Thursday, February 26, 2026

霊訓 ステイントン・モーゼス(著)

The Spirit Teachings

5節

本節の内容霊的能力の種類
インスピレーションを受けるための条件
ドグマと偏見と懐疑と不安が難敵
イエスに見る理想の人間像
人間に完全は不可能
瞑想のための魂の個室を設けよ


〔その翌日、私は現在地上にはびこっていると言われる邪霊の影響について長々と議論した。私はその働きの個人への影響について尋ねると、邪霊によって完全に憑依されてしまった例を幾つか挙げた。またそうした力が広がりつつあるので、誠実で叡智に富む霊が働きやすい条件を配慮し、憑依しようとする低級霊を追い払い、あるいは近づきやすい環境を少なくしていく必要があると述べた。さらに霊力そのものは距離や地域に関係なく働くもので、したがって善良な霊力を受けるか邪悪な霊力を受けるかは人間自身の心がけ一つに掛かっていると述べた。そこで私は、ではどういう心がけが最も望ましいかと尋ねた。〕


霊的現象に多くの種類があることはそなたの知る通りであるが、霊力の行使にもさまざまな方法がある。ある者は身体的特質の故に直接身体そのものが霊力の支配を受ける。身体的機能が目に見える最も単純な形での霊力の証に適しているのである。この種の霊媒は知的な支配は受けぬ。よって彼らを通じて届けられる情報は取るに足らぬもの、あるいは愚にもつかぬものさえあり、信頼性に欠ける。彼らはあくまで客観的現象を演出することの出来る霊力を証明する手段として使用されるのである。

要するに彼らは初歩的現象の演出のための道具であると認識してよいが、だからと言ってその現象が他の種類の霊能力を通じて現れる霊能と比較して重要性が劣るわけではない。霊力の存在を信じさせるための基盤を築く上で不可欠なのである。

一方、情愛に満ちた優しき性格ゆえに選ばれる者もいる。彼らは物的現象の道具ではない。往々にして霊界との意識的通信の通路でもないことすらある。それでいて常に霊的指導を受けており、その純粋にして優しき魂は天使の監督のもとにますます洗練され向上していく。そうするうちに徐々に天使から霊示を意識的に受ける能力が開発されていき、あるいは霊視能力により死後に落ち着くべき住処(すみか)を垣間(かいま)見ることを許されることもある。霊界に住むかつての友が親和力によって彼らに近づき、昼となく夜となく、教化と指導に当たることもある。彼らのまわりには平静と至純なる愛の雰囲気が漂う。実に彼らは地上生活の輝ける模範であり、やがて寿命とともにその地上生活によりて培われた休息と平和の境涯へと旅立つ。

これとは別に、知的能力に優れたるが故に、幅広き知識と奥深き真理の通路として訓練される者もいる。高級なる霊が彼らの思考力に働きかけ、思想を示唆し、知識の獲得と普及の手段とを用意する。その働きかけの方法は実に複雑多岐を極める。所期の目的達成のために仕組む出来事への配慮にはそなたの想像も及ばぬ手段を行使するのである。

われらにとりての最大の難事は進化せる高級霊からの通信を受け取るに相応しき霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならぬ。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ぬのが道理だからである。次に、愚かなる地上的偏見に捉(とら)われぬ者でなければならぬ。若き時代の誤れる思想を潔(いさぎよ)く捨て去り、たとえ世間に受け入れられぬものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主であらねばならぬ。

まだある。独断主義(ドグマ)より解放されねばならぬ。この世的思想から抜け出せぬようではならぬ。神学的独断主義と派閥主義と偏狭なる教義より解放されねばならぬ。己の無知に気づかぬ一知半解の弊に陥ってはならぬ。常に捉われなき、探求心に燃えた魂であらねばならぬ。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富める者であらねばならぬ。常により多き真理の光、より豊かなる知識を求める者であらねばならぬ。つまり真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならぬのである。

また、われらの仕事は頑固なる敵対心からの自己主張、または高慢なるでしゃばりと利己心によりて阻害されることがあってはならぬ。さような霊媒ではわれらは仕事らしき仕事を為し得ぬし、為し得たわずかな仕事というのも、利己主義と独断主義を取り除くことに向けねばならぬ仕末となる。われらが求むるのは有能にして真摯(しんし)なる、そして飽くなき真理探究心に燃えた無欲の心の持ち主である。そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解できよう。まさに至難のわざであり、まず不可能に近い。さればわれらは見出し得るかぎりの最高の人材を着実に鍛練した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、己の知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。こうすることによって独断的偏見より超脱させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物ではないとの悟りへの地ならしを行なう。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と賦与し、基盤さえ出来あがれば、安心して上部構造を築き上げて行くことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、われらの所期の目標に調和させて行く。

ここに至って多くの者が脱落していく。そしてわれらも、彼らは地上にては真理を受け入れることが不可能なること、また古来の地上的偏見が固く、ドグマ的信仰が容易に拭えざるものであること、それ故、時の流れに任せるほかなく、われらにとって用なきものであることを悟って諦めるのである。

また真理への完全なる忠実性と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、われらの教化によって着実に培われていくものである。われらは神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いていく。そしてわれらが神より許されたる範囲の行為と霊的訓えを忍耐強く待つ心構えを培う。こうした心構えは多くの霊媒に見られる、苛立(いらだ)てる落ち着きなき不満と正反対である。

この段階にてまた多くの者が脱落していく。恐怖心と不安に駆られ、疑念に襲われる。古き神学の説く神は自分の如き人間の破滅を今か今かと見守っているかに思い、悪魔が自分の如き人間を罠にかけんと油断なく見張っていると思い込む。確かに古き信仰の基盤は揺さぶられてはいても、まだ新しき信仰基盤は敷かれておらぬ。その間隙に邪霊がつけ入り、揺れ動く心を誘惑する。ついに恐怖に堪(たま)りかねた者が脱落し、われらにとりて用なきものとなっていく。

それでも尚われらは人間のあらゆる利己心を払拭しなければならぬ。われらの仕事には私心の出しゃばりは許されぬ。さもなくば、われらには何も為し得ぬ。霊界からの指導において、人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れほど致命的なるものはない。小知を働かせてはならぬ。われらからの知的働きかけの妨げとなるからである。独断主義に偏れる知性は使用しようにも使いものにはならぬ。ましてそれが高慢と自惚れに満ちておれば、近づくことすら出来ぬ。

いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の最大の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にせる予言者たちはみな我欲を滅却して使命に生きた人たちであった。そなたらの聖書にその名を留めるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送った。とくにイエスはその地上生活を通して使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した偉大にして崇高なる模範であった。イエスの中に、人類の全歴史を通して最大限の、人間の可能性の証を見ることが出来る。

この世より誤りを駆逐し真理の光をもたらせる人々はみな己に課せられた使命のために無私と献身の生涯を送れる者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者はみな無私無欲の人物――我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らぬ人々であった。一途(ず)なる誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人々である。それなくしては彼らの仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲に捉われていたならば、その成功の核心が蝕(むしば)まれていたことであろう。謙虚さと誠実さと一途さがあればこそ成就し得たのである。

われらが求むる人材とはそのような資質の持ち主である。情愛にあふれ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。一途に神の仕事に目を据(す)え、一切の地上的打算を忘れた性格。かくの如き麗しき魂の持ち主が稀であることは確かである。が、友よ、平静にして、しかも頼れる誠実かつ一途なる哲学者の心を心とせよ。情愛にあふれ寛容性に富み、いついかなる時も進んで救いの手を差し伸べる博愛主義者の心を心とせよ。さらに報酬を求めぬ神の僕(しもべ)としての無欲の心を心とせよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主を措(お)いて他に成就し得る者はおらぬ。われらもそうした人材を油断なく見守り警戒を怠らぬであろう。神より遣わされたる天使も笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれるであろう。


――でも、これでは完全な人格を求めることになります。


何と! これをもって完全とな? そなたは“完全なる霊”が如何なるものか、皆目知らぬ。知り得ぬのである。想像することすら叶わぬ。忠実なる魂が霊の訓えによって培われ、刻一刻と守護霊に似ていくその過程もそなたは知り得ぬ。われらが植えつけ手がけて来た種子が次第に成長して行く様子はそなたらには見えぬ。そなたらに知り得るのは、魂が徐々に美徳を身につけ、より高潔に、より愛すべき人間となりゆくことだけである。右に述べた人格の資質はそなたらの用語にして表現し得るかぎりのものを述べたるに過ぎず、まだまだ完全より程遠く、これより成就し得る完全さを思えば、漠然とそれらしき程度のものに過ぎぬ。そなたらに完全は有り得ぬ。死後になお不断の進歩と発達と成長が待ち受けている。そなたらの画く完全性も、われらの霊眼をもって見れば、欠点によって汚され曇らされているのである。


――確かにそうかも知れません。でもそれほどの人物は極めて少ないでしょう。


少ない。少ない。それもようやく芽を出した程度のものに過ぎぬ。われらはそれを地上への働きかけの大切な足がかりとして感謝して育てる。われは完全を求めているのではない。誠実さと一途な向上心、捉われなき受容性に富む精神、清純にして善良なる心の持ち主である。忍耐強く待つことである。性急は恐ろしき障害となる。所詮そなたの手の届かぬことに対する過度の用心と不安を捨てよ。われらに任せるがよい。今は外部との接触を避け、忍耐強くわれらの述べたることを吟味するがよい。


――都会の喧噪から隔絶した生活のほうがあなたたちの影響を受け易いのでしょう。


〔ここで急に筆跡が変わり、ドクターの例の細かいキチンとした文字から、非常に変わった古書体になり、プルーデンス(1)と署名された。〕


騒々しき世界は常に霊的なるものを拒絶する。人間は物的なるもの、すなわち目に見え手に触れ貯(たくわ)え得るものに心を奪われ、死後に霊的生活が待ち受けていることを知らぬ。あまりに地上的になりすぎ、われらの働きかけに無感覚である。あまりに地臭が強すぎ、近づくことすら出来ぬ。暮らしがあまりに地上的打算に満ちているが故に、死後にも価値の残るものに心を配る余裕をもたぬ。

それのみに留まらぬ。心が常時そうしたものに捉われ、心静かに瞑想する余裕をもたぬために霊的栄養が不足し、魂が衰弱している。霊的雰囲気に力が見られぬ。おまけに身体も仕事の重圧と気苦労のために衰弱している。これではわれらもほとんど近づくことすら出来ぬのである。

さらに、啀(いが)み合いの情念と不平不満、妬(ねた)み合いと口論のために、その場が不快な重苦しき雰囲気に包まれている。悉(ことごと)くわれらにとって障害となるものばかりである。無数の悪徳の巣、忌(い)まわしき誘惑、そしてその不徳と罪悪に魂を奪われし人間のあふれる大都会には邪霊の大軍がうろつきまわり、破滅の道へ引きずり込まんとして虎視眈々(こしたんたん)とその機を窺っている。多くの者がその餌食となって悲劇への道をたどり、それだけわれらの悲しみを増し、手を煩わすことにもなるのである。

瞑想の生活こそわれらとの交信にとりて最も相応しきものである。もとより行為の生活が無用というのではない。両者の適度な取り合わせこそ望ましい。煩わしき気苦労もなく、過労による体力の消耗もなき時こそ最も瞑想に入り易い。しかし魂の奥底に、それを求める欲求がなければならぬ。その欲求さえあれば、日常の煩事も世間の誘惑も、霊界の存在の認識と霊との交わりを妨げることは有り得ぬ。が、やはり環境が清浄にして平穏な時の方がわれらの存在を知らしめることが容易である。

 

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze



五章  霊力の働き

 スピリチュアリズム的な霊的原理を理解した者は、健全な意味で楽天的人生をもつようになるのであるが、どんなに悟ったつもりでいる人でも、人生の荒波に疲れ果てる時期が必ず訪れるものだ。思わぬ災難が重なる・・・・・・腹の煮えかえるかのような不快な思いをさせられる・・・・・・

 が、そうした耐えがたい苦難の体験もそれぞれに意義を持っており、長い視野で眺めれば、ごく些細な出来事にすぎないものらしい。

 シルバーバーチの教えも楽天主義を基調としており、またその必要性を強調する。ある日の交霊会でも、スピリチュアリズムがキリスト教を始めとする数々の既得権力による反抗にもかかわらず、振り返って見ると大きな前進を勝ち得ていることを強調してこう述べた。

 「私たちの仕事が始まった当初、世間の人は、何とたわいもないことをして・・・・・・と軽蔑の眼差しを向けたものでした。〝テーブルラッパー〟(※)そう呼んで軽蔑し嘲笑しました」
℘90
 ※───初期の頃はテーブルの叩音(ラップ)による通信が盛んにおこなわれた。出席者がテーブルを囲んで両手をテーブルの上において瞑目していると、蓄積したエネルギーを利用して霊団側がそのテーブルを浮上させ、少し傾斜させて脚の一本で床を叩いて、一定の符牒で通信を送ってくる。極めて幼稚な通信法で、したがって高等な内容のものは送ってこないが、心霊実験の中では簡単に行えてしかも危険性の少ない現象である───訳者


 しかし実はそうした現象も大きな目的を持った一大計画に組み込まれていたのです。私たちの意図した影響力は次第に強くなり、世界中に広がっていきました。各分野で名声を得ている名士を次々とその影響下に誘っていきました。

偏見によって目隠しをされ、理性が迷信によって曇らされている者は別として、やはり著名人の証言は一般の人から尊重されるという考えから、そういう手段を選んだのです。

 その後もますます多くの人材が、同じ影響下に置かれていきました。霊媒も増えました。サークル活動が広まり盛んになりました。科学・医学・思想・宗教その他、ありとあらゆる分野の人をこれに参加させ、当時すでに猛威をふるっていた誤った物質万能主義を否定する現象、新しい高度な生命観を思考する霊的事実、

唯物思想の終焉を予告する眼に見えない力の存在へ目を向けさせました。ほどなくして───実に短期間のうちに───そのテーブルラッパーたちは、宗教を腐敗から守る運動の旗手となっていったのです。

 わずか百年足らずの間にどれだけ多くのことが成就されたか───それをこうした経過の中から読み取って、それを教訓として、それ以後どれだけのことが成就できるか、そこに皆さんの先見の明を働かせて下さい。

 私たちが今まさに欲しているのは、もっと多くの道具───背後から導き鼓舞している霊の力に満腔の信頼を置いてくれる人材です。霊的実在を悟り、それは他の同胞のために使用してくれる人、真理を生活の灯として持ち歩いてくれる人です。

 私たちが望んでいるのは、まずそうした霊的真理のメッセンジャー自らが日常生活においてそれを実践し、その誠実さと公明正大さに貫かれた生活を通して、見る人の目に、なるほど神のメッセンジャーであることを認識させることです。

それから今度は積極的に世に出て、社会生活のすべての面にそれを応用していってほしいのです。
℘92
 つまり、まずみずからが身を修め、それから他人のために自分を役たてる仕事に着手するということです。これまでも、あなた方が想像なさる以上に多くの仕事が成就されてまいりましたが、これから先さらに成就されていく可能性に較べればそれは物の数ではありません。

 世の中を見回して、あなた方の努力のしるしを読み取ってごらんなさい。古くて使い物にならない教義やドグマの崩壊が見て取れるはずです。誤った信仰の上に築かれた構築物が、いたるところで崩壊しつつあります。

 私たちの説く霊的真理(スピリチュアリズム)は、心霊学という知識を土台として築かれております。その土台はいかなる嵐にもビクともしません。なぜなら、それは事実を───霊的事実を───土台としているからです。

 あなた方が建造の一役を担ったその殿堂は、あなたがたが地上を去って物質界に感応しなくなったのちも、あなた方の奮闘努力の記念碑として、末永くその勇姿をとどめることでしょう」

 同じテーマについて別の交霊会で───

 「真理は前進し、暗黒と無知と迷信と混迷を生み出す勢力は後退します。霊力はますます勢いをつけ、これまで難攻不落と思われていた分野にまで浸透しながら凱旋し続けます。それが、私たちが繰り返し宣言しているメッセージです。

 皆さんは今まさに、地上に新しい存在の秩序を招来するために貢献しておられるのです。ゆっくりとではありますが、変革が生じつつあります。新しいものが旧いものととって代る時、数々の変動が生じるのは避けられません。それも神の計画のうちに組み込まれているのです。

 常に基本的な霊的真理を忘れぬように、と私は申し上げております。常にそれを念頭に置き、その上に宗教感・科学感・哲学感・倫理感・道徳観を打ち立てて下さい。口を開くと大言壮語をする御仁に惑わされてはなりません。

 私たちの説く真理は至って単純であるがゆえに、誰にでも分かり、誰にでも価値を見出すことができます。神の子としての人間のあるがままの姿を何の虚飾もなしに説いているからです。

 すなわち神の分霊を宿し、その意味において真実〝神の子〟であり、永遠にして不変の霊的な絆によって結ばれているという意味において真実〝同胞〟であり、人類全体が一大霊的家族であり、神の前に平等であるということです。

℘94
 霊の目を持って見る者は、民族・国家・気候・肌の色・宗教の別を超えて見つめ、全人類を一つにつなぐ霊の絆を見て取ります。地上世界は今こそ、そうした単純な真理を見直す必要があります。余りに永い間教義とドグマ、祭礼と儀式といった宗教の本質、ないしは生命の大霊とは何の関係もないのに躓(つまず)いてきました。

 私は、魂をより意義ある生活へ誘ってくれるものでないかぎり、教義とか信条、ドグマといったものには関心がありません。日常の行い以外のものには関心を向けません。根本的に重要なのは、日常生活の生き方だからです。

いかなる教義も、いかなるドグマも、いかなる儀式も、原因と結果の法則を一寸たりとも変えることはできません。霊性を一分たりとも増すことも減らすことも出来ません。それは日常生活によってのみ決定づけられるものだからです。

私たちが忠誠を捧げるのは、宇宙の大霊すなわち神と、永遠不変の摂理であって教義でもなく、書物でもなく、教会でもありません。

  霊の力がこうした形で地上に顕現するようになったことを喜んでください。真理を普及するための新しい人材が次々と霊力の支配下に導かれて行きつつあることに着目して下さい。新しい通信網ができたことに着目してください。

人類の進歩を妨げてきた既得権力が崩され、障害が取り除かれていきつつあることに目を向けてください。

私たちは刀剣や銃を手にせずに愛と寛容心と慈悲と奉仕の精神を持って闘っている大軍の一翼を担っております。私たちの武器は真理と理性です。そして目指すのは、人間として当然受け取るべきものを手に出来ずにいる人々の生活に、豊かさと美しさをもたらしてあげることです。

神とその子等の間に立ちはだかろうとする者には、いかなる地位にあろうと、いかなる人物であろうと、容赦は致しません。地上に神の王国を築くためには、地上のいずこであろうと赴く決意はけっして揺らぎません。

これまでも数々の虚言・中傷・敵意・迫害にあってまいりました。しかし勇気ある心の持ち主、断固たる決意を秘めた魂が闘ってくれたお陰で、こうして霊の力が地上に顕現することができたのです。

今も、新しい世界の前哨地に、多くの勇士が歩哨に立ってくれております。ですから私は、みなさんに、元気をお出しなさい、と申し上げるのです。心に迷いを生じてはなりません。

変転極まりない世の中の背後にある神の計画を読み取り、あなた方もその新しい世界の建設の一翼を担っていることを自覚して下さい。真理は絶え間なく前進しているのです。
℘96
意気消沈した人、悲しげにしている人たちに、元気を出すように言ってあげてください。先駆者たちの努力のたまものを、これから獲り入れるのです。そしてそれが、明日を担う子供たちにより大きな自由、より大きな解放をもたらすための地ならしでもあるのです。

不安は無知という暗闇から生まれます。勇気は自信から生まれます。すなわち、自分は神であるとの真理に目覚めた魂は、いかなる人生の嵐を持ってしても挫かせることはできないという自信です。

私がお教えしているのは、ごく単純な真理です。しかし単純ではあっても、大切この上ない真理です。地上人類が自らの力で自らを救い、内在する神性を発揮するようになるためには、そうした単純な霊的真理を日常生活において実践する以外にはないからです。

皆さんはその貴重な霊的な宝を手にされていること、それが全ての霧とモヤを払い、悟りの光によって暗闇を突き破ることを可能にしてくれることを知ったからには、自信を持って生きて下さい。

しかし同時に、知識には必ず責任が伴うことも忘れてはなりません。知った以上は、知らなかった時のあなたとは違うからです。知っていながら霊的真理を無視した生き方をする人は、知らないために霊的摂理にもとる生き方をする人よりも大きな罪を犯していることになります。

℘97    
その知識を賢明に、そして有効に生かして下さい。一人でも多くの人がその知識を手にすることができるように、そしてそれによって魂が鼓舞され、心が開かれる機縁となるように配慮してあげてください。

私たちの方でも、一人でも多くの人の涙を拭い、心の痛みを癒し、燦然たる霊的真意を見えなくしている目隠しを取り除いてあげる為の態勢を整えているのです。

言いかえれば、親である神を子等に近づかせ、子等を神に近づかせ、人生の奥義に関わる摂理を実践に移させようと、心を砕いているのです。そうすることによって利己主義が影をひそめ、生命の充足感を地上に生きる人の全てが味わえることになるでしょう」


 ここでメンバーの一人が、こうした霊的真理の普及を既成宗教の発端と同列に並べようとする意見を述べたのに対して、シルバーバーチはこう説いた。

 「私たちはこれまで、確かに成功を収めてまいりました。しかし、そうしたスピリチュアリズムの発展を他の宗教と同列に並べて考えてはいけないことを銘記してください。

私たちにとってスピリチュアリズムは、宇宙の自然法則そのものなのです。これを体系化して幾つかの信条とすべきものではありません。」


キリスト教の発生とて、当初は自然法則の一つの顕現でした。ユダヤ教もそうですし、仏教もそうです。そのほか地上に誕生した宗教のすべてが最初はそうでした。

それぞれの創始者が霊覚によって、その時代の民衆の成長・発展・進化・慣習・鍛錬・理解力などの程度にふさわしいビジョン、インスピレーション、悟りを手にしました。

それがさらに、受けいれる用意のある者に受け継がれていきました。それは全体の一部であったとはいえ、真理であることには間違いありませんでした。ところが残念なことに、そのささやかな真理が人間的不純物の下に埋もれてしまいした。

真理の持つ純粋な美しさを留めておくことができなかったのです。周りに世俗的な信仰や神学的なドグマ、宗教的慣習、伝承的習俗などが付加されて、玉石混交の状態となってしまいました。やがて神性が完全に息の根を止められてしまいした。そして新たにそれを蘇生させる必要性が生じたのです。


 過去の宗教はすべて───例外なしに───今日こうして届けられつつあるものと同じ啓示の一部であり、ひとかけらなのです。一つの真理の側面に過ぎないのです。それらを比較して、どちらがどうということは言えません。届けられた時の事情がそれぞれに異なるのです。

 たとえば今日の世の中ですと、昔では考えられなかった通信手段が発達しております。伝達し合うことに、あなた方は何の不自由も感じません。何秒とかからずに、お互いがつながり、メッセージを送り、地球を一周することができます。

 唯一これまでの啓示と異なるところは、入念な計画にしたがって組織的な努力が始められたということです。それが地上の年代でいえば、十九世紀半ばのことでした。

今度こそは何としてでも霊的知識を地上に根づかせ、いかなる勢力を持ってしても妨げることのできない態勢にしようということになったのです。

 その計画は予定通りに進行中です。その事は霊的知識が世界各地で盛んに口にされるようになってきていることでもお分かりでしょう。霊力は霊媒さえいれば、そこがどこであろうとお構いなく流入し、新しい前哨地が設立されます。


 ご承知のように、私は常づね、一人でも多くの霊能者が排出することの必要性を強調しております。霊界からの知識・教訓・愛・慰め・導きが地上に届けられるためには、ぜひとも霊的中継者が必要なのです。

一人の霊媒の排出は物質万能思想を葬る棺に打ち込まれるクギの一本を意味します。神とその霊的真理の勝利を意味するのです。

 霊媒の存在が重要である理由はそこにあります。両界をつなぐ媒体だからです。

 知識の光と叡智の世界から私に届けられるものを、こうした形で皆さんにお伝えすることを可能にしてくれる、このバーバネルという霊媒を見出したことを嬉しく思うのも、そこに理由があります」

Wednesday, February 25, 2026

霊訓 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


4節

本節の内容作曲家アーンに関する詳細な記述
霊の情報入手方法
その実験


〔以上の通信は一八七三年の四月から五月にかけて受け取った厖大な量の通信からの抜粋である。この頃には自動書記も楽にそして流暢に書けるようになり、適切な用語も前ほど苦労せずに見つかるようになっていった。

関係している霊の地上時代のことや正確な記録もいくつか明らかにされた。例えば五月二十二日にまったく別の問題について綴っていたところ突如その通信が途切れて、トーマス・オーガスチン・アーン(1)という名が書かれた。そしてスピーア博士(2)のご子息で素晴らしい才能の持ち主である私の生徒との縁で出られることになったと、その経緯を書いてきた。

その頃の私は自動書記通信に大いに関心を抱き、その内容にも注目していた。そこでさっそく当時の筆記者のドクターにアーンの身元を証明する地上時代の事実があれば提供してもらいたいと頼んでみた。すると間髪を入れず返答が書かれた。生年(一七一〇年)、学校名(イートン)、バイオリンの教師名(フェスティング)(3)。作品集――少なくともそのうちの八曲ないし九曲の曲名。さらに彼の作曲した英国の愛国歌「ブリタニアよ統治せよ」(4)が「アルフレッドの仮面劇」(5)の中に収められていること。その他、実に細かいことが数多く、しかもすらすらと書かれた。その全てが私の知らないことであるのみならず、私はその方面のことに関心がないので――私は音楽のことは全く無知で音楽に関する本は一冊も読んだことがなかった――私はそれほど細かいことが何故わかるのか尋ねてみた。すると、実際はそう簡単に書けるものではなく、霊媒がよくよく受容的な精神状態の時にのみ可能であると書かれた。同時に、霊界には知識の貯蔵所のようなところがあって、不明確なことはそこから情報を得ることが出来るとも述べた。

私はそれはどういう手段でやるのか尋ねた。すると、ある条件のもとで、知りたい目標を心に描いて“読み取る”のだという。人間がするように問い合わせる方法もあるが、それは読み取るのがあまり上手でない霊にかぎられるという。

ではあなたにもそれが出来るかと尋ねると、自分には出来ないと答え、そのわけは地上を去ってからの期間が長すぎるからだという。そう述べてから、地上の情報を蒐集することを得意とする二人の霊の名前を挙げた。そこで私はどちらか一方を呼んでほしいとお願いした。

その時のこの筆記をしている部屋は私自身の部屋ではないが、書斎として使用しており、まわりの壁はすべて書棚になっている。

そこでいったん筆記が中断した。そして数分後にこんどは全く筆跡の違う文章が出はじめた。そこでさっそく尋ねた。〕


――あなたは読み取りが出来ますか。


いや、私には出来ない。が、ザカリー・グレイ(6)が出来るし、レクターにも出来る。私には物的操作が出来ない――つまり物的要素を意念で操作することが出来ないのです。


――どちらか来られてますか。


一人ずつ呼んでみましょう。まず……あ、レクターが来ました。


――あなたは読み取りがお出来になると聞いています。その通りですね? 書物から読み取れますか。


〔筆跡が変わる。〕


出来ます、なんとか。


――「アエネイス」(7)の第一巻の最後の文を書いてみて下さいますか。


お待ち下さい――Omnibus errantem terris et fluctibus aestas.


〔この通りであった。〕


――その通りです。でもそれが私の記憶にあったということも考えられますので、書棚の二番目の棚の最後から二番目の本の九四ページの最後の一節を読み取ってみて下さい。私はその本を読んだことがありませんし、書名も知りませんので。


I will curtly prove, by a short historical narrative, that popery is a novelty, and has gradually arisen or grown up since the primitive and pure time of Christianity, not only since the apostolic age, but even since the lamentable union of Kirk and the state by Constantine.(8)


〔調べてみたところ面白いことにその本はロジャース著『僭称的教皇長老主義者――キリスト教をカトリック的因習と政治性と長老支配から解放、浄化するための一試論』(9)とあった。引用された文章は正確だった。ただnarrativeがaccount(10)となっていた。〕


――意味深長な本を選んだのには何かわけがあるのでしょうか。


それは知りません。偶然でしょう。一語間違いました。書いた時すぐに気づいたのですが、敢えて改めませんでした。


――どうやって読み取るのですか。今の文はさっきよりゆっくりと、しかも時おり思い出したように書いておられましたが。


憶えていた個所もあり、判らない個所は見に行ったりしたからです。読み取るというのは特殊な操作であって、こうしたテストの時以外は必要でありません。昨夜ドクターが言っていた通り、われわれも幾つかの条件が整った時しか出来ません。もう一度試してみましょう。まず読んでから書き、それからあなたに印象づけてみます。

Pope is the last great writer of that school of poetry, the poetry of the intellect, or rather of the intellect mingled with the fancy.(11)

これは正確です。さっきと同じ書棚の十一番目の本を取って来て下さい。〔それは『詩とロマンスとレトリック』(12)という本だった。〕開いてみて下さい。ちょうどその文章の書かれているページが開くはずです。われわれのこうした霊力をよく確かめ、物質的なものを超えた力を人間に啓示することを許された神の意図をよく認識していただきたい。神に栄光あれ。アーメン。


〔その本を開いたら一四五ページが出た。そこに書かれた通りの引用文が出ていた。私はその本を一度も見たことがないし、まして内容については何も知らなかった。〕


〔注〕

(1)


Thomas Augustine Arne.


(2)


Dr.Speer 巻末「解説」参照。


(3)


Festing.


(4)


Rule,Britannia.


(5)


The Masque of Alfred.


(6)


Zachary Gray.


(7)


Aeneid ローマの詩人バージルのラテン語の叙事詩で全十二巻ある。


(8)


大意――私はこれより、カトリック的制度などというものが本来のキリスト教にはなかったものであり、純粋な原始キリスト教時代――伝道者時代はもとより、コンスタンチヌスによる教会と都市国家との嘆かわしき結合以来、徐々に台頭もしくは発生して来たものであることを簡略に論証してみようと思う。


(9)


Antipopopriestian-an attempt to liberate and purify Christianity from Popery, Politikirkality, and Priestrule,by Rogers.


(10)


双方ともほゞ同じ意味を有する。


(11)


大意――ポープはその流派、知性の詩、というよりは詩的想像力と渾然一体となった詩の流派の最後の偉大な詩人であった。


(12)


Poetry, Romance, and Rhetoric.

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

 Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze


四章  霊媒とは何か

 バイブルには霊的能力に関する言葉がいろいろと出ている。特にコリント前書のパウロの言葉は有名である。十二章の冒頭から抜粋すると───

 ≪霊的能力についてよく知ってほしい。
 能力はいろいろあっても、すべては同じ霊力の顕現したものである。
 それは森羅万象が一つの神の御業であると同じである。
 一人ひとりが他の人を益するために、霊力を賜っている。
 ある者は叡智を賜り、ある者は知識を賜っている。
 ある者には信仰の力が与えられ、ある者には病気治療の力が与えられている。
 ある者には奇跡を起こす力が、ある者には予知能力が、そして又、ある者には霊を見分ける眼力が与えられている。
 言語能力に優れている者もいるし、翻訳する能力に長けている者もいる。
 が、いずれも霊力の働きなのである≫

℘74
 ある日の交霊会で霊媒が果たしている役割が話題となった。そのきっかけは、シルバーバーチが霊媒のバーバネルがトランス状態から昏睡状態へ移りそうなので、コントロールがしにくくなったと述べたことにある。

そして「そうなると私にとってはまずいのです」と言ったので、サークルのメンバーの一人が「なぜですか」と尋ねた。すると───

 「私はこの霊媒の身体を調節している機能の全体をコントロールしなければならないのです」


───霊媒が眠ってしまうとコントロールできないのですか。

 「できません。身体を操るには潜在意識を使用しなければならないのですが、眠ってしまうと潜在意識が活動を停止します」


───でも、どっちにせよ、霊媒はその身体から出るのではないでしょうか。

 「いえ、霊媒自身が身体の中にいるか外にいるかの問題ではありません。潜在意識とその機能の問題であり、それは、中でもなく外でもありません」


───私は、霊媒はわきへ押しやられていると思っていました・・・・・・

 「それはそうなのですが、一時的に身体から離れているというだけのことです。それは霊媒みずから進んで身を任せている状態で、潜在意識まで引っ込めてしまうものではありません。そうなると睡眠状態になってしまいます。

 霊媒現象はすべて霊界と地上界との意識的な協力関係で行われます。無意識のうちに潜在能力が一時的に使用されるケースがないわけではありませんが、支配霊と霊媒という関係で本格的な霊的交信の仕事をするとなると、

その関係は意識的なものでなければなりません。つまり霊媒現象に関係するあらゆる機構に、霊媒が進んで参加することが必要となります」


───睡眠中の霊媒が使用されて通信が届けられたケースがあったように思いますが・・・・・・


℘76
 「そういうことがあったかも知れませんが、それは通常のプロセスが逆転した状態です」

───その場合、睡眠中のそういう形で使用されることを、霊媒自身も同意していたということが考えられますか。

 「それは考えられます。ただ、ご承知のように、私たちは霊媒の望みはよほどつまらないものでないかぎりは敬意を払い、しかるべき処置をとります。しかし、言うまでもなくこの身体は私たちの所有物ではありません。モーリス・バーバネルのものです。

こうして私たちが少しの間お借りすることを許してくれれば結構なことであり、有難いことですが、その許可もなしに勝手に使用することは道義に反します。

その身体を通して働くさまざまな霊的エネルギーに対して霊媒と私たちの双方が敬意を払った上で、気持ちよく明け渡すというのが正しい在り方です」

℘77
───その潜在意識がどのように使用されるかについて聞かれて───

 「そのことに関して、ずいぶん誤解があるようです。精神にはさまざまな機能があります。人間というのは、自我意識を表現している存在といってよろしい。意識がすべてです。

意識そのものが〝個〟としての存在であり〝個〟としての存在とは意識のことです。意識のあるところには必ず〝個としての霊〟が存在し、〝個としての霊〟が存在するところには必ず意識が存在します。

 しかし、この物質界においては、自我のすべてを意識することはできません。なぜなら───あなた方に分かり易い言い方をすれば───自我を表現しようとしている肉体(脳)よりも、本来の自我の方がはるかに大きいからです。小は大を兼ねることができません。弱小なるものは強大なるものを収容することができないのが道理です(※)。

 ※───物質という形あるものに包まれた生活に慣れ切っている人間には、意識とか自我といった、形のないものを想像することはできない。したがって〝大きい〟とか〝小さい〟とかの形容で説明ずるのは適当ではないのであるが、地上の人間にはそれ以外に説明のしようがない。

それは、太陽は昇ったり沈んだりしているわけではないのに、やはり〝東から昇り西に沈む〟という表現しかできないのと同じであろう。それでシルバーバーチは〝あなた方に分り易い言い方をすれば〟と断ったわけで、実際は、自我とか意識は、脳を通じての思考では絶対に理解できない存在である───訳者。

 ℘78   
 人間は地上生活を通じて、その大きな自我のホンの一部しか表現していません。大きい自我は、死んでこちらへ来てから自覚するようになります。

といって死後ただちに全部を意識するようになるのではありません。やはりこちらでの生活で、それなりの身体を通して、霊的進化とともに少しずつ意識を広げていくことになります。

 意識的生活のディレクターであり、個的生活の管理人である精神は、肉体的機能のすべてを意識的に操作しているわけではありません。

日常生活において必要な機能の多くは、自動的であり機械的です。筋肉・紳径・細胞・繊維等がいったん意識的指令を受け、更に連係的に働くことを覚えたら、その後の繰り返し作業は潜在意識に委託されます。

 たとえば物を食べる時、皆さんは無意識のうちに口を開けています。それは、アゴが動く前に、それに関連した神経やエネルギーの相互作用があったことを意味します。

すなわち、精神の媒体である脳から神経的刺激が送られ、それから口を開け、物を入れ、そして噛むという一連の操作が行われています。すべてが自動的に行われます。一口ごとに意識的にやっているわけではありません。無意識のうちにやっております。

潜在意識がやってくれているのです。赤ん坊の時は、その一つ一つを意識的にやりながら記憶して行かねばなりませんでした。しかし、今は、いちいち考えずに、純粋に機械的にやっております。

 このように、皆さんの身体機能、そして、かなりの程度まで精神的機能も、大部分が潜在意識に委託されている事がお分かりになるでしょう。潜在意識というのは言わば顕在意識の地下領域に相当します。たとえば皆さんが本を読んでいる途中で、これはどういうことだろうと自問すると、即座に答えがひらめくことがあります。

それは潜在意識がふだんから顕在意識の思考パターンを知っているので、それに沿って答えを出すからです。誰かの話を聞いている時でも同じです。〝あなたはどう思われますか〟と不意に聞かれても、即座に潜在意識が返事を用意してくれます。

 ところが、日常的体験の枠から外れた問題に直面すると、潜在意識が体験したことも解決したこともないことですので、そこに新たな意識的操作が必要となります。新しい回線が必要となるわけです。

 しかし、そうした例外ともいうべきオリジナルな思考───という言い方が適当かどうかは別として───を必要とする場合を除いて、人間の日常生活の大部分は、潜在意識によって営まれております。

潜在意識は倉庫の管理人のようなものです。あらゆる記憶を管理し、生きるための操作の大半をコントロールしています。その意味で人間の最も大切な部分ということができます。

 その原理から霊媒現象を考えれば、これは、それまで身体機能を通して表現してきた自分とは別の知的存在が代って操作する現象ですから、顕在意識の命令に従って機能することに慣れている潜在意識を操作する方がラクであるにきまっています。

命令を受けることに慣れているわけです。仕事を割り当てられ、それを、よほどのことがない限り中断することなく実行することに慣れております。

 霊媒現象のほとんど全部に霊媒の潜在意識が使用されております。その中に霊媒の人物の本当の姿があるからです。倉庫ともいうべき潜在意識の中に、その人物のあらゆる側面がしまい込まれているのです。

こうした現象において支配霊が絶対に避けなければならないことは、支配霊の仕方が一方的すぎて、霊媒がふだんの生活で行っている顕在意識と潜在意識の自動的連係操作が、いつものパターンどおりにいかなくなってしまうことです。その連係パターンこそが、この種の現象のいちばん大切な基盤となっているからです」

℘81
───霊媒自身が潜在意識をおとなしくさせる必要があるということでしょうか。

 「そうではありません。支配霊の個性と霊媒の個性とが完全に調和し、その調和状態の中で支配霊自身の思念を働かさなければなりません。他方、支配霊は、ちょうどタイプライターのキーを押すと文字が打たれるような具合に、

霊媒の潜在意識の連係パターンをマスターして、他の知的存在の指令にもすぐさま反応するように仕向けなければなりません。それが支配霊として要求される訓練です。先ほど述べたことを絶対に避けるための訓練といってもよろしい。

 これで皆さんも得心していただけることと思いますが、霊媒現象は霊媒という生きた人間を扱う仕事であり、霊媒には霊媒として考えがあり、偏見があり、好き嫌いがありますから、今も述べたように〝支配する〟といっても、ある程度はそうした特徴によって影響されることは免れません。

 霊媒を完全に抹殺することはできません。どの程度までそうした影響が除去できるかは、支配霊がどの程度まで霊媒との融合に成功するかに掛っています。もし仮に百%融合できたとしたら、霊媒の潜在意識による影響はゼロということになるでしょう。

 霊媒を抹殺するのではありません。それはできません。融合するのです。霊媒現象の発達とは、それを言うのです。円座(サークル)の形をとっていただくのはそのためです。

列席者から出るエネルギーが、その融合を促進する上で利用されるのです。調和が何より大切ですと申し上げるのはそのためです。

 出席者の中に不協和音があると、それが霊媒と支配霊との融和を妨げるのです。交霊会の進行中は、絶え間なく精神的エネルギーが作用しています。お見せすることはできませんが、出席者の想念、思念、意思、欲求、願望のすべてが、通信に何らかの影響を及ぼしています。

支配霊が熟練しているほど、経験が豊富であるほど、それだけ霊媒との調和の程度が高く、それだけ潜在意識による着色が少なくなります」


───そうすると、霊媒はなるべく支配霊と似通った願望や性格の持ち主がよいということになりませんか。
℘83
 「一概にそうとも言い切れません。これは異論の多い問題の一つでして私たちの世界でも意見の相違があります。忘れないでいただきたいのは、私たちスピリットも人間的存在であり、地上との霊的交信の方法について、必ずしもすべての点で意見が一致しているわけではないということです。

 たとえば、無学文盲の霊媒の方が潜在意識による邪魔が少ないから、成功率が高いと主張する者がいます。それに対して、いや、その無知であること自体が障害となる───それが一種の壁をこしらえるので、それを突き崩さねばならなくなるのだ、と反論する者がいます。

安もの楽器よりも名匠の作になる楽器の方が良い音楽を生むのと同じで、霊媒も教養が高いほどよい───良い道具ほど良い通信を受けやすいのだと主張するわけです。私はこの意見の方が正しいと思います」


───なぜ、教養の有る無しが問題とされるのでしょうか。人格の問題もあるのではないでしょうか。

 「私は今、トランス状態での通信の話をしているのです。人間性の問題は又別の要素の絡んだ問題です。今は、霊言が送られる過程を述べているのです。通信のメカニズムといってもよいでしょう。
℘84 
 分かりやすい譬えで言いますと、バイオリ二ストにとっては名器のストラディバリウスの方が、安ものよりも弾きやすいでしょう。楽器の質の良さが、良い演奏を生むからです。安ものでは、折角の腕が発揮できません。

 霊媒の人間性の問題ですが、これは霊言の場合ですとその通信内容に、物的現象の場合ですと現象そのものに、その影響が出ます。物理霊媒の場合、霊格が低いほど───程度の問題として述べているだけです───たとえばエクトプラズムの質が落ちます。物質的にでなく霊的観点から見てです。

 霊側と霊媒とをつなぐ霊力の質は、霊媒の人間性が決定づけるのです。たとえば地上ならさしずめ〝聖者〟とでもいえる高級霊が、人間性の低い霊媒を通して出ようとしても、その霊格の差のために出られません。接点が得られないからです」


───物理現象においても霊媒の潜在意識が影響を及ぼすように思えるのですが、その点についてご説明願えませんか。

 「交霊会のカギを握っているのは霊媒です。霊媒は電話機のようなものではありません。電信柱ではありません。モールス信号のキーではありません。生きた機械です。その生命体のもつ資質のすべてが通信に影響を及ぼします。

 だから良いのです。もしも霊界と地上との交信のための純粋の通信機が出来たら───そう言うものは作れませんが───それによって得られる通信は、美しさと荘厳さが失われるでしょう。

 いかなる交霊会においても、カギを握るのは霊媒です。霊媒なしでは交霊会はできません。霊媒の全資質が使用されるのです。たとえばメガホン一本が浮遊するのも、物質化像が出現するのも、その源は霊媒にあります。そして霊媒の持つ資質が何らかの形でその成果に現れます」


───霊が憑ってくると霊媒の脈拍が変化するにはなぜでしょうか。その脈拍は霊の脈拍なのでしょうか。

 「霊が霊媒を支配している時は、霊媒の潜在意識を使用しています。すると当然、霊媒の本質的な機能、つまり心臓、脈拍、体温、血液の循環などを支配することになります。トランス状態に入ると呼吸が変化するのはそのためです。
℘86
 一時的なことです。ですが、一時的にせよ、その間は支配霊は物質界と接触して、自分の個性を物質的身体を通して再現しているわけです。

たとえば私は今、元アメリカ・インディアンの霊的身体を使用しております(※)。そのインディアンが霊媒の潜在意識を支配していますから、その間の脈拍は、そのインディアンの身体の脈拍です。このような形で行う方が一から始めるよりも手間が省けます」

※───通信の始原であるシルバーバーチと名のる霊は、ほぼ三千年前に地上生活を送ったことがあるということ以外は、民族も国家も地位も明かしていないが、その三千年前の体験の知識と霊的進化によって、その霊格から出る波動は、すでに地上的波動と直接の接触ができなくなっている。そこで地上でインディアンだった霊の身体を変圧器として通信を送っている。インディアンは霊界の霊媒である───訳者


───では、バーバネルの今の脈拍は三十分前とは違うわけですか?

 「違います」

 別のメンバーが、ある霊媒に少年の霊が憑って来た時に、ガラッと様子が一変した話をして、そういう場合は誰かが操作するのか、それとも自動的にそうなるものかを訊ねると───

 「自然にそうなるのです」


───支配霊が操作をするわけではないのですね?

 「その必要はありません。霊媒の潜在意識はそうした事態にすぐに対応できるのです。子供が乗り移ると、自動的にその子供のバイブレーションをキャッチして、脈拍と心臓がそれに応じた打ち方をするのです」


─── いう対応ができるようになるのは支配霊の力量ですか、それとも霊媒自身の能力ですか。

 「両者の連帯関係の進歩です。私の場合、バーバネルの脈拍を正常、異常のどちらにも変えることができます」


 これを聞いてもう一人のメンバーが、ある実験会で支配霊が、霊媒の左右の腕の一方の脈拍を止め、他方を打たせ続けたことがある話をした。するとシルバーバーチが───

 「それは可能です。あなたもできるのです。ヨガの修行僧は全身の神経中枢を自在にコントロールすることができます。すべては精神統一(集中力)と鍛錬に掛っております」

Tuesday, February 24, 2026

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

 Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze




三章  死後はどうなるか

 ある日の交霊会で、死後の世界とそこでの生活の様子が主な話題となった。その中でシルバーバーチは、最近他界したばかりの人の現在の状態を説明して、地上に隣接した下層界は何もかも地上とそっくりであると述べた。すると次のような質問が出された。


───幽界がこの世とそっくりであるというのが、私には理解できないのですが・・・・・・

 「地上界の次の生活の場は、地上界の写しです。もしそうでなかったら、何の予備知識もない幼稚な霊に、耐えきれないショックを与えることでしょう。

ですから、霊界への導入は優しい段階をへながら行われることになります。こちらへ来てすぐの生活の場は、地上と非常によく似ているということです。自分の死んだことに気づかない人が大勢いるのは、そのためです。
℘54
 こちらは本質的には思念の世界、思念が実在である世界です。思念の世界ですから、思念が生活と活動の表現のすべてに形態を与えます。

他界直後の世界は地表のすぐ近くにあり、ものの考え方が極めて物質的な男女が集まっていますから、思念の表現も極めて地上的で、考えることがすべて物的感覚によって行われます。

 そう言う人たちは〝物〟を離れての存在をかんがえることができません。かつて一度も、生命というものが物的なものから離れた形で意識にのぼったことがないのです。霊的な活動を心に思い浮かべることができないのです。精神構造の中に、霊的なものを受け入れる余地がないのです。

 ですが、死後の世界の生活にも段階があり、意識の開発とともに、徐々に、確実に地上臭が取れていきます。そして、生命というものが物的な相を超えたものであることが分かりはじめます。

そして、自覚が芽生えると、次第にそこの環境に反応しなくなり、いよいよ本当の霊の世界での生活が始まります。こうして、死と誕生(に相当するもの)が何度も繰り返されるのです」


───死後の世界での体験は主観的なのでしょうか。客観的なのでしょうか。

 「客観的です。なぜかと言えば、こちらの世界はそれぞれの界層で生活している同じレベルの住民の思念で構成されてるからです。意識がその界のレベルを超えて進化すると、自然にそこから離れていきます。成長と向上と進化によって霊的資質が身に着くと、自然の摂理によって次の段階へ移行するのです」


───ということは夢の世界ではないということですね?

 「そこを通過してしまえば夢の世界だったことになります。そこで生活している間は現実の世界です。それを〝夢〟と呼ぶか呼ばないかは、観点の違いの問題です。あなた方も夢を見ている間は、それを夢だとは思わないでしょう。夢から覚めて初めて夢だったことを知り〝なんだ、夢だったのか〟と思うわけです。

ですから夢が夢幻的段階を過ぎてしまうと、その時の体験を思い出して〝夢だった〟と言えるわけです。ですが、その夢幻を体験している間は、それがその霊にとっての現実です」

℘56
───全ての人間が必ずその低い界層からスタートするのでしょうか。

 「いえ、いえ、それはあくまでも何の予備知識も持たずにきた者や幼稚な者にかぎっての話です。つまり霊的実在があることを知らない人、物的なものを超越したことを思い浮かべることのできない人の場合です。

 あなた方が〝幽界〟と呼んでいるところは、霊の世界の中の小さな区域です。それは低い境涯から高い境涯へと至る、無数の階段の一つにすぎません。周囲がしきられているわけではありません。それを〝界〟と呼んでいるのは、あなた方に理解できる用語を用いるしかないからです」


引き続き霊界での成長について───

 「一つの界から次の界へよじ登っていくのではありません。自然に成長し、自然に進化していくのです。程度の低い要素が、程度の高い要素にその場を譲って行くのです。何度も死に、何度も誕生するのです。

幽体は、肉体の死のような過程で失われていくのではありません。低級なものが消えるに連れて、浄化され精妙になっていくのです。それが幽体の死です。


 そもそも〝死〟とは変化であり、復活であり、低いものから高いものへの上昇です。時間と空間にしばられた地上的制約から解放された霊の世界を説明しようとすると、何かと困難に遭遇します。低いものは高いものを理解できません。

有限なるものは無限なるものを包含することはできません。小さい器は大きい器を入れることはできません。奮闘努力の生活の中で理解を増していくしかありません」


───幽界では、例えば心臓なども残っていて、やはり鼓動するのでしょうか。

 「肉体器官の機能が残っている否かは、その霊の自覚の問題です。地上生活の後にも生活があることを知らず、霊の世界があることなど思いもよらない人の場合は、地上で具えていた肉体器官がそっくりそのまま残っていて、肉体的機能を続けています。あらゆる機能です」


───では、霊の世界について理解を持った人の場合はどうなりますか。

 「幽体の精妙化の過程がスムーズに進行します。ある器官が霊の生活に不要となったことを自覚すると、その器官が退化し始め、そのうち消滅してしまいます」

℘58
───死の直後からそういう現象が生じるのでしょうか。それともゆっくりとした過程なのでしょうか。

 「それも霊的自覚の程度によります。程度が高ければ、それだけ調整期間が短くてすみます。忘れてならないのは、私たちの世界は精神的な世界、霊の世界であり、そこでは自覚というものが最優先されるということです。精神が最高の権威を持ち支配しています。精神が指示したことが現実となるのです。

 昔から、高級界からやってきた霊のことを〝光り輝く存在〟というふうに述べていて、姿かたちをはっきり述べていないことにお気づきになったことはありませんか。外形というものが無くなっていくのです。つまり形による表現が少なくなっていくのです」


───最後にはどういう形態になっていくのでしょうか。

 「美はどういう形態をしているのでしょう? 愛はどういう形態をしているのでしょう? 光はどういう形態をしているのでしょう?」


───形態を超越してしまうと、色彩が認識の基本になるのでしょうか。

 「その通りです。但し、地上世界の基本的色彩となっているものが幾つかありますが、私たちの世界には、あなた方の理解力を超えた別の色彩の領域が存在します。

私たちは高級霊の姿から発せられる光輝、そのメッセージとともに届けられる光によって、その方がどなたであるかを認識することができます。形態というものがまったく無いことがあるのです。ただ思念があるのみで、それに光輝が伴っているのです」


───翼がついている天使の絵をよく見かけるのですが、あの翼の概念はどこから来たのでしょうか。

 「太古の人は宇宙を三段に分けて想像しました。自分たちが立っている大地(地球)が真ん中にあって、その上に天国が、その下に地獄があると考えました。そして、その天国からも、地獄からも訪問者がやってくると信じ、そうなると天空を降りてくる天使には翼があるはずだと想像しました。

鳥と同じ翼がなければ遠い距離を飛んで来られるはずはないと考えたわけです。こうして翼のある天使の概念が生まれました」

℘60
───実際に翼のある天使はいるのでしょうか。

 「います。ですが、それはただの想念体に過ぎません。霊の世界に翼は必要ありません。私たちが霊媒にある概念を伝える場合にも想念による絵画(ピクチャー)を使用することがあるのですが、地上の幼い子供たちが天使には翼があるものと思い込んでいる場合には、それに合わせて、翼のある天使をイメージして届けることがあります。それが守護の天使として定着したのです」


 話題が変わって、他界した身内のものや友人・知人は、姿こそ見えなくても、地上にいた時よりいっそう身近な存在となっていることを説いて、こう述べた。

 「その方たちは今なお実在の人物であり、地上にいた時と同じように、あなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはなりません。彼らにはもはや言葉で話かけることはできませんし、あなた方もその声を聞くことはできませんが、あなた方のすぐ身の回りにいて、何かと面倒を見てくれております。

 そう言えばそんな感じがすると思われるでしょうが、実際はもっととっと密接な関係にあります。彼らはあなた方の心の秘密、口に出さないでいる欲求、願望、希望、そして心配なさっていることまで、全部読みとっております。そして地上的体験から、あなた方の魂の成長にとって必要なものを、摂取するように導いてくれております。

決して薄ぼんやりとした、影のような、あるいはもやのような存在ではありません。今なお皆さんのことを愛し、以前よりさらに身近な存在となっている。実態のある男性であり。女性なのです」


───霊界でも心霊治療を受ける人がいるそうですが、どういう人たちでしょうか。

 「さまざまな原因から、霊的身体に欠陥が生じている場合です。たとえば無残な事故で急死した場合は、新しい霊的生活に順応するための調整が必要です。

それを霊的エネルギーの注入によって行います。また地上時代ずっと、脳の欠陥のために精神に正しく情報が届かず、結果的に霊性が発揮されずに終わった人の場合などです」

℘62  
───戦争で爆弾の直撃を受けて、こっぱみじんになって死んだ場合はどうなりますか。

 「これも、こちらの世界へ次々とやってくる他界者のための受け入れ施設が受け持っている仕事の一環にすぎません。

地上でも、道ばたに倒れている人がいれば病院へ運ぶという仕事が、戦争になると負傷兵を看護する施設へと発展するように、こちらでも、通常の受け入れ体制の他に、さまざまな原因からいきなり放りこまれた霊界の生活に順応させる施設がたくさん用意されております」


 別の日の交霊会で、前に一度シルバーバーチを通じて出席者の一人に、地上時代に掛けた迷惑についての詫びを述べたことのある霊が、その日にまた同じことについての詫びを改めて届けてきた。その詫びの言葉を述べたあと、シルバーバーチがこう語った。

 「あなたが、もういいのにと、思われる気持は私にはよく理解できます。でも、彼には詫びの気持ちを述べずにはいられない事情があるのです。懺悔をするということは、あなたに対してというよりは、彼自身にとって意味があるのです。

 他界した者が地上時代の行為について懺悔の気持ちを何らかの形で届けたいと思うようになるということは、本当に自我に目覚めつつあることの証拠です。あなた方にとってはもう過ぎたことであり、忘れていらっしゃるかも知れません。が、

その行為、ないしは事実は、霊的自我に刻み込まれていて、霊性が成長し、それについての正しい評価が下されるまでは、絶対に消える事はありません」


 さらに別の日の交霊会でも、他界したあとに抱く地上への思いを、こう述べた。

 「皆さんは、いったん霊の世界へ来てから地上界へ戻り、何とかして働きかけたいと思いながら、それが叶えられずにいる人たちの気持ちがどんなものか、考えてみたことがおありですか。

地上界を去ってこちらへ来てみて視野が変わり、人生を初めて正しい視野で捉えるようになって、そのよろこびを何とかして地上の愛する人たちに教えてあげたいと、一生けんめいになっている霊が大勢いることをご存じでしたか。
℘64
 ところが人間は、そういう人たちの働きかけにまったく鈍感なのです。見ることはおろか、聞くこともできません。愚かにも五感だけが実在のすべてであると思い込み、その粗末で気のきかない五つの感覚が捉えている世界以外には何も存在しないと考えています。

 私たちがこちらでよく見かける光景は、死後も立派に生き続けていることを知らせてあげようと、手を思いきり差しのべてあれこれと尽くすのに、そのうち、どうしても気づいてもらえないことを知ってがっかりとした表情を浮かべている人たちです。

呼びかけても聞いてもらえず、目の前に立ちはだかっても見て貰えず、思念を送っても感じてもらえません。

 悲しみに暮れている人たちばかりを相手にした話ではありません。楽しく暮らしている明るい家庭においてもそうです。そこで私たちは、重苦しい気持ちを引きずれながらその人たちに近づいて、人間側が交霊会にでも出席してくれるようになるまでは、どう努力しても無駄ですよ、と告げるしかないのです」


 シルバーバーチはさらに次のような、他界後の霊界の実情を打ち明けた。

 「これまでに私は、何人もの〝国教会の大黒柱〟と呼ばれていた人を連れて、かつて彼らが勤めていた礼拝堂、大聖堂、教会等へ行ったことがあります。

そこで彼らが目にするのは、当然、かつて自分も説いたことのある教説の繰り返しですが、今ではそれが間違っていることがよく分かるものですから、彼らの心は次第に重苦しく沈み込んでいきます。間違いと迷信で出来上った組織を助長したのは、ほかならぬ自分たちであることを自覚するからです」


───針のむしろに座らされる思いでしょうね?

 「それが彼等にとっての煉獄(れんごく)なのです。辛いでしょうが、それが摂理なのです。自分が犯した過ちは自分で改めないといけません。

自分が送った間違った人生の代償を払わないといけないのです。永遠なる公正のもとにおいて、ありとあらゆる勘定が清算させられます。この摂理から逃れる人は一人もいません」



───その司祭たちはどういう方法で償うのでしょうか。
℘66
 「間違った教えを説いた信者の一人一人に会って、その間違いを修正してあげないといけません」


───説教をした信者の一人一人に面接しないといけないのでしょうか。

 「そうです」


───でも、それまでに信者自身が修正していることもあるでしょう?

 「そういう場合は、それだけ負担が軽くなります」


───正しいと確信して説いていた場合はどうなるのでしょうか。少しは違うのでしょうか。

 「その場合は事情が違ってきます。何事も〝動機〟が大切だからです」

℘67
───その場合でもやはり一人一人に会わないといけませんか。

 「本心からそう信じていた場合は、その必要はありません。ですが、実際は、命をかけてそう信じている人は少ないようです。高慢と、地位、財産の方が真理よりも大切な人が多いようです。いったん教会という組織の中に組み込まれて、その中に浸りきってしまうと、それが鎖のように魂を縛りつけてしまいます。

心の奥では納得できずにいながら、お座なりの説教を繰り返すことによって理性を麻痺させようという卑劣な態度をとるようになります。

 私たちは、そうとは知らずに間違ったことを説いている真面目な牧師を咎めようとは思いません。咎めたいのは、心の奥では真理なんかどうでもいい───教会という組織を存続させることが第一だ、と考えている指導者たち、あるいは、間違っていると知りつつも、ではそれを捨てたら、これから先自分たちはどうなるのだ、という単純な不安から、伝統的教義を守ろうとしている牧師たちです。


 間違っていることに気づかずに、一生けんめい説いている者を咎めるつもりはありません。自分たちの説いている教えや行っている儀式が何の根拠もないことを知りつつも、奇弁を弄してつくろい〝これを捨てたら、ほかに何があると言うのか───教えることが何もなくなるではないか〟という幼稚な自己弁護をしている連中のことを咎めているのです。
℘68
 とは言うものの、たとえ知らなかったとはいえ、やはり間違っていたことは正さないといけません。ただし、その場合は煉獄の苦しみではなく、むしろ喜びすら覚えるものです。魂が進んでそれを求めてすることですから、それは一種のサービスの喜びとなります」


 これを聞いてかつてメソジスト派の牧師だったメンバーが訊ねた。

───では、私もこれまでの説教してきた信者のすべてに会って正さないといけないことになるのでしょうか。

 「そういうことです。会った時にまだ間違った教えを信じている場合、言いかえると、あなたの教えを信じたために光明を見出すのが遅れている場合は、光明への正しい道を教えてあげないといけません」

℘69
───それは大変です。大変な数の人に教えを説いてきましたから・・・・・・

 「あなただけではありません。すべての牧師が直面させられる摂理なのです。でも、あなたの場合そう苦になさることはないでしょう」


 ここで別のメンバーが 「たぶん、この方の場合は、牧師を止められてから救ってあげた人たちが協力してくれるはずです」 というとシルバーバーチが───

 「その通りです。永遠に不変の公正は決してごまかされません。叶えられることなら皆さんにも、私が見ている通りの摂理の働き具合をご覧にいれて、公正の天秤がいかに見事にバランスがとれているかを知っていただきたいのですが・・・・・・大霊のなさることに寸分の狂いもないことを得心なさるはずです。

 教えを説く者には深刻な責任があることは、ここのおいでの皆さんがご存じないはずはありません。知識には責任が伴うことを何度申し上げたことでしょう。

自分を他の人たちより高め、人を教え導きたいと思うのであれば、まずは自分自身が拠って立つ足場をしっかりと固めないといけません。

 徹底的に探究し試してみることを怠り、批判に身をさらすこともせずに自己満足し、本当かどうかの確信もないまま人に教えを説くようなことをしていると、その怠慢と軽率さに大きな代償を払わされる時が必ず来ます」

℘70
 別の日の交霊会で、地上時代に受けた間違った教えのために魂の進化が阻害されている例が話題になった。メンバーの一人が、最後の審判日を待ちながら死体の埋葬されている墓地で暮らしている霊がいるという話を聞いたが、そんなことが本当にあるのかと尋ねると───

 「事実その通りなのです。それが私たちにとって厄介な問題の一つなのです。教会で聞かされた通りのことが本当に起きるものと信じ切っているものですから、自分からその考えに疑問を感じるようにならないかぎり、側からはどうしようもないのです。  

 死ねばガブリエルのラッパが聞こえるまで墓地で待つものという想念体を、全生涯をかけて作り上げて来ているわけですから、その想念体が崩れないかぎりは、いつまでのその牢獄から抜け出られないのです。

 死んだことが信じられない霊の場合も同じです。信じることを拒んでいるかぎり、私たちも為すすべがありません。もう死んで霊の世界に来ているという事実を信じさせることがどんなに難しいか、みなさんには理解できないでしょう。

 ずいぶん前の話ですが、クリスタデルフィアン(一九五〇年代に米国で生まれたキリスト教の一派)だという霊と長々と話し合ったことがあります。

私は何とかしてその人がすでに死んでいる事実を納得させようとしたのですが、〝こうして生きているのに、なぜ私が死んでいるのですか〟と言い返して、どうしても信じてくれませんでした。復活の日まで待ちますと言って、その場から離れようとしませんでした」


───時間をどうやって過ごすのでしょうか。

 「ただ待つだけです───〝待つ〟という想念の中にいるだけです。自分でこしらえた想念体の牢獄の中に閉じ込められているのです。そのことに気づけば、想念体が崩れて眼が覚めるのですが、こうした事実を地上の人に説明するのはとても困難です。

 こちらの世界には〝時間〟というものがないのです。地球の自転によって昼と夜とが生じるようなことがないからです。昼と夜とで一日、といった計算をすることがない世界において、どうやって昨日と今日とを区別するのでしょう?」


───時間の単位はなくても、時間の経過はあるのでしょう?

 「それもありません。まわりで生じる変化との関連において成長と進化を意識することはありますが、時間の経過はありません。霊的な成長と、それに伴う環境の変化があるのみです。時間というのは、そうした変化との関連における尺度にすぎません。

 無意識でいる間は時間は存在しません。環境との関係が変わったからです。夢の中では環境との関係が変わっていますから、肉体につながれている時よりも物事が早く推移するわけです」

霊訓 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings



3節

本節の内容筆記の激しさによる著者の頭痛
その説明
現行法律の欠陥
霊的知識の欠如
地縛霊
早世した霊の得失
体験と試練の必要性
“動”の世界と“静”の世界
宇宙の内的世界の分類と地上生活の位置
悪の世界への堕落
極悪霊のたどる運命
イエスの述べた“赦し難き罪”とは


〔前節の通信が書かれた時の勢いはこれまでになく激しいものだった。一ページ一ページきちんと余白を取り、段落をつけ、実に細かい文字で書き、God(神)の文字だけは必ず大文字で書いた。書き上がったものを見るとまさに書き方の手本のようだった。が、書き綴っている時は手がヒリヒリし、腕ががくがくして、強烈なエネルギーが身体を流れるのを感じた。書き終わった時はぐったりとして横になるほど疲れ果て、頭の奥に激しい痛みを覚えた。そこで翌日さっそくその頭痛の原因を尋ねた。すると非常に穏やかな筆致でこう綴られた――〕


あの時の頭痛はエネルギーの強さと、それをそなたより引き出す時の速さが度を越したからである。あのような重大なる問題については熱烈さを伴わずしては書けぬ。われらが地上へ派遣されたそもそもの目的が、その種の問題にそなたの関心を向けさせることにあるからである。われらは神の定めたる不変の法則に従うことの重大性を何としても強く印象づけておきたく思う。それを犯すことは己を危うくすることでしかないからである。

戦争は人間の欲望と野心、怒りと驕(おご)りと復讐心の産物にほかならぬ。然して戦争のあとに残されるものは一体何か。神の美(うる)わしき自然が破壊され踏みにじられる。人間のすばらしき平和な勤勉の産物が無残にも破壊される。到るところが血の海となる。そうして未熟で無知で未浄化の霊魂が肉体から引き離されて洪水の如く霊界へと送られてくる。ああ、何たる愚行! 何たる蛮行! 地上自ら悪を生み、そして常に悲劇に終わる。その愚かさに目覚めぬかぎり人類の進歩は遅々として進まぬであろう。然るに人間はひきも切らず悪のタネを蒔き続け、それがわれらの仕事の障害ともなっている。

人間の社会制度と国家機構には改めねばならぬことが数多くある。取り入れねばならぬものが数多く存在する。

例えば人間の社会は大衆のための法律と言いつつその実、犯罪人を懲(こ)らしめるための法律でしかない。もとより法律には懲罰的要素もなくてはならぬ。が、同時に更生的要素も持たねばならぬ。然るに異常者とみた者をすぐに逮捕し、他の者へ危害を及ぼさぬようにと隔離する。数年前に大規模にそれを行ない、拷問にかけ、精神病棟をぎゅうぎゅう詰めにした。彼らのどこに罪があると言うのか。何のことはない。その口にすることが普通一般の常識と異なるというに過ぎぬ。あるいは――古(いにしえ)より狂人とされた者の多くがそうであり、今なおよくあることであるが――単に未熟霊にそそのかされたに過ぎぬのである。いつの日かその真相を知って後悔することであろうが、常識の道からはずれることが必ずしも狂える証拠とはかぎらぬ。霊の訓えの道具となることが精神に異常を来したことにはならぬのである。人間の愚行によりて多くの神の使徒が公然とその使命を遂行する自由を奪われ、さらに、われらが精神病棟を溢れさせ、霊媒を発狂させた元凶であるという誤れる認識が行なわれている。盲目にして無知なる為政者がわれら霊とその訓えと関わりをもつ者すべてを精神病者と決めつけたからに他ならぬ。愚かにも人間は霊の世界と関わりをもつことそれ自体を狂気の証と決めつけ、従って霊的真理を口にする者は悉(ことごと)く狂人であり、故に精神病院に隔離せねばならぬと決定した。そして偽りの供述書を作成することによって霊媒に狂人の汚名を着せ、幽閉することに成功すると、今度は、霊媒を狂わせたのは霊であるとの口実のもとに、その罪をわれらに押しつけたのである。

もしこれを無知の産物と言うのでなければ、神への冒涜と言わねばなるまい。われらは神の恵み以外の何ものももたらさぬ。地上の同胞にとって、われらは神の真理の担い手にほかならぬ。人間がその罪深き心と卑しき生活によりて同類の邪霊を引き寄せその邪性を倍加すれば、その罪は人間自らが背負わねばならぬ。邪霊たちは人間の蒔いたタネを刈り取っているに過ぎぬ。邪霊を咎める前にまず人間自らがその過ちを知らねばならぬ。魂と身体(からだ)の管理をおろそかにしたために道を間違えたのである。これを言い換えれば、神聖なる霊の影響力から遠ざかったという意味において迷っているのである。が、われらはその種の人間には取り合わぬ。彼らはまだしも良い。彼らより遥かに道を踏み外せるのは、道を踏み外せる者と思わずにいる飲んだくれの肉欲集団である。彼らは快感に浸りて己を忘れ、汚れたる肉体の官能を飽くことなく刺戟し、堕落者、不道徳者と交わり、挙句には、いま一度肉体的快楽を求めてうろつきまわる邪霊・悪霊の餌食となって行く。われらの目にとりて、こうした邪心と不純の巣窟ほど恐ろしきものはない。この上なく卑しく、この上なく恐ろしき堕落の巣窟である。言うなれば、人類の文明の汚点であり、知性の恥辱である。


――いま一度肉体的快楽を求めるとはどういう意味ですか。


こうした地縛の霊たちは、地上時代の肉体的欲望と性向とを多分に残している。それを直接感識する器官はすでにないが、欲求だけは消えぬ。飲んだくれは相変わらず酒と性の味が忘れられぬ。否、むしろ一段と強く求める。いくら耽っても満足を得ることができぬためである。魂の中に欲望の炎が燃えさかる。その欲望に駆られて、かつての通いつめた悪徳の巣窟へと引きつけられ、そこで快楽に耽る人間に取り憑き、その者の堕落を一層深めていく。かくして再び地上生活を味わい、同時にその人間が深みにはまり行くのを見て、悪魔の如く、してやったりと、ほくそえむ。悪徳が引きつがれ、罪悪と悲しみを産み続ける。魂を奪われたその哀れなる者は目に見えぬ悪の使者に駆りたてられ、泥沼に深く深く沈んで行く。家では妻と子が飢えと悲しみに言葉もなく打ち暮れている。そのまわりを、打つべき手を全て失いたる守護霊(1)が、為すすべもなく徘徊する。

こうした例を持ち出すのは、地縛霊が酒色に耽る人間を虜(とりこ)にして、今一度地上的快楽を味わっている現実を知らしめんがためである。一度酒色に溺れし者の更生が困難であるのは、かくの如くに悪徳の悪循環が行われているためである。その悪循環を断ち切る方法は人類全体の道徳的意識の高揚と物的生活の向上に俟(ま)つほかはない。それにはまず、より垢(あか)抜けした真実の霊的知識の普及が必要である。つまり幅広き真の意味での高等教育が要請されるのである。


――そうすることによって、いま例を挙げられたような憑依が防げるということですか。


さよう。最後には防げる。人間の側より餌を撒くが如き愚を続ける現状が維持されるかぎりは、それ以外には方法はあるまい。


――幼くして死んだ子供は一気に高い世界へ行くのでしょうか。


そういうことは有り得ぬ。地上生活ならではの体験は決して免除されることはない。確かに、汚れを知らぬという利点のおかげで“浄化のための境涯”は速やかに通過できよう。が、体験と知識の不足は、それを補い鍛練することを仕事とする霊による指導を仰がねばならぬ。故に、地上生活を中途で打ち切られることは、このままでは魂の成長を遅らせ損失を招くのみと見なされた場合を唯一の例外として、決して得にはならぬ。与えられし宿命に甘んじ、己の成長と同胞の福祉のために精を出し、神を崇め、神に奉仕し、背後霊の指導に素直に従う者こそ、地上生活を最大限に活用した者と言えよう。そうした地上生活を送れる人間たちは改めて学び直すものはなく、従って霊界での向上も速やかである。魂の向上を妨げるのは、あらゆる種類の自惚(うぬぼ)れと利己心、無精と怠慢、そしてわがままである。公然たる罪悪と悪徳、それに偏見から真理の受け入れを拒否する頑迷固陋(ころう)の態度――こうしたものは言うに及ばぬ。魂の肥やしは愛と知識である。子供には愛はあるかも知れぬ。が、知識は教育されぬかぎり身につくものではない。これは、霊媒の背後霊の一人となりて生活を共にすることによりて獲得されることがよくある。が、夭折する子の中には、もしもそのまま地上生活を続けていれば、徒に悪徳と苦しみにさらされたであろうと見なされた子が少なくない。そうした子は知識の上での損失を純粋性で補ったと言える。が、不利な環境の中で闘い、そして克服した者の方が遥かに気高い。試練によって一段と清められたるが故に、そうした魂のために用意された境涯へと進むことを得る。地上的体験は貴重なのである。その体験を得んとして大勢の霊が地上に戻り、霊媒の背後霊となりて己に必要な体験を積まんとしている。それは、ある者にとりては情愛の開発であり、ある者にとりては苦しみと悲しみの体験であり、またある者にとりては知性の開発であり、感情の抑制つまり心の平静の涵養であったりする。かくの如く、地上に戻り来る霊には、われらの如き特殊な使命を帯びたる者を除いては、それ自身にとりて必要な何らかの目的がある。つまり、われら並びにそなたたちとの接触を通じて向上進化を遂げんとしているのである。それは魂の自然の欲求なのである。より高き向上! より多くの知識! より深き愛! かくして不純物が一掃され、神に向いて高く、より高く向上して行くのである。


――地上に戻ることだけが進歩のための唯一の手段ではないでしょう。


無論である。しかもそれが普通一般のことでもない。われらの世界には数多くの教育施設が用意されている。また、一度失敗した方法は二度と採用せぬ。


〔このあと霊の住居と仕事について通信が続いたが、私には今一つ理解がいかないので、筆記者は自分の境涯以外のこと、というよりもむしろ、その上の界の事情にも通じているのかどうか、また、地上よりもっと低い境涯への誕生もあるのかどうかを尋ねてみた。すると、霊にも霊界の全てに通暁する能力はないこと、また魂が向上発達し完成されていく、いわゆる“試練”もしくは“浄化”の環境と、そのあとに来るいわゆる超越界――いったん突入したら(よくよく特殊な場合を除いて)二度と戻ることのない“無”の世界――との間には大きな懸隔があるということだった。そしてこう綴られた。〕


七つの試練界の最高界から超越界の最低界への突入は人間の死にも似ていよう。が、その超越界につきてはわれらも殆ど聞かされていない。ただ、われらがこうしてそなたを見守っている如く、その世界の至聖なる霊もわれらを援助し導いて下さっていることは承知している。が、それ以外の客観的な事実については何も知らぬ。判っているのはその世界の霊はいよいよ神的属性が完成に近づき、宇宙の根源に通じ、神を身近に拝むことを得るらしいということのみである。われらとてまだまだその至福の境涯からは程遠い。まだまだ為さねばならぬことがある。その遂行の中に喜びを見出しているところである。霊といえども己の得た経験と知識に基いて語っていることを承知しておく必要があろう。奥深き問題についても、それまで知り得たかぎりの知識の範囲で解答を出す。故に真実から外れたことを述べることも有り得るわけであるから、そうした霊を咎めてはならぬ。霊の世界についてわれらが間違いなく言えることは、そなたらの住む地球が七つの下層界のうちの最高界であり、その上に七つの活動の世界があり、さらにそのあとに七つの超越的瞑想界が存在するということである。(2)但しその七つの各界には数多くの“境涯”が存在する。自ら堕落の道を選べる者が遂に後戻りの出来ぬ境涯まで落ち込んで行く理由については、すでに少しばかり述べた。絶え間なく悪を求め、善を拒絶していくことは必然的に純粋なるもの善なるものへの嫌悪感を育(はぐく)み、邪悪なるものを求めさせることになる。こうした性癖の霊は、普通、獣欲に支配された肉体に宿ることが多い。成長とともに獣欲の誘惑に負け、挙句の果てにその奴隷となる。高尚なるものへの憧憬も、神への崇拝心も、聖なるものへの望みもすべて消え失せ、霊に代わりて肉体が完全に支配し、己の思うがままに行動し、道徳的規範も知的判断力も持ち合わせぬ。かくして魂は邪臭ふんぷんたる雰囲気に包まれていく。ここに至る者は危険この上なき状態にあると言わねばならぬ。もはや背後霊は恐怖におののきてその場を逃れる。その雰囲気に息が詰まるのである。すると代わって別の霊たちが群がり寄る。かつて地上で同じ悪癖に身を亡ぼした者たちである。彼らは今一度官能の快楽を味わい、その人間を罪深き生活へと追い込んでは快哉を叫ぶ。こうした肉体的罪悪を再び繰り返さんとする性向は自然の法則(おきて)を意識的に犯せる報いの中でも取りわけ恐ろしきものの一つである。彼は遂に肉体的快楽の味の虜になり果ててしまった。そして見よ! その肉体が滅んでも彼は相変わらずかつての快楽を求めて、行きつけの店をうろつきまわる。そうして、そこに屯(たむろ)する同類の飲んだくれに憑依して再び酒色に耽る。都会に軒を連ねる酒場、哀れなる道楽者の屯する悪徳の巣窟にはかつて地上で同じように酒色と悪徳に耽りたる霊がうろつきまわる。彼らは地上で飲んだくれの生活を送った。それを今また繰り返し、あまつさえ、そこに通いつめる人間を深みに引きずり込んでは、してやったりとほくそえむ。そなたがもしその邪霊の群がる場を一目見れば、悪のはびこる謎の一端を知ることが出来るであろう。悪の道にはまりし人間の再起を困難にし、地獄への堕落を容易にし、光明への帰還を妨げるのは、実にこれら邪霊なのである。地獄への坂道には狂えるが如き勢いで破滅への道を急ぐ邪霊がそこかしこに屯する。その一人一人が邪霊集団の拠点であり、人間を次々に破滅へ追いやっては、彼らと同じ惨めな境遇にまで引きずり下ろすことに快感を味わっているのである。引きずり下ろされた者は肉体から離れるとすぐさま地上よりさらに下層の同種の境涯に引き寄せられて行く。そして誘惑者と暮らしつつ、肉体を失いし後もなお消えやらぬ激しき情念と酒色に耽るのである。

こうした境涯の霊たちの更生は、神の救済団による必死の働きかけにより、魂の奥に善への欲求が芽生えるのを待つほかはない。首尾よくその欲求の芽生えた時が更生への第一歩である。その時より神聖にして気高き波長に感応するようになり、救済団による手厚き看護を受けることになる。地上にも自らを犠牲にして悪徳の世界に飛び込み、数多くの堕落者を見事に更生せしめている気高き人物がいる如く、われらの世界にもそうした奈落の底に沈める霊の救済に身を投じる霊がいる。そうした霊の努力によりて善に目覚め、堕落の生活より救済され、浄化の境涯における長く辛き試練を経てついに悪の影響と断絶し、清らかにして善なる霊の保護のもとに置かれた霊は決して少なくない。かくして聖なるものへの欲求が鼓舞され、霊性が純化されていく。それより更に深く沈みたる境涯についてはわれらも多くを知らぬ。漠然と知りたるところによれば、悪徳の種類と程度によって、さまざまな区別がなされている。中には善なるものへの欲求を全て失い、不純と悪徳に浸りきり、奈落の底へと深く深く沈んで行く者がいる。そして遂には意識的自我を失い、事実上、個的存在が消滅していく。少なくともわれらはそう信ずる。

ああ、なんと悲しきことであることか! が、有難きことに、こうした霊は稀にしか存在せず、よくよくの事情にて善と聖へ背を向けた者に限られる。これがイエスが弟子たちに語れる“死に到る罪”である。聖書に言う“聖霊に対する罪”(3)である。すなわち聖なる神の使徒の声に背を向け、聖と純と愛の生活を棄てて悪徳と不純の生活を選びし罪である。動物性が霊性を駆逐し、身体までも蝕(むしば)み、情欲を刺激し、最も下賤なる感情をさらに汚し、人間性を最下等の獣性にまで引き降ろしてしまう罪である。そこまで至れる者はもはや神性は消え失せ、野獣性が異常に助長され、強化され、発達し、すべてを支配し、霊の光を消してしまい、向上心の息の根を止める。悪徳の念のみが燃えさかり、魂を向上の道から遠くへ遠くへと引きずり下ろし、ついに動物性を病的なものにする。もはや霊の声も届かぬ。魂は一路奈落の底へ深く深く沈み行き、ついに底知れぬ暗闇の中へ消滅する。

これぞ聖書に言うところの、聖霊を汚す“赦し難き罪”(4)である。赦し難きとは神が赦さぬというのではない。自らその道を選びたるが故である。その道が性分に合い、いささかの悔い改めの念も感じぬためである。

罰は常に罪そのものが生み出す。それが罰の本質であり、決して第三者によりて割り当てられるものではない。法を犯したことによる不可避の結果なのである。その罰より完全に免れることは絶対に出来ぬ。もっとも、悔い改めによりてその苦しみが和らぐことは有り、その結果として罪悪への嫌悪感と善への志向を培(つちか)うことにもなる。これが、誤れる方向より戻し、過ちを償わせ、その結果として魂に新たなる希望を育んで行く、その第一歩と言えよう。彼を包む霊的雰囲気はすっかり変わり、天使も気持よく近づき、援助の手を差し伸べることも出来る。悪の影響より完全に隔離される。やがて悔恨と無念の情が湧いてくる。性格は優しく温順となり、善の影響に感じ易くなる。かつての頑(かたくな)で冷酷で反発的態度は消え失せ、魂が進化しはじめる。過去の罪の償いも終わり、良心の苛責もすっかり和らいでいる。こうした過程はいつの時代にも同じである。

さきに地上の法の違反者の取り扱いの愚かさを指摘したのは、こうした観点に基づいてのことであった。万一われらが同じ要領で過ちを犯せる霊を扱ったならば、真の救済は有り得ず、堕落霊の境涯はすっかり身を滅ぼせる霊でひしめき合うことであろう。が、神はそうはさせぬ。そうしてわれらはその神の命を受けし者なのである。


〔注〕

(1)


GuardianまたはGuardian angel地上に生をうけた霊(人間)と同じ霊系に属する類魂の一人で、誕生時あるいはそれ以前から付き添い、他界したのちも、事実上永遠に、切っても切れない絆で結ばれている。

英語と同様、守護霊(ガーディアン)という文字に“守る”という意味があるために、とかく守護霊とは何ごとにつけて守ってくれる霊とばかり想像されがちであるが、本来の使命は本人の地上での使命の達成と罪障消滅すなわち因果律を成就させることであって、それを挫折させまたは阻止せんとする勢力から守ってくれることはあっても、ぜひとも体験せざるを得ない不幸や病気等の“魂の試練”まで免除してくれることはしない。

ただ、各家庭によって躾の仕方が異なるように、守護霊によって考え方や方針が異なる。従って守護霊とはこういう働きかけをするもの、と一概に論ずることはできない。


(2)


死後の世界の分類の仕方は、視点の置きどころによって諸説がある。したがって他の説と数字だけで比較するのは適当でない。


(3)


マタイ 12-31~32


(4)


同右

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze



  二章  死は第二の人生の始まり


 一寸先は闇の世の中といわれる人生において、一つだけ確実に予言できることがある。みんな〝いつかは死ぬ〟ということである。若くして死ぬ人がいる───往々にして悲劇的環境の中で・・・・・・長寿番付に名を連ねて、大往生を遂げる人もいる。が、おそかれ早かれ、みんないつかは死ぬのである。

 死について、また死後の生命について、いくら明るく健全な知識を手にした人でも、やはり身近な人の死は辛く悲しい体験であることには間違いない。ある日の交霊会でシルバーバーチは、こう述べた。

 「私の説く真理を極めてあたり前のことと受け取る方がいらっしゃるでしょう。すでにたびたびお聞きになっておられる方はそうでしょう。が、驚天動地のこととして受け止める方もいらっしゃるでしょう。所詮、さまざまな発達段階にある人類を相手にしていることですから、それは当然のことでしょう。

 私の述べることがどうしても納得できない方がいらっしゃるでしょう。頭から否定なさる方もいらっしゃるでしょう。あなた方西洋人から野蛮人とみなされている人種の言っていることだということで一蹴される方もいらっしゃるでしょう。しかし、真理は真理であるがゆえに真理であり続けます。

 あなた方にとって当たり前となってしまったことが、人類史上最大の革命的事実に思える人がいることを忘れてはなりません。人間は霊的な存在であり、神の分霊であり、永遠に神とつながっている───私たち霊団が携えてくるメッセージは、いつもこれだけの単純な事実です。

神とのつながりは絶対に切れることはありません。時には強められ、時には弱められたりすることはあっても、決して断絶してしまうことはありません。

 人間は向上もすれば堕落もします。神のごとき人間になることもできれば、動物的人間になることもできます。自由意志を破壊的なことに使用することもできますし、建設的なことに使用することもできます。しかし、何をしようと、人間は永遠に神の分霊であり、神は永遠に人間に宿っております。

 こうした真理は、教会で朗唱するためにあるのではありません。日常生活において体現していかなくてはなりません。飢餓、失業、病気、貧民街(スラム)といった、内部に宿る神性を侮辱するような文明の恥辱を無くすることにつながらなくてはいけません。
℘41
 私たちのメッセージは全人類を念頭においております。いかなる進化の段階にあろうと、そのメッセージには、人間の全てが手に取り、理解し、そして吸収すべきものを十分に用意してあります。

 人類が階段の一つに足を置きます。すると私たちは、次の階段でお待ちしています。人類がその段まで上がってくると、また次の段でお待ちします。こうして一段又一段と宿命の成就へ向けて登っていくのです」

 
 別の交霊会で肉親を失って、その悲しみに必死に耐えている人に対して、シルバーバーチがこう述べた。

 「あなたの、霊の世界を見る目が遮られているのが残念です。霊の声を聞く耳が塞がれているのが残念です。その肉体の壁を越えてご覧になれないのが残念です。今生きておられる世界が影であり実在でないことを悟っていただけないのが残念です。

あなたの背後にあって絶え間なく世話を焼いている霊の働きをご覧に入れられないのが残念でなりません。数々の霊───あなたのご存じの方もいれば、人類愛から手を指しのべている見ず知らずの人もいます───が、あなたの身のまわりに存在していることが分かっていただけたなら、どんなにか慰められるでしょうに・・・・・・。地上は影の世界です。実在ではないのです。

 私たちの仕事は、こうした霊媒を通してのものばかりではありません。もちろん、人間世界特有の (言語によって意思を伝える) 手段によって私たちの実在を知っていただけることを有り難く思っておりますが、実際には、皆さんの目に見えず耳に聞こえずとも、みなさんの現実の世界に影響を及ぼし、導き、鼓舞し、指示を与え、正しい選択をさせながら、みなさんの性格を伸ばし、魂を開発しております。

そうした中でこそ死後の生活に備えて、霊的な成長に必要なものを摂取できる生き方へと誘うことができるのです」



 ある年の復活祭(イースター)の季節にシルバーバーチは〝死〟を一年の四季の巡りになぞらえて、こう語った。

 「四季の絶妙な変化、途切れることのない永遠の巡りに思いを馳せて御覧なさい。すべての生命が眠る冬、その生命が目覚める春、生命の世界が美を競い合う夏、そして又、次の春までの眠りに備えて大自然が声をひそめはじめる秋。

 地上は今まさに大自然の見事な顕現───春・イースター・蘇り───季節を迎えようとしております。新しい生命、それまで地下の暗がりで安らぎと静けさを得てひっそりと身を横たえていた生命が、いっせいに地上へ顕現する時期です。

間もなくあなた方の目にも樹液の活動が感じられるようになり、やがてつぼみが、若葉がそして花が目に入るようになります。地上全体の新しい生命の大合唱が響きわたります。
℘44
 こうしたことから、皆さんに、太古においては宗教というものが大自然の動きそのものを儀式の基本としていたことを知っていただきたいのです。

彼らは移り行く大自然のドラマの星辰の動きの中に神々の生活、自分たちを見つめている目に見えない力の存在を感じ取りました。自分たちの生命を支配する法則に畏敬の念を抱き、春を生命の誕生の季節として、最も大切に考えました。

 同じサイクルが人間一人一人の生命において繰り返されております。大自然の壮観と同じものが一人一人の魂において展開しているのです。

 まず意識の目覚めと共に春が訪れます。続いて生命力が最高に発揮される夏となります。やがてその力が衰え始める秋となり、そして疲れ果てた魂に冬の休眠の時が訪れます。が、それですべてが終わりとなるのではありません。

それは物的生命の終わりです。冬が終わると、その魂は次の世界において春を迎え、かくして永遠のサイクルを続けるのです。

 この教訓を大自然から学びとってください。そして、これまで自分を見捨てることのなかった摂理は、これ以降も自分を、そして他のすべての生命を見捨てることなく働き続けてくれることを確信して下さい」


 スピリチュアリズムの普及に活躍していた同志が他界したとの報に接して、シルバーバーチはこう語った。

 「大収穫者である神は、十分な実りを達成した者を次々と穫り入れ、死後に辿る道をより明るく飾ることをなさいます。

 肉眼の視野から消えると、あなた方は悲しみの涙を流されますが、私たちの世界では、また一人、物質の束縛から解放されて、言葉では言い表せない生命のよろこびを味わい始める魂を迎えて、うれし涙を流します。

私はつねづね〝死〟は自由をもたらすものであること、人間の世界では哀悼の意を表していても、本人は新しい自由、新しいよろこび、そして地上で発揮できずに終わった内部の霊性を発揮するチャンスに満ちた世界での生活が始まったことを知って、よろこんでいることを説いております。
℘46
 ここにおいでの方は、他界した者は決してこの宇宙からいなくなったわけではないとの知識を獲得された幸せな方たちですが、それに加えてもう一つ知っていただきたいのは、こちらへ来て霊力が強化されると、必ず地上のことを思いやり、こうして真理普及のために奮戦している私たちの仕事に協力してくれているということです。

 その闘いは地上の至る所で、日夜続けられております───霊の勢力と、醜い物的利己主義の勢力との戦いです。たとえ一時は後退のやむなきに至り、一見すると霊の勢力が敗北したかに思えても、背後に控える強大な組織のお陰で勝利は必ず我がものとなることを確信して、その勝利へ向けて前進しつづけます。

 いずれあなた方も、その戦いにおいて果たされたご自分の役割、すなわち大勢の人々に慰めと知識を与えてあげている事実を知って、大いなる喜びに浸ることになりましょう。

今は、それがお分かりにならない。私たちと共に推進してきた仕事によって、生きるよろこびを得た人が世界各地に無数にいることを、今はご存じありません。

 実はあなた方も、こうした霊的真理の普及に大切な役割を果たしておられるのです。その知識は、なるほどと得心がいき、心の傷と精神の煩悶と魂の憧憬のすべてに応えてくれる真実を求めている、飢えた魂にとって何ものにも替え難い宝となっております。
℘47
 太古の人間が天を仰いで福音を祈り求めたように、古びた決まり文句にうんざりしている現代の人間は、新しいしるしを求めて天を仰いできました。

そこで私たちが、あなた方の協力を得て、真実の知識をお持ちしたのです。それは、正しく用いさえすれば、必ずや神の子の全てに自由を───魂の自由・精神の自由だけでなく、身体の自由までも───もたらしてくれます。

 私たちが目的としているのは、魂を解放することだけではありません。見るも気の毒な状態に置かれている身体を救ってあげることも大切です。つまり私たちの仕事には三重の目的があります。すなわち精神の解放と、魂の解放、身体の解放です。

 そのことを世間へ向けて公言すると、あなた方はきっと、取り越し苦労性の人たちから、そう何もかもうまく行くものではないでしょうという反論に遭うであろうことは、私もよく承知しております。

しかし事実、私たちの説いている真理は人生のあらゆる面に応用が利くものです。宇宙のどこを探しても、神の摂理の届かないところがないように、地上生活のどこを探しても、私たちの説く霊的真理の適用できない側面はありません。
℘48  
 挫折した人を元気づけ、弱き者、寄るべなき者に手を差し伸べ、日常の最小限の必需品にも事欠く人々に神の恩寵を分け与え、不正を無くし、不平等を改め、飢餓に苦しむ人々に食を与え、雨露をしのぐほどの家とてない人々に住居を提供するという、こうした物質界ならではの問題にあなた方が心を砕いておられる時、それは実は、私たち霊の世界からやってくる者の仕事の一部であることを知っていただきたいのです。

そうした俗世的問題から超然とさせる為に霊的真理を説いているのではありません。霊的真理を知れば知るほど、自分より恵まれない人々への思いやりの気持ちを抱く様でなければなりません。

 その真理にいかなる肩書き(ラベル)をつけようと構いません。政治的ラベル、経済的ラベル、宗教的ラベル、哲学的ラベル───どれでもお好きなものを貼られるがよろしい。が、

それ自体は何の意味もありません。大切なのは、その真理が地上から不正を駆逐し、当然受けるべきものを受けていない人々に、生得の権利を行使させてあげる上で役立たせることです」

℘49  
 そして最後に〝死〟にまつわる陰湿な古い概念の打破を説いて、こう述べた。

 「その身体があなたではありません。あなたは本来、永遠の霊的存在なのです。私たちはこうした形で週一回お会いしてわずかな時を過ごすだけですが、そのことがお互いの絆を強化し、接触を深めていく上で役立っております。

毎週毎週、あなた方の霊そのものが影響力を受けて、それが表面へ出ております、その霊妙な関係は物的身体では意識されませんが、より大きな自我は実感しております。


 また、こうしたサークル活動は、あなた方が霊的存在であって物的存在でないことを忘れさせないようにする上でも、役に立っております。人間にはこうしたものがぜひとも必要です。

なぜなら、人間は毎日、毎時間、毎分、あくせくと物的生活に必要なものを追い求めているうちに、つい、その物的なものが殻に過ぎないことを忘れてしまいがちです。それは実在ではないのです。

 鏡に映るあなたは、本当のあなたではありません。真実のあなたの外形を見ているに過ぎません、身体は人間がまとう衣服であり、物質の世界で自分を表現する為の道具にすぎません。

 その身体があなたではありません。あなたは永遠の霊的存在であり、全大宇宙を支えている生命力───全天体を創造し、潮の干満を支配し、四季の永遠の巡りを規制し、全生命の成長と進化を統制し、太陽を輝かせ、星をきらめかせている大霊の一部なのです。

 その大霊と同じ神性をあなたも宿しているという意味において、あなたも神なのです。本質において同じなのです。程度において異なるのみで、基本的には同じなのです。

それは、あらゆる物的概念を超越した存在です。全ての物的限界を超えております。あなた方が想像するいかなるものよりも偉大なる存在なる存在です。

 あなたはまさに一個の巨大な原子───無限の可能性を秘めながら、今は限りある形態で自我を表現している、原子のような存在です。身体の内部に、いつの日か、全ての束縛を押し破り、真実のあなたにとって相応しい身体を通して表現せずにはいられない力を宿しておられるのです。

そうなることをあなた方は〝死〟と呼び、そうなった人のことを悼み悲しんで涙を流されます。それは、相も変わらず肉体がその人であるという考えが存在し、死が愛する人を奪い去ったと思いこんでいる証拠です。

 しかし、死は生命に対して何の力も及ぼしません。死は生命に対して何の手出しもできません。死は生命を滅ぼすことはできません。物的なものは、所詮、霊的なものには敵わないのです。

もしあなたが霊眼を持って眺めることができたら、もし霊耳を持って聞くことができたら、もしも肉体の奥にある魂が霊界の霊妙なバイブレーションを感じ取ることができたら、その時こそ、肉体という牢獄からの解放をよろこんでいる、自由で、意気揚々として、うれしさいっぱいの、蘇った霊をご覧になることができるでしょう。


 その自由を満喫している霊のことを悲しんではいけません。毛虫が美しい蝶になったことを嘆いてはいけません。カゴの鳥が空に放たれたことに涙してはいけません。よろこんであげるべきです。

そして、その魂が真の自由を見出したことで、いま地上にいるあなた方も神より授かった魂の潜在能力を開発すれば、同じ自由、同じ喜びを味わうことができることを知って下さい。

 これで死の意味がお分かりになるはずです。そして、死とは飛び石の一つ、ないしは大きな自由を味わえる霊の世界への関門に過ぎないことを得心なさるはずです。

 他界してその自由を味わったのちに開発される霊力を、今ここであなた方に身を持って実感していただけないことを、私は実に残念に思います。しかし、あなた方には知識があります。それをご一緒に広めているところです。それによってきっと地上に光をもたらし、暗闇をなくすことができます。

 人間はもう、何世紀にもわたって迷わされ続けてきた古い教義は信じません。教会の権威は失墜の一途をたどっております。霊的真理の受け入れを拒んできた報いとして、霊力を失いつつあるのです」