Sunday, July 26, 2026

シルバーバーチの教え(下)

Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)



23章 さまざまな質問に答える


〔この章でシルバーバーチは、自殺、安楽死、産児制限、動物虐待などに関する見解を述べている。〕

自殺の問題


〔自殺についてのシルバーバーチの考えは、はっきりしている。地上人生を自ら終わらせることは、完全に摂理に反することである。自殺に対するシルバーバーチの説明によって、次のような質問をした女性は自殺を思いとどまることができた。〕


――愛する人に先立たれた者が、自ら命を絶つことは許されるでしょうか。


いいえ、許されません。摂理の働きは完璧ですから、あなたはそれに忠実に従って生きなければなりません。摂理は大霊によって、すなわち完全なる愛によって統制されています。大霊はすべてのものに存在すると同時に、すべてのものを通して顕現しています。大霊によって統制されている摂理の働きを妨げる権利を有する者はいません。もしあなたが、摂理に反して自ら命を絶つとするなら、その行為に対する代償を払わなければなりません。

例えば、熟さないうちにもぎ取ったリンゴは美味しくないように、あなたの霊に準備ができていないうちに霊界へ行ったなら、長い調整期間の中でその代償を払わなければなりません。愛する人々とも会えなくなります。自殺によって、あなたと周囲の人々との間に隔たりができてしまうからです。


〔この質疑応答は翌週の《サイキック・ニューズ》紙に掲載され、それを読んだ当の女性から次のような礼状が届いた。〕

「司会をされた方がシルバーバーチ霊にお礼を言ってくださったかどうか存じませんが、早々にこのような明解な答えをいただいたことに対して、どうか“あとに遺された者”からの感謝の気持ちをお伝え願えませんでしょうか。正直に言って、回答を読んだときは暗たんたる気持ちになりましたが、今ではお言葉に従って、霊界からお呼びがかかるまで力の限り生き抜く覚悟を決めております。」


訳注――カール・ウィックランドの『迷える霊との対話』(ハート出版)の中に、十年前に自殺をした女性が出現して語っている例が紹介されている。その中で、本当は十年後のその日に死すべき運命にあったものを、摂理に反した死に方をしたために、その日まで苦しみ続けたと述べている。
安楽死は許されるか


〔安楽死についてはスピリチュアリズムの内部でも賛否両論がある。回復の見込みがないと診断された患者を苦痛から解放するために、医者がその命を断つことは許されるはずだという意見と、スピリチュアル・ヒーリング(霊的治療)によって奇跡的に回復する例がある以上、安楽死は認めるべきではないという意見がある。常に「生命は神聖なものである」と主張するシルバーバーチに、安楽死の是非を尋ねてみた。〕


――回復の見込みがない患者を安楽死させる権利を医者に与えるべきだ、という意見がありますが、どう思われますか。


まず申し上げておきたいのは、すべての生命は大霊のものだということです。肉体が衰えて霊がその肉体から解放される時がくれば、人間は自然の摂理に従って死を迎えます。


――医学的処置によって延命することは正しいと思われますか。


間違ってはいません。


――たとえそれによって苦しみを長引かせることになってもでしょうか。


そうです。ただし、忘れてはならないことが一つあります。それは魂が解放される時がくれば、人は必ず死を迎えるということです。地上のいかなる手段をもってしても、摂理を変えることはできません。


――不治の病に苦しんでいる人を安楽死させることは、その患者に霊界または来世(次の地上生活)で、さらなる苦痛をもたらすことになるのでしょうか。


いいえ、そういうことはありません。しかし安楽死は、準備のできていない霊にショックを与え、影響を及ぼすことになります。それによって不要だったはずの調整を、いろいろとしなければならなくなります。


――人間には寿命を引き延ばす力が備わっているのでしょうか。


延命のために努力することは間違ってはいません。しかし、霊が地上を去る時がくれば、あなた方はそれ以上何もできません。


――それでは、延命のための努力は無駄に終わるということでしょうか。


はい、そうです。あなたがおっしゃる医学的処置によって寿命を少しばかり引き延ばすことができたとしても、結局みんな死んでいくではありませんか。


――でも、患者は少しの間であっても生き続けることができます。


患者が反応すればのことです。酸素を与えるという方法もありますが、それにも限界があります。魂が霊界へ行く準備が整えば、あなた方になす術(すべ)はありません。


――死期が決まっていて、魂に準備が整った時に霊界へ行くことになっているのなら、人間の寿命はなぜ、時代とともに少しずつ延びているのでしょうか。


地上人類は進化しているからです。物的なことは霊的なことによって決まるのであって、物的なことが霊的なことを決めるのではありません。
産児制限(避妊)は是か非か


〔シルバーバーチは、人工妊娠中絶に対して断固として反対の立場を主張している。ところで妊娠自体を避けようとするのは、正しいことだろうか。シルバーバーチの産児制限に関する意見を聞いてみよう。〕


――産児制限について、霊界ではどのように考えているのでしょうか。


人間には自由意志と、善と悪を区別する判断力(良心)が与えられています。この問題も最後は“動機は何か”に帰着します。なぜ産児制限をするのか、じっくり考えてみることです。大切なのは動機です。それ以外にはありません。


――生命の誕生を制限するのは摂理に反することなのでしょうか。


霊が地上に誕生することが予定されている場合には、避妊をしない夫婦を通して生まれてきます。摂理は絶対です。夫婦の進化にとって子供を持つことが不可欠な体験であるなら、おのずと新しい生命の誕生を望むようになり、それが妨げられることはありません。


――そうすると、私のもとに子供が生まれてくることが予定されているときには、「子供が欲しい」と思うようになるということでしょうか。


そうです。あなたは、新しい生命の誕生がもたらす影響を必要とする進化の段階に達したということです。


――それは、高い次元での進化ということでしょうか。


いいえ、進化の次元の高い低いの問題ではありません。性的快楽だけを求めて避妊をする人と、そうでない人を明確に区別しなければなりません。私が賛成しないのは、利己的な動機からの避妊です。


――生まれてくる子供にとって好ましくないという考えからの避妊については、どうでしょうか。


それが動機ということではないでしょうか。すべてのことに動機が問われます。摂理をごまかすことはできません。行為の一つひとつ、思念の一つひとつ、願望の一つひとつが、あなたの魂のオーラに刻み込まれます。霊界の人々には、あなたのすべてがはっきりと分かるのです。あなたの魂は、彼らの前では丸裸です。あなたが地上で抱いた動機のすべてが、霊界人には知られているのです。


――女性が妊娠したあと、霊はどの時点で胎児に宿るのでしょうか。


納得できない方も多いと思いますが、精子と卵子とが結合してミニチュアの形で個体(媒体)ができ上がったときから、その霊にとっての地上生活が始まります。


――精神障害者の場合には、地上生活が無駄になってしまいます。その障害によって何も学ぶことができないからです。障害が遺伝的なものである場合には断種(不妊手術)ということも考えられますが、霊界側ではそれをどう見ているのでしょうか。


私はもとより、宇宙のいかなる存在も、生命の摂理を変えることはできません。一個の魂に物質界へ誕生する準備が整えば、かならず誕生します。あなた方は「なぜ?」と尋ねるでしょう。そこで私は「再生」を説くのです。そこに理由があるからです。
動物ヘの虐待行為


〔摂理を犯しておいて“知らなかった”では済まされない。人間や動物に無用な苦痛を与えることは摂理に反しており、どのような言い訳をしても、その代償はいずれ払うことになる。以下は動物虐待についての質疑応答である。〕


――無力の動物に対してひどい苦痛を与えるような実験がますます増えていますが、どう思われますか。これを中止させようと運動している人々もいますが、彼らは霊界から援助を受けているのでしょうか。


人のためになる仕事をしようと努力するときには、必ず霊界からの働きかけがあります。彼らを鼓舞し、霊力を与え、その仕事を援助します。動機は何であれ、大霊によって生み出された動物に苦痛を与えることは間違っています。とは言え、動物実験に携わっている人の中には、摂理に対する無知からそれをしている人がたくさんいることを忘れてはなりません。「人類のため」という動機からの行為なのですが、摂理に反していることには変わりありません。


――でも、あなたは動機がいちばん大切であると何度もおっしゃっています。人類のためと思ってしていることでも、摂理に反した罰を受けるのでしょうか。


たしかに動機は間違ってはいないかもしれませんが、摂理は変えられません。動物に苦痛を与えていることを知りながら実験を続けるのは、責任を自覚しているということです。「人類のため」という動機はよいのですが、動物に苦痛を与えているのは事実です。そうした点を総合的に考慮したうえで判断が下されます。いずれにせよ、私としては苦痛を与えるということには賛成できません。


――動物は人類を助けるために地上に生まれてくるのでしょうか。


はい、その通りです。同時に人類も動物を助けるために存在しているのです。


――人類のためというのが、動物を創造した唯一の目的ではないと思うのですが……。


そうです。動物を創造した目的の中に「人類のため」ということも含まれているという意味です。


――動物の生体解剖は動機が正しければ許されると思いますか。


いいえ、許されません。残酷な行為がどうして正当化できるでしょうか。苦痛を与え、悶(もだ)え苦しませておいて、どうして正義と言えるでしょうか。それは、私たちの教えとはまったく相容れません。無抵抗の動物を実験台にすることは間違いです。


――動物を実験材料とした研究からはガンの治療法は発見できないという考えに、同意されますか。


地上では、摂理に反した生活によって引き起こされた病気に対する治療法を考え出すことはできません。すべての病気に対する治療法は、いずれ発見されるでしょうが、それは動物実験からは見つけ出すことはできません。


〔シルバーバーチは、いかなる生命も神聖なものであることを繰り返し説いている。ある日の交霊会で狩猟が話題となり、メンバーの一人が質問した。〕


――キツネ狩りは間違っているのでしょうか。


すべての生命は大霊のものです。いかなる形にせよ生命を奪うことは許されません。


――でも、ウチのニワトリを二十羽も食い殺したのですが……。


もし私が、そのキツネに銃を与えて、二十羽もニワトリを食べたあなたを撃ち殺せと命令したらどうなりますか。大霊は地上のすべての子供たちに、十分な食べ物を用意してくださっています。人間が飢えに苦しむのはキツネが悪いのではなくて、人間自身の考えが間違っているからです。

地上人類がもっと進化すれば、すべての野蛮な欲望は消滅することでしょう。あなたがキツネやニワトリをつくることができるなら、それらの生命を奪い去ることも許されるでしょう。あなたがキツネやニワトリを殺すことが正しいと言うなら、同胞を殺してもいいということになります。しかし、生命は人間のものではありません。大霊のものです。生命を奪う者は、いつかはその責任を取らなければなりません。


――オーストラリアではウサギの異常繁殖が脅威となっていますが、これについてはどうでしょうか。


人間は本来そこにあるべきではないものを勝手に持ってきて、それがもたらす悪い結果に文句を言います。それは私の(地上時代の)国にやって来た白人ついても言えます。白人は、自分たちにとっては良いものであっても、インディアンにとっては良くないものを持ち込みました。

戦争も白人がもたらしました。また火酒(かしゅ)(ウィスキー・ジンなどアルコール分の強い酒――訳注)やその他、インディアンに不幸をもたらす多くのものを持ち込みました。白人がやってきて、人を撃ち殺すことは正義であるかのように吹聴するまで、インディアンは銃で人を撃ち殺すことなど知らなかったのです。

そのうちあなた方は、宇宙のあらゆる生命体――動物も小鳥も魚も花も――が大霊の計画の一部を担っていることを理解するようになるでしょう。大霊の創造物として存在していることを認識するようになるでしょう。


〔シルバーバーチは、スピリチュアリズムには三つの重要な内容があることを述べている。その一つは心霊能力、一つはサービス(奉仕・利他愛の実践)、そしてもう一つは霊による導きである。〕
霊媒能力・心霊能力について


〔霊媒能力には二つの側面がある。霊的世界に対する感受性と、それを他人のために役立てるという責任である。シルバーバーチは、霊媒能力を持った交霊会の参加者に、次のように語った。〕


あなたはこのサークルに参加することによって、大霊のサービス(愛)を受け入れることになりました。あなたは霊媒能力を持っています。どうかそれを人のために活用してください。大霊が子供たちに与えた霊力は、他のすべての人々のために活用されなければなりません。もし、あなたがその霊力を間違って用いるなら、大霊に背くことになります。それは大霊に至る道を閉ざし、あなたの人生を狂わせることになります。霊力を小さなビンの中に閉じ込めておくことはできません。霊力を閉じ込めようとするなら、ビンは破裂してしまいます。

あなたは、自分の持っている霊力を摂理にそって正しく用いなければなりません。摂理は大霊によって造られたもので、それを私がつくり変えることはできません。大霊の摂理は、すべての子供たちが幸せになるためにもうけられたものです。ところが人間は、自分たちは親(大霊)よりも優れていると自惚(うぬぼ)れて摂理に背くようになったために、地上にはさまざまな問題が発生するようになったのです。


〔世間の人々から非難され、落胆している女性霊媒に対して、シルバーバーチは次のように語った。〕


あなたは、非常に強力で優れた指導霊の導きを受けています。もし、あなたが指導霊に対して完璧な信頼と信念を持つなら、すべてがうまくいくようになります。あなたは大霊の道具ですが、自由意志も持っています。人間は皆、大霊から自由意志を与えられているのです。どうか、あなたが手助けできる多くの人々がいることを忘れないでください。あなたを通して素晴らしい霊力が活用されることになるのです。その霊力の働きを信じてください。霊力は、あなたの前途に立ちはだかるあらゆる障害物を取り除いてくれます。

あなたはとても感受性が豊かな方です。あなたは霊媒としてさまざまな悩みを抱えていますが、それはすべて大霊の摂理にそって発生しているのです。私は、今あなたが味わっている苦痛を、あなたに代わって背負ってあげたいと思っています。そうした私の思いを察してください。

大霊の子供たちが食べる物に不自由し、飢えに苦しむ姿を見て、私たちが平気でいられると思いますか。人々が病気で苦しむ姿を見て、安穏としていられると思いますか。戦争によって肉体から無理やり魂が引き裂かれていく様子を見て、じっとしていられると思いますか。地上世界の悲劇に目をつぶっていることはできません。私たちは、地上世界を立て直すためには唯一、この方法(サービス・利他愛の実践)しかないことを知っています。

私たち霊界の者が、地上世界の問題を取り除くことはできません。地上人自身の努力によって、新しい世界を誕生させなければなりません。霊的世界に対する感受性の鋭い人間(霊媒・霊能者)は、地上世界の悲しみをより強く感じ、心を痛めるという犠牲を払うことになります。

どうか、物質的なものではなく、霊的なものに目を向けてください。そうすれば、あなたは大霊の光に包まれ、いずれ朽ちていく肉体の奥にある不滅の霊を傷つけるものは何もないことを悟るようになるでしょう。あなたを取り巻く環境は、あなたの身体に何らかの影響を及ぼすかもしれませんが、それが大霊の賜物(たまもの)である霊を傷つけるようなことにはなりません。

もしあなたが、物質的なものに過度の関心を持たないようにするなら、物質よりはるかに繊細な霊に対する感受性を高めることができるようになります。目に見える物質的なものではなく、目に見えない霊的なもの、大霊と永遠なるものに信頼をおいてください。

私は、これまで自分の霊媒(バーバネル)が苦しむ姿を見てきました。以前にも彼の苦しみについてお話ししたことがありましたが、それを見て私が涙を流してきたことをあなたはご存じでしょうか。私は、彼の重荷のすべてを代わって背負ってあげたいと思いました。しかし私は、人間は苦しみを通して魂が浄化されることになるという大霊の摂理を知っています。

あなたはとても感受性が豊かな方ですから、それに見合った苦悩を味わうことになります。最強の霊力と大霊の完璧な愛が常にあなたとともにあり、それがあなたを通して他の人々に流れていくようになるということを、忘れないでください。霊界の者たちは、あなたに最高の叡智による助言を与え、進むべき道を示し、その霊力によって支えます。私たちは常に、地上世界の嵐と困難からあなたを守り、安らぎの場へと導きます。

あなたは、今の立場に留まっているべきです。霊力は活用されなければなりません。霊力を閉じ込めてしまってはいけません。

あなたは光と影が存在する物質界に生きています。あなたの住んでいる世界は、私たちの世界とは違います。あなたは影の中にいるときは光を忘れ、光の中にいるときは影を忘れてしまいます。雪が降ると寒すぎると言い、太陽が照ると暑すぎると言います。

下を向くのではなく、どうか常に太陽を見上げてください。地上人生において悲しみや喜びの体験を積むまでは、あなたは真の霊媒(高級霊の道具としての霊媒)になることはできません。自分が暗闇の中にいると感じたときには、それは影にすぎず、いずれ消え去るものであることを思い出してください。太陽の光は、あなたの内部に存在する霊の宝を再び輝かせることになるでしょう。
サービス(奉仕・利他愛の実践)の摂理について


〔高級霊たちは常に、サービス(奉仕)の重要性を強調する。サービスによって個人の霊的進化が促され、同時に新しい世界の夜明けがもたらされると言う。高級霊たちはサービスの必要性を説くだけでなく、自ら率先してサービスを実践している。ここでは、シルバーバーチがサービスについて述べた箇所を抜粋して紹介する。繰り返しサービスの重要性を訴えるシルバーバーチの言葉は、それを実践しようとする者にとって大きな励ましとなるであろう。〕


■私たちは、あなた方にサービス(奉仕)をするためにここへやって来ました。もし私たちが一人の人間の魂を引き上げることができたら、もし傷ついた身体を癒し、落ち込んだ魂に勇気を与えることができたら、もし新しい希望と信頼をもたらし、悲しみの涙が流れているところに微笑みをもたらすことができたら、そのとき私たちは大霊に奉仕したことになります。そして地上の道具(同志)を与えられ、彼らを通して傷ついた大霊の子供たちに奉仕できることに感謝を捧げます。


■皆さんは時に、奉仕することにうんざりしてしまうことがあるかもしれません。奉仕の喜びが感じられず、疲れきってしまうことがあるかもしれません。私たち霊界の者は、自分たちへの賞賛は一切求めません。私たちは、摂理の働きを通して大霊に奉仕しようと努めています。そして皆さんに、摂理を活用すれば地上に調和と健康と幸福がもたらされるようになることをお教えしようとしているのです。


■私は、できるかぎりあなた方に奉仕したいと思っています。わずかではあっても光をもたらし、皆さんが人生についての真の教訓を学ぶことができるように手助けしようと努めています。霊的知識によってあなた方の魂は強化され、大霊から託された使命を達成することができるようになります。


■私たちは、ひたすら奉仕に励んでいます。どのような呼びかけにも、どのような要請にも、お応えします。私たちは、あなた方の役に立つことだけを願ってここにいるのです。口先だけでそう言っているのではありません。私たちが奉仕に努めているのは、それを通してのみ大霊を顕現させることができるからです。


■神学者たちは、不可解な神学理論や教義をつくり出してきました。そしてそれが、人類に懐疑と当惑と混乱をもたらすことになりました。宗教のエッセンス(本質)は“サービス(利他愛の実践)”という一つの言葉で表現されます。


■自己を忘れてひたすらサービス(利他愛の実践)に励む人は、大霊を顕現させています。“サービス”――それは現在の地上世界が、最も必要としているものです。それゆえ私たち霊界の者は、地上人にサービスの重要性を訴え、自らサービスの実践に励んできたのです。あらゆる霧と暗闇、懐疑と恐れ、悲しみと争い、苦しみと痛みの背後には、サービスを通しての霊的成長という永遠の目的があることを忘れてはなりません。


■皆さんは、大霊の意思を地上で実現するための“大霊の僕(しもべ)”です。その務めを果たす中で、多くの人々の人生に新しい希望をもたらし、同時に皆さん自身もさらなる幸福を手にすることになるのです。あなた方は、強大な霊力が地上に降りる手助けをしています。大霊の摂理が働くための援助をしています。地上世界の悲しみと不幸を一掃するための奉仕に携わっているのです。


■あなた方の背後にあるのは、全生命の始原である大霊の力であり、それは宇宙で最強の力です。あなた方は、その大霊の力が地上界に顕現するための手助けをすることができるのです。他人の魂を引き上げてあげること、励ましの言葉をかけてあげること、霊的であれ物質的であれ奉仕をすることが大切なのです。心から喜んで奉仕に専念することで、あなた方は真の大霊の道具となれるのです。


■大霊の子供たちに奉仕しないで、どうして大霊に奉仕することができるでしょうか。地上世界は表面的な言葉や肩書きやラベルにとらわれ過ぎています。私が重要視するのはサービス(奉仕・利他愛の実践)だけですが、地上では政治や経済や社会を論じる学問が大切にされています。しかし、それらは単なる知識にすぎません。あなた方が人々のための奉仕に励むなら、それが「真の宗教」なのです。


■地上世界での身分の高い低いは重要なことではありません。もしあなた方が、たった一個の魂であっても引き上げることができるなら、暗闇の中にいる人に光を届けることができるなら、無知の牢獄の中にいる人を解放することができるなら、あなた方は大霊に奉仕していることになります。飢えている人に食べ物を与え、のどが渇いている人に水を与え、そして戦争ではなく平和をもたらすことができるなら、あなた方はまさしく大霊に仕えていることになるのです。
霊界からの指導の実際


〔地上へメッセージ(霊的真理)を伝えることが何より重要であるとするシルバーバーチは、自分自身のことについてはほとんど語っていない。しかし地上人類のために大きな犠牲を払って働いている他の指導霊たちについては、時おり述べている。その中からいくつか拾ってみた。〕


――指導霊は、すべての国で、さまざまな分野に働きかけているのでしょうか。


はい、そうです。しかし、試行錯誤の中で何とか継続しているというのが実情です。その原因は、せっかく目星をつけた道具(霊能者)がどこまでこちらの期待に応えてくれるかは、前もって判断できないからです。最後の段階で堕落して使いものにならず、何十年にもわたる努力が水の泡となることがあります。今この時も、物質界の至るところで、こちらからの反応に応えてくれる人間を見いだし、霊界からの影響力を及ぼそうと働きかけている霊が大勢いるのです。


――指導霊たちは、人類の進歩に関わる運動(スピリチュアリズム)に働きかけているのでしょうか。


物質界の進歩のために役立つ仕事をしている人々には、それに拍車をかけて発展させようとする霊団が援助します。善を志向する努力が、無駄になることは決してありません。人類を向上させたいと願っている人、人類への奉仕を切望する人、大霊の子供たちの苦しみを取り除くために戦っている人の背後には常に多くの霊が待機しているのです。


――政治体制の異なる国々、例えば民主主義国家と、独裁主義国家の背後で働いている指導霊たちの関係はどうなっているのでしょうか。


あなた方は、本来は言葉を“道具”として使用すべきところを、逆に言葉の“奴隷”になっています。私たち指導霊の全員が、大霊の摂理をすべての子供たちに教えようとしています。どこにいようと、誰であろうと、大霊の摂理はその子供たちを通して働くからです。霊的成長のレベルがそれぞれ異なっているため、私たちの働きかけが必ずうまくいくとは限りません。手こずることもあります。しかし私たちは、選んだ道具を用いて最善を尽くすしかありません。その際、道具となる人間のラベルは問題ではありません。私たちは、どれだけ役に立つかということだけを考えて働きかけているのです。


――指導霊から積極的な働きかけを受けている人が、それに気づかないということがあるでしょうか。


大いにあります。その事実を知っている方が、知らないままでいるよりも協力関係を強化することができます。


――指導霊の存在を知ることによって、もっと霊力を受けやすくなるのでしょうか。


指導霊の存在を知っていれば、その人間と霊との関係はより親密になります。知らずにいるよりは知っている方が好ましいのです。光が得られるというのに、暗闇にいたいと思う人がいるでしょうか。飲み物があるというのに、どうして渇きを我慢する必要があるのでしょうか。


――指導霊は、決まった霊媒以外の指導をしないのはなぜでしょうか。


そうした質問を聞くと、私たちがこの交霊会を催すために、いかに複雑な方法や手段を駆使しているかが理解されていないことが分かります。私が、この霊媒(バーバネル)を通して使命を果たすために何十年にもわたって準備してきたことを、皆さんはよくご存じのはずです。誰かの要望に応えて、別の霊媒を長い期間をかけてもう一度、養成するようなことはいたしません。


訳注――この回答は、シルバーバーチはなぜよその交霊会に出ないのかとか、どこそこの交霊会にシルバーバーチが出たというのは本当か、といった風評を念頭において述べている。


――霊媒の中にはサイキック能力を十分に発揮できずに、うつ病や精神のトラブルで苦しんでいる人がいるのはなぜでしょうか。


霊体と肉体が不調和状態に陥ったことが原因です。
インスピレーションについて


〔インスピレーションの存在はよく知られているが、その一方で最も信憑性の低い霊媒現象と見なされていることも事実である。人間は死後、思念の伝達を用いて仕事を続けることになる。また、インスピレーションとして自分の思念を地上人の意識に印象づけることができる。そうした霊からのインスピレーションを受け取った地上人によって、多くの仕事がなされてきた。以下は、インスピレーションに関するシルバーバーチのコメントである。〕


「奉仕をしたい」との思いを持って霊界に来た者は、思念の力を用いて地上世界に影響力をもたらす方法を学ぶようになります。地上人類を向上させたいと願う霊たちの強い思念が、地上界に多くの恩恵をもたらすことになります。私たちは、地上人のために奉仕をしたいと考える新参霊たちに、真理普及の戦いに役立つように意識集中の方法を教えます。彼らは肉体的な感覚はすでに失っていますが、その存在自体が地上人にとって助けとなるのです。こうして彼らは私たちと一緒に、あなた方を援助する仕事に携わることになるのです。
質疑応答


――例えば新聞記者などある種の能力を身につけた人間は、すでに他界している、かつて地上で同じ仕事に携わっていた霊から、援助や導きを受けるようになるのでしょうか。


はい、なります。地上世界でもこちらの世界でも、いったん身に付けた能力が失われるようなことはありません。地上世界で発揮していた才能は、霊界に入ってからも進歩していきます。そしてさらに向上すると、自分と同じ才能を持った地上の道具を見つけたいと思うようになります。地上で同じ能力を発揮している人間に働きかけることによって、自分の才能をよりいっそう進化させたいと望むようになるのです。

地上人は、霊界からのインスピレーションを無意識のうちに受け取ることもあれば、意識的に受け取ることもあります。霊的感受性が強い人間は、霊界から送られてくる思念をインスピレーションとして受け取り、それを意識の中に強く印象づけることになります。


――インスピレーションは、集合的存在(類魂)から送られてくるのでしょうか。それとも一人の霊から送られてくるのでしょうか。


両方のケースがあります。


――偉大な詩人や画家などは、霊界からのインスピレーションによって作品をつくり上げていると言われますが、それが事実であるなら、地上人のアイディアにはオリジナリティーがあると言えるでしょうか。


私は、(宇宙の)始まりについても終わりについても何も知りません。大霊は生命であり、生命は大霊です。あらゆる生命の種子が、大霊によって蒔かれています。宇宙に存在している万物は、私の知るかぎり、過去にも常に存在し、そしてこれからも存在し続けます。あなた方は大霊の一部であり、その肉体の奥に大霊の分霊が埋め込まれています。あなた方は大霊のミニチュアであり、それぞれの魂の進化に応じて大霊が有するすべての力にアクセスすることができるようになります。

人間は自らの力で何ひとつ創造することはできませんが、大霊が創造し与えてくれたものに働きかけたり、形づくったり、積み上げたり、向きを変えたり、改良したり、美しくしたり、結びつけたりして、自分たちが住んでいる地球とそれを取り巻く宇宙をより良い所にすることができます。大霊は、子供である人間にあらゆる素材と道具を準備してくださいました。人間はそれらを用いてさまざまなものをつくり上げることができますが、素材を創造することはできません。
催眠術のメカニズムと危険性


――催眠術は研究の対象に値するものでしょうか。


催眠術師が善意の人で、自分の能力を人のために役立てたいという願望から発しているのであれば、よいことです。しかし催眠術というのは、魂の隠れた能力のほんの表面を軽く叩いている程度のものにすぎません。


――催眠術師が接触するもの(潜在能力)とは何なのでしょうか。


自己を超えたもの、つまり内在する大霊と同じものです。私は、これまで何度もあなた方に対して、自分の内部に存在している力を自覚しそれを発揮するなら、克服できない困難はないと申し上げてきました。“隠れた能力”とは、その力のことです。高いバイブレーションに自分を調和させること、より良い奉仕の人生を送ること、そして霊的向上をすることによって、その力を発揮することができるのです。あなた方は、世俗的になればなるほど、より低いバイブレーションに反応するようになります。反対に自己犠牲の思いが高まれば高まるほど、より高いバイブレーションに反応するようになり、内部の大霊(神性)が発揮されることになるのです。


――その内部の神性というのは、理性的な思考と行動をする自我意識が独立したものでしょうか。


いいえ、違います。今のあなたは物的身体を通して発現している精神(意識)によって支配されています。地上で生活している間は、そうなっているのです。それが催眠状態になると違ってきます。催眠術師は言わば看守のようなもので、牢のカギを開けて囚人を解放することができます。催眠術師が善意からそれ(催眠術)を行うのであれば、潜在している神性を刺激することになり、良いことをしたと言えるでしょう。しかし催眠術は、内部の獣性を刺激することもあるのです。いずれにしても、あなた方が地上で発揮している意識は、死後に発揮することになる大きな意識のほんの一部にすぎないことを知っておいてください。


――そういうことを聞かされると、いささか不満を感じてしまいます。


そうでしょう。しかし、不満に思うのはけっこうなことです。自惚れから生じる自己満足は進歩の妨げとなります。


――催眠術は霊媒能力を発達させるための手段になるでしょうか。また、あなたはそれを奨めますか。


それは、これまでも言ってきたことですが、いったん霊媒に指導霊が付くと、地上の催眠術師の出番はなくなります。霊媒が指導霊の霊力を受けるようになると、催眠術による影響力は及ばなくなります。霊媒能力の開発は交霊会から始めて、徐々に霊力の影響を受けていく方がよいと思います。


――催眠術を霊能力開発の近道とは考えておられないわけですね。


そうです。霊能力開発に“近道”はありません。これは魂とその能力に関わることです。地上人の霊的能力が今日の段階まで発達するのに何百万年もかかっています。これまで地上世界に不幸が絶えなかったのは、霊的な側面を無視してきたからです。霊に関わることは、慎重な養成と、ゆっくりとした成長が必要とされます。
シルバーバーチ、思想家“トマス・ペイン”を賞賛する


〔“昨日の悪者は、今日のヒーロー”――一九三七年、シルバーバーチはかの有名な思想家(社会改革者)トマス・ペインの生誕二百年にあたってこの言葉を引用し、次のように述べた。〕


本日は、かつて霊力に満たされて、抑圧され虐(しいた)げられていた人々の立場を向上させるために戦った一人の偉大な人間に賛辞を捧げる日です。彼は生前、社会から理解されることはありませんでした。彼は、悲惨な環境の中で力を失い、落胆している人々を引き上げるために苦闘しました。あらゆる不正と戦い、人間が本来、享受すべき恩恵について人々に教えようとしました。

当時の上流階級の人々は、彼(トマス・ペイン)を敵視しました。しかし彼は、霊力に突き動かされていたため、さまざまな困難に勝利しました。彼は人々から軽蔑され、拒絶され、迫害されましたが、その仕事は今も生き続けています。

どうか、そうした彼の生き方から教訓を学んでください。今、皆さんがしていることは、彼の仕事とつながっています。皆さんも人々から妨害され、敵意や反感を受けていますが、今皆さんが伝えようとしている真理は、当時、彼が人々に教えようとしていた真理と同じものなのです。あなた方もペインと同じように、霊的な、そして物質的な自由を獲得するための戦いにおいて、最大の味方であるはずの人間から反対されるようになるかもしれません。しかしあなた方の仕事は、今後も生き続けます。なぜならその仕事には、「大霊の認証」というシールが貼られているからです。

その神聖な仕事を進めるためには、善意を持った地上の人間が必要です。私たちは、現在の地上界のリーダーには期待していません。私たちは、階級や民族、人種や宗教を問題にしてはおりません。携わっている仕事が真の奉仕であるかどうか、人々の魂を引き上げ手助けをするものであるかどうかだけを見ているのです。

今日は、霊力に鼓舞されていた一人の社会改革者に、あなた方と私たちの世界から賛辞を捧げ、重要な教訓を学ぶ時です。地上人は、彼の仕事を単なる過去のものと考えていますが、私たちは、奉仕に対して情熱を抱いていた彼の魂を評価しています。彼は私たちの世界へ来てからも、奉仕を続けています。今も、大勢の大霊の子供たちの生活を改善するために全力で戦い続けているのです。

地上世界は奇妙な所です。昨日の悪者が、今日のヒーローになります。そして今日のヒーローが、しばしば明日の悪者になります。今の時代において軽蔑されている人間は、やがて訪れる時代には賞賛されることになるでしょう。

宗教家を自認する人間の視野は、何と狭いことでしょうか。彼らは、自分たちの宗教のまわりに教義の分厚い壁を築き上げています。そして自分たちの教義に同意し、壁に囲まれた狭い世界(教会)にやって来る人間以外は皆、拒絶します。彼らは、「壁の外には無神論者がおり、壁の内側には神によって選ばれた宗教的な人間がいる」と言います。

しかし、本当に宗教的な人間とは、人々を向上させるために戦い、悪を正し、障壁を打ち砕き、無知を追放し、飢えを駆逐し、スラムを根絶しなければならないと考える人のことです。そうした人こそが、真に宗教的な人間なのです。人類への奉仕(サービス)のために人生を捧げることだけが、宗教的な生き方と言えるからです。

私は今日まで、皆さんが知っておくべき霊的真理をシンプルな言葉で説いてきました。霊的真理に新たに付け加えるものは何もありません。今、地上人に必要とされているのは、霊性を発揮して、霊力をもっと容易に受け入れられるようにすることです。現在の地上人類は、あまりにも霊力を否定しています。


訳注――トマス・ペインは、英国生まれの思想家・著作家で、一七七四年に渡米。一七七六年に『コモン・センス』を著して、アメリカ独立の気運を高めた。フランス革命を擁護した『人間の権利』も、よく知られている。
霊とは何か


〔霊魂とは何か。科学者は霊魂の存在を認めないし、正統派を主張するキリスト教会はそれについて何も知らない。シルバーバーチは、霊魂とは大霊の分霊であると明言し、私たち人間と大霊は、その分霊によって常に結ばれていると言う。〕


――人間の物的身体は何によってコントロールされているのでしょうか。また、それはどこに位置しているのでしょうか。


私はそれがどこにあるのか知りませんし、見つけ出すこともできません。科学者たちは、肉体を解剖すれば隅に隠れている霊魂を見つけることができると思っています。あるいは霊魂は血管の中を流れていたり、どこかの臓器に隠れていると考えています。しかし霊魂は、肉体のどの部分にも存在してはいません。


――でも霊魂は、肉体の内部にあるのではないでしょうか。


霊魂は、内部にあるとか外部にあるとか言えるようなものではありません。霊魂はすべての場に充満しています。霊魂とは意識のことであり、肉体によって制約されるものではありません。それは無限の広がりを持つと同時に、進化の頂点にまで至ることができます。そして一瞬のうちに地上をめぐることができるものなのです。あなた方が霊的身体で遠い所に赴くとき、霊魂はどこにあるのでしょうか。こう言うと、あなた方は地上の距離感覚で想像するでしょうが、私たちにはそうした感覚はありません。霊魂によって制限される空間はないのです。


――「魂(ソウル)」と「霊(スピリット)」の違いは何でしょうか。


私は、それらをどう呼ぶかにはこだわりません。あなた方の辞書は私がつくったわけではありません。私の言う魂とは、内在する大霊のことです。霊とは、魂が顕現するための身体です。しかし他の人は、私とは違う意味でそれらの言葉を用いています。(シルバーバーチ自身も逆の使い方をしていることがある。シルバーバーチはここで「分霊」を「魂」と表現し、「霊体」を「霊」と表現している――訳注)


――顕現するための身体という表現はともかく、霊(スピリット)とは何なのでしょうか。


霊とは、あなた方の言う神、すなわち大霊の一部であり、媒体を通して自己を顕現しつつ、より高みを目指してどこまでも向上していくものです。霊は、媒体を通して顕現することで初めて知ることができるものであり、顕現していない霊について知ることは不可能です。


訳注――「霊」という言葉には、いろいろな意味がある。例えば、人間の本質である「分霊」を「霊」と言う一方、死後の人間(他界者)のことを広く「霊」と呼んでいる。日本人は圧倒的にこの使い方が多い。また意味不明のまま「霊魂」という言葉を用いることもある。

ここでは質問者が、人間の霊的要素についての認識が乏しいところから質問しているため、シルバーバーチの答えも、それに合わせようとして矛盾が生じている。質問者と、それに答えるシルバーバーチとの間に用語の使用の点で混乱が見られ、錯綜した質疑応答となっている。さらに編者のオースティンが魂(霊魂)という言葉を用いて解説しており、いっそう理解しづらい内容となっている。


――良心(コンシャンス)とは何でしょうか。


良心は魂の一部であり、正しいことと間違ったことを区別します。良心はハカリのようなもので、あなた方はそれによって善と悪を判断することができるのです。良心とは、魂の指針なのです。


訳注――別のところでシルバーバーチは次のように述べている――「地上においても霊界においても、道徳的・精神的・霊的問題に関連してある決断を迫られる事態に直面したとき、正常な人間であれば“良心”が進むべき道について的確な指示を与えるというのが私の考えです。大霊によって植えつけられた霊性の一部である良心が瞬間的に前面に出て、進むべきコースを指示します。問題はその指示が出たあとから、それとは別の側面が出しゃばり始めることです。偏見がそれであり、欲望がそれです。良心の命令を気に食わなく思う人間性がアレコレと理屈を言い始め、何か他に良い解決策があるはずだと言い訳をして、しばしばそれを正当化してしまいます。しかし、いかに知らぬふりをしてみても、良心の声が最初に最も正しい道を指示しています。」
オーラとは


――オーラとは何ですか。


オーラは、身体が発するバイブレーションによって構成されています。一口にオーラと言っても多くの種類がありますが、地上世界で知られているのは肉体のオーラと霊体のオーラです。すべてのものがオーラを放射しており、意識のない物体でさえオーラを放っています。人間のオーラは身体が発するバイブレーションによって成り立っており、身体の状態を反映しています。オーラが見え、その意味を読み取れる霊能者は、オーラを放射している人の秘密のすべてが分かります。健康状態も分かりますし、魂と精神の状態や魂の進化の程度も分かります。オーラは開かれた本のように、さまざまな情報を示しています。

オーラには、あなたがこれまでに言ったこと、思ったこと、行ったことのすべてが刻み込まれています。それを読み取れる人には、上辺(うわべ)のあなたではなくて、本当のあなたが分かるのです。この意味でオーラは、永遠の判事と言えます。


――あなたの説明には、霊体のオーラも含まれているわけですね。


はい、そうです。肉体のオーラには、健康状態とか気質とか習性など、肉体に関連した情報が示されています。肉体の状態によってオーラの色彩は、さまざまに変化します。
幽霊とは


――修道院の回廊を、かつてそこで生活していた修道僧が歩き回っていたという幽霊話をよく耳にしますが、その正体は何でしょうか。


幽霊の出没は霊の仕業によるものもありますが、今おっしゃったようなケースは、地上に残されているエーテル質の像(幽質の外皮)が、強い思念を受けて一人歩きをしているものです。しかし一般に「幽霊が出た!」と騒がれる場合は、いわゆる地縛霊の仕業です。


訳注――マイヤースの『永遠の大道』の一節に〈遺像〉または〈殻〉という項目があって、幽霊話について次のように説明している。

「遺像というのは地上の旅人が死とともに捨てる殻のことで、マントに譬えられないこともない。その遺像を再び活性化するのは(地上時代の)憎しみや感情である。背後にその種の怨念や観念があって、それがその遺像と結びつくからこそ意味もなく動き回るのである。つまり宇宙の遠い彼方に、地上時代に惨い死に方をした者、殉教した敬虔な修道士や修道女などの霊がいて、ふと当時のことを思い出したときなどに、その強烈な念が遺像に感応して一時的に生気を与えるというわけである。

その“ふと思い出す”のは、活発な霊的生活の中で一呼吸入れて休息しているときなどである。過去世の因縁の糸がたぐり寄せられて古い情景が浮かぶのであるが、あくまでも“ふと思い出す”程度のことであって、その当時の無念の思いはすっかり消えている。が、その一片の思念が地上に残した殻を動かし、かつての建物や土地をノソノソと歩かせるということが、現実に起こり得るのである。」
時間は実在するか


――時間は実在するのでしょうか。それとも人間がつくり出したものでしょうか。


時間は、人間がつくり出したものではありません。時間にはいくつもの次元があります。時計で計る時間は人間がつくったものですが、時間そのものは実在します。空間も実在します。ただ、あなた方の視点は限られているため、計測する時間と空間は正確ではありません。あなた方が他の視点からの知識を持つようになれば、その見方はより真実に近づきます。
精神障害と魂の進化の関係


――身体的障害のために、肉体が霊的自我の欲求とは正反対の行動を取ることがありますか。


はい、あります。精神障害者の場合がそうです。しかし、この場合は魂の進化に影響を及ぼすことはありません。物質界での表現が阻害されるだけです。魂の進化と、地上的制約の中での魂の表現は別であることを考慮しないといけません。
憑依の原因


――邪悪な地上人生を送った者が、死後にもまったく良心の呵責を感じないということはあるのでしょうか。


よくあります。何百年、時には何千年もの間、良心呵責を感じないままいることがあります。


――そうした霊が地上の人間に取り憑くということがありますか。


もし、両者の間に親和性(因縁)があれば、それは起こります。憑依現象というと一方的に霊の側に責任があると考えがちですが、実際は地上の人間に原因があることを知らないといけません。憑依されるような条件を用意しているのは人間の方なのです。調和のとれた生活、正しい心がけと奉仕の精神にあふれた生活、我を張らず、欲張らず、独りよがりにならない生活を心がけていれば、憑依現象は絶対に起きません。
植物に意識はあるか


――花などの植物にも意識があるのでしょうか。


ありますが、あなた方が考えているような意識とは違います。植物は、地上ではまだ知られていない種類のバイブレーションに反応する感覚を備えています。そうしたバイブレーションを偶然発見して、花や野菜などの植物を上手に育てることができる人がたくさんいます。


訳注――そうした発見から霊的次元にまで踏み込んでいる人としては「フラワー・レメディ」のエドワード・バッチ博士が筆頭であろう。花々の特殊な癒しの成分を霊感でキャッチし、その抽出に成功している。それがシルバーバーチ霊の出現時期と重なることも意義があるように思える。バッチ博士の思想の根幹を次の一文から読み取っていただきたい。(要約)

「現代医学の失敗の主な原因は、原因ではなく結果にばかり目を向けてきた点です。何世紀もの間、病気の本質が物質主義という仮面で隠され、病気の根源と闘わなかったために、その荒廃がどんどん広がっていきました。現在の物質主義的な方法では、病気を治したり根絶させたりすることはできません。病気の根源にあるものは物質ではないからです。

病気は本質的に魂と意思が争った結果ですから、霊的な面と精神的な面の努力なしでは、根絶されることは決してありません。身体だけにどれほど努力を重ねてみても、表面的に癒すことしかできません。原因がそこに存在しているわけですから、また違った形でぶり返してきて、その存在を見せつけます。

病気はたいへん残酷ですが、反面、恩恵を得るところや役に立つところがあります。病気が正しく解釈されれば、それによって自分自身の重大な欠点を知ることができます。的確に治療をすればその欠点をも取り除くことになり、前にもまして健康で素晴らしい人間になることができます。苦しむことによって他の方法では知ることのできなかった改めるべき点が分かり、それを治すことができます。そうしていかなければ、決して原因を根絶することはできません。」

(『バッチ博士の遺産』バッチフラワー友の会刊)
神智学の間違いについて


――神智学では、人間は死ぬと神聖なる根源的なもの(Divine Principle)が肉体とアストラル体とメンタル体から抜け出ると言います。そしてそれが抜け出たあとの肉体やアストラル体やメンタル体は、空っぽの貝殻のようになって地上の大気中をうろつくことになると教えています。神智学では、地上の霊媒を通しての通信はこうした貝殻のようなものからもたらされるとし、死者の人格を真似た自然霊によって発生する現象であると説明しています。これについて、あなたはどのように答えますか。(神智学の創始者であるブラヴァッキーは、こうした論法でスピリチュアリズムの霊界通信を否定しようとした――訳注)


人間の肉体から大霊の一部(分霊)が分離し退くと、肉体の役目は終了し、分解して大地に戻ることになります。肉体から離れた分霊は霊界に入りますが、霊界では進化にともなって次の段階に進んでいくようになります。大霊の分霊がアストラル体(幽体)から抜け出ると、アストラル体の役目はそこで終わり、幽質素に分解されます。
占星術は当てになるか


――占星術というのは当てになるのでしょうか。


宇宙のあらゆる存在物は振動しており、すべてのバイブレーションは外部へ向けて絶え間なく放射物を放っています。その放射物は、宇宙間に何らかの影響を及ぼしています。そうしたバイブレーションの背後には大霊の法則がありますから、それを知ることは少しは役に立つでしょう。


――霊界から送られてくるメッセージと、占星術による予言との間には共通するものがありますが、何か関係があるのでしょうか。


真理の顕現の仕方は無限です。真理とは大霊のことだからです。しかし真理は人間を通して顕現するものであるため、人間の進化の程度によって顕現の仕方が異なります。真理というものは、純真な気持ちでなければ修得できません。長たらしい言葉や目新しい言葉で解説しなくてはならないものは真理ではありません。言葉を飾ることは、しばしば無知を隠すための仮面になります。
シルバーバーチの祈り


〔シルバーバーチの霊言集が祈りの言葉を欠いていては、完全なものとは言えないであろう。毎週金曜日の夜に開かれる交霊会は、まずインボケーション(会の成功を願う祈り)で始まり、ベネディクション(励ましの言葉)で閉会となる。ここではその典型的なものを紹介しておく。〕
インボケーション


願わくば、本日もこの交霊会において、霊的世界に属する摂理の働きについて明らかにすることができますように……。大霊について、大霊とあらゆる生命現象との関係について、また宇宙に存在するすべての大霊の子供たちとの関係についての理解を、より明確にすることができるように祈ります。

あなたは幾世紀もの間、誤解され、曲解され、限りある存在とされてきました。そこで今、私たちは、あなたを完璧な摂理として説き明かそうとしております。あなたは、生命のあらゆる顕現をつかさどっておられます。宇宙に存在するすべてのものは、あなたの霊力の働きかけがあればこそ、維持されているのでございます。あらゆる創造物が、あなたの摂理に賛辞を捧げております。最も力を持つ者も力なき者も、強者も弱者も、小鳥も花も樹木も、風も海も山も丘も、日光も雨も嵐も稲妻も、一つの例外もなく、すべてに生命の大霊であるあなたが顕現しておられます。

私たちは、あらゆる存在があなたのイメージの中で創造されていることを示そうと努めております。あなたは、すべての被造物を通して顕現しておられます。あなたが内在すればこそ万物は動き、呼吸し、生きているのであり、すべてがあなたの中に存在しているのでございます。

いかなるものも、あなたとあなたの子供たちとの間を引き裂く力は持っておりません。なぜなら、すべてのインスピレーション、すべての真理、すべての叡智、すべての啓示、すべての知識が蓄えられている無限の貯蔵庫は、大霊の子供たち一人ひとりに開かれているからでございます。向上心と謙虚さと奉仕精神にあふれ、強大な霊力(霊団)の道具になることを願う子供たちは、その貯蔵庫を自由に活用することができるのです。

私たちは、すべての人間の魂に秘められた潜在能力を明かそうとしております。私たちは、地上の子供たちが、無知から閉じ込めてしまっている潜在能力に気づき、物質の障壁を突き破って霊的高みを目指す日々の努力の中で、その能力を自由に発揮できるようになるのを待っているのです。

私たちは、あなたのすべての子供たちが地上に生を享けた目的を理解し、満ち足りた素晴らしい人生を送ることができるように願っております。それによって子供たちは、あなたが用意してくださった豊かさと美しさと喜びを自由に求め、自分のものにしていくことができるのでございます。

私たちは、あなたが子供たちに近づき、子供たちがあなたに近づくことができるように、立ちはだかる障害を取り除き、あらゆる制約と束縛を払いのけようと努めております。地上の子供たちが、親なるあなたの存在を知り、奉仕に励む中であなたを顕現していくことができるように働きかけているところでございます。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。
ベネディクション


皆さんはこれまで、私たち霊団の者の姿を見たり、直接声を聞いたりしたことはありませんが、とても身近な存在であることを知っていただきたいと思います。

私たちは皆さんのすぐ傍(そば)におります。私たちと皆さんとの間には、愛の絆があるからです。愛があればこそ、私たちは皆さんのために奉仕しています。援助を必要としている人々――身体的に弱っている人、生きる気力を失っている人、挫折している人、人生の意義を見失っている人、これまでの宗教では満足を得られず、真理を渇望している人、魂は自由を求めながらも、教義と信条に縛られ、それに対抗する他の宗派との狭間(はざま)で息も絶え絶えになっている人――そうした人々のために、皆さんを通して献身しているのです。

私たちが説く教えは、大霊の無限の真理であり、何ものにも制約されることはありません。真理はすべての人々のためのものであり、それを独り占めできる人間はいません。大霊の真理は、全人類を愛で包もうとするものなのです。

願わくば、皆さんが自分を取り巻いている強大な霊力、絶え間なく地上界に注がれている偉大な愛、皆さんを通して顕現しようとしているインスピレーション、明らかにされることを待ち望んでいる真理、地上を明るく照らそうとしている叡智の存在に気づくことができるように祈ります。

そして奉仕の仕事を通して宇宙の強大な霊力を理解し、すべての存在の背後に控えている偉大なる力である大霊と一体となることができますように。大霊の摂理に調和し、大霊の叡智に満たされて働くことができますように。皆さんが大霊の僕である私たち霊団の道具となり、全人類のために奉仕されることを祈ります。

大霊の祝福のあらんことを……。



Saturday, July 25, 2026

ベールの彼方の生活(二)

第二巻は、著者オーエンの守護霊であるザブディエルからの通信です。彼がいる十界、その先の十一界や下層界である五界や六界の情景について書かれています。


 
三章 天上的なるものと地上的なるもの

1 古代の科学と近代の科学

一九一三年十一月二一日  金曜日

 読むのが速い者が必ずしも正しく読み取っているとは限らない。そういう者は、見た目に重要に思えない事柄は落ち着いてじっくり考える余裕をもたないものだからである。

表面的なこと以外は目に止まらないのである。であるから、通信が判り易く書かれていると、大部分が軽く読み流されてしまい、そのメッセージの重要性が目に止まらないことになる。

 このことは人間が自然と呼んでいるもの、つまり霊力が物質を通して活動しているその表面的な現象に書かれている教訓についても言える。また人間なり民族なりがその本来の性格を基盤として繰り拡げる運命の働きについても同じことが言える。

 更にこのことは、程度こそ異なるが、いわゆる科学の発見においても言えることである。ではこれより、この発見の問題を取り上げ、ざっと目を通すだけで深く読もうとしない大方の人間よりも深く踏み込もうとする人間に対して深く暗示されているものを観てみよう。

 歴史と同じく科学もまた繰り返す。が決して全く同じことを繰り返すわけではない。知識の探求にも常に大よその原理というものが支配しており、その原理が一定の役割を果たすと、他の原理にその場を譲って裏側へまわり、新たな原理が人類の注目を世界中で集中的に受けることになる。

が、時の経過とともにいつしか前の原理が再び表に出て来て──順序は定まっていないが──新しく人類の注目を集める。かくして人類進化の行進が続けられる。

 発見そのものの種類も又、失われては新たに発見されることを繰り返す。まったく同じものではない。外観が変わり、新たな特徴が加わり、同時に古い特徴が失われている、ということがしばしば見られる。

 以上述べたことを更に判り易くするために、例を挙げて細かく説明しよう。曽ては科学そのものが今日の科学とは異なる意味をもった時代がある。つまり科学にも心があり、物質的現象は二次的な意味しか持たなかった。

錬金術がそうであり、星学がそうであり、工学ですらそうであった。当時すでに地上世界が霊的世界によって支配され、無数の霊団が自発的に──但し上層界から偉大な霊力と崇高な権威によって規制された限度内で──監督に当たっていることが知られていた。

そして当時の人間はそうした霊的支配者の程度や階級、及び自然界と人間界の各部門における彼らの役割、更には各階級から行使される霊力の量まで知ろうとする研究が行われていたのである。

 事実、彼らはおびただし数の事実を発見し、分類した。ただ、そうした事実や法則、規制、条件等が地上的なものでなく霊的なものであったがために、彼らは己むなくそれを通常の言語とは別の形で表現した。

 これが関心の異なる別の世代が台頭してくると、先祖が伝承話の形に込めた知識の何たるかを考慮することなく、これは単なる譬え話であり象徴的なものに過ぎないと断定してしまう。そう断定することで裏に秘められた事実が輪郭を失い。やがて真実味まで失って行く。

さまざまな民族における霊力の研究成果がそうした経過を辿り、これがヨーロッパの妖精物語と東洋の魔法の物語を生み出すことになった。それらは、まぎれもなく古代の科学が或るものを付加され、あるものを抜き取られ、さまざまに歪められながら生き残れる姿なのである。

が、そうした物語を今述べたことに照らし、その本質と近代に至ってからの潤色とを選り分けて読めば、その底に、あたかも幾世紀ものあいだ土砂に埋もれたエジプトの古代都市の如く、太古の科学すなわち霊的観点より考究した知識を見出すことが出来る。 ♰



──何か顕著な例を挙げていただけませんか。

 「ジャックと豆の木」という物語がある。まず名前を見るがよい。ジャックはJohnの愛称であり、このジョンを最初に用いたのは例の「黙示録」の著者(ヨハネ、英語読みでジョン──訳者)である。

豆の木は「ヤコブのはしご」(創成記)すなわち霊界の上層界へ辿り着くための階段の翻案である。物語の意味は、天界に辿り着けばそこは現実の国であり、さまざまな地域があり、自然の風景があり、家々があり、素晴らしい知識がある。

天使はその全てを人間に授けるつもりはないのであるが、時に大胆で能力のある人間が侵入して地上へ持ち帰ることがある。

天使はそれを取り返そうとし、人間がそれ以上に大胆になることによって獲得する所有権を奪おうとするのであるが、人間は生来の機智を弄してそれを妨げることが出来るというのである。

 さて、これはなかなか面白い話ではある。が、その深い意味を理解せぬ者によって幾世紀も語り継がれて来たために、話の筋が奇妙で滑稽にさえなっている。たとえば、もしも真の意味が理解されておればジャックという軽々しい愛称は用いられなかったであろう。

があのジャックのお馴染みの衣装を見れば分る通り、ジャックという俗称に変わったのは神聖なものや霊的なものが軽視された時代のことである。当時は霊的存在を理解することが出来なかったのである。

悪魔に衣服を着せ、刃物のような耳やしっぽを付けたりしたのも同じ理由からである。すなわちそうしたものは当時ではあくまで神話の世界だけの存在だったのである。従って悪魔の性格も神話的な架空のものに過ぎなかった。

 この物語は数多く存在する物語の一つに過ぎない。「パンチとジュディ」という物語も救い難き極悪人としてピラトとイスカリオテ(ユダ)を風刺したものである(*)がこの宗教的にして且つ恐ろしき事実を扱うその手法にも、当時の時代的軽薄さが歴然としている。

(*「パンチとジュディ」はパンチという名のせむし男が子供を絞殺したり妻のジュディをいじめ殺したりする古い英国の人形芝居であるが、これはイエスの処刑を命じた残虐非道のローマ総督と、イエスを裏切ったユダを風刺したものとされる。──訳者)

 まさに軽薄であり、これまで常にそうであった。が、今の時代に至って霊的なるものがようやく人間世界に戻り、その位置を見出しつつある。

必ずしも正当な位置を得ているとは言えないが、少なくとも過去幾世紀かにおける扱われ方に較べれば、より大きな考慮を払われていると言えよう。

 かくして外面的には様相を変えてはいるものの、内面的にはかのエジプトの星学を支配した一般的原理、並びにモーゼが学びそして活用した叡智に類似したものが今日再び人間界に戻りつつある。

それが人間の意識を高め、生命力の産物──貝殻、石、化石──をいじくりながらその生命力の根源の存在を認めようとせぬ過去の唯物思想に存在意識を賦与しつつある。

曽ての唯物科学は大自然の法則の秩序ある働きを説いた──にも拘らず、その秩序と働きの背後の唯一絶対の霊的始源の存在を否定した。

大自然の美を謳った──なのに、その美も人間に〝霊〟が宿ればこそ感識し得るものであること、そしてその霊も永遠なる神の生命が存在すればこそ存在を得ていることを忘れていた。

 吾らは常に人間界を見守っている。そして許されるかぎり、好機の与えられるかぎりにおいて導いている。もし人間が吾らの働きかけに忠実に応えてくれれば、今まさに過ぎ去りつつある時代よりも更に多くの光と愛と生命の美に溢れる時代が到来する。

吾々は人間はきっと応えてくれるものと確信する。何となれば、新しきものは古きものに勝るのが必定であり、更に、吾らが地上へ向けて働きかける時、背後にさらに高い世界から叡智と霊力とが澎湃(ほうはい)として迫りくるものを感ずるのである。

そして吾らは、これぞ上層界の意図であり要望であると確信するものを実行に移す。

 吾々とて、あまりに遠き未来まで 覗き見ることは出来ない。それにはそれなりの特殊な部門があり、それは現在の吾々の霊団の任務には組み入れられていない。が、

吾らはその努力が多くの人間に首尾よく反応を示してくれることに喜びを感じ、時の経過と共により多くの機会を得て、人間にとって吾らがいかに身近な存在であるか、又、人間が常に謙虚にして冷静さを保ち、最高の模範としてキリストを目指し、吾らの教説の中にたとえ走り読みにせよ見出せるであろう聖なる美を体現すべく努力をしておれば、いかに大きな仕事を成就する潜在力を秘めているかを示すことが出来る──そう期待しているのである。

それというのも、キリストの霊的生命は、それをひと目見れば、美とは何かを知る者は恍惚の境へと誘われるほどのものだからである。


 キリストの名において吾らは愛し、キリストに向けて吾らは崇拝の念を捧げる。常にキリストの安らぎのあらんことを。アーメン。 ♰   


 
  2 守護霊と人間

 一九一三年十一月二四日   月曜日

 更に言えば、いついかなる時も吾らの存在を意識することは好ましいことであり、吾らにとって何かと都合がよい。事実、吾らはいつも近くにいる。もっとも、近くにいる形態はさまざまであり意味も異る。

距離的に近くにいる時は役に立つ考えや直感を印象づけるのが容易であり、又、仕事がラクに、そして先の見通しも他の条件下よりは鮮明に見えるように順序よく配慮することが出来る。

 吾らの本来の界にいる時でも、人間の心の中および取り巻く環境で起きている事柄のみならず、その事情の絡み合いがそのまま進行した場合どういう事態になるかについての情報をも入手する手段がある。

 こうして接触を保ちつつ吾らは監督指導が絶え間なく、そして滞りなく続けられるよう配慮し、挫折することのないように警戒を怠らない。

それが出来るのも吾らの界、および吾らと人間との間に存在する界層を通じて情報網が張りめぐらされているからであり、必要とあらば直接使者を派遣し、場合によっては今の吾々がそうであるように、自ら地上へ降りることも可能だからである。

 更にその方法とは別に、吾らの如き守護の任に当たる者が本来の界に留ったまま、ある手段を講じて自分に託された人間と接触し、然るべく影響を行使することも可能である。

これで理解が行くことと思うが、創造主の摂理は全界層を通じて一体となって連動し、相関関係を営んでいる。宇宙のいかなる部分も他の影響を受けないところは一つとして無く、人間が地上において行うことは天界全域に知れ亘り、それが守護霊の心と思想に反映し、守護霊としての天界での生活全体に影響を及ぼすことになる。

 されば人間は常に心と意念の働きに注意せねばならない。思念における行為、言葉における行為、そして実際の行為の全てが、目に映じ手を触れることのできる人々に対してのみならず、目には見えず手を触れることこそできないが、いつでも、そしてしばしば監視しながら接触している指導霊にも重大な影響を及ぼすからである。

それのみではない。地上から遠く離れた界層にて守護の任に当たる霊にも影響が及ぶ。私の界においても同じである。

この先更にどこまで届くか、それは敢えて断言することは控えたい。が、強いて求められれば、人間の行いは七の七十倍の勢い(*)を持って天界に知れ亘る、とでも答えておこう。その行きつく先は人間の視野にも天使の視野にも見届けることは出来ない。

何となれば、その行きつくところが神の御胸であることに疑いの余地は無いからである。(マタイ18・22。計り知れない勢いの意──訳者)

 故に、常に完全を心掛けよ。何となれば天に坐(ましま)す吾等が父が完全だからである。不完全なるものは神の玉座に列することを許されないのである。

 では善と美を愛さぬ者の住む界層はどうなるのか。実は吾らはその界層とも接触を保ち、地上と同じように、援助の必要があれば即座に届けられる。縁が薄いというのみであって決して断絶しているわけではないからである。

その界層の霊たちも彼らなりに学習している。その点は人間も変わらない。ただしその界の雰囲気は地上よりは暗い───ただそれだけのことである。彼らも唯一絶対なる神の息子であり娘であり、従って吾らの弟であり妹でもあるわけである。

人間の要請に応える如く彼らの魂の叫びに応えて吾らは援助の手を差し伸べる。そうした暗黒界の事情については貴殿はすでにある程度のことを知らされている。が、ご母堂の書かれたもの(第一巻三章)にここで少しばかり付け加えるとしよう。

 すでにご存知の通り、光と闇は魂の状態である。暗黒界に住む者が光を叫び求める時、それは魂の状態がそこの環境とそぐわなくなったことを意味する。そこで吾等は使者を派遣して手引きさせる。が、その方角は原則として本人の希望に任せる。

つまり、いきなり光明界へ連れてくることはしない。そのようなことをすれば却って苦痛を覚え、目が眩み、何も見えぬことになる。

そうではなく暗黒の度合いの薄れた世界、魂の耐えうる程度の光によって明るさを増した世界へ案内され、そこで更に光明を叫び求めるようになるまで留まることになる。

 暗黒地帯を後にして薄明の世界へ辿りついた当初は、以前に較べて大いなる安らぎと安楽さを味わう。その環境が魂の内的発達程度に調和しているからである。が、

尚も善への向上心が発達し続けると、その環境にも調和しない時期が到来し、不快感が募り、ついには苦痛さえ覚えるに至る。やがて自分で自分がどうにもならぬまま絶望に近い状態に陥り、自力の限界ぎりぎりまで至った時に、再び叫び声を上げる。

それに応えて神の使者が訪れ、更に一段階光明界に近い地域へと案内する。そこはもはや暗黒の世界ではなく薄明の世界である。かくて彼はついに光が光として見える世界へ辿り着く。それより先の向上の道にはもはや苦痛も苦悩も伴わない。喜びから更に大きな喜びへ、栄光から大いなる栄光へと進むのである。

 ああ、しかし、真の光明界へ辿り着くまでにいかに長き年月を要することか。苦悶と悲痛の歳月である。そしてその間に絶え間なく思い知らされることは、己れの魂が浄化しない限り再会を待ち望む顔馴染みの住む世界へは至れず、愛なき暗黒の大陸をとぼとぼと歩まねばならないということである。

 が、私の用いる言葉の意味を取り違えてはならない。怒れる神の復讐などは断じてない。「神は吾らの父なり」、しかして「父は愛なり」(ヨハネ)その過程で味わう悲しみは必然的なものであり、種子蒔きと刈入れを司る因果律によって定められるのである。

吾々の界──驚異的にして素晴らしいものを数多く見聞きできるこの界においてすら、まだその因果律の謎を知り尽くしたとは言えない。

全ての摂理が〝愛〟に発するものであることは、地上時代とは異なり、今の吾々には痛いほどよく解る。曽てはただ信ずるのみであったことを今は心行くまで得心することが出来ることも、憚(はばか)ることなく断言できる。が、因果律というこの厳粛なる謎については、まだまだ未知なるものがある。

が、吾々はそれが少しずつ明かされていくのを待つことで満足している。それというのも、吾々は万事が神の叡智によって佳きに計られていることを信ずるに足るだけのものを既に悟っているからである。

それは暗黒界の者さえいつの日か悟ることであろう。そして彼らがこの偉大にして美わしき光の世界へと向上進化して来てくれることが吾々にとっての何よりの慰めであり、また是非そうあらしむべく吾らが手引きしてやらねばならない。

そしてその暁には万事が有るがままにて公正であるのみならず、それが愛と叡智に発するものであることを認め、そして満足することであろう。

 吾々はそう理解しているのであり、そのことだけは確信を持って言える。そして私もその救済に当たる神の使者の一人なのである。

私が気づいていることは、かの恐ろしき暗黒の淵から這い上がって来た人たちの神への讃仰と祝福の念を、その体験の無い吾々のそれと比較する時、そこに愛の念の欠如が見られないことである。些かも見られぬのである。

と言うのも、正直に明かせば、彼らと共に天界の玉座の光の前にひれ伏して神への祈りを捧げた折のことであるが、彼らの祈りの中に私の祈りに欠けている何ものかがあることに気づいたのである。

そこで思わず、私もそれにあやかりたいとものと望みをかけて、ようやく思い止まったことでああった。

 それは許されぬことであろう。そして神はその愛ゆえに、吾々の内にあるものを嘉納されるに相違ない。それにしても、かのキリストの言葉は実に美わしく、愛がその美しさを赤裸々に見せる吾々の界において如実にその真実味を味わうのである。

 神はその愛の中にて人間と交わりを保つ。神の優しき抱擁に身を任せ、その御胸に憩いを求める時、何一つ恐れるものはない。 ♰           
                                                        
  
 
  3 種の起源    
 一九一三年十一月二五日  火曜日

 人間に少しでも信仰心があれば、こうして貴殿の精神と手を使って書き記したものを理解することが出来るであろうが、残念ながら物事の霊的真相を探り、それを真実であると得心しうる者は多くは見当たらない。これまでの永い人類の歴史においてそうであり、これからの遠き未来までもそうであろう。

それは事実であるが、更にその先へ目をやれば、吾々の目には遠い遠い未来において人間世界が今日より遥かに強い光の中を歩みつつあるのが見える。

その時代においては吾々と人間とがいかに身近な関係にあるかについて、書物の中のみならず実際の日常生活の中において理解し得心することであろう。

差し当たっては、警戒と期待のうちに吾々の力の及ぶかぎりの努力をし、たとえ吾々の望み通りの協調関係が得られず、無念の思いを断ち切ることが出来ずとも、一歩一歩と理想の関係に近づきつつあり、万事が佳きに計られているとの確信を抱くのである。

 さて現在の貴殿との仕事のことであるが、吾々としては成るべくならば物事が活撥に進行しているこの〝昼〟の時代に多いに進行させたい。何となれば〝夜〟 の時代が到来すれば貴殿は明日の時代を思うであろうが、その明日はもはや今日とは異なる。

いろいろと可能性を秘めてはいても今と同じほどのことが出来るとは限らない。故に現在のこの良い条件の整っている時期に出来るかぎりのことをしようではないか。そうすれば吾々二人により広き界層が開かれた暁に、更に良い仕事が為し得ることになろう。

 人間が理解している科学は吾々の理解している科学と軌を一にするものではない。何となれば吾らは霊的根源へ向けて深く探求の手を伸ばすからである。地上の科学は今やっと霊的根源を考慮しはじめたばかりである。

吾々は互いにようやく近づきつつあるわけである。と言うよりは、地上の現象の意味を探る者の中に、吾々の手引きによって、より高くそしてより深い意味へと近づきつつある者がいると述べた方が正しかろう。

 このことを吾々は有難きことと思う。そしてそのことがこれまでの道を更に自信を持って歩ませてくれる。吾々は人間がきっと付いてきてくれるとの確信を持っており、それだけに賢明にそして巧妙に手引きせねばならないのである。

 さて私はこれより、人間が〝種の起源〟と呼んでいるところのものについて、その霊的な側面を少しばかり説いてみたいと思う。が、結論から申せば、動物的生命の創造の起源は物質界にあらずして吾々の天界に存在する。

こちらへ来て吾々が学んだことは、宇宙が今日の如き形態の構成へ向けて進化の道を歩み始めた時、その監督と実践とを受け持つ高き神霊が更に高き神霊界より造化の方針を授かり、その方針に基いて彼らなりの知恵を働かせたということである。

 その時点においては未だ天界には物的表現としての生命の形態と知能の程度に多様性があったと想像される。そして結果的にはその発達を担当すべく任命された神霊の個性と種別を反映させていくことに決定が下された。

そしてその決定に沿って神の指示が発せられた。なぜかと言えば、計画が完了した時、総体的にはそれで結構であるとの神の同意が啓示されたのであって、その時点ですでに完璧ということではなかったのである。

ともかくも宇宙神が認可を下され、更に各神霊がそれぞれの才覚と能力に従って神の意志を反映させていく自由を保証されたということである。

 かくして動物、植物、鉱物のさまざまな種と序列、そして人類の種族と民族的性格とが生まれた。そしていよいよ造化が着手された時、宇宙神は改めて全面的是認を与えた。聖書風に言えば神がそれを〝なかなか結構である〟と仰せられたのである。

 が、造化に直接携わる神霊はいかに霊格が高いとはいえ全知全能の絶対神には劣る。そして宇宙の経綸の仕事はあまりに大きく、あまりに広いが故に僅かな不完全さが造化の進展に伴って大きくなって行った。

それが単純な知能、特に人間の如き低い階層の知能には事さらに莫大にそして巨大に見えたのである。何となれば、小さくそして未発達な知性には善と悪とを等しく見ることが出来ず、むしろ邪悪の方が目に止まりやすく、善なるものが余りに高尚にそして立派に思えて、その意義と威力を掴みかねるのである。

 が、人間が次のことを念頭に置けば、その不完全さの中にも驚異と叡智とが渾然として存在することが容易に納得がいくことであろう。それはこういうことである。海は海洋動物だけのために造られたのではない。空は鳥たちだけのために造られたのではない。

それと同じで、宇宙は人間だけのために創造されたのではないということである。人間は海にも空にも侵入し、そこをわが王国のように使用している。それは一向に構わない。


魚や鳥たちのものと決まってはいないからである。より強力な存在が支配するのは自然の理であり、地上では人間がそれである。人間は自他共に認める地上の王者であり、地上を支配する。神がそう位置付けたのである。

 が、宇宙には人間より更に偉大な存在がいる。そして人間がその能力と人間性の発達のために下等動物や植物を利用する如く、さらに偉大なる存在が人間を使用する。

 これは自然であり且つ賢明でもある。何となれば大天使も小天使も、更にその配下のもろもろの神霊も所詮は絶対神の配下にあり、常に発達と修養を必要としている点は人間と同じだからである。

その修養の手段と中身は、人間との霊格の差に応じて、人間が必要とするものとは本質と崇高性において自ずと差がなければなるまい。人間であろうと天使であろうと、内部に宿す霊力に応じて環境が定まり構成されていく点は同じなのである。

  人間はその点をよく銘記し、忘れぬようにしなければならない。そうすれば自由意志という生得の権利の有難さを一層深く理解することであろう。これは天界のいかなる神霊といえども奪うことは出来ない。かりに出来るとしても敢えて奪おうとはしないであろう。

なぜなら、自由意志を持たぬ人間では質的に下等な存在に成り下がり、向上進化の可能性を失うことになるからである。

 さて、こうした教説を読んで、これでは人間は上級界の神霊が己れの利益のために使う道具に過ぎないのではないかと思う者もいるであろう。が、その考えは誤りである。その理由は今述べたことにある。


すなわち人間は自由意志を持つ存在であり、これより先も常にそうあらねばならぬということである。

 それのみではない。上級界において神に仕える者を鼓舞する一大霊力が〝愛〟であるということもその理由である。彼らを血も涙もなき暴君と思ってはならない。

威力というものを圧力と並べて考えるのは地上での話である。天界に在っては威力は愛の推進力のことであり、威力ある者はその生み出す愛も強力となるのである。

 更に申せば、悪との戦いの熾烈にして深刻な者には、その試練を経た暁に栄光と高き地位(くらい)とが約束されていることを教えてやるがよい。

何となれば、その闘いの中にこそ、人類が天界の政庁における会議への参列を許され、造化の仕事の一翼を担い、開闢(かいびゃく)頭初に定められた方針に沿って全宇宙の救済の大事業に参加する資格の確かな証しが秘められているからである。

その仕事は勇気ある人間ならば喜び勇んで取り組むことであろう。何となれば、その者は次のことくらいは理解するであろうからである。

すなわちその者は高き神霊が天界において携わるのとまさに同じ仕事に、この地上において、そしてその者なりの程度において携わっているということである。そうと知ればさぞ心躍ることであろうし、意を強くすることであろう。

 更に又、その者の仕事は吾々の仕事と一つであり、吾らの仕事がすなわちその者の仕事であることを知り、互いに唯一の目的すなわち地上の全生命、全存在の向上へ向けて奮闘していることを知れば、イザという時に思慮深く適度な謙虚さと素直な信頼心を持って援助を求めれば、吾々はすぐにそれに応ずる用意があることに理解がいくことであろう。

吾々はそういう人間──悪との闘争の味方であり宇宙の最前線における同志──を援助することに最大の喜びを覚えるからである。

 この真理の大道を惜しくも踏み外せる者たちのその後の見るも哀れな苦しみは、吾々が貴殿より多く見ている。が、吾らは絶望はしない。この仕事の意義と目的とが貴殿たちより鮮明に見えるからである。

その視野から眺めるに、人間も何時の日かそれぞれの時を得てこの高き霊界へと至り、恵まれた環境の中にて更に向上し続けることであろう。

その時はその者たちも修身の道具として今吾々が使用している人材──その者たちが今その立場にあるのだが──を使用することになるであろう。その時は他の人間が現在のその者たちの立場にあり、その者たちが指導霊の立場にまわることであろう。

 キリストはかく述べている──〝悪に勝てる者はわが座位(くらい)に列することを許さん。わが勝利の時、父と共にその座位に列したる如くに〟(黙示録3)と。心するがよい。神の王国は強き者のものであるぞ。首尾よく悪を征服せる者にして始めてその地位を与えられるであろう。

 以上である。この度はこれにて終わりとする。が、これはこの程度のメッセージにてはとても尽くせぬ大きな問題である。神の許しがあれば、いつか再び取り上げるとしよう。

 では健闘と無事を祈る。強くあれ。その強さの中より優しさがにじみ出ることであろう。吾々の界においては最も強い者こそ最も優しくそして愛らしさに満ちているものである。

このことを篤と銘記されたい、そうすれば人間を惑わす数々の問題が自ずと解けることであろう。躓(つまず)くことのなきよう、神の御光が常に貴殿の足元を照らし給わんことを祈る。 ♰

シルバーバーチの教え(下)

 Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)



22章 シルバーバーチ、子供と語る


〔本章では、今まで見たことのないシルバーバーチの意外な一面を紹介しよう。読者にとってこれまでのシルバーバーチは、教えを説く霊、慰めと励ましを与えてくれる霊、そして人工のドグマに対して容赦のない批判を浴びせる霊といった印象が強いであろう。だがこの章では、シルバーバーチは二人の子供に対して優しさと素朴さを持って語りかけている。交霊会はまず、開会の祈り(インボケーション)から始まった。例の大審議会が催されるクリスマスも間近い頃のことであった。〕


「あゝ、大霊よ。どうか私たちが幼子のような素直な心であなたに近づき、霊的真理を学ぶことができますように。その霊的真理は、愛と叡智にあふれた親なるあなたを信頼する者にのみ啓示されるものでございます。あなたが完全なる愛と叡智と優しさの方であることを知り、何ひとつ恐れることなく近づくことができますように……」

そう祈ってから、八歳になる姉のルースと、六歳になる弟のポールを左右の膝の上(もちろん見た目にはバーバネルの膝の上)に座らせて、二人の顔に自分の顔をすり寄せながら、こう語った。


「今日は二人のために本物の妖精を何人か連れてきました。今夜は二人が寝ている間ずっと、その妖精たちが見守ることになっています。今夜はあなた方にもその姿が見えるようにしてあげましょう。絵本に描かれている妖精ではありません。妖精の国からやって来た本物の妖精です。今夜は大人たち(サークルのメンバー)とは話をしないことにします。この部屋には二人以外は誰もいないことにして会を進めるつもりです。私はよく二人と遊ぶために、そばに来ているのですよ。ウィグワムまで持って……」

ポール「ウィグワムって何ですか。」


「テントのことです。私がインディアンとして地上で生活していたときには、ウィグワムの中で暮らしていました。」

ルース「シルバーバーチさんはきれいな声をしていますね。とてもはっきり聞こえます。」


「これは私自身の声で、この霊媒の声ではありませんよ。特別に(声帯を)つくっているのです。」

ルース「霊界ではどのようにして話をするのですか。」


「こちらでは話すということはしません。お互いが思ったことを翼に乗せて送るのです。それは、あっという間に空間を飛んでいきます。返事も同じようにして届けられますから、言葉は要らないのです。心の中に美しい絵を描いて、それを瞬時に送ることもできます。こちらにはあなたが住んでいる世界より、もっと多くの美しいものがあります。樹木や花や鳥、小川もあります。美しい絵が欲しいと思うだけで、すぐにそれをつくることもできます。必要なものは何でもつくれるのです。」

続いてルースは、普通だったら苦しみながら死んでいくはずだった隣の人が、シルバーバーチとその霊団のお蔭で安らかに息を引き取った話を持ち出した。そして霊界でも面倒をみてあげてほしいと頼み、あとに遺された二人の子供のことも大霊が世話をしてくれたら嬉しいと言った。するとシルバーバーチは、亡くなった人のことはすでに面倒をみており、二人の子供についてもちゃんと世話をします、と答えた。

ポール「(亡くなった)あの人は、シルバーバーチさんのような立派な霊になれるでしょうか。」


「はい、なれますよ。けれど、時間がかかります。二、三百年くらいでしょうか。」

ルース「ずいぶんかかるんですね。」


「そんなに長く感じますか。慣れれば長く感じなくなりますよ。」

ルース「シルバーバーチさんは生まれて何年になりますか。」


「そろそろ三千年になります。でも、まだまだ若いですよ。」

ルース「三千年では若いとは言えないですね。死んだらみんな霊になるのですか。」


「人間は皆、大きな霊に成長しつつある小さな霊なのです。」

ポール「でも、僕たちはシルバーバーチさんと同じではないでしょう?」


「私もあなた方も皆、大霊の子供であるという点では同じです。それぞれが大霊の小さな一部なのです。その一人ひとりがつながっていますから、私たちは一つの霊的家族ということになります。」

ポール「そうすると、神というのはすごく大きいでしょうね?」


「この広い世界と同じくらい大きいですよ。目には見えませんが……」

ポール「神が大霊をつくったのですか。」


「そうではありません。神というのは大霊のことです。大霊は、いつどこにでも存在しています。」

ルース「大霊は、この地球を訪れることもあるのですか。」


「ありますとも。赤ちゃんが生まれるたびに訪れています。大霊はご自分の一部を、その赤ちゃんに宿すのです。」

続けて子供たちが「霊の存在を信じてよかった」と言うと、シルバーバーチは「二人はとても幸せです。死んでこちらの世界へ来た人たちに守られているのですから」と答えた。

ルース「そちらの世界は地球よりも広いのですか。」


「ええ、広いですとも。ずっと、ずっと広くて、しかも、そちらにないものがたくさんあります。美しい色、素晴らしい音楽、大きな樹木、花、鳥、動物、何でもあります。」

ポール「動物もいるのですか。」


「いますとも。でも怖くはありませんよ。」

ポール「シルバーバーチさんは、地上にいたときのように動物を殺したりしないでしょう?」


「どんな生き物も決して殺したりなんかしません。」

ポール「お腹(なか)はすかないのですか。」


「はい、お腹はすきません。私たちのまわりには生命のエネルギーがあふれていて、疲れを感じたらそれを吸い込めばいいのです。ポールくんは夜、ベッドの横に立って深呼吸をしますね。そのときポールくんは生命のエネルギーも吸い込んでいるのです。」

このあと二人は、自分たちは霊界での生活を思い出せないけれど、それは今回が初めての地上生活だからではないかとの考えを口にした。それからルースが尋ねた。

ルース「人間は何回くらい生まれ変わるのですか。」


「ネコと同じくらいですよ。ネコは九回生まれ変わると言われているのを知っているでしょう?」

ポール「ネコはそのあと何か他のものに生まれ変わるのですか。」


「いいえ、ネコはネコのままです。ですが、もっときれいなネコになります。ポールくんのような人間の子供も、霊界での生活が長くなるほどきれいになっていきます。霊界というところは、醜さも、残酷さも、暗闇も、恐怖もない世界です。いつも太陽の光に包まれている世界なのです。」

この言葉にポールは当惑し、「雨がまったく降らないなら、地上だったら生き物はみんな死んでしまう」と言った。するとシルバーバーチが答えた。


「地球は小さな世界で、生命の出発点にすぎません。他にも大霊の子供たちが生活している星はたくさんあります。」

これを聞いてルースが「サイキック・ニューズ紙には『すべての世界は一つ』と書いてあります」と言い、八歳にしては博学なところを見せて大人たちを驚かせた。


「その通りです。宇宙には数えきれないほどの世界があり、そこには大勢の子供たちが住んでいます。皆、大霊の子供です。すべての子供たちに大霊が宿っているのです。」

ルース「こんなに話をして、シルバーバーチさんは疲れませんか。」


「いいえ、私はもっと話ができますよ。」

ルース「私にも霊の目があるなら、いつからその目が見えるようになるのでしょうか。」


「あなたには、霊の目もありますし、霊の耳も、霊の手も指も足もあります。あなた方は肉体だけでなく、霊の身体も持っています。本当は今でも、霊の目で見ることができるのです。ただ、肉体を持っている間は、霊の目で見たものを覚えていることはできません。でも少しずつ、見たり触れたりしたものを覚えていることができるようになります。」

ルース「私の霊の目は大きくなっていきますか。」


「そういうことではありません。霊の目の大きさは変わりませんが、ずっと遠くまで見ることができます。」

ポール「地球の果てまで見えるのですか。」


「望遠鏡みたいなものです。遠くにあるものが、すぐ近くに見えるのです。」

ポールが急に話題を変えて、「また戦争が起きるのですか」と尋ねた。


「小さい戦争は、いつもどこかで起きています。でも、ポールくんはそんなことを心配する必要はありません。平和のことだけを考え、その思いをポールくんの小さな胸の中から広い世界へと送り出すのです。そうすれば、世界中の人々がその思いに触れて平和への願いをふくらませるようになり、戦争を遠ざけるための力になるのです。」

ルース「シルバーバーチさんとちゃんと会えるようになるのはいつですか。」


「もう少し時間がかかります。今でもよく会っているのですが、覚えていないだけです。二人が寝入ると、私はあなた方の霊の手を取って霊界へ連れていくことがあります。あなた方はベッドで眠っている肉体を離れて、私と一緒に霊界で素敵な冒険をします。しかし肉体に戻ると、そのことを忘れてしまうのです。“変な夢を見た”と思うだけです。」

ルース「私はどこへ行っていたのか覚えていません。」

ポール「僕はまったく夢を見ないときがあります。」


「本当は夢を見ているのですが、思い出せないのです。」

ルース「シルバーバーチさんも霊界へ帰ると、地上の体験を忘れてしまうのですか。」


「忘れることもあります。あなた方も霊界での生活が長くなると、地上のことを思い出すのが難しくなります。」

ポールが突然、話題を変えて尋ねた。

ポール「人間はなぜ動物を殺すのか分かりません。」


「それは、動物を殺すのは悪いことだということが、まだ分からないからです。」

ルース「殺して食べるために動物を飼っている人もいます。」


「あなた方は、動物を食べないような生活をしてください。」

ポール「動物を殺して食べるのは残酷です。」


「どんな生き物でも殺すことは間違いです。決して殺してはいけません。」

ルース「霊界というのは素敵なところなのでしょうね。」


「それはそれは素敵なところです。醜さや暗さや惨めさが、まったくない世界です。美しいもの、輝くようなものばかりです。」

ここでルースが改めてシルバーバーチの声が素敵だと言うと、ポールも相づちを打って、ちょっと珍しい声だと言った。そして二人が、みんな声が違うのはいいことで、もし同じだったら面白くない、などと語り合っていると、シルバーバーチが割って入って、「みんな違うようでいて、大霊の子供という点では同じです。ただ、小さな身体に大きな霊を宿している人もいれば、大きな身体に小さな霊を宿している人もいます」と言った。

それを聞いて、すかさずポールが尋ねた。

ポール「霊界にも小人がいますか。」


「地上で小人だった人も、霊界では普通の大きさになります。」

ルース「指導霊というのは皆、シルバーバーチさんと同じような人ばかりですか。」

するとシルバーバーチが二人に「少し離れた所から見ていなさい」と言った。二人が離れた所でシルバーバーチの顔(入神状態のバーバネルの顔)を見ていると、その顔がしだいに変形して、それまでとは全く違う容貌になった。面長で、あごが尖った顔になっていた。その間、ルースの目にはバーバネルの顔が輝いているのが見えた。

その現象が終わると、二人は再びシルバーバーチの膝に座った。そしてポールは恥ずかしそうにシルバーバーチに頬をすり寄せ、「私はあなたが大好きです」と言った。するとシルバーバーチはしみじみと、「大霊というのは、今のポールくんと私との間にあるような愛に満ちた方なのです」と言った。ルースが、「私は一生、霊がいることを信じていたいと思います」と言うと、シルバーバーチは「きっと信じ続けることができるでしょう」と答えた。

ここでポールが、最初に話題にのぼった妖精について尋ねた。

ポール「今日、シルバーバーチさんが連れてきた妖精はみんな同じ色をしているのですか。」


「いいえ、緑色をした妖精もいれば、黄色や青色の妖精もいます。二人が見たこともない色の妖精もいますよ。今夜ベッドに入ってから、妖精が見えるかどうか試してごらんなさい。今夜は二人が寝ている間、ずっと一緒にいてくれます。あなた方を見守るように言ってありますから……」

そう言ってから、シルバーバーチは続けた。


「お別れする前に言っておきたいことがあります。もうすぐ私はこの地球を離れて、クリスマスの時に高級霊界で開かれる大きな集会に出席します。そこには世界中で私と同じような仕事をしている指導霊が大勢集まります。そして子供たちが大好きな、あの“イエス”と呼ばれている方から、一人ひとりお言葉を賜るのです。」

そこまで語ったときポールが尋ねた。

ポール「天国というのは空の高い所にあるのですか。」


「いいえ、そうではありません。天国はポールくんのまわりにあるのです。ただし、望遠鏡や肉眼では見えません。」

そう答えてからシルバーバーチは先ほどの話に戻り、次のように続けた。


「私はクリスマスの直前に地球を離れ、イエスさまにお会いします。そのとき私はイエスさまに、地球にはルースという女の子とポールという男の子がいることを告げ、二人の愛の心を伝えるつもりです。霊媒を地上に残して集会に出席した指導霊たちは、一段と霊格の高い霊たちから仕事の進展状況についての報告を受け、助言をいただきます。そうして私たちは、新たな計画とさらなる叡智、そして大きな愛と信念を携えて、それぞれの仕事を続けるために地上へ戻ってまいります。」

そこでポールが「叡智って何ですか」と尋ねると、シルバーバーチはその質問を予期していたかのように、「それはポールくんが知っているようなことです」と答えた。

偉大なる霊と二人の幼い子供との、自由で親密で微笑ましい対話に大人たちが聞き入っているうちに、その日の交霊会も終わりが近づいてきた。そこでシルバーバーチが二人の子供の頭に手を置いて、閉会の祈り(ベネディクション)を述べた。


「愛と叡智と美と真実なる大霊の名において、子供たちを祝福いたします。願わくば、今、純真さゆえに天国にいるこの子供たちが、人生の最後までその心を失うことがないように祈ります。二人を包んでいる霊力にこれからも素直に反応し、大霊の良き道具となることができますように……」

これを聞いてルースが尋ねた。

ルース「天国は、どこにあるのですか。」


「天国は、人間が幸せな気持ちでいるときに、その人の心の中にあるのです。」

ルース「悲しんでいるときは、心の中に天国はないのですね。」


「悲しむ必要なんかないでしょう。あなた方が望むなら、いつでも天国にいることができるのです。私はいつも二人の傍(そば)にいて、力になってあげます。もし悲しくなったら、私を呼びなさい。すぐに来てあなた方の涙を拭き、笑顔を取り戻させてあげましょう。」

ルース「シルバーバーチさんは、本当に優しい方ですね。」

このルースの言葉に、シルバーバーチからの返事はなかった。すでに霊媒の身体を離れていたからである。

Friday, July 24, 2026

シルバーバーチの教え(下)

 Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)




21章 青年牧師との論争

〔ある時、キリスト教メソジスト派の年次総会がウェストミンスター寺院のセントラルホールで開かれ、報告や活発な討論がなされた。その合間に牧師たちの会話の中で、スピリチュアリズムのことがしきりにささやかれた。


そこに参加していてスピリチュアリズムに関心を抱いた一人の青年牧師が、ハンネン・スワッファーのもとを訪れ「交霊会というものに一度出席させてもらえませんか」と頼んだ。知的な風貌の好青年で、人徳を備えていることが一目で分かる。が、スピリチュアリズムに対する予備知識としては、コナン・ドイルの『The New Revelation』を読んだだけだと言う。

スワッファーは次のように述べた。

「明晩の交霊会にご出席ください。その会ではシルバーバーチと名乗る霊が、入神した霊媒の口を借りてしゃべります。その霊と存分に議論なさるがよろしい。納得のいかないところがあれば反論し、分からないところは遠慮なく質問なさることです。その代わりあとで他所(よそ)へ行って、十分に議論をさせてもらえなかった、などと不平を言わないでいただきたい。聞きたいことは何でも質問なさってけっこうです。その会の記録はいずれ活字になって発行されるでしょうが、お名前は出さないことにしましょう。そうすればケンカになる気遣いも要らないでしょう。もっとも、あなたの方からケンカを売るなら別ですが……」

翌日、約束通りその牧師が訪れた。そして、いつものようにシルバーバーチの祈りの言葉で交霊会が始まった。〕


訳注――その日の招待客についてはシルバーバーチは知っているが、霊媒のバーバネルは知らない、というよりは、意図的に知らせないことにしていた。予備知識があるとその想念が霊言の邪魔になることがあることを経験で知っていたからである。

バーバネルはグラス一杯の水を飲んでからメガネを外し、瞑目する。やがていびきのような息づかいとなり、容貌が変化して、例の肖像画で見るインディアンに似てくる。何やらもぐもぐと独り言をつぶやいた後、「用意ができました。始めてよろしいでしょうか」と言うと、列席者たちが口々に「ようこそお出でくださいました」と言う。そしてインボケーションという、会の成功を祈る言葉で開会となる。


「大霊のインスピレーションが皆さん方すべてに宿り、大霊の御心(みこころ)に応えることができますように。皆さん方一人ひとりが、大霊の一部であることを感じ取ることができますように。そして、どこへ行くときも大霊の御心を携え、接するすべての人々にそれを身をもって示すことができるように祈ります。」

以下は、その牧師とシルバーバーチとの議論である。まず、シルバーバーチの方から牧師にこう語りかけた。


「この霊媒(バーバネル)には、あなた方の言う“聖霊の力”がみなぎっています。その力がこうして語らせてくれるのです。私はあなた方の言う“復活した霊”の一人です。」

青年牧師との議論は、次の質問から始まった。

牧師「死後の世界とは、どういうところですか。」


「あなた方の世界と実によく似ています。ただし、こちらは結果の世界で、そちらは原因の世界です。」


訳注――宇宙の創造過程から言えば霊界が原因の世界で地上は結果の世界であるが、ここではシルバーバーチは因果律の観点から述べており、地上で蒔いた種は死後に刈り取るという意味。

牧師「死に際して恐怖感はありましたか。」


「いいえ、ありません。私たちインディアンは霊感が発達していて、死が恐ろしいものではないことを知っていました。あなたが属しておられる宗派の創始者ウェスレーも同じです。あの方も霊の力に動かされておりました。そのことはご存じですね?」


訳注――メソジスト派というのはジョン・ウェスレーという牧師が主唱し、弟のチャールズとともに一七九五年に国教会から独立して創立したキリスト教の一派で、ニュー・メソッド、つまり新しい方式を提唱したことから「メソジスト」という名称がある。ウェスレーの屋敷では不思議な霊現象がひんぱんに起きたことが有名で、「霊の力に動かされていた」というのは霊感が鋭かったという意味である。

なお、シルバーバーチは霊界の霊媒であるインディアンの立場に立って「私」とか「私たち」という言い方をしているが、本来のシルバーバーチは三千年前に地上生活を送ったことがあるということ以外、地上時代の氏名も国籍も民族も分かっていない。そういうことにこだわるのは人間の悪趣味として、六十年間、ついに明かさなかった。

牧師「はい、知っています。」


「しかし、現在の聖職者は霊の力に動かされてはおりません。すべては大霊の導きの中にあり、途切れることのない鎖で大霊とつながっています。あなた方の世界で最も低い人間も、高級界の天使とつながっています。どんなに悪い人間も、あなた方の言う神、すなわち大霊と結ばれているのです。」

牧師「死後の世界でも互いに認識し合えるのでしょうか。」


「地上ではどのようにして認識し合いますか。」

牧師「目です。目で見ます。」


「でも、あなたは肉体の目で見ているのではありません。心で見ているのです。」

牧師「はい、私は私の心で見ています。それは霊の一部だと思います。」


「私も霊で見ています。私にはあなたの霊も見えるし肉体も見えます。しかし肉体は影にすぎません。光源は霊です。」

牧師「地上での最大の罪は何でしょうか。」


「数多くの罪がありますが、最大の罪は神への反逆です。」

ここでメンバーの一人が、「それについて具体的に教えてあげてください」と言う。するとシルバーバーチは、「神の存在を知りながら、神の意思に背く生き方をすることです。それが最大の罪です」と付け加えた。

さらに別のメンバーが、「キリスト教ではそれを“聖霊に対する罪”と呼んでいます」と言うと、「例の本(バイブル)ではそう呼んでいますが、要するに霊に対する罪です」とシルバーバーチが答えた。

牧師「改訳聖書をどう思われますか。欽定訳聖書と比べて、どちらがよいと思われますか。」


「言葉はどうでもよろしい。いいですか、大切なのはあなたの行いです。大霊の真理は、バイブルだけでなく他のいろいろな本に示されています。どこであろうと、誰であろうと、大霊のために奉仕しようとする人の心には真理があるのです。それこそが最高のバイブル(神の教え)なのです。」

牧師「改心しないまま他界した人はどうなりますか。」


「改心とはどういう意味ですか。もっと分かりやすい言葉で言ってください。」

牧師「ある人は悪い行いをしたまま他界し、ある人は正しい生き方をしようと改心してから他界しました。この場合、両者には死後の世界でどのような違いが生じるのでしょうか。」


「あなた方の本(バイブル)から引用しましょう。蒔いた種は自分で刈り取るのです。これは変えることができません。あなたは、今のあなたをそのまま携えてこちらへまいります。自分で思っているようなあなたではなく、人に見てもらいたいと思っているあなたでもない、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへまいります。あなたもこちらの世界へお出でになれば、本当の自分について分かるようになります。」

そう述べてからシルバーバーチは、「この人には心眼がありますね」とスワッファーに言った。スワッファーが「霊能があるという意味ですか」と聞くと、「そうです。なぜ連れてきたのですか」と尋ねた。「いえ、彼の方から訪ねてきたのです」と答えると、「この方は着実に導かれています。少しずつ光明が示されることは間違いありません」と述べた。

それから牧師に向かって「インディアンがあなた方のバイブルのことをよく知っていて驚かれたでしょう?」と言うと、牧師は「本当によくご存じです」と答えた。するとメンバーの一人が、「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えした。牧師はすかさず年代を計算して「ダビデをご存じでしたか」と尋ねた。ダビデは紀元前一千年頃のイスラエルの王である。シルバーバーチが答えた。


「私は白人ではありません。レッド・インディアンです。米国北西部の山の中で暮らしていました。あなた方がおっしゃる野蛮人です。しかし、私はこれまで西洋人の世界に、三千年前の我々インディアンよりもはるかに多くの野蛮で残忍な行為と、無知とを見てきました。物質的な豊かさにおいて自分たちよりも劣る民族に対して今なお白人が行っている残虐行為は、神に対する最大の罪の一つと言えます。」


訳注――シルバーバーチがインディアンを霊界の霊媒として使用したことには、インディアンが霊的能力において発達しているからという理由とは別に、この一節に如実に表れているように、白人至上主義の思想と白人文化の愚かさを知らしめる意図が隠されている。

牧師「そちらへ行った人々は、どのようなことを感じるのでしょうか。強い後悔の念を抱くようなこともあるのでしょうか。」


「いちばん残念に思うのは、やるべきことをやらないで終わったことです。あなたもこちらへお出でになれば分かります。きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのに怠ったこと、そうしたことがすべて分かります。逃してしまったチャンスがいくつもあったことを知って後悔するのです。」

牧師「キリストヘの信仰をどう思われますか。神はそれを良しとなさるでしょうか。キリストへの信仰は、キリストの行いに倣(なら)うことだと思うのですが……」


「“主よ、主よ”と口にすることが信仰ではありません。大切なことは実際の行為であり、それがすべてです。何を語るか、何を信じるかは問題ではありません。もし、あなたが何ひとつ信仰というものを持っていなくても、落ち込んでいる人を励まし、飢えている人にパンを与え、暗闇の中にいる人の心に光を灯してあげるなら、神の御心に適う行いをしたことになるのです。」

ここで出席者の一人が「イエスは神の一部なのでしょうか」と尋ねると、シルバーバーチは次のように答えた。


「イエスは地上に降誕した偉大な指導者でした。しかし当時の民衆はイエスの教えに耳を傾けず、十字架にかけてしまいました。それどころか、今なお十字架にかけ続けています。すべての人間に神の分霊(神性)が宿っていますが、イエスは他の人々よりも、はるかに多くの神性を発揮しました。」

牧師「キリストが地上で最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それほどの人物が嘘を言うはずはありません。キリストは言いました――“私と父とは一つである。私を見た者は父を見たのである”と。この言葉は、キリストがすなわち神であることを述べたものではないでしょうか。」


「もう一度、バイブルを読み返してごらんなさい。“父は私よりも偉大である”と言っているでしょう。」

牧師「はい、言っています。」


「またイエスは、“天にまします我らが父に祈れ”と言っていないでしょうか。“私に祈れ”とは言っておりません。父に祈れと言ったイエス自身が、天にまします我らが父であるはずはないでしょう。“父に祈れ”と言ったのであって、“私に祈れ”とは言っておりません。」

牧師「キリストは“あなた方の神”と“私の神”という言い方をしています。“私たちの神”とは決して言っていません。ご自身を他の人間と同列には置いていません。」

それを聞いてシルバーバーチは、次のように繰り返した。


「イエスは、“あなた方の神と私”とは言っておりません。“あなた方は私よりも大きな仕事をするでしょう”と言っております。

あなた方クリスチャンは、バイブルを読む際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をしますが、それをやめないといけません。霊に照らして解釈しなくてはいけません。霊こそが、宇宙のすべての謎を解くカギなのです。イエスが譬え話を用いたのは、そのためです。」

牧師は、「神は地上世界を愛するがゆえに唯一の息子を授けた」という聖書の言葉を引用して、イエスが神の子であるとするキリスト教の教義を弁護しようとした。

するとシルバーバーチは、「イエスはそんなことは決して言っておりません。イエスの死後何年も経ってから、例のニケーア会議でそれがバイブルに書き加えられたのです」と述べた。

牧師「ニケーア会議?」

「西暦三二五年に開かれております」と、シルバーバーチは即座に答えた。

牧師「でも、私が今引用した言葉は、それ以前からある“ヨハネ福音書”に書かれています。」


「どうしてそれが分かりますか。」

牧師「歴史書にそう書いてありますが……」

「どの歴史書ですか」と、シルバーバーチは重ねて尋ねた。

牧師「はっきりとは言えません。」


「ご存じのはずはありません。バイブルというものが書かれるその元になった書物は、いったいどこにあると思いますか。」

牧師「“ヨハネ福音書”それ自体が原典です。」


「いいえ、それよりもっと前の話です。」

牧師「バイブルは西暦九十年に完成しました。」

「バイブルの原典となったものは、今どこにあると思いますか」と、シルバーバーチは迫った。

牧師は、「いろいろな文書があります」と言って、例として一つを挙げた。


「それらは原典の写しです。原典はどこにありますか。」

牧師がこれに答えられずにいると、シルバーバーチは次のように続けた。


「バイブルの原典は、ご存じのバチカン宮殿に仕まい込まれたまま一度も外に出されたことはありません。あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典のコピーのコピーの、そのまたコピーにすぎません。そのうえ、原典にないことまでいろいろと書き加えられています。

初期のキリスト教徒は、イエスがすぐに再臨すると信じていました。そのためイエスの地上生活の詳細について、誰も記録しませんでした。ところが、いつになっても再臨しないため、ついに諦めて記憶をたどりながら書き記すことになったのです。“イエス曰(いわ)く……”と書いてあっても、実際にイエスがそう言ったかどうかは分かりません。」

牧師「でも、四つの福音書にはその基礎となった、いわゆる“Q資料(イエス語録)”の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。主な出来事は、その四つの福音書に述べられていると思うのですが……」


「私は、そうした出来事がまったくなかったと言っているのではありません。ただ、バイブルの記述のすべてが、本当にイエスの言葉とは限らないと言っているのです。バイブルの中には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用がずいぶん入っていることを忘れてはなりません。」

牧師「記録に残っていない口伝(くでん)のイエス語録が出版されようとしていますが、どう思われますか。」


「イエスの関心事は、自分がどんなことを言ったかというようなことではなく、地上のすべての人間が神の御心を実践することです。人間はあまりにも教え(聖書の言葉)に関心を寄せ、行いを疎(おろそ)かにしています。“福音書”なるものの説教の場には、大霊の真理に飢えた人たちが集まっています。そうした人々にとって重要なことは、単なるイエスの言葉ではなく、その教えに基づくあなたの生き方です。あなた自身の生き方を、手本として示すことです。

地上世界は教えでは救われません。いくら長い教えを説いても、それだけでは救われません。大霊の子供たちが、親なる大霊の御心を鎧(よろい)として、暗黒と弾圧の勢力に戦いを挑むことです。魂を束縛するすべてのものに立ち向かうことによって初めて、地上世界は救われるのです。それが、記録に残されていないイエスの言葉よりも大切なことなのです。」

牧師「この世には、なぜ多くの苦しみがあるのでしょうか。」


「大霊の摂理は、苦しみを通してしか悟ることはできません。苦しみという厳しい試練を経て初めて、あなた方の世界を支配している大霊の摂理を理解することができるのです。」

牧師「苦しみがない人が大勢いるようですが……」


「あなたは神に仕える身です。大切なのは“霊”に関わることであって、“肉体”に関わることではないことを理解しなければなりません。霊の苦しみの方が肉体の苦痛よりも耐えがたいものです。」

メンバーの一人が「現行の制度は不公平であるように思います」と言うと、シルバーバーチは次のように答えた。


「地上人生で起きるすべてのことは、いつの日か必ず帳尻が合うようになっています。いつかは自分で天秤(てんびん)を手にして、バランスを調節する日がまいります。あなた方は、自分が蒔いた種を自分で刈り取るという自然法則から逃れることはできません。軽い罰で済んでいる人がいるかにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたは魂を見抜くことができないために、そう思うのです。

私が認めているのは大霊の法則だけです。人間の法律は認めていません。人間がつくった法律はいつかは改めなければなりませんが、大霊の法則には決してその必要はありません。地上に苦難がなければ、人間は正していくべきものへ注意を向けることができません。すべての苦しみや痛みや邪悪は、大霊の分霊であるあなた方人間が、いかにしてそれを克服していくかを学ぶためにあるのです。

もしも苦難を乗り越えるための努力を怠っているとしたら、あなた方を地上に誕生させた大霊の意図を理解していないことになります。宇宙の始まりから終わりまで、すべてを法則によって支配している大霊に従わずに、誰が文句を言うことができるでしょう。」

牧師が「霊の世界ではどんなことをなさっているのですか」と尋ねると、シルバーバーチはそれには答えず、「あなたはこの世でどんなことをしていますか」と問いかけた。すると牧師は「それは、その、いろいろな本を読んだり……、それによく説教もします」と口ごもって答えた。それに対してシルバーバーチは、「私もよく本を読みます。それに今は、こうして重要な説教をしています」と言った。

牧師「私は英国中を回らなくてはなりません。」


「私は霊の世界を回らなくてはなりません。私は、霊的な準備が何もなされないままこちらへ送り込まれてきた人間がいる暗黒界へも下りていかなければなりません。それにはずいぶん手間がかかります。あなたに自覚していただきたいのは、あなたはとても重要な立場に立っていらっしゃるということです。神に仕える身でありながら、本来の責務を果たしていない人たちがいます。彼らは教会の壇上から、まったく意味のない長たらしい説教をしています。

しかしあなたが、自らを神に委ね、神の貯蔵庫からインスピレーションを受けるために魂の扉を開くなら、あなたの魂は古(いにしえ)の預言者たちを鼓舞したのと同じ霊力によって満たされます。あなたはその仕事を通して、人生に落胆し、地上の片隅で疲れ果てている人々の心を明るく照らす光をもたらすことができるのです。」

牧師「そうであるなら嬉しいのですが……」


「いいえ、そうであるならではなくて、事実そうなのです。私はこちらの世界で、後悔している多くの牧師に会っています。彼らは地上人生を振り返り、自分が霊のメッセージを説いてこなかったこと、バイブルの言葉や教義だけにこだわって実践を疎かにしてきたことを後悔しているのです。彼らは、できればもう一度地上へ戻りたいと望んでいます。私は彼らに、地上にいるあなたのような人たちの心をいかにして鼓舞するかを示しています。そうした人たちに働きかけることによって、大霊の新しい真理が再び地上にもたらされるようになるからです。

あなたは、今まさに崩れつつある世界に身を置いていることを自覚しなければなりません。新しい秩序による世界、真の意味での天国が到来する時代の幕開けを見ているのです。その誕生には、痛みと苦しみと涙がともなうことでしょう。しかし最後には、大霊を中心とした世界が築かれるようになります。あなた方一人ひとりが、その新しい世界を招来する手助けができるのです。なぜならすべての人間は大霊の分霊であり、大霊の仕事の一翼を担うことができるからです。」

青年牧師にとって初めての交霊会も終わりに近づき、シルバーバーチはその場を去る(霊媒から離れる)前に次のように述べた。


「私は、あなたが説教をする教会へ一緒にまいります。あなたは、ご自分が本当に良い説教をしたとき、これが霊の力だと自覚なさるでしょう。」

牧師「私はこれまでも、大いなる霊力を授かるように祈ってまいりました。」

「あなたの祈りは、きっと叶えられるでしょう」とシルバーバーチは答えた。

以上で一回目の議論が終わり、改めて二回目の議論の機会がもうけられた。その内容を紹介する。

「地上の人間にとって、聖別された完璧な生活を送ることは可能でしょうか。すべての人間を愛することは可能なのでしょうか」――これが二回目の交霊会で、牧師が最初にした質問だった。


「いいえ、それは不可能なことです。しかし、そのように努力することはできます。すべての努力は、あなたの人間性を形成するうえで、とても重要です。決して怒ることもなく、敵意を持つこともなく、かんしゃくを起こすこともないなら、あなたはもはや人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的として地上に生まれてくるのです。成長また成長と、どこまでも成長の連続です。それは地上だけでなく、こちらへ来てからも同じです。」

牧師「イエスは“天の父が完全であるようにあなた方も完全であれ”と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか。」


「完全であるように努力しなさい、と言っているのです。それが地上で目指すべき理想であり、内部に宿る神性を発揮する生き方なのです。」

牧師「今引用した言葉はマタイ伝第五章の最後の一節です。イエスは普遍的な愛について述べたあとで、その一節を述べています。またイエスは“ある者は隣人(身近な人)を愛し、ある者は友人を愛するが、あなた方は完全であれ。神の子なればなり”とも言っております。神は全人類を愛してくださるのだから、私たちもすべての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じると思われますか。」

この質問に、シルバーバーチは驚いたように答えた。


「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさりたいのですね。お聞きしますが、イエスは、地上で完璧な人生を送ったと思いますか。」

牧師「はい、完璧な人生を送ったと思います。」


「一度も腹を立てたことはなかったとお考えですか。」

牧師「当時行われていたことには、うんざりしていたと思います。」


「一度も腹を立てたことはなかったと考えておられるのですか。」

牧師「腹を立てるのは悪いことである、という意味で怒ったことはないと思います。」


「そんなことを聞いているのではありません。私は、イエスが腹を立てたことは絶対になかったのか、と聞いているのです。イエスが腹を立てたことは正当だったかどうかを聞いているのではありません。あなた方(クリスチャン)は、何でも正当化なさるんですから……」

ここでメンバーの一人が、イエスが両替商人を教会堂から追い出したときの話を持ち出した。するとシルバーバーチが続けた。


「私が言いたかったのはそのことです。あのときイエスは、教会堂という神聖な場所を汚す人間に本当に腹を立てたのです。ムチを持って彼らを追い払ったのです。それは怒りそのものでした。私は、イエスの怒りが良いとか悪いとか言っているのではありません。イエスは怒ったのです。怒りは人間の激情です。私が言いたいのは、イエスも人間的性質(要素)を持っていたということです。あなた方がイエスを人間の模範として仰ぐとき、イエスもまた一人の人間であった――ただ普通の人間よりも大霊の意図をはるかに多く体現した人間だった、と考えなければなりません。分かりましたか。」

牧師「はい、分かりました。」


「私は、あなたのためを思って言っているのです。誰の手も届かないような高い所に祭り上げたら、イエスが喜ぶと思うのは間違いです。イエスもやはり我々と同じ人の子だったと見る方が、よほど喜ばれるはずです。自分だけが超然とした位(くらい)につくようなことは、望んではおられません。人類と共にあることを願っておられるのです。イエスは人間としての生き方の手本を示しているのであり、それは誰にでも実行できることなのです。イエスをそんなに高いところへ祭り上げてしまったなら、誰も付いていくことはできません。それではイエスの地上人生は無駄になってしまいます。」

話題が変わって――

牧師「人間には自由意志があるのでしょうか。」


「はい、あります。自由意志は大霊の摂理です。」

牧師「時として人間は、抑えようのない衝動によって行動することがあるとは思われませんか。そう強いられているのでしょうか。それともやはり自由意志で行っているのでしょうか。」


「あなたはどう思われますか。」

牧師「私は、人間はあくまでも自由意志を持った行為者だと考えます。」


「すべての人間に自由意志が与えられています。ただしそれは、大霊が定めた摂理の範囲内で行使しなければなりません。摂理は大霊の愛から造られたものであり、子供たちのすべてを平等に支配しています。それを変えることは誰にもできません。あなた方は、摂理の範囲内において自由であるということです。」

牧師「もし私たちが自由であるなら、罪は恐ろしいものです。悪いと知りつつ犯すことになりますから、強いられる場合よりも恐ろしいことに思えます。」


「私に言えることは、いかなる過ちも必ず正さなくてはならないということです。もし地上で正さなかったなら、こちらへ来てから正さなくてはなりません。」

牧師「道に外れたことをしがちな傾向を、先天的に強く持った人がいるとは思われませんか。善を行いやすい人間と、そうでない人間とがいます。」


「それは、とても難しい質問です。なぜなら、それぞれの人間に自由意志があるからです。あなた方は悪いことをするとき、内心ではそのことに気づいているものです。自分の良心を無視するか否かは、それまでに培ってきた人間性によります。罪は、それがもたらす害悪の程度に応じて重くも軽くもなります。」

これを聞いて牧師がすかさず反論した。

牧師「それは罪が精神的なものであるという事実と矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります。」


「罪は罪です。身体で犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、すべてが罪です。あなたは先ほど、人間は衝動的に罪を犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこからくると思いますか。」

牧師「思念からです。」


「思念はどこからきますか。」

少し躊躇(ちゅうちょ)してから、「善なる思念は神からきます」と牧師が答えた。


「では、悪なる思念はどこからきますか。」

牧師「分かりません。」


訳注――キリスト教では交霊会に出現する霊は皆、悪魔の手先であると決めつけているので、本来ならこの牧師も「悪魔からきます」と答えるところであるが、二度の体験ですでにそうでないことに気づいているので「分かりません」という返答になった。シルバーバーチは、キリスト教の最大の欠陥である善神と悪神の二元論の矛盾を厳しい語調で突いている。


「大霊は、すべてのものに宿っています。間違ったことにも正しいことにも宿っています。太陽の光にも嵐にも、美しいものにも醜いものにも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも宿っているのです。美しいものや善なるものだけでなく、罪や悪にも宿っているのです。

あなたは、大霊は限定できるようなものではないことをご存じでしょうか。全宇宙が大霊の創造物であり、あらゆる所にその霊が行きわたっているのです。どのようなものであれ、その一部を切り取って“これは大霊のものではない”と言うことはできません。太陽の光は神の恵みであって、作物を台なしにする雨は悪魔の仕業とは言えないのです。神は、すべてのものに宿っています。

あなた方は、思念を受け取ったり送ったりする道具のようなものです。しかし、どのような思念を受け取るかは、あなたの人間性と霊性によります。もしあなたが、あなたの言う“完全な人生”を歩んでいるなら、あなたは完全な思念だけを受け取ることになるでしょう。しかし、あなたも人間である以上、魂と精神の能力に応じてさまざまな思念を受け取っています。私の言っていることがお分かりですか。」

牧師「おっしゃる通りだと思います。では、悪事を行い善行を怠ってきた人間が、死に際になって自分の非を悟り、“信ぜよ、さらば救われん”の一句を受け入れ、キリストを信じると公言して安らぎを得ようとするのをどう思われますか。キリスト教の“回心の教義”をどう思われますか。」

シルバーバーチは即座に答えた。


「あなたもよくご存じの一節を、聖書の中から引用しましょう。“たとえ全世界をもうけても、自分の命を損したら何の得になろうか”“まず神の国と神の義とを求めよ。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう”――これは、あなた方がよくご存じの言葉ですが、果たしてその意味を理解していらっしゃるでしょうか。それが真実であること、その言葉通りになること、それが神の摂理であることを理解していらっしゃいますか。“神は侮(あなど)られるような方ではない。人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる”――これもよくご存じでしょう。

神の摂理は絶対にごまかせません。生涯、自分を人のために役立てるチャンスを無視してきた人間が、死に際の回心でたちまち立派な霊になれると思いますか。霊体にまで染み込んでいる悪行(罪)のすべてを、一瞬にしてかき消すことができると思いますか。大霊の目から見たとき、人生を大霊と人々のために送ってきた人間と、霊的義務を怠ってきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。“すみませんでした”の一言ですべての過ちが赦(ゆる)されるとしたら、神の摂理は公正と言えるでしょうか。いかがですか。」

牧師「私は、神はキリストを心の避難所にしたのだと思います。イエスは言いました……」

ここでシルバーバーチが遮(さえぎ)って言った。


「私はあなたの率直な意見をお聞きしているのです。聖書の言葉を引用しないで、率直に答えてください。イエスが何と言ったか、私には分かっています。あなた自身はどう思っているのですか。」

牧師「公正ではないと思います。しかし、そこに神の偉大なる愛があると思うのです。」


「この通りを行くと、人間の法律を管理している建物があります。もしその法律によって、生涯を善行に励んできた人間と罪を犯し続けてきた人間とが平等に扱われたなら、あなたはその法律を公正だと思いますか。」

牧師「私は、生涯まっすぐな道を歩み、すべての人を愛し、正直に生き、死ぬまでキリストを信じ続けた人のことなど言ってはいません。私は……」

ここでシルバーバーチが再び遮って言った。


「“自分が蒔いた種は、自分で刈り取る”――あなた方は、この摂理から逃れることはできません。神の摂理をごまかすことはできないのです。」

牧師「では、悪行のかぎりを尽くした人間が今まさに死にかけているとしたら、罪を償わなければならないことを、その人間にどう説いてやればよいのでしょうか。」


「もしもその人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿しているなら、それまでの過ちを正したいという気持ちになるはずです。ですから、その人にこう伝えてください。“自分の犯した過ちの報いから逃れたいという思いがあるなら、あなたは真の人間ではありません。ただの臆病者です”と。」

牧師「しかし、罪を告白するという勇気ある行為は、誰にでもできるというものではないと思いませんか。」


「それは正しい方向への第一歩にすぎません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は自由意志で、善ではなく悪をなす道を選んだのです。悪行が招いた結果から逃れることはできません。間違いは正さなければなりません。告白によって罪を消し去ることができると思うのは、自分に対するごまかしにすぎないのです。蒔いた種は自分で刈り取らなければなりません。それが神の摂理なのです。」

牧師「しかし、イエスは言っておられます――“重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう”と。」


「もしその人が“文字は人を殺し、霊は人を生かす”という言葉を知っていたなら、あなた方(聖職者)が聖書の言葉を引用して、これは文字通りに受け入れなければならないと説くことはできません。聖書の中には、あなた方が今日、実行していないことがいくらでもあるからです。私の言っていることがお分かりでしょう。」

牧師「イエスは“善い羊飼いは羊のために命を捨てる”と言いました。私は常に“赦し”の教えを説いています。キリストの赦しを受け入れ、キリストの力が自分の人生を支配していることを暗黙のうちに認めるなら、その人生は神に大きな愛を捧げることになると思うのです。」

ここでシルバーバーチは話を本題に戻した。


「神は人間に“理性”という神性の一部を植え付けられました。私はあなた方に、その理性を使ってほしいのです。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白することで心の安らぎは得られるかもしれませんが、“罪を犯した”という事実は変えられません。神の摂理に照らしてその歪(ゆが)みを正すまでは、罪はそのまま残っています。それが大霊の摂理なのです。イエスが語ったという言葉をいくらバイブルから引用しても、摂理を変えることは絶対にできません。

前にも言いましたが、バイブルの中にある言葉のすべてがイエスによって語られたものではなく、その多くは後世の人間が書き加えたものです。“イエスがこう語った”と言っても、あなた方がそう思っているだけのことです。私があなた方に知ってほしいのは、イエスをあの偉大な人物へと導いたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じ大霊の力が、今も働いているということです。もしあなた方が、大霊からもたらされるものを受け入れようと心を開くなら、それらを自分のものにすることができるのです。

あなた方は大霊の一部です。大霊の愛と力のすべて、深遠なる叡智と知識と真理のすべてが、あなた方を待っているのです。神を求めて二千年前まで遡(さかのぼ)る必要はありません。神は今、ここにおられるのです。イエスの時代における神と同じ神が、同じ力を持って今、ここに存在しておられるのです。

大霊の真理と霊力の通路となるべき道具(霊媒・霊能者)は、ほとんどいません。あなた方キリスト教徒はなぜ、二千年前のたった一人の人間に頼るのですか。神に仕えるあなた方はなぜ、イエスと同じインスピレーションを受けることができないのでしょうか。なぜ、イエスの言葉に戻ろうとされるのですか。」

牧師「私は、私の中にいるキリストの御業(みわざ)について説いています。インスピレーションを得ることは可能だと信じています。」


「あなた方はなぜ、全知全能の神を、イエスという一人の人間と一冊の書物に閉じ込めようとするのですか。大霊のすべてを、一人の人間、あるいは一冊の書物で表現できると考えているのですか。私はクリスチャンではありません。私は、イエスよりもはるか昔に地上に生を享けた者です。その私は、神の平安に包まれるという恩恵に浴することは許されなかったということでしょうか。

あなたは、神のすべてを一冊の書物のわずかなページで表現できると思いますか。その一冊の書物が完成したときを最後に、神は子供たちにインスピレーションを授けることをやめたと考えるのですか。バイブルの最後のページをめくったとき、神の霊力が終わったとでも言うのでしょうか。」

牧師「そうであって欲しくないと思っています。私は時おり、何かに鼓舞されるのを感じることがあります。」


「あなたもいつか、天におられる父のもとに帰り、今地上で磨きつつあるあなたに相応しい場所に住むことになります。神に仕えるあなたに分かっていただきたいのは、被造物のすべてに宿る神を、制約することはできないということです。悪徳の塊(かたまり)のような犯罪者であっても、地上で聖人と仰がれる人間と同じように神と結ばれているのです。

あなた方一人ひとりに大霊が宿っています。もしあなたが、内在する大霊を顕現させようとして心を開くなら、大霊はあなたを通じて霊力と啓示をもたらすことでしょう。それによってあなたのもとを訪れる人々の心に、大霊の光と安らぎが与えられることになるでしょう。」

牧師「今日まで残っている唯一のカレンダーがキリスト暦(西暦)であるという事実をどう思われますか。」


「誰がそんなことを言ったのでしょう。あなたは、ユダヤ民族のカレンダーについて聞いたことはないでしょうか。多くの国ではいまだに、その国の宗教の発生とともにできたカレンダーを使用しています。

私はイエスを軽んじるつもりはありません。今、イエスがなさっている仕事について知っていますし、ご自身は神として崇められることを望んでおられないことも知っています。イエスの人生の価値は、人間が模範とすべきその生き方にあります。イエスという一人の人間を崇拝することをやめないかぎり、キリスト教は神のインスピレーションに恵まれることはないでしょう。」

牧師「いつ、キリストの誕生日を西洋暦の始まりと決めたのか分からないのです。ご存じでしょうか。」


「そんなことよりも、私の話を聞いてください。数日前のことですが、このサークルのメンバーの一人が(イングランド)北部の町へ行き、大勢の神の子供たちとともに過ごしました。高い身分の人たちではありません。とても厳しい肉体労働で生計を立てている人たちです。彼らは炭鉱労働者で、仕事が終わるとわずかばかりの賃金をもらいます。彼らは、キリスト教文明の恥辱(ちじょく)ともいうべき貧民収容施設に住んでいます。

同じ町には、あなた方が“神の館”と呼んでいる大聖堂があります。それは高くそびえていますから、太陽が照ると貧しい人々が住む家はその影に入ってしまいます。大聖堂がなかったときよりも、ずっと暗くなってしまいます。これでよいと思われますか。」

牧師「私はそのダーラムにいたことがあります。」


「知っています。だからこそ、この話をしているのです。」

牧師「あのような施設で暮らさなければならない人たちのことを、とても気の毒に思っています。」


「そうした状況を、イエスが喜ばれると思いますか。あのような施設に住み、辛い労働を強いられ、わずかな賃金しか得られない人々がいる一方で、お金にまったく不自由しない人々がいるのです。それなのにイエスは、カレンダーのことなどに関わっていられると思いますか。あのような生活を余儀なくさせられている人が大勢いるというのに、どうでもいいカレンダーのことや大聖堂のための資金やバイブルのことに関わっていられるとでも思われますか。イエスの名を使用し続け、キリスト教国と呼ばれているこの国に、そんな恥ずべき事態の発生を許しているキリスト教というものを、あなた方クリスチャンはいったいどのように考えているのでしょうか。

先ほど教典のことで(改訳版と欽定訳版のどちらがよいかと)質問されましたが、宗教にはそんなことよりも、もっと重要な務めがあるはずです。神はその恩寵(おんちょう)を、すべての子らに分け与えたいと望んでおられることが分かりませんか。世界には飢えに苦しむ人がいる一方、彼らが生きていくために必要なものを捨てている人たちもいます。クリスチャンがこうしたことをしているのに、あなたはキリスト教を語ることができますか。

私は、あなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私はイエスが涙を流しておられるのを見たことがあります。多くのクリスチャンや聖職者たちが、教会の陰で進行している恥ずべき事態に目をつぶっているのをご覧になるからです。その日の糧にすら事欠く神の子が大勢いるというのに、神の館として建てた教会を宝石やステンドグラスで飾り、自慢しているのを見て、あなたはどうして満足することができるのでしょう。

一日の糧も十分に得られない人々のほとんどは、わずかな賃金を手にするために一日中働き続け、時には夜を徹して働いています。それなのに、疲れた身体を横たえるまともな場所もないのです。

あなたを非難しているのではありません。私はあなたを大きな愛で包んでいます。お役に立つなら、どんなことでもしてあげたいと思っています。私は霊界の人間です。あなたのように、間違いを改め、正しいことのために立ち上ってくれる人と語り合うチャンスは非常に少ないのです。

あなたに理解していただきたいのは、バイブルの言葉を云々するよりも、もっと大切なことがあるということです。“主よ、主よ”と叫ぶ者が敬虔(けいけん)なのではなく、神の意思を実践する者こそが敬虔なのです。それをイエスは二千年前に教えています。それなのにあなた方はなぜ、神の意思を実践することがいちばん大切であることを、人々に説けないのでしょうか。大切なのは何を信じるかではなく、何を為すかです。

戦争、不正行為、飢餓、貧困、失業――こうしたことを黙認しているかぎり、キリスト教は失敗であり、イエスを模範としていないことになります。

あなたは(メソジスト派の)総会から抜け出てこられました。過去一年間、メソジスト教会の三派が合同で行事を進めてきましたが、神の摂理に反している汚点を拭うために協力しないかぎり、そんなことをしても無意味です。私は率直に申し上げておきます。誤解されては困るからです。」

牧師「数年前に私たちは派閥を超えて慈善事業を行い、その収益金を失業者のために役立てました。大したことはできませんが、信者の数の割にはよくやっていると思われませんか。」


「私は、あなたが心がけの立派な方であることを認めています。そうでなかったら、こうしてあなたと再び語り合うために、地上へ戻ってくるようなことはいたしません。私は、あなたが奉仕(サービス)のための良き道具になれることを見抜いています。あなたの教会を訪れる人の数は、ほんのわずかです。イエスは社会の隅々まで足を運べと言わなかったでしょうか。人が来るのを待っているようではいけません。あなたの方から出向くようでなくてはいけません。

あなたはご自分の教会を光明の中心とし、魂だけでなく、飢えた肉体にも糧を与えてあげないといけません。叡智の言葉だけでなく、パンと日常の必需品を与えてあげなさい。魂と肉体の両方を養ってあげないといけません。霊を救うと同時に、その霊が働くための肉体も救ってあげるのです。教会が力を合わせてそのための努力をしないかぎり、肉体の糧を得られない人々は死んでしまいます。」

そう述べてから、シルバーバーチは青年牧師のために祈りを捧げた。


「あなたがどこにいても、何をしていても、大霊の力と愛が支えとなりますように……。人々への奉仕を願うあなたの心が、常に大霊からのインスピレーションを受けられるように祈ります。

願わくば、大霊があなたにさらなる奉仕のための力を吹き込み、それによって光と安らぎと幸せに満ちた場を築き、訪れる人々がそこにこそ大霊が働いていることを理解するようになることを祈ります。

大霊があなたを祝福し、あなたを支え、常に大霊の道に尽力することができますように。大霊の目的と力と計画についての理解を深めるために、いっそう学びを得られるように祈ります。

あなたに大霊の祝福のあらんことを……」

Thursday, July 23, 2026

ベールの彼方の生活(二)

第二巻は、著者オーエンの守護霊であるザブディエルからの通信です。彼がいる十界、その先の十一界や下層界である五界や六界の情景について書かれています。



二章 人間と天使
暗闇の実在   2天体の円運動の原理 3ヤコブと天使
神とキリストと人間 5第十界の住居




1 暗闇の実在         

 一九一三年十一月十二日    水曜日   

 もしお互いが物事を同じ観点から眺めることが出来れば、いま問題としていることも容易に説明出来るのであるが、残念ながら貴殿は原因の世界と結果の世界の間に掛かったベールの向う側から眺め、私はこちら側から眺めているので、必然的に視野が対立する。

そこで何とか分かり易くしようとすれば、どうしても私の方が見地を変えて出来るかぎり地上的見地に立たねばならなくなる。

 そこで私は出来るかぎりそう努力しつつ、貴殿を吾々とともに高く創造の根源へ目を向けるよう呼びかけたい。つまりは高き神霊の世界から発した思念が物的形態を取りつつ下層界へ至る、その自然な過程と流れを遡(さかのぼ)ってみたいと思う。

 界を遡ると、自然界の事物が下層における時とは様相が違うことに気づく。言わば心理的映像へと変わり、内的視覚に訴えるようになる。が太陽と日没後の薄明の関係と同じく、物質界の事物、あるいは更に上界層の事物との間につながりがあることはある。

 まずその光の問題から始めれば、地上では光は闇との対照によって知られる。つまり光の欠如した状態が闇であり、本質的には実体も価値も持たない。それ故、吾らが闇と言う時、目の網膜に外界の事物を印象づけさせる或る種のバイブレーションが欠如した状態を意味する。

 さてベールのこちら側における霊的暗黒地帯においても同じ事情が存在する。つまり暗黒の中にいる者は他の者が外界の事物を認識する際に使用するバイブレーションが欠如している。

そのバイブレーションが受け入れられない状態下にあるということである。霊的感覚に変化が生ずれば、鮮明度は別として、ともかくも見えるようになってくる。

 しかし同時に、そうした暗黒の下層界におけるバイブレーションは上層界に比して粗野である。そのために、暗黒界へ下りて行く善霊にとっては、たとえその視覚は洗練されていても暗闇はやはり暗闇であり、彼らに映じる光はぼんやりとしている。

これで理解が行くことと思うが、霊と環境との間には密接な呼応関係があり、それが余り正確で不断で持続性があるために、そこに恒久的な生活の場が出来あがるのである。

 この霊と環境との呼応関係は上級界へ上昇するに従って緊密となり、外界に見る光はより完全にそしてより強烈となって行く。故に、たとえば第四界に住む者が第五界へ突入しそこに留まるには、第五界の光度に耐え得るまで霊性を高めなければならない。

そして首尾よく第五界に留まれるようになりその光度に慣れ切ると、今度は第四界に戻った時に──よく戻ることがあるが──そこの光が弱く感じられる。もっとも、事物を見るには不自由は無い。が、更に下がって第二界あるいは第一界まで至ると、もはやそこの光のバイブレーションが鈍重すぎて事物を見るのが困難となる。

地上時代と同じように見ようとすればそれなりの訓練をしなければならない。こうして地上へ降りて人間を見る時、吾々はその人間の持つ霊的な光輝によって認識する。

霊格の高い者ほど鮮明に見えるものである。もしも視覚以外にこうした霊的鑑識力が具わっていなければ、吾々は目指す地上の人間を見出すのに苦労するものと思われる。が幸いにして他に数多くの能力を授かっているために、こうして貴殿との連絡が取れ、使命に勤しむことが出来るのである。

  これで〝いかなる人間も近づくことを得ぬ光の中に座(おわ)す存在〟という言葉の真意が理解できるであろう。地上に居る者にして、数多くの界の彼方まで突入しうる者はいない。そして又、その高い界より流れ来る光はよほど霊性高き人間の目をも眩ませることであろう。

 考えてもみるがよい、この弥(いや)が上にも完全な光が天界の美について何を物語っているかを。地上には地上なりに人間の目にうっとりとさせる色彩が存在する。が、ベールのすぐこちら側には更に美しく、そして更に多くの色彩が存在する。これが更に高い界へ進んで行けばどうなるか。

色彩一つにしても思い半ばに過ぎるものがあろう。天界をわずかに昇って来たこの私が目にしたものですらすでに、今こうして述べている言語では僅かにその片鱗を伝え得るにすぎない。

私にとっては地上の言語は今や外国語同然であり、同時に貴殿が蓄えた用語の使用範囲にもまた限度がある。

 が、喜ぶがよい。美を愛する者にとって美は無尽蔵に存在し、また光と神聖さとは常に相携えて行くものであるから、一方において進歩する者は他方において大いなる喜びを味わうことになる。

これぞ〝聖なる美〟であり、すべての人間的想像の域を超える。とは言え、これは熟考の価値ある課題である。熟考を重ねる者には地上の美しきものが天界のより大いなる美を真実味をもって物語ってくれるであろう。

天界において求めるのは生命の喜びのみである。それは貴殿が誤らず向上の道を歩み続けるならば、いずれの日か貴殿のものとなるであろう。  ♰



 2 天体の円運動の原理

一九一三年十一月十五日   土曜日

 さて、もう一つ私の立場から見て貰いたいものがある。地上の科学者は天体について彼らなりに観察し、その結果をまとめ、他の情報と統合して推論を下し、それにある程度の直感力と叡智とを加味して生成の原理を系統だてているが、その天体の生成過程に霊的存在と霊的エネルギーとがどう関わっているか、その真相について述べてみたい。

 そもそも〝天体〟という用語には二重の意味があり、その理解も個人の能力と人間性の程度によって異なる。ある者にとってはそうした球体は物質的創造物に過ぎず、ある者にとっては霊的生命力の顕現の結果以外の何ものでもない。

が、その霊的生命力の働きについても、皆がみな同じように理解しているわけではない。霊的生命力という用語をきわめて曖昧な意味に使用している者もいる。〝神が万物を創造した〟と簡単にいう者がいるが、その意味するところは途轍もなく深遠である。

地上という薄暗い世界を超越して、より明るい世界を知る者にとっては、多分その言い方では真理を表現しているよりむしろ埋葬していると言いたいところであろう。もっとも偉大なものも、もっとも単純な叡智から生まれる。

絶え間なく運動を続ける天体の見事な連動関係(コンビネーション)も、最も基本的な幾何学的計算から生まれる。何となれば、一つの縺(もつ)れもなく自由自在の使用に耐え得るものは、最も純粋にして最も単純なものしかないからである。

その至純にして単純な状態こそ恒久性の保証である。それは地球のみに限らない、遥か彼方の星辰の世界においても永遠に変わらぬ真理である。何となれば、完璧なる理法のもとに統制されているからである。

 さて、それら天体組織の各軌道は二種類の原理によって定められると言っても過言ではない。すなわち直線と曲線である。否、根源的にはたった一つの原理すなわち直線から出来上がっていると述べた方がより正確かも知れない。

つまり全ての天体は本来直線軌道上の上を直進している。ところが突き進むうちに例外なく曲線を描くことになる。その道理の説明は地上の天文学者にも出来るであろう。が、一つだけ例を挙げて説明しておこう。

 地球を例にとり、それが今軌道上を発進したとしよう。するとまず直線コースを辿る。それが本来の動きなのである。ところが間もなく太陽の方向へ曲がりはじめる。

そしてやがて楕円状に働いていることが判る。結果的には直線は一本もない。曲線の連続によって楕円を画いたのであり、それが地球の軌道なのである。

 一方、太陽の引力は決して曲線状に働いたわけではない。やはり一直線なのである。

結局地球の軌道を直線から楕円へと変えたのは二種類のエネルギーの直線的作用──地球の推進力と太陽の引力──だったのであり、その中に多種類の曲線の要素が入り、それが完全な楕円をこしらえたのである。

実はこれには他に多くの影響力が働いているが、貴殿の注意力を逸らさぬよう、一つの原理にしぼっている。これを定義づければこういうことになろう──二本の直線的エネルギー作用が働き合って楕円軌道を形成する、と。

 太陽の引力も地球の推進力も完全な理法に沿って働き、そこには美しさと驚異的な力がある。物体が自ら働くということ自体が驚異というべきであり、真実、驚異なのである。

その両者が互いに動きを修正し合い、また大なるものが小なるものを支配しつつ、しかも小なるものの本来の力と自由を奪うことなく、連動作用により──明らかに対立した動きをしながらも──二本の直線よりも遥かに美しい楕円を画く。これはまさに親と子の関係にも似ている。

 貴殿はまさか両者が対立した運動をするからにはこの機構は誤っており〝悪〟の根源より出たものである、などとは思うまい。考えてもみるがよい。この両者は虚空の中を来る日も来る日も変わることなく連繋運動を幾星霜となく続け、今なお続けている。

それを思えば、侮辱どころか畏敬と崇敬の念を抱くべき事柄である。美しさと偉大さとを併せ持つ叡智の存在を示している。これを考案された神への讃仰の念を抱かずにはおれないであろう。

偉大な叡智と偉大な力とを兼ね備えた存在であるに相違ないからである。むべなるかなである。

 人間は神の御業をこのように正しく理解せず、見た目に映じた皮相な見解のもとに神及び神の働きを安易に疑い過ぎる傾向がある。人間生活の中に先の例のような対立関係を見ると、すぐに神が不完全で在るかの如く言う。もっと良い方法があるはずであると思い、神の叡智と愛を疑う。

人間生活の画く大きな軌道の僅かな曲線のみ見て、あたかも全てが破滅に向かっているかの如く思いつめる。そうまで思いつめなくても、少なくとも全てが直線的、つまりは悲劇もなく苦難も無いコースこそが正しい人生であると思い、対立的勢力の連動作用によって軌道を修正されることを好まない。

 もとより、仮定の問題とすればそれ以外の働き方もあるかもしれない。が、もしそうなれば、神がその霊力によって実現させたところの、かの完璧な星辰の動きには及びもつかぬものとなるであろう。

人生における軋轢(あきれつ)や悩み事や苦痛を生じさせるところの対立関係は、地球を無事軌道上に運行させているエネルギーの対立関係と同じなのである。完全なる全体像を見通す神の目から見ればそれで良いのであり、その成就へ向けて忍耐強く待つのである。

 吾々とて全てが判るわけではなく、これから辿る道もさして遠い先まで見通せるわけでもない。ただ貴殿よりは遠くが見える。少なくとも現在自分の置かれた事情に得心し、同じ道を歩む同胞に援助の手を伸ばし、これより先いかに遠く進もうとも、全てがうまく出来ているとの信念を持って向上へ励むのである。

と言うのも、こうして地上の霧に包まれ視野を閉ざされた状態においては、吾々はその道程についてしつこくその価値を詮索することをせず、天界に戻って煌々たる光の中において全体を眺める。その高き視野より眺めると、完成へ向けて進む人生の軌道は実に美事なものである。

あまりに美事であるために吾々はしばしば愛と叡智の神の尊厳に驚嘆と畏敬の念を覚え、思わず足を止めるのである。その威容の前にひれ伏す時の讃仰の念は最早や私の言葉では表現できない。ただ魂の憧れの中に表現するのみである。

 アーメン。私からの祝福を。勇気を持って怖れることなく歩むがよい。先のことは私が全て佳きに計らうであろう。 ♰



  3  ヤコブと天使       

  一九一三年十一月十七日  月曜日

 「汝の見るところを書に著(しる)せよ」──これはパトモス島にいたヨハネに天使が語った言葉である。彼は可能なかぎりその命に従い、書き記したものを同志に託した。そのとき以来、多くの人間がその解釈に苦心してきた。

そして彼らはああでもない、こうでもないと思案の末に、よく判らぬ、とカブトを脱ぐのである。が、彼らが解釈に戸惑うのは実は自業自得なのである。

何となれば、もし幼子の如く素直な心を持って読めば容易に真理の扉を開く合鍵はあったのであり、神の王国に入り、素直な人間の素直な言葉を受け取る者を待ちうける天界の美を見ることを得たはずなのである。

 ところが人間はいつの時代にも〝複雑〟を好む。そして複雑さの中に真理の深遠さと奥行きとを求める。が、それは無駄である。何となれば、それは言わばガラスの表面を見て、反射する光の眩しさに目が眩むにも似た行為であり、その奥を見透し、そこに潜む栄光を見るべきだったのである。

 かくして人間は複雑さに更に複雑さを加え、それを知識と呼ぶ。が、知識には本来複雑さはない。知識を欠くことこそ複雑を生む要因である。故にもし私が貴殿に、そして貴殿を通して他の者に、何かを説明せんとする時、その説明のうわべだけを見てはならない。

自動書記という通信方法にこだわってはならない。つまり用語や言い回しに貴殿自身のものに酷似したものがあるからといって、それを疑って掛ってはならない。

それは言わば家屋を建てるために使用する材料に過ぎず、そのためには貴殿の記憶の層に蓄えられたものを借用するしかないのである。

 更に言えば、貴殿のこれまでの半生は一つにはこの目的のための監督と準備のために費やされてきた。すなわち、こうした自動書記のために貴殿を使用し、更に又、地上界とのつながりを深める上で吾々の及ばざるところをそちら側から援助してもらうためである。

吾々が映像を見せる、それを貴殿が文章として書き留める。かくして〝汝が見るところのことを書き著 (しる) し〟それを世に送る。

その受け止め方は各人の受容力の程度によると同時に、持てる才覚が霊的真理を感識し得るまでに鋭さを増しているか否かに関わる問題である。各々それで佳しとせねばならない。さ、吾らと共に来るがよい。出来るかぎりのものを授けよう。


──〝吾々〟という言い方をされますが、他に何人か居られるのでしょうか。

 吾々は協調によって仕事を推進する。私と共にこの場に居合わせる者もいれば、それぞれの界にあって必要な援助を送り届けることの出来る者もいる。又そうするよりほかに致し方ない性質の援助もある。

それは海底のダイバーのために地上から絶え間なく空気を送り込まねばならないと同じで、吾々がこうして仕事をしている間中ずっと援助を送り届けてくれる必要がある。

あたかも海底にいる如く、普段摂取している空気は乏しく光は遥か上の方に薄ぼんやりと見える、この暗く息苦しい地上界にあっては、そうした種類の援助を得ることによって高き真理を幾分なりとも鮮明に伝えることが出来るのである。

この点を考慮に入れ、吾々のこともその点に鑑みて考えてほしい。そうすれば吾らの仕事について幾分なりとも理解がいくであろう。

 かく申すのも、天使はなぜ曽てほど地上へ大挙して訪れなくなったのかという疑問を抱く者がいるからである。この僅かな言葉の中に多くの誤解が存在するが、中でも顕著なのが二つある。まず第一は、高い霊格を具えた天使が大挙して地上を訪れたことは絶対にない。

永い人類の歴史の中においても、あそこに一人ここに一人と、極めて稀にしか訪れていない。そしてその僅かな事象が驚異的な出来事の年代記の中において大きく扱われている。

天使が地上へ降りてその姿を人間に見せることは、よくよく稀にしか、それも特殊な目的のある場合を除いて、まず有り得ない。万一そうするとなれば、先に述べた吾々の仕事の困難さを更に延長せねばならない。

つまり、まず暗く深い海底へ潜らねばならない。次にその海底で生活している盲目に近い人間に姿を見せるための諸々の条件を整えなければならない。


 それはあり得ないことである。確かに吾々は人類のための仕事に携わり、人類と共に存在するが、そういう形で訪れることはしない。それぞれの仕事により規則があり方法も異なる。

そこに又、第二の誤解が存在する。確かに吾々の身は今人間界に在り、繰り返し訪れているのであるが、この〝訪れる〟という言葉には、言葉だけでは表せない要素の方が実に多いのである。

ベールのこちら側にいる者でも、あるいは吾々の界と地上界との中間の界層にいる者でも、霊の有する驚異的威力とその使用法については、向上の過程において意外に僅かしか理解していないものである。が、この問題はこれまでにして、次に別の興味ある話題を提供しよう。

 例のジャボクにおいてヤコブが天使と会い、それと格闘をして勝ったという話(創世記32)──貴殿はあの格闘をどう理解しているであろうか。そして天使が名前を教えなかったのはなぜだと思われるであろうか。


──私はあの格闘は本当の格闘であったと思います。そしてヤコブが勝たせてもらえたのはパダン・アラムでの暮らしにおける自己との葛藤が無駄でなかったことを悟らせるためであったと思います。

つまり己れに勝ったということです。そして天使が名を明かさなかったのは、肉体に宿る人間に天使が名を明かすことは戒律(おきて)に反くことだったからだと思います。


 なるほど。最初の答えは良く出来ている。あと答えは今一つというところである。何となれば、考えてもみよ、名を明かさなかったのはそれが戒律に反く行為であるからというのなら、では一体なぜそれが戒律に反くことになるのであろうか。

 さて例の格闘であるが、あれは真実味と現実味とがあった。もっとも、人間が行うような生身と生身の取り組みではなかった。もし天使に人間の手が触れようものなら、天使は大変な危害をこうむるであろう。

確かにヤコブの目に映ずるほどの形体で顕現し、触れれば感触が得られたであろう。が手荒に扱える性質のものではなかった。天使の威力はヤコブの腰に触れただけで脚の関節が外れたという話でも想像がつくであろう。

では、それほどの威力ある天使を組み伏せたほどのヤコブの力は一体何であったのか。実は天使はヤコブの念力によって組伏せられたのである。と言って、ヤコブの念力が天使のそれを凌いだというのではない。天使の謙譲の徳と特別な計らいがそこにあったのである。

天使が去ろうとするところをヤコブが引き止めると、天使はそれに従ったが、ぜひ帰らせてほしいと実にいんぎんに頼んでいる。

 貴殿はこの寛恕の心の偉大さに感嘆するであろう。がそれも、イエス・キリストが地上で受けた恥辱を思えば影が薄くなるであろう。いんぎんさは愛の表現の一つであり、それは霊性を鍛える永い修行において無視されてはならない徳の一つである。
 
 こうして天使はその謙譲の徳ゆえに引き止められた。が、それはヤコブが勝ったことを意味するものではない。新たに自覚した己れの意志の力と性格が、しばし、けちくさい感情を圧倒し、素直に天使に祝福を求めた。天使はすぐに応じて祝福を垂れた。が、その名は明かさなかった。

 名を明かすことが戒律に反くという言い方は必ずしも正しいと言えない。名を明かすこともあるのである。ただ、この時は明かされなかった。それはこういう理由による。すなわち名前というものにはある種の威力が秘められているということである。このことをよく理解し銘記してほしい。

なぜなら、聖なる名を誤って使用し続けると不幸が生ずることがあり、それに驚いてその名の主が忌み嫌われることになりかねないからである。ヤコブが天使の名を教えてもらえなかったのは、ヤコブ自身の為を思ってのことであった。

祝福をよろこんで求めた。が、それ以上にあまり多くを求めすぎぬようにとの戒めがあったということである。ヤコブは天使の偉大なる力をほとんど直接(じか)に接触するところまで体験した。が、その威力をむやみに引き出すことは戒めなければならない。

そうしなければ、その後に待ち受ける奮闘は己れの力によるものではないことになるからであった。

 今、貴殿の心に疑問が見える。吾々に対する浅はかな要求が聞き入れられることがあるかということのようであるが、それは可能であるのみならず、現実にひっきりなしに行われている。

不思議に思えるかもしれないが、その浅はかな要求を吾々が然るべき形にして上層界へ送り届ける。が、往々にしてその結果は、当人自身の力をふりしぼらせ、そうすることによって霊界からの援助に頼るよりも一層大なる力を発揮させるべきであるということになる。

地上の人間が必死にある者の名を呼べば、それは必ずその者に届く。そして可能な限り、そして本人にとりて最良の形で世話を焼き活動してくれる。

 思うにヤコブは兄エサウとの闘争、息子たちとの諍(いさか)い、飢餓との戦い、そして数々の試練によって自己の人間的威力を否応なしに発揮させられることで、たびごと天使の援助を頼りとした場合より飛躍的進歩を遂げたことであろう。

彼の要求はしばしば拒否され、それが理解できないために信仰に迷いを生じ当惑したことであろう。また時には援助が授けられたことであろう。がそれは歴然とした形で行われたであろうから、理解するに努力は要らず、従って進歩も必要としなかったことであろう。

 この問題はこれ以上続けぬ。ヤコブの例を引いたのは、吾々の姿は見えず声も聞こえないからといって、それだけで貴殿が距離的に吾々から遠く離れているわけでもなく、また吾々が貴殿から遠くに居るわけでもないことを示すためであった。

吾々が語り貴殿が聞く。しかしそれは聴力で聞くよりも更に深い、貴殿自身の内奥で聞いている。貴殿の目に映像が見える。が、それは視力で見るより更に内奥の感覚にて見ている。貴殿は何一つ案ずるには及ばない。

吾々も少しも案じてはいない。そしてこれ以後も貴殿を使用し続けるであろう。故に平静さとキリストを通じての神への祈りの気持を持ち続けてほしい。吾々はキリストの使者であり、キリストの名のもとに参る者である。♰  



 4 神とキリストと人間 

一九一三年十一月十八日  水曜日

 地上の全存在の創造が完了した時、最後に一つだけ最も偉大なものが未完のまま残された。それが人間である。人間はその後の発達に任された。

驚異的な才能を賦与されていたからこそ向上進化の道を啓示され、その道を自ら辿るに任された。一人ぼっちではない。天界の全政庁が、人間がいかにその才能を駆使していくかを見守っていたのである。

 今ここで地上の学者の説く進化論や神学者の説く堕罪と昇天について改めて述べるつもりはない。それよりも、もっと広い視野に立って人間本来の向上心と現状について述べてみたい。

また吾々にも人間の未来を勘案し神の子全ての前途に横たわる、奥深くそして幅広い天界のその少し先くらいは覗き見ることを許されているのである。

 またその考察に当っては、地上で説かれている神学的ドグマに捉われることがないことも承知されたい。神学の世界は余りに狭隘(きょうあい)であり、又あまりに束縛が多いために、広い世界に永く暮らしていた者が不用意に手足を伸ばせば、取り囲む壁に当って傷を負いかねない。

更に広く旅せんとしても、もっと苦しい災難が降りかかるかも知れないとの不安のために、つい躊躇してしまうのである。

 よく聞くがよい。神学の教えをあたかも身体にとっての呼吸の如く絶対的なものを思い込む者には、衝撃があまりに大きく恐るべきものに思えるかも知れないが、吾々にとっては、道を誤らぬために神より賦与されている人間本来の意志と理性の自由な行使を恐れ、ドグマと戒律への盲従をもって神への忠誠であるかの如く履き違えている姿を見ることの方が、よほど悲劇に思えるのである。

 考えてもみよ。神の不機嫌に恐れおののかねばならぬとは、一体その神と人間とはいかなる関係であろうか。

自らの思考力を駆使して真摯に考え、その挙句にたまたまドグマから逸れたからといって、神がその者を無気味な笑みを浮かべて待ち受け網を持って捕らえんとしているとでも言うのであろうか。

それとも〝汝は生ぬるいぞ。冷たくもなく、さりとて熱くもない。よって汝の願いは却下する〟と述べたというのはこの神のことであろうか。自由闊達に伸び伸び生き、持てる才能を有難く敬虔な気持ちを持って存分に使えばよいのである。そしてたまたま過ちを犯しても、それは強情の故でもなく故意でもなく、善なる意図から出たことである。

両足を正しくしっかりと踏まえ、腕を強くふりしぼって矢を射よ。一度や二度的(まと)を外れたとて少しも戸惑うことはない。恐れてはいけない。神が却下されるのは自ら試みてしくじる者ではなく、勇気をもって挑もうとせぬ臆病者である。

このことは自信を持って断言する。私はその二種類の生き方を辿った人間が地上からこちらへ来た暁に置かれる場所、更には高級界へと進み行く門を探し求める経緯(いきさつ)を見て、その真実性を十分に得心しているのである。

 さて、天界の大軍の一員としての貴殿によくよく心して聞いてほしいことがある。改めてこう申すのも、これから私が述べることの中には貴殿の思考にそぐわないものがあるかも知れないからである。願わくば私の伝えるままを記してもらいたい。

 キリスト教徒の中にはキリストを神と認めない者が多くいる。実はその問題に関しては地上のみならずベールのこちら側にても軽々しく論じられている。と言うのも、地上にかぎらず、吾々の世界でも、真理を知るためには自ら努力して求めねばならないという事情があるのである。

吾々には啓示の奇蹟は与えられず、と言って自由な思考が上級界より抑制されることもない。人間と同様に吾々も導きは受けるが、あれこれと特定の信仰を押し付けられることはない。それ故に吾々の世界にもキリストは神にあらずと説き、そう説くことで万事終われりとする者が大勢いることになる。

 この度の私の目的はそれを否定して真相を説くことではない。それを絶対のものとして説くつもりはさらにない。それよりも私はまずその問題の本質を明らかにしたい。そうすることで、用語の定義付けを疎かにしてはこの種の問題が理解できないことを説きたいと思う。

 ではまず第一に、一体〝神〟とは何を意味するかということである。〝父なる存在〟を想う時の、一個の場所に位置する個人、つまり人間のような一人物を意味するのであろうか。もしそうだとすれば、キリストが神でないのは明らかである。

さもないと、それは二重の人物つまり二個の人物が区別のつかない状態で一体となった存在を創造することになる。キリストが〝私と父とは一つである〟と言ったのはそういう意味で述べたのではない。対等の二人の人物が一体となることは考えられないことであり、理性が即座に反撥する。

 それともキリストは父なる人間として顕現したものという意味であろうか。もしそうだとすれば、貴殿もそうであり私もそうである。なぜなら、神は全存在に宿り給うからである。

 あるいはキリストにおいて父なる神の全てが統一体としてそのまま宿ったということであろうか。もしそうだとすれば、これ又、貴殿にも私にも同じように神は完全なる形で宿っていることになる。なぜなら、神は不可分の存在だからである。

 しかしそれを、神の全てがキリストに宿り吾々には宿っていないという言い方をすれば、それは単なる一個の俗説に過ぎず、それ以上の価値は無い。これは非論理的でもある。

何となれば、もしも神がそっくりキリストの中に宿るとすれば、キリストが即ち神となって両者の区別がつかないことになるし、必然的にキリストに宿る神が神自身の中には宿らぬという妙な理屈にもなる。これでは理性が納得しない。

  それ故吾々が第一に理解しなければならぬことは〝父〟というのは神について吾々が考え得るかぎりの最高の要素を指すための名称に過ぎないということである。もっとも、吾々にはそれすら本当の理解は出来ていない。なぜなら、正直に申して、父なる神は吾々の理解を超えた存在だからである。

 私には父なる神を定義することは出来ない。まだ一度もその御姿を拝したことがないからである。それより以下の存在にその全体像が見える道理がないのである。私が拝したのはその部分的顕現であり、それがこれまで私に叶えられた最高の光栄である。

 ならばキリストと父との一体性の真意もまた、吾々の理解を超えた問題である。キリスト自身が吾々より上の存在だからである。キリストは吾々に思考し得るかぎりのことを述べておられるが、吾々にはまだその多くが理解できていない。

地上においてキリストは父なる神を身をもって証言してみせられた。つまり人間の身体によって顕現し得るかぎりの神の要素を吾々に示されたということである。それ以上のことは判らぬ。が、謙譲の徳と敬虔なる愛が深まるにつれて知識も深まり行くことであろう。

 キリストが父と一体であるのと同じ意味において吾々はキリストと一体である。〝人間性〟と呼ぶものと〝神性〟と呼ぶものとの融合したキリストの中に存在することによって、吾々は父なる神の中に存在する。

キリスト自身が述べておられるように、父はキリストより偉大なる存在である。が、どれほど偉大であるかは語られなかった。たとえ語られたとしても、吾々には理解し得なかったであろう。

 さて以上の説を読まれて、これでは私は人間が組み上げてきた足場組を徒(いたずら)に取り払うのみで、しかも結局は建物すら見えないことになるではないかと言う者もいるであろう。が、私の目的は頭初に述べたように、建物を構築することではない。

今何よりも必要なのは確固たる基盤づくりであることを指摘することであった。脆(ぜい)弱な基盤の上に建てたものは、見ているうちにも、あるいは早晩必ず崩壊して多くの労力が徒労に終わることは必定である。実は人間はまさにそれに等しいことをこれまで延々と続けてきたのである。

そして自らはそれに気づいていない。明確であるべき多くのことが未だに曖昧模糊(あいまいもこ)としている原因がそこにある。〝よくは知らぬ、がしかし・・・〟というせりふで始めて断定的な事を述べるのは賢明とは言えない。高慢は得てして謙虚な心の美しさを見えなくする。

また深遠な問題に対して即座に答える者が叡智に溢れていると思うのも誤りである。何となれば、確信は得てして傲慢と相通じていることがあり、傲慢から真実は生まれず、また愛すべきものでもないからである。

 貴殿と、守護霊としての私とは、永遠なる生命であるキリストにおいて一体である。キリストの生命の中において吾々は互いに相見(まみ)え祝福し合う。では私から祝福を述べるとしよう。そして貴殿から届けられた厚意に深く感謝する。 ♰


 
 5 第十界の住居

一九一三年十一月十九日  水曜日

 そういう次第であるから、私が語る言葉は多くの者にとって受け入れ難いものであろう。が、このことだけは知っておいてほしい。キリストの祭日には東からも西からも大勢の信者がキリストの神性の真相を知らぬまま参列する。が、

その人間的優しさと愛ゆえにキリストに愛を捧げる。少なくともそこまでは理解できるからである。が、その神性の本質を理解する者は一人としていない。

そこでこれより話題を変えて、まず肉体に宿る人間がキリストによって示された向上の道を歩む上において心すべきことを取り挙げてみよう。

 何よりもまず人間は〝愛する〟ことが出来なければならない。これが第一に心がけるべきことであり、また最大のものである。難しいのはこれを持続することである。互いに愛し合うべきであると言えば、誰しもその通りであると言う。が、

これを行為で示す段階に至ると、悲しいかな、能書き通りには行かない。しかし、愛なくしてはこの宇宙は存在し得ず、崩壊と破滅の道を歩むであろう。宇宙が今あるべき姿に保ち続けているのは神の愛あればこそである。その愛は、求める者ならば至るところに見出すことが出来る。

物事を理解する最上の方法はその対照を求めることである。愛の対象は崩壊である。なぜなら、崩壊は愛の行使の停止から生じるからである。憎しみも愛の対象である。もっとも、本質的には対立したものではない。憎しみは往々にして愛の表現を誤ったものに過ぎないからである。

 人間についていえることはそのまま教義や動機についても言える。他の主義・主張を嫌うその反動で一つの主義に傾倒するという者が数多くいるものである。

愚かしくもあり誤ってもいるが、必ずしも悪とは言えない。が、人間は他を憎む時、憎むが故に愛することが出来ないことになり、ついには何ものをも愛することが出来ないことになることを知らねばならない。

 これが実はこちらの世界での面倒を増幅するタネの一つなのである。と申すのは、誰しも憎まずして全てを愛することが出来るようにならぬかぎり、愛がすなわち光を意味するこの世界においての進歩は望めず、愛することを知らぬ者は暗き世界において道を見失い、その多くが身も魂も精気を失くし、ついには真理の鑑識力までが外界と同じくもうろうとしてくるのである。

 一方には一つ一つの石材までが光輝を放つ〝天界の住処〟が無数に存在し、あたり一円、はるか遠き彼方まで光を放っている。その光はそこに住む者の愛の純粋さが生み出すのである。


──そうした住居と、そこに住む人々について具体的にお教え願えませんか。その方が一般的な叙述より判り易いと思うのですが。

 それは容易なことではない。その困難さはいずれこちらへ来れば判る。たとえ要求に応じても、貴殿が得るものは結果的には真実からずれる──少なくとも不適切なものになる。

そのこともいずれ理解が行くことと思う。が、たっての要求とあらば、何とか説明してみよう。何か特別に叙述して欲しいことがあれば申すがよい。


──では、あなたご自身の住まいから。

 第十界においては低級界に存在しない事情、とくに地上では全く見られぬ事情がある。

 たとえ貴殿をその十界まで案内したところで、貴殿の目には何も映らぬであろう。霊的状態がその界の状態にそぐわないからである。

せいぜい見えるのはモヤの如き光──それもその界のどの地域であるかによって程度が異なる。九界そして八界と下ればより多くのものが見えるであろうが、やはり全ては見られない。しかも、目に映じたものをすみずみまで理解することは出来ないであろう。

 かりに一匹の魚を盛ったガラスの器に入れて街中を案内したとしよう。その魚には、まず第一にどれだけのものが見え、第二にそれがどれだけ理解できるであろうか。

思うに、魚にはその住処──水つまり魚本来の環境からせいぜい二、三インチ先しか見えないであろう。貴殿の顔を魚に見える位置に持って行き、次に手を見せてやるがよい。魚にはその二つの物がどう映るであろうか。

 人間が吾らの界へ来た時もそれと同じである。内在する霊的能力を活性化し、楽に使用できるようになるには、ただ〝鍛錬〟あるのみである。さて、話をさらに進めて、たとえばその魚にウエストミンスター寺院を説明するとなったらどうするか。

村の教会でもよい。それを魚の言語で説明しなければならない。その話を聞いた魚が貴殿の言うことが不合理であると言ったところで、それは魚の能力の限界のために貴殿の思うに任せぬからに過ぎない。

もし村の教会やウエストミンスター寺院のようなものがあるわけがないと魚が言ったところで、それは貴殿の説明がまずいのではなく、魚の方の理解力に原因があることをどうすれば納得させることが出来るであろうか。

 が、たつての要望であれば、これより私の住居、私の寛ぎの場について出来るだけの説明を試みてみよう。が、終わってみれば多分貴殿はもっと何とかならなかったものかと思うであろうし、いっそのこと何も語らずにいた方が良かったということになるかも知れない。

 吾らが住居を建立している国は数多くの区域にまたがっており、それぞれの区域からはその特質を示す無数の色彩が発散され、それが私と共に住む者たちの霊性とほぼ完全に一致している。

それらの色彩のほとんどは貴殿の知らぬものばかりであるが、地上の色彩も全て含まれており、それが無限と言えるほどの組み合わせと色調を持っている。吾らが携わるその時その時の仕事によって調和の仕方が異なり、それが大気に反映する。

 また吾らの界へ届けられるさまざまな思念と願望に対してもその住居が反応を示す。それには下層界からの祈りの念もあれば上層界からの援助の念もあり、その最下層に地上界が存在する。

 音楽も放送される。必ずしも口を使うとは限らない。大ていは心から直接的に放送し、それが近隣の家々に反響する。これも吾らによる活性化の一端である。

周囲の樹木、花等の全ての植物もその影響を受け、反応を示す。かくて色彩と音楽という本来生命のない存在が吾らの生命力を受けて意識に反響することになる。

 家屋の形は四角である。が、壁は四つだけではなく、また壁と壁とが向き合っているのでもない。全てが融合し、また内と外とが壁を通して混ざり合っている。

壁は保護のためにあるのではなく、他に数々の目的がある。その一つはバイブレーションの統一のため、つまり吾等の援助を必要とし又その要請のあった地域へ意念を集中する時に役立てる。

かくて吾々は地上からの祈りにも応えて意念を地上へ送り、他のもろもろの手段を講じて援助を授けることになる。

 同じく上層界からの意念が吾々の界へ届けられ、それが吾々の家屋を始めとして他に用意した幾つかの作用によって吾々の感覚に反応するものに変えられ、それを手段として高級神霊との連絡を取り、吾々を悩ませる問題についての指導を受けることもある。

 更には、反対に下層界から使命を帯びて吾々の界へ訪れる者にこの界の環境条件に慣れさせ、滞在中の難儀を軽減するために霊力を特別に授ける時にも、この家屋を使用する。

また吾々と話を交わし、吾々の姿を見せ、声を聞くことが出来るようにしてあげるのにも、その家屋に具わっている作用が活用される。それなくしては彼らは使命が全う出来ないのである。

 私の家を外部より眺めた様子を、地上に近い界の一住民による叙述によって紹介しよう。彼は私の家を見た時に〝隠し得ぬ光に包まれし丘上の都〟(マタイ5・14)という言葉を思い出したという。

見た時の位置は遥か遠くであったが、その光に思わず立ち止まり地面へ降下した。(そこまで空中を飛行していたのである)そこで暫し彼は眼を覆った。それから徐々に遠くに輝くその建物が見えるようになったのであった。

 例の塔(第一巻参照)も見えたが、その青い光があまりに強烈で、どこまで光輝が届いているか見分けがつかなかったという。天上へ向けて限りなく伸びているかに思えたのである。それから例のドームも──赤色のもあれば黄金色のもある──その光輝が余りに眩しく、どこで終わっているのか、その全体の規模を見ることが出来なかった。

門も外壁も同じく銀色、青、赤、すみれ色に映え、眩いばかりの光で丘全体と周囲の森を覆いつくし、それを見た彼は、そこへいかにして入りそして無事その光に焼き尽くされずに戻れるだろうかと思ったとのことであった。

 が、吾らはすでにその者の姿が見えていた。そこで使いの者を派遣して然るべき処置を施させたのであった。無事使命を終えて吾らに別れの挨拶をしに見えたとき彼はこう述べた。

 「今お別れするに当たって私の心に一つの考えがつきまとっています。それは、私が戻れば仲間の者から私が訪れた都はいかなるところであったかと聞かれることでしょうが、一たん自分の本来の界層に帰り、再び元の限りある能力での生活に戻ったとき、この光栄をどう語れば良かろうかということでございます。」

 私は答えた。「これ以降、あなたは二度と曽てのあなたに戻ることはないでしょう。何となればあなたの中にこの界の光と感受性とが幾らかでも残るはずだからです。あなたの記憶に残るものは仲間に告げうるものより遥かに大きいことでしょう。

なぜなら、たとえ告げても理解してもらえないでしょうし、告げようとすればこの界の言語を使用せざるを得ないからです。

それ故あなたは彼らにこう告げられるがよろしい──より一層の向上に鋭意努力することです。そうすれば自ら訪れて、語ってもらえないものを自ら見ることが出来るでしょう、と。」

 聞き終わると、彼は大いなる喜びのうちにこの界をあとにした。同じことがいずれ貴殿の身の上にも訪れる日が来るであろう。彼に告げた最後の言葉をここで貴殿にも与えることにしよう。 ♰


      
 三章 天上的なるものと地上的なるもの

 1 古代の科学と近代の科学

一九一三年十一月二一日  金曜日

 読むのが速い者が必ずしも正しく読み取っているとは限らない。そういう者は、見た目に重要に思えない事柄は落ち着いてじっくり考える余裕をもたないものだからである。

表面的なこと以外は目に止まらないのである。であるから、通信が判り易く書かれていると、大部分が軽く読み流されてしまい、そのメッセージの重要性が目に止まらないことになる。

 このことは人間が自然と呼んでいるもの、つまり霊力が物質を通して活動しているその表面的な現象に書かれている教訓についても言える。また人間なり民族なりがその本来の性格を基盤として繰り拡げる運命の働きについても同じことが言える。

 更にこのことは、程度こそ異なるが、いわゆる科学の発見においても言えることである。ではこれより、この発見の問題を取り上げ、ざっと目を通すだけで深く読もうとしない大方の人間よりも深く踏み込もうとする人間に対して深く暗示されているものを観てみよう。

 歴史と同じく科学もまた繰り返す。が決して全く同じことを繰り返すわけではない。知識の探求にも常に大よその原理というものが支配しており、その原理が一定の役割を果たすと、他の原理にその場を譲って裏側へまわり、新たな原理が人類の注目を世界中で集中的に受けることになる。

が、時の経過とともにいつしか前の原理が再び表に出て来て──順序は定まっていないが──新しく人類の注目を集める。かくして人類進化の行進が続けられる。

 発見そのものの種類も又、失われては新たに発見されることを繰り返す。まったく同じものではない。外観が変わり、新たな特徴が加わり、同時に古い特徴が失われている、ということがしばしば見られる。

 以上述べたことを更に判り易くするために、例を挙げて細かく説明しよう。曽ては科学そのものが今日の科学とは異なる意味をもった時代がある。つまり科学にも心があり、物質的現象は二次的な意味しか持たなかった。

錬金術がそうであり、星学がそうであり、工学ですらそうであった。当時すでに地上世界が霊的世界によって支配され、無数の霊団が自発的に──但し上層界から偉大な霊力と崇高な権威によって規制された限度内で──監督に当たっていることが知られていた。

そして当時の人間はそうした霊的支配者の程度や階級、及び自然界と人間界の各部門における彼らの役割、更には各階級から行使される霊力の量まで知ろうとする研究が行われていたのである。

 事実、彼らはおびただし数の事実を発見し、分類した。ただ、そうした事実や法則、規制、条件等が地上的なものでなく霊的なものであったがために、彼らは己むなくそれを通常の言語とは別の形で表現した。

 これが関心の異なる別の世代が台頭してくると、先祖が伝承話の形に込めた知識の何たるかを考慮することなく、これは単なる譬え話であり象徴的なものに過ぎないと断定してしまう。そう断定することで裏に秘められた事実が輪郭を失い。やがて真実味まで失って行く。

さまざまな民族における霊力の研究成果がそうした経過を辿り、これがヨーロッパの妖精物語と東洋の魔法の物語を生み出すことになった。それらは、まぎれもなく古代の科学が或るものを付加され、あるものを抜き取られ、さまざまに歪められながら生き残れる姿なのである。

が、そうした物語を今述べたことに照らし、その本質と近代に至ってからの潤色とを選り分けて読めば、その底に、あたかも幾世紀ものあいだ土砂に埋もれたエジプトの古代都市の如く、太古の科学すなわち霊的観点より考究した知識を見出すことが出来る。 ♰



──何か顕著な例を挙げていただけませんか。

 「ジャックと豆の木」という物語がある。まず名前を見るがよい。ジャックはJohnの愛称であり、このジョンを最初に用いたのは例の「黙示録」の著者(ヨハネ、英語読みでジョン──訳者)である。

豆の木は「ヤコブのはしご」(創成記)すなわち霊界の上層界へ辿り着くための階段の翻案である。物語の意味は、天界に辿り着けばそこは現実の国であり、さまざまな地域があり、自然の風景があり、家々があり、素晴らしい知識がある。

天使はその全てを人間に授けるつもりはないのであるが、時に大胆で能力のある人間が侵入して地上へ持ち帰ることがある。

天使はそれを取り返そうとし、人間がそれ以上に大胆になることによって獲得する所有権を奪おうとするのであるが、人間は生来の機智を弄してそれを妨げることが出来るというのである。

 さて、これはなかなか面白い話ではある。が、その深い意味を理解せぬ者によって幾世紀も語り継がれて来たために、話の筋が奇妙で滑稽にさえなっている。たとえば、もしも真の意味が理解されておればジャックという軽々しい愛称は用いられなかったであろう。

があのジャックのお馴染みの衣装を見れば分る通り、ジャックという俗称に変わったのは神聖なものや霊的なものが軽視された時代のことである。当時は霊的存在を理解することが出来なかったのである。

悪魔に衣服を着せ、刃物のような耳やしっぽを付けたりしたのも同じ理由からである。すなわちそうしたものは当時ではあくまで神話の世界だけの存在だったのである。従って悪魔の性格も神話的な架空のものに過ぎなかった。

 この物語は数多く存在する物語の一つに過ぎない。「パンチとジュディ」という物語も救い難き極悪人としてピラトとイスカリオテ(ユダ)を風刺したものである(*)がこの宗教的にして且つ恐ろしき事実を扱うその手法にも、当時の時代的軽薄さが歴然としている。

(*「パンチとジュディ」はパンチという名のせむし男が子供を絞殺したり妻のジュディをいじめ殺したりする古い英国の人形芝居であるが、これはイエスの処刑を命じた残虐非道のローマ総督と、イエスを裏切ったユダを風刺したものとされる。──訳者)

 まさに軽薄であり、これまで常にそうであった。が、今の時代に至って霊的なるものがようやく人間世界に戻り、その位置を見出しつつある。

必ずしも正当な位置を得ているとは言えないが、少なくとも過去幾世紀かにおける扱われ方に較べれば、より大きな考慮を払われていると言えよう。

 かくして外面的には様相を変えてはいるものの、内面的にはかのエジプトの星学を支配した一般的原理、並びにモーゼが学びそして活用した叡智に類似したものが今日再び人間界に戻りつつある。

それが人間の意識を高め、生命力の産物──貝殻、石、化石──をいじくりながらその生命力の根源の存在を認めようとせぬ過去の唯物思想に存在意識を賦与しつつある。

曽ての唯物科学は大自然の法則の秩序ある働きを説いた──にも拘らず、その秩序と働きの背後の唯一絶対の霊的始源の存在を否定した。

大自然の美を謳った──なのに、その美も人間に〝霊〟が宿ればこそ感識し得るものであること、そしてその霊も永遠なる神の生命が存在すればこそ存在を得ていることを忘れていた。

 吾らは常に人間界を見守っている。そして許されるかぎり、好機の与えられるかぎりにおいて導いている。もし人間が吾らの働きかけに忠実に応えてくれれば、今まさに過ぎ去りつつある時代よりも更に多くの光と愛と生命の美に溢れる時代が到来する。

吾々は人間はきっと応えてくれるものと確信する。何となれば、新しきものは古きものに勝るのが必定であり、更に、吾らが地上へ向けて働きかける時、背後にさらに高い世界から叡智と霊力とが澎湃(ほうはい)として迫りくるものを感ずるのである。

そして吾らは、これぞ上層界の意図であり要望であると確信するものを実行に移す。

 吾々とて、あまりに遠き未来まで 覗き見ることは出来ない。それにはそれなりの特殊な部門があり、それは現在の吾々の霊団の任務には組み入れられていない。が、

吾らはその努力が多くの人間に首尾よく反応を示してくれることに喜びを感じ、時の経過と共により多くの機会を得て、人間にとって吾らがいかに身近な存在であるか、又、人間が常に謙虚にして冷静さを保ち、最高の模範としてキリストを目指し、吾らの教説の中にたとえ走り読みにせよ見出せるであろう聖なる美を体現すべく努力をしておれば、いかに大きな仕事を成就する潜在力を秘めているかを示すことが出来る──そう期待しているのである。

それというのも、キリストの霊的生命は、それをひと目見れば、美とは何かを知る者は恍惚の境へと誘われるほどのものだからである。


 キリストの名において吾らは愛し、キリストに向けて吾らは崇拝の念を捧げる。常にキリストの安らぎのあらんことを。アーメン。 ♰   


 
  2 守護霊と人間

 一九一三年十一月二四日   月曜日

 更に言えば、いついかなる時も吾らの存在を意識することは好ましいことであり、吾らにとって何かと都合がよい。事実、吾らはいつも近くにいる。もっとも、近くにいる形態はさまざまであり意味も異る。

距離的に近くにいる時は役に立つ考えや直感を印象づけるのが容易であり、又、仕事がラクに、そして先の見通しも他の条件下よりは鮮明に見えるように順序よく配慮することが出来る。

 吾らの本来の界にいる時でも、人間の心の中および取り巻く環境で起きている事柄のみならず、その事情の絡み合いがそのまま進行した場合どういう事態になるかについての情報をも入手する手段がある。

 こうして接触を保ちつつ吾らは監督指導が絶え間なく、そして滞りなく続けられるよう配慮し、挫折することのないように警戒を怠らない。

それが出来るのも吾らの界、および吾らと人間との間に存在する界層を通じて情報網が張りめぐらされているからであり、必要とあらば直接使者を派遣し、場合によっては今の吾々がそうであるように、自ら地上へ降りることも可能だからである。

 更にその方法とは別に、吾らの如き守護の任に当たる者が本来の界に留ったまま、ある手段を講じて自分に託された人間と接触し、然るべく影響を行使することも可能である。

これで理解が行くことと思うが、創造主の摂理は全界層を通じて一体となって連動し、相関関係を営んでいる。宇宙のいかなる部分も他の影響を受けないところは一つとして無く、人間が地上において行うことは天界全域に知れ亘り、それが守護霊の心と思想に反映し、守護霊としての天界での生活全体に影響を及ぼすことになる。

 されば人間は常に心と意念の働きに注意せねばならない。思念における行為、言葉における行為、そして実際の行為の全てが、目に映じ手を触れることのできる人々に対してのみならず、目には見えず手を触れることこそできないが、いつでも、そしてしばしば監視しながら接触している指導霊にも重大な影響を及ぼすからである。

それのみではない。地上から遠く離れた界層にて守護の任に当たる霊にも影響が及ぶ。私の界においても同じである。

この先更にどこまで届くか、それは敢えて断言することは控えたい。が、強いて求められれば、人間の行いは七の七十倍の勢い(*)を持って天界に知れ亘る、とでも答えておこう。その行きつく先は人間の視野にも天使の視野にも見届けることは出来ない。

何となれば、その行きつくところが神の御胸であることに疑いの余地は無いからである。(マタイ18・22。計り知れない勢いの意──訳者)

 故に、常に完全を心掛けよ。何となれば天に坐(ましま)す吾等が父が完全だからである。不完全なるものは神の玉座に列することを許されないのである。

 では善と美を愛さぬ者の住む界層はどうなるのか。実は吾らはその界層とも接触を保ち、地上と同じように、援助の必要があれば即座に届けられる。縁が薄いというのみであって決して断絶しているわけではないからである。

その界層の霊たちも彼らなりに学習している。その点は人間も変わらない。ただしその界の雰囲気は地上よりは暗い───ただそれだけのことである。彼らも唯一絶対なる神の息子であり娘であり、従って吾らの弟であり妹でもあるわけである。

人間の要請に応える如く彼らの魂の叫びに応えて吾らは援助の手を差し伸べる。そうした暗黒界の事情については貴殿はすでにある程度のことを知らされている。が、ご母堂の書かれたもの(第一巻三章)にここで少しばかり付け加えるとしよう。

 すでにご存知の通り、光と闇は魂の状態である。暗黒界に住む者が光を叫び求める時、それは魂の状態がそこの環境とそぐわなくなったことを意味する。そこで吾等は使者を派遣して手引きさせる。が、その方角は原則として本人の希望に任せる。

つまり、いきなり光明界へ連れてくることはしない。そのようなことをすれば却って苦痛を覚え、目が眩み、何も見えぬことになる。

そうではなく暗黒の度合いの薄れた世界、魂の耐えうる程度の光によって明るさを増した世界へ案内され、そこで更に光明を叫び求めるようになるまで留まることになる。

 暗黒地帯を後にして薄明の世界へ辿りついた当初は、以前に較べて大いなる安らぎと安楽さを味わう。その環境が魂の内的発達程度に調和しているからである。が、

尚も善への向上心が発達し続けると、その環境にも調和しない時期が到来し、不快感が募り、ついには苦痛さえ覚えるに至る。やがて自分で自分がどうにもならぬまま絶望に近い状態に陥り、自力の限界ぎりぎりまで至った時に、再び叫び声を上げる。

それに応えて神の使者が訪れ、更に一段階光明界に近い地域へと案内する。そこはもはや暗黒の世界ではなく薄明の世界である。かくて彼はついに光が光として見える世界へ辿り着く。それより先の向上の道にはもはや苦痛も苦悩も伴わない。喜びから更に大きな喜びへ、栄光から大いなる栄光へと進むのである。

 ああ、しかし、真の光明界へ辿り着くまでにいかに長き年月を要することか。苦悶と悲痛の歳月である。そしてその間に絶え間なく思い知らされることは、己れの魂が浄化しない限り再会を待ち望む顔馴染みの住む世界へは至れず、愛なき暗黒の大陸をとぼとぼと歩まねばならないということである。

 が、私の用いる言葉の意味を取り違えてはならない。怒れる神の復讐などは断じてない。「神は吾らの父なり」、しかして「父は愛なり」(ヨハネ)その過程で味わう悲しみは必然的なものであり、種子蒔きと刈入れを司る因果律によって定められるのである。

吾々の界──驚異的にして素晴らしいものを数多く見聞きできるこの界においてすら、まだその因果律の謎を知り尽くしたとは言えない。

全ての摂理が〝愛〟に発するものであることは、地上時代とは異なり、今の吾々には痛いほどよく解る。曽てはただ信ずるのみであったことを今は心行くまで得心することが出来ることも、憚(はばか)ることなく断言できる。が、因果律というこの厳粛なる謎については、まだまだ未知なるものがある。

が、吾々はそれが少しずつ明かされていくのを待つことで満足している。それというのも、吾々は万事が神の叡智によって佳きに計られていることを信ずるに足るだけのものを既に悟っているからである。

それは暗黒界の者さえいつの日か悟ることであろう。そして彼らがこの偉大にして美わしき光の世界へと向上進化して来てくれることが吾々にとっての何よりの慰めであり、また是非そうあらしむべく吾らが手引きしてやらねばならない。

そしてその暁には万事が有るがままにて公正であるのみならず、それが愛と叡智に発するものであることを認め、そして満足することであろう。

 吾々はそう理解しているのであり、そのことだけは確信を持って言える。そして私もその救済に当たる神の使者の一人なのである。

私が気づいていることは、かの恐ろしき暗黒の淵から這い上がって来た人たちの神への讃仰と祝福の念を、その体験の無い吾々のそれと比較する時、そこに愛の念の欠如が見られないことである。些かも見られぬのである。

と言うのも、正直に明かせば、彼らと共に天界の玉座の光の前にひれ伏して神への祈りを捧げた折のことであるが、彼らの祈りの中に私の祈りに欠けている何ものかがあることに気づいたのである。

そこで思わず、私もそれにあやかりたいとものと望みをかけて、ようやく思い止まったことでああった。

 それは許されぬことであろう。そして神はその愛ゆえに、吾々の内にあるものを嘉納されるに相違ない。それにしても、かのキリストの言葉は実に美わしく、愛がその美しさを赤裸々に見せる吾々の界において如実にその真実味を味わうのである。

 神はその愛の中にて人間と交わりを保つ。神の優しき抱擁に身を任せ、その御胸に憩いを求める時、何一つ恐れるものはない。 ♰           
                                                        
  
 
  3 種の起源    
 一九一三年十一月二五日  火曜日

 人間に少しでも信仰心があれば、こうして貴殿の精神と手を使って書き記したものを理解することが出来るであろうが、残念ながら物事の霊的真相を探り、それを真実であると得心しうる者は多くは見当たらない。これまでの永い人類の歴史においてそうであり、これからの遠き未来までもそうであろう。

それは事実であるが、更にその先へ目をやれば、吾々の目には遠い遠い未来において人間世界が今日より遥かに強い光の中を歩みつつあるのが見える。

その時代においては吾々と人間とがいかに身近な関係にあるかについて、書物の中のみならず実際の日常生活の中において理解し得心することであろう。

差し当たっては、警戒と期待のうちに吾々の力の及ぶかぎりの努力をし、たとえ吾々の望み通りの協調関係が得られず、無念の思いを断ち切ることが出来ずとも、一歩一歩と理想の関係に近づきつつあり、万事が佳きに計られているとの確信を抱くのである。

 さて現在の貴殿との仕事のことであるが、吾々としては成るべくならば物事が活撥に進行しているこの〝昼〟の時代に多いに進行させたい。何となれば〝夜〟 の時代が到来すれば貴殿は明日の時代を思うであろうが、その明日はもはや今日とは異なる。

いろいろと可能性を秘めてはいても今と同じほどのことが出来るとは限らない。故に現在のこの良い条件の整っている時期に出来るかぎりのことをしようではないか。そうすれば吾々二人により広き界層が開かれた暁に、更に良い仕事が為し得ることになろう。

 人間が理解している科学は吾々の理解している科学と軌を一にするものではない。何となれば吾らは霊的根源へ向けて深く探求の手を伸ばすからである。地上の科学は今やっと霊的根源を考慮しはじめたばかりである。

吾々は互いにようやく近づきつつあるわけである。と言うよりは、地上の現象の意味を探る者の中に、吾々の手引きによって、より高くそしてより深い意味へと近づきつつある者がいると述べた方が正しかろう。

 このことを吾々は有難きことと思う。そしてそのことがこれまでの道を更に自信を持って歩ませてくれる。吾々は人間がきっと付いてきてくれるとの確信を持っており、それだけに賢明にそして巧妙に手引きせねばならないのである。

 さて私はこれより、人間が〝種の起源〟と呼んでいるところのものについて、その霊的な側面を少しばかり説いてみたいと思う。が、結論から申せば、動物的生命の創造の起源は物質界にあらずして吾々の天界に存在する。

こちらへ来て吾々が学んだことは、宇宙が今日の如き形態の構成へ向けて進化の道を歩み始めた時、その監督と実践とを受け持つ高き神霊が更に高き神霊界より造化の方針を授かり、その方針に基いて彼らなりの知恵を働かせたということである。

 その時点においては未だ天界には物的表現としての生命の形態と知能の程度に多様性があったと想像される。そして結果的にはその発達を担当すべく任命された神霊の個性と種別を反映させていくことに決定が下された。

そしてその決定に沿って神の指示が発せられた。なぜかと言えば、計画が完了した時、総体的にはそれで結構であるとの神の同意が啓示されたのであって、その時点ですでに完璧ということではなかったのである。

ともかくも宇宙神が認可を下され、更に各神霊がそれぞれの才覚と能力に従って神の意志を反映させていく自由を保証されたということである。

 かくして動物、植物、鉱物のさまざまな種と序列、そして人類の種族と民族的性格とが生まれた。そしていよいよ造化が着手された時、宇宙神は改めて全面的是認を与えた。聖書風に言えば神がそれを〝なかなか結構である〟と仰せられたのである。

 が、造化に直接携わる神霊はいかに霊格が高いとはいえ全知全能の絶対神には劣る。そして宇宙の経綸の仕事はあまりに大きく、あまりに広いが故に僅かな不完全さが造化の進展に伴って大きくなって行った。

それが単純な知能、特に人間の如き低い階層の知能には事さらに莫大にそして巨大に見えたのである。何となれば、小さくそして未発達な知性には善と悪とを等しく見ることが出来ず、むしろ邪悪の方が目に止まりやすく、善なるものが余りに高尚にそして立派に思えて、その意義と威力を掴みかねるのである。

 が、人間が次のことを念頭に置けば、その不完全さの中にも驚異と叡智とが渾然として存在することが容易に納得がいくことであろう。それはこういうことである。海は海洋動物だけのために造られたのではない。空は鳥たちだけのために造られたのではない。

それと同じで、宇宙は人間だけのために創造されたのではないということである。人間は海にも空にも侵入し、そこをわが王国のように使用している。それは一向に構わない。


魚や鳥たちのものと決まってはいないからである。より強力な存在が支配するのは自然の理であり、地上では人間がそれである。人間は自他共に認める地上の王者であり、地上を支配する。神がそう位置付けたのである。

 が、宇宙には人間より更に偉大な存在がいる。そして人間がその能力と人間性の発達のために下等動物や植物を利用する如く、さらに偉大なる存在が人間を使用する。

 これは自然であり且つ賢明でもある。何となれば大天使も小天使も、更にその配下のもろもろの神霊も所詮は絶対神の配下にあり、常に発達と修養を必要としている点は人間と同じだからである。

その修養の手段と中身は、人間との霊格の差に応じて、人間が必要とするものとは本質と崇高性において自ずと差がなければなるまい。人間であろうと天使であろうと、内部に宿す霊力に応じて環境が定まり構成されていく点は同じなのである。

  人間はその点をよく銘記し、忘れぬようにしなければならない。そうすれば自由意志という生得の権利の有難さを一層深く理解することであろう。これは天界のいかなる神霊といえども奪うことは出来ない。かりに出来るとしても敢えて奪おうとはしないであろう。

なぜなら、自由意志を持たぬ人間では質的に下等な存在に成り下がり、向上進化の可能性を失うことになるからである。

 さて、こうした教説を読んで、これでは人間は上級界の神霊が己れの利益のために使う道具に過ぎないのではないかと思う者もいるであろう。が、その考えは誤りである。その理由は今述べたことにある。


すなわち人間は自由意志を持つ存在であり、これより先も常にそうあらねばならぬということである。

 それのみではない。上級界において神に仕える者を鼓舞する一大霊力が〝愛〟であるということもその理由である。彼らを血も涙もなき暴君と思ってはならない。

威力というものを圧力と並べて考えるのは地上での話である。天界に在っては威力は愛の推進力のことであり、威力ある者はその生み出す愛も強力となるのである。

 更に申せば、悪との戦いの熾烈にして深刻な者には、その試練を経た暁に栄光と高き地位(くらい)とが約束されていることを教えてやるがよい。

何となれば、その闘いの中にこそ、人類が天界の政庁における会議への参列を許され、造化の仕事の一翼を担い、開闢(かいびゃく)頭初に定められた方針に沿って全宇宙の救済の大事業に参加する資格の確かな証しが秘められているからである。

その仕事は勇気ある人間ならば喜び勇んで取り組むことであろう。何となれば、その者は次のことくらいは理解するであろうからである。

すなわちその者は高き神霊が天界において携わるのとまさに同じ仕事に、この地上において、そしてその者なりの程度において携わっているということである。そうと知ればさぞ心躍ることであろうし、意を強くすることであろう。

 更に又、その者の仕事は吾々の仕事と一つであり、吾らの仕事がすなわちその者の仕事であることを知り、互いに唯一の目的すなわち地上の全生命、全存在の向上へ向けて奮闘していることを知れば、イザという時に思慮深く適度な謙虚さと素直な信頼心を持って援助を求めれば、吾々はすぐにそれに応ずる用意があることに理解がいくことであろう。

吾々はそういう人間──悪との闘争の味方であり宇宙の最前線における同志──を援助することに最大の喜びを覚えるからである。

 この真理の大道を惜しくも踏み外せる者たちのその後の見るも哀れな苦しみは、吾々が貴殿より多く見ている。が、吾らは絶望はしない。この仕事の意義と目的とが貴殿たちより鮮明に見えるからである。

その視野から眺めるに、人間も何時の日かそれぞれの時を得てこの高き霊界へと至り、恵まれた環境の中にて更に向上し続けることであろう。

その時はその者たちも修身の道具として今吾々が使用している人材──その者たちが今その立場にあるのだが──を使用することになるであろう。その時は他の人間が現在のその者たちの立場にあり、その者たちが指導霊の立場にまわることであろう。

 キリストはかく述べている──〝悪に勝てる者はわが座位(くらい)に列することを許さん。わが勝利の時、父と共にその座位に列したる如くに〟(黙示録3)と。心するがよい。神の王国は強き者のものであるぞ。首尾よく悪を征服せる者にして始めてその地位を与えられるであろう。

 以上である。この度はこれにて終わりとする。が、これはこの程度のメッセージにてはとても尽くせぬ大きな問題である。神の許しがあれば、いつか再び取り上げるとしよう。

 では健闘と無事を祈る。強くあれ。その強さの中より優しさがにじみ出ることであろう。吾々の界においては最も強い者こそ最も優しくそして愛らしさに満ちているものである。

このことを篤と銘記されたい、そうすれば人間を惑わす数々の問題が自ずと解けることであろう。躓(つまず)くことのなきよう、神の御光が常に貴殿の足元を照らし給わんことを祈る。 ♰