えた範囲に行きわたっているだけに、なおのこと危険なのである。地上の罪悪と悲劇の多くはそうした邪霊が同種の人間に働きかけた結果に他ならぬ。地上の名誉を傷つけ、体面を辱しめるところの、文明と教養の汚点とも言うべき戦争と、それに伴う数々の恐怖もまた、彼らの仕業である。大都会を汚し、腐敗させ、不正と恥辱の巷(ちまた)と化す犯罪を醸成するのも彼らなのである。

そなたら文明人は知識の進歩を誇り、芸術と科学の進歩を誇り、文化と教養の進歩を誇る。文明を誇り、己の国を飾り立て高揚するキリスト教を地上の僻地にまで広めんと大真面目で奔走する。のみならず、それをそなたらのみに授けられた神の万能薬として、彼らに押しつけんとする。その押しつけんとする宗教と文明がそなたらにもたらす現実については、彼らには言わぬが華であろう。われらが繰り返し説ける如く、そなたらの説く宗教は、真のキリスト教の名に値する単純素朴にして、純粋なる信仰の堕落による退廃的所産に他ならぬ。そなたらの誇りとする文明も文化もうわべのみの飾りに過ぎず、化膿せる傷口は到底隠し切れず、霊眼には歴然として正視できぬ。それが人間性に及ぼす影響に至りては、その本来の崇高なる感覚を汚し、空虚さと偽瞞と利己主義しか産み出さぬ。その点においては、人間本来の感性を文明によりて矮小化されず麻痺されることのなかった砂漠の民のアラブ人、あるいはアメリカ・インディアンの方が、人を出し抜き、ペテンにかけることに長けた狡猾なる商人、あるいは文化的生活に毒された巧妙なる弁舌家や淫乱きわまる文明人より遙かに高潔であることが、往々にして見受けられるのである。

地上の大都会はまさに悪徳と残忍と利己主義と無慈悲と悲劇のるつぼである! 魂は真理に飢え途方に暮れている。霊的影響力を受けつけぬ雰囲気の中で暮らす彼らは、より清く、より平静なる雰囲気を求めて悶え苦しむ。が、その悶えも、取り囲む闇の帳(とばり)を突き抜けることが出来ぬ。必死の向上心も繰り返される悪の誘いに打ち砕かれる。折角の決意も邪霊に奪われる。かくして彼らは次第にそうした邪霊の働きかけへの抵抗力を失う。その段階まで至れば、自暴自棄の念を吹き込むのはいとも簡単である。それが悪徳を大きく助長し、救いへの正道がほぼ完全に閉ざされる。

では、そうした不純と淫乱と懊悩の巷――実はすぐ目と鼻の先のそなたらの同胞の住める都会であり、そこでは金さえあれば少なくとも身体的労苦からは逃れられるが――そうした巷より霊界入りする人間はその後いかなる経過を辿るであろうか。彼らの住める環境は、見た目には霊と肉を堕落させる恥ずべき環境とは思えぬ。が、そこに漂う霊的雰囲気は俗悪臭に満ち溢れている。金儲けのみが人生であり、愉しみと言えば飲食と酒色である。雰囲気は金銭欲と権力欲、その他ありとあらゆる形の利己心である。そうした環境にて暮らせる人間の魂が死後いかなる状態に置かれるか――そなたは一度でも想像してみたことがあるであろうか。魂の糧となるべきものを知らず、成長もなく、携わるベき仕事も持たぬ。発育は歪(いびつ)となり、落着くところは古巣の地上でしかなく、金と欲の巷に舞い戻ったところを、待ち受けていた邪霊に掴まり、唆(そそのか)され、欲望を一層掻き立てられ、われらには近づき難き存在となる。そうなるが最後、悪徳の巣窟である歓楽街の酒色に溺れる霊と同じく、われらは手を施す術(すべ)を知らぬ。辺りはむせ返る雑踏――そこでは金のみが物を言い、利己心と貪欲と盗みが横行する。そこは邪霊集団の行動の中心地であり、そこより毒々しき影響力が発散されていく。

が、人間はそれに一向に気づかぬ。諸悪の根源に無知であり、その諸悪に恰好の場を提供している点において愚か極まる。悪の環境を永続させるのはその愚かさに他ならぬ。そして地上に生命が誕生し発達し霊性を開発していく、その本来の原理・原則を理解せしめんとするわれらの努力を一層困難なものにする。これまでにも結婚生活のもつ重大なる意義について理解せる高邁なる改革者が幾人かいた。われらもそなたに理解し得る範囲での見解を述べてきた。世の中がさらに進歩した時点において説くべきものが、まだまだ数多く残っている。が、今はその時期ではない。差し当たり、われらとしては、結婚生活というものが病いと犯罪と貧困と精神病等の重大なる問題と密接に結びつける問題であることを指摘しておく。それが人間との係わりにおいてわれらを悩ませ混乱せしめている。その多くが結婚生活にまつわる愚劣なる思想、さらには無謀きわまる犯罪的処罰――犯罪的であると同時に、より一層愚かでもある法律に帰されるべきである。そのことは無知・無教養の階層に劣らず教養ある上流階級についても言えることである。否、むしろその最大の罪は富める階層にあるであろう。そなたらはこれまで抱いて来た結婚にまつわる観念を大いに改めねばならぬ。結婚の美名のもとに行なわれる退廃と堕落の大根源を抹殺するにはまず、それまでそなたらが佳しとして来たものに代わりて、幸福と進歩のための、より真実にして神聖なる規範を学ばねばならぬ。われらを誤解してはならぬ! われらは放縦を唱道する者ではない。世に言う社会的自由の伝道者ではない。愚か者は自由と放縦とを履き違えて堕落する。その墜落せる観念をわられは軽蔑をもって拒否する。かの恥ずべき人身売買――最も神聖なる生命の法則の侮辱とも言うべき社会的奴隷制度を軽蔑する以上に、われらは結婚の美名のもとに行なわれる人身売買を軽蔑するものである。

そなたは未だに肉体が霊の道具であること、その肉体の発達を促す健康の法則と条件が、霊が肉に宿って送る地上生活にとりて必須のものであることを理解しておらぬ。それについては前にも述べたが、ここで一言だけ付け加えるならば、他の面においても同じことであるが、この問題においてもそなたらはわれらの敵に味方する結果となっている。そなたらがその独占者を以て任じているところの純粋にして崇高なる霊的福音が地上にもたらされて早や十九世紀の歳月が流れた。然るにそなたらは真の向上に資する面においても、叡智においても、真の宗教性においても、殆ど成長らしき成長をしておらぬ。それどころかむしろイエスがその修業時代を過ごせるエッセネ派(1)にも及ばぬ。イエスに最も辛辣なる非難を浴びせし律法学者やパリサイ派と同列である。

そなたは知らぬ。肉体と霊の問題――この世のみならず死後の生活にも関わる重大なる意味をもつこの問題について、そなたはまるで判っておらぬ。

以上、かつて言及しておいた、われらに敵対する邪霊集団について、その幾つかを明らかにしてみた。彼らは勢力を結集してわれらの仕事を挫折させ悩ませ傷つけんとスキを窺っている。しかも人間の無知ゆえに堕落していく霊によりて時々刻々その勢力を拡充していきつつある。

これまでわれらはもう一方の集団、すなわち人類のため、人類の発展のために力のかぎりに努力している霊の集団については述べずにおいた。人類を救済し、未来に希望をもたせる犠牲と献身の行為、素朴にして気高き生きざま、心豊かな行為については敢えて述べずにおいた。それは、われらの目下の仕事がその反対の暗黒面を描いてみせることにあるからである。出来るだけその方向へそなたの注意を仕向けてきた。言っておくが、われらはその内面の姿を有るがままに描いているのである。われらの通信の底流をなす深刻なる真理、すなわち善と悪との対立、その悪の勢力を助長する人間の過ちは、われらが担(にな)える仕事の今後の進展に大きく係わる重大な事実だからである。今しがた述べたことも、われらに敵対する組織的集団についてかつて述べたことを繰り返し述べたに過ぎぬ。が、これ以後ますます繁くなるであろうことが予想される特殊な敵対手段については、述べることを控えておいた。それは、客観的心霊現象が頻繁となり、それを求める欲求が募るにつれて、邪霊集団が意図的に手の込んだ策を弄し、肝心の霊的真理に対する不信感を煽る企みのために多くの霊媒が利用される可能性が大きくなるということである。これは特殊な敵対手段であり、最も大なる危険性を秘めている。と言うのは、程度の低き霊ほど物的なものへの働きかけが強力であり、巧妙であり、時として憎悪に満ちている。彼らは、目を見張る心霊現象を起こす霊媒を養成し、超自然力に興味をもつ者を得心させようと強力に働きかけている。いったん得心させれば、あとは容易である。トリックとペテンを弄し、同時に真面目な道徳的説教も交えつつ、徐々に疑念を誘い、初め霊の存在に向けられた不信感と猜疑心とが次第に心霊現象そのものと道徳的教訓にまで広がっていく。

心霊現象は単に人間の目を見張らせ、面白がらせるためのものではない。肝心の目的は霊的教訓にある。それに対する不信感を煽る手段としてこれに勝る巧妙なるものはない。人間は最後にこう言い始める――われわれは色々とやってみた。自らも実験してみた。そして真相が判った。結局はペテンか愚劣にして不道徳きわまる教説を説くか、あるいは間違いだらけか、要するに悪魔の仕業である、と。そう考え始めた連中に正と邪を見分けるようにと説いても最早や無駄である。揺らぎ始めた信頼がそれを許さぬ。初め信じてかかったものがニセであることが証明されたわけであり、信頼の殿堂は瓦礫となって辺りに散乱する。基礎が十分でなく、建造物を支えることが出来なかったということである。

繰り返し述べるが、これほどわれらの仕事を麻痺させる悪魔的策謀はない。われらは厳粛なる気持ちをもって警告するものである。必ずわれらの警告に従って行動して貰いたい。次から次へと無闇に派手な現象を演出してみせてくれる時は用心するがよい。そうしたものは大体において低級にして未発達なる霊の仕業である。その演出には往々にして招かれざる客が携わっている。驚異的現象も余り度を越すと、ことに結成したばかりのサークルにおいては大いに危険がある。心霊実験も必要である。われらは決してある種の人間にとりての効用を過小評価する者ではない。求むる者全てに納得のいく証拠を提供してあげたいとは思う。が、そうした物理的現象のみの興味、魂の成長に殆ど役に立たぬうわべの興味にのみ終始して貰っては困る。そうした現象にしか興味を抱かぬ者の目には、われらの為すことが時として人間のすることよりお粗未に映ることすらあろう。が、現象そのものを目標としているのではない。目標は一段高き次元にある。また、この世のものとは別の存在がこの世の法則に干渉できることを証明して満足しているわけでもない。もしもそれが全てであるとするならば、そうした事実を知ることは害にこそなれ、益にはならぬであろう。われらは唯一絶対の至上命令を下されている。その使命達成のために地上に戻ってきた。それ以外に用はない。その使命はそなたにも判っていよう。信仰心が冷却し、神の存在と霊魂不滅への信仰が衰えかけた時、われらは人間が神の火花を宿すが故に永遠不滅であることを証しにくる。旧き時代の信仰の誤りを指摘し、向上進化をもたらす人生を説き、発達と向上の未来永劫ヘと目を向けさせる。

われらが、不本意ながらも、物質を操る霊の威力の発達のために、その本来の目標を脇へ置くことがあるが、それは決して人間の好奇心を喜ばせるためではない。あくまでも目的の為のやむを得ぬ手段として必要と見たからであり、決して望ましきことと考えているわけではない。仮に無害であるとしても、われらは同じ忠告をするであろう。が、現実にはわれらが最も恐るべき反抗集団による攻撃手段とされるが故に、そうした物的現象を無闇に求めたり、それをもってわれらとの交霊の目的とすることを、われらは声を大にして警告するものである。

心霊現象はあくまでも確信を得させるための手段に過ぎぬものと心得よ。その一つ一つを霊の世界より物質の世界ヘの働きかけの証と受けとめよ。それだけのものに過ぎぬと理解し、それを霊的神殿を建立するための基礎として活用せよ。現象はどういじくってみたところでそれ以上の価値は出て来ぬ。それに、霊側がこれ以上は無駄と見た時は、そうした現象をより得意とする霊に譲って引き上げてしまう。かくして折角の奥深き啓示の機会が逃げ去ることになる。あくまでも現象を基礎として、そこより一歩踏み出さねばならぬ。現象に携わる知的存在の本性は一体何であるのか、いずこより来るのか、その意図は、等々を知ろうとせねばならぬ。きっとそれが神の計画であり、その拠って来る根源も意図も至純にして必ずや何らかの恩恵をもたらすものであるとの確信を得たいと思うことであろう。魂の辿る道程と、人間が死と呼ぶところの変化に最も有効に対処できる心がけについて納得のいく指針を得たく思うことであろう。それは当然の成り行きである。何となれば、万が一われらが人類と同類でないとすれば、われらの体験が人類に一体何の役に立つというのであろうか。万が一そなたら人間の不滅性を語れぬとすれば、われらがこうして存在し続けていることを幾ら徹底的に証明してみたところで、一体何の意味があろう。妙な話になりはせぬか。これほど奇妙な話もあるまい。

そなたが首尾よく現象的なものを超えて真理のための真理探求にまで進めば――要するにわれらの意図を信じてくれれば――その暁には、未だそなたが知らずにいる世界に案内することが出来よう。その世界についてはそなたの国(2)以外の国の真摯なる探求者にはすでに、遙かに奥深きことが啓示されている。そなたらの国ではまだその恩恵に与れる者は僅かである。こうした自動書記による通信も、テーブルラップ(3)その他のぎこちなき手段に較べればよほど進んでいるかに思えるであろうが、そうした物理的手段を経ぬ直接的な霊と霊との感応に較べればその比ではない。スピリチュアリズム勃興の地である米国においては、地上と霊界の二重の生活を送れるまでに霊感が発達し、霊界との交信を日常茶飯事としている者が大勢いる。英国民の精神の不信心性と、興味の唯物性と、雰囲気の低俗性の故に、われらの思うに任せぬことが米国では着々と成果を挙げて行きつつある。われらの仕事は俗事を処理するようなわけには参らぬ。われらは心を読み取ってしまう。故に人間が実際には興味を覚えぬくせに、つまり真にやる気を持たぬのに、いかにもそれらしく装ってみたところで――心底より信じぬままわれらの仕事に手を貸してくれたところで、何の益にもならぬ。いつの時代にも、いずこの国においても常にそうであった。高級なる霊的真理を地上へ送り届けんとする努力が時おり為される。が、まだ時期尚早であることを悟って手を引くことがある。もっともこの度われらが述べんとするのはそのことではない。心霊実験にまつわる危険性について警告し、物的現象はいち早く卒業して霊的知識へと進むよう忠告せんとしているまでである。進歩には受け入れ態勢が先行せねばならぬ。が、われらとしてはそなたが少しでも早く物的束縛より脱け出て、ひたすら霊的真理の追求に専心する日の到来を望み祈る気持でいる。そなたはその目標に向かって迷わず一意専心せねばならぬ。有象(うぞう)無象の意見を振り切り、地上の生活者として出来得るかぎり物的感覚より脱け出なければならぬ。

永遠なる父よ! 私たちはあなたの御名のもとに勤しみ、あなたの真理の啓示のために遣わされました。その真理が私たちの語りかける者の心を高め、そして清め、地上的なものを超えて霊的感覚を目覚めしめ、私たちの説くところを悟らしめます。願わくば彼ら地上の者の心に信仰を育み給え。それが真理への渇望を生み、地上的利害を超えて霊的啓示を学ばしめることになればと願えばこそでございます。

(†インペレーター)


〔私は右に述べられたことが全て真実であることに疑いは挟まないが、そういう邪霊の働きを抑制するための法や秩序が霊界にないのが理解できないと述べた。読んでいると何だか彼らは好きに振舞い、何の支配も受けていない感じがするのである。同時に彼らが他人の名を騙(かた)るという事実が不思議に思える。何故そんなことに興味を覚えるのかが理解できないと述べた。〕


われらの世界に法も秩序もなきが如くに想像するのは誤りである。人間の側にて整えるべき条件を整えてくれぬことがわれらの秩序ある努力を挫折させているに過ぎぬ。交霊会を催すに際してはまずそれなりの条件を整えねばならぬ。それさえ励行してくれれば、これまでの如き悪戯や混乱の半分は除去されるであろう。もっともそなたらの言う悪の要素が完全に抹殺される日は来ぬ。何となれば、そうした体験も霊的鍛錬の一つであるからであり、われらとてそなたの進歩的発達を促すこの過程を免除してやるわけには参らぬのである。そなたにはその過程を通過する必要があるのである。まだまだ学ばねばならぬことが多々ある。こうした実際に即した体験もその勉強の一つと心得るがよい。

邪霊が他人の名を騙る問題については、これ以後多くを知ることになろうが、取り敢えず述べておけば、こちらにはそうした悪戯を愉しみとする低級霊がおり、ある条件下において実に手の込んだ詐術を弄する才能を持っているということである。人間が望んでいるとみた人物の名を騙り、いかなる人物でも実にうまく真似て応対する。こうした霊は交霊会が用心を怠らず、霊側で守護の任に当たる者が鋭く睨みを利かせれば、大抵は締め出すことが出来る。無闇に交霊会を催し、新参者を不用意に参加させ、霊的条件への配慮を怠り、それが為に霊側の厳戒態勢が整わぬようでは、彼らの侵入を許す危険が大である。われらの知るかぎりでは、大半の交霊会ではその種の悪戯(いたずら)霊の侵入を許していると見てよかろう。単なる好奇心から現象を求める。霊界の知人・友人を次々と呼び寄せる。それが本当に当人なのか騙(かた)りなのかを見分ける用心を怠る。あれこれと愚にもつかぬ質問をし、その返事を大まじめで聞いて鵜呑みにする。これでは低級霊がそれを愉しみとして何の不思議があろう。


――そんなことでは、これで絶対大丈夫という確信を得ることが出来ませんし、立派で筋の通ったものと思い込んでいたものが結局はトリックだったということにならない保証はどこにもないのではありませんか。背後にそうした邪悪な勢力が存在する以上、絶対安全と言える人がいるでしょうか。


その問いに対しては、すでに述べたことを繰り返すのみである。われらの信頼性と誠意と客観的存在については、そなたにはすでに証明済みである。証拠の上に証拠を重ねてきた。われらの道徳的意識の程度は全ての面に一貫する誠意――そなたに授けた教訓に一貫する基調を以て証明してきたつもりである。それはそなた自らの判断にて評価されたい。そなたの評価を得て始めて世の全ての人に至純にして至善なる教訓として公開されることになろう(4)。今すでにそなたはそれを全体の傾向として崇高にして善なるものであることは認めておろう。われらの身元、われらの仕事、そしてわれらの目的に関してそなたは、一個の人間について評価を下すのと同じように評価を下せるだけの情報を手にしているに相違ない。


――おっしゃる通りです。この通信の最初に私が指摘した霊などは、もし引っ掛かっておれば、容易に信念を揺るがせかねなかったと思われます。


それは十分に有り得たことである。万一の場合われらがその働きにどこまで対抗できたかは判らぬ。が、そのような危険に足を踏み入れることはわれらはご免蒙る。あの場合にしても、どう警告したところで彼らはそれに対抗して巧みに操り、うまく人の名を騙って、挙句には、ただでさえ心もとなき信念に致命的打撃を与えたことであろう。そなたにとりてそれは真実危険である。何にもまして、矛盾せる偽りの言説は、そなたに猜疑心を誘発せしめることであろう。その猜疑心は遂にはわれらへの信頼を覆し、われらは退散のやむなきに到るであろう。


――確かにこれは、係わり合うと実に危険な存在であるように思われます。


何事にせよ、乱用は感心せぬ。正用は結構であり、それを常に心がけるべきである。軽薄なる心でもって霊界と係わりをもつ者、単なる好奇心の対象に過ぎぬものに低俗なる動機からのめり込む者、見栄っ張りの自惚れ屋、軽率者、不実者、欲深者、好色家、卑怯者、おしゃべり――この種の者にとりては危険が実に大である。われらとしては、性格的に円満を欠く者が心霊的なものに係わることは勧められぬ。賢明にして強力なる背後霊に守られ、その指示によりて行動する者のみがこの道に携わるべきであり、それも細心の注意と誠心からの祈りの念を持って臨むべきである。不用意な係わり合いは断じて許せぬ。また、円満な精神と平静な感情の持ち主にあらざれば、とても霊界との安全なる係わり合いは不可能であり、己の地上生活に禍の種子を持ち込むのみである。節度なき精神、興奮しやすき感情、衝動的かつ無軌道な性格の持ち主は低級霊にとりて恰好の餌食となる。その種の人間が霊的なことに係わることは危険である。特にその求むるところが単なる驚異的現象、好奇心の満足、あるいは虚栄心の慰めに過ぎぬ場合はなおのことである。その種の人間には神の訓えは耳に届かぬ。願わくば聞く耳を持つ者が低級霊の干渉を首尾よく切り抜け、低級界を後にして高級界のより聖純なる大気の中へと進んでくれることを望むこと切なるものがある。


――それはしかし、世間一般の人にとっては要求が高すぎるのではありませんか。大方の者は何となく取っ付きにくい教訓めいた話よりは、頭をコツンと叩かれたり(5)、椅子が浮揚するのを見る方を好むものです。


確かにその通りである。それはわれらも十分に承知している。が、現在の段階はあくまで通過すべき段階であらねばならぬ。われらの仕事にも物理現象は付随する。が、それは真の目的ではない。われらが期待している真の発展の地ならし程度であらねばならぬ。これより後も、各地で一層盛んに見られるようになるであろう。われらはそれに伴うところの危険性について警告しつつも、現在そなたが置かれている知的段階においては、それも必要であることを決して偽りはせぬ。遺憾には思うものの、その必要性は認める。この件については付言すべきことがまだあるが、今は控える。しばし休息せよ。


〔僅かばかりの休息の後に、次のような通信が追加された。〕


邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、それとは別に、悪意からではないが、やはりわれらにとりて面倒を及ぼす存在がある。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えぬ。肉体より離れて行く人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもない。そして、地上に近き界層を一気に突き抜けて行くほど進化せる霊は、特別の使命でもないかぎり、地上へは戻って来ぬものである。地縛霊の存在についてはすでに述べた通りである。

言い残せるものにもう一種類の霊団がある。それは悪ふざけ、茶目っ気、あるいは人間を煙(けむ)に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いて如何にも勿体ぶった雰囲気にて通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取っては面白がっているに過ぎぬ。交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあるとそなたに言わしめる要因がそこにある。茶目っ気や悪戯半分の気持から如何にも真面目くさった演出をしては、それを信ずる人間の気持を弄(もてあそ)ぶ霊の仕業がその原因となっている。列席者が望む肉親を装って如何にもそれらしく応対するのも彼らである。誰にでも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも、彼らの存在の所為である。最近、誰それの霊が出たとの話題がしきりと聞かれるが、そのほとんどは彼らの仕業である。通信にふざけた内容、あるいは、ばかばかしい内容を吹き込むのも彼らである。彼らは真の道徳的意識は持ち合わせぬ。求められれば、いつでも如何なることでも、ふざけ半分いたずら半分にやってみせる。その時々の面白さ以上のものは何も求めぬ。人間を傷つける意図はもたぬ。ただ面白がるのみである。

人の道を誤らせ、邪(よこしま)な欲望や想念を抱かせるのも彼らである。霊媒を密かに操り、高尚な目的を阻止せんとする。高尚にして高貴な目的が彼らには我慢ならず、俗悪なる目的を示唆する。要するにその障害物、妨害とならんとする。係わるのは主として物理的現象である。通例その種の現象が得意であり、列席者を迷わせる魂胆をもって、混乱を惹き起こさせる現象を演出する。数々の奇策を弄して霊媒を騙し、それによりて惹き起こされる当惑の様子を見てほくそえむ。憑依現象を始めとする数々の心霊的障害は往々にして彼らの仕業に起因する。いったん付け入れば如何ようにでも心理操作が出来るのである。個人的に霊を呼び出して慰安を求める者たちを愚弄するのも彼らである。如何にもそれらしく応対し、嬉しがらせるような言葉を述べて欺く。間違いなく本人が出て、しっかりとした意志の疎通が行なわれることはある。が、次の会では巧みに本人を出し抜いて悪戯霊が出現し、名を騙り、それらしく応対しながら、その中に辻褄の合わぬ話を織り混ぜたり、全くの作り話を語ったりする。そなたもそうした霊に付け入られぬためにも、一身上の話題はなるべく避けるが賢明である。

(†インペレーター)


〔注〕

(1)the Essenes ユダヤ教の一派で禁欲・独身・財産共有を特徴とし、心身の清廉を説き、実践した。
(2)英国。
(3)テーブルがひとりでに傾斜して、一本の脚が床を叩き、その符牒によって通信を交わす。
(4)本書の形での公表は、霊側は当初より意図していたことが窺われる。
(5)霊がメガホンなどで列席者の頭や肩を叩いてまわることがよくある。訳者にも体験がある。人情的にはなぜか「うれしい」ものである。

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again

Edited by S. Phillips
近藤千雄訳



七章 難しい質問に答える

 
 「今夜は招待客がいらっしゃらないようですので、ひとつこの機会に、皆さんがふだん持て余しておられる疑問点をお聞きすることにしましょう。易しい問題はお断わりです。今夜にかぎって難問を所望(しょもう)しましょう」

 易しい真理を平易に説くことをモットーとしているシルバーバーチが、ある日の交霊会の開会と同時にこう切り出した。さっそく次々と質問が出されたが、その中から興味深いものをいくつか紹介してみよう。

 最初の質問は最近ある霊媒による交霊会が失敗した話を持ち出して、その原因について質した。するとシルバーバーチは───


 「それは霊媒としての修業不足───見知らぬ人を招待して交霊会を開くだけの力がまだ十分に具わっていない段階で行ったためです。あの霊媒は潜在意識にまだ十分な受容性が具わっておりません。霊媒自身の考えが出しゃばろうとするのを抑えきれないのです。支配霊がいても肝心のコントロールがうまくいっておりません。

支配霊が霊媒をコントロールすることによって行う現象(霊言ならびに自動書記通信)においては、よほど熟練している場合は別として、その通信には大なり小なり霊媒自身の考えが付着しているものと考えてよろしい。そうしないと通信が一言も出なくなります」
℘113
(訳者注───このあとに続く問答とともに、これは、今後ますます霊的なことが受け入れられていくことが予想される日本において極めて大切な警告と受け止めるべきである。

専属の支配霊にしてその程度なのである。ましてや、呼ばれてすぐに出てくる霊がそう簡単にしゃべったり書いたりできるものではないのである。すぐに身元を明かす霊は徹底的に疑ってかかるべきである。疑われて腹を立てるような霊は相手にしない方がよい。それが霊を見分ける一つの尺度である)


───潜在意識の影響をまったく受けない通信は有り得ないということでしょうか。

 「その通りです」


───すべてが脚色されているということですか。

 「どうしてもそうなります。いかなる形式をとろうと、霊界との交信は生身の人間を使用しなくてはならないからです。人間を道具としている以上は、それを通過する際に大なり小なり着色されます。人間である以上その人間的性質を完全に無くすことはできないからです」


───神が完全なる存在であるならば、なぜもっとよい通信手段を用意してくれないのでしょうか。

 「本日は難しい質問をお受けしますと申し上げたら本当に難しい質問をして下さいましたね。結構です。さて、私たちが使用する用語にはそれをどう定義するかという問題があることをまず知っていただかねばなりません。

 おっしゃる通り神は完全です。ですがそれは神が完全な形で顕現されているという意味ではありません。神そのものは完全です。つまりあなたの内部に種子(タネ)として存在する神は完全性を具えているということです。ですが、それは必ずしも物質的形態を通して完全な形で表現されてはいません。

だからこそ無限の時間をかけて絶え間ない進化の過程をへなければならないのです。進化とは内部に存在する完全性という黄金の輝きを発揮させるために不純物という不完全性を除去し磨いていくことです。その進化の過程においてあなたが手にされる霊的啓示は、あなたが到達した段階(霊格)にふさわしいものでしかありません。

万一あなたの霊格よりずっと進んだものを先取りされても、それは所詮あなたの理解を超えたものですから、何の意味もないことになります」


───では人間がさらに進化すれば機械的な通信手段が発明されるかもしれないわけですか。

「その問題についての私の持論は既にご存知のはずです。私は、いかなる器機が発明されても霊媒をヌキにしては完全とはなり得ないと申し上げております。そもそも何のためにこうして霊界から通信を送るのかという、その動機を理解していただかねばなりません。

それは何よりもまず〝愛〟に発しているのです。肉親、知人、友人といった曽て地上で知り合った人から送られてくるものであろうと、私のように人類のためを思う先輩霊からのものであろうと、霊的メッセージを送るという行為を動機づけているものは愛なのです。

 愛こそがすべてのカギです。たとえ完全でなくても、何らかの交信がある方が何もないよりは大切です。なぜなら、それが愛の発現の場を提供することになるからです。しかしそれを機械によって行なうとなると、どう工夫したところで、その愛の要素が除去されることになります。生き生きとした愛の温もりのある通信は得られず、ただの電話のようなものになります」

℘116
───電話でも温かみや愛が通じ合えるのではないでしょうか。

 「電話器を通して得られるかもしれませんが、電話機そのものに温かみはありません」


───大切なのはそれを通して得られるものではないでしょうか。

 「この場合は違います。大切なのは霊媒という〝電話機〟と、メッセージを受ける人間に及ぼす影響です。それに関わる人ぜんぶの霊性を鼓舞することに意図があります」


───霊媒を含めてですか。

 「そうです。なぜなら最終的にはいつの日か人類も霊と霊とが自然な形で直接交信できるまでに霊性が発達します。それを機械を使って代用させようとすることは進化の意図に反することです。進化はあくまで霊性の発達を通してなされねばなりません。霊格を高めることによって神性を最高に発揮するのが目的です」

℘117
───ということは、最高の(死後存続の)証拠を得たいと思えば霊性の発達した霊媒を養成しなければならないということでしょうか。

 「私は今〝証拠〟の問題を念頭に置いて話しているのではありません。人類の発達ということを念頭において話しているのです。人類は螺旋状のサイクルを描きながら発達するように計画されており、その中の一つの段階において次の段階のための霊性を身につけ、その積み重ねが延々と続けられるのです。お分かりでしょうか」


───はい、分ります。

 「最高の成果を得るためには顕幽両界の間にお互いに引き合うものがなければなりません。その最高のものが愛の力なのです。両界の間の障害が取り除かれていきつつある理由は、その愛と愛との呼びかけ合いがあるからです」
℘118
───霊媒の仕事が金銭的になりすぎるとうまく行かないのはそのためでしょうか。

 「その通りです。霊媒はやむにやまれぬ献身的精神に燃えなければなりません。その願望そのものが霊格を高めていくのです。それが何より大切です。なぜなら、人類が絶え間なく霊性を高めて行かなかったら、結果は恐ろしいことになるからです。

霊がメッセージを携えて地上へ戻って来るそもそもの目的は人間の霊性を鼓舞するためであり、潜在する霊的才能を開発して霊的存在としての目的を成就させるためです」


───他界した肉親が地上へ戻って来る───たとえば父親が息子のもとに戻ってくる場合、その根本にあるのは戻りたいという一念でしょうか。それとも今おっしゃった目的で霊媒を通じてメッセージを送りたいからでしょうか。

 「戻りたいという一念からです。ですが一体なぜ戻りたいと思うのでしょう。その願望は愛に根ざしています。父親には息子への愛があり、息子には父親への愛があります。その愛があればこそ父親はあらゆる障害を克服して戻って来るのです。
℘119
困難を克服して愛の力を証明し、愛は死を超えて存続していることを示すことによって息子は、父親の他界という不幸を通じて魂が目を覚まし霊的自我を見出します。かくして、単なる慰めのつもりで始まったことが霊的発達のスタートという形で終わることになります」


───なるほど、そういうことですか。言いかえれば神は進化の計画のためにありとあらゆる体験を活用するということですね?

 「人生の究極の目的は、地上の死後も、霊性を開発することにあります。物質界に誕生するのもその為です。その目的に適った地上生活を送れば霊はしかるべき発達を遂げ、次の生活の場に正しく適応できる霊性を身につけた時点で死を迎えます。

そのように計画されているのです。こちらへ来てからも同じ過程が続き、その都度霊性が開発され、その都度古い身体から脱皮して霊妙さを増し、内部に宿る霊の潜在的な完全さに近づいてまいります」


───人間の身体を見てもその人の送っている邪悪な生活が反映している人をよく見かけます。
℘120
 「当然そうなります。心の思うままがその人となります。その人の為すことがその人の本性に反映します。死後のいかなる界層においても同じことです。身体は精神の召使いではなかったでしょうか。はじめは精神によってこしらえられたのではなかったでしょうか」


───霊界の視点からすれば心で犯す罪は行為で犯す罪と同じでしょうか。

 「それは一概にはお答えできません。霊界の視点から、とおっしゃるのは進化した霊の目から見てという意味でしょうか」

───そうです。ある一つの考えを抱いた時、それは実行に移したのと同じ罪悪性を持つものでしょうか。

 「とても難しい問題です。何か具体的な例をあげていただかないと、一般論としてお答えできる性質のものではありません」
℘121

───例えば誰かを殺してやりたいと思った場合です。

 「それはその動機が問題です。いかなる問題を考察するに際しても、真っ先に考慮すべきことは〝それは霊にとっていかなる影響を持つか〟ということです。ですから、この際も〝殺したいという考えを抱くにいたった動機ないしは魂胆は何か〟ということです。

 さて、この問題には当人の気質が大きく関わっております。と申しますのは、人をやっつけてやりたいとは思っても手を出すのは怖いという人がいます。本当に実行するまでに至らない───言わば憶病なのです。心ではそう思っても、実際の行為には至らないというタイプです。

 そこで、殺してやりたいと心で思ったら実際に殺したのと同じかというご質問ですが、もちろんそれは違います。実際に殺せばその霊を肉体から離してしまうことになりますが、心に抱いただけではそういうことにならないからです。その視点からすれば、心に思うことと実際の行為とは罪悪性が異なります。

 しかしそれを精神的次元で捉えた場合、嫉妬心、貪欲、恨み、憎しみといった邪念は身体的行為よりも大きな悪影響を及ぼします。思い切り人をぶん殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為に至らせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方がはるかに強烈です。このように、この種の問題は事情によって答えが異なります」
℘122
───誰かを殺してやりたいと思うだけなら、実際の殺人行為ほどの罪悪ではないとおっしゃいました。でも、その念を抱いた当人にとっては殺人行為以上に実害がある場合があり得ませんか。

 「あり得ます。これも又、場合によりけりです。その邪念の強さが問題になるからです。忘れないでいただきたいのは、根本において支配しているのは因果律だということです。

地上における身体的行為が結果を生むのと同じように、精神的及び霊的次元においてそれなりの結果を生むように仕組まれた自然の摂理のことです。邪念を抱いた人が自分の精神又は霊に及ぼしている影響は、あなた方には見えません」


───誰かを、あるいは何かを憎むということは許されることでしょうか。あなたは誰かを、あるいは何かを憎むということがありますか。
℘123
 「あとのご質問は答えが簡単です。私は誰も憎みません。憎むことができないのです。なぜなら私は神の子のすべてに神性を認めるからです。そしてその神性がまったく発揮できずにいる人、あるいはほんのわずかしか発揮できずにいる人をみて、いつも気の毒に思うからです。ですが、許せない制度や強欲に対しては憎しみを抱くことはあります。

残虐行為を見て怒りを覚えることはあります。強欲、悪意、権勢欲などが生み出すものに対して怒りを覚えます。それにともなって、さまざまな思い───あまり褒められない想念を抱くことはあります。でも忘れないでください。私もまだきわめて人間味を具えた存在です。誰に対しても絶対に人間的感情を抱かないというところまでは進化しておりません」

───いけないと知りつつも感情的になることがありますか。

 「ありますとも」

 別のメンバーが〝憎むということは別の問題で、これは恐ろしい行為です〟と言うと、先のメンバーが〝人を平気で不幸にする邪悪な人間がいますが、私はそういう人間にはどうしても憎しみを抱きます〟と言う。するとシルバーバーチが―
℘124
 「私は憎しみを抱くことは出来ません。摂理を知っているからです。神は絶対にごまかせないことを知っているからです。誰が何をしようと、その代償はそちらにいる間か、こちらへ来てから支払わせられます。

いかなる行為、いかなる言葉、いかなる思念も、それが生み出す結果に対してその人が責任を負うことになっており、絶対に免れることはできません。ですから、いかに見すぼらしくても、いやしくても、神の衣をまとっている同胞を憎むということは私にはできません。ですが、不正行為そのものは憎みます」


───でも実業界には腹黒い人間は沢山います。

 「でしたら、その人たちのことを哀れんであげることです」

───私はそこまで立派にはなれません。私は憎みます。

℘125
 別のメンバーが〝私はそれほどの体験はないのですが、動物の虐待を見ると腹が立ちます〟と言うとシルバーバーチが────

 「そういう行為を平気でする人はみずからの進化の低さの犠牲者であり、道を見失える哀れな盲目者なのです。悲しむべきことです」


 先のメンバーが〝そういう連中の大半は高い知性と頭脳の有(も)ち主です。才能のない人間を食い物にしています。それで私は憎むのです〟と言う。(この人は〝腹黒い〟実業家を念頭に於いて述べている───訳者)

 「そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時が来るのです。あなたと私との違いは、あなたは物質の目で眺め私は霊の目で眺めている点です。私の目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです。暗黒の中で悶え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪業にふさわしい罰なのです」


───でも、いま現実に他人に大きな苦しみをもたらしております。
℘126
 「では一体どうあってほしいとおっしゃるのでしょう。人間から自由意志を奪い去り操り人形にしてしまえばよいのでしょうか。自由意志という有難いものがあればこそ、努力によって荘厳な世界へ向上することも出来れば道を間違えて奈落の底へ落ちることもあり得るのが道理です」

 別のメンバーが〝邪悪な思念を抱いて実行した場合、それを実行に移さなかった場合と比べて精神にどういう影響があるでしょうか〟と尋ねる。

 「もしそれが激しい感情からではなく、冷酷非情な計算ずくで行った場合でも、 いま申し上げた邪悪な人間と同じ運命をたどります。なぜなら、それがその魂の発達程度、というよりは発達不足の指針だからです。たとえば心に殺意を抱き、しかもそれを平気で実行に移したとすれば、途中で思いとどまった場合に比べて、遥かに重い罪を犯したことになります」


───臆病であるがゆえに思いとどまることもあるでしょう。
℘127
 「臆病者の場合はまた別です。私はいま邪悪なことを平気で実行に移せる人間の場合の話をしたのです。始めに申し上げたとおり、この種の問題は一つ一つ限定して論ずる必要があります。心に殺意を抱きしかも平気で実行出来る人と、〝あんな憎たらしい奴は殺してやりたいほどだ〟と思うだけの人とでは、霊的法則からいうと前者の方が遥かに罪が重いといえます」

───あなたご自身にとって何か重大でしかも解答が得られずにいる難問をお持ちですか。

 「解答が得られずいる問題で重大なものといえるものはありません。ただ、私はよく進化は永遠に続く───どこまで行ってもこれでお終いということはありません、と申し上げておりますが、なぜそういうお終のない計画を神がお立てになったのかが分かりません。いろいろ私なりに考え、また助言も得ておりますが、正直言って、これまでに得たかぎりの解答には得心がいかずにおります」


───神それ自体が完全でないということではないでしょうか。あなたはいつも神は完全ですとおっしゃってますが───
℘128
 「随分深い問題に入ってきましたね。かつて入ってみたことのない深みに入りつつあります。
 私には地上の言語を使用せざるを得ない宿命があります。そこでどうしても神のことを私が抱いている概念とは懸け離れた男性神であるかのような言い方をしてしまいます。

(〝大霊〟the Great Spirit を使用しても〝神〟God を使用しても二度目からは男性代名詞の He, His, Himを使用していることを言っている───訳者)

私の抱いている神の概念は完璧な自然法則の背後に控える無限なる叡智です。その叡智が無限の現象として顕現しているのが宇宙です。が、私はまだその宇宙の最高の顕現を見たと宣言する勇気はありません。これまでに到達したかぎりの位置から見ると、まだまだその先に別の頂上が見えているからです。

 私が私なりに見てきた宇宙に厳然とした目的があるということを輪郭だけは理解しております。私はまだその細部の全てに通暁しているなどとはとても断言できません。

だからこそ私は、私と同じように皆さんも、知識の及ばないところは信仰心でもって補いなさいと申し上げているのです。〝神〟と同じく〝完全〟というものの概念は、皆さんが不完全であるかぎり完全に理解することはできません。
℘129
現在の段階まで来てみてもなお私は、もしかりに完全を成就したらそれはそれにて休止することを意味し、それは進化の概念と矛盾するわけですから、完全というものは本質的に成就できないものであるのに、なぜ人類がその成就に向かって進化しなければならないのかが理解できないのです」


───こうして私たちが問題をたずさえてあなたのもと(交霊会)へ来るように、あなたの世界でも相談に行かれる場所があるのでしょうか。
     
 「上層界へ行けば私より遥かに叡知を身につけられた方がいらっしゃいます」


───こうした交霊会と同じようなものを催されるのですか。

 「私たちにも助言者や指導者がいます」


───やはり入神して行うのですか。
℘130         
 「プロセスは地上の入神とまったく同じではありませんが、やはりバイブレーションの低下、すなわち高い波長を私たちに適切な波長に転換したり光輝を和らげたりしてラクにして下さいます。

一種の霊媒現象です。こうしたことが宇宙のあらゆる界層において段階的に行われていることを念頭において下されば、上には上があってヤコブのはしご(※)には無限の段が付いていることがお分かりでしょう。その一ばん上の段と一ばん下の段は誰にも見えません」
   (※ ヤコブが夢で見たという天まで届くはしご。創世記28・12──訳者)

───霊媒を通じて語りかけてくる霊はわれわれが受ける感じほどに実際に身近な存在なのでしょうか。それとも霊媒の潜在意識も考慮に入れなければならないのでしょうか。 そんなに簡単に話しかけられるものでしょうか。私の感じとしては、想像しているほど身近な存在ではないような気がしています。少し簡単すぎます。

 「何が簡単すぎるのでしょうか」

───思っているほどわれわれにとって身近な存在であるとは思えないのです。多くの霊媒の交霊会に出席すればするほど、
p131
しゃべっているのは霊本人ではないように思えてきます。時にはまったく本人ではない───単にそれらしい印象を与えているだけと思われるのがあります。

 「霊が実在する───このことを疑っておられるわけではないでしょうね ? 次に、われわれにも個性がある───このことにも疑問の余地はありませんね? ではわれわれは一体誰か───この問題になると意見が分かれます。

なぜかといえば、そもそも同一性(アイデンテイテイ)とは何を基準にするかという点で理解の仕方が異なるからです。私個人としては地上の両親が付けた名前は問題にしません。名前と当人との間にはある種の相違点があるからです。

 では一体われわれは何者なのかという問題ですが、これまたアイデンティティを何を基準とするかによります。ご承知の通り私はインディアンの身体を使用していますが、インディアンではありません。こうするのが私自身を一ばんうまく表現できるからそうしているまでです。

このように、背後霊の存在そのものには問題の余地はないにしても、物質への霊の働きかけの問題は実に複雑であり、通信に影響を及ぼし内容を変えてしまうほどの、さまざまな出来ごとが生じております。
℘132
 通信がどれだけ伝わるか───その内容と分量は、そうしたさまざまな要素によって違ってきます。まして、ふだんの生活における〝導き〟の問題は簡単には片づけられません。

なぜかというと、人間側はその時々の自分の望みを叶えてくれるのが導きであると思いがちですが、実際には叶えてあげる必要が全くないものがあるからです。一ばん良い導きは本人の望んでいる通りにしてあげることではなくて、それを無視して放っておくことである場合がしばしばあるのです。

 この問題は要約して片付けられる性質のものではありません。これには意義の程度の問題、つまり本人の霊的進化の程度と悟りの問題が絡んでいるからです。大変な問題なのです。人間の祈りを聞くことがよくありますが、要望には応えてあげたい気持は山々でも、側に立って見ているしかないことがあります。

時には私の方が耐えきれなくなって何とかしてあげようと行動に移りかけると〝捨ておけ!〟という上の界からの声が聞こえることがあります。一つの計画のワクの中で行動する約束ができている以上、私の勝手は許されないのです。

 この問題は容易でないと申しましたが、それは困難なことばかりだという意味ではありません。時には容易なこともあり、時には困難なこともあります。ただ、理解しておいていただきたいのは、人間にとって影(不幸)に思えることが私たちから見れば光(幸福)であることがあり、
℘133
人間にとって光であるように思えることが私たちから見れば影であることがあるということです。人間にとって青天のように思えることが私たちから見れば嵐の余兆であり、人間にとって静けさに思えることが私たちから見れば騒音であり、人間にとって騒音に思えることが私たちから見れば静けさであることがあるものです。

 あなた方が実在と思っておられることは私たちにとっては実在ではないのです。お互い同じ宇宙の中に存在しながら、その住んでいる世界は同じではありません。あなた方の思想や視野全体が物的思考形態によって条件づけられ支配されております。

霊の目で見ることが出来ないために、つい、現状への不平や不満を口にされます。私はそれを咎める気にはなりません。視界が限られているのですから、やむを得ないと思うのです。あなた方には全視野を眼下におさめることはできないのです。

 私たちスピリットといえども完全から程遠いことは、誰よりもこの私がまっ先に認めます。やりたいことが何でもできるとはかぎらないことは否定しません。しかしそのことは、私たちがあなた方自身の心臓の鼓動と同じくらい身近な存在であるという事実とは全く別の問題です。

私たちはあなた方が太陽の下を歩くと影が付き添うごとく、イヤそれ以上にあなた方の身近な存在です。私の愛の活動範囲にある人は私たちの世界の霊と霊との関係と同じく親密なものです。
℘134
それを物的な現象によってもお見せ出来ないわけではありませんが、いつでもというわけにはまいりません。霊的な理解(悟り)という形でもできます。が、これ又、人間としてやむを得ないことですが、そういう霊的高揚を体験するチャンスというのは、そう滅多にあるものではありません。

そのことを咎めるつもりはありません。これから目指すべき進歩の指標がそこにあるということです。

 あなたのご意見はちょっと聞くと正しいように思えますが、近視眼的であり、すべての事実に通暁しておられない方の意見です。とは言え、私たち霊界からの指導者は常に寛大な態度で臨まねばなりません。教師は生徒の述べることに一つ一つ耳を貸してあげないといけません。意見を述べるという行為そのものが、意見の正しい正しくないに関係なく、魂が生長しようとしていることの指標だからです。

真面目な意見であれば私たちはどんなことにも腹は立てませんから、少しもご心配なさるには及びません。大いに歓迎します。どなたがどんなことをおっしゃろうと、またどんなことをなさろうと、皆さんに対する私の愛の心がいささかでも減る気遣いはいりません」

───私たちもあなたに対して同じ気持ちを抱いております。要は求道心の問題に帰着するようです。
℘135
 「いま私が申し上げたことに批判がましい気持ちはみじんも含まれておりません。われわれはみんな神であると同時に人間です。ひじょうに混み入った存在─── 一見単純のようで奥の深い存在です。魂というものは開発されるほど単純さへ向かいますが、同時に奥行きを増します。単純さと深遠さは同じ棒の両端です。

作用と反作用とは科学的に言っても正反対であると同時に同一物です。進歩は容易に得られるものではありません。もともと容易に得られるように意図されていないのです。われわれはお互いに生命の道の巡礼者であり、手にした霊的知識という杖が困難に際して支えになってくれます。

その杖にすがることです。霊的知識という杖です。それを失っては進化の旅は続けられません」


───私たちは余りに霊的知識に近すぎて、かえってその大切さを見失いがちであるように思います。

 「私はつねづね二つの大切なことを申し上げております。一つは、知識の及ばない領域に踏み込むときは、
℘136
その知識を基礎とした上での信仰心に頼りなさいということです。それからもう一つは、つねに理性を忘れないようにということです。理性による合理的判断力は神からの授かりものです。


あなたにとっての合理性の基準にそぐわないものは遠慮なく拒否なさることです。理性も各自に成長度があり、成長した分だけ判断の基準も高まるものです。

一見矛盾しているかに思える言説がいろいろとありますが、この合理性もその一つであり、一種のパラドックス(逆説)を含んでおりますが、パラドックスは真理の象徴でもあるのです。

(訳者注───この場合のパラドックスとは次章の〝真理には無限の側面がある〟と同じ意味に解釈すべきであろう)

 理性が不満を覚えて質問なさる───それを私は少しも咎めません。私はむしろ結構な傾向としてうれしく思うくらいです。疑問を質そうとすることは魂が活動しているからこそであり、私にとってはそれが喜びの源泉だからです。

 「さて私は何とか皆さんのご質問にお答えできたと思うのですが、いかがでしょうか」と言ってから、その日の中心的な質問者であった曽てのメソジスト派の牧師の方を向いて笑顔でこう述べた。

 「私の答案用紙に〝思いやりあり〟 〝人間愛に富む〟 とでも書き込んでくださいますか」
      

Friday, October 16, 2026

霊訓〈完訳・下〉

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。





28節

本節の内容
*エジプトの神学とユダヤ教 *三位一体説
*エジプトの宗教 *現代生活の唯物性に関する議論
*モーセの律法の原点 *各国の三一神 *エジプトとインド
*霊的向上は信教の別と無関係 *最後の審判説は誤り
*毎日が審判の日 *霊の究極の運命の詮索は無用


〔一八七四年二月二十六日。この頃に催した交霊会で訳のわからない直接書記の現象が出た。奇妙な象形文字で書かれていた。それについて尋ねると――〕


そなたには解読できぬであろうが、あの文は大変な高級霊によるものである。その霊は偉大なる国家エジプトが最も霊的に発達した時代に生を享けた。当時のエジプト人は霊の存在とその働きについて今のそなたより遙かに現実味のある信仰を抱いていた。死後の存続と霊性の永遠不滅性について、現代の地上の賢人より遙かに堅固なる信仰をもっていた。彼らの文明の大きさについてはそなたもよく知っていよう。その学識は言わば当時の知識の貯蔵庫のようなものであった。

まさしくそうであった。彼らには唯物主義の時代が見失える知識があった。ピタゴラス(1)やプラトン(2)の魂を啓発せる知識、そしてその教えを通してそなたらの時代へと受け継がれて来た知識があった。古代エジプト人は実に聡明にして博学なる哲学者であり、われらの同志がいずれそなたの知らぬ多くのことを教えることになろう。地上にてすでに神と死後について悟りを得ていた偉大なる霊が三千有余年もの時を隔てて、その後の地上での信仰の様子を見に参る。その霊が霊界にて生活するその三千有余年、それはそなたの偏狭なる視野を以てすれば、大いなる時間の経過と思えるであろうが、その時代の流れが新たなる真理の視野を開かせ、古き誤謬を取り除かせ、古き思索に新たなる光を当てさせ、同時にまた、神と、人間の生命の永遠性についての信念を一層深めさせることになったのである。


〔私は、それにしても一体何のためにわれわれに読めない文字を書いてきたのかが判らないと述べ、その霊の地上での名前を尋ねてみた。〕


いずれ教える時も来よう。が、地上での身元を証明するものは全て失われている。直接書記から何の手掛りも得られぬと同じで、彼の名を知る手掛りはあるまい。その霊は地上にてすでに物的生活が永遠の生命の第一歩に過ぎぬことを悟っていた。そして死後、彼自身の信ずるところによれば、地上にて信じていた太陽神ラー(3)のもとまで辿り着いたのである。


〔彼もある一定期間の進歩の後に絶対神の中に入滅してしまうと信じているのかどうかを尋ねた。〕


古代エジプト人の信仰に幾分そうした要素があった。哲学者たちは、段階的進化の後に人間臭がすっかり洗い清められ、ついには完全無垢の霊になると信じた。その宗教は死後の向上と現世での有徳の生活であった。他人と自己に対する義務を忘れず、言わば日常生活が即宗教であった。この点についてはそなたの知識の進歩を見て改めて説くことになろう。差し当たり古代エジプトの神学の最大の特質――肉体の尊厳――には正しき面と誤れる面とがあることを知ることで十分である。

エジプト人にとりて生きとし生けるもの全てが神であり、従って人間の肉体もまた神聖なるものであり、死体も出来得るかぎり自然の腐敗を防がんとした。その見事な技術の証拠(4)が今なお残っている。肉体の健康管理に行き過ぎた面もあったが、適切なる管理は正しくもあり、賢明でもあった。彼らは全ての物に神を認めた。この信仰は結構であった。が、それが神を人間的形体を具えたものと信じさせるに至った時、死体の処理を誤らせることになった。無限の時間をかけ無数の再生を繰り返す輪廻転生の教義は、永遠の向上進化を象徴せんとして作り出された誤りであった。こうした誤りがあらゆる動物的生命を創造主の象徴と見なし、数かぎりなき転生の中において、いずれは人間もそれに生まれ変わるものとする信仰を生んだのであるが、この信仰は死後の向上進化の過程の中において改めて行かねばならぬ。が、その中には神を宇宙の大創造力と見なし、その象徴であるところの全ての生命が永遠に向上進化するとの大真理が込められていることは事実である。

動物の生命を崇拝するということが愚かしく、浅はかに思えるとしたら――そう思うのも無理からぬことではあるが――信仰というものは外面的な象徴的現象を通して、それが象徴するところの霊的本質へと向けられるものであること、そして真理を内蔵せる誤謬は言わば外殻であり、やがて時と共に消え失せ、あとに核心を残していくための保護嚢である場合もあることを忘れてはならぬ。中核の概念、つまり真理の芽は決して死滅してはおらぬ。その概念が媒体によりて歪められ、本来の姿とは異なる形を取ることはある。が、一たんその媒体を取り除けば、本来の姿を取り戻す。先に話題にのせたエジプトの霊も、またその時代の仲間たちも、今では地上世界の自然を全て絶対神の現象的表現と見なし、それ故に、たとえ如何なる形にせよ、地上的生命を崇拝の対象とすることは出来ぬとは言え、そうした自然崇拝を通して神を求め模索する霊を不当なる批判の目を以て迎えるべきではないことを悟っている。その辺がそなたには理解できるであろうか。


――ある程度出来ます。すべてが神を理解する上で存在価値を有していることが判ります。ですが私は、エジプトの神学はインドの神学に較べて唯物的で土臭いところがあると思っていました。世界の宗教に関するあなたの通信を読むと、エジプトはインドから刺戟を受けたような印象を受けます。思うに、すべての真理に誤りが混入しているように、どの誤りにもある程度の真理が含まれており、真理といい誤謬といい、両者は相関的であり絶対ではないようです。


今ここでインドの神学の特徴について詳しく述べようとは思わぬが、そなたの述べるところは真実である。われらとしてはただ、真理というものが今の時点でのそなたには不快に思えるような形で潜在していたこと、そして古代人には理解されていたそれらの真理も、近代に至りてその多くが完全に消滅してしまっていることをそなたに知らしめんとしているまでである。そなた自身の知識と古代人の知識とを評価するに当たりては謙虚であることが大切である。


――判ります。そうした問題に関して近代人がおしなべて無知であることを知るばかりです。私自身具体的には何も知りませんし、いかなる形にせよ、古代の宗教を軽蔑することこそ愚かであることが判ります。例の古代霊はそうした時代に生活したわけですが、エジプトの司祭だったのでしょうか。


彼はオシリス(5)に司える預言者の一人であり、深遠にして一般庶民に説き得ぬ神秘に通暁していた。オシリスとイシス(6)とホルス(7)――これが彼の崇拝した三一神(8)であった。オシリスが最高神、イシスが母なる神、そしてホルスが人間の罪の犠牲者としての子なる神であった。彼はその最高神を地上の歴史家がエジプトより借用せる用語にて、いみじくも表現せるI am the I Am(9)――すなわち宇宙の実在そのものであることを理解していた。生命と光の大根源である。それを意味するエホバ(10)なる語をモーセがテーベ(11)の司祭たちから使用したのである。


――原語ではどう言ったのでしょうか。


Nup-pu-Nuk、すなわちI am the I AM.

この通信を送って来たのは例のラーの預言者である。“光の都市”オン(12)、ギリシャ人が“太陽の都市(13)”と呼ぶ都市の預言者で、そなたらの言うキリスト教時代より一六三〇年も前に生活した。その名をチョム(14)と言った。彼は遠き太古の時代からの霊魂不滅の生き証人である。余がその証言の真実性を保証する。

(†インペレーター)


〔私はエジプトの神学を勉強するよい記録は手に入らぬものかと尋ねた(15)。〕


その必要はない。当時の古記録はほとんど残っていない。ミイラの棺の中に納められた埋葬の儀式に関する書きものは全てその古記録からの抜粋である。前にも述べた如く、死体の管理がエジプト宗教の特徴であった。葬儀は長く且つ精細を極め、墓石並びに死体を納めた棺に見られる書きものはエジプト信仰の初期の記録から取ったものである。

こうしたことに深入りする必要はない。今の貴殿に必要なのは、貴殿が軽蔑する古代の知識にも真理の芽が包蔵されていたという厳粛なる事実を直視し理解することである。

それだけではない。エジプト人にとって宗教は日常生活の大根幹であり、全てがそれに従属していたのである。芸術も文学も科学も、言わば宗教の補助的役割をもつものであり、日常生活そのものが精細きわまる儀式となっていた。信仰が全ての行為に体現されていた。昇りては沈む神なる太陽が生命そのものを象徴していた。当時を起点として二つのソティス周期(16)、つまりは大凡(おおよそ)二千年後に再び地球に戻り、遂には生命と光の源泉たるラー神の純白の光の中に吸収されつくすと信じたのである。

斎戒の儀式が日常生活に浸透し、家業に霊性の雰囲気が漂っていた。一日一日に主宰霊又は主宰神がおり、その加護のもとに生活が営まれるという信仰があった。各寺院に大勢の預言者、司祭、神官、士師、書記がいた。その全てが神秘的伝承に通じ、大自然の隠れた秘密と霊交の奥義を極めんがために純潔と質素の生活に徹した。古代エジプト人は実に純粋にして学識ある霊的民族であった。もっとも今の人間に知られている知識で彼らが知らなかったものが色々とある。が、深き哲学的知識と霊的知覚の明晰さにおいては現代の賢人も遠く及ばない。

また宗教の実践面においても現代人はその比ではない。われらはこれまでの長き生活を通じ、宗教とは言葉にあらずして行動によって価値評価をすべきであるとの認識を持っている。天国へ上るはしごはどれでも構わない。誤れる信仰が少なからず混じっていることもあろう。今も昔も人間は己の愚かな想像を神の啓示と思い込んでは視野を曇らせている。その点はエジプト人も例外ではない。確かにその信仰には誤りが少なからずあった。が、同時にそれを補い生活に気高さを与えるものもまた持っていた。少なくとも物質一辺倒の生活に陥ることはなかった。常にどこかに霊的世界との通路を開いていた。神の概念は未熟ではあったが、日常生活の行為の一つ一つに神の働きかけがあるものと信じた。売買の取り引きにおいても故意に相手を騙し出し抜くようなことは決してなかった。確かに一面において滅び行くもの、物的なものに対する過度の執着は見られたが、それ以外のものを無視したわけではなかった。

現代にも通ずるものがあることに貴殿も気づくであろう。余りにも物質的であり、土臭く、俗悪である。思想も志向も余りに現世的である。霊性に欠け、気高き志向に欠け、霊的洞察力に欠け、霊界及び霊界との交信への現実的信仰に欠けている。われらが指摘せずとも貴殿には古代エジプトとの相違点が判るであろう。と言って、われらは古代エジプトの宗教をそのまま奨揚するつもりはない。ただ、貴殿の目に土臭く不快に見えるものも、彼らにとっては生きた信仰であり、日常生活を支配し、その奥に深き霊的叡智を包蔵していたことを指摘せんとしているまでである。


――判ります。ある程度そういうことが確かに言えると思います。あらゆる信仰形式について同様のことが言えるように思います。それは全て永遠の生命を希求する人間の暗中模索の結果であり、その真実性は啓発の程度によって異なります。それにしても、現代という時代についてあなたがおっしゃることは少し酷すぎます。確かに物質偏重の傾向はあります。が、一方にはそれを避けんとする努力も為されております。好んで物質主義にかぶれている者は少ないと思います。宗教、神、死後等に関する思想が盛んな時代があるとすれば、現代こそその時代と言えると思います。あなたの酷評は過去の無関心の時代にこそ向けられるべきで、少なくとも無関心から目覚め、あなたの指摘される重大問題に関心を示している現代には当てはまらないと思うのですが。


そうかも知れない。現代にはそうした問題に関心を示す傾向が多く見られる。その傾向がある限り希望も持てるというものである。が、一方には人間生活から霊的要素を排除せんとする強き願望があることも事実である。全てを物質的に解釈し、霊との交わりを求め霊界の存在を探求せんとする行為を誤り、ないしは、妄想とまでは言わないまでも、少なくとも非現実的なものとして粉砕せんとする態度が見られる。一つの信仰形体から次の信仰形体へと移行する過渡期には必然的に混乱が生ずる。古きものが崩れ、新しきものが未だ確立されていないからである。人間は否応なしにその時期を通過せねばならない。そこには必然的に視野を歪める傾向が生じるものである。


――おっしゃる通りです。物事が流動的で移り変わりが激しく、曖昧となります。勿論そうした時には混乱に巻き込まれたくないと望む者も大勢います。余りに長い間物質中心に物事を考えて来たために、物質は、所詮、霊の外殻に過ぎないという思考にはどうしても付いて行けない者もいます。それは事実であるとしても、古代ギリシャは別格として、現代ほど霊的摂理と自然法則についての積極的な探求が盛んな時代は、私の知るかぎり他になかったという信念は変わりません。


貴殿がそう思うこと自体は結構である。われらとしても徒(いたずら)にその信念を揺さぶりたいとは思わぬ。ただ貴殿の目に卑俗で土臭く見える信仰の中にも真理が包蔵されていることを、一つの典型を挙げて指摘せんとしたまでである。


――モーセはエジプトの知恵をそっくり学んで、その多くを律法の中に摂り入れたのだと思いますが。


まさしくその通りである。割礼の儀式もエジプトの秘法から借用したものである。ユダヤの神殿における斎戒の儀式もすべてエジプトからの借用である。また司祭の衣服をリンネルで作ったのもエジプトを真似たものである。神の玉座を護衛する霊的存在ケルビム(17)の観念もエジプトからきている。いや、そもそも“聖所”とか“至聖所”という観念そのものがエジプトの神殿からの借用に過ぎない。ただ、確かにモーセは教えを受けた司祭から学び取ることに長(た)けてはいたが、惜しむらくは、その儀式の中に象徴されている霊的観念までは借用しなかった。霊魂不滅と霊の支配という崇高なる教義は彼の著述の中にその所を得ていない。貴殿も知る如く、霊が辿るべき死後の宿命に関する言及は一切見られない。霊の出現も偶然に誘発された、単なる映像と見なしており、霊の実在の真理とは結び付いていない。


――その通りです。エジプトの割礼の儀式はモーセの時代以前からあったのでしょうか。


無論である。証拠が見たければ、今なお残されているアブラハム以前の、宗教的儀式によって保存された遺体を見るがよい。


――それは知りませんでした。モーセは信仰の箇条まで借用したのですか。


三一神の教義はインドのみならず、エジプトにも存在した。モーセの律法には霊性を抜きにしたエジプトの儀式が細かく複製された。


――それほどのエジプトの知恵の宝庫がなぜ閉じられたのでしょうか。孔子、釈迦、モーセ、マホメットなどは現代にも生き続けております。マーニー(18)はなぜ生き残らなかったのでしょう。


彼の場合は他へ及ぼせる影響としてのみ生き残っている。エジプトの宗教は特権階級のみに限られていた。ために国境を越えて広がる勢いがなく、長く生き残れなかったわけである。聖職者の一派の占有物としての宗教であり、その一派の滅亡と共に滅んだ。但しその影響は他の信仰の中に見られる。


――三位一体の観念のことですが、あれは元はインドのものですかエジプトのものですか。


創造力と破壊力とその調停者という三一神の観念は、インドにおいてはBrahm,Siva,Vishnu、エジプトにてはOsiris,Typhon,Horus、となった。エジプト神学には他に幾通りもの三一神があった。ペルシャにもOrmuzd,Ahriman,Mithra(調停者)というものがあった。

エジプトでは地方によって異なれる神学が存在した。最高神としてのPthah、太陽神すなわち最高神の顕現としてのRa、未知の神Amunといった如く、神にも種々あった。


――エジプトの三一神は、オシリスとイシスとホラスであると言われたように記憶していますが。


生産の原理としてのイシスを入れたまでである。つまり創造主としてのオシリス、繁殖原理としてのイシス、そしてオシリスとイシスとの間の子としてのホルス、ということである。三一神の観念にも色々あった。大切なのは全体の概念であって、その一つ一つは重要ではない。


――ではエジプトはインドから宗教を移入したということでしょうか。


一部はそうである。が、この分野に関して詳しく語れる者はわれらの霊団にはいない。

(プルーデンス)


〔以上は一八七四年二月二十八日に書かれたものである。四月八日にさらに回答が寄せられた。その間にも他の問題に関するものが数多く書かれた(19)。〕


そなたは先にインドとエジプトとの関係について問うている。インドの宗教が“魂”の宗教であったのに比して、エジプトの宗教は本質的には“肉”の宗教であった。雑多な形式的儀式が多く、一方のインドでは瞑想が盛んであった。インド人にとりて神とは肉眼では見出し得ぬ霊的実在であり、一方エジプト人にとりては全ての動物的形体の中に顕現されていると信じられた。インド人にとりて時間は無であった。すなわち、無窮であり全体であった。エジプト人にとりて、過ぎゆく時はその一刻一刻に聖なる意味があった。かくの如くエジプトは全ての面においてインドと対照的であった。が、ペルシャのゾロアスターがそうであった如く、インドより最初の宗教的啓発を受けている。

前にも述べた如く、エジプトの信仰の他に類を見ぬ良さは、日常生活の全てがその信仰に捧げられたことである。信仰が日常の全ての行為を支配していた。そこに信仰の力があった。すべての自然、とりわけ、動物の生命を神の顕現とする信仰であった。たとえば、エジプト人が牛の偶像の前にひれ伏した時、彼らにとりてそれは存在の神秘――神の最高の表現を崇拝したことになるのであった。そうした古代エジプトの教義を形成し、われらの説く教義とも大いに共通する身体の管理、宗教的義務感、全存在に内在する神の認識等は、再びそなたらの時代に摂り入れられて然るべきものである。


――結局エジプトの神学は、インドの神秘主義の反動であったと思うのです。あなたはエジプトの込み入った儀式を立派であるかのように語っていますが、私からみればエジプトの聖職者の生活には大変な時間の浪費があったし、しつこく身体を洗ったりヒゲを剃ったりしたのは愚かとしか言いようがありません。


そうとばかりは言えぬ。あの儀式はあれなりにあの時代と民族にとりて必要なものであった。もっとも、われらが指摘せんとしているのはその底に流れる観念でしかない。エジプトにおいては、芸術も文学も科学も全てが宗教のためのものであった。とは言え、信仰のために日常の暮らしが窮屈に縛られたわけではない。それどころかむしろ生活の行動の全てがその崇拝の行為の厳粛さによって高められたのである。エジプトの宗教の真髄はそこにあり、また、そこにしかない。これほど崇高なる信仰は他に見出せぬ。神の見守る中での生活――身の回りの全てに神を認識し、全ての行為を神に捧げ、神が純粋である如く己の心も霊も身体も潔く保ち、それを神に、ひたすら神に捧げる――これこそ神の如き生活を送ることであり、たとえ細かい点において誤りがあろうと、それは敢えて問われるほどのものではない。


――確かにわれわれ人間は偏見が大きな障害となります。しかし、あなただってまさか人間の信仰が絶対に偏見がないとおっしゃるつもりはないでしょう。たとえば、あなたが立派だとおっしゃるエジプト人の生活が今そっくり現代に再現されたとしても、それが必ずしもあなたの理想とされるものとはならないでしょう。


確かにならぬ。時代は常に進歩し、より高き知識を獲得していく。初歩的発達段階にあった別の民族に適せるものが必ずしも現代に合うとは限らぬ。が、獲得するものもある一方には失えるものもある。そしてその失えるものの中には、如何なる形式の信仰にも等しく存在すべきものがある。それが己ヘの義務と神への献身である。これは決してエジプトの信仰のみの占有物ではない。キリストの生涯とその教えの中ではむしろそれがより高度に増幅されて具現されている。然るにそなたらはそれを忘れ去った――真の宗教の証とも言うべきものを失った。その点において、そなたらが軽蔑し批判する者のほうがそなたらを凌いでいることを篤と認識する必要がある。

常に述べて来たことであるが、人間の責務はその人間の宿す内的な光によってその大小が決まる。啓示を受けた者は、その質が高ければ高いほど、それだけ責務が小さくなるどころか、大きくなるのである。信ずる教義の如何に関わらず、正直さと真摯さと一途(いちず)さによって向上した者も多ければ、その信仰にまつわる期待の大きさが重荷となって向上を阻害された者もまた多い。われらにはその真相がよく見て取れるのである。信仰の形式――そなたにはその形骸しか見えぬのであるが――は大して重要ではない。人間には生まれついての宿命があり、それは否応なしに受け入れざるを得ぬ。問題はそれをどう理解するかにあり、それによりて進化が決まる。地上でユダヤ人となるかトルコ人となるか、またマホメット教徒となるかキリスト教徒となるか、バラモン教徒となるか、パルシー教徒(20)となるか、それは生まれついての宿命的巡り合わせと言える。が、その環境を向上進化の方向へ活用するか、それとも悪用して堕落するかは、その霊の本質に係わる問題である。地上にて与えられる機会は霊によりてさまざまであり、それを如何に活用するかによりて、死後の生活における向上進化に相応しき能力が増す者もあり減る者もいる。その辺のことはそなたにも判るであろう。故にパリサイ主義的クリスチャンが侮蔑を込めて見下す慎ましく謙虚なる人間にとりても、あるいは恵まれた環境と、向上の機会の真っ只中に生を享けた人間にとりても、真の向上の可能性においては些かも差はないのである。要は霊性の問題である。そなたはまだその問題に入る段階に来ておらぬ。形骸にのみこだわっている。核心には到達しておらぬ。


――でも、いくら真面目とは言え、野蛮な呪物信仰者に比べれば、クリスチャンとして高度な知識と完全な行ないの中で、その能力と機会のかぎり精一杯生きている者の方が遙かに上だと信じますが。


全存在のホンの一かけらほどに過ぎぬ地上生活にありては、取り損ねたら最後、二度と取り返しがつかぬというほど大事なものは有り得ぬ。そなたら人間は視野も知識も人間であるが故の宿命的な限界によりて拘束されている。本人には障害であるかに思える出来ごとも、実は背後霊が必要とみた性質――忍耐力、根気、信頼心、愛といったものを植えつけんとして用意する手段である場合がある。一方ぜいたくな環境のもとで周囲の者にへつらわれ、悦に入れる生活に自己満足することが、実は邪霊が堕落させんとして企んだワナである場合がある。

そなたの判断は短絡的であり、不完全であり、見た目に受けた印象のみで判断している。背後の意図が読めず、また邪霊による誘惑と落とし穴があることが理解できぬ。

なおそなたの言い分についてであるが、人間は己に啓示され理解し得たかぎりの最高の真理に照らして受け入れ行動するというのが、絶対的義務である。それを基準として魂の進化の程度が判断されるのである。


――“最後の審判”を説かれますか。


説かぬ。審判は霊が自ら用意する霊界の住処(すみか)に落着いた時に完了する。そこに誤審はない。不変の摂理の働きによって落ち着くベきところに落ち着く。そして一段と高き位置への備えが整うまで、この位置にて然るべき処罰を受け、それが完了すれば向上する。その繰り返しが何回となく行なわれるうちに、鍛練浄化のための動の世界を終了し、静なる瞑想界ヘと入寂する(21)。


――と言うことは審判は一回きりでなく、何回もあるということですか。


そうとも言えるし、そうでないとも言える。数かぎりなく審判されるとも言えるし、一度も審判されないとも言える。要するに魂は絶え間なく審判されているということである。常に変化する魂に自らを適応させているということである。そなたらが考えているが如き、全人類を一堂に集めて一人一人審問するなどということはない。あれは寓話に過ぎぬ。

鍛練浄化の世界の各段階において、霊はそれまでの行ないによりて一つの性格を形成する。その性格にはそれなりに相応しき境涯がある。そこへ必然的に落着くことになる。そこに審判というものはない。即座に判決が下る。討議も裁きもなく、諸々の行状の価値がひとまとめに判断される。地上に見られるが如き裁判のための法廷など必要ではない。魂みずからが己の宿命の決定者であり、裁判官である。このことは、進化についても退化についても例外なく当てはまる。


――一つの界層または境涯から次の界層へ行く時は、死に似た変化による区切りがあるのでしょうか。


似たようなものはある。それは、霊体が徐々に浄化され、低俗なる要素が拭い去られるという意味で似ているということである。上へ行くほど身体が純化され、精妙となっていく。故にその変化はそなたらが死と呼ぶものから連想するほど物的なものではない。脱ぎ棄てるベき外皮を持たぬからである。が、霊が浄化してゆく過程であること、つまり一段と高き境涯への向上という点においては同一である。


――そうやって全ての不純物が消えると霊は瞑想界へと入り、そこで完全に浄化され尽くすというのですか。


そうではない。全ての不純物が取り除かれ、最後に純粋なる霊的黄金のみが残る。それから内的霊界である瞑想界ヘと入っていくのであるが、そこでの生活は実はわれらにも知ることを得ぬ。ただ判っているのは、ひたすらに神の属性を身につけ、ひたすらに神に近づいて行くということのみである。友よ、完成されたる魂の最後に辿り着くところが、それまでひたすらに求め来たれる神――その巡礼の旅路のために神性を授け給いし父なる神の御胸であるのかも知れぬぞ! が、それもそなたと同様われらにとりても単なる想像に過ぎぬ。そのような問題は脇へ置き、今のそなたにとりて意義あることのみを知り得ることで有難き幸せと思うがよい。もしも宇宙の神秘の全てに通暁してしまえば、そなたの精神はもはや活動の場がなくなるであろう。ともかくそなたが地上にて知り得ることは高が知れている。が、たとえ限りはあっても、知らんと欲することは許される。知らんと欲することによりて魂を浅ましき地上的気苦労に超然とさせ、真の在るべき姿に一層近づくことを得さしめることであろう。神の御恵みのあらんことを!

(†インペレーター)


〔注〕

(1)Pythagoras ギリシャの哲学者・数学者・宗教家。
(2)Plato ギリシャの哲学者。
(3)Ra エジプト神話の太陽神。
(4)ミイラ。
(5)Osiris.
(6)Isis.
(7)Horus.
(8)Trinity 三位一体観。
(9)旧約聖書“出エジプト記”3:14では、I am that I amとなっている。他からの働きかけによって作られたものでなく、時を超越して自ら存在し続けるもの、即ち実在ということ。
(10)Jehovah.
(11)Thebes ナイル川沿いのエジプトの都市。
(12)On 創世記41:45
(13)Heliopolis.
(14)Chom.
(15)プルーデンスに替る。
(16)Sothic cycle古代エジプト暦によって古代エジプト史の絶対年代を決定する際の基準の一つで、一周期が1460年。
(17)Cherubim 創世記3:24その他。
(18)前節参照。
(19)再びインペレーター。
(20)Parsee ゾロアスター教の一派。
(21)三節参照。




シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again

Edited by S. Phillips
近藤千雄訳




六章 婚約者を不慮の事故で失って

 映画女優のマール・オべロンには婚約者(フィアンセ)がいた。そのフィアンセを空港で見送った数秒後にオべロンの人生に悲劇が訪れた。フィアンセを乗せた飛行機が爆発炎上したのである。事故の知らせを聞いて当然のことながらオべロンは芒然自失の状態に陥った。

 その後間もなく、ふとしたきっかけでハンネン・スワッハーの My Greatest Story (私にとって最大の物語)という本を手に入れ、その中に引用されているシルバーバーチの霊言を読んで心を動かされた。たった一節の霊訓に不思議な感動を覚えたのである。

 オべロンはさっそくスワッハーを訪ねて、出来ればシルバーバーチとかいう霊のお話を直接聞きたいのですがとお願いした。その要請をスワッハーから聞いたシルバーバーチは快く承諾した。

そして事故からまだ幾日も経たないうちに交霊会に出席するチャンスを得た。その後さらに幾人かの霊媒も訪ねてフィアンセの存続を確信したオべロンは、その霊的知識のお陰で悲しみのどん底から抜け出ることができた。では、そのシルバーバーチの交霊会に出席した時の様子を紹介しよう。

 当日スワッハーが交霊会の部屋(バーバネルの書斎)へオべロンを案内し、まずシルバーバーチにこう紹介した。

 「ご承知と思いますが、この方は大変な悲劇を体験なさったばかりです。非凡な忍耐力を持って耐えていらっしゃいますが、本日はあなたのご指導を仰ぎに来られました」


 するとシルバーバーチがオべロンに向かってこう語りかけた。

 「あなたは本当に勇気のある方ですね。でも勇気だけではだめです。知識が力になってくれることがあります。是非理解していただきたいのは、大切な知識、偉大な悟りというものは悲しみと苦しみという魂の試練を通して初めて得られるものだということです。

人生というものはこの世だけでなく、あなた方があの世と呼んでおられる世界においても、一側面のみ、一色のみでは成り立たないということです。

光と影の両面が無ければなりません。光の存在を知るのは闇があるからです。暗闇が無ければ光もありません。光ばかりでは光でなくなり、闇ばかりでは闇でなくなります。同じように、困難と悲しみを通してはじめて魂は自我を見出していくのです。

もちろんそれは容易なことではありません。とても辛いことです。でもそれが霊としての永遠の身支度をすることになるのです。なぜならば地上生活のそもそもの目的が、地上を去ったあとに待ち受ける次の段階の生活に備えて、それに必要な霊的成長と才能を身につけることにあるからです。

 あなたがこれまでに辿られた道もけっしてラクな道ではありませんでした。山もあり谷もありました。

そして結婚という最高の幸せを目前にしながら、それが無慈悲にも一気に押し流されてしまいました。あなたは何事も得心がいくまでは承知しない方です。

生命と愛は果たして死後にも続くものなのか、それとも死を持ってすべてが終わりとなるか、それを一点の疑問の余地もないまで得心しないと気が済まないでしょう。そして今あなたは死がすべての終りでないことを証明するに十分なものを手にされました。

ですが、私の見るところでは、あなたはまだ本当の得心を与えてくれる事実の全てを手にしたとは思っていらっしゃらない。そうでしょう?」


オベロン「おっしゃる通りです」

 「こういうふうに理解なさることです───これが私にできる最大のアドバイスです───われわれ生あるもの全ては、まず第一に霊的存在であるということです。霊であるからこそ生きているのです。霊こそ存在の根元なのです。生きとし生けるものが呼吸し、動き、意識を働かせるのは霊だからこそです。

その霊があなた方のいう神であり、私のいう大霊なのです。その霊の一部、つまり神の一部が物質に宿り、次の段階の生活に相応しい力を身につけるために体験を積みます。それはちょうど子供が学校へ行って卒後後の人生に備えるのと同じです。

 さて、あなたも他の全ての人と同じく一個の霊的存在です。物的なものはその内色褪せ、朽ち果てますが、霊的なものは永遠であり、いつまでも残り続けます。物質の上に築かれたものは永続きしません。物質は殻であり、入れ物に過ぎず、実質ではないからです。

地上の人間の大半が幻を崇拝しています。キツネ火を追いかけているようなものです。真実を発見できずにいます。こうでもない、ああでもないの連続です。本来の自分を見出せずにいます。

 神が愛と慈悲の心からこしらえた宇宙の目的、計画、機構の中の一時的な存在として人生を捉らえ、自分がその中で不可欠の一部であるとの理解がいけば、たとえ身に降りかかる体験の一つ一つの意義は分からなくても、究極においてすべてが永遠の機構の中に組み込まれているのだという確信は得られます。霊に関わるものは決して失われません。死は消滅ではありません。

霊が別の世界へ解き放たれる為の手段に過ぎません。誕生が地上生活へ入る為の手段であれば、死は地上生活から出るための手段です。あなたはその肉体ではありません。その頭でも、目でも、鼻でも、手足でも、筋肉でもありません。

つまりその生物的集合体ではないのです。それはあなたではありません。あなたという別個の霊的存在があなたを地上で表現していくための手段に過ぎません。それが地上から消滅したあとも、あなたという霊は存在し続けます。

 死が訪れると霊はそれまでに身につけたものすべて───あなたを他と異なる存在たらしめているところの個性的所有物のすべてを携えて霊界へ行きます。意識、能力、特質、習性、性癖、さらには愛する力、愛情と友情と同胞精神を発揮する力、こうしたものはすべて霊的属性であり、霊的であるからこそ存在するのです。

真にあなたのものは失われません。真にあなたの属性となっているものは失われません。そのことをあなたが理解できるできないに関わらず、そしてまた確かにその真相のすべてを理解することは容易ではありませんが、あなたが愛する人、そしてあなたを愛する人は、今なお生き続けております。得心がいかれましたか?」

オベロン 「はい」

 「物的なものはすべてお忘れになることです。実在ではないからです。実在は物的なものの中には存在しないのです」

オベロン 「私のフィアンセは今ここにきておりますでしょうか」

 「来ておられます。先週も来られて霊媒を通じてあなたに話しかけようとなさったのですが、これはそう簡単にいくものではないのです。ちゃんと話せるようになるには大変な訓練がいるのです。

でも、諦めずに続けて出席なさっておれば、その内話せるようになるでしょう。ご想像がつくと思いますが、彼は今のところ非常に感情的になっておられます。まさかと思った最期でしたから感情的になるなという方が無理です。とても無理な話です」


オベロン 「今どうしているのでしょう。どういう処にいるのでしょう。元気なのでしょうか」

 この質問にシルバーバーチは司会のスワッハーの方を向いてしみじみとした口調で
 「このたびの事故はそちらとこちらの二人の人間にとって、よほどのショックだったようですな。まだ今のところ霊的な調整が出来ておりません。あれだけの事故であれば無理もないでしょう」と述べてから、再びオベロンに向かって言った。

 「私としては若いフィアンセがあなたの身近にいらっしゃることをお聞かせすることが、精一杯あなたの力になってあげることです。彼は今のところ何もなさっておりません。ただお側に立っておられるだけです。

これから交信の要領を勉強しなくてはなりません。霊媒を通じてだけではありません。ふだんの生活において考えや欲求や望みをあなたに伝えることもそうです。それは大変な技術を要することです。それがマスターできるまでずっとお側から離れないでしょう。

 あなたの方でも心を平静に保つ努力をしなくてはいけません。それができるようになれば、彼があなたに与えたいと望み、そしてあなたが彼から得たいと望まれる援助や指導が確かに届いていることを得心なさるでしょう。よく知っておいていただきたいのは、そうした交信を伝えるバイブレーションは極めて微妙なもので、感情によってすぐに乱されるということです。

不安、ショック、悲しみといった念を出すと、たちまちあなたの周囲に重々しい雰囲気、交信の妨げとなる壁をこしらえます。心の静寂を得ることが出来れば、平静な雰囲気を発散することができるようになれば、内的な安らぎを得ることができれば、それが私たちの世界から必要なものをお授けする最高の条件を用意することになります。

感情が錯乱している状態では、私たちも何の手出しも出来ません。受容性、受身の姿勢、これが私たちがあなたに近づくための必須の条件です」

     
 この後フィアンセについて幾つかプライベートな質疑がなされた後、シルバーバーチはこう述べた。

 「あなたにとって理解しがたいことは、多分、あなたのフィアンセが今はこちらの世界へ来られ、あなたはそちらの世界にいるのに、精神的には私よりもあなたの方が身近かな存在だということでしょう。理解出来るでしょうか。彼にとっては霊的なことよりも地上のことの方が気がかりなのです。

問題は彼がそのことについて何も知らずにこちらへ来たということです。一度も意識にのぼったことがなかったのです。でも今ではこうした形であなたが会いに来てくれることで、彼もあなたが想像なさる以上に助かっております。大半の人間が死を最期と考え、こちらへ来ても記憶の幻影の中でのみ暮らして実在を知りません。

その点あなたのフィアンセはこうして最愛のあなたに近づくチャンスを与えられ、あなたも、まわりに悲しみの情の壁をこしらえずに済んでおられる。そのことを彼はとても感謝しておられますよ」


オベロン 「死ぬ時は苦しがったでしょうか」

 「いえ、何も感じておられません。不意の出来ごとだったからです。事故のことはお聞きになられたのでしょう」

オベロン 「はい」

 「あっという間の出来ごとでした」

スワッハー 「そのことはこの方も聞かされております」

 「そうでしょう。本当にあっという間のことでした。それだけに永い休養期間が必要なのです」

オベロン「どれくらい掛かるのでしょう?」

 「そういうご質問はお答えするのがとても難しいのです。と申しますのは私たちの世界では地上のように時間で計るということをしないのです。でも、どのみち普通一般の死に方をした人よりは永く掛かります。

急激な死に方をした人はみなショックを伴います。いつまでも続くわけではありませんが、ショックはショックです。もともと霊は肉体からそういう離れ方をすべきものではないからです。そこで調整が必要となります」

 ここでさらにプライベートな内容の質疑があったあと───
オベロン 「彼は今しあわせと言えるでしょうか。大丈夫でしょうか」

 「しあわせとは言えません。彼にとって霊界は精神的に居心地がよくないからです。地上に戻ってあなたと一緒になりたい気持ちの方が強いのです。それだけに、あなたの精神的援助が必要ですし、自身の方でも自覚が必要です。これは過渡的な状態であり、彼の場合は大丈夫です。霊的に危害が及ぶ心配がありませんし、その内調整が為されるでしょう。

 宇宙を創造した大霊は愛に満ちた存在です。私たち一人一人を創造して下さったその愛の力を信頼し、すべてのことはなるべくしてそうなっているのだということを知らなくてはいけません。

今は理解できないことも、その内明らかになる機会が訪れます。決して口先で適当なことを言っているのではありません。現実にそうだからそう申し上げているのです。あなたはまだ人生を物質の目で御覧になっていますが、永遠なるものは地上の尺度では正しい価値は分かりません。

そのうち正しい視野をお持ちになられるでしょうが、本当に大事なもの───生命、愛、本当の自分、こうしたものは何時までも存在し続けます。死は生命に対しても愛に対しても、まったく無力なのです」


 訳者注───「本章は不慮の事故死をテーマとしているが、普通一般の死後の問題についてもいろいろと示唆を与えるものを含んでいる。そのすべてをここで述べる余裕はないが、一つだけ後半のところで〝霊的に危害が及ぶ心配がありませんし〟と述べている点について注釈しておきたい。

 これは裏返していえば霊的に危害が及ぶケースがあるということであり、ではその危害とはどんなものかということになる。これを「ベールの彼方の生活」第四巻の中の実例によって紹介しておく。

 通信霊のアーネルが霊界でのいつもの仕事にたずさわっていた時(霊界通信を送るようになる前)あるインスピレーション的衝動に駆られて地上へ来てみると、一人の若い女性が病床で今まさに肉体から離れようとしていた。ふと脇へ目をやると、そこに人相の悪い男の霊が待ち構えている。

アーネルにはその男がこの女性の生涯をダメにした(多分麻薬か売春の道へ誘い込んだ)因縁霊であると直感し、霊界でも自分達の仲間に引きずり込もうと企んでいることを見て取った。そこで奪い合いとなったが、幸いアーネルが勝ってその身柄を引き取ることが出来、その後順調に更生して、今では明るい世界へ向上しているという。

そのインスピレーションを送ったのは守護霊で、波長が高すぎて返って地上のことには無力なために、地上的波長への切り換えに慣れているアーネルに依頼したのだった。

 この実例でお分かりのように、いかなる死に方にせよ、死後ぶじ霊界の生活に正しく順応していくことは必ずしも容易ではないのである。そこには本人自身の迷いがあり、それに付け込んでさまざまな誘惑があり、また強情を張ったり見栄を捨てきれなかったりして、いつまでも地上的名誉心や欲望の中で暮らしている人が実に多いのである。

 では、そうならないためにはどういう心掛けが大切か───これは今さら私から言うまでもなく、それを教えるのがそもそもシルバーバーチ霊団が地上へ降りてきた目的なのである。

具体的なことはこうして霊言集をお読みいただいている方には改めて申し上げるのは控えるが、ただ私から一つだけ付け加えたいことは、あちらへ行って目覚めた時に、必ず付き添ってくれる指導霊の言うことに素直に従うことが何よりも大切だということである」