Thursday, October 15, 2026

霊訓〈完訳・下〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。




27節

本節の内容
*民族と宗教の揺藍地インド
*轢死者の霊が著者に憑依
*霊的引力と斥力



〔ある本でインドが民族と宗教の揺籃の地であるとの説を読んだことがあり、われわれの交霊会でもその問題に触れた霊言を聞いたことがあった。その点を質すと(1)――〕


その通りである。今の貴殿の信仰の底流となっている宗教的概念の多くはインドにその源流を発している。インドに発し、太古の多くの民族によって受け継がれてきた。その原初において各民族が受けた啓示は単純素朴なものであったが、それにインドに由来する神話が付加されていったのである。救世主出現の伝説は太古よりある。いずれの民族も自分たちだけの救世主を想像した。キリスト教の救世主説も元を辿ればインドの初期の宗教の歴史の中にその原型を見出すことが出来る。インドの伝承文学の研究がこれまで貴殿が勉強してきた言語学的側面と大いに関わりがあるように、その遠く幽(かす)かな過去のインドの歴史の宗教的側面の研究は今の貴殿にとって必要欠くべからざるものである。関心を向けよ。援助する霊を用意してある。

インド、ペルシャ、エジプト、ギリシャ、ローマ、ユダヤ――これらの民族とその知的発達に応じた神の概念の啓示の流れについて今こそ学ぶべきである。ジャイミニー(2)とヴェーダ・ヴャーサ(3)がソクラテスとプラトンの先輩であったことを知らねばならない。そのことに関してはその時代に地上生活を送り、その事実に詳しい者がいずれ教えることになろう。が、その前に地上に残る資料を自らの手で蒐集する努力をせねばならない。指導はそれが終了した後のことである。

さらに、その資料の中に人間がいつの時代にも自分を救ってくれる者の存在の必要性を痛感して来たこと、そしてまた、そうした救世主にまつわる伝説が太古より繰り返されて来ている事実を見出さねばならない。数多くの伝説を生んだ神話の一つが、純潔の処女デーヴァキー(4)の奇跡の子クリシュナ(5)の物語であることも判るのであろうし、そうした事実がこれまでキリスト教の中で闇に包まれていた部分に光を当てることにもなろう。もっともわれらはこの事実を重大なるものとして早くから指摘して来た。貴殿の異常な精神状態がその分野に関する全くの無知と相俟って、われらをして手控えさせたのである。

このほかにもまだまだ取り除かねばならぬ夾雑物は多い。これを取り除かぬかぎり安心して正しい思想体系の構築は望めぬ。大まかな荒筋においてさえ貴殿にはまだ奇異に思えることが多い。まずそれに馴染んだ後でなければ細部へ入ることは出来ぬ。たとえば古代の四大王国、すなわちエジプト、ペルシャ、ギリシャ、ローマの哲学と宗教はその大半がインドから摂り入れたものである。インドの大革命家であり説教者であったManou(6)がエジプトではManesとなり、ギリシャではMinosとなり、ヘブライ伝説ではMosesとなった。いずれも固有名詞ではなく“人間”Manを意味する普通名詞であった。偉大なる真理の開拓者はその顕著な徳ゆえに民衆からThe Manと呼ばれた(7)。民衆にとっては人間的威力と威厳と知識の最高の具現者だったわけである。

インドのManou(マヌ)はキリストの誕生より三千年も前の博学な学識者であり、卓越せる哲学者であった。いや実は、そのマヌでさえそれよりさらに何千年も昔の、神と創造と人間の運命について説かれたバラモンの教説の改革者に過ぎなかった。

ペルシャのゾロアスター(8)の説ける真理も全てマヌから学んだものであった。神に関する崇高なる概念は元を辿ればマヌに帰する。法律、神学、哲学、科学等の分野において古代民族が受けたインドの影響は、貴殿らが使用する用語がすべてマヌ自身が使用した用語と語源が同一である事実と同様に間違いない事実であるとの得心がいくであろう。近代に至ってからの混ぜ物がその本来の姿を歪めてしまったために、貴殿には類似点を見出し得ぬかも知れないが、博学なる言語学者ならばその同一性を認めることであろう。一見したところ世界の宗教はバラモンの伝承的学識の中に類似性を見出せぬかに思われるが、実はマヌが体系づけ、マーニーManesがエジプトに摂り入れ、モーセMosesがヘブライの民に説いた原初的教説から頻繁に摂取しているのである。

哲学及び神学のあらゆる体系の中にヒンズー(インド)的思想が行き渡っている。たとえば、古代インドの寺院において絶対神への彼らなりの純粋な崇拝に生涯を捧げたデーヴァダーシー(9)と呼ばれる処女たちの観念は、古代エジプトではオシリス(10)の神殿に捧げられる処女の形を取り、古代ギリシャではデルポイ(11)の神殿における巫子(みこ)となり、古代ローマではケレース(12)神の女司祭となり、後にあのウェスターリス(13)となって引き継がれていった。

が、これはわれらが貴殿に教えたいことの一例に過ぎない。ともかく注意をその方向へ向けて貰いたい。われらは極めて大まかな概略を述べたに過ぎない。細かき点はこれより後に埋め合わせるとしよう。貴殿にはまだ概略以上のことは無理である。


――確かに私は知らないことばかりです。それにしてもあなたは人間がまるで霊の道具に過ぎないような言い方をされます。出来のいい道具、お粗末な道具、分かりのいい道具、分かりの悪い道具。


これまでもしばしば述べて来た如く、知識はすべて霊界よりもたらされる。実質はわれらの側にあり、人間はその影に過ぎない。地上にても教えやすい者ほど学ぶことが多いのと同じく、われらの交わりにおいても素直な者ほど多くを学ぶことになる。貴殿に学ぶ心さえあれば幾らでも教える用意がある。


――人間には取り柄(え)はないということですか。


従順さと謙虚さの取り柄がある。従順にして謙虚な者ほど成長する。


――もし霊側が間違ったことを教えた場合はどうなります。


すべての真理に大なり小なりの誤りは免れない。が、その滓(かす)はいずれ取り除かれるものである。


――霊によって言うことが悉く違う場合があります。どちらが正しいのでしょう。真実とは一体何なのでしょう。


言うことが違っているわけではない。各霊が自分なりの説き方をしているまでである。故に細部においては異なるところはあっても、全体としては同じことを言っている。貴殿もそのうち悪と呼んでいるものが、実は善の裏側に過ぎぬことが判るようになるであろう。地上においては混じり気のない善というものは絶対に有り得ない。それは空しき夢想というものである。人間にとっては真理はあくまで相対的なものであり、死後にも長期間に亙って相対的であることは免れない。歩めるようになるまではハイハイで我慢しなければならない。走れるようになるまでは歩くだけで我慢しなければならない。高く跳べるようになるまでは走るだけで我慢しなければならならない。

(プルーデンス)


〔私が「霊の身元」と題する記事(14)で紹介した、例の他界したばかりの霊による不思議な影響力を受けたのはこの頃であった。ある人がベーカー通りに近い通路の舗装工事中にローラー車の下敷きとなって悲惨な死を遂げ、私がたまたまその日に現場を通りかかったのである。その時私はその事故のことは知らなかった。そしてその夜、グレゴリー夫人(15)の家でデュポテ男爵(16)による交霊会に出席したところ、その霊が出現した。二月二十三日にその件について尋ねると、その霊の述べた通りであることが確認された(17)。〕


その霊がそなたに取り憑くことが出来たこと自体が驚きである。そなたがその男の死の現場の近くを通りかかったからである。余りそのことは気にせぬほうがよい。心を乱される恐れがある。


――(最近他界した)私の友人がまだ眠りから覚めないのに、何故その男はすぐに目を覚ましたのでしょう。


非業の死を遂げた後の休眠を取っておらぬからである。本当は休眠した方がよいのである。休眠しないと、そのままいつまでも地縛の霊となる。そうした霊にとっては休息することが進歩への第一歩となる。未熟なる霊はなるべく休眠を取り、地上生活を送った汚れた場所をうろつかぬことが望ましい。


――あのような思っただけでもぞっとするような死に方をしても霊は傷つかないのでしょうか。


肉体が酷い傷を受けても、霊まで傷つくことはない。但し激しいショックは受ける。それが為に休息できず、うろつき回ることになるのである。


――あの霊は死の現場をうろつき回ったのですか。それがどんな具合で私に取り憑いたのでしょうか。


あのような死に方をした霊はよく現場をいつまでもうろつき回るものである。そこをそなたが通りかかった。そなたは極度に過敏な状態にあるから、磁石が鉄を引きつける如くに霊的影響を何でも引き寄せてしまう。この種の霊的引力はそなたにはまだ理解できぬであろう。が、それでは困る。地上では低き次元での霊的引力の作用が現実にあるからである。毎日の交わりの中で引力と斥力とが強力に作用している。大半の者は気づいておらぬが、すべての人間、とくに霊感のある者は、その作用を受けている。肉体がなくなれば一層その作用が強烈となる。五感を通して伝達されていたものが、親和力とそれと相関関係にある排斥力の直覚的作用に代わるのである。

が、この件に関しては余り気にせぬがよい。余り気にすると、再び親和力の法則が働いて、未発達霊の害毒を引き寄せることになる。彼には思慮分別の力はない。そのことは、あの気の毒な霊もそなたに取り憑いたことで何の益にもならなかったことで知れる。

(†インペレーター)



〔注〕

(1)プルーデンスが回答。三世紀のエジプト生まれの哲学者プロティノス。ギリシャ、ローマで学ぶ。
(2)Djeminy.(正確にはJaimini)
(3)Veda Vyasa.(ジャイミニーの師)
(4)Devaki.
(5)ChrishnaまたはKrishna.
(6)原文のままであるが、インド哲学の専門家によればManuが正しくManouという綴りは有り得ないという。訳者の推測ではManuを英語読みにするとマニューとなるので、モーゼスの英語感覚の影響を受けて原文のようになったのであろう。
(7)現在でもその年で最も活躍の目覚ましかった者を、The Man of the Yearなどと呼ぶ。
(8)Zoroaster 紀元前600年頃の宗教家。ゾロアスター教の開祖。
(9)Devadassi.(10)Osiris.(11)Delphi.(12)Ceres.
(13)Vestal virgin女神ウェスタVestaに身を捧げた処女。
(14)心霊誌Lightに連載。
(15)Mrs. Mackdougall Gregory.(16)the Baron Dupotet.
(17)再びインペレーターが回答。

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again

Edited by S. Phillips
近藤千雄訳




         
二章 心霊治療───その本当の意義

 「これまでに成し遂げてこられたことは確かに立派ですが、まだまだ頂上は極められておりません」

 世界的に知られる心霊治療家のハリー・エドワーズ氏が助手のジョージ・バートン夫妻と共に交霊会を訪れたときにシルバーバーチがそう語りかけた。(訳者注───今はもう三人ともこの世にいないが、〝ハリー・エドワーズ心霊治療所〟Harry Edwards Healing Sanctuary はその名称のままレイ・ブランチ夫妻が引き継ぎ今も治療活動を続けている)

 シルバーバーチは続けてこう語る───

 「あなた方のこれまでの努力がまさに花開かんとしております。これまでのことは全てが準備でした。バプテスマのヨハネがナザレのイエスのために道を開いたように、これまでのあなた方の過去は、これからの先の仕事のため、つまりより大きな霊力が降りてあなた方とともに活動していくための準備期間でした。

 ほぼ完璧の段階に近づいているあなた方三人の信頼心と犠牲的精神とそれを喜びとする心情は、それみずからが結果をもたらします。霊の力と地上の力との協調関係がますます緊密となり、それがしばしば〝有り得ぬこと〟と思えることを成就しております。条件が整った時に起きるその奇跡的治療のスピードに注目していただきたいと思います」

エドワーズ「何度も目のあたりにしております」

 「大いなる進歩がなされつつあること、多くの魂に感動を与え、それがさらに誘因となって他の大勢の人々にもその次元での成功(単なる病気治療にとどまらず魂の琴線に触れさせること)をおさめる努力が為されつつあります。常にその一つに目標をおいて下さい。すなわち魂を生命の実相に目覚めさせることです。

それがすべての霊的活動の目標、大切な目標です。ほかは一切かまいません。病気治療も、霊的交信を通じての慰めも、さまざまな霊的現象も、究極的には人間が例外なく神の分霊であること、すなわち霊的存在であるというメッセージに目を向けさせて初めて意義があり、神から授かった霊的遺産を我がものとし宿命を成就するためには、ぜひその理解が必要です。

 それが困難な仕事であることは私もよく承知しております。が、偉大な仕事ほど困難が伴うものなのです。霊的な悟りを得ることは容易ではありません。とても孤独な道です。それは当然のことでしょう。

もしも人類の登るべき高所がいとも簡単にたどりつくことができるとしたら、それは登ってみるほどの価値はないことになります。安易さ、吞ん気さ、怠惰の中では魂は目を開きません。刻苦と奮闘と難儀の中にあってはじめて目を覚まします。これまで、魂の成長が安易に得られるように配慮されたことは一度たりともありません。
 
 あなた方が治療なさる様子を見ていとも簡単に行っているように思う人は、表面しか見ていない人です。今日の頂上に到達するまでには、その背景に永年の努力の積み重ねがあったことを知りません。治療を受ける者が満足しても、あなた方は満足してはなりません。

一つの山頂を極めたら、その先にまた別の山頂がそびえていることを自覚しなくてはいけません。いかがでしょう。私の話は参考になりますでしょうか。あなた方はすでによくご存じのことばかりでしょう」


エドワーズ 「分ってはいても改めて認識することは大切なことです」

 「こうした会合の場は、地上の人間でない私どもがあなた方地上の人間に永遠の原理、不滅の霊的真理、顕幽の区別なくすべての者が基盤とすべきものについての認識を新たにさせることに意義があります。物質界に閉じ込められ、物的身体にかかわる必要性や障害に押しまくられているあなた方は、ともすると表面上の物的なことに目を奪われて、その背後の霊的実在のことを見失いがちです。

 肉体こそ自分である、いま生きている地上世界こそ実在の世界であると思い込み、実は地上世界はカゲであり、肉体はより大きな霊的自我の道具にすぎないことを否定することは実に簡単なことです。

もしも刻々と移り行く日常生活の中にあって正しい視野を失わずに問題の一つ一つを霊的知識に照らしてみることを忘れなければ、どんなにか事がラクにおさまるだろうにと思えるのですが・・・・・・残念ながら現実はそうではありません。

 こうした霊界との協調関係の中での仕事にたずさわっておられる人でさえ、ややもすると基本的な義務を忘れ、手にした霊的知識が要求する規範に適った生き方をしていらっしゃらないことがあります。知識は大いなる指針となり頼りになるものですが、手にした知識をどう生かすかという点に大きな責任が要請されます。

 治療の仕事にたずさわっておられると、さまざまな問題──説明できないことや当惑させられること──に遭遇させられることでしょうが、それは当然のことです。私どもは地上と霊界の双方の人間的要素に直面させられどおしです。治療の法則は完全です。が、それが不完全な道具を通じて作用しなければなりません。

人間を通して働かねばならない法則がいかなる結果を生み出すかを、数学的正確さを持って予測することは不可能ということになります。

 たとえ最善の配慮をもってこしらえた計画さえも挫折させるほどの事情が生じることがあります。この人こそと思って選んで開始した何年にもわたる準備計画が、本人の自由意志によるわがままによって水の泡となってしまうことがあります。しかし全体として見れば霊力の地上への投入が大幅に増えていることを喜んでよいと思います。

現実にあなた方が患者の痛みを和らげ、あるいは治癒してあげることができているという事実、苦しむ人々を救うことができているという事実。お仕事が広がる一方で衰えることがないという事実。たとえワラを掴む気持ちからではあっても、あなた方のもとへ大ぜいの人々が救いを求めて来ているという事実、こうした事実は霊力がますます広がりつつあることの証拠です。

霊力によって魂がいったん目を覚ましたら、その人は二度と元の人間には戻らないという考えがありますが、私もそう考えている一人です。言葉には説明しがたい影響、本人も忘れようにも忘れられない影響を受けているものです」


エドワーズ 「その最後の段階で病気の治癒と真理の理解との兼ね合いがうまくいってほしいのですが、霊的高揚というのはなかなか望めないように思います」

 「見た目にはそうです。が、目に見えない影響力がつねに働いております。霊力というのは磁気性をもっており、いったん出来あがった磁気的繋がりは決して失われません。一個の人間があなたの手の操作を受けたということは───〝手〟というのは象徴的な意味で用いたまでです。

実際には身体に触れる必要はありませんから───その時点でその人との磁気的つながりが出来たということです。つまり霊の磁力がその人の〝地金〟を引きつけたということで、その関係は決して切れることはありません。

 その状態を霊の目すなわち霊視力で見ますと、小さな畑の暗い土の中で小さな灯りがともったようなものです。理解力の最初の小さな炎でしかありません。種子が芽を出して土中から頭をもたげたようなものです。暗闇の中から初めて出て来たのです。

 それがあなた方の為すべき仕事です。からだを治してあげるのは結構なことです。それに文句をつける人はいません。が、魂に真価を発揮させること、聖書流に言えば魂に己れを見出させることは、それよりはるかに大切です。魂を本当の悟りへの道に置いてあげることになるからです」

 ここでサークルのメンバーの一人が述べた───「心霊治療で治った人の中には魔術的なものが働いたと考える人がいます。つまり治療家を一種の魔術師と考え、神の道具とは考えません」

 「それは困ったことだと思います。なぜかと言えば、そういう受け取り方はせっかくのチャンスによるもっと大切な悟りの妨げになるからです。霊的な力が治療家を通して働いたのだということを教えてあげれば、病気が治ったということだけで全てが終らずに、それを契機にもっと深く考えるようになるのですが」

エドワーズ 「治療後も霊的な治癒力が働き続けている証拠として、時おり、その時は効果が見えなかった人から一年もたってから〝あれから良くなってきました〟という手紙を受け取ることがあります」

 「当然そうあってしかるべきです。霊的な成長だけは側(はた)からどうしようもない問題なのです。このことに関しては以前にも触れたことがありますが、治療の成功不成功は魂の進化という要素によって支配されております。それが決定的要素となります。いかなる魂も、治るだけの霊的資格が具わらないかぎり絶対に治らないということです。からだは魂の僕(しもべ)です。主人(あるじ)ではありません。」


エドワーズ 「未発達の魂は心霊治療によって治すことができないという意味でしょうか」

 「そういうことです。私が言わんとしているのは、まさにそのことです。ただ、〝未発達〟という用語は解釈の難しいことばです。私が摂理の存在を口にする時、私はたった一つの摂理のことを言っているのではありません。宇宙のあらゆる自然法則を包含した摂理のことを言います。

それが完璧な型(パターン)にはめられております。ただし法則の裏側にまた別の次元の法則があるというふうに、幾重にもなっております。しかるに宇宙は無限です。誰にもその果てを見ることはできません。それを支配する大霊(神)と同じく無窮なのです。すると神の法則も無限であり、永遠に進化が続くということになります。

 物質界の人間は肉体に宿った魂です。各自の魂は進化の一つの段階にあります。その魂には過去があります。それを切り捨てて考えてはいけません。それとの関連性を考慮しなくてはなりません。肉体は精神の表現器官であり、精神は霊の表現器官です。

肉体は霊が到達した発達段階を表現しております。もしもその霊にとって次の発達段階に備える上での浄化の過程としてその肉体的苦痛が不可欠の要素である場合には、あなた方治療家を通じていかなる治癒エネルギーが働きかけても治りません。いかなる治療家も治すことはできないと言うことです。

 苦痛も大自然の過程の一つなのです。摂理の一部に組み込まれているのです。痛み、悲しみ、苦しみ、こうしたものはすべて摂理の中に組み込まれているのです。話はまた私がいつも述べていることに戻ってきました。日向と日蔭、平穏と嵐、光と闇、愛と憎しみ、こうした相対関係は神の摂理なのです。一方なくしては他方も存在し得ません」

メンバーの一人「苦しみは摂理を破ったことへの代償なのですね」

 「〝摂理を破る〟という言い方は感心しません。〝摂理に背く〟と言ってください。確かに人間は時として摂理への背反(ハイハン)を通して摂理を学ぶほかはないことがあります。あなた方は完全な存在ではありません。完全性の種子を宿してはおりますが、それは人生がもたらすさまざまな〝境遇〟に身を置いてみることによってのみ成長します。痛みも嵐も困難も苦しみも病気もないようでは、魂は成長しません。

 摂理が働かないことは絶対にありません。もし働かないことがあるとしたら、神は神でなくなり、宇宙に調和もリズムも目的もなくなります。その自然の摂理の正確さと完璧さに全幅の信頼を置かねばなりません。なぜなら、人間には宿命的に知ることのできない段階があり、それは信仰心でもって補うほかないからです。

私は知識を論拠として生まれる信仰は決して非難しません。私が非難するのは何の根拠もないことでもすぐに信じてしまう浅はかな信仰心です。人間は知識のすべてを手にすることができない以上、どうしてもある程度の信仰心でもって補わざるを得ません。

といって、その結果として同情心も哀れみも優しさも敬遠して〝ああ、これも自然の摂理だ。しかたない〟等と言うようになっていただいては困ります。それは間違いです。あくまでも人間としての最善を尽くすべきです。そう努力する中に置いて本来の霊的責務を果たしていることになるからです。」

 いくつかの質問に答えたあと、さらに───

 「魂はみずから道を切り開いていくものです。その際、肉体機能の限界がその魂にとっての限界となり制約となります。しかし肉体を生かしているのは魂です。この二重の関係が常に続けられております。しかし優位に立っているのは魂です。魂は絶対です。魂はあなたという存在の奥に宿る神であり、神が所有しているものは全てあなたもミニチュアの形で所有している以上、それは当然しごくのことです」

エドワーズ 「それはとても基本的なことであるように思います。さきほど心霊治療によって治るか治らないかは患者自身の発達程度に掛かっているとおっしゃいましたが、そうなると治療家は肉体の治療よりも精神の治療の方に力を入れるべきであるということになるのでしょうか」

 「訪れる患者の魂に働きかけないとしたら、ほかに何に働きかけられると思いますか」

エドワーズ「まず魂が癒され、その結果肉体が癒されるということでしょうか」

 「そうです。私はそう言っているのです」

エドワーズ 「では私たち治療家は通常の精神面をかまう必要はないということでしょうか」

 「精神もあくまで魂の道具に過ぎません。したがって魂が正常になればおのずと精神状態も良くなるはずです。ただ、魂がその反応を示す段階まで発達していなければ、肉体への反応も起こりません。魂がさらに発達する必要があります。つまり魂の発達を促すためのいろんな過程を体験しなければならないわけです。それには苦痛を伴います。魂の進化は安楽の中からは得られないからです」


エドワーズ 「必要な段階まで魂が発達していない時は霊界の治療家も治す方法はないのでしょうか」

 「その点は地上も霊界も同じです」


メンバーの一人「クリスチャン・サイエンスの信仰と同じですか」

 「真理は真理です。その真理を何と名付けようと、私たち霊界の者には何の違いもありません。要は中味の問題です。かりにクリスチャン・サイエンスの信者が霊の働きかけを得て治り(クリスチャン・サイエンスではそれを否定する───訳者)、それをクリスチャン・サイエンスの信仰のおかげだと信じても、それはそれで良いのです」

エドワーズ 「私たち治療家も少しはお役に立っていることは間違いないと思うのですが、治療家を通じて患者の魂にまで影響を及ぼすというのはとても難しいことです」

 「あなた方は少しどころか大いに貴重な役割を果たしておられます。第一、あなた方地上の治療家がいなくては私たちも仕事になりません。霊界側から見ればあなた方は私たちが地上と接触するための通路であり、一種の霊媒であり、言ってみればコンデンサーのような存在です。霊波が流れる、その通路というわけです」

エドワーズ 「流れるというのは何に流れるのですか。肉体ですか、魂ですか」

 「私たちは肉体には関知しません。私の方からお聞きしますが、例えば腕が曲がらないのは腕の何が悪いのでしょう」

エドワーズ 「生理状態です」

 「では、それまで腕を動かしていた健康な活力はどうなったのでしょう」

エドワーズ 「無くなっています。病気に負けて病的状態になっています」

 「その活力が再びそこを流れはじめたらどうなりますか」

エドワーズ 「腕の動きも戻ると思います」

 「その活力を通わせる力はどこから得るのですか」

エドワーズ 「私たちの意志ではどうにもならないことです。それは霊界側の仕事ではないかと思います」

 「腕をむりやり動かすだけではだめでしょう?」

エドワーズ 「力ではどうにもなりません」

 「でしょう。そこでもしその腕を使いこなすべき立場にある魂が目を覚まして、忘れられていた機能が回復すれば、腕は自然に良くなるということです」

メンバーの一人「治療家の役目は患者が生まれつき具わっている機能にカツを入れるということになるのでしょうか」

 「そうとも言えますが、それだけではありません。というのは、患者は肉体をまとっている以上とうぜん波長が低くなっています。それで霊界からの高い波長の霊波を注ぐにはいったん治療家というコンデンサーにその霊波を送って、患者に合った程度まで波長を下げる必要があります。

そういう過程をへた霊波に対して患者の魂がうまく反応を示してくれれば、その治癒効果は電光石火と申しますか、いわゆる奇跡のようなことが起きるわけですが、患者の魂にそれを吸収するだけの受け入れ態勢ができていない時は何の効果も生じません。たとえば曲がってた脚を真っすぐにするのはあなた方ではありません。患者自身の魂の発達程度です」


列席者の一人「神を信じない人でも治ることがありますが・・・・・・」

 「あります。治癒の法則は神を信じる信じないにお構いなく働くからです」

───さきほど治癒は魂の進化の程度と関係があると言われましたが・・・・・・

 「神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がいます。霊格の高さは信仰心の多寡(たか)で測れるものではありません。行為によって測るべきです。いいですか、あなた方は治るべき条件の整った人を治しているだけです。ですが、喜んでください。あなた方を通じて知識と理解と光明へ導かれる人は大勢います。

みながみな治せなくても、そこには厳とした法則があってのことですから、気になさらないことです。と言って、それで満足して努力することを止めてしまわれては困ります。いつも言っているように、神の意志は愛の中だけでなく憎しみの中にも表現されています。晴天の日だけが神の日ではありません。

嵐の日にも神の法則が働いております。成功にも失敗にもそれなりの価値があります。失敗なくしては成功もありません」


 ───信仰心が厚く、治療家を信頼し、正しい知識を持った人でも意外に思えるほど治療に反応を示さない人がいますが、なぜでしょうか。やはり魂の問題でしょうか。


 「そうです。必ず同じ問題に帰着します。信仰心や信頼や愛の問題ではありません。魂の問題であり、その魂が進化の過程で到達した段階の問題です。その段階で受けるべきものを受け、受けるべきでないものは受けません」

エドワーズ 「治療による肉体上の変化は私たちにも分かるのですが、霊的な変化は目で確かめることができません」


 「霊視能力者を何人集めても、全員が同じ治療操作を見ることはないでしょう。それほど(患者一人一人に違った)複雑な操作が行われているのです。かりそめにも簡単にやっているかに思ってはなりません。物質と霊との相互関係は奥が深く、かつ複雑です。

肉体には肉体の法則があり、霊体には霊体の法則があります。両者ともそれぞれにとても複雑なのですから、その両者をうまく操る操作は、それはそれは複雑になります。無論全体に秩序と調和が行きわたっておりますが、法則の裏に法則があり、そのまた裏に法則があり、それらが複雑に絡み合っております」

バートン夫人 「肉体上の苦痛は魂に影響を及ぼさないとおっしゃったように記憶しますけど・・・」

 「そんなことを言った憶えはありません。肉体が受けた影響はかならず魂にも及びますし、反対に魂の状態はかならず肉体に表れます。両者を切り離して考えてはいけません。一体不離です。つまり肉体も自我の一部と考えてよいのです。肉体なしには自我の表現は出来ないのですから。本来は霊的存在です。肉体に生じたことは霊にも及びます」

バートン夫人 「では肉体上の苦痛が大きすぎて見るに見かねる時、もしも他に救う手がないとみたら、魂への悪影響を防ぐために故意に死に至らしめるということもなさるのでしょうか」

 「それは患者によります。実際は人間の気まぐれから自然法則の順序を踏まずに無理やりに肉体から分離させられていることが多いのですが、それさえなければ、霊は摂理に従って死ぬべき時が来て自然に離れるものです」

バートン夫人 「でも、明らかに霊界の医師が故意に死なせたと思われる例がありますけど・・・・・・」

 「あります。しかしそれはバランス(埋め合わせ)の法則にのっとって周到な配慮の上で行っていることです。それでもなお魂にショックを与えます。そう大きくはありませんが」

バートン夫人 「肉体を離れるのが早すぎたために生じるショックですか」

 「そうです。物事にはかならず償いと報いとがあります。不自然な死を遂げるとかならずその不自然さに対する報いがあり、同時にそれを償う必要性が生じます。それがどういうものになるかは個人によって異なります。

あなた方治療家の役目は患者の魂に、それだけの資格ができている場合に、苦痛を和らげてあげることです。その間に調整がなされ、言わば衝撃が緩和されて、魂がしかるべき状態に導かれます」


エドワーズ 「絶対に生き永らえる望みなしと判断したとき、少しでも早く死に至らしめるための手段を講じることは許されることでしょうか許されないことでしょうか」

 「私はあくまで〝人間は死すべき時が来て死ぬべきもの〟と考えています」



エドワーズ 「肉体の持久力を弱めれば死期を早めることになります。痛みと苦しみが見るに見かね、治る可能性もないとき、死期を早めてあげることは正しいでしょうか」

 「あなた方の辛い立場はよく分かります。また私としても好んで冷たい態度をとるわけではありませんが、法則はあくまでも法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備ができた時に来るべきです。それはちょうど柿が熟した時に落ちるのと同じです。熟さないうちにもぎ取ってはいけません。私はあくまでも自然法則の範囲内で講ずべき手段を指摘しております。

たとえば薬や毒物ですっかり身体をこわし、全身が病的状態になっていることがありますが、身体はもともとそんな状態になるようには意図されておりません。そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。

そういう観点から考えていけば、どうすれば良いかはおのずと決まってくると思います。何ごとも自然の摂理の範囲内で処置すべきです。本人も医者も、あるいは他の誰によってもその摂理に干渉すべきではありません。もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てばそれなりの結果が生じます。

ですが、それが本当に良いことか悪いことかは霊的法則にどの程度まで適っているかによって決まることです。つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです。魂にとって最善であれば肉体にとっても最善であるに違いありません」


 同じくエドワーズ氏とバートン夫妻が出席した別の日の交霊会で、シルバーバーチはこう強調した。

 「霊力の真の目的は(病気が縁となって)あなた方のもとを訪れる人の魂を目覚めさせることです。自分が本来霊的な存在であり、物的身体は自分ではないことに気づかないかぎり、その人は実在に対してまったく関心を向けないまま地上生活を送っていることになります。言わば影の中で幻を追いかけながら生きていることになります。

実在に直面するのは真の自我、すなわち霊的本性に目覚めた時です。地上生活の目的は、帰するところ自我を見出すことです。なぜなら、いったん自我を見出せば、それからというものは(分別のある人であれば)内部に宿る神性をすすんで開発しようとするからです。

残念ながら地上の人間の大半は真の自分というものを知らず、したがって不幸や悲劇に遭うまで自分の霊的本性に気づかないのが実情です。光明の存在に気づくのは人生の闇の中でしかないのです。

 あなた方がお会いになるのは大半が心身に異常のある方たちです。治療を通じてもしその人たちに自分が霊的存在であるとの自覚を植えつけることができたら、もしその人たちの霊的本性を目覚めさせることができたら、もし内部の神の火花を点火させることができたら、やがてそれが炎となってその明かりが生活全体に輝きをもたらします。

もとより、それは容易なことではありません。でも、たとえ外れた関節を元どおりにするだけのことであっても、あるいは何となく不調を訴えた人がすっきりしたというだけのことであっても、そうした治療を通じてその人に自分が肉体を具えた霊的存在であり霊を具えた肉体的存在ではないことを理解させることに成功すれば、あなた方はこの世で最大の仕事をしていることになるのです。

 私どもが肉体そのものよりもその奥の霊により大きな関心を向けていることを理解していただかねばなりません。

霊が正常であれば肉体は健康です。霊が異常であれば、つまり精神と肉体との関係が一直線で結ばれていなければ、肉体も正常ではありえません。この点をよく理解していただきたいのです。なぜなら、それはあなた方がご苦労なさっているお仕事において、あなた方自身にも測り知ることのできない側面だからです。

完治した人、痛みが和らいだ人、あるいは回復の手応えを感じた人があなた方へ向ける感謝の気持も礼も、魂そのものが目覚め、内部の巨大なエネルギー源が始動しはじめた事実にくらべれば、物の数ではありません。

 あなた方は容易ならざるお仕事にたずさわっておられます。犠牲と献身を要求される仕事です。困難のさなかにおいて為される仕事であり、その道は容易ではありません。

しかし先駆者のたどる道はつねに容易ではありません。奉仕的な仕事には障害はつきものです。かりそめにもラクな道、障害のない道を期待してはなりません。障害の一つ一つ、困難の一つ一つが、それを乗り越えることによって霊の純金を磨き上げるための試練であると心得て下さい」



エドワーズ 「魂の治療の点では私たち治療家の役割よりも霊界の治療家の役割の方が大きいのですか」

 「当然そうなりましょう」



エドワーズ 「そうすると私たちが果たす役目は小さいということでしょうか」

 「小さいとも言えますし大きいとも言えます。問題は波長の調整にあります。大きく分けて治療には二通りの方法があります。一つは治癒エネルギーの波長を下げて、それを潜在エネルギーの形で治療家自身に送ります。それを再度治癒エネルギーに還元してあなた方が使用します。

もう一つは、特殊な霊波を直接患者の意識の中枢に送り、魂に先天的に具わっている治癒力を刺激して、魂の不調和すなわち病気を払いのける方法です。こう述べてもお分かりにならないでしょう」



エドワーズ 「いえ、理屈はよく分ります。ただ現実に適応するとなると・・・・・・」

 「では説明を変えてみましょう。まず、そもそも生命とは何かという問題ですが、これは地上の人間にはまず理解できないと思います。なぜかというと、生命とは本質において物質とは異なるものであり、いわゆる理化学的研究の対象とはなり得ないものだからです。

で、私はよく生命とは宇宙の大霊のことであり、神とはすなわち大生命のことだと言うのですが、その意味は、人間が意識を持ち、呼吸し、歩き、考えるその力、また樹木が若葉をまとい、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後に潜む力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだというのです。同じ霊力の一部であり一つの表現なのです。

 あなた方が今そこに生きておられる事実そのものが、あなた方も霊であることを意味します。ですから同じく霊である患者の霊的進化の程度に応じたさまざまな段階で、その霊力を注入するというのが心霊治療の本質です。

ご承知のとおり病気には魂に起因するものと純粋に肉体的なものとがあります。肉体的なものは治療家が直接触れる必要がありますが、霊的な場合は今のべた生命力を活用します。が、この方法にも限界があります。

あなた(エドワーズ)の進化の程度、協力者のお二人(バートン夫妻)の進化の程度、それに治療を受ける患者自身の進化の程度が絡み合って自然にできあがる限界です。また、いわゆる因縁(カルマ)というものも考慮しなくてはなりません。因果律です。これは時と場所とにおかまいなく働きます」


エドワーズ 「魂の病にもいろいろあってそれなりの影響を肉体に及ぼしていると思いますが、そうなると病気の一つ一つについて質の異なる治癒エネルギーが要るのではないかと想像されますが・・・・・・」
  
 「まったくその通りです。人間は三位一体の存在です。一つは今述べた霊(スピリット)で、これが第一原理です。存在の基盤であり、種子であり、すべてがそこから出ます。次にその霊が精神(マインド)を通じて自我を表現します。これが意識的生活の中心となって肉体(ボデイ)を支配します。この三者が融合し、互いに影響し合い、どれ一つ欠けてもあなたの存在は無くなります」


エドワーズ 「一方通行ではないわけですね」

 「そうです。霊的ならびに精神的発達の程度に従って肉体におのずから限界が生じますが、それを意識的鍛錬によって信じられないほど自由に肉体機能を操ることが出来るものです。インドの行者などは西洋の文明人には想像も出来ないようなことをやってのけますが、精神が肉体を完全に支配し思いどおりに操るように鍛錬したまでのことです」


エドワーズ 「心霊治療が魂を目覚めさせるためのものであり、霊が第一原理であれば、霊界側からの方がよほどやり易いのではないでしょうか」

 「そうも言えますが、逆の場合の方が多いようです。と言うのは、死んでこちらへ来た人間でさえ霊的波長よりは物的波長の中で暮らしている(地縛の)霊が多いという事実からもお分かりの通り、肉体をまとった人間は、よほど発達した人でないかぎり、たいていは物的な波長にしか反応を示さず、私たちが送る波長にはまったく感応をしないものです。

そこであなた方地上の治療家の存在が必要となってくるわけです。霊的波長にも物的波長にも感応する連結器というわけです。治療家に限らず霊能者と言われている人が常に心の修養を怠ってはならない理由はそこにあります。霊的に向上すればそれだけ仕事の範囲が広がって、より多くの価値ある仕事ができます。

そのように法則ができあがっているのです。ですが、そういう献身的な奉仕の道を歩む人は必然的に孤独な旅を強いられます。ただ一人、前人未踏の地を歩みながら、後の者のための道しるべを立てていくことになります。あなたにはこの意味がお分かりでしょう。すぐれた特別の才能にはそれ相当の義務が生じます。両手に花とはまいりません」


エドワーズ 「さきほど治癒エネルギーのことを説明されたとき、霊的なものが物的なものに転換されると言われましたが、その転換はどこで行われるのでしょうか。どこかで行われるはずですが・・・・・・」

 「使用するエネルギーによって異なります。信じられない方がいらっしゃるかも知れませんが、いにしえの賢人が指摘している〝第三の目〟とか太陽神経叢などを使用することもあります。そこが霊と精神と肉体の三者が合一する〝場〟なのです。これ以外にも患者の潜在意識を利用して健康な時と同じ生理反応を起こさせることによって失われた機能を回復させる方法があります」


エドワーズ 「説明されたところまでは分かるのですが、その〝中間地帯〟がどこにあるかがよく分りません。どこで物的状態と霊的治癒エネルギーとがつながるのか、もっと具体的に示していただきたいのです。どこかで何らかの形で転換が行われているに違いないのですが・・・・・・」


 「そんなふうに聞かれると、どうも困ってしまいます。弱りました。分かっていただけそうな説明がどうしてもできないのです。強いて譬えるならば、さっきも言ったコンデンサーのようなことをするのです。コンデンサーというのは電流の周波を変える装置ですが、大体あんなものが用意されていると想像してください。

エクトプラズムを使用することもあります。ただし実験会での物質化現象や直接談話などに使用するものとは形態が異なります。もっと微妙な、目に見えない・・・」


エドワーズ 「一種の〝中間物質〟ですか」

 「そうです。霊の念波を感じやすく、しかも物質界でも使用できる程度の物質性を具えたもの、とでも言っておきましょうか。それと治療家のもつエネルギーが結合してコンデンサーの役をするのです。そこから患者の松果体ないしは太陽神経叢を通って体内に流れ込みます。その活エネルギーは全身に行きわたります。電気的な温みを感じるのはその時です。

知っておいていただきたいことは、とにかく私たちのやる治療法には決まった型というものが無いということです。患者によってみな治療法が異なります。また霊界から次々と新しい医学者が協力に参ります。

そして新しい患者は新しい実験台として臨み、どの放射線を使用したらどういう反応が得られたかを細かく検討します。なかなか渉(はかど)らなかった患者が急に快方へ向かいはじめることがあるのは、そうした霊医の研究結果の表れです。

また治療家のところへ行く途中で治ってしまったりすることがあるのも同じ理由によります。実質的な治療というのは、あなた方が直接患者と接触する以前にすでに霊界側において大部分が済んでいると思って差支えありません」


エドワーズ 「そうするともう一つの疑問が生じます。いま霊界にも大ぜいの霊医がいると申されましたが、一方で遠隔治療を受けながら別の治療家のところへ行くという態度は、治療にたずさわる霊医にとって困ったことではないでしょうか」

 「結果をみて判断なさることです。治ればそれでよろしい」


エドワーズ 「なぜそれでいいのか、理屈が分からないとわれわれ人間は納得できないのですが」

 「場合によってはそんなことをされると困ることもありますが、まったく支障にならないこともあります。患者によってそれぞれ事情が違うわけですから、一概に言い切るわけにはまいりません。あなただって患者を一目見て、これは自分に治せる、とは判断できますまい。

治せるか否かは患者と治療家の霊格によって決まることですから、あなたには八分通りしか治せない患者も、他の治療家のところへ行けば全治するかもしれません。

条件が異なるからです。その背後つまり霊界側の複雑な事情を知れば知るほど、こうだ、ああだと、断定的な言葉は使えなくなるはずです。神の法則には無限の奥行があります。あなたがた人間としては正当な動機と奉仕の精神にもとづいて、精一杯、人事を尽くせばよいのです。こうすれば治る、これでは治らないとかを予断できる者はいません」


エドワーズ 「細かい点は別として、私たちが知りたいのは、霊界の医師は必要とあらばどこのどの治療家にも援助の手を差しのべてくれるかということです」

 「霊格が高いことを示す一ばんの証明は人を選り好みしないということです。私たちは必要とあらばどこへでも出かけます。これが高級神霊界の鉄則なのです。あなた方も患者を断わるようなことは決してなさってはいけません。

あなたがたはすでに精神的にも霊的にも本質において永遠の価値を持った成果をあげておられます。人間的な目で判断してはいけません。あなたがたには物事のウラ側を見る目がないのです。したがって自分のしたことがどんな影響を及ぼしているかもお分かりになりません。

しかし実際にはご自分で考えておられるよりはるかに多くの貢献をしておられます。あなたがたの貢献は地上で為しうる最大のものの一つであることに自信をもってください。

一生けんめい治療なさって何の反応も生じなくても、それはあなたの責任でもありませんし、あなたの協力者(バートン夫妻───たとえばエドワーズ氏が患者の頭部に手を当てバートン夫妻が左右の手を握って祈念するという形での協同治療のことで、エドワーズ氏に代って夫妻が治療するという意味ではない───訳者)の責任でもありません。

すべては自然の摂理の問題です。ご承知のように奇跡というものは存在しません。すべては無限なる愛と無限なる叡知によって支配されているのです。

 あなたと、協力者のお二人に申し上げます。つねに霊の光に照準をあてるように心がけて下さい。この世的な問題に煩わされてはなりません。(エドワーズ氏は治療費を取らず自発的な献金でまかなっていたために慢性的な資金不足の問題をかかえ、借り入れ金の返済も滞りがちで、運営の危機に直面したことが何度かある───訳者)

これまで幾つもの困難に遭遇し、これからも行く手に数々の困難が立ちはだかることでしょうが、奉仕の精神に徹している限り、克服できない障害はありません。すべてが克服され、奉仕の道はますます広がっていくことでしょう。あなたがたのお仕事は人々に苦痛の除去、軽減、解放をもたらすだけではありません。

あなたがたの尊い献身ぶりを見てそれを見習おうとする心を人々に植えつけています。そしてそれがあなたがたをさらに向上の道へと鼓舞することになります。私たちはまだまだ霊的進化の頂上を極めたわけではありません。まだまだ、先ははるかです。なぜなら、霊の力は神と同じく無限の可能性を秘めているのです」


サークルの一人「患者としてはあくまで一人の治療家のお世話になるのが好ましいのでしょうか」

 「それは一般論としてはお答えしにくい問題です。なぜかと言いますと、大切なのはその患者の霊的状態と治療家の霊的状態との関連だからです。心霊治療にもいろいろと種類があることを忘れてはなりません。霊的な力をまったく使用しないで治している人もいます。自分の身体のもつ豊富な生体エネルギーを注入することで治すのです。

霊の世界はまったく係わっておりません。それは決していけないことではありません。それも治療法の一つというにすぎません。ですから、患者のとるべき態度について戒律をもうけるわけにはまいりません。ただし、一つだけ好ましくない態度を申せば、次から次へと治療家をかえていくことです。それでは治療家にちゃんとした治療を施すチャンスを与えていないことになるからです。

私たち霊界の者は何とか力になってあげたいと臨んでいても、そういう態度で訪れる人の周りには一種のうろたえ、感情的なうろたえの雰囲気が漂い、それが霊力の働きかけを妨げます。ご承知のように、霊力が一番働きやすいのは受身的な穏やかな雰囲気の時です。その中ではじめて魂が本来の自分になりきれるからです」


エドワーズ 「一人の治療家から直接の治療を受けながら別の治療家から遠隔治療を受けるというのはどうでしょうか」

 「別に問題はありません。現にあなたはそれを証明しておられます。他の治療家に治療してもらっている人をあなたが治されたケースが幾つもあります」
    

バートン氏 「私は祈りの念が霊界へ届けられる経路について考えさせられることがよくあります。祈り方にもいろいろあり、特に病気平癒の祈願が盛んに行われています。その一つとして患者へ向けて祈念する時間が長いほど効果があると考えている人がいます。いったい祈りは霊界でどういう経路で届いているのか知りたいのですが」

 「この問題も祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご承知の通り宇宙はすみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇跡とかは絶対に起こりません。もしもその祈りが利己心から発したものであれば、それはそのままその人の霊格を示すもので、そんな人の祈りで病気が治るものでないことは言うまでもありません。

ですが、自分を忘れ、ひたすら救ってあげたいという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りは高級神霊界にも届きますし、自動的に治療効果を生む条件を作り出す力も具わっています。要するに祈る人の霊格によって決まることです」


バートン氏「祈りはその人そのものということでしょうか」

 「そういうことです」

バートン氏「大主教による仰々しい祈りよりも素朴な人間の素朴な祈りの方が効果があるということでしょうか」

 「地位には関係がありません。肝心なのは祈る人の霊格です。大主教が霊格の高い人であればその祈りには霊力が具わっていますが、どんなに立派な僧衣をまとっていても、筋の通らない教義に凝り固まった人間でしたら何の効果もないでしょう。

もう一ついけないのは集団で行う紋切り型の祈りです。案外効果は少ないものです。要するに神は肩書や数ではごまかされないということです。祈りの効果を決定づけるのは祈る人の霊格です。

 祈りとは本来、自分の波長を普段以上に高めるための霊的な行為です。波長を高め、人のために役立ちたいと祈る行為はそれなりの効果を生み出します。あなたが抱える問題について神は先刻ご承知です。

神は宇宙の大霊であるが故に宇宙間の出来ごとのすべてに通じておられます。神とは大自然の摂理の背後の叡知です。したがってその摂理をごまかすことは出来ません。神をごまかすことは出来ないのです。あなた自身さえごまかすことは出来ません」


バートン夫人「治療の話に戻りますが、患者が信仰心を持つことが不可欠の要素だと言う人がいますし、関係ないと言う人もいます。どうなのでしょうか」

 「心霊治療に限らず霊的なことには奥には奥があって、一概にイエスともノーとも言い切れないことばかりなのです。信仰心があった方が治りやすい場合が確かにあります。霊的知識に基づいた信仰心は魂が自我を見出そうとする一種の憧憬ですから、魂に刺激を与えます。あくまで自然の摂理に関する知識に基づいた信仰でして、何か奇跡でも求めるような盲目の信仰ではだめです。反対に、ひとかけらの信仰心がなくても、魂が治るべき段階まで達しておれば、かならず治ります」


バートン夫人 「神も仏もないと言っている人が治り、立派な心がけの人が治らないことがあって不思議に思うことがあります」

 「その線引きは魂の霊格によって決まります。人間の観察はとかく表面的で内面的でないことを忘れてはなりません。魂そのものが見えないために、その人がそれまでにどんなことをしてきたかが判断できません。

治療の結果を左右するのはあくまでも魂です。ご承知の通り私も何千年か前に地上で幾ばくかの人間生活を送ったことがあります。そして死後こちらでそれより遥かに永い霊界生活を送ってきましたが、その間、私が何にもまして強く感じていることは、大自然の摂理の正確無比なことです。

知れば知る程その正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりなのです。一分(いちぶ)の狂いも不公平もありません。地上だけではありません。私どもの世界でも同じです。差引勘定をしてみれば、きちんと答えが合います。

 何事も憂えず、ただひたすら心に喜びを抱いて、奉仕の精神に徹して仕事をなさることです。そして、あとのことは神にお任せすることです。それから先のことは人間の及ぶことではないのです。

あなた方は所詮、私たちスピリットの道具に過ぎません。そして私たちも又、さらに高い神霊界のスピリットの道具に過ぎません。自分より偉大なる力がすべてを佳きに計らってくれているのだと信じて、すべてをお任せすることです」


 最後に、別の日の交霊会で再び心霊治療の話題が取り上げられた時の注目すべき霊言を紹介しておこう。パキスタンから招待された人が〝見たところ何でもなさそうな病気がどうしても治らないことがあるのはなぜでしょうか〟と尋ねたのに対して、シルバーバーチはこう答えた。

 「不治の病というものはありません。すべての病気にそれなりの治療法があります。宇宙は単純にして複雑です。深い奥行きがあるのです。法則の奥に又法則があるのです。知識は新しい知識へ導き、その知識がさらに次の知識へと導きます。理解には際限がありません。叡知は無限です。

こう申し上げるのは、いかなる質問にも簡単な答えは出せないということを知っていただきたいからです。すべては魂の本質、その構造、その進化、その宿命に関わることだからです。

 地上の治療家からよくこういう言い分を聞かされます───〝この人が治ったのになぜあの人は治らないのですか。愛と、治してあげたいという気持ちがこれだけあるのに治らなくて、愛も感じない、見ず知らずの人が簡単に治ってしまうことがあるのはなぜですか〟と。

そうしたことはすべて法則によって支配されているのです。それを決定づける法則は魂の進化と関係しており、魂の進化は現在の地上生活によって定まるだけでなく、しばしば前生での所業が関わっていることがあります。霊的な問題は地上的な尺度では計れません。人生の全てを物質的な尺度で片付けようとすると誤ります。

しかし残念ながら、物質の中に閉じ込められているあなた方は、とかく霊の目を持って判断することができず、そこで、一見したところ不正と不公平ばかりが目につくことになります。

 神は完全なる公正です。神の叡知は完全です。なぜなら完全なる摂理として作用しているからです。あなた方の理解力が一定の尺度に限られている以上、宇宙の全知識を極めることは不可能です。どうか〝不治の病〟という観念はお持ちにならないでください。

そういうものは存在しません。治らないのは往々にしてその人の魂がまだそうした治療による苦しみの緩和、軽減、安堵、ないしは完治を手にする資格を身につけていないからであり、そこに宿業(カルマ)の法則が働いているということです。

こんなことを申し上げるのは、あきらめる観念を吹聴するためではありません。たとえ目に見えなくても、何ごとにも摂理というものが働いているという原則を指摘しているのです」
   
         

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again

Edited by S. Phillips
近藤千雄訳



編者まえがき

 ハンネン・スワッハー・ホームサークルの指導霊としてあまねく知られているシルバーバーチの霊言集はすでに数冊出版されているが、読者の要望にお応えして新たにこの一冊が加えられることになったのは有難いことである。これが六冊目となる。他に小冊子が二冊、訓えを要約したものと祈りの言葉を精選したものとが出ている。

 もとより活字ではシルバーバーチの温かい人間味が出せないし、ほとばしり出る愛を伝えることはできない。シルバーバーチは実に威厳のある霊であり、表現が豊かであり、その内容に気高さがあり、しかも喜んで人の悩みに耳を傾け、何者をも咎めることをしない。単純素朴さがその訓えの一貫した性格であり、真理の極印を押されたものばかりである。

 交霊会を年代順に追ったものとしては本書が最初である。一章の中に一回の交霊会の始めから終りまでをそっくり引用したものもあるが、他の二、三の交霊会から部分的に引用して構成したものもある。

私はなるべく同じ霊訓の繰り返しにならないようにしようと思ったが、それはしょせん無理な話だった。シルバーバーチの霊訓の真髄は基本的な霊的真理をさまざまな形で繰りかえして説くことにあるからである。内容的には同じことを言っていても煩をいとわず、その時の言葉をそのまま紹介しておいた。

 これまでの霊言集の中でも説明されているように、シルバーバーチの霊言は速記者によって記録されている。が、シルバーバーチは英語を完璧にマスターしているので、引用に際してはただコンマやセミコロン、ピリオドを文章の流れ具合によって付していくだけでよく、それだけで明快そのものの名文ができあがる。これは驚くべきシルバーバーチの文章能力の為せるわざである。

 さらに付け加えておきたいことは、シルバーバーチはその文章をスラスラと淀みなく口に出しているということである。質疑応答となると、質問者が言い終わるとすぐに答えが返ってくる。

そのあまりの速さに、初めて出席した人は、その会が打ち合わせなしのぶっつけ本番であることが信じられないほどである。

 古くからのシルバーバーチファンは本書を大歓迎してくださるであろうし、初めての方も、本書を読まれることによってきっとシルバーバーチを敬愛する数多くの読者の仲間入りをされることであろう。  
                              S ・ フィリップス



 一章 神への祈り
 いつの交霊会でもシルバーバーチはかならず祈りの言葉で開会する。延べにして数百を数える祈りの中には型にはまった同じ祈りは一つもない。しかしその中味は一貫している。次はその典型的なもののひとつである。

 「神よ、いつの時代にも霊覚者たちは地上世界の彼方に存在する霊的世界を垣間みておりました。ある者は霊視状態において、ある者は入神(トランス)の境地において、そして又ある者は夢の中においてそれを捉え、あなたの無限なる荘厳さと神々しき壮麗さの幾ばくかを認識したのでした。

不意の霊力のほとばしりによる啓示を得て彼らはこれぞ真理なり───全宇宙を支配する永遠にして不変・不動の摂理であると公言したのでした。

 今私どもは彼らと同じ仕事にたずさわっているところでございます。すなわちあなたについての真理を広め、子等があなたについて抱いてきた名誉棄損ともいうべき誤った認識を正すことでございます。

これまでのあなたは神として当然のことであるごとく憎しみと嫉妬心と復讐心と差別心を有するものとされてきました。私どもはそれに代わってあなたの有るがままの姿───愛と叡知と慈悲をもって支配する自然法則の背後に控える無限なる知性として説いております。

 私どもは地上の人間一人ひとりに宿るあなたの神的属性に目を向けさせております。そしてあなたの神威が存分に発揮されるにはいかなる生き方をすべきかを説こうと努めているものでございます。

そうすることによって子等もあなたの存在に気付き、真の自分自身に目覚め、さらにはあなたの摂理の行使者として、彼らを使用せんとして待機する愛する人々ならびに高級界の天使の存在を知ることでございましょう。

 私どもはすべての人類を愛と連帯感を絆として一体であらしめたいと望んでおります。そうすることによって協調関係をいっそう深め、利己主義と強欲と金銭欲から生まれる邪悪のすべてを地上からいっそうすることができましょう。

そして、それに代ってあなたの摂理についての知識を基盤とした地上天国を築かせたいのです。その完成の暁には人類は平和の中に生き、すべての芸術が花開き、愛念が満ちあふれ、すべての者が善意と寛容心と同情心を発揮し合うことでしょう。地上を醜くしている悪徳(ガン)が姿を消し、光明がすみずみまで行きわたることでしょう。

 ここに、己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます」

Wednesday, October 14, 2026

霊訓〈完訳・下〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。







26節

本節の内容
*霊団の態度の変化
*著者の態度に反省を求める
*著者の霊視能力の発現
*各種の霊視現象の体験
*複数の世界的作曲家による音楽についての霊信



〔一八七四年一月十八日。この日までの相当期間ずっと通信が途絶え、新しい局面に入りつつあるようでもあり、また、私が例の(身元確認の)問題について猜疑心を棄て切れずにいるために霊側が一切手を引いたようにも思えた。この猜疑心が何かにつけて障害となり、この自動書記通信だけでなくサークルによる交霊会にも支障を来していた。

それが突如この日になって様子が一変し、新たな指示と共に一種の回顧のようなものが綴られた。その中から私的な問題に係わらない部分を紹介する。〕


ここで、これまでわれらがそなたを導かんと努力して来た跡を振り返ってみるのも無駄ではあるまい。少なくともわれらが述べて来たことを詳細に検討し直し、われらが計画している広大なる真理の視界を見渡してみるよう勧めたい。そうすればそなたがこれまで抱き続けて来たものより遙かに崇高なる神の観念が説かれていることを知るであろう。そなたが重ねて証拠や実験を求めて来た反論に対しても、われらは無益と思いつつも一つ一つ応対してきた。それでもなおかつ心に巣くう猜疑心を拭い去ることを得なかったのは、そなたの猜疑的態度がもはや一つの習性となり、その猜疑心の靄(もや)を突き抜ける機会を滅多に見出し得なかったからに他ならぬ。そなたは自らを突き抜けることの出来ぬ帳(とばり)で包み込んでいる。その帳が上がるのは時たまでしかない。

われらはむしろ、そうしたそなたとわれらとの関わり合いをつぶさに見て来たサークルの同志の扱いにおいて成功したと言える。われらはそれを究極における成功を暗示する証であると見なし、感謝しているところである。つまりそなたの、その、他を寄せつけぬ猜疑に満ちた精神状態をも最後には解きほぐすことが出来ることであろう。そなたとしてはいかに真剣なる気持とはいえ、われらが大義名分とせるものを受けつけようとせぬ心を得心させる証拠を持ち合わせぬことが、われらの仕事の最大の障害となっている。殊にわれらの障害となる条件をも頭から無視して執拗に要求する特別の実験は、応じようにもまずもって応じられぬだけに、なおさら大なる障害となる。これは是非ともよく理解し心しておいてほしいことである。猜疑心から実験を計画し、われらを罠にはめんとするが如き魂胆は、その計画自体を破壊してしまうことであろう。もしもわれがそなたが怪しむが如きいかがわしい存在であるならば、そのような悪魔の使者とはこれ以上関わり合わぬがよかろう。が、若しそういうつもりはないと言うのであれば、潔くその不信の念を棄て去り、率直さと受容性に満ちた雰囲気を出して欲しく思う。たとえ僅かの間であっても素直な心で交わるほうが、今のその頑な猜疑に満ちた心で何年もの長きに亙って交わるより遙かに有益な成果を産み出すことであろう。われらはそなたが訝(いぶか)っているが如く、そなたの要求に応じたくないのではない。応じられぬのである。サークルの同志からの筋の通れる要求は大事に取ってある。仮に要求どおりの対応が出来なければ、またの機会に何とか致そう。これまでのそなたとの関わり合いを振り返れば、われらが常にそうしてきていることが判るであろう。それが交霊の一般的原理なのである。

さらに、そなたがしつこくこだわっているところの、そなたの指図に基づく実験を仮に特別な証拠的情報を提供するという形で催した場合、たとえそなたの思惑どおりに運んだとしても、その情報は十中八九、そなたの意念とサークルの意念との混同によって不完全にして信頼のおけぬものとなろう。そして結局はそなたの目的は挫折するであろう。が、証拠ならばすでにわれらに出来得るかぎりのものを提供してきた。そなたのこだわっている問題、すなわち霊の身元確認の問題も最近一度ならずその証拠となるものを提供しており、そなたもその価値を渋々ながら認めている。

このところわれらは、これまで以上の働きかけは控えている。が、これまでのわれらの為せるところを振り返ってくれれば、同志とのサークル活動においても、またこうしたそなただけとの交霊においても、あくまで完全なる受容的態度を維持するように努め、そなたの理性的判断に基づいて受け入れるべきは受け入れ、拒否すべきは拒否し、最終的判断はまたの機会までお預けにせよとのわれらの助言が当を得ていたことが納得して貰えるものと信ずる。証拠にも段階があることを忘れてはならぬ。そして、それ自体は無意味と思われるものでも、それ以前の、あるいはその後の事実または言説によって大幅にその価値を増すことも有り得ることを心しておかれたい。

今のそなたには如何にも曖昧に思えることも、これよりずっと後になって明確にされることも有り得る。そして長期間に亙って積み重ねたる数々の証拠が日を追ってその価値を増すことにもなる。平凡な成果にせよ特殊な成果にせよ、こうして語りかけるわれらの誠意が一定不変であることが何よりも雄弁にその事実を物語っていよう。少なくとも、われらがそなたを誑(たぶら)かしているとは言い得ぬであろう。われらは断じて邪悪な影響を及ぼしてはいない。われらの言葉には真実味と厳粛さとが籠っている。われらこそ神の福音を説く者であり、そなたの必要性に合わせ、そなたの啓発を意図しつつ説いている。

故に、そのわれらが、果たして致命的かつ永遠の重要性をもつ問題についてそなたを誑かさんとする者であるか否かはそなたみずからが責任をもって判断すべきことであり、われらの関与し得るところではない。これほどの証拠と論理的帰結を前にしながら、敢えてわれらを邪霊の類と決断する者はよほど精神の倒錯せる理性なき人間であり、およそそなたの如き、われらを知る人間のすることではあるまい。われらの言葉を篤と吟味せよ。神の導きのあらんことを。

(†インペレーター)


〔この頃を境に、死後の存続を納得させる証拠が次々と出て来た。それについては細かく述べていると霊訓の流れから逸(そ)れる恐れがあるので控える。あるものは筆記の形で来た。筆跡、綴り方、用語などが生前そのままに再現されていった。私の指導霊によって口頭で伝えられたものもある。ラップで送られてきたこともある。また私の霊視で確認したものもある。このように手段はさまざまであったが、一つだけ一致する特徴があった。述べられた事実が正確そのもので、間違いが何一つ見出せなかったことである。その大部分はわれわれサークルのメンバーには名前しか知られていない人物、時には名前すら知られない人物であった。友人や知人の場合もあった。それがかなりの長期間にわたって続けられたが、それと並行して私の霊視能力が急速に発達しはじめ、他界した友人と長々と話を交わす(1)ことが出来るようになった。私の潜在能力が開発されたらしく、情報が与えられたあとそれを霊視によって確認させてくれたりした。その霊視力はますます威力を増していき、ついには霊的身体が肉体から離れて行動しながら(2)実に鮮明な映像を見るようになった。その中には地上のものでないシーンの中で意識的に生活し行動する場面もあり、またドラマチックな劇画のようなものが私の目の前で演じられることもあった。その内容は明らかに何らかの霊的真理ないし教訓を伝えようとするものであった。が、そうした映像と関連した証拠によってその真実性を得心することが出来たのは二つだけであった。と言うのも、映像を見る時の私は必ず入神しており、自分が目撃しているものが果たして実際にそこに存在するのか、それとも私の主観に過ぎないのかの判断が出来なかったからで、その二つだけは後で具体的証拠によって実在を確認することが出来たということである。その二つの場合の光景は本物であったわけであるが、他の全ての映像も本物であったと信じている。が、ここはそうした問題を詮索する場ではない。思うに、こうした映像は私の霊的教育の一環であったと認めざるを得ない。霊側は私の霊視したものが実在であることを示さんとしたのであり、潜在的霊能が開発されたのは、肉眼で見えないものの存在を教え確信させようとする目的があったということである。

この一月(一八七四年)にはスピーア博士のご子息(3)のまわりに発生していた霊現象に関連した通信の幾つかが活字となって発表された。ご子息の音楽的才能を発達させるためであることを知らされていた。通信は前年の四月十四日と九月十二日に書かれたものであった。そして二月一日に私から出した質問がきっかけとなってさらに情報が送られて来た。プライベートな事柄を述べた後、次のように書かれた(4)――〕


昨夜の雰囲気は音楽には良くなかった。あなたはまだ良い音楽の出る条件をご存知ない。霊界の音楽を聞くまでは音のもつ本当の美しさは分からないであろう。音楽も地上の賢人が考えるより遙かに、われわれがよく口にする霊的条件の影響を受けているものである。地上なりに最高の音楽を出すためにも霊的要素がうまく調和しないといけない。調和した時にはじめてインスピレーションが閃めく。スピーア少年が師匠の指導を受けていた部屋は雰囲気が乱れていた。それで成果は良くなかったと言ったのである。音楽家も演説家と同じである。演説家の口から音楽が出るに先立って聴衆との霊的調和が出来ていないといけない。それは演説家は直感的に感じ取るのであるが、往々にしてその繋がりが出来ていなくてインスピレーションが演説家と聴衆との間の磁気的連鎖網を伝わらないために言葉が死んでしまって、まるで訴える力をもっていないことに気づいていない。最高の成果が得られるのは音楽家なり演説家なりが背後霊団に囲まれて、本人の思念または本人に送られてくる思念がその影響で純化され、調和し、霊性を賦与された時である。

言葉でも、冷たくぞんざいに発せられたものと心を込めて発せられたものとでは大いに違うように、音楽も全く同じことが言える。音はあっても魂が籠っていない。聞いていると、理由は分からなくても、何となく心に訴えるものがないことに気づくのである。冷ややかで、平凡で、薄っぺらな感じで、ただの音でしかない。物足らなさを感じる。一方魂の籠ったメロディーは、地上より遙かに美しく純粋なる霊界の思念を物語っていて、豊かな充実感を覚えさせる。霊の叫びが直接霊へと響くのである。魂が漲(みなぎ)り、いかに反応の鈍い人間にも訴える無形の言葉を有している。その言葉が魂に伝わり、魂はそれによって身体的感覚を鎮められ、乱れた心に調和をもたらせる。生命なき音が音楽の魂を吹き込まれて鼓動を始める。聞く者は心の充実を覚える。それは正に地上の肉体と、天国へ舞い上がる霊魂の差である。物質的・地上的なものと、天上的・霊的なものとの差である。大聴衆を前にした音楽会において真の音楽の聞かれる条件が滅多に整わないのはそのためである。聞き取りにくい霊の声を明確に述べさせたいのであれば、もっと調和のある雰囲気を作り出すことである。


〔この通信には二人の世界的作曲家(5)と、他に数名の私の知人の署名が(生前そのままに)付してあった。〕


〔注〕

(1)意念による以心伝心的交信。霊界では全てがこれによって行なわれる。
(2)幽体離脱現象。
(3)モーゼスは九年間に亙ってこの子の家庭教師をしている。
(4)インペレーターではなく、地上で音楽家だった複数の霊による。
(5)本書に付したモーゼスの自動書記ノートの写真から判断すると、その二人はベートーベンとメンデルスゾーンであろう。

シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch

Edited by A.W. Austen

近藤 千雄訳



十三章 質問に答える

(一)──戦争になると友情、仲間意識といったものが鼓舞されるという意味では〝宗教心〟をより多く生み出すことになると言えないでしょうか。

 「それはまったく話が別です。それは〝窮地〟に立たされたことに由来するにすぎません。つまり互いの〝大変さ〟を意識し合い、それが同情心を生み、少しばかり寛容心が培われるという程度のことです。団結心にはプラスするでしょう。困った事態をお互いに理解し合う上でもプラスになるでしょう。それまでの感情的わだかまりを吹き飛ばすこともあるでしょう。

しかし真の宗教心はそれよりもっともっと奥の深いものです。魂の奥底から湧き出る〝人のためを思う心〟です。そして今こそ地上はそれを最も必要としているのです。

 何でもない真理なのです。ところが実はその〝何でもなさ〟がかえって私たちをこれまで手こずらせる原因となってきたのです。もっと勿体ぶった言い方、どこか神秘的な魅力を持った新しい文句で表現しておれば、もう少しは耳を傾けてくれる人が多かったのかも知れません。

その方が何やら知性をくすぐるものがあるように思わせ、今までとはどこか違うように感じさせるからです。

 しかし私たちは知識人ぶった人間をよろこばせるための仕事をしているのではありません。飢えた魂に真理の糧を与え、今日の地上生活と明日の霊的生活に備える方法をお教えしているのです。あなた方は永遠の旅路を行く巡礼者なのです。今ほんのわずかの間だけ地上に滞在し、間もなく、願わくば死後の生活に役立つ知識を身につけて、岐れ道で迷うことなく、旅立つことになっております。

あなた方は旅人なのです。常に歩み続けるのです。地上はあなた方の住処ではありません。本当の住処はまだまだ先です。

 人類は余りに永いあいだ真理というものを見せかけの中に、物的形態の中に、祭礼の中に、儀式の中に、ドグマの中に、宗教的慣習の中に、仰々しい名称の中に、派閥的忠誠心の中に、礼拝のための豪華な建造物の崇拝の中に求めてまいりました。

しかし神は〝内側〟にいるのです。〝外側〟にはいません。賛美歌の斉唱、仰々しい儀式───こうしたものはただの〝殻〟です。宗教の真髄ではありません。

 私は俗世から遁れて宗教的行者になれとは申しません。地上生活でめったに表現されることのない内部の霊的自我を開発する為の生き方を説いているのです。

それがよりいっそう、人のため人類のためという欲求と決意を強化することになります。なさねばならないことは山ほどあります。ですが、大半の人間は地上生活において〝常識〟と思える知識ばかりを求めます。余りに永いこと馴染んできているために、それがすでに第二の天性となり切っているからです」


(二)──休戦記念日に当たってのメセージをお願いします。(訳者注──一九一八年に始まった第一次大戦の休戦日で、これが事実上の終戦日となった。毎年十一月十一日がこれに当たり二分間の黙祷を捧げる。こうした行事を霊界ではどうみているか、日本の終戦記念行事と合わせて考えながら読むと興味深い。なおこの日の交霊会は第二次大戦が勃発する一九三九年の一年前である)

 「過去二十年間にわたって地上世界は偉大な犠牲者たちを裏切り続けてきました。先頭に立って手引きすべき聖職者たちは何もしていません。混迷の時にあって何の希望も、何の慰めも、何の導きも与えることができませんでした。

宗教界からは何らの光ももたらしてくれませんでした。わけの分らない論争と無意味な議論にあたら努力を費やすばかりでした。何かというと、神の目から見て何の価値もない古びた決まり文句、古びた教義を引用し、古びた祭礼や儀式を繰り返すだけでした。

 この日は、二分間、すべての仕事の手を休めて感謝の黙祷を捧げますが、その捧げる目標は、色褪せた、風化しきった過去の記憶でしかありません。

英雄的戦没者と呼びながら、実は二十年間にわたって侮辱し続けております。二分間という一ときでも思い出そうとなさっておられることは事実ですが、その時あなた方が心に浮かべるのは彼らの現在の霊界での本当の姿ではなくて、地上でのかつての姿です。

本来ならばそうした誤った観念や迷信を取り除き霊の力を地上にもたらそうとするわれわれの努力に協力すべき立場にありながら、逆にそれを反抗する側に回っている宗教界は恥を知るべきです。

戦死して二十年たった今なお、自分の健在ぶりを知ってもらえずに無念に思っている人が大勢います。それは地上の縁ある人々がことごとく教条主義のオリの中に閉じ込められているからにほかなりません。

 聖俗を問わず、既得権力に対するわれわれの戦いに休戦日はありません。神に反逆する者への永遠の宣戦を布告する者だからです。開くべき目を敢えて瞑(つむ)り、聞くべき耳をあえて塞ぎ、知識を手にすべきでありながら敢えて無知のままであり続ける者たちとの戦いです。

今や不落を誇っていた城砦が崩れつつあります。所詮は砂上に基礎を置いていたからです。強力な霊の光がついにその壁を貫通しました。もう、霊的真理が論駁(ろんぱく)されることはありません。勝利は間違いなくわれわれのものです。

われわれの背後に勢揃いした勢力はこの宇宙を創造しそのすべてを包含している力なのです。それが敗北することは有り得ません。挫折することは有り得ません」


(三)──これほど多数の戦死者が続出するのを見ていると霊的知識も無意味に思えてきます。
   (この頃第二次大戦が最悪の事態に至っていた──編者)

 「死んでいく人たちのために涙を流してはいけません。死に際のショック、その後の一時的な意識の混乱はあるにしても、死後の方がラクなのです。私は決して戦争の悲劇、恐怖、苦痛を軽く見くびるつもりはありませんが、地上世界から解放された人々のために涙を流すことはおやめなさい」

───でも戦死していく者は苦痛を味わうのではないでしょうか。

 「苦しむ者もいれば苦しまない者もいます。一人ひとり違います。死んでいるのに戦い続けている人がいます。自分の身の上に何が起きたかが分からなくて迷う者もいます。が、いずれも長くは続きません。

いずれ永遠への道に目覚めます。むろん寿命を全うして十分な備えをした上でこちらへ来てくれることに越したことはありません。しかし、たとえそうでなくても、肉体という牢獄に別れを告げた者のために涙を流すことはおやめになることです。

その涙はあとに残された人のために取っておかれるがよろしい。こう言うと冷ややかに聞こえるかもしれませんが、とにかく死は悲劇ではありません」


───後に残された者にとってのみ悲劇ということですね。

 「解放の門をくぐり抜けた者にとっては悲劇ではありません。私は自分が知り得たあるがままの事実を曲げるわけにはまいりません。皆さんはなぜこうも物的観点から物ごとを判断なさるのでしょう。

ぜひとも〝生〟のあるがままの姿を知って下さるように願わずにはおれません。いま生活しておられる地上世界を無視しなさいと申し上げているのではありません。そこで生活しているかぎりは大切にしなくてはいけません。

しかしそれは、これから先に待ち受ける生活に較べれば、ほんのひとかけらに過ぎません。あなた方は霊を携えた物的身体ではありません。物的身体を携えた霊的存在なのです。ほんのひと時だけ物的世界に顕現しているにすぎません」


(四)───霊界の指導者は地上の政治的組織にどの程度まで関与しているのでしょうか。

 「ご承知と思いますが、私たちは人間がとかく付けたがるラベルには拘りません。政党というものにも関与しません。私たちが関心を向けるのは、どうすれば人類にとってためになるかということです。

私たちの目に映る地上世界は悪習と不正と既成の権力とが氾濫し、それが神の豊かな恩恵が束縛なしに自由に行きわたるのを妨げております。そこで私たちはその元凶である利己主義の勢力に立ち向かっているのです。永遠の宣戦を布告しているのです。

そのための道具となる人であれば、いかなる党派の人であっても、いかなる宗派の人であっても、いかなる信仰を持った人であっても、時と場所を選ばず働きかけて、改革なり改善なり改良なり───一語にして言えば奉仕のために活用します」


───それには本人の自由意志はどの程度まで関わっているのでしょうか。

 「自由意志の占める要素はきわめて重大です。ただ忘れてならないのは、自由意志という用語には一つの矛盾が含まれていることです。いかなる意志でも、みずからの力ではいかんともし難い環境条件、どうしても従わざるを得ないものによって支配されています。物的要素があり、各国の法律があり、宇宙の自然法則があり、それに各自の霊的進化の程度の問題があります。

そうした条件を考慮しつつ私たちは、人類の進歩に役立つことなら何にでも影響力を行使します。あなた方の自由意志に干渉することは許されませんが、人生においてより良い、そして理に叶った判断をするように指導することはできます。

 お話したことがありますように、私たちが最も辛い思いをさせられるのは、時として、苦境にある人を目の前にしながら、その苦境を乗り切ることがその人の魂の成長にとって、個性の開発にとって、霊的強化にとって薬になるとの判断から、何の手出しもせずに傍観せざるを得ないことがあることです。

各自に自由意志があります。が、それをいかに行使するかは各自の精神的視野、霊的進化の程度、成長の度合いが関わってきます。私たちはそれを許される範囲内でお手伝いするということです」


(五)───各国の指導的立場にある人々の背後でも指導霊が働いているのでしょうか。

 「むろんです。常に働いております。またその関係にも親和力の法則が働いていることも事実です。なぜかと言えば、両者の間に霊的な親近関係があれば自然発生的に援助しようとする欲求が湧いてくるものだからです。

 たとえば地上である種の改革事業を推進してきた政治家がその半ばで他界したとします。するとその人は自分の改革事業を引き継いでくれそうな人物に働きかけるものです。その意味では死後にもある程度まで、つまり霊の方がその段階を卒業するまでは、国家的意識というものが存続すると言えます。

同じ意味で、自分は大人物であると思い込んでいる人間、大酒呑み、麻薬中毒患者等がこちらへ来ると、地上で似たような傾向を持つ人間を通じて満足感を味わおうとするものです」


───指導者が霊の働きかけに反応しない場合はどうなりますか。

 「別にどうということはありません。但し、忘れてならないのは、無意識の反応───本人はそれと気づかなくても霊界からの思念を吸収していることがあるということです。インスピレーションは必ずしも意識的なものとはかぎりません。

むしろ、大ていの場合は本人もなぜだか分からないうちに詩とか曲とか絵画とかドラマとかエッセーとかを思いついているものです。霊の世界からのものとは信じてくれないかも知れません。が、要するにそのアイディアが実現しさえすれば、それでよいのです」


(六)───各国にその必要性に応じた霊的計画が用意されているのでしょうか。

 「すべての国にそれなりの計画が用意されています。すべての生命に計画があるからです。地上で国家的な仕事に邁進してきた人は、あなた方が死と呼ぶ過程を経てもそれをやめてしまうわけではありません。そんなことで愛国心は消えるものではありません。なぜなら愛国心は純粋な愛の表現ですから、その人の力は引き続きかつての母国のために使用されます。

さらに向上すれば国家的意識ないしは国境的概念が消えて、すべては神の子という共通の霊的認識が芽生えてきます。しかし、私どもはあらゆる形での愛を有効に活用します。少なくとも一個の国家でも愛しそれに身を捧げんとする人間の方が、愛の意識が芽生えず、役に立つことを何一つしない人間よりはましです」


(七)───人類の福祉の促進のために霊界の科学者が地上の科学者にインスピレーションを送ることはあるでしょうか。

 「あえて断言しますが、地上世界にとっての恵み、発明・発見の類のほとんど全部が霊界に発しております。人間の精神は霊界のより大きな精神が新たな恵みをもたらすために使用する受け皿のようなものです。しかしその分量にも限度があることを忘れないでください。

残念ながら人間の霊的成長と理解力の不足のために、せっかくのインスピレーションが悪用されているケースが多いのです。科学的技術が建設のためでなく破壊の為に使用され、人類にとっての恩恵でなくなっているのです」


(八)───そちらからのインスピレーションの中には悪魔的発明もあるのでしょう?

 「あります。霊界は善人ばかりの世界ではありません。きわめて地上とよく似た自然な世界です。地上世界から性質(たち)の悪い人間を送り込むことをやめてくれないかぎり、私たちはどうしようもありません。私たちが地上の諸悪を無くそうとするのはそのためです。

こちらへ来た時にちゃんと備えができているように、待ち受ける仕事にすぐ対処できるように、地上生活で個性をしっかりと築いておく必要性を説くのはそのためです」

              


    
 解説 「動機」と「罪」

 本書は Teachings of Silver Birch の続編で、編者は同じくオースティンである。オースティンという人はバーバネルが職業紹介所を通じて雇い入れた、スピリチュアリズムにはまったくの素人だった人で、さっそくある霊媒の取材に行かされて衝撃的な現象を見せつけられ、いっぺんに参ってしまった。

その後例の英国国教会スピリチュアリズム調査委員会による〝多数意見報告書〟の取得をめぐってバーバネルの片腕として大活躍をしている。

最近の消息はわからない。Psychic News′ Two Worlds のいずれにも記事が見当たらないところをみると、すでに他界したのかもしれない。筆者が一九八一年と八四年にサイキックニューズ社を訪れた時も姿は見当たらなかった。

 この人の編纂の特徴は、なるべく多くの話題をとの配慮からか、あれこれと細かい部分的抜粋が多いことである。〝正〟〝続〟とも同じで、時に短かすぎることもある。その極端な例が動物の死後を扱った第七章で、原典に紹介されているのは実際の霊言の十分の一程度である。

記者としては物足らなさを感じるので、シルビア・バーバネルの(霊言集とは関係のない)本に紹介されている同じ交霊会の霊言全部をそっくり引用させてもらった。

 さて、本書には各自が〝思索の糧〟とすべき問題、そしてまた同志との間でも議論のテーマとなりそうな問題が少なくない。また人間としてどうしても理解しかねるものもある。

 たとえば第三章で最後の審判を信じるクリスチャンが何百年、何千年ものあいだ自分の墓地でその日の到来を待っている(実際には眠っている者の方が多い)という話がある。

さぞ待ちくたびれるだろう、退屈だろうと思いたくなるが、シルバーバーチは霊界には時間というものがないから待っているという観念も持たないという。
 
 それを夢の中の体験に譬えられればある程度まで得心がいく。人間にとって一瞬と思える時間で何カ月、あるいは何年にもわたる経験を夢で見ることがあるのは確かである、霊は反対に人間にとって何か月、何年と思える時間が一瞬に思えることがあるらしい。そこがわれわれ人間には理解しにくい。

 が、それを地上で体験する人がいることは事実である。ガケから足を踏み外して転落して九死に一生を得た人が語った話であるが、地面に落ちるまでの僅か二、三秒間に、それまでの三、四十年の人生の善悪にかかわる体験のすべてを思い出し、その一つ一つについて、あれは自分が悪かった、いや、これは自分が絶対に間違っていないといった反省をしたという。

野球の大打者になると打つ瞬間にボールが目の前で止まって見えることがあるという。意識にも次元があり、人間があるように思っている時間は実際には存在しないことが、こうした話から窺える。
℘242
 しかし太陽は東から昇り西に沈むと言う地上では常識的な事実を考えてみると、これは地球が自転していることから生じる人間の錯覚であるが、いくら理屈ではそう納得しても、実際の感じとしてはやはり毎朝太陽は東から昇り西に沈んでいる。

それと同じで、われわれ人間は実際には存在しない時間を存在するものと錯覚して生活しているに過ぎなくても、地上にいるかぎりは時間は存在するし、そう思わないと生きて行けない。こうしたことはいずれあの世へ行けば解決のつく問題であるから、それでいいのである。

 神の概念も今すぐに理解する必要のない問題、というよりは理解しようにも人間の頭脳では理解できない問題であるから、あまりムキになって議論することもないであろう。

 しかし〝動機〟と〝罪〟の問題はあの世へ行ってからでは遅い、現在のわれわれの生活に直接かかわる問題であり、ぜひとも理解しておかねばならない問題であろう。

 筆者個人としては、こうした問題を意識しはじめた青年時代からシルバーバーチその他の霊的思想に親しんできたので、本書でシルバーバーチが言っていることは〝よく分かる〟のであるが、部分的に読まれた方には誤解されそうな箇所があるので解説を加えておくことにした。

 字面(じずら)だけでは矛盾しているかに思えるのは、第十二章で動機が正しければ戦争に参加して敵を殺すことも赦されると言っておきながら、第十一章では罪は結果に及ぼす影響の度合によって重くもなれば軽くもなると述べていることである。
℘243
 シルバーバーチはつねづね〝動機が一ばん大切〟であることを強調し〝動機さえ正しければよい〟といった言い方までしているが、それはその段階での魂の意識にとっては良心の呵責にならない───その意味において罪は犯していないという意味であって、それが及ぼす結果に対して知らぬ顔をしてもよいという意味ではない。たとえその時点では知らぬ顔が出来ても、霊格の指標となる道義心が高まれば、何年たったあとでも苦しい思いをし反省させられることであろう。

 それは自分が親となってみてはじめて子としての親への不孝を詫びる情が湧いてくるのと同じであろう。その時点では親は親としての理解力すなわち愛の力で消化してくれていたことであろうから罪とは言えないであろう。

しかし罪か否かの次元を超えた〝霊的進化〟の要素がそこに入ってくる。それは教会の長老が他界して真相に目覚めてから針のムシロに坐らされる思いがするのと共通している。

 戦争で人を殺すという問題でシルバーバーチは、その人も殺されるかも知れない、もしかしたら自らの生命を投げ出さねばならない立場に立たされることもあることを指摘するに留めているが、第三章でメソジスト派の牧師が〝自分は死後、自分が間違ったことを教えた信者の一人一人に会わなければならないとしたら大変です〟と言うと、
℘244
その時点ではすでに自ら真相に目覚めてくれている人もいるであろうし、牧師自身のその後の真理普及の功徳によっても埋め合わせが出来ているという意味のことを述べている。この種の問題は個々の人間について、その過去世と現世と死後の三つの要素を考慮しなければならないであろうし、そうすればきちんとした解答がそれぞれに出てくることなのであろう。

 さらにもう一つ考慮しなければならない要素として、地球人類全体としての発達段階がある。第四巻で若者の暴力の問題が話題となった時シルバーバーチは、現段階の地上人類には正しい解決法は出し得ないといった主旨のことを述べている。

これは病気の治療法の問題と同じであろう。動物実験も、死刑制度も、人類が進化の途上で通過しなければならない幼稚な手段であり、今すぐにどうするといっても、より良い手段は見出せないであろう。それは例えば算数しか習っていない小学生には数学の問題が解けないと同じであろう。

 ことに社会的問題は協調と連帯を必要とするので、たとえ一人の人間が素晴らしい解決法を知っていても、人類全体がそれを理解するに至らなければ実現は不可能である。シルバーバーチはそのことを言っているのである。

 戦争がいけないことは分り切っている。が、現実に自国が戦争に巻き込まれている以上、そうして又、その段階の人類の一員として地上に生を受けている以上、自分一人だけ手を汚さずにおこうとする態度も一種の利己主義であろう。もしもその態度が何らかの宗教の教義からきているとすれば、それはシルバーバーチのいう宗教による魂の束縛の一例と言えよう。

〝私は強い意志を持った人間を弱虫にするようなこと、勇気ある人間を卑劣な人間にするようなことは申し上げたくありません〟という第十二章の言葉はそこから出ている。

 これを発展させていくと、いわゆる俗世を嫌って隠遁の生活を送る生き方の是非とも関連した問題を含んでいる。筆者の知るかぎりでは高級霊ほど勇気を持って俗世を生き抜くことの大切さを説いている。

イエスの言う、Be in the world, but not of the world.(俗世にあってしかも俗人になるなかれ)である。このちっぽけな天体上の、たかが五、七十年の物的生活による汚れを恐れていてどうなろう。『霊訓』のイムペレーターの言葉が浮かんでくる───

 「全存在のホンのひとかけらほどに過ぎぬ地上生活にあっては、取り損ねたらさいご二度と取り返しがつかぬというほど大事なものは有り得ぬ。

汝ら人間は視野も知識も人間であるが故の宿命的な限界によって拘束されている。・・・・・・人間は己れに啓示されそして理解し得たかぎりの最高の真理に照らして受け入れ、行動するというのが絶対的義務である。それを基準として魂の進化の程度が判断されるのである」
 
 次に良寛の辞世の句はそれを日本的に表現したものとして私は好きである。


       うらを見せ   おもてを見せて   散るもみじ 良寛                           



  新装版発行にあたって

多くの読者に支持され、版を重ねてきた、このシリーズが、
この度、装いを新たにして出されることになりました。

天界のシルバーバーチ霊もさぞかし喜ばしく思っていてくれていることでしょう。

                   平成十六年一月        近藤 千雄


シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch

Edited by A.W. Austen

近藤 千雄訳




十二章 参戦拒否は是か否か

 参戦拒否、徴兵忌避といった不戦主義はスピリチュアリズムにおいてだけでなく、すべての宗教においてその是非が問われ続けている問題である。

 シルバーバーチは常に道義心───魂の奥の神の声───が各自の行為の唯一の審判官であると説き、従ってその結果に対しては各自が責任を取らねばならないと主張している。

その論理から、母国を守る為には戦争も辞さず、必要とあらば敵を殺(あや)めることも一国民としての義務であると考える人をシルバーバーチは咎めない。これが〝矛盾〟と受け止められて批判的な意見が寄せられることがあるが、これに対してある日の交霊会でこう弁明した。

 「批判的意見を寄せられる方は、私がこれまで戦争というものをいかなる形においても非難し、生命は神聖であり神のものであり、他人の物的生命を奪う権利は誰にもないという主張を掲げてきながら、今度は〝英国は今や正義の戦に巻き込まれた。これは聖なる戦いである。聖戦である〟と宣言する者に加担しているとおっしゃいます。

 私は永年にわたってこの霊媒を通じて語ってまいりました。今これまでに私が述べたことを注意ぶかくふり返ってみて、この地上へ私を派遣した霊団から指示されたワクに沿って私なりに謙虚に説いてきた素朴な真理と矛盾したことは何一つ述べていないと確信します。

今も私は、これまで述べてきた通りに、人を殺すことは間違いである、生命は神のものである、地上で与えられた寿命を縮める権利は誰にもないと断言します。前にも述べたことですが、リンゴは熟せば自然に落ちます。もし熟さないうちにもぎ取れば、渋くて食べられません。霊的身体も同じです。

熟さないうちに、つまり、より大きな活動の世界への十分な準備ができないうちに肉体から離されれば、たとえ神の慈悲によって定められた埋め合わせの原理が働くとはいえ、未熟なまま大きなハンディを背負ったまま新しい生活に入ることになります。

 その観点から私は、これまで述べてきたことのすべてをここで改めて主張いたします。これまでの教訓をいささかも変えるつもりはありません。繰り返し(毎週一回)記録されている私の言葉の一語一語を自信を持って支持いたします。同時に私は、いかなる行為においてもその最後に考慮されるのは〝動機〟であることも説いております。

 まだこの英国が第二次世界大戦に巻き込まれる前、いわゆる〝国民兵役〟への準備に国を挙げて一生懸命になっておられた時分に、〝こうした活動に対してスピリチュアリストとしての態度はどうあるべきでしょうか〟との質問に私は〝そうした活動が同胞への奉仕だと信ずる方は、それぞれの良心の命ずるがままの選択をなさることです〟と申し上げました。

 いま英国はその大戦に巻き込まれております。過去にいかなる過ちを犯していても、あるいはいかに多くの憎しみの種子を蒔いても、少なくともこの度の戦争は英国自ら仕掛けたものではないことは確かです。

しかし、それでもやはり戦争をしているという咎めは受けなくてはなりません。後ればせながら英国もこの度は、いくぶん自衛の目的も兼ねて、弱小国を援助するという役目をみずから買って出ております。

もしも兵役に喜んで参加し、必要とあらば相手を殺めることも辞さない人が、自分はそうすることによって世界のために貢献しているのだと確信しているのであれば、その人を咎める者は霊の世界に一人もいません。

 動機が何であるか───これが最後の試練です。魂の中の静かな、そして小さな声が反撥するが故に戦争に参加することを拒否する人間と、これが国家への奉公なのだという考えから、つまり一種の奉仕的精神から敵を殺す覚悟と同時にいざとなれば我が身を犠牲にする覚悟を持って戦場へ赴く人間とは、私たちの世界から見て上下の差はありません。動機が最も優先的に考慮されるのです。

 派閥間の論争も結構ですが、興奮と激情に巻き込まれてその単純な真理を忘れた無益な論争はおやめになることです。動機が理想的理念と奉仕の精神に根ざしたものであれば、私たちはけっして咎めません」

───それでも、やはり人を殺すということがなぜ正当化されるのか、得心できません。

 「必要とあれば───地上的な言い方をすれば───相手を殺す覚悟の人は、自分が殺されるかもしれないという危険をおかすのではないでしょうか。どちらになるかは自分で選択できることではありません。相手を殺しても自分は絶対に殺されないと言える人はいないはずです。もしかしたら自らの手で自らを殺さねばならない事態になるかもしれないのです」

 さらに別の質問を受けてシルバーバーチはその論拠を改めて次のように説明した。


 「私たちは決して地上世界がやっていることをこれで良いと思っているわけではありません。もし満足しておれば、こうして戻って来て、失われてしまった教えを改めて説くようなことはいたしません。

私どもは地上人類は完全に道を間違えたという認識に立っております。そこで、何とかしてまともな道に引き戻そうとしているところです。しかし地上には幾十億と知れぬ人間がおり、みな成長段階も違えば進歩の速度も違い、進化の程度も違います。

すべての者に一様に当てはめられる型にはまった法則、物的ものさし、といったものはありません。固定した尺度を用いれば、ある者には厳しすぎ、ある者には厳しさが足りないということになるからです。殺人者に適用すべき法律は、およそ犯罪と縁のない人間には何の係りもありません。

 かくして人間それぞれに、それまでに到達した成長段階があるということを考慮すれば、それを無視して独断的に規準をもうけることは許されないことになります。前にも述べましたように、神は人間各自にけっして誤まることのない判断の指標、すなわち道義心というものを与えています。その高さはそれまでに到達した成長の度合いによって定まります。

あなた方が地上生活のいかなる段階にあろうと、いかなる事態に遭遇しようと、それがいかに複雑なものであろうと、各自の取るべき手段を判断する力───それが自分にとって正しいか間違っているかを見分ける力は例外なく具わっております。

あなたにとっては正しいことも、他の人にとっては間違ったことであることがあります。なぜなら、あなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです。徴兵を拒否した人の方が軍人より進化の程度において高いこともありますし低いこともあります。しかし、互いに正反対の考えをしながらも、両方ともそれなりに正しいということも有りうるのです。

 個々の人間が自分の動機に従って決断すればそれでよいのです。すべての言いわけ、すべての恐れや卑怯な考えを棄てて自分一人になりきり、それまでの自分の霊的進化によって培われた良心の声に耳を傾ければよいのです。

その声はけっして誤まることはありません。けっしてよろめくこともありません。瞬間的に回答を出します。(人間的煩悩によって)その声がかき消されることはあります。

押し殺されることはあります。無視されることもあります。うまい理屈や弁解や言いわけでごまかされることもあります。しかし私は断言します。良心は何時も正しい判決を下しています。それは魂に宿る神の声であり、あなたの絶対に誤まることのない判断基準です。

 私たちに反論する人たち、特にローマカトリック教会の人たちは、私たちが自殺を容認している───臆病な自殺者を英雄または殉教者と同等に扱っていると非難します。が、それは見当違いというものです。私たちは変えようにも変えられない自然法則の存在を認めると同時に、同じ自殺行為でも進化の程度によってその意味が異なると観ているのです。

確かに臆病であるがゆえに自殺という手段で責任を免れようとする人が多くいます。しかし、そんなことで責任は逃れられるものではありません。死んでもなお、その逃れようとした責任に直面させられます。

しかし同時に、一種の英雄的行為ともいうべき自殺───行為そのものは間違っていても、そうすることが愛する者にとって唯一の、そして最良の方法であると信じて自分を犠牲にする人もいます。そういう人を卑怯な臆病者と同じレベルで扱ってはなりません。大切なのは〝動機〟です」


 ここでメンバーの一人が、不治の病に苦しむ人が周りの人たちへ迷惑をかけたくないとの考えから自殺した例をあげた。するとシルバーバーチは───

 「そうです。愛する妻に自由を与えてやりたいと思ったのかもしれません。〝自分がいなくなれば妻が昼も夜もない看病から解放されるだろう〟───そう思ったのかもしれません。その考えは間違いでした。真の愛はそれを重荷と思うようなものではないはずです。

ですが、その動機は誠実です。心がひがんでいたのかもしれません。しかし、一生けんめい彼なりに考えたあげくに、そうすることが妻への最良の思いやりだと思って実行したことであって、けっして弱虫だったのではありません」
 

 では最後に〝戦うことは正しいことだと思いますか〟という質問に対するシルバーバーチの答えを紹介しておこう。これは大戦が勃発する前のことであるが、その主張するところは勃発後と変わるところはない。これを〝矛盾〟と受け止めるかどうか───それは読者ご自身が全知識、全知性、全叡知を総動員して判断していただきたい。

 「私はつねづねたった一つのことをお教えしております。動機は何かということが一ばん大切だということです。そうすることが誰かの為になるのであれば、いかなる分野であろうと、良心が正しいと命ずるままに実行なさることです。私個人の気持ちとしては生命を奪い合う行為はあってほしくないと思います。生命は神のものだからです。

しかし同時に私は、強い意志を持った人間を弱虫にするようなこと、勇気ある人間を卑劣な人間にするようなことは申し上げたくありません。すべからく自分の魂の中の最高の声に従って行動なさればよいのです。ただし、殺し合うことが唯一の解決手段ではないことを忘れないでください」


───例えばもし暴漢が暴れ狂って手の施しようがない時は殺すという手段も止むを得ないのではないでしょうか。

 「あなた方はよく、ある事態を仮定して、もしそうなった時はどうすべきかをお尋ねになります。それに対して私がいつもお答えしていることは、人間として為すべきことをちゃんと行っていれば、そういう事態は起きなかったはずだということです。

人間が従うべき理念から外れたことをしながら、それをどう思うかと問われても困るのです。私たちに出来ることは、真理と叡知の原則をお教えし、それに私たち自身の体験から得た知識を加味して、その原則に従ってさえいれば地上に平和と協調が訪れますと説くことだけです。流血の手段によっても一時的な解決は得られますが、永続的な平和は得られません。


 血に飢えて殺人を犯す人間がいます。一方、自由のための戦いで殺人行為をする人もいます。そういう人の動機に私は異議は唱えません。どうして非難できましょう。明日の子供のために戦っている今日の英雄ではありませんか。

 私にできることは真理を述べることだけです。だからこそ政治的レッテルも宗教的ラベルも付けていないのです。だからこそどこの教会にも属さず、いわゆる流派にも属さないのです。

 人間は自分の良心の命じる側に立って、それなりの役目を果たすべきです。どちらの側にも───敵にも味方にも───立派な魂を持った人がいるものです。ですから、動機とは何か───それが一ばん大切です。こうすることが人のためになるのだと信じて行なうのであれば、それがその人にとって正しい行為なのです。

知恵が足らないこともあるでしょう。しかし、動機さえ真剣であれば、その行為が咎められることはありません。なぜなら魂にはその一ばん奥にある願望が刻み込まれていくものだからです。

 私は常にあなた方地上の人間とは異なる規準で判断していることを忘れないでください。私たちの規準は顕と幽のあらゆる生活の側面に適用できる永遠に不変の規準です。時には悪が善を征服したかに思えることがあっても、それは一時的なものであり、最後には神の意志が全てを規制し、真の公正が行きわたります。

 その日その日の気まぐれな規準で判断しているあなた方は、その時々の、自分が一ばん大事だと思うものを必要以上に意識するために、判断が歪められがちです。

宇宙を大いなる霊が支配していることを忘れてはなりません。その法則がこの巨大な宇宙を支えているのです。大霊は王の中の王なのです。その王が生み神性を賦与した創造物が生みの親をどう理解しようと、いつかはその意志が成就されてまいります。

 地上の無益な悲劇と絶望の有様を見て私たちが何の同情も感じていないと思っていただいては困ります。今日の地上の事態を見て心を動かされなかったら、私たちはよほど浅はかな存在といえるでしょう。しかし私たちはそうした地上の日常の変転極まりないパノラマの背後に、永遠不変の原理を見ているのです。

 どうかその事実から勇気を得て下さい。そこにインスピレーションと力とを見出し、幾世紀にもわたって善意の人々が夢見てきた真理の実現のために働き続けて下さい。その善意の人々は刻苦勉励してあなた方の世代へ自由の松明(たいまつ)を手渡してくれたのです。今あなた方はその松明に新たな炎を灯さなくてはならないのです」(巻末〝解説〟参照)

霊訓〈完訳・下〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。




25節

本節の内容
*啓示はそれを受ける霊覚者の霊格の程度によって差が生じる
*“神”の概念の変遷
*バイブルを神の言葉と考えるのは愚か
*“五書”とエズラ
*エロヒスト、ヤハウィスト
*サウルの時代、士師の時代、ソロモン・ヘゼキヤ・ヨシアの時代
*“預言書”の編纂
*ダニエル
*バイブルに見る神の概念の進歩
*己の無知の自覚が向上の第一歩


〔“モーセ五書”を新たな観点から読み直してみて私は、その中に神の観念が徐々に発達していく様子を明瞭に読み取ることが出来た。結局それが一人の作者によるものでなく数多くの伝説と伝承の集成にすぎないという結論に達した。その点について意見を求めると――〕


われらの手引きによる聖書の再検討において、そなたは正しき結論に到達した。そなたをその方向へ手引きしたのは、個々の書が太古の人間の伝説や伝承をまとめたものに過ぎず、そのカギを知らぬ者には見分けのつかぬものであるが故に、いかに信の置けぬものであるかを知らしめんが為である。われらはこの点を篤と訴えたい。そなたらの宗教書より引用せる言説にどこまで信を置くべきかは、むろんそなた自身の理解力にもよるが、それと同時に、その引用せる書の正体と、その言説のもつ特殊な意味にもよる。いかに古き書の中にも崇高なる神の概念を見出すことが可能である一方、その後に出たより新しき書の中にこの上なく冒とく的で極めて人間的な不愉快千万なる概念を見出すことも出来る。たとえば人間の姿をして人間と格闘する神、対立する都市への報復の計画を人間と相談する神、血の酒宴を催し敵の血を啜(すす)って満腹する残忍至極な怪物としての神、友人の家の入口に座し、仔ヤギの肉とパンを食する人間としての神、等々。その説くところは完全に類を異にし、個々の話をいくら集めたとて、正しき理性を物差しとせる判断以上のものとはなり得ぬ。それ故に、無知ゆえに真相を捉え損ね、過ちへと迷い込むことのなきよう、そうした言説は奥に秘められた意味を理解することが肝要である。

重ねて言うが、啓示とは時代によりて種類を異にするのではなく、程度を異にするのみである。その言葉は所詮は人間的媒体を通して霊界より送り届けられるものであり、霊媒の質が純粋にして崇高であれば、それだけ彼を通して得られる言説は信頼性に富み、概念も崇高さを帯びることになる。要するに霊媒の知識の水準が即ち啓示の水準ということになるわけである。故に、改めて述べるまでもあるまいが、初期の時代、たとえばユダヤ民族の記録に見られる時代においては、その知識の水準は極めて低く、特殊なる例外を除いては、その概念はおよそ崇高と言えるものではなかった。

人類創造の計画の失敗を悔しがり、悲しみ、全てをご破算にするが如き、情けなき神を想像せる時代より、人間は知識において飛躍的に進歩を遂げてきた。より崇高にして真実に近き概念を探らんとすれば、人間がその誤りの幾つかに気づき、改め、野蛮な想像力と未熟な知性の産み出せる神の概念に満足できぬ段階に到達せる時代にまで下らねばならぬ。野蛮な時代は崇高なるものは理解し得ず、従って崇高なるものは何一つ啓示されなかった。それは、神の啓示は人間の知的水準に比例するという普遍的鉄則に準ずるものである。故に、そもそもの過ちの根源は人間がその愚かにして幼稚きわまる野蛮時代の言説をそのまま受け継いで来たことにある。神学者がそれを全ての時代に適応さるべき神の啓示であるとしたことにある。その過ちをわれらは根底より改めんと欲しているのである。

今一つ、それより更に真理を台無しにするものとして、神は全真理を聖書の全筆録者を通じて余すところなく啓示し、従って根源的作者は神であるが故に、そこに記録された文字は永遠にして絶対的権威を有するとの信仰がある。この誤りはすでにそなたの頭からは取り除かれている。その証拠に、最早やそなたは神が矛盾撞着だらけの言説の作者であるとは思わぬであろうし、時代によりて相反することを述べるとも思うまい。霊界からの光が無知蒙昧なる霊媒を通じて送られ、その途中において歪められたのである。

そうした誤れる言説に代わりてわれらは、啓示というものがそれを送り届けんとする霊の支配下にあり、その崇高性、その完全性、その信頼性にそれぞれの程度があると説く。またそれ故にその一つ一つについて理性的判断をもって臨むべきであること、つまり純粋なる人間的産物を批判し評価する時と全く同じ態度にて判断すべきであると説くのである。そうなれば聖典を絶対的論拠とすることもしなくなるであろう。全ての聖典を(神が絶対無二のものとして授けたのではなく)単なる資料として今そなたの前に置かれたものとして取り扱うことになろう。その批判的精神をもって臨む時、聖典そのものの出所と内容について、これまで是認され信じられて来たものの多くを否定せねばならぬことに気づくであろう。

さてそなたは「モーセ五書」について問うている。これは前にも少し触れた如く、何代にも亙って語り伝えられた伝説と口承が散逸するのを防ぐためにエズラが集成したものである。その中のある部分、とくに“創世記”の初めの部分は記述者が伝説にさらに想像を加えたものに過ぎぬ。ノアの話、アブラハムの伝説等がそれであり、これらは他の民族の聖典にも同一のものが見られる。“申命記”の説話もみなそうであり、エズラの時代に書き加えられたものである。その他についても、その蒐集はソロモンとヨシアの時代の不完全なる資料より為されたものであり、それがまたさらにそれ以前の伝説と口承に過ぎなかったのである。いずれの場合もモーセ自身の言葉ではない。また律法に関する部分の扱いにおいて真正なる原典からの引用部分は例外として、他に真正なるものは一つも存在せぬ。

いずれ、聖書の初期の書に見られる神の観念につきて詳しく述べることになろう。今は、そうした書が引用せる神話や伝説を見れば、他の資料によりその真正さが確認された場合を除けば、その歴史的記述も道徳的説話も一顧の価値だになきものであることを指摘するに留める。


〔この通信は私自身の調査を確認するところとなった。編纂者が引用したのはエロヒスト(1)とヤハウィスト(2)の二人の記録まで辿ることが出来ると考えた。それは例えば“創世記”第一章及び第二章の③と第二章の④の天地創造の記述の対比、ゲラルにおけるアビメレク王によるサラの強奪(“創世記”第二十章)と同第十二章の⑩~⑲及び第二十六章の①~②の対比に見られる。私はこの見解が正しいか否かを尋ねた。〕


それも数多い例証の中の一つに過ぎぬ。こうした事実を認識すれば、その証拠がそなたの身近に幾らでも存在することに気づくであろう。問題の書はエズラの二人の書記エルナサン(3)とヨイアリブ(4)が引用せる伝説的資料である。数が多く、あるものはサウル王(5)の時代に蒐集され、あるものは更に前のいわゆる“イスラエルの士師(6)”の時代に蒐集され、またあるものはソロモン(7)とヘゼキヤ(8)とヨシア(9)の時代に蒐集されたもので、いずれも口承で語り継がれた伝説に恰好をつけたものに過ぎぬ。啓示の本流がメルキゼデクに発することはすでに指摘した。それ以前のものは悉く信が置けぬ。霊に導かれた人物に関する記録も、必ずしも全てが正確とは言えぬ。しかし全体としての啓示の流れはこれまでわれらが述べて来た通りであったと思えばよい。


〔旧約聖書の聖典がそのような形で決められてきたとなると“預言書”についてはどの程度まで同じことが言えるかを尋ねた。〕


あの預言の書は全てエズラ王の権威のもとに、現存せる資料を加え配列したに過ぎぬ。そのうちのハガイ書(10))、ゼカリア書(11)、マラキ書(12)はその後に付け加えられたものである。ハガイはエズラ書の編纂に関わり、またマラキと共にその後の書を付加して、ついに旧約聖書を完成せしめた。この二人とゼカリアの三人は常に親密な間柄を保ち、大天使ガブリエル(13)とミカエル(14)がその霊姿を預言者ダニエル(15)の前に現わして使命を授けた時にその場に居合わせる栄誉に浴した。預言者ダニエルは実に優れたる霊覚者であった。有難きかな、神の慈悲。有難きかな、その御力の証。


――“ダニエル書”第十章にある“幻(まぼろし)”の話ですか。


ヒデケル(16)の土手のそばでの出来ごとであった。


――同じものです。と言うことは、預言者の言葉からの抜粋に過ぎないということでしょうか。


抜粋に過ぎぬ。それには、もともと隠された意味があった。表面には出ておらぬ。霊現象の多発する時代が過ぎ去らんとする時に、過去の記録より抜粋されたのである。そして再び霊の声の聞かれる時代まで聖書も閉じられたままになったのである。


――ダニエルが大預言者、つまり霊覚者であったと言われますが、当時は霊的能力は珍しくなかったのでしょうか。


ダニエルは格段に優れた霊的能力を具えていた。霊的時代の幕が閉じられるころは霊的能力も滅多に見られなくなっていった。が、今の時代に比べれば霊力の開発に熱心であった。霊力と霊的教訓を大切にし、よく理解していた。


――となると旧約聖書に見られる類の霊言や霊視の記録が相当失われているに相違ありません。


まさにその通りである。記録する必要もなかったのである。記録されたものでも聖書から除外されたものもまた多い。


〔それより二、三日後(十一月十六日)にかねてより約束の、神の概念についての通信を要求した。〕


聖書に見られる神の概念につきては、これまで折にふれて述べて来た。この度は次の諸点すなわち神の概念が徐々に進歩して来ていること、故にアブラハムの神はヨブの神に劣ること、われらが常に指摘している基本的真理――神の啓示は人間の霊的発達と相関関係にあり、人間の能力に応じて神が顕現されるものであることは聖書の至るところに見られることなどをより明確に致したく思う。

その基本的概念を念頭に置いた上でアブラハム、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、エゼキエル、ダニエルの各書を読めば、われらの指摘する通りであることが一目瞭然となろう。初期の族長時代においては絶対的最高神は数々の人間的概念のもとに崇敬されていた。アブラハム、イサク、ヤコブの親子三代に亙る神は、それを神として信じた当人にとっては優れた神であったかも知れぬが、近隣の族長の神よりも優れていたというに過ぎぬ。アブラハムの父はそなたも知る如く変わった神々を信じていた。息子の神とは別の複数の神を信じていた。いや実は当時はそれが当たり前のことであった。各家族がそれぞれの代表としての神をもち、崇め、誓いを立てていたのである。そのことは最高神のことをエホバ・エロヒムと呼んだことからも窺えよう。

さらに、思い出すがよい、ヤコブの義父ラバンはヤコブが自分の神々を盗んだと言って追求し脅迫したであろう。そのラバンはある時家族の神々の像を全部まとめてカシの木の根本に埋め隠したりしている。こうした事実を見てもエホバと呼ばれている神はアブラハムとイサクとヤコブの神なのである。つまり唯一絶対の神ではなく、一家族の神に過ぎなかったのである。

そうした家族神がモーセとその後継者ヨシュアの時代にイスラエルの国家神へと広がっていったのは、イスラエルの民が一国家へと成長した段階になってからのことであった。モーセでさえその絶対神の概念においてまだ他の神より優れた神といった観念より完全に抜け切っていたとは言えぬ。そのことは、神々の中でエホバ神に匹敵するものはおらぬという言い方をしていることからも窺えよう。その類の言説が記録の中に数多く見られる。かの「十戒」の中においてさえ、それを絶対神の言葉そのものであると言いつつ、イスラエルの民はその絶対神以外の神を優先させてはならぬと述べている。ヨシュアの死の床での言葉を読むがよい。そこにも他の神より優れた神の観念を見ることが出来よう。

真の意味での絶対神に近い観念が一般的となってきたのは、そうした人間神の観念に反撥を覚えるまでに成長してからのことであった。“預言書”ならびに“詩篇”を見れば、神の観念がそれ以前の書に比して遙かに崇高さを増していることに気づくであろう。

この事実に疑問の余地はない。神は聖書の中においてさまざまな形にて啓示されている。崇高にして高邁なるものもある。“ヨブ記”と“ダニエルの書”がそれである。一方卑俗にして下品なるものもある。歴史書と呼ばれているものがそれである。が、全体として観た時、そこに神が人間の理解力に相応しき形にて啓示されてきていることを窺うことが出来よう。

またそれは必ずしも直線的に進歩の道を辿って来たともかぎらぬ。傑出せる人物が輩出した時は、神の概念も洗練され品格あるものとなった。必ずそうなっている。ことにイエスが絶対神を説いた時が際立ってそうであった。今なお優れたる霊が霊覚者を通してその崇高なる神の観念を伝え、より明るき真理の光を地上にもたらしつつある。そなたの生きて来たほぼ全世代を通してその働きは続いており、かつてより遙かに明るき神の観念が啓示されつつある。備えなき者は見慣れぬ眩しさに目を瞬(しばた)かせ、光を遮り、暗闇へと逃げ込む。神の真理を正視し得るまでに魂の準備が出来ていなかったからに他ならぬ。


――聖火の伝達者というわけですね。確かに歴史を見れば時代より一歩先んじた人物がいたことは容易に知ることが出来ます。思うに人類の歴史は発展の歴史以外の何ものでもなく、同じ真理でも、その時点での能力以上のものは理解できないことが判ります。そうでなければ永遠の成長ということが言えなくなるわけですから。いずれにせよ、まだまだ私は知らないことばかりです。


己の無知に気づいたことは結構なことである。それが向上の第一歩なのである。そなたは今やっと真理の神殿の最も外側の境内に立ったようなものであり、奥の院にはほど遠き距離にある。まず外庭を幾度も回り、知り尽くしたのちに始めて中庭に入ることを許される。まして奥の院を拝するに相応しき時に到るまでには永く苦しき努力を積まねばならぬ。が、それでよい。焦らぬことである。祈ることである。静かに、忍耐強く待つことである。

(†インペレーター)


〔注〕
(1)Elohist 旧約聖書最初の六書の中で神をElohimと呼んでいる部分の編者。
(2)Yahwist 旧約聖書最初の六書の中で神をYahwehと呼んでいる部分の編者。
(3)Elnathan. (4)Joiarib.(5)Saul イスラエル第一代の王。
(6)the Judges of Israel 裁き人、執権者。
(7)Solomon 紀元前10世紀のイスラエルの王。
(8)Hezekiah 紀元前8-7世紀のユダ王国の王。
(9)Joshia 紀元前7世紀のユダ王国の王。
(10)Haggai 紀元前520年頃のヘブライの預言者。
(11)Zechariah 紀元前6世紀頃のヘブライの預言者。
(12)Malachi 紀元前5世紀のユダヤの預言者。これがインペレーターと名のる霊であるという。(解説参照)
(13)Gabriel 宇宙経綸を与る神庁の最高位霊。聖書においては七大天使の一人とされている。
(14)Michael 悪の勢力との対抗を与る霊団の最高位霊。聖書においては四大天使の一人とされている。
(15)Daniel 紀元前6世紀のヘブライの預言者。
(16)Hiddekel チグリス川 Tigris のこと。トルコ、イラクを通りユーフラテス川と合流してペルシャ湾に注ぐ。