Saturday, October 3, 2026

霊訓〈完訳・上〉

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。




7節

本節の内容
*新プラトン主義 *スーフィズム
*霊的真理の普及を妨げるもの
*似非神学者 *似非科学者
*先入的ドグマによる偏見
*宗教の名に値するもの
*理性こそ最高の指針



〔新プラトン主義哲学(1)に関する通信があった。見覚えのある容貌をした霊が写真に写ったが、衣服は見慣れないものだった。私の質問に対し、心霊写真に写るためにはある程度の物質化が必要で、霊視に写る時の像とは違うということだった。

新プラトン主義の特徴的教義についての説明は実に克明で、私のまったく知らないものだった。忘我の状態で神性に背くものを全て排除し、ひたすら神との合一をはかるスーフィズム(2)という恍惚的瞑想行為について長々と説明し、その理想的人物として新プラトン主義学者の一人の名を挙げた。その時教わったもの、とくに右の学者の説教についてはその後なるほどと思わせるものがある。もっとも私自身はすでに体験していたこともあって、驚きの度合いが和らげられているが。

その後短期間ではあったが通信が途絶えた。その間に出席したある交霊会でイタズラ霊による偽名行為が再び発覚し、私も大いに考えさせられた。その後の通信でよその交霊会には絶対出席しないようにとの忠告があった。霊媒には強い磁力があり、他の霊媒の交霊会に出るとそこでの現象に悪影響を及ぼし、同時に悪影響を持ち帰ることになるから、霊媒同士の接触は絶対避けることが大切であるとのことだった。

宮廷詩人だったリドゲート(3)のものを中心とする素晴らしい詩が、それによほど興味をもっているように見うけられる霊によって書かれた。その霊はただ詩を綴ること以外は何もしなかったが、その筆跡は見事で特徴があった。

その後一八七三年六月十三日に開かれた交霊会で神学に関する質問を数多く用意しておいたところ、それに対して入神講演の形で長々と回答が述べられた。当然その全部は筆記できず、部分的で不完全な筆録しか残されていない。が、その翌日、その入神講演をした霊が、こちらからの要請もないのに、次のような自動書記通信を送って来た。〕


昨夜述べた事の中には、先を急ぐあまり十分に意を尽くし得なかった事が多く、筆録も正確とは言えぬ。あのような重要な問題は十分に念を入れ、是非とも正しく理解して貰わねばならぬ。そこで、十分に意を尽くし得なかった事をここでより分かり易く述べたく思う。交霊会でそなたの口を借りて語るのは必ずしもこうした方法(自動書記)で伝えるほど正確を期することが出来ぬものである。完全に隔離された状態の方が緻密さと正確さの得られる状態に入るのが容易である。

昨夜はわれらが神より託された使命について述べたつもりである。その使命の前途を遮(さえぎ)る多くの困難の中でも最大のものは、その使命達成においてわれらが何よりも頼りとしている気心の知り合った同志が余りに神学的先入主に捉われ、あるいはそれまで説き聞かされて来た信仰と相容れぬことに強い恐怖を覚えるために、われらにとりて為すすべがなく、挙句の果ては、悲しい哉、われらの説く神の教えが邪霊の言葉とされ、その背後にて操る強力なる悪魔のさしがねと決めつけられることである。われらにとりては、こうした人材ほど嘆かわしきものはない。

自分の定めた勝手な条件のもとに、自分のお気に入りの手段でしか物事を判断しようとせぬ似非(えせ)科学者たち――われらを単に人間をたぶらかす者、嘘つき、狂える者のたわごとと決めつける材料として以外には取り扱おうとせぬ科学者たち――彼らはわれらにとりてまず用はない。その曇れる目には真理は見えず、長年の偏見によりて被われ束縛された知性は、われらには何の役にも立たぬ。どう気張ったところで霊界との交信の真相を垣間見ることすら出来ぬ。彼らが獲得する知識はたとえそれ自身は有用であり、価値あるものであろうと、われらの特殊なる使命には先ずもって役に立たぬ。われらが目指すものは、われらの使命の一局面でしかない現象面にのみ目を向けたがる科学者がとやかく言うものとは、いささか方角が異なるのである。長きに亙り物理学的観察に馴らされた知能は、その分野の事実の解明に向けるのが最も適切であろう。われらの分野はそれとはまた異なるのである。霊と霊との関係であり、霊のたどる宿命に関する知識を扱うのである。

更に、われらが述べんとする真理に皆目知識を持ち合わせず、その理解にはこののち長年に亙る人生試練を必要とする無知にして未熟なる者たち――この種の者は、いつの日にかわれらの真理を理解し得る段階にまで向上してくるであろうが、今の段階にては用はない。

況(いわん)や高慢にして傲慢なる知識人、自分の世界にしか通用せぬ道学者、慣例と体面を守ることに汲々たる宗教家――彼らについては言葉もない。彼らを納得させるには更に多くの物的証拠を必要とする。われらが述べる言葉はたわごとにしか聞こえぬであろう。

われらが真に頼りとするのは、神とその天使の存在を知り、愛と慈悲を知り、いずれ死後に赴く境涯について知らんと欲する人物である。然るに悲しい哉、神により植えつけられ、霊に育まれし天賦の宗教的本能が人間の勝手な宗教的教義――幾世紀にも亙って知らず識らずのうちに築き上げられた、無知と愚行の産物によりてがんじがらめにされている。どこを突ついても、返ってくるのは真理から外れたことばかりである。われらが父なる神の啓示を説けば、神の啓示はすでに全てを手にしていると言う。われらがその啓示の矛盾点を指摘し、そこに終局性も不謬性もないことを告げれば、教会が拵えた取り留めもない決まり文句を繰り返すか、それとも“絶対に誤ることなき人”として選びし人物の説を引用するのみである。つまり彼らは、一時期、一地方の特殊なる必要性に応じて授けられた、限られた啓示をもって普遍的真理と思い込み、それを物差しとしてわれらを裁かんとするのである。

また古代において霊覚者を通じて行なえる如く、われらが信頼するに足る神の使者であることを表明し、その証拠として奇跡的現象を演出してみせても、彼らは、奇跡の時代は終わった、神の啓示の証として奇跡を行なうことを許されたのは聖霊のみであると主張する。そして悪魔――これは彼らの勝手な想像の産物にすぎぬのであるが――は神を装うことが出来るとし、われら及びわれらの使命を神と善に対抗する外敵であり、暗黒界の使者であると決めつけるのである。またこうも言う――出来ることなら力になってあげたい。なぜなら言っていること自体はなるほどと思わせることばかりだからである。が、それが悪魔が使う誘惑の手だから困るのだ、と。確かに彼らがそう思うのも無理はない。なぜなら、やがて善を装える邪霊集団がやって来ることを聖書が予言しているからである。われらこそその邪霊なのであろう。彼らにとりてはそうであるに相違ない。なんとなれば神聖にして犯し難き古(いにしえ)の神学が神の子イエスを否定せんとする勢力の到来を予言しているではないか。現にわれらの説はキリスト神の定めしイエスの位置とその使命を根底より否定している。またわれらは理性を信仰の上に置いている。われらの説く福音は(信仰よりも)善行を説く福音であり(忠実なる信仰でなく)善の実行者こそ佳(よ)しとする教えである。彼らにとりては、こうした教えを説く霊はすべて光の天使を装う大悪魔の手先であり、魂を破滅に陥(おとしい)れんとの企(たくら)みにほかならないのである。

が、われらにとりては、協力を期待する真摯なる信心家からこうした態度に出られることこそ痛恨の極みである。彼らの多くは愛すべき真面目な人間である。ただその明るき魂の炎が地上の暗闇を照らすに至るには、是非とも進歩性を必要とする。われらは是非とも彼らにメッセージを送りたい。が、すでに築き上げられた神および人間の義務についての確固たる信仰基盤を当てにするには、その前に進歩を阻む夾雑物を取り除かねばならぬ。

宗教がその名に値するためには二つの側面を持たねばならぬ。一つは神への信仰であり、もう一つは人間についての教えである。その道の専門家により“正統”と呼ばれている伝来の信仰は一体その二点についてどう説いているであろうか。その教えとわれらの教えとはどこがどう違うのであろうか。その“違う”部分はどこまで理性を納得させるであろうか。何故かく問うのかと言えば、われらは何よりも先ず神が植えつけ給うた理性こそ唯一の判断基準であると主張するものだからである。われらはあくまで理性に訴える。何故なら、古(いにしえ)の聖賢がこれこそ神の唯一にして最後の啓示であると断定して聖典を編纂した時も、彼らなりの理性に訴えたのである。その断定に際して彼らなりに理性に訴えたのである。故にわれらもまた理性に訴える。そなたはわれら霊団の同志が啓示の永遠不変の支柱とすべきものを神自ら規定されたと主張しているとでも思われるか。われらもまた神の使者にほかならぬ。かのヘブライの預言者たちを導いた霊たち、そして啓示を神の言葉と断定せる人間を指導した霊たちと同様に、われらもまた神によりて導かれた霊なのである。

われらも彼らと同じ神の使者である。携え来るメッセージも同じである。ただ、より一層進んでいるというまでである。われらの説く神も彼らの説ける神と同一である。ただ、その神性をより明確に説いているまでである。つまり人間臭が減り、より神々しき存在となっている。

こうしたわれらの訴えをその言葉どおりに神聖なるものと受け取るか否かは、そなたらの理性(とは言え背後霊の指導を受けることは間違いないが、理性であることには変わりない)が最後の判断を下すことである。この上われらの訴えを否定する者は自らの理性の愚昧さを証言する者に他ならぬ。盲信を理性的信仰と同等に見なすことは出来ぬ。なんとなれば信仰にも根拠ある信仰と根拠なき信仰とがある。根拠ある信仰は論理的裏付けが可能であり、その場合にも理性が最終的判断を下す。後者は論理的裏付けなき信仰であり、これでは人を動かすことは出来ぬ。況(ま)して全く根拠なき盲信に至っては、われらもその頼りなさと信用のなさについてこれ以上論ずる必要さえ認めぬ。

故にわれらは理性に訴えるのである。理性的に判断してわれらがどこまで悪魔性を証しているというのか。われらの説く教義がどこまで邪霊的であるのか。何をもってわれらを悪魔的と言うのか。こうした点については、これよりのちに説くことにしよう。


〔注〕

(1)


Neoplatonism 三世紀に始まったギリシャ哲学の一派で、プラトンの思想を中心にしてこれに東洋の神秘思想を加味したもの。その代表的思想家が本書の五節にプルーデンスの名で出ているプロティノス Plotinus である。


(2)


Souffism


(3)


Lydgate

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch 

Psychic Press Ltd.
London, England 



五章  もしも シルバーバーチがテレビに出たら


 〝もしスピリチュアリズムについてテレビで講演することになったらどういうことを話されますか〟───ある日の交霊会でこんな質問が出された。シルバーバーチはすかさず次のように答えた。

「私はまず私が地上の人たちから〝死者〟と呼ばれている者の一人であることを述べてから、しかし地上の数々の信仰がことごとく誤りの上に築かれていることを説明致します。生命に死はなく、永遠なる生命力の一部であるが故に不滅であることを説きます。

私は視聴者に、これまで受け継いできた偏見に基づく概念のすべてをひとまず脇へ置いて、死後存続の問題と虚心坦懐に取り組んで真実のみを求める態度を要請致します。寛容的精神と厚意をもって臨み、一方、他人(ひと)がどう述べているからということで迷わされることなく、自分みずからの判断で真理を求めるよう訴えます。

そして世界中の識者の中から、いわゆる死者と話を交わした実際の体験によって死後の生命を信じるに至った人の名前を幾つか紹介します。

そして私自身に関しては、私もかつて遠い昔に地上生活の寿命を割り当てられ、それを完うして、一たんベールの彼方へ去ったのち、この暗い地上へ一条の光をもたらし久しく埋もれたままの霊的真理を説くために、再び地上に戻る決心をしたことを述べます。

 私はその霊的真理を平易な言葉で概説し、視聴者に対して果たして私の述べたことが理性を反撥させ、あるいは知性を侮辱するものであるか否かを聞いてみます。

私には何一つ既得の権利を持ち合わせないことを表明します。こんなことを説いてお金をいただかねばならないわけでもなく、仕事を確保しなければならないわけでもありません。私には何一つ得るものはありません。霊界での永い永い生活を体験した末に私が知り得たことを教えに来ているだけです。聞くも聞かぬもあなた方の自由です。

 人間は不滅なのです。死は無いのです。あなた方が涙を流して嘆き悲しんでいる時、その人はあなた方のすぐ側に黙って立っている───黙って、というのは、あなた方が聞く耳をもたないために聞こえないことを言っているまでです。

本当は自分の存在を知らせようとして何度も何度も叫び続けているのです。あなた方こそ死者です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で立派な死者です。神の宇宙の美が見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。

愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡知を役立てたいと望んでいるのです。

 見えないままでいたければ目を閉じ続けられるがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。が、賢明なる人間は魂の窓を開き、人生を生甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。あなた方は神の子なのです。

その愛と叡知をもって全宇宙を創造した大霊の子供なのです。その大霊との繋がりを強化するのは、あなた方の理解力一つです。もし教会がその邪魔になるのであれば、教会をお棄てになることです。もし邪魔する人間がいれば、その人間と縁を切ることです。もし聖典が障害となっていると気がつかれれば、その聖典を棄て去ることです。

 そうしてあなた一人の魂の静寂の中に引きこもることです。一切の世間的喧騒を忘れ去ることです。そして身のまわりに澎湃(ほうはい)として存在する霊的生命の幽(かす)かな、そして霊妙なバイブレーションを感得なさることです。

そうすれば人間が物的身体を超越できることを悟られるでしょう。知識に目覚めることです。理解力を開くことです。いつまでも囚人であってはなりません。無知の牢獄から脱け出て、霊的自由の光の中で生きることです。
 以上の如く私は述べるつもりです」


 次に、教会中心の信仰者に対して講演するとしたらどう説かれるかと聞かれて───

 「まず私は教会というところが本来宗教についての真実を学ぶために存在するものであること説きます。目に見えない高い世界の影響力に集団で波長を合わせるための場です。しばしのあいだ俗世的心配ごとやストレスから離れ、雑念や悩みごとを忘れて霊的実在に目を向ける場です。

私はまた人のために自分を役立てることこそ真の宗教であると説きます。礼拝に出席したら、欠席した人より立派になるというわけではありません。肌の色が白いから、茶色や黒い肌の人より優れているわけではありません。大切なのは霊の進化、魂の成長です。

教会はそのための永遠の旅に備える場であるべきです。いかにして霊を修練するかを教える場であるべきです。聖典の言葉や説教、儀式、信条のことで惑わされてはいけません。建物を必要以上に有難がってはいけません。

 宇宙の大霊は無限の存在です。いかに神聖に思える建物でも、その大霊を閉じ込めることはできません。四つの壁では〝永遠なるもの〟は包めません。書物も、その言葉がいかに美しくても、いかに内容が立派でも、いかに霊的でも、それ一冊に無限なる霊すなわち神に関する真理のすべてが記されるわけがありません。

いかなる人間でも、たとえ地上で最高の聖職にある人でも、あなたと神との関係に干渉することは許されません。あなた方の存在にとって必要なものは、あなた方自身が無限の啓示の宝庫から引き出すことができるのです。

あなた方が神と呼ぶところのもの、私が大霊と呼ぶところのもの、すなわち全生命の背後の普遍的摂理は、永遠にあなた方と切っても切れない絆で結ばれております。

 内部に宿された神性を発揮しさえすれば───高級界から受ける霊力とインスピレーションを活用する霊的法則さえ身につければ、神が意図された通りの生き方ができるようになります。

自己を棄て、世間に目を向け、からだの不自由な人を癒し、苦しむ人に手を差しのべ、飢えた人に食を与え、渇いた人に水を与え、道を見失える人に勇気と指示を与え、優しさと思いやりと愛情を、それを必要とする人の全てに与えてあげるようになるでしょう。

そうなった時こそ自分を役立てていることになります。それが唯一の宗教なのです。それ以外の宗教を私は知りません」


───スピリチュアリズムが世界的宗教となる日が来るのでしょうか。

 「あなた方がスピリチュアリズムと呼んでいるものは大自然の一部───その作用、その意義に対してつけられた名称に過ぎません。私にとって宗教とは自分なりの人生を生きることであり、特定の宗派の信仰を受け入れることではありません。

人生を支配している摂理は普遍的なものです。ということは、普遍的な理解力が世界中に行きわたれば、お互いが扶け合うことが普遍的な宗教ということになります。それをスピリチュアリズムと呼ぶかどうかはどうでもよいことです。大切なのは真理が普及し、無知の壁が崩れ、迷信が人間の精神から一掃されて、霊的叡知が花開くことです。 

ラベルには用心しなければなりません。なぜかと言えば、そのうちそのラベルに象徴されていた中身に代わってそのラベルそのものが大切にされるようになり、ついにはラベルだけを崇拝して真理を忘れてしまうからです。大切なのは真理です。ラベルはどうでもよろしい。

 皆さんはある現象が話題になるとそれをスピリチュアリズムだと言います。が、すべては自然法則の働きで起きているのであって、それをどう呼ぶかは重要ではありません。同じ意味で〝宗教〟という用語もその本来の意義を失ってしまいました。

今では宗教といえば〝神聖〟のラベルをはられた特殊の行事や慣習、儀式、祭礼等のことを連想します。しかし教会や礼拝堂が普通の建物に較べていささかも神聖であるわけではありません。石はあくまでも石です。普通の家の一部となろうと大聖堂の一部となろうと石は石でしかありません。

神を崇拝する場として作られた建物は確かに美しいかも知れませんが、その美しさが神聖さを生むわけではありません。美しいと思うのは美意識の反応にすぎません。

 宗教そのものは教会とは何の関係もありません。霊感のある人───本当の意味での聖職者、つまり霊的能力を具えた人が民衆の要請に応えて神との取り次ぎをしてあげることと言ってもよいでしょう。勿体ぶった神学的言説に基づく行事をしたり信仰を告白したりすることではありません。

教会でワインを飲んだからといって、他の場所でワインを飲むよりも〝宗教的〟であるわけではありません。宗教的であることは宇宙の大霊の一部である自分を少しでもその大霊の御心に近づけることです。

内部の神性を発揮する上でプラスになることをすることが宗教です。その神性は人のために役立つ行為、愛他心、親切心、日々新たになろうとする心がけ───どこにいても倒れている人を起こしてあげ、弱った人を元気づけ、無力な人の力になってあげ、病の人を癒し、真理と叡知を広め、不正を無くする行為となって表われます。それが宗教です。

人間にはその人なりの宗教を実践する上で必要なものはすべて授かっております。そのためにはまず、宗教とは名僧知識が説くことを体系的にまとめることであるかのように考える、その誤った概念を捨て去ることです。

 私どもは、どこかの礼拝のための建造物に出席することが神への義務を果たすことになるとは決して申しません。出席される方は真面目な気持ちでそうされているかも知れませんが、真の宗教心はその人の生きざまの中でしか発揮されないのです。各自の魂に内在する崇高なる霊性の働きと切り離されたところに宗教は存在しません」


───おっしゃるような生き方ができなければ、スピリチュアリズムも既成宗教と同じように失敗に終わることになるわけですね。

 「その通りです。必ず同じ運命を辿ります。私たちが地上へ戻ってきたのは一時のセンセーションを巻き起こすためでもなく、一部の人たちだけに喜びをもたらすためでもありません。肉親を失った人を慰めるのも大切です。悲しみの涙にくれる人の涙を拭ってあげるのも大切です。

が、それよりもっともっと大切なことは、霊的真理を日常生活の全てに生かすことです。〝無知〟から生じる世の中の害毒を無くさなくてはなりません。すべての不公正を改め、すべての偏狭と横暴を駆逐しなければなりません。私たちの仕事は人間に内在する霊性をあらゆる面で発揮させ、物質文明から排泄されるもの───汚れ、病気、暗黒街、スラム街、その他、神聖なる霊が閉じ込められている全ての邪悪な環境を清めることに向けられております。

 要するに私たちの説く宗教は実践の宗教です。一日一日の宗教─── 一日二十四時間、一時間六十分、一分六十秒、その全てを実践の時とする宗教です。

それが私たちの評価の基準です。それが私たちの目標とする理想です。それが知識を手にした者の本当の仕事───自分だけが喜びと慰めを得るに止まらず、全ての人に隔てなく分け与えてあげる義務なのです。

スピリチュアリズムも他のすべてのことと同じく〝結果〟によって評価されます。あなたが存在することによって世の中の誰一人として益を受けることがなければ、この世に生れてきた甲斐がなかったことになります。

もしスピリチュアリズムを信奉する人がいま深刻に要請されている精神的革命に何の役割も果たせないとしたら、それは自分に対する欺瞞であると同時に、その目的の為にその人を使用した霊の力に対する欺瞞にもなります。人間を通して地上へ注がれる莫大な霊力には成就すべき巨大な宿命があります。それは人類の霊的革新です」
                               

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch 

Psychic Press Ltd.
London, England 




四章  誰にでもわかる真理を

 
シルバーバーチのもとに数え切れないほどの質問が寄せられている。その一つ一つが読み上げられるのをシルバーバーチは熱心に聞き入るが、あまりに個人的な内容のものには答えたがらない。


その理由をシルバーバーチは、プライベートな悩みに答えるにはその悩みを抱えている本人がすぐ目の前にいる必要がある。しかしそれは私に委ねられた使命ではないから、と説明する。その本来の使命は全ての人に共通した真理を説くことにあるという。その一つが次の質問である。


───あなただけがご存じの、何か新しい真理がありますか。

 「新しい真理というものは一つもありません。真理は真理です。単なる知識はそれを受け取る人次第で内容が異なります。子供時代にはその知能に似合ったものを教わります。まずアルファベットから始まり、知能の発達とともに単語を覚え、文章が読めるようになります。こんどは活字で書かれた本が読めるようになります。

どの程度のものが読めるかはすべてその段階での理解力一つに掛かっています。知識は無限に存在します。際限がありません。が、そのうちのどこまでを自分のものに出来るかは、精神的ならびに霊的受容力の問題です。

 しかし、いくら知識を蓄えても、それによって真理を変えることは出来ません。いくら知恵を絞っても、真理の中身を変えることは出来ません。過去において真理であったものは今日でも真理であり、明日の時代にも真理です。真理は不変であり不滅です。

新しい叡知を身につけることはできます。新しい知識を増やすこともできます。が、新しい真理を生み出すことはできません。地上人類はすでに地上生活にとって必須の真理───親切と扶け合いと愛についての基本的真理のすべてを授かっております。

世界をより良くするためには如何にすべきかはすでに分かっております。成長と発展と向上と進化にとって必要なものは過去幾世紀にもわたって啓示されてきております。それに素直に従いさえすれば、今この地上において、内部に宿された神性をより多く発揮することができるのです。

偉大な指導者、地上に光輝をもたらした〝霊の道具〟は、根本においてはみな同じ真理を説いております。人間の霊性───各自に宿る不滅の資質に目を向けさせるべく地上を訪れたのです。言語こそ違え、みな人間のすべてが無限の魂、神の火花、宇宙の大霊の一部を宿していることを説きました。

そして、素直に従い実行しさえすればそれをより多く発揮させてくれるところの指導原理も説いております。霊的理念に従って生きればこの世から悪夢の様な悲劇、余りに永きに亘って無益な苦しみを与えてきた恐怖と悲惨と苦悩を一掃できることを説いてきております。
 
 自分を愛する如く隣人を愛せよ。苦しむ者に手を差しのべよ。人生に疲れた人、潤いを求める者に真理を語って聞かせよ。病いの人を癒し、悲しみの人を慰め、不幸な人を訪ねてあげよ。こうした訓えは遠い昔から説かれてきた真実です。こうしたことを実行しさえすれば地上は一変し、二度と恐ろしい悲劇をもたらす戦争も訪れなくなるでしょう。

 そこで、私たち霊団の取るべき態度はどうあるべきか。人間は自分の成長と(死後への)霊的準備に必要なものはすべて掌中に収めております。聖なる書も数多くあります。〝師〟と呼ばれる人も数多く輩出しております。

内的世界を垣間見てその人なりに解釈した霊覚者が大勢います。しかし不幸にして、そうした形で啓示された素朴な真理が埋もれております。人間はその上に教義だの、ドグマだの、信条だの、儀式だのという〝構築物〟を築き上げてしまいました。

単純素朴な真理の基礎の上に神学という名の巨大な砦を築いてしまい、肝心の基礎がすっかり忘れ去られております。そこで私どもはその埋もれた真理を本来の純粋な姿───何の飾り気も無い素朴な姿のままをお見せするための道具、つまり霊のメッセージをお届けするための霊媒を探し求めてきたのです。

 私どもは人間の精神的産物によって色づけされた信仰体系には関心はありません。大切なのは地上生活のように錯覚によって惑わされることのない霊の世界からの真理です。

なぜか。それは、あまりに多くの落伍者、精神的浮浪者のような人間が霊界へ送り込まれる一方、一見立派そうな人間が霊的事実について誤った概念と偏見と無知の為に、死後に直面する生活に何一つ備えが出来ていないというケースが又あまりに多すぎる現実を見て、私どもは、いずれは永続的な実在の世界となる死後の生活に備えるための単純な真理を地上にいる間に知ってもらえば、私達の手間も大いに省けるだろうと考えたのです。

そこであらゆる宗教的体系と組織、進歩を妨げる信仰、不必要な障害、人間の精神を曇らせ心を惑わせる迷信に対して厳然と宣戦布告し、神の子が神の意図された通りに生きられるように、不変の霊的真理を授けようと努力しているわけです。

 他人がどう言おうと気にしてはいけません。非難・中傷など、すべて忘れることです。霊的真理こそ永遠に変わらぬ真理なのです。理性が要求するすべてのテストに応えうる真理です。

けっして知性を欺きません。単純・明快で、誰にでも理解できます。聖職者によるあらゆる方策が失敗したのちも止まることなく普及発展していく真理です。

不変の自然法則に基づいた単純素朴な永遠の真理だからです。これには法王も大主教も司祭も牧師も教会も聖堂も礼拝堂もいりません。私どもはこれを捏ねまわして神学体系を作ろうなどとも思いません。ただこうして説くだけですが。が、

理解ある伝道者さえいれば、それが社会のあらゆる階層に浸透し、すべての人間が身体的にそして霊的に自由を享受し、二度と束縛の中で生きていくことは無くなるでしょう。無知の暗黒が消滅し、代わって真理の光がふんだんに注がれることでしょう」


 このようにシルバーバーチは単純な霊的真理を説いているだけだと主張し、理屈っぽい問題には答えたがらない。その理由は───

 「難解な問題を回避したいからではありません。私は今すぐ応用のきく実用的な情報をお届けすることに目標を絞っているからです。基本の基本すら知らない大勢の人々、真理の初歩すら知らない人が大勢いることを思うと、もっと後になってからでも良さそうな難解な理屈を捏ねまわすのは賢明とは思えません。

今日もっとも必要なのは簡単な基本的真理───墓場の向こうにも生活があること、人間は決して孤独な存在ではなく、見捨てられることもないこと、宇宙のすみずみにまで神の愛の温もりをもった慈悲ぶかい力が行きわたっていて、一人一人に導きを与えていること、それだけです。

これは人間のすべてが知っておくべきことです。また誰にでも手に入れることのできる掛けがえのない財産なのです。そうした基本的な真理さえ知らない人間が何百万、何千万、いや何億といる以上、われわれはまず第一にその人たちのことから考えようではありませんか。それがわれわれにとって最も大切な義務だと思うのです」


 同じ話題について別の交霊会で次のように述べている。
 「私ども霊界の者がこうして地上へ戻って来る目的の真意が、ほかならぬ宗教問題で指導者であるべき人たちから曲解されております。いつの時代にも宗教とは基本的に霊力との関り合いでした。それはまず地上の人間の霊的向上を指向し規制する摂理を教える使命を帯びた者が地上へ舞い戻ってくるという事実から始まります。

つまり宗教の本来の目的は人間の霊性に関わっているのです。そこから出発し、ではその霊性を正しく発達させる上で霊界から指導を受けるにはどうすべきかを説くのが宗教の次の仕事です。

霊的摂理は広範囲に亘っています。ところが不幸にしてそれが誤って解釈され、その上、それとは別の意図をもった聖職者が割り込んで来たために混乱が生じたのです。

 人間も根本的には霊であり、それが肉体を使用しているのであって、付属品として霊を宿した肉体的存在ではないわけです。肉体は霊に従属しているものです。地上生活の全目的はその内在する霊に修業の場を与え、さまざまな体験を通じてそれを育み、死によってもたらされる肉体からの解放の時に備えて身仕度させることです。

それから本当の意味での生活が始まるのです。従って宗教とは霊が霊として本来の生活ができるように指導するための処世訓であり道徳律であると言えます。ところが不幸なことに、古い時代に霊の道具である霊媒と聖職者との間に衝突が生じたのです。聖職者の本来の仕事は聖堂や教会等、宗教的行事の取り行われる建造物の管理でした。

原初形態においては両者の関係はうまく行っておりました。が、ある時代から聖職者の方が神示を受ける霊媒にばかり関心が向けられることを不愉快に思いはじめました。

そしてそれまでに入手した神示を資料として、信条、儀式、祭礼、ドグマ、教説等を分類して綱領を作るという、いわゆる神学的操作を始めたのです。今日そのどれ一つとして霊の資質や生活や発達と実質的に関わりのあるものはありません。

 かくして真の宗教の概念が今日では曖昧となってしまいました。宗教というと何かお決まりの儀式のことを思い浮かべ〝聖典〟と呼ばれるものを読み上げることと考え、讃美歌を歌い、特別な衣装を着ることだと考えるようになりました。

何やら難しい言説を有難く信奉し、理性的に考えれば絶対におかしいと思いつつもなおそれにしがみつきます。私たちはいかなる神学、いかなる教義、いかなる信仰告白文にも関心はありません。私たちが関心を持つのは人間の霊性であり、私たちの説くこともすべて、絶対的に従わなければならないところの霊的自然法則に向けられています。人間のこしらえたものを崇めるわけにはいきません。

宇宙の大霊によって作られたもののみを実在と信じます。そこに宗教の捉え方の違いの核心があります。

 人のために役立つ行為、霊性に動かされた行為、無私と利他的行為、自分より恵まれない人へ手を差しのべること、弱き者へ力を貸してあげること、多くの重荷に喘ぐ人の荷を一つでも持ってあげること───これが私たちの説く宗教です。

 
 〝神とイエスと聖霊は三にして一、一にして三である〟などと説くことが宗教ではありませんし、宗教的であるとも言えません。それを口にしたからといって霊性はみじんも成長しません。朝から晩まで讃美歌を口にしたからといって霊性が増えるわけではありません。

バイブル(キリスト教)を読んでも、タムルード(ユダヤ教)を読んでも、コーラン(イスラム教)を読んでも、バガバッド・ギーター(ヒンズー教)を読んでも、その他いかなる聖なる書と呼ばれるものを目が疲れるほど読んでも、それだけで霊性が成長するわけではありません。

〝宗教的〟とみなされている行事をすべて行っても、それによって一層価値ある人生へ魂を鼓舞しなければ、言いかえれば内部の霊性を少しでも多く顕現させることにならなければ、私たちが考えている意味での宗教的人間になるわけではありません。

 ラベルはどうでもよいのです。形式はどうでもよいのです。口先だけの文句はどうでもよいのです。大切なのは〝行い〟です。〝行為〟です。つまり各人の毎日の〝生活〟そのものです。

私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人としてその神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすことはできません。

自分が自分の救い主であり、贖い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。また神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。

すなわち親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も安価な赦免もありません。

神の公正が全宇宙に行きわたっております。霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。死の床での悔い改めも通用しません。

 広大なる宇宙で生じるもの全てに責任を持つ大霊(神)の不変にして絶対的威力を有する摂理に目を向けましょう。私たちは常にその摂理を念頭に置いています。なぜなら私たちの説く神は人間的弱点や人間的激情、人間的憤怒に動かされたり、好きな人間と嫌いな人間とを選りわけたりするような、そんな人間的存在ではないからです。

私達の観る宇宙は法則によって支配されています。すみずみまで行きわたり、これからも常に存在し続ける法則です。

地上の人間がこれまであまりに永いあいだ振り回され隷属させられてきた誤った概念と虚偽、偏見と無知を無くしていくには、地上の生命現象と生活現象のすべてがその絶対的法則によって支配されていることを教える以外にはありません。

その知識が少しでも増えれば、それだけ理解力も豊かになることでしょう。真の美しさを遮っていたベールが取り除かれ、有限の地上的存在の視野を超えたところに存在する、より大きな生活を少しでも垣間見ることになるでしょう。

 かくして私どもは常に神の永遠の自然法則、絶対に狂うこともなく、過ることもない法則、地位の高い低いに関係なく全ての存在に等しく働く法則に忠誠と感謝の念を捧げる者です。誰一人おろそかにされることはありません。誰一人見落とされることはありません。

誰一人忘れ去られることはありません。誰一人として一人ぼっちの者はいません。法則の働きの及ばない人、範囲からはみ出る人など一人もいません。あなたがこの世に存在しているという事実そのものが神の摂理の証です。人間の法律は機能しないことがあります。改められることもあります。

人間の成長と発展に伴って視野が広がり、知識が無知をなくし、環境の変化に伴って新たな法令が要請されたりすると、従来の法律が廃止されたり別の法律と置きかえられたりすることもあります。

しかし神の法則には新しい法則が付け加えられることは絶対にありません。改正もありません。解釈上の変化も生じません。いま機能している法則はこれまでもずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能していきます。一瞬の休みも無く機能し、そして不変です。
              


Friday, October 2, 2026

霊訓〈完訳・上〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。





6節

本節の内容
*ダービーによる悪影響 *祭日の功罪
*通信を可能にする条件と不可能にする条件
*極端な節制の弊害 *中庸こそ大切
*死後の結婚の絆  *進歩の法則と親和力の法則
*通信内容に矛盾の生じる原因


〔この頃ホーム氏(1)と会った。その日は、たまたまダービーの日で、ホーム氏を通じて、ダービーのために霊的状態が悪く、仕事にならないと言ってきた。そこで翌日(五月二十九日)その点を質してみたところ、いろんなことを述べたあと次のように書いた。〕


そうした催しは道徳的雰囲気を乱し、われらを近づき難くする。そこにはわれらに敵対心をもつ邪霊が集結し、物欲を満たさんとして集まれる人間に取り入る隙(すき)を窺うのである。昨日はそうした物欲に燃える者が大挙して集結した。邪霊たちにとって彼らは恰好の標的である。アルコールが入り、野獣の如く肉欲に燃える者。大金を当てにして興奮する者。その当てが外れて絶望の淵に落とされる者、等々がいる。邪霊の誘いに最も乗りやすい者はこの最後に挙げた人種である。たとえそこまで落ち込まぬとしても、道徳的感覚が狂い、感情を抑え邪霊からの攻撃の盾となるべき冷静さと心の平衡が崩れ、つけ入る隙を与えることになる。絶対的悪とまでは行かぬが、自制心を失い狂乱状態に陥れる精神が攻撃の恰好の条件を用意することになる。こうしたものは須(すべか)らく避けねばならぬ。そうした心は霊的悪影響、未熟にして有難からぬ邪霊にまんまと掛かり易い。興奮のあまり節度と理性を失える精神にはくれぐれも用心されたい。

以上の如き理由のため、そなたが質せるような日は善の使者の努力が最も要請されることになる。総攻撃をしかけんとして集結せる邪悪な未熟霊の計画を不首尾に終わらせんがためである。


――しかし、そうなると全ての祝日もいけないことになりませんか。


必ずしもそうではない。祝日の雰囲気が感情の手綱(たづな)をゆるめさせ、喉を焼くアルコールと、欲情の満足と、霊を忘れた振舞いに追いやることになれば、その祭日は許し難きものと言えよう。手綱を奪われた肉体が霊の思うがままの支配下に置かれることになるからである。

しかし祝日が身体に休息を与え、魂に憩のひと時を与えることになれば、話はまた別である。過労によって疲弊した身体が心地よき適度な休息によって生気を回復するであろう。毎日の気苦労と煩事に悩み苦しめられている精神も、適度な娯楽に興じることによって緊張がほぐれ、しばし煩わしさを忘れることになろう。そうした心地よき気分転換がむしろ精神を引き締め、刺激することになるのである。そうしているうちに穏やかな静けさが魂を支配し、それが何にも増して天使の暖かき支配を容易にする。かくして天界の使者の威力が強化され、いかに強力なる悪霊の計画も功を奏さぬこととなる。祝日を人間の堕落の日とせぬためには、善霊の働きと人間の義務についての認識を深めねばならぬ。暴動と放蕩、肉欲とギャンブル、邪念と絶望しか生まぬ祝日はわれらにとりて少しも祝うべき日どころではなく、恐るべき日であり、警戒と祈りを忘れぬ日である。

神よ、無分別なる愚行に耽る理性なき魂を救い、守り給わんことを!


〔そのころ催した実験会がどうやらいい加減な現象によって邪魔されていたらしく、通信霊の心霊写真を撮ろうとした試みも失敗に終わった。写っていた霊は自らはレクターだと名のったが、友人の判断でわれわれとは何の係わりもない、いい加減な霊で、出席者の誰も知らないことが判った。私は何か通信を得たいと思って机に向かったが、一向にまともな通信が得られないので、やむなく諦めた。

その翌日いつもの受け身的な精神状態を取り戻した。すると、こちらから求めないうちに向こうから(ドクターが)通信を送ってきた。私は前日の実験会のことに言及して、あのような場合われわれのほうで為すべきことはどんなことか尋ねた。〕


レクターはそなたの混乱した精神状態のために、通信を送ることが出来なかった。そなたの混乱は実験会でのエネルギーの負担が大きすぎる所為(せい)である。あの実験会での霊言はまったく当てにならぬ。そなたの精神状態は異常なほど反抗的であった。写真に写った人物をレクターと思ったらしいが、レクターはあの種の現象には不慣れなので、そなたの度の過ぎた興奮が今のべた精神状態と相まって通信を不可能にしている事実までは彼自身も気づいておらぬ。あのような精神状態を感じた時は、いかなる話題についても通信を求めてはならぬ。そのような時に得た通信は当てにならず、不完全であり、往々にして危険でもある。


〔私の当惑は大きかった。そこであのような現象を度々見せられては私のささやかな信念がすっかり失われてしまうと不平を述べた。それまでは一度も体験したことがなかったからである。すると――〕


そなたはこれまで、われらのうちの誰かが付き添い、注意と保護を与え得る時以外は、あのような実験会には出席していない。昨日の実験会には物質的成分を操る霊しかいなかった。その結果あのような混乱となったのである。あの時も前もって注意を与えたが、ここで改めて警告しておく。あの時のそなたの反抗的精神状態では到底レクターには支配できぬ。そなたの興奮状態が通信を不可能にしたのである。


〔それ以来私は身体の調子が悪い時や、どこかに痛みのある時、あるいは精神的な悩みや心配事のある時、さらにまた、そうした人が近くにいる時や、混乱を来しそうな雰囲気の中にいる時は、絶対に自動書記をしないよう慎重を期した。その所為だと私は思うのであるが、その後の通信は実に規則正しく、且つ落ち着いた感じを与える。大体において筆致は驚くほど流暢で、書かれたノートを見ても一箇所の削除も訂正も見当たらない。内容の論調も全然ムラがなく一貫している。〕


可能なかぎり精神を受け身に、冷静に保つことである。仕事で過労ぎみの時、心配事で気分が苛立っている時、あるいは滅入っている時、こうした時はわれらとの交信を求めてはならぬ。交霊会に新たなメンバーを加えてはならぬ。調子を狂わせ、妨げにしかならぬ。余計な干渉をせず、全てを任せてほしい。メンバーの構成について変更すべきところはわれらから助言するであろう。会合する部屋を変更せぬように。そして出来るだけ受容性に富める心構えと健康体をもって出席してもらいたい。


――確かに、一日中身体と頭を働かせたあとは条件として良くないとは思いますが、日曜日はさらに良くないように見うけます。


日曜日はわれらにとりても好ましくない。何となれば、そなたの心身から緊張が消え失せ、魂が行動する意欲を失い、休息を求めんとするために、われらの働きかけに反応しなくなるのである。こうなると、われらはそなたに新たに現象を試みることに恐れを感じる。そなたへの危険を恐れて物理的実験を手控えるのである。

理由はそれのみにかぎらぬ。物理現象はわれらの本来の目的ではなく、補助的なものに過ぎぬからでもある。これまで述べてきたわれらの使命の証として見せているのであり、それのみに安住してもらっては困る。

日曜が好ましからぬ特殊な事情がもう一つある。人間は気づかぬであろうが、平日と条件が変わることによってわれらが被(こうむ)る困難である。前にも述べたことであるが、食事のあとすぐに交霊会に臨むことは好ましくない。われらが求める身体的条件は、受容性と反応の敏速性である。その受容性も、怠惰と無気力から生じるものであってはならぬ。アルコール類と共に腹一杯食した後の、あの眠気と無気力状態ほど交霊にとって危険なものはない。アルコールの飲用が物理現象を促す場合も無きにしもあらずであるが、われらにとっては障害でしかない。より物質的に富める霊の侵入を許し、われらの霊力が妨害されるのである。これまでもそうした妨害を頻繁に受けて参った。そなたはその点をよく考慮し、われらとの交信を求めるに際しては、何事につけ度を過ごさぬよう注意を払うがよい。身体が刺激物でほてり、食べ過ぎで倦怠感を覚えるようであってはならぬ。精神が眠気を催し、不活発となるのも良くない。いずれの状態もわれらにとっては思うように仕事が出来ぬ。状態そのものが醸(かも)し出す影響力がわれらにも及び、われらのエネルギーを大いに阻害する。出席者の中に一人でもそうしたメンバーがいる時、もしくは身体を病み苦しむ者がいても、われらには如何ともし難き状態が発生するのである。


――しかし栄養不足による虚弱な心身では仕事にならぬと思いますが。


われらは節制を説いているまでである。食事によって体力をつけねばならぬが、食したものが消化するまでは交霊に入ってはならぬ。日常の仕事のためには適度に刺激物を摂ることも必要であるが、それも常に用心して摂取すべきであり、まして、われらとの交霊は先に述べた条件を厳守した上でなければ絶対に始めてはならぬ。心または身体が眠気を覚えたり注意を持続できぬような時、もしくはどこかを病んでいたり痛みを感じている時は、こちらからの指示がないかぎり机に向かってはならぬ。同じく、満腹している時は低級霊の活動が優勢となることが予想され、われらには近づけぬ。そのような条件のもとでは物理現象も質が低下し、粗暴となり、好条件のもとで行われる時の如き品の良き美しき現象は望めぬ。

われらにとっては極端が困るのである。断食で衰弱しきった身体ではもとより仕事にならぬが、飽食によって動けぬほど詰め込まれたる身体もまた用を為さぬ。節制と中庸、これである。友よ、そなたたちが少しでもわれらの仕事をやり易くし、最良の成果を望むのであれば、交霊会には是非とも感覚明晰にして鋭敏なる身体と、柔順にして受容性に富める精神状態にて臨んでもらいたい。そうすればそなたたちの期待以上のものが披露できよう。列席者全員が調和し構成が適切であれば現象は一層上質となり、述べられる教訓も一層垢抜けし、信頼性に富むものとなろう。先にそなたの言及せる光――〔当時よく交霊会で無数の燐光性の発光体が見られた。〕あれも好ましき条件のもとでは淡く澄み曇りが見られぬ。好ましからぬ状態の時は、鈍く薄汚く曇って見えるであろう。


〔しばしば交霊会に出現していた夫婦の霊が、別の仕事の境涯へ向上して行ったと聞いていたので、夫婦の絆は永遠のものかどうかを尋ねた。〕


それはひとえに霊的嗜好の類似性と霊格の同等性による。その両者が揃えば二者は相寄り添いて向上できる。われらの世界には共通の嗜好をもつ者、同等の霊格をもち互いに援助し合える者同士の交わりがあるのみである。われらの生活においては魂の教育が全てに優先し、刻一刻と進化している。同質でなければ協同体は構成されぬ。従って当然互いの進化にとって利益にならぬ同士の結びつきは永続きせぬ。地上生活において徒らに魂を傷つけ合い、向上を妨げるのみであった夫婦の絆は、肉体の死とともに終わりを告げる。逆に互いに支え合い援助し合う関係にあった結びつきは、肉体より解放されたのちも、さらにその絆を強め発展していく。そして二人を結ぶ愛の絆が互いの発達を促す。かくの如く両者の関係が永続するのは、それが地上で結ばれた縁であるからではなく、相性の良さゆえに、互いが互いの魂の教育に資するからである。かくの如き結婚の絆は不滅である。但しその絆は親友同士の関係程度の意味である。それが互いの援助と進化によって一層強化されていく。そして互いに資するところがあるかぎり、その関係は維持されていく。やがてもはや互いに資するものがなくなる時期が到来すると、両者は別れてそれぞれの道を歩み始める。そこには何の悲しみもない。なぜなら相変わらず心を通じ合い、霊的利益を分かち合う仲だからである。もしも地上的縁が絶対永遠のものであるとすれば、それは悲劇までも永遠であることを意味し、向上進化が永遠に妨げられることになる。そのような愚行は何ものにも許されていない。


――それは分かります。しかし私の観たかぎりでは、知的にも道徳的にも同等とは思えない者同士が互いに深く愛し合っているケースがあるように思えるのですが。


愛し合う者同士を引き裂くことは絶対に出来ぬ。そなたたちはとかくわれら霊同士の関係を時間と空間の観念にて理解せんとする故に納得がいかぬのである。霊同士はそなたたちの言う空間的に遠く離れていても親密に結び合うことが出来るということが理解できぬであろう。われらには時間も空間も存在せぬ。われらは知性の発達程度が完全に同一でない限り直接の交流は有り得ぬ。それはわれらには全く有り得ぬことなのである。が、たとえわれらの言う同一の発達程度まで到達していなくとも、真実の愛があれば、その絆によって結ばれることは可能である。愛は距離をいかに隔てても霊同士を強く結びつける。それは地上においても見られることである。離ればなれになった兄弟も、たとえ海を隔て、別れて何年経ようとも、兄弟愛はいささかも失われぬ。求めるものは異なるかも知れぬ。物の考え方も違うであろう。が、共通の愛は不変である。夫に虐待され死ぬ思いに耐えつつ、なおその夫を愛し続ける妻もいる。

肉体の死は妻をその虐待の苦しみから救ってくれる。そして天国へと召される。一方地上の夫はさらに地獄の道を下り続けるであろう。が、たとえ二人は二度と結ばれることはなくとも、夫への妻の愛は不滅である。その愛の前に空間は消え失せるのである。われらにとりても空間は存在せぬ。これでそなたも朧気(おぼろげ)ながらも理解がいくことと思うが、われらにとりての結合関係とは発達程度の同一性と、嗜好の共通性と、進化の協調性を意味するのであり、そなたたちの世界の如き一体不離の関係などというものは存在せぬ。


――では聖書の「天国では嫁を貰うとか嫁にやるとかいうことはなく、すべて神の使いとして暮らすのみである」という言葉は真実ですか。


その言葉どおりである。さきにわれらは進歩の法則と交わりの法則について述べたが、その法則は不変である。現在のそなたにとりて立派と思えることも、肉体の死とともに捨ててしまうであろうことが数多くある。地上という環境がそなたの考えを色づけしているのである。故にわれらとしても、比喩を用い、地上的表現を借りて説明せざるを得ぬことが多々ある。それ故われらの世界にのみ存在して人間の世界に存在せず、現在のそなたの知識を超越し、従って地上の言語によって大凡(おおよそ)のことを伝えるほかなき事情のもとで用いた字句にあまりこだわりすぎてはならぬわけである。


――なるほど。それで霊界通信に食い違いが生じることがあるわけですか……


そうした食い違いは通信を送る霊の無知から生ずる場合、それから霊媒を通じて伝える能力に欠けている場合、さらにまたその時の交霊の状態が完全さを欠く場合などによく生ずる。他にも原因はある。その一つが、人間側が単なる好奇心から下らぬ質問をするために、つい霊の方も人間の程度に合わせて下らぬ返答をしてしまう場合である。


――しかし高級霊ならば、“愚か者の愚かな質問に答える”ことをせずに、その質問者を諭(さと)せばいいでしょう。


無論できることならそうしたい。しかし愚かしき精神構造はそうした配慮を受けつけようとせぬものである。類は類を呼ぶ。一時の気まぐれや愚かな好奇心の満足、あるいはわれらを罠にはめんとする魂胆からしか質問せぬ者は、同程度の霊と感応してしまう。そのような心構えではわれらとの交信は得られぬ。敬虔にして真摯なる精神ならば、その受容性に応じた情報と教訓を自ら引き寄せる。自惚れが強く、軽薄で、無知で、ふざけた質問しかせぬ者は、似たような類の霊しか相手にせぬ。もとよりわれらは相手にせず、たとえ相手にしても、適当にあしらっておく。そうした連中は避けるがよい。下らぬ愚か者ばかりである。


〔注〕

(1)


D.D.Home(1833-1886)心霊史上最大・最高と評される英国の霊媒で、霊能の種類においても驚異性においても他に類を見ない。とくに空中浮揚現象は有名で、いつでもどこでもやってみせた。

シルバーバーチの霊訓(三)

 Wisdom of Silver Birch 

Psychic Press Ltd.
London, England 





三章 魂の自由と解放

 「私たちは時には冗談を言っては笑い、楽しい雰囲気の中で会を進めておりますが、こうしたささやかな集まりの背後に大きな、そして深刻な目的が託されております。出席される皆さんも、自分たちの力でどれほど多くの人々が光明を得ているかをご存じないでしょう。

この霊媒の口から出る言葉は高い界から送られてくるメッセージの一部を私が取り次いでいるのですが、これも皆さんにはすっかりお馴染となりました。皆さんの生活の背景として、ごく当たり前の位置を占めるに至っております。

もはや皆さんにとって私の述べることに取り立てて耳新しいことや革命的なものはなくなりました。

 十数年前、あなた方は精神的ならびに霊的な自由を手にされました。永い間尋ね求め、あれを取りこれを拒否し、神から授かった理性で試し検討した末に、ついに私の述べるメッセージを真実のものと認められたわけです。今では私の説く単純素朴な訓えこそ永遠の真理であることを得心しておられます。

しかし一方には、永いあいだ暗闇と懐疑と苦悩の中でさ迷っている人、こうした真理が魂の解放のメッセージとなるべき人が大勢いることを忘れてはなりません。

気の毒な環境から救い出してあげなければなりません。霊的真理には一人ひとりの人間を束縛から解放する意図が託されているのです。私どもの仕事は必ず一個の人間から始めます。

人類全体も個が集まって構成されているからです。一人また一人と非常にゆっくりとした根気のいる仕事ではありますが、それ以外に方法がないのです。大勢の人を一度に変えようとしても必ず失敗します。暗示が解け、ふつうの感覚に戻った時、すべてが忘れ去られます。そうした一時の興奮から目覚めた者は気恥ずかしささえ味わうものです。

 ですから私どもは、あらゆる反抗と敵意と妨害の中にあっても、点滴岩をも穿つの譬えで、一人また一人と光明が射し真理を悟ってくれることを信じて、素朴ながらも繰り返し繰り返し説いてまいります。

その訓えの意味を十分に理解し価値を評価してくださる方は、それ以後は後ろ髪を引かれる思いをすることもなく、それまで永いあいだ魂を束縛してきた古い因襲的信仰にきれいさっぱりと訣別することでしょう。暗闇から這い出て光明の世界へとたどり着いたのです。真実の光を見出したのです。

それを理性で確認したのです。私どもの言説には人間の理性が納得する筋が通っていること、人間の常識を怒らせる要素がないこと、人間の知性を反撥させるものではないことを皆さんはご存じです。むしろ皆さんはこれほど明々白々たる真実が何故受け入れられないか───そのことに悩まされておられるくらいです。

 われわれに反抗する大きな勢力がまだまだ存在することを忘れてはなりません。その中でも特に警戒を要するのがキリスト教会という宗教のプロが有する既得の権力です。彼らはそれを振りかざしてわれわれの使命を阻止せんとすることでしょう。彼らにはもはや何ら新しい恩恵は持ち合わせないのです。

持ち出すものといえばカビの生えたような古い教説ばかりです。彼らは身は今の世にあっても精神は古き時代に生活し、その過去の栄光を現代に甦らせようとします。今の彼らには他に何の持ち合わせもないからです。教会堂はもはや倒れかけた墓の如く陰うつな空虚さに満ち、およそ神の霊の宿るところでは無くなっております。

そういう宗教家がわれわれを非難し悪魔の手先である───信心深いお人好しや妄想に取りつかれ易い人間を騙そうと企んでいると宣伝します。私どもはそういう宗教家を見て情けなく思わずにはいられません。

彼らは往々にして自分でもそうと気づかずに宗教家としての職責を裏切り、民衆を神へ導くことをせぬどころか神との間に垣根を立て、ただの書物にすぎないもの、ただの教義にすぎないもの、ただの建造物に過ぎないものに自らの魂を縛られ、それを真理より大切なものであると信じ切っております。

 私どもが酷しい言葉でその非を指摘するのは、そうした宗教家に対してです。彼らは宗教家として落第したのです。この苦しみと悲しみの海にさ迷う無数の人々を導く資格を失っているのです。もはや彼らにとっては宗教がその真の意味を失っているのです。

神学という粗悪品を混入して、イエスがせっかくこの世にもたらした素朴な啓示の言葉を忘れてしまっております。私どもが説く宗教とはお互いがお互いのために尽くし合う宗教です。人のために役立つことが霊の通貨なのです。

神の子である同胞のために自分を役立てるということは、取りも直さず神のために役立てることであり、それを実行した人は立派に宗教的人間と言えます。


─── 伝統的宗教に対するわれわれの態度は寛容的であるべきでしょうか、厳しい態度で臨むべきでしょうか。

 「相手が誰であろうと、恐れず真実を述べることです。あなたも神の僕の一人です。間違いは排斥し虚偽は論破すべきです。恐れてはいけません。恐れる必要は少しもありません。

大堂伽藍を建て、妙なる音楽を流し、ステンドグラスで飾り、厳かな儀式を催したからといって、それだけで宇宙を創造した大霊が心を動かされるものではありません。宇宙の大霊すなわち神を一個の建物の中に閉じ込めることは出来ないのです」

 これに関連した質問を受けてさらにこう述べた。
 「大衆に目隠しをして暗闇に閉じ込めようと思えば出来ないことはありません。かなり永い年月にわたってそうすることも可能です。しかし、いつかは大衆も自分たちが本来は光の子であることを思い出して真理の光明を求めはじめます。その時期を権力によって遅らせることはできます。

妨害もできます。しかし、最後には真理が真理としてあるべき位置に落ち着きます。あなた方人間も霊的存在です。肉体だけの存在ではないのです。無限の可能性を秘め、神性を宿すが故に、その霊的可能性が発現を求めはじめます。

一時的に無視することはできても、永遠に抹殺してしまうことは出来ません。だからこそ真理の普及が急務なのです。人間が霊的存在であるということは、内部に宿る霊はこの驚異に満ちた大宇宙を創造した力の一部であるということです。いかなる宗教的権力をもってしても、霊の声を永遠に封じ込めることはできません」


 再び伝統的宗教の失敗と新しい世界の誕生の問題に言及してこう述べている。

 「いま地上では古い体制の崩壊と衰亡が進行し、かつて我がもの顔だった説教者たちも、もはやこれでは民衆の心を捉えることはできないことを認めはじめております。

あまりの永きにわたって盲目の民を好きに操った盲目の指導者たち、自分たちの拵えた教義を押し付け、自分たちが創造した神のみを崇拝すべしと説いてきた者たち、真実の行進に抵抗し、現代に生きる聖霊の力の存在を否定せんとしてきた者たち(心霊現象や心霊治療が霊の力によることを認めないこと───訳者)

そうした者が今その代償───霊的法則の存在を認めようとしなかったことへの代償を払わされつつあります。

 そこに、あなた方にも肝に銘じていただきたい教訓があります。真理の為に闘う者は最後は必ず勝利を収めるということです。善の勢力を全て封じ込めることは絶対にできないからです。一時的に抑えることはできます。

邪魔することもできます。進行を遅らせることもできます。しかし真理を永遠に破壊したり、あるべき位置に落ち着くことを阻止し続けることは誰にもできません。

これは宗教に限ったことではありません。人生のあらゆる面に言えることです。何ごとにつけ誤った説に抵抗し、偽の言説を論破し、迷信に反対する者は決してうろたえてはいけません。全生命を支え、最後の勝利を約束してくれる永遠にして無限の霊力に全幅の信頼を置かなければいけません。

 死を隔てた二つの世界の交信を可能にしてくれる霊的法則の存在を知った多くの人にとって、こうした戦争によって惹き起こされる不利な条件の中で真理を普及していくことがいかに困難であるかは、私もよく承知しております。しかし、何が何でもこの霊的真理にしがみついて行かねばなりません。

やがて真理に飢え魂の潤いを渇望する者が次第に増え、いつかは知識の水門が広く開かれる時機が熟します。その時に備えておかねばなりません。対立紛争が終わった時、戦火が消えた時、無数の人々が、今度は知識を土台とした生き方の再構築を望むことでしょう。

彼らは宗教の名のもとに押しつけられた古い神話にはうんざりしております。戦争という過酷な体験をし、人生の意義を根本から問い直し───つまり、〝なぜ生れて来たのか〟〝いかに生きるべきなのか〟〝いつになったら〟という疑問に直面させられた者は、それを何とか知りたいと思い始めます。

真理を渇望し始めます。その時あなた方は、そうした不満の中に渇望を抱いて訪れる魂に理性と確信と論理性と真理と叡知でもって対応し、新しい世界の住民としての生き方を教えてあげられる用意が出来ていなければなりません。

 過ぎ去ったことは、そこから教訓を学ぶためでなければ、つまり失敗をどう正すか、二度と過ちを犯さない為にはどうすべきかを反省するためでなければ、むやみに振り返るべきものではありません。

未来に目をやり、今日行うことを、これから訪れるより立派な日のための下地としなければなりません。世界中があなた方を必要とする時代が来ます。無数の人々が希望と慰めとインスピレーションと指導を求めて、あなた方に目を向ける日が来ます。もう教会へは足を運びません。聖職者のもとへは訪れません。牧師のもとへは行きません。

皆さん方へ足を向けます。なぜなら死と隣り合わせの体験をし、その酷しい現実の中である種の霊的体験をした者は、心の目が開いているからです。目の前を遮っていた靄が晴れたのです。真理を受け入れる用意が出来たのです。ならば、あなた方はそれを授けてあげる用意ができていなければなりません。


───新しい世界が生まれつつあるというのは何を根拠におっしゃるのでしょうか。

 「私には厳とした計画、神の計画が見て取れるのです。私は霊の力こそ宇宙最大の力であると信じています。人間がその働きを歪め、遅らせることは出来るでしょう。妨害し押し止めることは出来るかも知れません。しかし永遠にその地上への顕現を阻止することは出来ません。」

あなた方が霊的真理についての知識を手にしたということは、人類が抱えるすべての問題を解くカギを手にしたことを意味します。こう申しても、私は決して世に言う社会改革者たち───義憤に駆られ、抑圧された者や弱き者への已むにやまれぬ同情心から悪と対抗し、不正と闘い、物的な神の恵みが全ての人間に平等に分け与えられるようにと努力している人々をないがしろにするつもりは毛頭ありません。

ただその人たちは問題の一部しか見ていない───物的な面での平等のために闘っているに過ぎないということです。もちろん精神的にも平等であるべきことも理解しておられるでしょう。が人間は何よりもまず〝霊〟なのです。大霊の一部なのです。

宇宙を創造した力の一部なのです。決して宇宙の広大な空間の中で忘れ去られている取るに足らぬ存在ではないのです。宇宙の大霊の一部として、常に無限の霊性に寄与しているのです。

 その霊力の息の根を止めることは誰にもできません。いつかは必ず表に出てきます。残酷な仕打ちにも憎しみの行為にも負けません。棍棒で叩かれても、強制収容所へ入れられても、独裁政治で抑えられても、決して窒息死することはありません。

なぜならば人間の霊は人間が呼吸している空気と同じように自由であるのが本来の在るべき姿なのです。それが生来の、神から授かった、霊的遺産なのです。その理想像の素晴らしさを理解した人々、新しい世界の在るべき姿を心に画いた人々は、当然そうあらねばならないことを十分に得心しています。

なぜなら、それが人間に息吹を与えて動物から人類へと進化させた、その背後の目的の一部だからであり、それはさらに人間を神的存在に向上させていくものです。あなた方の使命はその松明を引き継ぎ、新しい炎を燃え立たせ、次の世代にはより大きな光明が道を照らすようにしてあげることです。

基盤はすでに出来あがっているのです。何年も前からこちらの世界で基盤作りは終わっているのです。ゆっくりと、苦痛は伴いながらも、各界の名士あるいは名もなき男女が、永遠の霊の存在の証言に立ちあがり、神の計画の一刻も早い実現のために刻苦したのです。新しい世界は必ず実現します」


───その新しい世界はわれわれ人間がみずからの努力によって実現しなければならないはずなのに、なぜその基盤作りがあなたの世界で行われたのでしょうか。

 「あなた方の世界は影です。光はこちらから出ているのです。あなた方はこちらで立てられたプランを地上で実行し実現させて行きつつあるところです。オリジナルの仕事───と呼ぶのが適切か否かは別として───は全てこちらで行われます。

なぜなら全てのエネルギー、全ての原動力は物質から出るのではなく霊から出るのです。皆さんは、意識するしないにかかわらず、霊力の道具なのです。受信して送信する道具なのです。霊的影響力をどこまで受け止められるかによって、成功するしないが決まるのです」


───と言うことは結局、そちらからの援助を得て私たちが努力することから新しい世界が生まれるということでしょうか。

 「その通りです。何ごとも人間一人では成就し得ません。人間が何かを始める時、そこには必ずこちらからの援助が加味されます。私達は常に道具を探し求めております。人間の方から波長に合わせる努力をしていただかねばなりません。完璧は決して望めません。つねに困難を克服し邪魔を排除する仕事は永遠に続きます」


───私たち自身の努力で地上の新しい世界を招来しなければならないわけですね。

 「努力して初めて得られるのです。私から申し上げられることは、神の計画の一部として成就しなければならないことはすでに決まっているのです。が、それがいつ実現されるかはあなた方人間の協力次第ということです。計画はできているのです。

しかしその計画は自動的に実現されるわけではありません。それはあなた方人間の自由意志に任されております。あなた方は自由意志を持った協力者です。ロボットでも操り人形でもないのです。宇宙の大霊の一部なのです」


───新しい世界が来るとおっしゃっても、私たちにはそれらしい兆しが見当たらないのですが・・・・・・

 「古い秩序が崩壊していくのと同じ速さで新しい秩序が生まれます。現にその目でその崩壊の過程をご覧になったばかりではありませんか。大帝国が崩れ去りました。お金の力が絶対でなくなりました。利己主義では割に合わないことが証明されました。

(戦争体験によって)普通一般の男女の力の本当の価値が証明されました。どうか私に対して〝進歩が見られない〟等とおっしゃらないでいただきたい。教訓はあなた方の前にいくらでもあります。別に霊眼は必要としません。肉眼で見えるところにあります(これほどの切実な体験をした)現代の人々に新しい世界が訪れて当然です。

もしその新しい世界の恩恵に浴せないとしたら、その人はまだ内部の霊的な力を使用するまでに至っていないということです。それだけの努力をした人々は、その犠牲と引き替えに恩恵を受けておられます。私はそれが機械的なプロセスで与えられると申しているのではありません。

それだけの用意が整っていると言っているのです。それを受け取るには、あなた方の方でやっていただかねばならない仕事があります。それは一方では霊的知識を広め、他方で古い権力構造の面影に貪欲にしがみついている因襲的既得権に対して飽くなき闘いを挑むことです」


 別の日の交霊会で同じく人類の真の自由の獲得のための闘争についてこう語っている。

「私達はなくもがなの無知に対して闘いを挑まなくてはなりません。神は、内部にその神性の一部を宿らせたはずの我が子が無知の暗闇の中で暮らし、影と靄の中を歩み、生きる目的も方角も分らず、得心のいく答えはないと思いつつも問い続けるようには意図されておりません。

真に欲する者には存分に分け与えてあげられる無限の知識の宝庫が用意されておりますが、それは本人の魂の成長と努力と進化と発展を条件として与えられます。魂がそれに相応しくならなければなりません。精神が熟さなくてはなりません。心がその受け入れ態勢を整えなくてはなりません。

その時初めて知識がその場を見出すのです。それも、受け入れる能力に応じた分しか与えられません。

目の見えなかった人が見えるようになったとしても、その視力に応じて少しづつ見せてあげなくてはなりません。一気に全部を見せてあげたら、かえって目を傷めます。霊的真理も同じです。梯子を一段一段上がるように、一歩一歩、真理の源へ近づき、そこから僅かずつを我がものとしていくのです。

 いったん糸口を見出せば、つまり行為なり思念なりによって受け入れ態勢が出来ていることを示せば、その時からあなたは、その辿り着いた段階にふさわしい知識と教訓を受け入れる過程と波長が合いはじめます。そのあとは、もう、際限がありません。

これ以上はダメという限界がなくなります。なぜなら、あなたの魂は無限であり、知識もまた無限だからです。しかし闘わねばならばならない相手は無知だけではありません。

永い間意図的に神の子を暗闇に住まわせ、あらゆる手段を弄して自分たちのでっち上げた教義を教え込み、真の霊的知識を封じ込めてきた既成宗教家とその組織に対しても闘いを挑まなければなりません。

過去を振り返ってみますと、人間の自由と解放への闘争のためにわれわれが霊界からあらゆる援助を続けてきたにもかかわらず、自由を求める魂の自然な欲求を満足させるどころか、逆に牢獄の扉を開こうとする企てを宗教の名のもとに阻止しようとする勢力と闘わねばなりませんでした。

 今日なおその抵抗が続いております。意図的に、あるいはそうとは知らずに、光明の勢力に対抗し、われわれに対して悪口雑言を浴びせ、彼らみずから信じなくなっている教義の誤りを指摘せんとする行為を阻止し、勝手な神聖不可侵思想にしがみつき、

自分で勝手に特権と思い込んでいるものがどうしても捨て切れず、擦り切れた古い神学的慣習を後生大事にしている者がまだまだ存在します。

そこで私どもが人間のすぐ身のまわりに片時も休むことなく澎湃(ほうはい)として打ち寄せる、より大きく素晴らしい霊の世界があることを教えに来るのです。そうした障害を破壊し、莫大な霊力、全てに活力を与えるダイナミックな生命力を全ての人間が自由に享受できるようにするためです。

その生命力がこれまでの人類の歴史を通じて多くの人々を鼓舞してきました。今でも多くの人々に啓示を与えております。そして、これから後も与え続けることでしょう。
 
 荒廃に満ちた世界には、これから為さねばならないことが数多くあります。悲哀に満ち、悲涙にむせぶ人、苦痛に喘ぐ人にあふれ、何のために生きているのかを知らぬまま、首をうなだれ行く先が分からずにさ迷っている人が大勢います。

こうした人々にとって、目にこそ見えませんが、霊の力こそ真の慰めを与え、魂を鼓舞し、元気づけ、導きを必要とする人々に方向を指し示してあげる不変の実在であることを、その霊力みずからが立証します。

 そこにこそ、霊的知識を授かった人々の全てが参加し、自由の福音、解放の指導原理を広め、人生に疲れ果て意気消沈した人々の心を鼓舞し、魂の栄光をしらしむべく、この古く且つ新しい真理普及の道具として、一身を捧げる分野が存在します。

私たちが提供するのは、〝霊の力〟です。あらゆる困難を克服し、障害を乗り越えて、真理の光と叡知と理解力を顕現せしめ、神の子等に恒久的平和を築かせることができるのは、霊の力を措いてほかに無いのです」
              

霊訓〈完訳・上〉5節

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。






5節

本節の内容
*霊的能力の種類
*インスピレーションを受けるための条件
*ドグマと偏見と懐疑と不安が難敵
*イエスに見る理想の人間像
*人間に完全は不可能
*瞑想のための魂の個室を設けよ


〔その翌日、私は現在地上にはびこっていると言われる邪霊の影響について長々と議論した。私はその働きの個人への影響について尋ねると、邪霊によって完全に憑依されてしまった例を幾つか挙げた。またそうした力が広がりつつあるので、誠実で叡智に富む霊が働きやすい条件を配慮し、憑依しようとする低級霊を追い払い、あるいは近づきやすい環境を少なくしていく必要があると述べた。さらに霊力そのものは距離や地域に関係なく働くもので、したがって善良な霊力を受けるか邪悪な霊力を受けるかは人間自身の心がけ一つに掛かっていると述べた。そこで私は、ではどういう心がけが最も望ましいかと尋ねた。〕


霊的現象に多くの種類があることはそなたの知る通りであるが、霊力の行使にもさまざまな方法がある。ある者は身体的特質の故に直接身体そのものが霊力の支配を受ける。身体的機能が目に見える最も単純な形での霊力の証に適しているのである。この種の霊媒は知的な支配は受けぬ。よって彼らを通じて届けられる情報は取るに足らぬもの、あるいは愚にもつかぬものさえあり、信頼性に欠ける。彼らはあくまで客観的現象を演出することの出来る霊力を証明する手段として使用されるのである。

要するに彼らは初歩的現象の演出のための道具であると認識してよいが、だからと言ってその現象が他の種類の霊能力を通じて現れる霊能と比較して重要性が劣るわけではない。霊力の存在を信じさせるための基盤を築く上で不可欠なのである。

一方、情愛に満ちた優しき性格ゆえに選ばれる者もいる。彼らは物的現象の道具ではない。往々にして霊界との意識的通信の通路でもないことすらある。それでいて常に霊的指導を受けており、その純粋にして優しき魂は天使の監督のもとにますます洗練され向上していく。そうするうちに徐々に天使から霊示を意識的に受ける能力が開発されていき、あるいは霊視能力により死後に落ち着くべき住処(すみか)を垣間(かいま)見ることを許されることもある。霊界に住むかつての友が親和力によって彼らに近づき、昼となく夜となく、教化と指導に当たることもある。彼らのまわりには平静と至純なる愛の雰囲気が漂う。実に彼らは地上生活の輝ける模範であり、やがて寿命とともにその地上生活によりて培われた休息と平和の境涯へと旅立つ。

これとは別に、知的能力に優れたるが故に、幅広き知識と奥深き真理の通路として訓練される者もいる。高級なる霊が彼らの思考力に働きかけ、思想を示唆し、知識の獲得と普及の手段とを用意する。その働きかけの方法は実に複雑多岐を極める。所期の目的達成のために仕組む出来事への配慮にはそなたの想像も及ばぬ手段を行使するのである。

われらにとりての最大の難事は進化せる高級霊からの通信を受け取るに相応しき霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならぬ。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ぬのが道理だからである。次に、愚かなる地上的偏見に捉(とら)われぬ者でなければならぬ。若き時代の誤れる思想を潔(いさぎよ)く捨て去り、たとえ世間に受け入れられぬものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主であらねばならぬ。

まだある。独断主義(ドグマ)より解放されねばならぬ。この世的思想から抜け出せぬようではならぬ。神学的独断主義と派閥主義と偏狭なる教義より解放されねばならぬ。己の無知に気づかぬ一知半解の弊に陥ってはならぬ。常に捉われなき、探求心に燃えた魂であらねばならぬ。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富める者であらねばならぬ。常により多き真理の光、より豊かなる知識を求める者であらねばならぬ。つまり真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならぬのである。

また、われらの仕事は頑固なる敵対心からの自己主張、または高慢なるでしゃばりと利己心によりて阻害されることがあってはならぬ。さような霊媒ではわれらは仕事らしき仕事を為し得ぬし、為し得たわずかな仕事というのも、利己主義と独断主義を取り除くことに向けねばならぬ仕末となる。われらが求むるのは有能にして真摯(しんし)なる、そして飽くなき真理探究心に燃えた無欲の心の持ち主である。そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解できよう。まさに至難のわざであり、まず不可能に近い。さればわれらは見出し得るかぎりの最高の人材を着実に鍛練した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、己の知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。こうすることによって独断的偏見より超脱させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物ではないとの悟りへの地ならしを行なう。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と賦与し、基盤さえ出来あがれば、安心して上部構造を築き上げて行くことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、われらの所期の目標に調和させて行く。

ここに至って多くの者が脱落していく。そしてわれらも、彼らは地上にては真理を受け入れることが不可能なること、また古来の地上的偏見が固く、ドグマ的信仰が容易に拭えざるものであること、それ故、時の流れに任せるほかなく、われらにとって用なきものであることを悟って諦めるのである。

また真理への完全なる忠実性と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、われらの教化によって着実に培われていくものである。われらは神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いていく。そしてわれらが神より許されたる範囲の行為と霊的訓えを忍耐強く待つ心構えを培う。こうした心構えは多くの霊媒に見られる、苛立(いらだ)てる落ち着きなき不満と正反対である。

この段階にてまた多くの者が脱落していく。恐怖心と不安に駆られ、疑念に襲われる。古き神学の説く神は自分の如き人間の破滅を今か今かと見守っているかに思い、悪魔が自分の如き人間を罠にかけんと油断なく見張っていると思い込む。確かに古き信仰の基盤は揺さぶられてはいても、まだ新しき信仰基盤は敷かれておらぬ。その間隙に邪霊がつけ入り、揺れ動く心を誘惑する。ついに恐怖に堪(たま)りかねた者が脱落し、われらにとりて用なきものとなっていく。

それでも尚われらは人間のあらゆる利己心を払拭しなければならぬ。われらの仕事には私心の出しゃばりは許されぬ。さもなくば、われらには何も為し得ぬ。霊界からの指導において、人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れほど致命的なるものはない。小知を働かせてはならぬ。われらからの知的働きかけの妨げとなるからである。独断主義に偏れる知性は使用しようにも使いものにはならぬ。ましてそれが高慢と自惚れに満ちておれば、近づくことすら出来ぬ。

いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の最大の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にせる予言者たちはみな我欲を滅却して使命に生きた人たちであった。そなたらの聖書にその名を留めるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送った。とくにイエスはその地上生活を通して使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した偉大にして崇高なる模範であった。イエスの中に、人類の全歴史を通して最大限の、人間の可能性の証を見ることが出来る。

この世より誤りを駆逐し真理の光をもたらせる人々はみな己に課せられた使命のために無私と献身の生涯を送れる者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者はみな無私無欲の人物――我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らぬ人々であった。一途(ず)なる誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人々である。それなくしては彼らの仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲に捉われていたならば、その成功の核心が蝕(むしば)まれていたことであろう。謙虚さと誠実さと一途さがあればこそ成就し得たのである。

われらが求むる人材とはそのような資質の持ち主である。情愛にあふれ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。一途に神の仕事に目を据(す)え、一切の地上的打算を忘れた性格。かくの如き麗しき魂の持ち主が稀であることは確かである。が、友よ、平静にして、しかも頼れる誠実かつ一途なる哲学者の心を心とせよ。情愛にあふれ寛容性に富み、いついかなる時も進んで救いの手を差し伸べる博愛主義者の心を心とせよ。さらに報酬を求めぬ神の僕(しもべ)としての無欲の心を心とせよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主を措(お)いて他に成就し得る者はおらぬ。われらもそうした人材を油断なく見守り警戒を怠らぬであろう。神より遣わされたる天使も笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれるであろう。


――でも、これでは完全な人格を求めることになります。


何と! これをもって完全とな? そなたは“完全なる霊”が如何なるものか、皆目知らぬ。知り得ぬのである。想像することすら叶わぬ。忠実なる魂が霊の訓えによって培われ、刻一刻と守護霊に似ていくその過程もそなたは知り得ぬ。われらが植えつけ手がけて来た種子が次第に成長して行く様子はそなたらには見えぬ。そなたらに知り得るのは、魂が徐々に美徳を身につけ、より高潔に、より愛すべき人間となりゆくことだけである。右に述べた人格の資質はそなたらの用語にして表現し得るかぎりのものを述べたるに過ぎず、まだまだ完全より程遠く、これより成就し得る完全さを思えば、漠然とそれらしき程度のものに過ぎぬ。そなたらに完全は有り得ぬ。死後になお不断の進歩と発達と成長が待ち受けている。そなたらの画く完全性も、われらの霊眼をもって見れば、欠点によって汚され曇らされているのである。


――確かにそうかも知れません。でもそれほどの人物は極めて少ないでしょう。


少ない。少ない。それもようやく芽を出した程度のものに過ぎぬ。われらはそれを地上への働きかけの大切な足がかりとして感謝して育てる。われは完全を求めているのではない。誠実さと一途な向上心、捉われなき受容性に富む精神、清純にして善良なる心の持ち主である。忍耐強く待つことである。性急は恐ろしき障害となる。所詮そなたの手の届かぬことに対する過度の用心と不安を捨てよ。われらに任せるがよい。今は外部との接触を避け、忍耐強くわれらの述べたることを吟味するがよい。


――都会の喧噪から隔絶した生活のほうがあなたたちの影響を受け易いのでしょう。


〔ここで急に筆跡が変わり、ドクターの例の細かいキチンとした文字から、非常に変わった古書体になり、プルーデンス(1)と署名された。〕


騒々しき世界は常に霊的なるものを拒絶する。人間は物的なるもの、すなわち目に見え手に触れ貯(たくわ)え得るものに心を奪われ、死後に霊的生活が待ち受けていることを知らぬ。あまりに地上的になりすぎ、われらの働きかけに無感覚である。あまりに地臭が強すぎ、近づくことすら出来ぬ。暮らしがあまりに地上的打算に満ちているが故に、死後にも価値の残るものに心を配る余裕をもたぬ。

それのみに留まらぬ。心が常時そうしたものに捉われ、心静かに瞑想する余裕をもたぬために霊的栄養が不足し、魂が衰弱している。霊的雰囲気に力が見られぬ。おまけに身体も仕事の重圧と気苦労のために衰弱している。これではわれらもほとんど近づくことすら出来ぬのである。

さらに、啀(いが)み合いの情念と不平不満、妬(ねた)み合いと口論のために、その場が不快な重苦しき雰囲気に包まれている。悉(ことごと)くわれらにとって障害となるものばかりである。無数の悪徳の巣、忌(い)まわしき誘惑、そしてその不徳と罪悪に魂を奪われし人間のあふれる大都会には邪霊の大軍がうろつきまわり、破滅の道へ引きずり込まんとして虎視眈々(こしたんたん)とその機を窺っている。多くの者がその餌食となって悲劇への道をたどり、それだけわれらの悲しみを増し、手を煩わすことにもなるのである。

瞑想の生活こそわれらとの交信にとりて最も相応しきものである。もとより行為の生活が無用というのではない。両者の適度な取り合わせこそ望ましい。煩わしき気苦労もなく、過労による体力の消耗もなき時こそ最も瞑想に入り易い。しかし魂の奥底に、それを求める欲求がなければならぬ。その欲求さえあれば、日常の煩事も世間の誘惑も、霊界の存在の認識と霊との交わりを妨げることは有り得ぬ。が、やはり環境が清浄にして平穏な時の方がわれらの存在を知らしめることが容易である。


〔注〕

(1)

シルバーバーチの霊訓(三)

 Wisdom of Silver Birch 

Psychic Press Ltd.
London, England 



二章 悲しい時、苦しい時こそ

 同じく第二次大戦のさなかでの交霊会においてシルバーバーチはこう語った。

 「何もかもが危険にさらされているこうした時期こそ霊的真理を教えてあげる必要があります。信仰という信仰がことごとく片隅に追いやられ、すべてが混乱の渦中にある今こそ、こうした単純な霊的真理を説くことによって自分を役立てることができるのです。その真理だけは不変です。なぜならば不変の自然法則の働きを土台としているからです。

あなた方は大規模な混乱と破滅を目のあたりにされています。他の国ではさらに大規模な、そして見るも無惨な光景が繰りかえされています。混乱と残酷、裏切りと暴虐が大手を振ってのし歩いております。まさに野獣のごとき暴力が我が物顔に振る舞っております。あたかも自由の灯が完全に消され、全てが闇と化したかの如く思われる国が数多く見られます。

 こうした時こそ、われわれ霊的法則の働きを知った者が、霊的真理こそが人間にかつて想像もしなかった高い視野を与えてくれること、心の中に消そうに消せない炎を灯してくれること、最後は霊的光明が勝ち、自由を我が物とすることができることを説いて聞かせるべき時です。

それは霊の本来の資産なのです。いかに粉砕しても絶対に存在を失わない究極的な存在である〝霊〟が所有していなければならないものです。霊性が怖じけづき、縮こまることはありましょう。が、

決して征服されてしまうことはありません。霊界にいる私どもがぜひともお教えしなければならない大きな真理は、地上にいるあなた方も霊的存在であるということです。

物質で出来たものは破壊することができます。肉体は死なせることができます。いじめることもできます。しかし霊的なものは絶対に存在を失いません。なぜなら、霊的なものは永遠なるもの、宇宙の大霊、無限にして不滅の存在、すなわち神の所有物だからです。

皆さんがスピリチュアリズムと呼んでいるものは自然法則の働きの一部ですが、これが人間にも霊が宿っていることを証明しました。

その証拠は、視野を曇らされず理性に従い何の捉われもなく自由な思考をめぐらすことの出来る人には、人間が本来霊的存在であることが議論の余地のない事実であることを雄弁に物語っております。そしてその基本原則から次々と重大な意味が湧き出てきます。

その一つ一つがそれを受け入れる用意のできた人々に、こうしてはいられない、何とかしなくては、というせっぱつまった衝動を覚えさせます。

 いったん人間が霊であることを悟ると、この地上世界もその霊性を存分に発揮される環境であらねばならないとの認識が生まれます。すべての悪習、すべての罪悪、すべての悪徳、すべての既得権、すべての利己主義、貪欲、そして残虐性、こうしたものを一掃しなければならないということです。

それらは全てせっかく自己開発のために地上に降りた霊───いずれは当り前の生活の場となる霊界でのより素晴らしい生活に備えるために生まれてきた霊の成長を妨げることになるからです。それが声を大にして叫びたい私たちからのメッセージです。

すなわち霊媒を通じて与える死後存続という素朴な真理から始まって、そこから生活を一変させる数知れない重大な意味を発見していることです。

そして、こうして人類がその宿命の成就のために闘っている時、言いかえれば霊的教説がその真価を問われている時、その背後では、かつて地上で革命家、殉教者、指導者と呼ばれ、今なお新たな力を携えて霊界で研さんを重ねている見えざる大軍が、その持てる力を総結集して援護に当っている事実を知らねばなりません」


───昨今の混乱ぶりは目に余るものがありましょう。(大戦の焦点が日米決戦の様相を呈して来たころのこと───訳者)

 「それは(比較的戦乱の少ない)英国の国民でさえ受けている精神的ストレス───多分自分では実感していなくても大きなストレスを受けている、英国に限りません。地上の大気そのものが嘆きと悲しみと苦痛の絶叫に満ち、それに付随してさまざまな不協和音を生んでおります。

その上忘れてならないのは、何千何万という人間が何の備えも無く霊界へ送り込まれてきている霊界の現実です。その一人一人が本人は気づかなくても、私たち霊団の仕事に困難を加えていきます。声には出さずとも、一人一人が休みなく何らかの要求をしているからです。

大変な数の人間が無知のまま、あるいは誤った信仰をもったままやってまいります。無知と偏見、これは私たちが闘わねばならない双子の敵です。

地上のみなさんはひたすらに真理を広め、知識を広め、叡智を広め、光明を広め、一人でも多くの人の心に感動を与えることです。往々にしてその努力の結果はあなた方自身には分らないでしょう。が、それはどうでもよろしい。かまわず進んでください。

世間の批難、中傷にはかまわず、ひたすらにご自分の心の中の光に忠実に従うことです。それ以上のことは要求しません。敵対するものがいかに大きかろうと、最後はかならず勝利を収めます。自由───精神と霊と身体の自由はかならず勝ちます。

 個人について言えることは国家についても言えます。個人にもそれぞれに成就すべき神聖な宿命があるように、国家にもそれぞれの宿命があります。

これまで何度も申し上げてきましたように、あなた方の国(英国)は世界をリードする宿命───暗闇に光明をもたらすために霊的真理の松明(たいまつ)をかかげて世界の先頭を歩むべき宿命を背負っております。今その偉大なる仕事が徐々に成就されつつあるのがお判りでしょう」

 大戦が長引き、ますます激烈となり、もはや前途に光明が見出せないかに思えた時期に、シルバーバーチはこう語った。

 「真の信仰を身につける好機はすべてのことが順調に行っている時ではありません。そんな時に信仰を口にするのは誰にでもできることです。暗黒の時に身につけたものこそ本当の信念と言えます。

太陽がさんさんと輝き、何の苦労もなく、前途に何の心配もない生活を送っている時に私は神を信じますと言うのは容易なことです。しかし、そんな呑気な生活の中での信仰の告白には何の価値もありません。

 困難の中にあって怖じけず、いかなる緊張の中にあっても動ぜずに次のように宣言できる人の信念にこそ本当の価値があります───風が吹こうが嵐が狂おうが、世界がいかに混乱し全てが暗黒に包まれ絶望的になろうと、宇宙の全生命を創造し神性を賦与した力は決して自分をお見捨てにならないと信じる。知識と経験による不動の基盤の上に築いた完璧な信念に安住して、私は絶対に動じない、と。

 宇宙の大霊すなわち神の力はあなた方人間を通して流れるのです。もし人間が確固たる不動の冷静さを保ち得ずに怖じけづいてしまえば、その力は発揮されません。あなた方一人ひとりが神なのです。神はあなた方から切り離された何か別の存在ではないのです。

宇宙の大霊というのは何か形のない、遠い宇宙の果てにふわふわと浮いている靄のような存在ではありません。人間の内奥に宿された霊的な資質を発揮すればするほど、それだけ宇宙の大霊をこの世に顕現させていることになります。これはぜひ学んでいただきたい教訓です。

霊が進化するということはそのことを言うのです。そうやって個性が築かれていくのです。成長するということはそういうことなのです。


 まだまだ地上の人類は、悲しみ、苦しみ、艱難、辛苦が存在することの理由を理解しておりません。その一つひとつが霊的進化の上で大切な機能を果たしているのです。

ご自分の人生を振り返ってごらんなさい。最大の危機、最大の困難、お先まっ暗の時期が、より大きな悟りを開く踏み台になっていることを知るはずです。

日向でのんびりと寛ぎ、何の心配も何の気苦労も何の不安もなく、面倒なことが持ち上りそうになっても自動的に解消されてあなたに何の影響も及ぼさず、足もとに石ころ一つなく、自分でやらねばならないことが何一つ無いような人生を送っていては、向上進化は少しも得られません。

困難に遭遇し、それに正面から立ち向かって自らの力で克服していく中でこそ成長が得られるのです。知識を広める必要があるのは無知という名の暗闇が生み出す無意味な残虐行為、無駄な苦労を一掃するためです。

自然の摂理に反することをしでかしておいて、それが生み出す結果への対処に無駄なエネルギーを費やすという愚かさを無くすために霊的真理の普及が必要なのです。

 同じ苦しみにも無くもがなの苦しみがあります。困難にも無くもがなの困難があります。が、それも霊的な成長と進化、光明へ向けての歩みにとっての糧とすることができます。

失敗も災難もみな薬です。何かを教えてくれます。結局人間は宇宙という大きな学校の生徒というわけです。これでよいという段階はけっして来ません。成長すればするほど、まだまだ開発し磨いていかねばならないものがあることに気づくものだからです」

 そうした人生において大切な心掛けとして、シルバーバーチはこれまで繰りかえし注意してきたことを再び説いた。

 「絶対に許してならないことは不安の念を心に居座わらせることです。取越苦労は魂を朽ちさせ、弱らせ、蝕みます。判断力を鈍らせます。理性を曇らせます。事態を明確に見きわめることを妨げます。いかなる人間も自分で解決できないほどの問題はけっして与えられません。

克服できないほど大きな障害は生じません───内在する神性が発揮されるような心掛けをしておればの話ですが・・・・・・。地上の人間は、少数の例外を除いて、まだまだ本当の意味で生きているとは言えません。

内在する霊的属性のごくごく一部しか発揮しておりません。よくよくの危機、よくよくの非常事態において、その霊力が呼び覚まされて勇気と知恵とを与えてくれますが、本来はいつでも引き出せるものです。

病気を治し、迷いの時に指針を与え、悩みの時には指導を与え、疲れた時には力を与え、視野が遮られている時には洞察力を与えてくれます。それを可能にするのはあなた方の心掛け一つにかかっております」


 あまりの戦火の激しさに、こんな情況ではささやかなサークルのメンバーが少しばかり真理を説いても無意味のように思われるとの一メンバーの考えを聞かされたシルバーバーチは、こう述べて力づけた。

(訳者注───この頃はまだシルバーバーチの霊媒がサイキック・ニューズ社の社長兼主筆であるバーバーネルであることは内密にされていたほどで、いきおい普及活動も範囲が限られていた。

一九三〇年代初期はまだ霊言がサイキック・ニューズ紙上にも掲載されていなかった。嫌がるバーバネルを説き伏せてハンネン・スワッハーがそれを紙上に連載させ、一九四七年にはついに霊媒がバーバネルその人であることまで公表されるに及んで、ようやく普及活動に弾みがつき世界的に普及しはじめたのだった。)

 「さまざまな出来ごとがありましたが、霊的真理の光は今なおこの小さな島(英国)に生き続けております。一度も消えたことはありません。こののちも、ますます広がり続けて、いずれは世界のすみずみにまで行きわたることでしょう。その恩恵を受けた数知れぬ人々から、あなた方は敬愛され祝福を受けることでしょう。

その貢献を誇りに思わなくてはいけません。胸を張って生きられるがよろしい。まだまだこれから成就しなければならない大きな宿命があなた方を待ち受けております。

 私たちには授けるべきメッセージがあります。今日ほどそれを必要とする時代はありません。今の地上こそ私たちの奮闘を必要とする土地です。慰めを必要とする人が大勢います。

悲しみに打ちひしがれ知識と援助を叫び求める人々が大勢おります。私たちに代わってそういう人たちを救うことのできる説教者や指導者が一体どこにいるでしょうか。授けるものとして一体何があるでしょうか。遠い過去の愛用句でしょうか。

使い古された教義でしょうか。信じる者のいなくなった教説でしょうか。それとも誤ったドグマでしょうか。本人みずからその信用性に自信のない者がそんな太古の物語を引き合いに出して、はたして現代人を慰めることができるのでしょうか。

 英国中、いや世界中いたるところで、闇夜に救いを求める人がいます。その祈り───声に出しての祈りも声なき祈りも───ただならぬ窮地で指針を求める魂の叫びが私どものところまで響いてまいります。そういう人たちこそわれわれが手を差しのべてあげなければなりません。

道に迷っている人々です。その多くは自分が悪いのではありません。闇に囲まれ悲しみに打ちひしがれ、目に涙をうかべて〝死〟の意味を知りたがっています。なぜ愛する者がこうも呆気なく奪い去られるのかと尋ねます。が、教会はそれに対応する答えを持ち合わせません。

悲しみの杯をなめ苦しみのパンをかじらされた者は、〝処女懐胎〟だの〝エデンの園〟だの〝使徒信条〟だのについての説教はどうでもよいのです。真実の知識が欲しいのです。事実が知りたいのです。確証が欲しいのです。

 彼らは素直にこう考えます───もしもこの世に救いになるものがあるとすれば、それは今の自分、苦しみの渦中にある自分たちをこそ救えるものであるべきだ、と。そこで私たちはあらゆる不利な条件、あらゆる障害をいとわず、そうした絶望の底に喘ぐ人々を慰めようと必死になるのです。

これまでも幾度か申し上げてきたことですが、皆さんはこうしたささやかなサークルが僅かの間ここに集まって私たちのために力を貸してくださるそのことが、どれほど大きな意味があるのか、そしてそのおかげでどれほど遠く広く真理を広めることができているかをご存じないようです。

私どもが述べる僅かな真理の言葉───僅かとはいえ永遠の実在を土台とした不易の叡知なのですが───それが受け入れる用意のできた人々の心、霊的に成熟した魂に根づいていく。

これは実に偉大な仕事というべきです。その真理を語るわれわれが成るほど神の使徒であることを証明するには、ひたすらに人の役に立つことをするしかありません。

つまり脅しや恐怖心や心配の念を吹き込まず、ただただ、薄幸の人々に救いの手を差しのべたいと望んでいる者であることを身をもって証明していくしかありません。(訳者注───古来宗教が信者に恐怖心を吹き込むことによって存続を謀ってきた歴史を踏まえて述べている)


 ここでシルバーバーチは、そのころ英国内の何人かの霊媒に対し、それぞれの支配霊と議論したいという挑戦状を送りつけている人物の名前をあげて、このサークルにも同じものが送られてきているらしいが、そんな人間と会うつもりはない旨を述べ、その理由をこう述べた。

 「その人物を恐れているのではありません。挑戦ならこれまでも地上からさんざん受けております。私に理解できないのは、この悲しみと苦しみの惨状のさなか、われわれの援助を大いに必要としている最中に、自分の信じてきたことしか信じようとしない人間との議論になぜ貴重な時間を費やさねばならないのかということです。

私をさらし者にしたいのでしたらいつでもなってあげましょう。私たちは(一八四八年のスピリチュアリズムの勃興以来)すでに百年近くも、私たちの仕事を阻止しようとする勢力の敵対行為に遭ってきました。

教会と科学と唯物主義による挑戦です。彼らによってどれだけの霊媒がさらし者にされたことでしょう。そしてそのつど彼らは霊の仕業などというのはウソである───霊など存在しないことを〝完全に証明した〟と決めつけました。

が、敵意と嘲笑と虚偽の陳述によって私たちの仕事が阻止されたことは一度もありません。霊界からの働きかけの成果がますます世界中に広がり、敵対する勢力は退却するか作戦の変更を余儀なくさせられています。

 スピリチュアリズムを非難する教会も今やその真理がはじめて地上へ啓示された時にみずから説いていた教説を説いてはいません。科学もほぼ百年前に説いていた学説を今は説いていません。我がもの顔だった唯物主義者さえ譲歩し、視点を変え、思いもよらなかった新たな要素を考慮せざるを得なくなっております。

それに引きかえ、私たちがこれまで説いてきたものを髪の毛一本ほどでも改めたり逸脱したりしたことがあるでしょうか。どこか私の霊訓で以前と違うところを指摘できるでしょうか。地上の事情が変わったために修正しなければならなくなった箇所が一つでもあるでしょうか。

物質界での新しい発見が為されたために、それまで私どもが絶対ですと断言してきた基本的真理を改正せざるを得なくなったところがあるでしょうか。

 あるわけがありません。自然法則を取り消したり変更したりしなければならなくなることは決してありません。生命活動に付随する環境条件の全ての可能性を認識しているからです。

〝生〟の現象にも、あなた方のいう〝死〟の現象にも、自然法則やその働きを改めなければならないものは絶対に生じません。私どもが説く真理に死はありません。正真正銘の真理だからです。霊的実在こそ真の実在です。だからこそ存在し続けるのです。永遠に残る叡知の宝石です。受け入れる用意のある者を導く永遠の真実です」


 次に〝死を悼む〟という人類に共通した情が話題にのぼった。メンバーの一人が、永年シルバーバーチの訓えを聞いてきた者でも仲間のメンバーが死ぬと悲しみを禁じ得ないのはなぜだろうかと尋ねた。すると別のメンバーがそれは〝死んだ〟者に対する悲しみの情ではなく、後に残された自分を悲しむ一種の利己的な情から生じるのでしょうと述べると、シルバーバーチはこう答えた。

 「いったい何を悲しむというのでしょう。死に際して悲しみを抱くということは、まだ進化が足りないことを意味します。本当は地上に留まること自体が苦痛であり、地上を去ることは苦痛から解放されることであり、暗黒の世界から出て光明の世界へ入ることであり、騒乱の巷から平和な境涯へと移ることを意味することを思えば、尚のことです。霊的知識を得た者がなぜその知識と矛盾する悲哀に心を傷めるのか、私は理解に苦しみます。

 もう一歩話を進めてみましょう。霊的真理についての知識を初めて手に入れた時、それは目も眩まんばかりの啓示として映ります。それまでの真っ暗闇の混乱、わけの分らなかった世界がぱっと明るく照らし出される思いがします。が、その新しい理解がいかに大きいものであっても、やがて納まるべきところに納まり、その人の在庫品の一つとなっていきます。

しかし知識は使うためにあるのです。その知識のお陰で視野が広がらなくてはいけません。理解力が増さなくてはいけません。洞察力、同情心、寛容心、善意がいっそう大きくならなくてはいけません。せっかく知識を手にしながら、それをある限られた特別の機会のために取っておくことは許されません。

それは人生のあらゆる側面における考えを改めるために使用されるべきものです。皆さんがこれまでに学び、観察し、体験してきたことに幾ばくかでも真理があったとすれば───もし学んできたことが霊的な価値を有するものであれば、その価値はそれを実際に使用し実生活に適用することによって少しでも多くの霊的自我を発揮させることで生かせるのです。

 身近な人の死に直面した時、あの馴染の顔、姿、あの言葉、あの笑顔がもう見られなくなったことを悲しむのではないと断言なさるのなら、あなたは絶対に悲しむべきではありません。

この交霊会での知識は週に一度わずか一時間あまりの間だけの知識として取っておいていただいては困ります。皆さんの日々の生活の中で使用していただかないと困ります。

その霊的な価値は工場において、仕事場において、事務所において、商いにおいて、専門職において、天職において、奉仕的仕事において、家庭内において、その絶対的基盤としなければなりません。

あなた方の生活のすべての行為における光り輝く指標とならなければなりません。それが知識というものの存在価値なのです。

と言うことは、スピリチュアリストを自認する方はスピリチュアリズムというものを───これも霊的真理の一側面に付した仮の名称にすぎませんが───身内の人を失って悲しむ人のためにだけ説いて、それ以外の時は忘れているということであってはならないということです。

私どもが教えんとしていること、駆使しうる限りの力を駆使して示さんとしていることは、この宇宙が霊的法則によって支配された広大な世界であること、そしてその法則は、人間みずから見えることより見えないことを望み、聞こえることより聞こえないことを望み、物が言えることよりも言えないことを望み、常識より愚昧(ぐまい)を好み、知識より無知を好むことさえなければ、決して恩恵をもたらさずにはおかないということです。

 知っているということと、それを応用することとは別問題です。知識は実生活に活用しなくてはなりません。死を悼むということは霊的知識が実際に適用されていないことを意味します。地上生活を地上生活だけの特殊なものとして区切って考える習癖を改めなくてはなりません。

つまり一方に物質の世界だけに起きる特殊な出来ごとがあり、他方にはそれとまったく異質の、霊的な世界だけの出来ごとがあって、その二つの世界の間に水も漏らさぬ仕切りがあるかのように考えるその習性から卒業しなくてはいけません。

あなた方は今そのままの状態ですでに立派に霊的な存在です。死んでから霊的になるのではありません。違うのは、より霊的になるという程度の差だけであって、本質的に少しも変わりません。あなた方にも霊の財産であるところの各種の才能とエネルギーが宿されているのです。

今からあなたのものなのです。肉体に別れを告げたあとで配給をうけて、それを霊体で発揮し始めるというのではありません。

今日、いまこうしている時からすでにそれを宿しておられるのです。言わば居睡りをしながら時おり目を覚ます程度でしかありませんが、ちゃんと宿していることには違いありません。

霊的知識を手にしたあなた方は人生のあらゆる問題をその知識の光に照らして考察し、そうした中で霊の所有物、才能の全てを発揮できるようにならなければなりません。


 悪いと知りつつ罪を犯す人は───〝罪を犯す〟という言い方は私は好きではありませんが(他のところで〝摂理に背く〟と言いたいと述べている。訳者)───知らずに犯す人よりはるかに悪質です。盗むことは悪いことですが、霊的知識を手にした人がもし盗みを働いたら、それは千倍も悪質な罪となります。

恨みを抱くことは悪いことですが、霊的知識を知った人がもし誰かに恨みを抱くようなことがあったら、それは千倍も悪質な罪となります。知識はすべてのことに厳しさを要求するようになります。

私がいつも〝知識は責任を伴う〟と申し上げているのはそういう意味です。霊的なことを知っていながらそれが実生活における行為にまるで反映していない人が多すぎます。難しいことかもしれませんが、人間は一人の例外も無く今この時点において霊の世界に住んでいること、決して死んでから霊になるのではないということをしっかりと認識して下さい。

死ぬということはバイブレーションの問題、つまり波長が変わるということにすぎないことを認識して下さい。知覚の仕方が変わるだけのことと言ってもよろしい。日常生活で固くてしっかりしていると思っているものとまったく同じ、いえ、もっともっと実感のあるものが、たとえあなた方の目に見えなくても、立派に存在しております」


 最後に霊界から見た〝死〟の意味をこう語った。
 「〝生〟を正しい視野で捉えていただきたい。その中で〝死〟が果たしている役割を理解していただきたいと思います。人間はあまりに永いあいだ死を生の終わりと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。

私どもはぜひとも無知───死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れとみなす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。

死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるより豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。

 死の関門を通過した人はカゴから放たれた小鳥のようなものです。思いも寄らなかった自由を満喫して羽ばたいて行くのです。人間が死と呼ぶところの看守によって肉体という名の監獄から出させてもらい、(原則として)それまでの肉体に宿っているが故に耐え忍ばねばならなかった不平等も不正も苦しみも面倒もない、

より大きな生へ向けて旅立ったのです。霊本来の限りない自由と崇高なよろこびを味わうことになるのです。

 苦痛と老令と疲労と憂うつとから解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探究心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。

その悲しみには利己心が潜んでいます。自分が失ったものを悲しんでいるのです。自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。

それは間違いです。もしも霊的真理に目覚め、無知の翳(かす)みを拭い落した目でご覧になれば、愛するその方の光り輝く姿が見えるはずです。死は決して愛する者同士を引き離すことはできません。

愛は常に愛する者を求め合うものだからです。あなた方の悲しみは無知から生じております。知識があれば愛する者が以前よりむしろ一段と身近な存在となっていることを確信できるはずです。霊的実在を悟ることから生じるよろこびを十分に味わうことができるはずです。

 皆さんもいずれは寿命を完うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ捨てる時が来ます。霊が成熟して次の進化の過程へ進む時期が来ると自然にはげ落ちるわけです。

土の束縛から解放されて、死の彼方で待ち受ける人々と再会することができます。その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです」