Thursday, April 16, 2026

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



12章 完全なる人格

このページの目次
〈美徳と悪徳〉
〈感情〉
〈利己主義〉

〈人格者〉



〈美徳と悪徳〉

――美徳とされているものの中で最も徳性が高いのは何でしょうか。


「美徳はすべて価値があります。霊性の向上の証だからです。邪悪性を帯びた影響力の誘惑に自ら抵抗する行為も全て徳行と言えます。が、その徳行の崇高さは、他人への善行のために私利私欲を滅却するところにあります。最も崇高なる徳は、できるだけ多くの人への無私の善行という形を取った時です」


――誰の目にも明らかな欠点と悪徳は別として、一見するとそうは見えない不完全さの表れの中で最も特徴的なものは何でしょうか。


「利己主義です。一見すると徳の高そうな風貌をしていても、実はきらびやかなメッキにすぎず、試金石にはとても耐え切れないことがあります。世間的には“立派な方”で通っていて、確かにそこそこの人格をそなえていても、厳しい試練には耐え切れず、すぐに利己心をのぞかせます。それだけでどの程度の霊格をそなえているかが知れます。もっとも、絶対的な無欲というのは地上界では滅多にお目にかかれるものではなく、もしあれば驚嘆に値するでしょう」


――人のためになることを計画して、その実行のための資金を稼ぐということは間違っているでしょうか。


「純粋にそう思ってやっているのであれば結構でしょう。ですが、果たして心底から人のためと思っているでしょうか。利己心は一切無いと断言できるでしょうか。人のためと言いながら、その実、第一に考えているのは自分のことではないでしょうか」
〈感情〉


――感情というのは、本来、悪なのでしょうか。


「悪ではありません。悪となるのは度が過ぎた時だけです。度を越すということは意念の悪用の結果だからです。基本的には感情は人間の性格の形成に益するもので、偉大な仕事の成就に強烈な拍車をかけてくれることがあります。感情が害を及ぼすのは、その使い道を誤った時です」


――その善用と悪用の境界はどうやって認識するのでしょうか。


「感情は馬と同じです。手綱をうまく操っている間は役に立ちますが、いったんコントロールを失うと危険が生じます。抑えることができなくなると自分だけでなく他人をも傷つけるようになります」


――それは意志の力で克服できるのでしょうか。


「できます。ホンのちょっとした意志の働かせ方で抑えられるものです。その意志、抑えようとする意志の欠如が感情を暴走させてしまうのです。残念ながら、そういう努力をする人が少なすぎます」
〈利己主義〉


――悪徳の中でもその根源にあるものは何でしょうか。


「利己心です。このことはすでに何度も説いてきました。およそ悪と呼ばれているものは全てこの利己心から生じているからです。悪いこと、いけないこととされているものをよく分析してご覧なさい。その底には必ず自分中心の欲が巣食っています。それと闘い、克服して、悪を根絶やしにしないといけません。

利己主義こそ社会的腐敗の根源です。この地上生活(だけとは限りませんが)において幾らかでも道徳的に向上したいと願う者は、まず自分の心の奥から利己心を根こそぎ取り払わないといけません。利己心があるかぎり公正も愛も寛容心も生まれません。あらゆる善性を無力化してしまいます」


――利己心を撲滅するにはどうすればよいでしょうか。


「人間的欠点の中でも最も取り除き難いのがこの利己心です。その原因は物質の影響力と結びついているからです。人類はまだまだ物質性を多分に残していますから、それから解放されるのは容易ではありません。人間界の法律、社会的組織、そして教育までもが唯物主義の上に成り立っています。物的生活が精神的生活によって支配されるようになるにつれて、利己主義も薄められて行くでしょう。それにはスピリチュアリズムの普及によって死後の生命の実在についての認識が浸透することが大前提です。スピリチュアリズムの教義が正しく理解され、それまでの人類の信仰や慣習が見直されれば、習慣やしきたり、社会的関係の全てが改められるでしょう。

利己主義は自分という個的存在にこだわりすぎ、平たく言えば自分が偉いと思っているところから生じています。スピリチュアリズムを正しく理解すれば、それとは逆に、全てを大いなる生命の観点から見つめるようになって、己の小ささに気づきます。全体の中のささやかな存在にすぎないという認識によって自尊心が消え、必然的に利己心も消えてしまいます」

(署名)フェヌロン


訳注――フランソワ・フェヌロン(一六五一~一七一五)はフランスの聖職者・教育論者・著述家。ルイ十四世から孫(王子)の教育を託され、その功によって大主教に任ぜられるが、前任の教育係との間の神学論争に敗れて主教に降格される。その後王子の教育論を述べた大著を発表するが、ルイ王はそれを自分への風刺と受け取って発禁処分にし、対立する教育論者たちからも非難を浴びる。が、「王は臣民のためにあるのであり臣民が王のためにあるのではない」との説は最後まで歪げなかったという。
〈人格者〉


――高等な霊性をそなえていると判断できる人はどういう人格をしているでしょうか。


「肉体に宿っている霊の霊格の判断は、その人の日常生活での言動が神の摂理に適っているかどうか、そして霊的生命についてどの程度まで理解しているかによって決まります」


――地上生活によって徳性を高め、悪の誘いに抵抗していくには、どのような生き方が最も有効でしょうか。


「古賢の言葉に“汝自らを知れ”とあります」


訳注――ギリシャのデルファイの神殿に刻まれている言葉で、誰の言葉であるかは不明。


――その言葉の意味はよく分かるのですが、自分を知ることほど難しいものはありません。どうすれば自分自身を知ることが出来るでしょうか。


「私(聖アウグスティヌス)が地上時代に行った通りにやってご覧なさい。私は一日の終わりに自分にこう問いかけました――何か為すべき義務を怠ってはいないだろうか、何か人から不平を言われるようなことをしていないだろうか、と。こうした反省を通じて私は自分自身を知り、改めるべき点を確かめたものでした。毎夜こうしてその日の自分の行為の全てを思い起こして、良かったこと悪かったことを反省し、神および守護霊に啓発の祈りを捧げれば、自己革新の力を授かることは間違いありません。私が断言します。

霊的な真理を知ったあなた方は、こう自問してみることも一つの方法でしょう。即ち、もしも今この時点で霊界へ召されて何一つ隠すことのできない場にさらされたとしても、青天白日の気持ちで誰にでも顔向けができるか、と。まず神の御前に立ち、次に隣人に向かって立ち、そして最後に自分自身に向かって何一つ恥じることは無いかと問うのです。何一つ良心の咎めることはないかも知れませんし、治さねばならない精神的な病があるかも知れません。

人間は、仮に反省すべき点に気づいても自己愛から適当な弁解をするのではないかという意見には一理あります。守銭奴は節約と将来への備えをしているのだと言うでしょう。高慢な人間は自分のうぬぼれを尊厳だと思っているかも知れません。確かにそう言われてみればそうです。その意味では反省が反省になっていないかも知れません。が、そうした不安を払いのける方法があります。それは他人を自分の立場に置いてみることです。自分が行ったことをもし他人が行ったとしたら、それを見て自分はどう思うかを判断してみるのです。もしいけないことだと感じるのであれば、あなたの行いは間違っていたことになります。神が二つの秤(はか)り、二種類のモノサシを用いるはずはありません。

さらに又、他人は自分のしたことをどう見るか――とくに自分に敵対する者の意見も見逃してはいけません。敵方の意見には遠慮容赦がないからです。友人よりも率直な意見を述べます。敵こそは神が用意した自分の鏡なのです。

我々への質問は明確に、そして有りのままを述べ、幾つでもなさるがよろしい。そこに遠慮は無用です。人間は老後に備えてあくせくと働きます。老後の安楽が人生最大の目的――現在の疲労と窮乏生活をも厭わないほどの目的になっているではありませんか。疲労こんぱいの身体で人生最後の、ホンのわずかな時を経済的に安楽に過ごすことと、徳積みの生活に勤しんで死後の永遠の安らぎを得るのと、どちらが崇高でしょうか。

そう言うと人間は言うでしょう――現世のことは明確に分かるが死後のことは当てにならない、と。実はその考えこそ、我々霊団が人間の思念の中から取り除いて死後の実在に疑念を持たせないようにせよと命じられている、大きな課題なのです。だからこそ我々は心霊現象を発生させてあなた方の注意を喚起し、そして今こうして霊的思想を説いているのです。

本書を編纂するよう働きかけたのもその目的のためです。今度はあなた方がそれを広める番です」

(署名)アウグスティヌス


訳注――聖アウグスティヌス(三五四~四三〇・聖オーガスチンとも)は言わずと知れた初期キリスト教時代の最大の指導者・神学者・哲学者で、遺産を全て売り払って貧者に恵み、自らは清貧に甘んじ、とくに後半生は病弱と貧困に苦しめられたが、その中にあっても強靭な精神力、底知れぬ知性、深遠な霊性、崇高な高潔さは、キリスト教最高・最大の聖人と呼ばれるに相応しいものだったと言われる。

なお、これまでの通信でも“私”という言い方をしながら、それが誰であるかが記されていないものがある。それにも署名はあったであろうから、それを敢えて記さなかったのは、まったく無名の人物か、カルデックが本人であることに疑念を抱いたかの、どちらかであろう。フェヌロンとオーガスチンに関してはよほど確信を持ったということになる。

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



11章 公正・愛・寛容の法則

このページの目次
〈生得の権利と公正〉


――公正とはどう定義づけたらよろしいでしょうか。


「公正とは他人の権利の尊重を基本として成り立つものです」


――その権利を定めるのは何でしょうか。


「二つあります。人間の法律と自然の法則です。人間の法律はその時代の人間的性格と習性に合わせてこしらえられていますから、啓発が進むにつれて規定される権利も変わってきます。今日のフランスの法律は、まだ完全からは程遠いとは言え、中世において権利として認められたものは、もう認めていません。今日のあなた方には途方もないものに思えるでしょうけど、当時としてはごく当たり前だったのです。

そういう次第ですから、人間がこしらえた法律は必ずしも絶対的公正とは一致しません。その上、人間の法律が規定するのは社会生活に関連した側面に限られております。しかし各個人の生活においては、時々刻々の言動や思念について、良心の法則による裁きを受けております」


――では人間的法律はさておいて、自然の摂理に適った公正の基本は何でしょうか。


「イエスが言っております――自分が他人からしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい、と。神は、公正の真実の尺度として、自分の権利を尊重してもらいたいという願望を各自に植えつけておられます。対人関係において難しい事態に立ち至り、如何なる行為に出るべきかに迷った時は、自分を相手の立場に置いて、自分だったらどうしてもらいたいと思うだろうかと考えてみることです。その判断に基づいて行動した時は良心が咎めることはありません」


――生得の権利で第一に挙げられるのは何でしょうか。


「生きる権利です。従って他人の生命を奪う権利、あるいは個人的存在を危うくする権利は、誰にもありません」
〈隣人への寛容と愛〉


――イエスが説いた“慈愛”の本当の意味は何でしょうか。


「全ての人間への善意、他人の欠点への寛容、自分への中傷の容赦です」


――イエスは“汝の敵を愛せよ”とも言っておりますが、それは人間の自然な心情にはそぐわないように思います。


「自分に敵対する者に優しくし愛の心を向けることは、確かに人間には不可能でしょう。イエスも決して文字通りのことを要求しているわけではありません。敵を愛するということは、敵を赦し、悪想念に対して善意で返すということです。それができた時、あなたは本当の意味で敵に勝ったのであり、悪意でやり返した時は敵に負けたことになります」


――施しをすることはいけないことでしょうか。


「そんなことはありません。いけないのは施しそのものではなく、施しの仕方です。イエスの説いた慈愛の心を理解した者は、物乞いをするという下卑(げび)た態度に出させないようにして困っている人々に施しをするべきです。

真の慈善の行為は、ただ施しをするというだけでなく、その態度に優しさが無くてはいけません。同じく人のためになることでも、その行為に思いやりの心がこもっていると二重の功徳になります。反対に恵んでやるといった高慢な態度で施しをしたのでは、飢えている人は形振(なりふ)り構わず頂くでしょうが、感謝の念は抱かないでしょう。

もう一つ忘れてならないのは、見栄からの施しは神の目から見ると功徳にはならないということです。イエスは“右の手が行ったことを左の手に知らしめてはならない”と言っております。せっかくの慈善行為を高慢と見栄で汚してはいけないという意味です。

施しと善意との違いを知ってください。本当に困っているのは必ずしも道端で物乞いをしている人ではありません。飢えに苦しみながらも、恥を知る人間は物乞いをしません。本当に善意のある人とは、そうした人知れず飢えに耐えている人に施しをし、そしてそのことを口外しない人のことです」

Wednesday, April 15, 2026

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch

ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳



六章  イエス・キリストとキリスト教

 近代スピリチュアリズム史上でも特異な意義をもつ英国国教会スピリチュアリズム調査委員会の〝多数意見報告書〟(※)が話題にのぼったことがある。

 (※ 一九三七年に国教会の諮問機関として設立されたスピリチュアリズム調査委員会が二年後にその調査結果を公表すると約束したにもかかわらず、その二年を過ぎても公表されないことから、バーバネルを中心とするサイキック・ニューズ社のスタッフが隠密裏に追跡したところ、時の大主教ウィリアム・ラングによって〝多数意見報告書〟が発禁処分にされていることが判明。

それがスタッフの画策でようやく入手されサイキック・ニューズ紙上に公表されて大反響を巻き起こした。詳しい経緯については『古代霊は語る』 ── 潮文社── を、〝多数意見報告書〟の全文訳は 『ジャック・ウェーバーの霊現象』──国書刊行会──の巻末付録を参照されたい──訳者)

 意見を求められたシルバーバーチは、問題を巾広い視野で捉え、キリスト教の本質の問題として次のように語った。


 「当事者がたとえ国教会の大物であっても、生身の一個の人物を絶対服従の対象としてはいけません。宇宙の法則──絶対に裏切られることのない神の摂理を相手になさることです。真理は真理です。何人(ぴと)もこれを絶滅させることはできません。

 その昔、一人の予言者、真理の象徴ともいうべき人物、霊性を最高に顕現した神の使者がこの物質界にやってまいりました。その彼も、当時の宗教界の大御所から好ましく思われず、その言葉によろこんで耳を傾けたのは平凡な民衆だけでした。

教えを説く時の彼の態度には冒し難い威厳がありました。が、その威厳は高い地位や身分から出ていたのではありません。生まれは当時の貧民階級の中でも最も貧しい家柄───名もない大工とその妻との間に生まれたのでした。

しかしその肉体に宿った霊(※)は人類のすべてが模範とすべき人生を率先垂範すべく彼を鼓舞したのです。(※モーゼスの『続霊訓』によるとイエスの本来の所属界は地球神界で、その背後霊団はその神界におけるイエスの配下の天使団、日本でいう自然霊だったという──訳者)

 彼を通じて霊力がほとばしり出ました。病の人を癒し、悲しみの人を慰め、愛と寛容と慈悲の心を説きました。が、当時の宗教界からは歓迎されませんでした。そして最後にどうなったかは皆さんもよくご存知の通りです。

いつの時代にも既成宗教や国家権力から〝反逆者〟と睨まれた者がたどる道は同じです。イエスも同じ名目のもとに苦しい死を遂げさせられました。しかしイエスの説いた真理は死にませんでした。真理に死はあり得ないのです。無限であり、神から与えられるものであり、それ故に不滅なのです。

その霊力───病を癒し、慰めを説き、当時の民衆からぬきんでた存在たらしめた力そのものが、死後すぐさまその姿を弟子たちに見せ、教えが間違っていないこと、霊は物質に優ること、死に生命を終わらせる力はないことの証を与えさせたのです。その復活がいわゆるキリスト教を生む端緒となったのです。

 あと二、三日もすれば(この日は復活祭〈イースター〉 の直前だった)、キリスト教界あげてその復活をイエスが神の御子であったことの最高の証として祝います。〝もしキリストが復活しなければわれわれの教えは無益となり、諸君の信仰もまた無益に終わる〟とパウロは言いました。

イエスの説いたのと同じ真理、イエスが見せたのと同じ霊的能力があなた方の時代に再び説かれ顕現されているのです。そして、またもや宗教界とそのお偉方、あるいは宮殿のごとき豪邸に住み高き地位に安住している特権階級の人々の怒りを買っております。

 〝真理を説きにいく者は財布を携える勿れ〟と説いたイエスの信奉者でいるつもりの現今のキリスト教徒は、実はイエスを十字架にかけた当時の迫害者たちの直系とも言うべき人種であり、その彼らが今イエスと同じ真理を説いているスピリチュアリストたちを迫害しようとしております。

しかし霊の力は彼らより偉大です。今となっては時すでに遅しです。真理は必ず広まり、何も知らぬ大衆をいかに煽動しても真理の道を歩もうとする者を引き返させることはできません。

私は反駁(はんぱく)を覚悟の上で断言しますが、こうした形での今日の霊の働きかけの背後には、二千年前に地上に生をうけた、あのイエスその人が控え、同じように地上の病の人を癒し、悲しみの人を慰め、霊的な基本的真理を地上に確立せんと奮闘しております。その真理には教会も大主教も牧師も聖典もいりません。愛に満ちた心と善意と素朴な心さえあれば良いのです。

 真理を抑圧することは出来ません。鐘や文句やローソクで真理を破門にすることはできません。(カトリック教で信者を破門にする時まず鐘を鳴らし破門文を読み上げローソクを消すという儀式になぞらえて述べている──訳者) 

キリスト教の名のもとに維持されてきた誤りが瓦壊しすっかり忘れ去られた時には、霊の力に裏打ちされた真理が優位に立ち、世界中いたるところの人間の心の中に王座を占めることになりましょう。

たとえば復活の現象は決して奇跡では無く、自然の法則の一つに過ぎません。一個の人間が〝死〟と呼ばれる変化を通過するごとに復活が行われているのです。あなた方も死を通過してより充実した生命の世界へ復活するのです。二千年前のたった一人の人間のみに起きた特殊な出来ごとではないのです。

そういう法則になっているのです。いつの時代にも変わることのない摂理なのです。不変の自然法則であり、大主教も職工も、王様も平民も、聖人も罪人も、哲学者も愚鈍者もありません。すべての人間、神の子すべてに等しく起きるのです。

キリストの復活は霊的自然法則に従って生じたのです。奇跡ではありません。数多くの死者が実験会で姿を見せているのとまったく同じ心霊法則によってその姿を見せたのです」


 続いて、聖書の物語にはどの程度まで古い神話が混入しているかという質問に答えて────

 「神話の中に出てくる奇跡を起こす者がことごとく神か神人であることから、イエスなる人物もさまざまな超自然的な説話と結びつけられていきました。しかし死後その姿を弟子たちに見せたのは聖書にある通りであり、実際の事実です」

───(聖書以外の)歴史書にその記述がないところをみますと、センセーションを巻き起こすほどのものでは無かったわけですね。

 「今の世と似たりよったりの物質に毒されていた世の中で、どうしてそんなことがセンセーションを巻き起こし得たでしょう。私たちがこうして霊界から戻ってきていることがセンセーションを巻き起こしておりましょうか。でも、いずれ真実の地上の歴史が書き記される時代がくれば、現今の歴史書が関心を寄せている事柄よりもはるかに重要性をもつ現象として記述されることになりましょう」


 ここで再び国教会の話題となり、カンタベリ大主教のテンプル(最初に紹介したラングの後任)が開始した社会改革運動について意見を求められてシルバーバーチは───

 「英国民の社会的公正と平等のために国教会が開始した改革運動について意見を述べよとのことですが、まず私は、その運動が誠心誠意の動機から発していることは認めます。

つねづね説いてきましたように、個人にせよ団体にせよ、何らかの形で人類のために役立つこと─── 人間の資質を高め魂のもつ高貴さと崇高性を顕現させ、誤りを正して不正を終わらせ、不幸や悲しみや苦難を和らげることに専心していれば、こちらから同じ目的意識をもつ霊が自動的に引き寄せられます。

かつて地上で先駆者と呼ばれた人、殉教者と呼ばれた人、その他、思想・哲学や一般世論の指導・教化に情熱を燃やす者が大勢います。そして常にこちらへ来てから身につけた叡知を地上へ届けるための道具、自分が地上で手掛けた仕事を完成させるための道具を求めております。

 挫折した人を立ち上がらせ、苦しむ人を扶け、重荷に耐えかねている人の痛みを和らげてあげるために自分を役立てたいと希望する人を私どもは大いに歓迎いたします。それが本当の宗教だからです。人のために自分を役立てることです。宗教は倫理・道徳と呼ばれているものを実践することから切り離しては存在し得ません。

しかし過去を忘れてはなりません。歴史を繙いてみることを忘れてはなりません。一個の組織が、それみずからを束縛する無用の絆からどこまで開放し得るものであるかを読み取らなくてはなりません。残念ながら国教会の歴史は数多くの黒い汚点によって汚されております。

そのうちの幾つかは血生臭い色さえ呈しております。貧しき者、困窮せる者、見捨てられし者、抑圧されし者の味方を標榜(ひょうぼう)する国教会にどこまでその資格があるでしょうか。その手は清らかであると言えるでしょうか。

その動機に汚れがないと断言できるでしょうか。残念ながらその歴史は反証に満ちております。この度の運動においてその動機づけとしている〝目的〟そのものを何世紀にもわたって阻止してきたそもそもの張本人が国教会自体だったではありませんか。

 〝家の中〟を清掃する用意はどこまで出来ているでしょうか。みずから組織内の不平等と不公正を廃止する用意がどこまで出来ているでしょうか。みずからの努力でかち得たものでないものを含めて、その特権のすべてをかなぐり捨ててでも、いま高らかに宣言した改革運動を成就する用意がどこまで出来ているでしょうか。

文字通り国の教会として内部の対立と制約、魂を拘束し足枷となるものを全て排除する勇気があるでしょうか。今のお偉方にはたしてその新しい社会での存在価値があるのでしょうか。

無意味な儀式と祭礼、仰々しい礼服、ストラ(袈裟に似た掛けもの)にミトラ(主教の冠)、その他、幾世紀にもわたって宗教の真髄をぼかし続けてきた飾り物が何の役に立つのでしょうか。

まずみずからの信条を再検討し、その中から公正の成就を妨げるものを排除する勇気がどの程度まであるのでしょうか。まずみずからが真の平等と正義の妨げとなるものを排除しなければなりますまい。

動機が誠意から出ていることは私も認めます。しかしどこまで、一体どこまで達成できるでしょうか。いずれは〝時〟がそれを証明してくれるでしょう。

 どこの誰であろうと、人類の福祉に貢献する人に対して私たちは祝福と援助を授けます。しかし国教会のこれまでの陰湿な歴史に目をやる時、今のところは誠意ある目的と動機から情熱に燃える男(テンプル大主教)によって先導されているから良いものの、このあと果たしてどこまで続くか疑問に思わざるを得ません。

もし能書きどおりに達成する自信があるなら、その自信の証を内外に示していただきたい────信条を異にする者に対する迫害と抑圧をやめ、真の協力精神を明確に表明して、その改革に携る者が〝われわれは正真正銘、最善を尽くしている。これでもし失敗したらそれは名誉ある挫折である。

われわれは英国社会からあらゆる罪悪を除去するのみならず、国教会みずからの組織についても、それが今日まで堕落の一途をたどり、かつてその功によって勝ち得た尊敬まで失わせるに至ったすべての悪弊をも排除する覚悟である〟と断言できるところまで行かなければウソです。

以上が私のありのままの意見です。私が、そして他の多くの者が見ている実情です。現在の国教会は数々の堆積物と旧弊を抱えた船のようなもので、それが正しい航路への進行を妨げます。その一つひとつが障害となり、その一つひとつがテンプルの足を引っぱります」

 ここでスワッハーが「かつてその功によって勝ち得た尊敬とおっしゃいましたが、それはいつのことですか」と聞くと。

 「かつてはそういう時代がありました」と答える。
 「その〝尊敬〟は恐怖から生れていたのではないでしょうか。私の見るかぎりでは、今日の国教会は確かに欠点もありますが、かつてよりは良くなっていると思います。英国民が進歩しただけ教会も進歩しています」

 「なるほど。でもそれはかなり苦しい評価ですね。というのは、今日の国教会は、私から見れば、現在抱えているような悪弊の多くとは無縁だった初期の教会の後継者たるべきものです。はるか遠く遡ってイエスの時代のすぐ後に設立された教会を見倣う必要があります。

当時は、わずかな期間だけではありましたが、真の意味で民衆を我が子のように世話せんとする気概がありました。それが霊の道具である霊媒を追い出した時から道を誤りはじめました」
  
 「三二五年のことですか」(この年に有名な二ケーヤ会議が三カ月にわたって開かれている。歴史の記述ではエジプトの神学者でキリストの神性を否定する説を主張したアリウスの弾劾が主な議題とされているが、シルバーバーチによると、この間に聖書にいろいろと”人間的産物”が書き加えられたという──訳者)

 「もっと前です。三二五年に(霊媒と聖職者との)分離が決定的なものとなったということです。霊媒を追い出そうとする動きはそれ以前からありました。が、霊力の最良の道具である霊媒を追い出すことによって霊力を失い、聖職者が運営するだけとなった教会は次第に尊敬を失い始めます。

もともと聖職者は神の道具である霊媒とともに仕事をする者として尊敬されていたのです。自分でも霊媒と同等の価値を自覚していました。

その仕事は俗世の悩み事の相談にのり、霊媒が天界からのお告げを述べ伝えるというふうに、民衆が二種類の導き、すなわち地上的問題について霊と聖職者の双方からの導きが得られるようにしてあげることでした。

 ところが優越感への欲望が霊媒を追い出し、それといっしょに教会に帰属されていた権威までも全て追い出すことになりました。そのとき以来ずっと衰退の一途をたどることになったのです。私が指摘したいのは、大主教のテンプルは真摯な気持ちでいる───そのことに疑問の余地はない。

しかし、側近の中にはリーダーへの忠誠を尽くしておくに限るといった考えから口先だけの忠誠を示しているに過ぎない者がいることです。そういう連中は改革事業などには情熱を持ち合わせません。改革者などと呼ぶべき人種ではないのです。己れの小さな安全さえ確保しておけばそれでいいのです。

事を荒立てたくないのです。何であろうと命令にだけは従っておくにかぎると心得ている連中です。また一方には教会が俗事に関ることを好ましく思わぬ連中もいます。さらには戒律(おきて)に背きたくない者、教わったことを忠実に守ることが何より安全と考える連中がいます。

こうしたさまざまな考えをもつ者が内部抗争のタネとなります。一人の人間の〝それ行け〟の掛け声で全員が一斉に立ち上がるという具合にはまいりません。何らかの進展はあるかも知れません。しかし意見の衝突が激しいことでしょう。

 実は、このことで私はウィリー氏とシェパード氏の二人と長々と語り合いました。(確かなことは不明であるが多分二人ともかつて国教会の高い地位にあり今はシルバーバーチ霊団に属している人物であろう──訳者)

お二人とも国教会の新しい動きをよろこんでおられます。シェパード氏は彼の言う〝化石となった慣習〟に新たな生命を吹き込むことになるかどうか疑問に思っておられますし、ウィリー氏は多分何らかの進展はあるだろうと観ておられます。

が両者とも、教会の体質からして、民衆の胸の中、心の中、精神の中に動めいている新しい世界の理想像に向かって一致団結する可能性があるとは見ておられません。

しかし援助はすべきでしょう。たとえ結局はお粗末な企てに終わっても、それがこれまで長い年月にわたって振り回してきた権威を打ち崩すという正しい方向への一歩であることには違いないからです」

 ここでサークルのメンバーの一人が意見を述べた。「今回の社会改革運動は国教会にとっても良い結果をもたらすと思うのです。この正義と公正の激発が、ある程度、国教会そのものまで改めることになるのではないでしょうか」

 「私も、ぜひあってほしいと思っています。ただ忘れないでいただきたいのは、私は組織というものには一切関心は無いということです。私の関心は行為であり、善行であり、生きざまです。国教会は今や分裂と衰退の一途をたどっております。

豪華な建造物もそこを訪れる人に本当の宗教としての機能を果たせなくなっております。中をのぞけば慣習という名の太古の埃(ほこ)りと偏見と、時代遅れもはなはだしい教説がぎっしりと詰まった、まるでオバケ屋敷のようです。 

無意味な教条主義が今なお支配し、それが永い間人類を抑えつけてきております。私は何はおいてもまず魂を解放しなければならないと信じます。それは国教会がどこまで自分に正直になれるかに掛かっています。

つまり(社会よりも)まず教会自身の体質を診断する勇気があるかどうか、真理のサーチライトを自己の信仰内容にまで向ける勇気があるかどうかです。それが社会正義の妨げとなっている面もあるからです。

 例を挙げてみましょうか。たとえば教会は信者に対して信仰の告白さえすれば、それだけで正義の問題が片づくと教えます。が、これが社会正義を妨げることになるのです。なぜなら、その教えによって信者の精神が煙に巻かれ、せっかく目覚めかかった魂をまた眠らせてしまいます。

このように、真理の普及を妨げる間違った考えは、地上に真の正義が行きわたるのを妨げることになります。それは、ひいては霊界の正義を妨げることにもつながってきます。

自己の救済の道は日々の生活、行い、言動の中にしかないのに、身代わりの流血(キリストのはりつけ──贖罪)によってキリストへの信仰を告白した者だけが救われるということを、一般社会に一体どう説明できるというのでしょう。

正義は両刃の剣です。それを振りかざす者は、他人に対して求める前にまず自分に正義を求めなくてはなりません。こう言いますと人種的偏見をもつ者は反論します───〝黒人が肌の色を変え、ひょうがその縞を変えられようか〟(エレミヤ書13・23)と。

私は今回の運動に政治的意図はないこと、テンプルは真摯な気持ちで社会の抑圧された人たちを救おうとしていることは十分に理解しております。ですから、それに水を差すようなことは本当は言いたくないのです。しかし、いつもと同じく、真実は真実として強調されねばならないという気持ちは変わりません。

それはともかくとしても、一個の人間が霊に鼓舞されて何か良いことをしようとしている時は、たとえその人物がわれわれを軽蔑している者であっても、われわれとしてはその努力を拍手をもって賞賛しなくてはなりますまい。
 
 テンプル氏は神学者です。人間が勝手に考え出した教理や学説のすべてに通暁しております。神学の中で教育を受け修行してきた人物であり、リベラル派的なところもありましたが、その忠誠心を捧げるのはやはり神学です。もっとも、その中の幾つかを徐々に捨て去ってはおります。

彼には聖霊の力はいかなる教会、いかなる組織の独占物でもなく、通路(霊能者)のあるところなら世界中どこにでも働きかけるものであることが理解できません。

君主だの教会だのからの許可があろうと無かろうと、そんなことには一切お構いなく、老若男女に働きかけているのです。太古からずっとそうでしたし、これからも変わらぬ真実です」

 ここで曽てメソジスト派(国教会から分立した一派)の牧師だった人で今はサークルのメンバーになっている人がこう尋ねた。


───(この運動のために)多くの人、一般の人々が社会正義と国教会の教えとを混同し区別がつかなくなる危険性はないでしょうか。つまり国教会の社会的教義を受け入れるときにドグマもいっしょに呑み込んでしまうということです。

 「私はそうは思いません。知識の潮流を止めることは出来ません。進歩の時計の針を逆回りさせることは出来ません。

今回の運動でメリットがあるとすれば、今まで知らずに見過ごしていた不正や不平等に対して宗教心のある人───倫理的な意味での話ですが───が関心を向けるようになってくれることです。これまでは自分たちの知ったことではないと思っていたことなのですから・・・・・・」


───スピリチュアリズムではイエス・キリストをどう位置付けたらよいのでしょうか。

 「この問題の取り扱いには私もいささか慎重にならざるを得ません。なるべくなら人の心を傷つけたり気を悪くさせたくはないからです。が、私の知る限りを、そして又、私が代表している霊団が理解しているかぎりの真実を有りのままを述べましょう。

それにはまずイエスにまつわる数多くの間違った伝説を排除しなければなりません。それがあまりに永いあいだ事実とごたまぜにされてきたために、真実と虚偽の見分けがつかなくなっているのです。

 まず歴史的事実から申しましょう。インスピレーションというものはいつの時代にも変わらぬ顕と幽をつなぐ通路です。人類の自我意識が芽生え成長し始めた頭初から、人類の宿命の成就へ向けて大衆を指導する者へインスピレーションの形で指導と援助が届けられてきました。

地上の歴史には予言者、聖人、指導者、先駆者、改革者、夢想家、賢者等々と呼ばれる大人物が数多く存在しますが、そのすべてが、内在する霊的な天賦の才能を活用していたのです。

それによってそれぞれの時代に不滅の光輝を付加してきました。霊の威力に反応して精神的高揚を体験し、その人を通じて無限の宝庫から叡知が地上へ注がれたのです。
 
 その一連の系譜の中の最後を飾ったのがイエスと呼ばれた人物です。(第一巻の解説〝霊的啓示の系譜〟参照)ユダヤ人を両親として生れ、天賦の霊能に素朴な弁舌を兼ね備え、ユダヤの大衆の中で使命を成就することによって人類の永い歴史に不滅の金字塔を残しました。地上の人間はイエスの真実の使命についてはほとんど知りません。

わずかながら伝えられている記録も汚染されています。数々の出来ごとも、ありのままに記述されておりません。増え続けるイエスの信奉者を権力者の都合のよい方へ誘導するために、教会や国家の政策上の必要性に合わせた捏造と改ざんが施され、神話と民話を適当に取り入れることをしました。

イエスは(神ではなく)人間でした。物理的心霊現象を支配している霊的法則に精通した大霊能者でした。今日でいう精神的心霊現象にも精通していました。イエスには使命がありました。

それは当時の民衆が陥っていた物質中心の生き方の間違いを説き、真理と悟りを求める生活へ立ち戻らせ、霊的法則の存在を教え、自己に内在する永遠の霊的資質についての理解を深めさせることでした。


 では〝バイブルの記録はどの程度まで真実なのか〟とお聞きになることでしょう。福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四書)の中には真実の記述もあるにはあります。

たとえばイエスがパレスチナで生活したのは本当です。低い階級の家に生まれた名もなき青年が聖霊の力ゆえに威厳をもって訓えを説いたことも事実です。病人を霊的に治癒したことも事実です。

心の邪な人間に取りついていた憑依霊を追い出した話も本当です。しかし同時に、そうしたことがすべて霊的自然法則に従って行われたものであることも事実です。自然法則を無視して発生したものは一つもありません。なん人(ぴと)と言えども自然法則から逸脱することは絶対にできないからです。

イエスは当時の聖職者階級から自分たちと取って代ることを企(たくら)む者、職権を犯す者、社会の権威をないがしろにし、悪魔の声としか思えない教説を説く者として敵視される身となりました。

そして彼らの奸計(カンケイ)によってご存じの通りの最期を遂げ、天界へ帰った後すぐに物質化して姿を現わし、伝道中から見せていたのと同じ霊的法則を証明してみせました。

臆病にして小胆な弟子達は、ついに死んでしまったと思っていた師の蘇りを見て勇気を新たにしました。そのあとはご承知の通りです。一時はイエスの説いた真理が広がり始めますが、またぞろ聖職権を振り回す者たちによってその真理が虚偽の下敷きとなって埋もれてしまいました。

 その後、霊の威力は散発的に顕現するだけとなりました。イエスの説いた真理はほぼ完全に埋もれてしまい、古い神話と民話が混入し、その中から、のちに二千年近くにわたって説かれる新しいキリスト教が生まれました。それはもはやイエスの教えではありません。その背後にはイエスが伝道中に見せた霊の威力はありません。

主教たちは病気治療をしません。肉親を失った者を慰める言葉を知りません。憑依霊を除霊する霊能を持ち合わせません。彼らはもはや霊の道具ではないのです。

 さて、以上、いたって大ざっぱながら、キリスト教誕生の経緯を述べたのは、イエス・キリストを私がどう位置付けるかというご質問にお答えする上で必要だったからです。ある人は神と同じ位に置き、神とはすなわちイエス・キリストであると主張します。

それは宇宙の創造主、大自然を生んだ人間の想像を絶するエネルギーと、二千年前にパレスチナで三十年ばかりの短い生涯を送った一人の人間とを区別しないことになり、これは明らかに間違いです。相も変わらず古い民話や太古からの神話を御生大事にしている人の考えです。

 ではイエスをどう評価すべきか。人間としての生き方の偉大な模範、偉大な師、人間でありながら神の如き存在、ということです。霊の威力を見せつけると同時に人生の大原則───愛と親切と奉仕という基本原則を強調しました。それはいつの時代にも神の使徒によって強調されてきていることです。

もしもイエスを神に祭り上げ、近づき難き存在とし、イエスの為せる業は実は人間ではなく神がやったのだということにしてしまえば、それはイエスの使命そのものを全面的に否定することであり、結局はイエス自身への不忠を働くことになります。イエスの遺した偉大な徳、偉大な教訓は、人間としての模範的な生きざまです。

 私たち霊界の者から見ればイエスは、地上人類の指導者のながい霊的系譜の最後を飾る人物───それまでのどの霊覚者にもまして大きな霊の威力を顕現させた人物です。だからと言って私どもはイエスという人物を崇拝の対象とするつもりはありません。イエスが地上に遺した功績を誇りに思うだけです。

イエスはその後も私たちの世界に存在し続けております。イエス直じきの激励にあずかることもあります。ナザレのイエスが手掛けた仕事の延長ともいうべきこの(スピリチュアリズムの名のもとの)大事業の総指揮に当っておられるのが他ならぬイエスであることも知っております。

そして当時のイエスと同じように、同種の精神構造の人間からの敵対行為に遭遇しております。しかしスピリチュアリズムは証明可能な真理に立脚している以上、きっと成功するでしょうし、また是非とも成功させなければなりません。イエス・キリストを真実の視点で捉えなくてはいけません。

すなわちイエスも一人間であり、霊の道具であり、神の僕であったということです。あなた方もイエスの為せる業のすべてを、あるいはそれ以上のことを、為そうと思えば為せるのです。そうすることによって真理の光と悟りの道へ人類を導いて来た幾多の霊格者と同じ霊力を発揮することになるのです」


───バイブルの中であなたから見て明らかに間違っている事例をあげていただけませんか。

 「よろしい。たとえばイエスが処刑された時に起きたと言われる超自然的な出来ごとがそれです。大変動が起き、墓地という墓地の死体がことごとく消えたという話───あれは事実ではありません」

───イエスの誕生にまつわる話、つまり星と三人の賢者の話(マタイ2)はどこまで真実でしょうか。

 「どれ一つ真実ではありません。イエスは普通の子と同じように誕生しました。その話はすべて作り話です」


───三人の賢者はそれきり聖書の中に出てこないのでどうなったのだろうと思っておりました。

 「カルデア、アッシリヤ、バビロニア、インド等の伝説からその話を借用したまでのことで、それだけで用事は終わったのです。そのあと続けて出てくる必要がなかったということです。

よく銘記しておかねばならないことは、イエスを神の座に祭り上げるためには、まわりを畏れ多い話や超自然的な出来事で固めねばならなかったということです。

当時の民衆はふつうの平凡な話では感動しなかったのです。神も(普遍的なものでなく)一個の特別な神であらねばならず、その神に相応しいセット(舞台装置)をしつらえるために、世界のあらゆる神話や伝説の類が掻き集められたのです」

 別の質問に応えて───

 「イエスは決して自分の霊能を辱めるような行為はしませんでした。いかなる時も自分の利益のために使用することをしませんでした。霊的法則を完璧に理解しておりました。そこが単に偉大な霊能者であったこと以上に強調されるべき点です。

歴史上には数多くの優れた霊能者が輩出しております。しかし完璧な理解と知識とをもって霊的法則をマスターするということは、これはまったく別の次元の問題です」

 さらに幾つかの質疑応答のあと、こう述べた。

 「人間が地上生活を生き抜き成長していくために必要な真理は、これ以上つけ加えるべきものは何もありません。あとは真理をより深く理解すること、その目的をより深く認識すること、神とのつながり、および同胞とのつながりに関してより一層理解を深めることだけです。新たに申し上げることは何もありません。

私にできることは、霊的に受け入れ態勢の整った人々の魂に訴えるように、私のこれまでの経験の成果をやさしく説くことだけです。叡知というものは体験から生まれます。十分な体験を経て魂が要求するようになった時に初めて真理が受け入れられます。それから、今度はその知識をどうするかの段階となります。その知識を他人のために活用する義務の問題です。

そうした過程は実に遅々としたものですが、人類の進化はそういう過程を経るしかないのです。啓蒙の領域を絶え間なく広げていく過程であり、退嬰的(たいえい)な暗黒の勢力との絶え間ない闘いです。一人ずつ、あるいは一家族ずつ、悲しみや苦しみ、辛い体験を通じて少しずつ魂が培われ、準備が整い、強烈な感動を覚えて、ようやく悟りを開くのです。

 もう、イエスのような人物が出現する必要はありません。たとえあのナザレのイエスが今この地上に戻って来たとしても、多分地上で最も評判の悪い人間となるでしょう。とくにイエスを信奉し師と崇めるキリスト教徒から一番嫌われることでしょう」


───十四歳から三十歳までの間イエスは何をしていたのでしょうか。

 「その間の年月は勉学に費されました。イエスの教育に当たった人たちによって、真の賢者のみが理解する霊の法則を学ばさせるために各地の学問の施設へ連れて行かれました。心霊的能力の養成を受けると同時に、その背後の意味の理解を得ました。要するにその時期は知識の収得と才能の開発に費されたわけです」


───その教育施設はどこにありましたか。

 「幾つかはインドに、幾つかはエジプトにありました。最も重要な教育を受けた学校はアレクサンドリアにありました」


 訳者注───モーゼスの『霊訓』によるとインドは世界の宗教思想の淵源で、エジプトの霊的思想の根幹もみなインドから摂り入れたものだという。イエスの幼少時に両親がエジプトへ連れて行ったのも、直接の目的は迫害を逃れるためだったが、その裏にはインドから輸入された霊的真理を学ばせるという背後霊団の意図があった。

長じては直接インドへ行って修行しており、今日でいうヨガにも通暁し、水と少しの果実だけで一カ月くらい平気で過ごしたという。

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

  The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



10章 自由の法則

このページの目次
〈自由と束縛〉


――人間が完全な自由を得るのはどういう条件下においてでしょうか。


「砂漠の中の世捨て人くらいのものでしょう。二人の人間が存在すれば、互いの権利と義務が生じ、完全に自由ではなくなります」


――と言うことは、他人の権利を尊重するということは、自分の権利を奪われることを意味するのでしょうか。


「それは違います。権利は生得のものです」


――奴隷制度が既成の慣習となっている国家において、使用人の家に生まれた者はそれを当たり前のことと思うに違いありませんが、その場合でも罪でしょうか。


「いけないことはいけないこと、いくら詭弁を弄しても悪い慣習が良い慣習になるわけではありません。が、責任の重さとなると、当人がその善悪についてどの程度まで理解していたかによって違ってきます。

奴隷制度で甘い汁を吸っている者は神の摂理に違反していることは明白です。が、その場合の罪の重さは、他の全ての場合と同じく、相対的なものです。長年にわたって奴隷制度が根付いている国においては使用人は少しも悪いこととは思わず、むしろ当たり前のことと思っているでしょう。しかし例えばイエスの教えなどに接して道義心が目覚め、理性が啓発されて、奴隷も神の前には自分と同等なのだと悟ったあとは、どう弁解しても罪は罪です」


――使用人の中には心の優しい人もいて、扱い方が人道的で、何一つ不自由をさせないように心を配っていながら、解放してやると却って生活が苦しくなるという理由から奴隷を雇い続けている人がいますが、これはどう理解すべきでしょうか。


「奴隷を残酷に扱っている使用人に較べれば自分のしていることについての理解が立派であると言えるでしょう。が、私に言わせれば、それは牛や馬を飼育しているのと同じで、マーケットで高く売るために大切にしているだけです。残酷に扱っている人と同列には問えませんが、人間を商品として扱い、生来の独立した人格としての権利を奪っている点において罪に問われます」
〈良心の自由〉


――他人の良心の自由に柵を設ける権利はあるでしょうか。


「思想の自由に柵を設ける権利がないのと同じく、そういう権利は許されません。良心を判断する権利は神のみが所有しておられます。人間が法律によって人間と人間との関係を規制していますが、神は自然の摂理によって人間と神との関係を規律づけています」


――ある宗教で説かれている教義が有害であることが明らかな時、良心の自由を尊重する立場からこれをそのまま許すべきでしょうか、それとも、良心の自由を侵さない範囲で、その誤った教義によって道に迷っている人を正しい道に導いてもよろしいでしょうか。


「もちろんよろしいし、また、そう努力すべきです。ただし、その時の態度はイエスの範にならって、優しさと説得力をもって臨むべきで、強引な態度は慎まないといけません。強引な態度は、その相手の間違った信仰よりも有害です。確信は威嚇によって押しつけられるものではありません」
〈自由意志〉


――人間には行為の自由がありますか。


「思想の自由がある以上、行為の自由もあります。自由意志がなかったら人間はロボットと同じです」


――その自由意志は誕生の時から所有しているのでしょうか。


「自らの意志で行為に出るような段階から自由意志を所有したことになります。誕生後しばらくは自由意志は無いに等しく、機能の発達と共に発達しはじめ、目的意識を持つようになります。幼児期における目的意識は必ずその時期の必要性と調和していますから、好きにやっていることがその時期に適合したものになっています」


――未開の段階では人間は本能と自由意志のどちらが支配的なのでしょうか。


「本能です。と言っても、完全な自由意志による行動を妨げない面もいくつかあります。幼児と同じで、自分の必要性を満たすために自由意志を行使していて、その自由意志は知性の発達を通してのみ発達します。と言うことは、あなた方のように知性の発達した人類は、自由意志の行使による過ちに対しては未開人よりも責任が重いということになります」


――社会的地位が自由行動の妨げになることはありませんか。


「社会に属している以上、当然、それなりの制約はあるでしょう。神は公正であり、そうした条件も全て考慮に入れて裁かれますが、そうした制約に負けないだけの努力をしているか否かも神は見ておられます」


――人生での出来事にはいわゆる運命、つまりあらかじめ決められているものもあるのでしょうか。もしあるとすれば自由意志はどうなるのでしょうか。


「再生する際に自ら選択した試練以外には必然的な宿命(さだめ)というものはありません。試練を選択することによって、そのようになる環境へ誕生しますから、自然にそうなるのです。

もっとも私が言っているのは物的な出来事(事故など)のことです。精神的な試練や道徳的誘惑に関しては、霊は常に善悪の選択を迫られており、それに抵抗するか負けるかのどちらかです。その際、当人が躊躇しているのを見て背後霊がアドバイスをしてくれますが、当人の意志の強さの程度を超えて影響を及ぼすことはできません。

一方、低級なイタズラ霊が大げさな取り越し苦労の念を吹き込んで悩ませたり怖がらせたりすることもします。が、最後の選択権は当人にあります」


――次から次へと訪れる悪運に翻弄されて、このまま行くと死も避けられないかに思える人がいます。こういうケースには宿命性があるように思えるのですが……


「真実の意味で宿命づけられているのは“死ぬ時期(とき)”だけです。いかなる死に方になるかは別として、死期が到来すれば避けることは不可能です」


――と言うことは、あらかじめ用心しても無駄ということになるのでしょうか。


「そんなことはありません。脅(おびや)かされる幾多の危険を避けさせるために背後霊が用心の念を吹き込むことがあります。死期が熟さないうちに死亡することのないようにとの神慮の一つです」


――自分の死を予知している人は普通の人よりも死を怖がらないのはなぜでしょうか。


「死を怖がるのは人間性であって霊性ではありません。自分の死を予知する人は、それを人間としてではなく霊として受け止めているということです。いよいよ肉体から解放される時が来たと悟り、静かにその時を待ちます」


――死が避けられないように、他にも避けられない出来事があるのではないでしょうか。


「人生のさまざまな出来事は大体において些細なもので、背後霊による警告で避けられます。なぜ避けさせるかと言えば、些細とは言え物的な出来事で面倒なことになるのは背後霊としても面白くないからです。唯一の、そして真実の意味においての避け難い宿命は、この物質界への出現(誕生)と物質界からの消滅(死)の時だけです」


――その間にも絶対に避けられないものがあると思いますが……。


「あります。再生に際してあらかじめ予測して選したものです。しかし、そうした出来事が全て神の予定表の中に“書き込まれている”かに思うのは間違いです。自分の自由意志で行った行為の結果として生じるものであり、もしそういうことをしなかったら起きなかったものです。

例えば指に火傷(やけど)を負ったとします。その場合、指に火傷を負う宿命(さだめ)になっていたわけではありません。単にその人の不注意が原因であり、あとは物理と化学と生理の法則の為せる業です。

神の摂理で必ずそうなると決まっているのは深刻な重大性をもち、当人の霊性に大きな影響を与えるものだけです。それが当人の霊性を浄化し、叡知を学ばせるとの計算があるのです」


――例えば殺人を犯した場合、再生する時から殺人者になることを知っているのでしょうか。


「そうではありません。自分が選択した人生において殺人を犯しかねない事態が予想されていたかも知れません。が、その時点では殺人を犯すか犯さないかは分かっておりません。殺人を犯した者でも、その直前までは理性を働かせる余裕があったはずです。もしも殺人を犯すことに決まっているとしたら、自由意志による判断力を働かせることができないことになります。罪悪も、他のあらゆる行為と同じく、自由意志による判断力と決断力の結果です。

あなた方はとかく二種類のまったく異なるものを混同しがちです。すなわち物的生活での出来事と精神的生活での行為です。もし宿命性というものがあるとすれば、それは物的生活において、原因が本人の手の届かない、そして本人の意志と無関係の出来事にかぎられています。それとは対照的に、精神生活における行為は必ず本人から出ており、従って本人の自由意志による選択の余地があります。その種の行為に宿命性は絶対にありません」


――では“幸運の星の下に生まれる”とか“星回りの悪い時に生まれる”という表現はどこから生まれたのでしょうか。


「星と人間とを結びつける古い迷信から生まれたもので、愚かな人間が比喩的表現を文字通りに受け取っただけです」

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch
ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳



五章  もしも シルバーバーチがテレビに出たら

 〝もしスピリチュアリズムについてテレビで講演することになったらどういうことを話されますか〟───ある日の交霊会でこんな質問が出された。シルバーバーチはすかさず次のように答えた。

「私はまず私が地上の人たちから〝死者〟と呼ばれている者の一人であることを述べてから、しかし地上の数々の信仰がことごとく誤りの上に築かれていることを説明致します。生命に死はなく、永遠なる生命力の一部であるが故に不滅であることを説きます。

私は視聴者に、これまで受け継いできた偏見に基づく概念のすべてをひとまず脇へ置いて、死後存続の問題と虚心坦懐に取り組んで真実のみを求める態度を要請致します。寛容的精神と厚意をもって臨み、一方、他人(ひと)がどう述べているからということで迷わされることなく、自分みずからの判断で真理を求めるよう訴えます。

そして世界中の識者の中から、いわゆる死者と話を交わした実際の体験によって死後の生命を信じるに至った人の名前を幾つか紹介します。

そして私自身に関しては、私もかつて遠い昔に地上生活の寿命を割り当てられ、それを完うして、一たんベールの彼方へ去ったのち、この暗い地上へ一条の光をもたらし久しく埋もれたままの霊的真理を説くために、再び地上に戻る決心をしたことを述べます。

 私はその霊的真理を平易な言葉で概説し、視聴者に対して果たして私の述べたことが理性を反撥させ、あるいは知性を侮辱するものであるか否かを聞いてみます。

私には何一つ既得の権利を持ち合わせないことを表明します。こんなことを説いてお金をいただかねばならないわけでもなく、仕事を確保しなければならないわけでもありません。私には何一つ得るものはありません。霊界での永い永い生活を体験した末に私が知り得たことを教えに来ているだけです。聞くも聞かぬもあなた方の自由です。

 人間は不滅なのです。死は無いのです。あなた方が涙を流して嘆き悲しんでいる時、その人はあなた方のすぐ側に黙って立っている───黙って、というのは、あなた方が聞く耳をもたないために聞こえないことを言っているまでです。

本当は自分の存在を知らせようとして何度も何度も叫び続けているのです。あなた方こそ死者です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で立派な死者です。神の宇宙の美が見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。

愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡知を役立てたいと望んでいるのです。

 見えないままでいたければ目を閉じ続けられるがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。が、賢明なる人間は魂の窓を開き、人生を生甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。あなた方は神の子なのです。

その愛と叡知をもって全宇宙を創造した大霊の子供なのです。その大霊との繋がりを強化するのは、あなた方の理解力一つです。もし教会がその邪魔になるのであれば、教会をお棄てになることです。もし邪魔する人間がいれば、その人間と縁を切ることです。もし聖典が障害となっていると気がつかれれば、その聖典を棄て去ることです。

 そうしてあなた一人の魂の静寂の中に引きこもることです。一切の世間的喧騒を忘れ去ることです。そして身のまわりに澎湃(ほうはい)として存在する霊的生命の幽(かす)かな、そして霊妙なバイブレーションを感得なさることです。

そうすれば人間が物的身体を超越できることを悟られるでしょう。知識に目覚めることです。理解力を開くことです。いつまでも囚人であってはなりません。無知の牢獄から脱け出て、霊的自由の光の中で生きることです。
 以上の如く私は述べるつもりです」


 次に、教会中心の信仰者に対して講演するとしたらどう説かれるかと聞かれて───

 「まず私は教会というところが本来宗教についての真実を学ぶために存在するものであること説きます。目に見えない高い世界の影響力に集団で波長を合わせるための場です。しばしのあいだ俗世的心配ごとやストレスから離れ、雑念や悩みごとを忘れて霊的実在に目を向ける場です。

私はまた人のために自分を役立てることこそ真の宗教であると説きます。礼拝に出席したら、欠席した人より立派になるというわけではありません。肌の色が白いから、茶色や黒い肌の人より優れているわけではありません。大切なのは霊の進化、魂の成長です。

教会はそのための永遠の旅に備える場であるべきです。いかにして霊を修練するかを教える場であるべきです。聖典の言葉や説教、儀式、信条のことで惑わされてはいけません。建物を必要以上に有難がってはいけません。

 宇宙の大霊は無限の存在です。いかに神聖に思える建物でも、その大霊を閉じ込めることはできません。四つの壁では〝永遠なるもの〟は包めません。書物も、その言葉がいかに美しくても、いかに内容が立派でも、いかに霊的でも、それ一冊に無限なる霊すなわち神に関する真理のすべてが記されるわけがありません。

いかなる人間でも、たとえ地上で最高の聖職にある人でも、あなたと神との関係に干渉することは許されません。あなた方の存在にとって必要なものは、あなた方自身が無限の啓示の宝庫から引き出すことができるのです。

あなた方が神と呼ぶところのもの、私が大霊と呼ぶところのもの、すなわち全生命の背後の普遍的摂理は、永遠にあなた方と切っても切れない絆で結ばれております。

 内部に宿された神性を発揮しさえすれば───高級界から受ける霊力とインスピレーションを活用する霊的法則さえ身につければ、神が意図された通りの生き方ができるようになります。

自己を棄て、世間に目を向け、からだの不自由な人を癒し、苦しむ人に手を差しのべ、飢えた人に食を与え、渇いた人に水を与え、道を見失える人に勇気と指示を与え、優しさと思いやりと愛情を、それを必要とする人の全てに与えてあげるようになるでしょう。

そうなった時こそ自分を役立てていることになります。それが唯一の宗教なのです。それ以外の宗教を私は知りません」


───スピリチュアリズムが世界的宗教となる日が来るのでしょうか。

 「あなた方がスピリチュアリズムと呼んでいるものは大自然の一部───その作用、その意義に対してつけられた名称に過ぎません。私にとって宗教とは自分なりの人生を生きることであり、特定の宗派の信仰を受け入れることではありません。

人生を支配している摂理は普遍的なものです。ということは、普遍的な理解力が世界中に行きわたれば、お互いが扶け合うことが普遍的な宗教ということになります。それをスピリチュアリズムと呼ぶかどうかはどうでもよいことです。大切なのは真理が普及し、無知の壁が崩れ、迷信が人間の精神から一掃されて、霊的叡知が花開くことです。 

ラベルには用心しなければなりません。なぜかと言えば、そのうちそのラベルに象徴されていた中身に代わってそのラベルそのものが大切にされるようになり、ついにはラベルだけを崇拝して真理を忘れてしまうからです。大切なのは真理です。ラベルはどうでもよろしい。

 皆さんはある現象が話題になるとそれをスピリチュアリズムだと言います。が、すべては自然法則の働きで起きているのであって、それをどう呼ぶかは重要ではありません。同じ意味で〝宗教〟という用語もその本来の意義を失ってしまいました。

今では宗教といえば〝神聖〟のラベルをはられた特殊の行事や慣習、儀式、祭礼等のことを連想します。しかし教会や礼拝堂が普通の建物に較べていささかも神聖であるわけではありません。石はあくまでも石です。普通の家の一部となろうと大聖堂の一部となろうと石は石でしかありません。

神を崇拝する場として作られた建物は確かに美しいかも知れませんが、その美しさが神聖さを生むわけではありません。美しいと思うのは美意識の反応にすぎません。

 宗教そのものは教会とは何の関係もありません。霊感のある人───本当の意味での聖職者、つまり霊的能力を具えた人が民衆の要請に応えて神との取り次ぎをしてあげることと言ってもよいでしょう。勿体ぶった神学的言説に基づく行事をしたり信仰を告白したりすることではありません。

教会でワインを飲んだからといって、他の場所でワインを飲むよりも〝宗教的〟であるわけではありません。宗教的であることは宇宙の大霊の一部である自分を少しでもその大霊の御心に近づけることです。

内部の神性を発揮する上でプラスになることをすることが宗教です。その神性は人のために役立つ行為、愛他心、親切心、日々新たになろうとする心がけ───どこにいても倒れている人を起こしてあげ、弱った人を元気づけ、無力な人の力になってあげ、病の人を癒し、真理と叡知を広め、不正を無くする行為となって表われます。それが宗教です。

人間にはその人なりの宗教を実践する上で必要なものはすべて授かっております。そのためにはまず、宗教とは名僧知識が説くことを体系的にまとめることであるかのように考える、その誤った概念を捨て去ることです。

 私どもは、どこかの礼拝のための建造物に出席することが神への義務を果たすことになるとは決して申しません。出席される方は真面目な気持ちでそうされているかも知れませんが、真の宗教心はその人の生きざまの中でしか発揮されないのです。各自の魂に内在する崇高なる霊性の働きと切り離されたところに宗教は存在しません」


───おっしゃるような生き方ができなければ、スピリチュアリズムも既成宗教と同じように失敗に終わることになるわけですね。

 「その通りです。必ず同じ運命を辿ります。私たちが地上へ戻ってきたのは一時のセンセーションを巻き起こすためでもなく、一部の人たちだけに喜びをもたらすためでもありません。肉親を失った人を慰めるのも大切です。悲しみの涙にくれる人の涙を拭ってあげるのも大切です。

が、それよりもっともっと大切なことは、霊的真理を日常生活の全てに生かすことです。〝無知〟から生じる世の中の害毒を無くさなくてはなりません。すべての不公正を改め、すべての偏狭と横暴を駆逐しなければなりません。私たちの仕事は人間に内在する霊性をあらゆる面で発揮させ、物質文明から排泄されるもの───汚れ、病気、暗黒街、スラム街、その他、神聖なる霊が閉じ込められている全ての邪悪な環境を清めることに向けられております。

 要するに私たちの説く宗教は実践の宗教です。一日一日の宗教─── 一日二十四時間、一時間六十分、一分六十秒、その全てを実践の時とする宗教です。

それが私たちの評価の基準です。それが私たちの目標とする理想です。それが知識を手にした者の本当の仕事───自分だけが喜びと慰めを得るに止まらず、全ての人に隔てなく分け与えてあげる義務なのです。

スピリチュアリズムも他のすべてのことと同じく〝結果〟によって評価されます。あなたが存在することによって世の中の誰一人として益を受けることがなければ、この世に生れてきた甲斐がなかったことになります。

もしスピリチュアリズムを信奉する人がいま深刻に要請されている精神的革命に何の役割も果たせないとしたら、それは自分に対する欺瞞であると同時に、その目的の為にその人を使用した霊の力に対する欺瞞にもなります。人間を通して地上へ注がれる莫大な霊力には成就すべき巨大な宿命があります。それは人類の霊的革新です」

Tuesday, April 14, 2026

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



9章 平等の法則

このページの目次
〈さまざまな不平等〉


――神はなぜ全ての人間に同じ才能を与えていないのでしょうか。


「全ての霊は神によって平等に創造されています。が、創造されてから今日に至るまでの期間に長短の差があり、結果的には過去世の体験の多い少ないの差が生じます。つまり各自の違いは体験の程度と、意志の鍛練の違いにあり、それが各自の霊的自由を決定づけ、自由の大きい者ほど急速に進化します。こうして現実に見られるような才能の多様性が生じて行きます。

この才能の多様性は、各自が開発した身体的ならびに知的能力の範囲内で神の計画の推進に協力し合う上で必要なことでもあります。ある人にできないことを別の人が行うという形で、全体の中の一部としての有用性を発揮できるわけです。さらには宇宙の全天体が連帯性でつながっていますから、より発達した天体の住民――そのほとんどが地球人類より先に創造されています――が地上に再生して範を垂れるということもあります」


――高級な天体から低級な天体へと転生しても、それまでに身につけた才能は失われないのでしょうか。


「失われません。すでに申しているごとく、進化した霊が退化することは有り得ません。物質性の強さのために以前の天体にいた時より感覚が鈍り、生まれ落ちる環境も危険に満ちた所を選ぶかも知れませんが、ある一定レベル以上に進化した霊は、そうした悪条件を糧として新たな教訓を悟り、さらなる進化に役立てるものです」


――社会の不平等も自然の法則でしょうか。


「違います。人間が生み出したものであり、神の業ではありません」


――最終的には不平等は消滅するのでしょうか。


「永遠に続くものは神の摂理以外にはありません。人間社会の不平等も、ご覧になっていて、少しずつではあっても日毎に改められて行っていることに気づきませんか。高慢と利己主義が影をひそめるにつれて不平等も消えて行きます。そして最後まで残る不平等は功罪の評価だけです。いずれ神の大家族が血統の良さを云々(うんぬん)することを止めて、霊性の純粋性を云々する日が来るでしょう」


訳注――“功罪の評価”の不平等というのは、功も罪も動機や目的によってその報いも違ってくるという意味で、“不公正”とは異なる。逆の場合の例を挙げれば、キリスト教には“死の床での懺悔”というのがある。イエスの信仰を告白して他界すればいかなる罪も赦されるという教義であるが、これは間違った平等であって、不公正の最たるものであろう。


――貧富の差は能力の差でしょうか。


「そうだとも言えますし、そうでないとも言えます。詐欺や強盗にも結構知恵が要りますが、これをあなたは能力と見ますか」


――私のいう能力はそういう意味ではありません。たとえば遺産には悪の要素は無いでしょう?


「どうしてそう断言できますか。その財産が蓄積される源にさかのぼって、その動機が文句なしに純粋だったかどうかを確かめるがよろしい。最初は略奪のような不当行為で獲得したものではないと誰が断言できますか。

百歩譲ってそこまでは詮索しないとしても、そもそもそんな大金を蓄えるという魂胆そのものが褒められることだと思われますか。神はその動機を裁かれます。その点に関するかぎり神は人間が想像するより遥かに厳正です」


――仮に蓄財の当初に不当行為があった場合、その遺産を引き継いだ者は責任まで引き継がされるのでしょうか。


「仮に不当行為があったとしても、相続人はまったく知らないことですから、当然その責任までは問われません。しかし、これから申し上げることをしっかりと理解してください。遺産の相続人は、必ずとは言いませんが、往々にして、その蓄財の当初の不正の責任を取ってくれる者が選ばれるということです。その点を正直に理解した人は幸せです。その罪を最初の蓄財者の名において償えば、その功は、当人と蓄財者の双方に報われます。蓄財者が霊界からそのように働きかけた結果だからです」
〈貧富による試練〉


――ではなぜ貧富の差があるのでしょうか。


「それなりに試練があるからです。ご存じの通り、再生するに際して自分でどちらかを選んでいるのです。ただ、多くの場合、その試練に負けています」


――貧と富のどちらが人間にとって危険でしょうか。


「どちらも同じ程度の危険性があります。貧乏は神への不平不満を抱かせます。一方、富は何かにつけて極端な過ちに陥(おとしい)れます」


――富は悪への誘惑となると同時に善行の手段にもなるはずです。


「そこです。そこに気づいてくれれば意義も生じるのですが、なかなかその方向へは向かわないものです。大抵は利己的で高慢で、ますます貪欲になりがちです。財産を増やすことばかり考え、これで十分という際限が無くなるのです」
〈男女の権利の平等〉


――女性が肉体的に男性より弱くできていることには何か目的があるのでしょうか。


「女性に女性としての機能を発揮させるためです。男性は荒仕事に耐えられるようにつくられ、女性は穏やかな仕事に向いています。辛い試練に満ちた人生を生き抜く上で互いが足らざる所を補い合うようにできています」


――機能的にも男女の重要性はまったく平等なのでしょうか。


「女性の機能の方がむしろ重要性が大きいと言えます。何しろ人間としての生命を与えるのは女性なのですから」


――神の目から見て平等である以上は人間界の法律上でも平等であるべきでしょうか。


「それが公正の第一原理です。“他人からして欲しくないことは、すべからく他人にもすべきではない”と言います」


訳注――これはキリストの“山上の垂訓”の一つである「他人からして欲しいことは、すべからく他人にもそのようにすべし」という有名な“黄金律”を裏返して表現したもの。


――法律が完全に公正であるためには男女の権利の平等を明言すべきでしょうか。


「権利の平等は明言すべきです。機能の平等はまた別問題です。双方がそれぞれの特殊な存在価値を主張し合うべきです。男性は外的な仕事に携わり、女性は内的な仕事に携わり、それぞれの性の特質を発揮するのです。

人間界の法律が公正を期するためには男女の権利の平等を明言すべきであり、どちらに特別の権利を与えても公正に反します。文明の発達は女性の解放を促すもので、女性の隷属は野蛮のレベルに属します。

忘れてならないのは、性の違いは肉体という組織体だけの話であって、霊は再生に際してどちらの性でも選べるという霊的事実です。その意味でも霊は男女どちらの権利でも体験できるわけです」


訳注――この問答を見るかぎりでは、当時はまだ自由と平等の先進国のフランスでも男女の平等は法律で謳われていなかったようで、今日の自由主義国の人間が読むと奇異にすら感じられる。しかし“権利”の平等と“機能”の平等を区別し、機能は平等・不平等次元で論じるべきものではないとしている点は、昨今いささか行き過ぎた平等主張、いわゆる“悪平等”が幅をきかせている、日本を始めとする文明先進国に良い反省材料を提供しているのではなかろうか。


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第3部10章 自由の法則

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

  The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



7章 社会生活の法則

このページの目次

〈社会生活の必要性〉

――社会生活は自然なことでしょうか。

「もちろんです。神は人間を社会という形態の中で生活するように意図されています。言語を始めとして人間関係に必要な能力を授けてあるのはそのためです」


――すると社会から隔絶した生き方は自然法則に反するのでしょうか。


「そうです。人間は本能的に他の人間との交わりを求めるものであり、お互いがお互いの進歩を援助し合うように意図されているからです」


――他との交わりを求めても結局は利己的な感情に負けるのではないでしょうか。それとも、そうした点にこそ神の配剤があるのでしょうか。


「人間は進化という宿命があります。それは一人だけの生活では達成されません。誰一人として才能の全てを所有してはいないからです。そこに他との接触の必要性が生じます。隔絶した一人の生活では人間らしさが失われ、太陽に当たらない植物のように弱々しくなります」
〈隠遁生活〉


――原則として社会志向の生活が自然であることは理解できますが、その社会から遁(のが)れた生活への志向も、それで本人が満足するのであれば、悪いとは言えないと思うのですが……


「そういう満足は利己的満足だからいけないのです。酒びたりの生活を送っている人がいますが、あなたはそれを、満足しているのだから良いとおっしゃるつもりですか。自分をその立場に置いてみて、自分以外の人に何の意味も持たないと思ったものは、神はお喜びにならないと思ってください」


――不幸な人々のために生涯を捧げる決意をして世を捨てる人々はどう理解すべきでしょうか。


「そういう人は自ら身を低くすることによって魂を高めています。物的享楽を捨てることと、仕事の法則を成就することによる善行の二つの点で大きな功績があります」


――ある種の仕事の成就のために世俗から遁れて静寂の中で生活している人はいかがでしょうか。


「そういう動機からであれば利己的ではありません。実質的には人のためなのですから、社会から隔絶してはおりません」


――ある宗派では“無言の誓い”というのを教義としておりますが、これはいかがでしょうか。


「言語能力が自然な能力であること、神から授かったものであることをお考えになれば、自ら答えが出るはずです。神は能力の悪用は咎めますが、正しい使用は決して咎めません。もっとも、静寂の時を持つこと自体は結構なことです。そういう時こそ本来の自我が顕現し、霊的な自由が増し、背後霊との内的コミュニケーションが持てます。ですから、そういう目的のために自発的な苦行を行うのは、動機の点で有徳の行為と言えます。が、基本的に見てそういう行に終始する生活は、神の摂理を十分に理解していないという点で、やはり間違いです」