Wednesday, May 13, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

 本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


 
第4章 生まれ変わらなければ誰にも神の国をみることはできません

一、ピリボのカイザリア地方へ行ったとき、イエスは使徒たちに尋ねて言われた。「人々は人の子についてどう言っていますか。私が誰だと言っていますか」。彼らは答えた、「ある人たちはあなたがパブテスマのヨハネだと言っています。

他の者はエリアだと言い、他の者はエレミアか、その他の預言者の一人であると言っています」。

イエスは彼らに言われた、「あなたたちは私が誰だと言いますか」。シモンペテロは答えて言った、「あなたはキリスト、生きる神の子です」。するとイエスは彼に向かって言われた、「ヨナの子、シモンよ、あなたは幸いです。なぜならそのことをあなたに顕わしたのは血でも肉でもなく、天にいる私の父だからです」。 (マタイ 第十六章、13-17 マルコ 第八章   27ー30)


二、さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳に入った。ある人々は「パブテスマのヨハネが、死人の中からよみがえったのだ、それであのような力が彼の内に働いているのだ」といい、他の人々は「彼はエリアだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だと」と言った。

ところがヘロデはこれを聞いて、「私が首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。(マルコ 第六章 14-16、ルカ 第九章 7-9)


三、(変容した後に)使徒たちはイエスにお尋ねして言った。「いったい、律法学者たちは、なぜエリアが先に来るはずだと言っているのですか」。答えて言われた、「確かに、エリアが来て、万事をもとどおりに改めるであろう。しかし、あなたたちに言っておく。エリアはすでに来たのだ。

しかし、人々は彼を認めず、自分勝手に彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。その時、使徒たちは、イエスがパブテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。 (マタイ第十七章 10‐13、 マルコ 第九章 11‐13)


 復活と再生(リインカーネイション)

四、再生は、復活という名によってユダヤ人の教義の一部として存在していました。死とともにすべてが終わると信じていたサドカイ人だけが復活を信じていませんでした。

この点に関するユダヤ人の考えは、その他の事柄に対する考えと同様にあまりはっきりと定まっておらず、なぜならそれは、魂や魂と肉体との結びつきについて、ぼんやりとした不完全な認識しか持っていなかったからです。

正確にどのような方法で、どのようになるのかは知らぬまま、かつて生きていた人が再び生きることが出来ると信じていました。彼らはそれを「復活」と呼んでいましたが、それをスピリティズムではより正確に「再生(リインカーネイション)」と呼んでいます。

「復活」と言う言葉は、すでに死亡した肉体がよみがえるという考えをもたらします。しかし、朽ちた肉体がすでに散乱してしまったり、他の物質に吸収されてしまった後、同じ肉体が再びよみがえるということは物理的に不可能であることを科学では証明しています。

再生とは霊魂が物質的な生活に戻ることですが、過去において用いた肉体とは全く関係のない、その霊のために特別に準備された別の肉体に戻ることです。故に復活という言葉はラザロには適用できますが、エリアやその他の預言者たちには適用できないのです。

ですから、もし使徒たちが信じていたようにパブテスマのヨハネがエリアであったのであれば、ヨハネの肉体はエリアの肉体であったはずはなく、また、ヨハネには子どもの時代があり、その両親も知られていたのです。つまりヨハネは再生したエリアであり得ますが、復活したエリアではないのです。


五、ファリサイ人たちの中に、ユダヤ人の指導者である二コデモという名の者がいた。彼はある夜、イエスのもとへ来て言った、「先生、あなたが神のもとから送られ、師として私たちを指導に来られたことを知っています。なぜならあなたが行うような奇蹟は、神がともにある者でなければ起こすことが出来ないからです」。

イエスは答えて言われた、「誠に言います。生まれ変わらなければ誰にも神の国を見ることはできません」。すると二コデモは言った、「すでに年老いた者がどうすれば生まれ変われるのですか。再び生まれるために母親の胎内に入ることができますか」。

イエスは答えて言われた、「誠に言います。人は水と霊から生まれなければ神の国へ入ることはできません。肉体から生まれるものは肉体であり、霊から生まれるものは霊である。

再び生まれ変わらなければならないとあなたに言ったことに驚いてはなりません。霊は好きなところに息を吹き、あなたたちはその声を聞きますが、あなたはそれをどこから来るのかを知らなければ、それがどこへ行くのかも知りません。

霊から生まれる人にはみな同じことがあてはまります」。二コデモは答えて言った、「そんなことがどうしてあり得ましょうか」。

イエスは彼を見て言われた、「あなたはイスラエルの指導者でありながら、こんなことも分からないのですか。誠に言います。私たちは知ることしか述べず、見たことに対してしか証しません。

それなのにあなたは私の証を受け入れません。私があなたたちに地上のことを言っている時にそれを受け入れないのであれば、私が天のことを言っている時、どうしてそのことを受け入れることが出来るでしょうか」(ヨハネ第三章 1-12)

℘84
六、ヨハネがエリアであったという考えや、預言者たちが再び地球上に生きることが出来るという信仰は、福音の多くの場所に、特に先に引用した部分に見ることができます。もしこの信仰が誤っていたのであれば、イエスは、その他多くの信仰を否定していたようにこの信仰を否定したに違いありません。

しかしそれとは反対に、イエスはその信仰をその権威において全面的に認め、次のように言うことによって必要条件として位置づけました。「生まれ変わらなければ誰にも神の国を見ることはできません」。そして、「再び生まれ変わらなければならないとあなたに言ったことに驚いてはなりません」と付け加えることにより、繰り返しています。


七、「人は水と霊から生まれなければ」と言う言葉は、洗礼の水による精神的生まれ変わりと解釈されてきました。しかし、原文には単純に「水と霊から生まれなければ」と書いてあるだけです。

更には「霊から」と言う言葉は幾つかの翻訳において「聖なる霊において」と言う言葉と置き換えられてしまい、もはや同じことを意味しなくなっています。この重大な点は、福音に対する最初の解釈に端を発していますが、いつかは誤解がなくなり明らかになることでしょう。→FEB版注1


八、この「人は水と霊から生まれなければ」という言葉の真なる意味を理解するには「水」と言う語句の意味に注意しなければなりません。なぜなら、その言葉は本来の意味において用いられていないからです。

 昔の人々が持つ自然科学の知識は非常に不完全なものでした。彼らは地球が水から生まれたと思い、水を絶対的な発生源となる要素であると考えていました。そのことは「創世記」にも「神の霊は水の上に持ち上げられた。水の上に浮いた」と記されています。

「水の中で空が創られ、天の下にある水は一ヵ所に集まり不毛なものが現れる」「水は生きた動物や水の中を泳ぐ動物、地上や空を飛ぶ鳥を生む」。

 この考え方に従えば、水は物質性のシンボルとなり、それは霊が知性のシンボルであると同じです。

「もし人が水と霊から再び生まれなければ」もしくは「水と霊によって再び生まれなければ」と言う言葉は、ゆえに次のような意味を持つことになります。「もし人は肉体と魂によって再び生まれなければ」。元来こうした意味でこれらの言葉は理解されていたのでした。

 こうした解釈は、次の言葉からも正しいことが判ります。「肉体から生まれるものは肉体であり、霊から生まれるものは霊である」。イエスはここに、肉体と霊とをはっきり区別しています。「肉体から生まれるものは肉体」という言葉は、明らかに肉体が肉体のみから発して、霊はそれとは独立しているということを示しています。


九、「霊は好きなところに息を吹き、あなたたちはその声を聞きますが、あなたはそれがどこから来るのか知らなければ、それがどこへ行くのかも知りません」。このことは、望む者に対して命を与える、つまり人間に魂を与える神の霊について述べているのだということを理解することができます。

この最後の「どこから来て、どこへ行くのか」というのは、誰も霊の声を聞くということが何であったか、また霊が何であったかも知らなかったことを意味します。もし、霊もしくは魂が、肉体が創られたのと同じ時にできたのだとすれば、その始まりを知ることを意味するので、それがどこから来たのかが分かることになります。

いずれにしろ、このくだりは魂が以前から存在していたという考え方を神聖化しているのであって、それはつまり存在の複数性を示しているのです。


十、パブステマのヨハネの時代からいままで、天の国は激しく襲われ、粗暴な者たちによって攻められています。ヨハネまでの預言者たちと律法学者たちはこの様に預言しました。もし私の述べることを理解しようと望むのであれば、彼はまさに来たるべきエリアなのです。聞く耳を持つ者は聞きなさい。(マタイ 第十一章 12-15)


十一、再生の原理は、ヨハネの書に表現されているものに従えば、全く神秘的な意味に解釈されたかも知れませんが、このマタイの一節に同じことはあてはまらず、意味の捉え方を間違えようがありません。「彼はまさに来たるべきエリアなのです」。ここにはたとえも、装飾もありません。

断定の表現です。「パブテスマのヨハネの時代からいままで、天の国は激しく襲われ、粗暴な者たちによって攻められています」。その時代にはまだパブテスマのヨハネが生きていたのに、この言葉は何を意味しているのでしょうか。

イエスはそれを、「もし私の述べることを理解しようと望むのであれば、彼はまさに来たるべきエリアなのです」と説明しています。つまり、ヨハネがエリア当人であるので、イエスはヨハネがエリアという名で生きていた時代のことを暗示しています。

「いままで、天の国は激しく襲われ、粗暴な者たちによって攻められています」。これは、従う者に約束された土地、ヘブライ人の楽園を手に入れるために、従わぬ者の根絶を命じたモーゼの律法の暴力性を示しており、一方、新しい律法においては、天の国は慈善と穏和さによって得られることを示しているのです。

そして、「聞く耳を持つ者は聞きなさい」と付け加えました。イエスが何度も繰り返した言葉には、必ずしもすべての人がある種の真実を理解する条件を満たしていたのではなかったことがはっきりと示されています。


十二、あなたたちの民で死を宣告された者は、再び生きることになるでしょう。私の中で死んでいた者は、私を通じて生き返るでしょう。粉塵の中に住む者よ、眠りからさめ、神への賛美を歌いなさい。なぜならあなたたちの上に落ちる露は光の露であるからで、それは亡霊の国の上に降らされるからです。(イザヤ 第二十六章 19)


十三、このイザヤの一節にも大変はっきりと書かれています。「あなたたちの民で死を宣告されたものは、再び生きることになるでしょう」。預言者イザヤがもし霊界における命について、処刑された人々が霊として死んだのではないということを述べたかったのであったなら、「再び生きる」ではなく「まだ生きている」と言ったはずです。

霊的な意味においてこの言葉は理に反します。なぜなら、魂の命の中断の意味を含むことになるからです。道徳的更生という意味においては、死んだ者全てが再び生きるのですから、永遠の罰の否定を意味することになります。


十四、しかし人が一度死に、肉体がその霊から切り離され、消耗してしまうと彼はどうなるのか。一度死んだ人は再び生きることが出来るだろうか。私の人生の上で毎日起こるこの戦いの中で、私が変わることを望む。(ヨブ 第十四章 ⒑、14-Le Maistre ds Sacy の翻訳)

人は死ぬとすべての力を失い、消滅する。その後どこに在るか。人は死ぬと再び生きるのか。何かの変化が訪れるまで、私は毎日の戦いの中で待ち続けるのだろうか。(同前 プロテスタントーOsterwaldの翻訳)

人間は死ぬと、永遠に生きる。地上における私の日々が終わったら、そこへ再び戻るまで、私は待つ。(同前-ギリシャ教会の翻訳)


十五、これら三つの翻訳の中には、存在の複数性が明確に表現されています。ヨブが、全く知る筈もない水の洗礼によって更生することについて言いたかったのだとは誰にも想像できないでしょう。

「人は死ぬと再び生きるのか」。一度死ぬという考えや再び生きるという考えは、何回も生まれたり死んだりするという考えを含んでいます。ギリシャ教会の翻訳にはこの考えがより具体的に表されており、実際にそれが可能であることを示唆しているかのようです。

「地上における私の日々が終わったら、そこへ再び戻るまで、私は待つ」。つまり、地上における生活へ戻るということです。ここで意味することは明白であり、あたかも「私は家を出て行きますが、やがて戻ってきます」と言っているかのようです。

「私の人生の上で毎日起こるこの戦いの中で、私が変わることを望む」。ヨブは明らかに、人生の謎に対する戦いについて触れたかったに違いありません。

「私が変わることを望む」というのは、甘受することです。ギリシャ語の翻訳においては、「私は待つ」とありますが、そのことは、新たな人生があることをより望んでいるかのようです。「地上における私の日々が終わったなら、そこへ再び戻るまで、私は待つ」。それは死の後、一つの人生と次の人生を分けるインターバルの間で、再び戻る時を待つ、とヨブが述べているようです。
                
        
十六、ゆえに復活という名の再生の原理がユダヤ人たちの基本的な信仰の一端であったことは疑いようもありません。イエスや預言者たちが正式な形で確認した事項です。したがって、再生を否定することはキリストの言葉を否定することになります。

しかし、他の多くの事柄に関してもそうであるように、いつかこの言葉が先入観なしで熟考された時には、このことの持つ権威を確認することになるでしょう。
         
      
十七、この宗教的観点から見た権威には、事実の観察から導き出された証拠により、哲学的な権威を加えることができます。結果から原因へと遡る上で、再生は絶対的な必要性として、人類についてまわる条件として現れます。一言で言えば、それは自然の法として現れるのです。

動きが隠された動力の存在を証すように、いわば物質的に、結果によって再生の存在が明らかになります。再生のみが人類に対して「どこから来たのか」「どこへ行くのか」「なぜ地球上に居るのか」を説明し、人生に見られるあらゆる変則や、見かけ上の不公平を正当化することが出来るのです。(→FEB版注2)

 魂の前存在や存在の複数性なくしては、多くの場合福音の教えは理解しがたいものとなってしまい、そのためにこれほどに矛盾した解釈がなされているのです。真なる意味がよみがえるための鍵はこの原理の中にあるのです。



再生が家族の絆を強める一方で、人生が一度限りであれば絆は断たれることになる

十八、再生によって家族の絆はどんな破壊をも被ることはなく、一部の人たちが懸念するようなことはありません。それどころかいっそう絆は強まり固く結ばれることになります。逆に再生しないという考え方においては、絆を破壊してしまうことになります。

 宇宙において霊たちは愛情や好意、意向が似かよっていることによって結びついたグループ、もしくは家族を形成します。ともに出会うことは幸せなことで、こうした霊たちはお互いに相手を探し求めます。肉体を持って生まれることは、一時的に彼らを引き離しますが、霊界に戻ると、旅から戻ってきた友だち同士のように集まります。

お互いに進歩するため努力し合おうと、しばしば肉体を持って生きる世界まで他方を追っていくことがあるため、地上で同じ家族に生まれたり、同じグループに生まれることもあります。

一方が地上に生まれ、他方が生まれて来ないからといって、思考の上での結びつきまでも失うことにはなりません。自由である側は、束縛されたもう一方を守ります。より進歩した側は、遅れた側の進歩のために努力します。

一回毎の人生の後には、みなが完成へ向かう道のりの上で一歩進んでいることになります。物質への執着が少なくなればなるほど、相互の愛情はより生き生きとしたものとなり、それは、愛がより浄化されれば、エゴイズムや情熱の陰に脅かされることが無くなると同じことです。

したがって、この様に、互いに愛情によって結ばれた者同士は、お互いを結びつけるそれぞれの気持ちにいかなる打撃をも受けることなしに、制限されることのない回数の物質界における人生を過ごすことができるのです。


 ここで述べているのが魂と魂を結びつける真なる愛情のことであり、肉体の破壊をも超えて生き続けるものである一方で、この世の人々は霊の世界において、求め合う動機となることのない感情のみによって結びついています。永続し得るのは霊的な愛情だけなのです。

肉体的な愛情は、その愛情の源となった要因がなくなると消滅します。しかし、魂は永遠に存在するのですから、霊の世界においてはこのように消滅してしまうことはありません。お互いの関心事を満たすためだけに結ばれた関係において、一方は他方にたいして、さほど重要ではないため、死はそうした人たちを天と地に分けることになります。


十九、親族の間に存在する絆と愛情は、彼らを近づけた、以前から存在するお互いの思いやりのしるしです。そうしたことから、ある人の人格や趣味、趣向が、肉親や親族に全く似かよっていない時、その人はその家族の人間ではないといわれることがよくあるのです。

そのような言葉は、想像する以上に深い真実を言い表していることになります。家族の中に、このような敵意のある者や見知らぬ者の霊が肉体を持って生まれてくることにより、そのことがある者には試練となり、また他の者にとっては進歩の手段となることを神は許すのです。

そのようにして、悪しき者は善い者たちと接触し、善い者たちが払ってくれる注意によって少しずつ改善されていきます。

悪しき者たちの性格はより穏和になり、その習慣は洗練され、敵意は消えていきます。このように地上において異なった人種や民族が混ざり合うのと同じように、違った分類の霊たちが家族の中に混ざり合うのです。


二十、親族が再生の結果無限に増えて行くのではないかという恐れは、利己的な考えの上に立ったものです。このように考えることは、そうした者に、多くの人たちを迎えるだけの広い愛が欠けていることを証明することになります。

多くの子どもを持つ父親が、その子供たちのうちの一人を愛すとき、例えば一人っ子であった場合に愛する時よりも少ない愛情を持って愛するということがあるでしょうか。

利己的な者たちよ、心を落ち着けてください。そうした恐れに根拠はありません。ある人が十回再生したということは、霊界において十人の父親と母親、十人の妻とその時にできた子どもたちや新しく出来た親族に出会うということではありません。

霊界ではその愛情の対象となった人々に必ず出会いますが、そうした人たちとは地上においてさまざまな続柄で、あるいは、同じ続柄によって結ばれていたに違いないのです。
       
            
二十一、今度は再生を否定する教義がどういう結果をもたらすかを見てみましょう。その教義は必然的に魂の既存性を否定します。魂は肉体と同時に創造されることになり、魂同士の間にはいかなる既存の関係もなく、従って、魂同士は全く見知らぬ者同士ということになります。

子どもにとって父親は親しみのない存在となります。親子関係は、いかなる霊的な関係でもなく、ただの肉体的な親子関係だけに限られてしまいます。そして先祖がどうであったとか、どんなに素晴らしい人であったからといって光栄に思うことは全くなくなってしまいます。

再生の考えにおいては、先祖も子孫も、すでに知り合った者同士で、以前ともに生活し、愛し合った可能性があり、また、その先に置いてもお互いの好感の絆をより強めるために集まることができるのです。
     
     
二十二、以上のことは過去についてのことです。再生のない考え方から生まれた基本的な教義によれば、未来については、魂はたった一度の人生の後、全く悔い改めようのない運命を定められてしまうことになっています。決定的な運命の定めはあらゆる進歩を止めることになります。

なぜなら、幾らかでも進歩があるならば、決定的な運命ではないことになるからです。善く生きたか悪く生きたかによって、魂たちは直ちに至福のすみかか、永遠の地獄へ行くことになります。

直ちに、そして永遠にそうなることによって、霊たちは離れ離れとなり、再び出合う希望も奪われ、父母と子、夫婦、兄弟や友人同士であっても、決して再会を確信することはできなくなります。そこには家族の絆の絶対的な切断が起こります。

再生とそこに見られる進歩によってこそ、愛し合うものはみな地球上でも宇宙においても出会うようになり、ともに神に向かって引かれて行くことになるのです。誰かが途上で衰えてしまえば、その人は進歩と幸福を遅らせることになりますが、すべての希望を失うことではないのです。

その人を愛する者たちによって助けられ、勇気づけられ、守られることによって、いつの日か埋もれたぬかるみから抜け出すことになります。再生によってのみ、永遠の連帯が生者と死者の間に存在することになり、そのことから愛情の絆が強まることになるのです。


二十三、要約すれば、墓石の向こう側の未来について、人間には四つの選択肢が用意されていることになります。

一、唯物主義者の考える無、 二、汎神論者の考える宇宙への合一、 三、教会の教える運命の定められたアイデンティティーの存続、 四、スピリティズムの考える無限の進歩を可能にするアイデンティティーの存続、 最初の二つの考え方においては、家族の絆は死と同時に断ち切られ、未来において魂たちが再会できる希望は残されていません。

三番目の考え方は、魂同士が、天国であれ、地獄であれ、同じ場所へ行く限りは再会する可能性があります。斬新的な進歩と切り離すことが出来ない人生の複数性の考え方においては、愛し合った者同士の関係の継続は確実であり、そうした関係が真なる家族を形成することになるのです。


  



   霊たちからの指導

  受肉(インカーネイション)の限界

二十四、受肉の限界はどこにありますか。

 正しく言うならば、受肉(インカーネイション)に正確な限界はありません。霊の体を構成する被いだけを考慮に入れる場合、その被いの物質性は霊の浄化に従って薄れていくのです。

地球よりも進歩した幾つかの世界においては、その被いの密度は薄れ軽量化し、より希薄であり、結果的には変化を受けにくくなります。より進んだレベルにおいて、その被いは透き通り、ほぼフルイド化した状態になります。徐々に非物質化し、最後にはペリスピリト(→第三章 和訳注1)と間違えるほどになります。

生きるために連れて行かれる世界に応じて、霊はその世界の性質に適当な被いをまとうことになるのです。

 ペリスピリト自体も連続的な変化を遂げていきます。純粋な霊たちの条件となる完全な浄化まで、徐々に純粋化していきます。大きく進歩した霊たちのために特別な世界が存在するのであれば、劣った世界でのように束縛されることはありません。

彼らのある種解放された状態は、彼らがあらゆる場所に行くことを可能にし、必要に応じて各々に託された役割を果たしていくことができるようになるのです。

 物質的な視点のみから受肉を考えるのであれば、地上においてそうであるように、劣った世界にのみ限られるものです。したがって、そこから早く解放されるかどうかは、霊たちの自己の浄化のための努力にかかっているのです。

 また肉体を失っている間、つまり、肉体を持った存在と存在の合間において、霊の状態は、その霊の進度に応じた世界との関係を保っている、ということを考慮に入れなければなりません。したがって、死後の霊界において、霊は多かれ少なかれ幸福で、脱物質化の程度によって、自由となり高尚になるのです。(聖王ルイ パリ、 一八五九年)


 受肉の必要性
二十五、受肉は罰であり、罪を負う霊たちだけがその苦しみを被ることになるのですか。

 霊が肉体の世界で過ごすことは、物質的な行動を通じて神が彼らに託したその意志の実行を遂げるために必要なことなのです。それらは彼らのために必要なことであり、彼らに強いられた活動は彼らの知性の発展を助けることになります。卓越した正義である神は、その子たちにすべてを平等に分配しなければなりません。

そのためすべての子たちのために同一の出発点、同一の能力、遂行すべき同一の義務、進む上での同一の自由を設けたのです。いかなる特権も、これを与えることはひいきとなり、不公平となります。

しかし、受肉は全ての霊にとって一過性の状態に過ぎません。それは人生を開始するうえで神が彼らに強いる任務であり、同時に彼らがその自由意思を行使するための最初の経験なのです。

この任務を熱意を持って遂行する者は速いスピードで、苦しみもより少なく最初の段階を通り過ぎ、自分の苦労のもたらす結果をより早期に味わうことができるようになります。反対に、神が与えてくれた自由を悪用する者はその進歩を遅らせ、そのことは頑固さとなって現れ、受肉の必要性を無制限に引き延ばすことになり、そうなると受肉が罰と化すことになるのです。(聖王ルイ パリ、一八五九年)


二十六、<備考>一般的に知られた次のようなたとえがこの違いを理解しやすくしてくれます。学生は、高等な科学を学ぶようになるには、そこまで導いてくれる一通りの講義を受けなければなりません。こうした講義は、学生がその目的を達成するための手段であり、それがいかなる努力を強いることになろうとも、学生に強要された罰ではありません。

もしその学生が努力家であれば、道を短縮し、それにより、その道のりで出遭う茨も少なくなります。一方で怠惰と無精のために同じ講義を繰り返し受けさせられる人たちの場合、同じようにはいきません。講義における努力が罰となるのではありません。同じ努力を再び開始しなければならないことが罰となるのです。


 同じことが地上の人間にもおこります。霊としての生活を始めたばかりの原始的な霊にとって、受肉は知性を発展させるための手段です。

しかしながら、道徳的な感覚が広く発展した明晰な人にとって、すでに終わりに到達していたであろう時に、苦しみに満ちた肉体生活のステップを踏むことを再び強いられることは、不幸でより劣った世界での滞在を延長しなければならないという意味で、罰となります。

反対に、道徳的進歩のために積極的に努力する者は、物質的な受肉の時間を短縮することができるばかりでなく、より優れた世界と自分を隔てている途中のステップを一度に進んでいくことが出来るのです。

 では、霊たちはある天体に一度だけ生まれ、次の人生は他の天体において過ごすということはないのでしょうか。もし地球上においてすべての人間が知性的にも道徳的にもまったく同じレベルにあったとしたら、同様の見方を認めることが出来るでしょう。

しかし未開人から文明人に至るまでの人々の間に存在する相違は、彼らがどのような段階を登らなければならないかを示しています。ところで、受肉は有益な目的をもっている筈です。では、幼少で亡くなる子供たちのはかない受肉の目的はなんでしょうか。自分にとっても他人にとっても、利益なく苦しんだのでしょうか。

神の法はすべてが卓越した英知に満ちており、なにも無益に行うことはありません。同じ地球上における再生によって、同じ霊たちが、再び接触し、お互いに被った損失を取り戻す機会が与えられることを神は望んだのです。

また、そればかりでなく、以前に会った関係を通じて、自然な法である連帯、兄弟愛、平等により沿い、家族の絆が霊的な土台のもとに確立することを望んだのです。


●FEB版注1
Osterwald の翻訳は原文の通りとなっており、「水と霊から生まれ変わらなければ」となっています。Sacyの翻訳には「聖なる霊」、Lamennaisの翻訳には「聖霊」となっています。

アランカルデックの注釈に、今日ある近代的な翻訳が原文を取り戻しているということをつけ加えておきます。ゆえに、「聖なる霊」ではなく、「霊」と記されています。Ferreirade Almeida のポルトガル語、英語、エスペラントの翻訳を調べると、どれにおいても「霊」とだけ書かれています。

こうした近代的な翻訳に加え、「・・・genitus ex aqua et Spiritu・・・」「・・・et quod genitum est ex Spiritu, Spiritu est 」と書かれた1642年の Theodor de Beza のラテン語の翻訳にもそれを確かめることができます。

アランカルデックが述べるように「聖なる」という言葉が書き加えられたものであるということは疑う余地もありません。──FEB 1947

●FEB版注2
 再生の教義に関する記載、『霊の書』第四章(アランカルデック著)及び Pezzani氏による『存在の複合性について』、『スピリティズムとは何か』第二章(アランカルデック著)参照。

Tuesday, May 12, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

 本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック



第3章 私の父の家には多くのすみかがあります。

一、あなたたちの心を乱してはなりません。神を信じ、また、私を信じてください。私の父の家には多くのすみかがあります。もしそうでなかったら、私はそのことをあなたたちに言っておいたでしょう。

私はその場所をあなたたちのために準備しに行くのですから。私が行き、あなたたちの場所を準備した後、再び戻ってきて、あなたたちを私のところに迎えましょう。(ヨハネ 第十四章 1‐3)



 死後の世界における魂のさまざまな状態
二、父の家とは宇宙のことです。様々なすみかとは、無限の宇宙の中で霊たちに生まれる場所を提供する、霊たちの段階に応じて存在する世界のことです。これらのイエスの言葉は、世界の多様性とは別に、死後の世界に存在する霊たちの幸運、または悲運な状態に関してもあてはめることができます。

物質への執着から解放されたか、あるいはある程度浄化しているかどうかということによって、その霊の置かれる状況、そこでの物事のありさま、そこで感じること、そこで所有する感覚が霊によって無限に違ってきます。

ある者が生前住んでいた場所から離れられない一方で、別の者たちは宇宙のいろいろな世界を行き来します。罪のある霊たちが闇の中で過ちを犯す一方で、至福を得た霊たちは光り輝く明るさと無限なる神の崇高な業を享受することが出来るのです。

結局、悪は後悔や苦しみに悩まされ、慰安を受けることもなく、その愛情の対象となっていた者たちから引き離され、多くの場合孤立してしまい、道徳的な苦しみに悲しむことになり、正しい者は愛する者たちと共に生活し、表現し難い幸せの喜びを享受することになります。

だから、場所も示されて居なければ、その区画もされていませんが、そこには多くの住処があることになるのです。


 霊の住む世界のさまざまな分類
三、霊たちによってもたらされた教えから、さまざまな世界の状況は、そこに住む霊たちの進歩または劣等の度合いによってお互いに大きく違っていることがわかります。それらの世界の中には、まだ地球よりも、道徳的にも物質的にも劣っている世界があります。

他には私たちの世界と同じ分類の世界も存在します。また、すべての点において他の世界よりも優れた世界も存在します。劣った世界では、存在は全て物質的であり、感情が全てを支配し、道徳的な生活はほとんど存在しません。

この世界は進歩するに従って物質の影響が減少しますが、そのようにより進んだ世界における生活は、ほとんど霊的であるということが出来ます。


四、中間に位置する世界には善と悪とが混在しており、そこに住む霊たちの持つ進歩の度合いによって、どちらかがその世界を支配することになります。様々な世界を絶対的に分類することは出来ませんが、その世界の状態とその世界が持つ運命に従って、またその世界の最も目立つ特徴をもとに、一般的に次のように分類することが出来ます。

人間の魂の初期の肉体化のための原始的な世界、
悪を克服するための試練と償いの世界、
さらに試練に立ち向かうべき魂が新しい力を吸い込み、闘いの疲れをいやす更生の世界、
善が悪に勝る幸運の世界、
浄化した霊たちの住む善だけが君臨する神の世界。

地球は試練と償いの世界に分類し、だからこそ、そこにはこれ程までの苦しみを抱えた人々が住んでいるのです。


五、ある世界に生まれてきた霊は、いつまでもそこにとどめられるものでもなければ、その世界の中で、完成するまで実現しなければならない進歩のステップのすべてを経るわけでもありません。

霊たちは一つの世界においてその世界が与える進歩のレベルを達成すると、より進んだ世界へと進んで行き、それを純粋な霊の段階に至るまで繰り返していきます。多くのさまざまな滞在地が存在し、それぞれにおいてすでに達成している段階に適した進歩の要素が霊たちに提供されるのです。

彼らにとっては、より進んだ世界へ昇ることが報酬であるように、ある不運な世界での滞在が延長されることや、悪に固執する限り出ることの出来ない世界よりもさらに不幸な世界へ追放されることは罰となります。


 地球の運命──地球の惨めさの原因
六、多くの人々が地球上にこれほど多く存在する悪意や粗雑な感情、あらゆる種類の惨めさと病に驚き、人類とはとても悲しいものだと結論づけてしまいます。こうした狭められた視野から下された判断は、全体に対する誤った考えを彼らに与えてしまいます。

地球上には人類の全てが存在しているのではなく、人類のほんの一部しかいないのです。実際、人類という種は、宇宙の無数の天体に住む、理性をもった存在全てを含めて意味するのです。

では、これらの世界に住む人口に比べ、地球上の人口とはどんなものでしょうか。ある大きな国に比べた、小さな村にも満たないでしょう。地球の運命と、そこに住む人々の本質を知るならば、地球上の人類の物質的、道徳的状況に何も驚くようなことはありません。


七、ある大きな町の郊外の、もっとも卑しく最低な地区の住人によって、その町全ての住人を判断してしまうのは誤った考えとなります。病院には、病気の人や、身体が不自由な人しかいません。刑務所にはあらゆる醜行、悪徳を見ることができます。

不健康な地区では、その住人の大半は青白く、痩せ細り、病的です。ここで、地球を郊外の地区、病院、刑務所の、全てが同時に存在するところだと考えてみれば、なぜ苦しみが喜びに勝って存在するのかを理解することができます。

健康である者を病院へ送ったり、悪いことをしていないのに刑務所に送ったりはしません。又病院や感化院は歓喜のための場所とはなりません。

 しかし、ある町の住人のすべてが病院や刑務所にいることがないように、人類のすべてが地球上に存在しているわけではありません。そして病気が治ると病院を退院し、懲役を済ませば刑務所から出所するのと同じように、人類も道徳的な病を治療した後には地球を去ることになるのです。


   



   霊たちからの指導

  優れた世界、劣った世界

八、劣った世界と優れた世界の性格とは絶対的なものではありません。どちらかというと、大変相対的なものです。ある世界が劣っているか、優れているかということは、進歩の段階の中でその世界の上または下に存在する世界と比べた場合にのみ決まることです。

 地球を例として、劣った世界の住人を私たちの天体の原始的な時代の痕跡である原始的な生活を続ける人々や、いまだ私たちの間に存在する野蛮な人々にたとえてみれば、その劣った世界の状態がどのようであったかを考えることができます。

遅れた世界では、そこに住む者はある意味において原始的です。人間の形をしていても、美しさは存在しません。彼らの本能は、優しさや善意に弱められておらず、正義と不正を区別するほんのわずかな感情を持つまでには至っていません。彼らの間では粗暴な力が唯一の法です。

産業も発明もないため、食物を手に入れることに人生を費やします。しかし神は、そのいかなる創造物をも見捨てることはありません。知性の闇の底には、ぼんやりと神の存在を感じさせるものが潜在的に横たわっています。

この本能は、彼らの間にお互いの優劣を作りだし、より完全な人生へと昇っていく準備をするためには十分なものなのです。というのも、彼らは堕落した存在なのではなく、成長しつつある子供であるからです。

 劣った段階と、より進んだ段階との間には、無数の段階が存在しますが、物質から解放されて、栄光に輝く純粋な霊たちを見て、彼らもかつてはこうした原始的な霊たちであったことを知ることは、人間の成人を見て、その人が胎児であったことを思いだすのと同じように困難なことです。

  
九、優れた段階へ到達した世界においては道徳的、物質的生活の条件は地球上の生活とは非常に違っています。どの場所においてもそうであるように、そこでも体は人類と同じ形をしていますが、その形はより美しく、完成され、何よりも浄化されています。

その体は、地球上でのような物質性を全く持っていないので、あらゆる肉体の必要性に束縛されることもなければ、物質に支配されていることによって生じる病気や肉体の老化に冒されることもありません。

その知覚はより純粋になるため、地上の世界では物質の粗暴さが妨げとなっていた感覚をもとらえることができます。体の特殊な軽快さは、容易で敏速な移動を可能にします。

地面の上を重々しく体を引きずるのではなく、正しく描写するならば、意思以外のなんの力も加えることなしに、表面を滑ってその環境の中を水平移動して行き、それは昔の人々が極楽における死者の霊魂を想像した姿や、天使たちに表される姿と同じです。

人類は自らの意思により過去の人生の面影を残すことが出来、生前に知られていた姿で出現します。しかし、その時には神の光に照らされ、内面の高尚な性格が形を変容させています。苦しみや感情によって打ちひしがれたような青ざめた顔つきではなく、画家たちが聖人の周囲に後光や光輪を描いたように、知性と生命が輝いています。

 すでに多くの進歩を遂げた霊たちによって、物質が与える抵抗は少なく、体は非常に早く発達し、幼年期はほとんどありません。苦しみや心配から免れ、その人生は地上のものよりも均一的でずっと長いものです。第一に寿命はその世界の段階に比例します。

死が肉体の分解という恐怖をもたらすことなどまったくありません。死は恐ろしいどころか、幸せな変容と考えられるため、そこでは未来に対する疑いは存在しません。

そこで人生を送る間、魂はうっとうしい物質に束縛されることがなく心を広げ、ほぼ永久にその魂を自由にさせてくれる光明を享受することが出来、自由に思考を伝達させることを可能にします。


十、こうした幸運な世界では、人々の関係はいつも友情に溢れており、野心によって誰かに妨害されたり、隣人を隷属化しようとしたりする者はなく、戦争が起きることなどありません。奴隷主と奴隷という関係のような、生まれ持った特権などは存在しません。

ただ知性的、道徳的優位性のみが条件の違いを生み、優越を与えるのです。権威はいつもそれを持つ価値のある者だけに与えられ、いつも正義によって行使されるため、すべての人々の敬意を受けることになります。

人々は他人の上に昇ろうとせず、自らを完成させることにとって自分の上に昇ろうとします。その目的は、純粋な霊の分類に向かって駆け昇っていくことで、この欲求によって苦しめられることは無く、高貴な大志となって、熱心に勉強するように導かれます。

そこで繊細に高められた人間的感覚は増し、浄化されています。憎しみや、つまらない嫉妬や、低俗な羨みというものを知りません。

すべての人々を愛と同胞意識の絆がつなぎ、強い者が弱いものを助けます。知性の度合いに応じて、獲得した財産を所有しています。誰も必要な物が不足することによって苦しむことは無く、誰も償いのために存在しているとは考えていません。一言で言うならば、そのような世界に悪は存在しないのです。


十一、 あなたたちの世界では善を敏感に知るために悪が必要です。光をたたえるために闇が必要です。健康の価値を知るために病が必要です。別の世界ではこのような対比は必要ありません。

永遠の光、永遠の美、永遠の魂の平和が永遠の喜びをもたらし、物質的な生活の苦しみによって妨害されることはなく、また、そこには悪が近づくことが出来ないため、悪との接触によって動揺することもありません。そうしたことを人間の霊が理解しようとするのは非常に困難なことです。

人間は地獄の苦しみは大変巧みに描きましたが、天における喜びを想像することは出来ませんでした。なぜでしょうか。それは人間が劣っているため、苦しみや惨めさしか経験をしたことが無く、天の明るさを予感することがなかったからです。

つまり、知らないことについて語ることは出来ないのです。しかし、人間が向上し、浄化されていくに従って、地平線は延び、自分の後に存在する悪を理解したように自分の前に存在する善を理解することになります。


十二、しかし神はそのどの子に対しても不公平を働くことはなく、よって幸福の世界とは、特権を与えられた天体ではありません。そのような世界に到達するために、神はすべての者に対して同じ権利と容易さを与えます。

全てのものが同じ場所から出発し、優れたものが他人よりも恵まれるということはありません。最高の分類へは誰でも到達することが可能なのです。ただ、人間はそれらを働くことによって征服する必要があり、どれだけ早く到達できるか、それとも活動することなく何世紀も人類のぬかるみにとどまるかは、その人次第なのです。(8-12 優秀な霊たちからのすべての指導を要約)


  試練と償いの世界
十三、あなたたちが住む世界を見回してみればわかるのですから、償いの世界について何を言えばいいのでしょうか。あなたたちの間に住む優れた知性の数を見れば、地球が創造主の手元から離れたばかりの霊たちが生まれてくる、原始的な世界では無いことを示しています。

彼らが身につけている生まれつきの性質は、彼らがすでに存在し、ある程度の進歩を遂げていることの証です。

しかし、無数に罪を犯しがちである悪癖は、道徳的な不完全性のしるしです。神があなたたちを骨の折れる世界へ送ったのは、あなたたちがより幸せな惑星へといずれ昇って行くまで、人生の惨めさや苦しい労働を通じて、その世界で過ちを償うためなのです。


十四、しかしながら、地球上に生まれるすべての霊が、償いのためにそこへ行くのではありません。未開と呼ばれるような人種は、まだ幼年期を脱したばかりの霊たちによって構成されており、より進んだ霊たちと接触することによって発展していくために、言うなれば教育を受けているのです。

次に半文明化した人種は、進歩の途上にある霊たちによって構成されています。彼らはある意味で地球の先住民族であり、何世紀もの長い期間をかけて、少しずつ進歩し、その内のある者は、すでにより高尚な人々と同じ知性的完成度にまで到達しているのです。

 償いを行う霊とは、言うなれば、地球にとっては外来の人々です。すでに他の世界で生活したことがあり、そうした世界において悪に固執し自ら悪を行い、善の妨げとなったために追放されたのです。

遅れた霊たちの間で過ごし、すでに獲得している知識の種と発達した知性を用いて彼らを進歩させる任務が与えられたために、ある期間、段階を下げられて生まれなければならなかったのです。

罰せられる霊たちが、より知性的な霊たちの間に存在するのはそのためです。だからこそ、こうした人種にとって、人生の不運は大変苦く感じられます。道徳観が鈍い原始的な人種よりも、彼らの内面はより敏感なので、人生における支障や不快によってより多くを試されるのです。


十五、結果的に、地球は無限に多様化した試練の世界のうちの一つを提供していますが、そうした世界を明らかにしてみると、共通した特徴として、神の法に対して反抗的な霊たちの追放の場所となっています。

これらの霊たちは同時に、そこで人間の不道徳や自然の残酷さと戦わなければならず、それはまた、心と知性の質を発展させる二重の険しい労働なのです。このように、神はその善意によって、罰そのものが霊の進歩をもたらすようにしているのです。(聖アウグスティヌス パリ 1862年)


 更生の世界
十六、青い空の天井に輝く星の中には、神によって試練と償いのために差し向けられた、あなたたちの世界と同じような世界がどれだけあるでしょうか。あなたたちの世界より惨めな世界も、より良い世界も存在すれば、更生の世界と呼ぶことができる、移り変わりにある世界も存在します。

同じ中心の周りを移動する惑星の渦は、それぞれが原始的な世界、追放の世界、試練の世界、更生の世界、幸福の世界を引きずっています。

善と悪についてはまだ無知ではありながらも、その自由意思によって、自分自身を支配する神へ向かって歩む可能性を持った、生まれたばかりの魂が送られる世界についてすでに私たちは話しました。

また、善を行うために幅広い能力が魂に与えられることも明らかにしました。しかし、ああ、気力を失ってしまう者よ。それでも神はそうした霊たちが抹殺されてしまうことは望まず、生まれ変わりを重ねることによって浄化、更生され、彼らが与えられる栄光に相応しい世界に行くことを許すのです。


十七、更生の世界は、償いの世界と幸せな世界の間の変遷の役割を果たします。後悔する魂はそこで平和と休息を得ることが出来、やがて浄化されていきます。疑いもなく、そのような世界では、人間は未だに物質を支配する法に従わなければなりません。

人類はその感覚や欲望を経験しますが、あなたたちが隷属している無秩序な感情からは解放されており、心を黙らせる自尊心、人類を苦しめる嫉妬、息を詰まらせる憎しみもありません。全ての者の額には愛と言う言葉が書かれています。

社会を完全な平等が支配し、全ての者が神を知り、神の法を守りながら神に向かって歩もうとします。

 しかしながら、これらの世界にあるのはまだ完全な幸せではなく、しあわせの兆しなのです。そこに住む人類はまだ肉体を持っているために完全に物質から脱却した人だけが解放されることになる苦しみを、依然として受ける状態にあります。

いまだに試練に耐えなければなりませんが、償いのような痛々しい苦しみはありません。地球に較べるとこうした世界はとても幸せで、あなたたちのうちの多くの者がそこに住むことに喜びを感じるでしょう。

それは、そうした世界が嵐の後の静けさ、残酷な病気から回復した時のようなところだからです。しかしながら、物質にはわずかしか心を奪われていないため、そこに住む人々はあなたたちよりはっきりと未来を見つめることができます。

真なる命を授かるために死が再び彼らの体を滅ぼした時、主によって約束された、彼らに相応しい他の喜びが存在することを理解しています。そして自由となり、魂はすべての地平線の上を旋回します。物質的で粗暴な感覚はありません。

 ペリスピリト(→和訳注1)の純粋で完全な感覚だけが、神自身から直接放射される、その胸の中心から放たれる愛と慈善の香りを吸い込むのです。


十八、ああ、しかし、これらの世界でも、人間はまだ誤りやすく、悪の霊たちも完全にその統治を失ったわけではありません。前進しないことは後退することであり、善の道をしっかりと踏まなければ、償いの世界に再び戻ることになり、そこで新たな恐ろしい試練がその者を待ち受けることになるのです。

ですから、夜になり休み、祈る時、青い夜空をじっと眺め、あなたたちの頭上に輝く無数の天体のことを想い、地球上での償いを終えた後、どの天体があなたたちを神へと導いてくれるのか自分自身に尋ね、また、更生の世界があなた達を迎えるために開かれることを神にお願いしてください。(16ー18 聖アウグスティヌス パリ 1862年)
   
      
  世界の進歩
十九、進歩は自然の法則です。創造された存在は、動物であれ、静物であれ、すべてが拡大し繁栄することを望む神の善意に服従しているのです。

人間にとってはすべての存在の結末と思えるような破壊でさえも、変遷を通じてより完成された状態に辿り着くための手段に過ぎず、それは、すべてが生まれ変わるために死ぬのであって、消滅させられるものが無いことからも判ります。

 すべての存在が道徳的に進歩すると同時に、彼らの住む世界は物質的にも進歩します。最初の原子が差し向けられ、世界を築くために集まって来た時から、ある世界をそのさまざまな段階において見ることができたとしたら、その世界が絶え間なく進歩する階段を駆け昇っているのが見えるでしょう。

その段差は、それぞれの世代の人々にとっては感じることができませんが、彼ら自身が進歩の道を進むにつれ、ますます住みよい世界となっていくのです。

このように、人間、動物、それらを助ける者たち、植物、そしてすみかは並行して進歩していくのであって、自然界において停止し続けるものは何もありません。この創造主の考えのなんと偉大で、その尊厳のなんと高貴なことでしょうか。

それに引き換え、配慮と用心を取るに足りない一粒の砂でしかない地球だけに集中させ、人類を地球に住むほんの僅かな人間だけであると限定してしまうことの、なんとけちで下劣なことでしょうか。

この世界もかつては今日よりも、道徳的にも物質的にも劣った状態にあったのであり、その法に従えば、この二つの側面においてより進歩した段階へと昇ることになるのです。

地球には変遷の時代が到来しており、その時代には償いの天体から、更生の惑星へと変わっていき、そこには神の法が君臨するために、その世界で人間は幸せになれるのです。(聖アグスティヌス パリ 1862年)
●和訳注1 
 ぺリスピリトとは半物質からできた霊の体を指す。地上に生きる霊は肉体の他にこの体を有しており、死後肉体を捨てるとぺリスピリトのみが霊の体となる。


シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again
Edited by S. Phillips




 編者まえがき

一章 神への祈り

編者まえがき

 ハンネン・スワッハー・ホームサークルの指導霊としてあまねく知られているシルバーバーチの霊言集はすでに数冊出版されているが、読者の要望にお応えして新たにこの一冊が加えられることになったのは有難いことである。これが六冊目となる。他に小冊子が二冊、訓えを要約したものと祈りの言葉を精選したものとが出ている。

 もとより活字ではシルバーバーチの温かい人間味が出せないし、ほとばしり出る愛を伝えることはできない。シルバーバーチは実に威厳のある霊であり、表現が豊かであり、その内容に気高さがあり、しかも喜んで人の悩みに耳を傾け、何者をも咎めることをしない。単純素朴さがその訓えの一貫した性格であり、真理の極印を押されたものばかりである。

 交霊会を年代順に追ったものとしては本書が最初である。一章の中に一回の交霊会の始めから終りまでをそっくり引用したものもあるが、他の二、三の交霊会から部分的に引用して構成したものもある。

私はなるべく同じ霊訓の繰り返しにならないようにしようと思ったが、それはしょせん無理な話だった。シルバーバーチの霊訓の真髄は基本的な霊的真理をさまざまな形で繰りかえして説くことにあるからである。内容的には同じことを言っていても煩をいとわず、その時の言葉をそのまま紹介しておいた。

 これまでの霊言集の中でも説明されているように、シルバーバーチの霊言は速記者によって記録されている。が、シルバーバーチは英語を完璧にマスターしているので、引用に際してはただコンマやセミコロン、ピリオドを文章の流れ具合によって付していくだけでよく、それだけで明快そのものの名文ができあがる。これは驚くべきシルバーバーチの文章能力の為せるわざである。

 さらに付け加えておきたいことは、シルバーバーチはその文章をスラスラと淀みなく口に出しているということである。質疑応答となると、質問者が言い終わるとすぐに答えが返ってくる。

そのあまりの速さに、初めて出席した人は、その会が打ち合わせなしのぶっつけ本番であることが信じられないほどである。

 古くからのシルバーバーチファンは本書を大歓迎してくださるであろうし、初めての方も、本書を読まれることによってきっとシルバーバーチを敬愛する数多くの読者の仲間入りをされることであろう。  
                              S ・ フィリップス



 一章 神への祈り
 いつの交霊会でもシルバーバーチはかならず祈りの言葉で開会する。延べにして数百を数える祈りの中には型にはまった同じ祈りは一つもない。しかしその中味は一貫している。次はその典型的なもののひとつである。

 「神よ、いつの時代にも霊覚者たちは地上世界の彼方に存在する霊的世界を垣間みておりました。ある者は霊視状態において、ある者は入神(トランス)の境地において、そして又ある者は夢の中においてそれを捉え、あなたの無限なる荘厳さと神々しき壮麗さの幾ばくかを認識したのでした。

不意の霊力のほとばしりによる啓示を得て彼らはこれぞ真理なり───全宇宙を支配する永遠にして不変・不動の摂理であると公言したのでした。

 今私どもは彼らと同じ仕事にたずさわっているところでございます。すなわちあなたについての真理を広め、子等があなたについて抱いてきた名誉棄損ともいうべき誤った認識を正すことでございます。

これまでのあなたは神として当然のことであるごとく憎しみと嫉妬心と復讐心と差別心を有するものとされてきました。私どもはそれに代わってあなたの有るがままの姿───愛と叡知と慈悲をもって支配する自然法則の背後に控える無限なる知性として説いております。

 私どもは地上の人間一人ひとりに宿るあなたの神的属性に目を向けさせております。そしてあなたの神威が存分に発揮されるにはいかなる生き方をすべきかを説こうと努めているものでございます。

そうすることによって子等もあなたの存在に気付き、真の自分自身に目覚め、さらにはあなたの摂理の行使者として、彼らを使用せんとして待機する愛する人々ならびに高級界の天使の存在を知ることでございましょう。

 私どもはすべての人類を愛と連帯感を絆として一体であらしめたいと望んでおります。そうすることによって協調関係をいっそう深め、利己主義と強欲と金銭欲から生まれる邪悪のすべてを地上からいっそうすることができましょう。

そして、それに代ってあなたの摂理についての知識を基盤とした地上天国を築かせたいのです。その完成の暁には人類は平和の中に生き、すべての芸術が花開き、愛念が満ちあふれ、すべての者が善意と寛容心と同情心を発揮し合うことでしょう。地上を醜くしている悪徳(ガン)が姿を消し、光明がすみずみまで行きわたることでしょう。

 ここに、己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます」

シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch 

 Edited by A.W. Austen



十三章 質問に答える

(一)──戦争になると友情、仲間意識といったものが鼓舞されるという意味では〝宗教心〟をより多く生み出すことになると言えないでしょうか。

 「それはまったく話が別です。それは〝窮地〟に立たされたことに由来するにすぎません。つまり互いの〝大変さ〟を意識し合い、それが同情心を生み、少しばかり寛容心が培われるという程度のことです。団結心にはプラスするでしょう。困った事態をお互いに理解し合う上でもプラスになるでしょう。それまでの感情的わだかまりを吹き飛ばすこともあるでしょう。

しかし真の宗教心はそれよりもっともっと奥の深いものです。魂の奥底から湧き出る〝人のためを思う心〟です。そして今こそ地上はそれを最も必要としているのです。

 何でもない真理なのです。ところが実はその〝何でもなさ〟がかえって私たちをこれまで手こずらせる原因となってきたのです。もっと勿体ぶった言い方、どこか神秘的な魅力を持った新しい文句で表現しておれば、もう少しは耳を傾けてくれる人が多かったのかも知れません。

その方が何やら知性をくすぐるものがあるように思わせ、今までとはどこか違うように感じさせるからです。

 しかし私たちは知識人ぶった人間をよろこばせるための仕事をしているのではありません。飢えた魂に真理の糧を与え、今日の地上生活と明日の霊的生活に備える方法をお教えしているのです。あなた方は永遠の旅路を行く巡礼者なのです。今ほんのわずかの間だけ地上に滞在し、間もなく、願わくば死後の生活に役立つ知識を身につけて、岐れ道で迷うことなく、旅立つことになっております。

あなた方は旅人なのです。常に歩み続けるのです。地上はあなた方の住処ではありません。本当の住処はまだまだ先です。

 人類は余りに永いあいだ真理というものを見せかけの中に、物的形態の中に、祭礼の中に、儀式の中に、ドグマの中に、宗教的慣習の中に、仰々しい名称の中に、派閥的忠誠心の中に、礼拝のための豪華な建造物の崇拝の中に求めてまいりました。

しかし神は〝内側〟にいるのです。〝外側〟にはいません。賛美歌の斉唱、仰々しい儀式───こうしたものはただの〝殻〟です。宗教の真髄ではありません。

 私は俗世から遁れて宗教的行者になれとは申しません。地上生活でめったに表現されることのない内部の霊的自我を開発する為の生き方を説いているのです。

それがよりいっそう、人のため人類のためという欲求と決意を強化することになります。なさねばならないことは山ほどあります。ですが、大半の人間は地上生活において〝常識〟と思える知識ばかりを求めます。余りに永いこと馴染んできているために、それがすでに第二の天性となり切っているからです」


(二)──休戦記念日に当たってのメセージをお願いします。(訳者注──一九一八年に始まった第一次大戦の休戦日で、これが事実上の終戦日となった。毎年十一月十一日がこれに当たり二分間の黙祷を捧げる。こうした行事を霊界ではどうみているか、日本の終戦記念行事と合わせて考えながら読むと興味深い。なおこの日の交霊会は第二次大戦が勃発する一九三九年の一年前である)

 「過去二十年間にわたって地上世界は偉大な犠牲者たちを裏切り続けてきました。先頭に立って手引きすべき聖職者たちは何もしていません。混迷の時にあって何の希望も、何の慰めも、何の導きも与えることができませんでした。

宗教界からは何らの光ももたらしてくれませんでした。わけの分らない論争と無意味な議論にあたら努力を費やすばかりでした。何かというと、神の目から見て何の価値もない古びた決まり文句、古びた教義を引用し、古びた祭礼や儀式を繰り返すだけでした。

 この日は、二分間、すべての仕事の手を休めて感謝の黙祷を捧げますが、その捧げる目標は、色褪せた、風化しきった過去の記憶でしかありません。

英雄的戦没者と呼びながら、実は二十年間にわたって侮辱し続けております。二分間という一ときでも思い出そうとなさっておられることは事実ですが、その時あなた方が心に浮かべるのは彼らの現在の霊界での本当の姿ではなくて、地上でのかつての姿です。

本来ならばそうした誤った観念や迷信を取り除き霊の力を地上にもたらそうとするわれわれの努力に協力すべき立場にありながら、逆にそれを反抗する側に回っている宗教界は恥を知るべきです。

戦死して二十年たった今なお、自分の健在ぶりを知ってもらえずに無念に思っている人が大勢います。それは地上の縁ある人々がことごとく教条主義のオリの中に閉じ込められているからにほかなりません。

 聖俗を問わず、既得権力に対するわれわれの戦いに休戦日はありません。神に反逆する者への永遠の宣戦を布告する者だからです。開くべき目を敢えて瞑(つむ)り、聞くべき耳をあえて塞ぎ、知識を手にすべきでありながら敢えて無知のままであり続ける者たちとの戦いです。

今や不落を誇っていた城砦が崩れつつあります。所詮は砂上に基礎を置いていたからです。強力な霊の光がついにその壁を貫通しました。もう、霊的真理が論駁(ろんぱく)されることはありません。勝利は間違いなくわれわれのものです。

われわれの背後に勢揃いした勢力はこの宇宙を創造しそのすべてを包含している力なのです。それが敗北することは有り得ません。挫折することは有り得ません」


(三)──これほど多数の戦死者が続出するのを見ていると霊的知識も無意味に思えてきます。
   (この頃第二次大戦が最悪の事態に至っていた──編者)

 「死んでいく人たちのために涙を流してはいけません。死に際のショック、その後の一時的な意識の混乱はあるにしても、死後の方がラクなのです。私は決して戦争の悲劇、恐怖、苦痛を軽く見くびるつもりはありませんが、地上世界から解放された人々のために涙を流すことはおやめなさい」

───でも戦死していく者は苦痛を味わうのではないでしょうか。

 「苦しむ者もいれば苦しまない者もいます。一人ひとり違います。死んでいるのに戦い続けている人がいます。自分の身の上に何が起きたかが分からなくて迷う者もいます。が、いずれも長くは続きません。

いずれ永遠への道に目覚めます。むろん寿命を全うして十分な備えをした上でこちらへ来てくれることに越したことはありません。しかし、たとえそうでなくても、肉体という牢獄に別れを告げた者のために涙を流すことはおやめになることです。

その涙はあとに残された人のために取っておかれるがよろしい。こう言うと冷ややかに聞こえるかもしれませんが、とにかく死は悲劇ではありません」


───後に残された者にとってのみ悲劇ということですね。

 「解放の門をくぐり抜けた者にとっては悲劇ではありません。私は自分が知り得たあるがままの事実を曲げるわけにはまいりません。皆さんはなぜこうも物的観点から物ごとを判断なさるのでしょう。

ぜひとも〝生〟のあるがままの姿を知って下さるように願わずにはおれません。いま生活しておられる地上世界を無視しなさいと申し上げているのではありません。そこで生活しているかぎりは大切にしなくてはいけません。

しかしそれは、これから先に待ち受ける生活に較べれば、ほんのひとかけらに過ぎません。あなた方は霊を携えた物的身体ではありません。物的身体を携えた霊的存在なのです。ほんのひと時だけ物的世界に顕現しているにすぎません」


(四)───霊界の指導者は地上の政治的組織にどの程度まで関与しているのでしょうか。

 「ご承知と思いますが、私たちは人間がとかく付けたがるラベルには拘りません。政党というものにも関与しません。私たちが関心を向けるのは、どうすれば人類にとってためになるかということです。

私たちの目に映る地上世界は悪習と不正と既成の権力とが氾濫し、それが神の豊かな恩恵が束縛なしに自由に行きわたるのを妨げております。そこで私たちはその元凶である利己主義の勢力に立ち向かっているのです。永遠の宣戦を布告しているのです。

そのための道具となる人であれば、いかなる党派の人であっても、いかなる宗派の人であっても、いかなる信仰を持った人であっても、時と場所を選ばず働きかけて、改革なり改善なり改良なり───一語にして言えば奉仕のために活用します」


───それには本人の自由意志はどの程度まで関わっているのでしょうか。

 「自由意志の占める要素はきわめて重大です。ただ忘れてならないのは、自由意志という用語には一つの矛盾が含まれていることです。いかなる意志でも、みずからの力ではいかんともし難い環境条件、どうしても従わざるを得ないものによって支配されています。物的要素があり、各国の法律があり、宇宙の自然法則があり、それに各自の霊的進化の程度の問題があります。

そうした条件を考慮しつつ私たちは、人類の進歩に役立つことなら何にでも影響力を行使します。あなた方の自由意志に干渉することは許されませんが、人生においてより良い、そして理に叶った判断をするように指導することはできます。

 お話したことがありますように、私たちが最も辛い思いをさせられるのは、時として、苦境にある人を目の前にしながら、その苦境を乗り切ることがその人の魂の成長にとって、個性の開発にとって、霊的強化にとって薬になるとの判断から、何の手出しもせずに傍観せざるを得ないことがあることです。

各自に自由意志があります。が、それをいかに行使するかは各自の精神的視野、霊的進化の程度、成長の度合いが関わってきます。私たちはそれを許される範囲内でお手伝いするということです」


(五)───各国の指導的立場にある人々の背後でも指導霊が働いているのでしょうか。

 「むろんです。常に働いております。またその関係にも親和力の法則が働いていることも事実です。なぜかと言えば、両者の間に霊的な親近関係があれば自然発生的に援助しようとする欲求が湧いてくるものだからです。

 たとえば地上である種の改革事業を推進してきた政治家がその半ばで他界したとします。するとその人は自分の改革事業を引き継いでくれそうな人物に働きかけるものです。その意味では死後にもある程度まで、つまり霊の方がその段階を卒業するまでは、国家的意識というものが存続すると言えます。

同じ意味で、自分は大人物であると思い込んでいる人間、大酒呑み、麻薬中毒患者等がこちらへ来ると、地上で似たような傾向を持つ人間を通じて満足感を味わおうとするものです」


───指導者が霊の働きかけに反応しない場合はどうなりますか。

 「別にどうということはありません。但し、忘れてならないのは、無意識の反応───本人はそれと気づかなくても霊界からの思念を吸収していることがあるということです。インスピレーションは必ずしも意識的なものとはかぎりません。

むしろ、大ていの場合は本人もなぜだか分からないうちに詩とか曲とか絵画とかドラマとかエッセーとかを思いついているものです。霊の世界からのものとは信じてくれないかも知れません。が、要するにそのアイディアが実現しさえすれば、それでよいのです」


(六)───各国にその必要性に応じた霊的計画が用意されているのでしょうか。

 「すべての国にそれなりの計画が用意されています。すべての生命に計画があるからです。地上で国家的な仕事に邁進してきた人は、あなた方が死と呼ぶ過程を経てもそれをやめてしまうわけではありません。そんなことで愛国心は消えるものではありません。なぜなら愛国心は純粋な愛の表現ですから、その人の力は引き続きかつての母国のために使用されます。

さらに向上すれば国家的意識ないしは国境的概念が消えて、すべては神の子という共通の霊的認識が芽生えてきます。しかし、私どもはあらゆる形での愛を有効に活用します。少なくとも一個の国家でも愛しそれに身を捧げんとする人間の方が、愛の意識が芽生えず、役に立つことを何一つしない人間よりはましです」


(七)───人類の福祉の促進のために霊界の科学者が地上の科学者にインスピレーションを送ることはあるでしょうか。

 「あえて断言しますが、地上世界にとっての恵み、発明・発見の類のほとんど全部が霊界に発しております。人間の精神は霊界のより大きな精神が新たな恵みをもたらすために使用する受け皿のようなものです。しかしその分量にも限度があることを忘れないでください。

残念ながら人間の霊的成長と理解力の不足のために、せっかくのインスピレーションが悪用されているケースが多いのです。科学的技術が建設のためでなく破壊の為に使用され、人類にとっての恩恵でなくなっているのです」


(八)───そちらからのインスピレーションの中には悪魔的発明もあるのでしょう?

 「あります。霊界は善人ばかりの世界ではありません。きわめて地上とよく似た自然な世界です。地上世界から性質(たち)の悪い人間を送り込むことをやめてくれないかぎり、私たちはどうしようもありません。私たちが地上の諸悪を無くそうとするのはそのためです。

こちらへ来た時にちゃんと備えができているように、待ち受ける仕事にすぐ対処できるように、地上生活で個性をしっかりと築いておく必要性を説くのはそのためです」

              


    
 解説 「動機」と「罪」

 本書は Teachings of Silver Birch の続編で、編者は同じくオースティンである。オースティンという人はバーバネルが職業紹介所を通じて雇い入れた、スピリチュアリズムにはまったくの素人だった人で、さっそくある霊媒の取材に行かされて衝撃的な現象を見せつけられ、いっぺんに参ってしまった。

その後例の英国国教会スピリチュアリズム調査委員会による〝多数意見報告書〟の取得をめぐってバーバネルの片腕として大活躍をしている。

最近の消息はわからない。Psychic News′ Two Worlds のいずれにも記事が見当たらないところをみると、すでに他界したのかもしれない。筆者が一九八一年と八四年にサイキックニューズ社を訪れた時も姿は見当たらなかった。

 この人の編纂の特徴は、なるべく多くの話題をとの配慮からか、あれこれと細かい部分的抜粋が多いことである。〝正〟〝続〟とも同じで、時に短かすぎることもある。その極端な例が動物の死後を扱った第七章で、原典に紹介されているのは実際の霊言の十分の一程度である。

記者としては物足らなさを感じるので、シルビア・バーバネルの(霊言集とは関係のない)本に紹介されている同じ交霊会の霊言全部をそっくり引用させてもらった。

 さて、本書には各自が〝思索の糧〟とすべき問題、そしてまた同志との間でも議論のテーマとなりそうな問題が少なくない。また人間としてどうしても理解しかねるものもある。

 たとえば第三章で最後の審判を信じるクリスチャンが何百年、何千年ものあいだ自分の墓地でその日の到来を待っている(実際には眠っている者の方が多い)という話がある。

さぞ待ちくたびれるだろう、退屈だろうと思いたくなるが、シルバーバーチは霊界には時間というものがないから待っているという観念も持たないという。
 
 それを夢の中の体験に譬えられればある程度まで得心がいく。人間にとって一瞬と思える時間で何カ月、あるいは何年にもわたる経験を夢で見ることがあるのは確かである、霊は反対に人間にとって何か月、何年と思える時間が一瞬に思えることがあるらしい。そこがわれわれ人間には理解しにくい。

 が、それを地上で体験する人がいることは事実である。ガケから足を踏み外して転落して九死に一生を得た人が語った話であるが、地面に落ちるまでの僅か二、三秒間に、それまでの三、四十年の人生の善悪にかかわる体験のすべてを思い出し、その一つ一つについて、あれは自分が悪かった、いや、これは自分が絶対に間違っていないといった反省をしたという。

野球の大打者になると打つ瞬間にボールが目の前で止まって見えることがあるという。意識にも次元があり、人間があるように思っている時間は実際には存在しないことが、こうした話から窺える。
℘242
 しかし太陽は東から昇り西に沈むと言う地上では常識的な事実を考えてみると、これは地球が自転していることから生じる人間の錯覚であるが、いくら理屈ではそう納得しても、実際の感じとしてはやはり毎朝太陽は東から昇り西に沈んでいる。

それと同じで、われわれ人間は実際には存在しない時間を存在するものと錯覚して生活しているに過ぎなくても、地上にいるかぎりは時間は存在するし、そう思わないと生きて行けない。こうしたことはいずれあの世へ行けば解決のつく問題であるから、それでいいのである。

 神の概念も今すぐに理解する必要のない問題、というよりは理解しようにも人間の頭脳では理解できない問題であるから、あまりムキになって議論することもないであろう。

 しかし〝動機〟と〝罪〟の問題はあの世へ行ってからでは遅い、現在のわれわれの生活に直接かかわる問題であり、ぜひとも理解しておかねばならない問題であろう。

 筆者個人としては、こうした問題を意識しはじめた青年時代からシルバーバーチその他の霊的思想に親しんできたので、本書でシルバーバーチが言っていることは〝よく分かる〟のであるが、部分的に読まれた方には誤解されそうな箇所があるので解説を加えておくことにした。

 字面(じずら)だけでは矛盾しているかに思えるのは、第十二章で動機が正しければ戦争に参加して敵を殺すことも赦されると言っておきながら、第十一章では罪は結果に及ぼす影響の度合によって重くもなれば軽くもなると述べていることである。
℘243
 シルバーバーチはつねづね〝動機が一ばん大切〟であることを強調し〝動機さえ正しければよい〟といった言い方までしているが、それはその段階での魂の意識にとっては良心の呵責にならない───その意味において罪は犯していないという意味であって、それが及ぼす結果に対して知らぬ顔をしてもよいという意味ではない。たとえその時点では知らぬ顔が出来ても、霊格の指標となる道義心が高まれば、何年たったあとでも苦しい思いをし反省させられることであろう。

 それは自分が親となってみてはじめて子としての親への不孝を詫びる情が湧いてくるのと同じであろう。その時点では親は親としての理解力すなわち愛の力で消化してくれていたことであろうから罪とは言えないであろう。

しかし罪か否かの次元を超えた〝霊的進化〟の要素がそこに入ってくる。それは教会の長老が他界して真相に目覚めてから針のムシロに坐らされる思いがするのと共通している。

 戦争で人を殺すという問題でシルバーバーチは、その人も殺されるかも知れない、もしかしたら自らの生命を投げ出さねばならない立場に立たされることもあることを指摘するに留めているが、第三章でメソジスト派の牧師が〝自分は死後、自分が間違ったことを教えた信者の一人一人に会わなければならないとしたら大変です〟と言うと、
℘244
その時点ではすでに自ら真相に目覚めてくれている人もいるであろうし、牧師自身のその後の真理普及の功徳によっても埋め合わせが出来ているという意味のことを述べている。この種の問題は個々の人間について、その過去世と現世と死後の三つの要素を考慮しなければならないであろうし、そうすればきちんとした解答がそれぞれに出てくることなのであろう。

 さらにもう一つ考慮しなければならない要素として、地球人類全体としての発達段階がある。第四巻で若者の暴力の問題が話題となった時シルバーバーチは、現段階の地上人類には正しい解決法は出し得ないといった主旨のことを述べている。

これは病気の治療法の問題と同じであろう。動物実験も、死刑制度も、人類が進化の途上で通過しなければならない幼稚な手段であり、今すぐにどうするといっても、より良い手段は見出せないであろう。それは例えば算数しか習っていない小学生には数学の問題が解けないと同じであろう。

 ことに社会的問題は協調と連帯を必要とするので、たとえ一人の人間が素晴らしい解決法を知っていても、人類全体がそれを理解するに至らなければ実現は不可能である。シルバーバーチはそのことを言っているのである。

 戦争がいけないことは分り切っている。が、現実に自国が戦争に巻き込まれている以上、そうして又、その段階の人類の一員として地上に生を受けている以上、自分一人だけ手を汚さずにおこうとする態度も一種の利己主義であろう。もしもその態度が何らかの宗教の教義からきているとすれば、それはシルバーバーチのいう宗教による魂の束縛の一例と言えよう。

〝私は強い意志を持った人間を弱虫にするようなこと、勇気ある人間を卑劣な人間にするようなことは申し上げたくありません〟という第十二章の言葉はそこから出ている。

 これを発展させていくと、いわゆる俗世を嫌って隠遁の生活を送る生き方の是非とも関連した問題を含んでいる。筆者の知るかぎりでは高級霊ほど勇気を持って俗世を生き抜くことの大切さを説いている。

イエスの言う、Be in the world, but not of the world.(俗世にあってしかも俗人になるなかれ)である。このちっぽけな天体上の、たかが五、七十年の物的生活による汚れを恐れていてどうなろう。『霊訓』のイムペレーターの言葉が浮かんでくる───

 「全存在のホンのひとかけらほどに過ぎぬ地上生活にあっては、取り損ねたらさいご二度と取り返しがつかぬというほど大事なものは有り得ぬ。

汝ら人間は視野も知識も人間であるが故の宿命的な限界によって拘束されている。・・・・・・人間は己れに啓示されそして理解し得たかぎりの最高の真理に照らして受け入れ、行動するというのが絶対的義務である。それを基準として魂の進化の程度が判断されるのである」
 
 次に良寛の辞世の句はそれを日本的に表現したものとして私は好きである。


       うらを見せ   おもてを見せて   散るもみじ 良寛                           



  新装版発行にあたって

多くの読者に支持され、版を重ねてきた、このシリーズが、
この度、装いを新たにして出されることになりました。

天界のシルバーバーチ霊もさぞかし喜ばしく思っていてくれていることでしょう。

シルバーバーチの霊訓(五)

 More Teachings of Silver Birch 

 Edited by A.W. Austen



十二章 参戦拒否は是か否か

 参戦拒否、徴兵忌避といった不戦主義はスピリチュアリズムにおいてだけでなく、すべての宗教においてその是非が問われ続けている問題である。

 シルバーバーチは常に道義心───魂の奥の神の声───が各自の行為の唯一の審判官であると説き、従ってその結果に対しては各自が責任を取らねばならないと主張している。

その論理から、母国を守る為には戦争も辞さず、必要とあらば敵を殺(あや)めることも一国民としての義務であると考える人をシルバーバーチは咎めない。これが〝矛盾〟と受け止められて批判的な意見が寄せられることがあるが、これに対してある日の交霊会でこう弁明した。

 「批判的意見を寄せられる方は、私がこれまで戦争というものをいかなる形においても非難し、生命は神聖であり神のものであり、他人の物的生命を奪う権利は誰にもないという主張を掲げてきながら、今度は〝英国は今や正義の戦に巻き込まれた。これは聖なる戦いである。聖戦である〟と宣言する者に加担しているとおっしゃいます。

 私は永年にわたってこの霊媒を通じて語ってまいりました。今これまでに私が述べたことを注意ぶかくふり返ってみて、この地上へ私を派遣した霊団から指示されたワクに沿って私なりに謙虚に説いてきた素朴な真理と矛盾したことは何一つ述べていないと確信します。

今も私は、これまで述べてきた通りに、人を殺すことは間違いである、生命は神のものである、地上で与えられた寿命を縮める権利は誰にもないと断言します。前にも述べたことですが、リンゴは熟せば自然に落ちます。もし熟さないうちにもぎ取れば、渋くて食べられません。霊的身体も同じです。

熟さないうちに、つまり、より大きな活動の世界への十分な準備ができないうちに肉体から離されれば、たとえ神の慈悲によって定められた埋め合わせの原理が働くとはいえ、未熟なまま大きなハンディを背負ったまま新しい生活に入ることになります。

 その観点から私は、これまで述べてきたことのすべてをここで改めて主張いたします。これまでの教訓をいささかも変えるつもりはありません。繰り返し(毎週一回)記録されている私の言葉の一語一語を自信を持って支持いたします。同時に私は、いかなる行為においてもその最後に考慮されるのは〝動機〟であることも説いております。

 まだこの英国が第二次世界大戦に巻き込まれる前、いわゆる〝国民兵役〟への準備に国を挙げて一生懸命になっておられた時分に、〝こうした活動に対してスピリチュアリストとしての態度はどうあるべきでしょうか〟との質問に私は〝そうした活動が同胞への奉仕だと信ずる方は、それぞれの良心の命ずるがままの選択をなさることです〟と申し上げました。

 いま英国はその大戦に巻き込まれております。過去にいかなる過ちを犯していても、あるいはいかに多くの憎しみの種子を蒔いても、少なくともこの度の戦争は英国自ら仕掛けたものではないことは確かです。

しかし、それでもやはり戦争をしているという咎めは受けなくてはなりません。後ればせながら英国もこの度は、いくぶん自衛の目的も兼ねて、弱小国を援助するという役目をみずから買って出ております。

もしも兵役に喜んで参加し、必要とあらば相手を殺めることも辞さない人が、自分はそうすることによって世界のために貢献しているのだと確信しているのであれば、その人を咎める者は霊の世界に一人もいません。

 動機が何であるか───これが最後の試練です。魂の中の静かな、そして小さな声が反撥するが故に戦争に参加することを拒否する人間と、これが国家への奉公なのだという考えから、つまり一種の奉仕的精神から敵を殺す覚悟と同時にいざとなれば我が身を犠牲にする覚悟を持って戦場へ赴く人間とは、私たちの世界から見て上下の差はありません。動機が最も優先的に考慮されるのです。

 派閥間の論争も結構ですが、興奮と激情に巻き込まれてその単純な真理を忘れた無益な論争はおやめになることです。動機が理想的理念と奉仕の精神に根ざしたものであれば、私たちはけっして咎めません」

───それでも、やはり人を殺すということがなぜ正当化されるのか、得心できません。

 「必要とあれば───地上的な言い方をすれば───相手を殺す覚悟の人は、自分が殺されるかもしれないという危険をおかすのではないでしょうか。どちらになるかは自分で選択できることではありません。相手を殺しても自分は絶対に殺されないと言える人はいないはずです。もしかしたら自らの手で自らを殺さねばならない事態になるかもしれないのです」

 さらに別の質問を受けてシルバーバーチはその論拠を改めて次のように説明した。


 「私たちは決して地上世界がやっていることをこれで良いと思っているわけではありません。もし満足しておれば、こうして戻って来て、失われてしまった教えを改めて説くようなことはいたしません。

私どもは地上人類は完全に道を間違えたという認識に立っております。そこで、何とかしてまともな道に引き戻そうとしているところです。しかし地上には幾十億と知れぬ人間がおり、みな成長段階も違えば進歩の速度も違い、進化の程度も違います。

すべての者に一様に当てはめられる型にはまった法則、物的ものさし、といったものはありません。固定した尺度を用いれば、ある者には厳しすぎ、ある者には厳しさが足りないということになるからです。殺人者に適用すべき法律は、およそ犯罪と縁のない人間には何の係りもありません。

 かくして人間それぞれに、それまでに到達した成長段階があるということを考慮すれば、それを無視して独断的に規準をもうけることは許されないことになります。前にも述べましたように、神は人間各自にけっして誤まることのない判断の指標、すなわち道義心というものを与えています。その高さはそれまでに到達した成長の度合いによって定まります。

あなた方が地上生活のいかなる段階にあろうと、いかなる事態に遭遇しようと、それがいかに複雑なものであろうと、各自の取るべき手段を判断する力───それが自分にとって正しいか間違っているかを見分ける力は例外なく具わっております。

あなたにとっては正しいことも、他の人にとっては間違ったことであることがあります。なぜなら、あなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです。徴兵を拒否した人の方が軍人より進化の程度において高いこともありますし低いこともあります。しかし、互いに正反対の考えをしながらも、両方ともそれなりに正しいということも有りうるのです。

 個々の人間が自分の動機に従って決断すればそれでよいのです。すべての言いわけ、すべての恐れや卑怯な考えを棄てて自分一人になりきり、それまでの自分の霊的進化によって培われた良心の声に耳を傾ければよいのです。

その声はけっして誤まることはありません。けっしてよろめくこともありません。瞬間的に回答を出します。(人間的煩悩によって)その声がかき消されることはあります。

押し殺されることはあります。無視されることもあります。うまい理屈や弁解や言いわけでごまかされることもあります。しかし私は断言します。良心は何時も正しい判決を下しています。それは魂に宿る神の声であり、あなたの絶対に誤まることのない判断基準です。

 私たちに反論する人たち、特にローマカトリック教会の人たちは、私たちが自殺を容認している───臆病な自殺者を英雄または殉教者と同等に扱っていると非難します。が、それは見当違いというものです。私たちは変えようにも変えられない自然法則の存在を認めると同時に、同じ自殺行為でも進化の程度によってその意味が異なると観ているのです。

確かに臆病であるがゆえに自殺という手段で責任を免れようとする人が多くいます。しかし、そんなことで責任は逃れられるものではありません。死んでもなお、その逃れようとした責任に直面させられます。

しかし同時に、一種の英雄的行為ともいうべき自殺───行為そのものは間違っていても、そうすることが愛する者にとって唯一の、そして最良の方法であると信じて自分を犠牲にする人もいます。そういう人を卑怯な臆病者と同じレベルで扱ってはなりません。大切なのは〝動機〟です」


 ここでメンバーの一人が、不治の病に苦しむ人が周りの人たちへ迷惑をかけたくないとの考えから自殺した例をあげた。するとシルバーバーチは───

 「そうです。愛する妻に自由を与えてやりたいと思ったのかもしれません。〝自分がいなくなれば妻が昼も夜もない看病から解放されるだろう〟───そう思ったのかもしれません。その考えは間違いでした。真の愛はそれを重荷と思うようなものではないはずです。

ですが、その動機は誠実です。心がひがんでいたのかもしれません。しかし、一生けんめい彼なりに考えたあげくに、そうすることが妻への最良の思いやりだと思って実行したことであって、けっして弱虫だったのではありません」
 

 では最後に〝戦うことは正しいことだと思いますか〟という質問に対するシルバーバーチの答えを紹介しておこう。これは大戦が勃発する前のことであるが、その主張するところは勃発後と変わるところはない。これを〝矛盾〟と受け止めるかどうか───それは読者ご自身が全知識、全知性、全叡知を総動員して判断していただきたい。

 「私はつねづねたった一つのことをお教えしております。動機は何かということが一ばん大切だということです。そうすることが誰かの為になるのであれば、いかなる分野であろうと、良心が正しいと命ずるままに実行なさることです。私個人の気持ちとしては生命を奪い合う行為はあってほしくないと思います。生命は神のものだからです。

しかし同時に私は、強い意志を持った人間を弱虫にするようなこと、勇気ある人間を卑劣な人間にするようなことは申し上げたくありません。すべからく自分の魂の中の最高の声に従って行動なさればよいのです。ただし、殺し合うことが唯一の解決手段ではないことを忘れないでください」


───例えばもし暴漢が暴れ狂って手の施しようがない時は殺すという手段も止むを得ないのではないでしょうか。

 「あなた方はよく、ある事態を仮定して、もしそうなった時はどうすべきかをお尋ねになります。それに対して私がいつもお答えしていることは、人間として為すべきことをちゃんと行っていれば、そういう事態は起きなかったはずだということです。

人間が従うべき理念から外れたことをしながら、それをどう思うかと問われても困るのです。私たちに出来ることは、真理と叡知の原則をお教えし、それに私たち自身の体験から得た知識を加味して、その原則に従ってさえいれば地上に平和と協調が訪れますと説くことだけです。流血の手段によっても一時的な解決は得られますが、永続的な平和は得られません。


 血に飢えて殺人を犯す人間がいます。一方、自由のための戦いで殺人行為をする人もいます。そういう人の動機に私は異議は唱えません。どうして非難できましょう。明日の子供のために戦っている今日の英雄ではありませんか。

 私にできることは真理を述べることだけです。だからこそ政治的レッテルも宗教的ラベルも付けていないのです。だからこそどこの教会にも属さず、いわゆる流派にも属さないのです。

 人間は自分の良心の命じる側に立って、それなりの役目を果たすべきです。どちらの側にも───敵にも味方にも───立派な魂を持った人がいるものです。ですから、動機とは何か───それが一ばん大切です。こうすることが人のためになるのだと信じて行なうのであれば、それがその人にとって正しい行為なのです。

知恵が足らないこともあるでしょう。しかし、動機さえ真剣であれば、その行為が咎められることはありません。なぜなら魂にはその一ばん奥にある願望が刻み込まれていくものだからです。

 私は常にあなた方地上の人間とは異なる規準で判断していることを忘れないでください。私たちの規準は顕と幽のあらゆる生活の側面に適用できる永遠に不変の規準です。時には悪が善を征服したかに思えることがあっても、それは一時的なものであり、最後には神の意志が全てを規制し、真の公正が行きわたります。

 その日その日の気まぐれな規準で判断しているあなた方は、その時々の、自分が一ばん大事だと思うものを必要以上に意識するために、判断が歪められがちです。

宇宙を大いなる霊が支配していることを忘れてはなりません。その法則がこの巨大な宇宙を支えているのです。大霊は王の中の王なのです。その王が生み神性を賦与した創造物が生みの親をどう理解しようと、いつかはその意志が成就されてまいります。

 地上の無益な悲劇と絶望の有様を見て私たちが何の同情も感じていないと思っていただいては困ります。今日の地上の事態を見て心を動かされなかったら、私たちはよほど浅はかな存在といえるでしょう。しかし私たちはそうした地上の日常の変転極まりないパノラマの背後に、永遠不変の原理を見ているのです。

 どうかその事実から勇気を得て下さい。そこにインスピレーションと力とを見出し、幾世紀にもわたって善意の人々が夢見てきた真理の実現のために働き続けて下さい。その善意の人々は刻苦勉励してあなた方の世代へ自由の松明(たいまつ)を手渡してくれたのです。今あなた方はその松明に新たな炎を灯さなくてはならないのです」(巻末〝解説〟参照)


Monday, May 11, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

 本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。
────アラン・カルデック



第2章 私の国はこの世のものではありません。

一、ピラトは再び官邸に入ると、自分の前にイエスを呼んで、尋ねた、「おまえはユダヤの王なのか」イエスは答えられた、「私の国はこの世のものではありません。もし私の国がこの世のものであったとしたら、人々は戦って、私がユダヤ人の手にわたることを阻止したでしょう。しかし、私の国はこの世のものではありません」

するとピラトは言った、「おまえは王か」。イエスは答えられた、「あなたの言う通り、私は王です。私がこの世に来たのは真実の証をするためです。真実につく者は私の声を聞くでしょう」(ヨハネ 第十八章  三十三 三十六 三十七)


 未来における生活
二、こうした言葉によって、イエスははっきりと未来における生活に付いて触れていますが、イエスはその生活が、いかなる場合においても、人類の目指す目標であり、地上における人間はその生活のことを最大の関心事と捉えるべきであると示しています。イエスの金言はすべて、未来における生活が存在するというこの大きな原則に基づいているのです。

未来における生活がなければ、イエスの道徳上の教訓のほとんどは、どんな根拠も存在しなくなってしまうため、未来における命を信じない者たちは、イエスが現在の生活についてのみ語っているのだと考え、その教えを理解できずに、無益なものだと考えたのです。

 したがって、この教義はキリストの教えの中心軸となるものであり、そのために本書の初期の章に挿入されました。この教えは人類全ての目標とならなければならないのです。この教えだけが、地上における生活で生じる不平等の正当性を、神の正義に基づいて明らかにしてくれるのです。


三、ユダヤ人たちが未来における生活に付いて抱いていた考えは、ただ不明確なものでしかありませんでした。天使を信じていましたが、それらは創造主によって特権を与えられた存在であると考えていました。

人類がいつの日か天使となり、その幸せを分かち合うことができるようになるのだということは知り得なかったのです。彼らは神の法を遵守すれば、その報いとして地上で富を得たり、自分たちの国を優勢に導いたり、敵に勝利することが出来ると考えていました。

災害や敗北を被ることはすなわち、神の法を破ったことによって与えられる罰であったのです。モーゼは何よりもまず、この世の物事に心を動かされてしまう無知な牧人たちに、それ以上のことを伝えることはできませんでした。

時が過ぎ、イエスは神の正義が支配する別の世界があることを示しました。そしてイエスはこの世界の存在を神の戒めを守る者たちに約束し、そこで善き人々は相応の報いを受けることが出来るとしたのです。

そこがイエスの支配する国なのです。この地上を後にして戻っていくその国に、イエスの栄光が存在するのです。


 しかし、イエスは当時の人類の状況を鑑み、完全なる光を彼らに与えても、理解されず、当惑させてしまうだろうと察し、そうすべきではないと考えました。そしてまさしくイエスは、未来における生活をあくまでも原則として示し、その作用から誰も逃れることはできない自然の法なのだというにとどめたのです。

よって、全てのキリスト教徒は必然的に未来における生活を信じています。しかし、多くの人々のそれに対する考えは曖昧で不完全であり、それ故に多くの点において誤っています。多くの人々にとって、それは単なる信仰箇条以上の何ものでもなく、絶対的な確信を欠いているというところから疑問と不信心が生まれるのです。

 スピリティズムは、そのように不十分なキリストの教えを補うために、人類がその真実を学ぶに足りるだけの発達段階に十分達した時期に登場したのです。スピリティズムがもたらされることによって、未来における生活は信仰の単なる一箇条でも、単なる仮説でもなくなります。

それは事実によって裏付けられた、実体ある現実のものとなるのです。なぜなら、未来における生活のすべての側面を、すべての出来事において描写しているのは、自からそれを目撃した証人たちであるからです。

そのためにこの事柄に対するどんな疑問を抱くこともできないばかりか、普通の知性の持ち主であれば未来の生活について、ある詳細な描写を読むことによって、ある国のことを誰もが想像できるように、その真の姿を想像することができるのです。

未来の生活の描写はとても細かく説明されており、彼らがそこで幸せなのか、不幸なのか、彼ら自身の生活がどうなのかが分かります。合理的なその状況は、彼ら自身が生みだしたものです。ここにいる私たち各々は、いやでもその状況が、理にかなっていることを認め、自分に言い聞かせることになりますが、そこに神の真なる正義の存在が明かされているのです。
 

 イエスの王位
四、イエスの国がこの世のものではないことはみな理解するところですが、地上においてもイエスには王位があるのではないでしょうか。王というのは、一時的に権力を行使する人物に限りません。

この称号は、いかなる分野であっても、その素質によって第一等の頂点に昇り、その時代を支配し、人類の進歩に寄与するとみなが認めた者に与えられるものです。だからこういう意味で、私たちは、優れた哲学者、芸術家、詩人、作家などを「王」または「王子」と呼ぶことがあります。

こうした個人の功績から来る王座や、子孫によって神聖化された王座は、多くの場合、実際に王冠を持つ王位よりも優勢なものとして映ってはいないでしょうか。前者の王座は消滅し得ないものですが、後者の王位には盛衰があります。また、前者に対してはいつの世も賞賛しますが、後者に対しては、ののしることもしばしばあります。

地上での王位は命とともに終結します。道徳的な王位はその力を永続し、死後においても支配します。このような点でイエスは、地上において権利を与えられた王よりも偉大な権威を有しているとは言えないでしょうか。ピラトに対して「私は王です。しかし、私の国はこの世のものではありません」と言ったのにはこうした意味が込められていたのです。


   視点
五、未来における生活を明確かつ詳細に認識することは、未来に対する揺るがぬ確信を形成することになり、その、確信が、地上において人間を取り巻く生活に対する視点を完全に変えてしまうため、人類の道徳観念に多大な影響を及ぼします。

その思考において自分を無限の霊的な生活に置くことが出来る者にとっては、肉体を持つ生活は単なる一過性のもの、不幸な国での一時的な滞在となります。

その生活における一連の盛衰や混乱は一時のものであり、その後により幸せな生活が訪れることが判っているので、じっと耐え忍んでいればいいような出来事に過ぎないのです。死はもはや虚無に対して開かれた恐れをもたらす扉ではなく、解放へと通じる扉となり、流刑者たちはそこを通って、平和と至福の家に入っていくことができるようになるのです。

この世での滞在が永遠のものではなくて一時的なものだということを知っているので、人生の心配事にも大した関心を抱くことなく霊的な平静をもたらし、悲哀の多くを取り除くことになります。

 未来における生活を疑うという単純なことから、人間はそのあらゆる考えを地上における生活に差し向けます。地上における富以上に貴重な富を見つけることがでず、自分のおもちゃ以外何も目に入らぬ子供のようになります。そして唯一本物として映る地上の富を獲得するために、どんなことでも行います。

そうした富のほんの少しでも失おうものなら、過失、失望、満たされぬ野心、不正の犠牲となること、傷つけられた自尊心や虚栄心と言った数々の苦痛が、人生においていつまでも続く苦悩と化すのです。

このように人間は、いつも真の拷問を自らに科していることになります。自分が実際にあると考える物質世界に視点を置くと、自分の周りにあるものがその視野すべてを占めることになります。そうした目には、自分のもとに訪れる悪や、他の者を動かす善などが、大きな重要性を持つように映ってしまいます。都会の中にいる者にはすべてが大きく見えます。

高い地位に辿り着いた者にとって、その記念碑は、とても大きく見えるものです。しかし、山に登って見下ろすと、人も物も小さく見えるようになります。未来における生活に重点を置いて地上の生活を送る人にはこのような視点があります。

 人類は、天にある星と同じように、無限に広がる空間の中では小さすぎて見分けがつかなくなります。すると蟻塚の上にいる蟻のように、大きなものも小さなものも混同してしまっていることに気づきます。無産者も主権者も同じ背丈であることがわかります。

悲しいことに、これらのはかない生き物たちは、彼らを殆ど向上させることのない、とても短い時間しか持続しない、その居場所を勝ち取るために、大変な苦労に身を投じているのです。このことから、私たちが地上の財産に与える重要性が、常に未来における生活への確信から来る重要性とは相反しているのだと考えるようになるのです。
 

六、すべての者がこのように考えるようになっては、誰も地上のことに気を取られなくなってしまい、地上のものはすべて危険にさらされてしまうのではないでしょうか。しかし、実際にはそうはなりません。

人間は本能的に快適な生活を求め、その場所に短時間しかいないことが確実であったとしても、そこに最も良い状態で、もしくは可能な限り悪の少ない状態でいようとします。手に棘が触れた時、それに刺されないようにとその手をどけない人はいません。

快適さへの欲求は、人間にすべてを改善させることを強要しますが、それは自然の法の中にある、進歩と保存の本能によるものです。故に人間は必要性や嗜好、または義務によって働くことで神の意に叶うことが出来、また神もそうした目的の為に人類を地上に送ったのです。

端的に言えば、未来に心を託し今日に対して必要以上に関心を持たない者は、失敗しても、自分を待ち受ける未来について考えて、容易に自分を慰めることが出来るのです。

 神は地上の楽しみを非難することはありません。しかし魂に損害を与えるまでこの楽しみに溺れることを非難します。イエスの言った次の言葉を自分自身に応用させることができる者は、こうした楽しみの濫用を予防することができます。「私の国はこの世のものではありません」。

未来における生活を自分の身に起こることとして考えることができる者は、少額を失うことに動揺せぬ金持ちのような人です。地上の生活ばかりに考えを集中させる者は、持つものをすべて失い途方に暮れてしまう貧乏な人のようです。


七、スピリティズムは思考を広げ、新しい地平線を切り開きます。現世ばかりに集中した、狭苦しいほどの小さな視野は、地上に住む一瞬だけを唯一のはかない未来の基軸と考えさせますが、スピリティズムはそれとは違い、現世というものが、調和のとれた壮大な創造主の一連の業の一端に過ぎないのだということを示してくれます。

同じ存在同士、同じ世界に住むすべての存在同士、全ての世界のあらゆる存在同士の生活を結びつける連帯関係を示してくれます。それによって宇宙全体の兄弟愛の存在の理由と基礎が与えられます。

一方で魂は一人一人の肉体が生まれる時に創造されるのだという教義では、すべての存在がお互いに知らぬ者同士だということになってしまいます。

単一の全体に属する各部を結びつけるこの連帯感は、ある一部分だけを考慮に入れたのでは一見説明しようがない事柄をも解説することになります。キリストの時代、人類はこの全体の繋がりについて理解することができませんでしたが、そのためにイエスはそのことが理解されることを後の時代に残しておいたのです。
 





   霊たちからの指導

  地上における王位

八、「私の国はこの世のものではありません」とイエスが言われたことの本当の意味を、一体誰が私以上に理解することが出来るでしょうか。私は地上で暮らす間、自尊心によって自分を見失っていました。

地上での王位と言うものが、こちらでは何の役にも立たないということを、女王であった私が言っているのです。地上の国から、私はこちらに何を持ってくることが出来たでしょうか。

何一つ持ってくることは出来ませんでした。それどころか地上の墓にさえも持ってくることが出来なかったということは、このことを理解させてくれる痛ましい現実でした。人間たちの間で女王でいる者は、天の国へ行っても女王であり続けるものだと信じていました。

しかし何と言う誤解であったことでしょう。最高なる者として迎えられる代わりに、私より上に、はるか上に、地上では高貴な血を引いていないからといって、身分の低いものとして軽んじていた人たちを見た時の恥ずかしさ。

ああ、やっとその時、自分の高慢さと、地上で人類が貪欲に求める「高い地位」のつまらなさを知ることが出来ました。

 こちらの国で必要なものは、献身、つつましさ、慈善、全ての人に対する慈悲深さです。あなたが地上で何であったか、どんな身分でいたかは問われません。あなたがどのような善を働いたか、どれだけ涙を乾かしてあげることが出来たかが問われるのです。

 ああ、イエスよ、あなたの国はこの世のものではないと言われました。それは、天に辿り着くには苦しまなければならないからです。そしてこの世の王位など持っていくことは出来ないからです。人生の苦しい道のりが天へ導いてくれるのです。だから花の中にではなく、棘の中に道を求めなければならないのです。

 人間はそれをあたかも永遠に自分のものとすることが出来るかのように地上の富を追いかけます。しかし、こちらにはそのような幻想は存在しないことを知り、こちらの国の扉を開く唯一の、確実で長続きするものをそれまで軽んじて、影ばかりを追い続けていたのだということにすぐに気づくのです。

 天の国の王位を得ることの出来なかった者を哀れんでください。あなたたちの祈りによって、彼らを助けてあげてください。なぜなら祈りは人を神に近づけ、地上と天を結ぶものだからです。どうかそのことを忘れないでください。(あるフランスの女王 ルアーブル、一八六三年)

シルバーバーチの霊訓(五)

 More Teachings of Silver Birch 

 Edited by A.W. Austen




十一章 青年牧師との論争

 ある時メソジスト教派(※)の年次総会が二週間にわたってウェストミンスターのセントラルホールで開かれ、活発な報告や討論がなされた。が、その合間での牧師たちの会話の中でスピリチュアリズムのことがしきりにささやかれた。

(※メソジストというのはジョン・ウェスレーという牧師が主唱し弟のチャールズと共に一七九五年に国教会から独立して一派を創立したキリスト教の一派で、ニューメソッド、つまり新しい方式を提唱していることからその名があるが、基本的理念においては国教会と大同小異とみてよい───訳者)

 そのことで関心を抱いた一人の青年牧師がハンネン・スワッハーを訪ね、一度交霊会というものに出席させてもらえないかと頼んだ。予備知識としてはコナン・ドイルの The New Revelation (新しい啓示) という本を読んだだけだという。が、スワッハーは快く招待することにし、

 「明日の晩の交霊会にご出席ください。その会にはシルバーバーチと名告る霊が入神した霊媒の口を借りてしゃべります。その霊と存分に議論なさるがよろしい。納得のいかないところは反論し、分からないところは遠慮なく質問なさることです。その代わり、あとでよそへ行って、十分な議論がさせてもらえなかったといった不平を言わないでいただきたい。質問したいことは何でも質問なさって結構です。

その会の記録はいずれ活字になって出版されるでしょうが、お名前は出さないことにしましょう。そうすればケンカになる気遣いもいらないでしょう。もっともあなたの方からケンカを売られれば別ですが」という案内の言葉を述べた。
 
 さて交霊会が始まると、まずシルバーバーチがいつものように神への祈りの言葉を述べ、やおら青年牧師に語りかけた。


 「この霊媒にはあなた方のおっしゃる〝聖霊〟の力がみなぎっております。それがこうして言葉をしゃべらせるのです。私はあなた方のいう〝復活せる霊〟の一人です」

(訳者注ー聖霊というのはキリスト教の大根幹である三位一体説すなわち父なる神キリスト、子なる神イエス、そして聖霊が一体であるという説の第三位にあるが、スピリチュアリズム的に見ればその三者を結びつける根拠はない。キリスト教とスピリチュアリズムの違いは実にそこから発している。シルバーバーチもその点を指摘しようとしている)


牧師 「死後の世界とはどういう世界ですか」

 「あなた方の世界と実によく似ております。但し、こちらは結果の世界であり、そちらは原因の世界です」

(訳者注───スピリチュアリズムでは霊界が原因の世界で地上は結果の世界であるといっているが、それは宇宙の創造過程から述べた場合のことで、ここでシルバーバーチは因果律の観点から述べ、地上で蒔いたタネを霊界で刈り取るという意味で述べている)

牧師 「死んだ時は恐怖感はありませんでしたか」

 「ありません。私たちインディアンは霊覚が発達しており、死が恐ろしいものでないことを知っておりましたから、あなたが属しておられる宗派の創立者ウェスレーも同じです。あの方も霊の力に動かされておりました。そのことはご存じですね?」

牧師 「おっしゃる通りです」

 「ところが現在の聖職者たちは〝霊の力〟に動かされておりません。宇宙は究極的には神とつながった一大連動装置によって動かされており、一ばん低い地上の世界も、あなた方のおっしゃる天使の世界とつながっております。どんなに悪い人間もダメな人間も、あなた方のいう神、私のいう大霊と結ばれているのです」


牧師 「死後の世界でも互いに認識し合えるのでしょうか」

 「地上ではどうやって認識し合いますか」

牧師 「目です。目で見ます」

 「目玉さえあれば見えますか。結局は霊で見ていることになるでしょう」

牧師 「その通りです。私の精神で見ています。それは霊の一部だと思います」

 「私も霊の力で見ています。私にはあなたの霊が見えるし肉体も見えます。しかし肉体は影に過ぎません。光源は霊です」


牧師 「地上での最大の罪は何でしょうか」

 「罪にもいろいろあります。が、最大の罪は神への反逆でしょう」
 ここでメンバーの一人が 「その点を具体的に述べてあげて下さい」と言うと、

 「神の存在を知りつつもなおそれを無視した生き方をしている人々、そういう人々が犯す罪が一番大きいでしょう」
 
 別のメンバーが 「キリスト教はそれを〝聖霊の罪〟と呼んでおります」と言うと、
 「あの本(聖書)ではそう呼んでいますが、要するに霊に対する罪です」

牧師 「〝改訳聖書〟をどう思われますか。〝欽定訳聖書〟と比べてどちらがいいと思われますか」


 「文字はどうでもよろしい。いいですか。大切なのはあなたの行いです。神の真理は聖書だけでなく他のいろんな本に書かれています。それから、人のために尽くそうとする人々の心には、どんな地位の人であろうと、誰であろうと、どこの国の人であろうと、立派に神が宿っているのです。それこそが一ばん立派な聖書です」


牧師 「改心しないまま死んだ人はどうなりますか」

 「〝改心〟とはどう言う意味ですか。もっと分かりやすい言葉でお願いします」

牧師 「たとえば、ある人間は生涯を良くないことばかりしてそのまま他界し、ある人は死ぬまえに反省します。両者には死後の世界でどんな違いがありますか」

 「あなた方の本(聖書)から引用しましょう。〝蒔いた種は自分で刈り取る〟のです。これだけは変えることができません。今のあなたにそのままを携えてこちらへ参ります。

自分はこうだと信じているもの、人からこう見てもらいたいと願っていたものではなく、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへ参ります。あなたもこちらへお出でになれば分ります」

 そう言ってからシルバーバーチはスワッハーの方を向いて、この人には霊能があるようだと述べ、「なぜ招待したのですか」と尋ねると、スワッハーは 「いや、この人の方から訪ねて来たものですから」と答えた。するとシルバーバーチは再びその牧師に向かって、

 「インディアンが聖書のことをよく知っていて驚いたでしょう」と言うと牧師が「よくご存じのようです」と答えた。すると別のメンバーが「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えした。牧師はすぐに年代を計算して「ダビデをご存知でしたか」と尋ねた。ダビデは紀元前一〇〇〇年頃のイスラエルの王である。


 「私は白人ではありません。レッドインディアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました。あなた方のおっしゃる野蛮人というわけです。しかし私はこれまで、西洋人の世界に三千年前のわれわれインディアンよりはるかに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見てきております。今なお物質的豊かさにおいて自分たちより劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つと言えます」

牧師 「そちらへ行った人はどんな風に感じるのでしょう。やはり後悔の念というものを強く感じるのでしょうか」

 「いちばん残念に思うことは、やるべきことをやらずに終わったことです。あなたもこちらへお出でになれば分ります。きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのにやらなかったこと、そうしたことが逐一分かります。逃してしまった好機(チャンス)が幾つもあったことを知って後悔するわけです」

牧師 「キリストへの信仰をどう思われますか。神はそれを嘉納(かのう)されるのでしょうか。キリストへの信仰はキリストの行いに倣(なら)うことになると思うのですが」

 「主よ、主よ、と何かというと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心に叶った行いです。それがすべてです。口にする言葉や心に信じることではありません。頭で考えることでもありません。

実際の行為です。何一つ信仰というものを持っていなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢える人にパンを与え、暗闇にいる人の心に光を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の心に叶った人です」

 ここで列席者の一人がイエスは神の分霊なのか問うと───

 「イエスは地上に降りた偉大な霊覚者だったということです。当時の民衆はイエスを理解せず、ついに十字架にかけました。


いや、今なお十字架にかけ続けております。イエスだけでなく、すべての人間に神の分霊が宿っております。ただその分量が多いか少ないかの違いがあるだけです」

牧師 「キリストが地上最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それほどの人物がウソをつくはずがありません。キリストは言いました───〝私と父とは一つである。私を見た者は父を見たのである〟と。これはキリストが即ち神であることを述べたのではないでしょうか」

 「もう一度聖書を読み返してごらんなさい。〝父は私よりも偉大である〟とも言っておりませんか」

牧師 「言っております」

 「また、〝天に在しますわれらが父に祈れ〟とも言っております〝私に祈れ〟とは言っておりません。父に祈れと言ったキリスト自身が〝天に在しますわれらが父〟であるわけがないでしょう。〝私に祈れ〟とは言っておりません。〝父に祈れ〟と言ったのです」

牧師 「キリストは〝あなたたちの神〟と〝私の神〟という言い方をしております。〝私たちの神〟とは決して言っておりません。ご自身を他の人間と同列に置いていません」

 「〝あなたたちの神と私〟とは言っておりません。〝あなたたちは私より大きい仕事をするでしょう〟とも言っております。あなた方キリスト者にお願いしたいのは、聖書を読まれる際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をなさらぬことです。

霊的実相に照らして解釈しなくてはなりません。存在の実相が霊であるということが宇宙の全ての謎を解くカギなのです。イエスが譬え話を多用したのはそのためです」

牧師 「神は地球人類を愛するがゆえに唯一の息子を授けられたのです」と述べて、イエスが神の子であるとのキリスト教の教義を弁護しようとする。

 「イエスはそんなことは言っておりません。イエスの死後何年もたってから例の二ケーア会議でそんなことが聖書に書き加えられたのです」

牧師 「二ケーア会議?」

「西暦三二五年に開かれております」

牧師 「でも私がいま引用した言葉はそれ以前からあるヨハネ福音書に出ていました」

「どうしてそれが分ります?」

牧師 「いや、歴史にそう書いてあります」

 「どの歴史ですか」

牧師 「どれだかは知りません」

 「ご存じのはずがありません。いったい聖書が書かれる、そのもとになった書物はどこにあるとお考えですか」

牧師 「ヨハネ福音書はそれ自体が原典です」

 「いいえ、それよりもっと前の話です」

牧師 「聖書は西暦九〇年に完成しました」

 「その原典になったものは今どこにあると思いますか」

牧師 「いろんな文書があります。例えば・・・・・・」と言って一つだけ挙げた。

 「それは原典の写しです。原典はどこにありますか」
 牧師がこれに答えられずにいると───


 「聖書の原典はご存じのあのバチカン宮殿に仕舞い込まれて以来一度も外に出されたことがないのです。あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典の写し(コピー)の写しの、そのまた写しなのです。

おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しなかったのです。

ところが、いつになっても再臨しないので、ついに諦めて記憶を辿りながら書きました。イエス曰く───と書いてあっても、実際にそう言ったかどうかは書いた本人も確かでなかったのです」

牧師 「でも、四つの福音書にはその基本となったいわゆるQ資料(イエス語録)の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。中心的な事象はその四つの福音書に出ていると思うのですが・・・・・・」


 「私は別にそうしたことが全然起きなかったと言っているのではありません。ただ、聖書に書いてあることの一言一句までイエスが本当に言ったとは限らないと言っているのです。聖書に出てくる事象には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用が随分入っていることを忘れてはいけません」

牧師 「記録に残っていない口伝のイエスの教えが書物にされようとしていますが、どう思われますか」

 「イエスの関心は自分がどんなことを述べたかといったことではありません。地上のすべての人間が神の摂理を実行してくれることです。人間は教説のことで騒ぎ立て、行いの方をおろそかにしています。

〝福音書〟なるものを講義する場に集まるのは真理に飢えた人たちばかりです。イエスが何と言ったかはどうでもよいことです。大切なのは自分自身の人生で何を実践するかです。

 地上世界は教説では救えません。いくら長い説教をしても、それだけでは救えません。神の子が神の御心を鎧(よろい)として暗黒と弾圧の勢力、魂を束縛するものすべてに立ち向かうことによって初めて救われるのです。その方が記録に残っていないイエスの言葉より大切です」

牧師 「この世になぜ多くの苦しみがあるのでしょうか」

 「神の真理を悟るには苦を体験するしかないからです。苦しい体験の試練を経てはじめて人間世界を支配している摂理が理解できるのです」

牧師 「苦しみを知らずにいる人が大勢いるようですが・・・・・・」

 「あなたは神に仕える身です。大切なのは〝霊〟に関わることであり、〝肉体〟に関わることでないことくらいは理解できなくてはいけません。霊の苦しみの方が肉体の苦しみより大きいものです」

メンバーの一人が 「現行制度は不公平であるように思えます」と言うと、

 「地上での出来ごとはいつの日か必ず埋め合わせがあります。いつかはご自分の天秤を手にされてバランスを調節する日がまいります。

自分で蒔いたものを刈り取るという自然法則から免れることはできません。罪が軽くて済んでる者がいるようにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたには魂の豊かさを見抜く力がないからそう思えるのです。

 私がいつも念頭に置いているのは神の法則だけです。人間の法則は念頭においていません。人間のこしらえた法律は改めなければならなくなります。変えなければならなくなります。が、神の法則は決してその必要がありません。

地上に苦難がなければ人間は正していくべきものへ注意を向けることが出来ません。痛みや苦しみや邪悪が存在するのは、神の分霊であるところのあなた方人間がそれを克服していく方法を学ぶためです。

 もしもあなたがそれを怠っているとしたら、あなたをこの世に遣わした神の意図を実践していないことになります。宇宙の始まりから終わりまでを法則によって支配し続けている神を、一体あなたは何の資格を持って裁かれるのでしょう」

牧師 「霊の世界ではどんなことをなさっているのですか」

 「あなたはこの世でどんなことをなさっておられますか」

牧師 「それは、その、あれこれや読んだり・・・・・・、それに説教もよくします」

 「私もよく本を読みます。それに、今こうして大変な説教をしております」

牧師 「私は英国中を回らなくてはなりません」

 「私の方は霊の世界中を回らなくてはなりません。それに私は、天命を全うせずにこちらへ送り込まれてきた人間がうろついている暗黒界へも下りて行かねばなりません。それにはずいぶん手間がかかります。

あなたに自覚していただきたいのは、あなた方はとても大切な立場にいらっしゃるということです。神に仕える身であることを自認しながら、その本来の責務を果たしていない方がいらっしゃいます。ただ壇上に上がって意味もない話をしゃべりまくっているだけです。

 しかし、あなたが自らを神の手にゆだね、神の貯蔵庫からインスピレーションを頂戴すべく魂の扉を開かれれば、古(いにしえ)の予言者たちを鼓舞したのと同じ霊力によってあなたの魂が満たされるのです。そうなることによって、あなたの働かれる地上の片隅に、人生に疲れ果てた人々の心を明るく照らす光をもたらすことができるのです」

牧師 「そうあってくれればうれしく思います」

 「いえ、そうであってくれればではなくて、真実そうなのです。私はこちらの世界で後悔している牧師にたくさん会っております。みなさん地上での人生を振り返って自分が本当の霊のメッセージを説かなかったこと、聖書や用語や教説ばかりこだわって実践を疎かにしたことを自覚するのです。

そうして、できればもう一度地上へ戻りたいと望みます。そこで私はあなたのような(目覚めかけている)牧師に働きかけて、新しい時代の真理を地上にもたらす方法をお教えるのです。

 あなたは今まさに崩壊の一途を辿っている世界にいらっしゃることを理解しなくてはいけません。新しい秩序の誕生───真の意味の天国が到来する時代の幕開けを見ていらっしゃるのです。生みの痛みと苦しみと涙が少なからず伴なうことでしょう。

しかし最後は神の摂理が支配します。あなた方一人ひとりがその新しい世界を招来する手助けができるのです。なぜなら、人間のすべてが神の分霊であり、その意味で神の仕事の一翼を担うことができるのです」

 その牧師にとっての一回目の交霊も終わりに近づき、いよいよシルバーバーチが霊媒から去るに当たって最後にこう述べた。

 「このあと私もあなたが説教なさる教会へいっしょに参ります。あなたが本当に良い説教をなさったとき、これが霊の力だと自覚なさるでしょう」

牧師 「これまでも大いなる霊力を授かるよう祈ってまいりました」

 「祈りはきっと叶えられるでしょう」

 以上で第一回目の論争が終わり、続いて第二回の論争の機会が持たれた。引き続いてそれを紹介する。


牧師 「地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能でしょうか。すべての人間を愛することは可能なのでしょうか」

 これが二回目の論争の最初の質問だった。

 「それは不可能なことです。が、努力することはできます。努力することそのことが性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛く当たることもなく、腹を立てることもないようでは、もはや人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれてくるのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちらへ来てからも同じです」

牧師 「イエスは〝天の父の完全であるごとく汝らも完全であれ〟と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」

 「ですから、完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活で目指すべき最高の理想なのです。すなわち、内部に宿る神性を開発することです」

牧師 「私がさっき引用した言葉はマタイ伝第五章の終わりに出ているのですが、普遍的な愛について述べたあとでそう言っております。また、〝ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝らは完全であれ。神の子なればなり〟とも言っております。神は全人類を愛して下さる。

だからわれわれもすべての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じるとお思いですか」

 この質問にシルバーバーチは呆れたような、あるいは感心したような口調でこう述べる。

 「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさろうとするんですね。お聞きしますが、イエス自身、完全な生活を送ったと思いますか」

牧師 「そう思います。完全な生活を送られたと思います」

 「一度も腹を立てたことがなかったとお考えですか」

牧師 「当時行われていたことを不快に思われたことはあると思います」

 「腹を立てたことは一度もないとお考えですか」

牧師 「腹を立てることはいけないことであると言われている、それと同じ意味で腹を立てられたことはないと思います」

 「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことを正当化できるかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなた方は何でも正当化なさるんですから・・・・・・」

 ここでメンバーの一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を持ち出した。

 「私が言いたかったのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。ムチを持って追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。

怒るということは人間的感情です。私が言いたいのは、イエスも人間的感情をそなえていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐ時、イエスもまた一個の人間であった───ただ普通の人間より神の心をより多く体現した人だった、というふうに考えることが大切です。わかりましたか」

牧師 「わかりました」

 「私はあなたのためを思えばこそこんなことを申し上げるのです。誰の手も届かないところに祭り上げたらイエスさまがよろこばれると思うのは大間違いです。イエスもやはりわれわれと同じ人の子だったと見る方がよほどよろこばれるはずです。

自分だけ超然とした位置に留まることはイエスはよろこばれません。人類とともによろこび、ともに苦しむことを望まれます。一つの生き方の手本を示しておられるのです。

イエスが行ったことは誰にでもできることばかりなのです。誰もついていけないような人物だったら、せっかく地上へ降りたことが無駄だったことになります」


 話題が変わって───

牧師 「人間にも自由意志があるのでしょうか」

 「あります、自由意志も神の摂理の一環です」

牧師 「時として人間は抑えようのない衝動によってある種の行為に出ることがあるとは思われませんか。そう強いられているのでしょうか。それともやはり自由意志で行っているのでしょうか」

 「あなたはどう思われますか」

牧師 「私は人間はあくまで自由意志を持った行為者だと考えます」

 「人間には例外なく自由意志が与えられております。ただしそれは神の定めた摂理の範囲内で行使しなければなりません。これは神の愛から生まれた法則で、神の子すべてに平等に定められており、それを変えることは誰にもできません。その規則の範囲内において自由であるということです」

牧師 「もし自由だとすると罪は恐ろしいものになります。悪いと知りつつ犯すことになりますから、強制的にやらされる場合より恐ろしいことに思えます」

 「私に言えることは、いかなる過ちもかならず本人が正さなくてはならないということ、それだけです。地上で正さなかったら、こちらへ来て正さなくてはなりません」

牧師 「感心できないことをしがちな強い性癖を先天的に持っている人がいるとは思われませんか。善いことをしやすい人とそうでない人がいます」

 「難しい問題です。と申しますのは、各自に自由意志があるからです。誰しも善くないことをすると、内心では善くないことであることに気づいているものです。その道義心をあくまでも無視するか否かは、それまでに身に付けた性格によって違ってくることです。罪というものはそれが結果に及ぼす影響の度合に応じて重くもなり軽くもなります」

 これを聞いてすかさず反論した。

牧師 「それは罪が精神的なものであるという事実と矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります」

 「罪は罪です。からだが犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれも罪は罪です。あなたはさっき衝動的に犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこからくると思いますか」

牧師 「思念です」

 「思念はどこからきますか」

牧師 「(少し躊躇してから)善なる思念は神から来ます」

 「では悪の思念はどこから来ますか」

牧師 「わかりません」(と答えているが実際は〝悪魔から〟と答えたいところであろう。シルバーバーチはそれを念頭において語気強くキリスト教の最大の矛盾を突く──訳者)

 「神はすべてに宿っております。間違ったことの中にも正しいことにも宿っています。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。

空にも海にも雷鳴にも稲妻にも神は宿っているのです。美なるもの善なるものだけではありません。罪の中にも悪の中にも宿っているのです。お分かりになりますか。神とは〝これとこれだけに存在します〟というふうに一定の範囲内に限定できるものではないのです。

全宇宙が神の創造物であり、そのすみずみまで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って、これは神のものではない、などとは言えないのです。日光は神の恵みで、作物を台無しにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。

神はすべてに宿ります。あなたという存在は思念を受けたり出したりする一個の器官です。が、どんな思念を受け、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違ってきます。

もしもあなたが、あなたのおっしゃる〝完全な生活〟を送れば、あなたの思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。私の言っていることがお分かりですか」


牧師 「おっしゃる通りだと思います。では、そういう煩悩ばかりを抱いている人間が死に際になって自分の非を悟り〝信ぜよ、さらば救われん〟の一句で心に安らぎを覚えるという場合があるのをどう思われますか。キリスト教の〝回心の教義〟をどう思われますか」


 「よくご存じのはずの文句をあなた方の本から引用しましょう。〝たとえ全世界を得ようと己の魂を失わば何の益かあらん〟(マルコ8・36)〝まず神の国とその義を求めよ。

しからばこれらのものすべて汝らのものとならん〟(マタイ6・33)この文句はあなた方はよくご存じですが、はたして理解していらっしゃるでしょうか。

それが真実であること、本当にそうなること、それが神の摂理であることを悟っていらっしゃいますか。〝神を侮(あなど)るべからず。己の蒔きしものは己れが刈り取るべし〟(ガラテア6・7)これもよくご存じでしょう。

 神の摂理は絶対にごまかせません。暴若無人(ぼうじゃくぶじん)の人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それくらいのことで一度に洗い落とせると思われますか。

無欲と滅私の奉仕的精神を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。〝すみませんでした〟の一言ですべてが赦されるとしたら、はたして神は公正であるといえるでしょうか。いかがですか」

牧師 「私は神はイエス・キリストに一つの心の避難所を設けられたのだと思うのです。イエスはこう言われ・・・ 」

 「お待ちなさい。私はあなたの率直な意見をお聞きしているのです。率直にお答えいただきたい。本に書いておる言葉を引用しないでいただきたい。イエスが何と言ったか私には分っております。私は、あなた自身がどう思うかと聞いているのです」

牧師 「確かにそれでは公正とは言えないと思います。しかしそこにこそ神の偉大なる愛の入る余地があると思うのです」

 「この通りを行かれると人間の法律を運営している建物があります。もしその法律によって生涯を善行に励んできた人間と罪ばかりを犯してきた人間とを平等に扱ったら、あなたはその法律を公正と思われますか」

牧師 「私は、生涯を真っ直ぐな道を歩み、誰をも愛し、正直に生き、死ぬまでキリストを信じた人が・・・私は───」

 ここでシルバーバーチがさえぎって言う。

 「自分が種を蒔き、蒔いたものは自分で刈り取る。この法則から逃れることは出来ません。神の法則をごまかすことは出来ないのです」

牧師 「では悪の限りを尽くした人間がいま死にかかっているとしたら、その償いをすべきであることを私はどうその人間に説いてやればいいのでしょうか」

 「シルバーバーチがこう言っていたとその人に伝えて下さい。もしもその人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいという気持ちになれるはずです。自分の犯した過ちの報いから逃れたいという気持ちがどこかにあるとしたら、その人はもはや人間ではない。ただの臆病者だと、そう伝えて下さい」

牧師 「しかし、罪を告白するということは誰にでもはできない勇気ある行為だとは言えないでしょうか」

 「それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。

元に戻す努力をしなくてはいけません。紋切り型の祈りの言葉を述べて心が休まったとしても、それは自分をごまかしているに過ぎません。蒔いた種は自分で刈り取らねばならないのです。それが神の摂理です」

牧師 「しかしイエスは言われました。〝労する者、重荷を背負える者、すべて我れに来たれ。汝らに安らぎを与えん〟 (マタイ11・28)」

 「〝文は殺し霊は生かす〟(コリント後3・6)というのをご存じでしょう。あなた方(聖職者)が聖書の言葉を引用して、これは文字どうりに実行しなければならないのだと言ってみても無駄です。今日あなた方が実行していないことが聖書の中にいくらでもあるからです。私の言っていることがお分かりでしょう」

牧師 「イエスは〝善き羊飼いは羊のために命を捨つるものなり〟(ヨハネ10・11)と言いました。私はつねに〝赦し〟の教を説いています。キリストの赦しを受け入れ、キリストの心が自分を支配していることを暗黙のうちに認める者は、それだけでその人生が大きな愛の施しとなるという意味です」

 「神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなた方もぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する───それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。

神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。

 前にも言ったことですが、聖書に書かれている言葉を全部イエスが実際に言ったとはかぎらないのです。そのうちの多くはのちの人が書き加えたものなのです。イエスがこうおっしゃったとあなた方が言う時、それは〝そう言ったと思う〟という程度のものでしかありません。

そんないい加減なことをするよりも、あの二千年前のイエスを導いてあれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今の世にも働いていることを知ってほしいのです。

 あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡知、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けている。なにも、神を求めて二千年前まで遡ることはないのです。今ここに在しますのです。二千年前とまったく同じ神が今ここに在しますのです。その神の真理とエネルギーの通路となるべき人物(霊媒・霊能者)は今も決して多くはありません。

しかし何ゆえにあなた方キリスト者は二千年前のたった一人の霊能者にばかりすがろうとなさるのです。なぜそんな昔のインスピレーションだけを大切になさるのです。なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです」

牧師 「私は私の心の中にキリストがいて業をなしていると説いています。インスピレーションを得ることは可能だと思います」

 「何ゆえにあなた方は全知全能の神を一個の人間と一冊の書物に閉じ込めようとなさるのです。宇宙の大霊が一個の人間あるいは一冊の書物で全部表現できるとでもお考えですか。私はクリスチャンではありません。

イエスよりずっと前に地上に生を受けました。すると神は私に神の恩恵に浴することを許して下さらなかったということですか。

 神のすべてが一冊の書物の中のわずかなページで表現できるとお思いですか。その一冊が書き終えられた時を最後に神は、それ以上のインスピレーションを子等に授けることをストップされたとお考えですか。聖書の最後の一ページを読み終わった時、神の真理の全てを読み終えたことになるというのでしょうか」

牧師 「そうであってほしくないと思っています。時おり何かに鼓舞されるのを感じることがあります」

 「あなたもいつの日か天に在します父のもとに帰り、今あなたが築きつつある真実のあなたに相応わしい住処に住まわれます。神に仕える者としてのあなたに分かっていただきたいことは、神を一つのワクの中に閉じ込めることはできないということです。神は全ての存在に宿るのです。

悪徳の固まりのような人間も、神か仏かと仰がれるような人と同じように神とつながっているのです。あなた方一人ひとりに神が宿っているのです。あなたがその神の心をわが心とし、心を大きく開いて信者に接すれば、その心を通じて神の力と安らぎとが、あなたの教会を訪れる人々の心に伝わることでしょう」

牧師 「今日まで残っている唯一のカレンダーがキリスト暦(西暦)であるという事実をどう思われますか」

 「誰がそんなことを言ったのでしょうか。ユダヤ人が独自のカレンダーを使用していることをお聞きになったことはないでしょうか。多くの国が今なおその国の宗教の発生と共に出来たカレンダーを使用しております。私は決してイエスを過小評価するつもりはありません。

私は現在のイエスがなさっておられる仕事を知っておりますし、ご自身は神として崇められることを望んでいらっしゃらないこともよく知っております。イエスの生涯の価値は人間が規範とすべきその生き方にあります。イエスという一個の人間を崇拝することをやめないかぎり、キリスト教はインスピレーションにはあまり恵まれないでしょう」

牧師 「キリストの誕生日を西洋歴の始まりと決めたのがいつのことだかよく分っていないのです。ご存じでしょうか」

 「(そんなことよりも)私の話を聞いてください。数日前のことですが、このサークルのメンバーの一人が(イングランドの)北部の町へ行き、大勢の神の子と共に過ごしました。高い地位の人たちではありません。

肉体労働で暮らしている人たちで、仕事が与えられると───大てい道路を掘り起こす仕事ですが───一生けんめい働き、終わると僅かばかりの賃金をもらっている人たちです。その人たちが住んでいるのはいわゆる貧民収容施設です。これはキリスト教文明の恥辱ともいうべき産物です。

 ところが同じ町にあなた方が〝神の館〟と呼ぶ大聖堂があります。高く聳えていますから太陽が照ると周りの家はその影になります。そんなものが無かった時よりも暗くなっています。これで良いと思われますか」

牧師 「私はそのダーラムにいたことがあります」

 「知っております。だからこの話を出したのです」

牧師 「あのような施設で暮らさねばならない人たちのことを気の毒に思います」

 「あのようなことでイエスがおよろこびになると思われますか。一方にはあのような施設、あのような労働を強いられる人々、わずかな賃金しかもらえない人々が存在し、他方にはお金のことには無とん着でいられる人が存在していて、それでもイエスはカレンダーのことなどに関わっていられると思われますか。

 あのような生活を余儀なくさせられている人が大勢いるというのに、大聖堂のための資金のことやカレンダーのことや聖書のことなどにイエスが関わられると思いますか。イエスの名を使用し続け、キリスト教国と名告るこの国にそんな恥ずべき事態の発生を許しているキリスト教というものを、いったいあなた方は何と心得ていらっしゃるのですか。 

 あなたは経典のことで(改訳聖書と欽定訳聖書とどっちがいいかと)質問されましたが、宗教にはそんなことよりもっと大切な、そしてもっと大きな仕事があるはずです。神はその恩寵を全ての子に分け与えたいと望んでおられることが分りませんか。

飢え求めている人がいる生活物質を、世界のどこかでは捨て放題の暮らしをしている人たちがいます。他ならぬキリスト者が同じことをしていて、果たしてキリスト教を語る資格があるでしょうか。

 私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私は主の目に涙を見たことがあります。キリスト者をもって任ずる者が、聖職に在る者の多くが、その教会の陰で進行している恥ずべき事態に目を瞑っているのをご覧になるからです。

その日の糧すら事欠く神の子が大勢いるというのに、神の館のつもりで建立した教会を宝石やステンドグラスで飾り、その大きさを誇っているのを見て一体だれが涼しい顔をしていられましょう。

 その人たちの多くは一日の糧も満足に買えないほどの僅かな賃金を得るために一日中働き続け、時には夜更かしまでして、しかも気の毒にその疲れた身体を横たえるまともな場所もない有様なのです。あなたを非難しているのではありません。

私はあなたに大きな愛着を覚えております。お役に立つことならどんなことでもしてあげたいと思っております。が、私は霊界の人間です。そしてあなたのように、社会へ足を踏み入れて間違いを改めていくための一石を投じてくれるような人物とこうして語るチャンスが非常に少ないのです。

 あなたに理解していただきたいことは、聖書のテキストのことをうんぬんするよりも、もっと大切なことがあるということです。主よ、主よ、と叫ぶ者がみな敬虔なのではありません。神の意思を実践する者こそ敬虔なのです。それをイエスは二千年前に述べているのです。なのに今日なおあなた方は、それが一番大切であることをなぜ信者に説けないのでしょうか。

 戦争、不正行為、飢餓、貧困、失業、こうした現実に知らぬふりをしている限りキリスト教は失敗であり、イエスを模範としていないことになります。

 あなたは(メソジスト教の)総会から抜け出て来られました。過去一年間、メソジスト教会の三派が合同して行事を進めてまいりましたが、せっかく合同しても、そうした神の摂理への汚辱を拭う為に一致協力しない限り、それは無意味です。私は率直に申し上げておきます。誤解を受けては困るからです」

牧師 「数年間に私たちは派閥を超えて慈善事業を行い、その時の収益金を失業者のための救済資金として使用しました。大したことは出来ませんが、信者の数の割にはよくやっていると思われませんか」

 「あなたが心掛けの立派な方であることは私も認めております。そうでなかったら二度もあなたと話をしに戻って来るようなことはしません。あなたが役に立つ人材であることを見て取っております。あなたの教会へ足を運ぶ人の数は確かに知れています。

しかしイエスは社会のすみずみにまで足を運べと言っていないでしょうか。人が来るのを待っているようではいけません。あなた方から足を運ばなければならないのです。

 教会を光明の中心となし、飢えた魂だけでなく飢えた肉体にも糧を与えてあげないといけません。叡知の言葉だけでなくパンと日常の必需品を与えてあげられるようでないといけません。

魂と肉体の両方を養ってあげないといけません。霊を救うと同時に、その霊が働くための身体も救ってあげないといけません。教会がこぞってそのことに努力しなければ、養うものを得られない身体は死んでしまいます」

 そう述べてから最後にその牧師のために祈りを捧げた。

 「あなたがどこにいても、何をされても、常に神の御力と愛が支えとなるように祈ります。常に人のためを思われるあなたの心が神の霊感を受け入れられることを祈ります。

願わくは神があなたにより一層の奉仕への力を吹き込まれ、あなたの仕事の場を光と安らぎと幸せの中心となし、そこへ訪れる人々がそこにこそ神が働いておられることを理解してくれるようになることを祈ります。

 神が常にあなたを祝福し、支え、神の道に勤(いそ)しませ給わんことを。願わくは神の意図と力と計画について、よりいっそう明確なる悟りを得られんことを。
 では神の祝福を。御機嫌よう」