Friday, July 3, 2026

ベールの彼方の生活(一) G・V・オーエン著

 『霊界通信 ベールの彼方の生活』の第1巻は、英国の牧師G・V・オーエンを通じて伝えられたスピリチュアリズムの代表的古典です。死後の世界(天界の低地)の具体的な様子を詳細に描写しており、現代でも高い評価を受けている著作です。



三章 暗黒から光明へ
愛と叡智 ② 霊界の科学館  ③ 霊界のパビリオ    
暗黒街からの霊の救出
       

1 愛と叡智   
  一九一三年十月十日  金曜日
 
 私たちの日常生活とあなた方の日常生活とを比較して見られれば、結局はどちらも学校で勉強しているようなものであること、実に大きな学校でたくさんのクラスがあり、大勢の先生がおられること、しかし教育方針は一貫しており、単純なことから複雑なことへと進むようになっていること、そして複雑ということは混乱を意味するのではなく、

宇宙の創造主たる神を知れば知るほどその知る喜びによって一層神への敬虔なる忠誠心を抱くように全てがうまく出来上っていることを悟るようになります。

 そこで今日も従来からのテーマを取り上げて、こちらの世界で私たちが日頃どんなことをして過ごしているのか、神の愛がどのように私たちを包み、謙虚さと愛を身につけるにつれて事物がますます明快に理解されていくかを明らかにしてみましょう。


 こちらの事情で大切なことの一つに叡智と愛のバランスが取れていないといけないことが挙げられます。両者は実は別個のものではなく、一つの大きな原理の二つの側面を表わしているのです。

言わば樹木と葉との関係と同じで、愛が働き叡智が呼吸しておれば健全な果実が実ります。解りやすく説明するために、私たちが自分自身のこと、および私たちが指導することを許された人々の世話をする中でどういう具合にその愛と叡智を摂り入れて行くか、一つの具体例をあげてみましょう。


 つい先頃のことですが、私たちは一つの課題を与えられ、そのことで私たち五人で遠く離れたところにある地域(コロニー)を訪れることになりました。目的は神の愛の存在について疑念を抱き、あるいは当惑している地上の人間に対して取るべき最良の手段を教わることでした。

と言うのも、そうしたケースを扱う上でしばしば私たちの経験不足が障害となっていましたし、又あなたも御存知の通り地上にはそういう人が多いのです。

 そこにあるカレッジの校長先生は地上では才能豊かな政治家だった方ですが、その才能が地上ではあまり発揮されず、こちらへ来て初めて存分に発揮できるようになり、結局地球だけが鍛錬の成果が発揮される場でないことを身を持って理解されたわけです。

 訪問の目的を述べますと、その高い役職にも拘わらず、少しも偉(えらぶ)らず、極めて丁重で親切に応対されました。あなた達なら多分天使と呼びたくなるだろうと思われるほど高貴な方で、もしもそのお姿で地上に降りたら人間はその輝きに圧倒されることでしょう。

容姿もお顔も本当に美しい方で、それを形容する言葉としては、さしずめ〝燦然たる光輝に燃え立つような〟というところでしょう。親身な態度で私たちの話に耳を傾けられ、時折静かな口調で〝それで?〟と言って話を促され、私たちはついその方の霊格の高さも忘れて、恐れも遠慮もなく話しました。するとこうおっしゃいました。

 「生徒の皆さん──ここにいる間は生徒ということにしましよう──お話は興味深く拝聴いたしました。と同時に、そういうお仕事によくある問題でもあります。さて、そうした問題を私が今あっさりと解決してあげれば、皆さんは心も軽くお仕事に戻ることが出来るでしょう。が、イザ仕事に携わってみると又アレコレと問題が生じます。

なぜか。それは、一ばん心に銘記しておくべきことというものは体験してみなければ解らない細々(こまごま)したことばかりだからです。それがいかに大切であるかは体験してみてはじめて解るということです。では私についてお出でなさい。大事なことをこれからお教えしましょう。」


 私たちは先生の後について敷地内を歩いて行きました。庭では庭師が花や果実の木の剪定などの仕事に専念しておりました。小道を右に左に曲がりながら各種の植え込みの中を通り抜けました。小鳥や可愛い動物がそこここに姿を見せます。やがて小川に出ました。そしてすぐ側にエジプト寺院のミニチュアのような石の東屋があり、私たちはその中に案内されました。

天井は色とりどりの花で出来た棚になっており、その下の一つのベンチに腰掛けると、先生も私たちのベンチと直角に置いてあるベンチに腰を下ろされました。


 床を見ると何やら図面のようなものが刻み込まれております。先生はそれを指さしてこうおっしゃいました。

 「さて、これが今私があなた方を案内して回った建物と敷地の図面です。この印のところが今いる場所です。ご覧の通り最初に皆さんとお会いした門からここまで相当の距離があります。

皆さんはおしゃべりに夢中でどこをどう通ったかは一切気にとめられなかった。そこでこれから今来た道を逆戻りしてみるのも良い勉強になりますし、まんざら面白くないこともないでしょう。無事にお帰りになってお会いしたら、先ほどお聞きしたあなた方の問題についてアドバイスいたしましょう。」



 そうおっしゃって校長先生は立ち去られました。私たちは互いに顔を見合わせ、先生が迷路のような道を連れて回られた目的に気づかなかったそのうかつさを互いに感じて、どっと笑い出しました。それから図面を何度も何度も調べました。直線と三角と四角と円がごちゃごちゃになっている感じで、始めはほとんど判りませんでした。

 が、そのうち徐々に判りはじめました。それはそのコロニーの地図で、東屋はその中心、ほぼ中央に位置しております。が入口が記されておりません。しかもそれに通じる小道が四本あって、どの道を辿ればよいかが判りません。

しかし私はこれは大した問題でないと判断しました。と言うのは四本ともコロニーの外郭へつながっており、その間に何本もの小道が交叉していたからです。その判断に到達するまでのすったもんだは省きましょう。時間が掛かりますから。

 とにかく私の頭に一つの案が浮かび、参考までに提案してみたところ皆んなそれはなかなか良い考えだと言い、これで謎が解けそうだと喜びました。と言って別に驚くほどのことではないのです。どの方向でも良いから、とにかく外へ出て一ばん直線的な道を進んでみるというだけの話です。

言い方がまずいようですね。要するに東屋からどちらの方角でも良いから一ばん真っ直ぐな道を取るということです。そうすると必ず外郭へ出る。その外郭は完全な円形をしているから、それに沿って行けば遅かれ早かれ門まで来ることになるわけです。

 いよいよ出発しました。道中は結構長くて楽しいものでした。そして冒険的要素が無いわけではありませんでした。と言うのも、そのコロニーはそれはそれは広いもので、丘あり谷あり森あり小川ありで、それがまた実に美しいので、よほど目的をしっかり意識していないと、道が二つに岐れたところに来るとつい方向を誤りそうになるのでした。

 しかし、必ずしも最短で直線的な道を選んだわけではないと私は思うのですが、私はついに外郭に辿り着きました。ついでに言うと、その外郭は芝生の生い茂った幅の広い地帯になっていて、全体は見えなくても、その境界の様子からして円形になっていることはすぐに判ります。

そこで左へ折れ、そのまま行くと間違いなく円形をしていて無限軌道のように続いておりました。どんどん歩いて行くうちに、ついに最初に校長先生にお会いした門のところまで来ました。

 先生は、よく頑張りました、と言って迎えて下さり、その足で建物の前のテラスに上がり、それまでの冒険談──私が書いたものより遥かに多くの体験──をお聞かせしました。先生は前と同じように熱心に耳を傾けて下さり「なるほど。結構立派にやり遂げられました。目的を達成し、ここまで帰って来られたのですから。ではお約束通り、あなた方の学ばれた教訓を私から述べさせていただきましょう」と言って次のような話をされました。

 「まず第一に、行きたいと思う方向を確認すること。次に近道と思える道ではなく一ばん確実と思える道を選ぶこと。その道が一ばん早いとは限りません。限りなく広がると思えたこのコロニーの境界領域までまずやってくる。その境界線から振り返ると、それまで通り抜けて来た土地の広さと限界の見当がつく。要はそれまでの着実さと忍耐です。望むゴールは必ず、達成されるものです。

 「又、その限られた地域とその先に広がる地域との境界領域に立って見渡すと、曲がりくねった道や谷や小森が沢山あって、あまり遠くまで見通せなくても全体としては完全に釣合が取れている──要するに完全な円形になっており、内部は一見すると迷路でごった混ぜの観を呈していても、より大きい、あるいはより広い観点から見ると、全体として完全な統一体で、実質は単純に出来ていることが判るはずです。小道を通っている時は迷うでしょうけど。

 それに、その外郭を曲線に沿って行くと限られた範囲しか目に入らなかったでしょう。それでも、その形からきっと求める場所つまり門に辿り着けると判断し、その理性的判断に基づいた確信のもとに安心して辿って来られた。そして今こうして辿り着き、少なくとも概略においてあなた方の知的推理が正しかったことを証明なさったわけです。

 さてこの問題は掘り下げればまだまだ深いものがありますが、私はここであなた方をこの土地にいて私を援助してくれている仲間たちにお預けしようと思います。その人たちがこの建物や環境をさらにご案内し、お望みならもっと広い地域まで案内してくれるでしょう。面白いものがたくさんあるのです。

その方たちと私が述べた教訓について語り合われるとよろしい。少し後でもう一度お会いしますので、その時に話したいことや尋ねたいことがあればおっしゃって下さい。」


 そうおっしゃって私たちにひとまず別れを告げられると、代わって建物の中から楽しそうな一団が出て来て私たちを中へ招き入れました。まだまだ続けたいけど、あなたにはまだお勤めが残っているから今日はこの辺でやめにしましょう。少しの間とはいえ、こうして交信のために降りて来るのは楽しいことです。あなたをはじめ皆さんに神の祝福を。母とその霊団より。




2 霊界の科学館           
  一九一三年十月十一日 土曜日

 昨夜は時間がなくて簡単な叙述に終わってしまったので、今日は引き続きあのコロニーでの体験の幾つかを述べてみたいと思います。

そこには色んな施設があり、その殆どは地上の人間で死後の世界について疑問に思っている人、迷っている人を指導するにはどうすれば一ばん効果的かを研究するためのものです。

昨夜お話した私たちの体験を比喩として吟味されれば、その中に託された教訓をふくらませることが出来ると思います。

 さて、あのあと指導霊の一団の引率で私達はすでにお話した境界の外側へ出ました。そこは芝生地ですが、それが途方もなく広がっているのです。そこは時おり取り行われる高級界の神霊の〝顕現〟する場の一つです。

召集の通達が出されますと各方面からそれはそれは大勢の群集が集合し、その天界の低地で可能な限りのさまざまな荘厳なるシーンが展開します。

 そこを通り過ぎて行くうちに次第に登り坂となり、辿り着いたところは台地になっていて、そこに大小さまざまな建物が幾つか立っております。

 その中央に特別に大きいのが立っており、私たちはそこへ案内されました。入ってみるとそこは何の仕切りもない、ただの大きなホールになっております。

円形をしており、まわりの壁には変わった彫刻が施されております。細かく調べてみますと、それは天体を彫ったもので、その中に地球もありました。固定されているのではなく回転軸に乗っていて、半分が壁の中にあり半分が手前にはみ出ております。 

そのほか動物や植物や人間の像も彫られていて、そのほとんどが壁のくぼみ、つまり入れ込みに置いてあります。尋ねてみますとそこは純粋な科学教育施設であるとのことでした。 

 私たちはその円形施設の片側に取り付けられているバルコニーに案内されました。そこは少し出っ張っていますので全体が一望できるのです。これからそこの設備がどういう風に使用されるかを私たちのために実演して見せて下さることになりました。

 腰かけて見ておりますと。青い霞のようなものがホールの中心付近に立ち込みはじめました。と同時に一条(すじ)の光線がホールの中をさっと走って地球儀の上に乗っかりました。

すると地球儀がまるでその光を吸収していくかのように発光し始め、間もなく光線が引っ込められたあとも内部から輝き続けました。と見ているうちに今度はもう少し強烈な別の光線が走って同じように地球儀の上に乗りました。するとその地球儀がゆっくりと台座から離れ、壁から出て宙に浮きました。

 それがホールの中央部へ向けて浮上し、青い霞の中へ入ったとたんに誇張をしはじめ、輝く巨大な球体となって浮かんでおります。その様子は譬えようもなく美しいものでした。

それが地球と同じようにゆっくりと、実にゆっくりとした速度で回転し、その表面の海洋や大陸が見えます。その時はまだ地上で使われる平面図にすぎませんでしたが、回転を続けていくうちに次第に様子が変わってきました。

 山脈や高地が隆起し、河や海の水がうねり、さざ波を立て、都市のミニチュア、建物の細々(こまごま)とした部分までが見え始めたのです。きめの細かさがどんどん進んで、人間の姿──最初は群集が、やがて一人一人の姿が見分けられるようになりました。

直径80フィートから100フィートもあろうかと思える球体の上で生きた人間や動物が見えるというシーンは、とてもあなたには理解できないでしょう。がそれがこの施設の科学の目的なのです。つまり各天体上の存在を一つ一つ再現することです。

 その素晴らしいシーンはますます精度を増し、回転する球体上の都市や各分野で急がしく働いている人間の様子まで見えるようになりました。

広い草原や砂漠、森林、そこに生息する動物類の姿まで見えました。さらに回転して行くうちに、今度は内海や外洋が見えて来ました。あるものは静かに波うち、あるものは荒れ狂っております。そして、そこここに船の姿が見えます。つまり地上生活の全てが目の前に展開するのでした。

 私は長時間そのシーンに見入っておりました。するとその施設の係の方が下の方から私たちに声を掛けられました。おっしゃるには、私たちが今見ているのは現時点での実際の地上の様子で、もしお望みであれば過去へ遡って知性をもつ存在としての人類の起源までを再現できますということでした。

是非その美事な現象をもっともっと見せていただきたいと申し上げると、その方は現象の全てをコントロールしていると思われる器機のあるところへ行かれました。

 その話の続きはあとにして、ここで今あなたの心の中に見えるものについて説明しておきましょう。そのホールは暗くはありません。全体がすみずみまで明るいです。ですが球体そのものが、強烈でしかも不快感を与えない光に輝いているために、青い霞の外側が何となく薄暗く見えるまでです。その霞のあるところが球体の発する光輝の領域となっているようでした。

 さて、程なくしてその回転する球体上の光景が変化し始めました。そして私たちは長い長い年月を遡り、人間がようやく森林から出て来て平地で集落をこしらえるようになった頃の地上の全生命──人間と動物と植物の太古の姿を目のあたりにしはじめました。

 さて、ここでお断りしておかなければならないのは、太古の歴史は地上の歴史家が言っているような過程を辿ってはいないということです。当時の現象は〝国家〟と〝世紀〟の単位でなく〝種〟と〝累代〟(※)の単位で起きておりました。

何代もの地質学的時代がありました。人間が鉄器時代とか石器時代、氷河期と呼んでいる時期を見ますと実に面白いことが発見されます。あらかじめある程度の知識を持つ者には、どうもそうした名称がでたらめであることが判るのです。

と言いますのは、例えば氷河期は当時の地球の一、二の地域には当てはまるかも知れませんが、決して全体が氷で覆われていたわけではないことが、その球体を見ていると判るのです。それも大てい一時代に一つの大陸が氷で覆われ、次の時代には別の大陸が氷で覆われていたのです。

が、そうした歴史的展開の様子は地球が相当進化したところで打ち切られました。そうして、さっきも述べたように人類の出現はその時はすでに既成事実となっておりました。 (※地質学的時代区分を二つ以上含む最大の単位──訳者)

 どんどん様相を変えて行くこの多彩な宝石のような球体に魅入られ、これが他ならぬわが地球なのかと思い、それにしては自分たちが何も知らずにいたことを痛感していると、その球体が次第に小さくなって、もとの壁の入れ込みの中へ戻り、やがて光輝が薄れていき、ついには最初に見かけた時と同じただの石膏の彫り物の様なものになってしまいました。

 この現象に興味をそそられた私たちが指導霊に尋ねると、そこの施設についていろいろと解説して下さいました。今見た地球儀にはもっと科学的な用途があること、

あのような美しい現象を選んだのは科学的鍛錬を受けていない私たちには美しさの要素の多いものが適切と考えたからであること、科学的用途としては例えば天体と天体との関連性とか、それぞれの天体の誕生から現在までの進化の様子が見られるようになっていること。等々でした。

 壁にはめ込まれた動物も同じような目的に使用されるとのことでした。地球儀の時と同じように光線が当たると光輝を発してホールの中心部へやって来ます。

そこでまるで生きた動物のように動き回ります。事実ある意味でその間だけは生きた動物となっているのです。それが中央の特殊な台に乗っかると拡大光線──本当の科学的名称を知らないので仮りにそう呼んでおきます──を当てられ、さらに透明にする光線を当てられます。するとその動物の内臓がまる見えとなります。

施設の人の話によりますと、そうやって映し出される動物あるいは人間の内部組織の働き具合を見るのは実に見応えのあるものだそうです。

 そのモデルに別の操作を施すと、今度は進化の過程を逆戻りして次第に単純になって行き、ついには哺乳動物としての原初形態まで遡っていくことが出来ます。つまりその動物の構造上の発達の歴史が生きた姿のまま見られるというわけです。

面白いのはその操作を過ると間違ったコースを辿ることがあることで、その時は初期の段階が終わった段階で一たん元に戻し、もう一度やり直して、今度は正しいコースを取って今日の段階まで辿り着くということがあるそうです。

又、研究生が自分のアイディアを組み入れた進化のコースを辿らせてみることも出来るそうです。動物だけでなく、天体でも国家でも民族でも同じことができるそうですが、それを専門的に行う設備が別のホールにあるとのことでした。

 一度話に出た(八六頁参照)子供の学校の構内に設置されていた球体は実はこの施設の学生の一人がこしらえたのだそうです。勿論ここにあるものよりはずっと単純に出来ております。もしかしたらこの施設の美しさを見た後だからそう思えるのかも知れません。

 今日はこれ位にしておきましょう。他にも色々と見学したものがあるのですが、これ以上続けると長くなり過ぎるので止めにします。

 何か聞きたいことがあるみたいですね。その通りです。私は月曜日の勉強会に出席しておりました。あの方が私に気づいておられたのも知っておりました。私の述べた言葉は聞こえなかったようですけど。

 では、さようなら。あす又お会いしましょう。

≪原著者ノート≫最後のところで言及している勉強会のことについて一言述べておく必要がある。前の週の月曜日のことである。私はその日、礼拝堂の手すりと手すりの間に着席し、勉強会のメンバーは聖歌隊席で向かい合って着席していた。

聖歌隊席の至聖所側の一ばん端で私の右手になる位置にE婦人が着席していた。そのE婦人が後で語ってくれたところによると、私が会の最後の締めくくりの言葉を述べている最中に私の母親が両手を大きく広げ情愛あふれる顔で祭壇から進み出て、私のすぐ後ろまで来たという。

その姿は輝くように美しく、まるで出席しているメンバーと少しも変わらない人間の身体をまとっているようだったという。E婦人の目には今にも私を抱きしめるかに見えたそうで、余りの生々しさに一瞬自分以外の者には見えていないことを忘れ、今にも驚きの声を出しそうになったけど、どうにかこらえて目をそらしたという。私が質問しようと思っていたのはそのことだった。
       

 
 3 霊界のパビリオン       

  一九一三年十月十三日 月曜日

 例のコロニーでの、あなたの喜びそうな体験をもう一つお話しましょう。私にとっても初めての体験で興味ぶかいものでした。全体として一つのグループを形成している各種の施設を次々と案内していただいていると、屋外パビリオンのようなものに出ました。

何本もの高い円柱の上に巨大なドームが乗っているだけで、囲まれている内部に天井がありません。建物の周りについている階段から壇上に上がると、その中央に縦横三フィート、高さ四フィートばかりの正方形の祭壇が設けてあります。

その上に何やら日時計のようなブロンズ製の平たい板が立ててあり、直線やシンボル、幾何学的図形等がいろいろと刻まれてありました。

 その真上のドームの中央部に通路があり、そこから入って行くとその施設の器機の操作室に出るとの話でした。私たちをその文字盤(と呼んでおきましょう)のまわりに並ばせて、案内の方はその場を離れてドームの天井へ上がり操作室へとはいられました。

何が起きるのか判らないまま、私たちはじっとその文字盤を見つめておりました。

 すると様子が変化し始めました。まず空気の色彩と密度が変わってきました。あたりを見ますと、さっきまでの光景が消え、円柱と円柱との間に細い糸で出来たカーテン状のものが広がっておりました。さまざまな色調の糸が編み合わさっています。それが見る見るうちに一本一本に分かれ、判然とした形態を整えていきました。

すっかり整え終わった時、私たちは周りを林によって囲まれた空地の中に立っておりました。そしてその木々がそよ風にゆれているのです。

 やがて小鳥のさえずりが聞こえ、木から木へと飛び交うきれいな羽をした小鳥の姿が目に入りました。林はなおも広がり、美しい森の趣きとなってきました。ドームも消え、屋根のように樹木が広がっているところを除いては一面青空が広がっておりました。

 再び祭壇と文字盤に目をやると、同じ位置にちゃんとありましたが、文字盤に刻まれた図形やシンボルは祭壇の内部から発しているように思える明りに輝いておりました。

 やがて上の方から案内の方の声がして、文字盤を読んでみるようにと言われます。最初のうち誰にも読めませんでしたが、そのうち仲間の中で一ばん頭の鋭い方が、これは霊界の植物と動物の身体を構成する成分を解説しているものですと言いました。

その文字盤と祭壇とがどのような関係になっているのかも明らかとなりましたが、それは人間の言語で説明するのはちょっとムリです。ですが判ってみると成るほどと納得がいきました。

 その後案内の方が再び私たちの所へ来られ、その建物の使用目的を説明して下さいました。ここの研究生たちが〝創造〟についての進んだ科学的学習を行うためには、創造に使用される基本的成分について十分に勉強をしておかねばならないようです。それは当たり前と言ってしまえば確かに当たり前のことです。

この建物は研究生が最初に学習する施設の一つで、例の文字盤は上の操作室にいる研究生が自分なりに考えた成分の組み合わせやその比率などの参考資料が記されているのです。

 案内して下さった方はその道の研究で相当進んだ方で、さっきの森のシーンも同じ方法でこしらえたものでした。進歩してくると、その操置を使用しなくても思い通りのものが創造できるようになります。

つまり一つずつ装置が要らなくなり、ついには何の装置も使わずに自分の意念だけで造れるようになるわけです。

 そこで私たちは、そうした能力が実生活においてどのような目的に使用されるかを尋ねてみました。するとまず第一に精神と意志の鍛錬が目的であるとのことでした。

その鍛錬は並大抵のものではなく大変な努力を要するとのことで、それがひと通り終了すると次は同じくこの界の別のカレッジへ行って別の科学分野を学び、そこでもさらに多くの段階の修練を積まねばなりません。

その創造的能力が本当に自分のものとなり切るのは、幾つもの界でそうした修練を経たのちのことです。その暁にはある一人の大霊、大天使、あるいは能天使(本当の呼び方は知りません)の配下に属することを許され、父なる宇宙神の無限の創造的活動に参加することになります。その時に見られる創造の過程は荘厳を極めるとのことです。

お話を聞いた時はそれは多分新しい宇宙ないしは天体組織の創造──物的か霊的かは別として──のことかも知れないと考えたりしました。が、

そんな高い界のことは現在の私たちにはおおよその概念程度のことしか摑めません。しかも、そこまでに至るには人智を絶した長い長い年月を要することです。勿論そういう特殊な方向へ進むべき人の場合の話です。どうやらそこを訪れた私たち五人の女性にとっては、向上の道は別の方角にあるようです。

でも、たとえ辿るべき宿命は違っても、さまざまな生命活動を知りたいと思うものです。全ての者が宇宙の創造に参加するとは限らないと私は思います。

遥か彼方の、宇宙創造神の玉座に近いところには、きっと創造活動とは別に、同じく荘大にして栄光ある仕事があるものと確信しております。

 芝生の外郭を通って帰る途中で、別の科学分野を学ぶために別のカレッジへ行っていた研究生の一団と出会いました。男性ばかりではありません。女性も混じっております。

私がその女性たちにあなた方も男性と同じ分野を研究しているのですかと尋ねると、そうですと答え、男性は純粋に創造的分野に携わり、女性はその母性本能でもって産物に円(まる)みを持たせる働きをし、双方が相俟って完成美を増すことになるということでした。

もちろん完成美といってもその界での能力の範囲内で可能な限り美しく仕上げるという意味です。まだまだ天界の低地に属するこの界では上層界への進歩が目的であって、完璧な完成ということは有り得ないのです。

 やがて私たちはこの円形のコロニーの校長先生と出会ったところに帰り着きました。


 ──何故その方のお名前を出されないのですか。

 お名前はアーノルとおっしゃいます。少し変わったお名前で、地上の人間はとかく霊の名前に拘るので、出すのを控えていただけで他意はありません。霊の名前の由来はあなたには理解し難いので、これ以後もただ名前を述べるに留めて意味には言及しないことに致します。


 ──そうですね。その方が回りくどい説明が省けていいでしょう。

 そうなのです。でも私たちがこうして霊界の生活を説明する時の霊的情況の真相がもし理解できれば、手間が掛かるほど間違いが少ないということが判っていただけると思います。例のアーノル様のコロニーでの私たちの体験と教訓を思い出して下さい。


 ──それにしても、名前を出すということがなぜそうまで難しいのでしょうか。難しいものであるという話は再三聞かされておりますが。

 その難しさを説明するのがまた難しいのです。人間の立場から見れば何でもないことのように思えるでしょうけど。こういう説明ではどうでしょう。あなたもご存知の通り古代エジプト人にとっては神ならびに女神の名称には、頑迷な唯物主観の英語系民族(アングロサクソン)が考える以上に深い意味があったのです。

名前に何の意味があると言うのか──そう思われるかも知れませんが、私たち霊界人から観ると、そして又(こちらへ来てから得た資料で知ったのですが)古代エジプトの知恵から観ても、名前には大いに意味があるのです。

名前によっては、それを繰り返し反復するだけで現実的な力を発揮し、時には危害さえもたらすものがあります。地上にいる時は知りませんでしたが、こちらへ来てそれを知ったのです。それで私たちは、あなたには多分愚かしく思えるかも知れませんが〝名前〟という実在に一種の敬虔さを抱くようになるのです。

もっとも、物わかりの悪い心霊学者が期待するほどに霊界通信で名前が出てこないのは、それだけが理由ではありません。

 こうして地球圏まで降りて来ますと、名前によっては単に口にしたり書いたりすることさえ、あなたが想像する以上に困難なことがあるのです。その辺の事情は説明が難しいです。こちらの四次元世界の事情にもっともっと通じていただきかないと理解できないでしょう。

この四次元という用語も他に適当な用語が無いから使用しているまでです。では、二、三の例を挙げて、それで名前の問題は終わりにしましょう。

 その一つは例のモーゼが最高神の使者から最高神の名前を教えてもらった話(※)ですが、今日まで誰れ一人としてその名前の真意を知り得た者はおりません。

(※この説話は旧約聖書「出エジプト記三章」に出ているが、ステイントン・モーゼスの「霊訓」の最高指導霊イムペレーター、実は旧約聖書時代の予言者マキラによると、これは紀元前一三〇年頃の予言者、今で言う霊言霊媒チョムを通じて告げられたもので、その時の言葉は Nuk-Pu-Nuk、英訳すればI am the I am すなわち〝私は有るがままの存在である〟となり、宇宙の普遍的エッセンス、生命の根源をさすという。──訳者)

 次はそれより位の低い天使がヤコブから名前を聞かれて断られています。アブラハムその他、旧約聖書中の指導者に顕現した天使は滅多に名を明かしておりません。

新約聖書においても同じように殆んどが〝天使〟と呼ばれているだけです。名前を告げている場合、例えばガブリエルの場合(※)も、その深い意味は殆んど理解されておりません。

((※)同じく「霊訓」によると、ガブリエルは同じ大天使の中でも〝守護救済〟の任に当たる天使団の最高位の霊であり、ミカエルは悪霊・邪霊集団と〝戦う天使団〟の最高霊であるという。──訳者)


 ──ところで、あなたの名前──そちらでの新しいお名前は何でしょうか。明かすことを許されているのでしょうか。


 もちろん許されておりますが、賢明ではありません。明かした方が良ければ明かします。でも差し当たっては差し控えます。理由(わけ)はよく判っていただけなくても、あなたの為に良かれと思ってのことであることは判っていただけるでしょうから。


 ──結構です。あなたの判断にお任せします。

 その内あなたにも判る日が来ます。その時は「生命(いのち)の書」(※)の中に記されている人々にいかなる栄光が待ち構えているかを理解されるでしょう。この書の名称も一考に値するものです。軽々しく口にされておりますが、その真意はほとんど、あるいは全然理解されておりません。

(※正式には Book of Life of the Lamb)で「キリストの生命の書」。天国に召されるのを約束された聖人を意味するとされている。──訳者)

 ではあなたにもローズにもそしてお子たちにも、神の祝福のあらんことを。ルビー(まえがき参照)が間もなく行けるようになると言ってちょうだい、と私に可愛らしく告げています。指図を書き留められるようになってほしいなどと言ってますよ。まあ、ほんとに無邪気な子ですこと。皆んなから可愛がられて。ではさようなら。



 
4 暗黒街からの霊の救出       
 
 一九一三年十月十五日 水曜日

 自分のすぐ身の回りに霊の世界が存在することを知らない人間に死後の存続と死後の世界の現実味と愛と美を説明するとしたら、あなたなら何から始められますか。多分第一に現在のその人自身が不滅の霊であることを得心させようとなさることでしょう。

そしてもしそれが事実だったら死後の生活にとって現在の地上生活が重大な意味を持つことに気づき、その死後の世界からの通信に少しでも耳を傾けようとすることでしょう。何しろその世界は死というベールをくぐり抜けたあとに例外なく行き着くところであり、否応なしに暮さねばならないところだからです。

 そこで私たちは、もしも地上の人間が今生きているその存在も実在であり決して地上かぎりの果敢(はか)ないものではないことを理解してくれれば、私たちのように身をもって死後の生命と個性の存続を悟り、同時に地上生活を正しく生きている人間には祝福が待ちかまえていることを知った者からのメッセージを、一考の価値のあるものと認めてくれるものと思うのです。

 さて、その死の関門をくぐり抜けてより大きい自由な世界へと足を踏み入れた人間が、滞(とどこお)りなく神の御国での仕事に勤しむことになるのは何でもないことのようで、実はただ事ではないのです。

 これまで私たちは地上生活と死後の世界との因果関係について多くのケースを調べてみて、地上での準備と自己鍛錬の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはないという認識を得ております。多くの人間は死んでからのことは死んでからで良いと多寡をくくっておりますが、イザこちらへ来てみるとその考えが認識不足であったことに気づくのです。


──今お書きになっているのはどなたですか。

 あなたの母親と霊団のものです。アストリエル様は今夜はお見えになっておりません。またいつかお出でになるでしょう。霊団とともに通信に来られた時はお知らせしましょう。


 では話を続けましょう。〝橋〟と〝裂け目〟の話は致しました・・・・・・


──ええ、聞きました。それよりも、アーノル様のコロニーでの体験と、あなたの本来の界へ戻られてからのことはどうなりました。ほかに面白いエピソードはもう無いのですか。

 いろいろと勉強になり、知人も増え、お話したことより遥かに多くのことを見学したということ以外には別に申し上げることはありません。それよりも、ぜひあなたにお聞かせしたいと思っていることがあります。あのコロニーでの話を続けてもいいですが、これも同じように為になる話です。

 〝裂け目〟と〝橋〟──例の話を思い出して下さい。(四一頁参照)。その橋──地上の橋と少し趣きが異なるのですが、引き続きそう呼んでおきましょう──が暗黒界から延びてきて光明界の高台へ掛かるあたりで目撃したエピソードをお話しましょう。

 私たちがそこへ派遣されたのは恐ろしい暗黒界から脱出して首尾よくそこまで到達する一人の女性を迎えるためでした。その方は〝光〟の橋を渡ってくるのではなく、〝裂け目〟の恐怖の闇の中を這い上がって来るというのです。

私たちにはもう一人、すぐ上の界から強力な天使様が付いて来てくださいました。特別にこの仕事を託されている方で、首尾よく救出された霊が連れて行かれるホームを組織している女性天使団のお一人でした。


──お名前を伺いたいのですが。

 ビーニ──いけません。出てきません。あとにしましょう。書いているうちに思い出すかも知れません。

 到着してみると、谷を少し下った岩だらけの道に一個の光が見えます。どなたか男性の天使の方がそこで見張っていることが判りました。やがてその光が小さくなり始め、谷底へ下りて行かれたことを知りました。それから少しすると谷底から上に向けて閃光が発せられ、それに呼応して〝橋〟にいくつか設けられている塔の一つから照明が照らされました。

それはサーチライトに似てないこともありません。それが谷底の暗闇へ向けられ、一点をじっと照らしています。するとビー・・・・・、私たちに付いて来られた天使様が私たちに〝しばらくここに居るように〟と言い残してその場を離れ、宙を飛んで素早く塔のてっぺんへ行かれました。

 次の瞬間その天使様の姿が照明の中に消えて失くなりました。仲間の一人が天使様が光線に沿って斜めに谷底へ下りて行くのを見かけたと言います。私には見えませんでしたが、間もなくその通りだったことが判明しました。

 ここで注釈が要りそうです。その照明は見え易くするためのものではありません(高級霊は自分の霊眼で見えますから)。その光には低級界の陰湿な影響力から守る作用があるのです。

最初に谷底へ下った霊から閃光が発せられ、それに呼応して、常時見張っている塔から照明が当てられたのも、そのための合図だったのです。私には判りませんでしたが、その光線には生命とエネルギーが充満しており──これ以上うまい表現が出来ません──谷底で援助を必要としている霊のために発せられたわけです。

 やがて二人の天使が件(くだん)の女性霊を連れて帰って来られました。男の天使の方は非常にお強い方なのですが、疲れ切ったご様子でした。あとで聞いたところによりますと、途中でその女性霊を取り返そうとする邪霊集団と遭遇したのだそうで、信号を送って援助を求めたのはその時でした。

お二人はその女性霊を抱きかかえるようにして歩いて来ましたが、その女性は光の強さに半ば気絶しかかっておりました。それを気遣いながら塔へ向けてゆっくりと歩いて行かれました。私にとってこんな光景は初めてでした。もっとも、似たような体験はあります。

例の色とりどりの民族衣装を着た大集団が集結した話(四八頁参照)をしましたが、こんどの光景はある意味ではそれよりも厳粛さがありました。というのは、あの光景にはただただ喜びに溢れておりましたが、いま目の前にした光景には苦悩と喜びとが混ざり合っていたからです。

三人はついに橋に辿り着き、そこで女性霊は建物の一室に運び込まれ、そこで十分に休養を取り、回復したあと私たちに引き渡されたのでした。

 この話には私たちにとって新らしい教訓が幾つかあり、同時にそれまでは単なる推察に過ぎなかったものに確証を与えてくれたものが幾つかあります。その内の幾つかを挙げてみましょう。


 まず、女性霊を救出した二人の天使を見れば判るとおり、霊格の高い天使が苦しみを味わうことが無いかのように想像するのは間違いだということです。現実に苦しまれるし、それも度々あるのです。邪悪な霊の住む領域に入ると天使も傷(や)られます。

ならば、その理屈でいくと邪霊集団が大挙して押し寄せれば全土を征服できそうに思うのですが、やはり光明と善の勢力の組織がしっかりしていて、且つ常に見張っておりますので、現実にそうした大変な事態になった話を聞いたことがありません。

しかし彼らとの闘いは真実〝闘い〟なのです。しかも、たいへんなエネルギーの消耗を伴います。これが第二の教訓です。高級霊でも疲労することがあるということです。

しかし、その苦痛も疲労も厭わないのです。逆説的に聞こえるかも知れませんが、高級霊になると、必死に救いを求める魂のために自分が苦しみを味わうことに喜びを感じるものなのです。

 また例の照明の光──エネルギーと活力の光線とでも言うべきかも知れません──の威力は強烈ですから、何かで光を遮断してあげなかったら女性霊は危害をこうむったはずです。あのように光に慣れない霊にとってはショックが強すぎるのです。

 さらにもう一つ。その光線が暗闇の地帯の奥深く照らされた時、何百マイルもあろうかと思える遠く深い谷底から叫び声が聞こえて来ました。それは何とも言えない不思議な体験でした。と言うのは、その声には怒りもあれば憎しみもあり、絶望の声もあり、はたまた助けとお慈悲を求める声も混じっていたのです。

それらが混ざり合ったものが至るところから聞こえて来るのです。私にはそれが理解できないので、あとで件の女性霊を待っている間にビーニックス Beanix ──こう綴るよりほかないように思えますのでこれで通します。綴ってみるとどうもしっくり来ないのですが──その方に何の叫び声でどこから来るのかお聞きしました。

するとビーニックス様は、それはよくは知らないが霊界にはそうした叫びを全部記録する装置があって、それを個々に分析し科学的に処理して、その評価に従って最も効果的な方法で援助が差し向けられるとのことでした。叫びの一つ一つにその魂の善性又は邪悪性が込められており、それぞれに相応しいものを授かることになるわけです。

 件の女性をお預かりした時、私たちはまずは休養ということで、心の安まる雰囲気で包んであげるよう心がけました。そして十分に体力が回復してから、用意しておいたホームへご案内しました。今もそこで面倒を見てもらっています。

 私たちはその方に質問は一切しませんでした。逆にその方から二、三の質問がありました。なんと、あの暗黒界に実に二十年以上も居たというのです。地上時代のことは断片的にしか聞いておらず、一つの話につなげられるほどのものではありません。

それに、そんな昔の体験をいきなり鮮明に思い出させることは賢明ではないのです。現在から少しずつ遡って霊界での体験をひと通り復習し、それから地上生活へと戻ってこの因果関係──原因と結果、タネ蒔きと収穫──を明確に認識しないといけないのです。

 今日はこの程度にしておきましょう。ではさようなら。
 神の祝福と安らぎを。アーメン。

シルバー・バーチの霊訓(十二)

   煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編




十章 宗教


(1)地上では〝宗教に帰れ〟という呼びかけがあるそうですが、真の宗教とは同胞に奉仕することによって大霊すなわち神に奉仕することです。

そのためには殿堂も牧師も僧侶も聖典もいりません。そうしたものは奉仕の精神を植えつけ同胞への愛の心を強めることにならないかぎり何の意味もありません。いつどこにいても人のために役立つことをなさい。同胞の重荷を軽くしてあげることをなさい。それが宗教です。


(2)人のためになることであれば、どんなことでもよろしい。転んだ人の手を取ってあげることでも、勇気づけの言葉を掛けてあげることでもよろしい。霊的なものに係わることでなくてもよいのです。

物的なことであっても、それが相手の人にとって意義のあることであり、あなたもそれを嫌々ながらでなく気持ちよくしてあげるのであれば、それは立派に神の道具としての役目を果たしたことになります。


(3)しょせん人間は同胞に奉仕することによって大霊に奉仕する以外に、大霊への協力の道はないのです。地上には政治学、経済学、社会学といった立派そうな名称やラベルをつけた分野があり、それが勿体つけて説かれておりますが、どれもこれも、しょせんは言葉の遊戯に過ぎません。

私に言わせれば service(サービス)の一語ですべてが片付くのです。人のために役立つことをする───それが宗教です。


(4)サービスの真意を理解した人こそ私は偉大な人物とみなします。霊的自我の発見を目的とする人たちだけの話ではありません。極貧の人たちを救うこと、病の苦しみを取り除いてあげること、不正や横暴と闘うこと、憎悪と闘うこと、自由を守ること、害悪を取り除き、人間の霊性が神の意図された通りに発揮できるチャンスを用意してあげること───こうしたこともみなサービスです。


(5)相手が立派な地位にある人であろうと、平々凡々の庶民であろうと、そんなことはどうでもよろしい。とにかく一個の魂を立ち上がらせ、暗闇にいる人に光をもたらし、無知の牢獄にいる人を解放してあげ、お腹を空かしている人を満たしてあげ、渇いたのどを潤してあげ、争いごとを止めさせてあげることができれば、あなたは立派に大霊に協力していることになるのです。


(6)あなた方一人ひとりが大霊の一部であることを忘れてはなりません。一人ひとりが大霊の仕事に貢献し、大霊の力と愛と知識を地上へもたらすことができるのです。自分より恵まれない人のために力を貸そうと努力する時、大霊の力がみなさんを通して顕現するのです。どの分野でもよろしい。

どこの誰でもよろしい。意気消沈している人を元気づけ、弱った人に手を貸し、暗闇の中に明かりをもたらし、空腹の人に食べるものを与え、身を横たえる所さえない人に安らかな眠りの場を提供してあげれば、それが大霊に協力するゆえんとなります。


(7)神の働きに何か特別なわくがあって、特殊な経路でしかその恩恵がもたらされないかに考える傾向がありますが、神の力はそれを受け取る波長を持つ人なら誰にでも与えられるものです。要するに神の御心に適った心掛けがカギです。

地上的名声も社会的地位も、肌の色も人種も、国家も階級も関係ありません。どこであろうと、誰であろうと、神の御心に適った人は真の大源から力を授かり、心が啓発され、魂が鼓舞され、造化の仕事に参加させてもらえるのです。


(8)聖書(バイブル)もなかなか立派な本です。が、もっと立派な本があります。森羅万象がそれです。大霊の摂理によって維持されている大自然の営みです。地上のいかなる書物、それがいかに部厚いものであっても、いかに敬われているものであっても、いかに神聖視されているものであっても、その大自然が教えてくれるものに較べれば、物の数ではありません。


(9)そこで私たちは大自然の摂理、それだけを説くのです。それをスピリチュアリズムと呼ぼうと何と呼ぼうと、要するにそれが大霊の法則であり、目に見える見えないに関わりなく、生命活動が営まれているあらゆる界層を通じて働いていることを理解していらっしゃれば、それでいいのです。


(10)宗教界の学者は宗教というものを不可解きわまる一大神秘───難解な用語と教義による上部構造を築き上げ、それが難問と困惑と混乱を生んでおります。しかし宗教の本質、生命の本能的欲求はサービスの一語に尽きます。


(11)サービス、すなわち自分を忘れて人のために役立つことをしようとする心は、大霊の心にほかなりません。今こそ地上世界にはこのサービスの精神が必要です。私たちがこうして説きそしてみずから実行しているのはそのためです。地上界の靄と暗黒、疑念と不安、悲しみと闘争、苦難と苦痛の背後には永遠の目的があります。それを一つでも多く理解するように努力してください。


(12)神の存在を信じ、神を讃美する教説を朗読し讃美歌をうたい、日曜日にはきちんと礼拝に出席しているからといって、それだけで霊性が一ミリたりとも伸びるわけではありません。それは他人への思いやりの心を鼓舞して、暗闇の生活から光明の生活へと導いてあげる行為を実践させる、その手段と考えるべきです。


(13)大切なのはあなたの〝行い〟です。そして他のことは信じなくてもこれだけはぜひ信じて下さい───たった一つの魂を光明へ導いてあげたら、あるいは飢えに苦しむ人に食を与え、のどの渇きに苦しむ人に飲み水を与えたら、あるいは又、肩の重荷を軽くしてあげ、足元の石ころを取り除いてあげたら、それだけで地上の全財産にも勝る大切なことをしたことになるのです。


(14)いかなる教義も魂を拘束します。教義を守るから立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人間は教義の名のもとに戦争を仕掛け、教義の名のもとに異教徒を焼き殺してきました。

魂を束縛するもの、精神の手かせ足かせとなるもの、霊性の自由な発現を妨げるものは、いかなるものであっても取り除かねばなりません。


(15)私がキリスト教に我慢ならないのは、みずから用意した真理普及の場(教会・礼拝堂等)において、すでに地上に啓示されている肝心の霊的真理を説こうとしないからです。言いかえればキリスト教と銘うちながら肝心のキリストを裏切るようなことばかりしているからです。

神の座に祭り上げてしまって、人類が模範としようにも、もはや手の届かない、遥か彼方の天国へ連れて行ってしまっております。それが我慢ならないのです。


(16)私は牧師になって神に奉仕しようと心掛ける多くの殊勝な人たちを批難しているのではありません。その中には偉大な魂の持ち主が大勢います。私が批難するのは真理にとって為にならない組織、使い古された意味のない教義を相変わらず後生大事にして、生き生きとした霊力の発揮される場を無くしている、その体制です。



(17)教義・ドグマ・教条・儀式・ステンドグラス・祭壇・法冠・コープ(儀式用マント)───こうしたものが宗教とどういう関係があるというのでしょうか。宗教とは霊性に係わることです。全存在に内在する霊性です。それが千変万化の律動と形態の中で顕現しています。

大自然の営みにも、理想に燃えた指導者や社会革命家の努力にも、それが顕現しているのです。それが教条とどういう関係があるというのでしょう。


(18)私は時おり〝霊界からの高等な教え〟とやらばかりを欲しがって自分は隣人・同胞のために何一つ役に立つことをしない人たちに嫌気がさすことがあります。教えに〝高等〟も〝低級〟もありません。成長するにつれて神の摂理の働きをより深く理解していくのです。

難解な教えを騒ぎ求めている人たちが、そんなことを止めて地上を少しでも住み良い場所、明るい場所───空腹を抱えた人が飢えを満たし、のどを乾かした人が飲み水にありつき、貧しい人たちがその疲れた身体を横たえる家を得て神の恩恵に浴せるようにしてあげれば、それこそ〝最高の教え〟を実践していることになるのです。


(19)教義による束縛は地上世界の病苦の一つです。疾病よりも大きな害悪をもたらします。身体上の病気による苦痛など物の数ではありません。なぜなら、それは魂の病気だからです。霊に〝目隠し〟をしてしまうのです。


(20)人間はなぜか、神の叡智を見えなくする教義に好んでしがみつきます。不思議なことに、牢の中に閉じこめられている方が幸せと思う人がいます。自由とは、自由の有難さが分かった者だけが手にできるものです。


(21)私は教義も儀式も作法も説きません。神の愛が子等を通して顕現しようとしている事実だけを説きます。いかなる書物や巻き物、ドグマ、特定の指導者や権威、あるいは学識さえも絶対と思ってはなりません。聖遺物を信仰の対象としてはなりません。神の摂理に従うことだけを心掛ければよいのです。それが宇宙で最も大切なものだからです。それが唯一絶対の権威なのです。


(22)宗教的建造物には過去の無知な時代の産物に過ぎないものがたくさんあります。神はいかなる建造物の中にも閉じ込められません。神はどこにでも遍く存在しているのです。

石を積み重ね、高い尖塔を立て、ステンドグラスの窓を取り付ければ神が喜ばれると思っているようですが、そんなものよりも、太陽の恵みが子等の心を明るく照らし、雨が作物を実らせることの方が、神はよほど喜ばれます。

ところが、そうした恵みと子等との間にとかく宗教家と政治家と商売人が介在します。こうしたものこそ取り除かねばなりません。今それが次々と取り除かれつつあります。


(23)霊力の地上への働きかけを過去の話と考えてはいけません。過去の霊覚者を通して働いた霊力が今まさにこうした形で働きかけていることを理解しないといけません。当時の宗教家がその霊力を目の敵にして悪魔の仕業であると決め付けたのと同じように、今日の宗教家はそれとまったく同じ霊力が今まさに働いている事実を認めようとしません。しかし、地上世界もその後進歩したようです。もはや磔刑の手段には出ないからです。


(24)私たちのことを悪魔の福音を説く者と非難する人たちは、二千年前にイエスに対して同じ非難を浴びせた者たちと同列です。私たちはイエスを通して働きかけた大霊の霊力と同じものを携え、同じ霊現象を演出し、そして同じメッセージを説く者です。

すなわち喪の悲しみにある人を慰め、病の人を癒やし、暗闇の中にいる人に光明をもたらし、人生に疲れた人には生きる意欲を持たせ、無知の中で模索している人に知識を授けてあげましょう、ということです。


(25)物質の世界に存在するもの───それが物であろうと人間であろうと、又その人がいかに高い地位にあろうと、それを信仰の対象としてはなりません。物質の世界の彼方にあるものへ目を向けなさい。


(26)私という一個の霊、ただのメッセンジャーに過ぎない者にあまり関心を寄せて下さるのは困ります。私の用事はただメッセージをお届けすることでしかないのです。地上の人間はこれまで余りにも永いこと教えそのものよりも教えを説く人物に関心を向け過ぎております。

そしてその人物を誇大に評価し、祭るべきでない地位に祭り上げ、肝心の教えそのものを忘れております。


(27)私の使命は一個の男女を権威ある地位に祭り上げることではありません。真理と知識と叡智を啓示することです。

私の申し上げることに真理の刻印が押してありさえすれば、私という人物が地上で大変高い地位にあった者か卑しい身の上の者であったかはどうでもよいことではないでしょうか。名前・権威・書物、そんなものはもうどうでもよろしい。私が訴えるのは理性のみです。


(28)私たちはもはや書物や人物や権威を拠り所とは致しません。神から授かっている理性、これを拠り所とし、これに訴えかけます。真理というものは〝神聖〟のスタンプを押されている書物から文句を引用することで広まるものではありません。理性が納得しないといけません。

もしも私の述べることがあなたの理性にそぐわない時は、あっさりと拒絶なさってください。しかし同時に、私の申し上げていることが人間の最高にして最上の本能に訴えていること、古い時代からの誤った知識を取り除いて、人間にとって大切な霊的真理をお届しようとしていることも分かっていただけるでしょう。

地上で宗教と呼ばれているものは真理を基盤としなければなりません。そして理性の攻撃に耐えきれないものは棄て去らないといけません。



  シルバーバーチの祈り

 神よ、あなたは法則です。叡智です。愛です。知識です。インスピレーションです。私たちがあなたを讃美するのは、あなたが全生命の大中心であらせられるからにほかなりません。あなたあっての生命であり、あなたなくして生命は存在しません。

あなたは全生命にみなぎり、あなたの法則が全存在を支え、全存在を包摂しております。あなたは私たち人類のすべてにあなたの霊の一部を賦与され、それが地上の人類のすべてをあなたと結びつけております。

 それゆえに、ああ神よ。私たちは決して生まれながらにして罪深き存在などではなく、それゆえの恐れから膝を折ってあなたに阿(オモネ)ることもなく、私たちはあなたの一部であり、同時にあなたは私たちの一部であるとの認識のもとに、浩然の気を持って祈ります。

 あなたの子として私どもはあなたの霊性を宿し、それが常により高い顕現を求めて、私たちを通じて摂理を成就せんと致しております。

 神よ。こうして地上の子等に霊的次元の摂理を啓示する機会をお与え下さったことに深く感謝いたします。この機会のお陰で私たちは地上の子等との協力のもとに、あなたの驚異的計画を披露することができます。全人類に、彼らが地上という物質の世界に置かれていることの意義を理解させてあげることができます。

 正しい知識によって無知をなくさせることができます。霊力によって人間的煩悩を駆逐させることができます。光明によって地上の暗黒を明るく照らし、苦しみと悲劇を喜びと幸福によって置き換えさせることができるのでございます。

                                                    

シルバー・バーチの霊訓(十二)

   煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編



九章 祈り


(1)祈りとは魂の表現です。具体的に言えば、祈りとは光明あるいは導きを叫び求める魂の止むに止まれぬ切望です。その切望そのものが自動的に扶助を呼び寄せます。なぜならその思念の威力が稼働し始めるからです。それが回答を呼びよせる原因であり、回答が結果です。


(2)霊の側では人間側がどういう祈りをするかを待つ必要はありません。なぜならば祈りの本質そのものが、その波長の感応する界層の単数または複数の霊を即座に呼び寄せるからです。それも魂の進化の程度によって自然に決まることです。


(3)祈りの念に感応して呼び寄せられた霊は、地上界への奉仕の願望から、その人間が稼働させた威力を増幅させることになります。霊力の一部である思念の波動がいよいよ大きく活動を開始したわけです。

それによって宇宙の霊的エネルギーがその人の進化の程度に応じた範囲での活動を許されることになります。ということは、その人間の手の届く範囲のエネルギーを自由に駆使できるということです。


(4)その人間の進化の程度次第では、求めている特定の目標に思念を集中する必要がある場合もあります。そのほうがその人にとって有効であるというのであれば、私はそれはそれで結構であると申し上げます。しかし、祈りに関して大切なのは、大霊・生命の原理・宇宙の摂理・こうしたものです。


(5)時おり皆さんは自分の魂にとって為にならないもの、進化を遅らせることになるものを要求されます。それは叶えてあげるわけにはいきません。また時おりそれを手にするだけの十分な努力をしていないものを要求されます。それも与えられません。

そして時にはそれを手にする用意の出来たものを要求されます。それは、ここという好機をみて与えられます。このように皆さんが心に抱く祈りは、口に出さずとも神は先刻ご承知なのです。



(6)赦免を求めて祈っても法則が手直しされることはありません。支払うべき代償は必ず支払わねばなりません。しかし、赦免を求めて祈るということは、自分の間違いに気づいて神の摂理との調和を求め始めたことを意味します。すなわち魂への内省を始めたことになり、それは本当の進化の始まりであると言えます。


(7)祈りの言葉を何の目的もなしに繰り返すだけでは、ただ大気中に一定の波動を起こすだけです。が、誠心誠意、魂の底からの祈り、神の御心と一体となり、神の道具として有意義な存在でありたいと願う心は、その波動そのものがその人を神の僕としてより相応しく、そしてより逞しくします。祈るということ、真実の自分を顕現すること、心を開くこと、これが背後霊との一体化を促進するのです。


(8)真実の祈りは人のために役立つ行為への心の準備であらねばなりません。より高い波長に適合させるための手段です。と言っても私のいう祈りは、どこの誰が書いたのかも分からない、しかも何の意味かも分からない文句を繰り返すことではありません。

誠心誠意の祈り、魂の波長を最高度に高めんとする真摯な願いです。その結果として感応するインスピレーションに満たされて、あなたは一段と逞しい存在となります。


(9)誠心誠意の祈りは、その行為そのものがより高い波長と感応させます。祈るということ自体が心を開かせるのです。ただし、その祈りは心と魂と精神を込めたものであらねばなりません。こうして欲しい、ああして欲しいといった、ただの要求は祈りではありません。

真実の意味での祈りは大変な霊的活動です。それは何かの目的への手段であって、目的そのものであってはならないというのが一番適格な表現かと思います。


(10)私は無理にも祈れとは誰にも申しておりません。祈る気になれないのを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列に過ぎないものを機械的に反復するだけですから、むしろ祈らない方がいいのです。祈りには目的があります。

魂の開発を促進するという霊的な目的です。ただし、だからといって祈りが人間的努力の代用、もしくは俗世からの逃避の手段となるかに解釈してもらっては困ります。


(11)祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にする為の刺戟───これから訪れるさまざまな闘いに打ち克つために守りを固める手段です。何に向かって祈るか、いかに祈るかは、本人の魂の成長度と全生命の背後の力についての理解の仕方に関わってくる問題です。


(12)祈りとは神性の一かけらである自分がその始原とのいっそう緊密なつながりを求めるための手段です。その全生命の背後の力との関係に目覚めた時、その時こそ真の自我を見出したことになります。



   シルバーバーチの祈り

 真白き大霊よ。あなたは全存在の大源におわします。あなたは太初です。あなたは終極です。すべてのものに存在し、すべての相に顕現しておられます。霊の世界の最高界であろうと、物質の世界の最低界であろうと、そこに何ら相違はございません。
 
 あなたは光明の中に存在すると同時に暗黒の中にも存在します。春に存在すると同時に秋にも存在します。夏に存在すると同時に冬にも存在します。日和の中に存在すると同時に嵐の中にも存在します。あなたは稲妻の中にも雷鳴の中にも存在なさっております。

 そよ風の中にもあなたが存在します。小鳥のさえずりの中にもあなたが存在します。風に揺れるこずえにも、小川のせせらぎの中にも存在します。高き山の頂きにも大海の深き底にも存在します。無数の太陽の集まる星雲の中にも、きらめく星の一つ一つにもあなたが存在いたします。

 あなたは意識の進化の程度の差にかかわりなく、すべての生命に宿っておられます。すべての意識の中に顕現しておられるのです。

 あなたは愛の中にも憎しみの中にも存在します。叡智の中にも愚かさの中にも宿っておられます。内側にも外側にも存在しておられます。何となれば、あなたは絶対的な大霊にあらせられ、その摂理なくしては何一つ存在し得ないのでございます。

 ああ、真白き大霊よ。あなたの大きさは到底地上の言語では表現できませぬ。地上のいかなる進化せる人物によってもあなたの全体像を理解することはできませぬ。

 あなたはいつの時代にも人間の信仰の対象とされ、あらゆる言語によって讃美されてまいりました。多くの人間によって、あまたの聖なる書の中に啓示されてまいりました。物質の霧を突き抜けて〝霊の目〟を持って見通せる者を通じて、あなたは分け隔てなくそれぞれの時代にあなたの摂理を啓示なさってこられました。

 ああ神よ、あなたは今まさに地上世界へ新たにあなたの使節を遣わされ、子等を一層あなたの身近き存在となし、子等があなたを少しでも多く理解し、あなたの霊力を活用することによって、物質の世界へ安らぎと豊かさと幸福をもたらすための新たな啓示を行っておられます。

 その道具としてあなたのお役に立つことを願う私どもは、地上の子等との協力によって暗黒の世界へあなたの光明をもたらし、あなたの力、あなたの愛、あなたの摂理を物的宇宙のすみずみまで顕現せしめんと望むものです。

 ここに、あなたの子等に仕えることによってあなたに仕えんとするあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

Thursday, July 2, 2026

シルバー・バーチの霊訓(十二)

  煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編




八章 神

(1)神とは宇宙の自然法則です。物的世界と霊的世界との区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛であり完全なる叡智です。神は宇宙のすみずみまで行きわたっております。人間に知られている小さな物的宇宙だけではありません。まだ知られていない、より大きな宇宙にも瀰漫しております。


(2)神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。全法則に宿っております。神は宇宙の大霊です。神は大生命です。神は大愛です。神は全存在です。僕に過ぎないわれわれがどうして主人(アルジ)を知ることができましょう。ちっぽけな概念しか抱けないわれわれに、どうして測り知れない大きさの存在が描写できましょう。


(3)あなた方の世界と私たちの世界、まだ人間に知られていない世界を含めた全宇宙が神の法則の絶対的な支配下にあります。その法則を超えたことは何一つ起きません。すべてが自然法則すなわち神の摂理の範囲内で起きているのですから、すべてが知れるのです。


(4)完全が存在する一方には不完全も存在します。しかしその不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生まれるのです。完全は完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。


(5)神は法則です。万物を支配する法則です。法則が万物を支配しているのです。宇宙のどこにも法則の支配を受けないものは存在しません。地震、嵐、稲妻───こうしたものの存在が地上の人間の頭脳を悩ませていることは私も承知しております。

しかしそれらもみな宇宙の現象の一部です。天体そのものも進化しているのです。この天体上で生を営んでいる生命が進化しているのと同じです。物質の世界は完全からはほど遠い存在です。そしてその完全はいつまでも達成されることはありません。より高く、あくまでも高く進化して行くものだからです。


(6)神は法則であり、その法則は完ぺきです。しかし物質の世界に顕現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。忘れてならないのは地球も進化しつつあるということです。地震も雷も進化のしるしです。地球は火焔と嵐の中で誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。


(7)日没と日の出の美しさ、夜空にきらめく星座、楽しい小鳥のさえずりは神のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は神のものではないなどということは許されません。すべては神の法則によって営まれていることです。


(8)宇宙は神の反映です。神が宇宙組織となって顕現しているのです。ハエに世の中のことが分かるでしょうか。魚に鳥の生活が理解できるでしょうか。犬に人間のような理性的思考が出来るでしょうか。星に虚空が理解できるでしょうか。すべての存在を超えた神という存在をあなた方人間が理解できないのは当然です。

しかし人間も、魂を開発することによって、一言も語らずとも魂の静寂の中にあってその神と直接の交わりを持つことができるのです。その時は神とあなたとが一体であることを悟られます。それは言葉では言い表せない体験です。あなたの、そして宇宙のすべての魂の静寂の中においてのみ味わえるものです。



(9)霊それ自体はもともと完全です。宇宙を構成している根源的素材です。生命の息吹です。それがあなた方を通して顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるが為に顕現の仕方も不完全なのです。あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されてまいります。


(10)法則は完全です。しかしあなたは不完全であり、したがって完全な法則があなたを通して働けないから、あなたを通して顕現している法則が完全でないということになります。あなたが完全へ近づけば近づくほど、完全な法則がより多くあなたを通して顕現することになります。

こう考えるとよろしい。光と鏡があって、鏡が光を反射している。鏡が粗末であれば光の全てを反射することができない。その鏡を磨いて立派なものにすれば、それだけ多くの光を反射するようになります。


(11)私は原初のことは何も知りません。終末についても何も知りません。知っているのは神は常に存在し、これからも永遠に存在し続けるということだけです。神の法則は完ぺきに機能しております。あなたはもともと完全な光をお持ちです。が、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。

それを、光が不完全だ、光は悪だとは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上で〝悪〟と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している〝不完全さ〟を意味するに過ぎません。


(12)神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。晴天だけではなく嵐も法則の支配を受けます。健康だけでなく病気を通しても働きます。晴天の日だけ神に感謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。

太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対である)悪魔の存在を想定しました。稲妻や雷鳴の中に自分たちの想像する神のせいにしたくないものを感じ取ったのです。


(13)神とは法則です。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れては何も存在出来ません。あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現に過ぎません。

その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。愛と憎しみは表裏一体です。愛という形で表現できるエネルギーは、憎しみを表現する時に使用するエネルギーと同じものなのです。


(14)善なるもの、聖なるもの、美なるもの、愛、叡智、そのほか人生の明るい側面だけに神が宿っているかに考える旧式の思想は棄てなければいけません。

神の表現をそのように限定すれば、もはや絶対神が絶対でなくなります。それは条件付きの神、限定された霊となります。絶対神の本質は無限・全智・全能・不可変・不易であり、それが法則となって絶え間なく機能しているのです。


(15)神を右手にナザレのイエスを従えて玉座に座している立派な王様のように想像するのはそろそろ止めなければいけません。それはもはや過去の幼稚な概念です。宇宙全体、雄大な千変万化の諸相の一つ一つに至るまで絶対的な法則が支配しているのです。神とは法則のことです。


(16)神は人間的存在ではありません。法則です。それが全生命を支配しているのです。法則なくして生命は存在しません。法則がすなわち霊であり、霊がすなわち法則なのです。それは変えようにも変えられません。そこのところが理解できない人にとってはいろいろと疑問が生じるでしょうけど、成長とともに理解力も芽生えてまいります。

神が善なるものを与え悪魔が邪なるものを与えるという論法ではラチがあきません。ではその悪魔はだれがこしらえたのかという、古くからのジレンマにまたぞろ陥ってしまいます。


(17)人間的存在としての神は人間がこしらえたもの以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間がこしらえたもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。そうしたものは全て、視野を限られた人間の想像的産物にすぎません。

神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。なぜなら、世の中が不変にして不可変、全智全能の法則によっておさめられていることを知れば、絶対的公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構の中にあって一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。


(18)存在を可能ならしめている法則なくしては何一つ存在出来ないのが道理です。法則が絶対的に支配しているのです。人間に与えられている自由意志が混乱を引き起こし、法則の働きを正しく見えなくすることはあっても、法則は厳然と機能していますし、また機能してもらわなくては困ります。


(19)私にとって神とは永遠不変にして全智全能の摂理としての宇宙の大霊です。私はその摂理にいかなる不完全さも欠陥も不備も見つけたことがありません。原因と結果の連鎖関係が完璧です。この複雑をきわめた宇宙の生命活動のあらゆる側面において完璧な配慮が行きわたっております。

たとえば極大から極小までの無数の形と色と組織を持つ生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けていただければ、神の法則の全構図と全組織がいかに包括的かつ完全であるかを認識されるはずです。私にとって神とは法則であり、法則がすなわち神です。ただ、あなたは不完全な物質の世界に生活しておられるということです。


(20)五感に束縛されているかぎり、神の存在、言いかえれば神の法則の働きを理解することは不可能です。その限界ゆえに法則の働きが不完全に見えることがあるかも知れませんが、知識と理解力が増し、より深い叡智を持って同じ問題を眺めれば、それまでの捉え方が間違っていたことに気づくようになります。物質の世界は進化の途上にあります。

 その過程の一環として時には静かな、時には激動を伴った、さまざまな発展的現象があります。それは地球を形成していくための絶え間ない自然力の作用と反作用の現われです。常に照合と再照合が行われるのです。存在していくための手段として、その二つの作用は欠かせない要素です。それは実に複雑です。


(21)私が地上にいた頃はインディアンはみな別の世界の存在によって導かれていることを信じておりました。それが今日の交霊実験会とほぼ同じ形式で姿を見せることがありました。その際、霊格の高い霊ほどその姿から発せられる光輝が目も眩まんばかりの純白の光を帯びていました。

そこでわれわれは最高の霊すなわち神は最高の白さに輝いているものと想像したわけです。いつの時代にも〝白〟というのは、〝完全〟〝無垢〟〝混ぜ物のない純粋性〟の象徴です。

そこで最高の霊は〝純白の大霊〟であると考えました。当時としてはそれがわれわれにとって最高の概念だったわけです。それは、しかし、今の私にとっても馴染み深い言い方であり、どのみち地上の言語に移し替えるのであれば、永年使い慣れたものを使いたくなるわけです。ただしそれは人間ではありません。人間的な神ではありません。

神格化された人間ではありません。何かしらでかい存在ではありません。激情や怒りといった人間的煩悩によって左右されるような存在ではありません。永遠不変の大霊、全生命の根源、宇宙の全存在の究極の実在であるところの霊的なエネルギーであり、それが個別的意識形態をとっているのが人間です。


(22)こうして神について述べてみますと、やはり今の私にも全生命の背後の無限の知性的存在を包括的に述べることは不可能であると痛感いたします。が少なくとも、これまであまりに永い間地上世界にはびこっていた数々の幼稚な表現よりは、私が理解している神の概念に近いものを表現しているものと信じます。


(23)忘れてならないのは、人間は常に進化しているということ、そしてその進化に伴って神の概念も深くなっているということです。知的地平線の境界がかつてほど狭いものでなくなってきており、神ないし大霊、つまり宇宙の第一原理の概念もそれに伴って進化しております。しかし神自体は少しも変っておりません。




  
シルバーバーチの祈り

 ご一緒に神の祝福を祈願いたしましょう。
 ああ、大いなる神よ。あなたは全生命の霊そのものにおわします。その霊が全生命にみなぎり全宇宙に満ち満ちております。生きとし生けるものすべてがあなたの霊性を反映しております。大自然の営みの一つ一つに顕現なさっておられます。大自然はあなたの霊性の艦にほかならないのでございます。


 ああ、真白き大霊よ、あなたは全大宇宙の背後の摂理におわします。人間の理解力によって明らかにされた小さい部分だけにかぎりませぬ。いまだに人間の意識にのぼらない、さらに大きな部分にも同じあなたの摂理が働いているのでございます。

 あなたは太陽の光線の中にも宿っておられます。朝露の中にも、雨の中にも宿っておられます。風に揺れる松の枝にも宿っておられます。轟く雷鳴の中にも、走る稲妻の中にも、小鳥のさえずりの中にもあなたが宿っております。

あなたは生きているもの、動くもの全てに宿りたまい、そして人間の霊魂の中に最高の形で顕現され、その存在価値を発揮する行為の中であなたの神性を発現せんとしているのでございます。

 ああ神よ。私どもはあなたがいつの時代にも分け隔てなく全人類に啓示なさってきた宇宙の神秘に感謝の意を表します。

 あなたの御力によって暗闇に注がれた光明、無知を追い払った叡智、迷信を駆逐した正しい知識、悩める者にもたらされた慰め、健康を害し痛みに苦しんでいる者にもたらされた霊力に対して感謝を捧げます。

また、あなたの御胸より溢れ出て、地上のすべての民族に配属されているあなたの使者を通して顕現される崇高なる愛に深甚なる感謝の意を表します。

 かくして、その地上の同志の援助のもとに私たちが霊の世界からあなたのご計画の推進に参加し、物質の世界におけるあなたの王国の建設に役立つ栄誉を担わせて下さったことに感謝いたします。

 私たちの働きかけに応えて人間界から寄せられる無私の奉仕と愛の心、そしてまた、あなたのご意志を地上に顕現させる目的のもとに私たちとつながっている者すべての誠意に対する感謝の気持ちをあなたに捧げます。

 大いなる霊よ。願わくは御力の地上への顕現を妨げんとする障害がすべて排除され、他のすべての交霊の場と同様に、このサークルにおいてもあなたの霊が少しでも多く顕現されることを祈ります。 

 ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。
                                                  

Wednesday, July 1, 2026

シルバー・バーチの霊訓(十二)

煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編



七章 善悪と公正

(1)(善悪の基準について問われて) それは一人ひとりの問題です。一人ひとりの霊的自我の中に絶対に誤ることのない判定装置(モニター)が組み込まれているのです。

正常な人間であるかぎり、言い変えれば精神的・知的に異常または病的でないかぎり、自分の行動と思考を監視する絶対に誤ることのない装置が内蔵されております。いわゆる道義心です。

考えること、口にすること、行うことを正しく導く不変の指標です。それがいかなる問題、いかなる悩みに際しても、そのつど自動的に、直感的に、そして躊躇することなく、あなたの判断が正しいか間違っているかを告げます。

それを人間は時として揉み消し、時として言い訳や屁理屈で片づけようとします。しかし、真の自我はちゃんと分かっているのです。


(2)自分で正しいと思うこと、良心が指図することを忠実に実行しないといけません。最後は自分が自分の裁判官となります。振り返ってみると正しかったこともあれば間違ったことをしていることもあります。しかし、動機が人のためということであれば、たとえ間違っていても咎められることはありません。動機が何よりも考慮の対象となります。


(3)何事も動機がその価値を決めます。慈善事業(チャリティ)に気前よく大金を寄付する億万長者は、その行為によって少しも霊性は伸びません。反対に、これは絶対に意義があると信じて無い金をはたいて援助する人は、その動機ゆえに霊性が伸びます。

苦しむ人を見て止むに止まれぬ気持ちになるのは霊的属性の一つです。愛・情愛・友愛・同情・哀れみ・親切心・奉仕の精神は霊の属性です。それらを表現している時あなたは霊的自我を表現していることになります。


(4)あなた方が道徳的だと考えていることが私たちから見ると非道徳的である場合があります。そこに物の見方の問題があります。私にとって道徳とは、その人がそれまでに悟った最高の原理に忠実に行動しようという考えを抱かせる、努力目標のことです。それは親切であろうとすることであり、手助けをしようということであり、人の心を思いやることです。



(5)私は〝悪〟とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが〝悪い奴ら〟と思っている人間は未熟な人間ということです。その人達が表現しているエネルギーは成長と改善の為にも使用できるのです。

自分から〝悪人になってやろう〟 〝利己主義者になってやろう〟と思って悪人や利己主義者になる人は滅多にいるものではありません。悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。

聞き分けのない子供みたいなものです。目に見え手に触れるものだけがすべてだと考え、したがって物的世界が提供するものをすべて所有することによってしか自分の存在を主張できない哀れな人間なのです。利己主義とは利他主義が方向を間違えたに過ぎません。


(6)〝悪〟とは何かということを見極めておく必要があります。地上生活の究極の目的は〝死〟と呼ばれている現象のあとに待ちかまえている次の生活舞台(ステージ)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて自動的に他人に対して寛大になり憐みを覚えるようになります。

これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。 相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の〝我慢〟です。人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。

それは悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく目の前の現実に目をつむることです。真の意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差し伸べる用意ができていなければなりません。


(7)霊的摂理に反した行為が罪であって、人間がこしらえた教義を無視したからといって必ずしも罪にはなりません。結婚生活においても霊的な伴侶とはいえない夫婦がいます。

もしもその夫婦が霊的に傷つけ合えば罪になることもあります。問題は視点を何処に置くかによって違ってきます。常に霊的真理を基準にして判断すれば、答えは簡単に出るものです。


(8)故意に悪いことをするよりも無知から犯す間違いの方が多いものです。全体からすれば〝悪人〟といえるほどの人間はごく少数派に属します。些細なしくじりを裁くために大ナタをふるうようなことは慎まねばなりません。

そういう人を憎むということは、それも罪を犯していることになります。良心が咎めることをするのは全て霊的摂理に反します。



(9)罪悪はそれを犯す側とそれを受ける側の双方を傷つけます。その原因は往々にして故意ではなく、無知・かんしゃく・せっかちから犯しているものです。自制心を欠き、冷静さを失っているわけです。あとになって〝しまった〟と思うようなことを考え、口に出し、行っているものです。


(10)最大の罪は他人を身体的のみならず精神的にそして霊的に傷つけることです。他人へは常に善意で接し、いつでも援助の手が差し伸べられるようでないといけません。その手が拒絶されたら、折角のチャンスを自ら拒絶したその人を気の毒に思ってあげなさい。 
 

(11)世間がどう言おうと、まわりの人が何と言おうと、自分で正しいと思うことをしなさい。その方が都合が良いとか得策だからではなく、心の奥でかくあるべきと確信したこと、良心がそう命じていることを実行すればよいのです。

いたって簡単なのです。ところが人間はなぜか複雑なこと、ややこしいことを好みます。もう当たり前になってしまった単純素朴なことは毛嫌いします。私はあくまでも良心の命じるままに従いなさいと申し上げます。良心こそ神の声であり、善と悪とを選り分け、進むべき道を指示します。


(12)良心が命じていることは、たとえその方向へ進むと苦難に遭遇することが分かっていても、迷わずに従いなさい。最後にきっといいようになります。難しく考えることはないのです。これ以上簡単な話はありません。


(13)決断を下さなければならない事態に立ち至った時は、それが特定の少数の人ではなく、全部の人、あるいはなるべく多くの人にとって益になることを動機として判断しなさい。


(14)霊的知識を手にしながら、その意義を日常生活に生かしていない人のことを気の毒に思ってあげないといけません。かくあるべきと承知していながら、その摂理に則った生き方ができない人は、霊的知識を知らない人よりも霊的に大きな罪を犯していることになります。


(15)霊的実在に目覚めた人ならば慈悲・寛容・哀れみ・奉仕・協力の実践が大切であること、言い変えれば、単に霊的実在の美しさや豊かさに感心しているだけではいけないことを承知のはずです。霊的真理を知っている人でも利己的人間になることがありうるのです。


(16)霊的真理を手にしても、それをそのままどこかに仕舞い込んでおくのでは、普及の目的は達成されたことになりません。それがその人の生活を照らし悟りを開かせるところまで行かないといけません。霊的知識は普及と実践が伴わないといけません。

なぜなら地上というところは、霊が内部の霊性を発揮するための環境を求めて生まれてくるところだからです。


(17)地上を暗黒の世界にしている卑劣な行為、抑圧、残虐行為等は、それを受ける側の霊性にとって少しもプラスになりません。同胞を食いものにすることは霊的に間違っております。他人に苦痛を与えることは間違いです。霊的原理は倫理・道徳と切っても切れない関係にあります。一体不離のものです。


(18)ある国で不道徳とされているものが他の国では不道徳でないことがあります。たとえば伝統的宗教によって、罪でもないことが罪とされていることがあります。その宗教が勝手にかかげている教義に違反した者に対する、その宗教の内部だけの見解であり行為にすぎません。


(19)全ては〝罪〟とは何かという定義にかかわる問題です。私に言わせれば、罪とはその行為者とそれを受ける側の双方に害を及ぼすことです。その行為者の霊性を下げ、同時に他人を傷つける行為です。それには嫉妬心や欲張りや恨みも入ります。要するに罪とは人のためになる行為の反対と思えばよろしい。
(20)神の摂理は、最終的には完全なる公正が行きわたるようになっております。こればかりは誰一人として例外はありません。あなたにも、そして地上に限らず他のすべての天体上の存在の一つ一つに公平な配慮がなされております。

摂理は絶対です。何一つ見落とされることはありません。あなたの霊的成長と発達に必須のものは、それを受け入れる用意ができた時にはきちんと手に入るように配慮されております。


(21)その昔、“幼な子が彼らを導くことになろう〟(イザヤ書)という教えが説かれました。下らぬ常識で頭でっかちになった大人の愚かしい浅知恵を棄てて幼な子の純心さを取り戻さない限り、地上にあっても霊界にあっても大きな進歩は望めません。

地上では太陽光線の作用の結果にすぎない肌の色でいろいろと差別が行われております。表面の肌の色だけを見て、その奥の霊性においてはみな同じであることを忘れております。


(22)いつの日か地上のあらゆる肌色の人種が融合することでしょう。どの人種にも他の人種にできない役割を持っているからです。霊眼を持って見れば、すべての人種が調和し、それぞれの特質、特有の文化、特有の学問を提供し合って生きる時代の到来が見えます。


(23)私たちは大霊を共通の父母とする、全人類の霊的同胞性という福音を説きます。その理解の障害となるのは地上的概念であり、教会という人口的建造物であり、権力の独占であり、暴君の自尊心と横暴です。


(24)霊的な教訓が地上に広まるということは、人種間の隔絶性に終止符が打たれることを意味します。国家間の障壁が取り除かれることを意味します。民族的差別、階級的差別、肌色による差別の撤廃を意味します。

さらには、チャーチ、チャペル、テンプル、モスク、シナゴ―クといった各宗教の礼拝・儀式の場の区別も無くなります。なぜなら霊的に見ればいずれの宗教も大霊の真理の一部を包蔵しており、自分たちにとってこの上なく貴重に思えるものも他の宗教が大切にしている真理と少しも矛盾対立するものでないことを理解するようになるからです。



(25)私たちはみな大霊の子供です。大霊はそのうちのある者を赤く塗り、ある者を黄色く塗り、ある者を黒く塗り、そしてある者には何も塗らずにおきました。が、それぞれが大霊の機構の中で存在価値を持っているのです。

いつの日か大霊の摂理が行きわたり、様々な肌色の人種が混ざり合い、愛の心を抱いて共に暮らすようになった時に、世界中に調和が実現します。

その一つ一つの色が何を意味するかを皆さんは理解しておりません。それぞれに大きな目的を持ち、造化の摂理に貢献しております。すべての肌色が融合し、肌色で区別することをせずにその背後の魂を見るようになるまでは、地上に平和は到来しません。


(26)ラベルはどうでもよいのです。形式はどうでもよいのです。口先だけの文句はどうでもよいのです。大切なのは〝行い〟です。〝行為〟です。つまり各自の毎日の〝生活〟そのものです。私は因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人としてその神の摂理のウラをかくことはできないのです。ごまかすことはできないのです。

自分が自分の救い主であり、購い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。また、神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。

すなわち、親切・寛容・同情・奉仕の行為が自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義・罪悪・不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。

この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も安価な赦免もありません。神の公正が全宇宙に行きわたっております。霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。死の床での悔い改めも通用しません。



   シルバーバーチの祈り

 皆さまとごいっしょに神の祝福を祈念いたしましょう。

 ああ、真白き大霊よ、森羅万象がこぞってあなたへの讃美を奏でております。なぜなら生きとし生けるものすべては、あなたの摂理によって生かされており、自然界の律動(リズム)のどれ一つとしてあなたの表現でないものはないからでございます。

 いつの世にもあなたは物質の世界においてあなたの愛、あなたの叡智、あなたの知識を輻射できるだけの能力をそなえた者を地上へ遣わされ、あなたの霊性の生ける模範として、人間の心の暗闇にあなたの真理の光をもたらし、あなたの無限なる叡智と愛によって全人類を照らす道具たらしめました。

 そしてこのたび、改めてあなたの使者として私どもを遣わされ、あなたとあなたの摂理についての知識を地上へもたらし、地上の子等があなたとのつながりを理解し、ひいては自分みずからについて理解し、物質の世界に置かれている目的を理解してくれることを望んでおられます。

 幸いにして私どもは、地上の子等の中にもあなたの霊性に触れ、その耳・その目・その精神・その心・その魂をより高き生命の波長に合わせ、私どもがあなたから仰せつかったメッセージに耳を傾ける者を見出し、その者たちとの交わりの場を持つことを得ております。
 その幸せに深甚なる感謝を捧げます。
                                       

 

シルバー・バーチの霊訓(十二)

  煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編



六章 自由と責任

(1)大霊は人間のすべてに一定範囲内の自由意志を授けてくださっています。あなたは操り人形ではないということです。知性があり、理性があり、判断力・決断力・反省力を有し、自分の意見を主張し、人生体験によって叡智を身につけていくことができます。


(2)知識には責任が伴うというのが私の一貫したテーマです。知識による恩恵を受けたからには、今度はそれをいかに生かすかという責任が必ず生じます。

そこにあなたの自由意志による選択が問われます。それがあなた自身の責任の尺度となるのであり、これだけは他の誰一人として代わってあげるわけにはいきません。


(3)あなたがもし霊的真理についての知識を手にしながらそれに適った生き方をすることができなければ、それ相応の代償を払わねばなりません。〝知らなかった〟という言い訳は許されないからです。知識は自動的に責任をもたらします。

真理を知った者はそれだけ余分のものを要求されます。それは言い変えれば、その人への大切な信頼に他なりません。


(4)ものごとは善にもなり悪にもなります。そこにあなたの選択権、自由意志、決断力、判断力を使用する要素があるわけです。それは大霊があなたに与えた神性の一つです。言い変えれば、あなたは神の操り人形ではないということです。

その判断・決断に際して背後霊は、あなたが正しい選択をするよう精一杯の努力をします。しかし時には大切な教訓を学ばせるために思い通りにさせることもあります。が、その裏にはあなたがきっと無傷で立ち直り貴重な叡智を身につけてくれるとの確信があります。


(5)〝理屈を言ってはいけません。そう信じればよいのです〟───私はそんなことは申しません。反対に〝神が与えてくださったもの(知的判断力・理性)を存分にお使いになって私をお試しなさい。

しっかり吟味なさい。そしてもしも私の言うことに卑劣なこと、酷いこと、道徳に反することがあれば、どうぞ拒否なさってください〟と申し上げます。


(6)人間は戦争が起きるとすぐに〝なぜ神は阻止してくれないのか〟〝なぜ未然に防いでくれないのか〟とおっしゃいます。が、人間みずから神の摂理を無視する方向を選択した以上は、その責任は人間にあります。やりたいことを勝手にやっておいて、その報いを逃れるというのは許されません。

摂理は変えられません。蒔いたタネは自分で刈り取るのです。利己主義のタネを蒔けばそれ相当の結果を刈り取らねばなりません。高慢・嫉妬・怨み・貪欲・悪意・不信・猜疑心───こうしたタネを蒔けば、やがて時を経て戦争と困窮と混乱を生みます。


(7)自由意志は神からの授かりものです。しかしその使い道を誤るとそれなりの償いをしなければなりません。摂理にのっとった生活をすれば恩恵を刈り取ります。

逆らった生き方をすればそれ相当のものを刈り取ります。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱をもたらします。


(8)大霊の神性の種子が人間の一人一人に植え込まれています。それは畑に植えた種子と同じく、生長に必要な養分を与えれば必ず芽を出し、大きく育ち、やがてその美事な花を咲かせ実を結びます。あなた方は一人一人が庭師です。

内部の神性が首尾よく芽を出すかどうか、あるいはいつ芽を出すかは、各自の努力次第です。そこには自由意志というものが許されております。暗闇に閉じ込め、発育に必要な光を当てなければ、大霊の顕現する機会はありません。




 シルバーバーチの祈り

 ああ、真白き大霊よ。全生命はあなたを中心として巡り、物質の世界と霊の世界との区別なく、人間的存在のすべてがあなたの御胸に抱かれております。

あなたは全存在の中心におわします。なぜなら、あなたという存在はすなわち全生命の顕現にほかならないからでございます。あなたの霊が生命を賦与し、あなたは生命そのものであり、あなたゆえに生命が存在し、あなた無くしては何一つ存在し得ぬのでございます。

 ああ神よ、あなたは全存在を維持しておられます。あなたの叡智が全存在を創造し、あなたの意図が全存在の形態となって顕現しております。あなたのご計画は顕幽の別を超えた全界層を通じて展開しつつ、次第にその実現へ向かっております。
 
 あなたは宇宙の大霊におわします。その大きさは、いかに崇高なる精神の持ち主にも、その全容を理解することはできませぬ。にもかかわらず、あなたは大なるものの中の極大なものの中に宿られると同時に、小さきものの中の極小のものの中にも宿り給うのでございます。

 全大宇宙の中にあってあなたの認知なくして生ずるものは何一つございませぬ。なぜならあなたは摂理によって全生命を包摂し、それゆえにあなたはいずこにも存在したまい、全存在に行きわたっておられるからでございます。

 その摂理を少しでも多く顕現せしめんと願うあなたの僕たる私どもは、地上の有志との協力のもとに、物質の世界と霊の世界との架け橋をより強化し、より多くの使者が地上へ戻り、あなたからの愛と美と安らぎのメッセージを届けんとする大事業のために、あなたの霊力を賜らんことを祈るものでございます。

 そのかけ橋を渡って地上へ戻るのは、あなたの直属の進化せる天使のみではございません。いまだに地上圏に属する、巡礼の旅の途上にある者も数多くこれに参加しております。

 地上の人間の思いが、かつてあなたの愛と霊力を示さんとして地上へ降りた一個の霊へ向けられるこの時期(クリスマス)にあたり、私どもは地上の子等があなたの霊が彼らの内部にも存在し、それが彼らの世界の全障害を取り除くことを可能ならしめることを改めて認識せしめんと願うものです。

 彼らがあなたの御意志を生活と行為の中において発現しようと心掛ければ、きっとそれが叶えられることでございましょう。

 ここに、人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

  

Tuesday, June 30, 2026

シルバー・バーチの霊訓(十二)

 煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編




五章 向上進化の原理       

(1)人生の難問の一つ一つを、あなたが解決を迫られている課題として受け止めなさい。それに挑戦していく過程の中で霊性が磨かれ、発達し、潜在的神性が表面に出てくるのです。順風満帆に事が運んでいる時に感謝する必要はありません。

難問が生じた時こそ感謝すべきです。あなたにとっての挑戦課題が突きつけられたのであり、それを真正面から受け止めることによってあなたの霊性が一段と磨かれる。その絶好のチャンスだからです。


(2)あなたが人生の嵐に遭遇するのを私たちが阻止してあげるわけにはいきません。又その嵐の中で悪戦苦闘するのを私たちが防いであげることもできません。そうした試練にあなたがどう対処し、そこから教訓を学ぶために持てる才能をどう働かせるかを、側からじっと見守らねばならないこともあるのです。


(3)実在に目覚めるためには晴天と嵐というような対照的な体験が必要です。憎しみも所詮は愛が正しい目的からそれて歪められたものに過ぎません。要は魂の成長に関わる問題です。


(4)光を見出せるのは闇の中においてこそです。嵐の中にあってはじめて平穏無事の有難さが分かります。悲しみを味わってはじめて喜びを知るのです。人生は一見すると矛盾しているかに思える両極性で成り立っているのです。


(5)健康を損うまでは健康のありがたさは分かりません。雨の日の鬱陶しさを耐え忍んではじめて晴天の有難さが分かります。それと同じく、苦難は肉体が自分ではなくそれを操っている霊こそ自分であることを悟るために神が用意した、一種の触媒です。


(6)地上生活の問題は人間みずからの努力で解決していかねばなりません。問題が生じないように私が処置を施してあげるわけにはいきません。地上生活の本質そのものが絶えず問題と取り組むようにできているのです。それと正面から取り組むのです。

内部に潜む霊力を引き出して精いっぱい頑張るのです。そして、それでもなお十分でない時にはじめて、もう一度踏み込んで、無限の宝庫からの援助を求めて祈るのです。


(7)何の問題も生じないようでは、それは哀れなロボットと同じです。血の通わない操り人形です。あなたの内部には地上で開発すべき可能性が無限に秘められているのです。それは日向ぼっこをしているような呑気な生活、何一つ不自由のない生活の中では開発されません。

嵐の中で必死に舵取りをしている中においてこそ内部の霊力が呼び覚まされ発達するのです。私にはこんな厳しい説教しかできなくて申し訳ありません。


(8)私はその場かぎりの、ただ有難がられるだけの説教はしたくありません。人間はかくあらねばならないという、あるがままの真実をお教えする絶好のチャンスだと思って説いているのです。困難こそ有難いのです。真実の自我を見出す最良の手段なのです。

ですから、言いにくいことを申すようですが、困難に遭遇したら、よくぞお出で下さいましたと歓迎することです。それは困難のマスクをかぶった〝友〟なのです。


(9)霊の褒章がもし簡単に手にできるものであれば、それは手にするほどの価値はないことになります。成就、達成、こうしたものには犠牲がつきものです。ですが、その犠牲には必ず償いがあります。物的に失ったものは、それよりはるかに価値のあるものによって埋め合わせがあります。


(10)大半の人間の魂は居眠りをしております。小さな神性の火花が休眠状態にあります。それを煽って大きく燃え上がらせる必要があります。その触媒となるのが困難であり危機であり悲しみであり別れであり病気です。


(11)神は地上の人生を、人間であるがゆえの弱さの限界に到達したかに思う段階で強さを見出すように配剤しております。もはや地上のどこにも頼るべきものが見出せず万事休すと思えた時こそ、魂が霊的真理の光に照らし出される用意が整ったのです。


(12)地上生活の悩みごとから逃れることはできません。必ず生じるものです。それなしには目的地にたどり着けない、踏み石のようなものです。人生の嵐を一つ一つ切り抜けていくうちに霊性が強化され、性格が高尚さを増してまいります。困難こそ霊的な力と成長を身につけさせてくれるのです。

ですから、困難に尻込みしてはなりません。内部から引き出す力と、外部から引き寄せる力とによって克服していくべき挑戦課題として、堂々と受け入れていくことです。


(13)これからも地上には幾つのも大変動が生じます。崩壊もあれば隆盛もあります。皆さんには暗黒と苦難の時代の到来のように思えるかもしれません。〝大変な時代になった・・・・・〟そうおっしゃるかもしれません。しかし、そうした変動の背後には地上世界の進化へ向けての大きなエネルギーの働きがあるのです。


(14)宇宙には進化という目的があります。常に進化しつつあるのです。完成されたものというのはどこにも存在しません。完成は無限の営みです。

不純なところを一つ無くしていくごとに、その奥にさらに不純なものを見出します。あなたは永遠に達成されることのない完全性へ向けての無限の進化の道を歩みつつあるのです。従って当然、その時点においては何らかの不公平というものが存在することは避けられません。

どこかに荒削りのところがあり、問題があり、困難が伴います。が、それもすべて進化の法則が運用されていくその副産物として生じていることです。


(15)まじめに、あなたなりの最善を尽くすことです。そして他人に対して寛容と慈悲の心を向けてあげることです。それができるということが進化しつつある霊の証しです。

人間は誰一人として完全な者はいません。煩悩を具えた存在であり未熟であるが故に、時には的外れのことを考えて間違いを犯すものです。だからこそお互いに寛容と慈悲と受容性と愛が大切となるわけです。


(16)面倒なことが生じないでほしいという願望は人間的煩悩の一つであり、それ自体を非難するつもりはありませんが、面倒なことを毛嫌いし逃避していては、霊的な成長は望めません。成長は困難に堂々と対処し,挑戦を正面から受け止め、そして克服していく中で得られるのです。


(17)担わされた使命が大きければ大きいほど、遭遇する試練も又大きくなります。そうならざるを得ないのです。人生の上っ面だけを生きている人よりも、霊的な資質に目覚めその意味を理解した人の方が、より大きな貢献を求められるのです。


(18)真理を知った者は物事が楽に運ぶことを期待してはなりません。霊の威力について何も知らない者よりも大きなことを要求されるのです。


(19)地上生活のどこかの段階でその人なりの真理の受け入れ態勢が整う時期が来ます。それは神が一人一人に用意して下さる絶好機です。それが時として病気、死別、危機という過酷な体験を通して届けられることがあります。しかしそれは魂を目覚めさせるために必要な触媒なのです。



(20)魂が完全に打ちのめされるほどの出来事は決して生じません。一つ一つの出来事は、いかに困難を極めるものであっても、魂を一層成長させるための手段と心得て下さい。

現実に数多くの問題と困難に取り囲まれているあなたにとっては、そういう受け止め方は決して容易なことではないでしょう。が、その場限りの捉え方ではなく、永遠の価値を持つ尺度があることを忘れてはいけません。それが霊的真理です。

疑念に襲われた時はその真理にしがみつくことです。人間である以上は煩悩を完全に閉め出すことはできません。が、だからと言ってその煩悩を怠慢の言い訳にしてはなりません。心構え一つで煩悩を力に変えることができるのです。


(21)光と闇、日向と日蔭は一つのものの二つの側面です。闇がなくては光の存在が分からず、日陰がなくては日向のありがたさもわかりません。人生の苦難も魂の成長を促すための手段なのです。

困難・障害・不利な条件、こうしたものはみな魂の試練です。それを一つ一つ克服するごとに魂は一段と強さを増し、一段と清さを増し、一段と深みを増し、一段と霊格を高めるのです。


(22)地上生活での体験を素直に受け止め素直に理解すれば、どれ一つとして魂を向上させないものはありません。いったい困難のない世界、試練も痛みも苦しみもない生活が想像できるでしょうか。そこには克服すべきものが一つもなく、したがって進歩もなく、ただ堕落あるのみです。


(23)物的身体に宿っているあなたは地上生活を尺度として物事を受けとめます。地上を去った私たちは地上生活を無限の生命の中のホンの一瞬として位置づけます。みなさんは何事につけ焦点を間違えております。

苦しんでいる人を見て同情し、その痛みを一刻も早く取り除いてあげたいと思う気持ちはごく自然な情として私も咎める気持ちは毛頭ありません。

しかし、その時のあなたは〝苦しみ〟という観点からのみその人のことを考え、苦しみの中で過ごす時間は、その苦しみの償いとして得られる霊的な喜びに比べれば、実に些細なものに過ぎないことにお気づきになりません。


(24)もしも借金(カルマ)の全てを返済してしまえば、もはや苦しむということのない段階に到達したことになるでしょう。身体が完全無欠になるからです。しかし人間は、地上にいても、あるいはこちらへ来てからも、次々と借金をこしらえております。


(25)一つのものに拘泥(コウデイ)しないということが大切です。周りに垣根をめぐらして新しいインスピレーションが入らないようにしてしまったらおしまいです。求道とは絶え間ない探求です。境界が絶え間なく広がっていくものです。なぜなら魂の進化に伴って精神がそれに反応して行くからです。


(26)知識にも真理にも叡智にも成長にも限界というものがないと悟った時、あなたは真に自由の身になります。心の奥では間違いであることに気づいていること、理性が拒否していることを思い切ってかなぐり棄てることができた時、あなたは真の自由を獲得します。

新たな真理の光に照らして誤りであることに気づいたものを恐れずに棄て去ることができた時、あなたは自由の身となるのです。


(27)地上の人間は、古くから伝えられたものだからという、ただそれだけのことで、古い教えにこだわりすぎます。真理と時代とは必ずしも手を取り合って進行するものではありません。子供の時に教え込まれた大切な信仰を棄てるのが難しいものであることは私もよく知っております。

しかし、理性が拒否するものは、いかにいわれのあるものであっても棄て去ることができて初めて魂は自由になれるのです。


(28)永遠の生命の営みには限界というものがありません。美しさにも限りがありません。音楽の壮麗さにも限りがありません。魂が進化の階梯を登れば登るほど、美と調和の世界が自分のものとなって参ります。より進化せる霊にはより大きな調和の世界が待ち受けております。


(29)低い階梯にいる間は高い階梯のことは意識できません。より大きな調和の世界の摂理も自動的に作動するものであり、その働きかけを受けるようになるには、魂の成長によってその次元まで到達するほかはありません。


(30)あなたのこれまでの成長の度合いによってこれから先の成長の度合いが決まります。もっともその成長を遅らせることはできますが、いずれにせよあなたがこれから選択する行為は、さまざまな次元の摂理の絡み合いによって自動的に決まってきます。

その一つ一つが自動的に働くからです。自由意志によって選択しているようで、実はそれまでに到達した進化の段階におけるあなたの意識の反応の仕方によって決定づけられているのです。霊性を自覚するようになった魂は(目先の損得・気楽さを超えて)いっそうの進化を促す道を選択するものです。



(31)霊性の進化に伴って自然の摂理を悟ってまいります。その第一の反応として、誤った知識、理性が納得できないもの、全知全能なる神の愛と叡智にそぐわないと直感したものは、恐れることなく捨てさることができるようになります。

容器に新しいものを入れるには、その前に古いものを取り出さないといけないのが道理です。自然な物の考え方を妨げるものは容赦なく捨て去らないといけません。かくしてあなたの霊性、あなたの魂が進化し、より高い叡智を受け入れる用意が整います。


(32)人生が両面性から成るということは挑戦の機会があるということであり、障害や不利な条件に立ち向かうことになるということです。そうでなかったら素晴らしい内部の神性は永遠に発現する機会がないことになります。


(33)価値あるものは苦しみと悲しみなしには手にすることはできません。地上ならではの教訓を学ぶには、それなりの避けがたい条件というものがあります。


(34)賢い人間とは体験のすべてを魂にとって益になる方向へ転換しようとする人、試練や誘惑から逃げようとせず、内部の力の限りを尽くして困難の克服に当たる人です。その意気込みの中でこそ霊性が進化し強化されるのです。


(35)あなたも大霊の一部であり、無限の神性を宿しております。その神性を発揮するにつれて、より次元の高い摂理との係わり合いが生じてまいります。それは決して低い次元の摂理と矛盾するものではありません。ただ魂がある一定の段階まで進化するまでは無縁というに過ぎません。


(36)幾百万年とも知れない歳月をかけて、あなたは下等な種から高等な種へと、媒体を徐々に発達させながら、泥の中から天空へ向けて一段一段、ゆっくりと進化してきたのです。その間、少しずつ動物性を棄てては霊性を発揮するという過程を続けてきました。今あなたが宿っている身体がそこまで達するのに果たして何百万年かかったことでしょう。

しかもまだ進化は終わっていないのです。そして他方において魂の方も進化させなければならないのですが、あなたはそれにこれから何百万年かけることになるでしょうか。かつてあなたは猿でした。猿そのものだったという意味ではありません。猿という種を通して顕現した時代もあったという意味です。それも大霊の機構の一部なのです。

生命のあるところには大霊の息吹があります。それなくしては生命活動は存在しません。ただその息吹に段階的な差があるということです。発達と開発があり、下等な段階から高等な段階への変移があるということです。


(37)人間のすべてに大霊が宿っております。確かに人間はありとあらゆる形態を通して進化して来て動物時代の名残りも宿しておりますが、それよりも遥かに高尚な神性が宿されており、それを機能させ発揮させることができれば、あたかも神々が地上を闊歩するかのごとくになります。


(38)進化の頂点を極め〝完全〟と融合してしまったという霊を私はまだ一人も知りません。霊性というのは磨けば磨くほど、まだまだ磨くべきものが残っていることに気づくものです。それは意識の領域がますます広がっていくことを意味します。あなたの意識も大霊の一部なのですから、無限の奥行きがあります。



     シルバーバーチの祈り

 ああ、真白き大霊よ。あなたは全生命の始原にあらせられ、その中心におわします。あなたは全生命の支配者にあらせられます。なんとなれば、あなたは全生命の内部に存在したまい、あなたの法則が、無限に展開する驚異的宇宙の生きとし生けるもの全てを維持し経綸しているからでございます。

 あなたの摂理は絶対にして、壮大なる現象の中のもっとも壮大なるものであろうと、些細なる出来事の中の最も些細なものであろうと、宇宙間に生ずるもの全てをご存知であらせられます。なぜなら全てがあなたの摂理によって管理され、その摂理の働きでないものはないからでございます。

 ああ、神よ。あなたは物質の子等にご自身の神性の一部を賦与し給い、子等が常にあなたと結ばれ、かつ、進化と開発によりて次第にあなたに似た存在となることを可能ならしめられました。あなたは子等を物質の世界へ送られるに当たり、子等があなたと同じ神性を表現し、あなたの摂理を体現することによってあなたに奉仕する機会を用意なさいました。

 また、あなたは子等に自由意志を授け給い、かつまた、正しいことと間違ったこととを判断するための能力をお授けになりました。さらに子等がみずからの力で地上を天国となすための資質をお授けになっておられます。

 ああ、無窮の時を通じて全生命の王として君臨なされる大霊よ。あなたは無限なる叡智と公正と哀れみを持って、そして、そのいずれにもまして、無限なる愛を持って支配なされます。

 その実行のためにあなたは使者を遣わされ、地上の有志との協調体制のもとに、無用の苦しみと悩み、病と不調、罪悪と戦争、つまりは光明のあるべき所に暗黒をもたらし、安らぎのあるべきところに苦しみを生じさせ、豊かな恵みに浴すべき所に飢餓を招いている諸悪を一掃せしめんと意図されておられます。

 大いなる神よ。私どもは地上にあなたの王国を築かんと願う者との協力のもとに、みずからこしらえた魂の牢獄の中にいる人間が、みずから背負える重荷に屈することなく、首尾よくそこから脱し、暗闇の中ではなく光明の中で生きられるよう、あなたという太陽へ目を向けさせんと努力しているところで御座います。

 その目的のために私たちはあなたに祈り、子等のために献身することによってあなたに献身せんとするものです。