『霊界通信 ベールの彼方の生活』の第1巻は、英国の牧師G・V・オーエンを通じて伝えられたスピリチュアリズムの代表的古典です。死後の世界(天界の低地)の具体的な様子を詳細に描写しており、現代でも高い評価を受けている著作です。
推薦の言葉 ノースクリッフ卿私はまだオーエン師の霊界通信の全篇を読む機会を得ていないが、これまで目を通した部分だけでも実に美しい章節を各所に発見している。
こうした驚異的な資料は霊媒自身の人格が浅からぬ重要性を有ち、それとの関連性において考察さるべきであるように思われる。
私はオーエン師とは短時間の会見しか持っていないが、その時に得た印象は、誠実さと確信に満ちた人物を前にしているということであった。ご自分に霊能があるというような言葉はついぞ師の口からは聞かれなかった。
出来るだけ名前は知られたくないとの気持ちを披瀝され、これによる収益の受取りを一切辞退しておられる。これだけ世界中から関心を寄せられた霊界通信なら大変な印税が容易に得られたであろうと思われるのだが。
(ノースクリッフ卿 Lord Northcliffe―本名 ウィリアム・ハームズワース Alfred Charles William Harmsworth。アイルランド生まれの英国の新聞経営者で、有名なDaily Mail デイリーメールの創刊者。
死後〝フリート街の法王〟と呼ばれたハンネン・スワッハー Hannen Swaffer がよく出席していた直接談話霊媒デニス・ブラッドレーの交霊会に出現、スワッハーがそれを「ノースクリッフの帰還」 Northcliffe,s Return と題して出版、大反響を呼んだ───訳者 )
序
アーサー・コナン・ドイル
永かった闘いにも勝利の日が近づいた。今後もなお様々なことが起きるであろう。後退もあれば失望もあることであろう。が勝利は間違いない。
新しい霊的啓示の記録が一般大衆の手に入った時、それに天啓的美しさと合理性とがあれば必ずや全ての疑念、あらゆる偏見を一掃してしまうものであることは、いつの時代においても、真理なるものに触れた者ならば断固たる確信をもつものである。
今その内の一つ───至純にして至高、完璧にして崇高なる淵源を持つ啓示が世界の注目を浴びつつある。まさに、主の御手ここに在り、の思いがする。
それが今あなたのすぐ目の前にある。そしてそれが自らあなたに語りかけんとしている。本文の冒頭を読んだだけで素晴らしさを評価してはならない。確かに劈頭から素晴らしい。が読み進むに従っていよいよその美しさを増し、ついには荘厳さの域にまで達する。
一字一句に捉われたアラ探しをすることなく、全体を通しての印象によって判断しなくてはいけない。同時に、ただ単に新しいものだから、珍しいから、ということで無闇に有難がってもいけない。
地上のいかなる教説も、それがいかに聖なるものであろうと、そこから僅かな文句だけを引用したり、霊的であることを必要以上に強調しすぎることによって嘲笑の的とされることが十分あり得ることを銘記すべきである。
この啓示が及ぼす影響力の程度と範囲を判断する規準は、読者の精神と魂へ及ぼす影響全体であり、それ以外には有り得ない。
神は二千年前に啓示の泉を閉鎖された、という。一体何の根拠をもってこんな非合理きわまる信仰を説くのであろうか。
それよりも、生ける神は今なお、その生ける威力を顕示し続けており、苦難により一段と浄化され受容力を増した人類の理解力の進化と威力に相応しい新たな援助と知識とをふんだんに授けて下さっている、と信じる方がどれほど合理的であろうか。
驚異的と言われ不可思議とされた過去七十年間のいわゆる超自然現象は、明々白々たる事実であり、それを知らぬ者は自らの手を持って目を蔽う者のみと言ってよいほどである。現象そのものは成るほど取るに足らぬものかも知れない。
がそれは実は吾々人間の注意を引きつける為の信号(シグナル)だったのであり、それをきっかけとして、こうした霊的メッセージへ誘わんとする意図があったのである。その完璧な一例がこの通信と言えるかも知れない。
啓示は他にも数多く存在する。そしてその内容は由ってきたる霊界の階層によっても異なるし、受信者の知識の程度によっても異なる。
通信は受信者を通過する際に大なり小なり色づけされることは免れないのである。完全に純粋な通信は純心無垢な霊媒にして初めて得られる。本通信における天界の物語は、物的人間の条件の許すかぎりにおいて、その絶対的純粋さに近いものと考えてよいであろう。
その内容は古き信仰を覆すものであろうか。私は絶対にそうでないことを断言する。むしろ古き信仰を拡大し、明確にし、美化している。
これまで吾々を当惑させてきた空白の部分を埋めてくれる。そして一字一句に拘わり精神を忘れた心狭き変屈学者を除いては、限りない励みと啓発を与えてくれる。
真意を捉え難かった聖書の文字が本通信によって明確に肉付けされ意味を持つに至った部分が幾つあることであろうか。
例えば「父の家には住処多し」も、パウロの「手をもて造られたるにあらざる住処」も、本書の中に僅かに見られるところの、人間の知能と言語を超越した、かの栄光を見ただけで理解がいくのではなかろうか。
それはもはや捉え難き遠い世界のまぼろしではなく、この〝時〟にしばられた暗き人生を歩むにつれて前方に真実にして確固たる光として輝き、神の摂理と己の道義心に忠実に生きてさえいれば言語に絶する幸せが死後に待ち受けるとの確信を植え付けてくれることによって、よろこびの時にはより一層その喜びを増し、悲しみの時には涙を拭ってくれるのである。
言葉即(イコール)観念の認識に固執する者は、この通信はすべてオーエン氏の潜在意識の産物であると言うであろう。そう主張する者は、では他にも多くの霊覚者が程度の差こそあれ同じような体験をしている事実をどう説明するのであろうか。
筆者自身も数多くの霊界通信を参考にして死後の世界の概観を二冊のささやかな本にまとめている。それはこの度のオーエン氏の通信とはまるで無関係に編纂された。オーエン氏の通信が私の二冊とは無関係に綴られたのと同じである。
どちらも互いに参考にし合っていない。にも拘らず、この度読み返してみて、私のものより遥かに雄大で詳しいオーエン氏の叙述の中に、重要と思える箇所で私が誤りを犯したところは一つも見当たらない。
もしも全体系が霊的インスピレーションに基づいていなかったら、果たしてこうした基本的一致が有りうるであろうか。
今や世界は何らかの、より強力な駆動力を必要としている。これまでは言わば機関車を外されたまま古きインスピレーションの上を走って来たようなものである。今や新しい機関車が必要なのである。
もしも既成宗教が真に人間を救うものであったのなら、それは人類史の最大の苦難の時にこそ威力を発揮したはず───例えば第一次世界大戦も起きなかったはずである。その厳しい要請に応え得た教会が有ったであろうか。
今こそ霊的真理が改めて説かれ、それが人生の原理と再び渾然一体となる必要があるのは明々白々たる事実ではなかろうか。
新しい時代が始まりつつある。これまで貢献してきた者が、その立証に苦労してきた真理が世間から注目を集めつつあるのを見て敬虔なる満足を覚えても、それは無理からぬことかも知れない。そして、それは自惚れの誘因とはならない。
目にこそ見えないが実在の叡智に富める霊団の道具に過ぎないことを自覚しているからである。
しかし同時に、もしも新たなる真理の淵源を知り、荒波の中を必死に邁進して来た航路が間違っていなかったことを知って安堵の気持ちを抱いたとしても、それが人間味というものではなかろうか。
(コナン・ドイル Arthur Conan Doyle ───言わずと知れた名探偵シャーロック・ホームズの活躍する推理小説の作者であるが、本職は内科医であった。
そのシャーロック・ホームズ・シリーズによって知名度が最高潮に達した頃にスピリチュアリズムとの出会いがあり、さまざまな非難中傷の中を徹底した実証主義で調査研究し、その真実性を確信してからは〝スピリチュアリズムのパウロ〟の異名を取るほど、その普及に献身した。──訳者)
まえがき
永かった闘いにも勝利の日が近づいた。今後もなお様々なことが起きるであろう。後退もあれば失望もあることであろう。が勝利は間違いない。
新しい霊的啓示の記録が一般大衆の手に入った時、それに天啓的美しさと合理性とがあれば必ずや全ての疑念、あらゆる偏見を一掃してしまうものであることは、いつの時代においても、真理なるものに触れた者ならば断固たる確信をもつものである。
今その内の一つ───至純にして至高、完璧にして崇高なる淵源を持つ啓示が世界の注目を浴びつつある。まさに、主の御手ここに在り、の思いがする。
それが今あなたのすぐ目の前にある。そしてそれが自らあなたに語りかけんとしている。本文の冒頭を読んだだけで素晴らしさを評価してはならない。確かに劈頭から素晴らしい。が読み進むに従っていよいよその美しさを増し、ついには荘厳さの域にまで達する。
一字一句に捉われたアラ探しをすることなく、全体を通しての印象によって判断しなくてはいけない。同時に、ただ単に新しいものだから、珍しいから、ということで無闇に有難がってもいけない。
地上のいかなる教説も、それがいかに聖なるものであろうと、そこから僅かな文句だけを引用したり、霊的であることを必要以上に強調しすぎることによって嘲笑の的とされることが十分あり得ることを銘記すべきである。
この啓示が及ぼす影響力の程度と範囲を判断する規準は、読者の精神と魂へ及ぼす影響全体であり、それ以外には有り得ない。
神は二千年前に啓示の泉を閉鎖された、という。一体何の根拠をもってこんな非合理きわまる信仰を説くのであろうか。
それよりも、生ける神は今なお、その生ける威力を顕示し続けており、苦難により一段と浄化され受容力を増した人類の理解力の進化と威力に相応しい新たな援助と知識とをふんだんに授けて下さっている、と信じる方がどれほど合理的であろうか。
驚異的と言われ不可思議とされた過去七十年間のいわゆる超自然現象は、明々白々たる事実であり、それを知らぬ者は自らの手を持って目を蔽う者のみと言ってよいほどである。現象そのものは成るほど取るに足らぬものかも知れない。
がそれは実は吾々人間の注意を引きつける為の信号(シグナル)だったのであり、それをきっかけとして、こうした霊的メッセージへ誘わんとする意図があったのである。その完璧な一例がこの通信と言えるかも知れない。
啓示は他にも数多く存在する。そしてその内容は由ってきたる霊界の階層によっても異なるし、受信者の知識の程度によっても異なる。
通信は受信者を通過する際に大なり小なり色づけされることは免れないのである。完全に純粋な通信は純心無垢な霊媒にして初めて得られる。本通信における天界の物語は、物的人間の条件の許すかぎりにおいて、その絶対的純粋さに近いものと考えてよいであろう。
その内容は古き信仰を覆すものであろうか。私は絶対にそうでないことを断言する。むしろ古き信仰を拡大し、明確にし、美化している。
これまで吾々を当惑させてきた空白の部分を埋めてくれる。そして一字一句に拘わり精神を忘れた心狭き変屈学者を除いては、限りない励みと啓発を与えてくれる。
真意を捉え難かった聖書の文字が本通信によって明確に肉付けされ意味を持つに至った部分が幾つあることであろうか。
例えば「父の家には住処多し」も、パウロの「手をもて造られたるにあらざる住処」も、本書の中に僅かに見られるところの、人間の知能と言語を超越した、かの栄光を見ただけで理解がいくのではなかろうか。
それはもはや捉え難き遠い世界のまぼろしではなく、この〝時〟にしばられた暗き人生を歩むにつれて前方に真実にして確固たる光として輝き、神の摂理と己の道義心に忠実に生きてさえいれば言語に絶する幸せが死後に待ち受けるとの確信を植え付けてくれることによって、よろこびの時にはより一層その喜びを増し、悲しみの時には涙を拭ってくれるのである。
言葉即(イコール)観念の認識に固執する者は、この通信はすべてオーエン氏の潜在意識の産物であると言うであろう。そう主張する者は、では他にも多くの霊覚者が程度の差こそあれ同じような体験をしている事実をどう説明するのであろうか。
筆者自身も数多くの霊界通信を参考にして死後の世界の概観を二冊のささやかな本にまとめている。それはこの度のオーエン氏の通信とはまるで無関係に編纂された。オーエン氏の通信が私の二冊とは無関係に綴られたのと同じである。
どちらも互いに参考にし合っていない。にも拘らず、この度読み返してみて、私のものより遥かに雄大で詳しいオーエン氏の叙述の中に、重要と思える箇所で私が誤りを犯したところは一つも見当たらない。
もしも全体系が霊的インスピレーションに基づいていなかったら、果たしてこうした基本的一致が有りうるであろうか。
今や世界は何らかの、より強力な駆動力を必要としている。これまでは言わば機関車を外されたまま古きインスピレーションの上を走って来たようなものである。今や新しい機関車が必要なのである。
もしも既成宗教が真に人間を救うものであったのなら、それは人類史の最大の苦難の時にこそ威力を発揮したはず───例えば第一次世界大戦も起きなかったはずである。その厳しい要請に応え得た教会が有ったであろうか。
今こそ霊的真理が改めて説かれ、それが人生の原理と再び渾然一体となる必要があるのは明々白々たる事実ではなかろうか。
新しい時代が始まりつつある。これまで貢献してきた者が、その立証に苦労してきた真理が世間から注目を集めつつあるのを見て敬虔なる満足を覚えても、それは無理からぬことかも知れない。そして、それは自惚れの誘因とはならない。
目にこそ見えないが実在の叡智に富める霊団の道具に過ぎないことを自覚しているからである。
しかし同時に、もしも新たなる真理の淵源を知り、荒波の中を必死に邁進して来た航路が間違っていなかったことを知って安堵の気持ちを抱いたとしても、それが人間味というものではなかろうか。
(コナン・ドイル Arthur Conan Doyle ───言わずと知れた名探偵シャーロック・ホームズの活躍する推理小説の作者であるが、本職は内科医であった。
そのシャーロック・ホームズ・シリーズによって知名度が最高潮に達した頃にスピリチュアリズムとの出会いがあり、さまざまな非難中傷の中を徹底した実証主義で調査研究し、その真実性を確信してからは〝スピリチュアリズムのパウロ〟の異名を取るほど、その普及に献身した。──訳者)
まえがき
G・V・オーエン
この霊界通信すなわち自動書記または(より正確に言えば)霊感書記によって綴られた通信は、形の上では四部に分かれているが、内容的には一貫性を有つものである。いずれも、通信を送ってきた霊団が予(アラカジ)め計画したものであることは明白である。
母と子という肉親関係が本通信を開始する絶好の通路となったことは疑う余地がない。
その点から考えて本通信が私の母と友人たちで構成された一団によって開始されていることは極めて自然なことと言える。
それが一応軌道に乗った頃、新しくアストリエルと名告る霊が紹介された。この霊はそれまでの通信者に比べて霊格が高く、同時に哲学的なところもあり、そういった面は用語の中にもはっきり表われている。
母の属する一団とこのアストリエル霊からの通信が第一巻『天界の低地』を構成している。
この言わば試験的通信が終わると、私の通信はザブディエルと名告る私の守護霊の手に預けられた。母たちからの通信に較べると流石(サズガ)に高等である。第二巻『天界の高地』は全部このザブディエル霊からの通信で占められている。
第三巻 『天界の政庁』はリーダーと名告る霊とその霊団から送られたものである。その後リーダー霊は通信を一手に引き受け、名前も改めてアーネルと名告るようになった。
この霊界通信すなわち自動書記または(より正確に言えば)霊感書記によって綴られた通信は、形の上では四部に分かれているが、内容的には一貫性を有つものである。いずれも、通信を送ってきた霊団が予(アラカジ)め計画したものであることは明白である。
母と子という肉親関係が本通信を開始する絶好の通路となったことは疑う余地がない。
その点から考えて本通信が私の母と友人たちで構成された一団によって開始されていることは極めて自然なことと言える。
それが一応軌道に乗った頃、新しくアストリエルと名告る霊が紹介された。この霊はそれまでの通信者に比べて霊格が高く、同時に哲学的なところもあり、そういった面は用語の中にもはっきり表われている。
母の属する一団とこのアストリエル霊からの通信が第一巻『天界の低地』を構成している。
この言わば試験的通信が終わると、私の通信はザブディエルと名告る私の守護霊の手に預けられた。母たちからの通信に較べると流石(サズガ)に高等である。第二巻『天界の高地』は全部このザブディエル霊からの通信で占められている。
第三巻 『天界の政庁』はリーダーと名告る霊とその霊団から送られたものである。その後リーダー霊は通信を一手に引き受け、名前も改めてアーネルと名告るようになった。
その名のもとで綴られたのが第四巻『天界の大軍』で、文字どおり本通信の圧巻である。前三巻のいずれにも増して充実しており、結局前三巻はこの第四巻の為の手馴らしであったとみても差し支えない。
内容的にみて本通信が第一部から順を追って読まれるべき性質のものであることは言うまでもない。初めに出た事柄があとになって説明抜きで出て来る場合も少なくないのである。
本通信中の主要人物について簡単に説明しておくと──
私の母は一九〇九年に六十三歳で他界している。アストリエルは十八世紀半ばごろ、英国ウォ―リック州で学校の校長をしていた人である。ザブディエルについては全然と言ってよいほど不明である。アーネルについては本文中に自己紹介が出ている。
霊界側の筆記役をしているカスリーンは英国リバプール市のアンフィールドに住んでいた裁縫婦で、私の娘のルビーが一八九六年に僅か十五ヶ月で他界するその三年前に二十八歳で他界している。
さて〝聖職者というのは何でもすぐに信じてしまう〟というのが世間一般の通念であるらしい。なるほど〝信仰〟というものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかも知れない。
が、私は声を大にして断言しておくが、新しい真理を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。
因(チナミ)に私が本通信を〝信ずるに足るもの〟と認めるまでにちょうど四分の一世紀を費している。すなわち、確かに霊界通信というものが実際にあることを認めるのに十年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適っていることをはっきりと得心するのに十五年かかった。
そう得心して間もなく、その回答とも言うべき現象が起こり出した。最初まず私の妻が自動書記能力を発揮し、やがてその手を通じで、お前も鉛筆を握って机に向かい頭に浮かぶ思念を素直に書き下ろしてみよ、という注文が私宛に送られて来た。
正直のところ私はそれが嫌で、しばらく拒否し続けた。が他界した私の友人たちがしきりに私を通じて通信したがっていることを知るに及んで、私の気持ちにもだいぶ変化が起き始めた。
こうした事実からも十分納得して頂けることと思うが、霊界の通信者は通信の目的や吾々に対する希望は述べても、そのために吾々の都合や意志を無視したり強制したりするようなことは決して無かった。結果論から言えば少なくとも私の場合は強引に書かせた方が手間ひまが掛からずに済んだろうにと思われるのだが・・・・・・。
が、それでも私はすぐには鉛筆を握らなかった。しかし、その内注文する側の真摯な態度に好感を覚え、多分に懐疑の念を抱きつつも遂に意を決して、晩課が終わってからカソック姿(法衣の一種)のまま机に向かったのであった。
最初の四、五節は内容に統一性が無く、何を言わんとしているのか見当がつかなかったが、その内次第にまとまりが見えてきて、やがて厳とした筋が読み取れるようになった。
それからというものは書けば書くほど筆が速くなった。読者が今まさに読まんとされているのがその産物である。
一九二五年秋
一章 暗黒の世界
① 霊界の風景 偏見→卒業
② 悲しみの館
③ バイブレーションの原理
④ 光のかけ橋
⑤ キリスト神の〝顕現〟
⑥ 暗黒街の天使
1 霊界の風景
一九一三年九月二三日 火曜日
──どなたでしょうか。(オーエン氏の質問──訳者)
あなたの母親です。ほかに援助してくださる方が幾人かお出でです。私たちは順調に進歩しております。しかしまだ、述べたいことの全てを伝えることができません。それはあなたの精神状態がこちらが期待するほど平静で受身的でないからでもあります。
──住んでおられる家屋と、今携わっておられる仕事について教えてください。
仕事はその対象となる人間の必要性によって異なります。非常に多種多様です。しかし現在地上にいる人々の向上に向けられている点は一様に同じです。
例えばローズ(オーエン氏の妻──訳者) にまず働きかけて自動書記をやらせ、その間の危険から護ってあげる霊団を組織したのは私たちです。
今でもその霊団が彼女の面倒を見ております。時おり近くに存在を感じているのではないでしょうか。多分そのはずです。必要とあればすぐに近くに参りますから。
次は家屋について。これは、とても明るく美しく出来あがっております。そして高い界におられる同志の方々がひっきりなしに訪れては向上の道へ励まして下さいます。
──(ここで一つの疑問が浮かんだ。母たちの目にはその高級界からの霊の姿が見えるのだろうか、それとも吾々人間と同じなのだろうか、ということである。
断わっておきたいのは、この霊界通信を読んで行かれるうちに読者は、私が明らかに口に出していない思念に対する答えが〝イエス〟あるいは〝ノー〟で始まって綴られているのを各所に発見されるはずである。
その点をご諒承いただいて、特に必要がないかぎり、それが実際に口に出した質問なのか、それとも私の思念を読み取ったものかは断わらないことにする。)
はい、見えます。その方たちが私たちに姿を見せようと思われた時は見られます。しかし私たちの発達の程度と、その方たちの私たちに対する力量次第です。
℘22
──では、今住んでおられるところ──景色その他を説明をしていただけますか。
完成された地上、といった感じです。でも、もちろん四次元の要素が幾分ありますから、うまく説明できないところがあります。丘もあれば小川もあり、美しい森もあり、家々もあります。それに、私たちが地上から来た時のために前もって先輩たちがこしらえてくれているものもあります。
今は代わって私たちが、今しばらく地上の生存競争の中に生き続けなければならない人々のために、環境をこしらえたり整えたりしてあげております。こちらへ来られた時には万事がうまく整っており、歓迎の準備も出来ているというわけです。
ここで、最近私が目撃した興味深い光景(シーン)をお話いたしましょう。そうです、こちらのこの土地でのシーンです。私たちの住んでいる家からほど遠からぬ広い平地である儀式が取り行われると聞かされ、私たちもそれに出席するようにとのことでした。
儀式というのは、一人の霊が〝偏見〟と呼ばれている段階、つまり自分の特殊な考えと異なる人々へのひがみ根性からすっかり卒業して一段と広く充実した世界へと進んで行くことになったのを祝うものです。
言われるままに私たちも行ってみました。すると方々から大勢の人が続々とやってまいります。中には馬車で・・・・・なぜ躊躇するのですか。私たちは目撃したことを有りのままに述べているのです。馬車で来る人もいます。
お好きなように別の呼び方をしても構いませんよ。ちゃんと馬に引かれております。御者の言うことがすぐ馬に通じるようです。
と言うのは、地上の御者のように手綱を持っていないのです。それでも御者の思う方向へ走っているようでした。歩いて来る人もいました。空を飛んで来る人もいました。いえ、翼はついておりません。要らないのです。
さて皆さんが集まると円座が作られました。そこへさっきの方が進み出ました。祝福を受ける霊です。その方はオレンジ色の長い礼服を着ておられます。明るいオレンジ色で、地上では見かけない色です。こちらの世界の色はどれも地上では見られないものばかりです。
ですが、地上の言葉を使うほかはありません。さて指導霊がその人の手を取って円座の中央の小高い芝生のところに位置させ、何やら祈りの言葉を述べられました。すると実に美しい光景が展開しはじめました。
空の色───殆ど全体が青と金色です───が一段と強さを増しました。そしてその中から一枚のベールのようなもの、小鳥や花を散りばめた見事なレースで出来たように見えるものが降りてきました。白いというよりは金色に輝いておりました。
それがゆっくりと広がって二人を蔽うようにかぶさり、二人がそのベールに融けこみ、ベールもまた二人と一体となって、やがてその場からゆっくりと消えて行きました。二人ともそれまでとは格段の美しさ、永遠の美しさに輝いておりました。
何しろ二人とも一段階上の光明の世界へと向上して行ったのですから。
それから合唱が始まりました。楽器は見えないのですが、間違いなく楽器による演奏が聞こえ、それが私たちの歌声と融合し一体となっておりました。
それはそれは美しい光景でした。それは、向上して行く二人にとってはそれまでの努力を祝福する餞別(ハナムケ)であり、見送る者、二人が辿った道をこれから辿らねばならない者にとっては、一層の努力を鼓舞するものでした。
あとで尋ねてみましたらその音楽は円座の外側にある寺院の森から流れてきていたとのことで、道理で一定の方向から聞こえて来るようには思えませんでした。それがこちらの音楽の特徴なのです。大気の一部となり切っているように感じられるのです。
お二人には宝石まで付いておりました。蔽っていたベールが消えた時、祝福を受けた霊の額に金色と赤色の宝石が見えました。そして指導霊──この方にはすでに一つ付いておりましたが──にも新たにもう一つ左肩に付いており、それが大きさと明るさを一段と増しておりました。どういう過程でそうなるのかは判りません。
私なりの推測をしておりますが、あなたに言えるほどの確信はありません。それに、私たちが理解していることを地上の言葉で伝えること自体が難しいのです。
儀式が終わると、みんなそれぞれの仕事に戻りました。実際の儀式は今述べたよりも長時間にわたるもので、参加した人たちに深い感銘を与えました。
儀式の最中のことですが、私たちが立っていた位置から丘越しに見える平地の向こう端に一個の光が輝いて見え、それが私たちには人間の容姿をしているように見えました。
今思うにそれは主イエスではなく、その儀式のためのエネルギーを供給し、目的を成就させるために来られた大天使のお一人であったようです。
もちろん私より鮮明にその御姿を拝した人もおられます。なぜなら霊的進化の程度に応じて見え方も理解の程度も異なるものだからです。
さて、ここであなたに考えてみて頂きたいのです。こうした話をあなた自身の頭から出たものだと思われますか、それとも、あなたを通してあなたの外部から来たものだと思われますか。今日その机に向かって腰かけた時、あなたはまさかこうした話が綴られるとは予想しなかったはずです。
私たちもあらかじめその点に配慮して先入観を入れないように用心したのです。でも、こうしてあなたと霊的つながりが出来たとたんに、今の話を綴られました。そうではありませんか。
───その通りです。その点は正直に認めます。
そうですとも、では、これでお別れです。あなたとお別れするというのではありません。私たちはあなたに理解できない或る意味で常にあなたの側におります。あなたの手を借りて書くという仕事と暫しお別れという意味です。
神の祝福のあらんことを祈りながら、ではまた明日まで、さようなら。
あなたの母親です。ほかに援助してくださる方が幾人かお出でです。私たちは順調に進歩しております。しかしまだ、述べたいことの全てを伝えることができません。それはあなたの精神状態がこちらが期待するほど平静で受身的でないからでもあります。
──住んでおられる家屋と、今携わっておられる仕事について教えてください。
仕事はその対象となる人間の必要性によって異なります。非常に多種多様です。しかし現在地上にいる人々の向上に向けられている点は一様に同じです。
例えばローズ(オーエン氏の妻──訳者) にまず働きかけて自動書記をやらせ、その間の危険から護ってあげる霊団を組織したのは私たちです。
今でもその霊団が彼女の面倒を見ております。時おり近くに存在を感じているのではないでしょうか。多分そのはずです。必要とあればすぐに近くに参りますから。
次は家屋について。これは、とても明るく美しく出来あがっております。そして高い界におられる同志の方々がひっきりなしに訪れては向上の道へ励まして下さいます。
──(ここで一つの疑問が浮かんだ。母たちの目にはその高級界からの霊の姿が見えるのだろうか、それとも吾々人間と同じなのだろうか、ということである。
断わっておきたいのは、この霊界通信を読んで行かれるうちに読者は、私が明らかに口に出していない思念に対する答えが〝イエス〟あるいは〝ノー〟で始まって綴られているのを各所に発見されるはずである。
その点をご諒承いただいて、特に必要がないかぎり、それが実際に口に出した質問なのか、それとも私の思念を読み取ったものかは断わらないことにする。)
はい、見えます。その方たちが私たちに姿を見せようと思われた時は見られます。しかし私たちの発達の程度と、その方たちの私たちに対する力量次第です。
℘22
──では、今住んでおられるところ──景色その他を説明をしていただけますか。
完成された地上、といった感じです。でも、もちろん四次元の要素が幾分ありますから、うまく説明できないところがあります。丘もあれば小川もあり、美しい森もあり、家々もあります。それに、私たちが地上から来た時のために前もって先輩たちがこしらえてくれているものもあります。
今は代わって私たちが、今しばらく地上の生存競争の中に生き続けなければならない人々のために、環境をこしらえたり整えたりしてあげております。こちらへ来られた時には万事がうまく整っており、歓迎の準備も出来ているというわけです。
ここで、最近私が目撃した興味深い光景(シーン)をお話いたしましょう。そうです、こちらのこの土地でのシーンです。私たちの住んでいる家からほど遠からぬ広い平地である儀式が取り行われると聞かされ、私たちもそれに出席するようにとのことでした。
儀式というのは、一人の霊が〝偏見〟と呼ばれている段階、つまり自分の特殊な考えと異なる人々へのひがみ根性からすっかり卒業して一段と広く充実した世界へと進んで行くことになったのを祝うものです。
言われるままに私たちも行ってみました。すると方々から大勢の人が続々とやってまいります。中には馬車で・・・・・なぜ躊躇するのですか。私たちは目撃したことを有りのままに述べているのです。馬車で来る人もいます。
お好きなように別の呼び方をしても構いませんよ。ちゃんと馬に引かれております。御者の言うことがすぐ馬に通じるようです。
と言うのは、地上の御者のように手綱を持っていないのです。それでも御者の思う方向へ走っているようでした。歩いて来る人もいました。空を飛んで来る人もいました。いえ、翼はついておりません。要らないのです。
さて皆さんが集まると円座が作られました。そこへさっきの方が進み出ました。祝福を受ける霊です。その方はオレンジ色の長い礼服を着ておられます。明るいオレンジ色で、地上では見かけない色です。こちらの世界の色はどれも地上では見られないものばかりです。
ですが、地上の言葉を使うほかはありません。さて指導霊がその人の手を取って円座の中央の小高い芝生のところに位置させ、何やら祈りの言葉を述べられました。すると実に美しい光景が展開しはじめました。
空の色───殆ど全体が青と金色です───が一段と強さを増しました。そしてその中から一枚のベールのようなもの、小鳥や花を散りばめた見事なレースで出来たように見えるものが降りてきました。白いというよりは金色に輝いておりました。
それがゆっくりと広がって二人を蔽うようにかぶさり、二人がそのベールに融けこみ、ベールもまた二人と一体となって、やがてその場からゆっくりと消えて行きました。二人ともそれまでとは格段の美しさ、永遠の美しさに輝いておりました。
何しろ二人とも一段階上の光明の世界へと向上して行ったのですから。
それから合唱が始まりました。楽器は見えないのですが、間違いなく楽器による演奏が聞こえ、それが私たちの歌声と融合し一体となっておりました。
それはそれは美しい光景でした。それは、向上して行く二人にとってはそれまでの努力を祝福する餞別(ハナムケ)であり、見送る者、二人が辿った道をこれから辿らねばならない者にとっては、一層の努力を鼓舞するものでした。
あとで尋ねてみましたらその音楽は円座の外側にある寺院の森から流れてきていたとのことで、道理で一定の方向から聞こえて来るようには思えませんでした。それがこちらの音楽の特徴なのです。大気の一部となり切っているように感じられるのです。
お二人には宝石まで付いておりました。蔽っていたベールが消えた時、祝福を受けた霊の額に金色と赤色の宝石が見えました。そして指導霊──この方にはすでに一つ付いておりましたが──にも新たにもう一つ左肩に付いており、それが大きさと明るさを一段と増しておりました。どういう過程でそうなるのかは判りません。
私なりの推測をしておりますが、あなたに言えるほどの確信はありません。それに、私たちが理解していることを地上の言葉で伝えること自体が難しいのです。
儀式が終わると、みんなそれぞれの仕事に戻りました。実際の儀式は今述べたよりも長時間にわたるもので、参加した人たちに深い感銘を与えました。
儀式の最中のことですが、私たちが立っていた位置から丘越しに見える平地の向こう端に一個の光が輝いて見え、それが私たちには人間の容姿をしているように見えました。
今思うにそれは主イエスではなく、その儀式のためのエネルギーを供給し、目的を成就させるために来られた大天使のお一人であったようです。
もちろん私より鮮明にその御姿を拝した人もおられます。なぜなら霊的進化の程度に応じて見え方も理解の程度も異なるものだからです。
さて、ここであなたに考えてみて頂きたいのです。こうした話をあなた自身の頭から出たものだと思われますか、それとも、あなたを通してあなたの外部から来たものだと思われますか。今日その机に向かって腰かけた時、あなたはまさかこうした話が綴られるとは予想しなかったはずです。
私たちもあらかじめその点に配慮して先入観を入れないように用心したのです。でも、こうしてあなたと霊的つながりが出来たとたんに、今の話を綴られました。そうではありませんか。
───その通りです。その点は正直に認めます。
そうですとも、では、これでお別れです。あなたとお別れするというのではありません。私たちはあなたに理解できない或る意味で常にあなたの側におります。あなたの手を借りて書くという仕事と暫しお別れという意味です。
神の祝福のあらんことを祈りながら、ではまた明日まで、さようなら。
一九一三年九月二四日 水曜日
あなたとの間に始められたこうした通信が究極においてどういう影響をおよぼすか──そのことを少し遠い先へ目をやって現在のご自分の心理状態の成り行きとの関連において考察してごらんなさい。
私たち霊界の者から見た時、これまでの事の成り行きが私たちの目にどのように映っていたと思われますか。
それはちょうど霧の海に太陽の光が差し込んだのと同じで、霧が次第に晴れ上がり、それまで隠されていた景色がはっきりと、そしてより美しくその姿を見せてまいります。
あなたの精神状態もいずれそうなると私たちは見ております。しばらくは真理という名の太陽に目がくらみ、真相が分かるよりはむしろ当惑なさるでしょうけど、目指すものは光明であること、究極においては影を宿さぬ光だけの世界となることを悟られるでしょう。
光は必ずしも有難がられるものとは定(き)まっておりません。日光で生長するようにできていない種類の生物がいるのと同じです。
そういう人はそれでよろしい。そしてあなたはあなたの道を歩まれることです。進むにつれてより強い光、神の愛のより大きな美しさに慣れてくるでしょう。光を好まぬ者には、無限の叡智と融合したその光の強さは迷惑でしかないのでしょうけど・・・・・・。
では、ここでもう一つ、神の御光そのものに輝くこの地域で見かけた楽しい光景をお伝えしましょう。
つい先ごろの事ですが、私たちは美しい森の多い土地を散策しておりました。歩きながらおしゃべりを始めたのですが、それもほんの少しの間でした。と言うのは、全てを聖なる静寂の中に吸い込んでしまうような音楽を感じ取ったのです。
その時です。前方に間違いなく上級界の天使と思われる神々しいお姿が目に入りました。その方は立ったまま笑みを浮かべて私たちを見つめておられます。
何も語りかけません。がそのうち私たちのうちの一人に特別のメッセージを持って来られたことを私は感じ取りました。そしてそれが他ならぬ私であることもすぐに判りました。
私たちが立ち止まって待ち受けていますとすぐ近くまでお出でになり、身につけておられるマント風のもの── 琥珀色でした──を片手で少し持ち上げて私の肩に掛け、手も肩に置き、さらに頬を私の髪に当てて──私よりはるかに背の高い方でした──優しくこうおっしゃいました。
「私はあなた方が信仰しておられる主イエス(※)の命を受けて参りました。主はすべてをお見通しです。あなたはまだ先のことがお判りでない。
そこでこれからあなたがおやりになる仕事のための力をお授けしましょう。実はあなたはこちらでの新たな使命に携わる一人として選ばれております。
もちろんそちらにおられる仲間の方々とお会いになろうと思えばいつでも出来ますが、申し訳ないが暫くお別れいただいて、これからあなたが新しく住まわれる場所と、やっていただかねばならない仕事の案内をさせて下さい」(※他界後しばらく霊界の指導霊は当人の地上での信仰に応じた対応をするのが定石である。イエス・キリストの真実については第三巻で明かされる。)
天使様がそう言い終わると仲間の者が私のまわりに集まってきて頬にキスをしたり手を握ったりして祝福してくれました。みんな自分のことのように喜んでくれました。いえ、この言い方ではぴったりといたしません。うれしさを十分に言い表わしておりません。
さきほどのお言葉の真意を私たちが語り合うのをお待ちになってから天使様が再び私に近づき、今度は私の手を取ってどこかへ連れて行かれました。
しばらく歩いて行くうちに、ふわっと両足が地面から離れ空中を飛びはじめました。別に怖いとは思いませんでした。私にはすでにそれだけの力が与えられていたわけです。
数々の宮殿のような建物の見える高い山並みの上空を通過し、かなりの長旅の末にようやく降りました。そこは一度も来たことのない都市でした。
その都市を包む光は決して悪くはないのですが、私の目がその明るさに慣れていないために、まわりのことがよく判りませんでした。が、そのうち大きな建物を取り囲む庭の中にいることが判ってきました。玄関へ向けて階段状に長い道がついており、その一ばん上にテラスのようなものがあります。
建物全体が各種の色彩──ピンクと青と赤と黄──の一つの素材で出来ており、それが全体として黄金のような輝き、柔らかさを持った輝きを見せておりました。
その昇り段を天使の方へ上がって行き入口のところまで来ました。そこにはドアは付いておりませんでした。そこで一人の美しい女性が迎えてくださいました。
堂々としておられましたが決して尊大には見えません。実はその方は「悲しみの館」の主です。こんなところで不似合いな言葉と思われるでしょう。実はこういうことなのです。
悲しみというのはここに住んでおられる方の悲しみではなく、世話を仰せつかっている人間の身の上のことです。悲しみに打ちひしがれている地上の人々のことです。
この館に勤める人はそうした地上の不幸な人々へ向けて霊波を送り、その悲しみを和らげてあげるのが仕事なのです。こちらでは物事の真相に迫りその根源を知らなくてはなりません。それには大変奥の深い勉強が必要であり、少しずつ段階的に進んでいくほかはありません。
いま〝霊波〟という用語を用いたのも、それが真相をズバリ言い表わした言葉であり、あなたにとっても一ばん理解しやすいと思うからです。
その女性はとても優しく私を迎えて中へ案内し、建物の一部を紹介して下さいました。地上とはまるで趣の異なるもので、説明するのが困難です。強いて言えば建物全体が生命で脈打っている感じで、私たちの意志の生命力に反応しているようでした。
以来そこでの仕事が現段階での私の最も新らしい仕事で、とても楽しいものになりそうです。でも私はまだ、地上から届いて感識される祈りと、耳に聞こえてくる──と言うよりやはりこれも感識されると言った方がよいでしょう──悶え苦しむ人々の嘆きがやっと判るようになり始めたばかりです。
私たちはそれを言わば感じ取り、それに対する回答をバイブレーションで送り返します。慣れれば無意識にできるようになるものですが、最初のうちは大変な努力がいります。私にはとても大変なことです。でもその努力にも、携わる者にはそれなりの恵みがあるものです。
送り届けた慰めや援助などの効果は再びはね返って来るものなのですが、勉強していくうちに判ってきたのは、地上と接触を保っているこちらの地域でも、この送り届ける慰めとか援助のほかは私には何も知り得ない地域があるということです。
今のところ私がその仕事に携わるのは一度にほんの僅かな間だけで、すぐにその都市や近郊の見学に出かけます。どこを見ても荘厳で、前にいたところよりもずっと美しいです。
今ではかつての仲間を訪ねに行くことがあります。会った時にどんな話をするか、あなたにも大体の想像がつくと思います。
仕事も楽しいですが、それに劣らず語り合うのも楽しいものです。あたりは主イエス・キリストのもとにおける安らかさに包まれております。そこは暗闇のない世界です。あなたも、初めに述べた霧が晴れればこの土地を訪れることになるでしょう。その時は私が何もかも案内してさしあげましょう。
そのうち多分あなたも向上して、今度はあなたの方が、あの天使様がして下さったように、私の手を取ってあなたの携わるお仕事を見せに案内して下さることになるでしょう。
ずいぶん意欲的だと思っておられるようですね。それはそうですよ。それが母親の、そうね、煩悩というものかしら。いえ、母親ならではの喜びではないかしら。
では又にしましょう。今のあなたの心の状態を見れば、すべてを真実と信じておられるのが判ります。うれしそうに明るく輝いて見えますよ。それは母親である私にもうれしいことです。では、おやすみなさい。神よ、安らぎを垂れ給え。
3 バイブレーションの原理
一九一三年九月二十五日 木曜日
聖書の中に主イエスがペテロのことを自分への反逆者であるかの如く述べた部分があり、あなたはその真意を捉えかねている様子だから、今夜は、十分ではないかも知れないけど是非そのことを明らかにしてみたいと思います。
ご存知の通り、その時イエスはエルサレムへ行く途中でした。そして弟子達に対し自分はエルサレムで殺されるであろうと述べます。
その時のイエスの真意は、自分が殺されることによって一見自分たちの使命が失敗に終わったかの如く思われるかも知れないが、見る目を持つ者には──弟子達がそうであって欲しいとイエスは思ったことでしょうが──自分の真の目的はそれまでの伝導の道よりもはるかに強力にして栄光ある発展のための口火を切ることであり、それが父なる神より授かった地上人類の霊的高揚のための自分の使命なのだということでした。
ペテロはそれが理解できないことを彼なりの態度で示しました。当然であり無理もないことです。が、このことに関して何時も見落とされていることがあります。
それは、イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑(ハリツケ)はその使命の中における一つの出来事に過ぎない。それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような〝喜び〟の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。
なぜならば、テコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍を転じて福となし、神の計画を推進することになるということでした。
悲劇をただの不幸と受け止めることがいかに狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の〝価値〟を理解して初めて判ることです。さてイエスは今まさに未曾有(ミゾウ)の悲劇を弟子たちにもたらさんとしておりました。
もし弟子たちがその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子たちに託す使命が成就されません。
そこでイエスは言いました。──「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」 と。そして遂にそうなりました。もっともそれは悲しみの奥義を理解できるようになってからのことです。理解といっても限られた程度のものでした。が、ある程度の理解は確かにできたのでした。
こうして文章で綴ってしまえばずいぶん簡単なことのように感じられます。またある意味では現に単純なのです。神の摂理の基本的原理はすべて単純だからです。ですが私たち、とくに現在の私にとっては、あなたにも判然としないかもしれない重要性を秘めております。
と言いますのは、今の私の生活の大半を過ごしている新しい建物に中での主な課題がそれと同じこと、つまり人間界の悲しみのバイブレーションを喜びを生み出すバイブレーションに転換することだからです。とても素敵な仕事です。
ですが自由意志の尊厳がもたらすところの数々の制約がいろいろと面倒な問題を生み出します。いかなる人間であっても、その人の自由意志を無視することは許されないのです。
当人の意志を尊重しつつ、当人にとって望ましくもあり同時に相応しい結果、少なくともまずまずと言える程度のものを授けなければなりません。
時にはうんざりすることもあります。が、この仕事に携わることによって強くなるにつれて、そうした念も消えて行くことでしょう。ところであなたの質問は何ですか。尋ねたいと思っていることがあるようでしたが。
──いえ、ありません。特別な質問はありませんが。
尋ねたいと思われた事がありませんでしたか。あなたにこうして霊感を印象づける方法と関連した事で・・・・・
──そう言えば今朝がたそのことをお聞きしようと思ったことは事実です。すっかり忘れておりました。でも大して説明していただくほどのことでもないように思いますが如何でしょうか。私は〝精神感応〟と呼んではどうかと思いますが。
なるほど、当たらずといえども遠からずですね。でもピッタリというわけでもありません。精神感応というのは未知の分野も含めた大ざっぱな用語です。私たちがあなたに印象付ける手段は各種のバイブレーションです。本質がそれぞれ少しずつ異なります。
それをあなたの精神に向けて集中するのです。ですが、どうやらあなたはこの種の問題は今はあまり気が乗らないようですね。又の機会に改めて述べることにしましょう。
今あなたが関心を抱いているものがあればおっしゃってみてください。
──では、あなたの住んでおられる家と、新しく始められた仕事についてもう少し話して下さい。
よろしい。では出来るだけ分かりやすくお話いたしましょう。
住居(すまい)は内側も外側も実に美しく設備が整えられております。浴室(バス)もあれば音楽室もあり、私たちの意念を反映させていく上で補助的な役割をする道具もあります。
ずいぶん広いものです。私は今〝住居〟と言いましたが、本当はひと続きの建物で、その一つ一つがある種の仕事を割り当てられていて、それが段階的に進んでいくように工夫されております。
どの家からでも始めて次の建物へ進むことができます。でもこんな話は人間にはあまりに不思議すぎて理解することも信じることも出来ないでしょうから、もっと分かりやすいものを取り上げてみましょう。
土地は広々としており、その土地と建物との間に何らかの関係、一種の共鳴関係のようなものがあります。
たとえば樹木は地上と同じ樹木そのもので、同じように生長しておりますが、その樹木と建物との間に共鳴関係のようなものがあり、樹木の種類が異なると共鳴する建物も異なり、建物が目的としている仕事の効果を上げる作用を及ぼしております。
それと同じことが森の中の一つのグループについても言えますし、小道の両脇の花壇、各所に見られる小川や滝の配置についても言えます。
すべてが驚くべき叡智から生み出され、その効果は〝美しい〟の一語に尽きます。
実を言うと同じ作用が地上でもあるのです。ただバイブレーションがそれを放射する側もそれに反応する側も共にこちらに比して鈍重であるために、その効果がほとんど目立たないだけです。
でも実際にあることはあるのです。例えば花や樹木の栽培が特に上手な人がいるのをご存じでしょう。それから、花が他家(よそ)よりも長持ちする家── そういう家族があるものです。
切り花のことです。荒けずりではありますが、すべて同じことです。こちらでは影響力が強力で、受ける側も鋭敏なのです。ついでに言えば、このことは私たちがいま携わっている仕事で個々のケースを正確に診断する上でよい参考になります。
大気も当然ここの植物と建物によって影響を受けます。と言いますのは、繰り返すことになりますが、そうした建物は単なる技術で建造されるのではなく、この界の高位の天使の方々の意念の結晶──産物と言っても良いでしょう──であり、従って大変強力な創造的念力によるものだからです。(その詳しい原理は第六章でアストリエル霊が解説。──訳者)
大気はまた私たちの衣服にも影響を及ぼします。さらにはその生地と色への影響が私たちの性格そのものまで沁みこんで来ます。
ですから霊的に性格が似ている者同士は同じ大気の影響を受けているわけですから、身にまとっているものも色合いと生地がよく似ておりますが、実際には一人一人その個性の違いによって少しずつ違っております。
さらに私たちがたまたま位置したその地面の影響で衣服の色合いが変化することがあります。あたり一面に色とりどりの草花が繁茂している歩道やさまざまな品種の植物の配置具合が異なる場所を通りかかると衣服の趣が変化していくのを見るのは面白くもあり、ためにもなり、また見た目にも美しくもあります。
小川がまた美しいのです。水の妖精の話はあなたも聞いたことがあるでしょう。地上の話ですよ。あれは少なくともこちらでは本当の話です。その場全体に生命がみなぎり、すみずみまで浸透しております。ということは生命の存在がそこにあるということです。
このことは前にいた界でもある程度は知っておりましたが、この界へ来て辺りの不思議さ目新しさに慣れてくると、そうしたことが一層はっきり認識され、同時にこの調子で行くとこれから先の界は一体どうなってるのだろうと驚異を抱き始めております。
この界の不思議さなどどこへ行ってもあたり前のように思えるからです。
でも、今日はこの辺で止めにしましょう。この美わしい御国の片隅を見せて下さった神はまた別の片隅を見せて下さることでしょう。これはあなたへの言葉ですよ。今日はこの言葉で終わりとしましょう。それでは。
<原著者ノート>この日のメッセージの最初の部分を綴っている時、私はその話の流れが読み取れず、まとまりがなくて混乱しているように思えた。が、今読み返してみると決してそうではないことが判る。
悲しみのバイブレーションについて述べていることを〝神の摂理の基本的原理〟についての単なるヒントと受け取り、波動の原理を光や熱の解釈に当てはめるのと同じ推理を行えば次のようになりそうである。
悲しみを生ずるバイブレーションの組み合わせは〝置き換え〟ではなく〝調整〟によって行われる。つまり悲しみに沈む魂へ向けて別種のバイブレーションを送ることによって、悲しみのバイブレーションのうちの幾つかが中和され、幾つかは修正されて別種のものに変化し、その効果が喜び、あるいは安らぎとなる。
こう観れば、この日のメッセージも意味を持ち、多分人生における悩みごとを実際に解決していく方法に光を当てることになるかも知れない。確かにそれが神の一つの手法なのであろう。悲しみを生み出す外的条件が取り除かれるという意味ではない(極端な場合はそうするかも知れないが)。
別種のバイブレーションを吹き込むことによって悲しみを喜びへと転換してしまうという意味である。これなら日常生活でよく見かけることである。
こうした説は科学的思考に慣染めない人には突拍子もない話に聞こえるであろうし〝別種のバイブレーション〟が実際に同じ〝交換価値〟を持つ数種のバイブレーションであるとする説を別に非合理的とは思わない人もいることであろう。
なお最初に言及しているイエスの言葉はヨハネ第一六章二〇である。
4 光のかけ橋
一九一三年九月二六日 金曜日
前回の通信は、あなたにもう少し深入りした感応の仕方を試して見るべきであるとの霊団の一人の要請を受けてやってみたものです。が、説明できるようにはなりましたが、説明の内容はまだまだ十分とは言えません。
そこで、あなたがお望みであれば引き続き同じ問題を取り上げようと思いますが。
──有難うございます。お願いします。
では、あなたにも暫く私たちと共にベールのこちら側から考えていただかねばなりません。まず理解していただきたいのは、こちらへ来て見ると地上で見ていたものとはまったく異なった様相を呈していること──恐らく現在地上にいる人の目には非現実的で空想的にさえ思えるのではないかということです。
どんなに小さなことでも驚異に満ちておりますから、こちらへ来たばかりの人は地上での三次元的な物の考え方から脱しない限り、飛躍的な進歩は望めません。そしてそれが決して容易なことではないのです。
さて、ここで例のバイブレーションという用語を使用しなくてはなりません。しかしこれを物的なもののように考えては真相は理解できません。
私たちのいうバイブレーションは作用においても性質においても単なる機械的な波動ではなく、それ自体に生命力が宿っており、私たちはその生命力を活用して物をこしらえているのです。
言わば私たちの意志と環境とを結ぶかけ橋のようなものです。つきつめればすべての現象はその生命力で出来ているからです。環境は私たちを始め全存在を包む深い生命力の顕現したものに過ぎません。それを原料として私たちは物をこしらえ成就することが出来るのです。
バイブレーションというと何だか実体のないもののように思われがちですが、それがちゃんとした耐久性のあるものを作り上げるのです。
たとえば光明界と暗黒界との間の裂け目(一二七頁参考)の上に橋を掛けるのもその方法によります。その橋がただの一色ではないのです。暗黒の世界の奥深い処から姿を見せ、次第に輝きを増しながら裂け目を越え、最後に燦々たる光輝を発しながら光明の世界へと入り込んでおります。
その光明界の始まる高台に掛かる辺りはピンク色に輝き、大気全体に広がる何とも言えない銀色、アラバスターと言った方が良いでしょうか、そんな感じの光の中で輝いて見えます。
そうですとも。その裂け目に立派に〝橋〟が掛かっているのです。もし無かったら暗黒の世界から光明へと闇を通り抜けて霊魂はどうやって向上進化してくるのですか。
本当なのです。言い落としておりましたが、怖ろしい暗闇の世界をくぐり抜けてその橋をよじ登り、裂け目のこちら側へやってくる霊魂が実際にいるのです。
もっとも数は多くありません。大ていはその道案内の任に当たっておられる天使様の言うことが聞けずに後戻りしてしまうのです。
また、こういうことも知っておく必要があります。そうした天使様の姿は魂の内部に灯された霊的明かりの強さと同じ程度にしか映らないということです。ですから天使様の言うことを聞いて最後まで付いて行くには、天使様に対する信頼心も必要となってきます。
その信頼心は同時に光と闇とをある程度まで識別できるまで向上した精神の産物でもあるわけです。実際人間の魂の複雑さはひと通りでなく、捉え難いものですね。
そこで、もう少し言葉で表現しやすい話に移りましょう。私はそれを〝橋〟と呼びました。しかし 「目は汝の身体の光である」 という言葉がありますね。
この言葉をここで改めて読んでいただきたいのです。そうすれば、それが地上の人間だけでなく、こちらの霊魂についても言えることがお判りになると思います。
私はこれまで〝橋〟という呼び方をして来ましたが、実際には地上の橋とはあまり似ていないのです。第一、巾がそれはそれは広いのです。〝地域〟と呼ぶのが一番当たっているようです。
私はまだ死後の世界のほんの一部しか見ておらず、その見たかぎりのものだけを話していることを念頭に置いて聞いて下さいよ。同じような裂け目や橋が他にも──たぶん数えきれないほど── 有るに相違ありません。
その畝(うね)つまり私が橋と呼んでいるものを通って光明を求める者が進んで来ます。実にゆっくりした足どりです。しかもその途中には幾つかの休泊所が設けてあり、暗黒界から這い上がって来た霊魂がその内の一つに辿り着くと、そこで案内役が交替して、今度は別の天使の一団が次の休泊所まで付き添います。
そうやって漸くこちら側に着きます。私が属している例のコロニーでの仕事も、地上の救済の他に、そうやって向上して来る霊魂の道案内も致しております。
それは先ほど述べた仕事とはまた別の分野に属します。私はまだあまり勉強しておりませんので、そこまでは致しません。そちらの方が難しいのです。
というのは、こちらの世界の暗黒界にいる者を取り巻く悪の影響力は地上のそれに比して遥かに邪悪なのです。地上はまだ善の中に悪が混じっている程度ですからましです。
こちらへ来た邪悪な人間がうっかりその暗黒界へ足を踏み入れようものなら、その途轍もなく恐ろしい世界から抜け出ることの大変さを思い知らされます。想像を超えた長い年月にわたって絶望と諦めの状態で過ごす霊が多い理由はそこにあります。
暗黒の世界から這い上がってきた霊魂が無事その橋を渡りきると天使様が優しく手を取って案内してあげます。やがて草木の茂った小高い緑の丘まで来ると、そこまで実にゆっくりとした足どりで来たはずなのに、あたりの美しさに打たれて喜びで気絶せんばかりの状態になります。
正反対の暗黒の世界に浸り切っていた霊魂には、僅かな光明にさえ魂が圧倒されんばかりの喜びを感じるのです。
私は今〝小高い丘〟と言いましたが、高いと言っても、それは暗黒の世界と比べた場合のことです。実際には光明の世界の中でも一ばん低い所なのです。
〝裂け目〟とか〝淵〟とかをあなたは寓話のつもりで受け止めているようだけど、私が述べた通りに実際にそこに在るのです。このことは以前にも何処かで説明があったはずです。
それから、なぜ橋をトコトコ歩いて来るのか、なぜ〝飛んで〟来ないのかと言うと、まだ霊的発達が十分でなくてそれが出来ないということです。もしそんな真似をしたら、いっぺんに谷底へ落ちて道を見失ってしまいます。
私はまだまだ暗黒の世界へ深入りしておりません。ほんの少しだけですが、悲劇を見るのは当分これまで見たものだけで十分です。
しばらく今の仕事に精一杯努力して、現在の恵まれた環境のもとで気の毒な人々に援助してあげれば、もっと暗黒界の奥まで入ることを許されるかも知れません。多分許されるでしょう。しかしそれはまだ先の話です。
あと一つだけお話しましょう。── あなたはそろそろ寝(やす)まなくてはならないだろうからね。霊魂が暗黒の世界から逃れて橋のところまで来ると、後から恐ろしい叫び声や怒号が聞こえ、それとともに狐火のようなものがチラチラと見えるそうです。
私は実際に見ていないのではっきりしたことは言えませんが、それは仲間を取り逃がした暗黒界の霊魂が悔しがって怒り狂う時に発するのだと聞いております。悪は所詮、善には勝てないのです。
いかに小さな善にでもです。が、このことについては今はこれ以上深入りしません。
私が今述べたことは私が実際に見たものではなく、又聞(まやぎ)き、つまり人から間接的に聞いたことです。ですが、本当のことです。
ではおやすみ。神の御光と安らぎが注がれますように。その御光の中にこそ光明を見出されることでしょう。そうしてその輝きこそ無限に開け行く安らかなる魂の黎明なのです。
5 キリスト神の〝顕現〟
一九一三年九月二七日 土曜日
──もう少し鮮明に感応できないものですか。
これまで以上に鮮明にする必要はありません。私たちからのメッセージは一応意図したとおりに通じております。
つまりこちらでの私たちの生活ぶりや環境は一応理解していただけております。ただ一つだけ付け加えておきたいことは、こちらへ来たばかりの私たちは、まだ霊としての本来の能力を発揮しておらず、あなた方が実感を得ている環境が私たちにはモヤのように漠然としか映らず、その状態で最善を尽くさねばならないということです。
──私がこうして書いている姿が見えますか。
見えますとも。ただし肉眼とは別のもので見ております。私たちの眼は地上の明かりには慣れておりません。こちらの世界の明かりは種類が異なり、内部まで貫通する作用があります。
それであなたの心の中を見て取り、また心に直接話しかける ── あなたそのものに語りかけるのであって、もちろんあなたのその左右の耳ではありません。同じように、私たちがあなたを見る時はあなたそのものを見ており、その肉体ではありません。
肉体は外套のようなものに過ぎません。ですから、かりに私があなたに触れた場合、あなたはそれを肉体的に感じるのではなく霊的に感じるわけです。私たちの感応の具合を理解するにはその点を念頭において、身体や脳といった器官の奥を見なければいけません。
どうやらあなたは、こちらでの私たちの働きぶりや暮らしの環境についてもっと知りたがっておいでのようですね。こちらへ来てからの進歩にとって是非理解しておく必要のある基本的な真理の一つは、神というものは地上と同じくこちらでも直接そのお姿を拝することは出来ないということです。
これは必ずしもこちらへやって来る人間の全てが得心してくれるとは限らないのです。みんなこちらへ来たらすぐに神々しいお姿を拝せるものと期待します。そこで、その信仰が間違っており神とはそういうものではないと言い聞かされて非常にがっかりします。
神の生命力と崇高さは別にこちらへ来なくても地上において、大自然の内奥を洞察する力を持つ者には明瞭に感得できるものです。こちらでも同じことです。
ただ異なるのは、生命力により実感があり、その本性を知った者にはその活用が容易にできること──あたりに脈動しており、より鋭敏な感覚を身につけた私たちには、それを地上にいた時よりも強く感得できるということです。
以上は一般的な話として述べたのですが、これにもう一つ付け加えておく必要があるのは、時おり〝神の存在〟を実感させる現象が特別の目的のために顕現されることがあることです。ではその一つをお話してみましょう。
ある時、私たちは田園地帯のある場所に招集されました。そこには地上時代の宗教も信仰も国籍も異なる人々が大勢集まることになっておりました。到着すると一団の霊が地上との境界付近の一地域における救済活動の任期を終えて帰ってくるところでした。
地上を去って霊界入りしながら、自分が死んだことが自覚できずにいる霊を指導する仕事に携わっていた霊の一団です。その方たちに連れられて、首尾よく死を自覚した霊が大勢まいりました。それぞれの落ち着くべき界へ行く前にそこで私たちとともに感謝の祈りを捧げるためです。年齢はさまざまです。
年ばかり取って若さも元気もない者、若くてまだまだ未熟な者などいろいろです。みんな一様に何か嬉しいことを期待している表情です。
そして新しい仲間が次々と連れて来られるのを見て、民族による顔かたちの違い、地位や財産の違いからくる色とりどりの服装などを不思議そうにじろじろ見つめ合っておりました。
やがて全員が到着しました。すると突如として音楽が押し寄せる波の如く鳴り響いて、その大集団を家族的一体感で包み込みました。その時私たちの目に大きな光の十字架が見えました。
その平野と接する大きな山の背に乗っているように見え、見ているとそれが砕けて細かい光の小片になり始めました。
だんだん判ってみると、それは高級界の天使の大集団で、それが山の上に十字架状に集結していたのでした。その辺り一面が金色(こんじき)に輝き、遠くに位置する私たちにも暖かい愛の息吹となって伝わって来ます。
天使の集団がこの低い環境(その天使から見て低いということですが)に慣染むにつれて、その御姿が次第に私たちの視界に明瞭になってまいりました。するとです。ちょうど十字が交叉するあたりの上方にさらにもう一つの、一段と大きい天使の御姿が現われました。
それがどなたであるかは、そこに居合わせた者には直感的に判りました。それはあなたにはもう察しがつくと思いますが、具象体(※)としてのキリスト神の一表現でした。
(※本来は形体を持たない存在が一時的にその存在を示すためにとる形態。それを見る者の理解度・宗教的信仰・先入観等によりさまざまな形態をとる。キリスト神とは地球神界の最高神つまり地球の守護神である。詳しくは第三巻で明かされる──訳者)
大天使はしばらく黙ってじっと立っておられましたが、やがて右手を高々と上げられました。すると一本の光の柱が見え、それがその右手に乗りました。
それは一種の通路だったのです。その光の柱の上を別の天使の一団が降りて来るのが見え、手のところまで来ると一旦立ち止まり、それぞれに両手を胸にあてて頭(こうべ)を垂れ、拝むような格好でじっとしています。
すると大天使の手が大きく弧を画いて一回転し、その指先を平地へ向けられました。するとその光の柱が私たちの方向へ延びて来て、山の頂上と平地との間の架け橋となり、その一ばん端がそこに集結していた私たちの上に掛かりました。
見るとその光のかけ橋を通って先ほどの天使の一団が降りて来て、私たちの真上まで来ました。そこで両手を広げ、一斉に大天使のおられる山頂へ向きました。すると語るとも歌うともつかない大天使への讃歌が聞こえてまいりました。
その光景の美しさ、崇高さと言ったらありません。私たちは初めのうちはただただ畏れ多くて黙するのみでした。が、やがて私たちも一緒に歌いました。と言うよりは詠唱しました。
それを教えるのが天使様たちの来られた目的だったのです。詠唱していると、私たちとその山との間に青っぽいピンクの靄が発生し、それが不思議な働きをしたのです。
まるで天体望遠鏡のレンズのように大天使の姿が大写しになり、そのお顔の表情まで見えるようになったのです。同時に、すぐ下に立ち並ぶ天使の一団の姿も同じように大きく映って見えました。が私たちにはその優雅なお顔とお姿が見えるだけで、その真の霊格を読み取る力はありませんでした。その表情はとても私には述べることはできません。
言葉では言い尽くせないさまざまな要素が渾然一体となっておりました。愛と慈悲と喜びと威厳とが混じり合っておりました。その時に私が感じたのは、こうして神と私たちとが一体となった時、生命というものが実に聖なる尊さに溢れたものであるということです。
仲間の者も同じものを感じ取ったと思いますが、その時はお互いに語り合うどころではなく、大天使様の御姿にただ魅入れられておりました。
やがてその靄が大気の中へ融け入ってしまいました。山頂の十字架と大天使のお姿は同じ位置にありましたが、前より鮮明度が薄れ、私たちの真上におられた天使の一団も今は去って大天使の上方に見えました。
そして次第に全体が薄れて行き、やがて消滅しました。しかし大天使の存在感はその後も強烈に残っております。多分今回のシーンを見せた目的はその存在感を印象付けることにあったのでしょう。
私たちのように少しでもこちらにいる者に比べて、地上から来たばかりの者にはその見え方は鮮明ではなかったでしょうけど、それでも魂を鼓舞し安らぎを与えるには十分であったと思われます。
私たちはそれから少しの間その辺りを散策してから静かな足取りで家路につきました。誰れもあまりしゃべりません。今見たシーンが余りに印象的だったからです。そして又、こうした顕現にはいろいろと考えさせられるものがあるのです。
その場にいる時はあまりの荘厳さに圧倒されて全部の意味を考えている余裕が無いのです。ですから、後になって段々に考えさせられることになります。
私たちは一緒に語り合い、お互いに印象を述べ合い、それを総合して、それまで余り理解していなかったことが啓示されていることを発見します。
今回の顕現で私たちが最も強い印象を受けたことは大天使様の沈黙のうちに語るその威力でした。一言も語られなかったにも拘わらず、その動き一つ一つが声となって私たちに語りかけてくるように思えたのです。
それが何を語っているかは、実際に声に出しておられないのに、よく理解できました。
今日はこれくらいにしておきましょう。では、さようなら。求める者に主が何を用意されているか、そのうちあなたにも判る日が来ることを祈ります。
6 暗黒街の天使
一九一三年九月二九日 月曜日
これまでの通信をお読みになるに当たっては、地上より高い視野から観るということが実際にどんなものであるかを、十分に理解しておいていただく必要があります。
そうしないと私たちが述べた事柄に一見すると矛盾するかに思えるところがあって、あなたが不可解に思うことが少なくなかろうと思うのです。
前回の通信におけるキリスト神の具象体の出現と前々回の巨大な裂け目に橋が掛けられる話とは、私にはきわめて自然につなぐことが出来ます。
と言うのは、実体のあるものとして──もちろん霊界の私たちにとって実体があるということです── 実感をもって私が目撃した暗黒界との間のかけ橋は、大天使と配下の霊団がいま私たちが働いている界とその霊団のいる高級界との間に掛けた〝光の柱〟と、実質的には同じ目に見えないエネルギーによる現象だからです。
私たちにとってその具象化の現象が、あなた方人間にとっての物質化現象のようなものであることがこれでお判りでしょう。
あれは私たち低い界にいる者には使いこなせない高次元のバイブレーションによって、高級霊がこの〝父の王国〟(※)の中の二つの土地を結んだわけです。
どういう具合にするのかは今のところ推察するほかはないのですが、私たちのように地上からやって来た者には、この界と一段上の界とを結ぶことは別に不思議なこととは思えないのです。
(※本書ではキリスト教的表現がそのまま使用されることが多い。これも聖書の中のイエスの言葉で、広義には死後の世界全体、狭義にはその上級界すなわち神界を指すことがある。──訳者)
あなたにもっともっと私たちの世界の驚異について勉強していただきたいというのが私たちの願いです。そうすれば地上生活にありながらもそうしたことが自然なことに思えるようになるでしょうし、さらにこちらへ来てから全くの不案内ということもなくて済むのではないでしょうか。
地上生活にあってもという意味は、つまりは地上は天上界の胚芽期のようなもので、天上界は地上を磨き上げて完成させたものだということを悟るということです。こちらへ来てからのことは言うまでもないでしょう。
そこで、この問題に関してあなたの理解を助ける意味で、私たちが大切なものと大切でないものとを見分け区別する、その分類法についてお話してみようかと思います。
私たちは何か困ったことが生じると──私たちの仲間うちだけの話ですが──どこかの建物の屋上とか丘の頂上など、どこか高いところで周囲が遠くまで見渡せるところに登ります。そこでその困りごとを口で述べ、言い終わると暫く、言わば自分の殻の中に退避するように努めます。
すると普段の自分より高い次元のものを見聞きするようになり、大切なものがその視力と聴力に反応し、そのままいつまでも高い次元に存在し続けるのが判ります。
一方、大して重要でないものについては何も見えもせず聞こえもせず、それで大切か否かが区別できることになります。
──判るような気もしますが、何かよい例を挙げていただけませんか。
よろしい。では、ある婦人の例で〝不信感〟の為に進歩を阻害され満足感が得られないまま過ごしていた人の話をしてみましょう。その方は決して悪い人ではないのですが、自分自身のことも、周りの人のことも、どうも確信が持てないのでした。
中でも一番確信が持てないのが天使のこと──果たして本当に光と善の存在なのか、もしかしたら天使の身分でありながら同時に暗黒の存在ということも有り得るのではないかと疑ったりするのでした。
私たちは当初なぜそんな事で悩むのか理解できませんでした。と言うのは、ここでは何もかもが愛と光明に溢れているように私には思えるからです。
が、そのうち判ったことは、その方には自分より先に他界した親戚の人が何人かいて、こちらへ来てもその人たちの姿が一人も見当たらず、どこにいるのかも判からないということが原因なのでした。
そうと判ってから私たちはいろいろと相談したあげくに、ある丘に登ってその方を救ってあげる最良の方法を教えて下さいと祈ったのです。すると思いも寄らない驚くべきことが起きました。
跪(ひざまず)いていると丘の頂上が透明になり、私たちは頭を垂れていましたから丘を突き抜けて下の界の一部がくっきりと見え始めたのです。
そのとき私が見た情景──私たち五人全員が見たのですから幻影ではありません──は薄暗い闇の中に荒涼とした平地で、一人の大柄な男が岩に背をもたれて立っております。
そしてその男の前にはもう一人、少し小柄な人が顔を手で覆った恰好で地面に跪いております。それも男性でした。そしてどうやら立っている男に何か言い訳をしているみたいで、それを立っている男が不審の表情で聞いております。
やがて突然その男が屈み込み、伏せている男を摑えて自分の胸のあたりまで立ち上がらせ、そのまま遠くの地平線の、ほのかな明かりの見える方向へと、平地を大股で歩いて行きました。
彼は小柄な男を引きずりながら相当な道のりを歩きました。そしてやがて明かりがずっと大きく見える辺りまで来ると手を離し、行くべき方角を指さしました。すると小柄な男が盛んに礼を言っている様子が見えます。やがてその男は明かりの方向へ走って行きました。
私たちはその男の後を目で追いました。あるところまで来ると大柄な男の方が橋の方角を指さします。それは前にお話したあの橋です。但しそこは例の〝裂け目〟の暗黒界側の端です。
その時点でも私たちはなぜこんな光景を見せられるのかが理解できませんでした。が、とにかく後を追い続けると、その橋の入口のところに建てられた大きな建物に辿り着きました。見張りのための塔ではなく、暗黒界からやって来た者に休養と介助を施すところです。
その塔からは、その男がずっと見えていたことが判りました。というのは、その男が辿り着くとすぐに、橋の上の次の塔へ向けて合図の明かりが点滅されるのが見えたのです。
その時点で丘が普通の状態に戻りました。そしてそれ以上何も見えませんでした。
私たちはますます判らなくなりました。そして丘を降りて帰ろうとしました。するとその途中で私たちの霊団の最高指導者であられる女性の霊が迎えて下さり、そしてその方と一緒にもう一人、私たちの界のある地域の高い地位の方と思(おぼ)しき男の方がおられました。
私たちがまだ一度もお会いしたことのない方でした。指導霊がおっしゃるには、その男の方は今しがた私たちが見た光景について説明するためにお出で下さったとのことでした。お話によりますと小柄な男性は例の私たちが何とかしなければと思っている女性の曽てのご主人で、私たちからその婦人に早くあの橋へ行き、そこで暫く滞在しておればご主人がやって来るであろうことを告げてあげるようにとのことでした。
例の大柄な男はその婦人ならさしずめ〝闇の天使〟とでも呼びたがりそうな存在で、暗黒界でも相当強力な勢力を持つ霊の一人だということです。でもあのシーンからも想像できますように、良いこともするのです。ではなぜいつまでも暗黒の世界に留まっているのですか、と私たちは尋ねてみました。
その方は笑顔でこう答えられました。「父なる神の王国はあなた方が想像されるより遥かに素晴らしいところです。これまであなた方には、いかなる地域もいかなる界層も他と完全に離れて独立し、それ自体で完全というところは一つも見当たらなかったはずです。
そのような処は一つも存在しないのです。あの暗黒の天使の本性の中にも各界層の知識と善性と邪悪性とが混ざり合っております。あの土地に留まっているのは、一つにはその本性の中の邪悪性のせいで、それが光明の土地に慣染めなくしているのです。
もう一つの理由は、心掛け次第で向上できるのに本人がそれを望まないということです。それは一つには強情さのせいでもありますが、同時に光明を憎むところがあり、あの途方もなく急な坂道を登って行こうとする者を大バカ者だと思っております。
光明界と暗黒界の対比のせいで、その坂道を登る時の苦痛と煩悶が事さらに大きく感じられるからです。
それで彼はその土地に留るのです。彼のように一種の憂うつと麻痺的絶望感のために光明界へ来ようとしない霊が無数におります。
そうかと思うと彼は憎しみと錯乱から残忍性をむき出しにすることがあります。あなた方が先ほどご覧になったあの男にもさんざん残酷な行為を働き、いじめあげておりました。
それも臆病なごろつきに良くみられる残忍さを持ってやっておりました。が、その残忍性も尽き果てたのでしょう。ご覧になったように、男の嘆願が彼の魂の柔らかい琴線に少し触れると、気持ちが変わらないうちにと男を放してやり、道まで教えてやりました。
きっと心の奥ではあの愚か者が・・・・・・と思いながらも、自分よりはましな愚か者だと思っていたことでしょう。」
こうした話は私にとって初めてのことでした。あの暗黒の世界にも少しでも善性があるとは知りませんでした。でも今にして思えば、そうであって当然だと思います。なぜかと言えば、もし完全な悪のかたまりであれば私たちの居る光明界へ来ようなどという心は起きないでしょうから。
──それにしてもこの話は、最初に言われた大切なものとそうでないものとを見分けることと一体どういう関わりがあるのでしょうか。
善なるものが全て神のものであることは言うまでもありませんが、われわれ神の子にとっては光明も暗黒も絶対ではなく、又絶対では有り得ないということです。両者は相対的に理解しなくてはいけません。
今にして判ったことは〝暗黒界の天使〟が大勢いるということです。その人たちは魂の本性に何か歪んだもの、善なるものへの志向を妨げる強情なところがあるために、今のところは暗黒界にいる。が、そのうちいつか、長い長い生命の旅路において、もしかしたら今のところ彼らより祝福されている私たちを追い越し、神の王国において高い地位を占めることになるかも知れないのです。
ではお寝みさない。私たちが書いたことをよく熟考して下さい。私たちにとっても大変勉強になりました。こうしたことが地上にいる人々の多くの方々にも学んでいただければ有難いと思うのですが。