Wednesday, June 10, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


第20章 最後に来た労働者たち

一、天の国とは、自分のブドウ園で働く労働者たちを雇いに、朝早く出かけたある家の主人と同じである。彼は、労働者一人につき、一日一デナリオを支払うことを取り決めると、ぶどう園へ行くように言った。九時頃になって再び出て行くと、広場でなにもせず会話をしている者たちをみつけた。

彼らに言った、「あなたたちも私のぶどう園へいけば、それに見合う賃金を支払いましょう」。彼らは行った。

十二時頃と三時頃にも再び出て行き、同じことをした。五時頃になり、再び出て行くと、また暇そうにしている者たちを見つけたので、次のように言った。

「なぜ、あなたたちは、働かずに一日中ここにいたのですか」。彼らは自分たちを誰も雇ってくれなかったのだと言った。するとその者たちに言った、「あなたたちも私のぶどう園へ行きなさい」。

 夕方になると、ぶどう園の主人はその仕事を監督していた者に言った、「労働者たちを呼び、最後に来た者から順番に、最初に来た者にまでわたるように賃金を支払いなさい」。そして五時に来た者たちがきて、一人一デナリオを受け取った。

最初に雇われた者たちの順番が来ると、より多く貰えるだろうと思い込んでいたにも関わらず、受け取ったのは一人一デナリオだけだった。

受け取ると、主人に対して不満を言った、「最後に来た者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日中、暑さと重さに耐えた私たちと同じだけ支払うのですか」。

 しかし、主人は答えて彼らに言った。「友よ、私はあなたに対してどんな損も与えていない。あなたは私と、一日一デナリオという取り決めをしたではありませんか。自分に与えられた賃金を受け取り、行きなさい。最後に来た者にも、私はあなたと同じだけ与えたいのです。

自分のものを自分が望むようにしてはいけないのですか。それとも、私が善いことを妬ましく思うのですか」。このように、最後の者が最初になり、最初の者は最後になるのです。なぜなら、呼ばれる者は多いが、選ばれる者は少ないからです。(→第十八章 1 結婚披露宴のたとえ話)。(マタイ第二十章 1-16)
  
  



   霊たちからの指導

  最後の者が最初になる
二、最後に来た労働者に報酬を受ける権利はありますが、雇ってくれる者の為に働く意欲を抱いている必要があり、また怠惰や意欲が低いために遅れてきたのであってはいけません。

なぜ報酬を受ける権利があるかと言えば、夜明けから、彼を仕事に呼んでくれる人が来るのを首を長くして待っていたからです。働き者でありながら、仕事が不足していたのです。

 しかし、「私たちは辛抱強い。休息は私に心地よい。ギリギリになってその日の報酬のことを考えればよい。私が知りもしなければ尊敬もしない雇い主にどうして迷惑をかける必要があるのか。

より遅くなってから働けばよい」と言って、もしその日の早い時間に働くことを拒否していたとしたらどうでしょうか。友よ、このような者には労働者としての報酬はなく、怠惰な者にふさわしい報酬しかなかったでしょう。

 では、働かずにいるばかりか、労働に当てられるべき時間をくだらないことに使い、神を冒涜し、兄弟の血を流し、家族に動揺を与え、その人に託されたものを破壊し、無実の者につけ込み、ついには、人類のあらゆる不名誉を増大させてしまった者達にはなんと言えばよいでしょうか。

また、次のような者はどうでしょうか。最後の時がやってきてから、「主よ、私の時間を無駄にしてしまいました。私を一日が終わるまで雇って下さい。

そうすればほんの少しではありますが、私は自分の任務を果たすことができるので、やる気のある労働者の報酬をお与えください」。いけません。それではいけません。主はこう言うでしょう。「今あなたに与える仕事はない。あなたは自分の時間を浪費しました。

学んだことを忘れたのです。もうあなたは私のぶどう園では働けません。だから意欲のある時に学ぶことを再開し、私に申しでてください。そうすれば、あなたが一日のいつの時間でも働けるよう、私の広い農地をあなたに解放します」。

 愛する善きスピリティストたちよ。あなたたちはみな、最後に来た労働者です。「私は夜明けから働いているのだし、日が暮れれば仕事を終えるまでだ」という人は自尊心の強い人です。皆が呼ばれた時にやって来たのであり、ある者は少し早く、ある者は少し遅く、再生にたどりついたのであり、みなが地上での生活につながれているのです。

しかし、主は何世紀にもわたって、あなたたちをぶどう園に呼び続けていましたが、あなたたちはそこへ行こうとはしなかったのです。

あなたたちには報酬の弁済をする時がやって来たのです。あなたたちに残された時間を有効に使い、あなたの一生が、あなたたちにどんなに長く感じられても、永遠と呼ぶ時間に比べれば、ほんのつかの間に過ぎないのだということを忘れてはなりません。(守護霊 コンスタンティーノ ボルドー、1863年)


三、イエスは象徴の簡潔さを好みましたが、その男性的な表現で伝えた最初にやって来た労働者たちとは預言者、つまり段階的な進歩の過程で足跡を残したモーゼやその他すべての開始者たちのことを指しており、その進歩は後に、使徒たち、殉教者たち、教会の創設者たち、賢者たち、哲学者たち、そして最後にはスピリティストたちによって記されることになるのです。

後から来た者たちは、救世主の登場の兆しがあった頃から宣言され予言されており、ここで同じ報酬を、あるいは、より大きな報酬を受け取ることになるでしょう。

人類は集合的に仕事に取り組んでいるために、後から到着した者は先駆者たちの知性的な働きを相続して利用します。神は人類の連帯性を祝福します。とは言え、実際には、昔の人々の多くが、今日再び生きているか、もしくは明日再び生きることになるのであって、そのようにして昔開始した事業を終わらせることになるのです。

一人の愛国者、一人の預言者、一人のキリストの使徒、一人のキリスト教信仰の宣教者以上の者が私たちの間に存在しているのです。

彼らはより啓発され、より進歩しており、その仕事はもはや基礎の仕事ではなく、建造物の棟木を組む仕事に取り組んでいるのです。したがって、受け取る報酬は、その仕事の価値に見合ったものになるのです。

 美しい再生の教義は霊的な従属関係を永遠のものとし、より明確にします。地上における任務の精算に呼ばれ、仕事を中断しても、霊は、継続的に再着手すべき仕事の存在に気づきます。彼はそれを見て、自分より先を行く者たちの考えを大まかに理解したと感じると、豊富な経験を生かしてさらなる前進に挑み始めるのです。

最初からいる労働者も、最後に来た労働者も、神の深い正義に対して目をしっかり開いている者はみな、不平を言うことはありません。彼らは仕事を熱愛しているのです。

 これがこの話の真なる意味の一つです。イエスが民衆に話す時に用いたすべてのたとえ話と同様に、その中には啓示が含まれており、未来の始まり、あらゆる形と姿において、宇宙の全てを調和する荘厳なる統合力、すべての者の現在を過去と未来に結びつける連帯性を示しているのです。(ハインリヒ・ハイネ パリ、1863年)
   
   
  スピリティストの使命
四、古い世界を奪い去り、地上の非道を消滅させる嵐の音がまだ聞こえないのですか。ああ、主よ、至上の正義にその信仰を託した者たちを祝福して下さい。

上から来る預言の声によって示された信仰の新しい使徒たちよ、その使命を正しく達成したか、地上における試練に耐えたかに従って起こる霊の向上と再生の教義を説きに行って下さい。

 もはや驚くことはありません。炎はあなたたちの頭上まで届いています。スピリティズムの真なる使徒たちよ。あなたたちは神に選ばれたのです。神の言葉を説きに出かけて行って下さい。あなたたちの習慣や労働や無用な従事を、その普及のために犠牲にすべき時がやってきました。

宣教に出かけて行って下さい。高尚な霊たちがあなたたちと共にあります。神の声は絶え間なく自己の放棄を呼びかけるので、あなたたちは必ず、神の声を聞きたがらない人々と話すことになるでしょう。

 貪欲な人々に無関心を、ふしだらな者には禁欲を、家庭の君主や暴君たちには温和さを説きに行って下さい。種を蒔く土地にあなたたちの汗で水をまくことを仕事としてください。一方で、福音の鍬やくわによって繰り返し耕されることが無ければ、その種が育ち実を結ぶことはありません。行って、教えを説いてください。

善き信心を持った者たちよ、無限の中にまき散らされた世界を前に、自分の劣等を認識する者たちよ。不正義と非道に対抗する活動に身を投じてください。

行って、日を追うごとに広がる金の子牛の崇拝を禁じてください。行けば神が道を示してくれます。質素で無知な人々よ、あなたたちの舌は動き、どんな雄弁家にもまねのできない話をすることができるでしょう。

行って教えを説いてください。注意深い人々はあなたたちの慰安、兄弟愛、希望、平和の言葉を幸せに受け止めるでしょう。

 あなたの行く道に待ち伏せる者のことを気にする必要はありません。狼の罠には狼しかはまることはなく、羊飼いはその羊たちを生贄の火から守ることを知っています。

 神の前に偉大なる人々よ、霊媒性を実際に目にすることに拘らずに受け入れる者たちよ、それを自分自身の手に入れることができなかったとしても、使徒トマスよりも幸せな者たちよ、行って下さい、行けば神の霊が導いてくれます。

 だから、威厳のある一隊よ、信仰によって前進して下さい。朝霧が朝日の光に消えていくように、大きな不信心の集団もその前から消えて行きます。

 信仰は山をも動かす美徳であることをイエスは言いました。しかし、最も高い山よりも重いのは、人類の心の中に横たわる不純さと、そこから生まれるあらゆる悪癖なのです。

ですから、勇気を満たして出発し、あなたたちが異教徒の文明以前の時代についてとても不完全にしか知らないと同じように、未来の世代には昔話としてのみ知られるべき非道の山を取り除きに行って下さい。

 もっとも、地球上のあらゆる地点では、哲学的、道徳的反乱がまきおこるでしょう。神の光が二つの世界にあふれ、こぼれる時が近づいているのです。

 だから、神の言葉を運んで行って下さい。それらを軽んじるうぬぼれた人たちのもとにも、証拠を強いる知識人たちのもとにも、それらを受け入れる小さく、素朴な人々のもとにも運んで行って下さい。

なぜなら、特にそうした役割や地上の試練に殉じる者の中に、信仰と熱意が存在しているからです。行って下さい。こうした者たちは神への感謝と讃美の歌と共に、あなたたちが届ける聖なる慰安を受け取り、頭を下げ、地上が彼らに与えた苦しみに対して感謝をするでしょう。

 決意と勇気によってあなたたちの隊を武装してください。仕事に取り掛かってください。鍬の準備は整っています。土地が待ち受けています。耕しにかかってください。

 神が託してくれた輝かしい使命を、神に感謝しに行って下さい。しかし、注意も必要です。スピリティズムに呼ばれた者たちの中でも、多くの者がその道を歪めてしまいました。だから、あなたたちの道を修正し、真実に従って下さい。


質問=スピリティズムに呼ばれた者たちの中でも多くの者がその道を歪めたといいますが、正しい道にあるということを確認することのできる証とはなんでしょうか。

答え=彼らが教え、実践する真なる慈善の原則によって知ることができます。彼らが慰安を届ける苦しむ人々の数によって知ることができます。その隣人愛、甘受の態度、個人的な利害の放棄によって知ることができます。最後には、その原則の勝利によって知ることができます。なぜなら、神はその法の勝利を望んでいるからです。

神の法に従う者こそが選ばれた者たちであり、神は彼らに勝利を与えます。しかし神は、その法の真髄を偽り、自分の野望と虚栄心の満足の足がかりとして利用する者たちを消滅させます。(霊媒の守護霊エラストゥス パリ、1863年)(→FEB版注1)
   

  主の労働者たち
五、人類の変革のために生じることが告知された事柄が成就する時が近づいています。その時、自己放棄と慈善以外の目的なしに主の農園で働いている者は幸運です。その労働の日々は期待していたよりも百倍にして支払われるでしょう。

「主がやってきた時には仕事が終わっているように、ともに働き、私たちの力を合わせましょう」と自分の兄弟に伝える者は幸いです。

彼らに主は、「善き使いたちよ、私のもとへ来なさい。あなたたちは自分の妬みやあなたたちの不和に対して静寂を強いることを知り、仕事に損害を与えませんでした」というでしょう。

しかし、自分たちの意見の相違によって収穫の時期を遅らせてしまった者は不幸なものです。なぜなら、嵐が彼らのもとへやって来て、竜巻の中に巻き込まれてしまうからです。

「慈悲を、慈悲を」と叫ぶでしょう。しかし主は、「自分たちの兄弟に対して慈悲がなく、彼らに手を差しのべることを拒んだ者たちよ、弱き者たちを助ける代わりに圧した者たちよ、どうして慈悲を求めることができようか」と言うでしょう。

あなたたちの報酬をすでに地上の喜びや自分たちの自尊心を満たすことの中に求めておきながら、どうして慈悲を求めることができましょうか。すでに求めていた通りの報酬は受け取ったのです。あなたたちに求められるものはなく、天における報酬は、地上において報酬を求めなかった者たちのものなのです。

 神はいままさに、その忠実な使徒たちを調べにあたっており、献身が単に表面的な者たちには既にしるしをつけ、彼らが活力に満ちた使徒たちの報酬を騙し取ることができないようにしています。

自分たちの仕事を前にして退くことのない者たちに、神はスピリティズムによる偉大なる更生の事業の中のより難しい役割を託すでしょう。次の言葉のとおりになるのです。「天の国においては、先の者たちが後になり、後の者たちが先になる」(真実の霊 パリ、1862年)


●FEB版注1
フランス語第三版において、この通信は署名もなく不完全に記されている。原書第一版に合わせて修正した。-FEB,1948

  

シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch 

 by Stella Storm


八章 宗教とは

《いま霊の力がいちばん見られなくなっている場所は、皮肉にも、本来そこにこそ存在しなければならないはずの宗教界です。最高の位階に到達した者ですら、宗教の本来の起源であり基盤であるべき霊力に背を向け、われわれには不可解きわまる理由から、生きた霊的真理よりもただの形骸の方を後生大事にしています》 
                        シルバーバーチ


 「この地上世界の危急存亡の時代(とき)に、真理の守衛であるべき者たちが霊の威信をもって語ることが出来ないというのは悲しむべきことです。それは、霊力というものが(イエスの時代だけでなく)今の時代にも顕現できるという事実にまったく気づかないからです。

彼らは霊的真理と完全に疎遠になっているばかりでなく、愚かしい信仰がこびりついているために、それが頑固な壁となって霊的な真理、霊的な叡智、霊的な力を受けつけなくなっているのです。

 そうした偏狭で不毛の儀式とドグマと信条で固まった世界に霊力の入る余地があるわけがありません。現代の教会には霊の力は一かけらもありません。あるのは、またしても白塗りの墓(口に説くことと腹の中とが違う偽善的宗教家)、干からびた骨(真理の豊かさを身につけていない、精神のやせこけた宗教家)、豪華な建造物です。

見た目には華麗でも霊の照明がないために死のごとく冷ややかで不毛で荒涼としております。さらにいけないのは、そうした本来の宗教とは無縁の、干からびた神学的教義の収納所となってしまった教会内に霊が働きかけようとしても、それをまったく受けつけようとしなくなっていることです。

 いささか辛らつすぎたかも知れませんが、しかし何が悲しいといって、本来は先頭に立って指導すべき立場にある者が、こうした大切な霊的真理のこととなると、しんがりに回っているということほど情けない話はありません。みんな善人ばかりです。

罪なき人生を送ろうと心掛けている真面目な人たちです。が、宗教のすべてが基盤とすべき霊的なものに完全に無感覚になっているのです。霊性のないところに宗教はありません。〝文字は殺し霊は生かす〟(コリント)のです。霊のないところに生命は存在しないのです。

 もしも教会がそれ本来の目的を果たしていれば、言いかえれば、もしも神学的教義・儀式・慣習というわき道へそれることがなかったならば、こうして私のような者がわざわざ戻ってきて、神の計画の中での地球の本来の位置を維持する上で不可欠の霊的連絡関係を回復するための努力をする必要もなかったことでしょう。

 神に仕える者と自認する聖職者たちも、今では神について、神の働きについて、あるいはこの巨大な宇宙を支配している大自然の摂理について何も知りません。しかも、霊界からの働きかけに抵抗しようとするのですから、愚かしいとしか言いようがないのです。

 こうした聖職者たちは何世紀も昔の霊の働きかけの物語は信じながら、同じ霊が今日でも顕現できるということを信じようとしないのは、いったいなぜなのでしょう。彼らが説いていることは実はイエスとは何の関係もないことばかりです。

 その点あなた方は他の世界各地の方と同様、イエスみずから言った通りにイエス以上の仕事をすることができる、恵まれた方たちなのですが、そういうあなた方は、彼らからすれば邪教の徒なのです。

キリストの名にちなんで出来たキリスト教会が相も変らずキリストそのものを裏切り続けている事態を見て、キリストご自身がどれほど悲しい思いをされているか、一度その人たちに見ていただきたい気持ちです。

 霊力は一つの計画のもとに働きます。幾世紀にもわたってその時代の宗教を通して顕現しようとして来ました。それを受け入れる霊能者や霊媒は必ずどこかにおりました。その人たちが行ったことを無知な人は〝奇跡〟だと思いましたが、それこそが霊的法則の生々しい顕現のしるしだったのです。

それは今日有能な霊媒による交霊界で見る現象や治療家による奇跡的な治療と同じで、人間を通して霊力が働いたその結果なのです。不変・不滅の大霊から出る同じ霊力なのです。簡単なことなのです。

そうした霊力の激発のたびに、既得権力の座にある教会関係者すなわち教義作成者、神学者、学識者が集まって詭弁を弄しました。そして神からのインスピレーションを自分たちがこしらえた決まり文句と置きかえました。

しかし、いかに頭のいい人がこしらえたものでも、所詮は人間の頭脳から出たものにすぎませんから、それはいつかは力を失う運命にありました。霊が生命を与えるのです。神学は本質そのものが不毛なのです。

 測り知れない努力の繰り返しの末に、霊界の上層部において、もはや地上への流入は既成の宗教界を通じては無理との判断のもとに、宗教界とは無縁の者を通じて行うとの決断が下されました。

そして、ここにお出での皆さんのように何の宗教的肩書も持ち合わせない普通の人々が霊力の受け皿として養成され、各自がイエスと同じように霊の威力を実際に見せ、また同じような現象を演出してみせることになったのです。

 教会、寺院、チャペル(キリスト教の礼拝堂)、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)を通して支配力を行使している者たちが何とわめこうと、霊力はすでに根づいております。もはや、いかなる力をもってしてもこれを消すことはできません。

挫折させることもできません。ますます勢いを増しながら地上世界を元気づけていくことでしょう。ぜひともそうあらねばなりません。何ものによっても阻止されることはありません。

 このように、私は霊的真理と霊的実在についての知識の普及に全面的に賛成ですが、施設や建造物にはまったく関心がありません。私の関心の対象は大霊の子としての人間そのものです。私はその大霊の子等が真の自我を見出し、霊的遺産を理解し、天命を全うするところに、物的宇宙創造の目的があると理解しております。

われわれの仕事は、可能なかぎりの手段を尽くして人間をいちばん望ましい方法で指導し、一刻も早く霊的な受け入れ態勢を整えさせてあげることです。その段階から種子が芽を出しはじめるのです。

 一方には宗教界の指導者の感化を仕事としている霊団もいます。個人的に指導しているのです。何とかして本当の自分自身と、自分に存在を与えている力、存在の意味、そして聖職者として為すべきことについて、地上生活が終わらないうちに理解させる必要があるのです。

 これまで地上には数々の帝国が生まれましたが、いつしか滅んでいきました。独裁者が出現しましたが、やがて消えていきました。宗教が権力をふるったことがありましたが、必ず没落していきました。大霊は歩みを止めることがありません。この霊力はこれからも顕現し続けます。悲観する余地はどこにもありません。

 既成宗教がこのまま真理の光を見出せないままでいると、精彩を失い暗闇に包まれて行きます。ですから、霊的真理を広めることが大切なのです。

ですが、私に啓示された知識のかぎりで言えば───そのかぎりでしか言いようがないのですが─── 一ばん大切なことは(そうした組織ではなく)個人に目を向け、霊力の顕現の窓口となる霊的資質の開発を通じて、一人一人を霊的に甦らせることです。いささかなりとも神の使節としての仕事ができるわれわれは、実に光栄この上ないことです。

この光栄はもはや既成の宗教団体では浴せません。心の奥では自分でも信じられなくなっている古びた決まり文句を平気で口にします。とっくの昔に意義を失っている型どおりの文句と使い古した儀式と慣例を繰り返すのみです。

 そうした教会や大聖堂や寺院は、そこに霊力が機能しなくなったために不毛で荒涼とし死物と化しております。生命を与えるのは霊なのです。彼らはその霊、彼らのいうその聖霊を否定するようなことばかり繰り返しているのです。

そこでその聖霊の方が彼らに見切りをつけ、われわれのように別に風変りな式服をまとわず、説教壇に立つこともせず、ただ霊力の通路として一身を提供する者を活用して、神の計画の中においては誰一人として無視されたり見落とされたりすることがないことを証明せんとしているのです。

 《真実の祈りは心の奥底から油然として湧き出るものです。神に挨拶するための機械的な口上手段ではありません。スピチリチュアリストをもって任じている人も、もし日常生活においてその霊的真理の意味を生かすような生き方をしていなければ、何の徳にもなりません。私たちはラベルは崇めません。

大切なのは、自分はこういう者ですとみずから称していることではなくて、ふだん行っている行為です》 
    シルバーバーチ

Tuesday, June 9, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック



第19章  山をも動かす信仰   

信仰の力

イエスが民衆に会いにやって来ると、一人の人が近寄り、ひざまずいて言った、「主よ、私の子に慈悲を。てんかんにかかってとても苦しんでおり、火の中や水の中に何度も倒れるのです。あなたの使徒たちのところへ連れて行きましたが、彼らには治すことはできませんでした」。

するとイエスは答えて言われた、「ああ、何という不信仰な、曲がった時代でしょう。いつまで、私はあなた方と一緒にいることが出来るのでしょうか。いつまであなたたちに我慢ができるのでしょうか。その子をここに、私のところに連れてきなさい」。

イエスが悪霊を脅すと、悪霊は子供から出て行き、その瞬間子供は健康になった。使徒たちはひそかにイエスの許へ行き、尋ねた、「どうして私たちは悪霊を追い払うことができなかったのですか」。イエスは答えて言われた、

「あなたたちの不信仰のせいです。誠に言います、からしの粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『あちらへ動け』と言えば動き、何も不可能なことはなくなります」。(マタイ 第十七章 14-20)
   

二、ある意味では、自分自身の力に対する信念が物質的なことの実現を可能とさせるのであって、自分自身を疑う者はそれを実現できないというのは真実です。しかし、ここでは道徳的な意味においてのみ、これらの言葉を解釈するべきです。

信仰が動かす山とは、困難、抵抗、やる気のなさ、要するに善いことに向かう時にさえも人間の間に現れるもののことです。

日常の偏見、物質的な関心、エゴイズム、狂信の盲目、誇り高き感情などは、どれもが人類の進歩のために働く者の道を遮る山の数々です。強固な信念は、忍耐力や、小さなものであれ大きなものであれ、障害に打ち勝つエネルギーを与えます。

不安定な気持ちは不確実さや、躊躇を生み、打ち勝たねばならない敵対者たちに利用されてしまいます。こうした不安定な気持ちは、打ち勝つ手段を求めることもありません。なぜなら、打ち勝つことが出来ることを信じないからです。


三、別の解釈によれば、信念とはあることを実現できると信じること、ある特定の目的を達成する確信と理解とされます。

それはある種の明晰さをもたらし、それによって思考の中で、そこまでたどり着くための手段や達成しなければならない目標を見ることを可能にさせるがため、それを持って歩む者は、言うならば全く安心して歩むことができるのだということができます。いずれの場合であれ、偉大な事柄の実現を可能にします。

 誠実で真実なる信念は常に平静です。知性と物事の理解に支えられ、望む目的に到達する確信があるために、待つことを知る忍耐をもたらします。ぐらついた信念はそれ自身の弱点を感じています。

関心がそれを刺激すると、怒りっぽくなり、暴力によって自分に足りない力を補おうとします。戦いにおける平静は常に力と自信の証です。反対に暴力は弱さと自分自身に対する不安を表しています。

℘333 
四、信念と自惚れを混同してはいけません。真なる信念は謙虚さを伴います。真の信念を持つ者は自分自身よりも神をより信頼しており、なぜなら自分自身は神意に従う単なる道具であり、神なしには何も存在し得ないことを知っているからです。

こうした理由から、善霊たちがその者を助けにやってきます。自惚れでは、自尊心が信仰を上まわっており、自尊心はそれを持つ者に課された失望や失敗によって遅かれ早かれ、罰せられることになります。


五、信仰(信念)の力は磁気的な動きによる直接的で特別な形でその姿を示します。宇宙的動因であるフルイドに対して人間はその仲介として作用し、その性質を変化させ、いわば抑えようのない衝撃を与えます。

そのようなことから、普通のフルイドのある大きな力に熱心な信仰が結びつき、善に向けた意志の力のみによって治療のような特別な現象を引き起こすことになります。

それらは昔は奇蹟として扱われましたが、自然の法則の結果に過ぎないのです。こうした理由により、イエスはその使徒たちに言ったのです。「治すことができなかったのは、信仰がなかったからです」。


  宗教的な信仰。揺るがぬ信仰の条件
六、宗教的な視点では、信仰とは、さまざまな宗教を組織させたある特別な教義を信じることから成り立っています。どの宗教にもその信仰の対象というものがあります。この点において、信仰は理性的でも盲目的でもあり得ます。

なにも検証することなく、真実と偽りを確かめたりせずに、盲目的な信仰はそれを受け入れ、一歩歩むたびに立証や理性と衝突します。それが過剰になると狂信を生みます。誤りの上に立っていると、遅かれ早かれ崩壊します。

真実に基づく信仰のみがその未来を保証することができます。なぜなら、人々の啓発に対する恐れがまったくないからであり、闇の中で真実たるものは光の中でも真実であり続けるからです。

どの宗教も排他的な真実の主となろうとします。ある信仰のある部分を誰かに盲目的に信じるように教えることは、その信仰が理に適って居ることを示すことが出来ないと告白するのと同じことです。


七、一般に信仰と言うものは他人に示しようがないと言われますが、そのために、信仰がないことには責任が無いという多くの人の言い訳を生んでいます。確かに信仰は他人に示しようがありませんし、増してや強要することは不可能です。

そうです、信仰は獲得するものなのであり、最も頑固な者でさえも、信仰を持つことが許されていない者はいないのです。私たちが述べているのは霊的な真理の基本的なことについてであり、ある特定の信仰に関してどうこう言っているのではありません。

信仰が人々を探し求めるのではないのです。信仰に出合うことができるように、人々が誠実に求めれば、それに出合えないことはないでしょう。

ゆえに、「信じること以上に善いものを私たちは望まないが、それができないのだ」と言う人々は、それを心の底からではなく口先だけで言っているのだということを確信し、そう言う言葉を聞いたら耳を塞いでください。しかし、そうした人の周りには証が雨のように降り注いでいます。ではなぜ、それに気づくことが出来ないのでしょうか。

一部の人たちはそれを無視しています。他の人たちは習慣を変えなければならなくなること恐れています。

大半の人たちには自尊心があり、自分たちより優れた存在を認めることを否定するのです。なぜなら、そうした存在の前に頭を下げなければならなくなるからです。ある人たちにとって信仰は、生まれつきのものであるかのように見えます。

火の粉ほどの信仰さえあれば、それを発展させることができます。霊的な真理を受け入れることに対するこうした容易さは、前世における進歩の明らかな証拠です。 

他の人たちにとってはその反対で、そうした真理が入り込みにくく、それは同様に遅れた性格を示す明らかな証拠です。前者の人々はすでに信じ、理解しました。再生した時には既に知ったことを直感的に持ち合わせて来ているのです。

彼らはすでに教育されています。後者の人々はすべてを学ばなければなりません。これから教育を受けなければなりません。しかしそれを行い、現世のうちに終了できなければ、次の人生においてそれを行うことになるのです。

 信仰のない者の抵抗は、多くの場合、その人自身よりも、物事のその人に対する示され方から来ているということに私たちは同意しなければなりません。信仰には基礎が必要であり、その基礎とは信じようとする者の知性です。そして、信じるためには見るだけでは足りません。

何よりも理解することが必要なのです。盲目的信仰は、もはや今世紀のものではなく(→FEB版注1)それゆえに盲目的な信仰を教える教義が今日、不信仰な人々を多く生み出しているのです。なぜなら、そうした教義は強要によって、人類の最も大切な特権である理性と自由意志の放棄を命ずるからです。

不信仰な人々は主にこうした信仰に対して反抗するのであり、これに関して言えば、まったく信仰とは説明し得ぬものだということができるでしょう。そうした教義は証拠を認めないために、心の中に何か曖昧なものを残し、そこから疑いが生まれます。

理性的な信仰は、理論と事実に支えられ、いかなる曖昧さも残すことはありません。つまり人間は、確かだと思うから信じるのであり、誰も理解することなしに確かさを感じることはできません。理解できないために屈服しないのです。

揺るがぬ信仰とは唯一、人類のいつの時代に置いても理性に対して真正面から向き合うことのできる信仰のことです。

 スピリティズムはこうした結果を導くことで、意図的、もしくは制度的な反対が無い限り、いつも不信仰な者に対して勝利を収めるのです。


  枯れたイチジクの木の話   
八、ベタニアから出かけてきた時、イエスは空腹を覚えられた。そして、遠くにイチジクの木をごらんになって、なにかありはしないかと近寄られたが、イチジクの季節ではなかったために葉しかなかった。するとイエスは、イチジクの木に向かって言われた、

「これから先、誰もおまえから果実を食べることはないだろう」。使徒たちはそれを聞いていた。

次の日、イチジクの木の近くを通ると、根まで枯れているのを見た。そこでイエスが言ったことを思いだすと、ペトロは言った、「先生、あなたが呪われたイチジクの木がどうなったか見て下さい」。

イエスはその言葉を聞くと答えて言われた、「神を信じなさい。誠に言いますが、言葉にしたことはすべて起きると強く信じ、そこをどき、海へ落ちよと、この山に心からためらうことなしにいう者は、実際にそれが起きるのを目にすることになるでしょう」。(マルコ 第十一章 12-14,20-23)


九、枯れたイチジクの木とは、見た目には善に関心があるように見えながらも、実際には善いものをうまない人たちの象徴です。堅実さよりも華々しさを持った説教者のように、その言葉の表面は虚飾に覆われており、それを聞く耳を喜ばすことはできても、詳細について吟味してみると、心にとって本質的な意味を何も持たないことが分かります。

そして私たちは、聞いた言葉の中から何を役立てることが出来るのだろうかと問い直すことになるのです。

 同時に、有益な存在となる手段を持ちながら、そうなっていない人々のことも象徴しています。堅実な基礎を持たないあらゆる空想、無益な主義、教義がそれにあてはまります。殆どの場合そこには真なる信仰である、生産性のある信仰、心の隅々をも動かす信仰が不足しています。

その信仰とは一言でいうなら、山をも動かす信仰のことです。そうした信仰の欠けた人々は、葉に覆われながらも果実に乏しい木のようです、だからイエスはそうした木を不毛であると言いわたしたのであり、いつかそれらは根まで乾いてしまうものなのです。

つまり人類にとって何の善ももたらすことの無いいかなる主義も、いかなる教義も、没落し、消滅するということを指しています。自分のもつ手段を働かせないことにより無益と判断された人はみな、枯れたイチジクの木と同じように扱われるでしょう。

℘337 
十、霊媒とは霊の通訳者です。霊たちにはその指導を伝えるための物質的な器官はありませんが、霊媒がそれを補うのです。このように、こうした目的のために使われる能力を持った霊媒が存在します。

社会が変革しようとしている今日、彼らには非常に特別な使命があります。それは同胞たちに霊的な糧を供給する木となることです。糧が十分であるように、その数は増えていきます。

あらゆる場所、あらゆる国、あらゆる社会階級の中に、裕福な者の間にも貧しい者の間にも、偉大なる者の間にも小さな者たちの間にも現れ、そのためどの場所にも不足することが無く、人類の全ての者が招かれていることが示されるのです。

しかし、もし彼らが、託されたその貴重な能力を神意による目的からはずれたことに用い、不毛なことや、有害なことに使用するのであれば、あるいは、世俗的な利益に仕えるために用いたり、熟した実の代わりに悪い実を結ばせ、それを他人の益のために用いることを拒んだり、自分たちを向上させようとそこから自分たちの為に何かの利益も得ることもないのであれば、彼らは枯れたイチジクの木であるのです。

神は彼らの中で不毛となった力を奪います。そして実を結ばせることを知らない種が、悪い霊たちの間に捕まってしまうのを許すのです。





   霊たちからの指導

   信仰──希望と慈善の母 
十一、 有益になるためには、信仰は活動的にならなければなりません。それを無感覚にしてしまってはいけません。神へ導くあらゆる美徳の母は、それが生み出した子供たちの成長を注意深く見守らなければなりません。

 希望と慈善は信仰から派生しますが、信仰と共に分離不可能な三位となります。主の約束の実現の希望を与えてくれるのは信仰ではありませんか。信仰を持たずに、何を期待することができるでしょうか。愛を与えてくれるのは信仰ではありませんか。信仰を持たぬのであれば、あなたの価値やその愛は何でありましょうか。

 神性の発露である信仰は、人間を善へ導くあらゆる高尚な本能を目覚めさせます。信仰は更生の基礎です。必要なのは、この基礎が強い持続性を持つことです。というのも、もし、ほんの小さな疑いによってその基礎が動揺してしまうとしたら、その上に築いたものはどうなると考えますか。

だから、ゆるぎない基礎の上にその建物を築いてください。あなたたちの信仰は不信仰な者たちの詭弁や冷やかしよりも強くなければなりません。もっとも人間の嘲笑に対抗できない信仰は、本当の信仰とは言えません。

 誠実な信仰は人の心を捕え、影響力を持っています。信仰を持たなかった者や、信仰を持ちたくないと考える者の心に訴えます。それは魂に響く、説得力のある言葉を持ち、一方で見せかけだけの信仰は、聞く者を無関心にし、冷たくしてしまうように響く言葉を使います。

あなたの模範によって信仰を説き、人々に信仰を吹き込んでください。あなたたちの事業の模範によってそれを説き、信仰の真価を示してください。あなたの不動の希望によってそれを説き、人生のあらゆる苦しみに立ち向かうことができるように人間を強くしてくれる確信を示してください。

 だから美しく善い、純粋で合理性を持った内容に信仰を抱いてください。盲目から生まれた目の見えない娘である、証明のない信仰を認めてはなりません。

神を愛してください。しかし、なぜ愛するのかを知って愛してください。その約束を信じてください。しかし、なぜそれを信じるのか知って信じてください。私たちの忠告に従って下さい。

しかし、私たちが指摘する事柄やそれを成し遂げるための手段について納得した上で従って下さい。信じ、無気力になることなく待ってください。奇蹟は信仰のなす業です。 (守護霊ヨセフ ボルドー、1862年)   


  人間的な信念と神への信仰
十二、人間の信念は、未来の運命に対して生来持っている感覚です。自分自身の内に無限の能力を秘めているのだという認識であり、最初それは潜在的に存在しますが、意志の働きによってそれを発芽させ、育てることが必要です。

 今日まで、信心とはその宗教的側面しか理解されませんでしたが、それは、キリストが信仰を強力な梃子として示したため、イエスは宗教の指導者としてしか考えられていなかったからです。

しかしながら、物質的な奇蹟を引き起こしたキリストは、こうした奇蹟によって、人間に信念があれば、つまり、何かを望み、その望みが必ず満足されるという確信があれば、何ができるのかを示したのです。使徒たちも、イエスの模範に従って、奇蹟を引き起こしたではありませんか。

ただ、こうした奇蹟は、人類が当時その原因をいまだに解明していなかった自然現象に過ぎません。今日、その大部分はスピリティズムと磁気の研究により解明され、全く理解可能なものとなったではありませんか。

人がその能力を地上の必要性を満たすために用いるか、天や未来に対する熱望に用いるかによって、人間的な信念にも神への信仰にもなります。

天における自分の未来を信じる善なる人は、その存在を美しく高尚な行動によって満たしたいと望み、その信念の中から自分を待ち受ける幸福の確信や必要な力を汲みあげ、そこで慈善、献身、自己放棄の奇蹟を引き起こします。

つまり、信念(信仰)によって、打ち勝つことのできない悪は存在しないのです。

 磁気は、行動に移された信念の力の最大の証のうちの一つです。治療などに見られるような珍しい現象は、過去において奇蹟と呼ばれていましたが、それらは信念によって引き起こされるのです。

 繰り返します。人間的な信念と神への信仰があります。もし生きる人々が、自分がもち合わせる力をよく理解し、自分の意志をその力を用いるために使おうと望めば、今日に至るまで奇蹟と考えられていたような事柄を実現することができるでしょう。そしてそれを実現することは、人間のもつ能力の発展に過ぎないのです。(ある守護霊 パリ、1863年)


●FEB版注1
アラン・カルデックはこの言葉を十九世紀に記しました。今日、人類の霊は更に多くを求めます。盲目的な信仰は放棄されました。そうした信仰を強要する教会には不信仰が君臨しています。人類の多くは理想もなく、現世以外の人生への希望も持たずに、暴力によって世界を変えようとしています。

経済的な戦いは風変わりな原因と結果の教義を生み出しました。経済的優勢を激しく切望した二度の世界大戦が地球を痛めつけました。人類のあらゆる希望はキリスト教の復興、キリストの教義の原則が示す、人生の永遠性や、思考、言葉、行動の責任が無限であることを教えるスピリティズムにかかっています。

第三の啓示が無かったら、世界は大いに誤った暴力的、唯物的イデオロギーによって手の施しようもないほど失われていたことでしょう。ーFEB1948


●和訳注 「信念」と「信仰」について
原文では、FOI(フランス語)、FE(ポルトガル語)、FAITH(英語)という一つの言葉によって、日本語で言う「信念」と「信仰」の二つの意味を表現しています。日本語の「信仰」には「神や仏を信じ、崇め尊ぶこと」とあるため、宗教的な意味においてしか用いられることはありません。

本文では必ずしも「神仏」に対する信仰を必要とせずに、人間はその意志によって多くを実現することが出来ることを説明しているため、翻訳に当たっては「信仰」と「信念」とを使い分ける必要がありましたことをお断りしておきます。


シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch
by Stella Storm



七章 魂を癒す───心霊治療の本質

 《心霊治療の本質は〝魂〟に関わることであり、身体に関わるものではありません。魂に受け入れ準備ができていれば、治療は難なく奏効します。摂理としては当然そうなるようになっているのであり、それ以外にはありようがないのです。

霊的治療は物的身体に宿る魂という容器に霊的生命力を注入する作業です。その生命力は肉体の中の生命の中枢へ向けて仕掛けられる霊的刺激剤であり、回復力であり、再活性力です》         シルバーバーチ


 中央アフリカおよびインドを中心に治療活動を続けている二人の治療家が招かれた。二人は Ulyndu(ウーリンドウ)とAmenra(アメンラ)と言う名で知られているが、いずれも仮名である。商業関係の仕事を止めて本格的に治療活動に専念しておられる。奉仕的精神から治療費をいっさい取らないのであるが、その日常生活は〝絶対に裏切らない神の供給源〟の存在を見事に実証している。

 来る日も来る日も治療のための旅を続けていると、時には生活費が底をつき、空腹のためにベルトをさらに締めなければならなくなることもある。にもかかわらず必要なものだけは、お願いしなくても、必ず届けられる。その届けられる経路は驚異としか言いようのないほど思いがけないことがしばしばであるという。

 南アフリカから英国に立ち寄った時に永年の夢が叶ってシルバーバーチの交霊会に出席することができた。二人はシルバーバーチの霊言を生活の指針としてきている。そのシルバーバーチが二人にこう語った。

 「私たちにとって霊の道具として活躍しておられる方のお役に立つことほど大きな喜びはありません。他人のために倦まず弛まず尽力しておられる方が私の述べる言葉を少しでも役に立つと思ってくだされば、私を地上へ派遣した霊団のマウスピースであることを光栄に存じます。

 われわれはお互い同じ使命にたずさわっております。病める地上世界がみずからを癒す事業を援助し、無謀な愚行に走るのを食い止め、無数の人間の悲劇の根源となっている自己中心主義と貪欲の行為を止めさせ、霊がその本来の輝きと美質を発揮するように導くという責務を負っております。

 この道がラクではないことは今さら私から申し上げる必要はありません。バラの花に飾られた優雅な道でないことは申し上げるまでもありません。苦難は進化を促し、魂を調整するための不可欠の要素なのです。魂が真の自我に目覚めるのは苦難の中にあってこそです。

人生のうわべだけを生きている人間には、魂が自己開発する機会がありません。地上的方策が尽き果て、八方塞がりの状態となったかに思える時こそ、魂が目覚めるものなのです。

 言いかえれば、物質が行き詰まった時に霊が目覚め、小さな神性のタネが芽を出し、花を咲かせ、内部の美質を徐々に発揮しはじめるのです。苦難はコインの裏側と思えばよろしい。闇なくしては光もなく、嵐なくしては青天もありません。このことはお二人はすでによく理解しておいでです。

 あなた方は豊かな恩寵に浴していらっしゃいます。奉仕活動に手を染め、すべてを天命にまかせる覚悟をされて以来、お二人は一度たりとも見落とされたり忘れられたり無視されたり、あるいはやりたいように放ったらかされたことはありません。

 この道は、他にその恩恵を知る縁(よすが)のない人々に霊力と光明と癒やしをもたらせることになる、雄大な霊的冒険です。宇宙最大の力の道具として働くことは大へん光栄なことです。大霊より強大な力はこの宇宙には存在しません。

その大霊がお二人に要求しているものは忠誠心であり、協調的精神であり、一途さであり、信頼心であり、そして知識が生み出す信仰心を土台とした絶対的な自信です。

 私から申し上げるまでもないことかも知れませんが、お二人は地上に生を受けるずっと以前からこの仕事を志願していらっしゃいました。またこれも改めて申し上げる必要はないと思いますが、実はそれもこれもまだまだ序の口にすぎません。地上生活は霊としての存在意識を全うするという大目的のために学び鍛える、そのトレーニングの場にほかなりません。

 挫けてはなりません。いかなる事態にあっても、不安の念をカケラほどでも心に宿すようなことがあってはなりません。今日まで支えてきた力は、これからも決して見棄てるようなことはいたしません。

絶対に裏切ることはありません。もしあるとしたら、この宇宙そのものが存在しなくなります。その根源的なエネルギー、存在の支えそのものが不在となることがあることになるからです。

 お二人は霊力という最大の武具を備えていらっしゃいます。それを、ある時は支えとし、ある時は安息所とし、ある時は避難所とし、ある時は至聖所とし、そしていつも変らぬインスピレーションの泉となさることです。道を過らせるようなことは絶対にしません。縁あってあなたのもとを訪れる人に最大限の援助をしてあげられるよう導くことに専念してくれることでしょう。

 物的な必需品はかならず授かるものだということをお二人は体験によってご存知です。飢えに苦しむようなことにはなりません。渇きに苦しむようなことにもなりません。身を包み保護するだけの衣類はかならず手に入ります。ぜいたくなほどにはならないでしょう。が、進化せる霊はぜいたくへの願望は持ち合わせないものです。

 物的身体にはそれなりに最低限の必需品があります。神はその分霊の物質界での顕現の手段として創造された身体にどんなものが必要かはちゃんとご存知です。迷わずに前進なさることです。

今日は今日一日のために生きるのです。そして、過去が霊の導きを証明しているように、未来も間違いなくあなたが志願された使命を全うさせてくれるものと信じることです。

 これまで通りに仕事をお続けになることです。病の人を癒やしてあげるその力が、ほかならぬ霊の力であることを理解させてあげるのです。その結果その人が魂に感動を覚えることになれば、それはあなたが霊的な勝利を収めたことになるのです。

 霊が正常で精神も正常であれば、身体も正常です。摂理として当然そうなるのです。身体は召使いで霊が主人です。身体が従臣で霊が王様です。愚かな人間は身体を主人と思い王様と勘違いしております。そういう人の霊は〝支配する〟という本来の立場を知ることがありません。

 勇気をもって前進なさい。もしも私の申し上げることが勇気づけとなれば、その勇気づけの道具となったことを私は光栄に思います。お二人の背後には私たちの世界でもきわめて霊格の高い霊が控えています。

大へんな霊力と叡智を身につけられたお方で、その悟りの深さがまた深遠です。その方との協調関係を出来うるかぎり緊密にするよう、修養を怠らないでください。

 背負った重荷も、知識から生まれた信仰があれば軽く感じられ、重さが消えてしまうものです。行く手をさえぎる苦難や困難には堂々と立ち向かい、そして克服していくべき挑戦だと思うべきです。きっと克服し、万事がうまく運ぶはずです。
 見た目にいかに大きくても、物的な事態によって圧倒されるようなことがあってはなりません。この物質の世界には、その生みの親である霊の力をしのぐものは何一つ存在しないのです。何ごともきっと克服できます。

そして心が明るく弾むことでしょう。万事が落着くべきところに落ち着きます。時間は永遠なのです。人間はその永遠の時の流れの中にあって、今という時間、その一瞬を大切に生きていけばよいのです」

《本当の霊的治療が功を奏した時はけっしてぶり返しません。法則は不変です。摂理は完全です。もとより私は霊の美質である慈悲心や哀れみの情、親切心、寛容の心を一瞬たりとも失いたくないと思っております。が、摂理は公平無私であり、自動的であり、不可変であり、神によって定められているのです》 
                       シルバーバーチ
           
 
       ※          ※         ※

 Rose Baston(ローズバストン)女史も人生半ばにして霊的治病能力を発揮しはじめた庶民的な家庭婦人である。三十年以上にわたってハンネン・スワッハワー氏とのお付き合いがあり、その縁で、かつてスワッハー氏が住んでいたロンドンの邸宅に治療所を開設した。

つい二、三年前のことで(本書の出版は一九六九年)、その開所式にはシルバーバーチも招かれてお祝の言葉を述べた。久しぶりで面会したバストン女史にシルバーバーチが次のような励ましの言葉を述べた。


 「あなたの治療所の開所式へお招きを受けて祝辞を述べて以来この方、あなたと霊団とのつながりが緊密の度を増しております。治療所は不幸な人々、苦しむ人々を救う目的のために存在しているのです。あなたの人生が常に霊団の導きを受けていることは私から改めて申しあげる必要はないと思います。

 あなたはこの仕事のために生まれて来られたのです。その目的地にたどり着くためにあなたは数々の困難と苦難によって鍛えられ、いばらの道を歩まされました。この仕事にふさわしい人間となるための試練と鍛錬を積まねばなりませんでした。

 さて、これまでを振り返ってごらんになれば、いろいろとあった出来ごとも、みなモザイクの一部であることがお分かりになります。人生には基本的なパターンがあるのです。最初のうちはそれが見分けられませんが、次第に何もかもがそのパターンにそって落着くべきところに落着いていることが分かってきます。

 あなたも今や霊の道具として身体だけでなく、もっと大切なこととして、精神と霊とに慰安と軽減をもたらす仕事にたずさわって、地上生活の目的を成就しつつあることをこの上なく幸せなことと思うべきです。

 これまでと同じく、これからの人生も計画どおりに進展するにまかせることです。決してラクではありません。私が思うに、これまでの人生がもっとラクだったら、あなたはそれを不満に思っていたはずです。試練の末に勝ち取るほうが、何の苦労もなしに手に入れ、したがって潜在する力に気づかないままで終わるよりもいいのです。

 なのに人間は努力もしないでいて自分にない才能を欲しがり、そのために、せっかく手にしてもそれを有難く思わないのです。その点あなたは永い間ご自分の治病能力に気づかれませんでした。はじめてそのことを聞かされた時はびっくりなさいました。

 病状を診察する能力はさして大切なものではありません。診察は往々にして身体的なことだけになりがちです。が、根本的な原因は身体よりも精神と霊とにあります。早く治そうと思ってはいけません。忍耐が大切です。あなたのほうから霊力を強要しても無駄です。

霊力というものはその通路に受け入れる用意ができた時にはじめて流入するのです。しかも病状に応じて調節しなければなりません。それはそれは微妙なプロセスなのです。強制的に扱おうとしても無駄です。

 万が一やる気を無くするようなことがあったら───人間なら時には意気消沈することがあるものです───その時はいったん歩みを止めることです。そしてそれまで奇跡ともいえる形で成し遂げられてきたことを振り返って、これだけのことが成就されてきたのなら、これから先もきっとうまく行くはずだという認識をもつことです。

あなたに要求されることは、そこまであなたを導いてきた霊力に対する絶対的な忠誠心と自信とをもってあなたの責務を全うすること、それだけです。

 あなたなりのベストを尽くすことです。あなたの力の範囲内で出来るかぎりの努力をなさることです。恐れるものは何一つありません。困難はあります。が、それもきっと克服されます。毎朝が新しい霊的冒険の好機なのです。

 これはとても大切なことです。そういう覚悟で仕事に当たっておれば、邪魔が入ることは決してありません。容易でないことは私もよく承知しております。が、忠実な僕がたどる道がラクであることは有り得ないことです。

お名前はローズ(バラ)でもバラの花壇(※)とはまいりません。魂というものは何かの挑戦を受けてはじめて自我に目覚めるものなのです。その時、居眠りをしていた潜在的な力が表面に出て来て発揮されはじめるのです。(※ a bed of roses 安楽な身分、贅沢な生活のこと───訳者)

 が、あなたはこれまで啓示された光に忠実に従ってこられました。ただの一度もあなたに託された信頼を裏切ることがありませんでした。私をはじめ、あなたの霊団の者はみんな、あなたのことを誇りに思っておられます」


《霊の褒賞は奮闘努力の末に手に入るものです。宝くじのような具合に手に入れることはできません。霊の富はそれを手にするにふさわしくなった時に与えられるのです。霊的開発が進むにつれて自動的に、それまでより少しだけ多くのものを身につけていくのです》

                        シルバーバーチ 



         ※       ※        ※   

 心霊治療家の Gordon Turner (ゴードンターナー)氏は病気治療だけでなく、英国心霊治療家連盟の推進者としても有名である。助手の Jo Prince (ジョープリンス)を伴ってはじめてシルバーバーチを訪れた時の感動はひと通りでなかった。シルバーバーチが二人にこう語りかけた。

 「私が永いあいだ地上世界の仕事にたずさわってきて何よりもうれしいのは、霊の僕として働いている同志をここへお招きすることです。あなた方がどうしてもたどらねばならない地上生活のパターンというものがあることは私はよく承知しております。

外部の世界とは無縁の心の痛み、苦難、苦痛、その他もろもろの複雑な感情があることもよく存じております。支払わねばならない代償があることも存じております。それが時には精神的ならびに霊的に十字架を背負わされることになることがあります。

  しかし、それが霊的進化の道なのです。その道での褒章を得るには奮闘努力しかなく、近道はなく、真の向上の一歩一歩が絶対に後戻りを許されない確固たるものでなければならないのです。もしも気楽な人生を望まれるなら、もはやその人生では他人のために自分を役立てることはできません。

魂が自我に目覚め、意図された通りに霊的資質を開発し、縁あってあなたのもとを訪れる人々がその天賦の才能によって恩恵を受けるようになるには、刻苦と苦難と修養と節制の生活しかないのです。

 しかし人生には必ず両面があります。陰気で重苦しい、救い難い闇ばかりではありません。光があれば影があり、寒さがあれば温かさがあり、嵐があれば日和があります。そうでないと進歩は得られません。魂が目覚め、霊の隠れた能力と内的な美質が発揮されればされるほど、それだけ神との調和が緊密となってまいります。

  因果律による当然の結果としての報酬があるということです。それは、いかに石ころだらけで障害が大きく思えても、その道は間違いなく自分に約束された道であり必ずや成就されるという、内的な確信です。


  あなた方は自分が成就しつつあることを測定することが出来ません。地上には魂の成長と霊的成就の結果を測定する器具も装置もありません。しかし、あなた方は暗闇にいる魂に光をもたらしておられます。飢えと渇きに苦しむ魂に霊的な食べものと飲みものを用意してあげておられます。

真の健康を見出す好機を用意された身体と精神と霊に神の力、すなわち生命力そのものを授けておられます。すばらしい仕事です。しかし同時に大へん責任のある仕事でもあります。霊的才能はそう簡単に人間に授けられているのではありません。神からの才能の保管者であるということは、それだけ責任が重いということでもあるのです。

 悲しいかな、あなたが関わっておられるのは人間という気まぐれな存在の集まりです。時には最も緊密な味方であるべき人が最大の敵にまわったりすることがあります。

同じ目的、同じ大義によって団結すべき人たちの中にあってすら、摩擦と誤解の犠牲となることがあります。が、たとえすべての人間が同じ仕事に従事していても、たった一つの視点から眺めるということは、所詮、無理なのです。

 他人がどう言っているか、どう考えているか、どうしようとしているのか、それはあなたには関係ないことです。大切なのはあなた自身が何を述べ、何を考え、何をするかです。神はあなたに他人の行為や言葉や思想にまで責任は取らせません。あなたの責任は、あなたに啓示されたものに照らして生きることです。

光が大きければ、それだけ責任も大きくなります。この神の規約には免除条項というものはありません。

 病気の人があなたのもとを訪れた時、その人は霊的に重大局面を迎えていると考えてください。その人はぎりぎりの決断を迫られているのです。転換期に来ているのです。霊的存在としての本来の生き方を開始するチャンスを目の前にしているのです。病気というのは霊的理解力をもたらすための手段の一つなのです。

そこでもしもあなたが身体の病気は治せても霊的自覚を促すことができなかったら、あなたの責任ではないにしても、その治療は失敗だったことになります。が、もしも魂に感動を覚えさせることができたら、もしも霊的意識に目覚めさせることに成功したら、あなたは医師にも牧師にも科学者にも哲学者にもできないことをなさったことになります。

 内部の神性のタネが芽を出す、そのきっかけを与えたことになります。神性が芽を出せば、魂が霊力の援助を得て顕現を開始し、真の自我を成就してまいります。訪れる人のすべてを救ってあげられないからといって落胆なさってはいけません。あなたのもとを訪れたということは、その人にとっての好機が訪れたということです。

あなたはあなたなりにご自分を役立てることに専念なさっておればよろしい」


 《治療家と患者とがそうした方がよいと思うのであれば、時間を定めて遠隔治療を行うことは可能です。しかし、治療能力が発達して一段と高い次元に到達すれば、それも不要となります。治療霊団との連絡がしっかりと出来上がります。そうなると、いつでも精神を統一して自我を引っ込め、代って治療エネルギーを流入させることが出来ます。

その考えに反対するわけではありませんが、たとえば十時なら十時にしか治療エネルギーが届けられないとすると、一つの制約を設けることになるのです》       
                        シルバーバーチ


      ※       ※        ※

 Kenneth Bannister(ケネス・バニスター)氏はメキシコで心霊治療とスピリチュアリズムの普及活動に献身している有能なスピリチュアリストである。そのバニスター氏がブラジルとフィリッピンで盛んに行われている〝心霊手術〟について一連の質問をした。その問答の様子を紹介する。


───心霊治療がどこまで功を奏するかは患者の霊的発達程度、カルマ、その他もろもろの要素がからんでおりますが、ブラジルとフィリッピンで行われている外科的な〝手術〟の場合はどうなのでしょうか。

 「それもすべて自然の摂理としての因果律の規制を受けます。魂に受け入れ準備が整えばその人は治療してくれる人との縁ができるように導かれていきます。そこでもしも治るべき段階に来ていれば治療は速効的に成功します。

しかし、どういう形での治療であろうと、たとえば腫瘍が取れてラクになったとしても、それだけで自動的に霊性が目覚めることになるわけではありません。霊的にその治療を受け入れる段階にまで到達したというまでのことです。それは同時に内部の神性の火花が大きな炎と燃えあがる、その点火の絶好機でもあるということです。

 ですから、心霊治療には二つの大切な要素が働いております。一つは、患者が霊的治療を受け入れる準備が整ったということ。それで治療を施す人のところへ導かれて来たわけです。もう一つは、奇跡的な治癒体験によって霊的自我が目を覚まし、霊的意識の光の中で生きるようになる、その絶好機が訪れているということです。

もしも霊的自我が目を覚まさなかったら、身体的な治癒は成功しても霊的には失敗だったことになります」


───その治療がいわゆる心霊手術によって行なわれるのは好ましいことでしょうか。

 「〝その果により樹を知るべし〟(マタイ)です。霊力の発現は〝時〟と〝場所〟による制約を受けます。霊媒現象の演出と霊力の顕現はすべて一つの計画に基づく協力態勢での働きかけの一環なのです。

 それは基本的にはそれが適用される民族の身体的、精神的ならびに霊的必要性に合わせて行われます。気候、教育程度、社会環境、理解力を考慮して、最も適切な形を取らねばなりません」


───心霊手術がブラジルとフィリッピンだけで行われて、イギリスで行われないのはなぜでしょうか。

 「霊的風土が異なるからです。精神的環境が異なるからです。繊細な霊的影響力に反応しない精神構造には、見た目にハデにつくやり方が要求されるのです。そのことはこのイギリスで百年ばかり前は霊的なことの理解に物理的心霊現象を必要としたのと似ています。

 今のイギリスにはもう必要ではありません。が、教育水準、文化の程度、価値基準が大きく異なる国においては今でも必要です。そこに住む人間の程度に合わさなくてはならないのです」


───でも、イギリスにもこのタイプの手術をしてもらいたがっていながらそれが叶えられずにいる人が非常にたくさんおります。気候というのはそんなに大切な要素なのでしょうか。

 「イギリスの大気よりも伝導性が高いという点において、気候が関係していると言えます。が、それが全てではありません。イギリス人には根本的に合わないという点から言えば、霊的なものも関係しております。問題はその人がどうしてもらいたいかではなく、その人にとって何が最も適切かということです。

せっかく高い霊的要素を備えていながら、低俗な物的レベルのものばかり求める人が多すぎます。これは進歩、あるいは進化の道ではありません」


───霊媒の純粋性が高ければ高いほど、その霊媒を通してより多くの治癒エネルギーが流れます。このことは心霊手術についても言えることでしょうか。

 「今の表現は正確でありません。純粋性が高いほど多くの治癒エネルギーが流れるわけではありません。純粋でない霊媒でも治癒エネルギーは流入します。純粋性が影響するのはそのエネルギーの〝質〟です。霊力は宇宙の創造主である大霊と同じく無限です。無限であるが故に無数の等級・変異・組み合わせがあります。


 個々の治療家は霊的に受け入れられる段階のものと波長が合います。それよりも高いものとは合いません。受け入れられないからです。ということは、本来ならばそれより低いものも求めようとしないものなのです。


 治療家が到達した発達段階、霊格によって規制されるのはエネルギーの〝質〟であって〝量〟ではありません」


───もし可能ならば全ての治療家が手術を施せるようになることは望ましいことでしょうか。

 「いえ、霊の道具のすべてにたった一つの道が用意されているわけではありません。望ましいのは画一性ではなく、逆に、万能性であり多様性です。霊は無限です。したがって顕現の仕方も無限の可能性を秘めています。その決定的要素となるのは治療家の受容性です。その意味では治療家の気質、育ち、教育、遺伝、環境、さらには前世までも関わっていることになります。

 そうした要素のすべてがからみ合って、治療家を通して注がれる霊力の種類と量とを規制するのです。治療家ぜんぶが同じ道を行くようにはなっていません。バイブルにもこういう言葉があります。〝霊の賜物は種々あるが、霊そのものは一つである〟(コリント)」


───心霊手術を要求されてそれが施してあげられない時はどうしてあげたらいいのでしょうか。

 「心霊治療というものを身体上の結果を見せるという点からばかり考えてはなりません。心霊治療は根本的には霊(魂)に関わることです。目的は患者の魂の琴線に触れることです。その魂の受け入れる機が熟していれば、精神も正常となり身体も正常となります。

本当の心霊治療は霊と精神と身体とが調和して機能するように正しい連繋関係にもっていってあげることです。それが健康であるということの本来の意味であり、健全な状態、融和した状態ということです」

《腫瘍を取り除くことが目的ではありません。本来の目的は魂の琴線に触れることです。その意味で霊のガン患者もいるわけです。そういう人は利己性その他の悪性の腫瘍がしつこく残っていて、それが取り除かれるまでは真の霊的進歩は望めません。地上生活で最も大切なのは霊に関わることです。霊が主導権を握るようになるまでは調和も健康も幸福も生き甲斐も得られません》        
シルバーバーチ


訳者注───本章を翻訳している最中に届いたサイキックニューズ紙(一九八七・六・十三)の一面トップに〝医学校、心霊治療に門戸を開く〟という見出しがあった。イギリスのある医学専門学校が心霊治療家グループに学校内での治療活動を認めたという画期的なニュースである。参考までに大要を紹介しておく。

 「意外な展開の中でミドルセックス医学専門学校が心霊治療家グループに一室を開放して治療活動を許す決定をした。

 またクリーブランドの心霊治療家グループは週一回だけロンドン西部のクリーブランド通りの一室を無料で使用してよいことになった。

 こうした展開の決定的要因となったのは一般開業医連盟と、当医学専門学校講師のコーエン博士の支持があったことである。そのコーエン博士がこう語っている。

 〝私がはじめて心霊治療家グループと接触したのはそのメンバーの一人であるルース・グリーン女史を通してのことでした。私は条件として医学的治療と抵触する行為はいかなるものも行わないことを確認しました〟  

 博士はまた心霊治療家が魔術や空中浮遊のような手品、要するに〝治す〟という信念以外のものは絶対に持ち込まないことを確約させているという。

 〝私が理解したかぎりでは、心霊治療家に私の学校を使用していただくのは理に適っているように思えました。心霊治療はとても大切です。分別と知性を具えた医師の一人として私は、医師は最大限の広い意味での治療を提供すべきだと考えるわけです。多くの患者が心霊治療で助かっているのですから〟

 コーエン博士は心霊治療の本質を理解するために治療家グループのミーティングに出席させてもらっている。


〝そのミーテングに出席して私は非常な感動を覚えました。孤独感に沈んだ人や世の中から見捨てられた思いをしている人たちに何かしら特殊なものを提供していたからです。また身体的に不自由な人たちも確かに治していると確信します〟

 博士もはじめのうちは金儲けが目的ではないかと思っていたという。ところがそこでは治療代を請求していないことが分かり、それがかえって治療を誠心誠意にさせていることを知ったという。

 〝治療家グループの感性の良さと看護ぶりに深い感銘を受けました。ほんとうに人のために尽くしておられ、それで我々も負けずに人のために尽くさねばと決心したわけです。

 正直言って医学校の関係者は当初どうしたものかと迷っておりましたが、心霊治療家にひさしを貸して母屋を取られることがないことを確認した上で、この私が全責任を負うということで踏み切ったわけです〟


 現在までのところ毎週一回水曜日の夕方に治療が行われている。コーエン博士によれば、これまで医師の間から何ら不平不満の声は聞かされていないという。博士は言う。

〝心霊治療を勉強することは医学者にもプラスになるのです。うちの学校がこうした大らかな態度を取ったのは良かったと思っています。いずれ将来は治療の成果について検証がなされるかも知れません。患者を治療前と治療後に診断をすればよいわけです〟

 それについてクリーブランド治療家グループのチーフであるグリーン女史は〝私たちはいかなるテストにもよろこんで応じる用意があります〟と述べ、さらに言う。

 〝ただ私たちは過激なまでに反対している学生には抗議したい気持ちです。彼らの感情的態度が良からぬ雰囲気を生み、治療に悪影響を及ぼすことが考えられるからです。

 別に心霊治療を信じてくれなくてもいいのです。開かれた心をもってくださればいいのです。医学生がテストに参加してくれれば、こんな素晴らしいアイディアはありません。学生に心霊治療の実際を理解していただくチャンスになると思うのです。コーエン博士も学生が見学することを希望していらっしゃいます〟

 現在のところ治療家グループは四人のレギラーで構成されており、すべて英国心霊治療家連盟の会員で、これに時おり他の治療家が参加する程度ということである。

Monday, June 8, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

  本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


第18章 多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない
  
結婚披露宴のたとえ話

一、イエスはたとえ話によってさらに語って言われた、「天の国は、王子の結婚披露宴を開こうとする王と同じである。その王は家来を遣わし、披露宴に招待した者を呼びに行かせたのだが、誰も来ようとしなかった。

そこで王は、別の家来たちを遣わし、招待客に次のことを伝えるように命令した、『晩餐の用意が出来ました。私の牛と山羊をみな料理して、全ての準備が整いました。披露宴へお出で下さい』。

しかし、招待された者たちは、それに気を取られる様子もなく、ある者は自分の畑へ、ある者は商売をしに出掛けてしまった。又別の者たちは、遣わされた家来を捕え、大いに侮辱した後に殺してしまった。それを知って王は怒り、軍隊を送って人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ってしまった。

そして家来たちに言った、『結婚披露宴は完全に準備が整っているが、そこに招待していたのはふさわしい者ではなかった。ゆえに、道の交差するところへ行き、そこで出会うすべての者を披露宴に連れてきなさい』。家来たちは道へ出て行き、善い者も悪い者も、出会う者はすべて連れてきた。披露宴の席は客でいっぱいになった。

 王が入ってきて、テーブルについた人々を見回すと、そこには礼服を着ていない者が一人いた。その者に向かって王が言った、『友よ、どうして礼服を着ないでここに来たのですか』。

しかしその者は黙っていた。すると王は家来に言った、『この者の手足を縛り、外の闇へ放りだせ。そこで涙を流し、歯を鳴らして震えるがよい』。呼ばれる者は多いのですが、選ばれる者は少ないのです。(マタイ 第二十二章 1-14)
 

二、不信心な者はこの話を幼稚で単純だと笑い、なぜ披露宴に出席するのにそれ程の困難があるのか理解できず、更には招待された人がなぜ、招くために家の主人より送られてきた人たちを殺してしまうまでに抵抗するのか、ということが理解できません。

そのような者は、「たとえ話というのはもちろん象徴的なものです。しかし、そうであったとしても、真実としての限界を超えない必要がある」というでしょう。

 その他のたとえ話や、もっとも巧みに作られたおとぎ話にしても、それらから装飾的な部分を取り除き、隠された本当の意味を見出せなければ、同じようなことが言えるかもしれません。イエスはそのたとえ話を、生活の最もありふれた習慣を題材として創り、その話を聞かせる人々の特徴や習わしに適応させました。

それらの話の大半は、一般大衆の間に霊的な生活の考えを浸透させることを目的としており、それらを解釈する時に、こうした視点から見なければ、多くの話はその意味において理解不能であるかのようになります。

 ここで扱うたとえ話の中でイエスは、すべてが喜びと幸せに満ちた天の国を披露宴に譬えています。最初の招待客のことにふれ、最初に神にその法を知るように招かれたヘブライ人に注意をうながしています。

王に遣わされた家来たちとは、真なる幸せの道に従うように唱えた預言者たちです。しかし、その言葉はほとんど聞き入れられませんでした。その注意は軽んじられました。例え話の中の家来たちのように、多くの者は本当に殺されました。

招かれながらも言い訳をし、畑や商売の面倒を見に行かなければならないというのは世俗的な人々で、地上の事柄につかり、天の事柄に対しては無関心でい続ける人たちのことを象徴しています。

 当時のユダヤ人の間では、彼らの国がその他のすべての国々に対して優越していなければならないと信じられているのが一般的でした。実際、神はアブラハムの子孫が全地上を覆うことを約束しませんでしたか。しかし、いつもそうであるように、真意を推し量ることなく形式だけをとらえ、彼らはそれが物質的、物理的な支配のことだと信じたのです。

 キリストの到来以前、ヘブライ人を除くすべての民族は偶像崇拝をしており、多神教でした。上位の人々から庶民に至るまで、神の唯一性という考えを心に抱いたとしても、それは個人的な考えとしてとどまり、どこにおいても基本的な真実として受け入れられることはなく、もしくは、そうした考えを持つ者は、神秘のベールのもとにそうした知識を隠していたために、一般大衆にそうした考えが浸透することはありませんでした。

ヘブライ人は公に一神教を始めた最初の民族です。神は彼らに対して最初はモーゼを通じて、その後イエスを通じて、その法を伝えました。その小さな焦点から世界中に向けて溢れだす光が放たれ、異教に打ち勝ち、アブラハムの霊的な子孫を「天の星の数ほど」もたらすことになるのです。

しかし偶像崇拝を放棄しながらも、ユダヤ人たちは道徳の法を軽んじ、形式的な儀式と言うより容易な手段に執着してしまったのです。悪は頂点に達しました。国は奴隷化されるばかりか、党派によって崩壊し、宗派に分裂しました。不信心が聖地にまで及んだのです。

そしてその時イエスが現れましたが、イエスは神の法の遵守を呼び掛け、未来の命へ繋がる新しい地平線を彼らに広げるために送られたのでした。全世界の信仰の大宴会に招待された最初の者たちは、天から送られた救世主の言葉を拒み、生贄にしたのです。

そしてそれにより、彼らのイニシアチブによって得ることのできた善い結果を失うことになってしまいました。

 しかしそうであるからといって、そうした状況になったことについてその民族全体を非難することは不適当です。その責任はおもに、自尊心と狂信によって国を犠牲にした者たちや、その他の不信心な者であるファリサイ人やサドカイ人にありました。

ゆえに、結婚披露宴への出席を拒んだ招待客とイエスが同一視するのは、誰よりも彼らなのです。

「道の交差するところへ行き、そこで出会うすべての者を披露宴に連れてきなさい」と付け加えています。このように言うことによって、神の言葉がその後、異教徒であれ偶像崇拝者であれ、全ての民族に伝えられたことを述べ、その言葉を受け入れれば彼らが宴会に参加することが許され、当初の招待客の場所が与えられることに触れたのです。

 しかし、誰でも招待されるだけで事足りるわけではありません。自分がキリスト教徒であるというだけでは足りず、テーブルについて、天の宴会に参加するだけではいけないのです。なによりも最初に明白な条件として、礼服を着ていること、すなわち、清い心を持ち、霊に従って法を守ることが必要なのです。

ところで、その法のすべては次の言葉に要約されます。「慈善なしには救われません」。しかし、神の声を聞くあなたたちすべての間でも、それを守り有益に用いる者の何と少ないことでしょうか。

天の王国に入るに相応しい者の何と少ないことでしょうか。故にイエスは言ったのです。「呼ばれる者は多いのですが、選ばれる者は少ないのです」。


 狭き扉
三、狭き扉より入りなさい。なぜなら堕落の扉は広く、そこへたどり着く道は広く、多くの者がそこから入るからです。命に至る扉の何と狭いことでしょう。そこへたどり着く道は何と窮屈なことでしょう。そして、その扉に出合える者の何と少ないことでしょう。(マタイ 第七章 13,14)


四、ある人がイエスに尋ねた、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。イエスは人々に答えて言われた、「狭き扉より入るように努力してください。実際、そこを通ろうとしても、通ることのできない人が多いでしょう。

家の主人が入り扉を閉めた後、あなたたちが外から扉をたたき、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人はあなたたちに答えるでしょう、『あなたがどこの人であるか私は知りません』。あなたたちは言うでしょう、『あなたと飲食を共にしました。あなたは広場において私たちを指導してくれました』。

主人は答えるでしょう、『あなたたちはどこの人であるか、私は知りません。非道を行う者は私から遠ざかりなさい』。

 あなた方は、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国に入っているのに、自分たちは外へ投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするでしょう。

東からも西からも、北からも南からも多くの者が神の国の宴会に参加するでしょう。こうして後の者で先になる者があり、また、先の者で後になる者もあるのです」(→第二十章 2)。(ルカ 第十三章 23-30) 


五、堕落の扉は広い。なぜなら、悪しき感情は多く、大抵の人は悪の道を進むからです。救いの扉は狭い。なぜなら、そこを通ろうとする者には、自分自身の悪しき傾向に打ち勝ち、数少ない者が受け入れることのできる事柄を甘受するための、自分自身に対する多大な努力が強いられるからです。

それが、「多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない」と言う金言の補足です。

 地上における人類の状況とはそのようなものですが。それは地球が試練の世界であり、悪の方がより広く支配しているからです。それが変化した時には、善の道を通る者の方が多くなることになります。

したがって、これらの言葉は、絶対的な意味によってではなく、相対的な意味において解釈されるべきです。もしその悪の状態が人類の普通の状態であったなら、神はその被造物の大多数に堕落を強いることになりますが、全正義で善意である神を知る者にとって、それは受け入れられない推測です。

 しかし、もし全人類が地球だけに追いやられており、その魂に前世がなかったとしたら、現在、そして未来においてかくも悲しい運命が与えられた人類は、いったいどんな罪を犯したのでしょうか。なぜ、あなたたちの足元にはそれほど多くの妨げが置かれているのでしょうか。

もし魂を待つ運命が、死の直後に永遠に定められるのだとしたら、なぜほんの少しの者にしか通ることのできない狭い扉がなければならないのでしょうか。この様に、一回のみの人生しかなかったとしたら、人類は常に神の正義に対して矛盾を感じることになるでしょう。

魂に前世が存在することや、世界の複数性によって地平線は広がります。信心の最も暗い部分への光となります。現在と未来は過去とともに一体化し、それによってのみキリストの教えの全英知、全真実、全深意を理解することができるようになります。


 主よ、主よ、と言う者がみな天の国に入るわけではない
六、私に「主よ、主よ」と言う者すべてが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです。その日多くの者が私に言うでしょう、「主よ、主よ、あなたの名において私たちは預言しませんでしたか。

あなたの名において悪魔を追いやりませんでしたか。あなたの名において多くの奇跡を起こしませんでしたか」。

その時、私は大きな声で言うでしょう、「あなたがどこの人であるか私は知りません。非道を行う者は私から遠ざかりなさい」(マタイ第七章21-23)


七、ゆえに、私の言葉を聞き、それを実践する者は、岩の上に家を建てた賢い者に喩えることができるでしょう。雨が降り、川があふれ、風が吹いた。それでも家は、岩の上に建てられているので壊れることはありませんでした。

しかし、私の言葉を聞き、それを実践しない者は、砂の上に家を建てた愚かな者と同じです。雨が降り,川があふれ、風が吹き家を打つと、その家は壊れました。その壊れ方は激しいものでした。(マタイ 第七章 24-27 ルカ 第六章 46-49)  


八、これらの最も小さな戒めを破り、人にそれを破るように教える者は、天の国において最後の者と呼ばれるでしょう。しかし、それを守り、教える者は、天の国において偉大な者と呼ばれるでしょう。(マタイ 第五章 19)


九、イエスの使命を知る者はみな「主よ、主よ」といいます。しかし、その教訓に従わないのであれば、師、もしくは主と呼ぶことが、どんな役に立つというのでしょうか。

外見的な献身の行動によって敬いながらも、同時に自尊心、エゴイズム、貪欲さ、その他の感情によってその教えを犠牲にする者はキリスト教徒でしょうか。毎日祈って過ごしながらも、少しも向上せず、同胞に対して寛大になったり慈善深くなったりすることのない人たちはイエスの使徒でしょうか。いいえ。

それは、祈りが口先にあっても心の中にはないファリサイ人たちが使徒ではないのと同じです。形式によって人間にそのことを印象付けることはできても、神に印象付けることはできません。

「主よ、あなたの名において預言を、すなわち教えを説きませんでしたか。あなたの名において悪魔を追い払いませんでしたか。あなたと飲食を共にしませんでしたか」とイエスに言ったとしても無意味なのです。

イエスは彼らに答えます。「私は、あなたたちが誰なのか知りません。あなたたちは非道を行い、行動が口で言ったことに反し、あなたの隣人の悪口を言い、やもめたちを食い物にし、姦淫を行いました。心から反感や憎悪をしたたらせ、私の名においてあなたたちの兄弟から血を流させ、涙を乾かす代わりに流させる者は私から遠ざかりなさい」。

神の国は、優しく、謙虚で慈善深い者たちのためにあるため、あなたたちは涙を流し歯ぎしりをすることになります。言葉を多くとなえたり、ひざまずくことによって主の正義を曲げることを期待してはなりません。あなたたちの唯一の道である愛と慈善の法の誠実な実践の道は開かれ、あなたはその恩恵を被るのです。

 イエスの言葉は真実であるがゆえに永遠です。天の生活への通行免状であるばかりか、地上の生活における平和、平安、安定の保証なのです。人類がつくる政治的、社会的、宗教的団体で、これらの言葉を支える団体が、岩の上に建てられた家のように安定しているのはこうした理由からです。

人々はその中に幸せを感じることができるので、それらの言葉を守るのです。しかし、それらの言葉に違反する団体は、砂の上に建てられた家のように、革新の風と進歩の川によって取り壊されてしまうでしょう。


  多くを受けた者は多くを求められる
十、主人の意志を知りながら、主人が望むとおりに用意もせず勤めもしなかったしもべは、厳しく罰せられるでしょう。

しかし、その意志を知らずに、罰に値するようなことを行った者は、より軽く罰せられるでしょう。多くを与えられた者には多くが求められ、より多くを託された者に対してはより大きな責任が問われるのです。(ルカ 第十二章 47,48)


十一、イエスは言われた、「見えない者が見えるようになり、見える者が見えないようになるよう審判を下すために、この世にやってきました」。

イエスと共にいたファリサイ人たちは、それを聞いて質問をした、「私たちもまた盲目なのですか」。イエスは答えて言われた、「もしあなたたちが盲目であったなら、罪はないでしょう。

しかし、今あなたたちが『見える』と言い張るところにあなた方の罪があるのです」。(ヨハネ 第九章 39-41)


十二、これらの金言は、霊たちの教えに特に当てはまります。キリストの教えを知りながらそれを守らぬ者は、誰であれ責任が問われます。しかしながら、それを含む福音がキリスト教の宗派の中にしか広められていないばかりか、その宗派の中でさえもそれを読まない者が何と多く、また読んだとしてもそれを理解できないものが何と多いことでしょうか。

結果的にイエスの言葉そのものは多くの人にとって無駄になっています。霊たちの教えは、これらの金言を別の形で再生し、発展させ、それに対する解説を加え、誰の手にも届くようになっており、特に相手が限られたものではありません。

あらゆる人が、教養があろうがなかろうが、信仰があろうがなかろうが、キリスト教であろうがなかろうがその金言を受け入れることができ、また霊たちはあらゆる場所で通信をします。直接受けようが、誰かを介して受けようが、それを受ける者はその無知を言い訳にすることはできません。

教育を受けなかったことのせいにすることも、その例えの曖昧さのせいにすることもできません。

ゆえに、これらの金言を自分の向上のために利用せず、それが心に響くことなく面白く興味深いものだと驚き、無益さ、自尊心、エゴイズム、物質的なものへの執着を減らすことも、自分の隣人に対して善くなることもない者は、真実を知る手段をより多く持っているがために、より責任を問われることになります。

 善い通信を受ける霊媒で、悪に固執する者は、自分自身に対する非難を多くの場合は書いていることになるのですから、より注意をしなければなりません。なぜなら、自尊心に目をつむらせることなしには、霊が自分に通信を向けていることを認識することが出来ないからです。

書き留めたり、他人に読んだりする教えを自分のために受け止めることなく、それを他人に当てはめることばかりに気を取られている人には、「隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の目の中にある杭が見えない」と言うイエスの言葉が当てはまります。(→第十章 9)

「盲目であったなら、罪はないでしょう」と言う言葉によってイエスは罪の責任とは、その人が持つ知識に応じていることを意味したかったのです。そしてその国で最も博識であると考えられ、実際そうであったファリサイ人たちは、無知な国民よりもより責任があると神の目には映ったのです。

 今日、多くを受けた者には多くが求められると、スピリティストに対して言うことができます。しかし、それをうまく利用した者には多くが与えられます。

 誠実なるスピリティストの払う最初の注意は、霊たちが与える忠告の中に、自分に対して述べられたことが何かないだろうかと見つけようとすることでなければなりません。

 スピリティズムは「呼ばれる者」の数を増やします。そしてそれがもたらす信心によって「選ばれる者」の数も増やすことになるのです。





     霊たちからの指導

  持つ者に与える
十三、イエスに近づくと、使徒たちは言った、「なぜ彼らにたとえ話で伝えるのですか」。答えて言われた、「なぜなら、あなたたちには天の国の謎が解き明かされましたが彼らには解き明かされていないからです。おおよそ、持つ者により多くを与えれば、より豊かになりますが、持たない者からは、持つものさえも奪われるでしょう。

だから彼らにはたとえ話で伝えるのです。それは彼らが、見えても何も見ず、聞こえても何も聞かず、また理解しないからです。彼らには次のように言ったイザヤの預言が当てはまります。『あなたたちはその耳で聞くが何も理解せず、その目で見るが何も見えない』」(マタイ 第十三章 10-14)


十四、聞くことに大いに注意を傾けなさい。そうすれば、他人を量る時に用いる秤であなたたちも量り与えられ、さらに増し加えられるでしょう。なぜなら、すでに持つ者には与え、持たぬ者からは持つものさえも奪われるからです。(マルコ 第四章 24,25)


十五、「持つ者に与え、持たぬ者からは奪う」。あなたたちは逆説として映るこの偉大なる教えについて熟考してください。与えられる者とは神の言葉を有する者のことを意味し、神の言葉にふさわしくなろうとすることによってのみそれを受けるのです。

なぜなら、主はその慈悲深い愛により、善へ傾く努力を励ますからです。辛抱強く勤勉なこうした努力は主の恩恵を引きつけ、それは磁石のように、進歩する上で善いことである多くの恵みを自分に呼び、それは労苦の休息が頂上に待ち受ける聖なる山をあなたたちが登ることができるように、あなたたちを強化してくれます。

 「持たぬ者や少ししか持たぬ者から奪う」。この言葉は比喩的に表現された対照的なものとして理解してください。神はその被造物から、それを行うように仕向けた善を奪うことはありません。目は見えず、耳も聞こえない人類よ、あなたたちの知性と心を開いてください。

霊によって見、魂によって聞き、あなたたちの目に主の正義が光り輝くことを可能にしたあの言葉を、不徳で不公平な方法で解釈しないでください。少しを受けた者から奪うのは神ではありません。

霊自身が、その道楽と怠慢のために、持っているもの、つまり心に落ちた小さな種を、保持し、増やし、そこから多くを生ませることを知らないのです。

 父が与えたり、相続によって与えられた畑を耕さない者は、その畑の植物が寄生植物に覆われるのをみるでしょう。その時、その人が準備しなかった収穫を奪うのは父でしょうか。管理が足りなかったのであれば、その畑で多くをもたらしたであろう種が死に、それらが何ももたらさなかったことを責める相手は、その父でしょうか。

いいえ、違います。全てを準備してくれた人や譲り受けたものを非難するのではなく、自分の惨めさの本当の原因を責めて悔やみ、勇気を持って生産的な労働に取り掛かってください。

恩知らずな土地を、意欲の努力によって開拓してください。後悔と希望の助けを借りて地面を耕し、その上に悪の中から仕分けて取り出した善の種を自信を持って蒔いてください。

あなたの愛と慈善の水をまけば、愛と慈善の神は、すでに受けた者に対して与えるでしょう。そして、その努力が成功の冠を受け、一粒の種が幾千もの種を生むのを見ることになるでしょう。労働者たちよ、元気を出してください。

あなたたちの鍬とくわを手に取って下さい。あなたたちの心を耕してください。毒草を引き抜き、主があなたたちに託してくれた善き種を蒔けば、愛の露が慈善の果実をもたらすことになるでしょう。(ある親しい霊 ボルドー、1862年)


  行いによりキリスト教徒であることを知る
十六、「『主よ主よ』と言う者全てが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです」。

 スピリティズムを悪魔の仕業と考え、拒絶する人たちは、師のこの言葉を聞いてください。耳を開いてください。聞く時が来たのです。

 従順な使徒となるためには、主に決められた衣を持ってくるだけで十分なのでしょうか。キリストの使徒となるためには、「私はキリスト教徒です」と言うだけで事足りるのでしょうか。真なるキリスト教徒を探す時、それをその行いによって知ることができます。

「善い木に悪い果実はなりませんし、悪い木には善い果実はなりません。善い果実を結ばない木は切り倒され、火に投じられます」。これらは師の言葉です。キリストの使徒たちよ、これらの言葉をよく理解してください。

強大で、葉の生い茂る枝が、世界の一部には木陰を与えながらも、その周りに集まる者のすべてを宿らせるには至らないキリストの教えの木は、どんな実を結ばねばならないのでしょうか。 命の木がもたらす果実とは、命の果実、すなわち希望と信仰の果実です。

キリストの教えは、何世紀も前にそうしたように、これらの神聖なる美徳を説き続けます。その果実を広げようと努力しますが、それを拾う者の何と少ないことでしょうか。木は常に良いのですが、庭に働く者たちが悪いのです。自分たちの考えに合わせて解釈し仕立てました。

自分たちの必要性に応じて剪定しました。摘み取り、切り戻し、切り捨ててしまいました。役立たずと言うことになれば、その枝はもう実を結ばないのですから、悪い実を結ぶこともありません。

喉を渇かした旅人がその枝のもとに立ち止まり、力と勇気を再び与えてくれる希望の果実を求めても、嵐を予告する乾いた枝葉しか見えません。命の木に命の果実を求めても、それは無駄骨に終わります。乾いた葉が落ちてくるだけです。男は手で木をあまりに揺すったために、枯れてしまいました。

 だから、愛する者たちよ、耳と心を開いてください。永遠の命を与えてくれるその命の木を育んでください。まだその木が神の果実を多く結ぶのを見ることが出来るために、それを植えた者は、あなたたちがそれを愛を持って扱うように呼びかけています。

キリストがその木をあなたたちに預けたとおりに、それを守ってください。切り倒してはいけません。その木は宇宙に広く木陰をもたらそうとしているのです。

その枝葉を切ってはいけません。その有益な果実は豊富に落ち、旅の終わりまでたどり着こうとする飢えた旅人の食物となります。これらの果実を蓄え、ため込み、腐らせ、誰の役にも立たなくなってしまうようにしてはいけません。

「多く者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない」。物質的なパンを独占する者がいるのと同様に、人生のパンを独占する者がいます。その一人に数えられないようにして下さい。良い果実を結ぶ木は、すべての人にその果実を与えなければなりません。ゆえに飢えた者を探し求めに行って下さい。

彼らをその木の下へ連れて行き、その木がもたらす保護を彼らと分かち合って下さい。「木いちごの木にぶどうはなりません」。兄弟よ、道に生える茨をあなたたちに教える者たちから遠ざかり、人生の木陰にあなたたちを導いてくれる者の後をついて行って下さい。

 至上の正義である神聖なる救世主は、すでに伝え、その言葉は消えることはありません。「『主よ主よ』と言う者すべてが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです」。

神の恵みである主があなたたちを祝福してくれますように、光の神があなたたちに輝きを与えてくれますように。人生の木が、その果実を沢山あなたたちに与えてくれますように。信じ、祈ってください。(シモン ボルドー、1863年)

シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch
by Stella Storm


六章 霊能者の責任

《他人(ひと)のためになることをする人は、いつかはきっと他人から有難いと思うことをしてもらうものです。収支決算をしてみると必ず黒字になっております。一身を捧げている霊媒を私たちは決して見捨てるようなことはいたしません。授けられている霊的能力を最大限に発揮できるよう、常に鼓舞し勇気づけております》
                               シルバーバーチ


 英国が生んだ大霊媒の一人で、シルバーバーチの古くからの馴染でもある ヘレン・ヒューズ女史が他界するわずか二、三か月前のことだった。永いあいだ女史と人生を共にし、そして今、他界を目前にしている女史を懸命に介護している女性が、その日の交霊会に招かれていた。その女性に向かってシルバーバーチがこう語りかけた。

 「ヒューズ女史は今ゆっくりと終焉に近づきつつある弱り切った肉体に閉じ込められた偉大なる霊です。もはや施す手だてはほとんどありません。肉体というのは、生長して本来の機能を発揮しはじめた時点から霊への拘束力を強めていくものです。が、女史はその生涯で見事に霊的自我を発揮されました。

 地上に生を受けた目的を立派に果たされました。数え切れないほどの人々の沈んだ心を奪いたたせ、親族を失った人々の涙を拭い、涙と悲しみと苦悩しか見られなかった顔に確信の笑みをもたらしてあげました。

女史はいついかなる時も霊の力を裏切るようなことはしなかったという自信がありますから、これまで歩んできた永い奉仕の道を満足して見つめることがお出来になります。

 女史こそ霊の道具はかくあるべきという最高の規範です。言葉によっても、行為によっても、あるいは心に宿す思念によっても、託された聖なる信頼を裏切るようなことは何一つなさっておりません。

人々に歩むべき道を教え、やれば到達できる水準を示されました。霊の力は、その地上への顕現に協力してくれる献身的で無欲な道具さえあれば、こういうことまで出来るのだということを見事に示されたのです。

 確かに女史は世俗的な意味では裕福ではないかも知れませんが、霊的な意味では裕福そのものであり、倦むことなく続けられた永い奉仕の人生で身につけられた輝かしい宝石類を沢山お持ちです。

それは永遠に輝きを失うことはありません。どうか私をはじめとして、女史の業績を尊敬し感謝している、本日ここにお集まりの皆さんの気持ちをよろしくお伝えください。

 これまでに女史が美事に発揮し実証してきた霊の力は、これからも女史のもとを離れることはありません。休みなく輝き続けることでしょう。女史ご自身もそれを辺りに感じて、いつもその真っ只中にいることを自覚されることでしょう。

女史のような方がもっともっと大勢いてくれれば、私たちの仕事もどんなにかラクになるのですが、残念ながらイエスが言った通り〝招かれる者は多し、されど選ばれる者は少なし〟(マタイ)です」

 同じ日、ともに霊能者である夫妻が招かれていた。英国人と米国人で、今は米国に住んでおられる。その二人にシルバーバーチはこう語った。

 「霊的資質は永いあいだ潜在的状態を続け、魂が十分に培われた時点でようやく発現しはじめるものです。それが基本のパターンなのです。すなわち悲しみや病気、あるいは危機に遭遇し、この物質の世界には何一つ頼れるものはないと悟った時に、はじめて魂が目を覚ますのです。

 何一つ煩わしいことがなく、空は明るく静かに晴れ上がり、すべてがスムーズにそして穏やかに運んでいるような生活の中では、真の自我は見出せません。すばらしい霊的覚醒が訪れるのは、嵐が吹きまくり、雷鳴が轟き、稲妻が光り、雨が容赦なく叩きつけている時です。

 お二人が歩まれた道もラクではありませんでした。しかし、だからこそ良かったのです。困難にグチをこぼしてはいけません。困難は霊の拍車です。霊的知識をたずさえてそれに立ち向かうことです。霊の力は物質の力に勝ります。

問題に遭遇した時はいったん足を止め、霊的知識に照らして判断し、どんなことがあってもお二人が担って生まれてこられた目的から目をそらさないでください。

 お二人はこれまでずいぶん多くの人々のお役に立ってこられましたが、これからもまだまだお役に立たれます。まさに奉仕の道一筋に生きておられます。教会の高位高僧が───まじめな気持からではあっても───行っていることよりはるかに多くの仕事をなさっておられます。

何も知らずに生きている人たちに霊の真理をもたらしておられます。地上に存在している目的を成就する上で力になってあげておられます。霊的本領を発揮する上で力になってあげておられます。霊的知識を普及しておられます。こうしたことはみな神聖な仕事です。そういう仕事を仰せつかったことを誇りに思うべきです。

 人生は難問だらけです。バラの花は少なく、トゲだらけです。しかし、あなた方を導いている力は宇宙を創造したのと同じ力です。無限の威力を秘めております。物わかりの悪い人を相手にしてはいけません。心ない中傷や嫉妬は無視なさることです。まったく下らぬことです。

 本来の責務を全うしていない霊能者のことは気の毒に思ってあげればよろしい。所詮それは当人の責任なのです。あなた方はあなた方なりに精いっぱい責任を果たしておればよろしい。力量以上のものは要求されません。

力のかぎり大霊の道具としての自分を有効に役立てることです。少しでも多くの霊力があなたを通して地上に顕現し、それを必要としている人たちのために力と導きと愛をもたらしてあげられるように努力してください。

 地上には為さねばならないことが沢山あります。今の時代はとくにそうです。邪悪な勢力がのさばっています。利己主義が支配しています。既得権力が崩れ行くわが城を守ることに懸命です。

こうした中であなた方がたった一つの魂でも真の自我に目覚める上で力になってあげれば、それは大へん価値のあることです。ひたすら前向きに進まれることです。

 われわれが手を取り合うことによって、援助を必要とする人々の力になってあげることができます。受け入れる用意のない人に押しつけてはなりません。みずから求めてわれわれの手の届く範囲にまで訪れた人々に気持ちよく手を差しのべましょう。

その人たちなりの自我の覚醒を促す理解力を身につけてくれるように、われわれが力になってあげましょう。かくして霊の力が広がり続けることになります。

 本日お二人が揃ってお出でくださったことを私の方こそ光栄に思っております。と申しますのは、お二人には大へん高級な背後霊団が控え、お二人を道具として使用しているからです。その威力はこれまでの成果で十分に証明されております。

あなた方は霊力の働きの生きた手本です。お選びになられた道を着実に歩んでおられ、その結果として、縁あって訪れる大勢の人たちの力になってあげていらっしゃいます。

 私から改めて申し上げることは何もありません。お手にされた知識に私から付け加えるものはございません。私の世界でも極めて霊格の高い、そして数々の霊的業積を積んで尊敬されている霊団から授かっておられます。が、こうして別の人間の口からお聞きになるのも、それなりの得心を与えてくれるものです。

 同志として、また協力者として、私がお二人に申し上げておきたいことは、お二人ほどの霊的才能をもってしてもなお、お二人を取り巻いている莫大な霊力の実在を感じ取ることはできないということです。その実体のすべてを把握することは不可能なのです。

 あなた方が実証しておられるのは全生命が基盤としている基本的実在です。人間がみずからを、そしてこの世を救うことのできる唯一の道を公開していらっしゃるのです。霊的実在───生命の世界にあって唯一の不変の要素───を実証することができるということです。

 うっかりすると方角を見失いがちな世界にあって、あなた方は物質中心思想という悪性のガンと闘っている霊の大群に所属しておられます。唯物思想は何としても撲滅しなければならない悪性の腫瘍です。これが人類を肉体的にも精神的にも霊的にも病的にしているのです。

 既成宗教にはそれを撲滅する力はありません。なぜなら、そこには霊力というものが存在しないからです。一時的には勢力を伸ばすことはあっても、霊力というものを持ち合わせません。大霊からの遺産としての霊的資質がもつ影響力に欠けております。

 その点あなた方は喪の悲しみの中にある人には死が有難い解放者であること、魂に自由をもたらすものであり、いずれはその人と再会できるという事実を立証してあげることができます。愛さえあればその真実性を実証してみせることが出来ます。それは今の教会にはできません。

 また医者のすべてが〝不治〟 の宣告を下した患者にも、あなた方はなお希望をもたらすことができます。心霊治療によって、全てではないにしても、健康を回復してあげることができます。たとえ全治はできなくても、痛みを和らげ、快方へ向かわせ、活力を与えることが出来ます。

万一それも不可能となり死を待つばかりという場合でも、その死に際して魂を肉体から安らかに離れるようにしてあげることが出来ます。それも心霊治療家の大切な仕事です。

 幻影ばかりを追いかけている世界において、あなた方は真理の存在場所を教えてあげることが出来ます。口で説かれることを実地に証明してみせることが出来ます。それは誰にでもは出来ないことです。偉大な仕事です。神聖な仕事です。霊による仕事です。大変な奉仕の仕事です。

 時にはうんざりさせられることもあるに違いありません。この物質界にあって霊の僕として働くことは容易なことではありません。強い味方と思っていた人が、愚かで強情な見栄から、敵にまわってしまうこともあります。

そういう人は気の毒に思ってやらねばなりません。せっかく光を見ていながら暗闇の道を選べば、その人はそれ相当の責任を取らされることになるのですから。

 お二人は霊の使節なのです。神の特使なのです。地上のいかなるものにも勝る力の代理人です。そして、それ故に又、お二人の責任も大きいということになります。

 私から申し上げることは、これまで通り突き進みなさい、ということだけです。ラクではないでしょう。が、進化しつつある魂はラクを求めないものです。挑戦を求めるものです。それが内在する力を表面に引き出し、それだけ霊的に強力となっていきます。苦難は必ずそれだけの甲斐があるものです。なさねばならないことが沢山あります。

手を差しのべてあげなければならない魂が大勢います。道を見失っている人が沢山います。そしてそういう人たちはお二人のような霊的真理に目覚めた方にしか救えないのです。

 これからも失敗はあるでしょう。何度もしくじることでしょう。だからこそ地上に生まれてきたのです。もしも学ぶことがなければ、この地上にはいらっしゃらないでしょう。地上は子供が勉強に来る学校なのです。完全な霊だったら物質に宿る必要はないでしょう。

 お二人が住んでおられる巨大な大陸(米国)では、宇宙の大霊である神よりも富の神であるマモンの方が崇拝の対象として大いにもてはやされています。だからこそお二人にはいろいろとしなければならないことがあるわけです。

どこで仕事をなさっても、必ずそこに霊の勢力が待機し、霊の光が輝いています。縁あってお二人のもとに連れてこられる魂の力となってあげることになります」


 会の終了後その感激をご主人が次のような文章に託された。

《予想していた通り、シルバーバーチ霊は深遠な叡智と大へんな謙虚さを感じさせた。語られたことは私たち夫婦にとって、いちいち身にしみて理解できることばかりだったが、私にはその裏側にもっと多くを語る実在感が感じられた。

見ていると、霊媒のバーバネル氏の存在は完全に消えてしまって、シルバーバーチ霊が支配しきっているという感じがした。この道の仕事は確かにうんざりさせられることがありがちである。シルバーバーチ霊は目的への信念を回復させる手段を提供してくれた》

 その日はもう一人、有名な霊媒で心霊治療家としても活躍している人(名前は公表されていない───訳者)のお嬢さんが招待されていた。親の仕事ぶりを見て自分も独自のスピリチュアリストチャーチを設立したいという願望を抱いている。そのことを念頭においてシルバーバーチがこう語った。

 「本日はあなたが最後になってしまったことをまず赦していただかねばなりません。でも〝後なる者が先になるべし〟(マタイ)という名言を述べた先人もいます。あなたを後まわしにしたのは決して礼を失したわけではありません。このほうが私の仕事ぶり、通信の仕方をよく見ていただくことになって勉強になると考えたのです。

 それはそれとして、本日こうして初めてお会いしてみて、あなたが少しも〝場違い〟の感じがしないのは、あなたが幸いにしてすでにこの道の初歩的教育を受けておられるからです。他の人たちにとって不思議で信じられないことが、あなたにとっては至って自然に思われるのです。

と言って、あなたもそれをそう簡単に信じたわけではありません。独立心に富むしっかりした魂はラクを求めないものです。あなたはあなたなりの道を切り開かねばなりませんでした。独自の道をたどり、自分の理性の命ずるところに従うには、それなりの独立心というものを発揮しなければなりませんでした。

 あなたも非常に恵まれたお方です。背後には私と親しい間柄にある偉大な霊が控えていて、あなたはその霊から多くの叡智をさずかっておられます。自覚なさっておられる以上に援助を受けておられます。

なのに尚あなたは現状にいらだちを覚え、ご自分の活動の場を設立したいという願望に燃えていらっしゃる。しかし今はまだその時期ではありません。あなたにはまだドアは開れておりません。が、いずれ開かれる時が来ます。

 ここにお出の皆さんはすでにご存じのことですが、あなたにも、ひとつ、人生の秘訣をお教えしましょう。

 ドアをノックしても開けてくれない時は無理してこじ開けようとしてはいけません。軽く押してみるのです。それでもし開いたら、あなたの進むべき道がそこにあるということです。閉め切られた道は通れません。絶対に開かないドアを叩き続けて無駄な時間と労力を浪費している人間が多すぎます。

 あなたは霊の力がどういう具合に働くかをすでにご存知です。あなたに必要なものが十分に用意されれば、あとはドアをそっと押してみるだけでよくなります。それまではどこにいても人のためになることを心掛けることです。手を差しのべるべき人はどこにでもいます。

けっして大げさな催しをする必要はないのです。悲しみの中にある人にやさしい言葉を掛けてあげるだけでもよろしい。沈んだ人に肩にそっと手を掛けて力づけてあげるだけでもよろしい。病の人に早く治りますようにと祈りの気持ちを送ってあげるだけでもよろしい。むろん実際に治療してあげるに越したことはありません。

 そうしたことがそれまで近づけずにいた霊の力とのつながりをもたせることになるのです。あなたがその触媒となるのです。その結果、あなたの行為が影響力の行使範囲をわずかでも広げたことになります。

 あなたの前途にはいろいろなことが用意されております。ですから、一日一日をすばらしい霊的冒険へのプレリュード(序曲・前ぶれ)として迎えることです。将来、きっとあなたは、与えられていく絶好期に欣喜雀躍なさることでしょう」


 S・A・G・B (the Spiritualist Association of Great Britain スピリチュアリストの総合施設で、十数名の霊能者が常駐し、各種の催しや人生相談にのっている。図書館や食堂も完備している───訳者) の事務長のロシター氏 Ralph Rossiter が奥さん同伴で招待された時のシルバーバーチの霊言も、ここで紹介しておくのが適切のようである。ロシター氏は度重なる病気と闘いながら霊的真理の普及に献身しておられる。

 「あなたや奥さんのような方が私との対話を希望してくださることは私にとって大きな喜びの源泉です。お二人は知識も経験も豊富でいらっしゃるので、私から改めて申し上げることはほとんどありません。

ただ、時には別の通路をへて届けられる言葉に耳を傾けるのも、お二人がご自分で思っていらっしゃるよりはるかに霊の力が身近かな存在であることを確認し自覚なさる上で助けになりましょう。

 日夜スピリチュアリズムの普及のために働いておられる方は、霊的真理があまりに身近かな存在であるために〝木を見て森を見ず〟の弊害に陥ることがあります。時には一服して、自分がどういう位置にあるかを確かめるのも良いことです。残念ながら地上には成果を記録する装置がありませんから、自分たちの努力によってどういうことが成就されつつあるかを正確に推し測ることが出来ないのです。

 あなたの協会には大勢の人が訪れ、そして帰って行きます。ある者は病気が癒えて、ある者は元気づけられて、ある者は啓発されて、逆にある者はがっかりして、ある者は何の反応もなしに帰って行きます。魂にその準備ができていなかったのですから止むを得ません。が、

そうしたことが絶え間なく繰り返されると、つい肝心な基本、すなわち魂に訴えるという目的を忘れてしまいがちです。大切なのは魂の内部に宿る神の火花を燃え立たせ、真の自我に目覚めさせることです。

 地上の悲劇は、霊的真理にまったく無知な人間が無数にいるというところにあります。みずから信心深いと思い込み、せっせと礼拝の場へ通っている人でも、霊的実在と何の関わりも持っていない人が大勢います。

と言うことは、真の豊かさと美しさ、物質という次元を超えた生き方がもたらしてくれる歓喜というものに、まったく無縁ということになります。

 そういう人たちは地上生活の目的が分かっておりません。地上を去るまでにしておかねばならないことについて何の予備知識も持ち合わせません。人生の価値観が間違っておりますから、優先させるものが間違っております。

視野のピントがずれております。物事の判断基準が狂っております。生活は不毛で味気なく、自我の開発などとうてい覚束なく、生きる目的というものがありません。いつも迷路の中に生きており、出口が見出せずにいます。

 あなた方の仕事はそうした地上界にあって一つの灯台となることです。ぐるぐると絶え間なく光線を放射し、それが闇を貫き、受け入れる用意のできた人に真理の在りかを教えてあげるのです。

いつも申し上げていることですが、地上生活の終点に来た時に、たった一人の魂にでも真の自我を見出させてあげることができていたら、それでその人生は十分に生き甲斐があったことになります。

 これまで、たった一人どころでなく数え切れない人々が、あなた方のおかげで生命の秘密を発見し、人生を十分に楽しみ、恐れることなく死後の生活に備えることが出来ていることを思えば、本当にしあわせな方であると言えます。

 叶えられることなら、あなたや同僚の方、それに、さんざん悪しざまに言われている霊媒が行っている仕事の偉大さが実感としてお解りいただければいいのですが・・・・・。あらゆる困難、さまざまな問題、幾多の辛苦、それに費用の問題を抱えながらも、あなたはよくぞそれらを切り抜けてこられました。これからもきっとやり抜かれることでしょう。 

 莫大な霊力と、それを使用して活動している大勢の進化せる霊の存在を知りさえすれば、それが得心していただけます。地上で為し得る最も偉大な仕事なのです。容易でないことは私もよく承知しております。しかし、何事も価値あるものは困難がつきものなのです。

 悲しいかな、数だけは沢山ある現代の教会にも、それはなし得ません。魂に感動を与えることはできません。内部の神性にカツを入れることはできません。が、神の使者には、たった一人でもそれができます。

生まれつき霊的能力を授かっているからです。霊覚を持ち合わせない宗教家は、ありきたりの説教と信条の繰り返しに頼るしかなく、便宜主義へと堕落します。霊的淵源からのインスピレーションとも啓示とも無縁なのです。

 肝心なことは、魂が真の自我を見出し全存在の源に触れることです。神が遠く離れた近づき難い存在ではなく自分の内部にあること、したがって困難や危機に遭遇した時に使用できる霊的な武器、力、貯え、潜在力がちゃんと備わっていることを知るべきです。

 それだけではありません。内部の莫大な潜在力とは別に、外部の無限の霊力の恩恵を受けることもできるのです。進化の階段を一つ一つ昇りながら、その一段ごとにその霊格に似合った霊が待機して援助の手を差しのべてくれるのです。これは大切な事実です。

 これまであなたがたがたどって来られた人生はラクではありませんでした。これからも決してラクではないでしょう。もしも私がラクな人生をお約束したら、それはウソを言うことになります。が、あなたはこの仕事をするために生まれて来られたのです。

支払わねばならない負債を背負って来られたのです。その栄光ある仕事の松明が今あなたに手渡されています。何としてもその明かりを灯し続けて、後を引き継ぐ人に手渡す時には一段と輝きを増しているようにして下さい」


 シルバーバーチの祈りから。

《内部に宿るあなたの霊こそ、私たちが何とかして発揮させてあげたいと願っているものでございます。それを発揮することによって初めて人間は神性をもつ存在としての限りない美質、豊かさ、光輝、威厳、壮大さ、気高さを真にわがものとすることが出来るのでございます。

 そうした資質を自覚することによって人間は自我意識を高め、自分を物的なものに縛りつけている拘束物の幾つかを切断し、未開発の精神と霊の豊かな遺産を手にすることが出来るのでございます。

かくしてインスピレーションと叡智と啓示と真理への窓を開くことになります。それらは高き世界からの恩寵としてこれまでも脈々と流れているのであり、人間の受容力に応じて受け入れられているものでございます。

 その流れは常に壮大にして崇高なる霊力を伴っております。霊力こそ生命の源泉であり、強力にして生命力にあふれ、病の人には健康を、衰弱せる人には元気を、迷える人には導きを、そして今なお暗闇の中にいる人には光明をもたらすのでございます》

Sunday, June 7, 2026

シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch
by Stella Storm


五章 死別の教訓

《肉親の死に遭遇した時、あの顔、あの姿がもう二度と見られなくなったことを悲しむのならまだしも、死んでいった当人の身の上を悲しむのであれば、それは止めなくてはいけません。

 人生は霊的価値を基盤として考えないといけません。その価値があなたの行為の一つ一つの輝ける指標として、日々の生活の中で発揮されなくてはいけません。スピリチュアリストを自任している方々は、スピリチュアリズムを死という不幸に遭遇した時だけ持ち出して、それ以外の時はどこかに仕舞い込んでおくようなことでは困ります》
                シルバーバーチ  


 その日の交霊会には奥さんを失った男性、二人の子供を失った両親、それにジャーナリストとして有名だったロレンス・イースターブルック氏の奥さんが息子さんといっしょに出席していた。死別の不幸を味わったこの三組の招待客に対してシルバーバーチが次のように語りかけた。

 まず奥さんを失った男性に対して───

 「これまでずいぶん過酷な道を歩んで来られましたが、あなたはこれ以上為すべきことはないというところまで、よく頑張られました。考えうるかぎりのことをおやりになりました。いかに愛しているとはいえ、その人の身体がもはや霊を引き止めておけない状態になってしまえば、それ以上生き永らえてくれることを望むのは酷というものです。

地上の人生にはいつかは別れる時がまいります。頑健な方が居残り、弱った者は先に行った方がよいのです。

 あなたには有難く思うべきことが山ほどあります。大きな危機に、無知のままではなく正しい知識をたずさえて臨むことができました。もしも霊についての知識がなかったら、あなたの人生は今よりどれほど大変なものとなっていたことでしょう。

その意味であなたは貴重な人生のおまけを体験なさったと言えます。そのことをあなたは感謝しなくてはいけません。が、霊を引き止めておけなくなった身体から奥さんが去って行くのは、もはやどうしようもありませんでした。

 あの時の奥さんの心境は複雑でした。もう死んでしまいたいと思ったこともあれば、何とかして生き延びたいと思ったこともありました。が、生き延びたいと思ったのはあなたの立場を思ってのことでして、ご自分の立場からではありませんでした。奥さんにはもう何の苦痛もありません。

老いも病気も衰弱も、そのほか人生の盛りを過ぎた者にかならず訪れる肉体の宿命に苦しむことはなくなりました。肉体が衰弱するほど霊は強くなるものです。

 あなたが楽しくしていれば奥さんも楽しい気分になります。あなたが塞ぎ込めば奥さんも塞ぎ込みます。一人ぼっちになられたのは身体上だけの話であり、霊的には少しも一人ぼっちではありません。奥さんは決して遠くへ離れてはいません。今でもあなたを夫と思い、あなたの住む家を我が家と思っていらっしゃいます。

 あなたは信仰心をお持ちです。ただの信仰心ではなく、あなたに証された〝事実〟を根拠とした現実味のある信仰心です。それが、間違いなく訪れる不幸に備えるために、受け入れ態勢の整った時点でもたらされました。それをあなたの人生の全ての基盤となさってください。

あなたはこれからまだまだこの地上で得るものが沢山あります。あなたの人生はまだ終末に来てはいません。他人のために為すべきことがあり、開発すべき資質があり、成就すべき目的があります。

 神は完全なる公正です。自然の摂理を通して因果応報がきちんと行われております。収支は常に完全なバランスを保っております。あなたは忘れ去られることも見落とされることも無視されることもありません。

あなたを導き、援助し、慈しんでくれる愛があります。それを頼みの綱となさることです。それが、いついかなる事態にあっても不動の信念を維持させてくれることでしょう」


 次に子供を失った夫婦に対して───

 「あなた方お二人が、縁あって訪れてくる人たちにいろいろとお役に立っておられる様子を見て、お子さんはとても誇りに思っておられますよ。大切なのは受け入れる用意のできた土壌に蒔かれるタネです。

あなた方が受け入れられたタネはいま見事な花を咲かせております。お子さんは、お二人の人生に衝撃的な影響を及ぼした霊的真理を自然に受け入れて行かれるのをご覧になって、とてもよろこんでいらっしゃいます。

お二人はその大きな真理を我が子の死という大きな悲しみを通して見出さねばなりませんでした。それはまさしく試金石でした。途方に暮れて、力になってくれるものが誰一人、何一つないかに思えた時に、真の自分を見出させてくれることになった触媒でした。

 魂というものは、その奥底まで揺さぶられ、しかも物的なものでは一縷の望みさえつなげない状態下においてのみ目覚めるものであるというのが、基本的な霊的真理なのです。つまり物質界には頼れるものは何一つないとの悟りで芽生えた時に魂が甦り、顕現しはじめるのです。

 現在のお二人の生活も決して楽ではありません。これまでも楽だったことは一度もありません。が、日常の問題にもちゃんとした摂理があります。それは、人のために自分を役立てる者は決して生活に不自由はしないということです。

基本的に必要とするものは必ず与えられるということです。その際に大切なことは、それまでの体験によって得たものを、日常の生活の中で精いっぱい生かしていくことです。そうすることの中で、神とのつながりを強化して行くことになるからです。そのつながりが強くなればなるほど、援助と力とが流れ込む通路が内面的に奥深くなって行くのです。

真理を理解した人間は沈着、冷静、覚悟が身についております。恐れるということがありません。不安の念の侵入を受けつけず、無知と迷信と悩みが生み出す暗黒を打ち消します。自分に生命を与えてくれた力、宇宙を支配している力、呼吸し活動するところのものに必需品を供給する力は絶対に裏切らないとの信念があるからです。

 大切なのは、ご自分の方から神を裏切らないことです。これまでに得たもの、いま受けつつあるもの、そしてそれから生まれる叡智のおかげでせっかく宿すようになった信頼を裏切るような行為をなさらないように心掛けることです。

 霊的真理にしがみつくことです。これまでに自分たちに啓示されたものを信じて物事に動じないことです。一つ一つの問題に正面から取り組み、精いっぱい努力し、済んだことは忘れることです。援助は必ず与えられます。

なぜなら、お二人を愛する人たち、地上にいた時より一段と親密度を増している人たちが、お二人が難題を切り抜けるように取り計らってくれるからです」


 続いてイースターブルック氏の奥さんに対して───

 「今ここにご主人が来ておられますよ。あなたと息子さんのことをとても誇りに思っていらっしゃいます。試練の時を立派に乗り切られたからです。こうして陰から守り導くことができることをご主人が証明してみせたからには、これからもずっと見守っているものと確信してほしいと希望しておられます。

明日のことを思い煩ってはいけません。心配の念を心に宿してはいけません。地上世界には何一つ怖いものはありません。

 ご主人はいつもあなたのお側にいます(〝解説〟参照)。愛のあるところには必ずご主人がいると思ってよろしい。あなたの心、あなたの家庭からいっときも離れることはありません。物質的には離れてしまいましたが、霊的にはいつもいっしょです。霊的につながっている者はけっして別れることはありません。

そうした霊的次元の愛を知り、理解力を身につけ、そしてお互いに足らざるところを補い合う関係───半分ずつが合わさって統一体を構成する関係、魂の結婚という、地上で滅多に見かけられない真実の霊的関係を成就されたあなた方は、本当におしあわせです。

 あなたはご主人のことを誇りに思うべきです。その啓蒙の光は在世中にもしばしば異彩を放っていた偉大なる霊です。彼ほどに人の心の琴線にふれ、高邁(こうまい)なものに手の届く人はそう多くはいません。

 お二人に対する愛は少しも変わっておりません。その愛が鋼鉄の帯のようにお二人を取り囲んでおります。これからも常にお側におられます。お二人を守り、導き、支えとなり、慈しんでくれることでしょう。あなた方が手にされたこうした知識が他の無数の人々も手にできるようになれば、地上はどんなにか変わることでしょう。

 ですから、毎朝を無限の可能性に満ちた新しい霊的冒険の始まりとして、又、あなたの霊的な輝きと資質を増す機会の到来として、歓喜をもって迎えるのです。毎朝が、霊的成長を促し内部の神性を発達させ全生命の始源へ近づけてくれる好機(チャンス)をもたらしてくれるのです」

(訳者注───次に掲げる霊言は誰に向って述べられたものかが明記されておらず、内容からもその手掛かりが得られないので、一般的なものとして訳出しておく)

 「一人一人の人間が、自分の行為に自分で責任を取ります。それが自然の摂理なのです。いかに愛する人とはいえ、その人に代わってあなたが責任をとるわけにはまいりません。その人の行為の結果をあなたが背負うことはできません。それを因果律というのです。過ちを犯したら、過ちを犯した当人がその償いをする───霊的法則がそうなっているのです。

 地上世界には不正、不公平、不平等がよく見られます。不完全な世界である以上、それはやむを得ないことです。しかし霊的法則は完全です。絶対に片手落ちということがありません。

一つの原因があれば、数学的正確さをもってそれ相応の結果が生じます。原因と結果とを切り離すことはできません。結果は原因が生み出すものであり、その結果がまた原因となって次の結果を生み出していきます。

 その関係が終わりもなく続くのです。もしもその因果関係が人為的に変えられ、利己主義者が博愛主義者と同じように霊的に成長することが可能であるとしたら、それは神の公正を根底から愚弄することになります。自分が蒔いたタネは自分で刈り取る───そうあらねばならないのです。

 あなたはあなた自身の行為に責任を取るのです。その行為の結果を自分が引き受けるのです。これからもあなたは過ちを犯します。そしてそれに対する償いをすることになります。

そうした営みの中で叡智を学んでいくべきなのです。過ちを犯すために地上へ来たようなものです。もしも絶対に過ちを犯さない完全な人間だったら、今この地上にいらっしゃらないはずです。

 過ちも失敗もあなたが不完全であることから生じます。しかし、転んでも起き上がることができます。取り返しのつかない過ちというものはありません。新しい希望と新しい可能性を秘めた新しい一日、新しい夜明けが必ず訪れます。

 うちの宗教の教えを信ずれば罪も赦されるかに説いている宗教がいくつかあるようですが、そういうことは有り得ません。罪をあがなうのはその罪を犯した当人のみです。〝神聖〟とされる文句や言葉をいくら繰り返しとなえても、原因から生じる結果を赦免したり消去したりすることはできません。

 ですから、いくら愛しい人であっても、その人の行為にあなたが責任をとるわけにはまいりません。その人みずから学び、学ぶことによって成長し進化していくのです。それが生命の法則なのです。生命は静止することがありません。絶えず向上を目指して動いております。動くということが永遠の進化のための一つの要素なのです。

完全へ向けての向上に終止符(ピリオド)を打つことはできません。無限の時をかけて完全へ近づくことの連続であり、これでおしまいということがないのです。完全性の達成は無限の過程です。完全なのは大霊のみです。

 思い煩ってはなりません。心配の念はせっかくの援助の通路を塞いでしまいます。私はいつも取り越し苦労はおやめなさいと申し上げております。心配の念は有毒です。悪気を生み出し、それがあなたを取り囲みます。陰湿な雰囲気で包まれてしまいます。その状態になると霊の力も突き通せなくなります」

《われわれは、顕と幽の区別なくいずこに存在しようと、神を父とし、一人ひとりがその子供という関係において一つの広大な霊的家族を構成しております。神性の絆がわれわれのすべてをつなぎ、一体としております。

その意味で私たちは、こうして顕と幽の二つの世界の間に横たわる障害の多くを克服してきたことを、この上ない恩恵として感謝しております。そのおかげで地上世界へ影響力を行使できる聖なる霊が次々と輩出しております》
                             シルバーバーチ