Wednesday, March 4, 2026

霊訓 「上 」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings



11節

本節の内容霊団による著者への支配の強化
著者によるキリスト教の弁護
回答
正直な疑問は無批判の信仰に勝る
絶対的証拠にも限界
“果実によって木を知るべし”
人間的見解は無価値
宗教は単純素朴なもの
真理は一個人一宗教の占有物にあらず
アテノドラスからアキリーニに至る真理の系譜
霊同士の見解の相違は説き方の相違
霊団による段階的思想操作
インペレーター霊団は神の計画遂行のために派遣された多くの霊団の一つ
啓示の源は一つ
神は真理を提供するのみ
その諾否は各自の理性的判断と自由意志に任される
イエス・キリストの位置づけ


〔この頃には迫ってくる霊の影響力が一段と強くなり、他の通信が一切締め出されてしまった。七月二十四日に私の方からいつもの霊に通信を求めたが何の反応もなかった。その影響力には不思議と精神を昂揚させるものがあり、それが精神活動を完全に支配していた。日常生活はいつもの通りに行なっていたが、その合間に一分一秒でも割いて、その影響力と、私にとって目新しい訓えのことを考えた。考え始めるとすぐにその影響力が中に割り込んできて、かつて感じたことのない力と物静かな美しさで迫ってくる感じがした。それまで私は神学を長年に亙って広く深く勉強してきたが、数ある教説もあら探しをする意図のもとに読んだことは一度もなかった。辻褄が合わない点も、批判するよりむしろうまく繋ぎ合わせるようにしたものである。ところが今や私にとって全く新しい考え――それまで金科玉条として受け入れてきたものの多くを根底から覆しかねない思想を突きつけられている。七月二十六日、私は前回のインペレーターの通信に再び言及してこう述べた――〕


――あなたの述べられた事柄についていろいろと考え、日頃尊敬している同僚に読んで聞かせたりもしました。何と言っても私たちが信仰の基本として教え込まれて来たキリスト教の教義が、事もあろうに、十字架の象徴(しるし)のもとに否定されていることに驚きを禁じ得ません。私の置かれた窮地は言葉で尽くせるものではありませんが、敢えて表現させていただけば、確かにあなたのおっしゃることは知的には理解できても、過去一八〇〇年以上もの長きに亙って存在し続けてきたキリスト教信仰が、たとえ理屈では納得できるとは言え、これといった権威ある立証もない教説によって軽々しく覆されては堪(たま)らないという心境です。一体あなたはイエス・キリストをどう位置づけるのか、またイエスの名のもとに訓えを説くかと思えば否定し、古い福音に替えて新たな福音を説いたりする行為を、一体いかなる権能のもとに行なうのか、お尋ねしたい。またあなた自身の地上での身元の確認と、あなたが公言される使命の真実性を証明する十分な証拠をお示し願いたい。合理的思考力を具えた者なら誰もが得心する証拠です。天使であろうと人間であろうと霊であろうと、またそれが何と名のろうと、何の立証もない者から送られた言葉だけで、神の起原とその拘束力についてのこれほど致命的変化を受け入れるわけにはいきません。また、そのように要求される謂れもないように思われます。その変化には徐々にではあっても歴然たる相違点が発見されます。また、あなたの同僚である複数の霊からの通信の内容にも食い違いがあるようです。そうした統一性のないものから送られる思想には強力な団結性が無いものと判断せざるを得ません。


友よ、これほど真摯にして理性的質問を引き出し得たことは、われらにとりて大いなる喜びである。真摯に、そして知的に真理を求めんとする心――その出所が何であろうと単なるドグマはこれを拒否し、全てを正しき理性によりて検討し、その理性的結論には素直に従う用意のある心、これこそ神意に適うものであることだけは信じて欲しく思う。われらはそうした態度に異議を唱えるどころか、それを受容性ある真面目な心の証として称賛する。従来の信仰をそれ相当の根拠なしには棄てず、一方新しき言説は形而上的ならびに形而下的に合理的な証拠さえあれば喜んで受け入れる。そうした懐疑と煩悶のほうが、もっともらしく色づけされたものを無批判に鵜呑みにする軽信的態度より遥かに価値がある。思想的風雨にさらされても何の内省も生まれず、そよ風にも能面の如き無表情をほころばせることもなく、いかなる霊的警告も通じぬ無感動と無関心の魂よりも遥かにはるかに貴重である。

そなたの抱く懐疑の念はむしろわれらの指導の成功の証として称賛する。そなたがわれらに挑む議論は、神の使者として述べた言説を全面的に検討してくれていることの知的証拠として歓迎する。そなたの煩悶せる問題については、いずれ、われらの力の及ぶかぎりにおいて回答を授けるであろう。われらには証を提示することの不可能な、ある超えられぬ一線がある。それはわれらも十分承知している。われらは人間の世界で言うところの証人を立てることが出来ぬという大きな不利な条件のもとで難儀している。われらは地上の人間ではない。故に法廷に持ち出す類の証拠を提示するわけには参らぬ。ただわれらの証言を聞いてもらい、理解してもらう――証拠によりて明らかにし得ぬものは知性にまかせ、公正に判断してもらうほかはないのである。

それは、われらの言説がわれらと共にこの仕事に携わる者を除いては、先ずもって、これを支持してくれる者がいないからでもある。実際にはわれらの同僚の多くが地上時代の身元を明かしている(1)。そして、その名をもつ実在の歴史的人物の地上生活についても、そなたは決定的とも言い得るものを事細かく知り尽くしている。そなたがあくまでもそれでは納得できぬと言うのであれば――もしもそれを偽りの霊の仕業(しわざ)であるとし、そなたを欺くために集めたる情報に過ぎぬと言うのであれば、われらとしてはそなたとのこうした霊的交わりのもつ霊的雰囲気に注目し、“木はその実によりて知らるべし。茨(いばら)より無花果(いちじく)を取らず、薊(あざみ)より葡萄(ぶどう)を収めざるなり”(2)とイエスが述べた判断の基準を思い出して貰いたい。われらの訓えが神意に適うものであることの証を全体の雰囲気の中に必ずや見出すであろうことを断言して憚らぬ。

しかし、これ以上この点について弁明することはわれらの使命の沽券(こけん)に係わろう。そなたがこの点に言及したことにわれらは微塵も驚きを感じぬ。が、もしも右の弁明でもなお得心がいかぬとなれば、われらとしてはもはやこれ以上付け加えるものを持ち合わせず、後はそなたがこれを納得してくれる日の到来を忍耐強く祈るほかはない。

それまでは決して押しつけがましきことは言わぬ。辛抱強く待つとしよう。

われらの霊団の各霊――地上時代に異なる国、異なる時代に生き、神及び死後についての見解も異にした者たちの結びつきについては多くを語ることが出来るが、それはまた別の機会に譲るとしよう。

差し当たりここで人間の地上生活には避け難き誤解を指摘しておきたい。それは地上の人間はいわゆる“自説(オピニオン)”というものが殆ど無価値であることを知らぬことである。死の過程を経て肉体から離れる。すると目隠しをされていたベールが取り払われ、それまで金科玉条としていた信仰がいかに愚にもつかぬ他愛なき幻想に過ぎぬものであったかを思い知らされるが、目隠しをされている今はそれが判らぬ。一方、程度こそ違え全ての神学的教義にはその奥に本質的にきわめて類似せる真理の芽が宿されていることも知らぬ。

ああ、友よ、そなたら人間は宗教をむやみに難解なるものにしたがるが、本来宗教とは決して難解なものではない。人間に授けられたるかぎりある知性によりて十分に包括し得るものである。かの神学的産物――神の啓示を被い隠せる気まぐれなるドグマは徒らに人間を迷わせ、当惑させ、真摯に道を求める者を無知と迷信の霧の中へ迷い込ませる以外に何の役にも立たぬ。向上進化を求める魂の特徴である暗中模索の真理探究は、いつの時代も同じであった。枝葉の点においては異なっても、本質においては少しも変わらぬ。目の見えぬ者が光を求める如く、迷える魂が必死に真理を求める。が、迷信という名の迷路がある。無知という名の霧がある。曲がりくねった道をよろめきつつ、躓(つまず)きつつ進み、時に路上に倒れて邪霊に踏みつけられる。が、すぐまた立ち上がり、手を差し伸べつつなおも光を求める。

かくの如き彷徨(さまよ)える魂はそなたの目にはみな同じように映るかも知れぬ。が、われら霊界の者の目には実に多くの相違点のあることが判る。古来、人間的ドグマの迷路の中にありて必死に光源を求めて喘ぎ進む魂は、外側より見る目にはみな一様に見えるであろう。が、われらより見れば、そなたらが教会と呼ぶ各教派を特徴づける神学上の教説は、そなたらが考えるほど同一ではない。われらの目にはその質的な差異が見て取れる。また、われらは未知なるものについて全く同一の理解をもつ魂は二つと存在せぬことを知っている。いかなる魂も大なり小なり他の魂と同じ見解を抱いてはいても、決して同一ではない。

その迷いの霧が晴れるのは、死のベールを通過した後でしかない。人間的詮索は肉体と共に滅び、個人的見解は取り除かれ、かくして曇りなき目にそれまで朧気に抱いていた真相が姿を現し、鋭さを増した判断力によって地上での印象を修正していく。そのとき悟るのは全てに真理の芽が宿されていること、それが或る者においては受容性豊かな心と霊的洞察力によりて生長を促進され、また或る者においては束縛された知性と卑しき肉体ゆえに、生長を阻害されるということである。しかし、神と、己のたどる宿命についての真理を求めてやまぬ魂においては、死と共に地上時代の誤れる信仰は速やかに影をひそめ、皆その低劣さと非真実性を悟っていくものである。いつまでも地上のままを維持し続ける者は真理への欲求を欠く者にかぎられる。

これでそなたにも判るであろう。真理はいかなる宗教の専有物でもない。それは古代ローマにおいて霊の浄化と禁欲を求めたアテノドラス(3)の思想の底流にも見出すことが出来る。ギリシャのヒポリタス(3)が朧気ながら垣間見ていた実在の世界を信じて地上生活を犠牲にし、神との一体を求めたその信仰の中にも見出すことが出来る。同じ真理への希求がローマの哲学者プロティノス(3)をして地上にありながらすでに地上界を超越せしめた。アラビアの神学者アルガザーリ(3)には教説そのものには誤りがありながらも、その奥底に正しき理解があった。その同じ神的真理の芽がアレッサンドロ・アキリーニ(3)の思想を照らし、その説教の言葉に力と真実を賦与した。

かくの如く彼ら全ての指導者の教説には同じ純粋なる宝石が輝いている。その光が彼らをして人間が神より授かれる真理の堆積物を清め、神および聖霊の宿命についてのより霊的な解釈を施すことによりて、人間の歩むべき道を一層気高く一層崇高なるものにするという共通の目的のために一丸となって働くことに邁進せしめたのである。

彼らにとりて今や地上時代の教説の相違は取るに足らぬことである。そうした夾雑物は疾(と)うの昔にかなぐり棄て、かつて地上にて魂の目を曇らせ進歩の妨げとなった人間的偏見などは跡形もない。それは今や完全に葬り去られ、ひとかけらの悔いも残っておらぬ。復活の信仰も見当たらぬ。疾うの昔に棄て去っている。が、その信仰の奥底に秘められた宝石は一段と輝きを増し、永遠にして不滅である。その啓発的影響力――ただ存在するだけで魂を鼓舞するその影響力に、かつて地上においては教説を異にする霊たちを結びつける神秘なる親和力の絆が存在するのである。

彼らが今、より崇高にして純粋なる宗教的知識を広めんが為に、共同の仕事に一団となって奉仕していることが決してそなたが考えるほど不可能なことでないことの理由が、これでそなたにも得心がいくことであろう。そのための地上の道具として最も適切とみてそなたを選んだのである。その判断に誤りはない。われらの述べたるところを根気よく熟読玩味すれば、いずれそなたもその合理性に得心がいくであろうことを確信する。その絶対的証拠は? と言うのであれば、それはそなた自身が死のベールを突き破り、一点曇りなき目をもってわれらの仲間入りをするまで待つより外はあるまい。今のわれらとしては、精々、そなたが少しずつわれらに対する確信を築き上げてくれることを望むのみである。どうかイエスが人を裁く時に使用せる判断の規準――己が裁かれんと欲する如くに人を裁くべし、という神の摂理をわれらにも適用して欲しく思う。

われらの教説に矛盾があるやに思うのは誤りである。これまでに交信せる様々な霊によりて種々な形での論議が為され、その取り挙げたる論点もまた多様であった。確かにわれらはそなたをわれらが伝えんとする根源的教説へ徐々に導かんとして、取り敢えずそなたの観念に深く根差しわれらの教説と正面衝突することが明らかなものは無論のこと、差しあたりて必須でないものは避けてきた。それは否定せぬ。われらの基本方針は、そなたの心に存在する特異な部分をいじくるよりも、その中に見出される真理の芽を発達させることにあった。それを目差して幾つかの接点を確保し、大切にして参った。一方それとは関わりなき問題点は避けてきた。そうした、これまで看過してきた点、論議を避けてきた諸点についてはこれ以後に取り挙げることになろう。が、これまでもそなたの方より、われらが明らかに誤りがあり何時(いつ)までも放って置けぬと観た見解について批判を求めてきた時は、われらとしては遠慮なく啓発してきたつもりである。

われらの目には、そなたの心に想念の潮流が発生し、それがそなたの魂にとってもはや安全ではなくなった古き停泊所よりそなたを運び出さんとする動きがよく見て取れる。それを見てわれらはそなたをその潮流と風の為すがままに放置し座礁するに任せておくに忍びず、われらがその水先案内をする。その際われらは教説という名のロープを一本一本少しずつ穏やかに緩め、より安全にして確実な港へ係留してきた。もしも一気にその港へ引っ張り込んでおれば、古きロープは切れ、そなたの魂は疑問と煩悶の嵐の中に巻き込まれ、舵(かじ)を取る者もなく、立ち寄るべき港も見当たらず、ただ風波に翻弄され、救われる見込みはなかったであろう。われらが予(あらかじ)め衝突を避けられるものは避け、荒波を立てぬよう配慮したことを咎めるのは当たらぬ。致し方なきことであった。そなたの思う方角へ向けて援助することも出来ぬでもない。が、かりに援助してそのロープを締めていたならば、そなたの魂は死物と化せる遠き過去へ一層強く繋がれることになっていたであろう。そなたの心の態度一つでわれらはそなたをその嵐から超然とさせ、新たなる生命あふれる信仰を携えて、より静かにしてより広き海原に乗り出さしめ、地上という試練の場と、死後の安らぎの港との間に横たわる苦難の海を乗り切れるよう援助するであろう。

こうした作業において、われらはそなたに過激な衝撃を与えぬよう慎重の上にも慎重を期してきた。いかなる点においても、指導を誤ったことはない。そなたをごまかしたこともない。そなたに与えたわれらの教説には予め徹底した吟味が為されている。われらはなるべくならそなたの精神に宿る思想を取り出し、敷衍し発展させるよう心がけた。そうしてその中により新しく且つより真実に近き見解を育(はぐく)み、導き、注入するよう努めたが、いかなる点においても偽れるもの、歪めたるもの、あるいは指導を誤れるものは何一つない。

われらがこれまで述べてきた教説には実質上の齟齬は何一つない。万に一つそう思えるものが存在しても、それは通信上の難しさとそなたの精神による種々の影響の所為である。つまり通信霊の未経験に起因する場合もあるであろうし、就中(なかんずく)、そなた自身の先入観の影響が大いにある。そなたの精神が受けつけようとせぬものは、われらも伝えることは出来ぬ。そこでわれらとしては、いつかそなたが曇りなき目で見るであろうところの真理を、象徴的に大まかに伝えるしかない。霊媒の魂が煩悶している時、身体が苦痛に苛(さいな)まれている時、あるいは精神状態が病的になっている時も、明確なる通信を伝えることは出来ぬ。否、荒れ模様の天気、電気的障害、あるいは近隣の人々の非友好的態度ですら通信に反映し、明確に、そして十分に意を尽くすことを妨げるのである。それがそなたの綿密なる目には矛盾として映るのであろう。が、それも些細なことであり、また数も取るに足らぬ。それらは障害が取り除かれると同時に雲散霧消することであろう。そして、ここぞという困難と危険に際して、高邁なる霊的洞察力がそなたを導いていたことを知るであろう。

そなたはわれらの説く訓えが一般に受け入れられる見込みは乏しいと言うが、その点についてもそなたは真相を知らぬ。お粗末な継(つ)ぎ接(は)ぎだらけの朽ちかけたる古き信仰が、より高尚にして崇高なる信仰――対抗するものではなく補足補充するもの――と置き替えられ、イエスの説きし福音がより高き次元において理解される日は、そなたが思うより遥かに近く迫りつつある。

友よ、よく心するがよい。今われら従事せるが如き神の計画が、人間の必要性との関連を無視して不用意に授けられることは絶対にない。われらの仕事も神の一大計画のほんの一部門に過ぎぬ。他にも数多くの霊団がそれぞれの使命に邁進している。その訓えは徐々にそして着実に、それを受け入れる用意のある者に受け入れられて行くであろう。それが神の計画なのである。神の時を地上の時で以て考えてはならぬ。また、われらの視界はそなたらの視界の如く狭く限られたものではない。いずれわれらの意図せる通りの知識が地上に広まる日も来よう。その間、それに備えた進歩的魂は着々と教育を受けている。貴重なる種子が蒔かれつつある。やがてその収穫の時期も到来しよう。その時をそなたもわれらも共に待たねばならぬ。

われらの述べたるところを心して読めば、われらが提供しつつある状況証拠などより遥かに明確にその本質を読み取ることが出来るはずである。繰り返すが、神は決して福音の押し売りはせぬ。神はただ提供するのみである。それを受け入れるか拒否するかはそなたの選択に任されている。が、そなたおよびわれらが係わり合える人々の全てが、いずれ、その神性を確信してくれるであろう。それをあくまでも否定する者は、浅薄なる頑迷さの網にかかり、神学という名の足枷をはめられ、鉄の如きドグマによって束縛された者たちのみであろう。そうしたドグマ主義者、頑固なる迷信家、偏狭なる信者、独善家はわれらの取り合うところではない。否、魂に泌み込みたる古き信仰に何よりの安心立命を見出す者もまた、われらの取り合うところではない。神の御名にかけて彼らにはそのまま古きものに縋(すが)らせておくとしよう。彼らにもいずれ進歩の時が訪れよう。今はその時ではない。そなたおよびそなたと志を同じくする進歩的求道者には、われらが決して悪魔の使いでもなければ悪魔的意図も持たぬことを、これ以上弁明する必要はあるまい。

また啓示についてのわれらの言説を熟読玩味すれば、要するにわれらの教説も神に関する知識の段階的進歩の一つの階梯に過ぎぬことを理解するであろう。すなわち神を人間と同一と観た神人同形同性説の時代から、人間的煩悩や感情を神の属性とすることの不合理を徐々に悟り始めた現在に至るまで、神的啓示も人間の進化と共に徐々に向上しつつあるということである。本質においては、われらの啓示も、それに先立つ啓示と何ら異ならぬ。ただ、人間の知識と同様に、一歩向上したというにすぎぬ。その根源は同じであり、それを授ける手段も同じである。今も昔もあくまで人間であり、完璧は期し難く、時には誤りを犯す。人間を通信手段とする以上、それは免れぬことである。

さらには、われらが明言せる態度を思い出していただきたい。われらの一貫せる態度は、かの伝説的教説――単に古き時代のものという意味での伝説的教説――を金科玉条とする盲目的信仰に代わりてそなたの理性に訴えるということである。軽信に代わって合理的知性的検討を勧め、確信に基づける容認を要求する。われらが神の使者であるということだけで、われらの教説――単に今の時代に授けられたという意味での新しき教説――を信じて貰おうなどとは、さらさら思わぬ。理性の天秤にかけ、知性の光に照らし、得心がいかなければ拒絶するがよい。十二分に得心するまでは決して同意することも行為に出ることも求めぬ。

それ故、霊的教義の内容は正しき理性を得心させるべきものであると同時に、われらがそなたにその受け入れを求める根拠もまた合理的且つ論理的思考を完全に満足せしめるものである。道を誤りたるとはいえ真摯なる求道者はもとよりのこと、進歩的人間の真面目な生活において過去一八〇〇年以上もの永きに亙りて後生大事にされて来た教義に対し、われらが功を焦るあまり、いたずらに彼らを反目せしめる結果となることは神が許されぬ。それほど永きに亙りて大事にされた事実そのものが、彼らの崇敬を受けるに足る資格を物語っていよう。ただ、われらの広き視野より見る時、その説くところが古き蒙昧なる時代ならいざ知らず、この開け行く時代には、それなりに視野を広げ霊性を賦与しなければならぬと思われるのである。とは言え、われらとしては急激なる改革によって混乱を来すことは望まぬ。今あるものに磨きをかけ、新しき解釈を施したく思う。ひきずり下ろし、足で踏みにじるようなことはせぬ。シナイ山にて嵐の如き口調にて啓示されたる戒め(4)に代えて、イエスが慈愛と滅私の純心さをもって、より崇高なる信仰を説いた如く、われらはそれをさらに新しきこの時代の受容能力と必要性に鑑(かんが)みて説かんとするものである。

“そのようなものはわれらの信仰が受けつけぬ”と申されるか。なるほど、それもよかろう。われらとしては少なくともこうした見解の存在を知らしむるだけのことはした。それを受け入れる者は、古き信仰に比してその影響力が一段と明るきものであることを感ずるものと確信する。一つの真理が初めて語られ、それが最終的に受け入れられるに至るまでの道程は、しばしば永き年月を要するものである。収穫にはまず種子蒔きの時期があらねばならぬ。その後、雨にうたれ霜に埋もれ、寒々とした冬の季節はいかにも長く感ぜられよう。が、やがて暖かき太陽の光に照らされて種子が芽を出し、真夏の恵みを受けて豊かに実をつけ、そして収穫の季節を迎える。耕作の時期は長いかも知れぬ。種子を蒔いたあとの待つ時期は暗く憂鬱かも知れぬ。が、収穫の季節は必ず来る。その到来を遅らせることは出来ぬ。収穫時に手を貸すことは出来よう。種子蒔きに手を貸すことも出来よう。が、手を貸す貸さぬに係わりなく、あるいは、たとえそれを阻止せんとしても、神の時節(とき)は必ず到る。その時、神の言葉を受け入れるか拒否するかの問題は、本質的には個人の問題でしかない。受け入れる者は進歩し、拒否する者は退歩する。そしてそれに関われる天使があるいは喜び、あるいは悲しむ。それだけのことに過ぎぬ。

次にそなたはわれらがイエス・キリストをいかなる地位(くらい)に位置づけるかを問うている。われらとしては、さまざまな時代に神に派遣されたるさまざまな指導者について興味本位の比較をすることは控えたい。未だその時期ではない。但し今このことだけは明白である。すなわち、人類の歴史においてイエスほど聖純にして気高く、神の祝福を受け且つ人に祝福を与えた霊はいないということである。その滅私の愛によってイエスほど人類の敬愛を受くるに相応しき霊はいない。イエスほど人類に祝福をもたらせる霊はいない。要するに、イエスほど神のために働きたる霊はいないということである。

が、神より遣わされたる偉大なる指導者を比較し論じる必要をわれらは認めぬ。われらとしてはその一人一人に称讃を贈り、克己と犠牲と愛の生涯を、それぞれの時代の要請せる手本として賞揚したく思う。キリストの例にしても、もしも人類がその際立てる素朴さと誠実さ、愛的献身と真摯なる目的、自己犠牲と聖純さの模範として仰いでおれば、かの宗教的暗黒時代の神学者たち――人類に呪(のろ)いの遺産ともいうべき愚か極まる思索の産物を残せる者たちも、今少し有意義なる存在となり、人類の呪いとはならず、むしろ祝福となったことであろう。神の尊厳を傷つけることもなく、キリストの素朴なる福音を素直に受け入れていたであろう。然るに彼らは神人同形同性説的神学を丹念に築き上げ、それがキリストの素朴なる訓えより一層遠ざけることになっていった。今やその名と教義は派閥間の争いの戦場と化し、その訓えは滑稽な物真似となり下がってしまった。その有様を聖なるキリストの霊は衷心より悲しみ、哀れに思っておられる。

友よ、神の摂理と人間的解釈とは截然と区別せねばならぬ。われらは主イエスの威厳の前にひれ伏すが、人間が勝手に解釈し、それをイエスの名において説く教説――イエス自ら否認されるであろう教説を黙認することによりてイエスの面目を汚すようなことは潔(いさぎよ)しとせぬ。さようなことは絶対にせぬ。主はもとより、主の父であり全存在の父である神の面目を真に辱しめるのは、バイブルを正しく理解せずその心を掴み損ねて、ただ字句どおりの解釈に固執する余り、無知の為せる業とは言え、逆に神への不敬を働いている者たちなのである。われらではない。彼らこそ真に神の名誉を傷つけているのである。たとえ長年の慣用の歴史を有するとは言え、また、たとえその字句を彼らが聖なるものと断定せる書からの引用によりて飾ろうと、さらにまたそれらの書に、そこに述べられたことへ異議を唱える者への呪いの言葉が見出されようとも、真に神を冒涜する者はわれらにはあらず、彼らなのである。

われらはその呪いの言葉を哀れの情なくしては見つめることが出来ぬ。われらとしては、差し当たり実害なき誤りはこれを敢えて覆そうとは思わぬ。しかし神を冒涜し魂の向上の妨げとなる言説はこれを赦しておくわけにはいかぬ。本来ならば神に帰すべき名誉をイエスなる一人物に押しつけ、神に対する個人的敬意と愛を疎(おろそ)かにすることは、神に対する人間としての義務を無視することに他ならぬ。狭隘(きょうあい)にして冷酷きわまるドグマをその一言一句に至るまで頑に遵守せんとする態度は魂を束縛し、霊性を歪め、進歩を遮り、生長を止める。“儀文は殺す。されど霊は活かす”(5)とある。それ故われらは火炎地獄の如き作り話に見られる神の観念を否定する。贖罪説の如き伝統的教説に代わりてわれらは、より清き、より理性的教説を主張する。要するにわれらは霊性を基盤とする宗教を説くものである。死物と化せる形式主義、生命も愛もなき教条主義よりそなたたちを呼び戻し、霊的真理の宗教、愛に満ちた天使の象徴的教訓、高き霊の世界へ誘(いざな)わんとするものである。そこには物的なものの入る余地はなく、過去の形式的ドグマも永遠に姿を消す。

以上、われらは事の重大性に鑑みて、細心の注意をもって語ったつもりである。そなたも細心の注意をもってよく熟読されたい。ひたすらに真理を求むる心をもって検討し、隔てなき神の御加護を祈り求められんことを希望する。

(†インペレーター)


――おっしゃることは筋が通っており、立派な訓えだと思います。また曖昧であるとの私の批判に対しても納得のいく答えをいただきました。しかし、一般の人はあなたの説くところを、事実上キリスト教を根底から覆すものだと言うことでしょう。そこで私がお願いしたいのは、スピリチュアリズム的思想が究極において言わんとするところ、とくに、それが地上および霊界の未発達霊へ及ぼす影響について述べていただきたいと思います。


それについては、いずれ時機をみて説くとしよう。今は控える。先を求むる前に、これまでわれらが述べたところを篤と吟味されたい。そなたを正しく導く御力をわれらに給わらんことを!

(†インペレーター)

12 霊訓 「上 」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


12節

〔本質においてプライベートなことを公表するのは決して私の本意とするところではないが、それを敢えてこうした形で公表するのは、一人の人間の思想的経験が他の大勢の人々の経験となり得るであろうし、私がたどって来た精神的ないし霊的葛藤の過程が、同じような過程をたどっている人々にとって参考になるかも知れないと考えたからである。

さて、その後数日間、そうした霊による宗教上の教訓の問題に関する通信が途絶とだえていたが、私の胸には以前にも増してさまざまな疑念が湧き起こり、それを遠慮なく書かせて貰った。当時の私の心境を思い起こすと、インペレーターの通信を読んで途方に暮れ、茫然自失の状態にあったようである。そんな目新しいものを受け入れる余裕はとてもなかった。そして私にとって最も気がかりだったのは“霊の身元”であった。その時の私の考えでは、霊の教説を云々するよりも、霊の地上時代の身元を明かしてくれる方が先決のように思えたのである。またそれ位のことは出来るはずだと信じていたので、それが叶えて貰えないことに焦燥を覚えたのである。今でこそ理解できるが、まず獲得すべきなのは“確信”であって、私が期待したような形だけの身元の証明ではその確信は得られないことが、当時の私には理解できなかったのである。

私を悩ませたのは、いわゆる霊界通信の多くが決して有害とまでは言わないにしても、愚かしく且ついい加減なものであるという印象を拭い切れないことであった。私はそれをキリスト教の思想家の教説と比較してみたが、やはり後者のほうが上であった。また私には霊の見解の中に大きな矛盾があり、あらゆる思想が混ざり合っているようにも思えた。個人的にもその殆どに共鳴できないし、それを受け入れる人にプラスになるとも思えなかった。これを信じる者は狂信家か熱狂者の類であると想像し、不快感さえ感じていた。内容的にも、また交霊会における現象にも大して魅力を覚えず、私はさきに述べた疑問点を書き連ねた。それは主として地上時代の身元の証明に関するものと、神と人間との関係つながり、及びスピリチュアリズムの一般的性格とその成り立ちに関するものであった。次がそれに対する回答である――

友よ、再び対話を交えることを嬉しく思う。そして、たとえこの機会に質問の全てに答えることが出来ず、また全てを解決し得ずとも、神と人間との関係並びにわれらの背負える使命についてそなたが抱いている誤解の幾つかを解くことが出来るであろう。

そなたの誤解の根源は神及び神と人間との関係についての誤れる概念にあるやに観ぜられる。人類の歴史を通じ、唯一にして同一の神の啓示が一貫して流れていることに間違いはない。が、人間がその啓示を理解せんとするうちに、愚かにもその本性と働きについて真実より大きくかけ離れた奇々怪々な概念を想像するに至った。

太古においては、そのお粗末なる概念は物体の形をとり、祈りが叶えられれば畏敬され、叶えられぬ時は即座に棄て去られることの繰り返しであった。彼らは、目の前の物体そのものは何の霊力も持たず、背後に霊が控えて筋の通れる祈りはこれを叶えさせんとしている事実を知らなかった。彼らにはそれ以上の神の概念は思いつかなかったのである。目に見え手に触れるものにしか神の概念を託し得なかった。この点を篤と注意するがよい。彼らの神の概念を託したのである。神そのものではなく、彼らが精一杯想像し得た未熟な概念だったのである。いい加減な占いの結果より情報を引き出し、これを規準に勝手に祭礼の規範を拵え、挙句にはそれを以って神を裁くに至った。自分らの想像せる神を裁いたのである。彼らは同族の者たちの間で畏敬の的とされる人間的属性を神の属性と考えた。人間から切り離せぬ幾つかの弱点を神も有するものと考えたのである。

かくして出来あがれる神は全てに先んじて己の名誉の維持に腐心する神であり、時に我慢強く、時には優しい慈悲心を持つ神であった。所詮は神を語る者がその時に神はかくあるべきであると想像せるものであった。要するにそれは栄光を授けられたる人間――普遍絶対性と全知全能を具えた人間であった。彼らはそういう神を想像し、そういう神ならば斯くするであろうと考えたのであった。かくの如くして、いつの時代においても神の概念にはその時代の特色が反映している。それは人間の成長と共に進歩する。その知的発達と洗練の度合に応じて進歩したものとなって行く。ほかでもない。その通路となる霊媒が無知の足枷より解放され、光と知識へ向けて進歩しただけ、それだけ神について正しき概念を把握することが可能となるが故である。

神が人間の受容性に応じて啓示を垂れるということは、これまでも度々述べてきた。当然そうあらねばならぬ。神も人間の霊媒を通じて啓示する以上、その霊媒の受容能力に応じたものしか啓示されぬのが道理である。神につきての知識が人間の受容度を超えることは有り得ぬ。仮に今われらがより完璧に近き神学を述べたとしよう。それはそなたには奇異に響き、理解することは不可能であろう。故にこれ以後もわれらは徐々にそなたの受容度に応じて真理を注入していくであろう。そしていずれは現代のそなたの観念の誤りに気づく日も来よう。が、今はまだその時機ではない。神について各自が抱ける概念が即ちその者にとっての神である以上、啓示がその受容度を超えることは絶対にあり得ぬ。事の本質上それは不可能なのである。

それ故そなたが神の働きの真意にまで言及して“そのようなことは絶対に有り得ない。それでは神の本質に反することになる。神がそのような行為に出られるはずがない。なぜなら、あの時も神はそのような行為に出られなかったからである”と述べるということは、言い換えれば“私の神の観念はかくかくしかじかであるから、今それ以外の観念は受け入れるわけにはいかぬ。私の信じるところによれば、私の神はそのような挙には出られないはずである”と述べていることになる。われらが指摘せんとするのはまさにそこである。そなたはそなた自身の神を拵え、そなた自身が相応しいと考える通りの働きを神に強要している。そのうち――この地上にせよ死後にせよ――そなたの視野が広がるにつれて新たなる光が射し込み、“なるほど自分は間違っていた。神は自分の想像していたものとはまるで違う。なぜ自分はあのような愚かな観念を抱いていたのであろう”と述懐する日も到来しよう。

これは全ての進歩的人間に言えることである。その目覚めの時は必ずしも地上生活中に到来するとは限らぬ。ある者は死後の新たな生活まで待たねばならぬ。が、この地上にて洪水の如き知識の恩恵に浴する者もいる。魂が古き信仰に魅力を失い、無味乾燥に思え、新たな、より真実味のある啓示を求める。干天の慈雨の如く、生命を生き返らせる何ものかを求めんとする。

さてそなたはそなたなりの啓示を得た。いや、今まさに手にしつつある。観方によればこれはそなたの精神が広がり、その受容力に応じた神の観念の入る余地が出来たしるしと言えよう。が、さらに観方を変えれば、外部より新たにして豊かなる神の啓示――人類の歴史を通じて得られた啓示と同じ根源からの啓示――が流入したと言うことも出来よう。

それはどちらでも構わぬ。啓示と理解力、知識と受容力とは常に相関関係にある。受容力が備わるまでは知識は授からぬし、精神がその不足を意識するほど進化するまでは、より高き啓示は得られぬ。その理由は単純である。精神そのものが啓示を受ける通路だからである。

そなたたちが抱いている神の観念は、全て人間の精神を濾過器として地上にもたらされたものである。神を求める人間的渇仰の具象化である。未熟なる精神の産物であり、その精神の欲求は必ずしもそなたの欲求とは一致せず、従ってその神は――と言うよりは、神についての見解は、そなたの見解とは異なる。それをそなたはどうにかしてそなたの思想構造に適合させんとするが、所詮それは叶わぬことである。何となれば、その観念たるや発達程度を異にするさまざまな人間による産物の混合物だからである。

よく考えるがよい。そなたはわれらの述べるところの観念が、そなたが聖なる記録より引き出したる観念と相容れぬことを理由に、われらを神の使徒とは認めぬと言う。では聞くが、われらの説く神が一体どの神と異なると言うのか。アダムと共に人間の姿で地上を歩き、何も知らぬ者たちの犯せる罪――今では些細なる過ちに過ぎぬとされている罪――に恐ろしき報復をしたと、まことしやかに語られているその神のことか。それとも、忠実なる友にその一人子を供物として捧げることを命じたという神のことか。あるいは、君主としてイスラエルを支配し、公衆衛生法規の発令と礼拝堂の建立に意を注ぎ、イスラエル軍と共に戦場に赴き、罪なき無抵抗の他民族を全滅させるための残忍この上なき法律と法規を発令したという神のことか。もしかしてその神は、イスラエル軍が流血と修羅場の中でもうあと数時間戦えるよう、ヨシュアに特別の力を与えて宇宙の運行を止まらせ、太陽系を麻痺させたという神のことであろうか。それとも、自分が選べる民イスラエル人が目に見える君主を要求したことに腹を立て、以後何百年にも亙って手を変え品を替えて報復し続けたという、あの神のことか。

さらに、われらの教えはそなたたちのいう大予言者の説ける神々のうちのいずれと相容れぬと言うのか。イザヤの神か。エゼキエルの神か。それともエレミヤの病的な心の産物であるあの陰気なる神か。それともかのダビデの神――半ば父の如く、半ば暴君の如く、残忍さと従順さとを交互に見せ、いつも矛盾と不合理に満ちた神か。それともヨエルの神か、ヨハネの神か。それともパウロのカルヴァン(1)主義的な、あの身の毛もよだつ天命と地獄と選抜、それに白日夢の如き物憂げな天国等の幻想のことか。そのいずれと矛盾するとそなたは言いたいのか。パウロかヨハネか、それともイエスか。

改めて述べるまでもなく、神の啓示はいつの時代にもその時代の人間の受容能力に応じたものが授けられ、それがさらに人間の精神によって色づけされている。言い換えれば、神の観念は鮮明度の差こそあれそれを受けた霊感者の考えであったとも言える。精神に印象づけられた霊示がその霊感者を取り囲む精神的環境によって形を賦与されていった。即ちその霊感者の受容度に応じた分量の真理が授けられ、それが霊感者の考えによって形を整えたのである。真理の全てを授かれる者は一人としておらぬ。みなその時代、その民族の特殊なる要請に鑑みて必要なる分量のみが授けられた。今も引き合いに出せる如く、神の観念が種々様々であるのはそのためである。無論われらとわれらの説く神は、ヨシュアとその神ではない。パウロとその神でもない。もっともわれらは、その神を最も正しく理解しその真近に生活せるイエス・キリストによって、何も知らぬ民に寓話に託して説かれた朧気な神の観念を、われらの説く神と同列に置いて比較しようとは思わぬ。イエスは弟子の誰よりも鮮明に神を認識していた。その説くところは極めて単純にして平易であり、真摯であった。その神の教えもまた同じく平易そのものであった。“天にしますわれらが父”――無知なる人間が勝手に神の属性を決めつけ、他愛なき要求を神に押しつけている神学上の学説に比して、これはまた何という違いであろう!

神! そなたは神を知らぬ! そのうちそなたも、その目を遮るベールの内側に立てる時、そなたが愚かにも想像せる神の観念の誤りを知って驚くことであろう。真実の神はおよそそなたの想像せるものとは異なる。もしも神がそなたらの説くとおりのものであるとすれば、その神は創造者としてあるまじき侮辱を受けたとして、それを最初になすりつけたる傲慢無礼なる人物に報復すべきところである。

が、神はさようなものではない。人間のお粗末なる奴隷根性などにて捉えられる性質のものではない。神はそうした卑屈なる想像しか出来ぬ愚昧なる人間の無知を哀れみ、赦される。決して咎め立てはなさらぬ。無知は故意でさえなければ決して恥ではない。が、神は低劣なる観念をいつまでも後生大事にする愚かさ――己の偶像を宿す暗くカビ臭き心に、新たなる光を入れようとせぬ態度をこそお咎めになる。闇を好み、光を嫌い、いつまでも過去の未熟なる幻想にしがみつき、イエスの説ける単純素朴にして雄大なる神に美を見出し得ず、その崇高なる概念に未開時代の神人同形同性説を継ぎ木せねば承知できぬ者たちをこそ咎められるのである。そうした類の、より崇高なる教えを受け入れられぬ者たちは、今なお決して少なくはない。が、そなたはまさかその類ではあるまい!

もしもそなたが軽率にもわれらの教えを旧約聖書のそれと矛盾すると決めつけるのであれば、われらとしてはこう答えるほかはあるまい。すなわち、確かにわれらの教えは、神をあのような腹を立て嫉妬するが如き人間的暴君に仕立てた、古き不愉快きわまる教説とは大いに矛盾しよう。が、イエスを通じて授けられたる神聖そのものの啓示とは完全に軌を一にする。ただ、人間はそのイエスの教えを身勝手なる欲求によって余りに堕落させ、悲しいかな、その真の信奉者にまで背を向けしむるに至ったのである、と。

もしもわれらの述べる神および死後の生命についての言説に何一つそなたの心に訴えるものを見出し得ぬとすれば、それはそなたの魂がかつて喉を潤せる、より雄大にしてより単純素朴なる概念に魅力を覚えなくなったということであるに相違ない。たぶんそなたの魂が邪霊の策略にかかり、地上と神との間を遮る暗雲がそなたに恐ろしき影響を及ぼしつつあるということであるに相違ない。願わくはわれらがその暗雲を取り払い、今一度感化と安らぎの光をそなたの魂に注ぎ込むことが出来ればと思う。永遠に拭えぬほどの危害がそなたに及ぶとは危惧しておらぬ。そなたがこれまでの知識の基盤を総ざらいすることを、われらは別に残念とは思わぬ。それも無益ではあるまい。

さしたる意味もなき些細なる問題に捉われることは止めることである。大なる問題、神につきてのより明瞭なる啓示の必要性、神およびわれら神の使徒につきて、今地上を席巻しつつある冷ややかなる無知と無関心の問題、われらの説く崇高なる教義、そしてわれらが明かす生命躍如たる来世等を十分に検討するがよい。想像の産物に過ぎぬ“悪魔”の問題で心を悩ますことは止めることである。真摯なる者、純心なる者、誠意ある者にとっては神学がまことしやかに説く悪魔も閻魔も存在せぬ。悪は近づけぬのである。邪霊は逃げ去り、悪の勢力も彼らの前では無力となる。そのまわりは天使によりて保護され、明るき霊の支配を受け、進むべき正しき道へと導かれる。

彼らの前途にはかぎりなき知識と、彼らの知性を昂揚し気高くする全てのものが待ち受けている。悪魔などは、自ら創造せぬかぎり、恐れるに足らぬ。善性への親和力が善なるものを引き寄せるのである。まわりには守護に当たる霊が控え、自ら求めぬかぎり邪霊の餌食えじきとはならぬ。悪の誘惑や罠が特別免除というのではない。試練の時に味わわされる雰囲気も免れることは出来ぬ。魂が悲しみと懊悩の暗雲に被われ、罪の重荷に打ちひしがれるやも知れぬ。すなわち、あたりに見る不幸と悪に己の無力さを感じ、良心の苛責に苦しめられることもあろう。が、悪魔が彼らをとりこにし、あるいは地獄へと引きずり下ろすなどということは絶対にない。そうした懊悩も悲しみも良心の苛責も、所詮は魂の経験の一部であり、その体験の力を摂取して、魂は一段と向上して行く。それは進歩の手段として守護霊が用意せる試練であり、故に細心の注意をもって悪の勢力から保護してくれているのである。

悪を好み、霊性の発達を欠き、肉体的欲望に偏れる者のみが、肉体を棄てたのちもなお肉体的欲望を棄て切れぬ同質の未発達霊を引き寄せるのである。悪の侵入の危険に曝されているのは、そうした類の人間のみである。その性癖そのものが悪を引き寄せる。招かれた悪が住みつくのである。そうした人間が、地上近くをうろつきまわり、スキを見ては侵入し、われらの計画を邪魔し、魂の向上のための仕事を挫折させんとする霊を引き寄せるのである。さきにそなたは軽率にも霊界通信なるものがいい加減にして益になるとは思えぬと述べたが、それは全てそうした低級なる邪霊の仕わざである。

友よ、そなたはその点の理解を誤っている。低級なる人間が自ら招いた低級なる霊の仕わざをもってわれらを咎めてはならぬ。咎めらるベきは聖純なるものや高尚なるものを嫌い、低俗にして下劣なるものを好む他愛なき人間的愚行の方である。かの愚かなる法律をまず咎めよ。単なる風習と流行によって助長されたに過ぎぬ愚行と罪状によって行く手を阻まれ堕落の道へと引きずり下ろされた数多くの人間を、何の準備もなきまま死後の世界へと追いやる法律をまず咎めるベきである。さらには酒場、精神病院、牢獄、そしてそういうものによって増幅されたる情欲と悪魔の如き強欲を咎めよ。無数の霊が永遠の火刑に処せられるとは実にこのことである。そなたらの想像せる物的ほのおではない。死後もなお消えやらぬ業欲が炎の如く魂を焼き続けるのである。燃えるだけ燃え、その強欲を焼き尽くして、ようやく魂が清められる。さよう、咎めらるベきは善霊を偽りてそなたらをごまかし、軽薄と誤りによって翻弄せんと企てる低級霊たちである。

これ以上のことはまたの機会としよう。すでにわれらは予定せるもの以上のことを述べた。それに、余の耳に神への礼拝の時の到来を告げる声が聞こえる(2)。これより余もその礼拝の儀式に参列する。願わくば余の祈りが慈悲ぶかき神の御胸に届き、そこより流れ出る御恵みの流れの一すじがそなたにも届き、なごみと静かなる確信がそなたの悩める魂を癒し、慰めとならんことを祈る。

(†インペレーター)


古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

 Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze


十二章 さまざまな質問

  残念なことに、かつては素敵だった言葉が乱用されすぎて、その価値を下げてしまったものが少なくない〝愛〟という言葉もその部類に入りそうである。ある日の交霊会でその愛の定義を求められて、シルバーバーチがこう答えている。

 「気が合うと言うだけの友情、趣味が同じということから生まれる友愛から、自己を忘れて人のために尽くそうとする崇高な奉仕精神に至るまで、愛はさまざまな形態を取ります。

 地上では愛という言葉が誤って用いられております。愛と言えないものまで、愛だ、愛だと、さかんに用いる人がいます。ある種の本能の満足でしかないものまで、愛だと錯覚している人もいます。

が、私が理解しているかぎりで言えば、愛とは、魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主である神とのつながりを悟った時に自然に湧き出てくる欲求のことです。

 最高の愛には一かけらの利己性もありません。つまりその欲求を満たそうとする活動に何一つ自分自身のためという要素がないのです。それが最高の人間的な愛です。

それが人類の啓発を志す人々、困窮する者への救済を志す人々、弱き者への扶助を願う人々、そして人生の喜びを踏みにじる既得権力に戦いを挑む人々の魂を鼓舞してまいりました。

 母国において、あるいは他国へ赴いて、そうした愛他的動機から人類の向上のために、言い替えれば、内部に秘めた無限の可能性を悟らせるために尽力する人は、愛を最高の形で表現している人です。

 愛の表現形態にもさまざまな段階(ランク)があります。愛の対象へ働きかけという点では同じであっても、おのずから程度の差があります。偏狭で、好感を覚える人だけを庇い、そして援助し、見知らぬ者には一かけらの哀れみも同情も慈愛も感じない者もいます。

 しかし、宇宙には神の愛が行きわたっております。その愛が天体を運行せしめ、その愛が進化を規制し、その愛が恵みを与え、その愛が高級霊の魂を鼓舞し、それまで成就したものを全部お預けにして、この冷たく、薄暗い、魅力に乏しい地上へ戻って人類の救済に当たらせているのです」


───その〝神〟のことを子供にはどう説いたらよいでしょうか。

 「説く人自らが全生命の背後で働いている力について明確な認識を持っていれば、それは別に難しいことではありません。

 私だったら大自然の仕組みの見事な芸術性に目を向けさせます。ダイヤモンドのごとき夜空の星の数々に目を向けさせます。太陽のあの強烈な輝き、名月のあの幽玄な輝きに目を向けさせます。あたかも囁きかけるようなそよ風、そしてそれを受けて揺れる松の林に目を向けさせます。

さわやかに流れるせせらぎ、怒涛の大海原に目を向けさせます。そうした大自然の一つ一つの営みが確固とした目的を持ち、法則によって支配されていることを指摘いたします。

 そしてさらに、人間がこれまでに自然界で発見したものは全て法則の枠内におさまること、自然界の生成発展も法則によって支配され規制されていること、その全体に人間の想像を絶した、広大にして複雑な、それでいて調和した一つのパターンがあること、宇宙のすみずみに至るまで秩序が行きわたっており、惑星も昆虫も、嵐もそよ風も、

そのほかありとあらゆる生命活動が、例え現象は複雑をきわめていても、その秩序において経綸されている事実を説いて聞かせます。

 そう説いてから私は、その背後の力、全てを支えているエネルギー、途方もなく大きい宇宙のパノラマと、人間にはまだ知られていない見えざる世界までも支配している霊妙(クシビ)な力、それを神と呼ぶのだと結びます」


───自分の思念にはすべて自分で責任を取らねばならないでしょうか。

 「(精神的障害がある場合は別として)一般に正常とみなされている状態においては、自分の言動には全責任を負わねばなりません。これは厳しい試練です。

行為こそが、絶対的な重要性を持ちます。いかなる立場の人間にも、人のために為すべき仕事、自分の霊性を高めるべきチャンスが与えられるものです。

有徳の者や聖人君子だけが与えられるのではありません。全ての人に与えられ、そのチャンスの活用の仕方、疎かにした度合いに応じて、霊性が強化されたり弱められたりします」


───子供はそちらへ行ってからでも成人していくそうですが、交霊会に出てくる子供の背後霊が何年たっても子供だったり、十八年も二十年も前に他界した子供がその時のままの姿格好で出てくるのはなぜでしょうか。


 「地上の人間は、いつまでも子供っぽい人を変だと見るかと思うと、子供の無邪気さを愛するような口を利きます。しかも、人類のために敢えて幼児の段階に留る手段を選んでいる霊のことを、変だとおっしゃいます。

 幼児の方が得をするわけは容易に理解できるでしょう。幼児には大人にありがちな障壁がありません。きわめて自然に、いつも新鮮な視点から物事を眺めることができます。

大人が抱える種類の問題に悩まされることもないので、通信のチャンネルとしては好都合なのです。大人にありがちな、寛容性を欠いた先入観や偏見が少ないので、仕事がスムーズに運びます。

 いつも生き生きとして新鮮味を持って仕事に携わり、大人の世界の煩わしさがありません。煩わされないだけ、それだけ霊的交信に必要な繊細なバイブレーションをすぐにキャッチできるのです。

 しかし、実を言えば、その幼児の個性は大人の霊がその仕事のために一時的にまとっている仮の衣服である場合が多いのです。仕事が終われば、すぐに高い界へ戻って、それまでの生活で開発した、より大きな意識の糸をたぐり寄せることができます。

 変だと決めつけてはいけません。こういう霊のことを〝トプシー〟と言うのです。そういう形で自分を犠牲にして、地上の人々のために働いている愛すべき〝神の道具〟なのです。

 何年も前に他界した子供がそのままの姿で出現するのは、自分の存続の証拠として確認してもらうためです。身元の確認を問題になさる時に忘れないでいただきたいのは、他界した時点での姿や性格やクセをそのまま見せないと、人間の方が承知してくれないということを考慮していることです。

 そこで霊媒(霊視能力者)に映像を見せて、それを伝達させるわけです。言わばテレビの画像のようなものです。霊媒が自分の精紳のスクリーンに映った影像を見て叙述するわけです。

直接談話であれば、映像の代わりに、エクトプラズムで他界当時と同じ発声器官をこしらえます。条件さえうまく整えば、地上時代とそっくりの声が再生できます」


───子供のころから動物に対して残酷なことをして育った場合は、そちらでどんな取扱いを受けるのでしょうか。動物の世話でもさせられるのでしょうか。

 「人間の永い歴史を通じて、動物がいかに人間にとって大切な存在であったかを教えることによって、地上時代の間違った考えを改めさせないといけません。

動物界をあちらこちら案内して、本来動物というものが、動物を本当に愛し理解する人間と接触すると、いかに愛らしいものであるかを実際に見せてやります。

知識が増すにつれて誤った考えが少しずつ改められていきます。結局は残酷を働いたその影響は、動物自身だけでなく、それを働いた人間にも表れるものであることを悟るようになります」


 (別にメンバー)───他界する者の大多数が死後の生活の知識を持ち合わせません。他界直後は目眩のような状態にあって、自分が死んだことに気がつかないといいますが、それは子供の場合も同じでしょうか。それとも本能的に新しい生活に順応していくものでしょうか。

 「それは子供の知識次第です。地上の無知や迷信に汚染されすぎていなければ、本来の霊的資質が生み出す自然な理解力によって、新たな自覚が生まれます」


───人間が寿命を完うせずに他界することを神が許されることがあるのでしょうか。

 「神の意図は、人間がより素晴らしい霊的生活への具えを地上において十分に身につけることです。熟さないうちに落ちた果実がまずいのと同じで、割り当てられた地上生活を完うせずに他界した霊は、新しい世界の備えが十分ではありません」


───子供が事故で死亡した場合、それは神の意図だったのでしょうか。

 「これは難しい問題です。答えとしては、そうですと言わざるを得ないのですが、それには但し書きが必要です。

 地上生活はすべてが摂理によって支配されており、その摂理の最高責任者は神です。しかし、その摂理は人間を通じて作用します。

究極的にはすべて神の責任に帰着しますが、だからといって、自分が間違ったことをしでかしておいて、これは神が私にそうさせたのだから私の責任ではない、などという理屈は通用しません。

 神がこの宇宙を創造し、叡智によって支配している以上は、最終的には神が全責任を負いますが、あなた方人間にも叡智があります。理性的判断力があります。自分が勝手に鉄道の線路の上に頭を置いておいて、神さま何とかして下さい、と頼んでみても何にもなりません」


───いわゆる神童について説明していただけませんか。

 「三つの種類があります。一つは過去世の体験をそのまま携えて再生した人。二つ目は、たとえ無意識ではあっても霊的資質を具えた人で、霊界の学問や叡智。知識・心理などを直接的にキャッチする人。三つ目が、進化の前衛としての、いわゆる天才です」


 シルバーバーチの交霊会にはレギラーメンバーのほかに必ず二、三人のゲストを迎えるのが慣例となっていた。

ゲストと言っても、必ずしもスピリチュアリズムの信奉者とかシルバーバーチの崇拝者にかぎられていたわけではなく、スピリチュアリズムを頭から否定する人や、シルバーバーチと霊媒のバーバネルはペテン師であると決めつけている者もいた。

そのバーバネルの〝化けの皮〟をはがしてやると意気込んで出席する者もいたが、帰る時はすっかり大人しくなっていた。ときには感動のあまり慟哭する者もいたという。

 さて、その日の交霊会では、スピリチュアリズムに批判的な人からの投書が朗読された。その中には〝スピリチュアリズムは危険な火遊びの類に属するものではないか〟とか〝指導霊はなぜシルバーバーチなどという変な名前を名のるのか───そんなことが私の疑念を増幅するのです〟といったことが述べられていた。

 聞き終えたシルバーバーチは、話題を広角的に捉えて、こう述べた。

 「進化のどの段階にある人でも、暗闇を歩むよりは光明の中を歩むのが好ましいに決まっています。無知に降り回されるよりは正しい知識で武装する方がいいにきまっています。知識の追求は理知的な人間にとっての基本的な人生の目的であらねばなりません。

 迷信・偏見・不寛容・頑迷といった低級な性向は、それに反撃し退却せしめるだけの知識がないところでは、傍若無人に振舞います。ですから、学ぶという態度を忘れて〝私はもうここまでで結構です。これ以上は進む気はありません〟などと言ってはなりません。

 知識は掛けがいのない宝です。人生の全体を視界におさめて、いかに生きるべきかを教える羅針盤のようなものです。船には必ず方向を操るための道具や器具が具えつけられています。

人生をいかに生きるべきかを判断する為の道具や器具が具えつけられています。人生をいかに生きるべきかを判断するための道具を持ち合わせないとしたらその人は愚かな人というべきです。

知識はいくらあってもよろしい。絶えず求め続けるべきものです。〝もうこれ以上知りたくありません〟などと言うようになったら、その時から思考力が衰え、鈍り、錆びついていくことを、自ら求めていることになります。

 生命というものは一定の場所にじっとしていることが出来ないものなのです───向上するか下降するかのどちらかです。みなさんは永遠の生命の道を行く旅人です。

今生きておられる地上生活は、その永遠の旅の、実に短い旅程にすぎません。これから先、まだまだ長い進化の旅が待ち受けているのです。

 ですからその旅に備えて知識をたくわえ、いかなる雑路でもしのげるように旅仕度を強化しておく方がいいにきまっています。ただ、その知識には責任が生じることを忘れてはなりません。これも一種バランス (埋め合わせ) の法則です。

 一方において知識を得れば、他方においてはそれを生かして使うべき責務が生じます。そこから先はあなた自身の問題です。

 私たちは、これまでの永い旅の経験で知った霊的法則の働きに基づいて、地上生活に役立つと見た知恵をお届けしてあげるだけです。それが、この私のように、地上界が陥っている泥沼から救い出すために派遣された者の役目なのです。

 全ての人がそれを受け入れる用意が出来ているとは思っておりません。そんなものは要らないと考える人もいるでしょう。そんなものよりも、子供のオモチャのようなものを喜ぶ人もいるでしょう。まだ人生の意義を考える段階にまでは至っていないということです。

 しかし、あなた方にはその背後の計画を包括的に認識していただかねばなりません。地上界は実に永い間、暗黒に包まれてまいりました。その間の身の毛もよだつような残虐行為を、今の時代になってようやく反省し始めております。その根底にあるものは、霊的摂理についての無知なのです。

物質万能の風潮と私利私欲を一掃しない限り、その呪いから免れることはできません。地上世界を見まわしてごらんなさい。窮乏・悲哀・流血・混とん・破たんばかりではありませんか。これら全てが、間違った物質万能主義、言い換えれば、霊的摂理についての無知から生じているのです。

 地上の人間は生活の基盤を間違えております。国家はその政策を自国だけの利益を中心に考えております。独裁者が生まれては、暴虐非道の限りを尽くしました。が、

それは、力こそ正義という間違った信条に取りつかれていたからにすぎません。いまこそ霊的知識が、個人だけでなく、国家だけでもなく、世界全体にとって必要であることに理解が行かないといけません。

 その霊的知識をいち早く我がものとされた皆さんは、それが今の生活にどれほどの豊かさをもたらしてくれているかを吟味してみられることです。もう二度と、それを知らずにいた時の自分に戻りたくないと思われたはずです。

この世のいかなる波風にもしぶとく耐えていくだけの堅固な基盤を与えておられます。自分がただの偶然の産物、あるいは、気まぐれのオモチャなどではなく、無限の力を秘めた大霊の一部であるとの理解があります。

 地上世界はとても病んでおります。恐ろしい病に苦しんでおります。それを治すための妙薬を私がこういう形で伝授しているのです。この霊的知識が世界中に広まれば───この物質の世界の向こうに新しい世界が待ち受けていること、自分の生活の全てに自分が責任を持たねばならないこと (いかなる信仰もそれを償ってはくれないこと)、

万人に完全なる公平さを持って働く永遠不変の摂理が存在することが理解されれば、新しい世界を構築するための基盤ができたことになるのです」

℘238
 〝無知〟と〝間違った信仰〟の恐ろしさについて、さらにこう述べた。

 「スピリチュアリズムは人間が秘めている霊的能力を教え、それを同胞のために役たてるために開発する方法を教えてくれます。たとえば、病気を霊的に治療する能力を持っている人、あるいは死後の存続を証明する証拠を提供する能力を持った人が、そうとは知らずに毎日を無為に過ごしております。

実にもったいないことです。そういう人材を掘り起こすためにも、霊的知識をできるだけ多く広めておくことが、いかに大切であるかがお分かりでしょう。無知は人間の大敵です。精神的にも霊的にも怠惰にしてしまいます。

 ところが、地上には無知と言うエサによって飼いならされている真面目な人間が実に多いのです。ただ信じるだけで良い───信仰は理性に優るのです。

と教え込まれ、スピリチュアリズムは悪魔の仕業であるから、それを説く者は邪霊にそそのかされているのですよと説き聞かされ、バイブルにちゃんとそう書いてありますと結論づけられます。

 そこに無知の危険性が潜んでいるのです。それを信じる者は、ひとりよがりの正義感に浸りながら、本当は怠惰な、間違った宗教的優越感の上にあぐらをかいてしまうのです。

一種の精神的倒錯を生み出し、それが全ての思考を歪め、本物の真理を目の前にしても、それが真理であるとは思えなくしてしまうのです」



 〝豚に真珠を与える勿れ〟と言ったイエスの真意は何だったのでしょうか。

「自分では立派な真理だと思っても、受け入れる用意の出来ていない人に無理やり押し付けてはいけないということです。拒絶されるから余計なことはするなという意味ではありません。それなら、イエスの生涯は拒絶されることの連続でした。

 そんな意味ではなく、知識・心理・理解を広めようとする努力が軽蔑と侮辱を持って迎えられるような時は、そういう連中は見る目がないのだから、むりして美しいものを見てもらおうとはせずに、手を引きなさいという意味です」


─── 一身上の問題で指導を仰ぐことは許されるでしょうか。

 「それは許されます。ただ、霊的なことに興味があっても、神髄を理解していない人に説明する時は慎重を要します。うっかりすると、霊界からの援助を自分の利益のためだけに不当に利用しているかの印象を与えかねません。

 スピリチュアリズムの基本は、つまるところ物的な豊かさよりも霊的な豊かさを求めることにあり、自分自身と宇宙の大霊についての実相を理解する上で基本となるべき摂理と実在を知ることです。むろん物的生活と霊的生活とは互いに融合し、調和しております。

両者の間にはっきりとした一線を画することはできません。霊的なものが物的世界へ顕現し、物的なものが霊的なものへ制約を与え、条件づけております」


───この世に生きる目的は、霊的な顕現を制約するものを少しでも排除し、霊的資質が肉体を通してなるべく多く顕現することだと私は理解しておりますが・・・・・・

 「その通りです。地上生活の目的はそれに尽きます。そうすることによって自分とは何かを悟っていくことです。

自分を単なる肉体だと思っている人は、大きな幻影の中で生活していることになり、いつかは厳しい現実に目覚める日が来ます。その日は地上生活中に訪れるかもしれないし、こちらへ来てからになるかもしれません。

地上にいるうちに悟った方がはるかに有利です。なぜなら、地上には魂の成長と顕現の為の条件が全部揃っているからです。

 人間は地上生活中に身体機能ならびに霊的機能を存分に発揮するように意図されているのです。霊的なことのみに拘って身体を具えた人間としての義務を怠ることは、身体上のことばかりに目を奪われて霊的存在としての義務を疎かにすると同じく、間違っております。

 両者が完全なバランスがとれていなければなりません。その状態の中で始めて、この世にありがちな俗世に染まらない生き方が出来ることになります。

つまり身体は、神性を帯びた霊の〝宮〟として大事にし、管理し、手入れをする。すると進化と成長の過程にある霊が身体を通して成長と進化の機会を与えられる、ということです」


───心霊治療を始めるには、治療家自身がまず健康体でならなければならないのでしょうか。

「むろん、誰しも健康体であるのが望ましいに決まっています。ただ、霊力によって病気を治す人も、霊媒と同じく〝道具〟です。つまり自分が受け入れたものを伝達する機関にすぎません。

その人を通って霊力が流れるということです。いわば“〝通路〟であり、それも、内部へ向けてではなく外部へ向けて送る通路です。

 その人の資質、才能、能力がその人なりの形で顕現しますが、それが霊界との中継役、つまりそれが霊媒としての資格となり、生命力と賦活力と持久力にあふれた健康エネルギーを地上へもたらす役目が果たせるのです。

その際、治療家自身の健康に欠陥があるということ自体は、治療能力の障害にはなりません。治療エネルギーは霊的なものであり、欠陥は身体的なものだからです」


───精神統一によって心の静寂、内的生命との調和を得ることは健康の維持に役立つでしょうか。

 「自然法則と調和した生活を送り、精神と身体との関係を乱すような行為をしなければ、全ての病気に効果があるでしょう。

あるいは、遺伝的疾患のない健全な身体を持って生まれていれば効果があるでしょう。内部に秘められた〝健康の泉〟の活用法を知れば、全ての病気を駆逐することができることは確かです。

 しかし、現実には、地上に病気が蔓延している以上、事は非常に厄介です。限界があるということです。たとえば〝死ぬ〟ということは誰にも避けられません。

 身体は用事が終われば捨てられるのが自然法則だからです。しかし困ったことに、余りに多くの人間が内部の霊性が十分に準備ができないうちに、つまり熟し切らないうちに、肉体を捨てています。魂の鍛錬にとって必要な体験を十分に積んでいないうちにです。

 私は法則をありのままに述べているまでです。人間にとってそれを実践することは容易でないことは、私も承知しております。何しろ地上というところは物質が精神を支配している世界であり、精神が物質を支配していないからです。

本当は精神が上であり、霊がその王様です。しかし、その王国も人間の行為の上に成り立っています」


───心の静寂が得られると肉体器官にどういう影響が現れるのでしょうか。

 「それ本来のあるべき状態、つまり王様である霊の支配下に置かれます。すると全身に行きわたっている精神が、その入り組んだ身体機能をコントロールします。

根源において生命を創造し身体を形づくった霊の指令にしたがっておこなわれます。その時は霊が身体の構成要素のあらゆる分子に対して優位を占めています。

 それが出来るようになれば、完全な調和状態───あらゆる部分が他と調和し、あらゆる調和が整い、真の自我と一体となります。不協和音もなく内部衝突もありません。静寂そのものです。宇宙の大霊と一体となっているからです」


───あなたはなぜそんなに英語がお上手なのでしょう。

 「あなた方西洋人は時折妙な態度をお取りになりますね。自分たちの言語がしゃべれることを人間的評価の一つになさいますが、英語が上手だからといって別に霊格が高いことにはなりません。たどたどしい言葉でしゃべる人の方がはるかに霊格が高いことだってあるのです。

 私はあなた方の言語、あなた方の習性、あなた方の慣習を、長い年月をかけて勉強しました。それは、こちらの世界ではごく当たり前の生活原理である〝協調〟 の一環です。いわば互譲精神を実践したまでのことです。


 あなた方の世界を援助したいと望む以上は、それなりの手段を講じないといけません。その手段の中には人間の側に最大限の努力を要求することになるものがある一方、私たちにとって嫌悪感を感じ得ないほどの、神の子としてぎりぎりの最低線まで下がらなくてはならないこともあります。

 私はこうして英語を国語としている民族を相手にしゃべらねばなりませんので、英語を習得するのに永い歳月をかけました。皆さんからの援助もいただいております。

同時に、かつて地上で大人物として仰がれた人々の援助も受けております。今でも言語的表現の美しさと簡潔さで歴史にその名を残している人々が、数多く援助してくれております」


───心に念じたことは全部その霊に通じるのでしょうか。

 「そんなことはありません。その霊と波長が合うか合わないかによります。合えば通じます。バイブレーションの問題です。私と皆さんとは波長がよく合います。ですから、皆さんの要求なさることが全部読みとれます。

何かを要求なさると、そこにバイブレーションが生じ、その〝波動〟が私に伝わります。それを受け取る受信体制が私に整っているからです。地上と霊界との間は、魂に共鳴関係があれば、思念や願いごとの全てがすぐさま伝わります」


───われわれが死ぬ前と後には、霊界の医師が面倒を見てくれるのでしょうか。

 「見てくれます。霊体をスムースに肉体から引き離し、新しい生活に備える必要があるからです。臨終の床にいる人がよく肉親や知らない人の霊が側に来ていることに気づくのは、そのためです。魂が肉体から抜け出るのを手助けしているのです」


───昨今のような酷い地上環境では、まったく新しいタイプの霊が誕生する方がいいのではないでしょうか。

 「私たちは、人間一人ひとりが果たすべき責任を持って生まれていると説いております。たとえ今は世界が混とんと心配と喧騒に満ち、敵意と反抗心と憎しみに満ちていても、そうした苦闘と悲劇を耐え忍ぶことの中から、新しい世界が生まれようとしております。

そのためには、そのための旗手となるべき人々がいなくてはなりません。その人たちの先導によって、真一文字に突き進まなければなりません。

 霊は苦闘の中で、困難の中で、刻苦の中で自らを磨かねばなりません。平坦な道ではなく、困難を克服しつつ前進し、そして勝利を手にしなくてはなりません。恐怖心が一番の敵です。無知という名の暗黒から生まれるものだからです」




 シルバーバーチの祈り

 ああ、大霊よ、あなたは全生命の背後の摂理にあらせられます。
 太陽の輝きは、あなたの微笑みです。
 天より降り注ぐ雨滴は、あなたの涙です。
 夜空に煌めく星は、あなたの眼差しです。
 夜の帷(とばり)は、あなたのマントです。
 そして、人のためを思いやる心は、あなたの愛にほかなりません。
 あなたの霊は、全存在に内在しております。森羅万象はあなたの霊の顕現にほかなりません。

 美しく咲き乱れる花となり、さえずる小鳥の声となって顕現しておられます。あなたへの思いを抱くものならば、あなたは誰にでも理解できるのでございます。

 ああ、大霊よ、全宇宙を法則によって知ろしめされるあなたは、無窮の過去より存在し、無窮の未来にわたって存在いたします。

 これまでにも、霊の目を持ってみるものに真実の姿を顕示され、愛を教え、叡智を説き、理解し得る範囲において、ご計画を披露してまいられました。

 地上天国を築かんと願う者たちの魂を鼓舞し、霊力が生み出す勇気を持ってあなたの進化の仕事に協力するよう、導かれました。

 また、あなたの使者として私たちを地上へ遣わされ、地上の子等の魂を解放し、あなたがいかに身近な存在であるかを認識させるために、あらたなる光明、新たなる知識、新たなる真理、新たなる叡智をもたらすべく、高揚と、慰安と、教化と、啓示の仕事を託されたのでした。

 願わくはこのサークルをあなたの霊力によって満たし、ここを聖殿としてあなたの真理の輝きを流入せしめ、地上の暗き場所を明るく照らし、平和と幸せと叡智をもたらすことができますように。
                 完  

Tuesday, March 3, 2026

霊訓 「上 」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings

10節

本節の内容再び著者による反論
回答
キリストが受けた反論との比較
新しい真理は反撃に遭う宿命をもつ
神学的ドグマの誤りの指摘
宇宙は不変の摂理に支配される
真理探求と向上の中に真の幸福がある


〔不服だったので私は書かれた通信を時間を掛けてじっくり吟味してみた。それは当時の私の信仰と正面から対立する内容のものだったが、それが書かれている間じゅう、私は心を昂揚させる強烈な雰囲気を感じ続けていた。反論する前に私は何とかしてその影響力を排除してしまいたいと思った。

その反論の機会は翌日訪れた。私はこう反論した。あのような教義はキリスト教のどの教派からも認められないであろう。またバイブルの素朴な言葉とも相容れない性質のものであり、普通なら反キリスト的なものとして弾劾裁判にもかけられかねないところである。更にまた、そのような何となく立派そうな見解――当時の私にはそう映った――は信仰のバックボーンを抜き取ってしまう危険性がある、といったことだった。すると次のような回答が来た――〕


友よ、良き質問をしてくれたことを嬉しく思う。われらが如何なる権能を有する者であるかについてはすでに述べた。われらは神の使命を帯びて来たる者であることを敢えて公言する。そして時が熟せばいずれそれが認められることを信じ、自信をもってその日の到来を待つ。それまでに着実な準備を為さねばならぬし、たとえその日が到来しても、少数の先駆者を除いては、われらの訓えを全て受け入れ得る者はおらぬであろうことも覚悟は出来ている。それは、われらにとりて格別の驚きではないことを表明しておく。考えてもみるがよい! より進歩的な啓示が一度に受け入れられた時代が果たしてあったであろうか。いつの時代にも知識の進歩にはこれを阻止せんとする勢力は付きものである。愚かにも彼らは真理は古きものにて事足れりとし、全ては試され証明されたと絶叫する。一方、新しきものについては、ただそれが新しきものなること、古きものと対立するものなること以外は何一つ知らぬのである。

イエスに向けられた非難もまさにそれであった。モーセの訓えから難解きわまる神学を打ち立てた者たち――その訓えはその時代に即応したそれなりの意義があったとは言え、時代とともにより高き、より霊性ある宗教にとって代えられるべきものであったが、彼らは後生大事にその古き訓えを微に入り細を穿ちて分析し、ついに単なる儀式の寄せ集めと化してしまった。魂なき身体、然り! 生命なき死体同然のものにしてしまった。そしてそれを盾に、彼らの神の冒涜者――不遜にも彼らは人類の宗教の救世主をそう呼んだのである――はモーセの律法を破壊し、神の名誉を奪う者であると絶叫した。律法学者(1)とパリサイ人(2)、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその訓えを非難した。かの偉大なる人類の指導者を十字架にかけるに至らしめたその怒号を真っ先に浴びせたのが彼らであった。

イエスが神の名誉を奪う者でないことはそなたのよく知るところである。イエスは神の摂理を至純なるものとし、霊性を賦与し、生命と力を吹き込み、活力を与え、新たな生命を甦らせんがために人間的虚飾を破壊せんとしたに過ぎぬ。

親へのうわべだけの義務――愛の心を欠き、わずかな、しかも渋々ながらの施しのみの義務――を説く佗しき律法に代わって、イエスは愛の心より湧き出でる子としての情愛、身体の授け親と神に対する無償の惜しみなき施しの精神を説いた。うわべのみの慣例主義に代わって衷心よりの施しを説いた。いずれが正しく、より美しいであろうか。後者は前者を踏みにじるものであったろうか。むしろ前者のほうが、生命なき死体が生ける人間に立ち向かうが如く、後者に執拗に抵抗したに過ぎぬのではなかったか。にもかかわらず、軽蔑をもって投げ与えられたわずかな硬貨で、子としての義務を免れて喜ぶ卑しき連中が、イエスを旧(ふる)き宗教を覆(くつがえ)さんと企(たくら)む不敬者として十字架にかけたのであった。

その新しき福音を喜ばず、かつ、それを受け入れる用意もなき世に敢然と立ち向かったイエスの弟子たちへしつこく向けられし非難もやはり、新しき教義をもって旧き信仰を覆さんとしているというものであった。そうして何とかして彼らを告発すべき恐ろしき罪状を見出さんと策を弄した。が“四面楚歌”の新しき信仰に対する如何なる非難をも甘受するその弟子たちの説く訓えに何一つ不埒(ふらち)千万なるものを見出し得なかった。彼らは確かに非合法の集団であった。が、ユダヤ教信仰と“時の権力”には忠実に従っていた故に、告発せんとして見守る者たちも、その謂れを見出すことが出来なかった。彼らは次々と新しき無垢の信者を集めていった。みな愛の心に満ちた優しきイエスの後継者たる彼らの訓えには、何一つ不埒千万なるものはなかった。そなたも今まさに、何とかしてわれらの訓えと使命の信頼性を失墜させるものばかりを好んで信じようとしているが……

しかし、いつの時代もそうだったのではなかろうか。新しきものが非難され、信頼を得られぬのは、宗教において、科学において、有限なる人間の為すことの全てにおいて、いつの時代にも変わらぬ物語である。それが人間的知性の特性の一つなのである。すなわち、見慣れたものが気に入られ、目新しく見慣れぬものが懐疑と不信の目で眺められるのである。

それ故われらはスピリチュアリズム的キリスト教観を説くに当たり、劈頭(へきとう)より懐疑の目をもって迎えられることに些(いささ)かの驚きも感じぬ。いずれは全ての者がその訓えの美しさと神聖さを認める日が到来するであろう。

われらの説くところが人間の言説と衝突することは、別に驚くには当たらぬ。否むしろ、遠き過去において霊能の発達程度を異にする霊媒を通じて得られた訓えと矛盾せぬことの方がおかしい。バイブルの中にも、それが当時の霊媒を通じて得られた誤りだらけの混ぜものであるために、それらの訓えと融合し得ぬものが見出されることを敢えて指摘せぬわけにはいかぬのである。この点についてはすでに述べたので繰り返す必要はあるまい。

バイブルの啓示にも神についての知識に進歩のあとが見られぬわけでもないが、細部において不合理きわまる自家撞着を少なからず含んでいる。その上、霊媒を通過する際に紛れ込める人間的誤謬もまた少なしとせぬ。その中より真相を読み取るにはバイブル全体の流れを読むほかはない。その全体像を無視して選び出した個々の言説は、それ自体の価値はあるにせよ、信仰の対象としての価値は些かも認められぬ。そもそも幾世紀も昔の教説を今なお金科玉条として永遠の至上命令の如く考えること自体が愚かと言うべきである。その種の考えは自家撞着を含み、また同じバイブルの中の他の言説、あるいはそれと対立する言説とも矛盾する。

申すまでもなく、そなたたちが神の声と呼ぶ書を筆記者たちが記録した時代においては、イエスは神なりとの信仰が広まり、それを否定せんとする者には厳しい批難が浴びせられた。またそう信じた者たちは同時に、イエスが地上人類を裁くために霊妙不可思議なる方法にて雲間にその姿を現す――それもその世紀の人類が滅びる前である、と信じた。両者とも間違いであった。そうしてその時以来少なくとも一八〇〇年が過ぎ去ったが、イエスは再臨しておらぬ。このことに関連して今少し述べておく必要があろう。

われらがそなたに理解を望むことは、神の啓示といえども、所詮は自分自身に与えられた“光”にて判断せねばならぬということである。説教者の言葉を鵜呑みにすることなく、それを全体像の中で捉(とら)え、一言一句の言い回しにこだわることなく、その精神、その流れを汲み取るよう心がけねばならぬ。われら自身、およびわれらの教説を判断するに際しても、得体の知れぬ古き予言に合うの合わぬだのという観点からではなく、そなたの真に求むるもの、そなたと神とのつながり、そしてそなたの魂の進化にとって有益であるか否かを基準にして判断せねばならぬ。

つまるところ一体われらは何を説かんとしているか。その説くところがどこまで理性を納得せしむるか。神について何と説いているか。そなたの魂にとってそれがどこまで有益か。そう問いかけねばならぬ。

そなたが正統派教会より教え込まれた教義によれば、神はその一人子を犠牲(いけにえ)とすることで人間と和解し、さらにその中の選ばれし少数の者を天国へ招き入れ、そこで時の果つることなく永遠に、単調この上なく、神を讃える歌をうたい続けるのだという。その恩寵にあずからぬ他の人類は全て天国に入ることを許されることなく、言語に尽くし難き苦しみを永遠に受け続けるという。

この至福にあずかれぬ哀れな者たちは、ある者は信仰なきが故であり、ある者は堕落せる環境のせいであり、ある者は恐ろしき煩悩の誘惑に負け、罪を犯せるが故である。さらにある者は多情多淫の肉体をもって生まれ、その激情に抗し得ざりしためである。また何を為すべきかを知らぬ者もいた。もし知っていれば喜んで努力したであろうに。救われたくば是非信ぜねばならぬと説かれた教義が、知性的に受け入れ得なかった者もいる。さきに述べた如く、死後、天国への保証を確保してくれると説く言説に同意せざりし者もいる。その者たちは永遠に破滅の道を歩み続け、その哀れなる者たちを、祝福されし者たちが平穏無事の高所より眺め下ろし、心安らかなる満足を得るという。その実彼らの多くは地上にて悲しむべき堕落の生活を送りながら、ただドグマ的教説への信仰を告白せるが故に救われたというに過ぎぬ。

肉欲と怠惰と、あらゆる法に違反せる生活も、信仰の告白という一つの行為によりて全てが帳消しになる、とそなたたちは教え込まれてきた。いかに粗野にして肉欲に狂える無法者も、死の床にてイエスへの信仰を告白すれば、それまでの生活そのものが冒涜していたはずの神のもとへ一気に招かれるという。不純にして卑しき堕落者が、清純にして気高き聖人と共に完全無垢なる神のもとにかしづけるとは!

指摘すれば枚挙に暇なしであるが、われらの説くところと比較対照するには以上の指摘で十分であろう。われらは決してそのような神――理性が身震いし、父性的本能が嫌悪の念を催す神の概念は説かぬ。同じく愛の神とはいえ、さような偏れる愛の神をわれらは知らぬ。それは人間の発明せる神であり、われらは知らぬ。さような人間的偶像は野蛮なる精神の哀れなる戯言(たわごと)に過ぎぬことを指摘せずにはいられぬ。至純至聖なる神を滑稽化するその不敬きわまる無知と愚かさに、そなたもわれらと共に驚きを感じて欲しく思うのである。友よ、そのような神の観念を抱くようでは、人間はよくよく霊性が堕落していたものと推察される。今、そうした言説に敢然と異議を唱える者こそ、われらの説く福音を切望している者に相違あるまい。

われらが知るところの神、そしてそなたに確信をもって説ける神こそ、真の意味での愛の神――その働きは愛の名を裏切らず、その愛は無限にして、その慈悲は全ての創造物に及びて尽きることを知らぬ。いかなる者に対しても分け隔てせず、全てに断固たる公正をもって臨む。その神とそなたたちとの間には無数の天使が階梯をなして待機し、神の愛の言葉を携え、神の意志を時に応じて啓示する。この天使の働きにより神の慈悲は決して途切れることなく人類に及ぶ。これこそわれらが説く神――摂理によって顕現し天使を通じて作用するところの神である。

では、人間についてわれらは何を説くか。たった一度の改心の叫び声、たった一つの懴悔の言葉、筋の通らぬ恐ろしき教義への信仰の告白行為一つにて、退屈きわまる無活動の天国を買収し、恐ろしき体罰の地獄から逃れることを得るという、その程度の意味での不滅の魂なのか。否、否。そなたたちはより高き霊的生活への鍛練を得るべく、ほんの僅かな期間を肉の衣に包まれて地上に在るに過ぎぬ。その霊の世界にありては地上生活にて自ら蒔いた種子が実をつけ、自ら育てた作物を刈り取る。そなたたちを待ちうけているのは永遠の無活動の天国などという児戯に類する夢幻(ゆめまぼろし)の如き世界ではなく、より価値ある存在を目差し、絶え間なく向上進化を求める活動の世界である。

その行為・活動の結果を支配するのは絶対不変の因果律である。善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は逆に堕落させ、進歩を遅らせる。真の幸福とは向上進化の中、すなわち一歩一歩と神に近づく過程の中にこそ見出される。神的愛が行動を鼓舞し、互いの祝福の中に魂の喜びを味わう。ものぐさな怠惰を貪(むさぼ)る者など一人もおらぬ。より深くより高き真理への探求心を失う者もおらぬ。人間的情欲、物欲、願望のすべてを肉体と共に棄て去り、純粋と進歩と愛の生活に勤しむ。これぞ真実の天国なのである。

地獄――それは個々の魂の中を除いて他のいずこにも存在せぬ。未だに浄化も抑制もされぬ情欲と苦痛に悶え、過ぎし日の悪業の報いとして容赦なく湧き出ずる魂の激痛に苛(さいな)まれる。これぞ地獄である。その地獄より脱け出る道はただ一つ――たどり来る道を今一度あと戻りし、神についての正しき知識を求め、隣人への愛の心を培う以外にはない。

罪に対してはそれ相当の罰のあることはもとよりであるが、その罰とは怒りと憎しみに燃える神の打ち下ろす復讐のムチではない。悪と知りつつ犯せる罪悪に対し、苦痛と恥辱の中にありて心の底より悔い改め、罪の償いの方向へと導くための自然の仕組みにほかならず、お慈悲を請い、身の毛もよだつ恐ろしきドグマへの口先のみの忠誠を誓うが如き、退嬰(たいえい)的手段によるのでは断じてない。

幸福とは、宗教的信条に係わりなく、絶え間なき日々の生活において、理性に適い宗教心より発する行ないを為す者すべてが手にすることが出来るものである。神の摂理を意識的に犯す者に必ず不幸が訪れる如く、正しき理性的判断は必ずや幸福をもたらす。そこには肉体に宿る人間と肉体を棄てた霊との区別はない。

霊的生命の究極の運命についてはわれらも何とも言えぬ。何も知らぬのである。が、われらをして現在までに知り得たかぎりにおいて言わしむれば、霊的生命はそなたら肉体に宿る者もわれら霊も共に、等しく神の因果律によりて支配され、それを遵守する者は幸福と生き甲斐を覚え、それを犯せる者は不幸と悔恨への道をたどるということだけは間違いなく断言できる。

神に対する責務、同胞への責務、そして自分自身に対する責務、この三つの根本的責務についてはすでにその大要を述べた。よってここでは詳説はせぬ。いずれ敷衍(ふえん)して説く時機も到来しよう。以上述べたところを篤と吟味せられたい。われらが当初より宣言せる主張――すなわち、われらの訓えが純粋にして神聖であり、イエスの訓えの本来の意義を改めて説き、それを完成せしめるものであることを知るには、それで十分であろう。

それは果たして正統派の教義に比して明確さを欠き曖昧であろうか。そうかも知れぬ。反発心を起こせしめる箇所については詳細を欠いているかも知れぬ。が、全体を通じてより崇高にして清純なる雰囲気が漂っているであろう。高尚にして神聖なる宗教を説いていよう。神性のより高き神を説いていよう。実は教えそのものが曖昧でもなければ、明確さを欠くわけでもない。そう映るのは、敬虔なる心の持ち主ならば浅薄な詮索をしたがらぬであろう課題を扱っているからに他ならぬ。知り得ぬことは知り得ぬこととして措き、決して勝手な憶測はせぬ。全知全能の神についていい加減な人間的見解を当てはめることを恐れるのである。

もしも人智を超えた神にベールをかけることをもって曖昧と呼ぶならば、確かにわれらの教えは曖昧であり、明確さに欠けるであろう。しかし、もしも知り得たかぎりのこと、理解し得るかぎりのことしか述べぬこと、憶測するより実践すること、ただ信ずるより実行することが賢明なる態度であるならば、われらの態度こそ叡智の命ずるところに従い、理性を得心させ、神の啓示に与(あずか)れるものであると言えよう。

われらの訓えには理性的批判と実験に耐え得るだけの合理性がある。遠き未来においてもその価値を些かも失わず、数知れぬ魂を鼓舞し続けることであろう。一方これに異を唱える者は、その愚かさと罪の結果を悲しみと悔恨の中に償わざるを得ぬことになろう。それは、その信念を携えて進みし無数の霊を幸福と向上の道へ導き、一方、その導きを拒否せる者は、朽ち行く肉体と同じ運命をたどることであろう。愚かなる無知からわれわれの訓えを悪魔の仕業と決めつけ、それを信ずる者を悪魔の手先と非難しようとも、その訓えは存在し続け、信ずる者を祝福し続けることであろう。

(†インペレーター)


――おっしゃることは筋が通っており、立派な訓えだと思います。また曖昧であるとの私の批判に対しても納得のいく答えをいただきました。しかし、一般の人はあなたの説くところを、事実上キリスト教を根底から覆すものだと言うことでしょう。そこで私がお願いしたいのは、スピリチュアリズム的思想が究極において言わんとするところ、とくに、それが地上および霊界の未発達霊へ及ぼす影響について述べていただきたいと思います。


それについては、いずれ時機をみて説くとしよう。今は控える。先を求むる前に、これまでわれらが述べたところを篤と吟味されたい。そなたを正しく導く御力をわれらに給わらんことを!

(†インペレーター)

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze



十一章  霊力とは? 神とは?

───霊力とはどんなものでしょうか。

 「霊の力は目には見えません。人間界で用いられているいかなる計量器でも計れないものです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さもなく色もなく、容積もなく味もにおいもありません。

ですから常識的な地上の計量法でいけば霊力というのはこの世には存在しないことになります。つまり実在とは五感で捉えられないものと決めて掛っている唯物的自然科学者とっては、霊力は存在しないことになります。

 しかし、愛は目に見えず、耳にも聞こえず、色もなく味もなく寸法もないのに、立派に実感があります。それは深い愛の感動を体験したものが証明してくれます。確かに愛の力は強烈です。しかし、霊の力はそれよりも無限大に強烈です。

 あなた方が生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いをめぐらすのも、霊の力があればこそです。物を見、音を聞き、動き回り、考え、言葉をしゃべるのも、霊の力があればこそです。あなた方の行動のすべて、存在のすべては霊の力のお陰です。

物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって、存在と目的と指針と生活とを与えられているのです。

 物質界のどこを探しても、意識の秘密は見つかりません。科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質そのものの中には存在しないからです。物質は、それが、一時的に間借りしている宿に過ぎません。

 霊の力は、あなた方が〝神〟と呼んでいるもの、そのものなのです。もっとも、その神を正しく理解していただけないかもしれませんし、誤解してその意味を限定してしまっておられるかもしれません。ともかくその霊力が、かつては火の固まりであったものを今日ご覧になっておられるような生命あふれる緑の地球にしたのです。

 その霊力が土塊から身体をこしらえて、それに生命を吹き込んだのです。魂がまとう衣服です。地上のあらゆる生命を創造し、自然界のあらゆる動き、あらゆる変化を支配し、四季を調節し、一粒の種子、一本の植物、一輪の花、一本の樹木の成長にまで関与している力、要するに千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが、霊力なのです。

 それが雄大であるゆえんは、物質界に限られていないところにあります。すなわち無数の物的現象を通じて絶え間なく働いているだけでなく、見えざる世界の霊的活動のすべて、今のあなた方には到底その存在を知ることのできない、幾重にもつながった高い界層、そしてそこで展開する、これまたあなた方の想像を絶した光輝あふれる生命現象に至るまで、その霊力が支配しているのです。

 しかし、いかに雄大であっても、あるいは、いかにその活動が驚異的であるといっても、それにも制約があります。すなわち、それが顕現するには、それが適した器、道具、霊体、通路、霊媒───どうお呼びになっても構いません───そうしたものが無ければならないということです。

壮大な霊の流れも、そうしたものによる制約を受けるのです。地上にどの程度のものが流れ込むのかは、人間側が決定づけるということになります。

 私がつねづね、心配の念をはらいなさい、自信を持ちなさい、堅忍不抜の精神で生きなさい。神は絶対にお見捨てにならないから、と申し上げてきたのは、そうした雰囲気、そうした条件のもとでこそ霊力が働きやすいからです。

地上的な力はいつかは衰え、朽ち果てます。人間が築く王国は儚いものです。今日は高い地位にいても、明日は転落するかもしれません。

 しかし霊の王国は決して滅びることはありません。霊の尊厳は不変です。神の力は決して衰えません。ただし、その働きの程度を決定づけるのはあなた方であり、現にいつも決定づけております。

 スピリチュアリズムを少しばかりかじった人は、よく、なぜ霊界の方からこうしてくれないのか、ああしてくれないのかと文句を言うようですが、実際には、そうしたことを言う人ほど、霊界からそうしてあげるための条件を整えてくれないものです。

 この苦悩に満ちた世界、暗闇と不安におおわれた世界にあって、どうか皆さんには灯台の光となっていただきたい。あなた方の自信にあふれた生きざまを見て人々が近づき、苦悩の最中における憩いの場、聖域、波静かな港を発見することが出来るようにしてあげていただきたい。

皆さんはそういう人たちの心の嵐を静め、魂の静寂を取り戻してあげる霊力をお持ちなのです」


───霊はいつ肉体に宿るのでしょうか。

 「霊としてのあなたは無始無終の存在です。なぜなら、霊は生命を構成する要素そのものであり、生命は霊を構成する要素そのものだからです。あなたという存在は常にありました。

生命力そのものである宇宙の大霊の一部である以上、あなたには始まりというものはありません。が、個体として、つまり他と区別された意識ある存在としては、その無始無終の生命の流れの中のどこかで始まりをもつことになります。

 受胎作用とは精子と卵子が結合して、生命力の一分子が自我を表現するための媒体を提供することです。その媒体が提供されるまで、生命力は顕現されません。

それを地上の両親が提供してくれるわけです。精子と卵子とが結合して新たな結合体をこしらえると、小さな霊の分子が自然の法則にしたがってその結合体と融合し、かくして物質の世界での顕現を開始します。

 私の考えでは、その時点が意識の始まりです。その瞬間から意識を持った個体としての生活が始まるのです。それ以降は永遠に、個体を具えた存在を維持します」


───何の罪もないのに無邪気な赤ん坊が遺伝性疾患や性病その他の病気を背負ってこの世に生まれてきます。これは公平とは思えません。子供には何の罪も無いのですから・・・この問題をどうお考えでしょうか。

 「不公平を口にされるのは、問題を肉体の問題としてだけ、つまり物質界のみの問題としてお考えになり、無限の生命の観点からお考えになっていないからです。霊そのものは性病なんかには罹りません。霊が傷ついたり奇形になったりすることはありません。

両親の遺伝的特質や後天的性格を受け継ぐことはありません。それは霊が自我を表現する媒体であるところの肉体に影響を及ぼすことはあっても霊そのものを変えるようなことにはなりません。

 確かに、地上的観点から、つまり物的観点からのみ人生を眺めれば、病弱な身体を持って生まれた人は健全な身体を持って生まれた人よりも、物的には不幸の要素が多いと言えるでしょうが、その意見は霊については当てはまりません。

身体が病弱だから霊も気の毒で、身体が頑健だから霊が豊かであるという方程式は成り立ちません。実際にはむしろ宿命的な進化のための備えとして、多くの痛みや苦しみを味わうことによって霊が豊かになるという考え方が正しいのです」


───では、この世をよりよくしようとする衝動はどこから出てくるのでしょうか。

 「帰するところ、神がその無限の創造事業への参加者としての人間に与えた自由意思から出ています」


───物的な苦痛によって霊が進化するのであれば、なぜその苦痛を無くする必要があるのでしょうか。

 「私はそのような説き方はしておりません。私がそのことを引き合いに出したのは、人生には寸分の狂いもなしに埋め合わせの原理が働いていることを指摘するためでした。

 ここに二人の人間がいて、一人は五体満足で、もう一人はどこかに障害があるとした場合、後者は死後も永遠にその障害を抱えていくわけではないと言っているのです。要するに肉体の健康状態がそのまま霊の状態を現すのではないことをお教えしようとしているのです。

 霊には霊としてのたどるべき進化の道程があります。その霊がいかなる身体に宿っても、必ず埋め合わせと償いの法則がついてまわります」


───でも、やはり身体は何の障害も無い状態で生まれるのが望ましいのではないでしょうか。

 「もちろんです。同じように地上に貧民(スラム)街がない方がいいに決まっています。しかし、その貧民(スラム)街をこしらえるのも地上天国をこしらえるのも、結局は同じ自由意思の問題に帰着します。人間に自由意思がある以上、それを正しく使うこともあれば誤って使うこともあるのは当然です」


───でも不幸が霊のためになると知ったら、地上をより美しくしようとする意欲をそがれる人もいるのではないでしょうか。

 「地上の出来事で埋め合わせのないものは何一つありません。もしも神の働きが阻害されて、当然報われるべき行為が報われずに終わることがあるとすれば、これは神の公正を嘲笑う、深刻な事態となります。

私が指摘しているのは、埋め合わせの原理が厳然として存在すること、そして、進化の法則に逆らった行為を犯しながら神の摂理とは別の結果が出るようにいくら望んでも、神の計画は少しもごまかされないということです。

 しかし同時に、次の事実も知っておく必要があります。すなわち、たとえ現代の地上の不幸の原因が取り除かれても、人間はまたみずからの自由意思によって、みずからの複雑な文明の中からさらに新たな不幸を生じさせる原因を生み出していくということです。

 しょせん、人間は完全へ向けての無限の階段の連続です。一段又一段と、みずからの力で向上していかねばなりません。しかも、いつかは最後の一段にたどり着くと思ってはなりません」
(ここで質問と答えに少しズレが見られるが、このあともう一度同じ質問がでる──訳者)


───肉体の病気は霊的な進化を促進するかも知れませんが、その逆もあり得る、つまり性格を損ねる事もあるでしょう?

「損ねる事もあるし損ねないこともあります。どちらのケースもあります。病気になるのは摂理に反した行為をするからです」


───では病気または病気に相当するものは絶対に不可欠のものとおっしゃるわけですね?

 「いえ、私は病気に相当するものとは言っておりません。何らかの〝苦〟に相当するものです。人間に自由意思がある以上、選択の仕方によって楽しい体験となったり苦しい体験となったりするのは当然でしょう」


───それは分かります。苦しみを味わわないと幸福も味わえないからです。ですが、どうも私には、もしもあなたがおっしゃるように、こういうことがあれば必ずこういう埋め合わせがあるというのが事実であれば、世の中を良くしようとして苦労する必要はなさそうに思えるのですが・・・・・・

 「人間に選択の自由があるのに、ほかにどうあってほしいというのでしょう」


───この度の戦争のことはさて措いて、私は今日の世界は三百年前よりはずっと幸せな世の中になっていると思うのです。世界中のほとんどの国が、戦争はあっても、やはり幸せな世の中になっております。

 「おっしゃる通りですが、それが私が言っていることと、どこがどう矛盾するのでしょう?」



───われわれ人間は(取り立てて人のためと説かれなくても) 常に世の中を良くしてきているということです。

 「しかしそれは、世の中を良くしたいと言う願望に燃えた人がいたからこそですよ。魂に宿された神性が自然な発露を求めたのです。神の一部だからこそです。

かりに今日要求したことが明日、法の改正によって叶えられても、明日はまた不満が出ます。進化を求めてじっとしていられない魂が不満を覚えるのです。それは自然の成り行きです。魂が無意識のうちに、より完全なものを求めようとするからです。

 今日の地上の不幸は、その大半が自由意思による選択を誤ったことに起因しています。それには必ず照合がなされ、さらに再照合がなされます。そうすることで進歩したり退歩したりします。

そうした進歩と退歩の繰り返しの中にも、少しずつ向上進化が為されております。先んずる者もいれば後れをとる者もいます。先を行っている者が遅れている者の手を取って引きあげてやり、遅れている者が先を進み過ぎている者にとって、適当な抑制措置となったりしております。

そうやって絶え間なく完成へ向けての努力が為されているわけです。が、その間の人生のあらゆる悲劇や不幸には、必ず埋め合わせの原理が働いていることを忘れてはなりません」


───改めるべきものは山ほどありますね。

 「あなた方は自由主義を誇りにしておられますが、現実には少しも自由とはいえない人々が無数におります。有色人種をごらんなさい。世界中のどの国よりも寛容心を大切にしているあなた方の国においてですら、劣等民族としての扱いを受けております。

私がいつも、これで良いと思ってはいけない、と申し上げている理由はそこにあります。世の中はいくらでも明るく、いくらでも清らかに、そしていくらでも幸せになるものなのです」


───葛藤や苦悩が霊的進化にとって不可欠なものならば、それは霊界においても必要なのではないでしょうか。なのに、あなたは、そちらには悪と邪の要素が無いようにおっしゃっていますが・・・・・・

 「ご質問者は私の申し上げたことを正しく理解していらっしゃらないようです。私は邪と悪には二種類ある───この〝悪〟という言葉は嫌いなのですが───すなわち、既得権に安住している利己主義者が生み出しているものと、人類の未熟さからうまれるものとがあると申し上げたつもりです。

 私たちの世界には邪悪なものは存在しません。もちろん、ずっと低い界層へ行けば霊性が貧弱で環境の美を増すようなものを何も持ち合わせない者の住む世界があります。が、そうした侘しい世界は例外として、こちらの世界には邪悪なものは存在しません。

邪悪なものを生み出す原因となるものが取り除かれているからです。そして、各自が霊的発達と成長と進化にとって、適切かつ必要なことに心行くまで従事しております。

 葛藤や苦悩はいつになっても絶えることはありません。もっとも、その意味が問題ですが・・・・・・地上では人間を支配しようとする二つの力の間で、絶え間ない葛藤があります。

一つは動物的先祖ともいうべきもの、つまり身体的進化向上に属する獣的性質、そしてもう一つは神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を賦与してくれた神の息吹です。

その両者のどちらが優位を占め、そしてその優位をどこまで維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で、自由意思によって選択することです。

 こちらの世界へ来からでも葛藤はあります。それは、低い霊性の欠点を克服し、高い霊性を発揮しようとする、絶え間ない努力という意味です。

完全へ向けての努力、光明へ向けての努力ということです。その奮闘の中で不純なものが捨て去られ、強化と精錬と試練をへて、ようやく霊の純金が姿を現します。

こちらの世界にも悩みはあります。しかしそれは、魂が自分の進歩に不満を覚えたことの表れであって、ほんの一時のことです。完成へ向けて長い行進の中で短い調整期間のようなものです」


───でも、葛藤と進歩、そして努力の必要性はつねにあるわけでしょう?

 「おっしゃる通りです。だからこそ私は、先ほどの言葉の解釈が問題だと申し上げたのです。自然界の常として、より高いものがより低いものを無くそうとします。それは当然のことで、そうでなかったら進化というものが真実でなくなります。 

 人間は低い段階から高い段階へ向けて成長しようとする、進化性を持った存在です。進化するためには、光明へ向けての絶え間ない葛藤がなければなりません。その場合の葛藤は、成長のための必須の過程の一つであるわけです。

 さきほど私が言いたかったのは、地上には不必要な葛藤、無益な努力が多過ぎるということです。それは自由意思の使用を誤って、薄汚い知恵、病気、貧民(スラム)街といった、あってはならないものを生み出し、それが霊界からの働きかけをますます困難にしているのです」


───〝神(ゴッド)〟は完全無欠ですか?

 「あなたがおっしゃる神が何を意味するかが問題です。私にとって神とは、永遠不変にして全知全能の、摂理として顕現している宇宙の大霊です。その摂理に、私はいかなる不完全さも不備も見つけたことがありません。

原因と結果の連鎖関係が完璧です。この複雑を極めた宇宙の全生命活動のあらゆる側面において、完璧な配慮が行きわったっております。

 例えば、強大から極微までの無数の形と色と組織を持った生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けていただけば、神の法則の全構図と全組織とがいかに包括的で完全であるかを認識なさるはずです。

私にとっては神とは法則であり、法則がすなわち神です。ただ、あなた方人間は不完全な物質の世界に生活しておられるということです。

 物質の世界に生きておられる皆さんは、今のところその物質すら、たった五つの物的感覚でしか理解できない限られた条件下で、限りある精神を通して自我を表現しておられるわけです。物的身体に宿っているかぎりは、その五感が、周囲の出来ごとを認識する範囲を決定づけます。

それゆえに、あなた方は完全無欠というものを理解すること自体が、そもそも不可能なのです。五感に束縛されている限りは、神の存在、言いかえれば、神の摂理の働きを完全に理解することは不可能ということになります。

 その限界ゆえに、摂理の働きが不完全であるかに思えることがあるかもしれませんが、知識と理解が増し、より深い叡智をもって同じ問題を眺めればそれまでの捉え方が間違っていたことに気づきはじめます。

 物質の世界は進化の途上にあります。その過程の一環として、時には静かな、時には波動を作った、さまざまな発展的現象があります。それは地球を形成していく為の絶え間ない自然力の作用と反作用の現れです。

常に照合と再照合が行われるのです。存在していくための手段として、その二つの作用は欠かせない要素なのです。実に複雑なのです」


───神は完全だとおっしゃいましたが、われわれ人間が不完全であれば神も不完全ということになりませんか。

 「そうではありません。あなた方は完全性を備えた種子を宿しているということです。その完全性を発揮するための完全な表現器官をそなえるまでは、完全にはなり得ないということです。現在のところ、その表現器官がきわめて不完全です。

進化して完全な表現器官、つまり完全な霊体をそなえるに至れば、完全性を発揮できるようになりますが、それには無限の時を要します」


───ということは、神のすべての部分が完全の段階に至るのにも無限の時を要するということでしょうか。

 「違います。神は常に完全です。ただ、現在物質の世界に人間という形態で顕現されている部分の表現が不完全だということです。それが完全な表現を求めて努力しているわけです」


───それを譬えて言えば、ある正しい概念があって、それが人によって間違って理解され使用されているようなものでしょうか。

 「その通りです。しかも、それも、一歩ずつではあっても、絶えず理想へ近づいていかねばなりません。完全は存在します。それを私は、あなた方は本当の自分のほんの一かけらしか表現していないと申し上げているのです。

もしも現在のその身体を表現されている一かけらだけであなたを判断したら、極めて不当な結論しか出てこないでしょう。が、それは本当のあなたの一部に過ぎません。

もっと大きなあなた、もっと大きな意識が存在し、それが今もあなたとつながっているのです。ただ、それは、それに相応しい表現器官が与えられないと発揮されないということです」


───お聞きしていると、神が一個の存在でなくなっていく様に思います。独立した存在として神はいるのでしょうか。

 「真っ白な、豪華な玉座に腰掛けた、人間の姿をした神はいません。神とは一個の身体を具えた存在ではありません。摂理・法則です」


───それに心が具わっているわけでしょうか。

 「心というものは、あなた方の身体を通してのみ働いているのではありません。法則を通して働いているのです。心を脳味噌と切り離して考えないといけません。

意識というのは、そのお粗末な脳細胞だけを焦点として働いているのではありません。脳とは完全に独立した形で存在します。その小さな脳という器官との関連で心の働きを考えるのは止めないといけません。

 心はそれ自体で存在出来ます。しかしそれを自覚するには何らかの表現器官が必要です。そのために、人間には幾つもの、霊的身体が具わっているわけです。

身体を具えていない状態を想像することは可能であり、その状態でもあなたは厳として存在しますが、それではあなたと言う個性を表現する手段がないことになります。

 神という存在を人間に説明するのは、実に困難です。人間には、独立した形態を具えた存在としてしか想像できないからです。言語や記号を超越したものを地上の言語で説明しようとするのが、そもそも無理な話です。創造の本質に関わることなのです。


 神と言う存在をどこかのある一点に焦点を持つ力として考えてはいけません。そんなものではないのです。神とは完全な心、始めも終りもなく、永遠に働き続ける完璧な摂理です。

真っ暗だったところへ、ある日突然、光が差し込んだというものではありません。生命は円運動です。始まりも終りもありません」


───宇宙のすみずみまで神が存在するのと同じように、我々一人ひとりにも神が宿っているとおっしゃるわけでしょうか。

 「私のいう神は、全創造物に顕現されている霊の総体から離れて存在することは出来ません。残念ながら西洋世界の人は、いまなお人類の創造をエデンの園(アダムとイブの物語)と似たような概念で想像します。実際はそれとはまったく異なるのです。

宇宙の進化は無窮の過去から無窮の未来へ向けて延々と続いております。かつて何もなかったところへ、突如として宇宙が出現したのではありません。宇宙は常にどこかに存在します。生命は何らかの形態で常に顕現してきました。そしてこれからも何らかの形で永遠に存在し続けます」


 スピリチュアリズムによる新しい啓示の重大性について、こう述べる。

 「闇に閉ざされたこの地上界にあって、意義ある貢献する機会を与えてくれる霊的知識を手にされた皆さんは、何と幸せな方たちでしょう。幾十世紀にもわたって偉大なる頭脳を悩ませてきた多くの謎を解くカギを手にされた皆さんは、何と幸せでしょう。

歩むべき道を照らしだし、永遠の生命の機構の中におけるご自分の存在すべき位置を理解させてくれる叡智を授かった皆さんは、実にお幸せな方たちです。そうした霊的知識を誇りに思わないといけません。

誤った教えの下敷きとなってしまっている人々を救いだし、正しい知識と理解への道を指し示してあげることが出来るからです。

 しかしそれにも増して大きいのは、そうした知識を手にした人が背負うことになる責任です。本当の意味で大霊の使徒となるからです。最高神の道具となったということです。忠誠を捧げる聖なる大義を汚すようなことは絶対にしないという責任が、その人の双肩に掛ってきます。

 地上世界は霊的知識を必要としております。それは生活の全側面を照らしだし、理解に苦しむ問題を簡単に解いてくれます。人類の進歩のブレーキとなってきた誤った教えの粗悪さと不当性によって、これ以上苦しめられることは無くなるでしょう。

今まさに地上世界は、歴史的に見ても重大な時期を迎えているのです。皆さんの目の前で新しい歴史が刻まれつつあるのです。魂の最終のゴールである〝自由〟の獲得への道を、あなた方が整備してあげているのです。

 皆さんには霊的貢献の分野があります。大霊の子が人生の嵐の中を生き抜く上での正しい基盤を手にすることが出来るように、この霊的真理を普及させないといけません。

その普及活動を阻止しようとする勢力は次第に衰えつつあります。かつては脅威に思えた反抗が、今やおぼろな影となっております。かつて先駆者たちが直面させられた苦難は、その先駆者たち自身のお陰で大幅に取り除かれました。

しかし、まだまだ為すべきことが多く残されております。その大きな仕事の一端が、あなた方の双肩に掛っているのです。

 堂々と胸を張り、魂の自由と進歩と啓発に貢献していることに、誇りを持って下さい。大霊の子等が暗闇でなく真理の光の中で生きるための魂の自由と解放という仕事において、皆さんは、ご自分で考えておられる以上に、大きな貢献をしておられます。

 本当の自我に目覚める霊が増えつつあります。ここぞという重大な時に何の役にも立たなかった古い教えに背を向ける男女が増えつつあります。今や古い秩序は完全に砕かれました。

古いものはやはり古いという認識のもとに、古い宗教的体制への不信感が加速されております。新しい教義、新しい人生指導原理を求めているのです。


 人々は光明を求めています。のちの世代に光明を約束してくれるものに希望を託しております。過去が残してくれたものに不審を抱き、新しい霊的真理を渇望しているのです。それを提供するのが、あなた方の役目です。

これから始まる再構築の大事業に備えるための知識と力とを身につけさせるために、陰ながら導いてくれている背後霊の存在を認識させてあげるのです。

 肩書(ラベル)と言うものが次第に魅力を失いつつあります、地上人類は今まであまりに長い間、タイトルや肩書を崇めてきました。それが今、そうしたものに幻滅を感じ始めております。新しいタイプの魂、真実を問い質す魂、真理を求める魂、権威を自称するものを容易に信用しない魂、遠い昔の聖なる書はあくまでもその時代のもので、しかもただ霊的啓示であると信じられているに過ぎないから信じない、と主張する魂が生まれつつあります」


次に、霊的交流を求める上での心掛けについてのアドバイスを求められて───

 「精神を受け身の状態にし、冷静でいてしかも受容力に富んだ態度を保つ修業が必要です。霊力は、人間の方から命令的に求められる性質のものではありません。秩序正しい段階を踏んで用意を整えて下さらないと、授けることは出来ないのです。

ある一定の必須の条件というものがあるからです。通信回路が正しく開かれていないと、インスピレイションは流れませんし、たとえ流れても、歪められてしまいます。

 何よりも大切なのは、いかなる困難、いかなる騒ぎの中にあっても、平静さを失わないようになることです。私たちの教えを知識としていくら沢山詰め込んで下さっても、心の平静さを保つ修業ができないかぎり、その価値は十分に発揮されないことになります。

 あなたも大霊の一部なのです。その無限の力の宝庫から必要なものを引き出すことができるのです。いかなる人生の嵐、喧騒、混乱の中にあっても、平然とそれを達観し、永遠にして無限なる霊的存在としての〝あなた自身〟は絶対に惑わされないとの、不敵な信念に燃えないといけません。

困難には正面から取り組んで、それを克服しないといけません。その葛藤の中においてこそ性格が形成され、霊性が磨かれ、真実の自我を発見していくことになるのです。

 霊的真理を手にした私たちには、為すべきことが山ほどあります。今行われている(第二次)世界大戦、大量の肉体の殺し合い、狂気の破壊行為、世界全体を被う悲しみの波動は、これから先、大変な困難を生み出して行くことでしょう。

しかし、戦争は永遠に続くものではありません。いつかは終わります。その時には私達が再びその使命を果たす役目が廻ってきます」


 そして最後に、地球浄化の大事業者に携わっている世界中の指導霊を代表する形で、こう激励した。

 「この事業が成功するかしないかは、皆さんのような地上の道具の忍耐力と共鳴度と理解力に掛っております。私も、これまでずいぶん永い間、みなさんを陰から導いてまいりました。せっかく順調に奉仕の道を歩んでいるのに、ふと迷いが生じて不純な動機を宿した時、私が、皆さんの良心の耳元で囁いて、無事正しい道に引き戻したことが何度あったか知れません。

 長年にわたるそうした苦労の末に、こうして同志の方を一堂に集めることに成功しました。その目的は、地上の人間が大霊の意図したとおりに霊的属性を発揮するにはどういう生き方をすべきかを教えてあげることです。皆さん方から背を向けない限り、私たちはこれからも忍耐強くこの仕事を続けてまいります。

 大霊から授かっている才覚を精一杯発揮して、一人でも多くの人に霊的真理を知らしめるのが、私たちの使命なのです。最初はごく少数の集まりでした。が、その滴のような小さな集まりが小川となり、やがて大河となって海へ注ぐことになるのです。

 スピリチュアリズムと呼ばれている新しい啓示が世界中に知れわたるのに、(十九世紀半ば以来)ほぼ一世紀を要しました。もう一世紀後には、その数は信じられないほど多くなっていることでしょう。皆さんはその先駆者(パイオニア)なのです」

Monday, March 2, 2026

霊訓 「上 」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


9節

本節の内容著者の反論
宗教的夾雑物
贖罪説について
再び著者の反論
署名に十字架を冠する理由
バイブルは人間的産物
字句に絶対性はあらず
神の概念の発達
啓示の信頼性は霊媒の受容度による
バイブルは誤謬だらけ。故に新しい霊的啓示と衝突するのは当然
霊団による思想上の指導方法
十字架の真の意味
キリストの使命と霊団の使命は同一


〔前節に述べられた説にはまるで私に訴えるものが見られなかったので、私はそれが正統派の教会の教説と全く相容れぬものであること、しかも畏れ多くもキリスト教の根本教理の幾つかを侵犯するものであると反論した。そしてあの通信は途中で不純なものが混入しているのではないか、それに私が求めている肝心なものが脱落しているのではないかと述べた。もしあれをもって人生の指針として完璧だと言うのなら、私にはそれに反論する用意があった。すると次のような返答が書かれた。〕


われらが述べたるところは大凡の指針に過ぎぬが、それなりに真実である。ただし全てを尽くしているとは言わぬ。極めて大まかな原則であり、不鮮明なる点、欠落していることが少なからずある。が、本質的には間違ってはおらぬ。確かにそなたが霊的救いにとって絶対不可欠と教え込まれたる教義を多くの点で犯していることは認める。また何の予備知識も持たぬ者には新しき説のように響き、古き信仰形体を破壊するものの如く思われるかも知れぬ。が、実際はそういうものではない。いやしくも宗教的問題を思考する者ならば、先入観に束縛されず、かつ新たな真理探究に怖れを抱きさえしなければ、原則的にはわれらの霊訓を受け入れることが出来るであろう。古き偏見によりて足枷をはめられることさえなければ、全ての人間に薦められるべきものと信ずる。前(さき)にわれらは、先ず夾雑物を取り除かねばならぬと述べた。破邪が顕正に先立つことを述べた。古きもの、不用のものをまず取り払う必要があると述べた。要するに建設のための地ならしをせねばならぬと述べたのである。


――その通りですが、私から観てあなたが取り払おうとされているらしき夾雑物は、実はキリスト教徒が何世紀にも亙って信仰の絶対的基本としてきたものです。


違う。必ずしもそうではない。そなたの言い分にはいささか誇張がある。イエスの地上生活についての記録は極めて不完全である。その記録を見れば、キリスト教会が無理やりに押しつけて来たイエスの位置・立場について、イエス本人は一言も語っておらぬことが判るであろう。真実のイエスはそのイエスの名を冠する教会の説くイエスより遥かにわれらの説くイエスに近き存在であった。


――そんな筈はありません。それに例の贖罪説――あれをどう思われますか。


ある意味では間違ってはいない。われらが許せぬのは神を見下げ果てたる存在――わが子の死によって機嫌を取らねばならぬが如き残忍非情なる暴君に仕立て上げた幼稚きわまる言説である。イエスの名のもとに作り上げた不敬きわまる説話――そのために却ってイエスの生涯の素朴なる偉大さ、その犠牲的生涯の道徳的垂訓を曇らせる結果となった誤れる伝説をわれらが否定したからとて、それはいささかもイエスの偉大さを減ずることにはならぬ。そうしたドグマの発生と、それが絶対的教義として確立され、挙句の果てに、それを否定、あるいは拒絶することが大罪とされるに至れる過程については、いずれ詳しく語る時節も来よう。

もしも神が人間と縁なき存在であり、全てを人間の勝手に任せているのであれば、神がその罪深き人間のために、わが子に大権を委(ゆだ)ねて地上へ派遣した事実を否定することが永遠の火刑もやむを得ぬ大罪とされても致し方ないかも知れぬ。キリスト教会のある教派はイエスの贖罪について絶対的不謬性を主張し、それを受け入れぬ者は生きては迫害、死しては永遠の恥辱と苦痛の刑に処せられると説く。これはキリスト教会においても比較的新しき説である。が、全てのドグマはこうして作られてきた。かくして、人間の理性のみでは神の啓示と人間のこじつけとを見分けることが困難、いや、不可能となる。同時にまた、その夾雑物を取り除かんとする勇気ある者が攻撃の的とされる。いつの時代にもそうであった。われらがより高き視点より人間的夾雑物を指摘し、それを取り除くべく努力したからとて、それが誤れる行為として非難される筋合いはないのである。


――そうかも知れません。しかしキリストの神性と贖罪の信仰は人間が勝手に考え出したドグマとは言えないでしょう。現にあなたも署名の頭にかならず十字を冠しておられます(†Imperator)。私の推測ではあなたも地上では私たちと同じ教義を信じておられたに相違ありません。もう一人の通信者のレクターも同じように署名に十字を冠します(†Rector)。あの方などは絶対とは言いませんが恐らくキリスト教の教義のために死なれた殉教者に相違ありません。その辺に矛盾のようなものを感じるのです。つまり、もしその教義が不要のもの、あるいは真理を履(は)き違えたもの――もしくは完全な誤り――であるとしたら、私はどう結論づけたらよいのでしょうか。あなたは死後ご自身の信仰を変えられたのでしょうか。あるいは、一体あなたは地上でのクリスチャンだったのでしょうか、そうでなかったのでしょうか。もしそうでなかったとしたら、なぜ十字を付けられるのでしょうか。もしクリスチャンだったとしたら、なぜ信仰を変えられたのでしょうか。問題は地上であなたがどういう方であったか、それ一つに関わっています。現在のあなたの言説と地上時代に抱いておられた信仰がどこでどう繋がるのか、そこが判らないのです。おっしゃることは確かに純粋であり、美しい教説だとは思いますが、明らかにキリスト教の教えとは違っています。またどう見ても署名に十字を付ける人が説く教えではありません。少なくとも私にはそう思えるのです。

この苦悶がもしも私の無知ゆえであるならば、どうかその無知を啓発していただきたい。もしも私がただの詮索好きに過ぎぬのなら、それはどうかご寛恕ねがいたい。私にはあなたの言葉と態度以外に判断の拠り所がないのです。私が判断しうるかぎりにおいては、あなたの言説と態度は確かに高潔であり高貴であり、また純粋であり、合理的です。しかしキリスト教的ではありません。現在の私の疑問と苦悶を取り除いてくれるような、納得のいく根拠をお示し願いたいと申し上げるのみです。


いずれ述べるとしよう。この度はこれにて終わりとする。


〔私は真剣に返答を求め、何とかして通信を得ようと努力したが、六月二十日まで何も出なかった。右の通信は十六日に書かれたものである。そしてようやく届いた返答は次のようなものだった。〕


友よ、これよりそなたを悩ませ続けて来た問題について述べるとしよう。十字架がわれらの教えとどう関わるかを知りたいのであろう。それを説くとしよう。

友よ、主イエス・キリストの教えとして今地上にて流布している教えには、主の生涯と使命を表象する、かの十字架に相応(ふさわ)しからぬものが少なからずあるという事実をまず述べたい。各派の狂信家は字句にのみこだわり、意味を疎かにする傾向がある。執筆者一人一人の用語に拘泥し、その教えの全体の流れを疎かにしてきた。真理の探求と言いつつも実はあらかじめ説を立て、その説をこじつけて、それを真理と銘うっているに過ぎぬ。そなたたちの言う聖なる書(バイブル)の解説者をもって任ずる者が、その中より断片的な用語や文句を引用しては勝手な解説を施すために、いつしかその執筆者の意図せぬ意味をもつに至っている。またある者はいささかの真理探究心もなしに、ただ自説を立てるためにのみバイブルより用語や文句を借用する。彼らはそれはそれなりに目的を達するであろう。が、そうすることによりて徐々に、用語や表現の特異性をいじくり回すことにのみ喜悦を覚える者、自説を立てそれをこじつけることをもって佳(よ)しとする者たちによって、一つの体系が作り上げられていく。いずれもバイブルというテキストより、一歩も踏み出せぬことになる。

前(さき)にわれらは、これより説くべく用意している教えは多くの点においてそなたたちのいう神の啓示と真っ向より対立すると述べた。

正統派のキリスト者たちは、一人の神秘的人物――三位一体を構成する一人が一握りの人間の心を捉え、彼らを通じて真理の全てを地上にもたらしたと説く。それが全真理であり、完全であり、永遠なる力を有すると言う。神の教えの全体系がそこにあり、一言一句たりとも削ることを許されず、一言一句たりとも付け加えることも許されぬ。神の語れる言葉そのものであり、神の御心と意志の直接の表現であり、顕在的にも潜在的にも全真理がその語句と言い回しの中に収められていると言う。ダビデ、パウロ、モーセ、ヨハネ、こうした予言者の訓えは神の意志と相通じるものであるのみならず、神の思念そのものであると言う。彼らの言葉は神の裁可を受けたものであると同時に、神自ら選択したものであると言う。要するに、バイブルはその内容においても形体においても神の直接の言葉そのものなのである。英語に訳されたものであっても等しくその一言一句が神の言葉であり、そなたたちが為せる如く細かく分析・解釈するに値するものとする。なぜなら、その翻訳に携われる者も、またその驚異的大事業の完成のために神の命を受けし者であるとしているからである。

かくして単なる用語と表現の上に、かの驚くべき教義と途方もなき結論が打ち出されることになる。無理もないことかも知れぬ。なぜなら、彼らにとりてはその一言一句が人間的謬見に犯されぬ聖なる啓示であるからである。然るにその実彼らの為せることは、己の都合よき文句のみを引用し、不都合なところは無視して勝手なドグマを打ち立てているに過ぎぬ。が、とにかく彼らにとってはバイブルは神の直接の言葉なのである。

他方、こうした考えを潔(いさぎよ)く棄てた者たちがいる。彼らはバイブルの絶対性を打ち砕くことより出発し、ついにたどり着きたるところが他ならぬわれらの説くところと同じ見解である。彼らもバイブルを神の真理を説く聖なる記録として敬意を払うが、同時にそれはその時代に相応しきものが啓示されたものであり、故に今なお現代に相応しき啓示が与えられつつあると観る。バイブルは神と霊の宿命に関する人間の理解の発展過程を示すものとしてこれを読む。無知と野蛮の時代には神はアブラハムの友人であり、テントの入口にて共に食し共に語り合った。次の時代には民族を支配せる士師であり、イスラエル軍の先頭に立って戦いし王であり、幾人かの予言者の託宣によって政治を行なえる僭王であった。それがやがて時代の進歩と共に優しさと愛と父性的慈悲心を具えた存在となっていった。心ある者はこうした流れの中に思想的成長を見出し、その成長は決して終息せぬこと、人間の理解力は真理への渇仰を満たす手段を絶え間なく広げつつあるとの信念にたどり着く。故に真理探求者は少なくともその点についてのわれらの教えを受け入れる備えはある筈である。われらが求めるのはそういう人物である。すでに完璧なる知識を手にしたと自負する者に、われらは言うべき言葉を持たぬ。彼らにとっては先ず神と啓示に関わる問題についての無知を覚(さと)ることが先決である。それなくしては、われらが何を説こうと、彼らは固く閉じ込められた己の無知と自負心とドグマの壁を突き抜けることは出来ぬ。彼らには、これまで彼らの霊的成長を遅らせ未来の霊的進歩の恐ろしき障害となるその信仰の誤りを、苦しみと悲しみの中に思い知らされる外に残された道はない。そなたがこれまでわれらの述べたるところを正しく理解すれば、これより更に一歩進めて、啓示の本質と霊感の特性について述べることにしよう。

われらに言わしむれば、バイブルを構成するところの聖なる書、及びその中に含まれていない他の多くの書はみな、神が人間に啓示する神自身についての知識の段階的発達の記録にすぎぬ。その底流にある原理はみな同じであり一つである。それと同じ原理がこうしたそなたとわれらとの交わりをも支配しているのである。人間に与えられる真理は人間の理解力の及ぶ範囲にかぎられる。いかなる事情のもとであろうと、それを超えたものは与えられぬ。人間に理解し得るだけのもの、その時代の欲求を満たすだけのものが与えられるのである。

さて、その真理は一個の人間を媒体として啓示される。よって、それは大なり小なりその霊媒の思想と見解の混入を免れぬ。と言うよりは、通信霊は必然的に霊媒の精神に宿されたものを材料として使用せざるを得ぬ。つまり所期の目的に副ってその材料に新たな形体を加えるのである。その際、誤りを削り落とし、新たな見解を加えることになるが、元になる材料は霊媒が以前より宿せるものである。したがって通信の純粋性は霊媒の受容性と、通信の送られる際の条件が大いに関わることになる。

バイブルのところどころに執筆者の個性と霊的支配の不完全さと執筆者の見解による脚色のあとが見られるのはそのためである。またそれとは別に、その通信が意図した民族の特殊なる必要性による特有の色彩が見られる。もともとその民族のために意図されたものだったからである。

そうした例ならば幾らでも見出せるであろう。イザヤ(1)がその民に霊の言葉を告げし時、彼はその言葉に己の知性による見解を加え、その民の置かれた当時の特殊な事情に適合させたのであった。申すまでもなく、イザヤの脳裏には唯一絶対の神の観念があった。しかしそれを詩歌と修辞的比喩でもって綴った時、それはエゼキエル(1)がその独特の隠喩的修辞でもって語ったものとは遥かに異なるものとなった。ダニエル(1)にはダニエル独自の神の栄光の心象があった。エレミヤ(1)にはエレミヤを通じて語れる“主”の観念があった。ホセア(1)には神秘的象徴性があった。そのいずれも同じ神エホバを説いたのであり、知り得た通りを説いたのである。が、その説き方が異なっていたのである。

のちの時代の聖なる記録にも同じく執筆者の個性が色濃く残されている。パウロ(2)然り。ペテロ(2)然り。同一の真理を全く異なる角度より観ているのもやむを得ぬことである。真理なるものは二人の人間が異なる観点より各々の手法にて説いたからとて、いささかもその価値を減ずるものではない。相違と言うも、それは霊感の本質にはあらず、その叙述の方法にあるに過ぎぬからである。霊感はすべて神より発せられる。が、受ける霊能者はあくまで人間である。

故に、バイブルを読む者はその中に己自身の心――いかなる気質であれ――の投影を読み取るということにもなる。神についての知識はあまりに狭く、神性についての理解はあまりに乏しい。故に過去の啓示にのみ生き、それ以上に出られず、かつ出る意志も持たぬ者は、バイブルにその程度の心の反映しか見出さぬであろう。彼はバイブルに己の理想を見出さんとする。ところが、どうであろう、その心に映るのは彼と同じ精神的程度の者のための知識のみである。一人の予言者の言葉で満足せぬ時は他の予言者の言葉の中より己の気に入る箇所を選び出し、他を棄て、その断片的知識をつなぎ合わせ、己自身の啓示を作り上げる。

同じことが全ての教派について言えよう。各派がそれぞれの理想を打ち立て、それを立証せんがために、バイブルより都合よき箇所のみを抜き出す。もとより、バイブルの全てをそのまま受け入れらる者は皆無である。何となれば全てが同質のものとは限らぬからである。各自が己の主観にとって都合よき箇所のみを取り出し、それを適当に組み合わせ、それをもって啓示と称する。他の箇所を抜き出した者の啓示と対照してみる時、そこに用語の曲解、原文の解説(と彼らは言うのだが)と注釈、平易なる意味の曖昧化が施され、通信霊も説教者も意図せざる意味に解釈されていることが明らかとなる。かくして折角の霊感が一教派のドグマのための方便と化し、バイブルは好みの武器を取り出す重宝なる兵器庫とされ、神学は誤れる手前勝手な解釈によって都合よく裏付けされた個人的見解となり果てたのである。

そなたは、かくの如くして組み立てられたる独りよがりの神学に照らして、われらの説くところがそれと異なると非難する。確かに異なるであろう。われらはそのような神学とは一切無縁なのである。それはあくまで地上の神学であり、俗世のものである。その神の観念は卑俗かつ低俗である。魂を堕落させ、神の啓示を標榜しつつ、その実、神を冒涜している。さような神学にわれらは何の関わりも持たぬ。神学と矛盾するのは当然至極のことであり、むしろ、こちらより関わり合いを拒否する。その歪める教えを修正し、代わりて神と聖霊についてより真実の、より高尚なる見解を述べることこそわれらの使命なのである。

バイブルより出でし神の観念がかくもそなたたちの間にはびこるに至った今一つの原因は、霊感の不謬性を信じるあまり、その一字一句を大切にしすぎるのみならず、本来霊的な意味を象徴的に表現しているに過ぎぬものを、あまりに字句どおりに解釈しすぎたことにある。人間の理解の及ばぬ観念を伝えるに当たりては、われらは人間の思考形式を借りて表現せざるを得ぬことがある。正直のところ、その表現の選択においてわれらもしばしば誤りを犯す。表現の不適切なるところもある。霊的通信のほとんど全てが象徴性を帯びており、とくに正しき観念に乏しき神の概念を伝えようとすれば、その用語は必然的に不完全であり、不適切であり、往々にして選択を誤れる場合が生ずるのは免れぬ。いずれにせよ、所詮象徴的表現の域を出るものではなく、そのつもりで解釈して貰わねばならぬ。神につきての霊信を字句どおりに解釈するのは愚かである。

さらに留意すべきは、神の啓示はそれを授かる者の理解力の程度に合わせた表現にて授けられるものであり、そのつもりで解釈せねばならぬということである。バイブルをいつの時代にも適用すべき完全な啓示であると決めてかかる人間は一字一句を字句どおりに受けとめ、その結果、誤れる結論を下すことになる。衝動的性格の予言者が想像力旺盛にして熱烈な東方正教会(3)の信者に説き聞かせたる誇張的表現は、彼らには理解できても、思想と言葉を大いに、あるいは完全に異にせる他民族にその字句どおりに説いて聞かせては、あまりに度が過ぎ、真実から外れ、徒に惑わせることになりかねぬ。

神についての誤れる冒涜的概念も多くはそこに起因しているとわれらは観るのである。もともと言語なるものが不備であった。それが霊媒を通過する際に大なり小なり色づけされ、真理からさらに遠く逸(そ)れる。それがわれらが指摘せる如く後世の者によりて字句どおりに解釈され、致命的な誤りとなって定着する。そうなってはもはや神の啓示とは言えぬ。それは神について人間が勝手に拵えたる概念であり、しかも未開人が物神に対して抱ける概念と同じく、彼らにとっては極めて真実味をもつものである。

繰り返すが、そのような概念にわれらは同意できぬ。それどころか、敢えてその誤りを告発するものである。それに代わる、より真実にして、より崇高なる知識を授けることが、われらの使命なのである。またその使命の遂行に当たりては、われらは一つの協調的態勢にて臨む。先ず一人の霊媒に神的真理の一部を授ける。それがその霊媒の精神において彼なりの発達をする。正しく発展する箇所もあれば、誤れる方向へ発展する箇所もある。若き日に培われたる偏見と躾けの影響によって歪められ曇らされる部分もあろう。では、より正しき真理を植えつけるに当たりて、いっそのことその雑草を根こそぎ取り除くべきか。精神より一切の先入観念を払拭すべきか。それはならぬ。われらはそうした手段は取らぬ。万一その手段を取らんとすれば、それには莫大な時間を要し、下手(へた)をすれば、その根気に負けて、霊媒の精神を不毛の状態のまま放置することになりかねぬ。

そのようなことは出来ぬ。われらは既に存在する概念を利用し、それを少しでも真理に近きものに形づくって行くのである。いかなるものにも真理の芽が包蔵されているものである。もしそうでなければ一挙に破壊してもよかろう。が、われらはそうしたささやかな真理の芽に目をつけ、それに成長と発達を与えんとする。われらには人間が大切に思う神学的概念がいかに無価値なるものかがよく判る。が、それもわれらが導く真理の光を当てれば自然崩壊するものと信じて、他の重要なる問題についての知識を提供していく。取り除かねばならぬのは排他的独断主義である。これが何より重大である。単なる個人的見解は、それが無害であるかぎり、われらは敢えて取り合わぬ。

そういう次第であるから、在来の信仰がトゲトゲしさを和らげてはいるものの、それは形の上でのことであり、極めて似た形で残っていることが多々ある。そこで人は言うのである――霊は霊媒自身の信仰を繰り返しているに過ぎぬではないかと。そうではない。今こうしてそなたに述べていることがその何よりの証拠である。確かにわれらは霊媒の精神に以前より存在するものを利用する。が、それに別の形を与え、色調を和らげ、当座の目的に副ったものに適合させる。しかもそれを目立たぬように行なう。そなたの目にその違いが明瞭となるほどの変化を施すのは、その信仰があまりにもドグマ的である時に限られる。

仮にここに神も霊も否定し、目に見え手で触れるものしか存在を認めぬ者がいるとしよう。この唯物主義者が神への信仰を口にし、死後の生活を信ずると言い出せば、そなたはその変わりように目を見張ることであろう。それに引きかえ、人間性が和らげられ、洗練され、純化され、崇高味を増し、また粗野で荒々しき信仰が色調を穏やかなものに塗りかえられていった場合、そなたたちにはその変化が気づかぬであろう。その変化が徐々に行なわれ、かつ微妙だからである。が、われらにとりては着々と重ねたる努力の輝ける成果なのである。荒々しさが和らげられた。頑(かたく)なにして冷酷、かつ陰湿なるところが温められ愛の生命を吹き込まれた。純粋さに磨きがかけられ、崇高さが一層輝きを増し、善性が威力を増した。かくして真理を求める心が神と霊界についてより豊かなる知識を授けられたことになるのである。

人間の見解が頭ごなしに押さえつけられたことはない。それに修辞を施し変化を与えたのみである。その霊的影響力は現実にそなたたちのまわりに存在している。そなたたちは全くそれに気づいておらぬが、霊的使命の中でも最も実感のある有難き仕事なのである。

故に、霊は人間の先入観を繰り返すのみと人が言う時、それはあながち誤りとも言えぬことになる。その見解は害を及ぼさぬものであるかぎり、そのまま使用されているからである。ただ、そうと気づかれぬように修飾を施してある。有害とみたものは取り除き抹消してしまう。

とくに神学上の教義の中でも特殊なるものを取り扱うに当たりては、可能なかぎり除去せずにそれに新しき意義を吹き込むべく努力する。なぜなら、そなたには理解できぬかも知れぬが、信仰というものはそれが霊的にして生命あるものであれば、その形態は大して意味をもたぬものだからである。それ故われらは既に存在する基盤の上に新たなものを築かんとするのである。とは言え、その目的の達成のためには、今も述べた如く真理の芽をとどめている知識、あるいは知性の納得のいくものであるかぎり、大筋においてそのまま保存はするものの、他方において、ぜひ取り除かねばならぬ誤れる知識、あるいは人を誤らせる信仰もまた少なしとせぬ。そこで建設の仕事に先立って破壊の仕事をせねばならぬ。魂にこびり付きたる誤れる垢を拭い落とし、出来うるかぎり正しき真理に磨きをかけ純正なものにする。われらが、その頼りとする人間にまずその者が抱ける信仰の修正を説くのはそのためである。

さて、かく述べれば、すでにそなたには今のそなたの苦悶の謂(いわ)れが判るであろう。われらはそなたが抱ける神学上の見解を根こそぎにしようというのではない。それに修正を加えんとしているのである。振り返ってみるがよい。かつての狭隘なる信仰原理が徐々に包括的かつ合理的なものへと広がってきた過程が判るであろう。われらの指導のもとにそなたは数多くの教派の神学に触れてきた。そうしてその各々に程度こそ違え、真理の芽を見て来た。ただその芽が人間的偏見によりて被い隠されているに過ぎぬ。またキリスト教世界の多くの著書をそなた自ら念入りに読んで来た。そこに様々な形態の信仰を発見してそなた自身の信仰の行き過ぎが是正され、荒々しさが和らげられた。太古の哲学の研究に端を発し、各種の神学体系に至り、そこからそなたに理解し得るものを吸収するまで、実に長き、遅々たる道程であった。

すでに生命を失い、呼吸することなきドグマで固められし東方正教会の硬直化せる教義、人間的用語の一字一句にこだわる盲目的信仰に痛撃を浴びせしドイツの神学者たちによる批判、そなたの母国と教会における高等思想の思索の数々、その高等思想ともキリスト教とも無縁の他の思想の数々――そなたはこうしたものを学び、そなたにとって有用なるものを身につけてきた。長く、そして遅々とした道程ではあったが、われらはこれより更に歩を進め、そなたをいよいよ理想の真理――霊的にして実感に乏しくとも、そなたの学びしものの奥に厳然と存在する真理へと案内したく思う。地上的夾雑物を拭い去り、真実の霊的実在を見せたく思うのである。

まず知ってほしいことは、イエス・キリストの霊的理想は、神との和解だの、贖罪だのという付帯的俗説も含めて、そなたたちが考えているものとは大凡本質を異にするものであるということである。それは恰も古代ヘブライ人が仔牛を彫ってそれを神として崇めた愚かさにも似ていよう。われらはそなたの理解しうるかぎりにおいて、そなたたちが救い主、贖い主、神の子として崇めるイエスの生涯に秘められたる霊的事実を知らしめたく思う。イエスがその地上生活で身をもって示さんとした真の意味を教え、われらが取り除かんとする俗説がいかに愚劣にして卑劣であるかを明らかにしたく思うのである。

そなたはそうしたわれらの訓えがキリストの十字架の印とどう係わりがあるのかと尋ねた。友よ、あの十字架が象徴するところの霊的真理こそ、われらが普及を宣誓するところの根本的真理なのである。己の生命と家庭と地上的幸福を犠牲にしてでも人類に貢献せんとする滅私の愛――これぞ純粋なるキリストの精神であるが、これこそわれらが神の如き心であると宣言するものである。その心こそ卑しさと権力欲、そして身勝手なる驕りが生む怠惰から魂を救い、真実の意味での神の御子とする、真実の救いである。この自己犠牲と愛のみが罪を贖い、神の御心へと近づかしめる。これぞ真実の贖いである! 罪なき御子を犠牲(いけにえ)として怒れる神に和解を求むるのではない。本性を高め、魂を浄化する行為の中にて償い、人間性と神性とがその目的において一体となること(4)――身は地上にありても魂をより一層神に近づけて行くこと――これぞ真実の贖いである。

キリストの使命もその率先垂範にあった。その意味において、キリストは神の顕現の一つであり、神の御子であり、人類の救い主であり、神との調停者であり、贖い主であった。その意味においてわれらはキリストの後継者であり、こののちも引き続きその使命を遂行していく。十字架のもとに働き続ける。キリストの敵――たとえ正統派の旗印とキリストの御名のもとであっても、無明の故に、あるいは強情のゆえにキリストの名を汚す者たちに、われらは敢然と戦いを挑むものである。

ある程度霊的真理に目覚めた者にとりても、われらの説くところには新しく且つ奇異に感じられるところが少なくなかろうと想像される。が、いずれはキリストの真実の訓えがわれらの説くところと本質において一体であるとの認識に到達する時代(とき)が訪れるであろう。その暁には、それまで真実を被い隠せる愚劣かつ世俗的夾雑物は取り払われ、無知の中に崇拝してきたイエスの生涯とその教えの荘厳なる真実の姿を見ることであろう。その時のイエスへの崇敬の念はいささかでも真実味を減ずるどころか、より正しき認識によって裏づけされる。すなわち、われらが印す十字架は不変なる純粋性と人類への滅私の愛の象徴なのである。そなたにその認識を得さしむることこそ、われらの真摯なる願いである。願わくばこれを基準として、われらの使命を裁いてもらいたい。われらは神の使命を帯びて参った。その使命は神の如く崇高であり、神の如く純粋であり、神の如く真実である。人類を地上的俗信の迷いより救い出し、汚れを清め、霊性と神性とに溢れたる雰囲気へと導いて参るであろう。

われらの述べたるところをよく吟味されたい。そうして導きを求めよ。われらでなくともよい。その昔、かのイエスという名の無垢と慈悲と滅私の霊を地上に送りし如く、今われらを地上に送りし神に祈れ!


イエスを今なおわれらは崇める。

その御名をわれらは敬う。

その御ことばをわれらは繰り返す。

その御訓えが再びわれらの中に生き返る。

イエスもわれらも神の使いである。

そしてその御名のもとにわれは参る。

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

  Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze



十章  各界のゲストを招いて

 ハンネン・スワッハー・ホームサークルの招きでシルバーバーチの交霊界に出席した各界の著名人は、これまででも相当な数にのぼる。政治家・芸術家・舞台俳優・動物保護団体のメンバー等々、実に多彩である。本章はそうしたゲストとの問答を特集してみた。

 まずロンドンのフリート街に立ち並ぶ新聞社の一つの主筆で、スピリチュアリズムにも興味を持つジャーナリストが、ある日の交霊会で、思念とインスピレーションの違いについて質問した。それについてシルバーバーチはこう答えた。

 「物質の世界に住んでおられるあなた方は、きわめて創造性の乏しい存在です。よくよくの例外を除いて、まず何一つ創造していないと言ってよろしい。が、基本的には、受信局であると同時に、発進局でもある存在です。

 まず外部から思念が送られてきます。それがいったんあなたという受信局で受け止められ、それに何かが付加されて発信され、それを別の人が受信するという具合です。あなたに届いた時の思念と、あなたから発信される時の思念とは、すでに同じではありません。

あなたの個性によって波動が高められることもあり低められることもあり、美しくなっていることもあり、醜くなっていることもあり、新たに生命力を付加されていることもあり衰弱していることもあります。

 しかし、それとは全く別に、霊的な波動の調整によって、あなたと同じ波動をもつ霊からのインスピレーションを受けることもできます。人間が死んで私たちの世界へ来ます。

その時、精神と魂に宿されているものは何一つ失われることはありません。それは霊的にして永遠であり、霊的にして永遠なるものは絶対に消滅することはないからです。その魂と精神に宿された資質はその後も成長し、拡大し、発達し、成熟してまいります。

 そうした霊性を宿しているからこそ、こちらへ来てしばらくすると、地上の人間のために何か役立つことをしたいと思うようになるわけです。そして、やがて自分と同質の人間を見出します。あるいは見出そうと努力しはじめます。

 地上で詩人だった人は詩人を探すでしょう。音楽家だった人は音楽家を探すでしょう。そして、死後に身につけたものを全てを惜しげもなく授けようとします。問題は波長の調整です。インスピレーションが一瞬の間の体験でしかないのは、私たちの側が悪いのではありません。

二つの世界の関係を支配している法則が完全に理解されれば───言いかえれば、地上の人間が霊界の自由な交信の障害となる偏見や迷信を取り除いてくれれば、無限の叡智が人間を通してふんだんに流れ込むことでしょう。

 要は、私たちの側から発信するものを受信する道具がなければならないこと、そしてその道具がどこまで高い波動の通信を受け取れるかという、性能の問題です。すべてのインスピレーション、すべての叡智、すべての真理、すべての知識は、人間側の受信能力に掛っております」


───それだけお聞きしてもまだ、なぜインスピレーションというものが一瞬のひらめきで伝わるのかが理解できません。

 「その瞬間、あなたの波長が整って、通信網に反応するからです」
 と答えた後、そういう思念が霊界からのものか地上の人間からのものかの区別の仕方について質問されて、こう述べた。

 「両者をはっきり選別することはとても困難です。思念には、地上の人間の発したものが地上の他の人間によって受け取られることもありますが、霊界からのものもあります。

思念は常に循環しております。そのうちのあるものが同質の性格の人に引き寄せられます。これはひっきりなしに行われていることです。

 しかしインスピレーションは、霊界の者が、ある共通の性質、関心あるいは衝動を覚えて、自分がすでに成就したものを地上の人間に伝えようとする、はっきりとした目的意識をもった行為です。地上の音楽や詩、小説、絵画の多くは、実質的には霊界で創作されたものです」


───天才をどう説明されますか。

 「まず理解していただきたいのは、大自然または法則───どう呼ばれても構いません───は、決して真っすぐの一本の線のように向上するようには出来ていないことです。

さまざまな変異・循環・螺旋を描きながら進化しています。全体からみれば、アメーバ―から霊にいたる段階的進化がはっきりしておりますが、その中にあって、時たま一足跳びに進化するものと後退するものとが出てきます。先駆けと後戻りが常に存在します。天才はその先駆けに当たります。

これから何十世紀あるいは何百世紀かのちには、地上の全人類が、程度の差こそあれ、今の天才と同じ段階まで発達します。天才は言わば人類進化の前衛です」


───現在地上で行われている進化論と大分違うようですが・・・・・・

 「私の見解はどうしても地上の説とは違ってきます。皆さん方はどうしても物的観点から問題を考察せざるを得ません。物的世界に生活し、食糧だの衣服だの住居だのといった俗世の問題を抱えておられるからです。

そうした日々の生活の本質そのものが、その身を置いている物的世界へ関心を向けさせるようになっているのです。

日常の問題を永遠の視点から考えろと言われても、それは容易にできることではありません。が、私たちから見れば、あなた方も同じ霊的存在なのです。いつ果てるともない進化の道を歩む巡礼者である点では同じです。

 いま生活しておられるこの地上が永遠の住処でないことは明白です。これから先の永遠の道程を思えば、地上生活などホンの一瞬の出来事でしかありません。私たちの視界は焦点が広いのです。皆さんからお受けする質問も、霊的真理に照らしてお答えしております。

その真理が人間生活においてどんな価値を持つか、どうやって他の同胞へ役たてるべきか、どんな役に立つかといった点を考慮しながらです。

 これまでの私は、私の説く真理が単純素朴なものであること、唯一の宗教は人の為に自分を役たてることであることを、皆さんもいい加減うんざりなさるのではないかと思うほど、繰り返し述べてきました。私たちの真理の捉え方が地上の常識と違う以上、そうせざるを得ないのです。

 大半の人間は、地上だけが人間が住む世界だと考えております。現在の生活が人間生活のすべてであると思い込み、そこで物的なものを、いずれは死んで残して行かねばならないものなのに、せっせと蓄積しようとします。

戦争・流血・悲劇・病気の数々も、元はといえば、人間がこの時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。人間は肉体を通して自我を表現している霊魂なのです。

それが地上という物質の世界での生活を通じて魂を成長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです」


 このシルバーバーチの言葉がきっかけとなって、サークルのメンバーの間で〝進化〟についての議論がひとしきり花が咲いた。それを聞いていたシルバーバーチは、やおら次のような見解を述べた。

 「人間はすべて、宇宙の大霊の一部、言いかえれば無限の創造活動の一翼を担っているということです。一人ひとりがその一分子として進化の法則の働きを決定づけるということです。

霊としての真価を発揮していく階梯の一部を構成しているのです。霊は、自我意識が発現しはじめた瞬間から存在し、その時点から霊的進化が始まったのです。身体的に見れば人類は、事実上、進化の頂点に達しました。が、霊的にはまだまだ先は延々と続きます」


 別の日の交霊会に、世界的に名の知れた小説家が出席した。シルバーバーチが出る前に、地上で世界的に有名だった人物で今ではシルバーバーチ霊団のメンバーとして活躍している複数の霊がバーバネルの口を借りて挨拶し、それに応えてサークルのメンバーが挨拶を介している様子を、その小説家は黙って見つめていた。

やがてシルバーバーチが出現して、その小説家に向かって

 「私には、あなたが今日はじめての方とは思えません。実質的に霊力に無縁の方ではないからです」
 と述べてから、更にこう続けた。

 「あなたの場合は意識的に霊力を使っておられるのではありません。あなたご自身の内部で表現を求める叫び、使ってほしがっている単語、原語で表現してほしがっているアイディア、湧き出てきてあなたを包み込もうとする美、時として困惑させられる不思議な世界、そうしたものが存在することを知っている人間が持つ、内的な天賦の才能です。違いますか?」


───全くおっしゃる通りです。

 「しかし同時に、これは多くの方に申し上げていることですが、ふと思いに耽り、人生の背後でうごめいているものに思いを馳せ、いかにして、なぜ、いずこへ、といった避け難い人生の問題に対する回答をみずから問うた時、宿命的とも言えるいきさつで道が開けてきました。お若い頃からそうであったはずですが、いかがですか?」


───その通りです。

 「私たちは方法は何であれ、自分の住む世の中を豊かにし、美と喜びで満たし、いかなる形にせよ慰めをもたらす人を、誇りをもって歓迎いたします。しかし、あなたは、これまでになさったことより、まだまだ立派なことがお出来になります。お分かりでしょうか? 」


───ぜひ知りたいものですね

 「でも、何となくお感じになっておられるのではありませんか?」


───(力強い口調で)感じております。

 ここでシルバーバーチがサークルのメンバーの一人に向かって

 「この方は霊能をお持ちです」
と言うと、そのメンバーも 「そのようですね。霊眼をお持ちです」 と相づちを打った。


 するとシルバーバーチは
 「しかしこの方の霊能は、まだ鍛錬がなされておりません。純粋に生まれつきのものです」

 と述べてから、今度はその小説家の方へ顔を向けて

 「あなたは陰から指導している複数の霊の存在にお気づきですか。あなたが感じておられるより、はるかに多くの援助をしてくれているのですよ」

 といった、すると別のメンバーが、その小説家がこれからするべきことは何かを訊ねた。

 「それは、これまでなさってきたことより、はるかに大きな仕事です。そのうち自然に発展していきます。すでにその雰囲気がこの方の存在に充満しておりますから、多分ご自分でも気づいておられるはずです。じっとしていられないことがあるはずです。私が言わんとしていることがお分かりでしょう?」


───非常によく分かります。

 「次に申し上げることをよく理解しておいてください。他のすべての人間と同じく、あなたも、その小さな身体に大きな魂を宿しておられるということです。ぎこちない大ざっぱな言い方をしましたが、あなたという存在は、肉体という、魂の媒体としては痛ましいほど不適当な身体を通して表現せざるをえないということです。

 あなたの真の自我、真の実在、不滅の存在であるところの魂に宿る全能力───芸術的素質・霊的能力・知的能力のすべてを顕現させるにつれて、その分だけ、身体による束縛から逃れることになります。魂そのものは本来は物質を超越した存在ですから、

たとえ一時的には物質の中に閉じ込められても、そのうち、鍛錬や養成をしなくても、無意識のうちに物質を征服し優位を得ようと、あらゆる手段を試みるようになります。

 それが今まさに、あなたの身の上に起きつつあるわけです。インスピレーション・精神的活動・目に見えない側面の全てが一気に束縛を押し破り、あなたの存在に流入し、あなたはそれに抗しきれなくなっておられる。私の言っていることがお分かりでしょうね?」


───非常によく分かります。

 しかし同時に、あなたは私たちの世界の存在によって援助されております。すでに肉体の束縛から解放された人たちです。その人たちは情愛によってあなたと結ばれております愛こそ宇宙最大の絆なのです。愛は、自然の成り行きで愛する者同士を結び付け、いかなる力も、いかなるエネルギーも、その愛を裂くことはできません。

愛がもたらすことのできる豊かさと温もりのすべてをたずさえてあなたを愛している人たちは、肉体に宿るあなたには理解できない範囲で、あなたのためにいろいろと援助してくれております。

 しかし、それとは別に、そうした情愛・血縁・家族で結ばれた人々よりも霊性においてはるかに高級な霊が、共通の関心と、共通の目的意識をもって、あなたのために働いてくれております。

今ここで簡単には説明できないほど援助してきており、これからのち、条件さえ整えば、存在をあなたに知らしめることもあり得るでしょう」


───ぜひ知らせてほしいものです。それに、そうした背後霊の皆さんに、私からの感謝の気持ちを伝えていただけますでしょうか。

 「もう聞こえていますよ。今日私からぜひあなたにお授けしたいのは、あなたのまわりに存在する霊力の身近さについての認識です。私は皆さんから見て、古い霊です。

私にも為し得る仕事があることを知り、わずかですが、私が摂取した知識が地上の人々にお役に立てばと思って、こうして戻ってまいりました。

 すでに大勢の友、その知識を広めるために私の手足となってくれる同僚をたくさん見いだしております。本日も出席しているバリッシュ (心霊治療家) のように特殊な使命を帯び、犠牲と奉仕の記念碑を打ち立てている者もいます。

 しかし、すべての同志が、自分が使用されていることを意識しているわけではありません。でも、そんな人たちでも、時たま、ほんの一瞬に過ぎませんが、何とも言えない内的な高揚を覚え、何か崇高な目的の成就のために自分も一翼を担っていることを自覚することがあるはずです」

 
 別の日の交霊会に米国人ジャーナリストが招かれた。そして最初に出した質問が「霊界というのはどんなところでしょうか」という、極めて基本的なものだった。

その時レギラーメンバーの一人が「この方は心霊研究家 ※」とお呼びしてもよいほどの方ですよ。と言ったことが、次のようなユーモラスな答えを引き出すことになった。


 ※───ここでは心霊学にくわしい人といった程度の意味で言ったのであろう。その心霊学は心霊現象の科学的研究を目的としているだけで、霊魂説も幾つかの学説の中の一つとして扱われているだけである。その点を念頭に置いて、シルバーバーチがその学説を並べ立てて皮肉っぽく答えているところがユーモラスである───訳者。



 「この私は、地上の人たちから〝死んだ〟と思われている一人です。存在しないことになっているのです。私は、本日ここにお集まりの方々による集団的幻影にすぎません。私は、霊媒の潜在意識の産物なのだそうです。霊媒の第二人格であり、二重人格であり、分離人格ということになっております。

 こうした用語のどれをお使いになっても結構ですが、私もあなたと同じ、一個の人間的存在です。ただ私は、今あなた方が使っておられる」肉体を随分前に棄ててしまいました。

あなたとの違いは、ただそれだけです。あなたは物的身体を通して自我を表現しているスピリットであり、私は霊的身体を通して表現しているスピリットであるということです。

 私はほぼ三千年前に霊の世界へまいりました。つまり三千年前に〝死んだ〟のです。三千年というと、あなた方には大変な年数に思えるかもしれませんが、永遠の時の流れを考えると、わずかなものです。その間に私も、少しばかり勉強しました。

霊の世界へ来て、神からの授かりものである資質を発揮していくと、地上と同じ進化の法則に従って進歩していきます。霊的な界層を一段また一段と向上してまいります。

 〝界層〟という言い方をしましたが、一つ一つが仕切られているわけではありません。霊的な程度の差であり、それぞれの段階には、その環境条件にふさわしい者が存在するということです。

霊的に進化向上していくと、それまでの界層を後にして、次の、一段と高い界層へ融合していきます。それは階段が限りなく続く長い長い、一本のはしごのようなものです。

 そう考えていけば、何百年、あるいは何千年か後には物質界からはるか遠く離れていき、二度と接触する気持ちが起きなくなる段階に至ることは、あなた方にも理解できるでしょう。所詮、地上というところは、大して魅力のある世界ではないのです。

地上の住民から発せられる思念が充満している大気には、およそ崇高なものは見られません。腐敗と堕落の雰囲気が大半を占めております。人間の生活全体を暗い影がおおい、霊の光が届くのは、ほんの少数の人に限られております。

 一度あなたも、私と同じように、経済問題の生じない世界、お金が何の価値ももたない世界、物的財産が何の役にも立たない世界、各自があるがままの姿がさらけ出される世界、唯一の富が霊的な豊かさである世界、唯一の所有物が個性の強さである世界、生存競争も略奪も既得権力も無く、弱者が窮地に追いやられることもなく、

内在する霊的能力が、それまでは居眠りをしていても、存分に発揮されるようになる世界に住まわれたら、地上という世界がいかにむさ苦しく、いかに魅力の乏しい世界であるかが分かっていただけると思います。

 その地上世界を何とかしなければならない───私のようにまだ地上圏に戻ることのできるスピリットが援助し、これまでに身につけた霊的法則について幾らかでも教えてあげる必要があることを私は他の幾人かの仲間と共に聞かされたのです。

人生に迷い、生きることに疲れ果てている人類に進むべき方向を示唆し、魂を鼓舞し、悪戦苦闘している難題の解決策を見出させてあげるには、それしかないことを聞かされたのです。

 同時に私たちは、そのために必要とする力、人類の魂を鼓舞するための霊力を授けてくださることも聞かされました。しかし又、それが大変な難事業であること、この仕事を快く思わぬ連中、それも宗教組織内の、そのまた高い地位にある者による反抗に遭遇するであろうことも言い聞かされました。

悪魔の密使とみなされ、人類を邪悪の道へ誘い、迷い込ませんとする悪霊であると決めつけられるであろうとの警告も受けました。

 要するに、私たちの仕事は容易ならざる大事業であること、そして、ついでに付け加えさせていただけば、その成就のためにはそれまでの永い年月の中で体験してきた霊界生活での喜びも美しさも、すべてお預けにされてしまうということでした。

が、そう言い聞かされてこれを断った者は、私たちのうちの誰一人としていませんでした。かくして私たちは、他の仲間と共に地上へ戻ってまいりました。再生するのではありません。地上界の圏内で仕事をするためです。

 地上圏へ来てからのまず第一の仕事は、霊媒となるべき人物を探すことでした。これは、どの霊団にとっても一ばん骨の折れる仕事です。次に、あなたがたの言語(英語)を勉強し、生活習慣も知らねばなりませんでした。あなた方西洋人の文明も理解する必要がありました。

 続いてこの霊媒の使用法を練習しなければなりませんでした。この霊媒の口を借りて、幾つかの訓え───誰にでも分かる簡単なもので、したがってみんなが理解すれば地上が、一変するはずの真理───を説くためです。

 同時に私は、そうやって地上圏で働きながら、私を派遣してくれた高級霊たちと連絡を保ち、より立派な叡智、より立派な知識、より立派な情報を私が代弁してあげなければならなかったのです。初めのころは大いに苦労しました。今でも決して楽ではありませんが・・・・・・

 そのうち私の働きかけに同調してくれるものが次第に増えてまいりました。すべての人が同調してくれたわけではありません。居眠りしたままの方を好む者も大勢いました。

自分で築いた小さな牢獄にいる方を好む者もいました。その方が安全と考えたわけです。自由へ解放された後のことを恐れたのです。

 が、そうした中にも、そこここに、分かってくれる人を見出しました。私からのご利益は何もありません。ただ、真理と理性と常識と素朴さ、それに、近づいてくれる人の為をのみ考える、かなり年季の入った先輩霊としての真心をお持ちしただけです。

 その後は、私たちの仕事は順調に運び、多くの人々の魂に感動を与えてまいりました。無知の暗闇から抜け出た人が大勢います。自由の旗印のもとに、喜んで馳せ参じた人が大勢います。〝死〟の目的と〝生〟の意味を理解することによって、二度と涙を流さなくなった人が大勢います」


───魂は母体に宿った時から存在が始まるのでしょうか。それともそれ以前にも存在(前世)があるのでしょうか。

 「これは又、厄介な問題に触れる質問をしてくださいましたね。私は自分でこう思うということしか述べるわけにはまいりません。私はいつも人間の理性と思慮分別に訴えております。

もしも私の述べることが皆さんの理性を反発させ、知性を侮辱し、そんなことを認めるわけにはいかないとおっしゃるのであれば、どうぞ聞き捨てて下さい。拒絶していただいて結構です。

拒絶されたからといって私は少しも気を悪くすることはありません。腹も立てません。皆さんへの愛の気持ちに変わりはありません。

 ここにおいでのスワッファーも、相変わらず考えを改めようとしない者の一人です。他の者はみんな私の口車に乗って(?)前世の存在を信じるようになってくれているのですが・・・・・・

 私の知るかぎりで言えば、前世はあります。つまり生まれ変わりはあるということで、その多くは、はっきりとした目的を持つ自発的なものです」

 これを聞いたスハッファーが

 「私は再生の事実を否定したことはありませんよ。私はただ魂の成長にとって再生が必須であるという意見に反対しているだけです」

と不服そうに言うとシルバーバーチが

 「これはうれしいことを聞きました。あなたも私の味方というわけですな。全面的ではなくても・・・・・・」

と皮肉っぽく言う。するとスワッファーが言い返す。

 「あなたは、私も今生に再生してきているとおっしゃったことがあるじゃないですか。私はただ、再生に法則はないと言っているだけです」

これを聞いたシルバーバーチが穏やかにそれを否定して言う。

 「何かが発生する時、それは必ず法則に従っております。自発的な再生であっても法則があるから可能なのです。ここでいう法則とは、地上への再生を支配する法則のことです。この全大宇宙に存在するものは、いかに小さなものでも、いかに大きなものでも、すべて法則によって支配されているというのが私の持論です」


ここで米人ジャーナリストが関連質問をした。

───人間にとって時間が理解しにくいことが再生問題を理解しにくくしているというのは事実でしょうか。


 「例によって、私なりの観点からご説明しましよう。実は、あなたはあなたご自身をご存じないのです。あなたは物質界へ一度も顔を出したことのない側面があるのですが、あなたはそれにお気づきになりません。

物的身体を通して知覚した、ごくごく小さな一部分しか意識しておられません。が、本当のあなたは、その身体を通して顕現しているものより、はるかに大きいのです。

 ご存じの通り、あなたはその身体そのものではありません。あなたは身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではありません。

その証拠に、あなたの意識はその身体を離れて存在することが出来ます。たとえば睡眠中がそうです。ただし、その間の記憶は物的脳髄の限界のために意識されません。

 結局あなた方が意識できる自我は、物質界に顕現している部分だけということになります。他の、より大きい部分は、それなりの開発の過程をへて意識できるようにならないかぎり、ごく稀に、特殊な体験の中で瞬間的に顔をのぞかせるだけです。一般的に言えば、大部分の人間は死のベールをくぐり抜けて初めて真の自我を知ることになります。

 以上があなたのご質問に対する私の回答です。今あなたが物的脳髄を通して表現しておられる意識は、それなりの開発法を講ずるか、それともその身体を棄て去るかのいずれかでないかぎり、より真実に近いあなたを認識することはできないということです」


───この地上には、あなたの世界に存在しない邪悪なものが溢れているとおっしゃいますが、なぜそういう邪と悪とが存在するのでしょうか。

 「権力の座にある者たちのわがままが原因となって生じる悪と邪───私は〝無明〟という言葉の方が好きですが───、それと、人類の進化の未熟さゆえに生じる悪と邪とは、はっきりと区別する必要があります。

 地上の邪と悪には、貧民(スラム)街ができるような社会体制の方が得をする者たち、儲けることしか考えない者たち、私腹を肥やす為なら同胞がどうなろうと構わない者たちといった、現体制下の受益者層の存在が原因となって発生しているものが実に多いことを知らねばなりません。そうした卑劣な人種がのめり込んでしまった薄汚い社会環境があるということです。

 しかし、他方において忘れてならないのは、人間は無限の可能性を秘めていること、人生は常に闇黒から光明へ、下層から上層へ、弱小から強大へ向けての闘争であり、進化の道程を絶え間なく向上して行くものであるということです。闘争もなく困難もなければ、霊にとって征服すべきものが何もないことになります。

 人間には神の無限の属性が宿されてはいますが、それが発揮されるのは、努力による開発を通してしかありません。その開発の過程は黄金の採取と同じです。粉砕し、精錬し、磨きあげなければなりません。地上にも、いつかは邪悪の要素が大幅に取り除かれる時が来るでしょう。

しかし、改善の可能性が無くなる段階は決して来ません。なぜなら、人間は内的神性を自覚すればするほど、昨日の水準では満足できなくなり、明日の水準を一段高いところにセットするようになるものだからです」

℘190
───イエスの山上の垂訓にある〝黄金律〟(人からしてもらいたいと思うことを人にしてあげなさい) は〝適者生存〟の原理と、時として矛盾することがあるように思えるのですが・・・・・・

 「私は進化の法則を、無慈悲なものほど強く生き残るという意味での “適者生存〟 と解釈することには賛成できません。適者生存の本当の意味は、生き残るための適応性を具えた者が存在する、ということです。言い換えれば、存続するための適性を発揮した者が生き残るということです。

 注目していただきたいのは、生き残っている動物を観察してみると、それが生き残れたのは残虐性の性でもなく適者だったからでもなく、進化の法則に順応したからであることが明らかなのです。

もしも適者のみが生き残ったとすると、なぜ有史以前の動物は死滅したかといいう疑問が生じます。その当時はいちばん強い生物だったはずですが、生き残れませんでした。

 進化の法則とは成長の法則の一つです。ひたすらに発展していくという法則です。他の生命との協調と互助の法則です。つまるところ、イエスの黄金律に帰着します」


〝偶然〟の要素について質問さされて───

 「世の中が偶然によって動かされることはありません。どちらを向いても───天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、顕微鏡で極小の生物を検査しても───そこには必ず不変不滅の自然法則が存在します。

あなたも偶然に生まれてきたのではありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした秩序の世界には、偶然の要素の入る余地はありません。

 全生命を創造した力は、その支配のために、規則ないしは法則、あるいは摂理というものを用意したのです。その背景としての叡智も機構も完璧です。すべては霊的なものです。

すべての生命は霊的存在だからです。生命が維持されるのは、その本質が物質ではなく霊だからです。霊は生命であり、生命は霊です。

 生命が意識を持った形態を取る時、そこには個としての霊が存在することになります。そこが動物と異なるところです。人間は個別化された霊、つまり大霊の一分霊なのです。

 人生には個人としての生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応をしたり逆らったりしながら生きております。

逆らえば、そこに暗黒と病気、困難と混乱と破産、悲劇と流血が生じます。順応した生活を送れば、叡智と知識と理解力と真実と正義と公正と平和がもたらされます。それが黄金律の真意です。

 人間はロボットではありません。一定の枠組みの中での自由意思が与えられているのです。決断は自分で下さないといけません。個人の場合でも国家の場合でも同じです。摂理に適った生き方をしている人、黄金律を生活の規範として生きている人は、大自然から、そして宇宙から、よい報いを受けます」


 続いて〝汝の敵〟に対する態度のあり方について、こう説いている。

 「私から見れば、どの人間もみな〝肉体を携えたスピリット〟です。私の目にはドイツ人もイギリス人もアメリカ人もありません。みんなスピリットであり、大霊の一部であり、神の子です。

 時には対症療法としてやむを得ず〝罰〟を与えねばならないこともあるでしょうが、すでに述べたとおり、新しい世界は憎しみや復讐心からは生まれません。

全ての人類のためを思う心からしか生まれません。復讐を叫ぶ者、目には目を、歯には歯をの考えを持つ者は、将来の戦争の種を蒔いていることになります。

 全ての人間には生きる場が与えられております。理性と常識とによって問題を解決していけば、全ての者に必要なものが行きわたるはずです。そう申し上げるより説明のしようがありません。

 あなたの国(米国)はなぜあの短い期間にあれだけの進歩を成し遂げたか。それは一語に尽きます───寛容心です。英国が永い歴史の中で発展してきたのも、寛容心があったからこそです。

米国は人種問題、国籍問題、宗教問題を解決してまいりました。その歴史を通じて、全ての人種にそれぞれの存在価値があること、人種が増えるということは、いずれは優れた国民を生むことになることを学んできました。

 今あなた方の国民が体験していることは、やがて全世界が体験することになります。米国は、世界問題解決のミニチュア版のようなものです。たとえば、あなたの存在を分析してみても、遺伝的要素の一つ一つは確認できないでしょう。

それと同じで、米国は雑多な人種から構成されておりますが、その一つ一つが存在意識を持っており、雑多であるが故に粗末になるということはありません。逆に、豊かさを増すのです。

 成長の途上においては、新しい要素の付加と蓄積とがひっきりなしに行われ、その結果として最良のものが出来上ります。

それは自然と言うものが新しい力、新しい要素の絶え間ない付加によって繁栄しているものだからです。限りない変化が最高の質を生み出すのです。大自然の営みは、いっときの休みもない行進です」


 その日のもう一人のゲストに、ポーランドの役人がいた、そしてまず最初に次のような質問をした。


───霊界の美しさを味わうことができるのは、地上で美しさを味わうことができた者に限られるというのは本当でしょうか。

 「そんなことはありません。それでは不公平でしょう。地上には真の美的観賞力を養成するための施設がないのですから、数知れぬ人が美しさを味わえないことになってしまいます。

霊の世界は償いの世界であると同時に、埋め合わせの世界でもあります。地上世界では得られなかったものが補われて、バランスを取り戻すのです」


 これを聞いてメンバーの一人が───


───今の方の質問の背景には、人間が死ぬ時はこの世で培ったものを携えていくという事実があるように思うのですが・・・・・・


 「地上の人間は、無限の精神のほんの一部を表現しているにすぎないことを銘記しないといけません。それを表現する窓が五つ(五感のこと)しかありません。それも至ってお粗末です。

 それが肉体から解放されると、表現の範囲が飛躍的に大きくなります。精神がその本領を発揮しはじめます。表現器官の性能がよくなるからです。

霊界にはあらゆる美が存在しますが、それを味わう能力は、霊性の発達の程度いかんに掛っています。二人の人間に同じ光景を見せても、一人はその中に豊かさと驚異を発見し、もう一人は何も発見しないということもあり得ます。

 それにもう一つ別の種類の美───魂の美、精神の美、霊の美があり、その美しさの中に、永遠不変のものが有する喜びを味わうことができます。

充実した精神───思考力に富み、内省的で人生の奥義を理解出来る精神には、一種の気高さと美しさがあるものです。それは、その種のものとは縁遠い人、従って説明しようにも説明出来ない者には、見られないのです」

℘196
───美の観賞力を養う最良の方法は何でしょうか。

 「それも、大体において、各個人の霊的発達の問題です。適切な教育が全ての人に等しく利用できることを前提として言えば、美を求める心は、魂の発達とともに自然に芽生えてくるものです。

価値観が高まれば高まるほど、精神が成長すればするほど、醜い、卑劣な環境に不快感を抱くようになるものです。波長が合わなくなるからです。自分の置かれた環境をより美しくしたいと思い始めたら、それは進化と成長の兆しであると思ってよろしい。

 地上界をより美しくしようとする人間の努力は、魂が成長していく無意識の発現です。それは同時に、無限の宇宙の創造活動へ寄与していることでもあります。神は人間に、あらゆる材料を提供して下さっております。その多くは未完の状態のままです。

そして、地上のすみずみにまで美をもたらすには、魂・精神・理性・知性・成長の全てを注ぎ込まねばなりません。

最後は何事も個人単位の問題であり、各自の成長に帰着します。霊性が開発すればするほど、進化すればするほど、それだけ神の属性を発現することになり、それだけ一層、美を求めるようになります。私がつねづね霊的知識のもつ道徳的ないし倫理的価値を強調するのはそのためです。

貧民(スラム)街が存在してならないのは、神性を宿す者がそんな不潔な環境に住まうべきではないからです。飢餓がいけないのは、神性を宿す肉体が飢えに苦しむようであってはならないからです。

悪がすべていけないのは、それが内部の神性の発現を妨げるからです。真の美は、物質的、精神的、霊的のすべての面において、真の調和がいきわたることを意味します」


───美的観念を植えつけるにはどうしたらよいでしょうか。

 「個々の魂が自ら成長しようとすることが必須条件です。外部からありとあらゆる条件を整えてあげても、本人の魂が成長を望まなければ、あなたにも為す術がありません。

ですから、あなたに出来ることは霊的知識を広めることによって無知をなくし、頑迷な信仰をなくし、偏見をなくしていくことです。とにかく、知識のタネを蒔くのです。

時にはそれが石ころだけの土地に落ちることもあるでしょう。が、根づきやすい土地も至るところにあります。蒔いたタネはきっと芽を出します。

 私たちの仕事は、真理の光を可能な限り広く行きわたらせることです。その光は徐々に世界中を照らすようになり、人間が自分たちの環境を大霊の分子、すなわち神の子が住まうにふさわしいところにしようと望めば、迷信という名の暗闇のすべて、醜さと卑劣さを生み出すものすべてが改善されていくことでしょう」