Tuesday, July 14, 2026

シルバーバーチの教え(上)

Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)

近藤千雄(訳)


9章 キリスト教の人工的教義の間違い


〔英国国教会内部にも教義の解釈についての意見の衝突がある。そこで二十五人の神学者が十五年の歳月を費やして、国教会としての統一見解をまとめる作業を続け、一九三八年一月にようやく「英国国教会の教義」と題する大部の報告書を発行した。その中のいくつかの項目が読み上げられるのを聞いてから、シルバーバーチがその一つひとつにコメントを加えた。〕(太文字が引用文)


■「イエス・キリストの復活」は、人類史上におけるきわめて特殊な神の御業(みわざ)である。


そんな結論に達するのに十五年もかかったのですか。ナザレのイエスを裏切っているのは自ら“クリスチャン”を名乗っている人たちであるとは、まさにその通りです。

「復活」は生命の法則の一環です。肉体の死とともに、すべての魂は復活するのです。復活はイエス一人だけのものではなく、大霊の子のすべてに生じるものです。いずれすべての人間が死の関門を通過し、物的身体を捨て去り、霊的身体で新しい生活を始めるようになります。地上人は、すべての時を霊界での生活に備えて過ごしているのです。

イエスは自然法則に反するようなことは一度もしていません。そもそもイエスが地上界へ降りてきたのは、大霊の摂理を実行するためでした。イエスのすべての行為、すべての教えは、大霊の摂理の一部でした。イエス自身こう述べているではありませんか――「こうしたことのすべては、あなた方にもできるし、あなた方はもっと大きなこともできるようになる」と。

イエスを、大霊の子供たちが近づけない天界のはるか高い位置に持ち上げるなら、せっかく彼が地上へ降誕した使命は台なしになってしまいます。なぜならイエスの地上人生の究極の目的は、「地上の人間も内在する大霊を人生の中で顕現させるなら、これほどのことが可能なのだ」ということを証明するところにあったからです。

そしてイエスは霊界へ戻った後、再び同じ姿を取って地上で縁のあった人々の前に現れました。これをキリスト教では「復活」と呼んでいます。イエス以前にも死者が生前の姿で現れた例はたくさんありますし、イエス以後にも数えきれないほどあります。

この宇宙に“特別”というものは存在しません。すべてが大霊の摂理(法則)によって統制されており、常に何かが起きているという事実そのものが、法則が実在することを証明しているのです。


■洗礼は、幼児洗礼であっても、罪を犯させようとする影響力の支配から逃れる手段である。聖人とされる人物でも、もし洗礼を受けていなければ、その意味で欠陥があることになる。


いかなる聖職者(司祭)も魔法の力は持ち合わせていません。水を水以外のものに変える力はありません。赤子の額に水を二、三滴振りかけたからといって、それでその子の人生――地上だけでなく死後も含めて――に何も変化が生じるわけではありません。振りかける前も振りかけた後も、ただの水です。司祭にはその成分を変える力はありませんし、法則と違った結果を生み出す力もありません。

魂は洗礼によって何の影響も受けません。あなたの魂を進化させる力を持った人間はいません。魂の進化は、地上での生活を通して、あなた方自身が達成していくものなのです。自分の行為が生み出す結果を、他人が取り除くことはできません。自分で償い、自分で報いを受けることによって成就していくものなのです。

“聖人”と洗礼とは何の関係もありません。日常生活の中で、可能なかぎり完全に近い行いをすることによって大霊を顕現させ、少しでも多く神性を発揮しようとする人が“聖人”なのです。


■当委員会は、神がその気になれば奇跡を生じさせることができるという点では一致をみたが、果たして奇跡的現象というものが起きるものであるか否かについては意見が分かれた。


さらに十五年も討議すれば、委員会は結論を出せたのでしょうか。何という情けない話でしょう! (聖書にある)盲人が盲人を手引きしているとは、まさにこのことです。その程度の者たちが人類を導いているのです。そして奇跡的な現象が起きるか否かは分からないと、まるで他人事(ひとごと)のように言っています。(原因がないという意味での)奇跡は存在しません。これまで一度も起きておりませんし、これからも絶対に発生しません。

大霊はあくまでも大霊です。大霊の法則の働きは完璧です。それは大霊の完全無欠性によって生み出されたものだからです。その法則が万一機能しなくなったとしたら、宇宙は大混乱をきたします。大霊が予測しなかった事態が生じて創造機構の手直しをしなければならなくなるとしたら、大霊は完全無欠ではなくなります。

(キリスト教で言うように)もしも選ばれた少数の者を寵愛するために奇跡を生じさせるとしたら、大霊は分け隔てをする不公平な神であることになり、全生命の源である無限の存在ではないことになります。委員会のメンバーは、そのお粗末な概念によって、大霊を何とちっぽけな存在に貶(おとし)めていることでしょう。

彼らは高次元の摂理について無知であり、霊力の存在についても知らず、霊界の上層からもたらされる霊力に触れたことがないために、霊媒を通して演出される現象が理解できないのです。

委員会のメンバーは、イエスにまつわる現象(しるしと不思議)が今日の物理法則に矛盾すると思い、“奇跡”というものを考え出さなければならなかったのです。彼らが霊的法則の働きを知れば、大霊は昔も今も未来永劫、不変であることを理解するようになります。地上人生において大霊から授かった霊的資質を発揮するならば、誰もが大霊の力を活用することができるようになるのです。


■もし奇跡が生じるなら、それは秩序の破壊ではなく神の意思の表現であり、それが自然界の新たな秩序を決定づけることになる。それゆえ決して不合理なものでも気まぐれなものでもないのである。


委員会のメンバーは、大霊の法則は無窮(むきゅう)の過去から存在し、無窮の未来まで存在し続けるということを理解していません。地上人類が新しい法則を発見したといっても、それは性能のよい器機の発明によって、それまで知らなかった宇宙の生命活動の一端を知ったというだけで、人間が新しいものを創造したというわけではありません。もともと存在していたものを見つけ出したにすぎません。

あなた方が何かを創造するということは不可能です。すでに存在している被造物の一部を発見することしかできません。また、大霊の法則に反して何かが発生することもあり得ません。人間がその存在を知ると知らないとに関係なく、大霊の法則のすべては、ずっと存在しているのです。

したがって大霊が新たに法則を考案する必要はありません。宇宙の経綸に必要な法則は残らず用意されており、それは未来にわたっても働き続けます。大霊は完全無欠であるがゆえに、あらゆる状況に適応する法則を準備しておられるのです。


■クリスチャンの立場からすれば、聖書は神の特殊な啓示を記録したもので、唯一無二のものである。


何という精神の暗さでしょう! いったいどこまで盲信の暗闇に閉ざされているのでしょう! 彼らを取り囲む壁は何と厚く、盲信の砦(とりで)を守る暫壕(ざんごう)の何と深いことでしょう!

物質界というものが出現して以来、多くの大霊の使徒が地上界へ降誕して啓示をもたらしてきました。それは当然、その時代の言葉で語られました。啓示の内容はその時代の必要性や、その国の事情に応じたものであり、人々の精神的・霊的な発達程度に合わせたものでした。要するにその啓示の意味が理解されやすい形で――レベルが高すぎて手が届かないことにならないようにとの配慮のもとに――与えられました。

一方、進化のプロセスはどこまでも続いていきます。地上人類が成長し進化すれば、それに相応しい新たな指導者、新たな預言者、新たな霊能者が派遣され、その時代が必要とするビジョン、理想、預言、メッセージ、インスピレーション、真理等が授けられます。啓示には終わりというものがありません。なぜなら大霊は完全無欠の存在だからです。

新たな啓示は古い啓示と一貫しており、矛盾していません。今私たちが説いている真理は、ナザレのイエスによって説かれた真理を否定するものではありません。イエスも、モーセの説いた真理を否定してはいません。そして私たちのあとに現れるであろう次代の指導者も、今私たちが説いている真理を否定することはありません。

しかし明日の大霊の子らは、今日の子らよりも一段と高い進化の段階にいますから、彼らに明かされる真理は、今あなた方に説かれている真理よりも一段と進歩的なものになります。


■クリスチャンにとってキリストは、唯一の、そして不可欠の(神との)仲介者である。父(神)とキリストとのつながりは直接的であったが、我々クリスチャンとのつながりはキリストを介して行われる。


これは間違いです。大霊は、あなた方一人ひとりの内に存在しています。同時にあなた方一人ひとりは、大霊の内に存在しているのです。イエスも「神の王国はあなた方の中にある」と述べているではありませんか。クリスチャンはなぜ、こんなにもイエスの教えを理解していないのでしょう!

(クリスチャンだけでなく)いかなる人間も大霊から切り離されることはありませんし、大霊が人間から切り離されることもありません。いかに重い罪を犯した人間であっても、それによって大霊から切り離されることは絶対にありません。人間と大霊とを結んでいる絆は永遠に断ち切ることができないものであり、大霊との関係が失われてしまうようなことは決してないのです。

人間は、内在する神性を日常生活の中で顕現させるにつれて大霊に直接的に接近していくことになります。あなた方一人ひとりに大霊の分霊が宿されているのであり、大霊とあなた方との間に仲介者を立てる必要などありません。

ナザレのイエスは、そんな目的のために降誕したのではありません。人間はいかに生きるべきか、いかにすれば内部の神性を顕現させられるかを教えるために地上界へ降りてきたのです。

キリスト教の神学は、地上世界にとってまさしく“災いのもと”です。人類にとって大きな手かせ・足かせとなっています。人々の魂を牢獄に閉じ込めています。それから逃れるためには、自らを縛っている人工的教義と間違った信条を断ち切り、霊的インスピレーションによって示される本物の真理に目覚めることです。人間の知性は大霊のインスピレーションに優るものではありません。


■「キリストの復活」は、永遠の生命という希望を裏付けるものである。


またしても何というお粗末な認識でしょう! 人間は内部に大霊の分霊を宿しているからこそ存在しているのです。物質は霊によって存在しているのです。霊は永遠の実在であり、破壊できないものです。霊は不滅にして無限なる存在です。

あなた方は霊であるからこそ、墓場を越えて火葬の炎の向こうまで生き続けるのです。物質界にも霊界にも、内部に秘められた神性を破滅させることができるものはありません。人間の内部の神性は、誕生とともに大霊から授かった最も重要な贈り物なのです。

あなた方が今生きているのは霊だからこそです。墓場を越えて生き続けるのも霊だからこそです。霊であればこそどこまでも永遠に生き続けるのです。霊はいかなる指導者とも無関係です。霊は、あなた方が生まれつき持っている権利であり、大霊からの賜物(たまもの)なのです。

なぜかクリスチャンは、宇宙の創造主であり、千変万化の大宇宙の営みを経綸する大霊(神)を限定して考えようとします。彼らのしていることがお分かりでしょうか。物質界でわずか三十三年を生きた人物(イエス)と大霊を同列に扱っているのです。しかも大霊の恩寵(おんちょう)は、イエスを信じた者だけに与えられると説いています。何と情けないことでしょう! 「宗教」という言葉をこれほど辱(はずかし)める教義はありません。イエスご自身がどれほど悲しみと嘆きの涙を流しておられるか、知っているのでしょうか。いまだにクリスチャンは、イエスを磔(はりつけ)に処し続けているのです。

自らを“クリスチャン”と名乗ったからといって、また、教会に所属したからといって、それで「地の塩(模範的人間)」になれるわけではありません。地上で身につけたラベル(名誉ある地位や肩書き)は霊界では通用しません。教義を厳格に守ったからといって大したことではありません。あなた方にとって大切なことはただ一つ――地上にいる間にどれだけ内在する大霊を顕現させたか、それだけなのです。


■キリスト教の「贖罪(しょくざい)」の教義の根本にあるのは、それが本質的に神の御業であり、神がキリストの調停によって人類と和解したとの確信である。


これは、嫉妬と怒りに燃えた神をなだめすかすために、最愛の子を血の犠牲にしなければならなかったという、あの古くからの贖罪説の焼き直しでしょうか。大霊は怒りっぽい人間より、もっと残酷で無慈悲だとでも言うのでしょうか。我が子と和解するのに血の犠牲を要求するとでも言うのでしょうか。大霊とイエスをこれほど哀れな存在に貶める説はありません。

イエスみずからが愛と慈悲と優しさに満ちた“父”のごとき存在と説いた大霊のご機嫌を取るために、なぜ血を流さなくてはならないのでしょうか。地上の人間は一人の例外もなく、自分の努力で人格を形成し、自分の努力で霊的進化を達成するために地上界へ来ているのです。

もし、あなた方が利己的な生き方を選ぶなら、それなりの代償を払わなくてはなりません。人のために役立つ道を選ぶなら、人間性の発達という形で報われます。摂理の働きによってそのようになっているのであり、いかに偉大な指導者といえども、その働きを変えることはできません。

もしも間違いを犯したら、潔くその代価を支払えばいいのです。屁理屈をこねて、他人に責任を転嫁するようなことをしてはいけません。

私たちの世界では利他的で霊性が優れた者は、利己的な者よりも高いレベルの界層にいます。それ以外にありようがないのです。もしも、利己的な生活を送った人が死後、生涯を他人のために捧げた人と同じように高い界層に行けるとしたら、それは大霊と大霊の完全な正義を愚弄(ぐろう)することになります。

もちろん、そんなことはありません。人生は、あなた方自身が形成していくものです。どのような地位にあろうと、職業が何であろうと、家柄が高かろうと低かろうと、問題ではありません。肩書きや階級、人種や民族や国家といったものとは関わりなく、すべての人間に奉仕(サービス)のチャンスは等しく与えられているのです。もし、あなた方がそのチャンスを無視するなら、それ相当の代償を払うことになります。その摂理の働きを妨げられる者はいません。

イエスの言葉を引用して終わります――「自分が蒔いた種は自分で刈り取らなければならない。」


〔当日の交霊会を総括してシルバーバーチが次のように述べた。〕


私は皆さん方に、イエスが説き、私たちが語っているシンプルな真理と、今地上において宗教界のリーダーと目されている人たちが説いている教説とを比較していただきたいのです。

私たちはあなた方に、メッセージをお届けしています。それはあなた方の理性に反することのない、知性を侮辱(ぶじょく)することのないメッセージです。それはシンプルな霊的真理をもたらします。

私たちはまず、あなた方地上人がいちばん求めていること、すなわち他界した愛する人々は今も生き続けており、「死」は永遠の別れではないという証拠を示します。

次に私たちは、霊界からもたらされる霊力は、人類を向上させるために献身している人々を鼓舞しているという事実を明かします。霊力は、人生を生き甲斐のあるものに、そして調和のとれたものにするための“豊かさ”をもたらしてくれるのです。

さらに私たちは、病んでいる人々の苦痛を和らげるために霊的治療エネルギーをもたらします。私たちは、地上の人々に互いに助け合って生きる方法を教えるという神聖な使命を果たすために、力を結集して努力しているのです。

私たちは、これまでの人類の歴史の中で大霊のインスピレーションに触れた者たちが説いたのと同じ真理を繰り返し述べています。神の摂理の存在を強調し、それらがどのような形で働いているかを明らかにしています。そして私たちは同じ法則を使用して、過去に起きた現象を今、再現させているのです。

しかし実際には、本来なら霊力の働きを認めるべき人々(聖職者たち)から拒絶されています。彼らは“神学”という名の隔離された世界に身を隠しています。“教条主義”という名の修道院に閉じこもっています。

彼らは、内心では怖いのです。霊的真理が地上人類の間に広まれば、司祭も牧師も主教も大主教も要らなくなってしまうことを知っているからです。

本日、国教会の「報告書」の一部を聞かせていただき、教条主義が徐々に勢力を失い、代わって私たちの使命が成功しつつあることを改めて確信いたしました。

Monday, July 13, 2026

シルバーバーチの教え(上)

 Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編)

近藤千雄(訳)



8章 地上の宗教の間違い


〔これから紹介するシルバーバーチのキリスト教批判に対して多くの人は、いささか酷(こく)なのではないかと思われることであろう。が、シルバーバーチをよく知る人なら、よほどの根拠がないかぎり批判は口にしないことをご存じであろう。シルバーバーチは常に理性に訴え、理性が納得できない宗教の教えに鋭い批判を向けている。〕


宗教の教義(信条)による束縛は、地上界の悲劇の一つです。それは重い疫病よりも悪質で、肉体の病気の苦しみよりも、はるかに酷(ひど)い苦痛をもたらします。なぜならそれは「魂の病(やまい)」を生み出し、霊に目隠しをしてしまうからです。

地上人類は、大霊の無限の叡智が存在するにもかかわらず、いまだに教義にしがみついています。なかには教義に縛られている方が気楽だと考える人もいます。「自由」とは、自由であることのありがたさを知った人のためのものです。ここに集っている皆さんは、教義の牢獄から脱したことを喜んでください。そして喜ぶだけでなく、今なお隷属状態にある人々を解放してあげるために努力してください。

私たちはあなた方に、いかなる教義も儀式も作法も要求しません。ただひたすら、大霊の愛がその子供たちを通して顕現するように努力しているだけなのです。そのためには、いかなる書物にも、いかなるドグマ(教義)にも縛られてはいけません。いかなるリーダーにも、いかなる権威にも、いかなる学識にも、また崇敬の対象とされるいかなる聖遺物にも縛られてはいけません。あなた方はひたすら、大霊の摂理に従うようにしてください。大霊の摂理こそが宇宙で最も偉大なものであり、唯一最高の権威あるものなのです。

教会と呼ばれているものの多くは、中世の暗黒時代の遺物です。大霊は、どのような建物の中にも閉じ込められることはありません。大霊はあらゆる所に存在しています。人間は石を積み重ね、その上に尖塔(せんとう)をそびえ立たせ、ステンドグラスで窓を飾って大霊を喜ばせようとしてきました。しかし、そんなもので大霊が喜ばれるわけはありません。

大霊は、自らが用意した太陽の光が地上の子供たちの心を明るく照らし、降り注ぐ雨が子供たちのための作物を実らせることを喜ばれます。ところが残念なことに、その大霊の恩寵(おんちょう)と子供たちとの間に、とかく教会が、政治家が、そして金持ちが介入します。こうしたものを何としても取り除かなければなりませんし、今まさに取り除かれつつあります。

霊力を過去の時代のものとして考えるのはやめにしなければいけません。ナザレのイエスを通して働いた霊力は、今も働いているのです。あの時代のユダヤの聖職者たちは、イエスを通して働いている霊力を悪魔のものであるとして認めませんでしたが、今日の聖職者たちも同じ霊力を同様の理由で拒絶します。しかし、地上界も進歩しました。その霊力を駆使する者を十字架にかけることはしなくなりました。

イエスが放った光輝は、あの時代だけのものではなく、今も輝き続けています。イエスは今、どこにいると思いますか。イエスの人生はエルサレムで終わったと思っているのでしょうか。それともイエスの偉大なる霊は、苦悩と混乱と敵意に満ちた地上世界にいるとお考えでしょうか。

私たち霊界の者からの働きかけを信じず、悪魔のささやきであると決めつけているキリスト教の聖職者たちは、その昔、ナザレのイエスに非難のつぶてを浴びせたユダヤ教の聖職者たちと同じです。私たちは、イエスと同じ大霊の霊力を携えて地上界へ降り、奇跡(心霊現象)を起こし、大霊のメッセージを届けています。それは「喪の悲しみに暮れる人を慰め、病める人を癒し、暗闇に閉ざされた人に光をもたらし、疲れ果てた人には生きる勇気を与え、真理を知らずにいる人には霊的知識を教えよ」とのメッセージです。

私たちもあなた方も、等しく大霊の僕(しもべ)です。ただ私たちは進化の道程において、あなた方よりも少しだけ先を歩んでいます。そこで私たちは、あなた方に奉仕するために地上世界に戻ってきました。奉仕(サービス)こそ大霊の摂理だからです。奉仕精神のないところには荒廃が生まれます。奉仕精神のあるところには平和と幸せが生まれます。地上世界は「互いに奉仕し合う」という新しい生活形態を築かなければなりません。それは本当は至って簡単なことなのですが、なぜか現実には、とても難しいことになっています。

誠に残念なことですが、“神の使徒”をもって任ずるキリスト教の聖職者たちには、一から学び直してもらわなければならないことがたくさんあります。彼らは不安定な砂の上に自分たちの宗教を築き上げました。その“砂上の楼閣”は、スピリチュアリズムの霊的真理の猛攻撃を受けて崩れかけようとしています。彼らは、それを必死に支えようとしているのです。

そもそも土台が間違っているのです。彼らは、イエスを作り話で塗り固めてきました。そうすることでイエスを神と同じ位(くらい)に祭り上げたのですが、その根拠には何の正当性もないため、徐々にそれを撤回せざるをえなくなっています。ところが撤回しようとすると、彼らの心に恐怖が湧いてくるのです。「それを失ってしまったら、あとには何も残らない」との危惧(きぐ)を抱くのです。キリスト教が真実を土台としていたなら、すなわち自然の摂理の上に築き上げられた宗教であったなら、撤回しなければならないものは何ひとつなかったはずなのです。

そこに、私たちが地上界へ舞い戻ってきた理由があるのです。いかなる人物であろうと、一人の人間に服従してはいけません。いかなる書物であろうと、いかなる教会であろうと、それを盲信してはいけません。地上界の人間であれ霊界の存在であれ、どのような指導者にも盲目的に服従してはいけません。絶対的忠誠を捧げるべきは「大霊の摂理(法則)」だけです。それだけが誤ることもなければ裏切ることもないからです。

だからこそ私たちは、大霊の摂理を説いているのです。それを“スピリチュアリズム”と呼ぼうと何と呼ぼうとかまいません。大霊の摂理があらゆる世界――目に見える物質界であろうと目に見えない霊界であろうと、そのすみずみまで支配していることを理解していただけばよいのです。

地上界では指導者たちが重んじられてきました。そして過大評価され、“神学”という厄介なものをつくり出すことになりました。その神学が、科学者や思想家、そして精神だけは自由でありたい、理性が反発するものは受け入れたくないと思っている真っ正直な人々を困惑させることになりました。

そこで私たちは大霊の摂理を強調するのです。摂理に対する正しい理解こそが、すべての知識を調和させるからです。摂理は、科学者や哲学者や自由思想家、その他いかなる分野の人々にも反発を覚えさせることはありません。それは永遠にして不変の大霊の働きを土台としているからです。

あなた方は、私たちが説いている叡智の背後に、高級霊団の存在があることを知ってください。地上人類は叡智と理解力が増すにつれて、大霊の摂理に従って生活を規制していくようになります。摂理に従って生きることの大切さを自覚するようになります。地上界の悲惨さや窮乏(きゅうぼう)、苦難や悲嘆はすべて、大霊の摂理が守られていないところから引き起こされていることを悟るようになるのです。

そうした理解が行きわたったときには、大霊の庭にはびこっている醜悪な雑草は取り除かれることになります。私たちは、人類の魂を解放し、精神を自由にしてあげるだけでなく、身体的にも大霊の摂理と調和して生きていけるようにしてあげるという目的を持って、大霊の摂理の存在を説いているのです。

私は、真理を説くチャンスがいくらでもあるのに、それをしようとしないキリスト教会を認めることはできません。忠実に仕えなければならないイエスを裏切るようなことばかりしていること、イエスを人間の生き方の模範としてではなく神の座に祭り上げ、物質界の子らの手が届かない存在にしてしまったことに我慢がなりません。

本当なら教会の入り口には「我らが忠誠を捧げるのは真理、ただ真理のみ」とあるべきところを、実際には「我らは信条を説き、教義を旨とし、儀式を重んじ、祭礼を絶対視する」と書かれています。教会は真理に敵対する手段となっているのです。

私は、聖職者として神に仕えたいと真摯(しんし)に望んでいる人を非難しているのではありません。そういう人が少なからずいることを、私はよく知っています。私が非難しているのは“組織”です。組織が真理への道を閉ざし、古い慣習を温存し、精気みなぎる霊力が顕現するための場所を奪い去っているからです。そんな教会に、どうして霊力が顕現することができるでしょうか。教会は自分たちの説教に対して“立入禁止区域”を設けているのです。

私たちは、大霊と自然法則の存在を説きます。私たちは大霊の法則の働きを示す道具です。イエスもやはり大霊の道具であり、地上の人間にとっての良き手本です。あなた方も大霊から授かった霊力を発揮しさえすれば、イエスと同じ生き方ができるようになるのです。

信条・ドグマ・教義・儀式・祭礼・ステンドグラス・祭壇・法冠・外衣――こうしたものがいったい宗教と何の関係があると言うのでしょうか。宗教は霊と一体関係にあります。霊はすべての創造物に宿り、生命のあらゆるリズムと生命現象の中で自らを現し、大自然のあらゆる側面に顕現し、人類の進歩のために寄与している理想主義者や改革者を鼓舞しています。その霊が一つの教義と何の関わりがあると言うのでしょうか。

「自由」とはどういうものであるかを学ばなければなりません。魂を牢獄に閉じ込めておいてはなりません。自分のまわりに障壁を築いて、新しいインスピレーションを拒絶するようなことをしてはなりません。真理探求の道は無限に続きます。

知識にも真理にも、叡智にも成長にも、これで終わりという限界がないことを悟ったとき、あなたは自由になるのです。心の中で間違っていると感じていること、理性が得心していないことを潔く捨て去ったとき、その時こそあなたは自由になるのです。あなたの知性が反乱の雄叫(おたけ)びを上げたのです。新しい真理の光によって自分の間違いに気づき、ひるむことなくそれを捨て去ったとき、あなたは本当の意味で「自由」を手にすることができるのです。

知識は、それを求める用意の整ったすべての魂に分け与えられるものです。が、そのためには大いなる冒険の旅に出る覚悟が要求されます。未知の領域を探求する準備、障害と危険に対する準備も必要です。誰も足を踏み入れたことがない土地を歩まなければならないかもしれません。しかし、真理の指し示すところならどこへでも突き進み、間違いと分かったものは、いかに長いあいだ“金科玉条”とされてきたものであっても捨て去る勇気がなくてはなりません。

地上人類は古い神話や伝説を、ただ古くからあるものというだけの理由で大切にし過ぎています。真理と時間(とき)とは必ずしも手を携えて進むものではありません。幼少時代に教え込まれ大切にしてきた信仰を捨て去るのが容易でないことは、私もよく承知しています。しかし、魂が真に自由になるためには、理性が納得しないものは潔く捨て去ることができるようでなくてはなりません。

(教義や儀式などの形骸にとらわれて)霊の力を活用しなかったために、地上は何とみすぼらしい世界になってしまったことでしょう。迷信や無知の壁を取り壊そうとする努力を、私たちはこれから先、いつまで続けなければならないのでしょうか。

とは言え、あなた方が想像するほど長くはかからないでしょう。まわりを見回してご覧なさい。崩壊の兆しが至るところに見られます。堅牢を誇っていた砦(とりで)が、今まさに崩れ落ちつつあります。そのうち真理を求めるあなた方の叫び声が高まり、その壁を完全に突き崩してしまうことでしょう。
質疑応答


――キリスト教でもそうですが、古い時代の偉大な宗教家の人生や死が、自然現象や天体や季節などに関連する神話上の神々と似ているのはなぜでしょうか。


それは地上の人間が、自分たちのリーダーを超自然的な能力を持った存在とするために、太古の神話や伝説を借用したからです。自然法則の働きについて知らなかったのです。彼らは、自分たちが最も偉大だと信じた人物を人々の手の届かない位地に祭り上げようとして、神話や伝説を利用したのです。


――そうした人物の人生には、自然法則を連想させるような多くの出来事が記録されています。例えば、冬のあとに春がめぐってくるように、死のあとに復活が起きたことが記録されています。これは偶然でしょうか。


あなたがおっしゃるのが、ナザレのイエスが処刑されたとき雷鳴が轟(とどろ)き稲妻が走ったという聖書の中の話でしたら、それは事実ではありません。ですが、死んだ人間が地上に戻ってきたという話であれば、それは事実です。歴史的な使命を担った大霊の使者が死後、再び地上に戻ってくることはあります。


――聖霊に対する罪というのは何でしょうか。


聖霊の存在を否定することです。


――聖霊とはそもそも何なのでしょうか。


物質界へ注がれる“霊力”のことです。キリスト教では漠然と聖霊を崇拝していますが、それが人類の誰にでも与えられるものであることは否定します。こうして皆さんと語り合うことを可能にしているのも霊力が働いているからです。その大霊の力が、ほんのわずかな時間ではあっても、霊界と地上界とが一つの目的のために一体となることを可能にしてくれているのです。


――聞くところによると、洗礼を受けることによって死後、その宗派の霊の一団が迎えてくれ、新しい環境を整えてくれるということです。もしそうだとすると、洗礼を受けていない者はどうなるのでしょうか。


この大宇宙を動かし、物的身体に生命の息吹を吹き込んだのは大霊です。すべての世界と宇宙を支配する全法則を創造し、ありとあらゆる次元の生命として顕現しているのも大霊です。太古から予言者や霊能者を通して顕現し、すべてのものの内部と背後に存在するのが大霊なのです。その大霊が、一人の人間に水滴が垂らされているか否かでお困りになるようなことはありません。

大切なことは、自分自身の最高の理想に従って地上生活を送ったかどうかです。赤子に二、三滴の水を垂らしたからといって、それで摂理が変えられるわけではありません。摂理は絶対に変えられません。原因には必ずそれ相当の結果がともなうのです。


――キリスト教は多くの優れた人物を生み出しているのではないでしょうか。


そうした人物は、クリスチャンであろうとなかろうと立派な人間だったはずです。


――でも、イエスの教えに従おうと心がけることで立派になった人もいるのではないでしょうか。


地上人がナザレのイエスを本当に見習うようになったとき、新たな人類の歴史が始まることになります。現在は、まだそこまでには至っておりません。私にはその兆しが見えないのです。“イエスの僕”と公言しているにもかかわらず、実際にはイエスを裏切るような生活を送っている人たちのことを、私の前で“クリスチャン”と呼ばないでください。イエス自身、「私に向かって、主よ、主よ、と呼びかける者のすべてが天国に召されるわけではない。天にまします父の意思を実践した者だけが召されるのである」と言っているではありませんか。


――教義というものにあまりこだわらず、無欲で立派な人生を送っているクリスチャンも大勢いると思うのですが……。


そういう人はクリスチャンとしては立派とは言えないでしょう。言わばダメなクリスチャンですが、人間としては立派です。教義は必ず魂の足かせになるということを忘れないでください。教義を重んじることで立派になれるのではありません。教義を無視しても立派になれるのです。キリスト教では教義の名のもとに、殺し合いと火刑(かけい)を行ってきました。魂を縛るもの、魂を閉じ込めるもの、魂の自由な顕現を妨げるものは排除しなくてはなりません。


――ハンセン病患者の居住地へ支援のために赴く聖職者たちについて、どう理解したらよいのでしょうか。


彼らは教義に動かされて赴くのではありません。魂が「患者を助けたい」と望んでいるからです。宗教は教義を超えたものです。教義は宗教ではありません。


――イエス・キリストは、教会が言っている通り「神の唯一の御子」なのでしょうか。それとも我々と同じ人間であって、ただ並外れた霊的能力を持っていたということなのでしょうか。


ナザレのイエスは、大霊から託された使命を達成するために物質界へ降誕した大霊の使者の一人でした。イエスは地上でなすべき使命は果たしましたが、それで使命のすべてが終わったわけではなく、今なお霊の世界から働きかけています。そのイエスを崇拝の対象とするのは間違いです。崇拝の念は大霊に捧げるべきであって、大霊の使者に捧げるべきではありません。

イエスは、大霊が定めた“自然法則”――すべての人間がこの地上界へ誕生するに際して支配を受ける法則に従って誕生しています。いかなる人間も、大霊の自然法則の関与なしに地上界へ生まれ、そこで生活し、霊界へと旅立つことはできません。


――そのことを立証する言葉が聖書の中にあるでしょうか。


私が訴えるのは大霊の摂理だけです。いまだに聖書の一言一句にこだわる人間は、大霊が今なお活動し、霊の息吹を注ぎ、自らを顕現させていることを理解するようになるまで放っておくしかありません。

大霊の摂理は今も働いており、ふさわしい道具が用意されたなら、霊力はいつでも流入することができるのです。あなた方が“バイブル”と呼ぶ書物は立派なものかもしれませんが、もっと素晴らしい“バイブル”があるのです。それが大霊の法則によって維持されている“宇宙”なのです。あなた方は、そこから地上界のいかなる書物よりも多くのことを学ぶことができます。地上でどれほど偉大なものとされ、尊重され、崇(あが)められている書物(聖書)であっても、宇宙とは比べものになりません。


――イエスは今どこにいるのでしょうか。また何をしているのでしょうか。


“ナザレのイエス”と呼ばれた人物を通して顕現した霊は、二千年前に開始した使命を成就すべく今なお地上界へ働きかけています。その間、数え切れないほど十字架にかけられ、今も毎日のように十字架にかけられています(本当の教えが踏みにじられているということ――訳注)。しかし、地上でイエスと呼ばれた霊も大霊の一部ですから、大霊のために地上界へ平和と幸せをもたらすことができる道具さえあれば、どこであってもその影響力を拡大し続けます。


――あなたが“ナザレのイエス”とおっしゃるとき、それはあのイエスと呼ばれた人物のことですか、それとも彼を通して働いている霊力のことですか。


イエスと呼ばれた人物のことです。ただしその後、イエスは進化し、彼を通して現れる霊的意識は、地上時代とは比較にならないほど次元が高くなっています。当時、地上で現れていた意識は、必然的に時代的な制約を受けざるをえませんでした。とは言え人類史上、イエスほどその霊を顕現させた人物はいません。彼ほど大霊の摂理をはっきりと体現してみせた人物はいないのです。


――この二千年の間にですか。


はい、後にも先にもいません。大霊の顕現としては地上界が受けた最大級のものです。しかし、私たちは、地上に降誕したナザレのイエスという人物を崇拝するようなことはしません。私たちは、イエスを通して働いた霊力に賛辞を捧げます。私たちは、イエスは霊力の道具としてのみ尊敬されるべきであると考えているのです。


――霊界では、さらなる啓示をもたらすためにイエスのような指導者を地上へ派遣する計画があるのでしょうか。


時代が異なれば、その必要性に応じて別の手段を講じることになります。忘れてはならないのは、現代の地上界は(イエスの時代に比べて)はるかに複雑化しており、いろいろな面で相互の結びつきが強くなっているために、さらに多くの交信チャンネルを開かなければならなくなっているということです。人々のさまざまな性格や習慣、思想、行動様式、生き方の違いを考慮しなくてはなりません。(別のところでシルバーバーチは、もうイエスのような霊的巨人が出現することはないし、その必要もないと述べている――訳注)

霊界からのメッセージは、それぞれの国の環境や特性、民族的習慣に適応するものでなければなりません。多様な民族の言語による制約も受けます。しかしその背後には、イエスの時代と同じ霊力の働きがあるのです。

キリスト教では、“死者”から蘇り、“死後”に姿を現し、“死の彼方(かなた)”まで生命が続くことを証明してみせたイエスを崇拝の対象としてきました。イエスは死後に姿を現したのが自分であることを証明するために、十字架にかけられたときの傷跡まで見せています。その後も、弟子たちの前に姿を現しています。

イエスの復活は証明できないにもかかわらず、キリスト教会はそのすべてを事実として信じています。(イエスが神の御子であるからこそ)奇跡が起きたのだと言います。私たちは、死後にも生命が続くことを証明するために、イエスに働いたのと同じ摂理を通して地上界へ戻ってまいりました。大霊は永遠に存在し、その摂理は不変であることを示すために戻ってきたのです。イエスの復活は今、私たちに働きかけているのと同じ摂理の働きによるものであり、その摂理を通してすべての人間が蘇ることになるのです。

シルバーバーチの教え(上)

Teachings of Silver Birch
A.W.オースチン(編)

近藤千雄(訳) 



7章 正しい祈りとは


〔祈りは、スピリチュアリズムに限らず、あらゆる宗教においてよく論じられるテーマである。「祈れば神が聞き届けてくださるか」ということであるが、祈りは摂理の支配を受けており、摂理に適えば効果を生み、摂理に適わなければ何も生じないということを知っている人は少ないようである。シルバーバーチは祈りについての質問に対して、次のような見解を示している。〕
質疑応答


――祈るということは大切でしょうか。


その祈りがどういうものであるかによって答えが異なります。目的のないきまり文句のただの繰り返しでは、空気に振動を起こすだけです。が、魂の奥底からの誠心誠意の祈り、大霊との一体化を深め、大霊の道具として有用な存在になりたいとの願望から出た祈りは、祈る者の霊性を強化し、大霊の道具としてより相応しい存在にします。そうした祈りは自我を顕現しようとする行為であり、心を開く行為であり、私たち霊界の者との結束を固めることになります。


――それは、祈りが生み出す結果は主観的なものだけで客観的なものは生み出さないということでしょうか。人間性を高めることはあっても、具体的なものは生み出さないのでしょうか。


真実の祈りは、あなた方にとって奉仕(サービス)の準備を整えるためのものです。あなた方を、より高度なエネルギーと調和させるための手段です。本当の祈りとは、誰かがつくった祈りの文句を意味も分からずに繰り返すことではなく、全身全霊を込めて到達できる最も高い次元にまで魂を引き上げようとする行為のことです。そのとき、祈りの結果としてもたらされるインスピレーションによって魂が満たされ、霊性が強化されるのです。


――他人のために祈ることにも何か効用があるのでしょうか。


あります。真摯(しんし)な祈りは決して無駄にはなりません。そうした祈りの意念には効力があります。


――治療家による遠隔治療の祈りには現実的な効果があるのでしょうか。


あります。これまでの質問には個人的な祈りを念頭にお答えしてきましたが、同じことがどの祈りにも当てはまります。祈りによって心霊的(サイキック)エネルギーが放出され、それが霊的治療家の背後霊団によって活用されることになります。


――祈りによって霊界の人々の援助を得ることは可能でしょうか。


もしあなたが、真心を込めて祈るなら、それによってより高度なエネルギーを受け入れやすくなります。祈るという行為そのものが魂を開かせるのです。もちろん全身全霊を傾けた祈りのことです。単なる願い事は祈りではありません。真実の祈りは重要な霊的修練なのです。「祈りは、あくまでも目的に至るための手段であって目的そのものではない」――これが最も正しい祈りの定義です。

私が勧める祈りの言葉は、たった一言しかありません。「何とぞ私を人のために役立てる方法を教え給え」――これです。大霊のため、そして大霊の子供たちのために一身を捧げたいとの祈りほど、崇高なもの、偉大な愛、これに優る宗教、これより深い哲学はありません。どのような奉仕でもかまいません。大霊の摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、飢えに苦しむ人に食べ物を与えてあげることでも、あるいは暗い心を明るくしてあげることでもよいのです。人々のために役に立ちさえすれば、どのような方法であってもかまいません。

自分のことを忘れて他人への奉仕を優先すればするほど、それだけ霊性が発達します。それは、あなた方一人ひとりの内部に宿る大霊が発揮されるということです。至って単純なことなのです。ところが人間は教会を建立し、何やら奇妙な説教をします。彼らは私にも理解できない長たらしい言葉を用いて、これぞ宗教とばかりに仰々しい儀式を行います。

そんなことよりも、生きる意欲を失くしている人のところへ出かけていって元気づけ、疲れた人に眠る場所を与え、飢えに苦しむ人の空腹を満たし、渇いた人の喉を潤し、暗闇に閉ざされた人の心に明るい真理の光を灯してあげることです。そうしたことを実行しているとき、あなた方を通して大霊の摂理が働いていることになるのです。


――しばしば、祈りが聞き届けられないように思えることがあるのですが、なぜでしょうか。


すべての人間の内面では、常に“人間臭いもの”と“神性を帯びたもの”との間で葛藤があります。後者が勝てば大霊と一体となった喜びを味わいますが、前者が勝ったときには霊性が低下します。私たち霊界の者は、皆さん方が望む方向ではなく、最高の奉仕に役立つ方向に導こうとしております。

地上の人間はとかく、魂の成長にとって良くないもの、進歩を遅らせることになるものを要求しがちです。これは叶えてあげるわけにはいきません。また、手にする資格のないものを要求することもあります。これも叶えられません。さらに、こちら側ですでに授ける準備をしていて、そのタイミングをはかっているものを要求することもあります。大霊はすべての人間の祈りを、たとえ口には出さなくても先刻ご承知であることを知ってください。

身を横たえる家もなく、風雨にさらされ、夜空の下で寝なければならない者、また肉体を養うだけの食べ物にありつけない者がいるというのに、あなた方の取るに足りない心配事が大霊の目から見て大事だと思われますか。

この(サークルが開かれている)家には、絶えず一団の霊が訪れています。その一人ひとりが高い世界へ向上する権利を一時的に放棄して、地上の暗闇に光明をもたらすための環境づくり(光のサークルづくり)に携わっているのです。そうした使命に比べれば、地上の些細なトラブルなど物の数ではありません。

忘れないでいただきたいのは、皆さん方一人ひとりが大霊の素晴らしい計画に参加し、わずかではあってもその目的達成のために貢献しているということです。いつの日か計画のすべてが達成され、地上のあらゆる人種・民族が、それぞれの役割を担うことになります。その時、完全な地上世界が実現することになります。

交霊会で何の動きも生じていないと思われるようなときでも、実は静寂の中で霊的な反応が起きています。それが刺しゅうの中に織り込まれることになるのです。昼も夜も、巨大な織物は休むことなく織り続けられ、ついには地上全体を被うことになります。皆さんは、その仕事の一端を担っているのです。


――各地の教会で日々繰り返されている祈りには、何か効果があるのでしょうか。


祈る人によります。口先だけの祈りは、虚しい音声の羅列にすぎません。魂からの祈り、大霊に近づきたいと切望する本心からの祈りであれば、その熱誠が祈りに翼を与え、霊界の深奥(しんおう)へと運ばれていくことになります。


――酒浸りの親を更生させたいという幼い子供による祈りは効果を発揮するでしょうか。


真摯な祈りには必ず霊力がともなうものです。が、その霊力がどこまで物的次元に転換されるかとなると、いろいろな条件を考慮しなければなりません。今おっしゃった例で言えば、子供の父親の霊性レベルが問題となります。祈りが父親の魂に届くか、あるいはあまりにも霊性が低いために霊的なことに何の反応も示さないかのどちらかが考えられます。したがってご質問に対しては、イエスともノーとも言えません。


――でも、何らかの影響はあるのではないでしょうか。


すべての祈りは自らを高めようとするところから発するものです。人の役に立つことを願う祈り、知識や光明、叡智や導きを求める祈り、こうした祈りはすべて魂の進化の現れです。あなたの精神は肉体の一部ではなく、霊の一部、大霊の一部なのです。そしてそれは大霊に由来する力を秘めています。しかし、あなたがその力を使用できるようになるには魂の進化が先決です。それなくして内在する大霊を顕現させることはできません。


――祈りの言葉は霊に聞こえるのでしょうか。それともある種のバイブレーションに調和し反応するような力が必要なのでしょうか。


祈りは魂の表現です。そのことを分かりやすく説明しましょう。祈りは光明と導きを願い求める魂の叫びです。祈るという行為そのものが回答をもたらすのです。なぜなら、その行為が思念の力を生み出すからです。

その力が原因となって回答を生み出します。その回答が結果です。霊は、あなたの祈りの言葉を待っているわけではありません。祈りに込められたあなたの思念が、ただちにそれにふさわしい界層の霊に届くのです。あなたの魂の進化の程度に応じた界層です。

その霊たちは地上世界のために役に立ちたいと切望していますから、あなたの思念の力に、その霊たちの力が加わるのです。大霊の一部である思念のバイブレーションが、新たな活動を呼ぶことになります。それは、あなたの霊性のレベルに応じた宇宙のエネルギーを動かすことが可能になったということです。宇宙のエネルギーを、あなたも活用することができるようになったということを意味しています。

祈る人の進化の程度によっては、ある理想に向けて意念を集中しなければならないことがあるかもしれません。その方が有効だという人に、私は異論は唱えません。ただ私が申し上げたいのは、祈りをするうえで常に意識しなければならない対象とは、大霊、生命の摂理、宇宙の自然法則であるということです。

大霊は完全なる存在ですから、大霊の摂理も完全です。その完全なる大霊の一部があなたの内部に潜在していて、発現を求めているのです。祈りや奉仕によってそれを発現させるなら、大霊があなたを通して顕現することになります。祈りや奉仕といった魂の向上のために為すすべての実践は、あなたの霊性の進化を促すことになるのです。


――すべてのものが不変の法則によって支配されているのであれば、大霊に祈っても意味がないのではないでしょうか。というのは、祈りとは大霊に法則を変えてくれるように依頼することではないかと思うからです。


それは私が理解している祈りとは違います。祈りとは、大霊に近づこうとする魂の願望です。自己の内部の大霊を顕現しようとする行為であり、その行為が魂を開かせ、それまで届かなかった段階に至ることを可能にするのです。

そこには不公平もえこひいきもありません。祈りは内部の大霊をより多く顕現させ、より多くの恩寵(おんちょう)を引き寄せるための魂の活動です。大霊の恩寵は無限であり、あなたの魂は、その無限性を顕現させようと学んでいるのです。


――人間はなぜ、神に罪の許しを乞うのでしょうか。摂理を犯せば必然的に罰が与えられると思うのですが……。


許されたからといって、それで償いが済むわけではありません。代償は必ず払わなければなりません。しかし祈りによって許しを乞うということは、大霊の摂理に調和しようとする行為であり、償いの始まりです。これまでの歩みを見直し、自己を省みるところから本当の償いと霊的進化が始まるのです。


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8章 地上の宗教の間違い

Sunday, July 12, 2026

五章 天使の支配 ベールの彼方の生活(一) G・V・オーエン著

『霊界通信 ベールの彼方の生活』の第1巻は、英国の牧師G・V・オーエンを通じて伝えられたスピリチュアリズムの代表的古典です。死後の世界(天界の低地)の具体的な様子を詳細に描写しており、現代でも高い評価を受けている著作です。




五章 天使の支配

 1 罪の報い        

  一九一三年十月二三日  木曜日     

 天界における向上進化の仕組みは実に細かく入り組んでおり、いかに些細な要素も見逃さないようになっておりますから、それを細かく説明していったら恐らくうんざりなさることでしょう。

ですが、ここで一つだけ実例を挙げて昨晩の通信の終わりで述べたことを補足説明しておきたいと思います。

 最近のことですが、又一人の女性が暗黒界から例の〝橋〟に到着するという連絡を受け、私ともう一人の仲間二人で迎えに行かされたことがありました。急いで行ってみますと、件(くだん)の女性がすでに待っておりました。

一人ぼっちです。実はそこまで連れてきた人たちがその女性に瞑想と反省の時を与えるためにわざと一人にしておいたのです。これからの向上にとってそれが大切なのです。

一本の樹木の下の芝生の坂にしゃがんでおり、その木の枝が天蓋(てんがい)のようにその方をおおっております。見ると目を閉じておられます。私たちはその前に立って静かに待っておりました。やがて目を開けると怪訝(けげん)そうな顔で私たちを見つめました。

でも何もしゃべらないので、私が「お姉さま!」と呼びかけてみました。女性は戸惑った表情で私たちを見つめていましたが、そのうち目に涙をいっぱい浮かべ、両手で顔をおおい、膝に押し当ててさめざめと泣くのでした。

 そこで私が近づいて頭の上に手を置き「あなたは私たちと姉妹になられたのですよ。私たちは泣かないのですから、あなたも泣いてはいけません」と言いました。

 「私が誰でどんな人間か、どうしてお判りになるのでしょう」──その方は頭を上げてそう言い、しきりに涙をこらえようとしておりましたが、その言葉の響きにはまだどこか、ちょっぴり私たちに対する反撥心がありました。

 「どなたかは存じませんが、どんなお方であるかは存じ上げております。あなたはずっと父なる神の子の一人でいらっしゃるし、従って私たちと姉妹でもありました。

今ではもっと広い意味で私たちと姉妹になったのです。それ以外のことはあなたの心掛け一つに掛かっております。

つまり父なる神の光の方へ向かう人となるか、それともそれが辛くて再びあの〝橋〟を渡って戻って行く人となるかは、あなたご自身で決断を下されることです」と私が述べると、暫く黙って考えてから、

 「決断する勇気がありません。どこもここも怖いのです」と言いました。

 「でも、どちらかを選ばなくてはなりません。このままここに留るわけには行きません。私たちと一緒に向上への道を歩みましょう。そうしましょうね、私たちが姉妹としての援助の手をお貸しして道中ずっと付き添いますから。」

 「ああ、あなたはこの先がどんな所なのかをどこまでご存知なのでしょう」──その声には苦悶の響きがありました。「今まで居た所でも私のことをみんな姉妹のように呼んでくれました。

私を侮(あなど)っていたのです。姉妹どころか、反対に汚名と苦痛の限りを私に浴びせました。

ああ、思い出したくありません。思い出すだけで気が狂いそうです。と言って、この私が向上の道を選ぶなんて、これからどうしてよいか判りません。私はもう汚れ切り、堕落しきったダメな女です。」

 その様子を見て私は容易ならざるものを感じ、その方法を断念しました。そして彼女にこういう主旨のことを言いました──当分はそうした苦しい体験を忘れることに専念しなさい。

そのあと、私たちも協力して新しい仕事と真剣に取り組めるようになるまで頑張りましょう、と。彼女にとってそれが大変辛く厳しい修行となるであろうことは容易に想像できました。

でも向上の道は一つしかないのです。何一つ繕(つくろ)うことが出来ないのです。すべてのこと──現在までの一つ一つの行為、一つ一つの言葉が、あるがままに映し出され評価されるのです。

神の公正と愛が成就されるのです。それが向上の道であり、それしか無いのです。がその婦人の場合は、それに耐える力が付くまで休息を与えなければならないと判断し、私たちは彼女を励ましてその場から連れ出しました。

 さて、道すがら彼女はしきりに辺りを見回しては、あれは何かとか、この先にどんなところがあるかとか、これから行くホームはどんなところかとか、いろいろと尋ねました。

私たちは彼女に理解できる範囲のことを教えてあげました。その地方一帯を治めておられる女性天使のこと、そしてその配下で働いている霊団のこと等を話して聞かせました。

その話の途中のことです。彼女は急に足を止めて、これ以上先へ行けそうにないと言い出しました。〝なぜ? お疲れになりましたか〟と聞くと〝いえ、怖いのです〟と答えます。

 私たちは婦人の心に何かがあると感じました。しかし実際にそれが何であるかはよく判りません。何か私たちに摑みどころのないものがあるのです。

そこで私たちは婦人にもっと身の上について話してくれるようお願いしたところ、ついに秘密を引き出すことに成功しました。それはこう言うことだったようです。

〝橋〟の向こう側の遠い暗闇の中で助けを求める叫び声を聞いた時、待機していた男性の天使がその方角へ霊の光を向け、すぐに救助の者を差し向けました。行ってみると、悪臭を放つ汚れた熱い小川の岸にその女性が気を失って倒れておりました。

それを抱きかかえて橋のたもとの門楼まで連れて来ました。そこで手厚く介抱し、意識を取り戻してから、橋を渡って、私たちが迎えに出た場所まで連れて来たというわけです。

 さて、救助に赴いた方が岸辺に彼女を発見した時のことです。気がついたその女性は辺りに誰かがいる気配を感じましたが姿が見えません。

とっさに彼女はそれまで彼女をいじめにいじめていた悪(わる)の仲間と思い込み、大声で「さわらないで! こん畜生!」と罵りました。

が次に気がついた時は門楼の中に居たというのです。彼女が私たちと歩いている最中に急に足を止めたのは、ふとそのことが蘇ったからでした。彼女は神の使者に呪いの言葉を浴びせたわけです。

自分の言葉が余りに酷かったので光を見るのが怖くなったのです。実際は誰に向かって罵ったか自分でも判りません。しかし誰に向けようと呪いは呪いです。そしてそれが彼女の心に重くのし掛かっていたのです。

 私たちは相談した結果これはすぐにでも引き返すべきだという結論に達しました。つまり、この女性には他にも数々の罪はあるにしても、それは後回しに出来る。それよりも今回の罪はこの光と愛の世界の聖霊に対する罪であり、それが償われない限り本人の心が安まらないであろうし、私たちがどう努力しても効果はないと見たのです。そこで私たちは彼女を連れて引きかえし〝橋〟を渡って門楼の所まで来ました。

 彼女を救出に行かれた件(くだん)の天使に会うと、彼女は赦しを乞い、そして赦されました。実はその天使は私たちがこうして引き返して来るのを待っておられたのです。

私たちより遥かに進化された霊格の高い方で、従って叡智に長け、彼女がいずれ戻って来ずに居られなくなることを洞察しておられたのです。

ですから私たちが来るのをずっと門楼から見ておられ、到着するとすぐに出て来られました。その優しいお顔付きと笑顔を見て、この女性もすぐにこの方だと直感し、跪いて祝福をいただいたのでした。

 今夜の話にはドラマチックなところは無いかも知れません。が、この話を持ち出したのは、こちらでは一見何でもなさそうに思えることでもきちんと片付けなければならないようになっていることを明らかにしたかったからです。

実際私には何か私たちの理解を超えた偉大な知性が四六時中私たちを支配しているように思えるのです。

あのお気の毒な罪深い女性が向上して行く上において、あんな些細なことでもきちんと償わねばならなかったという話がそれを証明しております。〝橋〟を通って門楼まで行くのは実は大変な道のりで、彼女もくたくたに疲れ切っておりました。

ですが、自分が毒づいた天使様のお顔を拝見し、その優しい愛と寛恕(かんじょ)の言葉を頂いた時に初めて、辛さを耐え忍んでこそ安らぎが与えられるものであること、為すべきことを為せばきっと恵みを得ることを悟ったのでした。

その確信は、彼女のようにさんざん神の愛に背を向けて来た罪をこれから後悔と恥辱の中で償って行かねばならない者にとっては、掛けがいのない心の支えとなります。


 ──その方は今どうされていますか。

 あれからまだそう時間が経っておりませんので目立って進歩しておりません。進歩を阻害するものがまだいろいろとあるのです。ですが間違い無く進歩しておられます。

私たちのホームにおられますが、まだまだ他人のための仕事をいただくまでには至っておりません。いずれはそうなるでしょうが、当分はムリです。

 罪悪というのは本質的には否定的性格を帯びております。が、それは神の愛と父性(※)を否定することであり、単に戒律(おきて)を破ったということとは比較にならない罪深い行為です。

魂の本性つまり内的生命の泉を汚し、宇宙の大霊の神殿に不敬をはたらくことに他なりません。その汚れた神殿の掃除は普通の家屋を掃除するのとはわけが違います。

強烈なる神の光がいかに些細な汚点をも照らし出してしまうのです。それだけに又、それを清らかに保つ者の幸せは格別です。何となれば神の御心のまにまに生き、人を愛するということの素晴らしさを味わうからです。     

(※民族的性向の違いにより神を〝父なる存在〟と見なす民族と〝母なる存在〟と見なす民族とがある。哲学的には老子の如く〝無〟と表現する場合もあるが、いずれにせよ顕幽にまたがる全宇宙の絶対的根源であり、神道流に言えばアメノミナカヌシノカミである。──訳者)



2 最後の審判           

 一九一三年十月二七日  月曜日

 今夜もまた天界の生活を取りあげて、こちらの境涯で体験する神の愛と恵みについてもう少しお伝えできればと思います。私たちのホームは樹木のよく繁った丘の中腹に広がる空地に建っております。


私がお世話している患者──ほんとに患者なのです──は明かりの乏しい、言わば闇が魂に忍び込むような低地での苦しい体験の後にここへ連れて来られ、安らぎと静けさの中で介抱されております。

来た時は大なり小なり疲労し衰弱しておりますので、ここから向上して行けるようになるのは、余ほど体力を回復してからのことです。

 あなたはここでの介抱の仕方を知りたいのではないかと思いますので申し上げましょう。これを煎じ詰めれば〝愛〟の一語に尽きましょう。それが私たちの指導原理なのです。

と言うことは、私たちは罪を裁かず、罰せず、ただ愛を持って導いてあげるということですから、その事実を知った患者の中にはとても有難く思う人がいます。ところが実はそう思うことが原因となって、却ってそこにいたたまれなくなるものなのです。

 例えばこんな話があります。最近のことですが、患者の一人が庭を歩いている時に、私たち霊団の最高指導霊であられる女性天使を見かけました。

その人はつい目を反らして脇の道へ折れようとしました。怖いのではありません。畏れ多い気がしたのです。すると天使様の方から近づいてきて優しく声を掛けられました。話をしてみると意外に気楽に話せるものですから、それまで疑問に思っていたことを尋ねる気になりました。

 「審判者はどこにおられるのでしょうか。そして最後の審判はいつ行われるのでしょうか。そのことを思うといつも身震いがするのです。私のような人間はさぞ酷い罰を言いつけられるにきまっているからです。どうせなら早く知って覚悟を決めたいと思うのです。」

 この問いに天使様はこうおっしゃいました。

 「よくお聞きになられました。あなたの審判はあなたが審判を望まれた時に始まるのです。今のあなたのお言葉から察するに、もうそれは始まっております。ご自分の過去が罰を受けるに値すると白状されたからです。それが審判の第一歩なのです。

それから、審判者はどこに居るのかとお尋ねですが、それ、そこにおられます。あなたご自身ですよ。あなた自身が罰を与えるのです。これまでの生活を総点検して、自分の自由意志によってそれを行うのです。

一つ一つ勇気を持って懺悔する毎に向上して行きます。ここにお出でになるまでのあの暗黒界での生活によって、あなたはすでに多くの罰を受けておられます。

確かにあれは恐ろしいものでした。しかしもうそれも過去のものとなり、これからの辛抱にはあんな恐ろしさは伴いません。もう恐怖心とはおさらばなさらないといけません。ただし苦痛は伴うでしょう。

大変辛い思いをなさることと思います。ですがその苦痛の中にあっても神の導きを感じるようになり、正しい道を進めば進むほど一層それを強く感じるようになるでしょう。」

 「でも報酬を与えたり罰したりする大審判者つまりキリスト神の玉座が見当たらないのはおかしいと思うのです。」

 「なるほど、玉座ですか。それならいずれご覧になれる日が来るでしょう。でもまだまだです。審判というのはあなたがお考えになっているものとは大分ちがいます。でも怖がる必要はありません。進歩するにつれて神の偉大な愛に気づき、より深く理解して行かれます。」

 これは実はこちらへ来る人の多くを戸惑わせる問題のようです。悪いことをしているので、どうせ神のお叱りを受けて拷問に掛けられるものと思い込んでいるので、そんな気配がないことに却って戸惑いを感じるのです。

 また、自分は立派なことをしてきたと思い込んでいる人が、置かれた環境の低さ──時にはみじめなほど低い環境にとても落胆することがよくあります。
内心では一気にキリスト神の御前に召されて〝よくぞやってくれた〟とお褒めの言葉でも頂戴するものと思い込んでいたからです。もう、それはそれは、こちらへ来てからは意外なことばかりです。喜ぶ人もおれば悲しむ人もいるわけです。

 最近こんな人を見かけました。この方は地上では大変博学な文筆家で、何冊もの書物を出版した人ですが、地上でガス工場のかまたきをしていた青年に話しかけ、いろいろと教わっているところでした。楽しそうな様子なのです。

と言うのも、その人は謙虚さを少しずつ学んでいるところだったのです。ですがこの人のいけないところは、そんな行きずりの若造を相手に教えを乞うのは苦にならないのに、すでにこちらへ来ている筈の曽ての知人のところへ赴いて地上での過ちや知的な自惚れを告白することはしたくないのです。

しかし、いずれはしなければならないことです。青年との関係はそのための準備段階なのです。しかし同時に、私たちの目にはその人の過去も現在もまる見えであり、とくに現在の環境が非常に低いことが明白なのに、本人は相変わらず内心の自惚れは他人に知られてないと思い続けているのが哀れに思えてなりません。

こういう人には指導霊も大変な根気がいります。が、それがまた指導霊にとっての修行でもあるのです。

 ここで地上の心霊家を悩ます問題を説明しておきましょう。問題というのは、心霊上の問題点についてなぜ霊界からもっと情報を提供してくれないかということです。
 これにはぜひ理解していただかねばならない事情があるのです。こうして地上圏まで降りてきますと、私たちはすでに本来の私たちではなく、地上特有の条件による制約を受けます。

その制約が私たちにはすでに馴染めなくなっております。例えば地上を支配している各種の法則に従って仕事を進めざるを得ません。

そうしないとメッセージを伝えることも物理的に演出してみせてあげることも出来ません。実験会では出席者がある特定の霊の姿を見せてほしいとか話を交わしたいとか、あるいはその霊にまつわる証拠について質問したいと思っていることは判っても、それに応じるには私たちは非常に制約された条件下に置かれています。

例えばその出席者の有する特殊な霊力を活用しなければならないのですが、こちらが必要とする肝心なものは閉じられたままで、結局その人が提供してくれるものだけで間に合わせなくてはならないことになりますが、それが往々にして十分でないのです。

 さらに、その人の意念と私たちの意念とが言わば空中衝突をして混乱を生じたり、完全に実験が台なしになったりすることもあります。なるべくなら私たちを信頼して私たちの思いどおりにやらせてほしいのです。
そのあとで私たちが何を伝えんとしているかを批判的態度で検討して下さればいいのです。もし特別に情報が欲しいと思われる問題点があれば、それを日常生活におけるのと同じように、時おり心の中に宿していただけばそれでよろしい。

 私たちがそれを察知して検討し、もし可能性があり有益でもあり筋が通っていると判断すれば、チャンスと手段を見つけて、遅かれ早かれ、それに応じてあげます。

実験その他、何らかの形で私たちが側に来ている時に要求をお出しになるのであれば、強要せずに単に想念を抱くだけでよろしい。

あとは私たちにまかせて下さい。出来るだけのことをして差しあげます。しつこく要求してはいけません。私たちはお役に立ちたいと言う意図しかないのですから、あなたの為になることなら出来る限りのことをしていると信じて下さい。

 ちょうどその好い例があります。あなたはずっとルビーのことを知りたいと思っておられました。それをあなたがしつこく要求することがなかったので、私たちは存分に準備することが出来たのです。これからその様子をお伝えしましょう。

 ルビーは今とても幸せです。そして与えられた仕事もなかなか上手にこなせるようになりました。つい最近会ったばかりで、もうすぐあなたやローズにお話をしに行けそうだと言っておりました。

なぜ今夜来れないのかと思っておられるようですが、あの子にはほかにすることがありますし、私たちは私たちで計画に沿って果たさねばならないことがあります。
そう、こんなことも言っておりました──「お父さんに伝えてちょうだい。お父さんが教会でお説教をしている時の言葉があたしたちのところまで届けられて、その中の幾つかを取りあげてみんなで討論し合うことがあるって。地上で学べなかったことについてのお話が入ってるからなの」と。


──ちょっと考えられないことですね。本当ですか。

 おやおや、これはまた異なことを。本当ですか、とは一体あなたはこちらの子供をどんな風に考えておいでですか。いいですか、幼くしてこちらへ来た者はまずこの新しい世界の生活と環境について学び、それが終わってからこんどは地球と地上生活について少しずつ勉強することを許されます。
そしていずれは完全な知識を身につけないといけないのです。そのために、慎重を期しつつあらゆる手段を活用することになります。

父親の説教を聞いて学ぶこと以上に素晴らしい方法があるでしょうか。これ以上申しません。これだけ言えば十分のはずです。常識的にお考えになることです。少しは精神構造が啓発されるでしょう。


──でも、もしもあなたのおっしゃる通りだと、人間はうっかり他人にお説教など出来なくなります。それと、どうか気を悪くなさらないで下さい。


 ご心配なく。機嫌を損ねてなんかいませんよ。実はあなたの精神に少なくとも死後の環境とその自然さについて、かなりの理解が見られるようになって有難く思っていたのです。ところが、愚かしい漠然とした死後の観念をさらけ出すような、あのような考えを突如として出されたので驚いたのです。

 でも、他人に説教する際はよくよく慎重であらねばならないと思われたのは誠に結構なことです。でも、このことはあなた一人にかぎったことではありません。全ての人間がそうあらねばならないことですし、全ての人間が自分の思念と言葉と行為に慎重であらねばなりません。

こちらではそれが悉(ことごと)く知れてしまうのです。でも一つだけ安心していただけることがあります。万が一良からぬこと、品のないことをうっかり考えたり口にしたりした時は、そういうものはルビーがいるような境涯へは届かないように配慮されております。

ですからそちらではどうぞ気楽に考えて下さい。思いのままを遠慮なくおしゃべりになることです。こちらの世界では誠意さえあれば、たとえその教えが間違っていても、間違いを恐れて黙っているよりは歓迎されるのです。

 さ、お寝みなさい。皆さんによろしく。神の祝福を。そして神が常にあなたに勇気と忠誠心をお与え下さいますように。



3 使節団を迎える      

一九一三年十月二八日  火曜日

 これまでに私たちが伝えたメッセージはすべてあなたの精神(マインド)(※)に私たちの思念や言葉を印象づける方法で行われております。

このためには私たちはあなたの精神に宿されているものを出来るだけ多く取り出し、活用して、少しでもラクに伝わるように工夫します。ですが、それがうまく行かなくて、やむを得ずあなたの霊を地上環境から連れ出して、私たちが伝えんとしている内容を影像の形で見せ、それをあなたに綴らせると言う手段を取ることがよくあります。

(※霊側から見た精神には実体があり、そこに宿された想念や記憶が具体的に手に取るように見える。いわゆる潜在意識もこれに含まれる。──訳者)      

 いいえ、あなたをその身体から連れ出すという意味ではありません。だって、あなたはその間ずっとそこにいて意識を持ち続けているわけですから。

私たちが行うのは言わばあなたの内的視覚──霊体の視力──に霊力を注ぎ込む為に一時的にあなたの注意力を私たちが吸収してしまうのです。するとその間はあなたは環境をほとんど意識しなくなります。

つまり周囲のことを忘れ、気を取られなくなります。その瞬間をねらって今述べた霊界の影像を伝達して、それに私たちが実際に見た出来ごとの叙述を添えるということをするわけです。

 例えばカストレル様の都市へ音楽の使節団が光のハーブの編隊を組んで到着するシーンを述べた時、シーンそのものは実際のものをお見せして、それに群がる群集や正面入口での挨拶の様子、その他、伝えたいと思ったことを後で私たちが復元して添えたものです。

そういう次第だったのです。具体的にどういう風にするかは、いずれこちらへお出でになれば判ります。

 さて、これから私たちはもう一つの光景をお見せしてみようかと思います。〝みよう〟という言い方をしたのは、大事なことについては私たちはそう滅多にしくじることはありませんが、所詮私たちも全能ではありません。いろいろと邪魔が入り、思うに任せないこともあるからです。

 それではこれから暫くあなたの注意力をお貸しいただいて、私たちのホームへ使節団が見学に訪れた時の様子を叙述してみましょう。私たちは良くお互いに使節団を派遣し合って、他のホームでの仕事ぶりを学び合うことを致します。

 私たちはホームの裏手にある丘の頂上近くに立って使節団の到着を待っておりました。やがて広々とした平野の上空はるか彼方にその姿が見えはじめました。その辺りの空は深紅と黄金と緑の筋が水平に重なって見えます。

それを見て私たちはその使節団がどの地域からのもので、どんな仕事に携わっている人たちであるかが判断できます。その使節は主に儀式と式典の正しい在り方を研究している人達で、非常に遠方のコロニーからお出でになられたのでした。

 虚空(こくう)を翔(かけ)る様子を見つめておりますと、平地で待機していた私たちのホームの出迎えの代表団が空中へ舞い上がりました。大空での出迎えの様子を見るのもまた一興でした。遥か上空でお互いが接近し、いよいよ距離が狭まると、こちらの一団の何人かが音色もポストホルン(※)に似たものを吹奏し、それに応じて他のグループが別の楽器を取り出し、演奏を始めると同時に更に別のグループが歓迎の合唱を始めました。

(※昔駅馬車や郵便馬車の到着を知らせる為に御者が用いた二~三フィートの真ちゅうのラッパ。──訳者)

 やがて歓迎の儀式が終わりました。後方に一台の二頭立ての馬車が用意してあります。昔の(天蓋のない)馬車にそっくりです。近代風の馬車を使用してもよいのですが、こちらでは天蓋は不要なのです。

それで古代の馬車がずっと使われているわけです。使節団はさらに近づいて、こちらの一団と向かい合って並びました。そのシーンを想像して下さい。

あなたには不思議に思えることでしょうが、私たちの世界では至って自然なことであることがそのうちあなたにもお判りになる日が来るでしょう。

さらに向上すると空中で立つだけでなく地上とまったく同じように跪いたり、横になったり、歩いたりすることまで出来るようになります。

 さて、私たちのお迎えのリーダーと使節団のリーダーとが進み出ました。そして両手を握り合い、互いに額と頬に口づけをしました。

それからお迎えのリーダーが右手で相手の左手を取って馬車まで案内し、迎えの残りの者が間を開け恭しくお辞儀をしてお通ししました。お二人が馬車に乗ると、今度は双方の残りの人々が両手を広げて近づき合い、同じように額と頬に口づけをし合いました。

それから全員が私たちの方角を向き、ゆっくりとした足取りで降りて来て、ついに丘の麓まで来られました。

 空中を行くとどんな感じがするか──これはあなたにはちょっと判って頂けないでしょう。私も一度ならず試してみたことがあります。が、その感じはあなたの想像を超えたものです。

ですからそれを述べるよりも、見た目に実に美しいものだと言うに留めておきましょう。カストレル様やアーノル様のような霊格の高い天使になると、地面を歩かれる時の姿は単に気品があるというに留まらず、その落着いた姿勢や動作にうっとりとさせられる美しさがあるのです。

空中になるとそれが一層美しさを増します。静かで穏やかな威厳と力に溢れた、柔らかで優雅な動きは、まさしく王者の風格と神々しさに満ち満ちております。今目の前にしたお二人もまさにその通りでした。

 一行は曲がりくねった小道を歩いて私たちのリーダーの住居に至りました。ここにおいて私たちの指導霊である女性天使と共にこの領土を支配しておられます。

私にはお二人の間に霊格とか地位の差は無いように思われます。全く同じでは無いにしても、どちらが上でどちらが下かは直接お聞きしてみないと判らないほどで、それはちょっとお聞きしかねることです。

お互いの愛と調和性はとても程度が高く、命令と服従との関係が優雅で晴れ晴れとした没我性の中で行われるために、お二人の霊的な差を見分けることが出来ないのです。
 そのお住まいはあなたがご覧になればきっと中世の城を思い出されることでしょう。山の中腹の岩の上に建てられており、周りは緑と赤と茶と黄色の樹木と、無数の花々と芝生に囲まれております。

 使節団は玄関道を通って中へ入り、そこで私たちからは見えなくなりました。が中へ入った一行の光輝によって、あたかも一度に何千もの電灯が灯されたように、窓を明るく照らし出しました。

その色彩豊かな光輝は何とも言えない美しさでした。一つに融合してしまわずに、それぞれの色調を保ちつつ、渾然と混ざり合い、あたかも虹の如く窓を通して輝くのでした。

 これまでの私の叙述に〝出入口〟がしばしば出て来ましたが〝門〟については特に述べていないことにお気づきと思います。実は私はこれまで出入口に至る門を見たことがないのです。

〝ヨハネ黙示録〟の中には天界の聖都とその門についての叙述があります(21章)。私はヨハネが霊視したと思われる都市に酷似した都市の門を思い出していろいろと考えたのですが、どうも今いる都市には出入口に通じる門は見当たらないように思います。

で、私が思うに、ヨハネが〝聖都の門は終日(ヒネモス)閉じることなし〟と述べておいて、そのあとすぐ地上の都市では昼間は戦いでもない限り門は閉じられることはなく夜はずっと閉じられていることを思い出して───〝(ここに夜あることなきが故なり)〟とカッコして釈明を付け加えたのは、本当は地上と同じような門は無かったからではないかと思うのです。これは私個人の考えです。

間違っているかも知れませんが、ぜひあなたの改めて黙示録を読み返し、私の意見を思い出して、あなた自身で判断してみて下さい。

 お城の中でのフェスティバルのことは私自身出席しておらず、出席した方からお聞きしただけですので、ここでは述べないことにします。それよりも、私が目撃したものを述べておきましょう。

その方が生き生きと表現できますから。しかし、あれだけ多くの高級霊が一堂に会したのですから、それはそれは荘厳なフェスティバルであったろうことは容易に想像できます。

 そうね。あなたやあなたの家族もこの神の愛と祝福が草原の露のごとく降りて、辺り一面に芳香を漂わせる神の御国へお出でになれば、こうしたことを全部目(ま)のあたりにすることが出来ます。

授かるよりは授ける方が遥かに幸である事を何かにつけて学ばされている私たちが、その素敵な芳香を私たちの言葉を通じて地上の方にも味わっていただき、いかに神の愛が有難く優しいものであり、神を信じる者がいかに幸せであるかを判っていただきたいと思うのは少しも不思議でないことが、これでお判りでしょう。

 幾久しく神の祝福のあらんことを。アーメン



4 強情と虚栄心      

一九一三年十月三十日 木曜日

 その手をご自分の頭部へ当ててみてください。そうすると通信が伝わりやすくなり、あなたも理解しやすくなります。

──こうですか。

 そうです。あなたと私たち双方にとって都合がいいのです。


──どう言う具合に。

 私からあなたへ向けて一本の磁気の流れがあります。今言ったとおりにして下されば、その磁気の散逸が妨げるのです。


──さっぱり判りません。

 そうかもしれません。あなたにはまだまだ知っていただかねばならないことが沢山あります。今述べたこともその一つです。それ一つを取り上げれば些細なことかもしれませんが、それなりに大切なのです。

成功を支えるのは往々にしてそうした些細なことの積み重ねであることがあります。

 ところで、私たちはこうした通信で採用する方法については所詮あなたに完全な理解を期待するのは無理ですから、あまり細かいことは言うつもりはありません。

でも、このことだけは述べておきたいのです。つまり私たちが使用するエネルギーはやはり〝磁気〟と呼ぶのが一番適切であること、そしてその磁気に乗って私たちのバイブレーションがあなたの精神に伝わるということです。

そうやって手を当てがって下さると、それが磁石と貯蔵庫の二つの役目をしてくれて、私たちは助かるのです。でも、この問題はこれ位にして、もっと判り易い話題に移りましょう。

 この〝常夏の国〟では私たちは死んでこちらへやって来る人と後に残された人の双方の面倒をみるように努力しております。これは本当に切り離せない密接な関係があります。と言うのも、こちらへ来た人は後に残した者のことで悩み、背後霊がちゃんと面倒を見てくれていることを知るまで進歩が阻害されるケースが多いのです。そこで私たちは度々地上圏まで出かけることになるのです。

 先週も私たちのもとに夫と三人の幼い子供を残して死亡した女性をお預りしました。そして例によってぜひ地上へ行って四人のその後の様子を見たいとせがむのです。

あまりせがまれるので、やむを得ず私たちは婦人を地上へ案内しました。着いた時は夕方で、これから夕食が始まるところでした。ご主人は仕事から帰って来たばかりで、これからお子さんに食事をさせて寝させようと忙しそうにしておりました。

いよいよ四人が感じの良い台所のテーブルを囲み、お父さんが長女にお祈りをさせています。その子はこう祈りました。〝私たちとお母さんのために食事を用意して下さったことをキリストの御名において神に感謝します〟と。

 その様子を見ていた婦人は思わずその子のところへ近づき頭髪に手を当てて呼びかけましたが、何の反応もありません。

当惑するのを見て私たちは婦人を引きとめ、少し待つように申しました。暫く沈黙が続きました。その間、長女と父親の脳裏に婦人のことが去来しています。

すると長女の方が口を開いてこう言いました──「お父さん、母さんは私たちが今こうしているのを知ってるかしら?それからリズおばさんのことも。」

 「さあ良く判らないけど、きっと知ってると思うよ。この二、三日、母さんがとても心配してるような、何だか悲しい気持がしてならないからね。リズおばさんの念かも知れないけれどね。」

 「だったら私たちをおばさんとこに届けないでちょうだい。〇〇婦人が赤ちゃんの面倒を見てくれるし、私だって学校から帰ったら家事のお手伝いをするわ。そしたら行かなくって済むでしょ。」

 「行きたくないのだね?」
 「私は行きたくないわ。赤ちゃんとシッシーは行くでしょうけど。私はイヤよ。」
 「なるほど。父さんもよく考えておこう。だから心配しないで。皆んなで何とかうまくやって行けそうだね。」

 「それに母さんだってあの世から助けてくれるわ。それに天使様も。だって母さんはもう天使様とお話が出来るのでしょ?お願いしたらきっと助けてくれるわ。」

 父親はそれ以上何もしゃべりませんでした。が、私たちにはその心の中が見えます。そしてこんなことを考えているのが読み取れました──〝こんな小さな子供がそれほどの信仰を持っているからには自分もせめて同じくらいの信念は持つべきだ〟と。

それから次第に考えが固まり、とにかく今のままでやってみようと決心しました。もともと子供を手離すのは父親も本意ではなく、引き止めるための言い訳ならいくらでもあるじゃないか、と思ったのでした。

 こうした様子を見ただけで母親が慰めを得たとはとても言い切れません。が地上を後にしながら私たちはその婦人に、あの子の信仰が父親の信念によって増強されたら私たちが援助して行く上で強力な手掛かりとなりますよ、と言ってあげました。そうでも言っておかないと、今回の私たちが取った手段が間違っていたことになるのです。

 帰るとその経過を女性天使に報告しました。すると即座に家族が別れ別れにならぬように処置が取られ、その母親には、これから一心に向上を心掛け、早く家族の背後霊として働けるようになりなさいとのお達しがありました。

それからというもの、その婦人に変化が見られるようになりました。与えられた仕事に一心に励むようになったのです。私たちの霊団に加わって一緒に地上へ赴き、彼女なりの仕事が出来るようになる日もそう遠くはないでしょう。

 この話はこれ位にして、もう一つ別のケースを紹介してみましょう。先ごろ私たちのコロニーへ一人の男性がやってきました。この方も最近地上を去ったばかりです。

自分の気に入った土地を求めてさ迷い歩き、私たちの所がどうやら気に入ったらしいのです。ずっと一人ぼっちだったのではありません。少し離れた所から何時も指導霊が見守っていて、何時でも指導する用意をしていたのです。

この男性も私たちが時折見かける複雑な性格の持ち主で、非常に多くの善性と明るい面を持ち合わせていながら、自分でもどうにもならない歪んだ性格のために、それが発達を阻害されているのでした。

 その男性がある時私たちのホームのある丘からかなり離れた土地で別のホームの方に呼び止められました。その顔に複雑な表情を見て取ったからです。

実は出会った時点ですぐに、少し離れた位置にいた指導霊から、合図によってその男性の問題点についての情報が伝わり、その方は即座にそれを心得て優しく話しかけました。

 「この土地にはあまり馴染みがない方のようにお見受けしますが、何かお困りですか。」

 「お言葉は有難いのですが、別に困ってはおりません。」

 「あなたが抱えておられる悩みはこの土地で解決できるかも知れませんよ。全部というわけにはいかないでしょうけど。」

 「私がどんな悩みを抱えているかご存知ないでしょう。」

 「いや、少しは判りますよ。こちらで一人も知り合いに会わないことで変に思っておられるのでしょう。そしてなぜだろうと。」

 「確かにその通りです。」
 「でも、ちゃんとお会いになってるのですよ。」

 「会ったことは一度もありません。一体どこにいるのだろうと思っているのです。実に不思議なのです。あの世へ行けば真っ先に知人が迎えてくれるものと思っておりました。どうも納得がいきません。」

 「でも、お会いになってますよ。」
 「知った人間には一人も会っておりませんけど。」

 「確かにあなたはお会いになっていませんが、相手はちゃんとあなたにお会いしています。あなたが気づかないだけ、いや、気づこうとなさらないだけです。」

 「何のことだか、よく判りませんね。」

 「こういうことです。実はあなたが地上からこちらへ来てすぐから、あなたの知人が面倒を見ているのです。ところがあなたの心は一面なかなか良いところもあり開かれた面もあるのですが、他方、非常に頑なでむやみに強情なところがあります。あなたの目に知人の姿が映らないのはそこに原因があるのです。」

 男はしばらくその方を疑い深い目でじっと見つめておりました。そしてついに、どもりながらもこう言いました。

 「じゃ、私のどこがいけないのでしょう。会う人はみな優しく幸せそうに見えるのに、私はどの人とも深いお付き会いが出来ないし落着ける場所もありません。私のどこがいけないのでしょう。」

 「まず第一に反省しなくてはいけないのは、あなたの考えることが必ずしも正しくないということです。ちなみに一つ二つあなたの誤った考えを指摘してみましょう。

一つは、あなたはこの世界を善人だけの世界か、さもなくば悪人だけの世界と考えたがりますが、それは間違いです。地上と似たり寄ったりで、善性もあれば邪悪性も秘めているものです。

それからもう一つ。数年前に他界された奥さんは、あなたがこれから事情を正しく理解した暁に落着かれる界よりも、もっと高い界におられます。地上時代は知的にはあなたに敵いませんでしたし、今でも敵わないでしょう。

ところが総合的に評価すると霊格はあなたの方が低いのです。これがあなたが認めなくてはならない第二の点です。心底から認めなくてはダメです。あなたのお顔を拝見していると、まだ認めてないようですね。でも、まずそれを認めないと向上は望めません。

認められるようになったら、その時はたぶん奥さんと連絡が取れるようになるでしょう。今のところまだそれは不可能です。」

 男の目が涙で曇ってきました。でも笑顔を作りながら、どこかさびしげに言いました。

 「どうやらあなたは予言者でいらっしゃるようですね。」

 「まさしくその通り。そこで、あなたが認めなければならない三つ目のことを申し上げましょう。それはこういうことです。あなたのすぐ近くにあなたをずっと見守り救いの手を差し伸べようと待機している方がいるということです。

その方は私と同じく予言者です。先覚者と言った方が良いかも知れません。さっき申し上げたことは全部その方が私に伝達してくれて、それを私が述べたに過ぎません。」

 それを聞いて男の顔に深刻な表情が見えてきました。何かを得ようとしきりに思い詰めておりましたが、やがてこう聞きました。

 「結局私は虚栄心が強いということでしょうか。」

 「その通り。それもいささか厄介なタチの虚栄心です。あなたには優しい面もあり謙虚でもあり、愛念が無いわけではありません。この愛こそ何にも勝る力です。

ところがその心とは裏腹にあなたの精神構造の中に一種の強情さがあり、それは是非とも柔げなくてはなりません。言ってみれば精神的轍(わだち)の中にはまり込んだようなもので、一刻も早くそこから脱け出て、もっと拘泥(こだわり)を捨て、自由に見渡さなくてはいけません。

そうしないといつまでも〝見えているのに見えない〟という矛盾と逆説の状態が続きます。つまり、あるものは良く見えるのにあるものはさっぱり見えないという状態です。

証拠を突きつけられて自説を改めるということは決して人間的弱さの証明でもなく堕落でもなく、それこそ正直さの証明であることを知らなくてはいけません。

もう一つ付け加えておきましょう。今言ったように、その強情さはあなたの精神構造に巣食っているのであって、もしそれが霊的本質つまり魂そのものがそうであったなら、こんなに明るい境涯には居られず、あの丘の向こう側──ずっとずっと向こうにある薄暗い世界に落着くところでした。以上、私なりにあなたの問題点を指摘してさし上げました。後は別の人にお任せしましょう。」

 「どなたです?」
 「さっきお話した方ですよ。あなたの面倒を見ておられる方。」
 「どこにおられるのですか。」
 「ちょっとお待ちなさい。すぐに来られますから。」

 そこで合図が送られ、次の瞬間にはもうすぐ側に立っていたのですが、その男には目えません。

 「さあ、お出でになりましたよ。何でもお尋ねしなさい。」

 男は疑念と不安の表情で言いました──「どうか教えて下さい。ここにおられるのであれば、なぜ私に見えないのでしょうか。」

 「さっきも言った通りあなたの精神構造に見えなくさせるものが潜んでいるからです。あなたがある面において盲目であるという私の言葉を信じますか。」

 「私は物がよく見えています。非常にはっきり見えますし、田園風景も極めて自然で美しいです。その点では私は盲目ではありません。ですが、同じく実質的なもので私に見えないものが他にもあるかも知れないと考えはじめております。多分それもそのうち見えるようになるでしょう。でも…」

 「お待ちなさい、その〝でも〟はやめなさい。さあ、ここをよく見なさい。あなたの指導霊の手を私が握って見せますよ。」

 そう言って指導霊の右手を取り、「さ、よく見なさい。何か見えますか」と聞きましたが、男にはまだ見えません。ただ何やら透明なものが見えるような気がするだけで、実体があるのか無いのかよく分かりませんでした。

 「じゃ、ご自分の手で握って見なさい。さ、私の手から取ってごらんなさい。」

 そう言われて男は手を差し出し、指導霊の手を取りました。そしてその瞬間、どっと泣き崩れました。

 男にそうした行為が出来たということ、そして指導霊の手を見、さらにそれに触れてみることが出来たということは、男がその段階まで進化した人間であった事を意味します。手を出しなさいと言われた時はすでに、それまでのやりとりの間に男がそれが出来るまで向上していたということで、さっそくその報いが得られたわけです。

指導霊は暫くの間男の手をしっかりと握りしめておりましたが、そのうち男の目に指導霊の姿がだんだん見え始め、且つ、手の感触も強くなって行きました。

それまで相手をされた方はそれを見てその場を去りました。男は間もなく指導霊が見えるだけでなく語り合うことも出来るようになったことでしょう。そして今はきっと着々と霊力を身につけて行きつつあることでしょう。

 ルビーがあなた方両親にこんなメッセージを伝えて欲しいとのことです───「お父さん、お母さん、地上の親しい人が良い行いや親切なことをしたり、良いことを考えたりお話したりすることが全部映像になってこちらへ伝わって来るのは本当です。

私達はそれを使って部屋を美しく飾ったりします。リーンちゃんがあのお花で部屋を飾るのといっしょよ」と。

 では神の祝福を。お寝すみなさい。


<原著者ノート>最後のルビーからのメッセージの中の〝あのお花〟というのは、学校で寮生活をしている姉のリーンに私たちが時折送り届けている花のことのようである。以上で母からのメッセージは全部終了し、この後の通信は私の守護霊であるザブディエルに引き継がれる。それが第二巻「天界の高地」篇である。
               




〔本章は、これまでのオーエン氏の母親からの通信の中に時おり割り込む形で綴られた、アストリエルと名告る霊からの通信をまとめたものである。九九章<原著者ノート>参照──訳者〕

Saturday, July 11, 2026

シルバーバーチの教え(上)

 霊的叡智の宝庫

Teachings of Silver Birch
A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)



6章 すべてを支配する神の摂理


〔宇宙は逃れようにも逃れられない自然法則によって支配されている。いかなる霊もその法則を変えたり、それを犯したときに生じる結果から逃れることはできない。しかし、そうした法則の存在を教えることによって無知から発生する危険を取り除いてあげることは可能である。シルバーバーチは数ある法則の中から、例えば引力の法則のような身近なものを取り上げて説き明かす。〕


私たちは大霊が定めた摂理(法則)をお教えしようとしているのです。それを守りさえすれば、地上生活に健康と幸せをもたらすことができるからです。教会で説教をしている人たちは、いつの日か、その間違いを取り消さなければなりません。いかなる人間も摂理の働きから逃れることはできません。とりわけ霊の声を聞いた者は、なおさらのことです。間違っていると知りつつ罪を犯す者は、真理を知らずに罪を犯す者よりも重い責任を取らされます。

魂が目覚め、霊力とともにもたらされる愛の恩恵に浴し、霊的真理の啓示を手にしながらも、なお自分中心の生き方をしている人は、その怠慢に対する罰がそれだけ大きくなります。無知ゆえに罪を犯したのではなく、真理を知りながら犯しているからです。人のために役立てるべき霊能を授かりながら、それを銀貨三十枚で売っている多くの霊媒・霊能者がいます。(イエスの弟子ユダが銀貨三十枚をもらってイエスの隠処を教え、それによってイエスの逮捕・処刑となり、ユダは自殺する。良心を裏切る行為のこと――訳注)

大霊はあなた方の内部に存在しています。進化の跡をたどれば確かに人間は向上しており、動物的進化の痕跡もとどめてはいますが、それは大霊の賜物(たまもの)の一部にすぎません。あなた方はそれをはるかに凌ぐ霊の資質を内部に宿しており、その力を発揮すれば地上にあっても神の如き生き方が可能となるのです。

一人ひとりの人間の内部には、いかなる病気も癒す力と、いかなる困難も克服する力が備わっているのですが、あなた方はまだそれを理解していません。人間は窮地に陥ったときに内部の貯蔵庫から霊力を引き出すことができます。このように神の王国は各自の内部にあるのですが、人々はそれをまったく理解していないのです。

その貯蔵庫から必要な霊力を引き出すためには、大霊(神)の摂理にのっとった生活に徹すればよいのです。しかし、果たして何人の人がそれを心がけているでしょうか。

人生は行為だけで成り立っているのではありません。口にする言葉や心で思うことも大切な要素です。行いだけが重要であると考えてはいけません。確かに行いが重要であることは事実ですが、言葉や思念も、あなたという存在の大切な一部なのです。よく言われるように、多くの人間が思想の主人ではなく、その奴隷となっています。


〔シルバーバーチがしばしば取り上げるテーマの一つが、地上人類は皆、肌の色に関係なく同胞であるということである。ある日の交霊会で次のように述べている。〕


私たちは一人の例外もなく大霊の一部です。そのうちのある者の肌を赤くし、ある者を黒色にし、ある者を黄色にし、ある者を無色(白色)にしました。しかし、こうしたことは大霊の計画の一端なのです。

いつの日か、大霊の摂理に対する理解が行きわたり、すべての肌の色の人々が混じり合い、互いに愛の心で睦み合うようになれば、地上に調和が訪れるようになります。あなた方は、肌の色の違いが意味するところを理解していません。異なる肌の色が与えられたことには重要な目的があり、それぞれが生命の摂理の成就に貢献することになるのです。すべての人種が一つに混じり合い、人間を肌の色で見分けるのではなく、その奥の魂で見分けるようになるまでは地上界に真の平和は訪れません。

このサークルが、地上のほとんどすべての人種から構成された一つの共和国になっていることにお気づきでしょうか。そこにはあなた方地上人に対する教訓があります。どの民族も他の民族にはないものを所有しており、そうした独自のものをそれぞれが持ち寄ることによって最高のものができ上がるのです。黄色人種には黄色人種ならではの貢献の場があり、白人には白人ならではの貢献の場があるということですが、地上人類は、こうしたことに理解が及んでいません。

あなた方は自らが大霊の一部であることを忘れてはいけません。あなた方一人ひとりが、大霊の仕事・大霊の力・大霊の愛・大霊の知識に貢献できるのです。例えば、自分よりも力の劣る人を少しでも向上させてあげようとするなら、大霊の力があなた方を通して顕現することになるのです。

それをいかなる形でするか、手を差し伸べる相手が誰であるか、どこで暗闇に光明をもたらすかは問題ではありません。挫折した人々を元気づけ、弱っている人々に力を与え、暗闇に光明をもたらし、飢えている人々に食べ物を施し、身を横たえる場所もない人々に休息の場を提供してあげることです。

それらの一つひとつが大霊の仕事の一部なのです。そうした努力をしていればどこにいても常に、あなた方を援助するための霊力がもたらされ、魂を鼓舞してくれます。そして、あなた方の想像を超えた結果を生み出すことになるのです。

大霊が働きかけるのは教会や大聖堂や寺院ではありません。霊力に反応する人がいれば、そこがどこであろうと大霊は誠意に燃えた高級界の霊団を派遣します。地上の人間はとかく大霊の働き場所を限定して考え、特別な資格を持った人々を通してのみ働きかけると思いがちですが、地上界へつながる通路さえあれば、どこであろうと、いつであろうと、誰であろうと、その通路を使って働きかけます。

霊力には地上的な差別――階級や肩書き、社会的地位や肌の色、国家や民族の違いなどは関係ありません。霊力に反応する人であれば、それが誰であろうと、そこがどこであろうと、高級界から霊力を注いで精神を明るく照らし、魂を鼓舞し、神のブドウ園の園丁(えんてい)として使用します。(「ブドウ園の園丁」は、マタイ伝の「神の国はブドウ園で働く人を雇うために朝早く出かける主人のようなものである」から――訳注)

どうかこのことをしっかりと学び、大霊と大霊の子供たちのためにという決意のもとに、暗闇と重圧と嵐と困難の中で苦しんでいる人々の重荷を少しでも軽くし、新たな希望・新たな知識・新たな光明・新たな力を届けてあげてください。そうすれば、それを授かった人は身体に新たなエネルギーが満ち、精神は勇気にあふれ、霊は生気を取り戻して、大霊から授かっている資質の素晴らしさを満喫することになるでしょう。

そしてあなた方は、自分自身には何も求めず、ひたすら他人の霊的向上のみを目的とする真の奉仕(サービス)の喜びを味わうことになります。


〔これまで地上人類に知らされていなかった“重大な秘密”が明かされる。〕


大霊は無限の存在であり、あなた方はその大霊の一部です。もしも完璧な信念を持ち、正しい人生を送れば、大霊の恩寵(おんちょう)にあずかることができます。

地上界のすべての人間が完璧な信念を持てば、大霊はそれぞれの願いを喜んで聞き入れてくださることでしょう。魂が真剣に求め、しかも大霊に対する絶対的信念に燃えていれば、必ずやその望みは叶えられることでしょう。

神(大霊)の摂理はそのようにして働くのです。摂理に順応した生活を送っていれば、望み通りの結果が生じるようになっています。結果が出ないということは、摂理に一致した生き方をしていないことを示しています。

歴史をひもといてご覧なさい。最も低い階級、最も貧しい環境にありながら、神の摂理に忠実に従う努力をしたために道を踏み外すことがなかった人たちがいます。摂理に合わせようとしないで、“なぜ神は働かないのか”と不平ばかり言っている人間を相手にしてはいけません。

時には押しつぶされて不遇から抜け出せないこともあるでしょう。しかし、完璧な信念に燃えていれば、いつかはきっと地上生活での困難を克服することができます。大霊の象徴である太陽に向かってこう言うのです――「私は大霊の一部だ。私を破滅させるものは何もない。私は永遠の存在だ。無限の可能性を秘めた存在なのだ。有限の物質界のものは決して私を傷つけることはできない!」と。もしこれだけのことが言えるようであれば、あなたが傷つくことは絶対にありません。

多くの人が心に不安や恐れを抱いて出発します。望み通りの結果が得られないのではないか、という不安です。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。しかし「完全なる愛は恐れを取り除く」(ヨハネ第一の手紙四)、「まず神の国とその義を求めよ。そうすればそれらのものはみな与えられるであろう」(マタイ六)との言葉があります。

これは、はるか遠い昔、摂理を完璧に理解した人物によって述べられた教えです。彼は、摂理を実践すれば常にその結果がともなうことを示してみせたのです。あなた方も、摂理が働くような条件を整えさえすれば、必ずや望み通りの結果が得られます。

もう一つ別の摂理をお教えしましょう。それは何の代価も支払わずに入手できるものは、この地上界には何ひとつないということです。代価を支払わずに霊的能力を開発することはできませんし、魂の富を蓄えることもできません。霊的成長をおろそかにして金儲けにうつつを抜かしていると、そちらの世界では金持ちと言われても、こちらの世界では哀れな貧しい魂になってしまいます。

人間はその内部に、何よりも貴重な「神性」を宿しています。あなた方は大霊の一部なのです。地上のどこを探しても、それに匹敵する宝や富は存在しません。私たちは、魂の内部の鉱脈を探査し、肉体的本性の奥に埋もれた霊のダイヤモンドをいかにして引き出すか、それをお教えしようとしているのです。

そのためには霊界の最高の界層のバイブレーションに反応するようになっていただかなくてはなりません。あなた方は決して一人ぼっちではないこと、周囲には常にあなた方を愛する大勢の霊たちがいて、見守り、導き、援助し、鼓舞しようとして待機していることを知っていただきたいのです。そうした中で霊性が開発されていくにつれて少しずつ大霊に近づき、摂理と調和していくようになることを悟っていただきたいのです。

あなた方は、大霊の子供である地上の同胞に奉仕することによって大霊に奉仕することになります。同胞のために役立つことをしているとき、大霊の無限の腕に抱かれ、その愛に包まれ、それが完全なる安らぎをもたらしてくれるようになります。

何の根拠もなく、ただ信じるというだけの信仰では、厳しい試練の嵐が吹けばひとたまりもなく崩れてしまいます。しかし、正しい霊的知識から生まれた信仰には確固たる土台がありますから、いかなる試練の嵐に遭っても揺らぐことはありません。

証拠を何ひとつ見なくても信じることができる人は幸せです。しかし、この宇宙が大霊の愛と叡智から生まれた霊的摂理によって支配されていることを信じることができる人は、なおいっそう幸せです。

その意味で、ここにおられる(ハンネン・スワッファー・ホームサークルの)皆さんは、霊的知識から生まれた完璧な信仰を持たなければなりません。皆さんは霊力の証(あかし)を手にしておられます。万事うまくいくという信念、大霊の摂理と調和して生きればそれ相当の実りを手にすることができるとの信念を持たなければなりません。

人間は“邪悪”と呼ばれるものの影響を受けてしまいます。しかしその邪悪なるものは、心の中から完全に追放することができるのです。なぜなら皆さんは、大霊とその摂理の保護のもとに生き、行動しておられるからです。

心に邪悪なものがなければ、善なるものしか近づきません。善なるものは、善なるものが支配するところにしか存在できないからです。霊界からこの交霊の場に訪れるのは大霊の使者のみです。恐れを持つ必要はありません。あなた方を包み込んでいる力、あなた方を支え導き鼓舞しようとしている力は、大霊から発しているのです。

その力が試練と苦難に際してあなた方を支えてくれます。嵐を鎮めて晴天とし、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれるのも、その力です。皆さんは進歩の正道をしっかりと踏みしめておられます。不安に思うことは何ひとつありません。

「完全なる愛は恐れを取り除く」とイエスは述べていますが、正しい知識は恐れを打ち払います。恐怖は無知から生じるものだからです。愛と信念と知識のあるところに恐怖は居すわることはできません。進化した魂は、いついかなるときも恐れることがありません。人生のどのような局面に際しても、自分は大霊であるがゆえに克服できないものはない、との確信があるからです。

恐怖心は魂の牢獄をつくります。ですから恐怖が頭をもたげかけたら、その波動に巻き込まれることなく、それを抑え込み、信念を持ってこう自分に言って聞かせるのです――「自分は大霊なのだ。地上の出来事で動揺などしない。魂に宿る無限の霊力でいかなる困難も凌いでみせる」と。あなた方は、あらゆる困難を克服する力を授かっているのです。その無限の力を見限ることがあってはなりません。

大霊の法則は、物的なものと霊的なものの両方を支配しています。宇宙という大霊の王国には、そうした区別はありません。物的生命を霊的生命から切り離して考えてはいけません。本来は別個のものではないのです。一つの大生命があり、それにいくつもの側面があるにすぎません。物的なものは霊的なものに反映し、霊的なものは物的なものに反映します。

大霊の摂理に一致した生き方をしているかぎり、克服できないような困難は生じないということを知らなければなりません。遭遇している困難や障害が取り除かれてしかるべきものであるなら、私たちの力で排除できないものはありません。

もしも苦しみが余りにも耐えがたく思われるときには、こう理解してください。私たち霊界の者は、あなた方の苦しみを取り除くために自分自身の進化の歩みを止めて努力します。しかしあなた方としては、その苦しみに耐え抜き、辛い体験を通して教訓を学び取る方が賢明であるということです。この短い地上人生のことだけを考えてはいけません。永遠の生命を視野におくことです。

物質界の人間も、物的であると同時に神性を宿していることを理解すれば、どれほど地上で生きやすくなることでしょう。悩みはたちまち消え去り、障害物も取り除かれることでしょう。ところが人間は内在している霊的な力を信じません。あなた方の言う“人間らしさ”とは地上界だけに属するものですが、霊力は大霊に属しているのです。

その昔、イエスは「地上を旅する者であれ。地上の住民となるなかれ」と言いました(聖書には見当たらないが、モーゼスの『霊訓』にも引用されているところをみると、事実そういう言葉を何度も述べたのであろう――訳注)。地上人は、お金を持っている人間ほど悩みがないと思いがちです。“悩み”というものが相対的なものであることに気がつかないのです。大霊の摂理を金銭でごまかすことはできません。

あなた方は人間性を強化するために地上界へ来ています。それがなされるかどうかは、遭遇する難問にどう対処するかによって決まります。内在する霊力によって克服できないような問題は、地上には生じません。なぜなら、いかなる難問もしょせんは地上的・物質的なものにすぎないからです。あなた方は大霊の一部であり、神性を宿していることを忘れてはなりません。

真の幸福とは、大霊と一体になった者に訪れる安らぎのことです。それは心が大霊のリズムで鼓動し、大霊の意思と一致し、魂と精神が大霊と一つになっている状態のことです。大霊の摂理と調和しているから安らぎがあるのです。それ以外に安らぎは得られません。

この私にできるのは、摂理についてお教えすることだけです。イエスは二千年前に、「天国はあなた方の中にある」と言いました。外部のどこかにあるわけではありません。ましてや物質界の喧騒の中には存在しません。それは魂の内部に見いだされるものなのです。

神の摂理は絶妙なバランスを保ちながら完璧に働いていますから、いかにそれをごまかそうとしても不可能です。どのような人間も、罰せられるべきものが見逃されたり、報われるべきものが見落とされたりするようなことはありません。物的な目で永遠を判断してはいけません。より大きなものを見ないで小さなものを裁いてはいけません。

束の間の地上的な喜びと永遠の霊的な幸福とを混同してはいけません。地上的な喜びは安っぽい一時(いっとき)のものにすぎません。あなた方は地上的な観点から考えがちですが、私たちは霊的な目で見ます。あなた方を喜ばせるために摂理を曲げて説くわけにはまいりません。

霊界から地上界へ戻ってきた者(交霊会で出現した霊)に尋ねてごらんなさい。誰もが「摂理は完璧です」と答えるはずです。そして二度と地上へは再生したがりません。

あなた方は外部に安らぎを求めようとしますが、私はあなた方の内部にある永遠の安らぎを見いださせてあげたいと努めています。最も価値あるものは内在する霊的宝なのです。

常に何かしら不満を抱いている人がいるものです。それは地上世界だけでなく、こちらの世界でも同じです。彼らが満足できないのは、自分がもっと完璧になれると思っているからです。神の道具として、まだまだ十分ではないと思っているからです。まさに人間は、自己との闘いを通して自らの不完全さを克服し、神性の開発が可能になるのです。

まだ為すべきことがありながら、満足していられるでしょうか。生きるうえで欠かせないものに不自由している物質界の子らを見て、安穏としていられるでしょうか。神の名のもとに間違った教えが説かれているのを聞いて、私たちが安心していられると思われますか。

光があるべきところに暗闇があり、自由であるはずの者が強欲さによって自らの魂をがんじがらめにし、地上界のどこもかしこも混乱し、無秩序な状態にあるのを見て、私たちが心を痛めずにいられると思われますか。

私たちは、あなた方を通して大霊の愛が地上界に流入するように努めていますが、いまだに多くの大霊の子らが本来受け取るべきものを得られずにいるのです。大霊は必要なものは十分に用意してくださっているのに、それを授からない人がいるのです。他の人間が飢えているのに、自分だけが満ち足りて平気でいるようでは、霊格が高い人間とは言えません。

私たちの仕事でいちばん辛いのは、時としてあなた方が苦しんでいるのを傍観しなければならないことです。その苦しみがあなた方の魂にとって必要な闘いであるために、私たちは手出しをすることが許されないのです。あなた方がその闘いに勝利すれば、それは私たちにとっても勝利であり、あなた方が敗北すれば私たちにとっても敗北なのです。あなた方の闘いは常に私たちの闘いであるにもかかわらず、あなた方を援助することは一切許されません。

時々、私は涙を流すことがあります。救いの手を差し伸べてはいけないことが分かっているからです。それが摂理だからです。そのときの私の苦痛は、苦しんでいる本人よりも大きいことを知ってください。

皆さんに代わって私が問題を解いてあげるわけにはいきません。それは皆さんの自由意志に干渉することになるからです。もし私が、この霊媒(バーバネル)にああしろこうしろと指示し始めるようになったら、それはこの霊媒の自由意志が失われたことを意味します。それきり彼の進歩は止まってしまいます。

あなた方一人ひとりの内部に宿された霊性が発達するのは、日常生活で生じる問題をいかにして解決していくか、その努力をしているときです。何もかも楽に片づいているうちは成長しません。

ただし、私にも干渉を許される場合があります。この霊媒を通じての私の仕事が妨げられるときには、チャンネルであるこの霊媒の自由を確保するために、邪魔を排除する手段を講じます。しかし、この霊媒の霊性の進化に関わることはすべて本人の自己責任ですから、あくまでも霊媒自身の努力で解決していかなければなりません。


〔別の日の交霊会で――〕


霊的真理を説く人には、大きな責任が背負わされています。もしその責任に反するなら、地上生活の間に、または死後にその代償を払わなければなりません。

時おり私がうんざりさせられるのは、霊界からの“高度な教え”を求めるだけで、何ひとつ困っている同胞のために手を差し伸べようとしない人間がいることです。人は成長するにつれて霊的真理と大霊の摂理を深く理解するようになっていきます。

真理の追求ばかりしている人たちが、少しでも地上を明るく住みやすい世界にするために、人々への奉仕に立ち上がるなら、それこそ“最高の教え”を実践することになるのですが……。


〔地上界の問題の大半は自由意志の使い方を誤っていることから生じていることを強調して――〕


人間は戦争が起きると、「なぜ大霊は戦争をやめさせないのか」とか「なぜ未然に防いでくれないのか」と思うようですが、大霊の摂理を無視している以上、責任は人間自身にあるのです。

行為が生み出す結果は絶対に避けられません。私たちには、大霊の摂理を変えることはできません。蒔いた種が生み出す結果は、自分で刈り取らなければならないのです。利己主義という種を蒔けば、それ相当の結果を刈り取らなければなりません。高慢・嫉妬・怨恨(えんこん)・貪欲・敵意・不信・猜疑心(さいぎしん)――こうしたものがつもり積もって、戦争・困窮(こんきゅう)・不和といったものを生み出します。

私たちは大霊の摂理をお教えしようと努力しているのですが、私たちが地上界へ降りてきた目的を理解できない人たちから、しばしば非難されます。しかし私たちには、大自然の摂理を明かすこと以外には何の意図もありません。というのは、地上界を支配しているのは大霊の摂理以外の何ものでもないからです。それを“宗教”と呼ぼうと“科学”と呼ぼうと“哲学”と呼ぼうと“神の自然法則”と呼ぼうと同じことです。

摂理に逆らった生き方をする人は、一人の人間であろうと大勢の集団であろうと、民族であろうと国家であろうと、いつかはその代償を払わなければなりません。摂理の働きが完璧であることはいつも説いている通りです。その働きは人間の目には見えないかもしれませんが、原因と結果は常に連鎖しています。摂理がそのようになっているからです。何度も述べてきたことですが、それを改めて説くのは大霊の摂理がすべてだからです。

私たちは、大霊(神)とは何かを明らかにしようとしていますが、それは摂理を通して大霊を明らかにすることにほかなりません。私たちは、大霊の摂理をお教えしようとしているのです。それによってあなた方は、摂理と調和した生活が可能になります。もちろん自由意志が与えられていますから、摂理に従うか否かはあなた方の選択に任されています。一個人であろうと集団であろうと同じことです。

何事も摂理にのっとって行動し、それに反することがないようにしなければならないという認識が行きわたるまでは、地上界に混乱と破滅と惨事が絶えることはないでしょう。

私たちとしては、永遠の霊的真理をお教えすることしかできません。なぜなら霊的真理だけが、物的なものが崩壊しチリとなったあとも存在し続けるからです。物的なものだけに目を奪われている者は大きな過ちを犯しています。幻影を追いかけ、永遠の実在を忘れているからです。霊的真理といっても至って単純なことばかりです。それなのに地上界の人間は、いまだに真理を理解していません。

苦痛と落涙、流血と悲しみを通してしか霊的真理を学べないというのであれば、それもやむをえないでしょう。私としては、できることなら私たちが示してきたように愛と奉仕の精神を通して学んでほしいところです。しかし、それができないとなれば、摂理に反した生き方に対する代価(痛み)を払って学ぶしかないでしょう。

地上界で大人物と言われた人が霊界でも大人物と言われるわけではありません。こちらの世界での偉大さは、魂の偉大さ・霊性の高さ・奉仕精神の豊かさで計られます。これらは物的世界での輝きが消滅したあとも末永く存在し続けます。

自由意志は大霊から授かった権利です。が、その使用を誤ると代償を払わなければなりません。摂理にのっとった生き方をすれば豊かな恩恵を手にすることになります。もし摂理に反した生き方をするなら、それ相当の結果を刈り取らなければなりません。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱を招きます。

私たちは、本来なら大霊の子供たちの教育者であるべき立場の人々から軽蔑されています。私たちが大霊と大霊の愛の名のもとに地上へ降りてきたために、私たちを歓迎するはずの人間から拒絶されています。私たちは「お役に立ちたい!」との願望に燃えて、あなた方が自ら地上世界を救うための摂理と霊力についてお教えしようとしているのですが……。

霊的無知に浸りきり、儀式や作法に取り囲まれ、さらには神の霊力が今日でも地上界に注がれていることを否定するようでは、その代償を払わざるをえません。(英国国教会では神は紀元六六年まで地上に働きかけ、それ以後はいかなる働きかけもしないという信仰がある――訳注)

私たちは人のために役立つことを願う人々の味方であり、破壊をもくろむ者たちにとっては敵なのです。私たちは、手助けすることができる所ならどこへでも、愛と奉仕の翼に乗って降りてまいります。それこそが、私たち全員が果たさなければならない仕事だからです。

それには困難と障害が立ちはだかることは覚悟しています。しかし、私たちは必ず克服します。潮流のように満ち干を繰り返すことでしょうが、最後は必ず勝利します。

私たちだけでは大きな仕事はできませんが、あなた方地上の人々と協力すれば、幾ばくかの仕事はできます。一個の魂を引き上げ、暗闇にいる人に光明をもたらし、弱っている人に力を貸し、逆境に喘ぐ人を慰めてあげるなら、そのとき私たちは価値ある貢献をしたことになるのです。


〔一人ひとりの人生上の出来事には明らかな傾向が見られるという意味において、自由意志にも制約があると言えるのか、と問われて――〕


一定の傾向があるのは事実ですが、それは宿命的にどうしようもないものではありません。人間はさまざまな放射物や影響力に取り囲まれていて、その多くが人間の運命に何らかの影響を及ぼしていることは事実です。しかし、大霊は人間の一人ひとりにご自身の一部・霊性の一部を与えてくださっており、各自の進化のレベルに応じて自由意志を適切に行使すれば、霊性開発の道で生じるいかなる障害も克服できるようになります。あなたが大霊であり、大霊があなたなのです。

大地に蒔かれた種子は、その成長を正しく促すものを与えれば芽を出し、成長し、見事な花を咲かせます。それと同じで、あなたという存在の中に大霊の種子が植え込まれているのです。あなた自身が庭師です。その種子が花を咲かせられるかどうか、あるいはいつ花を咲かせるかは、あなたの手入れ一つにかかっています。そこにあなたの自由意志が関わっているのです。

せっかくの種子を暗闇の中に置き去りにして、魂の成長や慈悲や無私の善行という光を与えなければ、大霊があなたを通して顕現することにはなりません。


〔苦難の価値について問われて――〕


あらゆる体験が、あなた方の永遠の人生模様の一部を構成します。あなた方はとかく、この世だけの出来事によって永遠の人生を判断しようとします。目に見える物質世界の混乱状態だけで判断し、地上生活のすべてを通して一本の神聖な糸が貫いていることが理解できません。

調和を基本的摂理とするこの大宇宙においては、あなた方一人ひとりが大霊の計画に貢献しているのです。地上生活には、時として辛さと絶望、痛みと悲惨さがともないますが、そのすべてが魂にとって永遠の旅路に向かうための準備なのです。

暗黒と光、陰と日向(ひなた)といった対照的なものも、実は一個の統一体の反映にすぎません。陰なくしては光もあり得ず、光なくしては陰もあり得ません。それと同じで、困難は魂が向上するための階段です。困難・障害・ハンディキャップ――こうしたものは魂の試練なのです。それを克服したとき、魂はより強くなり、より純粋になり、より深くなり、いっそう進化するようになるのです。

無限の可能性を秘めた魂の潜在能力が、困難も苦痛もなく、陰も悲しみも悩みも悲惨さもなしに発現すると思われますか。発現するはずはありません。

悲哀の極みをなめ尽くして初めて、魂の奥底からの喜びが味わえるのです。生命の階段を低く下りるほど、それだけ高く上がれるのです。地上人生の陰と思える体験を重ねるほど、日向の喜びがひとしお身に沁みるようになるのです。

すべてのことが霊性進化の肥やしになります。そのうち皆さんも、肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上人生を振り返るときがまいります。その時、紆余曲折した出来事の中で、それらの一つひとつがちゃんとした意味を持ち、すべての体験が皆さんの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出すことになっていたことを理解するようになるはずです。

魂にとって、正しく理解し正々堂々と立ち向かって何の益ももたらさないような体験は一つもありません。いったい、困難も試練も問題もない物質世界というものが想像できるでしょうか。そうした世界では何の進化も得られません。克服すべきものが何もないからです。あるのは堕落のみです。

シルバーバーチの教え(上)

霊的叡智の宝庫

Teachings of Silver Birch
A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)



5章 神とはどのような存在か


〔スピリチュアリストの中にも、シルバーバーチが説く神の概念に対して当惑する人がいるが、次の質疑応答は神を正しく理解するための参考になるであろう。〕
質疑応答


――大霊というのは「誰」なのでしょうか。「何」なのでしょうか。あらゆるものに内在する愛、愛の精神ないしは情なのでしょうか。


大霊とは宇宙の自然法則です。物質界と霊界のすべての生命体の背後にある創造的エネルギーです。大霊は完全なる愛であり、完全なる叡智です。大霊は全宇宙のすみずみまで行きわたっています。人間が知り得る極微のものであろうと、まだ物質界には明かされていないものであろうと、そのすべてに遍在しています。

大霊は、あらゆる生命体に充満しています。あらゆるものに内在し、あらゆる法則に内在しています。大霊は生命であり、愛であり、存在するすべてのものなのです。従僕にすぎない私たちが、どうして主人を表現することができるでしょうか。ちっぽけな概念しか抱けない私たちが、どうして広大無辺の存在を表現できるでしょうか。


――一羽のスズメが落ちるのも神はご存じだということですが、この地球上のすべての人間の身に起きることを、神はどのようにして知ることができるのでしょうか。ましてや、すでに他界した数えきれない人たちのことまで、どのようにして知ることができるのでしょうか。


人間が「神」と呼んでいるのは、宇宙の自然法則のことです。大霊(神)は万物に内在しています。すべての存在物が大霊であると言えるのです。魂はそれ自身のことを知っていますから、大霊は魂を知っていることになります。スズメも大霊ですから、大霊はスズメを知っていることになります。大霊は風にそよぐ木の葉の中にも存在していますから、木の葉は大霊であると言えます。

地上界のすべて、霊界のすべて、宇宙のすべて、そしてまだあなた方に知らされていない世界のすべてが、大霊の法則の絶対的な支配の中にあるのです。その法則から離れては何ひとつ生じません。すべてが法則の範囲内で発生していますから、大霊はすべてを知っていることになります。


――あなたは、全存在の根源である大霊はあらゆるものに内在している、愛にも憎しみにも、叡智の中にも愚かさの中にも存在している、とおっしゃっています。そうであるなら、間違ったことをする人間も正しいことをする人間と同様に、大霊の摂理の中で行動していることになります。同じことが、戦争や憎しみを煽動する者と、平和や愛を唱道する者とについても言えることになります。すべては大霊の摂理の一部であるとするなら、神の摂理を犯す者は誰ひとりいないことになりますが、この矛盾をどう説明されますか。


一方に“完全なもの”があり、他方に“不完全なもの”があります。しかし不完全なものも、その内部に完全性の種子を宿しています。なぜなら完全性は、不完全性から生じるものだからです。完全性は完全性から生まれるのではなくて、不完全性から生まれるのです。

生命の旅路は進化であり、進歩です。向上を求めての葛藤です。発達・発展・拡大・拡張です。あなた方が“善”とか“悪”とか言っているのは、その旅路における途中の段階にすぎず、終着点ではありません。あなた方は、その不完全な理解力によって判断しているのであって、ある段階から見て上のものを“善”と言い、それより低いものを“悪”と言っているにすぎません。それはその段階でのあなた方なりの考え方であり、その状況から離れたときには、あなた方は別の判断をするかもしれません。が、いかなる状況にあっても、大霊はすべてのものに内在しているのです。


――すると大霊は地震にも関わっているのでしょうか。


大霊とは摂理(法則)であり、あらゆるものを支配しています。摂理に関わりなく生じるものは、宇宙には何ひとつ存在しません。

地震・雷・嵐――こうしたものについてどのように理解すべきか地上人が頭を悩ませていることは、私もよく承知しています。しかし、それらはすべて摂理の支配下にある宇宙の一部なのです。宇宙は、そこに生を営む者と同じように進化しています。物質界は、まだ完全からはほど遠いものであり、完全に至ることはありません。物質界はどこまでも、より高い世界へと進化していくのです。


――大霊も進化しているということでしょうか。


それは違います。大霊は摂理であり、その摂理は完璧です。ただ、物質界で顕現している部分が顕現の仕方において進化しつつあるということです。その点をよく理解してください。地球も進化していて、地震などの天変地異はその進化の現れであるということです。地球は火焔(かえん)と嵐の中で誕生し、今もなお完成へ向けてゆっくりと進化しているのです。

大霊は、朝日や夕日の美しさ、夜空を埋め尽くす無数の星の輝き、小鳥のさえずりの楽しさとは関わっていても、雷雨や嵐や稲妻とは関わっていないと言うことはできません。すべては大霊の法則の働きによって生じているのです。

その意味では、堕落した人間や同胞に害を及ぼすような人間の存在も大霊の責任であると言っても、必ずしも間違いではありません。しかし忘れないでいただきたいのは、一人ひとりの人間に、霊性の進化の程度に応じた「自由意志」が与えられているということです。霊的段階を高く上れば上るほど、自由意志を行使できる範囲が広くなります。つまり現在のあなたが、あなた自身の限界をつくっているということです。しかし、あなた方は大霊の一部であるがゆえに、地上世界で生じるあらゆる困難や障害を克服することができるのです。

霊は物質に優ります。霊が王様(キング)で物質は従僕(サーバント)です。霊はすべてに優ります。全生命が生み出されるエッセンスです。霊は生命であり、生命は霊なのです。


――大霊はこの宇宙とは別の存在なのでしょうか。


そうではありません。宇宙は大霊の反映にすぎません。大霊が宇宙なのです。ハエに世界が理解できるでしょうか。魚に小鳥の生活が分かるでしょうか。犬に人間のように理性を働かせることができるでしょうか。星に空のことが分かるでしょうか。あなた方に人間の精神をはるかに超えた大霊が理解できるでしょうか。

しかしあなた方は、一言も発することなく魂の静寂の中で霊が大霊と交わることができる段階まで霊性を磨くことは可能です。そのときあなた方は、自分と大霊とが一つであることを理解します。それがどういうものであるかは言葉では説明できませんが、あなた方や被造世界のすべての霊的存在者の魂が静寂の中で、その霊的感性によって実感することができるのです。


――霊が個としての意識を獲得するためには、物質界とつながりを持つことが必要でしょうか。


その通りです。意識を獲得するためには物的身体(肉体)に宿って、物的体験をしなければなりません。霊にとって物的身体との結合が、個としての表現を可能にするという意味です。霊は物質に宿ることによって、その本性を自覚するようになるのです。


訳注――別のところで、創造をつかさどる高級神界では物質界に降誕しなくても意識を所有している霊が普通であると述べている。また、その中から特殊な使命を帯びて物質界へ降誕する者がいるとも述べている。イエスがその代表格であろう。


――そうなると、大霊は私たちを通して体験を得ているということでしょうか。


それは違います。あなた方の進化が、すでに完璧なもの(大霊)に影響を及ぼすことはありません。


――でも、私たちは皆、大霊の一部です。その一部の進化が全体に影響を及ぼすことはないのでしょうか。


あなた方を通して顕現している部分に影響を及ぼすにすぎません。その一部も本来は完全なものですが、あなた方を通しての顕現の仕方が不完全だということです。霊そのものは完全です。霊は宇宙の根源的要素であり、生命の息吹です。ただ、あなた方が不完全であるがゆえに、あなた方を通しての顕現の仕方が不完全になるのです。あなた方が進化するにつれて、より完全なものが顕現するようになります。あなた方は直接、霊を進化させるのではなくて、霊が顕現するための身体(霊体と肉体)を用いた実践を通して霊を進化させるのです。


――霊がそれ自身を発現するための媒体には、いろいろな形態があるということでしょうか。


そうです。大霊の摂理は完璧です。が、あなた方を通して顕現している摂理は、あなた方が不完全であるがゆえに不完全となります。完璧な摂理は、あなた方を通して働くことはできません。しかし、あなた方が完全へ向けて進化するにつれて、摂理はあなた方を通してより大きく働くことができるようになるのです。

鏡と光の譬えで説明しましょう。鏡は光を反射するものですが、鏡が粗悪であれば光のすべてを反射することはできません。鏡を磨いてもっと完全なものにすることによって、より多くの光を反射することができるようになります。

全存在が絶え間なく、よりいっそうの顕現を求めて努力しているのです。すでに申し上げたと思いますが、生命(霊)とは原石のようなものです。つまり金(きん)がその本来の姿を現すためには、原石を砕き、手間をかけて純度を高めなくてはなりません。「原石はいらない、金(きん)だけをくれ」――こんな要求は通りません。


――しかし私たちにも、何が善で何が悪かの概念はあると思いますが……。


地上人の抱く善悪の考えは、霊的成長のプロセスにおけるその時点での想念にすぎません。それは進化の過程で到達した段階を表しています。人間がさらに進化すれば、それまでの善悪の概念は捨て去られます。それは、完全なる摂理が正道から外れた媒体を通してそれ自身を顕現させようとするところから生じた不完全な発想にすぎません。私が善にも悪にも存在意義を認めるわけは、そこにあります。


――ということは、神はその原初においては必ずしも善ではなかったということでしょうか。


私は“原初”については何も知りません。“最終”についても何も知りません。知っているのは、大霊は常に存在しており、これからも常に存在し続けるということだけです。大霊の摂理の働きは完璧です。もし、あなたが完全な光を放っても、十分に磨かれていない鏡ではその光を完璧に反射することはできないということは分かっていただけると思います。それを光が不完全だ、光が悪い、とは言えないでしょう。あなた方は、内部には完全な霊を宿していても、まだそれを完全な形で表現する準備ができていません。人間が“悪”と呼んでいるのは不完全性のことにすぎません。完全な大霊を不完全に表現しているということなのです。


――宇宙には創造力を持つ一個の存在、ないしは一人の絶対的存在がいるだけで、私たちには創造力はないという考えは正しいでしょうか。


大霊は無窮(むきゅう)の過去から存在し、今この時も存在し、そして果てしない未来にも存在し続けます。全生命が大霊であり、大霊が全生命なのです。あなた方にいったい何が創造できるでしょうか。しかしあなた方は、霊性が進化するにつれて、より美しく、より高く上ることができます。進化の程度が低いほど、宇宙におけるあなた方の位置は低くなります。

Friday, July 10, 2026

シルバーバーチの教え(上)

霊的叡智の宝庫

Teachings of Silver Birch
A.W.オースチン(編)
近藤千雄(訳)



4章 スピリチュアリズムが目指す新しい世界


〔人類が霊的法則を学び、その指示に従って生きるようになったときの世界は、どのようなものであろうか。新しい世界は一人の独裁者、一つの政府、あるいは国際連盟のような組織によってコントロールされる性質のものではないことは明らかである。人間一人ひとりによる努力の結果として誕生するものであろう。そのときの喜びがいかなるものであるか、それをシルバーバーチに語ってもらおう。〕


地球人類は今まさに危機の真っ只中にあります。何事につけ誕生には苦しみがともなうものですが、新しい秩序の誕生にも大きな苦しみがともないます。その誕生が近づくにつれて苦痛も増大してきます。

しかし間違いなく言えることは、新しい世界の種子がすでに地上界に根付いているということです。既得権力の座に安住している者たちがいかなる策を弄(ろう)しても、それは功を奏さないでしょう。イエスは、「天に為される如く地にも為されるであろう」と二千年前に述べています。それが実現しようとしているのです。

これから地上には、いくつもの大きな変化が生じます。崩壊や多くの大変動があるでしょう。皆さんには暗黒と苦難の時代の到来のように思えるかもしれません。「たいへんな時代になった」と、おっしゃるかもしれません。しかし、そうした変動の背後には、地上世界を進化させようとしている大きな力が存在しているのです。

地上世界のための仕事に従事している私たちの多くは、より高い界層の霊たちによって、いつの日か地上はこうなるという未来像を見せていただいております。私たちは、その計画を受け入れる能力のある地上の同志に伝え、仕事を行っていくように彼らの心を鼓舞しているのです。私が見せていただいた未来像に比べると、現在の地上世界はとても醜く見えます。が、私には地上世界はこんなにまで立派になり得るのだ、こうでなければならないのだ、ということが分かっています。あとは時間の問題です。

そのうち、政治も宗教も科学も学問も、ある一つのものの側面にすぎないことが理解できる新しい人類が現れることでしょう。そのときは苦悩や嘆きや恐れ、喪の悲しみや不幸が追放され、笑顔と笑い声が満ちあふれる世界となるでしょう。しかし、現段階の地上世界で最も偉大な人間とは、他人の悲しみを取り除き、人生をより良くしてあげられる人のことなのです。

これまで人間は、何か良いものを手に入れると、それを他人のために使用せずに独り占めしようとしてきました。そしてそうした間違ったあり方ゆえに、いずれ崩壊するに違いない社会システムを構築しようとしてきたのです。しかし大霊からいただいた資質を発達させ、それを他人のために役立てる方向で使用するようになれば、永遠なるものを基盤とした社会システムが構築されるでしょう。

私たちが説いている教えは決して新しいものではありません。霊的な視野を持つ人々がずっと説き続けてきた、古くからある真理です。それをほとんどの人間が顧みようとしなかったために、私たちが改めて説き、大霊の教訓を学ぶように導く必要性が生じたのです。人類は自らの間違った考え方による愚行から、地上界を破滅の寸前にまで追いやっています。

今こそ人類は、大霊とその摂理へ回帰しなくてはいけません。いや、すでに回帰しつつあります。私の目には、ゆっくりとではありますが、大霊の摂理が地上界に具現しつつあるのが見えます。

何よりもまず人類が学ばなければならないのは、大霊の恩寵(おんちょう)は皆で分け合わなくてはいけないということです。現在の地上には、今日の食べ物にも事欠く人がいる一方で、度を超した飽食に走っている人がいます。もちろんこれは間違っています。あり余るほど持っている人は、足りない人に分けてあげなくてはいけません。別に難しいことではないと思うのですが……。

あなた方は、既得権を打破しなければなりません。摂理は完璧です。あなた方が自分のことを忘れて他人のために奉仕しようとするとき、あなた方を通して大霊が働くのです。それはあなた方だけでなく、すべての人間に言えることです。そんなことは無理ですとおっしゃるかもしれませんが、私は可能だと申し上げます。それが人間としての唯一の正しい生き方だからです。摂理は完璧であり、ごまかすことはできません。あなた方は摂理を学び、それを実行に移さなくてはいけません。

長いあいだ人類は、本当は取り壊すべきものを構築することに自由意志を行使してきました。しかし今、ゆっくりと地上の闇に大霊の光が射し込み、混乱と無秩序の中から新しい世界が生まれつつあります。そこにはもはや、不平等も不正もなく、持つ者と持たざる者といった差別もなく、大霊からの賜物(たまもの)がすべての子らに平等に分け与えられるようになることでしょう。

そうした新しい世界の夜明けを、どのような言葉で呼んでもかまいません。それは大霊の力によって成就する世界であり、新たな喜び、新たな人生、新たな幸せを地上にもたらそうとする大霊の意思に忠実な人間の努力によって、これ以上、霊界へ“出来損ない”(死後に「地縛霊」となってしまうような人間――訳注)を送り込まなくなる世界です。

時として、その努力が無駄に終わっているように感じられるかもしれません。しかし常に、世界中のあらゆる所でさまざまな人々が、自覚するしないに関わりなく霊界の道具として新しい世界の夜明けのために活用されているのです。大霊は、我が子が破滅の道へ向かうのを黙って見ていることはできません。私があなた方に繰り返し援助をお願いするのは、人類の悲劇に終止符を打つためです。新しい世界を築くための努力を“政治”と呼ぶかどうかは、私には関心はありません。私たちの仕事は、これからも続いていきます。霊界と地上界が協力して進めていく仕事です。もはや、それを阻止することはできません。

そうした私たち(霊界と地上界)の努力によって、物質界の至るところで大きな仕事が成し遂げられていることを誇りに思っています。地上の暗闇に光が射し込み、悲しみに暮れていた心に喜びがもたらされるようになっています。まだわずかではありますが、無知に代わって知識が存在するようになっています。私たちは、生きる気力を失った人々を助け、人生に疲れた人々に勇気を与え、進むべき道を見失った人々を導いています。そして地上の同胞のために働いている人々を鼓舞し、大霊とその子らのための仕事をするすべての人間の背後には、強力な霊の大軍が控えていることを理解させようとしているのです。

私はまた、皆さんが愛し、皆さんを愛している霊界の人々をこのサークルに連れてこられたことを嬉しく思っています。あなた方は、彼らを失ったのではありません。死は、愛と友情で心が一つになっている者たちの間を引き裂くものではなく、両者は変わらず結ばれていることを、これまで以上に実感することでしょう。

私たち霊団の影響力がどれほど拡大しているかを、あなた方にお見せできないのが残念です。私たちは障壁を壊し、障害物を取り除き、知識をもたらすために働いています。地上世界が必要としているものは、人類を霊的に、精神的に、そして物質的にも自由にしてくれる単純な真理です。ご存じのように私たちは、ただ奉仕するためだけに歩んでいます。無償の奉仕、それのみが地上人類を救うことになるからです。

ここで改めて申し上げておきたいのは、私はただの“道具”にすぎないということです。私は、人間は全生命を生み出した大霊の一部であるという単純な霊的真理をあなた方に悟らせたいと願っている多くの霊たちの一人にすぎません。大霊はあなた方の内部に存在しています。あなた方は神聖なる賜物を与えられており、その潜在的神性が宿っているからこそ大霊の恩寵にあずかる資格があるのです。その神性を妨げる障害物や慣習は、一掃しなければなりません。私たちの仕事は魂と精神を自由にするだけでなく、身体的にも自由にすることを目的としているのです。

そうした仕事に私たちは献身してきました。それが私たちが成し遂げようとしてきた奉仕(サービス)なのです。私は大霊の道具として、人類を救うことになる真理を皆さん方に届けるという特権にあずかったことを光栄に思っています。私が皆さんと一緒に奉仕の仕事に携わってきて何年かになりますが、その仕事はこれからもまだまだ続きます。地上界の皆さんと霊界の私たちの協力によって、地上人類がどうしても必要としている救いをお届けしてまいります。あなた方はすでに知識を持っています。霊的真理を手にしています。真理を知った者には、それを実践に移す責任がともないます。その責任を果たしてこそあなた方は、より優れた大霊の道具になれるのです。

あなた方が手にしている真理に疑念が向けられたときは、それには「神から授かった真理」の刻印が押されていることを常に思い出してください。私たちは、あなた方人間の理性だけに訴えています。私たちがお届けするメッセージは、あなた方の品位を落としたり、知性を侮辱(ぶじょく)したり、奉仕精神と善意を持った正直な生き方に背を向けさせるようなことはありません。それどころか、人間に内在する神性に気づかせ、大霊とのつながりを自覚させるものです。そしてあなた方の日常の行為のすべてを律し、全生命の始原である大霊を顕現させることができるように導くものなのです。

霊的真理の重要性を理解している人たちが一致団結して、物質界に立ち込めている無知の霧を晴らすためにその力を使用すれば、どれほど大きな仕事ができることでしょうか。善意と救済と奉仕の勢力(霊界の軍団)は常にあなた方の味方であることを自覚して、自信を持って前進してください。

私たちの前途には奉仕(サービス)の分野がいくらでも広がっています。私たちの行く手には、古い慣習を捨て、過去の信仰に頼らず、懐疑に耐え得る真理を求めながらも、どこへ向かえばよいのか分からずに迷っている多くの人々を救うことができるという喜びが待っているのです。そうした人々にこそ霊的真理と霊的摂理をお届けするのです。内部に宿る霊的資質に気づかせ、自分たち自身も大霊であるということを理解させてあげるのです。それによって彼らは、激怒し復讐心に燃える神の前にひれ伏すような卑屈な信仰を捨て去るようになります。

大霊の子らのために奉仕しようと努力している地上の同志の背後には、協力関係を求める巨大な霊的勢力が控えていることを知っていただきたいのです。そして霊的真理を武器として、あらゆる迷信、あらゆる邪悪と戦い、尊い真理の光で地上界を照らしていただきたいのです。

私たちは地上に霊力をもたらします。地上の同志を鼓舞し、導き、心の支えとなります。飢えた魂にエネルギーを注ぎ、病(やまい)に苦しむ人に癒しを与え、すべての人にインスピレーションと啓示と真理と叡智をもたらします。それが私たちの仕事なのです。

人間の側に理解力と受容力が備わっていれば、それに応じて霊力で満たしてあげることができます。私たちは、教会に属していようといまいと、どこかの宗教に属していようといまいと、科学者であろうと唯物論者であろうと哲学者であろうと、人類の霊的向上のために貢献したいと願うすべての人々との間に協力関係を築きたいと切望しているのです。