Sunday, October 4, 2026

霊訓〈完訳・上〉

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。




8節
本節の内容
*著者の信仰上の遍歴 *宗教の二面性
*神とは *神と人間 *理性なき信仰 *派閥主義
*賞と罰 *神の絶対的公正 *神は哀れむが情けはかけず
*人間としての生活規範 *神と同胞と自己への責務


〔翌日、前回の通信に関連した長い入神談話があったあと、インペレーターと名のる同じ霊がいつものレクターと名のる筆記者を使って、再び通信を送って来た。それが終わってから交霊会が開かれ、その通信の内容についての議論が交わされた。その中で新たな教説が加えられ、私が出しておいた反論に対する論駁が為された。当時の私の立場から観ればその教説は、論敵から無神論的ないし悪魔的と言われても致し方ないように思われた。私なら少なくとも高教会派的(1)と呼びたいところである。そこで私はかなりの時間をかけてキリスト教の伝統的教説により近い見解を述べた。

こうして始まった論争を紹介していくに当たって、当時の私の立場について少しばかり弁明しておく必要がある。私はプロテスタント教会の厳格な教理を教え込まれ、ギリシャ正教会およびローマ正教会の神学をよく読み、国教会の中でもアングリカン(2)と呼ばれる一派も、それまでに私が到達した結論に最も近い教義として受け入れていた。その強い信仰は自動書記通信によってある程度は改められていたが、本格的には国教会の教義を厳格に守る人、いわゆる高教会派の一人をもって任じていた。

が、この頃からある強烈な霊的高揚を覚えるようになった。これに関してはこれから度々言及することになると思うが、その高揚された霊的状態の中で私は一人の威厳に満ちた霊の存在とその影響を強く意識するようになり、さらにそれが私の精神に働きかけて、ついには霊的再生とも言うべき思想的転換を惹き起こさせられるに至った。〕


そなたはわれらの教説をキリスト教の伝統的教説と相容れぬものとして反駁した。それに関して今少し述べるとしよう。

そもそも魂の健全なる在り方を示す立場にある宗教は二つの側面をもつ。一つは神へ向かう側面であり、今一つは同胞へ向けての側面である。では、われらの説く神とは如何なる神か。

われらは怒りと嫉妬に燃える暴君の如き神に代わりて愛の神を説く。名のみの愛ではない。行為と真理においても愛であり、働きにおいても愛を措いて他の何ものでもない。最下等の創造物に対しても公正と優しさをもって臨む。

われらの説く神は一片のおべっかも要らぬ。法を犯せる者を意地悪く懲らしめたり、罪の償いの代理人を要求したりする誤れる神の観念を拒否する。況や天国のどこかに鎮座し、選ばれし者によるお世辞を聞き、地獄に落ち光と希望から永遠に隔絶されし霊の悶え苦しむさまを見ることを楽しみとする神など、絶対に説かぬ。

われらの教義にはそのような擬人的神の観念の入る余地はない。その働きによってのみ知り得るわれらの神は、完全にして至純至聖であり、愛であり、残忍性や暴君性等の人間的悪徳とは無縁である。罪はそれ自らの中にトゲを含むが故に、人間の過ちを慈しみの目で眺め、且つその痛みを不変不易の摂理に則(のっと)ったあらゆる手段を講じて和らげんとする。光と愛の根源たる神! 秩序ある存在に不可欠の法則に則って顕現せる神! 恐怖の対象でなく、敬慕の対象である神! その神についてのわれらの理解は到底そなたらには理解し得ぬところであり、想像すら出来ぬであろう。しかし、神の姿を見た者は一人もおらぬ。覗き趣味的好奇心と度を超せる神秘性に包まれた思索によって、神についての人間の基本的概念を曖昧模糊(あいまいもこ)なるものとする形而上的詭弁も、またわれらは認めるわけには参らぬ。われらは真理を覗き見するが如き態度は取らぬ。すでにそなたに述べた神の概念ですら(神学より)雄大にして高潔であり、かつ崇高である。それより更に深き概念は、告げるべき時期の到来を待とう。そなたも待つがよい。

次に、神とその創造物との関係について述べるが、ここにおいてもまたわれらは、長き年月に亙って真理のまわりに付着せる人間的発想による不純物の多くをまず取り除かねばならぬ。神によりて特に選ばれし数少なき寵愛者――そのようなものはわれらは知らぬ。選ばれし者の名に真に値するのは、己の存在を律する神の摂理に従いて自らを自らの努力によりて救う者のことである。

盲目的信仰ないしは軽信仰がいささかでも効力を示した例をわれらは知らぬ。ケチ臭き猜疑心に捉われぬ霊の理解力に基づける信頼心ならば、われらはその効力を大いに認める。それは神の御心に副うものだからであり、したがって天使の援助を引き寄せよう。が、かの実に破壊的なる教義、すなわち神学的ドグマを信じ同意すれば過ちが跡形もなく消される――生涯に亙る悪徳と怠惰の数々もきれいに拭い去られる――わずか一つの信仰、一つの考え、一つの思いつき、一つの教義を盲目的に受け入れることで魂が清められるなどという信仰を、われらは断固として否定し且つ告発するものである。これほど多くの魂を堕落せしめた教えは他に類を見ぬ。

またわれらは一つの信仰を絶対唯一と決め込み他の全てを否定せんとする態度にも、一顧の価値だに認めぬ。真理を一教派の専有物とする態度にも賛同しかねる。いかなる宗教にも真理の芽が包含されているものであり、同時に誤れる夾雑物も蓄積している。そなたらは気付くまいが、一個の人間を特殊なる信仰へ傾倒させていく地上的環境がわれらには手に取るように判る。それはそれなりに価値があることをわれらは認める。優れたる天使の中にさえ、かつては誤れる教義のもとに地上生活を送る者が数多くいることを知っている。われらが敬意を払う人間とは、たとえ信ずる教義が真理より大きく外れていても、真理の探求において真摯なる人間である。人間が喜ぶ枝葉末節の下らぬ議論には、われらは関知せぬ。キリスト教の神学を色濃く特徴づけているところの、理性的理解を超越せる神秘への覗き趣味には、われらは思わず後ずさりさせられる。われらの説く神学は極めて単純であり、理性的理解のいくものに限られる。単なる空想には価値を認めぬ。派閥主義にも興味はない。徒(いたず)らに怨恨と悪意と敵意と意地悪の感情を煽るのみだからである。

われらは宗教なるものを、われらにとりても人間にとりても、より単純な形で関わるものとして説く。修行場としての地上生活の中に置かれた人間――われらと同じく永遠不滅の霊であるが――は果たすべき単純なる義務が与えられ、それを果たすことによりて一層高度な進歩的仕事への準備を整える。その間、不変の摂理によって支配される。その摂理は、もし犯せば不幸と損失をもたらし、もし遵守(じゅんしゅ)すれば進歩と充足感を与えてくれる。

同時に人間は、曾て地上生活を送れる霊の指導を受ける。その霊たちは人間を指導監督すべき任務を帯びている。ただし、その指導に従うか否かは人間の自由意志に任せられる。人間には善意の判断を下す基準が先天的に具わっており、その判断に忠実に従い、迷うことさえなければ、必ずや真理の道へと導いてくれるはずのものである。善悪の判断を誤り背後霊の指導を拒絶した時、そこには退歩と堕落があるのみである。進歩が阻止され、喜びの代りに惨(みじ)めさを味わう。罪悪そのものが罰するのである。正しき行為の選択には背後霊の指示もあるが、本来は霊的本能によりて知ることが出来るものである。為すべきことを為していれば進歩と幸福が訪れる。魂が成長し完成へ向けてより新しく、より充実せる視野が開け、喜びと安らぎをもたらす。

地上生活は生命の旅路の一過程にすぎぬ。しかし、その間の行為と結果は死後にもなお影響を残す。故意に犯せる罪は厳しく裁かれ、悲しみと恥辱の中に償わねばならぬ。

一方善行の結果もまた死後に引き継がれ、霊界にてその清き霊を先導し高級霊の指導教化を受け易くする。

生命は一つにして不可分のものである。ひたすらに進歩向上の道を歩むという点において一つであり、永遠にして不易の法則の支配下にある点においても一つである。誰一人として特別の恩寵には与(あずか)れぬ。また誰一人として不可抗力の過ちのために無慈悲なる懲罰を受けることもない。永遠なる公正は永遠なる愛と相関関係にある。ただし、“お情け”は神的属性ではない。そのようなものは不要である。何となれば、お情けは必然的に刑罰の赦免を意味し、それは罪障を自ら償える時以外には絶対に有り得ぬことだからである。哀れみは神の属性であり、情けは人間の属性である。

徒に沈思黙考に耽り、人間としての義務を疎(おろそ)かにする病的信仰は、われらは是認するわけにはいかぬ。そのような生活によりて神の栄光はいささかも高められぬことを知るからである。われらは仕事と祈りと崇拝の宗教を説く。神と同胞と己自身(の魂と身体)への義務を説く。神学的虚構をいじくり回すことは、無明の暗闇の中にてあがく愚か者に任せる。われらが目を向けるのは実際的生活であり、それはおよそ次の如く要約できよう。

父なる神を崇め敬う(崇拝)……神への義務

同胞の向上進歩を手助けする(同胞愛)……隣人への義務

身体を大切にする(肉体的養生)……自己への義務

知識の獲得に努力する(知的進歩)……自己への義務

より深き真理を求める(霊的開発)……自己への義務

良識的判断に基づいて善行に励む(誠実な生活)……自己への義務

祈りと霊交により背後霊との連絡を密にする(霊的修養)……自己への義務

以上の中に地上の人間としての在るべき大凡(おおよそ)の姿が示されておる。いかなる教派にも偏ってはならぬ。理性の容認できぬ訓えに盲目的に従ってはならぬ。一時期にしか通用せぬ特殊な通信を無批判に信じてはならぬ。神の啓示は常に進歩的であり、いかなる時代によりても、いかなる民族によりても独占されるものではない。神の啓示は一度たりとも“終わった”ことはないのである。その昔シナイ山にて啓示を垂れた如く(3)、今なお神は啓示を送り続けておられる。人間の理解力に応じてより進歩的啓示を送ることを神は決してお止めにならぬ。

また、これも今のそなたには得心しかねることであろうが、全ての啓示は人間を通路としてもたらされる。故に多かれ少なかれ、人間的誤謬によって脚色されることを免れないのである。いかなる啓示も絶対ということは有り得ぬ。信頼性の証は合理的根拠の有無以外には求められぬ。故に新たなる啓示が過去の一時期に得られた啓示と一致せぬからとて、それは必ずしも真実性を疑う根拠にはならないのである。いずれもそれなりに真実なのである。ただ、その適用の対象を異にするのみなのである。正しき理性的判断よりほかに勝手な判断の基準を設けてはならぬ。啓示をよく検討し、もし理性的に得心が行けば受け入れ、得心が行かぬ時は神の名においてそれを捨て去るがよい。そして、あくまでそなたの心が得心し、進歩をもたらせてくれると信ずるものに縋(すが)るがよい。いずれ時が来れば、われらの述べたことが多くの人々によってその価値を認められることになろう。われらは根気よくその時節を待とう。そして同時に、そなたと共に、神が人種の隔てなく真理を求むる者すべてに、より高くより進歩的なる知識と、より豊かにして充実せる真理への洞察力を授け給わらんことを祈るものである。

神の御恵みの多からんことを!


〔注〕

(1)


High Church 英国国教会内の一派で、教会という組織の権威・支配・儀式等を重んじる。


(2)


Anglican カトリックとプロテスタントの両要素をもちながら、どちらにも偏らない要素を備えた一派で、総体的には高教会派的。


(3)


モーセの十戒。

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch 
Psychic Press Ltd.
London, England



第七章 宇宙創造の目的

 霊的教訓の真髄は確かに単純なものかも知れないが、全ての人間がそれだけでは満足しないのも事実である。ある日の交霊会で〝宇宙創造の目的は何か〟という質問が出た。そしてその質問の内容をこう広げた。

───人間は除々に進化し続けて究極的に大霊の中に吸収されてしまうのなら、なぜ人間を創造する必要があったのでしょうか。

 「私は人間が最後は大霊に吸収されてしまうという説を取っている者ではありません。いつも言っている通り、私は究極のことは何も知りません。始まりのことも知りませんし終りのことも知りません。私に言わせれば〝存在〟には〝いつから〟ということはなく〝いつまで〟ということもなく、いつまでも存在し続けます。

地球上の全生命が他の天体の生命と同じように霊の世界を通過して絶え間なく進化し、意識が完全を目指してゆっくりと上昇していきつつある状態が〝存在〟です。その意識がいつ芽生えたかについても私は何も知りません。

いつ完全の域に達するかも知りません。私は完全とか吸収(寂滅)とかの時が来るとは思えません。なぜなら、魂というものは霊性を高めて向上するにつれて、言いかえれば過去の不完全性の不純物を払い落とすにつれて、さらに大きな進歩の必要を自覚するものだからです。

進化すればするほど、なお進化すべき余地があることに気づくものです。高く登れば登るほど、その先にまだ登らねばならない高いところがあることを知ることの連続です。

 私の考え方は、大霊の一部である意識の、生活の中における開発と発展に主眼を置いています。この意識は私の知る限り無窮の過去より常に存在してきたものですが、それがさまざまな形態を通じて顕現し、その表現を通じて絶え間なく洗練されつつ、内在する神性をより多く発現していくのです。

これまでもありとあらゆる生命現象を通じて顕現し、今なお顕現し続けております。現在人間という形で表現している意識も、かつては動物、鳥類、魚類、植物、その他、無生物と呼ばれているものすべてを通じて表現されてきたのです。これからもその意識は進化と成長を続け、発展し、拡張し、神性を増し、物質性を減らしていきます。

それが創造の全目的です。大霊の一部である意識が千変万化の形態を通じて絶え間なく顕現していくことです。それに私はぜひ次の考えを付け加えたいと思います。それは、人間を創造の大事業と切り離す、あるいは縁のない存在として考えてはならないということです。

なぜなら、人間もその創造活動に参加しているからです。創造的エネルギーが人間を通じて働いているのです。あなたの人生、あなたの努力、あなたの葛藤が、無限の創造活動に貢献するということです。

一つひとつの生命がそれなりの貢献をしています。その生命が高級になればなるほど、つまり愛他性を増し排他性を減らすにつれて、変化に富む創造の世界に美しさを加えています。

画家や音楽家や詩人だけが美の貢献をするのではありません。あらゆる生命が───そのつもりになれば───美をもたらすことができるのです」


 創造の問題は必然的にバイブレーションの問題となる。

───スピリチュアリズムでは〝バイブレーション〟という用語がよく使用されますが、これを分り易く説明していただけないでしょうか。
 「生命のあるところには必ず運動があり、リズムがあり、鼓動があり、バイブレーションがあります。生命は活動せずにはいられないものです。静止したり惰性的になったりするものではありません。生命には常に運動が付随します。その運動を理解し、その意味を理解するには、まずその定義から始めなければなりません。

私がバイブレーションという時、それはエネルギーの波動の形で顕現している生命のことで、無数の生命形態ないしは現象の一つを指しています。存在するものはすべて振動(バイブレイト)し、何かを放射し、活動しています。私たちがこうして地上へ働きかけることができるのもバイブレーションのおかげです。

私たちはふつう物的感覚の領域を超えたバイブレーションの世界で生活しております。言わばオクターブの高い世界です。霊的エネルギー、霊的パワー、霊的現象はことごとく物質より感度の高い、微妙なバイブレーションから成り立っております。

 地上のように物質に浸りきり包み込まれている世界と交信するためには、次の二つのうちどちらかの方法を取らなければなりません。すなわち、人間の側がその低いバイブレーションを高めてくれるか、それとも私たち霊の側がその高いバイブレーションを下げるかのどちらかです。

両方が歩み寄れば・・・・・・・誰しもそうお考えになるでしょう。ところが、どうしてどうして、なかなかそううまくは行かないのです。いつも私たちの方が遠路はるばる下りてこなければなりません。地上世界からの援助は多くを望めないのです。

この霊媒(モーリス・バーバネル)を使ってしゃべるために私は私の本来のバイブレーションを下げております。その状態から脱け出て私の本来の界へ戻る時は、その界に合った意識を取り戻すためにバイブレーションを加速しなければなりません。こうしたことは全てバイブレーションの操作によって行われるわけです。

それを簡単に説明するにはバイブレーションという用語しか見当たりません。それにしても、長いあいだ霊的な分野のことには一切耳を貸さず目を瞑(つむ)ってきた科学者が、今になって物質の世界の謎を解くカギはバイブレーションにあるという認識を持ち始めたことは興味ぶかいことです」

───〝霊力〟というのはどんなものでしょうか。実感があるのでしょうか。目で見て描写できる性質のものでしょうか。


 「ずいぶん解釈の難しい言葉をお使いになられますね。〝実感があるか〟とおっしゃるのはどういう意味でしょうか。五感に反応するかということでしょうか。その意味でしたら実感はありません。

真実味があるかという意味でしたら、知識に真実味があり、叡智に真実味があり進化に真実味があり愛に真実味があり、ありとあらゆる目に見えないエネルギーに真実味があるように、霊力にも真実味があります。

私たち霊(スピリット)にとってはもちろん真実味がありますが、霊覚が発達してその真実味が認識できる段階にまできていない者には、その存在は実感できません。一種のエネルギーです。霊的なエネルギーです。生命活動を操るエネルギーです。

無知な人、偏見を抱く人、迷信に動かされる人は、自分でいくつもの精神的障壁をこしらえ、その一つ一つが霊力の働きの障害となります。それがいつになったら突き崩せるかは、その障害の性質によります。

 人によっては霊的なものについて漠然とした概念すら抱くことなく地上生活を終えることがあります。そういう人は生命がすなわち霊であり霊がすなわち生命であること、地上の全生命は霊力ゆえに存在が維持されていることに気づきません。

霊的実在についてまったくの無知で、言わば、死が解放してくれるまで、肉体という牢獄の中に閉じ込められた生活を送るわけです。といって、死んですぐに実在に目覚めるわけではありません。

ご承知の通り、それには永い調整期間が必要です。そうした完全に無知な人とは別に、生命現象を創造し支配し導いている超越的なエネルギーを何らかの体験の中でチラリと垣間見る程度に意識する人もいます。

さらには、あなた方のように、こうして直接的に知識を獲得して、日常生活の中で霊力の恩恵にあずかる人もいます。心と精神と魂の窓を開いた方です。こうした方は地上の生命現象のすべてを表現しているのと同じ霊力の道具として、いつでも使われる用意が出来ている方です。霊のほうでもあなた方を通して他の受け入れ準備の整っている人を少しでも早く目覚めさせようと腐心しています。

そうしたことに使用されるのはみな同じ霊力なのです。生命現象の全てを統制している力は、私の霊団が操作し私がこうして話すことを可能にしてくれている力と同じものなのです」


 そのシルバーバーチ霊団とサークルとのつながりについて出された質問に答えて──
 「信じることです。わけも分からずに信じるのではなく、確固とした知識の上に立った信念を持つことです。確信です。これは使い古された言葉ですが、私には何一つ新しい訓えは持ち合わせないのです。しかし、それがあなた方の精神構造の一部となり切るまで、私は同じことを声の続く限り何度でも叫び続けます。

確信を持つことです。あなた方があなた方なりの役割を果たして下さっていれば、私たちは私たちなりの役割を果たします。決して見捨てるようなことは致しません。人間がインスピレーションにあずかるチャンスはいくらでもあります。ところが、取越苦労、疑念、不安、こうした邪念が障害となっています。

そういう念が心に宿るスキを与えてはなりません。(あなた方の協力を得て)為さねばならない仕事が山ほどあるのです。目的意識を忠実に持ち続けることによって私を援助していただきたいのです。私のこれまでの永い体験をもってしても容易に克服できない障害がたくさんあります。

だからこそ皆さんの私への忠誠心、確信、なかんずく大胆不敵な心、つまり恐怖心、悩み、心配を精神に根づかせないように心掛けることで私の力となっていただかねばなりません。
 
 進みゆく道を問題が過(よぎ)ることがあるかも知れません。が、そのまま過って行ってしまいます。そこに居座ることはありません。解決できないほど難しい問題は生じません。

背負えないほど重い荷を背負わされることはありません。取越苦労をしてはいけません。明日がもたらすものに不動の信念と断固たる精神で立ち向かいなさい。万事うまくいきます。世の中にはあなた方(のように霊的真理を手にした者)による救いを求めている人が大勢います。

あなた方はそういう人を援助し、使命を成就する備えが出来ていなければなりません。どうのこうのと立派なことを言っても、それを人のために役立てなかったら、つまり自分の獲得した知識を他の人に分けてあげなかったら、せっかくあなたに授けられた知識の本来の意義を自分の人生で生かしていないことになるのです。

為さねばならないことは山ほどあります。われわれの努力によって喜ばせてあげられる人があちらにもこちらにも大勢いることを自覚して、心躍る気持ちで仕事に邁進しようではありませんか」


別の日の交霊会でこれから霊媒のバーバネル氏が入神してシルバーバーチがしゃべり始めるのを待っているあいだ、二人のメンバーがスピリチュアリズムの宣伝活動の価値について議論し合っていた。やがてシルバーバーチが憑ってきてこう語った。

 「私たちがこうして地上へ戻ってくるのは何のためだとお考えでしょうか。少数の特殊な人のため? それとも大勢の人々のため? 私たちの説く真理はひと握りの人のためにどこかの小さな団体、秘密結社のような所に仕舞い込んでおくべきものでしょうか。

真理を知らずに迷い、絶望的になり、或いは悲嘆に暮れている数知れない人の姿が私たちの目に見えないとでもお思いでしょうか。私たちがお届けするメッセージには重大な目的があるのです。世界中の人間に例外なく宿る宇宙の大霊すなわち神の崇高な資質を顕現させることを目的としているのです。

まず第一に人生を支配する法則──物的生活、精神的生活、霊的生活を支配する法則の存在を説かなければなりません。続いて人生の目的、地上に生まれてきた理由、内部に宿る素晴らしい能力、潜在的神性、人間に為しうる貢献度、目指すべき理想的世界、身につけるべき知識、到達できる極致を理解させなければなりません。

 私たちの説く真理は最後は地上のすべての人間、それも地上に生きているうちに実生活に応用することによって実地に学ばせるために、地上のすみずみに至るまで広められるべき宿命を担っているのです。誤りを訂正し、不足を補い、これまで人間が愚かにもしでかしてきたことの後片付けをするだけで何十年も何百年も費やします。

地上の人類がこうまで無知でなければ、そのエネルギーを別の用途に向け、時間のムダも省けるのですが・・・・・・

 ここにお集まりの皆さんにはすでにその知識があります。霊的知識について少しばかり多くのことを学んでおられます。霊的交信の素晴らしさも味わわれました。永遠に別れてしまったと思っていた愛する人との縁を再び取り戻されました。

遠大な神の計画の一端をご覧になりました。その見事な構想に驚嘆されました。霊力の証の幾つかもご覧になられました。高い世界からのインスピレーションの喜びも味わわれました。高い世界の知識の泉に近づかれました。

こうしたことは一体何のためだったのでしょうか。自分一人で楽しむため? 違います。知識には責任が伴います。こんどは代わってあなたがその知識を自分にできる範囲で広めなければならないのです。あなたが得た喜びが何であれ、それを他の人へ回してあげるのがあなたの責務です。

そうすることで一人でも多くの人が霊力に近づき、高い世界で待機している霊の愛を知り、これまで多くの男女に神の雄大な計画の一翼を担う道具となる決意をさせたその強烈な力によって、さらに多くの人が魂を鼓舞されるように努力しなければならないのです。

 知識に制約を加えようともくろむ人種とは縁をお切りになることです。知識は自由に広められるべきです。それが無知と迷信と、あまりの永いあいだ人類の足枷となってきたものを全て打ち崩すことになるのです。知識こそが魂を解放し、神からの授かりものである自由のよろこびを満喫することになるのです。

太陽の輝きが拝めるはずの人間がローソクの灯りしか知らないとは、何という愚かしいことでしょう。私が一個の道具に過ぎないように、皆さんも道具です。どこの誰それでなく、すべての人の心を解放してあげるのがわれわれの仕事です。それが地上世界に進歩をもたらし、神の子すべてが霊的摂理にもとづいて意義ある人生を送れるように、社会組織を改めていくもとになります」


 最後にこれから先の見通しについて───
 「私の興味は真理だけです。真理こそが最も大切です。私のいう新しい世界が基盤とすべき永遠の霊的真理を理解していただくために私は、ひたすら自分を役立てることだけを考えております。

その大事業から外れたことをする人間は、本来同胞のために捧げるべきエネルギーをムダに費やしていることになります。私たちがこうして地上へ戻って来たそもそもの目的は、聞く耳をもつ者の魂に刺戟(かつ)を与えて、新しい世界の構築のために地上の人間なりの役割を果たしていただくことにあります。

 形式への盲従が度を越しています。因襲を大切にしすぎます。私は知識の普及とそれを今なお暗闇にいる人々の啓発のために使用していただくこと以外には関心はありません。私にとって宗教はたった一つしかありません───人のために自分を役立てるということです。教会、聖堂、信条、教理───こうしたものは私にはまるで興味がありません。

行為、生活、動機───これで評価します。霊的な知識を得た人がそれを正しく普及して行く上において心しなければならないことは、それを無理やりに押し付けることによって肝心の霊界からの働きかけの邪魔になるようなことになってはいけないということです。霊の力は勝手に制約したり命令したりすることは出来ません。

発現できるとみたら、どんな人を通してでも流入します。私たちが欲しいのはそういう道具、霊媒、あるいは普通の男女───その人を通じて霊力が受け入れられ、霊の教えが語られ、知識が伝達されるような精神構造をした人たちです。これは、のんびり構えてはいられない問題です。

 私たちがなぜ地上へ戻って来るのか。実は霊界へ送り込まれてくる人間の中に、もしも地上で霊的知識を身につけておればこうまで酷くはならなかったろうと思われる廃残者、堕落者、霊的生活への備えがまるで出来ていない者があまりに多すぎるのです。無知と恐怖と迷信と偏見に満ちた者ばかりなのです。

そうした地上の暗黒面を助長している勢力を打ち崩すことが私たちの仕事です。私はそれを敢えてスピリチュアリズムと呼ぶつもりはありません。私は自然法則について語っているだけです。父なる神などという言い方も致しません。

私は宇宙の大霊という呼び方をしています。私は法則に目を向けます。私は宇宙の目的に目を向けます。人間は霊的に成長しなければならないのです。もしも地上で為すべきことの一部だけでも成就できたら、避けようにも避けられない宿命である次の霊的生活への準備が整ったことになります。

そうなるように仕向けるのが私たちがこうしてあなた方の世界へ戻って来る目的です。同胞である地上人類への愛に発しているのです。情愛の絆がわれわれを結びつけ、私たちがあなた方に真理を語り、代わってあなた方が同胞のためにそれを語り継いでいただくということです。
 
 私はただ私が見たままの事実を述べるだけです。そしてその評価はあなた方の理性に訴えております。それが最高の判定者であると考えるからです。とにかく知識を広めることです。迷信を突き崩すのです。光明を輝かせ闇を無くすのです。古くからの誤った権威を亡ぼすのです。強欲、貪欲、私利私欲、旧態依然たる教理と慣行の息の根を止めるために何とかしなければなりません。

これらのすべてが霊の敵です。断じて無くさなくてはいけません。新しい世界にとっての障害物です。その行く手を邪魔する者は、たとえ一時にせよ、神の計画を妨害していることになるのです。真理はいかなる組織・団体よりも大切です。何も難しく考えることはありません。真理は極めて簡単なのです。

ところが人間は簡単では気が済まないのです。形式と慣習を好みます。よその形式と慣習を真似したがります。よそが教会を建てると自分のところにも教会を建てないと気が済まないのです。よそが祈祷で儀式を始めるようになると自分のところでも祈禱文をこしらえます。

よそが讃美歌を歌うと自分のところでも讃美歌をこしらえます。もっともその多くは文句が同じで、歌い方を変えているだけですが・・・。よそが説教を始めると自分たちも説教を始めます。

 そんなことをしなくても、ただひたすら霊力を第一に考えておれば、神についての知識と霊的法則の普及のための合流点は幾らでもあります。

そのことが何より大切です。レンガはあくまでレンガです。建築物はあくまで建築物に過ぎません。そんなものを崇拝してはいけません。忠誠を捧げるべきものは宇宙の大霊すなわち神とその永遠不変の摂理です。
 
そのことを知った者はその真理の炎を絶やさぬように努力し、向かうべき方角も分からずに迷っている人々にいつでも希望と慰めと啓示を与えてあげられるようになることが勤めです。あなた方の世界は暗黒に満ちております。

人生に疲れ生きる意欲を失い困惑している人、慰めのひとこと、一片の真理を渇望している人々が大勢おります。あなた方による緊急の援助を必要としております。そういう人々のためにあなた方は一刻を惜しんで真理の普及のために努力すべきです。その人たちにとって霊的真理が人生のすべてを建て直す盤石の土台となることでしょう」

Saturday, October 3, 2026

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch 
Psychic Press Ltd.
London, England




六章  イエス・キリストとキリスト教
 
 近代スピリチュアリズム史上でも特異な意義をもつ英国国教会スピリチュアリズム調査委員会の〝多数意見報告書〟(※)が話題にのぼったことがある。

 (※ 一九三七年に国教会の諮問機関として設立されたスピリチュアリズム調査委員会が二年後にその調査結果を公表すると約束したにもかかわらず、その二年を過ぎても公表されないことから、バーバネルを中心とするサイキック・ニューズ社のスタッフが隠密裏に追跡したところ、時の大主教ウィリアム・ラングによって〝多数意見報告書〟が発禁処分にされていることが判明。

それがスタッフの画策でようやく入手されサイキック・ニューズ紙上に公表されて大反響を巻き起こした。詳しい経緯については『古代霊は語る』 ── 潮文社── を、〝多数意見報告書〟の全文訳は 『ジャック・ウェーバーの霊現象』──国書刊行会──の巻末付録を参照されたい──訳者)

 意見を求められたシルバーバーチは、問題を巾広い視野で捉え、キリスト教の本質の問題として次のように語った。


 「当事者がたとえ国教会の大物であっても、生身の一個の人物を絶対服従の対象としてはいけません。宇宙の法則──絶対に裏切られることのない神の摂理を相手になさることです。真理は真理です。何人(ぴと)もこれを絶滅させることはできません。

 その昔、一人の予言者、真理の象徴ともいうべき人物、霊性を最高に顕現した神の使者がこの物質界にやってまいりました。その彼も、当時の宗教界の大御所から好ましく思われず、その言葉によろこんで耳を傾けたのは平凡な民衆だけでした。

教えを説く時の彼の態度には冒し難い威厳がありました。が、その威厳は高い地位や身分から出ていたのではありません。生まれは当時の貧民階級の中でも最も貧しい家柄───名もない大工とその妻との間に生まれたのでした。

しかしその肉体に宿った霊(※)は人類のすべてが模範とすべき人生を率先垂範すべく彼を鼓舞したのです。(※モーゼスの『続霊訓』によるとイエスの本来の所属界は地球神界で、その背後霊団はその神界におけるイエスの配下の天使団、日本でいう自然霊だったという──訳者)

 彼を通じて霊力がほとばしり出ました。病の人を癒し、悲しみの人を慰め、愛と寛容と慈悲の心を説きました。が、当時の宗教界からは歓迎されませんでした。そして最後にどうなったかは皆さんもよくご存知の通りです。

いつの時代にも既成宗教や国家権力から〝反逆者〟と睨まれた者がたどる道は同じです。イエスも同じ名目のもとに苦しい死を遂げさせられました。しかしイエスの説いた真理は死にませんでした。真理に死はあり得ないのです。無限であり、神から与えられるものであり、それ故に不滅なのです。

その霊力───病を癒し、慰めを説き、当時の民衆からぬきんでた存在たらしめた力そのものが、死後すぐさまその姿を弟子たちに見せ、教えが間違っていないこと、霊は物質に優ること、死に生命を終わらせる力はないことの証を与えさせたのです。その復活がいわゆるキリスト教を生む端緒となったのです。

 あと二、三日もすれば(この日は復活祭〈イースター〉 の直前だった)、キリスト教界あげてその復活をイエスが神の御子であったことの最高の証として祝います。〝もしキリストが復活しなければわれわれの教えは無益となり、諸君の信仰もまた無益に終わる〟とパウロは言いました。

イエスの説いたのと同じ真理、イエスが見せたのと同じ霊的能力があなた方の時代に再び説かれ顕現されているのです。そして、またもや宗教界とそのお偉方、あるいは宮殿のごとき豪邸に住み高き地位に安住している特権階級の人々の怒りを買っております。

 〝真理を説きにいく者は財布を携える勿れ〟と説いたイエスの信奉者でいるつもりの現今のキリスト教徒は、実はイエスを十字架にかけた当時の迫害者たちの直系とも言うべき人種であり、その彼らが今イエスと同じ真理を説いているスピリチュアリストたちを迫害しようとしております。

しかし霊の力は彼らより偉大です。今となっては時すでに遅しです。真理は必ず広まり、何も知らぬ大衆をいかに煽動しても真理の道を歩もうとする者を引き返させることはできません。

私は反駁(はんぱく)を覚悟の上で断言しますが、こうした形での今日の霊の働きかけの背後には、二千年前に地上に生をうけた、あのイエスその人が控え、同じように地上の病の人を癒し、悲しみの人を慰め、霊的な基本的真理を地上に確立せんと奮闘しております。その真理には教会も大主教も牧師も聖典もいりません。愛に満ちた心と善意と素朴な心さえあれば良いのです。

 真理を抑圧することは出来ません。鐘や文句やローソクで真理を破門にすることはできません。(カトリック教で信者を破門にする時まず鐘を鳴らし破門文を読み上げローソクを消すという儀式になぞらえて述べている──訳者) 

キリスト教の名のもとに維持されてきた誤りが瓦壊しすっかり忘れ去られた時には、霊の力に裏打ちされた真理が優位に立ち、世界中いたるところの人間の心の中に王座を占めることになりましょう。

たとえば復活の現象は決して奇跡では無く、自然の法則の一つに過ぎません。一個の人間が〝死〟と呼ばれる変化を通過するごとに復活が行われているのです。あなた方も死を通過してより充実した生命の世界へ復活するのです。二千年前のたった一人の人間のみに起きた特殊な出来ごとではないのです。

そういう法則になっているのです。いつの時代にも変わることのない摂理なのです。不変の自然法則であり、大主教も職工も、王様も平民も、聖人も罪人も、哲学者も愚鈍者もありません。すべての人間、神の子すべてに等しく起きるのです。

キリストの復活は霊的自然法則に従って生じたのです。奇跡ではありません。数多くの死者が実験会で姿を見せているのとまったく同じ心霊法則によってその姿を見せたのです」


 続いて、聖書の物語にはどの程度まで古い神話が混入しているかという質問に答えて────

 「神話の中に出てくる奇跡を起こす者がことごとく神か神人であることから、イエスなる人物もさまざまな超自然的な説話と結びつけられていきました。しかし死後その姿を弟子たちに見せたのは聖書にある通りであり、実際の事実です」

───(聖書以外の)歴史書にその記述がないところをみますと、センセーションを巻き起こすほどのものでは無かったわけですね。

 「今の世と似たりよったりの物質に毒されていた世の中で、どうしてそんなことがセンセーションを巻き起こし得たでしょう。私たちがこうして霊界から戻ってきていることがセンセーションを巻き起こしておりましょうか。でも、いずれ真実の地上の歴史が書き記される時代がくれば、現今の歴史書が関心を寄せている事柄よりもはるかに重要性をもつ現象として記述されることになりましょう」


 ここで再び国教会の話題となり、カンタベリ大主教のテンプル(最初に紹介したラングの後任)が開始した社会改革運動について意見を求められてシルバーバーチは───

 「英国民の社会的公正と平等のために国教会が開始した改革運動について意見を述べよとのことですが、まず私は、その運動が誠心誠意の動機から発していることは認めます。

つねづね説いてきましたように、個人にせよ団体にせよ、何らかの形で人類のために役立つこと─── 人間の資質を高め魂のもつ高貴さと崇高性を顕現させ、誤りを正して不正を終わらせ、不幸や悲しみや苦難を和らげることに専心していれば、こちらから同じ目的意識をもつ霊が自動的に引き寄せられます。

かつて地上で先駆者と呼ばれた人、殉教者と呼ばれた人、その他、思想・哲学や一般世論の指導・教化に情熱を燃やす者が大勢います。そして常にこちらへ来てから身につけた叡知を地上へ届けるための道具、自分が地上で手掛けた仕事を完成させるための道具を求めております。

 挫折した人を立ち上がらせ、苦しむ人を扶け、重荷に耐えかねている人の痛みを和らげてあげるために自分を役立てたいと希望する人を私どもは大いに歓迎いたします。それが本当の宗教だからです。人のために自分を役立てることです。宗教は倫理・道徳と呼ばれているものを実践することから切り離しては存在し得ません。

しかし過去を忘れてはなりません。歴史を繙いてみることを忘れてはなりません。一個の組織が、それみずからを束縛する無用の絆からどこまで開放し得るものであるかを読み取らなくてはなりません。残念ながら国教会の歴史は数多くの黒い汚点によって汚されております。

そのうちの幾つかは血生臭い色さえ呈しております。貧しき者、困窮せる者、見捨てられし者、抑圧されし者の味方を標榜(ひょうぼう)する国教会にどこまでその資格があるでしょうか。その手は清らかであると言えるでしょうか。

その動機に汚れがないと断言できるでしょうか。残念ながらその歴史は反証に満ちております。この度の運動においてその動機づけとしている〝目的〟そのものを何世紀にもわたって阻止してきたそもそもの張本人が国教会自体だったではありませんか。

 〝家の中〟を清掃する用意はどこまで出来ているでしょうか。みずから組織内の不平等と不公正を廃止する用意がどこまで出来ているでしょうか。みずからの努力でかち得たものでないものを含めて、その特権のすべてをかなぐり捨ててでも、いま高らかに宣言した改革運動を成就する用意がどこまで出来ているでしょうか。

文字通り国の教会として内部の対立と制約、魂を拘束し足枷となるものを全て排除する勇気があるでしょうか。今のお偉方にはたしてその新しい社会での存在価値があるのでしょうか。

無意味な儀式と祭礼、仰々しい礼服、ストラ(袈裟に似た掛けもの)にミトラ(主教の冠)、その他、幾世紀にもわたって宗教の真髄をぼかし続けてきた飾り物が何の役に立つのでしょうか。

まずみずからの信条を再検討し、その中から公正の成就を妨げるものを排除する勇気がどの程度まであるのでしょうか。まずみずからが真の平等と正義の妨げとなるものを排除しなければなりますまい。

動機が誠意から出ていることは私も認めます。しかしどこまで、一体どこまで達成できるでしょうか。いずれは〝時〟がそれを証明してくれるでしょう。

 どこの誰であろうと、人類の福祉に貢献する人に対して私たちは祝福と援助を授けます。しかし国教会のこれまでの陰湿な歴史に目をやる時、今のところは誠意ある目的と動機から情熱に燃える男(テンプル大主教)によって先導されているから良いものの、このあと果たしてどこまで続くか疑問に思わざるを得ません。

もし能書きどおりに達成する自信があるなら、その自信の証を内外に示していただきたい────信条を異にする者に対する迫害と抑圧をやめ、真の協力精神を明確に表明して、その改革に携る者が〝われわれは正真正銘、最善を尽くしている。これでもし失敗したらそれは名誉ある挫折である。

われわれは英国社会からあらゆる罪悪を除去するのみならず、国教会みずからの組織についても、それが今日まで堕落の一途をたどり、かつてその功によって勝ち得た尊敬まで失わせるに至ったすべての悪弊をも排除する覚悟である〟と断言できるところまで行かなければウソです。

以上が私のありのままの意見です。私が、そして他の多くの者が見ている実情です。現在の国教会は数々の堆積物と旧弊を抱えた船のようなもので、それが正しい航路への進行を妨げます。その一つひとつが障害となり、その一つひとつがテンプルの足を引っぱります」

 ここでスワッハーが「かつてその功によって勝ち得た尊敬とおっしゃいましたが、それはいつのことですか」と聞くと。

 「かつてはそういう時代がありました」と答える。
 「その〝尊敬〟は恐怖から生れていたのではないでしょうか。私の見るかぎりでは、今日の国教会は確かに欠点もありますが、かつてよりは良くなっていると思います。英国民が進歩しただけ教会も進歩しています」

 「なるほど。でもそれはかなり苦しい評価ですね。というのは、今日の国教会は、私から見れば、現在抱えているような悪弊の多くとは無縁だった初期の教会の後継者たるべきものです。はるか遠く遡ってイエスの時代のすぐ後に設立された教会を見倣う必要があります。

当時は、わずかな期間だけではありましたが、真の意味で民衆を我が子のように世話せんとする気概がありました。それが霊の道具である霊媒を追い出した時から道を誤りはじめました」
  
 「三二五年のことですか」(この年に有名な二ケーヤ会議が三カ月にわたって開かれている。歴史の記述ではエジプトの神学者でキリストの神性を否定する説を主張したアリウスの弾劾が主な議題とされているが、シルバーバーチによると、この間に聖書にいろいろと”人間的産物”が書き加えられたという──訳者)

 「もっと前です。三二五年に(霊媒と聖職者との)分離が決定的なものとなったということです。霊媒を追い出そうとする動きはそれ以前からありました。が、霊力の最良の道具である霊媒を追い出すことによって霊力を失い、聖職者が運営するだけとなった教会は次第に尊敬を失い始めます。

もともと聖職者は神の道具である霊媒とともに仕事をする者として尊敬されていたのです。自分でも霊媒と同等の価値を自覚していました。

その仕事は俗世の悩み事の相談にのり、霊媒が天界からのお告げを述べ伝えるというふうに、民衆が二種類の導き、すなわち地上的問題について霊と聖職者の双方からの導きが得られるようにしてあげることでした。

 ところが優越感への欲望が霊媒を追い出し、それといっしょに教会に帰属されていた権威までも全て追い出すことになりました。そのとき以来ずっと衰退の一途をたどることになったのです。私が指摘したいのは、大主教のテンプルは真摯な気持ちでいる───そのことに疑問の余地はない。

しかし、側近の中にはリーダーへの忠誠を尽くしておくに限るといった考えから口先だけの忠誠を示しているに過ぎない者がいることです。そういう連中は改革事業などには情熱を持ち合わせません。改革者などと呼ぶべき人種ではないのです。己れの小さな安全さえ確保しておけばそれでいいのです。

事を荒立てたくないのです。何であろうと命令にだけは従っておくにかぎると心得ている連中です。また一方には教会が俗事に関ることを好ましく思わぬ連中もいます。さらには戒律(おきて)に背きたくない者、教わったことを忠実に守ることが何より安全と考える連中がいます。

こうしたさまざまな考えをもつ者が内部抗争のタネとなります。一人の人間の〝それ行け〟の掛け声で全員が一斉に立ち上がるという具合にはまいりません。何らかの進展はあるかも知れません。しかし意見の衝突が激しいことでしょう。

 実は、このことで私はウィリー氏とシェパード氏の二人と長々と語り合いました。(確かなことは不明であるが多分二人ともかつて国教会の高い地位にあり今はシルバーバーチ霊団に属している人物であろう──訳者)

お二人とも国教会の新しい動きをよろこんでおられます。シェパード氏は彼の言う〝化石となった慣習〟に新たな生命を吹き込むことになるかどうか疑問に思っておられますし、ウィリー氏は多分何らかの進展はあるだろうと観ておられます。

が両者とも、教会の体質からして、民衆の胸の中、心の中、精神の中に動めいている新しい世界の理想像に向かって一致団結する可能性があるとは見ておられません。

しかし援助はすべきでしょう。たとえ結局はお粗末な企てに終わっても、それがこれまで長い年月にわたって振り回してきた権威を打ち崩すという正しい方向への一歩であることには違いないからです」

 ここでサークルのメンバーの一人が意見を述べた。「今回の社会改革運動は国教会にとっても良い結果をもたらすと思うのです。この正義と公正の激発が、ある程度、国教会そのものまで改めることになるのではないでしょうか」

 「私も、ぜひあってほしいと思っています。ただ忘れないでいただきたいのは、私は組織というものには一切関心は無いということです。私の関心は行為であり、善行であり、生きざまです。国教会は今や分裂と衰退の一途をたどっております。

豪華な建造物もそこを訪れる人に本当の宗教としての機能を果たせなくなっております。中をのぞけば慣習という名の太古の埃(ほこ)りと偏見と、時代遅れもはなはだしい教説がぎっしりと詰まった、まるでオバケ屋敷のようです。 

無意味な教条主義が今なお支配し、それが永い間人類を抑えつけてきております。私は何はおいてもまず魂を解放しなければならないと信じます。それは国教会がどこまで自分に正直になれるかに掛かっています。

つまり(社会よりも)まず教会自身の体質を診断する勇気があるかどうか、真理のサーチライトを自己の信仰内容にまで向ける勇気があるかどうかです。それが社会正義の妨げとなっている面もあるからです。

 例を挙げてみましょうか。たとえば教会は信者に対して信仰の告白さえすれば、それだけで正義の問題が片づくと教えます。が、これが社会正義を妨げることになるのです。なぜなら、その教えによって信者の精神が煙に巻かれ、せっかく目覚めかかった魂をまた眠らせてしまいます。

このように、真理の普及を妨げる間違った考えは、地上に真の正義が行きわたるのを妨げることになります。それは、ひいては霊界の正義を妨げることにもつながってきます。

自己の救済の道は日々の生活、行い、言動の中にしかないのに、身代わりの流血(キリストのはりつけ──贖罪)によってキリストへの信仰を告白した者だけが救われるということを、一般社会に一体どう説明できるというのでしょう。

正義は両刃の剣です。それを振りかざす者は、他人に対して求める前にまず自分に正義を求めなくてはなりません。こう言いますと人種的偏見をもつ者は反論します───〝黒人が肌の色を変え、ひょうがその縞を変えられようか〟(エレミヤ書13・23)と。

私は今回の運動に政治的意図はないこと、テンプルは真摯な気持ちで社会の抑圧された人たちを救おうとしていることは十分に理解しております。ですから、それに水を差すようなことは本当は言いたくないのです。しかし、いつもと同じく、真実は真実として強調されねばならないという気持ちは変わりません。

それはともかくとしても、一個の人間が霊に鼓舞されて何か良いことをしようとしている時は、たとえその人物がわれわれを軽蔑している者であっても、われわれとしてはその努力を拍手をもって賞賛しなくてはなりますまい。
 
 テンプル氏は神学者です。人間が勝手に考え出した教理や学説のすべてに通暁しております。神学の中で教育を受け修行してきた人物であり、リベラル派的なところもありましたが、その忠誠心を捧げるのはやはり神学です。もっとも、その中の幾つかを徐々に捨て去ってはおります。

彼には聖霊の力はいかなる教会、いかなる組織の独占物でもなく、通路(霊能者)のあるところなら世界中どこにでも働きかけるものであることが理解できません。

君主だの教会だのからの許可があろうと無かろうと、そんなことには一切お構いなく、老若男女に働きかけているのです。太古からずっとそうでしたし、これからも変わらぬ真実です」

 ここで曽てメソジスト派(国教会から分立した一派)の牧師だった人で今はサークルのメンバーになっている人がこう尋ねた。


───(この運動のために)多くの人、一般の人々が社会正義と国教会の教えとを混同し区別がつかなくなる危険性はないでしょうか。つまり国教会の社会的教義を受け入れるときにドグマもいっしょに呑み込んでしまうということです。

 「私はそうは思いません。知識の潮流を止めることは出来ません。進歩の時計の針を逆回りさせることは出来ません。

今回の運動でメリットがあるとすれば、今まで知らずに見過ごしていた不正や不平等に対して宗教心のある人───倫理的な意味での話ですが───が関心を向けるようになってくれることです。これまでは自分たちの知ったことではないと思っていたことなのですから・・・・・・」


───スピリチュアリズムではイエス・キリストをどう位置付けたらよいのでしょうか。

 「この問題の取り扱いには私もいささか慎重にならざるを得ません。なるべくなら人の心を傷つけたり気を悪くさせたくはないからです。が、私の知る限りを、そして又、私が代表している霊団が理解しているかぎりの真実を有りのままを述べましょう。

それにはまずイエスにまつわる数多くの間違った伝説を排除しなければなりません。それがあまりに永いあいだ事実とごたまぜにされてきたために、真実と虚偽の見分けがつかなくなっているのです。

 まず歴史的事実から申しましょう。インスピレーションというものはいつの時代にも変わらぬ顕と幽をつなぐ通路です。人類の自我意識が芽生え成長し始めた頭初から、人類の宿命の成就へ向けて大衆を指導する者へインスピレーションの形で指導と援助が届けられてきました。

地上の歴史には予言者、聖人、指導者、先駆者、改革者、夢想家、賢者等々と呼ばれる大人物が数多く存在しますが、そのすべてが、内在する霊的な天賦の才能を活用していたのです。

それによってそれぞれの時代に不滅の光輝を付加してきました。霊の威力に反応して精神的高揚を体験し、その人を通じて無限の宝庫から叡知が地上へ注がれたのです。
 
 その一連の系譜の中の最後を飾ったのがイエスと呼ばれた人物です。(第一巻の解説〝霊的啓示の系譜〟参照)ユダヤ人を両親として生れ、天賦の霊能に素朴な弁舌を兼ね備え、ユダヤの大衆の中で使命を成就することによって人類の永い歴史に不滅の金字塔を残しました。地上の人間はイエスの真実の使命についてはほとんど知りません。

わずかながら伝えられている記録も汚染されています。数々の出来ごとも、ありのままに記述されておりません。増え続けるイエスの信奉者を権力者の都合のよい方へ誘導するために、教会や国家の政策上の必要性に合わせた捏造と改ざんが施され、神話と民話を適当に取り入れることをしました。

イエスは(神ではなく)人間でした。物理的心霊現象を支配している霊的法則に精通した大霊能者でした。今日でいう精神的心霊現象にも精通していました。イエスには使命がありました。

それは当時の民衆が陥っていた物質中心の生き方の間違いを説き、真理と悟りを求める生活へ立ち戻らせ、霊的法則の存在を教え、自己に内在する永遠の霊的資質についての理解を深めさせることでした。


 では〝バイブルの記録はどの程度まで真実なのか〟とお聞きになることでしょう。福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四書)の中には真実の記述もあるにはあります。

たとえばイエスがパレスチナで生活したのは本当です。低い階級の家に生まれた名もなき青年が聖霊の力ゆえに威厳をもって訓えを説いたことも事実です。病人を霊的に治癒したことも事実です。

心の邪な人間に取りついていた憑依霊を追い出した話も本当です。しかし同時に、そうしたことがすべて霊的自然法則に従って行われたものであることも事実です。自然法則を無視して発生したものは一つもありません。なん人(ぴと)と言えども自然法則から逸脱することは絶対にできないからです。

イエスは当時の聖職者階級から自分たちと取って代ることを企(たくら)む者、職権を犯す者、社会の権威をないがしろにし、悪魔の声としか思えない教説を説く者として敵視される身となりました。

そして彼らの奸計(カンケイ)によってご存じの通りの最期を遂げ、天界へ帰った後すぐに物質化して姿を現わし、伝道中から見せていたのと同じ霊的法則を証明してみせました。

臆病にして小胆な弟子達は、ついに死んでしまったと思っていた師の蘇りを見て勇気を新たにしました。そのあとはご承知の通りです。一時はイエスの説いた真理が広がり始めますが、またぞろ聖職権を振り回す者たちによってその真理が虚偽の下敷きとなって埋もれてしまいました。

 その後、霊の威力は散発的に顕現するだけとなりました。イエスの説いた真理はほぼ完全に埋もれてしまい、古い神話と民話が混入し、その中から、のちに二千年近くにわたって説かれる新しいキリスト教が生まれました。それはもはやイエスの教えではありません。その背後にはイエスが伝道中に見せた霊の威力はありません。

主教たちは病気治療をしません。肉親を失った者を慰める言葉を知りません。憑依霊を除霊する霊能を持ち合わせません。彼らはもはや霊の道具ではないのです。

 さて、以上、いたって大ざっぱながら、キリスト教誕生の経緯を述べたのは、イエス・キリストを私がどう位置付けるかというご質問にお答えする上で必要だったからです。ある人は神と同じ位に置き、神とはすなわちイエス・キリストであると主張します。

それは宇宙の創造主、大自然を生んだ人間の想像を絶するエネルギーと、二千年前にパレスチナで三十年ばかりの短い生涯を送った一人の人間とを区別しないことになり、これは明らかに間違いです。相も変わらず古い民話や太古からの神話を御生大事にしている人の考えです。

 ではイエスをどう評価すべきか。人間としての生き方の偉大な模範、偉大な師、人間でありながら神の如き存在、ということです。霊の威力を見せつけると同時に人生の大原則───愛と親切と奉仕という基本原則を強調しました。それはいつの時代にも神の使徒によって強調されてきていることです。

もしもイエスを神に祭り上げ、近づき難き存在とし、イエスの為せる業は実は人間ではなく神がやったのだということにしてしまえば、それはイエスの使命そのものを全面的に否定することであり、結局はイエス自身への不忠を働くことになります。イエスの遺した偉大な徳、偉大な教訓は、人間としての模範的な生きざまです。

 私たち霊界の者から見ればイエスは、地上人類の指導者のながい霊的系譜の最後を飾る人物───それまでのどの霊覚者にもまして大きな霊の威力を顕現させた人物です。だからと言って私どもはイエスという人物を崇拝の対象とするつもりはありません。イエスが地上に遺した功績を誇りに思うだけです。

イエスはその後も私たちの世界に存在し続けております。イエス直じきの激励にあずかることもあります。ナザレのイエスが手掛けた仕事の延長ともいうべきこの(スピリチュアリズムの名のもとの)大事業の総指揮に当っておられるのが他ならぬイエスであることも知っております。

そして当時のイエスと同じように、同種の精神構造の人間からの敵対行為に遭遇しております。しかしスピリチュアリズムは証明可能な真理に立脚している以上、きっと成功するでしょうし、また是非とも成功させなければなりません。イエス・キリストを真実の視点で捉えなくてはいけません。

すなわちイエスも一人間であり、霊の道具であり、神の僕であったということです。あなた方もイエスの為せる業のすべてを、あるいはそれ以上のことを、為そうと思えば為せるのです。そうすることによって真理の光と悟りの道へ人類を導いて来た幾多の霊格者と同じ霊力を発揮することになるのです」


───バイブルの中であなたから見て明らかに間違っている事例をあげていただけませんか。

 「よろしい。たとえばイエスが処刑された時に起きたと言われる超自然的な出来ごとがそれです。大変動が起き、墓地という墓地の死体がことごとく消えたという話───あれは事実ではありません」

───イエスの誕生にまつわる話、つまり星と三人の賢者の話(マタイ2)はどこまで真実でしょうか。

 「どれ一つ真実ではありません。イエスは普通の子と同じように誕生しました。その話はすべて作り話です」


───三人の賢者はそれきり聖書の中に出てこないのでどうなったのだろうと思っておりました。

 「カルデア、アッシリヤ、バビロニア、インド等の伝説からその話を借用したまでのことで、それだけで用事は終わったのです。そのあと続けて出てくる必要がなかったということです。

よく銘記しておかねばならないことは、イエスを神の座に祭り上げるためには、まわりを畏れ多い話や超自然的な出来事で固めねばならなかったということです。

当時の民衆はふつうの平凡な話では感動しなかったのです。神も(普遍的なものでなく)一個の特別な神であらねばならず、その神に相応しいセット(舞台装置)をしつらえるために、世界のあらゆる神話や伝説の類が掻き集められたのです」

 別の質問に応えて───

 「イエスは決して自分の霊能を辱めるような行為はしませんでした。いかなる時も自分の利益のために使用することをしませんでした。霊的法則を完璧に理解しておりました。そこが単に偉大な霊能者であったこと以上に強調されるべき点です。

歴史上には数多くの優れた霊能者が輩出しております。しかし完璧な理解と知識とをもって霊的法則をマスターするということは、これはまったく別の次元の問題です」

 さらに幾つかの質疑応答のあと、こう述べた。

 「人間が地上生活を生き抜き成長していくために必要な真理は、これ以上つけ加えるべきものは何もありません。あとは真理をより深く理解すること、その目的をより深く認識すること、神とのつながり、および同胞とのつながりに関してより一層理解を深めることだけです。新たに申し上げることは何もありません。

私にできることは、霊的に受け入れ態勢の整った人々の魂に訴えるように、私のこれまでの経験の成果をやさしく説くことだけです。叡知というものは体験から生まれます。十分な体験を経て魂が要求するようになった時に初めて真理が受け入れられます。それから、今度はその知識をどうするかの段階となります。その知識を他人のために活用する義務の問題です。

そうした過程は実に遅々としたものですが、人類の進化はそういう過程を経るしかないのです。啓蒙の領域を絶え間なく広げていく過程であり、退嬰的(たいえい)な暗黒の勢力との絶え間ない闘いです。一人ずつ、あるいは一家族ずつ、悲しみや苦しみ、辛い体験を通じて少しずつ魂が培われ、準備が整い、強烈な感動を覚えて、ようやく悟りを開くのです。

 もう、イエスのような人物が出現する必要はありません。たとえあのナザレのイエスが今この地上に戻って来たとしても、多分地上で最も評判の悪い人間となるでしょう。とくにイエスを信奉し師と崇めるキリスト教徒から一番嫌われることでしょう」


───十四歳から三十歳までの間イエスは何をしていたのでしょうか。

 「その間の年月は勉学に費されました。イエスの教育に当たった人たちによって、真の賢者のみが理解する霊の法則を学ばさせるために各地の学問の施設へ連れて行かれました。心霊的能力の養成を受けると同時に、その背後の意味の理解を得ました。要するにその時期は知識の収得と才能の開発に費されたわけです」


───その教育施設はどこにありましたか。

 「幾つかはインドに、幾つかはエジプトにありました。最も重要な教育を受けた学校はアレクサンドリアにありました」


 訳者注───モーゼスの『霊訓』によるとインドは世界の宗教思想の淵源で、エジプトの霊的思想の根幹もみなインドから摂り入れたものだという。イエスの幼少時に両親がエジプトへ連れて行ったのも、直接の目的は迫害を逃れるためだったが、その裏にはインドから輸入された霊的真理を学ばせるという背後霊団の意図があった。

長じては直接インドへ行って修行しており、今日でいうヨガにも通暁し、水と少しの果実だけで一カ月くらい平気で過ごしたという。

霊訓〈完訳・上〉

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。




7節

本節の内容
*新プラトン主義 *スーフィズム
*霊的真理の普及を妨げるもの
*似非神学者 *似非科学者
*先入的ドグマによる偏見
*宗教の名に値するもの
*理性こそ最高の指針



〔新プラトン主義哲学(1)に関する通信があった。見覚えのある容貌をした霊が写真に写ったが、衣服は見慣れないものだった。私の質問に対し、心霊写真に写るためにはある程度の物質化が必要で、霊視に写る時の像とは違うということだった。

新プラトン主義の特徴的教義についての説明は実に克明で、私のまったく知らないものだった。忘我の状態で神性に背くものを全て排除し、ひたすら神との合一をはかるスーフィズム(2)という恍惚的瞑想行為について長々と説明し、その理想的人物として新プラトン主義学者の一人の名を挙げた。その時教わったもの、とくに右の学者の説教についてはその後なるほどと思わせるものがある。もっとも私自身はすでに体験していたこともあって、驚きの度合いが和らげられているが。

その後短期間ではあったが通信が途絶えた。その間に出席したある交霊会でイタズラ霊による偽名行為が再び発覚し、私も大いに考えさせられた。その後の通信でよその交霊会には絶対出席しないようにとの忠告があった。霊媒には強い磁力があり、他の霊媒の交霊会に出るとそこでの現象に悪影響を及ぼし、同時に悪影響を持ち帰ることになるから、霊媒同士の接触は絶対避けることが大切であるとのことだった。

宮廷詩人だったリドゲート(3)のものを中心とする素晴らしい詩が、それによほど興味をもっているように見うけられる霊によって書かれた。その霊はただ詩を綴ること以外は何もしなかったが、その筆跡は見事で特徴があった。

その後一八七三年六月十三日に開かれた交霊会で神学に関する質問を数多く用意しておいたところ、それに対して入神講演の形で長々と回答が述べられた。当然その全部は筆記できず、部分的で不完全な筆録しか残されていない。が、その翌日、その入神講演をした霊が、こちらからの要請もないのに、次のような自動書記通信を送って来た。〕


昨夜述べた事の中には、先を急ぐあまり十分に意を尽くし得なかった事が多く、筆録も正確とは言えぬ。あのような重要な問題は十分に念を入れ、是非とも正しく理解して貰わねばならぬ。そこで、十分に意を尽くし得なかった事をここでより分かり易く述べたく思う。交霊会でそなたの口を借りて語るのは必ずしもこうした方法(自動書記)で伝えるほど正確を期することが出来ぬものである。完全に隔離された状態の方が緻密さと正確さの得られる状態に入るのが容易である。

昨夜はわれらが神より託された使命について述べたつもりである。その使命の前途を遮(さえぎ)る多くの困難の中でも最大のものは、その使命達成においてわれらが何よりも頼りとしている気心の知り合った同志が余りに神学的先入主に捉われ、あるいはそれまで説き聞かされて来た信仰と相容れぬことに強い恐怖を覚えるために、われらにとりて為すすべがなく、挙句の果ては、悲しい哉、われらの説く神の教えが邪霊の言葉とされ、その背後にて操る強力なる悪魔のさしがねと決めつけられることである。われらにとりては、こうした人材ほど嘆かわしきものはない。

自分の定めた勝手な条件のもとに、自分のお気に入りの手段でしか物事を判断しようとせぬ似非(えせ)科学者たち――われらを単に人間をたぶらかす者、嘘つき、狂える者のたわごとと決めつける材料として以外には取り扱おうとせぬ科学者たち――彼らはわれらにとりてまず用はない。その曇れる目には真理は見えず、長年の偏見によりて被われ束縛された知性は、われらには何の役にも立たぬ。どう気張ったところで霊界との交信の真相を垣間見ることすら出来ぬ。彼らが獲得する知識はたとえそれ自身は有用であり、価値あるものであろうと、われらの特殊なる使命には先ずもって役に立たぬ。われらが目指すものは、われらの使命の一局面でしかない現象面にのみ目を向けたがる科学者がとやかく言うものとは、いささか方角が異なるのである。長きに亙り物理学的観察に馴らされた知能は、その分野の事実の解明に向けるのが最も適切であろう。われらの分野はそれとはまた異なるのである。霊と霊との関係であり、霊のたどる宿命に関する知識を扱うのである。

更に、われらが述べんとする真理に皆目知識を持ち合わせず、その理解にはこののち長年に亙る人生試練を必要とする無知にして未熟なる者たち――この種の者は、いつの日にかわれらの真理を理解し得る段階にまで向上してくるであろうが、今の段階にては用はない。

況(いわん)や高慢にして傲慢なる知識人、自分の世界にしか通用せぬ道学者、慣例と体面を守ることに汲々たる宗教家――彼らについては言葉もない。彼らを納得させるには更に多くの物的証拠を必要とする。われらが述べる言葉はたわごとにしか聞こえぬであろう。

われらが真に頼りとするのは、神とその天使の存在を知り、愛と慈悲を知り、いずれ死後に赴く境涯について知らんと欲する人物である。然るに悲しい哉、神により植えつけられ、霊に育まれし天賦の宗教的本能が人間の勝手な宗教的教義――幾世紀にも亙って知らず識らずのうちに築き上げられた、無知と愚行の産物によりてがんじがらめにされている。どこを突ついても、返ってくるのは真理から外れたことばかりである。われらが父なる神の啓示を説けば、神の啓示はすでに全てを手にしていると言う。われらがその啓示の矛盾点を指摘し、そこに終局性も不謬性もないことを告げれば、教会が拵えた取り留めもない決まり文句を繰り返すか、それとも“絶対に誤ることなき人”として選びし人物の説を引用するのみである。つまり彼らは、一時期、一地方の特殊なる必要性に応じて授けられた、限られた啓示をもって普遍的真理と思い込み、それを物差しとしてわれらを裁かんとするのである。

また古代において霊覚者を通じて行なえる如く、われらが信頼するに足る神の使者であることを表明し、その証拠として奇跡的現象を演出してみせても、彼らは、奇跡の時代は終わった、神の啓示の証として奇跡を行なうことを許されたのは聖霊のみであると主張する。そして悪魔――これは彼らの勝手な想像の産物にすぎぬのであるが――は神を装うことが出来るとし、われら及びわれらの使命を神と善に対抗する外敵であり、暗黒界の使者であると決めつけるのである。またこうも言う――出来ることなら力になってあげたい。なぜなら言っていること自体はなるほどと思わせることばかりだからである。が、それが悪魔が使う誘惑の手だから困るのだ、と。確かに彼らがそう思うのも無理はない。なぜなら、やがて善を装える邪霊集団がやって来ることを聖書が予言しているからである。われらこそその邪霊なのであろう。彼らにとりてはそうであるに相違ない。なんとなれば神聖にして犯し難き古(いにしえ)の神学が神の子イエスを否定せんとする勢力の到来を予言しているではないか。現にわれらの説はキリスト神の定めしイエスの位置とその使命を根底より否定している。またわれらは理性を信仰の上に置いている。われらの説く福音は(信仰よりも)善行を説く福音であり(忠実なる信仰でなく)善の実行者こそ佳(よ)しとする教えである。彼らにとりては、こうした教えを説く霊はすべて光の天使を装う大悪魔の手先であり、魂を破滅に陥(おとしい)れんとの企(たくら)みにほかならないのである。

が、われらにとりては、協力を期待する真摯なる信心家からこうした態度に出られることこそ痛恨の極みである。彼らの多くは愛すべき真面目な人間である。ただその明るき魂の炎が地上の暗闇を照らすに至るには、是非とも進歩性を必要とする。われらは是非とも彼らにメッセージを送りたい。が、すでに築き上げられた神および人間の義務についての確固たる信仰基盤を当てにするには、その前に進歩を阻む夾雑物を取り除かねばならぬ。

宗教がその名に値するためには二つの側面を持たねばならぬ。一つは神への信仰であり、もう一つは人間についての教えである。その道の専門家により“正統”と呼ばれている伝来の信仰は一体その二点についてどう説いているであろうか。その教えとわれらの教えとはどこがどう違うのであろうか。その“違う”部分はどこまで理性を納得させるであろうか。何故かく問うのかと言えば、われらは何よりも先ず神が植えつけ給うた理性こそ唯一の判断基準であると主張するものだからである。われらはあくまで理性に訴える。何故なら、古(いにしえ)の聖賢がこれこそ神の唯一にして最後の啓示であると断定して聖典を編纂した時も、彼らなりの理性に訴えたのである。その断定に際して彼らなりに理性に訴えたのである。故にわれらもまた理性に訴える。そなたはわれら霊団の同志が啓示の永遠不変の支柱とすべきものを神自ら規定されたと主張しているとでも思われるか。われらもまた神の使者にほかならぬ。かのヘブライの預言者たちを導いた霊たち、そして啓示を神の言葉と断定せる人間を指導した霊たちと同様に、われらもまた神によりて導かれた霊なのである。

われらも彼らと同じ神の使者である。携え来るメッセージも同じである。ただ、より一層進んでいるというまでである。われらの説く神も彼らの説ける神と同一である。ただ、その神性をより明確に説いているまでである。つまり人間臭が減り、より神々しき存在となっている。

こうしたわれらの訴えをその言葉どおりに神聖なるものと受け取るか否かは、そなたらの理性(とは言え背後霊の指導を受けることは間違いないが、理性であることには変わりない)が最後の判断を下すことである。この上われらの訴えを否定する者は自らの理性の愚昧さを証言する者に他ならぬ。盲信を理性的信仰と同等に見なすことは出来ぬ。なんとなれば信仰にも根拠ある信仰と根拠なき信仰とがある。根拠ある信仰は論理的裏付けが可能であり、その場合にも理性が最終的判断を下す。後者は論理的裏付けなき信仰であり、これでは人を動かすことは出来ぬ。況(ま)して全く根拠なき盲信に至っては、われらもその頼りなさと信用のなさについてこれ以上論ずる必要さえ認めぬ。

故にわれらは理性に訴えるのである。理性的に判断してわれらがどこまで悪魔性を証しているというのか。われらの説く教義がどこまで邪霊的であるのか。何をもってわれらを悪魔的と言うのか。こうした点については、これよりのちに説くことにしよう。


〔注〕

(1)


Neoplatonism 三世紀に始まったギリシャ哲学の一派で、プラトンの思想を中心にしてこれに東洋の神秘思想を加味したもの。その代表的思想家が本書の五節にプルーデンスの名で出ているプロティノス Plotinus である。


(2)


Souffism


(3)


Lydgate

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch 

Psychic Press Ltd.
London, England 



五章  もしも シルバーバーチがテレビに出たら


 〝もしスピリチュアリズムについてテレビで講演することになったらどういうことを話されますか〟───ある日の交霊会でこんな質問が出された。シルバーバーチはすかさず次のように答えた。

「私はまず私が地上の人たちから〝死者〟と呼ばれている者の一人であることを述べてから、しかし地上の数々の信仰がことごとく誤りの上に築かれていることを説明致します。生命に死はなく、永遠なる生命力の一部であるが故に不滅であることを説きます。

私は視聴者に、これまで受け継いできた偏見に基づく概念のすべてをひとまず脇へ置いて、死後存続の問題と虚心坦懐に取り組んで真実のみを求める態度を要請致します。寛容的精神と厚意をもって臨み、一方、他人(ひと)がどう述べているからということで迷わされることなく、自分みずからの判断で真理を求めるよう訴えます。

そして世界中の識者の中から、いわゆる死者と話を交わした実際の体験によって死後の生命を信じるに至った人の名前を幾つか紹介します。

そして私自身に関しては、私もかつて遠い昔に地上生活の寿命を割り当てられ、それを完うして、一たんベールの彼方へ去ったのち、この暗い地上へ一条の光をもたらし久しく埋もれたままの霊的真理を説くために、再び地上に戻る決心をしたことを述べます。

 私はその霊的真理を平易な言葉で概説し、視聴者に対して果たして私の述べたことが理性を反撥させ、あるいは知性を侮辱するものであるか否かを聞いてみます。

私には何一つ既得の権利を持ち合わせないことを表明します。こんなことを説いてお金をいただかねばならないわけでもなく、仕事を確保しなければならないわけでもありません。私には何一つ得るものはありません。霊界での永い永い生活を体験した末に私が知り得たことを教えに来ているだけです。聞くも聞かぬもあなた方の自由です。

 人間は不滅なのです。死は無いのです。あなた方が涙を流して嘆き悲しんでいる時、その人はあなた方のすぐ側に黙って立っている───黙って、というのは、あなた方が聞く耳をもたないために聞こえないことを言っているまでです。

本当は自分の存在を知らせようとして何度も何度も叫び続けているのです。あなた方こそ死者です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で立派な死者です。神の宇宙の美が見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。

愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡知を役立てたいと望んでいるのです。

 見えないままでいたければ目を閉じ続けられるがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。が、賢明なる人間は魂の窓を開き、人生を生甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。あなた方は神の子なのです。

その愛と叡知をもって全宇宙を創造した大霊の子供なのです。その大霊との繋がりを強化するのは、あなた方の理解力一つです。もし教会がその邪魔になるのであれば、教会をお棄てになることです。もし邪魔する人間がいれば、その人間と縁を切ることです。もし聖典が障害となっていると気がつかれれば、その聖典を棄て去ることです。

 そうしてあなた一人の魂の静寂の中に引きこもることです。一切の世間的喧騒を忘れ去ることです。そして身のまわりに澎湃(ほうはい)として存在する霊的生命の幽(かす)かな、そして霊妙なバイブレーションを感得なさることです。

そうすれば人間が物的身体を超越できることを悟られるでしょう。知識に目覚めることです。理解力を開くことです。いつまでも囚人であってはなりません。無知の牢獄から脱け出て、霊的自由の光の中で生きることです。
 以上の如く私は述べるつもりです」


 次に、教会中心の信仰者に対して講演するとしたらどう説かれるかと聞かれて───

 「まず私は教会というところが本来宗教についての真実を学ぶために存在するものであること説きます。目に見えない高い世界の影響力に集団で波長を合わせるための場です。しばしのあいだ俗世的心配ごとやストレスから離れ、雑念や悩みごとを忘れて霊的実在に目を向ける場です。

私はまた人のために自分を役立てることこそ真の宗教であると説きます。礼拝に出席したら、欠席した人より立派になるというわけではありません。肌の色が白いから、茶色や黒い肌の人より優れているわけではありません。大切なのは霊の進化、魂の成長です。

教会はそのための永遠の旅に備える場であるべきです。いかにして霊を修練するかを教える場であるべきです。聖典の言葉や説教、儀式、信条のことで惑わされてはいけません。建物を必要以上に有難がってはいけません。

 宇宙の大霊は無限の存在です。いかに神聖に思える建物でも、その大霊を閉じ込めることはできません。四つの壁では〝永遠なるもの〟は包めません。書物も、その言葉がいかに美しくても、いかに内容が立派でも、いかに霊的でも、それ一冊に無限なる霊すなわち神に関する真理のすべてが記されるわけがありません。

いかなる人間でも、たとえ地上で最高の聖職にある人でも、あなたと神との関係に干渉することは許されません。あなた方の存在にとって必要なものは、あなた方自身が無限の啓示の宝庫から引き出すことができるのです。

あなた方が神と呼ぶところのもの、私が大霊と呼ぶところのもの、すなわち全生命の背後の普遍的摂理は、永遠にあなた方と切っても切れない絆で結ばれております。

 内部に宿された神性を発揮しさえすれば───高級界から受ける霊力とインスピレーションを活用する霊的法則さえ身につければ、神が意図された通りの生き方ができるようになります。

自己を棄て、世間に目を向け、からだの不自由な人を癒し、苦しむ人に手を差しのべ、飢えた人に食を与え、渇いた人に水を与え、道を見失える人に勇気と指示を与え、優しさと思いやりと愛情を、それを必要とする人の全てに与えてあげるようになるでしょう。

そうなった時こそ自分を役立てていることになります。それが唯一の宗教なのです。それ以外の宗教を私は知りません」


───スピリチュアリズムが世界的宗教となる日が来るのでしょうか。

 「あなた方がスピリチュアリズムと呼んでいるものは大自然の一部───その作用、その意義に対してつけられた名称に過ぎません。私にとって宗教とは自分なりの人生を生きることであり、特定の宗派の信仰を受け入れることではありません。

人生を支配している摂理は普遍的なものです。ということは、普遍的な理解力が世界中に行きわたれば、お互いが扶け合うことが普遍的な宗教ということになります。それをスピリチュアリズムと呼ぶかどうかはどうでもよいことです。大切なのは真理が普及し、無知の壁が崩れ、迷信が人間の精神から一掃されて、霊的叡知が花開くことです。 

ラベルには用心しなければなりません。なぜかと言えば、そのうちそのラベルに象徴されていた中身に代わってそのラベルそのものが大切にされるようになり、ついにはラベルだけを崇拝して真理を忘れてしまうからです。大切なのは真理です。ラベルはどうでもよろしい。

 皆さんはある現象が話題になるとそれをスピリチュアリズムだと言います。が、すべては自然法則の働きで起きているのであって、それをどう呼ぶかは重要ではありません。同じ意味で〝宗教〟という用語もその本来の意義を失ってしまいました。

今では宗教といえば〝神聖〟のラベルをはられた特殊の行事や慣習、儀式、祭礼等のことを連想します。しかし教会や礼拝堂が普通の建物に較べていささかも神聖であるわけではありません。石はあくまでも石です。普通の家の一部となろうと大聖堂の一部となろうと石は石でしかありません。

神を崇拝する場として作られた建物は確かに美しいかも知れませんが、その美しさが神聖さを生むわけではありません。美しいと思うのは美意識の反応にすぎません。

 宗教そのものは教会とは何の関係もありません。霊感のある人───本当の意味での聖職者、つまり霊的能力を具えた人が民衆の要請に応えて神との取り次ぎをしてあげることと言ってもよいでしょう。勿体ぶった神学的言説に基づく行事をしたり信仰を告白したりすることではありません。

教会でワインを飲んだからといって、他の場所でワインを飲むよりも〝宗教的〟であるわけではありません。宗教的であることは宇宙の大霊の一部である自分を少しでもその大霊の御心に近づけることです。

内部の神性を発揮する上でプラスになることをすることが宗教です。その神性は人のために役立つ行為、愛他心、親切心、日々新たになろうとする心がけ───どこにいても倒れている人を起こしてあげ、弱った人を元気づけ、無力な人の力になってあげ、病の人を癒し、真理と叡知を広め、不正を無くする行為となって表われます。それが宗教です。

人間にはその人なりの宗教を実践する上で必要なものはすべて授かっております。そのためにはまず、宗教とは名僧知識が説くことを体系的にまとめることであるかのように考える、その誤った概念を捨て去ることです。

 私どもは、どこかの礼拝のための建造物に出席することが神への義務を果たすことになるとは決して申しません。出席される方は真面目な気持ちでそうされているかも知れませんが、真の宗教心はその人の生きざまの中でしか発揮されないのです。各自の魂に内在する崇高なる霊性の働きと切り離されたところに宗教は存在しません」


───おっしゃるような生き方ができなければ、スピリチュアリズムも既成宗教と同じように失敗に終わることになるわけですね。

 「その通りです。必ず同じ運命を辿ります。私たちが地上へ戻ってきたのは一時のセンセーションを巻き起こすためでもなく、一部の人たちだけに喜びをもたらすためでもありません。肉親を失った人を慰めるのも大切です。悲しみの涙にくれる人の涙を拭ってあげるのも大切です。

が、それよりもっともっと大切なことは、霊的真理を日常生活の全てに生かすことです。〝無知〟から生じる世の中の害毒を無くさなくてはなりません。すべての不公正を改め、すべての偏狭と横暴を駆逐しなければなりません。私たちの仕事は人間に内在する霊性をあらゆる面で発揮させ、物質文明から排泄されるもの───汚れ、病気、暗黒街、スラム街、その他、神聖なる霊が閉じ込められている全ての邪悪な環境を清めることに向けられております。

 要するに私たちの説く宗教は実践の宗教です。一日一日の宗教─── 一日二十四時間、一時間六十分、一分六十秒、その全てを実践の時とする宗教です。

それが私たちの評価の基準です。それが私たちの目標とする理想です。それが知識を手にした者の本当の仕事───自分だけが喜びと慰めを得るに止まらず、全ての人に隔てなく分け与えてあげる義務なのです。

スピリチュアリズムも他のすべてのことと同じく〝結果〟によって評価されます。あなたが存在することによって世の中の誰一人として益を受けることがなければ、この世に生れてきた甲斐がなかったことになります。

もしスピリチュアリズムを信奉する人がいま深刻に要請されている精神的革命に何の役割も果たせないとしたら、それは自分に対する欺瞞であると同時に、その目的の為にその人を使用した霊の力に対する欺瞞にもなります。人間を通して地上へ注がれる莫大な霊力には成就すべき巨大な宿命があります。それは人類の霊的革新です」
                               

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch 

Psychic Press Ltd.
London, England 




四章  誰にでもわかる真理を

 
シルバーバーチのもとに数え切れないほどの質問が寄せられている。その一つ一つが読み上げられるのをシルバーバーチは熱心に聞き入るが、あまりに個人的な内容のものには答えたがらない。


その理由をシルバーバーチは、プライベートな悩みに答えるにはその悩みを抱えている本人がすぐ目の前にいる必要がある。しかしそれは私に委ねられた使命ではないから、と説明する。その本来の使命は全ての人に共通した真理を説くことにあるという。その一つが次の質問である。


───あなただけがご存じの、何か新しい真理がありますか。

 「新しい真理というものは一つもありません。真理は真理です。単なる知識はそれを受け取る人次第で内容が異なります。子供時代にはその知能に似合ったものを教わります。まずアルファベットから始まり、知能の発達とともに単語を覚え、文章が読めるようになります。こんどは活字で書かれた本が読めるようになります。

どの程度のものが読めるかはすべてその段階での理解力一つに掛かっています。知識は無限に存在します。際限がありません。が、そのうちのどこまでを自分のものに出来るかは、精神的ならびに霊的受容力の問題です。

 しかし、いくら知識を蓄えても、それによって真理を変えることは出来ません。いくら知恵を絞っても、真理の中身を変えることは出来ません。過去において真理であったものは今日でも真理であり、明日の時代にも真理です。真理は不変であり不滅です。

新しい叡知を身につけることはできます。新しい知識を増やすこともできます。が、新しい真理を生み出すことはできません。地上人類はすでに地上生活にとって必須の真理───親切と扶け合いと愛についての基本的真理のすべてを授かっております。

世界をより良くするためには如何にすべきかはすでに分かっております。成長と発展と向上と進化にとって必要なものは過去幾世紀にもわたって啓示されてきております。それに素直に従いさえすれば、今この地上において、内部に宿された神性をより多く発揮することができるのです。

偉大な指導者、地上に光輝をもたらした〝霊の道具〟は、根本においてはみな同じ真理を説いております。人間の霊性───各自に宿る不滅の資質に目を向けさせるべく地上を訪れたのです。言語こそ違え、みな人間のすべてが無限の魂、神の火花、宇宙の大霊の一部を宿していることを説きました。

そして、素直に従い実行しさえすればそれをより多く発揮させてくれるところの指導原理も説いております。霊的理念に従って生きればこの世から悪夢の様な悲劇、余りに永きに亘って無益な苦しみを与えてきた恐怖と悲惨と苦悩を一掃できることを説いてきております。
 
 自分を愛する如く隣人を愛せよ。苦しむ者に手を差しのべよ。人生に疲れた人、潤いを求める者に真理を語って聞かせよ。病いの人を癒し、悲しみの人を慰め、不幸な人を訪ねてあげよ。こうした訓えは遠い昔から説かれてきた真実です。こうしたことを実行しさえすれば地上は一変し、二度と恐ろしい悲劇をもたらす戦争も訪れなくなるでしょう。

 そこで、私たち霊団の取るべき態度はどうあるべきか。人間は自分の成長と(死後への)霊的準備に必要なものはすべて掌中に収めております。聖なる書も数多くあります。〝師〟と呼ばれる人も数多く輩出しております。

内的世界を垣間見てその人なりに解釈した霊覚者が大勢います。しかし不幸にして、そうした形で啓示された素朴な真理が埋もれております。人間はその上に教義だの、ドグマだの、信条だの、儀式だのという〝構築物〟を築き上げてしまいました。

単純素朴な真理の基礎の上に神学という名の巨大な砦を築いてしまい、肝心の基礎がすっかり忘れ去られております。そこで私どもはその埋もれた真理を本来の純粋な姿───何の飾り気も無い素朴な姿のままをお見せするための道具、つまり霊のメッセージをお届けするための霊媒を探し求めてきたのです。

 私どもは人間の精神的産物によって色づけされた信仰体系には関心はありません。大切なのは地上生活のように錯覚によって惑わされることのない霊の世界からの真理です。

なぜか。それは、あまりに多くの落伍者、精神的浮浪者のような人間が霊界へ送り込まれる一方、一見立派そうな人間が霊的事実について誤った概念と偏見と無知の為に、死後に直面する生活に何一つ備えが出来ていないというケースが又あまりに多すぎる現実を見て、私どもは、いずれは永続的な実在の世界となる死後の生活に備えるための単純な真理を地上にいる間に知ってもらえば、私達の手間も大いに省けるだろうと考えたのです。

そこであらゆる宗教的体系と組織、進歩を妨げる信仰、不必要な障害、人間の精神を曇らせ心を惑わせる迷信に対して厳然と宣戦布告し、神の子が神の意図された通りに生きられるように、不変の霊的真理を授けようと努力しているわけです。

 他人がどう言おうと気にしてはいけません。非難・中傷など、すべて忘れることです。霊的真理こそ永遠に変わらぬ真理なのです。理性が要求するすべてのテストに応えうる真理です。

けっして知性を欺きません。単純・明快で、誰にでも理解できます。聖職者によるあらゆる方策が失敗したのちも止まることなく普及発展していく真理です。

不変の自然法則に基づいた単純素朴な永遠の真理だからです。これには法王も大主教も司祭も牧師も教会も聖堂も礼拝堂もいりません。私どもはこれを捏ねまわして神学体系を作ろうなどとも思いません。ただこうして説くだけですが。が、

理解ある伝道者さえいれば、それが社会のあらゆる階層に浸透し、すべての人間が身体的にそして霊的に自由を享受し、二度と束縛の中で生きていくことは無くなるでしょう。無知の暗黒が消滅し、代わって真理の光がふんだんに注がれることでしょう」


 このようにシルバーバーチは単純な霊的真理を説いているだけだと主張し、理屈っぽい問題には答えたがらない。その理由は───

 「難解な問題を回避したいからではありません。私は今すぐ応用のきく実用的な情報をお届けすることに目標を絞っているからです。基本の基本すら知らない大勢の人々、真理の初歩すら知らない人が大勢いることを思うと、もっと後になってからでも良さそうな難解な理屈を捏ねまわすのは賢明とは思えません。

今日もっとも必要なのは簡単な基本的真理───墓場の向こうにも生活があること、人間は決して孤独な存在ではなく、見捨てられることもないこと、宇宙のすみずみにまで神の愛の温もりをもった慈悲ぶかい力が行きわたっていて、一人一人に導きを与えていること、それだけです。

これは人間のすべてが知っておくべきことです。また誰にでも手に入れることのできる掛けがえのない財産なのです。そうした基本的な真理さえ知らない人間が何百万、何千万、いや何億といる以上、われわれはまず第一にその人たちのことから考えようではありませんか。それがわれわれにとって最も大切な義務だと思うのです」


 同じ話題について別の交霊会で次のように述べている。
 「私ども霊界の者がこうして地上へ戻って来る目的の真意が、ほかならぬ宗教問題で指導者であるべき人たちから曲解されております。いつの時代にも宗教とは基本的に霊力との関り合いでした。それはまず地上の人間の霊的向上を指向し規制する摂理を教える使命を帯びた者が地上へ舞い戻ってくるという事実から始まります。

つまり宗教の本来の目的は人間の霊性に関わっているのです。そこから出発し、ではその霊性を正しく発達させる上で霊界から指導を受けるにはどうすべきかを説くのが宗教の次の仕事です。

霊的摂理は広範囲に亘っています。ところが不幸にしてそれが誤って解釈され、その上、それとは別の意図をもった聖職者が割り込んで来たために混乱が生じたのです。

 人間も根本的には霊であり、それが肉体を使用しているのであって、付属品として霊を宿した肉体的存在ではないわけです。肉体は霊に従属しているものです。地上生活の全目的はその内在する霊に修業の場を与え、さまざまな体験を通じてそれを育み、死によってもたらされる肉体からの解放の時に備えて身仕度させることです。

それから本当の意味での生活が始まるのです。従って宗教とは霊が霊として本来の生活ができるように指導するための処世訓であり道徳律であると言えます。ところが不幸なことに、古い時代に霊の道具である霊媒と聖職者との間に衝突が生じたのです。聖職者の本来の仕事は聖堂や教会等、宗教的行事の取り行われる建造物の管理でした。

原初形態においては両者の関係はうまく行っておりました。が、ある時代から聖職者の方が神示を受ける霊媒にばかり関心が向けられることを不愉快に思いはじめました。

そしてそれまでに入手した神示を資料として、信条、儀式、祭礼、ドグマ、教説等を分類して綱領を作るという、いわゆる神学的操作を始めたのです。今日そのどれ一つとして霊の資質や生活や発達と実質的に関わりのあるものはありません。

 かくして真の宗教の概念が今日では曖昧となってしまいました。宗教というと何かお決まりの儀式のことを思い浮かべ〝聖典〟と呼ばれるものを読み上げることと考え、讃美歌を歌い、特別な衣装を着ることだと考えるようになりました。

何やら難しい言説を有難く信奉し、理性的に考えれば絶対におかしいと思いつつもなおそれにしがみつきます。私たちはいかなる神学、いかなる教義、いかなる信仰告白文にも関心はありません。私たちが関心を持つのは人間の霊性であり、私たちの説くこともすべて、絶対的に従わなければならないところの霊的自然法則に向けられています。人間のこしらえたものを崇めるわけにはいきません。

宇宙の大霊によって作られたもののみを実在と信じます。そこに宗教の捉え方の違いの核心があります。

 人のために役立つ行為、霊性に動かされた行為、無私と利他的行為、自分より恵まれない人へ手を差しのべること、弱き者へ力を貸してあげること、多くの重荷に喘ぐ人の荷を一つでも持ってあげること───これが私たちの説く宗教です。

 
 〝神とイエスと聖霊は三にして一、一にして三である〟などと説くことが宗教ではありませんし、宗教的であるとも言えません。それを口にしたからといって霊性はみじんも成長しません。朝から晩まで讃美歌を口にしたからといって霊性が増えるわけではありません。

バイブル(キリスト教)を読んでも、タムルード(ユダヤ教)を読んでも、コーラン(イスラム教)を読んでも、バガバッド・ギーター(ヒンズー教)を読んでも、その他いかなる聖なる書と呼ばれるものを目が疲れるほど読んでも、それだけで霊性が成長するわけではありません。

〝宗教的〟とみなされている行事をすべて行っても、それによって一層価値ある人生へ魂を鼓舞しなければ、言いかえれば内部の霊性を少しでも多く顕現させることにならなければ、私たちが考えている意味での宗教的人間になるわけではありません。

 ラベルはどうでもよいのです。形式はどうでもよいのです。口先だけの文句はどうでもよいのです。大切なのは〝行い〟です。〝行為〟です。つまり各人の毎日の〝生活〟そのものです。

私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人としてその神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすことはできません。

自分が自分の救い主であり、贖い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。また神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。

すなわち親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も安価な赦免もありません。

神の公正が全宇宙に行きわたっております。霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。死の床での悔い改めも通用しません。

 広大なる宇宙で生じるもの全てに責任を持つ大霊(神)の不変にして絶対的威力を有する摂理に目を向けましょう。私たちは常にその摂理を念頭に置いています。なぜなら私たちの説く神は人間的弱点や人間的激情、人間的憤怒に動かされたり、好きな人間と嫌いな人間とを選りわけたりするような、そんな人間的存在ではないからです。

私達の観る宇宙は法則によって支配されています。すみずみまで行きわたり、これからも常に存在し続ける法則です。

地上の人間がこれまであまりに永いあいだ振り回され隷属させられてきた誤った概念と虚偽、偏見と無知を無くしていくには、地上の生命現象と生活現象のすべてがその絶対的法則によって支配されていることを教える以外にはありません。

その知識が少しでも増えれば、それだけ理解力も豊かになることでしょう。真の美しさを遮っていたベールが取り除かれ、有限の地上的存在の視野を超えたところに存在する、より大きな生活を少しでも垣間見ることになるでしょう。

 かくして私どもは常に神の永遠の自然法則、絶対に狂うこともなく、過ることもない法則、地位の高い低いに関係なく全ての存在に等しく働く法則に忠誠と感謝の念を捧げる者です。誰一人おろそかにされることはありません。誰一人見落とされることはありません。

誰一人忘れ去られることはありません。誰一人として一人ぼっちの者はいません。法則の働きの及ばない人、範囲からはみ出る人など一人もいません。あなたがこの世に存在しているという事実そのものが神の摂理の証です。人間の法律は機能しないことがあります。改められることもあります。

人間の成長と発展に伴って視野が広がり、知識が無知をなくし、環境の変化に伴って新たな法令が要請されたりすると、従来の法律が廃止されたり別の法律と置きかえられたりすることもあります。

しかし神の法則には新しい法則が付け加えられることは絶対にありません。改正もありません。解釈上の変化も生じません。いま機能している法則はこれまでもずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能していきます。一瞬の休みも無く機能し、そして不変です。
              


Friday, October 2, 2026

霊訓〈完訳・上〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。





6節

本節の内容
*ダービーによる悪影響 *祭日の功罪
*通信を可能にする条件と不可能にする条件
*極端な節制の弊害 *中庸こそ大切
*死後の結婚の絆  *進歩の法則と親和力の法則
*通信内容に矛盾の生じる原因


〔この頃ホーム氏(1)と会った。その日は、たまたまダービーの日で、ホーム氏を通じて、ダービーのために霊的状態が悪く、仕事にならないと言ってきた。そこで翌日(五月二十九日)その点を質してみたところ、いろんなことを述べたあと次のように書いた。〕


そうした催しは道徳的雰囲気を乱し、われらを近づき難くする。そこにはわれらに敵対心をもつ邪霊が集結し、物欲を満たさんとして集まれる人間に取り入る隙(すき)を窺うのである。昨日はそうした物欲に燃える者が大挙して集結した。邪霊たちにとって彼らは恰好の標的である。アルコールが入り、野獣の如く肉欲に燃える者。大金を当てにして興奮する者。その当てが外れて絶望の淵に落とされる者、等々がいる。邪霊の誘いに最も乗りやすい者はこの最後に挙げた人種である。たとえそこまで落ち込まぬとしても、道徳的感覚が狂い、感情を抑え邪霊からの攻撃の盾となるべき冷静さと心の平衡が崩れ、つけ入る隙を与えることになる。絶対的悪とまでは行かぬが、自制心を失い狂乱状態に陥れる精神が攻撃の恰好の条件を用意することになる。こうしたものは須(すべか)らく避けねばならぬ。そうした心は霊的悪影響、未熟にして有難からぬ邪霊にまんまと掛かり易い。興奮のあまり節度と理性を失える精神にはくれぐれも用心されたい。

以上の如き理由のため、そなたが質せるような日は善の使者の努力が最も要請されることになる。総攻撃をしかけんとして集結せる邪悪な未熟霊の計画を不首尾に終わらせんがためである。


――しかし、そうなると全ての祝日もいけないことになりませんか。


必ずしもそうではない。祝日の雰囲気が感情の手綱(たづな)をゆるめさせ、喉を焼くアルコールと、欲情の満足と、霊を忘れた振舞いに追いやることになれば、その祭日は許し難きものと言えよう。手綱を奪われた肉体が霊の思うがままの支配下に置かれることになるからである。

しかし祝日が身体に休息を与え、魂に憩のひと時を与えることになれば、話はまた別である。過労によって疲弊した身体が心地よき適度な休息によって生気を回復するであろう。毎日の気苦労と煩事に悩み苦しめられている精神も、適度な娯楽に興じることによって緊張がほぐれ、しばし煩わしさを忘れることになろう。そうした心地よき気分転換がむしろ精神を引き締め、刺激することになるのである。そうしているうちに穏やかな静けさが魂を支配し、それが何にも増して天使の暖かき支配を容易にする。かくして天界の使者の威力が強化され、いかに強力なる悪霊の計画も功を奏さぬこととなる。祝日を人間の堕落の日とせぬためには、善霊の働きと人間の義務についての認識を深めねばならぬ。暴動と放蕩、肉欲とギャンブル、邪念と絶望しか生まぬ祝日はわれらにとりて少しも祝うべき日どころではなく、恐るべき日であり、警戒と祈りを忘れぬ日である。

神よ、無分別なる愚行に耽る理性なき魂を救い、守り給わんことを!


〔そのころ催した実験会がどうやらいい加減な現象によって邪魔されていたらしく、通信霊の心霊写真を撮ろうとした試みも失敗に終わった。写っていた霊は自らはレクターだと名のったが、友人の判断でわれわれとは何の係わりもない、いい加減な霊で、出席者の誰も知らないことが判った。私は何か通信を得たいと思って机に向かったが、一向にまともな通信が得られないので、やむなく諦めた。

その翌日いつもの受け身的な精神状態を取り戻した。すると、こちらから求めないうちに向こうから(ドクターが)通信を送ってきた。私は前日の実験会のことに言及して、あのような場合われわれのほうで為すべきことはどんなことか尋ねた。〕


レクターはそなたの混乱した精神状態のために、通信を送ることが出来なかった。そなたの混乱は実験会でのエネルギーの負担が大きすぎる所為(せい)である。あの実験会での霊言はまったく当てにならぬ。そなたの精神状態は異常なほど反抗的であった。写真に写った人物をレクターと思ったらしいが、レクターはあの種の現象には不慣れなので、そなたの度の過ぎた興奮が今のべた精神状態と相まって通信を不可能にしている事実までは彼自身も気づいておらぬ。あのような精神状態を感じた時は、いかなる話題についても通信を求めてはならぬ。そのような時に得た通信は当てにならず、不完全であり、往々にして危険でもある。


〔私の当惑は大きかった。そこであのような現象を度々見せられては私のささやかな信念がすっかり失われてしまうと不平を述べた。それまでは一度も体験したことがなかったからである。すると――〕


そなたはこれまで、われらのうちの誰かが付き添い、注意と保護を与え得る時以外は、あのような実験会には出席していない。昨日の実験会には物質的成分を操る霊しかいなかった。その結果あのような混乱となったのである。あの時も前もって注意を与えたが、ここで改めて警告しておく。あの時のそなたの反抗的精神状態では到底レクターには支配できぬ。そなたの興奮状態が通信を不可能にしたのである。


〔それ以来私は身体の調子が悪い時や、どこかに痛みのある時、あるいは精神的な悩みや心配事のある時、さらにまた、そうした人が近くにいる時や、混乱を来しそうな雰囲気の中にいる時は、絶対に自動書記をしないよう慎重を期した。その所為だと私は思うのであるが、その後の通信は実に規則正しく、且つ落ち着いた感じを与える。大体において筆致は驚くほど流暢で、書かれたノートを見ても一箇所の削除も訂正も見当たらない。内容の論調も全然ムラがなく一貫している。〕


可能なかぎり精神を受け身に、冷静に保つことである。仕事で過労ぎみの時、心配事で気分が苛立っている時、あるいは滅入っている時、こうした時はわれらとの交信を求めてはならぬ。交霊会に新たなメンバーを加えてはならぬ。調子を狂わせ、妨げにしかならぬ。余計な干渉をせず、全てを任せてほしい。メンバーの構成について変更すべきところはわれらから助言するであろう。会合する部屋を変更せぬように。そして出来るだけ受容性に富める心構えと健康体をもって出席してもらいたい。


――確かに、一日中身体と頭を働かせたあとは条件として良くないとは思いますが、日曜日はさらに良くないように見うけます。


日曜日はわれらにとりても好ましくない。何となれば、そなたの心身から緊張が消え失せ、魂が行動する意欲を失い、休息を求めんとするために、われらの働きかけに反応しなくなるのである。こうなると、われらはそなたに新たに現象を試みることに恐れを感じる。そなたへの危険を恐れて物理的実験を手控えるのである。

理由はそれのみにかぎらぬ。物理現象はわれらの本来の目的ではなく、補助的なものに過ぎぬからでもある。これまで述べてきたわれらの使命の証として見せているのであり、それのみに安住してもらっては困る。

日曜が好ましからぬ特殊な事情がもう一つある。人間は気づかぬであろうが、平日と条件が変わることによってわれらが被(こうむ)る困難である。前にも述べたことであるが、食事のあとすぐに交霊会に臨むことは好ましくない。われらが求める身体的条件は、受容性と反応の敏速性である。その受容性も、怠惰と無気力から生じるものであってはならぬ。アルコール類と共に腹一杯食した後の、あの眠気と無気力状態ほど交霊にとって危険なものはない。アルコールの飲用が物理現象を促す場合も無きにしもあらずであるが、われらにとっては障害でしかない。より物質的に富める霊の侵入を許し、われらの霊力が妨害されるのである。これまでもそうした妨害を頻繁に受けて参った。そなたはその点をよく考慮し、われらとの交信を求めるに際しては、何事につけ度を過ごさぬよう注意を払うがよい。身体が刺激物でほてり、食べ過ぎで倦怠感を覚えるようであってはならぬ。精神が眠気を催し、不活発となるのも良くない。いずれの状態もわれらにとっては思うように仕事が出来ぬ。状態そのものが醸(かも)し出す影響力がわれらにも及び、われらのエネルギーを大いに阻害する。出席者の中に一人でもそうしたメンバーがいる時、もしくは身体を病み苦しむ者がいても、われらには如何ともし難き状態が発生するのである。


――しかし栄養不足による虚弱な心身では仕事にならぬと思いますが。


われらは節制を説いているまでである。食事によって体力をつけねばならぬが、食したものが消化するまでは交霊に入ってはならぬ。日常の仕事のためには適度に刺激物を摂ることも必要であるが、それも常に用心して摂取すべきであり、まして、われらとの交霊は先に述べた条件を厳守した上でなければ絶対に始めてはならぬ。心または身体が眠気を覚えたり注意を持続できぬような時、もしくはどこかを病んでいたり痛みを感じている時は、こちらからの指示がないかぎり机に向かってはならぬ。同じく、満腹している時は低級霊の活動が優勢となることが予想され、われらには近づけぬ。そのような条件のもとでは物理現象も質が低下し、粗暴となり、好条件のもとで行われる時の如き品の良き美しき現象は望めぬ。

われらにとっては極端が困るのである。断食で衰弱しきった身体ではもとより仕事にならぬが、飽食によって動けぬほど詰め込まれたる身体もまた用を為さぬ。節制と中庸、これである。友よ、そなたたちが少しでもわれらの仕事をやり易くし、最良の成果を望むのであれば、交霊会には是非とも感覚明晰にして鋭敏なる身体と、柔順にして受容性に富める精神状態にて臨んでもらいたい。そうすればそなたたちの期待以上のものが披露できよう。列席者全員が調和し構成が適切であれば現象は一層上質となり、述べられる教訓も一層垢抜けし、信頼性に富むものとなろう。先にそなたの言及せる光――〔当時よく交霊会で無数の燐光性の発光体が見られた。〕あれも好ましき条件のもとでは淡く澄み曇りが見られぬ。好ましからぬ状態の時は、鈍く薄汚く曇って見えるであろう。


〔しばしば交霊会に出現していた夫婦の霊が、別の仕事の境涯へ向上して行ったと聞いていたので、夫婦の絆は永遠のものかどうかを尋ねた。〕


それはひとえに霊的嗜好の類似性と霊格の同等性による。その両者が揃えば二者は相寄り添いて向上できる。われらの世界には共通の嗜好をもつ者、同等の霊格をもち互いに援助し合える者同士の交わりがあるのみである。われらの生活においては魂の教育が全てに優先し、刻一刻と進化している。同質でなければ協同体は構成されぬ。従って当然互いの進化にとって利益にならぬ同士の結びつきは永続きせぬ。地上生活において徒らに魂を傷つけ合い、向上を妨げるのみであった夫婦の絆は、肉体の死とともに終わりを告げる。逆に互いに支え合い援助し合う関係にあった結びつきは、肉体より解放されたのちも、さらにその絆を強め発展していく。そして二人を結ぶ愛の絆が互いの発達を促す。かくの如く両者の関係が永続するのは、それが地上で結ばれた縁であるからではなく、相性の良さゆえに、互いが互いの魂の教育に資するからである。かくの如き結婚の絆は不滅である。但しその絆は親友同士の関係程度の意味である。それが互いの援助と進化によって一層強化されていく。そして互いに資するところがあるかぎり、その関係は維持されていく。やがてもはや互いに資するものがなくなる時期が到来すると、両者は別れてそれぞれの道を歩み始める。そこには何の悲しみもない。なぜなら相変わらず心を通じ合い、霊的利益を分かち合う仲だからである。もしも地上的縁が絶対永遠のものであるとすれば、それは悲劇までも永遠であることを意味し、向上進化が永遠に妨げられることになる。そのような愚行は何ものにも許されていない。


――それは分かります。しかし私の観たかぎりでは、知的にも道徳的にも同等とは思えない者同士が互いに深く愛し合っているケースがあるように思えるのですが。


愛し合う者同士を引き裂くことは絶対に出来ぬ。そなたたちはとかくわれら霊同士の関係を時間と空間の観念にて理解せんとする故に納得がいかぬのである。霊同士はそなたたちの言う空間的に遠く離れていても親密に結び合うことが出来るということが理解できぬであろう。われらには時間も空間も存在せぬ。われらは知性の発達程度が完全に同一でない限り直接の交流は有り得ぬ。それはわれらには全く有り得ぬことなのである。が、たとえわれらの言う同一の発達程度まで到達していなくとも、真実の愛があれば、その絆によって結ばれることは可能である。愛は距離をいかに隔てても霊同士を強く結びつける。それは地上においても見られることである。離ればなれになった兄弟も、たとえ海を隔て、別れて何年経ようとも、兄弟愛はいささかも失われぬ。求めるものは異なるかも知れぬ。物の考え方も違うであろう。が、共通の愛は不変である。夫に虐待され死ぬ思いに耐えつつ、なおその夫を愛し続ける妻もいる。

肉体の死は妻をその虐待の苦しみから救ってくれる。そして天国へと召される。一方地上の夫はさらに地獄の道を下り続けるであろう。が、たとえ二人は二度と結ばれることはなくとも、夫への妻の愛は不滅である。その愛の前に空間は消え失せるのである。われらにとりても空間は存在せぬ。これでそなたも朧気(おぼろげ)ながらも理解がいくことと思うが、われらにとりての結合関係とは発達程度の同一性と、嗜好の共通性と、進化の協調性を意味するのであり、そなたたちの世界の如き一体不離の関係などというものは存在せぬ。


――では聖書の「天国では嫁を貰うとか嫁にやるとかいうことはなく、すべて神の使いとして暮らすのみである」という言葉は真実ですか。


その言葉どおりである。さきにわれらは進歩の法則と交わりの法則について述べたが、その法則は不変である。現在のそなたにとりて立派と思えることも、肉体の死とともに捨ててしまうであろうことが数多くある。地上という環境がそなたの考えを色づけしているのである。故にわれらとしても、比喩を用い、地上的表現を借りて説明せざるを得ぬことが多々ある。それ故われらの世界にのみ存在して人間の世界に存在せず、現在のそなたの知識を超越し、従って地上の言語によって大凡(おおよそ)のことを伝えるほかなき事情のもとで用いた字句にあまりこだわりすぎてはならぬわけである。


――なるほど。それで霊界通信に食い違いが生じることがあるわけですか……


そうした食い違いは通信を送る霊の無知から生ずる場合、それから霊媒を通じて伝える能力に欠けている場合、さらにまたその時の交霊の状態が完全さを欠く場合などによく生ずる。他にも原因はある。その一つが、人間側が単なる好奇心から下らぬ質問をするために、つい霊の方も人間の程度に合わせて下らぬ返答をしてしまう場合である。


――しかし高級霊ならば、“愚か者の愚かな質問に答える”ことをせずに、その質問者を諭(さと)せばいいでしょう。


無論できることならそうしたい。しかし愚かしき精神構造はそうした配慮を受けつけようとせぬものである。類は類を呼ぶ。一時の気まぐれや愚かな好奇心の満足、あるいはわれらを罠にはめんとする魂胆からしか質問せぬ者は、同程度の霊と感応してしまう。そのような心構えではわれらとの交信は得られぬ。敬虔にして真摯なる精神ならば、その受容性に応じた情報と教訓を自ら引き寄せる。自惚れが強く、軽薄で、無知で、ふざけた質問しかせぬ者は、似たような類の霊しか相手にせぬ。もとよりわれらは相手にせず、たとえ相手にしても、適当にあしらっておく。そうした連中は避けるがよい。下らぬ愚か者ばかりである。


〔注〕

(1)


D.D.Home(1833-1886)心霊史上最大・最高と評される英国の霊媒で、霊能の種類においても驚異性においても他に類を見ない。とくに空中浮揚現象は有名で、いつでもどこでもやってみせた。