Monday, March 16, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

The Spirit Teachings

24節

*本節の内容旧約聖書時代と新約聖書時代の間の記録の欠落に  ついて
*夜明け前の暗黒の時代
*啓示の時代は人間的渇望に応えて訪れる
*神と人間との関係について過度の詮索は無意味
*バイブルを絶対とした議論には応じない
*キリストを神格化せず一人間として再検討せよ
*背後霊も人間の責務の肩代りは出来ない


〔旧約聖書の時代と新約聖書の時代との間に記録のない時代があることについて尋ねてみた。〕


その時期の記録は何も残っておらぬ。その時代は霊界からの働きかけが特殊な場合を除いて控えられたからである。そのことについては詳説はせぬ。われらが今目的としているのは、メルキゼデクに始まりイエスに至る大いなる霊力の流れを指摘することにあるからである。取り敢えずその時期は暗黒と荒廃と霊的飢饉の時代であったこと、そしてその時代が終ってのちに、ようやくわれらが再び人間の心に黎明への希望を目覚めさせることを得たところであると理解すればよい。今その最初の光が射し込んだ――その光の中のささやかな一筋をわれらが受け持っているのである。人間がようやくあたりの暗黒に気づき、その帳(とばり)が取り除かれ光が射し込むことを待ち望んだからである。

同じことが全ての民族についても言える。時として地上的・物質的要素が余りに強く蔓延し、霊的なるものが完全に地上より姿を消したかに思える時期があるが、実際はそうではない。暗黒の時期が去り黎明の時が到れば、潜んでいた霊的胚芽がその芽を出し始める。再び霊力の流れが起こり、人間はかつての真理より一段と高き霊的真理に目覚める。その過程はあたかも、その日の仕事に疲れた人間が休息を求めて横になるのにも似ていよう。あたりのことが皆目判らぬ。精神は心労で擦り減り、身体も疲労困憊(こんぱい)である。内外ともに陰鬱なる空気が漂う。やがて寝入る。そして睡眠によりて身体は元気を回復し、精神は立ち直り、太陽が再びその温かき光を注いでくれていることを知る。身も心も本来の快活さを取り戻し、魂はあたりの生命と美に喜びを見出す。夜明けに味わう、あの躍動する喜びが蘇る。

人類もその長き歴史において同様の体験を繰り返してきた。それまで満足していた古き霊的教訓に知性がうんざりし始める。と同時に、物的要素が勢力を揮いはじめ、疑念と仲違いが生じ、根を張り、その影響が出はじめる。それまでの真理が一つまた一つと疑いの目で見られるようになり、一つまた一つと否定されていく。そして遂に神の真理の光が人間の目から被い隠されたことを識(し)る。太陽は霊的地平線の彼方へと沈み、不活発と陰鬱と暗黒の夜が始まる。神の使者も活動を手控える。地上を無知と絶望の夜が支配するにまかせ、眠れる魂が目を覚まし光を求める時の到来を待ちつつ、ひたすらに耐え忍ぶ。魂は死せるにあらず、ただ眠っているに過ぎぬ。いつかは必ず覚醒の時期が訪れる。そして、その夜明けの黎明の中において神の使者は、暗黒と絶望の中に光と喜びをもたらせてくれた神への讃歌を高らかに謳(うた)うのである。

旧約聖書の最後の記録と共に終息せる霊的期間と、新たに黎明期を迎えた霊的期間との間には、かくの如き暗黒の時代があったのである。そなたたちの時代のすぐ前に、その黎明期があったのである。われらは今こそそなたを霊的黎明に向けて導かんとしているのである。疑ってはならぬ。今こそそなたにとりてその黎明期となるべき時期であり、その夜明けは新たなる知識の夜明けであり、より広き知識の夜明けであり、より確信に満ちた信仰の夜明けとなるであろうことを疑ってはならぬ。その夜明けの光は前期の黄昏(たそがれ)時の薄明りより遙かに強く、且つ鮮明であることであろう。間断なく、ひたすらに待ち望むことである。その夜明けの光を見落とし、再び寝入り、折角の好機を見失うことのなきよう、啓示への備えを怠ってはならぬ。


〔そうした暗黒の時期は必ず啓示の時代の前後に訪れるものであるかを質すと――〕


用語が少しばかり適切さを欠いている。その時期は必ずしも暗黒の時期とは限らぬ。動揺と内的興奮のあとの休息と安らぎの時期であることもある。地上生活に喩えてみれば、身体が栄養摂取のために休息の時期を必要とするのと同じである。地上人類が摂取し得るだけの真理はすでに十分に与えられている。更に多くを必要とする時期までは、それまでの過程が継続される。真理が啓示されるには、それに先立って真理への渇望があらねばならぬ。


――ということは、啓示はまず内部から――つまり、主観的自我に発するということですか。


内部的希求と外部的啓示とが一致するということである。先にも述べた如く、人間は受け入れる能力に余るものは授からぬ。背後霊の指導のもとに徐々に意識を広げつつ、ある段階に至れば一段と次元の高き知識の必要を痛感する。その時こそ新たなる啓示が与えられる時である。神学者の中には、人間自らがその内的思考力によりて理論的ないし思索的思想体系を産み出すのではないかと弁ずる者がいるが、彼らは神の使者たる背後霊の存在を知らぬ。己の思考の産物と思い込めるものも実は背後霊の働きかけの結果なのである。優れた神学者の中には真相近くまで踏み込める者も確かにいる。その者たちがもしも背後霊の存在についての知識を持ち合わせていれば、聖書が完全にして誤りなき啓示であり、一言一句たりとも付加あるいは削除は許されぬものと思い込みたる者よりも、さらにさらに真相に近づくことが出来るであろうにと残念に思う。地上の人間の実生活にとりては、人間の思考作用と啓示との関連について余り細かくこだわる必要はない。分離できぬものを分離せんとしたり、断定できぬものを断定せんとしても、所詮は迷いを深めるのみである。そなたとしては、要するに霊的準備が知識に先行するものであること、進取的精神が真理へのより高き見解をもたらすものであること、そしてその見解が実は背後霊の示唆に他ならぬことを知れば足りる。かくの如く、啓示は人間の必要度と相関関係にあるのである。

真理普及の仕事において人間が頻(しき)りに己の存在価値を求めんとすることに、われらは奇異の念を覚える。一体人間はどうありたいと望むのであろうか。背後から密かに操作することをせずに、直接五感に訴える手段にて精神に働きかけ、思想を形成すれば良いとでも言うのであろうか。奇術師が見事な手さばきで観客を喜ばせる如くに、目に見える不可思議な手段に訴える方がより気高く有効であるとでも言うのであろうか。われらが厳然たる独立性をもつ存在であることを示すに足るだけのものは既に十分に提供したつもりである。われらの働きを小さく見くびることはいい加減にして、われらがそなたの精神に働きかける影響を素直に受け入れてほしい。われらはその精神の中の素材を利用するからこそ、印象が強くなる。われらの仕事にとりて不必要なものも取り除かれるのではないかとの心配は無用である。


――そんな懸念はもっておりませんが、ただ私も自分の個性だけは確信しておきたいという気持ちはあります。また偉大な思想家の中にはもっと広い観点から神の啓示を完全に否定している者が大勢おります。彼らが言うには、人間は自分に理解し得ないものを受け取るわけがないし、自分から考え出した筈もない内容の啓示を外部から受けて、それが精神の中に住み込むことは有り得ないというのですが……


そのことに関しては既に述べてある。それが如何に誤った結論であるかは、いずれ時が経てば判るであろう。そなたはわれらの仕事を何やら個性をもたぬ自発性なき機械の如く考えたがるようであるが、それに対してわれらは断固として異議を唱えるものである。第一、自分の行為をすべて自分の判断のもとに行っていると思うこと自体が誤りである。そなたには単独的行為などというものは何一つない。常にわれらによって導かれ影響を受けておると思うがよい。


〔この通信から数日後に私は新旧両聖書の福音を、この霊訓より得た新しい光に照らして読み直して得た幾つかの結論を述べた。それまでとは全く異なった角度から観たもので、それが正しいと言えるか否か、新しい解釈と言えるか否かを尋ねてみた。〕


大体においてその結論で正しいと言えよう。が、別に新しくはない。これまでも神学的束縛より脱し、障害もこだわりもなく真理を追求せる者は、疾(と)うの昔にそうした結論に達している。その啓示を得た者は大勢いるのである。


――ではなぜ私にその人たちの説を読ませてくれないのです。面倒が省けるでしょうに。


そなたはそなたなりの道を辿りて結論に達するほうが良いのである。それから他人の結論を比較すればよい。


――あなたの態度はいつもそうです。回り道をしているように思えてなりません。仮にあなたのおっしゃる通りだとしても、なぜこんなに永い間私を誤謬の中で生きて来させたのですか。


それは、すでに申した如く、そなたが真理を理解する状態になかったということである。これまでの生活は、そなたが思うほど永かったわけでもないが、進歩のための周到なる準備であった。その時点においては有益であり、進歩を促進するものであった。が、それとても、より高き真理の理解へ導くための準備であったということである。今の段階についても同じことが言えよう。いずれ将来において今を振り返り、この程度のことが何故あれほどまで驚異に思えたのであろうかと、不思議に思えることであろう。

そなたの全存在である生命は常に進歩を求める。しかし、その初期はその後の発達のための準備期間に過ぎぬ。

神学もそなたの訓育のためには通過すべき必須段階の一つだったのであり、われらとしてもそなたがその誤れる見解を摂り入れていくのを敢えて阻止しなかったし、又阻止しようにも出来なかった。これまでのわれらの仕事において、その誤れる教義をそなたの精神より取り除くことが最大の難題の一つであった。が、われらはそれを着々と片付け、今やそなたの目にも、啓示の問題に関し、われらをして誤れる見解を取り除き、正しき知識を吹き込むことを可能ならしめるに要する数々の知識を見出し得るであろう。神学の中にありては如何に尊ぶべきものであろうと、単なる語句に対する因襲的信仰が根を張っているかぎり、われらは何も為し得ぬ。われらとしては、それが聖書にあるなしに関わらず、人間を通して得られる啓示に、それなりの価値をそなたが見出し得るようになるまで待つ他はない。議論に際し、何かというと聖書を持ち出すようでは、われらは何も為し得ぬ。そのような者は理性的教育の及ぶところではない。

イエス・キリストの生涯とその訓えの中には、われらの側より照明を与える前にそなたみずからの判断にて改めて検討し直すべきことが数多く存在する。その生涯に関する記録を検討すれば、多分その信憑性、出所、権威等の問題について再考を促されるであろう。イエスの出生にまつわる話、その語録に基づく贖罪説――イエス自身の贖罪とイエスの御名のもとに説ける者たちの贖罪、奇跡、磔刑(はりつけ)、そして再生へと目を向けるであろう。また神及び同胞に対する責務についてのイエスの教えとわれらの説くところとの比較、祈りについてのイエスの見解と弟子たちの見解、同じくイエスと弟子たちによる運命の甘受と自己犠牲に関する説、慈善、懴悔と回心への寛容、天国と地獄、賞と罰、等々が目に止まることであろう。

今やそなたにはそうした問題について正面より検討する用意が出来た。これまでのそなたはそうした問題については先入的結論をもって対応するのみであった。まずもってその記録の信憑性を検討するがよい。そこに記載された言説のもつ正当なる価値を検討せよ。その上でソクラテス、プラトン、アリストテレス等の哲人の言説を検討するが如くに、イエスの言説を検討することである。誇張的表現を削(そ)ぎ落とし、事実そのものを直視せよ。神がかり的表現を冷静なる理性の光に照らして検討せよ。伝説、神話、因襲の類に過ぎぬものを払い除け、何ものにも拘束されずに、辿りつく結論を恐れることなく、勇気をもって己の判断力一つにて検討してみよ。勇気をもって神を信じ、真理を追求せよ。啓示とは何かについて真剣に、そして冷静に、勇気をもって思考せよ。

そうした勇気ある真理探求者には夢想だにせぬ知識と、いかなる在来の教義も与え得ぬ安らぎを授かることであろう。己一人で求めたことのない者には知り得ぬ、神とその真理とを知ることであろう。一人して遙か遠き他国を訪れ、そこに生活して始めてその国の真実の姿を知り得る如く、神的真理についてその実相に触れることであろう。その者の背後には啓発の任務を帯びる霊団――人類に真理と進歩をもたらすための霊が集結することであろう。かくして旧(ふる)き偏見は崩れ去り、旧き誤謬は新たな光に後ずさりし、それ相応の暗闇へと消え行き、魂は一点の曇りなき目にて真理を見つめることになるであろう。何一つ恐れることはない。イエスもかく語っている――“真理は汝を解き放ち、而(しか)して汝はまさに自由の身とならん(1)”と。


〔私はそれが現実に可能であるならば何を犠牲にしても是非そうありたいと思うと述べた。私は面白くなかった。そして一人で踠(もが)くに任されることに不満を表明した。〕


われらは決してそなたを放置しておくわけではない。援助はする。が、そなた自らが為すべきことを肩代わりすることはせぬ。そなた自身が為さねばならぬ。そなたが努力しておればわれらも真理へと導くであろう。われらを信ぜよ。そなたにとりてはそれが最良の道であり、それ以外には真理を学ぶ道はない。われらがその真理を語ったところでそなたは信じようとしないであろうし、理解しようともせぬであろう。キリスト教の啓示の問題以外にもそなたが目を向けねばならぬものが数多くある。キリスト教以外の神の啓示、キリスト教以外の霊的影響の流れ等々の課題があるが、今はまだその時期ではない。これにて止めよ。神の導きのあらんことを。

(†インペレーター)


シルバー・バーチの霊訓 古代霊は語る

  The Ancient Spirits Speak


第四章 苦しみと悲しみと ──魂の試練

 前章では再生というスピリチュアリズム思想の中でも最も異論の多い課題を取り上げました。たとえ異論はあっても、そこに必ずや真実があるはずであり、万一再生することが真実であれば、これほど人生観に与える影響の大きいものはないと考えたからです。

 影響が大きいと言えば、死後の存続という事実こそ、まずだれにとっても画期的な影響を与える話題であるはずです。

私自身も哲学的な思考の芽生え始めた高校時代にスピリチュアリズムに接して、万一死後もこのまま生き続けるとしたら、賢こぶった哲学的で抽象的な思考にふけっている場合ではないという、せっぱつまった心境で心霊学に取り組み、結果的には一種の思考革命のようなものを体験しました。

 つまり〝生と死〟を深刻な主題としていた思考形式から、死を超越した生のみの思考形式に変異し、それ以後は想像の翼がひとりでにはばたいて、自由自在に広がっていく思いがしました。そしてそれは今なお続いており、私にとってこれほど楽しいレクリエーションはないといってもいいほどです。

 それというのも、シルバー・バーチやマイヤース、イムペレーター等のアカ抜けのした霊界通信のおかげにほかならないのですが、その前に、心霊実験会において目に見えない霊の存在をまざまざと見せつけられていたことが大きな転換のキッカケとなっているようです。


 この死後の存続という事実は今では少なくともスピリチュアリズムでは自明の事実であり、真理探究の大前提となっておりますが、私は、前章でも述べた通り、再生に関する事実も、第一級の霊界通信の述べるところが完全に符節を合しているところから、まず前章で紹介したところが再生の真相とみて差し支えないと信じます。

 とくに半世紀にわたるシルバー・バーチの霊言が、その間いささかの矛盾撞着もなく、首尾一貫して同じ説を述べ続けていることに注目すべきだと考えます。

 そのシルバー・バーチが説いていることの中で特に着目すべきことは、いかなる真理も、それを受け入れる準備が魂に備わるまで、言いかえればそれを理解するだけの意識の開発、難かしく言えば霊格の進化がなければ決して悟ることはできない、ということです。

 従って知識ばかりをいくら溜め込んでも、それが即その人の成長のあかしとはならない。シルバー・バーチの譬えでいえば、世界中の蔵書を全部読んだところで、それを実地に体得しないことには何にもならない。再生する目的はつまるところは体験を求めに来ることにほかならない、というわけです。

 さてその〝体験〟ということを考えてみますと、同じ条件下に置かれても、人によってその反応は百人百様の違いがあるはずです。ましてや男性と女性とでは比較しようもないほどの差があります。

男らしいといい、女らしいといっても、地上の人間に関するかぎり、それは肉体の生理的表現にすぎず、つきつめて言えば性ホルモンの違いというにすぎません。前章のシルバー・バーチの最後の言葉にあるように、大半の人間は物質によって魂が右往左往しているのが現実の姿であることは確かです。

 そうなると当然一回や二回の地上生活ではとても十分とは言えないわけで、その辺に再生の必要性が生じてくるわけですが、厳密に言えばマイヤースの言う通り、たとえ何十回何百回再生を繰り返しても地上体験による魂の成長には限度がある。

つまり魂に響くほどの体験、俗な言い方をすれば、骨身にしみるほどの体験がそうやたらにあるものではないことは、実際に地上生活を送っているわれわれが一ばんよく知っています。

 となると、漫然と日常生活を送ることには何の意味もないことになり、そこに守護霊を中心とする背後霊団の配慮の必要性が生じてまいります。表向きは平凡な生活を送っているようで、その実は次々と悩みや苦労、悲しみのタネが絶えないのが現実です。

シルバー・バーチに言わせれば、それは全て魂の試練として神が与えて下さるのであって、それが無かったら人生は何の意味もないと言います。


 『あなたがたもそのうち肉体の束縛から離れて、物質的な曇りのない目で、地上で送った人生を振り返る時が来るでしょう。その時、その出来ごとの一つ一つがそれぞれに意味をもち、魂の成長と可能性の開発にとってそれなりの教訓をもっていたことを知るはずです。』

 そう述べて、困難も試練もない、トラブルも痛みもない人生は到底あり得ないことを強調します。では少し長くなりますが、シルバー・バーチの訓えに耳を傾けてみましょう。


『この交霊会に出席される方々が、もし私の説く真理を聞くことによってラクな人生を送れるようになったとしたら、それは私が引き受けた使命に背いたことになります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。

それに敢然と立ち向い、それを克服し、そして一層力強い人間となって下さることが私どもの真の目的なのです。

 霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それは一たん身についたらお金を落とすような具合に失くしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐え切れないほどの苦難を背負わされるようなことは決してありません。

解決できないほどの難問に直面させられることは絶対にありません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが、旅する魂の当然の姿なのです。

 それはもちろんラクなことではありません。しかし魂の宝はそう易々と手に入るものではありません。もしラクに手に入るものであれば、何も苦労する必要などありますまい。

痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとって一ばんの薬なのです。

 私どもは、いくらあなた方のことを思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿を、あえて手をこまねいて傍観するほかない場合がよくあります。そこからある教訓を学び取り、霊的に成長してもらいたいと願い祈りながら、です。

知識にはかならず責任が伴うものです。その責任をとってもらうわけです。霊は一たん視野が開ければ、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむことはないはずです。

さんさんと太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身にしみません。魂が目を覚ましそれまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲たれこめる暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。

 地上の人生は所詮は一つの長い闘いであり試練なのです。魂に秘められた可能性を試される職場に身を置いていると言ってもいいでしょう。

魂にはありとあらゆる種類の長所と弱点が秘められております。即ち動物的進化の名残りである下等な欲望や感情もあれば、あなたの個的存在の源である神的属性も秘められているのです。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。

地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには是非とも厳しい試練が必要なのです。

 運命の十字路にさしかかる度毎に、右か左かの選択を迫られます。つまり苦難に厳然として立ち向うか、それとも回避するかの選択を迫られますが、その判断はあなたの自由意志にまかされています。もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。

その時点において取りまかれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスはあらかじめ用意されているのです。

そのチャンスを前にして、積極姿勢をとるか消極姿勢をとるか、滅私の態度にでるか利己主義に走るかは、あなた自身の判断によってきまります。

 地上生活はその選択の連続といってよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生をおりなしていくのであり、同時に又、寿命つきて霊界に来た時に霊界で待ち受けている新しい生活、新しい仕事に対する準備が十分できているか否か、能力的に適当か不適当か、霊的に成熟しているか否か、といったこともそれによって決まるのです。単純なようで実に複雑です。

 そのことで忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということです。地上に再生するに際して、各自は地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。

才能がありながらそれを使用しない者は、才能のない人よりはそれだけ大きい責任を取らされます。当然のことでしょう。

 悲しみは、魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線に降れた時、一ばんよく眠れる魂の目を醒まさせるものです。魂は肉体の奥深くに埋もれているために、それを目覚めさせるためには余ほどの強烈な体験を必要とします。

悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学べる準備の出来た霊にとって深甚なる価値があると言えるのです。

 繰り返し述べて来たことですが、真理は魂がそれを悟る準備の出来た時初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。こちらからいかなる援助の手を差しのべても、それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません。

霊的知識を理解する時機を決するのは魂の発達程度です。魂の進化の程度が決するのです。肉体に包まれたあなたがた人間が、物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来ごとを物的ものさしで量り、考え、評価するのは無理もないことではありますが、それは長い物語の中のホンの些細なエピソード(小話)にすぎません。

 魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂の肥しです。魂がその秘められた力を発揮するにはどういう肥しを摂取すればいいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。

失意のドン底にある時はもう全てが終ったかの感じになるものですが、実はそこから始まるのです。あなたにはまだまだ発揮されていない力───それまで発揮されたものより、はるかに大きな力が宿されているのです。

それはラクな人生の中では決して発揮されません。苦難と困難の中でこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないとその純金の姿を拝むことが出来ないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出て来ないのです。それ以外に方法がないのです。ほかにもあると言う人がもしいるとしても、私は知りません。

 人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気ラクな人生ばかりを送っている者よりも一段と大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。

何もかもがうまく行き、日向ばかりの道を歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということなのです。

 困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂の肥しなのです。むろん困難のさ中にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。つらいのですから。

しかしあとでその時を振り返ってみたとき、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥しであったことを知って、神に感謝するに相違ありません。この世に生まれくる霊魂がみなラクな暮しを送っていては、そこに進歩も開発も個性も成就もありません。

これはきびしい辛い教訓には違いありませんが、何事も、価値あるものほど、その成就には困難がつきまとうのです。魂の懸賞は、そう易々と手に入るものではありません。
℘112   
 神は瞬時たりとも休むことなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日も神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。

あなた方自身さえも裁く資格はありません。物的尺度があまりにも小さすぎるのです。物的尺度でみるかぎり、世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真実の敗北しか見えないでしょう。当然かも知れません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。

 地上ではかならずしも正義が勝つとはかぎりません。なぜなら因果律はかならずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。ですが、地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤はかならずその平衡を取りもどします。

霊的に観て、あなたにとって何が一番望ましいかは、あなた自身にはわかりません。もしかしたら、あなたにとって一ばんイヤなことが実は、あなたの祈りに対する最高の回答であることも有りうるのです。

 ですから、なかなかむずかしいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するよう努めることです。というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。祈りはそれなりの回答が与えられます。

しかしそれはかならずしもあなたがたが望んでいる通りの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとって一ばん望ましい形で与えられます。神は決してわが子を見棄てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的な物さしで批判することはやめなければいけません。


 絶対に誤ることのない霊的真理がいくつかありますが、そのうちから二つだけ紹介してみましょう。一つは動機が純粋であれば、どんなことをしても決して危害をこうむることはないということ。もう一つは人のためという熱意に燃える者にはかならずそのチャンスが与えられるということ。その二つです。あせってはいけません。

何事も気長に構えることです。何しろこの地上に意識を持った生命が誕生するのに何百万年もの歳月を要したのです。

さらに人間という形態が今日のような組織体をもつに至るのに何百万年もかかりました。その中からあなた方のように霊的真理を理解する人が出るのにどれほどの年数がかかったことでしょう。その力、宇宙を動かすその無窮の力に身を任せましょう。誤ることのないその力を信じることです。

 解決しなければならない問題もなく、争うべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」───こうおっしゃる方があるかも知れません。

しかし私は実際にそれを体験してきたのです。あなた方よりはるかに長い歳月を体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私は、ただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりなのです。一つとして偶然ということがないのです。

偶発事故というものがないのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかもが一目瞭然と分かるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。

 あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身をゆだねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って、神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。心の奥を平静にそして穏やかに保ち、しかも自信をもって生きることです。

そうすれば自然に神の心があなたを通じて発揮されます。愛の心と叡智をもって臨めば何事もきっと成就します。聞く耳をもつ者のみが神の御声を聞くことが出来るのです。愛がすべての根源です。愛───人間的愛はそのホンのささやかな表現にすぎませんが───愛こそ神の摂理の遂行者なのです。

 霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にもかならずや神の御加護があることを一片の疑いもなく信じることが出来なければいけません。苦難にも悲しみにもくじけてはいけません。なぜなら霊的な力はいかなる物的な力にも優るからです。

 恐怖心こそ人類最大の敵です。恐怖心は人の心をむしばみます。恐怖心は理性をくじき、枯渇させ、マヒさせます。あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、寄せつけません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこします。


 つとめて恐れの念を打ち消すことです。真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信にあふれ、決して乱れることがあってはなりません。霊の力はすなわち神の力であり、宇宙を絶対的に支配しています。ただ単に力が絶対 all-powerful というだけではありません。

絶対的な叡智 all-wisdom であり、また絶対的な愛 all-love でもあります。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力があるのです。

 はがねは火によってこそ鍛えられるのです。魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは、苦難の中においてこそなのです。苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証しです。

夜明けの前に暗黒があるように、魂が輝くには暗黒の体験がなくてはなりません。そんな時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善をつくし、自分を見守ってくれる神の力に全幅の信頼を置くことです。

 霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部であることを悟らなくてはいけません。陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、いわば硬貨の表と裏のようなものです。表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのです。

人間の進歩のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばワンセット(一組)なのです。

そうした法則の全てに通暁することは人間には不可能です。どうしても知り得ないことは信仰によって補うほかはありません。盲目的な軽信ではなく、知識を土台とした信仰です。

 
 知識こそ不動の基盤であり、不変の土台です。宇宙の根源である霊についての永遠の真理は、当然、その霊の力に対する不動の信念を産み出さなくてはいけません。そういう義務があるのです。それも一つの法則なのです。

恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの霊的雰囲気をかき乱します。われわれは信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念はわれわれ霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。

 太陽がさんさんと輝いて、全てが順調で、銀行にたっぷり預金もあるような時に、神に感謝するのは容易でしょう。しかし真の意味で神に感謝すべき時は辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ内なる力を発揮すべき絶好のチャンスなのです。

しかるべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広がり且つ高まる時であり、その時こそ神に感謝すべき時です。霊的マストに帆をかかげる時です。

 霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験してはじめて、それを理解するための魂の準備が出来あがるのです。

その点がどうもよくわかっていただけないようです。タネを蒔きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。芽を出させるだけの養分が揃わなくてはなりますまい。養分が揃っていても太陽と水がなくてはなりますまい。そうした条件が全部うまく揃った時にようやくタネが芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。

 人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇です。何もかもうまく行き、鼻歌まじりの呑気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験してはじめて、霊的知識を理解する素地が出来あがるのです。

そして一たん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮しはじめることになるのです。

そして一たん身につけたら、もう二度と失うことはありません。それを機に霊界との磁気にも似た強力なつながりが生じ、必要に応じて霊界から力なり影響なり、インスピレーションなり真理なり美なりを引き出せるようになるのです。魂が進化した分だけ、その分だけ自由意志が与えられるのです。

 霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの自由意志を行使することを許されます。あなたは所詮、現在のあなたを超えることは出来ません。そこがあなたの限界といえます。が同時にあなたは神の一部であることを忘れてはなりません。

いかなる困難、いかなる障害も、かならず克服するだけの力を秘めているのです。霊は物質にまさります。霊は何ものにもまさります。霊こそ全てを造り出すエッセンスです。なぜなら、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだからです。』


 一問一答

問「もう一度やり直すチャンスは全ての人間に与えられるのでしょうか」


シルバー・バーチ「もちろんですとも。やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓に埋められて万事が終わるとしたら、この世は正に不公平だらけで、生きてきた不満の多い人生の埋め合わせもやり直しも出来ないことになります。

私どもが地上の人々にもたらすことの出来る最高の霊的知識は、人生は死でもって終了するのではないということ、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、皆もう一度やり直すことが出来るということ、言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。

人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人は内蔵している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスを与えられ、同時に又、愚かにも神の法則を無視し、人の迷惑も考えずに横柄に生きた人間は、その悪業の償いをするためのチャンスが与えられます。神の公正は完全です。

騙すことも、ごまかすことも出来ません。すべては神の眼下にあるのです。神は全てをお見通しです。そうと知れば、真面目に正直に生きている人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは利己主義者だけです」


問「祈りに効果があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがおわかりになると思います。御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。

ああしてほしい、こうしてほしい。カネが欲しい、家が欲しい───こうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな要求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。

一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り、そうした祈りもあります。こうした祈りには魂の内省があります。

つまり自己の不完全さと欠点を意識するが故に、必死に父なる神の加護を求めます。それが本能的に魂の潜在エネルギーを湧出させます。それが真の祈りなのです。

その時の魂の状態そのものがすでに神の救いの手を受け入れる態勢となっているのです。ただ、これまでも何度か言ったことがありますが、そうした祈りを敢えて無視してその状態のまま放っておくことが、その祈りに対する最高の回答である場合がよくあります。

こちらからあれこれ手段を講じることが却って当人にとってプラスにならないという判断があるのです。しかし魂の心底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。

つまりその願望が霊的に一種のバイブレーションを引き起し、そのバイブレーションによって当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引き寄せられます。

危険の中にあっての祈りであれば保護するためのエネルギーが引き寄せられ、同時に、救急のための霊団が派遣されます。それは血縁関係によってつながっている霊もおれば、愛によってつながっている類魂もおります。そうした霊たちはみな自分もそうして救ってもらったことがあるので、その要領を心得ております」


問「いたいけない子供が不治の病で苦しむのはどうしてでしょう。神は本当に公正なのでしょうか」

シルバー・バーチ「霊的な問題を物的尺度で解こうとしても所詮ムリです。ホンの束の間の人生体験で永遠を推し量ることは出来ません。測り知れない法則によって支配されている神の公正を地上生活という小さな小さな体験でもって理解することは絶対にできません。

小さなものが大きいものを理解できるでしょうか。一滴の水が大海を語ることが出来るでしょうか。部分が全体を説明できるでしょうか。

宇宙はただただ〝驚ろくべき〟としか形容のしようのない法則によって支配されており、私はその法則に満腔の信頼をおいております。なぜなら、その法則は神の完全なる叡智の表現だからです。従ってその法則には一つとして間違いというものがありません。

あなたがた人間から見れば不公平に見えることがあるかも知れませんが、それはあなた方が全体のホンの一部しか見ていないからです。もし全体を見ることが出来たら、成るほどと思ってすぐさま考えを変えるはずです。

地上生活という束の間の人生を送っているかぎり〝永遠〟を理解することは出来ません。あなたがた人間にはいわゆる因果応報の働きは分かりません。

霊界の素晴らしさ、美しさ、不思議さは、到底人間には理解できません。というのは、それを譬えるものが地上に存在しないからです。判断の基準には限界があり、視野の狭い人間に一体どうすれば霊界の真相が説明できるのでしょう。


 ご質問の子供の病の話ですが、子供の身体はことごとく両親からの授りものですから、両親の身体の特質が良いも悪いもみな子供の身体に受けつがれていきます。そうなると不治の病に苦しめられる子も当然出てまいりましょう。しかし子供にも神の分霊が宿っております。あらゆる物的不自由を克服できる神性を宿しているのです。

物質は霊より劣ります。霊のしもべです。霊の方が主人なのです。霊的成長はゆっくりとしていますが、しかし着実です。霊的感性と理解力は魂がそれを受け入れる準備ができた時はじめて身につきます。

従って私どもの説く真理も、人によっては馬の耳に念仏で終ってしまうことがあります。が、そういうものなのです。霊的真理に心を打たれる人は、すでに魂がそれを受け入れるまでに成熟していたということです。まるで神の立場から物を言うような態度で物事を批判することは慎しむことです」


問「こんな戦争ばかり続くみじめな世の中に生まれてくる意義があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「生まれてくる来ないの問題は自由意志の問題です。がその問題はさておいて、地上の多くの部分が暗雲におおわれていることは確かです。が、みじめな世の中と言ってしまうのは適切でないと思います。地球には地球なりの宇宙での役割があります。

生命の旅路における一つの宿場です。魂の修行場として一度は通過しなくてはならない世界です。もしも必要でなければ存在するはずがありません。存在しているということそのことが、それなりの存在価値をもっていることを意味します。

 さて、その物質界に生まれてくるのは各自にそれなりの霊界での仕事があり、それを果たすための修練の場としてこの地上を選んでくるわけです。案ずるより産むが易しと言いますが、決断を下す際に縣念したことも、実際に地上に来てみると、結構なんとかやっていけることがわかります。

あなたがたが不幸な子を可哀そうにと思うその気持ちは得てして思い過しであることが多いのです。大人は子供の気持になって考えているつもりで、その実、大人の立場から人生を眺めていることが多いのです。つまり子供自身にとっては恐ろしくも苦しくもない体験を、大人の方が先まわりして恐ろしかろう、苦しかろうと案じているのです」


問「でも、それも必要な場合があるんじゃないでしょうか。たとえば空襲などというのは体験のあるなしにかかわらず恐ろしいことには違いないでしょう」

シルバー・バーチ「おっしゃる通りです。私が言いたいのも実はその点なのです。子供というのは大人と同じ状態に置かれても、その影響の受け方が違います。

オモチャの兵器をいじくっても、子供はその本当の意味、おそろしさはわかりません。それは実は有難いことなのです。子供は何事も体験しないと理解できないのです。頭だけでは理解できないのです」


問「いかなる苦難の中にあっても、又いかなる混乱の中にあっても恐怖心を抱いてはいけないとおっしゃいました。解決はすべて己れの中に見出せるとのことですが、それはどうすれば見出せるのでしょうか」

シルバー・バーチ「地上の人間の全てが同じレベルの意識をもっているわけではないことを、まず認識して下さい。つまり今地上にいる何億何十億という人間の一人一人がみな違った段階を歩んでいるということです。その中には長い長い旅路の末にようやく魂の内奥の神性が発揮される段階に至った人がいます。

混乱の中にあって冷静さを失わず、内部の神性を発揮させる心構えの出来た人がいます。そういう人は必ずや解決策を見出します。〝どうすれば〟とのことですが、実はそういう疑問を抱くこと自体が、あなたがまだまだその段階に至っていないことを意味します。あなたも神の一部なのです。あなたにも神が宿っているのです。

それはホンの小さな一部ですが、神的属性のすべてを潜在的に所有しております。完成されてはいませんが完全なのです。もしも苦境にあってその神性と波長を合わせ、心を平静に保ち、精神的に統一状態を維持することが出来れば、それは宇宙の大霊と一体となることであり、疑いも迷いもなく、従ってそこに恐怖心の入るスキはありません。

波長が合わないからです。そうした心構えが簡単に出来るとは申しません。努力すれば出来ると言っているのです。現にそうした境地に達した人は大勢います」


問「地上生活を繰り返したあとの、魂の究極の運命はどうなるでしょうか」

シルバー・バーチ「究極の運命ですか。私は究極のことは何も知りません。最初と最後のことは私にはどうにもならないのです。生命は永遠です。進化も無限です。始まりもなく終りもないのです。進化は永遠に続くのです」


問「自由意志の使用を過ったが為に罪を犯した場合、神はなぜ過って使用されるような自由意志を与えたのでしょうか」

シルバー・バーチ「では一体どうあって欲しいとおっしゃるのですか。絶対に過ちを犯すことのないように拵えられたロボットの方がいいとおっしゃるのですか。それとも、罪も犯せば聖人君子にもなれる可能性をもった生身の人間の方がいいと思われますか。ロボットは罪を犯さないかも知れませんが、自由意志も、従って進歩もありません。

それでいいのですか。進歩する為には成功と失敗の両方が必要なのです。失敗が無ければ成功もないからです。人生は常に相対的です。困難と矛盾対立の中にこそ進歩が得られるのです。

ラクだから進歩するのではありません。難しいからこそ進歩するのです。その苦しい過程が魂を鍛え、清め、そして成長させるのです。光のないのが闇であり、善でないのが悪であり、知識の無いのが無知であるわけです。

宇宙全体が光になってしまえば、それはもはや光ではなくなります。相対的体験の中にこそ人間は進歩が味わえるのです。ドン底を体験しなければ頂上の味は分かりません。苦労して得たものこそ価値があるのです。ラクに手に入れたものはそれなりの価値しかありません」


問「自殺した者は霊界でどうなるでしょうか」

シルバー・バーチ「それは一概には言えません。それまでどんな地上生活を送ったかにもよりますし、どういう性格だったかにもよりますし、霊格の高さにもよります。が、何といってもその動機が一ばん問題です。

キリスト教では自殺のすべてを一つの悪の中にひっくるめていますが、あれは間違いです。地上生活を自らの手で打ち切ることは決していいことではありませんが、中には情状酌量の余地のあるケースがあることも事実です」


問「でも、自殺してよかったと言えるケースはないでしょう」

シルバー・バーチ「それは絶対にありません。自分の生命を縮めて、それでよかろうはずはありません。しかし自殺した者がみな死後暗黒の中で何千年何万年も苦しむという説は事実に反します」


問「自殺行為は霊的進歩の妨げになりますか」

シルバー・バーチ「もちろんです」


問「神は耐え切れない程の苦しみは与えないとおっしゃったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐え切れない苦しみを受けるからではないでしょうか」

シルバー・バーチ「それは違います。その説明の順序としてまず、これには例外があることから話を進めましょう。

いわゆる精神異常者、霊的に言えば憑依霊の仕業による場合があります。が、この問題は今はワキへ置いておきましょう。いずれにせよこのケースはごく少数なのです。大多数は、私に言わせれば臆病者の逃避行為にすぎません。

果たすべき義務に真正面から取り組むことが出来ず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることが、その苦しみから逃れる一ばんラクな方法だと考えるわけです。ところが死んでも、というよりは死んだつもりなのに、相変らず自分がいる。

そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変らず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを造り出して、それが外界との接触を遮断します。そうした状態のまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。

 しかし、すでに述べたように、一ばん大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今のべた通りそう思惑どおりには行きません。

が一方、これはそう多くあるケースではありませんが、動機が利己主義ではなく利他主義に発しているとき、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発しているときは、たとえそれが思い過しであったとしても、さきの臆病心から出た自殺とはまったく違ってきます。

 いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分自身の手で自分の人生を書き綴っているのです。

一たん書き記したものはもう二度と書き変えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。

 いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になればかならず光が見えてきます。魂の内奥に潜む勇気が湧き出て来ます。その時あなたはその分だけ魂を開発したことになり、霊界からの援助のチャンスも増えます。背負いきれないほどの荷は決して負わされません。

なぜならその荷はみずからの悪業がこしらえたものだからです。決して神が〝この男にはこれだけのものを背負わせてやれ〟と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません。

 宇宙の絶対的な法則のはたらきによってその人間がそれまでに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷を拵えることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。

つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば、それを元通りにすることが出来るはずです」


問「因果律のことでしょうか」

シルバー・バーチ「そうです。それが全てです」


問「たとえば脳神経が異常をきたしてノイローゼのような形で自殺したとします。霊界へ行けば脳がありませんから正常に戻ります。この場合は罪はないと考えてもよろしいでしょうか」

シルバー・バーチ「話をそういう風にもってこられると、私も答え方によほど慎重にならざるを得ません。答え方次第ではまるで自殺した人に同情しているかのような、あるいは、これからそういう手段に出る可能性のある人を勇気づけているようなことになりかねないからです。

 もちろん私にはそんなつもりは毛頭ありません。いまのご質問でも、確かに結果的にみればノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を正直に見てみると、やはりスタートの時点において、私がさきほどから言っている〝責任からの逃避〟の心理が働いているのです。

もしもその人が何かにつまづいたその時点で〝オレは間違っていた。やり直そう。そのためにどんな責めを受けても男らしく立ち向かおう。絶対に背を向けないぞ〟と覚悟をきめていたら、不幸をつぼみのうちに摘み取ることが出来たはずです。

 ところが人間というのは、窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われてきます。

ついにはノイローゼとなり、自分で自分がわからなくなっていくのです。問題はスタートの時点の心構えにあったのです」


問「いわゆるアクシデント(偶発事故)というのはあるのでしょうか」

シルバー・バーチ「非常に難しい問題です。というのはアクシデントという言葉の解釈次第でイエスともノーともなるからです。動機も目的もない、何かわけのわからぬ盲目的な力でたまたまそうなったという意味であれば、そういうものは存在しません。

宇宙間の万物は寸分の狂いもなく作用する原因と結果の法則によって支配されているからです。ただその法則の範囲内での自由意志は認められています。しかしその自由意志にもまた法則があります。わがまま勝手が許されるという意味ではありません。

従って偶発事故の起きる余地はあり得ません。偶発のように見える事故にもそれなりの原因があるからです。ぜひ知っておいていただきたいのは、法則の中にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいるということです。

平面的な単純な法則ではないのです。よく人間は自由意志で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。自由意志の法則と宿命の法則とが入り組んで作用しているのです」


問「病気は教訓として与えられるのだとか、人間性を築くためだとか言う人がおりますが、本当でしょうか」

シルバー・バーチ「言っていること自体は正しいのですが〝与えられる〟という言い方は適切でありません。私どもと同じくあなたがたも法則の中で生きております。そして病気というのはその法則との調和が乱れた結果として起きるのです。

言ってみれば、霊として未熟であることの代償として支払わされるのです。しかしその支払にはまた別に補償という法則もあります。

物ごとには得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観点からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。すべては進化を促すための神の配慮なのです。

 教訓を学ぶ道はいろいろありますが、最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で表われることもあるわけです。

人生は光と陰のくり返しです。片方だけの単調なものではありません。よろこびと悲しみ、健康と病気、晴天とあらし、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。

というのは、その双方に神の意志が宿っているからです。良い事にだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知って下さい」


問「死体は火葬にした方がいいでしょうか」

シルバー・バーチ「絶対、火葬がよろしい。理由にはいろいろありますが、根本的には、肉体への執着を消す上で効果があります。霊の道具としての役割を終えた以上、その用のなくなった肉体のまわりに在世中の所有物や装飾品を並べてみたところで何になりましょう。本人を慰めるどころか、逆に、徒らに悲しみやさびしさを誘うだけです。

 人間の生命の灯が消えてただの物質に帰した死体に対しあまりに執着しすぎます。用事は終ったのです。そしてその肉体を使用していた霊は次のより自由な世界へと行ってしまったのです。死体を火葬にすることは、道具としてよく働いてくれたことへの最後の儀礼として、清めの炎という意味からも非常に結構なことです。

同時に又、心霊知識ももたずにこちらへ来た者が地上の肉親縁者の想いに引かれて、いつまでも墓地をうろつきまわるのを止めさせる上でも効果があります。

 衛生上から言っても火葬の方がいいといえますが、この種の問題は私が扱う必要はないでしょう。それよりもぜひ知っていただきたいことは、火葬までに最低三日間は置いてほしいということです。というのは、未熟な霊は肉体から完全に離脱するのにそれくらい掛かることがあるからです。離脱しきっていないうちに火葬にするとエーテル体にショックを与えかねません」

Sunday, March 15, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

The Spirit Teachings


23節

*本節の内容神の啓示の歴史的系譜
*メルキゼデクよりキリストに至る流れ
*“モーセ五書”
*旧約聖書の大半は伝説と神話の寄せ集め
*啓示も人類の知性と共に進化する
*人間的想像と誤謬に埋もれた素朴な真理を明らかにするのが霊団の使命


〔一八七三年十一月二日。私が提出した質問が無視され、バイブルに記録が見られる時代のキリスト教系全体の神の啓示の発達のあとを本格的に解説して来た。これが、並行して進行している多くの啓示のうちの一つであることは以前から予告されていた。〕


これよりわれらは古き時代においてわれらと同じく人間を媒体として啓示が地上にもたらされた過程について述べたく思う。聖書に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がいる。彼らは地上にありては真理と進歩の光として輝き、地上を去ってのちは後継者を通じて啓示をもたらしてきた。その一人――神が人間に直接的に働きかけるとの信仰が今より強く支配せる初期の時代の一人に、そなたたちがメルキゼデク(1)の名で知るところの人物がいた。彼はアブラム(2)を聖別(3)して神の恩寵の象徴たる印章を譲った。これはアブラムが霊力の媒体として選ばれたことを意味する。当時においては未だ霊との交わりの信仰が残っていたのである。彼は民にとりては暗闇に輝く光であり、神にとりては、その民のために送りし神託の代弁者であった。

ここで今まさに啓発の門出に立つそなたに注意しておくが、太古の記録を吟味する際には、事実の記録と、単に信仰の表現に過ぎぬものとを截然と区別せねばならぬ。初期の時代の歴史には辻褄の合わぬ言説が豊富に見うけられる。それらは伝えられる如く秀でたる人物の著作によるものではなく、歴史が伝説と混り合い、単なる世間の考えと信仰とがまことしやかに語り継がれた時代の伝説的信仰の寄せ集めに過ぎぬ。それ故、確かにそなたらの聖書と同様にその中に幾許かの事実は無きにしもあらずであるが、その言説の一つ一つに無条件の信頼を置くことは用心せねばならぬ。これまでのそなたはそれらの説話を絶対的同意の立場より読んできた。これよりは新しき光――より益多くして興味浅からぬ見地より見る必要があろう。

神は“創世記”に述べられたるが如き、神人同形同性説的なものではない。またその支配は相応しき霊を通して行なわれてきたのであり、決して神自らが特別に選びし民のみを愛されたのではない。

神と人間との結びつきはいつの時代にも一様にして不変である。すなわち、人間の霊性の開発に応じて緊密となり、動物的本能が強まればそれだけ疎遠となり、肉体的並びに物質的本能の為すがままとなる。

かの初期の時代において、選ばれしアブラムに神の聖別を与えたのがメルキゼデクである。が、キリスト教徒もマホメット教徒も挙(こぞ)って称(たた)えるそのアブラムはメルキゼデクの如き直接の霊的啓示には与(あずか)らなかった。アブラムはその死と共に影響力を失い、在世中のみならず死後も、人間界に影響と言えるほどのものは及ぼしていない。そなたには不審に思われることかも知れぬが、地上にその名を馳せたる霊の中にも同じ例が数多くあるのである。地上での仕事が終わりてのち、地上と係われる新たな仕事を授からぬことがある。在世中の仕事に過ちがあったのかも知れぬ。そして死後その霊的香気を失い、無用の存在となり果てることもある。

メルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者、イスラエルの民をエジプトより救い出し、独自の律法と政体を確立せる指導者モーセを導いた。霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強大なる人物であった。当時すでに、当時としては最高の学派において優れた知的叡智――エジプト秘伝の叡智が発達していた。人を引きつける彼の強烈な意志が支配者としての地位に相応しき人物とした。彼を通じて強力なる霊団がユダヤの民に働きかけ、それが更に世界へと広がっていった。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成せしめ、政治的体制を入念に確立し、法と規律を制定した。その時代はユダヤ民族にとりては他の民族も同様に体験せる段階、そして現代も重大なる類似点を有する段階、すなわち古きものが消え行き、霊的創造力によって全てのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階にあったのである。

ここにおいてもまた推理を誤ってはならぬ。モーセの制定せる法律はそなたらの説教者の説くが如き、いつの時代にも適用さるべき普遍的なものではない。その遠き古き時代に適応せるものが授けられたのである。すなわち当時の人間の真理の理解力の程度に応じたものが、いつの時代にもそうであった如く、神の使徒によりて霊的能力を持つ者を通して授けられたのである。当時のイスラエルの民にとりて第一に必要な真理は、彼らを支配し福祉を配慮してくれるのは唯一絶対神であるということであった。エジプトの多神教的教説に毒され、至純なる真理の宿る霊的奥義を知らぬ民に、その絶対神への崇敬と同胞への慈悲と思いやりの心を律法に盛り込んだのである。

今日なお存続せるかの「十戒」は変転きわまりなき時代のために説かれた真理の一端に過ぎぬ。もとよりそこに説かれた人間の行為の規範は、その精神においては真実である。が、すでにその段階を超えた者に字句どおりに適用すべきものではない。かの「十戒」はイスラエルの騒乱より逃れ、地上的煩悩の影響に超然とせるシナイ山の頂上にてモーセの背後霊団より授けられた。背後霊団は今日の人間の忘却せるもの――完全なる交霊のためには完全なる隔離が必要であること、純粋無垢なる霊訓を授からんとすれば低次元の煩雑なる外部からの影響、懸念、取越苦労、嫉妬、論争等より隔絶せる人物を必要とすることを認識していたのである。それだけ霊信が純粋性を増し、霊覚者は誠意と真実味をもって聞き届けることが出来るのである。

モーセはその支配力を徹底せしめ民衆に影響力を行き渡らせる通路として七十人もの長老――高き霊性を具えたる者――を選び出さねばならなかった。当時は霊性の高き者が役職を与えられたのである。モーセはそのために律法を入念に仕上げ、実行に移した。そして地上の役目を終えて高貴な霊となりたる後も、人類の恩人として末長くその名を地上に留めているのである。

メルキゼデクがモーセの指導霊となりたる如く、そのモーセも死後エリヤ(4)の指導霊として永く後世に影響を及ぼした。断っておくが、今われらはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示さんがために、他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。また、その巨大な流れの中に数多くの高級霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最少限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去りたるのちも引き続き地上へ影響を及ぼしている事実を強く指摘せんとしているところである。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。が、それは今のそなたには係わりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大なる流れこそそなたにとりて最大の関心事であろう。もっともそれをもって真理の独占的所有権を主張するが如き、愚かにして狭隘なる宗閥心だけは棄てて貰わねばならぬ。

偉大なる指導者エリヤ、イスラエル民族の授かれる最高の霊はかつての指導者モーセの霊的指揮下にあった。ユダヤ民族が誇るこの二人の指導者への崇敬の念は、神がモーセの死体(からだ)を隠し、一方エリヤを火の馬車に乗せて天国へさらって行ったという寓話にも示されている(5)。崇敬の念のあまりの強さがこうした死にまつわる奇怪な話を生んだのである。指摘するまでもないと思うが、霊が生身の肉体を携えて霊の世界に生き続けることは絶対にない。偉大なる仕事を成し遂げたる霊が次の世界より一段と強力に支配することを教えんが為の寓話に過ぎぬ。エリヤはその後継者エリシャ(6)に己の霊を倍加して授けたという。が、それはエリシャが倍加された徳を賦与されたという意味ではない。そのようなことは有り得ぬことだからである。そうではなく、エリヤの霊力による輝ける業績が後継者の時代に倍の勢力をもって働きかけ、エリシャがそれを助成し実践していったという意味であった。

そのエリヤもまた後の世に地上に戻り指導に当たった。そなたも知る如く、かの“変容(7)”の山上にてモーセと共にキリストの側(そば)にその姿を見せた。二人はその後ヨハネにも姿を見せ、それよりのちにも再び地上を訪れることを告げたとある。


〔私はこの通信の書かれた十一月二日の時点では最後の一文にあるような、二人がのちに再び地上に戻ると述べたということが全く理解できなかった。それがヨハネ黙示録11-3、その他に出ている“二人の証人”のことであることが分かったのは最近のことで、それも私の無名の友人が送って来たヨハネ黙示録に関する小論文を読んで始めてそれと気づいたことで、もしもその小論文を見なかったら知らずじまいになるところであった。その小論文はたまたまその二人の証人と二人の予言を扱ったもので、私にとっては実にうまい時機(タイムリー)に届けられたのだった。

右の通信で私はいろいろと質問をしたが、その中でメルキゼデクの前にも神の啓示を受けた霊覚者がいたかどうかを尋ねた。すると――〕


無論である。われらは最後にイエスに至る流れの最初の人物としてメルキゼデクを持ち出したに過ぎぬ。その流れの中でさえ名を挙げることを控えた人物が大勢いる。すでに述べた如く、その多くが神の啓示を受けていた。エノク(8)がその一人であった。彼は霊覚の鋭き人物であった。同じくノア(9)がその一人であった。もっとも、霊覚は十分ではなかった。デボラ(10)も霊覚の鋭き人物であり、歴史にて“イスラスルの士師”と呼ばれる行政官はすべて、霊感の所有者であるという特殊の資格をもって選ばれたのであった。そのことにつきて詳しく述べる余裕はない。ユダヤの歴史に見られるその他の霊力の現われにつきては、こののち述べることもあろう。今はまずその古き記録全般に視点を置き、さらにその中の霊的な流れの中から(イエスに連なる)一つだけに絞っていることを承知されたい。


――あなたはそうした古い記録は文字どおりに受け取ってはならぬとおっしゃったことがあります。“モーセ五書(11)”のことですが、あれは一人の著者によるものでしょうか。


あの五書はエズラ(12)の時代に編纂されたものである。散逸の危険にあった更に太古の時代の記録を集め、その上に伝説または記憶でもって補充した部分もある。モーセより以前には生の記録は存在せぬ。「創世記」の記録も想像の産物もあれば伝説もあり、他の記録からの転写もある。天地創造の記述や大洪水の物語は伝説に過ぎぬ。エジプトの支配者ヨセフ(13)に関する記述も他の記録からの転写である。が、いずれにせよ現在に伝えられる“五書”はモーセの手になるものではない。エズラとその書記たちが編纂したものであり、その時代の思想と伝説を表わしているに過ぎぬ。もっとも、モーセの律法に関する叙述は他の部分に比して正確である。何となれば、その律法の正確な記録が聖なる書として保存され、その中より詳細な引用が為されたのである。かく述べるのは、論議の根拠として“五書”の原文が引用された際に一々その点を指摘する面倒を省くためでもある。記録そのものが字句どおりに正確ではないのである。ことに初めの部分などは全く当てにならず、後半も当てになるのは正確な記録が残っていたモーセの律法に関する部分のみである。


――想像の産物だとおっしゃいましたが。


散逸せる書を補充する必要があり、それを記憶または伝説から引き出したという意味である。


――アブラハム(14)のことは簡単にあしらっておられるようですが。


そういうわけではない。神の使者としてその霊的指導に当たれるモーセに比して霊格の程度が低かったというに過ぎぬ。こうした問題を扱う上において、われらは一々人間界の概念にはこだわらぬ。アブラハムは人間界ではその名を広く知られているが、われらにとりては、さして重要なる存在ではない。


――エノクとエリヤの生身での昇天――あれは何だったのでしょう。


伝説的信仰に過ぎぬ。民衆の崇敬を得た人物の死にはとかく栄光の伝説がまとわりつくものである。太古において民衆に崇められ畏敬の念をもってその名が語られた人物は、生身のまま天の神のもとへ赴いたとの信仰が生まれたものである。霊力の行使者であり、民衆の最高指導者であったモーセもその死に神秘なる話が生まれた。生前においては神と直接(じか)に親しく話を交わし、今やその神のもとへ赴いたと信じられた。同様に、人間的法律を超越し、何一つ拘束力を知らず、あたかも風の如く来り風の如く去った神秘的霊覚者エリヤ――彼もまた生身のまま天へ召されたと信じられた。いずれの場合もその伝説の根底にある擬人的神と物的天国の観念による産物であった。前にも述べた如く、人間は神と天国に関してその霊的発達程度以上のものは受けとめることは出来ぬ。古代においては神を万能の人間――すべての点で人間的であり、更にその上にある種の特性、人間の自然の情として更にかく有りたいと憧れる特質を具えた人間として想像した。言い換えれば人類の理想像にある特性を付加し、それを神と呼んだのであった。これは決して嘲笑(あざわら)うべきことではない。程度こそ違え人類の歴史は同じことの繰り返しである。すべての啓示は、元は神より出でても生身の霊覚者を通過し、しかもその時代の人類の発達程度に適合させねばならぬ以上、人間的愚昧の霧によりて曇らされるのは必定である。それは地上という生活環境においては避け難き自然な結果と言うべきである。そこで人間の知識が進歩し叡智が発達するに従い、当然、神の観念も改められることを要する。人間がその必要性を痛感して始めて新たなる光が授けられるのである。(そなたらの中には神と霊的生活と進歩に関してわれらの教説からは何一つ学ぶものはないと言う者がいるが、その者たちには今述べたことが最良の回答である。)

天国についても同じである。そなたらは前時代の者が想像し来れる天国の概念を大幅に改めて来た。今どき生身のまま天国の館に赴くなどと信ずる愚か者はおるまい。地上にて崇められたる人物が生身を携えて擬人的神のもとへ昇天して行くなどと信じた時代はもはや過去のものとなった。まさかそなたはその生身を携えて全知全能の神のまわりにて、あたかも地上でするが如くに、讃美歌三昧に耽るなどとは想像すまい。そのような天国は根拠なき夢想に過ぎぬ。霊の世界へ入るのは霊のみである。肉体のまま天空のどこかへ連れて行かれ、そこで地上とまったく同じように、人間と同じ容姿の神、ただ能力において人間を超越しているというに過ぎぬ神のもとで暮らすなどという寓話は、そなたはすでに卒業しているであろう。そのような天国は預言者ヨハネに象徴的に啓示された天国像からの借用に過ぎぬ。そのような神が存在するわけのないことくらいはそなたにも判るであろう。昇天の時(死)は全ての善人に訪れる(15)。が、生身のままではない。地上の務めを終えた疲れ果てたる身体より脱け出で、栄光ある魂としてより明るき世界、いかなる霊覚者の想像をも絶する輝ける天国へと召されるのである。


――伝説の中にもあとで事実であったことが判明したものが沢山あります。問題は事実と伝説とを見分けることが困難なこと、毒草を抜こうとして薬草までいっしょに抜いてしまう危険があることです。神話の中にもちゃんとした意味をもち、立派な真理を含んだものがあります。


それはその通りである。そなたらが聖なる記録としているものの中に混入せる伝説は、多くの場合、偉大なる人物にまつわる迷信的信仰である。神話の中に真理の核が包蔵されていることも事実である。これまでも度々指摘したことであるが、人間はわれらの如き霊とその影響力と目的に関して余りに誤れる概念を抱いてきた。その原因には人間としてやむを得ぬ要素もあるが、克服できる要素もある。知性の幼稚な段階においては、その知性の理解力を超えたものは絶対に理解できぬのが道理である。

それはやむを得ぬことである。それまで生きて来た環境、体験せる唯一の環境と全く異なれる環境の霊的生活を正しく想像できるわけはない。そこで図解と比喩をもって教えねばならぬことになる。これもやむを得ぬことである。ところが人間は比喩として述べた言葉と観念をそのまま掻き集め、そこから辻褄の合わぬ愚かなる概念を築き上げる。これよりのちそなたも、知識の進歩と共に、その過程をより一層明確に理解することになるであろう。

また人間は神の啓示は全て普遍的適用性をもち、一字一句に文字通りの意味があるものと思い込んで来た。われらの説き方はいわば親が子に教えるのと同じであることが判らなかった。抽象的な真理の定義を説いても子供の頭では理解できぬ。子供は教えられた事柄をそのまま受け止める。それと同じ態度で人間は啓示の一言一句をあたかも数学的かつ論理的に正確なるものとして受け止め、その上に愚かにして自己矛盾に満ちた説を打ち立てる。子供は親の言葉を躊躇なく受け入れ、それを金科玉条とする。それが実は譬え話であったことを知るのは大人になってからのことである。人類も神の啓示を同じように扱ってきた。比喩的表現に過ぎぬものを言葉どおりに解釈してきた。謬りだらけの、しかも往々にして伝説的記録に過ぎぬものを数学的正確さをもって扱ってきた。かくして今なお嫉妬に狂う神だの、火炎地獄だの、選ばれし者のみの集まる天国だの、生身のままの復活だの、最後の審判だのという愚か極まる教説を信じ続けている。これらはいわば幼児の観念であり、大人になれば自然に卒業していくべきものである。霊性において成人せる人間はすべからくそうした幼稚なる概念を振り棄て、より高き真理へと進まねばならぬ。

然るに現実は、原始的迷信、愚か極まる作り話がそのまま横行している。想像力に富める民族が描ける誇張的映像がそのまま事実として受け入れられている。数々の空想と誤謬と真理とがまさに玉石混淆となり、より高き真理を理解せる理知的人間にはとても付いて行けぬ。そうした支離滅裂の寄せ集めを一つに繋いでいるものは他ならぬ信仰心である。われらはその信仰心を切断し、信仰心のみで無批判に受け入れて来たものを理性でもって検討し直せと言っているのである。きっとその中には人類の幼児時代より受け継がれた人間的産物を多く見出すであろう。煩わしく且つ無益なるものに反撥することであろう。が、同時に、その残りの中に理性に訴えるもの、体験によりて裏付けされたもの、そして神より出でしものを発見するであろう。父なる神が子なる人間に用意せる計画の一端を暗示するものを手にすることであろう。が、今のそなたにはそれ以上のことは叶わぬ。そなたは、今のその心に余りに多く巣くうところの愚かなる誤謬と誤解より解放された新しき局面を切り開くことのみで佳しとせねばならぬ。過去は根本においては現在へ投げかける照明として、そしてまた未来を照らす仄(ほの)かなる光としての価値を有するものであることを、そなたもそのうち次第に認識していくことであろう。

これで判っていただけるであろうが、われらの現在の仕事の目的もそこにある。すなわち神と生命と進化につきてそなたたちがこれまで抱いて来た思想を一層純粋なるものに近づけ、恥ずべき要素を排除することである。そのためにはまずそなたたちの教義の中の誤りと、神的真理として罷り通って来た人間的想像の産物と、理性的には反撥を覚えつつも信仰心によって受け入れられ、今や歴史的事実の如く結晶してしまった伝説を指摘せねばならぬのである。われらとしてはそなたらの側に忍耐強き真摯なる思考を要求する他はない。またわれらの為すことを全て破壊的と受け取ってはならぬ。夾雑物が取り除かれれば建設も可能となろう。それまでは、もしもそなたの目にわれらが破壊的思想を撒き散らしていると見えるならば、それはより神々しき神の、より崇高なる神殿、より聖なる聖堂を築かんがための予備工事として、まず夾雑物を掻き集め、それを取り除かんとしているに過ぎぬと理解されたい。

(†インペレーター)

シルバー・バーチの霊訓 古代霊は語る

 The Ancient Spirits Speak



第三章 再生 ──生まれ変わり──

 因果律と切っても切れない関係にあるのが再生の問題です。つまり他界後あるいは期間をおいて再びこの地上(時には他の天体)へ生まれ出て、必要な体験を積み、あるいは前世の償いをするという説です。

シルバー・バーチはこの再生を全面的に肯定するスピリットの一人ですが、そのシルバー・バーチの霊媒をつとめていたバーバネル氏が永い間この説に反対していたという事実は、シルバー・バーチとバーバネル氏が別人である───

言いかえればシルバー・バーチはバーバネル氏の潜在意識ではない、ということを示す有力な証拠として、今なお有名な語り草になっています。

 さて、ひと口に再生といっても、同じ人間がそっくりそのまま生まれ変わるのだという説、いわゆる全部的再生説、未浄化の部分だけが生まれてくるのだという説、いわゆる部分的再生説、全部でも一部でも無い、

ちょうど人間が子ダネを宿すように、守護霊(となるべきスピリット)が霊的なタネを母体の胎児に宿すだけだという説、いわゆる創造的再生説、等々があります。

 同じスピリチュアリズムの中にあって何故こんなに説が分かれるのか。その点をまずシルバー・バーチに説明してもらいましょう。

『知識と体験の多い少ないの差がそうした諸説を生むのです。再生の原理を全面的に理解するには大変な年月と体験が必要です。霊界に何百年何千年いても、再生の事実を全く知らない者がいます。

なぜか。それは、死後の世界が地上のように平面的でなく、段階的な内面の世界だからです。その段階は霊格によって決まります。その霊的段階を一段また一段と上がっていくと、再生というものが厳然と存在することを知るようになります。もっともその原理はあなた方が考えるような単純なものではありませんが・・・・・・』

 霊界にしてこの有様ですから、地上の人間に至っては尚更のことで、太古より世界各地にさまざまな再生にまつわる信仰がありました。

単に人間としての再生だけでなく、動物への生まれ変わりを説くものもあります。ただ機械的に何回も何回も、それこそ無限に再生をくり返すと説く宗教もあります。

 では再生の真相はどうなのか。そしてその目的は何なのか、これをシルバー・バーチに説いてもらうことにしますが、その前に、再生問題を扱うに当たって大切な課題の一つに、用語の整理があります。

中でも一ばん中心的な用語となるのは「自我」「意識」「個人的存在」などで、これらを正しく理解していないと再生の真相は理解できません。

 浅野和三郎氏の名訳にマイヤースの『永遠の大道』と『個人的存在の彼方』の二冊がありますが、前者の原題は The Road to Immortality となっていて、これを文字通りに訳せば「永遠不滅への道程」ということで、

結局後者の『個人的存在の彼方』 Beyond Human Personality と同一の内容を意味していることになります。つまり個人的存在を超えた大我こそが真に永遠不滅の存在だというのです。

(私の師で浅野氏の弟子であった間部詮敦氏の話によりますと、浅野氏は人間味とか人間らしさというものを大切にされた方だったそうで、その著書や訳書の題名にどこか文学的色彩や風味を感じさせるのはそのせいでしょう。私もこれは非常に大切なことだと思います。「永遠の大道」を、内容にこだわって「永遠への大道」とすると味が損われるような気がします。)

 さて今私たちが〝自分〟として意識しているものは実は絶対的な個人的存在ではなく、真の自我である大きな意識体の一部又は一面にすぎない。その個人的存在の彼方にある大我へ回帰していく過程がとりもなおさず人生であるというわけです。

 その個人的存在を超えた意識の集団をマイヤースは Group Soul と呼び、これを浅野氏は 「類魂」 と訳しました。達意の名訳というべきで、これよりほかにいい訳語が思い当たりませんが、問題はその正しい理解です。マイヤースの通信を読んでみましょう。まず The Road to Immortality から───

 『類魂は見方によっては単数でもあり複数でもある。一個のスピリットが複数の類魂を一つにまとめているのである。脳の中に幾つかの中枢があるように、心霊的生活においても一個のスピリットによって結ばれた一団の霊魂があり、それが霊的養分を右のスピリットから貰うのである。

 私はさきに帰幽者を大別して「霊の人」「魂の人」「肉の人」の三つに分けたが、その中の「魂の人」となると大部分は再び地上生活に戻りたいとは思わない。

が彼らを統一しているスピリットは幾度でも地上生活を求める。そしてそのスピリットが類魂同士の強いきずなとなって、進化向上の過程において互いに反応し合い刺激し合うのである。

従って私が霊的祖先というとき、それは肉体的祖先のことではなく、そうした一個のスピリットによって私と結びつけられた類魂の先輩たちのことを言うのである。

一個のスピリットの内に含まれる魂の数は二十の場合もあれば百の場合もあり、また千の場合もあり、その数は一定しない。ただ仏教でいうところの業(カルマ)は確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世の業ではなくて、

私よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型(パターン)のことをさすことがある。同様に私も自分が送った地上生活によって類魂の他の一人に型を残すことになる。

かくして吾々はいずれも独立した存在でありながら、同時に又、いろいろな界で生活している他の霊的仲間たちからの影響を受け合うのである。

 そしてこの死後の世界に来て霊的に向上していくにつれて、われわれは次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そしてついには個人的存在に別れを告げてその類魂の中に没入し、仲間たちの経験までもわがものとしてしまう。

ということは、結局人間の存在には二つの面があるということである。すなわち一つは形態の世界における存在であり、もう一つは類魂の一員としての主観的存在である。

 地上の人たちは私のこの類魂説をすぐには受け入れようとしないかも知れない。たぶん彼らは死後において不変の独立性にあこがれるか、あるいは神の大生命の中に一種の精神的気絶を遂げたいと思うであろう。が私の類魂説の中には実はその二つの要素が見事に含まれているのである。

すなわちわれわれは立派な個性をもつ独立した存在であると同時に、また全体の中の不可欠の一部分でもあるのである。私のいう第四界(色彩界)、とくに第五界(光焔界)まで進んでくると、全体としての内面的な協調の生活がいかに素晴らしく、また美しいかがしみじみとわかってくる。

存在の意義がここに来て一段と深まり、そして強くなる。又ここに来てはじめて地上生活では免れない自己中心性、すなわち自己の物質的生命を維持するために絶え間なく他の物質的表現を破壊していかねばならないという、地上的必要悪から完全に解脱する。』


 以上は浅野氏訳の「類魂」の章の主要部分を原書に照らしながら読み易く書き改めたものです。私が浅野氏の訳に出会ったのは高校三年の時、ある先輩の心霊家の家を訪れた際に勝手に書棚をあさっているうちに、昭和初期の『心霊と人生』という月刊誌(浅野氏が主筆)が出てきて、その中に連載されていたのを読んだのが最初でした。

 残念ながらその家には全部は揃っておりませんでした。しかし題名の魅力もさることながら、その内容にただならぬものを感じた私は、大学へ進学してからも何とかしてこの全篇を読みたいという気持ちを持ち続けました。

そして浅野氏のあとを引きついで『心霊と人生』を発行し続けている脇長生氏の主催する都内数ヵ所の心霊の集いに毎週のように出席して、該書をもっている人を探し求めました。

そしてついに探し出して、後日それをお借りして徹夜でザラ紙のノートに写しました。いま私が参照しているのもそのノートです。

 その後私はこの『永遠の大道』の原書をバーバネル氏の心霊出版社から取り寄せて、浅野氏の訳と照らし合わせながら読み耽ったものですが、右の「類魂」の章まで読み来った時、宇宙の壮大でしかもロマンチックな大機構に触れる思いがして、思わず感激し、しばし随喜の涙にくれたことはすでに述べました。

 マイヤースは同書の別のところで、宇宙の創造主は多分大数学者ではなくて大芸術家だろうと述べています。

その意味は、宇宙の法則はシルバー・バーチも言っている通り寸分の狂いもなく数学的正確さをもって機能していますが、しかし同時にそこにうまみがあり、美しさがあり、ロマンがあるというのです。私にもそれがわかるような気がします。

 さてマイヤースのもう一つの霊界通信に『個人的存在の彼方』があります。これも『永遠の大道』と同じく浅野氏が絶讃し翻訳しています。

これも私はノートにコピーしたものを所有していますが、原書を読んでみると、通信は三部から構成されていて、浅野氏の訳はその第二部を訳出したものにすぎないことがわかりました。

 確かにこの第二部は圧巻であり、褒めることの滅多になかった浅野氏が絶讃したのも肯ける内容であることに間違いないのですが (余談ですが、浅野先生が 「読んでも損はない」 と言った時は非常にいい本だということであり、「ちょっといい」と言った時はもう絶讃したことになったということを間部先生から聞かされました)、 

第一部および第三部にも珠玉のような内容のものが散見されます。その一つがこれから紹介する 「再生」 Reincarnation の項で、『永遠の大道』の「類魂」の章の足らざる部分を補うような形になっています。むしろ、これを読んで初めて類魂というものが全体的に理解できるのではないかと思われます。

 『地上で動物的本能の赴くままに生きた人間が、こんどは知的ないし情緒的生活を体験するために再び地上に戻ってくることは、これはまぎれもない事実である。言いかえれば、私のいう 「肉の人」はまず間違いなく再生する。

 私のいう「魂の人」の中にも再生という手段を選ぶ者がいないわけではない。が、いわゆる輪廻転生というのは機械的な再生の繰り返しではない。一つの霊が機械が回転するように生と死を繰り返したという例証を私は知らない。百回も二百回も地上に戻るなどということはまず考えられない。

その説は明らかに間違っている。もちろん原始的人間の中には向上心つまり動物的段階から抜け出ようとする欲求がなかなか芽生えない者がいるだろうし、そういう人間は例外的に何度も何度も再生を繰り返すかも知れない。が、

まず大部分の人間は二回から三回、ないしせいぜい四回くらいなものである。もっとも中には特殊な使命または因縁があって八回も九回も地上に戻ってくる場合もないではない。

従っていい加減な数字を言うわけにはいかないが、断言できることは、人間という形態で五十回も百回も、あるいはそれ以上も地上をうろつきまわるようなことは絶対にないということである。

 たった二回や三回の地上生活では十分な経験は得られないのではないか、こうおっしゃる方がいるのかも知れない。がその不足を補うための配慮がちゃんと用意されているのである。

 乞食、道化師、王様、詩人、母親、軍人、以上は無数にある生活形態の中から種類と性質のまったく異なるものを無雑作に拾い上げてみたのであるが、注目すべきことは、この六人とも五感を使っている

(不幸にしてそのうちの一つないし二つを失えば別だが)という点では全く同じであること、言いかえれば人間生活の基本である喜怒哀楽の体験においては全く同じ条件下にあり、ただ肉体器官の特徴とリズムがその表現を変えているにすぎない、ということである。

 そうは言っても、彼らが地上生活を六回送っても、人間的体験全体からみればホンの一部分しか体験できないことは確かである。苦労したといっても多寡が知れている。

人間性の機微に触れたといっても、あるいは豁然大悟したといっても、その程度は知れたものである。人間の意識の全範囲、人間的感覚のすべてに通暁するなどということはまず出来ない相談だといっていい。

それなのに私は、地上生活の体験を十分に身につけるまでは(特殊な例外を除いては)、死後において高級界に住むことは望めない、とあえて言うのである。

 その矛盾をとくのが私のいう類魂の原理である。われわれはそうした無数の地上的体験と知識を身につけるために、わざわざ地上に戻ってくる必要はない。他の類魂が集積した体験と知識をわがものとすることが可能なのである。

誰れにでも大勢の仲間がおり、それらが旅した過去があり、いま旅している現在があり、そしてこれから旅する未来がある。類魂の人生はまさしく「旅」である。

私自身はかつて一度も黄色人種としての地上体験をもたないが、私の属する類魂の中には東洋で生活した者が何人かおり、私はその生活の中の行為と喜怒哀楽を実際と同じように体験することが出来るのである。

 その中には仏教の僧侶だった者もいれば、アメリカ人の商人だった者もおり、イタリア人の画家だった者もいる。その仲間たちの体験を私がうまく吸収すれば、わざわざ地上におりて生活する必要はないのである。

 こうした類魂という〝より大きな自分〟の中に入ってみると、意志と精神と感性とがいかにその偉力を増すものであるかが分かる。自意識と根本的性格は少しも失われていない。それでいて性格と霊力が飛躍的に大きくなっている。

幾世紀にもわたる先人の叡智を、肉体という牢獄の中における〝疾風怒涛〟の地上生活によってではなく、肌の色こそ違え、同じ地上で生活した霊的仲間たちの体験の中から、愛という吸引力によってわがものとすることが出来るのである。

 仮りに不幸にして不具の肉体を持って地上に生まれたとすれば、それは前世において何らかの重大な過ちを犯し、それを償うには、そうした身体に宿るのが一ばん効果的であるという判断があったと解釈すべきである。

 たとえば白痴に生まれついた者は、それなりの知能で地上生活を実感し、それなりの地上的教訓を吸収することを余儀なくさせられる。地上で暴君とか残忍な宗教裁判官だった者は、白痴とか精神薄弱児として再生することがよくある。

つまり他界後彼らは自分の犠牲者たちの苦しみをみて深く反省し、良心の苛責を感じるようになる。時にはその苛責があまりに大きくて、精神的中枢が分裂することがある。そしてその状態のまま地上の肉体に生まれ変わる。

言いかえれば地上時代の罪悪の記憶に追い回され、悪夢にうなされ、さらには犠牲者たちが自分に復しゅうしようとしているという妄想によって、それが一段と強烈になっていき、ついには精神的分裂症になったまま再生するのである。

 再生には定まった型というものはない。一人一人みな異なる。死後の生活においては、だれしも地上生活を振り返り、その意義を深く吟味する時期がかならず来る。

原始的人間であれば、それが知性でなく本能によって、つまり一種の情感的思考によって行われ、魂の深奥が鼓舞される。その時、類魂を統一しているスピリットが再び地上に戻る考えを吹き込む。

といって、決して強制はしない。あくまで本人に選択の自由が残されている。が、スピリットは進化にとって最も効果的な道を示唆し、個々の類魂も大ていの場合その指示に従うことになる。

 初めて地上に生まれてくる霊の場合は特別な守護が必要なので、類魂との霊的なつながりが特に密接となり、その結果その直接の守護に当たる霊のカルマが強く作用することになる。

守護霊は多分三回ないし四回の地上生活を体験しているであろうが、まだ完全に浄化しきってはいない。言いかえると、霊的進化にとって必要な物的体験をすべて吸収しきってはいない。

そこでその不足を補うのに次の二つの方法が考えられる。一つは、さきほど紹介した類魂の記憶の中に入っていく方法と、もう一つは地上に生まれた若い類魂の守護霊となり、自分の残したカルマの中でもう一度その類魂と共に間接に地上生活を送る方法である。

 後者の場合、地上の類魂はいわば創造的再生の産物である。言ってみれば自分の前世の生き証人であり、これによって霊的に一段と成長する。

 霊魂とは創造的理解力の中枢である。が、中にはその力が乏しくてどうしても創造主の心の中に入り込むことが出来ない者がいる。そんな時、類魂を統一するスピリットは、永遠不滅の超越界に入る資格なしとみて、いま一度始めからのやり直しを命じる。

私が前著をThe Road to Immortality(永遠への道程)と呼びThe Road of Immortality (永遠なる道程)としなかったのはそのためである。

中途で落伍する者がいるということである。が、それまでの旅路で得たものは何一つ無駄にならないし、何一つ失われることはない。すべての記憶、すべての体験は類魂の中にあずけられ、仲間の活用に供せられるのである。

 私は確信をもって言うが、私のいう〝霊の人〟のうちのある者は、たった一回きりしか物質界を体験しない。また私の考えでは、イエス・キリストはエリアの再生ではない。他の何者の再生でもない。イエスは神の直接の表現、すなわちことばが肉となったのである。

イエスはたった一度だけ地上に降りて、そして一気に父なる神のもとに帰っていった。イエスにとって途中の段階的進化の旅は無用であった。そこにイエス・キリストの神性の秘密が存在する。』


 エリアというのは旧約聖書に出てくる紀元前九世紀ごろのヘブライの預言者のことです。キリスト教界ではイエスはエリアの再来であると説く人がいるためにこんなことをマイヤースも言うわけです。

 余談になりますが、シルバー・バーチがキリスト教について語っている中に「今もしイエスが地上に再来し同じ教説を説いたら、真っ先に石を投げつけるのは現在のキリスト教徒たちでしょう」

というくだりがあります。言うまでもなく、現在のキリスト教が二千年前にイエスが説いた教えとはすっかり違ったものになっていることを言っているわけですが、同じことが仏教をはじめとして他の既成宗教のすべてに言えるのではないでしょうか。だからこそ改めて霊的真理を説くためにやってきたのだとシルバー・バーチは言うのです。

 余談はさておき、以上のマイヤースの説明で、類魂というものが概略だけでもおわかりいただけたと思います。そして又、再生というものがその類魂の進化という大目的のために行われるものであることも理解いただけたと思います。


 再生の哲理をこの類魂の原理で説いたのは、私の知るかぎりではマイヤースが初めてですが、哲理の内容そのものは、シルバー・バーチが説くところやアラン・カルデックの 『霊の書』 に見られる複数の霊からの自動書記通信と完全に符節を合してしております。

 特にシルバー・バーチの場合は、「それはマイヤースのいう類魂と同じものですか」という問いに対して「まったく同じです」と断言しており、非常に興味を覚えます。

 これからそのシルバー・バーチの説くところを紹介していくわけですが、この再生問題に関するかぎりシルバー・バーチは一方的にしゃべるということをせず、質疑応答の形に終始しております。

 これはカルデックの『霊の書』でも同じで、察するところ、霊的なことには地上的用語で説明できないことがあり、中でも再生の原理はその最たるものであり、人間側からの質問の範囲に留めるということになったのでしょう。その証拠に、シルバー・バーチはこんなことを言っているのです。


 『宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、われわれ霊界の者から見れば、それは実在のかすかなるカゲを見たにすぎません。

鈍重なる物質によってその表現が制限されているあなたがたに、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問いにどうして答えられましょう。

 私の苦労を察して下さい。譬えるものがちゃんとあれば、どんなにか楽でしょうが、地上にはそれがない。あなた方にはせいぜい光と闇、日なたと日かげの比較ぐらいしか出来ません。

虹の色は確かに美しい。ですが、地上の言語で説明の出来ないほどの美しい色を虹に譬えてみても、美しいものだという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです。』


 そういう次第でシルバー・バーチには再生に関する長文の叙述はなく、細かい質疑応答から成っております。それはそれなりに非常にわかりやすく、いわゆる痒いところに手の届く利点があります。

 が私の察するところでは、いい意味で人間には秘密にされている部分もあるようです。つまり宇宙の内奥に関するものには人間には絶対に理解できないものがあるらしいのです。それは右の引用文からも察せられますが、再生の大体の概念、基本的原理に関する限りでは、シルバー・バーチとカルデックとマイヤースは完全に同じことを説いております。

 私はこれが再生に関する真相──少なくとも人間に理解できる範囲での真相であるとみて差支えないと信じます。マイヤースの類魂説を冒頭にもってきたのも、それがシルバー・バーチの説くところと完全に符節を合し、再生の基本概念を伝える論説として適切であるとみたからです。

 これを細かく敷衍(ふえん)する目的で、これからシルバー・バーチと列席者との一問一答を紹介してまいりましょう。

  
  一問一答

 まず再生は自発的なのか、それとも果たすべき目的があって已むを得ず再生するのかという問いに対して、シルバー・バーチはその両方だと答えます。ということは、要するにそれなりの意味があって、それが得心がいったから再生するということかと聞かれて、まさにその通りだと答えます。それから次のような応答が展開します。


問「ということは、つまり強制的というわけですね」

シルバー・バーチ「強制的という言葉の意味が問題です。誰れかから再生しろと命令されるのであれば強制的と言ってもいいでしょうが、別にそういう命令が下るわけではありません。

 ただ地上で学ばねばならない教訓、果たすべき仕事、償うべき前世の過ち、施すべきでありながら施さなかった親切、こうしたものを明確に意識するようになり、今こそそれを実行するのが自分にとって最良の道だと自覚するようになるのです」


問「死後は愛のきずなのある者が生活を共にすると聞いておりますが、愛する者が再生していったら、残った者との間はどうなるのでしょう」

シルバー・バーチ「別に問題はありません。物質的な尺度で物事を考えるから、それが問題であるかのように思えてくるのです。何度も言っていることですが、地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分にすぎません。私はそれを大きなダイヤモンドに譬えています。

一つのダイヤモンドには幾つかの面があり、そのうちの幾つかが地上に再生するわけです。すると確かに一時的な隔絶が生じます。つまりダイヤモンドの一面と他の面との間には物質という壁が出来て、一時的な分離状態になることは確かです。が愛のきずなのあるところにそんな別れは問題ではありません」


問「霊魂は一体どこから来るのですか。どこかに魂の貯蔵所のようなものがあるのですか。地上では近ごろ産児制限が叫ばれていますが、作ろうと思えば子供はいくらでも作れます。でもその場合、魂はどこから来るのですか」

シルバー・バーチ「こう申しては何ですが、あなたの問いには誤解があるようです。あなた方が霊魂をこしらえるのではありません。人間がすることは、霊魂が自己を表現するための器官を提供することだけです。生命の根源である〝霊〟は無限です。

無限なるものに個性はありません。その一部が個体としての表現器官を得て地上に現われる。その表現器官を提供するのが人間の役目なのです。〝霊〟は永遠の存在ですから、あなたも個体に宿る以前からずっと存在していたわけです。が個性を具えた存在、つまり個体としては受胎の瞬間から存在を得ることになります。

霊界にはすでに地上生活を体験した人間が大勢います。その中にはもう一度地上に来て果たさねばならない責任、やり直さなければならない用事、達成しなければならない仕事といったものを抱えている者が大勢います。そして、その目的のための機会を与えてくれる最適の身体を探し求めているのです」


問「人間の霊も原始的段階から徐々に進化して来たものと思っていましたが・・・・・」

シルバー・バーチ「そうではありません。それは身体については言えますが、霊は無始無終です」


問「古い霊魂と新しい霊魂との本質的な違いはどこにありますか」

シルバー・バーチ「本質的な違いは年輪の差でしょう。当然のことながら古い霊魂は新しい霊魂より年上ということです」


問「類魂の一つ一つを中心霊の徳性の表現とみてもいいでしょうか」

シルバー・バーチ「それはまったく違います。どうも、こうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天の日のあの青く澄み切った空の美しさを説明するようなもので、譬えるものがないのですから困ります」


問「それはフレデリック・マイヤースのいう類魂と同じものですか」

シルバー・バーチ「まったく同じです。ただし、単なる霊魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化のために各自が物質界に体験を求めてやって来るのです」


問「その意識の本体に戻った時、各霊は個性を失うのではないかと思われますが・・・」

シルバー・バーチ「川が大海へ注ぎ込んだ時、その川の水は存在が消えるでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏している時、バイオリンならバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか」


問「なぜ霊界通信のすべてが生まれ変わりの事実を説かないのでしょうか」

シルバー・バーチ「証明のしようのないものをあれこれ述べても仕方がありますまい。意識が広がって悟りの用意が出来あがった時はじめて真理として受け入れられるのであって、要は霊的進化の問題です。再生など無いと言う霊は、まだその事実を悟れる段階まで達していないからそう言うにすぎません。

宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしようがないでしょう。芸術家がインスピレーションの話を芸術的センスゼロの人に聞かせてどうなります。意識の程度が違うのです」


問「再生するのだということが自分でわかるのでしょうか」

シルバー・バーチ「魂そのものは本能的に自覚します。しかし知的に意識するとは限りません。神の分霊であるところの魂は、永遠の時の流れの中で、一歩一歩、徐々に表現を求めています。が、どの段階でどう表現しても、その分量はホンの少しであり、表現されない部分が大部分を占めます」


問「では無意識のまま再生するのでしょうか」

シルバー・バーチ「それも霊的進化の程度次第です。ちゃんと意識している霊もいれば意識しない霊もいます。魂が自覚していても、知覚的には意識しないまま再生する霊もいます。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題で、とても地上の言語では説明しかねます」


問「生命がそのように変化と進歩を伴ったものであり、生まれ変わりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか」

シルバー・バーチ「愛はかならず成就されます。なぜなら愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛はかならず愛する者を引き寄せ、また愛する者を探し当てます。愛する者同士を永久に引き裂くことは出来ません」


問「でも再生をくり返せば互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが」

シルバー・バーチ「一致しないのはあなたの天上の幸せの観念と私の天上の幸せの観念の方でしょう。宇宙及びその法則は神が拵えたのであって、あなた方が拵えるのではありません。

賢明なる人間は新しい事実を前にすると自己の考えを改めます。自己の考えに一致させるために事実を曲げようとしてみても所詮は徒労に終ることを知っているからです」


問「これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間であってもいいと思うのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「物質界にあっても聖人は聖人ですし、最下等の人間はいつまでも最下等のままです。体験を積めば即成長というわけにはいきません。要は悟りの問題です」


問「これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか」

シルバー・バーチ「そうです。無限に続きます。なんとなれば苦難の試練を経て初めて神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられて初めてその輝きを見せるように、神性も苦難の試練を受けて初めて強く逞しい輝きを見せるのです」


問「そうなると死後に天国があるということが意味がないのではないでしょうか」

シルバー・バーチ「今日あなたには天国のように思えることが明日は天国とは思えなくなるものです。というのは真の幸福というものは今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです」


問「再生する時は前世と同じ国に生まれるのでしょうか。例えばインデアンはインデアンに、イギリス人はイギリス人に、という具合に」

シルバー・バーチ「そうとは限りません。目指している目的のために最も適当と思われる国、民族を選びます」


問「男性か女性かの選択も同じですか」

シルバー・バーチ「同じです。必ずしも前生と同じ性に生まれるとはかぎりません」


問「死後、霊界に行ってから地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してからまた同じ罪の償いをさせられるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのですか」

シルバー・バーチ「償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。

生まれ変わるということは必ずしも罪の償いのためとはかぎりません。欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。もちろん償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながらそれを果たせなかったことをもう一度学びに行くという場合もあります。罪の償いとばかり考えてはいけません。

ましてや二度も罰せられるということは決してありません。神の摂理を知れば、その完璧さに驚ろかされるはずです。決して片手落ちということがないのです。完璧なのです。神そのものが完全だからです」


問「自分は地上生活を何回経験している、ということをはっきりと知っている霊がいますか」

シルバー・バーチ「います。それがわかるようになる段階まで成長すれば自然にわかるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることができないのと同じです。名前をいくつか挙げても結構ですが、それでは何の証拠にもなりますまい。何度も言ってきましたように、再生の事実は〝説く〟だけで十分なはずです。

私は神の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知っている通りを述べているのです。私の言うことに得心がいかない人がいても、それは一向にかまいません。私はあるがままの事実を述べているだけですから。

人が受け入れないからといって、別にかまいません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう」


問「再生問題は問題が多いから、それを避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼるという考えは如何でしょう」

シルバー・バーチ「暗やみにいるより明るいところにいる方がいいでしょう。少しでも多く法則を知った方が知らないよりはましでしょう。人間が神の分霊であり、それ故に死後も生き続けるという事実は、真理探究の終着駅ではありません。そこから本格的探究が始まるのです」


問「新しい霊魂はどこから来るのですか」

シルバー・バーチ「その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこから来るというものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命力そのものであり、神そのものなのです。聖書でも〝神は霊なり〟と言っております。

ですからその質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、という意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答えしましょう」


問「ということは、われわれは神という全体の一部だということですか」

シルバー・バーチ「その通りです。だからこそあなた方は常に神とつながっていると言えるのです。あなたという存在は決して切り捨てられることはあり得ないし、消されることもあり得ないし、破門されるなどということもあり得ません。生命の根源である神とは切ろうにも切れない、絶対的な関係にあります」


問「でも、それ以前にも個体としての生活はあったのでしょう」

シルバー・バーチ「これまた用語の意味がやっかいです。あなたのおっしゃるのは受胎の瞬間から表現を開始した霊魂はそれ以前にも個体としての生活があったのではないか、という意味でしょうか。その意味でしたら、それはよくあることです。

但し、それはいま地上で表現し始めた個性と同じではありません。霊は無限です。無限を理解するには大変な時間を要します」


問「再生するに際して過ちのないように指導監督する官庁のようなものが存在するのでしょうか」

シルバー・バーチ「こうした問題はすべて自然法則の働きによって解決されます。再生すべき人は自分でそう決心するのです。

つまり意識が拡大し、今度再生したらこれだけの生長が得られるということがわかるようになり、それで再生を決意するのです。再生専門の機関や霊団がいるわけではありません。すべて魂自身が決めるのです」


問「再生するごとに進歩するのでしょうか。時には登りかけていた階段を踏みはずして一番下まで落ちるというようなこともあるのでしょうか」

シルバー・バーチ「すべての生命、とくに霊的な生命に関するかぎり、常に進歩的です。今は根源的な霊性についてのみ述べています。それが一ばん大切だからです。

一たん神の摂理に関する知識を獲得したら、それを実践するごとに霊性が生長し、進歩します。進歩は永遠に続きます。なぜなら、完全なる霊性を成就するには永遠の時間を要するからです」


問「先天性心臓疾患の子や知能障害児は地上生活を送っても何の教訓も得られないのではないかと言う人がいます。私たちスピリチュアリストはこうした難しいことは神を信じて、いずれは真相を理解する時が来ると信じているわけですが、疑い深い人間を説得するいい方法はないものでしょうか」

シルバー・バーチ「疑い深い人間につける薬はありません。何でも疑ってかかる人は自分で納得がいくまで疑ってかかればよろしい。納得がいけばその時はじめて疑いが消えるでしょう。私は神学者ではありません。宗教論争をやって勝った負けたと言い争っている御仁とは違います。

すべては悟りの問題です。悟りが開ければ、生命の神秘の理解がいきます。もっとも、全てを悟ることは出来ません。全てを悟れるほどの人なら、地上には来ないでしょう。地上は学校と同じです。少しずつ勉強し、知識を身につけていくうちに、徐々に霊性が目覚めていきます。

するとさらに次の段階の真理を理解する力がつくわけです。それが人生の究極の目的なのです。激論し合ったり、論争を求められたりするのは私は御免こうむります。

私はただこれまで自分が知り得たかぎりの真理を説いて教えてさしあげるだけです。お聞きになられてそれはちょっと信じられないとおっしゃれば、〝そうですか。それは残念(アイアムソリー)ですね〟と申し上げるほかはありません」


問「霊に幾つかの側面があり、そのうちの一つが地上に生まれ、残りは他の世界で生活することもありうる、という風におっしゃいましたが、もう少しくわしく説明していただけませんか」

シルバー・バーチ「私たち霊界の者は地上の言語を超越したことがらを、至ってお粗末な記号にすぎない地上の言語でもって説明しなくてはならない宿命を背負っております。言語は地上的なものであり、霊はそれを超越したものです。その超越したものを、どうして地上的用語で説明できましょう。

これは言語学でいう意味論の重大な問題でもあります。私に言わせれば、霊とはあなた方のいう神、 God、 私のいう大霊 Great spirit の一部分です。あなた方に理解のいく用語で表現しようにも、これ以上の言い方は出来ません。

生命力 life force、 動力 dynamic、 活力 vitality、 本質 real essence、神性 divinity 、それが霊です。仮に私が〝あなたはどなたですか〟と尋ねたらどう答えますか。〝私は〇〇と申す者です〟などと名前を教えてくれても、あなたがどんな方かは皆目わかりません。

個性があり、判断力をもち、思考力を具え、愛を知り、そして地上の人間的体験を織りなす数々の情緒を表現することの出来る人───それがあなたであり、あなたという霊です。その霊があるからこそ肉体も地上生活が営めるのです。

霊が引っ込めば肉体は死にます。霊そのものに名前はありません。神性を具えているが故に無限の可能性をもっています。無限ですから無限の表現も可能なわけです。

その霊にいくつかの面があります。それを私はダイヤモンドに譬えるわけです。それぞれの面が違った時期に地上に誕生して他の面の進化のために体験を求めるのです。もしも二人の人間が格別に相性がいい場合(めったにないことですが)、それは同じダイヤモンドの二つの面が同じ時期に地上に誕生したということが考えられます。

そうなると当然二人の間に完全なる親和性があるわけです。調和のとれた全体の中の二つの部分なのですから。これは再生の問題に発展していきます」


問「あなたがダイヤモンドに譬えておられるその〝類魂〟について、もう少し説明していただけませんか。それは家族関係(ファミリー)のグループですか、同じ霊格を具えた霊の集団ですか、それとも同じ趣味をもつ霊の集まりですか。あるいはもっとほかの種類のグループですか」

シルバー・バーチ「質問者がファミリーという言葉を文字通りに解釈しておられるとしたら、つまり血縁関係のある者の集団と考えておられるとすれば、私のいう類魂はそれとはまったく異なります。

肉体上の結婚に起因する地上的姻戚関係は必ずしも死後も続くとは限りません。そもそも霊的関係というものは、その最も崇高なものが親和性に起因するものであり、その次に血縁関係に起因するものが来ます。

地上的血縁関係は永遠なる霊的原理に基くものではありません。類魂というのは、人間性にかかわった部分にかぎって言えば、霊的血縁関係ともいうべきものに起因した霊によって構成されております。

同じダイヤモンドを形づくっている面々ですから、自動的に引き合い引かれ合って一体となっているのです。その大きなダイヤモンド全体の進化のために個々の面々が地上に誕生することは有り得ることですし、現にどんどん誕生しております」


問「われわれ個々の人間は一つの大きな霊の一分子ということですか」

シルバー・バーチ「そういってもかまいませんが、問題は用語の解釈です。霊的には確かに一体ですが、個々の霊はあくまでも個性を具えた独立した存在です。その個々の霊が一体となって自我を失ってしまうことはありません」


問「では今ここに類魂の一団がいるとします。その個々の霊が何百万年かの後に完全に進化しきって一個の霊になってしまうことは考えられませんか」

シルバー・バーチ「そういうことは有り得ません。なぜなら進化の道程は永遠であり、終りがないからです。完全というものは絶対に達成されません。一歩進めば、さらにその先に進むべき段階が開けます。

聖書に、己れを忘れる者ほど己れを見出す、という言葉があります。これは個的存在の神秘を説いているのです。つまり進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていくということです。おわかりですか。

個人的存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり、個性的存在というのは霊魂に具わっている紳的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて利己性が薄れ、一方、個性はますます発揮されていくわけです」


問「〝双子霊〟Twin Souls というのはどういう場合ですか」

シルバー・バーチ「双子霊というのは一つの霊の半分ずつが同時に地上に生を享けた場合のことです。自分と同じ親和性を持った霊魂───いわゆるアフィニティ affinity ───は宇宙にたくさんいるのですが、それが同じ時期に同じ天体に生を享けるとはかぎりません。

双子霊のようにお互いが相補い合う関係にある霊同士が地上でめぐり合うという幸運に浴した場合は、正に地上天国を達成することになります。

霊的に双子なのですから、霊的進化の程度も同じで、従ってその後も手に手を取り合って生長していきます。私が時おり〝あなたたちはアフィニティですね〟と申し上げることがありますが、その場合がそれです」


問「双子霊でも片方が先に他界すれば別れ別れになるわけでしょう」

シルバー・バーチ「肉体的にはその通りです。しかしそれもホンの束の間のことです。肝心なのは二人が霊的に一体関係にあるということですから、物質的な事情や出来ごとがその一体関係に決定的な影響を及ぼすことはありません。

しかも、束の間とはいえ地上での何年かの一緒の生活は、霊界で一体となった時と同じく、素晴らしい輝きに満ちた幸福を味わいます」


問「物質界に誕生する霊としない霊とがいるのはなぜですか」

シルバー・バーチ「霊界の上層部、つまり神庁には一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験をしなくても生長進化を遂げることが出来るのです。

頭初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上に降りてくることがあります。歴史上の偉大なる霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合がいくつかあります」


問「大きな業(カルマ)を背負って生まれてきた人間が、何かのキッカケで愛と奉仕の生活に入った場合、その業がいっぺんに消えるということは有り得ますか」

シルバー・バーチ「自然法則の根本はあくまでも原因と結果の法則、つまり因果律です。業もその法則の働きの中で消されていくのであって、途中の過程を飛び越えていっぺんに消えることはありません。原因があればかならずそれ相当の結果が生じ、その結果の中に次の結果を生み出す原因が宿されているわけで、これはほとんど機械的に作動します。

質問者がおっしゃるように、ある人が急に愛と奉仕の生活に入ったとすれば、それはそれなりに業の消滅に寄与するでしょう。しかし、いっぺんにというわけには行きません。愛と奉仕の生活を積み重ねていくうちに徐々に消えていき、やがて完全に消滅します。業という借金をすっかり返済したことになります」


問「戦争とか事故、疫病などで何万もの人間が死亡した場合も業だったのだと考えるべきでしょうか。持って生まれた寿命よりも早く死ぬことはないのでしょうか。戦争は避けられないのでしょうか。もし避けられないとすると、それは国家的な業ということになるのでしょうか」


シルバー・バーチ「業というのは詰まるところは因果律のことです。善因善果、悪因悪果というのも大自然の因果律の一部です。その働きには何者といえども介入を許されません。

これは神の公正の証として神が用意した手段の一つです。もしも介入が許されるとしたら、神の公正は根底から崩れます。因果律というのは行為者にそれ相当の報酬を与えるという趣旨であり、多すぎることもなく少なすぎることもないよう配慮されています。

それは当然個人だけでなく個人の集まりである国家についても当てはまります。次に寿命についてですが、寿命は本来、魂そのものが決定するものです。

しかし個人には自由意志があり、また、もろもろの事情によって寿命を伸び縮みさせることも不可能ではありません。戦争が不可避かとの問いですが、これはあなた方人間自身が解決すべきことです。

自由意志によって勝手なことをしながら、その報酬は受けたくないというようなムシのいい話は許されません。戦争をするもしないも人間の自由です。が、もし戦争の道を選んだら、それをモノサシとして責任問題が生じます」

問「寿命は魂そのものが決定するとおっしゃいましたが、すべての人間にあてはまることでしょうか。たとえば幼児などはどうなるのでしょう。判断力や知識、教養などが具わっていないと思うのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「この世に再生する前の判断力と、再生してからの肉体器官を通じての判断力とでは大きな差があります。もちろん再生してからの方が肉体器官の機能の限界のために大きな制限を受けます。しかし大半の人間は地上で辿るべき道程について再生前からあらかじめ承知しています」


問「地上で辿るべきコースがわかっているとすると、その結果得られる成果についてもわかっているということでしょうか」

シルバー・バーチ「その通りです」


問「そうなると、前もってわかっているものをわざわざ体験しに再生することになりますが、そこにどんな意義があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「地上に再生する目的は、地上生活から戻って来て霊界で行うべき仕事があって、それを行うだけの霊的資格(実力)をつけることにあります。前もってわかったからといって、霊的進化にとって必要な体験を身につけたことにはなりません。

たとえば世界中の書物を全部読むことは出来ても、その読書によって得た知識は、体験によって強化されなければ身についたとは言えますまい。霊的生長というのは実際にものごとを体験し、それにどう対処するかによって決まります。その辺に地上への再生の全目的があります」


問「航空機事故のような惨事は犠牲者及びその親族が業を消すためなのだから前もって計画されているのだという考えは、私にはまだ得心がいきませんが・・・・・・」

シルバー・バーチ「ご質問はいろいろな問題を含んでおります。まず〝計画されている〟という言い方はよくありません。そういう言い方をすると、まるで故意に、計画的に、惨事をひき起こしているように聞こえます。すべての事故は因果律によって起こるべくして起きているのです。

その犠牲者───この言い方も気に入りませんが取り敢えずそう呼んでおきます───の問題ですが、これには別の観方があることを知って下さい。つまり、あなたがたにとって死はたしかに恐るべきことでしょう。

が私たち霊界の者にとっては、ある意味でよろこぶべき出来ごとなのです。赤ちゃんが誕生すればあなた方はよろこびますが、こちらでは泣き悲しんでいる人がいるのです。

反対に死んだ人は肉体の束縛から解放されたのですから、こちらでは大よろこびでお迎えしています。次に、これはあなた方には真相を理解することは困難ですが、宿命というものが宇宙の大機構の中で重大な要素を占めているのです。

これは運命と自由意志という相反する二つの要素が絡み合った複雑な問題ですが、二つとも真実です。つまり運命づけられた一定のワクの中で自由意志が許されているわけです。説明の難かしい問題ですが、そう言い表わすほかにいい方法が思い当たりません」

 
問「事故が予知できるのはなぜでしょう」 

シルバー・バーチ「その人が一時的に三次元の物的感覚から脱して、ホンの瞬間ですが、時間の本来の流れをキャッチするからです。大切なことは、本来時間というのは〝永遠なる現在〟だということです。このことをよく理解して下さい。

人間が現在と過去とを区別するのは、地上という三次元の世界の特殊事情に起因するのであって、時間には本来過去も未来も無いのです。三次元の障壁から脱して本来の時間に接した時、あなたにとって未来になることが今現在において知ることが出来ます。

もっとも、そうやって未来を予知することが当人にとってどういう意味をもつかは、これはまた別の問題です。

単に物的感覚の延長にすぎない透視、透聴の類いの心霊的能力 psychic powers によっても予知できますし、

霊視・霊聴の類いの霊感 spiritual powers によっても知ることができます。psychic と spiritual は同じではありません。いわゆるESP(Extra Sensory Perception 超感覚的知覚)は人間の霊性には何のかかわりはなく、単なる五感の延長にすぎないことがあります」


問「占星術というのがありますが、誕生日が人の生涯を支配するものでしょうか」

シルバー・バーチ「およそ生命あるものは、生命をもつが故に何らかの放射を行っております。生命は常に表現を求めて活動するものです。その表現は昨今の用語で言えば波長とか振動によって行われます。右中間のすべての存在が互いに影響し合っているのです。

雷雨にも放射活動があり、人体にも何らかの影響を及ぼします。言うまでもなく太陽は光と熱を放射し、地上の生命を育てます。木々も永年にわたって蓄えたエネルギーを放射しております。

要するに大自然すべてが常に何らかのエネルギーを放射しております。従って当然他の惑星からの影響も受けます。それはもちろん物的エネルギーですから、肉体に影響を及ぼします。

しかし、いかなるエネルギーも、いかなる放射性物質も、霊魂にまで直接影響を及ぼすことはありません。影響するとすれば、それは肉体が受けた影響が間接的に魂にまで及ぶという程度にすぎません」


問「今の質問者が言っているのは、たとえば二月一日に生まれた人間はみんな同じような影響を受けるのかという意味だと思うのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「そんなことは絶対にありません。なぜなら霊魂は物質に勝るものだからです。肉体がいかなる物的影響下におかれても、宿っている霊にとって征服できないものはありません。もっともその時の条件にもよりますが。

いずれにせよ肉体に関するかぎり、すべての赤ん坊は進化の過程の一部として特殊な肉体的性格を背負って生まれてきます。それは胎児として母体に宿った日や地上に出た誕生日によって、いささかも影響を受けるものではありません。

しかし、そうした肉体的性格や環境の如何にかかわらず、人間はあくまでも霊魂なのです。霊魂は無限の可能性を秘めているのです。

その霊魂の本来の力を発揮しさえすれば、如何なる環境も克服しえないことはありません。もっとも、残念ながら、大半の人間は物的条件によって霊魂の方が右往左往させられておりますが・・・・・・」


Saturday, March 14, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


22節

*本節の内容インペレーター、天界の祈りの集    会に参列
*地上の汚れを払い落とし気分一新のために時    おり天界に戻る
*いかなる高級霊も人間界に降りれば人間臭を    帯 びる
*霊の身元を証す新しいケース
*著者の心境


〔インペレーターが暫く不在だったので、次に出た時にその理由を尋ねると、地上とは別の用事があって留守にしたということだった。そして、別に私のそば――という言い方が適切かどうかは別として――にいなくても影響を行使することは出来るが、そのためにはいわば意念の操作を必要とするということであった。そうなると他に急務が生じた場合にそれも出来なくなる。今回も、そしてこれまでにも何回かあったが、霊界の上層部において、神への厳かな崇拝と讃仰の祈りを捧げるために数多くの霊が一堂に集結したという(1)。その他の質問に対して多くの返答があったが、次はその一部である。(十月十二日)〕


われらは神への礼拝と祈願のために暫し地上の使命につきまとう気遣いと苦心より離れ、讃仰の境涯の安らかなる調和の雰囲気に浸ってきた。使命に挫折と衰微を来し、悲しみの余り気弱となり、あるいは熱意に燃えて邁進する勢いを殺(そ)がれることのなきよう、時に休息し、聖なる天使の中に交わることによりて気分を一新するのである。

ああ、そなたはこれまで混雑せる都会の細き裏通りを辛苦して歩み、慈悲の使命に燃えて悪徳の巣窟に踏み込み、むせ返る不純なる悪臭を嗅(か)がされ、悲劇と罪悪の光景を目(ま)のあたりにしながら、それを取り除くことはおろか、幾分かでも軽減することすら出来得なかった。これで、われらがいかなる気持を抱いて人間の中にありて使命に勤(いそ)しんでいるか察しがつくであろう。そなたも人の不幸に心を痛めたことがあった。施す術(すべ)もなき無知と愚行と悪徳に思いあぐねたこともある。貧困と犯罪の世相の前に己の無力を痛感したこともある。身も心も実りなき努力に疲れ果てたこともある。が、われらとて平然として任務を遂行していたのではない。その間どれだけ地上の窮状を目撃し、どれほど心を痛めて来たことか。そなたはとかくわれらのことを人間の生活に関心を抱かず、悲劇を知らず、日常の労苦に係わりをもたぬ、遠く離れた謎めいた存在のように想像しがちであるやに窺える。われらとてそなたの心を覗き込み、隠れたる悲しみを地上の人間以上に実感をもって知ることが出来ることを知らぬようである。われらを地上より掛け離れた存在の如く想像しているらしいが、実は地上の悲しみも喜びも共に実感をもって認識しているのである。地上生活につきまとう物的悲劇も精神的悲劇もわれらの視野の中に入らぬかの如く想像しているようであるが、とんでもない誤解である。むしろわれらの方が人間より遙かに鮮明に悲しみを生み出す要因、犯罪へ引きずり込む誘惑、絶望に追いやる悲劇、悪徳と罪悪に群がる邪霊の集団を見ているのである。

われらの視野はひとり物的悲劇にかぎらぬ。霊的誘惑もありありと目撃できる。物的視野に映ずる悲哀にかぎらず、人間が一向に知らずにいる隠れたる悲哀もありありと見える。われらが人間界の悲劇や犯罪を見ることも知ることも出来ぬと思ってはならぬ。更にまた、そなたたち人間と交わり地上の雰囲気に浸ることによりて、われらもまたその汚れに幾分か染まることは避けられぬことも知られたい。

比べてもみよ。雑然たる都会の裏小路の息も詰まらんばかりの悪徳の生活――悲劇と罪悪の温床へと足を踏み入れた時のそなたの気持と、高き霊界より低き地上界へと降りてくる時にわれらが味わう冷たく寒々とした気持とを。われらは光と無垢と美の世界より降りて来るのである。そこには不潔なるもの、不浄なるもの、不純なるものは一かけらもない。その視野には目障りなもの一つ見当たらぬ。暗闇も見当たらぬ。目に入るものは全て輝けるもの、至純なるもののみである。完成された霊の住む世界、平和の漲(みなぎ)る環境を後にするのである。光と愛、調和と崇敬の念に満ちた境涯を離れて冷ややかなる地球、暗黒と絶望の地、反感と悲哀の気に満ちた世界、悲劇と罪悪の重苦しき雰囲気に包まれた世界――人は従順ならず、信ずることを知らず、物欲に浸り切り、霊的教唆に反応を示さぬ世界――悪徳の巣窟と化し、邪霊に取り囲まれ、神の声の届かぬ世界へと降りてくるのである。神の光と真理の輝ける世界より地球の暗黒の中へと向かう。そこでは神の真理の光は、僅かに数えるささやかなる交霊会を通して、ほんのりとした薄明り程度にしか見られぬ。調和と平和から騒乱と不和、戦争と不穏の中へと入り込む。純粋無垢の仲間に別れを告げて、懐疑と侮蔑に満ちた冷ややかなる集団、呑んだくれと好色家、あぶれ者と盗人にあふれる世界へと下りて来るのである。天使が挙(こぞ)りて神を讃仰する神殿を後にして、人間の想像の産物たる偶像の君臨する地上へと向かう。時にはそれすら無視され、人間は霊的なるもの、非物質的なるものへの信仰の全てを失ってしまう。

かくして漸く降り来たれるわれらが見出すのは、大方、聞く耳を持たず何の反応も示さぬ人間ばかりである。中には己に都合よき言説、己の想像と一致する言説には一応耳を傾ける者がいる。が、彼らもその段階を超えて一段高き真理、より明るき光へ導かんとするとわれらに背を向ける。イエスと同じことをわれらも体験させられる。すなわち、人間は奇跡を演じてみせると感心する。そして己の個人的興味がそそられ好奇心が満たされるかぎりは付いて来る。が、その段階より引き上げ、自己中心的要素から超脱させ、永遠なる価値を有する本格的真理へ近づけんとすると背を向ける。高すぎるものは受け入れられぬのである。そこで神の計画が挫かれ、神より授かれる人間への恩恵がにべもなく打ち捨てられる。その時、われらの悲しみに加えて将来の見通しに寒々とせる挫折の懸念が横切(よぎ)るのである。かくの如き次第であるから、われらは時として休息と気分一新を求めて地上を引き上げ、調和の世界にて気力と慰めを得て、再び冷ややかなる地球の恩知らずの群の中へと戻るのである。


〔私がこれまでに得た通信でこれほど人間的脆(もろ)さに似たもの、絶望感に近いものを披瀝したものはなかった。これまでは終始一貫して地上的なものを達観した威厳の雰囲気が漂っていた。インペレーターの存在とその言葉の中で最も特徴的だったのがその人間的脆さと地上的なこせこせした心配事に対する超然的雰囲気であった。常に別世界に悠然と構え、人間的視野の範囲にあるものは眼中になきが如き態度であった。そうしたものに超然としていた。視野が広く、絶対的重要性をもつものにしか関心を示さなかった。しかも人間的弱点に対しては優しく寛容的で、こちらの激情にも平然としていた。いわゆる“この世にいてしかもこの世のものに捉われぬ”者であり、穏やかな平和な境涯よりその安らぎをもたらしてくれる訪問者の風情(ふぜい)があった。それだけに右の通信の響きが印象的だったので、その点を指摘すると――〕


われらは、たとえ苦痛は訴えても挫けはせぬ。そなたおよびそなたの置かれたる環境との触れ合いによりて、やむなくそなたの人間的情念を摂取することになるまでである。あのような苦痛を述べたのは、われらにも幾許(いくばく)かの犠牲を強いられていること、そしてそなたを動かす情念と同じものによる影響を免れぬことを知って貰うためである。われらとて精神的煩悶と霊的苦痛を味わうものである。人間の心を締めつける心痛と同じものを真に味わう。われらがもし(そなたの言う如く)人間的でないとすれば、そなたの欲求を見届けることも出来まい。いずれ悟る日も来ようが、未だそなたの知り得ぬ摂理によりて、地上へ降りくる者は一時的に純然たる人間味を帯びる。そして霊界に戻ればそれを振り落とす。地上では地上的雰囲気と観念の中に融け込むのである。


〔このあと私に対して、通信を求めることを控えて過去を振り返るようにとの忠告が繰り返し述べられた。物理的現象をやり過ぎることは、体力の消耗が激しいので危険であると述べた。とくに他の霊媒による交霊会に出て現象を観察するのは、よほどの必要性のある時以外はいけないとの警告を受けた。仕事においても、仕事以外のことにおいても節度を守ることが大切であり、反省と休息を取るようにとのことだった。われわれは交霊会を中止こそしなかったが以前ほど頻繁に催すことは止めた。その間私に身元の証拠を提供しようとする努力が為されていることが判った。とくに顕著なケースとして十月十四日に次のようなことが起きた。それまで長期間に亙ってよく出現していた霊を、列席者の一人が、その霊の在世中の事実が載っているある書物をもとに細かく詰問した。その書物は出版されたばかりで質問者のほかは誰も見ていない。が、質問者の頭の中でその書物に出ている他の氏名と日付が混乱していたらしく、質問された霊はその間違いの一つ一つを叩音(ラップ)で強く指摘し、黙認するわけには行かないと言って、氏名の読み方の間違いなどは綴りまで一つ一つ述べて訂正した。

その時に霊が出した叩音には困惑と苛(いら)立ちと腹立たしさがありありと感じられた。訂正の速さは質問者が全部言い終わらないうちに為されるほどで、しかも正確だった。その様子から判断して、その霊は確かに地上時代と変わらぬ個性を留め、記憶も少しも損なわれておらず、特徴的だったバイタリティも失われていないことは疑う余地がなかった。その夜の私の心に、それまで私に通信を送って来た霊たちも自称している通りの存在であろうとの確信がようやく芽生えてきた。間違いを指摘する時のきっぱりした強い調子、苛立ちを込めた抗弁と訂正の人間味あふれる自然な調子から私は、それが他の霊による偽装的演出であるとはとても信じられないし、あれほどの微妙な特徴を思いつくわけもないと考えたのである。翌朝その点を質してみた。〕


――昨夜のあなたの訂正ぶりには感嘆させられました。


あの本には誤りや不完全なところが多すぎます。私は○○氏とは、氏が私の弟子になる以前からの知り合いです。それに、私がパリで勉強したというのは本当です。


――別に疑っているわけではありません。あなたがひどく真剣で腹立たしく思っておられる様子がありありと窺えたものですから。


いい加減な情報で、しかもいい加減な記憶で間違ったことを質問されるのは腹の立つものです。随分きついことを述べましたが、自分では理性を弁(わきま)えていたつもりです。


――実は私にとってはむしろ感謝しなければならないことなのです。死後存続の証拠としてこれまでにない最高のものを提供して下さったからです。


なるほど、でも、そうおっしゃりながら、スキあらば暴いてやろうとチャンスを窺っておられるのでしょう。


――とんでもない! 私はとにかく証拠がほしい一心なのですから。


証拠なら、あなたはもうこれ以上増やせないほどのものを手にしておられます。


〔こうした中にも、これまでに得られた通信、とくに今回のテストの結果に対する信頼心は何度も逆戻りした。言っていることはウソではなかろうか、通信は名のっている本人からのものではないのではなかろうか、要するに自分は謎めいた話、あるいは一種の寓話のようなもので騙されているのではなかろうか、それとも単に理解できないものに振り回されているに過ぎないのではなかろうかといった疑念に付きまとわれていた。それは漠然としたものではあったが、私にとっては真実味を帯びていた。こうした霊界との交信にとって最も好ましからぬ精神状態が禍して、ついにわれわれのサークルは解散するに至った。メンバー全員の意見もそのほうが賢明であるとの結論に固まっていたと思われるが、インペレーターも頻(しき)りにそれを促し、最後には強要してきた。そして、過去をよく吟味すること、とくに自分が引き上げたあと他(よそ)の交霊会に出たり勝手に交霊会を催したりすることは危険であるとの戒めを残して――交霊会に関するかぎり――引き上げてしまった。自動書記通信も幾分気まぐれな表われ方をしだした。私は次々と質問を連ねたが、出される回答はそれまでのインペレーターと同じ断固とした目標に沿ったもので、それは明らかに私の精神とは対立した別個の厳然たる知的存在が働きかけていることの証左であった。かつてないほどの動かし難い証拠が与えられた。綿密な計画が練られ、実行に移され、それを弁護するために数々の納得のいく筋の通った言説が述べられ、私はその一貫性をどうしても認めざるを得ないところまで追いつめられた。

私の全生涯に亙る霊的使命に関する長文の通信が送られて来たのはその時だった(2)。その内容に私は非常に驚いた。そしてそれまで私を扱ってきた霊の誠意と実在性を改めて確信するところとなった。本来なら公表せずにおきたいことも相当披露することになりそうであるが、純粋に個人的なことだけは公表する気になれない。霊的実在に関する教訓を証拠の全般的な流れに光を当てるものに限って公表しようと思う。〕

シルバー・バーチの霊訓 古代霊は語る

 The Ancient Spirits Speak


 第二章 絶対不変の法則───因果律

 前章ではシルバー・バーチと名告る高級霊を中心とする霊団が神界からの使命を受けて、霊媒モーリス・バーバネル氏の口を借りて神の摂理を説くに至った経緯を述べました。

 その準備のためにシルバー・バーチはバーバネル氏の出生以前、それも母体に宿る瞬間から面倒をみたと言います。もちろんこれは霊言霊媒にふさわしい人間に育てるための面倒をみたという意味であって、私の推察では母体に宿る以前のバーバネル氏も実はシルバー・バーチ霊団の一人であって、使命達成について十分な打ち合わせを行った上で母体に宿ったに違いありません。一種の再生です。

 果たせるかな、氏にとって最後の記事となった一九八一年八月号の Two Worlds 誌の遺稿の冒頭で、次のように告白しております。

 『私と心霊とのかかわり合いは前世にまでさかのぼると聞いている。もちろん私には前世の記憶はない。エステル・ロバーツ女史の支配霊であるレッド・クラウドは私にとっては死後存続の決定的証拠をみせつけてくれた恩人であり、

その交霊会においてサイキック・ニューズ紙出版の決定が為されたのであるが、そのレッド・クラウドの話によると、私は「こんど生まれたらスピリチュアリズムの普及に生涯をささげる」と約束したのだそうである。』 (巻末〝バーバネル氏の遺稿〟参照)

 約束どおり氏は十八歳から七十九歳までのほぼ六十年間をスピリチュアリズムひと筋に尽くしました。中でも特筆すべきことはサイキック・ニューズ社の社長を無報酬で務めたことです。正に奉仕の生涯であったわけです。

 再生については別に章を設けて詳しく取り扱いますので、ここでは難しいことは述べませんが、こうした滅私奉公の大役を担った人物は例外なく高級霊の再生とみてよいようです。

 もっとも、それでも尚かつ、うぬぼれや見栄、肉欲などのいわゆる〝人間的煩悩〟に迷わされて、使命の道から脱線していくケースが多いのです。とりもなおさず肉体というやっかいな欲望の媒体に宿っているからこそでしょう。

 オリバー・ロッジ Sir Oliver Lodge の著書に Phantom Walls (幻の壁)という、あまり知られていない随筆調の論文集があります。幻の壁とはつまりは肉体の五感を意味し、これが幻にすぎない存在であるといっているのですが、言ってみれば仏教の色即是空の思想と相通じるものがあります。

 オリバー・ロッジはもともと物理学者ですが、後年は心霊科学者となり、さらに、単なる心霊科学からいち早くスピリチュアリズム的思想に転換し、晩年は哲人を思わせる洗練された心霊思想を説いています。それを如実に物語るのが右の書で、その中に次のような箇所があります。

 『われわれはよく「肉体の死後も生き続けるのだろうか」という疑問を抱く。が一体その死後というのはどういう意味であろうか。もちろんこの肉体と結合している五、七十年の人生の終ったあとのことに違いないのであるが、私に言わせれば、こうした疑問は実に本末を転倒した思考から出る疑問にすぎない。

というのは、こうして物質をまとってこの地上に生きていること自体が驚異なのである。これは実に特殊な現象というべきである。私はよく 「死は冒険であるが、楽しく待ち望むべき冒険である」 と言ってきた。

確かにそうに違いないのだが、実は真に冒険というべきはこの地上生活そのものなのである。地上生活というのは実に奇妙で珍しい現象である。こうして肉体に宿って地上に出て来たこと自体が奇蹟なのだ。失敗する霊がいくらもいるのである。

 霊界から見れば、肉体の死後にも生命があるのは極めて当り前のことであろう。言ってみれば地上の生命などは朝露のようなもので、日の出とともに蒸発してしまうはかない存在なのである。とは言え、生きているかぎり肉体というのは実にやっかいなシロモノである。

地上生活の困難の大部分は肉体の扱いにくさから生じているといってよい。肉体をまとっていくこと自体がまずやっかいである。そして、死ぬ時もまたやっかいである。その生から死への間もずっと手入れがやっかいである。が肉体がわれわれではない。少しの間──ホンのちょっとの間だけ使用する道具にすぎないのである。』


 古今東西の宗教が例外なく肉体的欲望を罪悪の根源とみなし、節制を説き、肉体を超越する修業の必要性を力説するのもむべなるかなと思われますが、それに関連してもう一つやっかいなことは、そうした重大なる使命の達成を妨げよう、挫折させようとする霊界の一方の勢力が鵜の目鷹の目で見張っているということです。

 そうした霊は人間のちょっとした心のスキ──よく魔がさすと言いますが、そうしたちょっとした邪念につけ入って、ズルズルと深みへと引きずり込んでいきます。

はじめの頃は純粋で謙虚で誠心誠意の人だった霊能者が、いつしか自分は神である、仏である、と言い出し、本来の使命を忘れて宗教としての勢力の拡大に躍起になり、権謀術数をめぐらすようになっていきます。

 中国の古い言葉に「聡明叡智、これを守るに愚をもってす」というのがありますが、その点バーバネル氏やテスター氏のように愚直なまでに寡欲で謙虚であることが、宗教家や霊能者としての第一条件なのでしょう。

 シルバー・バーチに言わせれば、地上の宗教は既成、新興の別なくことごとく落第だそうです。つまり人間的欲望というアカがこびりついて宗教としての本来の意義を失ってしまっている。そこでそのアカを洗い落とし、本来の神の摂理を改めて説き明かすのが自分たち霊団の使命だというのです。


 そこで本章ではその神の摂理とは何かという点に焦点を絞ってみましょう。シルバー・バーチはこれを「恒久不変の自然法則」Eternal Natural Laws と呼んだり「神的叡智」 Divine Wisdom と呼んだりしていますが、これをつきつめれば「原因と結果の法則」、いわゆる因果律 The Law of Cause and Effect に収約されるようです。

 こう言うと「なんだ、要するに因縁のことだろう」とおっしゃる方がおられると思います。その通りです。しかしシルバー・バーチはこれに人間の霊的向上進化という目的を付加します。単なる因果応報の機械的なくり返しではなく、その因果律の背後に人間を向上せしめんとする神の配慮があると説くのです。

 それがある時はよろこびとして感じられ、ある時は苦しみとして感じられたりします。人間の真情として、不幸や貧乏、病気、災害といったものが無いことを希望しますが、それは今という刹那しか意識できない人間の狭い量見から出るわがままであって、過去、現在、未来の三世を見通した神の目から見れば、当人の成長にとってはそれが最上であり必須のものであるわけです。

 そうなると、いわゆる「因縁を切る」ということのもつ重大性を痛感せずにはおれません。切ることが大切だと言っているのではありません。はたして因縁を切ることが正しいことなのかどうか、イヤその前に、一体因縁は人為的に切ることが出来るものなのかどうかを真剣に考えなくてはならないということです。

 この「因縁を切る」という観念は、私の知るかぎりでは世界でも日本人だけのもののようです。そして、これは非常に広い意味、いろんな意味で使用されており、まずその整理から始めなくてはならないようです。

 たとえば何代にもわたって長男が自殺するという家系があるとします。「怨みの因縁だろう」──だれしもそう考えます。そしてそれは多分当っているでしょう。そこでその因縁を切るための手段を講じます。

 手段にもいろいろありますが、要するところ長男を自殺に追いやる霊魂、いわゆる因縁霊をつかまえて諭すなり供養するなりして改心させることになります。そしてそれがうまく行けば、大ていこれで「因縁が切れた」と思いがちです。

 がここまでの段階は因縁霊との縁が切れたということであって、その奥の因縁そのものが消えたとはいえません。もしかしたらその時期がちょうど因縁の消滅する時期だったかも知れませんから、それならば本当の意味で「因縁が切れた」ということになりますが、因縁霊もあくまで因縁という法則に便乗して動くコマのような存在にすぎないのですから、因縁霊だけを人為的に引き離しても、それだけで因縁そのものが切れたということにはなりません。

 では因縁そのものが自然消滅するまで手段を講ずべきでないということになるかというと、そうとも言えません。病気と同じで、生命の危険もあるほどの大病の場合は手術もやむを得ないことがあるように、人為的に因縁霊を引き離す術、いわゆる除霊の必要な場合もありましょう。

ただ、それだけで事足れりとする考えは過りであることを私は指摘しているのです。その奥の因縁そのものが残っているかぎり、また別の形で不幸や災厄が起こってきます。

 次に、自分に何のかかわりもない遠い祖先の残した因縁になぜ自分が苦しまねばならないのかという疑問が生じます。一見もっとものような疑問ですが、これはスピリチュアリズムの真髄を知らない人の抱く疑問といえそうです。

 自分とかかわりがないという考えそのものが根拠のない考えであって、実際は深い深い因縁の糸によってつながっているのです。

これは生まれ変わり、つまり再生の問題に関わってくる大問題で、これは次章でくわしく取り扱うことにして、ここでは要するに、縁のないものとの係わりあいは絶対にない、と述べるに留めておきましょう。シルバー・バーチはそれを次のように表現しています。


 『そのうちあなた方も肉体の束縛から開放されて曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば紆余曲折した、一見とりとめのない出来ごとの絡み合いの中で、その一つ一つがちゃんとした意味をもち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解するはずです。』


 これは人生が有目的の因果律によって支配されていることを物語っているのですが、その「有目的」というところに注目していただきたいのです。

つまり宇宙人生が魂の向上進化という至上目的のために経綸されているということです。この点が従来の因果律の思想と本質的に異る点といえましょう。ではこれからシルバー・バーチにその点をくわしく説いてもらいましょう。


 『あなたがたがスピリチュアリズムと呼んでいるものも神の法則の一部です。神は宇宙を法則によって統一し、法則を通じてその意志を表現しているのです。宇宙のどこをさがしても、法則の支配しない場所など一箇所もありません。

人間がこれまでに知り得た範囲に限りません。それよりはるかに大きい、人智の及ばないところまでも、完全に神の法則が支配しております。

 自然界の法則はいわば神の定めた法則です。およそ人間界の法律といわれるものには変化(改正)がつきものです。不完全であり、全てを尽くすことができないからですが、神の法律は全てを尽くし、至らざるところはありません。

偶然とか偶発というものは絶対にあり得ません。すべてが規制され、すべてが計算されているのです。あなたがたは肉体を具えていますが、これは一種の機械です。つまり肉体という機械をあやつりながら自己を表現しているわけです。

かりに悩みを抱いたとしますと、それは水門を閉ざすのと同じで、生気の通るチャンネルを失うことになります。つまりエネルギーの供給がカットされ、不健康の要因ができあがります。あなたがたがそのことに気づくまで、肉体は悩みと病気の悪循環を繰り返します。

 また悩みは肉体の霊的大気ともいえるオーラにも悪影響を及ぼし、それが心霊的バイブレーションを乱します。

悩みを取り除かないかぎり、心霊的エネルギーは流れを阻害され病気の要因となります。悩みや恐怖心を超越する──言いかえると自我のコントロールが出来るようになるには、長い年月と厳しい修養がいります。

 それも実は神の無限の愛と叡智から出た法則なのです。その悩みに費されるエネルギーを建設的な思考に切りかえれば、決して病いは生じません。神の法則は完璧です。

そして、あなたがたはその中の無くてはならない存在なのです。向上進化という至上目的のために必要な勉強のチャンスは、日常生活の中にいくらでも見出せるのです。


 私が法則を変えるわけにはいきません。原因と結果の法則は絶対であり、私がその間に入ってどうこうするということは許されないのです。ただ、そういう法則の存在を教え、そんな心構えでいては病気になりますヨという警告をしてあげることは出来ます。肉体は機械ですから、それなりの手入れが必要です。

手入れを怠ると働きが悪くなります。ですから時には休息させて回復のチャンスを与え、その本来の働きを取り戻すように配慮してやらなくてはいけません。神の法則はごまかしがきかないのです。

人間は肉体という機械を通して自分を表現しています。その機械にもエネルギーの限界があり、バッテリーに充電してやらなくてはならない時期が来ます。

それを知ってそれなりの手段を講じるのはあなた自身の責任であり義務なのです。なぜなら地上生活を生きる上で欠かすことのできない大切な道具だからです。

 私がいかにあなた方のしあわせを願っているとはいえ、あなた方に代ってその責任と義務を遂行してあげるわけにはいかないのです。心に思うこと、口に出す言葉、そして実際の行動、このいずれにも責任をとらされます。あくまで自分が責任を負うのです。

が、そのいずれも地上生活においては結局肉体という機械を通じて表現するわけですから、その機械が正常に働いてくれるように、ふだんから健康管理に気を配らなくてはいけません。肉体は実に驚嘆に値するすばらしい器官です。

地上でこれ以上の入り組んだ器官をこしらえることはまずできないでしょう。正に驚異といってよいものですが、やはりそれなりの手入れは必要なのです。

 もちろん法則と調和した生活を送っておれば病気も不快も苦痛も生じないでしょう。病気とか不快とか苦痛とかは自然法則との不調和の信号にほかならないからです。法を犯してその代償を払うか、法を守って健康を維持するか、そのいずれかになるわけです。

 人間の思想・言動において動機というものが大きなポイントになることは確かですが、法則を犯したこと自体はやはりそれなりの代償を払わねばなりません。動機さえ正しければ何やってもかまわないというわけにはいかないということです。

肉体を犠牲にしてまで精神的な目標を成就すべきかどうかは、その人の進化の程度によって判断が異ってくる問題ですが、ただ地上に生を享けた以上は、それなりの寿命というものが与えられているのですから、それを勝手に縮めることは神の意志に反します。

 たとえば人類愛に燃えた崇高な人物がいると仮定しましょう。その人が博愛事業のために肉体を犠牲にすることが果たして許されるかとなると、それはその人個人の問題であって一概に断定はできませんが、ただ残念なのは、得てしてそういう人の動機がはたからみるほど純粋ではないということです。

その腹の底にはオレは偉い人物だといううぬぼれがどこかに潜んでいるものです。それが無理な行動に自分を駆りたてる結果となっていることに気づかないのです。

 ひと口に法則といっても、肉体を支配する法則もあれば、精神を支配する法則もあり、霊的な法則もあり、それらが絡み合った法則もあります。

そうした法則を人間はもうダメだというギリギリの段階に至るまで気がつかないからやっかいなのです。なぜでしょう。人間と宇宙の真実の相(スガタ)を知らないからにほかなりません。要するにこの世はすべて〝物〟と〝金〟と考えているからです。

 が、そうした苦しみの末に、いつかは真実に目覚める時がやってまいります。自我の意識が芽生え、内在する神性が目覚めはじめます。これも実は神の因果律の働きの結果なのです。つまり苦しみが大きければ大きいほど、それだけ目覚める知識も大きいということです。

 別の言い方をすれば、神は宇宙の一ばん優秀な会計係と考えればいいでしょう。収支のバランスをきちんと合わせ、使途の配分に一銭の狂いもありません。あなたは受け取るに値するだけを受け取り、多すぎもせず、少なすぎることもありません。

その価値判断はあなたの霊的進化の程度を考慮した上で行われます。地上でごまかしやお目こぼしがきくようですが、霊的なことに関するかぎりそれは絶対に有り得ません。

 大自然の法則は完璧です。その背後には神の無限の愛と叡智が働いております。私たちがこしらえたのではありません。私たちはただその働きを知っているだけです。

原因があれば結果があり、その結果が新らしい原因となってまた次の結果を生んでいくという法則です。その間に何者も介入することを許されません。偶然もありません。幸運もありません。ただ法則があるだけです。

 法則が撤廃されるなどということも絶対にありません。執行の猶予も保留も妨害もありません。絶え間なく機能し、変化することも無く、また人為的に変えることも出来ません。法則の中から都合のいいものを選ぶことも出来ません。

絶対なのです。神とはすなわち法の極致であり、法の粋であり、いかなる力、いかなる情実をもってしても動かすことは出来ません。』


 一問一答

問「何の罪もないはずの赤ちゃんがなぜ不自由な身体をもって生まれてくるのでしょうか」

シルバー・バーチ「外観だけで魂を判断してはいけません。つまり魂の進化と、その魂が使用する肉体の進化とを同列に並べて判断してはいけません。不幸にして父親ないし母親あるいはその両方から受ける遺伝の犠牲になって不具者となっても、そのことが魂の進化を妨げることはありません。

普通そういう魂にはそれなりの償いの原理が働いて、正常な人よりも親切心や寛容心、やさしさ等が豊かであることに気づかれるはずです。償いの原理は永久不変です。因果律は逃れようにも絶対に逃れられません」

問「かりに知能が正常でなく、まともな生活ができない場合、霊界へ行ってからどうなるのでしょう。霊界では地上生活での苦労や善行でその程度がきまると聞いていますが・・・」


シルバー・バーチ「地上的なことと霊的なこととを混同しておられるからそういう疑問が生じるのです。脳細胞に欠陥があると、たしかに地上生活に障害を来します。しかし魂というものは、たとえ脳細胞を通じて自己表現できない状態にあっても、自己の責任をちゃんと自覚できるものなのです。神の法則は魂の進化を至上目的として働きます。

霊界での生活が地上生活で決まるといっても、生活の形態ではなく、その生活における自覚によって判断されるのです。ですから、地上の規範から見れば〝悪い〟ことであっても魂そのものに自覚がない場合には霊界では何の咎めもうけません。

精神異常者があなた方がいうところの〝他人の生命を奪う行為〟(別に奪っていないのですが)をしても、それは脳の機能が異常だったがために行われた行為ですから、罪にはなりません。霊界での規準は魂の自覚、動機です。これだけは寸分の狂いもありません」


問「脳に欠陥があれば地上生活が記憶できない───つまり地上生活から何も学べないのではないでしょうか」

シルバー・バーチ「たしかにその通りで、生活が意識できないのですから、その分だけ本来なら体験できるものが体験できずに終ります。つまりそれだけ損をするわけです。しかし、それも因果律の結果ですから、いずれは埋め合わせがあります」

問「私たち人間は地上生活での体験と試練によって築いた性格を携えて霊界へ行くわけですが、精神病者の場合はどうなりますか」

シルバー・バーチ「魂の進化と魂の動機とによって処遇されます」

問「ある人は汚れたスラム街に生まれ、ある人は美しいものに囲まれた裕福な環境に生まれますが、この不公平はどうなるのでしょう」

シルバー・バーチ「大切なのは魂の進化です。あなた方は物質的なものさしで幸不幸を判断して、魂の開眼という観点から見ようとしません。生まれる身分が高かろうが低かろうが、魂が開眼してその内なる神性を発揮する機会はすべての人間に等しく与えられております。

その環境は物的なものさしで言えば不公平といえるかも知れませんが、肝心なのはその環境を通じて魂の因縁を解消していくことです。つまり苦難を通じて魂の神性を開発していくことが究極の目的なのです」

問「でも悪い奴がらくな暮しをしているのはどうしてですか」

シルバー・バーチ「またそのような観方をされる! ラクな暮らしをしている人が心の中も決してみじめでない、苦悩や苦痛などみじんもない、と判断するのは一体何の根拠があってのことですか。ニコニコしているからですか。きらびやかな暮しをしてるからですか。

豪華な衣服を着ていれば心も満たされるのでしょうか。因果律は魂の進化のためにあるのです。物質的なしあわせのためにあるのではありません。そうでなかったら、この世に真の平等がないことになりましょう」

問「でもやっぱり、汚れた環境よりは物的に恵まれた環境の方が善い行いが出やすいのではないでしょうか」

シルバー・バーチ「私はそうは思いません。私の観るかぎり、偉大なる霊魂は大てい低い身分の家に生を享けています。現に過去の歴史をごらんなさい。

偉大なる指導者はみな身分の低い家柄から出ているではありませんか。環境が厳しいほど魂は力強くなるのです。悟りは環境との戦いの中から生まれるのです。外面からでなく内面から物事を観るようにして下さい」


問「魂の進化は常に肉体の進化と同時に進行してきたのでしょうか」

シルバー・バーチ「同時ではありません。人間の霊魂が宿れるようになるまで肉体はそれ独自の進化を辿る必要がありました」


問「死後も向上進化があるとすれば、反対に邪悪な心を起こして堕落する可能性もありうるわけですか」

シルバー・バーチ「ありますとも! 霊界へ来て何十年たっても何百年たっても地上時代の物的欲望が抜け切らない者が大勢います。神の摂理を理解しようとしないのです」


問「なぜ神は地震や火山噴火などを未然に防いでくれないのでしょうか」

シルバー・バーチ「あなた方が〝なぜ神は〟と不服を言う時、それは自然法則の働きに対して文句を言っていることを忘れないで下さい。

私は霊的な自然法則をありのままにお教えし、それに私自身の体験をまじえてお話しているのです。地震というのは地球の進化の過程における一種の浄化現象です。地球はまだまだ完成の域にはほど遠いのです」


問「その浄化活動のために何十人もの人間が犠牲になるのは不公平だと思うのですが・・・」

シルバー・バーチ「死ぬということは決して不幸でも災難でもありません。私から観れば、魂が肉体の牢獄から解放される祝福すべき出来ごとです」


問「そうした災害で死亡する人は、その時期に死ぬべき人だったということでしょうか」

シルバー・バーチ「その通りです。前世の因縁によってそこに居合わせたということです」


問「地上の人間より進化した人類の住む天体がほかにありますか」

シルバー・バーチ「ありますとも! あなた方よりはるかに進化した人類の住む天体は幾らでもあります。地球という惑星は広大な宇宙の中の無数の惑星の一つにすぎません。しかも地球より程度の低い惑星はたった一つしかありません」


問「生まれたばかりの子供が事故や殺人などで他界した場合、人間としてこの世に生を享けた意味がないのではないでしょうか」

シルバー・バーチ「永遠なる生命を束の間の物的尺度で判断しているかぎり、そうした問題を正しく理解することは出来ません。人間の理解力にはおのずと限界があります。いかなる聡明叡智の人でも所詮は完全に地上的知識の範囲を超えることはできません。

地上生活を終えて霊的知識の光で物事を見た時、それまで到底理解の及ばなかった深遠なる神の配慮があることをはじめて知ることになります。地上生活を送っている間は、すすけたガラス越しに見ているようなものです。物事の真相を知ることはとても不可能なのです。

目前の現象だけで永遠の生命を判断しようとするのは、小学校時代の成績だけでその人の全生涯を判断しようとするようなもので、とんでもない話です。

中学、高校、大学と進み、そして社会人となってから、それまで夢想だにしなかった体験を無数に積み重ねていくように、地上生活を終えて霊界に来てから霊的進化を遂げるにつれて、それまで夢想だにしなかった素晴らしい世界を見るようになります。

そして地上で叶えられなかった数々の望みが叶えられます。その段階に至るまで、神に文句を言ってはいけません」


ここでシルバー・バーチが言っていることはシルバー・バーチ霊言集の、というよりシルバー・バーチ自身の、人間界に対する具体的な姿勢をよく表わしているように思われます。

 つまりシルバー・バーチは人間が肉体に宿っているかぎり、どう努力してみたところで、所詮、宇宙の真相を知りつくすことはできない。小学校の秀才も中学、高校、大学の勉強は所詮歯が立たない。だから小学生は小学生なりの勉強をしておればよろしい。

それ以上のことは上の学校へ行けば段々に習うのだから、というわけです。だからシルバー・バーチ霊言集は、全十一冊を通じて、平易な真理を繰り返し繰り返し説くことに終始しております。


 私もこうした考え方に全面的に賛成です。だからこそ四半世紀にわたって愛読してきたわけです。こうした考えは決して人間はつまらんと言っているのではなく、人間はあくまでも人間らしくという、いわば人間味を要求しているのです。

 霊能者と呼ばれる特殊な人を除いて、人間は基本的には五感によって生活するように出来ています。だから、その範囲でつつましく生活するのが人間にとって一ばんいいのです。

高僧がその五感の壁をつき破って豁然大悟したといっても、高級神霊界からみれば、すすけたガラス越しに見たにすぎない。それもホンの幽界の上層部、せいぜい霊界の入口あたりを垣間見たにすぎないようです。その辺なら死ねばだれだってすぐに行けるところなのです。

 浅野氏は人間味というものを大切にされましたが、「人間はいい加減ということが一ばん大事じゃ」という言葉をよく口にされたことも、私の師の間部先生から聞かされました。ムキになって完璧を求めても、それは地上では所詮ムリだ、という意味なのです。

 とは言え、人間には抑えがたい向学心や知識欲もあります。難しい高等数学なんか要らない、オツリの計算が出来れば結構というのも一つの理屈ですが、その理屈だけでは気がすまないのも人間です。

一見実生活に関係ないようでも、やはり高等数学や物理学は人間の向学心や知識欲が自然に要求するものであり、そこに理屈はありません。


Friday, March 13, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

The Spirit Teachings

21節

*本節の内容著者の反省と反論
* 回答
*霊団には果たさねばならぬ至上命令がある
*物理実験の禁止
*インペレーターの最後の嘆願
*判断を誤らぬよう神に祈れ
*インペレーターの祈り


〔この時期の私の精神状態はいかなる種類の現象にも満足できなくなっていた。私を支配している影響力は強烈で、私が何をやろうとしても満足を与える結果をもたらしてくれなかった。そして私をしきりに、過去を吟味するよう、そしてそこからまとまった見解を得るように仕向けるのであった。私の背後で何が行なわれているのか、当時は皆目理解できなかったが、今にして思えばそれは私の霊的教化の一環であった。私は幾度も幾度も過去を徘徊させられた。そしてそれまでの通信の内容をあらゆる観点から吟味し、再びそれをばらばらに分解してしまうことを余儀なくされた。昼も夜も心の安まることがなかった。それほど、私を支配した力は強烈だったのである。私の心がこの通信以外のことを思うのは僅かに毎日の教師としての仕事に携わっている時だけで、これだけは一切邪魔されることはなかった。そこで私は自分で厳律を設けた。それは通信に係わる問題を考えるのは日課を終えてから、ということで、これはここ十年間守り続けている。日課を終えて、さて、と思うと、とたんに私の心は通信の問題に襲われるのだった。

さんざん考え抜いたあげくに、私はこれまでインペレーターが相手にしてくれなかった問題をこれ以上いくら蒸し返しても無駄であるとの結論に達した。インペレーターの頑な態度には何か特別の意味があると観たのである。私はインペレーターの要求を何一つ拒絶したことはなかったが、逆にインペレーターは意味がないと思われることは完全に無視する態度に出ていた。が、この目に見えない知的存在が一体何者であるかについて私なりの得心を得るための証拠を要求する権利が絶対にあると考えた。それによって自分が決して自分の空想や妄想、あるいは私を騙さんと企む一団によって弄(もてあそ)ばれているのではないとの確信が得られると思ったのである。そこで私は率直に私の苦しい心境を述べ、それが未だに相手にされていないこと、私から手を引くかも知れぬとの脅しは事態を悪化させるばかりであると述べた。さらに私はこれからも待つ用意があること、これまでの通信を吟味するつもりであること、そしてこれ以後に付け加えてくれるものがあれば、それも読んで吟味したいとも述べた。しかし同時に、身元についての得心が得られるまではこれ以上先へ進むわけにはいかないとも断言した。私の態度に対する非難に具体性がなく曖昧であること、そして私が置かれている精神状態はあのような表現では正しく表現されていないと指摘した。またイエス・キリストがしるしを見せろとの要求を全部拒絶し、自分の言葉だけで十分であると述べたのは確かに重要なポイントではあるが、これを引き合いに出すのは危険ではないかとも述べた。総引き上げの脅しの件については、そんなことをすればそれは私を、不信とは言わないまでも、半信半疑の状態のまま放置することであり、結果は事態を私の手に負えない混乱状態に陥れることになるのみであること、何とか収拾がつけば為になる要素もあるかも知れないが、そうでなければまずもって無用であり、無益であり、そんなことをしても無駄であると述べた。するとすぐに返事が来た――〕


友よ、そなたの言わんとするところはよく判った。その言い分にも妥当性を認めたく思う。われらがあのような厳しき言葉にてそなたを責めたのは、情報を得んとする欲求そのものではなく、われらに応じきれぬ条件を強要するそなたの心の姿勢である。またわれらはそなたのしつこき反抗的態度、少なくともその時のそなたの不安と不信の念がわれらに与える印象を是非とも知らしめたいと考えた。あのような乱れた精神状態はわれらの妨げとなるからである。われらには果たさねばならぬ使命がある。徒に無為に過ごし、貴重なる時と機会を無駄にするわけにはいかぬ。為さねばならぬ仕事がある。何としても果たさねばならぬ。そなたのサークルがだめであれば他のサークルを通じて果たさねばならぬ。われらが総引き上げの意図がある旨を述べたのは、要求を満たさねば先へ進めぬとのそなたの言い分を受け入れたからに他ならぬ。われらとしては、そなたの要求に応じるわけにはいかなかった。故に総引き上げの必要を感じたのである。われらも、せっかく築き上げた関係を打ち切り、辛苦の中に成就せる仕事を一からやり直すことは元より望むところではない。将来はより一層強く支配することになるかも知れぬ。休息と反省とがわれらとそなた自身にとりて良き薬となるかも知れぬ。今はひたすら瞑想し、交霊会は滅多に催さぬがよい。よくよく真剣なる要求のないかぎりは交霊会には応じぬ。これまで述べたこと以上のことを付け加える意図も全くもたぬ。そなたの要求する条件も感心せぬ。そのような条件が一つ増えるごとに環境が変化を来し、それが余計な心配と手間の原因となる。好都合をもたらす見通しでもあれば文句は言わぬが、この際はその見通しもなく、それ故にそなたの提案に同意するわけにはいかぬ。

そなたが霊媒となりて行なう全ての物理的実験をこれ以後絶対に禁ずる。それによる肉体的消耗にそなたは絶対に耐えられぬ。昨今は余りに物理的現象に重きを置きすぎている。現象はせいぜい副次的な意味しか持たぬ。しかもそなたは他のサークル活動にも顔を出すという危険を冒している。すべて差し控えてもらいたい。徒に進歩を遅らせ、ついには危害と落胆を蒙るのみである。そのような手段では益になるものは得られぬ。これまでは敢えて出席を阻止するまでのことはしなかったが、これ以後は阻止せねばならぬことを承知されたい。われらとの仕事を継続するかぎりは、他のサークルの影響は排除してもらわねばならぬ。これは肝心なことである。排除してくれなければ、われらの仕事は一層困難となり、他の霊に憑依される危険性もある。その霊たるや、そなたがもしも本性を知ればそなたのほうから逃げ出したくなる類のものであり、およそわれらと仕事を共に出来るしろものではない。そなたの霊能が他のサークルの他の霊に役立つと思うのは誤りである。われらは敢えて阻止する。そのような方法では証拠は得られぬし、他の霊媒の為にもならぬ。むしろ逆効果である。さようなことにそなたが使用されるのを見過ごすわけにはいかぬ。

そなたが持ち出せる問題につきて今はこれ以上深入りはせぬ。もしもわれらがそなた本来の実直さと忠節を認めていなければ、疾(と)うの昔にこれほど実りなき苦労は中止していたであろう。今少し賢明であれば行なわずに済んだであろうことをそなたは無知なるが故に行なってきた。そなたの同志たちもわれらが期待したほどには援助になっていないが、彼らにも、そしてそなたにも、出来るかぎりの利益をもたらしてきたつもりである。しかし、こうした問題においては、われらの力にも意志にも限界がある。しかも全体的にみてそなたに相応しからぬものを押しつけることになれば、われらに配慮が足らなかったことになる。これより後も援助することになろうが、差し当たりこの時点ではこれ以上のことは出来ぬ。新たな試みをするつもりもない。これ以上無益なる時間と労力とを費すことは出来ぬ。無益であることはそなたの状態を見て悟ったのである。そなたの言説を聞けば少なくともそなたの知力はわれらの仕事の本質を理解しておらぬことが判る。大前提として要求する例の実験(1)には応じられぬし、応ずる気にもなれぬ。そのようなことで確信が得られるものでもなく、神の使徒であることの保証が得られるものでもない。そのような要求に応じてもそなたはまた新たな要求を突きつけてくるであろう。確信というものはそのような物理的手段によって確立されるものではないのである。

それよりも、これまで為されてきたことをよく吟味するがよい。そなたは目の前に提出されたものを脇へ押しやっている。得心のいかぬものを率直に拒絶すること自体、少しも非難はせぬ。が、一旦拒絶されれば最早やわれらとしては他に取るべき手段を知らぬ。故にそなたの選択は永遠なる重要性を秘めている。そしてそなたはすでに選択を行なっているやに察せられる。それが果たして賢明なる選択であるか否かは時が証明してくれるであろう。そしてその時に、その選択の誤りを幾分かは修正することが出来るかも知れぬ。が、願わくば今、細心の反省を行なうことによって、その選択を撤回してくれることを祈るものである。

(†インペレーター)


〔翌十月四日も引き続いて通信が来た。その中には余りに私的な内容のものが含まれているので、その部分の公表は控えさせていただく。が、全体として極めて威厳に満ちた言葉で綴られ、しかも最初は祈りの言葉で始まっている。内容的には結局これまでの主張の繰り返しであるが、部分的には私の要求の幾つかに譲歩を示している。とくに総引き上げの件についての譲歩は印象的で、純粋な人間的理性がにじみ、これまでの通信に終始一貫して見られる理路整然とした論理の典型を思わせるので、幾分私的な色彩があってもそのまま紹介する。極めて読み易い文字で、しかも猛スピードで書かれ、書き終るまで私にもその内容が判らなかったほどであった。〕


神の僕(しもべ)として、使者として、そなたの指導霊として、また守護霊として、余はそなたに神の御恵みの多からんことを祈る。至聖にして慈悲深き天なる父の祝福のあらんことを。目にこそ見えざれども、そなたを包む力強き神の御力が、何とぞそなたを良きに計らい給わんことを。

われらは今、これ以後の計画を全て放棄する前に是非とも暫くの間(ま)を置くようにとの要請を受けている。特に○○氏〔他界したばかりの私の友人で、死後すぐに通信して来た〕より強き要請があった。彼は信仰問題で今そなたが置かれている苦しき事態につきて、われらより生々しく、かつ強烈なる印象を有しているのであろう。われらの仕事はそなたが駄目であれば別の者を通じて成就することになろうが、それはそれとして、とにかく暫くの間を考慮してやってほしい――そなたほどの証を手にする者が最後まで完全なる確信に抵抗し得るはずはない、というのが彼の言い分である。そなたの視点、いかに公明正大なる精神も免れ得ぬ偏見、それに交霊につきまとう様々な困難――こうしたことも考慮せねばならぬ。そなたには疑わしく思えても、われらにはその真相を知り尽くしているが故に、そなたのその頑な態度がいかにも合点がいかぬが、それでも尚われらはその疑念に率直さと現実性を認め、それをこれよりのちの確信の可能性の尺度であるとの希望を抱いている。

これまでわれらは、そなたの心が近づき難き雰囲気に包まれておらぬ限り、そなたの悩みに答えてきた。が、あれほどの辛苦の末に結成せるサークルも用を為さぬほどに分裂し、殆どの交霊会において、われらの手に負えぬほどに調和を欠くに至った以上、もはやわれらの計画も挫折し、これ以上の努力の意味なしと判断せざるを得なかった。物理実験のしつこき要請はわれらの望むところと余りに掛け離れていた。われらはこのような目的でそなたを選んだのではない。仮にそうであったとしても、そなたの身体をあのような現象で消耗させるわけには参らぬ。さなきだに激しき消耗を強いられる生命力と絶え間なく動揺する身体的特質を考慮した時、とてもあのような実験を許すわけにはいかぬ。あの種の実験にはそれなりの体質を必要とする。それには逆に精神的現象の不得手な、より動物的体質の者が相応しい。そなたを通じてわれらはこの手段(2)によりて言いたきことを実に効果的に伝えることを得て来た。が、振り返ってみるに、その大部分はそなたの抗議への対応に終始し、サークル活動もその所期の大目的は未だ達成されぬままである。

そうした中において、更にそなたはわれらが不可能かつ不必要とみる実験を要請してきた。その折われらは、これを更に要求してくる先がけに過ぎぬと受けとめた。そしてそなたがわれらのこれまでの言説を十分に吟味していないとみた。その上われらは、証拠を出そうと思えばそなたが要求しているもの以上のものを、折を見て出すことも出来た。そこでわれらは、いっそのことこの仕事を止めてしまえば、言い換えれば、われらがこの通信の仕事から暫し引き上げてしまえば、多分そなたの心はおのずと過去へと向い、そこより正しき教訓を学んでくれると判断したのである。が、別な観方も出来る。つまり、たとえわれらが引き上げたところで、そなたの霊的能力まで消すことは出来ぬ。われらが使用を中止するということに過ぎぬ。するとその霊力が他の霊によりて牛耳られ、悪だくみと虚偽の侵入を許し、遂にはわれらの仕事が完全に挫折してしまうことになりかねぬ。その危険を無視するわけにはいかぬ。今もしそなたをそのような状態に放置すれば、そなたが懐疑より不信へと陥るであろうことも十分承知している。直感的判断力より遙かに幅を利かせているそなたの論理的判断の習性のために、そなたは恐らく、出なくなったものは信じなくなるものと思われる。印象が薄れ、やがて消滅していくことであろう。

そこで困難を避ける唯一の道は辛抱づよく待つことであるように思われる。将来を予言することは出来ぬが、そなたの前に二本の道が横たわっていること、そのいずれを選ぶかはそなたの理性が決めることであること、その二点に間違いはない。われらにも選択を迫りたい希望はあるが、それを強要する資格は持たぬ。責任はすべてそなたにある。選択に誤りがなければそなたの魂は進歩と啓発の道を歩むことになろう。その道を拒絶すれば当然暗黒と退歩の道を進むことになろう。それもこれもそなたの判断次第で決まることである。われらとしては、これまでの主張を一語たりとも削るつもりはない。むしろ更に強調したいほどである。その実相についてはこののち更に一層明確に理解することになろう。が、今は神の使徒としてのわれらの存在とこれまでの教説について真摯に、祈りの心を込めて細かく吟味するがよい。過去を振り返ることである。教説を吟味することである。記録を分析し、その中よりそなたの結論を引き出すのである。その間の進歩の跡に注目せよ。神より出でたる教義がいかに入念なる配慮によって仕上げられてきたか、その過程に注目せよ。そしてその過去を踏まえて将来への展望を広げてみよ。今そなたはまさに重大なる境界線上に立てること――魂の進歩の前に取り除かねばならぬことが数多くあること――建物を構築するに先立ちて地ならしの工事が必要であること――永遠がそなたを待ち受けていること――われらが扉を開くカギを授けんとしていることをよく認識されたい。

どうか、二度と訪れぬこの機を拒絶する前に、暫し間を置いてみられることを切望する。拒絶したが最期、それは暗き影となりて永遠にそなたの魂につきまとい続けることであろう。受け入れれば、それは魂の宝となりて永遠にその輝きを増し続けることであろう。

祈れ。父なる神に祈れ。そなたを守り、われらをして引き続きそなたを導くことを得さしめ給わんことを祈れ。冷ややかにして陰気なる地上の雰囲気より脱し、そなたを導かんとして待機せる明るき霊との交わりを求めて祈れ。そなたほど厚き看護を受けし者はおらぬぞ。その看護をそなたほど無益にした者はおらぬということになっても良いというのか。そうならぬよう、また身体的にも霊的にも邪(よこしま)なる影響力より護られるよう、そしてまたより高き知識の海原へ、さらにより確固として揺るぎなき信頼へと導かれるよう、そなたと共にわれらも祈ろう。

父よ! 永遠にして無限、全知全能なる神よ! 子なるわれらに、御前に近づき願いごとを述べさせ給え。きっとお聞き届け下さると信ずる故に他なりませぬ。永遠なる神よ、何とぞわれらを妨げんとする者たちと障害物を取り除き給え。疑う心に一条の光を照らされ、暗き心の片隅を明るく照らし、潜み隠れる敵対者を払いのけ給え。われらの労苦に慰めの愛を授け給え。労苦が大なれば、それだけその愛も大なるを要します。仕事が大なれば、それだけ愛の力も大なるを要します。全能なる神よ、何とぞ御力を授け給え。われらの讃仰の御しるしと致させ給え。御前に感謝と崇敬の念を表明し、心からの敬慕の念を捧げさせ給え。われら天使より、御力の御しるしたる宇宙を通じて、御身に栄光と祝福と名誉と讃美の祈念を捧げ奉ります。

(†インペレーター)


〔この通信が事実上これまでの一連の議論の締め括りとなった。むろん私がこれであっさりと確信したわけではない。暫しの議論の小休止、とくに霊界との係わりを全面的にストップしたことが、私にこれまでの通信の経過を自由な気持で振り返らせることになった。それまでの霊的影響力を直接的に受けなくなってからは、以前よりも冷静に判断できるようになり、通信の実直さと誠意と真実性に対する確信が徐々に芽生えてきた。と言うよりは、信仰心が実感を伴って深まり、知らない間に懐疑心が薄れていったと言った方がよいであろう。〕