Wednesday, September 2, 2026

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話
スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




第6章 生 ・ 老 ・ 病 ・ 死 ・ 苦・・・・・・地上人生の意義


【Q1】
人間(ヒト)として地上に誕生してくるのは、進化のどの段階でしょうか?

 霊としては常に存在していました。霊とは生命であり、生命とは霊だからです。あなたという存在は、常に存在してきたのです。
 あなたも大霊の一部ですから、いつから存在し始めたという〝始まり〟はないのです。しかし、一個の独立した意識的存在としては、生命の流れのなかのどこかで存在を得なければなりません。

 受胎というのは、男性と女性の細胞が合体して、その個的存在に自我を表現する媒体を提供する現象です。媒体を得るまでは、生命力は発現しないのです。その媒体を提供するのが、地上の両親です。双方の細胞が合体して一個の生命体を形成した時点で、霊的粒子がそれに付着し、物的世界での表現を開始します。

それが意識の始まりだというのが私の説です。その瞬間から意識のある個的生活が始まります。それからは永遠に個的実在であり続けます。


【Q2】
胎児のどの段階で霊が入るのでしょうか?

 何度も出された質問ですが、回答はいつも同じです。受胎が発生した時点で、すでに生命があります。そして、生命のあるところには霊が存在します。

 納得できない方がいるであろうことは、私も承知しています。しかし、私は断言します───精子と卵子が一体となり、ミニチュアのかたちで媒体としての機能をそなえた瞬間から、霊は地上生活を開始します。


【Q3】
次から次へと霊が地上へ誕生しています。一方、地上では人口増加が問題となっています。霊を生産すれば人口は増えるに決まっていますが、霊は一体どこからやってくるのでしょうか?
 その質問には誤解があるようです。霊は、あなた方人間がこしらえるのではありません。人間は、霊が自我を発現するためのチャンネルをこしらえるだけです。根源的存在である霊は、時空を超越したものであり、ものさしで計量することはできません。人間が行なっているのは、霊が身体に宿って、個別的存在を獲得するための手段(媒体)を提供することです。


【Q4】
スピリチュアリズムを占星術と同類と見ている人がいます。その人たちは、人生の出来事が星によって宿命づけられ操られていると考えていますが。

 人生は、一連の振動(Vibrations)、放射線(Radiations)、放散物(Emanations)から成り立っており、森羅万象のあらゆる相の影響を受けています。それらが、あなたに何らかの影響を及ぼしていることは事実ですが、どれ一つとして、抵抗できないほど強力なパワーをもつものではありません。

 生まれた日に、ある星が東の地平線上にあったからといって、その星によって人生が運命づけられるというのは事実ではありません。

 あらゆる天体、あらゆる自然物、宇宙のあらゆる存在物、あらゆる生命体が、何らかの影響を及ぼすことでしょう。しかし、あくまでも主人は、あなたです。最終責任はあなたにあり、霊的進化の程度によって自分の運命を決定づけています。

 私が言いたいのは、要するにあなたも神の一部であること、そして、神性を宿すがゆえに、創造力を宿すがゆえに、この宇宙を創造した力の一部であるがゆえに、その身体を牛耳ろうとする力に打ち克つことができるということです。
 わかりやすく言えば、私も影響力の一つです。あなたがつきあう人たちも何らかの影響を与えます。お読みになる本も影響力をもっています。しかし、あくまでも影響力に過ぎません。それによって、あなたが圧倒されることもないし、絶対的に支配されることもないでしょう。


【Q5】
死ねばおしまいと思って他界していった者は、どうなるのでしょう?

 自然法則によって死のうにも死ねないのですから、覚醒してから現実に直面せざるを得ません。霊的事実に得心がいくのにどれほどの時間がかかるかは、霊的進化の程度、霊性がどの程度発達しているか、新しい環境にどう適応していくかによって決まります。

 霊的事実に得心がいくのは、霊的理解力が目覚めたときです。あらかじめ霊的知識があれば、得心はよほど早いでしょう。ですから、私たちは無知と誤解と迷信、人工の教義や間違った神学と闘わねばならないのです。こうしたものは、どれ一つとして死後の目覚めに役立ちません。そうした夾雑物をすっかり払い落とすまでは、魂は長い長い休息(注)のなかで自己改造を強いられるのです。

訳注───ここで言う 「休息」 は二つの解釈ができる。一つは睡眠と同じ状態で、地上生活の過酷な辛苦によって疲弊した魂が、安らぎを得て無意識状態となり、その間に霊界の医師団によって治癒エネルギーによる癒しを受ける。

その長さは人によってまちまちで、長い人は何ヶ月も何年もかかることがあり、地上的時間では、はかりしれない要素があるようだ。

 もう一つは、その状態から覚醒して現実と直面し、地上時代の認識を改めて、霊的実在に目覚めていくのが通例であるが、シルバーバーチの回答にもある 「地上的夾雑物」 を完全に払い落とすまでには何百年、何千年、ときには何万年もかかることがあり、人によっては地上へ再生する必要が生じる場合もあるという。その次元の魂は、いわば夢幻のなかで生きており、実在界の高級霊から見れば酔生夢死の休息状態と変わらないらしい。


【Q6】
そもそも地上生活の目的とは何でしょうか?

 そもそもの目的は、本来の自分を理解することです。そのためには、物的身体の機能と霊としての資質を存分に発揮することが必要です。物的なことに偏って、霊的存在としての義務をおろそかにするのもいけませんが、霊的なことに偏って物的存在としての義務をおろそかにするのも間違いです。両者のバランスをとり、この世にありながら、この世的人間に堕することのないようにすべきです。

 肉体は神の分身である霊の神殿ですから、十分な手入れが必要です。そして成長と進化の過程にある霊は、その肉体を通して、成長と進化のための機会を与えられる必要があります。

 地上生活の目的は、地上を去った霊が次の階層での生活になじめるように、さまざまな体験を積むことです。そこで、まず地球へやってくるのです。地球は、トレーニングセンターです。肉体に宿った霊が、次の次元の生活への装備を提供してくれる教訓を学ぶための学校のようなものです。

 そういう理由から、私は改めて申しあげます。あなた方が嫌な体験と思っているものが、最高の薬になっていることがあるのです。本当の自分を見出すのは日向の生活のなかではなく、嵐のような生活のなかなのです。雷鳴が鳴り響き、稲光がひらめいているときです。

 人間は厳しく磨かれ、清められ、純化されなければなりません。絶頂もどん底も体験しなければなりません。地上生活だからこそ体験できるものを、体験しなくてはいけません。そうした体験によって霊性が強化され、補強され、死の向こうに待ち受ける生活への準備が整うのです。

 地上生活の目的は、霊性を活気づけることです。そのために、地上界の出来事は二面性と二極性を鮮烈に体験するようになっており、そこに地上生活の地上生活たるゆえんがあるのです。たとえば、善と善でないものが同居しています。これは、私たちの世界にはないことです。高次元の世界には、対照的なものが存在しないのです。

 地上生活の目的は、魂がその霊的資質を発揮できるように、さまざまな体験をするチャンスを与えて、霊性を一段と強化することです。そのために悪もあれば罪もあり、暴力も存在するのです。

 地上の全生命の存在目的は、人類をはじめ動物、その他の全生命に宿る神性に火がともされて火種となり、灯火となり、火焔となって燃えさかるように、刺激的体験を得ることです。霊的意識が目覚め、地上にありながら、生命の現象的側面にとどまらず、もっと大切な内的側面をも理解して、その恵みを享受するようになります。


【Q7】
永遠の時の観念からすると、地上生活はあまりにも短く、どれほどの意義があるのかといいたくなりますが‥‥。

 永遠も無限の小さな体験のつながりです。一つ一つの経験、一つ一つの行為、一つ一つの言葉や思念が、いくら小さなものであっても、永遠の時のなかで、それなりの役割を果たしています。それらの体験の蓄積が、永遠を形成するのであり、どれか一つを欠いても完全でなくなります。オーケストラによる演奏と同じです。

 たとえば、トライアングルの演奏家は、二〇〇人あるいは三〇〇人で構成されたオーケストラのなかでは最もめだたない存在でしょう。しかし、たった一回だけめぐってくる自分の演奏箇所で、もしも音階を間違えたり、音量が足らなかったりしたら、全シンフォニーが台無しになってしまいます。それはおわかりですね?地上生活も同じです。魂の鍛錬にとっては欠かせない一部なのです。そして、それが魂に消すことのできない跡形を印していくのです。


【Q8】
戦争、痛み、精神的ならびに肉体的苦しみ、病気、悲しみ、愛、憎しみ、喜び、幸せといった地上的体験は、人類の発達と進歩にとって欠かせない神の計画の一部なのでしょうか?
 神の計画という見方は間違いです。戦争は大霊が起こすのではありません。病気は大霊が与えるのではありません。そうしたものは、物質界の人間が自由意志の使用を過ったために引き起こされるのです。もちろん、学ぶべき教訓はあるでしょう。が、それは人間同士で身の毛もよだつ残虐行為をしなくても学べるはずです。人間同士で勝手にやっていることを、大霊のせいにしてはなりません。


【Q9】
地球上の自然災害は、神の計画の範囲内で起きているのでしょうか?

 そう言ってよいでしょう。因果律という動かし難い法則によって支配されているという意味で、神の配剤からはみ出ることはあり得ないからです。絶対的支配力をもつその因果律が、人間に制約を加えるということです。

 少し乱暴なたとえですが、人間の科学がいくら発達しても、物的宇宙を完全に破壊するほどの爆薬を開発することはできません。そこに限界があります。
 一夜にして地球が破壊されることはありません。大霊は、その無限の愛と英知によって宇宙間のあらゆる次元の存在(極大のものから極小のもの、複雑なものから単純なものに至るまでの全存在)に配慮した自然法則を用意しておられます。その自然法則は、進化という目的にそって機能するのであって、変革によって機能するのではありません。

となれば、当然、その法則によって人間の力は制約を受けます。どうしようもないこともある、ということです。自由意志はあります。しかし、ある一定限度内でのことです。


【Q10】
本当の自由とはどういうことでしょうか?

 私は、いかなるテーマも霊の体験という光に照らして考察します。人間というのは、物的身体を通して自我を表現している霊です。ところが、いく百万とも知れない地上の霊が窒息させられ、踏みつぶされ、抑圧され、踏みにじられています。
 本当の自由とは、好き勝手なことをする権利のことではありません。出来心や気まぐれや性癖のおもむくままにする権利のことではありません。自由には責任が伴います。そして、何のためにこの地上におかれているかという、存在の目的についての理解がなければなりません。


【Q11】
自由意志とカルマは、どう関係づけたらよいのでしょうか?

 生命のすべてが、自然法則による規制を受けています。筋の通らないことや奇跡や偶然によって起きることはありません。すべてが原因と結果、種まきと刈り取りの摂理の働きによります。そうでないと、宇宙は大混乱に陥ります。無限の配剤、無限の知性の働きを示す証拠なら、どこへ目をやっても存在します。

 四季のめぐり、惑星や星雲、潮の満ち引き、無数の姿かたちをした花々にも見られます。どれ一つとっても、法則によって営まれているのです。その法則の枠を離れることがないということですから、そこに制約があるということになります。しかし、法則の裏に別の次元の法則が存在します。物的法則だけに限りません。精神の働きにも法則があり、霊的次元にも法則があります。
 自由意志という要素、ある条件下で、右か左かを選択する力と能力をそなえているということは、神の配剤の一つです。それを最善に、そして最高に活用すれば、あなたの所属する民族、この地上世界、宇宙、森羅万象の霊的発展と進化の一翼を担うことができるのです。なぜなら、あなたも、霊的には大霊の一部だからです。

 全存在物に生命を付与している神性が、あなたにも内在しているのです。その意味で、あなたはミクロの大霊なのです。大霊が所有する無限の属性をあなたも所有しているのであり、それを発現していくための無限の時も用意されているのです。
 明朝、あなたはいつもより一時間早く起きてもよろしいし、一時間遅く起きてもよろしい。起きたくなければ、そのままベッドのなかにいてもよいでしょう。起きてから散歩に行ってもよいし、ドライブに行ってもよいでしょう。かんしゃくを起こしてもかまいませんし、思い直して我慢するのも、あなたの自由です。このように、あなたに許されていることはいろいろとあります。

 しかし、太陽の輝きを消すことは、あなたにはできません。嵐を鎮めることは、あなたにはできません。あなたの力を超えているからです。このように、選択の範囲が限られているという意味で、あなたの自由意思にも制約があります。

 そしてもう一つ、あなたの精神的ならびに霊的発達の程度による制約があります。たとえば、人を殺めるという行為は、だれにでもできます。が、あなたにはできないでしょう。これまでに築いてきた人間性および霊性が、それを許さないからです。

 ですから、どちらかの選択をするとき、そこには人間性と霊性の程度が関わっているのです。ここにも、宇宙によくあるパラドックス(一見矛盾しているかに思えること)があります。自由といっても、一定限度内の自由ということです。
 さて、ここからもう一歩踏み込まねばなりません。カルマの問題が出されたからです。これも、たしかに考慮に入れなくてはならない重大なテーマです。なぜかといえば、地上へ誕生するに当たって、前もって、カルマの解消をスケジュールのなかに入れている人が少なくないからです。その自覚は、すぐには意識の表面に出てきませんが、意識するしないに関係なく、そのことも自由意志に制約を加えます。

(原書では、この項目はここで終了しているが、カルマへの言及が足りないので、霊的治療家のハリー・エドワーズとのQ&Aのなかから、参考になる部分を編集して紹介しておく)

あなたのもとを訪れる患者は、その人なりの霊的成長段階にあります。人生というはしごの一つの段の上に立っているわけです。それがどの段階であるかが、その人に注がれる治癒力の質・量を決します。それが私のいう「カルマ的負債」です。

 あなたにも手の施しようのない人がいます。肉体を犠牲にする、つまり、死ぬこと以外に返済の方法がないほど負債が大きい人もいます。もう一度チャンスを与えられる人もいます。そんな人が、あなたとの縁で完治することになる場合もあります。
 精神的要素のために治らない人もいます。そんな場合は、一時的に快方に向かっても、また別の症状となってぶり返すでしょう。それは、当人に賦課された税金のようなものであり、自分で綴っている物語(ストーリー)であり、その筋書きは他の何者によっても書き換えることはできません。

 はじめに私は、すべては法則の枠のなかに存在すると申しあげました。何ごとも、それを前提として働きます。人間のいう「奇跡」は生じません。自然法則の停止も変更も廃止もありません。すべてが原因と結果から成り立っています。そこに自由の制約があります。もしも因果関係がキャンセルできるとしたら、神の公正が崩れます。

 治療家にできることは魂を解放し、精神に自由を与えることです。その結果が、自然に身体にあらわれます。それが、カルマ的負債を返済する手助けになるのです。私が、霊的治療家はその患者の魂の琴線にふれ、自我に目覚めさせ、生きる目的を自覚させることが最も重要な役目であると申しあげる理由はそこにあります。


【Q12】
航空機事故は、犠牲者のカルマ的負債を償却するためにもくろまれるのでしょうか?もしそうだとすると、予言や虫の知らせがあるのはなぜでしょうか?それによって人生が一八〇度変わってしまいます。

 むずかしい問題です。まず 「もくろまれる」 という言い方は適当でありません。いかにも悲劇を引き起こすために、わざと事故を計画したことになるからです。何ごとも原因と結果の法則によって生じています。そうした悲劇の犠牲者(あなた方にならってそう呼んでおきますが) には別の見方があることを忘れないでください。

 死は地上の人間にとっては恐ろしいことのようですが、私たちにとっては喜ぶべきことなのです。赤ちゃんが地上へ誕生して行ったとき、こちらでは泣いて見送る者が大勢いるのです。そして、死んで肉体から解放された者を喜んで迎えているのです。
 しっくり理解できないかもしれませんが、永遠の時の流れのなかでの宇宙の大機構において、宿命という要素が役割を演じています。定められたことと自由意志という二つの矛盾した要素が絡んだ、複雑なテーマです。両方とも真実です。定められた運命のなかで、自由意志が許されているということです。このように説明するのが最もわかりやすいでしょう。

 予知の問題ですが、これは三次元の脳の意識から離れて、たとえ一瞬にせよ、より高い次元の階層に入り、その次元での時間に接したときに体験するものです。そもそも時間とは〝永遠の現在〟なのです。あなた方が、過去とか未来と呼んでいるものを決定づけるのは、地上次元でのあなたと時間とのつながりです。その三次元の物的束縛から離れて本来の時間と接したとき、人間にとって未来であるものが現時点で感得できるのです。


【Q13】
人間の一人ひとりに守護霊(注)がついているというのは本当でしょうか?

 受胎の瞬間から、ときにはそれ以前から、誕生してくる魂を守護する霊が付き添います。「神がそなたの管理を配下の天使に託し、諸事にわたりて配慮させ給う」という 『祈祷書』 の言葉は、文字どおり真実です。その霊は、あなたが死の関門を通過してこちらへ来るまで、能力の限りを尽くして守護してくれます。

その関係は、あなたがその事実を知っているほど行き届いたものになります。まったく知らずにいると、何かとやりにくいものです。守護霊は一人ですが、それを補佐する指導霊が何人かいます。

 あなたの人生にどういうことが待ち受けているかは、守護霊にはわかっていますし、そのことに関して勝手な干渉は許されません。だれの守護霊になるかについて選り好みも許されません。私たちの世界は組織の行き届いた世界です。

訳注──「守護霊」は、英語でも 「Guardian Angel(守護天使)」で、ともに「守る」という意味が込められているために、とかく母親がヨチヨチ歩きのわが子を、ころばないように、ケガをしないようにと守っているかの印象を与えがちであるが、「諸事にわたりて配慮させ給う」 という 『祈祷書』 の表現どおり、当人のカルマの解消や使命の成就のために、大所高所から配慮するのが本来の使命であり、そのためには病気や困難もあえて体験させることもあることを知らねばならない。Q15の回答の波動の原理も考慮する必要があろう。


【Q14】
だれが任命するのでしょうか?

 親和力の法則です。

訳注──シルバーバーチの言う「アフィニティ」、マイヤースの言う「類魂」のなかの一人が、全体を統括している高級霊によって任命されるのであるが、その基本において働いているのは親和力である。


【Q15】
災害から救われるケースと救われないケースとがありますが、守護霊との関係はどうなっているのでしょうか?

 すべては、その時点での環境条件によって支配されます。だれにも守護霊がついているのは事実ですが、その事に気づいている人はどれほどいるでしょうか?もし気づいていなければ、無意識のうちに霊感でも働いていないかぎり、守護霊は地上界と感応することはできません。

 このように、霊の働きかけというのは、地上界の人間が条件を整えることが大前提なのです。条件がそろうと、つまり人間側が霊界の波動と調和した道具になってくれると、守護霊や指導霊が物質界と感応し、物質に強く働きかけることができます。

 奇跡的救出や保護や導きの話が数多く語られていますが、いずれもそうした条件が整ったときなのです。人間側が条件を整えないといけないのです。私たち霊にとって、人間は〝手〟のようなものです。手がなくては、地上界で何の仕事もできません。


【Q16】
愛する伴侶を失って、失望のあまり自殺する人がいますが、許されることでしょうか?

 許されません。あくまでも摂理にのっとって生きなければなりません。摂理の働きは常に完璧なのです。その摂理の背後では、すべてのものに内在し、すべてのものを通して働く大霊の愛と英知が働いているのです。その摂理に干渉する権利は、だれにもありません。それを無視して自らの命を絶てば、その代償を支払わねばなりません。

 リンゴを熟さないうちにもぎとれば、まずくて食べられません。霊が然るべき準備もなしに無理やり次の次元へ行くと、その調整に長い長い時間をかけて代償を支払わねばなりません。そのうえ、願いとは裏腹に、乱れた波動のために、愛する人との間にみぞをつくってしまい、かえって離ればなれになってしまいます。


【Q17】
自殺は、すべて許されないのでしょうか?

 一概にすべていけないとは言えません。その人がそれまで生きてきた人生、その間に発達させた資質、霊性の進化の程度、そして何よりも大切なものとして、動機は何かによって、死後におかれる状態が違ってきます。

キリスト教では自殺を一つのカテゴリーに入れて、すべて罪悪であると説いていますが、そういうものではありません。もちろん基本的には、生命を自ら断つ権利はありませんが、そういう行為に至るには、それなりに考慮すべき要素、情状酌量すべき事情があることは疑いの余地がありません。

 地上生活を中断して魂にプラスになることは、何一つありません。が、だからといって、自殺した魂がすべて、気の遠くなるほど長い間、暗黒界でもいちばん暗いところに押し込められるわけではありません。


【Q18】
自殺が、霊的進化の大きなつまずきであることは間違いないでしょう?

 もちろんです。何ごとにも例外はありますが、それはきわめて少数です。ご承知のように、私は、何ごとも動機が大きな比重を占めると申しあげています。が、魂の裁きは、行為そのものが受けます。

 あなたは、自分の人生の書を、自分の筆で書いているのです。書いたものは消せません。ごまかすことはできません。自分で自分を裁くのです。摂理は決まっており、改められることはありません。ですから、私は「自分の責任には、臆せず正面から立ち向かいなさい」と申しあげるのです。いかなる窮地も、案じているほど暗いものではありません。



【Q19】
死刑制度をどう見られますか?

 人を殺した人間だから殺してもよいという理屈は、霊的には通らないということを、これまで私は躊躇することなく申しあげてきました。

 地上界の人間は、正義と復讐とを区別しないといけません。復讐心という最低の人間的感情からすれば、憎いやつを地上界から消すことは正義と思えるかもしれませんが、それでは未熟な魂を霊界へ送り込むだけで、それによって成就されるものは何一つありません。公正な裁きがなされないといけません。

国による殺人を行なっても、地上界はカケラほども霊的に進化しません。それどころか「目には目、歯には歯」の復讐の場に堕落してしまいます。激情が理性を凌駕したところに正義は生まれません。

 肉体の死後にも生命が存続することは、議論の余地のない事実なのですから、それに基づいた原理・原則を信念としなければなりません。死後の生活に何の準備もしていない者が、次々と地上界から送られてくるために、こちらでは面倒なことがますます増えています。なかには、冤罪によって処刑されているケースや、不当な刑を受けているケースもあります。

 生命は神聖なものであり、人間が与えたり奪ったりすべきものではありません。生命は物質から創造されるのではありません。物質が生命によって創造され、維持されているのです。生命は霊的なものであり、大霊を始原としており、神性を帯びているのです。ですから、生命とその物的顕現を扱うときは、最高の慈悲心と思いやりと同情心をもってのぞむべきです。そして、動機は間違っていないかを確認することを忘れないでください。

 死刑制度では、問題は何一つ解決しません。罪を犯した人のことを思いやる心こそが、摂理を成就させるのです。いかなる方法をとるにせよ、更生を促進するものであるべきで、決して復讐心を生み出すようなものであってはなりません。


【Q20】
人間の誕生は自然法則によって支配されているとおっしゃっていますが、そうなると産児制限はその自然法則に干渉することになり、間違っていることになるのでしょうか?

 いいえ、間違ってはいません。経済的理由、健康上の理由、その他の理由でそうせざるを得ないと判断したのであれば、出産を制限することは正しいことです。この問題でも動機が大切です。何ごとも動機が正しければ正しい決着をみます。出産を制限することも、その動機が正しければ、少しも間違ったことではありません。

 しかし、霊の世界には、地上での生活を求めている者が無数にいて、物的身体を提供してくれる機会を待ちかまえているという現実も忘れないでください。


【Q21】
妊娠中絶はいけないとおっしゃっていますが、どの段階からいけないことになるのでしょうか?

 中絶行為をしたその瞬間からです。(妊娠してすぐでもいけないかと念を押されて)とにかく中絶が実施された瞬間から間違いを犯したことになります。いいですか、あなた方人間には、生命を創造する力はないのです。あなた方は、生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。

 中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から、霊は子宮に宿っています。中絶されれば、その霊は、未熟な霊的身体に宿って霊界で生き続け、成長しなければなりません。中絶によって物的表現の媒体をなきものにすることはできても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児の自然な成長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機しだいで事情が違ってきます。常に動機というものが考慮されるのです。

 私の住む世界の高級霊で、人工中絶を支持する霊は一人もいません。が、動機を考慮しなければならない特殊なケースがあることも事実です。行為そのものは、絶対にいけないことですが。

 あなた方が生命をこしらえているのではないのです。したがって、その生命が物質界に顕現するための媒体を、勝手に滅ぼすべきではありません。物質をなきものにしたことで、すべてが終わったわけではないこと、それに関わった当事者は、いつの日か、その中絶によって地上への誕生を阻止された霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなると、私は考えています。

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話

スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳





第5章 再 生 生まれかわり

【Q1】
意識がいくつかに分かれて働くということは、あり得ることでしょうか?
 今、あなたは物質の世界で自分を意識していますが、それは本源の大きな意識のほんの一部です。同じ本源の意識には、他の階層で発現している小さな意識がいくつもあります。

【Q2】
それぞれに独立しているのでしょうか?

 いえ、独立はしていません。あなたを含めた小さな意識は、一個の大きな霊的実在の部分的表現です。全体を構成する部分的意識であり、それらが(さまざまな階層で)質的に異なる媒体で自我を表現しています。

 ときおり、それらが合体することはあります。ですから、小我同士は必ずしも見ず知らずというわけではありませんが(注)、互いの存在を意識するのは、何らかの媒体を通して自己表現をし始めてからのことです。そして、最終的には合流点にたどり着いて、すべての小我が大我と一体となります。

訳注───熱心なシルバーバーチの愛読者なら気づかれたかもしれないが、十数年前に潮文社から出した 『シルバーバーチの霊訓』 第四巻にこれと同じQ&Aがあり、今、それを念のために目を通してみると、明らかな誤訳の箇所が見つかった。「必ずしも見ず知らずというわけではない」のところを「気づかないこともある」と訳している。翻訳者にありがちな思い込み違いによる誤訳である。「訳者あとがき」参照。


【Q3】
二つの部分的意識(ダイヤモンドの一側面・分霊)が、地上で会っていながら、そうと気づかないことがあるでしょうか?

 大きな意識を一つの大きな円であると想像してください。その円を構成する分霊が離ればなれになって中心核のまわりを回転しています。ときおり、分霊同士が会ってお互いが同じ円のなかにいることを認識しあいます。そのうち回転しなくなり、各分霊がそれぞれの場を得て、再びもとの円が完成されます。


【Q4】
分霊同士で連絡しあうことができますか?

 必要があれば、できます。


【Q5】
二つの分霊が、同時に、地上に誕生することがありますか?

 ありません(注)。全体の目的に反することだからです。個々の意識があらゆる階層での体験を積むということが、本来の目的です。同じ階層へもう一度戻ってくることはありますが、それは成就すべきことが残っている場合に限られます。

訳注───これは 「原則として」 という文言を入れるべきであろう。前章のQ9の回答の最後の一節では「affinity」という用語を用いて、二つのアフィニティが出会うことがあると述べている。ただし「まれにですが」と断っている。

その直前の回答の最後で「それらの側面が、別々の時期に地上に生まれ出て体験を積み、ダイヤモンド全体としての進化に寄与するのです」と述べているが、これが原則であって、アフィニティ同士が出会うのは例外的であると理解すべきである。


【Q6】
体験による教訓は仲間から得られても、進化のための因果律は自分で解消していかねばならないと考えてよいでしょうか?
 そのとおりです。個々の分霊は一個の大きな意識の構成分子であり、それらがさまざまな形態で自我を表現しているわけです。進化するにつれて自我の本体を意識していくわけです。


【Q7】
そうやって、進化のある一点において、すべてが一体となるわけですね?

 そういうことです。無限の時をへてのことですが‥‥。


【Q8】
個々の分霊の地上への降誕は一回きり、つまり自我の本体としては再生はあっても、分霊としては再生はないと考えてよいでしょうか?

 それは、成就すべき目的が何であるかによります。同じ分霊が二度も三度も降誕してくることがありますが、それは特殊な使命がある場合に限られます。


【Q9】
一つの意識の個々の部分、というのはどういうものでしょうか?
 これは説明の難しい問題です。あなた方地上の人間には「生きている」ということの本当の意味が理解できないからです。あなた方のいう生命は、実は最も下等な形態で顕現しているのです。生命の実体───思いつくかぎりのものすべてを超越した意識をもって生きる、高次元での生命の実情は、とても想像できないでしょう。

 宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションにふれたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかな影を見たに過ぎません。

鈍重なる物質によって表現が制限されているあなた方に、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問いにどうして答えられましょう?

 私の苦労を察してください。たとえるものがあればどんなにからくでしょうが、地上にはそれがありません。あなた方には、せいぜい光と影、日向と日陰の比較くらいしかできません。虹の色はたしかに美しいでしょう。ですが、地上の言語で説明できないほど美しい霊界の色彩を虹にたとえてみても、美しいという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです。


【Q10】
分霊の一つ一つを本霊の徳性の表現と見てよろしいでしょうか?
 それはまったく違います。こうした問いにお答えするのは、生まれつき目の不自由な方に、晴天の日の、あの澄みきった青空の美しさを説明するようなもので、たとえるものがないのですから困ります。


【Q11】 
フレデリック・マイヤースのいう「類魂」(注)と同じものと考えてよいでしょうか?

 まったく同じものです。ただし、単なる魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する小意識の集団で、その全体の進化のために体験を求めて降誕してくるのです。

訳注───「類魂説」 は俗に 「マイヤースの通信」 と呼ばれている 『永遠の大道』 と 『個人的存在の彼方』 のうち、前編でその基本原理が述べられ、後編でそれを敷衍・発展させたもので、スピリチュアリズムに画期的な発展をもたらした。参考までに、前編の第六章 「類魂」 の章をかいつまんで紹介しておく。

 「類魂は見方によっては単数でもあり複数でもある。一個の高級霊が複数の霊を一つにまとめているのである。脳のなかに幾つかの中枢があるように、霊的生活においても一個の統括霊によって結ばれた霊の一団があり、それが霊的養分を右の高級霊からもらうのである。(中略)

 一個の統括霊のなかに含まれる魂の数は二十の場合もあれば百の場合もあり、また千の場合もあり、その数は一定しない。ただ仏教でいうところのカルマは確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世のカルマではなくて、私よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型のことを指すことがある。

 同様に私も、自分で送った地上生活によって類魂の他の一人に型を残すことになる。かくして我々は、いずれも独立した存在でありながら同時にまた、いろいろな界で生活している他の霊的仲間たちからの影響を受け合うのである。(中略)

 我々は、この死後の世界へ来て向上していくにつれて、次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そして遂には個人的存在に別れを告げて類魂のなかに没入し、仲間たちの経験までも我がものとしてしまう。結局のところ人間の存在には二つの面があると理解していただきたいのである。

即ち一つは形態に宿っての客観的存在であり、もう一つは類魂の一員としての主観的存在である」


【Q12】
その本霊に戻ったときに、分霊は個性を失ってしまうのではないかと思われるのですが。

 川の水が大海へ注ぎ込んだとき、その水は存在が消えてしまうのでしょうか? オーケストラが完全なハーモニーで演奏しているとき、たとえばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか?


【Q13】
再生の決定的な証拠を、なぜそちら側から提供してくれないのでしょうか?

 霊言という手段によっても説明しようのない問題に証拠などあり得るでしょうか? 意識に受け入れ態勢が整い、再生が法則であることに理解がいってはじめて、事実として認識されるのです。再生はないと説く者が私の世界にもいるのはそのためです。まだ、その事実を悟れる段階に達していないから、そう言うに過ぎません。

宗教家が、その神秘的体験をビジネスマンに語っても仕方ないでしょう。芸術家が、インスピレーションの体験話を芸術的センスのない者に聞かせてどうなるでしょう。理解できるわけがないでしょう。意識の次元が違うのです。


【Q14】
そろそろ再生するということが、自分でわかるのでしょうか?

 魂そのものは本能的に自覚します。しかし、精神を通して(知覚的に)意識するとは限りません。大霊の一部である魂は、永遠の時の流れのなかで一歩一歩、少しずつ自我を表現していきます。しかし、どの段階でどう表現しても、その分量はわずかであり、表現されていない部分が大半を占めています。


【Q15】
では、無意識の状態で再生するのでしょうか?
 それも霊的進化の程度によって違います。再生する霊のなかには、自分が以前にも地上生活を送ったことがあることを知っている者もいれば、まったく知らない者もいます。

魂が自覚している、つまり霊的意識では自覚していても、それが精神によって知覚されていないことがあるのです。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題でして、あなた方の言語で説明するのはとても困難です。


【Q16】
生命がそのように変化と進歩を伴ったものであり、生まれかわりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか?

 愛は必ず成就されます。なぜなら、愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛は、必ず愛する者を引き寄せ、また愛する者を探し当てます。愛する者同士を永久に引き裂くことはできません。

 
【Q17】
でも、再生を繰り返せば、互いに別れの連続ということになりませんか? これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが‥‥。

 一致しないのは、あなたの天上の幸せの観念と、私の天上の幸せの観念のほうでしょう。宇宙とその法則は大霊がこしらえたのであって、その子どもであるあなた方がこしらえるのではありません。賢明な人間は、新しい事実を前にすると、自分の考えを改めます。自分の考えに一致させるために事実を曲げようとしてみても、しょせんは徒労に終わることを知っているからです。


【Q18】
これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間であってもよいと思うのですが‥‥。
 物質界にあっても聖人は聖人ですし、最低の人間はいつまでも最低のままです。体験を積めば、必ずそれだけ成長するというものではありません。要は、魂の進化の問題です。


【Q19】
これからも無限に苦難が続くのでしょうか?

 そうです。無限に続きます。何となれば、苦難の試練をへてはじめて、神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられてはじめて、その輝きを見せるように、神性も苦難の試練にさらされてはじめて、強くたくましい輝きを見せるのです。


【Q20】
そうなると、死後に天国があるという概念の意味がなくなるのではないでしょうか?

 今のあなたには天国に思えることが、明日は天国とは思えなくなるものです。というのは、真の幸福というものは、今より少しでも高いものをめざして努力するところにあるからです。


【Q21】
再生するときは前世と同じ国に生まれるのでしょうか?たとえば、インディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人にという具合に。

 そうとは限りません。めざしている目的のために最も適当と思われる国や民族を選びます。


【Q22】
男性か女性かの選択も同じですか?

 同じです。必ずしも前世と同じ性に生まれるとは限りません。


【Q23】
死後、霊界で地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してからまた同じ罪の償いをさせられるというのは本当でしょうか?神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのでしょうか?

 償うとか罰するとかの問題ではなく、要は進化の問題です。つまり、学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。生まれかわるということは、必ずしも罪の償いのためとは限りません。ギャップ、つまり、欠けているものを補う目的で再生する場合がよくあります。

もちろん、償いをする場合もあり、前世で学ぶべきだった教訓を改めて学びにくるという場合もあります。償いのためとは限りません。

 ましてや、二度も罰せられることはあり得ないことです。大霊の摂理を知れば、その完璧さに驚かされるはずです。決して不十分ということがないのです。完璧なのです。大霊そのものが完璧だからです。


【Q24】
自分は、地上生活を何回経験しているということを明確に認識している霊がいますか?

 います。それがわかる段階まで成長すれば、自然にわかるようになります。必然的にそうなるのです。光に耐えられるようになるまでは光を見ることはできません。名前をいくつかあげても結構ですが、それでは〝証拠〟にはならないでしょう。何度もいってきましたように、再生の事実はこうして〝説く〟だけで十分なはずです。

 私は、大霊の摂理について、自分がこれまでに理解したことを述べているのです。知ったとおりを述べているだけです。私の言うことに納得がいかない人がいても、それは一向にかまいません。受け入れてもらえなくてもよいのです。私と同じだけの年数の霊界生活を送れば、考えが変わるでしょう。


【Q25】
再生問題は異論が多いからそれは避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼるほうがいいという考えはいかがでしょう?

 闇のなかにいるよりは、光のなかにいるほうがよろしい。無知のままでいるよりは、摂理を少しでも多く知ったほうがよろしい。何もしないでじっとしているよりは、真面目に根気よく真理の探究に励むほうがよろしい。向上をめざして奮闘するのがよいに決まっています。

 死後存続の事実を知ることが真理探究の終着駅ではありません。そこから始まるのです。自分が大霊の分霊であること、それゆえに〝死の関門〟を、何の苦もなく、何の変化もなく通過できるという事実を知ったら、それですべてがおしまいになるのではありません。そこから、本当の意味での〝生きる〟ということが始まるのです。

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話

スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




第4章 死後の世界

【Q1】
 死後の世界は、どこにあるのでしょう?

 今、あなた方が生活している世界の別の側面、肉眼に見えず肉耳にも聞こえない世界です。今こうして存在しているのと同じ場所に存在しているのです。死後、わざわざそこへおもむく必要はありません。今いるところが霊界なのです。

 それが感識できないのは、霊的な感覚が発達していないからで、それが発達して霊界の波動あるいは振動(何と呼ばれても、かまいません)と調和すれば見えるようになります。

 つまり、霊界という別の世界が存在するわけではないのです。顕と幽にまたがる大宇宙を構成する無数の側面の、一つの側面に過ぎません。


【Q2】
 死んだ後、生前のアイデンティティーはどうなるのでしょうか? たとえば二、三〇年前に他界した妻を夫が確認できるのでしょうか? 向上が著しくて近づくことができないということもあり得るのでしょうか?
 アイデンティティーは変わりません。個性も変わりません。意識も変わりません。霊的品性が増し、容姿が大きくなっていることがありますが、個的存在としては生前とまったく同じです。霊的感覚が鋭くなり能力も深まっています。シミや障害や傷跡は消えてなくなっていても、本人とはっきりと認識できます。容姿も(すぐには)変わりません。

自我を表現するための道具ないしは手段は霊となっても必要だからです。その道具、つまり霊的身体は、地上で生活しているときから存在しているのです。


【Q3】
 死に方というものが霊界へ行ってから影響するでしょうか? 自然な死に方のほうが霊界に溶け込みやすいのでしょうか?

 もちろんです。大いに影響します。すべての人間が霊的知識をもち自然な生き方をすれば、いわゆる死ぬということが、らくで苦痛のないものになります。また、肉体が死滅した後、霊体になじむための調整をしなくてすみます。ですが、残念ながら、そういうケースは、めったにありません。

 地上を去って、私たちの世界へやってくる人間の大半は、自分の霊的宿命や構成、霊的実在の本質について極端に無知です。それに加えて、死ぬべき時期が熟さないうちにこちらへやってくる人があまりに多過ぎます。そういう人は、私がよくたとえているように、熟さないうちにもぎとられた果物がおいしくないのと同じで、未熟です。果物は熟せば自然に落ちます。同じように肉体に宿っている霊が熟せば、肉体は自然に朽ちて霊体から離れるものです。

 今、こちらの世界には、すっぱい果物やしぶい果物がどんどん送られてきています。そういう霊を霊的環境へ適応させるために、私たちはいろいろと手を尽くし、監視し、世話をやかねばなりません。あらかじめ霊的知識をたずさえていれば、私がたずさわっているような仕事はずっと楽になるのですが・・・・・・。

 死に方によって、間違いなく死後の目覚めが大きく違ってきます。死ぬということは、霊体が肉体から脱皮して態勢を整えることです。決して痛みを伴うものではありません。何らかの病気で死んだ場合は、その反応が残る場合があるかもしれません。その影響が大きい場合は、医者に相当する霊界の専門家が立ちあいます。

集まっている縁故の霊とともに、その死体とつながっている生命の糸(シルバーコード)が完全に切れて、無事に霊界へ誕生するように手助けします。

 次に考慮しなければならないのは、死後の目覚めの問題です。それが早いか遅いかは、その新参者の霊的意識の程度によって違います。死後の生命の存続についてまったく無知である場合、あるいは間違った死後の概念を吹き込まれていて、正しい理解に時間を要する場合は、肉体の睡眠に相当する霊的休息という過程が必要になります。
 その過程は自覚が芽生えるまで続きます。地上の時間感覚で長いこともあれば、短いこともあります。個人によって違います。正しい知識があれば問題はありません。物的波動の世界から脱け出て霊的波動の世界へと入り、新しい環境への順応もすみやかです。目覚めの瞬間は歓喜に包まれます。その目覚めをじっと待ち望んでいた、縁ある人々との再会となるからです。

 そもそも死というものは、少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。死は自由をもたらしてくれます。みなさんは、赤ちゃんが生まれると喜びます。が、私たちの世界では、これから地上へ誕生していく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。

同じように地上ではだれかが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは、地上生活で果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意が、その霊にそなわったことを意味するからです。

 次のことをぜひ理解してください。すなわち、死は死んでいく者にとっては悲劇ではなく、後に残された者にとっての悲劇に過ぎないということです。暗黒から光明へとおもむくことは悲しむべきことではありますまい。悲しんでいるのは、実は、その人に先立たれた自分のことであって、肉体の束縛から解放されたその人のことを悲しんでいるのではありません。その人はより幸せになっているのです。

もう肉体の病に苦しめられることがなくなったのです。激痛にさいなまれることがなくなったのです。天賦の霊的資質が発現し、何の障害もなくそれを発揮し、援助を必要としている人々のために役立てることになるのです。

 毛虫が美しい蝶になったことを悲しんではいけません。鳥かごが開け放たれて、小鳥が大空へ飛び立ったことを泣き悲しんではいけません。肉体を離れた魂が自由を獲得したことを喜び、そして、あなたも大霊から授かった能力を発揮すれば、その魂が味わっている美しさと喜びをいくらかでも知ることができることを知ってください。

 死というものが存在することにも意味があるのです。一つの踏み石ないしはドアのようなものであり、そこを通過することによって、より自由な霊の世界へと入ることになるのです。


【Q4】
 唯物主義者をもって任じている人は、死後どうなるのでしょうか?

 地上人類は長い間、信心深い人間は、信仰心のない人間よりも優れているという思い違いをしてきました。必ずしも、そうとはいえないのです。ある宗教的信条を信じたからといって、それだけで霊的に立派になるわけではありません。判断の基準になるのは日常生活です。

 現在の霊的本性は、本人のこれまでの日常生活での心と体の行為がこしらえたものです。ですから、神の存在を信じ教義を受け入れたことで〝選ばれし者〟の一人となったと信じている人よりも、唯物主義者、無神論者、合理主義者、懐疑論者をもって任じている人のほうが、霊的に上である場合が多いのです。大切なのは、何を信じるかではなくて何をしたかです。そうでないと〝神の公正〟が根本から崩れます。
〝神の公正〟を人間の思惑で判断してはいけません。大霊の意志の反映ですから、大自然と同じように、人間の望み・思惑・願望などにおかまいなく働きます。神の公正と人間の公正とを比較して論じることは無意味です。

人間の公正は必ずしも正しくありません。判断を誤ることがあり得ます。無実の者が罪人にされたり、罪人が無実になったりすることもあります。人間であるからには間違うということは避けられません。絶対的不謬性(誤りを犯さない)はあり得ないからです。


【Q5】
たとえばH・G・ウェルズ(注)のように、スピリチュアリズムを否定し、生涯にわたって合理主義者で通した知性派の人間が他界して、死後にも生活があると知ったときは、どういう反応をするのでしょうか?

 生涯をかけて築いた人生哲学がひっくり返されるわけですから、とても納得がいきません。宇宙そのものがどこか狂ったに違いないと思います。自分が自信をもって、論理的かつ科学的に論証した宇宙観とそぐわないからです。それを調整していかねばならないわけですが、それには長い長い論争と語らいが続きます。
訳注───H.G.Wells(1866~1946)は、英国が生んだ世界的な文明評論家で 『The Outline of History (文明の概論)』 がその代表作であるが、Q4の回答のなかでシルバーバーチが述べているように、霊格が高くても生まれ落ちた国家や環境によって間違った人生観・宇宙観を抱いていることがよくあり、知性が強いだけに死後の〝調整〟がむずかしいことになる。特に宗教的指導者は信奉者とともに自分の想念でこしらえた孤立した世界で何千年、何万年と暮らしているという。 『マイヤースの通信』 では、これを「知的牢獄」と呼んでいる。


【Q6】
 間違った信仰をたずさえて霊界入りする者が多いとのことですが、『ヨハネ福音書』では、信ずる者こそ救われると説かれています。

 それは間違いです。死後も生き続けるのは、信条や教義やドグマを信じるからではなく、自然法則によって生き続けるようになっているからです。宗教とは何の関係もありません。因果律と同じく自然の摂理なのです。


【Q7】
死んでいく者の多くが死後の存続の事実を知らず、めまいのような状態にあるそうですが、それは子どもにも言えることでしょうか?

 その子どもの知識がどのようなものかによります。地上界の無知と迷信の産物によって汚染され過ぎていないかぎりは、本来そなわっている霊的資質が生み出す感性が、直観的理解へと導きます。


【Q8】
 死後どれくらいたつと、地上界へ意思を伝えることができるようになるのでしょうか?

 事情によって異なります。死後何世紀もたっているにもかかわらず、真相に目覚めない者がいます。一方、真理を明確に理解していて、霊媒現象の原理にも通じている者もいます。そういう者なら、死んで何分もしないうちにでも出現できます。


【Q9】
 魂はいくつもの側面があり、そのうちの一つが地上に誕生できるとおっしゃっていますが、他の側面は、どこか別の階層で進化しているのでしょうか?

 私たち霊的世界に住む者は、霊的なものを説明するにあたって地上界の言語を使用しなければなりません。言語は物的なものであり、魂は非物的なものです。物的でないものを物的な言語でどう説明するか───これはあなた方の言う語義論に関わる大問題です。

私に言わせれば、魂とは、すべての人間に宿っている神 (God)、私が 「大霊(Great Spirit)」 と呼んでいるものの一部です。それはこういうものですと、形状や寸法を述べることは不可能なのです。魂とは、生命力(life force)、動力(dynamic)、生気(vitality)、実質(real essence)、神性(divinity)といった用語で表現するしかありません。
 魂というものを、多分、あなた方は自分と同じような〝人物像〟や〝個的存在〟の観念で想像なさるのでしょう。

でも、もし私が 「あなたは、だれですか?」 と尋ねたらどう答えますか?名前をおっしゃっても、それだけではあなたが何者であるかはわかりません。それはあなたを呼ぶときの名称に過ぎません。では、一体あなたという魂は何なのか? 個性をもつ存在、理非曲直を判断する能力をもつ存在、思考力をもつ存在、愛を知り地上界の人間的体験の綾を織りなす情感を表現できる存在、それが魂です。

 人間が地上で生活できているのは、魂が物的身体に活力を与えているからです。魂が引っ込めば、身体は活力を失って死にます。その魂に地上で使われているような名前はありません。本質的には大霊と同じですから、無限の存在です。そして、無限ですから無限の表現が可能です。

魂には多くの側面があるというのは、そういう意味です。それを私はダイヤモンドにたとえているわけです。それらの側面が、別々の時期に地上に生まれ出て体験を積み、ダイヤモンド全体としての進化に寄与するのです。

 まれにですが、同じダイヤモンドの二つの側面が降誕して地上で出会うことがあります。これを 「アフィニティ(affinity)」 (注)といいます。そういう場合は、両者の間に完全な調和が見られます。同じグループを構成する魂同士だからです。これは再生(生まれかわり)の問題とつながってきます。

つまり、同じダイヤモンドの各側面が、それぞれに何度も地上へ生まれ出て知識を増やし、自己開発し、体験を積んで、ダイヤモンド全体としての進化を促すのです。

訳注───affinityはもともと「親近性」を意味する語で、霊的な親近性をもった魂、同じ霊系に属する魂を指す。『マイヤースの通信』 では 「Group Soul」 という用語を用いているが、両者がまったく同じものであることをシルバーバーチ自身が認めている。

日本語では浅野和三郎氏が 「類魂」 と訳しそれが定着しているが、「affinity」はそのまま英語読みが定着している。なお、次のQ10の回答の後半の表現から推察すると、シルバーバーチは 「Group soul」 を人間的要素の残っている段階、言い換えると地球圏内に限っているふしがうかがわれる。


【Q10】
類魂というのは家族のことでしょうか? 霊的発達程度の同じ者の集まりでしょうか?趣味・性向 の似た者同士でしょうか? それとも何かもっと別のものでしょうか?

 「家族」という用語の意味が文字通りの意味、つまり血族や結婚によってつながった者を意味するのであれば、それは違います。純粋に肉体に起因する地上的な縁は、必ずしも死後も続くとは限りません。

 霊的関係には、究極的にはアフィニティがあり、親近性が少し劣るものとして血縁の要素が残っているものがあります。血縁関係は、永遠・不変の原理に基づくものではありません。永続性のあるものは、永遠・不変の原理に基づくものだけです。
 類魂は、人間的要素を含む霊的親近関係にある魂によって構成されています。同じダイヤモンドの側面同士ですから、自動的に引きあい、引かれあうのです。ある特殊な目的を成就するために同じダイヤモンドの複数の側面が地球上に生まれ出て、〝より大きな自我〟であるダイヤモンド全体の進化に寄与するということはあり得ますし、現に行なわれています。


 【Q11】
 大きなダイヤモンドの一側面という言い方をされました。つまり、私もある魂の集団の一人ということになりますが、これは、われわれが永遠に生き続ける存在であるとすると、他の大勢の仲間のために地上経験を積む必要があるというのが、私には論理的に納得がいかないのですが・・・。

 全宇宙を通じて作用と反作用が生じています。はるか遠くにいる人間でも、あなたの存在に大きな影響を及ぼし、結果として宇宙全体の情報が増えていくことになるのです。肉体的にも精神的にも霊的にも、あなたが孤立するということはあり得ないのです。その仲間をグループと呼んでもダイヤモンドと呼んでも、しょせんは言語を超えたものを言語で表現しようとしているに過ぎません。

 一体 「あなた」 とは何者なのでしょう? また、「あなた」 という存在はいつから始まったのでしょう? 受胎の瞬間から始まったのでしょうか? ナザレのイエスは 「アブラハムが生まれる前から私は存在していた」 と言いましたが、これは何を意味しているのでしょう?霊としては、常に存在していたという事実を述べたに過ぎません(注)。

あなたも常に存在していましたし、私も常に存在していました。そうした霊的存在の側面が、肉体をまとって地上界で生活することはあり得ることです。
 私の言うことが納得できないとおっしゃる方と論争するつもりはありません。常々私は、自分の理性が反発することは拒絶なさってくださいと申しあげています。

 私たちがもし、みなさんの好意、あるいは愛と言えるものをいただけるとしたら、それは私たちが真実を述べていることを、みなさんの理性が認めたからに違いありません。もしも好意がいただけないとしたら、私たちの意図した目的が果たせていないことになりましょう。

 私たちは、しょせん、私たちが手にした知識を、これこそは間違いないと確認したうえで積み重ねていくしかありません。そこから始めてゆっくりと、そして段階的に、より高い道をめざして探求の歩みを続けようではありませんか。

訳注───イエスのセリフは 『ヨハネ福音書』 のユダヤ教のリーダーたちとの論争のなかで述べられたもので、アブラハムはユダヤ人の祖とされている人物なので、イエスがその人物より前から存在していたと述べたことに「生意気だ」と言って憤慨し、石を投げつける場面である。シルバーバーチが「‥‥と述べたに過ぎません」と言ったのは、「アブラハムが生まれる前から存在していた」 という言葉は別に失礼でも生意気でもないのに、その意味がわからずにリーダーたちが憤慨したからである。


【Q12】
地上で魂の琴線にふれる体験をしなかった者は、そちらへ行ってどういうことになりますか?

 とてもやっかいな問題です。何の予備知識もなしに初体験をさせられる大人に似ています。霊的なことにまったく疎い状態で新しい生活を始めるわけですから、地上界でも霊界でも不適応者というわけです。霊界生活にそなえた教訓を学んでいないから、そういうことになるのです。準備不足だったわけです。


【Q13】
そちらで、どういった処置をとられるのでしょうか?

 自覚の芽生えない者は手のほどこしようがありませんから、再び地上界へ送り込むことがあります。霊的感性が芽生えるのに何百年もかかることがあります。


【Q14】
霊界の知人・友人などが手助けしないのですか?

 できるかぎりのことはします。が、霊的感性が芽生えるまでは暗闇のなかにいるのです。覚醒のないところに光は届きません。

 そういう人たちのことを気の毒に思ってあげるべきです。せっかくの地上生活が無駄に終わったのですから。霊的資質を発揮することができなかったのです。学生時代に学ぶべきことを学ばなかったために、卒業してからの大人の生活への準備ができていないのと同じです。
 地上生活は、死後に必ず訪れる霊的生活へのかけがえのない準備期間です。体験の一つ一つが進化のために支払う代価なのです。地上生活は一本調子では終わりません。光と影があり、晴天の日と嵐の日があります。


【Q15】
 導きにも一般的な摂理・法則があるのでしょうか?それとも、それを届ける特殊な施設があるのでしょうか?祈りや瞑想にも効用があるのでしょうか?

 すでに何度も申しあげたことを、もう一度言わせていただきましょう。「師は弟子に応じて法と説く」───この名言が何よりの答えではないでしょうか? あなた方が心配なさることではありません。

導きはすべて、大霊から届けられるのです。地上圏に関わる神庁から派遣される使者や他の高級神霊が、ときとして、あなた方が地上へ降誕する以前から、指名を受けて背後霊団に加わっている場合があります。

 そうした高級霊が、あなた方の誕生以前に、自分の存在を知らせてくれる場合があります。ときには特殊な仕事を言いつけて、本人の了承を得る場合もあります。そういう霊を何と呼ぼうとかまいません。

そういう高級霊がひかえている場合があるということです。使命を置き去りにすることは絶対にありません。その使命は、『祈祷書』 の言葉を借りれば、「神がそなたの管理を配下の天使(注)に託し、諸事にわたりて配慮させ給う」のです。

訳注───ここで言う 「神庁からの使者」 「高級神霊」 「天使」 は、もちろん守護霊と考えてよいが、言い回しから感じられるところでは、特殊な使命を帯びた、守護霊以外の超高級霊も含まれているようである。その一例が、ほかでもない、このシルバーバーチや 『霊訓』 のインペレーターである。

 シルバーバーチは、バーバネルの守護霊ではないし、インペレーターは、モーゼスの守護霊ではない。スピリチュアリズムのような人類史に残るような大イベントを遂行するに当たっては、守護霊は直接タッチしないもので、神庁から派遣された高級霊がたずさわっている。

バーバネルの守護霊はついに一度も出現しなかったし、モーゼスの守護霊も、「The Controls of Stainton Moses by A.W.Trethewy (モーゼスの背後霊団)」によると、インペレーターを指揮官とする四九名の霊団のほかにもう一人「プリセプター(「教師」の意味の仮の名)」と名のる総監督がいたというから、多分これがそうではないかと筆者は見ている。一度だけ姿を見せて、すぐに引っ込んだという。前出の原書には、BC九年のヘブライの預言者エリヤであることをにおわせる箇所がある。

Tuesday, September 1, 2026

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

 崇高な存在との対話

スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




第3章 ナザレのイエスとキリスト教

【Q1】
 聖書(バイブル)には、真実が語られているのでしょうか?

 聖書は、霊的真理と人間的夾雑物の混ぜものです。


【Q2】
 キリスト教でもそうですが、宗教の指導者の生と死と復活を、太陽系や四季のめぐりといった、自然現象と関連した神話上の神々になぞらえているものが多いのはなぜでしょうか?

 それは、人間が自分たちの指導者には超自然的能力があったのだと思いたいために、太古の神話からそうしたものを借用したからです。

当時の人間は、まだ自然法則という概念をもちあわせていませんでした。それで彼らは、自分たちの指導者は、自分たちにはない超越的資質をそなえた超常的人物であったことにしたいと思い、民族同士でそれぞれの神話を借用しあったわけです。

 それはしかし、大霊の使者によってもたらされた教えを汚染するまでには至っていません。それぞれの時代、それぞれの民族において、それぞれの必要性に応じて、大霊の真理と英知と愛を反映したものが届けられています。


【Q3】
 そうした宗教上の人物は、大自然の運行と連動しているのだと、信奉者は信じています。つまり、自分たちの教祖さまの生涯は自然現象を暗示している(たとえば、死後の復活は冬のあとに春が訪れるのと同じ)と信じているのですが、これは単なる偶然でしょうか?

 あなたのおっしゃるのが、聖書にあるようにナザレのイエスが磔刑(はりつけ)になったときに、天地が慟哭するかのように、稲光とともに嵐が吹きまくったという話のことであれば、それは事実ではありません。死んだ人間もみな、地上へ戻ってくることを意味するのであれば、それは事実です。さきほど述べた大霊の使者の生涯に関しても、同じようなこじつけがみられます。


【Q4】
 「聖霊に対する罪」というのは、どういう罪でしょうか?

 聖霊に対する罪は、聖霊の存在を否定することです。

訳注───このシルバーバーチの答えは、キリスト教を代弁したものではなく、霊的真理に照らして批判的に答えたもの。つまり、キリスト教神学でいう 「三位一体説」、すなわちゴッドとイエスと聖霊が一体であるとの説が誤りであるとの立場から、次の質問(Q5)に対する答えで述べているように、キリスト教では実質的には聖霊の存在をみずから否定しているのだから、その意味でキリスト教者自身が罪を犯していることを指摘している。


【Q5】
 聖霊とは何なのでしょう?

 霊界から届けられる霊的エネルギーのことです。キリスト教では教義の一つとして抽象的には認めていますが、私たちが 「地上界のすべての人間が、その恩恵に浴しているものです。こうしてみなさんと語りあえるのも、その霊力のおかげです」 と言うと、それは聖霊ではないと反発します。たとえ一時であっても、霊の世界と物質の世界が目的において、こうして一つになることを可能にしてくれるのは、聖霊すなわち大霊のエネルギーのおかげなのです。


【Q6】
 聞くところによると、キリスト教のどの教派においても、洗礼を受けることによって、死後その教派の霊団に迎えられて、新しい環境に順応するように世話をしてもらえるのだそうですが、それが事実だとすると、洗礼を受けていない者はどうなるのでしょうか?

 この大宇宙を稼動させている力、この物的身体に生命の息吹を吹き込んで霊的存在としてくれている力、無数の天体のすべてに存在を与え、自然法則として顕現している力、無数の次元の生命として顕現している大霊、太古より多くの預言者や霊媒を通して顕現してきた大霊、すべての存在の内部と背後にあって働いている力、その無限大の力である大霊が、人間が水をかけられているかどうかでお困りになることはありません。

大切なのは、各自の人生が摂理にかなっているか否かです。赤子に数滴の水をかけたからといって、摂理がごまかせるわけではありません。摂理は変えられないのです。原因には、それ相当の結果が出るようになっているのです。


【Q7】
 キリスト教は、多くの立派な人間を生み出したのではないでしょうか?

 その人はクリスチャンになろうとなるまいと、立派な人間になっていたはずです。


【Q8】
 でも、イエスの教えにしたがったからこそ、立派になったのではないでしょうか?

 地上界の人間が本当にナザレのイエスを見習った生き方をしたら、人類の歴史に新たな一章が始まったことになるでしょう。残念ながら、まだ始まっていません。私の目にはその兆候はどこにも見えません。

 忠誠を尽くすべき人物を裏切るような生き方をしながら、この私に向かって 「クリスチャン」 という用語を用いることはやめてください。イエスも言っているではありませんか───「私に向かって主よ、主よ、と言っている者のすべてが天国に入れるわけではない。天に在します父の御心を実践する者のみが入れるのである」 と。


【Q9】
 クリスチャンのなかには教義にあまりこだわらず、それでいて我欲のない立派な生涯を送った人物がいく人もいましたね?

 そういう人物は、立派なクリスチャンとは言えません。だめなクリスチャンということになりましょう。ですが、立派な人物だったのです。忘れないでください。いかなる教義も必ず魂を束縛します。

 人間は、教義を守ることによって立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人類は教義の名のもとに殺しあい、火刑に処してきました。魂を縛るもの、手かせ足かせとなるもの、自由な生き方を阻むものは、いかなるものであっても排除しなくてはいけません。


【Q10】
 イエスは教会がいっているように 「神の唯一の子」 だったのでしょうか?それとも、ふつうの人間の子で、偉大な霊的能力をそなえていたのでしょうか?

 イエスは、大霊の使命を帯びて物質界へ降誕した使者の一人でした。地上での使命は成就しましたが、まだ全使命の一部が残っています。今、それを成就するために霊界から指揮しているところです。忘れてならないのは、イエスという一人物を崇めるのは間違いだということです。

 崇拝の対象とすべきものは大霊のみであって、その大霊の使者を崇めてはいけません。またイエスは、自然法則にのっとって地上界へ降誕してきました。自然法則を無視して物的生命を授かることはできません。法則を無視して地上へ生まれてくることも、地上界から私たちの世界へ来ることもできません。


【Q11】
 そのことを、イエスは聖書のどこかで言っていますか?

 私が訴えるのは大霊の法則のみです。何かというと言葉の松葉杖にすがるような人は、大霊が今も働いている、今もインスピレーションを地上の人間に届けてくださっている、今も真理を啓示してくださっているということを悟るまで、霊性の進化を待つしかありません。

 霊的法則は、今でも同じように働いているのです。霊的エネルギーは、今でも霊媒を通して働くことができるのです。あの聖書の時代と同じように、大霊の道具となることができるのです。聖書は立派な本かもしれませんが、もっと立派な〝本〟があります。大宇宙そのものです。

大霊の摂理で構成されており、その本からみなさんは、他のいかなる本───それがいかに立派で、いかに大切にされ、いかに崇められていても、それよりはるかに多くのことを学ぶことができます。


【Q12】
 イエスは今、どこにいて、何をなさっているのでしょうか?

 ナザレのイエスなる人物を通して顕現した霊は、二〇〇〇年前に開始した使命を果たすべく、今も働いています。その霊は二〇〇〇年前に十字架に架けられましたが、実はその後も数え切れないほど架けられ、今では毎日のように架けられています。しかし、その霊は大霊の分霊ですから、地上界に秩序と安寧をもたらすべく、これからも道具のあるところに働きかけて、その影響力を広げていくことでしょう。


【Q13】
 あなたがイエスについて語るとき、それは人間イエスのことですか? それともイエスを通して働きかけた霊的勢力の総合ですか?

 人間イエスのことです。ですが、その後イエスは大きく進化し、地上時代よりもはるかに高等な意識を発現しています。地上で発現する意識の高さが、生まれ落ちた時代と土地柄に相応したものにならざるを得ない以上、やむを得ないことです。それでも、ナザレのイエスを通じて発現した霊性は、地上に降誕したいかなる人物をも凌ぐものでした。イエスほど霊性を強烈に顕現した者は、ほかにいないということです。


【Q14】
この二〇〇〇年間に、でしょうか?

 前にも後にもいません。イエスが発現した霊性は、地上界で発現した大霊の霊性のなかでも最大のものでした。だからといって私たちは、イエスという一個の人物を崇めることはしません。イエスを通じて発現した霊力には敬意を表します。どれだけ霊力の道具になったかで受けるべき敬意の度合が決まる、というのが私たちの認識の仕方だからです。


【Q15】
 霊界では、イエスのような人物を地上へ送って、さらに啓示を届ける計画があるのでしょうか?

 必要性が変われば、それに応じて手段も変えないといけません。忘れてならないのは、地上世界は、ますます複雑になり、ますます相互依存の傾向が強まっていますから、霊界とのコミュニケーションのチャンネルも新たに開かねばならなくなっていることです。

 霊界側は、地上界のさまざまな気質、さまざまな慣習、ものの考え方、生活様式を考慮しなければなりません。メッセージの内容も自然環境や特質、民族的習慣にあわせなくてはなりません。言語による制約もあり、それを読んだり聞いたりする人たちの程度にあわせなくてはなりません。しかし、その背後で鼓舞している根源的エネルギーは同じです。
 キリスト教界では、死者からよみがえって姿を見せ、生命が永遠であることを証明して見せた人物に敬意を表しています。その人物は物質化して、証拠として磔刑の傷跡を見せています。その後も顕現しています。こうした現象をキリスト教界では、証明はできなくても事実として信じているのです。ところが、それは神の子イエスだから発生した奇跡であると独断します。

 しかし、私たち霊界の者が、こうして交霊会に出現し、死後の世界の実在を証言し、大霊の永遠性とその摂理・法則の不変性を説くことができるのも、奇跡ではなく、イエスのよみがえりと同じく、法則にのっとった自然現象なのです。つまり、すべての人間がよみがえるのです。生命の法則がそうなっているからです。


【Q16】
 伝統的宗教を扱うに際しては、寛大な態度でのぞむべきでしょうか、厳しい態度でのぞむべきでしょうか?

 おそれることなく、真実を語ることです。あなたは大霊の使いです。邪説を論破し、虚偽を暴きなさい。おそれることはありません。


【Q17】
 スピリチュアリズムを受け入れれば、伝統的宗教は捨て去るべきでしょうか?

 私はラベルには関心がありません。はたしてスピリチュアリストなのかも定かでありません。確認する儀式をしたことがないからです。自分がどういう信者であるかを宣言しても何の意味もありません。私たちが関心をもつのは、日常生活をどう生きているかです。
 宗教とは何なのでしょう? 教会やシナゴーグやチャペルや寺院に通うことでしょうか? 人間のこしらえた信条の受け入れを宣言することでしょうか? ローマ・カトリック教徒ですとか、プロテスタントですとか、仏教徒ですとか、ユダヤ教徒ですとかいうことでしょうか?

 宗教とは、大霊に少しでも近づくような生き方をすることです。大霊の御心があなたを通じて発現することです。宗教とはサービスです。
 霊界からの啓示のすべてを手にしながら、あいかわらず伝統的宗教の教義にしがみついている人がいたら、その人のことを気の毒に思ってあげなさい。心のなかで、その人のために祈ってあげなさい。その人は、まだまだ初歩の段階にいるのですから。



【Q18】
 宗教の指導的立場にいる者が霊的真理に目覚めたとき、旧式の概念は捨て去るべきでしょうか?

 人間各個の義務というものを、私たちは至上の原則と位置づけています。自分のすることには自分が責任を負うということです。

 霊的真理に関して屁理屈で言い逃れをしても何にもなりません。霊的意識が芽生えれば、良心の声がどうすべきかを教えてくれるものです。それをなるほどと認識したら、そのとおりに実行しなければなりません。それができない人はその程度の人なのですから、それをとがめることは正しくありませんし、適切でもないと考えます。


【Q19】
 スピリチュアリズムは、いずれ普遍的な宗教となるのでしょうか?
 スピリチュアリズムというのは、いくつかの霊的真理の存在と意義と作用について与えられた名称に過ぎません。私にとって宗教とは生き方そのものであって、特定の信仰を受け入れることではありません。


【Q20】
 教会やチャペル、シナゴーグなどは存在価値があると思われますか?

 あるものもあれば、ないものもあります。そういう場所にいる者が、無意識のうちにせよ霊の影響を受け、インスピレーションを受けるようであれば、光明と知識と英知と真理を広めるための道具となりますから、大いに役立つでしょう。

 インスピレーションもなく、古い形式や儀式、朽ち果てた教義の繰り返しで、神学の一字一句にこだわった説教しかできないようでは、何の役にも立ちません。

いずれにしても、一概にはどちらとも言えません。だめ呼ばわりするところばかりでもありませんし、絶賛したくなるようなところばかりでもありません。それぞれに長所と短所があり、本来のサービスをしているところもあれば、していないところもあります。

ベールの彼方の生活(四)

著者: G・V・オーエン(George Vale Owen)

近藤千雄 訳



一章 測りがたき神慮
1 大聖堂への帰還 2 静寂の極致 3 コロニーのその後
バーナバスの民へ支援の祈りを



1 大聖堂への帰還
一九一八年一月二十一日 月曜日

 
 これからは光明界へ向けての旅となります。例の〝光のかけ橋〟の下の谷の暗さは地上の夜の暗さであったと私が言えば、これまでいた暗黒界の都市の暗さの程度(ほど)がご想像いただけるであろう。

漆黒の闇は何も見えない暗さのことです。が、こちらにはそれよりさらに濃い闇が存在する。地上では闇はただ暗いだけのことですが、暗黒界の闇には実体があり、上層界からの保護を受けていない者にとっては、まさに恐怖なのです。

哀れにもその濃厚なる闇へと引き寄せられた者は、あたかも水に溺れるのにも似た窒息せんばかりの苦しみを覚えます。しかもそこには沈みゆく身を支えてくれる板切れ一枚ない。

苦しみの極みにやがて逆上と絶望が忍び寄り、冒涜の地獄を次から次へとさ迷い歩きながら、いつになっても、光明界へと向かうきっかけが己れの心一つに掛かっていることに気づかないのです。

 さよう、その奥深き暗黒界の闇には確かに一種の濃度があるのです。ただし、そこに住む者には薄ぼんやりと見透す視力が具わっています。もっとも、それが何らかの恩恵をもたらすわけでもありません。


それどころか、その視力に映じるものは身の毛もよだつものや悪意に満ちたものばかりであり、それが彼らの苦しみを一段と辛辣なものにしていくのです。

彼らの中にはかつてこの地上に生活し地上社会で交わった者もいる。生まれながらにして邪悪だった者もいれば名声と地位を誇った者もいる。このようなことを述べるのは、死後の真相を貴殿を通じて地上の人々に伝えたいと思うからです。

と言うのも、地上には、絶対神は愛そのものであるが故に地獄は存在しないと論ずる者がいます。確かに神は愛そのものです。が、そう述べる者がどこまでその絶対愛を理解しているか──ほんの初歩的なものでしかない。

一方こうして貴殿に語りかけている吾々霊団の者はどうかと言えば、これまでの永き道程にもかかわらず未だに究極には到達できずにいます。

が、神がまさしく愛であるとの確信を抱くに十分なだけの──と言ってもまだ一かけらほどでしかないが──神の叡智(摂理)を理解することを得ております。完全なる理解はできません。

しかしこれまで得た知識が〝神は叡智において完全であり完全なる愛そのものである〟との信仰をますます拡大し、より確固たるものにしてくれたことは確かです。


──リーダーさん、お聞きしたいことがあります。いつでしたか、睡眠中に私も暗黒の地下の仕事場を訪れたことがあるのですが、そのことをあなたはご存知でしたか。もしご存知でしたら、私が訪れたのはあなたが奴隷を救出された鉱山と同じところだったのでしょうか。どこか似通ったところもありましたが、違うところもありました。

 貴殿の睡眠中の体験のことは勿論よく存じております。と言うのも、こうして貴殿を使って通信を送る作業を準備するに当たって吾々は貴殿の生活について総合的に検討してあるのです。貴殿の扱い方に粗相があってはならないからです。

この種の仕事に抜擢(ばってき)される人間は、目的はそれぞれ違っていても、こちらで徹底的に調べ上げており、その生活ぶりは一つとして見落とされることがないものと思われて結構です。

 さてご質問の件ですが、あの場所は例の都市から数マイルほど離れた位置にある別の鉱山で吾々がお話したボスの子分によって支配されております。そこは、ボスに対して反抗的態度をとった者が連れていかれるところで、そこで徹底的にしごかれながら、吾々が訪れた鉱山よりもさらに厳しい監視下で働かされています。

それに比べれば吾々が訪ねた鉱山の奴隷は挫折感が強いだけに誰かにすがりつこうとする傾向があり、その意味で割合自由にされているところがあるわけです。

貴殿が行かれた場所はその地域へ初めて送り込まれた者がいったん置かれるところで、それだけにまだそこでの仕打ちの残酷さの程度を知らず、そのしごき方も知らずにおります。


──動物がいましたが、あれは何の用があるのでしょう。

 その者たちを威嚇し見張るように訓練してあるのです。


──でも動物がそんな地獄に落ちるようなことをしでかすはずがないし、そんな用事に使われるいわれもないと思うのですが・・・・・・


 貴殿が見られた動物は一度も地上に生を享けたことのない動物たちです。地上に生を享けた動物は明るい界層へ向かいますが、あそこの動物たちは悪の勢力によって創造されたもので、彼らにはそこまでは創造できても、地上へ誕生させるほどの力はありません。

そこで暗黒界の環境を形成している成分によって形態だけは立派な動物の姿をしておりますが進化はせず、これからもずっとあのままです。

貴殿があの境涯での動物の存在を不審に思われたのも無理はありません。あの種の動物は地上の動物的生命の秩序の中に組み込まれていないのです。地上の動物種族の進化に関与できる能力を有するのは創造界においてもよほど高い界層まで到達した神霊に限られます。

以上、非地上的真理を地上の言語で述べてみましたが、ご理解いただけましたか。


──一応わかりました。どうも。大へん謎めいた話で私には思いも寄らないことです。が、これは以後じっくり時間をかけて考えていけば、他の謎を解くカギにもなりそうです。


 いかにも。そういう姿勢で取り組めばきっと役に立ちます。その際に次のことを念頭に置いていただきたい。

すなわち宇宙を善と美のみの光で照らして考察すると、当然、悪は否定的な要素でしかないことになりますが、それを逆さまに考える──つまり反対の端から出発して善のみの生命の流れに逆らって進めていけば、暗黒界にも光明界の大天使や中天使や小天使に相当する強力な悪の存在がいるということです。但し一つだけ大きな相違点がある。それはこういうことです。

 天界の進化の階梯を下から上へ登っていくと次第に崇高さを増し、ついには究極的存在に至ることになりますが、暗黒界においては完成の極致というものがない───絶対的存在はいないということです。

すべての点で言えることですが、この点においても暗黒界の勢力には完成というものがなく、神性に欠けるが故に秩序もない。もしそうでなかったら暗黒の勢力が光明の勢力と対等となり、そのうち光明界が侵略され、愛と美がその反対の憎と醜にとって代られ存在の場を失うことにもなりかねない。

そうなると最高神の目的が歪められ、宇宙が進化の道を踏み外し、脇道へ外れて遭難し、幾星霜を経るうちに大混乱が生じ、ついにはその目的を成就できずに終わることになるでしょう。

 そこで、いかに暗黒の勢力が強力とはいえ全能ではないようにできているのです。全能は唯一絶対の宇宙神のみの大権なのです。

神は全知全能であるが故に、たとえ我が子が反逆して横道へ外れても、その我儘の程度を知悉(ちしつ)しているが故に、いずれは自らの意志により無条件に抵抗を止め、神の愛の絶対性を認めるに至るようにと、数世紀にも及ぶ放浪の旅をもお許しになるのです。

その時点において初めて宇宙の初めと終わりの謎が明確に理解され、神の叡智を悟るのです。

吾々が知り得た限りの神の御国──それとて程度は知れているが──について地上の言語で語れるのはこれまでです。吾々は吾々なりにもっと表現力に富む言語があるのですが・・・・・・地上の言語ではこれ以上は語れません。もっとも、貴殿の方にご質問があれば別ですが・・・・・・


──どうも。その件に関してはありません。

 では今回はこれで一応終わりとしましょう。どうやらカスリーンが貴殿にひとこと告げたいことがあるようなので、吾々の固苦しい影響力を引き上げて彼女自身の心根(こころね)のやさしい思念にゆずることにしましょう。

彼女の魅力ある性格から出るものをそのまま言わせてあげたいのです。彼女は実に心優しい性格で、吾々の書記として辛抱強く頑張ってくれております。その献身的な協力に対して吾々は心から感謝いたしております。貴殿とはまた機会を得てお会いしましょう。

お寝すみなさい。神の明るき光が貴殿並びに教会の信者の方々とともにありますように。みなさんは自覚なさっている以上に光輝に包まれておられます。いつの日かそれを目の当たりにされる日も来ることでしょう。


 訳者注──多分このあとすぐカスリーンからのメッセージがあったのであろう。それが載せられていないのは多分その内容がプライベートなものだったからであろう。 




  2  静寂の極致         
  一九一八年一月二十五日 金曜日

 吾々はついに光の橋にたどり着きました。上り傾斜になっているその橋を暗黒側の端から登って光明界側の端まで来ると、そこでしばし休息して、それまでの仕事の成果を振り返っておりました。

そこへ吾々の界からの使者がやって来て、吾々の使命の進行過程での神庁における配慮の様子を語ってくれました。と言うのも、第十界を離れて以来このかた、神庁においては片時も吾々との霊的接触をゆるめることはなかったのです。

彼はその具体的な例として吾々が重大な事態に立ち至り火急の援助と導きを必要とした時に神庁において打たれた手段の幾つかを語ってくれました。

そのうちの幾つかは吾々にもその時点ではっきりと分かっていたものや何となく感づいていたものもありましたが、大部分はその時の抜きさしならぬ状態の中で全神経を集中していたために、外部から援助されている事実すら気づいておりませんでした。

それというのも、そうした暗黒界においてはその界層特有の環境条件に身体の波長を合わせるために、霊的な感覚がある程度制限されるのはやむを得ないことなのです。

 その点は地上界に身を置く貴殿も同じです。たとえ吾々による手助けに気づかれなくても貴殿はいつも見守られており、必要な時には然るべき援助を授かっておられます。

 さて途中の界でのことは省略して、一気に第十界に帰ってからの話に入りましょう。

 第十界を取り囲むように連なる丘の上で吾々は一団の出迎えを受けました。みんな大喜びで吾々の帰還を待ちわびており、吾々の土産話を熱心に聞きたがりました。

そこで吾々はいっしょに歩を進めながらそれを語って聞かせているうちに、いよいよ〝聖なる山〟の大聖堂の前に広がる大平原にたどり着き、そこを通り抜けて〝聖なる山〟を登り、聖堂の袖廊(ポーチ)まで来ました。

そこから奥へ招き入れられ、中央の大ホールへ来て見ると、そこに大群集が集まっており、跪いて姿なき大霊への讃仰の祈りを捧げているところでした。吾々はそこを通り抜けて最後部で待機したのですが、吾々の動きに一瞥すらくれる者は一人もいませんでした。

 地上の人間は真の静寂を知りません。地上には完全な静寂というものがないのです。音の無い場所というものがありません。第十界のあの大聖堂での讃仰の祈りの時はまさしく静寂そのもので、崇厳さと畏敬の念に満ちておりました。

 かりに貴殿がはるか上空へ地上を離れれば、次第に地上の騒音から遠ざかることができるであろう。が、それでもなお空気との摩擦があり、微(かす)かとはいえ一種の音によって完全な静寂は破られるであろう。

さらに大気圏を離れても、惑星間の引力作用による潜在的な音の要素がエーテルに響いている。

太陽系を離れて別の太陽系との間の虚空まで行けば、幾百万光年の彼方の地球はもはや見ることも感知することもできず、殆どその存在は知られなくなることであろう。

しかしエーテルが存在する。たとえ貴殿の耳には何の音も届かなくても、エーテルを応接間に譬えれば空気はその控えの間のような存在であるから、音と隣り合わせていることになり、両者は言わば親戚関係にあることになる。

 ところがこの第十界までくると、そのエーテルを十倍も精妙化したような大気が存在する。ここでの静寂はそれに浸る者への影響の観点から言えば消極的なものではなく、むしろ能動的な一つの存在を有している。

つまり音が無いという意味での静寂ではなく、静寂という実体があるのである。それも一種のバイブレーションをもつ存在である。

がその周波は極めて緻密で、音の皆無の状態と同じなのである。私にはこれ以上の説明はできかねます。肉体という鈍重な物質に宿っている貴殿には、吾々があの大ホールへ入った時に体験した状態は、その万分の一といえども想像できるものではありません。

 最後部の座席で待機していると、前回吾々を見送って下さった方が中央の通路を通って近づいてこられ、私の手を取って祭壇へと案内してくださった。その祭壇は例の玉座のある拝謁の間にあり、吾々が暗黒界への使命を給わったのもその部屋でした。

 使命を終えて再びその部屋へ戻ってきた時の吾々は、あの暗黒界での辛酸をなめさせられて、いささかやつれぎみでした。顔の表情から数々の闘争のあとが窺われました。

というのも、私が貴殿にお話したのはほんの一部であって、決してあれがすべてではなかったのです。善と悪との絶え間ない戦いをくぐり抜けてきた戦士のようなものでした。

しかしその傷あともシワもいずれは霊格の一部として融合し、一段と品格を高めてくれることでしょう。吾らが主イエスも身を持ってその模範を垂れ、聖なる美への道をお示しになられたのです。

実に、身にまとわれる衣にも犠牲の教訓が読み取れるほどの主の美しさは、地上の言語はおろか天界の言葉をもってしても、私には表現することはできません。

 吾々一団は祭壇から少し離れた位置で足を止め、同じように跪いて存在の根源すなわち絶対神への祈りを捧げた。むろん絶対神は顕現の形でしかその姿をお見せになることはないし、それも滅多にあることではない。それもほとんどが主イエスの形態で現れる。

その理由は地上人類の一人として降誕されたその体験ゆえに、その段階での吾々にとってより交わりを得やすいからです。


 やがて合図を感受して全員が頭を上げて祭壇へ目をやった。合図と言ってもただ吾が身の内と外にある存在感を感じ取ったにすぎない。見ると祭壇の左手に主のお姿があった。

主は二度と同じ姿をお見せになることはない。どこかに新らしいもの──吾々の心を捉え教訓を物語る何ものかを備えておられる。

 その頭部の上方に七人の尊い天使のお姿が一列に並んで見える。腕で両手を交叉させ、立ったまま黙しておられる。目は閉じてはいないが、瞼が下がり主の少し後方の床へ目線を落としているようであった。

身には各種の色合いの混じったゴースの衣をまとっておられる。外から色づけしたものではない。意識的に表現するのでなしに、自然にその色合いが出ているのである。


地上にそれと同じ色合いを見つけることはできないが、そのほかにも地上のバイオレット、ゴールド、淡いクリムソン──ピンクとはちがいます。今の貴殿には理解できないでしょうが、そのうち分かります──それにブルー等々が混じっている。

ほぼそれに近いという程度ですが、実に美しいものです。ゴースの衣をまとっているとはいえ、身体そのものから出る美しさは譬えようもありません。

その至純さもまた譬えようもなく神々しく、それが衣に反映して放つ光輝は、それによって外から飾るのではなく、それがその存在の一部となり切って神々しさを引き立てている。

それぞれの頭部には光のベルトが輝いており、その生き生きとした様子は、心が讃仰へ、あるいは愛へ、あるいは慈悲心へと変わるごとに輝きが変化するほどでした。

七人の天使の心は完全なる調和と落着きを保っているために、僅かな心の動きでもすぐさま光のベルトに反応を示し、同時にブルーの衣を通してクリムソンのきらめきが、そしてバイオレットの衣を通してゴールドのきらめきが放たれるのでした。

 祭壇のわきに立たれるキリストの容姿は七人の天使に比べて一だんと鮮明度が強烈で、容貌の細部までよく見ることができました。頭部には二重の冠をつけておられる。一つの冠の内側にもう一つ見える。

外側の大きい方は紫色をしており、内側の小さい方はクリムソンの混じった白色をしている。その二つが幾本かの黄色の棒でつながれ、その間に実に可愛らしいサファイアの宝石が散りばめられ、冠全体から放たれる光輝が頭上で一つの固まりとなっています。

身体全体がきらめく銀色の光に包まれ、クリムソンパープル(深紅と紫の混じったもの)──この色は地上には存在しません──のマントを羽織っておられる。

胴体の中ほどに金属性のベルトを締めておられ、銀と銅の中間の色をしている。私はいま主の容姿を私に出来る限りに叙述しております。

時に地上の用語を妙な組み合わせで使わざるを得ませんが、それでも私の伝えたいこととは程遠いことばかりです。胸もとにはルビーの首飾りがあり、それがマントを両肩のところで留めております。

右手に色彩豊かな棒状のアラバスター(石膏の一種)を持ち、その先端を祭壇にそっと置いている。左手は腰のあたりに当てがい、親指をベルトの中に入れておられる。

そのせいでそのあたりのマントが片側へ広がっている。そのお姿の優美さは仁愛に満ちたお顔と完全に調和しておりました。


──そのお顔は地上の絵画に見る例のお顔と似ていますか。

 似ていますが、ほんの少しだけです。ただし、主のお顔は顕現のつど、どこかが少しずつ異なっていることを知っておかれたい。本質的には少しも変わりません。この度もそのお顔から受けた印象は王者のそれでした。

悲哀(かなしみ)の人でありながら全体には王者の風格がみなぎっておりました。その中に吾々は神の御国に到達された方のしるしを読み取りました。

そこへ到達されるまでの葛藤の痕跡は、その成就とともに訪れるのどかさの中に吸収されつくしておりました。

 貴殿は今その時の主のお顔に地上の肖像画に見えるようなあごひげが付いていただろうかと思っておられますが、私が見かけた限りでは、ありません。実は私は主があごひげを付けておられるのを見かけたことがないのです。

すでに五十回ないし六十回はご尊顔を拝しているのですが・・・・・・もっともそれは否定する理由にはなりません。主があごひげを付けてはならない理由はありません。

時にはお付けになって出られるのかもしれません。ただ私は見たことがないというまでです。それ以上のことは言えません。

 さて吾々が主を見つめ、それから頭上の天使に目をやっていると、やおら主がお言葉を述べられた。貴殿にはその大ホールの全会衆へ向けて述べられたお言葉の意味は理解しかねるであろうから割愛するとして、いよいよ吾々帰還したばかりの十五人に向けてとくに語られたお言葉は──語るといっても貴殿らが語るのとは異なるのですが──およそ次のようなものでした。


「さて、暗黒の飛地より帰られたそなたたち。実はその後私も同じ土地へ赴いていたことを知られたい。

群より離れた彼の地の小羊たちには私の姿は幽かにしか、それも稀にしか見えないことであろうが、私は父がお造りになられた世界の最僻地までも赴き、そこから上層界へと向かいつつ、そなたたちと同じように彼の地の者たちに語りかけてきた。

数多くの者が私の声に目を覚まし、その顔を光明界へと向けてくれた。が、私に背を向けて暗黒界をさらに深く入り行く者もいた。彼らは私がそこに存在することそのことから受ける知覚に耐えかねたのである。

その時はことさらに私の影響力が増幅されていた。今もそのまま残っていることと思う。

そなたたちはそのとき私に背を向けた者たちがその後たどり着いた場所までは踏み込んでおられない。が、私は今なおその地で彼らと共にあり、いつの日かは彼らもこの地において私と共にあることになろう。

 さて、私の忠実なる使者であるそなたたちは、よくぞ私の計画を推進なされた。私は私の本来の住処よりそなたたちの仕事ぶりを注視していた。名誉の負傷なくして帰ることを得なかったことであろう。

私も同じように傷を負いました。彼の地の者をこの光明界へと誘わんとするそなたたちの誠意ある意図は必ずしも妥当なる信任を得なかったが、それは私も同じである。

余計なお世話と言われたこともある。そなたたちは彼の荒涼たる大地に住める同胞の苦悶の様子を見て、さぞ心を痛めたことであろう。

そして又、時には、これで果たして神は父と呼ばれるべき存在であり得るのかとさえ思えたこともあろう。とくに彼らの苦しみを我が苦しみとして受けとめ我が身を滅ぼさんばかりになった時はなおのことだったであろう。しかし我が親愛なる使者に申し上げよう。

私も又、他のことと同様このたびのことにおいても、人間的苦悩の深奥を極める体験をさせられました。父が私から顔を背けられた時に私も暗黒の苦しみを味わったのです」

(訳者注──最後の一文は多分はりつけにされた時のことを指すのであろう。その直前イエスは窮地を救ってくれるよう父なる神に祈った──〝父よ、御心ならば、何とぞこの苦しみの杯を取り除き給え。が、どうぞ私の願いでなく御心のままになされんことを〟と。

そして有名な最後の一句〝エリ、エリ、レマ、サバクタニ〟──神よ、神よ、何ゆえに私を見捨て給うや──を唱えて息を引き取った)


 主は静かに、穏やかに、そして抑揚の少ない調子で話されました。しかも話しておられるうちに、その目の表情がはるか遠くの眺望の中へ霧のごとく融け入るようにみえました。

それはあたかも今そうして話をされている最中も七人の神々しき天使と共に、そこの大聖堂にいるのではなく、彼の暗黒の地においてその土地の者たちと苦しみを共にされているごとく思えました。

しかしそのお言葉に苦の情感は感じられませんでした。感じたのは主みずから語られた邪悪への哀れみと支配力の尊厳でした。さて再び主のお言葉に戻って、私に可能なかぎり地上の言語に直してみましょう。

「そこで私はそなたたちが父の優しさと恩寵を求めて祈る際に身につけるべきものとして、このたびの旅と尽力と苦難のしるしを授けよう」

 主が言われたのは新たに授かった宝石のことで、それが吾々の〝礼拝の冠帯(ダイアデム)〟に付け加えられたのです。主はそれから左手を高く上げられ、その手で、跪いている全会衆の頭上をゆっくりと円を画くように回され、そして最後の言葉を述べられました。

「私はこれにて去り、あとは私の代理の者が、そなたたちがこれより先この界において為すべき所用を申しつけることになろう。その仕事には私がいつでも援助すべく待機しているであろう。壮大なる計画のもとに行われる仕事だからです。

急いで着手してはなりません。が着手したら総力をあげて忍耐強く取り組み、知識と力とにおいてそなたたちに優る上層界の者による修正を必要とせぬよう、首尾よく仕上げてもらいたい。必要な時は私を呼ぶがよい。それなりの援助はいたそう。

が必要以上に求めてはならぬ。その仕事は下層界の向上のためであると同時に、そなたたち自身の向上のためでもある。

そのことを銘記して、これまでに身につけた力を精一杯駆使して成就されよ。ただ、しかし、私の援助を求めることを怠ったが為に支障をきたすことがあってはならぬ。

そなたたちの力にて見事に成し遂げるということの方が、いたずらに仕事を進行せしめることよりも大切である。何となれば、その仕事は私の父のためであり、そして私のためでもあるからである」

 そう述べられてから祝福と祈りをこめて再び手を上げられ、非常にゆっくりとした口調で〝神ぞ在します〟と言われました。

 そう述べているうちに主と七人の天使は本来の界へ戻るべくゆっくりと視界から姿を消され、吾々一同は静寂の中に残されました。

が、その静寂の中に主の存在感がなおも感じ取られ、その静寂に包まれて吾は、その静寂そのものが主の御声であり、吾々のために語りかけて下さっていることを知りました。

そうと気づいて吾々は一瞬ためらいを覚えましたが、ためらいつつも再びそれに耳を傾けて礼拝したのでした。




3 コロニーのその後      
一九一八年一月二十八日 月曜日

 かくして吾々の旅と使命はこれまで叙述したごとくにして終了しました。吾々の話について何かご質問があれば・・・・・・実はさきほどから貴殿の精神の中にいくつか質問が形成されつつあるのが見えるのです。今お答えしておいた方が都合がよいでしょう。


──ええ、二、三お尋ねしたいことがあります。まず第一は、前回の通信で〝礼拝の冠〟でしたか、何かそんな用語を使っておられましたが、あれはどんなものでしょう。


 こちらの世界では情緒も思念も、何一つとして外部に形体をとって現われないものはありません。貴殿が身のまわりにご覧になる地上のものも、元はといえばすべて思念の表現体です。思念はことごとく、全生命の根源である究極の実在すなわち神に発しています。

現象界の思念はすべてその神という焦点へ向けて内向していきます。つまり、すべての思念の根源は神で、そこから発したものが再び神に回帰していくという、果てしない循環運動をしております。その途中の過程において思念の流れはさまざまな序列の権威、忠誠心、ないしは神との一体性を有する存在の精神的操作を経てゆく。

つまり大天使、中天使、小天使、そして普通のスピリットの影響を受けて、ある者は天国、あるものは地獄、あるものは星雲、あるものは太陽系、その他、民族、国家、動物、植物、要するに貴殿らが〝もの〟とよぶものすべてとなって顕現されている。

それらはみな個性を具えた存在による外部へ向けての思念操作によって生産され、その想念が同じ界に住む者ないしは連絡を取り合っている界の住民の感覚に反応する表現形態を取ります。

 それのみではありません。あらゆる界層の想念は、地上であろうと地獄であろうと天国であろうと、それなりの能力を有する者には明瞭に感得することができます。

ですから、たとえば貴殿のすべての思念は吾々が住んでいる言わば天国の下層界においても、至聖至高の絶対神の心臓の鼓動の中に存在する実在界においても感識されているといっても決して過言ではありません。

 荘厳をきわめる事柄においても、些細な事柄においても、原理は同じということです。かくして吾々の界層の一団が発する思念は、その大気の温度にも色合いにも反映します。

(地上的用語を用いていますが、それ以外に表現方法がないのです)それで一人物の性格と霊格は衣服の生地、形、色彩、身体の姿かたち、背丈、肌ざわり、身につけている宝石の色彩と光沢等々、さまざまな形で顕現されていることになります。

 そういう次第で彼の地での使命を終えて帰ってきた時の吾々は以前には欠けていた性質を個性の中に吸収していたために、冠帯に宝石が一つ加えられていたのです。

 主お一人の独断でおやりになったのではありません。こちらの世界ではすべてが厳正にして精密な理法の働きによって決定され、しかも神の恵みに溢れた形で実施されます。私があの頭飾りを〝礼拝の冠帯〟と呼んだのは、それがいつも目に見えているわけではなくて、吾々の思念が礼拝に集中している時にのみ目に映じるからです。

その時になると吾々の頭髪の上に形体を現わし、髪を束ねて耳の後ろで留めてくれるのです。それを飾っている数々の宝石は吾々に相応しいものとして選んで付けられたのではなくて、吾々が一界また一界と降りていきながら身につけた資質が自然に生み出したものです。

今それに加えてもう一つの宝石が、最終的使命を託されていた暗黒界での功績のしるしとして与えられたという次第です。

 そうした宝石や珠玉に関しては、たとえ私には何とか意味だけは言葉に移し得ても、貴殿に理解していただけそうにないことが多々あります。

貴殿もいつの日かその美しさ、それが象徴しているもの、そしてそれに生命を賦与しているもの、さらにはその威力について知ることになるでしょうが、今はまだ無理です。一応この程度にさせていただいて、次の質問に移りましょうか。

℘39
──どうも。ではあなたが大ぜいの人を救出して小キリスト(とお呼びしたい方)に預けたというコロニーについて、何かお話しねがえませんか。

  あの方を小キリストとお呼びになられて結構です。そうお呼びするに相応しい方ですから。

 よろしい。ではお話しいたしましょう。あのとき私に同行した一団のうちの二、三名とともに、私はあのコロニーをその後数回にわたって訪ねております。小キリスト殿にそう約束してあったのです。そして彼が私の期待に背かずよくやってくれていることを知りました。まずその点をよく銘記しておかれたいのです。

私は彼の仕事ぶりに百パーセント満足しております。が、実はそれがある意味で彼にとっての試金石となりました。最終的には私が期待していた通りにならなかったからです。

 そのコロニーを時おり訪問したり、私の名代として派遣した者から報告を聞いたりすることは私にとってきわめて興味ぶかいことです。最初に訪ねたとき市街はなかなか整然としておりました。しかし、その境涯で手に入れる材料ではやむを得ないのでしょうが、建物そのものが粗末で優美さに欠けておりました。

完全性に欠けているようでした。でも私は称賛と激励の言葉を述べ、さらに一層の計画の推進に邁進するように言い残して帰りました。

 そうやって何度か訪ねているうちに私は、小キリスト殿───この呼び方では不便ですから名前を付けましょう。取りあえずバーナバス(※)と呼んでおきましょう───そのバーナバス殿が指導性を持った人物ではあっても指揮命令を下すタイプではないことが判ってきたのです。

彼の場合は愛によって説得するタイプでした。それはそれなりに影響力はありました。理解する者が増え、成長とともにその愛に応えることができるようになっていったからです。彼は叡智に富んだ人物ですが指揮統率力に欠けるのです。

そのうち彼自身もそのことに気づき始め、例の謙虚さから素直に、そして何の恥じらいもなく、それを認めることができました。

そういう次第で、内面的に深い問題や霊的なことがらに関しては彼が指導し、今も指導に当たっておりますが、組織全体の管理の面では、少しずつでしたが、例のキャプテンに譲っていきました。

この男は実に強力な個性の持ち主で、いつの日か光明界においてもきらびやかな存在、強力な指導者となって、果敢に大きな仕事を成し遂げていくことになるでしょう。なかなか豪胆な人物です。

(※Barnabas は聖書の使徒行伝4・36その他数か所でバルナバという呼び方で登場する人物と綴りが同じで〝慰めの子〟〝訓戒〟などの意味があるという。パウロの友人で使徒の一人に数えられており、断定はできないが、これが小キリストと同一人物であってもおかしくはない──訳者)

 彼は徐々に住民たちの閉ざされた記憶の層から地上での曽ての自分の仕事で使用した技能(うで)を思い出させ、それを今の仕事に使用させていきました。

金細工人だった者、木細工人だった者、彫り師だった者、石工だった者、建築家だった者、画家だった者、音楽家だった者等、それぞれの仕事に従事させたのです。

私が訪ねる毎にその都市が秩序と外観に改善のあとが窺われ住民が一段と明るくなっておりました。そしてそれ以外にもう一つ別のことを発見しました。

 私があの鉱山から彼らを連れ出してその土地へ来た当初、そこに見られた明りは精々薄明りといったところで、およそ〝光〟と言えるものではありませんでした。

ところが私が訪れる毎に一段と〝光〟と言えるものに近づいていき、可視性の度合いがその市街全体に行きわたり、さらに広がって周辺の土地一帯にも微光が射しておりました。これは一つにはバーナバス殿の地道な精神的指導の結果です。

と言うのも、各自に未来の正しい精神的方向づけをしたのは彼なのです。つまり愛の力によって強烈な霊的憧憬を抱かせ、それが真剣味を帯びるにつれてまず内部の光が増し、それが次第に外部へと放散されて、結果的にその土地の大気が明るさを増していったのです。

 かくして二人はそれぞれの特質を発揮して忠実に協力し合いながら、これまで立派な仕事を為し遂げ、これからもなお為し遂げていくことでしょう。それは私にとって大いなるよろこびであると同時に、道を見失える魂を求めて私と共に暗黒の道なき道を分け入って苦を共にした霊団の者たちすべてにとっても喜びでした」


──周辺の土地にいる者は何も悪いことはしないのですか。

 その問いに対してのみ答えれば「ノー」です。今はしなくなりました。しようとする様子もありません。が、心身とも弱り果て、とても敵と戦えない状態でそこへきた当初は大いに悩まされました。

 その前に大事なことをお話しましょう。まずはじめに多分貴殿が不思議に思うであろうことをお話しましょう。貴殿はヨハネが(黙示録に)書いている十二の部族から一万二千人ずつ(計一四四、〇〇〇人)の者が救われた話を憶えておられるであろう。

さよう、吾々が救出した人数もそれと同じだったのです。なぜ、どうしてそうなったのかと聞かれることでしょう。それは、あの仕事を計画された上層界の方々が目論まれたことです。

吾々よりはるか高い世界のことなので、なぜかということは私にも分かりません。

ただ、これから先の永い進化の道程に関わることであることは確かです。いま貴殿は吾々の救出した数とヨハネの記録にある数字とが何か関係があるのだろうかと考えておられる。少なくとも明瞭な関係はありません。が、暗示的な意味はあります。

それは、あの集団の発達していく過程の中に具体化されていくことでしょう。そして、いずれ彼らは天界において新しい、そして自己充足の──どう言えば貴殿に分かっていただけようか──そういう領域を形成することでしょう。新しい界層ではありません。天界の中の新しい領域です。

 さてご質問の件ですが、初めのうちは周辺の部族の者がやって来て、真面目に働いている者たちに侮辱的な言葉を吐き棄てては去っていくということを繰り返すので大いに困りました。彼らは別の部族にも通報するので、そういう嫌がらせがひんぱんになりました。

そのうち嫌がらせが当分なくなりました。が、キャプテンはかつての用心深さと才覚を取り戻していて、周辺の丘や見張所に見張番を置いて警戒させました。

そのうち分かったことは、周辺の部族が一団となって軍隊を組織し、あれやこれやと隊員たちの士気をあおるようなことをやりながら教練をしているということでした。こうした、言うなれば似非実在界ではよくあることなのです。

 しかし、そうするうちにも吾々の救出した者たちは力と光輝とを増していき、いよいよ彼らが攻めてきた時にはどうにか撃退することができました。戦力と意志の総力をあげた長く列しい戦いでしたが、ついに撃退しました。

それは彼らが──奇妙で矛盾しているように聞こえるかもしれませんが──真実の戦いとなったら絶対に負けないだけのものをすでに身につけていたからです。

その最大の武器となったのは身体と大気から出る光輝でした。今なお暗黒の闇の中に浸っている敵にとってはそれが大変な苦痛なのです。その光輝の届く範囲に入った敵はコロニー全体のオーラの持つ進歩性に富んだ性質が苦痛に感じられ、身を悶えて叫び声を上げるのでした。

 その後もそのコロニーは向上しつつあります。そして増加する光輝の強さに比例して少しずつその位置が光明界へと移動しております。

これは天界における霊的状態と場所との相互関係の原理に触れる事柄で、貴殿には理解が困難──否、不可能かも知れません。それでこれ以上は深いりしないことにします。

かくして敵はますます近づき難さを覚えるようになっていき、一方、コロニーの住民は敵が攻めてくる毎に危険に対する抵抗力が増していることを知るようになりました。敵が立ち往生する位置が次第に遠くになっていったのです。


 こうして領域が広がってきたコロニーでは、小集団を周辺の土地に住まわせて農耕に従事させ、さらに植林と鉱石の採掘をさせました。鉱山の仕事の着手は最後になりました。

かつての苦しい記憶からみんながしり込みしたからです。しかし鋼鉄の必要性に迫られて、大胆で思い切りのいい男たちが掘り始めました。やり始めてみると、奴隷として働くのと自由の身で働くのとでは全く違うことが分かり、そのうち志願者にこと欠かなくなりました。

 このように、善性の増加が住居と市街全体の光輝を増していきます。それが力となるのです。なぜなら光輝の増加は霊格の向上のしるしであり、それは霊的な力が増加したことを意味します。従って敵も彼らに対してまったく無力となっていくのです。

 どうぞ貴殿もこの点によく注目してください。と言うのも、地上の巡礼の旅において敵に囲まれている者にとっても、この事実は有難いことに違いないからです。

その敵は地上の人間であっても霊であっても、いいですか、バーナバス殿のコロニーの周辺にいる敵と少しも変わらないのです。

コロニーが光明界へ近づくにつれて敵は遠く離れていき、下層の暗黒界に取り残されていくのです。

 貴殿へ私より愛と祝福を。



4 バーナバスの民へ支援の祈りを
  一九一八年二月一日 金曜日

 カスリーンが貴殿に伝えたいことがあるようです。吾々は彼女の話が終わったあとにしましよう。


──ほう、カスリーンが ?

 そうです。私です。最近ザブディエル霊団との接触があって、あなたへの伝言を授かりましたので、そのことでお話したかったのです。霊団の方たちから何も心配することはないからそう伝えてほしいとのことです。

私たちが奥さんに通信を送っているときに霊団の方たちが近くに来てメッセージを伝えたことがありましたが、あなたはそれをザブディエル様ご自身から送られたのか、それとも霊団の一人がザブディエル様の名前で送ってきたのかと思っておられますが、あのときはザブディエル様が直々に──といっても霊団の方が付き添っておられましたが──お伝えになりました。霊団のメンバーの一人ではありません。

ご自身です。ザブディエル様はそのことを知ってほしく思っておられるのです。


──二、三日前の夜に出られた方が私の妻に、霊団の方たちはみなザブディエルというネームを付けているのを見たとおっしゃっていましたが、それはベルトにでも書かれていたのでしょうか。


 そうです。はい。

──ザブディエル殿が霊団を率いておられることをその時まで知りませんでした。それで私はあの時に出られた方をザブディエル殿と勘違いしたのではないかと思ったわけです。と言うのは、霊はよく所属する霊団の指導者の名前を使用することがあると聞いていましたので・・・・・・

 よくあることです。ちゃんとした規律のもとに行われる慣習です。ですが、あの時はザブディエル様ご自身が出られて話されたのです。


──ありがとう、カスリーン。おっしゃりたいことはそれだけですか。

 そうです。どうぞリーダーさんへ質問なさってください。あなたが質問を用意されていることをご存知で、先ほどから待っておられます。


──分かりました。ではリーダーさん、まず最初に前回の話題に戻って次のことをお聞きしたいのです。救出された一四四、〇〇〇人によるコロニーがいずれ天界で新しい領域を形成するとおっしゃいましたが、そうなった時にあなたはどんな役目をなさるのでしょうか。

何らかの形で関与なさるであろうという感じを抱いているのですが、いかがですか?


 あのようにきちんとした数の者が選ばれて新しい領域を形成することになったことには意味があります。実は私自身はバーナバス殿にあずけたあと二度目に訪ねた時に初めてそれを知ったのです。

それ以来私も、いま貴殿が察しておられることが有り得ないことでもないと感じております。

まだ具体的なことは何も聞かされておりません。また貴殿の仰るような時期には至っておりませんので・・・・・・今あの都市の者たちが目指している光明に首尾よく融合できるようになるには、まだまだ準備が要ります。

その上、彼らの進歩はためらいながらの遅々としたものなのです。そうでないと丹念な注意と計画のもとに選ばれたあの人数の意味が崩れる恐れがあるのです。

というのは、万一進歩性の高い者から次々と独自の歩調で進歩していったら、全体の団結に分裂が生じ、みんなで申し合わせたことが無に帰すからです。

 今も申した通り、私はあのコロニーについて何の指示も受けておりませんし、今後いかなるコースを辿るかも聞かされておりません。現在の進歩を見守るだけで満足し、そこに喜びを見出しているところです。

それ以外のことは吾々を指揮してくださっている神庁の方々の決定に俟つのみです。

 しかし次のことだけは言えるかも知れません。まえに吾々霊団の数のことをお話しました。十五名でした。あのとき私は七の倍数にリーダーとしての私という言い方をしました。

それは六人ずつ二つの班になっていて各班に一人ずつ班長を加え、さらに全体を統率する者として私を加えれば、これで十五名となります。そういう見方でこの新しいコロニーを見ると興味がありそうです。実はそのコロニーの発端、少なくとも初期の発展には貴殿も寄与しておられます。その意味でも、その進歩ぶりに興味を持たれるに相違ありません。


──この私が寄与するなんて考えられませんが・・・・・・

 でも、立派に寄与しておられます。貴殿はあの部族の様子がこちらから地上へ届けられた、その媒体です。心ある人々はそれを読まれて彼らの発展を祈り、善意の思いを寄せ、吾々援助者のことも思ってくださることでしょう。それが彼らの発展に寄与することになるのです。


──私はこれまで彼らのために祈ることなど思ってもみませんでした。

 それは貴殿が吾々の指示で書いたことの現実味を理解するだけの時間的余裕がなかったからです。理解がいけば祈る気持ちになられるでしょう。そうでなかったら私は貴殿を見損なったことになります・・・・・・いや、ぜひ祈るようにお願いします。


──きっと祈ります。

 そうです。祈るのです。そして貴殿がこちらへお出でになればご自分の目でその部族をご覧になり、貴殿のそうした祈りが彼らの力となっていることを知って、うれしく思われることでしょう。

彼らの進歩は遅々としていますから、貴殿がお出でになってからでも十分に間に合います(※)。ですから、彼らのために祈るのです。こちらでお会いになったとき貴殿に愛と感謝を捧げる人が少なくないはずです。それは気の毒な人への同情と同じです。

彼らが今まさにその状態にあるのです。〝バーナバスの民〟と呼んであげてください。そう心の中で念じてやってください。(※ちなみにオーエン氏は一九三一年に他界している──訳者)


──あなたの民と考えても良いのではないですか。

 それはいけません。私の民ではありません。貴殿は先走りしすぎます。いつかは私の民となるかも知れませんし、私もそう望んでおります。というのも、あの者たちは私にとって我が子、可愛い我が子も同然だからです。

言わば死者も同然の者の中から救い出した、いたいけない子供なのです。私にとって何を意味するかは貴殿の胸の中での想像にお任せします。

どうかバーナバス殿とキャプテンと同様に彼らのためにも祈り、そして愛念を送ってやっていただきたい。彼らはみな貴殿の同胞でもあるのです。そして吾々を通じて実質的なつながりを持っているのです。他の人々にも祈ってくださるようお願いしてください。


──私がうっかり見落としていたことを教えていただいて、お礼を申し上げます。

 それに、吾々の話に出た他の人たちのためにも祈ってやっていただきたいのです。彼らも向上のための祈りと支援を大いに必要としております──お話したあの暗黒の都市のかつてのボスとその配下の者たちのことです。

地上の人でも、地獄にいる者のためにしてあげられることがあることを理解してくだされば、地上にまで及んでいる彼らによる禍(わざわい)を減らすことにもなるのです。

つまり、その気の毒な霊たちを少しでも光明へ近づけ、その苦しみを和らげてやることによって、地上へ大挙して押し寄せては霊的に同質の人間、ひいては人類全体の邪悪性を煽っている霊たちの数とその悪念を減らすことにもなるのです。

 人間は上へ目をやって光明を求めて努力することはもとより結構なことです。が、下へ目を向けて、苦悶の淵にあえいでいる霊がその淵から脱け出るように手助けすることはそれ以上に徳のあることです。

思い出していただきたい。その昔、主みずからがそれを実践なさったのです。そして今日なお主の配下の者たちがなさっていることなのです。

 神は、その昔、主に託して地上へもたらした恩寵を今なおふんだんに授けて下さっています。願わくば貴殿の霊と行為において、神が貴殿をその恩寵をもたらした主と一つになさしめ給わんことを祈るものです。

父の恩寵です。それをその子イエスに託して地上という暗黒の人間にもたらしたのです。そして今なお途絶えることなくもたらしてくださっているのです。

 このことを篤と銘記していただきたい。そうすれば貴殿が授かったように他の人々にも授けずにはいられなくなることでしょう。そしてそれが貴殿の魂の安らぎと喜びとを増すことにもなるのです。

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話
スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




第2章  啓示と宗教


【Q1】
 霊媒というのは生まれながらのものなのでしょうか?それとも養成することも可能なのでしょうか?

 霊的能力がそなわっているということが第一条件です。それは授けられるものです。人間は、霊的存在であるからには霊的属性を備えていますから、その意味では、潜在的にはすべての人間が霊媒であるといえます。


【Q2】
 霊が支配するためには、霊媒は深いトランス状態に入る必要があるのでしょうか?

 その必要はありません。霊媒が深いトランス状態に入らなくても、支配霊や指導霊はメッセージを伝えることができます。トランス状態の利点は、霊媒の構成要素(肉体・精神・霊)を自由に操ることができるという点にあります。霊媒の意識のでしゃばりを抑えるほど、仕事がやりやすくなります。しかし、支配霊や指導霊にとって、霊媒がトランス状態に入ることは必須というわけではありません。


【Q3】
 霊媒現象およびスピリチュアリズム全体の普及のために、われわれは何をすべきかについて助言をいただけませんか?

 スピリチュアリズムのあらゆる側面において、常に新しい要素が生まれ出ています。霊媒現象でも物理的なものが次第に影をひそめ、病気治療と霊的知識の分野で高次元の側面が徐々に出始めています。進化のサイクルが変わったということです。

 どうすべきかとお尋ねですが、鼓舞されるままに進めばよろしい。あらかじめ用意されたものというものは何もありません。現在のあなたも、何かに鼓舞されてここまで来たのです。それと同じ力に任せればよろしい。その力は、これまで一度もあなたを見捨てたことはありませんでした。

地上のいかなるものよりも大切な霊的知識を手にするよう、今日まで導いてくれたのです。ひたすら前進することです。ベストを尽くすことです。その力が導き支えてくれます。


【Q4】
 トランスを伴う現象は、健康に影響があるでしょうか?

 ありますが、よい影響しかありません。ただし、トランス現象に関わる法則を守っていれば、のことです。たとえば、一日に三回も四回も交霊会を催せば、当然のことながら健康に害を及ぼすでしょう。常識的な線で定期的に行ない、演出される現象に進歩が見られれば、健康はむしろ増進するはずです。

 なぜかといえば、そういう状態のときに、霊媒の身体を流れる霊的エネルギーは活力に富んでいて、会を催すたびに少しずつその活力を残していくからです。使い方一つで、健康を増進することにもなれば、阻害することにもなります。


【Q5】
 心に念じたことは、必ず霊に通じるものでしょうか?

 そうとは限りません。波動的に合致しているか否かによります。合致していれば通じます。もっとも、霊的な親和性のある魂同士であれば、地上と霊界の隔たりに関係なく、思念や要望は即座に通じます。


【Q6】
 以前に比べて、霊界から通信を届けるのが容易になってきているのでしょうか?

 容易になりました。混沌とした状態が次第に消え、秩序ができてきました。(戦争が生み出した)激しい、凶暴な感情が後退し、消えていきつつあります。地球を取り巻いていた怨恨の霧に晴れ間が見えるようになり、それだけ地上界に近づきやすくなりました。この傾向は今後も進展することでしょう。


【Q7】
 霊視能力者が霊の姓名を伝えるときに、「姓」が伝えられないことがありますが、なぜでしょうか?

 大体において、姓は呼び名よりも受け取りにくいのです。これは音のバイブレーションの感得力の問題に帰します。呼び名のように聞き慣れているものは、伝えやすく受け取りやすいのです。変わった名前、一般的でない名前ほど伝えにくく、また受け取りにくいものです。

 さらにいえば、こちらの世界から霊媒または霊能者に送り届ける情報の多くは、絵画またはシンボルのかたちをとりますから、姓のような抽象的なものは伝えにくいのです。もちろん、霊視力ないしは霊聴力が格別に鋭い人は、鮮明に受け取ることができます。

 ですが、ここで忘れてならないのは、霊的能力の善し悪しは姓が正しく受け取れるか否かで決まるわけではないということです。要は、霊の身元の証拠になるものが示せるか否かです。


【Q8】
 ホームサークル(交霊会・実験会)には、ドアキーパー(玄関番・門衛)がいるそうですが、どういう役目をしているのでしょうか?
 ドアキーパーの役目は、ドアキーパーであることです。当たり前のことのようですが、邪霊やヤジ馬霊を排除するためのバリアをこしらえる力を操ることができるようにならないことには、その役目は果たせません。その力の源は、実はあなた方出席者であり、その集合的な力であることをご存じでしょうか?出席者一人ひとりから引き出し、担当の指導霊(ドアキーパー)がそれを素材にバリアをこしらえるのです。要するに、霊界のエネルギーと人間から引き出したエネルギーとを混合してバリアをこしらえ、サークル活動に使うのです。


【Q9】
 スピリチュアリズム勃興以前にも、霊的な啓示があったのでしょうか?

 突発的な啓示はいくつかありましたが、持続しませんでした。スピリチュアリズムと銘打った今回の啓示は組織的なものであり、コントロールされたものであり、規制されたものです。

 人間の想像をはるかに超えた協調関係のもとに計画されたプロジェクトで、その背後の組織は途方もなく広大であり、緻密な計算のもとに実行に移されています。すべてに打ち合わせがなされているのです。

 霊界の扉が地上へ向けて開かれることに決したとき、それは十分な熟慮の末に決したのであり、したがって、いったん開かれた以上は二度と閉じられることはありません。
 私たちの使命は、目的性のあるもの、意義のあるものを授けることであり、霊的なことにも法則があることを証明する一方で、死後の世界についての知識と慰めを与えることです。つまり、死後の世界にも摂理・法則があることを説きあかすだけでなく、霊に関わる真理をお教えすることです。

 私たちの使命に立ちはだかるものとして、間違った教えのうえに築かれた巨大な宗教的組織があります。何世紀にもわたって築きあげられてきたものを切り崩さねばなりません。誤った教義・信条のうえに築かれた聖職者の支配構造を破壊しなければならないのです。

 私たちは、物質界の子らに、いかにすれば迷信から解放され、霊的真理の陽光を浴びることができるか、いかにすれば誤った教義の奴隷状態から脱け出ることができるかをお教えしようと努力しているところです。これは容易ならざる仕事です。なぜなら、いったん宗教の罠にかかってしまうと、正しい霊的真理が、その迷信の厚い壁を突き抜けるには、長い長い年月を要するからです。

 私たちは、霊的真理の宗教的意義を説きあかしたいと努力しています。地上界の人間が、その霊的な意義を理解したとき、戦争や流血による革命より偉大な革命が成就されるからです。それは魂の革命であり、世界中の人間が本来享受すべきもの、霊的存在としての自由を満喫する権利を要求するようになります。

そのとき、足かせとなっていたものすべてが、ひとたまりもなく消し飛んでしまいます。私たちが忠誠を尽くすのは教義でもなく、書物でもなく、教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の自然法則です。


【Q10】
 私は、ドグマや組織宗教には、すっかり落胆しています。しかし、教会には存在価値を認めるのですが・・・。

 教会設立の起源に立ち戻ってみましょう。キリスト教の教会も、他の宗教の教会、寺院、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)、チャペルなどと同じく、遠い過去においても霊界から地上界への働きかけがあったからこそ、存在するようになったのです。そこでは常に(霊媒がいて)、いわゆる〝しるしと不思議〟、ときには奇跡的現象が発生していました。

 それは、当時の信仰や教義やドグマの間違いを教える目的をもっていました。霊界からの働きかけが、本来は、病人を癒し、正しい生き方を教え、人生の基本原理、すなわち、物質は殻であり、霊こそ実在であることを強調することにあるという点において、神性を帯びていることを証明するものでした。

 ところが残念ながら、これまでの歴史を見ればおわかりのとおり、そういう霊力のほとばしりは一時的なもので終わっています。
 次第に神学者が(霊媒を押しのけて)支配するようになり、俗世的な頭で教義をこしらえ、霊的啓示にとってかわるようになりました。不毛の言葉が生きた啓示を凌ぎ始めたのです。その後も霊力のほとばしりに伴って、〝しるしと不思議〟と奇跡が発生してきました。同じことがいく度も繰り返されたのです。


【Q11】
 あなたのおっしゃる「宗教的寛容」を明確に説いていただけませんか?宇宙が絶対的な自然法則によって支配されているとか、その法則は完璧で永遠不滅であるといった教えは、ある意味ではドグマ的で、寛容性に欠けていると言えないでしょうか?

 私はこれまで、絶対に間違ったことは言わないと主張したことは一度もありません。あなた方と同じ人間的存在であり、理性に訴えることを第一の心がけとして真理を説いてきました。私のいうことを拒絶したら罰が当たるようなことは、暗に、におわせることもしていないつもりです。こちらへ来てみてわかった真相はこうなっていますということをお伝えしているだけです。

 どう受け取るかは、あなた方の判断に任せます。なるほどと納得がいけば受け取ってください。納得がいかなければ拒否なさればよろしい。信頼を勝ち取る方法がほかにあるでしょうか?

 ご利益(あめ)と天罰(むち)ですか?とんでもない。私たちは、愛と常識で信頼を勝ち取り、共通の基盤のうえで語りあえることをモットーとしてのぞんでいます。


【Q12】
 あなたの教えは、一般の人々を対象にしておられるのでしょうか?もしそうであれば、初期のキリスト教が説いたような単純なもの、たとえば、贖い(あがな)の教義を説いたほうがよろしいのではないでしょうか?高級霊による霊界通信よりも、そのほうが現代人には役に立つのではないでしょうか?

 ご質問の根底にあるものは間違っていると、あえて申しあげます。私の教えが大衆を意図したものであることは認めます。また、大衆が理解し、吸収し、ありがたく思うような真理は単純なものであり、その単純なものこそが、大衆が宗教に求めているものを提供するというのが私の考えです。

教訓の真髄は単純そのもの、すなわち、真実であるということに尽きます。他の条件はどうでもよろしい。
 その点、ひきあいに出された教え(キリスト教)が支持を失ってしまったのは、その教義が真実でないからです。そのなかの一つである贖罪説を例に出されましたが、罪を贖うのはあくまでも自分自身であって、他のだれにも贖うことはできません。

あなたの人生の責任は、あなたが背負うのです。あなたが犯した罪を赦してくれる者はいません。原因と結果の法則を阻止したり変更したりすることのできる者はいません。寸分たがわぬ正確さをもって働きます。


【Q13】
 スピリチュアリズムと伝統的宗教との融合が望ましいのでしょうか?

 それは言葉の遊戯に過ぎません。私は、タイトルやラベルや種類分けには興味はありません。要は真理を普及させ、人類を迷信から解放し、大霊の子が死後に待ち受ける生活にそなえた、生き甲斐ある生活ができるようにしてあげる───そうした目的に沿ったものであれば私は大歓迎ですし、魂の解放にとって意義があります。

スピリチュアリズムといい、伝統的宗教といい、いずれも漠然としていて、これを言葉で解説しようとすると混乱してしまいます。私の関心は、光明を求め内部の神性を発現して、自分より恵まれない人々の役に立つことをしようと心がけている一人ひとりの人間です。

 一人ひとりの人間が授かった資質を活用して最善を尽くし、日々、大霊の計画とその子らのために寄与しているのだと実感する、それだけで十分です。霊能を授かった人は、一般の人にはできないかたちでの人助けができるという、はかりしれない恩恵に浴しています。ほとんど毎日のように訪れる素晴らしいサービスのチャンスに、心躍るほどの喜びを感じるようでなければいけません。

 が、知識には責任が伴うことを忘れてはいけません。霊能者は、崇高な真理を授かっているばかりでなく、崇高なエネルギー、神性を帯びた生命力そのものも授かっていることを忘れてはいけません。

 地上界を霊的に浄化し再生させる仕事にたずさわるということは、大変な責任を伴います。が、常に導きがあります。自信をもって進んでください。毎日、霊的歓喜を覚えるほどのサービスのチャンスがもたらされます。

 

Monday, August 31, 2026

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話
スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




 まえがき

 本書を手にされたいきさつは、人それぞれに異なるであろう。第一に考えられるのは、古くからのシルバーバーチの愛読者で、その崇高な英知と人生への霊的洞察から多くを学んでいるので、何の躊躇もなく手にされたというケースである。また、シルバーバーチのメッセージを、地上のみならず、死後の人生の指針としている人から贈られたという方もいるであろう。

 本書は、そういう方を決して裏切らないであろうことを断言しておきたい。もしかしたら書店でふと目にとまったからという方、あるいは新聞広告を見て興味を覚えて買ったという方もいることであろう。いわば偶然のなせるわざであるが、お読みになれば決して偶然ではなく、何らかの形で霊的な導きがあったのだと、ご理解がいくことであろう。

 ともあれ、シルバーバーチの訓えの素晴らしさを、今ここで筆者の拙い筆で改めて宣伝しようとは思わない。それよりも、本書の二人の編纂者の労をねぎらいたい心境である。

すでに発刊された(そして廃刊となった)数多くの霊言集の中から珠玉の「Q&A」を抜き出して一冊にまとめるというアイデアそのものに敬意を表したい。こういう形で読むと、シルバーバーチが一段と身近に感じられ、その意味の深さを改めて認識することになるであろう。

           霊的真理普及財団・会長  ロイ・ステマン



編者まえがき  

人生のスピリチュアルな面とサイキックな面に関心を向けながら求道の旅を続けている人々のために、遭遇する疑問への回答を与えてくれる一冊の書を用意してあげたい───これが本書を編纂した理由である。

 また、われわれが「勉強会」を始めた時、何か手ごろなテキストはないものかと話し合ったことがある。スピリチュアリズムの枠内でも起こり得る誤解や勝手な解釈を一掃したもの、というのが第一の条件であったが、そうなると 「シルバーバーチ」 の名で知られている、あの高級霊が遺してくれた宇宙哲学と生きる英知以外にはあり得ないのではないかという結論に達した。

 本書に盛られた質問には、実質的には一九二〇年から始まった交霊会で何度も出されているものがある。が、シルバーバーチはそのつど、内容を深めたり敷衍(フエン)したりして答えているので、本書でも重複をいとわず掲載した。

 霊言集の出版が終わった今、こうしたかたちでシルバーバーチの霊言を世に出すということは、真理普及に改めて貢献することになる。この一冊によって光を見出す人が一人でもいれば、われわれの努力も無駄ではなかったことになる。                                      スタン・バラード
ロジャー・グリーン

 


 シルバーバーチとは何者か                訳者

 本書を手にして「まえがき」と「編者まえがき」に目を通した時、シルバーバーチの霊言集がほとんど廃刊となった今でも、英国において「霊的真理普及財団」や「勉強会」という形で脈々と生き続けていることを知ってうれしかった。 

 人間は形而上的にも形而下的にも 「なぜ?」 と問いかけたくなるものにあふれている。
たとえば 「地動説」 という厳然たる事実が常識となるまでに何百年もかかったが、一体なぜ地球が太陽の周りを回転するのかは、いまだに謎である。

まっすぐに進もうとする地球を太陽が引っ張るから、というのは単なる原理的解説であって、では、なぜ地球はまっすぐに進もうとするのかは、天文学でもいまだに謎である。

 こうした 「なぜ?」 と問いかけたくなることは、人生にはいくらでもある。本書は、そのいくつかに納得のいく回答を与えてくれる。かけがえのない英知の泉であるが、シルバーバーチと名のる霊は一体いかなる存在なのであろうか。本書によってはじめてシルバーバーチを知ったという方のために、おおよそのところを紹介しておきたい。

 シルバーバーチというのは、霊媒のモーリス・バーバネルの口を使って、一九二〇年から六〇年間にわたって霊的教訓を語り続けてきた古代霊の仮の名で、今から三〇〇〇年前頃、つまりイエス・キリストより一〇〇〇年も前に地上で生活したということ以外、地上時代の国籍も姓名も地位も不明のままで終わった。

 せめて姓名だけでも教えてくれるよう何度かお願いしたが、そのつど、
「それを知ってどうしようというのですか。人間は名前や肩書きにこだわるからいけないのです。もしも私が歴史上有名な人物だと分かったら、私がこれまで述べてきたことに一段と箔がつくと思われるのでしょうが、それは非常にたちの悪い錯覚です。

 前世で私が王様であろうと召使いであろうと、大富豪であろうと奴隷であろうと、そんなことはどうでもでもよろしい。私の述べていることに、なるほどと納得がいったら真理として信じてください。そんなばかなと思われたら、どうぞ拒否してください。それでいいのです」

 と答えるのが常で、そのうち出席者も聞かなくなってしまった。
 ただ一つだけはっきりしていることは、霊視能力者が描いた肖像画が北米インディアンの姿をしていても、実はそのインディアンがシルバーバーチその人ではないということである。

 インディアンは、いわば霊界の霊媒であって、実際にメッセージを送っているのは高級神霊界の存在で、直接地上の人間に働きかけるには波長が高過ぎるので、その中継役としてインディアンを使っていたのである。近代の科学的霊魂学ともいうべきスピリチュアリズムによって、死後も今と同じ意識をもって生き続けることが明らかとなった。

これを 「個性の死後存続」 と呼び、これは 「地動説」 と同じく科学的事実として、好むと好まざるとにかかわらず、万人が認めざるを得ないものである。

その詳しい解説は第4章にゆずることにして、シルバーバーチが繰り返し説いている特徴的な教訓の一つは、仏教で「生・老・病・死」 を不幸としてとらえているのとは対照的に、そうしたものを体験するところに地上生活の意義があり、いわば魂の肥やしとして前向きにとらえることが、死後の向上につながると説いていることである。

 第6章を 「生・老・病・死・苦──地上人生の意義」 という見出しにしたのは、これがシルバーバーチの教えの圧巻だからである。そこには在来の全ての宗教に見られる 「現世利益」(げんせりやく) 的な気休めの説教はカケラもない。

「事実なのですから、そう述べるしかありません。もしも私が地上生活をらくに生きる方法があるかに説いたら、それは私が高級神霊界からあずかった使命に背いたことになります」 とまで述べているのである。

 シルバーバーチの教説は、その意味で 「大人の人生指導原理」 といえるかも知れない。気休めのありがたい話を好まれる方には厳し過ぎるかもしれない。が、現実界を見れば、気休めやご利益信仰など吹っ飛んでしまうような事象が毎日のように起きている。今後とも、それは変わることはないであろう。

 本書によって生きる勇気を与えられることを願っている。

  ※ ※ ※

 第1章 祈り                    
【Q1】
祈るということは大切でしょうか?

 それは、その祈りがどういうものであるかによって違ってくることです。祈りの文句を目的もなしに繰り返すだけでは、ただ大気中に波動を起こすだけです。

 が、誠心誠意、魂の底からの祈り、大霊 (第10章参照) の心と一体となり、大霊の道具として有意義な存在でありたいと願う心は、その波動そのものが、その人を大霊の僕として、よりふさわしく、よりたくましくします。祈るということ、真実の自分を顕現すること、心を開くこと、これが背後霊との一体化を促進するのです。


【Q2】 
祈りは主観的なもので、客観的な結果は生み出さないとおっしゃるのでしょうか?人間的に立派になるだけで、具体的には何も生み出さないのでしょうか?

 真実の祈りは、人のために役立つ行為への心の準備であらねばなりません。より高い波長に適合させるための手段です。

 私のいう祈りは、他人の書いた意味のわからない文句を繰り返すことではありません。誠心誠意の祈り、魂の波長を最高度に高めようとする真摯な願いです。その結果として、感応するインスピレーションに満たされて一段とたくましい存在となります。


【Q3】
他人のために祈ることにも、何か効用がありますか?

 あります。真摯な祈りは決して無駄になりません。思念は生きものだからです。


【Q4】
遠隔治療にたずさわる治療家による祈りにも、実質的な効果があるのでしょうか?

 あります。先ほどの質問に対しては個人としての祈り (注) を念頭においてお答えしましたが、あらゆるかたちの祈りについてもいえることです。祈っているときは、サイキックな (心霊的) エネルギーを出しており、これを治療専門の霊が利用するのです。

 訳注──「個人としての祈り」 と断ったときのシルバーバーチの念頭には、グループで行なう遠隔治療のことがあったことが前後の文脈からうかがえる。グループで円座をつくり、中心に特定の患者がいるとの想定のもとに祈る方法である。


【Q5】
他に援助が得られないとき、祈りを通じて霊界からの援助を要請してもよいものでしょうか?

 誠心誠意の祈りは、その行為そのものがより高い波長に感応させます。祈るということ自体が心を開かせるのです。ただし、その祈りは、心と魂と精神を込めたものであらねばなりません。こうしてほしい、ああしてほしといった、ただの要求は祈りではありません。真実の意味での祈りは大きな霊的活動です。

それは何かの目的への手段であって、目的そのものであってはならない、というのがいちばん的確な表現かと思います。

 「何とぞ私を役立たせ給え」───これ以上の祈りの言葉はありません。「大霊とその子らのために、自分を役立たせたい」 と祈ることよりも偉大なる仕事、大いなる愛、崇高なる宗教、高邁なる哲学はありません。

 どういうかたちでもよろしい。摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、お腹をすかしている人に食べるものを与えてあげることでも、あるいは暗い思いに沈んでいる人を明るい気持ちにしてあげることでもよろしい。つまりは、その人のためになることであれば、どんなことでもよいのです。

自分のことをあとまわしにしてでも、他人のために役立つことをする術を身につければ、それだけ内部の霊性、すなわち大霊が発現することになるのです。ことは、簡単なのです。
 ところが、聖職者たちは教会を建立し、そのなかで得体の知れない説教をします。私にも理解できないようなむずかしい用語を散りばめ、〝宗教的〟であると信じている儀式をします。が、そんなことはどうでもよろしい。

くじけそうになっている人のところへ行って元気づけてあげ、疲れた人に休息の場を与えてあげ、空腹の人に食べ物を施してあげ、のどの渇いた人に飲み物を与えてあげ、暗闇のなかに沈んでいる人に新しい光明を見出させてあげるのです。そのとき、あなたを通して大霊の摂理が働いています。


【Q6】
祈りに何の回答もないように思えることがありますが、そんなとき、霊的にはどうなっているのでしょうか?

 人間の内部には人間くさいものと神性を帯びたものとが同居していて、両者の間で常に葛藤があります。霊性に軍配があがったときは大霊と一体となったときで、崇高な喜びに浸ります。人間性に軍配があがったときは、霊的自我は落胆しています。

 人生には、しばしば本人がこうあってほしいと思っている道ではなく、当人の存在意義が最大限に発揮される道へ、いやおうなしに導かれることがあります。たとえば、この部屋には、毎日毎晩、霊の一団が訪れています。

その霊団の一人ひとりが、本来なら一直線に向上の道を歩みたいところを、それをしばらくおあずけにして、この部屋に光の環(サークル)を構築するための環境条件を整えるために参加しているのです。いずれここが、暗い地上の片隅まで照らす灯りの始原の一つとなります。そういう仕事に比べれば、地上の人間的な悩みごとなど、ものの数ではありません。
 身を横たえる家もなく、星空のもとで寝て雨風にさらされ、満足に食べるものにもありつけない人が現実に大勢いるというのに、ここにお出でのみなさんの祈り求めるものが、大霊の目から見て、そんなに大切だと思われますか。

 みなさんに自覚していただきたいのは、みなさんも大霊の大計画に参画しているということ、そのなかでみなさんご自身の小さな人生模様を織っているということです。今は、その大計画がどういう図柄であるかはわからなくても、そのうちすべてが明かされる日が来ます。そのとき、すべての人種、すべての肌色が、それぞれに役割を果たしていることがわかります。そのときが地上天国となったときです。

 表向きは何事も生じていないかに思えるときでも、霊的刺繍は着々として織り込まれているのです。昼となく夜となく、大霊の計画は休むことなく続けられており、最終的には人間の一人ひとりがいくばくかの貢献をしています。

 人間から、ときおり自分の魂の成長にとってためにならないもの、かえって進化を遅らせることになるものを要求されます。それは、かなえてあげるわけにはいきません。またときおり、それを手にするに値するだけの努力をしていないものを要求されます。それも与えられません。

そしてときとして、(要求を)受け入れるだけの十分な準備をなさっているものを要求されます。それは、ここという好機を見はからって与えられます。みなさんの祈りは、口に出す前から、大霊は、先刻ご承知なのです。


【Q7】
教会で毎日のように唱えられている祈りに、効用があるのでしょうか?
 祈る人それぞれで違うでしょう。口先だけの祈りは空虚な音の響きに過ぎません。魂を込めた祈り、熱誠と憧憬に満ちた祈り、大霊に一歩でも近づきたいとの熱望に燃えた祈りであれば、その熱望そのものが祈りに翼を与え、霊界の深奥(シンオウ)まで届くことでしょう。


【Q8】
たとえば、幼な子が飲んだくれの親に更生してもらいたいと思って祈る祈りに、効用はあるのでしょうか?

 誠意ある祈りには、それなりのパワーがあります。そのパワーがどこまで物的次元に転換されるかは、さまざまな条件によって違ってきます。今あげられた例の場合ですと、飲んだくれの父親の魂が問題となります。つまり、その祈りのパワーがその琴線にふれるか、それとも霊的なものから遠ざかり過ぎて何の反応も示さないかによって違ってきます。この質問には 「イエス」 「ノー」 では答えられません。


【Q9】
でも、何らかの影響はあるでしょう?

 人のために役立ちたいという祈り、真理、光明、導きを求めての祈り、これはすべてその人の魂の進化の指標です。その心は物的身体から出たものではなく、霊そのもの、すなわち大霊の一部であり、したがって大霊のパワーを秘めているのです。しかし、それを発揮するためには艱難辛苦の体験を通じて、霊性が進化しなければなりなせん。それまでは、パワーは発揮できません。


【Q10】
祈りは霊界のだれかが聞き届けてくれるのでしょうか?それとも、その祈りと調和するバイブレーションに反応するパワーを、人間のほうで想定する必要があるのでしょうか?

 そもそも祈りとは魂の発現です。そこのところをまず明確にしておきたいと思います。光明すなわち導きを求めて叫ぶ魂の渇望です。その熱誠そのものが回答をもたらすのです。それが思念のパワーを起動させるのです。それが回答を引き寄せる原因であり、回答が結果です。霊界のだれかが、人間が祈るのを待っている必要はありません。

 なぜなら、人間の祈りの性質によって、それが届く範囲というものが自動的に決まり、その人間の霊性の進化の度合いに応じて、引き寄せられるべき霊が自然に引き寄せられるのです。その霊たちは、地上人類のために働く決意ができていますから、そのパワーが人間の祈りが生み出したパワーを増幅させます。それは思念の波動であり、霊性の一部です。
 つまり、祈る人間の霊性に応じて、宇宙のエネルギーが働くのです。ということは、稼動させることができる宇宙エネルギーは、祈る者の霊格によって、その範囲が自然に決まるということです。

 祈る人の霊性の進化の程度によっては、何らかの理想の観念を思い浮かべて、それに意念を集中するほうがいい場合があるでしょう。そのほうがやりやすいというのであれば、私はあえて否定はしません。
 しかし肝心なのは大霊であり、生命の原則であり、大自然の摂理です。大霊は完全ですから、摂理も完全です。あなたがたの内部に宿る大霊も完全であり、それがあなた方を通じて発現しようとしているのです。祈りにしても、人のための献身にしても、大霊を発現しようとする魂の行為です。そうした魂を開発しようとする行為が、霊性の進化を促すのです。


【Q11】
あらゆることが変えようにも変えられない法則によって支配されている以上は、大霊に祈っても何にもならないのではないでしょうか?祈りとは、大霊に法則を変更してくれるように頼むことではないかと思うのです。

 私は、祈りをそのようには理解していません。祈りとは、大霊に近づかんとする魂の切実な願いです。その行為そのものが内部に宿る大霊を発現させ、未踏の階層まで至らしめてくれるのです。そこに不公平も特別の配慮もありません。祈りという行為によって魂が身を引き締め、大霊をより多く発現し、それだけ多くの恵みをわがものとすることができるということです。大霊の恵みは無限です。そして、あなたの魂も無限に開発されていきます。


【Q12】
なぜ人間は、神に罪の赦しを乞うのでしょうか?摂理を犯せば自動的に罰が下されるのではないでしょうか?
 赦しを求めて祈っても、摂理が手直しされることはありません。支払うべき代償は支払わねばなりません。しかし、赦しを求めて祈るということは、自分の間違いに気付いて大霊との調和を求め始めたことを意味します。自我を見つめ、内省し始めたことを意味します。本当の意味での霊性の進化が始まったのです。


【Q13】
われわれは、摂理に向かって祈るべきなのでしょうか?

それは違います。自分の内部と外部に存在する大霊に向かって祈るのです。波動の調整とひたむきな向上心によって、大霊という無限のパワーとの一体化を少しでも促進しようとする営みです。より多くの光明、より多くの知識、より多くの英知と理解力を求める切実なものであらねばなりません。そういう祈りならば、必ず報われます。なぜならば、誠心誠意の訴えそのものが、内部の神性を発現させるからです。


【Q14】
ときおり、こちらが祈り求めないうちに霊界からの援助をいただくことがありますが、われわれの必要性をどうやってお知りになるのでしょうか?

 切実な祈りは、然るべき目標に届くものです。必死に祈れば (私の言う 「祈り」 は 「要求」 ではありません)、その祈りは必ず目標に届きます。磁気的引力の法則が働くのです。祈りがかけ橋となって回答が届けられるのです。


【Q15】
大霊に直接語りかけることができますか?

 あなたは大霊であり、大霊はあなたです。あなたと大霊との違いは、「性質」 ないしは 「本質」 にあるのではなく 「程度」 にあります。大霊は完全の極致であり、あなたはそれに向かって、はてしない努力を続けるのです。

 したがって、大霊は内部にも外部にもあることになります。あなたが神性を発現したとき、すなわち愛、寛容、慈悲、哀れみ、慈善などの行為を実行に移したとき、あなたは大霊と通じあっていることになります。なぜならそれは、大霊があなたを通して働きかけていることにほかならないからです。


【Q16】
悲しみのどん底にありながら、祈るということをしない人がいますが、どうなのでしょう?神の存在を信じない以上、救いようがないのでしょうか?

 大霊の存在を信じる信じないは問題ではありません。そのことで、大霊がお困りになることはありません。


【Q17】
ですが、そういう人でも救いがあるのでしょうか?さまざまな理由から神に祈ることも信じることもできないでいながら、大変な悩みを抱え、救いが必要な人がいます。

 救いをいただく資格は、大霊の存在を信じるか信じないかで決まるのではありません。その時点までに到達した精神的、ならびに霊的進化の程度によって決まることです。手助けをいただく資格があるからいただくのです。これも原因と結果の自然法則です。


【Q18】
霊側では、人間側が祈るまで待っているのでしょうか? それとも、人間側が要求するしないにかかわらず、聞き届けたり無視したりするのでしょうか?
 絶対的な法則によって経綸されている宇宙の大機構のなかにあって、人間、あるいは何らかの形態の存在が忘れ去られるということはあり得ません。自然法則は完壁ですから、すべての存在を包含しており、何一つ、だれ一人その枠からはみ出ることはありません。

 地上の人間が、大霊の目からもれるということはあり得ません。人間の一人ひとりがおかれている情況は、すべて把握されています。祈りがかなえられた場合は、その時点までに到達した精神的ならびに霊的進化の段階で、当人にとってふさわしいものがかなえられたのです。


【Q19】
宗教集団で行なう日課の祈祷は、霊界に何か影響を及ぼすのでしょうか?
 ほんのわずかな間でも、波動が一つにまとまれば影響が出るでしょう。が、祈りとは、本来はやむにやまれず発する魂の叫びです。組織的な体制で、機械的に行う行事は祈りではありません。


【Q20】
スピリチュアリストの集会のなかには、祈りの日を設けているところがありますが・・・・・・。

 日常生活において霊的真理の意義を生かした生き方をしていなければ、自分たちを 「スピリチュアリスト」 と呼んでみても何の意味もありません。大切なのは、自分たちはこういう者ですと名のることではなく、実生活において何をしているかです。


【Q21】
祈れば、聞き届けてもらえるのでしょうか?

 聞き届けてもらえることもありますが、それは祈りの中身と動機によります。人間はよく、中身の性質上、聞いてあげるわけにはいかないものを要求します。要求通りにしてあげたら霊性の進化を妨げ、あるいは人生観を狂わせてしまうからです。

 祈りというものを、人間の側からの要求を聞いて霊界で審議会を開き、「よかろう」とか「それはならぬ」といった返事をするような図を想像してはいけません。祈ることによって波動を高め、より次元の高い階層と通じることによって、然るべき回答が届けられる条件を整えるのです。


【Q22】
祈りの機能は何でしょうか?

 本当の祈りとご利益信仰との違いを述べれば、祈りが、本来、どうあるべきかがおわかりいただけると思います。ご利益信仰は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい、お金がほしい、家がほしいといった物的欲望には、霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな欲求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。

 一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、万物の背後にひかえる霊力との融合を求める祈りといった、真実の祈りがあります。こうした祈りには魂の内省があります。つまり、自己の不完全さと欠点を自覚するがゆえに、真摯に祈ります。それが内在する霊的エネルギーを発現することになり、その姿勢そのものが祈りの回答を受け入れる態勢となるのです。

 これまで何度か述べたように、人間の祈りのなかには、それを完全に無視することが最高の回答であるものがたくさんあります。言うとおりにしてあげることが、かえって当人にとってプラスにならないとの判断があるのです。

 しかし、魂の奥底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める願望は、自動的に成就されます。つまり、その願望が霊的に一種のバイブレーションを巻き起こし、そのバイブレーションによって、当人の霊的成長に応じた分だけの援助が、次のステップのために引き寄せられます。

危険のなかにあっての祈りであれば、保護のためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。そのなかには血縁関係によってつながっている霊もいれば、愛の絆によって結ばれている類魂もいます。そうした霊たちはみな、かつて地上時代に、自分も同じようにして救われた体験があるので、その要領を心得ています。


【Q23】
霊界側は、祈りをどう見ているのでしょう。

 祈りは、人間としての義務を逃れるための臆病者の〝避難所〟ではありません。祈りは、実際の行為で果たさねばならないことの代用となるものではありません。祈りは、義務を免除してもらうための手段ではありません。祈りは、大霊の摂理を出し抜くための手段ではありません。

それはいかなるかたちの祈りによっても不可能ですし、途切れることのない原因と結果のつながりを寸毫(スンゴウ)も変えることはできません。

 自分を役立てたいという願い、義務と責任を自覚した心から発していない祈りを、すべて無視してください。そしてその後に、サイキックないしはスピリチュアルなものとして、ある種のバイブレーションを生み出す祈りが残ります。そのバイブレーションが回答を呼び寄せるのです。それは必ずしも、当人が期待したとおりのものではありません。当人が発したバイブレーションが生み出した自然な結果です。


【Q24】
本当の祈りは、自分の意志を大霊の意志と調和させることだとおっしゃいましたが、どうやって調和させるかについては述べておられませんが・・・・・・。  

 祈り方がわからないという方は、無理して祈るべきではありません。祈りとは、精神と霊の行為、自分の意志を大霊の意志と調和させるための手段です。いくらやっても調和させることができないときは、それはあなたの祈りが効果を生み出さなかったということを意味します。真実の祈りには、その後に行為が伴わなければなりません。

 つまり、祈りの行為によって、自分を大いなる生命の力と荘厳さと支配力に調和させることで、それを満身に受け、宇宙的意識と一体となり、精神・霊的に一段と強くなって、より大きな貢献ができるようにならねばなりません。これが、私が理解している祈りです。


【Q25】
 公式の祈りの日に、どういう意義があるのでしょうか?

 祈りに公式も非公式もありません。昼と夜の区別もありません。祈りを発する当人以外の何者によっても影響を受けることはありません。当番の者が先導して述べる機械的な祈りには、何の価値もありません。

 そういう規約になっているため、あるいはそういう習慣になっているために顔をあわせて行なう祈祷───すっかり慣れっこになっているために、何の感慨もわいてこないような祈祷では、大霊に一歩たりとも近づけてくれません。人間にとって必要なものは、大霊は先刻ご承知です。人数を多くして嘆願する必要はありません。