Sunday, April 12, 2026

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

 The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



5章 自己保存の法則

このページの目次
〈自己保存の本能〉


――自己保存の本能も自然法則の一つでしょうか。


「もちろんそうです。知的発達の水準に関係なく、全ての生き物に賦与されています。ある生物では純粋に機械的にすぎないものもありますが、理性と直結したものもあります」


――神が全ての生き物に自己保存の本能を授けた目的は何でしょうか。


「神の計画の成就にとって不可欠だからです。生きる意欲を与えているのもそのためです。その上、生きているということが進化にとっての不可欠の条件です。そのことを理解はしていなくても本能的に知っているということです」


――人間にも生きる意欲を授けている以上、神は生きるための手段も授けてくださっているのでしょうか。


「その通りです。その手段を人間が見出せないとすれば、それは周りに存在する始源の利用法を知らないからにすぎません。神が、生命への愛を植えつけておいて、その生命を維持する手段は与えないということは有り得ません。だからこそ生物の全てに生殖本能を授けて生命維持のための必要物が十分に得られるようにしてあるのです。ただし必要分だけです。有り余りすぎるものは益になりません」


――しかし、必ずしも人類の全てが必要物を十分に得ているとは言えません。なぜでしょうか。


「それは素晴らしい母なる大地を粗末にして感謝の念を忘れているからです。さらに、人間は自分の技術の未熟さや先見の明の無さを棚に上げて自然界の不毛のせいにしています。人間が“足れるを知る”生き方に徹すれば、生きるために必要なものは大地が必ず与えてくれます。必要なものが十分に手に入らないのは、必要の限度を超えたものを要求しているからです。

砂漠のアラブ人をご覧なさい。あの不毛の土地においてさえ生きるに必要なものはちゃんと手に入っています。余計な人工的文化生活を取り入れないからです。文明国の人間は他愛もない欲望を満たすために地球の産物の半分を無駄にしながら、少しの天候不順で欲しいものが手に入らなくなると困った困ったと不満をかこちます。なぜそういう時のために、節約して備えないのでしょうか。くり返します――自然が供給しないのではありません。人間がその恵みの使用を賢明に規制しないからです」


訳注――本書の原典の出版が一九世紀末であるという事実を思い合わせると、現代はこの通信霊が警告する人工的文化はとっくに限度を超えていると言えるであろう。


――この豊かな物質文明の中にありながら、生計を立てる手段が得られない人がいますが、どこに間違いがあるのでしょうか。


「利己主義がそういう結果を生んでいることがあります。が、最も多いのは、本人の意欲が不足している場合です。イエスは“求めよ、さらば見出さん”と言いましたが、これは地面に目を注いで欲しいものを探し歩きなさいと言っているのではありません。必要なものを真剣に、そして忍耐強く求め、障害に遭遇しても落胆しないことです。そうした障害は往々にして志操の堅固さ、忍耐力、そして決意のほどを試す手段として霊団側が用意することがあります」


――しかし、意志は強固でも、置かれた環境の中ではどうしても生計手段が得られない人もいるのではないでしょうか。


「そういうケースはあります。しかしそうした環境は再生に先立ってあらかじめ自分で選んで覚悟を決めていた試練です。いくら知恵をしぼっても苦境から脱し切れない時は、神の意思に全てをゆだねる覚悟にこそ、その人間の究極の偉さが生きてきます。このまま進むと死に至ると覚悟した時は、慌てず騒がず、いよいよ肉体の束縛から解放される時が来たことを喜び、自暴自棄に陥ることは折角の悟りを台なしにしてしまうことになることを知るべきです」


――極端な飢えの状態で生き残った者たちが仲間を食い合う話があります。これは罪でしょうか。仮に罪だとしても、自己保存の法則の極端な例として罪の重さが割り引かれるのではないでしょうか。


「人生の全ての試練に対しては勇気と克己心で対処すべきであると述べましたが、ご質問に対する答えもその中に含まれていると思います。今おっしゃった例には殺人の罪と自然に対する罪が含まれています。二重の罪には二重の罰が適用されます」


――人間の肉体よりも純度の高い身体で生活している天体上でも食糧は必要なのでしょうか。


「必要です。ですが、その身体の性質に応じたものです。その天体上の食物ではあなた方の身体は養えません。また、あなた方の食物は彼らの身体では消化できません」
〈大地の恵みの享受〉


――人間には大地の恵みを楽しむ権利があるのでしょうか。


「それは権利というよりも、生きる上での必要性が生み出す結果です。神は、義務を与えておいてその義務を果たす上で必要な手段は与えないというような理不尽なことはなさいません」


――その物的な恵みになぜ神は“魅力”を添えたのでしょうか。


「一つには、その義務の遂行に拍車がかかるように、もう一つは、その魅惑によって試すためです」


――何の目的で試すのでしょうか。


「度を超さないように自制する理性的判断力を発達させるためです」


――物的満足にも適度の限界というものが自然にそなわっているのでしょうか。


「必要性と幸せとが一致する限界が設けられています。その限界を超えると飽き飽きしてきます。その限界を超えた分だけ罰をこうむることになります」


――その限界はどのようにして知るのでしょうか。


「賢者は直観で知ります。体験で知る人もいます。つまり痛い目に遭って」
〈修行としての窮乏生活〉


――物的生活をエンジョイすることはいけないことでしょうか。


「物的な幸せを求めるのは人間として極めて自然なことです。神が禁じているのは過度の享楽です。自己保存の目的にとって有害だからです。楽しさを求めるのは、それが他人の犠牲を強いるものでなく、かつ又、当人の精神的ならびに身体的エネルギーを衰えさせるものでないかぎり、罪ではありません」


――自発的な罪障消滅を目的とした窮乏生活は神の目から見ていかがでしょうか。


「人のために役立つことをする――この心掛けでの平凡な日常生活の方が、自ら求めて窮乏生活をするよりも立派です」


――清貧の生活に甘んじること自体は良いことではないでしょうか。


「無用の贅を無くすることは良いことです。それだけ物質への執着を少なくし、魂の意識を高めます。節度を超えた贅への誘惑と無益な道楽を慎むということは立派なことです。自分の必要分を削って足らない人に分けてあげるということが基本的理念です。しかし、そうした修行の裏側に見栄が潜んでいたら、それは単なる心のオシャレであり偽善です」


――古来どの民族にも禁欲的修行者がいますが、どう見るべきでしょうか。


「そういう生活が誰にとって有益なのかを問うてみれば、自ずと答えが出るはずです。もしも自分にとっての修行であり人のために役立つ要素が無いとすれば、いかに弁明しようとそれは一種の利己主義です。本当の苦行とは人のために役立つことをするために自ら節約し克苦することです」


――動物性食品を摂取するのは自然法則に反しますか。


「地上の人間の体質からすれば、体力を維持するためには動物性食品は摂取する必要があります。それを欠くと体力が衰えます。自己保存の法則は健康と体力を維持する義務を要求します。そうしないと仕事の法則が成就できないからです。身体器官の必要性に応じた食品を摂取すべきです」


――人間は地上生活での苦難を通じて向上しているのであれば、自らに苦行を課することによって向上することも有り得るのではないでしょうか。


「人間の霊性を高める苦難は自然の成り行きで遭遇するものに限られます。神が用意したものだからです。人間が自らの考えで自らに課したものは、結果的に人のために役立つことに寄与しないかぎり無意味です。

考えてもご覧なさい。超人的な苦行をするヨガの行者やイスラム教の托鉢僧、ヒンズー教の苦行者、さらにはどこかの宗教の狂信者たちは、それによって一体どれだけ霊性が向上したというのでしょう? そんなことをしている暇があったら、なぜ地上の貧しい同胞のために慈悲を施さないのでしょうか。着るものにも事欠く人に衣類を与え、喪の悲しみの中にある人に慰めの言葉を与え、食べるものにも事欠く人のために自分のものを分けてあげ、そのために自分は断食もあえてする――そういう生活こそ有意義であり、神の意思に適っております。自分のためだけに修行をする者は一種の利己主義者です。他人のために自分が苦しんでこそ慈悲の法則を実践したことになります。それがイエスの教えです」

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch
ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳



二章 悲しい時、苦しい時こそ 

    同じく第二次大戦のさなかでの交霊会においてシルバーバーチはこう語った。

 「何もかもが危険にさらされているこうした時期こそ霊的真理を教えてあげる必要があります。信仰という信仰がことごとく片隅に追いやられ、すべてが混乱の渦中にある今こそ、こうした単純な霊的真理を説くことによって自分を役立てることができるのです。その真理だけは不変です。なぜならば不変の自然法則の働きを土台としているからです。

あなた方は大規模な混乱と破滅を目のあたりにされています。他の国ではさらに大規模な、そして見るも無惨な光景が繰りかえされています。混乱と残酷、裏切りと暴虐が大手を振ってのし歩いております。まさに野獣のごとき暴力が我が物顔に振る舞っております。あたかも自由の灯が完全に消され、全てが闇と化したかの如く思われる国が数多く見られます。

 こうした時こそ、われわれ霊的法則の働きを知った者が、霊的真理こそが人間にかつて想像もしなかった高い視野を与えてくれること、心の中に消そうに消せない炎を灯してくれること、最後は霊的光明が勝ち、自由を我が物とすることができることを説いて聞かせるべき時です。

それは霊の本来の資産なのです。いかに粉砕しても絶対に存在を失わない究極的な存在である〝霊〟が所有していなければならないものです。霊性が怖じけづき、縮こまることはありましょう。が、

決して征服されてしまうことはありません。霊界にいる私どもがぜひともお教えしなければならない大きな真理は、地上にいるあなた方も霊的存在であるということです。

物質で出来たものは破壊することができます。肉体は死なせることができます。いじめることもできます。しかし霊的なものは絶対に存在を失いません。なぜなら、霊的なものは永遠なるもの、宇宙の大霊、無限にして不滅の存在、すなわち神の所有物だからです。

皆さんがスピリチュアリズムと呼んでいるものは自然法則の働きの一部ですが、これが人間にも霊が宿っていることを証明しました。

その証拠は、視野を曇らされず理性に従い何の捉われもなく自由な思考をめぐらすことの出来る人には、人間が本来霊的存在であることが議論の余地のない事実であることを雄弁に物語っております。そしてその基本原則から次々と重大な意味が湧き出てきます。

その一つ一つがそれを受け入れる用意のできた人々に、こうしてはいられない、何とかしなくては、というせっぱつまった衝動を覚えさせます。

 いったん人間が霊であることを悟ると、この地上世界もその霊性を存分に発揮される環境であらねばならないとの認識が生まれます。すべての悪習、すべての罪悪、すべての悪徳、すべての既得権、すべての利己主義、貪欲、そして残虐性、こうしたものを一掃しなければならないということです。

それらは全てせっかく自己開発のために地上に降りた霊───いずれは当り前の生活の場となる霊界でのより素晴らしい生活に備えるために生まれてきた霊の成長を妨げることになるからです。それが声を大にして叫びたい私たちからのメッセージです。

すなわち霊媒を通じて与える死後存続という素朴な真理から始まって、そこから生活を一変させる数知れない重大な意味を発見していることです。

そして、こうして人類がその宿命の成就のために闘っている時、言いかえれば霊的教説がその真価を問われている時、その背後では、かつて地上で革命家、殉教者、指導者と呼ばれ、今なお新たな力を携えて霊界で研さんを重ねている見えざる大軍が、その持てる力を総結集して援護に当っている事実を知らねばなりません」


───昨今の混乱ぶりは目に余るものがありましょう。(大戦の焦点が日米決戦の様相を呈して来たころのこと───訳者)

 「それは(比較的戦乱の少ない)英国の国民でさえ受けている精神的ストレス───多分自分では実感していなくても大きなストレスを受けている、英国に限りません。地上の大気そのものが嘆きと悲しみと苦痛の絶叫に満ち、それに付随してさまざまな不協和音を生んでおります。

その上忘れてならないのは、何千何万という人間が何の備えも無く霊界へ送り込まれてきている霊界の現実です。その一人一人が本人は気づかなくても、私たち霊団の仕事に困難を加えていきます。声には出さずとも、一人一人が休みなく何らかの要求をしているからです。

大変な数の人間が無知のまま、あるいは誤った信仰をもったままやってまいります。無知と偏見、これは私たちが闘わねばならない双子の敵です。

地上のみなさんはひたすらに真理を広め、知識を広め、叡智を広め、光明を広め、一人でも多くの人の心に感動を与えることです。往々にしてその努力の結果はあなた方自身には分らないでしょう。が、それはどうでもよろしい。かまわず進んでください。

世間の批難、中傷にはかまわず、ひたすらにご自分の心の中の光に忠実に従うことです。それ以上のことは要求しません。敵対するものがいかに大きかろうと、最後はかならず勝利を収めます。自由───精神と霊と身体の自由はかならず勝ちます。

 個人について言えることは国家についても言えます。個人にもそれぞれに成就すべき神聖な宿命があるように、国家にもそれぞれの宿命があります。

これまで何度も申し上げてきましたように、あなた方の国(英国)は世界をリードする宿命───暗闇に光明をもたらすために霊的真理の松明(たいまつ)をかかげて世界の先頭を歩むべき宿命を背負っております。今その偉大なる仕事が徐々に成就されつつあるのがお判りでしょう」

 大戦が長引き、ますます激烈となり、もはや前途に光明が見出せないかに思えた時期に、シルバーバーチはこう語った。

 「真の信仰を身につける好機はすべてのことが順調に行っている時ではありません。そんな時に信仰を口にするのは誰にでもできることです。暗黒の時に身につけたものこそ本当の信念と言えます。

太陽がさんさんと輝き、何の苦労もなく、前途に何の心配もない生活を送っている時に私は神を信じますと言うのは容易なことです。しかし、そんな呑気な生活の中での信仰の告白には何の価値もありません。

 困難の中にあって怖じけず、いかなる緊張の中にあっても動ぜずに次のように宣言できる人の信念にこそ本当の価値があります───風が吹こうが嵐が狂おうが、世界がいかに混乱し全てが暗黒に包まれ絶望的になろうと、宇宙の全生命を創造し神性を賦与した力は決して自分をお見捨てにならないと信じる。知識と経験による不動の基盤の上に築いた完璧な信念に安住して、私は絶対に動じない、と。

 宇宙の大霊すなわち神の力はあなた方人間を通して流れるのです。もし人間が確固たる不動の冷静さを保ち得ずに怖じけづいてしまえば、その力は発揮されません。あなた方一人ひとりが神なのです。神はあなた方から切り離された何か別の存在ではないのです。

宇宙の大霊というのは何か形のない、遠い宇宙の果てにふわふわと浮いている靄のような存在ではありません。人間の内奥に宿された霊的な資質を発揮すればするほど、それだけ宇宙の大霊をこの世に顕現させていることになります。これはぜひ学んでいただきたい教訓です。

霊が進化するということはそのことを言うのです。そうやって個性が築かれていくのです。成長するということはそういうことなのです。


 まだまだ地上の人類は、悲しみ、苦しみ、艱難、辛苦が存在することの理由を理解しておりません。その一つひとつが霊的進化の上で大切な機能を果たしているのです。

ご自分の人生を振り返ってごらんなさい。最大の危機、最大の困難、お先まっ暗の時期が、より大きな悟りを開く踏み台になっていることを知るはずです。

日向でのんびりと寛ぎ、何の心配も何の気苦労も何の不安もなく、面倒なことが持ち上りそうになっても自動的に解消されてあなたに何の影響も及ぼさず、足もとに石ころ一つなく、自分でやらねばならないことが何一つ無いような人生を送っていては、向上進化は少しも得られません。

困難に遭遇し、それに正面から立ち向かって自らの力で克服していく中でこそ成長が得られるのです。知識を広める必要があるのは無知という名の暗闇が生み出す無意味な残虐行為、無駄な苦労を一掃するためです。

自然の摂理に反することをしでかしておいて、それが生み出す結果への対処に無駄なエネルギーを費やすという愚かさを無くすために霊的真理の普及が必要なのです。

 同じ苦しみにも無くもがなの苦しみがあります。困難にも無くもがなの困難があります。が、それも霊的な成長と進化、光明へ向けての歩みにとっての糧とすることができます。

失敗も災難もみな薬です。何かを教えてくれます。結局人間は宇宙という大きな学校の生徒というわけです。これでよいという段階はけっして来ません。成長すればするほど、まだまだ開発し磨いていかねばならないものがあることに気づくものだからです」

 そうした人生において大切な心掛けとして、シルバーバーチはこれまで繰りかえし注意してきたことを再び説いた。

 「絶対に許してならないことは不安の念を心に居座わらせることです。取越苦労は魂を朽ちさせ、弱らせ、蝕みます。判断力を鈍らせます。理性を曇らせます。事態を明確に見きわめることを妨げます。いかなる人間も自分で解決できないほどの問題はけっして与えられません。

克服できないほど大きな障害は生じません───内在する神性が発揮されるような心掛けをしておればの話ですが・・・・・・。地上の人間は、少数の例外を除いて、まだまだ本当の意味で生きているとは言えません。

内在する霊的属性のごくごく一部しか発揮しておりません。よくよくの危機、よくよくの非常事態において、その霊力が呼び覚まされて勇気と知恵とを与えてくれますが、本来はいつでも引き出せるものです。

病気を治し、迷いの時に指針を与え、悩みの時には指導を与え、疲れた時には力を与え、視野が遮られている時には洞察力を与えてくれます。それを可能にするのはあなた方の心掛け一つにかかっております」


 あまりの戦火の激しさに、こんな情況ではささやかなサークルのメンバーが少しばかり真理を説いても無意味のように思われるとの一メンバーの考えを聞かされたシルバーバーチは、こう述べて力づけた。

(訳者注───この頃はまだシルバーバーチの霊媒がサイキック・ニューズ社の社長兼主筆であるバーバーネルであることは内密にされていたほどで、いきおい普及活動も範囲が限られていた。

一九三〇年代初期はまだ霊言がサイキック・ニューズ紙上にも掲載されていなかった。嫌がるバーバネルを説き伏せてハンネン・スワッハーがそれを紙上に連載させ、一九四七年にはついに霊媒がバーバネルその人であることまで公表されるに及んで、ようやく普及活動に弾みがつき世界的に普及しはじめたのだった。)

 「さまざまな出来ごとがありましたが、霊的真理の光は今なおこの小さな島(英国)に生き続けております。一度も消えたことはありません。こののちも、ますます広がり続けて、いずれは世界のすみずみにまで行きわたることでしょう。その恩恵を受けた数知れぬ人々から、あなた方は敬愛され祝福を受けることでしょう。

その貢献を誇りに思わなくてはいけません。胸を張って生きられるがよろしい。まだまだこれから成就しなければならない大きな宿命があなた方を待ち受けております。

 私たちには授けるべきメッセージがあります。今日ほどそれを必要とする時代はありません。今の地上こそ私たちの奮闘を必要とする土地です。慰めを必要とする人が大勢います。

悲しみに打ちひしがれ知識と援助を叫び求める人々が大勢おります。私たちに代わってそういう人たちを救うことのできる説教者や指導者が一体どこにいるでしょうか。授けるものとして一体何があるでしょうか。遠い過去の愛用句でしょうか。

使い古された教義でしょうか。信じる者のいなくなった教説でしょうか。それとも誤ったドグマでしょうか。本人みずからその信用性に自信のない者がそんな太古の物語を引き合いに出して、はたして現代人を慰めることができるのでしょうか。

 英国中、いや世界中いたるところで、闇夜に救いを求める人がいます。その祈り───声に出しての祈りも声なき祈りも───ただならぬ窮地で指針を求める魂の叫びが私どものところまで響いてまいります。そういう人たちこそわれわれが手を差しのべてあげなければなりません。

道に迷っている人々です。その多くは自分が悪いのではありません。闇に囲まれ悲しみに打ちひしがれ、目に涙をうかべて〝死〟の意味を知りたがっています。なぜ愛する者がこうも呆気なく奪い去られるのかと尋ねます。が、教会はそれに対応する答えを持ち合わせません。

悲しみの杯をなめ苦しみのパンをかじらされた者は、〝処女懐胎〟だの〝エデンの園〟だの〝使徒信条〟だのについての説教はどうでもよいのです。真実の知識が欲しいのです。事実が知りたいのです。確証が欲しいのです。

 彼らは素直にこう考えます───もしもこの世に救いになるものがあるとすれば、それは今の自分、苦しみの渦中にある自分たちをこそ救えるものであるべきだ、と。そこで私たちはあらゆる不利な条件、あらゆる障害をいとわず、そうした絶望の底に喘ぐ人々を慰めようと必死になるのです。

これまでも幾度か申し上げてきたことですが、皆さんはこうしたささやかなサークルが僅かの間ここに集まって私たちのために力を貸してくださるそのことが、どれほど大きな意味があるのか、そしてそのおかげでどれほど遠く広く真理を広めることができているかをご存じないようです。

私どもが述べる僅かな真理の言葉───僅かとはいえ永遠の実在を土台とした不易の叡知なのですが───それが受け入れる用意のできた人々の心、霊的に成熟した魂に根づいていく。

これは実に偉大な仕事というべきです。その真理を語るわれわれが成るほど神の使徒であることを証明するには、ひたすらに人の役に立つことをするしかありません。

つまり脅しや恐怖心や心配の念を吹き込まず、ただただ、薄幸の人々に救いの手を差しのべたいと望んでいる者であることを身をもって証明していくしかありません。(訳者注───古来宗教が信者に恐怖心を吹き込むことによって存続を謀ってきた歴史を踏まえて述べている)


 ここでシルバーバーチは、そのころ英国内の何人かの霊媒に対し、それぞれの支配霊と議論したいという挑戦状を送りつけている人物の名前をあげて、このサークルにも同じものが送られてきているらしいが、そんな人間と会うつもりはない旨を述べ、その理由をこう述べた。

 「その人物を恐れているのではありません。挑戦ならこれまでも地上からさんざん受けております。私に理解できないのは、この悲しみと苦しみの惨状のさなか、われわれの援助を大いに必要としている最中に、自分の信じてきたことしか信じようとしない人間との議論になぜ貴重な時間を費やさねばならないのかということです。

私をさらし者にしたいのでしたらいつでもなってあげましょう。私たちは(一八四八年のスピリチュアリズムの勃興以来)すでに百年近くも、私たちの仕事を阻止しようとする勢力の敵対行為に遭ってきました。

教会と科学と唯物主義による挑戦です。彼らによってどれだけの霊媒がさらし者にされたことでしょう。そしてそのつど彼らは霊の仕業などというのはウソである───霊など存在しないことを〝完全に証明した〟と決めつけました。

が、敵意と嘲笑と虚偽の陳述によって私たちの仕事が阻止されたことは一度もありません。霊界からの働きかけの成果がますます世界中に広がり、敵対する勢力は退却するか作戦の変更を余儀なくさせられています。

 スピリチュアリズムを非難する教会も今やその真理がはじめて地上へ啓示された時にみずから説いていた教説を説いてはいません。科学もほぼ百年前に説いていた学説を今は説いていません。我がもの顔だった唯物主義者さえ譲歩し、視点を変え、思いもよらなかった新たな要素を考慮せざるを得なくなっております。

それに引きかえ、私たちがこれまで説いてきたものを髪の毛一本ほどでも改めたり逸脱したりしたことがあるでしょうか。どこか私の霊訓で以前と違うところを指摘できるでしょうか。地上の事情が変わったために修正しなければならなくなった箇所が一つでもあるでしょうか。

物質界での新しい発見が為されたために、それまで私どもが絶対ですと断言してきた基本的真理を改正せざるを得なくなったところがあるでしょうか。

 あるわけがありません。自然法則を取り消したり変更したりしなければならなくなることは決してありません。生命活動に付随する環境条件の全ての可能性を認識しているからです。

〝生〟の現象にも、あなた方のいう〝死〟の現象にも、自然法則やその働きを改めなければならないものは絶対に生じません。私どもが説く真理に死はありません。正真正銘の真理だからです。霊的実在こそ真の実在です。だからこそ存在し続けるのです。永遠に残る叡知の宝石です。受け入れる用意のある者を導く永遠の真実です」


 次に〝死を悼む〟という人類に共通した情が話題にのぼった。メンバーの一人が、永年シルバーバーチの訓えを聞いてきた者でも仲間のメンバーが死ぬと悲しみを禁じ得ないのはなぜだろうかと尋ねた。すると別のメンバーがそれは〝死んだ〟者に対する悲しみの情ではなく、後に残された自分を悲しむ一種の利己的な情から生じるのでしょうと述べると、シルバーバーチはこう答えた。

 「いったい何を悲しむというのでしょう。死に際して悲しみを抱くということは、まだ進化が足りないことを意味します。本当は地上に留まること自体が苦痛であり、地上を去ることは苦痛から解放されることであり、暗黒の世界から出て光明の世界へ入ることであり、騒乱の巷から平和な境涯へと移ることを意味することを思えば、尚のことです。霊的知識を得た者がなぜその知識と矛盾する悲哀に心を傷めるのか、私は理解に苦しみます。

 もう一歩話を進めてみましょう。霊的真理についての知識を初めて手に入れた時、それは目も眩まんばかりの啓示として映ります。それまでの真っ暗闇の混乱、わけの分らなかった世界がぱっと明るく照らし出される思いがします。が、その新しい理解がいかに大きいものであっても、やがて納まるべきところに納まり、その人の在庫品の一つとなっていきます。

しかし知識は使うためにあるのです。その知識のお陰で視野が広がらなくてはいけません。理解力が増さなくてはいけません。洞察力、同情心、寛容心、善意がいっそう大きくならなくてはいけません。せっかく知識を手にしながら、それをある限られた特別の機会のために取っておくことは許されません。

それは人生のあらゆる側面における考えを改めるために使用されるべきものです。皆さんがこれまでに学び、観察し、体験してきたことに幾ばくかでも真理があったとすれば───もし学んできたことが霊的な価値を有するものであれば、その価値はそれを実際に使用し実生活に適用することによって少しでも多くの霊的自我を発揮させることで生かせるのです。

 身近な人の死に直面した時、あの馴染の顔、姿、あの言葉、あの笑顔がもう見られなくなったことを悲しむのではないと断言なさるのなら、あなたは絶対に悲しむべきではありません。

この交霊会での知識は週に一度わずか一時間あまりの間だけの知識として取っておいていただいては困ります。皆さんの日々の生活の中で使用していただかないと困ります。

その霊的な価値は工場において、仕事場において、事務所において、商いにおいて、専門職において、天職において、奉仕的仕事において、家庭内において、その絶対的基盤としなければなりません。

あなた方の生活のすべての行為における光り輝く指標とならなければなりません。それが知識というものの存在価値なのです。

と言うことは、スピリチュアリストを自認する方はスピリチュアリズムというものを───これも霊的真理の一側面に付した仮の名称にすぎませんが───身内の人を失って悲しむ人のためにだけ説いて、それ以外の時は忘れているということであってはならないということです。

私どもが教えんとしていること、駆使しうる限りの力を駆使して示さんとしていることは、この宇宙が霊的法則によって支配された広大な世界であること、そしてその法則は、人間みずから見えることより見えないことを望み、聞こえることより聞こえないことを望み、物が言えることよりも言えないことを望み、常識より愚昧(ぐまい)を好み、知識より無知を好むことさえなければ、決して恩恵をもたらさずにはおかないということです。

 知っているということと、それを応用することとは別問題です。知識は実生活に活用しなくてはなりません。死を悼むということは霊的知識が実際に適用されていないことを意味します。地上生活を地上生活だけの特殊なものとして区切って考える習癖を改めなくてはなりません。

つまり一方に物質の世界だけに起きる特殊な出来ごとがあり、他方にはそれとまったく異質の、霊的な世界だけの出来ごとがあって、その二つの世界の間に水も漏らさぬ仕切りがあるかのように考えるその習性から卒業しなくてはいけません。

あなた方は今そのままの状態ですでに立派に霊的な存在です。死んでから霊的になるのではありません。違うのは、より霊的になるという程度の差だけであって、本質的に少しも変わりません。あなた方にも霊の財産であるところの各種の才能とエネルギーが宿されているのです。

今からあなたのものなのです。肉体に別れを告げたあとで配給をうけて、それを霊体で発揮し始めるというのではありません。

今日、いまこうしている時からすでにそれを宿しておられるのです。言わば居睡りをしながら時おり目を覚ます程度でしかありませんが、ちゃんと宿していることには違いありません。

霊的知識を手にしたあなた方は人生のあらゆる問題をその知識の光に照らして考察し、そうした中で霊の所有物、才能の全てを発揮できるようにならなければなりません。


 悪いと知りつつ罪を犯す人は───〝罪を犯す〟という言い方は私は好きではありませんが(他のところで〝摂理に背く〟と言いたいと述べている。訳者)───知らずに犯す人よりはるかに悪質です。盗むことは悪いことですが、霊的知識を手にした人がもし盗みを働いたら、それは千倍も悪質な罪となります。

恨みを抱くことは悪いことですが、霊的知識を知った人がもし誰かに恨みを抱くようなことがあったら、それは千倍も悪質な罪となります。知識はすべてのことに厳しさを要求するようになります。

私がいつも〝知識は責任を伴う〟と申し上げているのはそういう意味です。霊的なことを知っていながらそれが実生活における行為にまるで反映していない人が多すぎます。難しいことかもしれませんが、人間は一人の例外も無く今この時点において霊の世界に住んでいること、決して死んでから霊になるのではないということをしっかりと認識して下さい。

死ぬということはバイブレーションの問題、つまり波長が変わるということにすぎないことを認識して下さい。知覚の仕方が変わるだけのことと言ってもよろしい。日常生活で固くてしっかりしていると思っているものとまったく同じ、いえ、もっともっと実感のあるものが、たとえあなた方の目に見えなくても、立派に存在しております」


 最後に霊界から見た〝死〟の意味をこう語った。
 「〝生〟を正しい視野で捉えていただきたい。その中で〝死〟が果たしている役割を理解していただきたいと思います。人間はあまりに永いあいだ死を生の終わりと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。

私どもはぜひとも無知───死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れとみなす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。

死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるより豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。

 死の関門を通過した人はカゴから放たれた小鳥のようなものです。思いも寄らなかった自由を満喫して羽ばたいて行くのです。人間が死と呼ぶところの看守によって肉体という名の監獄から出させてもらい、(原則として)それまでの肉体に宿っているが故に耐え忍ばねばならなかった不平等も不正も苦しみも面倒もない、

より大きな生へ向けて旅立ったのです。霊本来の限りない自由と崇高なよろこびを味わうことになるのです。

 苦痛と老令と疲労と憂うつとから解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探究心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。

その悲しみには利己心が潜んでいます。自分が失ったものを悲しんでいるのです。自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。

それは間違いです。もしも霊的真理に目覚め、無知の翳(かす)みを拭い落した目でご覧になれば、愛するその方の光り輝く姿が見えるはずです。死は決して愛する者同士を引き離すことはできません。

愛は常に愛する者を求め合うものだからです。あなた方の悲しみは無知から生じております。知識があれば愛する者が以前よりむしろ一段と身近な存在となっていることを確信できるはずです。霊的実在を悟ることから生じるよろこびを十分に味わうことができるはずです。

 皆さんもいずれは寿命を完うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ捨てる時が来ます。霊が成熟して次の進化の過程へ進む時期が来ると自然にはげ落ちるわけです。

土の束縛から解放されて、死の彼方で待ち受ける人々と再会することができます。その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです」

  

Saturday, April 11, 2026

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

 The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)


4章 生殖の法則
このページの目次
〈地球の人口問題〉
〈繁殖の人工的抑制の是非〉
〈結婚と禁欲〉
〈地球の人口問題〉



――生きものの生殖作用は自然の法則でしょうか。


「まさしく自然法則です。生殖作用が途絶えれば物質界の生物は絶滅します」


――これまでのような割合で地球の人口が増え続ければ多くなり過ぎるのではないでしょうか。


「そういう心配はいりません。神の配剤によって常に均衡が保たれるようになっています。神は何事につけても無駄は許しません。人間の視野には宇宙の全パノラマのほんの一部しか入りません。それゆえ全体にハーモニーが行き届いていることは知覚できません」


――現時点でも地上の幾つかの民族が明らかに減少しつつあります。それは最終的には地上から消滅してしまうのでしょうか。


「その通りです。ですが、代わって別の民族が生まれます。あなた方の民族もいずれは新しい民族と入れ替わるのです」


――現在の地上人類はまったく新しく創造されたものでしょうか、それとも原始的人類の進化した子孫でしょうか。


「霊系は同じです。それが新しい身体に宿り何度も再生し進化して行きつつあるところです。ですが、まだまだ完成からは程遠い段階にあります。いずれにしても現在の人類は人口の増加によって地球全土に広がり、消滅しかかっている民族と取って代わって行きますが、やがてそれも減少傾向に入り、消滅してしまいます。そして別の、もっと完成度の高い民族によって取って代わられますが、それも現人類の子孫です。ちょうど現在の文明人も粗野な原始人の子孫であるのと同じです」


〈繁殖の人工的抑制の是非〉
――人間は法律や慣習によって繁殖を防ぐ方法を講じていますが、これは自然法則に反することでしょうか。


「自然界の営みを妨げることは全て摂理に違反します」


――しかし動物や植物には繁殖しすぎると他の種属に害を及ぼし、巡りめぐって人類の破滅にもなりかねないものがあります。それを人間が抑制するのは間違いでしょうか。


「神は、地球上の生物全体の管理人的立場にある人間に、良きに計らうべき力を与えています。が、乱用は許されません。繁殖作用を必要性に応じて抑制するのは結構ですが、必要以上に阻止すべきではありません。人間の知的活動は大自然のエネルギーの均衡を保持するために神が用意した錘(おもり)のようなものです。そこにも人間が動物と大きく異なる点があります。つまり大自然全体の均衡のために人間は、自らを行使して、洞察力を働かせて協力しますが、動物は本性的に与えられている破壊の本能によって無意識のうちに協力しているのです。動物は自己の種の保存のためにのみ生きていながら、あまり繁殖しすぎると危険でさえある動物や植物を餌として食し、結果的に調和の維持に貢献しています」


〈結婚と禁欲〉
――結婚、つまり一対の男女が一個の単位となって生涯を送ることは自然法則に反したことでしょうか。


「人類が成就した進歩の一つです」


――もし一夫一婦制の結婚形態が廃止されたら人間社会はどうなるでしょうか。


「野獣の生活に戻ります」


――離婚の絶対禁止は自然法則に適っているでしょうか、それとも人間のこしらえた法律にすぎないのでしょうか。


「人間がこしらえた法律であり、自然法則に完全に違反します。しかし、人間は法律を少しずつ書き変えています。神の摂理のみが不変絶対です」


――禁欲生活は神の目から見て立派なことでしょうか。


「立派なこととは言えません。利己的な動機から独身生活を送ることは、神はお喜びになりません。社会の一員としての義務を果たしていないからです」


――同じく禁欲生活でも人類の福祉のために一切をなげうつという犠牲的精神から発している場合はいかがでしょうか。


「それはまったく話が別です。私がいけないと言っているのは“利己的な動機”に発している場合です。犠牲的精神から発しているものは、その目的が人のために役立つものであれば称讃に値します。犠牲が大きいほど功績も大きくなります」


訳注――ここでいう“利己的な動機”というのは性欲を諸悪の根源とするキリスト教の教えにこだわって、己の潔癖のみを守る生き方を言っているものと察せられる。


これは真理探究者がうっかりはまる落とし穴で、表面上の意識、つまり頭の中で考えていることの奥に、自分にも気がつかない、自己中心的な思惑が潜んでいることがある。“汝自らを知る”ということは実に難しいことである。

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

 The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



3章 仕事の法則

このページの目次
〈仕事の必要性〉

――仕事の必要性も自然法則でしょうか。


「自然法則の一つです。そのことは、仕事は自然の成り行きでどうしてもせざるを得ないこと、そして文明が進むほど必需品と娯楽が増え、それだけ仕事の量も増えるという事実からも立証されます」


――“仕事”という用語は物的性格の労働と理解してよろしいでしょうか。


「それは違います。霊も仕事をしています。役に立つことは、いかなる性格のものでも仕事と言えます」


――なぜ人類に仕事が課せられているのでしょうか。


「物的生活の必然の結果です。罪滅ぼしの要素もありますが、同時に知性を発達させるための手段でもあります。もしも働くということが無かったら、人類は幼稚な知性のままでしょう。そこで食べるものを獲得し、安全を保ち、健康を維持するために働き活動をするようになっているのです。力の要る労働のできない虚弱な人には、それを補うだけの知性が授けられています。知性の活動も仕事です」


――地球よりも高度に発達した天体でも同様の仕事の必要性があるのでしょうか。


「仕事がどういう性格のものであるかは、その天体の必要性と関連してきます。物質性が少なければ仕事も物質性が少なくなります。だからといって活動がなくなり、何もしなくなるわけではありません。することが無いということは有り難いどころか、苦痛です」


――働こうにも働けない人がいるのではないでしょうか。そういう人の人生はまったく無駄なのでしょうか。


「神は常に公正です。神が罰するのは意図的に無為の人生を送る者だけです。それは他人の世話になるだけの一生に終わるからです。各自がその才能に応じて意義ある存在となるように神は配剤しておられます」
〈仕事の限度と休息〉


――仕事の後には休息が必要であるからには休息も自然の法則の一つではないでしょうか。


「もちろんそうです。休息によって体力が回復し、同時に身体が休むということは精神が自由になることであり、物的束縛から一時的に解放されます」


――仕事の限度は何が目安でしょうか。


「体力の限界です。ですが、神はその点については人間に自由を与えています」


――雇い人のような弱者に権力者が過激な労働を科するのは罪でしょうか。


「重大な罪の一つです。権力を振り回す者は、理不尽な程度に及ぶ時は、それに対する責任を取らされます。神の摂理を侵犯しているからです」


――仕事をしなければ生きて行けないのに、老齢で働けない場合はどうすればよいのでしょうか。


「元気な者が弱った人のために働くべきです。家族の援助が得られない場合は社会が面倒を見るべきです。それが慈悲の法則です」

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch
ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 近藤 千雄 訳




まえがき

 ハンネン・スワッハー・ホームサークルの支配霊シルバーバーチの霊言集はすでに何冊か出ているが、本書はその好評に応えて新たに編纂したものである。

 シルバーバーチは今や世界で最も有名な〝死者〟の一人となっている。その霊言の価値は平凡な日常生活に応用できるという点にある。それがまず第一のメリットであるが、もう一つ、シルバーバーチが一貫して説き続けているのは絶対的な道徳的摂理の存在───全大宇宙のすみずみまで支配し、

いかなる嘆願、後悔、懺悔、そのほか自分の所業がもたらす結果から逃れんとするいかなる方便によっても影響されない法則が存在することを指摘している点である。その法則そのものが自動的にそれに相応しい結果をもたらすと説くのである。

 本書の編纂に当って苦心したのは、膨大な資料の中からどれを削るかということであった。その取捨選択に当って私が心がけたことは、シルバーバーチという古代霊を人類の指導者の名に相応しい存在として浮き彫りにすること───人間の進むべき方向を示し、その道中に生じる困難を避けるのではなく、それと取り組み、それを自らの手で克服していくための心構えを教えてくれる、真の指導者であることを明らかにすることである。

 今は私もレギュラーメンバーの一人であるが、本書に収められた霊言は私がまだメンバーでなかった頃のものである。が、私もその後十分に霊言に親しみ、その真髄が、さまざまな進化の階梯にあるすべての人間が理解し応用することのできる単純素朴な訓えを通して最大限の貢献をすることにある、ということを十分に得心している。古代の哲学者と近代の哲学者との差はたいして大きくはない。

古代の哲学者の方が単純素朴であり、インスピレーションの源を意識していた者が多かったということくらいなものである。が、これから紹介する人物は真理の不滅性と不変性、そしてそれが誰にでも理解できる形で表現できるものであること、そして又その表現法の違いを除いては決して改める必要がないという事実の生き証人である。

つまりシルバーバーチはその訓えを通じて死後の意識的生活の存続を証明し、霊的教訓は決して失われることはないこと、この世とあの世の区別なく人間的体験のエッセンスであること、そして人間の霊性に秘められた可能性が無限であることを教え示すのである。

 良き時代を体験し〝悪しき〟時代にはこの古代霊の叡智の導きを受けた人間の一人として、私はその叡智の抜粋を紹介できることを心からうれしく思う。

私はたいていの思想に親しみ、新旧の宗教のほとんどすべてに通暁しているつもりであるが、素朴さと真実味と実用性の点においてこの霊訓に匹敵するものにでくわしたことが無い。またその説得力の素晴らしさは他の追随を許さないものをもっている。

それはインスピレーションの源に少なくとも一段階、他よりも近いからにほかならない。

 本書の目的は地上の暗闇に光をもたらし、人間に背負わされた重荷を軽減し、生命の大機構を説き明かし、魂の死後存続を証明し、地上世界を美しく且つ祝福された生活の場として再構築することである。それは今まさに読まれんとするこの霊的知識を応用することによってのみ実現されることであろう。
       一九四四年  編者


 訳者注───全十一冊の中で本書だけが〝編者〟 The Editor としてあって氏名が記されていない。表題を H・S・(ハンネン・スワッハー)ホームサークル編としたのは、それが版権の所有者だからである。このシリーズに関するかぎり誰が編纂したかはどうでもよい問題であろう。

要はシルバーバーチの霊言そのものである。私もその点に鑑みて一つの章を内容上から二つに分けたり、前巻でカットしたものを加えたりして日本人向けに理解の便を図ってある。

表題も内容に相応しいものに改めてある。老若男女がいつどこで読んでもすっと理解できるように、というのが私の本シリーズの翻訳に当っての基本方針であり、それがシルバーバーチ霊団の基本的態度でもあるからである。

 以上、英語の勉強もかねて原書で読みたいとおっしゃる方が増えているのでお断りさせていただいた。なお全巻の書名と出版社名は『古代霊は語る』の巻末に紹介してある。(※印は絶版)丸善、紀伊国屋等の洋書部から取り寄せられる。疑問の点、お迷いの点があれば、遠慮なく訳者に問い合わせていただきたい。できるだけの便宜を図ってあげたいと思っている。

 
    
  一章 戦時下の交霊会から

 他の数多くの霊団と同じようにシルバーバーチ霊団も第二次世界大戦中は平和時にくらべて地上との交信にさまざまな困難を味わっている。

メンバーの一人がスペインやエチオピア、中国などでの紛争の時にはとくに目立った問題は起きなかったように記憶するが、なぜ今回の大戦中はそんなに交信が妨げられるのかと質したのに対し、シルバーバーチはこう語った。

(本書の出版は一九四四年であるから、収められた霊言の大半が世界的規模の戦乱の真っ最中であった───訳者)

 「人間が次から次へと死に、しかも地上の愛する者との連絡が取れない状態では、全体の雰囲気が不満に満ちた感情で埋めつくされ、それが霊界との交信の障害となります。私たちは今こうして地上に来ております。その地上の人間が次々と死んでは地上との縁を求めようとすることが障害となるのです。

つまり問題は私たちがこうして地上にいる間のことです。他界した数知れぬ人間が地上との縁を求めます。が、それを受け入れる用意が地上にはありません。そのことが、戦争そのものが生み出す残虐な感情とは別に、大気に不協和音を作り出します。交信がうまく行くのは雰囲気が平静さと調和、受容的な心に満ちている時です。

 残念ながらそういう人は稀です。そこで私たちはこうしたサークル───霊的実在に目覚め、障害となる思念や欲望や感情によって雰囲気を乱すことのない人々の集まりから発生する霊的なエネルギーを頼りとすることになります。私がいつも皆さんに自信を持ちなさい、心配はいけません。

不安を抱いてはいけませんと言い、毅然(きぜん)とした平静さと不屈の精神で困難に対処するように説き、そうした雰囲気の中にあってはじめてお互いが援助し合う条件が整うことを知ってほしいとお願いするのはそのためです。

 私たちは物的な存在ではありません。物的世界との接触を求めているところの霊的な存在です。霊の世界と物の世界には懸隔(ギャップ)があり、それを何らかの媒介によって橋渡しする必要があります。私たちが厄介な問題に遭遇するのはいつもその橋渡しの作業においてです。

それを容易にするのも難しくするのも人間側の精神的状態です。雰囲気が悪いと、私と霊媒とのつながりが弱くなり、私と霊界との連絡も次第に困難となります。わずか二、三本の連絡線によってどうにか交信を保つということもあります。
 
そのうち霊媒が反応をみせなくなります。そうなると私は手の施しようがなくなり、すべてを断念して引き上げざるを得なくなります。私があなた方の忍耐を有難く思い、変わらぬ忠誠心を維持してくださっていることに感謝するのは、そういう理由からです。

 私は当初から、つまり大戦勃発後間もなく交霊会を再開した時からすでに、こうした問題の生じることは覚悟しておりました。一時は果たしてこのまま地上の接触を維持することが賢明か否かを(霊団内で)議論したこともありました。

しかし私は、たとえわずかとはいえ私が携えてきた知識を伝えることにより、力と希望と勇気を必要としている人々にとって私の素朴な霊訓が生きる拠り所となるはずだと決断しました。今私は、もし私たちの霊訓がなかったら今なお困難と絶望の中で喘いでいるかも知れない人々に慰めと力になってあげることが出来たことを知って、うれしく思っております。

しかしそれは決してそう易々とできたことではありません。私たちはこれまでの成果を私たちの功績として誇る気持ちは毛頭ありませんが、これまで私たちを悩ませてきた数多くの困難がいかなるものであったかを皆さんにぜひ認識していただきたいと思って申しあげるのです。

 インスピレーションの全部が伝わることなどおよそ期待できないように思えたことも幾度かありました。そういう時に際して大切なことは、いつの日か、より鮮明な視野が開けるとともにより大きな理解力が芽生えることを信じて、忍耐強く待つことです。我慢することです。

私たちがお教えしたことをひたすらに実践なさることです。私たちにとって、とても辛い時期でした。しかし私は力のかぎりを尽くしてきました。活用できるかぎりの手段を駆使して、少しでも役立つように、少しでも力になってあげられるようにと努力してまいりました。皆さんは地上にいるかぎりこうした皆さんとの協力関係がどこまで成功したかはお判りにならないことでしょう。

魂の底からの感動を覚えた人の数、皆さんの協力によって成し遂げた成果がどの程度のものであるかは、お判りにならないでしょう。が、せめて私の次の言葉だけは信じてください。世界の多くの土地において無知の闇が取り除かれ、大勢の人々の心に新しい確信が宿されたということです」

 
 次に戦争の犠牲者となった人々の霊界での受け入れ態勢について聞かれて────「霊界は実にうまく組織された世界です。各自が持って生まれた才能───地上ではそれが未開発のままで終わることが多いのですが───それが自然な発達の過程を経て成熟し、それぞれに最も相応しい仕事に自然に携わることになります。

(受け入れ態勢のことですが)まず戦争の恐怖が地上を揺さぶっていない平和時においては、不可抗力の死の関門を通ってひっきりなしに霊界入りする者を迎える仕事に携わる男女の霊が大勢おります。迎え方はその人間の種類によってさまざまです。

死後のことについて知っている人の場合、知らない人の場合、知っているといっても程度の差があり、間違っている場合もあります。そうした事情に応じてそれなりの扱い方を心得た者が応対します。そして初め新しい環境に戸惑っていたのが次第に馴染んでくるまでその仕事に携わります。

 実は神の叡智の一つとして各自は地上にいる時から死後の環境に少しずつ慣れるように配慮されております。毎夜眠りに落ちて肉体が休息し、まわりの生活環境が静寂を取り戻すと、その肉体から霊体が脱け出て本来味わうべきよろこびの体験をします。

しかしその体験は(肉体に戻った時は)大半の人間が忘れております。一段と高い素晴らしい世界で、愛する人、愛してくれている人とともに過ごしたことがまったく脳の意識に感応しません。

しかし死という大きな変化を経て新しい世界へ来ると、親和力の働きによって、そういう形で地上時代から馴染んでいた環境へ赴き、霊的本性に印象づけられていた体験を思い出しはじめます。

最初はゆっくりと甦ってきます。そうなるまでの期間は永い人もいれば短い人もいます。一人ひとり違います。それは霊的知識の発達程度によって異なります。言いかえれば、霊的実在についての認識の程度によって異なります。


 正しい認識をもち、すでに地上時代から死後の世界を当然のことと考えていた人は死後、あたかも手袋に手を入れるように、すんなりと新しい環境に馴染んでいきます。

死後に何が待ちかまえているかを知らずに来た者、あるいは間違った固定観念に固執していた者───大勢の案内者を差し向けなければならないのはこの類の人たちです。

各自の必要性に応じて適当な指導霊がつけられます。まったく知らない人であることもありますが、実は永いあいだ地上生活の面倒を見てきた背後霊の一人であることがよくあります。また血縁関係の絆で引き寄せられる霊もいます。霊的な親和性に刺戟されてやって来る場合もあります。

 さて、以上はすべて平和時の話です。これが戦時下になると、いろいろと問題が厄介となります。なにしろ何の準備もできていない、何の用意もしていない人間が大挙して霊界へ送り込まれてくるのですから。みんな自分が死んだことすら知りません。気の毒ですが、その大半はしばらく好きにさせておきます。意識が霊界よりもはるかに地上に近いからです。

手出しができないと観念して側でじっと見つめているのは、私たちにとっても悲しいものです。実に心苦しいものです。しかし、事情が事情だけに、彼らの方に受け入れ態勢が整うまでは、いかなる援助もムダに終わってしまうのです。言わば完全に目隠しをされているのと同じで、われわれの存在が見えないのです。

死んだことにも気づかずに死んだ時と同じ行為を続けております。地上戦で死んだ者は地上戦を、海上戦で死んだ者は海上戦を、空中戦で死んだ者は空中戦を戦い続けます。そしてそのうち───期間は各自まちまちですが───様子が少し変だということに気づき始めます。

 全体としては以前と変わらないのに、気をつけて見るとどうも辻褄が合わない。奇妙な、あるいは無意味なことが繰り返されていることに気づきます。殺したはずの相手が死んでない。

銃を撃ったはずなのに弾丸が飛んで行かない。敵の身体に体当たりしても相手は少しも動かない。触っても気がつかない。大声で話しかけても知らん顔をしている。そしてその光景全体に霧のような、靄のような、水蒸気のようなものが立ち込めていて、薄ぼんやりとしている。

自分の方がおかしいのか相手の方がおかしいのか、それも分らない。時には自分が幻影に迷わされているのだと思い、時には相手の方が幻影の犠牲者だと考えたりします。

が、そのうち───霊的意識の発達程度によってそれが何分であったり何時間であったり何日であったり何ヶ月であったり何年であったり何世紀であったりしますが───いつかは自覚が芽生えます。その時やっと援助の手が差しのべられるのです。

 一人ひとりその接触の仕方、看護の仕方が異なります。自分が死んだことがどうしても信じられない者にもいろんな方法が講じられます。地上と隣接する界層へ連れていき、そこで地縛霊を扱っている霊団にあずけることもあります。

本人の知っている人間ですでに他界していることもよく知っている人のところへ連れて行くこともあります。疑う余地がないわけです。このように同じ目的を達成するにも、さまざまな方法を講じるのです。

 さらには一時的にエーテル体つまり霊的身体を傷められたために看護をしてやらねばならない人がいます。いわゆる爆弾ショックのようなものを受けた者です。

意識が朦朧としており、手当が必要です。こちらにはそういう患者のための施設が用意してあり、そこで適切な手当てをして意識を取り戻させ、受けた打撃を取り除いてやります。あくまで一時的な傷害です。そのことをぜひ強調しておきたいと思います。

地上での死因がいかなるものであれ、それが霊体に永久的な傷害を与えることがあるように誤解されては困るからです。そういうことは絶対にありません。そうした傷害はショックの後遺症にすぎません。正しく矯正すれば跡形もなく消えてしまいます。完全に回復します。 

 もう一つ強調しておきたいことは、みずから望まないかぎり、何の看護もされないまま放っておかれる人は一人もいないということです。迎えに来てくれる人が一人もいないのではないかなどという心配はご無用です。縁故のある人がいますし、それとは別に愛の衝動から援助の手を差しのべようと待機している人も大勢います。

誰一人見捨てられることはありません。誰一人見失われることはありません。誰一人忘れ去られることもありません。素晴らしい法則が全ての人間を管理し、どこにいてもその存在は認知されており、然るべき処置が施されます。地理上の問題は何の障害にもなりません。

こちらには距離の問題がないのです。霊界全体が一つの意識となって、全てを知り尽くしております。地上と霊界との親和力の作用によって、今どこそこで誰が死の玄関を通り抜けたかが察知され、直ちに迎えの者が指し向けらます」


 ───爆弾で死亡した子供はどうなるのでしょうか。

 「子供の場合は大人に比べて回復と本復までの期間がずっと長くかかります。が、いったん環境に適応すると、こんどは大人より進歩がずっと速いのです。回復期は魂にとって夜明け前の薄明かりのような状態ですが、けっして苦痛は伴いません。

そういう印象をもっていただいては困ります。一種の調整期間なのですから・・・・・・つまり魂が新しい身体で自我を表現していくための調整です。それには地上時代の体験が大きく影響するのですが、子供の体験は限られています。そこで本復までの期間が長びくわけです。

そして、念のために申し添えておきますが、たとえば母親が地上に生き残り子供だけが他界した場合でも、地上時代に子供がいなくて母性本能が満たされずに終わった女性がその看護にあたります。こちらへ来てその母性本能を十分に発揮するチャンスが与えられるわけです」


 ─── 地上では子供の方が新しい環境への適応が速いですが・・・・・・
  
 「それは純粋に物的要素に関しての話です。今お話ししているのは霊に関ることです。霊が霊的世界へ適応していく場合のことです。霊的世界は多くの点で物的世界とは大きく異なっており、同時によく似た面もあります。問題は〝自覚〟です。それがすべてであることを理解しなくてはいけません。自覚がすべてのカギです。

私がいつも知識こそ霊にとって掛けがえのない宝であると申し上げていることはよくご存じと思いますが、その知識が自覚を生むのです。こちらは精神の世界です。小さな精神(幼児)もそれなりの適応をしなくてはなりません。

もう一つの要素として償いの問題がありますが、子供の場合は償いというほどのものはありません。子供は地上的体験に欠けていますが、同時に地上的な穢れもないからです」


 ─── 美徳による向上も得られませんね。

 「そこに子供としての埋め合わせの原理が働いているわけです。つまり、良いにつけ悪いにつけ地上的体験がない。しかし、もし長生きしていたら犯していたであろう罪に対する償いをさせられることもないということです」

 ───その埋め合わせもすぐに行われるのでしょうか。

 「それは一概には言えません。子供一人一人で事情が異なります。私はいま償いの法則があることを指摘しているだけです」


 ───もしも子供に地上的な悪の要素が潜在している場合、それはそちらへ行ってから芽を出すのでしょうか。

 「そのご質問の仕方は感心しません。子供に地上的な悪の要素が潜在するというのは事実に反します。何か例をあげてみてください」


 ───例えば大人になったら欲深い人間になったであろうと思われる人間が早世した場合、そちらへ行っても同じように欲深な人間になっていくのでしょうか。

 「問題を正しい視野で捉えないといけません。こちらの世界で自覚が芽生えると、その時からその人は向上の道を歩むことになります。自覚が芽生えるまでは地上で満たされなかった欲望の幻影の中で暮らしています。いったん自覚すると、その〝自覚した〟という事実そのものが、それまでの自我の未熟な側面を満足させたいという欲求に訣別したことを意味します。

〝正しい視野で捉えなさい〟と言ったのはそういう意味です。欲が深いということは、まだ自覚が芽生えていないということを意味し、自覚するまでは、その欲望が満たされると満足するわけです」


 ───でも幼い子供はまだまだ未熟です。

 「私が言わんとしているのは、幼い子供は魂を鍛えるための地上的体験が不足しているために未熟な状態でこちらへ来ますが、同時に彼らには大人になって出たであろう穢れで魂が汚されていない。そうした事情の中で子供なりの埋め合わせの原理が働くということです。子供は性格に染み込んだ穢れを落とす手間が省けるということを言っているのです」


 ───善を知るために地上で悪の体験をしに来るのではないのでしょうか。

 「違います。善を知る目的で悪いことをしに来るのではありません」


 ───でも、私たちは聖人君子の状態で生れてくるわけではないでしょう?

 「それはそうです。しかし恨みを晴らすために、あるいは思い切り貪欲をむさぼることを目的に生れてくるのと、善悪を知らない言わば〝原料〟の状態で生まれてきて一個の製品となっていくのとは意味が違います」

 ───その違いを〝悪行を犯す、犯さない〟で説明できないでしょうか。

 「できないことはありません。ただ私はあなたの表現の仕方に賛成できないのです。私は人間の魂の発達の目標をあなたのおっしゃる〝聖人君子〟となることだとは思いませんし、又、罪悪の恐ろしさを知るために地上へやってきて人類みんなで悪いことをし合うことだとは考えません。

その考えは絶対に間違っています。たしかに中にはある種の悪だくみを抱いて地上へやってくる者もいないではありません。しかし、その数はきわめて限られています。真の悪人といえる人間は、幸いにしてきわめて少数です。罪悪の大半は───それを罪悪と呼ぶならばの話ですが───無知、間違った育ち方、誤った教育、迷信等から生まれているものです」


 ───地上で欲の深かった子供は霊界でもしばらくは欲深で、その意味で地上的体験をしたことにならないでしょうか。

 「あなたがおっしゃるのは、もし子供が生れつき欲が深い場合は、死後もその貪欲性が意識に刻み込まれたままか、ということでしょうか。もしそうでしたら、それは有りうることです。ですが、寿命が短かければその貪欲性の発現するチャンスも少ないわけですから、それだけ矯正が容易ということになります。

地上でほとんど発現しなかった貪欲性と、五十年も七十年も生きて完全にその人の本性の一部となってしまった貪欲性とでは大へんな差があります」

 ここで少し話題が変わって、空襲でいっしょに死亡した家族は霊界でもいっしょかという質問が出た。すると───

 「それは一概には言えません。これは答え方に慎重を要する問題です。落胆される方がいては困るからです。一つには再びいっしょになることを望むか望まないかに掛かっています。

死後の世界での結びつきは結ばれたいという願望が大切な絆となるということ、そして地上では死後あっさりと消滅してしまう絆によって結ばれている家族がいるということを理解ください。

もし家族の間に何か共通したものがあれば───たとえば自然な愛とか情とか友愛といったものがあれば、それによってつながっている絆は切れません。夫婦関係と同じです。地上には結婚というしきたりだけで夫婦である場合がたくさんあります。

霊的には結ばれていないということです。こうした夫婦の場合は死が決定的な断絶を提供することになります。が、反対に霊的次元において結ばれている場合は、死がより一層その絆を強くします。事情によっていろいろと異なる問題です」


 ───死んだことに気づかない場合はどうなりますか。

 「死んだことに気づかない場合はそれまでと同じ状態が続きます。が、こうしたご質問に対しては一概にイエスともノーとも言えないことがたくさんあります。ほかにもいろいろと事情があるからです」

(訳者注──ここではこれ以上のことは述べていないが、他の箇所ではその〝事情〟として、その時点での各自の霊格の差、その後の霊的向上の速さの違い、償わねばならない地上生活の中身───それが原因ですぐさま再生を必要とする場合もありうる───等々があると述べている。

これは他の霊界通信の多くが異口同音に説いていることで、シルバーバーチがさきの答えの中で〝落胆される方がいては困るから〟慎重を要する問題だと言ったのは、総体的に言えば家族的な絆はそう永続きするものではないのに、現段階の人類はあまりに情緒的な絆が強すぎて、むしろそれが向上の妨げにさえなっている事情を踏まえてのことであることを理解すべきである。この問題は断片的にではあるが今後もよく出てくる。)
 

 ───戦死の場合でも、誰がいつ死ぬということは霊界では前もって分っているのでしょうか。

 「そういうことを察知する霊がいます。が、どれくらい先のことが察知できるかはその時の事情によって異なります。愛の絆によって結ばれている間柄ですと、いよいよ肉体との分離が始まると必ず察知します。そして、その分離がスムーズに行われるのを手助けするためにその場に赴きます。

霊界のすべての霊に知られるわけではありません。いずれにせよ、死んだ時───地上からみた言い方ですが───ひとりぼっちの人は一人もいません。かならず、例外なくまわりに幾人かの霊がいて、暗い谷間を通ってくる者を温かく迎え、新しい、そして素晴らしい第二の人生を始めるための指導に当たります」

Friday, April 10, 2026

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book
第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)


2章 祈りの法則

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〈讃仰(さんごう)の祈り〉

――讃仰の祈りとはどのような祈りでしょうか。


「思念の波動を神に近づけるための祈りです。その祈りを通して神に近づくのです」


――それは内部の感性の発露でしょうか、それとも祈りの言葉による産物でしょうか。


「宇宙の大霊の存在への信仰と同じく、内部の感性の発露です」


――やはり自然法則の範疇に入るのでしょうか。


「自然法則の一つです。なぜなら、人間の内部の感性の発露だからです。だからこそ、形式は異なっても、世界中の民族に見られるのです」


――表現形式は不可欠のものでしょうか。


「真実の祈りは心の中での働きです。いかなる形式を用いるにせよ、神の目が常に注がれていることを忘れないことです」


――と言うことは形式も無用ではないということでしょうか。


「見せかけのものでなければ無用ではありません。わざとらしい仰々しい態度や見せかけだけの敬虔な振る舞いを伴った祈りでは、人々を欺くと同時に、想像以上の弊害をもたらします」


――祈りは一人よりも集団で行う方が好ましいのでしょうか。


「思念と感情において親和性のある人々が集まれば善霊を呼び寄せる強力な波動が出せることはご存じと思いますが、それと同じで、祈りの波動も強力となります。だからといって一人での祈りは感心しないという意味に受け取ってはいけません。各自の思念の中において神を崇めることができるのですから」


――生涯を俗世から離れ、悪とも無縁で、ひたすら神を求めて瞑想三昧で過ごす生き方は、神の目から見て賞讃に値するものがあるのでしょうか。


「ありません。そういう人生では他人へ悪事を働くこともないでしょうが、善行もしません。しかも他人への善行がないということそれ自体が悪です。神は子等が神の存在を忘れないように配剤しておられますが(良心の声など)、同時に同胞に対しても果たすべき義務も与えておられます。精神統一と瞑想の行に費やす人生は、神の目から見て賞讃には値しません。そういう人生はその人だけのものであり、人類にとって何の益にもならないからです。いずれ神から、無為に終わらせた人生の穴埋めをするようにとのお達しがあるでしょう」
〈祈願〉


――一般的な意味での祈願とは何でしょうか。


「祈願も讃仰の祈りの一つです。神に祈るということは神の存在を意識することであり、神に近づくことであり、内的自我が神とコミュニケーションを持つことです。祈るということには三つの要素があることを認識してください。すなわち神を讃(たた)えること、神に何かを求めること、そして神に感謝すること、この三つです」


――よくお祈りをする人の中に、時として無愛想だったり、嫉妬深かったり、慈しみや忍耐心に欠ける人、極端な場合は悪徳の固まりのような人すら見かけますが、どう理解したらよろしいでしょうか。


「大切なのはたくさん祈るのではなく正しく祈ることです。今おっしゃったような人は祈りとは長々と言葉を述べることと思い込み、それを自分の欠点とは無関係と思っているのでしょう。彼にとっては言わば日課にすぎず、自己反省の要素は皆無です。効き目がないのは薬ではなく、その使い方を間違っているからです」


――自分の過ちを許してくださいと祈ることには何か意義があるのでしょうか。


「神の目には善か悪かは一目瞭然です。祈ったからといって神の目をごまかせるものではありません。過ちの許しを求める方法は、行いを改めるしかありません。善行が最高の祈りです。行為は言葉に優ります」


――他人のために祈ることに効用があるでしょうか。


「他人のためを思って祈る人の霊力が、力になってあげたいという欲求を通して影響を及ぼします。祈る人の波動によって善霊が引き寄せられ、その善行に加勢します」


――死者の霊および霊界で苦しんでいる霊のために祈ることは意義があるでしょうか。もしあるとすれば、その祈りがどういう形で苦痛を和らげ、あるいは苦しむ期間を短くしてあげることになるのでしょうか。祈りには摂理さえ変える力があるのでしょうか。


「神の摂理そのものは祈りによって何の影響も受けません。しかし、人間から送られてくる祈りの念によって霊の心が慰められます。孤独な霊にとっては自分に関心を向けてくれる人がいることの証であり、その思いが何よりの慰めとなるのです。が、それだけで終わっては何にもなりません。そこから高級霊の出番となります。慰めを得た霊に罪を悔い改め善性を志向する心が芽生えます。その一瞬を狙って高級霊が善性志向を増幅させ、結果的には苦悶の期間を短縮することになります」
〈生(い)け贄(にえ)〉


――祈りにつきものとして太古から生け贄を捧げる儀式がありますが、人類はなぜこんな残酷なことで神を喜ばせようとしたのでしょうか。


「まず第一は、神の概念が幼稚だったこと。第二に、ただの品物よりも生きたものの方が価値があると考え、始めのうちは動物を、やがて人間を捧げるようになりました。あなた方が贈り物をする時、高価なものほど受け取る人は喜ぶと考えるのと基本的にはいっしょです」


――すると、“人身御供(ひとみごくう)”というのは必ずしも残酷なこととは思われていなかったのでしょうか。


「その通りです。その方が神の怒りを鎮める効果が大きいと考えたのです。もちろん誤った神の概念から生まれたことですが……」


――動物の生け贄よりも果物のお供えの方が本当は神の目から見て喜ばしいわけですね?


「血なまぐさい生け贄よりも大地が生み出した果実の方がいいに決まっています。何度も言うように神が嘉納されるのは心です。形ある供物はどうでもよろしい。心の底から発せられた祈りの方が、山と積まれた供物よりも、遥かに神に通じます。くり返します――何事も心が大切です。形式はどうでもよろしい」

シルバーバーチの霊訓(二)

Silver Birch Speaks

Edited by Sylvia Barbanel



十四章 シルバーバーチの祈り

 
    神よ、私たちはあなたの完璧な摂理の背後に秘められた完全なる愛を説き明かさんと努力している者でございます。人類はその太古よりあなたがいかなる存在であるかを想像しながらも、その概念はいつも人間的短所と限界と制約の上に築かれてまいりました。

 宇宙の生命活動を律するその霊妙な叡知を人間は幽かながら捉え、それを人間に理解できる言葉で説明せんとしてまいりました。あなたの性格を人間の全てに共通する弱点と欠点と感情を具えた一個の人間として想像しました。

気に入った者には恩寵を与え、気に入らぬ者には憤怒を浴びせる人間味むき出しの神を想像いたしました。

その後の進化に伴って人間の知識も進歩いたしましたが、この大宇宙を創造した究極の存在について想像したものは真のあなたの姿には遠く及びません。

 無限なる存在を有限なる言葉で表現することは所詮いかなる人間にも不可能なのでございます。あなたの尊厳の神性、あなたの愛と叡知の永続性は、五つの感覚のみの物質の世界に閉じ込められた人間には真実の理解は不可能なのでございます。

 そこで幸いにして実在の別の側面を体験させていただいた私たちは、あなたが定められた摂理の存在を説いているところです。すべてを包含し、すべてを律する法則、不変不朽の法則、無数の生命現象に満ちた宇宙における活動を一つとして見逃すことのない法則、すべての自然現象を律する法則、人間生活のすべてを経綸する摂理に目を向けさせようと致しているところでございます。
 一宗一派に偏った神の概念を棄て、宇宙がいかなる法則によって支配されているかを理解することによって、そこに連続性と秩序とリズムと調和と完全なバランスの観念が生まれてまいります。一人一人が無限なる組織の中の一部であり、自分一個の生命活動もあなたのご計画の中に組み入れられていることを自覚致します。


 私たちの仕事は人間の霊に宿されているところの、人生に輝きを与えるはずの資質、いまだに未知の分野でありながら莫大な可能性に満ち、その活用によって人間生活に豊かさと生き甲斐、荘厳さと気高さ、人生観を一変させてしまう広大なビジョンと精神的飛躍を与えるところの魂の秘奥を明かすことにあります。


 それこそ人間を永遠なるものとつなぐものであり、それこそあなたがお授け下さった神聖なる属性であり、それを開発することが少しでもあなたに近づき、存在の意義を成就し、あなたの遺産を相続することになるものと信じるのでございます。

 かくの如く私たちは人間の霊的成長を促す分野に携わる者です。そこが人間がこれまで最も無知であった分野だからでございます。その無知の暗闇を払いのけることによって初めてあなたの真理の光が人類の水先案内となりうるのです。

闇の存在はことごとく消え去り、あなたの御子たちは、あなたの意図された通りに自由に堂々と、神性を宿す者に相応しい生き方に立ち帰ることでございましょう。

 ここに、ひたすらに人類のためをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。                           シルバーバーチ



 〝霊〟spirit と〝魂〟 soul ─── あとがきに代えて ───訳者

 本書は霊媒モーリス・バーバネルの未亡人シルビアの編纂した Silver Birch Speaks(シルバーバーチは語る)の翻訳である。夫人とは今なお文通による交際を続けているが、さすがに寄る年波には勝てないことが文面から窺えて無常感を禁じ得ない。

 さて「霊訓」(一)がシルバーバーチの説教が主体となっているのに対し、本書は質疑応答が主体となっている。質問者もレギュラーメンバーのほかに招待客が多く、その顔ぶれも政治家から映画スター、霊媒、心霊治療家、学校の教師と多彩である。

その質問の中に日ごろから疑問に思っていたことを発見された方も多いのではなかろうか。筆者も訳していきながら、洋の東西を問わず人間の考えることは同じだと、つくづく思わされることが多い。

 さて筆者のもとにも読者からいろいろと質問が寄せられる。その一つが〝霊〟と〝魂〟はどう違うのかという質問である。これは実は筆者自身にとっても永年の課題であった。

西洋でも古くからさまざまな意味で ─── 悪く言えば各自の勝手な解釈で─── 用いられてきて混乱しているからであるが、近代スピリチュアリズムによって霊界の事情が明らかにされてからその本来の意味が根本的に改められつつあるからでもある。

 そのスピリチュアリズムにおいてもまだ正式な定義づけが為されているわけではなく、相変わらず曖昧さを残したまま各自が自分なりの用い方をしているので、今それを総合的に扱うわけにはいかない。そこで私はシルバーバーチの霊言集を読んだ限りにおいて理解していることを述べて参考に供したい。

 実は本書の最後の章の質問の中に〝霊とは何か〟というのがあった。私は以前からこの問題について私見を述べたいと思っていたので、その質問と答えの項をわざとカットしてこの解説のために取っておいた。これからその部分を紹介する。  


─── 魂 Soul とは何でしょうか。
 「魂とは全ての人間が身にまとっている神の衣です。魂とは神が子等に授けた光です。魂とは各自がこの宇宙における機能を果たすことを可能ならしめる神の息吹きです。魂とは生命力の火花です。存在の源泉です。

それがあなたを宇宙の大霊と結びつけ、すべての生命現象を経綸する無限なる存在の一部たらしめております。魂はあなたが永遠にまとい続ける不滅の衣です。

あなたがその魂であると言ってもよろしい。何となれば魂がすなわちあなたという存在そのものであり、反省し、考え、決断し、判断し、熟考し、愛するのはその魂です。ありとあらゆる側面を持っております」


 さて筆者が理解する限りにおいて言えば、このシルバーバーチの答えの中の〝魂〟はそのまま〝霊〟と置きかえることができる。

事実シルバーバーチは人間の構成要素を〝肉体(ボディ)と精神(マインド)と霊(スピリット)〟と言ったり〝肉体と精神と魂(ソウル)〟と言ったりしている。ではいつでも置きかえが可能かというとそうではない。この場合も the Soul と言いa Soul とは言っていないことに注意しなければならない。

 英語の専門的な説明になって恐縮であるが(これがカギになることなので敢えて説明させていただくが)、たとえば〝犬は忠実な動物である〟と言う場合、犬という種族全体を総合的に指す時は The dog is a faithful animal と〝the〟を冠し、個々の犬を指す時は A dog is a faithful animal と〝 a〟を冠する。

Soul の場合も同じで、〝魂とは何か〟というように普遍的に扱う時は What is the Soul? と言い、〝彼は偉大な魂である〟と特定するときは He is a great soul という言い方をする。これは霊 Spirit についても同じである。


 こうしたことから私は、たとえば空気と風は本質的には同じものでありながら前者は〝静〟の状態を指し後者は〝動〟の状態を指すように、シルバーバーチの言う〝神から授かった衣〟を静的に捉えた場合、言わば陰の状態を魂と呼び、動的に捉えた場合つまり陽の状態を霊と呼んでいると解釈すればほぼ納得がいくのではないかと思う。

〝ほぼ〟と断ったのは各宗教、各思想によってそれぞれの解釈の仕方があるからには普遍的な言い方で断定はできないからである。

 たとえば〝動物には魂はあるが霊はない。魂の上に霊を宿したのが人間である〟とする思想がある。個人的には筆者は神道の〝霊・魂・魄(はく) ─── 一霊・四魂・五情〟の思想に注目している一人であるが、これにも用語の概念上の問題がある。

その点シルバーバーチは〝生命のあるところに霊がある。霊はすなわち生命であり、生命すなわち霊である〟という言い方をして、霊を普遍的な生命原理とすることがある。シルバーバーチを読んでいく上においては、あまり用語上の区別にこだわらない方がよいと思う。少し無責任な言い方ではあるが・・・・・

 この問題に限らず、シルバーバーチを読むに当たって是非認識しておいていただきたいことは、シルバーバーチの基本姿勢は難しい理屈はヌキにして、死後にも続く生命の旅の出発点としての地上生活を意義あるものにする上で必要最小限の霊的真理を誰にも分かる形で説くということである。

たとえばテレビになぜ映像が映るのかという理屈はどうでもよろしい。スイッチの入れ方と消し方さえ知っておればよろしい、といった態度である。

たしかにわれわれ凡人の生活は大半がそういう生き方で占められている。いや、凡人に限らない。最高の学識を具えた人でも本当のところは何も分かっていないというのが実情のようである。

 先日のテレビで〝物質とは何か〟という題でノーベル賞を受賞した三名の物理学者によるディスカッションがあった。三人の他にも資料映像の中に多数の学者が出て意見を述べていたが、結局のところ〝物質の究極の姿はまだよく分からない〟ということであった。

物質という、われわれ人間がとっぷりと浸っている世界の基本的構成要素すらまだ解明されていない。

となれば、原子核だの素粒子だのクォークだのといった難しい用語による説明は皆目わからなくても、われわれにとって物質とは五感で感じ取っているものを現実として受けとめればよいのであって、それが仏教という〝空〟であろうと物理学でいう〝波動〟であろうと、それはどうでもよいという理屈も一応通るはずである。

事実、考えてみるとわれわれ人間はまさに〝錯覚〟の中で暮らしているようなものである。太陽は東から昇って西に沈んでいる。地球は地震のとき以外はいつも静止している。味覚も舌の錯覚であるが、やはり美味しいものは美味しいし、まずいものはまずい。

 ここで思いだすのは筆者の大学時代、原子物理学が急速な進歩を遂げつつある時期であったが、あるとき物理学部に籍を置く上級生と語り合った中で私が、物質の構造や宇宙の姿を扱っていると神秘的な気持になられることはありませんかと尋ねたところ、その先輩は言下に〝イヤ、そんなことはないよ。すべて理論的に説明が付くんだよ〟と言われて、そのまま話を進めるのをやめたことがある。

 それから三十年たった今、先のテレビディスカッションに出席した物理学者の一人が最後に(言葉はそのままではないが)こんな意味のことを述べた ─── 物質の宇宙をどんどん探っていくうちに、その構造の完璧さと美しさにふれて、それが偶然にそうなったとは思えない、何かそれをこしらえた神のようなものの存在をどうしても考えたくなる時があります、と。

それを聞いて私はこの人は、a great soul だと思った。と同時に、恩師の間部詮敦氏が、うかうかしていたら科学者から神の存在を指摘される時代が来ますよ、と言われたのを思い出した。その時代がもうだいぶ近づきつつあるようである。

 以上、霊と魂について結論らしい結論は出し得ないが、洋の東西を問わず昔から魂と霊とが区別されて用いられてきているからには、細かく分析すれば学理的に区別しなければならない要素があるのであろう。

 が、私個人としてはその区別については、先に述べた以上には拘りたくない。少なくともシルバーバーチの翻訳に当たっては、あまり理屈っぽくならないようにと心掛けているところである。シルバーバーチも次のように述べている。

 「(私が単純な霊的真理しか説かないのは)難解な問題を避けたいからではありません。今すぐにでも応用のきく実用的な情報をお届けすることに目的をしぼっているからです。基本の基本すら知らない人々、真理の初歩すら知らない人が大勢いることを思うと、もっと後になってからでも良さそうな難解な理屈をこねまわすのは賢明とは思えません」

 なお本書は全部で十六章から成っているが、そのうち二章を私の判断で「霊訓」(三)以降にまわした。「シルバーバーチ・シリーズの刊行に当たって」の中でもお断りしたように、シリーズ全体のバランスを考える必要から、日本人の読書感覚に合わせて時たまそういう按配をすることもあることを改めてお断りしておきたい。

一九八五年十月            近藤 千雄