Friday, July 24, 2026

シルバーバーチの教え(下)

 Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)




21章 青年牧師との論争

〔ある時、キリスト教メソジスト派の年次総会がウェストミンスター寺院のセントラルホールで開かれ、報告や活発な討論がなされた。その合間に牧師たちの会話の中で、スピリチュアリズムのことがしきりにささやかれた。


そこに参加していてスピリチュアリズムに関心を抱いた一人の青年牧師が、ハンネン・スワッファーのもとを訪れ「交霊会というものに一度出席させてもらえませんか」と頼んだ。知的な風貌の好青年で、人徳を備えていることが一目で分かる。が、スピリチュアリズムに対する予備知識としては、コナン・ドイルの『The New Revelation』を読んだだけだと言う。

スワッファーは次のように述べた。

「明晩の交霊会にご出席ください。その会ではシルバーバーチと名乗る霊が、入神した霊媒の口を借りてしゃべります。その霊と存分に議論なさるがよろしい。納得のいかないところがあれば反論し、分からないところは遠慮なく質問なさることです。その代わりあとで他所(よそ)へ行って、十分に議論をさせてもらえなかった、などと不平を言わないでいただきたい。聞きたいことは何でも質問なさってけっこうです。その会の記録はいずれ活字になって発行されるでしょうが、お名前は出さないことにしましょう。そうすればケンカになる気遣いも要らないでしょう。もっとも、あなたの方からケンカを売るなら別ですが……」

翌日、約束通りその牧師が訪れた。そして、いつものようにシルバーバーチの祈りの言葉で交霊会が始まった。〕


訳注――その日の招待客についてはシルバーバーチは知っているが、霊媒のバーバネルは知らない、というよりは、意図的に知らせないことにしていた。予備知識があるとその想念が霊言の邪魔になることがあることを経験で知っていたからである。

バーバネルはグラス一杯の水を飲んでからメガネを外し、瞑目する。やがていびきのような息づかいとなり、容貌が変化して、例の肖像画で見るインディアンに似てくる。何やらもぐもぐと独り言をつぶやいた後、「用意ができました。始めてよろしいでしょうか」と言うと、列席者たちが口々に「ようこそお出でくださいました」と言う。そしてインボケーションという、会の成功を祈る言葉で開会となる。


「大霊のインスピレーションが皆さん方すべてに宿り、大霊の御心(みこころ)に応えることができますように。皆さん方一人ひとりが、大霊の一部であることを感じ取ることができますように。そして、どこへ行くときも大霊の御心を携え、接するすべての人々にそれを身をもって示すことができるように祈ります。」

以下は、その牧師とシルバーバーチとの議論である。まず、シルバーバーチの方から牧師にこう語りかけた。


「この霊媒(バーバネル)には、あなた方の言う“聖霊の力”がみなぎっています。その力がこうして語らせてくれるのです。私はあなた方の言う“復活した霊”の一人です。」

青年牧師との議論は、次の質問から始まった。

牧師「死後の世界とは、どういうところですか。」


「あなた方の世界と実によく似ています。ただし、こちらは結果の世界で、そちらは原因の世界です。」


訳注――宇宙の創造過程から言えば霊界が原因の世界で地上は結果の世界であるが、ここではシルバーバーチは因果律の観点から述べており、地上で蒔いた種は死後に刈り取るという意味。

牧師「死に際して恐怖感はありましたか。」


「いいえ、ありません。私たちインディアンは霊感が発達していて、死が恐ろしいものではないことを知っていました。あなたが属しておられる宗派の創始者ウェスレーも同じです。あの方も霊の力に動かされておりました。そのことはご存じですね?」


訳注――メソジスト派というのはジョン・ウェスレーという牧師が主唱し、弟のチャールズとともに一七九五年に国教会から独立して創立したキリスト教の一派で、ニュー・メソッド、つまり新しい方式を提唱したことから「メソジスト」という名称がある。ウェスレーの屋敷では不思議な霊現象がひんぱんに起きたことが有名で、「霊の力に動かされていた」というのは霊感が鋭かったという意味である。

なお、シルバーバーチは霊界の霊媒であるインディアンの立場に立って「私」とか「私たち」という言い方をしているが、本来のシルバーバーチは三千年前に地上生活を送ったことがあるということ以外、地上時代の氏名も国籍も民族も分かっていない。そういうことにこだわるのは人間の悪趣味として、六十年間、ついに明かさなかった。

牧師「はい、知っています。」


「しかし、現在の聖職者は霊の力に動かされてはおりません。すべては大霊の導きの中にあり、途切れることのない鎖で大霊とつながっています。あなた方の世界で最も低い人間も、高級界の天使とつながっています。どんなに悪い人間も、あなた方の言う神、すなわち大霊と結ばれているのです。」

牧師「死後の世界でも互いに認識し合えるのでしょうか。」


「地上ではどのようにして認識し合いますか。」

牧師「目です。目で見ます。」


「でも、あなたは肉体の目で見ているのではありません。心で見ているのです。」

牧師「はい、私は私の心で見ています。それは霊の一部だと思います。」


「私も霊で見ています。私にはあなたの霊も見えるし肉体も見えます。しかし肉体は影にすぎません。光源は霊です。」

牧師「地上での最大の罪は何でしょうか。」


「数多くの罪がありますが、最大の罪は神への反逆です。」

ここでメンバーの一人が、「それについて具体的に教えてあげてください」と言う。するとシルバーバーチは、「神の存在を知りながら、神の意思に背く生き方をすることです。それが最大の罪です」と付け加えた。

さらに別のメンバーが、「キリスト教ではそれを“聖霊に対する罪”と呼んでいます」と言うと、「例の本(バイブル)ではそう呼んでいますが、要するに霊に対する罪です」とシルバーバーチが答えた。

牧師「改訳聖書をどう思われますか。欽定訳聖書と比べて、どちらがよいと思われますか。」


「言葉はどうでもよろしい。いいですか、大切なのはあなたの行いです。大霊の真理は、バイブルだけでなく他のいろいろな本に示されています。どこであろうと、誰であろうと、大霊のために奉仕しようとする人の心には真理があるのです。それこそが最高のバイブル(神の教え)なのです。」

牧師「改心しないまま他界した人はどうなりますか。」


「改心とはどういう意味ですか。もっと分かりやすい言葉で言ってください。」

牧師「ある人は悪い行いをしたまま他界し、ある人は正しい生き方をしようと改心してから他界しました。この場合、両者には死後の世界でどのような違いが生じるのでしょうか。」


「あなた方の本(バイブル)から引用しましょう。蒔いた種は自分で刈り取るのです。これは変えることができません。あなたは、今のあなたをそのまま携えてこちらへまいります。自分で思っているようなあなたではなく、人に見てもらいたいと思っているあなたでもない、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへまいります。あなたもこちらの世界へお出でになれば、本当の自分について分かるようになります。」

そう述べてからシルバーバーチは、「この人には心眼がありますね」とスワッファーに言った。スワッファーが「霊能があるという意味ですか」と聞くと、「そうです。なぜ連れてきたのですか」と尋ねた。「いえ、彼の方から訪ねてきたのです」と答えると、「この方は着実に導かれています。少しずつ光明が示されることは間違いありません」と述べた。

それから牧師に向かって「インディアンがあなた方のバイブルのことをよく知っていて驚かれたでしょう?」と言うと、牧師は「本当によくご存じです」と答えた。するとメンバーの一人が、「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えした。牧師はすかさず年代を計算して「ダビデをご存じでしたか」と尋ねた。ダビデは紀元前一千年頃のイスラエルの王である。シルバーバーチが答えた。


「私は白人ではありません。レッド・インディアンです。米国北西部の山の中で暮らしていました。あなた方がおっしゃる野蛮人です。しかし、私はこれまで西洋人の世界に、三千年前の我々インディアンよりもはるかに多くの野蛮で残忍な行為と、無知とを見てきました。物質的な豊かさにおいて自分たちよりも劣る民族に対して今なお白人が行っている残虐行為は、神に対する最大の罪の一つと言えます。」


訳注――シルバーバーチがインディアンを霊界の霊媒として使用したことには、インディアンが霊的能力において発達しているからという理由とは別に、この一節に如実に表れているように、白人至上主義の思想と白人文化の愚かさを知らしめる意図が隠されている。

牧師「そちらへ行った人々は、どのようなことを感じるのでしょうか。強い後悔の念を抱くようなこともあるのでしょうか。」


「いちばん残念に思うのは、やるべきことをやらないで終わったことです。あなたもこちらへお出でになれば分かります。きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのに怠ったこと、そうしたことがすべて分かります。逃してしまったチャンスがいくつもあったことを知って後悔するのです。」

牧師「キリストヘの信仰をどう思われますか。神はそれを良しとなさるでしょうか。キリストへの信仰は、キリストの行いに倣(なら)うことだと思うのですが……」


「“主よ、主よ”と口にすることが信仰ではありません。大切なことは実際の行為であり、それがすべてです。何を語るか、何を信じるかは問題ではありません。もし、あなたが何ひとつ信仰というものを持っていなくても、落ち込んでいる人を励まし、飢えている人にパンを与え、暗闇の中にいる人の心に光を灯してあげるなら、神の御心に適う行いをしたことになるのです。」

ここで出席者の一人が「イエスは神の一部なのでしょうか」と尋ねると、シルバーバーチは次のように答えた。


「イエスは地上に降誕した偉大な指導者でした。しかし当時の民衆はイエスの教えに耳を傾けず、十字架にかけてしまいました。それどころか、今なお十字架にかけ続けています。すべての人間に神の分霊(神性)が宿っていますが、イエスは他の人々よりも、はるかに多くの神性を発揮しました。」

牧師「キリストが地上で最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それほどの人物が嘘を言うはずはありません。キリストは言いました――“私と父とは一つである。私を見た者は父を見たのである”と。この言葉は、キリストがすなわち神であることを述べたものではないでしょうか。」


「もう一度、バイブルを読み返してごらんなさい。“父は私よりも偉大である”と言っているでしょう。」

牧師「はい、言っています。」


「またイエスは、“天にまします我らが父に祈れ”と言っていないでしょうか。“私に祈れ”とは言っておりません。父に祈れと言ったイエス自身が、天にまします我らが父であるはずはないでしょう。“父に祈れ”と言ったのであって、“私に祈れ”とは言っておりません。」

牧師「キリストは“あなた方の神”と“私の神”という言い方をしています。“私たちの神”とは決して言っていません。ご自身を他の人間と同列には置いていません。」

それを聞いてシルバーバーチは、次のように繰り返した。


「イエスは、“あなた方の神と私”とは言っておりません。“あなた方は私よりも大きな仕事をするでしょう”と言っております。

あなた方クリスチャンは、バイブルを読む際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をしますが、それをやめないといけません。霊に照らして解釈しなくてはいけません。霊こそが、宇宙のすべての謎を解くカギなのです。イエスが譬え話を用いたのは、そのためです。」

牧師は、「神は地上世界を愛するがゆえに唯一の息子を授けた」という聖書の言葉を引用して、イエスが神の子であるとするキリスト教の教義を弁護しようとした。

するとシルバーバーチは、「イエスはそんなことは決して言っておりません。イエスの死後何年も経ってから、例のニケーア会議でそれがバイブルに書き加えられたのです」と述べた。

牧師「ニケーア会議?」

「西暦三二五年に開かれております」と、シルバーバーチは即座に答えた。

牧師「でも、私が今引用した言葉は、それ以前からある“ヨハネ福音書”に書かれています。」


「どうしてそれが分かりますか。」

牧師「歴史書にそう書いてありますが……」

「どの歴史書ですか」と、シルバーバーチは重ねて尋ねた。

牧師「はっきりとは言えません。」


「ご存じのはずはありません。バイブルというものが書かれるその元になった書物は、いったいどこにあると思いますか。」

牧師「“ヨハネ福音書”それ自体が原典です。」


「いいえ、それよりもっと前の話です。」

牧師「バイブルは西暦九十年に完成しました。」

「バイブルの原典となったものは、今どこにあると思いますか」と、シルバーバーチは迫った。

牧師は、「いろいろな文書があります」と言って、例として一つを挙げた。


「それらは原典の写しです。原典はどこにありますか。」

牧師がこれに答えられずにいると、シルバーバーチは次のように続けた。


「バイブルの原典は、ご存じのバチカン宮殿に仕まい込まれたまま一度も外に出されたことはありません。あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典のコピーのコピーの、そのまたコピーにすぎません。そのうえ、原典にないことまでいろいろと書き加えられています。

初期のキリスト教徒は、イエスがすぐに再臨すると信じていました。そのためイエスの地上生活の詳細について、誰も記録しませんでした。ところが、いつになっても再臨しないため、ついに諦めて記憶をたどりながら書き記すことになったのです。“イエス曰(いわ)く……”と書いてあっても、実際にイエスがそう言ったかどうかは分かりません。」

牧師「でも、四つの福音書にはその基礎となった、いわゆる“Q資料(イエス語録)”の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。主な出来事は、その四つの福音書に述べられていると思うのですが……」


「私は、そうした出来事がまったくなかったと言っているのではありません。ただ、バイブルの記述のすべてが、本当にイエスの言葉とは限らないと言っているのです。バイブルの中には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用がずいぶん入っていることを忘れてはなりません。」

牧師「記録に残っていない口伝(くでん)のイエス語録が出版されようとしていますが、どう思われますか。」


「イエスの関心事は、自分がどんなことを言ったかというようなことではなく、地上のすべての人間が神の御心を実践することです。人間はあまりにも教え(聖書の言葉)に関心を寄せ、行いを疎(おろそ)かにしています。“福音書”なるものの説教の場には、大霊の真理に飢えた人たちが集まっています。そうした人々にとって重要なことは、単なるイエスの言葉ではなく、その教えに基づくあなたの生き方です。あなた自身の生き方を、手本として示すことです。

地上世界は教えでは救われません。いくら長い教えを説いても、それだけでは救われません。大霊の子供たちが、親なる大霊の御心を鎧(よろい)として、暗黒と弾圧の勢力に戦いを挑むことです。魂を束縛するすべてのものに立ち向かうことによって初めて、地上世界は救われるのです。それが、記録に残されていないイエスの言葉よりも大切なことなのです。」

牧師「この世には、なぜ多くの苦しみがあるのでしょうか。」


「大霊の摂理は、苦しみを通してしか悟ることはできません。苦しみという厳しい試練を経て初めて、あなた方の世界を支配している大霊の摂理を理解することができるのです。」

牧師「苦しみがない人が大勢いるようですが……」


「あなたは神に仕える身です。大切なのは“霊”に関わることであって、“肉体”に関わることではないことを理解しなければなりません。霊の苦しみの方が肉体の苦痛よりも耐えがたいものです。」

メンバーの一人が「現行の制度は不公平であるように思います」と言うと、シルバーバーチは次のように答えた。


「地上人生で起きるすべてのことは、いつの日か必ず帳尻が合うようになっています。いつかは自分で天秤(てんびん)を手にして、バランスを調節する日がまいります。あなた方は、自分が蒔いた種を自分で刈り取るという自然法則から逃れることはできません。軽い罰で済んでいる人がいるかにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたは魂を見抜くことができないために、そう思うのです。

私が認めているのは大霊の法則だけです。人間の法律は認めていません。人間がつくった法律はいつかは改めなければなりませんが、大霊の法則には決してその必要はありません。地上に苦難がなければ、人間は正していくべきものへ注意を向けることができません。すべての苦しみや痛みや邪悪は、大霊の分霊であるあなた方人間が、いかにしてそれを克服していくかを学ぶためにあるのです。

もしも苦難を乗り越えるための努力を怠っているとしたら、あなた方を地上に誕生させた大霊の意図を理解していないことになります。宇宙の始まりから終わりまで、すべてを法則によって支配している大霊に従わずに、誰が文句を言うことができるでしょう。」

牧師が「霊の世界ではどんなことをなさっているのですか」と尋ねると、シルバーバーチはそれには答えず、「あなたはこの世でどんなことをしていますか」と問いかけた。すると牧師は「それは、その、いろいろな本を読んだり……、それによく説教もします」と口ごもって答えた。それに対してシルバーバーチは、「私もよく本を読みます。それに今は、こうして重要な説教をしています」と言った。

牧師「私は英国中を回らなくてはなりません。」


「私は霊の世界を回らなくてはなりません。私は、霊的な準備が何もなされないままこちらへ送り込まれてきた人間がいる暗黒界へも下りていかなければなりません。それにはずいぶん手間がかかります。あなたに自覚していただきたいのは、あなたはとても重要な立場に立っていらっしゃるということです。神に仕える身でありながら、本来の責務を果たしていない人たちがいます。彼らは教会の壇上から、まったく意味のない長たらしい説教をしています。

しかしあなたが、自らを神に委ね、神の貯蔵庫からインスピレーションを受けるために魂の扉を開くなら、あなたの魂は古(いにしえ)の預言者たちを鼓舞したのと同じ霊力によって満たされます。あなたはその仕事を通して、人生に落胆し、地上の片隅で疲れ果てている人々の心を明るく照らす光をもたらすことができるのです。」

牧師「そうであるなら嬉しいのですが……」


「いいえ、そうであるならではなくて、事実そうなのです。私はこちらの世界で、後悔している多くの牧師に会っています。彼らは地上人生を振り返り、自分が霊のメッセージを説いてこなかったこと、バイブルの言葉や教義だけにこだわって実践を疎かにしてきたことを後悔しているのです。彼らは、できればもう一度地上へ戻りたいと望んでいます。私は彼らに、地上にいるあなたのような人たちの心をいかにして鼓舞するかを示しています。そうした人たちに働きかけることによって、大霊の新しい真理が再び地上にもたらされるようになるからです。

あなたは、今まさに崩れつつある世界に身を置いていることを自覚しなければなりません。新しい秩序による世界、真の意味での天国が到来する時代の幕開けを見ているのです。その誕生には、痛みと苦しみと涙がともなうことでしょう。しかし最後には、大霊を中心とした世界が築かれるようになります。あなた方一人ひとりが、その新しい世界を招来する手助けができるのです。なぜならすべての人間は大霊の分霊であり、大霊の仕事の一翼を担うことができるからです。」

青年牧師にとって初めての交霊会も終わりに近づき、シルバーバーチはその場を去る(霊媒から離れる)前に次のように述べた。


「私は、あなたが説教をする教会へ一緒にまいります。あなたは、ご自分が本当に良い説教をしたとき、これが霊の力だと自覚なさるでしょう。」

牧師「私はこれまでも、大いなる霊力を授かるように祈ってまいりました。」

「あなたの祈りは、きっと叶えられるでしょう」とシルバーバーチは答えた。

以上で一回目の議論が終わり、改めて二回目の議論の機会がもうけられた。その内容を紹介する。

「地上の人間にとって、聖別された完璧な生活を送ることは可能でしょうか。すべての人間を愛することは可能なのでしょうか」――これが二回目の交霊会で、牧師が最初にした質問だった。


「いいえ、それは不可能なことです。しかし、そのように努力することはできます。すべての努力は、あなたの人間性を形成するうえで、とても重要です。決して怒ることもなく、敵意を持つこともなく、かんしゃくを起こすこともないなら、あなたはもはや人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的として地上に生まれてくるのです。成長また成長と、どこまでも成長の連続です。それは地上だけでなく、こちらへ来てからも同じです。」

牧師「イエスは“天の父が完全であるようにあなた方も完全であれ”と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか。」


「完全であるように努力しなさい、と言っているのです。それが地上で目指すべき理想であり、内部に宿る神性を発揮する生き方なのです。」

牧師「今引用した言葉はマタイ伝第五章の最後の一節です。イエスは普遍的な愛について述べたあとで、その一節を述べています。またイエスは“ある者は隣人(身近な人)を愛し、ある者は友人を愛するが、あなた方は完全であれ。神の子なればなり”とも言っております。神は全人類を愛してくださるのだから、私たちもすべての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じると思われますか。」

この質問に、シルバーバーチは驚いたように答えた。


「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさりたいのですね。お聞きしますが、イエスは、地上で完璧な人生を送ったと思いますか。」

牧師「はい、完璧な人生を送ったと思います。」


「一度も腹を立てたことはなかったとお考えですか。」

牧師「当時行われていたことには、うんざりしていたと思います。」


「一度も腹を立てたことはなかったと考えておられるのですか。」

牧師「腹を立てるのは悪いことである、という意味で怒ったことはないと思います。」


「そんなことを聞いているのではありません。私は、イエスが腹を立てたことは絶対になかったのか、と聞いているのです。イエスが腹を立てたことは正当だったかどうかを聞いているのではありません。あなた方(クリスチャン)は、何でも正当化なさるんですから……」

ここでメンバーの一人が、イエスが両替商人を教会堂から追い出したときの話を持ち出した。するとシルバーバーチが続けた。


「私が言いたかったのはそのことです。あのときイエスは、教会堂という神聖な場所を汚す人間に本当に腹を立てたのです。ムチを持って彼らを追い払ったのです。それは怒りそのものでした。私は、イエスの怒りが良いとか悪いとか言っているのではありません。イエスは怒ったのです。怒りは人間の激情です。私が言いたいのは、イエスも人間的性質(要素)を持っていたということです。あなた方がイエスを人間の模範として仰ぐとき、イエスもまた一人の人間であった――ただ普通の人間よりも大霊の意図をはるかに多く体現した人間だった、と考えなければなりません。分かりましたか。」

牧師「はい、分かりました。」


「私は、あなたのためを思って言っているのです。誰の手も届かないような高い所に祭り上げたら、イエスが喜ぶと思うのは間違いです。イエスもやはり我々と同じ人の子だったと見る方が、よほど喜ばれるはずです。自分だけが超然とした位(くらい)につくようなことは、望んではおられません。人類と共にあることを願っておられるのです。イエスは人間としての生き方の手本を示しているのであり、それは誰にでも実行できることなのです。イエスをそんなに高いところへ祭り上げてしまったなら、誰も付いていくことはできません。それではイエスの地上人生は無駄になってしまいます。」

話題が変わって――

牧師「人間には自由意志があるのでしょうか。」


「はい、あります。自由意志は大霊の摂理です。」

牧師「時として人間は、抑えようのない衝動によって行動することがあるとは思われませんか。そう強いられているのでしょうか。それともやはり自由意志で行っているのでしょうか。」


「あなたはどう思われますか。」

牧師「私は、人間はあくまでも自由意志を持った行為者だと考えます。」


「すべての人間に自由意志が与えられています。ただしそれは、大霊が定めた摂理の範囲内で行使しなければなりません。摂理は大霊の愛から造られたものであり、子供たちのすべてを平等に支配しています。それを変えることは誰にもできません。あなた方は、摂理の範囲内において自由であるということです。」

牧師「もし私たちが自由であるなら、罪は恐ろしいものです。悪いと知りつつ犯すことになりますから、強いられる場合よりも恐ろしいことに思えます。」


「私に言えることは、いかなる過ちも必ず正さなくてはならないということです。もし地上で正さなかったなら、こちらへ来てから正さなくてはなりません。」

牧師「道に外れたことをしがちな傾向を、先天的に強く持った人がいるとは思われませんか。善を行いやすい人間と、そうでない人間とがいます。」


「それは、とても難しい質問です。なぜなら、それぞれの人間に自由意志があるからです。あなた方は悪いことをするとき、内心ではそのことに気づいているものです。自分の良心を無視するか否かは、それまでに培ってきた人間性によります。罪は、それがもたらす害悪の程度に応じて重くも軽くもなります。」

これを聞いて牧師がすかさず反論した。

牧師「それは罪が精神的なものであるという事実と矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります。」


「罪は罪です。身体で犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、すべてが罪です。あなたは先ほど、人間は衝動的に罪を犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこからくると思いますか。」

牧師「思念からです。」


「思念はどこからきますか。」

少し躊躇(ちゅうちょ)してから、「善なる思念は神からきます」と牧師が答えた。


「では、悪なる思念はどこからきますか。」

牧師「分かりません。」


訳注――キリスト教では交霊会に出現する霊は皆、悪魔の手先であると決めつけているので、本来ならこの牧師も「悪魔からきます」と答えるところであるが、二度の体験ですでにそうでないことに気づいているので「分かりません」という返答になった。シルバーバーチは、キリスト教の最大の欠陥である善神と悪神の二元論の矛盾を厳しい語調で突いている。


「大霊は、すべてのものに宿っています。間違ったことにも正しいことにも宿っています。太陽の光にも嵐にも、美しいものにも醜いものにも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも宿っているのです。美しいものや善なるものだけでなく、罪や悪にも宿っているのです。

あなたは、大霊は限定できるようなものではないことをご存じでしょうか。全宇宙が大霊の創造物であり、あらゆる所にその霊が行きわたっているのです。どのようなものであれ、その一部を切り取って“これは大霊のものではない”と言うことはできません。太陽の光は神の恵みであって、作物を台なしにする雨は悪魔の仕業とは言えないのです。神は、すべてのものに宿っています。

あなた方は、思念を受け取ったり送ったりする道具のようなものです。しかし、どのような思念を受け取るかは、あなたの人間性と霊性によります。もしあなたが、あなたの言う“完全な人生”を歩んでいるなら、あなたは完全な思念だけを受け取ることになるでしょう。しかし、あなたも人間である以上、魂と精神の能力に応じてさまざまな思念を受け取っています。私の言っていることがお分かりですか。」

牧師「おっしゃる通りだと思います。では、悪事を行い善行を怠ってきた人間が、死に際になって自分の非を悟り、“信ぜよ、さらば救われん”の一句を受け入れ、キリストを信じると公言して安らぎを得ようとするのをどう思われますか。キリスト教の“回心の教義”をどう思われますか。」

シルバーバーチは即座に答えた。


「あなたもよくご存じの一節を、聖書の中から引用しましょう。“たとえ全世界をもうけても、自分の命を損したら何の得になろうか”“まず神の国と神の義とを求めよ。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう”――これは、あなた方がよくご存じの言葉ですが、果たしてその意味を理解していらっしゃるでしょうか。それが真実であること、その言葉通りになること、それが神の摂理であることを理解していらっしゃいますか。“神は侮(あなど)られるような方ではない。人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる”――これもよくご存じでしょう。

神の摂理は絶対にごまかせません。生涯、自分を人のために役立てるチャンスを無視してきた人間が、死に際の回心でたちまち立派な霊になれると思いますか。霊体にまで染み込んでいる悪行(罪)のすべてを、一瞬にしてかき消すことができると思いますか。大霊の目から見たとき、人生を大霊と人々のために送ってきた人間と、霊的義務を怠ってきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。“すみませんでした”の一言ですべての過ちが赦(ゆる)されるとしたら、神の摂理は公正と言えるでしょうか。いかがですか。」

牧師「私は、神はキリストを心の避難所にしたのだと思います。イエスは言いました……」

ここでシルバーバーチが遮(さえぎ)って言った。


「私はあなたの率直な意見をお聞きしているのです。聖書の言葉を引用しないで、率直に答えてください。イエスが何と言ったか、私には分かっています。あなた自身はどう思っているのですか。」

牧師「公正ではないと思います。しかし、そこに神の偉大なる愛があると思うのです。」


「この通りを行くと、人間の法律を管理している建物があります。もしその法律によって、生涯を善行に励んできた人間と罪を犯し続けてきた人間とが平等に扱われたなら、あなたはその法律を公正だと思いますか。」

牧師「私は、生涯まっすぐな道を歩み、すべての人を愛し、正直に生き、死ぬまでキリストを信じ続けた人のことなど言ってはいません。私は……」

ここでシルバーバーチが再び遮って言った。


「“自分が蒔いた種は、自分で刈り取る”――あなた方は、この摂理から逃れることはできません。神の摂理をごまかすことはできないのです。」

牧師「では、悪行のかぎりを尽くした人間が今まさに死にかけているとしたら、罪を償わなければならないことを、その人間にどう説いてやればよいのでしょうか。」


「もしもその人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿しているなら、それまでの過ちを正したいという気持ちになるはずです。ですから、その人にこう伝えてください。“自分の犯した過ちの報いから逃れたいという思いがあるなら、あなたは真の人間ではありません。ただの臆病者です”と。」

牧師「しかし、罪を告白するという勇気ある行為は、誰にでもできるというものではないと思いませんか。」


「それは正しい方向への第一歩にすぎません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は自由意志で、善ではなく悪をなす道を選んだのです。悪行が招いた結果から逃れることはできません。間違いは正さなければなりません。告白によって罪を消し去ることができると思うのは、自分に対するごまかしにすぎないのです。蒔いた種は自分で刈り取らなければなりません。それが神の摂理なのです。」

牧師「しかし、イエスは言っておられます――“重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう”と。」


「もしその人が“文字は人を殺し、霊は人を生かす”という言葉を知っていたなら、あなた方(聖職者)が聖書の言葉を引用して、これは文字通りに受け入れなければならないと説くことはできません。聖書の中には、あなた方が今日、実行していないことがいくらでもあるからです。私の言っていることがお分かりでしょう。」

牧師「イエスは“善い羊飼いは羊のために命を捨てる”と言いました。私は常に“赦し”の教えを説いています。キリストの赦しを受け入れ、キリストの力が自分の人生を支配していることを暗黙のうちに認めるなら、その人生は神に大きな愛を捧げることになると思うのです。」

ここでシルバーバーチは話を本題に戻した。


「神は人間に“理性”という神性の一部を植え付けられました。私はあなた方に、その理性を使ってほしいのです。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白することで心の安らぎは得られるかもしれませんが、“罪を犯した”という事実は変えられません。神の摂理に照らしてその歪(ゆが)みを正すまでは、罪はそのまま残っています。それが大霊の摂理なのです。イエスが語ったという言葉をいくらバイブルから引用しても、摂理を変えることは絶対にできません。

前にも言いましたが、バイブルの中にある言葉のすべてがイエスによって語られたものではなく、その多くは後世の人間が書き加えたものです。“イエスがこう語った”と言っても、あなた方がそう思っているだけのことです。私があなた方に知ってほしいのは、イエスをあの偉大な人物へと導いたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じ大霊の力が、今も働いているということです。もしあなた方が、大霊からもたらされるものを受け入れようと心を開くなら、それらを自分のものにすることができるのです。

あなた方は大霊の一部です。大霊の愛と力のすべて、深遠なる叡智と知識と真理のすべてが、あなた方を待っているのです。神を求めて二千年前まで遡(さかのぼ)る必要はありません。神は今、ここにおられるのです。イエスの時代における神と同じ神が、同じ力を持って今、ここに存在しておられるのです。

大霊の真理と霊力の通路となるべき道具(霊媒・霊能者)は、ほとんどいません。あなた方キリスト教徒はなぜ、二千年前のたった一人の人間に頼るのですか。神に仕えるあなた方はなぜ、イエスと同じインスピレーションを受けることができないのでしょうか。なぜ、イエスの言葉に戻ろうとされるのですか。」

牧師「私は、私の中にいるキリストの御業(みわざ)について説いています。インスピレーションを得ることは可能だと信じています。」


「あなた方はなぜ、全知全能の神を、イエスという一人の人間と一冊の書物に閉じ込めようとするのですか。大霊のすべてを、一人の人間、あるいは一冊の書物で表現できると考えているのですか。私はクリスチャンではありません。私は、イエスよりもはるか昔に地上に生を享けた者です。その私は、神の平安に包まれるという恩恵に浴することは許されなかったということでしょうか。

あなたは、神のすべてを一冊の書物のわずかなページで表現できると思いますか。その一冊の書物が完成したときを最後に、神は子供たちにインスピレーションを授けることをやめたと考えるのですか。バイブルの最後のページをめくったとき、神の霊力が終わったとでも言うのでしょうか。」

牧師「そうであって欲しくないと思っています。私は時おり、何かに鼓舞されるのを感じることがあります。」


「あなたもいつか、天におられる父のもとに帰り、今地上で磨きつつあるあなたに相応しい場所に住むことになります。神に仕えるあなたに分かっていただきたいのは、被造物のすべてに宿る神を、制約することはできないということです。悪徳の塊(かたまり)のような犯罪者であっても、地上で聖人と仰がれる人間と同じように神と結ばれているのです。

あなた方一人ひとりに大霊が宿っています。もしあなたが、内在する大霊を顕現させようとして心を開くなら、大霊はあなたを通じて霊力と啓示をもたらすことでしょう。それによってあなたのもとを訪れる人々の心に、大霊の光と安らぎが与えられることになるでしょう。」

牧師「今日まで残っている唯一のカレンダーがキリスト暦(西暦)であるという事実をどう思われますか。」


「誰がそんなことを言ったのでしょう。あなたは、ユダヤ民族のカレンダーについて聞いたことはないでしょうか。多くの国ではいまだに、その国の宗教の発生とともにできたカレンダーを使用しています。

私はイエスを軽んじるつもりはありません。今、イエスがなさっている仕事について知っていますし、ご自身は神として崇められることを望んでおられないことも知っています。イエスの人生の価値は、人間が模範とすべきその生き方にあります。イエスという一人の人間を崇拝することをやめないかぎり、キリスト教は神のインスピレーションに恵まれることはないでしょう。」

牧師「いつ、キリストの誕生日を西洋暦の始まりと決めたのか分からないのです。ご存じでしょうか。」


「そんなことよりも、私の話を聞いてください。数日前のことですが、このサークルのメンバーの一人が(イングランド)北部の町へ行き、大勢の神の子供たちとともに過ごしました。高い身分の人たちではありません。とても厳しい肉体労働で生計を立てている人たちです。彼らは炭鉱労働者で、仕事が終わるとわずかばかりの賃金をもらいます。彼らは、キリスト教文明の恥辱(ちじょく)ともいうべき貧民収容施設に住んでいます。

同じ町には、あなた方が“神の館”と呼んでいる大聖堂があります。それは高くそびえていますから、太陽が照ると貧しい人々が住む家はその影に入ってしまいます。大聖堂がなかったときよりも、ずっと暗くなってしまいます。これでよいと思われますか。」

牧師「私はそのダーラムにいたことがあります。」


「知っています。だからこそ、この話をしているのです。」

牧師「あのような施設で暮らさなければならない人たちのことを、とても気の毒に思っています。」


「そうした状況を、イエスが喜ばれると思いますか。あのような施設に住み、辛い労働を強いられ、わずかな賃金しか得られない人々がいる一方で、お金にまったく不自由しない人々がいるのです。それなのにイエスは、カレンダーのことなどに関わっていられると思いますか。あのような生活を余儀なくさせられている人が大勢いるというのに、どうでもいいカレンダーのことや大聖堂のための資金やバイブルのことに関わっていられるとでも思われますか。イエスの名を使用し続け、キリスト教国と呼ばれているこの国に、そんな恥ずべき事態の発生を許しているキリスト教というものを、あなた方クリスチャンはいったいどのように考えているのでしょうか。

先ほど教典のことで(改訳版と欽定訳版のどちらがよいかと)質問されましたが、宗教にはそんなことよりも、もっと重要な務めがあるはずです。神はその恩寵(おんちょう)を、すべての子らに分け与えたいと望んでおられることが分かりませんか。世界には飢えに苦しむ人がいる一方、彼らが生きていくために必要なものを捨てている人たちもいます。クリスチャンがこうしたことをしているのに、あなたはキリスト教を語ることができますか。

私は、あなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私はイエスが涙を流しておられるのを見たことがあります。多くのクリスチャンや聖職者たちが、教会の陰で進行している恥ずべき事態に目をつぶっているのをご覧になるからです。その日の糧にすら事欠く神の子が大勢いるというのに、神の館として建てた教会を宝石やステンドグラスで飾り、自慢しているのを見て、あなたはどうして満足することができるのでしょう。

一日の糧も十分に得られない人々のほとんどは、わずかな賃金を手にするために一日中働き続け、時には夜を徹して働いています。それなのに、疲れた身体を横たえるまともな場所もないのです。

あなたを非難しているのではありません。私はあなたを大きな愛で包んでいます。お役に立つなら、どんなことでもしてあげたいと思っています。私は霊界の人間です。あなたのように、間違いを改め、正しいことのために立ち上ってくれる人と語り合うチャンスは非常に少ないのです。

あなたに理解していただきたいのは、バイブルの言葉を云々するよりも、もっと大切なことがあるということです。“主よ、主よ”と叫ぶ者が敬虔(けいけん)なのではなく、神の意思を実践する者こそが敬虔なのです。それをイエスは二千年前に教えています。それなのにあなた方はなぜ、神の意思を実践することがいちばん大切であることを、人々に説けないのでしょうか。大切なのは何を信じるかではなく、何を為すかです。

戦争、不正行為、飢餓、貧困、失業――こうしたことを黙認しているかぎり、キリスト教は失敗であり、イエスを模範としていないことになります。

あなたは(メソジスト派の)総会から抜け出てこられました。過去一年間、メソジスト教会の三派が合同で行事を進めてきましたが、神の摂理に反している汚点を拭うために協力しないかぎり、そんなことをしても無意味です。私は率直に申し上げておきます。誤解されては困るからです。」

牧師「数年前に私たちは派閥を超えて慈善事業を行い、その収益金を失業者のために役立てました。大したことはできませんが、信者の数の割にはよくやっていると思われませんか。」


「私は、あなたが心がけの立派な方であることを認めています。そうでなかったら、こうしてあなたと再び語り合うために、地上へ戻ってくるようなことはいたしません。私は、あなたが奉仕(サービス)のための良き道具になれることを見抜いています。あなたの教会を訪れる人の数は、ほんのわずかです。イエスは社会の隅々まで足を運べと言わなかったでしょうか。人が来るのを待っているようではいけません。あなたの方から出向くようでなくてはいけません。

あなたはご自分の教会を光明の中心とし、魂だけでなく、飢えた肉体にも糧を与えてあげないといけません。叡智の言葉だけでなく、パンと日常の必需品を与えてあげなさい。魂と肉体の両方を養ってあげないといけません。霊を救うと同時に、その霊が働くための肉体も救ってあげるのです。教会が力を合わせてそのための努力をしないかぎり、肉体の糧を得られない人々は死んでしまいます。」

そう述べてから、シルバーバーチは青年牧師のために祈りを捧げた。


「あなたがどこにいても、何をしていても、大霊の力と愛が支えとなりますように……。人々への奉仕を願うあなたの心が、常に大霊からのインスピレーションを受けられるように祈ります。

願わくば、大霊があなたにさらなる奉仕のための力を吹き込み、それによって光と安らぎと幸せに満ちた場を築き、訪れる人々がそこにこそ大霊が働いていることを理解するようになることを祈ります。

大霊があなたを祝福し、あなたを支え、常に大霊の道に尽力することができますように。大霊の目的と力と計画についての理解を深めるために、いっそう学びを得られるように祈ります。

あなたに大霊の祝福のあらんことを……」

Thursday, July 23, 2026

ベールの彼方の生活(二)

第二巻は、著者オーエンの守護霊であるザブディエルからの通信です。彼がいる十界、その先の十一界や下層界である五界や六界の情景について書かれています。



二章 人間と天使
暗闇の実在   2天体の円運動の原理 3ヤコブと天使
神とキリストと人間 5第十界の住居




1 暗闇の実在         

 一九一三年十一月十二日    水曜日   

 もしお互いが物事を同じ観点から眺めることが出来れば、いま問題としていることも容易に説明出来るのであるが、残念ながら貴殿は原因の世界と結果の世界の間に掛かったベールの向う側から眺め、私はこちら側から眺めているので、必然的に視野が対立する。

そこで何とか分かり易くしようとすれば、どうしても私の方が見地を変えて出来るかぎり地上的見地に立たねばならなくなる。

 そこで私は出来るかぎりそう努力しつつ、貴殿を吾々とともに高く創造の根源へ目を向けるよう呼びかけたい。つまりは高き神霊の世界から発した思念が物的形態を取りつつ下層界へ至る、その自然な過程と流れを遡(さかのぼ)ってみたいと思う。

 界を遡ると、自然界の事物が下層における時とは様相が違うことに気づく。言わば心理的映像へと変わり、内的視覚に訴えるようになる。が太陽と日没後の薄明の関係と同じく、物質界の事物、あるいは更に上界層の事物との間につながりがあることはある。

 まずその光の問題から始めれば、地上では光は闇との対照によって知られる。つまり光の欠如した状態が闇であり、本質的には実体も価値も持たない。それ故、吾らが闇と言う時、目の網膜に外界の事物を印象づけさせる或る種のバイブレーションが欠如した状態を意味する。

 さてベールのこちら側における霊的暗黒地帯においても同じ事情が存在する。つまり暗黒の中にいる者は他の者が外界の事物を認識する際に使用するバイブレーションが欠如している。

そのバイブレーションが受け入れられない状態下にあるということである。霊的感覚に変化が生ずれば、鮮明度は別として、ともかくも見えるようになってくる。

 しかし同時に、そうした暗黒の下層界におけるバイブレーションは上層界に比して粗野である。そのために、暗黒界へ下りて行く善霊にとっては、たとえその視覚は洗練されていても暗闇はやはり暗闇であり、彼らに映じる光はぼんやりとしている。

これで理解が行くことと思うが、霊と環境との間には密接な呼応関係があり、それが余り正確で不断で持続性があるために、そこに恒久的な生活の場が出来あがるのである。

 この霊と環境との呼応関係は上級界へ上昇するに従って緊密となり、外界に見る光はより完全にそしてより強烈となって行く。故に、たとえば第四界に住む者が第五界へ突入しそこに留まるには、第五界の光度に耐え得るまで霊性を高めなければならない。

そして首尾よく第五界に留まれるようになりその光度に慣れ切ると、今度は第四界に戻った時に──よく戻ることがあるが──そこの光が弱く感じられる。もっとも、事物を見るには不自由は無い。が、更に下がって第二界あるいは第一界まで至ると、もはやそこの光のバイブレーションが鈍重すぎて事物を見るのが困難となる。

地上時代と同じように見ようとすればそれなりの訓練をしなければならない。こうして地上へ降りて人間を見る時、吾々はその人間の持つ霊的な光輝によって認識する。

霊格の高い者ほど鮮明に見えるものである。もしも視覚以外にこうした霊的鑑識力が具わっていなければ、吾々は目指す地上の人間を見出すのに苦労するものと思われる。が幸いにして他に数多くの能力を授かっているために、こうして貴殿との連絡が取れ、使命に勤しむことが出来るのである。

  これで〝いかなる人間も近づくことを得ぬ光の中に座(おわ)す存在〟という言葉の真意が理解できるであろう。地上に居る者にして、数多くの界の彼方まで突入しうる者はいない。そして又、その高い界より流れ来る光はよほど霊性高き人間の目をも眩ませることであろう。

 考えてもみるがよい、この弥(いや)が上にも完全な光が天界の美について何を物語っているかを。地上には地上なりに人間の目にうっとりとさせる色彩が存在する。が、ベールのすぐこちら側には更に美しく、そして更に多くの色彩が存在する。これが更に高い界へ進んで行けばどうなるか。

色彩一つにしても思い半ばに過ぎるものがあろう。天界をわずかに昇って来たこの私が目にしたものですらすでに、今こうして述べている言語では僅かにその片鱗を伝え得るにすぎない。

私にとっては地上の言語は今や外国語同然であり、同時に貴殿が蓄えた用語の使用範囲にもまた限度がある。

 が、喜ぶがよい。美を愛する者にとって美は無尽蔵に存在し、また光と神聖さとは常に相携えて行くものであるから、一方において進歩する者は他方において大いなる喜びを味わうことになる。

これぞ〝聖なる美〟であり、すべての人間的想像の域を超える。とは言え、これは熟考の価値ある課題である。熟考を重ねる者には地上の美しきものが天界のより大いなる美を真実味をもって物語ってくれるであろう。

天界において求めるのは生命の喜びのみである。それは貴殿が誤らず向上の道を歩み続けるならば、いずれの日か貴殿のものとなるであろう。  ♰



 2 天体の円運動の原理

一九一三年十一月十五日   土曜日

 さて、もう一つ私の立場から見て貰いたいものがある。地上の科学者は天体について彼らなりに観察し、その結果をまとめ、他の情報と統合して推論を下し、それにある程度の直感力と叡智とを加味して生成の原理を系統だてているが、その天体の生成過程に霊的存在と霊的エネルギーとがどう関わっているか、その真相について述べてみたい。

 そもそも〝天体〟という用語には二重の意味があり、その理解も個人の能力と人間性の程度によって異なる。ある者にとってはそうした球体は物質的創造物に過ぎず、ある者にとっては霊的生命力の顕現の結果以外の何ものでもない。

が、その霊的生命力の働きについても、皆がみな同じように理解しているわけではない。霊的生命力という用語をきわめて曖昧な意味に使用している者もいる。〝神が万物を創造した〟と簡単にいう者がいるが、その意味するところは途轍もなく深遠である。

地上という薄暗い世界を超越して、より明るい世界を知る者にとっては、多分その言い方では真理を表現しているよりむしろ埋葬していると言いたいところであろう。もっとも偉大なものも、もっとも単純な叡智から生まれる。

絶え間なく運動を続ける天体の見事な連動関係(コンビネーション)も、最も基本的な幾何学的計算から生まれる。何となれば、一つの縺(もつ)れもなく自由自在の使用に耐え得るものは、最も純粋にして最も単純なものしかないからである。

その至純にして単純な状態こそ恒久性の保証である。それは地球のみに限らない、遥か彼方の星辰の世界においても永遠に変わらぬ真理である。何となれば、完璧なる理法のもとに統制されているからである。

 さて、それら天体組織の各軌道は二種類の原理によって定められると言っても過言ではない。すなわち直線と曲線である。否、根源的にはたった一つの原理すなわち直線から出来上がっていると述べた方がより正確かも知れない。

つまり全ての天体は本来直線軌道上の上を直進している。ところが突き進むうちに例外なく曲線を描くことになる。その道理の説明は地上の天文学者にも出来るであろう。が、一つだけ例を挙げて説明しておこう。

 地球を例にとり、それが今軌道上を発進したとしよう。するとまず直線コースを辿る。それが本来の動きなのである。ところが間もなく太陽の方向へ曲がりはじめる。

そしてやがて楕円状に働いていることが判る。結果的には直線は一本もない。曲線の連続によって楕円を画いたのであり、それが地球の軌道なのである。

 一方、太陽の引力は決して曲線状に働いたわけではない。やはり一直線なのである。

結局地球の軌道を直線から楕円へと変えたのは二種類のエネルギーの直線的作用──地球の推進力と太陽の引力──だったのであり、その中に多種類の曲線の要素が入り、それが完全な楕円をこしらえたのである。

実はこれには他に多くの影響力が働いているが、貴殿の注意力を逸らさぬよう、一つの原理にしぼっている。これを定義づければこういうことになろう──二本の直線的エネルギー作用が働き合って楕円軌道を形成する、と。

 太陽の引力も地球の推進力も完全な理法に沿って働き、そこには美しさと驚異的な力がある。物体が自ら働くということ自体が驚異というべきであり、真実、驚異なのである。

その両者が互いに動きを修正し合い、また大なるものが小なるものを支配しつつ、しかも小なるものの本来の力と自由を奪うことなく、連動作用により──明らかに対立した動きをしながらも──二本の直線よりも遥かに美しい楕円を画く。これはまさに親と子の関係にも似ている。

 貴殿はまさか両者が対立した運動をするからにはこの機構は誤っており〝悪〟の根源より出たものである、などとは思うまい。考えてもみるがよい。この両者は虚空の中を来る日も来る日も変わることなく連繋運動を幾星霜となく続け、今なお続けている。

それを思えば、侮辱どころか畏敬と崇敬の念を抱くべき事柄である。美しさと偉大さとを併せ持つ叡智の存在を示している。これを考案された神への讃仰の念を抱かずにはおれないであろう。

偉大な叡智と偉大な力とを兼ね備えた存在であるに相違ないからである。むべなるかなである。

 人間は神の御業をこのように正しく理解せず、見た目に映じた皮相な見解のもとに神及び神の働きを安易に疑い過ぎる傾向がある。人間生活の中に先の例のような対立関係を見ると、すぐに神が不完全で在るかの如く言う。もっと良い方法があるはずであると思い、神の叡智と愛を疑う。

人間生活の画く大きな軌道の僅かな曲線のみ見て、あたかも全てが破滅に向かっているかの如く思いつめる。そうまで思いつめなくても、少なくとも全てが直線的、つまりは悲劇もなく苦難も無いコースこそが正しい人生であると思い、対立的勢力の連動作用によって軌道を修正されることを好まない。

 もとより、仮定の問題とすればそれ以外の働き方もあるかもしれない。が、もしそうなれば、神がその霊力によって実現させたところの、かの完璧な星辰の動きには及びもつかぬものとなるであろう。

人生における軋轢(あきれつ)や悩み事や苦痛を生じさせるところの対立関係は、地球を無事軌道上に運行させているエネルギーの対立関係と同じなのである。完全なる全体像を見通す神の目から見ればそれで良いのであり、その成就へ向けて忍耐強く待つのである。

 吾々とて全てが判るわけではなく、これから辿る道もさして遠い先まで見通せるわけでもない。ただ貴殿よりは遠くが見える。少なくとも現在自分の置かれた事情に得心し、同じ道を歩む同胞に援助の手を伸ばし、これより先いかに遠く進もうとも、全てがうまく出来ているとの信念を持って向上へ励むのである。

と言うのも、こうして地上の霧に包まれ視野を閉ざされた状態においては、吾々はその道程についてしつこくその価値を詮索することをせず、天界に戻って煌々たる光の中において全体を眺める。その高き視野より眺めると、完成へ向けて進む人生の軌道は実に美事なものである。

あまりに美事であるために吾々はしばしば愛と叡智の神の尊厳に驚嘆と畏敬の念を覚え、思わず足を止めるのである。その威容の前にひれ伏す時の讃仰の念は最早や私の言葉では表現できない。ただ魂の憧れの中に表現するのみである。

 アーメン。私からの祝福を。勇気を持って怖れることなく歩むがよい。先のことは私が全て佳きに計らうであろう。 ♰



  3  ヤコブと天使       

  一九一三年十一月十七日  月曜日

 「汝の見るところを書に著(しる)せよ」──これはパトモス島にいたヨハネに天使が語った言葉である。彼は可能なかぎりその命に従い、書き記したものを同志に託した。そのとき以来、多くの人間がその解釈に苦心してきた。

そして彼らはああでもない、こうでもないと思案の末に、よく判らぬ、とカブトを脱ぐのである。が、彼らが解釈に戸惑うのは実は自業自得なのである。

何となれば、もし幼子の如く素直な心を持って読めば容易に真理の扉を開く合鍵はあったのであり、神の王国に入り、素直な人間の素直な言葉を受け取る者を待ちうける天界の美を見ることを得たはずなのである。

 ところが人間はいつの時代にも〝複雑〟を好む。そして複雑さの中に真理の深遠さと奥行きとを求める。が、それは無駄である。何となれば、それは言わばガラスの表面を見て、反射する光の眩しさに目が眩むにも似た行為であり、その奥を見透し、そこに潜む栄光を見るべきだったのである。

 かくして人間は複雑さに更に複雑さを加え、それを知識と呼ぶ。が、知識には本来複雑さはない。知識を欠くことこそ複雑を生む要因である。故にもし私が貴殿に、そして貴殿を通して他の者に、何かを説明せんとする時、その説明のうわべだけを見てはならない。

自動書記という通信方法にこだわってはならない。つまり用語や言い回しに貴殿自身のものに酷似したものがあるからといって、それを疑って掛ってはならない。

それは言わば家屋を建てるために使用する材料に過ぎず、そのためには貴殿の記憶の層に蓄えられたものを借用するしかないのである。

 更に言えば、貴殿のこれまでの半生は一つにはこの目的のための監督と準備のために費やされてきた。すなわち、こうした自動書記のために貴殿を使用し、更に又、地上界とのつながりを深める上で吾々の及ばざるところをそちら側から援助してもらうためである。

吾々が映像を見せる、それを貴殿が文章として書き留める。かくして〝汝が見るところのことを書き著 (しる) し〟それを世に送る。

その受け止め方は各人の受容力の程度によると同時に、持てる才覚が霊的真理を感識し得るまでに鋭さを増しているか否かに関わる問題である。各々それで佳しとせねばならない。さ、吾らと共に来るがよい。出来るかぎりのものを授けよう。


──〝吾々〟という言い方をされますが、他に何人か居られるのでしょうか。

 吾々は協調によって仕事を推進する。私と共にこの場に居合わせる者もいれば、それぞれの界にあって必要な援助を送り届けることの出来る者もいる。又そうするよりほかに致し方ない性質の援助もある。

それは海底のダイバーのために地上から絶え間なく空気を送り込まねばならないと同じで、吾々がこうして仕事をしている間中ずっと援助を送り届けてくれる必要がある。

あたかも海底にいる如く、普段摂取している空気は乏しく光は遥か上の方に薄ぼんやりと見える、この暗く息苦しい地上界にあっては、そうした種類の援助を得ることによって高き真理を幾分なりとも鮮明に伝えることが出来るのである。

この点を考慮に入れ、吾々のこともその点に鑑みて考えてほしい。そうすれば吾らの仕事について幾分なりとも理解がいくであろう。

 かく申すのも、天使はなぜ曽てほど地上へ大挙して訪れなくなったのかという疑問を抱く者がいるからである。この僅かな言葉の中に多くの誤解が存在するが、中でも顕著なのが二つある。まず第一は、高い霊格を具えた天使が大挙して地上を訪れたことは絶対にない。

永い人類の歴史の中においても、あそこに一人ここに一人と、極めて稀にしか訪れていない。そしてその僅かな事象が驚異的な出来事の年代記の中において大きく扱われている。

天使が地上へ降りてその姿を人間に見せることは、よくよく稀にしか、それも特殊な目的のある場合を除いて、まず有り得ない。万一そうするとなれば、先に述べた吾々の仕事の困難さを更に延長せねばならない。

つまり、まず暗く深い海底へ潜らねばならない。次にその海底で生活している盲目に近い人間に姿を見せるための諸々の条件を整えなければならない。


 それはあり得ないことである。確かに吾々は人類のための仕事に携わり、人類と共に存在するが、そういう形で訪れることはしない。それぞれの仕事により規則があり方法も異なる。

そこに又、第二の誤解が存在する。確かに吾々の身は今人間界に在り、繰り返し訪れているのであるが、この〝訪れる〟という言葉には、言葉だけでは表せない要素の方が実に多いのである。

ベールのこちら側にいる者でも、あるいは吾々の界と地上界との中間の界層にいる者でも、霊の有する驚異的威力とその使用法については、向上の過程において意外に僅かしか理解していないものである。が、この問題はこれまでにして、次に別の興味ある話題を提供しよう。

 例のジャボクにおいてヤコブが天使と会い、それと格闘をして勝ったという話(創世記32)──貴殿はあの格闘をどう理解しているであろうか。そして天使が名前を教えなかったのはなぜだと思われるであろうか。


──私はあの格闘は本当の格闘であったと思います。そしてヤコブが勝たせてもらえたのはパダン・アラムでの暮らしにおける自己との葛藤が無駄でなかったことを悟らせるためであったと思います。

つまり己れに勝ったということです。そして天使が名を明かさなかったのは、肉体に宿る人間に天使が名を明かすことは戒律(おきて)に反くことだったからだと思います。


 なるほど。最初の答えは良く出来ている。あと答えは今一つというところである。何となれば、考えてもみよ、名を明かさなかったのはそれが戒律に反く行為であるからというのなら、では一体なぜそれが戒律に反くことになるのであろうか。

 さて例の格闘であるが、あれは真実味と現実味とがあった。もっとも、人間が行うような生身と生身の取り組みではなかった。もし天使に人間の手が触れようものなら、天使は大変な危害をこうむるであろう。

確かにヤコブの目に映ずるほどの形体で顕現し、触れれば感触が得られたであろう。が手荒に扱える性質のものではなかった。天使の威力はヤコブの腰に触れただけで脚の関節が外れたという話でも想像がつくであろう。

では、それほどの威力ある天使を組み伏せたほどのヤコブの力は一体何であったのか。実は天使はヤコブの念力によって組伏せられたのである。と言って、ヤコブの念力が天使のそれを凌いだというのではない。天使の謙譲の徳と特別な計らいがそこにあったのである。

天使が去ろうとするところをヤコブが引き止めると、天使はそれに従ったが、ぜひ帰らせてほしいと実にいんぎんに頼んでいる。

 貴殿はこの寛恕の心の偉大さに感嘆するであろう。がそれも、イエス・キリストが地上で受けた恥辱を思えば影が薄くなるであろう。いんぎんさは愛の表現の一つであり、それは霊性を鍛える永い修行において無視されてはならない徳の一つである。
 
 こうして天使はその謙譲の徳ゆえに引き止められた。が、それはヤコブが勝ったことを意味するものではない。新たに自覚した己れの意志の力と性格が、しばし、けちくさい感情を圧倒し、素直に天使に祝福を求めた。天使はすぐに応じて祝福を垂れた。が、その名は明かさなかった。

 名を明かすことが戒律に反くという言い方は必ずしも正しいと言えない。名を明かすこともあるのである。ただ、この時は明かされなかった。それはこういう理由による。すなわち名前というものにはある種の威力が秘められているということである。このことをよく理解し銘記してほしい。

なぜなら、聖なる名を誤って使用し続けると不幸が生ずることがあり、それに驚いてその名の主が忌み嫌われることになりかねないからである。ヤコブが天使の名を教えてもらえなかったのは、ヤコブ自身の為を思ってのことであった。

祝福をよろこんで求めた。が、それ以上にあまり多くを求めすぎぬようにとの戒めがあったということである。ヤコブは天使の偉大なる力をほとんど直接(じか)に接触するところまで体験した。が、その威力をむやみに引き出すことは戒めなければならない。

そうしなければ、その後に待ち受ける奮闘は己れの力によるものではないことになるからであった。

 今、貴殿の心に疑問が見える。吾々に対する浅はかな要求が聞き入れられることがあるかということのようであるが、それは可能であるのみならず、現実にひっきりなしに行われている。

不思議に思えるかもしれないが、その浅はかな要求を吾々が然るべき形にして上層界へ送り届ける。が、往々にしてその結果は、当人自身の力をふりしぼらせ、そうすることによって霊界からの援助に頼るよりも一層大なる力を発揮させるべきであるということになる。

地上の人間が必死にある者の名を呼べば、それは必ずその者に届く。そして可能な限り、そして本人にとりて最良の形で世話を焼き活動してくれる。

 思うにヤコブは兄エサウとの闘争、息子たちとの諍(いさか)い、飢餓との戦い、そして数々の試練によって自己の人間的威力を否応なしに発揮させられることで、たびごと天使の援助を頼りとした場合より飛躍的進歩を遂げたことであろう。

彼の要求はしばしば拒否され、それが理解できないために信仰に迷いを生じ当惑したことであろう。また時には援助が授けられたことであろう。がそれは歴然とした形で行われたであろうから、理解するに努力は要らず、従って進歩も必要としなかったことであろう。

 この問題はこれ以上続けぬ。ヤコブの例を引いたのは、吾々の姿は見えず声も聞こえないからといって、それだけで貴殿が距離的に吾々から遠く離れているわけでもなく、また吾々が貴殿から遠くに居るわけでもないことを示すためであった。

吾々が語り貴殿が聞く。しかしそれは聴力で聞くよりも更に深い、貴殿自身の内奥で聞いている。貴殿の目に映像が見える。が、それは視力で見るより更に内奥の感覚にて見ている。貴殿は何一つ案ずるには及ばない。

吾々も少しも案じてはいない。そしてこれ以後も貴殿を使用し続けるであろう。故に平静さとキリストを通じての神への祈りの気持を持ち続けてほしい。吾々はキリストの使者であり、キリストの名のもとに参る者である。♰  



 4 神とキリストと人間 

一九一三年十一月十八日  水曜日

 地上の全存在の創造が完了した時、最後に一つだけ最も偉大なものが未完のまま残された。それが人間である。人間はその後の発達に任された。

驚異的な才能を賦与されていたからこそ向上進化の道を啓示され、その道を自ら辿るに任された。一人ぼっちではない。天界の全政庁が、人間がいかにその才能を駆使していくかを見守っていたのである。

 今ここで地上の学者の説く進化論や神学者の説く堕罪と昇天について改めて述べるつもりはない。それよりも、もっと広い視野に立って人間本来の向上心と現状について述べてみたい。

また吾々にも人間の未来を勘案し神の子全ての前途に横たわる、奥深くそして幅広い天界のその少し先くらいは覗き見ることを許されているのである。

 またその考察に当っては、地上で説かれている神学的ドグマに捉われることがないことも承知されたい。神学の世界は余りに狭隘(きょうあい)であり、又あまりに束縛が多いために、広い世界に永く暮らしていた者が不用意に手足を伸ばせば、取り囲む壁に当って傷を負いかねない。

更に広く旅せんとしても、もっと苦しい災難が降りかかるかも知れないとの不安のために、つい躊躇してしまうのである。

 よく聞くがよい。神学の教えをあたかも身体にとっての呼吸の如く絶対的なものを思い込む者には、衝撃があまりに大きく恐るべきものに思えるかも知れないが、吾々にとっては、道を誤らぬために神より賦与されている人間本来の意志と理性の自由な行使を恐れ、ドグマと戒律への盲従をもって神への忠誠であるかの如く履き違えている姿を見ることの方が、よほど悲劇に思えるのである。

 考えてもみよ。神の不機嫌に恐れおののかねばならぬとは、一体その神と人間とはいかなる関係であろうか。

自らの思考力を駆使して真摯に考え、その挙句にたまたまドグマから逸れたからといって、神がその者を無気味な笑みを浮かべて待ち受け網を持って捕らえんとしているとでも言うのであろうか。

それとも〝汝は生ぬるいぞ。冷たくもなく、さりとて熱くもない。よって汝の願いは却下する〟と述べたというのはこの神のことであろうか。自由闊達に伸び伸び生き、持てる才能を有難く敬虔な気持ちを持って存分に使えばよいのである。そしてたまたま過ちを犯しても、それは強情の故でもなく故意でもなく、善なる意図から出たことである。

両足を正しくしっかりと踏まえ、腕を強くふりしぼって矢を射よ。一度や二度的(まと)を外れたとて少しも戸惑うことはない。恐れてはいけない。神が却下されるのは自ら試みてしくじる者ではなく、勇気をもって挑もうとせぬ臆病者である。

このことは自信を持って断言する。私はその二種類の生き方を辿った人間が地上からこちらへ来た暁に置かれる場所、更には高級界へと進み行く門を探し求める経緯(いきさつ)を見て、その真実性を十分に得心しているのである。

 さて、天界の大軍の一員としての貴殿によくよく心して聞いてほしいことがある。改めてこう申すのも、これから私が述べることの中には貴殿の思考にそぐわないものがあるかも知れないからである。願わくば私の伝えるままを記してもらいたい。

 キリスト教徒の中にはキリストを神と認めない者が多くいる。実はその問題に関しては地上のみならずベールのこちら側にても軽々しく論じられている。と言うのも、地上にかぎらず、吾々の世界でも、真理を知るためには自ら努力して求めねばならないという事情があるのである。

吾々には啓示の奇蹟は与えられず、と言って自由な思考が上級界より抑制されることもない。人間と同様に吾々も導きは受けるが、あれこれと特定の信仰を押し付けられることはない。それ故に吾々の世界にもキリストは神にあらずと説き、そう説くことで万事終われりとする者が大勢いることになる。

 この度の私の目的はそれを否定して真相を説くことではない。それを絶対のものとして説くつもりはさらにない。それよりも私はまずその問題の本質を明らかにしたい。そうすることで、用語の定義付けを疎かにしてはこの種の問題が理解できないことを説きたいと思う。

 ではまず第一に、一体〝神〟とは何を意味するかということである。〝父なる存在〟を想う時の、一個の場所に位置する個人、つまり人間のような一人物を意味するのであろうか。もしそうだとすれば、キリストが神でないのは明らかである。

さもないと、それは二重の人物つまり二個の人物が区別のつかない状態で一体となった存在を創造することになる。キリストが〝私と父とは一つである〟と言ったのはそういう意味で述べたのではない。対等の二人の人物が一体となることは考えられないことであり、理性が即座に反撥する。

 それともキリストは父なる人間として顕現したものという意味であろうか。もしそうだとすれば、貴殿もそうであり私もそうである。なぜなら、神は全存在に宿り給うからである。

 あるいはキリストにおいて父なる神の全てが統一体としてそのまま宿ったということであろうか。もしそうだとすれば、これ又、貴殿にも私にも同じように神は完全なる形で宿っていることになる。なぜなら、神は不可分の存在だからである。

 しかしそれを、神の全てがキリストに宿り吾々には宿っていないという言い方をすれば、それは単なる一個の俗説に過ぎず、それ以上の価値は無い。これは非論理的でもある。

何となれば、もしも神がそっくりキリストの中に宿るとすれば、キリストが即ち神となって両者の区別がつかないことになるし、必然的にキリストに宿る神が神自身の中には宿らぬという妙な理屈にもなる。これでは理性が納得しない。

  それ故吾々が第一に理解しなければならぬことは〝父〟というのは神について吾々が考え得るかぎりの最高の要素を指すための名称に過ぎないということである。もっとも、吾々にはそれすら本当の理解は出来ていない。なぜなら、正直に申して、父なる神は吾々の理解を超えた存在だからである。

 私には父なる神を定義することは出来ない。まだ一度もその御姿を拝したことがないからである。それより以下の存在にその全体像が見える道理がないのである。私が拝したのはその部分的顕現であり、それがこれまで私に叶えられた最高の光栄である。

 ならばキリストと父との一体性の真意もまた、吾々の理解を超えた問題である。キリスト自身が吾々より上の存在だからである。キリストは吾々に思考し得るかぎりのことを述べておられるが、吾々にはまだその多くが理解できていない。

地上においてキリストは父なる神を身をもって証言してみせられた。つまり人間の身体によって顕現し得るかぎりの神の要素を吾々に示されたということである。それ以上のことは判らぬ。が、謙譲の徳と敬虔なる愛が深まるにつれて知識も深まり行くことであろう。

 キリストが父と一体であるのと同じ意味において吾々はキリストと一体である。〝人間性〟と呼ぶものと〝神性〟と呼ぶものとの融合したキリストの中に存在することによって、吾々は父なる神の中に存在する。

キリスト自身が述べておられるように、父はキリストより偉大なる存在である。が、どれほど偉大であるかは語られなかった。たとえ語られたとしても、吾々には理解し得なかったであろう。

 さて以上の説を読まれて、これでは私は人間が組み上げてきた足場組を徒(いたずら)に取り払うのみで、しかも結局は建物すら見えないことになるではないかと言う者もいるであろう。が、私の目的は頭初に述べたように、建物を構築することではない。

今何よりも必要なのは確固たる基盤づくりであることを指摘することであった。脆(ぜい)弱な基盤の上に建てたものは、見ているうちにも、あるいは早晩必ず崩壊して多くの労力が徒労に終わることは必定である。実は人間はまさにそれに等しいことをこれまで延々と続けてきたのである。

そして自らはそれに気づいていない。明確であるべき多くのことが未だに曖昧模糊(あいまいもこ)としている原因がそこにある。〝よくは知らぬ、がしかし・・・〟というせりふで始めて断定的な事を述べるのは賢明とは言えない。高慢は得てして謙虚な心の美しさを見えなくする。

また深遠な問題に対して即座に答える者が叡智に溢れていると思うのも誤りである。何となれば、確信は得てして傲慢と相通じていることがあり、傲慢から真実は生まれず、また愛すべきものでもないからである。

 貴殿と、守護霊としての私とは、永遠なる生命であるキリストにおいて一体である。キリストの生命の中において吾々は互いに相見(まみ)え祝福し合う。では私から祝福を述べるとしよう。そして貴殿から届けられた厚意に深く感謝する。 ♰


 
 5 第十界の住居

一九一三年十一月十九日  水曜日

 そういう次第であるから、私が語る言葉は多くの者にとって受け入れ難いものであろう。が、このことだけは知っておいてほしい。キリストの祭日には東からも西からも大勢の信者がキリストの神性の真相を知らぬまま参列する。が、

その人間的優しさと愛ゆえにキリストに愛を捧げる。少なくともそこまでは理解できるからである。が、その神性の本質を理解する者は一人としていない。

そこでこれより話題を変えて、まず肉体に宿る人間がキリストによって示された向上の道を歩む上において心すべきことを取り挙げてみよう。

 何よりもまず人間は〝愛する〟ことが出来なければならない。これが第一に心がけるべきことであり、また最大のものである。難しいのはこれを持続することである。互いに愛し合うべきであると言えば、誰しもその通りであると言う。が、

これを行為で示す段階に至ると、悲しいかな、能書き通りには行かない。しかし、愛なくしてはこの宇宙は存在し得ず、崩壊と破滅の道を歩むであろう。宇宙が今あるべき姿に保ち続けているのは神の愛あればこそである。その愛は、求める者ならば至るところに見出すことが出来る。

物事を理解する最上の方法はその対照を求めることである。愛の対象は崩壊である。なぜなら、崩壊は愛の行使の停止から生じるからである。憎しみも愛の対象である。もっとも、本質的には対立したものではない。憎しみは往々にして愛の表現を誤ったものに過ぎないからである。

 人間についていえることはそのまま教義や動機についても言える。他の主義・主張を嫌うその反動で一つの主義に傾倒するという者が数多くいるものである。

愚かしくもあり誤ってもいるが、必ずしも悪とは言えない。が、人間は他を憎む時、憎むが故に愛することが出来ないことになり、ついには何ものをも愛することが出来ないことになることを知らねばならない。

 これが実はこちらの世界での面倒を増幅するタネの一つなのである。と申すのは、誰しも憎まずして全てを愛することが出来るようにならぬかぎり、愛がすなわち光を意味するこの世界においての進歩は望めず、愛することを知らぬ者は暗き世界において道を見失い、その多くが身も魂も精気を失くし、ついには真理の鑑識力までが外界と同じくもうろうとしてくるのである。

 一方には一つ一つの石材までが光輝を放つ〝天界の住処〟が無数に存在し、あたり一円、はるか遠き彼方まで光を放っている。その光はそこに住む者の愛の純粋さが生み出すのである。


──そうした住居と、そこに住む人々について具体的にお教え願えませんか。その方が一般的な叙述より判り易いと思うのですが。

 それは容易なことではない。その困難さはいずれこちらへ来れば判る。たとえ要求に応じても、貴殿が得るものは結果的には真実からずれる──少なくとも不適切なものになる。

そのこともいずれ理解が行くことと思う。が、たっての要求とあらば、何とか説明してみよう。何か特別に叙述して欲しいことがあれば申すがよい。


──では、あなたご自身の住まいから。

 第十界においては低級界に存在しない事情、とくに地上では全く見られぬ事情がある。

 たとえ貴殿をその十界まで案内したところで、貴殿の目には何も映らぬであろう。霊的状態がその界の状態にそぐわないからである。

せいぜい見えるのはモヤの如き光──それもその界のどの地域であるかによって程度が異なる。九界そして八界と下ればより多くのものが見えるであろうが、やはり全ては見られない。しかも、目に映じたものをすみずみまで理解することは出来ないであろう。

 かりに一匹の魚を盛ったガラスの器に入れて街中を案内したとしよう。その魚には、まず第一にどれだけのものが見え、第二にそれがどれだけ理解できるであろうか。

思うに、魚にはその住処──水つまり魚本来の環境からせいぜい二、三インチ先しか見えないであろう。貴殿の顔を魚に見える位置に持って行き、次に手を見せてやるがよい。魚にはその二つの物がどう映るであろうか。

 人間が吾らの界へ来た時もそれと同じである。内在する霊的能力を活性化し、楽に使用できるようになるには、ただ〝鍛錬〟あるのみである。さて、話をさらに進めて、たとえばその魚にウエストミンスター寺院を説明するとなったらどうするか。

村の教会でもよい。それを魚の言語で説明しなければならない。その話を聞いた魚が貴殿の言うことが不合理であると言ったところで、それは魚の能力の限界のために貴殿の思うに任せぬからに過ぎない。

もし村の教会やウエストミンスター寺院のようなものがあるわけがないと魚が言ったところで、それは貴殿の説明がまずいのではなく、魚の方の理解力に原因があることをどうすれば納得させることが出来るであろうか。

 が、たつての要望であれば、これより私の住居、私の寛ぎの場について出来るだけの説明を試みてみよう。が、終わってみれば多分貴殿はもっと何とかならなかったものかと思うであろうし、いっそのこと何も語らずにいた方が良かったということになるかも知れない。

 吾らが住居を建立している国は数多くの区域にまたがっており、それぞれの区域からはその特質を示す無数の色彩が発散され、それが私と共に住む者たちの霊性とほぼ完全に一致している。

それらの色彩のほとんどは貴殿の知らぬものばかりであるが、地上の色彩も全て含まれており、それが無限と言えるほどの組み合わせと色調を持っている。吾らが携わるその時その時の仕事によって調和の仕方が異なり、それが大気に反映する。

 また吾らの界へ届けられるさまざまな思念と願望に対してもその住居が反応を示す。それには下層界からの祈りの念もあれば上層界からの援助の念もあり、その最下層に地上界が存在する。

 音楽も放送される。必ずしも口を使うとは限らない。大ていは心から直接的に放送し、それが近隣の家々に反響する。これも吾らによる活性化の一端である。

周囲の樹木、花等の全ての植物もその影響を受け、反応を示す。かくて色彩と音楽という本来生命のない存在が吾らの生命力を受けて意識に反響することになる。

 家屋の形は四角である。が、壁は四つだけではなく、また壁と壁とが向き合っているのでもない。全てが融合し、また内と外とが壁を通して混ざり合っている。

壁は保護のためにあるのではなく、他に数々の目的がある。その一つはバイブレーションの統一のため、つまり吾等の援助を必要とし又その要請のあった地域へ意念を集中する時に役立てる。

かくて吾々は地上からの祈りにも応えて意念を地上へ送り、他のもろもろの手段を講じて援助を授けることになる。

 同じく上層界からの意念が吾々の界へ届けられ、それが吾々の家屋を始めとして他に用意した幾つかの作用によって吾々の感覚に反応するものに変えられ、それを手段として高級神霊との連絡を取り、吾々を悩ませる問題についての指導を受けることもある。

 更には、反対に下層界から使命を帯びて吾々の界へ訪れる者にこの界の環境条件に慣れさせ、滞在中の難儀を軽減するために霊力を特別に授ける時にも、この家屋を使用する。

また吾々と話を交わし、吾々の姿を見せ、声を聞くことが出来るようにしてあげるのにも、その家屋に具わっている作用が活用される。それなくしては彼らは使命が全う出来ないのである。

 私の家を外部より眺めた様子を、地上に近い界の一住民による叙述によって紹介しよう。彼は私の家を見た時に〝隠し得ぬ光に包まれし丘上の都〟(マタイ5・14)という言葉を思い出したという。

見た時の位置は遥か遠くであったが、その光に思わず立ち止まり地面へ降下した。(そこまで空中を飛行していたのである)そこで暫し彼は眼を覆った。それから徐々に遠くに輝くその建物が見えるようになったのであった。

 例の塔(第一巻参照)も見えたが、その青い光があまりに強烈で、どこまで光輝が届いているか見分けがつかなかったという。天上へ向けて限りなく伸びているかに思えたのである。それから例のドームも──赤色のもあれば黄金色のもある──その光輝が余りに眩しく、どこで終わっているのか、その全体の規模を見ることが出来なかった。

門も外壁も同じく銀色、青、赤、すみれ色に映え、眩いばかりの光で丘全体と周囲の森を覆いつくし、それを見た彼は、そこへいかにして入りそして無事その光に焼き尽くされずに戻れるだろうかと思ったとのことであった。

 が、吾らはすでにその者の姿が見えていた。そこで使いの者を派遣して然るべき処置を施させたのであった。無事使命を終えて吾らに別れの挨拶をしに見えたとき彼はこう述べた。

 「今お別れするに当たって私の心に一つの考えがつきまとっています。それは、私が戻れば仲間の者から私が訪れた都はいかなるところであったかと聞かれることでしょうが、一たん自分の本来の界層に帰り、再び元の限りある能力での生活に戻ったとき、この光栄をどう語れば良かろうかということでございます。」

 私は答えた。「これ以降、あなたは二度と曽てのあなたに戻ることはないでしょう。何となればあなたの中にこの界の光と感受性とが幾らかでも残るはずだからです。あなたの記憶に残るものは仲間に告げうるものより遥かに大きいことでしょう。

なぜなら、たとえ告げても理解してもらえないでしょうし、告げようとすればこの界の言語を使用せざるを得ないからです。

それ故あなたは彼らにこう告げられるがよろしい──より一層の向上に鋭意努力することです。そうすれば自ら訪れて、語ってもらえないものを自ら見ることが出来るでしょう、と。」

 聞き終わると、彼は大いなる喜びのうちにこの界をあとにした。同じことがいずれ貴殿の身の上にも訪れる日が来るであろう。彼に告げた最後の言葉をここで貴殿にも与えることにしよう。 ♰


      
 三章 天上的なるものと地上的なるもの

 1 古代の科学と近代の科学

一九一三年十一月二一日  金曜日

 読むのが速い者が必ずしも正しく読み取っているとは限らない。そういう者は、見た目に重要に思えない事柄は落ち着いてじっくり考える余裕をもたないものだからである。

表面的なこと以外は目に止まらないのである。であるから、通信が判り易く書かれていると、大部分が軽く読み流されてしまい、そのメッセージの重要性が目に止まらないことになる。

 このことは人間が自然と呼んでいるもの、つまり霊力が物質を通して活動しているその表面的な現象に書かれている教訓についても言える。また人間なり民族なりがその本来の性格を基盤として繰り拡げる運命の働きについても同じことが言える。

 更にこのことは、程度こそ異なるが、いわゆる科学の発見においても言えることである。ではこれより、この発見の問題を取り上げ、ざっと目を通すだけで深く読もうとしない大方の人間よりも深く踏み込もうとする人間に対して深く暗示されているものを観てみよう。

 歴史と同じく科学もまた繰り返す。が決して全く同じことを繰り返すわけではない。知識の探求にも常に大よその原理というものが支配しており、その原理が一定の役割を果たすと、他の原理にその場を譲って裏側へまわり、新たな原理が人類の注目を世界中で集中的に受けることになる。

が、時の経過とともにいつしか前の原理が再び表に出て来て──順序は定まっていないが──新しく人類の注目を集める。かくして人類進化の行進が続けられる。

 発見そのものの種類も又、失われては新たに発見されることを繰り返す。まったく同じものではない。外観が変わり、新たな特徴が加わり、同時に古い特徴が失われている、ということがしばしば見られる。

 以上述べたことを更に判り易くするために、例を挙げて細かく説明しよう。曽ては科学そのものが今日の科学とは異なる意味をもった時代がある。つまり科学にも心があり、物質的現象は二次的な意味しか持たなかった。

錬金術がそうであり、星学がそうであり、工学ですらそうであった。当時すでに地上世界が霊的世界によって支配され、無数の霊団が自発的に──但し上層界から偉大な霊力と崇高な権威によって規制された限度内で──監督に当たっていることが知られていた。

そして当時の人間はそうした霊的支配者の程度や階級、及び自然界と人間界の各部門における彼らの役割、更には各階級から行使される霊力の量まで知ろうとする研究が行われていたのである。

 事実、彼らはおびただし数の事実を発見し、分類した。ただ、そうした事実や法則、規制、条件等が地上的なものでなく霊的なものであったがために、彼らは己むなくそれを通常の言語とは別の形で表現した。

 これが関心の異なる別の世代が台頭してくると、先祖が伝承話の形に込めた知識の何たるかを考慮することなく、これは単なる譬え話であり象徴的なものに過ぎないと断定してしまう。そう断定することで裏に秘められた事実が輪郭を失い。やがて真実味まで失って行く。

さまざまな民族における霊力の研究成果がそうした経過を辿り、これがヨーロッパの妖精物語と東洋の魔法の物語を生み出すことになった。それらは、まぎれもなく古代の科学が或るものを付加され、あるものを抜き取られ、さまざまに歪められながら生き残れる姿なのである。

が、そうした物語を今述べたことに照らし、その本質と近代に至ってからの潤色とを選り分けて読めば、その底に、あたかも幾世紀ものあいだ土砂に埋もれたエジプトの古代都市の如く、太古の科学すなわち霊的観点より考究した知識を見出すことが出来る。 ♰



──何か顕著な例を挙げていただけませんか。

 「ジャックと豆の木」という物語がある。まず名前を見るがよい。ジャックはJohnの愛称であり、このジョンを最初に用いたのは例の「黙示録」の著者(ヨハネ、英語読みでジョン──訳者)である。

豆の木は「ヤコブのはしご」(創成記)すなわち霊界の上層界へ辿り着くための階段の翻案である。物語の意味は、天界に辿り着けばそこは現実の国であり、さまざまな地域があり、自然の風景があり、家々があり、素晴らしい知識がある。

天使はその全てを人間に授けるつもりはないのであるが、時に大胆で能力のある人間が侵入して地上へ持ち帰ることがある。

天使はそれを取り返そうとし、人間がそれ以上に大胆になることによって獲得する所有権を奪おうとするのであるが、人間は生来の機智を弄してそれを妨げることが出来るというのである。

 さて、これはなかなか面白い話ではある。が、その深い意味を理解せぬ者によって幾世紀も語り継がれて来たために、話の筋が奇妙で滑稽にさえなっている。たとえば、もしも真の意味が理解されておればジャックという軽々しい愛称は用いられなかったであろう。

があのジャックのお馴染みの衣装を見れば分る通り、ジャックという俗称に変わったのは神聖なものや霊的なものが軽視された時代のことである。当時は霊的存在を理解することが出来なかったのである。

悪魔に衣服を着せ、刃物のような耳やしっぽを付けたりしたのも同じ理由からである。すなわちそうしたものは当時ではあくまで神話の世界だけの存在だったのである。従って悪魔の性格も神話的な架空のものに過ぎなかった。

 この物語は数多く存在する物語の一つに過ぎない。「パンチとジュディ」という物語も救い難き極悪人としてピラトとイスカリオテ(ユダ)を風刺したものである(*)がこの宗教的にして且つ恐ろしき事実を扱うその手法にも、当時の時代的軽薄さが歴然としている。

(*「パンチとジュディ」はパンチという名のせむし男が子供を絞殺したり妻のジュディをいじめ殺したりする古い英国の人形芝居であるが、これはイエスの処刑を命じた残虐非道のローマ総督と、イエスを裏切ったユダを風刺したものとされる。──訳者)

 まさに軽薄であり、これまで常にそうであった。が、今の時代に至って霊的なるものがようやく人間世界に戻り、その位置を見出しつつある。

必ずしも正当な位置を得ているとは言えないが、少なくとも過去幾世紀かにおける扱われ方に較べれば、より大きな考慮を払われていると言えよう。

 かくして外面的には様相を変えてはいるものの、内面的にはかのエジプトの星学を支配した一般的原理、並びにモーゼが学びそして活用した叡智に類似したものが今日再び人間界に戻りつつある。

それが人間の意識を高め、生命力の産物──貝殻、石、化石──をいじくりながらその生命力の根源の存在を認めようとせぬ過去の唯物思想に存在意識を賦与しつつある。

曽ての唯物科学は大自然の法則の秩序ある働きを説いた──にも拘らず、その秩序と働きの背後の唯一絶対の霊的始源の存在を否定した。

大自然の美を謳った──なのに、その美も人間に〝霊〟が宿ればこそ感識し得るものであること、そしてその霊も永遠なる神の生命が存在すればこそ存在を得ていることを忘れていた。

 吾らは常に人間界を見守っている。そして許されるかぎり、好機の与えられるかぎりにおいて導いている。もし人間が吾らの働きかけに忠実に応えてくれれば、今まさに過ぎ去りつつある時代よりも更に多くの光と愛と生命の美に溢れる時代が到来する。

吾々は人間はきっと応えてくれるものと確信する。何となれば、新しきものは古きものに勝るのが必定であり、更に、吾らが地上へ向けて働きかける時、背後にさらに高い世界から叡智と霊力とが澎湃(ほうはい)として迫りくるものを感ずるのである。

そして吾らは、これぞ上層界の意図であり要望であると確信するものを実行に移す。

 吾々とて、あまりに遠き未来まで 覗き見ることは出来ない。それにはそれなりの特殊な部門があり、それは現在の吾々の霊団の任務には組み入れられていない。が、

吾らはその努力が多くの人間に首尾よく反応を示してくれることに喜びを感じ、時の経過と共により多くの機会を得て、人間にとって吾らがいかに身近な存在であるか、又、人間が常に謙虚にして冷静さを保ち、最高の模範としてキリストを目指し、吾らの教説の中にたとえ走り読みにせよ見出せるであろう聖なる美を体現すべく努力をしておれば、いかに大きな仕事を成就する潜在力を秘めているかを示すことが出来る──そう期待しているのである。

それというのも、キリストの霊的生命は、それをひと目見れば、美とは何かを知る者は恍惚の境へと誘われるほどのものだからである。


 キリストの名において吾らは愛し、キリストに向けて吾らは崇拝の念を捧げる。常にキリストの安らぎのあらんことを。アーメン。 ♰   


 
  2 守護霊と人間

 一九一三年十一月二四日   月曜日

 更に言えば、いついかなる時も吾らの存在を意識することは好ましいことであり、吾らにとって何かと都合がよい。事実、吾らはいつも近くにいる。もっとも、近くにいる形態はさまざまであり意味も異る。

距離的に近くにいる時は役に立つ考えや直感を印象づけるのが容易であり、又、仕事がラクに、そして先の見通しも他の条件下よりは鮮明に見えるように順序よく配慮することが出来る。

 吾らの本来の界にいる時でも、人間の心の中および取り巻く環境で起きている事柄のみならず、その事情の絡み合いがそのまま進行した場合どういう事態になるかについての情報をも入手する手段がある。

 こうして接触を保ちつつ吾らは監督指導が絶え間なく、そして滞りなく続けられるよう配慮し、挫折することのないように警戒を怠らない。

それが出来るのも吾らの界、および吾らと人間との間に存在する界層を通じて情報網が張りめぐらされているからであり、必要とあらば直接使者を派遣し、場合によっては今の吾々がそうであるように、自ら地上へ降りることも可能だからである。

 更にその方法とは別に、吾らの如き守護の任に当たる者が本来の界に留ったまま、ある手段を講じて自分に託された人間と接触し、然るべく影響を行使することも可能である。

これで理解が行くことと思うが、創造主の摂理は全界層を通じて一体となって連動し、相関関係を営んでいる。宇宙のいかなる部分も他の影響を受けないところは一つとして無く、人間が地上において行うことは天界全域に知れ亘り、それが守護霊の心と思想に反映し、守護霊としての天界での生活全体に影響を及ぼすことになる。

 されば人間は常に心と意念の働きに注意せねばならない。思念における行為、言葉における行為、そして実際の行為の全てが、目に映じ手を触れることのできる人々に対してのみならず、目には見えず手を触れることこそできないが、いつでも、そしてしばしば監視しながら接触している指導霊にも重大な影響を及ぼすからである。

それのみではない。地上から遠く離れた界層にて守護の任に当たる霊にも影響が及ぶ。私の界においても同じである。

この先更にどこまで届くか、それは敢えて断言することは控えたい。が、強いて求められれば、人間の行いは七の七十倍の勢い(*)を持って天界に知れ亘る、とでも答えておこう。その行きつく先は人間の視野にも天使の視野にも見届けることは出来ない。

何となれば、その行きつくところが神の御胸であることに疑いの余地は無いからである。(マタイ18・22。計り知れない勢いの意──訳者)

 故に、常に完全を心掛けよ。何となれば天に坐(ましま)す吾等が父が完全だからである。不完全なるものは神の玉座に列することを許されないのである。

 では善と美を愛さぬ者の住む界層はどうなるのか。実は吾らはその界層とも接触を保ち、地上と同じように、援助の必要があれば即座に届けられる。縁が薄いというのみであって決して断絶しているわけではないからである。

その界層の霊たちも彼らなりに学習している。その点は人間も変わらない。ただしその界の雰囲気は地上よりは暗い───ただそれだけのことである。彼らも唯一絶対なる神の息子であり娘であり、従って吾らの弟であり妹でもあるわけである。

人間の要請に応える如く彼らの魂の叫びに応えて吾らは援助の手を差し伸べる。そうした暗黒界の事情については貴殿はすでにある程度のことを知らされている。が、ご母堂の書かれたもの(第一巻三章)にここで少しばかり付け加えるとしよう。

 すでにご存知の通り、光と闇は魂の状態である。暗黒界に住む者が光を叫び求める時、それは魂の状態がそこの環境とそぐわなくなったことを意味する。そこで吾等は使者を派遣して手引きさせる。が、その方角は原則として本人の希望に任せる。

つまり、いきなり光明界へ連れてくることはしない。そのようなことをすれば却って苦痛を覚え、目が眩み、何も見えぬことになる。

そうではなく暗黒の度合いの薄れた世界、魂の耐えうる程度の光によって明るさを増した世界へ案内され、そこで更に光明を叫び求めるようになるまで留まることになる。

 暗黒地帯を後にして薄明の世界へ辿りついた当初は、以前に較べて大いなる安らぎと安楽さを味わう。その環境が魂の内的発達程度に調和しているからである。が、

尚も善への向上心が発達し続けると、その環境にも調和しない時期が到来し、不快感が募り、ついには苦痛さえ覚えるに至る。やがて自分で自分がどうにもならぬまま絶望に近い状態に陥り、自力の限界ぎりぎりまで至った時に、再び叫び声を上げる。

それに応えて神の使者が訪れ、更に一段階光明界に近い地域へと案内する。そこはもはや暗黒の世界ではなく薄明の世界である。かくて彼はついに光が光として見える世界へ辿り着く。それより先の向上の道にはもはや苦痛も苦悩も伴わない。喜びから更に大きな喜びへ、栄光から大いなる栄光へと進むのである。

 ああ、しかし、真の光明界へ辿り着くまでにいかに長き年月を要することか。苦悶と悲痛の歳月である。そしてその間に絶え間なく思い知らされることは、己れの魂が浄化しない限り再会を待ち望む顔馴染みの住む世界へは至れず、愛なき暗黒の大陸をとぼとぼと歩まねばならないということである。

 が、私の用いる言葉の意味を取り違えてはならない。怒れる神の復讐などは断じてない。「神は吾らの父なり」、しかして「父は愛なり」(ヨハネ)その過程で味わう悲しみは必然的なものであり、種子蒔きと刈入れを司る因果律によって定められるのである。

吾々の界──驚異的にして素晴らしいものを数多く見聞きできるこの界においてすら、まだその因果律の謎を知り尽くしたとは言えない。

全ての摂理が〝愛〟に発するものであることは、地上時代とは異なり、今の吾々には痛いほどよく解る。曽てはただ信ずるのみであったことを今は心行くまで得心することが出来ることも、憚(はばか)ることなく断言できる。が、因果律というこの厳粛なる謎については、まだまだ未知なるものがある。

が、吾々はそれが少しずつ明かされていくのを待つことで満足している。それというのも、吾々は万事が神の叡智によって佳きに計られていることを信ずるに足るだけのものを既に悟っているからである。

それは暗黒界の者さえいつの日か悟ることであろう。そして彼らがこの偉大にして美わしき光の世界へと向上進化して来てくれることが吾々にとっての何よりの慰めであり、また是非そうあらしむべく吾らが手引きしてやらねばならない。

そしてその暁には万事が有るがままにて公正であるのみならず、それが愛と叡智に発するものであることを認め、そして満足することであろう。

 吾々はそう理解しているのであり、そのことだけは確信を持って言える。そして私もその救済に当たる神の使者の一人なのである。

私が気づいていることは、かの恐ろしき暗黒の淵から這い上がって来た人たちの神への讃仰と祝福の念を、その体験の無い吾々のそれと比較する時、そこに愛の念の欠如が見られないことである。些かも見られぬのである。

と言うのも、正直に明かせば、彼らと共に天界の玉座の光の前にひれ伏して神への祈りを捧げた折のことであるが、彼らの祈りの中に私の祈りに欠けている何ものかがあることに気づいたのである。

そこで思わず、私もそれにあやかりたいとものと望みをかけて、ようやく思い止まったことでああった。

 それは許されぬことであろう。そして神はその愛ゆえに、吾々の内にあるものを嘉納されるに相違ない。それにしても、かのキリストの言葉は実に美わしく、愛がその美しさを赤裸々に見せる吾々の界において如実にその真実味を味わうのである。

 神はその愛の中にて人間と交わりを保つ。神の優しき抱擁に身を任せ、その御胸に憩いを求める時、何一つ恐れるものはない。 ♰           
                                                        
  
 
  3 種の起源    
 一九一三年十一月二五日  火曜日

 人間に少しでも信仰心があれば、こうして貴殿の精神と手を使って書き記したものを理解することが出来るであろうが、残念ながら物事の霊的真相を探り、それを真実であると得心しうる者は多くは見当たらない。これまでの永い人類の歴史においてそうであり、これからの遠き未来までもそうであろう。

それは事実であるが、更にその先へ目をやれば、吾々の目には遠い遠い未来において人間世界が今日より遥かに強い光の中を歩みつつあるのが見える。

その時代においては吾々と人間とがいかに身近な関係にあるかについて、書物の中のみならず実際の日常生活の中において理解し得心することであろう。

差し当たっては、警戒と期待のうちに吾々の力の及ぶかぎりの努力をし、たとえ吾々の望み通りの協調関係が得られず、無念の思いを断ち切ることが出来ずとも、一歩一歩と理想の関係に近づきつつあり、万事が佳きに計られているとの確信を抱くのである。

 さて現在の貴殿との仕事のことであるが、吾々としては成るべくならば物事が活撥に進行しているこの〝昼〟の時代に多いに進行させたい。何となれば〝夜〟 の時代が到来すれば貴殿は明日の時代を思うであろうが、その明日はもはや今日とは異なる。

いろいろと可能性を秘めてはいても今と同じほどのことが出来るとは限らない。故に現在のこの良い条件の整っている時期に出来るかぎりのことをしようではないか。そうすれば吾々二人により広き界層が開かれた暁に、更に良い仕事が為し得ることになろう。

 人間が理解している科学は吾々の理解している科学と軌を一にするものではない。何となれば吾らは霊的根源へ向けて深く探求の手を伸ばすからである。地上の科学は今やっと霊的根源を考慮しはじめたばかりである。

吾々は互いにようやく近づきつつあるわけである。と言うよりは、地上の現象の意味を探る者の中に、吾々の手引きによって、より高くそしてより深い意味へと近づきつつある者がいると述べた方が正しかろう。

 このことを吾々は有難きことと思う。そしてそのことがこれまでの道を更に自信を持って歩ませてくれる。吾々は人間がきっと付いてきてくれるとの確信を持っており、それだけに賢明にそして巧妙に手引きせねばならないのである。

 さて私はこれより、人間が〝種の起源〟と呼んでいるところのものについて、その霊的な側面を少しばかり説いてみたいと思う。が、結論から申せば、動物的生命の創造の起源は物質界にあらずして吾々の天界に存在する。

こちらへ来て吾々が学んだことは、宇宙が今日の如き形態の構成へ向けて進化の道を歩み始めた時、その監督と実践とを受け持つ高き神霊が更に高き神霊界より造化の方針を授かり、その方針に基いて彼らなりの知恵を働かせたということである。

 その時点においては未だ天界には物的表現としての生命の形態と知能の程度に多様性があったと想像される。そして結果的にはその発達を担当すべく任命された神霊の個性と種別を反映させていくことに決定が下された。

そしてその決定に沿って神の指示が発せられた。なぜかと言えば、計画が完了した時、総体的にはそれで結構であるとの神の同意が啓示されたのであって、その時点ですでに完璧ということではなかったのである。

ともかくも宇宙神が認可を下され、更に各神霊がそれぞれの才覚と能力に従って神の意志を反映させていく自由を保証されたということである。

 かくして動物、植物、鉱物のさまざまな種と序列、そして人類の種族と民族的性格とが生まれた。そしていよいよ造化が着手された時、宇宙神は改めて全面的是認を与えた。聖書風に言えば神がそれを〝なかなか結構である〟と仰せられたのである。

 が、造化に直接携わる神霊はいかに霊格が高いとはいえ全知全能の絶対神には劣る。そして宇宙の経綸の仕事はあまりに大きく、あまりに広いが故に僅かな不完全さが造化の進展に伴って大きくなって行った。

それが単純な知能、特に人間の如き低い階層の知能には事さらに莫大にそして巨大に見えたのである。何となれば、小さくそして未発達な知性には善と悪とを等しく見ることが出来ず、むしろ邪悪の方が目に止まりやすく、善なるものが余りに高尚にそして立派に思えて、その意義と威力を掴みかねるのである。

 が、人間が次のことを念頭に置けば、その不完全さの中にも驚異と叡智とが渾然として存在することが容易に納得がいくことであろう。それはこういうことである。海は海洋動物だけのために造られたのではない。空は鳥たちだけのために造られたのではない。

それと同じで、宇宙は人間だけのために創造されたのではないということである。人間は海にも空にも侵入し、そこをわが王国のように使用している。それは一向に構わない。


魚や鳥たちのものと決まってはいないからである。より強力な存在が支配するのは自然の理であり、地上では人間がそれである。人間は自他共に認める地上の王者であり、地上を支配する。神がそう位置付けたのである。

 が、宇宙には人間より更に偉大な存在がいる。そして人間がその能力と人間性の発達のために下等動物や植物を利用する如く、さらに偉大なる存在が人間を使用する。

 これは自然であり且つ賢明でもある。何となれば大天使も小天使も、更にその配下のもろもろの神霊も所詮は絶対神の配下にあり、常に発達と修養を必要としている点は人間と同じだからである。

その修養の手段と中身は、人間との霊格の差に応じて、人間が必要とするものとは本質と崇高性において自ずと差がなければなるまい。人間であろうと天使であろうと、内部に宿す霊力に応じて環境が定まり構成されていく点は同じなのである。

  人間はその点をよく銘記し、忘れぬようにしなければならない。そうすれば自由意志という生得の権利の有難さを一層深く理解することであろう。これは天界のいかなる神霊といえども奪うことは出来ない。かりに出来るとしても敢えて奪おうとはしないであろう。

なぜなら、自由意志を持たぬ人間では質的に下等な存在に成り下がり、向上進化の可能性を失うことになるからである。

 さて、こうした教説を読んで、これでは人間は上級界の神霊が己れの利益のために使う道具に過ぎないのではないかと思う者もいるであろう。が、その考えは誤りである。その理由は今述べたことにある。


すなわち人間は自由意志を持つ存在であり、これより先も常にそうあらねばならぬということである。

 それのみではない。上級界において神に仕える者を鼓舞する一大霊力が〝愛〟であるということもその理由である。彼らを血も涙もなき暴君と思ってはならない。

威力というものを圧力と並べて考えるのは地上での話である。天界に在っては威力は愛の推進力のことであり、威力ある者はその生み出す愛も強力となるのである。

 更に申せば、悪との戦いの熾烈にして深刻な者には、その試練を経た暁に栄光と高き地位(くらい)とが約束されていることを教えてやるがよい。

何となれば、その闘いの中にこそ、人類が天界の政庁における会議への参列を許され、造化の仕事の一翼を担い、開闢(かいびゃく)頭初に定められた方針に沿って全宇宙の救済の大事業に参加する資格の確かな証しが秘められているからである。

その仕事は勇気ある人間ならば喜び勇んで取り組むことであろう。何となれば、その者は次のことくらいは理解するであろうからである。

すなわちその者は高き神霊が天界において携わるのとまさに同じ仕事に、この地上において、そしてその者なりの程度において携わっているということである。そうと知ればさぞ心躍ることであろうし、意を強くすることであろう。

 更に又、その者の仕事は吾々の仕事と一つであり、吾らの仕事がすなわちその者の仕事であることを知り、互いに唯一の目的すなわち地上の全生命、全存在の向上へ向けて奮闘していることを知れば、イザという時に思慮深く適度な謙虚さと素直な信頼心を持って援助を求めれば、吾々はすぐにそれに応ずる用意があることに理解がいくことであろう。

吾々はそういう人間──悪との闘争の味方であり宇宙の最前線における同志──を援助することに最大の喜びを覚えるからである。

 この真理の大道を惜しくも踏み外せる者たちのその後の見るも哀れな苦しみは、吾々が貴殿より多く見ている。が、吾らは絶望はしない。この仕事の意義と目的とが貴殿たちより鮮明に見えるからである。

その視野から眺めるに、人間も何時の日かそれぞれの時を得てこの高き霊界へと至り、恵まれた環境の中にて更に向上し続けることであろう。

その時はその者たちも修身の道具として今吾々が使用している人材──その者たちが今その立場にあるのだが──を使用することになるであろう。その時は他の人間が現在のその者たちの立場にあり、その者たちが指導霊の立場にまわることであろう。

 キリストはかく述べている──〝悪に勝てる者はわが座位(くらい)に列することを許さん。わが勝利の時、父と共にその座位に列したる如くに〟(黙示録3)と。心するがよい。神の王国は強き者のものであるぞ。首尾よく悪を征服せる者にして始めてその地位を与えられるであろう。

 以上である。この度はこれにて終わりとする。が、これはこの程度のメッセージにてはとても尽くせぬ大きな問題である。神の許しがあれば、いつか再び取り上げるとしよう。

 では健闘と無事を祈る。強くあれ。その強さの中より優しさがにじみ出ることであろう。吾々の界においては最も強い者こそ最も優しくそして愛らしさに満ちているものである。

このことを篤と銘記されたい、そうすれば人間を惑わす数々の問題が自ずと解けることであろう。躓(つまず)くことのなきよう、神の御光が常に貴殿の足元を照らし給わんことを祈る。 ♰

シルバーバーチの教え(下)

Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)



20章 スピリチュアリズムの第一線で働く人々への励ましのメッセージ

〔シルバーバーチは機会あるごとに、スピリチュアリズム普及のために世界中で活動している人々に励ましのメッセージを贈っている。この章ではイギリス以外の国――スウェーデン、インド、アメリカなどで活躍している人々への励ましの言葉を収録した。〕
スウェーデンの著名なスピリチュアリストC・カールソン氏へのメッセージ


あなたが今夜ここにいらっしゃったのは、霊力を充電してそれを遠い祖国に持ち帰り、大霊の光を広めて暗闇に閉ざされた場所を明るくするためです。

ようこそお出でくださいました。霊の世界からあなたに心を込めて祝福の言葉を贈り、この地上界へ降誕する際に約束された使命に敬意を表したいと思います。

私は、大霊の仕事を果たすために遣わされたマウスピースにすぎません。あなたは長い間、ずっと霊の世界から導かれてきました。これから成し遂げなければならない仕事は、とても重要なものです。あなたの前に横たわる仕事は、あなたご自身には想像できないほど大きなものです。その達成に当たっては、あなたの祖国スウェーデンが成し遂げなければならないことを熟知している霊団が、霊界から派遣されることになります。

あなたはこれから、本来なら歓迎してくれるはずの人々からの反発に遭遇し、しばしば胸を痛め涙を流すことになるでしょう。その一方で、自分が届ける新しい真理が大霊の子供たちの役に立ち、心が喜びに満たされることもあるでしょう。

いずれにせよ、あなたの背後で私たちも、ともに悲しみ、ともに喜んでいることを知っていただきたいのです。

遭遇する困難がいかなるものであろうと、行く手を遮(さえぎ)る障害がどのようなものであろうと、大霊の計画が阻止されることはありません。大霊のために働いている地上界と霊界の援助者を、妨げることはできないのです。

もしどの方向に進むべきか分からなくなったときには、いったん休止して心の平静を取り戻すことが大切です。そして霊界からの指導と援助を求めて祈るのです。私たちへの絶対的な信頼と確信があるなら、与えられる援助と霊力とインスピレーションに限界はありません。私たちは、あなた方地上の人間が互いに自分を役立てるような生き方をしてほしいと望んでいます。それと同じように私たちは、総力をあげてあなた方を援助しているのです。
インドの活動家V・D・リシ夫妻へのメッセージ


あなた方が奉仕しておられるインドには、ほんのわずかな光明しか届けられていません。その光明こそ大霊の光であることを悟った人たちによって、かろうじて灯し続けられています。その光を徐々に大きくしていくのが、お二人のように犠牲的精神に燃えた人々の献身的な活動です。それによって無知と利己主義が駆逐され、代わって「サービス」という名の光明がもたらされることになります。それこそが大霊の最大の顕現なのです。

これは大いなる事業であり、その達成を阻止できるものは、この物質界には存在しません。インドという国では、長年にわたって間違った教えが説かれてきました。それを正すのは容易なことではありません。しかし、お二人は決して孤立無援で戦っておられるのではありません。私たちの世界から大勢の者が援護しています。霊の力の方が物質の力よりも強大です。これまでお二人が敗北を喫したことは一度もありません。

お二人の結婚は、ある目的があってのことです。大きな計画の一環として、一緒になっているのです。その目的とは、いまだに地上の暗闇の中にいるインドの無数の魂に新しい光をもたらすことです。

お二人は今日、霊界と物質界とが調和すればいかに素晴らしいことが実現するかを直接目にするために、このサークルへ導かれてきました。あなた方がここで体験される霊との交わりは、交霊会が終わったあとも続きます。インドに戻ってからも、常に霊の働きかけがあることを感じるようになるでしょう。

その霊力はあなた方を鼓舞し、あらゆる戦いにおいて味方となり、障害を克服するための助けとなってくれます。そして落胆したときには、慰めと励ましを与えてくれます。その霊力が、あなた方と大霊とを結びつけているのです。あなた方は、無償の奉仕に徹していれば、地上のいかなる困難をも克服する力がもたらされることを理解するようになるでしょう。

あなた方は、二人だけで戦っているのではありません。あなた方の戦いは私たちの戦いでもあり、あなた方の困難は私たちの困難でもあるのです。

願わくば、お二人の旅に、そしてお二人の使命に、大霊の祝福の多からんことを……。大霊の光がお二人の心を明るく照らし、大霊の意思をより深く理解することができますように。お二人を支え、その心を鼓舞し、大霊の叡智へと導いてくれる霊の力を信じて歩むことができますように。常に大霊の御手(みて)とマントに包まれていることを感じ取り、大霊のために奉仕する者には必ずや保護と導きがあることを悟られるように祈ります。
それから三年後に再び夫妻がサークルを訪れて、シルバーバーチからのメッセージを賜った。


前回、お二人が英国へお出でになったときに結ばれた私との絆は、その後も途切れることなく続いています。そしてこのあとあなた方は、さらなる熱意と新たな決意を携えてインドヘ帰っていかれることでしょう。

行く手に障害が山積していると心がくじけそうになることは、私たちにもよく分かります。私たちには、あなた方の前途に横たわる障害のすべてが見えています。同時にあなた方が、授かった真理の光に忠実であろうとしてこれまで勇敢に戦ってこられたことも、よく存じています。あなた方は誠実にして美しい心で、授かったものに忠実であろうと努力してこられました。

行く手が無知の霧で曇らされているのを知ったときは誰しも絶望的になりがちなことは、私たちもよく理解しています。私は、お二人と私たちとをこの場に集わせることになった大いなる仕事についてもう一度、思い起こさせてあげられることを嬉しく思っています。

「東は東、西は西。両者が相見(あいまみ)えること、さらになし」と歌った人(英国のノーベル賞作家キップリング――訳注)がいますが、両者は立派に相見えるのです。すべての人間は霊において一つであり、大霊から見れば東も西も南も北もありません。人間が勝手に境界線をつくっているのです。大霊はすべての人類を、一つの調和のとれた絵柄に編み上げたいと望んでおられるのです。

お二人は本当に豊かな恵みに浴していらっしゃいます。奉仕(サービス)一筋の道を選ばれたからです。お二人はまさに一体となり、手を取り合って奉仕の仕事に携わっておられます。お二人は大霊のマントに包まれています。それは霊的な愛のマントであり、盾となってお二人を外敵から守ってくれます。

二人きりで頑張っていると思ってはいけません。あなた方の背後には霊界からの強力な援軍が控えています。あなた方がなさっている仕事は、これからも続いていきます。ご自分では失敗の連続で成功など思いもよらないかもしれませんが、誰かが先頭に立ってジャングルを切り開いていかなければならないのです。落胆してはいけません。祖国に帰られたら、あとに続く人たちのために、あなた方が切り開いた道をさらに歩みやすくしてあげる仕事に取り組んでください。
憑依による精神病患者の心霊治療に生涯を捧げた米国人カール・ウィックランド博士が、妻として、また霊媒として生涯を共にしたアンナ・ウィックランドが他界して数ヵ月後に、秘書のネル・ワッツ女史を伴って出席した。(したがって冒頭の「お二人」というのは博士と秘書を指す――訳注)


私は忠実な真理の探究者をお迎えして、ことのほか嬉しく思っております。お二人は、長年にわたる苦労の多い犠牲的な仕事で少し背中が曲がってしまわれました。来し方を振り返れば、あなた方(妻のアンナを加えた三人)は多くの人々を無知の暗闇から真理と知識の光明へと導いてこられました。

あなた方の仕事は終わりました。人々に霊的光明を授けるという偉大で気高い仕事でした。間もなくその松明(たいまつ)は他の誰かの手に引き継がれることでしょう。あなた方が成し遂げられた仕事が消滅することは、決してありません。お二人は地上界に生きておられる間に、人々から真価が認められるようになることを期待してはなりません。先駆者の仕事は常にそういうものなのです。しかし、成就された仕事はいつまでも生き続けます。

奉仕の人生を終えられた今、これまでの歩みを振り返ると、あなた方がこの世にいたからこそ多くの人々が喜びを手にすることができたことがお分かりになるでしょう。生きていることに絶望し、心が暗闇に閉ざされていた人々に、新たな希望と健康、そして人生そのものを取り戻してあげたのです。束縛状態から解放し、生きる力を取り戻してあげたのです。牢獄から救い出してあげたのです。あなた方は、(憑依によって)地上の人間に苦しみを与えていたことを知らずにいた無知な霊をも救ってあげたのです。


訳注――ウィックランド博士の除霊法については、三十年間にわたる実験会をまとめた大著『迷える霊との対話』(ハート出版)に詳しいが、形式だけを説明すると、精神病患者に憑依している霊をいったん霊媒のアンナ夫人に乗り移らせ、その霊が今どういう状況下にあるかを懇々と諭したあと、背後に控える高級霊団のマーシーバンド(慈悲団)にあずける。この方法で正常に復した患者は数知れない。

地上の人間は、物質界と霊界とのつながりについて理解していません。高次元の霊界から最高の啓示を受けることができるのと同じように、低い霊界にいる無知な霊の虜になることもあり得るのです。どちらも親和性の法則によるものです。

あなた方は本当に大きな仕事を成し遂げられました。無知との戦いにおいて、本来なら真っ先に協力の手を差し伸べてくれるはずの人々から、非難され、拒絶されました。しかしあなた方は、真理のために戦い、最高に価値ある本物の知識を遺していった先駆者たちのリストの中に、その名が列せられるほどの活躍をされました。

私の使命も実はあなた方とよく似ています。すなわち無知と迷信が生み出した害毒を取り除くことです。そして、霊的知識というかけがえのない宝を地上界に届けることです。その知識を前にして、無知も最後は逃走するしかありません。

ご存じでしょうか。あなた方の助けによって霊的進化の正道に立ち戻ることができた霊たちは皆、あなた方の仕事を霊界から援助するために霊団に加わっています。あなた方から助けを受けたように、今度は自分が恩恵を施したいと思っているのです。

奥さんが亡くなったからといって、あなたは独りぼっちではありません。姿が見えないからといって、寂しく思ってはいけません。奥さんは、今もあなたの傍(そば)にいらっしゃいます。霊的にはむしろ生前よりも身近になっておられます。その目に姿が映らず、その耳に声は聞こえなくても、奥さんの霊はすぐ近くにいらっしゃいます。
一九三七年にグラスゴー(スコットランド)で開かれた国際スピリチュアリスト連盟の総会に、アメリカやその他の国々から代表者が出席した。そのうちの何人かが特別に催された交霊会に招待され、そこでシルバーバーチは次のようなメッセージを語った。


この度、あなた方は霊的真理の重要性ゆえに、世界中から一堂に集結することになりました。あなた方は、新たな力と勇気を見いだし、新たな理解と希望を携えてそれぞれの母国へ帰っていくために、互いに語り合いました。

もはや地上界も、“霊の声”に黙ってはいられなくなりました。人類は今まさに重大な岐路に立たされており、いずれを選ぶかの選択を迫られております。

キリスト教は人類を完全に裏切り、破綻状態にあります。科学者も裏切り、建設どころか破壊することばかりしています。思想家も裏切り、役に立たない無益な議論に終始しています。政治家も裏切りました。滅私の精神を通してのみ平和が訪れるとの教えを、今もって理解していません。そうした絶望的状況の中で、大霊の子らは導きを切望したのです。

ここに集まっておられる皆さん方には大きな信頼が託され、重い責任が与えられていることを改めて認識していただきたいのです。この宇宙で誤ることがないのは、全生命の始原である大霊のみです。大霊の霊力を頼りとし、大霊の叡智に導かれ、大霊の愛に支えられているかぎり、また自分一人の栄光を求めることなく人のために役立ちたいとの願望に燃えているかぎり、いかなる難問に遭遇しても必ずや解決策を見いだすことができるようになります。

地上界は争いと敵意と不和に満ちあふれています。涙と悲惨さと流血に満ちあふれています。それでいて一人ひとりは「平和を!」と叫び続けています。そうした中で皆さんには、内部に潜在する可能性について思い出していただきたいのです。あなた方一人ひとりが大霊なのです。皆さんの内部には、大霊の無限の霊力が秘められています。それを呼び覚まし顕現させるなら、前途に立ちふさがるいかなる障害も打ち破ることができるようになります。

大霊から賜った霊力を顕現させるのです。皆さん方一人ひとりが、自由に使用できる無限の霊力を秘めた大霊そのものであることを自覚すれば、新しい時代の真の道具になれるのです。新しい時代は、漆黒(しっこく)の地上界にゆっくりと夜明けの光が射し込むことによって築かれていきます。いかに地位の高い人であっても、人間を頼りにしてはいけません。常に地上界の彼方(かなた)へ目を向けてください。人類のためを思って導こうとしている霊たちからのインスピレーションに耳を澄ませてください。

ひるまず前進してください。これからも多くの失敗と落胆があるでしょう。しかし、そうしたときに忘れてはならないことは、背後には霊団が控えていて、困難に遭遇したときには元気づけ、疲れたときには希望と力を与え、落胆しているときには魂を鼓舞してくれるということです。見放されることは絶対にありません。大霊はご自分の使者を遣わし、皆さん方を守ってくれます。

皆さんの中には遠い所まで足を運ばれる方もいらっしゃるようですが、霊力が手薄になることは決してありません。「人のため」という一念に燃えて活動しているかぎり、霊力は常に皆さんとともにあり、その生活の中で顕現されるのです。

皆さん方一人ひとりに大霊の祝福がもたらされ、常に大霊の無限の愛に包まれていることに気づかれますように。そして地上界の苦難と試練と混乱を達観して、大霊のシンボルである太陽へ目を向けられるように祈ります。

心に愛を、頭(こうべ)に知識を、そして魂に奉仕の決意を満たしてください。そうすれば大霊の意思があなた方を通して顕現し、その心が大霊の心と調和して鼓動し、大霊と一体となることでしょう。大霊の祝福のあらんことを……。

Wednesday, July 22, 2026

シルバーバーチの教え(下)

Teachings of Silver Birch
A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)






19章 ヒーリングの問題


〔ヒーリング・パワー(治癒力)は、我々地上人のすべてに内在していると言う。しかし霊媒能力を身につけることと同じく、それを発揮するためには努力が欠かせない。何の努力もなしにそのパワーが発揮できる人と、いくら養成会に通ってもいっこうに発揮できない人がいる。その違いについてシルバーバーチが説明する。〕


人間は誰もが霊的資質を持っています。それはある人においては、他の人よりも表に出やすくなっています。その資質――“心霊能力(サイキック)”と呼んでも“霊的能力(スピリチュアル)”と呼んでもかまいません――はそれを開発しようとする努力によって発現し、その人間と背後で働く指導霊たちとの協調の度合いが密接になります。

それは霊たちとの調和度が高くなり、精妙になり、緊密になるということです。霊的光波が一つの美しい調和状態に混じり合い、その調和の次元が頂点に達したときに霊界の医師団と地上の道具(ヒーラー)とが完全に一体化します。その完全な状態に少しでも近づくほど霊団とヒーラーとを通して使用できる治療光線(治療エネルギー)の次元が高くなり、強力になります。(これは特に霊的治療家について述べたもので、他の治療法、例えば磁気療法などの治療家には必ずしも当てはまらない――編者)


〔ヒーリング一般についてシルバーバーチは、ある日の交霊会で次のように述べている。〕


あなたが、ヒーリングによって治るということは、まだ霊界へ帰る時期に至っていないことを意味します。それはまた、魂の成長にとって身体の苦痛を味わうという体験が必要ではなくなったことを意味します。もとより、霊界に戻るまでに体験しなければならないことは他にもあります。肉体の苦しみだけが、地上でなすべき体験のすべてではありません。

治療家が患者の痛みを取り除いたり和らげたりすることが許されるのは、ヒーリングの体験を通して患者の魂を真の自我に目覚めさせることができるからです。病気を治すということは確かに偉大な仕事ですが、ヒーラーがなし得るさらに偉大な仕事は、患者の魂に感動を与え、真の自我に目覚めさせてあげることなのです。それに比べれば、身体の癒しは大して重要ではありません。

物的身体に宿っている皆さんは、今生きている地上生活のことだけを考えます。それに引きかえ地上を去った私たちは、地上生活を無限に続く進化の歩みの中のほんのわずかな期間として捉えます。皆さんがとかく物事を見る焦点を間違えるのは、そのためです。

苦しみの渦中にある気の毒な人を見て同情心が湧くのは当然のことですし、私はそれを非難するつもりはありません。しかし、そのときのあなた方は苦しみという点からのみ相手を見ているのであって、その苦しみの中で過ごす時間は、その後に償いの結果として得られる喜びに比べれば実に些細なものであることを理解していません。

あなた方には、日陰(苦難)の時間は日向(ひなた)(安楽)の時間よりも長く感じられるようですが、実際はそうではありません。ヒーリングによってすべての病気が治るとは限らないことを知っておかなければなりません。何事にも法則(摂理)というものが働いていて、患者の中にはいかなる治療家にも治せないケースがあるのです。

機が熟せば、人は必ず癒されます。そこには偶然というものはありません。魂が死の彼方(かなた)の新しい生活体験を必要とする時期に至れば、自然に肉体から離れるようになるのと同じことです。すべては大霊の摂理で定められているのです。あなた方もその摂理の一翼を担っています。なぜなら、あなた方自身が大霊の一部だからです。

もし、あなたがすべての借金を返済し、身体が完全な健康状態になれば、苦痛とは一切縁がなくなるでしょう。しかし、地上にあってもこちらの世界にあっても、人間は何らかの借金をつくっているものです。
質疑応答


〔シルバーバーチが病気の原因について語る。〕


物的身体と霊的身体は密接につながっています。両者は絶え間なく反応し合っています。物的身体はその存在を霊的身体に依存している一方、霊的身体は物的世界での顕現を物的身体に依存しています。そして霊的身体の成長を決定づけるのは、物的身体を通して得られた体験なのです。


――物的身体はエーテル体(霊体)を原型としているのでしょうか。


はい、そうです。


――すると、病気になったときに治療するのはエーテル体の方でしょうか。


それがすべての霊的治療の原則です。しかし時には純粋に物的原因による病気もあり、そこに医学が関わる余地があるのです。物的身体に影響を及ぼすものは、霊的身体にも影響を及ぼします。同様に霊的身体に影響を及ぼすものは、物的身体にも影響を及ぼします。


――すると、必ずしもエーテル体(霊体)を治療する必要はないということでしょうか。


必ずしも必要ではありません。要は原因がどこにあるかによります。霊体に原因があれば、霊体を通してヒーリングを進めます。が、純粋に肉体的原因から生じているのであれば、霊的手段よりも物的手段の方が効果が出やすいでしょう。

あなた方は今この時点で、すでに一個の霊的存在です。しかし、あなた方は霊的身体と同時に物的身体を通して自己を表現しているため、物的世界の感覚を受けとめるには物的身体に頼ることになります。地上世界で起きていることはすべて物的身体に影響を及ぼし、それがさらに霊的身体へと伝わることになります。

同じように霊的身体に影響を及ぼすことはすべて、物的身体にも反応を引き起こします。そうしたエネルギーの作用と反作用が常に生じているのです。物的・精神的・霊的な三種類のエネルギーが絶え間なく相互に作用しているということです。


――伝染性の病気は純粋に物的原因によるものでしょうか。


そうとは限りません。多くの病気は物的原因ではなく霊から発しています。


――例えば、どのような原因から病気が発生しているのでしょうか。


利己主義・貪欲・金銭欲などです。イエスが「あなたの罪はもう許されました」と(癒された患者に)言ったという話はご存じだと思いますが、病気の原因には物的なものと霊的なものの二種類があることを知らなくてはいけません。両方とも同じ方法で治すことができますが、物的な方法の方が容易なケースもあります。

霊的身体が肉体の病気の影響を受けるとか、肉体の病気を引き起こすと表現しましたが、実際には霊的身体が病気になっているわけではありません。物的身体との調整がうまくいっていないというだけのことです。それがバイブレーションを乱し、物的身体との関係を阻害する度合いが大きくなると、物的身体に病気が発生するようになります。怒りは脾臓(ひぞう)を傷め、嫉妬は肝臓を害することになります。

そうしたものが霊的身体と物的身体の調整不良を生じさせるのです。それまでの健全なバランスが崩れて調和が乱れます。その崩れ方があまりに酷(ひど)いと、霊体が肉体を通して自己を表現することが不可能になり、死に至るようになります。


――片腕を失った場合、エーテル体(霊体)にどういう影響を及ぼすのでしょうか。


エーテル体の腕に直接的な影響はありませんが、肉体の腕を失ったことによってそれぞれの間の調整を欠くことになります。あなた方が地上にいる間は、エーテル体の腕はその機能を果たせなくなります。だからといって希望がなくなったわけではありません。常に希望はあります。ただ、それには考慮しなければならないさまざまな要素があります。

人間は物的身体と霊的身体、そして両者を結びつける生命の糸(シルバーコード)という三つの要素から成り立っています。病気や老化によって物的身体が損なわれ、二つの身体間の調整が崩れ始めます。そして霊体は物質界から徐々に解き放たれていきます。病気の原因には、肉体的なもの、精神的なもの、霊的なものといった三つがあります。腕の骨折は霊的治療でも治せますが、物的処置の方が簡単でしょう。


――遺伝性の病気は神の摂理の公正さと矛盾しませんか。


地上へ生まれるときにまとう身体は、授かるべくして授かったものです。あなた方は、前世で獲得したものを携えて新しい地上生活を出発します。前世の内容に相応しい身体で地上人生を歩み始めるのです。ですから、遺伝性の病気を持って生まれたからといって、それを不利と見るのは間違いです。当人の霊的進化にとって必要な人生を送ることができるような身体を授かっているのです。


――霊的治療によって治る人と治らない人がいます。両者には魂の進化という点において違いがあるからでしょうか。


そうではありません。地上を去るべき時期がきたら、いかなる治療家もそれを阻止することはできません。


――でも、治療家の世話にならなかったらもっと早く死んでいたと思えるケースがあるようですが……。


数日とかそこらの話です。永遠の生命に照らしたとき、そのことにどれほどの意味があるのでしょうか。


――それでは、霊的治療そのものが不要ということになりませんか。


それは違います。なぜなら、人のために尽くすことは大霊を顕現させることになるからです。病気の多くは、必ずしも魂の進化の程度によるものではありません。単に無知から大霊の摂理に反する行為をしたことで生じている病気もあります。もっとも、それは魂の進化の程度がその摂理の存在を理解する段階まで到達していなかったからであるという見方もできます。魂が進化して完全に摂理と一致した生き方ができるようになれば、病気はしなくなります。


――二人の人間が同じ原因から同じ病気になっているのに、一人は治療家によって治り、もう一人は治らないということがありますが、それは不公平ではないでしょうか。


あなたは、病気になった人が霊的治療家のところへ行くのは偶然の出来事だと思っているのですか。偶然というものは、あなた方の世界にも私たちの世界にも存在しません。大霊の摂理は完璧です。そのうちあなた方も、摂理の働きを理解するようになります。そして私と同じように、その完璧な摂理を創造した大霊の完璧な愛に驚嘆することになるでしょう。

この私も含めてすべての人間は、暗闇の中を模索して光を見いだしたとき、摂理の存在に気づいて感嘆するようになります。しかし摂理の存在に気づかないうちは、それを偶然とか思いがけない出来事であると考えます。が、改めて申し上げますが、偶然というものはありません。

そう言うと、では自由意志はどうなのか、とおっしゃることでしょう。人間は自由意志を持っています。しかし、その自由意志は魂の進化の程度に支配されています。自由とは言っても、魂の成長度によって規制されているということです。宇宙をすみずみまで支配している摂理によって縛られていると言ってもよいでしょう。いかに巨大な星雲であろうと、極微の生命体であろうと、摂理から逃れられるものは何ひとつありません。大霊の摂理は完璧なのです。


――霊的治療と磁気治療では何が違うのでしょうか。


まったく違います。磁気治療は、治療家自身から出る磁気エネルギーによって病気を治します。霊的治療は、治療家のバイブレーションが霊界の治療家のバイブレーションと一体となり、通常では物質界の圏内には届かない治療エネルギーがその治療家を通して流入するようになるのです。


――一卵性双生児が同じ病気になり、医学では“不治”と宣告されたとします。その場合でも、二人ともそちらからの治療で治せますか。


私にはどちらとも断言できません。痛みを和らげたり病気を完治させたりする霊的エネルギーが存在することは事実ですが、それが効力を発揮するには、その通路となる治療家の適合性が問題となります。現段階の地上界では、大霊の最高の治療エネルギーは使用できません。治療家が霊的に向上するにつれて、より高いレベルのエネルギーを使用できるようになります。それは霊界の問題であると同時に地上界の問題でもあるのです。私たちは皆、媒体にすぎません。この霊媒(バーバネル)の背後に私がおり、私の背後には私よりも霊格の高い霊が控えています。そしてその霊たちの背後にはさらに霊格の高い霊が控えていて、その連鎖は無限の彼方まで延びているのです。


〔治療家のW・T・パリッシュの新しい治療所の開設に際して贈られたシルバーバーチのメッセージである。〕


訳注――原始的なシャーマニズム的段階から脱して近代的な霊的治療を切り開いたのはフレッド・ジョーンズ、それを引き継いだのがパリッシュ、そして完成させたのがハリー・エドワーズであると言われる。もっとも、いつの時代にもシャーマニズム的段階から高度の霊的治療に至るまでの、あらゆる段階の治療家や祈祷師がいるようである。


本日、私は謹んでこの治療所を大霊とその子らのために奉納いたします。ここは物質と霊の二つの世界が融合して一つとなる神聖な場所であり、大霊の力が顕現する場所です。

私はこの治療所を、心を病んでいる人々、魂を病んでいる人々、そして身体を病んでいる人々、また苦悩の中にいる人々、暗闇の中にいる人々、人生に疲れ生きる気力を失っている人々のために奉納いたします。彼らはこの場所に来て愛の光に包まれ、癒しを得ることでしょう。

また、私はこの治療所を、意気消沈している人々を元気づけ、挫折している人々を奮(ふる)い立たせ、弱気になっている人々に勇気を与え、疲れ果てている人々の顔に笑みを取り戻させてあげる場として奉納いたします。

どうか皆さんも、この治療所をレンガとモルタルでできた建物としてではなく、霊的聖堂として見てください。壮大な尖塔(せんとう)も、神々しく思わせるものも何ひとつありませんが、神の霊力の宝庫として祝福を受けたことにより、ここはまさに「神の館」となったのです。

四方を壁で囲まれたこの部屋の中で、偉大なるサービスが為されるのです。人生の闘いに疲れ果てた人々、心身ともに衰弱しきった人々、激痛と病魔に苦しむ人々が数多く訪れることでしょう。最後の拠りどころとして、一縷(いちる)の望みを託して訪れるのです。そうした人々に、霊の力(霊界からもたらされる治療エネルギー)が新たな活力を与えることになります。彼らは気分を一新して生命力にあふれ、それまで霊の活動を妨げてきたすべてのものが取り除かれることでしょう。

目の見えなかった人が光を見いだし、耳の聞こえなかった人が聞こえるようになり、手足の不自由だった人がその障害から解放されることでしょう。ヒーリングによってもたらされた霊力が人生に立ち向かう勇気を与え、新たな希望が湧いてくることでしょう。

さらに大切なことは、ヒーリングが患者の魂の琴線(きんせん)に触れて感動を引き起こすことです。ほとんど光らしい光を発していなかった大霊(神性)の炎が勢いよく燃え上がり、その体験が新たな悟りをもたらすことになります。

そうした仕事をするのに特別仕立ての式服をまとう必要はありません。大学へ通って学問を修める必要もありません。必要なことは自分を役立てたいという熱誠、霊の資質を顕現させたいという願望です。

それによってあなたの魂は高められ、強力な霊団の道具として、物質界のために使用されるべきエネルギーの通路として役立つことになるのです。

Tuesday, July 21, 2026

シルバーバーチの教え(下)

 Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)



18章 霊界側から見た戦争

〔シルバーバーチが戦争を非難する姿勢は一貫しており、常に霊的真理を普及することの必要性を強調している。ここでは、戦争に関するシルバーバーチの言葉を見ることにする。〕


私たちは霊界が、地上の戦争によって傷ついた魂のための野戦病院のようになっては困るのです。私たちのように地上圏に降りて仕事をしている者は、地上人が救われるためには、私たちがお届けしている霊的真理を受け入れる以外にはないことを痛感しています。それは地上人みずからがすべきことであって、私たちが代わってしてあげるわけにはいきません。摂理に反した行為がどのような結果を招くかを示し、地上で間違ったことをすると霊界でこういう事態になるということを、教えてあげるしかないのです。

霊的に何の準備もできていない魂が、霊界へ続々と送り込まれてきます。戦死者たちは、まるで熟さないうちにもぎ取られた果実のようなものです。地上界で生活するための道具(肉体)を破壊されたことで傷ついた魂を、なぜ霊界で癒さなければならないのでしょうか。地上人がなすべきことを疎(おろそ)かにしたことで生じた面倒な事態に対処するために、なぜ私たちが進化の歩みを止めて地上圏へ戻って来なければならないのでしょうか。

もし私たちに、あなた方への愛、大霊の愛がなかったなら、こうして地上界のために働いてはいないでしょう。皆さんは、私たちが伝えようとしている霊的真理によって私たちを判断してください。もし皆さんが「あなたの教えは間違っている。これまでの地上の常識に反している」と言われるなら、私たちとしてはもはや為す術(すべ)がありません。

地上界に限って考えてみても、戦争を正当化することはできません。物質的にも、ただ破壊を引き起こすだけです。霊界側から見たとき戦争は、決して正当化することはできません。戦争は、人間は地上界を離れる時期がきたときに肉体から去るべきである、という摂理に反することになるからです。大霊の子が、よくぞ平気で神聖なる摂理を犯すものだと、私たちは呆れるばかりです。

実は地上界のそうした愚かな行為が、低級霊たちの働きかけを許すことになっているのです。彼らは進歩と平和と調和を憎み、組織的な態勢で邪魔立てしようと画策しています。そのことを、あなた方はご存じありません。これを阻止するためには民族や国家間の対立をなくし、地上人類のすべてが大霊の子供であるとの認識を持つことです。対立を生んでいるのは地上の人間であって、大霊ではありません。すべての人間に大霊の分霊が宿っており、それゆえに全人類は等しく大霊の子供なのです。

地上世界には建設しなければならない仕事がいくらでもあるというのに、指導的立場にいる人たちは、なぜ破壊という手段を選ぶのでしょうか。大霊は、すべてを支配する自然法則(摂理)を設けられました。地上の子供たちは、その法則に背くようなことをしてはなりません。もし摂理にそった生き方をしないなら、破壊と混乱を生むだけです。人類は、もう十分にその結果を見てきたのではないでしょうか。

皆さん方には、大霊の計画を地上界で実現するために全力を尽くしていただきたいのです。皆さんは、大霊が流血を望まれると思いますか。戦争によって悲劇や苦難、失業や飢餓や貧困が生み出されるのを望まれると思いますか。せっかくの賜物(たまもの)を無駄にし、小さな子供たちが両親から引き離されて無理やり霊界に追いやられてしまうのを見て、大霊が喜ばれると思いますか。

私たちがお届けしている教えに忠実でありさえすれば、大霊のために奉仕している私たちと同じように、あなた方もこの大事業において役に立つことができるのです。

他人の肉体生命に終止符を打つ行為は、大霊の摂理に背きます。殺意を抱くと、理性が去ります。人間には大霊の分霊が宿っていますが、同時に動物的進化の名残も留めています。人間の進化向上は、動物性を抑え、神性を発揮することによってなされるものなのです。動物性をむき出しにすると、戦争や紛争や殺し合いなどが起こります。反対に内面の神性を輝かせ互いに助け合うようになれば、平和と調和と豊かさがもたらされます。

国家とか民族とかで差別してはいけません。いずれの国家も民族も、大霊の一部なのです。大霊の目から見れば皆、大霊の子供であり、兄弟姉妹なのです。私たちの教えは単純ですが、真実です。それは大霊の摂理を基盤としているからです。摂理を無視して地上界を築こうとしても、混乱や騒動が起きるだけで、最後はすべてが破綻します。

よほどの犠牲的な努力が為されないかぎり、地上ではこれからも戦争が絶えないでしょう。人類はそうなる種を蒔いてきており、蒔いた種は人類みずからの手で刈り取らなければなりません。原因と結果の法則は絶対にごまかせないのです。流血の種を蒔いておいて、平和を刈り取ることはできません。物的欲望の種を蒔いておいて、その結果を免れることはできません。

愛が欲しければ愛の種を蒔くことです。平和が欲しければ平和の種を蒔くことです。至るところに奉仕の種を蒔けば、地上世界は奉仕の精神にあふれることでしょう。このように大霊の真理はきわめて単純なのです。あまりに単純すぎるために、地上で指導的立場にある人々には、その重大性が分からないのです。
質疑応答


――大戦で戦死した人々の「犠牲」は何の役にも立たなかったのでしょうか。


少なくとも私の目には何の意義も見いだせません。あなた方が言う「偉大なる戦い」が始まったときよりも今の方が混乱し、一段と破壊が進んでいます。


訳注――「偉大なる戦い」とは「戦争をやめさせるための戦争」を大義名分とした第一次世界大戦の別称であるが、シルバーバーチが敢えてこの呼び方をしたことには、「偉大」と呼べる戦争などあり得ないという皮肉が込められている。


――あれだけの英雄的行為が無駄に終わることがあってよいものでしょうか。霊的な影響はまったくないのでしょうか。


犠牲となった一人ひとりには報いがあります。動機が正しかったからです。しかし、忘れてはならないのは、地上世界は彼らを裏切っているということです。相変わらず物質中心の考え方をしているために、彼らの犠牲は無意味に終わっているのです。


――休戦記念行事が毎年のように催されていますが、意義があるのでしょうか。


たとえ二分間でも死者のことを思い出してあげることは、何もしないよりはましでしょう。ですが、ライフルや銃剣、軍隊、花火、その他、戦争に結びついたもので軍事力を誇示して祝ったところで、何の意義も見いだせません。なぜ、霊的な行事で祝えないのでしょうか。


――戦没者の記念をスピリチュアリズム的な催しとして行うことには賛成ですか。


真実が語られるところには、必ず善なるものが生まれます。もちろんその演説が奉仕的精神を鼓舞するものであれば、なおさらです。無意味な演説からは何も生まれません。演説をするだけでは十分ではありません。また、それを聴く側も、いかにも自分たちが平和の味方であるかのような気分に浸るだけではいけません。

私は「行為」を要求しているのです。人のために役立つことをしてほしいのです。弱者を元気づけるようなことをしてほしいのです。病気に苦しむ人々を癒し、喪の悲しみの中にいる人を慰め、住む家もない人に宿を貸してあげてほしいのです。地上世界の汚点とも言うべきすべての害悪に、終止符を打ってほしいのです。

平和は互助の精神からしか生まれません。すべての人が奉仕の精神を抱き、それを実行に移すようになるまでは地上に平和は訪れません。


――参戦を拒否する平和主義者の運動についてどう思われますか。


私はいかなる“派”にも属しません。私にはラベルというものがないのです。私は、人のために役立つ行為と動機にしか関心がありません。肩書きや名称に惑わされてはいけません。何を目的としているか、動機は何かを見極めないといけません。なぜなら、反目し合うどちらの側にも誠意と善意を持った人がいるものだからです。私たちが説いている教えは至ってシンプルなものですが、それを実行に移すには勇気が要ります。

霊的真理を知り、それを実行しようと決意したとき、そして日常生活においてあらゆる問題に奉仕と無私の精神で臨むようになったとき、地上界に平和と調和が訪れます。

それはいかなる党派の主義・主張からも生まれるものではありません。大霊の子供たちが霊的真理を理解し、それを日常生活に、そして政治や経済や国際問題に適用していくことから生まれるのです。

私たちは、これこそ真実であると確信した霊的真理を説いています。そしてそれを実行に移せば、きっと良い結果がもたらされるということを教えています。あなた方は物質の世界にいらっしゃいます。最終的には皆さん自身が責任を負うことになります。私たちはただ、愛と誠意を持って導き、あなた方が正道から外れないように力を貸してあげることしかできません。


――ヨーロッパの大国のすべてが完全武装して大戦に備えている中で、英国だけが武装化を抑制しているのは間違いではないでしょうか。


あなた方は国や民族の概念で考えますが、私は大霊とその子供という概念で考えていることを、これまで何度も申し上げてきました。破壊のための兵器をいくらつくっても、平和はもたらされません。平和を希求する声が高まり、人々が愛と奉仕の摂理にのっとって生きるようになったとき、平和が訪れるのです。私は、一つの国、一つの民族という概念はとりません。全人類が大霊の一部であり、大霊の子供であると考えているのです。大霊の摂理を適用するようになるまでは、地上界から戦争と破壊、混乱と破綻が尽きることはないでしょう。
イタリア軍によるアビシニア(現エチオピア)侵攻に関連して出された質疑応答――


――「制裁」という手段をどう思われますか。


私の意見はもうお分かりでしょう。生命は大霊のものであって、人間のものではありません。勝手に生命を奪うことは許されません。摂理に反します。摂理に反したことをすれば、その代償を払わなければなりません。


――しかしこの場合は、動機が正当化されるのではないでしょうか。戦争をやめさせるためという大義があるのですから……。


武力という種を蒔けば、その種はさらなる武力を生むことになります。「戦争をやめさせるための戦争」だと、当事者が言っているではありませんか。


――では、残虐な連中が無抵抗の人々を殺すのを手をこまねいて見ていろとおっしゃるのでしょうか。


あなた方はよく、そういう論理で私たちの意見を求めますが、私たちは永遠にして不変の摂理を説いているのです。最初の段階で摂理に適った手段を用いていれば、今日のような苦境を招くことはなかったはずです。あなた方は難問が生じてから、取り敢えず対策を講じて切り抜けようとしますが、それでは根本的な解決はできません。永遠の摂理に基づく手段だけが、永遠の平和・真の平和をもたらすことになるのです。


――私たちは国際連盟(現在の「国際連合」の前身)を支持すべきでしょうか。


加盟国の代表は本当に平和を希求しているでしょうか。心の底から、魂の奥底から平和を望んでいるでしょうか。大霊の摂理に素直に従うだけの覚悟ができているでしょうか。もしかして、自国への脅威となるものを阻止しようとしているだけではないでしょうか。大霊と人類全体の観点からではなく、自分たちの国、自分たちの民族、自分たちの富という観点からのみ考えているのではないでしょうか。

私たちは、親なる大霊と、その摂理について説いています。それ以外に平和をもたらす方法はないからです。その場しのぎの手段でも一時的には効果があるかもしれませんが、それでは邪悪なものしか生まれません。

そのうち地上人類も“愛”こそが邪悪に打ち勝つことを悟る日がまいります。なぜなら、愛は大霊の顕現だからです。すべての問題を愛の精神で解決しようとするなら、地上界に平和が訪れます。愛の摂理に反する欲望は、常に分裂と混沌(こんとん)と破綻を生み出します。根本から正す努力をしないかぎり、他のいかなる手段をもってしても永遠の平和は訪れません。


――宇宙には戦争を正当化する理由はないのでしょうか。


ありません。戦争は地上世界に存在するだけで、霊界にはありません。人間が殺意を抱くと、同じような欲望を持った地縛霊を惹きつけることになります。
一九三七年の「休戦記念日」におけるシルバーバーチからのメッセージ


訳注――かつては「休戦記念日」と呼ばれていたが、第二次世界大戦後は、英国では「英霊記念日」、米国では「復員軍人の日」と呼ばれている。


毎年この日がめぐってくるごとに、戦死者の犠牲が虚しいものであることを痛感させられます。たった二分間、あなた方は「栄誉ある戦没者」に無言の敬意(黙祷)を捧げ、それからの一年間は忘れ、この日が訪れると棚から下ろしてホコリをはたくように敬意を払います。

彼らの犠牲的行為はすべて無駄に終わっています。一九三七年の時点で、十九年間も十字架にかけられ続けてきたようなものです。あなた方は「偉大なる戦争」と呼びますが、その偉大さとは大量殺戮(さつりく)、無益な殺戮のことです。それは、すべての戦争をやめさせるための戦争だったとおっしゃいますが、その言葉の何と虚しいことでしょう。何という欺瞞(ぎまん)に満ちた言葉でしょう。

自分の生命まで犠牲にして祖国のために献身した若者たちが、霊界で辛い落胆の歳月を送っていることをご存じでしょうか。彼らは、青春の真っ只中で生命を奪われました。何の準備もなしに、霊界へ送られたのです。彼らは“国を守る”という理想のために喜んで死んでいきました。それ以来、彼らは裏切られ続けています。地球上から戦争はなくなっておりません。栄誉ある戦死者に二分間の黙祷を捧げている最中でも「休戦」はありません。殺戮は二分間の休みもなく続いています。

真の平和は霊的摂理を適用することによってしかもたらされないということを、地上人類はいつになったら悟るのでしょうか。戦争はもとより、それが生み出す流血、悲劇、混沌、破綻といったものの元凶は「利己主義」なのです。

奉仕精神が利己主義に取って代わることによってのみ、平和が訪れることを知らなければなりません。自国の物的威力を誇示しようとする古い唯物的思想を捨て、代わって互いが互いのために生き、強い者が弱い者を助け、持てる者が持たざる者を援助しようとすることによってのみ、平和が訪れるようになることを学ばなければなりません。

霊界へ送り込まれた人々を、心にもない口先だけの敬意で、侮辱(ぶじょく)してはなりません。和平へ向けていろいろと努力が為されながら、ことごとく失敗しています。が、唯一試みられていないのは「霊的真理」の適用という方法です。それが為されないかぎり戦争と流血が終わることはなく、ついには人類が誇りに思っている物質文明も破綻をきたすことになるでしょう。

シルバーバーチの教え(下)

 Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)



17章 霊界でも祝うクリスマスとイースター

〔シルバーバーチは、一年に二度、クリスマスとイースターの時期に他の大勢の指導霊とともに霊界の内奥(ないおう)で催される大審議会に出席する。この審議会では、それまでの計画の進捗(しんちょく)状況が報告され、それに基づいて次の計画が立てられる。そして新たな霊的エネルギーとインスピレーションを得て、これからの仕事のための準備をすることになる。その審議会の最高責任者が、地上で「ナザレのイエス」と呼ばれた人物である。シルバーバーチは次のように語る。〕


その大審議会でのイエスのお姿をあなた方に見せ、お言葉を聞かせてあげたいと思います。私たちを励ましてくださるイエスの深い愛情を、あなた方に感じていただきたいのです。イエスは、それまでに私たちが成し遂げた仕事についての評価を披露(ひろう)され、新たなる力、新たなる希望、新たなるビジョンのもとでさらなる目標に向かって邁進するようにと励ましてくださるのです。教会が説く神格化されたイエス・キリストではありません。多くの道具(同志)を通して人類に奉仕しようと勤(いそ)しんでおられる、一人の偉大なる霊です。

私は、長年生活してきた本来の界層に少しのあいだ留まり、そこで久しぶりに活気あふれる霊力に触れ、エネルギーを充電し、美を満喫し、高級霊界においてのみ可能となる生命の実感を味わいます。こんなことを申し上げる私に、自惚(うぬぼ)れの気持ちなど微塵(みじん)もありません。

たとえ世界中の名画や素晴らしい景色、物質界のありとあらゆる芸術品、さらには深遠な自然美を一つに集めても、高級霊界の美しさに比べれば、お粗末な模作程度のものでしかありません。

例えば地上の画家が、高級霊界からのインスピレーションに触れたとしましょう。彼はすぐに、手持ちの絵の具ではそれを表現できないことに気づきます。絵の具を混ぜ合わせて、魂でとらえた色彩を何とかつくり出そうとしますが、不可能であることを悟ります。霊的な存在物や霊界の美しさは、物的な手段では表現できないものだからです。

霊的な喜悦を、地上の言語で説明することができるでしょうか。大霊の光を放ち、叡智と理解力にあふれ、慈悲心と優しさに満ちた霊たちと会ったときの喜びを言い表すことができるでしょうか。語らずともすべてを理解し、互いの心の奥底まで見抜き、その思いを共有することができる霊たち、成功も失敗も知り尽くしている霊たちと一堂に会したときの喜びを、どのようにしたら説明できるでしょうか。地上には、そうした魂の体験を表現する言葉はありません。

大審議会では数ヵ月間の仕事を見直し、新たな計画を作成し、指導霊の一人ひとりに役割が与えられます。私たちは大きな励ましを得て心を鼓舞され、再び各自の使命を果たすために地上近くへ降りていきます。私は皆さん方の援助によって力を与えられ、地上人類が少しでも大霊に近づくことができるように努力しているのです。
質疑応答


――あなたは、その集会に出席するとき、地理的な意味で地球を「離れる」のでしょうか。それともバイブレーションを別の次元に切り換えるのでしょうか。


私が地球(地上圏霊界)を離れるときは、地球の引力やバイブレーションの影響は受けません。こうしてあなた方と話をしているときの私はアストラルボディー(幽体)を用いていますが、地球を離れるときはそれを脱いで霊体だけになります。その霊体が私自身なのです。

脱ぎ捨てたアストラルボディーが分解しないように、(次に使用するまで)私の意識の一部をそこに残しておきます。そして私は、より内奥にある高次の意識を高め、本来の霊的意識を取り戻していきます。それには時間がかかります。地球のバイブレーションから脱するのに時間をかければかけるほど、本来の界層でより高次の霊的意識を取り戻すことができるようになるのです。

しかし、この仕事のために地球へ降りてくる前の意識レベルまで到達することはできません。何年もかかったものを、数日で取り戻すことはできません。


――本来の意識レベルを意図的に下げるのは、たいへんな犠牲を強いられることではありませんか。


おっしゃる通りです。しかしそれは、物質界にいるあなた方のために喜んで払っている代償です。


――犠牲の中でも最大のものと言えるのではないでしょうか。


確かにそうですが、真理に飢えている人がこれほど多いのですから、私は喜んで持てるものを分け与えています。

地上の太陽が色あせて見えるほど眩(まぶ)しいばかりに光り輝く霊界の太陽、あらゆる絵画・建造物・詩・音楽で表現されている美の極致、最大限の調和状態の中で自然界が生み出す心を奪われるような美しい光景、しかも趣味も性分も相通じる気の合った仲間と交わる喜び――そうしたものに満たされている世界から、暗くて陰鬱(いんうつ)なこの地上界へと降りてくるのです。そのためにどれほどのものを私が犠牲にしているのか、およそお分かりいただけるでしょう。

私は自惚れてこんなことを言っているのではありません。わずかな人々であっても、安らぎと慰めと希望を与えてあげることができるなら、私は喜んで自分の持っているものをお分けしたいと思っています。


――地上のクリスマスとイースターの時期に、なぜ指導霊の集会を催すのでしょうか。ナザレのイエスと何か関係があるのでしょうか。


霊界では、イエスが地上へ降誕する以前からクリスマスとイースターを祝っていました。それらは、聖書に出てくる物語とは何の関係もありません。いずれお分かりになる日もくると思いますが、地球は「リズム」、つまり進化の法則の一環である「サイクル」によって支配されています。そのサイクルは機械的に運行しており、地上のあらゆる民族がそれを認識していました。

私が地上にいた頃、大切にされていた二つの祭日がありました。それをクリスチャンが取り入れ、クリスマスとイースターと呼んで祝っているのです。

この二つの祭日は、私たちインディアンにとって重要な意味を持っていました。インディアンはそれらの時期に、大霊との最高の交わりが得られることを知っていました。あなた方(西洋人)には理解できないことですが、私たちはその時期に太陽の影響力が最も盛んになると考えていました。そして何日にもわたってあなた方の言う「交霊会」を催し、大霊からのインスピレーションをふんだんに受けていました。

そのため私たちインディアンは、地上時代に大切にしていた時期がめぐってくると、霊界において仲間たちが集って祝うのです。もとは“太陽崇拝”から始まったものですが、太陽はシンボルにすぎません。生命あるものはすべて、互いに影響を及ぼし合っています。あらゆる物質も、あらゆる天体も、互いに影響を及ぼし合っています。

すべては自然法則に基づいており、クリスマスは「太陽の誕生」を意味しています。クリスマスは、自然法則を基にして築かれた宗教を持つすべての民族が一つにまとまる時であるため、それが霊界での大審議会の時期として選ばれたのです。私たちにとって太陽の誕生を祝うクリスマスは、すべての祭日の中で最大のものです。なぜならそれは新しい時代の始まりを象徴しているからです。それはサイクルの終わりであり、新しいサイクルの始まりでもあるのです。クリスマスの時期に霊界で集会が催されるのは、指導霊のすべてが、かつて地上で自然法則を基にした宗教を持つ民族に属していたからなのです。

地上でクリスマスとイースターを祝っていたことから、霊界でもこの時期に集会を開いていますが、新しい生命の誕生を祝うという目的は薄らぎ、今では物質界から一時的に引き揚げて次の仕事のための新たな霊力を授かるという目的のために開かれています。


――集会には、どのような霊たちが参加するのでしょうか。


主として、インディアンと古い民族に属していた(スピリチュアリズムの)指導霊たちです。今日の西洋人はすべて、指導霊たちに比べて新しい民族であり、彼らにとっては私たちの祝いは無意味です。

イースターは「全生命の復活」を祝う時です。地上の人間が悲嘆と苦悩、苦痛と困窮(こんきゅう)から脱して、より豊かな人生・本当の人生を歩めるようにと祈るすべての人々が一つに結ばれ、全世界が夜明けを迎えることの象徴なのです。それによって悲しみと涙が追放され、悲劇と飢えが消滅していくことになります。

地上世界は今こそ「復活」を必要としています。ゆっくりとではあっても、大霊の摂理が適用されるようになり、より多くの大霊の子らが自らを大霊の道具として提供するようになります。そして物質第一主義の勢力が撤退することになるのです。

私が本来の所属界へ戻るときは、他の多くの指導霊と一緒にまいります。そして短い期間ではありますが、あなた方地上人には想像もつかないような霊的生活の喜びを味わいます。愛の絆で結ばれた指導霊たち、私たちが師と仰ぐ霊たちと会い、その優れた叡智を学び取り、その霊力を取り入れ、深遠なる洞察力による助言を授かります。そしてこの仕事の進展状況を確認し、これからも果てしなく続く善と悪との戦いのために用意された計画を示されます。

こうして私たちは、上層界の指導霊から激励を賜り、奉仕の喜びに満たされて再びこの地上界へと戻ってきます。そしてまた、皆さん方と協力し合って、少しでも多くの霊力を地上界へもたらすために働くのです。

できることならその集会にあなた方をお連れして、地上界のために働いている指導霊たちに会わせてあげたいと思います。私は他の誰よりもこのサークルの皆さんを、イエスを中心として開かれるその集会にお連れしたいと思っています。光輝あふれるその姿を見せてあげたいのです。大霊によって選ばれた指導霊がどのような方々であるかを知ったなら、あなた方は、あまりの威厳にただ畏(おそ)れおののくばかりかもしれません。指導霊たちの地上時代の名前は、知らずにいた方がいいかもしれません。

あなた方には、こうして地上世界のために尽力している仕事の中身によって私たちを判断していただきたいのです。


――霊界での祭日として、なぜ地上のイースターを選んだのでしょうか。


私たちが地上のイースターを選んだのではありません。あなた方が私たちのイースターを選んだのです。


――イースターは昔、地上全体で同じ時期に祝われていたのでしょうか。


私たちインディアンは皆、同時に祝っていました。その後、あなた方の世界でキリスト教という宗教がつくられたとき、太古の自然宗教が用いていたシンボルを採り入れていったのです。すべての宗教の根幹に“太陽信仰”があることを知ったからです。


――現在でも霊界では、インディアン社会だけでなく他の宗教においてもイースターを祝うのでしょうか。


霊界の全界層においてイースターが催されています。地上でクリスチャンだった者は、イエスの蘇りを祝います。イエスよりもずっと前の時代に地上生活を送った者たちは、その時代の自分たちの宗教のシンボルとしてのイースターを大々的に祝います。私たちはそのとき、まだ明らかにされていない叡智を授かります。私たちよりも霊格の高い指導霊から教えを受けると同時に、その知識を他の仲間の霊たちと分け合います。

Monday, July 20, 2026

ベールの彼方の生活(二)



第二巻は、著者オーエンの守護霊であるザブディエルからの通信です。彼がいる十界、その先の十一界や下層界である五界や六界の情景について書かれています。


一章 序 説
守護霊ザブディエル   2善と悪   3神への反逆     
統一性と多様性



一章 序 説

1 守護霊ザブディエル 

  一九一三年十一月三日  月曜日

 守護霊のザブディエルと申す者です。語りたいことがあって参りました。


──御厚意ありがたく思います。

 ご母堂とその霊団によって綴られてきた通信(第一巻)にようやく私が参加する段取りとなりました。これまでに授けられた教訓を更に発展させるべき時期が到来したということです。貴殿にその意志があれば、ぜひともそのための協力を得たいと思います。


──恐縮に存じます。私にいかなる協力をお望みでしょうか。

 ここ数週間にわたってご母堂とその霊団のために行ってこられた如くに、私のメッセージを今この時点より綴ってほしく思います。


──ということは、母の通信が終わり、あなたがそれを引き継ぐということでしょうか。

 その通りです。ご母堂もそうお望みである。もっとも、時にはその後の消息をお伝えすることもあろうし、直接メッセージを届けさせようとは思っています。


──で、あなたが意図されている教訓はいかなる内容のものとなりましょうか。

 善と悪の問題、ならびにキリスト教界および人類全体の現在並びに将来に係わる神のご計画について述べたいと思う。もっとも、それを貴殿が引き受けるか、これにて終わりとするかは、貴殿の望むとおりにすればよい。

と申すのも、もとより私は、急激な啓示によっていたずらに動揺を来すことは避け徐々に啓発していくようにとの基本方針に沿うつもりではあるが、その内容の多くは、貴殿がそれを理解し、私の説かんとする教訓の論理的帰結を得心するに至れば、貴殿にとってはいささか不愉快な内容のものとなることが予想されるからです。



──私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょうか。あのままで終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。


 さよう、終わりである。あれはあれなりに結構である。もともと一つのまとまった物語、あるいは小説のごときものを意図したものでなかったことを承知されたい。断片的かも知れないが、正しい眼識を持って読む者には決して無益ではあるまいと思う。


──正直言って私はあの終わり方に失望しております。あまりに呆気(あっけ)なさすぎます。また最近になってあの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望はありのままを公表するということでしょうか。

 それは貴殿の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合は無いと思うが・・・ただ一言申し添えるが、これまで貴殿が受け取ってきた通信と同様に、今回新たに開始された通信も、これより届けられる一段と高度な通信のための下準備である。それをこの私が行いたく思います。


──いつからお始めになられますか。

 今、ただちにである。これまでどおり、その日その日、可能なかぎり進めればよい。貴殿には貴殿の仕事があり職務があることは承知している。私を相手とする仕事はそれに順じて行うことにしよう。


──承知しました。出来るかぎりやってみます。しかし正直に申し上げて私はこの仕事に怖れを感じております。その意味は、それに耐えて行くだけの力量が私には不足しているのではないかということです。

と言いますのも、今のあなたの言い分から推察するに、これから授かるメッセージにはかなり厳しい精神的試練を要求されそうに思えるからです。


 これまで同様に吾らが主イエス・キリストのご加護を得て、私が貴殿の足らざるところを補うであろう。

──では、どうぞ、まずあなたご自身の紹介から始めていただけますか。

 私自身のことに貴殿の意を向けさせることは本意ではない。それよりも、私を通じて貴殿へ、そして貴殿を通じて今なお論争と疑念の渦中にあり、或いは誤れる熱意を持ってあたら無益な奮闘を続けているキリスト教徒へ向けた啓示に着目してもらいたい。

彼らに、そして貴殿に正しい真理を授けたい。それを更に他の者へと授けてもらいたいと思う。その仕事を引き受けるか否か、貴殿にはまだ選択の余地が残されております。


──私はすでにお受けしています。そう申し上げたはずです。私ごとき人間を使っていただくのは誠に忝(かたじけな)いことで、これは私の方の選択よりそちらの選択の問題です。私は最善を尽くします。誓って言えるのは、それだけです。では、あなたご自身について何か・・・


 重要なのは私の使命であり、私自身のことではない。それはこれより伝えていく思想の中に正直に表れることであろう。世間と言うものは自分に理解できないことを口にする者を疑いの目を持って見るものである。

かりに私が「大天使ガブリエルの顕現せる者なり」と言えばみな信ずるであろう。聖書にそう述べられているからである。が、もし「〝天界〟にて〝光と愛の聖霊〟と呼ばれる高き神霊からのメッセージを携えて参ったザブディエルと申す者なり」と申せば、彼らは果たして何と言うであろうか。

故に、ともかく私にそのメッセージを述べさせてもらいたい。私および私の率いる霊団についてはそのメッセージの中身、つまりは真実か否か、高尚か否かによって判断してもらいたい。貴殿にとっても私にとってもそれで十分であろう。

そのうち貴殿も私の有るがままの姿を見る日が来よう。その時は私についてより多くを知り、そしてきっと喜んでくれるものと信じる。


──結構です。お任せいたします。私の限界はあなたもご存知と思います。霊視力も無ければ霊聴力もなく、いかなる種類の霊能も持ち合わせていないと自分では思っております。しかし、少なくともこれまで綴られたものについては、それが私自身とは別個のものであることは認めます。

そこまでは確信しております。ですから、あなたにその意志がおありであれば私は従います。それ以上は何も言えません。私の方から提供するものは何も無いように思います。


 それでよい。貴殿の足らざるところはこちらで補うべく努力するであろう。
 今回はこれ以上は述べないことにしよう。そろそろ行かねばなるまい。用事があるであろう。
 主イエス・キリストのご加護のあらんことを。アーメン ♰