Wednesday, July 1, 2026

シルバー・バーチの霊訓(十二)

煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編



七章 善悪と公正

(1)(善悪の基準について問われて) それは一人ひとりの問題です。一人ひとりの霊的自我の中に絶対に誤ることのない判定装置(モニター)が組み込まれているのです。

正常な人間であるかぎり、言い変えれば精神的・知的に異常または病的でないかぎり、自分の行動と思考を監視する絶対に誤ることのない装置が内蔵されております。いわゆる道義心です。

考えること、口にすること、行うことを正しく導く不変の指標です。それがいかなる問題、いかなる悩みに際しても、そのつど自動的に、直感的に、そして躊躇することなく、あなたの判断が正しいか間違っているかを告げます。

それを人間は時として揉み消し、時として言い訳や屁理屈で片づけようとします。しかし、真の自我はちゃんと分かっているのです。


(2)自分で正しいと思うこと、良心が指図することを忠実に実行しないといけません。最後は自分が自分の裁判官となります。振り返ってみると正しかったこともあれば間違ったことをしていることもあります。しかし、動機が人のためということであれば、たとえ間違っていても咎められることはありません。動機が何よりも考慮の対象となります。


(3)何事も動機がその価値を決めます。慈善事業(チャリティ)に気前よく大金を寄付する億万長者は、その行為によって少しも霊性は伸びません。反対に、これは絶対に意義があると信じて無い金をはたいて援助する人は、その動機ゆえに霊性が伸びます。

苦しむ人を見て止むに止まれぬ気持ちになるのは霊的属性の一つです。愛・情愛・友愛・同情・哀れみ・親切心・奉仕の精神は霊の属性です。それらを表現している時あなたは霊的自我を表現していることになります。


(4)あなた方が道徳的だと考えていることが私たちから見ると非道徳的である場合があります。そこに物の見方の問題があります。私にとって道徳とは、その人がそれまでに悟った最高の原理に忠実に行動しようという考えを抱かせる、努力目標のことです。それは親切であろうとすることであり、手助けをしようということであり、人の心を思いやることです。



(5)私は〝悪〟とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが〝悪い奴ら〟と思っている人間は未熟な人間ということです。その人達が表現しているエネルギーは成長と改善の為にも使用できるのです。

自分から〝悪人になってやろう〟 〝利己主義者になってやろう〟と思って悪人や利己主義者になる人は滅多にいるものではありません。悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。

聞き分けのない子供みたいなものです。目に見え手に触れるものだけがすべてだと考え、したがって物的世界が提供するものをすべて所有することによってしか自分の存在を主張できない哀れな人間なのです。利己主義とは利他主義が方向を間違えたに過ぎません。


(6)〝悪〟とは何かということを見極めておく必要があります。地上生活の究極の目的は〝死〟と呼ばれている現象のあとに待ちかまえている次の生活舞台(ステージ)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて自動的に他人に対して寛大になり憐みを覚えるようになります。

これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。 相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の〝我慢〟です。人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。

それは悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく目の前の現実に目をつむることです。真の意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差し伸べる用意ができていなければなりません。


(7)霊的摂理に反した行為が罪であって、人間がこしらえた教義を無視したからといって必ずしも罪にはなりません。結婚生活においても霊的な伴侶とはいえない夫婦がいます。

もしもその夫婦が霊的に傷つけ合えば罪になることもあります。問題は視点を何処に置くかによって違ってきます。常に霊的真理を基準にして判断すれば、答えは簡単に出るものです。


(8)故意に悪いことをするよりも無知から犯す間違いの方が多いものです。全体からすれば〝悪人〟といえるほどの人間はごく少数派に属します。些細なしくじりを裁くために大ナタをふるうようなことは慎まねばなりません。

そういう人を憎むということは、それも罪を犯していることになります。良心が咎めることをするのは全て霊的摂理に反します。



(9)罪悪はそれを犯す側とそれを受ける側の双方を傷つけます。その原因は往々にして故意ではなく、無知・かんしゃく・せっかちから犯しているものです。自制心を欠き、冷静さを失っているわけです。あとになって〝しまった〟と思うようなことを考え、口に出し、行っているものです。


(10)最大の罪は他人を身体的のみならず精神的にそして霊的に傷つけることです。他人へは常に善意で接し、いつでも援助の手が差し伸べられるようでないといけません。その手が拒絶されたら、折角のチャンスを自ら拒絶したその人を気の毒に思ってあげなさい。 
 

(11)世間がどう言おうと、まわりの人が何と言おうと、自分で正しいと思うことをしなさい。その方が都合が良いとか得策だからではなく、心の奥でかくあるべきと確信したこと、良心がそう命じていることを実行すればよいのです。

いたって簡単なのです。ところが人間はなぜか複雑なこと、ややこしいことを好みます。もう当たり前になってしまった単純素朴なことは毛嫌いします。私はあくまでも良心の命じるままに従いなさいと申し上げます。良心こそ神の声であり、善と悪とを選り分け、進むべき道を指示します。


(12)良心が命じていることは、たとえその方向へ進むと苦難に遭遇することが分かっていても、迷わずに従いなさい。最後にきっといいようになります。難しく考えることはないのです。これ以上簡単な話はありません。


(13)決断を下さなければならない事態に立ち至った時は、それが特定の少数の人ではなく、全部の人、あるいはなるべく多くの人にとって益になることを動機として判断しなさい。


(14)霊的知識を手にしながら、その意義を日常生活に生かしていない人のことを気の毒に思ってあげないといけません。かくあるべきと承知していながら、その摂理に則った生き方ができない人は、霊的知識を知らない人よりも霊的に大きな罪を犯していることになります。


(15)霊的実在に目覚めた人ならば慈悲・寛容・哀れみ・奉仕・協力の実践が大切であること、言い変えれば、単に霊的実在の美しさや豊かさに感心しているだけではいけないことを承知のはずです。霊的真理を知っている人でも利己的人間になることがありうるのです。


(16)霊的真理を手にしても、それをそのままどこかに仕舞い込んでおくのでは、普及の目的は達成されたことになりません。それがその人の生活を照らし悟りを開かせるところまで行かないといけません。霊的知識は普及と実践が伴わないといけません。

なぜなら地上というところは、霊が内部の霊性を発揮するための環境を求めて生まれてくるところだからです。


(17)地上を暗黒の世界にしている卑劣な行為、抑圧、残虐行為等は、それを受ける側の霊性にとって少しもプラスになりません。同胞を食いものにすることは霊的に間違っております。他人に苦痛を与えることは間違いです。霊的原理は倫理・道徳と切っても切れない関係にあります。一体不離のものです。


(18)ある国で不道徳とされているものが他の国では不道徳でないことがあります。たとえば伝統的宗教によって、罪でもないことが罪とされていることがあります。その宗教が勝手にかかげている教義に違反した者に対する、その宗教の内部だけの見解であり行為にすぎません。


(19)全ては〝罪〟とは何かという定義にかかわる問題です。私に言わせれば、罪とはその行為者とそれを受ける側の双方に害を及ぼすことです。その行為者の霊性を下げ、同時に他人を傷つける行為です。それには嫉妬心や欲張りや恨みも入ります。要するに罪とは人のためになる行為の反対と思えばよろしい。
(20)神の摂理は、最終的には完全なる公正が行きわたるようになっております。こればかりは誰一人として例外はありません。あなたにも、そして地上に限らず他のすべての天体上の存在の一つ一つに公平な配慮がなされております。

摂理は絶対です。何一つ見落とされることはありません。あなたの霊的成長と発達に必須のものは、それを受け入れる用意ができた時にはきちんと手に入るように配慮されております。


(21)その昔、“幼な子が彼らを導くことになろう〟(イザヤ書)という教えが説かれました。下らぬ常識で頭でっかちになった大人の愚かしい浅知恵を棄てて幼な子の純心さを取り戻さない限り、地上にあっても霊界にあっても大きな進歩は望めません。

地上では太陽光線の作用の結果にすぎない肌の色でいろいろと差別が行われております。表面の肌の色だけを見て、その奥の霊性においてはみな同じであることを忘れております。


(22)いつの日か地上のあらゆる肌色の人種が融合することでしょう。どの人種にも他の人種にできない役割を持っているからです。霊眼を持って見れば、すべての人種が調和し、それぞれの特質、特有の文化、特有の学問を提供し合って生きる時代の到来が見えます。


(23)私たちは大霊を共通の父母とする、全人類の霊的同胞性という福音を説きます。その理解の障害となるのは地上的概念であり、教会という人口的建造物であり、権力の独占であり、暴君の自尊心と横暴です。


(24)霊的な教訓が地上に広まるということは、人種間の隔絶性に終止符が打たれることを意味します。国家間の障壁が取り除かれることを意味します。民族的差別、階級的差別、肌色による差別の撤廃を意味します。

さらには、チャーチ、チャペル、テンプル、モスク、シナゴ―クといった各宗教の礼拝・儀式の場の区別も無くなります。なぜなら霊的に見ればいずれの宗教も大霊の真理の一部を包蔵しており、自分たちにとってこの上なく貴重に思えるものも他の宗教が大切にしている真理と少しも矛盾対立するものでないことを理解するようになるからです。



(25)私たちはみな大霊の子供です。大霊はそのうちのある者を赤く塗り、ある者を黄色く塗り、ある者を黒く塗り、そしてある者には何も塗らずにおきました。が、それぞれが大霊の機構の中で存在価値を持っているのです。

いつの日か大霊の摂理が行きわたり、様々な肌色の人種が混ざり合い、愛の心を抱いて共に暮らすようになった時に、世界中に調和が実現します。

その一つ一つの色が何を意味するかを皆さんは理解しておりません。それぞれに大きな目的を持ち、造化の摂理に貢献しております。すべての肌色が融合し、肌色で区別することをせずにその背後の魂を見るようになるまでは、地上に平和は到来しません。


(26)ラベルはどうでもよいのです。形式はどうでもよいのです。口先だけの文句はどうでもよいのです。大切なのは〝行い〟です。〝行為〟です。つまり各自の毎日の〝生活〟そのものです。私は因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人としてその神の摂理のウラをかくことはできないのです。ごまかすことはできないのです。

自分が自分の救い主であり、購い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。また、神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。

すなわち、親切・寛容・同情・奉仕の行為が自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義・罪悪・不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。

この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も安価な赦免もありません。神の公正が全宇宙に行きわたっております。霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。死の床での悔い改めも通用しません。



   シルバーバーチの祈り

 皆さまとごいっしょに神の祝福を祈念いたしましょう。

 ああ、真白き大霊よ、森羅万象がこぞってあなたへの讃美を奏でております。なぜなら生きとし生けるものすべては、あなたの摂理によって生かされており、自然界の律動(リズム)のどれ一つとしてあなたの表現でないものはないからでございます。

 いつの世にもあなたは物質の世界においてあなたの愛、あなたの叡智、あなたの知識を輻射できるだけの能力をそなえた者を地上へ遣わされ、あなたの霊性の生ける模範として、人間の心の暗闇にあなたの真理の光をもたらし、あなたの無限なる叡智と愛によって全人類を照らす道具たらしめました。

 そしてこのたび、改めてあなたの使者として私どもを遣わされ、あなたとあなたの摂理についての知識を地上へもたらし、地上の子等があなたとのつながりを理解し、ひいては自分みずからについて理解し、物質の世界に置かれている目的を理解してくれることを望んでおられます。

 幸いにして私どもは、地上の子等の中にもあなたの霊性に触れ、その耳・その目・その精神・その心・その魂をより高き生命の波長に合わせ、私どもがあなたから仰せつかったメッセージに耳を傾ける者を見出し、その者たちとの交わりの場を持つことを得ております。
 その幸せに深甚なる感謝を捧げます。
                                       

 

シルバー・バーチの霊訓(十二)

  煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編



六章 自由と責任

(1)大霊は人間のすべてに一定範囲内の自由意志を授けてくださっています。あなたは操り人形ではないということです。知性があり、理性があり、判断力・決断力・反省力を有し、自分の意見を主張し、人生体験によって叡智を身につけていくことができます。


(2)知識には責任が伴うというのが私の一貫したテーマです。知識による恩恵を受けたからには、今度はそれをいかに生かすかという責任が必ず生じます。

そこにあなたの自由意志による選択が問われます。それがあなた自身の責任の尺度となるのであり、これだけは他の誰一人として代わってあげるわけにはいきません。


(3)あなたがもし霊的真理についての知識を手にしながらそれに適った生き方をすることができなければ、それ相応の代償を払わねばなりません。〝知らなかった〟という言い訳は許されないからです。知識は自動的に責任をもたらします。

真理を知った者はそれだけ余分のものを要求されます。それは言い変えれば、その人への大切な信頼に他なりません。


(4)ものごとは善にもなり悪にもなります。そこにあなたの選択権、自由意志、決断力、判断力を使用する要素があるわけです。それは大霊があなたに与えた神性の一つです。言い変えれば、あなたは神の操り人形ではないということです。

その判断・決断に際して背後霊は、あなたが正しい選択をするよう精一杯の努力をします。しかし時には大切な教訓を学ばせるために思い通りにさせることもあります。が、その裏にはあなたがきっと無傷で立ち直り貴重な叡智を身につけてくれるとの確信があります。


(5)〝理屈を言ってはいけません。そう信じればよいのです〟───私はそんなことは申しません。反対に〝神が与えてくださったもの(知的判断力・理性)を存分にお使いになって私をお試しなさい。

しっかり吟味なさい。そしてもしも私の言うことに卑劣なこと、酷いこと、道徳に反することがあれば、どうぞ拒否なさってください〟と申し上げます。


(6)人間は戦争が起きるとすぐに〝なぜ神は阻止してくれないのか〟〝なぜ未然に防いでくれないのか〟とおっしゃいます。が、人間みずから神の摂理を無視する方向を選択した以上は、その責任は人間にあります。やりたいことを勝手にやっておいて、その報いを逃れるというのは許されません。

摂理は変えられません。蒔いたタネは自分で刈り取るのです。利己主義のタネを蒔けばそれ相当の結果を刈り取らねばなりません。高慢・嫉妬・怨み・貪欲・悪意・不信・猜疑心───こうしたタネを蒔けば、やがて時を経て戦争と困窮と混乱を生みます。


(7)自由意志は神からの授かりものです。しかしその使い道を誤るとそれなりの償いをしなければなりません。摂理にのっとった生活をすれば恩恵を刈り取ります。

逆らった生き方をすればそれ相当のものを刈り取ります。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱をもたらします。


(8)大霊の神性の種子が人間の一人一人に植え込まれています。それは畑に植えた種子と同じく、生長に必要な養分を与えれば必ず芽を出し、大きく育ち、やがてその美事な花を咲かせ実を結びます。あなた方は一人一人が庭師です。

内部の神性が首尾よく芽を出すかどうか、あるいはいつ芽を出すかは、各自の努力次第です。そこには自由意志というものが許されております。暗闇に閉じ込め、発育に必要な光を当てなければ、大霊の顕現する機会はありません。




 シルバーバーチの祈り

 ああ、真白き大霊よ。全生命はあなたを中心として巡り、物質の世界と霊の世界との区別なく、人間的存在のすべてがあなたの御胸に抱かれております。

あなたは全存在の中心におわします。なぜなら、あなたという存在はすなわち全生命の顕現にほかならないからでございます。あなたの霊が生命を賦与し、あなたは生命そのものであり、あなたゆえに生命が存在し、あなた無くしては何一つ存在し得ぬのでございます。

 ああ神よ、あなたは全存在を維持しておられます。あなたの叡智が全存在を創造し、あなたの意図が全存在の形態となって顕現しております。あなたのご計画は顕幽の別を超えた全界層を通じて展開しつつ、次第にその実現へ向かっております。
 
 あなたは宇宙の大霊におわします。その大きさは、いかに崇高なる精神の持ち主にも、その全容を理解することはできませぬ。にもかかわらず、あなたは大なるものの中の極大なものの中に宿られると同時に、小さきものの中の極小のものの中にも宿り給うのでございます。

 全大宇宙の中にあってあなたの認知なくして生ずるものは何一つございませぬ。なぜならあなたは摂理によって全生命を包摂し、それゆえにあなたはいずこにも存在したまい、全存在に行きわたっておられるからでございます。

 その摂理を少しでも多く顕現せしめんと願うあなたの僕たる私どもは、地上の有志との協力のもとに、物質の世界と霊の世界との架け橋をより強化し、より多くの使者が地上へ戻り、あなたからの愛と美と安らぎのメッセージを届けんとする大事業のために、あなたの霊力を賜らんことを祈るものでございます。

 そのかけ橋を渡って地上へ戻るのは、あなたの直属の進化せる天使のみではございません。いまだに地上圏に属する、巡礼の旅の途上にある者も数多くこれに参加しております。

 地上の人間の思いが、かつてあなたの愛と霊力を示さんとして地上へ降りた一個の霊へ向けられるこの時期(クリスマス)にあたり、私どもは地上の子等があなたの霊が彼らの内部にも存在し、それが彼らの世界の全障害を取り除くことを可能ならしめることを改めて認識せしめんと願うものです。

 彼らがあなたの御意志を生活と行為の中において発現しようと心掛ければ、きっとそれが叶えられることでございましょう。

 ここに、人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

  

Tuesday, June 30, 2026

シルバー・バーチの霊訓(十二)

 煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編




五章 向上進化の原理       

(1)人生の難問の一つ一つを、あなたが解決を迫られている課題として受け止めなさい。それに挑戦していく過程の中で霊性が磨かれ、発達し、潜在的神性が表面に出てくるのです。順風満帆に事が運んでいる時に感謝する必要はありません。

難問が生じた時こそ感謝すべきです。あなたにとっての挑戦課題が突きつけられたのであり、それを真正面から受け止めることによってあなたの霊性が一段と磨かれる。その絶好のチャンスだからです。


(2)あなたが人生の嵐に遭遇するのを私たちが阻止してあげるわけにはいきません。又その嵐の中で悪戦苦闘するのを私たちが防いであげることもできません。そうした試練にあなたがどう対処し、そこから教訓を学ぶために持てる才能をどう働かせるかを、側からじっと見守らねばならないこともあるのです。


(3)実在に目覚めるためには晴天と嵐というような対照的な体験が必要です。憎しみも所詮は愛が正しい目的からそれて歪められたものに過ぎません。要は魂の成長に関わる問題です。


(4)光を見出せるのは闇の中においてこそです。嵐の中にあってはじめて平穏無事の有難さが分かります。悲しみを味わってはじめて喜びを知るのです。人生は一見すると矛盾しているかに思える両極性で成り立っているのです。


(5)健康を損うまでは健康のありがたさは分かりません。雨の日の鬱陶しさを耐え忍んではじめて晴天の有難さが分かります。それと同じく、苦難は肉体が自分ではなくそれを操っている霊こそ自分であることを悟るために神が用意した、一種の触媒です。


(6)地上生活の問題は人間みずからの努力で解決していかねばなりません。問題が生じないように私が処置を施してあげるわけにはいきません。地上生活の本質そのものが絶えず問題と取り組むようにできているのです。それと正面から取り組むのです。

内部に潜む霊力を引き出して精いっぱい頑張るのです。そして、それでもなお十分でない時にはじめて、もう一度踏み込んで、無限の宝庫からの援助を求めて祈るのです。


(7)何の問題も生じないようでは、それは哀れなロボットと同じです。血の通わない操り人形です。あなたの内部には地上で開発すべき可能性が無限に秘められているのです。それは日向ぼっこをしているような呑気な生活、何一つ不自由のない生活の中では開発されません。

嵐の中で必死に舵取りをしている中においてこそ内部の霊力が呼び覚まされ発達するのです。私にはこんな厳しい説教しかできなくて申し訳ありません。


(8)私はその場かぎりの、ただ有難がられるだけの説教はしたくありません。人間はかくあらねばならないという、あるがままの真実をお教えする絶好のチャンスだと思って説いているのです。困難こそ有難いのです。真実の自我を見出す最良の手段なのです。

ですから、言いにくいことを申すようですが、困難に遭遇したら、よくぞお出で下さいましたと歓迎することです。それは困難のマスクをかぶった〝友〟なのです。


(9)霊の褒章がもし簡単に手にできるものであれば、それは手にするほどの価値はないことになります。成就、達成、こうしたものには犠牲がつきものです。ですが、その犠牲には必ず償いがあります。物的に失ったものは、それよりはるかに価値のあるものによって埋め合わせがあります。


(10)大半の人間の魂は居眠りをしております。小さな神性の火花が休眠状態にあります。それを煽って大きく燃え上がらせる必要があります。その触媒となるのが困難であり危機であり悲しみであり別れであり病気です。


(11)神は地上の人生を、人間であるがゆえの弱さの限界に到達したかに思う段階で強さを見出すように配剤しております。もはや地上のどこにも頼るべきものが見出せず万事休すと思えた時こそ、魂が霊的真理の光に照らし出される用意が整ったのです。


(12)地上生活の悩みごとから逃れることはできません。必ず生じるものです。それなしには目的地にたどり着けない、踏み石のようなものです。人生の嵐を一つ一つ切り抜けていくうちに霊性が強化され、性格が高尚さを増してまいります。困難こそ霊的な力と成長を身につけさせてくれるのです。

ですから、困難に尻込みしてはなりません。内部から引き出す力と、外部から引き寄せる力とによって克服していくべき挑戦課題として、堂々と受け入れていくことです。


(13)これからも地上には幾つのも大変動が生じます。崩壊もあれば隆盛もあります。皆さんには暗黒と苦難の時代の到来のように思えるかもしれません。〝大変な時代になった・・・・・〟そうおっしゃるかもしれません。しかし、そうした変動の背後には地上世界の進化へ向けての大きなエネルギーの働きがあるのです。


(14)宇宙には進化という目的があります。常に進化しつつあるのです。完成されたものというのはどこにも存在しません。完成は無限の営みです。

不純なところを一つ無くしていくごとに、その奥にさらに不純なものを見出します。あなたは永遠に達成されることのない完全性へ向けての無限の進化の道を歩みつつあるのです。従って当然、その時点においては何らかの不公平というものが存在することは避けられません。

どこかに荒削りのところがあり、問題があり、困難が伴います。が、それもすべて進化の法則が運用されていくその副産物として生じていることです。


(15)まじめに、あなたなりの最善を尽くすことです。そして他人に対して寛容と慈悲の心を向けてあげることです。それができるということが進化しつつある霊の証しです。

人間は誰一人として完全な者はいません。煩悩を具えた存在であり未熟であるが故に、時には的外れのことを考えて間違いを犯すものです。だからこそお互いに寛容と慈悲と受容性と愛が大切となるわけです。


(16)面倒なことが生じないでほしいという願望は人間的煩悩の一つであり、それ自体を非難するつもりはありませんが、面倒なことを毛嫌いし逃避していては、霊的な成長は望めません。成長は困難に堂々と対処し,挑戦を正面から受け止め、そして克服していく中で得られるのです。


(17)担わされた使命が大きければ大きいほど、遭遇する試練も又大きくなります。そうならざるを得ないのです。人生の上っ面だけを生きている人よりも、霊的な資質に目覚めその意味を理解した人の方が、より大きな貢献を求められるのです。


(18)真理を知った者は物事が楽に運ぶことを期待してはなりません。霊の威力について何も知らない者よりも大きなことを要求されるのです。


(19)地上生活のどこかの段階でその人なりの真理の受け入れ態勢が整う時期が来ます。それは神が一人一人に用意して下さる絶好機です。それが時として病気、死別、危機という過酷な体験を通して届けられることがあります。しかしそれは魂を目覚めさせるために必要な触媒なのです。



(20)魂が完全に打ちのめされるほどの出来事は決して生じません。一つ一つの出来事は、いかに困難を極めるものであっても、魂を一層成長させるための手段と心得て下さい。

現実に数多くの問題と困難に取り囲まれているあなたにとっては、そういう受け止め方は決して容易なことではないでしょう。が、その場限りの捉え方ではなく、永遠の価値を持つ尺度があることを忘れてはいけません。それが霊的真理です。

疑念に襲われた時はその真理にしがみつくことです。人間である以上は煩悩を完全に閉め出すことはできません。が、だからと言ってその煩悩を怠慢の言い訳にしてはなりません。心構え一つで煩悩を力に変えることができるのです。


(21)光と闇、日向と日蔭は一つのものの二つの側面です。闇がなくては光の存在が分からず、日陰がなくては日向のありがたさもわかりません。人生の苦難も魂の成長を促すための手段なのです。

困難・障害・不利な条件、こうしたものはみな魂の試練です。それを一つ一つ克服するごとに魂は一段と強さを増し、一段と清さを増し、一段と深みを増し、一段と霊格を高めるのです。


(22)地上生活での体験を素直に受け止め素直に理解すれば、どれ一つとして魂を向上させないものはありません。いったい困難のない世界、試練も痛みも苦しみもない生活が想像できるでしょうか。そこには克服すべきものが一つもなく、したがって進歩もなく、ただ堕落あるのみです。


(23)物的身体に宿っているあなたは地上生活を尺度として物事を受けとめます。地上を去った私たちは地上生活を無限の生命の中のホンの一瞬として位置づけます。みなさんは何事につけ焦点を間違えております。

苦しんでいる人を見て同情し、その痛みを一刻も早く取り除いてあげたいと思う気持ちはごく自然な情として私も咎める気持ちは毛頭ありません。

しかし、その時のあなたは〝苦しみ〟という観点からのみその人のことを考え、苦しみの中で過ごす時間は、その苦しみの償いとして得られる霊的な喜びに比べれば、実に些細なものに過ぎないことにお気づきになりません。


(24)もしも借金(カルマ)の全てを返済してしまえば、もはや苦しむということのない段階に到達したことになるでしょう。身体が完全無欠になるからです。しかし人間は、地上にいても、あるいはこちらへ来てからも、次々と借金をこしらえております。


(25)一つのものに拘泥(コウデイ)しないということが大切です。周りに垣根をめぐらして新しいインスピレーションが入らないようにしてしまったらおしまいです。求道とは絶え間ない探求です。境界が絶え間なく広がっていくものです。なぜなら魂の進化に伴って精神がそれに反応して行くからです。


(26)知識にも真理にも叡智にも成長にも限界というものがないと悟った時、あなたは真に自由の身になります。心の奥では間違いであることに気づいていること、理性が拒否していることを思い切ってかなぐり棄てることができた時、あなたは真の自由を獲得します。

新たな真理の光に照らして誤りであることに気づいたものを恐れずに棄て去ることができた時、あなたは自由の身となるのです。


(27)地上の人間は、古くから伝えられたものだからという、ただそれだけのことで、古い教えにこだわりすぎます。真理と時代とは必ずしも手を取り合って進行するものではありません。子供の時に教え込まれた大切な信仰を棄てるのが難しいものであることは私もよく知っております。

しかし、理性が拒否するものは、いかにいわれのあるものであっても棄て去ることができて初めて魂は自由になれるのです。


(28)永遠の生命の営みには限界というものがありません。美しさにも限りがありません。音楽の壮麗さにも限りがありません。魂が進化の階梯を登れば登るほど、美と調和の世界が自分のものとなって参ります。より進化せる霊にはより大きな調和の世界が待ち受けております。


(29)低い階梯にいる間は高い階梯のことは意識できません。より大きな調和の世界の摂理も自動的に作動するものであり、その働きかけを受けるようになるには、魂の成長によってその次元まで到達するほかはありません。


(30)あなたのこれまでの成長の度合いによってこれから先の成長の度合いが決まります。もっともその成長を遅らせることはできますが、いずれにせよあなたがこれから選択する行為は、さまざまな次元の摂理の絡み合いによって自動的に決まってきます。

その一つ一つが自動的に働くからです。自由意志によって選択しているようで、実はそれまでに到達した進化の段階におけるあなたの意識の反応の仕方によって決定づけられているのです。霊性を自覚するようになった魂は(目先の損得・気楽さを超えて)いっそうの進化を促す道を選択するものです。



(31)霊性の進化に伴って自然の摂理を悟ってまいります。その第一の反応として、誤った知識、理性が納得できないもの、全知全能なる神の愛と叡智にそぐわないと直感したものは、恐れることなく捨てさることができるようになります。

容器に新しいものを入れるには、その前に古いものを取り出さないといけないのが道理です。自然な物の考え方を妨げるものは容赦なく捨て去らないといけません。かくしてあなたの霊性、あなたの魂が進化し、より高い叡智を受け入れる用意が整います。


(32)人生が両面性から成るということは挑戦の機会があるということであり、障害や不利な条件に立ち向かうことになるということです。そうでなかったら素晴らしい内部の神性は永遠に発現する機会がないことになります。


(33)価値あるものは苦しみと悲しみなしには手にすることはできません。地上ならではの教訓を学ぶには、それなりの避けがたい条件というものがあります。


(34)賢い人間とは体験のすべてを魂にとって益になる方向へ転換しようとする人、試練や誘惑から逃げようとせず、内部の力の限りを尽くして困難の克服に当たる人です。その意気込みの中でこそ霊性が進化し強化されるのです。


(35)あなたも大霊の一部であり、無限の神性を宿しております。その神性を発揮するにつれて、より次元の高い摂理との係わり合いが生じてまいります。それは決して低い次元の摂理と矛盾するものではありません。ただ魂がある一定の段階まで進化するまでは無縁というに過ぎません。


(36)幾百万年とも知れない歳月をかけて、あなたは下等な種から高等な種へと、媒体を徐々に発達させながら、泥の中から天空へ向けて一段一段、ゆっくりと進化してきたのです。その間、少しずつ動物性を棄てては霊性を発揮するという過程を続けてきました。今あなたが宿っている身体がそこまで達するのに果たして何百万年かかったことでしょう。

しかもまだ進化は終わっていないのです。そして他方において魂の方も進化させなければならないのですが、あなたはそれにこれから何百万年かけることになるでしょうか。かつてあなたは猿でした。猿そのものだったという意味ではありません。猿という種を通して顕現した時代もあったという意味です。それも大霊の機構の一部なのです。

生命のあるところには大霊の息吹があります。それなくしては生命活動は存在しません。ただその息吹に段階的な差があるということです。発達と開発があり、下等な段階から高等な段階への変移があるということです。


(37)人間のすべてに大霊が宿っております。確かに人間はありとあらゆる形態を通して進化して来て動物時代の名残りも宿しておりますが、それよりも遥かに高尚な神性が宿されており、それを機能させ発揮させることができれば、あたかも神々が地上を闊歩するかのごとくになります。


(38)進化の頂点を極め〝完全〟と融合してしまったという霊を私はまだ一人も知りません。霊性というのは磨けば磨くほど、まだまだ磨くべきものが残っていることに気づくものです。それは意識の領域がますます広がっていくことを意味します。あなたの意識も大霊の一部なのですから、無限の奥行きがあります。



     シルバーバーチの祈り

 ああ、真白き大霊よ。あなたは全生命の始原にあらせられ、その中心におわします。あなたは全生命の支配者にあらせられます。なんとなれば、あなたは全生命の内部に存在したまい、あなたの法則が、無限に展開する驚異的宇宙の生きとし生けるもの全てを維持し経綸しているからでございます。

 あなたの摂理は絶対にして、壮大なる現象の中のもっとも壮大なるものであろうと、些細なる出来事の中の最も些細なものであろうと、宇宙間に生ずるもの全てをご存知であらせられます。なぜなら全てがあなたの摂理によって管理され、その摂理の働きでないものはないからでございます。

 ああ、神よ。あなたは物質の子等にご自身の神性の一部を賦与し給い、子等が常にあなたと結ばれ、かつ、進化と開発によりて次第にあなたに似た存在となることを可能ならしめられました。あなたは子等を物質の世界へ送られるに当たり、子等があなたと同じ神性を表現し、あなたの摂理を体現することによってあなたに奉仕する機会を用意なさいました。

 また、あなたは子等に自由意志を授け給い、かつまた、正しいことと間違ったこととを判断するための能力をお授けになりました。さらに子等がみずからの力で地上を天国となすための資質をお授けになっておられます。

 ああ、無窮の時を通じて全生命の王として君臨なされる大霊よ。あなたは無限なる叡智と公正と哀れみを持って、そして、そのいずれにもまして、無限なる愛を持って支配なされます。

 その実行のためにあなたは使者を遣わされ、地上の有志との協調体制のもとに、無用の苦しみと悩み、病と不調、罪悪と戦争、つまりは光明のあるべき所に暗黒をもたらし、安らぎのあるべきところに苦しみを生じさせ、豊かな恵みに浴すべき所に飢餓を招いている諸悪を一掃せしめんと意図されておられます。

 大いなる神よ。私どもは地上にあなたの王国を築かんと願う者との協力のもとに、みずからこしらえた魂の牢獄の中にいる人間が、みずから背負える重荷に屈することなく、首尾よくそこから脱し、暗闇の中ではなく光明の中で生きられるよう、あなたという太陽へ目を向けさせんと努力しているところで御座います。

 その目的のために私たちはあなたに祈り、子等のために献身することによってあなたに献身せんとするものです。

Monday, June 29, 2026

ベールの彼方の生活(一) G・V・オーエン著

 『霊界通信 ベールの彼方の生活』の第1巻は、英国の牧師G・V・オーエンを通じて伝えられたスピリチュアリズムの代表的古典です。死後の世界(天界の低地)の具体的な様子を詳細に描写しており、現代でも高い評価を受けている著作です。





二章 薄明の世界

1 霊界のフェスティバル     

一九一三年九月三十日  火曜日

 こうして私たちが地上へ降りて来て、今なお地上という谷間を歩む一個の人間と通信を交わす時の心境はまずあなたには判らないでしょう。同じく霊界にいる者の中でも、私たちは余ほど恵まれた境遇にあることを身に沁みて感じるのです。

それと言うのも、こうして人類の向上のために役立つ道があることを自信を持って語れる段階まで来てみますと、善行と啓発の可能性は本当に無限にあるように思えるのです。もっとも、今のところ私たちに出来ることは限られております。

あなたのように、神を信じその子イエスに身をあずけることによって神に奉仕する者には何一つ怖れるものは無いとの信念のもとに、勇敢に私たちに協力してくれる者(※)が出てくるまでは、この程度で佳しとしなければならないでしょう。

(※オーエン氏はもともと英国国教会の牧師で「推薦文」の筆者ノースクリッフ卿が社主であった新聞 The Weekly Despatchにこの霊界通信を連載したことで教会長老から弾圧を受け撤回を迫られたが、それを拒否したために牧師の職を追われた経緯がある。──訳者)

 今なお霊魂の存在と私たちの使命とメッセージに疑いをはさむ人のためにひとこと言わせて頂けば、私たちが美しい霊界の住処(すみか)を離れて地球を包む暗い霧の中へ降りて来る時は、決して鼻歌交じりの軽い気持ちで来るのではありません。
 
私たちには使命があるのです。誰かがやらねばならない仕事を携えてやってくるのです。そして、そのことに喜びを感じているのです。

 さてあれから少し後──地上的な言い方をすれば──のことです。私たちは、とある広い場所へ案内されました。そこには大きな湖──湖盆と言った方が良いようなもの──があり、その中へ絶え間なく水が流れ込んでおり、まわりにはかなりの間隔を置いて塔のついた大きな会館(ホール)の様なものが立ち並んでおります。

建築様式も違えばデザインも違い、素材も同じ種類ではありません。ホールのまわりには広々とした庭園や森があって、中には何マイルにも広がっているものもあり、そこには各種の動物や植物が群がっております。

大部分は地上でも見かけるものですが、見かけないものもあります。ただし私の記憶では、現在は見かけなくても曽ては生息したものが少しはあると思います。以上が外観です。私がお話したいのは、そうしたコロニーの存在の目的です。


 目的は実は音楽の創造と楽器の製造に他なりません。ここに住む人たちは音楽の研究に携わっているのです。各種の音楽の組み合わせ、その効果、それも単に〝音〟として捉えるのではなく、他の要素との関連をも研究します。

幾つかの建物を見学してまわりましたが、そこに働く人全員が明るく楽しそうな表情で私たちを迎えて下さり、すみずみまで案内して下さいました。

同時に私たちに理解できる範囲のことを説明して下さいましたが、正直言ってそれはそう多くはありませんでした。では私たちに理解できた範囲のことを説明してみましょう。

 ある建物──見学してみると製造工場というよりは研究所と呼んだ方が良いと思いました──の中では地上で作曲の才能のある人間へ音楽的インスピレーションを送る最良の方法の研究に専念しており、又ある建物では演奏の得意な人間に注目し、さらには声楽の得意な人間、教会音楽の専門家、コンサートミュージック、あるいはオペラの作曲に携わる人間等々の為に各各の建物が割り当てられているのです。

 研究の成果は体系的に図表化されます。そこまでがここに働く人たちの仕事です。その成果を今度は別のグループの人たちが目を通し、それをどうすれば最も効果的に地上へ送れるかを検討します。

検討が終わると更に別のグループの人たちが実際にベールを通して地上へ送る作業に取り掛かります。まず目標とすべき人間が選別されます。すなわちインスピレーションに最も感応しやすいタイプです。

そうした選別をするのが得意なグループが別にいて、細かい検討が加えられます。全てが整然としております。湖の周りの研究所から地上の教室やコンサートホール、オペラハウス等へ向けて、天上の音楽を送り届けることに常時携わっている人たちの連繋組織があるのです。

こういう具合にして地上に立派な音楽が生まれるのです・・・・・・。もちろんそうです、地上の音楽の全てがこちらから送られたものとは限りません。

それはこちらの音楽関係者の責任ではなく、ベールのそちら側の入口に問題があり、同時にこちら側の暗黒界の霊団による影響もあり、受け取った地上の作曲家の性格によって色付けされてしまうこともあります。


──塔は何のためにあるのでしょうか。

 これからそれを説明しようと思っていたところです。

 湖は広大な地域に広がっており、その沿岸から少し離れた一円にさっきの建物(ホール)が建っております。

そして時おり、あらかじめ定められた時が来ると、それぞれの研究所(ホール)で働く人のうちの幾人か──時には全員──がそれぞれの塔に集まり、集結し終わるとコンサート、まさにコンサートの名に相応しいコンサートが催されます。

演奏曲目は前もって打合わせが出来ております。一つの塔には一つのクラスの演奏者がおり、別の塔には別のクラスの演奏者がおり、次の塔に一定の音域の合唱団がおり、そのまた次の塔には別の音域の合唱団がおります。それが幾つもあるのです。

地上では四つの音域しかありませんが、こちらでは音域がたくさんあるのです。さらに別の塔の人にも別の受け持ちがあるのですが、私には理解できませんでした。私の推測ではそれぞれの塔からの音量を適度に調和させる専門家もいるようでした。

 そのことよりも私は催しそのもの──コンサート、フェスティバル、何でもよろしい──の話に入りたいと思います。私たちは湖の真ん中あたりにある島へ案内されました。そこは美しい木々と芝生と花が生い繁り、テラスや東屋、石または木で出来た腰掛けなどがしつらえてあります。そこでフェスティバルを聞いたのです。

 まず最初にコードが鳴り響きました。長く途切れることなく、そして次第に大きくなって行き、ついにはその土地全体──陸も水も樹木の葉一枚一枚までも行き亘っていくように思えました。それは全ての塔にいる楽団及び合唱団にキーを知らせるものでした。

やがてそれが弱まって行き全体がシーンと静まり返りました。すると今度は次第にオーケストラの演奏が聞こえてまいりました。多くの塔から出ているのですが、どの演奏がどの塔という区別がつきません。完全なハーモニーがあり、音調のバランスは完璧でした。

 続いて合唱が始まりました。その天上の音楽を地上の言語で叙述するなど、とても無理な話なのですが、でもその何分の一かでも感じ取っていただけるかもしれないと思って述べているのです。

簡単に言えば、全ての存在をより麗わしくするものがありました。美しいというだけではないのです。麗わしさがあるのです。この二つの形容詞は意味合いが違うつもりで使用しております。

私たちの顔に麗わしい色合いと表情が表われ、樹木は色彩が一段と深みを増し、大気は虹のような色彩をした霞に似たものに変化して行きました。それが何の邪魔にもならないのです。むしろ全てを一体化させるような感じすら致しました。

水面には虹の色が映り、私たちの衣服もその色彩を一段と強めておりました。さらには動物や小鳥までがその音楽に反応を示しているのです。

一羽の白い鳥がとくに記憶に残っておりますが、その美しい乳白色の羽根が次第に輝きを増し、林の方へ飛んで行く直前に見た時は、まるで磨き上げた黄金のような色──透明な光あるいは炎のように輝いておりました。

やがて霞がゆっくりと消えて行くと私たち全員、そして何もかもが再びいつもの状態に戻りました。と言っても余韻は残っておりました。強いて言うならば〝安らぎ〟とでも言うべきものでした。

 以上がこの〝音楽の里〟で得た体験です。私たちが聞いた音楽はその後専門家が出来具合を繰り返し討論し合い、ここを直し、そこを直しして、これを何かの時、たとえばこちらでの感謝祭(※)とか、地上での任務を終えて帰ってくる霊団を迎えるレセプションとか、その他の用途に使用されることになります。

何しろこちらの世界では音楽が全ての生活面に滲透しております。いえ、すべてが音楽であるようにさえ思えるのです。音楽と色彩と美の世界です。すべてが神の愛の中で生きております。私たちはとてもその愛に応え切れません。

なのに神の愛が私たちを高き世界へと誘い、行き着くところ全てに愛がみなぎり、神の美を身につける如くにその愛を身につけなくてはいけないのです。

そうせざるを得ないのです。なぜなら天界では神が全てであり、何ものにも替えられないものだからです。愛とは喜びです。

それをあなたが実感として理解するようになるのは、あなた自身が私たちと同じところへ来て私たちと同じものを聞き、私たちが神の愛を少し知る毎に見ることを得た神の美が上下、前後、左右、あたり一面に息づき輝いているのを目のあたりにした時のことでしかないでしょう。

 力強く生きなさい。勇気を持って生きなさい。それだけの価値のある人生です。それは私たち自らが証言しているのですから。

 では、お寝み。時おりあなたの睡眠中に今お話したような音楽のかすかなこだまをあなたの霊的環境の中に漂わせているのですよ。それは必ず翌日の生活と仕事の中によい影響を及ぼしております。

(※霊界でもよく祭日が祝われる話が他の霊界通信にも出てくる。地上を真似たのではなく、逆に霊界の催しが人間界に反映しているのである。──訳者)                       
                    

 
 2 色彩の館         

 一九一三年十月一日 水曜日

 昨晩の〝音楽の里〟について述べたことは、私たちが見聞きしたことのホンの概略を述べたものです。それに私たちは、その里のごく一地域しか見学していないのです。

聞くところによりますと実際はその時想像していたよりも遥かに広いもので、湖を中心として遠く山岳地方まで広がっております。その山の地方にも研究所があり、一種の無線装置によって他の研究所と連絡を取りながら全体としての協同研究が休みなく続けられております。

 見学を終えての帰り道で脇へ目をやると、また目新しいものが目に入りました。とても大きな樹木の植林地で、その中にも高い建物が聳えております。

前のようなただの塔ではなく、色とりどりの大小の尖塔やドームが付いており、その中に大小のホールが幾つもありました。それが一つの建物で、とても高くまた広々としております。私たちが尋ねると住人の一人がとても丁寧に優しく迎えて中へ案内して下さいました。

そしてまずその壁の不思議さに驚かされました。外側から見ると不透明なのに内側から見ると透明なのです。そして大小のホールを次から次へと回って気がついたのは、各々のホールの照明の色調が多少ずつ隣のホールと違っていることでした。

もとの色彩は同じなのです。ですから別の色という感じはしないのですが、その深みとか明るさとかが少しずつ違っておりました。

 小さいホールはほとんど同じ色調をしておりました。その数多い小ホールを通過して行くと幾つか目に大ホールがあり、そこに、それに連なる小ホールの色彩の全てが集められております。

果たして小ホールの一つ一つが一個の色調を滲出していると断言してよいのかどうか自信はありませんが、思い出すかぎりではそんな印象でした。見たものが余りに多くて一つ一つを細かく憶えていないのです。

それに、それが初めての訪問でした。ですから大ざっぱな説明と受け止めて下さい。

 大ホールの一つは〝オレンジホール〟と呼ばれ、そこには原色のオレンジの有りとあらゆる色調──ほんのりとした明るい黄金色から最も深いオレンジ色までありました。

更にもう一つの大ホールは〝レッドホール〟と呼ばれ、ピンクのバラの花びらのうっすらとした色調から深紅のバラかダリヤの濃い色調までがホール一杯に漂っていました。

さらには〝バイオレットホール〟というのがあり、ヘリオトロープあるいはアメシストのあの微妙な紫の色調からパンジーのあの濃い暗い色調まで輝いております。

このような具合にしてその他の色彩にもそれぞれのホールがあるのですが、言い落としてならないのは、これ以外にあなたの知らない色──七色以外の、言わば紫外色と赤外色もあることで、それはそれは素敵な色です。


 そうした色調は一つに融合してしまうことなく、それぞれが独自の色調を発散しながら、それでいて全体が素敵に、美事に調和しているのです。

 そうした透明な建物(ホール)が一体何のためにあるのかと思っておられるようですね。それは各種の生命──動物、植物、それに鉱物、このうちとくに前二者へ及ぼす色彩の研究をするところなのです。これに衣服も含まれます。

私たちの衣服の生地と色調は着る人の霊格と性格を反映するからです。自分を取り巻く環境は言わば自分の一部です。それはあなた方人間も同じです。中でも光が一つの要素、重要な要素となっています。私たちがホールで見た通り、各種の条件下で実験する上でも重要な働きをしているのです。

 聞くところによりますと、こうした研究の成果が地球及び他の惑星の植物を担当しているグループへ手渡されるそうです。しかし、全てが採用されるわけではありません。繊細すぎて地球や他の惑星のような鈍重な世界に応用できないものもあり、結局ほんの一部だけが地球へ向けられるということになるそうです。

 残念ですがこれ以上のことは私には述べられません。一つには今述べた環境上の制約がありますし、又一つには内容が科学的で私には不向きということでもあります。ただ一つだけそこでお尋ねした事を付け加えておきましょう。

そこでは原色の全てを一つのホールに一緒に集めることはしません。なぜだかは知りません。もしかしたら私よりその方面に通じている仲間の人たちが考えているように、いっしょにしたときに出るエネルギーが余りに強烈なので、特別に設計した建物を、それも多分どこか高い山の中にでも建てなくてはならないのかも知れません。

仲間の人たちが言うには、その場合は周辺のかなりの距離の範囲で植物が生育しないだろうということです。さらに、私たちがお会いした人々が果たしてそうした莫大なエネルギーを処理(コントロール)出来るかどうかが疑問だと言っております。

もっと高い霊格と技術が必要であろうと考えるわけです。しかし、もしかしたら高い界へ行けばすでにそうした研究所があって、それが今紹介した研究所と連絡が取れているのかも知れません。

こちらの整然とした秩序から判断すれば、その想像はまず間違いないでしょう。


 私がそのコロニー、あるいは総合研究所と呼んでもよいかも知れませんが、そこを出て中央のドームが見上げられる少し離れた場所まで来た時、私たちのこの度の見学旅行を滞りなく進めるために同伴していた指導霊が私たちの足を止めて、出発の時から約束していたお別れのプレゼントをお見せしましょうとおっしゃるのです。

何だろうと思って見つめたのですが何も見えません。少し間を置いてから皆んな怪訝(けげん)な顔で指導霊を見つめました。すると指導霊はにっこり笑っておられます。私たちはもう一度よく見ました。

 やがて仲間の一人が言いました。「さっきここで足を止めて見上げた時、あのドームは何色だったかしら」。するともう一人が「赤色だったと思うけど」と言いますが、誰一人確実に憶えている者はいませんでした。

ともかくその時の色は黄金色をしておりました。そこで「暫く見ていましょうよ」と言って皆んなで見つめておりますと、なるほど、やがてそれが緑色に変わりました。ところがいつどの辺りから緑色に変化し始めるのかが見分けられないのです。

その調子で次から次へと一様に色彩が変化して行くのです。それが暫くの間続きましたが、何とも言えない美しさでした。

 やがてドームが完全に見えなくなりました。指導霊の話ではドームはちゃんと同じ場所にあるのだそうです。それが、各ホールからある種の光の要素を集めて組み合わせることによって、そのように姿が見えなくなる──それがその建物で仕事をしている人が工夫した成果の一つだということです。

そう見ているとドームと林の上空にドームは見えないままです──巨大なピンクのバラが出現しました。それがゆっくりと色調を深めて深紅に変わり、その大きな花びらの間で美しい容姿をした子供達が遊び戯れていたり、大人の男女が立ち話をしていたり、

歩きながら話に興じたりしています。みんな素敵で美しい、そして幸せそうな姿をしております。

一方では子鹿や親鹿、小鳥などが走り回ったり飛び回ったり寝そべったりしています。花は花びらが誇張して丘陵地や小山等の自然の風景の舞台と化し、その上を子供たちが動物と楽しそうに可憐な姿で遊び戯れているのです。

それがやがてゆっくりと薄れて行き、そのうちただの虚空に戻りました。私たちはその場に立ったままの姿でそうした光景を幾つか見せていただいたのです。

 もう一つ見せていただいたのは光の円柱で、ちょうどドームのある辺りから垂直に伸び、そのまま天空に直立しておりました。純白の光で、その安定した形を見ていると、まるで固形物のように見えました。

そのうち、先ほどのホールの一つから一条の色彩を帯びた光が斜めに放たれて光の円柱に当たりました。すると各々のホールから様々な色彩の光が放たれました。

赤、青、緑、紫、オレンジ──淡いものから中間のもの、そして濃いものまで──いろいろで、あなたの知っているものは勿論、ご存知でないものも幾つかありました。それらのすべてが純白の光の柱の中間部に斜めにつながりました。

 見ているとそれが形を整え始めました。一本一本が道となり、沿道にビルや住居、城、森、寺院、その他が建ち並んでおります。そしてその傾斜した道を大勢の人が上がって行きます。

一つの道は全部同じ色をしておりますが、色調は多彩でした。それはそれは素敵な光景でした。円柱まで近づくと、少し手前のところで、それを取り囲む様な形で立ち止まりました。

 すると円柱の頂上が美しい白ゆりの花のように、ゆっくりと開きました。そしてその花びらがうねりながら反り返って、下へ下へと垂れて行き、立ち止まっている群集と円柱との間に広がりました。

すると今度は円柱の底辺が同じように開き、円い踊り場のような形で、群集が立ち止まっている場所との空間を埋めました。

 これで群集は上へあがることが出来ます。今や全体が──馬も乗り物も──それぞれの色調を留めながら渾然となっております。その様子はまるで祝宴か祭礼にでも臨むかのように、多彩な色調をした一つの巨大なパピリオンに集まり行く素敵で楽しい大群集を見ているという感じでした。

その群集の色調が天井と床つまり舗道に反映し、その全体から発する光輝は何とも言いようのないほど素晴らしいものでした。

やがて群集は幾つかのグループに分かれました。すると中央の光の円柱が巨大なオルガンのような音を鳴り響かせました。何が始まろうとしているのかはすぐに判りました。

 間もなく声楽と器楽による〝グロリア・イン・エクセルシス・デオ〟(※)の大音楽が始まりました。高き光の中に在(ま)します神──全ての子等に生命を与え、その栄光を子等が耐え得るだけの光の中に反映され給う全智全能なる神よ──と、

大体そういう意味の讃歌が歌われ、そしてこのシーンも次第に消えて行きました。多分この後その大群集は光に道を後戻りして帰って行ったのでしょうが、それは見せていただけませんでした。確かに、その必要もなかったのです。


 さ、時間が来ました。残念ですが、これにて終わりにしなければなりませんね。
 では神の御加護のあらんことを。
 (※Gloria in Excelsis Deo 〝天なる神に栄光あれ〟の意のラテン語で、キリスト教の大頌栄(しょうえい)の最初の句。ルカ2・14──訳者) 


   


3 意念の力             

 一九一三年十月二日 木曜日  

 〝イスラエルの民に申すがよい──ひたすらに前進せよ、と〟(※)これが私たちが今あなたに申し上げたいメッセージです。ひるんではいけません。行く道はきっと明るく照らして下さいます。全能なる神と主イエスを固く信じる者には何一つ恐れるものはありません。

(※モーゼが神のお告げに従ってイスラエルの民を引き連れてエジプトを脱出する時、ひるみかける民を励ました言葉であるが、この頃オーエン氏は国教会の長老から弾圧を受けて内心動揺を来していたことが推察される。──訳者)      

 私たちが今さらこのようなことを書くのは、あなたの心にまだ何かしら疑念が漂っているからです。私たちの存在を感じ取っておられることは私たちにも判っております。ですが前回に述べたような話が余りにおとぎ話じみて信じられないようですね。

では申しますが、実を言えばこうした天界の不思議さ美しさは、地上のいかなるおとぎ話も足もとにもよれないくらい、もっともっと不思議で美しいのです。

それに、おとぎ話の中に出て来る風景や建物は、こちらで見られるものと似ていないこともないのです。

まだホンの僅かしか見物しておりませんが、その僅かな見聞から判断しても、地上の人間の創造力から生まれるものなどは、その不自由な肉体をかなぐり棄ててこの天界の光の中に立った時に待ち受けている栄光に比べれば、まったく物の数ではないことを確信しております。

 さて今夜お話したいのは、これまでとは少し趣が異なり、私たち新米を教え楽しませるために見せて下さった現象的なことではなくして、こちらの事物の本質に関わることです。

 今あたりを広々と見下ろす高い山の頂上に立ったとしましょう。そこから見晴らす光景はどこか地上とは違うのです。例えば、まず空気の透み切り具合いと距離感が地上とどこか違うことに気づきます。遠いと言っても、地上での遠さとは違うのです。

と言うのは、その頂上から地平線の近く、あるいはさらにその向こうのある地点へ行きたいと思えば、わざわざ山を下りなくとも、そう念ずるだけで行けるのです。

速く行けるか遅いかは意念の性質と霊格次第です。また今おかれている境涯の霊的性質より一段と精妙な大気──とでも呼ぶより仕方がないでしょう──に包まれた地域へ突入できるか否かも、その人の意念と霊格次第なのです。

 高級界からお出でになる天使のお姿が私たちに必ずしも見えないのはそのためです。見え方も人によって異なります。みんなが同じお姿を排するのは、私たちの視覚に会ったように容姿を整えられた時だけです。

もしその方の後について行く、つまりその方の本来の世界へ向かって行きますと、途中で疲労を覚え、ついて行けなくなって来ます。霊力次第でもっと先まで行ける者もおりますが。

 さらに、その頂上に立ってみますと天空が不透明に見えるのですが、それは天空そのものの問題ではなくて、霊的な光の性質つまり下の景色から距離が大きくなるにつれて強度を増して行く性質を持つ霊的な光の問題であることが判ります。

ですから、霊力次第で遠くまで見通してそこに存在する生命や景色が見える人もおれば、見えない人もいるわけです。


 また、見渡せば一面に住居やビルが建ち並んでいるのが見えます。そのうちの幾つかは私が説明した通りです。しかしビルと言っても単なる建物、単なる仕事場、あるいは研究所というのではありません。

その一つ一つの構造からはその建物の性格は疎か、それを建築した人及びそこに住まう人の性格も読み取れないことでしょう。永遠に朽ちることなく存在していることは確かです。

が地上の建物がいつまでも陰気に立ち残っているのとは違います。常に発展し、装飾を
改め、必要に応じて色彩、形、素材を変えて行きます。取り壊して再び建て直すという手間はいりません。建っているままの状態で手直しをします。

時の経過による影響は出て来ません。崩れたり朽ちたりいたしません。その耐久性はひとえに建築主の意念に掛かっており、意念を維持しているかぎり立っており、意念次第で形が変えられます。
 
 もう一つ気がつくことは、小鳥が遠くから飛んで来て、完璧な正確さで目標物にとまることです、こちらにも伝書バトのように訓練された鳥がおります。

でも地上とは躾け方が違います。第一、こちらの鳥は撃ち落とされたりいじめられたりすることがありませんから、人間を怖がりません。そこで小鳥を一つの通信手段として使用することがあります。もちろん不可欠の手段というわけではありません。

他にもっと迅速で能率的な通信方法があるのですから。ですが、必需品でなくても美しいからというだけで装飾品として身につけることがあるのと同じで、小鳥を愛玩動物として通信に使用するわけです。

そんなのがしょっ中飛び交っており、とても可愛くて愛すべき動物です。小鳥も仕事をちゃんと弁(わきま)えていて、喜んでやっております。


 面白い話を聞きました。ある時そんな鳥の一羽が仲間を追い抜こうとして、ついスピードを出し過ぎて地球の圏内に入り込んでしまいました。それを霊視能力のある人間が見つけて発砲しました。驚いた小鳥は──銃の音に驚いたのではありません。

撃とうとした時の意念を感じ取ったのです──ここは自分の居るところではないことに気づき慌てて逃げ帰りました。感じ取ったのは殺そうという欲念でした。

それを不気味に思った小鳥はその体験を仲間に話して聞かせようとするのですが、うまく話せません。それはそうです。何しろそんな邪念はこちらの小鳥は知らないのですから。こちらでの小鳥の生活を地上の小鳥に話しても分かってもらえないのと同じです。

そこで仲間が言いました──君が話せないような話なら、もう一度地球へ戻ってその男を見つけ、それをどう話して聞かせたらいいか尋ねて来たらどうか、と。

 そう言われて小鳥はその通りにしました。するとその人間──農夫でした──が〝ピジンパイ〟と言えば分かってもらえるだろうと答えました。

小鳥はその返事を携えて帰ってきましたが、さてその言葉をどう訳せばよいのかが判らず、第一その意味も分からなかったので、自分の判断で次の様な意味のことを伝えました。すなわち、これから地球を訪れる者はそこが本当に自分にとって適切な界であるかどうかをよく確かめてからにしなさい、と。

 この話がお教えんとしているのはこういうことです。与えられた仕事は、自分で納得がいき仲間も納得する範囲で努力すべきこと──熱心のあまり自分の立場、あるいは〝領域〟を確かめずに仲間を出し抜いてはならない。

さもないと自分では〝進んでる〟つもりでいて実はスタートした界より下の界層へ堕落し、そこの最高の者さえ自分本来の界の最低の者より進歩が遅れており、仲間として連れだっていく相手としては面白くないといった結果になるということです。

 これなどは軽い小話(エピソード)ていどに聞いていただけば結構です。が、これで私たちも時に笑いころげることもあること、バカげた冗談を言ったり、真面目なつもりで間の抜けたことをしたりすることもあること、そして地上を去ってこちらへ来ても、取り立てて成長していない面もあることがお判りいただけることでしょう。

  では、さようなら。常に愉しい心を失わないようにね。




4 死の自覚  
 一九一三年十月三日  金曜日        


 もしあなたが霊的交信の真実性に少しでも疑念を抱いた時は、これまでに受け取った通信をよく検討なさることです。きっと私たちの述べたことに一貫した意図が有ることを読み取られることでしょう。  
その意図とは、霊の世界が、不思議な面もあるにせよ、きわめて自然に出来あがっていることをあなたに、そしてあなたを通じて他の人々に理解していただくことです。

実は私たちは時おり地上時代を振り返り、死後の世界を暗いものに想像していたことを反省して、いま地上にいる人々にもっと明るく明確なものを抱かせてあげたいと思うことがあるのです。

死後にどんなことが待ち受けているかがよく判らず、従ってきわめて曖昧なものを抱いて生きておりました。それでよろしいと言う人が大勢おりますが、こうして真相の見える立場に立って見ると、やはり確固たる目的成就のためには曖昧ではいけないと思います。  

確固たる来世観をもっておれば決断力を与え勇気ある態度に出ることを可能にします。大勢でなくても、地上で善のために闘っておられる人々に霊界の実在と明るさについての信念を植えつけることが出来れば、その明るい世界からこうして地上へ降りて来る苦労も大いに報われるというものです。

 ではこれから、地上の人間がこちらへ来た時に見せる反応をいろいろ紹介してみましょう。もちろん霊的発達段階が一様ではありませんから、こちらの対応の仕方もさまざまです。ご存知の通りその多くは当分の間自分がいわゆる死んだ人間であることに気づきません。

 その理由は、ちゃんと身体を持って生きているからであり、それに、死および死後について抱いていた先入観が決して容易に棄てられるものではないからです。


 そうした人たちに対して最初にしてあげることは、ですから、ここがもう地上ではないのだということを自覚させることで、そのために又いろいろな手段を講じます。

 一つの方法は、すでに他界している親しい友人あるいは肉親の名前をあげてみることです。すると、知っているけどもうこの世にはいませんと答えます。そこで当人を呼び寄せて対面させ、死んだ人もこうしてちゃんと生き続けていることを実証し、だからあなたも死んだ人間なのですよと説得します。

これが必ずしも効を奏さないのです。誤った死の観念が執拗に邪魔するのです。そこで手段を変えることになります。こんどは地上の住み慣れた土地へ連れて行き、あとに残した人々の様子を見せて、その様子が以前と違っていることを見せつけます。  

それでも得心しないときは、死の直前の体験の記憶を辿らせ、最後の眠りについた時の様子と、その眠りから醒めた時の様子とを繋いで、その違いを認識させるようにします。

 以上の手段が全部失敗するケースが決して少なくありません。あなたの想像以上にうまく行かないものです。というのも性格は一年一年じっくりと築き上げられたものであり、それと並行して物の考え方もその性格に沁み込んでおります。

ですから、あまり性急なことをしないようにという配慮も必要です。ムリをすると却って発達を遅らせることにもなりかねません。

 もっとも、そんな手こずらせる人ばかりではありません。物分かりが良くて、すぐに死んだことを自覚してくれる人も居ります。こうなると私たちの仕事もラクです。

 あるとき私たちは大きな町のある病院へ行くことになりました。そこで他の何名かの人と共にこれから他界してくる一人の女性の世話をすることになっておりました。他の人たちはそれまでずっとその女性の病床で様子を窺っていたということで、いよいよ女性が肉体を離れると同時に私たちが引き取ることになっておりました。  

病室を覗くと大勢の人間がつめかけ、みんなまるでこれから途方もない惨事でも起きるかのような顔をしております。私たちから見るとそれが奇異に思えてならないのです。なぜかと言えば、その女性はなかなか出来た方で、ようやく長い苦難と悲しみの人生を終え、病に冒された身体からもうすぐ解放されて、光明の世界へ来ようとしていることが判るからです。

 いよいよ昏睡状態に入りました。〝生命の糸〟を私の仲間が切断して、そっと目醒めを促しました。すると婦人は目を開き、覗き込んでいる人の顔を見てにっこりされました。暫くは安らかで満足しきった表情で横になっておられましたが、そのうちなぜ周囲にいるのが看護婦と縁故者でなくて見知らぬ人ばかりなのだろうと、怪訝(けげん)に思い始めました。

ここはどこかと尋ねるので有りのままを言うと、不思議さと懐かしさがこみ上げて来て、もう一度あとに残した肉親縁者を見せてほしいと言います。

 婦人にはそれが叶えられました(※)。ベールを通して地上の病室にいる人々の姿が目に映りました。すると悲しげに首を振って「私がこうして痛みから解放されてラクになったことを知って下さればいいのに・・・・・」と歎息まじりに呟き、「あなた方から教えてあげて頂けないかしら」と言います。

そこで私たちが試みたのですが、そのうちの一人だけが通じたようです。が、それも十分ではなく、そのうちその人も幻覚だろうと思って忘れ去りました。(※誰にでも叶えられるとはかぎらない。──訳者)

 私たちはその部屋を出ました。そしてその方の体力が幾分回復してから子供の学校へ案内しました。そこにその方のお子さんがいるのです。

そのお子さんと再会した時の感激的シーンはとても言葉では尽くせません。お子さんは数年前に他界し、以来ずっとその学校にいたのです。そこでは今やお子さんの方が先生格になってお母さんにいろいろと教えていました。ほほえましい光景でした。
建物の中や講内を案内していろいろなものを見せてまわり、また友達を紹介しておりました。その顔は生き生きとして喜びに溢れ、お母さんも同じでした。

 それから暫く私たち二人はその場を離れたのですが、戻って見るとその母子(おやこ)は大きな木の下に腰かけ、母親が地上に残した人たちの話をすると、子供の方はその後こちらへ他界してきた人のことや、その人たちと巡り会った時の話、学校での生活のことなどを話しておりました。

私たちは二人を引き離すのは辛かったのですが、遠からず再び、そして度々、きっと面会に来られるからという約束をして学校を後にしました。

 これなどはうまく行った例であり、こうしたケースは少なくありませんが、また別の経緯(いきさつ)を辿るものが沢山あるのです。

 ところで、右の母子が語り合っている間、私たちは学校の構内を回って各種の教育器機を見学しました。その中に私がとくに目を引かれたものがありました。

直径六~七フィートもあろうかと思われる大きなガラスの球体で、二本の通路の交叉する位置に置いてあり、その通路のあたりの様子が球体に映っておりました。

ところがその球体の内部をのぞくと、花とか樹木とか植物が茂っているだけでなく、それが遠い過去から枝分かれして来たその根元の目(モク)まで見分けられるようになっているのです。

それはさながら地上における地質学の化石による植物進化の学習のようなものでした。ただ地上と異なるのは、そこにあるのは化石ではなく実際に生きており、今も生長しているということです。それも原種から始まって今日の形態になるまでが全部揃っているのです。

 子供たちの課題は次のようなものであることを教わりました。すなわち実際にそこの庭に生長し球体に反射して見える植物、樹木、花などがどういう過程を経て進化して来たかを勉強し、そこからこんどは、それが将来さらにどういう具合に進化して行くかを心像として創造してみることです。

知的才能のトレーニングとして実に素晴らしいものですが、創造されたものは大体において苦笑を誘うようなほほえましいものが多いようです。

 さ、あまり長くなりすぎてもいけませんね。続きはまた書けるようになってからにしましょう。神のお恵みを。さようなら。 




5 天界の祝祭日           
 一九一三年十月六日  月曜日

 この度の〝収穫感謝祭〟はまたずいぶん楽しかったではありませんか。あなたは気づかなかったようだけど私たちはずっとあなたの側にいたのですよ。忙しくて私たちのことを考える余裕が無かったのでしょうけど。地上にいる方々と共に礼拝に参加して何らかのお役に立てるのは嬉しいものです。

驚かれるかも知れませんが、こちらの光明界でも時おりあなた方と同じような儀式を行い、豊かな稔りを神に感謝することがあります。地上の同胞の感謝の念を補うためでもあり、同時に私たち自身の霊的高揚のためでもあります。こちらには地上のような収穫はありません。ですが、それに相当する他の種類の恵みに感謝する儀式を取り行うのです。


 例えば私達はまわりに溢れる美と、仕事と向上への意欲を与えてくれる光明と愛を神に感謝する儀式を行います。そのような時には大てい高い界からの〝顕現〟が見られます。その一つをこれからお話しましょう。    

 川のある盆地(※)で聖餐式(ユーカリスト)を催していた時のことです。流域に二つの丘がその川を挟むような形で聳えております。私達は讃仰(さんごう)と礼拝の言葉を述べ、頭を垂れ、こうした時に必ずみなぎってくる静かな安らぎの中で、その日の司祭を勤められている方からの祝福の言葉を待っておりました。その方は丘の少し高い位置に立っておられるのですが、何一つおっしゃらないので私たちはどうしたのだろうと思い始めました。

(※原文では渓谷(バレー)となっている。〝谷〟というと日本人は切り立ったV字形の谷間を想像しがちであるが、本来は川を挟んだ広い低地を意味することが多いので、ここでは盆地とした。──訳者)


 暫くして私たちは頭を上げました。まるで〝内なる声〟に促されたように一斉に上げたのです。見ると司祭の立っておられる丘が黄金色の光に包まれ、それがベールのように被さっておりました。やがてそのベールがゆっくりと凝縮し、司祭の身体の周りに集まって来ました。

司祭はそうしたことにも一切気づかないような態度で立っておられます。その時ようやく我に帰られ、その光のベールの中から出て私たちの方へ近づき〝少しお待ちください。

高き界から降りてこの儀式に御臨席になっておられる方のお姿を拝することが出来ます〟とおっしゃいました。そこで私たちは有難い気持ちでお待ちしました。こちらではおっしゃったことは必ず実現するのです。

 見ると凝縮していた光が上昇して流域全体を覆い、さらに止まることなく広がり続けて、ついに天空を覆い尽くし、おおったかと思うと今度はゆっくりと下降してきて私たちを包みました。

私たちはまさに光の海──私が本来属する界の光よりも遥かに明るいのですが、柔らかくて心地よい光の海──に浸っておりました。浸っているうちにその光で視力が増し、やがて目の前に約束の影像が展開するのが見えてきました。

 まず二つの丘が炎のように煌々(こうこう)と輝き始めました。よく見ると両方の丘が〝玉座〟の側部ないしは肘掛けとなり、その周りがイザヤ書と黙示録の叙述を髣髴とさせるように虹の色に輝いておりました。しかし玉座におられる方の真の姿は私たちには見えません。

少なくとも形態をまとった姿は見えません。私たちの目に映ったのは父なる存在を示すための顕現の一つでした。そして丘の中腹の台地──そこがちょうど玉座の〝座〟の位置になります── のところに大勢の天使が集まっており、側にある大きな揺り籠の中を覗き込む姿で礼拝しているのです。

その揺り籠の中に一人の子供がいて天使団に向かってほほえんでおります。やがてその子供が両手を高々と伸ばしますと天空から一条の光が射し込んだように見えました。

 見るとその子供の両腕の中に黄金色に輝く一個の球体が降りてまいりました。すると子供が立ち上がってそれを左手でささげ持ちました。それは生命の光で躍動し、きらきらと輝き、燃え盛り、いやがうえにも明るさを増して、ついにはその球体と子供以外は何も見えなくなり、その子の身体を貫いて生きた光が放射されているように見えました。

やがてその子は球体を両手で持ち、それを真二つに割り、その割れた面を私たちの方へ向けました。一方にはピンクの光線が充満し、もう一方には青の光線が充満しております。

よく見ると後者には天界の界層が同心円状に幾重にも画かれており、その一つ一つが輝くばかりの美しい存在に満ち溢れております。

その輝きは内側ほど強烈で、外側になるほど弱まりますが、私たちの目には外側ほど鮮明に見えます。それは私たちの界がそれに近いからです。一ばん中心部になると光輝が強すぎて私たちには何があるのか全然見えません。反対に外側の円は私たちの界層であることが判りました。


 もう一つのピンクの半球はそれとは違って中に何の円も見えませんが、地球を含めた惑星上の動植物の全ての種が見えます。もっとも、あなた方が見ているものとは少し様子が異なり、完成された姿をしております。人間から最下等の海の動物までと、大きな樹木や美味な果実から小さな雑草までがありました。

私たちが暫くそれを見つめていると、その子が両半球すなわち壮麗なる天界と完成された物質界とを一つに合わせました。合わさったとたんに継ぎ目が見えなくなり、どっちがどっちだか見分けがつかなくなりました。


 ところが見る間にそれが大きくなり始め、ついに子供の手から離れて浮上し、天空へ向けて少しばかり上昇したところで止まりました。美事な光の玉です。その時です。その玉の上にイエス・キリストの姿が現われたのです。

左手に十字架を持っておられます。その一番下の端は球体の上に置かれ、一番上は肩の少し上あたりまで来ております。右手で先ほどの子供を支え持っておられます。

見るとその子供の額のところに紐状の一本の黄金の環が冠(かぶ)せてあり、胸のあたりには大きなルビーのような宝石が輝いております。

そう見ているうちに光の玉はゆっくりと天空へ向けて上昇し始め、視界の中でだんだん小さくなって行き、ついに二つの丘の中間あたりの遥か上空へと消えて行きました。

 そこで全てが普通の状態に戻りました。仲間たちといっしょに腰を下ろして今見たものに感嘆し合い、その意味を考え合いました。が、こうではないかといった程度のことを言い合うだけで、確信をもって述べられる者は一人もいませんでした。

その時ふと司祭のことを思い出しました。光に包まれ、見た目には私たちより遥かに強烈な影響を受けたように思えました。

見ると司祭は岩の上に腰かけておられ、静かな笑みを浮かべておられました。何だか私たちが最後にこうして自分のところへやって来ることを見越して、思い出すのを待っておられたみたいでした。司祭は私たちにもう一度座るように命じられ、それから先ほどの幻想的シーンの説明を始められました。


 実は司祭は既にあの現象について予め説明を受けておられ、それを私たちに授け、より高尚な意味、より深い意味については私たち自身でよく考え、自分なりの理解力に応じたものを摂取することになっていたのです。今回のような手段による教育が授けられる時はいつもそうなのです。

 ピンクの半球は私たちの界より下層の世界の創造を意味し、青の半球は私たちの界および上層界の創造を象徴しておりました。が両者は〝二種類の創造〟を意味するのではなく、実は全体として一つであって、二つの半球にも他の小さな区分にも隔りはないということを象徴していました。子供は始まりと進歩と終わりなき目的を具象化したもので、要するに私たちの限りなき向上の道を象徴していたわけです。

ルビーは犠牲を象徴し、黄金の環は成就を象徴し、光球が上昇したこと、そこへキリストが出現し片手に子供を捧げ持ったことは、現在の私たちには到達できない高い界層への向上心を鼓舞するものでありました。

 もちろん以上は概略であって、まだまだ多くの意味が込められております。さっき述べたように、それをこれから自分で考えて行くことになっているわけです。私たちの慣習として、それをこれから先、折に触れて発表し合い議論し合うことになりましょう。


──どうも有難うございました。ここであなたに尋ねて欲しいという依頼のあった質問をさせて下さい。

 お書きになるには及びません。あなたの心の中に読み取ることが出来ますから。右の言葉も書かれる前から判っておりました。

  Eさんが教会の祭壇で見かけたというハトは、私が今述べた類の一種の〝顕現〟です。あの儀式には目に見えない集会も催されておりました。祭壇のまわりに大勢の霊がいて、受け入れる用意のある人にはいつでも援助を授けようと待機していたのです。

その霊たちの心の優しさがハトとなって具現して、人を怖がる事なく飛び回っていたのです。進歩の遅れた人にとっては、そうした恐れを知らない純心さを高級霊の前で維持する事は容易に出来ることではありません。

その輝かんばかりの崇高さが時として、僅かながらも持っている彼らの徳を圧倒してしまい、気の毒なことですが、疑いを宿す者を怖じ気させることがあるのです。


<原著者ノート>この通信を受ける数日前のことであるが、オックスフォードで催されたハローマス(*)の集会で出席者の一人が聖餐式の行われている最中に、祭壇の上を一羽のハトが飛び回っているのを霊視したと私に語ってくれていた。(天上界へ逝った諸賢人の霊をまつる祝祭日。──訳者)

            


6 念力による創造実験          

 一九一三年十月八日 水曜日

 私たちからの通信の奥深い意味を理解なさろうとする方にとって大事なことが幾つかあります。今夜はそうした表面を見ただけでは判らないこと──普通の物の考え方では見落とされがちな問題を扱う上で役に立ち指針となるものをお教えしようと思います。

 その一つは人間界から放射された思念がこちらへ届く時の様子です。善性を帯びた思念には輝きが見られますが、善性が欠ける思念にはそれが見られません。その光輝はもともと本人の身体から出ており、それで私たちはその色彩(オーラ)を見て霊的性格を判断することができます。

単に明るいとか暗いとか、明るさの段階がどの段階であるといったことだけでなく、その人のどういう面が優れていて、どういう面に欠点があるということまで判断します。その判断に基づいて、長所をさらに伸ばし欠点を矯正していく上で最も適当な指導霊を当てがうことになります。

こうして一種のプリズム方式によって性格を分析し、それに基づいて診断を下します。

 これは肉体に包まれた人間の場合であって、こちらではそんなことをする必要はありません。と言うのは、こうしたことは霊的身体(※)に関わる問題であり、こちらでは霊体は当然だれの目にもまる見えであり、それが言わば魂の完璧な指標なのですから、その人の霊的性格が全部わかってしまいます。

言い落としましたが、そうした色彩は衣服にも反映しますから、その中の支配的な色彩を見て、この人はどの界のどの程度の人だという判断を下すわけです。しかし思念は精神的行為の〝結果〟ですから、その霊が生活している環境を見てもどういう思念を抱いている人であるかが判ります。

単に見えるだけでなく肌で感じることが出来ます。地上よりも遥かに正確でしかも強烈です。(※日本の心霊学ではこれを幽体と霊体と神体とに分けるのが常識となっているが、本書では霊体という用語を肉体とは別の霊的な身体という意味で用いることにする。霊界についても同じである。──訳者)

 こういう風に考えていけば私たちが強烈な思考を働かせれば、その念が目に見える客観的存在となって顕現することが当然有り得ることになります。と言うことは、美しいものを意識的に拵えることも出来るというわけです。


──何か例をあげていただけますか。

 よろしい。その方がよく分かっていただけるでしょう。

 ある時、こうした問題を勉強している仲間が集まって、どの程度進歩したかを試してみましょうということになりました。そこで美しい森の空地を選び、全員である一つの像を念じてその出来具合を見ました。

私たちが選んだのは、後で調べるのに都合が良いように、固くて長持ちするものということで象に似た動物でした。象とは少し違います。こちらにはいますが地上ではもう絶滅しました。

 私たちは空地で円座を組み、その動物を想像しつつ意念を集中しました。すると意外に速くそれが目の前に姿を現わしました。こんなに速く出来るものかと皆んなで感心しました。

しかし私たちの目には二つの欠点が見えました。一つは大きすぎるということ。全員の意念を加減することを忘れたのです。もう一つは、確かに生きた動物ではあるけど、部分的には石像のようなところもあることです。

生きた動物を想像して念じた者が多かったからそうなったので、結局は石と肉と混合のような、妙なものになってしまいました。他にも挙げれば細かい欠点が色々と目立ちます。例えば頭部が大きすぎて胴が小さすぎました。念の配分が片寄っていることを示すものです。

こういう具合にして欠点を知り、その修正方法を研究します。実験してみてはその成果を検討し、再びやり直します。右に紹介したのがその一例というわけです。

 そうして拵えた像から注意を逸らして語り合っていると、その像が徐々に姿を消して行きます。そこでまた新たにやってみるわけです。私達は同じモデルは二度と使用しないことにしました。送念の仕方が一つのパターンにはまってしまう恐れがあるからです。

そこで今度は果実の付いた樹木にしました。オレンジの木に似ていますが、少し違います。

 こんどは前よりうまく行きました。失敗点の主なものとしては、果実が熟したものと熟してないものとがあったこと。それから葉の色が間違ってましたし、枝の長さにまとまりがありませんでした。こうして次から次へと実験し、その度に少しずつうまくなって行きました。

 あなたにはこうした学習の愉(たの)しさや、失敗から生まれる笑いやユーモアがある程度は想像していただけると思います。死後の世界には冗談も、従って笑いも無いかのように想像している人は、いずれその考えを改めていただかねばなりません。

そうしないとこちらへ来てから私たちとお付き合いがしにくい──いえ、私たちの方がその方たちとお付き合いしにくいのです。でも、そういう人でもやがてこの世界の愛に目覚め、至って自然にそして屈託なく振舞うことが出来ることを知り、そうならないとまともに相手にしてもらえないことを悟るようになります。

地上というところはそれとは反対のように思いますが、いかがですか。いえ、地上は地上なりに生きてそれなりの教育を得ることです。そうすればこちらへ来て──ただブラブラするだけ、あるいはもっと堕落すれば別ですが──当たり前に生活すれば進歩も速いのです。そして学べば学ぶほど自由に使いこなせるエネルギーに感嘆するのです。


──アストリエル霊、きのう出られた方ですが、ここに来ておられますか。

 今夜はお出でになりません。お望みであれば、またお出になりましょう、きっと。


──どうも。でもあなたにも来て書いていただきたいですね。

 ええ、それはもちろん。あの方も私も参りますよ。あなたのためでもあり、同時に私たちにとっても、こうして霊感操作をすることが、今述べたのと同じように意念や霊力の使い方を勉強する上でも良い訓練になるのです。私たちが述べていることが映像となってあなたの意識に入って来るのが見えませんか。


──見えます。時には実に鮮明に見えることがあります。そう言うことだとは思ってもみませんでした。

 おやおや、そうでしたか。でもこれでお判りでしょう、さっきのことを書いたのもそれなりの目的があったということが。あなたはそれがどうもピンと来ない──多分その通りだったでしょう。それは私たちも認めます──と思っておられましたし、一体何を訴えんとしているのかと、いささか不愉快にさえ思っておられた。

ね、そうではなかったかしら。私たちはあなたのその様子を見てニコニコしていたのですよ。でもあなたは私たちに思念をほぼ私たちが念じた通りに解釈しておられましたし、そうさせた私たちの意図も、意念というものがあれほど鮮明に、そして実感を持って眼前に現れるものであることを判っていただくことにあったのです。
 では、さようなら。あなたに、そしてあなたのお家族に神の祝福を。

<原著者ノート>アストリエル霊のメッセージは数多く書かれているが、全体に連続性が見られない。なぜかはよく判らない。が結果としては母の通信の合間に割って入るために、アストリエル霊自身の通信はもちろん母の通信の連続性も破壊してしまう。そこでアストリエル霊の通信は日付の順で出さずに、巻末の第六章にまとめて紹介する。

シルバー・バーチの霊訓(十二)

 煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編




 四章 宇宙の根本摂理
    因果律    

(1)あなたの霊性の高さは人生をいかに生きてきたかによって決まります。この摂理はすべての人間に例外なく当てはまることであり、どう繕ってみてもごまかしは効きません。私が〝摂理〟という時それは大自然の法則のことを意味し、根本的には原因と結果の法則、すなわち因果律のことです。

自己中心の生活を送れば、その結果としていじけた性格ができ上がります。なぜなら、利己的になることは霊性がいじけていることを意味するからです。他人を思いやる生活を送れば、それはあなた自身のことも思いやることになります。霊性が高まるからです。この法則に例外はありません。


(2)摂理は完全です。ひたすら人のためを心掛けた生活を送っていれば、その人を通して大霊が働きます。あなたにもその可能性があり、すべての人に例外なく言えることです。〝それは無理です〟とあなたがおっしゃっても私は〝可能です〟と申し上げます。摂理は完全であり、ごまかすことはできません。その点をよく理解して実行に移さないといけません。


(3)幸運(ツキ)というようなものは存在しません。法則の働きがあるのみです。たまたまそうなったというようなことは一つもありません。法則によって規制されている宇宙においては、すべての出来事は原因と結果の関係で生じているのです。


(4)個人であろうと集団であろうと、民族であろうと国家であろうと、摂理に反したことをすればそれ相当の代償を支払わねばなりません。私はつねづね摂理の働きは完璧ですと申し上げております。その結果が人間の目には見届けられないことがあります。

が私は、原因と結果とが前になり後になりしながら機能していることを確信しております。それが法則だからです。このことは何度も申し上げてきました。が、ここで改めて申し上げます───すべては法則であり、神の摂理の働きでしかないのです、と。


(5)神の摂理に逆らった生き方をする人は、みずから酷しい収穫を刈り取らねばなりません。摂理に素直に従って生きる人は、物的な面においても霊的な面においても、幸せと豊かさを手にすることになります。


(6)流血の悲劇を何度繰り返してもなお懲りない為政者が牛耳る地上では、それが生み出す苦難や悲哀の中で摂理を学ぶしか方法がありません。本当は愛と互助の精神を発揮する行為の中で学んでほしいのですが、それが出来ない以上、摂理に逆らったことをして痛い思いをするほかはありません。

地上で〝偉い人〟が必ずしも霊界でも偉いとは限りません。こちらでは魂の偉大さ、霊性の高さ、奉仕的精神の強さが重んじられます。こうしたものは物的な金ピカの輝きが消えたあとも末永く残ります。


(7)霊的な目が開かれ、霊力によってもたらされる愛を受け、霊的真理の啓示を手にした者がそのあとで人のために役立つことを何一つしないようでは、神から大きなお咎めを受けます。

なぜなら、知らずに怠けたのではなく、知っていながら怠けたからです。霊能者の中には折角の霊的能力を銀貨三十枚で売っている人が大勢おります。(マタイ26・14~16参照)


(8)既成宗教に籍を置く者はいずれ、これまでに犯した過ちのすべてに責任を取らねばならない日がやってまいります。摂理を免れる方法はありません。神の目はごまかせないのです。特に霊の声を聞いた者(心の奥では気づいている人)はその反動は大きくなります。その声に素直に従えない者は、何も知らずに信じている者より大きな報いを受けます。

  
(9)クリスチャンになったからといって、それで〝地の塩〟(地上の人間としての理想像)になったわけではありません。どこかの教会に所属したからと言って〝地の塩〟になるわけではありません。こちらの世界へ来ると、地上でどういう肩書きをしていたかは問題にされません。

特定の教義を擁護しても何にもなりません。評価されるのはただ一つ───地上生活において内部の霊性をどれだけ発揮したかです。


(10)この大宇宙を開闢(カイビャク)させた力、物的身体に生命の息吹を与えた神、全天体、全法則の統治者である大霊、千変万化の生命活動となって顕現している霊、人類の全歴史を通じて各時代ごとにさまざまな予言者や霊媒を通して真理を啓示してきた父なる神、すべての生命に宿り、すべての生命の背後に存在する大エネルギー、

それほどの偉大な存在が、牧師が数滴の水を新生児に垂らしたからといって喜び、垂らしていないからといって困った思いをなさることはありません。


(11)大切なのは各自の良心に恥じない生き方をするかどうかということです。赤ん坊のからだに水を二、三滴振りかけたからといって摂理がごまかされるものではありません。原因があって結果が生じる───この法則は変えられないのです。



(12)洗礼によって魂は少しも影響を受けません。他人が代わって魂を成長させることはできないのです。地上生活を生きていく、その生き方によって自分で成長させなくてはいけません。

間違った行為による報いは他人によって取り払ってもらうわけにはまいりません。それを償うに足る行為と、その過ちがもたらす苦しみに耐えることによって、自ら処理していくほかはありません。


(13)新たに法則をこしらえる必要が生じることは決してありません。全法則が用意されているからです。宇宙の経綸にとって必要なものは今も全て存在しますし、これまでも存在しましたし、これから先も間違いなく存在し続けます。大霊は全知全能ですから、あらゆる存在の相に必要なものは全て予期しておられます。


(14)摂理は完全であり、自動的に作動します。誰一人それから逃れられる人はいません。自由意志も摂理の中に組み込まれております。その働きは一定の進化の段階まで到達すると分かるようになります。


(15)あなたは個性を築き魂の進化を促進するためにこの物質界へ来ているのです。利己主義の道を選べば、それなりの代償を払わないといけません。

人道主義の道を選べば、人間的成長という形での報いがあります。そうしたことはすべて摂理のもとに規制されており、いかに立派な教祖様でもその働きを変えることはできません。


(16)身分、職業、血筋、地位や肩書、肌の色や国家の別、こうしたものには一切かかわりなく、人間のすべてに〝人のために役立つことをするチャンス〟が用意されています。それを怠ると、それだけの代償を払わされます。その摂理には誰ひとり干渉することはできません。イエスも言っております───〝蒔いた種は自分で刈り取らねばならない〟と。


(17)当然のことながら過去は今体験している結果の原因をこしらえたわけですが、その結果に対する現在の対処の仕方が、代わって将来の結果を生み出す原因となるわけです。ですから、今こそ良いタネを蒔くように努力するのです。幼児に説教するようなことを言うようですが、しかし、それが真実なのです。



  シルバーバーチの祈り
 
 ああ、真白き大霊よ。あなたの法則が全宇宙を支えております。あなたは全生命の責任者におわします。あなたの創造なされたものだからでございます。物質の世界の子等にもあなたの神性をお授けになられました。

 あなたは子等をご自身に似せてお造りになられました、その魂にあなたの霊力を植え付けられ、それが子等を永遠にあなたと結び付けております。それは、子等も進化するにつれて、より一層あなたに似た存在となりうることを意味します。

 ああ、神よ。あなたは無窮の過去より全大宇宙を治め、無窮の未来にわたって絶対的な支配者におわします。何となれば、あなたは全生命の始原たる大霊にあらせられるからでございます。

 あなたは全存在を支え、生命の全側面に顕現しておられます。それは物質の世界であろうと、はるか高き次元の霊の世界であろうと、意識ある存在に例外はございません。

 このたび私たちはあなたのお召しにあずかり、あなたの使者として、地上へご意志をもたらし、ご計画を啓示し、それを実らせるべく派遣されました。

 私たちは物質の子等と協調活動の中において彼らがあなたを理解し、彼らみずからを理解し、憎み合いから生まれた組織を愛の組織に置き換え、自己中心主義を互助の精神に置きかえ、戦争を止めさせて平和をもたらし、飢餓に終止符を打たせて、あなたがふんだんに用意されている恵みが平等に行きわたるようにと願っております。

 大いなる神よ。私たちは、片時とはいえ、こうして低き界層にて生活するあなたの子等と交わる時を得て、彼らとの協調的活動によってより大きな仕事を成し遂げ、悩める者を救い、暗闇の中にいる者に光明をもたらし、弱き者に力を与え、病める者を癒やし、人生の嵐の真っ只中にいる者に心の平静をもたらしてあげる仕事に勤しむことができることに深く感謝申し上げます。

 ここはまさに魂の安息所であり光明の聖殿にございます。かくのごとき場を得さしめたまいしことに、われわれは深く感謝し、この場を通じてご意志の一層の支配を行きわたらせるために、それを妨げる障害を取り除かんと努力いたす所存でございます。

 その目的のために私どもは祈り、刻苦し、地上の民に奉仕することによりあなたに奉仕せんと願うものです。
 ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

Sunday, June 28, 2026

シルバー・バーチの霊訓(十二)

 煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編


三章 この世とあの世の係りあい
 
(1)無数の生命の相が互いに融合しあっております。境界線のようなものは存在しません。一方の側に物的なものが存在し、他方の側に霊的なものがあって、それが混ざり合っているのです。原理は無線電信と同じです。無数の波長、無数の振動があるのですが、同じ空間を飛び交っております。

そのうちのどれに反応するかは器機の感度によります。地上の人間は物質の波動の世界に閉じ込められております。物的な波長しか感知できません。霊視能力者はふつうの波長より一段と精妙な波長を感知できる人であり、霊聴能力者は普通の音の波長より一段と精妙な波長を感知できる人です。これも霊媒という器機の感度の問題です。


(2)地上世界は永い間の物質中心の感覚によって粗悪な生活の場となってしまいました。もともと人類は数多くの霊的感覚を使用することができたのです。

内部の霊妙な能力に気づいていたのです。古い記録をご覧になれば、太古にさかのぼるほど超能力が使用されていたことがお分かりになるはずです。それが物質文明の発達とともに次第に委縮し、今日では霊的バイブレーションがキャッチ出来る人はきわめて少数となりました。


(3)死後にも生命は存在します。いわゆる〝故人〟も今なお生き続けております。地上圏へ戻ろうと思えば戻れますし、現に戻っております。しかし、ただそれだけの表面上のことだけでこの問題を片づけてはなりません。

なぜ生き続けることができるのか、どういう過程で甦るのか、新しい生活にとってそれまでの生活はどういう影響を及ぼすのか、地上と霊界とはどういうつながりになっているのか、死の門をくぐったあとにどういう体験をしているか───

地上での言動や思想が向上を促しているか足を引っ張っているか、地上の人間に伝えるべき教訓として何を学んでいるか・・・・・・こうしたことが宗教にも科学にも政治にも経済にも芸術にも国際関係にも影響を及ぼすのです。永い間人類を苦しめてきた問題に新たな光を当てることになるからです。


(4)人間は本質的には地上にいる時からすでに霊的資質や属性のすべてを所有しております。時たまチラリと発現することはあっても、大半は居眠りの状態で潜在しております。ですから、いかなる形式にせよ霊が地上と交信する時は、必然的に霊側が犠牲を強いられてることになります。霊的波動を下げて人間の物的波動に近づけざるを得ないからです。


(5)人類の大半は霊的に高度なものを自らの力で手にすることは不可能です。バイブレーションが余りにもデリケートであり、あまりにも鋭敏であり、余りにも洗練されているために、よくよく鍛錬されたごく少数の霊覚者によってしか捉えられません。

そこで地上との交信には私たちの方から言わば階段を下りなくてはならないわけですが、そうすると当然、霊的な美しさが大きく殺がれてしまいます。


(6)死ぬ時は決して一人で旅立つのではありません。愛でつながった人々が付き添って、何かと面倒を見てくれます。これには例外はありません。影の世界から首尾よく脱け出て新しい素敵な生活に入れるように手引きをする態勢ができております。


(7)向上進化の道は孤独なものです。が、背後にはあなたを絶対に見捨てることのない霊団が付き添っております。魂を鼓舞する力は霊界から送られているのです。すべてのインスピレーションの始源はこちらにあるのです。


(8)肉眼で見ることも肉耳で聞くことも肌で触れてみることもできませんが、背後にはあなたとの地上的縁のある霊、血縁はなくても無私の愛に動かされた霊が控え、援助し、鼓舞し、もっとも生き甲斐のある生き方へと導いてくれております。

 
(9)背後霊にはあなたの困難、問題、願望のすべてが分かっております。又、ここが物質の世界であり、それなりの物的必需品というものがあることも承知しております。あなたが真理に忠実に生きておれば、飢えや渇きに苦しむことはありません。絶対に必要なものは必ず用意されます。


(10)〝聖霊に対する罪〟とは霊力の存在を否定することです。霊力はいつの時代にも地上へもたらされているのです。キリスト教は抽象的には霊力の存在を認めていながら、それが世界中の誰にでも届けられるものであるという話になると否定します。

こうして皆さんとの交わりができるのも霊力のお蔭なのです。ホンのわずかの間とはいえ、物質の世界と霊の世界とが目的において一つに調和することを可能にしてくれる、大霊の力なのです。


(11)〝復活〟は生命の法則の一つです。死の訪れとともに物的身体から離れた魂はすべて復活したことになるのです。キリスト一人の話ではありません。大霊の子のすべてに復活があるのです。

死の関門を通過すると、物的身体を後にして今度は霊的身体に宿って霊の世界で新しい生活を始めるのです。地上生活はすべてそのための準備なのです。


(12)地球が物的世界の一つとして存在を始めた当初から、神の教えを説くための霊が派遣されてきました。そして各民族、各時代の言語でしゃべりました。

その内容の程度もその国、その時代の要請、その民族の成長と発達の程度に即応したものでした。その方法・手段も理解力に応じたもの、高踏的になり過ぎないものが用意されました。


(13)人間は墓場を乗り越えて生き続けます。人間も本来は霊だからです。火葬の炎さえその霊を滅ぼすことはできません。物質の世界はもとより、いえ、霊の世界の何を持ってしても、内部に宿る神性、この世に生を受けることによって賦与された生命の炎を消すことはできません。


(14)いかなる極悪人といえども〝存在〟そのものを失ってしまうことはありません。神性の火花が衰えて微かに明滅する程度になることはあっても、完全に消滅してしまうことはありません。

なぜなら、大霊と結びつけている神性の絆は永遠不滅のものだからです。いかなる霊も二度と甦れないほど堕落することはありません。又いかに高級な霊といえども、その堕落した霊に救いの手を差し伸べるために身を低くすることはできるものです。


(15)魂が開発され霊的波長が高度なものになるにつれて、それだけ高度なエネルギー、大きなエネルギーと接触できるようになります。それは見えるものでもなく聞こえるものでもなく、永遠の霊的実在そのものです。それが生命の実在なのです。

人間は生涯の大部分を影を追い求め、幻を捕えようとし、儚いものを後生大事にしながら生きております。本当は静寂の中において、調和の中において、愛の中においてこそ、あなたの魂は着実に開発するのです。ゆっくりではあっても確実であり、間違いがありません。


(16)物質界の条件が、大きい方の意識で行われていることを小さい方の意識で思い出せなくしているのです。人間は死ぬまでは本当の意味で生きているとは言えないほどです。が、時として霊が物質の次元から離れて霊界からのインスピレーションに触れることがあります。その時、ホンの一瞬ですが言語を絶した無上の法悦に浸ることになります。


(17)睡眠中に暗黒の世界を訪れる人がいることは事実です。それは魂の本性がそこの波長に合っていて自然に引き付けられる場合と、一種の犠牲的奉仕精神から自発的にそういう環境に身を置く場合とがあります。

地上に籍を置く人間の霊的身体を利用することによって暗黒界の霊を救う方法があるのです。聖書にはイエスがいわゆる地獄界へ降りて行く話があります。睡眠中の話ではありませんが、原理は同じです。


(18)邪霊に憑依される人は、みずからそういう条件を内部でこしらえています。あくまでもその人個人の問題です。愛と奉仕の精神に燃えた人に高級霊が引き寄せられるのと原理は同じです。

法則は良いことばかりに働くのではありません。崇高な目的に作用する法則が悪い方向に作用することもあります。問題はあなたがどういう心掛けでいるかに掛かっております。


(19)地上の人間は現実界と霊界とのつながりについての理解ができておりません。光り輝く高級霊からのインスピレーションに触れることができると同時に、ふとしたことから無知な低級霊のなすがままになっていることもあります。いずれの場合も同じ摂理の働きなのです。


(20)皆さんは過去の偉人のことを過ぎ去ったこととしか考えませんが、その人たちはその後も同じ情熱を地上の同胞に対して抱き続け、今なお活躍しているのです。




  シルバーバーチの祈り

 ああ、大いなる神よ。あなたは生命の息吹におわします、全生命の背後の摂理におわします。森羅万象の大中心におわします。万事を賢明(ヨキ)に計らわれる大霊におわします。

 あなたは完全なる愛にあらせられ、完全なる叡智にあらせられ、完全なる公正にあらせられます。この全大宇宙として顕現なされた完全なる摂理にあらせられます。

 過去においてもあなたは、物質の靄にさえぎられることなく霊的波長を捉えることのできた者に、御身についての啓示を与え給いました。物質の次元を突き抜けて霊の次元へと高揚できる者に、あなたはその大いなる愛を顕現なさっておられます。

 あなたは今の時代に霊の道具を絶えず感化なさっておられるごとくに、太古においてもその時代にふさわしい賢者を感化なされました。あなたはいつの時代にもふんだんにインスピレーションを啓示され、人間の心を通してあなたの愛を顕現なさらんとしておられます。

それは、ひとえに、子等にとってあなたがいかに身近な存在であるかを理解せしめんとする配慮にほかなりませぬ。

 ああ、神よ。あなたはこの全大宇宙を造られた大霊におわします。極大なるものの中の極大、極小なるものの中の極小を創造なされました。そして物質の世界に人類なる存在を生みつけられ、その一人ひとりにあなたの霊性の一部を賦与されました。それはあなたとの不変・絶対の絆であり、人間が地上生活のいかなる困難をも克服する力を有することを意味します。

 またあなたは、内在するその霊性を顕現させ、地上におけるあなたの計画を促進する手助けをさせるために、人間にもあなたの創造活動に参加する能力をお授けになりました。

 さらにあなたは、地上の道具としての人間があなたの愛、あなたの叡智、あなたの力、あなたの意図を受けとめんと努力する時は、いずこであろうとあなたの使者をつかわして守護と指導に当たらしめ、鼓舞し高揚して、あなたの摂理をいっそう正しく地上に行きわたらしめんとなさいます。

 ここに集える私どもは、ここを拠点として絶望の淵にいる人、悲しみに暮れる人には新たなる希望と慰めを見出させ、人生に疲れた人には新たな力を見出させ、生きる意欲を失った人には新たな憧れを抱かせ、涙を浮かべている人には、生命に死はなく死後も永遠に生き続けるとの知識に喜びを見出させてあげることにより、あなたのお役に立ちたいと願う者たちでございます。

 願わくは、ああ神よ、地上の子等を少しでもあなたに近づけるためにみずから物質界へ降りて活躍する者と、霊の世界より働きかけている者との協力によって、あなたの愛が地上に根づくのを妨げんとする諸悪の全てを取り除かしめたまわんことを。

 ここに、他の同志とともに、あなたの子等に奉仕することによってあなたに奉仕せんとするインディアンの祈りを捧げます。
        

シルバー・バーチの霊訓(十二)

 煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編


 
二章 人間・死・死後の世界 

(1)人間は身体と精神と霊の三つの要素が一体となったものです。一個の自我に三つの側面があるということです。その三者が調和よく機能している状態が健康です。


(2)人間が〝死〟と呼んでいるのは物的身体が物を言わなくなる現象です。用事が終わって霊との縁が切れ、元の大地へ戻っていくのですが、往々にしてそれが、霊に十分な準備が整っていないうちに起きるのです。

それはともかくとして、霊は肉体という牢から解放されて、それよりはるかに精妙な構造をした霊的身体で自我を表現することになります。地上では眠っていた霊的感覚が発揮されはじめると、その活動範囲も飛躍的に広がります。


(3)宇宙はたった一つで、その中に無数の生活の場があります。生命は一つです。ただそれには無数の進化の段階があるということです。そうした霊的事実を説明しようとすると言語の不自由さが立ちはだかります。

とは言え、このぎこちない不適切な記号を使用せざるを得ず、結果的には真相がうまく伝えられないということになります。生命は一つです。宇宙は一つです。境界線というものは存在しません。国境というものはありません。死んで行った人も相変わらず同じこの宇宙で生き続けているのです。

ただ地上とは異なるバイブレーションの世界、異なる意識の段階で生活しているというだけです。霊も、あなたの目には見えなくても同じ地上にいると考えてもよいのです。それはちょうど、あなたもご自分では気づかなくても、私と同じ霊界にいると考えてもよいのと同じです。


(4)あなたは物質の世界に生きているために、とかく生命活動を物的なものとして考えがちです。しかし生命の本質は物的なものではありません。生命の基盤は非物質的なものです。物質をいくら分析しても生命の起源は見つかりません。

あなたという存在は物質ではありません。身体は物質でできています。しかし本当のあなたは、触れることも見ることも感知することも聴くこともできません。真実のあなたは〝霊〟なのです。


(5)あなたの行為、あなたの活動、あなたの思念、要するにあなたの生活そのものがあなたという実在を形成していくのです。その実在は肉眼では見えませんが、〝死〟の過程をへて肉体と永遠に訣別した瞬間から、それがまる裸にされます。それ以上に立派に見せることもできませんし、それ以下に惨めに見られることもありません。

地上生活によって形成された性格をそっくり携えて行くのです。平凡な日常生活の中で培われた霊的資質こそあなたの永遠の財産となるのです。


(6)死後あなたが赴く界層は地上で培われた霊性にふさわしいところです。使命を帯びて一時的に低い界層に降りることはあっても、降りてみたいという気にはなりません。と言ってそれより高い界層へは行こうにも行けません。

感応する波長が地上で培われた霊性によって一定しており、それ以上のものは感知できないからです。結局あなたが接触するのは同じレベルの霊性、同じ精神構造の者にかぎられるわけです。


(7)霊界へ来て何年になるとか、地上で何歳の時に死んだといったことは何の関係もありません。すべては霊性の発達程度によって決まることです。そこが地上世界と霊界との大きな違いです。

地上ではみんなが同じ平面上で生活し、精神的にもまったく異なる人々と交りますが、こちらへ来ると、あなたが交わる相手は霊的に同質・同等の人ばかりです。立派な音楽家の曲が聞けないという意味ではなく、生活の範囲がほぼ同等の霊格の者に限られるということです。そこには親和力の法則という絶対に狂うことのない法則が働いております。


(8)人間は物的身体という牢の中で生活しています。その牢には小さな隙き間が五つあるだけです。それが五感です。皆さんはその身体のまわりで無数の現象が起きていても、その目に見え、その耳に聞こえ、その肌に触れ、その舌で味わい、その鼻で嗅いだもの以外の存在は確認できません。

ですが実際にはその身体のまわりで無数の生命活動が営まれているのです。見えないから存在しないと思ってはいけません。人間の五感では感知できないというに過ぎません。


(9)こちらへ来た当初は霊的環境に戸惑いを感じます。十分な用意ができていなかったからです。そこで当然の成り行きとして地上的な引力に引きずられて戻ってきます。しばらくは懐かしい環境───我が家・仕事場など───をうろつきます。

そして大ていは自分がいわゆる〝死者〟であることを自覚していないために、そこにいる人たちが自分の存在に気付いてくれないこと、物体に触っても何の感触もないことに戸惑い、わけが分からなくなります。しかしそれも当分の間の話です。やがて自覚の芽生えとともに別の意識の世界にいるのだということを理解します。


(10)死んで間もない段階では地上にいた時と少しも変わりません。肉体を捨てたというだけのことです。個性は同じです。性格も変わっておりません。習性も特徴も性癖もそっくりそのままです。利己的な人は相変わらず利己的です。欲深い人間は相変わらず欲深です。

無知な人は相変わらず無知のままです。落ち込んでいた人は相変わらず落ち込んだままです。しかし、その内霊的覚醒の過程が始まります。いわゆる〝復活〟です。


(11)死後の環境は地上時代の魂の成長度によって決まります。たとえば霊の世界では行きたいと思うだけでその場へ行けますが、その行動範囲にはおのずと霊格による限界があります。


(12)あなたは今その地上にある時から立派に霊的存在です。死んでから霊的存在になるのではありません。霊的身体は死んでから与えられるものではありません。死は肉体の牢獄からあなたを解放するだけです。それはあたかもカゴの中の鳥が放たれるのと同じです。


(13)人間は肉体をたずさえた霊であって、霊をたずさえた肉体ではありません。肉体は霊が宿っているからこそ存在し得ているのです。それは神の火花であり、すべての存在に内在しており、全ての生命を通して顕現しているのです。


(14)地上というところは内部の魂が芽を出し開眼し発達して、肉体の死後に始まる次の段階の生活に耐えられるだけの霊力をつける、その為の体験を得る場所です。


(15)地上は幼児の学校であり、こちらは大人の学校です。地上では神から授かっている霊的資質を少しでも多く発揮するように、精神を修養し霊性を鍛錬して他人のために役立つことをする、その練習をしているのです。


(16)人間は例外なく心霊的能力をそなえております。これは大へん大きな意味を持っております。歴史を勉強なされば、この事実は世界のすべての宗教の起源に結びついている基本的真理であることを理解なさるはずです。偉大な宗教家の教えの中には必ずそのことが述べられています。みな同じ始原からのインスピレーションを受けているのですから当然のことです。

人間は成就すべき霊的宿命を持った霊的存在であること、死後に待ちうけるより大きな生命活動にそなえるためにこの地上に来ていること、そして死ぬ時には地上でみずからの力で身に付けた愛、自ら築いた性格、自ら開発した霊的才覚をたずさえて行くということを異口同音に説いております。これこそがすべての宗教の中心的教えではないでしょうか。

しかもそれがすべての宗教において、一つの例外もなく忘れ去られていることも事実ではないでしょうか。膨大な量の教義、神学、教条主義、宗教とは何の関係もない、あるいは宗教として何の価値もない、人間的思考の産物によって置き代えられているのです。


(17)厳密に言えば霊は身体に宿る という言い方は適切ではありません。霊と身体とは波長の異なる存在だからです。本当のあなたは体内にいるのではありません。心臓と肺の間に小さく縮こまっているのではありません。地上で生活するためにこしらえられた物的装置を通して自我を表現している〝意識〟です。


(18)実際には人間のすべてが睡眠中にこちらの世界へ来ております。それは神の配慮の一つで、いよいよこちらへ来た時に環境の違いによってショックを受けないように、未来の環境に慣れさせておくのです。ちょうど子供時代を過ごした土地へ来るとその頃の思い出が甦ってくるように、睡眠中に訪れていた環境の記憶が甦ってきます。


(19)睡眠というのは物的身体の操作から霊的身体の操作へとスイッチが切り替わることであり、その意味で、その間は霊の世界にいるわけです。その睡眠中の身体に別の霊が入ってくる心配はありません。あなたがドアを開けっ放しにして出て行ったあと、誰かがノコノコと入ってきてドアを閉めてしまうというような図を想像してはいけません。

そういうものではありません。物的身体は相変わらずあなたの管理下にあります。ただ意識の焦点が別の次元に移っているというだけであって、やがて朝になれば意識が戻ります。


(20)衝撃などで昏睡状態に陥った場合は、霊と身体との正常な関係が破られているわけです。睡眠の場合は朝になれば霊がそういうものと自覚してバイブレーションを落として身体に戻る用意をします。それが正常な関係ですが、昏睡状態の場合は無理やりに身体機能から離され、しかもその機能が破壊されているために、戻ろうにも戻れないのです。


(21)オーラは身体から出るさまざまな放射物によって構成されています。実際には無数のオーラがあるのですが、地上界でオーラと言う時は肉体と霊体を包んでいるオーラのことです。あらゆる存在物にオーラがあります。意識を持たない物にもオーラはあります。

  
(22)人間のオーラには身体の状態と精神の状態が反映しますので複雑な波動を出しております。オーラを霊視しその意味が読み取れる人には、その人物の秘密がすべて分かります。

言ってみれば一冊の書物のページが開かれているようなものです。思ったこと、行ったことのすべてが記録されています。外見をどう繕っても、オーラには本当のあなたがありのままに表れています。


(23)パーソナリティとインディビジュアリティは違います。マスクを意味する〝パーソナ〟を語源とするパーソナリティは物的身体との関係で派生する地上だけの人物像です。

つまり本来の自我であるインディビジュアリティが五感を通して地上で自我を表現しようとしている側面であり、自我の全体を氷山にたとえれば、海面上に出ているホンの一部にすぎません。


(24)インディビジュアリティはパーソナリティよりはるかに大きな存在です。肉体の死後に生き続けるのはパーソナリティではありません。インディビジュアリティを太陽にたとえれば、パーソナリティはその太陽が作り出した影ほどの存在です。死後、インディビジュアリティは地上では表現できなかった潜在的資質を徐々に発揮していきます。


(25)発達にも二種類あることを知らないといけません。精神に係わるものと霊に係わるものです。前者は心霊的能力の発達に過ぎませんが、後者は魂の成長そのものです。

心霊能力が発揮されても魂の成長が伴わなければ、低いバイブレーションの仕事しかできません。両者がうまく組み合わさった時は、優れた霊能者であると同時に偉大な人格を具えた人物となります。



  シルバーバーチの祈り

 大いなる神よ。無限なるあなたの奇しき摂理が私たちすべての存在を維持せしめております。あなたの愛が私たちのすべてを包摂しております。あなたの叡智が私たちのすべてを導いております。あなたの霊力が私たちのすべてを支えております。あなたの知識がよろめきがちな私たちの足元を照らしてくださっております。
 
 あなたについて、また霊の世界と、それよりさらに小さき物質の世界に顕現されているあなたの御姿についてこれまで啓示して下さった知識に対して、私たちは深く感謝申し上げます。

あなたの完璧なる摂理、すべてを支え、すべてを包摂し、何一つ落度もなく、片時も休むこともなく、全大宇宙とその中での生命活動の一つ一つに配剤されている完璧な律動(リズム)に感謝の念を捧げます。

 ああ、神よ。忝(カタジケナ)くもあなたは、いつの時代にも御身について時代相応の啓示をお授け下さっております。そのための使者として、あなたによって物質圏の世界へ派遣され、子等の霊性を鼓舞し、霊的真理へ目を開かしめんと努力してきた有志の僕に対して、深甚なる感謝を捧げます。

あなたの意図されている生命の豊かさを存分に発揮した生活を送るには、霊的真理の理解をおいて他に道はございません。

 ああ、神よ。あなたの叡智の無限性、あなたの知識の崇高性、あなたの真理の永遠性を理解できる者はおりません。地球の全時代の叡智を集めても、あなたには敵いません。

いかなる人物にもあなたの威力は理解できません。私たちを生かしめ機能せしめている内部の霊性は人間の知性を超えたものであり、その大きさも、その深さも計ることはできません。

 あなたから授かった霊的生命に感謝いたします。それが私たち子等を互いに結び付け、一個の霊的家族としております。霊と霊、心と心、精神と精神、愛と愛のつながりにおいて、死の淵さえ超えて一体ならしめているのでございます。

 また私たちは、有難くもかつて地上を旅した霊たちと幾重にもつながっており、さらにその奥にはあなたを中心とする、物質の束縛から完全に解放された神庁の大組織が存在しているのでございます。

 大いなる神よ。私たちはあなたの霊力の恩寵の豊かさを身を持って感じ、あなたとのつながりが永遠であるからには、あなたの叡智、あなたの霊力を少しでも多くいただくために、みずからの霊性を少しでも高めんとして祈るものです。

この祈りが霊的なものへの意識を維持せしめ、永遠の霊的真理の理解を助け、より一層あなたの御心に適った生き方を可能にするのでございます。