Tuesday, June 2, 2026

シルバーバーチの霊訓(八)

 More Wisdom of Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell  



四章 質問に答える(二)  死後の生活

 「私たち霊の世界の生活がどうなっているか、その本当の様子をお伝えすることはとても困難です。霊の世界の無限の豊かさについて、あなた方は何もご存知ありません。その壮大さ、その無限の様相(バラエティー)は、地上のどの景色を引き合いに出されても、どこの壮大な景観を引き合いに出されても、それに匹敵するものはありません」

 本章は死後の生活を主題とした質問と応答のようすを紹介するが、来世の明るい第一印象を伝える上で右のシルバーバーチの言葉がいちばん適切であろう。シルバーバーチはまた霊界を〝完全な計画が完全な形で実施されている現実の例です〟と言い、〝そこに偶然の入る余地がまったくないことがお分かりになるでしょう〟と述べている。

以下、それを細かく質して説明してもらうことにしよう。


  霊と霊の関係
──死後の世界ではお互いのコミュニケーションはどのようにして行うのでしょうか。

 「こちらへおいでになれば、もはや肉体はありません。肉体そっくりの身体はありますが、言葉は話しません。言語というものはいたってお粗末な思念の代用品でして、地上に近い下層界を除けば、そういうお粗末な媒体を用いなくても、以心伝心のすばらしい交信方法があります。思念は言葉を超えたものです。

 同じように、食べることも飲むこともいたしません。そうやって養わねばならない物的身体が無いからです。身体を大きくする必要がありませんから、蛋白質なんかは必要ではありません。霊的身体がありますが、その養分は置かれた環境から摂取します。

 永遠の太陽ともいうべき光源があり、暗闇がありませんから、寝るということもしません。霊的性質が何一つ隠せないという意味において、みんな霊的に素っ裸ということになります。あるがままの姿が知られ、見せかけも代用もカモフラージュもできません。

 あなたの交信レベルは霊的に同じレベルの者との間でしかできません。自分より上のレベルの者とはできません。そのレベルまで霊的に成長するまでは、そのレベルの者が受け入れられないからです。自分より下のレベルまで下りることはできます。自分の方が霊的にすぐれているからです。

 いずれにしても交信は直接的に行われます。あなたが心に抱いたことがそのまま相手に知られ、相手の考えることがそのままあなたに知れます。面倒なことは何も生じません。

 皆さんはこの英国に住んでいて英語をしゃべっています。英語のしゃべれない外国人と会えば言語が違うために意志の疎通ができません。が、以心伝心の交信には言語は不要です。迅速です。厄介なことは何一つ生じません。

 私がこうして霊媒を支配している間は、思念や画像や映像やシンボルを私に供給してくれる係がいます。供給という用語が適切かどうか知りませんが・・・・・・私はそれをあなた方の言語に翻訳する訓練ができております。それにはずいぶん長い年月を要しました。支配中は霊媒の語彙(ごい)の中から適切な用語を見つけ出さねばなりません。

時には霊媒自身が忘れているものもありますが、記憶の層にはちゃんと残っております。が、霊媒から離れてしまえば地上の各種の文献を調べることもできます。必要とあれば地上の大家の書いたものを見つけ出して、イザという時に備えてメモしておきます。この霊媒から離れているかぎりは思念を言葉に翻訳する面倒な手間はいりません」


───どうやってお互いを認識し合うのですか。

 「霊的な眼がありますから一人ひとりが認識できます。私たちは盲目ではありません」


──私たちの視力は物的なものなのですが。

 「あなた方はその二つの眼で見ているのではありませんよ。またその二つの耳で聞いているのではないのですよ。見たり聞いたりは脳を経由して精神で行っているのです。もし脳が働かず精神に反応が生じなければ、その肉眼に映る光線は何の意味もありませんし、その肉耳に届けられる波動もまったく無意味なのです。

 脳がレシーバーとしての働きをしてくれれば、あとはその情報を理解するのは精神なのです。肉眼そのものには〝見る〟能力はないのです。ただ光線を感知するための媒体にすぎないのです。カメラのレンズと同じです。

自分ではどういう役目をしているのか知らないまま自動的に機能しているのです。〝見えた〟という認識は、精神がその印象を脳から受け取ったときに生じるのです。脳を傷めるとその認識が生じませんから、肉眼だけでは何も見えないことになります」


──霊界で相手を認識するとき、その人の何を見ているのでしょうか。

  「人間と同じ形体です。頭もあり胴体もあります」


──身体はないとおっしゃいましたが・・・・・・

  「物的身体はないと申し上げたのです。霊的身体はあります」


──ということは、相手を認識するときは霊体を見ているわけですか。

  「もちろんです。みんな同じに見えるわけではありません。一人ひとり違います」


──書物を読むことがあるとおっしゃいましたが、それも思念でできているのですか。

 「すべての物体に霊的複製品があります。地上で書かれたものが複製されて納めてある図書館があります。必要が生じると、そこへ行って調べものをして知識を得ます。音楽も絵画もあります。地上にあるものは全てこちらにもあります」


──地上的成長のどの段階で人間の霊体がそちらから見えるようになるのでしょうか。

 「それはその段階での霊的覚醒のレベルによって違ってきます。地上と霊界の違いは、地上ではさまざまな発達段階の人がいっしょに生活できることです。こちらでは同じレベルまで発達した者としか会えません。霊的身体は霊格が高くなるほど成熟していきます。

霊界での成長は(老化に向かうことではなく)成熟するということです。ですから、年老いて他界した人はこちらへ来て若返り、若くして他界した人は霊的成熟度に似合った顔つきとなります」


──やはり顔で分るのでしょうか。

  「もちろん私たちにも顔があります」


──人間にはなぜ顔があるのでしょうか。

 「それは個性というものがそれぞれの魂の刻印だからです。まったく同じ人は二人といません。双子でも霊的には同じではありません。完全へ向けての過程──本質的には無限の過程ですが──は顔や形体が無くなるということではありません。個性が崇高さを増し、霊的成熟度が増し、一段と強烈な光輝を発するようになります。

その過程を続けていくうちに、上層界には目も眩まんばかりの光輝を発する存在がいることを知るようになります。

 私が地上を離れて内的上層界へ帰ると〝神庁〟とでもいうべきものに所属する存在と出会うことがある話をしたことがありますが、そうした霊もみな個性を具えた存在です。個体性を失ってはいません。不完全の要素が少なくなり、完全無欠の要素の占める部分が多くなった段階にまで進化しているのです」


──なぜそちらの世界へ行ってからも身体が必要なのでしょうか。

 「霊はその個性に応じて自我を発揮するためには何らかの形体が必要なのです。霊それ自体には個的形体はありません。霊とは生命です。が、その生命が顕現するには人間なり動物なり植物なり花なり、その他ありとあらゆる形体をとる必要があります。霊は何らかの形体をとらないことには存在が認識されません」


──その形体を永遠に維持するのでしょうか。

  「そうです」


──霊界では自分より発達段階の高い者とは接触がないとおっしゃったように思いますが、そうなると、あなたご自身が〝光り輝く存在〟と直々にお会いになる時は何か特別な配慮をしてもらうわけですか。

 「いいえ。決してうぬぼれて申し上げるわけではありませんが、私がそうするときは私本来の霊格に戻るというに過ぎません。私はこの地上での仕事への参加の要請を受け、そしてお引き受けしたのです。そのためには当然、本来の私の属性を一時的にお預けしなければなりませんでした。

しかし、そうすることによって、あなた方と同じく、私がよく言及している〝正反対の体験〟を得ることになります。それによって、一層の向上が得られることを願っております。

 霊界の生活の全体像をお伝えすることはとても困難です。言語と次元の差が障壁となるからです。たとえば音楽を例にとれば、霊界には地上のいかなる楽器にも出せない音色があります。

絵画でも、あなた方には想像もつかない色彩と美があります。それが感識できる人も描写できる人も地上にはいません。地上の人にとって大インスピレーションと思えるものでも、実際はごくごく小さなかけらにすぎません」


 招待客が 「われわれ人間にとって霊界の本当の姿を理解することが容易でないことは理解できます」 と言うと──

 「とても難しいのです。しかし、その理解のための準備が睡眠中に行われております。睡眠中は肉体を離れて一時的に〝死ぬ〟わけです。そうすることによって徐々に霊界生活に慣れていきます。そうしないと、いよいよ本当の死が訪れた時に何のことか理解できず、新しい生活環境に順応するのに長い時間を要することになります。

地上にいる間の夜の霊界旅行での体験はぜんぶ潜在意識の中に収められています。それがいつか意識にのぼってきて、霊界があまり不思議に思えなくなります」


  ここでサークルのメンバーの中でも一ばん背の高い人が質問する。

──背丈のことをお尋ねします。たとえば六フィートの人間はそちらでもやはり六フィートでしょうか。

 「どうやらこの質問には個人的興味が混ざっているようですね。答えは〝イエス〟です。物的身体は霊的身体の写しだからです。ただし、そのサイズは霊的発達程度とは関係ありません。身体は巨人でも霊的には小人である場合があります」


──他界直後には言語上の問題がありますか。

 「あります。いわゆる〝幽界〟、つまり地球にもっとも近い界層においてはあります。そこには霊的自覚がほとんど芽生えていない者が住んでおります。まだ言葉が必要だと思い込んでいるので言葉を用いております」


──一方が英語で話し相手がフランス語で話しても、実際は思念で通じ合っているわけでしょうか。

 「もちろんです。もともと思念には言語はないのです。言語というのは思念を単語に移しかえるための道具にすぎません。私たちの世界では思念に実体があり、物質は影のようにしか見えないことをよく理解してくださらないといけません」


  環境との関係
──非物質的世界であれば、その世界はそこに住む者すべてにとって同じものですか、それとも一人ひとりの思念によってこしらえるのでしょうか。もしも私が今あなたの世界へ行ったら、私の目に同じ世界が映るのでしょうか。それとも違う世界でしょうか。

 「それはあなたが地上でどの発達段階にあったかによります」


──もしあなたといっしょになったら、そこは私の精神によってこしらえられた世界でしょうか。

 「そうとも言い切れません。もしもあなたが今の私と同じ位置、つまり同じ発達レベルにあると仮定すれば、あなたは私に見えるものを見、私が体験するものを体験します。が、今私が住んでいる世界──あなたといっしょになると仮定している世界が何で構成されているかはまた別の問題です。

これは言語で説明するのは困難です。言語というのはその裏側にある実在をいくらかでも表現しようとして絵画や概念やシンボルなどをそれでくるんでみているに過ぎません。

 私たちは〝生命とは霊である〟というところから出発いたします。私たちの世界はあなた方の世界と同じく霊というものがあってはじめて存在しているのです。その霊は無限です。したがって無限の顕現をしています。

  ところで思念とはいったい何でしょうか」 

 この質問にゲストが「思念とは私の精神が生み出すものです。精神が何であるかはともかくとして・・・・・・」と答える。

 「それには実体がありますか」

 「多分思念は実体のあるものになれる性質をもったものだと思います。初めから実体があるのではないと思います」

 「でもあなたは思考しながら自分が思考していることが分ってますね?」

 「ええ、思考によって物事を明確にすることができると思います」


 「あなたは自分が思考していることを自覚していらっしゃる。が、思念は見えることも聞くことも、重さや大きさも計ることもできない、物理的な計量方法がないわけです。なのにあなたの行為のすべてに思念が責任を負っています。思念の方が行為に先行しているからです。思念なくして行為は生まれません。

 あなた方の世界では考えたことが行為として具体化します。私たちの世界では考えたことが霊的実在として具現化し、それには、あなた方にとって物質の世界が実感があるように、私たちにとって実感があります。要は相対上の問題です。あなた方にとって物質に実感があるように、私たちにとっては思念に実感があるということです」

 ここでメンバーの一人が 「思考とは別に物質界には客観的存在物があります。丘のように誰にでも見えるものがあります。霊界にも各自の思考とは別に客観的存在物があるのでしょうか」と聞くと、さきのゲストが「私たちは今この部屋に座っています。そして、そのことをみんな同じように認識しています」と口添えする。

 「でも、その認識の仕方は一人ひとり違います。私たちの世界の生活にはさまざまな存在のレベルがあります。といってそれが一つひとつ孤立しているのではなくて、お互いに融合しております。各レベルにおいてあなたのおっしゃる客観的存在物がそこに住む人にとって同じように映ります。丘があり川があり、小鳥がさえずり、花が咲き、樹木が茂っております。そのすべてに実感があります。

 それとは別に、思念によって実在物を作り出す力も各自に具わっております。成形力のある思念性の素材によって、自分に必要なものをこしらえることができます。それが、程度問題ですが、それなりの固体性のある実体を具えているのです」


 色即是空
──ということは、あなたの世界も物的と言えるわけですね?

 「言えます。物的という用語をどう解釈するかが問題ですが・・・・」


──私の肉体と同じように物質でできているかということです。つまり私が死んでからまとう身体も物質であって原子の回転速度が一段と速いというだけなのでしょうか。

 「それもこれもみな、ただの用語にすぎません。〝物的〟とか〝物質〟とかを用いる時はその意味を明確にしておかないといけません。ある意味では霊の世界は〝霊化された物質〟で出来ていると言うことができます。

しかしその時の〝物質〟という用語はあなた方が理解しているものとは違います。また、〝物的身体〟というのも、今あなたがおっしゃった通り原子でできているのです。

原子はさらに細かく分析できますが、そのうち計算器では分析できない段階に至ります。するとその原動力は物的なもの、形あるものではないことになります。つまり物質が形あるものというのはそう見えるというだけのことになります。固いと思うのは錯覚なのです。
 
 人間にはいろいろな身体があって、それぞれ発達程度が異なります。その肉体から脱け出ると、それとそっくりの幽質の身体をまといますが、それは地上時代からずっと使用し自我を表現していたものです。

バイブレーションが地上生活にふさわしい高さだからです。その幽体は地上で肉体が実感があったように、他界直後の生活においては立派に実感があります。

 すべては意識している〝場〟の問題です。船に乗っている夢を見れば、眠っている間はそれが現実です。〝夢だった〟と思うのは目が覚めた時です。

そして船は幻だったことになります。もしも永遠に夢を見つづけるとしたら、その夢の生活が現実となることでしょう。目が覚めている間は地上生活が実感があるように、その夢の状態が実感があるように思いつづけることでしょう。

 今のあなたは夢を見ているのではないという確証はどこにあるのでしょう? もしかしたら、ここにいる人たちといっしょに同じ夢を見ているのかも知れないということも考えられるのです。こんなことを申し上げるのは、地上には霊的実在に目覚めていないという意味で地上生活という夢を見つづけている人間が無数にいるからです。

その夢から覚めて、ようやく自分は肉体ではないという自覚を得るのです。何度も申し上げているように、あなた方は肉体をたずさえた霊であって、霊をたずさえた肉体ではないのです。これは大変な違いです」


 パーソナリティとインディビジュアリティ
 サークルのメンバーが「それに加えて、われわれにはもともと Personality(確定した人物像)というものは無いということも大切なことですね」と口添えすると──

 「おっしゃる通りです。パーソナリティというのは地上にいる間だけのものです。地上生活のために便宜上つけているマスクのようなものです。地上生活が終わればマスクは捨て去ります」  


──私は、霊は異なった〝種〟の物的形体を通じて顕現しながら完全へ向けて進化し最後に人間に至るという説を立てているのですが、正しいでしょうか。

 「あなたがおっしゃるのは、人間という頂点に達するまで一個の霊があらゆる生命形態を通して表現されてきたという意味でしょうか」



──そうです。

 「あらゆる生命体というのであれば、それは私が Individuality (霊的統一体)と呼んでいる場合の個霊としてとはかぎりません。犬とか猫に生命を与えている霊はそれぞれに個別性がありますが、花に生命を与えている霊の個別性とはまた別です。生命あるものには必ず霊があります。

霊は生命であり生命は霊です。霊としてのあなたは無始無終に存在しております。それが現段階において受胎の瞬間から個性ある霊となったわけです。

 個霊としてのあなたの進化は今後さまざまな身体を通して続けられます。そして進化すればするほど個性が発現されます。が、その場合の個性は地上で見せていた人物像とは意味が違います。

これはとても理解の難しい問題です。進化の目的は完全性を成就することです。が、その成就の過程は無限に続くのです。進化して不完全なところを一つ取り除くごとに、また新たに取り除かねばならない不完全さに気づき、かくしてこの過程が永遠に続けられるのです。

 ここで是非とも認識していただかねばならないのは、パーソナリティとインディビジュアリティとは大きな違いがあるということです。パーソナリティとはインディビジュアリティが物的身体を通して表現している小さな側面のことです。インディビジュアリティがその個性を発揮するために使用する数々の側面のうちの一つで、地上にいる間に見せる人物像です。

 インディビジュアリティの側面は地上で見せる人物像だけとはかぎらず、他にもたくさんあります。それを、地上を去ってより高い存在の場で進化しながら顕現しつづけていくのです。個性が発現すればするほど地上で見せた人物像は消えていきます。

霊格が高くなればなるほど、あなた方が容姿から連想して画くところの人物像が消えていくのです。とても説明が困難です。その真相をうまく表現する用語が見当たらないのです。(巻末〝解説〟参照)

 こちらの世界はそちらからやってくる人たちによって構成されております。そちらから未発達霊を送り込んでこなければ何一つ問題は起きないのですが、現実には何の準備もできていない、適合性に欠ける無知な霊を次々と送り込んでおります。小学校で学ぶべきだったことを大人になって教えるのは、なかなか難しいものです。

(いつまでたっても物分かりの悪い霊がいるその結果として)

あなた方地上の人間は最低から最高にいたる、ありとあらゆる霊的影響力にさらされることになります。が、実際に引き寄せるのは自分と同じ霊格をもった霊だけです。邪悪な人間は邪悪な霊を引き寄せ、心清き人は心清き霊のみを引き寄せます。それが自然の摂理なのです。

 自分の肉体が無くなったことに気づかず、霊的には死者同然のような霊が無数にいることを私たちの責任であるかに思っていただいては困ります。それはあなた方が地上でやるべき仕事です。つまり肉体の死後にかならず訪れる次の生活に備えさせるように指導することです。

 霊の世界は地理的なものではありません。霊界は七つの界に分かれているなどと、まるで地図でも見るような言い方をする人がいますが、そのようなものではなく、すべてが融合し合っているのです。不完全性を取り除くにつれて、その霊格に似合った境涯へ向上していくのです。

 そうして発達を続けていくうちに霊的真理の実相を悟って、もはやその理解のために比較対照というものを必要としなくなる段階に至ります。それは地上においても達成できるものです。

つまり知的な思考による理解を超えた〝悟り〟を地上生活中に得ることができます。それは私たちの世界へ来てから比較対照が無くても実在が理解できるようになるのと同じ段階です」


  人類浄化の大計画
──霊界において計画が作製されてそれが地上界で実施されている例をたくさん見ておりますが、それはどういう機構によって行われているのでしょうか。計画の中心的立案者が一人いて全体をまとめているのでしょうか。

 「連帯関係にある霊団がいくつもあり、各霊団に一人のリーダーがいます。その全体の総指揮に当たっているのが、かのナザレのイエスで、今なお地上世界の発展のための事業に関わっております。

そのイエスのもとで地上ならさしずめ〝首脳会議〟にあたるものが開かれます。ご存知のように時おり私もその会議に出席するために一時的に上層界へ引き返し、それまでの計画の進展具合を点検し、連帯関係を確認いたします。審議会のようなものです。

 マスタープラン(総合的基本計画)というものがあり、私たちに役割分担が当てがわれております。霊格の高さゆえに地上の事業に関与できる〝光り輝く存在〟を一目ご覧に入れたいと思うのですが、残念ながらそれができません。

そうした霊団のほかにも、他の形態の生命に関与している霊団もありますが、私が関与しているのは地上人類のための事業です。

 計画は完璧です。なぜなら、その立案にあたって完璧な叡智が働いているからです。しかし、それを実現させるにはさまざまな要素を考慮しなければなりませんから、当然の成り行きとして、その進展は遅々としたものにならざるを得ません。自由意志、カルマ、運勢、好み──こうしたものが全て考慮されるのです。

進歩を確実なものにするためには全体への配慮を必要とするのです。その進歩は必ずしも直線的なものではありません。それは有り得ないことなのです。いずれにせよ、こうした中であなた方も神意の成就へ向けての無限の創造過程にいくばくかの貢献をなさっていることを自覚なさるべきです。

 雄大な構想のもとにそのマスタープランを推し進めていく事業に参加できることは、この上なく光栄なことです。だからこそ私は皆さんに、明日のことを思い煩うことはおやめなさいと申し上げるのです。

いかなる困難、いかなる障害、いかなるハンディキャップ、いかなる反抗に遭遇しても、又、いかなる愚かさ、いかなる無知、いかなる迷信が立ちはだかっても、霊の力によって、万事、かならずうまくいきます。真理はつねに行進しており、その目的成就を妨げることの出来る者は一人もいません。

ですから皆さんは堂々と胸を張り、背後に控える霊力は地上で遭遇するいかなる勢力よりも強大であることを、しっかりと認識なさることです」

 このことに関連してサークルのメンバーから幾つかの質問が出された。その回答の中でシルバーバーチは、その大霊団を構成しているのは必ずしも地上生活を体験した者ばかりではないこと、その中での自分の位置についてはこれまでに述べたこと以上のことは述べるわけにはいかないこと、その大事業の計画は遠い昔に立案されたものであることを述べ、こうしたことが地上の人間に容易に把握できないのも無理はないという理解を示した。

(『ベールの彼方の生活』第四巻にはその大事業の立案から実施に至る経緯が雄大な筆致で叙述されている──訳者)そしてこう述べた。

 「真理に霊的価値が多ければ多いほど、地上の言語による説明が困難となります。私たちはいま霊的な内容のものを扱っているのです。いたってお粗末な表現手段である言語では、地上的要素からはみ出たものは包含できないのですから、用語の意味に限界が生じます」


  神々の世界
──いまおっしゃった上層界よりさらに高級な世界があるのでしょうか。

  「あります」


──全部つながっているのでしょうか。

  「そうです。無限につながっています」


──階段(ステップ)状に上へ上へと伸びているのでしょうか。

  「ステップと呼びたければそう呼ばれても結構です」


──〝光り輝く存在〟とおっしゃった存在も自我を表現する能力を有しているのでしょうか。

  「みな個性的存在です。意識をもった存在です。自動人形ではありません。光り輝いております。指導的霊格を具えた高級霊です。大天使団、神の使節です」


──かつてはみな人間だったのでしょうか。

 「いえ。バイブルをお読みになれば、天使、大天使のことが述べられています」


──ということは常に霊的存在がいたということでしょうか。

  「宇宙のどこを探しても霊でない存在はいません」


──私はどの霊も一度はこの地球という惑星での生活をしなければならないものと思っていました。

 「そういうものではありません。あなた方の地球は無数に存在する生活の場の一つにすぎません。一度はかならず地球上で生活しなければならないというものではありません。すべてを抱括したマスタープランがあり、その中から何一つ、誰一人として除外されることも忘れ去られることもありません。

 あなた方に見えている星の彼方にも無数の星があります。惑星の彼方にもあなた方がまだご存知ない別の惑星、別の生活の場があります。宇宙は無限に広がっているのです」

(『ベールの彼方の生活』第四巻の274~276頁にこのことが具体的に述べられている──訳者)


──始まりも終わりもないですか。

 「霊には始まりも終わりもありません。霊は無窮の過去から存在し無窮の未来まで存在し続けます。バイブルを繙(ひもと)いてごらんなさい。イエスもこう言っております──〝アブラハムが生まれる前から私は存在している〟」

(ヨハネ伝8・58。イエスがユダヤ教のリーダーたちと論争した時の最後のセリフで、アブラハムはユダヤ人の祖とされている人物なので、それより前から存在してたと聞かされてその本当の意味が分からず、生意気なことを言う奴だと石を投げつけるが、イエスは身を隠して逃れた──訳者)」


  死後の再会
──私たちはいつかはかつての地上での仲間や親族のいる境涯へと向上して行き、ずっといっしょに暮らせるようになるのでしょうか。

 「その人たちと同じ発達レベルまで到達すればもちろんいっしょになれます。こうしたことは収まるべくして自然に収まる問題です。あなたは今これまで霊的に到達した境涯、段階、存在の場を占めているのです。

それと同じレベルにある者はみな似たような発達状態にあるのです。ですから、ご質問に対する答えは、あなたがその人たちと同じ霊的発達段階に至ればいっしょになれます、ということになります。向上の道はつねに開かれております。完全へ向けての、永遠に続く奮闘です」


──ここに愛し合う二人の人間がいて、一方が他方より霊格がはるかに高いとします。死後二人がいっしょになるには発達のおくれている方が待たねばならないのでしょうか。

 「その逆がふつうです。霊格の高い方が待つことになります。そこには愛の要素があるからです」

──死んで霊界へ至る過程はどんなものでしょうか。

 「死とは物的身体から脱出して霊的身体をまとう過程のことです。少しも苦痛を伴いません。ただ、病気または何らかの異状による死にはいろいろと反応が伴うことがあります。それがもし簡単にいかない場合には霊界の医師が付き添います。

そして、先に他界している縁者たちがその人の〝玉の緒〟が自然に切れて肉体との分離がスムーズに行われるように世話をしているのを、すぐそばに付き添って援助します。

 次に考慮しなければならないのは意識の回復の問題ですが、これは新参者各自の真理の理解度に掛かっています。死後にも生活があるという事実をまったく知らない場合、あるいは間違った来世観が染み込んでいて理解力の芽生えに時間を要する場合は、睡眠に似た休息の過程を経ることになります。

 その状態は自覚が自然に芽生えるまで続きます。長くかかる場合もあれば短い場合もあります。人によって異なります。知識をたずさえた人には問題はありません。

物質の世界から霊の世界へすんなりと入り、環境への順応もスピーディです。意識が回復した一瞬は歓喜の一瞬となります。なぜなら、先に他界している縁のある人たちが迎えに来てくれているからです」


  霊的身体について
──幽体の寿命はどうなっているのでしょうか。死後は幽体で生活するわけですが、どのくらいの期間もつのでしょうか。

 「それは地上の年数でかぞえるわけにはいきません。肉体が老いていくのとは違って、霊的向上に伴って生じる変化だからです。あなたには沢山の身体が具わっています。

それらを幽体だのエーテル体だの霊体だのと呼んでおられるのですが、あなたはそのうちのいずれか、つまりそれまでに到達した霊的進化のレベルの自我を表現するのに似合ったものを使用します。

そしてさらに進化すると、昆虫が脱皮するようにそれを脱ぎ棄てます。つまりあなたは常にその時点での霊格にふさわしい身体で自我を表現しているわけです。死後の身体はそういう過程をたどります。それが無限に続くのです」

──真の自我は肉体でもなく幽体でもなくて、いったい何なのでしょう?

 「どう呼んでみたところで所詮は用語にすぎません。言葉は三次元世界のものですから、言葉を超えたものを完全に表現することはできません。したがって霊とは何かということを正しく表現できる用語がないのです。

 霊は物質的なものではありません。三次元的なものではありません。どこそこという存在場所をもつものではありません。身体のように空間を占めているのではないのです。

あなた方の物的な感覚によっては、見ることも聞くことも触ってみることもできません。その霊こそ実在なのです。霊とは生命力です。霊とは動力です。霊とは宇宙の大霊の一部なのです。

 ですから、あなたがた人間は三位一体の存在ということになります。物的身体があり、霊的身体があり、そして魂(霊)があります。それらをぜんぶ別の用語に置きかえたければそうなさるがよろしい。が、何の意味もありません。用語をいじくり回すにすぎません。魂とは神性の火花です。内部に宿る大霊の一部です。

 あなたはその身体ではありません。その身体はあなたではありません。霊的身体はその物的身体が崩壊して大地に戻ったあと、引き続き自我を表現するために使用する媒体です。本当の自我は外側、表面、殻などには存在しません。内部の核、仁、中枢、魂、生命、つまりはあなたに潜在する〝神〟です。

霊は無限の存在であるがゆえに無限の顕現と段階的変化をたどります。一連の身体があり、それをアストラルだのエーテルだのと呼んでおられますが、それも一個の霊が顕現したものなのです。用語に惑わされてはいけません。言葉はただの道具にすぎません」


──肉体と幽体はどこまで似ているのでしょうか。胃液とか聴覚器官とか筋肉とかがもしあるとすれば何かの役に立つのでしょうか。

 「何の役にも立ちません。あなた方がその肉体器官を機能させる時それぞれの器官とそっくりの幽質の身体を使用しています(これを複体「ダブル」と呼ぶことがある──訳者) が、それには筋肉も胃液も聴覚もありません。霊が肉体を通して顕現し機能するための外皮のようなもので、死が訪れると地上での役目が終わったことになりますから、

その時点で脱ぎ棄てられて別の身体が用意されます。こうして霊が浄化していくに伴って、その段階にふさわしい表現機関として次々と新しい身体を必要とします。霊的身体はたくさんあるのです」


──たくさんあるとすると、死ぬ時はどうなるのでしょうか。一つひとつ脱け落ちていくのでしょうか。

 「進化するごとに身体を脱ぎ替えていきます」


──ということは、われわれは何度も死をくり返すわけですか。

 「そうです。ただし霊が死ぬのではありません。表現の媒体が変わるということです」


──いずれは幽体を脱ぎ棄てる時期がくるわけですが、それも〝死〟ですか。

 「そうです。肉体が役目を終えて棄て去られるのと同じです」


──われわれは何度も死ぬわけですね。

 「そうなります。が、それは有難いことなのですよ。進歩していることを意味するからです」


──いずれ最後は何の身体もまとわない純粋な霊のみの存在となるのでしょうか。

 「私は、その段階には永遠に至らないのではないかと思っています。それに近づく過程の連続だと考えています」


──そこに霊的進化の核心があるのですね?

 「人生そのものの根本の目標が進化であり発展であり成長であり学習なのです。進化するごとに、それまでの役目を果たしてきた身体が自動的に脱け落ちて、その進化した段階にふさわしい身体をまとうのです」


──ある意味ではわれわれの皮膚が次々とはげ落ちていくのと同じですね。

 「しかも、全身が7年ごとに(細胞が入れ替わって)新しい身体となっております。が、あなたという霊は決して無くなりません」


  霊界の仕事
──霊界にも自分を役立てる機会があるのでしょうか。

 「ありますとも! 地上よりはるかに多くの機会があります。こちらには、あなた方の理解を超えた問題がいろいろとあります。霊的宇宙のいたるところに存在する無数の霊──病める霊、幼い霊、忘れ去られた霊、孤独な霊、いびつな霊、無知な霊、こうした不幸な霊の面倒を見なければならないのです。

なぜこんな厄介なことになるのか──それはあなた方の世界がそういう霊を送り込んでくるからです」


──霊界の人たちも行動範囲に限界があるのでしょうか。それとも自由に宇宙を駆けめぐることができるのでしょうか。旅行もできるのでしょうか。探検もできるのでしょうか。

 「もちろん出来ます。ただし、それが出来るだけの資格を手にすればのことです。霊格の問題です。そこに目的意志というものが無くてはなりません」(遊び半分、面白半分の宇宙旅行や探検は許されないということ───訳者)

 さらに関連質問を受けてから冒頭に引用した言葉を述べた。すなわち───

 「私たち霊の世界の生活がどうなっているか、その本当の様子をお伝えすることはとても困難です。霊の世界の無限の豊かさについて、あなた方は何もご存知ありません。その壮大さ、その無限の様相(バラエテイ)は、地上のどの景色を引き合いに出されても、どこの壮大な景観を引き合いに出されても、それに匹敵するものはありません」


──私が思うのに、死後の世界へ行っても、そうした霊界の豊かさを探検する楽しみを捨てて、地上で始めた仕事を続けている者が大勢いるのではないでしょうか。

 「そちらで医者だった者がこちらでさらに勉強し、地上での知識をプラスして病気の治療に当たっている人がたくさんいます。それが霊的開発の証しなのです」

     
  再会時の識別の問題
 ここでサークルの女性メンバーの一人が見解を述べたのに対して───


 「法則というものがあって、それがすべてを規制しているのです。そのうちあなたも何一つ忘れ去られたり見落とされたりすることがないことを理解なさいます。私はいつも大自然の摂理とそれによる経綸の完璧さに感嘆しているのです」

──実は私の妹は出産の際の器具の使い方が悪くて脳に障害を受けました。それはそれは醜い姿になってしまいました。今は他界していますが、私が他界した時にすぐに妹が分かるでしょうか。今も地上にいた時と同じ姿をしているのでしょうか。なぜ妹は四十年間もそういう醜い状態で地上生活を送らねばならなかったのでしょうか。
 
 「この種の問題はほんとうは個人的感情を抜きにしてその原理を直接扱えば簡単に片づくのですが、それが出来ないのが残念です。地上に生をうけているいかなる人間も、代償の法則、ときには懲罰と言うべきものから逃れることはできません。

ある段階において必ず霊的な貸借の差引勘定が行われ、貸り借し無しの状態となります。そちらで欠陥のあった人はこちらでそれ相当の埋め合わせがあります。

 不具といってもそれは肉体上の不完全さであって、精神や霊が不具になることは絶対にありません。何らかの脳の障害によって精神や霊が表現の機会を与えられなかったことから生じる未熟な精神、未熟な霊ならあります。そうした霊は他界した時点ではたぶん幼児のような進化の程度でしょう。しかし、精神または霊には何の障害もありません。

 なぜそういうことになったということですが、これはさらに複雑な問題です。因果律、器具の扱い方の間違い、処置の不手際、こうしたものが重なって身体が害され、脳が本来の表現と認識の道具としての機能が果たせなくなったわけです。

なぜそうなったのか? もしかしたらカルマが働いていたのかも知れません。が、私は個人的なことにはお答えするわけにはいきません。私はあくまでそれに関わっている原理、原則しか扱えません」


 別の人が 「この方はご自分が他界した時にすぐに妹さんだということが識別できるかどうかを知りたがっておられます」と言うと───

 「識別は想像されているほど困難なものではありません。他界してきた人はその人と何らかの縁故のある人たちによって看護されます。その人たちは死期が近づいたことを察知することができ、迎えに出ます。霊というものは自分の識別を容易にしてあげるために一時的にどんな形体でもとることができます。

子供の時に他界して地上の時間にして何十年もたっている場合、その母親が他界してきた時に一時的に他界時の子供の姿になってみせることができます。ですから、それはご心配なさる必要はありません」 


──そちらから人間をご覧になる時、私たちの霊体が見えるのでしょうか、人体が見えるのでしょうか、それとも両方が見えるのでしょうか。

 「それは一口にはお答えできない問題です。その霊が開発した能力によって違ってくるからです。特殊な能力──地上の霊能者が使用する霊視力と同じものをもっておれば人体も見えますが、一般的に言えば霊は人間の霊体を見ている場合の方が多いです。

今の私にはこの部屋の物体は何も見えません。ご出席のみなさんの霊体だけが見えております」


──こちらの世界からそちらの世界へ行くとき、そちらの縁ある人たちにそのことを知らせる何かの連絡組織があるのでしょうか。

 「そういう人たちは常にあなたといっしょですから、そういう組織は必要ありません。あなたご自身が覚悟するずっと以前からあなたの死期を察しております。そしていよいよその時期が到来すると、そばに来て待機します。宇宙で愛ほど強力な引力はありません。愛でつながった人はけっして離ればなれにはなりません」


──ここでその日のゲストの一人で霊媒をしている女性が興味ぶかい質問をした。その霊媒がその日ある婦人の依頼で一カ月前に他界したばかりのご主人を呼び出してメッセージを述べさせたところ、その日の朝はこんなことをした、昼はこんなことをした、夕方はこんなことをした、という内容のものだったという。それで、霊界の生活にもそのように地上と同じ朝・昼・夜の変化があるのかという質問をした。これについてシルバーバーチはこう答えた。

 「こちらへ来て間もない初期の段階ではそういうことがあります。まだ新しい霊的環境に順応していないためです。霊界の低い界層、いわゆる幽界の環境は地上とそっくりです。これは新参者が感覚を馴らしていくための神の配慮です。

 そうしないと新参者は戸惑うのです。そうしたことから、今おっしゃった人のように、霊界へ来てからも朝と昼と夜の生活があるように思っている霊がいることになります。そう思うからそうなるのです。私たちの世界は思念が実在となる世界です。悟りが芽生えるまではその過渡的な状態がつづきます。

それとは別に、あとに残した人の援助がしたくて、あえて霊的向上を望まないというケースもあります。

 霊界にも庭園もあれば家もあり、湖もあれば海もあります。なぜかと言えば、もともとこちらこそが実在の世界だからです。私たちは形のない世界で暮らしているのではありません。私たちもあい変わらず人間的存在です。

ただ肉体をもたないというだけです。大自然の美しさを味わうこともできます。言葉では表現できない光輝あふれる生活があります。お伝えしようにも言葉がないのです。

 ごく自然な形で霊界でも家に住みます。ですがその家は地上生活(の善行・徳行)によってこしらえられたものです。庭園も自然な形で存在します。手入れがいると思えば手入れをします。究極的にはそうしたもの一切が不要であるとの悟りに達しますが、それまではそうした (地上とよく似た) 環境の維持に必要な配慮がちゃんとなされております。

もしそうした配慮がまるでなされなかったら、地上から霊の世界への移行は大へんショッキングな出来ごととなってしまいます。

 霊界での生活は段階的に向上していくようになっています。各界層、段階、ないし表現の場は、下と上とが地理的にではなく進化的な意味で重なり合い、次第に融合しております。魂が向上し、より高い境涯への適応性が身につくと、自動的にその境涯に置かれるのです。これも完全な叡智の完璧な働きの一例です。何一つ偶然ということがないのです。

 (訳者注──オーエンの 『ベールの彼方の生活』 第四巻でアーネル霊が、暗黒界から救出された霊の集団によってつくられたコロニーについて次のように述べている。

≪その後もそのコロニーは向上しつつあります。そして増加する光輝の強さに比例して少しずつ位置が光明界へと移動しております。これは天界における霊的状態と場所との相互関係の原理に触れる事柄で、貴殿には理解が困難、いや、不可能かも知れません。それでこれ以上は深入りしないことにします≫)

 霊的に病んでいる場合はこちらにある病院へ行って必要な手当てを受けます。両親がまだ地上にいるために霊界での孤児となっている子供には、ちゃんと育ての親が付き添います。血縁関係のある霊である場合もありますが、

霊的な近親関係によって引かれてくる霊もいます。このように、あらゆる事態に備えてあらゆる配慮がなされます。それは自然の摂理が何一つ、誰一人見捨てないようにできているからです。

 地上生活の究極の目的は、人間が霊的成長のある段階において、物的現象の世界のウラ側に存在する実在に気づくように、さまざまな体験を提供することです。大自然の摂理は正常な人間には例外なくその機会が与えられるように働いていることを私は確信しております。

もしそうでなかったら神によって無視されたり恩恵にあずかれない人間がいることになり、そういうことは絶対に有り得ないことだからです。霊が地上に誕生するというその事実が、潜在的にその子供にもいずれ芽生えるであろう霊的自覚が秘められており、そのための機会がこれから与えられていくということを意味しております」

Monday, June 1, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

 本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック




第13章 右手が行うことを左手に知られてはなりません

見せびらかすことなく善を行うこと

一、人々に見てもらおうと、人前で善を行うことがないように気をつけなさい。なぜなら、そうしないと、天の父からの報いを受けることはできないからです。
 
 人に施しを与える時には、偽善者たちが路上や神殿でしているように、人に誉められようとして、そのことを言いふらしてはなりません。誠に言いますが、彼らはすでにその報いを受け取っているのです。

施しを与える時には、右手が行うことを左手に知られてはなりません。そうすれば、その施しは誰にも知られないものとなり、あなたたちの父は、密かに行われていることを見て、あなたたちに報いを与えて下さるのです。(マタイ第六章 1‐4)


二、イエスが山から降りて来られると、大勢の人々がその後を追った。その時ハンセン病を患う者がイエスに会おうとやって来て、イエスを讃えながら言った、「主よ、もしあなたがそう望むのであれば、私の病を癒してください」。

イエスは手を伸ばすと彼に触れて言われた、「私はそれを望みます。病が癒されますように」。とすると、ハンセン病の症状が消えた。そしてイエスは彼に言われた、「誰にもこのことを言ってはなりません。しかし、祭司たちにあなたの姿を見せ、モーゼによって教えられた恵みを捧げ、人々に証明しなさい」。 (マタイ第八章 1‐4)


三、見せびらかすことなく善を行うことには大きな価値があります。与える手を隠すことは更に価値のあることです。それは確実な道徳的優位性の証ですが、と言うのも、一般世間より高いところからもたらされるものに対して目を向けるということは、今生から自分を切り離し、来世に身を置くことが必要となるからです。

一言で言うならば、人類の上に身を置き、人間の証言によって得られる満足を棄て、神に認められるのを待つことです。神にではなく、人々に認められることを好む者は、神にではなく人々の方を信じているということであり、未来における生活よりも、現世により価値を置いていることになります。

もし、そんな筈はない、と言うのであれば、自分の言っていることと信じていることが違っていることになります。
℘229     
 与えたものを受け取った者が、その恩恵を声を大にして言い振らしてくれることが期待できなければ、人に与えない人がどれだけいることでしょうか。公の場では多くを与えながらも、隠れた場所では小銭一枚さえも与えない人がどれだけいるでしょうか。

だからこそ、イエスは言ったのです。「人に見せびらかすように善を行った者は、すでにその報いを受け取っているのです」。真に善行によって自分自身の栄光を地上に求める者は、すでに自分に対してその支払いを行っているのです。その人に対して、神はもはや何も負うものがありません。その人にはただその自尊心への罰が残されているのです。
         
 右手が行うことを左手に知られてはなりません。という言葉は、謙虚な善行の特徴を見事に示しています。しかし、真の謙虚さが存在するとすれば、偽りの謙虚さ、見せかけの謙虚さも存在します。

与える手を隠しながらも、そのほんの一端だけが見えるようにしておき、周りを見まわし、それを隠すのを誰かが見てくれているかどうかを気に掛ける人がいます。これはキリストの金言の恥ずべき物まねです。

自尊心の強い善行者が、人間の間でさえもその価値を下げられてしまうのであれば、神の前でもそうではないでしょうか。このような人々も地上においてすでにその報いを受けているのです。人々に見られることにより、彼らは満足しているのです。彼らが受けることが出来るのはそれがすべてなのです。

 では、善行の恩恵の重さを、それを受ける人に負わせ、恩恵を受けていることを認識していることの証を示すことを強要し、その置かれた立場を意識させ、恩恵を与えるために払われている犠牲の大きさや、その値段の高さを自慢する人々は、どのような報いを受けることが出来るでしょうか。

おお、こうした者からは、その自尊心に対する最初の罰として、その名前を人々に祝福され口にしてもらう機会さえも奪われ、地上における報いを受けることはできません。
℘230   
虚栄心のために乾かされた涙は、天に昇っていくのではなく、恩恵を受ける立場にある苦しむ者の心に再び落ち、その心を痛めることになります。

このようにして行われた善からもたらされる益は何もなく、自尊心の強い善行者はそのことを嘆くことになりますが、嘆き悲しまれた恩恵とは、偽りの、価値のない貨幣でしかありません。

 見せびらかすことなく行われた善行には二重の価値があります。受ける人の感受性を守るのであれば、受ける人は人間としての威厳を保ち、自分自身に対して不快を感じることなく恩恵を受けることが出来、そうであるならばその善行は、物質的な慈善であるばかりでなく、道徳的な慈善でもあります。

というのも、ある仕事による対価を受け取ることと、施しを受け取ることでは大いに違うからです。一方仕事を施しの形に変えることは、その方法によっては、恩恵を受ける者を侮辱することであり、他人を侮辱する時、そこには常に自尊心と悪意が存在します。

真なる慈善は、それとは反対に、善行を隠したり、気を悪くさせる可能性のある最も小さなことさえも防ごうと細やかに気を遣い、工夫を凝らさなければなりません。

なぜなら、どんな小さな道徳的な不和でさえも、必要以上に問題を大きくすることになるからです。自尊心の強い者の慈善は受ける人を圧迫しますが、真なる慈善は温和で優しい言葉を身に付け、それによって受ける人を、善行を働く者の前に気楽にさせます。

本当の寛大さは崇高で、善行者は自らの立場を逆にし、善を働く相手の前に自分が受益者であるのだと感じる方法を知っています。これが「右手が行うことを左手に知られてはなりません」ということの意味なのです。


 見えざる不幸
四、大きな災害の時には、災害から復旧するための感情に駆られ、寛大な衝動に満ちた慈善を見ることができます。しかし、こうした一般的な災害と並行して、人目につくことのない幾千もの個人的な災害が発生しています。

これらの見えざる目立たない不幸は、救済を求めることを待たずに、真の寛大さによって見つけ出されるものです。
℘231           
 きちんとした簡素な衣服に身を包み、同じように質素な服装をした女の子を連れたその品の良い女性は誰でしょうか。あるみすぼらしい家に入っていきますが、もちろんそこの住民のことを知っているのでしょう、玄関で丁寧に挨拶をしています。彼女はどこへ行くのでしょうか。

子供たちに囲まれたある母親が横たわる屋根裏まで上がってきます。彼女がやって来ると、そこにいる者たちの痩せた顔に喜びの笑みがこぼれます。彼女はそこにいる者たちの苦しみを和らげに行ったのです。

彼女は優しく心休まる言葉とともに、彼らが必要としているものを持って来ましたが、その言葉は、乞食ではない彼らが、恥ずかしいと感じることなくその善意を受け止めることができるようにします。

父親は入院しており、その間、母親は労働によって家族の必要としているものを賄うことが出来ないのです。

その女性のお蔭でその可哀想な子供たちは寒さに凍えることもなければ、お腹を空かすこともありません。子供たちはしっかりとした服を着て学校へ行くことができ、母親の胸から弟たちに与える母乳が無くなる心配もありません。

彼らの間で誰かが病気になったとしても、この善き婦人は彼らの必要とするであろう物質的援助を拒むことは無いでしょう。彼らの家を出ると彼女は病院へ行き、そこにいる父親を慰問し、その家族の様子を伝えることによって父親を安心させます。

道の曲がり角には車が彼女を待っており、その車にはみなが必要としている物が全て積まれ、次から次へと人々を訪ねていきます。訪ねる人々に対して、どのような宗教を持っているのか、どんな意見をもっているのかなどと尋ねることはありません。

なぜなら、すべての人が神の子であり、自分の兄弟であるのだと思っているからです。一回り終えると自分に、良い一日が始まったと言います。彼女の名前は何と言うのでしょうか。どこに住んでいるのでしょうか。誰もそのことを知る人はいません。

貧しい人々に彼女は何の意味も持たない名前を教えてあります。しかし、彼女が人々を慰める天使であることに間違いありません。毎晩、天の父へ向けた彼女に対する感謝の言葉をカトリック教徒からも、ユダヤ教徒からも、プロテスタントからも聞くことができます。
℘232      
 どうしてそんな質素な服装をしているのでしょうか。外見によって人々の貧しさを辱めないためです。なぜ、彼女の娘について来させるのでしょうか。どうやって善行を行うのかを娘が学ぶことが出来るようにするためです。若い娘も慈善を行いたいと思っています。しかし母親は彼女に言います。

「あなた自身が何も持っていないのに、何を人に与えることが出来るのですか。たとえ私があなたに何かを手渡し、それをあなたが誰かに与えたとしても、あなたにとってどんな価値があるでしょうか。

その場合、実際に慈善を行っているのは私だということになります。それによってあなたにはどんな功労があったことになるでしょうか。それでは正しくありません。病気の人たちを訪ねる時、あなたは私が彼らの面倒を見るのを手伝って下さい。それだけでもたくさんだと思いませんか。

これ以上簡単なことはありません。役に立つ技術を身に付けてこの子供たちに洋服を縫ってあげなさい。そうすればあなた自身が持つ物を人に与えることができます」。

このようにして、真なるキリスト教徒であるその母親は、キリストの教えてくれた美徳の実践をその娘に教えているのです。彼女はスピリティストでしょうか。そのようなことは重要なことではありません。
     
 家の中では自分の置かれた立場上、全く普通の女性として振る舞います。しかし、彼女は神と自分自身の良心によって認められることしか求めないため、彼女が何をしているのか知る者はいません。

ところがある日、予期せぬ時に、彼女が世話をしている人の一人が手作りの作品を売りに彼女の家にやってきました。この女性は彼女を見てそれが自分の世話をしてくれている人だということに気づきました。

すると彼女は、「静かに。誰にも言ってはいけませんよ」と言うのでした。それはイエスが言っていたのと同じことです。

℘233 
 やもめの寄付
五、 イエスは賽銭箱の前に座り、人々がどのようにそこにお金を入れて行くのかを見守られていると、多くの豊かな人々が賽銭箱にたくさんのお金を入れて行くのが見られた。そこへ、ある貧しいやもめがやってきて、レプタ銅貨を二枚だけ賽銭箱へ入れた。

するとイエスは使徒たちを呼んで言われた。「誠に言いますが、あの貧しいやもめは、誰よりもたくさん寄付をしました。他の者たちは皆、豊富にあるものを与えましたが、彼女は、乏しい中から持っている生活を支えるものすべてを与えたからです」。(マルコ 第十二章 41-44、ルカ 第二十一章 1‐4)


六、多くの人が、必要なものが不足しているから望むだけの善を行うことが出来ないと歎き、豊かになることを望むのは、その富を有効に活用したいからだと言います。それは紛れもなく賞賛に与えすることであり、それがまったく誠実な願いである人もいます。

しかしながら、ほとんどの人が、善を行うことに対してまったく無関心なのではないでしょうか。他人に対して善を行いたいと望みながらも、まず自分自身に対して善を行うことを重んじ、自分に不足している贅沢をもう少し楽しみ、その残りを貧しい人たちに与えようとしている人がいないでしょうか。

こうしたもう一つの欲望は、おそらくそうした欲望を持つ自身の目にさえも見えていないのですが、もし彼らが自分自身をよく調べてみるなら、それを心の底に見つけ出すことが出来るでしょう。

真なる慈善とは、自分のことよりも優先して他人のことを考えることなのですから、そうした欲望はよい意図の功労をまったく打ち消してしまいます。

この場合の事前の高尚さとは、各々がその労働の中で、自分の力、知性、才能を活かすことによって、それぞれの寛大な意向を実現させるために不足しているものを求めるところにあります。その中には神を最も喜ばせる自己犠牲が存在します。

不幸にして大多数の人々は、財宝探しをしたり、偶然の好機を待ったり、予期せぬ遺産相続を期待したりなどといった、途方もない計画に走り、最も手っ取り早く、努力なしに豊かになる方法ばかりを夢見ています。

また、そうした目的を遂げるために霊的な援助が受けられると期待する人たちには、何と言えばよいのでしょうか。

彼らはまったくスピリティズムの神聖なる目的が何であるかをわかっておらず、また、神が人間と交信することを許した霊たちの役割というものについてはなおさら知らないのです。結局彼らは失望によって罰せられることになるのです。([霊媒の書]第二部 294,295) 
℘234  
 その意図にまったく私欲的な考えを含んでいない人々は、自分に必要なものを少しも失うことなく人に与える金持ちの金よりも、必要なものを失ってまでも人に与える貧しい者の寄付の方が、神の天秤にはより重く計られるのだということを思いだし、心に望む全ての善を行うことは不可能であるということを知って、慰められなければなりません。

実際、貧困を大規模に救済することが出来るのであれば、前者の行いの方が偉大です。しかし、もしそうした行いができないのであれば、状況に従って、可能な限りを行わなければなりません。ただ、人の涙を乾かすことが出来るのはお金だけで、お金がないからと言って黙っていて良いものなのでしょうか。

心からその兄弟のために役に立とうと思う者にはみな、その望みを叶えることの出来る機会が何回も与えられます。そうした機会は見つけようとすればその姿を現します。ある方法が見つからなかったとしても、別の方法が見つかるでしょう。

なぜなら、自分の能力を、仕事をしたり、人の肉体的、もしくは道徳的な苦しみを和らげたり、人の役に立つ努力に向けることのできない人はいないからです。

誰もが、お金がない、仕事がない、時間がない、休みがないと言っているうちは、なにも隣人の為に捧げることはできません。しかしそこには、貧しい者の寄付、やもめの寄付が存在するのです。
 
 
 貧しい者、身体の不自由な者を招くこと。
見返りを求めずに与えること
七、 イエスは自分を招いた者に言われた、「晩餐をしたり、食事の席を設ける時には、あなたたちの友だちや、兄弟、親類あるいは裕福な隣人を招いてはいけません。なぜなら彼らはその後、あなたたちから受けたものを返そうとあなたたちを招くからです。

小宴を催す時はむしろ、貧しい者や身体の不自由な者、足や目の不自由な人を招きなさい。彼らにはお返しをする方法がないので、あなたたちは祝福されるでしょう。正しい人々が復活する時、あなたたちは報いられるでしょう」。

 これらの言葉を聞いていた列席者の一人がイエスに言った、「神の国でパンを食べる者は幸いです」。(ルカ 第十四章 12-15)


八、祝いの宴を行う時には、あなたたちの友だちや兄弟、親類、あるいは裕福な隣人を招いてはいけません、と言ったイエスの言葉は、言葉通りに取ればばかげたものですが、そこにある精神を理解するならば、崇高なものです。

友だちの代わりに、道にいる物乞いを集めてともに食卓につくことをイエスが意図したわけはありません。

イエスの言葉が殆どいつも比喩的に使われているのは、思考の繊細な色合いを感じとることが出来ない人には、強いイメージによって鮮明な色彩を放つように見せることが必要だからです。

この考えの核となる部分は次の言葉に示されています。「彼らにお返しをする方法がないので、あなたたちは祝福されるでしょう」。

つまり報われることを考えに入れた上で善を行ってはならず、単に善を行うことに対する喜びの為に行わなければならないということです。強烈な比較を使うことによって、イエスは言いました。

「小宴を催す時はむしろ、貧しい者や身体の不自由な者、足や目の不自由は人を招きなさい。彼らにはお返しをする方法がないのです」。小宴と言う言葉は、大きな宴のことではなく、あなたたちがふだん楽しんでいる贅沢に加わる場合であると理解しなければなりません。

しかしながら、この注意を促す言葉は文字通りに理解することもできます。何と多くの人が、招かれたことを光栄に思い、お返しに招いてくれる人だけを宴の席に招いていることでしょうか。

反対に、自分より不幸な親類や友人を招くことで満足する人もいます。あなたたちのうちの何人がこの中に数えられるでしょうか。この様にすれば、目立たずに大きな事業を行うことができます。

誠心誠意、見せびらかすことなく、善を目立たなくさせることができるのであれば、このように行う人は、目の不自由な人や身体の不自由な者を探しに行かなくとも、イエスの教えを守ることができるのです。


℘236



霊たちからの指導

  物質的な慈善と道徳的な慈善
九、「お互いに愛し合い、他人には私たちがして欲しいと思うようなことをしてあげましょう」。どんな宗教も、どんな道徳も、これら二つの考えに要約されています。これらがこの世で守られたなら、みなが幸せになるでしょう。そこには反感や不快は存在しないでしょう。

さらに、貧困もなくなるでしょう。なぜなら、裕福な者の贅沢な食卓から、多くの貧しい者が食事をすることができるようになるからで、そうなれば私が最後の人生を過ごした薄暗い街角にいたような、すべてに事欠いた、惨めな子どもたちを引き連れた可哀想な女性たちをもう見ることもなくなるでしょう。

豊かな者たちよ、このことを少し考えてみて下さい。出来る限り不幸な者たちを助けてあげてください。

神がいつの日か、あなたの行った善に対する報いを与えてくれるように、また、あなたたちが住んでいた地上から出てくる時、あなたたちに感謝する霊たちが並んであなたたちをより良い幸せな世界へ迎えてくれるように、他人に対し与えて下さい。

 私の最後の人生において、役に立つことが出来た相手と、死後の世界において再会した時の喜びをあなたたちも知ることができたなら。

 ですから、あなたたちも隣人を愛してください。自分たちを愛するように愛してください。なぜなら、不幸な者を寄せつけまいとする時、あなたたちは過去の友人、父親、兄弟を自分から遠ざけようとしているのかもしれないのだということをすでに知っているからです。

だから、霊の世界に戻って不幸な者たちが誰であったのかを知った時、どんな失望を感じることになるかを考えてみて下さい。

物質的には何の負担もなく、誰にでも行うことができるのに、実践するとなると最も難しい道徳的な慈善というものがどういうものであるのか、よく理解してほしいと思います。

道徳的な慈善とは、生きる者たちがお互いに辛抱し合うことであり、それはこの遅れた世界、あなたたちが現在肉体を持って生まれている世界においては、非常にまれにしか行われていないことです。

私の言うことを信じてください。自分よりも愚かな者には話をさせておき、自分は黙っていることが、人間にとって大きな利益をもたらすのです。人を冷かしているばかりの人の口から洩れる冷やかしの言葉に耳を傾けないことや、あなたを侮辱の笑みを浮かべて見下す人たちを無視することは、一種の慈善なのです。

彼らは多くの場合、自分たちがあなたたちよりも優れていると誤って思い込んでおり、唯一の真の世界である霊の世界においては、あなたたちよりも劣っていることが珍しくありません。この場合、必要なのは謙虚さではなく、慈善です。なぜなら、他人の悪に関心を持たないことは、道徳的な慈善であるからです。

だからと言って、この慈善は他の慈善の妨げとなってはいけません。ゆえにあなたたちの同胞を軽んじることが無いように、特に注意してください。私があなたたちにすでにお伝えしたことをすべて覚えておいてください。

今日あなたが拒む一人の貧しい者は、今日より劣った条件に置かれていた過去のあなたたちにとっての大切であった誰かなのかも知れません。地上で幸いにして幾度か助けることができた貧しかった人と、私はこちらで会うことができましたが、今度はその人に、私が助けを懇願することになりました。

貧しい者や、病気の者を拒む前に、私たちは皆兄弟なのだとイエスが言ったことを覚えておいてください。さようなら。苦しんでいる人たちのことを考え、祈ってください。(ロザリア修道女 パリ、1860年)



十、友よ、私はあなたたちの多くが次のように言うのを聞いたことがあります。「私自身に必要なほんの少しの物さえも所有していないのに、どうして慈善を行うことが出来るでしょうか」。

 友よ、慈善を行う方法は幾千もあります。思考によっても、言葉によっても、行動によっても、慈善を行うことはできます。思考によって行うには、光を見ることなく他界していった、見捨てられた貧しい人々のために祈ることができます。心を込めて放たれた祈りは彼らに慰安を与えます。

言葉によって行うには、日々出会うあなたたちの仲間によい助言をしたり、落胆し、失うことによって神を冒涜するようになってしまった者には、「私もあなたと同じでした。自分が惨めだと思って居ました。しかしスピリティズムを信じました。そしていまはご覧の通り私は幸せです」ということができます。

「無駄だ、私の人生は終わろうとしており、生きてきたとおりに私は死んで行くのだ」と言う年老いた者には、「神は誰に対しても平等にその正義を用います。最後の労働者のことを思いだしてください」ということができます。

この世のことばかりに気を取られてしまっている仲間たちによって悪癖が付いてしまい、悪の誘惑に負けてしまう子どもたちには、「親愛なる子どもたちよ、神はあなたたちのことを見ているのです」と言うことができ、あなたたちはその温かい言葉を繰り返すことに飽きてはなりません。

そうした言葉は、子供たちのその幼い知性を芽生えさせ、彼らを怠け者ではなく、立派な人間にすることになります。これも慈善の一つです。

あなたたちのうち、「ああ。地上には余りにも多くの人間がおり、神はすべての者を見ることはできまい」という人がいます。友よこの言葉をよく聞いてください。

「山の頂上にいる時、そこから何十億もの砂粒に目が届きませんか」。いいですか。神も同じようにあなたたちを見ることが出来るのです。あなたたちはそれらの砂粒が風にまかれ、まき散らされるのを許しますが、神も同じようにあなたたちがその自由意思を働かせることを許すのです。

ただし、神はその無限の慈悲により、あなたたちの心の底に良心という名の注意深い番人を置いてくれました。彼の声を聞いてみて下さい。その声はあなたたちに良い忠告だけをしてくれます。時々あなたたちは、悪の心と戦わせることによって彼を無感覚にしてしまいます。

すると彼は黙ってしまいます。しかし追い払われたその哀れな番人は、あなたたちの中に後悔が陰をのぞかせると、再びあなたたちに自分を聞いてもらおうとします。

その声を聞き問うてみて下さい。多くの場合、彼から受け取る忠告によって、あなたたちは慰めを得ることができます。

 友よ、新しい連隊が現れる度に将軍は旗を掲げるものです。私はあなたたちに標語として次のキリストの言葉を捧げます。「お互いに愛し合いなさい」。この規律を守り、その旗の下に集まれば、幸運と慰安を得ることができるでしょう。(ある守護霊 リヨン、1860年)


   善行
十一、友よ、善行はあなたたちに最も純粋で甘い喜び、つまり後悔にも無関心にも邪魔されることのない心の喜びを与えてくれます。ああ、

美しい魂たちの持つ寛大さが、どれほど偉大で柔らかいものであるのかを理解することができれば、その感覚は、自分自身を見つめる時と同じように他人を見つめることができるようになり、そのことによって、兄弟に衣服を与えるために自分の服を脱ぐことができるようになります。

友よ、他人を幸せにするということだけに身を捧げることが出来たなら、神の代理人として、辛さと苦しみばかりの人生しか知らない家族に喜びを届けることができた時、彼らの苦しめられた表情が、とたんに希望に輝くのを見た時の喜びは、地上のどんな宴にも例えることはできません。

なぜなら、食べるものにも不足した不幸な彼らは、「お腹が減った」と言う、鋭い刃物のように母親の心を突き刺す言葉が、生きることが苦しむことであることをまだ知らぬ子供たちによって、繰り返し泣き叫ばれるのを聞いたことしかなかったからです。

おお、その時、一寸前には失望しか感じていなかった者に再び喜びが生まれるのを見た時に受ける印象が、どんなに素晴らしいものかを理解しなければなりません。あなたたちがあなたたちの兄弟との間に持つ義務を理解しなければ なりません。
℘240     
不幸な者たちに会いに出掛けてください。中でも、より苦しみの大きい、目立たぬ不幸の救済に出掛けて下さい。愛する者たちよ、救い主の次の言葉を心に抱き出かけて行って下さい。「これらの小さい者たちに服を着せる時、あなたは私を通じて服を着せているのです」 

 慈善。すべての美徳を一つにまとめる崇高な言葉よ、それが人々を幸せに導くのです。慈善を実践することにより、その人は自分自身の未来における無限の喜びを創っているのであり、地球上に追放されている間は、やがて後に愛に溢れる神のもとに集まる時に受けることができる喜びを、試しに味わうことで慰安としているのです。

神なる美徳よ、地上で満足を味わうことのできた唯一の時を与えてくれたのはあなたでした。肉体を持って生きる私の兄弟たちよ、「人生の苦しみの為の薬となる、心の安らぎ、魂の喜びは、慈善に求めなさい」と伝える友の声を信じてください。

おお、神を非難しそうになった時には、あなたたちよりも下方に目を向けてください。和らげてあげるべき不幸がどれだけあることか、家族を持たぬ子供たちがどれだけいることか、死が訪れた時、親しい助けの手を誰からも差し伸べられることなく目を閉じて行く老人がどれだけいることか見てください。

やらなければならない善が、何と多く存在することか!おお!不平を言ってはなりません。

反対に神に感謝し、あなたたちの同情、あなたたちの愛、あなたたちのお金を、この世の富を受け継ぐことができず、苦しみと孤立に衰弱した者たちすべての為に、精一杯費やしてください。この世で最も甘い喜びを感じることができるようになり、また、その後には――それは神のみが知っているのです。(アルジェルの司教アドルフ ボルドー、1861年)


十二、「善を行い、慈善的になりなさい」。これがあなたたちの手の中に握られた天に入るための鍵です。永遠の幸福は、どれもが「お互いに愛し合いなさい」という戒律の中に含まれているのです。

魂は隣人への献身なしに霊的に高い次元へ昇っていくことはできません。魂は慈善の衝動の中にのみ幸運と慰安を見つけることが出来るのです。善人となり、あなたたちの兄弟を助け、恐ろしいエゴイズムの傷を捨て去りなさい。この勤めを遂げることが出来れば、永遠の幸福への道が開かれます。

さらに、美しい献身の行動や真の慈善の行動が語られるのを聞いて、歓喜と内なる喜びによって心がうち響くのをいまだに聞いたことがない人が、あなたたちの間にどれだけいるでしょうか。

もしあなたたちが、善を行うことがもたらす快楽だけを求めることが出来れば、いつも霊的成長の道を歩むことができるでしょう。模範に事欠くことはありません。意欲を見るのがまれなだけなのです。

あなたたちの歴史は、大勢の善人たちの慈悲深い思い出を守っているのだということを覚えておいてください。

 イエスは、愛と慈善に関することを全てあなたたちに伝えませんでしたか。なぜ神からの教えを軽んじるのですか。なぜ神からの言葉に耳を閉ざし、そこにあるあらゆる善なる規律に心を閉ざすのですか。

私はあなたたちに、もっと福音の朗読に関心を持ち、それをもっと信じてほしいと思います。それなのに、あなたたちはその本を軽んじ、中身のない言葉の倉庫であるかのように考え、封の切られぬ手紙のように扱い、その見事な法のことを忘れ去ってしまいます。

あなたたちの悪はすべて、神の法の要約をあなたたちが自ら放棄することによって生まれるのです。イエスの献身を伝える頁を読み、それを学んで下さい。

 強い者たちよ、お互いに愛し合ってください。弱い者たちよ、あなたたちの温情、信心をあなたたちの武器としてください。人の心を動かし、いつもあなたたちの教義を広めるようにしてください。私たちがやってきたのは、あなたたちに勇気を与えるためです。

神によって許されたためにこうして私たちは現れ、あなたたちの熱望と美徳を刺激しにきたのです。しかし、一人一人が望むのであれば、各々の意欲と神の助力で事足りるのです。霊現象は、目の閉じた人、不従順な心の持ち主のためにのみおきるのです。

 地上のあらゆる美徳は、慈善という根本的な美徳がその礎とならなければなりません。慈善という美徳なしに、他の美徳は存在し得ません。慈善なしには幸運を期待することもできなければ、慈善のない道徳的な手引きというものも存在しません。

慈善なしには信仰心も存在しません。というのも、信仰心とは慈善に満ちた心を光らせる、純粋な輝きのことに過ぎないからです。
℘242          
 慈善はどの世界においても、永遠の救いの支えです。創造主の放つ最も純粋な放射です。慈善は被創造物に与えられる創造主の美徳そのものです。この至上の神意を私たちはどうして軽んじることができるでしょうか。

そのことを知りながら、自分の中にある慈善を妨げ、神からもたらされるこの感情を退けるほど非道な心を持っているのは誰でしょうか。慈善、この甘い慈愛に反抗するほど悪い息子となっているのは誰でしょうか。

 私が行ってきたことについては、あえて言うつもりはありません。なぜなら、霊たちも自分たちが行ってきたことに対して恥ずかしい気持ちを抱くからです。しかし、私がはじめたことは、あなたたちの同胞たちの慰安に最も貢献することの一つであったと考えています。

私が行ってきたことを引き継ぐ任務が、責務として自分に与えられることを霊たちが願うのをしばしば見ることができます。神の慈悲深い任務についている、親愛なる情け深い兄弟、姉妹たちの間にそうした霊たちを見ることができます。

彼らは犠牲と献身のみがもたらす喜びを感じながら、私があなたたちに勧める美徳を実践しています。彼らの状況がどれだけ敬意に値し、彼らが果たす任務がどれだけ守られ、尊ばれているかを見ることは、私の計り知れない喜びです。

善意に満ちた堅実な意欲に溢れる善人たちよ、力を合わせ、慈善を広める事業を大々的に継続してください。この美徳を実践することにより、あなたたちのための報酬を見つけることができます。

現世を生きるうちから現れることのない霊的な喜びは存在しません。力を合わせ、キリストの教えに則ってお互いに愛し合ってください。そうありますように。(聖ブィンセント・デ・パウロ パリ、1858年)

℘243        
十三、人々は私のことを「慈善」と呼びます。私は神のもとへ続く本道を歩んでいます。私についてきて下さい。あなたたちのすべてが心がけるべき目標を知っているからです。

 今朝、いつもの散歩にでかけてきて、心が悲しくなり、あなたたちに次のことを伝えにやってきました。おお、友よ、貧困、涙、それらすべてをぬぐおうにも、そのなんと多いことでしょうか。無駄だとは思いながらも何人かのかわいそうな母親たちを慰めようと、彼女たちの耳元で囁きました。

「勇気を出してください。あなたたちのことを見守る善き心を持った人々がいるのですよ。あなたたちは見捨てられることはありません。辛抱強くいてください。神はそこにいるのです。あなたたちは神に愛され、神に選ばれたのです」。

彼女たちには私の声が聞こえたようで、驚きに目を丸くして私の方へ向きました。彼女たちの外見から、霊を束縛する彼女たちの肉体は飢えていることが分かります。

私の言葉は確かに彼女たちの心を静めたでしょうが、彼女の空腹を満たすことはできませんでした。彼女たちに向かって繰り返しました。「勇気を持ってください。勇気を出してください」。

すると、子どもに母乳を飲ませていたまだ若い一人の哀れな母親は、痩せた胸から十分な栄養を得ることのできないその小さな命を私に守ってほしいと願うかのように、その子を腕に抱え、空に向かって差し出したのでした。

 友よ、別の場所では、仕事を失った老人たちが、ついには家もなく、貧困のあらゆる苦しみに縛られながらも、その惨めさを恥じて物乞いなどしたことが無いために、道行く人々の慈悲を懇願しているのを私は見ました。

私は何も持ってはいませんが、心が同情で一杯になり、彼らのために物乞いとなって、寛大で情け深い人々の心によい思考をもって貰おうと、あらゆる場所へ行き人々の善意を刺激して回りました。友よ、そのために私はここへ参り、あなたたちに伝えに来たのです。

「家に食料もなく、かまどに火をつけることも出来ず、寝床には毛布もない可哀想な人々がその辺にたくさんいます」。私はあなたたちには何をするべきかは申し上げません。あなたたちの善なる心の自発性に任せます。

私がその方法をあなたたちに教えたとしたら、あなたたちの善行は何のメリットももたらさなくなってしまいます。次のことだけを申し上げます。「私は慈善であり、私はあなたたちの苦しむ兄弟たちのために手を差し伸べます」。  
℘244                        
 しかし、頼むこともあれば、与えることもあり、与える時には多くを与えます。あなたたちを大きな宴に招き、あなたたちの全てを満足させることのできる木を提供します。その木がどれほど美しく、どれほど多くの花が咲き、実を結んでいるか見てください。

行きなさい、行きなさい。善意という名のこの偉大なる木がもたらす果実をすべて収穫することができるように。あなたたちが実を収穫したその枝に、私はあなたたちが行ってきた全ての善行を括りつけ、その木を神のところへ持っていきます。すると神は、再びその木を沢山の実で茂らせてくれます。

善意は尽きることがないからです。友よ、私の掲げる旗に従う者たちのうちに数えられるように、私についてきて下さい。恐れることはありません。私はあなたたちを救いの道へと導きます。なぜなら、私は「慈善」だからです。(ローマで殉教したカリタ リヨン、1861年)


十四、慈善を行うことを、あなたたちの多くは、施しを与えることばかりだと間違えていますが、実際にはさまざまな方法があります。そしてそれらの間には大きな違いがあります。

友よ、施しは、貧しい者たちの負担を軽くするという意味で、時によっては大切です。しかし、それはほとんどの場合、施しを与える側にとっても、受け取る側にとっても屈辱的です。慈善は、逆に、与える側と受け取る側とを結びつけ、さまざまな見えない形で実践されているのです。

家族内で、または友達同士でも、お互いに寛大になり、相互の弱みを赦し合い、誰の自尊心をも傷つけないようにすることによって、慈善的になることができます。

あなたたちスピリティストは、あなたたちと同じように考えない人たちに対する接し方の中で、相手に衝撃を与えたり、彼らの確信していることに対して攻撃するのではなく、私たちの集会に親切に誘って、私たちの考えを聞いてもらい、彼らの心の中に私たちが入っていくことの出来る入り口を見つけることによって、慈善的になることが出来るのです。これも慈善の一つの在り方です。

 今度は、貧しい人たち、富を受け継ぐことのできなかった人々に対する慈善とはどういうものなのかを聞いて下さい。彼らは、自分たちの貧困を不平を言うことなく受け入れることが出来れば、神に報われることになりますが、そのようにできるかどうかはあなたたちにかかっているのです。そのことを例をもちいて明らかにしましよう。

 毎週、あらゆる年代の女性が参加するある集会を私はよく見ます。私たちにとって、ご承知の通り、彼女たちはみな姉妹です。何をしているのでしょうか。忙しそうに、とても機敏に働いています。

指を早く動かしています。彼女たちの心が一つとなって鳴り響き、彼女たちの表情が何と楽しそうであるか見てください。一体何の目的で彼女たちは働いているでしょうか。冬が近づき、貧しい家々には生活の厳しさが増していきます。

夏の間、忙しく蟻のように働いても必要なだけの蓄えをすることができず、殆どの道具が質に入れられてしまっているのです。可哀想な母親たちは、この冬の季節の間に寒さと飢えに苦しむであろう子供たちのことを思って心配し、泣いています。

不幸な女性たちよ、どうか忍耐強くいてください。神はあなたたちよりも、より多く富の分配を受けている人たちの感情に訴えたのです。

彼女たちは集まり、衣服をつくっているのです。後日、そのうち雪が地表を覆い、あなたたちがそのいつも苦しむ身の口から「神は不公平だ」とこぼす時、貧しい人々の為に働くことを自任した、この善なる働き手たちの一人が現れるのを見ることが出来るでしょう。

彼女たちがそのように働くのはあなたたちのためであり、あなたたちの苦しみは祝福に変わります。なぜなら、苦しむ者の心の中には、憎しみのすぐ後ろに愛が潜んでいるからです。

 これらの働き手たちには元気づけが必要ですが、彼女たちのところには、善霊たちからの通信があらゆる方向から届いているのを見ることができます。この会には、活動に参加する男性たちも協力し、それらの朗読を行って人々を喜ばせます。
℘246                     
そして私たち霊はすべての人々の熱意に、それも一人一人に対して応えることができるように、そのような働き手たちに祝福と言う天の国で唯一流通する貨幣によって、即金で支払う善い顧客を連れて行くことを約束し、そればかりではなく、彼らにとってその貨幣が欠くことが無いよう、間違いなく保証いたします。(カリタ リヨン、1861年)


十五、親愛なる友たちよ、私はあなたたちが、「私は貧乏だから、慈善を行うことはできない」と言うのを毎日聞き、あなたたちが同胞たちに対して寛大さを欠いているのを毎日見ています。

あなたたちはなにを赦すこともなく、とても厳しい判事であるかのようにとりすまし、自分に対してそのように振る舞われたら満たされるかどうかなど考えようともしません。寛大であることも慈善ではありませんか。 

寛大になることによってのみ慈善を行うことが出来るあなたたちは、それを広く行わなければなりません。物質的な慈善については、一つ別の世界での話をしましょう。

 二人の人がたった今亡くなりました。「この二人が生きている間、一人一人の善行を別々の袋に入れ、亡くなった時にその袋の重さを量ることができるようにして下さい」。と神は言ってあったのでした。

二人が最期を迎えると、神は二人の袋を持ってこさせました。一方の袋は大きく膨らみ、一杯に詰まった金が袋の中で鳴っていました。もう一つの袋は小さく、殆ど空っぽで、中に入っていた硬貨を数えることができました。一人が言いました。

「この袋は私のだ。見ればわかる。私は金持ちであったため、多くを人に与えることが出来た」。

もう一人が言いました。こっちの袋が私のです。私は貧乏で人と分けあうものをほとんど持っていませんでした」。

しかし驚いたことに、二つの袋を秤にかけると、大きく膨らんでいた袋の方が軽く、もう一方の袋の方が重いことを示し、殆ど空っぽだった袋が、最初の大きく膨らんだ袋の乗った天秤の皿を高々と持ち上げたのでした。すると神は金持ちに言いました。「あなたは確かに多くを与えました。

しかし見栄を張り自尊心を奉る寺院にあなたの名前が現れるようにするために与えました。更に、自分自身で何を失うこともなく与えました。左側へ行き、僅かな施しに満足しなさい」。

次に、貧しい者に言いました。「友よ、あなたは少ししか与えませんでした。しかし秤にかけられているこれらの硬貨一枚一枚は、あなたが自分から無理矢理奪って与えたことを示しています。

あなたは施しを与えることは無くても、慈善を行い、何よりも価値があるのは、そのことが自分のために数えられるかどうかなど考えることもなく、慈善を自然に行ったことです。あなたは寛大で、同胞のことを勝手に判断することはありませんでした。

反対にあなたの全ての行いは同胞を赦すものでした。右側へ行き、あなたの報酬を受け取りなさい」 (ある守護霊リヨン、1861年)


十六、家の仕事に時間を費やす必要のない、ある裕福で幸運な女性は、同胞たちの役に立つ仕事のために、幾らかの時間を費やすことが出来ないでしょうか。

娯楽に費やすお金の残りで、寒さに震える不幸な者たちのために上着を買ってあげてください。その繊細な手で粗末でも温かい服を縫ってあげてください。生まれてくる子供に服を着せようとしている母親を手伝ってあげてください。

そうすることによってあなたの子供を飾るレースの飾りが少なくなったとしても、貧しい母親の子供は身体を温める衣類を得ることができるのです。貧しい者たちのために働くことは、神のぶどう園で働くことです。

 貧しい職人であるあなたは、余剰の富を持っていなくても、兄弟たちに対する愛に満ち、少ない中からでもなにかを人に与えようとするのであれば、所持する唯一の宝であるあなたの時間のうちから、一日の何時間かを与えて下さい。

裕福な人たちを引きつける優雅な細工をつくるのです。夜業の成果を売れば、あなたの兄弟たちを助けるために、あなたの役割を担うことができます。細工に用いるリボンの数は何本か減るかもしれませんが、はだしで歩く者に靴を与えることが出来るでしょう。

そして、神に人生を捧げたあなたたち女性も、あなたたちにできる仕事をしてください。しかし、あなたたちの仕事は、あなたの能力と忍耐力によってあなたたちの注意を引くために礼拝堂を飾るばかりではいけません。

娘たちよ、あなたたちの仕事の生産物は、神の前にいるあなたたちの兄弟たちを助けることに向けられるのですから、大いに働いてください。貧しい者たちは神の愛する子供たちです。彼らのために働くことは神を讃えることです。

「空を飛ぶ鳥たちに神は食物を与える」と言う神の言葉のようになってください。あなたたちの手の中で編む金と銀を、衣類や食物を得ることができない者たちへのそれに変えてください。それを行えばあなたたちの仕事は祝福されます。

 生産することができる者はみな、与えて下さい。あなたの才能を、あなたたちのひらめきを、あなたたちの心を与えて下さい。そうすれば神はあなたたちを祝福します。

世俗的な人々にしか作品を読まれない詩人たち、文学者たちよ。彼らの娯楽を満足させるだけでなく、あなたたちの作品のいくつかを、苦しむ者を助けるために捧げることも忘れないで下さい。画家、彫刻家、あらゆる分野の芸術家たちよ。

あなたたちもその知性を、兄弟たちを助けるために使って下さい。そのことによってあなたたちの栄光が衰える訳ではなく、いくらかの苦しみが軽減されることになるのです。

 誰にも与えることはできます。どんな階級に属していようと、分かち合えるものをなにか持ちあわせています。

神があなたたちに与えてくれたものがなんであろうと、その一部は、生きるために必要なものさえも不足している者たちのために負っているのであり、なぜなら、その立場になれば、他人に対して、自分たちにも分けて欲しいと思うに違いないからです。

地上におけるあなたたちの宝は減るかもしれません。しかし、天におけるあなたたちの宝は増やされます。そこではこの世で蒔いた善行の種が、百倍になって収穫されることでしょう。(ヨハネ ボルドー、1861年)



 慈悲
十七、慈悲はあなたたちを天使たちに近づける美徳です。あなたたちを神のもとへ導く慈善の姉妹です。ああ、あなたたちの同胞の苦しみと貧困の悲しい光景を見て、あなたたちの心に同情をおこしてください。

あなたたちの涙が薬となって彼らの傷の上に流れ、善意に溢れる同情によって希望と甘受の気持ちを彼らに届ける時、なんと大きな喜びを感じることができることでしょうか。この喜びは、不幸の隣で生まれるものですから、ある種の苦痛を伴っているのは確かです。

しかしその中には、世俗的な快楽の辛い味はなく、そうした快楽が後に残す刺すような空しい失望感もありません。人の心の中に浸透するような優しさによって彼らを包み、魂を喜びで満たしてください。心から感じられる慈悲は愛です。

愛とは献身です。献身とは自分自身の忘却であり、不幸な者たちに捧げられたこの忘却と克己は優れた美徳であり、それは聖なる崇高な教義と、神より送られた救い主が一生の中で教えてくれた美徳です。

 この教義が、その根元の純粋さによって確立されるとき、全ての民がその教義に従う時、地球は幸せになり、そこには調和、平和、そして愛が君臨することになるのです。

 あなたたちを進歩させるもっとも正しい感情とは、あなたたちの中にある、エゴと自尊心を征服し、あなたたちの魂を謙虚にし、隣人への愛と善意を持ち合わせるようにする慈悲の気持ちです。

慈悲の気持ちは、兄弟たちの苦しみの奥底まであなたたちを入り込ませ、あなたたちが彼らに手を差し延べ、同情の涙を流すことをうながします。だから、この天から来る感情をあなたたちの中で抑制するようなことがあってはなりません。

苦しむ者たちの惨めな光景を見ることによって楽しい生活が幾らかの時間でも邪魔されることになるといって、苦しむ者たちのそばから身を遠ざけようとする心の堅くなった利己的な人々のように振る舞ってはなりません。

自分が役に立てる時に、無関心であり続けようとする自分を恐れてください。後ろめたい無関心と言う対価によってあがなわれた安堵は死海の静けさであり、海面下には腐り、堕落した泥沼が隠されているのです。
℘250        
 しかし、慈悲とは利己的な人々が恐れているような混乱や嫌悪と、どれほどかけ離れていることでしょうか。疑いもなく、他人の不幸に接すると、自分のことばかり考える魂は自然に深い苦痛を感じることになり、その感情はその人全体を震わせ、その人を痛々しく動揺させます。

しかし、そこで勇気と希望を不幸な兄弟に与えることが出来れば、その報酬は大きなものとなります。その兄弟は、友情に満ちた手で手を握られたことに感動し、時には目に涙を浮かべあなたたちに優しい眼差しを向け、後にその目を天に向け、支えとなってくれる慰め手を送ってくれたことに感謝します。

慈悲は憂鬱ですが、天から届く、第一の美徳である慈善の前触れであり、慈善の姉妹として慈善の恩恵を準備し、高尚なものとするのです。(ミカエル ボルドー、1862年) 
 

 孤児たち
十八、兄弟たちよ、孤児たちを愛してください。特に幼少期において、孤独に見捨てられることがどんなに悲しいことか、あなたたちにお教えすることができたならば、神は孤児たちが存在することを許しますが、それは私たちが彼らの両親となって支えることを、私たちに勧告するためです。

神なる慈善が、可愛そうな見捨てられた存在を寒さと飢えの苦しみから遠ざけるようにし、その魂が悪癖へと道を外してしまうことがないようにして下さい。

見捨てられた子供に手を差し延べる者は、神の法を理解し、それを実践していることになるのですから、神を喜ばせることになります。

あなたが助ける子供が、別の人生においては大切な人であったということも多々あるということを考えると、その場合には、そのことを思いだすことが出来たとすれば、もはやそれは慈善を行っているのではなく、義務を遂行しているに過ぎないのです。

友よ、この様に苦しむ者はみながあなたの兄弟であり、あなたの慈善を受ける権利を持っているのです。とはいっても、それは人の心を悲しめる慈善や、受け取る手にやけどをさせる施しであってはなりません。というのは、あなたたちの施しはしばしば苦い味を持っているからです。
℘251           
苦しむ者の粗末な家が病に見舞われたために悲惨な状況に追い込まれているのでなかったとしたら、そうした苦い施しのうち、どれほどが受け取ることを拒まれていたでしょうか。

あなたの与える利益に、あらゆる利益のうちでも最も貴重な利益である、言葉による利益、慈愛による利益、友情による溢れる笑みによる利益を、一緒に優しく与えて下さい。

自分を守ろうとする態度は、血の流れる心に剃刀の刃を立てるのに等しいことなので避けてください。そして、善を行うことは、あなた自身の利益のためであり、また、あなたの愛する人たちのためでもあるということを心にとめておいてください。(ある親しい霊 パリ、1860年)


  感謝されない善行
十九、恩知らずの人々と出会わないようにと、善行を行いながらも感謝されなかったからといって、善を行うことを止めてしまう人たちのことをどう考えるべきでしょうか。

 こうした場合、そこには慈善よりもエゴイズムが多く存在します。なぜなら、善に対して感謝することを示す態度を見せてもらうために行われる善行とは、私心を棄てて行われる善ではないからであり、私心を棄てて行われる善だけが、神に喜ばれるのです。そこには自尊心も存在します。

なぜなら、そのような人は自分の足元に感謝の証を示そうとひれ伏す、恩恵を受ける人たちの謙虚さを見て楽しんでいるからです。自分の行う善に対する報酬を地上に求める者は、天においてその報酬を受け取ることができません。神は、善行に対する報酬をこの世に求めない者たちを評価するのです。

 善を行った相手が、そのことに対して感謝することがないことが前もってわかっていたとしても、弱い者をいつも助けなければなりません。

あなたが助けた相手がそのことを忘れた時には、恩恵を受けた者があなたに感謝した時よりも、より価値あることとして神は考慮してくれるということを確信してください。あなたたちが善行に対して感謝されないことを神が赦すのは、善を行うあなたたちの忍耐力を試すためなのです。
℘252        
 一時的に忘れられた善行が、後になって善い実を結ばないと誰に言い切ることができるでしょうか。反対にそれは、時間を掛けて発芽する種であるのだということを信じて下さい。不幸なことに、あなたたちは現在のことしか目に入りません。

あなたたちは他人のために働くのではなく、自分たちのために働いてばかりいます。善行は最も冷え切った心をも和らげます。この世においては忘れられてしまうかも知れませんが、肉体の被いから自由になった時、善行を受けたその霊はそのことを思いだし、その記憶がその人に対する罰となります。

彼は自分が恩知らずであったことを嘆き悲しむことになります。次の人生で自分の過ちを改め、恩義を返そうとし、善を施してくれた人に仕える人生を求めようとすることもまれではありません。

このように、疑わずともあなたはその道徳的進歩に貢献することができたことになり、次の教訓の意味を正確に理解することができるようになります。

「善が無駄になることは決してありません」。そればかりではなく、落胆することによって善を行う気力を失うことなく、私心を棄てて善を行ったことの功績を得ることが出来るのですから、自分自身に対しても働いたことになります。

 ああ、友よ。あなたたちの前世と現世のすべてのつながりを知ることが出来たなら、お互いの進歩のための、人類の一人一人を結びつける関係の広さを、一目で見ることが出来たなら、創造主の善意と英知に大いに感心するでしょう。

神はあなたたちがいつか神のもとにたどり着くことができるように、生まれ変わることを許すのです。(守護霊 サンス、1862年)


 排他的な善行
二十、 同じ考え方、同じ思想、同じ政党の人同士の間だけで行われる善行とは正しいものですか。

 正しくありません。なぜなら、人類はみな兄弟であり、政党、宗派といった考え方は必然的に廃止されるべきものであるからです。真のキリスト教徒は同胞たちを兄弟として見ることができ、助けを必要としている者を救済する前に、その人が何を信じ、どう考えているかなどということを知ろうとはしません。

あるいは、あるキリスト教徒が自分とは違う信仰を持っているからといって、苦しむ者を拒否したとしたら、そのキリスト教徒は、私たちに敵を愛さなければならないと教えたイエス・キリストの教訓を守っていることになるでしょうか。

ですから、何も意識することなくその苦しむ人を救済してください。もしその人が宗教上の敵であるとすれば、そうすることが彼にあなたの宗教を受け入れてもらえるようにする方法であり、あなたがその人を拒否したとすれば、その人はあなたの宗教を憎むことになるでしょう。(聖ルイ パリ、1860年)



第14章 あなたたちの父母を敬いなさい

一、あなたたちは戒めを知っています。姦淫をしてはなりません。殺してはなりません。盗んではなりません。偽証をしてはなりません。誰をもあざむいてはなりません。あなたたちの父母を敬いなさい。(マルコ 第十章 19、ルカ 第十八章 20、マタイ 第十九章 18-19)


二、主であるあなたたちの神が、あなたたちに地上で生きるための長い時間を与えてくれるよう、あなたたちの父母を敬いなさい。(十戒 出エジプト 第二十章 十二)


 孝心
三、 自分の父親と母親を愛することが出来ない人には、隣人を愛することができないことから、「あなたたちの父母を敬いなさい」という戒めは、慈善と隣人愛の一般的な法から導き出すことができます。

しかし「敬いなさい」という表現は、父母に対して更に負う義務、すなわち、孝心を含んでいます。

神はこのように顕すことで、両親に対する愛には彼らに対して守らねばならない義務である敬意、注意、服従、寛大さなどが伴わねばならないことを示し、それは、隣人に対して一般に求められる慈善のすべてよりも、さらに厳しく守らなければならないことなのです。

この義務は当然、父親や母親に代わる人に対してもあてはまりますが、献身の義務が少なければ少ないほどその功労も大きいのです。この戒律を守れない者を、神はいつも厳しく罰します。

「あなたたちの父母を敬いなさい」という言葉は、単に尊敬しなさいということからなるのではありません。彼らが必要とする時には、彼らの介護をしなければなりません。

彼らが年老いた時、彼らが静養できるようにしてあげなければなりません。私たちが幼かった頃、彼らが私たちにしてくれたように、彼らを優しく囲んであげなければなりません。

 特に、何も持たない父母に対してそうすることは、真なる孝心を表しています。自分たちに必要なものをなに一つ失うことなく、両親が飢え死にすることだけはないようにと必要最低限のことだけを行い、また、自分たちには最高のものや、最も心地良いものを残しておき、両親については道に放置しないまでも、家の最も居心地の悪いところに追いやりながら、自分たちは偉大なことを行っていると考えている人々は、この戒律を守っていることになるでしょうか。

嫌々ながらそれを行ったり、両親に家事を行うことの重圧を負わせ、残された人生の代償を高く支払わせたりしないのであればまだましです。年老いた親たちが、若くて強い子供たちのために、仕えなければならないというのでしょうか。

子供たちに母乳を与えてくれていた時、母親はその母乳を子供たちに売ろうとしたでしょうか。子供たちが病気だった時夜通し看病したことや、必要なものを手に入れようとして歩いた道のりを、母親は果たして数えていたでしょうか。

子供たちは、貧しい両親に対して最低限必要なものだけではなく、可能な範囲の中で、ちょっとした小さな気遣いや、愛情のこもった介護の義務を負っているのであり、それらは子供たちがすでに受け取った神聖なる借金の金利を支払うことにしか相当しないのです。

こうした孝心だけが神を喜ばすことになります。弱かった時に自分を守ってくれた人たちに、自分が何を負って居るのかを忘れてしまう人は哀れです。

彼らは子供たちの安らかな生活を確保するために何度も厳しい犠牲を払い、子供たちに物質的な生活を与えながら道徳的な生活をも与えたのです。恩知らずな者たちは哀れです。

そのような者たちはやがて、恩知らずと放棄によって罰せられます。彼らは、最も大切な愛情によって傷つけられることになりますが、それは時として現世のうちに起こり、そうでなければ別の人生において必ず、人に対して行ったのと同じことで苦しむことになります。

 中には義務を無視し、子供たちに対してあるべき姿を持たない父母がいることも確かです。しかし、そうした親を罰するのは神の義務であり、その子供たちの役割ではありません。子供たちはこうした親たちを非難する権限はないのです。なぜなら、その子供たちは恐らくそのような親を持つに価したからなのです。

慈善の法が、悪を善によって返すことや、他人の不完全性に対して寛大であること、隣人の悪口を言わないこと、他人の侮辱を赦し忘れること、敵をも愛することを命じているのであれば、子供にとって、これらの義務を親との関係において果たすことが、どれだけ重要なことであるか判ります。
℘258    
したがって、子供たちは自分たちの親に対する品行の中で、隣人との関係についてイエスが教えたことの全てを規則として取り入れ、他人との関係で非難される行動は、両親との関係においては更に大きな非難を受けることになるということを、いつも覚えておかなければなりません。

そして前者との関係においては、単なる過ちに過ぎないことが、後者との関係においては、罪と考えられることがあるということを覚えておかなければなりません。なぜなら後者の場合においては、慈善の欠如ばかりか、忘恩が加わるからです。



四、「主であるあなたたちの神が、あなたたちに地上で生きるための長い時間を与えてくれるよう、あなたたちの父母を敬いなさい」と神は言いました。

なぜこの言葉は天の生活ではなく、地上での生活を報酬として約束しているのでしょうか。その説明は次の言葉に見ることができます。

「主であるあなたたちの神が与えてくれる」と言う言葉は、現代の十戒の形式からは除かれていますが、こうした言葉が特別な意味を与えているのです。言葉を理解するには当時のヘブライ人たちの考え方や状況について言及しなければなりません。

彼らはいまだ死後の世界について知ることは無く、その視野は肉体を持った人生を超えるものではありませんでした。従って目で見えないものよりも、目で見えるものによって印象付けられる必要があったのです。

そこで神は、子供たちに話しかけるように、彼らの理解の届く言葉によって、彼らを満足させることができるもので期待を持たせたのです。ヘブライ人たちは砂漠に住んでいました。神が彼らに与えるのは、約束された土地、それは彼らの熱望するものでした。

彼らはそれ以外の物は何も望んでいなかったのです。神は、彼らがもし戒律を守るのであれば、その地で彼らが長く生きるであろう、つまり、その土地を長い間所有するであろうと、言ったのです。

 しかし、キリストの出現の時代を確かめると、彼らはその考え方より発展させていたことが分かります。より物質的でない糧を取るべき時代が到来すると、イエス自身が彼らに対し、「私の国はこの世のものではありません」と言いながら、霊的人生について教え始めます。

℘259       
「地上ではなく、向こう側で、あなたたちは善行の報酬を受けることになるのです」。これらの言葉によって、約束された土地は物質的な土地ではなくなり、天の母国となるのです。

こうした理由によって、「あなたたちの父母を敬いなさい」と言う戒めを守ることが呼び掛けられる時、彼らに地上の土地が約束されるのではなく、天が約束されるのです。(→第二章、第三章)


 誰が私の母親で、誰が私の兄弟なのでしょうか
五、 そしてイエスが家へ戻られると、そこには大勢の人々が集まっており、食事をとることもできなかった。そのことを知ると、身内の者たちはイエスを取り押さえに出て来た、気が狂ったと思ったからである。

 しかし、母親と兄弟たちが外で待っているのを見ると、人々はイエスを呼ぶように言った。するとイエスの周りに座っていた人々はイエスに言った、「あなたのお母さんと兄弟たちがあなたを外で呼んでいます」。イエスは答えて言われた。

「誰が私の母親で、誰が私の兄弟なのでしょうか」。そして自分の周りに座っていた人たちを見回すと、「ここに私の母親と兄弟がいます。神の意志によって行う者はみな、私の兄弟、姉妹、そして母親なのです」と言われた。(マルコ 第三章 20,21、 31-35 マタイ第十二章 46-50)

 
六、イエスの善意とあらゆる人に対する普遍の慈悲心からすると、イエスの言葉の幾つかは一見、風変わりに聞こえます。不信心な者はそうした部分を取り上げ、イエスが矛盾していると言って攻撃するための武器とします。

しかしイエスの教義には原則として、その基盤に愛と慈悲の法があることを否定することはできません。イエスが一方で築いたものを、もう一方で崩しているとは考えられません。

ゆえに結果として、まさに次のことが言えます。もしイエスの言ったあることが基本原則と矛盾しているのであれば、伝えられた言葉が正しく再生されなかったか、正しく理解されなかったか、もしくはそれらの言葉はイエスのものではないことになります。


七、この場面では、驚くことに、イエスの親戚に対する無関心が見受けられ、ある意味で母親を裏切ったようにとらえることができます。

 イエスの兄弟については、彼らはあまりイエスを好んでいませんでした。進歩の遅れた霊たちであり、イエスの任務を理解することができませんでした。イエスを変わり者と考え、イエスの行動や教えは彼らの心を動かすことは無く、誰一人イエスの使途として従う者はいませんでした。

それでも、イエスの敵から彼らもある程度は警戒されていたと言われています。そして、実際にはイエスが家族の前に現れると、彼らはイエスを兄弟としてと言うよりも変わり者として扱いました。

ヨハネははっきりと、「彼らはイエスを信じていなかった(→ヨハネ 第七章 五)」と記しています。 

 母親に関して、イエスに対するその優しさを誰も否定することはないでしょう。しかしながら、彼女も息子の任務について正確に理解していなかったことを知るべきで、彼女はイエスの教えを守ることは無く、パブテスマのヨハネのようにイエスの証人となることはありませんでした。

 彼女の中で勝っていたのは母親としての気遣いだったのです。イエスが母親を裏切ったと見るのは、イエスのことを知らない者の見方です。「父母を敬いなさい」と教えた者の考えの中に、母親への裏切りが隠されている筈がありません。

したがって、たとえ話の形をほとんどいつもとることによって、ベールに隠されたイエスの言葉が持つ、本来の意味を求めることが必要です。

 イエスはどんな機会をも無駄にすることなく教えを説きました。そこで家族が到着したのを見て、肉体的な親族と霊的な親族との違いについてはっきりと示すためにその機会を利用したのです。

℘261                
 肉体的な親族と霊的な親族
八、血液のつながりは必ずしも霊的なつながりを生むわけではありません。肉体は肉体より生じますが、霊は霊から生まれるのではなく、霊は肉体の形成以前から既に存在しているのです。

父親が息子の霊を創造するのではありません。父親は息子のために肉体的な被いを用意したに過ぎませんが、そのことが息子の進歩のための知的・道徳的発展を補助する役割を果たしているのです。

 一つの家族に生まれてくる者たち、特に近い親族として生まれる者たちは、多くの場合、過去の人生での関係から結びついている好意的な霊たちであり、地上における人生で、お互いにその愛情を表します。

しかし、その霊たちが、前世でお互いの反感によって引き離された霊たちで、お互いにまったく馴染まない者同士であることから、地上ではそれをお互いの敵意として表すこともあり、その場合、その人生はその霊にとって試練となります。

家族の真なる絆とは、血液の絆ではなく、観念の共有や共感によって結ばれる絆であって、その絆は生れる以前、生きている間、そして死後にも霊たちを結びつけます。違った両親を持つ二人が、血のつながる兄弟以上に結びつきの強い霊的な兄弟であり得ます。

このようなことから、霊的絆で結ばれた兄弟はお互いに引かれ、求め合うことになり、一方で、私たちが日々目にすることが出来るように、血縁のある兄弟同士が拒絶し合うことがあるのです。

そこには道徳的な問題が存在するのですが、それを、スピリティズムだけが存在の複数性の理解によって説明することが出来るのです。(→第四章 13)

 すなわち家族には二種類あります。霊的な絆で結ばれた家族と、肉体的な絆で結ばれた家族です。前者の方が継続性があり、霊の浄化によってより絆が強まり、魂のさまざまな移住を通じて霊界で永続します。

後者の絆は物質と同じように時間が立つと消滅し、多くの場合、道徳的には現世中に消えてしまいます。これらのことをイエスは理解し易いように伝えるため、使徒たちに、ここに私の母親と兄弟がいます。

つまり私の霊的絆によって結ばれた家族であると言い、神の意志によって行う者はみな、私の兄弟、姉妹、そして母親なのです。と言ったのです。

 血縁のある兄弟たちがイエスに抱いた敵意はマルコの話の中に明確に表わされており、イエスを独占しようとして霊を失ったと言ってきた部分に見られます。彼らの到着が知らされると、イエスは彼らが自分に抱く気持ちを承知の上で、霊的な視点からそのことを使徒たちに述べたのです。

「ここに私の(真なる)母親と兄弟がいます」。イエスの母親は兄弟たちと共にいましたが、イエスは教えを一般的に述べたのであり、決して肉体的絆を持つ母親が霊的な絆を持つ母親と違って無関心の対象となるべきだということを言ったのではないのであって、そのことをイエスは、他のさまざまな場面で十分に証明しています。

霊たちからの指導

  物質的な慈善と道徳的な慈善
九、「お互いに愛し合い、他人には私たちがして欲しいと思うようなことをしてあげましょう」。どんな宗教も、どんな道徳も、これら二つの考えに要約されています。これらがこの世で守られたなら、みなが幸せになるでしょう。そこには反感や不快は存在しないでしょう。

さらに、貧困もなくなるでしょう。なぜなら、裕福な者の贅沢な食卓から、多くの貧しい者が食事をすることができるようになるからで、そうなれば私が最後の人生を過ごした薄暗い街角にいたような、すべてに事欠いた、惨めな子どもたちを引き連れた可哀想な女性たちをもう見ることもなくなるでしょう。

豊かな者たちよ、このことを少し考えてみて下さい。出来る限り不幸な者たちを助けてあげてください。

神がいつの日か、あなたの行った善に対する報いを与えてくれるように、また、あなたたちが住んでいた地上から出てくる時、あなたたちに感謝する霊たちが並んであなたたちをより良い幸せな世界へ迎えてくれるように、他人に対し与えて下さい。

 私の最後の人生において、役に立つことが出来た相手と、死後の世界において再会した時の喜びをあなたたちも知ることができたなら。

 ですから、あなたたちも隣人を愛してください。自分たちを愛するように愛してください。なぜなら、不幸な者を寄せつけまいとする時、あなたたちは過去の友人、父親、兄弟を自分から遠ざけようとしているのかもしれないのだということをすでに知っているからです。

だから、霊の世界に戻って不幸な者たちが誰であったのかを知った時、どんな失望を感じることになるかを考えてみて下さい。

物質的には何の負担もなく、誰にでも行うことができるのに、実践するとなると最も難しい道徳的な慈善というものがどういうものであるのか、よく理解してほしいと思います。

道徳的な慈善とは、生きる者たちがお互いに辛抱し合うことであり、それはこの遅れた世界、あなたたちが現在肉体を持って生まれている世界においては、非常にまれにしか行われていないことです。

私の言うことを信じてください。自分よりも愚かな者には話をさせておき、自分は黙っていることが、人間にとって大きな利益をもたらすのです。人を冷かしているばかりの人の口から洩れる冷やかしの言葉に耳を傾けないことや、あなたを侮辱の笑みを浮かべて見下す人たちを無視することは、一種の慈善なのです。

彼らは多くの場合、自分たちがあなたたちよりも優れていると誤って思い込んでおり、唯一の真の世界である霊の世界においては、あなたたちよりも劣っていることが珍しくありません。この場合、必要なのは謙虚さではなく、慈善です。なぜなら、他人の悪に関心を持たないことは、道徳的な慈善であるからです。

だからと言って、この慈善は他の慈善の妨げとなってはいけません。ゆえにあなたたちの同胞を軽んじることが無いように、特に注意してください。私があなたたちにすでにお伝えしたことをすべて覚えておいてください。

今日あなたが拒む一人の貧しい者は、今日より劣った条件に置かれていた過去のあなたたちにとっての大切であった誰かなのかも知れません。地上で幸いにして幾度か助けることができた貧しかった人と、私はこちらで会うことができましたが、今度はその人に、私が助けを懇願することになりました。

貧しい者や、病気の者を拒む前に、私たちは皆兄弟なのだとイエスが言ったことを覚えておいてください。さようなら。苦しんでいる人たちのことを考え、祈ってください。(ロザリア修道女 パリ、1860年)



十、友よ、私はあなたたちの多くが次のように言うのを聞いたことがあります。「私自身に必要なほんの少しの物さえも所有していないのに、どうして慈善を行うことが出来るでしょうか」。

 友よ、慈善を行う方法は幾千もあります。思考によっても、言葉によっても、行動によっても、慈善を行うことはできます。思考によって行うには、光を見ることなく他界していった、見捨てられた貧しい人々のために祈ることができます。心を込めて放たれた祈りは彼らに慰安を与えます。

言葉によって行うには、日々出会うあなたたちの仲間によい助言をしたり、落胆し、失うことによって神を冒涜するようになってしまった者には、「私もあなたと同じでした。自分が惨めだと思って居ました。しかしスピリティズムを信じました。そしていまはご覧の通り私は幸せです」ということができます。

「無駄だ、私の人生は終わろうとしており、生きてきたとおりに私は死んで行くのだ」と言う年老いた者には、「神は誰に対しても平等にその正義を用います。最後の労働者のことを思いだしてください」ということができます。

この世のことばかりに気を取られてしまっている仲間たちによって悪癖が付いてしまい、悪の誘惑に負けてしまう子どもたちには、「親愛なる子どもたちよ、神はあなたたちのことを見ているのです」と言うことができ、あなたたちはその温かい言葉を繰り返すことに飽きてはなりません。

そうした言葉は、子供たちのその幼い知性を芽生えさせ、彼らを怠け者ではなく、立派な人間にすることになります。これも慈善の一つです。

あなたたちのうち、「ああ。地上には余りにも多くの人間がおり、神はすべての者を見ることはできまい」という人がいます。友よこの言葉をよく聞いてください。

「山の頂上にいる時、そこから何十億もの砂粒に目が届きませんか」。いいですか。神も同じようにあなたたちを見ることが出来るのです。あなたたちはそれらの砂粒が風にまかれ、まき散らされるのを許しますが、神も同じようにあなたたちがその自由意思を働かせることを許すのです。

ただし、神はその無限の慈悲により、あなたたちの心の底に良心という名の注意深い番人を置いてくれました。彼の声を聞いてみて下さい。その声はあなたたちに良い忠告だけをしてくれます。時々あなたたちは、悪の心と戦わせることによって彼を無感覚にしてしまいます。

すると彼は黙ってしまいます。しかし追い払われたその哀れな番人は、あなたたちの中に後悔が陰をのぞかせると、再びあなたたちに自分を聞いてもらおうとします。

その声を聞き問うてみて下さい。多くの場合、彼から受け取る忠告によって、あなたたちは慰めを得ることができます。

 友よ、新しい連隊が現れる度に将軍は旗を掲げるものです。私はあなたたちに標語として次のキリストの言葉を捧げます。「お互いに愛し合いなさい」。この規律を守り、その旗の下に集まれば、幸運と慰安を得ることができるでしょう。(ある守護霊 リヨン、1860年)


   善行
十一、友よ、善行はあなたたちに最も純粋で甘い喜び、つまり後悔にも無関心にも邪魔されることのない心の喜びを与えてくれます。ああ、

美しい魂たちの持つ寛大さが、どれほど偉大で柔らかいものであるのかを理解することができれば、その感覚は、自分自身を見つめる時と同じように他人を見つめることができるようになり、そのことによって、兄弟に衣服を与えるために自分の服を脱ぐことができるようになります。

友よ、他人を幸せにするということだけに身を捧げることが出来たなら、神の代理人として、辛さと苦しみばかりの人生しか知らない家族に喜びを届けることができた時、彼らの苦しめられた表情が、とたんに希望に輝くのを見た時の喜びは、地上のどんな宴にも例えることはできません。

なぜなら、食べるものにも不足した不幸な彼らは、「お腹が減った」と言う、鋭い刃物のように母親の心を突き刺す言葉が、生きることが苦しむことであることをまだ知らぬ子供たちによって、繰り返し泣き叫ばれるのを聞いたことしかなかったからです。

おお、その時、一寸前には失望しか感じていなかった者に再び喜びが生まれるのを見た時に受ける印象が、どんなに素晴らしいものかを理解しなければなりません。あなたたちがあなたたちの兄弟との間に持つ義務を理解しなければ なりません。
℘240     
不幸な者たちに会いに出掛けてください。中でも、より苦しみの大きい、目立たぬ不幸の救済に出掛けて下さい。愛する者たちよ、救い主の次の言葉を心に抱き出かけて行って下さい。「これらの小さい者たちに服を着せる時、あなたは私を通じて服を着せているのです」 

 慈善。すべての美徳を一つにまとめる崇高な言葉よ、それが人々を幸せに導くのです。慈善を実践することにより、その人は自分自身の未来における無限の喜びを創っているのであり、地球上に追放されている間は、やがて後に愛に溢れる神のもとに集まる時に受けることができる喜びを、試しに味わうことで慰安としているのです。

神なる美徳よ、地上で満足を味わうことのできた唯一の時を与えてくれたのはあなたでした。肉体を持って生きる私の兄弟たちよ、「人生の苦しみの為の薬となる、心の安らぎ、魂の喜びは、慈善に求めなさい」と伝える友の声を信じてください。

おお、神を非難しそうになった時には、あなたたちよりも下方に目を向けてください。和らげてあげるべき不幸がどれだけあることか、家族を持たぬ子供たちがどれだけいることか、死が訪れた時、親しい助けの手を誰からも差し伸べられることなく目を閉じて行く老人がどれだけいることか見てください。

やらなければならない善が、何と多く存在することか!おお!不平を言ってはなりません。

反対に神に感謝し、あなたたちの同情、あなたたちの愛、あなたたちのお金を、この世の富を受け継ぐことができず、苦しみと孤立に衰弱した者たちすべての為に、精一杯費やしてください。この世で最も甘い喜びを感じることができるようになり、また、その後には――それは神のみが知っているのです。(アルジェルの司教アドルフ ボルドー、1861年)


十二、「善を行い、慈善的になりなさい」。これがあなたたちの手の中に握られた天に入るための鍵です。永遠の幸福は、どれもが「お互いに愛し合いなさい」という戒律の中に含まれているのです。

魂は隣人への献身なしに霊的に高い次元へ昇っていくことはできません。魂は慈善の衝動の中にのみ幸運と慰安を見つけることが出来るのです。善人となり、あなたたちの兄弟を助け、恐ろしいエゴイズムの傷を捨て去りなさい。この勤めを遂げることが出来れば、永遠の幸福への道が開かれます。

さらに、美しい献身の行動や真の慈善の行動が語られるのを聞いて、歓喜と内なる喜びによって心がうち響くのをいまだに聞いたことがない人が、あなたたちの間にどれだけいるでしょうか。

もしあなたたちが、善を行うことがもたらす快楽だけを求めることが出来れば、いつも霊的成長の道を歩むことができるでしょう。模範に事欠くことはありません。意欲を見るのがまれなだけなのです。

あなたたちの歴史は、大勢の善人たちの慈悲深い思い出を守っているのだということを覚えておいてください。

 イエスは、愛と慈善に関することを全てあなたたちに伝えませんでしたか。なぜ神からの教えを軽んじるのですか。なぜ神からの言葉に耳を閉ざし、そこにあるあらゆる善なる規律に心を閉ざすのですか。

私はあなたたちに、もっと福音の朗読に関心を持ち、それをもっと信じてほしいと思います。それなのに、あなたたちはその本を軽んじ、中身のない言葉の倉庫であるかのように考え、封の切られぬ手紙のように扱い、その見事な法のことを忘れ去ってしまいます。

あなたたちの悪はすべて、神の法の要約をあなたたちが自ら放棄することによって生まれるのです。イエスの献身を伝える頁を読み、それを学んで下さい。

 強い者たちよ、お互いに愛し合ってください。弱い者たちよ、あなたたちの温情、信心をあなたたちの武器としてください。人の心を動かし、いつもあなたたちの教義を広めるようにしてください。私たちがやってきたのは、あなたたちに勇気を与えるためです。

神によって許されたためにこうして私たちは現れ、あなたたちの熱望と美徳を刺激しにきたのです。しかし、一人一人が望むのであれば、各々の意欲と神の助力で事足りるのです。霊現象は、目の閉じた人、不従順な心の持ち主のためにのみおきるのです。

 地上のあらゆる美徳は、慈善という根本的な美徳がその礎とならなければなりません。慈善という美徳なしに、他の美徳は存在し得ません。慈善なしには幸運を期待することもできなければ、慈善のない道徳的な手引きというものも存在しません。

慈善なしには信仰心も存在しません。というのも、信仰心とは慈善に満ちた心を光らせる、純粋な輝きのことに過ぎないからです。
℘242          
 慈善はどの世界においても、永遠の救いの支えです。創造主の放つ最も純粋な放射です。慈善は被創造物に与えられる創造主の美徳そのものです。この至上の神意を私たちはどうして軽んじることができるでしょうか。

そのことを知りながら、自分の中にある慈善を妨げ、神からもたらされるこの感情を退けるほど非道な心を持っているのは誰でしょうか。慈善、この甘い慈愛に反抗するほど悪い息子となっているのは誰でしょうか。

 私が行ってきたことについては、あえて言うつもりはありません。なぜなら、霊たちも自分たちが行ってきたことに対して恥ずかしい気持ちを抱くからです。しかし、私がはじめたことは、あなたたちの同胞たちの慰安に最も貢献することの一つであったと考えています。

私が行ってきたことを引き継ぐ任務が、責務として自分に与えられることを霊たちが願うのをしばしば見ることができます。神の慈悲深い任務についている、親愛なる情け深い兄弟、姉妹たちの間にそうした霊たちを見ることができます。

彼らは犠牲と献身のみがもたらす喜びを感じながら、私があなたたちに勧める美徳を実践しています。彼らの状況がどれだけ敬意に値し、彼らが果たす任務がどれだけ守られ、尊ばれているかを見ることは、私の計り知れない喜びです。

善意に満ちた堅実な意欲に溢れる善人たちよ、力を合わせ、慈善を広める事業を大々的に継続してください。この美徳を実践することにより、あなたたちのための報酬を見つけることができます。

現世を生きるうちから現れることのない霊的な喜びは存在しません。力を合わせ、キリストの教えに則ってお互いに愛し合ってください。そうありますように。(聖ブィンセント・デ・パウロ パリ、1858年)

℘243        
十三、人々は私のことを「慈善」と呼びます。私は神のもとへ続く本道を歩んでいます。私についてきて下さい。あなたたちのすべてが心がけるべき目標を知っているからです。

 今朝、いつもの散歩にでかけてきて、心が悲しくなり、あなたたちに次のことを伝えにやってきました。おお、友よ、貧困、涙、それらすべてをぬぐおうにも、そのなんと多いことでしょうか。無駄だとは思いながらも何人かのかわいそうな母親たちを慰めようと、彼女たちの耳元で囁きました。

「勇気を出してください。あなたたちのことを見守る善き心を持った人々がいるのですよ。あなたたちは見捨てられることはありません。辛抱強くいてください。神はそこにいるのです。あなたたちは神に愛され、神に選ばれたのです」。

彼女たちには私の声が聞こえたようで、驚きに目を丸くして私の方へ向きました。彼女たちの外見から、霊を束縛する彼女たちの肉体は飢えていることが分かります。

私の言葉は確かに彼女たちの心を静めたでしょうが、彼女の空腹を満たすことはできませんでした。彼女たちに向かって繰り返しました。「勇気を持ってください。勇気を出してください」。

すると、子どもに母乳を飲ませていたまだ若い一人の哀れな母親は、痩せた胸から十分な栄養を得ることのできないその小さな命を私に守ってほしいと願うかのように、その子を腕に抱え、空に向かって差し出したのでした。

 友よ、別の場所では、仕事を失った老人たちが、ついには家もなく、貧困のあらゆる苦しみに縛られながらも、その惨めさを恥じて物乞いなどしたことが無いために、道行く人々の慈悲を懇願しているのを私は見ました。

私は何も持ってはいませんが、心が同情で一杯になり、彼らのために物乞いとなって、寛大で情け深い人々の心によい思考をもって貰おうと、あらゆる場所へ行き人々の善意を刺激して回りました。友よ、そのために私はここへ参り、あなたたちに伝えに来たのです。

「家に食料もなく、かまどに火をつけることも出来ず、寝床には毛布もない可哀想な人々がその辺にたくさんいます」。私はあなたたちには何をするべきかは申し上げません。あなたたちの善なる心の自発性に任せます。

私がその方法をあなたたちに教えたとしたら、あなたたちの善行は何のメリットももたらさなくなってしまいます。次のことだけを申し上げます。「私は慈善であり、私はあなたたちの苦しむ兄弟たちのために手を差し伸べます」。  
℘244                        
 しかし、頼むこともあれば、与えることもあり、与える時には多くを与えます。あなたたちを大きな宴に招き、あなたたちの全てを満足させることのできる木を提供します。その木がどれほど美しく、どれほど多くの花が咲き、実を結んでいるか見てください。

行きなさい、行きなさい。善意という名のこの偉大なる木がもたらす果実をすべて収穫することができるように。あなたたちが実を収穫したその枝に、私はあなたたちが行ってきた全ての善行を括りつけ、その木を神のところへ持っていきます。すると神は、再びその木を沢山の実で茂らせてくれます。

善意は尽きることがないからです。友よ、私の掲げる旗に従う者たちのうちに数えられるように、私についてきて下さい。恐れることはありません。私はあなたたちを救いの道へと導きます。なぜなら、私は「慈善」だからです。(ローマで殉教したカリタ リヨン、1861年)


十四、慈善を行うことを、あなたたちの多くは、施しを与えることばかりだと間違えていますが、実際にはさまざまな方法があります。そしてそれらの間には大きな違いがあります。

友よ、施しは、貧しい者たちの負担を軽くするという意味で、時によっては大切です。しかし、それはほとんどの場合、施しを与える側にとっても、受け取る側にとっても屈辱的です。慈善は、逆に、与える側と受け取る側とを結びつけ、さまざまな見えない形で実践されているのです。

家族内で、または友達同士でも、お互いに寛大になり、相互の弱みを赦し合い、誰の自尊心をも傷つけないようにすることによって、慈善的になることができます。

あなたたちスピリティストは、あなたたちと同じように考えない人たちに対する接し方の中で、相手に衝撃を与えたり、彼らの確信していることに対して攻撃するのではなく、私たちの集会に親切に誘って、私たちの考えを聞いてもらい、彼らの心の中に私たちが入っていくことの出来る入り口を見つけることによって、慈善的になることが出来るのです。これも慈善の一つの在り方です。

 今度は、貧しい人たち、富を受け継ぐことのできなかった人々に対する慈善とはどういうものなのかを聞いて下さい。彼らは、自分たちの貧困を不平を言うことなく受け入れることが出来れば、神に報われることになりますが、そのようにできるかどうかはあなたたちにかかっているのです。そのことを例をもちいて明らかにしましよう。

 毎週、あらゆる年代の女性が参加するある集会を私はよく見ます。私たちにとって、ご承知の通り、彼女たちはみな姉妹です。何をしているのでしょうか。忙しそうに、とても機敏に働いています。

指を早く動かしています。彼女たちの心が一つとなって鳴り響き、彼女たちの表情が何と楽しそうであるか見てください。一体何の目的で彼女たちは働いているでしょうか。冬が近づき、貧しい家々には生活の厳しさが増していきます。

夏の間、忙しく蟻のように働いても必要なだけの蓄えをすることができず、殆どの道具が質に入れられてしまっているのです。可哀想な母親たちは、この冬の季節の間に寒さと飢えに苦しむであろう子供たちのことを思って心配し、泣いています。

不幸な女性たちよ、どうか忍耐強くいてください。神はあなたたちよりも、より多く富の分配を受けている人たちの感情に訴えたのです。

彼女たちは集まり、衣服をつくっているのです。後日、そのうち雪が地表を覆い、あなたたちがそのいつも苦しむ身の口から「神は不公平だ」とこぼす時、貧しい人々の為に働くことを自任した、この善なる働き手たちの一人が現れるのを見ることが出来るでしょう。

彼女たちがそのように働くのはあなたたちのためであり、あなたたちの苦しみは祝福に変わります。なぜなら、苦しむ者の心の中には、憎しみのすぐ後ろに愛が潜んでいるからです。

 これらの働き手たちには元気づけが必要ですが、彼女たちのところには、善霊たちからの通信があらゆる方向から届いているのを見ることができます。この会には、活動に参加する男性たちも協力し、それらの朗読を行って人々を喜ばせます。
℘246                     
そして私たち霊はすべての人々の熱意に、それも一人一人に対して応えることができるように、そのような働き手たちに祝福と言う天の国で唯一流通する貨幣によって、即金で支払う善い顧客を連れて行くことを約束し、そればかりではなく、彼らにとってその貨幣が欠くことが無いよう、間違いなく保証いたします。(カリタ リヨン、1861年)


十五、親愛なる友たちよ、私はあなたたちが、「私は貧乏だから、慈善を行うことはできない」と言うのを毎日聞き、あなたたちが同胞たちに対して寛大さを欠いているのを毎日見ています。

あなたたちはなにを赦すこともなく、とても厳しい判事であるかのようにとりすまし、自分に対してそのように振る舞われたら満たされるかどうかなど考えようともしません。寛大であることも慈善ではありませんか。 

寛大になることによってのみ慈善を行うことが出来るあなたたちは、それを広く行わなければなりません。物質的な慈善については、一つ別の世界での話をしましょう。

 二人の人がたった今亡くなりました。「この二人が生きている間、一人一人の善行を別々の袋に入れ、亡くなった時にその袋の重さを量ることができるようにして下さい」。と神は言ってあったのでした。

二人が最期を迎えると、神は二人の袋を持ってこさせました。一方の袋は大きく膨らみ、一杯に詰まった金が袋の中で鳴っていました。もう一つの袋は小さく、殆ど空っぽで、中に入っていた硬貨を数えることができました。一人が言いました。

「この袋は私のだ。見ればわかる。私は金持ちであったため、多くを人に与えることが出来た」。

もう一人が言いました。こっちの袋が私のです。私は貧乏で人と分けあうものをほとんど持っていませんでした」。

しかし驚いたことに、二つの袋を秤にかけると、大きく膨らんでいた袋の方が軽く、もう一方の袋の方が重いことを示し、殆ど空っぽだった袋が、最初の大きく膨らんだ袋の乗った天秤の皿を高々と持ち上げたのでした。すると神は金持ちに言いました。「あなたは確かに多くを与えました。

しかし見栄を張り自尊心を奉る寺院にあなたの名前が現れるようにするために与えました。更に、自分自身で何を失うこともなく与えました。左側へ行き、僅かな施しに満足しなさい」。

次に、貧しい者に言いました。「友よ、あなたは少ししか与えませんでした。しかし秤にかけられているこれらの硬貨一枚一枚は、あなたが自分から無理矢理奪って与えたことを示しています。

あなたは施しを与えることは無くても、慈善を行い、何よりも価値があるのは、そのことが自分のために数えられるかどうかなど考えることもなく、慈善を自然に行ったことです。あなたは寛大で、同胞のことを勝手に判断することはありませんでした。

反対にあなたの全ての行いは同胞を赦すものでした。右側へ行き、あなたの報酬を受け取りなさい」 (ある守護霊リヨン、1861年)


十六、家の仕事に時間を費やす必要のない、ある裕福で幸運な女性は、同胞たちの役に立つ仕事のために、幾らかの時間を費やすことが出来ないでしょうか。

娯楽に費やすお金の残りで、寒さに震える不幸な者たちのために上着を買ってあげてください。その繊細な手で粗末でも温かい服を縫ってあげてください。生まれてくる子供に服を着せようとしている母親を手伝ってあげてください。

そうすることによってあなたの子供を飾るレースの飾りが少なくなったとしても、貧しい母親の子供は身体を温める衣類を得ることができるのです。貧しい者たちのために働くことは、神のぶどう園で働くことです。

 貧しい職人であるあなたは、余剰の富を持っていなくても、兄弟たちに対する愛に満ち、少ない中からでもなにかを人に与えようとするのであれば、所持する唯一の宝であるあなたの時間のうちから、一日の何時間かを与えて下さい。

裕福な人たちを引きつける優雅な細工をつくるのです。夜業の成果を売れば、あなたの兄弟たちを助けるために、あなたの役割を担うことができます。細工に用いるリボンの数は何本か減るかもしれませんが、はだしで歩く者に靴を与えることが出来るでしょう。

そして、神に人生を捧げたあなたたち女性も、あなたたちにできる仕事をしてください。しかし、あなたたちの仕事は、あなたの能力と忍耐力によってあなたたちの注意を引くために礼拝堂を飾るばかりではいけません。

娘たちよ、あなたたちの仕事の生産物は、神の前にいるあなたたちの兄弟たちを助けることに向けられるのですから、大いに働いてください。貧しい者たちは神の愛する子供たちです。彼らのために働くことは神を讃えることです。

「空を飛ぶ鳥たちに神は食物を与える」と言う神の言葉のようになってください。あなたたちの手の中で編む金と銀を、衣類や食物を得ることができない者たちへのそれに変えてください。それを行えばあなたたちの仕事は祝福されます。

 生産することができる者はみな、与えて下さい。あなたの才能を、あなたたちのひらめきを、あなたたちの心を与えて下さい。そうすれば神はあなたたちを祝福します。

世俗的な人々にしか作品を読まれない詩人たち、文学者たちよ。彼らの娯楽を満足させるだけでなく、あなたたちの作品のいくつかを、苦しむ者を助けるために捧げることも忘れないで下さい。画家、彫刻家、あらゆる分野の芸術家たちよ。

あなたたちもその知性を、兄弟たちを助けるために使って下さい。そのことによってあなたたちの栄光が衰える訳ではなく、いくらかの苦しみが軽減されることになるのです。

 誰にも与えることはできます。どんな階級に属していようと、分かち合えるものをなにか持ちあわせています。

神があなたたちに与えてくれたものがなんであろうと、その一部は、生きるために必要なものさえも不足している者たちのために負っているのであり、なぜなら、その立場になれば、他人に対して、自分たちにも分けて欲しいと思うに違いないからです。

地上におけるあなたたちの宝は減るかもしれません。しかし、天におけるあなたたちの宝は増やされます。そこではこの世で蒔いた善行の種が、百倍になって収穫されることでしょう。(ヨハネ ボルドー、1861年)



 慈悲
十七、慈悲はあなたたちを天使たちに近づける美徳です。あなたたちを神のもとへ導く慈善の姉妹です。ああ、あなたたちの同胞の苦しみと貧困の悲しい光景を見て、あなたたちの心に同情をおこしてください。

あなたたちの涙が薬となって彼らの傷の上に流れ、善意に溢れる同情によって希望と甘受の気持ちを彼らに届ける時、なんと大きな喜びを感じることができることでしょうか。この喜びは、不幸の隣で生まれるものですから、ある種の苦痛を伴っているのは確かです。

しかしその中には、世俗的な快楽の辛い味はなく、そうした快楽が後に残す刺すような空しい失望感もありません。人の心の中に浸透するような優しさによって彼らを包み、魂を喜びで満たしてください。心から感じられる慈悲は愛です。

愛とは献身です。献身とは自分自身の忘却であり、不幸な者たちに捧げられたこの忘却と克己は優れた美徳であり、それは聖なる崇高な教義と、神より送られた救い主が一生の中で教えてくれた美徳です。

 この教義が、その根元の純粋さによって確立されるとき、全ての民がその教義に従う時、地球は幸せになり、そこには調和、平和、そして愛が君臨することになるのです。

 あなたたちを進歩させるもっとも正しい感情とは、あなたたちの中にある、エゴと自尊心を征服し、あなたたちの魂を謙虚にし、隣人への愛と善意を持ち合わせるようにする慈悲の気持ちです。

慈悲の気持ちは、兄弟たちの苦しみの奥底まであなたたちを入り込ませ、あなたたちが彼らに手を差し延べ、同情の涙を流すことをうながします。だから、この天から来る感情をあなたたちの中で抑制するようなことがあってはなりません。

苦しむ者たちの惨めな光景を見ることによって楽しい生活が幾らかの時間でも邪魔されることになるといって、苦しむ者たちのそばから身を遠ざけようとする心の堅くなった利己的な人々のように振る舞ってはなりません。

自分が役に立てる時に、無関心であり続けようとする自分を恐れてください。後ろめたい無関心と言う対価によってあがなわれた安堵は死海の静けさであり、海面下には腐り、堕落した泥沼が隠されているのです。
℘250        
 しかし、慈悲とは利己的な人々が恐れているような混乱や嫌悪と、どれほどかけ離れていることでしょうか。疑いもなく、他人の不幸に接すると、自分のことばかり考える魂は自然に深い苦痛を感じることになり、その感情はその人全体を震わせ、その人を痛々しく動揺させます。

しかし、そこで勇気と希望を不幸な兄弟に与えることが出来れば、その報酬は大きなものとなります。その兄弟は、友情に満ちた手で手を握られたことに感動し、時には目に涙を浮かべあなたたちに優しい眼差しを向け、後にその目を天に向け、支えとなってくれる慰め手を送ってくれたことに感謝します。

慈悲は憂鬱ですが、天から届く、第一の美徳である慈善の前触れであり、慈善の姉妹として慈善の恩恵を準備し、高尚なものとするのです。(ミカエル ボルドー、1862年) 
 

 孤児たち
十八、兄弟たちよ、孤児たちを愛してください。特に幼少期において、孤独に見捨てられることがどんなに悲しいことか、あなたたちにお教えすることができたならば、神は孤児たちが存在することを許しますが、それは私たちが彼らの両親となって支えることを、私たちに勧告するためです。

神なる慈善が、可愛そうな見捨てられた存在を寒さと飢えの苦しみから遠ざけるようにし、その魂が悪癖へと道を外してしまうことがないようにして下さい。

見捨てられた子供に手を差し延べる者は、神の法を理解し、それを実践していることになるのですから、神を喜ばせることになります。

あなたが助ける子供が、別の人生においては大切な人であったということも多々あるということを考えると、その場合には、そのことを思いだすことが出来たとすれば、もはやそれは慈善を行っているのではなく、義務を遂行しているに過ぎないのです。

友よ、この様に苦しむ者はみながあなたの兄弟であり、あなたの慈善を受ける権利を持っているのです。とはいっても、それは人の心を悲しめる慈善や、受け取る手にやけどをさせる施しであってはなりません。というのは、あなたたちの施しはしばしば苦い味を持っているからです。
℘251           
苦しむ者の粗末な家が病に見舞われたために悲惨な状況に追い込まれているのでなかったとしたら、そうした苦い施しのうち、どれほどが受け取ることを拒まれていたでしょうか。

あなたの与える利益に、あらゆる利益のうちでも最も貴重な利益である、言葉による利益、慈愛による利益、友情による溢れる笑みによる利益を、一緒に優しく与えて下さい。

自分を守ろうとする態度は、血の流れる心に剃刀の刃を立てるのに等しいことなので避けてください。そして、善を行うことは、あなた自身の利益のためであり、また、あなたの愛する人たちのためでもあるということを心にとめておいてください。(ある親しい霊 パリ、1860年)


  感謝されない善行
十九、恩知らずの人々と出会わないようにと、善行を行いながらも感謝されなかったからといって、善を行うことを止めてしまう人たちのことをどう考えるべきでしょうか。

 こうした場合、そこには慈善よりもエゴイズムが多く存在します。なぜなら、善に対して感謝することを示す態度を見せてもらうために行われる善行とは、私心を棄てて行われる善ではないからであり、私心を棄てて行われる善だけが、神に喜ばれるのです。そこには自尊心も存在します。

なぜなら、そのような人は自分の足元に感謝の証を示そうとひれ伏す、恩恵を受ける人たちの謙虚さを見て楽しんでいるからです。自分の行う善に対する報酬を地上に求める者は、天においてその報酬を受け取ることができません。神は、善行に対する報酬をこの世に求めない者たちを評価するのです。

 善を行った相手が、そのことに対して感謝することがないことが前もってわかっていたとしても、弱い者をいつも助けなければなりません。

あなたが助けた相手がそのことを忘れた時には、恩恵を受けた者があなたに感謝した時よりも、より価値あることとして神は考慮してくれるということを確信してください。あなたたちが善行に対して感謝されないことを神が赦すのは、善を行うあなたたちの忍耐力を試すためなのです。
℘252        
 一時的に忘れられた善行が、後になって善い実を結ばないと誰に言い切ることができるでしょうか。反対にそれは、時間を掛けて発芽する種であるのだということを信じて下さい。不幸なことに、あなたたちは現在のことしか目に入りません。

あなたたちは他人のために働くのではなく、自分たちのために働いてばかりいます。善行は最も冷え切った心をも和らげます。この世においては忘れられてしまうかも知れませんが、肉体の被いから自由になった時、善行を受けたその霊はそのことを思いだし、その記憶がその人に対する罰となります。

彼は自分が恩知らずであったことを嘆き悲しむことになります。次の人生で自分の過ちを改め、恩義を返そうとし、善を施してくれた人に仕える人生を求めようとすることもまれではありません。

このように、疑わずともあなたはその道徳的進歩に貢献することができたことになり、次の教訓の意味を正確に理解することができるようになります。

「善が無駄になることは決してありません」。そればかりではなく、落胆することによって善を行う気力を失うことなく、私心を棄てて善を行ったことの功績を得ることが出来るのですから、自分自身に対しても働いたことになります。

 ああ、友よ。あなたたちの前世と現世のすべてのつながりを知ることが出来たなら、お互いの進歩のための、人類の一人一人を結びつける関係の広さを、一目で見ることが出来たなら、創造主の善意と英知に大いに感心するでしょう。

神はあなたたちがいつか神のもとにたどり着くことができるように、生まれ変わることを許すのです。(守護霊 サンス、1862年)


 排他的な善行
二十、 同じ考え方、同じ思想、同じ政党の人同士の間だけで行われる善行とは正しいものですか。

 正しくありません。なぜなら、人類はみな兄弟であり、政党、宗派といった考え方は必然的に廃止されるべきものであるからです。真のキリスト教徒は同胞たちを兄弟として見ることができ、助けを必要としている者を救済する前に、その人が何を信じ、どう考えているかなどということを知ろうとはしません。

あるいは、あるキリスト教徒が自分とは違う信仰を持っているからといって、苦しむ者を拒否したとしたら、そのキリスト教徒は、私たちに敵を愛さなければならないと教えたイエス・キリストの教訓を守っていることになるでしょうか。

ですから、何も意識することなくその苦しむ人を救済してください。もしその人が宗教上の敵であるとすれば、そうすることが彼にあなたの宗教を受け入れてもらえるようにする方法であり、あなたがその人を拒否したとすれば、その人はあなたの宗教を憎むことになるでしょう。(聖ルイ パリ、1860年)

シルバーバーチの霊訓(八)

More Wisdom of Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell  




三章 質問に答える    ──地上の生活──
          
 本章では誕生から死に至る人間の一生をたどりながら、その間のさまざまな問題を取りあげる。

まず受胎の問題から始めて肉体にまつわるさまざまな疑問、さらには寿命というものがあらかじめ定まっているのかどうか、そして死、それに伴う悲しみといったテーマについて、シルバーバーチの見解を質すことにする。(小見出しは訳者による)

 
 発達と進化
──アメーバから今日の人類にいたる進化の過程のどの段階において、霊的存在としての人間が登場したのでしょうか。最初の細胞の中ですでに宿っていたのでしょうか。

 「ご質問が人類としての個霊のことを意味しておられるのでしたら、それはアメーバの段階ではまだ存在しておりません。が、生命のあるところには必ず霊が存在します。

なぜならば霊とは生命そのものであり、生命とはすなわち霊だからです。最も原始的なものから最高の組織体へ、つまり最も単純なものから最も複雑なものに至るあらゆる発達過程と生命形態を通じて霊が顕現していると言えます。

 人間的要素はアメーバの段階的発達の中で発生します。そして人類(ひと)へ向けて絶え間ない発達過程を続けます。そして人間としての意識に目覚めた段階で、つまり自我意識をもつに至ったときに、いわゆる人間となります。

しかし、進化は絶え間なく続いているのです。進化に始まりの一点というものはありません。常に始まりであり、終わりがないのです。なぜなら進化とは完全へ向けての永遠の過程だからです」

 訳者注──シルバーバーチは発達 development と進化 evolution とを区別している。ここでも問題となるのはやはり用語についての認識の仕方であろう。これまでの進化論はあくまで地上の生命にかぎっての話であって、ただ一人アルフレッド・ウォーレスのみが〝霊的流入〟spiritual influxによって動物が人類へと進化したという説を立てた。

スピリチュアリズム的に言えばそれが本当の意味での〝進化〟であって、その段階までは〝造化の霊団〟によってこしらえられた〝種〟が発現し、精霊の働きによって促進される〝発達〟である。それを進化と呼ぶのなら、次元が異なることを認識した上で使用しなければならない。

シルバーバーチも重複して用いることがあるが、基本的には霊的向上つまり霊格が上がることを〝進化〟と呼び、その霊が使用する機能が開発されることを〝発達〟と呼んでいる。


 霊が身体に宿る時期
──霊はどの段階で身体に宿るのでしょうか。受胎の瞬間でしょうか。それとも胎動期つまり十八週ごろでしょうか。

 「この問題はこれまで何度も尋ねられました。そしていつも同じお答えをしております。生命は受胎の瞬間から始まります。そして生命のあるところには必ず霊が存在します」


──受胎の瞬間から霊が宿り、そこから個性が発達していくということでしょうか。

 「個性という用語を持ち出されるとまたややこしくなります。生命は霊であり霊は生命です。両者は二つにして一つです。受胎と呼んでいるものは、そこに生命があるということを意味します。受胎がなければ生命は存在しません。したがって霊は受胎の瞬間に物質に宿ることになります。

 その後の発達の問題ですが、これは環境条件によって異なりますのでさらに問題がやっかいです。受胎時に宿る霊も、霊としてはそれまでずっと存在していたのです。ですから、個性の問題は、その個性よりはるかに大きい霊全体のどの部分が表現されるかの問題となります」


──受胎後のどの段階で人間(ひと)となるのでしょうか。胎内生活の正確に何か月目から人間となるのでしょうか。(三か月後の)胎児はすでに人間と呼べるでしょうか。

 「受胎の瞬間から生命が存在し、したがって霊が存在します。流産とか中絶とかがあっても、それは生命を破壊したことにはなりません。その生命の表現の場をあなた方の世界から私たちの世界へと移しただけです」


──子宮内の生命もれっきとした人間だとおっしゃるのでしょうか。

 「潜在的には受胎の瞬間から人間であり、人間性のすべてを宿しております」


──受胎の瞬間からですか。

 「受胎の瞬間から身体的機能のすべてを潜在的に宿しているごとく、霊的機能もすべて宿しております。霊的機能が存在しなければ身体機能も存在しません。物質は霊の影だからです」


──ということは、霊は誕生に際して地上で使用する身体をみずから選択する自由はないと理解してよろしいでしょうか。

 「それは正しくありません。逆に、霊はあらゆる自由が与えられています。大半のケースにおいて、霊は地上で果たさねばならない目的をもって生れてきます。そしてその仕事に合った身体に宿ります。ただ、自分は地上でかくかくしかじかのことをしようと決意したその仕事に実際に目覚めるまでに相当な時間を要します」


訳者注──ここでいう決意とは肉体に宿る前の〝霊〟としての意識による決意であって、肉体に宿ってからの脳を焦点とした意識にはそれがなかなか自覚されない。シルバーバーチがそれに目覚めるまでには相当な時間を要しますと述べているのは、必ずしも誕生前の霊としての決意と同じものを記憶として思い出すことを言っているのではなく、

食べて働いて寝るだけの物的生活を超えて、何のために生きているのだろうという疑問をはじめた時点からその段階に入るものと私は理解している。そのうち〝自分はこれでいいのだ〟という得心ともあきらめとも悟りともつかないものを自覚し、同時に生きる意欲が湧いてくる。シルバーバーチはそのことを言っているのであろう。


  物的身体に関連して
 「誕生の瞬間から肉体は死へ向かいます。この現象は誰にも変えられません。もともと肉体は不老不死を目指すようには意図されていないのです。本性そのものが儚い存在であることを自覚しております。従わねばならないサイクルというものがあるのです。

まず、ゆっくりと機能的成熟を目指します。成熟すると同時に、やはりゆっくりと、全機能が衰えはじめます。そして、リンゴが熟すると自然に木から落ちるように、肉体も与えられた寿命をまっとうして死を迎えます。何度も申し上げているように、人間は本来そうなるようにできているのです。

 私たち霊界の者も完全ではありません。まだ霊的進化の頂点を究めたわけではありません。まだまだ延々と先が続いております。しかし地上での仕事を困難にする物的条件に直面したときは、私たちにできるかぎりのエネルギーを活用して、その克服につとめます。

 いつも申し上げ、これからも繰り返し申し上げることでしょうが、私たちといえども全ての知識を手にしているわけではありません。無限に存在するからです。が、地上のあなた方は私たちにない肉体的条件によって制約を受けていますから、手にすることのできる知識はきわめて限られております」


 こう述べてから、メンバーの一人で非常に疲れた様子をしている人に向かって───

 「休息が不足すると身体がその代償を支払うことになります。その代償の度合いが大きすぎると、完全な休息を要求されて、あなたは床につかねばならなくなります。各人各個の責務という教理を説きながら、その働きに例外があるかのようなことを申し上げるわけにはまいりません。

無理して一度に多くのことをなさってはいけません。肉体は所詮は機械です。その限度を超えたことを要求してはなりません」


 別のメンバーが意見を述べる。

───疲れすぎると床につかねばならなくなるとおっしゃいますけど、休むわけにはいかないこともあります。休まなくてはいけないことは分かっていても、世話をしてあげなくてはならない人たちとの関係においては、自分より気の毒な状態にあるのを見ていながら自分だけ休むわけにはいきません。

 「自然の摂理の働きは変えようにも変えられません。私には皆さんに対する愛があります。もし無かったら今こうしてここにいることもないでしょう。私たちにとって地上という世界は何一つ魅力はありません。なのにこうして戻ってきて皆さんの中に混って皆さんとともに仕事をするのは、皆さんに対する愛があるからです。

そうすることで何の利益を受けるわけでもありません。私たちの多くには(※)これまでに身につけたものを惜しげもなく犠牲にして皆さんのお役に立ちたいという願いがあるのです。

(※〝私たち〟と言わずに〝私たちの多く〟という言い方をしたことには意味がある。 『霊訓』 のモーゼスの背後霊団をはじめとしてスピリチュアリズムの初期の霊団には、地縛霊の状態からやっと脱したばかりの低級霊が大勢いて、複数の高級霊の監督のもとに物的証拠を見せるための物理現象を担当した。

言うなれば〝勤労奉仕〟のようなもので、ある程度その仕事にたずさわって霊的に向上してくると、代って別の低級霊団が同じ仕事を受けもつというふうにして、よく入れ替りが行われた。

その種の霊にとっては、それまでの怠惰や罪の償いをする絶好のチャンスなのであるが、それを監督・指導する立場の霊にとっては光輝あふれる世界からどんよりとした息も詰まらんばかりの地上圏に降りてくるのは大きな犠牲を強いられることになる───訳者)


 私たちは情愛に満ちた心で皆さんを愛しております。しかし、だからといって皆さんの都合のよいように摂理を変えてあげるわけにはまいりません。皆さんは肉体という機械をお持ちです。どんなに優秀な機械でも休息が与えられます。皆さんの肉体のように片時も休むことがないという機械は他にありません。機械は休ませないと故障します。

 肉体はあなたのものですから、その健康管理はあなたの責任です。神はそのための能力として知性と理性とを与えてくださっております。宇宙の摂理について知り得たかぎりの真実を有りのままに述べている私を責めてもはじまりません。私は、私が間違いない真理だと信じたものを欺くようなことは申せません。

目的とすべき理想、霊的真実に基いた処生訓、それを忠実に人生に応用すれば、霊としての当然の遺産であるべき豊かさをもたらしてくれるもの、それをお教えするだけです。

 最終的にどう決めるかはあなたご自身です。私もできるかぎりの援助はいたします。が、時として私たちにも如何ともしがたい情況というものが生じます。

あなたの自由意志を無視するわけにはまいりません。側に立ってあなたがなさることを見つめるしかないことがあります。あなたの霊的進化にとってはあなた自身による決断が重大な要素となるからです」


──その際には摂理にもとることをしても許されるのでしょうか。
 
 「そのときの動機が大切な要因となります」


──でも、人間生活においては愛する人を救わんがために、悪いと知りつつも善意から、摂理にもとる行為をせざるを得ないというケースも有り得るのではないでしょうか。

 「私に申し上げられることは、あくまで摂理は摂理であるということが摂理である、ということだけです。摂理は摂理であるがゆえに、その摂理どおりに働くしかありません。もしも私が原因と結果の関係に干渉することができるとしたら、これは大変なことになります。良かれと思ってしても、結果的には大へんな害をもたらすことでしょう。

摂理は完璧にできているのです。定められた通りに働くのが一ばん良いのです」


──事態を収拾するためにさまざまな法則を集中的に動員することがあるとおっしゃたことがありますが。

 「あります。絶対的窮地に陥ったときに救ってさしあげた方が皆さんの中に何人かいらっしゃいます。私たちが干渉できないのは原因と結果の関係です。また、いわゆるお情けというものも一切ありません。

私は指導霊としての立場から、あなたの身体が機械であることを指摘しているのです。休ませてやらねばならないことがあることを申し上げているのです。疲労が度を過すと機能が停止します。停止すると再び機能を回復するまでに床についていなければならなくなります。

 私がつくづく思うのは、これまでに啓示していただいた真理のすばらしさをみて、われわれ一同はほんとうに恵まれた者たちだということです。それに加えてわれわれは又、霊力のすばらしさを見ることができました。

事態を一変させ、進むべき道を指し示し、導きを与え、各自が天命をまっとうするための理想の生き方を教えてあげることができることを知りました。これは、ただごとではない大切なことです。

(訳者注──ここでいつものように〝私たち〟とせず〝われわれ〟という言い方にしたのは、気持の中でサークルのメンバーも含めているからである。ここではシルバーバーチは、霊団としても霊の力にこれほどすばらしいことができるのかという驚きを抱いている気持を表明している。

前巻の八章の〝シルバーバーチの最大の発見〟の中でも同じことを述べている。人間のために大きな犠牲を払いながら、これほどのことをやらせていただいていることに、その恩恵を受けるサークルのメンバーと共に感謝している気持が私には読み取れるのである。謙虚さが自然に出ていて、読んでいてこちらの方が恐縮させられる)

 肉体は霊が自我を表現するための道具です。存分に発揮したいと思われれば、十分な手入れをしなくてはなりません。疲労が重なると本来の機能が発揮できなくなります。そこで神は、その無限の叡知によって、肉体を休息させ、活力を取り戻させるための〝睡眠〟を用意したのです。

 地上の四季の移り変わりをよくご覧なさい。秋になると大自然は冬の眠りのための準備をし、春になると再び目醒め、夏にその壮観を披露します。人体も同じです。休息によって元気を回復しなければなりません。休息はぜひとも必要です」


──ここで過労によって健康を害している二人のメンバーにこう説いた。

 「無理をしていることを知りつつも無理を重ねて、けっきょく中途で倒れる人がいるものです。倒れたら休息するほかはありません。私たちはあなた方に自助の心構えを説き、霊と精神にかかわる摂理だけでなく、その肉体を支配している生理的法則にも絶対的に従わねばならないことをお教えしています。

それを忠実に守り、霊と精神と肉体が調和状態にあるかぎり、あなた方は健康であり健全です」


 メンバーの一人が「どうやら私は言うことを聞かない部類に入るようです」と述べると──

  「言うことを聞くようにと、神は二つの耳をお与えになったのです。〝スピリチュアリズムには七つの綱領〟(※)というのがあります。その一つに〝各個の責任〟というのがありますが、たぶんこれが七つの中で一ばん大切でしょう。

異論や反論の余地のない真実が秘められているからです。あなた方は他人のすることではなく自分のすることに自分一人で責任を取るのです。

あなたの責任を免除してくれるものは誰一人、何一つありません。注意を怠れば、それだけの代償を自分が払わねばなりません。それが原因と結果の自然法則なのです」

(訳者注──心霊誌 Two Worlds の創刊者である女性霊媒エマ・ハーディング・ブリテンを通じて地上で社会主義思想家として有名だったロバート・オーエンが提唱した基本原理で、あえて直訳のまま紹介すると次の通りである。

(一)神の父性 (二)人類の同胞性 (三)霊の交信と天使の支配 (四)人間の霊魂の存続 (五)各自の責任 (六)地上生活における善行と悪行に対する死後の応報 (七)すべての霊魂に開かれている永遠の向上。

以上を基本として、さらに、キリスト教的信仰を忘れきれない一派や、反対にキリスト教的色彩を徹底的に抹殺したい一派などによって、それぞれに拡大したり敷延したりした綱領もある。


──各自に責任があることは知識としては知っていましたが、これまでは他人事のように考え、自分の問題として真剣に自覚したことはありませんでした。これからは心掛けようと思います。

 「ぜひ心掛けてください。あなたが自覚するしないにおかまいなく、自然法則は働き続けるものだからです。冷淡なのではありません。法則として定められたように働かざるを得ないのです。それは、私たちがこの仕事を定められた一定の線に沿って、進めざるを得ないのと同じです。

 このサークルのメンバーの方には常づね申し上げていることですが、私たち霊団は、私たちのやり易い時に、私たちのやり易い方法でやるしかありません。あなた方の都合に合わせるわけにはいかないのです。あなた方と同じように私たちも、霊的にみてこれは是非やらなくてはならないと判断したことを行うに際して、やはり一定の法則による制約を受けています。

みなさんの生活を蔭で操ることはできます。物質を動かすこともできます。必要とみれば金策もいたします。が、それも一定の自然法則に従って行わねばなりません。

 いつも申し上げることですが、人間は自分で正しいと判断したこと、良心が命じたことに素直に従わなくてはいけません。最終的には自分自身が裁判官なのです。反省してみて自分の行ったことはすべて正しかったか、どこかに間違いはなかったかを自分で判断することができるようになっております。

動機さえ正しければ絶対に間違ってはいません。何よりもまず動機が最優先されるのです。

(ここで〝間違ってはいません〟というのは霊性を傷つけることはないという意味であって、それによる結果に対して責任は問われないという意味ではない──訳者)

 あなた方も元来が霊的存在であって、それが今は物的身体を通して自我を表現しているにすぎないという、この基本的真理をつねに念頭においてください。霊をたずさえた肉体ではなく、肉体をたずさえた霊だということです。その認識のもとに内部の霊性をできるだけ多く発揮することになるような生活を心掛けることです」



 寿命の問題
 みずからも霊媒である人が招かれて、シルバーバーチと語り合った中で 「人生は目まぐるしく過ぎていくのに、やりたいことは山ほどあります」 と述べると、シルバーバーチがこう語った。

 「人生を達観することが大切です。あなたが生まれるずっと以前から質実剛健な先輩がいて道を切り開いてくれていたこと、その人たちもその仕事の大変さを痛感して、自分たちの地上生活が終わったあとはどうなるのだろうかと案じていたことを知らなくてはいけません。

しかし、その人たちが巨木や巨石を取り除いてくれていたからこそ、その道をあなた方はその人たちよりラクに通れるのです。そこであなたがさらに幾つかを取り除けば、それがあなたとしての貢献をしたことになります。

あなたのあとにさらに次の人材が用意されてることでしょう。そしてその人たちがさらに多くのものを取り除いていけば、やがてきれいな道ができあがります。

 地上は体験学校のようなものです。その地上世界は完全ではありません。あなた自身も完全ではありません。あなたはその不完全な世界で少しでも多くの完全性を発揮しようとしている不完全な存在です。ですから、自分なりの最善を尽くしておれば、それでいいのです。それ以上のものは要求されません。

 縁あってあなたのもとを訪れた人に真の自分というものに目覚めるきっかけを与えてあげることは重大な意味のあることです。つまり人間が神に似せて作られていること、言い変えれば神と本質的に同じものが内在していること、その資質を発揮することによって生活に美と愛と光輝をもたらすことができ、それがすべての体験を価値あるものにするということを理解させてあげることです。

 ですから、仕事上の厄介なできごとを、神が与えてくれた挑戦のチャンスとして感謝して受け止めることです。それを処理していくことで結果的にあなたがそれだけ霊的に成長するのです。

もしも仕事仲間の中にあなたの信念についていけないという人がいたら、もしもその人の信念に迷いが見えはじめたら、その時は構わず見棄てることです。果たすべき大目的についての荘厳な洞察力を抱き続けている人とのみ仕事をなさることです」


──人間の寿命は前もって決められているのでしょうか。それとも肉体の強健さ、そのほかの要因の問題でしょうか。

 「肉体の強健さなども寿命を決定づける要因の中に入っております。物的身体構造すなわち肉体は、魂が成長するための地上的体験を得る上で無くてはならないものです。霊と肉体とは一体不離です。そして地上生活の期間、いわゆる寿命が切れる時期は大方の場合あらかじめ分かっております。

 肉体を霊から切り離して考えることはできません。肉体は霊に制約を加え、霊は肉体に生命を与えるという具合に、両者は切っても切れない関係にあります。一個の存在を構成している二つの要素を分離して考えてはいけません。

あなたという存在は数々の要素が互いに反応し合いながら一個の総合体を構成しているのです。すべての側面が融合し結合し混ざり合って、あなたという一つの統一体すなわち霊魂を構成しているのです」


──寿命が定まっているということから出る疑問ですが、もしも、たとえば千人の乗客が一度に溺死した場合、その人たちは皆その特殊な時期に死ぬことになっていたということになるのでしょうか。つまり彼らの魂の成長のために定められた寿命は同じだったのでしょうか。

 「問題は用語です。あなたは今〝定められた〟という言い方をされましたが、そういう言い方をすると、では一体だれが何を基準に、という疑問が生じます。そして多分その裏には神によって摩訶不思議な方法でそう仕組まれるのだという漠然とした考えがあるはずです。が、

そういうものではありません。生命現象の広大なパノラマの一つ一つが自然法則によって支配されているのです。

  地上の科学者がいかなる説を立てようと、いつかは必ず肉体に死が訪れます。それは霊を解放するという役目を果たすことになるのです。つまり肉体の死は肉体の誕生と同じです。前者は霊の〝退場〟であり、後者は〝入場〟です。

 地上では死を悲劇と考えますが、私たち霊の立場からすれば悲劇ではありません。解放です。なぜなら、魂の霊的誕生を意味するからです。地上のあらゆる悩みごとからの解放です。よくよくの場合を除いて、死は苦労への褒賞であって罰ではありません。

死は何を犠牲にしてでも避けるべきものという考え方は改めなくてはいけません。生命現象に不可欠の要素であり、魂が自我を見出すための手段と見なすべきです」


 命日は記念すべきか
 招待客が友人からの質問として「悲しい命日は心の痛みを呼び覚ますだけだから愚かで無意味だという考えはいかがでしょうか」と述べ、それに自分の考えとしてこう付け加えた。

──今さらどうしようもないことは分かっているのに年に一回、心の痛みを思い出すのは間違いだと思います。
 
 「その質問者のいう〝悲しい命日〟というのは何のことでしょうか」
 
──故人が亡くなった日です。その日に何もしたがらない人がいます。改めて悲しい思いをしたくないのだと思います。


 「誰にとって悲しいのでしょうか」
 
──その人を失った家族です。亡くなった本人ではありません。私はあなたのお考えに同感です。亡くなった人を悲しむのは一種の利己主義だと思います。

 「一種の自己憐憫の情です。自分自身への哀れみであり、愛する者を失ったことを嘆いているのです。苦の世界から解放された人のために涙を流すべきではありません。もちろん地上生活が利己的すぎたために死後もあい変わらず物質界につながれている人(地縛霊)がいますが、それは少数派に属します。

 大部分の人にとって死は牢からの解放です。新しく発見した自由の中で、潜在する霊的資質を発揮する手段を見出します。無知の暗闇でなく、知識の陽光の中で生きることが出来るようになるのです。

 過ぎ去った日々の中に悲しい命日をもうけて故人を思い出すとおっしゃいますが、いったい何のために思い出すのでしょう。そんなことをして、その霊にとってどんな良いことがあるというのでしょうか。何一つありません! 過ぎ去ったことをくどくどと思い起こすのは良くありません。

それよりも一日一日を一度きりのものとして大切に生き、毎朝を霊的に成長する好機の到来を告げるものとして、希望に夢をふくらませて迎えることです。それが叡智の道です」

訳者注──〝シルバーバーチは語る〟と題されたカセットテープの中で司会者が 「ルドルフ・シュタイナーの一派では死者に向かってリーディング(仏教でいう〝読経〟で、読心術ではない) をするのですが、何らかの効用があるのでしょうか」 と質問したのに対してシルバーバーチは 「害もありませんが、さして薬になるとも思いません。

こちらはこちらで救済のための施設がたくさん用意されています」と述べている。


 たしかに、たとえば 『ベールの彼方の生活』 を読むと高級霊団が地上各地から地縛霊を大ぜい救出して戻ってくる一行を描写しているところがある。国籍が入り混じっているので服装もさまざまで、救出された者どうしがキョロキョロと互いの衣服を見くらべて不思議そうな顔をするユーモアあふれる場面もある。

そのほか慰安や看護のための施設も何度か出てくる。その観点からいうとシルバーバーチの言う通りなのであるが、私は日本人特有の問題として、供養とか戒名とか院号とかにまつわる日本的しきたりに余りにこだわった地上生活を送った人の中には、向こうへ行ってから自分もそうしてもらわないと気が済まない──いわゆる〝成仏できない〟

霊がいて、霊界の指導者を手こずらせていることが多いことは、事実として認めざるを得ないように思う。この種の地縛霊は日本ではけっして少数派とは言えない。そういう霊は言わば〝わからず屋〟なのであるから、そのわがままをある程度は聞いてやる必要があるので、それは地上の人間の協力を要する問題となってくる。

 ただ、シルバーバーチはつねに永遠の時を念頭において説いていることを忘れてはならない。人間が余計な心配しなくても、いつかは霊界の方で何とかします、という意味に解釈すべきであろう。


──肉体に宿っているとそれが悟れないのが悲しいことです。みんな物質に惑わされて、物的なものには価値がないことが理解できないのです。そういう人にとって人生は舞台劇のようなもので、カーテン(幕)が下りるとそれでお終いです。

 「それは要するに無知と知識の差です。そこで私どもは出来るだけ知識を広め、その境界線をできるだけ広げていくように努力しているのです。知識を手にすれば、人生を正面から見つめ、そして悟ります。無知のままでいることは暗闇の中にいることです。

 私たちはひたすら力になってあげたいと願っているだけに尚のこと嘆かわしく思えるのですが、地上の人間が無知と偏見と、みずからこしらえた迷信という壁に取り囲まれているために、それが目覚めを阻害して、容易に破壊できないのです。その厚い壁は真理も突き通せないのです。

嘆かわしいと表現したのは、その人たちの地上の身内の人でも手の出しようがないからです。そこで死後しばらくはベールのそちらとこちらの双方に悲しみがあります。が、地上を去った者のために涙を流すことはありません。

その事実を認識し受け入れることによって、死んでいった者を引き止めるようなことが無くなります。感情的障壁をこしらえなくなります。精神と霊を正しく調整することが出来るようになります」


 これを聞いてサークルのメンバーが尋ねた。

──一つの人生の旅が終わったのを見て悲しく思うのが人間の情だと思うのです。それは一時的な情ですから、たとえ悲しんでも、死を嘆いているのとは違うと思うのです。

 「私の世界へやって来た人は死が階段を一つ昇ったことを意味すること、大きな解放を得たことを理解します。潜在的能力を発揮するチャンス、地上でなし得なかった仕事をするチャンス、かつては考えられなかったほど生気はつらつとした生活ができるチャンスを得ます。

もちろん地上生活に断絶が生じたことに悲しみの情を覚えるのは当然です。が、他界して行った者に何ら悲しむべきものはないという事実を知ることによって、その悲しみを少しでも小さくすることは出来るはずです。(無理な要求をするようですが)私たちは皆さんに対して常に理想を目標として掲げなければならないのです」


──愛し合う二人のうち片方が先に他界した場合、残された方がのちに他界した時に間違いなく幸せの楽園が待ってくれていると考えてよいでしょうか。

 「その通りです。ただし、互いに愛し合っていた場合のことであって、一方的な愛ではそうはなりません。愛はその対象から切り離して存在することはできません。地上というのはほんの一時的な生活の場にすぎません。肉体に不老不死はありえません。

ですから、いずれは地上を去る時が来るのであれば、いよいよその時(死期)が近づいた人を祝ってあげるのが本当なのです。そして又、いずれは自分もあとから行って、地上では想像できない、より大きな光明と美と驚異の世界でいっしょに生活することになることを知ってください」


──そのことを私たちは物的観点から考えなくてはならないところに難しさがあるのです。死ぬまで待つことになりますが、ただ待ってはいられない──いろいろと生きるためのことをしなければなりません。生き続けなければならないのです。その辺がとても難しいのです。


  「霊的真理を物的観点から考えるとなぜ難しくなるのでしょう?」

──私たちは物的存在だからです。

 「でも本質的には霊的存在です。物的身体をたずさえているというだけです。あくまでも霊が上位で肉体は下位です。そうした観点から、お手持ちの知識に照らして、正しい判断を下さないといけません。何ごとも価値あるものは困難がつきまとうものです。霊的褒賞が簡単に手に入るとしたら、それは手に入れる価値はないことになりましょう」

──死後の世界について多くのことを聞かされていても、死後に備えた生き方を心掛けている人は少ないように思います。本日お聞きしたことを肝に銘じて、たとえばテレビばかり見ていないで、美術とか工芸に手を染めるなどして今から準備を始めるのも一つの生き方だと思うのですが、何か良いアドバイスをいただけますでしょうか。

 「その問題は結局は悟りの問題に帰着します。あなたが肉体をたずさえた霊的存在であること、地上はいつまでも住み続ける場ではないこと、物的なものは儚い存在であることを悟れば・・・・・・もしもあなたが、死後、霊としてのあなた、不滅のあなた、神性を宿したあなたが蘇って永遠の進化の旅を続けることの意味を悟ることができれば・・・・・・

もしもあなたが、そうした悟りに到達すれば、そしてそこで叡智の導きに素直にしたがうことができれば、あなたは自然に死後の生活に備えた生き方をするようになります。あなたの行為はすべてあなたが到達した霊的自覚の程度によって支配されるのです」


  災害・事故による死
──霊的発達程度におかまいなく地震などによって一度に何千、何万もの人が死んでいくのはなぜでしょうか。

 「なぜあなたは死をそんなに禍のようにお考えになるのでしょうか。赤ん坊が生まれると地上ではめでたいこととして喜びますが、私たちの方では泣いて別れを惜しむこともしばしばなのです。地上を去ってこちらの世界へ来る人を私たちは喜んで迎えます。が、あなた方は泣いて悲しみます。

死は大部分の人にとって悲劇ではありません。しばらく調整の期間が必要な場合がありますが、ともかくも死は解放をもたらします。死は地上生活が霊に課していた束縛の終わりを意味します。

 あなた方はどうしても地上的時間の感覚で物ごとを見つめてしまいます。それはやむを得ないこととして私も理解はします。しかしあなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で六〇歳、七〇歳、もしかして一〇〇歳まで生きたとしても、無限の時の中での一〇〇年など一瞬の間にすぎません。

 大自然の摂理の働きに偶然の出来ごとというものはありません。あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです」

(霊としての意識と肉体に宿ってからの脳を焦点としての意識とは別である。地上での時間と場所の感覚は脳を焦点とした地上独特のもので、そこから人間的煩悩が生まれる。悟りの程度というのはその地上的感覚による束縛から脱する程度と等しいということであろう──訳者)


──地震その他の災害の話に戻りますが、その災害で生き残る人がいます。が、その人たちはそれから他界するまでの永い年月を苦しみながら生きることがあります。たとえば家を失ったまま我が家を持つことなく生涯を終える人もいます。そうした場合、その人たちはそういう体験を得るためにその土地に生を受けたのでしょうか。

 「地上生活にまつわる幸とか不幸のあらゆる体験から逃れることはできません。明るい側面と同時に暗い側面も体験しなくてはなりません。〝蓮の台〟(はすのうてな)の生活では魂は成長しません。困難と闘争と危機の時こそ魂は自我を発揮するのです。あなたにはそれが得心できないお気持ちは分かります。

地上的感覚でお考えになっているからです。しかし永遠の観点から見れば、恵まれた条件よりも困難な事態の方が有難いことなのです。


  別の交霊会でもこう述べている。

 「私たちの世界の素晴らしさ、美しさ、豊かさ、その壮観と光輝は、地上のあなた方にはとても想像できません。それを描写しようとしても言葉が見出せないのです。ともかく私は矛盾を覚悟の上であえて断言しますが〝死〟は独房の扉のカギを開けて解放してくれる看守の役をしてくれることがよくあるのです。

地上の人間は皆いつかは死なねばなりません。摂理によって、永遠に地上に生き続けることはできないことになっているのです。

ですから、肉体はその機能を果たし終えると、霊的身体とそれを動かしている魂とから切り離されることは避けられないのです。かくして過渡的現象が終了すると、魂はまた永遠の巡礼の旅の次の段階へと進んでいくことになります」