Thursday, April 23, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

 The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄

第2部 本論



1章 物質界への霊の働きかけ

第一部で見た通り、唯物的否定論は理性的にも事実上からも筋が通らないものとして片づけられた。本章からは人間の魂が、他界後に霊として、地上の生者にどのように働きかけるかを見てみたい。

そもそも先祖の霊が地上の人間に働きかけるということは世界のいずこの民族においても、またいつの時代においても、ごく当たり前の事実として直観的に信じられていたものである。それほど世界的に共通した直観であり、しかも人間生活に影響を及ぼしてきた信仰に、それなりの根拠が無かったはずはない。

それは聖書の中にも初期キリスト教時代の教父たちの証言の中にも見出すことができるが、それを“迷信”のカテゴリーの中に放り込んだのは、近代の唯物的懐疑思想であった。

ではその懐疑思想の横暴を許したのは何だったのか。いろいろと要因はあろうが、近代に至って物質科学が大幅な発展を遂げ、何事にも“なぜ?”、“いかなる原理で?”ということが明確でないものは事実として認めないという風潮を生んだことが最大の要因だった。

それまでは直覚的に目に見えない霊の存在とその働きかけを信じていたのが、物質科学の範疇に入らないというところから、それを無視するようになっていったのは当然の成り行きだった。

つまるところ、霊的現象を理解できなくさせているのは“霊”そのものについての間違った概念なのである。現象は霊が物質に働きかけるからこそ生じているのであるが、霊は目に見えない存在であるから、それが物質に働きかけるはずはないことになる。その辺の理屈に実は根本的な誤りがあるのである。

目に見えないということは、実体のない抽象的存在ということではない。霊にはれっきとした実体があり、形態もあるのである。それが肉体に宿っている魂を構成しているのが地上の人間で、肉体から脱け出たあとも、ちゃんと人間的形態をそなえているという。現に物質化して出現するときは地上時代と同じ姿をしている。

霊視力で人間の死の直後の様子を観察すると、肉体から脱け出た魂は、しばらく困惑状態にあるのが分かる。感覚的におかしくなっていると言ってもよい。と言うのは、目の前に自分の肉体が横たわっている。きれいな姿をしている場合もあろうし、事故などで無惨な姿になっていることもあろう。が、自分はちゃんと存在しており、自我意識もある。一体どうなっているのだろうと思って困惑する。

中には死んだという自覚がなく、地上時代と同じ感覚で生活を続ける者もいる。その自覚が芽生えるまでには、新しい環境での体験が必要なのである。

その体験を必要とせず、一瞬の戸惑いはあっても、すぐに死を悟って、死体に何の未練も持たずに、空中に舞い上がるごとくに霊界を上昇して行く者もいる。

いずれにしても、肉体の死によって個性も自我意識も一切失われることはない。しかも、肉体そっくりの身体もちゃんとそなわっている。地上時代の肉体のように飲食によって養う必要もないし、病気もしない。地上時代の障害も消えている。

数え切れないほどの実験と観察、そして名状し難い事実(のちほど詳しく説明)によって、我々は次のような結論に達している。すなわち人間は三つの要素から成り立っている。第一が魂または霊で、道義的感覚を有する知的原理である。第二が肉体。荒けずりな物的身体で、神の配剤によるある目的のために魂が一時的に宿って地上生活を営むための道具である。そして第三がダブルと呼ばれる半物質的媒体で、魂と肉体との接着剤のような役目をしている。

死というのはそのうちの肉体が破滅または分解する現象である。その際、脱け出て行く魂はダブルもいっしょに携えていく。魂には何らかの媒体が必要なのである。

ダブルは流動性の蒸気のような媒体で、通常の状態では人間の肉眼には映じないが、本質的には物質に近い性質をしている。が、今までのところ、それを分析するまでには至っていない。(それはカルデックの時代だけでなく現代に至っても同じである。が、英国のジョージ・チャプマンという心霊治療家は、トランス状態に入るとウィリアム・ラングという、地上時代に眼科医だった霊が乗り移って、患者のダブルを手術するという方法で多くの患者を治していた。私も実際にその治療法で治してもらった生々しい体験がある。潮文社刊・拙訳『霊体手術の奇跡』参照――訳注)

“魂の衣服”ともいうべきダブルは、当然地上生活中も存在している。魂と肉体との仲介役ないし中継者で、魂の内的状態が肉体に伝わり、肉体の外的状態が魂に伝わる。言うなれば“思念を伝える電線”のような役目をしていて、その具体的な働きは神経の波動として捉えられている。

人体の生理機能としては極めて重要な役割を演じているのであるが、その働きが神秘的で名状し難いために、生理学でも病理学でも明確な研究対象とされていない。もし解明されれば、いま謎とされている多くの事実が説き明かされるであろう。(これも百年後の現代にもそのまま当てはまる。神経作用は肉体的にきわめて敏感に反応するので物的なものと考えられがちで、医学もその考えのもとに扱っているが、謎とされている事実が多い。たとえばニューロンと呼ばれる細胞がつながって信号を伝えるのであるが、数百億個もあるニューロンとニューロンは実は直接はつながっていない――わずかながら隙間があり、それをシナプスと呼ぶ。脳全体のシナプスの数は数千兆個という天文学的な数値に達するが、いかに性能のいいコンピューターでもちょっとした接触不良で作動しなくなるのに、神経系統はそれだけのシナプスがありながら、なぜか情報が瞬時に伝わるのである。そこで医学では“神経伝達物質”というものの存在を指摘しているが、ずいぶん窮屈な説である。そこへいくとヨガでは神経を物質の範疇に入れていない。ダブルにあるチャクラという生命力の中枢から発せられる生命力が常に神経繊維に沿って伝わっており、神経の情報はそれを媒体として伝達されるとしている。霊的にもそれが正解であり、神経そのものの働きではないことを昔のヨガ僧は体験的に直感していたのである。“神経”という用語は“神気の経脈”という意味で、日本における最初の西洋医学の翻訳書『解体新書(ターヘル・アナトミア)』の中で用いられたものである。直接翻訳に携わった前野良沢――杉田玄白ではない――は余ほど霊感の鋭い人物であったことが、その訳語一つから窺える。――訳注)

ダブルの存在は、科学の世界でよく出される“仮説”ではなく、霊による証言もあるし、このあと紹介する我々の観察によっても確かめられている。差し当たっては、地上生活中も、そして他界後も、魂とダブルは常に一体となっていると理解していただけばよい。

霊視すると霊は炎とか火花として映じることが昔から言われている。が、肉体に宿っている魂は知的ならびに倫理的原理として機能しており、その形態は認識できない。しかし、霊性の進化がどの段階にあろうと、魂は常にダブルによって包(くる)まれており、ダブルそのものの精妙度は霊性の進化にともなって高まっていく。

このように、ダブルは肉体が人間の不可欠の要素であるように霊にとって不可欠の要素である。と同時に、肉体そのものがその人ではないように、ダブルそのものが霊ではない。あくまでも霊の道具である。

死を境にして肉体から解放されたダブルは、それまで肉体にはめられていたためにでき上がった人間的形態が崩れて、霊の意念に応じて広がったり、縮まったり、その他、その時の必要性にしたがって自在に変形する。出現した霊が地上時代の姿とそっくりであるのも、あるいは傷とか障害などの特徴を見せることができるのも、このダブルがあるからである。

魂は物質とはまったく異質の存在で、その本質はまったく知られていない。その魂が、死後、霊としてこの物質界に働きかけることができるのは、ダブルがあるからこそである。つまり霊が物質界に働きかけてその存在を知らしめるためには、物質的媒体が必要ということである。我々人間が肉体という媒体によって物質界と接触しているのと何ら変わるところはない。

こう見てくると、心霊現象も自然現象の範疇に属し、何ら奇跡的な要素はないことがお分かりであろう。超自然現象であるかに思えるのは、上に述べたような事実を知らないからで、それが分かってしまえば驚異でも何でもなく、原因は半物質体のダブルにあることになる。新たに発見された次元の事実が新たな法則によって説明されたというに過ぎず、一連の自然法則であることには変わりない。電信による交信の事実に今どき驚く人がいないように、いずれは常識となる日が来るであろう。

その理屈は分かるにしても、半物質とはいえ目に見えない精妙な媒体によって重いテーブルが天井高く持ち上げられたりするのは信じられないとおっしゃる方もいるであろう。

しかし、では電気が巨大なモーターを回転させ、稲妻となって巨木を八つ裂きにしてしまうのを見て、その威力には驚いても、それを信じないという人はいないのはなぜか。そういう事実を日常において見ているからである。

我々が呼吸している空気でも突風となって家屋を吹き飛ばすし、爆風となって人間を死に至らしめることもある。それと同じで、ダブルというエーテル質の媒体も、他の条件が加わることによってテーブルを持ち上げるようにもなるし、生前の姿を再現して見せることもできるのである。


訳注――ここで“ダブル”と訳したのは原文ではperispiritとなっている。periという接頭語は“周囲”の意味があり、ここでは“霊を取り囲むもの”といった意味あいの新造語である。通信霊の一人で、ラメネーと名のる霊が次のように説明している。


《ここでペリスピリットと呼んでいるのは通信霊によっては“魂の流動性の外皮”と呼ぶ者もいる。それを構成している流動性のものは、霊にとっては感性の伝達に融通性を与え、また見解や観念の伝達に広がりを与える。といっても、それはある程度まで進化した霊にとっての話で、低級霊の場合はペリスピリットに地上臭が残っており、言わば物的なので、空腹とか寒さも感じる。高級霊になるとペリスピリットも純化されているので、そういう地上的なものは感じない。

魂が進化するには何らかの媒体を必要とする。媒体のない魂は“無”に等しく、人間には概念がつかめないであろう。人間のように一定の型にはまっていない我々にとってペリスピリットは、人間の身体を使って間接的に(自動書記などで)通信を送るか、あるいは人間のペリスピリットを使って直接的に(インスピレーション的に)交信する上で欠かすことのできない媒体である。その使用法しだいで、霊媒にも霊媒を使っての交信にも、さまざまな種類が生じるわけである。

ただし、ペリスピリットの科学的分析となると話は別である。魂とは何かが我々とて分かってはいない。人間がペリスピリットを研究しているように、我々も魂とは何かを探究中である。お互いに忍耐が必要である。》

この通信を受け取ったのが正確に何年であるかは記されていないが、本書の序文が一八六一年に書かれているから、それよりそう古くはないであろう。

こんなことを詮索するのは、手もとにあるウィリアム・クルックスの破天荒の研究書『Researches in the Phenomena of Spiritualism』が出版されたのが一九二六年である。が、これは一八七〇年頃から始まったクルックスの本格的な心霊研究の成果を一冊にまとめたもので、その中に、科学誌に発表された「サイキック・フォースと近代スピリチュアリズム」という論文が見える。それが一八七一年十二月号であるから、本書の出版から十年後ということになる。

私はこの“サイキック・フォース”こそ物理現象の主要エネルギーで、これに霊界の化学成分を混合して、いわゆるエクトプラズムをこしらえるのだと結論づけている。エクトプラズムの研究では第一人者であるJ・E・ライト氏は“エクトプラズミック・フォース”という言い方をしている。同じものである。



シルバーバーチの霊訓(三)

 Wisdom of Silver Birch

ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳


春の息吹を感じる白樺の森の水彩画 AI画像 4 110121549

 十四章 シルバーバーチの祈り 
                (付)祈りに関する一問一答

 ああ神よ、あなたは大宇宙を創造し給いし無限の知性に御(オワ)します。間断なき日々の出来ごとの全パノラマを統御し規制し給う摂理に御します。全存在を支える力に御します。物質的形態に生命を賦与し、人間を動物界より引き上げて、いま所有せるところの意識を持つに至らせ給いました。

 私たち(霊団の者は)はあなたという存在を絶対的法則───不変にして不可変、そして全能なる摂理として説いております。あなたの摂理の枠を超えて何事も起こり得ないからでございます。宇宙の全存在はその摂理の絶対的不易性に静かなる敬意を表しております。

あなたの霊的領域においてより大きな体験を積ませていただいた私たちは、あなたの御力によって支配されている全生命活動の完璧さに対する賞賛の念を倍加することになりました。

 私たちは今、そのあなたの仔細をきわめた摂理の一端でも知らしめんとしている者でございます。それを理解することによって、あなたの子等があなたがふんだんに用意されている生命の喜びを味わうことが出来るようにと願うゆえに他なりませぬ。

 私たちは又、無知という名の暗闇から生まれる人間の恐怖心を追い払い、生命の大機構における〝死〟の占める位置を理解せしめ、自分の可能性を自覚させることによって、霊的本性の根源である無限の霊としての自我に目覚めさせんものと願っております。

それは同時に彼らとあなたとのつながり、そして彼ら同志のつながりの霊的同質性を理解させることでもございます。

 あなたの霊が地球全体をくるんでおります。あなたの神性という糸が全存在を結びつけております。地上に生きている者はすべて、誰であろうと、いかなる人間であろうと、どこに居ようと、絶対に朽ちることのない霊的なつながりによってあなたと結ばれております。

故に、あなたと子等との間を取りもつべき人物などは必要でないのでございます。生まれながらにして、あなたからの遺産を受け継いでいるが故に、あなたの用意された無限の叡知と愛と知識と真理の宝庫に、誰でも自由に出入りすることが許されるのでございます。

 私たちの仕事は人間の内奥に宿された霊を賦活し、その霊性を存分に発揮せしめることによって、あなたが意図された通りの人生を生きられるように導くことでございます。

かくして人間はいま置かれている地上での宿命を完うすることでしょう。かくして人間は霊的存在としての義務を果たすことになることでしょう。

かくして人間は戦いに傷ついた世の中を癒し、愛と善意を行きわたらせる仕事に勤しむことでしょう。かくして人間はあなたの真の姿を遮ってきた暗闇に永遠に訣別し、理解力の光の中で生きることになることでしょう。ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。



───〝祈り〟に関する一問一答───

(前巻及び本書の中に断片的に出ていたものをここにまとめて紹介するー訳者)
                            


───霊界側は祈りをどうみておられるのでしょうか。

 「祈りとは何かを理解するにはその目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願いごとを口にしたり、決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける人はいませんし、訴える力を持った波動を起こすことも出来ません。

私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意が込もっておらず、それを口にする人みずから、内容には無頓着であるのが普通です。永いあいだそれをロボットのように繰り返してきているからです。真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。

しかしいかなる精神的行為も、身をもって果たさねばならない地上的労苦の代用とはなり得ません。

 祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難場所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責務を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果的連鎖関係を寸毫(すんごう)も変えることはできません。

人のためにという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りをすべて無視されるがよろしい。その後に残るのが心霊的(サイキック)ないし霊的行為(スピリチュアル)であるが故に自動的に反応の返ってくる祈りです。

その反応は必ずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す自然な結果です。

 あなた方を悩ます全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取りくんだ時───解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力を持つ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る完全な権利があると言えましょう。

そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜなら、あなたの周りにいる者、霊的な目を持って洞察する霊は、あなたの魂の状態を有りのままに見抜く力があるからです。たとえばあなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。

 さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜならその魂の行為そのものがそれに相応しい当然の結果を招来するからです。

このように、一口に祈りといっても、その内容を見分けた上で語る必要があります。

 ところで、いわゆる〝主の祈り〟(天にまします我らが父よ、で始まる祈禱文。マタイ6・9~13、ルカ11・2~4-訳者)のことですが、あのような型にはまった祈りは人類にとって何の益ももたらさないことを断言します。単なる形式的行為は、その起源においては宿っていたかも知れない潜在的な力まで奪ってしまいます。

儀式の一環としては便利かも知れません。しかし人間にとっては何の益もありません。そもそも神とは法則なのです。自分で解決できる程度の要求で神の御手を煩わすことはありません。それに、ナザレのイエスがそれを口にした(とされる)」時代から二千年近くも過ぎました。

その間に人類も成長し進化し、人生について多くのことを悟っております。イエスは決してあの文句の通りを述べたわけではありませんが、いずれにしても当時のユダヤ人に分かりやすい言葉で述べたことは事実です。

 今のあなた方には父なる神が天にましますものでないことくらいはお判りになるでしょう。完璧な摂理である以上、神は全宇宙、全生命に宿っているものだからです。

この宇宙のどこを探しても完璧な法則が働いていない場所は一つとしてありません。神は地獄のドン底だけにいるものではないように、天国の一ばん高い所にだけ鎮座ましますものでもありません。

大霊として宇宙全体に普遍的に存在し、宇宙の生命活動の一つひとつとなって顕現しております。〝御国の来まさんことを〟などと祈る必要はありません。地上天国の時代はいつかは来ます。

必ず来るのです。しかしそれがいつ来るかは霊の世界と協力して働いている人たち、一日も早く招来したいと願っている人たちの努力いかんに掛っております。そういう時代が来ることは間違いないのです。

 しかしそれを速めるか遅らせるかは、あなた方人間の努力いかんに掛っているということです。(このあと関連質問が出る―訳者)


───モーゼの十戒をどう思われますか。

 「もう時代遅れです。今の時代には別の戒めが必要です。
 人間の永い歴史のいつの時代に述べられたものであっても、それをもって神の啓示の最後と思ってはいけません。啓示というものは連続的かつ進歩的なものであり、その時代の人間の理解力の程度に応じたものが授けられております。

理解力が及ばないほど高級すぎてもいけませんが、理解力の及ぶ範囲が一歩先んじたものでなければなりません。霊界から授けられる叡知はいつも一歩時代を先んじております。そして人間がその段階まで到達すれば、次の段階の叡知を受け入れる準備が出来たことになります。

人類がまだ幼児の段階にあった時代に特殊な民族の為に授けられたものを、何故に当時とは何もかも事情の異なる今の時代に当てはめなければならないのでしょう。もっとも私には〝十戒〟ならぬ〝一戒〟しか持ち合わせません。〝お互いがお互いのために尽くし合うべし〟───これだけです」

 続いて好天や雨乞いの儀式が話題となった。


───悪天候を急に晴天にするには神はどんなことをなさるのでしょうか。

 「急きょ人間が大勢集まって祈ったからといって、神がどうされるということはありません。神は神であるが故に、大聖堂や教会においてそういう祈りが行われている事実を知らされる以前から、人間が必要とするものについてはすべてを知り尽くしております。

 祈りというものは大勢集まって紋切り型の祈禱文や特別に工夫をこらした文句を口にすることではありません。祈りは自然法則の働きを変えることはできません。

原因と結果の法則に干渉することはできません。ある原因に対して寸分の狂いもない結果が生まれるという因果律を変える力は誰にもありません。

 祈りは魂の活動としての価値があります。すなわち自己の限界を悟り、同時に(逆説的になりますが)内部の無限の可能性を自覚し、それを引き出してより大きな行為へ向けて自分を駆り立てる行為です。魂の必死の活動としての祈りは、魂が地上的束縛から脱してより大きな表現を求める手段であると言えます。

そうすることによって高級界からの働きかけに対する受容力を高め、結局は自分の祈りに対して自分がその受け皿となる───つまり、より多くのインスピレーションを受けるに相応しい状態に高めるということになります。

 私は祈りを以上のように理解しております。大自然の営みを変えようとして大勢で祈ってみても何の効果もありません」


───キリスト教では悪天候を世の中の邪悪性のしるしと見なしていますが・・・

 「私は世の中が邪悪であるとは思いません。罪悪への罰として神が雨を降らせるとは思いません。自然現象は人間の生活とはそんな具合には繋がっておりません。第一、三か月前と一週間前とで世の中の邪悪性に差があるわけではないでしょう。

 それは相も変わらず、依怙(えこ)ひいきと復讐心と怒りを抱く人間神の概念の域を出ておりません。神とは生命の大霊です。この大宇宙の存在を支えている力は、人間が集団で祈ったところでどうなるものでもありません。人間にできることはその大宇宙の摂理がどうなっているかを発見し、それに自分を調和させ、できるだけ多くの人間ができるだけ多くの恩恵を受けられるような社会体制を作ることです。

そうなった時こそ生命の大霊が目覚めた人間を通じて顕現されていることになります。私はそういう風に考えております」(先に出た〝地上天国〟とはこのこと―訳者)


───人類にもいつかはそういう時代が来ると思われますか。


 「程度問題ですが、来ることは来ます。しかしそれも、そう努力すればの話です。人類は、宇宙の摂理を福利のために活用できるようになるためには、まず自己の霊性に目覚めなくてはなりません。宇宙には常に因果応報の摂理が働いております。どんなに進化しても、これ以上克服すべきものが無くなったという段階は決してまいりません。

 知識を獲得することによっていかなる恩恵を受けても、それには必ずもう一つ別の要素が付いて回ります───知識に伴う責任の問題です。その責任はその人の人格によって程度が定まり、同時に人格の方も知識によって程度が定まります。

かくして知識が広まるとともに人格も成長し、人生が豊かさと気高さを増し、生きるよろこびと楽しさを味わう人が多くなります。

 いま皆さんの脳裏に原子の発見のことがあるようですが、人間がこれで全てを知り尽くしたと思っても、その先はまだまだ未知の要素があります。これから先も、人間が生命そのものをコントロールできるような立場には絶対になれません。

ますます宇宙の秘密を知り、ますます大きなエネルギーを扱うようになることでしょう。しかしその大きさに伴って責任も自覚していかないと、そのエネルギーの使用を誤り、自然を破壊し、進化が止まってしまうということも考えられないことはありません。が、実際にはそういう事態にはまずならないでしょう。

進化は螺旋形を画きながら広がっていきます。時には上昇し時には下降することもありますが、ぐるぐると円を画きながら、どんどん、どんどん広がりつつ進化しております」


───霊界では雨乞いのような祈りは問題にしないということでしょうか。

 「しません。たとえ誠心誠意のものでも、何の効果もありません。法則は変えられないのです。自然現象をいろいろな予兆と結び付ける人がいますが、あれはすべて迷信です。私たちが訴えるのは知識であり理性です」


───医師と看護婦に力を貸すための祈りが多くのスピリチュアリスト教会で行われておりますが、いっそのことその医師や看護婦が心霊治療家になれるよう祈る方が賢明ではないかと思うのですが・・・

 「その方がずっと賢明でしょうが、そう祈ったから必ずそうなるというものではありません。地上世界には祈りについて大きな誤解があります。いかに謙虚な気持からであっても、人間からみてこうあるべきだと思うことを神に訴えるのが祈りではありません。

 神は全知全能ですから、医師その他が霊力についての知識を持つことが好ましいことくらいは知っております。それを祈りによって神に訴えたところで、それだけで医師や看護婦が心霊治療家に早変わりするものではありません。

 祈りとは魂の行です。より大きな自我を発見し、物的束縛から脱して、本来一体となっているべき高級エネルギーとの一体を求めるための手段です。

 ですから、真の祈りとは魂が生気を取り戻し、力を増幅するための手段、言い変えれば、より多くのインスピレーションと霊的エネルギーを摂取するための手段であると言えます。

それによって神の意志との調和が深められるべきものです。自己を内観することによってそこに神の認識を誤らせている不完全さと欠陥を見出し、それを是正して少しでも完全に近づき、神性を宿す存在により相応しい生き方をしようと決意を新たにするための行為です」


───それが出来ないときはどうしたらよいのでしょう。

 「どうしても出来ないと観念された方は祈らない方がよろしい。祈りとは精神と霊の〝行〟です。それを通じて宇宙の大霊との一体を求める行為です。もしそれが祈りによって成就出来ない時、いくら祈ってもうまくいかない時は、それはその方が祈りによってそれを求めるのが適さない方であることを意味しています。

祈りは行為に先行するものです。つまり、より大きい生命との直結を求め、それが当人の存在を溢れんばかりに満たし、宇宙の大意識と一体となり、その結果として霊的強化と防備を得て奉仕への態勢固めをすることです。これが私が理解しているところの祈りです」


 訳者註───シルバーバーチは〝祈らない方がよい〟と述べて、その具体的な理由は述べていないが、筆者の師である間部詮敦氏はシルバーバーチと全く同じことを述べて、その理由を〝そうした不安定な状態で精神統一を続けていると邪霊に憑かれやすいから〟と言われた。

そして具体的に精神統一の時間を十五分ないし三十分程度とし、それ以上は続けない方がよいと言われた。

 これに筆者の私見を加えさせていただけば、人間はそれぞれの仕事に熱中している状態が最も精神が統一されており、それが祈りと同じ効果をもたらすものと信じている。宇宙の大霊との合体を求めての祈りなどを言われても、普通一般の日常生活においてそれを求めること自体が無理であり、無用でもあろう。

大体そうしものは求めようとして求められるものではなく、生涯に一度あるかないかの特殊な体験───絶体絶命の窮地において、守護霊その他の配慮のもとに〝演出〟されるものであると筆者は考えている。

 それを敢えて求めようとするのは、霊的法則をよくよく理解している人は別として、きわめて危険ですらある。と言うのは、神人合一といわれる境地にもピンからキリまであり、シルバーバーチも〝高僧が割然大悟したといっても高級界からみれば煤けたガラス越しに見た程度に過ぎない〟と言っているほどである。

ところが本人はそうは思わない。煤けたガラス越しにでも実在を見たのならまだしも、単なる自己暗示、潜在意識の反映にすぎないものを持って〝悟り〟と錯覚し、大変な霊格者になったような気分になっていく。そこが怖いのである。

 地上の人間はあくまで地上の人間らしく、五感を正しく使って生活するのが本来の生き方であって、霊的なことは必要な時に必要なものを体験させてくれるものと信じて平凡に徹することである、というのが筆者の基本的生活態度である。

シルバーバーチが祈りについて高等なことを述べたのは質問されたからであり、だから〝出来ないと観念した人は祈らない方がよい〟と言うことにもなった。

 シルバーバーチ霊は三千年も前に地上を去り、すでに煩悩の世界を超脱した、日本流で言えば八百万の神々の一柱と言うべき高級霊であることを忘れてはならない。



       
  霊界の区分けと名称について=訳者

 本シリーズをお読みくださっている方は、私が死後の世界を〝霊界〟又は〝霊の世界〟という用語で通していることにお気づきと思う。

時に上層界とか高級界、あるいは下層界、低級界といった大ざっぱな言い方をすることもあるが、他の霊界通信に見られるような幽界とか神界、精霊界、地獄といった特定の用語は用いていない。これはシルバーバーチ自身が意図的にそうしており、私もその意図を佳しとして忠実に従っているからに他ならない。

 その意図とは何か。それは前巻の解説でも触れたように、今は難解な理屈を捏ねまわしている時ではない───最も基本的な霊的真理を説くことこそ急務であるという認識のもとに、誰もが知っておくべき真理を誰にでも分かる形で説くということである。

 その具体的な例が〝死後の世界〟ないし〝霊の世界〟の存在という簡単な事実である。人類は太古よりいずこの民族でも〝死んでもどこかで生き続けている〟という漠然とした信仰を抱いてきた。

本来が霊的存在であることが分かってみればそれは当然のことと言えるが、従来はそれが〝信仰〟という形で捉えられ、しかも地上での生身の生活が実在で、死後の世界は形体も実質も無い世界であるかのように想像したり、地獄や極楽、天国といった人間の恐怖心や願望から生まれるものをそれに当てはめていたが、所詮はそう思う、そう信じるといった程度のものに過ぎなかった。

 それが十九世紀半ばに至って、各種の超常的現象、いわゆる心霊現象が五感で確認できる形で実験・観察できるようになり、それによって〝霊〟の存在が信仰から事実へと変わり、その〝霊〟からのメッセージによって死後の世界の真相が次から次へと明かされていった。

 その代表的なものを挙げれば、モーゼスの「霊訓」、オーエンの「ベールの彼方の生活」、マイヤースの「永遠の大道」並びに「個人的存在の彼方」、カルデックの「霊の書」、そしてこの「シルバーバーチの霊訓」等々があり、その他にも地味ながら立派なものが豊富に存在する。

 その一つひとつに他に見られない特徴があり、従ってどれが一番良いとか悪いとかのランク付けは出来ないし、又すべきことでもないが、その中には死後の世界の段階的区分けに力を入れているものが幾つかある。

中でもマイヤースが一番詳しく、七つに分類して各々に名称まで付けている。同じく七つに分けているものに「霊訓」のインペレーターがいるが、それをマイヤースの七つの界と同じと考えてはならない。

と言うのは、インペレーターは宇宙を大きく三層に分け、それぞれの界に七つずつ界があり、最下層の最高界が地上界で、中間層に七つの〝動〟の世界があり、その後に至福の七つの〝静〟の世界がある、とだけ述べて、各界の特徴については何も述べてはいない。

また〝静〟の世界の内面については何も知らない。つまり究極の実在界の真相は知らないと言う。

 その点はオーエンを通じて通信を送ってきている守護霊のザブディエルも同じで、自分は第十界の者であると言い、第十一界との境界でザブディエル自身の守護霊と面会した話が出ている(第二巻)が、それから先はどうなっているのか、何界あるのか、見当もつかないと述べている。

 究極のことは何も知らない、と正直に告白するのは筆者がこれまで翻訳・紹介してきた通信の全てに共通した特徴で、筆者は、そう告白出来るか否かがその霊の霊格の高さを占うものさしになるとさえ思っている。

 さて日本人にとって一番馴染みやすいのは四界説であろう。これは日本の古代思想である惟神(かんながら)の道の考えに四魂説があるところから来ているのではないかと筆者は考える。

つまり人間には荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)の四つの身体があり、それを一つの霊が使用しているというのであるが、

身体───霊が顕現するための媒体が四つある以上は、その身体で生活する世界も四つある(その一つが物質界)というのは極めて自然な発想であり、確かに西洋でもそれを裏付ける通信が幾つか出ている。

そして浅野和三郎がこれを現界、幽界、霊界、神界と呼んだのは、日本人の心情に照らしてもスピリチュアリズムの光に照らしても、けだし当を得た説であると思う。

 ただ問題はその理解の仕方である。これは霊の使用する媒体を中心に考えた分類法であって、霊そのものは決してそのうちのどれか一つに固定されているわけではない点をよく理解しなければならない。

つまり身体は現界にあっても霊の意識の焦点は幽界にある人、霊界にある人、神界にある人等々の区別があり、睡眠中もその世界に出入りし、死後も一気にその界へ赴く。

「霊訓」の続編である「続霊訓」の中でインペレーターが霊言で語っているところによると、イエスは在世中、一人でいる時は何時も肉体を離れ(幽体離脱現象)、一度も物質界に降りたことのない天使───日本流にいえば自然霊───の一団と交わっていたという。

 これで判る通り、媒体を基準にした分類法とは別に、霊格を基準にした分類法もあり得るわけで、霊界通信の分類の仕方がまちまちである原因も、その基準の置きどころの違いにあるわけである。霊の言うことが矛盾していることを理由にその信憑性を疑う人がいるが、これは短絡的すぎる。

 さてシルバーバーチが死後の世界の事を〝霊界〟the Spirit Worldと言ったり〝霊の世界〟the World of Spirit と言ったりするだけで、それ以上に細かい分類をしないのは決して段階的界層がないことを主張しているからではない。その証拠に(また英語の解説になって恐縮であるが)a Spirit World と言ったり a World of Spiritと言ったりすることがあるからである。

前回の解説でも述べた通り、the を冠している時は普遍的な意味に用い、a 冠している時は個々の界の一つを指している。言えかえれば界が複数あるということを示唆しているわけである。

 ではなぜ個々の界を分類的に説明しないのか。これに対する回答も前回と同じく、そんな理屈っぽい知識は霊性の向上にとって何の益にもならない、人類にとって急務でもないということに尽きるようである。

 筆者もこの考え方に全面的に賛成である。誤解されそうな箇所では注釈を入れることはあっても、全体的には一貫して〝霊界〟で通している。霊の世界という意味である。

 むろん死後の世界の段階的分類が面白いテーマであることを否定するわけではない。私なりの見解も持っているが、少なくともシルバーバーチを翻訳・紹介していく上では、そういう理屈っぽい問題に深入りしないように気を配っている。

どうしてもという方は拙訳「スピリチュアリズムの真髄」(ジョン・レナード著・国書刊行会)を参考にしていただきたい。〝死後の世界〟と〝死後の生活〟とに分けて、そのテーマに関する数々の霊界通信から抜粋が豊富に紹介されていて興味深い上に、レナード自身の解説にも説得力がある。
                                              近藤  千雄

シルバーバーチの霊訓(三)

 Wisdom of Silver Birch

ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳



十三章  質問に答える
 
───愛とは何でしょうか。

 「気が合うというだけの友情、趣味が同じだということから生れる友愛から、己を忘れて人のために尽くそうとする崇高な奉仕的精神に至るまで、愛は数多くの形態をとります。地上では愛 Love という言葉が誤って用いられております。

愛とは言えないものまで愛だ愛だとさかんに用いる人がいます。ある種の本能の満足でしかないものを愛だと錯覚している人もいます。が、私が理解しているかぎりで言えば、愛とは魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主たる神との繋がりを悟った時におのずから湧き出てくる魂の欲求です。最高の愛には一かけらの利己性もありません。

すなわち、その欲求を満たそうとする活動に何一つ自分のためにという要素がありません。それが最高の人間的な愛です。それが人類の啓発を志す人々、困窮する者への救済を志す人々、弱き者への扶助を願う人々、そして人生の喜びを踏みにじる既得権力との闘いを挑む人々の魂を鼓舞してきました。

 母国において、あるいは他国へ赴いて、そうした愛他的動機から人類の向上のために、言いかえれば内部に秘めた無限の可能性を悟らせるために尽力する人は、愛を最高の形で表現している人です。その表現形態にもさまざまな段階(らんく)があります。

愛の対象に対する働きかけという点では同じであっても、おのずから程度の差があります。最も程度の低い愛、狭隘(きょうあい)で、好意を覚える者だけを庇 (かば) い、そして援助し、見知らぬ者には一かけらの哀れみも同情も慈愛も感じない者もいます。

しかし宇宙には神の愛が行きわたっております。その愛が天体の運行を定め、その愛が進化を規制し、その愛が恵みを与え、その愛が高級霊の魂を鼓舞し、それまでに成就したもの全部をお預けにして、この冷たく薄暗い、魅力に乏しい地上へ戻って人類の救済に当らせているのです」


───自分の思念には全て自分が責任を取らなければならないでしょうか。

 「(精神障害などがある場合は別として)一般に正常とみなされている状態においては、自分の言動に全責任を負わねばなりません。これは厳しい試練です。行為こそが絶対的な重要性をもちます。

いかなる立場の人間にも人のために為すべき仕事、自分の霊性を高めるべき好機(ちゃんす)、霊の成長を促進するための機会が与えられるものです。

有徳の人や聖人君子だけが与えられるのではありません。すべての人に与えられ、その好機の活用の仕方、ないしは疎かにした度合いに応じて、霊性が強化されたり弱められたりします」


───子供はそちらへ行ってからでも成人していくと聞いておりますが、(霊媒の)子供の背後霊が何年たっても子供のままだったり、十八年も二十年も前に他界した子供がその時のままの姿恰好で出てくるのはなぜでしょうか。

 「地上の人間はいつまでも子供っぽい人を変だと見るかと思うと、一方では子供の無邪気さを愛するような口を利きます。しかも、人類のために敢えて幼児の段階に留まる手段を選んでいる霊を変だとおっしゃいます。幼児の方が得をする理由は容易に理解できます。

幼児は大人にありがちな障壁がありません。きわめて自然に、何時も新鮮な視点から物事を眺めることができます。大人が抱える問題に悩まされることもないので、通信のチャンネルとして好都合なのです。

大人にありがちな寛容性を欠いた先入観や偏見が少ないために仕事がスムーズに運びます。いつも生き生きとして新鮮味を持って仕事に携わり、大人の世界の煩わしさがありません。煩わされないだけ、それだけ霊的交信に必要な繊細なバイブレーションをすぐキャッチできるのです。

 しかし実はその幼児の個性は、大人の霊が仕事のために一時的にまとっている仮の衣服である場合が多いのです。仕事を終えればいつでも高い世界へ戻って、それまでの生活で開発したより大きな意識の糸をたぐり寄せることができます。

変だと決めつけてはいけません。こういう霊をトプシー(Topsy)と言います。こういう形で自分を犠牲にして地上の人々のために働いている神の愛すべき道具なのです。

 何年も前に他界した子供がそのままの姿で出現するのは、自分の存続の証拠として確認してもらうためです。身元の確認を問題にされる時に忘れてならないことは、他界した時点での姿や性格やクセを持ち、その時の姿のままを見せないとあなた方が承知してくれないということです。

そこで霊媒に影像を見せてそれを伝達させます。言わばテレビの画像のようなものです。霊媒が自分の精神のスクリーンに映った映像を見て叙述するわけです。直接談話であれば映像を見せる代わりにエクトプラズムで他界当時と同じ発声器官をこしらえます。条件さえうまく整えば、地上時代とそっくりな声が再生できます」



───子供のころから動物に対して残酷なことをして育った場合はそちらでどんな取り扱いを受けるのでしょうか。動物の世話でもさせられるのでしょうか。

 「人間の永い歴史を通じて、動物がいかに人間にとって役立ってきたかを教えることによって、地上時代の間違った考えを改めさせないといけません。動物界をあちらこちらへ案内して、本来動物というものが本当に動物を愛し理解する人間と接触するといかに愛らしいものであるかを実際に見せてやります。

知識が増すにつれて誤った考えが少しずつ改められていきます。結局は残酷を働いたその影響は、動物だけでなくそれを働いた人間にも表われるものであることを悟ることになります」


───他界する者の大多数が死後の生活の知識を持ち合わせません。他界直後は目まいのような状態にあり、自分が死んだことに気づきません。それは子供の場合も同じでしょうか。それとも本能的に新しい生活に順応していくのでしょうか。

 「それはその子供の知識次第です。地上の無知や迷信に汚染されすぎていなければ、本来の霊的資質に基づく自然な理解力によって新たな自覚が生まれます」


───人間が寿命を完うせずに〝死ぬ〟ことを神が許されることがあるのでしょうか。

 「神の意図は人間がより素晴らしい霊的生活への備えを地上生活において十分に身につけることです。熟さないうちに落ちた果実がまずいのと同じで、割り当てられた地上生活を完うせずに他界した霊は新しい世界への備えが十分ではありません。」


───子供が事故で死亡した場合、それは神の意図だったのでしょうか。

 「これは難しい問題です。答としては〝イエス〟なのですが、ただし書きが必要です。地上生活はすべて摂理によって支配され、その摂理の最高責任者は神です。しかしその摂理は人間を通じて作用します。究極的にはすべて神の責任に帰着しますが、だからといって自分が間違ったことをしでかしておいて、これは神が私にそうさせたのだから私の責任ではないという理屈は通用しません。

神がこの宇宙を創造し、叡知によって支配している以上は、最終的には神が全責任を負いますが、あなた方人間にも叡知があります。理性的判断力があります。自分で勝手に鉄道の線路の上に頭を置いておいて神に責任を求めても何にもなりません」


───いわゆる〝神童〟について説明していただけませんか。

 「三つの種類があります。一つは過去世の体験をそのまま携えて再生した人。二つ目はたとえ無意識であっても霊媒的素質を具えた人で、霊界の学問や叡知、知識、真理等を直接的にキャッチする人、三つ目は進化の前衛としての、いわゆる天才です」


───〝豚に真珠を与える勿れ〟と言ったイエスの真意は何でしょうか。

 「自分では立派な真理だと思っても、受け入れる用意のできていない人に無理やりに押しつけてはいけないということです。拒絶されるから余計なことはするなという意味ではありません。拒絶されることなら、イエスの生活は拒絶の連続でした。

そんな意味ではなく、知識、真理、理解を広めようとする努力が軽蔑と侮辱をもって迎えられるような時は、そういう連中は見る目を持たないのだから、美しいものを無理して見せようとせずに身を引きなさいという意味です」


───一身上の問題で指導を仰ぐことは許されるでしょうか。

 「それは許されます。ただ、霊的なことに興味はあっても真髄を理解していない人に説明する時は慎重を要します。うっかりすると霊界からの援助を自分の御利益のためだけに不当に利用しているかの印象を与えかねません。

スピリチュアリズムの基本はつまるところ物的な豊かさよりも霊的な豊かさを求めることであり、自分自身と宇宙と神についての実相を理解する上で基本となるべき摂理と実在を知ることです。むろん物的生活と霊的生活とは互いに融合し調和しております。

両者の間にはっきりとした一線を画すことはできません。霊的なものが物的世界へ顕現し、物的なものが霊的なものへ制約を与え、条件づけております」


───この世に生きる目的は、霊的なものを制約するものを排除し、霊的本性が肉体を通してより多く顕現するようにすることだと私は理解しておりますが・・・・・・。

 「その通りです。地上生活の目的はそれに尽きます。そうすることによって自分とは何かを悟っていくことです。自分を単なる肉体であり他の何ものでもないと思い込んでいる人は大きな幻影の中で生活しており、いつかは厳しい実在に目覚める日が来ます。

その日は地上生活中に訪れるかも知れないし、こちらへ来てからになるかもしれません。そちらにいるうちの方がはるかに有利です。なぜなら地上には魂の成長と進化と顕現のための条件が全部そろっているからです。

人間は地上生活中に身体機能ならびに霊的機能を存分に発揮するように意図されているのです。霊的なことにのみこだわって身体を具えた人間としての義務を怠ることは、身体上のことばかりに目を奪われて霊的存在としての責務を疎かにするのと同じく、間違っております。両者が完全なバランスが取れていなければなりません。

その状態で初めて、この世にありながら俗世に染まない生き方ができることになります。つまり身体は神聖を帯びた霊の〝宮〟として大事にし、管理し、手入れをする。すると成長と進化の過程にある霊が身体を通してその成長と進化の機会を与えられる、ということです」


───心霊治療を始めるには治療家自身がまず完全な健康体でなければならないのでしょうか。

 「むろん誰しも完全な健康体であるのが望ましいに決まっています。ただし、霊力によって病気を治す人も霊媒と同じく〝道具〟です。つまり自分が受けたものを伝達する機関です。その人を通して霊力が流れるということです。

言わば〝通路〟であり、それも内部へ向けてではなくて外部へ向けて送る通路です。その人の資質、才能、能力がその人なりの形で顕現しますが、それが霊界との中継役、つまり霊媒としての資格となり、生命力と賦活力と持久力にあふれた健康エネルギーを地上へもたらす役目が果たせるのです。

その際、治療家自身の健康に欠陥があるということ自体は治病能力の障害にはなりません。治病エネルギーは霊的なものであり、欠陥は身体的なものだからです」


───精神統一によって心の静寂、内的生命との調和を得ることは健康の維持に役立つでしょうか。
 
 「自然法則と調和した生活を送り、精神と身体との関係を乱すような(摂理に違反した)行為をしなければ、すべての病気に効果があるでしょう。あるいは遺伝的疾患のない健全な身体を持って生れておれば効果があるでしょう。内部に秘められた〝健康の泉〟の活用法を知れば、すべての病気を駆逐することができることは確かです。

しかし、現実には地上に病気が蔓延している以上、事は非常に厄介です。限界があるということです。たとえば〝死ぬ〟ということは誰も避けられません。身体は用事が終われば捨てられるのが自然法則だからです。

ところが困ったことに、余りに多くの人間が内部の霊性が十分に準備ができていないうちに、つまり熟しきらないうちに肉体を捨てています。魂の鍛錬にとって必要な体験を十分に積んでいないのです。私は法則を有りのままに述べているまでです。人間にとってそれを実践するのが容易でないことは私も承知しております。

何しろ地上というところは物質が精神を支配している世界であり、精神が物質を支配していないからです。本当は精神が上であり、霊がその王様です。しかしその王国も人間の行為の上に成り立っています」


───心の静寂が得られると肉体器官にどういう影響が現われるのでしょうか。

 「それ本来の有るべき姿、つまり王たる霊の支配下に置かれます。すると全身に行きわたっている精神がその入り組んだ身体機能をコントロールします。それはその根源において生命を創造し身体を形づくった霊の指令に従って行われます。

霊はその時のあなたの身体の構成要素のあらゆる分子に対して優位を占めています。それができるようになれば完全な調和状態───あらゆる部分が他と調和し、あらゆるリズムが整い、あなたは真の自我と一体となります。不協和音もなく衝突もありません。静寂そのものです。なぜなら、霊が宇宙の大霊と一体となっているからです」


───あなたはなぜそんなに英語がお上手なのでしょう。

 「あなた方西洋人は時おり妙な態度をお取りになりますね。自分たちの言語がしゃべれることを人間的評価の一つとなさいますが、英語が上手だからといって別に霊格が高いことにはなりません。たどたどしい言葉でしゃべる人の方がはるかに霊格が高いことだってあります。

私はあなた方の言語、あなた方の習性、あなた方の慣習を永い年月をかけて勉強しました。それは私たちの世界ではごく当たり前の生活原理である〝協調〟の一貫です。いわば互譲精神(ギブアンドテイク)を実践したまでです。

 つまりあなた方の世界を援助したいと望む以上はそれなりの手段を講じなくてはならない。その手段の中には人間にとって最高の努力を要求するものがある一方、私たちにとって嫌悪感を禁じ得ないほどの、神の子としてぎりぎりの最低線まで下がらなくてはならないこともあります。

私はこうして英語国民を相手にしゃべらねばなりませんので、何年もかけて困難を克復しなければなりませんでした。あなた方から援助もいただいております。同時に、かつて地上で大人物として仰がれた人々の援助も受けております。今でも言語的表現の美しさと簡潔さで歴史にその名を残している人々が数多く援助してくれております」

(平易な文章の中に高等な思想を盛り込む技術はシルバーバーチ一人の才能から出ているのではなく、英米文学史上のかつての名文家が協力していることが窺える―訳者)


───心に念じたことは全部その霊に通じるのでしょうか。

 「そんなことはありません。その霊と波長が合うか合わないかによります。合えば通じます。バイブレーションの問題です。私と皆さん方とは波長がよく合います。ですから、皆さんの要求されることが全部受け取れます。何か要求ごとをされると、そこにバイブレーションが生じ、その〝波〟が私に伝わります。

それを受ける受信装置が私に具わっているからです。地上と霊界の間でも、魂に共感関係があれば思念や要求の全てがすぐさま伝わります」


───われわれが死ぬ前と後には霊界の医師が面倒をみてくれるのでしょうか。

 「みてくれます。霊体をスムースに肉体から引き離し、新しい生活に備える必要があるからです。臨終の床にいる人がよく肉親の霊や知らない人が側にいるのに気づくのはそのためです。魂が肉体から脱け出るのを手助けしているのです」


───昨今のような醜い地上の状態では(何回も再生を繰り返した霊でなく)まったく新しい霊が誕生する方がよいのではないでしょうか。

 「私たちは人間一人ひとりは果たすべき責任を持って生まれていると説いております。たとえ今は世界が混沌と心配と喧騒に満ち、敵意と反抗心と憎しみに満ちていても、そうした苦闘と悲劇を耐え忍ぶことの中から新しい世界の誕生が待ち受けております。そのためにはその旗手となるべき人々がいなくてはなりません。

その人たちの先導によって真一文字に突き進まねばなりません。霊は苦闘の中で、困難の中で、刻苦の中でみずからを磨かねばなりません。平坦な道でなく、困難を克服しつつ前進し、そして勝利を手にしなくてはなりません。恐怖心がいちばんの敵です。無知という名の暗黒から生まれるものだからです」

Wednesday, April 22, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄

第1部 序文





4章 さまざまな説

……心霊現象が教えるもの


スピリチュアリズムが勃興して心霊実験会というものが催され、奇っ怪な現象が見られるようになった時――これは言うなれば太古からあった突発的心霊現象の実験的再演にすぎないのだが――それを目にしあるいは耳にした者が真っ先に抱いたのは「トリックではないか?」という猜疑であり、トリックではないとしたら「ではそれを起こしているのは一体何ものだろうか?」という疑問だった。

その後の調査・研究によって、そうした現象が実在すること、そしてそれが霊による演出であることが完璧に証明されたのであるが、その一方では自分の勝手な考えや信仰、あるいは偏見によって思いつき程度の説を立てる者が出ている。

スピリチュアリズムに真っ向から敵対する者は、そうした説の多様性を指摘して「スピリチュアリズム自体が混乱しているのではないか」と難詰する。が、これは皮相な見解である。いかなる科学も最初は諸説があって定まらないのが普通で、そのうち事実が積み重ねられて、きちんとした筋道が立てられるに至る。その積み重ねの中で早まった結論が排除され、全体を統一する理論が生まれる。全体といっても最初のうちは基本的な問題に限られ、完璧とまではいかないかも知れない。

スピリチュアリズムも例外ではなく、当初は、現象の性質上、解釈の仕方が諸説紛々となりがちだった。が、その後の発展の仕方は科学の先輩である物質科学にくらべても速い方だった。物質科学のどの分野においても今なお最高の頭脳の持ち主による反論や否定説が存在することを知るべきである。(これは十九世紀末の時点での事実を述べているが、二十世紀も終わろうとしている現在でもなお、物理学では「相対性理論」が、天文学では「ビッグバン説」や「ブラックホール説」が、進化論では「ダーウィニズム」が痛烈な批判を浴びている。要するに人間は大自然について本当のことはまだ何も分かっていないということである――訳注)

さて、心霊現象には二つの種類がある。すなわち物理的現象と精神的ないし知的現象である。この世に物質以外の存在を認めないがゆえに霊の存在を認めようとしない者は、当然のことながら現象に知性の働きがうかがわれるという事実は頭から否定する。

彼らなりの見地から提示する説をまとめると次の四つに分類できそうである。
一、詐術説


すべてはトリックであると決めつける者が多い。あの程度のものなら手品師にでもできるというのがその理由である。ということは、我々が霊と呼んでいる者はいかさま師の手先であり、霊媒はみんないかさま師ということになる。

我々も、心霊現象にトリックは一切ないとは言わない。心霊現象と称してトリックや奇術によって金儲けをたくらむ者はどこにでもいる。が、本物があるから偽物があるのである。自分が見たものが実はトリックだったからといって、この世に本物はないと決めつける理屈は通らない。
二、低能説


否定論者の中にはトリック説までも否定する者がいる。ではどういう説の所有者なのか。スピリチュアリズムにたずさわっている者は騙しているのではなく、騙されているのだというのである。これは我々スピリチュアリストを“お人好しのおバカさん”と決めつけているのと同じで、もっと言えば、知能が低いと言っていることになる。ということは、自分たちは正常な頭脳の持ち主だと思っているわけであるが、我々の側から見れば、まったく正当性の根拠の出せないその程度の説で満足できる彼らこそ、あきれた頭脳の持ち主としか思えない。
三、幻覚説


ちょっぴり科学性の色彩が見られるものに、心霊現象はすべて幻覚であるとする説がある。その説によると――「実験会の出席者は立派な方たちなのであろうが、実際に見えていないものを見たと思っているだけである。たとえばテーブルが浮揚して、何一つ支えるものがないのに中空にとどまっているという場合、実際はテーブルは少しも動いていない――一種の蜃気楼ないしは光の屈折現象を見ているにすぎない。星などが水面に映っているのと同じで、その場に無いものを有るように錯覚しているのである。」

確かにその種の幻覚も有り得ないことではない。が、実験会に出席した者は、その中空に浮いているテーブルの下を通り抜けてみているのである。もしテーブルが床にあって、浮いて見えるのが蜃気楼だとしたら、テーブルの下を通ろうとしたらテーブルに蹴つまずくはずである。

さらに、浮いていたテーブルが落下して壊れたことが何度もあるのである。目の錯覚でそんなことが有り得るだろうか。

人間の身体上の機能のせいで静止しているものが動いたように見えることは確かにあるし、目まいのする人は、じっとしていても自分が動いたように錯覚するものだが、実験会の出席者は一人ではなく数名ないし十数名で注視しているのである。その出席者全員が同じ錯覚に陥るということが有り得るだろうか。
四、人工音説


実験会には叩音(ラップ)現象というのが伴う。音の種類はさまざまで、必ずしも叩くような音ばかりではなく、楽器が奏でられたり、鈴が鳴ったり、家全体が揺すられたりすることもある。

それを、さる高名な学者が、全て霊媒が筋肉を無意識に、あるいは意図的に収縮させて出しているという、乱暴この上ない説を学会で発表したことがある。

霊媒が背のびをしても届かない天井や壁の高いところ、遠く離れた位置にあるテーブルから聞こえるのに、どうしてそんなことが出来よう。まして、テーブルが上下して、その脚の一本で床を叩いて(モールス信号のような符丁を使って)知的な内容の通信(メッセージ)を伝えるなどということは絶対に不可能である。

その学者は、ご苦労なことに、人間の筋肉の構造を細かく解説して、それを操作してドラムの音や聞き慣れた曲まで奏でることができるとおっしゃるのであるが、残念ながらその種の現象は滅多に起きない――出席者にとっては叩音現象は心霊現象のごく一部にすぎないのである。

一方、このラップも幻覚であるとする説もある。が、出席者全員が同じ音や曲、テーブル通信などを幻覚で聞くわけがない。後章で明らかにするように、こうした現象は全て目に見えない知的存在が演出しているのであって、偶発現象でもないし、物的原因によるものでもない。

以上は現象そのものの存在を完全に否定する説であるが、次に、心霊現象というものが存在することは認めるが、その原因は人体にそなわる電気や磁気、その他の未知のエネルギーのせいにする説をみてみよう。
(一)物的エネルギー説


この説は全面的に間違っているわけではない。たとえば出席者が増えると現象も活発になることは事実であり、その事実を有力な根拠としているが、前にも述べたように、真実の理論はあらゆる事実、あらゆる現象を解明するものでなければならない。たった一つでも当てはまらない事実があれば、その説は間違っているか不完全ということになる。

右の説は、物理的現象に関しては一考の余地があるが、心霊現象には知性の働きもうかがわれるのである。たとえば出席者の要求に応じたり、口に出さない思念(疑問など)を読み取っていることが明らかなのである。そうなると、現象を起こしているのは目に見えない知的存在だということになる。少なくとも純粋に物理的な原因によるものではないことは明白である。

そこで肝心なことは、その知性の働きの証拠を得ることであるが、これは根気よく実験を重ねれば確実に得られるものである。
(二)知的エネルギー説


さて知性の働きは認めることができても、その知性の始源は何かを確認する必要が残る。かつて、これにもさまざまな説があった。

その一つは、霊媒ないしは出席者の知的エネルギーが、光の反射のように、現象やメッセージの中に反映しているというものだった。一見もっともらしい説ではあるが、実験に立ち会えば、ひとたまりもなく立ち消えになってしまう。

しかも、この説は唯物説を否定することになることを知るべきである。出席者から発せられる知性が働いて現象を起こすということは、人間はただの肉体のみの存在ではなく、肉体とは別個の働きをする別の原理を所有していることを意味することになるからである。

それにしても、こんな説を出す学者は、その途方もない重大な意味に気づかないのであろうか。もしも思念が肉体に反射して音や動きに転換されるというのが事実であれば、そのこと自体が驚異的なことではなかろうか。科学者がこぞってその検証に当たってしかるべき価値があるのではなかろうか。神経繊維を分析してその特性をコツコツと研究している学者が、心霊現象となるとそうした途方もない説を出して無視しようとする、その態度が理解できないのである。

さきにも述べたように、この説は実験に立ち会えばひとたまりもなく立ち消えになってしまう。そのいちばん良い例が、メッセージが出席者の考えと異なるだけでなく、真っ向から対立する場合があることである。こちらが予期する、あるいは期待するものと異なる場合もある。“白”だと思っていたのに“黒”だという返答が来た場合、それが出席者の思念の反映といえるだろうか。

また、自動書記や入神談話でメッセージが届けられる場合を考えると、霊媒が知らない言語で書かれたり、霊媒がまったく知るはずもない高等な哲学思想に関する質疑応答が為されることがあるが、これなどは霊媒でもなく出席者でもなく、まったく別個の、目に見えない知的存在が係わっているとしか考えられないであろう。

このことは直接書記でメッセージが綴られる場合にさらに鮮明となる。エンピツもペンも使わず、トリック防止にあらゆる配慮をした上で用紙に文章が書かれるのであるが、そのこと自体が目に見えない知的存在の働きの何よりの証拠であり、ましてやこちらから出された質問に対する回答が意外なものだったり、まったく無関係のことに言及している場合には、出席者の思念の反映などという説は問題にならない。
(三)集団的精神作用説


これは右の知的エネルギー説と同類とみてよい。この説によると、霊媒から出た精神が他の数人の人間――その場にいる人だけでなく、その場にいない人の場合もある――の精神と合体して集団的人格をこしらえ、その精神作用で才能や知識や知性を発揮するという。

が、他の多くの説と同様、この説は個人的見解であって、これに賛同する人はほとんどいない。
(四)夢遊病説


この説にはかつて多くの支持者がいたし、今でも、少なくなったとは言え、いることは事実である。基本的には上の説と同じく、すべての通信の始源も霊媒の精神とするのであるが、では霊媒の能力を超えているものはどう説明するかとなると、それを集団的精神作用とせずに、知力の一時的な超興奮状態、いわば夢遊病的恍惚状態における知性の増幅現象であるとする。

確かに人間は時として(火事場の馬鹿力のように)興奮状態において超人的なことをしでかすことがあることは否定しないが、何度も言うように、本物の説は全ての現象を説明できるものでないといけない。ただの興奮状態では説明のできない現象がいくらでもあることは、一度実験会に出席してみると分かる。

そもそも霊媒は必ずしもトランス状態に入るとは限らない。どちらかというとトランス状態に入るのは例外に属する。たとえば自動書記の場合、霊媒によっては手だけはすごいスピードでメッセージを綴っているのに、本人はそのメッセージの内容にはまったく無頓着で、まわりにいる出席者とおしゃべりをし、時には笑い出したりすることもある。(本書の出版からほぼ二十年後に英国で出版された、スピリチュアリズムを代表する霊界通信の一つ『霊訓』『Spirit Teachings』の霊媒ステイントン・モーゼスは、書かれていくメッセージが自分の意志とは別個のものであることを確かめるために、わざと難解な哲学書を読んだり、ペンを左手に持ちかえたりしたが、そんなことにはお構いなく、達筆の文章で、しかも神学者としてのモーゼスのキリスト教説と対立する内容のメッセージが、猛烈な勢いで書かれていった――訳注)
(五)悪魔説


霊媒とは別個の知的存在の仕業であることを認める者の中に、それを全て悪魔(デーモン)の仕業とする人がいる。今ではほとんど聞かれなくなったが、かつてはかなりの支持者がいたものである。

スピリチュアリズムの立場から見ればとんでもない説であるが、見方を変えれば、まんざら敵対視するには及ばないことに気づく。と言うのは、悪魔であろうと天使であろうと、目に見えない世界の存在であることには変わりないわけで、従ってかりに悪魔からの通信であるとすることは目に見えない霊界、少なくともその一部との交信が可能であることを認めることになるからである。

問題は、通信の全てを悪魔からのものとする点にある。明らかになったところによると、霊というのは他界した人間の魂なのであり、地上の人間にも善人もいれば悪人もいるように、その中には確かに悪魔のような霊もいるかも知れないが、あの優しかった祖父母や父母、親しかった友人、あるいは愛(いと)しい我が子が、死んで悪魔の手先になっているとは、いったい誰が信じられよう。

キリスト教徒の中にこの悪魔説を本気で信じている人がいることは事実であるが、スピリチュアリズムに深入りさせまいとして、一種の脅しとしてそういう説を吹聴する者がいることも我々は知っている。「さわっちゃダメだ。やけどをするぞ!」と言うのに似ている。

実はそれが逆効果を生むこともあるのである。人間には禁じられるとやってみたくなる性分があり、悪魔がどんなことを言うか聞いてみたくなる人がいる。ところが実際に交霊会に出席してみると、少しも怖くも何ともない。こうしてその人は真実に目覚めることになる。

霊の述べることが自分の宗教の教説と異なるからという理由で、それを悪魔の仕業とする人もいる。コーランの教えと異なるからというマホメット教信者、モーゼの教えと異なるからというユダヤ教信者、ローマ法王の説教と違うからというカトリック信者、等々。

カトリックの場合は霊の説くところが慈善と寛容と隣人への愛、そして俗世的欲望の抑制という、まさにキリストの教えそのままであるのに、それを悪魔のそそのかしだというのであるが、その辺の矛盾をどう説明するのであろうか。

何度も言うように、霊といっても、もともとは人間の魂であり、人間は不完全な者ばかりだから、霊も不完全ということになり、それはその述べるところに如実に反映する。

中には確かに邪悪な霊もいるし、狡猾な霊もいるし、あきれるほど偽善者的な霊もいる。だから、我々は警戒心を怠ってはならないが、そういう霊がいるからという理由で全てを排斥するのは、社会に悪い人間がいるからといって隠遁の生活に入るのと同じで、賢明とはいえない。

神は、人間を識別するのと同じように霊を識別する理性と洞察力を与えてくださっている。スピリチュアリズムにつきものの煩わしさから逃れる道は、全面的にそこから逃れるのではなく、正しい理解と判断力を持つことである。

以上、さまざまな説を見てきたが、現象を見もしないで頭ごなしに否定するのは論外として、現象ないし事実を一応検討した者の間でも、なぜこうまで諸説が出るのであろうか。

その原因は単純である。かりに一軒の家があって、前半分を白く塗り、裏側は黒く塗ってあるとしよう。それを前から眺めた人は「あの家は白かった」と言い、裏側だけを見た人は「あの家は黒かった」と言うであろう。両方とも正しいが、両方とも間違っている。表と裏の両方から見た人だけが本当の意味での正しい答えが出せる。スピリチュアリズムにも同じことが言える。

現象の一部だけを見て立てた説は、それなりに正しいかも知れないが、それだけでは片づけられない現象がいくらでもある。だから、全体から見るとその説は間違いということになる。

スピリチュアリズムを正しく理解するには時間をかけて、ありとあらゆる現象を細かく検討しなければならない。大ていの人は自分の体験をもってそれが全てであると錯覚し、その観点から自説を立てる。そこに間違いの原因がある。

では心霊現象が教えるところを十項目に分けて解説しておこう。

1、心霊現象は超物質的知性すなわち“霊”が演出している。

2、見えざる世界は霊によって構成されていて、至るところに存在する。無辺の宇宙に霊が実在している。我々人間の身のまわりにも存在し、そのうちの幾人かと常に親密な関係にある。(背後霊のこと――訳注)

3、霊は絶えず物質界に働きかけており、精神活動にも影響を及ぼしている。自然界のエネルギーの一種と見なしてよい。

4、霊は本質において我々人間と変わるところはない。かつて地球上または他の天体上で物的身体をたずさえて生活したことのある魂であり、今はその物的身体を脱ぎ捨てているというに過ぎない。従って人間の魂は“肉体に宿っている霊”であり、いずれは肉体の死によって霊になる、ということになる。

5、霊といっても千差万別で、善性においても邪悪性においても、理解力の程度においても無知の程度においても、無数の段階がある。

6、霊も進化の法則によって拘束されている。ただし他方において自由意志も与えられているから、努力と決意の程度によって進化の速度が異なる。しかし、いつかは完成の域に到達する。

7、霊界における霊の幸不幸は、地上時代における善悪の所業と霊性の進化の程度によって決まる。完全にして無垢の幸福感、いわゆる至福の境涯は、完全な霊性を極めた者のみが味わうことができるものである。

8、霊は、ある一定の条件のもとで、人間にその存在を顕現してみせることができる。人間と意思の疎通ができる霊の数に限界はない。

9、霊は霊能者を媒介としてメッセージを伝えることができる。その場合、霊能者は道具であり、通訳のような存在である。

10、メッセージを送ってくる霊の霊性の高さないし低さは、そのメッセージの内容に反映する。高い霊の訓えは善性にあふれ、あらゆる側面にそれが表れている。低い霊の述べることには、どう繕ってみても、偽善と無知と未熟さがうかがえる。


訳注――これだけのことを一般の人々にすぐに理解を求めるのは無理としても、最近のテレビ番組や心霊書を見ていると、チャネラーと自称して多くの客を相手に霊視力や霊聴力あるいはインスピレーションで霊からのメッセージを伝えたり前世を語ったりしている人でも、その言葉の端々から霊的知識が欠落していたり誤解していることが読み取れることが多い。

最近あきれ果てたのは、さる女性霊能者が「霊でも千年くらいは生き続けているのがいますから」云々、と言ったことで、この人にとっては相変わらず物的人間が実在で、霊は副産物的なモヤのようなもので、いつかはどこかへ消滅していくものでしかないらしい。神職や僧籍にある人に意外にその程度の認識の人が多いようである。

もう一人のテレビ出演者が書いた霊界の本を開いてみたら「霊界というところは暗くて寂しいところで、地上界の方がよほどいい」といった文章があった。この人の霊視力はそのレベルまでしか見えていないということを証明している。

自分のことを神界からの使者であるとか仏陀の生まれ変わりであるとか称している人もいる。こういう人は天文学をしっかり勉強して、宇宙の広大無辺さと無限の次元の波動の世界の存在を知ることである。おのれの小ささに気づいて、そんなことは言えなくなるであろう。

霊的な仕事に携わっている人の落とし穴は、自分の霊能にうぬぼれて“学ぶ”ということをしなくなることである。

シルバーバーチの霊訓(三)

 Wisdom of Silver Birch

ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳



十二章  神とは  

 ある日、交霊会が始まる前に、メンバーの間でキリスト教についての議論があり、その中でキリスト教の牧師には神とは何かの説明が出来る人がいないことが指摘された。やがて出現したシルバーバーチは冒頭の祈りの中で神の説明をした。それは明らかにメンバーの議論を踏まえたものだった。

(訳者注ーシルバーバーチは冒頭の祈り Invocation と終結の祈り Benediction とがある。前者は会の成功のための神の御加護を求めるものであり、後者は感謝と讃仰の祈りである)

 「神よ、あなたは一体どなたに御(おわ)し、いかなるお方に御すのでしょうか。いかなる属性をお具えなのでしょうか。
 
 私たち(霊界の者)はあなたを完璧なる摂理の働きであると説いております。たとえば宇宙に目を向けさせ、その構想の完璧さ、その組織の完璧さ、その経綸の完璧さを指摘いたします。そしてその完璧な宇宙の姿こそあなたの御業の鑑であり、あなたこそ宇宙の全生命を創造し給いし無限の心であると説いております。
 
 私たちには自然界の一つ一つの相、一つ一つの生命、一つ一つの草花、一つ一つのせせらぎ、小川、海、大洋、一つ一つの丘そして山、一つ一つの恒星と惑星、一つ一つの動物、一人一人の人間の目に向けさせ、そのすべてがあなたの無限なる根源的摂理によって規制され支配されていると説きます。

 私たちは宇宙間のすべての現象がその根源的摂理から派生したさまざまな次元での一連の法則によって支配され、かくしてその働きの完璧性が保たれているのであると認識している者でございます。

そのあなたには特別の寵愛者など一人もいないことを信じます。不偏不党であられると信じます。あなたのことを独裁者的で嫉妬心を持つ残忍なる暴君のごとく画いてきたこれまでの概念は誤りであると信じます。なぜなら、そのような人間的属性は無限なる神の概念にそぐわぬからでございます。

 これまで私たちは地上とは別個の世界においても同じあなたの摂理の働きを見出し、そしてそれがいついかなる時も寸分の狂いもないことを確認したが故にこそ、その摂理とそれを生み出された心に満腔の敬意を捧げ、その働きのすべて───物的、精神的、そして霊的な働きのすべてを説き明かさんと努めております。

なかんずく霊的なものを最も重要なものとして説くものです。なぜなら、すべての実在、すべての生命の根源は霊的世界にあるからでございます。

 あなたの子等のすべてかあなたの摂理を理解し、その摂理に従って生活を営むようになれば、すべての悲劇、すべての暗黒、すべての苦悩、すべての残虐行為、すべての憎悪、すべての戦争、すべての流血行為が地上から駆逐され、人間は平和と親善と愛の中で暮らすことになるものと信じます。

 ここに、ひたすらに人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを──無意味な文句の繰り返しでなく、真理と叡知と光と理解力と寛容の心を広げる手段(人間)を一人でも多く見出したいとの願いとして──捧げ奉ります」 


 この祈りの後、シルバーバーチみずからその内容について次のように説明した。

 「この祈りには宇宙についての、地上の人間に理解できるかぎりの理性的かつ合理的説明が含まれております。人類が暗闇の生活を余儀なくさせられているのは、一方にはみずから真理に対して目を閉じたがる者が多く、また一方には既得の特権を死守せんとする者が多いからです。

すべての戦争は人間が摂理に背いた生き方をすること──一個の人間、一つの団体、一つの国家が誤った思想から、貪欲から、あるいは権勢欲から、支配欲から、神の摂理を無視した行為に出ることから生じるのです。直接の原因が何であれ、全ては宇宙の霊的法則についての無知に帰着します。

すべての者が霊的知識を具えた世界に独裁的支配はあり得ません。一人の人間が一国を支配することが不可能な組織となるからです。すべての者が霊的知識を具えた世界に流血はあり得ません。争いの起こり得ない体制となるからです。

 われわれの仕事はその霊的知識を広めることです。真実の意味での伝道者なのです。伝道の意味が今日の世の中では歪められてしまいましたが、真実の意味は真理または知識を広めることです。私たち霊団は今あなた方の世界で仕事をしておりますが、本来は別の世界の者です。

あなた方よりは一歩、二歩、もしかしたら、三歩ほど先を歩んでいるかも知れません。これまで幾つかの大自然の摂理を学んできました。そうして知ったことは、この世に奇跡は無く、神の特別の寵愛者もなく、選ばれし民もなく、唯一の神の子もいないということです。あるのはただ法則のみだということです。

 宇宙がいかに巨大にして荘厳であるとは言え、全てが絶対的法則によって支配されていることを知ったからこそ、こうしてその法則をお教えしようと努力しているわけです。

その法則とは、原因には必ずそれ相当の結果が伴うということです。自分が蒔いたタネは自分で刈り取るということです。所詮はごまかすことができない──なぜなら自分の言動がその性格と成長具合に消そうにも消せない印象を刻み込むからです。こうした真理を土台として真の宗教を築かねばなりません。

大主教の宮殿で何を説こうと、大聖堂で何を説こうと、寺院、教会堂、礼拝堂、その他、世界中いかなるところで何を説こうと、それが今述べた単純な基本的真理と矛盾したものであれば、それは誤りです。極めて簡単な真理なのです。

人生を霊的摂理が支配していること、お互いが扶けあうことが一ばん大切であること、それが霊を成長させ、性格を形成し、死後に待ち受ける新しい生活に霊的な備えを与えることになる───ただそれだけなのです。

 何も知らない人たちを光明から顔を背けさせ、カビの生えたドグマを信じさせ、今日の世でも受けられる霊的啓示(インスピレーション)を無視させ、遠い薄暗い過去のインスピレーションの残骸に目を向けさせようとする既成組織を私たちが非難するのは、そうした本来私たちと手を取り合うべき人たち、本来宗教を説くべき立場にある人々が私たちの敵の側にまわっているからです。

人間として非難するつもりはありません。彼らの多くは彼らなりに正しいと思うことに携わっているのです。真面目な徒であり、困難な状況の中で最善を尽くしております。

私たちが非難するのはその組織です。真理を知る可能性がありながら虚偽にしばりつけ、光明を見出すチャンスがありながら暗黒の中に閉じ込めておこうとする組織です。

 これ以上簡単な教えが一体どこにあるでしょうか。地上は今まさに大戦の真っ只中にあります。世界中に悲劇と苦悩が満ち、数知れぬ人が慰めを求め、すがるべき杖を探し、神が存在すること、我が子の苦しみに無関心ではいられないはずの親が存在するその証を求めております。牧師のもとへ行っても相も変わらず古い教説に少しばかり現代風な味を加えて説くばかりです。

そしてすぐに〝聖なる書〟を引用します。国によって大小さまざまな体裁をしていても、中身は同じ古い言葉ばかりです。うんざりするようなお決まりの教説を聞かされるだけです。霊的実在が存在することを証するものは何一つ持ち合わせていません。

 彼らが説く信仰は彼らみずからが心の奥では信じきれなくなっているものです。自分が自信を持てないでいて、どうして他人に確信を与えられましょう。人類の歩むべき道を自分が知らないでいて、どうして他人に慰安が与えられましょう。いわゆる〝あの世〟についてみずから疑問符をつけている者が、どうして肉親に先立たれた人たちを慰めてあげられましょう。

先のことを何も知らない者が、どうして魂の飢えた、心の満たされない、さ迷える人々を導くことができるでしょう。

 ところが真理はすぐ目の前にあるのです。求めさえすれば知識の宝、叡知の泉、真理の光がすぐ身の回りで待ち受けているのです。宗教が無力なのではないことを彼らは理解していないのです。無力なのは宗教の名を借りた漫画なのです。

三位一体説が宗教と何の関係があるのでしょう。無原罪懐胎(聖母マリアはその懐胎の瞬間から原罪を免れていたこと)が宗教と何の関係があるのでしょう。

処女降誕が宗教と何の関係があるのでしょう。贖罪説(イエスがすべての罪を背負ってくれるということ)が宗教と何の関係があるのでしょう。こうした説を信じた者は信じない者より少しでも宗教的な人間になるというのでしょうか。

 地上の人間は肩書やラベルや名称を崇めるのがお好きです。が、クリスチャンを名のろうと無神論者を名のろうと、何の違いもありません。大切なのは実生活において何をするかです。仮にここに宗教など無縁だと言う人がいるとしましょう。

神の名を唱えても頭を下げようとしません。しかし性格は正直で、人のためになることを進んで行い、弱い者に味方し、足の不自由な犬が柵を超えるのさえ手助けしてやり、打ちひしがれた人々の身になって考え、困った人を援助しようと心がけます。

もう一人は見たところ実に信心深い人です。あらゆる教義、あらゆる教説を受け入れ、信仰上の礼儀作法には口やかましく気を使います。しかし心の奥に慈悲心は無く、生活の中において何ら人のためになることをしません。前者の方が後者よりはるかに宗教的人物と言えます」


───神は完全無欠ですか。

 「あなたのおっしゃる神が何を意味するかが問題です。私にとって神々は永遠不変にして全知全能の摂理としての宇宙の大霊です。私はその摂理にいかなる不完全さも欠陥も不備も見つけたことがありません。原因と結果の連鎖関係が完璧です。

この複雑を極めた宇宙の生命活動のあらゆる側面において完璧な配慮が行きわたっております。例えば極大から極微までの無数の形と色と組織を持つ生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けていただけば、神の法則の全構図と全組織がいかに包括的かつ完全であるかを認識されるはずです。

私にとって神とは法則であり、法則がすなわち神です。ただ、あなた方は不完全な物質の世界におられるということです。

 物質の世界に生きておられる皆さんは、今のところはその物質界すら五つの物的感覚でしか理解できない限られた条件下で限りある精神を通して自我を表現しておられるわけです。

物的身体に宿っているかぎりは、その五感が周りの出来ごとを認識する範囲を決定づけます。それ故あなた方は完全無欠というものを理解すること自体が不可能なのです。

五感に束縛されている限りは神の存在、言いかえれば神の法則の働きを理解することは不可能です。その限界ゆえに法則の働きが不完全に思えることがあるかもしれませんが、知識と理解力が増し、より深い叡知をもって同じ問題を眺めれば、それまでの捉え方が間違っていたことに気づき始めます。物質の世界は進化の途上にあります。

その過程の一環として時には静かな、時には激動を伴った、さまざまな発展的現象があります。それは地球を形成していくための絶え間ない自然力の作用と反作用の現れです。常に照合と再照合が行われるのです。存在していくための手段として、その二つの作用は欠かせない要素です。それは実に複雑です」


───神は完全だとおっしゃいましたが、われわれ人間が不完全であれば神も不完全ということになりませんか。

 「そうではありません。あなた方は完全性を具えた種子を宿しているということです。その完全性を発揮するための完全な表現器官を具えるまでは完全にはなり得ないということです。現在のところではその表現器官が極めて不完全です。進化して完全な表現器官、すなわち完全な霊体を具えるに至れば完全性を発揮できるようになりますが、それには無限の時を要します」


───ということは神のすべての部分が完全の段階に至るのにも無限の時を要するということでしょうか。

 「違います。神は常に完全です。ただ現在物質の世界に人間という形態で顕現されている部分の表現が不完全だということです。それが完全な表現を求めて努力しているということです」


───それを譬えて言えば、ある正しい概念があって、それが人によって間違って理解され使用されているようなものでしょうか。

 「その通りです。しかし、それも一歩ずつではあっても絶えず理想へ近づいて行かねばなりません。完全は存在します。それを私は、あなた方は本当の自分のほんの一かけらほどしか表現していないと申し上げているのです。もしも現在のその身体を通して表現されている一かけらだけであなたを判断したら、きわめて不当な結論しか出てこないでしょう。

が、それは本当のあなたの一部分に過ぎません。もっと大きなあなた、もっと大きな意識が存在し、それが今もあなたとつながっているのです。ただそれは、それに相応しい表現器官が与えられないと発揮されないということです」


───お聞きしていると神が一個の存在でなくなっていくように思えます。独立した存在としての神はいるのでしょうか。

 「真っ白な豪華な玉座に腰かけた人間の姿をした神はいません。神とは一個の身体を具えた存在ではありません。法則です」


───それに心が具わっているわけですか。(ここでは〝心〟を〝精神〟と置きかえて考えてもよい―訳者)

 「心というものは、あなた方のような身体だけに限られたものではありません。法則を通して働いているのです。心を脳味噌と切り離して考えないといけません。意識というものはそのお粗末な脳細胞だけを焦点としているのではありません。

意識は脳とは完全に独立した形でも存在します。その小さな脳という器との関連で心の働きを考えるのは止めないといけません。心はそれ自体で存在します。

しかし、それを自覚するには何らかの表現器官が必要です。そのために人間に幾つかの身体が具わっているわけです(※)。身体を具えない状態を想像することは可能であり、その状態でもあなたは厳として存在しますが、あなたを表現する手段がないことになります。

(※シルバーバーチは身体の事を bodies という複数形で用いることがあるが、それがいくつあってどういうものであるという細かい説明はしていない。巻末〝解説〟参照ー訳者)

 神という存在を人間に説明するのはとても困難です。人間には独立した形態を具えた存在としてしか想像できないからです。言語や記号を超越したものを地上の言語で説明しようとするのが、そもそも無理な話です。創造の本質に関わることなのです。

神という存在をどこかのある一点に焦点を持つ力であるとは言えません。そんなものではないのです。神とは完全な心───初めも終りもなく、永遠に働き続ける完璧な摂理です。真っ暗だったところへある日突然光が射し込んだというものではありません。生命は円運動です。始まりも終りもありません」


───宇宙のすみずみまで神が存在するのと同じように、われわれ一人一人にも神が宿っているとおっしゃるわけですか。

 「私のいう神は、全創造物に顕現されている霊の総体と離れて存在することはできません。残念ながら西洋世界の人は今もって人類の創造をエデンの園(アダムとイブの物語)と似たような概念で想像します。実際はそれとはまったく異なるのです。

 宇宙の進化は無窮の過去から無窮の未来へ向けて延々と続いております。かつて何も無かったところへ突如として宇宙が出現したのではありません。宇宙は常にどこかに存在します。生命は何らかの形態で常に顕現してきました。そしてこれからも何らかの形で永遠に存在し続けます」


───子供には神のことをどう説いて聞かせたらよいでしょうか。

 「説く人自らが全生命の背後で働いている力について明確な認識を持っていれば、それは別に難しいことではありません。私だったら大自然の仕組みの見事な芸術性に目を向けさせます。ダイヤモンドの如き夜空の星の数々に目を向けさせます。太陽のあの強烈な輝き、名月のあの幽玄な輝きに目を向けさせます。

あたかも囁きかけるようなそよ風、そしてそれを受けて揺れる松の林に目を向けさせます。さらさらと流れるせせらぎと、怒涛の大海原に目を向けさせます。そうした大自然の一つ一つの動きが確固とした目的を持ち、法則によって支配されていることを指摘いたします。

そして更に人間がこれまで自然界で発見したものはすべて法則の枠内に収まること、自然界の生成発展も法則によって支配され規制されていること、その全体に、人間の想像を絶した広大にして入り組んだ、それでいて調和した一つのパターンがあること、全大宇宙のすみずみに至るまで秩序が行き亘っており、惑星も昆虫も嵐もそよ風も、その他あらゆる生命活動が───いかに現象が複雑を極めていても───その秩序によって経綸されていることを説いて聞かせます。

 そう説いてから私は、その背後の力、すべてを支えているエネルギー、途方もなく大きい宇宙の全パノラマと、人間にはまだ知られていない見えざる世界までも支配している奇(くしび)な力、それを神と呼ぶのだと結びます」

Tuesday, April 21, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

The Mediums' Book    Allan Kardec
スピリチュアリズムの真髄「現象編」




3章 説諭に際しての心得

霊的真理に目覚めた者が、今度はそれを一人でも多くの人に知ってもらいたいと思うようになるのは自然の成り行きであり、むしろそうあって然るべきことであろう。本章はそういう願望を抱いている人のために、我々の体験にもとづいて最も有効な方法をお教えし、せっかくの意気込みが徒労に終わることのないように、という意図に発している。

すでに述べたように、スピリチュアリズムは新しい学問であり、新しい人生哲学である。となると、それを理解するには、第一条件として真剣さが要求される。つまり、どの学問でも同じであるが、遊び半分の態度ではとても理解できるものではないとの自覚がなくてはならない。

スピリチュアリズムは人類という存在のあらゆる問題に係わっている。その範囲は広大であり、実験会に参加した者が痛切に感じるのは、現象が暗示するところが途方もなく大きく、かつ深刻であることである。

その基本にあるものが霊の実在の真実性であることは論をまたないが、意欲的なタイプの人間は自分がそれを確信するだけでは満足しない。それは神学者が神の存在を自分が信じるだけでは満足できないのと同じである。そこで、これからそういうタイプの者にとってどういう方法が最も効果的であるかをみていこう。

“百聞は一見にしかず”という諺があるように、疑う人間には事実(物証)を見せるのが一番であるかに思われているが、実際は必ずしもそうではない。どんな現象を見せてもまったく考えを変えない人間がいることを知らねばならない。その原因はどこにあるかを明らかにしてみよう。

スピリチュアリズムにおいては、霊界通信と呼ばれている霊からのメッセージは言わば副産物であって、二次的な意義しかもたない。言いかえれば、霊からのメッセージはスピリチュアリズムの出発点ではないということである。

霊は人間の魂が肉体を捨てたあとに存続しているものにほかならないのであるから、議論はまず人間にその魂が内在していることから始めねばならない。ところが唯物論者は人間はこの肉体でしかないと信じているのであるから、この物的世界とは別の世界があって、そこに何らかの存在がいるなどということを信じさせるのは、まず不可能である。

自分に魂が内在することを信じない者が目に見えない霊の世界が存在するなどということが信じられるわけがないのであるから、そういうテーマについていくら議論しても無益である。どこからどう説いても、ことごとく論破されてしまう。原理そのものを認めないのであるから当然であろう。

秩序ある説諭というものは、すでに明らかとなっていることから始めて、さらに未知の分野へと進むべきである。この場合、唯物論者にとって明らかとなっているのは“物質”のみであるから、我々もまず物質科学に足場を定め、そこから唯物論者を我々の見地へと誘(いざな)い、人間には物質の法則を超越したものが内在していることを説いて聞かせる、ということになる。しかし、その説明のためには、物的次元を超えたさまざまな次元の法則を持ち出し、証拠としてさまざまな論拠を持ち出さねばならない。

自分に魂が宿っていることを信じない人間にいきなり霊の話を持ち出すのは、最終目的とすべきところから出発するようなもので、前提を認めない者が結論を認めるはずがないから、賢明とは言えない。うたぐり深い人間に霊的真理を納得させるためには、前もってその人が魂についてどう考えているか、つまり魂の存在を認めるかどうか、死後にそれが存続することを信じるかどうか、死後にも個性が残ることを信じるかどうかを確かめておく必要がある。

もしもそうした問いにいずれも「ノー」と答えるのであれば、霊について説くことは徒労に終わるに決まっている。絶対にとまでは言わない。中には例外的人間もいるであろう。が、その人の場合は何か別の要素があるものと察せられる。

唯物論者には大きく分けて二つのタイプがある。一つは、理論上そう考えているタイプ。このタイプの人間にとって霊的なものは“疑わしい”のではなくて、理論上の観点から“存在しない”のである。人間というのはゼンマイ仕掛けの機械と同じで、ゼンマイが巻かれている間は動くが、ゼンマイが切れると動かなくなる。後に残るのは死骸だけであり、他には何も残らない。

幸いこのタイプの人間は少ないので、こうした思想の蔓延による弊害を声高にあげつらう必要はない。

もう一つは無関心から取りあえずそういう立場を取っているタイプ。確信をもって唯物論を主張しているわけではない――言うなれば、それよりもっと良い説があれば喜んで信じるタイプで、こういう人が数としてはいちばん多い。

このタイプの唯物論者も、おぼろげながら来世へのあこがれのようなものを抱いている。が、これまでの伝統的信仰で聞かされている来世観は理性が納得しない。そこで疑念が生じ、その疑念が不信へと進行する。が、その不信には何一つ理論的裏付けがないのであるから、合理的な説を提示されれば喜んで受け入れるであろう。ということはスピリチュアリズムを理解する可能性があるということで、本人が自覚しているよりも我々と通じ合えるものをもった人々なのである。

その点から言うと、第一のタイプの唯物論者には啓示だの天使だのパラダイスだのといったものを持ち出しても意味がない。彼らには、この宇宙には現在の物理学の法則では説明しつくせないことが沢山あることを証明することから始めねばならない。その点、第二のタイプの唯物論者は信仰心がまったく無いわけではなく、いわば胚芽の状態で潜在していて、それが在来の根拠のない教義によって抑圧されているだけであるから、真理の光を当ててやれば生気を取り戻す可能性があるわけである。

以上の二つのタイプは“唯物論者”と呼ばれる人たちであるが、これ以外に、唯物論者の範疇には属さず、どちらかというと目に見えないものの存在を認めるタイプでありながら、我々にとって同じように扱い難いグループがいる。それは、我がままな感情から信じたがらない人たちである。

彼らは物的快楽を味わいたいという欲望を多分に持っている。だから、スピリチュアリズムを信じてしまうと野心や利己的欲望や見栄を捨てないといけなくなるのであるが、それは彼らにとっては困るのである。そこでわざと真実を見まいとし、真理の言葉を聞くまいとする。このタイプの人間は哀れに思ってあげるしか為す術(すべ)がない。

さらにもう一つのタイプに、打算または不誠実さから反対する人たちがいる。彼らはスピリチュアリズムの説くところをちゃんと知っている。その正当性も知っている。しかし、自分に都合のよい打算を動機として、表向きは否定論者の側にまわっているに過ぎない。このタイプもひじょうに扱い難い存在である。為す術がないからである。完全な唯物論者でも、思い違いをしている場合は、それを指摘してあげることによって考えを改めさせることができる。少なくともそこには誠実さが窺える。が、この打算から発している者は初めから反対することに決めてかかっているのであるから、議論の余地がないのである。

この種の人間は“時”を待つしかない。そして、多分、痛い思いをしてようやく自分の打算的態度の間違いに気づくであろう。しょせん真理の流れには抗し切れないのであるから、都合のよい打算にいくらしがみついても、最後は真理の激流がその打算といっしょに押し流してしまうであろう。

以上のようなタイプ以外にも、数え上げたらきりがないほど多種多様のタイプの人間がいる。たとえば憶病から信じまいとするタイプ。このタイプの人は、ある人が信念を堂々と告白しても何の危害もこうむらないことを知って勇気を得るという体験でもないかぎり、自発的に公言することはない。また信仰上のためらいから信じるに至らない人。このタイプの人は、しっかり勉強して、スピリチュアリズムが宗教の基本原理にのっとっていること、すべての信仰の存在価値を認めていること、そして、かつて抱いたことのない宗教的情念を生み出し、あるいは強化する要素があることを知るに至るのを待つほかはない。

その他にも、見栄や軽率な判断から信じようとしない人などがいる。

もう一つ見落とせないタイプに、“失望が原因で信じなくなった人”とでも呼ぶべき人たちがいる。たとえば、しっかりとした理解もなしに大ゲサに信じて交霊会に出席し、結果が期待どおりでなかったことから一気に不信に陥り、ついにはスピリチュアリズムの全てを捨ててしまったという人たちである。ニセの交霊会で見事に騙されて、それでスピリチュアリズム全体を茶番と決めつけてしまう人たちとよく似ている。要するにきちんとした勉強をしていないからそういうことになるのである。

スピリチュアリズムを新しいタイプの占いのように考えている人も少なくない。霊が自分の将来を語ってくれると思って出席するのであるが、その程度の人間が簡単に出席を許されるような交霊会は、ふざけた低級霊に支配されるに決まっているから、出席者を煙(けむ)にまき、あげくには失望の淵に蹴落として、ほくそえむことを許してしまうことになる。

数として最も多いのが“どっちつかずの中間派”で、我々としては反対派の中に入れていない。どちらかというと大半の者が霊的なものに関心があるのであるが、自分ではそれがいかなるものであるかについて確たる認識がないまま、ただ何となく魅力を感じている。こういうタイプの人に必要なのは秩序だった説諭で、それが功を奏せば、夜明けの太陽のごとく、それまでのモヤモヤとした霧をスピリチュアリズムの教説が一気に晴らしてしまう。すべての迷いから救い出し、本人もそれを歓喜して迎えるであろう。

以上、唯物論者を筆頭に、目に見えないもの、ないしは霊的存在を認めない人にもさまざまなタイプがいることを見てきたが、今度は、霊的なものの存在を信じる側に目を転じてみよう。

まず注目すべきことは、スピリチュアリズムという用語を知らず、その教義の何たるかも知らないのに、物の考え方、生き方、あるいは人生観に、本質的にスピリチュアリズムの精髄(エキス)のようなものがにじみ出ている人がいることである。それが著作や言動にも表れていて、あたかも立派な師のもとで訓戒を受けているかの印象を受ける。そういう人が、聖職にある人の中にも平凡な世俗の人の中にもいる。詩人、説教者、モラリスト、哲学者、その他さまざまな分野に見られるし、古今を通じても同じである。

そうした例外的な人は別として、スピリチュアリズムを調査・研究して十分に納得して信じるに至った人にも、いくつかのタイプがある。

第一のタイプは言うなれば“実験派”のスピリチュアリスト。心霊実験会に出席してその真実性を信じるようになった人であるが、興味は現象面に限られていて、スピリチュアリズムとは不思議な現象を研究する学問である、という認識にとどまっている。

第二のタイプはそうした現象の裏に思想的にも倫理・道徳的にも高度なものがあることに気づいてはいるが、それを実生活とは切り離して捉え、人間性との関連も稀薄、ないしはゼロの人。強欲な人間は相変らず強欲であり、高慢な人間は相変らず高慢であり、嫉妬深い人間は相変らず嫉妬深いままで、そこに内省というものが伴わない。こういうタイプを“無節操派”と呼んでいる

第三のタイプはスピリチュアリズムの教義の道徳性の高さを称賛するだけにとどまらず、それを日常生活で実践している人たちで、これが本物のスピリチュアリストというべきであろう。地上生活が束の間の試練であることを納得し、一刻(とき)一刻を大切にして善行に励み、自己の悪い面を抑制し、死後の霊的生活に備える。

最後のタイプは“急進派”。どの世界にも急進派はいるもので、スピリチュアリズムにも、熱心ではあるが思慮分別に欠けるために、結果的には誤解されるもとになっている人がいる。こういうタイプの人は日常の人間生活においても信頼されていないから、こういう人がスピリチュアリズムを吹聴してくれると、スピリチュアリズムの拠って立つ大義が台なしになってしまう。

昔から「人を見て法を説け」という。否定論者はもとより、スピリチュアリストをもって任じている人たちにも、以上見てきたように、さまざまなタイプがあるので、いかに説くかは相手によって変わってくることになる。ある人にうまく功を奏したからといって別の人にもうまくいくとは限らない。物理現象で得心する人もいれば、思想性の高い霊界通信で得心する人もいる。が、大部分に共通して言えることは、理性的判断力が伴わないといけないということである。

理性的な考察力を持ち合わせていない者には、物理的現象を見せてもほとんど意味がない。現象が驚異的であるほど、あるいは日常的体験から懸け離れているほど疑念の目で見られやすい。その理由は簡単である。人間というのは合理的に解明されないものは疑ってかかる性向があるからである。そして、それを各自の視点で捉え、自己流に解釈する。

唯物論者はあくまでも物理的な原因、要するに何らかのトリックがあると決めつける。無知で迷信を信じやすい者は悪魔的な、あるいは超自然的な何ものかの仕業にしたがる。が、あらかじめ霊的原理の解説をしておくと偏見を解き、真実性までは行かなくても、少なくともそうした現象の可能性を得心させる効果はある。みずから解説を求めてから実験に立ち会う者は、すでに理解ができているから、現象を目のあたりにすることで、容易にその真実性の確信に到達する。

頑固に信じようとしない人間を説得する必要が果たしてあるかどうかを考えてみると、これは、すでに述べたように、その“不信”の原因がどこにあるのか、あるいはどういう魂胆があるかによって決まる。中には、しつこく説得されることで却ってつけ上がって、ますます意地を張る人間がいる。

論証をもってしても、あるいは実証をもってしても得心しない人間は、まだ当分の間、不信という名の牢の中で暮らすしかないのであろう。いつの日か事情の変化で目覚めるよう神が計らってくださるのを祈るしかない。真理の光に目覚める準備の整った人間が大勢いるというのに、ただ心の扉を閉じることしか知らない人間に構っている暇はないのである。

霊的真理を正しく理解した人は自然に善行に励むようになるものである。苦しみの中にいる人に慰めを与え、絶望の淵に沈んでいる人に希望を与え、道徳の向上に役立つ仕事に進んで協力する。そこにその人たちの使命があると同時に、生きる喜びを見出すのである。するとそこに自然発生的に真の幸せのムードが漂うようになる。そのムードに影響されて頑迷な否定論者は自分の孤立した生き方に気づく。そこから内省が始まって、真理の光へ向かって進む者と、なおも意地を張って黙りこくる者とが出てくる。

他の分野の科学と同じ要領でスピリチュアリズムを考究しようとすれば、心霊現象のすべてを単純なものから複雑なものへと実験的に検証していく必要があるが、実際問題としてそれは不可能である。というのは、心霊現象の実験は物理学や化学のような要領で追試をするわけにはいかないのである。

では、なぜ追試ができないかということになるが、それは、自然科学の場合は知性も感情もない物質そのものを扱うから、同じ条件のもとで行えば同じ結果が出るが、心霊現象を発生させているのは霊という知的存在であり、自由意志をそなえ、人間の側から命令的に要求を出しても、必ずしもそれに応じてくれないのである。これは、これまでの経験で我々が繰り返し思い知らされてきていることである。

結局人間の側としては、いかなる現象が生じるかの見通しのないまま受身の姿勢で待ち、発生した現象を注意深く観察するしかない。お望みの現象をお見せしますという宣伝文句で客を集める霊媒は、無知であるか、さもなくばペテン師である。人間側の意志ではどうにもならない現象なのだから、要望通りのものは起きないかも知れないし、たとえ同種の現象は起きても、要望したものとは全く異なる条件下で発生するかも知れないのである。

これに加えてもう一つ問題がある。それは霊媒にも得手不得手があって、全ての現象を生ぜしめる霊媒はまずいないということである。となると、全ての心霊現象を研究するためには全てのタイプの霊媒を確保しなければならないことになり、それは現実的に不可能である。

さて、こうした問題を解決するのは至って簡単である。思想面から入ることである。あらゆる現象の観察結果の説明を読み、その要旨をつかみ、可能性の全てを理解し、それらが発生するための条件と、遭遇する可能性のある困難を知ることである。その上で実験に臨めば、いかなる現象が発生しても理解がいくし、不意をつかれることもない。反対に、期待がはずれて失望することもないし、困難や危険の予備知識もあるので、痛い目にあうこともない。

スピリチュアリズムに思想面から入ることには別の利点がある。その思想のスケールの大きさと本来の目的を認識することになることである。たとえばテーブル通信(テーブルが浮揚して、その脚の一本が床を叩いてメッセージを伝える現象)だけを見た者は、かりに興味を抱いても面白半分の気持ちからであって、まさか宇宙・人生の千古の謎を解き明かす深遠な思想を生むに至るとは想像も及ばないであろう。証拠を見ずして信じるに至る人は決して軽薄ではないどころか、論説をよく読み理解しているがゆえに、最も知的であり、最も思慮深いと言えよう。

この種のタイプの人は形体よりも実質に重きを置く。現象は付属的なものでしかなく、かりに現象が発生しなくなっても、思想そのものは人類にとって未解決の難問を解く唯一のカギであり、これまでに提示されてきたいかなる説、否、将来提示されるであろういかなる説よりも合理的なものとして存在し続けることを認識している。その理論を確認する物証としての現象の価値は認めるが、現象が基本だとは考えていないのである。

では理論から入った者は現象による確認はしないのかというと、決してそうではない。それどころか、その理論を裏づける事実を豊富な自然発生的心霊現象で確認している。この言わば“突発的心霊現象”については後章で取り扱う予定であるが、これは意外に多くの人が体験していて、ただ、あまり関心を向けなかっただけのことである。

実はこの突発的現象というのは、物的証拠が残っていないという弱点はあるが、信頼のおける証言があれば大いに価値がある。かりに実験会における心霊現象というものが存在しなくても、突発的現象の中にそれに代わりうるほどの証拠性のあるものが豊富にあるのである。


訳注――ここではカルデックは物的証拠ないしは客観的物証の観点から述べているが、霊の実在、つまり死後存続の確信というものは、あくまでも主観的なものであって、物証がなく他人に信じてもらえなくても、自分の内的直観力で「間違いない」と確信できる体験は、意外に多くの人が体験しているものである。

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch

ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳




十一章  霊と意識の起原

───霊の力とはどんなものでしょうか。

 「人間によって認識されている如何なるものさしにもかからないものです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さも色も容積も味も臭いもありません。ですから、常識的な地上の計量法でいけば霊力というものは存在しないことになります。

つまり実在とは人間のお粗末な五つの感覚で捉えられるものと決めてかかっている唯物的自然科学者にとっては、霊力は存在しないことになります。しかし愛は目に見えず耳にも聞こえず、色もなく味もなく寸法もないのに、立派に実感があります。

それは深い愛の感動を体験した者が証言してくれます。確かに愛の力は強烈です。しかし霊の力はそれよりも無限大に強烈です。

 あなたが生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いめぐらすのも霊の力があればこそです。

物を見、音を聞き、動き回り、考え、言葉をしゃべるのも霊の力があればこそです。あなた方の行動の全て、あなた方の存在の全ては霊の力のおかげです。物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって存在と目的と指針と生活を与えられているのです。物質界のどこを探しても意識の秘密は見つかりません。

科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質その物の中には存在しないからです。物質はそれが一時的に借りている宿に過ぎません。

 霊の力はあなた方が神と呼んでいるものそのものなのです。最も〝神〟というものを正しく理解していただけないかも知れませんし、誤解してその意を限定してしまっておられるかも知れません。ともかくその霊力が曽て火の固まりであったものに今日見るがごとき生命を吹き込んだのです。その霊が土塊から身体をこしらえて、それに生命を吹き込んだのです。魂がまとう衣服です。

地上のあらゆる生命を創造し、自然界のあらゆる動き、あらゆる変化を支配し、四季を調節し、一粒の種子、一本の植物、一輪の花、一本の樹木の生長まで関与している力、要するに千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが霊の力です。

 それが強大であるゆえんは、物質界に限られていないことにあります。すなわち無数の物的現象を通じて絶え間なく働いているだけでなく、見えざる世界の霊的活動のすべて、今のあなた方には到底その存在を知ることのできない幾重にもつながった高い界層、そしてそこで展開するこれ又あなた方の想像を絶した光輝あふれる生命現象までも、その霊力が支配しているのです。

しかし、いかに強大であっても、あるいは又いかにその活動が驚異的であるといっても、それにも制約があります。すなわち、それが顕現するにはそれに適した器、道具、媒体、通路、霊媒───どうお呼びになっても構いません───そうしたものが無ければならないということです。

壮大な霊の流れも、そうしたものによる制約を受けるのです。地上にどの程度のものが流れ込むかは人間側が決定づけるということです。

 私がいつも、心配の念を追い払いなさい、自信を持ちなさい、堅忍不抜の精神で生きなさい、神は絶対にお見捨てにならないから、と申し上げてきたのは、そうした雰囲気、そうした条件のもとでこそ霊力が働きやすいからです。

地上的な力はいつかは衰え、朽ちます。人間が築く王国は儚いものです。今日は高い地位にいても明日は転落するかも知れません。しかし霊の王国はけっして滅びることはありません。霊の尊厳は不変です。神の力はけっして衰えません。しかしその働きの程度を決定づけるのはあなた方であり、現に決定づけております。

 スピリチュアリズムを少しばかりかじった人は、よく、なぜ霊界の方からこうしてくれないのか、ああしてくれないのかと文句を言うようですが、実際にはそう言う人ほど、霊界からそうしてあげるための条件を整えてくれないものです。

この苦境に満ちた世界、暗闇と不安におおわれた世界にあって、どうか皆さんは灯台の光となっていただきたい。

あなた方の自信に満ちた生きざまを見て人々が近づき、苦悩のさなかにおける憩いの場、聖域、波静かな港を発見することができるようにしてあげていただきたい。皆さんはそういう人たちの心の嵐を鎮め、魂に静寂を取り戻してあげる霊力をお持ちになっています」


───霊は何時肉体に宿るのでしょうか。
 
 「霊としてのあなたは無始無終の存在です。なぜなら霊は生命を構成するものそのものであり、生命は霊を構成するものそのものだからです。あなたという存在は常にありました。生命力そのものである宇宙の大霊の一部である以上、あなたには始まりというものはありません。

が、個体として、他と区別された意識ある存在としては、その無始無終の生命の流れの中のどこかで始まりをもつことになります。受胎作用は精子と卵子が結合して、生命力の一分子が自我を表現するための媒体を提供することです。生命力はその媒体が与えられるまでは顕現されません。

それを地上の両親が提供してくれるわけです。精子と卵子が合体して新たな結合体を作ると、小さな霊の分子が自然の法則に従ってその結合体と融合し、かくして物質の世界での顕現を開始します。私の考えでは、その時点が意識の始まりです。

その瞬間から意識をもつ個体としての生活が始まるのです。それ以降は永遠に個性を具えた存在を維持します」


───何の罪もないのに無邪気な赤ん坊が遺伝性疾患や性病その他の病を背負ってこの世に生れてきます。これは公平とは思えません。子供には何の罪もないのですから。この問題をどうお考えでしょうか。

 「不公平を口にされるのは問題を肉体の問題としてだけ、つまり物質界のみの問題としてお考えになり、無限の生命の観点からお考えにならないからです。霊そのものは性病なんかには罹りません。霊は不具になったり奇形になったりしません。両親の遺伝的特質や後天的性格を受け継ぐことはありません。

それは霊が自我を表現する媒体であるところの肉体に影響を及ぼすことはあっても、霊そのものを変えることはありません。確かに地上的観点から、つまり物質的観点からのみ人生を見れば、病弱なからだを持って生れた人は健全なからだを持って生れた人よりも物的には不幸の要素が多いと言えますが、その意見は霊には当てはまりません。

からだが病的だから霊も気の毒で、からだが健全だから霊も豊かであるという方程式は成り立ちません。実際にはむしろ宿命的な進化のための備えとして多くの痛みや苦しみを味わうことによって霊が豊かになるということの方が正しいのです」


───では、この世をより良くしようとする衝動はどこから出て来るのでしょうか。

 「帰するところ神がその無限の創造事業への参加者としての人間に与えた自由意志から出ています」

───物的な苦痛によって霊が進歩するのであれば、なぜその苦痛を無くする必要があるのでしょうか。

 「私はそのような説き方はしておりません。私がその事実を引き合いに出したのは、人生には寸分の狂いもなしに埋め合わせの原理が働いていることを指摘するためです。

ここに二人の人間がいて、一人は五体満足でもう一人はどこかに障害があるとした場合、後者は死後も永遠にその障害を抱えていくわけではないと言っているのです。

要するに肉体の健康状態がそのまま霊の状態を表わすのではないことをお教えしようとしているまでです。霊には霊としての辿るべき進化の道程があります。その霊がいかなる身体に宿っても、必ず埋め合わせと償いの法則が付いてまわります」


───でも、やはり身体は何の障害も無い状態で生まれるのが望ましいのではないでしょうか。

 「もちろんです。(同じ意味で)地上にスラム街が無い方が良いに決まっています。しかし、そのスラム街をこしらえるのも地上天国をこしらえるのも、結局は同じ自由意志の問題に帰着します。人間に自由意志がある以上、それを正しく使うこともあれば誤って使うことがあるのは当然です」


───でも、不幸が霊のためになると知ったら、地上をより良くしようとする意欲を殺がれる人もいるのではないでしょうか。
 
 「地上の出来ごとで埋め合わせのないものは何一つありません。もしも神の働きが妨害されて、当然報われるべき行為が報われずに終わることがあるとすれば、これは神の公正を嘲笑う深刻な事態となります。

私が指摘しているのは、埋め合わせの原理が厳として存在すること、そして進化の法則に逆らった行為を犯しながら神の摂理とは別の結果が出るようにいくら望んでみたところで、神の計画は少しもごまかされないということです。

 しかし同時に次の事実も知っておく必要があります。すなわち、たとえ現代の地上の不幸の原因がすっかり取り除かれたとしても、人間はまたみずからの自由意志によって、みずからの複雑な文明の中から更に新たな不幸を生じさせる原因を生み出していくということです。

所詮、人生は完全へ向けての無限の階段の連続です。一段一段、自らの力で向上して行かねばなりません。しかも、いつかは最後の一段に辿り着くと思ってはいけません」(訳者注ー質問と答えに少しズレが見られるが、このあともう一度同じ内容の質問が出る)


───肉体の病気は霊的な進化を促進するかも知れませんが、同時にその逆もあり得る、つまり性格を損ねることもあるでしょう。

 「損ねることもあるし損ねないこともあります。どちらのケースもあります。病気になるのは摂理に反した行為をするからです」


───ではあなたは病気または病気に相当するものは絶対不可欠のものとおっしゃるわけですね。

 「いえ、私は病気に相当するものとは言っておりません。何らかの〝苦〟に相当するものです。人間に自由意志がある以上、選択の仕方によって楽しい体験となったり苦しい体験となったりするのは当然でしょう」


───それは分かります。苦しみを味わわなければ幸福も味わえないからです。が、どうも私には、もしもあなたがおっしゃるように、こういうことがあれば必ずこういう埋め合わせがあるというのが事実であれば、世の中を良くしようとして苦労する必要は無さそうに思えるのですが・・・・・・。


 「人間に選択の自由があるのに、ほかにどうあって欲しいとおっしゃるのでしょうか」

───私はこの度の戦争のことはさて措いて、今日の世界は三百年前よりはずっと幸せな世の中になっていると思うのです。世界中のほとんどの国が、戦争はあっても、やはり幸せな世の中となっております。

 「おっしゃる通りですが、それが私の言うこととどう矛盾するのでしょう」

───われわれ人間は(取り立てて人のためと説かれなくても)常に世の中を良くしてきているということです。

 「でもそれは、世の中を良くしたいという願望に燃えた人がいたからこそですよ。魂に宿された神性が自然な発露を求めた人たちです。神の一部だからこそです。かりに今日要求したことが明日、法の改正によって叶えられても、明日はまた不満が出ます。進化を求めてじっとしていられない魂が不満を覚えるのです。
 
それは自然の成り行きです。魂が無意識のうちにより完全へ近づこうとするからです。今日の地上の不幸はその大半がその自由意志による選択を間違えたことに起因しています。

それには必ず照合がなされ、更に再照合がなされます。そうすることで進歩したり退歩したりします。そうした進歩と退歩の繰り返しの中にも少しずつ向上進化が為されております。先んずる者があれば後れを取る者もあります。先を行っている者が後れている者の手を取って引き上げてやり、後れている者が先を行き過ぎている者に取って適当な抑制措置となったりしています。

そうやって絶え間なく完成へ向けての努力が為されているわけです。が、その間の人生のあらゆる悲劇や不幸には必ず埋め合わせの原理が働いていることを忘れてはなりません」


───改めるべきことが山ほどありますね。

 「あなた方は自由主義を誇りにしておられますが、現実には少しも自由とはいえない人々が無数におります。有色人種をごらんなさい。世界中のどの国よりも寛容心を大切にしているあなた方の国においてすら、劣等民族としての扱いを受けております。

私がいつも、これで良いと思ってはいけない、と申し上げる理由はそこにあります。世の中は幾らでも明るく、幾らでも清らかに、そして幾らでも幸せになるものなのです」


───葛藤や苦悩が霊的進化にとって不可欠なら、それは霊界においても必要なのではないでしょうか。なのに、あなたはそちらには悪と邪の要素がないようにおっしゃっています。


 「ご質問者は私の申し上げたことを正しく理解していらっしゃらないようです。私は邪と悪には二種類ある───この〝悪〟という言葉は嫌いなのですが───すなわち既得権に安住している利己主義者によって生み出されているものと、人類の未熟さから生まれるものとがあると申し上げたつもりです。

私たちの世界には邪悪なものは存在しません。もちろん死後の世界でもずっと低い界層へ行けば、霊性があまりに貧弱で環境の美を増すようなものを何も持ち合わせない者の住む世界があります。が、そうした侘しい世界を例外として、こちらの世界には邪悪なものは存在しません。

邪悪なものを生み出す原因となるものが取り除かれているからです。そして、各自が霊的発達と成長と進化にとって、適切かつ必要なことに心ゆくまで従事しております。

 葛藤や苦悩はいつになっても絶えることはありません。もっともその意味が問題ですが・・・地上では人間を支配しようとする二つの力の間で絶え間ない葛藤があります。

一つは動物的先祖とでもいうべきもの、つまり身体的進化に属する獣的性質と、神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を付与してくれた神の息吹です。

その両者のどちらが優位を占め維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で自由意志によって選択することです。私達の世界へ来てからも葛藤はあります。

それは低い霊性の欠点を克服し、高い霊性を発揮しようとする絶え間ない努力という意味です。完全へ向けての努力、光明へ向けての努力というわけです。その奮闘の中で不純なものが捨て去られ、強化と精錬と試練をへてようやく霊の純金が姿を現わします。

私たちの世界にも悩みはあります。しかしそれは魂が自分の進歩に不満を覚えたことの表れであって、ほんの一時のことに過ぎません。完成へ向けての長い行進の中での短い調整期間のようなものです」


───でも、葛藤と進歩、それに努力の必要性は常にあるわけでしょう。

 「おっしゃる通りです。だからこそ私は先ほど言葉の解釈の仕方が問題だと申し上げたのです。自然界の常として、より高いものがより低いものを無くそうとします。それは当然のことで、そうでなかったら進化というものが真実でなくなります。

人間は低い段階から高い段階へ向けて成長しようとする進化性を持った存在です。進化するためには光明へ向けての絶え間ない葛藤がなければなりません。その場合の葛藤は成長の為の必須の過程の一つであるわけです。

先ほど私が言いたかったのは、地上には不必要な葛藤、無益な努力が多すぎるということです。それは自由意志の使用を過って、薄汚い知恵、病気、スラム街といった、あってはならない環境を生み、それが霊界からの働きかけをますます困難にしているのです」