Saturday, March 21, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


29節


*本節の内容低級霊に関する警告現実の裏側の怖るべき実情
*邪悪霊・堕落霊・復讐霊・偽善霊
*物質文明と大都会の悪弊
*興味本位の心霊実験の危険性
*物理的心霊現象の価値
*物的次元より霊的次元への脱皮の必要性
*氏名を詐称する霊の危険性
*いたずら霊の存在
*個人的関心事は避けるが賢明

〔一八七四年三月十五日。この頃までに他人の名を詐称する霊が出没しているから注意せよとの警告がしきりに出され、その特殊なケースが実際に他のサークルで起きたことで一段としつこくなっていた。その問題に関連して数多くの通信が送られて来たが、その中で唯一普遍的な内容のものを紹介する。〕


このところわれらの要請がしつこくなっているが、それは人間を騙さんとして他人の名を詐称する霊にはめられる危険性について、これまでも再三警告してきたことを改めて繰り返す必要を痛感しているからである。そうした連中も“未熟霊”の中に入る。その種の霊による面倒や困惑の危険性がそなたの身辺に迫っており、その餌食とならぬようにと、最近特に注意を促したばかりであろう。如何にもわれらに協力せんとしているかに見せかける霊が存在することをわれらは確かめている。その目的とするところはわれらの仕事に邪魔を入れ進行を遅らせることにある。

この点については十分に説明しておく必要がある。すでに聞き及んでいようが、今そなたを中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。われらの霊団と邪霊集団との反目であり、言い換えれば人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いである。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟なる霊の抱く憎しみによりて煽られる者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。要するに、程度を異にする未熟な霊が全てこれに含まれる。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われらを始めとする他の多くの霊団の仕事に対し、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中である。

そなたにそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できぬのは、どうやらその現状がそなたの肉眼に映らぬからであるようである。となれば、そなたの霊眼が開くまではその大きさ、その実在ぶりを如実に理解することは出来ぬであろう。その集団に集まるのは必然的に地縛霊、未発達霊の類である。彼らにとりて地上生活は何の利益ももたらさず、その意念の赴くところは彼らにとりては愉しみの宝庫とも言うべき地上でしかなく、霊界の霊的喜びには何の反応も示さぬ。かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつきまわり、同質の地上の人間に憑依し、哀れなる汚らわしき地上生活に浸ることによりて、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとする。

肉欲の中に生き、肉欲のためにのみ生き、今その肉体を失える後も、肉欲のみは失うことの出来ぬこの哀れなる人間は、地上に感応しやすき同類を求め、深みに追いやることをもって生きる拠り所とする。それを措いて他に愉しみを見出し得ぬからである。地上では肉体はすでに病に蝕まれ精神はアルコールによりて麻痺されていた。それが、かつての通い慣れた悪徳の巣窟をさ迷い歩き、取り憑きやすき呑んだくれを見つけてはけしかける。けしかけられた男らは一段と深みにはまる。それが罪もなき妻や子の悲劇を広げ、知識と教養の中心たるベき都会の片隅に不名誉と恥辱の巣窟を生む。そうすることに彼らは痛快を覚え、満足の笑みをもらすのである。こうした現実がそなたらの身のまわりに実在する。それにそなたらは一向に気づかぬ。かくの如き悪疫の巣がある――あるどころか、ますます繁栄しのさばる一方でありながら、それを批難する叫び声は一体地上のいずこより聞こえるであろうか。何故どこからも批難の声が上がらぬのであろうか。何故か? それも邪霊の働きに他ならぬ。その陰湿なる影響によりて人間の目が曇らされ、真理の声が麻痺されているからに他ならぬ。その悪疫は歓楽街のみに留まらぬ。そこを中心として周囲一円に影響を及ぼし、かくして悪徳が絶えることがないのである。かつての呑んだくれは――人間の目には死んだと思えようが――相も変わらず呑んだくれであり、その影響もまた、相も変わらず地上の同類の人間の魂を蝕み続けているのである。

一方人間の無知の産物である死刑の手段によりて肉体より切り離された殺人者の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつきまわり、決しておとなしく引っ込んではおらぬ。毒々しき激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみ――その罪は往々にして文明社会の副産物に過ぎず、彼らはその哀れなる犠牲者なのである――を抱き、その不当行為への仕返しに出る。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽る。次々と罪悪を唆(そそのか)し、己が犠牲となりしその環境の永続を図る。人間は一体いつになれば毎日の如く、否、時々刻々と処罰している罪悪が実は混雑せる都会生活の産み出す必然の副産物に過ぎぬことを悟るのか。根本の腐敗の根源をそのままにして、何故に醜き枝葉のみを切り落とすのか。協同責任において生み出せる哀れむべき仲間を何故に無慈悲に処分するのか。そなたらは実は利己主義者なのである。その利己主義者が何故に憎悪に燃える霊を敵にまわす行為をしでかすのか。ああ、友よ、そなたらの旧時代的刑法が誤れる認識の上に成り立っており、犯罪防止よりむしろ悪用を生んでいることに気づくまでには、そなたら人間はまだまだ幾多の苦難を体験せねばならぬであろう。

かくの如く、地上の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上に舞い戻るこうした邪霊は当然のことながら進歩と純潔と平和の敵である。われらの敵であり、われらの仕事への攻撃の煽動者となる。至極当然の成り行きであろう。久しく放蕩と堕落の地上生活に浸れる霊が、一気に聖にして善なる霊に変り得るであろうか。肉欲の塊りが至純なる霊に、獣の如き人間が進歩を求める真面目な人間にそう易々と変われるものであろうか。それが有り得ぬことくらいはそなたにも判るであろう。彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙いにおいて、他の邪霊の大軍と共に、まさに地上人類とわれらの敵である。真理の普及がしつこき抵抗に遭うのは彼らの存在の所為であり、そなたにそうした悪への影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力の存在を無視し彼らの攻撃にスキを見せることがあってはならぬ。

この警告はいくら強調しても強調しすぎることはない。その働きが常に潜行的であり、想像を超えた範囲に行きわたっているだけに、なおのこと危険なのである。地上の罪悪と悲劇の多くはそうした邪霊が同種の人間に働きかけた結果に他ならぬ。地上の名誉を傷つけ、体面を辱しめるところの、文明と教養の汚点とも言うべき戦争と、それに伴う数々の恐怖もまた、彼らの仕業である。大都会を汚し、腐敗させ、不正と恥辱の巷(ちまた)と化す犯罪を醸成するのも彼らなのである。

そなたら文明人は知識の進歩を誇り、芸術と科学の進歩を誇り、文化と教養の進歩を誇る。文明を誇り、己の国を飾り立て高揚するキリスト教を地上の僻地にまで広めんと大真面目で奔走する。のみならず、それをそなたらのみに授けられた神の万能薬として、彼らに押しつけんとする。その押しつけんとする宗教と文明がそなたらにもたらす現実については、彼らには言わぬが華であろう。われらが繰り返し説ける如く、そなたらの説く宗教は、真のキリスト教の名に値する単純素朴にして、純粋なる信仰の堕落による退廃的所産に他ならぬ。そなたらの誇りとする文明も文化もうわべのみの飾りに過ぎず、化膿せる傷口は到底隠し切れず、霊眼には歴然として正視できぬ。それが人間性に及ぼす影響に至りては、その本来の崇高なる感覚を汚し、空虚さと偽瞞と利己主義しか産み出さぬ。その点においては、人間本来の感性を文明によりて矮小化されず麻痺されることのなかった砂漠の民のアラブ人、あるいはアメリカ・インディアンの方が、人を出し抜き、ペテンにかけることに長けた狡猾なる商人、あるいは文化的生活に毒された巧妙なる弁舌家や淫乱きわまる文明人より遙かに高潔であることが、往々にして見受けられるのである。

地上の大都会はまさに悪徳と残忍と利己主義と無慈悲と悲劇のるつぼである! 魂は真理に飢え途方に暮れている。霊的影響力を受けつけぬ雰囲気の中で暮らす彼らは、より清く、より平静なる雰囲気を求めて悶え苦しむ。が、その悶えも、取り囲む闇の帳(とばり)を突き抜けることが出来ぬ。必死の向上心も繰り返される悪の誘いに打ち砕かれる。折角の決意も邪霊に奪われる。かくして彼らは次第にそうした邪霊の働きかけへの抵抗力を失う。その段階まで至れば、自暴自棄の念を吹き込むのはいとも簡単である。それが悪徳を大きく助長し、救いへの正道がほぼ完全に閉ざされる。

では、そうした不純と淫乱と懊悩の巷――実はすぐ目と鼻の先のそなたらの同胞の住める都会であり、そこでは金さえあれば少なくとも身体的労苦からは逃れられるが――そうした巷より霊界入りする人間はその後いかなる経過を辿るであろうか。彼らの住める環境は、見た目には霊と肉を堕落させる恥ずべき環境とは思えぬ。が、そこに漂う霊的雰囲気は俗悪臭に満ち溢れている。金儲けのみが人生であり、愉しみと言えば飲食と酒色である。雰囲気は金銭欲と権力欲、その他ありとあらゆる形の利己心である。そうした環境にて暮らせる人間の魂が死後いかなる状態に置かれるか――そなたは一度でも想像してみたことがあるであろうか。魂の糧となるべきものを知らず、成長もなく、携わるベき仕事も持たぬ。発育は歪(いびつ)となり、落着くところは古巣の地上でしかなく、金と欲の巷に舞い戻ったところを、待ち受けていた邪霊に掴まり、唆(そそのか)され、欲望を一層掻き立てられ、われらには近づき難き存在となる。そうなるが最後、悪徳の巣窟である歓楽街の酒色に溺れる霊と同じく、われらは手を施す術(すべ)を知らぬ。辺りはむせ返る雑踏――そこでは金のみが物を言い、利己心と貪欲と盗みが横行する。そこは邪霊集団の行動の中心地であり、そこより毒々しき影響力が発散されていく。

が、人間はそれに一向に気づかぬ。諸悪の根源に無知であり、その諸悪に恰好の場を提供している点において愚か極まる。悪の環境を永続させるのはその愚かさに他ならぬ。そして地上に生命が誕生し発達し霊性を開発していく、その本来の原理・原則を理解せしめんとするわれらの努力を一層困難なものにする。これまでにも結婚生活のもつ重大なる意義について理解せる高邁なる改革者が幾人かいた。われらもそなたに理解し得る範囲での見解を述べてきた。世の中がさらに進歩した時点において説くべきものが、まだまだ数多く残っている。が、今はその時期ではない。差し当たり、われらとしては、結婚生活というものが病いと犯罪と貧困と精神病等の重大なる問題と密接に結びつける問題であることを指摘しておく。それが人間との係わりにおいてわれらを悩ませ混乱せしめている。その多くが結婚生活にまつわる愚劣なる思想、さらには無謀きわまる犯罪的処罰――犯罪的であると同時に、より一層愚かでもある法律に帰されるべきである。そのことは無知・無教養の階層に劣らず教養ある上流階級についても言えることである。否、むしろその最大の罪は富める階層にあるであろう。そなたらはこれまで抱いて来た結婚にまつわる観念を大いに改めねばならぬ。結婚の美名のもとに行なわれる退廃と堕落の大根源を抹殺するにはまず、それまでそなたらが佳しとして来たものに代わりて、幸福と進歩のための、より真実にして神聖なる規範を学ばねばならぬ。われらを誤解してはならぬ! われらは放縦を唱道する者ではない。世に言う社会的自由の伝道者ではない。愚か者は自由と放縦とを履き違えて堕落する。その墜落せる観念をわられは軽蔑をもって拒否する。かの恥ずべき人身売買――最も神聖なる生命の法則の侮辱とも言うべき社会的奴隷制度を軽蔑する以上に、われらは結婚の美名のもとに行なわれる人身売買を軽蔑するものである。

そなたは未だに肉体が霊の道具であること、その肉体の発達を促す健康の法則と条件が、霊が肉に宿って送る地上生活にとりて必須のものであることを理解しておらぬ。それについては前にも述べたが、ここで一言だけ付け加えるならば、他の面においても同じことであるが、この問題においてもそなたらはわれらの敵に味方する結果となっている。そなたらがその独占者を以て任じているところの純粋にして崇高なる霊的福音が地上にもたらされて早や十九世紀の歳月が流れた。然るにそなたらは真の向上に資する面においても、叡智においても、真の宗教性においても、殆ど成長らしき成長をしておらぬ。それどころかむしろイエスがその修業時代を過ごせるエッセネ派(1)にも及ばぬ。イエスに最も辛辣なる非難を浴びせし律法学者やパリサイ派と同列である。

そなたは知らぬ。肉体と霊の問題――この世のみならず死後の生活にも関わる重大なる意味をもつこの問題について、そなたはまるで判っておらぬ。

以上、かつて言及しておいた、われらに敵対する邪霊集団について、その幾つかを明らかにしてみた。彼らは勢力を結集してわれらの仕事を挫折させ悩ませ傷つけんとスキを窺っている。しかも人間の無知ゆえに堕落していく霊によりて時々刻々その勢力を拡充していきつつある。

これまでわれらはもう一方の集団、すなわち人類のため、人類の発展のために力のかぎりに努力している霊の集団については述べずにおいた。人類を救済し、未来に希望をもたせる犠牲と献身の行為、素朴にして気高き生きざま、心豊かな行為については敢えて述べずにおいた。それは、われらの目下の仕事がその反対の暗黒面を描いてみせることにあるからである。出来るだけその方向へそなたの注意を仕向けてきた。言っておくが、われらはその内面の姿を有るがままに描いているのである。われらの通信の底流をなす深刻なる真理、すなわち善と悪との対立、その悪の勢力を助長する人間の過ちは、われらが担(にな)える仕事の今後の進展に大きく係わる重大な事実だからである。今しがた述べたことも、われらに敵対する組織的集団についてかつて述べたことを繰り返し述べたに過ぎぬ。が、これ以後ますます繁くなるであろうことが予想される特殊な敵対手段については、述べることを控えておいた。それは、客観的心霊現象が頻繁となり、それを求める欲求が募るにつれて、邪霊集団が意図的に手の込んだ策を弄し、肝心の霊的真理に対する不信感を煽る企みのために多くの霊媒が利用される可能性が大きくなるということである。これは特殊な敵対手段であり、最も大なる危険性を秘めている。と言うのは、程度の低き霊ほど物的なものへの働きかけが強力であり、巧妙であり、時として憎悪に満ちている。彼らは、目を見張る心霊現象を起こす霊媒を養成し、超自然力に興味をもつ者を得心させようと強力に働きかけている。いったん得心させれば、あとは容易である。トリックとペテンを弄し、同時に真面目な道徳的説教も交えつつ、徐々に疑念を誘い、初め霊の存在に向けられた不信感と猜疑心とが次第に心霊現象そのものと道徳的教訓にまで広がっていく。

心霊現象は単に人間の目を見張らせ、面白がらせるためのものではない。肝心の目的は霊的教訓にある。それに対する不信感を煽る手段としてこれに勝る巧妙なるものはない。人間は最後にこう言い始める――われわれは色々とやってみた。自らも実験してみた。そして真相が判った。結局はペテンか愚劣にして不道徳きわまる教説を説くか、あるいは間違いだらけか、要するに悪魔の仕業である、と。そう考え始めた連中に正と邪を見分けるようにと説いても最早や無駄である。揺らぎ始めた信頼がそれを許さぬ。初め信じてかかったものがニセであることが証明されたわけであり、信頼の殿堂は瓦礫となって辺りに散乱する。基礎が十分でなく、建造物を支えることが出来なかったということである。

繰り返し述べるが、これほどわれらの仕事を麻痺させる悪魔的策謀はない。われらは厳粛なる気持ちをもって警告するものである。必ずわれらの警告に従って行動して貰いたい。次から次へと無闇に派手な現象を演出してみせてくれる時は用心するがよい。そうしたものは大体において低級にして未発達なる霊の仕業である。その演出には往々にして招かれざる客が携わっている。驚異的現象も余り度を越すと、ことに結成したばかりのサークルにおいては大いに危険がある。心霊実験も必要である。われらは決してある種の人間にとりての効用を過小評価する者ではない。求むる者全てに納得のいく証拠を提供してあげたいとは思う。が、そうした物理的現象のみの興味、魂の成長に殆ど役に立たぬうわべの興味にのみ終始して貰っては困る。そうした現象にしか興味を抱かぬ者の目には、われらの為すことが時として人間のすることよりお粗未に映ることすらあろう。が、現象そのものを目標としているのではない。目標は一段高き次元にある。また、この世のものとは別の存在がこの世の法則に干渉できることを証明して満足しているわけでもない。もしもそれが全てであるとするならば、そうした事実を知ることは害にこそなれ、益にはならぬであろう。われらは唯一絶対の至上命令を下されている。その使命達成のために地上に戻ってきた。それ以外に用はない。その使命はそなたにも判っていよう。信仰心が冷却し、神の存在と霊魂不滅への信仰が衰えかけた時、われらは人間が神の火花を宿すが故に永遠不滅であることを証しにくる。旧き時代の信仰の誤りを指摘し、向上進化をもたらす人生を説き、発達と向上の未来永劫ヘと目を向けさせる。

われらが、不本意ながらも、物質を操る霊の威力の発達のために、その本来の目標を脇へ置くことがあるが、それは決して人間の好奇心を喜ばせるためではない。あくまでも目的の為のやむを得ぬ手段として必要と見たからであり、決して望ましきことと考えているわけではない。仮に無害であるとしても、われらは同じ忠告をするであろう。が、現実にはわれらが最も恐るべき反抗集団による攻撃手段とされるが故に、そうした物的現象を無闇に求めたり、それをもってわれらとの交霊の目的とすることを、われらは声を大にして警告するものである。

心霊現象はあくまでも確信を得させるための手段に過ぎぬものと心得よ。その一つ一つを霊の世界より物質の世界ヘの働きかけの証と受けとめよ。それだけのものに過ぎぬと理解し、それを霊的神殿を建立するための基礎として活用せよ。現象はどういじくってみたところでそれ以上の価値は出て来ぬ。それに、霊側がこれ以上は無駄と見た時は、そうした現象をより得意とする霊に譲って引き上げてしまう。かくして折角の奥深き啓示の機会が逃げ去ることになる。あくまでも現象を基礎として、そこより一歩踏み出さねばならぬ。現象に携わる知的存在の本性は一体何であるのか、いずこより来るのか、その意図は、等々を知ろうとせねばならぬ。きっとそれが神の計画であり、その拠って来る根源も意図も至純にして必ずや何らかの恩恵をもたらすものであるとの確信を得たいと思うことであろう。魂の辿る道程と、人間が死と呼ぶところの変化に最も有効に対処できる心がけについて納得のいく指針を得たく思うことであろう。それは当然の成り行きである。何となれば、万が一われらが人類と同類でないとすれば、われらの体験が人類に一体何の役に立つというのであろうか。万が一そなたら人間の不滅性を語れぬとすれば、われらがこうして存在し続けていることを幾ら徹底的に証明してみたところで、一体何の意味があろう。妙な話になりはせぬか。これほど奇妙な話もあるまい。

そなたが首尾よく現象的なものを超えて真理のための真理探求にまで進めば――要するにわれらの意図を信じてくれれば――その暁には、未だそなたが知らずにいる世界に案内することが出来よう。その世界についてはそなたの国(2)以外の国の真摯なる探求者にはすでに、遙かに奥深きことが啓示されている。そなたらの国ではまだその恩恵に与れる者は僅かである。こうした自動書記による通信も、テーブルラップ(3)その他のぎこちなき手段に較べればよほど進んでいるかに思えるであろうが、そうした物理的手段を経ぬ直接的な霊と霊との感応に較べればその比ではない。スピリチュアリズム勃興の地である米国においては、地上と霊界の二重の生活を送れるまでに霊感が発達し、霊界との交信を日常茶飯事としている者が大勢いる。英国民の精神の不信心性と、興味の唯物性と、雰囲気の低俗性の故に、われらの思うに任せぬことが米国では着々と成果を挙げて行きつつある。われらの仕事は俗事を処理するようなわけには参らぬ。われらは心を読み取ってしまう。故に人間が実際には興味を覚えぬくせに、つまり真にやる気を持たぬのに、いかにもそれらしく装ってみたところで――心底より信じぬままわれらの仕事に手を貸してくれたところで、何の益にもならぬ。いつの時代にも、いずこの国においても常にそうであった。高級なる霊的真理を地上へ送り届けんとする努力が時おり為される。が、まだ時期尚早であることを悟って手を引くことがある。もっともこの度われらが述べんとするのはそのことではない。心霊実験にまつわる危険性について警告し、物的現象はいち早く卒業して霊的知識へと進むよう忠告せんとしているまでである。進歩には受け入れ態勢が先行せねばならぬ。が、われらとしてはそなたが少しでも早く物的束縛より脱け出て、ひたすら霊的真理の追求に専心する日の到来を望み祈る気持でいる。そなたはその目標に向かって迷わず一意専心せねばならぬ。有象(うぞう)無象の意見を振り切り、地上の生活者として出来得るかぎり物的感覚より脱け出なければならぬ。

永遠なる父よ! 私たちはあなたの御名のもとに勤しみ、あなたの真理の啓示のために遣わされました。その真理が私たちの語りかける者の心を高め、そして清め、地上的なものを超えて霊的感覚を目覚めしめ、私たちの説くところを悟らしめます。願わくば彼ら地上の者の心に信仰を育み給え。それが真理への渇望を生み、地上的利害を超えて霊的啓示を学ばしめることになればと願えばこそでございます。

(†インペレーター)


〔私は右に述べられたことが全て真実であることに疑いは挟まないが、そういう邪霊の働きを抑制するための法や秩序が霊界にないのが理解できないと述べた。読んでいると何だか彼らは好きに振舞い、何の支配も受けていない感じがするのである。同時に彼らが他人の名を騙(かた)るという事実が不思議に思える。何故そんなことに興味を覚えるのかが理解できないと述べた。〕


われらの世界に法も秩序もなきが如くに想像するのは誤りである。人間の側にて整えるべき条件を整えてくれぬことがわれらの秩序ある努力を挫折させているに過ぎぬ。交霊会を催すに際してはまずそれなりの条件を整えねばならぬ。それさえ励行してくれれば、これまでの如き悪戯や混乱の半分は除去されるであろう。もっともそなたらの言う悪の要素が完全に抹殺される日は来ぬ。何となれば、そうした体験も霊的鍛錬の一つであるからであり、われらとてそなたの進歩的発達を促すこの過程を免除してやるわけには参らぬのである。そなたにはその過程を通過する必要があるのである。まだまだ学ばねばならぬことが多々ある。こうした実際に即した体験もその勉強の一つと心得るがよい。

邪霊が他人の名を騙る問題については、これ以後多くを知ることになろうが、取り敢えず述べておけば、こちらにはそうした悪戯を愉しみとする低級霊がおり、ある条件下において実に手の込んだ詐術を弄する才能を持っているということである。人間が望んでいるとみた人物の名を騙り、いかなる人物でも実にうまく真似て応対する。こうした霊は交霊会が用心を怠らず、霊側で守護の任に当たる者が鋭く睨みを利かせれば、大抵は締め出すことが出来る。無闇に交霊会を催し、新参者を不用意に参加させ、霊的条件への配慮を怠り、それが為に霊側の厳戒態勢が整わぬようでは、彼らの侵入を許す危険が大である。われらの知るかぎりでは、大半の交霊会ではその種の悪戯(いたずら)霊の侵入を許していると見てよかろう。単なる好奇心から現象を求める。霊界の知人・友人を次々と呼び寄せる。それが本当に当人なのか騙(かた)りなのかを見分ける用心を怠る。あれこれと愚にもつかぬ質問をし、その返事を大まじめで聞いて鵜呑みにする。これでは低級霊がそれを愉しみとして何の不思議があろう。


――そんなことでは、これで絶対大丈夫という確信を得ることが出来ませんし、立派で筋の通ったものと思い込んでいたものが結局はトリックだったということにならない保証はどこにもないのではありませんか。背後にそうした邪悪な勢力が存在する以上、絶対安全と言える人がいるでしょうか。


その問いに対しては、すでに述べたことを繰り返すのみである。われらの信頼性と誠意と客観的存在については、そなたにはすでに証明済みである。証拠の上に証拠を重ねてきた。われらの道徳的意識の程度は全ての面に一貫する誠意――そなたに授けた教訓に一貫する基調を以て証明してきたつもりである。それはそなた自らの判断にて評価されたい。そなたの評価を得て始めて世の全ての人に至純にして至善なる教訓として公開されることになろう(4)。今すでにそなたはそれを全体の傾向として崇高にして善なるものであることは認めておろう。われらの身元、われらの仕事、そしてわれらの目的に関してそなたは、一個の人間について評価を下すのと同じように評価を下せるだけの情報を手にしているに相違ない。


――おっしゃる通りです。この通信の最初に私が指摘した霊などは、もし引っ掛かっておれば、容易に信念を揺るがせかねなかったと思われます。


それは十分に有り得たことである。万一の場合われらがその働きにどこまで対抗できたかは判らぬ。が、そのような危険に足を踏み入れることはわれらはご免蒙る。あの場合にしても、どう警告したところで彼らはそれに対抗して巧みに操り、うまく人の名を騙って、挙句には、ただでさえ心もとなき信念に致命的打撃を与えたことであろう。そなたにとりてそれは真実危険である。何にもまして、矛盾せる偽りの言説は、そなたに猜疑心を誘発せしめることであろう。その猜疑心は遂にはわれらへの信頼を覆し、われらは退散のやむなきに到るであろう。


――確かにこれは、係わり合うと実に危険な存在であるように思われます。


何事にせよ、乱用は感心せぬ。正用は結構であり、それを常に心がけるべきである。軽薄なる心でもって霊界と係わりをもつ者、単なる好奇心の対象に過ぎぬものに低俗なる動機からのめり込む者、見栄っ張りの自惚れ屋、軽率者、不実者、欲深者、好色家、卑怯者、おしゃべり――この種の者にとりては危険が実に大である。われらとしては、性格的に円満を欠く者が心霊的なものに係わることは勧められぬ。賢明にして強力なる背後霊に守られ、その指示によりて行動する者のみがこの道に携わるべきであり、それも細心の注意と誠心からの祈りの念を持って臨むべきである。不用意な係わり合いは断じて許せぬ。また、円満な精神と平静な感情の持ち主にあらざれば、とても霊界との安全なる係わり合いは不可能であり、己の地上生活に禍の種子を持ち込むのみである。節度なき精神、興奮しやすき感情、衝動的かつ無軌道な性格の持ち主は低級霊にとりて恰好の餌食となる。その種の人間が霊的なことに係わることは危険である。特にその求むるところが単なる驚異的現象、好奇心の満足、あるいは虚栄心の慰めに過ぎぬ場合はなおのことである。その種の人間には神の訓えは耳に届かぬ。願わくば聞く耳を持つ者が低級霊の干渉を首尾よく切り抜け、低級界を後にして高級界のより聖純なる大気の中へと進んでくれることを望むこと切なるものがある。


――それはしかし、世間一般の人にとっては要求が高すぎるのではありませんか。大方の者は何となく取っ付きにくい教訓めいた話よりは、頭をコツンと叩かれたり(5)、椅子が浮揚するのを見る方を好むものです。


確かにその通りである。それはわれらも十分に承知している。が、現在の段階はあくまで通過すべき段階であらねばならぬ。われらの仕事にも物理現象は付随する。が、それは真の目的ではない。われらが期待している真の発展の地ならし程度であらねばならぬ。これより後も、各地で一層盛んに見られるようになるであろう。われらはそれに伴うところの危険性について警告しつつも、現在そなたが置かれている知的段階においては、それも必要であることを決して偽りはせぬ。遺憾には思うものの、その必要性は認める。この件については付言すべきことがまだあるが、今は控える。しばし休息せよ。


〔僅かばかりの休息の後に、次のような通信が追加された。〕


邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、それとは別に、悪意からではないが、やはりわれらにとりて面倒を及ぼす存在がある。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えぬ。肉体より離れて行く人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもない。そして、地上に近き界層を一気に突き抜けて行くほど進化せる霊は、特別の使命でもないかぎり、地上へは戻って来ぬものである。地縛霊の存在についてはすでに述べた通りである。

言い残せるものにもう一種類の霊団がある。それは悪ふざけ、茶目っ気、あるいは人間を煙(けむ)に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いて如何にも勿体ぶった雰囲気にて通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取っては面白がっているに過ぎぬ。交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあるとそなたに言わしめる要因がそこにある。茶目っ気や悪戯半分の気持から如何にも真面目くさった演出をしては、それを信ずる人間の気持を弄(もてあそ)ぶ霊の仕業がその原因となっている。列席者が望む肉親を装って如何にもそれらしく応対するのも彼らである。誰にでも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも、彼らの存在の所為である。最近、誰それの霊が出たとの話題がしきりと聞かれるが、そのほとんどは彼らの仕業である。通信にふざけた内容、あるいは、ばかばかしい内容を吹き込むのも彼らである。彼らは真の道徳的意識は持ち合わせぬ。求められれば、いつでも如何なることでも、ふざけ半分いたずら半分にやってみせる。その時々の面白さ以上のものは何も求めぬ。人間を傷つける意図はもたぬ。ただ面白がるのみである。

人の道を誤らせ、邪(よこしま)な欲望や想念を抱かせるのも彼らである。霊媒を密かに操り、高尚な目的を阻止せんとする。高尚にして高貴な目的が彼らには我慢ならず、俗悪なる目的を示唆する。要するにその障害物、妨害とならんとする。係わるのは主として物理的現象である。通例その種の現象が得意であり、列席者を迷わせる魂胆をもって、混乱を惹き起こさせる現象を演出する。数々の奇策を弄して霊媒を騙し、それによりて惹き起こされる当惑の様子を見てほくそえむ。憑依現象を始めとする数々の心霊的障害は往々にして彼らの仕業に起因する。いったん付け入れば如何ようにでも心理操作が出来るのである。個人的に霊を呼び出して慰安を求める者たちを愚弄するのも彼らである。如何にもそれらしく応対し、嬉しがらせるような言葉を述べて欺く。間違いなく本人が出て、しっかりとした意志の疎通が行なわれることはある。が、次の会では巧みに本人を出し抜いて悪戯霊が出現し、名を騙り、それらしく応対しながら、その中に辻褄の合わぬ話を織り混ぜたり、全くの作り話を語ったりする。そなたもそうした霊に付け入られぬためにも、一身上の話題はなるべく避けるが賢明である。

(†インペレーター)

シルバー・バーチの霊訓(一) 

Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley
 




  シルバー・バーチシリーズ刊行に当たって

 私は、ほぼ一年半前 (一九八四年五月) に 「シルバーバーチ霊言集」 全十一巻を総集した 『古代霊は語る』 を潮文社より上梓した。正直言って、その出版に際して訳者自身も潮文社の担当者も、この種のものに対する一般読者の反応に一抹の懸念を禁じ得なかった。

ところが、出版してみると、予想に反して全国各地から訳者と出版社の双方に感動と感謝の手紙が次々と寄せられた。英語の素養のある方からは原書の入手方法についての問い合わせもあった。そして、当然予想されたこととして、霊言集全十一巻を全訳してほしいという希望が多く寄せられた。

 『古代霊は語る』の〝あとがき〟の中で私は「今この全十一巻を一冊にまとめて、何という無謀なことをしたのだろうと、恰も過ちを犯してしまった時のような気持ちがふと湧くことがある。が・・・(中略) 決して弁解して言うのではなく、私の理解力の範囲で確信して言うが、シルバーバーチの説かんとすることは本書が一応その全てを尽くしていると考えていただいて結構である」 と述べた。

そして今もその確信に変わりはないが、多くの読者からの希望を受け取るごとに、かなえられるものであれば全巻を訳しておくのも私の使命かも知れないという考えが深まっていった。そしてこの度潮文社のご理解を得て、幾つかの条件のもとにその実現に努力してみることになった次第である。

 〝条件〟を考慮しなければならない最大の原因は、内容的に重複する箇所が多いことにある。 『古代霊は語る』 と題して一冊にまとめた理由もそこにあるが、〝まとめる〟という作業がエッセンスだけに絞ることになる傾向を避けられないことは確かで、現に読者から〝もっと細々(こまごま)とした悩みごとの質疑応答はないのでしょうか〟といった手紙も寄せられている。

そして、確かにそれが豊富にあるのである。全訳によってそれが紹介できることを有難いと思う一方、重複は是非避けたい気持ちもある。そこで翻訳のシリーズは原典のシリーズのそのままの置き替えではなく、重複箇所を削除し、編者による冗漫な解説も省かせていただくことにした。その点をご了解ねがいたい。

 霊言集は五〇年余りにわたって蓄積された膨大な量の霊言をハンネン・スワッハー・ホームサークルのメンバーがそれぞれの視点から編集したものである。そのうち二人のメンバーが二冊ずつ出しているので、全部で九人によって十一冊が編集されたことになる。

先日、メンバーの一人でバーバネルの秘書だったパム・リバ女史に手紙で確かめたところ、これ以後新たに編集する予定は今のところ無いということであった。

 いま改めてその十一巻に目を通してみると、その扱い方は一冊一冊に特徴があり、実に多彩である。その中から本シリーズの第一巻としてアン・ドゥーリー女史の Guidance from Silver Birch (シルバーバーチの導き) を選んだのは、本書が全巻の中でもシルバーバーチの霊訓をもっとも平易な形でまとめてあり、また 「まえがき」 でシルバーバーチと霊媒バーバネルについての詳しい紹介があり、本シリーズの初巻を飾るものとしていちばん適当とみたからである。

 また全巻の中で本書が最もページ数が少なかったことが、巻末に私自身の長文の解説 「霊的啓示の系譜」 を載せる余裕を与えてくれることにもなった。これによって人類史の背後の霊的な流れの中における「シルバーバーチの霊訓」の位置を理解していただけるものと信じている。

 熱心な読者のために、願わくば一冊でも多く、そして少しでも早く出せることを心から念じている。
                       一九八五年七月  近藤 千雄




  まえがき

  古代霊シルバーバーチと霊媒モーリス・バーバネル

 四〇年余り前 (一九二〇年ごろ) のことである。文人による社交クラブで司会役をしていた十八歳の議論好きの青年が、思わぬ成り行きからスピリチュアリズム (章末注①) の研究に引きずり込まれた。そしてある心霊家の招きでロンドンの東部地区で催されていた交霊会 (注②) なるものに一種の軽蔑心を抱きつつ出席した。

 これといった感動も覚えぬまま会の成り行きを見ていたその青年は、入神した人間の口をついてインディアンだのアフリカ人だの中国人だのが代わるがわるしゃべるのを聞いて苦笑を禁じ得なかった。そして列席者の一人から 「あなたもそのうち同じことをするようになります」 と言われた時もアホらしいといった気持ちで軽く聞き流した。のちにこれが現実となるとは神ならぬ身には知る由もなかった。

二度目に出席した時、青年は途中でうっかり〝居眠り〟をしてしまい、目覚めてから慌てて失礼を詫びた。ところが驚いたことに他の出席者たちから 「居眠りをなさっている間あなたはインディアンになっておられましたよ。名前も名のってましたが、その方はあなたがお生まれになる前からあなたを選んで、これまでずっと指導してこられたそうです。そのうちスピリチュアリズムについて講演なさるようになるとも言ってました」と言われた。

 この時も青年は一笑に付した。しかしどこか心の奥にひっかかるものがあった。そしてその後出席する度に入神させられ、そのたびに同じインディアンがしゃべった。はじめのうち片言英語しか話せなかったのが次第に流暢になっていった。

 その青年の名はモーリス・バーバネル。(注③) そしてインディアンはシルバーバーチ (注④) と呼ばれるようになった。両者は顕と幽の相反する世界にいながら密接に結びついた仕事で世界的に知られるようになる運命にあった。

前者は練達の宣伝家、著作家、編集者として、後者はハンネン・スワッハー氏 (注⑤) の言葉を借りれば〝他のいかなる説教家よりも多くの心酔者をもつ〟雄弁な説教者としてである。

 スワッハーの言葉には説得力がある。スワッハー自身がその会の司会者であり、今日までその交霊会はハンネン・スワッハー・ホームサークルの名称で知られているからである。それにスワッハーはジャーナリズム界では〝フリート街の法王〟の異名を取る反骨のジャーナリストとして長くその存在を知られている人物である。

 そのスワッハーの勧めでシルバーバーチの霊言が心霊紙上で公表されるようになってからも、霊媒がバーバネルであることは内密にされた。

バーバネルにしてみれば自分を通じての霊的教訓はいくら宣伝されてもそれだけの価値はあるが、それを掲載するサイキックニューズ紙とツーワールズ紙の主筆が実はその霊媒であるというのは、受け取られようではまずい印象を与えるのではないかという用心があったのである。


そういう次第でバーバネルがシルバーバーチの霊媒であるという事実は二十年余りも極秘にされていたが、いったい霊媒は誰なのかという次第に高まる一般のうわさを放置するわけにもいかなくなり、ついに一九五七年八月二四日のツーワールズ紙上でバーバネル自ら公表したのであった。

 シルバーバーチについてスワッハーはこう述べている。 「シルバーバーチは実はインディアンではない。いったい誰なのか、本当のところは分からない。本来属する界は波長が高すぎて地上とは直接の交信が不可能であるために低い界の霊 (霊界の霊媒) の幽体を使用している。

シルバーバーチと名のるインディアンはたぶんその幽体の持ち主であろう。その証拠に彼はこう言っているのである。〝いずれ私の身元を明かす日も来ることでしょう。私は仰々しい名前を使うことによって敬愛を受けたくはありません。私が語る真理によって私の真価を証明するためにあえて素朴なインディアンに身をやつしております。それが自然の理というものなのです〟」と。

 これらの教説が霊媒の潜在意識の仕業でないことをどうやって見分けるのかとの批評家の質問に対してスワッハーは、両者が別個の存在であることを示す決定的な事実がいくつかあると言う。例えばシルバーバーチは再生説(注⑥)を説くが、バーバネルは通常意識の時はこれを否定し、入神すると反対に再生説を主張する。

 シルバーバーチ自身も自分が心霊家がよく持ち出す〝霊媒の第二人格〟でないことを示す証拠をこれまで何度も提供している。例えば霊媒の奥さんのシルビアに対してシルバーバーチが、今度のエステル・ロバーツ女史 (注⑦) の交霊会でかくかくしかじかのことを直接談話 (注⑧) で言います、と約束したことがある。

そしてその約束どおりのことが起きた。いっしょに出席していたバーバネルも初めてシルバーバーチの声を直接聞いて感動を覚えたという。

 「文は人なり」 とは十八世紀のフランスの博物学者ビュフォンの名言であるが、これはシルバーバーチに関する限り人間性のみならず教説の説き方についても言える。霊媒のバーバネルもシルバーバーチの説き方の巧みさをまさに〝霊の錬金術〟であると激賞してこう述べている。

 「年がら年中ものを書く仕事をしている人間から観れば、毎週毎週ぶっつけ本番でこれほど叡智に富んだ教えを素朴な雄弁さでもって説き続けるということ、それ自体がすでに超人的であることを示している。

ペンで生きている他のジャーナリスト同様、私も平易な文章ほど難しいものはないことを熟知している。誰しも単語を置き換えたり消したり、文体を書き改めたり、字引や同義語辞典と首っぴきでやっと満足の行く記事が出来上がる。ところがこの〝死者〟は一度も言葉に窮することなく、すらすらと完璧な文章を述べていく。

その一文一文に良識が溢れ、人の心を鼓舞し、精神を昂揚し、気高さを感じさせる。シルバーバーチの言葉には実にダイヤモンドの輝きにも似たものがある。ますます敬意を覚えるようになったこの名文家、文章の達人に私は最敬礼する。」

 南アフリカにおけるスピリチュアリズムの中心的指導者であるエドマンド・ベントリー氏もその著書の中でシルバーバーチとバーバネルの相違を〝一目瞭然〟であると評し、とくに弁舌のさわやかさと文体の美しさにおいて際立った対照を見せていると述べてからこう続ける。

 「バーバネルも確かに優れた演説家である。公開の演壇上で、宴会の席で、選挙の応援演説で、あるいは何万人もの聴衆を前にした集会の演説等々での体験から氏は実に弁舌さわやかであり、ユーモアのあるエピソートを混じえるのも巧みであり、なかんずく法廷弁護士にも似た理路整然とした説明にただならぬ才能を見せる。

 しかしシルバーバーチはこうした人間的評価の域を完全に超えている。シルバーバーチには荘厳さと威厳があり、それに王者の風格ともいうべき高度な素朴さと情愛とが一体となった風合いが感じられる。

あえて説明するに及ばぬことであるが、その表現力の幅広さ、用語の選択の適確さ、生気溢れる爽やかな弁舌をみれば、シルバーバーチと名のる存在が明らかにバーバネルとは別個の霊界からの訪問者であり、それが豊富な知識と叡智と才能を携えて訪れ、地上の人間の身体を借りて語っていることは明白である。」

 そのシルバーバーチがバーバネルの身体を完全に使いこなすに至る過程をバーバネル自身が次のように語っている。

 「はじめのころは身体から二、三フィート離れたところに立っていたり、あるいは身体の上の方で宙ぶらりんの格好で自分の口からでる言葉を一語一語聞き取ることができた。シルバーバーチは英語がだんだん上手になり、はじめのころの太いしわがれ声も次第にきれいな声──私より低いが気持ちのよい声──に変わっていった。

 ほかの霊媒の場合はともかくとして、私自身にとって入神はいわば〝心地良い降服〟である。まず気持ちを落着かせ、受身の心境になって気分的に身を投げ出してしまう。

そして私を通じて何とぞ最高で純粋な通信が得られますようにと祈る。すると一種名状し難い温かみを覚える。ふだんでも時折感じることがあるが、これはシルバーバーチと接触したときの反応である。

温かいといっても体温計で計る温度とは違う。恐らく計ってみても体温に変化はないはずである。やがて私の呼吸が大きくリズミカルになり、そして鼾(いびき)にも似たものになる。

すると意識が薄らいでいき、まわりのことが分からなくなり、柔らかい毛布で包まれたみたいな感じになる。そしてついに〝私〟が消えてしまう。どこへ消えてしまうのか私にも分からない。

 聞くところによると、入神はシルバーバーチのオーラと私のオーラとが融合し、シルバーバーチが私の潜在意識を支配した時の状態だとのことである。意識の回復はその逆のプロセスということになるが、目覚めた時は、部屋がどんなに温かくしてあっても下半身が妙に冷えているのが常である。

時には私の感情が使用されたのが分かることもある。というのは、あたかも涙を流したあとのような感じが残っていることがあるからである。

  入神状態がいくら長引いても、目覚めた時はさっぱりした気分である。入神前にくたくたに疲れていても同じである。そして一杯の水を頂いてすっかり普段の私に戻るのであるが、交霊会が始まってすぐにも水を一杯いただく。

忙しい毎日であるから、仕事が終わっていきなり交霊会の部屋に飛び込むこともしばしばであるが、どんなに疲れていても、あるいはその日どんなに変わった出来ごとがあっても、入神には何の影響もないようである。

あまりに疲労がひどく、こんな状態ではいい成果が得られないだろうと思った時でも、目覚めてみると、いつもと変わらない成果が得られていることを知って驚くことがある。

 私の経験では交霊会の前はあまり食べないほうが良いようである。胸がつかえた感じがするのである。また、いろいろと言う人がいるが、私の場合は交霊会の出席者 (招待客) についてあらかじめあまり知らない方がうまくいく。

余計なことを知っているとかえって邪魔になるのである。」


 私(アン・ドゥーリー) にとっては一九六三年秋に初めて出席した交霊会は忘れ難いものとなった。格別目を見張るような現象があったわけではない。常連のメンバー六人に私を含む招待客六人の計十二人が出席した。雰囲気は極めてリラックスして和気あいあいとしていた。部屋はロンドン近郊の樹木に囲まれたバーバネル氏の自宅の一階の居間で、書物の並ぶ壁で四方を取り囲まれた素敵な部屋であった。

 聞いた話では交霊会は〝テーブルの振動〟によって始まるとのことであった。確かにそうなのだが、その時の印象は見ると聞くとでは大違いであった。

死んだカエルの足がピクピク引きつるのを科学者が目撃したのが電気時代の始まりだそうだが、私にとってそんな言い草は、他の出席者と共に両手をテーブルの上に置いたとたんに消し飛んだ。テーブルに〝生命〟が吹き込まれるのをこの目で見ただけでなくこの手で感じ取ったのである。

出席者が誠実な人ばかりであることは確信していたので、誰かが故意に動かしているのではないことは断言できる。そのテーブルがこちらの挨拶に応えて筋の通った反応を見せた時に、私がこれまで抱いていた万有引力の法則の概念が崩れ去った。

何の変哲もない無生物である木製のテーブルがギーギーときしむ音を出しながら人間が頷くような動作から、苛立つように激しく前後に揺れ動く動作まで、さまざまな動きを見せるのだった。

 そうした現象がひと通り終わって全員が着席すると、霊媒のバーバネルがソファに腰掛けて入神状態に入った。その瞬間から会が目に見えぬ一団によって進められている雰囲気となった。そして私は神秘家の言う〝聖霊の降下〟を垣間見ることとなった。

 驚いたことにバーバネル氏の顔が急に変貌し始めたのである。仕事の上で慣れ親しんでいるあの皮肉屋でいつも葉巻を口にした毒舌家のジャーナリストに、一体何の変化が生じたのだろうか。フロイトに言わせると、精神病や夢の原因はことごとく潜在意識の仕業だそうで、われわれもそう思い込んできた。

が、それから八〇分間にわたって私がこの目で見この耳で聞いたものは、そんな単純な説明ではとても解釈できるものではなかった。ジャーナリストとしてネタ集めに奔走してきた関係で、私は熟練の税関職員と同じように、話しぶりや挙動でその人の本性を見抜く才能が身についている。

いま目の前でしゃべり始めたのが日ごろ親しくしているバーバネル氏とは別人であることを私はすぐに直感した。バーバネル氏の身体がしゃべっているのであるが、それはバーバネル氏その人ではない。話しぶりが全く違うのである。

 その日、シルバーバーチは出席者の一人一人に個別に語りかけたが、その内容は万人に共通した普遍的なものであった。ただ序(ついで)に付け加えれば、その日この強(したた)か者の私を含む三人の女性が涙を流した。悲しみの涙ではない。感激の涙である。

こう言うとまた否定論者の偏見を招くことになるかもしれない。が、ギリシャのデルポイの神託でリディアの最後の王クロイソスが何の変哲もないメッセージを受けたことがもとで、王国が根柢から揺れ動いた例もあることを忘れてはならない。

 さて長年の慣例に従い私もシルバーバーチに悩みごとの相談を許された。私はこう質問した。「私が今なお理解できないのはこの世に不可抗力の苦難が絶えず、それが私を含めて多くの人間を神へ背を向けさせていることです。」

シルバーバーチ「なるほど。でも神はその方たちに背を向けませんよ。いったいどうあってほしいとおっしゃるのですか。苦労なしに勝利を収め、努力なしに賞を獲得したいとおっしゃるのでしょうか」


 次に私は 「当然の報いと慈悲との関係がよく分かりません」 と尋ねた。

シルバーバーチ 「報いは報いであり慈悲は慈悲です。地上で報われない時はこちらの世界 (死後の世界) で報われます。神をごまかすことはできません。なぜなら永遠の法則が全ての出来事をチェックしているからです。その働きは完璧です。宇宙を創造したのは愛です。無限なる神の愛です。

無限なる愛がある以上、そこに慈悲が無いはずはないでしょう。なぜなら慈悲心、思いやり、寛容心、公正、慈善、愛、こうしたものはすべて神の属性だからです。

 苦難は無くてはならぬものなのです。いったい霊性の向上はどうすれば得られるのでしょう。安逸をむさぼっていて得られるでしょうか。楽でないからこそ価値があるのです。もし楽に得られるのであったら価値はありません。身についてしまえば楽に思えるでしょう。身につくまでは楽ではなかったのです。」


 このハンネン・スワッハー・ホームサークルにおけるシルバーバーチの霊言の全てが公表されれば、いま物質主義的文化の危険な曲がり角に立つ人類が抱える諸問題についての注目すべき叡智が数多く発見されることであろう。

 とりあえずその中から私なりに選んだ叡智の幾つかを紹介するに際し、読者の全てがご自分の人生において慰めとなり、あるいは思考の糧となる何ものかを見出されることを希望してやまない次第である。
                      一九六六年  アン・ドゥーリー


 注釈

①スピリチュアリズム Spiritualism

 狭義には、古来〝奇蹟〟または〝超自然現象〟と呼ばれてきたものを組織的に調査・研究した結果、その背後に〝霊魂〟つまり他界した先祖の働きがあるとする〝霊魂説〟およびそれを土台とする死後の生命観、道徳観、神に関する思想・哲学を意味するが、広義には、次の注②の交霊会を通じその死者との交信や心霊現象一般を指すこともある。ラテン諸国ではスピリティズム Spiritism と呼んでいる。

②交霊会

 霊媒を通じて死者の霊と交信したり心霊現象を観察したりする会で、出席者が十人前後の私的な集いと科学的調査研究を目的としたものとがある。西洋では前者を家庭交霊会(ホームサークル)と呼ぶが、日本では双方とも心霊実験会と呼んでいる。

③モーリス・バーバネル Maurice Barbanell (1902~1981)

  ミスター・スピリチュアリズムの異名をとった英国第一級の心霊ジャーナリストで、本文で紹介されている二つの週刊心霊紙(ツーワールズは後に月刊誌となる) の主筆をつとめつつ、シルバーバーチの霊言霊媒として五十年余りにわたって毎週一回 (晩年は月一回) 交霊会を開き、数え切れない人々に啓発と慰安を与えた。

④シルバーバーチ Silver Birch

 バーバネルの遺稿 「シルバーバーチと私」 によると当初は別のニックネームでよばれていたが、それが公的な場で使用するには不適当ということで、本人自らこの名を選んだ。

面白いことに、そう決まった翌日バーバネル氏の事務所にスコットランドから氏名も住所もない一通の封書が届き、開けてみると銀色の樺 の木(シルバーバーチ) の絵はがきが入っていたという。常識では、距離的に考えてすぐ翌朝に届く筈はない。

⑤ハンネン・スワッハー Hannen Swaffer  (1879~1962)

 〝フリート街の法王〟(フリート街は英国の新聞社が林立する通り) と呼ばれた世界的なジャーナリスト。シルバーバーチの霊言を高く評価し、当初は自宅に呼んで交霊会を開き、のちにバーバネルの自宅で定期的に行われるようになり、その霊言を二つの心霊紙に掲載させる一方、自分の知名度を利用して各界の名士を招待して、スピリチュアリズムの普及と理解に大いに貢献した。

⑥再生説

 いったん他界した人間が再び人体に宿って地上に誕生してくるという説。スピリチュアリズムの中でも賛否両論があり、従って定説とはなっていないが、シルバーバーチはこれを五十余年にわたって首尾一貫して説き続け、その説に矛盾撞着は見られない。

これを肯定する霊の間にも諸説があり、中には否定する霊さえいるが、その間の事情についてシルバーバーチはこう語っている。

 「知識と体験の多い少ないの差がそうした諸説を生むのです。再生の原理を全面的に理解するにはたいへんな年月と体験が必要です。霊界に何百年何千年いても再生の事実を全く知らない者がいます。なぜか。それは死後の世界が地上のように平面的でなく段階的な内面の世界だからです。

その段階は霊格によって決まります。その霊的段階を一段また一段と上がって行くと、再生というものが厳然と存在することを知るようになります。もっともその原理はあなた方が想像するような単純なものではありませんが・・・」

⑦エステル・ロバ―ツ Estelle Roberts

 英国屈指の女性霊媒で、多彩な霊能を発揮したが、中でも霊視と霊聴の適確さは完璧であった。中心的支配霊はブラック・クラウドと名のるやはりインディアンで、直接談話 (注⑧参照) でユーモア溢れる話術で列席者と親しく交わった。

バーバネルは女史を英国最高の霊媒として敬意を表し、毎週開かれる交霊会に出席して細かくメモを取り、それを中心的資料として名著 This is Spiritualism (邦訳「これが心霊の世界だ」 潮文社刊) を著わした。

⑧直接談話

 シルバーバーチは入神中のバーバネルの発声器官を使用した。これを入神談話または霊言現象と呼ぶが、霊媒の身体を使わず直接空中からメガホンを使って話しかけるのを直接談話と呼ぶ。この際も実際にはエクトプラズムという霊質の物質でメガホンの中に人間と同じ発声器官をこしらえている。




   
 第一章 あなたとは何か  


 いったいあなたとは何なのでしょう。ご存知ですか。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。  

 ですから、どれが自分でどれが自分でないかを知りたければ、まずその総体としての自分を発見することから始めなくてはなりません。これまであなたはその身体に包まれた〝小さな自分〟以上のものを少しでも発見された経験がおありですか。

今あなたが意識しておられるその自我意識が本来のあなた全体の意識であると思われますか。お分りにならないでしょう。


 となると、どれが普段の自分自身の考えであり自分自身の想像の産物なのか、そしてどれがそのような大きな自分つまり高次元の世界からの霊感であり導きなのか、どうやって判断すればよいのでしょう。

 そのためには正しい物の観方を身につけなくてはなりません。つまりあなた方は本来が霊的存在であり、それが肉体という器官を通して自己を表現しているのだということです。霊的部分が本来のあなたなのです。霊が上であり身体は下です。

霊が主人であり身体は召使いなのです。霊が王様であり身体はその従僕なのです。霊はあなた全体の中の神性を帯びた部分を言うのです。

 それはこの全大宇宙を創造し計画し運用してきた大いなる霊と本質的には全く同じ霊なのです。つまりあなたの奥にはいわゆる〝神〟の属性である莫大なエネルギーの全てを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。

その秘められた神性を開発しそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つ起きないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありません。

 身体はあなたが住む家であると考えればよろしい。家であってあなた自身ではないということです。家である以上は住み心地よくしなければなりません。手入れが要るわけです。しかし、あくまで住居であり住人ではないことを忘れてはなりません。

 この宇宙をこしらえた力が生命活動を司っているのです。生命は物質ではありません。霊なのです。そして霊は即ち生命なのです。生命のあるところには必ず霊があり、霊のあるところには必ず生命があります。

 あなた自身も生命そのものであり、それ故に宇宙の大霊との繋がりがあり、それ故にあなたもこの無限の創造進化の過程に参加することができるのです。その生命力は必要とあらばいつでもあなたの生命の井戸からくみ上げることが出来ます。

その身体に宿る霊に秘められた莫大なエネルギー、あなたの生命活動の動力であり活力であり、あなたの存在を根本において支えている力を呼び寄せることができるのです。

 あなた方にはそれぞれにこの世で果たすべき仕事があります。それを果たすためにはこうした知識を摂取し、それを活力としていくことが必要です。霊に宿された資質を自らの手で発揮することです。そうすることは暗闇で苦悩する人々に光を与える小さな灯台となることであり、そうなればあなたのこの世での存在の目的を果たしたことになります。

 宇宙にはある計画に沿った〝摂理(きまり)〟というものがあります。私たちはそれにきちんと合わさるように出来上がっているのですが、それに合わすか否かは本人の意志による選択の自由が与えられています。東洋の諺に〝師は弟子に合わせて法を説く〟というのがあります。霊的に受け入れる準備ができればおのずと真理の扉が開かれるのです。

こちらから求めなくても良いのです。豁然と視野が開き、そこから本当の仕事が始まります。

 と言っても私どもはあなた方の生活から問題も悩みも苦しみもなくなるというお約束はできません。お約束できるのは全ての障害を乗り越え、不可能と思われることを可能にする手段をあなた方自身の中に見出すようになるということです。

内部に宿る資質の中の最高のもの、最奥のもの、最大のものを発揮しようと努力する時、私ども霊界の者の中であなたに愛着を感じ、あなたを援助することによって多くの人々の力になりたいと望む霊を呼び寄せることになるのです。

 悲しいかな、あまりに多くの人々が暗黒の霧に取り巻かれ、人生の重荷に打ちひしがれ、病める身と心と魂を引きずりながら、どこへ救いを求めるべきかも分からずに迷い続けております。私どもはこうした人々に救いの手を差し延べなければならないのです。

 もしも私どもが霊性の開発が容易であるとか、暗黒の中にささやかなりとも光明をもたらしたいと願う人々の仕事が楽に達成されるかのような口を利くことがあれば、そのこと自体がすでに私どもの失敗を証言していることになりましょう。

決してそんな容易なものではありません。歴史を見てもその反対を証言することばかりです。真理と誤謬とがいつ果てるともない闘いを続けております。たぶん〝完全〟が成就されるまで続くことでしょう。しかし完全ということは事の性質上絶対に成就されることはありません。その意味で私どもは長く困難で苦労の多い仕事に携わっているわけです。

 これより先どれほどの偏見と反感と敵意と誤解と迷信と故意の敵対行為に遭遇しなければならないかは、あなた方には想像もつかないことでしょう。

怖じけづかせようと思って言っているのではありません。事を成就するためにはそのあるがままの背景を理解しておく必要があるからです。私にはその大変さがよく分かるのです。

 これまでも私は可能な限りの力を駆使して、克服不可能と思われた障害を克服して、あなた方の世界に近づいてまいりました。私一人の力ではありません。私は地上へ戻るべく選ばれた霊団の一人です。なぜその必要があるのか。

それは今、地上人類に降りかからんとしている苦難があまりに恐ろしいものであるために、霊界の力を結集して地上のあらゆる地点に橋頭堡を築かなければ、人類自らが人類を、そして地球そのものを破壊に陥れることになるからです。

 人類は物質文明を自負しますが、霊的には極めてお粗末です。願わくはその物質文明の進歩に見合っただけの霊性が発達することを祈ります。つまりこれまで〝物〟に向けられてきた人間的努力の進歩に匹敵するだけの進歩が精神と霊性の分野にも向けられればと思います。

 進歩に霊性が伴わない今の状態では、使用する資格のないエネルギーによって自ら爆破してしまう危険があります。そこで私どもは、地上生活全体の根幹であるべき霊的真理に従って各自が生活を営めるように、ということを唯一の目的として努力しているのです。

 嫉妬心、口論、諍い、殺人、戦争、混乱、羨望、貪欲、恨み、こうしたものを地上より一掃することは可能です。そして、それに代わって思いやりの心、親切、優しさ、友愛、協力の精神によって生活の全てを律することができます。

それにはその根幹として、霊性において人類は一つであるとの認識が必要です。決して救いようのないほど暗い面ばかりを想像してはいけません。

明るい面もあります。なぜならそうした障害と困難の中にあっての進歩は、たった一歩であっても偉大な価値があるからです。

 たった一人でいいのです。全てが陰気で暗く侘しく感じられるこの地上において元気づけてあげることができれば、それだけであなたの人生は価値があったことになります。そして一人を二人に、二人を三人としていくことができるのです。

 霊の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったら価値はないことになります。何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利といえるでしょうか。何の苦労もせずに頂上を征服したとしたら、それが征服と言えるでしょうか。

霊的進化というものは先へ進めば進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未踏の地を行きながら後の者のために道標を残していくことだからです。そこに霊的進化の真髄があります。

 〔地上の人間が何かを成就しようとして努力する時、少なくとも同等の、あるいは多くの場合それ以上の援助の努力が霊界において為されていることを強調して次のように述べる──〕

 援助を求める真摯な熱意が等閑(なおざり)にされることは決してありません。衷心からの祈りによる霊的つながりが出来ると同時に、援助を受け入れる扉を開いたことになります。その時に発生する背後での霊的事情の実際はとても言語では説明できません。

元来地上の出来ごとを表現するように出来ている言語は、それとは本質的に異なる霊的な出来ごとを表現することは不可能です。どう駆使してみたところで、高度な霊的実在を表現するにはお粗末なシンボル程度の機能しか果たせません。

 いずれにせよ、その霊的実在を信じた時、あなたに霊的な備えが出来たことになります。すなわち一種の悟りを開きます。大勢の人が真の実在であり全ての根源であるところの霊性に全く気付かぬまま生きております。こうして生きているのは霊的存在だからこそであること、それが肉体を道具として生きているのだということが理解できないのです。

 人間には霊がある、あるいは魂があると信じている人でも、実在は肉体があって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです。つまり真のあなたは霊なのです。生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在なのです。

 肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。その形体としての存在はほんの一時的なものです。用事が済めば崩壊してしまいます。が、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。

その辺の理解ができた時こそあなたの内部の神性が目を覚ましたことになります。肉体的束縛を突き破ったのです。魂の芽が出はじめたのです。ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出て来たのです。あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。

 そうなった時こそ地上生活本来の目的である霊と肉との調和的生活が始まるのです。霊性を一切行使することなく生活している人間は、あたかも目、耳、あるいは口の不自由な人のように、霊的に障害のある人と言えます。

 霊性に気づいた人は真に目覚めた人です。神性が目を覚ましたのです。それは、その人が人生から皮相的なものではなく霊という実在と結びついた豊かさを摂取できる発達段階に到達したことの指標でもあります。

霊の宝は地上のいかなる宝よりも遥かに偉大であり、遥かに美しく、遥かに光沢があります。物的なものが全て色褪せ、錆つき、朽ち果てたあとも、いつまでも存在し続けます。

 魂が目を覚ますと、その奥に秘められたその驚異的な威力を認識するようになります。それはこの宇宙で最も強力なエネルギーの一つなのです。その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。

これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係はまるで無くても、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にします。その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し延べます。

 この霊的自覚が確立された時、あなたにはこの世的手段をもってしては与えることも奪うことも出来ないもの──盤石不動の自信と冷静さと堅忍不抜の心を所有することになります。そうなった時のあなたは、この世に何一つ真にあなたを悩ませるものはないのだ──自分は宇宙の全生命を創造した力と一体なのだ、という絶対的確信を抱くようになります。

 人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。どうか、何処でもよろしい、種を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい。冷やかな拒絶に会っても、相手になさらぬことです。

議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけません。無理して植えても不毛の土地には決して根付きません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。あなたを小馬鹿にして心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねて来ることでしょう。

 私たちを互いに結びつける絆は神の絆です。神は愛をもって全てを抱擁しています。これまで啓示された神の摂理に忠実に従って生きておれば、その神との愛の絆を断ち切るような出来事は宇宙のいずこにも決して起きません。

 宇宙の大霊である神は決して私たちを見捨てません。従って私たちも神を見捨てるようなことがあってはなりません。宇宙間の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿っております。地球は地軸を中心に自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も永遠の巡りを繰り返しています。

種子は芽を出し、花を咲かせ、枯死し、そして再び新しい芽を出すことを繰り返しています。色とりどりの小鳥が楽しくさえずり、木々は風にたおやに靡(なび)き、かくして全世命が法則に従って生命活動を営んでおります。

 私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出ることはできないのです。私たちもその一部を構成しているからです。どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれていることを忘れぬようにしましょう。

Friday, March 20, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


28節

*本節の内容エジプトの神学とユダヤ教
*三位一体説
*エジプトの宗教
*現代生活の唯物性に関する議論
*モーセの律法の原点
*各国の三一神
*エジプトとインド
*霊的向上は信教の別と無関係
*最後の審判説は誤り
*毎日が審判の日
*霊の究極の運命の詮索は無用



〔一八七四年二月二十六日。この頃に催した交霊会で訳のわからない直接書記の現象が出た。奇妙な象形文字で書かれていた。それについて尋ねると――〕


そなたには解読できぬであろうが、あの文は大変な高級霊によるものである。その霊は偉大なる国家エジプトが最も霊的に発達した時代に生を享けた。当時のエジプト人は霊の存在とその働きについて今のそなたより遙かに現実味のある信仰を抱いていた。死後の存続と霊性の永遠不滅性について、現代の地上の賢人より遙かに堅固なる信仰をもっていた。彼らの文明の大きさについてはそなたもよく知っていよう。その学識は言わば当時の知識の貯蔵庫のようなものであった。

まさしくそうであった。彼らには唯物主義の時代が見失える知識があった。ピタゴラス(1)やプラトン(2)の魂を啓発せる知識、そしてその教えを通してそなたらの時代へと受け継がれて来た知識があった。古代エジプト人は実に聡明にして博学なる哲学者であり、われらの同志がいずれそなたの知らぬ多くのことを教えることになろう。地上にてすでに神と死後について悟りを得ていた偉大なる霊が三千有余年もの時を隔てて、その後の地上での信仰の様子を見に参る。その霊が霊界にて生活するその三千有余年、それはそなたの偏狭なる視野を以てすれば、大いなる時間の経過と思えるであろうが、その時代の流れが新たなる真理の視野を開かせ、古き誤謬を取り除かせ、古き思索に新たなる光を当てさせ、同時にまた、神と、人間の生命の永遠性についての信念を一層深めさせることになったのである。


〔私は、それにしても一体何のためにわれわれに読めない文字を書いてきたのかが判らないと述べ、その霊の地上での名前を尋ねてみた。〕


いずれ教える時も来よう。が、地上での身元を証明するものは全て失われている。直接書記から何の手掛りも得られぬと同じで、彼の名を知る手掛りはあるまい。その霊は地上にてすでに物的生活が永遠の生命の第一歩に過ぎぬことを悟っていた。そして死後、彼自身の信ずるところによれば、地上にて信じていた太陽神ラー(3)のもとまで辿り着いたのである。


〔彼もある一定期間の進歩の後に絶対神の中に入滅してしまうと信じているのかどうかを尋ねた。〕


古代エジプト人の信仰に幾分そうした要素があった。哲学者たちは、段階的進化の後に人間臭がすっかり洗い清められ、ついには完全無垢の霊になると信じた。その宗教は死後の向上と現世での有徳の生活であった。他人と自己に対する義務を忘れず、言わば日常生活が即宗教であった。この点についてはそなたの知識の進歩を見て改めて説くことになろう。差し当たり古代エジプトの神学の最大の特質――肉体の尊厳――には正しき面と誤れる面とがあることを知ることで十分である。

エジプト人にとりて生きとし生けるもの全てが神であり、従って人間の肉体もまた神聖なるものであり、死体も出来得るかぎり自然の腐敗を防がんとした。その見事な技術の証拠(4)が今なお残っている。肉体の健康管理に行き過ぎた面もあったが、適切なる管理は正しくもあり、賢明でもあった。彼らは全ての物に神を認めた。この信仰は結構であった。が、それが神を人間的形体を具えたものと信じさせるに至った時、死体の処理を誤らせることになった。無限の時間をかけ無数の再生を繰り返す輪廻転生の教義は、永遠の向上進化を象徴せんとして作り出された誤りであった。こうした誤りがあらゆる動物的生命を創造主の象徴と見なし、数かぎりなき転生の中において、いずれは人間もそれに生まれ変わるものとする信仰を生んだのであるが、この信仰は死後の向上進化の過程の中において改めて行かねばならぬ。が、その中には神を宇宙の大創造力と見なし、その象徴であるところの全ての生命が永遠に向上進化するとの大真理が込められていることは事実である。

動物の生命を崇拝するということが愚かしく、浅はかに思えるとしたら――そう思うのも無理からぬことではあるが――信仰というものは外面的な象徴的現象を通して、それが象徴するところの霊的本質へと向けられるものであること、そして真理を内蔵せる誤謬は言わば外殻であり、やがて時と共に消え失せ、あとに核心を残していくための保護嚢である場合もあることを忘れてはならぬ。中核の概念、つまり真理の芽は決して死滅してはおらぬ。その概念が媒体によりて歪められ、本来の姿とは異なる形を取ることはある。が、一たんその媒体を取り除けば、本来の姿を取り戻す。先に話題にのせたエジプトの霊も、またその時代の仲間たちも、今では地上世界の自然を全て絶対神の現象的表現と見なし、それ故に、たとえ如何なる形にせよ、地上的生命を崇拝の対象とすることは出来ぬとは言え、そうした自然崇拝を通して神を求め模索する霊を不当なる批判の目を以て迎えるべきではないことを悟っている。その辺がそなたには理解できるであろうか。


――ある程度出来ます。すべてが神を理解する上で存在価値を有していることが判ります。ですが私は、エジプトの神学はインドの神学に較べて唯物的で土臭いところがあると思っていました。世界の宗教に関するあなたの通信を読むと、エジプトはインドから刺戟を受けたような印象を受けます。思うに、すべての真理に誤りが混入しているように、どの誤りにもある程度の真理が含まれており、真理といい誤謬といい、両者は相関的であり絶対ではないようです。


今ここでインドの神学の特徴について詳しく述べようとは思わぬが、そなたの述べるところは真実である。われらとしてはただ、真理というものが今の時点でのそなたには不快に思えるような形で潜在していたこと、そして古代人には理解されていたそれらの真理も、近代に至りてその多くが完全に消滅してしまっていることをそなたに知らしめんとしているまでである。そなた自身の知識と古代人の知識とを評価するに当たりては謙虚であることが大切である。


――判ります。そうした問題に関して近代人がおしなべて無知であることを知るばかりです。私自身具体的には何も知りませんし、いかなる形にせよ、古代の宗教を軽蔑することこそ愚かであることが判ります。例の古代霊はそうした時代に生活したわけですが、エジプトの司祭だったのでしょうか。


彼はオシリス(5)に司える預言者の一人であり、深遠にして一般庶民に説き得ぬ神秘に通暁していた。オシリスとイシス(6)とホルス(7)――これが彼の崇拝した三一神(8)であった。オシリスが最高神、イシスが母なる神、そしてホルスが人間の罪の犠牲者としての子なる神であった。彼はその最高神を地上の歴史家がエジプトより借用せる用語にて、いみじくも表現せるI am the I Am(9)――すなわち宇宙の実在そのものであることを理解していた。生命と光の大根源である。それを意味するエホバ(10)なる語をモーセがテーベ(11)の司祭たちから使用したのである。


――原語ではどう言ったのでしょうか。


Nup-pu-Nuk、すなわちI am the I AM.

この通信を送って来たのは例のラーの預言者である。“光の都市”オン(12)、ギリシャ人が“太陽の都市(13)”と呼ぶ都市の預言者で、そなたらの言うキリスト教時代より一六三〇年も前に生活した。その名をチョム(14)と言った。彼は遠き太古の時代からの霊魂不滅の生き証人である。余がその証言の真実性を保証する。

(†インペレーター)


〔私はエジプトの神学を勉強するよい記録は手に入らぬものかと尋ねた(15)。〕


その必要はない。当時の古記録はほとんど残っていない。ミイラの棺の中に納められた埋葬の儀式に関する書きものは全てその古記録からの抜粋である。前にも述べた如く、死体の管理がエジプト宗教の特徴であった。葬儀は長く且つ精細を極め、墓石並びに死体を納めた棺に見られる書きものはエジプト信仰の初期の記録から取ったものである。

こうしたことに深入りする必要はない。今の貴殿に必要なのは、貴殿が軽蔑する古代の知識にも真理の芽が包蔵されていたという厳粛なる事実を直視し理解することである。

それだけではない。エジプト人にとって宗教は日常生活の大根幹であり、全てがそれに従属していたのである。芸術も文学も科学も、言わば宗教の補助的役割をもつものであり、日常生活そのものが精細きわまる儀式となっていた。信仰が全ての行為に体現されていた。昇りては沈む神なる太陽が生命そのものを象徴していた。当時を起点として二つのソティス周期(16)、つまりは大凡(おおよそ)二千年後に再び地球に戻り、遂には生命と光の源泉たるラー神の純白の光の中に吸収されつくすと信じたのである。

斎戒の儀式が日常生活に浸透し、家業に霊性の雰囲気が漂っていた。一日一日に主宰霊又は主宰神がおり、その加護のもとに生活が営まれるという信仰があった。各寺院に大勢の預言者、司祭、神官、士師、書記がいた。その全てが神秘的伝承に通じ、大自然の隠れた秘密と霊交の奥義を極めんがために純潔と質素の生活に徹した。古代エジプト人は実に純粋にして学識ある霊的民族であった。もっとも今の人間に知られている知識で彼らが知らなかったものが色々とある。が、深き哲学的知識と霊的知覚の明晰さにおいては現代の賢人も遠く及ばない。

また宗教の実践面においても現代人はその比ではない。われらはこれまでの長き生活を通じ、宗教とは言葉にあらずして行動によって価値評価をすべきであるとの認識を持っている。天国へ上るはしごはどれでも構わない。誤れる信仰が少なからず混じっていることもあろう。今も昔も人間は己の愚かな想像を神の啓示と思い込んでは視野を曇らせている。その点はエジプト人も例外ではない。確かにその信仰には誤りが少なからずあった。が、同時にそれを補い生活に気高さを与えるものもまた持っていた。少なくとも物質一辺倒の生活に陥ることはなかった。常にどこかに霊的世界との通路を開いていた。神の概念は未熟ではあったが、日常生活の行為の一つ一つに神の働きかけがあるものと信じた。売買の取り引きにおいても故意に相手を騙し出し抜くようなことは決してなかった。確かに一面において滅び行くもの、物的なものに対する過度の執着は見られたが、それ以外のものを無視したわけではなかった。

現代にも通ずるものがあることに貴殿も気づくであろう。余りにも物質的であり、土臭く、俗悪である。思想も志向も余りに現世的である。霊性に欠け、気高き志向に欠け、霊的洞察力に欠け、霊界及び霊界との交信への現実的信仰に欠けている。われらが指摘せずとも貴殿には古代エジプトとの相違点が判るであろう。と言って、われらは古代エジプトの宗教をそのまま奨揚するつもりはない。ただ、貴殿の目に土臭く不快に見えるものも、彼らにとっては生きた信仰であり、日常生活を支配し、その奥に深き霊的叡智を包蔵していたことを指摘せんとしているまでである。


――判ります。ある程度そういうことが確かに言えると思います。あらゆる信仰形式について同様のことが言えるように思います。それは全て永遠の生命を希求する人間の暗中模索の結果であり、その真実性は啓発の程度によって異なります。それにしても、現代という時代についてあなたがおっしゃることは少し酷すぎます。確かに物質偏重の傾向はあります。が、一方にはそれを避けんとする努力も為されております。好んで物質主義にかぶれている者は少ないと思います。宗教、神、死後等に関する思想が盛んな時代があるとすれば、現代こそその時代と言えると思います。あなたの酷評は過去の無関心の時代にこそ向けられるべきで、少なくとも無関心から目覚め、あなたの指摘される重大問題に関心を示している現代には当てはまらないと思うのですが。


そうかも知れない。現代にはそうした問題に関心を示す傾向が多く見られる。その傾向がある限り希望も持てるというものである。が、一方には人間生活から霊的要素を排除せんとする強き願望があることも事実である。全てを物質的に解釈し、霊との交わりを求め霊界の存在を探求せんとする行為を誤り、ないしは、妄想とまでは言わないまでも、少なくとも非現実的なものとして粉砕せんとする態度が見られる。一つの信仰形体から次の信仰形体へと移行する過渡期には必然的に混乱が生ずる。古きものが崩れ、新しきものが未だ確立されていないからである。人間は否応なしにその時期を通過せねばならない。そこには必然的に視野を歪める傾向が生じるものである。


――おっしゃる通りです。物事が流動的で移り変わりが激しく、曖昧となります。勿論そうした時には混乱に巻き込まれたくないと望む者も大勢います。余りに長い間物質中心に物事を考えて来たために、物質は、所詮、霊の外殻に過ぎないという思考にはどうしても付いて行けない者もいます。それは事実であるとしても、古代ギリシャは別格として、現代ほど霊的摂理と自然法則についての積極的な探求が盛んな時代は、私の知るかぎり他になかったという信念は変わりません。


貴殿がそう思うこと自体は結構である。われらとしても徒(いたずら)にその信念を揺さぶりたいとは思わぬ。ただ貴殿の目に卑俗で土臭く見える信仰の中にも真理が包蔵されていることを、一つの典型を挙げて指摘せんとしたまでである。


――モーセはエジプトの知恵をそっくり学んで、その多くを律法の中に摂り入れたのだと思いますが。


まさしくその通りである。割礼の儀式もエジプトの秘法から借用したものである。ユダヤの神殿における斎戒の儀式もすべてエジプトからの借用である。また司祭の衣服をリンネルで作ったのもエジプトを真似たものである。神の玉座を護衛する霊的存在ケルビム(17)の観念もエジプトからきている。いや、そもそも“聖所”とか“至聖所”という観念そのものがエジプトの神殿からの借用に過ぎない。ただ、確かにモーセは教えを受けた司祭から学び取ることに長(た)けてはいたが、惜しむらくは、その儀式の中に象徴されている霊的観念までは借用しなかった。霊魂不滅と霊の支配という崇高なる教義は彼の著述の中にその所を得ていない。貴殿も知る如く、霊が辿るべき死後の宿命に関する言及は一切見られない。霊の出現も偶然に誘発された、単なる映像と見なしており、霊の実在の真理とは結び付いていない。


――その通りです。エジプトの割礼の儀式はモーセの時代以前からあったのでしょうか。


無論である。証拠が見たければ、今なお残されているアブラハム以前の、宗教的儀式によって保存された遺体を見るがよい。


――それは知りませんでした。モーセは信仰の箇条まで借用したのですか。


三一神の教義はインドのみならず、エジプトにも存在した。モーセの律法には霊性を抜きにしたエジプトの儀式が細かく複製された。


――それほどのエジプトの知恵の宝庫がなぜ閉じられたのでしょうか。孔子、釈迦、モーセ、マホメットなどは現代にも生き続けております。マーニー(18)はなぜ生き残らなかったのでしょう。


彼の場合は他へ及ぼせる影響としてのみ生き残っている。エジプトの宗教は特権階級のみに限られていた。ために国境を越えて広がる勢いがなく、長く生き残れなかったわけである。聖職者の一派の占有物としての宗教であり、その一派の滅亡と共に滅んだ。但しその影響は他の信仰の中に見られる。


――三位一体の観念のことですが、あれは元はインドのものですかエジプトのものですか。


創造力と破壊力とその調停者という三一神の観念は、インドにおいてはBrahm,Siva,Vishnu、エジプトにてはOsiris,Typhon,Horus、となった。エジプト神学には他に幾通りもの三一神があった。ペルシャにもOrmuzd,Ahriman,Mithra(調停者)というものがあった。

エジプトでは地方によって異なれる神学が存在した。最高神としてのPthah、太陽神すなわち最高神の顕現としてのRa、未知の神Amunといった如く、神にも種々あった。


――エジプトの三一神は、オシリスとイシスとホラスであると言われたように記憶していますが。


生産の原理としてのイシスを入れたまでである。つまり創造主としてのオシリス、繁殖原理としてのイシス、そしてオシリスとイシスとの間の子としてのホルス、ということである。三一神の観念にも色々あった。大切なのは全体の概念であって、その一つ一つは重要ではない。


――ではエジプトはインドから宗教を移入したということでしょうか。


一部はそうである。が、この分野に関して詳しく語れる者はわれらの霊団にはいない。

(プルーデンス)


〔以上は一八七四年二月二十八日に書かれたものである。四月八日にさらに回答が寄せられた。その間にも他の問題に関するものが数多く書かれた(19)。〕


そなたは先にインドとエジプトとの関係について問うている。インドの宗教が“魂”の宗教であったのに比して、エジプトの宗教は本質的には“肉”の宗教であった。雑多な形式的儀式が多く、一方のインドでは瞑想が盛んであった。インド人にとりて神とは肉眼では見出し得ぬ霊的実在であり、一方エジプト人にとりては全ての動物的形体の中に顕現されていると信じられた。インド人にとりて時間は無であった。すなわち、無窮であり全体であった。エジプト人にとりて、過ぎゆく時はその一刻一刻に聖なる意味があった。かくの如くエジプトは全ての面においてインドと対照的であった。が、ペルシャのゾロアスターがそうであった如く、インドより最初の宗教的啓発を受けている。

前にも述べた如く、エジプトの信仰の他に類を見ぬ良さは、日常生活の全てがその信仰に捧げられたことである。信仰が日常の全ての行為を支配していた。そこに信仰の力があった。すべての自然、とりわけ、動物の生命を神の顕現とする信仰であった。たとえば、エジプト人が牛の偶像の前にひれ伏した時、彼らにとりてそれは存在の神秘――神の最高の表現を崇拝したことになるのであった。そうした古代エジプトの教義を形成し、われらの説く教義とも大いに共通する身体の管理、宗教的義務感、全存在に内在する神の認識等は、再びそなたらの時代に摂り入れられて然るべきものである。


――結局エジプトの神学は、インドの神秘主義の反動であったと思うのです。あなたはエジプトの込み入った儀式を立派であるかのように語っていますが、私からみればエジプトの聖職者の生活には大変な時間の浪費があったし、しつこく身体を洗ったりヒゲを剃ったりしたのは愚かとしか言いようがありません。


そうとばかりは言えぬ。あの儀式はあれなりにあの時代と民族にとりて必要なものであった。もっとも、われらが指摘せんとしているのはその底に流れる観念でしかない。エジプトにおいては、芸術も文学も科学も全てが宗教のためのものであった。とは言え、信仰のために日常の暮らしが窮屈に縛られたわけではない。それどころかむしろ生活の行動の全てがその崇拝の行為の厳粛さによって高められたのである。エジプトの宗教の真髄はそこにあり、また、そこにしかない。これほど崇高なる信仰は他に見出せぬ。神の見守る中での生活――身の回りの全てに神を認識し、全ての行為を神に捧げ、神が純粋である如く己の心も霊も身体も潔く保ち、それを神に、ひたすら神に捧げる――これこそ神の如き生活を送ることであり、たとえ細かい点において誤りがあろうと、それは敢えて問われるほどのものではない。


――確かにわれわれ人間は偏見が大きな障害となります。しかし、あなただってまさか人間の信仰が絶対に偏見がないとおっしゃるつもりはないでしょう。たとえば、あなたが立派だとおっしゃるエジプト人の生活が今そっくり現代に再現されたとしても、それが必ずしもあなたの理想とされるものとはならないでしょう。


確かにならぬ。時代は常に進歩し、より高き知識を獲得していく。初歩的発達段階にあった別の民族に適せるものが必ずしも現代に合うとは限らぬ。が、獲得するものもある一方には失えるものもある。そしてその失えるものの中には、如何なる形式の信仰にも等しく存在すべきものがある。それが己ヘの義務と神への献身である。これは決してエジプトの信仰のみの占有物ではない。キリストの生涯とその教えの中ではむしろそれがより高度に増幅されて具現されている。然るにそなたらはそれを忘れ去った――真の宗教の証とも言うべきものを失った。その点において、そなたらが軽蔑し批判する者のほうがそなたらを凌いでいることを篤と認識する必要がある。

常に述べて来たことであるが、人間の責務はその人間の宿す内的な光によってその大小が決まる。啓示を受けた者は、その質が高ければ高いほど、それだけ責務が小さくなるどころか、大きくなるのである。信ずる教義の如何に関わらず、正直さと真摯さと一途(いちず)さによって向上した者も多ければ、その信仰にまつわる期待の大きさが重荷となって向上を阻害された者もまた多い。われらにはその真相がよく見て取れるのである。信仰の形式――そなたにはその形骸しか見えぬのであるが――は大して重要ではない。人間には生まれついての宿命があり、それは否応なしに受け入れざるを得ぬ。問題はそれをどう理解するかにあり、それによりて進化が決まる。地上でユダヤ人となるかトルコ人となるか、またマホメット教徒となるかキリスト教徒となるか、バラモン教徒となるか、パルシー教徒(20)となるか、それは生まれついての宿命的巡り合わせと言える。が、その環境を向上進化の方向へ活用するか、それとも悪用して堕落するかは、その霊の本質に係わる問題である。地上にて与えられる機会は霊によりてさまざまであり、それを如何に活用するかによりて、死後の生活における向上進化に相応しき能力が増す者もあり減る者もいる。その辺のことはそなたにも判るであろう。故にパリサイ主義的クリスチャンが侮蔑を込めて見下す慎ましく謙虚なる人間にとりても、あるいは恵まれた環境と、向上の機会の真っ只中に生を享けた人間にとりても、真の向上の可能性においては些かも差はないのである。要は霊性の問題である。そなたはまだその問題に入る段階に来ておらぬ。形骸にのみこだわっている。核心には到達しておらぬ。


――でも、いくら真面目とは言え、野蛮な呪物信仰者に比べれば、クリスチャンとして高度な知識と完全な行ないの中で、その能力と機会のかぎり精一杯生きている者の方が遙かに上だと信じますが。


全存在のホンの一かけらほどに過ぎぬ地上生活にありては、取り損ねたら最後、二度と取り返しがつかぬというほど大事なものは有り得ぬ。そなたら人間は視野も知識も人間であるが故の宿命的な限界によりて拘束されている。本人には障害であるかに思える出来ごとも、実は背後霊が必要とみた性質――忍耐力、根気、信頼心、愛といったものを植えつけんとして用意する手段である場合がある。一方ぜいたくな環境のもとで周囲の者にへつらわれ、悦に入れる生活に自己満足することが、実は邪霊が堕落させんとして企んだワナである場合がある。

そなたの判断は短絡的であり、不完全であり、見た目に受けた印象のみで判断している。背後の意図が読めず、また邪霊による誘惑と落とし穴があることが理解できぬ。

なおそなたの言い分についてであるが、人間は己に啓示され理解し得たかぎりの最高の真理に照らして受け入れ行動するというのが、絶対的義務である。それを基準として魂の進化の程度が判断されるのである。


――“最後の審判”を説かれますか。


説かぬ。審判は霊が自ら用意する霊界の住処(すみか)に落着いた時に完了する。そこに誤審はない。不変の摂理の働きによって落ち着くベきところに落ち着く。そして一段と高き位置への備えが整うまで、この位置にて然るべき処罰を受け、それが完了すれば向上する。その繰り返しが何回となく行なわれるうちに、鍛練浄化のための動の世界を終了し、静なる瞑想界ヘと入寂する(21)


――と言うことは審判は一回きりでなく、何回もあるということですか。


そうとも言えるし、そうでないとも言える。数かぎりなく審判されるとも言えるし、一度も審判されないとも言える。要するに魂は絶え間なく審判されているということである。常に変化する魂に自らを適応させているということである。そなたらが考えているが如き、全人類を一堂に集めて一人一人審問するなどということはない。あれは寓話に過ぎぬ。

鍛練浄化の世界の各段階において、霊はそれまでの行ないによりて一つの性格を形成する。その性格にはそれなりに相応しき境涯がある。そこへ必然的に落着くことになる。そこに審判というものはない。即座に判決が下る。討議も裁きもなく、諸々の行状の価値がひとまとめに判断される。地上に見られるが如き裁判のための法廷など必要ではない。魂みずからが己の宿命の決定者であり、裁判官である。このことは、進化についても退化についても例外なく当てはまる。


――一つの界層または境涯から次の界層へ行く時は、死に似た変化による区切りがあるのでしょうか。


似たようなものはある。それは、霊体が徐々に浄化され、低俗なる要素が拭い去られるという意味で似ているということである。上へ行くほど身体が純化され、精妙となっていく。故にその変化はそなたらが死と呼ぶものから連想するほど物的なものではない。脱ぎ棄てるベき外皮を持たぬからである。が、霊が浄化してゆく過程であること、つまり一段と高き境涯への向上という点においては同一である。


――そうやって全ての不純物が消えると霊は瞑想界へと入り、そこで完全に浄化され尽くすというのですか。


そうではない。全ての不純物が取り除かれ、最後に純粋なる霊的黄金のみが残る。それから内的霊界である瞑想界ヘと入っていくのであるが、そこでの生活は実はわれらにも知ることを得ぬ。ただ判っているのは、ひたすらに神の属性を身につけ、ひたすらに神に近づいて行くということのみである。友よ、完成されたる魂の最後に辿り着くところが、それまでひたすらに求め来たれる神――その巡礼の旅路のために神性を授け給いし父なる神の御胸であるのかも知れぬぞ! が、それもそなたと同様われらにとりても単なる想像に過ぎぬ。そのような問題は脇へ置き、今のそなたにとりて意義あることのみを知り得ることで有難き幸せと思うがよい。もしも宇宙の神秘の全てに通暁してしまえば、そなたの精神はもはや活動の場がなくなるであろう。ともかくそなたが地上にて知り得ることは高が知れている。が、たとえ限りはあっても、知らんと欲することは許される。知らんと欲することによりて魂を浅ましき地上的気苦労に超然とさせ、真の在るべき姿に一層近づくことを得さしめることであろう。神の御恵みのあらんことを!

(†インペレーター)

シルバー・バーチの霊訓 古代霊は語る

  The Ancient Spirits Speak
 第十章 おしまいに

 シルバー・バーチによる交霊会は正式の名称をハンネン・スワッハー・ホームサークルと言いましたが、その第一回が何年何月に開かれたのかは明らかでありません。公表されていないし、もしかしたら記録すらないかも知れません。

というのは霊媒のバーバネル氏は、その会があくまで私的な集まりだからという理由で、初めのころは霊言そのものの公表すら避けていたのです。

 バーバネルという人は自分を表に出すことを徹底的に嫌った人で、その態度は七十九才で他界するまで変わりませんでした。

ところが真の意味で最良の親友だったハンネン・スワッハーは当時英国新聞界の法王とまで言われたほどの大物で、バーバネルとは対照的に、英国の著名人でスワッハーの名を知らない人はまずいないと言ってよいほどでした。

 スワッハーはその知名度を利用して各界の名士を交霊会に招待し、また招待された方は相手がスワッハーとなると断わるわけにもいかず、かならず出席しました。

中には 「よし、オレがバーバネルのバケの皮をはがしてやる」とか、「シルバー・バーチとかいうインデアンをオレが徹底的に論破してやる」といった意気込みで乗り込んで来る連中もいたようですが、バーバネルが入紳してシルバー・バーチが語り始めると、その威厳ある雰囲気に圧倒されて、来た時の意気込みもどこへやら、すっかり感動して帰って行ったそうです。

 こうしたバーバネルとスワッハーという対照的な性格のコンビは実にうまい取り合わせで、それにシルバー・バーチが加わった三人組(トリオ)は多分、いや間違いなく、二人の出生以前から組まれた計画だったと想像されます。

バーバネルなくしてはシルバー・バーチもあり得ず、スワッハーなくしては霊言集の出版もなかったはずです。

 はじめ公表に消極的だったバーバネルをスワッハーが説き伏せて、霊言が『サイキック・ニューズ』紙に連載されるようになってほぼ半世紀が過ぎました。

そして私がその心霊紙で、霊視家によるシルバー・バーチの肖像画と共に初めて霊言に接して、一種異様な感動を覚えながら貪り読んで以来、三十年近い歳月が流れました。

 そして一九八一年七月にバーバネル氏が急逝した時、私はこれでついにシルバー・バーチの霊言にもピリオドが打たれたかと思い、その心の拠りどころとして来ただけに残念無念さも一入(ヒトシオ)でした。

また、何か一つの大きな時代が終って自分一人が取り残されたような、言葉では形容しようのないさみしさをしみじみと味わったものでした。

 が、その霊訓は霊言集として残されている。それを日本の有志の方々──シルバー・バーチの言う〝それを理解できるところまで来ている人々〟に紹介することが私の使命であるかも知れないという自覚が私の魂を鼓舞し続け、それが本稿となって実現しました。

 シルバー・バーチ霊言集は延べにして二千ページ程度になります。それだけのものをこの程度のものにまとめてしまうのは、あるいは暴挙と言えるかも知れません。

しかしシルバー・バーチは単純で基本的な真理──いやしくも思考力を具えた者であれば老若男女のすべてが理解できる真理をくり返しくり返し説いたのであって、決して二千ページも要するほど難解な哲理を説いたのではありません。

私はこれまで紹介したものだけで十分シルバー・バーチの言わんとしていることは尽くしていると確信します。

 願わくば読者諸氏が、シルバー・バーチが繰り返し繰り返し説いたごとく、それを繰り返し繰り返し味読されることを希望します。恩師の間部先生がよく、霊界の前売券を買っておきなさい、と言われたのを思い出します。

宗教とか信仰はどうかすると地上生活を忌避する方向に進みがちですが、スピリチュアリズムだけはむしろ、死後の存在を現実のものとして確信することによって、地上生活を人間らしく生きよう、

地上生活ならではの体験を存分に積んでおこう──楽しみもそして苦しみも──という積極的な生活態度を生んでくれます。それは〝前売券〟を手にしているという安心と自信が生んでくれる。間部氏はそういう意味で言われたのではないかと思うのです。

 そしてそれが、図らずも、シルバー・バーチの訓えの中枢でもあります。

では最後にシルバー・バーチのしめくくりの霊言と神への祈りの言葉を紹介して本稿を閉じることにします。


 「私はこうした形で私に出来る仕事の限界を、もとより十分承知しておりますが、同時に自分の力の強さと豊富さに自信をもっております。自分が偉いと思っているというのではありません。

私自身はいつも謙虚な気持です。本当の意味で謙虚なのです。というのは、私自身はただの道具に過ぎない──私をこの地上に派遣した神界のスピリット、すべてのエネルギーとインスピレーションを授けてくれる高級霊の道具にすぎないからです。

が私はその援助の全てを得て思う存分に仕事をさせてもらえる。その意味で私は自信に満ちていると言っているのです。

 私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると、自信をもって語ることが出来ます。霊団が指示することを安心して語っていればよいのです。

威力と威厳にあふれたスピリットの集団なのです。進化の道程をはるかに高く昇った光り輝く存在です。人類全体の進化の指導に当たっている、真の意味で霊格の高いスピリットなのです。

 私には出しゃばったことは許されません。ここまではしゃべってよいが、そこから先はしゃべってはいけない、といったことや、それは今は言ってはいけないとか、今こそ語れ、といった指示を受けます。

私たちの仕事にはきちんとしたパターンがあり、そのパターンを崩してはいけないことになっているのです。いけないという意味は、そのパターンで行こうという約束が出来ているということです。

私よりすぐれた叡知を具えたスピリットによって定められた一定のワクがあり、それを勝手に越えてはならないのです。

 そのスピリットたちが地上経綸の全責任をあずかっているからです。そのスピリットの集団をあなた方がどう呼ぼうとかまいません。とにかく地上経綸の仕事において最終的な責任を負っている神庁の存在なのです。

私は時おり開かれる会議でその神庁の方々とお会い出来ることを無上の光栄に思っております。その会議で私がこれまでの成果を報告します。するとその方たちから、ここまではうまく行っているが、この点がいけない。だから次はこうしなさい、といった指図を受けるのです。
 実はその神庁の上には別の神庁が存在し、さらにその上にも別の神庁が存在し、それらが連綿として無限の奥までつながっているのです。

神界というのはあなたがた人間が想像するよりはるかに広く深く組織された世界です。が地上経綸の仕事を実施するとなると、こうした小さな組織が必要となるのです。

 私自身はまだまだ未熟で、決して地上の一般的凡人から遠くかけ離れた存在ではありません。私にはあなたがたの悩みがよくわかります。私はこの仕事を通じて地上生活を長く味わってまいりました。

あなたがた(列席者)お一人お一人と深くつながった生活を送り、抱えておられる悩みや苦しみに深く係わりあってきました。が、振り返ってみれば、何一つ克服できなかったものがないこともわかります。

 私たちはひたすらに人類の向上の手助けをしてあげたいと願っています。私たちも含めて、これまでの人類が犯してきた過ちを二度と繰り返さないために、正しい霊的真理をお教えするためにやって来たのです。そこから正しい叡知を学び取り、内部に秘めた神性を開発するための一助としてほしい。

そうすれば地上生活がより自由でより豊かになり、同時に私たちの世界も、地上から送られてくる無知で何の備えも出来ていない厄介な未熟霊に悩まされることもなくなる。そう思って努力してまいりました。

 私はいつも言うのです。私たちの仕事に協力してくれる人は理性と判断力と自由意志とを放棄しないでいただきたいと。私たちの仕事は協調を主眼としているのです。決して独裁者的な態度を取りたくありません。ロボットのようには扱いたくないのです。

死の淵を隔てていても、友愛の精神で結ばれたいのです。その友愛精神のもとに霊的知識の普及に協力し合い、何も知らずに迷い続ける人々の肉体と心と霊に自由をもたらしてあげたいと願っているのです。


 語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しない時は、かまわず拒絶なさるがよろしい。人間には自由意志が与えられており、自分の責任において自由な選択が許されています。

私たちがあなたがたに代って生きてあげるわけにはまいりません。援助は致しましょう。指導もしてあげましょう。心の支えにもなってあげましょう。が、あなた方が為すべきことまで私たちが肩がわりしてあげるわけにはいかないのです。

 スピリットの中には自らの意志で地上救済の仕事を買って出る者がいます。またそうした仕事に携われる段階まで霊格が発達した者が神庁から申しつけられることもあります。私がその一人でした。私は自ら買って出た口ではないのです。が依頼された時は快く引き受けました。

 引き受けた当初、地上の状態はまさにお先まっ暗という感じでした。困難が山積しておりました。がそれも今では大部分が取り除かれました。まだまだ困難は残っておりますが、取り除かれたものに比べれば物の数ではありません。

 私たちの願いはあなた方に生き甲斐ある人生を送ってもらいたい──持てる知能と技能と天賦の才とを存分に発揮させてあげたい。そうすることが地上に生を享けた真の目的を成就することにつながり、死と共に始まる次の段階の生活に備えることにもなる。そう願っているのです。

 こちらでは霊性がすべてを決します。霊的自我こそ全てを律する実在なのです。そこでは仮面も見せかけも逃げ口上もごまかしもききません。すべてが知れてしまうのです。

 私に対する感謝は無用です。感謝は神に捧げるべきものです。私どもはその神の僕にすぎません。神の仕事を推進しているだけです。よろこびと楽しみを持ってこの仕事に携わってまいりました。もしも私の語ったことがあなたがたに何かの力となったとすれば、それは私が神の摂理を語っているからにほかなりません。


 あなたがたは、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。が信じて下さい。私も物事を感じ、知り、そして愛することの出来る能力を具えた実在の人間です。

こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことかも知れません。

 では最後に皆さんと共に、こうして死の淵を隔てた二つの世界の者が、幾多の障害をのり超えて、霊と霊、心と心で一体に結ばれる機会を得たことに対し、神に感謝の祈りを捧げましょう。

 神よ、忝(かたじけな)くもあなたは私たちに御力の証を授け給い、私たちが睦み合い求め合って魂に宿れる御力を発揮することを得さしめ給いました。あなたを求めて数知れぬ御子らが無数の曲りくねった道をさ迷っております。

幸いにも御心を知り得た私たちは、切望する御子らにそれを知らしめんと努力いたしております。願わくはその志を佳しとされ、限りなき御手の存在を知らしめ給い、温かき御胸こそ魂の憩の場となることを知らしめ給わんことを。

 では神の御恵みの多からんことを。」                                            シルバー・バーチ



  あとがき

 シルバー・バーチとバーバネルに関しては、本文と 「遺稿」で十分紹介されていると思うので、ここで改めて付け加えることは何もない。

そこで最後に私とシルバー・バーチとの出会いと、その霊言をこうした形で紹介するに至った経緯について述べておきたい。

 そもそも私がシルバー・バーチ霊言集に接したのは大学二年の時だった。当時 (昭和三十年頃)、東京には日本心霊科学協会のほかにもう一つ、浅野和三郎氏の系統を受け継いだ心霊科学研究会というのがあった(現状については寡聞にしてよく知らない)。

 ある日、別にこれといった目的もなしに事務所を訪ねたところ、月刊雑誌 「心霊と人生」 主幹の脇長生氏が私が英文科生であることを知って 「サイキックニューズ」 という英字新聞を手渡し、これを持って帰って何かいい記事があったら訳してみてくれないかと言う。

言われるまま下宿に帰ってからページをめくっているうちに、例のインデアンの肖像画とともにシルバー・バーチの霊言が目についた。

その肖像画から受けた印象は、それまで西部劇映画などから受けていたインデアンの印象とはまったく違った、一種名状しがたい威厳と叡智に満ちた賢人のそれだった。

 霊言の英文を読んで一層その感を深くした私は、これを訳したいとも思ったが、当時のお粗末な英語力ではとても自信がなく、何かほかの簡単な心霊現象に関する記事を訳し、それが 「心霊と人生」 に載って感激したのを憶えている。それが私にとって最初の翻訳であり、活字になったのもそれが最初だった。

 しかし印象という点ではその時に受けたシルバー・バーチの印象の方がよほど強烈で、その後ずっと忘れられず、サイキックニューズ社から次々と霊言集を取り寄せることになる。

最初に届いた Teachings of Silver Birch (一九三八年発行)は果たして何度読み返したか知らないが、とにかく余ほど読み返したに相違いないことは、ページが全部バラバラになってしまっていることからも窺える。

また至るところに見られる赤鉛筆による下線部分を読むと、当時の私がどんなことに悩んでいたか、何を知りたがっていたかが判って興味ぶかい。

 とにかくシルバー・バーチとの出会いは私の思想と人生を方向づける決定的な意味をもつものであった。僭越かも知れないが、シルバー・バーチはバーバネルの支配霊であったと同時に私の精神的指導霊でもあったと表現して、あながち間違いではないと思ってるほどである。

 さて、その出会いから四半世紀後の一九八〇年八月末のことであったが、福岡の手島逸郎氏 (日本心霊科学協会評議員) から、福岡支部で発行している 「心霊月報」 に何か寄稿してほしいとの依頼があった。その依頼の手紙を読み終えたとたんに 「シルバー・バーチ」 の名が浮かび、ずっと脳裏から離れなかった。

 そしてさっそく九月から霊言集の翻訳と編纂に取りかかったのであるが、十月に入った頃から、ふと、英国へ行ってみようかという気になり、それが日増しに強くなっていき、十月末ごろにはすでに行くことに決めて準備に取りかかっていた。

 準備には渡航のための準備もあったが、もっと大切なこととして、バーバネル氏やテスター氏といった、向うで是非会うべき人々との面会の日程を組むために先方の都合を聞かねばならない。同時に私は高校生対象の英語塾を開いている関係で、冬休みか夏休みにしか行けない。

どっちにしようかと迷ったが、とにかく気が急くので冬休みを選んだ。本文でも言及したが、もしも翌年の夏休みにしていたら、この世でバーバネル氏に会うことはなかったことになる。私の背後霊が急がせたわけもあとで納得がいった。

 バーバネル氏に会ったことで霊言集の翻訳に拍車がかかったことは言うまでもない。「心霊月報」 は四、五回連載したところで都合で休刊となったが、私の筆は自分でも不思議なほど渉るので、発表の場を日本心霊科学協会の 「心霊研究」 に移して、もう一度最初から連載していただいた。

(当時の編集主幹梅原伸太郎氏の理解と積極的好意に対し、ここに深甚なる謝意を表したい。それなくしては私の筆はその時点で挫折していたかも知れない。)

 バーバネル氏の訃報が入ったのはその頃だった。梅原氏の要請で 「モーリス・バーバネル氏を偲んで」 と題する一文を書いたが、その結びの節で私はこう述べた。

 「それにしても、ほぼ半世紀にわたって脈々と続いてきたシルバー・バーチの霊言がこれでついに途絶えるのかと思うと、学生時代から四半世紀にわたって愛読してきた私には、ただ惜しいという気持とは別に、何か一つ大きな時代が去ったような心細い感慨が、ひしひしと身に沁みるような思いがいたします。」

 もちろんこれは私の人間としての感慨である。バーバネルほどの人物に哀悼の念など贈る必要はない。そもそもシルバー・バーチは霊界の人間であり、バーバネルも今そこへ逝った。地上での使命が終わってホッとしていることだろう。

私もいずれはそこへ行く日が来る。そして多分バーバネルに、そして若しかしたらシルバー・バーチにも会えるかもしれない。その時に、〝よくぞやってくれた〟と言われたい。

そう言われるような仕事を残したい。私はそんな気持を抱えながら本稿の執筆を続け、どうにか、まる二年を掛けて仕上げたのだった。

 いま、その全十一巻を一冊の本にまとめ上げて、何という無謀なことをしたのだろうという、あたかも過ちを犯してしまった時のような気持がふと湧くことがある。

 が、何度も説明してきたようにシルバー・バーチは決して難解な哲学を延々と説き続けたのではない。誰れにでも理解できる平凡な霊的真理を平易な言葉で繰り返し繰り返し説いてきたのである。私は決して弁解して言うのではなく、私の理解力の範囲で確信して言うが、シルバー・バーチの説かんとしたことは本書が一応その全てを尽くしていると考えていただいて結構である。

 むしろ私が真に恐れているのは、シルバー・バーチの流麗なる文体と、その後聞くことを得た生の声が伝える威厳に満ちた雰囲気を、果たして私の訳文がどこまで伝え得たかということである。

 が、これに対する答えはきわめて明瞭である。満足のいくほど十分に伝え得たはずはまずない。何となれば私はまだ五十そこそこの地上の人間であり、シルバー・バーチは三千年を生きた霊界のはるか上層部のスピリットだからだ。

 願わくは、拙い私の拙い翻訳から、その雰囲気の何分の一かでも読み取っていただければと思う。同時にシルバー・バーチの霊言の中に、他の何ものからも得られなかった新たな教訓を発見され、あるいは生きる勇気を鼓舞され、さらには霊的真理を知るよろこびを味わっていただければ、まる二年を掛けた私の努力も無駄でなかったという慰めを得ることが出来る。少なくとも私は終始そう祈りながら執筆したことを付記しておきたい。

 ちなみに本書の原典となった霊言集(ほとんどのものが絶版)は次の通りである。


Teachings of Silver Birch (1938)


  Silver Birch Speaks (1949)

Silver Birch Anthology (1955)

Guidance from Silver Birch (1966)

More Philosophy of Silver Birch (1979)

Light from Silver Birch (1983)

More Teachings of Silver Birch (1941)

Wisdom of Silver Birch (1944)

More Wisdom of Silver Birch (1945)

Silver Birch Speaks Again (1952)

Philosophy of Silver Birch (1969)

Psychic Press Ltd.、 London
 
 
   
 ●遺稿  

 シルバー・バーチと私 モーリス・バーバネル 
                     近藤千雄 訳


 私と心霊との係わりあいは前世にまで遡ると聞いている。もちろん私には前世の記憶はない。エステル・ロバーツ女史の支配霊であるレッドクラウドは死後存続の決定的証拠を見せつけてくれた恩人であり、その交霊会において 「サイキック・ニューズ」 紙発刊の決定が為されたのであるが、そのレッドクラウドの話によると、私は、こんど生まれたらスピリチュアリズムの普及に生涯を捧げるとの約束をしたそうである。

 私の記憶によればスピリチュアリズムなるものを初めて知ったのは、ロンドン東部地区で催されていた文人による社交クラブで無報酬の幹事をしていた十八才の時のことで、およそドラマチックとは言えない事がきっかけとなった。

 クラブでの私の役目は二つあった。一つは著名な文人や芸術家を招待し、さまざまな話題について無報酬で講演してもらうことで、これをどうにか大過なくやりこなしていた。それは多分にその名士たちが、ロンドンで最も暗いと言われる東部地区でそういうシャレた催しがあることに興味をそそられたからであろう。

 私のもう一つの役目は、講演の内容のいかんに係わらず、私がそれに反論することによってディスカッションへと発展させていくことで、いつも同僚が、なかなかやるじゃないかと私のことを褒めてくれていた。

 実はその頃、数人の友人が私を交霊会なるものに招待してくれたことがあった。もちろん初めてのことで、私は大真面目で出席した。ところが終って初めて、それが私をからかうための悪ふざけであったことを知らされた。

そんなこともあって、たとえ冗談とは言え、十代の私は非常に不愉快な思いをさせられ、潜在意識的にはスピリチュアリズムに対し、むしろ反感を抱いていた。

 同時にその頃の私は他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教に背を向けていた。

母親は信心深い女だったが、父親は無神論者で、母親が教会での儀式に一人で出席するのはみっともないからぜひ同伴してほしいと嘆願しても、頑として聞かなかった。二人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃からずいぶん聞かされた。

理屈の上では必ずと言ってよいほど父の方が母をやり込めていたので、私は次第に無神論に傾き、それから更に不可知論へと変わって行った。

 こうしたことを述べたのは、次に述べるその社交クラブでの出来事を理解していただく上で、その背景として必要だと考えたからである。

 ある夜、これといって名の知れた講演者のいない日があった。そこでヘンリー・サンダースという青年がしゃべることになった。彼はスピリチュアリズムについて、彼自身の体験に基づいて話をした。終ると私の同僚が私の方を向いて、例によって反論するよう合図を送った。

 ところが、自分でも不思議なのだが、つい最近ニセの交霊会で不愉快な思いをさせられたばかりなのに、その日の私はなぜか反論する気がせず、こうした問題にはそれなりの体験がなくてはならないと述べ、従ってそれをまったく持ち合わせない私の意見では価値がないと思う、と言った。これには出席者一同、驚いたようだった。当然のことながら、その夜は白熱した議論のないまま散会した。

 終わるとサンダース氏が私に近づいて来て、〝調査研究の体験のない人間には意見を述べる資格はないとのご意見は、あれは本気でおっしゃったのでしょうか。もしも本気でおっしゃったのなら、ご自分でスピリチュアリズムを勉強なさる用意がおありですか〟 と尋ねた。

 〝ええ〟 私はついそう返事をしてしまった。しかし〝結論を出すまで六か月の期間がいると思います〟 と付け加えた。日記をめくってみると、その六ヶ月が終わる日付がちゃんと記入してある。もっとも、それから半世紀たった今もなお研究中だが・・・・・・

 そのことがきっかけで、サンダース氏は私を近くで開かれているホームサークルへ招待してくれた。定められた日時に、私は、当時婚約中で現在妻となっているシルビアを伴って出席した。行ってみると、ひどくむさ苦しいところで、集まっているのはユダヤ人ばかりだった。

 若い者も老人もいる。あまり好感はもてなかったが、まじめな集会であることは確かだった。

 霊媒はブロースタインという中年の女性だった。その女性が入神状態に入り、その口を借りていろんな国籍の霊がしゃべるのだと聞いていた。そして事実そういう現象が起きた。が、私には何の感慨もなかった。

少なくとも私の見るかぎりでは、彼女の口を借りてしゃべっているのが〝死者〟である、ということを得心させる証拠は何一つ見当らなかった。

 しかし私には六ヶ月間勉強するという約束がある。そこで再び同じ交霊会に出席して、同じような現象を見た。ところが会が始まって間もなく、退屈からか疲労からか、私はうっかり 〝居眠り〟をしてしまった。目を覚ますと私はあわてて非礼を詫びた。

ところが驚いたことに、その 〝居眠り〟 をしている間、 私がレッド・インデアンになっていたことを聞かされた。

 それが私の最初の霊媒的入神だった。何をしゃべったかは自分にはまったく分からない。が、聞いたところでは、シルバー・バーチと名告る霊が、ハスキーでノドの奥から出るような声で、少しだけしゃべったという。

その後現在に至るまで、大勢の方々に聞いていただいている。地味ながら人の心に訴える (と皆さんが言って下さる) 響きとは似ても似つかぬものだったらしい。

 しかし、そのことがきっかけで、私を霊媒とするホームサークルができた。シルバー・バーチも、回を重ねるごとに私の身体のコントロールがうまくなっていった。

コントロールするということは、シルバー・バーチの個性と私の個性とが融合することであるが、それがピッタリうまく行くようになるまでには、何段階もの意識上の変化を体験した。

 始めのうち私は入神状態にあまり好感を抱かなかった。それは多分に、私の身体を使っての言動が私自身に分らないのは不当だ、という生意気な考えのせいであったろう。

 ところが、ある時こんな体験をさせられた。交霊会を終ってベッドに横になっていた時のことである。眼前に映画のスクリーンのようなものが広がり、その上にその日の会の様子が音声つまり私の霊言とともに、ビデオのように映し出されたのである。そんなことがその後もしばしば起きた。

 が、今はもう見なくなった。それは他ならぬハンネン・スワッハーの登場のせいである。著名なジャーナリストだったスワッハーも、当時からスピリチュアリズムに彼なりの理解があり、私は彼と三年ばかり、週末を利用して英国中を講演してまわったことがある。

延べにして二十五万人に講演した計算になる。一日に三回も講演したこともある。こうしたことで二人の間は密接不離なものになっていった。

 二人は土曜日の朝ロンドンをいつも車で発った。そして月曜日の早朝に帰ることもしばしばだった。私は当時商売をしていたので、交霊会は週末にしか開けなかった。もっともその商売も、一九三二年に心霊新聞 『サイキック・ニューズ』を発行するようになって、事実上廃業した。それからスワッハーとの関係が別の形をとり始めた。

 彼は私の入神現象に非常な関心を示すようになり、シルバー・バーチをえらく気に入り始めた。そして、これほどの霊訓をひとにぎりの人間しか聞けないのは勿体ない話だ、と言い出した。元来が宣伝ずきの男なので、それをできるだけ大勢の人に分けてあげるべきだと考え、『サイキック・ニューズ』 紙に連載するのが一ばん得策だという考えを示した。

 始め私は反対した。自分が編集している新聞に自分の霊現象の記事を載せるのはまずい、というのが私の当然の理由だった。しかし、ずいぶん議論したあげくに、私が霊媒であることを公表しないことを条件に、私もついに同意した。

 が、もう一つ問題があった。現在シルバー・バーチと呼んでいる支配霊は、当初は別のニック・ネームで呼ばれていて、それは公的な場で使用するには不適当なので、支配霊自身に何かいい呼び名を考えてもらわねばならなくなった。

そこで選ばれたのが 「シルバー・バーチ」 (Silver Birch) だった。不思議なことに、そう決まった翌朝、私の事務所にスコットランドから氏名も住所もない一通の封書が届き、開けてみると銀色の樺の木(シルバーバーチ)の絵はがきが入っていた。

 その頃から私の交霊会は、 「ハンネン・スワッハー・ホームサークル」 と呼ばれるようになり、スワッハー亡きあと今なおそう呼ばれているが、同時にその会での霊言が 『サイキック・ニューズ』 紙に毎週定期的に掲載されるようになった。当然のことながら、霊媒は一体誰かという詮索がしきりに為されたが、かなりの期間秘密にされていた。

しかし顔の広いスワッハーが次々と著名人を招待するので、私はいつまでも隠し通せるものではないと観念し、ある日を期して、ついに事実を公表する記事を掲載したのだった。

 ついでに述べておくが、製菓工場で働いていると甘いものが欲しくなくなるのと同じで、長いあいだ編集の仕事をしていると、名前が知れるということについて、一般の人が抱いているほどの魅力は感じなくなるものである。

 シルバー・バーチの霊言は、二人の速記者によって記録された。最初は当時私の編集助手をしてくれていたビリー・オースチンで、その後フランシス・ムーアという女性に引き継がれ、今に至っている。シルバー・バーチは彼女のことをいつも、the scribe (書記)と呼んでいた。

 テープにも何回か収録されたことがある。今でもカセットが発売されている。一度レコード盤が発売されたこともあった。いずれにせよ、会の全てが記録されるようになってから、例のベッドで交霊会の様子をビデオのように見せるのは大変なエネルギーの消耗になるから止めにしたい、のとシルバー・バーチからの要請があり、私もそれに同意した。

私が本当に入神しているか否かをテストするために、シルバー・バーチが私の肌にピンを突きさしてみるように言ったことがある。血が流れ出たらしいが、私は少しも痛みを感じなかった。

 心霊研究家と称する人の中には、われわれが背後霊とか支配霊とか呼んでいる霊魂(スピリット)のことを、霊媒の別の人格にすぎないと主張する人がいる。私も入神現象にはいろいろと問題が多いことは百も承知している。

 問題の生じる根本原因は、スピリットが霊媒の潜在意識を使用しなければならないことにある。霊媒は機能的には電話のようなものかも知れないが、電話と違ってこちらは生きものなのである。従ってある程度はその潜在意識によって通信内容が着色されることは避けられない。

霊媒現象が発達するということは、取りも直さずスピリットがこの潜在意識をより完全に支配できるようになることを意味するのである。

 仕事柄、私は毎日のように文章を書いている。が、自分の書いたものをあとで読んで満足できたためしがない。単語なり句なり文章なりを、どこか書き改める必要があるのである。ところが、シルバー・バーチの霊言にはそれがない。

コンマやセミコロン、ピリオド等をこちらで適当に書き込むほかは、一点の非の打ちどころもないのである。それに加えてもう一つ興味深いのは、その文章の中に私が普段まず使用しないような古語が時おり混ざっていることである。

シルバー・バーチが (霊的なつながりはあっても) 私とまったくの別人であることを、私と妻のシルビアに対して証明してくれたことが何度かあった。中でも一番歴然としたものが初期のころにあった。

 ある時シルバー・バーチがシルビアに向って、〝あなたがたが解決不可能と思っておられる問題に、決定的な解答を授けましょう〟 と約束したことがあった。

当時私たち夫婦は、直接談話霊媒として有名なエステル・ロバーツ女史の交霊会に毎週のように出席していたのであるが、シルバー・バーチは、次のロバーツ女史の交霊会でメガホンを通してシルビアにかくかくしかじかの言葉で話しかけましょう、と言ったのである。

 むろんロバーツ女史はそのことについては何も知らない。どんなことになるか、私たちはその日が待遠しくて仕方がなかった。いよいよその日の交霊会が始まった時、支配霊のレッドクラウドが冒頭の挨拶の中で、私たち夫婦しか知らないはずの事柄に言及したことから、レッドクラウドはすでに事情を知っているとの察しがついた。

 交霊会の演出に天才的なうまさを発揮するレッドクラウドは、そのことを交霊会の終るぎりぎりまで隠しておいて、わざとわれわれ夫婦を焦らせた。そしていよいよ最後になってシルビアに向い、次の通信者はあなたに用があるそうです、と言った。

暗闇の中で、蛍光塗料を輝かせながらメガホンがシルビアの前にやってきた。そしてその奥から、紛れもないシルバー・バーチの声がしてきた。間違いなく約束した通りの言葉だった。

 もう一人、これは職業霊媒ではないが、同じく直接談話を得意とする二ーナ・メイヤー女史の交霊会でも、度々シルバー・バーチが出現して、独立した存在であることを証明してくれた。

 私の身体を使ってしゃべったシルバー・バーチが、こんどはメガホンで私に話しかけるのを聞くのは、私にとっては何とも曰く言い難い、興味ある体験だった。

 ほかにも挙げようと思えば幾つでも挙げられるが、あと一つで十分であろう。私の知り合いの、ある新聞社の編集者が世界大戦でご子息を亡くされ、私は気の毒でならないので、ロバーツ女史に、交霊会に招待してあげてほしいとお願いした。名前は匿しておいた。が、女史は、それは結構ですがレッドクラウドの許可を得てほしいと言う。

そこで私は、では次の交霊会で私からお願いしてみますと言っておいた。ところがそのすぐ翌日、ロバーツ女史から電話が掛かり、昨日シルバー・バーチが現われて、是非その編集者を招待してやってほしいと頼んだというのである。

 ロバーツ女史はその依頼に応じて、編集者夫妻を次の交霊会に招待した。戦死した息子さんが両親と 〝声の対面〟 をしたことは言うまでもない。



 訳者付記

 ここに訳出したのは、モーリス・バーバネル氏の最後の記事となったもので、他界直後に、週刊紙 『サイキック・ニューズ』 の一九八一年七月下旬号、及び月刊誌 『ツー・ワールズ』 の八月号に掲載されたもので、原文にはタイトルはないが、便宜上訳者が付した。

シルバー・バーチの霊訓 古代霊は語る

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第九章 真理の理解を妨げるもの ──宗教的偏見──


 シルバー・バーチ霊言集が全部で十一冊あることはすでに述べましたが、その十一冊がシルバー・バーチ霊言の全てというわけではありません。

五十年余りにわたる膨大な霊言を九人の編者(うち二人が二冊ずつ)が自分なりの視点から編纂したもので、むしろ残されたものの方が多いのではないかと想像されます。

従って、霊媒のバーバネルが他界したこれからのちにも何冊か出版される可能性が十分あり、私などもそれを首を長くして待っている一人です。

 それはそれとして、バーバネル自身が著した書物が二冊あります。一冊は、人生を健康で力強く生き抜くためのスピリチュアリズム的処生訓を説いた Where There is a Will (『霊力を呼ぶ本』潮文社刊)、もう一冊はスピリチュアリズムを現象面と思想面の双方から説いた This is Spiritualism(『これが心霊の世界だ』同)です。

 さて後者の中に 「英国国教会による弾圧」 と題する一章があります(日本語版では割愛)。国教会というのはローマカトリック教会から独立したキリスト教の一派で、形式的には英国民の大半がその会員ということになっており、文字通り英国の国教ということができます。

 日本の宗教とは事情が異り、歴史的背景も違いますので比較対照は無理ですが、その本質はこれから紹介するその国教会とスピリチュアリズムの論争とも闘争とも言える一つの事件を辿っていけば自ずと理解していただけると信じます。

その火付け役、ないしは主役として英国の宗教界に一大センセーションを巻き起こしたのが、ほかならぬバーバネルだったのです。

 心霊現象の科学的研究が、SPR を代表とする資料の蒐集一本やりの一派と、その現象に思想的ないし哲学的意義を認めて、いわゆるスピリチュアリズムへと発展させていった一派があることは第五章で述べましたが、

そのスピリチュアリズムの先駆者となったフレデリック・マイヤース、オリバー・ロッジ、コナン・ドイル、アルフレッド・ウォーレス、ウィリアム・クルックスといった、人類の知性を代表するといっても過言でない知識人は、みな英国人です。

 そうした歴史的背景と同時に、バーバネルがハンネン・スワッハーという英国ジャーナリズム界の大物を後援者にもったことが、どれほどスピリチュアリズムの普及を促進したか、その陰の力は量り知れないものがあります。

 もっとも〝普及〟は必ずしも受け入れを意味しません。そういうものがあるという事実の認識に止まる人も多いのですが、その段階まで行くことだけでも、国家的に見て大変な進歩です。

これから紹介するバーバネルと国教会の対立は、そういった事情を背景としていることをまず認識していただかねばなりません。と同時に、国教会も基本的教説においてはキリスト教の他の宗派と大同小異ですから、これをスピリチュアリズムとキリスト教の対立と考えても差支えないと思います。


 一九三七年のことですが、自らも心霊的体験をもつエリオット牧師と神学博士のアンダーヒルが当時のヨーク大主教 (国教会はカンタベリーとヨークの二大管区に区分され、カンタベリーが全体の中心)であったテンプルに会い、これほどまでスピリチュアリズムが話題にのぼるようになった以上、国教会としても本格的に調査研究して態度を明確にすべきではないかと進言しました。


 テンプルはカンタベリー大主教のラングと協議し、その進言を聞き入れて、さっそく十名から成るスピリチュアリズム調査委員会を発足させました。そして二年後にその結果を報告すると約束しました。

ここまでは実に見上げた態度だったのですが、約束の二年が過ぎてから、調査結果の報告書(レポート)をめぐって宗教的偏見がむき出しになり始めました。ラングの命令でそのレポートが発禁処分にされたのです。

 この時点からバーバネルを中心とするサイキックニューズ社のスタッフが活動しはじめます。スタッフは、レポートの公開を拒むのは明らかにその内容が心霊現象の真実性を肯定するものになっているからだという認識のもとに、それに携わったメンバーとの接触を求めます。

そしてついに全部ではないが報告書の大部分──肯定派七人による多数意見報告書──を入手し、それをバーバネルの責任のもとに、思い切ってサイキックニューズ紙に掲載しました。

 案の定、それは英国内に大変な反響を呼びました。蜂の巣をつついたような、と形容しても過言でないほどの騒ぎとなり、たまりかねたラング大主教は、張本人であるバーバネルを厳しく非難する一方、国教会とスピリチュアリズムの同盟を求める会の会長であるストバート女史に、何とか騒ぎを鎮めてほしいと頼むほどでした。

 が報告書は絶対公表すべきであるという意見が足もとの国教会内部からも次々と出され、「この調査委員会による結論の公表を禁止させた〝主教連中〟による心ない非難や禁止令、それに何かというとすぐ〝極秘〟をきめ込む態度こそ、国教会という公的機関の生命を蝕む害毒の温床となってきた了見の狭い聖職権主義をよく反映している」といった厳しい意見が公然と出されました。

が国教会首脳は頑として公表を拒否し続けました。バーバネルはその著書の中でこう述べています。

 「私はその後テンプル博士がカンタベリー大主教に任命された時、書簡でぜひ委員会報告を正式に公表するよう何度もお願いした。書簡のやりとりは長期間に及んだが、ついに平行線を辿った。

社会正義の改革運動では同じ聖職者仲間から一頭地を抜いている人物が、こと宗教問題となると頑として旧態を墨守しようとする。現実の問題では恐れることを知らない勇気ある意見を出す人物からの書簡をことごとく〝極秘〟か〝禁〟の印を押さなければならないとは一体どういうことだろうか。」

 サイキックニューズ紙に掲載された多数意見報告書は 「英国国教会とスピリチュアリズム」と題されて、パンフレットとしてサイキックニューズ社から発行されました。私の手もとにもそれがあります。

 が、もともとバーバネルの意図は報告書を入手することではありませんでした。内容は始めからおよその見当がついており、スピリチュアリズムにとってそれは今さら取り立てて意味のあるものでないことはわかっていました。

バーバネルが求めたのは英国国教会が宗教的偏見を超えて心霊現象の真実性を認めるという、真理探究者としての、あるいは聖職者としての公明正大な態度でした。それが出来ない国教会首脳に対する憤りと無念さが至る所に窺われます。たとえば───

 「この、かつてのヨーク大主教、後のカンタベリー大主教にとっては、その職務への忠誠心の方が死後の存続という真理への忠誠心より大事ということなのだろうか。」

 「私の持論は、宗教問題に限らず、人間生活のすべてにおいて、伝統的な物の考え方が新らしい考え方の妨げになるということである。

固定観念が新らしい観念の入る余地を与えないのである。いかなる宗教の信者においても、宗教それ自体がスピリチュアリズム思想を受け入れる上で邪魔をするのである。」

 こうしたバーバネルの既成宗教についての考え方はシルバー・バーチと全く同一です。その理解の便に供する意味で、このあと、英国国教会の流れをくむ一派であるメソジスト派の牧師とシルバー・バーチとの二度にわたる論争を紹介したいと思います。

論争といっても、その言葉から受けるほど激しいものではありません。それは多分にシルバー・バーチの霊格の高さによることは明らかですが、同時に、その牧師が真摯な真理探究心をもっていたからでもあります。

そうでなければシルバー・バーチが交霊会へ招待するはずはありません。二人の論争を通じて、ひとりキリスト教にとどまらず既成宗教全体に共通して言える一種の弊害を認識していただきたいと思います。なおその青年牧師の立場を考慮して氏名は公表されておりません。

 参考までにメソジスト派というのはジョン・ウェスレーという牧師が主唱し、弟のチャールズと共に一七九五年に国教会から独立して一派を創立した宗派です。ニューメソッド、つまり新らしい方式を提唱している点からその名があるのですが、基本的理念においては国教会と大同小異とみてよいと思います。

 ある時そのメソジスト派の年次総会が二週間にわたってウェストミンスターのセントラルホールで開かれ、活発な報告や討論が為されました。がその合間での牧師たちの会話の中でスピリチュアリズムのことがしきりにささやかれました。

 そのことで関心を抱いた一人の青年牧師がハンネン・スワッハーを訪ね、一度交霊会というものに出席させてもらえないかと頼みました。

予備知識としてはコナン・ドイルの The New Revelation (新らしい啓示)という本を読んだだけでしたが、スワッハーは快く招待することにし、

 「その会ではシルバー・バーチという霊が入神した霊媒の口を借りてしゃべるから、その霊と存分に議論なさるがよろしい。納得のいかないところは反論し、分らないところは遠慮なく質問なさることです。そのかわり、あとでよそへ行って、十分な議論がさせてもらえなかったといった不平や不満を言わないでいただきたい。

質問したいことは何でも質問なさって結構です。その会の記録はいずれ活字になって出版されるでしょうが、お名前は出さないことにします。そうすればケンカになる気遣いもいらないでしょう。もっともあなたの方からケンカを売られれば別ですョ。」


と、いかにもスワッハーらしい、ちょっぴり皮肉を込めた、しかし堂々とした案内の言葉を述べました。

 さて交霊会が始まると、まずシルバー・バーチがいつものように神への祈りの言葉を述べ、やおらその青年牧師に話しかけました。

シルバー・バーチ「この霊媒には、あなたがたのいう〝聖霊〟の力がみなぎっております。これがこうして言葉をしゃべらせるのです。私はあなたがたのいう〝復活せる霊〟の一人です」

(聖霊というのはキリスト教の大根幹である三位一体説──父なる神〔キリスト神〕、子なる神 〔イエス〕 そして聖霊が一体であるという説の第三位にあるものですが、スピリチュアリズム的に観れば、その三者を結びつける根拠はありません。実にキリスト教とスピリチュアリズムの違いはそこから発しています。シルバー・バーチもその点を指摘しようとしています)


牧師「死後の世界とはどういう世界ですか」

シルバー・バーチ「あなたがたの世界と実によく似ております。但し、こちらは結果の世界であり、そちらは原因の世界です」

(スピリチュアリズムでは、霊界が原因の世界で地上は結果の世界であるといっておりますが、それは宇宙の創造過程から述べた場合のことで、ここではシルバー・バーチは因果律の関係から述べ、地上で蒔いたタネを霊界で刈り取るという意味で言っております)


牧師「死んだ時は恐怖感はありませんでしたか」

シルバー・バーチ「ありません。私たちインデアンは霊覚が発達しており、死が恐ろしいものでないことを知っておりましたから。あなたが属している宗派の創立者ウェスレ―も霊感の鋭い人でした。やはり霊の力に動かされておりました。それはご存知ですね」


牧師「おっしゃる通りです」

シルバー・バーチ「ところが現在の聖職者たちは〝霊の力〟に動かされておりません。

宇宙は究極的には神とつながった一大連動装置によって動かされており、一ばん低い地上の世界も、あなたがたのいう天使の世界とつながっております。どんなに悪い人間も、ダメな人間も、あなたがたの言う神、私の言う宇宙の大霊と結ばれているのです」


牧師「死後の世界でも互いに認識し合えるのですか」
シルバー・バーチ「地上ではどうやって認識しあいますか」

牧師「目です。目で見ます」
シルバー・バーチ「目玉さえあれば見えますか。結局は霊で見ているのではありませんか」

牧師「その通りです。私の精神で見ています。それは霊の一部だと思います」

シルバー・バーチ「私も霊の力で見ています。私にはあなたの霊が見えるし肉体も見えます。が肉体は影にすぎません。光源は霊です」

牧師「地上での最大の罪は何でしょうか」
シルバー・バーチ「罪にもいろいろあります。が最大の罪は神への反逆でしょう。神の存在を知りつつも、尚それを無視した生き方をしている人々。そういう人が犯す罪が一ばん大きいでしょう」

牧師「われわれはそれを〝聖霊の罪〟と呼んでおります」
シルバー・バーチ「あの本(聖書)ではそう呼んでいますが、要するに霊に対する罪です」

牧師「〝改訳聖書〟をどう思われますか。〝欽定訳聖書〟と比べてどちらがいいと思われますか」

シルバー・バーチ「文字はどうでもよろしい。いいですか、大切なのはあなたの行いです。神の真理は聖書だけではなく、ほかのいろんな本に出ています、それから、人のために尽くそうとする人々の心には、その人がどんな地位の人であろうと、誰れであろうと、どこの国の人であろうと、ちゃんと神が宿っているのです。それこそが一ばん立派な聖書です」

牧師「改心しないまま死んだ人はどうなりますか」
シルバー・バーチ「〝改心〟というのはどういう意味ですか。もっと分かりやすい言葉でお願いします」

牧師「たとえば、良くないことばかりしていた人がそのまま他界した場合と、死ぬ前に改心した場合とでは死んでからどんな違いがありますか」

シルバー・バーチ「あなたがたの本(聖書)から引用しましょう。〝蒔いたタネは自分で刈り取る〟のです。これは真理であり、変えることは出来ません。今のあなたそのままを携えてこちらへ参ります。

自分はこうだと思っているもの、人からこう見てもらいたいと願っていたものではなく、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへ参ります。あなたもこちらへ来れば分かります」

ここでシルバー・バーチはスワッハーの方を向いて、この人には霊能があるようだと述べ、なぜ連れて来たのかと尋ねると、 「この人の方から尋ねてきたのです」 と答えます。そこでシルバー・バーチがその牧師に向かって 「インデアンが聖書のことをよく知っていて驚いたでしょう」と言うと、「よくご存知のようです」と答えます。

すると別の列席者が「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えします。牧師はすかさず三千年前つまり紀元前十世紀の人間である例のダビデの名前を出して、シルバー・バーチに、そういう人間がいたことを知っているかと尋ねます。それに対してこう答えます。

シルバー・バーチ「私は白人ではありません。レッド・インデアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました。あなたがたのおっしゃる野蛮人というわけです。しかし私は、これまで西洋人の世界に、三千年前のわれわれインデアンよりはるかに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見て来ております。

今なお物質的豊かさにおいて自分たちより劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つと言えます」

牧師「そちらへ行くとどんな風に感じるのでしょう。やはり後悔の念というものを強く感じるのでしょうか」

シルバー・バーチ「一ばん残念に思うことは、やるべきことをやらずに終ったことです。あなたもこちらへお出になれば分かります。きちんと為しとげたこと、やるべきだったのにやらなかったこと、そうしたことが逐一分かります。逃がしてしまった好機が幾つもあったことを知って後悔するわけです」


牧師「キリストへの信仰をどう思われますか。神はそれを嘉納されるでしょうか。キリストへの信仰はキリストの行いに倣うことになると思うのですが」

シルバー・バーチ「主よ、主よと、何かというと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心に叶った行いです。それが全てです。口にする言葉や、心に信じることではありません。

頭で考えることでもありません。実際の行為です。何一つ信仰というものを持たなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢える人にパンを与え、暗闇にいる人の心に光を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の心に叶った人です」

 ここで列席者の一人が、イエスは神の分霊なのかと問います。それに対しこう答えます。

シルバー・バーチ「イエスは地上に降りた偉大なる霊覚者だったということです。当時の民衆はイエスを理解せず、ついに十字架にかけました。いや今なお十字架にかけ続けております。イエスだけでなく全ての人間に神の分霊が宿っております。ただその分量が多いか少ないかの違いがあるだけです」

牧師「キリストが地上最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それほどの人物がウソをつくはずがありません。キリストは言いました。〝私と父は一つである。私を見た者は父を見たのである〟と。これはキリストが即ち神であることを述べたのではないでしょうか」

シルバー・バーチ「もう一度聖書を読み返してご覧なさい。〝父は私より偉大である〟と言っていませんか」
牧師「言っております」

シルバー・バーチ「また〝天に在しますわれらが父に祈れ〟とも言っております。〝私に祈れ〟とは言っておりません。父に祈れと言ったキリスト自身が〝天に在しますわれらが父〟であるわけがないでしょう。〝私に祈れ〟とは言っておりません。〝父に祈れ〟と言ったのです」

牧師「キリストは、〝あなたたちの神〟と〝私の神〟という言い方をしています。〝私たちの神〟とは決して言っておりません。ご自身を他の人間と同列に置いていません」

シルバー・バーチ「〝あなたたちの神と私〟とは言っておりません。〝あなたたちは私より大きい仕事をするであろう〟とも言っております。あなた方キリスト者にお願いしたいのは、聖書を読まれる際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をなさらないことです。

霊的実相に照らして解釈しなくてはなりません。存在の実相が霊であるということが宇宙のすべての謎を解くカギなのです。イエスが譬え話を多用したのはそのためです」

牧師「神は地球人類を愛するが故に唯一の息子を授けられたのです」

シルバー・バーチ「イエスはそんなことは言っておりません。イエスの死後何年もたってから二ケーア会議でそんなことが聖書に書き加えられたのです」

牧師「二ケーア会議?」
シルバー・バーチ「西暦三二五年に開かれています」


牧師「でも私がいま引用した言葉はそれ以前からあるヨハネ福音書に出ていました」
シルバー・バーチ「どうしてそれがわかります?」

牧師「いや、歴史にそう書いてあります」
シルバー・バーチ「どの歴史ですか」

牧師「どれだかは知りません」
シルバー・バーチ「ご存知のはずがありません。一体聖書が書かれる、そのもとになった書物はどこにあるとお考えですか」

牧師「ヨハネ福音書はそれ自体が原典です」
シルバー・バーチ「いや、それよりもっと前の話です」

牧師「聖書は西暦九〇年に完成しました」
シルバー・バーチ「その原典になったものは今どこにあると思いますか」

牧師「いろんな文書があります。例えば・・・・・・」 と言って一つだけ挙げます。
シルバー・バーチ「それは原典の写しです。原典はどこにありますか」

 牧師がこれに答え切れずにいると──

シルバー・バーチ「聖書の原典はご存知のあのバチカン宮殿にしまい込まれて以来一度も外に出されたことがないのです。あなた方が聖書(バイブル)と呼んでいるものは、その原典の写し(コピー)の写しのそのまた写しなのです。おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。

初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しなかったのです。

ところが、いつになっても再臨しないので、ついにあきらめて記憶を辿りながら書きました。イエス曰く──と書いてあっても、実際に言ったかどうかは書いた本人も確かでなかったのです」

牧師「でも四つの福音書にはその基本となったいわゆるQ資料 (イエス語録) の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。中心的な事象はその四つの福音書に出ていると思うのですが」

シルバー・バーチ「私は何もそうしたことが全然起きなかったと言っているのではありません。私はただ、聖書に書いてあることの一言一句までイエスが本当に言ったとはかぎらないと言っているのです。

聖書に出てくる事象には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用がずいぶん入っていることを忘れてはいけません」

 こうした対話から話題は苦難の意義、神の摂理、と進み、その間に細かい問題も入りますが、それらはすでに前章までの紹介したことばかりなので割愛します。ともかくここで第一回の論争が終り、何日かのちに再びその牧師が出席して第二回目の論争が始まります。

最初の質問は、地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能か否か、すべての人間を愛することが出来るか否かといった、いかにも聖職者らしいものでした。シルバー・バーチは答えます。


シルバー・バーチ「それは不可能なことです。が、そう努力しなくてはいけません。努力することそのことが、性格の形成に役立つのです。

怒ることなく、辛く当ることもなく、腹を立てることもないようでは、もはや人間でないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれて来るのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちらへ来てからも同じです」

牧師「イエスは〝天の父の完全である如く汝等も完全であれ〟と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」

シルバー・バーチ「だから、完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活における最高の理想なのです。すなわち内部に宿る神性を開発することです」

牧師 「私がさっき引用した言葉はマタイ伝第五章の終りに出ているのですが、普遍的な愛について述べたあとでそう言っているのです。また〝ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝等は完全であれ。神の子なればなり〟と言っています。

神は全人類を愛して下さる。だからわれわれも全ての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じるとお思いですか」

この質問にシルバー・バーチは呆れたような、あるいは感心したような口調で、少し皮肉も込めてこう言います。

シルバー・バーチ「あなたは全世界の人間をイエスのような人間にしようとなさるんですね。お聞きしますが、イエス自身、完全な地上生活を送ったとお考えですか」


牧師「そう考えます。完全な生活を送ったと思います」
シルバー・バーチ「一度も腹を立てたことがないとお考えですか」

牧師「当時行われていたことを不快に思われたことはあると思います」
シルバー・バーチ「腹を立てたことは一度もないとお考えですか」

牧師「腹を立てることはいけないと説かれている、それと同じ意味で腹を立てたことはないと思います」
シルバー・バーチ「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことを正当化できるかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなたがたはどんなことでも正当化なさるんだから・・・・・・」

 
ここで列席者の一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を持ち出します。

シルバー・バーチ「私が言わんとしているのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。ムチを持って追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。

怒るということは人間的感情です。私が言わんとするのは、イエスも人間的感情を具えていたということです。

イエスを人間の模範として仰ぐ時、イエスもまた一個の人間であった──ただ普通の人間より神の心をより多く体現した人だった、という風に考えることが大切です。ありもしないことを無理やりにこじつけようとするのはよくありません。わかりましたか」

牧師「わかりました」

シルバー・バーチ「誰れの手も届かないところに祭り上げたらイエス様がよろこばれると思うのは大間違いです。イエスもやはり自分たち人間と同じ人の子だったと見る方がよほどよろこばれるはずです。自分だけ超然とした位置に留まることはイエスはよろこばれません。人類と共によろこび、共に苦しむことを望まれます。

一つの生き方の手本を示しておられるのです。イエスが行ったことは誰れにでも出来ることばかりなのです。誰れもついて行けないような人だったら、せっかく地上に降りたことが無駄だったことになります」

 このあと牧師が自由意志について質問すると、すでに紹介した通り各自に自由意志はあるが、あくまで神の摂理の範囲内での自由意志であること、つまりある一定のワク内での自由が許されているとの答えでした。

続いて罪の問題が出され、シルバー・バーチが結論として、罪というものはそれが結果に対して及ぼす影響の度合いに応じて重くもなり軽くもなると述べると、すかさず牧師がこう反論します。

牧師「それは罪が知的なものであるという考えと矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります」

シルバー・バーチ「罪は罪です。からだが犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれもみな罪は罪です。あなたはさっき衝動的に罪を犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこから来ると思いますか」


牧師「思念です」
シルバー・バーチ「思念はどこから来ますか」

牧師「(少し躊躇してから)善なる思念は神から来ます」
シルバー・バーチ「では悪の思念はどこから来ますか」

牧師「分かりません」 と答えますが、実際は 「悪魔から」 と答えたいところでしょう。シルバー・バーチはそれを念頭において語気強くキリスト教の最大の欠陥をつきます。

シルバー・バーチ「神は全てに宿っております。間違ったことの中にも正しいことの中にも宿っています。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも神は宿っているのです。

おわかりになりますか。神とは〝これとこれだけに存在します〟という風に一定の範囲内に限定できるものではないのです。全宇宙が神の創造物であり、そのすみずみまで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って、これは神のものではない、などとは言えないのです。

日光は神の恵みで、作物を台なしにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。神は全てに宿ります。あなたという存在は、思念を受けたり出したりする一個の器官です。

が、どんな思念を受け、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違ってきます。もしもあなたが、あなたのおっしゃる〝完全な生活〟を送れば、あなたの思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。そうでしょう?」

牧師 「おっしゃる通りだと思います。では、そうした煩悩ばかりを抱いた人間が死に際になって自分の非を悟り、〝信ぜよ、さらば救われん〟の一句で心にやすらぎを覚えるというケースがあるのをどう思われますか」

 この質問はキリスト教のもう一つの重要な教説である贖罪説につながってきます。イエス・キリストへの信仰を告白することで全ての罪が贖われるという信仰が根強くあり、それが一種の利己主義を生む土壌になっております。

シルバー・バーチは折にふれてその間違いを指摘していますが、ここでもイエスの別の言葉を二、三引用したあと、こう語ります。

シルバー・バーチ「神の摂理は絶対にごまかせません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の改心で一ぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それくらいのことで一ぺんに洗い落とせると思いますか。

無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、我儘で心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。〝すみませんでした〟の一言で全てが許されるとしたら、果たして神は公正と言えますか。如何ですか」

牧師 「私は神はイエス・キリストに一つの心の避難所を設けられたのだと思うのです。イエスはこう言われ・・・・・・」

シルバー・バーチ 「お待ちなさい。私はあなたの率直な意見を聞いているのです。率直にお答えいただきたい。本に書いてある言葉を引用しないでいただきたい。イエスが何と言ったか私にはわかっております。私は、あなた自身はどう思うかと聞いているのです」

牧師 「たしかにそれでは公正とは言えないと思います。が、そこにこそ神の偉大なる愛の入る余地があると思うのです」

 そこでシルバー・バーチが、もしも英国の法律が善人と罪人とを平等に扱ったら、あなたはその法律を公正と思うかと尋ねると、牧師は自分はそうは言っていないと弁明しかけますが、再びそれをさえぎって───

シルバー・バーチ 「自分がタネを蒔き、蒔いたものは自分で刈り取る。この法則から逃れることは出来ません。神の法則をごまかすことは出来ないのです」


牧師 「では悪のかぎりを尽くした人間が今死にかかっているとしたら、私はその人間にどう説いてやればいいのでしょう」

シルバー・バーチ 「シルバー・バーチがこう言っていたとその人に伝えて下さい。もしもその人が真の人間、つまりいくばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいという気持ちになれるはずです。

自分の犯した過ちの報いから逃れたいという気持がどこかにあるとしたら、その人はもはや人間ではない。ただの臆病者だと、そう伝えて下さい」


牧師 「しかし罪を告白するということは、誰れにでもは出来ない勇気ある行為だとは言えないでしょうか」

シルバー・バーチ 「それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。

元に戻す努力をしなくてはいけません。紋切り型の祈りの言葉を述べて心が安まったとしても、それは自分をごまかしているに過ぎません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばならないのです。それが神の摂理です」


 ここで牧師がイエスの言葉を引用して、イエスが信者の罪を贖ってくれるのだと主張しますが、シルバー・バーチは同じくイエスの言葉を引用して、イエスは決してそんな意味で言っているのではないと説きます。

するとまた牧師が別の言葉を引用しますが、シルバー・バーチも別の言葉を引用して、罪はあくまで自分で償わなくてはならないことを説きます。そしてキリスト教徒が聖書一つにこだわることの非を諭して次のように語って会を閉じました。


シルバー・バーチ「神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなたがたもぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する──それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。

神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変らず罪として残っております。いいですか。それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることは出来ないのです。

 前にも言ったことですが、聖書に書かれている言葉を全部イエスが実際に言ったとはかぎらないのです。そのうちの多くはのちの人が書き加えたものです。イエスがこうおっしゃっている、とあなたがたが言う時、それは〝そう言ったと思う〟という程度のものでしかありません。

そんないい加減なことをするより、あの二千年前のイエスを導いてあれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今の世にも働いていることを知ってほしいのです。

 あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡知、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けている。なにも神を求めて二千年前まで遡ることはないのです。

今ここに在しますのです。二千年前とまったく同じ神が今ここに在しますのです。その神の真理とエネルギーの通路となるべき人物 (霊媒・霊能者) は今も決して多くはありません。しかし何故にあなたがたは、二千年前のたった一人の霊能者にばかり頼ろうとなさるのです。なぜそんな昔のインスピレーションにばかりすがろうとなさるのです。なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです。

 何故に全知全能の神を一個の人間と一冊の書物に閉じ込めようとなさるのです。宇宙の神が一個の人間、あるいは一冊の書物で全部表現できるとでもお思いですか。私はイエスよりずっと前に地上に生を享けました。すると神は私には神の恩恵に浴することを許して下さらなかったということですか。

 神の全てが一冊の書物の中のわずかなページで表現できてるとお思いですか。その一冊が書き終えられた時を最後に、神はそれ以上のインスピレーションを子等に授けることをストップされたとでもお考えですか。聖書の最後の一ページを読み終った時、神の真理の全部を読み終ったことになるというのでしょうか。

 あなたもいつの日かに天に在します父のもとに帰り、今あなたが築きつつある真実のあなたに相応しい住処に住まわれます。神の子としてのあなたに分っていただきたいことは、神を一つワクの中に閉じ込めることは出来ないということです。神は全ての存在に宿るのです。

悪徳のかたまりのような人間にも、神か仏かと仰がれるような人にも同じ神が宿っているのです。あなたがた一人一人に宿っているのです。

あなたがその神の御心をわが心とし、心を大きく開いて信者に接すれば、その心を通じて神の力とやすらぎとが、あなたの教会を訪れる人々の心に伝わることでしょう」

Thursday, March 19, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


27節

*本節の内容民族と宗教の揺藍地インド
*轢死者の霊が著者に憑依
*霊的引力と斥力



〔ある本でインドが民族と宗教の揺籃の地であるとの説を読んだことがあり、われわれの交霊会でもその問題に触れた霊言を聞いたことがあった。その点を質すと(1)――〕


その通りである。今の貴殿の信仰の底流となっている宗教的概念の多くはインドにその源流を発している。インドに発し、太古の多くの民族によって受け継がれてきた。その原初において各民族が受けた啓示は単純素朴なものであったが、それにインドに由来する神話が付加されていったのである。救世主出現の伝説は太古よりある。いずれの民族も自分たちだけの救世主を想像した。キリスト教の救世主説も元を辿ればインドの初期の宗教の歴史の中にその原型を見出すことが出来る。インドの伝承文学の研究がこれまで貴殿が勉強してきた言語学的側面と大いに関わりがあるように、その遠く幽(かす)かな過去のインドの歴史の宗教的側面の研究は今の貴殿にとって必要欠くべからざるものである。関心を向けよ。援助する霊を用意してある。

インド、ペルシャ、エジプト、ギリシャ、ローマ、ユダヤ――これらの民族とその知的発達に応じた神の概念の啓示の流れについて今こそ学ぶべきである。ジャイミニー(2)とヴェーダ・ヴャーサ(3)がソクラテスとプラトンの先輩であったことを知らねばならない。そのことに関してはその時代に地上生活を送り、その事実に詳しい者がいずれ教えることになろう。が、その前に地上に残る資料を自らの手で蒐集する努力をせねばならない。指導はそれが終了した後のことである。

さらに、その資料の中に人間がいつの時代にも自分を救ってくれる者の存在の必要性を痛感して来たこと、そしてまた、そうした救世主にまつわる伝説が太古より繰り返されて来ている事実を見出さねばならない。数多くの伝説を生んだ神話の一つが、純潔の処女デーヴァキー(4)の奇跡の子クリシュナ(5)の物語であることも判るのであろうし、そうした事実がこれまでキリスト教の中で闇に包まれていた部分に光を当てることにもなろう。もっともわれらはこの事実を重大なるものとして早くから指摘して来た。貴殿の異常な精神状態がその分野に関する全くの無知と相俟って、われらをして手控えさせたのである。

このほかにもまだまだ取り除かねばならぬ夾雑物は多い。これを取り除かぬかぎり安心して正しい思想体系の構築は望めぬ。大まかな荒筋においてさえ貴殿にはまだ奇異に思えることが多い。まずそれに馴染んだ後でなければ細部へ入ることは出来ぬ。たとえば古代の四大王国、すなわちエジプト、ペルシャ、ギリシャ、ローマの哲学と宗教はその大半がインドから摂り入れたものである。インドの大革命家であり説教者であったManou(6)がエジプトではManesとなり、ギリシャではMinosとなり、ヘブライ伝説ではMosesとなった。いずれも固有名詞ではなく“人間”Manを意味する普通名詞であった。偉大なる真理の開拓者はその顕著な徳ゆえに民衆からThe Manと呼ばれた(7)。民衆にとっては人間的威力と威厳と知識の最高の具現者だったわけである。

インドのManou(マヌ)はキリストの誕生より三千年も前の博学な学識者であり、卓越せる哲学者であった。いや実は、そのマヌでさえそれよりさらに何千年も昔の、神と創造と人間の運命について説かれたバラモンの教説の改革者に過ぎなかった。

ペルシャのゾロアスター(8)の説ける真理も全てマヌから学んだものであった。神に関する崇高なる概念は元を辿ればマヌに帰する。法律、神学、哲学、科学等の分野において古代民族が受けたインドの影響は、貴殿らが使用する用語がすべてマヌ自身が使用した用語と語源が同一である事実と同様に間違いない事実であるとの得心がいくであろう。近代に至ってからの混ぜ物がその本来の姿を歪めてしまったために、貴殿には類似点を見出し得ぬかも知れないが、博学なる言語学者ならばその同一性を認めることであろう。一見したところ世界の宗教はバラモンの伝承的学識の中に類似性を見出せぬかに思われるが、実はマヌが体系づけ、マーニーManesがエジプトに摂り入れ、モーセMosesがヘブライの民に説いた原初的教説から頻繁に摂取しているのである。

哲学及び神学のあらゆる体系の中にヒンズー(インド)的思想が行き渡っている。たとえば、古代インドの寺院において絶対神への彼らなりの純粋な崇拝に生涯を捧げたデーヴァダーシー(9)と呼ばれる処女たちの観念は、古代エジプトではオシリス(10)の神殿に捧げられる処女の形を取り、古代ギリシャではデルポイ(11)の神殿における巫子(みこ)となり、古代ローマではケレース(12)神の女司祭となり、後にあのウェスターリス(13)となって引き継がれていった。

が、これはわれらが貴殿に教えたいことの一例に過ぎない。ともかく注意をその方向へ向けて貰いたい。われらは極めて大まかな概略を述べたに過ぎない。細かき点はこれより後に埋め合わせるとしよう。貴殿にはまだ概略以上のことは無理である。


――確かに私は知らないことばかりです。それにしてもあなたは人間がまるで霊の道具に過ぎないような言い方をされます。出来のいい道具、お粗末な道具、分かりのいい道具、分かりの悪い道具。


これまでもしばしば述べて来た如く、知識はすべて霊界よりもたらされる。実質はわれらの側にあり、人間はその影に過ぎない。地上にても教えやすい者ほど学ぶことが多いのと同じく、われらの交わりにおいても素直な者ほど多くを学ぶことになる。貴殿に学ぶ心さえあれば幾らでも教える用意がある。


――人間には取り柄(え)はないということですか。


従順さと謙虚さの取り柄がある。従順にして謙虚な者ほど成長する。


――もし霊側が間違ったことを教えた場合はどうなります。


すべての真理に大なり小なりの誤りは免れない。が、その滓(かす)はいずれ取り除かれるものである。


――霊によって言うことが悉く違う場合があります。どちらが正しいのでしょう。真実とは一体何なのでしょう。


言うことが違っているわけではない。各霊が自分なりの説き方をしているまでである。故に細部においては異なるところはあっても、全体としては同じことを言っている。貴殿もそのうち悪と呼んでいるものが、実は善の裏側に過ぎぬことが判るようになるであろう。地上においては混じり気のない善というものは絶対に有り得ない。それは空しき夢想というものである。人間にとっては真理はあくまで相対的なものであり、死後にも長期間に亙って相対的であることは免れない。歩めるようになるまではハイハイで我慢しなければならない。走れるようになるまでは歩くだけで我慢しなければならない。高く跳べるようになるまでは走るだけで我慢しなければならならない。

(プルーデンス)


〔私が「霊の身元」と題する記事(14)で紹介した、例の他界したばかりの霊による不思議な影響力を受けたのはこの頃であった。ある人がベーカー通りに近い通路の舗装工事中にローラー車の下敷きとなって悲惨な死を遂げ、私がたまたまその日に現場を通りかかったのである。その時私はその事故のことは知らなかった。そしてその夜、グレゴリー夫人(15)の家でデュポテ男爵(16)による交霊会に出席したところ、その霊が出現した。二月二十三日にその件について尋ねると、その霊の述べた通りであることが確認された(17)。〕


その霊がそなたに取り憑くことが出来たこと自体が驚きである。そなたがその男の死の現場の近くを通りかかったからである。余りそのことは気にせぬほうがよい。心を乱される恐れがある。


――(最近他界した)私の友人がまだ眠りから覚めないのに、何故その男はすぐに目を覚ましたのでしょう。


非業の死を遂げた後の休眠を取っておらぬからである。本当は休眠した方がよいのである。休眠しないと、そのままいつまでも地縛の霊となる。そうした霊にとっては休息することが進歩への第一歩となる。未熟なる霊はなるべく休眠を取り、地上生活を送った汚れた場所をうろつかぬことが望ましい。


――あのような思っただけでもぞっとするような死に方をしても霊は傷つかないのでしょうか。


肉体が酷い傷を受けても、霊まで傷つくことはない。但し激しいショックは受ける。それが為に休息できず、うろつき回ることになるのである。


――あの霊は死の現場をうろつき回ったのですか。それがどんな具合で私に取り憑いたのでしょうか。


あのような死に方をした霊はよく現場をいつまでもうろつき回るものである。そこをそなたが通りかかった。そなたは極度に過敏な状態にあるから、磁石が鉄を引きつける如くに霊的影響を何でも引き寄せてしまう。この種の霊的引力はそなたにはまだ理解できぬであろう。が、それでは困る。地上では低き次元での霊的引力の作用が現実にあるからである。毎日の交わりの中で引力と斥力とが強力に作用している。大半の者は気づいておらぬが、すべての人間、とくに霊感のある者は、その作用を受けている。肉体がなくなれば一層その作用が強烈となる。五感を通して伝達されていたものが、親和力とそれと相関関係にある排斥力の直覚的作用に代わるのである。

が、この件に関しては余り気にせぬがよい。余り気にすると、再び親和力の法則が働いて、未発達霊の害毒を引き寄せることになる。彼には思慮分別の力はない。そのことは、あの気の毒な霊もそなたに取り憑いたことで何の益にもならなかったことで知れる。

(†インペレーター)


シルバー・バーチの霊訓 古代霊は語る

  The Ancient Spirits Speak

 
第八章 交霊会の舞台裏

 太陽が地球のまわりを回っているのではない。地球の方が太陽のまわりを回っているのだ──これはもう常識中の常識ですが、たとえ学問的にはそうだとしても、われわれ人間の目にはやはり太陽は東から昇り西へ沈んでいます。つまり現実の感覚としては太陽の方が地球をめぐっているというのが正直な実感です。

 またその地球が太陽のまわりを回る速度は時速一六〇〇キロだそうですが、どう考えても地球は静止しているというのが実感です。

 このように実感と真相とが大きく異る例はいくらでも挙げられますが、実は霊的なことについても同じような錯覚をしていることが案外多いようです。

地上という三次元の物的生活に慣れ切っていることから生じる錯覚です。その錯覚がいけないと言うつもりはありません。実感は実感としてやむを得ないのですが、真実の相についての知識をぜひ持っていなくてはいけないと思うのです。

 その好い例が自動書記現象です。霊能者の手がひとりでに動いて次々と文章が書かれていく様子を見ていると、どうみても霊がのり移って腕そのものを直接あやつっているかに思えます。

事実そういうケースも皆無ではないのですが、高級霊からの通信となると往々にしてリモートコントロール式に霊波であやつっている場合が多いのです。通信者は高級界にいるわけです。

 この〝高級界〟という言葉自体についても、人間はとかく空の高いところを想像しがちですが、これも地上的感覚から生じる錯覚です。地上の言語ではどうしても高いとか低い、あるいは向上とか下降とかの用語を用いざるを得ませんが、原理的にはバイブレーション(振動)の問題です。

 あるとき列席者の一人がシルバー・バーチにこんな質問をしました。「他界直後の幽界からさらに向上していった高級霊が人間と交信する時、わざわざ幽界まで降りてくるのですか」


 これに対してシルバー・バーチはあまりに意外な質問に驚いた様子で 「いえ、いえ、そうじゃありません。地上に一ばん近いところまで降りて来ないと通信できないと思ってはいけません。

通信しようと思えば、それなりの手段(霊媒)さえ見つかれば、どんな高級な界からでも直接の通信を送ることは可能です。要はバイブレーションの問題です」と答えています。

 ここで参考までに私自身の強烈な体験談を紹介しますと、恩師の間部氏は各地の支部を回られると必ず会員と共に神前で「大祓」(おおばらい)をはじめ幾種類かの祝詞を上げました。ある支部での祈祷が終って散会し、二、三の側近の者と就寝前の雑談に耽っていると、先生がこんな話をされました。

 大祓を上げていたところ祭壇の上あたりに大きな光の輪が出来ました。光といってもややぼやけた感じだったそうですが、やがてその輪の中にもう一つ小さい輪が出来ました。前の輪より一段と明るいのです。輪の中全体が明るいのです。

何だろうと見ていると更にその中央にもう一つ、くっきりとした輪が出来て、その中全体が皓々と輝いて見えました。

何かあると見つめていると、その中央に〝空海〟という二文字が見事な達筆で書かれ、書かれたかと思うと、その光の輪と共にパッと消えてしまった、というのです。

 当時私はまだ学生で、その話を聞いてただあの空海が自分たちのところに出てくれたという嬉しさと、空海ほどの高級霊が出る先生はやっぱり霊格が高いのだなあ、といった感慨しか抱きませんでしたが、のちにそのことを思い出して、あれがいわゆる〝霊的磁場〟なのだと理解するようになりました。

つまり高級霊が出られる高い波長の磁場を三段階でこしらえたわけで、空間における位置あるいは場所は祭壇のあるところと一緒だったわけです。光の輪は多分空海の霊団が人間流に言えば手をつなぐ格好で拵えたのでしょう。本当のことは分かりませんが・・・・・・。

 さてシルバー・バーチが入神したバーバーネルの口を借りてしゃべる時は直接シルバー・バーチがバーバーネルの身体に宿ります。身体と言っても実質的にはオーラのことです。

最初の「まえがき」でも紹介したように、シルバー・バーチというのはそのバーバネルに宿るインデアンその人かというとイエスでもありノーでもあります。

 つまりインデアンは自分のことをシルバー・バーチと名告り幽界よりはるかに高い界の存在で「波長を下げて地上に降りてくるのは息がつまるほど苦痛です」と述べているほどですが、観方を変えれば、そうやって何とか波長を下げて直接人間を支配できる、いわば〝霊媒的素質〟をもったスピリットであるということが出来るわけです。

が実質的な通信を送っているのは、そうした中間的存在による中継を必要とするほど高級な界のスピリット、日本流に言えば八百万の神々の一柱とみてよいと私は考えております。

が、その神も決して遠く離れた高い空のどこかから見下ろしているのではない。その交霊会の開かれている同じ部屋の中にいると考えてもいいわけです。

 シルバー・バーチは語ります。

 『すべてはバイブレーションの問題です。バイブレーションを通じてどれだけ伝わるかの問題です。あなた方には霊媒の口をついて出たことしか分からない。出なかったものについては何もご存知ない。

 譬えてみれば電話でしゃべる時と同じです。あなたはただ受話器に話しかけるだけでいい。そして相手の言ったことを受話器で聞くだけです。

があなたの声が相手に届くには大変複雑なメカニズムが働いております。それを発明した人や電話局で働いている人々がいるわけですが、電話でしゃべっている時はそんな人のことは考えもしないし目にも見えません。

交霊現象もいっしょです。あなたがたは霊媒を通じて聞き、私たちも霊媒を通じて話しかけるのですが、その途中のメカニズムは大変複雑なのです。

 この交霊会のために大勢のスピリットが働いております。発達程度もいろいろです。一方には地上に近い、多分に物質性を具えたスピリットがいます。そういうスピリットでないと出来ない仕事があるのです。

 他方、光り輝く天使の一団もおります。本来属している高い世界での生活を犠牲にして、地上のために働いております。少しでも多く霊的真理を地上にもたらそうと心を砕いているのですが、今までのところ、それはまだ闇夜に輝くほのかな明り程度しかありません。

 しかし、それでもなおそうした神の使者が足繁くこの小さな一室に通うのは、ここがすばらしい場所だからです。すばらしいという意味は建物が大きいとか、高くそびえているとか、広いとかの意味ではありません。

地上に真理という名の光をそそぐ通路としてここが一ばんすぐれているという意味です。こうしたサークルからこそ、地上世界は新らしいエネルギーを摂取するのです。

 それ以外の、もろもろのスピリットを含めて、今夜だけで五千人もの霊がここに集まっております。あなたがたのよく知っている人で交霊会というものに関心のある霊もおれば、こういう場所があることを今まで知らなくて、今日はじめて見学に来たという霊もおります。

 また、霊媒を通じて仕事をするために、私たちがここでどのようにやっているかを勉強して来ている一団もおります。世界各地から来ております。こちらの世界でも、地上に働きかける方法についての研究が盛んに行われているのです。

霊的エネルギーをいかに活用するかが最大の研究課題です。それを無駄にしてはならないからです。そのために、こちらからいろんな形で人間に働きかけております。自分では意識してなくても、霊界からのインスピレーションを受けている人が大勢います。


 偉大な科学者も発明家も教育者も、元をただせば霊界のスピリットの実験道具にすぎない場合があります。法則なり発明なり思想なりが地上に伝わればそれでよいのであって、どこそこの誰れが、といったことは私どもにはまるで関心がないのです。

 宇宙はすべて協調によって成り立っています。一人だけの仕事というのはありません。だからこそスピリットは〝霊団〟を組織するのです。目的に必要とするスピリットを集め、そのうちの一人が代弁者(マウスピース)となって地上に働きかけます。

私も私の所属する霊団のマウスピースです。(編者注──mouth-piece はパイプの吸い口、楽器の吹き口が本来の意味です) 霊団の一人として働く方が自分一人で仕事をするよりはるかにラクに、そして効果的にはかどります。仕事の成果はそうした霊団全部の力を結集した結果であるわけです。

 成果がすばらしいということは霊団の調和がすばらしいということでもあります。それは、霊媒の出来がいいということが霊媒と支配霊との調和がいいということであるのと同じです。そうでないと必ずどこかにきしみが生じます。オーケストラと同じです。

演奏する楽器は一人一人違っていても、ハーモニーさえ取れれば一つの立派なシンフォニーとなります。が、そのうちの一人でも音程を間違えば全体が台なしになってしまいます。調和が大切なゆえんです。』


 シルバー・バーチの交霊会が開かれた場所は最初はハンネン・スワッハー氏の自宅でしたが、のちにバーバネル氏の平屋のアパートの一室(バーバネル氏の書斎)となりました。

いつも使っている椅子に腰かけて入神するだけのことです。がその何の変哲もない部屋に、天使の一団を始めとして科学者、化学者、技術者、研究生、見物人、はては野次馬まで入れて五千人ものスピリットが詰めかけているというのです。シルバー・バーチが 「あなたがたは何もご存知ない」と言うのがわかるような気がします。

 シルバー・バーチの交霊会は私的なもので、出席者も十数人のレギュラーに制限され、これに特別に招待された人が二、三人加わるという、至ってささやかなものですが、英米では、大きな会場で何百人、何千人もの聴衆を前にした公開交霊会(デモンストレーション)というのがよく開かれます。

 霊能者が壇上に上がってスピリットからのメッセージを次々と列席者に伝えていくのですが、そういう会には無数の霊が群がってきますから、背後霊団は霊能者の周りを囲んで邪魔が入らないようにし、一方、メッセージを送りたいと詰めかけるスピリットの中からどれを選ぶかに苦心するそうです。

それだけの配慮をしてもなお野次馬や聞き分けのない嘆願者がしつこく付きまとって、ひと言でいいからしゃべらせてくれとせがむのだそうです。

 高級な霊団に守られた霊媒にしてこの通りですから、霊能者だ、超能力者だというだけで無節操に担ぎ上げることがいかに危険であるかがお分りと思います。

 以上は交霊会全体の裏側を紹介したのですが、シルバー・バーチがバーバネルを支配してしゃべる、そのメカニズムはどうなっているのかをシルバー・バーチに語ってもらいましょう。


 『あなたがたの住む物質界は活気がなくどんよりとしています。あまりにうっとうしく且つ重苦しいために、私たちがそれに合わせようと波長を下げていく途中で高級界との連絡が切れてしまうことがあります。

 譬えてみれば、こうして地上に降りて来た私は、カゴに入れられた小鳥のようなものです。用事を済ませて地上から去って行く時の私は、鳥カゴから放たれた小鳥のように、果てしない宇宙の彼方へよろこび勇んで飛び去って行きます。死ぬということは鳥カゴという牢獄から解放されることなのです。

 さて私があなた方と縁のあるスピリットからのメッセージを頼まれる時は、それなりのバイブレーションに切り換えてメッセージを待ちます。その時の私は単なるマウスピースにすぎません。

状態がいい時は連絡は容易にできます。が、この部屋の近辺で何かコトが起きると混乱が生じます。突如として連絡網が途切れてしまい、私は急いで別のメッセージに代えます。バイブレーションを切り換えなくてはなりません。

 そうした個人的なメッセージの時はスピリットの言っていることが一語一語聞き取れます。それは、こうして私が霊媒を通じてしゃべっている時のバイブレーションと同じバイブレーションでスピリットがしゃべっていることを意味します。

しかし高級界からのメッセージを伝えるとなると、私は別の意識にスイッチを切り換えなくてはなりません。シンボルとか映像、直感とかの形で印象を受け取り、それを言語で表現しなくてはなりません。それは霊媒がスピリットからの通信を受けるのと非常によく似ております。

その時の私は、シルバー・バーチとして親しんで下さっている意識よりもさらに高い次元の意識を表現しなければならないのです。

 とは言え、私は所詮この霊媒(バーバネル)の頭にある用語数の制限を受けるだけでなく、この霊媒の霊的発達程度による制約も受けます。霊媒が霊的に成長してくれれば、その分だけ、それまで表現できなかった部分が表現できるようになるのです。

 今ではこの霊媒の脳のどこにどの単語があるということまで分っていますから、私の思うこと、というよりは、ここに来る前に用意した思想を全部表現することが出来ます。

 この霊媒を通じて語り始めた初期の頃は、一つの単語を使おうとすると、それとつながったほかの要らない単語まで一緒に出て来て困りました。必要な単語だけを取り出すためには脳神経全体に目を配らなくてはなりませんでした。現在でも霊媒の影響を全く受けていないとは言えません。

用語そのものは霊媒のものですから、その意味では少しは着色されていると言わざるを得ないでしょう。が私の言わんとする思想が変えられるようなことは決してありません。

 あなたがた西洋人の精神構造は、私たちインデアンとはだいぶ違います。うまく使いこなせるようになるまでに、かなりの年数がいります。まずその仕組みを勉強したあと、霊媒的素質をもった人々の睡眠中を狙って、その霊体を使って試してみます。そうした訓練の末にようやくこうしてしゃべれるようになるのです。

 他人の身体を使ってみると、人間の身体がいかに複雑に出来ているかがよく分ります。 一方でいつものように心臓を鼓動させ、血液を循環させ、肺を伸縮させ、脳の全神経を適度に刺戟しながら、他方では潜在意識の流れを止めて、こちらの考えを送り込みます。容易なことではありません。

 初めのうちはそうした操作を意識的にやらなくてはならないのです。それが上達の常道というものです。赤ん坊が歩けるようになるには一歩一歩に全意識を集中します。

そのうち意識しなくても自然に足が出るようになります。私がこの霊媒をコントロールするようになるまで、やはり同じ経過を辿りました。一つ一つの操作を意識的にやりました。今では自動的に働きます。

 人間の潜在意識はそれまでの生活によって働き方に一つの習性が出来ており、一定の方向に一定の考えを一定のパターンで送っています。

その潜在意識を使ってこちらの思想なりアイディアなり単語なりを伝えるためには、その流れを一たん止めて、新らしい流れを作らなくてはなりません。

もし似たような考えが潜在意識にあれば、その流れに切りかえます。レコードのようなものです。その流れに乗せれば自動的にその考えが出て来ます。新らしい考えを述べようと思えば新らしいレコードに代えなくてはならないわけです。

 この部屋に入ってくるのに、壁は別に障害になりません。私のバイブレーションにとって壁は物質ではないのです。むしろ霊媒のオーラの方が固い壁のように感じられます。

私のバイブレーションに感応するからです。もっとも、私の方はバイブレーションを下げ、霊媒の方はバイブレーションを高めています。それがうまく行くようになるまで十五年もかかりました。

 こうして霊媒のオーラの中に入っている時はまるで牢獄に入れられているみたいです。その間は霊媒の五感に支配されます。暗闇では物が見えません。もっとも足は使えません。私の仕事に必要でないものは練習しませんでした。脳と手の使い方だけを練習しました。

こうしてしゃべっている時に他のスピリットからのメッセージを伝えることがありますが、その時は霊媒の耳ではなく私自身の霊耳で聞きます。すべてはオーラの問題です。私には私のオーラがあり、霊媒のオーラより鋭敏です。そのオーラに他のスピリットがメッセージを送り込みます。

 それは言ってみれば電話で相手に話しかけながら同じ部屋にいる人の声を聞くのと同じです。二つのバイブレーションを利用しているのです。同時には出来ませんが、切り換えることは出来るわけです。』


  一問一答

問「霊言現象は霊が霊媒の身体の中に入ってしゃべるのですか」

シルバー・バーチ「必ずしもそうではありません。大ていの場合オーラを通じて操作します」


問「霊媒の発声器官を使いますか」

シルバー・バーチ「使うこともあります。現に今の私はこの霊媒の発声器官を使っています。拵えようと思えば私自身の発声器官を (エクトプラズムで)拵えることも出来ますが、そんなことをするのは私の場合はエネルギーの無駄です。

私の場合はこの霊媒の潜在意識を私自身のものにしてしまいますから、全身の器官をコントロールすることが出来ます。いわば霊媒の意志まで私が代行し──霊媒の同意を得た上での話ですが──しばらく身体をあずかるわけです。終って私が退くと霊媒の意識が戻って、いつもの状態に復します」


問「霊媒の霊体を使うこともありますか」 
シルバー・バーチ「ありますが、その霊体も常に肉体につながっています」


問「仕事を邪魔しようとするスピリットから守るために列席者にも心の準備がいりますか」

シルバー・バーチ「いります。一ばん大切なことは身も心も愛の気持ひとつになり切ることです。そうすれば愛の念に満たされたスピリット以外は近づきません」


問「霊界側でもそのための配慮をされるのですか」

シルバー・バーチ「もちろんです。常に邪魔を排除していなくてはいけません。あなたがた出席者との調和も計らなくてはなりません。最高の成果を上げるために全ての要素を考慮しなければなりません。こちらにはそのために組織された素晴らしい霊団がおります」


問「霊媒は本をよく読んで勉強し、少しでも多くの知識をもった方がいいでしょうか。それともそんなことをしないで自分の霊媒能力に自信をもって、それ一つで勝負した方がいいでしょうか」

シルバー・バーチ「それは霊能の種類にもよるでしょうが、霊媒は何も知らない方がいいという考えには賛成できません。知らないよりは知ってる方がいいにきまっています。知識というのは自分より先に歩んだ人の経験の蓄積ですから、勉強してそれを自分のものにするよう努力した方がいいでしょう。私はそう思います」


問「立派な霊能者となるには生活面でも立派でなくてはいけませんか」

シルバー・バーチ「生活態度が立派であれば、それだけ神の道具として立派ということです。ということは、生活態度が高度であればあるほど、内部に宿された神性がより多く発揮されていることになるのです。日常生活において発揮されている人間性そのものが霊能者としての程度を決めます」


問「ということは、霊格が高まるほど霊能者として向上すると言っていいのでしょうか」

シルバー・バーチ「決まりきったことです。生活面で立派であればあるほど霊能も立派になります。自分の何かを犠牲にする覚悟の出来ていない人間にはロクな仕事は出来ません。このことは、こうして霊界での生活を犠牲にして地上に戻って来る私たちが学ばされる教訓といってもいいでしょう」


問「他界した肉親や先祖霊からの援助を受けるにはどうすればいいでしょうか」

シルバー・バーチ「あなたが愛し、あなたを愛してくれた人々は、決してあなたを見捨てることはありません。いわば愛情の届く距離を半径とした円の範囲内で常にあなたを見守っています。時には近くもなり、時には遠くもなりましょう。が決して去ってしまうことはありません。

その人たちの念があなた方を動かしています。必要な時は強く作用することもありますが、反対にあなた方が恐怖や悩み、心配等の念で壁をこしらえてしまい、外部から近づけなくしていることがあります。悲しみに涙を流せば、その涙が霊まで遠く流してしまいます。

穏やかな心、やすらかな気持ち、希望と信念と自信に満ちた明るい雰囲気に包まれている時は、そこにきっと多くの霊が寄ってまいります。


 私たち霊界の者は出来るだけ人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どれだけ接近できるかは、その人の雰囲気、成長の度合、進化の程度にかかっています。霊的なものに一切反応しない人間とは接触できません。

霊的自覚、悟り、ないしは霊的活気のある人とはすぐに接触がとれ、一体関係が保てます。そういう人はスピリチュアリストばかりとは限りません。知識としてスピリチュアリズムのことを知らなくても、霊的なことを理解できる人であればそれでいいのです。

宗教の違い、民族の違い、主義主張の違い、そんなものはどうでもよろしい。冷静で、穏やかで、明るい心を保つことです。それが霊界の愛する人々、先祖霊、高級霊からの援助を得る唯一の道です。恐れ、悩み、心配、こうした念がいちばんいけません」



問「そういう霊にこちらからの念が通じますか」

シルバー・バーチ「一概にイエスともノーとも言いかねます。魂の進化の程度が問題になるからです。波長の問題です。もしも双方がほぼ同程度の段階にあれば通じるでしょう。が、あまりに距離がありすぎれば全く波長が反応し合いませんから、通じないでしょう」


問「他界した人のことを余り心配すると霊界での向上の妨げになるでしょうか」

シルバー・バーチ「地上の人間に霊界の人間の進歩を妨げる力はありません。スピリットはスピリット自身の行為によって向上進化します。人間の行為とは関係ありません」


問「世俗から隔絶した場所で冥想の生活を送っている人がいますが、あれで良いのでしょうか」

シルバー・バーチ「〝良い〟という言葉の意味次第です。世俗から離れた生活は心霊能力の発達には好都合で、その意味では良いと言えるでしょう。

が私の考えでは、世俗の中で生活しつつ、しかも世俗から超然とした生活の方がはるかに上です。つまり霊的自覚に基いた努力と忍耐と向上を通じて同胞のために尽くすことが、人間本来のあるべき姿だと思います」


問「世俗から離れた生活は自分のためでしかないということでしょうか」

シルバー・バーチ「いちばん偉大なことは他人のために己れを忘れることです。自分の能力を発達させること自体は結構なことです。が開発した才能を他人のために活用することの方がもっと大切です」


問「これからホームサークルを作りたいと思っている人たちへのアドバイスを・・・・・・」

シルバー・バーチ 「イヤな思いをすることのない、本当に心の通い合える人々が同じ目的を持って一つのグループをこしらえます。

週一回、同じ時刻に同じ部屋に集まり、一時間ばかり、あるいはもう少し長くてもよろしい、祈りから始めて、そのまま冥想に入ります。目的、動機が一ばん大切です。面白半分にやってはいけません。

人のために役立たせるために霊能を開発したいという一念で忍耐強く、粘り強く、コンスタントに会合を重ねていくことです。そのうち同じ一念に燃えたスピリットと感応し、必要な霊能を発揮すべく援助してくれることでしょう。

言っておきますが、私どもは何かと人目を引くことばかりしたがる見栄っ張りの連中には用はありません。使われずに居睡りをしている貴重な能力を引き出し、同胞のため人類全体のために有効に使うことを目的とした人の集まりには大いに援助します」