Tuesday, October 13, 2026

霊訓〈完訳・下〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。




23節

本節の内容
*神の啓示の歴史的系譜
*メルキゼデクよりキリストに至る流れ
*“モーセ五書”
*旧約聖書の大半は伝説と神話の寄せ集め
*啓示も人類の知性と共に進化する
*人間的想像と誤謬に埋もれた素朴な真理を明らかにするのが霊団の使命


〔一八七三年十一月二日。私が提出した質問が無視され、バイブルに記録が見られる時代のキリスト教系全体の神の啓示の発達のあとを本格的に解説して来た。これが、並行して進行している多くの啓示のうちの一つであることは以前から予告されていた。〕


これよりわれらは古き時代においてわれらと同じく人間を媒体として啓示が地上にもたらされた過程について述べたく思う。聖書に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がいる。彼らは地上にありては真理と進歩の光として輝き、地上を去ってのちは後継者を通じて啓示をもたらしてきた。その一人――神が人間に直接的に働きかけるとの信仰が今より強く支配せる初期の時代の一人に、そなたたちがメルキゼデク(1)の名で知るところの人物がいた。彼はアブラム(2)を聖別(3)して神の恩寵の象徴たる印章を譲った。これはアブラムが霊力の媒体として選ばれたことを意味する。当時においては未だ霊との交わりの信仰が残っていたのである。彼は民にとりては暗闇に輝く光であり、神にとりては、その民のために送りし神託の代弁者であった。

ここで今まさに啓発の門出に立つそなたに注意しておくが、太古の記録を吟味する際には、事実の記録と、単に信仰の表現に過ぎぬものとを截然と区別せねばならぬ。初期の時代の歴史には辻褄の合わぬ言説が豊富に見うけられる。それらは伝えられる如く秀でたる人物の著作によるものではなく、歴史が伝説と混り合い、単なる世間の考えと信仰とがまことしやかに語り継がれた時代の伝説的信仰の寄せ集めに過ぎぬ。それ故、確かにそなたらの聖書と同様にその中に幾許かの事実は無きにしもあらずであるが、その言説の一つ一つに無条件の信頼を置くことは用心せねばならぬ。これまでのそなたはそれらの説話を絶対的同意の立場より読んできた。これよりは新しき光――より益多くして興味浅からぬ見地より見る必要があろう。

神は“創世記”に述べられたるが如き、神人同形同性説的なものではない。またその支配は相応しき霊を通して行なわれてきたのであり、決して神自らが特別に選びし民のみを愛されたのではない。

神と人間との結びつきはいつの時代にも一様にして不変である。すなわち、人間の霊性の開発に応じて緊密となり、動物的本能が強まればそれだけ疎遠となり、肉体的並びに物質的本能の為すがままとなる。

かの初期の時代において、選ばれしアブラムに神の聖別を与えたのがメルキゼデクである。が、キリスト教徒もマホメット教徒も挙(こぞ)って称(たた)えるそのアブラムはメルキゼデクの如き直接の霊的啓示には与(あずか)らなかった。アブラムはその死と共に影響力を失い、在世中のみならず死後も、人間界に影響と言えるほどのものは及ぼしていない。そなたには不審に思われることかも知れぬが、地上にその名を馳せたる霊の中にも同じ例が数多くあるのである。地上での仕事が終わりてのち、地上と係われる新たな仕事を授からぬことがある。在世中の仕事に過ちがあったのかも知れぬ。そして死後その霊的香気を失い、無用の存在となり果てることもある。

メルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者、イスラエルの民をエジプトより救い出し、独自の律法と政体を確立せる指導者モーセを導いた。霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強大なる人物であった。当時すでに、当時としては最高の学派において優れた知的叡智――エジプト秘伝の叡智が発達していた。人を引きつける彼の強烈な意志が支配者としての地位に相応しき人物とした。彼を通じて強力なる霊団がユダヤの民に働きかけ、それが更に世界へと広がっていった。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成せしめ、政治的体制を入念に確立し、法と規律を制定した。その時代はユダヤ民族にとりては他の民族も同様に体験せる段階、そして現代も重大なる類似点を有する段階、すなわち古きものが消え行き、霊的創造力によって全てのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階にあったのである。

ここにおいてもまた推理を誤ってはならぬ。モーセの制定せる法律はそなたらの説教者の説くが如き、いつの時代にも適用さるべき普遍的なものではない。その遠き古き時代に適応せるものが授けられたのである。すなわち当時の人間の真理の理解力の程度に応じたものが、いつの時代にもそうであった如く、神の使徒によりて霊的能力を持つ者を通して授けられたのである。当時のイスラエルの民にとりて第一に必要な真理は、彼らを支配し福祉を配慮してくれるのは唯一絶対神であるということであった。エジプトの多神教的教説に毒され、至純なる真理の宿る霊的奥義を知らぬ民に、その絶対神への崇敬と同胞への慈悲と思いやりの心を律法に盛り込んだのである。

今日なお存続せるかの「十戒」は変転きわまりなき時代のために説かれた真理の一端に過ぎぬ。もとよりそこに説かれた人間の行為の規範は、その精神においては真実である。が、すでにその段階を超えた者に字句どおりに適用すべきものではない。かの「十戒」はイスラエルの騒乱より逃れ、地上的煩悩の影響に超然とせるシナイ山の頂上にてモーセの背後霊団より授けられた。背後霊団は今日の人間の忘却せるもの――完全なる交霊のためには完全なる隔離が必要であること、純粋無垢なる霊訓を授からんとすれば低次元の煩雑なる外部からの影響、懸念、取越苦労、嫉妬、論争等より隔絶せる人物を必要とすることを認識していたのである。それだけ霊信が純粋性を増し、霊覚者は誠意と真実味をもって聞き届けることが出来るのである。

モーセはその支配力を徹底せしめ民衆に影響力を行き渡らせる通路として七十人もの長老――高き霊性を具えたる者――を選び出さねばならなかった。当時は霊性の高き者が役職を与えられたのである。モーセはそのために律法を入念に仕上げ、実行に移した。そして地上の役目を終えて高貴な霊となりたる後も、人類の恩人として末長くその名を地上に留めているのである。

メルキゼデクがモーセの指導霊となりたる如く、そのモーセも死後エリヤ(4)の指導霊として永く後世に影響を及ぼした。断っておくが、今われらはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示さんがために、他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。また、その巨大な流れの中に数多くの高級霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最少限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去りたるのちも引き続き地上へ影響を及ぼしている事実を強く指摘せんとしているところである。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。が、それは今のそなたには係わりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大なる流れこそそなたにとりて最大の関心事であろう。もっともそれをもって真理の独占的所有権を主張するが如き、愚かにして狭隘なる宗閥心だけは棄てて貰わねばならぬ。

偉大なる指導者エリヤ、イスラエル民族の授かれる最高の霊はかつての指導者モーセの霊的指揮下にあった。ユダヤ民族が誇るこの二人の指導者への崇敬の念は、神がモーセの死体(からだ)を隠し、一方エリヤを火の馬車に乗せて天国へさらって行ったという寓話にも示されている(5)。崇敬の念のあまりの強さがこうした死にまつわる奇怪な話を生んだのである。指摘するまでもないと思うが、霊が生身の肉体を携えて霊の世界に生き続けることは絶対にない。偉大なる仕事を成し遂げたる霊が次の世界より一段と強力に支配することを教えんが為の寓話に過ぎぬ。エリヤはその後継者エリシャ(6)に己の霊を倍加して授けたという。が、それはエリシャが倍加された徳を賦与されたという意味ではない。そのようなことは有り得ぬことだからである。そうではなく、エリヤの霊力による輝ける業績が後継者の時代に倍の勢力をもって働きかけ、エリシャがそれを助成し実践していったという意味であった。

そのエリヤもまた後の世に地上に戻り指導に当たった。そなたも知る如く、かの“変容(7)”の山上にてモーセと共にキリストの側(そば)にその姿を見せた。二人はその後ヨハネにも姿を見せ、それよりのちにも再び地上を訪れることを告げたとある。


〔私はこの通信の書かれた十一月二日の時点では最後の一文にあるような、二人がのちに再び地上に戻ると述べたということが全く理解できなかった。それがヨハネ黙示録11-3、その他に出ている“二人の証人”のことであることが分かったのは最近のことで、それも私の無名の友人が送って来たヨハネ黙示録に関する小論文を読んで始めてそれと気づいたことで、もしもその小論文を見なかったら知らずじまいになるところであった。その小論文はたまたまその二人の証人と二人の予言を扱ったもので、私にとっては実にうまい時機(タイムリー)に届けられたのだった。

右の通信で私はいろいろと質問をしたが、その中でメルキゼデクの前にも神の啓示を受けた霊覚者がいたかどうかを尋ねた。すると――〕


無論である。われらは最後にイエスに至る流れの最初の人物としてメルキゼデクを持ち出したに過ぎぬ。その流れの中でさえ名を挙げることを控えた人物が大勢いる。すでに述べた如く、その多くが神の啓示を受けていた。エノク(8)がその一人であった。彼は霊覚の鋭き人物であった。同じくノア(9)がその一人であった。もっとも、霊覚は十分ではなかった。デボラ(10)も霊覚の鋭き人物であり、歴史にて“イスラスルの士師”と呼ばれる行政官はすべて、霊感の所有者であるという特殊の資格をもって選ばれたのであった。そのことにつきて詳しく述べる余裕はない。ユダヤの歴史に見られるその他の霊力の現われにつきては、こののち述べることもあろう。今はまずその古き記録全般に視点を置き、さらにその中の霊的な流れの中から(イエスに連なる)一つだけに絞っていることを承知されたい。


――あなたはそうした古い記録は文字どおりに受け取ってはならぬとおっしゃったことがあります。“モーセ五書(11)”のことですが、あれは一人の著者によるものでしょうか。


あの五書はエズラ(12)の時代に編纂されたものである。散逸の危険にあった更に太古の時代の記録を集め、その上に伝説または記憶でもって補充した部分もある。モーセより以前には生の記録は存在せぬ。「創世記」の記録も想像の産物もあれば伝説もあり、他の記録からの転写もある。天地創造の記述や大洪水の物語は伝説に過ぎぬ。エジプトの支配者ヨセフ(13)に関する記述も他の記録からの転写である。が、いずれにせよ現在に伝えられる“五書”はモーセの手になるものではない。エズラとその書記たちが編纂したものであり、その時代の思想と伝説を表わしているに過ぎぬ。もっとも、モーセの律法に関する叙述は他の部分に比して正確である。何となれば、その律法の正確な記録が聖なる書として保存され、その中より詳細な引用が為されたのである。かく述べるのは、論議の根拠として“五書”の原文が引用された際に一々その点を指摘する面倒を省くためでもある。記録そのものが字句どおりに正確ではないのである。ことに初めの部分などは全く当てにならず、後半も当てになるのは正確な記録が残っていたモーセの律法に関する部分のみである。


――想像の産物だとおっしゃいましたが。


散逸せる書を補充する必要があり、それを記憶または伝説から引き出したという意味である。


――アブラハム(14)のことは簡単にあしらっておられるようですが。


そういうわけではない。神の使者としてその霊的指導に当たれるモーセに比して霊格の程度が低かったというに過ぎぬ。こうした問題を扱う上において、われらは一々人間界の概念にはこだわらぬ。アブラハムは人間界ではその名を広く知られているが、われらにとりては、さして重要なる存在ではない。


――エノクとエリヤの生身での昇天――あれは何だったのでしょう。


伝説的信仰に過ぎぬ。民衆の崇敬を得た人物の死にはとかく栄光の伝説がまとわりつくものである。太古において民衆に崇められ畏敬の念をもってその名が語られた人物は、生身のまま天の神のもとへ赴いたとの信仰が生まれたものである。霊力の行使者であり、民衆の最高指導者であったモーセもその死に神秘なる話が生まれた。生前においては神と直接(じか)に親しく話を交わし、今やその神のもとへ赴いたと信じられた。同様に、人間的法律を超越し、何一つ拘束力を知らず、あたかも風の如く来り風の如く去った神秘的霊覚者エリヤ――彼もまた生身のまま天へ召されたと信じられた。いずれの場合もその伝説の根底にある擬人的神と物的天国の観念による産物であった。前にも述べた如く、人間は神と天国に関してその霊的発達程度以上のものは受けとめることは出来ぬ。古代においては神を万能の人間――すべての点で人間的であり、更にその上にある種の特性、人間の自然の情として更にかく有りたいと憧れる特質を具えた人間として想像した。言い換えれば人類の理想像にある特性を付加し、それを神と呼んだのであった。これは決して嘲笑(あざわら)うべきことではない。程度こそ違え人類の歴史は同じことの繰り返しである。すべての啓示は、元は神より出でても生身の霊覚者を通過し、しかもその時代の人類の発達程度に適合させねばならぬ以上、人間的愚昧の霧によりて曇らされるのは必定である。それは地上という生活環境においては避け難き自然な結果と言うべきである。そこで人間の知識が進歩し叡智が発達するに従い、当然、神の観念も改められることを要する。人間がその必要性を痛感して始めて新たなる光が授けられるのである。(そなたらの中には神と霊的生活と進歩に関してわれらの教説からは何一つ学ぶものはないと言う者がいるが、その者たちには今述べたことが最良の回答である。)

天国についても同じである。そなたらは前時代の者が想像し来れる天国の概念を大幅に改めて来た。今どき生身のまま天国の館に赴くなどと信ずる愚か者はおるまい。地上にて崇められたる人物が生身を携えて擬人的神のもとへ昇天して行くなどと信じた時代はもはや過去のものとなった。まさかそなたはその生身を携えて全知全能の神のまわりにて、あたかも地上でするが如くに、讃美歌三昧に耽るなどとは想像すまい。そのような天国は根拠なき夢想に過ぎぬ。霊の世界へ入るのは霊のみである。肉体のまま天空のどこかへ連れて行かれ、そこで地上とまったく同じように、人間と同じ容姿の神、ただ能力において人間を超越しているというに過ぎぬ神のもとで暮らすなどという寓話は、そなたはすでに卒業しているであろう。そのような天国は預言者ヨハネに象徴的に啓示された天国像からの借用に過ぎぬ。そのような神が存在するわけのないことくらいはそなたにも判るであろう。昇天の時(死)は全ての善人に訪れる(15)。が、生身のままではない。地上の務めを終えた疲れ果てたる身体より脱け出で、栄光ある魂としてより明るき世界、いかなる霊覚者の想像をも絶する輝ける天国へと召されるのである。


――伝説の中にもあとで事実であったことが判明したものが沢山あります。問題は事実と伝説とを見分けることが困難なこと、毒草を抜こうとして薬草までいっしょに抜いてしまう危険があることです。神話の中にもちゃんとした意味をもち、立派な真理を含んだものがあります。


それはその通りである。そなたらが聖なる記録としているものの中に混入せる伝説は、多くの場合、偉大なる人物にまつわる迷信的信仰である。神話の中に真理の核が包蔵されていることも事実である。これまでも度々指摘したことであるが、人間はわれらの如き霊とその影響力と目的に関して余りに誤れる概念を抱いてきた。その原因には人間としてやむを得ぬ要素もあるが、克服できる要素もある。知性の幼稚な段階においては、その知性の理解力を超えたものは絶対に理解できぬのが道理である。

それはやむを得ぬことである。それまで生きて来た環境、体験せる唯一の環境と全く異なれる環境の霊的生活を正しく想像できるわけはない。そこで図解と比喩をもって教えねばならぬことになる。これもやむを得ぬことである。ところが人間は比喩として述べた言葉と観念をそのまま掻き集め、そこから辻褄の合わぬ愚かなる概念を築き上げる。これよりのちそなたも、知識の進歩と共に、その過程をより一層明確に理解することになるであろう。

また人間は神の啓示は全て普遍的適用性をもち、一字一句に文字通りの意味があるものと思い込んで来た。われらの説き方はいわば親が子に教えるのと同じであることが判らなかった。抽象的な真理の定義を説いても子供の頭では理解できぬ。子供は教えられた事柄をそのまま受け止める。それと同じ態度で人間は啓示の一言一句をあたかも数学的かつ論理的に正確なるものとして受け止め、その上に愚かにして自己矛盾に満ちた説を打ち立てる。子供は親の言葉を躊躇なく受け入れ、それを金科玉条とする。それが実は譬え話であったことを知るのは大人になってからのことである。人類も神の啓示を同じように扱ってきた。比喩的表現に過ぎぬものを言葉どおりに解釈してきた。謬りだらけの、しかも往々にして伝説的記録に過ぎぬものを数学的正確さをもって扱ってきた。かくして今なお嫉妬に狂う神だの、火炎地獄だの、選ばれし者のみの集まる天国だの、生身のままの復活だの、最後の審判だのという愚か極まる教説を信じ続けている。これらはいわば幼児の観念であり、大人になれば自然に卒業していくべきものである。霊性において成人せる人間はすべからくそうした幼稚なる概念を振り棄て、より高き真理へと進まねばならぬ。

然るに現実は、原始的迷信、愚か極まる作り話がそのまま横行している。想像力に富める民族が描ける誇張的映像がそのまま事実として受け入れられている。数々の空想と誤謬と真理とがまさに玉石混淆となり、より高き真理を理解せる理知的人間にはとても付いて行けぬ。そうした支離滅裂の寄せ集めを一つに繋いでいるものは他ならぬ信仰心である。われらはその信仰心を切断し、信仰心のみで無批判に受け入れて来たものを理性でもって検討し直せと言っているのである。きっとその中には人類の幼児時代より受け継がれた人間的産物を多く見出すであろう。煩わしく且つ無益なるものに反撥することであろう。が、同時に、その残りの中に理性に訴えるもの、体験によりて裏付けされたもの、そして神より出でしものを発見するであろう。父なる神が子なる人間に用意せる計画の一端を暗示するものを手にすることであろう。が、今のそなたにはそれ以上のことは叶わぬ。そなたは、今のその心に余りに多く巣くうところの愚かなる誤謬と誤解より解放された新しき局面を切り開くことのみで佳しとせねばならぬ。過去は根本においては現在へ投げかける照明として、そしてまた未来を照らす仄(ほの)かなる光としての価値を有するものであることを、そなたもそのうち次第に認識していくことであろう。

これで判っていただけるであろうが、われらの現在の仕事の目的もそこにある。すなわち神と生命と進化につきてそなたたちがこれまで抱いて来た思想を一層純粋なるものに近づけ、恥ずべき要素を排除することである。そのためにはまずそなたたちの教義の中の誤りと、神的真理として罷り通って来た人間的想像の産物と、理性的には反撥を覚えつつも信仰心によって受け入れられ、今や歴史的事実の如く結晶してしまった伝説を指摘せねばならぬのである。われらとしてはそなたらの側に忍耐強き真摯なる思考を要求する他はない。またわれらの為すことを全て破壊的と受け取ってはならぬ。夾雑物が取り除かれれば建設も可能となろう。それまでは、もしもそなたの目にわれらが破壊的思想を撒き散らしていると見えるならば、それはより神々しき神の、より崇高なる神殿、より聖なる聖堂を築かんがための予備工事として、まず夾雑物を掻き集め、それを取り除かんとしているに過ぎぬと理解されたい。

(†インペレーター)


〔注〕

(1)Melchizedek 古代都市サレムの王で祭司。(旧約聖書「創世記」14:18)
(2)Abram アブラハムの元の名で、ユダヤ人の始祖。
(3)聖なる使用に当たるために世俗から離すこと。
(4)Elijah 紀元前九世紀ごろのヘブライの預言者。
(5)旧約聖書はこの二人にまつわる話が大半を占める。
(6)Elisha 同じく預言者。
(7)ある日キリストが弟子たちと共に高い山に登った時、この世のものとも思えぬ神々しい姿に変わったという。(マタイ17:1~13、マルコ9:2~13)
(8)Enoch.
(9)Noah.
(10)Deborah.
(11)旧約聖書の最初の五書のこと。すなわち「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」。
(12)Ezra 紀元前五世紀ごろのヘブライの律法学者で祭司。
(13)Joseph (「創世記」30:22~24)
(14)Abraham 前出のアブラムと同一人物。
(15)仏教的に言えば、迷わず成仏する、ということ。

シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch

Edited by A.W. Austen
近藤 千雄訳



九章 神は愛の中にも憎しみの中にも

 シルバーバーチの説く神の概念はスピリチュアリストにとっても当惑させるものを含んでいる。常識的な愛と善のみの神の概念から、善も悪も、愛も憎しみも超越した〝法則〟としての存在を説くからである。その真意を次の問答から理解していただきたい。(同じ編者による Teachings of Silver Birch からの抜粋と組み合わせて構成した───訳者)


───神とは何でしょうか。あるいは何者でしょうか。それは愛───すべての者に宿る愛の精神、ないしは感覚でしょうか。

「神とは宇宙の自然法則です。物的世界と霊的世界の区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛であり、完全なる叡智です。神は宇宙のすみずみまで行きわたっております。人間に知られている小さな物的宇宙だけではありません。まだ知られていない、より大きな宇宙にも瀰漫しております。

  神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。全法則に宿っております。神は宇宙の大霊です。神は大生命です。神は大愛です。神は全存在です。僕にすぎないわれわれがどうして主人(あるじ)を知ることを得ましょうか。ちっぽけな概念しか抱けないわれわれにどうして測り知れない大きさを持つ存在が描写できましょう」


───神はすずめ一羽が落ちるのもご存知であると教わっています。ですが世界の莫大な人口、いわんやすでに他界した幾百億と知れぬ人間の一人ひとりに起きることを細大もらさず知ることがどうして可能なのでしょうか。

  「神と呼ばれているところのものは宇宙の法則です。それはすべての存在に宿っております。すべての存在が神なのです。各自の魂が自分を知っているということは神がその魂を知っているということです。すずめが神であるということは神がすずめを知っているということです。

神が風に揺れる木の葉に宿っているということは、その木の葉が神であるということです。あなた方の世界と私たちの世界、まだ人間に知られていない世界を含めた全宇宙が神の法則の絶対的支配下にあります。その法則を超えたことは何一つ起きません。すべてが自然法則すなわち神の範囲内で起きているのですから、すべてが知れるのです」


───あなたは神がすべてに宿る───全存在の根源であるから愛にも憎しみにも、叡智にも不徳にも神が宿るとおっしゃいます。そうなると、過ちを犯す者も正しいことをする人間と同じように神の法則の中で行っていることになります。

愛と平和を説く者と同じく、憎悪と戦争を説く者も神の法則の中で行動していることになります。すべてが神の法則の一部である以上、その法則に違反する者もいないことになってしまいますが、この矛盾をどう説明されますか。

 「完全が存在する一方には不完全も存在します。が、その不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生れるのです。完全は完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。

 生きるということは進化することです。前に向かって進むことであり、上へ向かって努力することであり、発達であり開発であり発展であり進展です。あなた方のおっしゃる善も悪もその進化の行程における途中の階梯に過ぎません。終りではありません。

あなた方は不完全な理解力でもって判断しておられます。その時点においては善であり、その時点においては悪だと言っているに過ぎません。それはあなただけに当てはまる考えです。あなたと何の係わりもなければ、また別の判断をなさいます。とにかく神は全存在に宿っております」


───では神は地震にも責任を負うわけですか。

 「神は法則です。万物を支配する法則です。法則が万物を支配しているのです。宇宙のどこにもその法則の支配を受けないものは存在しません。

 地震、嵐、稲妻───こうしたものの存在が地上の人間の頭脳を悩ませていることは私も承知しております。しかしそれらもみな宇宙の現象の一部です。天体そのものも進化しているのです。この天体上で生を営んでいる生命が進化しているのと同じです。

物質の世界は完全からはほど遠い存在です。そしてその完全はいつまでも達成されることはありません。より高く、あくまでも高く進化していくものだからです」


───ということは神も進化しているということでしょうか。

 「そうではありません。神は法則でありその法則は完璧です。しかし物質の世界に顕現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。忘れてならないのは地球も進化しているということです。地震もかみなりも進化のしるしです。地球は火焔と嵐の中で誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。

 日没と日の出の美しさ、夜空のきらめく星座、楽しい小鳥のさえずりは神のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は神のものではないなどと言うことは許されません。すべては神の法則によって営まれていることです。

 それと同じ寸法であなた方は、神が存在するならばなぜ他人に害を及ぼすような邪悪な人間がいるのかとおっしゃいます。

 しかし人間各個に自由意志が与えられており、魂の進化とともにその活用方法を身につけてまいります。霊的に向上しただけ、それだけの多くの自由意志が行使できるようになります。あなたの現在の霊格があなたの限界ということです。

しかし、あなたも神の分霊である以上、人生のあらゆる困難、あらゆる障害を克服していくことができます。霊は物質に優ります。霊が王様で物質は召使です。霊がすべてに君臨しております。全生命のエッセンスです。つまり霊は生命であり、生命は霊なのです」


───神という存在はその神がこしらえた宇宙とは別個に存在するのでしょうか。

 「いえ、宇宙は神の反映です。神がすなわち宇宙組織となって顕現しているのです。蠅に世の中のことが分るでしょうか。魚が鳥の生活を理解できるでしょうか。犬が人間のような理性的思考ができるでしょうか。星が虚空(こくう)を理解できるでしょうか。すべての存在を超えた神をあなた方人間が理解できないのは理の当然です。

 しかしあなた方は魂を開発することによって、ひとことも語らずとも、魂の静寂の中にあってその神と直接の交わりを持つことができるのです。その時は神とあなたとが一つであることを悟られます。それは言葉では言い表せない体験です。あなたの、そして宇宙の全ての魂の静寂の中においてのみ味わえるものです」


───霊が意識を持つ個的存在となるためには物質の世界との接触が必要なのでしょうか。

 「そうです。意識を獲得するためには物的身体に宿って誕生し、物的体験を得なければなりません。物 matter から霊 spirit へと進化していくのです。つまり物的身体との結合によって、物的個性を通して自我を表現することが可能となります。霊は物に宿ることによって自我を意識するようになるのです」

(訳者注───質問者は地上の物質を念頭に置いて the world of matter と言っているが、シルバーバーチは spirit との対照におけるmatter の観点から答えていることに注意する必要がある。死後の世界でまとう身体もその一種であり、その精妙化が進むにつれて霊性が発揮されやすくなる。

それを進化というのであり、その究極がイムペレーターのいう〝静の世界〟、インド哲学でいうニルバーナ、いわゆる涅槃の境涯である。

ただ従来はそれが飛躍的に、ないしは短絡的に捉えられており、悟りを開いた人は死後すぐその境涯へ行くかに考えられてきたが、イムペレーターによるとそこに至るのに何百億年かかるか想像もつかないと述べている。

いずれにせよ、そこに至るまでは〝物の世界〟にいるのであり、地上と同じく主観と客観の世界にいるのである。その中でも地上の物質界が最も鈍重というまでのことである)
 


───となると神はわれわれを通じて体験を得ているということでしょうか。

 「そうではありません。あなた方の進化がすでに完全であるものに影響を及ぼすことはありません。」

───でもわれわれは神を構成する分子です。部分の進化は全体に影響を及ぼすのではないでしょうか。

 「それはあなた方を通じて顕現されている部分に影響を及ぼすだけです。それ自体も本来は完全です。が、あなた方一人ひとりを通じての顕現の仕方が完全ではないということです。霊それ自体はもともと完全です。宇宙を構成している根源的素材です。生命の息吹です。

それがあなた方を通じて顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるために顕現の仕方も不完全なのです。あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されてまいります。あなた方が霊という別個の存在を進化させているのではありません。

あなた方自身であるところの霊が顕現する身体(※)を発達させているのです」(※bodies と複数になっていることからも、さきの訳者注で述べたこと、つまりシルバーバーチが〝物〟を地上だけにかぎって考えていないことが窺える。幽体も霊体もシルバーバーチに言わせると〝物的身体〟なのである───訳者) 


───霊が自我を表現する身体にもさまざまな種類があるということでしょうか。

 「そういうことです。法則は完全です。しかしあなた方は不完全であり、従って完全な法則があなたを通して働けないから、あなたを通して顕現している法則が完全でないということになります。あなたが完全へ近づけば近づくほど、完全な法則がより多くあなたを通して顕現することになります。

 こう考えてみて下さい。光と鏡があって、鏡が光を反射している、鏡がお粗末なものであれば光のすべてを反射させることができない。その鏡を磨いてより立派なものにすれば、より多くの光を反射するようになります。

 要するに、すべての存在がより一層の顕現を求めて絶え間なく努力しているのです。前に私は、原石を砕きながらコツコツと宝石を磨いているのが人生だと申し上げたつもりです。原石は要らない、宝石だけくれ、というムシのいい話は許されません」


───でも各自にとって良いもの悪いものの概念があるのではないでしょうか。

 「それはその時点での話に過ぎません。進化の途上において到達した一つの段階を表現しているだけです。魂がさらに向上すればその概念を捨ててしまいます。不完全な道具を通して完全な法則が顕現しようとして生じた不完全な考えであったわけです。すべてが大切だと申し上げるのはそこに理由があります」


───それでは神は原初においては善ではなかったということになるのでしょうか。

 「私は原初のことは何も知りません。終末についても何も知りません。知っているのは神は常に存在し、これからも常に存在し続けるということだけです。神の法則は完璧に機能しております。つまり今の譬え話で申し上げた通り、あなたは完全な光をお持ちです。

ですが、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。それを、光が不完全だ、光が悪だとは言えないでしょう。

まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上で〝悪〟と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している〝不完全さ〟を意味するに過ぎません」


───創造力を持つ存在は神と呼ぶ唯一の存在のみで、われわれには何一つ創造する力はないと考えてよいでしょうか。

 「神は無窮の過去から存在し未来永劫(えいごう)に存在し続けます。全生命が神であり、神は全生命です。ならば、あなた方に何が創造し得ましょう。しかし魂が進化すれば進化するほど宇宙をより美しくし、完成させていくことができます。

進化の程度が未熟であるほど宇宙における位置が低いということになります」(訳者注───〝宇宙をより美しく完成させていくことが出来る〟ということは神の創造の大業に参加できるということである。

『霊訓』 にも 『ベールの彼方の生活』 にもその趣旨のことが述べられているが、マイヤースは 『個人的存在の彼方』 の中でこれを〝創造されたものが創造する側にまわる。そこに生命と宿命の秘密が存在する〟と表現している)


───愛の神が人間の最低の感情の一つである憎しみの中にも存在するということが理解できないのですが・・・・・・

 「それは今だに神というものを人間的存在と考える概念から抜け切っていないからです。神とは法則なのです。法則がすべてのものを維持し保持し顕現させているのです。神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。

晴天だけでなく嵐も法則の支配を受けます。健康だけでなく病気を通しても働きます。晴天の日だけ神に感謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。

太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対である)悪魔の存在を想定しました。稲妻や雷鳴の中に自分たちの想像する神のせいにしたくないものを感じ取ったのと同じです。

 神は法則なのです。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れては何も存在出来ません。これは私が繰り返し説いていることです。あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現にすぎません。その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。

愛と憎しみは表裏一体です。愛という形で表現できる性質は憎しみを表現する時に使用する性質と同じものなのです。人生は常に比較対照の中で営まれています。

 たとえば、もしも日向にばかりいたら日光の有難さは分らないでしょう。時には曇りの日があるから太陽の有難さが分るのです。人生も同じです。苦しみを味わえばこそ幸せの味が分るのです。

病気になってみて初めて健康の有難さが分かるのです。病気にさせるものがあなたを健康にもするのです。愛させるものが憎ませもするのです。すべては神の法則の中で表現されていきます。それが人生のあらゆる側面を支配しているのです」

 ここで別のメンバーが、たとえば悪を憎むためには当人が憎しみという要素を持っていることが必要となるのではないか、われわれは憎むということを学ぶべきだということにならないかといった趣旨のことを述べた。すると───

 「私はそのような考え方はしません。私は悪とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが悪い奴らと思っている人間は未熟な人間ということです。その人たちが表現しているエネルギーは成長と改善のためにも使用できるのです。
 
 自分から〝悪人になってやろう〟〝利己主義者になってやろう〟と思って悪人や利己主義者になる人間はめったにいるものではありません。悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。聞き分けのない子供みたいなものです。

目に見え手に触れるものだけがすべてだと考え、従って物的世界が提供するものをすべて所有することによってしか自分の存在を主張できない人間なのです。

利己主義とは、利他主義が方角を間違えたにすぎません。善なるもの、聖なるもの、美なるもの、愛、叡智、そのほか人生の明るい側面だけに神が宿っているかに考える旧式の思想は棄てなければいけません。
   
 神の表現をそのように限定すれば、もはや絶対神が絶対でなくなります。それは条件つきの神、限定された霊となります。絶対神の本質は無限、全智、全能、不可変、不易であり、それが法則となって絶え間なく機能しているのです。

 神を、右手にナザレのイエスを従えて玉座に坐している立派な王様のように想像するのはそろそろやめなければなりません。それはもはや過去の幼稚な概念です。宇宙全体───雄大な千変万化の諸相の一つひとつに至るまで絶対的な法則が支配しているのです。神とは法則のことです」


 この問答がサイキックニューズ紙に掲載されるとすぐに反響があった。(交霊会はいつも週末に催され、その記事はすぐに翌週に掲載された───訳者)

 読者からの批判的な手紙が読み上げられるのを聞き終わったシルバーバーチはこう答えた。

 「困りました。そうした方たちは永いあいだ神とは善なるものにのみ存在すると教え込まれてきているからです。神とは一個の人間、誇張された立派な人間であるかに想像し、人間から見て良くないもの、親切とはいえないもの、賢明でないものは所有してほしくないというにすぎません。

しかし神は人間的存在ではありません。法則なのです。それが全生命を支配しているのです。法則なくしては生命は存在しません。法則がすなわち霊であり、霊がすなわち法則なのです。それは変えようにも変えられません。

そこのところが理解できない人にとってはいろいろと疑問が生じるでしょうけど、成長と共に理解力も芽生えてきます。神が善なるものを与え悪魔が邪なるものを与えるという論法ではラチがあきません。ではその悪魔は誰がこしらえたかという、古くからのジレンマにまたぞろ陥ってしまいます」


───悪魔はキリスト教が生み出したのでしょう?

 「そうです。自分たちからみて悪と思えるものを何とか片付けるためにはそういうものを発明しなければならなかったのです。悪も進化の過程の一翼を担っております。改善と成長───絶え間なく向上せんとする過程の一つなのです。

人間にとって悪に思え苦痛に思えるものも進化の計画に組み込まれた要素なのです。痛みがなければ健康に注意させる警告がないことになります。暗闇がなければ光もありません。悪がなければ善もありません。

地上にもし悪が存在しなければ、何を基準に善を判断するのでしょうか。改めるべき間違い、闘うべき不正が存在しなければ、人間の霊はどうやって成長するのでしょう」


───いつの世にもその時点での人類の進化の段階からみて不正と思えるものが存在するということでしょうか。

 「そういうことです。進化の階段を登れば登るほど、改めるべきものを意識するようになるものだからです。私が進化は永遠ですと言い、宇宙には始まりも終りもありませんと申し上げるのはそのためです。向上の道に終点はありません。無限に続くのです。

それぞれの段階がそれまでの低い段階への勝利の指標にすぎません。が、低いものがなければ高いものもあり得ないことになります。人生は一本調子(モノトーン)ではありません。

光と蔭、晴天と嵐、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、美と醜、善と悪の双方が揃わなくてはなりません。人生はそうした比較対照を通じてのみ理解できるものだからです。闘争を通して、奮闘を通して、逆境の克服を通してはじめて、神性を宿した人間の霊が芽を出し、潜在するさまざまな可能性が発揮されるのです。

そういう摂理になっているのです。私がそう定めたのではありません。私はただそれを自ら身に修める努力をしてきて、今それを皆さんにお教えしているだけです。

 人間的存在としての神は人間がこしらえた概念以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間が発明した概念以外には存在しません。黄金色に輝く天国も火焔もうもうたる地獄も存在しません。

そうしたものはすべて視野を限られた人間の想像的産物にすぎません。神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。

なぜならば、世の中が不変にして不可変、全知全能の法則によって治められていることを知れば、絶対的公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構の中にあって一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。

 だからこそ全てが知れるのです。だからこそ何一つ手落ちというものがないのです。だからこそ人生のあらゆる側面が宇宙の大機構の中にあって然るべき位置を占めているのです。だからこそ何一つ見逃されることがないのです。いかに些細なことでも、いかに巨大なことでも。すべてが法則のワク内に収められているからです。

すべてが法則だからです。存在を可能ならしめている法則なくしては何一つ存在できないのが道理です。法則が絶対的に支配しているのです。

人間に与えられている自由意志が混乱を引き起こし、法則の働きを正しく見えなくすることはあっても、法則は厳然と存在しますし、また機能してもらわなくては困ります。私はキリスト教の神学は人類にとって大きな呪いであったと思っています。しかし、その呪われた時代も事実上終わりました」

Monday, October 12, 2026

霊訓〈完訳・下〉

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。



22節

本節の内容
*インペレーター、天界の祈りの集会に参列
*地上の汚れを払い落とし気分一新のために時おり天界に戻る
*いかなる高級霊も人間界に降りれば人間臭を帯びる
*霊の身元を証す新しいケース
*著者の心境


〔インペレーターが暫く不在だったので、次に出た時にその理由を尋ねると、地上とは別の用事があって留守にしたということだった。そして、別に私のそば――という言い方が適切かどうかは別として――にいなくても影響を行使することは出来るが、そのためにはいわば意念の操作を必要とするということであった。そうなると他に急務が生じた場合にそれも出来なくなる。今回も、そしてこれまでにも何回かあったが、霊界の上層部において、神への厳かな崇拝と讃仰の祈りを捧げるために数多くの霊が一堂に集結したという(1)。その他の質問に対して多くの返答があったが、次はその一部である。(十月十二日)〕


われらは神への礼拝と祈願のために暫し地上の使命につきまとう気遣いと苦心より離れ、讃仰の境涯の安らかなる調和の雰囲気に浸ってきた。使命に挫折と衰微を来し、悲しみの余り気弱となり、あるいは熱意に燃えて邁進する勢いを殺(そ)がれることのなきよう、時に休息し、聖なる天使の中に交わることによりて気分を一新するのである。

ああ、そなたはこれまで混雑せる都会の細き裏通りを辛苦して歩み、慈悲の使命に燃えて悪徳の巣窟に踏み込み、むせ返る不純なる悪臭を嗅(か)がされ、悲劇と罪悪の光景を目(ま)のあたりにしながら、それを取り除くことはおろか、幾分かでも軽減することすら出来得なかった。これで、われらがいかなる気持を抱いて人間の中にありて使命に勤(いそ)しんでいるか察しがつくであろう。そなたも人の不幸に心を痛めたことがあった。施す術(すべ)もなき無知と愚行と悪徳に思いあぐねたこともある。貧困と犯罪の世相の前に己の無力を痛感したこともある。身も心も実りなき努力に疲れ果てたこともある。が、われらとて平然として任務を遂行していたのではない。その間どれだけ地上の窮状を目撃し、どれほど心を痛めて来たことか。そなたはとかくわれらのことを人間の生活に関心を抱かず、悲劇を知らず、日常の労苦に係わりをもたぬ、遠く離れた謎めいた存在のように想像しがちであるやに窺える。われらとてそなたの心を覗き込み、隠れたる悲しみを地上の人間以上に実感をもって知ることが出来ることを知らぬようである。われらを地上より掛け離れた存在の如く想像しているらしいが、実は地上の悲しみも喜びも共に実感をもって認識しているのである。地上生活につきまとう物的悲劇も精神的悲劇もわれらの視野の中に入らぬかの如く想像しているようであるが、とんでもない誤解である。むしろわれらの方が人間より遙かに鮮明に悲しみを生み出す要因、犯罪へ引きずり込む誘惑、絶望に追いやる悲劇、悪徳と罪悪に群がる邪霊の集団を見ているのである。

われらの視野はひとり物的悲劇にかぎらぬ。霊的誘惑もありありと目撃できる。物的視野に映ずる悲哀にかぎらず、人間が一向に知らずにいる隠れたる悲哀もありありと見える。われらが人間界の悲劇や犯罪を見ることも知ることも出来ぬと思ってはならぬ。更にまた、そなたたち人間と交わり地上の雰囲気に浸ることによりて、われらもまたその汚れに幾分か染まることは避けられぬことも知られたい。

比べてもみよ。雑然たる都会の裏小路の息も詰まらんばかりの悪徳の生活――悲劇と罪悪の温床へと足を踏み入れた時のそなたの気持と、高き霊界より低き地上界へと降りてくる時にわれらが味わう冷たく寒々とした気持とを。われらは光と無垢と美の世界より降りて来るのである。そこには不潔なるもの、不浄なるもの、不純なるものは一かけらもない。その視野には目障りなもの一つ見当たらぬ。暗闇も見当たらぬ。目に入るものは全て輝けるもの、至純なるもののみである。完成された霊の住む世界、平和の漲(みなぎ)る環境を後にするのである。光と愛、調和と崇敬の念に満ちた境涯を離れて冷ややかなる地球、暗黒と絶望の地、反感と悲哀の気に満ちた世界、悲劇と罪悪の重苦しき雰囲気に包まれた世界――人は従順ならず、信ずることを知らず、物欲に浸り切り、霊的教唆に反応を示さぬ世界――悪徳の巣窟と化し、邪霊に取り囲まれ、神の声の届かぬ世界へと降りてくるのである。神の光と真理の輝ける世界より地球の暗黒の中へと向かう。そこでは神の真理の光は、僅かに数えるささやかなる交霊会を通して、ほんのりとした薄明り程度にしか見られぬ。調和と平和から騒乱と不和、戦争と不穏の中へと入り込む。純粋無垢の仲間に別れを告げて、懐疑と侮蔑に満ちた冷ややかなる集団、呑んだくれと好色家、あぶれ者と盗人にあふれる世界へと下りて来るのである。天使が挙(こぞ)りて神を讃仰する神殿を後にして、人間の想像の産物たる偶像の君臨する地上へと向かう。時にはそれすら無視され、人間は霊的なるもの、非物質的なるものへの信仰の全てを失ってしまう。

かくして漸く降り来たれるわれらが見出すのは、大方、聞く耳を持たず何の反応も示さぬ人間ばかりである。中には己に都合よき言説、己の想像と一致する言説には一応耳を傾ける者がいる。が、彼らもその段階を超えて一段高き真理、より明るき光へ導かんとするとわれらに背を向ける。イエスと同じことをわれらも体験させられる。すなわち、人間は奇跡を演じてみせると感心する。そして己の個人的興味がそそられ好奇心が満たされるかぎりは付いて来る。が、その段階より引き上げ、自己中心的要素から超脱させ、永遠なる価値を有する本格的真理へ近づけんとすると背を向ける。高すぎるものは受け入れられぬのである。そこで神の計画が挫かれ、神より授かれる人間への恩恵がにべもなく打ち捨てられる。その時、われらの悲しみに加えて将来の見通しに寒々とせる挫折の懸念が横切(よぎ)るのである。かくの如き次第であるから、われらは時として休息と気分一新を求めて地上を引き上げ、調和の世界にて気力と慰めを得て、再び冷ややかなる地球の恩知らずの群の中へと戻るのである。


〔私がこれまでに得た通信でこれほど人間的脆(もろ)さに似たもの、絶望感に近いものを披瀝したものはなかった。これまでは終始一貫して地上的なものを達観した威厳の雰囲気が漂っていた。インペレーターの存在とその言葉の中で最も特徴的だったのがその人間的脆さと地上的なこせこせした心配事に対する超然的雰囲気であった。常に別世界に悠然と構え、人間的視野の範囲にあるものは眼中になきが如き態度であった。そうしたものに超然としていた。視野が広く、絶対的重要性をもつものにしか関心を示さなかった。しかも人間的弱点に対しては優しく寛容的で、こちらの激情にも平然としていた。いわゆる“この世にいてしかもこの世のものに捉われぬ”者であり、穏やかな平和な境涯よりその安らぎをもたらしてくれる訪問者の風情(ふぜい)があった。それだけに右の通信の響きが印象的だったので、その点を指摘すると――〕


われらは、たとえ苦痛は訴えても挫けはせぬ。そなたおよびそなたの置かれたる環境との触れ合いによりて、やむなくそなたの人間的情念を摂取することになるまでである。あのような苦痛を述べたのは、われらにも幾許(いくばく)かの犠牲を強いられていること、そしてそなたを動かす情念と同じものによる影響を免れぬことを知って貰うためである。われらとて精神的煩悶と霊的苦痛を味わうものである。人間の心を締めつける心痛と同じものを真に味わう。われらがもし(そなたの言う如く)人間的でないとすれば、そなたの欲求を見届けることも出来まい。いずれ悟る日も来ようが、未だそなたの知り得ぬ摂理によりて、地上へ降りくる者は一時的に純然たる人間味を帯びる。そして霊界に戻ればそれを振り落とす。地上では地上的雰囲気と観念の中に融け込むのである。


〔このあと私に対して、通信を求めることを控えて過去を振り返るようにとの忠告が繰り返し述べられた。物理的現象をやり過ぎることは、体力の消耗が激しいので危険であると述べた。とくに他の霊媒による交霊会に出て現象を観察するのは、よほどの必要性のある時以外はいけないとの警告を受けた。仕事においても、仕事以外のことにおいても節度を守ることが大切であり、反省と休息を取るようにとのことだった。われわれは交霊会を中止こそしなかったが以前ほど頻繁に催すことは止めた。その間私に身元の証拠を提供しようとする努力が為されていることが判った。とくに顕著なケースとして十月十四日に次のようなことが起きた。それまで長期間に亙ってよく出現していた霊を、列席者の一人が、その霊の在世中の事実が載っているある書物をもとに細かく詰問した。その書物は出版されたばかりで質問者のほかは誰も見ていない。が、質問者の頭の中でその書物に出ている他の氏名と日付が混乱していたらしく、質問された霊はその間違いの一つ一つを叩音(ラップ)で強く指摘し、黙認するわけには行かないと言って、氏名の読み方の間違いなどは綴りまで一つ一つ述べて訂正した。

その時に霊が出した叩音には困惑と苛(いら)立ちと腹立たしさがありありと感じられた。訂正の速さは質問者が全部言い終わらないうちに為されるほどで、しかも正確だった。その様子から判断して、その霊は確かに地上時代と変わらぬ個性を留め、記憶も少しも損なわれておらず、特徴的だったバイタリティも失われていないことは疑う余地がなかった。その夜の私の心に、それまで私に通信を送って来た霊たちも自称している通りの存在であろうとの確信がようやく芽生えてきた。間違いを指摘する時のきっぱりした強い調子、苛立ちを込めた抗弁と訂正の人間味あふれる自然な調子から私は、それが他の霊による偽装的演出であるとはとても信じられないし、あれほどの微妙な特徴を思いつくわけもないと考えたのである。翌朝その点を質してみた。〕


――昨夜のあなたの訂正ぶりには感嘆させられました。


あの本には誤りや不完全なところが多すぎます。私は○○氏とは、氏が私の弟子になる以前からの知り合いです。それに、私がパリで勉強したというのは本当です。


――別に疑っているわけではありません。あなたがひどく真剣で腹立たしく思っておられる様子がありありと窺えたものですから。


いい加減な情報で、しかもいい加減な記憶で間違ったことを質問されるのは腹の立つものです。随分きついことを述べましたが、自分では理性を弁(わきま)えていたつもりです。


――実は私にとってはむしろ感謝しなければならないことなのです。死後存続の証拠としてこれまでにない最高のものを提供して下さったからです。


なるほど、でも、そうおっしゃりながら、スキあらば暴いてやろうとチャンスを窺っておられるのでしょう。


――とんでもない! 私はとにかく証拠がほしい一心なのですから。


証拠なら、あなたはもうこれ以上増やせないほどのものを手にしておられます。


〔こうした中にも、これまでに得られた通信、とくに今回のテストの結果に対する信頼心は何度も逆戻りした。言っていることはウソではなかろうか、通信は名のっている本人からのものではないのではなかろうか、要するに自分は謎めいた話、あるいは一種の寓話のようなもので騙されているのではなかろうか、それとも単に理解できないものに振り回されているに過ぎないのではなかろうかといった疑念に付きまとわれていた。それは漠然としたものではあったが、私にとっては真実味を帯びていた。こうした霊界との交信にとって最も好ましからぬ精神状態が禍して、ついにわれわれのサークルは解散するに至った。メンバー全員の意見もそのほうが賢明であるとの結論に固まっていたと思われるが、インペレーターも頻(しき)りにそれを促し、最後には強要してきた。そして、過去をよく吟味すること、とくに自分が引き上げたあと他(よそ)の交霊会に出たり勝手に交霊会を催したりすることは危険であるとの戒めを残して――交霊会に関するかぎり――引き上げてしまった。自動書記通信も幾分気まぐれな表われ方をしだした。私は次々と質問を連ねたが、出される回答はそれまでのインペレーターと同じ断固とした目標に沿ったもので、それは明らかに私の精神とは対立した別個の厳然たる知的存在が働きかけていることの証左であった。かつてないほどの動かし難い証拠が与えられた。綿密な計画が練られ、実行に移され、それを弁護するために数々の納得のいく筋の通った言説が述べられ、私はその一貫性をどうしても認めざるを得ないところまで追いつめられた。

私の全生涯に亙る霊的使命に関する長文の通信が送られて来たのはその時だった(2)。その内容に私は非常に驚いた。そしてそれまで私を扱ってきた霊の誠意と実在性を改めて確信するところとなった。本来なら公表せずにおきたいことも相当披露することになりそうであるが、純粋に個人的なことだけは公表する気になれない。霊的実在に関する教訓を証拠の全般的な流れに光を当てるものに限って公表しようと思う。〕


〔注〕
(1)「十二節」注(2)参照
(2)ここでは公表されていないが、続編の『インペレーターの霊訓』(潮文社)の第二部にそれに違いないと思えるものが紹介されている。

シルバーバーチの霊訓(五)

 More Teachings of Silver Birch

Edited by A.W. Austen
近藤 千雄訳



八章 病気は自分で治せる

 サークルのメンバーの一人で心霊治療家を目指している人が自分の病気を話題に出した。するとシルバーバーチは言下に───

 「その病気を追い出してしまいなさい。自分は絶対に病気にはならないのだと自分に言い聞かせるのです〝医者よ、汝みずからを癒せよ〟───この古い言葉をご存じでしょう」(ルカ4・23)


───そのことを考えたことはあります。やはり病気は自分で治せるのでしょうか。

 「治せるだけでなく、げんに治しております。魂の優位を主張し、肉体という下等なものによって束縛され抑えられることを拒否することによって病気を追い払うのです。身体を従者にするのです。主人にしてはなりません。誰にでも出来ることです。ですが、大部分の人間は頭から出来ないものと思い込んでいます。だから出来ないのです。

 肉体は精神の従僕です。精神は肉体に隷属しているのではありません。肉体は束の間の存在であり精神は永遠の存在です。肉体はいずれ朽ち果てます。精神が宿っている間だけ現在の形態を維持している一時的な存在です。それがその人ではありません。その人の表現体であり、道具であり、地上で認識してもらうための手段です。

その肉体が精神によって歩きまわることを教わり、筋肉を動かすことを教わり、血液を循環させることを教わり、心臓を鼓動させることを教わり、内臓の全ての機能を働かせることを教わったごとくに、こんどはその(リズムを狂わせている)機能に本来のリズムを取り戻させることによって病気や疾患や異常を無くしてしまうことができるはずなのです」


───ということは誰でも自分で健康を回復できるということでしょうか。

 「まさにその通りです。ただしそのためには〝自分は神である。無限の創造活動の一部を担う存在である。全生命への責任を担う霊的存在である。本来は完全なる霊なのだ〟と宣言できる段階まで悟りができなくてはなりません」

 ここで別のメンバーがその教えはクリスチャン・サイエンス(※)と同じであることを指摘した。

(※信仰治療または信念によって自らを治すことを主義とした新興宗教の一派で、メアリ・エディという女性霊媒者によって創設された。が、この後でシルバーバーチも指摘するように肉体は無いと思えと説いたところに間違いがあり、それを死後 『霊界からのエディの告白』 と題する懺悔の通信の中で認めている。


霊感の鋭い人で霊的事実についての理解はあったが、豪華な教会を建ててやろうという野心が自分を過らせたと告白している───訳者)


 「私はいわゆるクリスチャン・サイエンスが説く真理を全面的に否定はしません。かなりの程度まで正しい教えを説いておりますが、その多くが脇道へ外れてしまいました。物質の存在を否定するに至ったところに問題があります。

私は物質は実在するがあくまで精神の支配下にあると説いております。あなたは無限の可能性を具えた存在です。その肉体があなたではありません。

その肉体を使用している霊なのです。つまりあなたは肉体を具えた霊であって、霊を宿した肉体ではないということです。肉体は現在の形体をせいぜい五十年、六十年、あるいは七十年、もしかして百年のあいだ維持しながら次第に朽ちていき、やがて元のチリに帰ります。しかし霊はそういう経過はたどりません。不滅の素材で出来ているからです」 


───私たちのすべてが治病能力を具えているのになぜ心霊治療家の存在が必要なのでしょうか。

 「神の摂理を知らない人が多すぎるからです。みんなそんな摂理なんかあるわけがないと思い込み、健康を回復する法則を実践できる段階まで意識を高めることが出来ないと決めてかかっているからです。神の摂理に従って生きれば病気も異常も生じません。

肉体に異常が生じるのは摂理に反した生き方をしているからです。(霊と精神と肉体の)調和が乱れると病気になり、自分自身の努力、または霊界からの治療エネルギーによって調和を取り戻すまでその状態が続きます」


───自分で治した場合でも霊界からの援助を受けているのでしょうか。

 「そういう場合もあり、そうでない場合もあります。というのは、人間は常に何らかの思念、観念、エネルギーといった影響力をまわりから受けているからです。しかし同時にあなた方も霊であり、生命の大霊の一部であり、その無限の貯蔵庫からエネルギーを引き出して我がものとし、ふだんより大きな力を発揮できるのです。

人類が今の段階ですでに進化の頂上に到達したと思われますか。現在の文明の状態を見れば、まだまだ人類には成長と進化の余地があることが明白ではないでしょうか。

 あなた方も神性を宿しておられるのです。ほんの小さな火花にすぎませんが、人間の一人ひとりに宿されているのです。その火花を煽(あお)いで大きな炎とするか、それとも手入れを怠って消えてしまいそうにするか、それは各自の自由意志によってみずからが決めていくことです。誰も代わって決めることは出来ないからです。

各自が自分の運命の裁決者なのです。自分の未来を自分で形成していくのです。神性を発揮するか否かはあなた方自身が選択することです。代わって選択してあげようにも出来ないのです。向上進化は自分が自覚しない限り、側から促進してあげることはできません」


───各自に神が宿っているのであれば、自然に発揮されてくるのではないでしょうか。

 「夏の盛りの大自然の美事な景観をご覧になれば、その背後にそれだけのものを発揮する種子が宿されていたはずだとは思われませんか。例えばバラのあの可憐な花びらと芳しい香りもみな一個の小さな種子の中に宿されていたのであり、それがまずつぼみの形で顕現されます。

バラの美しさのすべてがそこに宿されているのですが、それはつぼみが開かないことには発揮されません。あなた方の魂には神が宿っております。そのつながりは永遠であり、決して断絶はありません。しかし、その神の属性をどれだけ発揮するかは各自が決めることです」

 心霊治療はどういうメカニズムで病気を治すのか、治療家と患者との間にどういう関係が生じるのかを問われて───

 「賦活性を持った放射線が注入されるのです。病気に応じて種類が異なります。どういうものかと言われても、地上にはそれに類するものが見当たりませんので説明できません。たとえばX線、無線、磁気、電気といったものもあくまで〝用語〟であって、本質を伝えてはいません。

要するにこちらの世界には病気を癒す力を持った放射線、エネルギー───どう呼ばれても結構です───が存在し、それを使用するのです。賦活性をもった生命力の一種で、それを人類のために使用できるまでに進化した霊が駆使しているのです。

 霊的啓示を授ける者が叡知の泉から汲み上げるように、心霊治療家は健康の泉から治癒力を汲み上げることができます。同じく、必要な物的証拠を提供する霊は、地上でまだ知られていない何種類かの気体を使用しています。すべての生命が刻一刻と進化していることを認識して下さい。

学問は墓場で終わるのではありません。開発は死とともにストップするのではありません。霊魂は叡知を蓄積しつつ、どこまでも前進し続けます」


 別の日の交霊会で治療を妨げる最大の障害物は患者の不安と取り越し苦労であることをシルバーバーチが指摘すると、メンバーの一人がすかさず質問した。


───心配するのもやむを得ないこともあるのではないでしょうか。それとも、心配することは絶対にいけませんか。

 「いいとかいけないとかの問題ではありません。その念が連絡の通路を塞いでしまうのです。治療エネルギーの流れを妨げ、近づけなくしてしまうのです。心配の念を抱くとそれが大気に響いて、その人のまわりにわれわれの進入を妨げる雰囲気をこしらえてしまいます。

冷静で受容的雰囲気でいてくれれば容易に接近できます。確信を抱いている時、完全な信頼心を抱いてくれている時は接触が容易です。信念が完全に近づけば近づくほど、自信が深まれば深まるほど、それだけわれわれとの接触が緊密になります」

 この心霊治療を医事法違反として規制する法案が英国議会に提出されたときシルバーバーチは、たとえ全議員がそれに賛成しても、たとえ権力者のすべてが支持しても、たとえ教会のすべてがこぞって同意しても、心霊治療を地上から撲滅してしまうことは出来ないと述べてから、こう続けた。


 「神の業であるからには心霊治療はそうしたものを乗り越えて存在しますし、また存続させねばなりません。私たちが啓示している自然法則は人間の法律によって成立するものではありませんし、その普及が妨げられるものでもありません。私どもは誤まることを避け難い人間がこしらえた法律にはまったく関心がありません。

神の法則、不変、不易にして不可変、全知全能の摂理、無始の過去より存在し無窮の未来まで存続しつづける摂理を説いているのです。人間がわれわれのこと並びにわれわれの説く真理のことにどうケチを付けようと一向に構いません。

 かつて地上世界の改革に努力した人々、理想に燃えて同胞のために献身した人々は、人類の最先端を歩んでいたために、進化の階梯において一歩先んじていたために、侮(あなど)りと蔑(さげす)みと嘲(あざけ)りを耐え忍ばねばなりませんでした。

そして使命を終えてこちらへ来ると、後世の人間は彼らのことを人類の模範として崇拝し、そうしながら一方では同時代の超能力者をはりつけにして葬りました。真理というものは確立されるまでには数々の闘いに打ち勝たねばならないものなのです。


 恐れてはなりません。われわれのすべてに存在を与えてくれている力、地上のために私たちを地上へ派遣してくださっている力、あなた方にみずから体現させてあげたいと私たちが望んでいるところの力は、宇宙の全生命を創造した力と同じものなのです。それはあなた方の方から見捨てない限りあなた方を見捨てることはありません。

 地球はこれからもずっと地軸を中心に回転し続けます。太陽はこれからもずっと輝き続けます。すべての天体が定められたコースを運行し続けます。潮は満ち引きを繰り返し、春の後には夏が、夏の後には秋が、秋のあとには冬がめぐってきます。

それはその背後で支える力が無限であり誤まることが無いからです。これだけの大自然の見事なスペクタクル(壮観・美観)を目の前にしながらあなた方は、それと同じ霊力が地上世界のことでしくじりを犯すことがあり得ると思われますか。

 その霊力を顕現させる道具が存在するかぎり、人のために役立ちたいと願う男性あるいは女性がいて下さるかぎり、私たちは病気に苦しむ人を癒し、生命が墓地の向こうにも存在することを証明し、永遠の霊的実在の証(あかし)を提供し続けます。

そうすることが物質万能主義を永遠に駆逐し、霊の働きかけの実在を曖昧なものにしてきた教条主義の暗闇を排除し、奉仕を基調とする真の宗教を確立することになるからです」

 では、そもそも病気とは何であろうか。シルバーバーチはこれを霊と精神と肉体の三位一体の協調関係が崩れた状態であるという。ではそれを崩す原因は何であろうか。純粋な精神的原因、純粋な霊的原因というものがあるのであろうか。

前生との関係は? 病気というものが人生に於ける最大の苦痛の原因であるだけに、心霊治療の問題は人生そのものの問題であるともいえる。その解答を次の問答から読み取っていただきたい。まずシルバーバーチがこう述べた。

 「物的身体と霊的身体との間に相関関係があり、両者は絶え間なく反応し合っております。物的身体は霊的身体にその存在自体を依存しており、霊的身体は物的身体にその表現を依存しております。物的身体を通して獲得する経験が霊的身体の成長を決定づけていきます」

───肉体は幽体を原型としているのですか。

 「そうです」

───となると病気になった場合は幽体を治療すべきなのでしょうか。

 「必ずしもそうではありません。病気の原因がどこにあるかによります。純粋に霊体から来ているものであれば霊体を治療することによって治せます。が、原因が純粋に肉体的なものであれば、霊的方法よりは物的方法の方が効果があります。

 ご承知の通り、あなたは今の時点でも霊魂です。ただ、こうして霊的身体と同時に物的身体を通して表現している間は、物的世界のことは物的身体を通して感得しております。そして、物的世界に生じたことは物的身体に影響を及ぼすと同時に霊的身体にも影響を及ぼします。

 同時に、霊的身体へ影響を及ぼすものはことごとく物的身体へも影響を及ぼします。かくして、両者の間の作用と反作用が絶え間なく行われております。物的、精神的、霊的の三つの影響力の間に絶え間ない相互関係が営まれております」

(訳者注───精神は霊が肉体を操作するためのコントロールルームのような存在で、霊にとっては実質があり実感がある)


───伝染病は純粋に物的原因によるのでしょうか。

 「必ずしもそうではありません。実際は肉体に原因があるのではなくて霊に原因がある病気も数多くあります」

───それはどんな原因があるのでしょうか。

 「利己主義、強欲、金銭欲。イエスが、治療した患者に〝汝の罪は赦されたり〟と述べた話はご存じでしょう。病気の原因には物的なものと霊的なものの二種類があることを知らねばなりません。どちらの場合でも同じ方法で治すことも不可能ではありませんが、物的な治療法の方が効果が大きい病気があります。

病気の影響が霊的身体にまで及んでいる場合があり、あるいは霊的身体にそもそもの原因がある場合もありますが、霊的身体そのものが病気になることはありません。物的身体との相互関係の異常に過ぎません。その異常がバイブレーションを乱し、物的身体との関係を乱し、それが病気となって現われます。

 怒りが脾臓を傷めることがあります。嫉妬心が肝臓を傷めることがあります。そうした悪感情が異常の原因となり、バランスが崩れ、調和が乱れます。病気が進行してバランスが完全に崩れてしまうと霊的身体が脱出のやむなきに至ります。それが死です」


───腕を失った場合、それは幽体の腕にどんな影響を及ぼしますか。

 「幽体の腕に影響が及ぶような事態は決して起きません。両者の相互関係の欠如という事態にはなります。が、幽体の腕は肉体に宿っている間は働こうにも働けません。それはともかくとして、私たちの口から〝この病気は治りません〟という言葉をお聞きになったことはないでしょう。治る望みは必ずあります。ただ、そのためにいろいろと考慮しなければならない要素があるということです。

 人間には物的身体と霊的身体とがあり、両者は生命の紐、言うなれば命綱で結ばれております。病気、異状、あるいは年齢といったものが物的身体に忍び寄るにつれて両者の相互関係が次第に緊密度を失ってまいります。そうした中で物的世界からの離脱の準備が進行しているわけです。

病気には物的、精神的、霊的の三つの原因があります。骨折も霊的に治すことが出来ないことはありませんが、物理的な手当の方が簡単でしょう」


───遺伝子疾患と神の公正とをどう結び付けられますか。

 「地上へ生を享ける時は因果律によってその霊が当然宿るべき身体に宿ります。前世で身に付けたものを携えて現世をスタートいたします。前世を終えた時点でふさわしいものを携えて再生するのです。遺伝的疾患も少しも不公平ではありません。(前世に照らして)これからの進化にとって必要なものを成就するのにふさわしい身体を与えられるのです」


───心霊治療によって治る人と治らない人がいます。患者と魂の進化という観点から見て種類が異なるのでしょうか。

 「そうではありません。誰であろうと霊界へ旅立つべき時がくれば、いかなる治療家もそれを阻止することはできません」


───でも、治療家のところへ行かなかったらもっと早く死んでいたということもあるでしょう。

 「それも数日かそこいらの話です。永遠の時の中でそれがどれ程の意味があるのでしょう」


───だったらいっそのこと心霊治療家も要らないことになりませんか。

 「そうはまいりません。苦しむ人を救ってあげたいという情は神の心の自然の発露だからです。人間の病気や異状の多くは魂の進化の程度の低さに由来するのではなく、無知から神の摂理に反した生き方をするからです。もっとも、神の摂理に反した生き方をするのは、その摂理が理解できる段階まで魂が到達していないから、と言う観方もできることは確かです。魂が摂理と一体となる段階にまで進化すれば病気は生じません」


───二人の人間が同じ病気で苦しんでいて、一方は治り他方は治らないという場合がありますが、これは不公平ではないでしょうか。

 「そもそも心霊治療家のところへ足を運ぶということ自体、偶然のことと思われますか。偶然ではありません。偶然というものはあなたの世界にも私の世界にも存在しないのです。断言します───神の摂理は完璧です。いずれあなたもその働きを理解し、その完璧な摂理をこしらえた完全なる愛の存在を知って、私と同じように、まるで鉄鎚を食わされたような思いをなさる日が来るでしょう。

 私たちはすべて───私も同じなのです───暗闇の中で手探りで進みながら時おり光明の閃きを見つけ、摂理への洞察力を手にします。そこで感嘆します。しかし暗闇の中にいる限り摂理の全貌が見えませんから、私たちはそれをとかく偶然のせいにし、運よくそうなったのだと考えます。しかし、断言しますが、偶然というものは存在しません。

 そう言うと皆さんはきっと〝では自由意志の問題はどうなるのか〟と聞かれるでしょう。確かに人間には自由意志が与えられております。が、その自由意志の範囲は魂の進化の程度によって規制されると申し上げたはずです。

自由は自由です。が、その自由にも程度があるということです。自由は自由です。が、それも宇宙の法則、すべてを経綸している法則の中における自由だということです。宇宙最大の組織であろうと極小の生命体であろうと、その法則から逃れることはできません。何ものも神の摂理から逃れることはできません。完璧なのです」


───心霊治療家と磁気治療とはどういう点が違うのでしょうか。

 「まったく違います。磁気治療は治療家自身の持つエネルギーによって治します。心霊治療は治療家が背後のスピリットの波長と一体となり、通常の手段では物質界に感応しない霊波がその治療家を通して流れ込むのです」


───一卵性双生児が同じ病気にかかり医学では不治と診断されて見放された場合、霊界からの力で二人とも治すことができるでしょうか。

 「私にはどちらとも言えません。病気の軽減及び治療のための霊力はちゃんと存在しますが、それがどう活用されるかは、その霊力が流れる治療家の適合性にかかっています。現段階における地上世界はまだ神の治癒力の活用がその頂点まで達しておりません。治療家が霊的に向上すれば、それだけ多くの治癒力が流れます。私たち霊界側の問題であると同時にあなたがた地上側の問題でもあります。

所詮われわれは媒介役に過ぎません。この霊媒(バーバネル)の背後にこの私(シルバーバーチ)がいます。この私の背後に私より高い存在が控えており、その背後にさらに高い存在が控えています。その連鎖関係は無限に続いているのです」

霊訓〈完訳・下〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。






21節

本節の内容
*著者の反省と反論
*回答
*霊団には果たさねばならぬ至上命令がある
*物理実験の禁止
*インペレーターの最後の嘆願
*判断を誤らぬよう神に祈れ
*インペレーターの祈り



〔この時期の私の精神状態はいかなる種類の現象にも満足できなくなっていた。私を支配している影響力は強烈で、私が何をやろうとしても満足を与える結果をもたらしてくれなかった。そして私をしきりに、過去を吟味するよう、そしてそこからまとまった見解を得るように仕向けるのであった。私の背後で何が行なわれているのか、当時は皆目理解できなかったが、今にして思えばそれは私の霊的教化の一環であった。私は幾度も幾度も過去を徘徊させられた。そしてそれまでの通信の内容をあらゆる観点から吟味し、再びそれをばらばらに分解してしまうことを余儀なくされた。昼も夜も心の安まることがなかった。それほど、私を支配した力は強烈だったのである。私の心がこの通信以外のことを思うのは僅かに毎日の教師としての仕事に携わっている時だけで、これだけは一切邪魔されることはなかった。そこで私は自分で厳律を設けた。それは通信に係わる問題を考えるのは日課を終えてから、ということで、これはここ十年間守り続けている。日課を終えて、さて、と思うと、とたんに私の心は通信の問題に襲われるのだった。

さんざん考え抜いたあげくに、私はこれまでインペレーターが相手にしてくれなかった問題をこれ以上いくら蒸し返しても無駄であるとの結論に達した。インペレーターの頑な態度には何か特別の意味があると観たのである。私はインペレーターの要求を何一つ拒絶したことはなかったが、逆にインペレーターは意味がないと思われることは完全に無視する態度に出ていた。が、この目に見えない知的存在が一体何者であるかについて私なりの得心を得るための証拠を要求する権利が絶対にあると考えた。それによって自分が決して自分の空想や妄想、あるいは私を騙さんと企む一団によって弄(もてあそ)ばれているのではないとの確信が得られると思ったのである。そこで私は率直に私の苦しい心境を述べ、それが未だに相手にされていないこと、私から手を引くかも知れぬとの脅しは事態を悪化させるばかりであると述べた。さらに私はこれからも待つ用意があること、これまでの通信を吟味するつもりであること、そしてこれ以後に付け加えてくれるものがあれば、それも読んで吟味したいとも述べた。しかし同時に、身元についての得心が得られるまではこれ以上先へ進むわけにはいかないとも断言した。私の態度に対する非難に具体性がなく曖昧であること、そして私が置かれている精神状態はあのような表現では正しく表現されていないと指摘した。またイエス・キリストがしるしを見せろとの要求を全部拒絶し、自分の言葉だけで十分であると述べたのは確かに重要なポイントではあるが、これを引き合いに出すのは危険ではないかとも述べた。総引き上げの脅しの件については、そんなことをすればそれは私を、不信とは言わないまでも、半信半疑の状態のまま放置することであり、結果は事態を私の手に負えない混乱状態に陥れることになるのみであること、何とか収拾がつけば為になる要素もあるかも知れないが、そうでなければまずもって無用であり、無益であり、そんなことをしても無駄であると述べた。するとすぐに返事が来た――〕


友よ、そなたの言わんとするところはよく判った。その言い分にも妥当性を認めたく思う。われらがあのような厳しき言葉にてそなたを責めたのは、情報を得んとする欲求そのものではなく、われらに応じきれぬ条件を強要するそなたの心の姿勢である。またわれらはそなたのしつこき反抗的態度、少なくともその時のそなたの不安と不信の念がわれらに与える印象を是非とも知らしめたいと考えた。あのような乱れた精神状態はわれらの妨げとなるからである。われらには果たさねばならぬ使命がある。徒に無為に過ごし、貴重なる時と機会を無駄にするわけにはいかぬ。為さねばならぬ仕事がある。何としても果たさねばならぬ。そなたのサークルがだめであれば他のサークルを通じて果たさねばならぬ。われらが総引き上げの意図がある旨を述べたのは、要求を満たさねば先へ進めぬとのそなたの言い分を受け入れたからに他ならぬ。われらとしては、そなたの要求に応じるわけにはいかなかった。故に総引き上げの必要を感じたのである。われらも、せっかく築き上げた関係を打ち切り、辛苦の中に成就せる仕事を一からやり直すことは元より望むところではない。将来はより一層強く支配することになるかも知れぬ。休息と反省とがわれらとそなた自身にとりて良き薬となるかも知れぬ。今はひたすら瞑想し、交霊会は滅多に催さぬがよい。よくよく真剣なる要求のないかぎりは交霊会には応じぬ。これまで述べたこと以上のことを付け加える意図も全くもたぬ。そなたの要求する条件も感心せぬ。そのような条件が一つ増えるごとに環境が変化を来し、それが余計な心配と手間の原因となる。好都合をもたらす見通しでもあれば文句は言わぬが、この際はその見通しもなく、それ故にそなたの提案に同意するわけにはいかぬ。

そなたが霊媒となりて行なう全ての物理的実験をこれ以後絶対に禁ずる。それによる肉体的消耗にそなたは絶対に耐えられぬ。昨今は余りに物理的現象に重きを置きすぎている。現象はせいぜい副次的な意味しか持たぬ。しかもそなたは他のサークル活動にも顔を出すという危険を冒している。すべて差し控えてもらいたい。徒に進歩を遅らせ、ついには危害と落胆を蒙るのみである。そのような手段では益になるものは得られぬ。これまでは敢えて出席を阻止するまでのことはしなかったが、これ以後は阻止せねばならぬことを承知されたい。われらとの仕事を継続するかぎりは、他のサークルの影響は排除してもらわねばならぬ。これは肝心なことである。排除してくれなければ、われらの仕事は一層困難となり、他の霊に憑依される危険性もある。その霊たるや、そなたがもしも本性を知ればそなたのほうから逃げ出したくなる類のものであり、およそわれらと仕事を共に出来るしろものではない。そなたの霊能が他のサークルの他の霊に役立つと思うのは誤りである。われらは敢えて阻止する。そのような方法では証拠は得られぬし、他の霊媒の為にもならぬ。むしろ逆効果である。さようなことにそなたが使用されるのを見過ごすわけにはいかぬ。

そなたが持ち出せる問題につきて今はこれ以上深入りはせぬ。もしもわれらがそなた本来の実直さと忠節を認めていなければ、疾(と)うの昔にこれほど実りなき苦労は中止していたであろう。今少し賢明であれば行なわずに済んだであろうことをそなたは無知なるが故に行なってきた。そなたの同志たちもわれらが期待したほどには援助になっていないが、彼らにも、そしてそなたにも、出来るかぎりの利益をもたらしてきたつもりである。しかし、こうした問題においては、われらの力にも意志にも限界がある。しかも全体的にみてそなたに相応しからぬものを押しつけることになれば、われらに配慮が足らなかったことになる。これより後も援助することになろうが、差し当たりこの時点ではこれ以上のことは出来ぬ。新たな試みをするつもりもない。これ以上無益なる時間と労力とを費すことは出来ぬ。無益であることはそなたの状態を見て悟ったのである。そなたの言説を聞けば少なくともそなたの知力はわれらの仕事の本質を理解しておらぬことが判る。大前提として要求する例の実験(1)には応じられぬし、応ずる気にもなれぬ。そのようなことで確信が得られるものでもなく、神の使徒であることの保証が得られるものでもない。そのような要求に応じてもそなたはまた新たな要求を突きつけてくるであろう。確信というものはそのような物理的手段によって確立されるものではないのである。

それよりも、これまで為されてきたことをよく吟味するがよい。そなたは目の前に提出されたものを脇へ押しやっている。得心のいかぬものを率直に拒絶すること自体、少しも非難はせぬ。が、一旦拒絶されれば最早やわれらとしては他に取るべき手段を知らぬ。故にそなたの選択は永遠なる重要性を秘めている。そしてそなたはすでに選択を行なっているやに察せられる。それが果たして賢明なる選択であるか否かは時が証明してくれるであろう。そしてその時に、その選択の誤りを幾分かは修正することが出来るかも知れぬ。が、願わくば今、細心の反省を行なうことによって、その選択を撤回してくれることを祈るものである。

(†インペレーター)


〔翌十月四日も引き続いて通信が来た。その中には余りに私的な内容のものが含まれているので、その部分の公表は控えさせていただく。が、全体として極めて威厳に満ちた言葉で綴られ、しかも最初は祈りの言葉で始まっている。内容的には結局これまでの主張の繰り返しであるが、部分的には私の要求の幾つかに譲歩を示している。とくに総引き上げの件についての譲歩は印象的で、純粋な人間的理性がにじみ、これまでの通信に終始一貫して見られる理路整然とした論理の典型を思わせるので、幾分私的な色彩があってもそのまま紹介する。極めて読み易い文字で、しかも猛スピードで書かれ、書き終るまで私にもその内容が判らなかったほどであった。〕


神の僕(しもべ)として、使者として、そなたの指導霊として、また守護霊として、余はそなたに神の御恵みの多からんことを祈る。至聖にして慈悲深き天なる父の祝福のあらんことを。目にこそ見えざれども、そなたを包む力強き神の御力が、何とぞそなたを良きに計らい給わんことを。

われらは今、これ以後の計画を全て放棄する前に是非とも暫くの間(ま)を置くようにとの要請を受けている。特に○○氏〔他界したばかりの私の友人で、死後すぐに通信して来た〕より強き要請があった。彼は信仰問題で今そなたが置かれている苦しき事態につきて、われらより生々しく、かつ強烈なる印象を有しているのであろう。われらの仕事はそなたが駄目であれば別の者を通じて成就することになろうが、それはそれとして、とにかく暫くの間を考慮してやってほしい――そなたほどの証を手にする者が最後まで完全なる確信に抵抗し得るはずはない、というのが彼の言い分である。そなたの視点、いかに公明正大なる精神も免れ得ぬ偏見、それに交霊につきまとう様々な困難――こうしたことも考慮せねばならぬ。そなたには疑わしく思えても、われらにはその真相を知り尽くしているが故に、そなたのその頑な態度がいかにも合点がいかぬが、それでも尚われらはその疑念に率直さと現実性を認め、それをこれよりのちの確信の可能性の尺度であるとの希望を抱いている。

これまでわれらは、そなたの心が近づき難き雰囲気に包まれておらぬ限り、そなたの悩みに答えてきた。が、あれほどの辛苦の末に結成せるサークルも用を為さぬほどに分裂し、殆どの交霊会において、われらの手に負えぬほどに調和を欠くに至った以上、もはやわれらの計画も挫折し、これ以上の努力の意味なしと判断せざるを得なかった。物理実験のしつこき要請はわれらの望むところと余りに掛け離れていた。われらはこのような目的でそなたを選んだのではない。仮にそうであったとしても、そなたの身体をあのような現象で消耗させるわけには参らぬ。さなきだに激しき消耗を強いられる生命力と絶え間なく動揺する身体的特質を考慮した時、とてもあのような実験を許すわけにはいかぬ。あの種の実験にはそれなりの体質を必要とする。それには逆に精神的現象の不得手な、より動物的体質の者が相応しい。そなたを通じてわれらはこの手段(2)によりて言いたきことを実に効果的に伝えることを得て来た。が、振り返ってみるに、その大部分はそなたの抗議への対応に終始し、サークル活動もその所期の大目的は未だ達成されぬままである。

そうした中において、更にそなたはわれらが不可能かつ不必要とみる実験を要請してきた。その折われらは、これを更に要求してくる先がけに過ぎぬと受けとめた。そしてそなたがわれらのこれまでの言説を十分に吟味していないとみた。その上われらは、証拠を出そうと思えばそなたが要求しているもの以上のものを、折を見て出すことも出来た。そこでわれらは、いっそのことこの仕事を止めてしまえば、言い換えれば、われらがこの通信の仕事から暫し引き上げてしまえば、多分そなたの心はおのずと過去へと向い、そこより正しき教訓を学んでくれると判断したのである。が、別な観方も出来る。つまり、たとえわれらが引き上げたところで、そなたの霊的能力まで消すことは出来ぬ。われらが使用を中止するということに過ぎぬ。するとその霊力が他の霊によりて牛耳られ、悪だくみと虚偽の侵入を許し、遂にはわれらの仕事が完全に挫折してしまうことになりかねぬ。その危険を無視するわけにはいかぬ。今もしそなたをそのような状態に放置すれば、そなたが懐疑より不信へと陥るであろうことも十分承知している。直感的判断力より遙かに幅を利かせているそなたの論理的判断の習性のために、そなたは恐らく、出なくなったものは信じなくなるものと思われる。印象が薄れ、やがて消滅していくことであろう。

そこで困難を避ける唯一の道は辛抱づよく待つことであるように思われる。将来を予言することは出来ぬが、そなたの前に二本の道が横たわっていること、そのいずれを選ぶかはそなたの理性が決めることであること、その二点に間違いはない。われらにも選択を迫りたい希望はあるが、それを強要する資格は持たぬ。責任はすべてそなたにある。選択に誤りがなければそなたの魂は進歩と啓発の道を歩むことになろう。その道を拒絶すれば当然暗黒と退歩の道を進むことになろう。それもこれもそなたの判断次第で決まることである。われらとしては、これまでの主張を一語たりとも削るつもりはない。むしろ更に強調したいほどである。その実相についてはこののち更に一層明確に理解することになろう。が、今は神の使徒としてのわれらの存在とこれまでの教説について真摯に、祈りの心を込めて細かく吟味するがよい。過去を振り返ることである。教説を吟味することである。記録を分析し、その中よりそなたの結論を引き出すのである。その間の進歩の跡に注目せよ。神より出でたる教義がいかに入念なる配慮によって仕上げられてきたか、その過程に注目せよ。そしてその過去を踏まえて将来への展望を広げてみよ。今そなたはまさに重大なる境界線上に立てること――魂の進歩の前に取り除かねばならぬことが数多くあること――建物を構築するに先立ちて地ならしの工事が必要であること――永遠がそなたを待ち受けていること――われらが扉を開くカギを授けんとしていることをよく認識されたい。

どうか、二度と訪れぬこの機を拒絶する前に、暫し間を置いてみられることを切望する。拒絶したが最期、それは暗き影となりて永遠にそなたの魂につきまとい続けることであろう。受け入れれば、それは魂の宝となりて永遠にその輝きを増し続けることであろう。

祈れ。父なる神に祈れ。そなたを守り、われらをして引き続きそなたを導くことを得さしめ給わんことを祈れ。冷ややかにして陰気なる地上の雰囲気より脱し、そなたを導かんとして待機せる明るき霊との交わりを求めて祈れ。そなたほど厚き看護を受けし者はおらぬぞ。その看護をそなたほど無益にした者はおらぬということになっても良いというのか。そうならぬよう、また身体的にも霊的にも邪(よこしま)なる影響力より護られるよう、そしてまたより高き知識の海原へ、さらにより確固として揺るぎなき信頼へと導かれるよう、そなたと共にわれらも祈ろう。

父よ! 永遠にして無限、全知全能なる神よ! 子なるわれらに、御前に近づき願いごとを述べさせ給え。きっとお聞き届け下さると信ずる故に他なりませぬ。永遠なる神よ、何とぞわれらを妨げんとする者たちと障害物を取り除き給え。疑う心に一条の光を照らされ、暗き心の片隅を明るく照らし、潜み隠れる敵対者を払いのけ給え。われらの労苦に慰めの愛を授け給え。労苦が大なれば、それだけその愛も大なるを要します。仕事が大なれば、それだけ愛の力も大なるを要します。全能なる神よ、何とぞ御力を授け給え。われらの讃仰の御しるしと致させ給え。御前に感謝と崇敬の念を表明し、心からの敬慕の念を捧げさせ給え。われら天使より、御力の御しるしたる宇宙を通じて、御身に栄光と祝福と名誉と讃美の祈念を捧げ奉ります。

(†インペレーター)


〔この通信が事実上これまでの一連の議論の締め括りとなった。むろん私がこれであっさりと確信したわけではない。暫しの議論の小休止、とくに霊界との係わりを全面的にストップしたことが、私にこれまでの通信の経過を自由な気持で振り返らせることになった。それまでの霊的影響力を直接的に受けなくなってからは、以前よりも冷静に判断できるようになり、通信の実直さと誠意と真実性に対する確信が徐々に芽生えてきた。と言うよりは、信仰心が実感を伴って深まり、知らない間に懐疑心が薄れていったと言った方がよいであろう。〕


〔注〕

(1)他の霊媒を通じてインペレーターがしゃべり、モーゼスを通じて働きかけている霊と同一であることを証明し、そうすることで、その存在が客観的存在であり、モーゼスの第二人格でないことを証明するということ。

(2)自動書記通信。

シルバーバーチの霊訓(五)

 More Teachings of Silver Birch

Edited by A.W. Austen
近藤 千雄訳



七章 動物は死後どうなるか

  動物は死後どうなるのか───これは誰しも一度は考えてみたことのあるテーマであろう。ある日の交霊会で、そのテーマを本格的に扱った本を執筆中のシルビア・バーバネル女史がシルバーバーチに集中的に質問した。

(訳者注───のちにそれが、When Your Animal Dies と題されて出版され、スピリチュアリストに限らず動物問題に関心のある人たちの間でも大反響を呼んだ。それを読んで人間の死後の存在に確信を持つに至った人も少なくないという。オースティンの原典にはその日の交霊会の記録の十分の一程度しか紹介されていないので、本章にはバーバネル女史の原典からそっくり引用させていただいた)


問 「動物は死後もずっと飼い主と一緒に暮らすのでしょうか。それともいずれは動物だけの界へ行くのでしょうか」

 「どっちとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛が関っているからです。死後も生前のままの形体を維持するか否かはその動物に対する飼い主の愛一つにかかっているのです。もしも動物とその飼い主───この飼主(Owner)という言葉は好きではありません。

他の生命を我がものとして所有する(own)などということは許されないのですから───その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼い主のところで暮らします。愛のある場所が住拠となるわけです。愛が両者を強く結びつけるのです。その場合は住処がありますから動物界へ行く必要はありません。

 動物界に住むのは飼主より先に霊の世界へ来た動物に限られます。誰かに世話をしてもらわなくてはならないからです。さもないと、心を温めてくれただけでなく一時的にせよ〝不滅性〟の要素を吹き込んでくれた〝愛〟から切り離されて、動物といえども心を取り乱すことがあるのです。

地上で人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けた飼主より先に他界した場合は、その主人が来るまで、動物界へ行ってそこで面倒をみてもらいます。それはちょうどあなた方が遠出をする時にペットを専門家に預けるのと同じで、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです」


問 「人間との接触によって動物はどんなものを摂取するのでしょうか」

 「長い進化の道程のどこかの時点で、神が、というよりは、法則の働きによって動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力というものを身に付けたわけです。

すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部はじめから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが目覚めるには神の息吹きが必要でした。

 さて、そうして神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことが出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込む能力を具えています。

つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。それがその後の長い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命のすべてのカギです。動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。

愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同志でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。人間が可愛がる動物───犬、猫、その他のペット類───へ向けられる愛は死と共に終わるのではありません。愛があればこそ生命は進化するのです」


問 「霊界で動物と再会したとして、その一緒の生活はいつまで続くのでしょうか。いつまでも人間と一緒ですか」

 「いえ、その点が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても別れなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるか分かりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違います。より大きな光明へ向けて絶え間なく向上していく人間のペースについて行けなくなる時が来ます。

人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、言いかえれば自分を地上と結びつけていた絆が切れたことを自覚すると、向上進化を求める欲求、内部の神性を発揮しようとする欲求が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力を他の生命の進化を援助する方向へと発揮しようとします。

そうやって人間が霊的に向上すればするほど、動物はそのスピードについて行けなくなり、やがて死後も燃え続けた愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合していきます。


問 「すると動物の場合は個性を失ってしまうということですか」

 「その通りです。そこに人間と動物の大きな違いがあるわけです。動物は類魂全体として未だ一個の個性を有する段階まで進化していないのです。その段階まで進化すれば、もはや動物ではなくなり、人間の段階に到達したことになります。ペットとして可愛がられた動物は、人間の愛の力によって言わば進化の段階を飛び越えて人間と一緒に暮らすわけですから、その愛の糸が切れてしまえば、もとの類魂の中に戻るほかはありません」


問 「せっかく人間との接触で得たものが消えてしまうのでは愛がムダに終わったことになりませんか」

 「そんなことはありません。類魂全体に対して貢献をしたことになります。類魂全体としてその分だけ進化が促進されたことになるのです。共通の蓄えに対する貢献です。今までその類魂に無かったものが加えられたわけです。全体のために個が犠牲になったということです。

そうしたことが多ければ多いほど類魂の進化が促進され、やがて動物の段階を終えて、人間の形体での個体としての存在が可能な段階へと進化していきます」


問 「その時点で人間界へと誕生するわけですか」

 「人間界への誕生には二種類あります。古い霊が再び地上へ戻ってくる場合と〝新しい霊〟が物質界で個体としての最初の段階を迎える場合です」


問 「一人の人間としてですか」

 「そうです。双方とも霊魂(スピリット)です。双方とも自我意識を持った霊であり個性を持った霊的存在です。ただ、一方がベテランの霊で、進化の完成のためにどうしても物質界で体験しなければならないことが生じて、再び地上へやってくるのに対し、他方は、やっと人間の段階にまで達した新入生です。

直前まで動物だった類魂が人間界への仲間入りをしたのです。アメーバの状態から始まって爬虫類、魚類、鳥類、そして動物と、ありとあらゆる進化の段階をへて、今ようやく人間へと達したのです」


問 「セオソフィー(神智学)の教えと同じですね」

 「何の教えでもよろしい。私に対して、学派だの宗派だのを口にするのは止めて下さい。私はそういうものに一切関心がありません。世の評論家というのはアレコレとよく知っていることをひけらかすだけで、その実、素朴な真理を何一つ知りません。

それはさて措いて、あなた方はまさか蜘蛛を家の中に持ち込んでペットして飼ったりはしないでしょう。カブト虫に温かい人間愛を捧げるようなことはしないでしょう。それはあなたと、そういう昆虫との間の隔たりを意識するからです。進化の道程において遥かに遅れていることを本能的に直感するからです。

一方、犬とか猫、時に猿などをペットとして可愛がるのは、一種の親近感を意識するからです。もうすぐ人間として生まれ代わってくる段階まで近づいて来ているために、動物の方でも人間の愛を受け入れようとするのです」


問「では下等動物が人間に飼われるということは、その動物はもうすぐ人間に生まれ代わるということを意味するのでしょうか」

 「進化にも、突然変異的な枝分かれ、いわゆる前衛と、後戻りする後衛とがあります。つまり前に行ったり後ろに下がったりしながら全体として進化していきます。中には例外的なものも生じます。動物で知的な面でずいぶん遅れているものもいれば、小鳥でも犬より知的に進化しているものがいたりします。しかしそうした例外と、全体の原理とを混同してはいけません」


問 「動物の類魂は同じ種類の動物に何回も生まれ代わるのですか、それとも一回きりですか」

 「一回きりです。無数の類魂が次々と生まれ代わっては類魂全体のために体験を持ち帰ります。動物の場合それぞれ一度ずつです。全体として再生する必要はありません。それでは進化になりません」


問 「われわれ人間としては、犬や猫などのペットと同じように、生物のすべてに対して愛情を向けることが望ましいのでしょうか」

 「それはそうです。しかし同じ反応を期待してはいけません。愛情は愛情を呼び、憎しみは憎しみを呼ぶというのが原則ですが、進化の程度が低いほど反応も少なくなります。

あなたの心に怒りの念があるということは、それはあなたの人間的程度の一つの指標であり、進歩が足りないこと、まだまだ未熟だということを意味しているわけです。あなたの心から怒りや悪意、憎しみ、激怒、ねたみ、そねみ等の念が消えた時、あなたは霊的進化の大道を歩んでいることになります」


問 「動物がようやく人間として誕生しても、その人生がみじめな失敗に終わった場合は、再び動物界へ戻るのでしょうか」

 「そういうことはありません。一たん人間として自我意識を具えたら、二度と消えることはありません。それが絶対に切れることのない神との絆なのです」


問 「屠殺とか動物実験等の犠牲になった場合の代償───いわゆる埋め合わせの法則はどうなっていますか」

 「もちろんそれにもそれなりの埋め合わせがありますが、一匹とか一頭とかについてではなく、その動物の属する類魂全体を単位として法則が働きます。

進化の程度が異なる動物と人間とでは因果律の働きが違うのです。特に動物の場合は原則として死後は類魂の中に個性を埋没してしまうので、個的存在とは条件が異ります。類魂全体としての因果律があるのですが、残念ながら人間の言語では説明のしようがありません。譬えるものが見当たりません」


問 「シラミとかダニの寄生虫は人間の邪心の産物だという人がいますが、本当でしょうか。あれはホコリとか病気などの自然の産物ではないかと思うのですが・・・」

 「そのホコリや病気は一体何が原因で生じるのでしょうか。原因を辿れば人間の利己心に行きつくのではありませんか。その利己心はすなわち邪心と言えます。たしかに直接の原因は衛生の悪さ、不潔な育児環境、ホコリとか病気、直射日光や新鮮な空気の不足とかにありますが、さらのその原因を辿れば、そういう環境を改めようとしない、恵まれた環境にある人たちの同胞への利己心、同胞への非人間性に行きつきます。

これは一種の邪心であり、私に言わせれば人間の未熟性を示しています。そういう利己心を棄て、弱者を食いものにするようなマネをやめ、我欲や野心を生む制度を改めれば、害虫や寄生虫は発生しなくなります」

問 「それは、たとえばハエのようなものには当てはまらないでしょう」

 「いいですか。大自然全体は今なお進化の過程にあるのです。自然界のバランスは人類の行為如何によって左右されており、人類が進化すればするほど、自然界の暗黒が減っていくのです。人間の霊性の発達と自然界の現象との間には密接な関係があるのです。

人間の存在を抜きにした自然界は考えられないし、自然界を抜きにして人間の進化はあり得ません。双方の進化は大体において平行線を辿っています。人間は神によって創造されたものであると同時に、神の一部として、宇宙の進化の推進者でもあり、自分自身のみならず、自分の属する国家をも司配する自然法則に影響を及ぼします。

 私は今、人間と自然界の進化は大体において平行線を辿ると言いました。両者にはどうしても少しずつズレが出てくるのです。なぜなら、過去の世代が残した業は必ず処理していかねばならないからです」

問 「今おっしゃったことは恐ろしい野獣についてもあてはまるのでしょうか」

 「一応当てはまります。ただ忘れないでいただきたいのは、進化というのは一定の型にはまったものではないことです。いろいろと変化をしながら永遠に続くのです。原始的なものからスタートして低い段階から高い階段へと進むのですが、かつては低いところにいたものが次第に追い抜いて今では高いところにいたり、今高い所に位置しているものが、将来は低い方になることもあります」


問 「では進化にも後戻りということがあるわけですか」

 「それを後戻りと呼ぶのであればイエスという答えになりましょう。というのは、進化というのは一種の円運動(サイクル)、現代の思想家の言葉を借りれば螺旋(スパイラル)を画きながら進むものだからです。どちらの言い方でも構いません。要は進化というものが常に一直線に進むものではないことを理解していただけばよろしい。一歩進んでは後退し、二歩進んでは後退し、ということを繰り返しながら延々と続くのです」

問 「動物同士は殺し合っているのに、なぜ人間は動物実験をやってはいけないのでしょう」

 「それが人間の進化の指標だからです。人間が進化すればするほど地上から残忍性と野蛮性が消えていきます。愛と慈しみと寛容の精神が地上にみなぎった時、動物の残忍性も消えて、それこそライオンと小羊が仲良く寄りそうようになります」

問 「しかし動物の残忍性も動物としての発達の表れではないでしょうか」

 「あなたもかつては動物だったのですよ。それがここまで進化してきた。だからこそ太古に較べれば動物界でも随分残忍性が減ってきているのです。トカゲ類で絶滅したのもいます。なぜ絶滅したと思いますか。人間が進化したからです」

問 「おとなしい動物の中にも絶滅したものもがいますが・・・」

 「進化の一番の指標が残忍性に出るといっているのです。太古でも進化上の枝分かれが幾つもありました。それらは進化の先進者とでも言うべきものです。進化というのはどの段階においても一定の型にはまったものではありません。優等生もおれば劣等性もおり、模範生もおれば反逆児もおります。おとなしい動物はさしずめ〝火を吐く怪獣〟を追い抜いた優等生だったわけです」

問 「寄生虫の類も動物と同じ類魂の中に入って行くのですか」

 「違います」

問 「動物の類魂は一つだけではないということですか」

 「各種属にそれぞれの類魂がいます」

問 「それが更に細分化しているわけですか」

 「そうです。細分化したものにもそれぞれの類魂がおります。新しい霊───初めて人間の身体に宿る霊は、動物の類魂の中の最も進化した類魂です」


問 「やはりサイクルを画きながら進化していくのでしょうか」

 「そうです。すべてサイクル状に進化します」

問 「動物で一番進化しているのは何ですか」

 「犬です」

問 「寄生虫の類魂の存在は害を及ぼしますか」

 「別に害はありません。全体のバランスから見て、殆ど取るに足らぬ勢力ですから。でもこれは普段あまり触れることのない深入りした質問ですよ」

問 「動物の類魂の住処はやはり動物界にあるのですか」

 「私にはあなたより有利な点が一つあります。それは地理を学ばなくてもいいということです。場所とか位置が要らないのです。霊的なものは空間を占領しないのです。地上的な位置の感覚で考えるからそういう質問が出てくるのです。

魂には居住地はいりません。最も、形体の中に宿れば別です。類魂そのものには形体はありません。もしも形体をもつとなれば、何らかの表現形態に宿り、その形態で自己表現できる場が必要になります」


問 「動物の類魂は地球上に対して何か物質的なエネルギーを供給しているのでしょうか。地球にとってそれなりの存在価値があるのでしょうか」

 「進化の過程においての存在価値はあります。ただ気をつけていただきたいのは、どうもあなた方は物的なものと霊的なものとを余りに区別しすぎるきらいがあります。地上に存在していても立派に類魂の一部でありうるわけで、死ななければ類魂の仲間入りが出来ないわけではありません」


問 「ペットも睡眠中に霊界を訪れますか」

 「訪れません」


問 「では死んでからいく世界にまるで馴染がないわけですか」

 「ありません。人間の場合は指導霊が手を引いて案内してくれますが、動物の場合はそれが出来るのは飼主だけです。飼主が地上にいれば案内できません」


問 「飼主が先に死んだ場合はどうなりますか」

 「その場合は事情が違ってきます。いま述べたのは一般的な話です」


問 「人間より動物の方が心霊能力がすぐれている場合があるのはどうしてですか」

 「〝進化〟の観点からいえば、まだ人間となる段階には到達していませんが、人間がいま送っているような〝文化生活〟を体験していないからです。人間がもしも文化生活の〝恩恵〟に浴さなかったら、もっと早い段階で心霊能力が普段の生活の一部となっていたはずです。

つまり人間は文明と引き替えに心霊能力を犠牲にしたわけです。動物には人間のような金銭問題もなく、社会問題もないので、本来なら人間が到達すべきであった段階へ人間より先に到達したのです。人間の場合は物的生活の必要性から本来の心霊能力が押さえ込まれてしまったわけです。いわゆる霊能者というのは進化のコースの先駆者です。いずれは人間の総てが発揮するはずの能力をいま発揮しているわけです」


問 「動物にはいわゆる第六感というのがあって災害を予知したり、知らないところからでもちゃんと帰って来たりしますが、これも心霊能力ですか」

 「そうです。霊能者にも同じことが出来ます。ただ動物の場合はその種属特有の先天的能力である場合があります。これも一種の進化の先駆けで、その能力だけがとくに発達したわけです。ハトのようにどんな遠くからでも帰って来る能力もそれです。本能と呼ばれていますが、一種の〝先見の明〟です」


問 「死んだばかりの犬が別の犬と連れだって出て来ている様子を霊能者が告げてくることがありますが、犬同士でも助け合うことがあるのですか」

 「ありません。ただし地上でその二匹が一緒に暮らした経験があれば連れだって出ることはあります」


問 「その手助けをする人間の霊がかならずいるのでしょうか」

 「そうです。高い者が低い者を援助することになっているのです。それが摂理です」


問 「動物界にはどんな種類の動物がいるのでしょうか」

 「地上で可愛がられている動物、親しまれている動物、大切にされている動物、人間と殆ど同等に扱われて知性や思考力を刺戟された動物のすべてがおります。そうした動物は飼い主の手から離れたことでさびしがったり迷ったりするといけないので、動物界に連れてこられて、他の動物と一緒に暮らしながら、動物の専門家の特別の看護を受けます。

その専門家は永いあいだ動物の研究をしてきていますので、その正しい対処の仕方を心得ており、自然な情愛の発露を動物へ向けることが出来るのです。そこには動物をよろこばせるものが何でも揃っており、やりたいことが何でも出来るので、イライラすることがありません。そして時には地上にいる飼主の家の雰囲気内まで連れてこられ、しばしその懐かしい雰囲気を味わいます。

心霊知識のない人でも自分の飼っていた犬を見たとか猫が出たとか言ってさわぐのはそんな時です。なんとなくあの辺にいたような気がするといった程度に過ぎないのですが、地上の動物の目にはちゃんと見えています。霊視能力が発達しているからです」


問 「動物界で世話をしている人間が連れてくるわけですか」

 「動物界でその管理に当たっている人たちで、それ以外の人について戻ってくることはありません。ところで、その世話をしている人はどんな人たちだと思いますか。動物が大好きなのに飼うチャンスがなかった人たちです。

それはちょうど子供が出来なくて母性本能が満たされなかった女性が、両親に先立って霊界へ来た子供の世話をするのといっしょです。犬とか猫、その他、人間が可愛がっている動物が飼主に先立ってこちらへ来ると、動物が大好きでありながら存分に動物との触れ合いが持てなかった人間によって世話をされるのです。

もちろん獣医のような動物の専門家がちゃんと控えております。それもやはり地上で勉強したことがそのまま霊界で役に立っているわけです。知識は何一つ無駄にはされません」


問 「病気で死亡した動物の場合も人間と同じように看護されるのですか」

 「そうです。そうしたチャンスを喜んで引き受けてくれる人が大勢います」


問 「動物界は種類別に分けられているのですか、それとも全部が混り合っているのですか」

 「種族の別ははっきりしています」


問 「動物界は一つでも、それぞれの境界があるということですか」

 「そうです。とにかく自然に出来あがっております。一つの大きなオリの中に飼われているのではありません」


問 「猫は猫、犬は犬に分けられているわけですか」

 「その通りです」


問 「特に仲の良かったものは別でしょう。その場合は互いに境界の近くに来るわけですか」

 「そういうことです。すべてが至って自然に出来あがっていると考えて下さい」


問 「犬の次に進化している動物は何ですか。猫ですか猿ですか」

 「猫です」


問 「なぜ猿ではないのでしょう。人間と非常によく似ていると思うのですが」

 「前にも述べましたが、進化というのは一本道ではありません。かならず優等生と劣等性とがいます。人間は確かに猿から進化しましたが、その猿を犬が抜き去ったのです。その大きな理由は人間が犬を可愛がったからです」


問 「犬が人間の次に進化しているから可愛がるのだと思っていましたが・・・」


 「それもそうですが、同時に人間の側の好き嫌いもあります。それからこの問題にはもう一つの側面があるのですが、ちょっと説明できません。長い長い進化の道程において、猿はいわば足をすべらせて後退し、残忍にはならなかったのですが、ケンカっぽく、そして怠けっぽくなって歩みを止めてしまい、結局類魂全体の進化が遅れたのです。

それと同時に、というより、ほぼその時期に相前後して、犬の種族が進化してきました。猿よりも類魂全体の団結心が強く、無欲性に富んでいたからです。しかしどうも話が複雑になりすぎたようです」


問 「猿の種族が法則を犯したのでしょうか」

 「法則を犯したというのではなく、当然しなければならないことをしなかったということです」


問 「では猿と同じように、将来、犬が進化の段階を滑り落ちるということもありうるのでしょうか」

 「それはもう有り得ないでしょう。というのは、すでに何百万年もの進化の過程を辿って来て、地上の種がすっかり固定してしまったからです。種の型が殆ど定型化して、これ以上の変化の生じる可能性はなくなりつつあります。物質的進化には限度があります。形体上の細かい変化はあるかも知れませんが、本質的な機能上の変化は考えられません。細かい変化は生じても、すっかり形体が変わることはありません。

 たとえば人間の場合を考えてごらんなさい。現在の型、すなわち二本の腕と脚、二つの目と一つの鼻が大きく変化することは考えらません。これが人間の標準の型となったわけです。もちろん民族により地方によって鼻とか目の形が少しずつ違いますが、型は同じです。動物の場合はこの傾向がもっと強くて、霊界の類魂に突然変異が発生することはあっても、それが地上の動物の型を大きく変化させることはまずないでしょう」


問 「猿の転落もやはり自由意志に関連した問題ですか」

 「それは違います。自由意志は個的存在の問題ですが、動物の場合は類魂全体としての問題だからです」


問 「動物に個体としての意識がないのに、なぜ類魂全体としての判断が出来るのですか」

 「本能による行動と本能の欠如による行動の違いがあります。個々には理性的判断力のない動物でも、働くか怠けるかを選ぶ力はあります。必要性に対して然るべく対処するかしないかの選択です。そこで種としての本能が伸びたり衰えたりします。個々には判断力は無くても、長い進化の過程において、種全体として然るべき対処を怠るという時期があるわけです」


問 「それは植物の場合にも言えるわけですか」

 「言えます」


問 「それは外的要因によっても生じるのではないですか」

 「それはそうですが、あなたのおっしゃる外的というのは実は内的でもあるのです。それに加えて更に、霊界からコントロールする霊団の存在も考慮しなくてはいけません。その霊団もまた法則、進取性、進歩といった要素に支配されます」


問 「たとえば猿の好物であるナッツが豊富にあれば、それが猿を怠惰にさせるということが考えられませんか」

 「そういうことも考えられますが、ではナッツがなぜ豊富にあったのかという点を考えると、そこには宇宙の法則の働きを考慮しなくてはいけません。つまり人間の目には外的な要因のように見えても、霊界から見れば内的な要因が働いているのです。私の言わんとしているのはその点なのです。

人間はとかく宇宙の法則を何か生命の無い機械的な、融通性のないもののように想像しがちですが、実際は法則と法則との絡まり合いがあり、ある次元の法則が別の次元の法則の支配を受けることもありますし、その根源において完全にして無限なる叡知によって支配監督されているのです。

法則にもまず基本の型というものがあって、それにいろいろとバリエーション(変化)が生じます。といっても、その基本の型の外に出ることは絶対に出来ません。どんなに反抗してみたところで、その法のワクはどうしようもなく、結局は順応していくほかはありません。

しかし同じ型の中にあって、努力次第でそれを豊かで意義あるものにしていくことも出来るし、窮屈で味気ないものにしてしまうことも出来ます。別の言い方をすれば、その法則に調和した色彩を施すのも、あるいはみっともない色彩を塗りつけてしまうのもあなた次第ということです。いずれにせよ、最後は型に収まります」


 別の日の交霊会で動物実験が道徳的側面から取り上げられた。

問「動物実験がますます増えておりますが、どう思われますか。これを中止させようと運動している団体もありますが、霊界からの援助もあるのでしょうか」


 「ためになる仕事をしようと努力している人は必ず霊界から鼓舞し支援し霊力をもたらそうとしている人たちの援助を受けます。神の創造物に対して苦痛を与えることは、いかなる動機からにせよ許されません。ただ、動物実験をしている人の中には、人類のためという一途な気持ちでいっしょうけんめいなあまり、それが動物に苦痛を与えていることに全く無神経な人がいることも忘れてはなりません。しかし摂理を犯していることに変りありません」


問 「でもあなたは動機が一番大切であると何度もおっしゃっています。人類のためと思ってやっても罰を受けるのでしょうか」

 「動機はなるほど結構なことかもしれませんが、法の原理を曲げるわけにはいきません。実験で動物が何らかの苦痛を受けていることが分っていながらなお意図的に苦しみを与えるということは、それなりの責務を自覚しているものと看做(みな)されます。

動機は人のためということで結構ですが、しかしそれが動物に苦痛を与えているわけです。そうした点を総合的に考慮した上で判断が下されます。いずれにせよ私としては苦痛を与えるということは賛成できません」


問 「動物は人類のために地上に送られてきているのでしょうか」

 「そうです。同時に人類も動物を助けるために来ているのです」


問 「動物創造の唯一の目的が人類のためということではないと思いますが」

 「それはそうです。人類のためということも含まれているということです」


問 「動物の生体解剖は動機が正しければ許されますか」

 「許されません。残酷な行為がどうして正当化されますか。苦痛を与え、悶え苦しませて、何が正義ですか。それは私どもの教えとまったく相容れません。無抵抗の動物を実験台にすることは間違いです」


問 「動物を実験材料とした研究からは、たとえばガンの治療法は発見できないという考えには賛成ですか」

 「神の摂理に反した方法からは正しい治療法は生まれません。人間の病気にはそれぞれにちゃんとした治療法が用意されています。しかしそれは動物実験では発見できません」


問 「そうしたむごい実験を見ていながら、なぜ霊界から阻止していただけないのでしょうか」

 「宇宙が自然法則によって支配されているからです」


 さらに別の交霊会で、キツネ狩りに参加した人が自分は間違ったことをしたのでしょうかと尋ねた。すると───

 「すべての生命のあるものは神のものです。いかなる形にせよ、生命を奪うことは許されません」

問 「でもうちのにわとりを二十羽も食い殺したんですが・・・・・・」

 「では、かりに私がそのキツネに銃を与えて、二十羽も鶏を食べたあなたを撃ち殺せと命令したらどうなります。すべての地上の生命にとって必要なものは神がちゃんと用意してくださっています。

人間が飢えに苦しむのはキツネが悪いのではなく、人間自身が勝手な考えを持つからです。地上の人間が向上進化すれば、そうしたあくどい欲望はなくなります。キツネやにわとりをあなたがこしらえたのなら、これをあなたが食べても誰も文句は言いません。

人間がにわとりやキツネを殺していいというのが道理であるとしたら、あなたの同胞を殺してもいいという理屈になります。生命は人間のものではありません。神のものです。生命を奪うものは何時かはその責任を取らなくていけません」


問 「オーストラリアではウサギの異常繁殖が脅威となっておりますが、これについてどうでしょうか」

 「人間は本来そこにあるべきでないところに勝手に持ってきて、それがもたらす不都合について文句を言います。

私の地上の故郷である北米インデアンについても同じです。インデアンはもともと戦争とか、俗に言う火酒(ウイスキー、ジン等の強い酒)、そのほか不幸をもたらすようなものは知らなかったのです。

白人が教えてくれるまでは人を殺すための兵器は何も知らなかったのです。そのうち人間も宇宙のあらゆる生命───動物も小鳥も魚も花も、その一つ一つが神の計画の一部を担っていることを知る日が来るでしょう。神の創造物としてそこに存在していることを知るようになるでしょう」


 更に別の日の交霊会で───

問 「イエスの教えの中には動物に関するものが非常に少ないようですが何故でしょうか」

 「その当時はまだ動物の幸不幸を考えるほど人類が進化していなかったからです」


問 「ほかの国の霊覚者の訓えにはよく説かれているようですが・・・・・・」

 「それは全部とは言いませんが大部分はイエスよりずっと後の時代のことです。それはともかくとして、あなた方はイエスを人類全体の模範のように考えたがりますが、それは間違いです。イエスはあくまで西欧世界のための使命を担って地上へ降りてきたのであって、人類全体のためではありません。

イエスにはイエスの特殊な使命があり、イエス個人としては動物を始めとする全ての生命に愛情をもっていても、使命達成の為に、その教えを出来るだけ制限したのです。その使命というのは、当時の西欧世界を蝕んでいた時代遅れの腐敗した宗教界にくさびを打ち込んで、人生の照明灯(サーチライト)として難解なドグマに代わる単純明快な人間の道を説くことでした」


問 「下等動物への愛を説かない教えは完全とは言えないではないでしょうか」

 「もちろんそうです。ただイエスの場合はその教えをよく読めば動物への愛も含まれています。イエスは例の黄金律を説きました。すなわち〝汝の欲するところを人に施せ〟ということですが、この真意を理解した人なら、他のいかなる生命にもむごい仕打ちは出来ないはずです」
                       

シルバーバーチの霊訓(五)

 More Teachings of Silver Birch

Edited by A.W. Austen
近藤 千雄訳




六章 イエスはいま何をしているか

 ナザレのイエスは今どういう仕事に携っているのだろうか。ある日の交霊会でシルバーバーチは、イエスは今すっかり教義とドグマと権力という雑草におおわれてしまった霊的真理の本来の姿をいま一度明らかにするための霊界からの地球的規模の働きかけの最高責任者であると述べた。

 そのことについて別の日の交霊会で次のように述べた。

 「ほぼ二千年前にイエスは磔刑(はりつけ)にされました。それはただ、当時の祭司たちがイエスを憎んだからにすぎません。イエスを通して霊力のほとばしりを見せつけられたからでした。まさに神の子に相応しい人物だったからにほかなりません。このままでは自分達の立場が危ないと思ったのです。

私たちが今それとまったく同じ反抗に遭っております。宗教界がこぞって〝真理〟を磔刑にしようとしております。しかし、それは不可能なことです。真理は、ただ真理であるが故に、あらゆる反抗、あらゆる敵対行為の中でも厳然と存在しつづけます。

キリスト教会の外部では次々と霊力が顕現しているにもかかわらず、空虚で侘しい限りの巨大な建造物の中には、その陰気な暗闇を照らす霊力の光は一条も見られません」

───そういうキリスト教は死滅してしまった方がましだとおっしゃるのでしょうか。

 「私はレンガとモルタル、祭壇と尖塔で出来た教会には何の興味もありません。何の魅力も感じません。建造物にはまるで関心が無いのです。私が関心を向けるのは〝魂〟です。

それで私は神とその子の間に横たわる障壁を取り除くことに奮闘しているのですが、不幸にして今日では教会そのものがその障壁となっているのです。これほど大きな罪悪があるでしょうか。宇宙の大霊である神は一個の教会に局限されるものではありません。

一個の建造物の中に閉じ込められるものではないのです。神の力は人間各自がその霊性を発揮する行為の中に、すなわち自我を滅却した奉仕の行為、困窮せる無力な同胞のために一身を捧げんとする献身的生活の中に顕現されるのです。そこに宇宙の大霊の働きがあるのです。

 確かにキリスト教会にも奇特な行いをしている真摯な人材がそこここに存在します。が、私が非難しているのはその組織です。それが障害となっており、是非とも取り除かねばならないからです。

真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役立てることです。同胞の為に自分を役立てることによって神に奉仕することです。私はこれまでそのことを何度申し上げてきたことでしょう。

然るに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。

新しい波に呑み込まれるのを恐れて、既得の権利の確保に汲々としてきました。しかし新しい霊的真理はすでに根づいております。もはやその流れをせき止めることはできません」

 
 ───イエスの意気込みが察せられます。

 「誤解され、崇められ、今や神の座にまつり上げられてしまったイエス───そのイエスは今どこにおられると思われますか。カンタべリー大聖堂ではありません。セントポール寺院でもありません。ウェストミンスター寺院でもありません。実はそうした建造物がイエスを追い出してしまったのです。

イエスを近づき難い存在とし、人類の手の届かぬところに置いてしまったのです。神の座にまつり上げてしまったのです。単純な真理を寓話と神話を土台とした教義の中に混ぜ合わせてしまい、イエスを手の届かぬ存在としてしまったのです。

 今なおイエスは人類のために働いておられます。それだけのことです。それを人間が(神学や儀式をこしらえて)難しく複雑にしてしまったのです。しかし今こうして同じ真理を説く私たちのことを天使を装った悪の勢力でありサタンの声であり魔王のそそのかしであると決めつけております。

しかし、すでにキリスト教の時代は過ぎました。人類を完全に失望させました。人生に疲れ、絶望の淵にいる地上世界に役立つものを何一つ持ち合わせていません」



 シルバーバーチによると、イエスは年二回、イースターとクリスマスに行われる指導霊ばかりの会議を主宰しているようである。その時期には交霊会も二、三週間にわたって休暇となる。時おりその前後の交霊会で会議の様子を説明してくれることがある。次に紹介するのは休暇に入る前の最後の交霊会での霊言である。

 「この機会は私にとって何よりの楽しみであり、心待ちにしているものです。この時の私は、わずかな期間ですが、本来の自分に立ち帰り、本来の霊的遺産の味を噛みしめ、霊界の古き知己と交わり、永年の向上と進化の末に獲得した霊的洞察力によって実在を認識することのできる界層での生命の実感を味わうことができます。

自分だけ味わってあなた方に味わわせてあげないというのではありません。味わわせてあげたくても、物質界に生きておられるあなた方、感覚が五つに制限され、肉体という牢獄に閉じ込められて、そこから解放された時の無上のよろこびをご存じないあなた方、

たった五本の鉄格子の間から人生をのぞいておられるあなた方には、本当の生命の何たるかを理解することはできないのです。霊が肉体から解放されて本来の自分に帰った時、より大きな自分、より深い自我意識に宿る神の恩寵をどれほど味わうものであるか、それはあなた方には想像できません。

 これより私はその本来の自分に帰り、幾世紀にもわたる知己と交わり、私が永い間その存在を知りながら地上人類への奉仕のために喜んで犠牲にしてきた〝生命の実感〟を味わいます。

これまでに大切に仕舞ってきたものをこの機会に味わえることを私がうれしくないと言ったらウソになりましょう。ご存じのとおり、この機会は私にとって数あるフェスティバル(うれしい催し)の中でも最大のものであり、あらゆる民族、あらゆる国家、あらゆる分野の者が大河をなして集結して一堂に会し、それまでの仕事の進歩具合を報告し合います。

その雄大にして崇高な雰囲気はとても地上の言語では表現できません。人間がインスピレーションに触れて味わう最大級の感激も、そのフェスティバルで味わう私どもの実感に較べれば、まるで無意味な、ささいな出来ごとでしかありません。

 その中でも最大の感激は再びあのナザレのイエスにお会いできることです。キリスト教の説くイエスではありません。偽りに伝えられ、不当に崇められ、そして手の届かぬ神の座にまつり上げられたイエスではありません。

人類のためをのみ思う偉大な人間としてのイエスであり、その父、そしてわれわれの父でもある神のために献身する者すべてにその偉大さを分かち合うことを願っておられるイエスです」

 休憩に入る直前の交霊会では、シルバーバーチがサークルのメンバーにそれまでの成果を語って協力に感謝するのが常である。

 「あなた方と私たち霊団との愛の親密度が年とともに深まるにつれて私は、それがほかならぬ大霊の愛のたまものであると感謝していることを知っていただきたいと思います。すなわち大霊の許しがあったればこそ私はこうして地上の方々のために献身できるのであり、たった週に一度あなた方とお会いし、

それも、私の姿をお見せすることなく、ただこうして語る声としてのみ存在を認識していただいているに過ぎないにもかかわらず、私を信じ、人生のすべてを委ねるまでに私を敬愛して下さる方々の愛を一身に受けることができるのも、大霊のお力があればこそだからです。

そのあなた方からの愛と信頼を私はこの上なく誇りに思います。あなた方の心の中に湧き出る私への熱烈な情愛───私にはそれがひしひしと感じ取れます───を傷つけるようなことだけは絶対に口にすまい、絶対に行うまい、といつも誓っております。

 私たちのそうした努力が大きな実りを生んでいることが私はうれしいのです。私たちのささやかな仕事によって多くの同胞が真理の光を見出していることを知って私はうれしいのです。無知を打ち負かし迷信を退却せしめることができたことが私はうれしいのです。

真理が前進していること、そしてその先頭に立っているのがほかならぬ私たちであることがうれしいのです。絶え間なくしかけてきた大きな闘いにおいてあなた方が堅忍不抜の心を失わず挫折することがなかったことをうれしく思います。

役割を忠実に果たされ、あなた方に託された大きな信頼を裏切ることがなかったことをうれしく思います。私の使命があなた方の努力の中に反映して成就されていくのを謙虚な目で確かめているからこそ、私はあなた方のその献身をうれしく思うのです」


 このあと、いつもの慣例に従ってメンバーの一人ひとりに個人的なメッセージを送り、そのあとこう述べて別れを告げた。

 「さて、別れを惜しむ重苦しい気持ちの中にも、再びお会いできる日を心待ちにしつつ、私はみなさんのもとを去ります。これより私は気分一新のために霊的エネルギーの泉へと赴きます。高遠の世界からのインスピレーションを求めに赴きます。

そこで生命力を充満させてから再び一層の献身と、神の無限の恩寵の一層の顕現のために、この地上へ戻ってまいります。あなた方の情愛、今ひしひしと感じる私への餞(はなむけ)の気持ちをいただいて、私はこれより旅立ちます。そうして再び戻って来るその日を楽しみにいたしております。どうか常に希望と勇気を失わないでいただきたい。

冬の雪は絶望をもたらしますが、再び春がめぐってくれば大自然は装いを新たにしてほほ笑みかけてくれます。希望に胸をふくらませ、勇気を持って下さい。いかに暗い夜にも必ず登りゆく太陽の到来を告げる夜明けが訪れるものです。

 では、これにてお別れします。神は常にあなた方を祝福し、その無限の愛がふんだんにもたらされております。神の霊があなた方すべての人々の霊に行きわたり、日々の生活の中に誇らしく輝いております。

 これより地上の暗闇をあとにして高き世界の光明を迎えに参ります。そしてお別れに際しての私の言葉は、再び訪れる時の挨拶の言葉と同じです───神の祝福の多からんことを」


 こうして地上を去って霊界での大集会に列席したあと、再び戻ってきたシルバーバーチはこう述べた。

 「その会合において私はかつての私の栄光の幾つかを再び味わってまいりました。地上世界の改善と進歩のために奮闘している同志たち、人類の福祉のために必要な改革の促進に情熱を傾ける同志たちによる会議に私も参加を許されました。

これまでの成果がこと細かに検討され、どこまで成功しどの点において失敗しているかが明らかにされました。そこで新たに計画が立て直され、これから先の仕事───地上人類の進化の現段階において必要な真理を普及させる上で為さねばならない仕事のプログラムが組まれました。

 地上世界のために献身している大勢の人々───死によって博愛心を失うことのなかった人々ともお会いしました。そして、ちょっぴり私ごとを言わせていただけば───こんなことは滅多にないのですが───過去数か月間においてささやかながら私が成し遂げたことに対してお褒めの言葉を頂戴いたしました。

もとより私はお褒めにあずかる資格はないと思っております。私は単なる代弁者にすぎないからです。私を派遣した高級霊団のメッセージを代弁したにすぎず、それをあなた方が広めてくださったのです。

 ともあれ、こうして私たちの説く真理が人生に迷っている人々、心は重く悲しみに満ち、目に涙をためた大勢の人々に知識と慰めと激励をもたらしていることは確かです」