Tuesday, April 28, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

 The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄

第2部 本論




8章 見えざる世界の実験室

霊は、流れるような優美な衣をまとっていることもあれば、ありふれた人間的な服装をしていることもあることはすでに述べた。どうやら前者が一定レベル以上の高級霊の普段の衣装であるように思われる。

いずれにせよ、ではそうした衣装をどこから手に入れるのであろうか。とくに地上時代と同じ衣服をまとって出てくる霊は、それをどこから手に入れるのであろうか。衣服のアクセサリーまでまったく同じなのはなぜなのであろうか。あの世まで持って行ったはずはない。そのことだけは間違いない。なのに、実験会に出現してそれを見せ、時には触らせてくれることもある。一体どうなっているのであろうか。

このテーマは、霊姿を見た者にとって、これまでずっと不可解きわまる謎だった。もちろん単なる好奇心の対象でしかない人も少なくないであろう。

が、これは実はきわめて重大な意義を含んでいて、我々の探求によって、霊界と現界とに等しく当てはまる法則の発見の手掛かりをつかむことができた。それなしにはこの複雑な現象の解明は不可能である。

すでに他界している人間の霊が出現した時に生前そっくりの衣服を着ていても、驚くには当たらない。記憶と想念の作用、つまり霊の創造力の産物とみてよいであろう。が、それをアクセサリーにも当てはめるのには抵抗がある。まして、前章の生者の幽霊現象に出てくる“かぎタバコ入れ”のように、その後ふだんの肉体で訪れた時に持っていたものとそっくりだったという事実は、普通では理解できない。

あの時、すなわち老紳士が病臥の女性の寝室を訪れたのは幽体であったことは理解できるが、かぎタバコ入れはどこから持ってきたのだろうか。杖やパイプ、ランタン、書物などを手にしていることもある。

初めのころ我々はこう考えた――不活性の物体にもエーテル的な流動体があるから、それが凝結して、肉眼には映じない型をこしらえることができる、と。この仮説もまったく真実性が無いわけではないが、これだけでは説明しきれない現象があることが分かってきた。

それまで我々が観察していたのはイメージや容姿ばかりだった。そして流動エネルギーが物質性をそなえることができることも知っていたが、それはあくまでも一時的なものであって、用が済めば消滅してしまうのである。その現象も確かに驚異的であるが、その後それよりさらに驚異的な現象に出会うことになった。いろいろあるが、その中の一つを挙げると“直接書記現象”がある。

これについては改めて章を設けて解説する予定であるが、ここで指摘しておきたい点と深く係わっているので、少しばかり言及しておきたい。

直接書記というのは霊媒の手も鉛筆も使わずに自動的に文章または暗号・符号・図などが書かれる現象である。ということは、用意するのは一枚の用紙だけということで、しかもそれを折り畳んでもいいし、引き出しに入れてもいいし、もちろんテーブルの上に置くだけでもよい。そのあと、ホンのわずかな間を置くだけで、その紙面にメッセージや暗号などが書かれているのである。

そのメッセージなどは鉛筆で書かれていたり、クレヨンで書かれていたり、赤鉛筆だったり普通のインクだったり、時には印刷用のインクだったりする。

用紙といっしょに鉛筆を置いておいたのであれば、霊はその鉛筆で書いたという想像が成り立つが、書くための用具は何一つ置いていないのである。となると霊は霊界でこしらえた何らかの道具で書いたことになる。一体どうやってこしらえるのであろうか。

その点の疑問が、例のかぎタバコ入れの現象に関する聖ルイの回答によって解明された。次がその一問一答である。


――生者の幽霊現象の話の中にかぎタバコが出てきます。そして、あの老紳士は実際にそれをかぐ仕草をしているのですが、あの時、我々がふだん香りをかぐのと同じように嗅覚を使っているのでしょうか。


「香りはありません。」


――あのかぎタバコ入れは老紳士がふだん使っているものとそっくりだったようですが、実物は家に置かれているはずです。手にしていたのは何なのでしょうか。


「外観だけの見せかけです。かぎタバコを見せたのは老紳士であることの状況証拠として印象づけるためと、あの現象が少女の病気による幻覚ではないことを証拠づけるためです。老紳士は自分の存在を少女に確信させたいと思い、リアルに見せるために外観を整えたのです。」


――“見せかけ”とおっしゃいましたが、見せかけには中味がなく、一種の目の錯覚です。我々が知りたいのは、あのかぎタバコ入れは中味のない、ただのイメージだったのかということ、つまり物質性は少しもなかったのかということです。


「もちろん物質性は幾分かはあります。霊が地上時代の衣服と同じものを身につけて霊姿を見せることができるのは、流動エネルギーを使用してダブルに物質性をもたせるからです。」


――ということは、不活性の物体にもダブルがあるということでしょうか。つまり、見えない世界に物質界の物体に形体をもたせる根元的要素があるということですか。言いかえれば、地上の物体にも、我々人間に霊が宿っているように、エーテル質の同じものがあるのでしょうか。


「そうではありません。霊は、宇宙空間および地上界に存在する物的原素に向けて、あなた方には想像もできない性質のエネルギーを放射し、その原素を意念で凝結して、目的に応じて適当な形体をこしらえます。」


――先ほどの聞き方が回りくどかったので、もう一度直截的にお聞きします。霊がまとっている衣服には実体がありますか。


「今の回答で十分その質問の答えになっていると思いますが……流動体そのものが実体のあるものであることはご存じでしょう?」


――霊はエーテル質の物体をどのようにでも変えることができ、かぎタバコの例で言えば、そういうものが霊界にあるのではなく欲しい時に意念の力で瞬間的にこしらえ、用事が終われば分解してしまう。同じことが霊が身につけているもの――衣服・宝石・その他あらゆるもの――について言える、ということでしょうか。


「まさにその通り。」


――問題のかぎタバコ入れは女性の目に見えています。本人は実物だと思ったほど明瞭に見えています。触っても実感があるようにでもできたのでしょうか。


「そのつもりになればできたでしょう。」


――そのタバコ入れを手に持ってみることもできたでしょうか。その場合でも本物と思えたでしょうか。


「そのはずです。」


――そのタバコ入れを彼女が開けたと仮定します。そこにかぎタバコが入っていたと思われますが、それを一つまみ吸ったらクシャミをしたでしょうか。


「したでしょう。」


――すると霊は形体をこしらえるだけでなく、その特殊な性質まで付与することも可能ということでしょうか。


「その気になれば可能です。これまでの質問に肯定的にお答えしたのはその原理に基づいてのことです。霊による物質への強烈な働きかけの証拠なら幾らでもあります。今のところはあなた方の想像力の及ばないようなものばかりですが……」


――仮に霊が有害なものをこしらえて、それを人間が呑み込んだとします。その人間はその毒にやられますか。


「そうした毒物を合成しようと思えばできないことはありません。が、そんなことをする霊はいません。許し難いことだからです。」


――健康に良いもので病気を癒すものも合成できますか。合成したことがありますか。


「ありますとも。しばしば行っております。」


――そうなると身体を扶養するための飲食物も合成できることになりますが、仮に果物か何かをこしらえて、それを人間が食べた場合、空腹が満たされますか。


「当然です。満たされます。ですが、口はばったいようですが、こんな分かりきったことを延々としつこく聞き出そうとするのは、いい加減お止めなさい。

太陽光線一つを取り上げてみても、あなた方のその粗野な肉眼が宇宙空間に充満する物的粒子を捉えることができるのは、その太陽光線のお蔭ではありませんか。空気中に水分が含まれていることはご存じのはずですが、それが凝縮すると元の水に戻ります。ご覧なさい、触ってみることも見ることもできない粒子が液体になるではありませんか。他にももっと驚異的な現象を起こせる物質を、化学者は数多く知っているはずです。

ただ、我々にはそれより遥かに素晴らしい道具があるということです。すなわち意念の力と神のお許しです。」


――そうやって霊によってこしらえられ、意念の力によって感触性を付与された物が、さらに永続性と安定性を得て人間によって使用されることも可能ですか。


「可能かどうかと言えば可能です。が、そんなことは霊は絶対にしません。それは人間界における秩序の摂理を侵害することになるからです。」


――霊はみな等しく感触性のある物体をこしらえる力を持っているのでしょうか。


「霊性が高いほど容易にこしらえるようになります。が、それもその場の条件次第です。低級霊にもそうした力を持った者がいます。」


――出現した霊がまとっている衣装や、我々に差し出して見せる品物が、どうやってこしらえられたのか、その霊自身は知っているのでしょうか。


「そうとは限りません。霊的本能によってこしらえている場合が多いです。十分に霊性が啓発されないと理解できません。」


ブラックウェル脚注――我々の身体の細胞は絶え間なく変化しているが、我々は食したものがどのようなプロセスで血となり肉となり骨となっているのか知らないのと同じであろう。


――霊は、宇宙に遍在する普遍的要素から、あらゆる物体をこしらえる原料を抽出することができ、さらにその一つ一つに一時的な実在性と特殊な性質を持たせることができるという事実から推し量ると、文字や符号を書くための材料もその普遍的要素から抽出できることは明らかですから、直接書記現象のカギもどうやらその辺にある――そう考えてよいでしょうね?


「ああ! やっとその理解に到達しましたね。」


編者注――これまでの質問は全てこの結論に到達することを念頭に置きながら出してきたもので、「ああ!」という感嘆の言葉は、霊側も我々の考えを読み取っていたことを示唆している。


――霊がこしらえるものは一時的なもので永続性がないとおっしゃいましたが、そうなると、直接書記の文字がいつまでも消えずに残っているのはなぜでしょうか。


「あなたは用語にこだわり過ぎます。私は永続性は絶対にないとは言っておりません。私が述べているのは重量のある物体のことです。直接書記の産物は紙面に書かれた文や図形にすぎません。それが保存する必要があればそのような処置を取ります。霊的にこしらえたものは一般の使用には向かないと言っているのです。あなた方の身体のように本来の物質で出来上がったものではないからです。」


訳注①――英文訳者のブラックウェルが最後の脚注で、英国ウェールズ州の“断食少女”を紹介している。が、あまりに簡単で資料としての重みがない。それよりも明治時代に話題をまいた長南年恵(正式にはチョウナントシエであるが、オサナミと呼ばれることが多い)という女性の現象の方が世界的水準からいっても驚異的なので、それを簡潔にまとめて紹介しておきたい。

資料は浅野和三郎氏が実弟の長南雄吉氏に面接して取材したもの。その時には年恵はすでに他界しており、浅野氏は年恵の現象が最高潮だった頃に、自分が「涼しい顔をして英文学なんかをひねくっていた」ことを悔やんでいる。

それにしても、それほどの霊能者がなぜ一時代の不思議話で終わったのか。「御一新(明治維新)の世にそんなバケモノ話があってたまるか!」という言葉に感じられる当時の官憲の悲しいほどの幼稚さが原因なのか、それとも私がいつもモノサシにする高級霊団による計画的援助の無さが原因なのか。どうも私にはその両方だったような気がしてならない。

日本の役人や学者の感性の無さは今も昔も言わずもがなであるが、その後その現象による啓発がどこにも見当たらないことも見逃せない事実である。単なる人騒がせの現象には高級霊団は関与しないからである。が、物理現象としては第一級のものだったことは確かなようで、とくに本章の「霊的にこしらえたもので肉体が養えるか」という疑問に対する絶好の回答であると私は観ている。

年恵は一八五八年、山形県の生まれ。驚異的現象が起き始めたのは三十五歳の時で、その後十五年間続いている。ということは欧米でスピリチュアリズムが最も盛んだった一八九〇年代とほぼ一致することになる。

しかし現象が表面化する前から普通の女性でないことで親を悩ませていたようである。例えば煮たり焼いたりしたものは一切身体が受けつけず、生水とホンの少量の生のサツマイモだけで、トイレに行くことがないばかりか女性の生理も三十五歳になっても一切無く、その顔はまるで十二、三歳の少女のようで、大阪の弟の雄吉の家に同居していた頃は、雄吉の妾ではないかとのうわさが立ったほどである。

雄吉がひそかに湯を沸かして、それを冷ましてから「水だ」と言って飲ませることを何度か試したが、そのたびに吐き出し、ひどい時は血まで吐いたという。

さらに年恵が入神(トランス)状態に入ると家屋全体が振動したり、部屋の中で笛や琴、鈴などによる合奏が聞こえ、そんな時はうわさを耳にした人や警察官などが家を取り巻くように集まって、それに聴き入ったという。

また入神した時は態度も声も変わり、普段は無邪気で無学な少女が凜(りん)とした態度で教えを説き、書画を書き、予言をし、それがことごとく適中したという。

年恵は「人心を惑わす詐欺行為」のかどで二度留置場へ入れられている。が、拘留中も身辺に妙なる音楽が聞こえたり、真夏でも年恵だけは蚊一匹寄りつかず、化粧道具は何一つないのに蝶々髷(まげ)はいつも結い立てのごとく艶(つや)々としていた。本人は「神様が結ってくださいます」と言っていたという。

圧巻は牢内での霊水の実験であろう。普段は自宅の祭壇に栓をした空ビンを十本、二十本、多い時は四十本も供えて、十分間ほど祈祷すると、パッと霊水で満たされる。赤・青・黄、色とりどりで、それぞれの病名に卓効があったという。

面白いのは、病気でもない者が試しに病名を適当に記した空ビンを置いておくと、それだけは何も入っていなかったという。

拘留されたのは二度であるが、法廷に立ったことが一度ある。結局無罪放免になったのであるが、その理由が霊水の実験だった。神戸裁判所でのことだったが、当時は新築中で、弁護士詰め所は電話室ができ上がったばかりで、電話そのものがまだ取り付けられていなくて空っぽだった。それを使って実験をしようということになり、年恵は素っ裸にされて検査をされた後、裁判長みずからが封印をした二合入りの空ビンを一本手にして電話室に入った。そして二分ほどするとコツコツというノックがしたので扉を開けると、茶褐色の水の入った二合ビンが密封されたままの状態で年恵の手に持たれていたのだった。

明治四十年十一月のある日、憑(かか)ってきた霊が「近いうちにあの世へ連れて行く」と予言した通り、間もなくあっさりと他界した。五十歳だった。


訳注②――直接書記現象については「改めて章を設けて解説する予定」とある。確かに「直接書記と霊聴」という見出しで扱われているが、意外に簡単に扱っていて「詳しくは第八章を参照」などと述べている。

確かに本章の説明で十分と思われるのでそこはカットすることにしているが、もう一つの「霊聴」を「直接書記」と並べて扱っているところに面白い視点が見られるので、その核心部分だけを紹介しておく。

私が「霊聴」と訳した用語は原典では“スピリット・サウンド”および“スピリット・ボイス”となっている。カルデックはその原因(声の出どころ)を“内的”と“外的”とに分け、内的なものはまるで“声”を聞いているように思えても聴覚で聞いているのではなく、外的なものは直接談話のようにエクトプラズムでこしらえたボイスボックス(声帯と同じもの)を使ってしゃべっているので聴覚に響く。つまり音声で聞いている。

ブラックウェルも「サークルでは出席者全員に聞こえる」と脚注で述べている。

霊媒の書  アラン・カルデック編

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スピリチュアリズムの真髄

第2部 本論




7章 生者の幽霊現象と変貌現象

前章では他界した人間の霊がその姿を生身の人間の霊眼に見せる場合と、霊みずからがエクトプラズムという半物質体をまとって肉眼に見せる場合について、そのメカニズムを霊団の通信霊との一問一答によって紹介したが、本章では、今この世に生きている人間、つまり生者の霊が肉体から脱してその容姿を遠距離にいる縁のある人に見せる現象と、生者自身の顔が見る見るうちに変貌して、他界した人間とそっくりになるばかりか、発する声まで同じになるという現象を扱う。


一見すると両者とも奇っ怪な現象のように思えるが、よく調べてみると前章の物質化現象と同じくダブルの特性によるもので、生前と死後とでその反応は変わらないことが分かった。

霊は、肉体をまとっている時も、その肉体を脱ぎ捨てた後も、半物質体でできたダブルという媒体に包まれており、それが条件次第で一時的に可視性と触知性とをそなえることができる。ともかくも実例を挙げてみよう。

さる田舎町に住む女性が重い病気で床に伏していた。ある日の夜の十時頃のことである。寝室に一人の老紳士がいるのに気づいた。同じ町の住人で見覚えはあったが、知り合いではなかった。

その老人はベッドの近くのひじ掛けイスに腰かけ、時おりかぎタバコをつまんでは嗅(か)いでいるが、その目つきはいかにも彼女を見張っているみたいである。

時刻が時刻なので怖くなってきた女性は、一体何しに来たのかと尋ねようとした。すると老人は「物を言ってはいけない」と言わんばかりの仕草をし、さらに「もう寝なさい」と言っているような仕草をする。何度か尋ねようとしたが、そのたびに同じ仕草をくり返す。そのうち彼女は寝入ってしまった。

その後何日かしてその女性がすっかり回復した頃、同じ老紳士が訪ねてきた。こんどは昼間である。衣服は同じで、同じかぎタバコ入れを手にし、態度も同じだった。

間違いないと確信した女性は、病床を見舞ってくれたことについて礼を述べると、老人は驚いた様子で自分は見舞いなんかに来ていないと言う。その夜のことをありありと覚えている女性は間違いないと確信したが、あまり語りたくなかったので「たぶん夢でも見ていたのでしょう」と言いつくろったという。

もう一つの例を紹介しよう。ある町に、なかなか結婚したがらない青年がいて、家族を始め親戚の者は隣の町に住むある女性がちょうど似合いの相手なのだが、と勧めていたが、本人は会ってみる気にもならなかった。

一八三五年のある祝祭日のことだったが、彼の寝室に突然一人の女性が白無垢の装束で現れた。頭には花の冠をのせていて、はっきりとした声で、

「私はあなたの婚約者です」

と言って手を差し出した。彼もとっさに手を差し出してその手を取ると、その指には婚約指輪がはめられていた。が、次の瞬間、その姿は消えていた。

驚いた青年は夢ではないことを確かめてから、家族の者に誰か訪ねてきた人はいないかと聞いてみたが、今日は誰も来客はないという返事だった。

それからちょうど一年後の同じ祝祭日のことである。その青年もついにみんなから盛んに勧められる隣町の女性を一目見てみたいという気持ちになった。

行ってみると折しもお祭り見物から帰ってくる人波の中に、一年前に彼の部屋で見たのとそっくりの女性を見つけて近づいた。装束も同じである。彼が唖然として見つめていると、その女性の方も彼に気がついた。そして真正面から見た瞬間、驚きの声を発すると同時にその場に卒倒してしまった。

意識が戻ってから女性は家族の者に「あの方は私が一年前のこの日に会った人よ」と述べ、かくして始まった二人の不思議な縁は結婚という目出たい結末となった。

一八三五年といえばハイズビル事件の十年余り前のことで、スピリチュアリズムはまだ話題になっておらず、二人ともごく平凡な、そして至って現実的な人間だったという。

次の話に移る前に、きっと出てきそうな疑問に答えておこう。「肉体から霊が脱け出てしまったのに肉体はなぜ死なないのか」という疑問である。

実は、同じく肉体から脱け出るといっても、生者の霊が一時的に肉体から離れる場合、つまり睡眠中とか上の例のような現象は、霊視すると銀色に輝く細い紐(魂(たま)の緒)で結ばれていて、それがいくらでも伸びる。そして、その間に肉体に何らかの刺激が与えられると、瞬時に肉体に戻る。

「死」というのは肉体が老衰・事故・病気などで使用不可能になった時にその銀色の紐(シルバーコード)が切断される現象で、いったん切断されたら二度と生き返れない。

次の例へ進もう。

ローマ・カトリック教会の聖アルフォンソ(一六九六~一七八七)は死後異例の早さで聖者の列に加えられているが、それは他でもない、生前、同時に二つの場所に姿を見せるという“奇跡”を演じて見せることができたからだった。

その聖アルフォンソがかつて無実の罪に沈みかけたことがあった。そしてイタリアのパドヴァで死刑が執行されようとしていた。

その時、スペインへ出張中の息子の聖アントニオが突如その刑場に出現して父親の無実を証言し、真犯人を名指しした。

その事実が明確となって聖アルフォンソは濡れ衣が晴れた。その後、聖アントニオがパドヴァの刑場に姿を現した時は間違いなくその身柄はスペインにあったことが確認されたという。

その聖アルフォンソに我々の交霊会に出ていただくことができた。以下はその時の一問一答である。


――あの生者の遊離現象について説明していただけますか。


「分かりました。霊性の進化の結果として、ある一定の段階の非物質化が可能となった者は、今いるところとは別の場所に自分の姿を見せることができるようになります。その方法は、睡眠状態に入りそうになった時に、ある特定の場所に移動させてくださいと神に祈るのです。その願いが許されると、肉体が睡眠状態に入るとすぐ霊がダブルの一部をともなって、死と境を接する状態にある肉体を離れます。

“死と境を接する状態”と表現したのは、魂が脱けた状態は“死”と同じでも、その肉体には曰(いわ)く言い難い絆(シルバーコード)が残されていて、ダブルと魂とのつながりを保っているからです。そのダブルが魂とともに意図した場所に姿を現すのです。」


――今のお答えでは、なぜ見えるのか、なぜ感触があるかについての説明になっておりませんが……。


「霊が物質による束縛から解き放たれると、物質への特殊な働きかけによって、その霊性の程度に応じて姿を大なり小なり五感に訴えるようにすることができます。」


――それには肉体が睡眠状態に入ることが不可欠なのでしょうか。


「魂は、肉体が置かれている位置とは別の複数の場所に行きたいと思えば、自らを分割してそれぞれの場所に姿を見せることができます。

その時、肉体は必ずしも睡眠状態にならなくてもいいのですが、それは滅多にないことです。仮にごく通常の状態にあるかに見えても、大なり小なりトランス状態にあるものです。」


編者注――魂が自らを分割すると言っても、我々の概念でいう“分割”とは異なる。魂はあくまでも一つなのであるが、鏡を幾つも置けばその数だけ姿があるように映るごとく、複数の方向に映像を放射することができるのである。

次に変貌現象というのを考察してみよう。これは生者の顔が死者とそっくりの顔に変貌する現象である。一八五八年と五九年に起きた、信ずべき証言のある実例から紹介しよう。

話題の主はまだ一五歳の少女で、見る見るうちに顔かたちが変化して、まったく別人の顔になる。女性とは限らない。男性の場合もある。変貌してしまうと完全にその女の子ではなくなり、顔だけでなく声もしゃべり方も、そして背丈も体重もすっかり変わってしまう。

同じ町の医師が何度も目撃して、それが目の錯覚でないことを確認するためにいろいろと実験し、それを全て記録に残している。さらにその子の父親と他の数人の目撃証言も残っている。

いちばん多く出現したのは二十歳で他界したその子の兄で、身長も体重もかなり違っていた。医師は現象が始まる前にその子の体重を計り、兄に変貌した時にも体重計に乗ってもらったところ、ほぼ倍の重さがあったという。

実験は決定的ともいうべき条件が整っており、目の錯覚とする説は完全に退けられている。では一体いかなるメカニズムによって生じているのであろうか。

変貌現象と言われているものの中には明らかに顔の筋肉の収縮にすぎないと思えるものがある。我々の会でも何度となく観察されているが、その場合は“劇的”といえるほどの変貌は見られていない。若い容貌が老(ふ)けて見えたり、老けた容貌が若くみえたり、美貌が平凡な顔になったり、平凡な顔がハンサムになったりする程度で、男性は男性に、女性は女性にというのが普通で、体重が増えたり減ったりすることは、まずなかった。

ところが上の女の子の場合は、そうしたものとは別の次元の要素が加わっている。どうやら物質化現象やアポーツの原理と同じく流動エネルギーにカギがありそうである。

前章までの解説で我々は、霊は自分の流動体に働きかけて、その原子構造を変化させることによって、一時的にではあるが、可視性と触知性を持たせることができる――言いかえれば、透明で存在が認知できないものを人間の目に見え手で触れられるものにすることができるという基本的原理を学んだ。

さらにもう一つの基本的原理として、生者の流動体も肉体から遊離させてエネルギー化できることも分かっている。

そこで、変貌現象について次のように考えてみてはどうだろうか。

変貌する人間の流動体を肉体から遊離させるのではなく、そのままの状態で蒸気のように気化し、さらに半物質の合成体にして肉体を覆わせる。そして、霊が自らのダブルに合わせる。一種の物質化現象で、その背後では目に見えないオペレーターが何人も働いているはずである。

体重の増減の問題であるが、これは実験会での物理現象の原理で説明がつくであろう。つまり本来の体重は変化していないが、見えざる世界からの働きかけによって、少なくともその間だけ、重くなったり軽くなったりしているものと考えられる。


訳注――霊力の凄さはこれまで本書でもいろいろな形で見せつけられているので改めて付言する必要はないと思うが、『ジャック・ウェバーの霊現象』の中に、上の体重の増減の現象の理解に参考になるものがあるので紹介しておきたい。

「霊媒の浮揚現象」という見出しの章の後半に“思いがけない現象”として次のような叙述がある。

《写真No.25には思いがけない現象が写っている。浮揚現象を撮影しようとしていたところ、その“持ち上げる力”が逆の方向に利用されて、椅子が床に降りると同時に、バリバリという何かを破壊するような大きな音がした。ライトをつけてみると、霊媒は無残に砕けた椅子に縛りつけられていた。

霊媒が腰かけていたウィンザー型の椅子は実にどっしりとした造りだった。座の部分は厚さが1.3インチ(三センチ余り)もあったが、それが真ん中で真二つに割れ、四本の脚が支柱もろとも四方に引き裂かれ、肘かけが背もたれからもぎ取られていた。

写真は砕かれかけた一瞬をよく捉えている。霊媒の身体にいささかの緊張感も見られないところに注目していただきたい。

一個の椅子を一瞬のうちにこれほど徹底的に破壊するのに一体どれほどのエネルギーが要るかということも一考の価値がある。力持ちが椅子を持ち上げて思い切り床に叩きつけて、はたして上に述べたような状態に破壊できるか――これは大いに疑問である。》

霊媒の書  アラン・カルデック編

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スピリチュアリズムの真髄

第2部 本論




6章 物質化現象

心霊現象の中でも取りわけ興味深いのは、言うまでもなく霊がその姿を見せる現象であろう。が、これも、これから紹介する一問一答による解説によって、少しも超自然的なものではないことが分かる。複数の霊による回答をまず紹介しよう。


――霊は自分の姿を人間に見せることができるものですか。


「できます。とくに睡眠中が多いです。覚醒中でも見ることができる人がいます。睡眠中ほど頻繁ではありませんが……」


編者注――肉体が休息すると霊は物的束縛から解放されて自由の身となり、霊姿を見たり霊と語り合ったりする。夢はその間の記憶の残像にすぎない(章末の訳注参照)。何も思い出さない時は睡眠中に何もなかったかに思うが、実際には霊眼でいろいろなものを見たり聞いたりして自由を楽しんでいる。が、本章では覚醒中のことに限ることにする。


――霊姿を見せるのは特殊な界層の霊に限られているのでしょうか。


「そんなことはありません。低界層から高級界までのありとあらゆる界層の霊が姿を見せることができます。」


――すべての霊が自分の姿を人間の視覚に映じさせる力を有しているということでしょうか。


「その通りです。ただし、そうする許しが得られるかどうかの問題と、そうしたいと思うかどうかの問題があります。」


――姿を見せる場合、その目的は何なのでしょうか。


「それはその霊によって違ってきます。正当な目的の場合と、良からぬ目的の場合とがあります。」


――え? 良からぬ目的の場合でも許されることがあるとおっしゃるのですか。


「その通りです。その場合は“幽霊”に出られた人間にとっての試練として出現が許されています。霊の意図は良くなくても結果として当人にはプラスになります。」


――良からぬ意図とはどんなことでしょう?


「怖がらせてやろうとか、時には復讐の場合もあるでしょう。」


――正当な意図とは?


「他界したことを悲しみ続けている者を慰めてやること、つまり、ちゃんと生き続けていて、いつも自分がそばにいることを知らせてやること。悩みごとの相談にのってやりたいということもあります。時には逆に自分のことで頼みごとをする場合もあります。」


――いつでもどこでも霊の姿が見えるようになったと仮定した場合、人間生活に何か不都合が生じるでしょうか。どんなに疑い深い人間も死後の生命存続の事実を疑わなくなると思うのですが……。


「霊はいつでもどこにでも存在するわけですから、それがもし見えるようになったら何かとやりにくいであろうし、やる気が無くなるであろうし、自由闊達な動きができなくなるでしょう。人間は誰からも見られていない方が思うような行動が取れるのです。

疑い深い人間のことですが、たとえ見ても信じない者は信じません。何かの幻影でも見ていると考えます。あなた方がそういう人間のことで心を痛めるには及びません。大霊が良きに計らってくださいます。」


――霊の姿が見えると不都合が生じるというのなら、なぜ姿を見せることがあるのでしょうか。


「それは、人間が肉体の死とともに無に帰するのでなく、死後も個性をたずさえて存続していることを証明するためです。そうした数少ない目撃者の証言で十分であり、霊に取り囲まれて気の休まることがないという不便も生じません。」


――地球より進化した天体上では霊との関係は頻繁に行われているのでしょうか。


「霊性が高まるほど霊との意識的交信が容易になります。霊的存在との交わりを困難にしているのは、その物的身体です。」


――いわゆる幽霊を見て人間が怖がることをそちらから見てどう思われますか。


「霊がいかなるものであれ、生身の人間より危険性が少ないことは、少し考えれば分かりそうなものです。霊はどこにでもいます。あなたのすぐそばにもいます。見える見えないには関係ないのです。何か悪さをしようと思えば、別に姿を見せなくてもできますし、むしろ見られない方が確実性があるくらいです。

霊だから危険性があるのではありません。危険性があるとすれば、それは人間の考えに働きかけて密かに影響力を行使し、正しい道を踏みはずさせて悪の道に誘い込むことができることです。」


――霊が姿を見せた時、その霊と対話をしてもいいのでしょうか。


「もちろん結構です。と言うより、ぜひとも対話をすべきです。名前は何と言うのか、何の用事なのか、何か役に立つことがあれば言ってみるように、といったことを問いかけてみることです。辛いこと苦しいことがあるのであれば、それを聞き出して、力になってあげることができますし、逆に高級な霊であれば、何かいいアドバイスを授けるために出現したのかも知れません。」


――そういう場合、霊はどういう方法で対話をするのでしょうか。


「生身の人間のようにはっきりとした言葉で語る場合もありますが、以心伝心(テレパシー)で行う場合が多いです。」


――翼の付いた姿で現れることがありますが、実際に付いているのでしょうか。それとも、ただのシンボルなのでしょうか。


「霊に翼はありません。必要ないからです。霊はどこへでも瞬時に移動できます。ただ、霊が姿を見せる場合には何らかの目的があり、それを効果的に演出するために外見にいろいろな装いをすることがあります。目立たない装いをすることもあれば、優雅な掛け布で身を包むこともあり、翼を付けることもあります。それが霊格の象徴である場合もあります。」


――夢の中に出てくる人物はその容貌どおりの人物と見てよろしいでしょうか。


「あなたの霊眼で見た通りの人物と思ってまず間違いないでしょう。」


――低級霊が生前親しかった誰かの容貌を装って、堕落の道へ誘うということは考えられませんか。


「低級霊でも途方もない容貌を装うことができますし、騙して喜ぶ者がいることも事実ですが、彼らのすることにもおのずから限度があり、やろうにもやらせてもらえないことがあるものです。」


――思念が霊を呼び寄せることは理解できますが、ならばなぜ一心に会いたいと思っている人が出現せずに、関心のない人、思ってもいなかった人が出現することが多いのでしょうか。


「そちらでいくら会いたいと念じても、霊によっては姿を見せる力を持ち合わせないことがあります。その霊の意志ではどうにもならない何らかの要因があって、夢にさえ出現できないのです。それが試練である場合もあります。いかに強烈な意念をもってしても免れることのできない試練です。

関心のない人、思ってもいなかった人とおっしゃいますが、そちらで関心はなくてもこちらに関心がある場合があります。さらに、あなた方には霊の世界の事情がお分かりにならないので無理もありませんが、睡眠中に昔の人や最近他界したばかりの人を含めて、実に多くの霊に会っているのです。それが目覚めてから思い出せないだけです。」


――ある種の情景が病気中に見えることが多いのはなぜでしょうか。


「健康な時でも見えることがありますが、病気の状態では物的な束縛が緩(ゆる)み、霊の自由の度合が増すために、霊との交信がしやすくなることは確かです。」


――幽霊が出たという話がよく聞かれる国とそうでない国とがあります。民族によって能力が違うのでしょうか。


「幽霊とか不思議な音といった現象は地球上どこででも同じように生じます。が、現象によってはその民族の特徴が反映するものがあります。例えば識字率の低い国では自動書記霊媒はあまり輩出しません。従ってそういう国では知的な通信よりもハデな現象の方が多く発生することになります。知的で高尚なものを有り難がりませんし、求められることもないからです。」


――幽霊が大てい夜に出現するのはなぜでしょうか。静けさや暗さが何か想像力に影響を及ぼすからでしょうか。


「それは星が夜の方がよく見えて昼間は見えないのと同じです。昼間の太陽の光がうっすらとした霊の姿をかき消してしまうから見えないまでです。“夜”という時間帯に特別の意味があるかに考えるのは間違いです。幽霊を見たという人の話を総合してみられるとよろしい。大半が昼間に見ているはずです。」


――霊の姿が見えるのは普通の状態の時でしょうか、それとも特殊な状態の時でしょうか。


「まったく普通の状態でも見えますが、トランス(入神)状態に近い特殊な状態にある時の方が多いです。霊視力が働くからです。」


――霊を見たと言う人は肉眼で見ているのでしょうか。


「自分ではそう思うでしょう。が、実際は霊視力で見ています。目を閉じても見えるはずです。」


――霊が自分の姿を見せるにはどんなことをするのでしょうか。


「他の物理現象と同じです。自分の意念の作用で流動体の中からある成分を抜き取り、さまざまな工夫を凝らして使用します。」


――霊そのものを見せることはできないのでしょうか。流動体(エクトプラズム)をまとわないと見えないのでしょうか。


「肉体をまとっているあなた方人間に対しては、半物質体の流動エネルギーの助けを借りないと見えません。流動体は物的感覚に訴えるための媒介物です。夢の中にせよ覚醒時にせよ、白昼にせよ暗闇の中にせよ、見えている姿はその流動体で形態を整えたものです。」


――それは流動体を凝縮して使うのですか。


「凝縮という用語はおよその概念を伝える上での類似語ていどのもので、正確ではありません。別に凝縮させるわけではありません。流動体を幾種類か集めて化合させると、特殊な合成物ができます。これが人間の目に映じるようにするのですが、地上にはこれに類するものは存在しません。」


――その霊姿は手で触ることができますか。例えば腕をつかむことができますか。


「通常はできません。影がつかめないのと同じです。が、人間の手に感触が残る程度にすることはできます。さらには、少しの間に限られますが、しっかりとした肉体と同じ程度にすることもできます。そんな時は合成物質(エクトプラズム)と肉体との間に共通したものがあることの証拠と言えます。」


――人間は本来、霊の姿が見えるようにでき上がっているのでしょうか。


「睡眠中(肉体からの離脱中)はそうです。覚醒中は誰でもというわけではありません。睡眠中はさきほど述べた媒介物がなくても見えます。覚醒中は多かれ少なかれ肉体という器官によって制約されています。睡眠中と覚醒中とでは必ずしも同じでないのは、そういう事情によります。」


――覚醒中に霊が見える、そのメカニズムはどうなっているのでしょうか。


「その人間の肉体という有機体の特質、およびその人が有する流動エネルギーが霊の流動エネルギーと合体しやすいか否かに掛かっています。霊が姿を見せてやりたいと思うだけではダメです。見せてやりたい人間にそういう適性があることを見極める必要があるわけです。」


――そういう能力は訓練によって発揮できるようになるものでしょうか。


「他のすべての能力と同じように、訓練しだいで発揮できます。ですが、なるべくなら自然な発達を待つ方がよい部類に属します。発揮しようとする意欲が強すぎると想像力をかき立てて妄想を生む恐れがあります。霊視力を日常的にいつでも使用できるほどの人は例外に属し、人類の通常の状態では霊視力は働きません。」


――人間の側から霊に向かって出現を要請することは可能でしょうか。


「不可能というわけではありませんが、稀です。霊は必ずといってよいほど自分の方から出現します。権威をもって呼び出すには余ほど特殊な霊的資質をそなえていなければなりません。」(ここでいう“霊”とは“高級霊”のことである。日本の霊界通信には神名を名のる霊からのものが多いが、神格をそなえた高級霊が“自分は神である”などと宣(のたま)うわけがない――訳注)


――人間の容姿以外の形態で出現することはできますか。


「人間の容姿が普通です。人間の容姿をいろいろに装うことはできますが、基本的には常に人間的形態をしています。」


――炎の形態で出現できませんか。


「存在を示すために炎や光をこしらえることはできます。どんな形態でも装うことができるのですから。が、それがすなわち霊そのものと思ってはいけません。炎は流動エネルギーの放射体、いわば幻像にすぎないことがよくあります。それも流動体のごく一部です。どのみち、流動体の現象は一時的な映像の域を出ません。」


――“鬼火”とか“キツネ火”とか呼ばれているものが魂または霊の仕業だという説がありますが、いかがでしょうか。


「ただの迷信にすぎません。無知の産物と言ってもよいでしょう。鬼火が発生する原因はすでに明らかになっているはずです。」(燐と水素が化合して発する青白い炎――訳注)


――霊が動物の形態を装うことはできますか。


「それはできないことではありません。が、そんなことをしてどうするのでしょう? それは余ほど低級な霊のすることです。また、たとえ装っても一時的なものです。本物の動物が霊の化身であるかに信じる愚か者はいないでしょう。動物はあくまでも動物で、それ以上のものではありません。」


――見えたものが幻影・幻覚であることがありますか。たとえば夢か何かで悪魔を見た場合、それは想像上の産物ではないでしょうか。


「そういうことは時おり有り得ます。たとえば強烈な印象を与える物語を読んで、それが記憶に残っていて、精神的に興奮している場合です。そういうものは実在しないのだという理解がいくまで、それが幻覚として見えることがあります。

しかし、前にも述べたことですが、霊は半物質の流動体を使用してどんなものでもどんな形態のものでもこしらえることができます。ですから、イタズラ霊が信じやすい人間をからかうために角(つの)を生やしたり巨大な爪を見せたりすることもできます。さきほども述べた、高級霊が翼をつけたり光輝を放つ容貌を見せたりするのと同じです。」


――半睡半夢の状態において、あるいは目を閉じた瞬間などに顔とかイメージが見えることがありますが、あれも幻覚でしょうか。


「感覚が空(うつ)ろになると霊的感覚が働きやすくなって、肉眼では見えないものが、遠近に関係なく見えるようになります。その時に映じるイメージは往々にして幻覚である場合もありますが、かつて見たある対象物が、音がしばらく耳に残るように、脳に残像を印象づけていて、それが見えることがあります。

霊は、肉体の束縛から解放されると、ちょうど写真のネガに写った影像のように脳に印象づけられたものを見ることがあります。その時、断片的でバラバラになっているものを一つのまとまったものに構成しようとします。それは他愛もない空想的なもので、次の瞬間には、もう少しよく見たいと思っても、崩れていきます。病気の時などによく見る、まったく現実味のない、奇っ怪な幻像もみな、そうした原因から生じていると考えて間違いありません。」


訳注――本章の最初の応答のあとのカルデックの“編者注”の中に「夢というのは睡眠中に霊の目で見たものの記憶の残影にすぎない」という一文があるが、この文章だけでは誤解を生じやすい。上の最後の応答の一節が夢そのものの絶好の説明にもなっているように思う。「病気の時などによく見る……」というのを「病気の時や睡眠中によく見る……」と書き換えてもよいほどである。

夢については心理学や精神医学や精神分析学などでもいろいろと説かれているが、こじつけや乱暴な説ばかりで、これまで納得のいくものに出会ったことがなかった。そして上の一節ですっきりとした気持ちになった。私の体験からもその通りだと思う。

自我のことを“統一原理”と呼んでいる通信があるが、上の回答で「断片的でバラバラになっているものを一つのまとまったものに構成しようとします。それは他愛もない空想的なもので、次の瞬間には、もう少しよく見たいと思っても崩れていきます」とあるのは、霊が物的身体から遊離していて、長年にわたる脳を中枢とした感覚に慣れているために、統一原理としての役目が果たせないのである。

結論としては、本章の最初の“編者注”と最後の回答とを併せて一つにすれば“睡眠中は何をしているのか”“夢とは何なのか”といった千古の疑問への完全な回答となるのではなかろうか。

シルバーバーチの霊訓(四)

 Silver Birch Anthology 

 Edited by William Naylor

Photo painting of a painting of a green field with trees and a red umbrella generative ai

  五章 死んだらどうなるか

 ある日の交霊会で死後の世界とそこでの生活の様子が主な話題となった。この中でシルバーバーチは最近他界したばかりの人の現在の状態を説明して、地上に隣接した下層界は何もかも地上とそっくりであると述べた。すると次のような質問が出された。

───幽界がこの世とそっくりであるというのが私には理解できないのですが・・・・・・。

 「地上界の次の生活の場は地上の写しです。もしそうでなかったら、何の予備知識もない幼稚な霊に耐え切れないショックを与えるでしょう。ですから、霊界への導入はやさしい段階をへながら行われることになります。こちらへ来てすぐの生活の場は地上と非常によく似ております。自分の死んだことに気づかない人が大勢いるのはそのためです。

 こちらは本質的には思念の世界、思念が実在である世界です。思念の世界ですから、思念が生活と活動の表現のすべてに形態を与えます。

他界直後の世界は地球のすぐ近くにあり、ものの考え方がきわめて物質的な男女が集まっていますから、思念の表現もきわめて土臭く、考えることが全て物的感覚によって行われます。

 そういう人たちは〝物〟を離れて存在を考えることができません。かつて一度も生命というものが物的なものから離れた形で意識にのぼったことがないのです。霊的な活動を心に思い浮かべることができないのです。精神構造の中に霊的なものを受け入れる余地が無いのです。 

ですが幽界(※)の生活にも段階があり、意識の開発と共に徐々に、着実に、土臭さが取れていきます。そして生命というものが物的な相を超えたものであることが判りはじめます。

そして自覚が芽生えると次第にそこの環境に反応しなくなり、いよいよ本当の霊の世界での生活が始まります。こうして死と誕生(に相当するもの)が何度も繰り返されるのです」

(※ここでは〝物的感覚から脱しきれない世界〟のことを指している。これをシルバーバーチが幽界 astral world と呼んだのは質問者が最初にそう呼んだからで、そこは実質的には〝界〟というよりは〝状態〟という方が当たっている。だから霊的な自覚が出来てから赴く世界をシルバーバーチは〝霊界〟 spirit world とは言わず〝霊の世界〟the world of spirit という言い方をするのである。

仏教で〝成仏した〟というのは自縛的状態から脱して霊的自覚が芽生え、本格的な生活が始まる段階に入ったという意味で、そこから地上で身に付けた霊性に相応しい境涯へ赴くことになる。オーエンの『ベールの彼方の生活』では〝区分けの界〟という呼び方をしているー訳者)


───死後の世界での体験は主観的なのでしょうか客観的なのでしょうか。

 「客観的です。なぜかというと、こちらの世界はそれぞれの界で生活している住民の思念で営まれているからです。意識がその界のレベルを超えて進化すると自然に離れていきます。成長と向上と進化によって霊的資質が身につくと、自然の法則によって次の段階へ移行するのです(※)。

それぞれの界において立派に客観的生活が営まれています」(※ 『ベールの彼方の生活』によると霊性の向上とともに光明の実在へ次第に近づいていく過程は神秘中の神秘で、人間の言語では説明できないし、そもそも人間の理解力を超えているというー訳者)


───ということは夢の世界ではないということですね。

 「そこを通過してしまえば夢の世界だったことになります。そこに生活している間は現実の世界です。それを夢と呼ぶか呼ばないかは観点の違いの問題です。あなた方も夢を見ている間はそれを夢だとは思わないでしょう。夢から覚めて初めて夢だったことを知り〝なんだ、夢だったのか〟と言うわけです。

ですから、夢が夢幻的段階を過ぎてしまうと、その時の体験を思い出して〝夢だった〟と言えるわけです。ですがその夢幻を体験している間は、それがその霊にとっての現実です」


───すべての人間が必ずその低い界層からスタートするのでしょうか。
 
 「いえ、いえ、それはあくまで何の予備知識も持たずに来た者や、幼稚な者にかぎっての話です。つまり霊的実在があることを知らない人、物的なものを超越したことを思い浮かべることの出来ない人の場合です。あなた方が幽界と呼んでいるところは霊の世界の中の小さな区域です。

それは低い境涯から高い境涯へと至る無数の段階の一つに過ぎません。きっちりと周囲が仕切られて存在するのではありません。それを〝界〟と呼んでいるのは、あなた方に理解出来る用語を用いるしかないからです」

(訳者注ー夢の説明で夢を見ている時はそれが現実で覚めれば夢であることを知ると言っているのと同じで、その境涯にいる間は現実に境界があり仕切りがあるように思えるが、霊性が向上してその境涯から脱け出ると、それもやはり夢幻であったことを知る。色即是空は地上だけとは限らない)

 霊界での成長について───

 「一つの界から次の界へよじ登っていくのではありません。自然に成長し、自然に進化していくのです。程度の低い要素が高い要素にその場を譲っていくのです。何度も死に、何度も誕生するのです。幽体は肉体の死と同じ過程で失われていくのではありません。

低級なものが消えるにつれて浄化され精妙になっていくのです。それが幽体の死です。そもそも〝死〟とは変化であり復活であり、低いものから高いものへの上昇です。時間と空間にしばられた地上生活のすべての制約から解放された霊の世界を説明しようとすると、何かと困難に遭遇します。

低いものは高いものを理解できません。有限なるものは無限なるものを包含することはできません。小さい器は大きい器を入れることはできません。奮闘努力の生活の中で理解力を増していくほかありません」


───幽界ではたとえば心臓なども残っていてやはり鼓動するのでしょうか。

 「肉体器官が残っているか否かはその霊の自覚の問題です。もし地上生活のあとにも生活があることを知らず、霊の世界など思いもよらない人であれば、地上で具えていた肉体器官がそっくりそのまま残っていて、肉体的機能を続けています───あらゆる機能です」


───では霊の世界についての理解を持った人の場合はどうなりますか。

 「幽体の精妙化の過程がスムーズに進行します。ある器官が霊の生活に不要となったことを自覚すると、その器官が退化し始め、そのうち消滅してしまいます」


───死の直後からそういう現象が起きるのでしょうか。それとも、ゆっくりとした過程なのでしょうか。

 「それも自覚の程度によります。程度が高ければそれだけ調整期間が短くてすみます。忘れてならないことは、私たちの世界は精神的な世界、霊の世界であり、そこでは自覚というものが最優先されるということです。

精神が最高の権威を持ち支配しています。精神が指示したことが現実となるのです。昔から、高級界からやってきた霊のことを〝光り輝く存在〟というふうに述べていて、姿かたちをはっきり述べていないことにお気づきになったことはありませんか。外形というものが無くなっていくのです。つまり形による表現が少なくなっていくのです」


───最後にはどういう形態になっていくのでしょうか。

 「美はどういう形態をしているのでしょう。愛はどういう形態をしているのでしょう。光はどんな形態をしているのでしょうか」


───形態を超越してしまうと色彩が認識の基本になるのでしょうか。

 「その通りです。ただし地上世界の基本的色彩となっているものが幾つかありますが、私たちの世界にはあなた方の理解力を超えた別の色彩の領域が存在します。私たちは高級界からの霊の姿が発する光輝、そのメッセージとともに届けられる光によって、その方がどなたであるかを認識することができます。

形態というものがまったく無いことがあるのです。ただ思念があるのみで、それに光輝が伴っているのです」

 他界した身内の者や友人・知人は姿こそ見えなくても、地上にいた時より一層身近な存在となっていることを説いて、こう述べる。

 「その方たちは今なお実在の人物であり、地上にいた時と同じようにあなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはなりません。彼らはもはや言葉で話しかけることはできませんし、あなた方もその声を聞くことはできませんが、あなた方のすぐ身の回りにいて何かと援助してくれております。

自覚なさることがあるはずですが、実際はもっともっと密接な関係にあります。彼らはあなた方の心の秘密、口に出さないでいる欲求、願望、希望、そして心配なさっていることまでを全部読み取っております。そしてあなた方の魂の成長にとって必要なものを地上的体験から摂取するように導いてくれております。

けっして薄ぼんやりとした、影のような、モヤのような存在ではありません。今なおあなた方を愛し、以前よりさらに身近となっている、実体のある男性であり女性なのです」(このあと死後の生活についての質問と答えが続くが、その部分は第二巻の九章ですでに出ているー訳者)

 「私たちが住む霊の世界をよく知っていただけば、私たちをして、こうして地上へ降りてくる気にさせるものは、あなた方のためを思う気持ち以外の何ものでもないことが分っていただけるはずです。素晴らしい光の世界から暗く重苦しい地上へ、一体誰れが好き好んで降りてまいりましょう。

 あなた方はまだ霊の世界の喜びを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐ形を持って眼前に現われる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたにはわかっていただけません。

 肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存じない。そして、なお、死を恐れる。

 〝死〟というと人間は恐怖心を抱きます。が実は人間は死んで初めて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。

なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。しかし一方では私たちの仕事が着々と進められています。霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれば当然暗闇が後退していきます。

 霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなたがたが〝死んだ〟と言って片づけている者の方が実は生命の実相についてはるかに多くを知っております。

  この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。地上の言語のようなぎこちない手段を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。

 金銭の心配がありません。生存競争というものが無いのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは弱者に救いの手を差しのべる力があるという意味だからです。失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それが全てです。

 地球へ近づくにつれて霊は思うことが表現出来なくなります。正直言って私は地上に戻るのはイヤなのです。なのにこうして戻って来るのはそうした約束をしたからであり、地上の啓蒙のために少しでも役立ちたいという気持ちがあるからです。そして、それを支援してくれるあなた方の、私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。

 死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場も無くなっている状態こそ悲劇です。

 死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、果たして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駆け巡り、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。

 地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端たりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の旋律の一節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。

そのうちあなたがたもこちらの世界へ来られます。そしてその素晴しさに驚愕されるでしょう。

 英国は今美しい季節を迎えています。(この交霊会が開かれたのは五月だったー編者)木々は新緑に輝き、花の香が漂い、大自然の恵みがいっぱいです。あなた方は造化の美を見て〝何とすばらしいこと!〟と感嘆します。

 が、その美しさも、霊の世界の美しさに較べれば至ってお粗末な、色褪せた摸作ていどでしかありません。 地上の誰一人見たことのないような花があり色彩があります。その他小鳥もおれば植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれ一つとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。

その内あなた方もその美しさをじっくりと味わえる日が来ます。その時あなたはいわゆる幽霊となっているわけですが、その幽霊になった時こそ真の意味で生きているのです。

 実は今でもあなた方は毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないだけです。それは、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。

肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識を持って見ることが出来ます。その時全ての記憶がよみがえります」


───死んでから低い界へ行った人はどんな具合でしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れたこと───多分低い世界だろうと思いますが、それを思い出すのでしょうか。そしてそれがその人なりに役に立つのでしょうか。

 「低い世界へ引きつけられて行くような人はやはり睡眠中にその低い界を訪れております。が、その時の体験は死後の自覚を得る上では役に立ちません。なぜかというと、その人の目覚める界は地上ときわめてよく似ているからです。

死後の世界は低いところほど地上に似ております。バイブレーションが粗いからです。高くなるほどバイブレーションが細かくなります」


───朝目覚めてから睡眠中の霊界での体験を思い出すことがありますか。

 「睡眠中、あなたは肉体から抜け出ていますから、当然脳から離れています。脳はあなたを物質界に縛りつけるクサリのようなものです。そのクサリから解放されたあなたは、霊格の発達程度に応じたそれぞれの振動の世界で体験を得ます。

その時点ではちゃんと意識して行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその体験は思い出せません。なぜかというと脳があまりに狭いからです。小は大をかねることは出来ません。ムリをすると歪みを生じます。それは譬えば小さな袋の中にムリやりに物を詰め込むようなものです。袋にはおのずから容量というものがあります。

 ムリして詰め込むと、入るに入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生じるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると話は別です。霊界の体験を思い出すよう脳を訓練することが可能になります。

実を言うと私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのです。私は〝地上に戻ったら、かくかくしかじかのことを思い出すんですよ〟と言っておくのですが、どうも思い出して下さらないようです。皆さんお一人お一人にお会いしているのですよ。

そして、あちらこちら霊界を案内して差し上げているんですよ。しかし思い出されなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから。」


───死んでそちらへ行ってから役に立つわけですか。

 「そうです。何一つ無駄にはなりません。神の法則は完璧です。長年霊界で生きてきた私どもは神の法則の完璧さにただただ驚くばかりです。神なんかいるものかといった地上の人間のお粗末なタンカを聞いていると、まったく情けなくなります。知らない人間ほど己の愚かさをさらけ出すのです」


───睡眠中に仕事で霊界へ行くことがありますか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的ですか。
 
 「仕事をしに来る人も中にはおります。それだけの能力を持った人がいるわけです。しかし大ていは死後の準備のためです。物質界で体験を積んだあと霊界でやらなければならない仕事の準備のために、睡眠中にあちこちへ連れて行かれます。そういう準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に長い時間がかかります。

地上時代に霊的知識をあらかじめ知っておくと、こちらへ来てからトクをするというのはその辺に理由があるわけです。ずいぶん長い期間眠ったままの人が大勢います。あらかじめ知識があればすぐに自覚が得られます。ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。

光のまぶしさにまず慣れなければなりません。闇の中にいて光を見ていない人は慣れるのにずいぶん時間がかかります。それは赤ん坊と同じです。はいはいしながら進むような状態です。地上の体験を思い出すことはあっても、大半は夢見るような状態で思い出します。

しかし地上での体験も霊界での体験も、一つとして失われることもありません。そのことを忘れないでください。あらゆる思念、あらゆる行為、あなた方の心から発した善意の願いは、必ずどこかの誰かの役に立ちます。その願いのあるところには必ずそれを支援する霊が引き寄せられるからです」


───霊的知識なしに他界した者でも、こちらからの思いや祈りの念が届くのでしょうか。

 「死後の目覚めは理解力が芽生えた時です。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。その意味でもわれわれは無知と誤解と迷信と誤った教義と神学を無くすべく闘わねばならないのです。

それが霊界での目覚めの妨げになるからです。そうした障害物が取り除かれない限り、魂は少しずつ死後の世界に慣れていくほかはありません。長い長い休息が必要となるのです。

又、地上に病院があるように、魂に深い傷を負った者をこちらで看護してやらねばなりません。反対に人のためによく尽くした人、他界に際して愛情と祈りを受けるような人は、そうした善意の波長を受けて目覚めが促進されます」


───死後の生命を信じず、死ねばお終いと思っている人はどうなりますか。

 「死のうにも死ねないのですから、結局は目覚めてからその事実に直面するほかないわけです。目覚めるまでにどの程度の時間がかかるかは霊格の程度によって違います。つまりどれだけ進化しているか、どれだけ新しい環境に順応できるかにかかっています」


───そういう人、つまり死んだらそれでお終いと思っている人の死には苦痛が伴いますか。

 「それも霊格の程度次第です。一般的に言って死ぬということに苦痛は伴いません。大ていは無意識だからです。死ぬ時の様子が自分で意識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます」


───善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後そのことで何か咎を受けますか。

 「私にはその善人とか悪人とかの意味が分りませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりは有った方がましです。がその人の真価は毎日をどう生きてきたかに尽きます」


───愛する人とは霊界で再会して若返るのでしょうか。イエスは天国では嫁に行くとか嫁を貰うといったことはないと言っておりますが・・・・・・。

 「地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格の程度が同じであれば霊界で再び愛し合うことになりましょう。死は魂にとってはより自由な世界への入口のようなものですから、二人の結びつきは地上より一層強くなります。が二人の男女の結婚が魂の結びつきでなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者に霊格の差がある時は、死と共に両者は離れていきます。

それぞれの界へ引かれていくからです。若返るかというご質問ですが、霊の世界では若返るとか年を取るといったことでなく、成長、進化、発達という形で現われます。つまり形体ではなく魂の問題になるわけです。

イエスが嫁にやったり取ったりしないと言ったのは、地上のような肉体上の結婚のことを言ったのです。男性といい女性といっても、あくまで男性に対する女性であり、女性に対する男性であって、物質の世界ではこの二元の原理で出来上がっておりますが、霊の世界では界を上がるにつれて男女の差が薄れていきます」

───死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪が一ばん多いですか。

 「もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界ではそれがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま他に知られるのです。因果関係がすぐに知れるのです。従って醜い心を抱くと、それがそのまま全体の容貌に現われて、霊格が下がるのが分ります。

そうした罪を地上の言語で説明するのはとても難しく、先ほど言ったように、利己主義の罪と呼ぶよりほかに良い表現が見当たりません」


───死後の世界が地球に比べて実感があり立派な支配者、君主または神の支配する世界であることは分りましたが、こうしたことは昔から地上の人間に啓示されてきたのでしょうか。

 「霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。ただ誤解しないでいただきたいのは、こちらの世界には地上でいうような支配者はおりません。霊界の支配者は自然法則そのものなのです。また地上のように境界線によってどこかで区切られているのではありません。

低い界から徐々に高い界へとつながっており、その間に断絶はなく、宇宙全体が一つに融合しております。霊格が向上するにつれて上へ上へと上昇してまいります」


───地上で孤独な生活を余儀なくされた者は死後も同じような生活を送るのですか。

 「いえ、いえ、そんなことはありません。そういう生活を余儀なくされるのはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来ればまた新たな生活があり、愛する者、縁あるものとの再会もあります」


───シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことが出来るでしょうか。

 「とくに愛着を感じ、慕っている人物には、大抵の場合会うことが出来るでしょう。共感の絆が両者を引き寄せるのです」


───この肉体を棄ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感があるのでしょうか。

 「地上よりはるかに実感があり、しっかりしています。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界の方が実在の世界で、地上はその影なのです。こちらへ来られるまでは本当の実体感は味わっておられません」


───ということは地上の環境が五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊魂には自然に感じられるということですか。

 「だから言ってるでしょう。地上よりもっと実感がある、と。こちらの方が実在なのですから・・・・・。あなたがたはいわば囚人のようなものです。肉体という牢に入れられて、物質という壁で仕切られて、小さな鉄格子の窓から外をのぞいているだけです。地上では本当の自分のホンの一部分しか意識していないのです」


───霊界では意念で通じあうのですか。それとも地上の言語のようなものがあるのですか。

 「意念だけで通じ合えるようになるまでは言語も使われます」


───急死した場合、死後の環境にすぐに慣れるでしょうか。

 「魂の進化の程度によって違います」

───呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのですか。

 「魂に意識のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのがわかります。そして抜け出ると目が開きます。まわりに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐそのまま新しい生活が始まります。魂に意識がない場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所───病院なり休息所なり───に連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます」


───愛し合いながら宗教的因習などで一緒になれなかった人も死後は一緒になれますか。

 「愛をいつまでも妨げることは出来ません」

───肉親や親せきの者とも会えますか。

 「愛が存在すれば会えます。愛がなければ会えません」

───死後の生命は永遠ですか。

 「生命は全て永遠です。生命とはすなわち神であり、神は永遠だからです」

───霊界はたった一つだけですか。

 「霊の世界は一つです。しかしその表現形態は無限です。地球以外の天体にもそれぞれに霊の世界があります。物的表現の裏側には必ず霊的表現があるのです」

───その分布状態は地理的なものですか。

 「地理的なものではありません。精神的発達程度に応じて差が生じているのです。もっとも、ある程度は物的表現形態による影響を受けます」

───ということは、私たち人間の観念でいうところの界層というものもあるということですか。

 「その通りです。物質的条件によって影響される段階を超えるまでは人間が考えるような〝地域〟とか〝層〟が存在します(地球に隣接した幽界の下層界のことー訳者」」

───各界層が地球や太陽や惑星を取り巻いているのでしょうか。

 「取り巻いているのではありません。地理的に分けられているのではありません。球体つまり天体のような形で存在しているのでもありません。宇宙という大きな広がりの中の一部としての生活の場を構成しているのです。

宇宙にはあらゆる次元の生活の場があって互いに重なり合い融合し合っています。あなた方はそのうちの幾つかを知られたわけですが、まだまだご存知ない世界がたくさんあります。地上の天文学で知られていない生活が営まれている惑星が他にいくつもあります」


───各界を構成している成分は地球のようにマテリアルなものですか。(material には〝物質的〟〝実質的〟〝実体のある〟等々さまざまな意味があり、それを観念的に理解していただくために敢えて訳さずにおいたー訳者)

 「私という存在はマテリアルでしょうか。男女の愛はマテリアルでしょうか。芸術家のインスピレーションはマテリアルでしょうか。音楽の鑑賞力はマテリアルでしょうか。こうした質問に対する答えはマテリアルという言葉の意味によって違ってきます。

あなたのおっしゃるのが実感があるのか、実体があるのかという意味でしたら答えは〝イエス〟です。なぜなら霊こそ生命の実在そのものであり、あなた方が物質と呼んでいるもの、すなわち物質の世界はその実在を包んでいる殻にすぎません」


───霊界も地球の電磁場あるいは重力場の影響を受けて地球や太陽と運動を共にしているのでしょうか。

 「私たちの世界は地球の回転の影響は受けません。昼と夜の区別がないのです。エネルギーも地球に生命を賦与している太陽から受けているのではありません。引力は物質だけが受けるのであって、霊的なものは影響を受けません。霊的な法則とは関係がありません」


───霊の動く速さに限界がありますか。

 「私たちスピリットの動きに時間・空間による制約はありません。霊界生活に慣れてくるとまったく制約をうけなくなります。この地球のどの地域でも思念の速さで行き着くことができます。思念が私たちにとって現実の存在なのです。ただし、霊的発達段階による制約は受けます。

その段階を超えたことはできません。霊的成長によって到達した段階より速く動くことはできません。それがその霊にとっての限界ということです。ともあれ、霊的生活での霊自身による制約に過ぎません」(地上のように外的条件による制約はないということ―訳者)


───生命の住む天体には必ず霊界もあるのでしょうか。

 「あなた方が霊界と呼んでいるものも宇宙の霊的側面にすぎません。宇宙はあらゆる界層のあらゆる生命を包含します」
      

Monday, April 27, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄

第2部 本論




6章 物質化現象

心霊現象の中でも取りわけ興味深いのは、言うまでもなく霊がその姿を見せる現象であろう。が、これも、これから紹介する一問一答による解説によって、少しも超自然的なものではないことが分かる。複数の霊による回答をまず紹介しよう。


――霊は自分の姿を人間に見せることができるものですか。


「できます。とくに睡眠中が多いです。覚醒中でも見ることができる人がいます。睡眠中ほど頻繁ではありませんが……」


編者注――肉体が休息すると霊は物的束縛から解放されて自由の身となり、霊姿を見たり霊と語り合ったりする。夢はその間の記憶の残像にすぎない(章末の訳注参照)。何も思い出さない時は睡眠中に何もなかったかに思うが、実際には霊眼でいろいろなものを見たり聞いたりして自由を楽しんでいる。が、本章では覚醒中のことに限ることにする。


――霊姿を見せるのは特殊な界層の霊に限られているのでしょうか。


「そんなことはありません。低界層から高級界までのありとあらゆる界層の霊が姿を見せることができます。」


――すべての霊が自分の姿を人間の視覚に映じさせる力を有しているということでしょうか。


「その通りです。ただし、そうする許しが得られるかどうかの問題と、そうしたいと思うかどうかの問題があります。」


――姿を見せる場合、その目的は何なのでしょうか。


「それはその霊によって違ってきます。正当な目的の場合と、良からぬ目的の場合とがあります。」


――え? 良からぬ目的の場合でも許されることがあるとおっしゃるのですか。


「その通りです。その場合は“幽霊”に出られた人間にとっての試練として出現が許されています。霊の意図は良くなくても結果として当人にはプラスになります。」


――良からぬ意図とはどんなことでしょう?


「怖がらせてやろうとか、時には復讐の場合もあるでしょう。」


――正当な意図とは?


「他界したことを悲しみ続けている者を慰めてやること、つまり、ちゃんと生き続けていて、いつも自分がそばにいることを知らせてやること。悩みごとの相談にのってやりたいということもあります。時には逆に自分のことで頼みごとをする場合もあります。」


――いつでもどこでも霊の姿が見えるようになったと仮定した場合、人間生活に何か不都合が生じるでしょうか。どんなに疑い深い人間も死後の生命存続の事実を疑わなくなると思うのですが……。


「霊はいつでもどこにでも存在するわけですから、それがもし見えるようになったら何かとやりにくいであろうし、やる気が無くなるであろうし、自由闊達な動きができなくなるでしょう。人間は誰からも見られていない方が思うような行動が取れるのです。

疑い深い人間のことですが、たとえ見ても信じない者は信じません。何かの幻影でも見ていると考えます。あなた方がそういう人間のことで心を痛めるには及びません。大霊が良きに計らってくださいます。」


――霊の姿が見えると不都合が生じるというのなら、なぜ姿を見せることがあるのでしょうか。


「それは、人間が肉体の死とともに無に帰するのでなく、死後も個性をたずさえて存続していることを証明するためです。そうした数少ない目撃者の証言で十分であり、霊に取り囲まれて気の休まることがないという不便も生じません。」


――地球より進化した天体上では霊との関係は頻繁に行われているのでしょうか。


「霊性が高まるほど霊との意識的交信が容易になります。霊的存在との交わりを困難にしているのは、その物的身体です。」


――いわゆる幽霊を見て人間が怖がることをそちらから見てどう思われますか。


「霊がいかなるものであれ、生身の人間より危険性が少ないことは、少し考えれば分かりそうなものです。霊はどこにでもいます。あなたのすぐそばにもいます。見える見えないには関係ないのです。何か悪さをしようと思えば、別に姿を見せなくてもできますし、むしろ見られない方が確実性があるくらいです。

霊だから危険性があるのではありません。危険性があるとすれば、それは人間の考えに働きかけて密かに影響力を行使し、正しい道を踏みはずさせて悪の道に誘い込むことができることです。」


――霊が姿を見せた時、その霊と対話をしてもいいのでしょうか。


「もちろん結構です。と言うより、ぜひとも対話をすべきです。名前は何と言うのか、何の用事なのか、何か役に立つことがあれば言ってみるように、といったことを問いかけてみることです。辛いこと苦しいことがあるのであれば、それを聞き出して、力になってあげることができますし、逆に高級な霊であれば、何かいいアドバイスを授けるために出現したのかも知れません。」


――そういう場合、霊はどういう方法で対話をするのでしょうか。


「生身の人間のようにはっきりとした言葉で語る場合もありますが、以心伝心(テレパシー)で行う場合が多いです。」


――翼の付いた姿で現れることがありますが、実際に付いているのでしょうか。それとも、ただのシンボルなのでしょうか。


「霊に翼はありません。必要ないからです。霊はどこへでも瞬時に移動できます。ただ、霊が姿を見せる場合には何らかの目的があり、それを効果的に演出するために外見にいろいろな装いをすることがあります。目立たない装いをすることもあれば、優雅な掛け布で身を包むこともあり、翼を付けることもあります。それが霊格の象徴である場合もあります。」


――夢の中に出てくる人物はその容貌どおりの人物と見てよろしいでしょうか。


「あなたの霊眼で見た通りの人物と思ってまず間違いないでしょう。」


――低級霊が生前親しかった誰かの容貌を装って、堕落の道へ誘うということは考えられませんか。


「低級霊でも途方もない容貌を装うことができますし、騙して喜ぶ者がいることも事実ですが、彼らのすることにもおのずから限度があり、やろうにもやらせてもらえないことがあるものです。」


――思念が霊を呼び寄せることは理解できますが、ならばなぜ一心に会いたいと思っている人が出現せずに、関心のない人、思ってもいなかった人が出現することが多いのでしょうか。


「そちらでいくら会いたいと念じても、霊によっては姿を見せる力を持ち合わせないことがあります。その霊の意志ではどうにもならない何らかの要因があって、夢にさえ出現できないのです。それが試練である場合もあります。いかに強烈な意念をもってしても免れることのできない試練です。

関心のない人、思ってもいなかった人とおっしゃいますが、そちらで関心はなくてもこちらに関心がある場合があります。さらに、あなた方には霊の世界の事情がお分かりにならないので無理もありませんが、睡眠中に昔の人や最近他界したばかりの人を含めて、実に多くの霊に会っているのです。それが目覚めてから思い出せないだけです。」


――ある種の情景が病気中に見えることが多いのはなぜでしょうか。


「健康な時でも見えることがありますが、病気の状態では物的な束縛が緩(ゆる)み、霊の自由の度合が増すために、霊との交信がしやすくなることは確かです。」


――幽霊が出たという話がよく聞かれる国とそうでない国とがあります。民族によって能力が違うのでしょうか。


「幽霊とか不思議な音といった現象は地球上どこででも同じように生じます。が、現象によってはその民族の特徴が反映するものがあります。例えば識字率の低い国では自動書記霊媒はあまり輩出しません。従ってそういう国では知的な通信よりもハデな現象の方が多く発生することになります。知的で高尚なものを有り難がりませんし、求められることもないからです。」


――幽霊が大てい夜に出現するのはなぜでしょうか。静けさや暗さが何か想像力に影響を及ぼすからでしょうか。


「それは星が夜の方がよく見えて昼間は見えないのと同じです。昼間の太陽の光がうっすらとした霊の姿をかき消してしまうから見えないまでです。“夜”という時間帯に特別の意味があるかに考えるのは間違いです。幽霊を見たという人の話を総合してみられるとよろしい。大半が昼間に見ているはずです。」


――霊の姿が見えるのは普通の状態の時でしょうか、それとも特殊な状態の時でしょうか。


「まったく普通の状態でも見えますが、トランス(入神)状態に近い特殊な状態にある時の方が多いです。霊視力が働くからです。」


――霊を見たと言う人は肉眼で見ているのでしょうか。


「自分ではそう思うでしょう。が、実際は霊視力で見ています。目を閉じても見えるはずです。」


――霊が自分の姿を見せるにはどんなことをするのでしょうか。


「他の物理現象と同じです。自分の意念の作用で流動体の中からある成分を抜き取り、さまざまな工夫を凝らして使用します。」


――霊そのものを見せることはできないのでしょうか。流動体(エクトプラズム)をまとわないと見えないのでしょうか。


「肉体をまとっているあなた方人間に対しては、半物質体の流動エネルギーの助けを借りないと見えません。流動体は物的感覚に訴えるための媒介物です。夢の中にせよ覚醒時にせよ、白昼にせよ暗闇の中にせよ、見えている姿はその流動体で形態を整えたものです。」


――それは流動体を凝縮して使うのですか。


「凝縮という用語はおよその概念を伝える上での類似語ていどのもので、正確ではありません。別に凝縮させるわけではありません。流動体を幾種類か集めて化合させると、特殊な合成物ができます。これが人間の目に映じるようにするのですが、地上にはこれに類するものは存在しません。」


――その霊姿は手で触ることができますか。例えば腕をつかむことができますか。


「通常はできません。影がつかめないのと同じです。が、人間の手に感触が残る程度にすることはできます。さらには、少しの間に限られますが、しっかりとした肉体と同じ程度にすることもできます。そんな時は合成物質(エクトプラズム)と肉体との間に共通したものがあることの証拠と言えます。」


――人間は本来、霊の姿が見えるようにでき上がっているのでしょうか。


「睡眠中(肉体からの離脱中)はそうです。覚醒中は誰でもというわけではありません。睡眠中はさきほど述べた媒介物がなくても見えます。覚醒中は多かれ少なかれ肉体という器官によって制約されています。睡眠中と覚醒中とでは必ずしも同じでないのは、そういう事情によります。」


――覚醒中に霊が見える、そのメカニズムはどうなっているのでしょうか。


「その人間の肉体という有機体の特質、およびその人が有する流動エネルギーが霊の流動エネルギーと合体しやすいか否かに掛かっています。霊が姿を見せてやりたいと思うだけではダメです。見せてやりたい人間にそういう適性があることを見極める必要があるわけです。」


――そういう能力は訓練によって発揮できるようになるものでしょうか。


「他のすべての能力と同じように、訓練しだいで発揮できます。ですが、なるべくなら自然な発達を待つ方がよい部類に属します。発揮しようとする意欲が強すぎると想像力をかき立てて妄想を生む恐れがあります。霊視力を日常的にいつでも使用できるほどの人は例外に属し、人類の通常の状態では霊視力は働きません。」


――人間の側から霊に向かって出現を要請することは可能でしょうか。


「不可能というわけではありませんが、稀です。霊は必ずといってよいほど自分の方から出現します。権威をもって呼び出すには余ほど特殊な霊的資質をそなえていなければなりません。」(ここでいう“霊”とは“高級霊”のことである。日本の霊界通信には神名を名のる霊からのものが多いが、神格をそなえた高級霊が“自分は神である”などと宣(のたま)うわけがない――訳注)


――人間の容姿以外の形態で出現することはできますか。


「人間の容姿が普通です。人間の容姿をいろいろに装うことはできますが、基本的には常に人間的形態をしています。」


――炎の形態で出現できませんか。


「存在を示すために炎や光をこしらえることはできます。どんな形態でも装うことができるのですから。が、それがすなわち霊そのものと思ってはいけません。炎は流動エネルギーの放射体、いわば幻像にすぎないことがよくあります。それも流動体のごく一部です。どのみち、流動体の現象は一時的な映像の域を出ません。」


――“鬼火”とか“キツネ火”とか呼ばれているものが魂または霊の仕業だという説がありますが、いかがでしょうか。


「ただの迷信にすぎません。無知の産物と言ってもよいでしょう。鬼火が発生する原因はすでに明らかになっているはずです。」(燐と水素が化合して発する青白い炎――訳注)


――霊が動物の形態を装うことはできますか。


「それはできないことではありません。が、そんなことをしてどうするのでしょう? それは余ほど低級な霊のすることです。また、たとえ装っても一時的なものです。本物の動物が霊の化身であるかに信じる愚か者はいないでしょう。動物はあくまでも動物で、それ以上のものではありません。」


――見えたものが幻影・幻覚であることがありますか。たとえば夢か何かで悪魔を見た場合、それは想像上の産物ではないでしょうか。


「そういうことは時おり有り得ます。たとえば強烈な印象を与える物語を読んで、それが記憶に残っていて、精神的に興奮している場合です。そういうものは実在しないのだという理解がいくまで、それが幻覚として見えることがあります。

しかし、前にも述べたことですが、霊は半物質の流動体を使用してどんなものでもどんな形態のものでもこしらえることができます。ですから、イタズラ霊が信じやすい人間をからかうために角(つの)を生やしたり巨大な爪を見せたりすることもできます。さきほども述べた、高級霊が翼をつけたり光輝を放つ容貌を見せたりするのと同じです。」


――半睡半夢の状態において、あるいは目を閉じた瞬間などに顔とかイメージが見えることがありますが、あれも幻覚でしょうか。


「感覚が空(うつ)ろになると霊的感覚が働きやすくなって、肉眼では見えないものが、遠近に関係なく見えるようになります。その時に映じるイメージは往々にして幻覚である場合もありますが、かつて見たある対象物が、音がしばらく耳に残るように、脳に残像を印象づけていて、それが見えることがあります。

霊は、肉体の束縛から解放されると、ちょうど写真のネガに写った影像のように脳に印象づけられたものを見ることがあります。その時、断片的でバラバラになっているものを一つのまとまったものに構成しようとします。それは他愛もない空想的なもので、次の瞬間には、もう少しよく見たいと思っても、崩れていきます。病気の時などによく見る、まったく現実味のない、奇っ怪な幻像もみな、そうした原因から生じていると考えて間違いありません。」


訳注――本章の最初の応答のあとのカルデックの“編者注”の中に「夢というのは睡眠中に霊の目で見たものの記憶の残影にすぎない」という一文があるが、この文章だけでは誤解を生じやすい。上の最後の応答の一節が夢そのものの絶好の説明にもなっているように思う。「病気の時などによく見る……」というのを「病気の時や睡眠中によく見る……」と書き換えてもよいほどである。

夢については心理学や精神医学や精神分析学などでもいろいろと説かれているが、こじつけや乱暴な説ばかりで、これまで納得のいくものに出会ったことがなかった。そして上の一節ですっきりとした気持ちになった。私の体験からもその通りだと思う。

自我のことを“統一原理”と呼んでいる通信があるが、上の回答で「断片的でバラバラになっているものを一つのまとまったものに構成しようとします。それは他愛もない空想的なもので、次の瞬間には、もう少しよく見たいと思っても崩れていきます」とあるのは、霊が物的身体から遊離していて、長年にわたる脳を中枢とした感覚に慣れているために、統一原理としての役目が果たせないのである。

結論としては、本章の最初の“編者注”と最後の回答とを併せて一つにすれば“睡眠中は何をしているのか”“夢とは何なのか”といった千古の疑問への完全な回答となるのではなかろうか。
oooo

シルバーバーチの霊訓(四)

 Silver Birch Anthology 

 Edited by William Naylor



四章 シルバーバーチ霊団の使命

 自分自身についての単純・素朴な真理───これを本当に理解している人が何と少ないことであろう。ところがその自分みずからを知らない人間がとかく他人のことについては、あたかも深い洞察力を持っている人間であるかのような口を利くものである。

曰く───〝あいつも、もうそろそろ気づいてもよさそうなものだが・・・〟〝いつになったら目が覚めるのだろう〟〝あの人がもし側から見られるように自分で自分を見つめることが出来たら、さぞかし・・・〟等々。他人についての単純な真理を表現したこうした言葉はよく耳にするが、それを口にする本人も自分自身についてはとかく何も知らないものである。

 こうした中にあって、古来、その霊性の高さと教説の崇高さにおいて際立ったものを見せる存在がいる。人間それ自身についての彼らの説くところには永遠の真実味がある。

 ソクラテスがそれであり、イエスがそれであり、そしてこのシルバーバーチがそれである。ロンドンの霊媒(バーバネル)の言語機能を借りて語る、三千年前に地上を去ったという古代霊シルバーバーチは、交霊現象にまつわるあらゆる障壁を乗り越えて、しかも稀れに見る言語感覚の冴えをさりげなく発揮しながら、こう語る。

 「私にできることは永遠・不変の宇宙の原理・原則を指摘することだけです。地上世界のことがすべて探求しつくされ、説明しつくされ、理解されつくしたあとに、なおかつ誰一人として完全に究めることも説明することも出来ない永遠の摂理があります。それは構想においても適応性においても無限です。

人間のすべてが、日々決断を迫られる問題に直面した時に、自分が霊的存在であること、大切なのは物的なもの───それはそれなりに存在意義はあっても───ではなくて、それがあなたの本性、永遠の霊的本性に与える霊的な意義であることを自覚することができるようになれば、どれだけ素晴らしいことでしょう。

 物的なものはいずれ朽ち果て、元のチリに帰ります。野心、欲望、富の蓄積、こうしたものは何の役にも立ちません。所詮はあなた方も霊的存在なのです。真の富はその本性に宿されているものだけであって、それ以上ではありえませんし、それ以下でもありえません。

そのことを生涯を通じて悟っていかなくてはいけません。それを悟った時、あなたは真の自分を見出したことになり、自分を見出したということは神を見出したということになり、そうなった時のあなたこそ真の意味での賢者と言えるのです。

 私の目には、あれこれと〝大事なこと〟があって毎日あっちへ走りこっちへ走りして、忙しく暮らしながらその実〝一番大事なこと〟を見落とし、なおざりにしているために、心が絶望的でヤケになっている大勢の人々の姿が見えます。このあたりに私どもが説く教えの核心があるのですが、お判りになりますか。

その人たちが日々の生活の中に生きるよろこび───神の子として当然味わうべき充足感を見出してくれるようにと願って霊界から舞い戻ってくるそもそもの目的がそこにあることが判っていただけるでしょうか。

 それはいわゆる宗教、教会、信条、教義といったものより大切です。人類を分裂させ戦争と混沌と騒乱の原因となってきた、その類のもののいずれにもまして大切です。が、それは自分という存在についての(霊的存在であるという)至って単純な事実に過ぎないのです。なのに、それを悟っているのはごく僅かな人たちだけで、大多数の人は知らずにおります」

 さて、こうした霊的啓示をわれわれは、たまたま良い霊媒がいたから得られた、気紛れで無計画なものと受け止めがちである。が、シルバーバーチがこれから明かすように、その背後では幾重にも組織された霊団によって、遠大な計画のもとに推進されている。

(訳者注───シルバーバーチに限っていえば霊媒のバーバネルが誕生する以前から計画を立て英語の習得や心霊現象の研究と準備を重ねてきたというが、同じことが各国・各民族において太古よりそれ独自の形で推進されてきており、これから先には本格的なものが計画されていることであろう。地上人類は言わばケンカや遊びから学ぶ幼児期を終えて、やっと本格的な霊的真理を学ぶ時代に入りつつある───そんな程度の段階にあるのではなかろうか)


 シルバーバーチはこう語っている。
 「私たち霊団の使命はれっきとした目的ないし意義を持つ証拠を提供し、それによって心霊的法則というものが存在することを立証する一方、生きる喜びと霊的教訓を授けるということです。物理的法則を超えた別の次元の法則の存在を証明するだけでなく、霊についての真理を啓示するということです。

 そうした使命を持つ私たちには、真っ向から立ち向かわねばならない巨大な虚偽の組織が存在します。過去幾世紀にもわたって積み重ねられてきた誤りを改めなければなりません。人間が勝手にこしらえた教義を基盤として築き上げられてきた虚飾の大機構を解体しなくてはなりません。

 私たちの努力は常に、物質界の神の子等にいかにして魂の自由を見出し、いかにして霊的真理の陽光を浴び、いかにして教義の奴隷となっている状態から脱け出るかをお教えすることに向けられております。これは容易な仕事ではありません。

なぜなら、いったん宗教という名の足枷をはめられたが最期、迷信という名の厚い壁をつき破って霊的真理が滲透するには永い永い年月を要するからです。

 私たちは霊的真理の宗教的意義をたゆまず説き続けます。その霊的な重要性に目覚めれば、戦争と流血による革命よりはるかに強烈な革命が地上世界にもたらされるからです。

 それは魂の革命です。その暁には世界中の人々が受けて当たりまえのもの───霊的存在としてのさまざまな自由を満喫する権利を我が物とすることでしょう。」


 私たちが忠誠を捧げるのは教義でもなく書物でもなく教会でもありません。宇宙の大霊すなわち神とその永遠不変の摂理です。

 いずれ地上世界に強力な霊の力が注がれます。世界各地において霊的勢力の働きかけが認識されるようになります。これまで蔓延(はびこ)ってきた利己主義と無知に歯止めをかけるための大きな仕事があるからです。それはいつか必ず成就されます。が、その途中の段階においては大きな産みの痛みを味わわなくてはならないでしょう。

 その仕事を支援せんとして私どもの世界から大ぜいのスピリットが馳せ参じております。あなた方の顔見知りの人、血のつながりのある人もいれば、愛のつながりによって引かれて来る人もいます。

背後霊というとあなた方はすぐに顔見知りの名前を思い浮かべがちですが、一方にはまったくあなた方の知らない人たちで、ただ自分の力を役立てることにのみ喜びを覚えて援助してくれている人たちがいることも、どうか忘れないでください。

 聖書にはサウロ(のちのパウロ)がダマスカスへ行く途中、天からの光に包まれ、目が眩んで倒れ、それがきっかけで改心する話がありますが(使徒行伝9・3、22・6)世の中はそんな具合に一気に改まるものではありません。

一人ずつ霊的真理に目覚め、一人ずつ神の道具となっていくという形で、少しずつ光明が広がっていくのです。霊的なものは大事に育て慎重に広めていく必要があることを銘記しなければなりません。急激な改心はえてして永続きしないものです。私たちの仕事は永続性が生命です。

 一個の魂が神の道具となった時、一個の魂が暗闇から光明へ、無知から知識へ、迷信から真実へと目覚めたとき、その魂は世界の進歩に貢献していることになります。 なぜなら、その一人ひとりが言わば物質万能主義の棺に打ち込まれるクギのようなものだからです。

 発達にも二つの種類があることを知ってください。霊そのものの発達と、霊が使用する媒体(※)の発達です。

前者は魂そのものの進化であり、後者は単なる心霊的能力の開発にすぎません。霊的進化を伴わない心霊能力だけの発達では低い次元のバイブレーションしか出ません。両者が相携えて発達したとき、その人は偉大な霊能者であると同時に偉大な人物であることになります。

(※その働きを普段われわれは精神あるいは潜在意識として捉えている。この中にいわゆる超能力が宿されている。シルバーバーチは別のところでそれがいずれは人類の当たり前の能力として日常茶番に使用されることになると述べているが、ここでは、それがすなわち人格の向上を意味するものでないことを指摘し、超能力者だからといってすぐに崇めたがる風潮を戒めている。訳者)

 私たちが携えてくるメッセージは地上人類にとって実に素晴らしい恩恵をもたらします。魂を解放し、神からの遺産(神的属性)の素晴らしさに目を開かせます。あらゆる足枷と束縛を棄てるように教えます。霊的真理の本当の有難さを教えます。

物的生活の生き方と同時に霊的生活の生き方も教えています。美と愛と叡智と理解力と真理と幸福をもたらします。人のために、ひたすら人のために、と説くメッセージです。

 ところが、そのメッセージを携えてくる私たちが、神を正しく理解していない人々、霊の働きかけの存在を信じない人たちによって拒絶されております。それはいつの時代にもよくある話です。

 一方、現在の地上の状態はそうした私たちスピリットの働きかけをますます必要としております。流血につぐ流血、そしてその犠牲になった人々の涙の絶えることがありません。無明ゆえに地上人類は神の摂理に従った生き方をしておりません。暗黒と絶望の道を選択しております。そこで私たちが希望と光明と平和と調和をもたらす知識を携えてきたのです。

無知ゆえに私たちを軽蔑します。私達のメッセージを拒絶します。私たちを背後から導いている強大な力の存在に気づいてくれません。しかし霊的実在を教える大真理は必ずや勝利をおさめます。

 摂理に逆らう者はみずからその苦い実りを刈り取ることになります。摂理に従って生きる者は物的・霊的の両面において豊かな幸せを刈り取ります。

 暗闇が蔓延する地上にあって、どうか希望を失わず、あなた方と共に人類の高揚のために働いている多くの霊、物的世界を改善しようとしている霊の努力は必ず実ることを信じていただきたいのです。その背後に控える霊力は宇宙で最も強力な力だからです。

 価値あるものは苦難と悲哀なしには達成できません。地上は地上なりの教訓の習得方法があるのです。それは避けるわけにいきません。今、霊的勢力が地上全土にわたって活動を開始しつつあり、あらゆる地域の人々に霊的メッセージが届けられ、その心を明るく照らし、その光が広まるにつれて物質万能主義の闇を追い散らしていきます。

 私たちは罰の恐ろしさをチラつかせながら説得することはしません。恐怖心から大人しく生きる、そんな卑屈な臆病者になってほしくはありません。内部に宿る神性を自覚し、それを発揮することによって霊性を高め、一段と崇高な真理と叡知を身につけていただくことを目指しております。

 そのためには、まず、これまでに得たものに不満を抱くようにならなければなりません。なぜなら、今の自分に満足できず、さらに何かを求めようとするところに、より高い知識を得る可能性が生まれるものだからです。満足する人間は進歩が停滞します。満足できない者はさらに大きな自由へ向けて突き進むことになります。

 私たちは決してあなた方に〝理知的に難しく考えず、ただ信じなさい〟とは申しません。逆に〝神から授かった理性を存分に駆使して私たちを試しなさい。徹底的に吟味しなさい。その結果もし私たちが述べることの中に低俗なこと、邪険なこと、道義に反することがあると思われたら、どうぞ拒絶してください〟と申し上げております。

(訳者注ーシルバーバーチがそう述べる時、自分の訓えを押し付けるつもりはないという態度の表明であると同時に、次のような事実を踏まえていることも指摘しておきたい。それは、シルバーバーチの名が広まるにつれてその名を騙(かた)る霊が出没していることである。

これは霊媒のバーバネルの在世中にもあったが、他界後も世界各地であるようである。シルバーバーチは自分が霊媒とは別個の存在であることを証明するために他の霊媒、たとえばロバーツ女史を通してバーバネル夫妻に語ったことはあるが、それもそう約束した上でのことだった。そういう事実を踏まえて、だから、変だと思われたら遠慮なく拒絶してくださいと言うことにもなった。)
 
 私たちはひたすらあなた方に〝より高潔な生活〟自己犠牲と理想主義を志向する生活を説いております。もしそれをお認めいただければ、それは私たちの訓えの中身に神の極印が押されていることを証明するものと言えましょう。

 たった一個の魂でも目覚めさせることができれば、悲嘆に暮れる者をたった一人でも慰めてあげることができれば、怖じ気づいた人の心を奮い立たせ人生に疲れた人に生きる勇気を与えることが出来れば、それだけでも努力の甲斐があったことにならないでしょうか。

 私たちのメッセージを耳にして心に動揺を来し、困惑し、分けが分らなくなりながらも、先入主的信仰によって身動きが取れずにいる人が大ぜいおります。しかしその人たちも、牢獄に閉じ込められた魂へ向けて呼びかける自由の声を耳にして煩悶しています。

 そういう人たちにこそ、私たちのメッセージを届けてあげるべきです。思いも寄らなかったものが存在することを知ってそれを必死に求めようとする、そのきっかけとなります。真理とはすべて踏み石の一つに過ぎません。

 この霊媒の口をついて出る言葉にもしもあなた方の理性に反撥を覚えさせるもの、神の愛の概念と矛盾するもの、愚かしく思えるもの、あなたの知性を侮辱するものがあるとすれば、それは、もはや私の出る幕ではなくなったことを意味します。私の時代は終わったことになります。

 この交霊会もこれまで数え切れないほど催されておりますが、その間私が魂の崇高なる願望と相容れないものを述べたことは、ただの一度もないと確信しております。私たちは常にあなた方の魂の最高の意識に訴えているからです。

 地球人類は地球人類なりに、みずからの力で救済手段を講じなくてはなりません。出来合いの手段はないのです。前もって用意されたお決まりの救済手段というものはないのです。

そのためにはこれが生命現象だと思い込んでいる自然界の裏側に目に見えない霊的実在があること、そして物質界に生活している人間は物的存在であると同時に霊的存在であり、物的身体を通して自我を表現しているという事実をまず理解しなくてはなりません。

 物的身体は、神の意図された通りに、生活上の必需品をきちんと揃えることによって常に完全な健康状態に保たねばなりません。一方、霊はあらゆるドグマと信条による足枷から解放されねばなりません。

そうすることによって実質的価値、つまり霊的に見て意味のないものに忠誠を捧げることなく、真実なるもののためにのみ精を出すことになり、過去幾千年にもわたって束縛してきた信条やドグマをめぐっての戦争、仲違い、闘争を無くすことが出来ます。


 私たちは神を共通の親とする全民族の霊的同胞性を福音として説いております。その理解を妨げるものは地上的概念であり、虚偽の上に立てられた教会であり、特権の横領(※)であり、卑劣な圧制者の高慢と権力です。

(※宗教組織の発達に伴って内部において権力の構造が生まれる。それは人間的産物にすぎないが、それを宇宙の絶対者から授かったものと錯覚し主張しはじめる。それを〝横領〟と表現したのであるー訳者)

 私たちの霊訓が理解されていくにつれて地上の民族間の離反性が消えていくことでしょう。各国間の障壁が取り除かれていくことでしょう。民族的優劣の差、階級の差、肌色の違い、さらには教会や礼拝堂や寺院どうしの区別も無くなることでしょう。

それは、宗教には絶対的宗教というものはなく世界の宗教の一つひとつが宇宙の真理の一部を包蔵しており、自分の宗教にとって貴重この上ない真理が他の宗教の説く真理と少しも矛盾するものでないことを理解するように成るからです。

 そうしていくうちに、表面上の混乱の中から神の意図(プラン)が少しずつ具体化し、調和と平和が訪れます。こう申し上げるのも、あなた方にその神のプランの一部───私たちが霊の世界から携わり皆さんの一人ひとりが地上において果たさなければならない役割を正しく理解していただくためです。

 私たちが説いていることは曽て人類の進歩のために地上へ降りた各時代の革命家、聖者、霊格者、理想主義者たちの説いたことと少しも矛盾するものではありません。彼らは霊的に偉大な人物でしたから、その霊眼によって死後の生命を予見し、その美しさが魂の支えとなって、あらゆる逆境と闘争を克服することが出来たのでした。

彼らは地上世界にいずれ実現される神のプランを読み取り、その日のために物質界の子等の魂を高揚させるべく一身を擲(なげう)ったのでした。

 彼らも悪しざまに言われました。援助の手を差しのべんとしたその相手から反駁(ハンパク)され嘲笑されました。しかしその仕事は生き続けました。それはちょうど、今日世界各地の小さな部屋で行われている、このサークルのような交霊会の仕事が、そのメンバーの名が忘れ去られたのちも末永く生き続けるのと同じです。

強大な霊の力が再び地上世界へ注ぎ込まれ始めたのです。いかなる地上の勢力を持ってしてもその潮流をせき止めることはできません。

 人間は問題が生じるとすぐ流血の手段でカタをつけようとします。が、そんな方法で問題が解決したためしはありません。流血には何の効用もありませんし、従って何の解決にもなりません。

なぜ神から授かった理性が使えないのでしょう。なぜ相手をできるだけ大ぜい殺すこと以外に、解決法が思いつかないのでしょう。なぜ一ばん多くの敵を殺した者が英雄となるのでしょう。地上というところは実に奇妙な世界です。

 地上にはぜひ私たちのメッセージが必要です。霊のメッセージ、霊的真理の理解、自分の心の内と外の双方に霊的法則と導きがあるという事実を知る必要があります。そうと知れば、迷った時の慰めと導きと援助をいずこに求めるべきかが判るでしょう。

 こうした仕事において私たちは、自分自身のことは何一つ求めていません。栄光を求めているのではありません。地上の人たちのために役立てばという、その願いがあるだけです。

永い間忘れられてきた霊的真理を改めて啓示し、新しい希望と生命とを吹き込んでくれるところの霊的なエネルギーを再発見してくれるようにと願っているだけです。

 今や、これまでの古い規範が廃棄され、あらゆる権威が疑問視され、その支配力が衰えつつある中で人類は戸惑っておりますが、そんな中で私たちは絶対的権威者であるところの宇宙の大霊すなわち神の存在を、けっして機能を停止することも誤ることもない法則という形で啓示しようとしているのです。地上世界がその法則に順応した生活規範を整えていけば、きっと再び平和と調和が支配するようになります。

 そうした仕事は、廃棄された信仰の瓦礫の中にいる人類が不信感と猜疑心からその全部を棄ててしまうことなく、真なるものと偽なるもの、事実と神話とを見分け、永いあいだ人類の勝手な想像的産物の下に埋もれてきた真に価値あるもの、すべての宗教の根底にあるもの、霊についての真理を見出すように指導するという、私ども霊団に課せられた大きな使命の一環なのです。


 霊の力───太古において人類を鼓舞し、洞察力と勇気、同胞のためを思う情熱と願望を与えたその力は、今日においてもすぐ身近に発見できる法則の働きの中に求めようとする心掛け一つで我がものとすることが出来るのです。

 教会の権威、聖典の権威、教理の権威───こうしたものが今ことごとく支配力を失いつつあります。次第に廃棄されつつあります。しかし霊的真理の権威は永遠に生き続けます。私がこうして戻ってくる地上世界は騒乱と混沌に満ちていますが、霊の光が隙間から漏れるようなささやかなものでなしに強力な光輝となって地上全土に行きわたれば、そうしたものは立ちどころに治まることでしょう。

 なぜ人間は光明が得られるのにわざわざ暗闇を求めるのでしょう。なぜ知識が得られるのに無知のままでいたがるのでしょう。叡知が得られるのになぜ迷信にしがみつくのでしょう。生きた霊的真理が得られるのに、なぜ死物と化した古い教義を後生大事にするのでしょう。単純・素朴な霊的叡知の泉があるのに、なぜ複雑怪奇な教学の埃の中で暮らしたがるのでしょう。

 外せるはずの足枷を外そうともせず、自由の身になれるはずなのに奴隷的状態のままでいながら、しかもその自ら選んだ暗闇の中で無益な捜索を続けている魂がいるのです。

思うにそういう人は余りに永い間鎖につながれてきたために、それを外すことに不安を覚えるようになってしまったのでしょう。永いあいだカゴの中で飼われた小鳥は、カゴから放たれた時、果たして飛べるかどうか不安に思うものです。

 足枷を外すまではいいのです。が、外した後に自ら歩むべき道がなくてはなりません。何の道しるべもなくて戸惑うまま放置されるようなことになってはいけません。私たちは彼らの魂の解放を望みますが、その自由が手引きしてくれる方向もよく見きわめてほしいのです。

 永いあいだ束縛の中で生きていると、 やっと自由を得た時に、もう何の指図も受けたくないという気持ちを抱きます。そしてこう言います───〝もう指図を受けるのは御免です。疑問と迷いの年月でした。それを振り棄てた今、私はもう宗教と名のつくものとは一切関わりたくありません〟と。
 
 足枷から解放されて迷いが覚めるとともに、激しい反動が起きることもあります。(たとえば神仏の化身として崇めていた教祖がただの人間に過ぎなかったことを知ってー訳者)

そこで私は、私という一個人、ただのメッセンジャー(使いの者) に過ぎない者に過度の関心を寄せられるのを好まないのです。私はメッセージそのものにすべてを賭けております。地上の人間は余りに永いあいだ教えを説く人物に関心を寄せ過ぎ、超人的地位に祭り上げ、肝心の訓えそのものを忘れてきました。

 私たちの使命はもはやそんな、しょせん人間に過ぎない者を超人的地位に祭り上げることではありません。真理と知識と叡知をお届けするだけです。

私が地上で傑出した指導者であったか、それとも哀れな乞食であったか、そんなことはどうでもよいことです。私の述べていることに真理の刻印が押されていれば、それでよろしい。名前や権威や聖典に訴えようとは思いません。訴えるのはあなた方の理性だけです。

 人間の知性に矛盾を感じさせるようなことは何一つ要求いたしません。人間としての道義に反すること、尊厳に関わること、屈辱感を覚えさせること、人類を軽蔑するようなことは決して説きません。

私たちは全人類の意識を高め、地上における一生命としての位置、宇宙における位置、創造神とのつながり、一つの家族としての地上人類どうしの同胞関係を正しく理解する上で必要な霊的真理を明かそうとしているのです。

 これまでのように何かというと聖典の文句を引用したり、宗教的指導者の名前を持ち出したり、宗教的権威を振りかざしたりすることは致しません。私たちは神から授かっている理性を唯一の拠り所として、それに訴えます。ただ単に聖書に書いてあるからというだけの理由で押し付ける方法は取りません。 理性が反撥を覚えたら拒否なさって結構です。

ただ、よく吟味して下されば、私たちの説くところが霊的存在として最高にして最善の本能に訴えていること、その目標が間違った古い考えを洗い落とし、代わって、後できっと有難く思って下さるはずの大切な真理をお教えすることであることが分っていただけるものと確信します。

地上のいわゆる宗教は真実を基盤とすべきであり、理性の猛攻撃に抗しきれないようなものはすべて廃棄すべきです。

 私たちが霊的真理を説くとき、それは霊的世界の摂理に関わることとしてのみ説いているのではありません。物的世界に関わることでもあるのです。私たちの目から見れば物的世界は神の創造された宇宙の一側面であり、それを無視して、つまり絶望の淵に沈む人類の苦しみに無関心でいて〝宗教的〟ではありえません。

そういう人たちのために援助の手を差しのべる人はすべて偉大なる霊と言えます。真理を普及することのみが人のための仕事ではありません。他にもいろいろあります。

 貧困にあえいでいる人々への物的援助もそうです。病に苦しむ人々の苦痛を取り除いてあげることもそうです。不正と横暴を相手に闘うこともそうです。憎しみ合いの禍根を断ち、人間的煩悩を排除して内奥の霊性に神の意図されたとおりに発現するチャンスを与えてあげる仕事もそうです。


 私が残念に思うのは、本来霊的存在であるところの人間が余りにも霊的なことから遠ざかり、霊的法則の存在を得心させるために私たちスピリットがテーブルを浮揚させたりコツコツと叩いてやらねばならなくなったことです。(巻末〝解説〟参照)

 あなた方も一人の例外もなく神の分霊なのです。ということは、あたかも神があなた方にこう語りかけているようなものです───〝私がすべての法則を用意し、あなた方一人ひとりに私の分霊を授けてあります。宇宙を完全なものにするための道具はすべて用意してあります。

そのすべてを利用することを許しますから、自分にとって良いものと悪いものとをみずから選択しなさい。それを私の定めた法則に順応して活用してもよろしいし、無視してもよろしい〟と。

 そこで神の子等はそれぞれ好きなように選択してきました。しかし他方において、霊界から地上の経綸に当たっている者は神の計画を推進するために、地上において間違いなく神の御心に感応出来る人材を送り込まねばならないのです。

地上の神の子等はこれまで大きく脇道に外れてしまったために霊的なことにすっかり無関心となり、物的なことしか理解できなくなっております。

 しかし冷たい冬の風が吹きまくった後には必ず春の新しい生命が芽生えるものです。地面に雪が積もり、すべてが寒々とした感じを与える時は、春の喜びは分かりません。が春はきっと訪れるのです。そして生命の太陽はゆっくりと天界を回って、いつかは生命の壮観がその極に達する時が参ります。

 今、地上全体を不満の暗雲がおおっています。が、その暗雲を払いのけて夢を抱かせる春、そしてそれを成就させる夏がきっと訪れます。その時期を速めるのも遅らせるのも、あなた方神の子の自由意志の使い方一つに掛かっております。

 一人の人間が他の一人を救おうと努力する時、その背後に数多くのスピリットが群がり寄って、その気高い心を何倍にも膨らませようと努めます。善行の努力が無駄にされることは絶対にありません。奉仕の精神も決して無駄に終わらせることはありません。

誰かが先頭に立って藪を開き、後に続く者が少しでもラクに通れるようにしてあげなければなりません。やがて道らしい道が出来上がり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。
 
 高級神霊界の神が目にいっぱい涙を浮かべて悲しんでおられる姿を時おり見かけます。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが踏みにじられていく人間の愚行を見て、いつかはその愚かに目覚める日が来ることを祈りつつ眺めているのです。

そうかと思うと、うれしさに顔を思い切りほころばせておられるのを見かけることもあります。無名の平凡な人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。

 私はすぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志と共に波長を物質界に近づけて降りてまいりました。その目的は神の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受けることが出来ることを教えてあげたいと思ったのです。

 物質界に降りてくるのは、正直言ってあまり楽しいものではありません。光も無く活気も無く、うっとうしくて単調で生命力に欠けています。たとえてみれば弾力性のなくなったヨレヨレのクッションのような感じで、何もかもがだらしなく感じられます。

どこもかしこも陰気でいけません。したがって当然、生きる喜びに溢れている人はほとんど見当たらず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。

 私が住む世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心は真に生きるよろこびが漲り、適材適所の仕事に忙しくたずさわり、奉仕の精神にあふれ、お互いに自分のたらざるところを補い合い、充実感と生命力とよろこびと輝きに満ちた世界です。

 それにひきかえ、この地上に見る世界は幸せがあるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たさるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょう。

神は必要なものはすべて用意して下さっているのです。問題はその公平な分配を妨げる者がいるということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。

 それを取り除いてくれと言われても、それは私どもには許されないのです。私どもにできるのは物質に包まれたあなた方に神の摂理を訓え、どうすればその摂理が正しくあなた方を通じて運用されるかを教えて差し上げるだけです。今日ここにいらっしゃる方にはぜひ、霊的真理を知ればこんなに幸せになれるのだということを身を持って示していただきたいのです。

 もしも私の努力によって神の摂理とその働きの一端でも教えて差し上げることができたら、これにすぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことができれば、こうして地上に降りてきた苦労の一端が報われたことになりましょう。

私たちの霊団は決して本来あなた方人間が果たすべき義務を肩代わりしようとするのではありません。なるほど神の摂理が働いているということを身を持って悟っていただける生き方をお教えしようとしているだけです。
 
 そう言うとある人はこんなことを言います───〝おっしゃる通りです。だから私たちも施しをします。が、施しを受ける者はまず神に感謝しなければいけません〟と。施しをしたあと、その相手がそのことを神に感謝しようがすまいが、そんなことはどうでも良いことではないでしょうか。

お腹を空かした人がいれば食べ物を与えてあげる───それだけで良いではありませんか。寝るところに困った人に一夜の宿りを提供してあげる。それは良いことですが〝どうぞウチで泊っていってください。ですが、ちゃんと神にお祈りをなさって下さいよ〟などと余計なお説教をしてはいけません。

 スピリチュアリズムの真実を知ったあなた方は、その分だけを物的なもので差し引いて勘定してみたことがおありですか。つまりあなた方は地上的なものでは計れない貴重なものを手に入れられた。霊的真理という掛けがいのない高価なものをお持ちになっている。

自分が霊的に宇宙の大霊と直結していることを悟られた。神の分霊であるという事実を悟られた。その神から遣わされた使者の働きかけを受け止める心掛けも会得された。 

 そうしたことに比べれば、俗世的な宝はガラクタも同然です。あなた方はこれから先も永遠に生き続けるのです。すると、この地上で学んだ知識、体験から得た叡知が、俗世で追い求めている物的なものに比して、その永遠の魂にとっていかに大切であるかがお判りになるはずです。
 
 見かけの結果だけで物ごとを判断してはいけません。あなた方は〝物〟の目でしか見ていないのです。〝霊〟の目でご覧になれば、一人ひとりの人間に完全に公正な配慮がなされていることを知るでしょう。私は時おりあなた方をはじめ他の多くの人間の祈りに耳を傾けることがあります。

そしていつもこう思うのです───もしも神がそのすべてを叶えてあげたら、ゆくゆくはあなた方にとって決してうれしくない結果をもたらすであろう、と。

 地上を去って霊の世界へ来る人たちに私はよく質問して見ることがあるのですが、霊となって自分の地上生活を振り返ってみて、そこに納得のいかないことがあると文句を言う人は一人もいません。

(訳者注ーこれは、すべてなるべくしてそうなっていた、つまり自分が蒔いたタネだったということで、〝文句を言う人は一人もいない〟というのは誰しもその事実関係は認めざるを得ないことを言っているのであるが、だからみんなすぐに反省して殊勝な心掛けに立ち帰るという意味ではない。

頭でそう認めても心が素直に従うとは限らないのは地上でもよくあることで、地上ならば片意地を張って通すことは出来ても霊界ではそうはいかない。その頑な心の奥にある恨みや嫉妬等の悪感情がすぐさま身辺の雰囲気に漂い、環境にそぐわなくなり、親和作業によって同じような感情の中で生きる霊ばかりのいる境涯へと引きつけられていく。そこを地獄という)

 地上世界には今三つの大きな問題があります。一つは無知であり、もう一つは悲劇であり、三つ目は貧困です。この三つは霊についての認識が政治と結びつき、みんながその新しい知識の指し示す方向で思考し、そして生きるようにならない限り、いつになっても無くならないでしょう。

 しかし勝利の潮流は着実に押し寄せてきます。古い秩序が廃れ、新しい秩序にその場を譲っていきます。新しい世界は近づいております。しかし、新しい世界になったら地上から暗い場所が完全に無くなるとは思ってはいけません。相変わらず涙を流す人がいることでしょう。心を痛める人がいることでしょう。大いなる犠牲が求められることもあるでしょう。

 神の計画に関わる仕事は犠牲なしには成就されないのです。取り壊しなしには建て直しは出来ません。人間は大きな悲劇に遭遇して初めて霊的なことに関心を抱きはじめ、その拠ってきたる源を探ろうとします。つまり、あれこれと物的手段を試みてその全てが何の役にも立たないことを知ると、ワラをもつかむ気持ちでどこかの宗教団体にすがりつき、そしてやがて失望します。

 そうしたことの繰り返しの中で霊的真理が台頭し、新しい世界───神の摂理が正しく機能している世界───の建設が始まります。そうなるまでは何かと大きな問題の絶えることはありません。が、いずれにしても、何も言うことのない完全な世界にはなりません。なぜならば完全に近づけば近づくほど、その先により高い完全が存在することを知るからです」


───霊界が地上のスピリチュアリズムの普及に関心があるのなら、なぜもっとマスコミに働きかけないのでしょうか。

 「これは、これは。どうやら貴方は(真理のあり方について)あまり理解がいっていないようですね。知識が普及すること自体は良いことにきまっております。でも、いきなりマスコミを通じての宣伝効果の話を持ち出されるとは驚きました。あなたは魂というものがいついかなる状態で真理に感動するものかをご存じないようです。

 私たちは私たちなりの手段を講じております。計画はちゃんと出来ているのです。後はあなた方地上世界の協力を俟(ま)つのみなのです。

 忘れないでいただきたいのは、私たちは〝魔法の杖〟は持ち合わせていないということです。〝魔法の呪文〟をお教えするのではありません。宇宙の自然の理法を明かして差し上げようとしているだけです。

 その理法を知って魂が目を覚まし、自分も神の分霊であること、自分を通じて神が地上へ働きかけることもあり得ることを理解してもらいたいと願っているのです。そのために私たちなりの普及活動は行っております。が、地上の雑音(マスコミを通じての宣伝)によってそれを行ってみても必ずしも効果は期待できません。

一個の魂、一つの心に感動を与えていくこと、つまり霊とのより密接な一体化を体験させることによって成就していくほかはありません。


───地上の体験、たとえば戦争、苦難、精神的並びに肉体的受難、病気、悲しみ、憎しみ等々は人類の進化と発達にとって不可欠のものとして神の計画の中に組み込まれているのでしょうか。

 「いえ、そんなことはありません。戦争は神が計画されるのではありません。病気は神が与えるのではありません。人類が自由意志の使用を誤ってみずから招来しているのです。その中にも学ぶべき教訓があることは確かです。しかしそれは、何も人類同士で野蛮な行為や恐ろしい残虐行為をし合わなくても学べることです。人間が勝手にやり合っていることを神の行為と取り違えてはなりません」


───今は連邦となっている英国の〝王室〟の存続は有益であると思われますか。

 「そう思います。なぜなら、何であれ国民を一つに結び合わせるものは大切にすべきだからです。世界人類が共存していくための団結の要素を求め、お互いに近づき合うようにならなければいけません。離反、孤立を求めて争うことを私がいけないというのはそこに理由があります。魂が一切の捉われを無くすると、世界中の誰とでも調和した一体化を求めるようになるものです」


───霊界のプランがあることを何度も聞かされておりますが、それらしい明確な証が見当たらないのですが・・・・・・。

 「物的な目を持ってご覧になるから見えないのです。あなた方は全体の進歩というものを自分一人の短い生涯との関連において判断されますが、私たちは別の次元から眺めております。その私たちの目には霊的真理の普及、霊的知識の理解、寛容的精神の向上、善意の増大、無知と迷信と恐怖心と霊的奴隷状態の障壁の破壊が着実に進行しているのが見えます。

進歩は突発的な改革のような形で為されるものではありません。絶対にあり得ません。霊的成長はゆっくりとした歩調で為されねばならないからです。どうか失望なさらないでください。

なるほど物質万能主義の風潮がはびこるのを見ていると失望の要素ばかりが目につきます。が、他方では、霊的真理がそうした物質万能的な利己主義のモヤに浸透していくにつれて、希望の光が射し込みつつあります。正しい認識が広まれば真理が勝利を収めます。
 
 だからこそ私たちのメッセージが大切なのです。私たちにとって大切なのではありません。あなた方にとって大切なのです。私たちは地上の人類がその利己主義に対して、その理不尽な無知に対して、その計画的な残虐行為に対して払わねばならない代償の大きさを認識させるべく努力しているのです。あなた方のために努力してるのです。何とか力になってあげようとしているのです。その動機はあなた方に対する私たちの愛に他なりません。

 私たちは人類を破滅の道へ追いやろうと画策している悪霊の集団ではありません。私たちはあなた方の品性を汚すことや残虐な行為、あるいは罪悪を犯させようとしているのではありません。

それどころか、逆にあなた方の内部に宿る神性、神から授かっている霊的能力を認識させ、それを駆使して自分を他人のために役立てる方法を説き、そうすることによって神の計画の推進に役立たせてあげたいと望んでいるのです」(巻末〝解説〟参照)

Sunday, April 26, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄

第2部 本論




5章 アポーツの原理

……突発的な場合と実験的な場合


特定の霊媒を用意し、レギュラーメンバーの出席のもとに行う心霊実験会で発生する現象とは別に、霊的なことに何の知識も関心もない人の身辺で突如として発生する現象がある。これを突発的心霊現象と呼ぶ。

中でも頻繁に起こり、しかも最も単純なのがラップである。が、これは風とか動物の仕業である場合もあるので、注意が肝要である。耳の錯覚かも知れないと思った時に、その原因を確認するいちばん間違いない方法は、こちらから合図を出すことである。それに応じたラップがしたら、そこに目に見えない知的存在が働いていると見てよいであろう。

すでに述べたように、物理的心霊現象の目的は常識を超えた現象を見せることによって注意を喚起し、人間とは別個の、目に見えない知的存在すなわち霊が実在することを教えることにある。

同時に、そうした現象の発生に直接携わるのは高級霊ではなく、高級霊が低級霊を雇ってやらせているということも述べた。が、そうした現象の役割が終わったあとに、これから解説するような本格的な目的が用意されていて、現象はあくまでもその目的のための準備的手段であり、その役割が終われば現象は生じなくなる。我々の体験から単純な例を挙げてみよう。

私が仲間たちとスピリチュアリズムを研究し始めて間もない頃のことだったが、論文にまとめるために一緒に会合して相談し合うことがよくあった。そんなある日、いきなり我々の周囲でノックをするような叩音がし始めて、実に四時間にもわたって鳴り続けて、やっと終わった。

初めての体験だったが、どう考えても普通の原因によるものではない。と言って、なぜ空中でそんな音がするのかは、その頃の我々にはまだ分からなかったので、翌朝、当時評判のよかった霊能者を訪ねて、昨日の叩音の話をして、その音を出した霊と交信してほしいと依頼した。

するとその霊能者が、

「それはあなたと親しかった霊で、あなたと交信したがっておられますよ」と言う。

「何を伝えたいのでしょうね?」と私が尋ねると、

「あなたからお聞きになってみてはいかがですか。ここに来てますよ」と言う。

そこで私が紙面に質問事項を書くと、その霊能者がトランス状態に入って、自動書記でその霊からのメッセージを綴った。

まず寓意的な名前を綴ってから、我々が書いている論文に重大な間違いがあると述べて、その箇所を指摘し、そこはこのように書き改めるようにと助言し、これからも疑問に思う点があったら、この度のように尋ねるように、と述べてあった。

そういうことがあってから、そのノックするような音は一切聞かれなくなった。なぜか――所期の目的、すなわち我々を驚かせて霊能者のところへ出向かせ、そこで自分の存在を知らせ、その後の定期的な交信関係へと導く目標が達成されたからである。

その後の通信では同じ霊団に属する他の複数の霊からも通信が来るようになり、最初に自動書記通信を送ってきた霊が非常に高い界層の霊で、地上時代も重要な地位にあったことが明かされた。

我々の場合は使命をもった高級霊団の管理下であったから迷惑も危険もなかったが、突発的現象の中には地上時代の恨みつらみを晴らすための場合や、人間を驚かせてうれしがる幼稚な悪ふざけの場合もある。

そうした点について再び聖ルイに尋ねてみた。


――リュ・ダ・ノイヤルで起きたという例の怪現象は、あれは本当にあったことでしょうか。


「実際に起きたことです。想像たくましい人たちによって尾ヒレが付いてはいるが、ある霊が住人の迷惑も考えず面白がってやったことです。」


――あのような現象の場合、その家族の中に誰か原因となっている者がいるのでしょうか。


「あの種の現象には必ず攻撃の的になっている人物がいるものです。その人物に対して邪心を抱く霊によって起こされている。目的はその人物を悩ませ、その家にいたたまれなくすることです。」


――その場合、現象を生じさせるための霊媒的体質をした人物がいるのでしょうか。


「そういう人物がいなければ、あのような現象は起きなかったであろう。仮に邪心を持った霊がいても、霊媒的体質を持つ者がいないかぎりは大人しくしています。が、そういう体質の人間が現れると、やおら行動に移ります。」


――現場にそういう人間がいるということが絶対的条件でしょうか。


「通常はそうです。リュ・ダ・ノイヤルの場合はそうでした。今も述べたように、そういう人間がいなかったらあのような現象は起きなかったであろう。ただ、あの現象に限って述べているのであって、霊媒的体質の人間の存在が必要でないケースもあります。」


――そういう現象を起こす霊が霊性の低い霊であるとなると、そのための材料を提供する者も霊性の低い人間で、騒ぎを起こす霊たちとの間に親和性があるということを意味するのでしょうか。


「それは違う、必ずしもそうではない。あくまでも体質上の問題だからです。ただ言えることは、そういう邪霊に使われるようではいけないということです。霊性が高まるほど、引き寄せる霊も高級となる。そうなれば当然、邪霊は近づけないのが道理です。」


――そうした物理現象を起こすには、霊媒的素質の人間から出るエネルギーのほかに、物的素材が必要とのことですが、それはどこから摂取するのでしょうか。


「大体において現象が発生している場所、あるいはその近辺の物体から摂取されます。霊が放射するエネルギーの作用でその素材が流動エネルギーとなって抜き取られ、空中へ放射されたものを一箇所に集めて使用します。」(J・G・E・ライト著『エクトプラズム』によると、物質化現象に使用する流動体の組成および感触は、その部屋にある織物――カーテン・ジュータン等――に似る傾向があり、極端な場合はその織物の修繕箇所がそのまま現れることがあるという――訳注)


――その種の突発的現象が疑い深い人間を納得させる意図をもって仕組まれることがあるそうですが、それなら当の本人が真っ先にその証拠の前に降参してもよさそうなものです。ところが当人は因果関係が明確でないといって信用しようとしません。霊界側には否定しようのない決定的な証拠は出せないものでしょうか。


「この森羅万象には無限なる大霊の存在と思念の威力を暗示するものが溢れており、人間はそれを刻一刻と目撃しているにもかかわらず、無神論者や唯物論者がいるのはなぜであろうか。イエスが見せた奇跡によってその時代の者すべてが改心したであろうか。造化の驚異を見て人間を超える無限なる知的存在を直観しないような者は、いかに説得力のある現象を見せたところで霊の実在を信じるようにはなりません。

誠実さと真摯さとをもって真理を求める者には、大霊は必ずやその機会をお与えくださいます。人間が少々疑ったからとて大霊の計画の推進には何の支障にもなりません。スピリチュアリズムの発展にとっても何の障害にもなりません。

敵対する勢力の存在には取り合わないことです。絵画に陰影があるように、それが真理をより一層鮮明に引き立たせてくれるのです。」


――リュ・ダ・ノイヤル現象の張本人の霊を呼び出してもよろしいでしょうか。何か参考になることが聞けるでしょうか。


「呼び出したければ呼び出すがよい。ただし地縛霊であるから大して参考になる話は聞き出せないであろうが……」

以下はその霊との一問一答――


霊「なぜオレを呼び出した? お前も石を投げつけられたいのか。そうやって平気な顔をしているが、一目散に逃げ出すぞ。」


「石を投げられても別には怖くはありませんよ。第一、石を投げることがここでできますかね?」


霊「ここではできそうにないな。お前にはガーディアンが付いている。そいつが厳重に見張ってるもんな。」


「リュ・ダ・ノイヤルには、あなたのイタズラに協力した誰かがいたのですか。」


霊「いたとも! オレにとっては大事な道具でな。それに、ここみたいに賢人ぶった道徳の先生みたいなヤツ(聖ルイ)が邪魔することもないしな。オレだって時にはハデに楽しみたくなるんだよ。」


「大事な道具というのは誰のことですか。」


霊「メードの一人さ。」


「そのメードはそうとは気づかずに協力したわけですか。」


霊「そうさ、気の毒だけどな。そのメードが一番怖がってたな。」


「何か恨みでもあったのですか。」


霊「このオレに? オレに恨みなんかあるもんか。お前たちこそ何もかも調べ上げて、それを都合のいいように利用してるじゃないか。」


「どういう意味でしょうかね。おっしゃってることがよく分かりませんが……」


霊「オレはただ面白くてやっただけさ。それをお前たちスピリチュアリストが余計なせっかいをして、オレたちのような霊がいることを暴くことをしているということさ。これでまた証拠が一つ増えたわけだ。」


「恨みなんかないとおっしゃいましたが、アパートの窓という窓をぜんぶ壊したじゃないですか。あなたがやったことですよ。」


霊「あんなの大したことじゃないよ。」


「家の中に放り込んだものはどこから持ってきたのですか。」


霊「特別のものじゃないよ。あの家の庭にあったものもあるし近所の庭から持ってきたものもある。」


「そこにあったものばかりですか。あなたがこしらえたものもありましたか。」


霊「オレは何もこしらえていない。合成したものは何もない。」


「もしあのような物体が庭になかったら、こしらえることができたでしょうか。」


霊「その方が難しかったろうね。が、作ろうと思えばつくれるよ。」


「では、あのような物体を“投げる”というのは、どうやってやるのでしょうか。」


霊「ああ、そのことか! それはちょいと説明が難しいね。あのメードの電気性のエネルギーをオレのエネルギーにつなぐのさ。オレのエネルギーでは濃度が薄いからだよ。すると物体が動かせるんだ」(この答えは聖ルイが指示したことを後で認めている。本人はよく分かっていない――編者注)


「あなた自身のことを少しお聞きしてもいいですか。まず最初にお聞きしたいのは、亡くなられてどのくらいになりますか」


霊「もう長いよ。まるまる五十年だ。」


「地上では何をなさっていましたか。」


霊「あまり自慢できることはしてないな。汚いことばかりやってた。あの辺りで屑拾いをしたり酔っぱらって歩き回ったりして、ずいぶん嫌われて、いじめられもした。だから仕返しにああやって家から追い出してやるんだ。」


「こちらからの質問に対する答えは全てあなた自身が考えたことですか。」


霊「指示を出す人がいたよ。」


「それは誰ですか。」


霊「フランスの王様だったルイだよ。」


「今あなたは何をなさってるのですか。これから先のことを考えたことがありますか。」


霊「ないね。オレは流れ者さ。地上の人間はオレのことなんか構ってくれないし、祈ってもくれない。放ったらかしだからオレも何もする気がしないよ。」(このあとの問答で“祈り”や“話を聞いてやる”ということがいかに大切かが分かる――編者注)


「地上時代の名前は?。」


霊「ジャネット。」


「ではジャネットさん、私たちがあなたのために祈ってあげましょう。こうして呼び出したことがあなたにとって迷惑だったでしょうか、それとも嬉しかったですか。」


霊「ま、嬉しいね。あなた方は心優しい、いい方ばかりだ。ちょっぴり真面目すぎるけどね。でも、話を聞いてくれて、それが私にはとても嬉しい。」

以上は俗にポルターガイスト(騒々しい霊)と呼ばれている現象の張本人である霊を呼び出して、その意図やアポーツのメカニズムについて尋ねたものである。

これと同じ現象が我々の実験会でも突如発生して驚いたことがある。我々の場合は窓を突き破って投げ込まれたのではなく、いつの間にかその実験室に持ち込まれていた。

これにはアポーツの専門の技術者がいて、我々の質問に答えてくれたものを次に紹介するが、さきのジャネットが何のメカニズムも知らずにやっていたのとは違って、技術者らしい説明をしている。

ところが、霊格が一段と高い霊から見るとやはり勘違いしているところがあるらしく、それをエラステスという、かつて聖パウロの弟子だったという霊が補足的に解説を加えている。


――あなた方が物品を持ち込む時は、霊媒がきまってトランス状態にあるのはなぜですか。


「それは霊媒の体質のせいです。この霊媒の場合はトランス状態で持ち込む同じ物体を、別の霊媒の場合は普通の覚醒状態で持ち込むことができます。」


――アポーツが起きる時はひどく待たされるのはなぜですか。また約束の品物を持ち込む際に霊媒の物欲を煽(あお)るようなことを言うのはなぜですか。


「時間が掛かるのは、アポーツに必要な流動エネルギーを何種類か用意しなくてはならないからです。また霊媒の物欲を煽るのは出席者を喜ばせてあげるためです。」


エラステス付記――この霊はこれ以上のことは分かっていない。霊媒の物欲を煽るのは、本人は出席者を喜ばせるためと言っているが、実際はそれが流動エネルギーの放散を促進するからである。本人は本能的にやっていて、その効果には気づいていない。アポーツは多量のエネルギーを必要とするので、自然にそういうことが必要となる。突発的よりも実験会の方がその必要性が大きく、とくに霊媒によって違ってくる。


――アポーツの発生には霊媒の特殊な体質が不可欠なのでしょうか。例えばこの霊媒よりも速やかに、そして容易に発生させる霊媒が他にいるのでしょうか。


「あの現象には霊媒体質の人間が大きく係わっています。いくつかの特質が必要で、しかもそれらが調和が取れていないといけません。現象の発生を速やかにするということに関しては、同じ霊媒を何度も使って一つのパターンをこしらえるということが必要です。」


――出席者による影響のことですが、それが現象の発生を促進したり阻害したりするものでしょうか。


「猜疑心や反抗心を抱いている者がいると阻害されることがよくあります。なるべくなら信じている人やスピリチュアリズムをよく理解している人の方が好ましいです。と言っても、地上の人間の悪意で我々の仕事が完全に阻害されることはありません。」


――今回持ち込んだ花や砂糖菓子はどこから取ってきたのでしょうか。


「花はどこかの庭から取ってきます。気に入ったのを選びます。」


――砂糖菓子の方は? 売店から取ってきたら店の人は減っていることに気づくでしょう?


「ま、適当なところから頂載します。店の人は気づきません。代わりのものを置いておきますから……」


――でも、あの指輪、いくつかありますが、みな高価なものばかりです。どこから持ってきたのですか。持ち主に悪いではないですか。


「誰も知らない所から頂載しますから、私が取ったことで被害をこうむる人はいません。」


エラステス付記――この霊は知識不足のために十分な説明になっていない。物品を頂載することで問題を引き起こしたことは有り得ることで、この霊は“盗み”の咎めを指摘されたくないからあのような言い逃れを述べているだけである。代わりのものを置く以上は形も価値もまったく同じものでなくてはいけない。もしまったく同じものをこしらえて置き代えられるのなら、無理に頂載しなくてもよいわけで、こしらえたものを持ち込めばよいことになる。


――別の天体からでも花を持ってこれますか。


「それはできない。私にはできません。」


編者注――ここでエラステスに「他の霊にはできる者がいますか」と尋ねると大気の条件が違うので不可能であるとのことだった。


――別の半球、例えば熱帯地方からだったら持ってこれますか。


「それはできます。地球上であればどこからでも持ってこれます。」


――今回持ち込んだものを逆に元のところへ持ち帰れますか。


「持ち込んだのと同じように簡単に持ち帰ることができます。どこへでも持って行けます。」


――その操作に苦心する事がありますか。そのために疲労を覚えるとか……。


「許されてやっている時は何ら苦心することはありません。許しを得ずに勝手にやったら、とても疲労を覚えるでしょう。」


エラステス付記――本当は苦心しているのだが、それを認めないだけである。本質的には物質に近いものを操作するのだから大変である。


――難しい点といえばどんなことですか。


「難しいことといえば流動エネルギーが扱いにくい場合です。思うようになりません。」


――物体を運ぶ時はどのようにするのでしょうか。手で持つのですか。


「いえ、我々の身体にくるんでしまいます。」


エラステス付記――説明が十分でない。身体にくるむわけではない。自分から出す流動エネルギーに膨張性と浸透性があり、その一部を霊媒から抜き取った活性化された流動エネルギーの一部と合成して、その中に物体を包み込んで運ぶのである。従って自分自身の中にくるむという表現は正確でない。


――相当に重い物体でもラクラクと運べるのでしょうか――例えば四キロとか五キロのものでも……。


「我々にとって重量は関係ありません。花を持ち込むのは、重々しいものより見た目に気持ちがいいからです。」


エラステス付記――これは彼の言う通りである。十キロのものでも何十キロのものでも同じである。これはあなたたち人間の感覚にとっての重量であって、霊にとっては無重量に等しい。ただ、ここでも彼の説明の仕方に問題がある。合成された流動エネルギーの総量と移動させる物体との間に釣り合いが取れていないといけない。つまり使用するエネルギーが、克服すべき抵抗力と釣り合っていなければならない。このことから推理できるように、花のような軽いものを持ち込むのは、得てして霊媒ないし霊自身にそれ以上の重量のものに必要なエネルギーが見出せない場合である。


――確かここに置いておいたはずのものが失くなっていることがあるのは、霊の仕業である場合も有り得るわけですか。


「よくあることです。あなたたちの想像以上によく起きています。頼めば持ち帰ってくれるかも知れません。」


エラステス付記――その通りであるが、持ち帰る時は持ち出した時と同じ条件を必要とするので、よほど特殊な能力をそなえた霊媒がいないと不可能である。それゆえ何かが行方不明になった時は、霊の仕業であるよりも自分の不注意であると考えた方がよい。


――我々が自然現象と思っているものの中には実際は霊の仕業であるものもあるのでしょうか。


「人間の日常生活はその種の出来事だらけと言ってよいほどです。そのように思えないのは、真剣に考えないからです。じっくり考察すれば本質に気づくはずです。」


エラステス付記――人間の仕業まで霊の仕業にしてしまってはならないが、霊的な影響力が絶え間なく地上に注がれていて、人間の行為、時には生死に係わることまで経綸するための環境づくりや出来事の発生まで関係していることは知っておくべきであろう。


――持ち込まれた物品の中には霊がこしらえたものもあるのではありませんか。


「私の場合はありません。私にはそういうことは許されていません。高級霊のみに許されていることです。」


――先日の実験では幾つかの物品が持ち込まれましたが、実験室は完全に密閉されていたのに、どうやって持ち込んだのですか。


「私と一体となって、つまり私の身体に包み込んで持ち込みました。その辺のメカニズムは要するに“説明不可能”と申し上げるしかありません」


――一瞬見えなくなって次の瞬間に見えるようになったわけですが、どのようにするのですか。


「物体をくるんでいる物質を取り除いたのです。」


エラステス付記――厳密に言うと、くるんでいるのは物質ではなく、霊媒のダブルの一部と担当の霊のダブルの一部とで合成した流動体である。


訳注――このアポーツ、日本語で「物品引寄現象」と呼んでいる現象は、訳者にとっても年来の興味あるテーマである。エラステスも、どうやって壁を貫通させるのかと改めて問われて「とても複雑な問題だ」と答え、「貫通させるということは破壊させることになるので、それはできない」と述べている。

しかし、その答えの部分を英語に訳したブラックウェルも注を設けて、「まだ解明されていないが、多くの実験結果からみると、霊は我々に理解できない方法で物体を貫通させることができるようである」と述べている。どうやら“貫通”という用語の捉え方に食い違いがあるように思える。『ジャック・ウェバーの霊現象』の中でも、いったん高振動の状態に分解して持ち込み、そこで再物質化すると述べている。が、それ以上のことは人間に教えても理解できないとも言っている。

『これが心霊の世界だ』の中にはキャサリン・バーケルという霊媒の支配霊ホワイト・ホークの説明がある。それによると、物品が分解するまで原子の振動速度を高めていき、分解した状態で運び込んでそれを再物質化するという。

このテーマを考える時にいつも頭に浮かぶのはテレビジョンである。これもいったん映像を分解して電波で運んで受像機の中で再生する。次元を異にする霊界では“人間に教えても理解できない”複雑な操作があるようであるが、基本的には“分解と再生”の原理に基づくと考えてよいように思う。

いずれにしても、霊界へ行けば何でも分かるというものではないらしい。いい加減な霊媒のお告げを信じるのが危険であることがよく分かる。