Wednesday, March 18, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

The Spirit Teachings



26節

*本節の内容霊団の態度の変化
*著者の態度に反省を求める
*著者の霊視能力の発現
*各種の霊視現象の体験
*複数の世界的作曲家による音楽についての霊信


〔一八七四年一月十八日。この日までの相当期間ずっと通信が途絶え、新しい局面に入りつつあるようでもあり、また、私が例の(身元確認の)問題について猜疑心を棄て切れずにいるために霊側が一切手を引いたようにも思えた。この猜疑心が何かにつけて障害となり、この自動書記通信だけでなくサークルによる交霊会にも支障を来していた。

それが突如この日になって様子が一変し、新たな指示と共に一種の回顧のようなものが綴られた。その中から私的な問題に係わらない部分を紹介する。〕


ここで、これまでわれらがそなたを導かんと努力して来た跡を振り返ってみるのも無駄ではあるまい。少なくともわれらが述べて来たことを詳細に検討し直し、われらが計画している広大なる真理の視界を見渡してみるよう勧めたい。そうすればそなたがこれまで抱き続けて来たものより遙かに崇高なる神の観念が説かれていることを知るであろう。そなたが重ねて証拠や実験を求めて来た反論に対しても、われらは無益と思いつつも一つ一つ応対してきた。それでもなおかつ心に巣くう猜疑心を拭い去ることを得なかったのは、そなたの猜疑的態度がもはや一つの習性となり、その猜疑心の靄(もや)を突き抜ける機会を滅多に見出し得なかったからに他ならぬ。そなたは自らを突き抜けることの出来ぬ帳(とばり)で包み込んでいる。その帳が上がるのは時たまでしかない。

われらはむしろ、そうしたそなたとわれらとの関わり合いをつぶさに見て来たサークルの同志の扱いにおいて成功したと言える。われらはそれを究極における成功を暗示する証であると見なし、感謝しているところである。つまりそなたの、その、他を寄せつけぬ猜疑に満ちた精神状態をも最後には解きほぐすことが出来ることであろう。そなたとしてはいかに真剣なる気持とはいえ、われらが大義名分とせるものを受けつけようとせぬ心を得心させる証拠を持ち合わせぬことが、われらの仕事の最大の障害となっている。殊にわれらの障害となる条件をも頭から無視して執拗に要求する特別の実験は、応じようにもまずもって応じられぬだけに、なおさら大なる障害となる。これは是非ともよく理解し心しておいてほしいことである。猜疑心から実験を計画し、われらを罠にはめんとするが如き魂胆は、その計画自体を破壊してしまうことであろう。もしもわれがそなたが怪しむが如きいかがわしい存在であるならば、そのような悪魔の使者とはこれ以上関わり合わぬがよかろう。が、若しそういうつもりはないと言うのであれば、潔くその不信の念を棄て去り、率直さと受容性に満ちた雰囲気を出して欲しく思う。たとえ僅かの間であっても素直な心で交わるほうが、今のその頑な猜疑に満ちた心で何年もの長きに亙って交わるより遙かに有益な成果を産み出すことであろう。われらはそなたが訝(いぶか)っているが如く、そなたの要求に応じたくないのではない。応じられぬのである。サークルの同志からの筋の通れる要求は大事に取ってある。仮に要求どおりの対応が出来なければ、またの機会に何とか致そう。これまでのそなたとの関わり合いを振り返れば、われらが常にそうしてきていることが判るであろう。それが交霊の一般的原理なのである。

さらに、そなたがしつこくこだわっているところの、そなたの指図に基づく実験を仮に特別な証拠的情報を提供するという形で催した場合、たとえそなたの思惑どおりに運んだとしても、その情報は十中八九、そなたの意念とサークルの意念との混同によって不完全にして信頼のおけぬものとなろう。そして結局はそなたの目的は挫折するであろう。が、証拠ならばすでにわれらに出来得るかぎりのものを提供してきた。そなたのこだわっている問題、すなわち霊の身元確認の問題も最近一度ならずその証拠となるものを提供しており、そなたもその価値を渋々ながら認めている。

このところわれらは、これまで以上の働きかけは控えている。が、これまでのわれらの為せるところを振り返ってくれれば、同志とのサークル活動においても、またこうしたそなただけとの交霊においても、あくまで完全なる受容的態度を維持するように努め、そなたの理性的判断に基づいて受け入れるべきは受け入れ、拒否すべきは拒否し、最終的判断はまたの機会までお預けにせよとのわれらの助言が当を得ていたことが納得して貰えるものと信ずる。証拠にも段階があることを忘れてはならぬ。そして、それ自体は無意味と思われるものでも、それ以前の、あるいはその後の事実または言説によって大幅にその価値を増すことも有り得ることを心しておかれたい。

今のそなたには如何にも曖昧に思えることも、これよりずっと後になって明確にされることも有り得る。そして長期間に亙って積み重ねたる数々の証拠が日を追ってその価値を増すことにもなる。平凡な成果にせよ特殊な成果にせよ、こうして語りかけるわれらの誠意が一定不変であることが何よりも雄弁にその事実を物語っていよう。少なくとも、われらがそなたを誑(たぶら)かしているとは言い得ぬであろう。われらは断じて邪悪な影響を及ぼしてはいない。われらの言葉には真実味と厳粛さとが籠っている。われらこそ神の福音を説く者であり、そなたの必要性に合わせ、そなたの啓発を意図しつつ説いている。

故に、そのわれらが、果たして致命的かつ永遠の重要性をもつ問題についてそなたを誑かさんとする者であるか否かはそなたみずからが責任をもって判断すべきことであり、われらの関与し得るところではない。これほどの証拠と論理的帰結を前にしながら、敢えてわれらを邪霊の類と決断する者はよほど精神の倒錯せる理性なき人間であり、およそそなたの如き、われらを知る人間のすることではあるまい。われらの言葉を篤と吟味せよ。神の導きのあらんことを。

(†インペレーター)


〔この頃を境に、死後の存続を納得させる証拠が次々と出て来た。それについては細かく述べていると霊訓の流れから逸(そ)れる恐れがあるので控える。あるものは筆記の形で来た。筆跡、綴り方、用語などが生前そのままに再現されていった。私の指導霊によって口頭で伝えられたものもある。ラップで送られてきたこともある。また私の霊視で確認したものもある。このように手段はさまざまであったが、一つだけ一致する特徴があった。述べられた事実が正確そのもので、間違いが何一つ見出せなかったことである。その大部分はわれわれサークルのメンバーには名前しか知られていない人物、時には名前すら知られない人物であった。友人や知人の場合もあった。それがかなりの長期間にわたって続けられたが、それと並行して私の霊視能力が急速に発達しはじめ、他界した友人と長々と話を交わす(1)ことが出来るようになった。私の潜在能力が開発されたらしく、情報が与えられたあとそれを霊視によって確認させてくれたりした。その霊視力はますます威力を増していき、ついには霊的身体が肉体から離れて行動しながら(2)実に鮮明な映像を見るようになった。その中には地上のものでないシーンの中で意識的に生活し行動する場面もあり、またドラマチックな劇画のようなものが私の目の前で演じられることもあった。その内容は明らかに何らかの霊的真理ないし教訓を伝えようとするものであった。が、そうした映像と関連した証拠によってその真実性を得心することが出来たのは二つだけであった。と言うのも、映像を見る時の私は必ず入神しており、自分が目撃しているものが果たして実際にそこに存在するのか、それとも私の主観に過ぎないのかの判断が出来なかったからで、その二つだけは後で具体的証拠によって実在を確認することが出来たということである。その二つの場合の光景は本物であったわけであるが、他の全ての映像も本物であったと信じている。が、ここはそうした問題を詮索する場ではない。思うに、こうした映像は私の霊的教育の一環であったと認めざるを得ない。霊側は私の霊視したものが実在であることを示さんとしたのであり、潜在的霊能が開発されたのは、肉眼で見えないものの存在を教え確信させようとする目的があったということである。

この一月(一八七四年)にはスピーア博士のご子息(3)のまわりに発生していた霊現象に関連した通信の幾つかが活字となって発表された。ご子息の音楽的才能を発達させるためであることを知らされていた。通信は前年の四月十四日と九月十二日に書かれたものであった。そして二月一日に私から出した質問がきっかけとなってさらに情報が送られて来た。プライベートな事柄を述べた後、次のように書かれた(4)――〕


昨夜の雰囲気は音楽には良くなかった。あなたはまだ良い音楽の出る条件をご存知ない。霊界の音楽を聞くまでは音のもつ本当の美しさは分からないであろう。音楽も地上の賢人が考えるより遙かに、われわれがよく口にする霊的条件の影響を受けているものである。地上なりに最高の音楽を出すためにも霊的要素がうまく調和しないといけない。調和した時にはじめてインスピレーションが閃めく。スピーア少年が師匠の指導を受けていた部屋は雰囲気が乱れていた。それで成果は良くなかったと言ったのである。音楽家も演説家と同じである。演説家の口から音楽が出るに先立って聴衆との霊的調和が出来ていないといけない。それは演説家は直感的に感じ取るのであるが、往々にしてその繋がりが出来ていなくてインスピレーションが演説家と聴衆との間の磁気的連鎖網を伝わらないために言葉が死んでしまって、まるで訴える力をもっていないことに気づいていない。最高の成果が得られるのは音楽家なり演説家なりが背後霊団に囲まれて、本人の思念または本人に送られてくる思念がその影響で純化され、調和し、霊性を賦与された時である。

言葉でも、冷たくぞんざいに発せられたものと心を込めて発せられたものとでは大いに違うように、音楽も全く同じことが言える。音はあっても魂が籠っていない。聞いていると、理由は分からなくても、何となく心に訴えるものがないことに気づくのである。冷ややかで、平凡で、薄っぺらな感じで、ただの音でしかない。物足らなさを感じる。一方魂の籠ったメロディーは、地上より遙かに美しく純粋なる霊界の思念を物語っていて、豊かな充実感を覚えさせる。霊の叫びが直接霊へと響くのである。魂が漲(みなぎ)り、いかに反応の鈍い人間にも訴える無形の言葉を有している。その言葉が魂に伝わり、魂はそれによって身体的感覚を鎮められ、乱れた心に調和をもたらせる。生命なき音が音楽の魂を吹き込まれて鼓動を始める。聞く者は心の充実を覚える。それは正に地上の肉体と、天国へ舞い上がる霊魂の差である。物質的・地上的なものと、天上的・霊的なものとの差である。大聴衆を前にした音楽会において真の音楽の聞かれる条件が滅多に整わないのはそのためである。聞き取りにくい霊の声を明確に述べさせたいのであれば、もっと調和のある雰囲気を作り出すことである。


〔この通信には二人の世界的作曲家(5)と、他に数名の私の知人の署名が(生前そのままに)付してあった。〕

Tuesday, March 17, 2026

シルバー・バーチの霊訓 古代霊は語る

   The Ancient Spirits Speak


第七章 心霊治療


 「心霊治療によって奇蹟的に病気が治る──それはそれなりにすばらしいことですが、その体験によってその人が霊的真理に目覚めるところまで行かなかったら、その心霊治療は失敗に終ったことになります」

 シルバー・バーチの心霊治療観を煎じつめるとこの言葉に尽きるようです。つまり心霊治療も魂の開発のための一つの手段であって、単なる病気治療だけに止まるものではないというのです。

 数ある驚異的心霊現象の中でもとくに心霊治療、つまり奇蹟的治癒の現象は、歴史の中に多くの例を見ることができます。

聖書に出てくるイエスの話などは、聖書という世界的超ベストセラーのおかげで余りにも有名ですが、実際には洋の東西を問わず、世界のどこでも起き、今なお毎日のように起きていると言っても言い過ぎではありません。

 しかし、一人の患者を見事に治療した心霊治療家が次の患者も同じように奇蹟的に治せるかというと、かならずしもそうではありません。そこに〝なぜか〟という疑問が生じます。

そして、その因果関係を辿ってみると、シルバー・バーチが一ばん強く説いている因果律の問題に逢着します。因果律は当然、これ又シルバー・バーチが強調する〝苦難の意義〟と密接につながっており、それは結局人生そのものということになります。

シルバー・バーチが心霊治療を他の現象以上に重要視するのは、それが人生そのものの意義と共通した要素をもっているからにほかなりません。

 ではシルバー・バーチに語ってもらいましょう。


 「人間には、ただ単に病気を治すだけでなく魂の琴線に触れて霊的真理に目覚めさせる偉大な霊力が宿されております。私はこれからこの霊力について語り、あなた方にぜひ理解していただきたいと思います。というのは、心霊治療もそこに本来の存在理由があるからです。

 心霊治療によって奇蹟的に病気が治る──それはそれなりにすばらしいことですが、その体験によってその人が霊的真理に目覚めるところまで行かなかったら、その心霊治療は失敗に終ったことになります。

魂の琴線に触れた時こそ本当に成功したといえます。なぜなら、その体験によって魂の奥にある神の火花が鼓舞され、輝きと威力を増すことになるからです。

 心霊治療の背後にはかならずそうした目的があるのです。治療家はそうした神の計画の一部を担ってこの世に生まれて来ているのです。

すなわち、この世に在りながら自分で自分が何者であるかを知らず、何のために生まれてきたかを悟れず、従って死ぬまでに何を為すべきかが分らぬまま右往左往する神の子等に、霊的真理と永遠の実在を悟らせるためにその治癒力を与えられて生まれて来たのです。これほど大切な仕事はありません。

その治癒力でたった一人でも魂を目覚めさせることが出来れば、それだけでも、この世に生まれて来たことが無駄でなかったことになります。たった一人でもいいのです。それだけでこの世における存在価値があったと言えるのです。

 最近、この道での仕事が盛んになり、霊力に対する一般の関心がますます大きくなって来つつあることを私は非常にうれしく思っております。地上の同志が困難に直面すれば、われわれは出来るかぎりの援助を惜しみません。病気治療には一層多くのエネルギーをつぎ込みます。

しかし忘れてならないのは、あらゆる出来ごとにはかならずそれ相当の原因があるということです。霊界からいかなる援助を差しのべても、この原因と結果の相関関係にまで干渉することだけは絶対にできないのです。援助はします。がすでに発生したある原因から生じる結果を消してあげることは出来ません。

 私たちには〝奇蹟〟を起こす力はないのです。自然法則の連続性を人為的に変えることは絶対にできないのです。神の法則は一瞬の断絶もなく働いております。

瞬時たりとも法則が休止することはありません。宇宙間何一つとして神の法則の働きなしに発生することはありえないのです。もしも、ありとあらゆる手段を尽くしても治らなかった病いが心霊治療によって治ったとすれば、それは宇宙に霊的エネルギーが存在することの生きた証拠と受け取るべきです。

すなわち、それまで試したいかなるエネルギーにも勝る強力なエネルギーが存在することを如実に思い知らされる絶好のチャンスなのです。

 数ある心霊現象にはそれぞれに大切な意義がもたらされています。が、それが何であれ、霊的な真理へ導くためのオモチャにすぎません。いつまでもオモチャで遊んでいてはおかしいでしょう。いつかは大人へ成長しなくてはいけないでしょう。大人になれば、もはや子供だましのオモチャはいらなくなるはずです。


 心霊治療(ヒーリング)にもいろいろあります。一ばん基本的なものは磁気治療(マグネティックヒーリング)で、治療家の身体から出る豊富な磁気の一部を患者に分けてあげるもので、一種の物理療法と考えてもよろしい。これには霊界の治療家は関与しません。

次の段階はその磁気的治療法とこのあとに述べる純粋の心霊治療(スピリチュアルヒーリング)の中間に位置するサイキックヒーリングというもので、遠隔治療は主にこの療法で行われております。

そして最後に今のべた純粋のスピリチュアルヒーリングで、治療家が精神統一によって波長を高め、同時に患者がそれを受ける態勢が整った時に一瞬のうちに行われます。人間の側から見れば奇蹟的に思えるかも知れませんが、因果律の働きによって、そういう現象が起きる機が熟していたのです。

 人間は一人の例外もなく神の分霊を宿しております。要はその神的エネルギーを如何にして発揮するかです。

肉体にも自然治癒力というのがあり、その治癒力が働きやすい条件さえ揃えば自然に治るように、霊的存在であるあなたがたには霊的治癒力も具わっており、その法則を理解しそれに従順に生きておれば、病気は自然に治るはずのものなのです。
  
 健康とは肉体(ボディ)と精神(マインド)と霊(スピリット)が三位一体となった時の状態です。三者が調和した状態が健康なのです。そのうちの一つでも調和を乱せば、そこに病いという結果が生じます。調和を保つにはその三者がそれぞれの機能を法則に忠実に果たすことです。

 霊はすばらしい威力を秘めております。その存在を無視し、あるいはその働きを妨げれば、天罰はてきめんに表われます。

 それと同じエネルギーの見本がいたるところに存在します。そもそもこの物的大宇宙を創造したエネルギーがそうですし、大海原を支えるエネルギー、万有引力のエネルギー、惑星を動かすエネルギー、そのほか地上の人間、動物、植物、昆虫、等々、ありとあらゆる生命を生育せしめるエネルギーがそれと同じものなのです。

 要するに治癒エネルギーも生命力の働きの一部なのです。身体に生命を与えているものは霊です。物質そのものには生命はないのです。霊が宿っているからこそ意識があるのであって、身体そのものには意識はないのです。

あなた方を今そうして生かしめている生命原理と同じものが、悩める者、病める者、苦しむ者を救うのです。

 しかし痛みや苦しみを取り除いてあげることが心霊治療の目的ではありません。あくまで手段なのです。つまり眠れる魂を目覚めさせ、真の自分を悟らせるための手段にすぎないのです。

病気で苦しみ続けた人が心霊治療によって霊的真理に目覚め地上生活の意義を悟れば、その治療家は遠大な地上救済計画における自分の責務を見事に果たしたことになり、そうあってこそ私たちスピリットが援助した甲斐があったことになるのです。

 身体の病気が治癒することよりも、その治癒がキッカケとなって真の自我に目覚めることの方が、はるかに大切なのです。それが真の目的なのです。そこまで行かない心霊治療は、たとえ病気は治せても、成功したとは言えません。

 こうした心霊治療の真の意義が理解されるには長い長い年月を要します。心霊治療に限らず、霊界の力を地上に根づかせるには、大勢の人間を一気に動かそうとしてはダメです。一人の人間、一人の子供という具合に、一度に一人ずつ根気よく目覚めさせ、それを霊的橋頭堡として、しっかり固めていくほかはありません。

なぜなら、真理に目覚めるということは、そのキッカケが心霊治療であれ、交霊会であれ、あるいは物理実験会であれ、本人の霊的成長度がその真理を受け入れる段階まで進化していることが大前提だからです。

 魂にその準備ができていない時は心霊治療も効を奏しません。いかにすぐれた心霊治療でも治せない病気があるのはそのためです。従って失敗したからといって心霊治療を批判するのは的はずれなのです。

患者の魂がまだまだ苦しみによる浄化を十分受けていないということです。すべて自然法則が支配しています。トリックなどありません。いかなる心霊治療もその法則の働きを勝手に変えたり曲げたりする力はありません。

 もちろん苦難が人生のすべてではありません。ホンの一部にすぎません。が苦難のない人生もまた考えられません。それが進化の絶対条件だからです。

地上は完成された世界ではありません。あなた方の身体も完璧ではありません。が完璧になる可能性を宿しております。人生の目的はその可能性を引き出して一歩一歩と魂の親である神に向かって進歩していくことです。

 その進化の大機構の中で程度と質を異にする無数のエネルギーが働いており、複雑にからみ合っております、決して一本調子の単純なものではありません。

が生命は常に動いております。渦巻状を画きながら刻一刻と進化しております。その大機構の働きのホンの一端でも知るためには、人生の真の目的を悟らなくてはなりません。

 苦しみには苦しみの意味があり、悲しみには悲しみの意味があります。暗闇があるからこそ光の存在があるのと同じです。その苦しみや悲しみを体験することによって真の自我が目覚めるのです。その時こそ神の意図された素晴らしい霊的冒険の始まりでもあるのです。

魂の奥に宿れる叡智と美と尊厳と崇高さと無限の宝を引き出すための果てしない旅への出発なのです。

地上生活はその人生の旅の一つの宿場としての意味があるのです。ところが現実はどうでしょうか。唯物主義がはびこり、利己主義が支配し、どん欲がわがもの顔に横行し、他人への思いやりや協調心や向上心は見当りません。

 医学の世界もご多分にもれません。人間が自分たちの健康のために他の生命を犠牲にするということは、神の計画の中に組み込まれていません。

すべての病気にはそれなりの自然な治療法がちゃんと用意されております。それを求めようとせずに、いたずらに動物実験によって治療法を探っても、決して健康も幸福も見出せません。


 真の健康とは精神と肉体と霊とが三位一体となって調和よく働いている状態のことです。それを、かよわい動物を苦しめたり、その体内から或る種の物質を抽出することによって獲得しようとするのは間違いです。神はそのような計画はされておりません。

神は、人間が宇宙の自然法則と調和して生きていくことによって健康が保たれるよう意図されているのです。もしも人間が本当に自然に生きることが出来れば、みんな老衰による死を遂げ、病気で死ぬようなことはありません。

 肉体に何らかの異常が生じるということは、まだ精神も霊も本来の姿になっていないということです。もし霊が健全で精神も健全であれば、肉体も健全であるはずです。精神と霊に生じたことがみな肉体に反映するのです。

それを医学では心身相関医学などと呼ぶのだそうですが、名称などどうでもよろしい。大切なのは永遠の真理です。魂が健全であれば、身体も健全であり、魂が病めば身体も病みます。心霊治療は肉体そのものでなく病める魂を癒すことが最大の目的なのです。』


 以上が心霊治療に関するシルバー・バーチの基本的概念です。心霊治療の価値と必要性をこれほど強調するスピリットを私は他に知らないのですが、その考えの厳しさもまた格別です。

しかし基本概念としてはそれが真実であり理想であろうと考えます。その理想に一歩でも近づこうとするところに治療家としての努力の余地があると言えるのではないでしょうか。

 あとで世界的心霊治療家のハリー・エドワーズ氏及びその助手たちとの一問一答を紹介しますが、その前に、心霊治療に関してかならず出される疑問、すなわち日本の治療家はまず第一に除霊とか供養といったことから始めるのに西洋では皆無といっていいほどそれが聞かれないのはどういうことか、という点について私見を述べてみたいと思います。

 それには私の師である間部詮敦氏の治療法を紹介するのが一ばん都合がよいようです。間部氏は本来は心霊治療家で、私は側近の一人としてその治療の様子をつぶさに観察してまいりましたが、やはり除霊と供養を重点に置いておりました。

 具体的に説明すると、まず患者をうつぶせに寝かせました。そしてその背に手を置くと、その手が身体の悪いところに自然に動いていきます。その要領で三十分ほど施療したあと、患者を正座させ、背後から霊視します。すると病気にまつわる霊、いわゆる因縁霊が出て来ます。

これは多分間部氏の背後霊が連れてくるのだろうと思われますが、霊視が終ると、患者にその霊の容姿を説明して、その名前または戒名をたずねます。

それを二枚の短冊に書き、うち一枚を患者に手渡して、仏壇に供えて三日間お水を上げ、その水を清浄なところに捨てるようにと言います。霊が古くて名前が分からない時は、およその年齢の見当を付けて、たとえば 「五〇代の霊」 という風に書きます。

 主として関西地方と中国地方を回られたので、自宅(三重県)に戻られた時は短冊もかなりの枚数になっていたと思われますが、それを神前に供えて祈念し、霊を一人一人呼び出して(多分背後霊が連れて来て)、死後の世界の存在を教え、向上進化の必要性を説き、指導霊の言うことに従うよう諭します。

もちろん背後霊の働きかけも盛んに行われたことであろうことが推察されます。

 さて、これで万事うまく行ったかというと、必ずしもそうではありません。たとえば私の家族の場合はよく父方のおじいさんが出ました。そのたびに話を聞いて、その時は一応得心するのですが、またぞろ出て来ていろいろと災いをもたらしました。

別に何の遺恨があってのことでもないのですが、晩年に精神に異常を来たし、不幸な最期を遂げた人でしたから、その人がうろうろするだけで非常に良くない影響を与えたわけです。

 バーバネル氏の This is Spiritualism (拙訳 『これが心霊の世界だ』 潮文社刊) に霊の肖像画を専門にしているフランク・リーアという人の話が詳しく出ていますが、その中でバーバネル氏は

 「死者を描く時はなぜかその人間の死際の、いわば地上最後の雰囲気が再現され、リーア氏も否応なしにその中に巻き込まれる。その意味でリーア氏自身、自分が画いた肖像画の枚数分だけ死を体験したことになる」 と述べ、さらに別のところでは

 「この種の仕事で困ることは、そのスピリットの死の床の痛みや苦しみといった、地上生活最後の状態を霊能者自身も体験させられるということである。

なぜかは十分に解明されていないが、多分ある磁力の作用によると思われるが、スピリットが初めて地上に戻って来た時は地上を去った時の最後の状態が再現されるのである」 と述べています。

 間部氏もそのたびに 「またおじいさんですなあ」 と言って首をかしげておられましたが、考えてみると酒やタバコ (それにもう一つありそうですが・・・) がなかなか止められないのと同じで、どうしても霊的自我が目覚めず、地上への妄執が断ち切れなかったのでしょう。

これに類することで興味ぶかいことがいろいろあって、私には勉強になりました。

 さて問題は除霊すれば因縁が切れるかということですが、今の例でもわかる通り、霊というのは波長の原理でひっついたり離れたりするもので、人間の方はむろんのこと、霊の方でも自分が人間に憑依していることに気づいていないことすらあります。

因縁という用語はもとは因縁果という言葉から来たもので、因がもろもろの縁を経て果を生むという意味だそうです(高神覚昇『般若心経講義』)。私は心霊的にもその通りだと考えます。

 つまりシルバー・バーチのいう因果律は絶対的に本人自身のもので、それを他人が背負ったり断ち切ったりすることは出来ません。それはシルバー・バーチが繰り返し強調しているところですが、その因と果の間にいろんな縁が入り込んで複雑にしていきます。

病気の場合の因縁がそのよい例で、病気になるのは本人に原因があるわけですが、その病気が縁となって波長の合った霊が憑依し、痛みや苦しみを一段と強くしているのだと私は解釈しています。

 従ってその霊を取り除けばラクにはなりますが、それで業を消滅したことにはならない。もちろん霊が取り除かれた時が業の消える時と一致することもあり得ます。いわゆる奇蹟的治癒というのはそんな時に起きるのだと思われますが、除霊さえすれば事が済むというものではないようです。

 次に、西洋では病気にまつわる因縁霊の観念はないのか、除霊の必要性はないのか、ということですが、数こそ少ないのですが、それを実際にやっている人がいます。米国のカール・ウィックランドという人が最も有名です。

 この人は職業は精神科医ですが、奥さんが霊能者であるところから、主として精神異常者に憑依している霊を奥さんに憑依させて、間部氏と同じように、こんこんと霊的真理を説いて霊的自我に目覚めさせるやり方で大変な数の患者、と同時に霊をも、救っております。

それをまとめたのが Thirty Years Among the Dead で、 田中武氏が訳しておられますので一読をおすすめします。 (『医師の心霊研究三十年』日本心霊科学協会発行)

 ウィックランド氏の場合は主として精神異常者を扱っておりますが、当然身体的病気の場合にも似たような霊的関係があるはずであり、本来なら日本式の供養のようなものがあってもいいはずなのですが、それが皆無とは言わないまでも、非常に少ないという事実は、私は民族的習慣の相違に起因していると考えております。


 たとえば浅野和三郎氏が 「幽魂問答」 と題して紹介している福岡における有名なたたりの話は、数百年前に自殺した武士が自分の墓を建立してもらいたい一心から起こした事件であり、西洋では絶対と言ってよいくらい起こり得ない話です。

日本人は古来、死ねば墓に祀られるもの、供養してもらえるもの、戒名が付くものという先入観念があるからこそ、そうしてもらえない霊が無念残念に思うわけで、本来は真理を悟ればそんなものはすべて無用なはずです。いわゆる煩悩にすぎません。

 シルバー・バーチはある交霊会で供養の是非を問われて、「それはやって害はなかろうけど、大して効果があるとも思われません」 と述べておりますが、シルバー・バーチの話は常に煩悩の世界を超越した絶対の世界から観た説であることを認識する必要があります。

つまり永遠の生命を達観した立場からの説であって、私は、洋の東西を問わず、供養してやった方がいい霊は必ずいる、ということを体験によって認識しております。煩悩の世界には煩悩の世界なりの方法手段があると思っております。

また、民族によって治療法が異るように、個々の治療家によっても治療法や霊の処理方法が異ってくるはずであり、供養しなくても済む方法があるかも知れない、という認識も必要かと思われます。この辺が心霊的なものが一筋縄ではいかないところです。


 一問一答 (質問者はハリー・エドワーズを中心とする治療家グループ)

問「心霊治療によって治るか治らないかは患者の魂の発達程度にかかっていると言われたことがありますが、そうなると治療家は肉体の治療よりも精神の治療の方に力を入れるべきであるということになるのでしょうか」

シルバー・バーチ「あなた自身はどう思いまいすか。魂に働きかけないとしたら、ほかに何に働きかけますか」


問「まず魂が癒され、その結果肉体が癒されるということでしょうか」
シルバー・バーチ「その通りです」


問「では私たち治療家は通常の精神面をかまう必要はないということでしょうか」

シルバー・バーチ「精神もあくまで魂の道具にすぎません。従って魂が正常になれば、おのずと精神状態もよくなるはずです。ただ、魂がその反応を示す段階まで発達してなければ、肉体への反応も起こりません。魂が一段と発達するまで待たねばなりません。

つまり魂の発達を促すためのいろんな過程を体験しなければならないわけです。その過程は決して甘いものではないでしょう。なぜなら魂の進化は安楽の中からは得られないからです」


問「必要な段階まで魂が発達していない時は霊界の治療家も治す方法はないのでしょうか」
シルバー・バーチ「その点は地上も霊界も同じことです」


問「クリスチャン・サイエンスの信仰と同じですか」
シルバー・バーチ「真理はあくまでも真理です。その真理を何と名付けようと私たち霊界の者には何の係わりもありません。要は中身の問題です。

仮りにクリスチャン・サイエンスの信者が心霊治療のおかげで治ったとして、それをクリスチャン・サイエンスの信仰のおかげだと信じても、それはそれでいいのです」


問「私たち治療家も少しはお役に立っていることは間違いないと思うのですが、患者の魂を治療するというのは何だか取りとめのない感じがするのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「あなたがたは少しどころか大いに貴重な役割を果たしておられます。第一、あなたがた地上の治療家がいなくては私たちも仕事になりません。

霊界側から見ればあなたがたは地上と接触する通路であり、一種の霊媒であり、言ってみればコンデンサーのような存在です。霊波が流れる、その通路というわけです」


問「流れるというのは何に流れるのですか。肉体ですか魂ですか」
シルバー・バーチ「私どもは肉体には関知しません。私の方からお聞きしますが、例えば腕が曲がらないのは腕の何が悪いのですか」

問「生理状態です」
シルバー・バーチ「では、それまで腕を動かしていた健康な活力はどうなったのですか」

問「無くなっています。病気に負けて、病的状態になっています」
シルバー・バーチ「もしその活力が再びそこを通い始めたらどうなりますか」

問「腕の動きも戻ると思います」
シルバー・バーチ「その活力を通わせる力はどこから得るのですか」

問「私どもの意志ではどうにもならないことです。それは霊界側の仕事ではないかと思います」
シルバー・バーチ「腕をむりやりに動かすだけではダメでしょう」

問「力ではどうにもなりません」
シルバー・バーチ「でしょう。そこでもしその腕を使いこなすべき立場にある魂が目を覚まして、忘れていた機能が回復すれば、腕は自然によくなるということです」

問「すると私ども心霊治療家の役目は患者が生まれつき具えている機能にカツを入れるということになるのでしょうか」

シルバー・バーチ「そうとも言えますが、そればかりではありません。と言うのは、患者は肉体をまとっていますから、波長がどうしても低くなっています。それで霊界からの高い波長をもった霊波を送るには一たんあなたがた治療家に霊波を送り、そこで波長を患者に合った程度まで下げる必要が生じます。

あなたがたをコンデンサーに譬えたのはそういう役目を言ったわけです。そういう過程を経た霊波に対して患者の魂がうまく反応を示してくれれば、その治療効果は電光石火と申しますか、いわゆる奇蹟のようなことが起きるわけですが、

前にも言いましたように、患者の魂にそれを吸収するだけの受け入れ態勢が出来ていない時は何の効果も生じません。結局、治るか治らないかを決める最終の条件は患者自身にあるということになるわけです」


問「神を信じない人でも治ることがありますが、あれは・・・・・・」

シルバー・バーチ「別に不思議ではありません。治癒の法則は神を信じる信じないにおかまいなく働きます」


問「先ほど治癒は魂の進化と関係があると言われましたが・・・・・・」
シルバー・バーチ「神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がおります。霊格の高さは信仰心の強さで測れるものではありません。行為によって測るべきです。

よく聞いて下さい。あなたがた治療家に理解しておいていただきたいのは、あなたがたは治るべき人しか治していないということです。つまり、治った人は治るべき条件が揃ったから治ったのであり、そこに何の不思議もないということです。

あんなに心がけの立派な人がなぜ治らないのだろうと不思議がられても、やはりそこにはそれなりの条件があってのことなのです。ですが、よろこんで下さい。

あなた方を通じて光明へ導かれるべき人は幾らでもおります。皆が皆治せなくても、そこには厳とした法則があってのことですから、気になさらないで下さい。

と言っても、それで満足して、努力することをやめてしまわれては困ります。いつも言う通り、神の意志は愛だけではなく憎しみの中にも表現されています。

晴天の日だけが神の日ではありません。嵐の日にも神の法則が働いております。それと同じく、成功と失敗とは永遠の道づれですから、失敗を恐れたり悲しんだりしてはいけません」


問「治療による肉体上の変化は私たちにもよくわかりますが、霊的な変化は目で確かめることが出来ません」

シルバー・バーチ「たとえ百人の霊視能力者を集めても、治療中の霊的操作を全部見きわめることは出来ないでしょう。それほど複雑な操作が行われているのです。

肉体には肉体の法則があり、霊体には霊体の法則があります。両者ともそれぞれにとても複雑なのですから、その両者をうまく操る操作は、それはそれは複雑になります。

むろん全体に秩序と調和が行き亘っておりますが、法則の裏に法則があり、そのまた裏に法則があって、言葉ではとても尽くせません」


問「肉体上の苦痛は魂に何の影響も与えないとおっしゃったように記憶しますが・・・」

シルバー・バーチ「私はそんなことを言った憶えはありません。肉体が受けた影響は必ず魂にも及びますし、反対に魂の状態はかならず肉体に表われます。両者を切り離して考えてはいけません。

一体不離です。つまり肉体も自我の一部と考えてよいのです。肉体なしには自我の表現は出来ないのですから」


問「では肉体上の苦痛が大きすぎて見るに見かねる時、もしも他に救う手がないとみたら、魂の悪影響を防ぐために故意に死に至らしめるということもなさるわけですか」

シルバー・バーチ「それは患者によります。原則として霊体が肉体から離れるのはあくまで自然法則によって自動的に行われるべきです。もっとも人間の気まぐれから自然法則を犯して死を早めていることが多いようですが・・・・・・」


問「でも、明らかに霊界の医師が故意に死なせたと思われる例がありますが・・・・・」
シルバー・バーチ「ありますが、いずれも周到な配慮の上で行っていることです。それでもなお魂にショックを与えます。そう大きくはありませんが・・・・・・」


問「肉体を離れるのが早すぎたために生じるショックですか」
シルバー・バーチ「そうです。物事にはかならず償いと報いとがあります。不自然な死を遂げるとかならずその不自然さに対する報いがあり、同時にそれを償う必要性が生じます。

それがどんなものになるかはその人によって異りますが、どんなものであれ、あなた方地上の治療家としては出来るだけ苦痛を和らげてあげることに意を用いておればよろしい」


問「絶対に生きながらえる望みなしと判断した時、少しでも早く死に至らしめるような手を加えるのは良いことでしょうか悪いことでしょうか」

シルバー・バーチ「私はあくまで〝人間は死すべき時に死ぬべきもの〟と考えています」


問「肉体の持久力を弱めれば死を早めることになりますが・・・・・・」

シルバー・バーチ「どうせ死ぬと分かっている場合でもそんなことをしてはいけません。あなたがたの辛い立場はよくわかります。また私としても、好んで冷たい態度をとるわけではありませんが、法則はあくまで法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備が出来た時に来るべきものです。

それはちょうど柿が熟した時に落ちるのと同じです。熟さないうちにもぎ取ったものは渋くて食べられますまい。治療もあくまで自然法則の範囲内で手段を講ずべきです。

たとえば薬や毒物ですっかり身体をこわし、全身が病的状態になっていることがありますが、身体はもともとそんな状態になるようには意図されておりません。そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。

まずそういう観点から考えて行けば、どうすればいいかは自ずと決まってくると思います。何事も自然法則の範囲内で考えなくてはいけません。

もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てばそれなりの結果が生じます。ですが、それが本当に良いか悪いかは霊的法則にどの程度通じているかによって決まることです。

つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです。魂にとって最善であれば肉体にとっても最善であるに違いありません」


問「魂の治療の点では私たち地上の治療家よりも霊界の治療家の仕事の方が大きいのですか」
シルバー・バーチ「当然そうなりましょう」


問「すると私たちの役割は小さいということでしょうか」

シルバー・バーチ「小さいとも言えますし大きいとも言えます。問題は波長の調整にあります。大きくわけて治療方法には二通りあります。一つは治療エネルギーの波長を下げて、それを潜在エネルギーの形で治療家自身に送ります。それを再度治癒エネルギーに変えてあなた方が使用するわけです。

もう一つは、特殊な霊波を直接患者の意識の中枢に送り、魂に先天的に具わっている治癒力を刺戟して、魂の不調和すなわち病気を払いのける方法です。こう述べてもお分かりにならないでしょう」


問「いえ、理屈はよく分かります。ただ実感としては理解できませんが・・・」

シルバー・バーチ「では説明を変えてみましょう。まず、そもそも生命とは何かという問題ですが、これは地上の人間にはまず理解できないと思います。なぜかというと、生命とは本質において物質と異ったものであり、いわゆる理化学的な研究対象とはなり得ないものだからです。

で、私はよく生命とは宇宙の大霊のことであり、神とはすなわち大生命のことだと言うのですが、その意味は、人間が意識をもち、呼吸し、歩き、考えるその力、また樹木が若葉をまとい、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後に潜む力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだというのです。

ですから、あなたが今そこに生きている事実そのものが、小規模ながらあなたも神であり大生命の流れを受けていることを意味しています。

私がさっき述べた治療法は、その生命力の働きの弱った患者の魂に特殊な霊波、いわば生命のエッセンスのようなものをその霊格に応じて注ぎ込んでやることなのです。

むろんこれは病因が魂にある場合のことです。ご承知の通り病気には魂に病因があるものと純粋に肉体的なものとがあります。肉体的な場合は治療家が直接触れる必要がありますが、霊的な場合は今のべた生命力を利用します。が、この方法にも限度があります。

というのは、あなた方治療家の霊格にもおのずから限度がありますし、患者も同様だからです。またいわゆる因縁(カルマ)というものも考慮しなくてはなりません。因果律です。これは時と場所とにおかまいなく働きます」


問「魂の病にもいろいろあって、それなりの影響を肉体に及ぼしているものと思いますが、そうなると病気一つ一つについて質的に異った治癒エネルギーがいるのではないかと想像されますが・・・・・・」                
 シルバー・バーチ「まったくその通りです。ご存知の通り人間は大きく分けて三つの要素から成り立っています。一つは今述べた霊(スピリット)で、これが第一原理です。存在の基盤であり、種子であり、全てがここから出ます。

次にその霊が精神(マインド)を通じて自我を表現します。これが意識的生活の中心となって肉体(ボディ)を支配します。この三者が融合し互いに影響し合い、どれ一つ欠けてもあなたの存在は失くなります。三位一体というわけです」


問「精神と肉体が影響し合うわけですか」

シルバー・バーチ「そうです。霊的な発達程度からくる精神状態が肉体を変えていきます。意識的に変えることも出来ます。インドの行者などは西洋の文明人には想像も出来ないようなことをやってのけますが、精神が肉体を完全に支配し思い通りに操ることが出来ることを示すよい例でしょう」


問「そういう具合に心霊治療というのが魂を目覚めさせるためのものであるならば霊界側からの方がよほどやりやすいのではないでしょうか」

シルバー・バーチ「そうとも言えますが、逆の場合の方が多いようです。と言うのは、死んでこちらへ来た人間でさえ地縛の霊になってしまう者が多い事実からもおわかりのとおり、肉体をまとった人間は、よほど発達した人でないかぎり、大ていは物的な波長にしか反応を示さず、私達の送る霊波にはまったく感応しないものです。

そこであなた方地上の治療家が必要となってくるわけです。従って優れた心霊治療家は霊的波長にも物的波長にも感応する人でなければなりません。心霊治療家にかぎらず、霊能者と言われている人が常に心の修養を怠ってはならない理由はそこにあります。

霊的に向上すればそれだけ高い波長が受けられ、それだけ仕事の内容が高尚になっていくわけです。そのように法則が出来あがっているのです。ですが、そういう献身的な奉仕の道を歩む人は必然的に孤独な旅を強いられます。

ただ一人、前人未踏の地を歩みながら後の者のために道しるべを立てて行くことになります。あなたがたにはこの意味がおわかりでしょう。すぐれた特別の才能にはそれ相当の義務が生じます。両手に花とはまいりません」


問「先ほど治癒エネルギーのことを説明された時、霊的なものが物的なものに転換されると言われましたが、この転換はどこで行われるでしょうか。どこかで行われるはずですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「使用するエネルギーによって異りますが、いにしえの賢人が指摘している〝第三の目〟とか太陽神経叢などを使用することもあります。そこが霊と精神と肉体の三者が合一する〝場〟なのです。

これ以外にも患者の潜在意識を利用して健全な時と同じ生理反応を起こさせることによって、失われた機能を回復させる方法があります」


問「説明されたところまではわかるのですが、もっと具体的に、どんな方法で、いつ、どこで転換されるのか、その辺が知りたいのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「そんな風に聞かれると、どうも困ってしまいます。弱りました。わかっていただけそうな説明がどうしてもできないのです。強いて譬えるならば、さっきも言ったコンデンサーのようなことをするのです。

コンデンサーと言うのは電流の周波を変える装置ですが、大たいあんなものが用意されてると想像して下さい。エクトプラズムを使用することもあります。ただし、心霊実験での物質化現象などに使用するものとは形体が異ります。もっと微妙な、目に見えない・・・・・・」


問「一種の〝中間物質〟ですか」

シルバー・バーチ「そうです。スピリットの念波を感じ易く、しかも物質界にも利用できる程度の物質性を具えたもの、とでも言っておきましょうか。それと治療家のエネルギーが結合してコンデンサーの役をするのです。そこから患者の松果体ないしは太陽神経叢を通って体内に流れ込みます。

その活エネルギーは全身に行き亘ります。電気的な温かみを感じるのはその時です。知っておいていただきたいことは、とにかく私たちのやる治療方法には決まりきったやり方というものがないということです。患者によってみな治療法が異ります。

また霊界から次々と新らしい医学者が協力にまいります。そして新らしい患者は新らしい実験台として臨み、どんな放射線を使ったらどんな反応が得られたか、その結果を細かく検討します。

なかなか捗(はかど)らなかった患者が急に良くなり始めたりするのは、そうした霊医の研究成果の表われなのです。また治療家のところへ来ないうちに治ってしまったりすることがあるのも同じ理由によります。

実質的な治療というものは、あなたがたが直接患者と接触する以前にすでに霊界側において、その大部分が為されていると思って差支えありません」


問「そうすると、一方で遠隔治療を受けながら、もう一方で別の治療家のところへ行くという態度は治療を妨げることになるわけでしょうか」
シルバー・バーチ「結果をみて判断なさることです。治ればそれでよろしい」


問「なぜそれでいいのか理屈がわからないと、われわれ人間は納得できないのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「場合によってはそんなことをされると困ることもありますが、まったく支障を来さないこともあります。患者によってそれぞれ事情が違うわけですから一概に言い切るわけにはいきません。あなただって、患者をひと目見てこれは自分に治せるとは言い切れますまい。

治せるかどうかは患者と治療家の霊格によって決まることですから、あなたには八分通りしか治せない患者も、他の治療家のところへ行けば良くなるかも知れません。条件が異るからです。

その背後つまり霊界側の複雑な事情を知れば知るほど、こうだ、ああだと断定的な言葉は使えなくなるはずです。神の法則には無限の奥行があります。あなたがた人間としては正当な動機と奉仕の精神に基いて精いっぱい人事を尽くせばよいのです。あとは落着いて結果を待つことです」


問「細かい点は別として、私たちが知りたいのは、霊界の医師は必要とあらばどの治療家にでも援助の手を差しのべてくれるかということです」

シルバー・バーチ「霊格が高いことを示す一ばんの証明は、人を選り好みしないということです。私たちは必要とあらばどこへでも出かけます。これが高級神霊界の鉄則なのです。あなたがたも決して患者を断わるようなことをしてはいけません。

あなた方はすでに精神的にも霊的にも立派な成果をあげております。人間的な目で判断してはいけません。あなた方には物事のウラ側を見る目がないのです。従って自分のやったことがどんな影響を及ぼしているかもご存知ないようです」



問「複数の人間が集まって一人の患者のために祈念するという方法をとっている人がいますが、効果があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「この問題も祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご存知の通り、宇宙はすみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇蹟というものは絶対起こりません。

もしもその祈りが利己心から発したものでしたら、それはそのままその人の霊格を示すもので、こんな祈りで病気が治るものでないことは言うまでもありません。

ですが、自分を忘れ、ひたすら救ってあげたいという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りにはおのずから霊力も具わっていますから、高級神霊界にも届きましょうし、自動的に治癒効果を生むことも出来るでしょう。要するに祈る人の霊格によって決まることです」


問「祈りはその人そのものということでしょうか」
シルバー・バーチ「そういうことです」


問「大僧正の仰々しい祈りよりも素朴な人間の素朴な祈りの方が効果があるということでしょうか」

シルバー・バーチ「大僧正だから、あるいは大主教だからということで祈りの力が増すと考えるのは間違いです。肝心なのは祈る人の霊格です。どんなに仰々しい僧衣をまとっていても、その大僧正がスジの通らない教義に凝り固まった人間でしたら何の効果もないでしょう。

もう一ついけないのは集団で行う紋切り型の祈りです。いかにも力が増しそうですが、案外効果は少ないものです。要するに神は肩書きや数ではごまかされないということです。

祈りとは本来、自分の波長を普段以上に高めるための霊的な行為です。波長が高まればそれだけ高級な霊との接触が生じ、必要な援助が授かるというわけです。あくまで必要な援助だけです。いくらたのんでみても、必要でないもの、叶えてあげるわけにいかないものがあります。

その辺の判断は然るべき法則に基いて一分一厘の狂いもなく計算されます。法則をごまかすことは出来ません。神に情状酌量をたのんでもムダです。人間は自分自身をもごまかせないということです」


問「治療の話に戻りますが、患者に信仰心を要求する治療家がいますが、関係ないと言う人もいます。どうなのでしょうか」

シルバー・バーチ「心霊治療にかぎらず霊的なことに関しては奥には奥があって、一概にイエスともノーとも言い切れないことばかりなのです。信仰心があった方が治り易い場合が確かにあります。

その信仰心が魂に刺戟を与えるのです。しかしあくまで自然法則の知識に基いた信仰でして、何か奇蹟でも求めるような盲目の信仰ではダメです。反対にひとかけらの信仰心がなくても、魂が治るべき段階まで達しておれば、かならず治ります」


問「神も仏もないと言っている人が治り、立派な心がけの人が治らないことがあって不思議に思うことがあるのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「人間の評価は魂の発達程度を基準にすべきです。あなたがたの観方は表面的で、内面的観察が欠けています。魂そのものが見えない為に、その人はそれまでどんなことをして来たかが判断できません。治療の結果を左右するのはあくまでも魂です。

ご承知の通り、私も何千年か前に地上でいくばくかの人間生活を送ったことがあります。そして死後こちらでそれよりはるかに長い霊界生活を送ってきましたが、その間、私が何にも増して強く感じていることは、大自然の摂理の正確無比なことです。

知れば知るほどその正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりなのです。一分の狂いも不公平もありません。

人間も含めて宇宙の個々の生命はそれぞれに在るべき位置にところを得ているということです。何ごとも憂えず、ただひたすら心によろこびを抱いて、奉仕の精神に徹して生活なさい。そして、あとは神におまかせしなさい。それから先のことは人間の力の及ぶことではないのです。

あなたがたは所詮私達のスピリットの道具にすぎません。そして私たちも又さらに高い神霊界のスピリットの道具にすぎません。自分より偉大なる力がすべてを良きに計らってくれているのだと信じること、それが何より大切です」


霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

The Spirit Teachings

25節

*本節の内容啓示はそれを受ける霊覚者の霊格の程度によって差が生じる
*“神”の概念の変遷
*バイブルを神の言葉と考えるのは愚か
*“五書”とエズラ
*エロヒスト、ヤハウィスト
*サウルの時代、士師の時代、ソロモン・ヘゼキヤ・ヨシアの時代
*“預言書”の編纂
*ダニエル
*バイブルに見る神の概念の進歩
*己の無知の自覚が向上の第一歩


〔“モーセ五書”を新たな観点から読み直してみて私は、その中に神の観念が徐々に発達していく様子を明瞭に読み取ることが出来た。結局それが一人の作者によるものでなく数多くの伝説と伝承の集成にすぎないという結論に達した。その点について意見を求めると――〕


われらの手引きによる聖書の再検討において、そなたは正しき結論に到達した。そなたをその方向へ手引きしたのは、個々の書が太古の人間の伝説や伝承をまとめたものに過ぎず、そのカギを知らぬ者には見分けのつかぬものであるが故に、いかに信の置けぬものであるかを知らしめんが為である。われらはこの点を篤と訴えたい。そなたらの宗教書より引用せる言説にどこまで信を置くべきかは、むろんそなた自身の理解力にもよるが、それと同時に、その引用せる書の正体と、その言説のもつ特殊な意味にもよる。いかに古き書の中にも崇高なる神の概念を見出すことが可能である一方、その後に出たより新しき書の中にこの上なく冒とく的で極めて人間的な不愉快千万なる概念を見出すことも出来る。たとえば人間の姿をして人間と格闘する神、対立する都市への報復の計画を人間と相談する神、血の酒宴を催し敵の血を啜(すす)って満腹する残忍至極な怪物としての神、友人の家の入口に座し、仔ヤギの肉とパンを食する人間としての神、等々。その説くところは完全に類を異にし、個々の話をいくら集めたとて、正しき理性を物差しとせる判断以上のものとはなり得ぬ。それ故に、無知ゆえに真相を捉え損ね、過ちへと迷い込むことのなきよう、そうした言説は奥に秘められた意味を理解することが肝要である。

重ねて言うが、啓示とは時代によりて種類を異にするのではなく、程度を異にするのみである。その言葉は所詮は人間的媒体を通して霊界より送り届けられるものであり、霊媒の質が純粋にして崇高であれば、それだけ彼を通して得られる言説は信頼性に富み、概念も崇高さを帯びることになる。要するに霊媒の知識の水準が即ち啓示の水準ということになるわけである。故に、改めて述べるまでもあるまいが、初期の時代、たとえばユダヤ民族の記録に見られる時代においては、その知識の水準は極めて低く、特殊なる例外を除いては、その概念はおよそ崇高と言えるものではなかった。

人類創造の計画の失敗を悔しがり、悲しみ、全てをご破算にするが如き、情けなき神を想像せる時代より、人間は知識において飛躍的に進歩を遂げてきた。より崇高にして真実に近き概念を探らんとすれば、人間がその誤りの幾つかに気づき、改め、野蛮な想像力と未熟な知性の産み出せる神の概念に満足できぬ段階に到達せる時代にまで下らねばならぬ。野蛮な時代は崇高なるものは理解し得ず、従って崇高なるものは何一つ啓示されなかった。それは、神の啓示は人間の知的水準に比例するという普遍的鉄則に準ずるものである。故に、そもそもの過ちの根源は人間がその愚かにして幼稚きわまる野蛮時代の言説をそのまま受け継いで来たことにある。神学者がそれを全ての時代に適応さるべき神の啓示であるとしたことにある。その過ちをわれらは根底より改めんと欲しているのである。

今一つ、それより更に真理を台無しにするものとして、神は全真理を聖書の全筆録者を通じて余すところなく啓示し、従って根源的作者は神であるが故に、そこに記録された文字は永遠にして絶対的権威を有するとの信仰がある。この誤りはすでにそなたの頭からは取り除かれている。その証拠に、最早やそなたは神が矛盾撞着だらけの言説の作者であるとは思わぬであろうし、時代によりて相反することを述べるとも思うまい。霊界からの光が無知蒙昧なる霊媒を通じて送られ、その途中において歪められたのである。

そうした誤れる言説に代わりてわれらは、啓示というものがそれを送り届けんとする霊の支配下にあり、その崇高性、その完全性、その信頼性にそれぞれの程度があると説く。またそれ故にその一つ一つについて理性的判断をもって臨むべきであること、つまり純粋なる人間的産物を批判し評価する時と全く同じ態度にて判断すべきであると説くのである。そうなれば聖典を絶対的論拠とすることもしなくなるであろう。全ての聖典を(神が絶対無二のものとして授けたのではなく)単なる資料として今そなたの前に置かれたものとして取り扱うことになろう。その批判的精神をもって臨む時、聖典そのものの出所と内容について、これまで是認され信じられて来たものの多くを否定せねばならぬことに気づくであろう。

さてそなたは「モーセ五書」について問うている。これは前にも少し触れた如く、何代にも亙って語り伝えられた伝説と口承が散逸するのを防ぐためにエズラが集成したものである。その中のある部分、とくに“創世記”の初めの部分は記述者が伝説にさらに想像を加えたものに過ぎぬ。ノアの話、アブラハムの伝説等がそれであり、これらは他の民族の聖典にも同一のものが見られる。“申命記”の説話もみなそうであり、エズラの時代に書き加えられたものである。その他についても、その蒐集はソロモンとヨシアの時代の不完全なる資料より為されたものであり、それがまたさらにそれ以前の伝説と口承に過ぎなかったのである。いずれの場合もモーセ自身の言葉ではない。また律法に関する部分の扱いにおいて真正なる原典からの引用部分は例外として、他に真正なるものは一つも存在せぬ。

いずれ、聖書の初期の書に見られる神の観念につきて詳しく述べることになろう。今は、そうした書が引用せる神話や伝説を見れば、他の資料によりその真正さが確認された場合を除けば、その歴史的記述も道徳的説話も一顧の価値だになきものであることを指摘するに留める。


〔この通信は私自身の調査を確認するところとなった。編纂者が引用したのはエロヒスト(1)とヤハウィスト(2)の二人の記録まで辿ることが出来ると考えた。それは例えば“創世記”第一章及び第二章の③と第二章の④の天地創造の記述の対比、ゲラルにおけるアビメレク王によるサラの強奪(“創世記”第二十章)と同第十二章の⑩~⑲及び第二十六章の①~②の対比に見られる。私はこの見解が正しいか否かを尋ねた。〕


それも数多い例証の中の一つに過ぎぬ。こうした事実を認識すれば、その証拠がそなたの身近に幾らでも存在することに気づくであろう。問題の書はエズラの二人の書記エルナサン(3)とヨイアリブ(4)が引用せる伝説的資料である。数が多く、あるものはサウル王(5)の時代に蒐集され、あるものは更に前のいわゆる“イスラエルの士師(6)”の時代に蒐集され、またあるものはソロモン(7)とヘゼキヤ(8)とヨシア(9)の時代に蒐集されたもので、いずれも口承で語り継がれた伝説に恰好をつけたものに過ぎぬ。啓示の本流がメルキゼデクに発することはすでに指摘した。それ以前のものは悉く信が置けぬ。霊に導かれた人物に関する記録も、必ずしも全てが正確とは言えぬ。しかし全体としての啓示の流れはこれまでわれらが述べて来た通りであったと思えばよい。


〔旧約聖書の聖典がそのような形で決められてきたとなると“預言書”についてはどの程度まで同じことが言えるかを尋ねた。〕


あの預言の書は全てエズラ王の権威のもとに、現存せる資料を加え配列したに過ぎぬ。そのうちのハガイ書(10))、ゼカリア書(11)、マラキ書(12)はその後に付け加えられたものである。ハガイはエズラ書の編纂に関わり、またマラキと共にその後の書を付加して、ついに旧約聖書を完成せしめた。この二人とゼカリアの三人は常に親密な間柄を保ち、大天使ガブリエル(13)とミカエル(14)がその霊姿を預言者ダニエル(15)の前に現わして使命を授けた時にその場に居合わせる栄誉に浴した。預言者ダニエルは実に優れたる霊覚者であった。有難きかな、神の慈悲。有難きかな、その御力の証。


――“ダニエル書”第十章にある“幻(まぼろし)”の話ですか。


ヒデケル(16)の土手のそばでの出来ごとであった。


――同じものです。と言うことは、預言者の言葉からの抜粋に過ぎないということでしょうか。


抜粋に過ぎぬ。それには、もともと隠された意味があった。表面には出ておらぬ。霊現象の多発する時代が過ぎ去らんとする時に、過去の記録より抜粋されたのである。そして再び霊の声の聞かれる時代まで聖書も閉じられたままになったのである。


――ダニエルが大預言者、つまり霊覚者であったと言われますが、当時は霊的能力は珍しくなかったのでしょうか。


ダニエルは格段に優れた霊的能力を具えていた。霊的時代の幕が閉じられるころは霊的能力も滅多に見られなくなっていった。が、今の時代に比べれば霊力の開発に熱心であった。霊力と霊的教訓を大切にし、よく理解していた。


――となると旧約聖書に見られる類の霊言や霊視の記録が相当失われているに相違ありません。


まさにその通りである。記録する必要もなかったのである。記録されたものでも聖書から除外されたものもまた多い。


〔それより二、三日後(十一月十六日)にかねてより約束の、神の概念についての通信を要求した。〕


聖書に見られる神の概念につきては、これまで折にふれて述べて来た。この度は次の諸点すなわち神の概念が徐々に進歩して来ていること、故にアブラハムの神はヨブの神に劣ること、われらが常に指摘している基本的真理――神の啓示は人間の霊的発達と相関関係にあり、人間の能力に応じて神が顕現されるものであることは聖書の至るところに見られることなどをより明確に致したく思う。

その基本的概念を念頭に置いた上でアブラハム、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、エゼキエル、ダニエルの各書を読めば、われらの指摘する通りであることが一目瞭然となろう。初期の族長時代においては絶対的最高神は数々の人間的概念のもとに崇敬されていた。アブラハム、イサク、ヤコブの親子三代に亙る神は、それを神として信じた当人にとっては優れた神であったかも知れぬが、近隣の族長の神よりも優れていたというに過ぎぬ。アブラハムの父はそなたも知る如く変わった神々を信じていた。息子の神とは別の複数の神を信じていた。いや実は当時はそれが当たり前のことであった。各家族がそれぞれの代表としての神をもち、崇め、誓いを立てていたのである。そのことは最高神のことをエホバ・エロヒムと呼んだことからも窺えよう。

さらに、思い出すがよい、ヤコブの義父ラバンはヤコブが自分の神々を盗んだと言って追求し脅迫したであろう。そのラバンはある時家族の神々の像を全部まとめてカシの木の根本に埋め隠したりしている。こうした事実を見てもエホバと呼ばれている神はアブラハムとイサクとヤコブの神なのである。つまり唯一絶対の神ではなく、一家族の神に過ぎなかったのである。

そうした家族神がモーセとその後継者ヨシュアの時代にイスラエルの国家神へと広がっていったのは、イスラエルの民が一国家へと成長した段階になってからのことであった。モーセでさえその絶対神の概念においてまだ他の神より優れた神といった観念より完全に抜け切っていたとは言えぬ。そのことは、神々の中でエホバ神に匹敵するものはおらぬという言い方をしていることからも窺えよう。その類の言説が記録の中に数多く見られる。かの「十戒」の中においてさえ、それを絶対神の言葉そのものであると言いつつ、イスラエルの民はその絶対神以外の神を優先させてはならぬと述べている。ヨシュアの死の床での言葉を読むがよい。そこにも他の神より優れた神の観念を見ることが出来よう。

真の意味での絶対神に近い観念が一般的となってきたのは、そうした人間神の観念に反撥を覚えるまでに成長してからのことであった。“預言書”ならびに“詩篇”を見れば、神の観念がそれ以前の書に比して遙かに崇高さを増していることに気づくであろう。

この事実に疑問の余地はない。神は聖書の中においてさまざまな形にて啓示されている。崇高にして高邁なるものもある。“ヨブ記”と“ダニエルの書”がそれである。一方卑俗にして下品なるものもある。歴史書と呼ばれているものがそれである。が、全体として観た時、そこに神が人間の理解力に相応しき形にて啓示されてきていることを窺うことが出来よう。

またそれは必ずしも直線的に進歩の道を辿って来たともかぎらぬ。傑出せる人物が輩出した時は、神の概念も洗練され品格あるものとなった。必ずそうなっている。ことにイエスが絶対神を説いた時が際立ってそうであった。今なお優れたる霊が霊覚者を通してその崇高なる神の観念を伝え、より明るき真理の光を地上にもたらしつつある。そなたの生きて来たほぼ全世代を通してその働きは続いており、かつてより遙かに明るき神の観念が啓示されつつある。備えなき者は見慣れぬ眩しさに目を瞬(しばた)かせ、光を遮り、暗闇へと逃げ込む。神の真理を正視し得るまでに魂の準備が出来ていなかったからに他ならぬ。


――聖火の伝達者というわけですね。確かに歴史を見れば時代より一歩先んじた人物がいたことは容易に知ることが出来ます。思うに人類の歴史は発展の歴史以外の何ものでもなく、同じ真理でも、その時点での能力以上のものは理解できないことが判ります。そうでなければ永遠の成長ということが言えなくなるわけですから。いずれにせよ、まだまだ私は知らないことばかりです。


己の無知に気づいたことは結構なことである。それが向上の第一歩なのである。そなたは今やっと真理の神殿の最も外側の境内に立ったようなものであり、奥の院にはほど遠き距離にある。まず外庭を幾度も回り、知り尽くしたのちに始めて中庭に入ることを許される。まして奥の院を拝するに相応しき時に到るまでには永く苦しき努力を積まねばならぬ。が、それでよい。焦らぬことである。祈ることである。静かに、忍耐強く待つことである。

(†インペレーター)

シルバー・バーチの霊訓 古代霊は語る

   The Ancient Spirits Speak



第六章 動物の進化と死後の生命

 動物にも死後の生命があるのか、あの世で再び会うことが出来るのかという問題は、スピリチュアリズムに関心のある人にとって共通した関心事ですが、動物をいわゆるペットとして吾が子のように可愛がっている人々にとっても大きな関心事であろうかと思われます。

 心霊問題に熱心な方なら、動物の存続を証明する確証を何らかの形で得ておられることでしょう。心霊写真に動物が写っていることがよくありますし、霊界通信でもそれを証言する霊がいくらもいます。

 さて、ひと味違った霊界通信に、英国の女性心霊治療家オリーブ・バートンの 「子供のための心霊童話」 Spirit Stories for Children, retold by Olive Burton というのがあります。これはバートン女史のお嬢さんのエドウィーナちゃんの守護霊が語った一種の童話で、一つ一つの話に立派なカラーの挿画も付いていて、

日本も早くこうしたものが出せる世の中になってほしいと思わせる心霊書ですが、この童話の中ではペットだけでなく野獣も含めた動物のすべてが、人間(の霊)と完全に調和した生活を送っている様子が描かれており、それがそのまま霊界での真実であると述べています。

 それより先の一九四〇年に、バーバネル氏の奥さんであるシルビア・バーバネル女史が When Your Animal Dies というのを出しています。

文字どおり動物の死後を扱ったもので、出版と同時に大変な反響を呼び、幾度か版を重ねております。この本を読んでスピリチュアリズムを信じるようになったという人が少なくありません。

私はこれもいずれは日本でも出さねばならない心霊書の一つだと考えておりますが、その第十八章に動物に関するシルバー・バーチの霊言が特集してあります。

 もちろん一九四〇年までの十年余りの間の霊言が引用されているわけで、その後もシルバー・バーチは折にふれて動物愛護を説き、娯楽のための狩猟、食用のための屠殺、科学に名を借りた動物実験の罪悪性を戒めておりますが、

その十八章にはシルバー・バーチシリーズ(全十一冊)に編集されていないものが相当あり(注)、しかも内容的に見てもそれで全てをつくしているようですので、ここではその十八章をそのまま引用することにしました。

 単に動物の死後の問題にとどまらず、生命の進化、自我の発生など、心霊学徒にとって興味深い問題が次々と出て来ます。章の始めは当然のことながらシルバー・バーチという霊の紹介に費やされておりますが、われわれにとっては不要ですので、早速本題に入ります。

(注──このシリーズは各編者が半世紀に亘るシルバー・バーチの霊言の中から自分の主観によって編集したもので、従って全十一冊が霊言のすべてではないわけです。何冊かに重複して編集されている部分もあれば、どの霊言集にも載せられていない部分もあるわけで、その一例がこれから紹介する部分です)


問「動物は死後もずっと飼主といっしょに暮らすのでしょうか。それとも、いずれは動物だけの界へ行くのでしょうか」

シルバー・バーチ「どちらとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛がかかわっているからです。死後も生前のままの形体を維持するか否かは、その動物に対する飼主の愛一つにかかっているのです。

もしも動物とその飼主──この飼主 (owner) という言葉は好きではありません。他の生命をわがものとして所有する(own)などということは許されないのですから──その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼主のところで暮らします。

愛のある場所が住処となるわけです。愛が両者を強く結びつけるのです。その場合は動物界へ行く必要はありません。しかし、もしも飼主より先に他界した場合は、動物界へ行ってそこで面倒をみて貰わなくてはなりません。

飼主との愛が突如として切れたのですから、単独で放っておかれると動物も迷います。地上では人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けたのですから、その主人が来るまで、ちょうどあなた方が遠出をする時にペットを専門家にあずけるように、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです」


問「人間との接触によって動物はどんなものを摂取するのでしょうか」

シルバー・バーチ「長い進化の道程のどこかの時点で、神が、というよりは法則の働きによって、動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力というものを身につけたわけです。

すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部はじめから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが神の息吹きで目を醒ましたわけです。

さて、そうして神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことが出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込むことが出来るはずです。

つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。それがその後の長い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命のすべてのカギです。

動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。

また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同士でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。愛があればこそ生命は進化するのです」


問「霊界で動物と再会したとして、その一緒の生活はいつまで続くのでしょうか。いつまでも人間と一緒ですか」

シルバー・バーチ「いえ、その点が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても分かれなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるか分かりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違うために、どうしても人間について行けなくなる時が来ます。

人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、向上進化を求める霊性が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力が他の生命の進化を援助する方向へと発揮されていきます。

そうやって人間が霊的に向上すればするほど、動物はいかに愛によって結ばれているとは言えそのスピードについて行けなくなり、やがてこの愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合していきます」


問「すると動物の場合は個性を失ってしまうということですか」

シルバー・バーチ「その通りです。そこに人間と動物の大きな違いがあるわけです。動物は類魂全体として未だ一個の個性を有する段階まで進化していないのです。その段階まで進化すれば、もはや動物ではなくなり、人間となります。

ペットとして可愛がられた動物は、人間の愛の力によって言わば進化の段階を飛び越えて人間と一緒に暮らすわけで、人間の進化についていけなくなって愛の糸が切れてしまえば、もとの類魂の中に戻るほかはありません」


問「せっかく人間との接触で得たものが消えてしまうのでは愛がムダに終ったことになりませんか」

シルバー・バーチ「そんなことはありません。類魂全体に対して貢献をしたことになります。類魂全体としてその分だけ進化が促進されたことになるのです。全体に対する貢献です。

今までその類魂に無かったものが加えられたわけです。全体のために個が犠牲になったということです。そうしたことが多ければ多いほど類魂の進化が促進され、やがて動物の段階を終えて人間へと進化していきます」


問「その時点で人間界へと誕生するわけですか」
シルバー・バーチ「そうです。人間界への誕生には二種類あります。古い霊が再び地上へ戻ってくる場合と、そうやって動物界から始めて人間界へ誕生してくる場合です」


問「一人の人間としてですか」
シルバー・バーチ「そうです。双方とも霊魂です。双方とも自我意識をもった霊であり個性を有しております。ただ、一方がベテラン霊で、進化の完成のためにどうしても物質界で体験しなければならないことが生じて、再び地上へやってくるのに対し、他方は、やっと人間の段階にまで達した新入生です。

直前まで動物だったのが人間へとジャンプしたのです。アメーバの状態から始まって爬虫類、魚類、鳥類、そして動物と、ありとあらゆる進化の段階を辿って、今ようやく人間へと達したのです」


問「セオソフィー(神智学)の教えと同じですね」

シルバー・バーチ「何の教えでもよろしい。私に対して、学派だの宗派だのを口にするのはやめて下さい。世の評論家というのはアレコレとよく知っていることをひけらかすだけで、その実、素朴な真理を何一つご存知ない。

困ったことです。それは措いて、あなたはまさか蜘蛛を家の中に持ち込んでペットとして飼ったりはしないでしょう。

カブト虫に温い人間愛を捧げるようなことはしないでしょう。それはあなたと、そういう昆虫との間の隔たりを意識するからです。進化の道程においてはるかに遅れていることを本能的に直感するからです。

一方、犬とか猫、時に猿などをペットとして可愛がるのは、一種の近親感を意識するからです。もうすぐ人間として生まれ代わってくる段階まで近づいて来ているために、動物の方でも人間の愛を受け入れようとするのです」


問「では下等動物が人間に飼われるということは、その動物はもうすぐ人間に生まれ代わるということを意味するのでしょうか」

シルバー・バーチ「進化にも、突然変異的な枝分かれ、いわゆる前衛と、後戻りする後衛とがあります。つまり前に行ったり後に下がったりしながら全体として進化していきます。中には例外的なものも生じます。

動物で知的な面でずいぶん遅れているものもいれば、小鳥でも犬より知的に進化しているものがいたりします。しかしそうした例外と、全体の原理とを混同してはいけません」


問「動物の類魂は同じ種類の動物に何回も生まれ代わるのですか、それとも一回きりですか」
シルバー・バーチ「一回きりです。無数の類魂が次々と生まれ代わっては類魂全体のために体験を持ち帰ります。動物の場合はそれぞれ一度ずつです。そうしないと進化になりません」


問「われわれ人間としては、犬や猫などのペットと同じように、生物のすべてに対して愛情を向けることが望ましいのでしょうか」

シルバー・バーチ「それはそうです。しかし同じ反応を期待してはいけません。愛情は愛情を呼び、憎しみは憎しみを呼ぶというのが原則ですが、進化の程度が低いほど反応も少なくなります。

あなたの心に怒りの念があるということは、それはあなたの人間的程度の一つの指標であり、進歩が足りないこと、まだまだ未熟だということを意味しているわけです。

あなたの心から怒りや悪意、憎しみ、激怒、ねたみ、そねみ等の念が消えた時、あなたは霊的進化の大道を歩んでいることになります」


問「動物がようやく人間として誕生しても、その人生がみじめな失敗に終った場合は、再び動物界へ戻るのでしょうか」

シルバー・バーチ「そういうことはありません。一たん人間として自我意識を具えたら、二度と消えることはありません。それが絶対に切れることのない神との絆なのですから・・・・・・」


問「屠殺とか動物実験等の犠牲になった場合の代償──いわゆる埋め合わせの法則はどうなっていますか」

シルバー・バーチ「もちろんそれにもそれなりの埋め合わせがありますが、一匹とか一頭とかについてではなく、その動物の属する類魂を単位として法則が働きます。進化の程度が異る動物と人間とでは因果律の働き方が違うのです。

特に動物の場合は原則として死後は類魂の中に個性を埋没してしまうので、個的存在とは条件が異ります。類魂全体としての因果律があるのですが、残念ながら人間の言語では説明のしようがありません。譬えるものが見当たりません」


問「シラミとかダニなどの寄生虫は人間の邪心の産物だという人がいますが、本当でしょうか。あれはホコリとか病気などの自然の産物ではないかと思うのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「仮りにホコリや病気のせいだとした場合、そのホコリや病気は一体だれがこしらえたのですか。原因を辿れば人間の利己心に行きつくのではありませんか。その利己心はすなわち邪心と言えます。

たしかに直接の原因は衛生の悪さ、不潔な育児環境、ホコリとか病気、直射日光や新鮮な空気の不足とかにありますが、さらにその原因を辿れば、そういう環境を改めようとしない、恵まれた環境にある人たちの利己心、非人間性に行きつきます。

これは一種の邪心であり、私に言わせれば人間の未熟性を示しています。そういう利己心を棄て、弱者を食いものにするようなマネをやめ、我欲や野心を生む制度を改めれば、害虫や寄生虫は発生しなくなります」


問「それは、たとえばハエのようなものには当てはまらないでしょう」

シルバー・バーチ「いいですか。大自然全体は今なお進化の過程にあるのです。自然界のバランスは人類の行為如何によって左右されており、人類が進化すればするほど、地上の暗黒地帯が減っていくのです。人間の霊性の発達と自然界の現象との間には密接な関係があるのです。

人間の存在を抜きにした自然界は考えられないし、自然界を抜きにして人間の進化はあり得ません。双方の進化は大体において平行線を辿っています。

人間は神によって創造されたものでありながら、同時に又、神の一部として、宇宙の進化の推進者でもあり、自分自身のみならず、自分の属する国家をも司配する自然法則に影響を及ぼします。

 私は今、人間と自然界の進化は大体において平行線を辿ると言いました。両者にはどうしても少しずつズレが出てくるのです。なぜなら、過去の世代が残した業はかならず処理していかねばならないからです。」


問「今おっしゃったことは恐ろしい野獣についても当てはまるのでしょうか」

シルバー・バーチ「全面的ではありませんが一応当てはまります。ただ忘れないでいただきたいのは、進化というのは一定の型にはまったものではないのです。いろいろと変化をしながら永遠に続くのです。

原始的なものからスタートして低い段階から高い階段へと進むのですが、かつては低いところにいたものが次第に追い抜いて今では高い所にいたり、今高いところに位置しているものが、将来は低い方になることもあります」


問「では進化にも後戻りということがあるわけですか」

シルバー・バーチ「それを後戻りと呼ぶのであればイエスという答えになりましょう。というのは、進化というのは一種のサイクル、現代の思想家の言葉を借りればスパイラル(らせん状)を画きながら進むものだからです。どちらの言い方でもかまいません。

要は進化というものが常に一直線に進むものでないことを理解していただければよろしい。一歩進んでは後退し、二歩進んでは後退し、ということを繰り返しながら延々と続くのです」

問「動物同士は殺し合っているのに、なぜ人間は動物実験をやってはいけないのでしょう」

シルバー・バーチ「それが人間の進化の指標だからです。人間が進化すればするほど地上から残忍性と野蛮性が消えていきます。愛と慈しみと寛容の精神が地上にみなぎった時、動物の残忍性も消えて、それこそライオンと羊が仲良く寄りそうようになります」


問「しかし動物の残忍性も動物としての発達の表われではないでしょうか」

シルバー・バーチ「あなたもかつては動物だったのですよ。それがここまで進化してきた。だからこそ太古に比べれば動物界でもずいぶん残忍性が減ってきているのです。トカゲ類で絶滅したのもいます。なぜ絶滅したと思いますか。人間が進化したからです」


問「おとなしい動物の中にも絶滅したものがいますが・・・・・・」

シルバー・バーチ「進化の一ばんの指標が残忍性に出るといっているのです。太古でも進化上の枝分かれがいくつもありました。それらは進化の先進者とでも言うべきものです。

進化というのはどの段階においても一定の型にはまったものではありません。優等生もおれば劣等生もおり、模範生もおれば反逆児もおります。おとなしい動物はさしずめ優等生だったわけです」


問「寄生虫の類も動物と同じ類魂の中に入っていくのですか」

シルバー・バーチ「違います」


問「動物の類魂は一つだけではないということですか」

シルバー・バーチ「各種属にそれぞれの類魂がいます」


問「それが更に細分化しているわけですか」

シルバー・バーチ「そうです。細分化したものにもそれぞれの類魂がおります。新らしい霊───はじめて人間の身体に宿る霊は、動物の類魂の中の最も進化した類魂です」


問「動物で一ばん進化しているのは何ですか」

シルバー・バーチ「犬です」


問「寄生虫の類魂の存在は害を及ぼしますか」

シルバー・バーチ 「別に害はありません。全体のバランスから見て、ほとんど取るに足らぬ勢力ですから。でもこれはずいぶん深入りした質問ですね」


問「動物の類魂の住処はやはり動物界にあるのですか」

シルバー・バーチ「私にはあなたより有利な点が一つあります。それは地理を学ばなくてもいいということです。場所とか位置がいらないのです。霊的なものは空間を占領しないのです。地上的な位置の感覚で考えるからそういう質問が出てくるのです。

魂には居住地はいりません。もっとも、形体の中に宿れば別です。類魂そのものには形体はありませんが、もしも形体をもつとなれば、何らかの表現形態に宿り、その形態で自己表現できる場が必要になります」


問「動物の類魂は地球上に対して何か物質的なエネルギーを供給しているのでしょうか。地球にとってそれなりの存在価値があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「進化の過程においての存在価値はあります。ただ気をつけていただきたいのは、どうもあなた方は物的なものと霊的なものとをあまりに区別しすぎるきらいがあります。

地上に存在していても立派に類魂の一部でありうるわけで、死ななければ類魂の仲間入りが出来ないと錯覚してはいけません」


問「ペットも睡眠中に霊界を訪れますか」

シルバー・バーチ「訪れません」


問「では死んでから行く世界にまるで馴染みがないわけですか」

シルバー・バーチ「ありません。人間の場合は指導霊が手を引いて案内してくれますが、動物の場合はそれが出来るのは飼主だけですから、飼主が地上にいれば案内できない理屈になります」


問「飼主が先に死んだ場合はどうなりますか」

シルバー・バーチ「その場合は事情が違ってきます。いま述べたのは一般的な話です」


問「人間より動物の方が心霊能力がすぐれている場合があるのはどうしてですか」

シルバー・バーチ「人間がいま送っているような〝文化生活〟を体験していないからです。人間がもしも文化生活の〝恩恵〟に浴さなかったら、心霊能力が普段の生活の一部となっていたはずです。つまり人間は文明と引き替えに心霊能力を犠牲にしたわけです。

動物には人間のような金銭問題もなく、社会問題もないので、本来なら人間が到達すべきであった段階へ人間より先に到達したのです。

人間の場合は物質文明が心霊能力を押さえ込んでしまったわけです。いわゆる霊能者というのは進化のコースの先駆者です。いずれは人間の総てが発揮するはずの能力をいま発揮しているわけです」


問「動物にはいわゆる第六感というのがあって災害を予知したり、知らないところからでもちゃんと帰って来たりしますが、これも心霊能力ですか」

シルバー・バーチ「そうです。霊能者にも同じことが出来ます。ただ動物の場合はその種属特有の先天的能力である場合があります。いわゆる本能といわれているもので、ハトがどんな遠くからでも帰ってくるのもそれです。これも一種の進化の先がけで、その能力だけがとくに発達したわけです」


問「死んだばかりの犬が別の犬と連れだって出て来ている様子を霊能者が告げてくることがありますが、犬同士でも助け合うことがあるのですか」

シルバー・バーチ「ありません。ただし地上でその二匹が一緒に暮らした経験があれば連れだって出ることはあります」

問「動物界にはどんな種類の動物がいるのでしょうか」

p196    
シルバー・バーチ「地上で可愛がられている動物、親しまれている動物、大切にされている動物、人間とほとんど同等に扱われて知性や思考力を刺戟された動物のすべてがおります。

そうした動物は飼主の手から離れたことでさみしがったり迷ったりするといけないので、動物界に連れてこられて、他の動物といっしょに暮らしながら、動物の専門家の特別の看護を受けます。

そこには動物をよろこばせるものが何でも揃っており、やりたいことが何でも出来るので、イライラすることがありません。そして時には地上にいる飼主の家の雰囲気内まで連れてこられ、しばしその懐しい雰囲気を味わいます。

心霊知識のない人が自分の飼っていた犬を見たとか猫が出たとか言ってさわぐのはそんな時のことです。何となくあの辺にいたような気がするといった程度にすぎないのですが、地上の動物の目にはちゃんと見えています。霊視能力が発達していますから・・・・・」


問「動物界で世話をしている人間が連れてくるわけですか」

シルバー・バーチ「そうです。それ以外の人について戻ってくることはありません。ところで、その世話をしている人はどんな人たちだと思いますか。動物が大好きなのに飼うチャンスがなかった人たちです。

それはちょうど子供が出来なくて母性本能が満たされなかった女性が、両親に先立って霊界へ来た子供の世話をするのと一緒です。

犬とか猫、その他、人間が可愛がっている動物が飼主に先立ってこちらへ来ると、動物が大好きでありながら存分に動物との触れ合いがもてなかった人間によって世話をされるのです。

もちろん獣医のような動物の専門家がちゃんと控えております。それもやはり地上で勉強したことがそのまま霊界で役に立っているわけです。知識は何一つ無駄なものはありません」


問「病気で死亡した動物の場合も人間と同じように看護されるのですか」
シルバー・バーチ「そうです。そうしたチャンスをよろこんで引き受けてくれる人が大勢います」


問「動物界は種類別に分けられているのですか、それとも全部が混り合っているのですか」
シルバー・バーチ「種族の別ははっきりしています」


問「動物界は一つでも、それぞれの境界があるということですか」
シルバー・バーチ「そうです。とにかく自然に出来あがっております。一つの大きなオリの中に飼われているのではありません」


問「猫は猫、犬は犬に分けられているわけですか」
シルバー・バーチ「その通りです」


問「特に仲の良かったもの同士は別でしょう。その場合は互いに境界の近くに来るわけですか」
シルバー・バーチ「そういうことです。すべてが至って自然に出来あがっていると考えて下さい」


問「犬の次に進化している動物は何ですか。猫ですか猿ですか」
シルバー・バーチ「猫です」

問「なぜ猿ではないのでしょう。人間と非常によく似ていると思うのですが」
シルバー・バーチ「前にも述べましたが、進化というのは一本道ではありません。必ず優等生と劣等生とがいます。人間はたしかに猿から進化しましたが、その猿を犬が抜き去ったのです。その大きな理由は人間が犬を可愛がったからです」


問「犬が人間の次に進化しているから可愛がるのだと思っていましたが・・・・・・」

シルバー・バーチ「それもそうですが、同時に人間の側の好き嫌いもあります。それからこの問題にはもう一つの側面があるのですが、ちょっと説明できません。

長い長い進化の道程において、猿はいわば足を滑らせて後退し、残忍にはならなかったのですが、ケンカっぽく、そして怠けっぽくなって歩みを止めてしまい、結局類魂全体の進化が遅れたのです。

それと同時に、というより、ほぼその時期に相前後して、犬の種族が進化してきました。猿よりも類魂全体の団結心が強く、無欲性に富んでいたからです。しかしどうも説明が困難です。もっともっと複雑なのです」


問「猿の種族が法則を犯したのでしょうか」
シルバー・バーチ「法則を犯したというのではなく、当然しなければならないことをしなかったということです」


問「では猿と同じように、将来、犬が進化の階段をすべり落ちるということもあり得るのでしょうか」

シルバー・バーチ「それはもう有り得ないでしょう。というのは、すでに何百万年もの進化の過程を辿って来て、地上の種がすっかり固定してしまったからです。

種の型がほとんど定型化して、これ以上の変化の生じる可能性はなくなりつつあります。物質的進化には限度があります。形体上の細かい変化はあるかも知れませんが、本質的な機能上の変化は考えられません。

 人間の場合を考えてごらんなさい。現在の型、すなわち二本の腕と脚、二つの目と一つの鼻が大きく変化することは考えられないでしょう。これが人間の定型となったわけです。もちろん民族により地方によって鼻とか目の形が少しずつ違いますが、全体の型は同じです。

動物の場合はこの傾向がもっと強くて、霊界の類魂に突然変異が発生することはあっても、それが地上の動物の型を大きく変化させることはまずないでしょう」


問「猿の転落もやはり自由意志に関係した問題ですか」
シルバー・バーチ「それは違います。自由意志は個的存在の問題ですが、動物の場合は類魂全体としての問題だからです」


問「動物に個体としての意識がないのに、なぜ類魂全体としての判断が出来るのですか」

シルバー・バーチ「個々には理性的判断はなくても、働くか怠けるかを選ぶ力はあります。必要性に対して然るべく対処するかしないかの選択です。そこで種としての本能が伸びたり衰えたりします。

個々には判断力はなくても、長い進化の過程において、種全体として然るべき対処を怠るという時期があるわけです」


問「それは植物の場合にも言えるわけですか」
シルバー・バーチ「そうです」

問「それは外的要因によっても生じるのではないですか」
シルバー・バーチ「それはそうですが、あなたのおっしゃる外的というのは実は内的でもあるのです。それに加えて更に、霊界からコントロールする霊団の存在も考慮しなくてはいけません」


問「例えば猿の好物であるナッツが類が豊富にあれば、それが猿を怠惰にさせるということが考えられませんか」

シルバー・バーチ「結果論からすればそうかも知れませんが、ではナッツがなぜ豊富にあったかという点を考えると、そこには宇宙の法則の働きを考慮しなくてはいけません。

つまり人間の目には外的な要因のように見えても、霊界から見れば内的な要因が働いているのです。私の言わんとしているのはその点なのです。

人間はとかく宇宙の法則を何か生命のない機械的な、融通性のないもののように想像しがちですが、実際は法則と法則との絡まり合いがあり、ある次元の法則が別の次元の法則の支配を受けることもありますし、その根源において完全にして無限なる叡知によって支配監督されているのです。

法則にもまず基本の型というものがあって、それにいろいろとバリエーション(変化)が加えられています。といっても、その基本の型の外に出ることは絶対に出来ません。どんなに反抗してみたところで、その法のワクはどうしようもなく、結局は順応していくほかはありません。

しかし同じ型にはまっていても、努力次第でそれを豊かで意義あるものにしていくことも出来るし、窮屈で味気ないものにしてしまうことも出来ます。

別の言い方をすれば、その法則に調和した色彩を施すのも、あるいはみっともない色彩を塗りつけてしまうのもあなた次第ということです。いずれにせよ、型は型です」


問「動物実験がますます増えておりますが、どう思われますか。これを中止させようと運動している団体もありますが、霊界からの援助もあるのでしょうか」

シルバー・バーチ「ためになる仕事をしようと努力している人は必ず霊界の援助を受けます。神の創造物に対して苦痛を与えることは、いかなる動機からにせよ許されません。

ただ、動物実験をしている人の中には、人類のためという一途な気持でいっしょうけんめいなあまり、それが動物に苦痛を与えていることに全く無神経な人がいることも忘れてはなりません。しかし罪は罪です」



問「でもあなたは動機が一ばん大切であると何度もおっしゃっています。人類のためと思ってやっても罰を受けるのでしょうか」

シルバー・バーチ「動機はなるほど結構なことかも知れませんが、法の原理を曲げるわけにはいきません。実験で動物が何らかの苦痛を受けていることがわからないはずはありません。それでもなお実験を強行するということは、それなりの責務を自覚しているものと看做されます。

動機は人のためということで結構ですが、しかしそれが動物に苦痛を与えているわけです。そうした点を総合的に考慮した上で判断が下されます。いずれにせよ私としては苦痛を与えるということは賛成できません」


問「動物は人類のために地上に送られてきているのでしょうか」

シルバー・バーチ「そうです。同時に人類も動物を助けるために来ているのです」


問「動物創造の唯一の目的が人類のためということではないと思いますが」

シルバー・バーチ「それはそうです。人類のためということも含まれているということです」


問「動物の生体解剖は動機が正しければ許されますか」

シルバー・バーチ「許されません。残酷な行為がどうして正当化されますか。苦痛を与え、悶え苦しませて、何が正義ですか。それは私どもの教えと全く相容れません。無抵抗の動物を実験台にすることは間違いです」



問「動物を実験材料とした研究からは、たとえばガンの治療法は発見できないという考えには賛成ですか」

シルバー・バーチ「神の摂理に反した方法で手に入れた治療法では病気は治せません。人間の病気にはそれぞれにちゃんとした治療法が用意されています。しかしそれは動物実験からは発見できません」


問「そうしたむごい実験を見ていながら、なぜ霊界から阻止していただけないのでしょうか」

シルバー・バーチ「宇宙が自然法則によって支配されているからです」


問「私はキツネ狩りをしたことがありますが、間違ったことをしたことになりますか」

シルバー・バーチ「すべて生命のあるものは神のものです。いかなる形にせよ、生命を奪うことは許されません」


問「でも、ウチのにわとりを二十羽も食い殺したんですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「では、かりに私がそのキツネに銃を与えて、二十羽もにわとりを食べたあなたを撃ち殺せと命令したらどうなります。すべての地上の生命は神の前には平等なのです。人間が飢えに苦しむのはキツネが悪いのではなく、人間自身が勝手な考えをもつからです。

キツネやにわとりをあなたがこしらえたのなら、これをあなたが食べても誰れも文句は言いません。人間がにわとりやキツネを殺してもいいというのが道理であるとしたら、あなたの兄弟姉妹を殺してもいいという理屈になります。生命は人間のものではありません。神のものです。生命を奪う者はいつかはその責任を取らなくていけません」


問「オーストラリアではウサギの異常繁殖が脅威となっておりますが、これについてはどうでしょうか」

シルバー・バーチ「人間は本来そこにあるべきでないところに勝手に持ってきて、それがもたらす不都合についてブツブツ文句を言います。私の地上のふるさとである北米インデアンについても同じです。

インデアンはもともと戦争とか、俗に言う火酒(ウイスキー、ジン等の強い酒)、そのほか不幸をもたらすようなものは知らなかったのです。

白人が教えてくれるまでは人を殺すための兵器は何も知らなかったのです。そのうち人間も宇宙のあらゆる生命───動物も小鳥も魚も花も、その一つ一つが神の計画の一部を担っていることを知る日が来るでしょう。神の創造物としてそこに存在していることを知るようになるでしょう」


問「イエスの教えの中には動物に関するものが非常に少ないようですが何故でしょうか」

シルバー・バーチ 「その当時はまだ動物の幸不幸を考えるほど人類が進化していなかったからです」


問「ほかの国の霊覚者の訓えにはよく説かれているようですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「それは、全部とは言いませんが大部分はイエスよりずっと後の時代のことです。それはともかくとして、あなた方はイエスを人類全体の模範のように考えたがりますが、それは間違いです。

イエスはあくまで西欧世界のための使命を担って地上へ降りてきたのであって、人類全体のためではありません。イエスにはイエスの限られた使命があり、イエス個人としては動物を始めとする全ての生命に愛情をもっていても、使命達成の為に、その教えをできるだけ制限したのです。

その使命というのは、当時の西欧世界を蝕んでいた時代おくれの腐敗した宗教界にくさびを打ち込んで、難解なドグマに代る単純明快な人の道を説くことでした」


問「下等動物への愛を説かない教えは完全とは言えないのではないでしょうか」

シルバー・バーチ 「もちろんそうです。ただイエスの場合はその教えをよく読めば動物への愛も含まれています。イエスは例の黄金律を説きました。すなわち〝汝の欲するところを人に施せ〟ということですが、この真意を理解した人なら、他のいかなる生命にもむごい仕打ちは出来ないはずです」


 以上がシルビア・バーバネル著『動物の死後』に収録されているシルバー・バーチの霊言です。霊言集にも動物に言及したものは無いことはないのですが、右に紹介したものが一ばんまとまっているようです。

 では最後に、英国のテレビ番組 「サファリ」 を製作したデニス夫妻 Michael & Armand Denis を招待してシルバー・バーチが讃辞を述べた時の様子が霊言集に見えますので、これを紹介したいと思います。夫妻は熱心なスピリチュアリストとして有名です。

『あなた方(デニス夫妻)は、肉体に閉じ込められて霊覚が邪魔されているので、ご自分がどれほど立派な仕事をされたかご存知ないでしょう。

お二人は骨の折れるこの分野を開拓され、人間と動物との間に同類性があり従ってお互いの敬意と寛容と慈しみが進化の厳律であることを見事に立証されました。

大自然を根こそぎにし、荒廃させ、動物を殺したり片輪にしたりするのは、人間のすべきことではありません。

強き者が弱き者を助け、知識あるものが無知なるものを救い、陽の当たる場所にいる者が地上の片隅の暗闇を少しでも少なくするために努力することによって、自然界の全存在が調和のある生命活動を営むことこそ、本来の姿なのです。

その点あなた方は大自然の大機構の中での動物の存在意義を根気よく紹介され、正しい知識の普及によく努力されました。それこそ人間の大切な役割の一つなのです。

地上の難題や不幸や悲劇の多くが、人間の愚かさや欺瞞によって惹き起こされていることは、残念ながら真実なのです。

 慈しみの心が大切です。寛容の心を持たなくてはいけません。自然破壊ではなく、自然との調和こそ理想とすべきです。人間が争いを起こすとき、その相手が人間同士であっても動物であっても、結局は人間自身の進化を遅らせることになるのです。人間が争いを起こしているようでは自然界に平和は訪れません。

 平和は友好と一致と協調の中にこそ生まれます。それなしでは地上は苦痛の癒える時がなく、人間が無用の干渉を続けるかぎり、災害はなくなりません。

人間には神の創造の原理が宿っているのです。だからこそ人間が大自然と一体となった生活を営む時、地上に平和が訪れ、神の国が実現するのです。

 残酷は残酷を呼び、争いは争いを生みます。が愛は愛を生み、慈しみは慈しみを生みます。人間が憎しみと破壊の生活をすれば、人間みずからが破滅の道を辿ることになります。諺にも 「風を播いてつむじ風を刈る」 と言います。悪いことをすればその何倍もの罰をこうむることになります。

 何ものに対しても憎しみを抱かず、すべてに、地上のすべての生命あるものに愛の心で接することです。それが地上の限りない創造進化を促進するゆえんとなります。くじけてはなりません。

あなた方の仕事に対して人はいろいろと言うでしょう。無理解、無知、他愛ない愚かさ、間抜けな愚かさ、心ない誹謗等々。

これには悪意から出るものもありましょうし、何も知らずに、ただ出まかせに言う場合もあるでしょう。それに対するあなた方の武器は、他ならぬ心霊知識であらねばなりません。

所詮はそれが全ての人間の生きる目的なのです。心霊知識を理解すれば、あとは欲の皮さえ突っ張らなければ、神の恩恵に浴することが出来るのです。

 お二人は多くの才能をお持ちです。まだまだ動物のために為すべき仕事が山ほど残っております。地上の生命は全体として一つのまとまった生命体系を維持しているのであり、そのうちのどれ一つを欠いてもいけません。

お二人が生涯を傾けている動物は、究極的には人間が責任を負うべき存在です。なぜなら人間は動物と共に進化の道を歩むべき宿命にあるからです。共に手を取り合って歩かねばならないのです。動物は人間の食欲や道楽の対象ではないのです。動物も進化しているのです。

 自然界の生命は全てが複雑にからみ合っており、人間の責任は、人間同士を越えて、草原の動物や空の小鳥にまで及んでいます。抵抗するすべを知らない、か弱い存在に苦痛を与えることは是非とも阻止しなくてはいけません。

装飾品にするために動物を殺すことは神は許しません。あらゆる残虐行為、とりわけ無意味な殺生は絶対にやめなければなりません。物言わぬ存在の権利を守る仕事に携わる者は、常にそうした人間としての道徳的原理にうったえながら戦わなくてはいけません。

小鳥や動物に対して平気で残酷なことをする者は、人間に対しても平気で残酷なことをするものです。

 動物への残忍な行為を見て心を痛め涙を流す人は、いつかはきっと勝つのだという信念のもとに、勇気をもって動物愛護のための仕事を続けて下さい。多くの残酷な行為が無知なるが故に横行しています。

そうした行為は霊的知識を知って目が覚めれば、たちどころに消えてしまうのです。さらに、一つの霊的知識に目覚めると、その知識の別の意味にも目覚めてくるものです。そうやって心が目を覚ました時こそ、魂が真の自由への道を歩み始めた時でもあるのです。』


Monday, March 16, 2026

シルバー・バーチの霊訓 古代霊は語る

  The Ancient Spirits Speak


第五章 死後の世界     


一八四八年のフォックス家における心霊現象が近代スピリチュアリズムのキッカケとなったことはすでに常識となっておりますが、物事の受け取り方や解釈の仕方は人によって異るもので、心霊現象をどう解釈するかという点に関しても、大きく分けて二つ、細かく分けると三つの観方があるようです。
 二つの分け方は言うまでもなく肯定する者と否定する者の二者で、肯定する側はもちろんスピリチュアリズム、否定する側──少なくとも肯定することを躊躇している側の代表がSPR (Society for Psychical Research )という純粋の学術機関で、英米をはじめ多くの国にあります。

 SPRの基本的態度は心霊現象を科学的に検討するということに尽きるわけですが、科学的というのはあくまでもこれまで物質科学について行われてきた科学的方法という意味であって、それを超物質の分野である心霊問題にそのまま適用しようとするところに無理があるようです。


  これまで度々紹介しているマイヤースなども心霊研究に興味をもち始めた初期のころは英国SPRの会長までしたことがありますが、こんなやり方ではいつまでたってもラチが明かないと考えて、いち早く辞めております。

名探偵シャーロック・ホームズの活躍する探偵小説で有名なコナン・ドイル卿 A. Conan Doyle(本職は医師)や、ケーティ・キングと名告る美人物質化霊の出現した心霊現象の研究で有名なウィリアム・クルックス卿、あるいは英国を代表する世界的物理学者だったオリバー・ロッジ卿 Sir Oliver Lodge なども、それぞれにSPRの会長を務めておりますが、いち早く霊魂の存在を信じてSPRから離れていきました。

 英国で Sir (卿)の称号がつくということは大変なことで、そうした名誉ある地位の人が、予期される非難をものともせずに霊魂説を認めたことは注目に値します。

ついでに言えば、私の師である間部氏はもともと子爵の家柄ですが、戦前、官憲から心霊と爵位のどっちを取るかと迫られて、あっさり爵位を棄てたという話を聞かされました。なぜか地上というところは昔から、あまりあからさまに真理を述べると迫害を受けるところのようです。

 そもそもSPRが霊魂説に踏み切れないのは、従来の科学的方法で検討するかぎりでは証拠不十分ということに理由があるのであって、頭から霊魂説を否定しているわけではありません。

それはちょうど刑事事件で証拠不十分の故に〝疑わしきは罰せず〟で無罪、というのと同じようなものですが、無罪になったからといって犯人がいなかったということにはならないように、物質科学的証明が出来ないからといって霊魂の存在を否定するのは余りに短絡的です。


 心霊実験を見ても、心霊体験を聞いても、霊魂の存在は火を見るより明らかなのに、いかんせん物的証拠、それも従来の科学的方法で立証できるような証拠がないという理由で、SPRは今なお霊魂説に踏み切れずに、単なる資料集めとその分類に時を費しておりますが、この調子ではまず永遠に結論の出る日は来ないでしょう。

コナン・ドイルも 「新らしい啓示」 The New Revelation の中で 「これだけのものを見せつけられて尚かつ信じようとしないようでは、その人間の頭の方がどうかしている」 と語気強く述べております。


 さて、細かく分けると三つになると言ったのは、霊魂説を認める人にも大きく分けて二種類あると考えられるからです。その一つは心霊現象や霊能をただ興味本位に取りあげ、見た目に映る異常さ、意外さ、面白さを目玉にしてこれを一つの商売にしている人たちです。

 心霊現象はたしかに魅力があります。霊魂の存在を信じるには物理実験を見るにかぎります。私自身もたった一度の実験会ですっかり霊魂の存在を信じるようになったのですが、問題はそのあとです。

 死んでもなお生き続けているとなると、その世界はどんなところなのか、その世界とこの世はどうつながっているのか、神は存在するのか等々、興味と疑問はつきることを知りません。

それを追求していくのがスピリチュアリズムであり、心霊実験もその案内役としてはじめて正当な意義を発揮するのです。その点を理解せず、いつまでも現象ばかりをいじくりまわしている人がどんなに多いことでしょう。

 こうした傾向は世界的に言えることのようです。拙訳『スピリチュアリズムの真髄』 の原著者レナードもその点を遺憾に思い、一種の警告を込めて The Higher Spiritualism 直訳すれば「より高度なスピリチュアリズム」と題したわけです。

私は、これは日本人にとってもいい警告になると信じて訳しましたが、これを更に一歩も二歩も先に進めたのが他ならぬシルバー・バーチです。

 シルバー・バーチは徹底して話題の中心を道徳、倫理、哲学に置き、心霊現象に関してはホンのちょっぴりしか述べていません。

 私の編纂もその影響を受けて、これまでご覧いただいたように、最初から非常に固い内容のものばかりになっておりますが、シルバー・バーチ霊言集全十一冊の内容は二、三、四章の表題の順に比重が置かれていると考えていただけばいいわけです。


 さて本章では少し趣きを変えて、霊界とはどんなところなのか、死んだらどんなところへ連れて行かれるのか、といったことについてシルバー・バーチに聞いてみることにしましょう。

 この問題つまり生命の死後存続の問題を扱うに当って人間が一ばん心しなければならないことは、現実の地上生活の常識を一たん棄て去ることです。全てを白紙の態度で素直に受けとめることです。

 成人した人間はこの物的地上生活に慣れ親しんでいるために、こうした生活を当り前と思い、さらには、こうした常識に合わないものは変だと思い、異常だときめつけます。

 しかしよく考えてみますと、われわれとてもこの世に誕生した時は、ほとんど無に等しい状態だったのです。乳房を吸うという本能以外は何の能力もない状態だったのです。

それがやがて目が見えるようになり、寝返りをうつようになり、ハイハイをするようになりながら言語能力や立体感覚を発達させてきたのです。

 その道の専門書によりますと、ハイハイの仕方と脳の発育との間に密接かつ重要な関係があるとのことです。さらに発達して歩いたり走ったり、ころんだり泣いたり、ケンカしたりいじわるしたりされたりすることにも、それなりの意味があるらしいのです。

 たとえば漢字を理解する能力──ただ単に暗記する能力とは別の、いわゆる語感──は、幼児期にころんだり、でんぐり返しをしたり、鉄棒にぶらさがったり、水に頭から飛び込んだりする運動の中で発育しているらしいのです。

私自身の教育体験からもそれを実感することがありますが、最近の教育がそうしたことには無とん着に、実生活からかけ離れた詰め込み教育に終始していることは問題です。

 つい話がそれてしまいました。人間生活が三次元の世界の環境で作り上げられていることを述べようとして脱線してしまいましたが、しかし、われわれ成人はそういう過程を無意識のうちに体験し、すっかり地上生活に慣れ切っているわけで、こうみてきますと、

地上生活というのは実に特殊な環境と条件の中での生活であり、これをもって常識と考えたり、当り前と思ったりすることは極めて危険なことだとも言えるわけです。

 ここで私が思い出すのは例のオリバー・ロッジの『幻の壁』です。すでに第三章で紹介しましたが、私は煩をいとわず、ここでもう一度引用しますので、ロッジの言わんとするところをよく理解していただきたいと思います。

私に言わせればロッジの考えはいわば〝死後の問題のコペルニクス的転回〟であり、こうした転回が出来ないと、レナードの言う Higher Spiritualism は理解できないと思うのです。


 『われわれはよく〝肉体の死後も生き続けるのだろうか〟という疑問を抱く。が一体死後というのはどういう意味であろうか。

もちろん肉体と結合している五、七十年の人生の終ったあとのことに違いないのであるが、私に言わせれば、こうした疑問は実に本末を転倒した思考から出る疑問にすぎない。というのは、こうして物質をまとってこの世にいること自体が驚異なのである。

これは実に特殊な現象というべきである。私はよく〝死は冒険であるが、楽しく待ち望むべき冒険である〟と言ってきた。確かにそうに違いないのであるが、実は真に冒険というべきはこの地上生活の方なのである。地上生活というのは実に奇妙で珍らしい現象である。

こうして肉体をまとって地上に出て来たこと自体が奇蹟なのだ。失敗する者はいくらでもいるのである』


 〝真相〟というものが見た目や常識による判断とはまるで違う、ということは科学の世界では珍らしいことではありません。コペルニクスの地動説がその最たるものです。

正直いって今の世でも誰れがどう見たって太陽の方が地球のまわりを回っているようにしか見えませんが、実際は足もとの地球の方が太陽のまわりを回っているのです。

それも時速一六〇〇キロという猛スピードです。これがまた人間の常識では信じられません。が事実であればそう信じるよりほかはありません。

 もろもろの霊界通信によりますと、死後の世界は地球に近いところほど環境が地上に似ているということです。死の直後に置かれる環境などは地上とそっくりだそうです。地面を踏みしめて歩くし、山もあれば川もある。花も木もあり、

それが上の界へ行くにつれて美しさを増し、さらに神々しさを感じるようになっていき、さらに上の世界へ行くと地上の言語や常識では表現も理解もできなくなると言います。

 そうみてきますと、どうやらロッジが言うように、われわれはホンの束の間の冒険をしに地上に降りて来ているというのが真実のようです。霊界が本来の生活の場で、ホンの束の間だけ、特殊な体験を求めて地上に来ているにすぎないということです。

 もしそうであるとすれば、地上の苦も楽も、富も貧乏も、また違った目で見ることが出来るわけで、古来、幾多の僧侶や行者が難行苦行をしながら悟ろうとした人生の謎も、スピリチュアリズムを正しく理解されれば、たとえば数学の難問がちょっとしたヒント一つでスラスラと解ける如くに、簡単に悟ることが出来るわけです。

 私の師である間部詮敦氏は浅野和三郎氏の四魂説、すなわち人間は肉体の他に幽体、霊体、神体又は本体という三種のエーテル体があり、それぞれの生活の場として物質界、幽界、霊界、神界があるという説を知った時、

それまで愛読していた古今東西の人生の書や哲学書を全部捨ててしまったという話を聞かされました。捨てたというのは比喩的に言ったのでしょうが、

たしかにその四魂説やマイヤースの類魂説、シルバー・バーチの因果律や再生説は、古来の理屈っぽい説教や難解な哲学書を超越した、まさに快刀乱麻を断つが如き、いわば宇宙の謎を解く大方程式であるように思えます。そこにスピリチュアリズム本来の妙味があり真髄があるわけです。

 ではその幽界、霊界、紳界とはどんな世界なのか。これを浅野氏とマイヤース、それに今回新らしく紹介するトウィーデールという人がまとめた霊界通信によって検討し、最後にシルバー・バーチで締めくくってみようと思います。それにはまず、さきに述べた浅野氏の四魂説から説きおこすのが一番理解に便であるようです。

 これから氏の 「心霊研究とその帰趨」 の第一章及び第二章から引用しようと思うのですが、その前にひとこと前置きしておきたいことがあります。

 この四魂説と四界説は浅野氏が晩年にもっとも力を入れた課題であったようで、氏自身は確固たる自信をもちながらも、これを支持してくれる説が西洋に見当らないことに一抹の不安と不満を抱いておられたことを、弟子である間部先生から聞いておりました。

そのうち私は米国のルース・ウェルチ女史の Expanding Your Psychic Consciousness by Ruth Welch (『心霊的意識の開発』)に四魂説をずばり図示したイラスト(第2図)が出ているのを発見して早速お見せしたところ、

先生は飛び上がらんばかりに驚ろかれ、日頃あまり感情を表に出されない方なのに顔面を紅潮させて〝よくぞいい本を見つけてくれた〟と言ってよろこばれたことを思い出します。

 その後、英国から取り寄せたトウィーデール氏の News From the Next World by C.Tweedale (『他界からの通信』) の中にこんどは四界説をずばり図示したイラスト(第1図)を発見しました。

その時はすでに間部先生は霊界の人となっておられましたが、私はこれで浅野氏説がスピリチュアリズムの定説ともいうべき確固たる説であることを確信した次第です。

 まず四魂説について浅野氏はこう述べています。(意味に変化を来たさない範囲で読み易く書き改めます)



『(一)人間はその肉体の内に超物質的エーテル体を有っている。但しエーテル体とは概称であって、詳しくいえばそれは幽体、霊体、本体の三つに大別し得る。

(二)肉体、幽体、霊体、本体の四つは滲透的に互いに重なり合っているのであって、各個に層を為して遍在しているのではない。

(三)これらの四つの体はいずれも自我の行使する機関であって、それぞれの分担がある。すなわち肉体は主として欲望、幽体は主として感情、霊体は主として理性、本体は主として叡智の機関で、必要に応じてこもごも使い分けられる。

(四)概してエーテル体は非常に鋭敏に意念の影響を受け、その形態は決して肉体の如く固定的ではない。又その色彩、なかんずく感情の媒体である幽体の色彩は情緒の動きにつれて千変万化する。

(五)エーテル体は時空を超越している。少なくとも時空の束縛を受けることが極めて少ない。故にその活動は極めて神速自在である。

(六)エーテル体は人間の地上生活中においてもしばしば肉体を離脱するが、そうした場合には必ず白色の紐で肉体と連絡されている。死とは右の紐が永遠に断絶した現象である』


 次に四界説について──

 『四大界──人間の自我表現の機関が四大別されるように、人間のおかれる環境もやはり四大別し得るようである。
すなわち (一)物質界、(二)幽界、(三)霊界、(四)神界である。

 右の中、物質界はわれわれが五感をもって日常接触する世界であるから、これはここに説く必要がない。説明を要するのは幽界以上である。

幽界──とは、心霊研究の立場からすれば要するに地球の幽体と思えばよい。地球に限らず天地間の万有一切は自然法則の束縛から免れることはできない。従って地球にもむろん幽体もあれば、霊体もあり、又その本体もあり、互いに滲透的に重なり合っている。

これらのすべての中でその構成分子が一ばん粗く、且つその容積が一ばん小さいのはむろん地球の物質体である。地球の幽体ともなればその構成分子は遥かに微細で、内面は物質的地球の中心まで滲透し、また外面は物質的地球のずっと外側まではみ出している。

その延長距離についてはまだ定説はないが、しかし地球の幽体が、他の諸天体、少なくとも太陽系所属の諸天体の幽体とどこかの地点で相交錯しているのではないかと思われる節がある。「ステッドの通信」の中にこんな一節がある。

 「私達の住む世界(幽界)は地上の人達が考えるところとは大分違う。幽界の居住者は物質的生活が営まれる諸々の天体からの渡来者である」

   ──中略──

 他にもこの種の通信はまだ沢山ある。
 で、幽界について従来一般人士が抱いている観念には大々的修正を要するものがある。その要点をのべる。

(一)幽界は肉体を有する人間にとっても密接な関係のある境地である。

 幽界はもちろん肉体を棄てた帰幽者の落ちつく世界には相違ないが、しかし人間は生前においてもその幽体を用いて間断なくこれと交渉を有している。各種の黙示又はインスピレーション、思想伝達現象、交霊現象、霊夢等は殆ど全部幽界と交渉の結果である。


(二)幽界を単に距離で測ろうとするのは誤謬である。

 仏者のいわゆる西方浄土、十万億土等はむしろ単なる方便説で、実際には当てはまらない。幽界は要するに内面の世界で、場所からいえば大地の内部にも、又その外部にも亘っている。従ってわれわれの居住する物質界とても、その内面は立派に幽界でもある。


(三)幽界はまだ途中の世界である。

 幽界は物質界に比べれば比較にならない程自由であり、思念する事は直ちに具象化するといった世界であるが、しかし理想を距ることまだ甚だ遠く、とりとめのない空想又は熾烈なる感情等によって歪曲された千変万化の現象が盛んに飛躍出没する境地らしい。

旧式の宗教家は、信仰次第で死後人間が直ちに光明遍照の理想世界に到達し得るように説くが、あれは事実に反している。


霊界──となると、そろそろ地上の人間の思索想像に余るものがある。むろんわれわれの内にも未発達ながら霊体はある。

故に一切の欲念や感情を一掃し、冷静透明、あたかも氷のような心境に入りて沈思一番すれば、霊界のある一局部との接触が敢えて不可能というわけではないが、しかし実際問題となれば、なかなか思うように行かないのが現在の地上の人類の状態である。

神人合一だの、神は内にあるのだと、口に立派なことを述べるものは多いが、いずれも実は浅薄卑俗(センパクヒゾク)なる自己陶酔にすぎぬ。

その何よりの証拠には、そう広言する人達から殆んど何ら偉大なる思想も生まれず、又何ら破天荒の発明又は発見も現れないではないか。要するにその説くところは単なる理想であり、空想であり、口頭禅であって、実際の事実ではない。

 実際問題とすれば、現在の地上の人類として僅かに期待し得るのは霊界とのすこぶる狭い、局部的の接触である。それもよほど優れた天分の所有者が刻苦精進の上でできることである。

首尾よくこれに成功した人がつまり人間界の偉大なる哲学者、科学者、思索家又は発明家達である。何分にも地上の人間は鈍重なる肉体で包まれ、又きまぐれな幽体で蔽われているので、なかなかそれ等を突破して、色も香も、歪みも、又錯(あやま)りもない、明鏡のような純理の世界には容易に突入し得ないのである。

 が、この霊界とてもまだまだ理想の世界ではない。この境地の最大の欠点は、それぞれの局面に分割されていることである。ある与えられた筋道の見通しはつくが、他の方面のことは少しも判らないのである。


神界──つまり地球の本体となると、いよいよ以って筆をつくすべき余地がない。強いて想像すれば、それはおそらく他の諸天体と合流同化し、玲瓏清浄、自在無碍、何もかも見通しのつく光明遍照の理想境とでも言うより外に途がないであろう。死んで幽界に入ったステッド等も次のように歎息している。

 「私は生前こう考えていた。人間は死んだらすぐ神と直接交通を行い、自己の取るにも足らぬ利害損失の念などはきれいに振りすて、礼拝三昧、讃美歌三昧にひたるであろうと。そういった時代も究極においては或いは到達するかも知れない。

しかし現在のわれわれはまだそれを距ること甚だ遠い。人間の地上生活は言わば一つの駅場、われわれの進化の最初の駅場にすぎない。現在の私の幽界生活は第二の駅場である。われわれはまだ不完全である。われわれはまだ個々の願望欲念を脱却し得ない。

われわれは依然として神に遠い。要するに宇宙は私の想像していたよりも遙かに広大無辺であり、その秩序整然たる万象の進展は真に驚歎に値する・・・・・・』


 人間は自己の置かれたる環境がいかに広大であるかを知り、成るべく奥へ奥へと内観の歩を進むべきであるが、同時によく自己を省みて、かりそめにも自然の秩序階級を無視し、社会人生に何の貢献をも為し得ない誇大妄想の奴隷になることを避けねばならぬ。』


 浅野氏の説はきわめて概略的で抽象的に過ぎ、理屈の上では成るほどと思っても、これだけでは実感をもって理解することはとても無理です。それを補うためにトウィーデール氏の「霊界からの便り」を紹介したいと思います。

 これは英国国教会の牧師であるトウィーデール氏が、霊能者である奥さんを通じて起きた各種の心霊現象をまとめたものですが、中でも注目されるのが自動書記通信です。

 通信者はコナン・ドイルを始めとして、小説家のエミリー・ブロンテ、ピアニストのショパン、バイオリン製作者のストラドバーリ、天文学者のロバート・ボール等、世界的に著名だった人のほかに二、三の知人や縁者から成っていて、それぞれ個別に質問を書いて出し、その用紙に書かれた回答をまとめたものです。


 霊媒の先入観が入るのを防ぐ意味で質問の内容は前もって奥さんに知らせず、入神してからさっと書いて出したといいますが、回答はすぐさま書かれ、またそのスピードがものすごくて、時には用紙が破れることもあったということです。

 ではその中から他界直後の様子や霊界の位置などに関する興味深い部分を訳出してみましょう。果たして本当にショパンなのかドイルなのかといった問題はトウィーデール氏が徹底的に探りを入れておりますが、ここではあまり名前にこだわらずに、その内容に注目していただきたいと思います。特に天孫降臨をズバリ指摘している箇所は日本人には興味津々です。



 〇死の過程と意識について

問「死んで霊界へ行くという現象は怖ろしいですか、苦痛ですか」
ストラドバーリ「私の場合はただ眠くて夢見る心地でした。杖を持った天使が見えました」

問「まだ肉体の意識のある間の話ですか」
ストラドバーリ「そうです。死ぬ前です。そして死んでからもその霊はずっと何年も私に付き添っています。ずっと高い世界の方だそうで、多くの人のために尽くした人に付き添うために派遣されているとのことです。当分の間付き添うことになるとのことでした」

問「では死は別に苦痛ではなかったわけですね」
ストラドバーリ「全然」(ストラドバーリは老衰死)

ショパン「死そのものは少しも苦痛でないし恐ろしいものでもないが、私の場合は死ぬ前の方がつらかった」(ショパンは結核で死亡)
問「そうでしたね。で実際に死ぬ時はどうでした」

ショパン「自分のことしか知らないが、私の場合は最後は何もかもわからなくなった。ただただ深い眠りに落ちていった」

ドイル「私の場合は大変な劇痛と突然の忘却でした。発作が来た時は悶え苦しみました」(咽頭炎と心臓病のこと)

問「劇痛はどこに感じましたか」 
ドイル「全身を走り抜けたようです」

問「忘却というのは何のことですか」
ドイル「深い眠りです。目が覚めたら川岸の土手の上にいました」

ブロック(トウィーデール氏の知人)「そうね、私の場合は半ば意識がありました。死ぬ一時間前まで感覚が残っていましたが、しゃべることは出来ませんでした。晩年はつらかったから死ぬのはうれしかったです」

タビサ(生後数週間で死亡した女の子)「死ぬということは私には何のことかわかりません。何も思い出せません。気が付いたら椅子の上の方の高いところにいたということだけです」

(霊視すると今では十七、八歳の娘に成長しているとのこと。この子の通信は水子の問題にいろいろと示唆を与えてくれます──編者)

問「だからタビサちゃんにとっては、まだ死んだ記憶がないということね」
タビサ「そう、そうなの」


  〇死後の身体について

問「今あなたが使用している身体は形態、容貌、機能ともに地上時代の肉体とそっくりですか」
ストラドバーリ「今の身体はあなたの肉体とまったく同じで実感があります。実にラクです。目はちゃんと見えます。ただ心の方が地上より大きく作用します」

ドイル「地上時代の肉体よりはるかに美しいです。しかもこうして地上に降りて来られます。機能的にも霊体の方が具合がいい。有難いことに痛みというものを感じません。地上の人生を終えたその場から今の人生が始まったわけです。

ブロック「このからだは地上の肉体と少しも変わりません。ただし、がっかりさせられることが多い。あれ持って来いこれ持って来いと、うまいものを注文するのだが、食べてみるとまったくうまくない」

タビサ「私はずっと今のままよ。そちらで私がどんなからだをしていたか知りません。ただこれだけは言えます。みんなの目には見えなくても、私はおうちの中をスキップして回ったり歌ったりしているということ」


  〇飲食と睡眠について

問「エーテル体を養うために必要なものがありますか。食べるとか飲むとか寝るとか・・・」
ストラドバーリ「そうしたいと思わないかぎり飲むことも寝ることもしません。その気になれば何でも出来ますが・・・」

問「じゃ、あなたは食べることも寝ることも飲むこともしないわけですか」
ストラドバーリ「時にはすることがあります。寝ようと思えば寝られます」

ショパン「寝るも飲むも思いのまま。行くも戻るも思いのまま」 (ショパンはよく詩文で通信を書いていますが、意味を伝える程度に訳しておきます──編者)


問「では呼吸もしているわけですか」
ショパン「然り」

ドイル「飲食の必要はありませんが、欲しいと思えば摂取できます。成長するにつれて地上的なものを欲しがらなくなり、求めなくなり、もっと高尚なものを求めるようになります」
ブロック「欲しいものは何でも手に入りますが、我慢も出来ます」

問「エーテル体を維持する上で必要ですか」
ブロック「必要です。ですが、摂取するものもみなエーテル質です。私は今もって幻影に悩まされております。これは、聞くところによると一種の罰だそうです。もっとも私の場合は地上の人のためになることもしているので、まだお手やわらかに扱ってくださっています」

ショパン「本当に欲しくなれば食事をすることもあります。が欲しいだけ食べればそれでやめます」
タビサ「私はやりたいことは何でもします。食べるし、飲むし、寝ることもあります。でも、そうしなければならないことはありません。必要なものは全部空中(エーテル)から摂取していますから・・・・・・」


 〇時間の感覚について

問「時間を意識することがありますか。たとえば記録したり約束したりする上で時間の経過を計るための尺度が必要ですか」

ストラドバーリ「地上の時間とは異りますが、それに相当するものはあります。私たちの時間は太陽時間で、光の変化で判断します」

問「光の変化は何が原因で生じるのですか」
ストラドバーリ「あなたがたが見ている太陽です」

ショパン「時間はあります。さもないと大きな集会に参加する用意が出来ません。幽霊にも時間が分かることはあなたがたもよくご存知のはずです。だって必ず真夜中に出るでしょう」

問「地上へ来られる時はやはり地上の時計を見て準備をされるのですか」
ショパン「地上に来る時はそうしますが、それ以外の時は地上の時刻は知りません」

問「ストラドバーリは霊界では太陽光線の変化で時間を知ると言っていますが・・・・」
ショパン「その通りです。太陽の光で動いています。時間が来ましたので失礼します」

ドイル「こちらでも太陽の光による時間があります。地上の時間も太陽の働きによっているわけですが、太陽に関する認識に大きな違いがあるのです。あなたがたにはちょっと理解できないことがあります。約束の時間はちゃんときめられます」

問「地上の時刻もわかりますか」
ドイル「分かります。地上に近いですから」


  〇霊界の位置について

問「いま現在どこに住んでおられますか。霊界というのは一体どこにあるのですか」

ストラドバーリ「地球と同じような天体上にいます。私は今あなたのすぐ近くにいます。私にはあなたの姿はよく見えますが、そちらからは見えないでしょう。霊能者は別ですが。私たちも天体上にいます。太陽も見えます。あなたがたが見ている太陽と同じです」

問「界は幾つありますか」
ストラドバーリ「七つ」 (第1図参照)

問「その七つの世界はミカンの皮のように、あるいは大気のように地球を取りまいているのですか」
ストラドバーリ「そうです、でも肉体をもった者はここには住めません。地球は人間が住むようになる以前は高級な霊的存在、あなたがたの言う天使が居りました(聖書の)創世記にある通りです」

問「ということは当時の地球は高級霊の通う場所だったわけですか」
ストラドバーリ「その通りです。物質化した霊魂がそのまま居残ったのが最初の人類です」

問「あなたのいる界は地表からどの位の位置にありますか」
ストラドバーリ「それは私には分かりませんが、かなり近いようです」

問「界と界との境はなにかゆか floor のようなもので仕切られているのですか」
ストラドバーリ「空間 space によって仕切られています」

問「それらの界が地表の上空にあるとなると、人間の目には透明なわけですね。それを通して星とか太陽とか惑星を見ているわけだから・・・・・・」

ストラドバーリ「ご説明しましょう。人間の視力はある限られた範囲の光線しか受けとめることが出来ません。霊的なものは人間の目には映らないのです。

死んでこちらへ来ると最初はどこへ行っても違和感があり新らしいことばかりですが、感覚が慣れてくると、こちらの土地、海、草木なども地上とまったく同じように実感があることが分かり、しかもはるかに美しいことを知ります」

ショパン「私の住んでいるところは地球から遠く離れています。円周の外側にあります」

問「何の円周ですか。地球のことですか」
ショパン「地表から完全に離れています。こうして通信するために降りてきている間はあまり離れていません」

問「エベレスト(八八四八メートル)がひっかかりますか」
ショパン「いいえ」

問「どの位の距離がありそうですか」
ショパン「およそ五万メートルです。ですが、距離とか空間はわれわれが移動する際は全く関係ないようです。心に思えばもうそれでそこへ行っています」

ドイル「難しい問題です。同じ国の人間でも、その国についての説明をさせれば一人一人違ったことを言うでしょう。霊界についても同じで、霊によって言うことが違ってきます。私に言わせれば、私は今あなたの上の空中にいます」

問「距離は地表からどの位ですか」
ドイル「分かりません」

問「地表に近い大気圏のあたりが幽界より上の界へ行くための準備をする所、いわゆるパラダイスですか」(第1図)

ショパン「そうです。はじめは地上で過します。同じパラダイスでも地上から離れて第一界(幽界)に近い部分もあるわけです」

問「キリストも、それからキリストと一緒に処刑された例の盗っ人も、そこで目を覚ましたわけですか」
ショパン「そうです。キリストはそこから戻って来て姿を見せたわけです」

問「そこは地球の表面になるのですか」

ショパン「そうです。中間地帯です。界と界との間には必ずそういうものがあります。人間はみな地上にいた時と同じ状態で一たんそこに落着きます。がそこで新らしい体験をさせられます。

地上でも、九死に一生を得た人がその瞬間にまるでビデオを見るように自分の全生涯を眼前に見たという話がありますが、あれと同じで、地上生活の全てを、夢でも見るように、見せられます。犯した罪や過ちを反省し改めさせるためです。それをしないと先に行けないのです。反省しない人間は下降していきます」


ブロック「私がここで見たものは、実にきれいな青色でした。どう呼べばいいのでしょうか。何か島みたいで、青色をしていて、いかにも健康に良さそうな感じでした。私は自分がどこにいるのか心細くなって付き添っていた人(指導霊)に〝ここは一体どこですか〟と聞いてみました。

すると〝ここは二つの界の中間境だ。そのうち慣れるだろう。大体ここに来る人間は仕事仕事で生涯を終った者ばかりだ〟という返事でした。さらにそのあと出会った人はこんな風に話してくれました。

〝心配しないでよろしい。大丈夫ですよ。あなたはどうも宗教心が足らなかったようだが、心がけはまずまずだった。ここではその心掛けが大切だ。生まれた環境は自分の責任じゃあない。宗教的でない環境に生をうければ宗教心は芽生えにくいのは当然だが、そうした逆境の中にあって良い行いをすれば、その価値も一層増すというものだ。何事もその時の条件を考慮して評価されるわけだ〟と。

これでおわかりでしょう。ドイルも云っていたように、要するに大切なのは教義ではなくて行いです。地上の人間が Love(愛、慈しみ、思いやり)の真の意味を理解すれば戦争など起こらないのですが・・・・・・」

 編者注──浅野和三郎氏の著書の引用文の中に〝ステッドの通信〟というのがありましたが、これは The Blue Island by W. T. Stead のことです。これは文字通りに訳せば〝青い島〟で、仏教でいう極楽浄土、西洋でいう、パラダイスに相当するようです。

ここは地上生活での疲れや病いを癒す一時休憩所のような場所であって天国 Heaven とは違います。天国と呼ぶにふさわしい界は浅野氏のいう神界、マイヤースのいう超越界でしょう。こうした問題はあとで扱います。


 さてトウィーデール氏はパラダイスについてドイルに尋ねます。

問「あなたは全ての霊は一たんここに来るとおっしゃいましたね」
ドイル「言いました」

問「ということは善人も悪人もみなここに来るということですか」
ドイル「その通りです。キリストが刑場で隣の盗っ人にこう言っているでしょう──〝今日この日に再び汝とパラダイスにて相見(アイマミ)えん〟と」

問「そうするとパラダイスも善人の行く場所と悪人の行く場所とに別れているわけですか」

ドイル「地上に善人と悪人がいて悪いことをした人間は刑罰を受けるように、パラダイスでも善人は幸せを味わい、悪人はよろこびとか幸福感を奪われるという形での刑罰を受けます。

さらに、犯罪を犯した人間はその現場に引きつけられていきます。故意の殺人者は例外なく地縛霊になります。罪を悔い改める心が芽生えるまでは、何時までもその状態から抜け出られません。それはそれは長い間その状態のままでいる人間が大勢います」


問「そちらで見たり聞いたり触ったりする感覚は地上と同じですか」
ドイル「肉体よりずっと鋭敏です」

問「今この部屋にいますか、それとも遠く離れたところにいるのですか」
ドイル「あなたのすぐうしろにいます」

問「私と同じように実体がありますか」
ドイル「ありますとも、立派に実体があります」

問「何百マイルも何千マイルも遠くから通信を送っているわけではないのですね」
ドイル「(皮肉たっぷりに)火星から通信しているわけではありませんよ」

問「部屋にあるものが全部見えますか」
ドイル「見えます。あなたがたよりもよく見えます。視力が肉眼より鋭いですから」

問「霊魂は霊能者の肉眼を通してしか地上のものが見えないのだという人がいますが・・・」

ドイル「とんでもない! あなたがたと同じように、いやそれ以上に、私たちにとって地上のものはきわめて自然に見えます」

最後に英国の著名な天文学者だったロバート・ボール卿 Sir Robert Ball の学者らしい回答を紹介します。


問「天文学者であられた卿にお伺いしますが、霊の世界は地球の近くにあるのでしょうか」
ボール「地球の外側をぐるりと取り巻いています」

問「地球からの距離はどのくらいでしょうか」

ボール「これは難しい問題です。三十キロ程度の近いものもあれば百キロほど離れているものもあり、遠いものになれば何千、何万キロも離れています」

問「人間の肉眼には透けて見えるわけですか」
ボール「肉眼は限られたものしか見えません。霊の世界は肉眼にも天体望遠鏡にも映りません」

問「例えばガラスのコップのようなものを考えてもいいでしょうか。実体があり固いけど、透明であるという・・・・・・」

ボール「なかなかいい譬えです」

問「そうした世界はどの天体にもありますか」
ボール「あります。どの恒星にも惑星があるように、どの天体にもそれなりの霊の世界があり、同時にそれぞれの守護神がいます。秘密はエーテルにあります」

問「大気圏を三十キロの高さまで上昇していったら霊の世界に触れることが出来ますか」
ボール「それは不可能です」

問「ということは霊の世界は透明であるだけでなく、身体に触れることも出来ないということですか」
ボール「その通りです」

問「本質はエーテルで出来ているのですか」
ボール「そうです」

問「霊界の秘密はエーテルにあるとおっしゃったのはその意味ですか」
ボール「さよう」

問「そのエーテル界の生活や存在は地上生活と同じく実感がありますか。そして楽しいですか」

ボール「はい、楽しくて実感があります。但し善人にとってのみの話です」 (善人 the good の文字に二本の下線が施されている)

問「地球の霊魂が太陽系の他の惑星、例えば火星や金星のエーテル界を訪れることが可能ですか」
ボール「高級霊になれば可能です」

問「例えばオリオン座のベテルギウス星(地球から5,670,000,000,000,000キロ《5,670兆㌔》)の様な遠い星でも同じですか」
ボール「同じです」

問「普通の霊魂は行けませんか」
ボール「行けません」

問「ではこういうことですか。つまり普通の人間は死後その天体のエーテル界で生活し、高級になると他の天体のエーテル界を訪れることが出来るようになる」
ボール「その通りです」


ボールはこのあと「この章は実に重要ですよ」 と付け加え、署名して終りにしておりますが、高級霊になれば他の天体のエーテル界に行けるようになるということは、要するにエーテル界の上層部が他の天体の上層部と合流しているということを意味しています。

ヴェール・オーエン氏の『ベールの彼方の生活』に次のような箇所があります。

『以上のことからおわかりのように、吾々が第一界から上層界へと進んでいくと、他の惑星の霊界と合流している界、つまりその界の中に地球以外の惑星の霊界が二つも三つも含まれている世界に到達する。

さらに進むと、こんどは他の恒星の霊界と合流している世界、つまり惑星間の規模を超えて、太陽系の規模つまり太陽の霊界が二つも三つも合流している世界に到達する。

そこにはそれ相当に進化した存在、荘厳さと神々しさと偉力とを備えた高級神霊が存在し、下層霊界から末端の物質界に至るすべてに影響を及ぼしている。

かくして吾々はようやく惑星から恒星へ、そして一つの恒星から複数の恒星の集団へと進んできた。が、その先にもまだまだもっと驚ろくべき世界がいくつも存在する。が第十界の住民であるわれわれには、それらの世界のことはホンのわずかしか分からないし、確実なことは何一つ判らない」


 レナード氏の『スピリチュアリズムの真髄』はこうした死後の世界の区分の問題を実にくわしく扱っており、是非とも参考にしていただきたいと思います。

私が本章であえてトウィーデールの著書から引用したのは、本書が非常にいい内容をもちながら一般に知られておらず、引用されることもないので、この機会にと思ったわけです。

 特に天孫降臨を髣髴とさせる言説を霊界側から述べているのは、私の知るかぎり西洋では他に見当らないようです。

 もっとも人類誕生の問題はまだスピリチュアリズムもそれを論じるに足るだけの十分な資料を積み重ねていないようです。しかしこれがスピリチュアリズムでないと絶対に解けない謎であることだけは断言できます。

 ダーウィンの進化論はいま学界でも集中砲火を浴びています。あまりに唯物的すぎ、あまりに単純すぎたところに原因があるわけですが、といってスピリチュアリズム的要素を取り入れた説が受け入れられる時機はまだまだ遠い先のようです。

 かつてダーウィンと同時代の自然科学者で心霊学者でもあった A・R・ウォーレスが〝霊的流入〟Spiritual influx という用語を用いた説を発表したことがありますが、まともに取りあってもらえないまま眠り続けています。当時としてはあまりに飛躍的すぎたからでしょう。

 ちなみに霊的流入というのは、ダーウィンの言うように人類がアメーバから進化して動物的段階に至ったその最終段階で、神的属性をもった人間の霊魂が宿ったという説で、シルバー・バーチも同じようなことを述べていますが、私はこの説と、さきの天孫降臨の説の双方とも真実であると考えております。

つまり、一方に動物的進化の過程でウォーレスのいう霊的流入を受けて人間へと跳躍した系統があり、他方に、高級霊の物質化によるもう一つの系統があったとみるのです。


 思うにその物質化現象は霊界あげての大事業だったことでしょう。数え切れないほどの失敗の繰り返しがあったことでしょう。時間もかかったことでしょう。日本の古典はその辺の事情を象徴的に物語っていて興味があります。

 これには異論もありましょう。が真相はどうであれ、今までに得た霊的知識を土台にして、そうした問題に想像の翼を広げていくのは実に楽しいことです。

 その問題はこれ位にして、次にマイヤースの通信から死後の世界に関する箇所を紹介しましょう。例によって The Road to Immortality からですが、ここでは第三章を浅野和三郎訳「永遠の大道」を下敷きにしながら紹介します。

 「人間がその魂の巡礼において辿るべき行程をまとめればおよそ次のようになる。
 (一)物質界
 (二)冥府、又は中間境
 (三)夢幻界
 (四)色彩界
 (五)光焔界 (編者注──浅野氏の四界説にあてはめれば(三)(四)(五)が幽界、(六)が霊界、(七)が神界となる。

 (六)光明界
 (七)超越界

 各界の中間には冥府又は中間境があり、各霊はここでそれまでの行為と経験を振り返って点検し、上昇すべきか下降すべきかの判断を下す。


 (一)の物質界は地上の人間が馴染んでいるような物質的形体に宿って経験を積む世界である。これは必ずしも地上生活のみに限られない。遠い星辰の世界にも似たような物的条件をもった天体がいくらもある。またその中には人体よりも振動数の多いものもあれば少ないものもあり、まったく同じというわけではないが、本質的にこれを〝物質的〟と表現しても差支えない性格を具えているのである。

 (三)の夢幻界というのは物質界で送った生活と関連した仮相の世界である。

 (四)の色彩界ではもはや五感の束縛から脱し、意念による生活が勝ってくる。まだ形態が付随しており、従って一種の物的存在には相違ないが、しかしそれは非常に希薄精妙なる物体で、「気」と呼んだ方が適当かも知れない。この界はまだ地球又は各天体の圏内に属している。

 (五)の光焔界において各自の霊魂ははじめて永遠の生命における自己の存在の意義を自覚しはじめ、一つのスピリット(本霊)によって養われている同系の類魂たちの精神的生活に通暁するようになる。

 (六)の光明界において各自の霊魂はこんどはその類魂たちの知的生活に通暁できるようになり、仲間の全前世を知的に理解することになる。同時に物的天体上に生活している類魂の精神的生活にも通暁する。

 (七)最後の超越界は本霊並びに本霊の分霊である類魂の全てが融合一体となって宇宙の大霊である神の意志の中に入り込む。そこには過去、現在、未来の区別がなく、一切の存在が完全に意識される。それが真の実在であり実相である。』

 マイヤースの説明はあまりに抽象的で簡単すぎますが、これはあくまでも死後の世界の図表のようなものですから已むを得ません。マイヤースもこのあと順を追って詳しく説明していきます。

そしてついに「類魂」の章に至るわけですが、これはすでに第三章で詳しく紹介しましたので、お読み下さった方には右の箇条書だけで人間の辿るべき旅路が髣髴としてくることと信じます。

 こう観て来ると、人間がいかに小さな存在であるかを痛感させられます。言ってみれば地上生活は宇宙学校のホンの幼稚園、イヤ保育園程度のものかも知れません。その程度の人間のすることであれば、良い事にせよ悪い事にせよ、程度はおのずから知れています。

 浅野和三郎氏はよく「人間はいい加減ということが一ばん大事じゃ」と言われたそうですが、これは己れの小ささに気づいた、真に悟った人間にして初めて口に出来る言葉でしょう。

 浅野氏はまたその著『心霊学より日本神道を観る』の中で「人間味のない人間は畢竟(ひっきょう)この世の片輪者で・・・・・・」と述べていますが、無理や禁欲や荒行で五官を超越し、あるいは抑え込もうとすることの愚を戒めているわけです。

私自身も精神的にまた肉体的にかなり無理な修行を心がけた時期がありましたが、その挙句に悟ったことは、結局神は人間にとって五感でもって生活するのが適切だから五官を与えて下さったのであり、要は節度 moderation を守ることに尽きるということでした。

 むろん人それぞれに地上生活の目的と使命があり、禁欲がその人にとって大切な意味をもつことがあり、それがいわゆる業(カルマ)のあらわれである場合もありましょう。

がシルバー・バーチも繰り返し述べていることですが、物事には必ずプラス面とマイナス面とがあり、禁欲生活によって得るものがある一方には、それ故に失わざるを得ないものが必ずあるわけで、それはまた別の機会に補わなければなりません。

 こうした禁欲とか行、戒律といったものは、その土台となるべき霊的知識が過っていると飛んでもない方向へ走ってしまう危険性があり、スピリチュアリズムの真理に照らしてみると滑稽でさえある場合が少なくありません。

又それ故に何千年何万年と、想像を絶する長い年月に亘って、自分が拵えた殻の中で無意味な、しかし本人は大マジメな暮らしを続けている霊が大勢いるようです。

そういった既成宗教の過った教義については九章で検討する予定でおりますので、ここではひとまず措いて、では最後にシルバー・バーチに死後の世界と生活ぶり、そしてこの世とのかかわり合いについて語ってもらいましょう。


 『私たちが住む霊の世界をよく知っていただけば、私たちをして、こうして地上へ降りて来る気にさせるものは、あなた方のためを思う気持以外の何ものでもないことがわかっていただけるはずです。素晴らしい光の世界から暗く重苦しい地上へ、一体誰れが、ダテや酔狂で降りてまいりましょう。

 あなたがたはまだ霊の世界のよろこびを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現われる、ついきゅうしたいことにいくらでも専念できる、

お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中にはたとえるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたには分かっていただけません。


 肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存知ない。そして、なお、死を恐れる。

 人間にとって死は恐怖の最たるもののようです。が実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。

なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。ただし、徐々にではあっても成長はしています。

霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれば当然暗やみが後退していきます。

 霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなた方が〝死んだ〟といって片づけている者の方が実は生命の実相についてはるかに多くを知っております。

 この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。

地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。インスピレーションなどという仰々しい用語を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。


 金銭の心配がありません。生存競争というものがないのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは弱者に救いの手を差しのべる力があるという意味だからです。

失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それが全てです。

 地球へ近づくにつれて霊は思うことが表現できなくなります。正直言って私は地上に戻るのはイヤなのです。

なのにこうして戻って来るのはそう約束したからであり、地上の啓蒙のために少しでも役立ちたいという気持があるからです。そして、それを支援してくれるあなたがたの、私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。


 死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もなくなっている状態こそ悲劇です。

 死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです、苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、はたして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。

痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。

 地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端なりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の旋律のひと節たりとも表現できないでしょう。

いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。そのうちあなた方もこちらの世界へ来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。

 いま地球はまさに五月。木々は新緑にかがやき、花の香がただよい、大自然の恵みがいっぱいです。あなた方は造花の美を見て〝何とすばらしいこと〟と感嘆します。

 がその美しさも、霊の世界の美しさに比べれば至ってお粗末な、色褪せた摸作ていどしかありません。地上の誰一人見たことのないような花があり色彩があります。

そのほか小鳥もおれば植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれ一つとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。

そのうちあなた方もその美しさをじっくりと味わえる日がきます。その時あなたはいわゆる幽霊となっているわけですが、その幽霊になった時こそ真の意味で生きているのです。

 実は今でもあなた方は毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないだけです。それは、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。

肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識をもって見ることが出来ます。その時すべての記憶がよみがえります。」


 一問一答

問「死んでから低い界へ行った人はどんな具合でしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れたこと──多分低い世界だろうと思いますが、それを思い出すのでしょうか。そしてそれがその人なりに役に立つのでしょうか」

シルバー・バーチ「低い世界へ引きつけられて行くような人はやはり睡眠中にその低い界を訪れておりますが、その時の体験は死後の自覚を得る上では役に立ちません。

なぜかというと、そういう人の目覚める界は地上ときわめてよく似ているからです。死後の世界は低いところほど地上に似ております。バイブレーションが粗いからです。高くなるほどバイブレーションが細かくなります」


問「朝目覚めてから睡眠中の霊界での体験を思い出すことがありますか」

シルバー・バーチ「睡眠中、あなたは肉体から抜け出ていますから、当然脳から離れています。脳はあなたを物質界にしばりつけるクサリのようなものです。そのクサリから解放されたあなたは、霊格の発達程度に応じたそれぞれの振動の世界で体験を得ます。

その時点ではちゃんと意識して行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその体験は思い出せません。なぜかというと脳があまりにも狭いからです。小は大をかねることが出来ません。ムリをすると歪みを生じます。それは譬えば小さな袋の中にムリやりに物を詰め込むようなものです。袋にはおのずからと容量というものがあります。

ムリして詰め込むと、入るには入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生じるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると話は別です。霊界の体験を思い出すよう脳を訓練することが可能になります。

実を言うと私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのです。私は〝地上に戻ったら、かくかくしかじかのことを思い出すんですヨ〟と言っておくのですが、どうも思い出してくださらないようです。

皆さんお一人お一人にお会いしているのですヨ。そして、あちらこちら霊界を案内してさしあげているんですヨ。しかし思い出されなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから・・・・・・」


問「死んでそちらへ行ってから役に立つわけですか」

シルバー・バーチ「そうです。何一つ無駄にはなりません。神の法則は完璧です。長年霊界で生きてきた私どもは神の法則の完璧さにただただ驚くばかりです。神なんかいるものかといった地上の人間のお粗末なタンカを聞いていると、まったくなさけなくなります。知らない人間ほど己れの愚かさをさらけ出すのです」


問「睡眠中に仕事で霊界へ行くことがありますか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的ですか」

シルバー・バーチ「仕事をしに来る人も中にはおります。それだけの能力をもった人がいるわけです。しかし大ていは死後の準備のためです。物質界で体験を積んだあと霊界でやらなければならない仕事の準備のために、睡眠中にあちこちへ連れて行かれます。

そういう準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に長い時間がかかります。地上時代に霊的知識をあらかじめ知っておくと、こちらへ来てからトクをすると言うのはその辺に理由があるわけです。ずいぶん長い期間眠ったままの人が大勢います。

あらかじめ知識があればすぐに自覚が得られます。ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。光のまぶしさにすぐ慣れるかどうかの問題です。

闇の中にいて光を見ていない人は慣れるのにずいぶん時間がかかります。地上での体験も、こちらでの体験も、何一つ無駄なものはありません。そのことをよく胸に刻み込んでおいて下さい」


問「霊的知識なしに他界した者でも、こちらからの思いや祈りの念が届くでしょうか」

シルバー・バーチ「死後の目覚めは理解力が芽生えた時です。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。
その意味でもわれわれは無知と誤解と迷信と誤った教義と神学を無くすべく闘わねばならないのです。

それが霊界での目覚めの妨げになるからです。そうした障害物が取り除かれないかぎり、魂は少しずつ死後の世界に慣れていくほかはありません。長い長い休息が必要となるのです。又、地上に病院があるように、魂に深い傷を負った者をこちらで看護してやらねばなりません。

反対に人のためによくつくした人、他界に際して愛情と祈りを受けるような人は、そうした善意の波長を受けて目覚めが促進されます」


問「死後の生命を信じず、死ねばおしまいと思っている人はどうなりますか」

シルバー・バーチ「死のうにも死ねないのですから、結局は目覚めてからその事実に直面するほかないわけです。目覚めるまでにどの程度の時間がかかるかは霊格の程度によって違います。霊格が高ければ、死後の存続の知識がなくても、死後の世界に早く順応します」


問「そういう人、つまり死んだらそれでおしまいと思っている人の死には苦痛が伴いますか」

シルバー・バーチ「それも霊格の程度次第です。一般的に言って死ぬということに苦痛は伴いません。大ていは無意識だからです。死ぬ時の様子が自分で意識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます」


問「善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後そのことで何か咎めを受けますか」

シルバー・バーチ「私にはその善人とか悪人とかの意味がわかりませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりは有った方がましです。がその人の真の価値は毎日をどう生きてきたかに尽きます」


問「愛する人とは霊界で再会して若返るのでしょうか。イエスは天国では嫁に行くとか嫁を貰うといったことはないと言っておりますが・・・」

シルバー・バーチ「地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格の程度が同じであれば霊界で再び愛し合うことになりましょう。死は魂にとってはより自由な世界への入口のようなものですから、二人の結びつきは地上より一層強くなります。

が二人の男女の結婚が魂の結びつきでなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者に霊格の差があるときは、死とともに両者は離れていきます。それぞれの界へ引かれていくからです。若返るかというご質問ですが、霊の世界では若返るとか年を取るといったことではなく、成長、進化、発達という形で現われます。

つまり形体ではなく魂の問題になるわけです。イエスが嫁にやったり取ったりしないと言ったのは、地上のような肉体上の結婚のことを言ったのです。

男性といい女性といっても、あくまで男性に対する女性であり、女性に対する男性であって、物質の世界ではこの二元の原理で出来上がっておりますが、霊の世界では界を上がるにつれて男女の差が薄れていきます」


問「死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪が一ばん多いですか」

シルバー・バーチ「もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界ではそれがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま他に知られるのです。因果関係がすぐに知れるのです。

従って醜い心を抱くと、それがそのまま全体の容貌にあらわれて、霊格が下がるのが分かります。そうした罪を地上の言語で説明するのはとても難しく、さきほど言ったように、利己主義の罪と呼ぶよりほかに良い表現が見当たりません」


問「死後の世界が地球に比べて実感があり立派な支配者、君主、または神の支配する世界であることはわかりましたが、こうしたことは昔から地上の人間に啓示されてきたのでしょうか」

シルバー・バーチ「霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。ただ誤解しないでいただきたいのは、こちらの世界には地上でいうような支配者はおりません。霊界の支配者は自然法則そのものなのです。

また地上のように境界線によってどこかで区切られているのではありません。低い界から徐々に高い界へとつながっており、その間に断絶はなく、宇宙全体が一つに融合しております。霊格が向上するにつれて上へ上へと上昇してまいります」


問「地上で孤独な生活を余儀なくされた者は死後も同じような生活を送るのですか」

シルバー・バーチ「いえ、いえ、そんなことはありません。そういう生活を余儀なくされるのはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来ればまた新たな生活があり、愛する者、縁あるものとの再会もあります。神の摂理はうまく出来ております」


問「シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことが出来るでしょうか」

シルバー・バーチ「とくに愛着を感じ、慕っている人物には、大ていの場合会うことが出来るでしょう。共通のきずな a natural bond of sympathy が両者を引き寄せるのです」


問「この肉体を棄ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「地上よりはるかに実感があり、しっかりしてます。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界の方が実在の世界で、地上はその影なのです。こちらへ来られるまでは本当の実体感は味わっておられません」


問「ということは地上の環境が五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊魂には自然に感じられるということですか」

シルバー・バーチ「だから言ってるでしょう。地上よりもっと実感がある。と、こちらの方が実在なのですから・・・・・・あなた方はいわば囚人のようなものです。肉体という牢に入れられて、物質という壁で仕切られて、小さな鉄格子の窓から外をのぞいているだけです。地上では本当の自分のホンの一部分しか意識していないのです」


問「霊界では意念で通じ会うのですか。それとも地上の言語のようなものがあるのですか」
シルバー・バーチ「意念だけで通じ合えるようになるまでは言語も使われます」

問「急死した場合、死後の環境にすぐに慣れるでしょうか」
シルバー・バーチ「魂の進化の程度によって違います」


問「呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのですか」

シルバー・バーチ「魂に意識のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのが分かります。そして抜け出ると目が開きます。まわりに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐそのまま新らしい生活が始まります。

魂に意識がない場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所──病院なり休息所なり──に連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます」

問「愛し合いながら宗教的因習などで一緒になれなかった人も死後は一緒になれますか」
シルバー・バーチ「愛をいつまでも妨げることは出来ません」

問「肉親や親戚の者とも会えますか」
シルバー・バーチ「愛が存在すれば会えます。愛がなければ会えません」


問「死後の生命は永遠ですか」
シルバー・バーチ「生命はすべて永遠です。生命とはすなわち神であり、神は永遠だからです」


問「霊界はたった一つだけですか」
シルバー・バーチ「霊の世界は一つです。しかしその表現形態は無限です。地球以外の天体にもそれぞれに霊の世界があります。物的表現の裏側には必ず霊的表現があるのです。

その無限の霊的世界が二重、三重に入り組みながら全体として一つにまとまっているのが宇宙なのです。あなたがたが知っているのはそのうちのごく一部です。知らない世界がまだまだいくらでも存在します」


問「その分布状態は地理的なものですか」
シルバー・バーチ「地理的なものではありません。精神的発達程度に応じて差が生じているのです。もっとも、ある程度は物的表現形態による影響を受けます」


問「ということは、私たち人間の観念でいうところの界層というものもあるということですか」
シルバー・バーチ 「その通りです。物質的条件によって影響される段階を超えるまでは人間が考えるような〝地域〟とか〝層〟が存在します」


問「たとえば死刑執行人のような罪深い仕事に携わっていた人は霊界でどんな裁きを受けるのでしょうか」

シルバー・バーチ「もしその人がいけないことだ、罪深いことだと知りつつやっていたなら、それなりの報いを受けるでしょう。悪いと思わずにやっていたなら咎めは受けません」


問「動物の肉を食べるということについてはどうでしょうか」

シルバー・バーチ「動物を殺して食べるということに罪の意識を覚える段階まで魂が進化した人間であれば、いけないと知りつつやることは何事であれ許されないことですから、やはりそれなりの報いを受けます。

その段階まで進化しておらず、いけないとも何とも感じない人は、別に罰は受けません。知識には必ず代償が伴います。責任という代償です」


 以上、各種の資料を引用しながら死後の世界を見てきましたが、全体を通じて最も注目しなければならないのは、死後の世界と現実の地上生活とが密接不離の関係にあるという点であろうかと思います。

 地上生活中の体験と知識が死後に役に立つという現実的な意味にとどまらず、地上生活中の意識や道徳感覚が時として死後の霊的進化向上に決定的な影響を及ぼすこともあるという意味においても、多寡が六、七十年の人生と軽く見くびることが出来ないものがあるようです。

 たとえば大哲学者と仰がれた人が、その強烈な知性が却って災いして、死後、自分の知的想像力で造り上げた小さな宇宙の中で何百年、何千年と暮らしている例があると聞きます。これをマイヤースは〝知的牢獄〟と呼んでいます。各宗教の指導者やその熱烈な信者にも当然同じことが言えます。

 この問題は別の章で改めて取り扱うことにして、話を元に戻して、もしも地上生活と死後の生活とに現実的にも道徳的にも何の因果関係もないとしたら、また仮りに関係があるにしても、それが仏教に見るような永遠の地獄極楽説とか、キリスト教に見るような、嫉妬したり報復したりする気まぐれな神の支配する世界だとしたら、

一体われわれは地上生活をどう生きたらいいのでしょう。まったく途方に暮れるばかりではないでしょうか。

 そうした観点から改めてスピリチュアリズムをみると、それがいかに合理的で、知性も道義心も宗教心も快く満足させてくれるものであるかを再認識するのです。

しかし同時にもう一つ別の観点、すなわちオリバー・ロッジの説に見られるコペルニクス的転回によってこれを見ますと、地上生活と死後の世界とに関係があるのは至極当り前といえるわけです。

われわれは肉体という鈍重な衣服をまとってホンの束の間を地上で暮らしているわけで、すぐまた元の生活すなわち霊界での生活に戻るわけです。つまり、もともと霊界で暮らしている者が危険を冒して地上へやってくるにすぎないのです。

 とは言え、地上に生を享けるということは、ロッジも言っているとおり、そう易々と叶うものではないようです。その問題になると仏教の方に一日の長があるようです。 「帰経文」 という経に次のような箇所があります。

 「人身受け難く、今巳(すで)に受く、仏法聞き難く、今巳(すで)に聞く。此の身今生に度(さと)らずんば、更に何(いづれ)の生に度(さと)らん。我等もろともに、至心(ししん)に三宝に帰依(きえ)し奉(たてまつ)る。」

 死後の世界を知ったからといって、われわれは、かりそめにも地上生活を軽んじることがあってはならないと思います。その戒めをよく表わした俳句があります。決して名句とは言えないまでも、よき教訓を含んだ句として最後に紹介しておきます。

 浜までは海女(あま)も蓑(みの)きる時雨(しぐれ)かな
                         高神覚昇著「般若心経講義」より

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

The Spirit Teachings

24節

*本節の内容旧約聖書時代と新約聖書時代の間の記録の欠落に  ついて
*夜明け前の暗黒の時代
*啓示の時代は人間的渇望に応えて訪れる
*神と人間との関係について過度の詮索は無意味
*バイブルを絶対とした議論には応じない
*キリストを神格化せず一人間として再検討せよ
*背後霊も人間の責務の肩代りは出来ない


〔旧約聖書の時代と新約聖書の時代との間に記録のない時代があることについて尋ねてみた。〕


その時期の記録は何も残っておらぬ。その時代は霊界からの働きかけが特殊な場合を除いて控えられたからである。そのことについては詳説はせぬ。われらが今目的としているのは、メルキゼデクに始まりイエスに至る大いなる霊力の流れを指摘することにあるからである。取り敢えずその時期は暗黒と荒廃と霊的飢饉の時代であったこと、そしてその時代が終ってのちに、ようやくわれらが再び人間の心に黎明への希望を目覚めさせることを得たところであると理解すればよい。今その最初の光が射し込んだ――その光の中のささやかな一筋をわれらが受け持っているのである。人間がようやくあたりの暗黒に気づき、その帳(とばり)が取り除かれ光が射し込むことを待ち望んだからである。

同じことが全ての民族についても言える。時として地上的・物質的要素が余りに強く蔓延し、霊的なるものが完全に地上より姿を消したかに思える時期があるが、実際はそうではない。暗黒の時期が去り黎明の時が到れば、潜んでいた霊的胚芽がその芽を出し始める。再び霊力の流れが起こり、人間はかつての真理より一段と高き霊的真理に目覚める。その過程はあたかも、その日の仕事に疲れた人間が休息を求めて横になるのにも似ていよう。あたりのことが皆目判らぬ。精神は心労で擦り減り、身体も疲労困憊(こんぱい)である。内外ともに陰鬱なる空気が漂う。やがて寝入る。そして睡眠によりて身体は元気を回復し、精神は立ち直り、太陽が再びその温かき光を注いでくれていることを知る。身も心も本来の快活さを取り戻し、魂はあたりの生命と美に喜びを見出す。夜明けに味わう、あの躍動する喜びが蘇る。

人類もその長き歴史において同様の体験を繰り返してきた。それまで満足していた古き霊的教訓に知性がうんざりし始める。と同時に、物的要素が勢力を揮いはじめ、疑念と仲違いが生じ、根を張り、その影響が出はじめる。それまでの真理が一つまた一つと疑いの目で見られるようになり、一つまた一つと否定されていく。そして遂に神の真理の光が人間の目から被い隠されたことを識(し)る。太陽は霊的地平線の彼方へと沈み、不活発と陰鬱と暗黒の夜が始まる。神の使者も活動を手控える。地上を無知と絶望の夜が支配するにまかせ、眠れる魂が目を覚まし光を求める時の到来を待ちつつ、ひたすらに耐え忍ぶ。魂は死せるにあらず、ただ眠っているに過ぎぬ。いつかは必ず覚醒の時期が訪れる。そして、その夜明けの黎明の中において神の使者は、暗黒と絶望の中に光と喜びをもたらせてくれた神への讃歌を高らかに謳(うた)うのである。

旧約聖書の最後の記録と共に終息せる霊的期間と、新たに黎明期を迎えた霊的期間との間には、かくの如き暗黒の時代があったのである。そなたたちの時代のすぐ前に、その黎明期があったのである。われらは今こそそなたを霊的黎明に向けて導かんとしているのである。疑ってはならぬ。今こそそなたにとりてその黎明期となるべき時期であり、その夜明けは新たなる知識の夜明けであり、より広き知識の夜明けであり、より確信に満ちた信仰の夜明けとなるであろうことを疑ってはならぬ。その夜明けの光は前期の黄昏(たそがれ)時の薄明りより遙かに強く、且つ鮮明であることであろう。間断なく、ひたすらに待ち望むことである。その夜明けの光を見落とし、再び寝入り、折角の好機を見失うことのなきよう、啓示への備えを怠ってはならぬ。


〔そうした暗黒の時期は必ず啓示の時代の前後に訪れるものであるかを質すと――〕


用語が少しばかり適切さを欠いている。その時期は必ずしも暗黒の時期とは限らぬ。動揺と内的興奮のあとの休息と安らぎの時期であることもある。地上生活に喩えてみれば、身体が栄養摂取のために休息の時期を必要とするのと同じである。地上人類が摂取し得るだけの真理はすでに十分に与えられている。更に多くを必要とする時期までは、それまでの過程が継続される。真理が啓示されるには、それに先立って真理への渇望があらねばならぬ。


――ということは、啓示はまず内部から――つまり、主観的自我に発するということですか。


内部的希求と外部的啓示とが一致するということである。先にも述べた如く、人間は受け入れる能力に余るものは授からぬ。背後霊の指導のもとに徐々に意識を広げつつ、ある段階に至れば一段と次元の高き知識の必要を痛感する。その時こそ新たなる啓示が与えられる時である。神学者の中には、人間自らがその内的思考力によりて理論的ないし思索的思想体系を産み出すのではないかと弁ずる者がいるが、彼らは神の使者たる背後霊の存在を知らぬ。己の思考の産物と思い込めるものも実は背後霊の働きかけの結果なのである。優れた神学者の中には真相近くまで踏み込める者も確かにいる。その者たちがもしも背後霊の存在についての知識を持ち合わせていれば、聖書が完全にして誤りなき啓示であり、一言一句たりとも付加あるいは削除は許されぬものと思い込みたる者よりも、さらにさらに真相に近づくことが出来るであろうにと残念に思う。地上の人間の実生活にとりては、人間の思考作用と啓示との関連について余り細かくこだわる必要はない。分離できぬものを分離せんとしたり、断定できぬものを断定せんとしても、所詮は迷いを深めるのみである。そなたとしては、要するに霊的準備が知識に先行するものであること、進取的精神が真理へのより高き見解をもたらすものであること、そしてその見解が実は背後霊の示唆に他ならぬことを知れば足りる。かくの如く、啓示は人間の必要度と相関関係にあるのである。

真理普及の仕事において人間が頻(しき)りに己の存在価値を求めんとすることに、われらは奇異の念を覚える。一体人間はどうありたいと望むのであろうか。背後から密かに操作することをせずに、直接五感に訴える手段にて精神に働きかけ、思想を形成すれば良いとでも言うのであろうか。奇術師が見事な手さばきで観客を喜ばせる如くに、目に見える不可思議な手段に訴える方がより気高く有効であるとでも言うのであろうか。われらが厳然たる独立性をもつ存在であることを示すに足るだけのものは既に十分に提供したつもりである。われらの働きを小さく見くびることはいい加減にして、われらがそなたの精神に働きかける影響を素直に受け入れてほしい。われらはその精神の中の素材を利用するからこそ、印象が強くなる。われらの仕事にとりて不必要なものも取り除かれるのではないかとの心配は無用である。


――そんな懸念はもっておりませんが、ただ私も自分の個性だけは確信しておきたいという気持ちはあります。また偉大な思想家の中にはもっと広い観点から神の啓示を完全に否定している者が大勢おります。彼らが言うには、人間は自分に理解し得ないものを受け取るわけがないし、自分から考え出した筈もない内容の啓示を外部から受けて、それが精神の中に住み込むことは有り得ないというのですが……


そのことに関しては既に述べてある。それが如何に誤った結論であるかは、いずれ時が経てば判るであろう。そなたはわれらの仕事を何やら個性をもたぬ自発性なき機械の如く考えたがるようであるが、それに対してわれらは断固として異議を唱えるものである。第一、自分の行為をすべて自分の判断のもとに行っていると思うこと自体が誤りである。そなたには単独的行為などというものは何一つない。常にわれらによって導かれ影響を受けておると思うがよい。


〔この通信から数日後に私は新旧両聖書の福音を、この霊訓より得た新しい光に照らして読み直して得た幾つかの結論を述べた。それまでとは全く異なった角度から観たもので、それが正しいと言えるか否か、新しい解釈と言えるか否かを尋ねてみた。〕


大体においてその結論で正しいと言えよう。が、別に新しくはない。これまでも神学的束縛より脱し、障害もこだわりもなく真理を追求せる者は、疾(と)うの昔にそうした結論に達している。その啓示を得た者は大勢いるのである。


――ではなぜ私にその人たちの説を読ませてくれないのです。面倒が省けるでしょうに。


そなたはそなたなりの道を辿りて結論に達するほうが良いのである。それから他人の結論を比較すればよい。


――あなたの態度はいつもそうです。回り道をしているように思えてなりません。仮にあなたのおっしゃる通りだとしても、なぜこんなに永い間私を誤謬の中で生きて来させたのですか。


それは、すでに申した如く、そなたが真理を理解する状態になかったということである。これまでの生活は、そなたが思うほど永かったわけでもないが、進歩のための周到なる準備であった。その時点においては有益であり、進歩を促進するものであった。が、それとても、より高き真理の理解へ導くための準備であったということである。今の段階についても同じことが言えよう。いずれ将来において今を振り返り、この程度のことが何故あれほどまで驚異に思えたのであろうかと、不思議に思えることであろう。

そなたの全存在である生命は常に進歩を求める。しかし、その初期はその後の発達のための準備期間に過ぎぬ。

神学もそなたの訓育のためには通過すべき必須段階の一つだったのであり、われらとしてもそなたがその誤れる見解を摂り入れていくのを敢えて阻止しなかったし、又阻止しようにも出来なかった。これまでのわれらの仕事において、その誤れる教義をそなたの精神より取り除くことが最大の難題の一つであった。が、われらはそれを着々と片付け、今やそなたの目にも、啓示の問題に関し、われらをして誤れる見解を取り除き、正しき知識を吹き込むことを可能ならしめるに要する数々の知識を見出し得るであろう。神学の中にありては如何に尊ぶべきものであろうと、単なる語句に対する因襲的信仰が根を張っているかぎり、われらは何も為し得ぬ。われらとしては、それが聖書にあるなしに関わらず、人間を通して得られる啓示に、それなりの価値をそなたが見出し得るようになるまで待つ他はない。議論に際し、何かというと聖書を持ち出すようでは、われらは何も為し得ぬ。そのような者は理性的教育の及ぶところではない。

イエス・キリストの生涯とその訓えの中には、われらの側より照明を与える前にそなたみずからの判断にて改めて検討し直すべきことが数多く存在する。その生涯に関する記録を検討すれば、多分その信憑性、出所、権威等の問題について再考を促されるであろう。イエスの出生にまつわる話、その語録に基づく贖罪説――イエス自身の贖罪とイエスの御名のもとに説ける者たちの贖罪、奇跡、磔刑(はりつけ)、そして再生へと目を向けるであろう。また神及び同胞に対する責務についてのイエスの教えとわれらの説くところとの比較、祈りについてのイエスの見解と弟子たちの見解、同じくイエスと弟子たちによる運命の甘受と自己犠牲に関する説、慈善、懴悔と回心への寛容、天国と地獄、賞と罰、等々が目に止まることであろう。

今やそなたにはそうした問題について正面より検討する用意が出来た。これまでのそなたはそうした問題については先入的結論をもって対応するのみであった。まずもってその記録の信憑性を検討するがよい。そこに記載された言説のもつ正当なる価値を検討せよ。その上でソクラテス、プラトン、アリストテレス等の哲人の言説を検討するが如くに、イエスの言説を検討することである。誇張的表現を削(そ)ぎ落とし、事実そのものを直視せよ。神がかり的表現を冷静なる理性の光に照らして検討せよ。伝説、神話、因襲の類に過ぎぬものを払い除け、何ものにも拘束されずに、辿りつく結論を恐れることなく、勇気をもって己の判断力一つにて検討してみよ。勇気をもって神を信じ、真理を追求せよ。啓示とは何かについて真剣に、そして冷静に、勇気をもって思考せよ。

そうした勇気ある真理探求者には夢想だにせぬ知識と、いかなる在来の教義も与え得ぬ安らぎを授かることであろう。己一人で求めたことのない者には知り得ぬ、神とその真理とを知ることであろう。一人して遙か遠き他国を訪れ、そこに生活して始めてその国の真実の姿を知り得る如く、神的真理についてその実相に触れることであろう。その者の背後には啓発の任務を帯びる霊団――人類に真理と進歩をもたらすための霊が集結することであろう。かくして旧(ふる)き偏見は崩れ去り、旧き誤謬は新たな光に後ずさりし、それ相応の暗闇へと消え行き、魂は一点の曇りなき目にて真理を見つめることになるであろう。何一つ恐れることはない。イエスもかく語っている――“真理は汝を解き放ち、而(しか)して汝はまさに自由の身とならん(1)”と。


〔私はそれが現実に可能であるならば何を犠牲にしても是非そうありたいと思うと述べた。私は面白くなかった。そして一人で踠(もが)くに任されることに不満を表明した。〕


われらは決してそなたを放置しておくわけではない。援助はする。が、そなた自らが為すべきことを肩代わりすることはせぬ。そなた自身が為さねばならぬ。そなたが努力しておればわれらも真理へと導くであろう。われらを信ぜよ。そなたにとりてはそれが最良の道であり、それ以外には真理を学ぶ道はない。われらがその真理を語ったところでそなたは信じようとしないであろうし、理解しようともせぬであろう。キリスト教の啓示の問題以外にもそなたが目を向けねばならぬものが数多くある。キリスト教以外の神の啓示、キリスト教以外の霊的影響の流れ等々の課題があるが、今はまだその時期ではない。これにて止めよ。神の導きのあらんことを。

(†インペレーター)