Monday, March 30, 2026

霊の書(1部 ) アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book
スピリチュアリズムの真髄「思想編」
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



4章 生命素

このページの目次〈有機物と無機物〉
〈生と死〉
〈知性と本能〉


〈有機物と無機物〉

――物質の原素を合体させる力は有機物の場合も無機物の場合も同じものですか。


「同じものです。親和性の法則は全てに同じです」


――有機物と無機物とではどこが違うのでしょうか。


「物質でできている点は双方とも同じです。が、有機物においてはその物質が活性化されています」


――その活性化の原因は何でしょうか。


「生命素との一体化です」


――その生命素は何か特殊な作用因子の中に存在するのでしょうか、それとも組織をもつ物体の一要素にすぎないのでしょうか。つまり、それは原因なのか結果なのかということです。


「両方です。生命というのは物質へのある因子の働きかけによって生じた結果です。しかしこの因子も、物質がなければ生命を生み出すことはできませんし、物質もこの因子の働きかけなしには活性化されません。生命素はそれを受け止めて一体化するものに生命を賦与するということです」


――これまで私は霊と物質が宇宙の二大主要構成要素であると思っておりました。この生命素は第三の要素なのでしょうか。


「宇宙を構成する不可欠の要素の一つであることは論をまちません。しかし、その源は普遍的物質の変化にあります。その目的に即して変化したものです。人間にとっては酸素や水素と同じく原素ですが、究極の要素ではありません。人間に知られている原素は全て、究極の原素のように思えても実質は基本的流動体の変化したものです」


――今のご説明ですと、活力というのはそれ自体が独立した因子ではなく、普遍的流動体の特殊な要素で、それがある種の変化を遂げたものということになりそうですが……


「その通りです。これまで述べたことを結論づければ当然そうなります」


――その生命素は人間に知られているあらゆる物体に内在しているのでしょうか。


「その源は普遍的流動体にあります。いわゆる磁気流とか電流と呼ばれているものが活性化されたものです。霊と物質との中間的存在です」


――生命素は有機的存在の全てに共通したものでしょうか。


「同じものですが、種によって変化が加えられています。動きと活動の原動力となっているのがその生命素で、その点がただの物質とは異なるところです。物質も動きますが、自発的な動きではありません。物質は動かされるもので、動きを生み出すことはありません」


――活力はその生命素の不変の属性なのでしょうか、それともその活力を生み出している器官の働きによるのでしょうか。


「活力は生命素が物体とつながることによって初めて生じます。さきほどこの因子(生命素)は物質がなければ生命を生み出せないと申し上げたはずです。生命の生産には両者の合体が必要です」


――生命因子が物体と合流しないうちは活力は潜在状態にあると考えてよろしいでしょうか。


「その通りです」
〈生と死〉


――有機体の死の原因は何でしょうか。


「器官の活力の枯渇です」


――その死を機械が故障して動きが止まった状態になぞらえるのは正しいでしょうか。


「いいでしょう。機械が故障すれば動きが止まります。身体が病に冒されれば生命は引っ込みます」


――心臓病による死亡率が他の臓器よりも高いのはなぜでしょうか。


「心臓は生命を生み出す器官です。ですが死をもたらすのは必ずしも心臓の病気だけではないでしょう。心臓は身体という機械を動かす必須の機関の一つにすぎません」


――有機体の身体と生命素は死後どうなるのでしょうか。


「身体は分解して新しい物体の構成要素として使用されます。生命素は普遍的流動体の海の中へ帰ります」
〈知性と本能〉


――知性は生命素の属性ですか。


「違います。その証拠に、植物は生命を有しながら思考力はありません。有機的生命を有するのみです。知性と物質との間には何の依存性もありません。ただし、物体は知性がなくても存在できますが、知性は物的器官を通じないと意思表示ができません。活性化された物質(肉体)が霊と一体となって初めて知的活動が可能となります」


編者注――それゆえ地上の存在物は三つに大別できる。第一は、物質のみの不活性の存在で、生命も知性もない、無機物の世界。第二は、物質でできた身体と活力を有するが、知性を持たない、動植物の世界。そして第三が活力ある身体と、思考力を生み出す知的原理をそなえた人類。


――知性の始源は何でしょうか。


「普遍的知性です」


――こういう定義はいかがでしょうか。すなわち、知的存在は各自が普遍的始源から知性の一部を引き寄せ、引き寄せつつ吸収し、同時に生命素も吸収する、と。


「そういう定義はおよそ真相から離れています。知性というのは各自その分に応じて授けられる能力で、精神的個性の一部を形成するものです。

さらに言わせていただけば、宇宙には人間に絶対理解できないことがいろいろあります。知性の始源も、現段階の人類にとっては、その中に入ります」


――本能というのは知性とは何の関係もないのでしょうか。


「そう明確に断定することはできません。と言うのは、本能も知性の一種であることには違いないからです。本能は言わば論理的思考力をもたない知性です。進化の階梯の低い段階にある存在は、この本能によって必要性を満たします」


――知性と本能との違いを一線で画すことはできますでしょうか。つまり、ここまでが本能でここからが知性、という具合に。


「できません。双方が混じり合っていることがよくあります。しかし、本能から出た行為と知性から出た行為とは明確に見分けることができます」


――知的能力の発達とともに本能が退化すると考えてよいでしょうか。


「それは違います。本能は本能として存在しつづけます。人間がそれを軽視しているだけです。本能も理性と同じように正しい方向へ導いてくれることがあります。その導きはまず間違いなく感得できるものです。時には理性的判断よりも確かなことがあります。決して脱線することはありません」


――なぜ理性的判断が必ずしも頼りにならないのでしょうか。


「間違った教育、自惚れ、私利私欲によって歪められさえしなければ理性は正しい判断を下します。本能は論理を超えて直覚的に判断を下します。理性は常に選択の余地を残し、人間に自由意志を与えます」

シルバー・バーチの霊訓 (一)

 Guidance from Silver Birch

Edited by Anne Dooley



第十二章  シルバーバーチの祈り

 ハンネン・スワッハー・ホームサークル、すなわちシルバーバーチ交霊会はきまってシルバーバーチの祈りの言葉で始まり、終わりも必ずシルバーバーチの祈りの言葉で締めくくられる。祈りの内容は大同小異であるが、その表現は一つひとつ違い、出席者はその妙味に感嘆させられるのが常である。その中から典型的なものを紹介する。

 神よ───天地の創造主、至尊至高の絶対的な力、全存在の宿命の統括者にまします神よ、私たちはこれまであなたの得さしめ給いし全てのものに対して深甚なる感謝の意を表明いたします。

 私たちの為に暗き道を明るく照らし給いしその光、あなたを、そして私たち自らをより深く理解させて下さったその知識、そして私たちを栄光と光輝とによりて温かく包んでくださったその叡智に対して深く感謝いたします。

 私がこうして存在することの真の理由、宇宙人生の背後に秘められた真の目的を啓示され給い、日夜私たちをお導きくださるその愛に深く感謝いたします。

 また、私たちのために真理普及の道を切り開いて下さった先達の数々、地ならしをして下さった開拓者の数々、悪戦苦闘した改革者たち、その他、宗教家、哲学者、賢聖 ───そのうちのある者は地上にては名も知られず、死して漸くその偉大さを認められ、あるいは死後もなおその偉大さを気づかれずにおりますが、こうした人々の全てに対しても深い感謝の念を禁じ得ません。

 これまでにあなたより授けられた恩寵に対し厚く御礼申し上げます。皆々と共に感謝の言葉を捧げるとともに、代わりて私たちがあなたの御力の通路となり、あなたの御計画推進の一翼を担い、御子たちのために役立つことができますよう導き給わんことを。

 ここに、ひたすら人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。


 (注釈──祈りの初めあるいは途中で神に呼びかける時、シルバーバーチは必ず Great White Spirit という言い方をします。普段の霊言の中では神のことを Great Spirit ── 時に God──と言っており、これを文字通りに訳せば〝大霊〟ということになります。

われわれ一人ひとりが〝霊〟で、その生みの親である神を〝大霊〟というのは理屈では分かりますが、これでは日本人にとって古来〝神〟という文字およびそれを口にした時の響きから受ける崇敬の念が感じ取れません。そこで私はこれまで、ある時は神と訳しある時は大霊と訳したりしましたが、

これにさらに White という形容詞が付くと、もはや日本語では訳せなくなります。と言うのは、シルバーバーチはホワイトという用語を〝無色〟の意味で用い、それによって〝無垢〟を象徴させているのですが、英語ではそれで良いとしても、これを〝白い〟とか〝白色の〟とか〝無色の〟とかの日本語に直すと、日本語特有の感覚的な〝味〟が強く出て理解の妨げになります。

 その点、カミと言う言葉は、言霊的にみても響きの上からもシルバーバーチの説く God あるいは Great spirit とぴったりであるとの考えから、私は祈りの冒頭の Great White Spirit もあっさりと〝神〟と訳しました。

 また、シルバーバーチは祈りの最後に必ず〝あなたの僕インディアン〟your Indian servant と言うのですが、このインディアンがシルバーバーチ霊その人でないことは「まえがき」で編者がハンネン・スワッハーの言葉を引用して解説しています。

しかしこのインディアンの霊も紀元前の古代霊であり、神界 ── 少なくとも地球圏の最高界 ── の波長を受信できるほど進化した高級霊であることは間違いありません。

霊界の霊媒として元インディアンだった霊を使ったことには、インディアンが民族的に心霊能力が優れていることも理由の一つでしょうが、私は、これまで白人中心の文明思想に毒されてきている地球人類への戒めが込められていると観ております。それはシリーズを読み通していただけば、きっと読み取っていただけるものと思います。)



 訳者あとがき 

 本書はハンネン・スワッハー・ホームサークルのメンバーの一人アン・ドゥーリー女史が編纂した Guidance from Silver Birch(シルバーバーチの導き)の全訳である。

 巻頭で紹介したように、霊言集は十一冊あり、一冊一冊に編纂者の特色が出ていて興味ぶかい。交霊会は開会の祈り──講話──質疑応答──閉会の祈りというパターンになっているが、その質疑応答は主に招待客との間で行われるから、そのつど新鮮味があり、シルバーバーチも巧みに質問者に合った説明をするので聞く者を退屈させない。

その相手が著名な学者であることもあれば、心霊研究家や心霊治療家であることもあり、青年牧師である場合もあれば、幼い子供たちであることもあり、それが霊訓の内容を多彩なものにしている。

 本書に収められたのは大部分が講話の部分であり、質疑応答も割に平凡なものを一つの章にまとめており、全体としてみればシルバーバーチ霊訓のエキスのようなものになっている。『古代霊は語る』を読まれた方には少し物足らなさを感じられるかもしれないが、シリーズである以上は全体としてのバランスを考えねばならず、その意味で、本書は初めての方にとって格好の〝入門書〟であるとみて選んだ。

巻末の「霊的啓示の系譜」はこれに物足らなさを感じられる方への配慮と受け取っていただきたい。              
                                近藤 千雄
                           

  
  解説  霊的啓示の系譜

 歴史的に辿れば、人類全体としての啓発に寄与するほどの霊的啓示は、各民族個有の宗教の起源となった聖典に求めることができよう。モーセの「十戒」、キリスト教のバイブル、イスラム教のコーラン、仏教の原初仏典、日本の古神道の原典等がその主だったものと言えよう。

 これらの中でも日本の古神道いわゆる神ながらの道の思想は人工的夾雑物が少なく、自然で、最もスピリチュアリズム的要素に富んでいるというのが、長年各種の霊界通信に親しんできた筆者の私見であるが、問題はいかなる啓示もその起源においては霊的であっても、時代とともに人間的主観によって歪められていくということである。

 〝スピリチュアリズムのバイブル〟と呼ばれて今なお欧米においてロングセラーを続けるモーゼスの『霊訓』の中で、イムペレーターと名のる最高指導霊(実は旧約聖書に出て来る預言者マラキ)がこう述べている。

 「・・・・・聖書(バイブル)に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がある。彼らは地上にありては真理と進歩の光として輝き、地上を去りて後は後継者を通じて啓示をもたらしてきた。

その一人──神が人間に直接的に働きかけるものとの信仰が今より強く支配せる初期の時代の一人にサレム(現在のパレスチナの西部にあった古代都市)の王メルキゼデクがいる。

彼はアブラハムを聖別(聖なる目的に使用するために世俗より離す)して神の恩寵の象徴による印章を譲ったのだった。これはアブラハムが霊力の媒体として選ばれたことを意味する。当時においてはまだ霊との交わりの信仰が残っていたのである。彼は民にとりては暗闇に輝く光であり、神にとりては民のために送りし神託の代弁者であった。

 ここで今まさに啓発の門出に立つ汝に注意しておくが、太古の記録を吟味するに当たりては事実の記録と単なる信仰の表現にすぎぬものとを截然と区別せねばならぬ。初期の時代の歴史には辻褄の合わぬ言説が豊富に見受けられる。

それらは伝えられるがごとき秀でた人物の著作によるものではなく、歴史が伝説と混じり合い、単なる世間の考えと信仰とがまことしやかに語り継がれし時代の伝説的信仰の寄せ集めに過ぎぬ。

それ故、たしかに汝らの聖書と同じくその中に幾ばくかの事実はなきにしもあらずであるが、その言語の一つひとつに無条件の信頼を置くことは用心せねばならぬ。」

 こう述べた後、キリスト教を例にしてその啓示の系譜を明らかにする。

 「メルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者──イスラエルの民をエジプトより救出し、独自の律法と政体を確立せる指導者──モーセを導いた。


霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強力なる人物であった。当時すでに、当時としては最高の学派において優れた知的叡智、エジプト秘伝の叡智が発達していた。人を引きつける彼の強烈なる意志が、支配者としての地位にふさわしき人物とした。

その彼を通じて強力なる霊団がユダヤの民に働きかけ、それがさらに世界各地へと広がっていった。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成させ、政治的体制を入念に確立し、法律と規律を制定した。

その時代はユダヤ民族にとりては、他の民族も同様に体験せる段階、そして現代も重大なる類似性を持つ段階、すなわち古きものが消えゆき、霊的創造力によりて全てのものが装いを新たにする。霊的真理の発達段階であった。

 ここでもまた、推理を誤ってはならぬ。モーセの制定する律法は汝らの説教者たちの説くがごとき、いつの時代にも適応さるべき普遍絶対のものにはあらず。その遠き古き時代に適応せるものが授けられたのである。

すなわち当時の人間の真理の理解力の程度に応じたものが、いつの時代にもそうであった如く、神の使途によりて霊的能力に富む者を介して授けられたのである。

      (中 略)

 今日なお存続せるかの「十戒」は変転きまわりなき時代のために説かれた、真理の一面にすぎぬ。もとより、そこに説かれたる人間的行為の規範は、その精神においては真実である。が、すでにその段階を超えたる者に字句どおりに当てはめるべきものにはあらず。かの十戒はイスラエルの騒乱から逃れ、地上的煩悩の影響に超然たるシナイ山の頂上において、モーセの背後霊団より授けられたのであった。

(中 略)

 メルキゼデクがモーセの指導霊となりたるごとく、そのモーセも死後エリヤの指導霊として永く後世に影響を及ぼした。断わっておくが、今われらはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示さんが為に他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。

またその巨大な流れの中には数多くの優れたる霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最小限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去りたる後もなお地上へ影響を及ぼし続けている事実を強く指摘せんとしているのである。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。

がそれは今の汝にはかかわりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大な潮流こそ汝にとりて最大の関心事であろう。もっとも、それをもって真理の独占的所有権を主張するが如き、愚かにして狭隘(きょうあい)なる宗閥心だけは棄ててもらわねばならぬ。」 

 さてスピリチュアリズムは、人間が知性の飛躍的発達とともに霊的なものに背を向け、物質文明へ向けて急旋回し始めた十九世紀半ば頃勃興し、今日までに数多くの珠玉の霊的啓示を入手することに成功している。その代表的なものが右に紹介した『霊訓』並びに『続霊訓』であり、マイヤースの『永遠の大道』並びに『個人的存在の彼方』であり、

オーエンの『ベールの彼方の生活』であり、フランス人アラン・カルデックの編纂になる『霊の書』並びに『霊媒の書』であり、そしてこの『シルバーバーチの霊訓』全十一巻である。

 以上は比較的長文のものを拾ったまでで、小冊子程度のものまで数えれば、それこそ枚挙にいとまがないほどであり、内容的に貴重なものも少なくない。

もっと言えば、立派な通信を入手しながら、さまざまな事情から公表をあきらめたものもあるであろう。筆者がそう推測する根拠は、オーエンが『ベールの彼方』を刊行するまでの経緯にある。その「まえがき」の中でこう述べている。

 「さて〝聖職者というものは何でもすぐに信じてしまう〟というのが世間一般の通念であるらしい。なるほど〝信仰〟というものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかもしれない。

が、私は声を大にして断言しておくが、新しい真理を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。

ちなみに私が本通信を〝信じるに足るもの〟と認めるまでにちょうど四分の一世紀を費やしている。すなわち、確かに霊界通信というものが実際に存在することを認めるのに十年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適っていることを明確に得心するのに十五年もかかった。」

 国教会の牧師だったオーエンはこれを出版したことで教会長老の怒りをかい〝回心〟を求められたが頑として聞きいれず自ら辞職している。可能性としては身の保全のためにそれを公表せずに焼却処分にすることも有り得たわけであり、現実にそうしたケースが他にいくつもあったであろうことは十分に推測される。

 さて『霊訓』の一節に人類の進歩とともに啓示の内容も進歩するという件りがあるが、右に紹介した霊界通信に絞ってみてもそれがうかがえる。例えば『霊訓』の中においては〝再生〟の問題は一切見当たらず、モーセの死後に編纂された『続霊訓』の中に僅かに散見される程度である。この続編はモーセの恩師であるスピーア夫人が審神者となって得た霊言を主体に収録されているが、その中に次のような箇所がある。

 「霊魂の再生の問題はよくよく進化せる高級霊のみが論ずることの出来る問題である。大神のご臨席のもとに神庁において行われる神々の協議の中身につきては、神庁の下層部の者にすら知ることを得ぬ。正直に申して、人間にとりて深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが霊魂の究極の運命である。

神庁において神議(はかり)に議られしのちに、一個の霊が再び地上へ肉体を持って生まれるべしと判断されるか〝否〟と判断されるかは、誰にも分からぬ。誰にも知り得ぬのである。守護霊さえ知り得ぬのである。すべては良きに計らわれるであろう。

 すでに述べたごとく、地上にて広く喧伝されている形での再生は真実にはあらず。また偉大なる霊が崇高なる使命と目的とをもちて地上に降り人間と共に生活を送ることはある。他にもわれわれなりの配慮により広言を避けている一面もある。

まだその機が熟していないからである。霊なら全ての神秘に通じていると思ってはならぬ。そう広言する霊は自ら己れの虚偽性の証拠を提供しているに他ならぬ。」

 これはイムペレーターの霊言である。末尾の〝他にもわれらなりの配慮により云々…〟という言葉からうかがえるように、再生は〝あるにはある〟といった程度に止めている。

 これがほぼ半世紀後に出たシルバーバーチになると、再生を魂の向上進化の絶対的条件として前面に押し出し、〝人間の言語ではその真相はうまく伝えられないが・・・〟と断りつつも、その目的と意義を繰り返し説いている。

本書(アン・ドゥリー編)では再生に関する具体的な霊言は採録されておらず、僅かに第十章の「質問に答える」の中で簡単に触れているだけであるが、他の十巻の全部で詳しく説かれている。

 霊媒のモーゼスもバーバネルもともに英国人である。英国において同じくイエス・キリストを霊的源流とする二つの霊的啓示が、一方は〝まだその時機でない〟という態度を取り、他方が〝今こそその時機である〟という態度で臨んでいるこの対照は、明らかに〝啓示の進歩〟を物語るものと観てよいであろう。

 今も述べたように、先に列挙した霊的啓示は多かれ少なかれキリスト教的色彩を帯びている。ナザレ人イエスにその淵源を求めることが出来るという意味である。

すなわちメルキゼデクに発した大きな霊的潮流がイエス・キリストの出現で一つのクライマックスを迎え、それがいったん埋もれたあと、十九世紀の後に再び多くの霊媒を通して霊言あるいは自動書記の形で地上へ奔出しはじめたと観ることが出来る。シルバーバーチはイエスについて見解を求められて次のように語っている。

 「ナザレ人イエスは神より託された使命を成就せんがために物質界へ降りた多くの神の使途の一人でした。イエスは地上での目的は果たしました。が残りの使命はまだ果たしておりません。それが今まさにイエスの指揮のもとに成就されつつあるところです。

          (中   略)

 イエスを通して地上へ働きかけた霊は、今なお、二千年前に始まった事業を果たさんとして引き続き働きかけております。その間イエスの霊は数え切れないほど何度もはりつけにされ、今なお毎日のようにはりつけにされております。」
 
 ───あなたが〝ナザレ人イエス〟と言う時、それは地上で生活したあの人間イエスのことですか、それともイエスを通して働いている霊的威力のことですか。

「あの人間イエスのことです。ただしその後イエスも向上進化し、地上時代よりはるかに大きな意識となって顕現しております。地上時代は、当時の時代的制約に合わさざるを得なかったのです。それでもなお、地上の人間でイエスほど霊の威力を発揮した者はおりません。イエスほど強烈に霊的摂理を体現した人間はおりません。」

 ───この二千年の間に一人もいないのでしょうか。

「いません。前にも後にもおりません。地上という世界があの時代ほど偉大な神の啓示に浴した時代はありません。しかし私たちは地上に誕生した人間イエスを崇めているのではありません。イエスを通して働きかけた霊の力に敬意を表するのです。人間というのは、どれだけ霊力の道具として役に立ったかによって、その人に払われる敬意の度合いが決まるのです。」


 ───霊界には今後イエスのごとき人物を地上へ送ることによってさらに奥深い啓示をもたらす計画があるのでしょうか。

「さまざまな民族の必要性に応じて、さまざまな手段が講じられつつあります。忘れてならないのは、現在の地上はますます複雑さを増し、相互関係がますます緊密となり、それだけ多くの通信回路を開かねばならなくなっているということです。

各民族の異なった気質、習慣、思想、生活手段や様式を考慮に入れなくてはなりません。通信の内容もその国民の生活環境や特質、民族的習性に合わさなくてはなりません。それをその国民の言語で表現せねばならず、その他もろもろの制約があります。が、啓示の由って来る究極の淵源はみな同じです。」

 百年を生きるのがやっとというわれわれ地上人の人間にとって二千年とか五千年という時の流れは気の遠くなる思いがするが、悠久の宇宙的尺度をもってすればほんの短い一時期にすぎないのであろう。

巷間(こうかん)にはこれから後の僅か百年二百年について、やたらに悲愴感を煽る勿体ぶった予言書が出版されているが、筆者はこうした、人の心を怖じけづかせ魂を縮み上がらせるようなものは決して純正な予言ではない、否、極めて悪質であると思う。もっとも、悠久の目をもってみれば〝悪質なイタズラ〟程度のものなのかもしれないが。

 純正な霊的啓示は常に魂を鼓舞し生きる勇気を与えてくれるものをもっている。それは以上紹介した霊的啓示の系譜の中に如実に見られる一大特質である。

 筆者が今携わっている仕事はいわば西洋的系譜の啓示を日本へ輸入することであるが、右のシルバーバーチの霊言から推測されるように、日本には日本なりの一大啓示の時代がいずれ到来するものと信じている。

私見によれば、それは多分神道的色彩を帯びることであろう。そしてそれを西洋へ逆輸出する形になるのかもしれない。そうすることによって西洋的な啓示と東洋的な啓示とが合流して一大奔流となって世界を流れる時こそ真の世界平和、いわゆる地上天国が築かれるのではなかろうか。

 ただ少なくとも日本の現状に目をやる時、今はこうした西洋的系譜の啓示を是非とも普及しなければならない時代であるという認識を持つのは、一人筆者のみではないと信じている。

 では、おしまいに再び『霊訓』から啓示の本質に触れた部分を紹介しておこう。〝新しい啓示〟と〝古い啓示〟との間の矛盾の問題に言及してイムペレーターはこう述べている。

 「啓示は神より与えられる。神の真理であるという意味において、啓示が別の時代の啓示と矛盾するということはあり得ぬ。ただしその真理は常にその時代の必要性と受容能力に応じたものが授けられる。一見矛盾するかに思えるものは真理そのものにはあらずして、人間の心にその原因がある。

人間は単純素朴では満足し得ず、何やら複雑なるものを混入してはせっかくの品質を落し、勝手な推論と思惑とで上塗りする。時の経過とともにいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなっていく。矛盾すると同時に不純でありこの世的なものとなってしまう。

 やがて新らしき啓示が与えられる。がその時はもはやそれをそのまま当てはめられる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り壊さねばならぬ。新らしきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示には矛盾はない。が、矛盾せるが如く思わしめるところの古き夾雑物がある。

まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を見せねばならぬ。人間はそれに宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達せる人間は、無知なる者や偏見に固められたる人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。

 神は決して押し売りはせぬ。このたびの啓示も、地ならしとして限られた人間への特殊な啓示と思うがよい。これまでもそうであった。モーセは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者をみるがよい。自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。

 神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押し付けはせぬ。用意の出来ている者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者はそれを拒絶する。それでよいのである。」
                                 近藤 千雄
 


シルバー・バーチの霊訓 (一)

Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley



十章 質問に答える

 シルバーバーチの交霊会では開会の祈りと講話のあと〝何かお聞きになりたいことがありますか。もしあれば私の知る限りで精一杯お答えしましょう〟と述べる。

 質問はあらかじめまとめておいて司会者が述べることもあるが(投書による質問もある)、招待客がその専門分野、例えば心霊治療について直接質問することもある。その内の幾つかを紹介する。


 問 「もう一度やり直すチャンスは全ての人に与えられるのでしょうか」

 答 「もちろんです。やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓に埋められて万事が終わるとしたら、この世は実に不公平だらけで、生きてきた不満の多い人生の埋め合わせもやり直しもできないことになります。

私どもが地上の人々にもたらすことのできる最高の霊的知識は人生が〝死〟をもって終了するのではないということ、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、皆もう一度やり直すことができるということ。言いかえれば、悔やし涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。 

人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人間は内在している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時にまた、愚かにも摂理を無視し他人の迷惑も考えずに横柄に生きてきた人間は、その悪行の償いをするチャンスが与えられます。

神の公正は完璧です。だますことも、ごまかすこともできません。すべては神の眼下にあります。神は全てをお見通しです。そうと知れば、真面目に正直に生きてきた人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは利己主義者だけです。


 問 「祈りに効果があるでしょうか」

 答 「本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがお分かりになると思います。御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい。カネが欲しい、家が欲しい──こうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。

そんな要求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り、そうした祈りもあります。そうした祈りには魂の内省があります。

つまり自己の不完全さと欠点を自覚するが故に、必死に父なる神の加護を求めます。その時の魂の状態そのものがすでに神の救いの手を受け入れる態勢となっているのです。

ただ、これまでも何度か述べたことがありますが、そうした祈りをあえて無視して、その状態のまま放っておくことが実はその祈りに対する最高の回答である場合がよくあります。

こちらからあれこれと手段を講じることがかえって当人にとってプラスにならないという判断があるのです。しかし魂の奥底からの要求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。

つまり、その願望が霊的に一種のバイブレーションを引き起こし、そのバイブレーションによって当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引き寄せられます。危険の中にあっての祈りであれば保護のためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。

それは血縁関係によって繋がっている霊もおれば、愛の絆によって結ばれている類魂もおります。そうした霊たちはみな自分もそうして救われた体験があるので、その要領を心得ております。」


 問 「唯物主義者や無神論者は死後の世界でどんな目に遭うのでしょうか。」

 答 「宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが人間を永い間迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それが全てのカギです。

祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか、無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。

 問 「霊界の医師にはガンの治療法が分かっているのでしょうか」

 答 「あらゆる種類のガンが治せるという意味での特殊な治療法はありません。全部が同じ原因から発生しているのではないからです。身体的なものに由来するものもあれば精神的なものもあり、また霊的なものもあります。

その全てを同じ方法で治すことはできません。私たち霊界の者が地上の問題にかかわるにはそれなりの制約があることを理解して下さい。

人間から頼まれて〝ああ、その問題ですか。じゃあ、こうしなさい〟といった調子で受け合うわけには参りません。地上の人間は地上の人間なりの努力をして解決していかねばなりません。ただし人生観が誤っていたり、動物に苦痛を与える実験をしたり、要するに援助を受けるべき資格のない状態でいくら努力をしても、治療法は見つかりません。

 霊界からの援助は二重に行われます。真摯で献身的な治療家が正しい霊的法則に則って治療に当たっている時、霊界からそのチャンスをうかがっているその道の専門家が自動的に引き寄せられます。次にその患者に受け入れる用意が出来ている時、霊的治癒エネルギーがふんだんに注ぎ込まれます。

霊界からの治療は全てこの霊力によってなされます。決して魔法の杖を使うわけではありません。霊力は患者の魂によって引き寄せられます。ですから、その魂が霊力を受け入れない限り反応は生じません。魂が窓を開けてくれない限り、霊力と魂とを繋ぐものがないのです。閉め切った魂とは接触は得られません。この他にもいくつかの要素があります。

ガンの直接の(物的)原因にもよりますし、この度の地上への誕生の目的にかかわる問題もありますし、誕生以前に 地上人類以外の何らかの身体での生活の体験があるかどうかもかかわってきます。決して単純な問題ではないのです。


 問 「生まれ変わりは本当にあるのでしょうか。」

 答 「これは非常にややこしい問題です。というのは、この問題に関してはこちらの世界でも事実を知る者と知らない者とで意見がさまざまに分かれているからです。知らない者はあくまでも〝ない〟と主張し、知っている者は自分の体験から自信をもって〝ある〟と断言します。私は後者の一人です。

私にも体験があるからです。ですから再生が事実であるという点は問題ないとしても、その真相の説明となると、これは大変やっかいです。なぜかと言えば、何度も述べてきたように、再生するのは同じ霊であっても、物質界に顕現するのは同じ面ではないからです」


 問 「霊的法則は霊界でも地上でも同じ作用をするのでしょうか。」

 答 「違います。こちらでは同一レベルにまで進化した者同士の生活が営まれており、霊格による区別がはっきりしているからです。ですから地上のように比較対照というものがありません。各自がその霊格に合った階層で生活しており、程度の低い者と高い者とが一緒に暮らすということがありません。

地上では精神的ならびに霊的発達程度の異なる者が毎日のように顔を合わせますが、こちらではそういうことはありません。ただし、使命を受けて(地上的言い方をすれば)低い階層へ降りて行けば別です。そうでない限り同じレベルの霊同志の生活が営まれます。

やがてそのレベル以上に向上してくれば次のレベルへ進んで行きます。ですから一つの階層で対照的な生活が営まれることがないわけです。

 とにかく私たちの世界には光と闇といった対照がなく、従って影もありません。光だけです。光の中だけで生きていける段階まで到達した霊は、光とは何かについて完全な理解が出来ております。そうでなかったらその階層におれません。

その階層に至るまではやはり光と闇の錯覚の世界である幽界に留まります。進化していくとそういう比較対照を必要としない段階に至ります。そうすれば実在の真相をより正しく理解するようになり、実相をあるがままに知ることができます。

 たとえば一輪の花にしても、もし霊眼によってその〝全体像〟を見ることができれば、地上では見られない美しさが鑑賞できます。霊眼には全ての物の内側と外側とが見えるのです。

内側には地上のような外側だけの世界に見られない無限の種類の色彩があります。色調も無数にあります。そして物的感覚では理解できない霊的な実体感を有しております。

私たちは地球の引力の作用を受けません。また永遠の光が存在します。魂が開発されるにつれて、その程度にふさわしい美しさも開発されます。こちらは創造進化の世界です。そこに生活する者自らが創造していく世界です。」


 問 「昨今のスピリチュアリズムの動向をどう観られますか」

 答 「潮に満ち潮と引き潮があるように、物事には活動の時期と静止の時期とがあるものです。いかなる運動も一気に進めるわけにはいきません。なるほど表面的にはスピリチュアリズムはかなりの進歩を遂げ、驚異的な勝利を収めたかに見えますが、まだまだ霊的真理について全く無知な人が圧倒的多数を占めております。

いつも言っているように、スピリチュアリズムというのは単なる名称にすぎません。

私にとってそれは大自然の法則、言いかえれば神の摂理を意味します。私の使命はその知識を広めることによって少しでも無知をなくすることです。その霊的知識の普及に手を貸してくださるものは、それが一個人であってもグループであっても、私はその努力に対して賞賛の拍手を贈りたいと思います。

神の計画はきっと成就します。私の得ている啓示によってもそれは間違いありません。地上における霊的真理普及の大事業が始まっております。

時には潮が引いたように活動の目立たない時期もありましょう。そうかと思うとブームのような時期があり、そして再び無関心の時期が来ます。普及に努力するのが嫌になる人もおりましょう。が、こうしたことは神の計画全体から見ればほんの部分的現象にすぎません。

その計画の中でも特に力を入れているのが心霊治療です。世界各地で起きている奇跡的治癒は計画的なものであって、決して偶発的なものではありません。その治癒の根源が霊力にあることに目覚めさせるように霊界から意図的に行っているものです。

私は真理の普及に関して決して悲観的になることはありません。常に楽観的です。というのは、背後で援助してくれている強大な霊団の存在を知っているからです。

私はこれまでの成果に満足しております。地上の無知な人々がわれわれの仕事を邪魔し、遅らせ、滞らせることはできても、真理の前進を完全に阻止することはできません。ここが大切な点です。

遠大なる神の計画の一部だということです。牧師が何と説こうと、医者がどうケチをつけようと、科学者がどう反論しようと、それは好きにさせておくがよろしい。時の進展と共に霊的真理が普及していくのをストップさせる力は彼らには無いのです。」


 問 「死後の世界でも罪を犯すことがありますか。」

 答 「ありますとも! 死後の世界でも特に幽界と言う処は地上と非常によく似ています。住民は地上の平凡人とほぼ同じ発達程度の霊たちで、決して天使でもなければ悪魔でもありません。

高級すぎもせず、さりとて低級すぎもせず、まあ、普通の人間と思えばいいでしょう。判断の誤りや知恵不足で失敗もすれば、拭いきれない恨みや憎しみ、欲望などに囚われて罪悪を重ねることもあります。要するに未熟であることから過ちを犯すのです。」


 問 「弱肉強食の自然界をこしらえた創造主がどうして全てを愛する神であり得るのでしょうか。」

 答 「限りある知恵で無限の叡知を理解することはできません。宇宙規模の問題を肉眼だけを通して覗いてみても、つまり限られた知性でもって理解しようとしても解決は得られません。全体のごく限られた一部しか見えないからです。

確かに自然界には弱肉強食の一面があり、腹が空けば互いに食い合うこともしますが、それは自然界全体としては極めて些細な話であって、人間界と同様に動物界にも調和と協調の原理が働いております。チャンスに恵まれればその原理を如実に見ることができます。

 それとは別に人間としての責務に関わる一面もあります。つまり、上に立つ者が低い進化の過程にある者に対してもつ責務です。人間も動物も、樹木や果実、花、野菜、小鳥などと共に一つの生命共同体を構成しているからです。

全生命は、進む時は共に進み、後戻りする時は共に後戻りします。ですから、人間が愛と慈悲と同情の心を発揮すれば、それこそオオカミと小ヒツジが相寄りそって寝そべるようになるでしょう。」


 問 「人間一人ひとりに守護霊がついているのですか。」

 答 「母体内での受胎の瞬間から、あるいはそれ以前から、その人間の守護の任に当たる霊が付きます。そして、その人間の死の瞬間まで、与えられた責任と義務の遂行に最善を尽くします。守護霊の存在を人間が自覚するとしないとでは大いに違ってきます。自覚してくれれば守護霊の方も仕事がやりやすくなります。

守護霊は決まって一人だけですが、その援助に当たる霊は何人かおります。守護霊にはその人間の辿るべき道があらかじめ分かっております。

が、その道に関して好き嫌いの選択は許されません。つまり、自分はこの男性にしようとか、あの女性の方が良さそうだ、といった勝手な注文は許されません。こちらの世界は実にうまく組織された機構の中で運営されております。」


 問 「地上で犯す罪は必ず地上で報いを受けるのでしょうか。」

 答 「そういう場合もあれば、そうでない場合もあります。いわゆる因果律というのは必ずしも地上生活期間中に成就されるとは限りません。しかし、いつかは成就されます。必ず成就されます。原因があれば結果があり、両者を切り離すことはできないのです。

しかし、いつ成就されるかという時間の問題になると、それはその原因の性質いかんに関わってきます。すぐに結果の出るものもあれば、地上生活中には出ないものもあります。

その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。罪を犯すと、その罪がその人の霊に記録され、それなりの結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。

それが地上生活中に出るか否かは私にも分かりません。それはさまざまな事情の絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である霊性の進化にあることだけは確かです」


 問 「死とは何かを子供にどう説かれますか。」

 答 「その子供に理解力があればの話であることは無論ですが、死とは、小鳥が鳥かごから放たれて自由に羽ばたくように肉体から解き放たれて、より大きな生活の世界へ進んで行くことであると説明しましょう。」


 問 「いたいけない幼児が不治の病で苦しむのは何か原因があるのでしょうか。これで神が公正と言えるだろうかと思うことがありますが・・・。」

 答 「本来霊的な問題を物的尺度で解決することはできません。地上生活という極めて短い期間の体験でもって永遠を判断することはできません。神の公正は無限の摂理によって支配されており、その全てを小さいひとかけらだけで持って理解することはできません。

小さなものが自分より大きいものを理解出来るでしょうか。一滴の水が大海を語れるでしょうか。部分が全体を理解出来るでしょうか。

宇宙はただただ感嘆するばかりの見事な法則によって支配されております。完璧な叡知によって創造されているからです。法則が狂うということは絶対にありません。時に不公平のように思えることがあるのは全体の一部だけを見ているからです。

全体が見えるようになれば考えが変わります。地上にいる限り、その短い期間で無限を理解することはできません。

 埋め合わせ、あるいは応報の原理は人間には理解できません。霊の世界の豊かさ、美しさ、見事さは、それを譬えるべきものが地上に無いのですから、人間には理解する手掛かりがないわけです。宿命的に判断力が制限され、視野が狭められている人間にどうして地上の裏側の世界が理解できましょう。

 子供の身体は両親の血と肉とでこしらえられる以上、両親の肉体的要素が全部その子に受け継がれていくに決まっています。ですから、子供は両親の身体的欠陥まで頂戴することになります。

 しかし、子供は誕生という行為によって宇宙の大霊の一部となるのです。神の遺産、あらゆる物的障害に負けない潜在的神性を宿しております。物質は霊を凌ぐことは出来ません。物質はあくまでも従者です。霊が主人です。霊的成長はゆっくりとして着実な道程です。霊的感覚と理解力は魂にその用意ができた時に初めて得られるものです。

私たちの説く真理が馬の耳に念仏である人もいます。が、それになんらかの感動を覚えた時、その人はその後に待ち受ける数々の真理を理解していく用意が出来たことを意味します。あたかも神の立場に立って判決を下すようなことをしてはいけません。」


 問 「心霊的能力の発達は人類進化の次の段階なのでしょうか。」

 答 「霊能者とか霊媒と呼ばれている人が進化の先駆けであることに疑問の余地はありません。進化の梯子の一段上を行く、いわば先遣隊です。 そのうち心霊的能力が人間の当たり前の能力の一部となる時代が来ます。地上人類は今精神的発達の段階を通過しつつある処です。このあとには必然的に心霊的発達の段階が来ます。

 人間が五感だけを宇宙との接触の通路としている哀れな動物でないことをまず認識しないといけません。五感で知り得る世界は宇宙のほんの一部です。それは物的手段で感識できるものに限られています。人間は物質を超えた存在です。

精神と霊とで出来ているのです。その精神と霊にはそれなりのバイブレーションが備わっており、そのバイブレーションに感応する別の次元の世界が存在します。地上にいる間は物的なバイブレーションで生活しますが、やがて死を経て、高いバイブレーションの世界が永遠の住み家となる日が来ます。」


 問 「霊界のどこに誰がいるということがすぐに分かるものでしょうか。」

 答 「霊界にはそういうことが得意な者がおります。そういう霊には簡単に分かります。大ざっぱに分類すると死後の霊は、地上へ帰りたがっている者と帰りたがらない者とに分けられます。

帰りたがっている霊の場合は有能な霊媒さえ用意すれば容易に連絡が取れます。が、帰りたがらない霊ですと、どこにいるかは簡単に突き止めることはできても、地上と連絡を取ることは容易ではありません。嫌だと言うのを無理やり連れてくるわけには参りません。」


 問 「永遠の生命を考えると、地上でのこんな限られた物的体験に意義があるでしょうか。」

 答 「永遠も無数の小さな体験の総計から成り立つのです。一つの体験、一つの行為、一つの言葉、一つの思念にも、それがいかに小さなものであってもそれなりの意義があります。そうした細々とした体験の寄せ集めが永遠を作るのです。その内の一つが欠けても完全性を失います。

例えば、二、三百名から成るオーケストラの中でトライアングルを一度だけ鳴らす人がいるとします。分量から言えば全くささやかな存在ですが、もしもその人が、たった一回の演奏で音階を間違えたらどうなりますか。あるいは音が弱すぎて聞き取れなかったらどうなりますか。

オーケストラ全体が台無しになるでしょう。分かりますね。あなた方の地上生活での体験もそれと同じことです。一つひとつが魂の陶冶(とうや)のための一部──大切な一部を担っているのです。その体験は永久に魂に刻み込まれていきます。」
            


  第十一章  おしまいに

 地上の人間は〝身体〟を中心に物事を考えます。私たち霊界の者はその身体を通して自我を表現しなければならない〝霊〟のことを第一に考えます。その霊が正常に自我を表現しておれば、身体との関係も自然にうまくいきます。なぜなら物質は常に従者の立場にあり、主人ではないからです。霊が王様で物質はその従臣だということです。

 この真理が今日ここにお集まりの方々の人生を明るく照らし、大きな革命をもたらして参りました。自分とは何かを見出されました。地上の言語では表現できない真理、地上の富では評価できない悟りを得て来られました。

 霊こそ実在であるという真理は永久に不変です。これが全ての謎を解き、全てをあるべき位置にあらしめるカギです。大切なのは身体への影響ではなく、魂の琴線に触れる体験です。ですから、私はこれより先のあなた方の生活に問題が生じないとは決して申しません。

苦労がないとも申しません。障害やハンディを背負うことがないとも申しません。もしそんなことを言えばウソになります。

 地上生活は内部の完全性が不完全な環境の中で表現を求めようとする一種の闘争の場です。金塊が不純物を払い落としていく試練の場です。霊的開発と成就への道においては困難と苦痛と障害とハンディが必須不可欠の要素です。

もしも霊的な宝が容易に手に入るものであれば、それはもはや手に入れるほどの価値はないことになります。自己鍛錬、自己制御、自己開発、これを成就するのが人生の目的です。これは容易にできるものではありません。王道はないのです。

 悪戦苦闘すること、暗闇の中に光を見出さんと努力すること、嵐との戦いの末に再び太陽の光を見てその有難さをしみじみと味わうこと── 魂はこうした体験を通して初めて成長するのです。低く身を沈めただけ、それだけ高く飛躍することができるのです。

〝ゲッセマネの園〟を通らずして〝変容の丘〟へ辿り着くことはできません。

ナザレ人イエスの生涯は地上の人間の全てが体験するものと本質的において同じものです。敗北も勝利もともに必要です。敗北の味を知らずして勝利の味が分かるでしょうか。

 私は日常生活で是非とも活用すべき教訓をできるだけ簡潔に述べようと苦労しているのです。決して難解な哲学ではありません。いたって実用的な霊的教訓なのです。

それが人生から然るべきものを体得する方法を教えてくれます。魂の真の満足は内的な静寂と輝きとなって表われます。すなわち真の自我を見出したことから生まれる魂の平安と自信です。

魂がその状態になった時を〝悟った〟というのであり〝神を見出した〟と言うのです。そうなれば人生のいかなる苦しみにも悲しみにも負けることはありません。なぜなら悟りを開いたあなたは、いついかなる時でも神の兵器庫の扉を開けることが出来るからです。

また、あなたに解決できないほど大きな問題、背負えないほどの重い荷を与えられることはありません。それが与えられたのは、それだけのものに耐え得る力があなたにあるからです。

 私はこうした真理をあなた方だけでなく他の多くの方々に説いて参りました。それが常に心に住みついているようになれば、何ものにも脅えることがなくなることを知っているからです。霊の力は絶大です。しかし、その力も通路のあるところしか流れません。あなた方がその通路なのです。

あなた方がその通路を提供して下さり、その通路を通って霊力が地上に流入する。具体的に言えば、喜んで人のために役立とうとする心と精神と霊とを用意して下さることが、その霊力の流入する条件を提供することになるのです。

かくして霊力があなた方を通過する際に必ずその一部があなた方の中に蓄積されて参ります。そしてそれが、あなた方自身の霊的な糧となりましょう。そうなった時のあなたは、自分の方から心のスキを見せない限り、この世に悩みなど全くなくなります。

 あなた方はいろいろと多くの教訓を学んでこられました。教訓は自分で学ばねばなりません。私が代わりに学んであげるわけにはいきません。私たち霊界の者にとっていちばん辛いのは、愛する人間が困難の中にあって必死に頑張っているのを傍観することです。

傍観と言っても、何もしないという意味ではありません。できる限りの援助は致します。しかし、魂の成長にとって掛けがえのないチャンスを奪うことになることだけは許されないのです。

 イエスは「神の御国はあなた方の中にある」(ルカ17・22)と言いました。実に偉大なる真実です。神はどこか遠く離れた近づき難いところにおられるのではありません。

実にあなた方一人ひとりの中にあり、同時にあなた方は神の中に居るのです。ということは自分の霊的成長と発達にとって必要な手段は全て自分の中に宿しているということです。それを引き出して使用することが、この世に生まれてきたそもそもの目的なのです。

 私はこれまでの身をもっての体験から、宇宙を支配する霊力に不動の信頼を置いております。一分一厘の狂いもなく、しかも深遠なる神の配慮のもとに、全大宇宙の運行を経綸する神的知性に私はただただ感嘆し、崇敬の念を覚えるのみです。

もしも地上人類が、その神の心をわが心として摂理と調和した生活を送ることが出来れば、地上生活は一変することでしょう。その力は幾らでも授かることができます。神がわが子に施す恩寵ほど気前のよいものはありません。

 ですから、決して絶望してはいけません。落胆してはいけません。くよくよしてはなりません。心に不安の念を宿してはなりません。恐怖心を近づけてはなりません。取り越し苦労は蹴散らしなさい。そんな憂うつな有難からぬ客を絶対に魂の奥の間へ招き入れてはなりません。

 人生の背後に秘められた目的を悟り、それと一体となった時、一時的にせよあなたの魂に霊的な静寂が訪れます。内と外からあなたを守る霊の力に身を委ねることです。

きっと援助を授けてくれます。歩むべき道を明確に示してくれます。問題に遭遇した時は、地上の雑踏、混乱、かんかんがくがくの論争から身を退き、魂の静寂の中へ引きこもり、霊の啓示を待つことです。

 霊の宝石は決して色褪せることがありません。地上的財産をふんだんに所有している人は、自分がその財産の管財人にすぎないことに気づいておりません。本当は自分のものではないことに気づいておりません。霊的真理を悟った人にとっては、知識に責任が伴うように、財産にも責任が伴います。

あなた方は宇宙最大の霊力の道具です。大司教(※)の礼服を着る必要もなければ、枢機卿(*)の指輪をはめる必要もありません。それはただの装飾品に過ぎません。

 実在とは何の関係もありません。あなた方を通路として働いているところの霊力はすべての法王、全ての大司教、全ての枢機卿より偉大です。宇宙最大の力なのです。
(※ともにカトリック系キリスト教会の最高位の聖職。──訳者)

Sunday, March 29, 2026

霊の書(一部 ) アラン・カルデック(編)

 The Spirits' Book

スピリチュアリズムの真髄「思想編」
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)


3章 創造

このページの目次〈天体の形成〉
〈生命体の発生〉
〈人類の発生〉
〈人種の多様性〉
〈地球外の生息地〉

〈天体の形成〉


――物的宇宙は創造の産物でしょうか、それとも神と同じく永遠の過去から存在し続けているのでしょうか。


「もちろん宇宙がみずからをこしらえるはずはありません。もしも神と同じく永遠の過去からの存在であるとしたら、それは神の業(わざ)ではないことになります」


――どのようにして創造されたのでしょうか。


「有名な表現を借りれば“神のご意思によって”です。神が“光よあれ”と言われた。すると光が生まれた。この“創世記”の言葉以外に、全能の神のあの雄大な働きをうまく表現したものはありません」


――天体が形成されていく過程を教えていただけませんか。


「人間の理解力の範囲内でこの命題に答えるとすれば、空間にまき散らされた物質が凝縮して天体となった、と表現するしかありません」


――彗星は、天文学で推測されている通り、その物質の凝縮の始まり、つまり形成途上の天体なのでしょうか。


「その通りです。ただし、彗星にまつわる不吉な影響を信じるのは愚かです。すべての天体には、ある種の現象の発生にそれぞれの役割分担があります」


――完成された天体が消滅し、宇宙のチリとなって再び天体として形成されるということはありませんか。


「あります。神は、天体上の生き物を新しくつくり変えるように、天体そのものも新しくつくり変えます」


――天体、たとえばこの地球が形成されるのに要した時間は分かるでしょうか。


「それは我々にも分かりません。創造主のみの知るところです。いかにも知っているかのごとき態度で長々と数字を並べたりするのは愚か者のすることです」
〈生命体の発生〉


――地球上の生物はいつ頃から生息するようになったのでしょうか。


「天地初発(あめつちはじめ)の時は全てが混乱の状態で、あらゆる原素が秩序もなく混じり合っていました。それが次第に落ちつくべき状態に落ちつき、その後、地球の発達段階に応じて、それに適合した生物が出現して行きました」


――その最初の生物はどこから来たのでしょうか。


「どこからというのではなく、地球そのものに“胚”の状態で含まれていて、発生に都合のよい時期の到来を待っておりました。地球の初期の活動がようやく休止すると、有機的原素が結合して地上に生息するあらゆる生物の胚を形成しました。そして各々の種に生気を賦与する適切な時期の到来まで、その胚はさなぎや種子と同じように、不活性の状態で潜伏していました。やがてその時期が到来して発生し、繁殖して行きました」


――その有機的原素は地球が形成される以前はどこに存在していたのでしょうか。


「言うなれば流動体的状態で空間や霊界、あるいは他の天体に存在し、新しい天体での新たな生命活動を開始すべく、地球の造成を待っておりました」


――今でも自然発生しているものがあるのでしょうか。


「あります。ですが、潜在的には胚の状態で以前から存在しているのです。その例なら身のまわりに幾らでもあります。例えば人間や動物の体には無数の寄生虫が胚の状態で存在していて、生命がなくなると同時に活動を開始して腐敗させ、悪臭を放ちます。人間の一人一人が、言うなれば“眠れる微生物の世界”を内部に含んでいるのです」
〈人類の発生〉


――ヒトの種も有機的原素の一つとして地球に含まれていたのでしょうか。


「そうです。そして創造主の定めた時期に発生したのです。“人間は地のチリから造られた”という表現はそこから来ています」


――そのヒトの発生、および地上の他の全ての生物の発生の時期は確認できるのでしょうか。


「できません。あれこれと数字を並べる霊がいますが、何の根拠もありません」


――人類の胚が有機的原素の中に含まれていてそれが自然発生したとなると、今でも(生殖作用によってでなく)自然発生的にヒトの種が誕生してもよさそうに思えるのですが……


「生命の起原のことは我々にも秘密にされております。ただ断言できることは、最初の人類が発生した時に、すでにその内部に、その後の生殖活動によって繁殖していくために必要な要素を全て所有していたということです。他の全ての生物についても同じことが言えます」


――最初の人間は一人だったのでしょうか。


「違います。アダムは最初の人間でもなく、唯一の人間でもありません」


――アダムが生きていた時代を特定できますか。


「大体“創世記”にある通りです。キリストより四〇〇〇年ほど前です」


編者注――アダムという名で記録にとどめている人物は、当時地球上を襲った数々の自然災害を生き抜いた幾つかの人種の一つの長であろう。
〈人種の多様性〉


――地上の人種に身体的ならびに精神的な差異が生じた原因は何でしょうか。


「気候、生活形態、社会的慣習などです。同じ母親から生まれた二人の子供でも、遠く離れた異なる環境条件のもとで育てられると、それぞれに違った特徴を見せるようになります。とくに精神的には全く違ってきます」


――人類の発生は一か所だけでなく地球上の幾つもの地域で行われたのでしょうか。


「そうです。それも、幾つもの時代に分けて行われました。このことも人類の多様性の原因の一つです。原始時代の人間はさまざまな気候の地域へ広がり、他の集団との混血が行われたので、次々と新しいタイプの人類が生まれて行きました」


――その違いが種の違いを生んだのでしょうか。


「それは断じて違います。全ての民族で人類という一つの家族を構成しています。同じ名前の果実にいろいろな品種があっても、果実としては一つであるのと同じです」


――人類の始祖が一つでなく地球上で幾つも発生したということは、互いに同胞とは言えないことになるのではないでしょうか。


「創造主とのつながりにおいては全ての人種は一つです。同じ大霊によって生命を賦与され、同じ目的に向かって進化しているからです。人間はとかく言葉にこだわり、表現が異なると中身も異なるかに解釈しがちですが、言葉というのは不十分であり不完全なものです」
〈地球外の生息地〉


――宇宙空間を巡っている天体の全てに知的存在が生息しているのでしょうか。


「そうです。そしてその中でも地球は、人間が勝手に想像しているような、知性、善性、その他の全般的な発達において、およそ第一級の存在ではありません。数え切れないほど存在する天体の中で地球だけが知的存在が生息する場である――神は人類のために宇宙をこしらえたのだと豪語する者がいるようですが、浅はかな自惚れもここに極まれりという感じです」


――どの天体も地質的構成は同じなのでしょうか。


「同じではありません。一つ一つが全く違います」


――あれほどの数の天体がありながら、その組成が同じものが二つとないとなると、そこに生息している存在の有機的組成も異なるのでしょうか。


「当然です。地上でも魚は水の中で生きるようにできており、鳥は空を飛ぶようにできているのと同じです」


――太陽から遥か遠く離れた天体は光も熱も乏しく、太陽が恒星(星)の大きさにしか見えないのではないでしょうか。


「あなたは光と熱の源は太陽しかないとでも思っていらっしゃるのですか。また、ある天体上では電気の方が地上より遥かに重要な役割を果たしている事実をご存じですか。そういう世界でも地球と同じように眼球を使って物を見ているとでも思っていらっしゃるのですか」


訳注――カルデックの質問の中には時おり「おや?」と思うようなものが出てきて訳者を戸惑わせることがある。奥さんと共に私塾を開いて天文学、物理学、解剖学といった、当時としては最先端の学問を教えていたようであるが、百年以上も昔のことであるから、その幅も奥行きも現代とは比較にならないものであったことは容易に想像がつく。

この質問も太陽も恒星の一つで銀河系には二〇〇〇億個もの恒星があり、その中でもわが太陽はごく小さい部類に属するので、このような質問はナンセンスである。が、回答の中で眼球を必要としない知的存在がいることを暗示しているので、それが大きな暗示を与えてくれると思って訳出した。コウモリは声帯から出す超音波で一瞬のうちに距離を計って飛び回り、イルカも超音波で信号を出し合って連絡し合っているという。眼球や耳のない人間的存在がいても不思議ではないのである。

シルバー・バーチの霊訓 (一)

Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley



九章 霊とは何か

 霊とは何かを言語によって完璧に描写することは絶対に不可能です。無限だからです。言語はすべて有限です。私はこれからそれを何とか説明してみようと思いますが、いかにうまく表現してみたところで、霊力のほんのお粗末でぎこちない描写でしかないことをご承知下さい。

 宇宙の大霊すなわち神が腹を立てたり残酷な仕打ちをしたりわがままを言ったりするような人間的存在でないことは、すでにご承知でしょう。何度も言ってきたように、神とは法則であり、その背後に働く精神であり、森羅万象の無数の顕現を支える力です。

それは生命そのものであり、生命を構成する根源的要素です。その中に極小と極大の区別もありません。

 こうした大まかな表現によって私たちは自分本来の姿、つまりミクロの神でありミニチュアの宇宙である自我について、どうにかその片鱗をつかむことができます。全体を理解するには余りに大きすぎます。あなた方がこうして地上に生を享けたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。それは永遠に終わることのない道程です。

何故なら神性は無限に顕現するものだからです。神性の本性として自発的に顕現を求め、それがあらゆる種類の美徳と善行、つまり親切、同情、寛容、慈愛、哀れみ、友情、情愛、無私の愛となって表現されます。その量が多ければ多いほど、それを発現している霊は偉大であることになります。

 では、いかにすればこの驚異的な潜在的神性を意識的に発現させることができるのでしょうか。

 それに関して地上には各種の学説、方法、技術があります。いずれも目指すところは同じで、脳の働きを鎮め、潜在的個性を発現させて本来の生命力との調和を促進しようというものです。

要するに物的混沌から脱け出させ、霊的静寂の中へと導くことを主眼としておりますが、私はどれといって特定の方法を説くことには賛成しかねます。各自が自分なりの方法を自分で見出していくべきものだからです。

 自我を一時的に潜在意識にコントロールさせ、それをきっかけにして内部の生命力とのつながりをより緊密に、そしてより強くさせることを目的とした内観法が幾つかあります。それが次第に深まれば霊界からのインスピレーションを受けることも多くなります。

まず心霊的(サイキック)な面が開発されます。続いて霊的(スピリチュアル)な面が開発され(※)宇宙の内奥に存在する生命力がふんだんに流れ込むようになります。

(※サイキックとスピリチュアルの違いはこうした自我の開発のほかに心霊能力にも心霊治療にもあります。心霊治療については第七章でシルバーバーチが詳しく説明しています。心霊能力について言えば、たとえば単なる透視力は動物の超能力と同じで五感の延長にすぎません。これがサイキックです。

つまり目の前に存在するもの──地上にせよ霊界にせよ──しか見えません。これに背後霊の働きが加わり、その場に存在しないもの、あるいは高次元の世界のものを映像またはシンボルの形で見せられるようになれば、それがスピリチュアルです。── 訳者)

 ある種のテクニックを身につければ病気を自分で治し、体内の不純物を排出し、欠陥を矯正することができるようになります。自我の全ての側面──霊と精神と身体の調和を成就することができます。

かくして霊性が本来の優位を確保していくに従って、霊的叡知、霊的理解、霊的平穏、霊的自信、霊的静寂が増し、不滅の霊力との真の繋がりを自覚するようになります。

 人間は霊的存在である以上、宇宙の大霊すなわち神の属性を潜在的に所有しております。あなた方一人ひとりが神であり、神はあなた方一人ひとりなのです。一人ひとりが神の無限の霊力の一翼を担っているのです。地上への誕生はその大霊の一部が物質と結合する現象です。その一部に大霊の神性の全てが潜在的に含まれております。いわば無限の花を開かせる可能性を秘めた種子と言えましょう。

 その可能性の一部が霊界からの働きかけによって本人も気づかぬうちに発揮されるということがあります。むろん無意識よりは意識的の方が望ましいに決まっています。ですが無意識であっても、全然発揮されないよりはましです。人間が同胞に向けて愛の手を差し伸べんとする時、その意念は自動的に霊界の援助の力を呼び寄せます。

その、人のために役立とうとする願望は魂をじっとしていられなくします。そして、やがて機が熟して魂が霊性に目覚める時が来ます。その時からは自己の存在の意義を成就する目標へ向けて意識的に邁進するようになります。

 先にサイキックという用語を用いましたが、これは物質と霊との中間的段階をさします。悟りを求め、あるいは霊能を開発せんとして精神統一の訓練を開始すると、まず最初に出てくるのが心霊的(サイキック)な超能力です。これはその奥の霊的(スピリチュアル)な能力に先がけ出て来ます。

超能力の開発は霊性の発達を阻害すると説く人がいます。そう説く人は心霊的な段階を経ずに一気に、独力で、神との合一を求めるべきであると主張するのですが、私はこれは間違っていると思います。それもあえて出来ないとは申しませんが、大変な修行のいることであり、しかも往々にして危険を伴います。

 霊格が向上するほど生命活動が協調によって営まれていることを悟るものです。自分一個で生きているものは何一つありません。お互いが力を出し合って生きております。一人ひとりが無限の連鎖関係の中の一つの単位なのです。

そんな中でなぜ初心者が熟練者の手助けを拒絶するのでしょう。私たちがこうして地上に戻ってあなた方を手助けし、手助けされたあなた方が同胞の手助けをする。そこにお互いの存在の理由があるわけです。

一人だけ隔離された生活をするようにはなっていないのです。みんなと協力し合って生きていくように出来ているのです。この見解を世界中に広めなければなりません。

すなわち世界の人間の全てが霊的に繋がっており、いかなる人間も、いかなる人種も、いかなる階級も、いかなる国家も、他を置き去りにして自分だけ抜きん出ることは許されないのです。

 登るのも下るのもみんな一緒です。人類だけではありません。動物も一緒です。なぜなら生命は一つであり、無限の宇宙機構のすみずみに至るまで、持ちつ持たれつの関係が行きわたっております。独善的考えから他の全ての方法を蔑視して独自の悟りの境地を開くことも不可能ではありません。

が、私はそうした独善的な生き方には反対です。私の理解した限りにおいて、宇宙の摂理は協調によって成り立っており、他の存在から完全に独立することは絶対に不可能です。他人の援助を頼まずに独力で事を成就しようとする気構えは、それ自体は必ずしも利己的とは言えません。

私はただ、その方法はお勧めしないと言っているのです。自分を他人に役立てること── これが霊的存在の真の価値だと私は信じます。私はその心掛けで生きて参りました。それが宇宙の大霊の意志だと信じるからです。そうではないと思われる方は、どうぞご自分の信じる道を歩まれるがよろしい。

 人類の手本と仰がれている人々は、病に苦しむ人には霊的治癒を、悲しみの人には慰めの言葉を、人生に疲れた人には生きる勇気を与えて、多くの魂を鼓舞してきました。要するに己を犠牲にして人のために尽くしたのです。それが神の御心なのです。

悲しみの涙を拭ってあげる。病を治してあげる。挫折した人を勇気づけてあげる。苦境にある人に援助の手を差しのべてあげる。

たったそれが一人であっても立派に神の意志を行為で示したことになります。そんなことをする必要はないと説く教えは絶対に間違っております。救いの手を差し伸べることは決して間違っておりません。それを拒絶する方が間違っております。

 もちろんそこに動機の問題もあります。見栄から行う善行もありましょう。が、それも何もしないよりはましです。邪な考えに発した偽善的行為、これはいけません。魂にとって何の益もありません。摂理をごまかすことはできないのです。完璧なのです。

イエスが〝慈悲の心は耐え忍ぶもの〟(※)と語ったのは神の意志の偉大さを説かんとしたのです。善行はそれ自体の中に報酬が宿されております。

(※コリント前書13・4-この言葉は聖書では〝愛は寛容である〟と訳されております。イエスの言葉はこの後さらに次のように続きます。

〝愛は慈悲に富む、愛は妬まず、誇らず、高ぶらず、非礼をせず、己れの利益を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、全てを許し、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ〟。──訳者)

 霊力の道具として働く霊能者は多くの魂へなんらかの影響を及ぼしています。そこが霊的現象の大切な点です。悲しみの人に慰めを与え、病の人に治癒を与え、主観・客観の両面にわたって霊力の証を提供することも確かに大切ですし、これを否定できる人はおりません。が、真の目的は現象的なものを超えたところにあります。魂に感動を与え実在に目覚めさせることです。

地上は未だに〝眠れる魂〟で一杯です。生命の実相をまるで知らず、これから目覚めていかねばなりません。

 霊的現象の目的はそうした個々の魂に自我への覚醒をもたらし、物的感覚を超えて自分が本来霊的存在であることを自覚させることです。いったん霊性を悟れば、その時から神からの遺産として宿されている神性の種子が芽を出して生長を開始します。その時こそ全大宇宙を経綸する無限の創造力のささやかな一翼を担うことになります。

 こうして霊力の道具として役立つだけの資格を身につけるまでには、それなりのトレーニングが要ります。それは大変なことです。何となれば、その結果としてある種の鍛錬、ある種の確信を身につけなければならず、それは苦難の体験以外には方法がないからです。霊力の道具として歩む道は厳しいものです。

決して楽ではありません。容易に得られた霊能では仕事に耐えきれないでしょう。魂の最奥・最高の可能性まで動員させられる深刻な体験に耐えるだけの霊性を試されて初めて許されることです。そうして身に付けたものこそ本物であり、それこそ霊の武器と言えます。

 その試練に耐え切れないようでは自分以外の魂を導く資格は有りません。自ら学ぶまでは教える立場に立つことは出来ません。それは苦難の最中、苦悩の最中、他に頼る者とてない絶体絶命の窮地において身につけなければなりません。最高のものを得る為には最低まで降りてみなければなりません。

こうした霊的覚醒、言えかえれば飢えと渇きに喘ぐ魂に霊的真理をもたらすことは実に大切なことです。それが地上での存在の理由の全てなのです。なのに現実は、大多数の人間が身につけるべきものをロクに身につけようともせず地上を素通りしております。

 ですから、イザこちらの世界へ来た時は何の備えも出来ていないか、さもなければ、一から学び直さなければならないほど誤った思想・信仰によってぎゅうぎゅう詰めになっております。本来そうしたものは地上の方が遥かに学びやすく、その方が自然なのです。

悲しみの人を慰め、迷える人を導き、悩める人を救うためには、自らが地上において苦難の極み、悲哀のドン底を体験しなければなりません。自分自身の体験によって魂が感動した者でなければ人に法を説く資格は有りません。

 教える立場に立つ者は自らが学ぶ者として然るべき体験を積まなくてはなりません。霊的教訓は他人から頂戴するものではありません。艱難辛苦── 辛く、厳しく、難しく、苦しい体験の中で自らが学ばなければなりません。それが真に人のために役立つ者となるための鉄則です。

そうでなければ有難いのだが、と私も思うことがあります。しかし側(はた)の者には分からないあなただけの密かな霊的覚醒、霊的悟り、魂の奥底からの法悦は、そうした辛い体験から得られるものです。なぜならその艱難辛苦こそ全ての疑念と誘惑を蹴散らし、祝福された霊として最後には安全の港へと送り届けてくれるからです。

 これも神の摂理として定められた一つのパターンです。霊的成就への道は楽には定められておりません。もし楽に出来ておれば、それは成就とは言えません。楽に得られるものであれば、得るだけの価値はありません。人のために役立つためにはそれなりの準備が要ります。

その準備を整えるためには魂の琴線に触れる体験を積み、霊性を開発し、心霊的能力を可能な限り霊的レベルまで引き上げなければいけません。心霊的能力を具えた人は大勢います。が、それを霊的レベルまで高めた人は多くは居ません。

私たちがかかわるのは霊そのものの才能であって、霊的身体(幽体)の持つ能力、つまり肉体の五感の延長でしかないものには、たとえ地上の学者がどんなに面白い実験(※)をしてくれても関心はありません。私は決してそれを軽蔑して言っているのではありません。それにはそれなりの意味があります。

(※ここではESPつまり超感覚的能力の実験を指していますが、シルバーバーチの説を総合すれば、ヨガや密教における超人的な術、未開人におけるまじない的な術、雨を降らせる術なども同類に入ります。──訳者)

 地上には、自分を変えようとせずに世の中を変えようとする人が多すぎます。他人を変えようと欲するのですが、全ての発展、全ての改革は先ず自分から始めなくてはなりません。自分が霊的資質を開発し、発揮し、それを何かに役立てることが出来なければ、他の人を改める資格はありません。

地上人類の霊的新生という大変な事業に携っていることは事実ですが、それにはまず自分を霊的に新生させなければなりません。真の自我を発見しなければなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて、魂の内奥の神性を存分に発揮しなければなりません。

 宗教的呼称や政治的主義主張はどうでもよろしい。私はその重要性を認めません。もし何かの役に立てば、それはそれで結構です。が、本当に大切なのは神の子として授かった掛けがえのない霊的遺産を存分に発揮することです。

その光輝、その気高さ、その威厳の中に生きることです。いかなる名称の思想、いかなる名称の教会、いかなる名称の宗教よりも偉大です。

神の遺産は尽きることがありません。地上に誕生してくる者の全てが、当然の遺産としてその一部を無償で分け与えられております。

 人生の重荷を抱えた人があなた方のもとを訪れた時、大切なのはその人の魂に訴えることをしてあげることです。他界した肉親縁者からのメッセージを伝えてあげるのも良いことには違いありません。メッセージを送る側も送られる側も共に喜ぶことでしょう。しかし喜ばせるだけで終わってはいけません。

その喜びの体験を通して魂が感動し、宇宙の絶対的な規範であるところの霊的実在に目覚めなければなりません。慰めのメッセージを伝えてあげるのも大事です。病気を治してあげるのも大事です。私がこうしておしゃべりすることよりも大事です。

ですが、霊界において目論まれている目的、こうして私どもが地上へ舞い戻って来る本当の目的は、地上の人間の霊的覚醒を促進させることです。

 その仕事にあなた方も携わっておられるわけです。困難に負けてはいけません。神の道具として託された絶大なる信頼を裏切らない限り、決して挫折することはありません。嵐が吹きまくることもあるでしょう。雨も降りしきることでしょう。

しかし、それによって傷めつけられることはありません。嵐が去り太陽が再び輝くまで隔離され保護されることでしょう。

煩わしい日常生活の中に浸り切っているあなた方には、自分が携わっている恵み深い仕事の背後に控える霊力がいかに強力で偉大であるかを理解することは難しいでしょう。

ですから、あなた方としてはひたすらに人の役に立つことを心掛けるほかないのです。あなた方を通して働いている力はこの宇宙、想像を絶する広大な全大宇宙を創造した力の一部なのです。

 それは全ての惑星、全ての恒星を創造した力と同じものなのです。雄大なる大海の干満を司るエネルギーと同じものなのです。無数の花々に千変万化の色合いと香りを与えたエネルギーと同じものなのです。

小鳥、動物、魚類に色とりどりの色彩を施したのも同じエネルギーです。土くれから出来た人間の身体に息吹きを与え生かしめている力と同じものです。それと同じエネルギーがあなた方を操っているのです。目的は必ず成就します。

 真摯な奉仕的精神をもって然るべき条件さえ整えば、その霊力は受け入れる用意の出来た人へいつでも送り届けられます。怖じけてはいけません。あなた方は神の御光の中に浸っているのです。それはあなた自身のものなのです。


 

Saturday, March 28, 2026

霊の書(一部) アラン・カルデック(編)

 The Spirits' Book

スピリチュアリズムの真髄「思想編」
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



2章 宇宙を構成する一般的要素

このページの目次〈物質の根源的要素〉
〈霊と物質〉
〈宇宙空間〉

〈物質の根源的要素〉


――人類は物質の根源的要素についていつかは認識することになっているのでしょうか。


「いえ、地上には人間に理解できないものがあります」


――現在のところ人間には秘密にされていることも、いずれは理解できるようになるのでしょうか。


「魂が純化される度合いに応じてベールが取り払われて行きます。が、ある一定レベル以上のものを理解するには、これまでに開発されていない能力が必要となります」


――人間は科学的探求によって大自然の秘密をあばいて行けるでしょうか。


「科学的研究の才覚は人類の各方面における進歩のための手段として授けられたものです。しかし、現段階における才覚の限界を超えることはできません」


――そうした限界を超えた問題、つまり五感の範疇を超えているがゆえに通常の科学的研究の領域に属さない問題に関して、高級霊界からの通信を受けることは許されるでしょうか。


「許されます。それが有用であるとの判断が下されれば、神は科学では無力とみた範囲のことについて啓発を授けられます」
〈霊と物質〉


――物質は神と同じく永遠の過去から存在しているのでしょうか、それとも、ある特定の時期に創造されたのでしょうか。


「神のみぞ知る、と申し上げておきましょう。ただ、一つのヒントとして、人間の理性でも十分に推理できることを申し上げれば、無始無終の存在である神が一瞬たりともその活動を止めたことはないということです。その活動の始まりを限りなく遠い遠い過去まで溯っていっても、神が一瞬たりとも無活動の状態になった時期があったことを想像することはできません」


――物質とは一般に“広がりがあり”“五感に印象を与え”“貫通できないもの”と定義されておりますが、これで正しいでしょうか。


「人間の観点からすれば正しいと言えます。知り得たものを基準に定義するしかないからです。しかし、物質は人間がまだ知らずにいる状態でも存在できます。例えば人間の感覚で捉えられないほど霊妙な状態で存在し、それでいて物質の範疇に属します。もっとも人間にはそうは思えないでしょうけれど……」


――では、そちら側からはどう定義されますか。


「物質とは霊をつなぎ止めるもので、同時に霊に仕える道具であり、霊の働きかけによって活動するものである、と」


――霊とは何でしょうか。


「宇宙の知的根源素です」


――その究極の本性は何でしょうか。


「霊の本性を人間の言語で説明することは不可能です。人間の感覚には反応しませんから“もの”とは言えないでしょう。しかし我々にとっては“もの”です」


――霊は知性と同義ですか。


「知性は霊の本質的属性の一つです。が、両者は一つの根源素として融合していますから、人間にとっては同一物と言ってよいでしょう」


――霊は物質とは別個の存在でしょうか、それとも、ちょうど色彩が光の特性の一つであり音が空気の特性であるように、物質の特性の一つにすぎないのでしょうか。


「霊と物質とは全く別個の存在です。しかも、物質に知的活動を賦与するためには霊と物質との合体が必要です」


――その合体は霊自体の表現にとって必要なのでしょうか。


「人間にとっては必要です。なぜなら、人間は物質と離れた状態で感識するような有機的構造にはなっていないからです。現段階での人類は物質から独立した次元での感覚をそなえていません」


――物質のない霊、霊のない物質というものが考えられるわけでしょうか。


「もちろんです。ただし観念上のことですが……」


――すると宇宙には霊と物質の二つの要素が存在することになるのでしょうか。


「その通りです。そしてその両者の上に神すなわち万物の生みの親である創造主が君臨しています。この三つの要素が生きとし生けるもの全ての原理、言わば普遍的三位一体というわけです。

しかし、物質には霊との接着剤的媒介の役目をしている普遍的流動体が付属しています。物質と霊との質的差異が大きすぎるために、霊が物質に働きかけるための中間的媒介物が必要なのです。その観点から見るかぎり流動体は物的要素の中に入りますが、いくつかの点で霊的性質もそなえています。これを物質の範疇に入れるのであれば、霊も物的範疇に入れてもよいほど物的性質をそなえています。つまりは中間的存在ということです。

その流動体が物質の特性とさまざまな形で結合し、霊の働きかけを受けて、ご存じの心霊現象を演出しているわけです。それとて可能性のほんの一部にすぎません。この原始的ないし基本的な流動体は、そのように霊が物質に働きかけるための媒体であって、この存在なくしては物質は永久に他の存在と離れたままの存在でしかなく、重量を有するがゆえに(霊の働きかけによって)生ずるさまざまな特性を発揮することはできないでしょう」


――その流動体は我々のいう電流と同じものでしょうか。


「今の回答の中で物質の性質を無数の形で結合すると申しました。地上界でいう電気とか磁気といったものもその流動体の変化したものです。が、厳密に言えば、普遍的流動体はそうしたものよりも純度が高く、霊妙で、それ独自の存在を有していると考えてもよいでしょう」


――霊も“もの”であるからには、これを“知的物体”と呼び物質を“不活性の物体”と呼ぶ方がより正確ではないかと思うのですが……


「用語の問題は我々にとってはどうでもよろしい。人間どうしで通じ合えるような用語をこしらえることです。地上の論争の大半は、五感に反応しないものに関して地上の言語が不完全であるために、用語について共通の同意が欠けていることから生じています」


訳注――穏やかな調子で回答しているが、実際はあきれてまともな返答ができないというのが、この時の霊側の正直な心境であったと推察される。この回答の後にも、また他のほとんどの回答にもカルデックのコメントが付してあるが、スピリチュアリズム勃興の初期にはやむを得なかったにしても、今日ではポイントがズレているので削除した。今後とも、よくよく気の利いたもの以外は訳出しない。読者各自の理解力で読み取っていただきたい。


――密度は物質の本質的属性でしょうか。


「そうです。ただし人間がいう物質の属性であって、普遍的流動体としての物質の属性ではありません。この流動体を構成する霊妙な物質は人間には計量できません。にもかかわらず地上の物質の基本的要素です」


編者注――地上の物質の密度も、あくまでも相対的なものである。天体の表面からある一定の距離以上まで離れると“重量”はなくなる(無重力状態)。“上”とか“下”がなくなるのと同じである。


――物質は一つの要素から成っているのでしょうか、それとも複数の要素で構成されているのでしょうか。


「一種類の基本的要素でできています。とは言え、単純に見える物体も実際は基本的元素そのものでできているのではありません。物体の一つ一つが根源的物質の変化したものです」


――物質のさまざまな特性はどこから生じるのでしょうか。


「各種の基本分子が合体したり、ある条件の作用を受けたりすることによる形態の変化によって生じます」


――その観点から言えば、各種の物体の特性、芳香、色彩、音色、有毒か健康に良いかといったことも皆、たった一つの基本的物質が変化したその結果にすぎないことになるのでしょうか。


「まさしくその通りです。そして、そうしたものを感知するように出来あがっている器官の機能のおかげでもあります」


――同じ基本的物質がさまざまな形態に変化し、さまざまな特性をそなえることが出来るわけでしょうか。


「その通りです。そして“全ての中に全てが存在する”という格言はその事実のことを言っているのです」


――その説は、物質の基本的特性は二つしかない――力と運動であるとし、その他の特性は全て二次的な反応にすぎず、その力の強さと運動の方向によって違ってくる、という説を支持しているように思えますが、いかがでしょうか。


「その説自体に間違いはありません。ただし、それにさらに“分子の配列の形態によって”という条件を付け加えないといけません。例えば不透明な物体が分子の配列しだいで透明になり、その逆にもなることはご存じでしょう」


――物質の分子には形態があるのでしょうか。


「あります。そのことに疑問の余地はありませんが、人間の感覚器官では確認できません」


――その形態は一定不変ですか、それとも変化しますか。


「原始的基本分子は不変ですが、基本分子の団塊である副次的な分子は変化します。地上の科学で分子と呼んでいるものは副次的なもので、まだまだ基本分子とは程遠いものです」


訳注――原始的基本分子を人間の科学では最初“原子”と呼び、その後“素粒子”と呼び、最近では“クォーク”と呼んでいる。これこそ物質の究極の相だろうと思ったものが、こうして次々と覆され、一九九四年には“トップクォーク”の存在が確認されている。が、右の回答は百年前のものとはいえ、このトップクォークでさえまだまだ究極のものではなさそうな感じを抱かせる。いずれにしても物質というものが五感で慣れ親しんでいるものとは全く違うもので、その意味で我々は仮相の世界、言わば錯覚の世界に生きていることがよく分かる。「そうしたものを感知するようにでき上がっている器官のおかげでもあります」というのはその辺を言いたかったのであろう。
〈宇宙空間〉


――宇宙空間は無辺でしょうか、それとも限りがあるのでしょうか。


「無辺です。もしもどこかに境界があるとしたら、その境界の向こうは一体どうなっているのでしょう? この命題は常に人間の理性を困惑させますが、それでも、少なくとも“それではおかしい”ということくらいは理性が認めるはずです。無限の観念はどの角度から捉えてもそうなります。人間の置かれている条件下では絶対に理解不可能な命題です」


――宇宙のどこかに絶対的真空というものが存在するのでしょうか。


「いえ、真空というものは存在しません。人間から見て真空と思えるところにも、五感その他いかなる機器でも捕らえられない状態の“もの”が存在しています」

シルバー・バーチの霊訓 (一)

 Guidance from Silver Birch

Edited by Anne Dooley

八章 愛の力

 愛は大きさを測ることができません。重さを測ることもできません。いかなる器具をもってしても分析することはできません。なのに愛は厳然として存在します。宇宙における最大の力です。大自然の法則を機能させる原動力です。

愛あればこそ全大宇宙が存在するのです。宇宙がその宿命を成就し、全存在がそれぞれの宿命を成就していく背後にはこの愛の力が存在します。

生命活動の原動力であり、霊の世界と物質の世界の間に横たわる障害を克服していくのも愛の力です。辿り着いた高級霊界からの遼遠の旅路の末に再び地上に舞い戻り、古くかつ新しい名言〝愛は死を乗り超える〟を改めて宣言することができるのも、この愛あればこそです。

 あなた方を今日まで導き、これ以後もより一層大きな霊的回路とするための受容力の拡大に心を砕いてくれている背後霊の愛に目を向けて下さい。

昼の後には夜が訪れるように、春の後には夏が訪れるように、種子を蒔けば芽が出るように、霊は着実に開眼し一歩一歩その存在意義の成就に向けて階段を昇ります。日常の煩瑣(はんさ)な雑事の渦中にあって、時には僅かの時間を割いて魂の静寂の中に退避し、己れの存在の原動力である霊性に発現の機会(チャンス)を与えて下さい。

 心に怖れを宿してはいけません。完全に拭い去らないといけません。誕生以来今日までずっとあなたを導いてきた霊が、今になって見捨てるはずがありません。これまで日夜あなたの生活の支えとなってきたのであり、これ以後もずっと支えとなることでしょう。

なぜなら、あなたに絶対成就してもらわねばならない仕事があるからです。霊がこの世へ携えて来た能力がこれからもその役目を果たしていきます。こちらから援助に当たる霊の背後には宇宙の大霊すなわち神の力が控えております。それは決して裏切ることはありません。

 宇宙は無限・無窮の神的エネルギーによって存在しております。しかし地上の人間の圧倒的多数はそのエネルギーのごくごく僅かしか感識しておりません。

受け入れる条件が整わないからです。ですから、あなた方人間はその神の恩寵を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく開く方法を学ばねばなりません。それには信念と信頼心と信仰心と穏やかさと落着きを身につけなければなりません。

 そうしたものによって醸し出される雰囲気の中にある時、無限のエネルギーから莫大な豊かさを受けることができます。それが神の摂理なのです。そういう仕組みになっているのです。受け入れ、吸収する能力に応じて、エネルギーが配給されるということです。

受容力が増せば、それだけエネルギーも増します。それだけのことです。悲哀の念が消えるに従って、魂を取り巻いていた暗雲が晴れ、確信の陽光がふんだんに射し込むことでしょう。

 宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも神の愛があればこそです。全宇宙を経綸し全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が自分の愛する者だけでなく血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差しのべんとする同胞愛に燃えます。

愛は自分より不幸な者へ向けて自然に手を差しのべさせるものです。全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、よりいっそうの表現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込みます。そして、いつの日か、全宇宙が神の愛によって温かく包まれることになるでしょう。

 好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。そこには徳性も神聖さもありません。好感の持てない人を愛する──これが魂の霊格の高さを示します。あなたに憎しみを抱いている人のもとに赴くこと、あなたの気に食わぬ人のために手を差しのべること、これは容易なことではありません。
 
確かに難しいことです。しかし、あなた方は常に理想を目標としなければいけません。他人に出来ないことをする、これが奉仕の奉仕たる所以だからです。可哀そうにと思える人に優しくする、これは別に難しいことではありません。気心の合った人に同情する、これも難しいことではありません。が、敵を愛する、これは実に難しいことです。

 最高の徳は愛他的です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛する、これです。愛らしい顔をした子供を治療してあげる、これはやさしいことです。しかし、奇形の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心掛けでは出来ません。が、

それが奉仕です。真の愛は大小優劣の判断を求めません。愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。宇宙の大霊は無限なる愛であり、自己のために何も求めません。向上進化の梯子を登って行けば、己れのために何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿り着きます。ただ施すのみの世界です。

 願わくばあなた方の世界も是非そうあってほしいと思うことしきりです。私たちのことが理解できない人々はいろいろと勝手なことを言ってくれますが、私たち自身はどう評価されたいとも思っておりません。

手の届くかぎりの人々に手を差しのべたいと思うだけです。その意味でも、あなた方には霊の世界の最高レベルの階層と感応するよう努力していただきたい。

あなた方は決して孤軍奮闘しているのではないこと、まわりにはあなた方を愛する人々、手引きし援助し鼓舞せんとする霊が大勢取り囲んでいることを認識していただきたい。

そしてまた、霊的開発が進めば進むほど、宇宙の大霊である神へ向けて一歩一歩近づきつつあり、よりいっそう、その摂理と調和していきつつあることを理解していただきたいのです。

 単なる信仰、ただそう信じているというだけでは、厳しい体験の嵐が吹けばあっけなく崩れてしまいます。が知識に根ざした信仰はいかなる環境にあってもゆるぎない基盤を提供してくれます。霊の力の証を授からなくても信じられる人は幸いです。が、

証を授かり、それ一つを手掛かりとして他の多くの真理を信じることのできる人は、それ以上に幸いです。なぜならばその人は宇宙の摂理が愛と叡知そのものであるところの霊の力によって支配されていることを悟っているからです。

 人生とは生命そのものの活動であり、霊的であるが故に死後も永遠に続くことは立証可能な事実です。かくして人間は地上にあっても霊的存在であり物質的存在ではないこと、すなわち身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではないということを自覚することができます。

物質界への誕生は測り知れない価値ある遺産の一部を享けることです。霊であるからこそ物質と結合し、活動と生命を賦与することができるのです。その霊は宇宙の大霊の一部であり、本質的には神性を具え、性質的には同種のものであり、ただ程度において異なるのみです。

 我欲を棄て他人の為に自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就し始めることになります。家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。

排他性の内向的愛よりも発展性の外向的愛の方が上です。いかなる資質にも上等のものと下等のもの、明るい面と暗い面とがあるものです。

 家族的な愛は往々にして排他性を帯びます。いわゆる血のつながりによる結びつきです。それは進化の過程における動物的段階の名残りである防衛本能によって支配されていることがよくあります。が、愛の最高の表現は己れを思わず、報酬を求めず、温かさすら伴わずに、全てのものを愛することができることです。

その段階に至った時は神の働きと同じです。なぜなら自我を完全に滅却しているからです。

愛は人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛はまた、滅私と犠牲の行為となって表われます。

 霊の世界へ来た者がなぜ地上に舞い戻って来るかご存知ですか。大多数の人間にとって死は有難いことであり、自由になることであり、牢からの解放であるのに、なぜ戻って来るのでしょうか。霊の世界の恩寵に存分に浸っておればよいはずです。

地上の住民を脅かす老いと病いと数々の煩悩に別れを告げたのです。なのに、地上との間に横たわる測り知れない困難を克服してまで自ら志願して帰って来るのは、あなた方への愛があるからです。彼らは愛の赴くところへ赴くのです。

愛のあるところに存在するのです。愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。霊界において如何なる敵対行為が私達へ向けられても、妨げんとする邪霊集団の勢力がいかに強力であろうと、それが最後には効を奏することができないのは、そうした愛に燃えた霊たちの働きがあればこそです。
 
 これまでに得させて頂いたものを喜ぶべきです。浴し得た恩寵に感謝すべきです。愛は死よりも強いこと、立ちはだかる障害も愛によってきっと克服されるという認識を得たことを有難く思うべきです。あなた方を包む愛によって存分に慰められ、支えられ、励まされるがよろしい。

その愛の豊かさはとても私には表現し尽くせません。時には何とか伝えてみようと努力することもあるのですが、あなた方の心臓の鼓動よりもなお身近にあるその愛の深さはとうてい人間の言語では表現できません。

 あなた方はこれまで、愛に発する利他的行為、英雄的行為、奉仕的行為、滅私的行為による目覚ましい成果を見て参りましたが、霊界の高級霊が生命力そのものを結集してあなた方を温く包む、その愛の底知れぬ潜在力はとうてい推し測ることはできません。

もっとも、それを受け入れる器がなければ授かりません。それが摂理なのです。理屈は分かってみれば簡単です。資格ある者が授かるというだけのことです。

霊力は無尽蔵です。それに制限を加えるのは人間の受容能力です。人間が少しでもその受容能力を増せば、その分だけを授ける用意がこちらにはいつでも出来ております。が、それ以上のものは絶対に授けることはできません。

 常に上を向いて歩んで下さい。下を向いてはいけません。太陽の光は上から差します。下からは照らしません。太陽は永遠の輝きの象徴です。霊的太陽は啓蒙と活力の源泉です。内在する霊に刺激を与えます。自分が本質において永遠なる存在であり何事も修行であることを忘れぬ限り、何が起きようと意気消沈することはありません。

霊性は書物からは得られません。先生が授けるものでもありません。自分自身の生活の中で、実際の行為によって体得しなければなりません。それは個性の内部における神性の発芽現象なのです。

 神聖こそ、その無限の愛の抱擁力によって私たちを支えている力であり、その尊い遺産を発揮し宿命を成就するよう導いてくれる力です。宇宙における最大の力であり、極大極小の別なく全ての現象を根本において操っております。魂のそれぞれの必要性を察知し、いかにしてそれを身につけるかを知らしめんと取り計らってくれます。

自分とは一体何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつかを徐々に悟らせる方向へと導いてくれます。ですから、私達は愛をもって導いてくれるこの力に安心して身を任せようではありませんか。その愛の導きに身を委ね、いついかなる時も神の御手の中にあることを自覚しようではありませんか。

 完全なる愛は恐怖心を駆逐します。知識も恐怖心を駆逐します。恐怖は無知から生まれるものだからです。愛と信頼と知識のあるところに恐怖心は入り込めません。進歩した霊はいついかなる時も恐れることがありません。なんとなれば、自分に神が宿る以上は人生のいかなる局面に遭っても克服できぬものはないとの信念があるからです。

これまであなたを包んできた愛が今になって見放すわけがありません。それは宇宙の大霊から放たれる無限なる愛であり、無数の回路を通して光輝を放ちつつ地上に至り、人のために役立たんと志す人々の力となります。

気力喪失の時には力を与え、悲しみの淵にある時は慰めを与えてくれます。あなたの周りに張りめぐらされた防御帯であり、決して破られることはありません。神の力だからです。

 私ども霊界の者が是非とも提供しなけらばならない証は、愛が不滅であること、死は愛し合う者の仲を裂くことはできないこと、物的束縛から脱した霊は二度と死に囚われることがないということです。愛の真の意義を悟るのは霊の世界へ来てからです。

なぜなら愛の本質は霊的なものだからです。愛は魂と魂、精神と精神とを結びつけるものです。宇宙の大霊の顕現なのです。互いが互いのために尽くす上で必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。邪なるもの、害なるものを知りません。愛は己れのためには何も求めないのです。

 死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。いわば第二の誕生です。死こそ真の生へのカギを握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わうことを可能にしてくれます。

愛によって結ばれた仲が死によって引き裂かれることは決してありません。神の摂理が顕幽の隔てなく働くと言われるのはそのことです。愛とは神の摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩── 愚かさ、無知、依怙地、偏見等々を乗り超えて働きます。

 二人の人間の愛の真の姿は魂と魂の結びつきです。神はその無限の叡知をもって、男性と女性とが互いに足らざるものを補い合う宿命を定めました。両者が完全に融合し合うことこそ真の愛の働きがあり、互いに補足し合って一体となります。

愛は無限なる霊の表現ですから、低い次元のものから高い次元のものまで、無限の形をとります。すなわち磁気的で身体的な結びつきから精神的な結びつき、さらには根源的な霊的な結びつきへと進みます。

その魂と魂との結びつきが地上で実現することは極めてまれなことであり、むしろ例外的なことに属します。が、もし実現すれば両者はその宿命を自覚し、一体となります。これが魂と魂との真の結婚の形態です。

 これは本来一体である親和性をもった魂が二つに分かれて地上へ顕現しているという、いわゆる〝同類魂〟(アフィニティー)の思想で、古来からあります。それが再び一体となるには何百万年、何千万年もの歳月を要します。それが僅か五十~七十年の短い期間に地上という小さな天体上で巡り合うということは極めて異例のことです。

幸いにしてその幸運に浴した時は、それは神がそう図られたとしか考えられません。そしてそのアフィニティーの二人は死後も融合同化の過程を、人智を超えた歳月にわたって続けます。人間的個性を少しずつ脱ぎ捨て、霊的個性をますます発揮していき、その分だけ融合の度合いを深めていくことになります。
 
 愛は血縁に勝ります。愛は死を乗り超えます。愛は永遠不易のエネルギーです。それが宇宙を支配しているのです。神の意図によって結び合った者は生涯離れることなく、死後も離れることはありません。墓には愛を切断する力はありません。愛は全てのものに勝ります。

なぜなら、それは宇宙の大霊すなわち神の一表現だからです。そして神の統一体(※)としての一部を構成するものは永遠にして不滅です。(※それを欠けば完全性を失う必須の存在。──訳者)