Sunday, August 9, 2026

ベールの彼方の生活(二)

第二巻は、著者オーエンの守護霊であるザブディエルからの通信です。彼がいる十界、その先の十一界や下層界である五界や六界の情景について書かれています。


八章 祝福されたる者よ、来たれ!
ザブディエル最後のメッセージ
訳者あとがき

1 光り輝く液晶の大門      

 一九一三年 十二月 二九日 月曜日

 例の高地での体験についてはこれ以上は述べない。地上近くで生活する人間や景色について地上の言語で述べるのは容易であるが、上層界へ行くほど何かと困難が生じてくる。私の界は天界においても比較的高い位置にある。そして今述べたことはこの界のさらに高地での話題である。

それ故、前に述べたように、この界の景観も栄華も極めて簡略に、従って不十分な形でしか述べることが出来ない。そこでこれから差し当り今の貴殿にとって重要であり参考となる話題を取り上げようと思う。

 これは私が十界の領主の特命を受けて第五界へ旅立つことになった時の話である。その説明をしよう。

 私はその界の首都を訪ね、領主と面会し、そこで私の訪問の要件を聞かされることになっていた。領主にはすでに私の界の領主からの連絡が届いていたのである。また、私一人で行くのではなく、他に三人のお伴を付けて下さった。

 五界へ到着してその首都を見つけるのは至って簡単であった。曽てその界の住民であった頃によく見聞きしていたからである。それにしても、その後の久しい時の経過と、その間に数々の体験を経た今の私の目に、その首都は何と変わって映じたことであろう。

考えてもみよ。五界を後にして六界へ進み、さらに向上を続けてついにこの十界に至って以来、こうして再び五界へ戻るのはその時が初めてだったのである。

その途中の界層の一つ一つに活気あふれる生活があり、そこでの数々の体験が私を変え発達を促してきた。そして今、久方ぶりにこの界へ戻ってきたのである。

この界での生活は他の界ほど長くはなかったとはいえ、今の私の目には一見全てが物珍らしく映える。が、同時に何もかもが馴染みのあるものばかりである。

物珍らしく映るのは、私が第四界よりこの界へ向上して来た頭初、あまりの栄華に圧倒され目を眩まされた程であったが、今では逆にその薄暗さ、光輝の不足に適応するのに苦労するほどだからである。

 四人は途中の界を一つ通過する毎に身体を適応させて下りてきた。六界までそれを素早く行ったが、五界の境界内に入った時からは、そこの高地から低地へとゆっくりとした歩調で進みつつ、その環境に徐々に慣らしていった。

と申すのも、多分この界での滞在はかなりの長期に及ぶものとみて、それなりの耐久性を身に付けて仕事に当たるべきであると判断したからである。

 山岳地帯から平地へと下って行くのも、体験としては興味あるものであった。行くほどに暗さが増し、吾々は絶えず目と身体とを調整し続けねばならなかった。その時の感じは妙なものではあったが不愉快なものではなかった。そして少なくとも私にとっては全く初めての体験であった。

お蔭で私は、明るい世界から一界又は一界と明るさが薄れてゆく世界へ降りて行く時の、霊的身体の順応性の素晴らしさを細かく体験することとなった。

 貴殿にもしその体験が少しでも理解できるならば、ぜひ想像の翼をさらに広げて、こうして貴殿と語り合うために、そうした光明薄き途中の界層を通過して地上へ降りてくることがいかに大変なことであるかを理解して欲しいものである。

それに理解が行けば、人間との接触を得るために吾々がさんざん苦労し、その挙句にすべてが無駄に終わることが少なくないと聞かされても、あながち不思議がることはあるまい。

貴殿がもしベールのこちら側より観察することが出来れば、そのことを格別不思議とは思わないであろうが・・・・・・吾らにとってはその逆、つまり人間が不思議に思うことこそ不思議なのである。

 では都市について述べよう。

  位置は領主の支配する地域の中心部に近い平野にあった。大ていの都市に見られる城壁は見当たらない。が、それに代って一連の望楼が立ち並んでいる。さらに平野と都市の内部にもうまく配置を考えて点在している。

領主の宮殿は都市の縁近くに正方形に建てられており、その城門は特に雄大であった。

 さて、これより述べることは吾々上層界の四人の目に映った様子ではなく、この界すなわち第五界の住民の目に映じる様子と思っていただきたい。

 その雄大な門は液体の石で出来ている。文字どおりに受け取っていただきたい。石そのものが固くなくて流動体なのである。色彩も刻一刻と変化している。

宮殿内での行事によっても変化し、前方に広がる平野での出来ごとによっても変化し、さらにその平野の望楼との関連によっても変化する。

その堂々たる門構えの見事な美しさ。背景の正殿と見事に調和し、色彩の変化と共に美しさも千変万化する。その中で一個所だけが変わらぬ色彩に輝いている。

それが要石で、中央やや上部に位置し、愛を象徴する赤色に輝いていた。その門を通って中へ入るとすぐに数々の広い部屋があり、各部屋に記録係がいて、その門へ寄せられるメッセージや作用を読み取り、それを判別して然るべき方面へ届ける仕事をしている。

吾々の到着についてもすでに連絡が入っており、二人の若者が吾々を領主のもとへ案内すべく待機していた。

 広い道路を通って奥へ進むと、行き交う人々がみな楽しげな表情をしている。このあたりでは常にそうなのである。それを事さらに書くのは、貴殿が時おり、否、しばしば心の中では楽しく思ってもそれを顔に出さないことがあるからである。吾らにとっては、晴れの日は天気がよいと言うのと同じほど当たり前のことなのであるが・・・

 それから宮殿の敷地内の本館へ来た。そこが領主の居所である。

 踏み段を上がり玄関(ポーチ)を通ってドアを開けると、そこが中央広場(ホール)になっている。そこも正方形をしており、大門と同じ液状石の高い柱で出来ている。それらがまた大門と同じように刻一刻と色調を変え、一時として同じ色を留めていない。

全部で二二本あり、その一本一本が異なった色彩をしている。二本が同じ色を見せることは滅多にない。それがホール全体に快い雰囲気を与えている。それらが天井の大きな水晶のドームの美しさと融合するように設計されており、それが又一段と美しい景観を呈するのであった。

これは貴殿の想像に俟つよりほかはない。私の表現力の限界を超えているからである。

 吾々はそのホールで待つように言われ、壁近くに置かれている長椅子に腰を下ろして色彩の変化の妙味を楽しんでいた。見ているうちにその影響が吾々にも及び、この上ない安らぎと気安さを覚え、この古く且つ新しい環境にいてすっかり寛いだ気分になった。

やがてそのホールに至る廊下の一つに光が閃くのを見た。領主が来られたのである。

吾々の前まで来られるとお辞儀をされ、私の手を取って丁重な挨拶をされた。彼は本来は第七界に所属するお方であり、この都市の支配のためにこの界の環境条件に合わせておられるのであった。

至ってお優しい方である。吾々の旅の労をねぎらったあと、謁見の間へ案内して下さり、ご自分の椅子に私を座らせ、三人の供の者がその周りに、さらにご自分はその近くに席を取られた。

 すぐに合図があって、女性ばかりの一団が白と青の可憐な衣装で部屋へ入ってきて丁寧な挨拶をし、吾々の前に侍(はべ)った。

それから領主が私と三人の供に今回の招待の趣意を説明された。女性たちは吾々上層界の者の訪問ということで、ふだん身につけている宝石を外していた。が、その質素な飾りつけの中に実に可憐な雰囲気を漂わせ、その物腰は数界の隔たりのある吾々を前にした態度に相応しい、しとやかさに溢れていた。

 私はそれに感動を覚え、領主に話を進める前に許しを乞い、彼女たちのところへ下りて行って、一人一人の頭に手を置き祝福の言葉を述べた。その言葉に、そうでなくてもおずおずしていた彼女たちは一瞬とまどいを見せたが、やがて吾々見上げてにっこりと笑微(ほほえ)み、寛ぎの表情を見せた。

 さて、そのあとの会見の様子は次の機会としよう。この度はこの界層の環境と慣習を理解してもらう上でぜひ告げておかねばならないことで手一杯であった。この度はこれにて終わりとする。私はその女性たちに優しい言葉を掛け手を触れて祝福した。そして彼女たちも喜びにあふれた笑顔で私を祝福してくれた。

吾々はこうして互いに祝福し合った。こちらではそれが習慣なのである。人間もかくあるべきである。これは何よりも望ましいことである。

 そこで私も祝福をもって貴殿のもとを去ることとする。礼の言葉は無用である。何となれば祝福は吾々を通して父なる神より与えられるものであり、吾々を通過する時にその恩恵のいくばくかを吾々も頂戴するからである。そのこともよく銘記するがよい。他人を祝福することは、その意味で、自分自身を祝福することになることが判るであろう。 ♰


  
 2 女性ばかりの霊団       

 一九一三年十二月三十日  火曜日

 前回の続きである。
 女性の一団は私の前に立っていた。そこで私がこの度の訪問の目的を述べようとしたが、私自身にはそれが判らない。そこで領主の方へ目をやると、こう説明してくださった。

「この女性たちは揃ってこの界へ連れてこられた一団です。これまでの三つの界を一団となって向上して来た者たちです。一人として他の者を置き去りにする者はおりませんでした。進歩の速すぎる者がいると、遅れがちな者の手を取ってやるなどして歩調を合わせ、やっとこの界で全員が揃ったところです。

そして今この界での修養も終えて、さらに向上して行く資格もできた頃と思われるのですが、その点についてザブディエル様のご判断をお聞かせいただきたい。彼女たちはその判断のために知恵をお借りしたいのです。

と申しますのも、十分な資格なしに上の界へ行くと却って進歩を阻害されることが、彼女たちもこれまでの体験で判ってきたのです。」

 この詳しい説明を聞いて私自身も試されていることを知った。私の界の領主がそれを故意に明かさずにおいたのは、こうして何の備えもなしに問題に直面させて、私の機転を試そうという意図があったのである。

これはむしろ有難いことであった。なぜならば、直面する問題が大きいほど喜びもまた大きいというのがこちらの世界の常であり、領主も、私にその気になれば成就する力があることを見抜いた上での配慮であることを知っておられるからである。

 そこで私は速やかに思考をめぐらし、すぐさま次のような案を考えついた。女性の数は十五人である。そこでこれを三で割って五人ずつのグループに分け、すぐさま都市へ出て行って各グループ一人ずつ童子を連れて来ること。その際にその子がぜひ知っておくべき教訓を授け、それがきちんと述べられるようにしておく、というものであった。

 さて、話は進んで、各グループが一人ずつ計三人の童子を連れて帰って来た。男児二人と女児一人であった。

 全員がほぼ時を同じくして入ってきたが、全く同時ではなかった。そのことから、彼女たちが途中で遭遇することがなかったことを察した。と言うのは、彼女たちの親和力の強さは、いったん遭遇したら二度と離れることが出来ないほどのものだったからである。

私は三人の子どもを前に立たせ、まずその中の男の子にこう尋ねた。「さあ坊や、あの方たちからボクがどんなことを教わったか、この私にも教えてくれないだろうか。」

 この問いにその子はなかなかしっかりとこう答えた。

 「お許しを得て申し上げます。ボクは地球というところについて何も知らずにこちらへ来ました。お母さんがボクに身体を地上に与える前にボクの魂を天国へ手離したからです。

それでこのお姉さま方が、ここへ来る途中でボクに、地球がこちらの世界の揺りかごであることを知らねばならないと教えて下さいました。地球には可哀そうな育てられ方をしている男の子が大勢います。

そしてその子たちは地球を去るまではボクたちのような幸せを知りません。でも、地球もこの世界と同じように神様の王国なので、あまり可哀そうな目に遭っている子や、可哀そうな目に遭わせている親のために祈ってあげないといけません。」

 この子は最後の言葉を女性たちから聞かされてからずっと当惑していたのか、そのあとにこう付け加えた。「でも、ボクたちはいつもお祈りをしています。それがボクたちの学校の教課の一つなのです。」

 「そうだね、それはなかなかよい教課だね」───私はそう言い、さらに、それは学校の先生以外の人から教えられても同じように立派な教えであることを述べて、今の返答がなかなかよく出来ていたと褒めてあげた。

 それからもう一人の男の子を呼び寄せた。その子は私の足もとへ来て、その足を柔らかい可愛らしい手で触ってから、愛敬のある目で私の顔を見つめ「お許しを頂き、優しいお顔の天使さまに申し上げます」と述べ始めた。が私は、もう感動を抑え切れなくなった。

私は屈み込んでその子を抱いて膝に置き頬に口づけをした。私の目から愛の喜びの涙が溢れた。その様子をその子は素直な驚きと喜びの混ざり合った表情で見つめていた。

私が話を続けなさいと言うと、下におろしてくれないと話しにくいと言う。これにはこんどは私の方が驚いて慌てて下ろしてあげた。

 するとその子は再び私の衣服の下から覗いている足に手を置き、ひどく勿体ぶった調子で、先の言葉をきちんとつないで、こう述べた。

 「天使のおみ足は見た目に美しく、触れた手にも美しく感じられます。見た目に美しいのは天使が頭と心だけでなく、父なる神への仕え方においても立派だからであり、触れた手に美しいのは、優しくそっと扱われるからです。

過ちを犯した人間が心に重荷を感じている時にはそっとお諫(いさ)めになり、悲しみの中にいる人をそっと抱いてこの安らぎと喜びの土地へお連れになります。

ボクたちもいつかは天使となり、子供でなくなります。大きく、強く、そして明るくなり、たくさんの叡智を身に付けます。その時にそうした事を思い出さないといけません。

なぜなら、その時は霊格の高いお方が、勉強と指導を兼ねてボクたちを地上へ派遣されるからです。ボクたちのように早くこちらへ来た者には必要のないことでも、地上にはそれを必要としている人が大勢いるのです。

お姉さま方からそのように教わりました。教わった通りであると思います。」

 童子の愛らしさには私はいつもほろりとさせられる。正直を申して、その時もしばし頭を下げ、顔を手でおおい、胸の高まりと苦しいほどの恍惚状態に身を任せていたのである。それから三人の子供を呼び寄せた。

三人とも顔では喜びつつも足は遠慮がちに近づいて来た。そして二人の男の子を両脇に、女の子を膝の前に跪かせた。三人に思いのたけの情愛を込めて祝福の言葉を述べ、可愛らしくカールした頭髪に口づけした。

それから二人の男の子を両脇に立たせ、女の子を膝に乗せて、お話を聞かせてほしいと言った。

「で・は・お・ゆ・る・し・を・い・た・だ・い・て」と言い始めたのであるが、一語一語を切り離して話しますので、私は思わず吹き出してしまった。

と言うのも、さきの男の子の時のように、私が感激のあまり涙を流して話が中断するようなことにならないように、〝優しいお顔の天使さま〟といった言い方を避けようとする心遣いがありありと窺えたからである。

「お嬢ちゃん、あなたはお年よりも身体の大きさよりも、ずっとしっかりしてますね。きっと立派な女性に成長して、その時に置かれる世界で立派な仕事をされますよ。」

 私がそう言うと、けげんな顔で私を見つめ、それから、まわりで興味深くその対話を見つめている人たちを見まわした。私が話を続けるように優しく促すと、さきの男の子と同じようにきちんと話を継いでこう話した。

 「女の子はその懐(ふところ)で神の子羊を育てる母親となる大切なものです。でも身体が大きくそして美しくなるにつれて愛情と知恵も一緒に成長しないと本当の親にはなれません。ですから、あたしたち女の子は、宿されている母性を大切にしなくてはなりません。

それは神様があたしたちがお母さんのお腹の中で天使に起こされずに眠っている間に宿して下さり、そしてこの天国へ連れてきて下さいました。

あたしたちの母性が神聖なものであることには沢山の理由があります。その中でも一ばん大切なのは次のことです。

あたしたちの救いの主イエス・キリスト(と言って、くぼみのある可愛らしい両手を組み合わせて恭(うやうや)しく頭を下げ、ずっとその恰好で話を続けた)も女性からお生まれになり、お生みになったその母親を愛され、その母親もイエス様を愛されたことです。

あたしたちは今お母さんがいなくても、お母さんと同じように優しくしてくださる人がいます。でも、あたしたちと同じようにお母さんがいなくて、しかも優しくしてくれる人がいない人のことを、大きくなってから教わるそうです。

その時に、自分が生んだ子供でない子供で、今のあたしのように、お母さんの代わりをしてくれる人を必要としている子供たちのお母さん代わりをする気があるかどうかを聞かれます。その時あたしははっきりとこう答えるつもりです。

〝どうかこのあたしをこの明るい世界からもっと暗い世界へ行かせて下さい。もしあたしにその世界の可哀そうな子供たちを救い育てる力があれば、あたしはその子供たちと共に苦しみたいのです。なぜならば、その子供たちも主イエス様の子羊だからです。

その子供たちのためにも、そして主イエス様のためにも、あたしはその子供たちを愛してあげたいと思います〟と。」

 私はこの三人の答えに大いに感動させられた。全部を聞き終わるずっと前から、これらの女性たちは上級界へ向上していく資格が充分あるとの認識に到達していた。

 そこでこう述べた。「皆さん。あなた方は私の申し付けたことを立派に果たされました。三人の子供もよくやりました。とくに私が感じたことは、あなた方はもうこの界で学ぶべきものは十分に学び、次の界でも立派になって行けるであろうということです。

同時にあなた方は、やはりこののちも、これまで同様いっしょに行動されるのがよいと判断しました。三人の子供を別々に教えても答えは同じ内容───地上の子供たちのことと、その子供たちの義務のことでした。これほど目的の一致するあなた方は、一人一人で生きるよりも協力し合った方が良いと思います。」

 そこで全員に祝福を与え、間もなく吾々四人が帰る時にいっしょに付いて来るように言った。

 実はその時に言うのを控え、いっしょに帰る途中で注意したことが幾つかあった。その方が気楽に話せると考えたからである。その一つは、彼女たち十五人が余りに意気投合しすぎるために、三人の子供への教えの中に義務と奉仕の面ばかりに偏りが見られることである。

三人の子供ならびに死産児としてこちらへ来る子供の全てが、いずれは地上の子供たちの看護と守護の仕事に携わることになるが、その子どもたちは本来なら地上で為さねばならない他のもろもろのことを失っていることを知らなければならない。

さらにもう一つは、実際に地上へ赴くのは彼らの中のごく僅かな数に過ぎないということである。その理由は性質的にデリケートすぎるということで、そういう子どもには実際に地上に来るよりも、ほかにもっと相応しい仕事があるのである。

 が、今はこれ以上は述べないことにする。神の愛と祝福が貴殿と貴殿の子羊とその母親の上にあらんことを、神の王国にいる守護者は優しき目をもって地上の愛する者を見つめ、こちらへ来た時に少しでも役に立つものを身につけさせんと心を砕いている。このことをよく心に留め、それを喜びとするがよい。 



 3 女性団、第六界へ迎えられる   

 一九一三年十二月三一日 水曜日

 話を進める前に、前回に述べた面会が行われた都を紹介しておこう。と言うのは、私の知る限りでは、第五界にはこの界特有の特徴が幾つかあるのである。

例えば大ていの界──全てとは言わないが──には中心となる都が一つあるのみであるが、この五界には三つあり、従って三人の領主がおられることになる。

 この三重統治の理由は、この界の置かれた位置が、ここまで辿り着いた者がこのあとどちらの方向に進むかについて重大な選択を迫られる位置にあるからである。一種の区分所のようなものであり、住民はここでの生活中にそれぞれに相応しいグループに配属され、最も相応しい仕事に携わるべく上層界へと進む。

 三つの都は途方もなく広い平坦な大陸の境界域近くに位置し、その三つを線で結ぶと二等辺三角形となる。それ故、それぞれ都から出る何本かの広い道路が扇状に一直線に伸びている。こうして三つの都は互いに連絡し合っている。その三角形の中心に拝殿がある。

森の中央の円形広場に建てられている。各都市から伸びる広い道路は途中で互いに交叉しており、結局全てがこの拝殿とつながっていることになる。そうして、折ある毎に三つの都市の代表を始めとして、その統治下にある住民の代表が礼拝を捧げるために一堂に会する。

 その数は何万あるいは何十万を数え、見るからに壮観である。三々五々、みな連れだって到着し、広場に集合する。そこは広大な芝生地である。そこで大群集が合流するわけであるが、五界にある全ての色彩が渾然一体となった時の美しさは、ちょっとした見ものである。

 が、それ以上に素晴らしいのは多様性の中に見られる一体感である。それぞれの分野でもうすぐ次の界へ向上して行く者がいて、決して一様ではない。が、その大集団全体を通じて〝愛の調べ〟が脈うっている。そしてそれが不変不朽であり、これよりのち各自がいかなる道を辿ろうと、この広き天界のいずこかにおいて相見(まみ)えることを可能にしてくれることを全員が自覚している。

それ故誰一人として、やがて訪れる別れを悲しむ者はいない。そのようなものは知らないのである。愛あるところには地上でいう別れも、それに伴う悲しみもない。それは〝人類の堕罪〟さえなければ、地上においても言えるところである。

人間がその資質を取り戻していくのは容易ではあるまい。が、不可能ではない。なぜなら、今は目覚めぬままであるとは言え、よくよくの例外を除いては、その資質は厳然と人間に宿されているからである。

 さて吾々は旅の次の段階、すなわち例の女性の一団を第六界へと送り届け、そこの領主へ引き渡す用事へ進まねばならぬ。

 いよいよ第六界へ来ると、首都から少し離れた手前で歓迎の一団の出迎えを受けた。あらかじめ第五界との境界の高地において到着の報を伝えておいたのである。歓迎の一団の中には女性たちの曽ての知友も混じっており、喜びと感謝のうちに旧交を温めるのであった。

 女性たちのしばしの住処となるべき市(まち)に到着すると、明るい衣装をまとった男女に僅かばかりの子供の混じった市民が近づいて来るのが見えた。あらかじめ指定しておいた道である。両側に樹木が生い茂り、ところどころで双方の枝が頭上で重なり合っている。

一行はそうした場所の一つで足を止め、吾々の到着を待った。あたりはあたかも大聖堂の如く、頭上高く木の葉が覆い、その隙間を通して差し込む光はあたかも宝石の如く,そして居合わせる者はあたかも聖歌隊の如くであり礼拝者の如くでもあった。

出迎えの人々は新参の女性たちのための花輪と衣装と宝石を手にしていた。それを着飾ってもらうと、それまでのくすんだ感じの衣装が第六界に相応しい新しい衣装に負けて立ちどころに消滅した。それから和気あいあいのうちに全員が睦み合ったところで、出迎えの市民が市の方へ向きを変え、ある者は手にしていた楽器で行進曲を演奏し、ある者は歌を合唱しつつ行進しはじめた。

沿道にも塔にも門前にも市民が群がって歓迎の挨拶を叫び、喜びを一層大きなものにしていった。

新参者は皆こうした体験を経て自分たちへ向けられる歓迎の意向を理解していくのである。そして界を二つ三つと経ていくうちに新しい顔と景色の奇異な点が少しも恐れる必要がないこと──全てが愛に満ちていることを悟るに至るのである。

 さて、門を通過して市中へ入ると、まず聖殿へ向かった。見事な均整美をした卵形の大きな建物で、その形体は二つの球体が合体して出来たものを思わせる。

一つは愛を、もう一つは知識を意味する。それが内部の塔を中央にして融合しており、その組み合わせが実に美事で巧みなのである。照明は先日叙述した液晶柱のホールと同じく一時として同じ色彩を見せず、刻一刻と変化している。全体を支配しているのはたったの二色──濃いバラ色と、緑と青の混じったスミレ色である。

 やがて新参の女性たちが中へ案内された。中にはすでに大会衆が集まっている。彼女たちは中央の壇上に案内され、そこにしばらく立っていた。

すると聖殿の専属の役人がリーダーの先導で神への奉納の言葉を捧げ、すぐそのあと会衆が唱和すると、場内に明るい光輝をした霧状の雲が発生し、それが彼女たちのまわりに集結して、この第六界の雰囲気の中に包み込んでしまった。

 やがてそれが上昇し、天蓋の如く頭上に漂ったが、彼女たちは深く静かな恍惚状態のままじっと立ちつくし、その美しい雲がさらに上昇して他の会衆まで広がるのを見ていた。

すると今度は音楽が聞こえてきた、遥か遠くから聞こえてくるようであったが、その建物の中に間違いなかった。そのあまりの美しさ、柔らかさ、それでいて力強さにあふれた旋律に、吾々は神の御前にいるような崇高さを覚え、思わず頭を垂れて祈り、神の存在を身近かに感じるのであった。

 やがて旋律が終わったが、余韻はまだ残っていた。それはあたかも頭上に漂う光輝性の雲の一部になり切っているように感じられた。実は、貴殿には理解できない過程を経てそれは、真実、雲の一部となっていたのである。

そしてその輝く雲と愛の旋律とが一体となって吾々にゆっくりと降りてきて吾々の身体を包み込むと、聖なる愛の喜びに全会衆が一体となったのであった。

私を除く全会衆にはそれ以上の顕現は見えなかった。が、修行をより長く積んできた私には他の者に見えないものが見え、上層界からの参列者の存在にも気づいていた。

また旋律の流れくるところも判っていた。祝福の時に授けられる霊力がいかなる種類のものであるかも判っていた。それでも他のすべての者はこの上なく満足し、ともに幸せを味わった。十五人の女性たちはいうまでもなかった。



──その間あなたは何をなさっていたのでしょうか。そこではあなたが一ばん霊格が高かったのではありませんか。

 ただお世話をするために同行したに過ぎない私自身について語るのは感心しない。この度の主役は十五人の女性であった。私の界からは他に三名の者が同行し、それより上の界の者は一人もいなかった。吾々四人に全ての人が友好的で親切で優しくしてくれた。

それが吾々にとって大いなる幸せであった。いよいよ十五人が落着くべき住処へ案内されることになった時、彼女たちはぜひもう一度礼を述べたいといって戻ってきて、感謝の言葉を述べてくれた。

吾々も言葉を返し、そのうち再び戻ってその後の進歩の様子を伺い、多分、助言を与えることになろうと約束した。彼女たちからの要請でそうなったのである。

そこに彼女たちの立派な叡智が窺えた。私もそうすることが彼女たちにとって大きな力となるものと確信する。こうした形での助言は普通はあまり見られない。そうたびたび要請されるものではないからである。

 「真理は求める者には必ず与えられる」──このイエスの言葉は地上と同じくこちらの世界にも当てはまることが、これで判るであろう。この言葉の意味を篤と考えるがよい。  ♰



 4 イエス・キリストの出現       

 一九一四年一月二日  金曜日

 ここで再び私の界へ心の中で戻ってもらいたい。語り聞かせたいことが幾つかある。神とその叡智の表われ方について知れば知るほど吾々は、神のエネルギーが如何に単純にして同時にいかに複雑であるかを理解することになる。

これは逆説的であるが、やはり真実なのである。単純性はエネルギーの一体性とそのエネルギーの使用原理に見出される。

 例えば創造の大事業のために神から届けられるエネルギーの一つ一つは愛によって強められ、愛が不足するにつれて弱められていく。この十界まで辿りつくほどの者になれば、それまで身につけた叡智によって物事の流れを洞察することが可能となる。

〝近づき難き光〟すなわち神に向けて歩を進めるにつれて、全てのものが唯一の中心的原理に向かっており、それがすなわち愛であることが判るようになる。愛こそ万物の根源であることを知るのである。

 その根源、その大中心から遠ざかるにつれて複雑さが増す。相変わらず愛は流れている。が、創造の大事業に携わる霊の叡智の低下に伴い、必然的にそれだけ弱められ、従って鮮明度が欠けていく。

その神の大計画のもとに働く無数の霊から送られる霊的活動のバイブレーションが物的宇宙に到達した時、適応と調整の度合が大幅に複雑さを増す。

この地上にあってさえ愛することを知る者は神の愛を知ることが出来るとなれば、吾々に知られる愛がいかに程度の高いものであるか、思い半ばに過ぎるものであろう。

 しかし、吾々がこれより獲得すべき叡智はある意味ではより単純になるとは言え、内的には遥かに入り組んだものとなる。なぜならば吾々の視野の届く範囲が遥かに広大な地域にまで及ぶからである。

一界一界と進むにつれて惑星系から太陽系へ、そして星団系へと、次第に規模が広がっていく世界の経綸に当たる偉大な霊団の存在を知る。その霊団から天界の広大な構成について、あるいはそこに住む神の子について、更には神による子への関わり、逆に子による神への関わりについて尋ね、そして学んでゆかねばならない。

 これで、歩を進める上では慎重であらねばならないこと、一歩一歩の歩みによって十全な理解を得なければならないことが判るであろう。吾々に割り当てられる義務はかぎりなく広がってゆき、吾々の決断と行為の影響が次第に厳粛さを帯びてゆき、責任の及ぶ範囲が一段と広い宇宙とその住民に及ぶことになるからである。

 しかし今は地球以外の天体には言及しない。貴殿はまだそうした地球を超えた範囲の知識を理解する能力が十分に具わっていない。

私および私の霊団の使命は、地球人類が個々に愛し合う義務と、神を一致団結し敬愛する義務についての高度な知識を授け、さらに貴殿のように愛と謙虚さをもって進んで吾々に協力してくれる者への吾々の援助と努力──つまり吾々はベールのこちら側から援助し、

貴殿らはベールのそちら側で吾々の手となり目となり口となって共に協力し合い、人類を神が意図された通りの在るべき姿──本来は栄光ある存在でありながら今は光乏しい地上において苦闘を強いられている人間の真実の姿を理解させることにあるのである。

 では私の界についての話に戻るとしよう。

 ある草原地帯に切り立つように聳える高い山がある。あたかも王が玉座から従者を見下ろすように、まわりの山々を圧している。その山にも急な登り坂のように見える道があり、そのところどころに建物が見える。四方に何の囲いもない祭壇も幾つかある。

礼拝所もある。そして頂上には全体を治める大神殿がある。この大神殿を舞台にして時おりさまざまな〝顕現〟が平地に集結した会衆に披露される。


──前に話されたあの大聖堂のことですか(五章4)

 違う。あれは都の中の神殿であった。これは〝聖なる山〟の神殿である。程度において一段と高く、また目的も異なる。そこの内部での祈りが目的ではなく、平地に集結した礼拝者を高揚し、強化し、指導することを主な目的としている。

専属の聖職者がいて内部で祈りを捧げるが、その霊格はきわめて高く、この十界より遥かに上の界層まで進化した者が使命を帯びて戻って来た時にのみ、中に入ることが許される。

 そこは能天使(※)の館である。すでにこの十界を卒業しながら、援助と判断力を授けにこの大神殿を訪れる。そこには幾人かの天使が常駐し、誰ひとり居なくなることは決してない。が、私は内部のことは詳しくは知らない。

霊力と崇高さを一団と高め、十一界、十二界と進んだ後のこととなろう。(※中世の天使論で天界の霊的存在を九段階に分けた。ここではその用語を用いているまでで、用語そのものに拘わる必要はない。──訳者)

 さて平地は今、十界の全地域から召集された者によって埋め尽くされている。地上の距離にしてその山の麓から半マイルもの範囲に亘って延々と群がり、その優雅な流れはあたかも〝花の海〟を思わせ、霊格を示す宝石がその動きに伴ってきらきらと輝き、色とりどりの衣装が幾つもの組み合わせを変えて綾を織りなしてゆく。

そして遠く〝聖なる山〟の頂上に大神殿が見える。集まった者たちは顕現を今や遅しと期待しつつ、その方へ目をやるのであった。

 やがてその神殿の屋根の上に高き地位(くらい)を物語る輝く衣装をまとった一団が姿を現わした。それから正門と本殿とをつなぐ袖廊(ポーチ)の上に立ち並び、そのうちの一人が両手を上げて平地の群集に祝福を述べた。

その一語一語は最も遠方にいる者にも実に鮮明に、そして強い響きをもって聞こえた。遠近に関わりなく全員に同じように聞こえ、容姿も同じように鮮明に映じる。

それから此の度の到来の目的を述べた。それは、首尾よくこの界での修行を終え、さらに向上していくだけの霊力を備えたと判断された者が間もなく第十一界へ旅立つことになった。そこで彼らに特別な力を授けるためであるという。

 その〝彼ら〟が誰であるのか──自分なのか、それとも隣にいる者なのか、それは誰にも判らない。それはあとで告げられることになった。そこで吾々はえも言われぬ静寂のうちに、次に起きるものを待っていた。ポーチの上の一団も無言のままであった。

 その時である。神殿の門より大天使が姿を現わした。素朴な白衣に身を包んでいたが、煌々と輝き、麗わしいの一語に尽きた。頭部には黄金の冠帯を付け、足に付けておられる履き物も黄金色に輝いていた。

腰のあたりに赤色のベルトを締め、それが前に進まれるたびに深紅の光を放つのであった。右手には黄金の聖杯(カリス)を捧げ持っておられる。

左手はベルトの上、心臓の近くに当てておられる。吾々にはその方がどなたであるかはすぐさま知れた。他ならぬイエス・キリストその人なのである。(※)いかなる形体にせよ、あるいは顕現にせよ、愛と王威とがこれほど渾然一体となっておられる方は他に類を求めることが出来ない。

その華麗さの中に素朴さを秘め、その素朴さの中に威厳を秘めておられる。それらの要素が、こうして顕現された時に吾々列席者の全ての魂と生命とに秘み込むのを感じる。

そして顕現が終了した後もそれは決して消えることなく、いつまでも吾々の中に残るのである。(※その本質と地上降誕の謎に関しては第三巻で明かされる。──訳者)

 今そのイエス・キリストがそこに立っておられる。何もかもがお美しい。譬えようもなくお美しい。甘美にして優雅であり、その中に一抹の自己犠牲的慈悲を漂わせ、それが又お顔の峻厳な雰囲気に和みを添えている。

その結果そのお顔は笑顔そのものとなっている。といって決して笑っておられるのではない。そしてその笑みの中に涙を浮かべておられる。悲しみの涙ではない。

己の喜びを他へ施す喜びの涙である。その全体の様子にそのお姿から発せられる実に多種多様な力と美質が渾然一体となった様子が、側に控える他の天使の中にあってさえ際(きわ)立った存在となし、まさしく王者として全てに君臨せしめている。

 そのイエス・キリストは今じっと遠くへ目をやっておられる。吾々群集ではない。吾々を越えた遥か遠くを見つめておられる。やがて神殿の数か所の門から一団の従者が列をなして出てきた。男性と女性の天使である。その霊格の高さはお顔と容姿の優雅さに歴然と顕れていた。

 私の注目を引いたことが一つある。それを可能なかぎり述べてみよう。その優雅な天使の一人一人の顔と歩き方と所作に他と異なる強烈な個性が窺われる。同じ徳を同じ形で具えた天使は二人と見当たらない。霊格と威光はどの方もきわめて高い。が、一人一人が他に見られない個性を有し、似通った天使は二人といない。

その天使の一団が今イエス・キリストの両脇と、前方の少し低い岩棚の上に位置した。するとお顔にその一団の美と特質と霊力の全てが心地よい融和と交わりの中に反映されるのが判った。一人一人の個性が歴然と、しかも渾然一体となっているのが判るのである。

さよう、主イエスは全ての者に超然としておられる。そしてその超然とした様子が一層その威厳を増すのである。

 以上の光景を篤と考えてみてほしい。このあとのことは貴殿が機会を与えてくれれば明日にでも述べるとしよう。主イエスのお姿を私は地上を去ってのち一度ならず幾度か拝してきたが、そこには常に至福と栄光と美とが漂っている。

常に祝福を携え、それを同胞のために残して行かれる。常に栄光に包まれ、それが主を高き天界の玉座とつないでいる。そしてその美は光り輝く衣服に歴然と顕れている。

 しかも主イエスは吾々と同じく地上の人間と共にある。姿こそお見せにならないが、実質となって薄暗い地上界へ降り、同じように祝福と栄光と美をもたらしておられる。が、そのごく一部、それもごく限られた者によって僅かに見られるに過ぎない。

地球を包む罪悪の暗雲と信仰心の欠如がそれを遮るのである。それでもなお主イエスは人間と共にある。貴殿も心を開かれよ。主の祝福が授けられるであろう。  ♰



 
 5 ザブディエル十一界へ召される   

 一九一四年一月三日  土曜日

主イエスは黙したまましばし恍惚たる表情で立っておられた。何もかもがお美しい。やがて天使団に動きが生じた。ゆっくりと、いささかも急ぐ様子もなく、その一団が天空へ向けて上昇し、イエスを中心にして卵型に位置を取った。後部の者は主より高く、前方の者は主の足より下方に位置している。かくして卵形が整うと、全体が一段と強烈な光輝を発し、吾々の目にはその一人一人のお姿の区別がつかぬほどになった。

今や主の周りは光輝に満ち満ちている。にもかかわらず主の光輝はそれよりさらに一段と強烈なのである。但し、主の足元のすぐ前方に一個所だけ繋がっていないところがある。つまり卵形の一番下部に隙間が出来ているのである。

 その時である。主が左手を吾々の方へ伸ばして祝福をされた。それから右手のカリスを吾々の方へ傾けると、中から色とりどりの色彩に輝く細い光の流れがこぼれ出た。

それが足もとの岩に落ち、岩の表面を伝って平地へと流れ落ちて行く。落ちながら急速に容積を増し、平地に辿り着くと一段と広がり、なおも広がり続ける。今やそれは光の大河となった。その光に無数の色彩が見える。

濃い紫から淡いライラック、深紅から淡いピンク、黄褐色から黄金色等々。それらが大河のそこここで各種の混合色を作りつつ、なおも広がり行くのであった。

  かくしてその流れは吾々の足もとまで来た。吾々はただその不思議さと美しさに呆然として立ちつくすのみであった。今やその広大な平野は光の湖と化した。が、吾々の身体はその中に埋没せず、その表面に立っている。だが、足もとを見つめても底の地面まで見通すことはできない。あたかも深い深い虹色の海のような感じである。

しかも吾々は地面に立つようにその表面にしっかりと立っている。が、表面は常に揺らめき、さざ波さえ立てている。それが赤、青、その他さまざまな色彩を放ちつつ吾々の足元を洗っている。何とも不思議であり、何とも言えぬ美しさであった。

  やがて判ってきたことは、その波の浴び方が一人一人違うことであった。群集のところどころで自分が他と異なるのに気づいている者がいた。そう気づいた者はすぐさま静かな深い瞑想状態に入った。側の者の目にもそれが歴然としてきた。

まず周囲の光の流れが黄金色に変わり、それがまず踝(くるぶし)を洗い、次に液体のグラスのような光の柱となって膝を洗い、更に上昇して身体全体が光の柱に囲まれ、黄金色の輝きの真っ只中に立ちつくしているのだった。

頭部には宝石その他、それまで付いていたものに代って今や十一個の星が付いている。それまた黄金色に輝いていたが、流れの黄金色より一段と強烈な輝きを発し、あたかも〝選ばれし者〟を飾るために、その十一個の星に光が凝縮されたかのようであった。

その星の付いた冠帯が一人一人の頭部に冠せられ、両耳の後ろで留められていた。かくして冠帯を飾られた者はその輝きが表情と全身に行き亘り、他の者より一段と美しく見えるのであった。

 そこで主がカリスを真っ直ぐに立てられた。と同時に流れが消えた。光の流れにおおわれていた岩も今やその岩肌を見せている。平地も次第に元の草原の姿を現わし、ついに光の海は完全に消滅し、吾々群集は前と同じ平地の上に立っていた。

 さて、その〝選ばれし者〟のみが最後まで光輝に包まれていたが、今はもうその光輝も消滅した。が、彼らはすでにもとの彼らではなかった。

永遠に、二度ともとに戻ることは無いであろう。表情には一段と霊妙さが増し、身体もまた崇高さを加え、衣装の色調も周りの者に比して一段と明るさを加え、異った色彩を帯びていた。十一個の星は相変わらず光り輝いている。包んでいた光の柱のみが今は消滅していた。

 その時である。〝聖なる山〟の神殿からもう一人の天使が姿を現わし、優しさを秘めた力強い声で、星を戴いたものはこの山の麓まで進み出るように、と言われた。それを聞いて私を含めて全員が集結し───実は私も星を戴いた一人だったのである───そして神殿の前に立たれる主イエスのお姿を遥かに見上げながら整列した。

 すると主がおよそ次のような趣旨のことを述べられた。「あなた方は託された義務をよくぞ果たされた。父なる神と余に対し、必ずしも完璧とは言いかねるが、出来うるかぎりの献身を為された。これより案内いたす高き界においても、これまでと変わらぬ献身を希望する。では、ここまで上がって来られたい。

あなた方を今や遅しと待ち受ける新たな館まで案内いたそう。さ、来るがよい。」

 そう言われたかと思うと、すぐ前に広い階段が出来あがった。一ばん下は吾々の目の前の平野にあり、一ばん上は遥か山頂に立たれる主の足元まで伸びている。その長い階段を吾々全員が続々と登り始めた。数にして何万人いたであろうか。

が、かなりの位置まで登って平野を見下ろして別れの手を振った時、そこにはそれに劣らぬ大群集が吾々を見上げていた。それ程その時の群集は数が多かったのである。

 かくして吾々全員が神殿の前の広場に勢揃いした時、主が下に残った群集へ向けて激励と祝福を述べられた。仮に吾々と共に召されなかったことを悲しんだ者がいたとしても、私が見下ろした時は、そこには悲しみの表情は跡形もなかった。

主イエス・キリストの在(ましま)すところに誰一人悲しむ者はあり得ず、ひたすらにその大いなる愛と恩寵を喜ぶのみである。

 その時吾々と同じ神殿の前から幾人かの天使が階段を降り始めた。そしてほぼ中途の辺りで立ち止まった。全員が同じ位置まで来ると〝天に在す栄光の神〟を讃える感謝の賛美歌を斉唱した。平地の群集がこれに応えて交互に斉唱し、最後は大合唱となって終わった。

 聖歌隊が再び上がって来た。そして吾々と同じ場所に立った。その時はすでに階段は消滅していた。どのようにして消えたか、それは私にも判らなかった。

見た時はもうすでにそこに無かったのである。そこで主が両手をお上げになって平地の群集に祝福を与えた。群集はただ黙って頭を垂れていた。それからくるりと向きを変えられて神殿の中へお入りになった。吾々もその後に続いたのであった。




 ザブディエル最後のメッセージ

 さて、私の同志であり、友であり、私が守護を託されている貴殿に、最後に申し置きたいことがある。別れの挨拶ではない。これよりのちも私は常に貴殿と共にあり、貴殿の望みに耳を傾け、そして答えるであろう。

いついかなる時もすぐ近くに居ると思うがよい、たとえ私の本来の住処が人間の距離感では遥か彼方にあっても、吾らにとってはすぐ側に居るのも同然であり、貴殿の考えること望むことそして行うことにおいて、常に接触を保ち続けている。

なぜなら、私にはその全てについて評価を下す責務があるからである。それ故、もしも私が友として援助者として貴殿に何らかの役に立ってきたとすれば、私が下した評価において貴殿が喜ぶように私も貴殿のことを喜んでいるものと心得るがよい。

七つの教会の七人の天使のこと(七章2)を思い出し、私の立場に思いを馳せてほしい。

更に又、いずれの日か貴殿も今の私と同じように、自分の責任において保護し指導し監視し援助し、あるいは人生問題に対処し、正しい生き方を教唆すべき人間を託されることになることを知りおくがよい。

では祝福を。もしかして私は再び貴殿と語る手段と許しとを授かることになるかも知れない。同じ手段によるかも知れないし、別の簡単な手段となるかも知れない。それは私も今は何とも言えない。貴殿の選択に任されるところが多いであろう。

ともあれ、何事が起ころうと常に心を強くもち、辛抱強く、あどけない無邪気さと謙虚さと祈りの心を持って事に当たることである。

 神の御恵みのあらんことを。私はこれをもって終わりとするに忍びないが、これも致し方ないことであろう。

 主イエス・キリストの御名のもとに、その僕として私は常にすぐそばに居ることをつゆ忘れるでないぞ。 アーメン    ♰   
              ザブディエル





 訳者あとがき

 第一巻はオーエン氏の実の母親からの通信が大半を占めた。その親子関係が醸(かも)し出す雰囲気には情緒性があり、どこかほのぼのとしたものを感じさせたが、この第二巻は一転して威厳に満ちた重厚さを漂わせている。

文章も古い文語体で書かれ、用語も今日では〝古語〟または〝廃語〟となっているものが数多く見受けられる。

が、同時に読者はその重厚な雰囲気の中にもどこかオーエン氏に対する温かい情愛のようなものが漂っていることに気づかれたであろう。最後のメッセージにそれがとくに顕著に出ている。もしそれが読み取っていただけたら、私の文章上の工夫が一応成功したことになって有難いのであるが・・・

実は私は頭初より本書を如何なる文体に訳すかで苦心した。原典の古い文体をそのまま日本の古文に置き換えれば現代人にはほとんど読めなくなる。それでは訳者の自己満足だけで終わってしまう。

そこで、語っているのがオーエン氏の守護霊である点に主眼点を置き、厳しさの中にも情愛を込めた滋味を出すことを試みた。それがどこまで成功したかは別問題であるが・・・

 さて、その〝厳しさの中の情愛〟は守護霊と人間との関係から出る絶対的なもので、第一巻が肉体的ないし血族的親子関係であれば、これは霊的ないし類魂的親子関係であり、前者がいずれは消滅していく運命にあるのに対し、後者は永遠不滅であり、むしろ死後においてますます深まっていくものである。

ついでに一言述べておきたいことがある。守護霊という用語は英語でも Guardian(ガーディアン) と言い、ともに〝守る〟という意味が込められている。

そのためか、世間では守護霊とは何かにつけて守ってくれる霊という印象を抱き、不幸や苦労まで取り除いてくれることを期待する風潮があるが、これは過りである。

守護霊の仕事はあくまでも本人に使命を完うさせ宿命を成就させるよう導く事であり、時には敢えて苦しみを背負わせ悲劇に巻き込ませることまでする。そうした時、守護霊は袖手(しゆうしゆ)傍観しているのではなく、ともに苦しみともに悲しみつつ、しかも宿命の成就のために霊的に精神的に援護してやらねばならない。

そうした厳粛な責務を持たされているのであり、その成果如何によって守護霊としての評価が下されるのである。

そのことは本文の〝七つの教会〟の話からも窺われるし、シルバーバーチの霊訓が〝苦難の哲学〟を説くのもそこに根拠がある。

 守護霊にはその守護霊がおり、その守護霊にもまた守護霊がいて、その関係は連綿として最後には守護神に辿り着く。それが類魂の中の一系列を構成し、そうした系列の集合体が類魂集団を構成する。言ってみれば太陽系が集まって星雲を構成するのと同一である。

 その無数の類魂の中でも一ばん鈍重な形体の中での生活を余儀なくさせられているのが吾々人間であるが、それは決して哀れに思うべきことではない。

苦難と悲哀に満ちたこの世での体験はそれだけ類魂全体にとって掛けがえのないものであり、それだけ貴重なのであり、それ故人間は堂々と誇りをもって生きるべきである、というのが私の人生観である。

 ただし一つだけ注意しなければならないのは、この世には目には見えざる迷路があり、その至る所に見えざる誘惑者がたむろしていることである。大まじめに立派なことをしているつもりでいて、その実とんでもない邪霊に弄(もてあそ)ばれていることが如何に多いことか。

 では、そうならないためにはどうすべきか。それは私ごとき俗物の説くべきことではなかろう。読者みずから本書から読み取っていただきたい。それが本書の価値の全てとは言えないにしても、それを読み取らなければ本書の価値は失われるのではなかろうか。

 一九八五年九月
                                近藤千雄

Saturday, August 8, 2026

シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

 A Voice in the Wilderness

トニー・オーツセン(編)近藤千雄(訳)




8章 絶望してはなりません


今から半世紀もさかのぼる一九三六年に、時の英国王エドワード八世が二度の離婚歴をもつ米国人女性ウォリス・シンプソンとの結婚のため王位を放棄することを宣言して、英国全土が危機的な事態に陥った。近代になって英国の君主制がこれほどの試練と動乱に遭遇したことはかつてなかった。

その話題は当然のことながらハンネン・スワッファー・ホームサークルにおいても持ち出された。意見を求められてシルバーバーチが述べた。


「大変困難な事態が続きましたが、今やっと収拾へ向かいはじめました。この度の事件には学ぶべき大きな教訓があることを申し上げたいと思います。

いかなる事態にあっても、永遠なるもの、霊的なものから目を逸らしてはなりません。この場合もあまり英国の王政や王権にこだわった考え方ではなく、神の統治する国ということを念頭に置いた考え方をしなくてはいけません。地上世界はまだまだそれからは程遠いのです。

しょせんは一個の人間にすぎない者に過度の崇敬を向けてはなりません。宇宙にはたった一人の王、全生命の王しか存在しないことを忘れないでください。その王の御国においてはすべての住民が等しく愛され、豊かな恩寵が欲しいだけ分け与えられるのです。

王室の華麗さに魅惑されて肝心な永遠の実在から目を逸らしてはなりません。他方には悲劇と暗黒の中にいる人、その日の食べものにも事欠く人、太陽の光も届かない場所で生活している人――要するに大霊が用意された恩恵に十分に浴せない人たちがいることを忘れてはなりません。

王室一個の問題よりもっと大きな仕事、もっと大きな問題へ関心を向けてください。涙ながらに苦境を訴えている一般庶民のことを忘れてはなりません。その痛み、その苦しみ、その悲しみは、王室一個の難事よりもはるかに、はるかに大きいのです」

ここで司会のハンネン・スワッファーが「私がサイキックニューズ紙に発表した論評は読者から指摘されている通り辛辣(らつ)すぎたでしょうか」と尋ねた。スワッファーの記事を読んですぐに抗議の手紙を寄せた人が何人かいたのである。そのうちの一人は“これほど薄情な意見を読んだことがない”と書き、もう一人は“非紳士的で男らしくなく、度量に欠け、しかも非キリスト教的である”と決めつけていたのである。するとシルバーバーチが答えた。


「そんなことはありません。真実を述べれば、それは必ずや人の心に訴えるものです。時には迷信と偏見による抵抗にあうことはあっても、そうした壁はそのうち崩れていきます。あなたの論評は昔だったらとても公表できなかったでしょう。しかし今あなたは現実に公表しました。

もとより、反論する人はいるでしょう。しかし、その数は取るに足りません。そういう人はまだ精神構造の中に古い伝統的な概念がしつこく残っている人たちです。論理と分別心とで判断できない人です。あなたはそういう人に自然の摂理の存在を教えたことになります。その摂理こそ、唯一、大切なものです。

感情的ないちずさから胸をたぎらせても、その熱が冷めると否応(いやおう)なしに現実に直面せざるを得なくなります。そこに地上でのあなた方の役割があるのです。すなわち、幻影のベールを剥ぎ取り実相を明らかにするのです。中には真理の光のまばゆさに耐えきれない人もいます。しかし構うことはありません。そういう人はまだそれを受け入れる用意ができていないということなのですから。

真理がすべてに優先します。真理が近づくと無知は逃げ去ります。いつかは必ずわれわれが優位を占めるのは、われわれの主張が真実だからこそです。もとより“われわれが優位を……”と言っても、“道具”であるわたしや皆さんのことを言っているのではありません。われわれが道具となって代弁しているもの、すなわち大霊の愛の大きさ、大霊の恩寵の無限性、全人類に分け隔てなく配剤されている愛と叡智と知識のことです。

そうした大霊の顕現を妨げるものはすべて排除しなければなりません。人工の教義への隷属状態はすべて解きほぐさないといけません。あらゆる障害物を取り除かないといけません。それが、皆さんとともにわたしたちが携わっている仕事なのです。

わたしは自分がこれまでに学んできたものの中から実に素朴なものを幾つか述べているだけです。たとえそれが何でもない人間生活の基本的原則のおさらいをさせるに過ぎなくても、やはりそれが何より大切であると確信するからです。

日常の仕事にあくせくとし、次から次へと生じるゴタゴタに係わっていると、皆さんもうっかりすると人生の基本である永遠の霊的原理を忘れがちです。そこでわたしが改めてそれを認識させてあげれば、皆さんはぼやけた焦点を回復し調和を取りもどして、一段と大きな奉仕に励むことができるわけです。

地上世界はまだまだ学ばねばならないことが沢山あります。が、皆さんの義務が大きいだけ、それだけ多くの犠牲を強いられることになります。手にされた知識が大きいだけに、責任もそれだけ大きくなります。しょせん代価なしには何も手に入れることはできません。支払うべき代価というものがあるのです」

その日から一カ月さかのぼった一九三六年十一月初旬に、シルバーバーチが第一次大戦の休戦記念日(十一月十一日)の恒例となっているメッセージを述べた。そのメッセージと、さらに一年のちのメッセージとを紹介し、その内容についての一問一答を併せて紹介して参考に供したい。


「あと数日もすれば英国全体の思いが戦争で物的身体を犠牲にした大勢の人々に注がれますが、この時に当ってわたしから皆さんに申し上げたいことがあります。それは、その日は数知れない大霊の子が今なお為政者によって裏切られ続けていることを思い起こさせる日でもあるということです。

彼らの犠牲が結局は無駄になっているということです。この聖なる日を迎えるたびに皆さんの一人ひとりが、地上に平和と調和と幸せを招来する道はいたって単純な原理をいくつか実行すればよいことを思い起こすことが大切です。

つまり地上世界は何かにつけて貪欲と利己主義が優先しているから戦争と貧困、飢餓と悲劇、災難と混乱が絶えないのです。せっかく届けられた大霊からのメッセージもそのうち忘れ去られ、無視されます。本来なら率先して説かねばならない立場にある聖職者すらそれを無視するようになります。そのくせ困ると神に祈ります。

一時的に権力を握ったところで、そんなものは霊的実在の前では物の数ではありません。霊的なことを口にすると一笑に付す人がいますが、地上のトラブルの解決法は、すべての人間が善意の精神で霊的真理を物的問題に適用するようにならないかぎり見出せません。

現在の地上の状態は休戦が宣告された時(一九一八年)よりも更に凶事に近づいております。実に深刻で恐ろしい事態に近づきつつあります。流血の争い、大規模な流血へ向けて一目散に突っ走っております。

わたしには確信があるからこそ、厳粛な気持ちでそう申し上げるのです。未然に防ぐ可能性がまったくないわけではありません。しかし、それはお互いがお互いのためを願う人たちみんなの努力――オレがという思い上がった気持ちは別です――それが貪欲と利己主義の勢力に打ち勝った時でしかありません。

戦争から平和は生まれません。悲劇から幸福は生まれません。悲哀の涙から愉(たの)しい笑いは生まれません。地上にはすべての人に行きわたるだけのものが用意されているのです。しかし、そこに貪欲が立ちはだかります。剣にて支配せんとする者は剣にて滅びます。それは今でも同じです。

しかし、真っ暗い闇の中にも一条(すじ)の希望の光が見えております。絶望してはなりません。皆さんはこれぞ真理と確信するものにしがみつくことです」

それから一年後の“休戦記念メッセージ”でシルバーバーチは、スペインの内乱(一九三六~三九)に言及した。それというのも実はバーバネルが夫人とともにたまたまスペインへ行っていてその内乱に巻き込まれ、兵士によってフランス国境まで護送されるというハプニングがあったのである。シルバーバーチは語る――


「毎年この日を迎えるごとに、戦争による犠牲の空しさを痛感させられます。あなた方はたった二分間を“英霊”のために捧げて黙祷して、そのあと一年間は忘れております。そして一年後にまた棚から下ろしてホコリをはたくということを繰り返しております。

戦死者の犠牲はまったく無意味でした。言うなれば、これまでの十九年間ずっと磔刑(はりつけ)にされ続けているようなものです。“大いなる戦い”(※)などとおっしゃいますが、その“大”とは殺りくの量、無益な殺人の多さでしかありません。“すべての戦争を終わらせるための大いなる戦い!”(第一次大戦はそれを大義名分として戦った)――なんと空虚な、なんと都合のよい言葉でしょう!

皆さんは地上にあって可能なかぎりの犠牲、時には生命を捨てることも辞さなかった人たちが死後ずっと幻滅の時を過ごしてきていることに思いを馳せたことがありますか。彼らは地上生活での青春の真っ盛りに生命を断たれたのです。まだ霊界の生活に十分な備えができていないうちに送り込まれたのです。もとより文明を守るという一つの理想に燃えて喜んで死んでいったのですが、それがずっと裏切られ続けているのです。

今もって地上から戦争はなくなっておりません。たとえ前回の戦争の“戦死者”に称賛の手向(たむ)けをしても、東洋においても、今またスペインにおいても戦乱の止む時がなく、これからも二分間の休みもなく、殺し合いが続くことでしょう。

真の平和は物的な問題に霊的摂理を適用するようにならないかぎり訪れないということが、なぜ地上の人には解らないのでしょうか。戦争、そしてその結果としての流血と悲劇と涙、さらには混乱と騒乱と災禍と破綻の原因は、元はといえば利己主義にあるのです。

その利己主義を互助の精神と置き替えてはじめて平和が到来すること、物量主義と権力を第一に考える古い概念と国威発揚の野望を捨て、それに代わってお互いが助け合って生きようとする精神――強い者が弱い者を助け、余るほど持っている人が足らない人に分けてあげるという関係にならなくてはいけません。

これ以外の方法はすべて試みられ、そして失敗に終わっています。霊的真理の適用という方法のみがまだ試みられておりません。それが実行されないかぎり地上には戦争と流血は跡を絶たず、それは最終的には、地上人類が誇りとしている文明を破壊してしまうことになるでしょう」


※――英語では第一次および第二次世界大戦のことを文字どおりWorld War Ⅰ、World War Ⅱと呼ぶのが一般的であるが、第一次大戦だけを Great War“大いなる戦い”と呼ぶことがある。これは、このあとに出ている“すべての戦争を終わらせるための大いなる戦い”という大義名分から自然にそう呼ばれるようになったのであろう。

「文明とは何かについてお話いただけませんか」


「一方に天賦の資質としての自由意志があり、これを正しく使用しないと代償を支払わされます。そして他方には、従わねばならない摂理というものがあります。摂理にのっとった生き方をしていれば恩恵という形での収穫があります。逆らった生き方をすれば、それ相当の結果を刈り取らねばなりません。一方は平和と幸福と豊かさをもたらし、他方には悲劇と争いと流血と混とんをもたらします。

わたしたちは、本来ならばその人たちこそ大霊の子を導くべきである立場の人たちから軽蔑されております。大霊の御名とその愛をたずさえて来ているのですから本当は歓迎してくれるべきなのですが、なぜか嫌われております。そうした中にあっても、わたしたちは地上人類のためを思う一心から、自らの力で地上を救う方法を教えてくれるものとして、その摂理と霊力の存在を説き明かそうと努力しているのです。

霊的な無知に浸りきり、まわりを儀式と祭礼で固め、しかも今現在でも大霊の力(聖霊)が降りることを否定している人たちは、いつかはその代償を支払わねばならなくなります。

わたしたちは人のために役立ちたいと願う人たちにとっては味方であり、伝統的な規範に合わないものはすべて破壊せんとする人たちにとっては大敵です。わたしたちは愛と奉仕の翼にのって地上へ舞い下り、いつどこでもお役に立つ用意ができております。それがわたしたちに課せられた大きな仕事なのです。

地上人類は古い伝統を、ただ古くからあるものというだけで大事にしすぎます。真理と時代とは必ずしも手を取り合って進むものではありません。幼児の頃から教え込まれた大事な信仰を捨て去ることの難しさは、わたしにもよく解ります。しかし、魂は理性が拒否するものをすべて捨て去ってはじめて自由になれるのです。それを潔く実行できる人が果たして何人いることでしょう」

「信仰を理性で検証するなどということは思いも寄らない人が多いのではないでしょうか」


「まったくその通りです。危険をはらんだ未知の世界へ踏み込むよりも、勝手を知った隠れ家にじっとしている方が良いというわけです。そして、もう一つ忘れてならないのは、地上では先覚者はあまり歓迎されないのです。大てい非難を浴びております」

「あなたは“霊的計画”をよく口にされますが、私たちには一向にそれらしき成果は見えないのですが……」


「物質の目でごらんになっているから見えないのです。皆さんは短い地上人生を尺度として進歩ぐあいを計っておられますが、わたしたちは別の次元から見つめております。

わたしたちの目には霊的知識の普及、霊的真理の理解の深まり、寛容精神の盛り上がり、善意の増大、無知と迷信と恐怖心と霊的隷属状態という障壁の崩壊が見えております。

瞠目(どうもく)するような急激な変革を期待してはいけません。そういうことは絶対に有りえないのです。霊的成長はゆっくりとした歩みの中で得られるものだからです。

絶望すべき要素はどこにも見当りません。もっとも、強まる一方の物量第一主義の風潮を見ていると絶望したくもなるでしょう。が、他方には霊的真理の光が物的利己主義のモヤを突き抜けていくにつれて、希望もまた強まりつつあります。知識が広がり続けるかぎり、勝利はきっと真理の上に輝きます。

だからこそ、こうした席でのメッセージが大切なのです。わたしたちにとって大切なのではありません。皆さんにとって大切なのです。わたしたちはただ、このまま放置しておくと地上世界はその利己主義、野蛮ともいうべき無知、そして故意の残虐行為の代償を支払わされる大変な事態になることを知っていただきたいと思って、こうして頑張っているのです。ひたすら皆さんのためを思っているのです。援助したいのです。なぜなら、わたしたちには無私の愛があるからです。

わたしたちは地上人類を破滅の道へ誘い込もうとしている悪霊の集団ではありません。人間の尊厳を傷つけたり、無慈悲なことや罪なことを言うようなことはいたしません。それどころか、皆さんの内部に潜在する神性、大霊の力を認識していただき、互助の精神を実行して大霊の計画の推進に協力してほしいと願っているのです」

「これまでの文明を破壊してしまうという考えはいかがでしょうか」


「たとえ悪い面はあっても、現代の文明を引き継ぐ方がはるかに賢明です」

「こうまでおかしくなってしまった以上、いっそのこと破壊して一からやり直した方がよいとは思われませんか」


「思いません。なぜなら、今や霊的真理の光が世界中に浸透しつつあるからです。霊力が浸透する通路があるかぎり、その世界が存在し続けるためのエネルギーが届けられます。何事も霊の貯蔵庫があるからこそ存在していることを知らないといけません」

別のメンバーが、この前の戦争で戦死した人たちの犠牲がすべて無駄に終わったというのは少し酷ではないか――それを聞いて心を傷める人もいるのでは、といった主旨のことを述べた。するとシルバーバーチが――


「純粋無垢の真理は時として苦(にが)く、また心を傷つけることがあるものです。しかし、あくまでも真実なのですから、いずれは良い結果を生みます」

「その犠牲からほんとに何一つ良い事は生まれなかったのでしょうか」


「わたしには何一つ見出せません。地上世界は“大いなる戦い”が始まった時よりもさらに混とんへ近づき、破滅的様相を呈しております」

「あれほどの英雄的行為が無駄に終わるということが有りうるのでしょうか。霊的な反響はないのでしょうか」


「犠牲になった兵士の一人ひとりにはそれなりの報いがあります。動機が純粋だったからです。しかし忘れてならないのは、地上世界全体としては彼らを裏切っていることです。犠牲が何一つ報われていないということです。相も変わらず物質第一主義がはびこっております」

「こうした休戦記念行事を毎年催すことは意義がありますでしょうか」


「たとえ二分間でも思い出してあげることは何もしないよりはましでしょう。ですが、ライフルや銃剣、軍隊、花火、そのほか戦争と結びついたもので軍事力を誇示することによって祝って、いったい何になるのかと言いたいわけです。なぜ霊的な行事で祝えないのでしょうか」

別のメンバーが――

「スピリチュアリズム的な行事を催すことには賛成ですか」


「真実が述べられるところには必ず徳が生まれます。もちろんそれが奉仕的精神を鼓舞するものであればのことです。大見得を切った演説からは何も生まれません。またそれを聴く側も、いかにも自分たちが平和の味方であるかの気分に浸るだけではいけません。

わたしは“行為”を要求しているのです。人に役立つことをしてほしいのです。弱者を元気づけることをしてほしいのです。病気の人を癒してあげてほしいのです。喪の悲しみの中にいる人を慰めてあげてほしいのです。住む家もない人に宿を貸してあげてほしいのです。地上世界の恥ともいうべき動物への虐待行為を止めさせてほしいのです。

平和は互助の精神からしか生まれません。すべての人が奉仕的精神を抱くようになるまでは、そしてそれを実行するようになるまでは、平和は訪れません」

不戦主義、すなわち参戦を拒否する一派の運動をどう思うかと問われて――


「わたしはいかなる派にも与(くみ)しません。わたしにはラベルというものがないのです。わたしの眼中には人のために役立つ行為と動機しかありません。お題目に眩惑されてはいけません。何を目的としているか、動機は何かを見極めないといけません。なぜなら、反目し合うどちらの側にも誠意の人と善意の人がいるからです。わたしが述べる教えはいたって簡単なことばかりですが、それを実行に移すには勇気がいります。

霊的知識と霊的摂理を知ることによって断固とした決意をもつに至った時、そして日常生活のあらゆる分野で私利私欲をなくし互助の精神で臨むようになった時、地上に平和と和合が訪れます。

それは一宗一派の主義・主張から生まれるのではありません。大霊の子のすべてが霊的真理を理解してそれを日常生活に、政策に、経営に、政治に、そして国際問題に適用していくことから生まれるのです。

わたしはこれこそ真実であると確信した宇宙の原理・原則を説きます。だからこそ、これを実行に移せばきっとうまく行きますということを自信をもって申し上げられるわけです。皆さんは物質の世界にいらっしゃいます。最終的には皆さんに責務があります。わたしたちはただ誠意をもってご指導し、皆さんが正しい道から外れないように協力してあげることしかできません。

地上には古いしきたりから抜け出せない人が大勢います。それが宗教的なものである場合もありますし、政治的なものである場合もありますし、自分の想像力でこしらえた小さな精神的牢獄である場合もあります。

魂は常に自由でないといけません。自らを牢の中に閉じ込めてはいけません。まわりに垣根を張りめぐらして、新しいものを受け入れなくなってはいけません。真理は絶え間なく探求していくべきものです。その境界は限りなく広がっていきます。魂が進化するにつれて精神がそれに呼応していくからです」

「その魂の自由はどうすれば得られるのでしょうか」


「完全な自由というものは得られません。自由の度合は魂の成長度に呼応するものだからです。知識にも真理にも叡智にも成長にも限界というものがないことを悟れば、それだけ自由の度合が大きくなったことになります。心の中で間違いだと気づいたもの、理性が拒否するもの、知性が反発するものを潔(いさぎよ)く捨てることができれば、それだけ多くの自由を獲得したことになります。新しい光に照らして間違いであることが判ったものを恐れることなく捨てることができたら、それだけ自由になったことになります。それがおできになる方が果たして何人いることでしょう」

そう言われてメンバーの一人が、経済的な事情からそれが叶えられない人もいるのではないでしょうかという意見を出すと――


「それは違います。経済的事情は物的身体を束縛することはあっても、魂まで束縛することはできません。束縛しているのは経済的事情ではなくして、その人自身の精神です。その束縛から解放されるための叡智は、受け入れる用意さえあればいつでも得られるようになっております。しかしそれを手に入れるための旅は自分一人で出かけるしかないのです。

果てしない旅となることを覚悟しなければなりません。恐怖や危険も覚悟しなくてはなりません。道なき道を行くことになることも覚悟しなければなりません。しかも真理の導くところならどこへでも付いて行き、間違っていることは、それがいかに古くから大事にされているものであっても、潔く拒絶する用意ができていなければなりません」
祈り




ああ、真白き大霊よ。

あなたの愛の崇厳さ、あなたの叡智の無限性、あなたの真理とインスピレーションの豪華さはどう表現すればよろしいのでしょうか。あなたは全生命の大法則――宇宙に展開する大パノラマの中に顕現している極大の生命も、想像を絶する極微の生命も包摂する大摂理にあらせられます。

あなたの摂理は生命のあらゆる現象を通して絶対的に支配しております。摂理としてすべての存在の中に表現されており、何一つとしてあなたを離れては存在し得ぬのでございます。昇っては沈む太陽の美しさの中に、淡い月の光の中に、夜空に輝く星の光の中に、小鳥のさえずりの中に、風にそよぐ花や松の梢(こずえ)に、小川のせせらぎに、そして寄せては返す大海のうねりの中にあなたが存在したまうのでございます。

またあなたは稲妻の中にも雷鳴の中にもいらっしゃいます。上にも下にも内にも外にもいらっしゃいます。あなたは生命の大霊にあらせられ、すべての愛、すべての力、すべての現象があなたに包摂されているのでございます。

さて、あなたの道具としてあなたからのメッセージを託されたわたしたちは、今なお肉の宮に閉じ込められている子等があなたの霊性の領域を見出し、彼らもあなたの霊の一部にほかならぬこと、彼らの一人ひとりにあなたの分霊が吹き込まれている事実を認識せしむべく、あなたの真実の姿を説き明かしたく存じます。

ああ、大霊よ。

暗闇と混とん、不信と嫉妬心、猜疑心と争いに満ちたこの地上にあって、わたしたちは、あなたの啓示の水門が開かれて霊の威力が、あなたのメッセージを地上の全民族へもたらさんとしている善意と愛に満ちた同志に届けられ、人類が一国の利害を超えてお互いのために生きそして地上にあなたの御国を実現する、その理想へ一歩でも近づいてくれることを祈るものです。

願わくばあなたのインスピレーションを受ける通路(チャンネル)(霊媒・霊覚者)が俗信に捉われず俗物に汚されることなく、彼らを通じてあなたのメッセージがふんだんに流入して、ますます多くの子等があなたの真理のイルミネーションの中へ導かれんことを。

また願わくば子等が自分を包む霊力の何たるかをますます認識することになりますように。

願わくば子等が、これまでも彼らにインスピレーションと導きを授け、人に役立つ道を歩ませてきたあなたの強大なる威力(背後霊)の存在に気づき、内在するあなたの霊性を存分に発揮することになりますように。

シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

 A Voice in the Wilderness

トニー・オーツセン(編)近藤千雄(訳)




7章 ああ、真白き大霊よ


最近ではシルバーバーチの交霊会の様子がカセットテープに録音され、世界中の数え切れない人々によって愛聴されているが、古くさかのぼると、かつては蓄音機用に何枚か吹き込まれたこともあったのである(*今では廃盤となっている)。

最初のレコーディングはできぐあいから言うと失敗だった。マイクの位置が遠すぎたためであるが、シルバーバーチは一言も文句を言わないどころか、ではもう一枚いきましょうと言った。最初のは身内を失った人たちへの慰めのメッセージだったが、「こんどは何にしましょうか」とシルバーバーチの方から言うので、司会のスワッファーが「“新しい時代”について述べられては?」と提案した。

するとシルバーバーチは一瞬のためらいもなく「では始めます」と言って、合図とともに語り始めた。そして、ぎりぎりの時間内で終わった。残念ながらそのレコードはもう手に入らない。

こうしてその日は全部で四枚の録音を行った。祈りが二枚とメッセージが二枚だった。なんと、その四枚とも一秒の違いもない、同じ長さだった。

録音の要領は、スタートを知らせるために列席者の一人が一から九まで数えて、十のところで係の者がスイッチを入れ、それと同時にシルバーバーチが語り始め、終わる三十秒前に霊媒の身体に手を触れる。するとピッタリ最後の一秒のところで終わった。霊界でリハーサルをしてきたわけではないとのことだった。

では当日の録音の中身を紹介しよう。


「まず初めに生命の大霊に祈りを捧げます。

王の中の王、造化の大霊、完全なる摂理の背後の無限なる知性にあらせられるあなた――あなたは全知にして全能なる存在におわします。あなたは無始無終に存在したまいます。なぜなら、あなたの霊は全宇宙に満ち、すべてがあなたの反映だからでございます。

しかし同時にあなたの神性はおのれを人のために役立てんと努める者の人生の中にも示されております。なぜなら、そこにあなたの神性が本来の表現の場を見出し、発現すればするほど既得の権力、憎悪、残虐、迷信、そして無知と闘うことになるからでございます。

わたしたちは完全なる愛と叡智の権化にあらせられるあなたに敬虔なる讃仰の気持ちを捧げ、あなたを荘厳なる存在そのままに啓示せんと努めているところでございます。これまで幾世紀にもわたってあなたは、直観力と洞察力とをそなえた少数の者を例外として、人類によって誤解されてまいられたからでございます。

あなたは復讐心を燃やす嫉妬ぶかい暴君ではございませぬ。あなたは全生命の大霊にあらせられます。なぜなら、あなたの霊は全宇宙のすべての子らに宿りたまい、永遠にあなたと結びついているからでございます。あなたの霊ありてこそ子らの存在があるのでございます。あなたの霊ありてこそ子らは死の彼方の世界にも存在し続けるのでございます」

この祈りの長さは三分だった。二分半が経過し、レコードはあと三十秒しかないという時点での印象では、まだ半分しか終わっていないような雰囲気だった。が、ぴったり最後の一秒で終わった。

では次に、録音としては失敗に終わった、身内の人を失った人たちへの慰めのメッセージを紹介しよう。


「皆さんからシルバーバーチと呼ばれている霊から、死によって愛する人を永遠に奪われたと信じて嘆き悲しみ、目に涙を浮かべておられる人たちへ、慰めのメッセージを贈りましょう。

自ら死を体験したのち三千年の霊界生活を体験してきたこのわたしから是非とも申し上げたいのは、死は愛する者どうしを裂くことは絶対にできないということです。愛はすべての障害を打ち砕きます。愛は必ずやその愛する相手を見つけ出すということです。

愛する人がこの残虐と誤解と無知の世界から、内部の神性がより豊かに発現される世界へと連れて行かれたことを泣いて悲しむのはお止めなさい。神があなたの庭から一本の花を抜き取って神の庭へ植え代えられたことを悲しんではなりません。その庭で、あらゆる制約と束縛とから解放されて、内在する香りをより多く放つことになるのです。

死も生命の法則の一環であることを理解してください。生と死はともに大霊のものであり、ともに大霊の摂理を教えるために使用されているのです。涙をお拭きなさい。悲しむのは間違いです。なぜなら、愛する人は今もなおあなたの身近にいらっしゃるのです。死は愛を滅ぼすことはできないのです。大霊が永遠であるごとく愛も永遠なのです」

終わると係の者が

「今のをお聞きになってみられますか。一度だけなら傷つけずにおかけできますよ」と言うとシルバーバーチが――


「せっかくならこの霊媒が入神から覚めてからにしましょう。彼にも聞かせてやりたいですから……」と言った。

が、係の者は「二度かけても大丈夫ですよ」と言ってさっそくかけてみると、音声が低すぎてうまく録音されていないことがわかった。

マイクの位置が遠すぎたためだった。

係の者が「もう一度同じものをお述べになることができますか」と聞くと――


「いえ、それはできません。でも別のものならすぐに始められますよ」と言うので、さっそく次の録音に取りかかった。それは次のような祈りだった。


「真白き大霊に祈りを捧げます。

ああ、大霊よ。

聖なる創造主、王の中の王、全生命の背後の無限なる知性にあらせられるあなたを、わたしたちは在るがままのお姿、すなわち完全なる摂理として説き明かさんとしております。

あなたは幾世紀にもわたって誤解され、誤って崇拝されてまいりました。ある人種はあなたのことを残忍にして血に飢え、復讐をたくらみ、嫉妬ぶかく、自分への忠誠を誓う者のみを愛する神として崇めてまいりました。そして彼らはその神罰に恐れおののきつつあなたへ近づいておりました。

わたしたちはあなたを完全なる愛と叡智の権化として啓示いたします。それが完全なる摂理の働きを通して顕現しているのです。その摂理の中に、子等が生命の充実感と豊かさと限りない恩寵を見出すようにとの、あなたの深遠なる配慮がなされているのでございます。

わたしたちの望みはその摂理を地上へもたらし、それによって善意の子等がいっそうの努力と奉仕に励み、地上世界からあらゆる不平等と不正、あなたの王国の地上への実現を阻むものすべてをなくすことです。その目的へ向かってわたしたちは祈り、そして奮励いたします」

これでA面が終わり、続いてB面を始めたところ、シルバーバーチには珍しく発音を間違えるというハプニングが起きた。surface(サーフィス)というべきところをservice(サービス)と言ってしまったのである。


「失敗しました」

シルバーバーチはそう言って、新しいレコードに替えてもらった。用意ができるとすぐに語り始めた。


「地上世界が暗黒に満ち、恐怖心が多くの人間の心を支配し、導きと慰めをいずこに求めるべきかに迷っている今、より高き界層に住み物質の境界を超えて見通すことのできるわたしたちは、自信をもって皆さん方に“万事うまく行っております”と申し上げます。

皆さんは新しい秩序の誕生を今まさに目撃しておられるのです。辺りをご覧になれば、利己主義と物質偏重と貪欲と強欲と残酷の上に築かれた古い世界が滅亡しつつあるのが分かります。スピリチュアリストをもって任じておられる皆さんは、大いなる真理の管理人でいらっしゃいます。前哨地を守る番兵として新しい時代の構築に協力してくださっているのです。

ご自分のことを戦(いくさ)の中の戦に参戦している大霊の兵士とお考えください。悲劇と混乱と破綻とをもたらした無知という暗黒の勢力を撃破するための仕事を支援なさっているのです。

子等が大霊の用意されている恩寵を心ゆくまで満喫できる新しい世界の構築に、皆さんも参加しておられるのです」

Friday, August 7, 2026

シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

 A Voice in the Wilderness

トニー・オーツセン(編)近藤千雄(訳)




6章 摂理は完全であり、自動的に作用します


シルバーバーチの交霊会はおよそ五十年間に及んだ。その間に招待されたゲストもまた大変な数にのぼる。となると当然シルバーバーチが受けた質問はそのゲストの数だけ多種多様であった。その中から興味ぶかいものを幾つか拾って紹介しよう。

ある日の交霊会で菜食主義の是非について問われて――


「こんなことを言うとまたわたしは不評を買うことになるでしょうが、真実は真実として申し上げねばなりますまい。理想的な霊媒のあり方としては、アルコールや肉類、タバコ、その他、人体の質を低下させるものは極力控える方が霊媒の進化にとって良いに決まっています。

地上にあっては霊は肉体を通して自我を表現するしかありません。となれば、その肉体の質が高ければ高いほど霊媒の表現力も大きくなる道理です。したがってその肉体を汚すもの、間違った刺激を与えるものは、いかなるものであっても霊にとっては障害であり良いものではありません。肉体は霊の宿なのですから。

これでもうわたしの答えはお判りでしょう。動物の肉、タバコやアルコールによる刺激があなたの心霊的(サイキック)ないし霊的(スピリチュアル)(※)な能力(パワー)の開発に益があるでしょうか。もちろんないに決まっています。適度に摂取するのであれば害は少ないというのは当り前の理屈ですが、理想を言うならば、霊媒は大地からの産物のみに限るのが好ましいと言えます」


※――“サイキックパワー”というのは五感の延長としての霊能、いわゆる超能力のことで、これは人間よりもむしろ動物や生物の方が発達している。これに背後霊の援助が加わって高次元の世界とのつながりに発展したものをシルバーバーチは“スピリチュアルパワー”と呼んでいる。

「動物を人間の食料や衣服にするために殺すのは間違ったことでしょうか。動物自身は自然界の原理で互いに殺し合っているのですが……」


「こうしたことはすべて程度問題であり、進化の一過程として捉えるべきです。自然界は弱肉強食であるとよく言われていますが、それは大自然の進化の部分的現象にすぎません。大自然がすでに完成されていると述べている霊界通信はないはずです。自然界も進化の途上にあるからです。

理想を言えば――わたしの答えはどうしても理想を述べることになってしまいますが――動物を人間の食料として、衣類として、また(遊牧民の)住まいとするために殺すのは間違いです。しかし、未熟な世界においては完全な理想が実現されることは期待できません。しかし、だからといって、理想へ向けての努力をしないでよいということにはなりません。

どうしても殺す必要がある時は、なるべく苦痛を与えない方法を取らないといけません。残酷な殺し方は止めてください。食料を得るために殺すのは間違いであることを人類が悟る段階まで一足跳びに到達することはできない以上、殺し方をできるだけ苦痛を与えないように工夫してください。

皆さんは変化しつつある世界に生きており、わたしたちも、どうせ今すぐには実現できないと知りつつ、理想を説いております。もしもわたしたちが努力目標としての理想を説かずにいたら、与えられた使命を全うしていないことになります。目標の水準は高めないといけません。低くしてはいけないのです」

次に出された催眠術についての質問で、「これは研究に値するものでしょうか」と聞かれて――


「施術者が善意の目的をもち、その能力を人のために役立たせたいという願望から行うのであれば、もちろん結構なことです。催眠術者も魂の潜在力を使用している点は同じです」

「催眠術者が接触するのは何なのでしょうか」


「大我、すなわち内部の大霊です。何度も申し上げていることですが、人間の各自に内在するその力を自覚すれば、そしてそれを使用することができれば、人間にとって克服できない困難はありません。

その力と接触する方法は霊性を発達させること、波長を高めること、人のためになる生活を心がけること、要するに霊格を高めるようなことです。この世的なものに心を奪われるほど波長は低下し、私利私欲を捨てるほど波長は高まり、接触する波長も高くなり、内部の大霊がより多く発揮されることになります」

「その内部の大霊というのは独立した存在でしょうか。意識的自我とは別個に理性を働かせ、思考し、行動することができるのでしょうか」


「いいえ、その肉体を通して顕現している意識的自我によって条件づけられます。物的世界で生活している間は脳の意識中枢によって程度が左右されます。催眠術によって左右されることはありません。なぜなら施術者は牢の番人のようなもので、牢の扉を開けて自由にしてあげるだけです。

施術者が善意の意図のもとに働けば被術者の内部の神性を刺激するという立派な仕事ができます。しかし同時に、動物性を刺激してしまうこともあるのです。が、どっちにしたところで、今あなたが表現しておられる意識は、いつの日か発揮するであろう大我のホンのひとかけらに過ぎません」

「いささか不満を覚えますね」


「でしょうね。でも、不満を覚えるということは結構なことです。ケチくさい満足は成長の足しにはなりません」

そう述べてから、どんな質問でもなさってくださいと言って、こう続けた。


「知識というのは自分のものとして取っておくためではなく、他人に分けてあげるために与えられるのです。他人に分けてあげることによって、さらに知識の泉に近づくのです。知識は他人にあげることによって減るものではありません。反対に増えるのです。霊的知識を分け与えれば、それだけ霊性が豊かになるのです」

そこで新しい質問が出された。キリスト教をはじめとする伝統的信仰は人間の精神にどのような影響を及ぼすかという質問だった。

それに答えて――


「教義による束縛は地上世界の苦痛のタネの一つです。伝染病や不健康より厄介です。病気による身体上の苦痛よりはるかにタチが悪いものです。なぜなら、それは魂の病気だからです。霊に目隠しをしてしまうのです。

にもかかわらず、大霊の息のかかった叡智が無限にあるというのに人間の浅知恵がこしらえた教義にしがみつこうとする人がいます。牢の中にいた方がラクだと思う人がいるものなのです。自由とは、その有り難さがわかった者のみが手にするものです。

その教義の足枷から逃れることのできたあなたは感謝すべきです。そして、その喜びをもって、こんどは、一人でも多くの人を自由にしてあげるように努力なさるべきです」

続いて“苦の効用”について問われて――


「体験の一つ一つがあなたの人生を織りなしております。皆さんは永遠というものを目先の出来事で裁こうとなさいます。表面上の矛盾撞着に捉われて、人生全体を大霊の叡智の糸が通っていることが理解できないのです。

調和を基調とするこの大宇宙の中で、あなた方一人ひとりが大霊の計画の推進に貢献しておられます。人生の出来事――時には辛く絶望的であり、時には苦しく悲劇的であったりしますが――その一つ一つが、これからたどり行く道に備えて、魂を鍛える役割を果たしているのです。

光と闇、日向と陰、こうしたものは一つの全体像の反映にすぎません。陰なくしては光もなく、光なくしては陰も存在しません。人生の苦難は魂が向上していくための階段です。

困難・障害・不利な条件――これらは魂の試練なのです。それらを克服していくことによって魂がいっそう充実し、向上し、一段と強くそして純粋になってまいります。

あなたは、無限の可能性を秘めた魂の潜在力が、困難も苦痛もなく、陰もなく悲しみもなく、人生の浮き沈みを何一つ体験せずして発揮されると思われますか? もちろんそうは思われないでしょう。

人生の喜び、愉快な笑いの時は、人生の辛酸をなめつくして初めて解るのです。なぜなら、深く沈んだだけ、それだけ高く上がれるからです。地上生活の陰を体験しただけ、それだけ日向の喜びを味わうことができるのです。

体験のすべてがあなたの進化の肥やしです。そのうちあなたにも、肉体の束縛から解放されて物的な曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば、紆余曲折した一見とりとめもない出来事の絡み合いの中で、一つ一つがちゃんとした意味をもち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出させる上で意義があったことを、つぶさに理解なさるはずです。

こちら側にいるわたしたちにとって耐え忍ばねばならない最大の試練は、愛情の絆で結ばれている地上の人間が苦難と闘っているのを目のあたりにしながら、それがその人の魂にとって是非とも必要であるとの認識のもとに手をこまねいて見ていなければならない時です。

地上のいかなる体験も、それに正しく対処し正しく理解すれば、必ずや人間にとってプラスになるものを有しております。いったい何の困難も、何の試練も、何のトラブルも、何の苦痛も、何の悩みもない世界が想像できるでしょうか。そこにはもはや進化向上の可能性がないことになります。克服すべきものが何もないことになります。ただ朽ち果てるのみです」

「魂の成長にとって苦しみが不可欠ならば、なぜ心霊治療のようにそれを軽減する仕事があるのでしょうか」


「その治療を通じて魂を真の自我に目覚めさせることができるからです。病気を治すということは確かに立派な仕事ですが、心霊治療家にはそれ以上に大きな仕事があるのです。すなわち病気が縁で訪れた人に真の自我を見出させてあげることです」

「それに較べれば身体の病気が治るということは大して重要ではないというお考えでしょうか」


「その通りです。物的身体に宿っている皆さんはどうしても地上生活のことだけを念頭におかれます。わたしたち地上を去った者は皆さんの永遠の生命を念頭に置いて、それをホンの一時期のものとして位置づけます。

病に苦しむ人を見て気の毒に思い胸に同情心が湧いてくるのは無理もないことであり、わたしもそれを咎めるつもりは毛頭ありません。しかし、その時のあなたは苦しみの一面のみを見ておられ、その人が苦しみの中で過ごす時間は、その代償として得られる喜びに較べれば実に些細(ささい)なものであるということまでは理解が及びません。

人間にとっては陰の中で過ごす時間の方が日向で過ごす時間よりも長く感じられるようですが、実際はそうではありません。

もう一つ理解しなくてはならないのは、病人のすべてが心霊治療で治るとはかぎらないということです。そこには法則というものが働いており、治療家にも治せない病気というのが出てきます。

病気は治るべき機が熟して治るもので、たまたま治っているのではありません。それは魂が地上的体験を卒業して新しい体験を必要とする機が熟すると死の関門を通過していくのと同じです。不意に死期が訪れるのではありません。すべては法則の働きで決まることなのです。が、その法則の働きの中にはあなたの役割も入っています。あなたも大霊の一部だからです」

「もしも病気治療が借金(カルマ)を支払ってしまうことによって魂にその資格ができた時にはじめて生じるものであるとすれば、その時は治療家のところへ行かなくても治ることになりませんか」


「かりに借金のすべてが支払い済みとなったら――実際にはそういうことにはならないのですが――もはや“苦”によって悩まされることがなくなるはずです。身体が完全な健康状態となるはずだからです。しかし人間は地上にいてもこちらへ来てからでも、常に借金を重ねております」

「病気の治癒が法則によって行われているとなると、治療家にはどんな役割があるのでしょうか」


「病気の人が治るべき段階にくると、治療家がその人のもとを訪れます。あるいは、その人の方から治療家のもとへ赴きます。あなたは永い間ここへ通っておられて人の出会いの不思議さを感じたことはありませんか。到達した進化の段階によってその人を治すべき治療家が決まるのです。

大霊は物忘れをなさいません。摂理は完全であり、自動的に作用します。誰一人として摂理を避けて通ることはできません。自由意志でさえ摂理の一環なのです。そしてその作用は、それがわかる段階まで進化した人にはまる見えなのです」

ここで列席者の一人が自由意志の存在は法則の存在と矛盾するのではないかと反論した。その理由として、もしもすべてが法則によって支配されているとなると、選択まで法則によって決められてしまうことになるので、そこには自由はないことになるはずだと述べた。するとシルバーバーチが――


「あなたが自由意志を行使できる範囲はあなたがこれまでに到達した進化の程度によって決まるということです。言いかえれば、あなたが選択した行為以外のことをしたかも知れないという可能性はない――魂の進化の程度によって決まることだから、ということです」

「それは精神状態が正常でない人の場合にも言えることでしょうか」


「精神が異常をきたすということは、そうなるような何かをしでかしているということです。それも法則の範囲内のことです。異常な精神状態は結果にすぎません」

「選択も法則によって決まるとなると、人生体験が進化に影響を及ぼす余地はないのではないでしょうか。進化までも自動的なものになってしまわないでしょうか」


「そういうことにはなりません。その論理には、あなたも大霊の一部であり無限の神性を秘めているという認識が欠けています。その神性が発揮されるにつれて、あなたはより高い次元の法則の支配を受けるようになるのです。その法則は他の次元の法則と矛盾するものではありません。あなたの霊格が高まったためにその法則との係わり合いが生じたということです。あくまでも“霊格の程度”の問題です。

無限ということは究極がないということです。美の極致にも、音楽の壮厳さにも究極がないのです。その無限の階梯の中にあって個々の魂は、霊格が高まるにつれて、より大きな美と調和の世界へ近づいていくのです。向上するにつれて、より大きな調和の世界が待ちうけているということです。

低い階梯にある間はそれより高い階梯のことは意識できません。が、高い階梯にいて低い階梯のことを意識することはできます。こうした生命の実相を支配している法則の働きは自動的ですから、より高い法則の支配を受けるにはその段階まで霊性を高めるほかはありません」

「でも未来の魂の成長は過去の魂の成長度によって決まるのではないでしょうか」


「そうではありません。過去の成長度があなたを、未来の成長を選択する階梯に位置づけるということです。でも、選択を強要されるのではありません。先に延ばすことはできます」

「ということは、自由意志の行使は自動的でないということでしょうか」


「いえ、自動的です。その時点であなたが取る行動は、さまざまな法則の相互作用によって決まります。その一つ一つの法則は自動的に働きます。その際のあなたの選択は、その段階での魂の成長度における意識の反応によって決められます。霊的自我に目覚めている魂は進化をさらに促進する方向を(たとえ過酷なコースであっても)選択するものです」

「魂が自らの成長を遅らせることができるのでしょうか」


「できます。しかしそれは、物的な脳を通して顕現している物的意識にかかわるものだけです」

別のメンバーが、治してもらえる段階まで来ていない患者は心霊治療で治せないという先の話を持ち出して、そうなるとその患者は実に痛ましいことになりそうだと述べた。するとシルバーバーチが――


「その患者さんはどうなると思われるのでしょうか」

「たぶん死んでしまうと思います」


「それが果たして痛ましいことなのでしょうか。このわたしも“死んでいる”のですよ。少しも痛ましくはありません。あなたは物的な面ばかりを考えていらっしゃいます。

地上というところは実にこっけいな世界です。生命にとって最も重大な体験である“死”をみんな怖がります。牢から解き放されることを怖がります。自由の身となることを怖がります。小鳥はカゴから出るのを怖がるでしょうか。なぜ人間はその肉体というカゴから出るのを怖がるのでしょうか」

「でも、たとえば母親が子供を置き去りにしたくないのは自然の情ではないでしょうか」


「あなたは生命を五、七十年の地上人生のみで考えていらっしゃいます。永遠の生命をこの世的なことだけで判断できるのでしょうか。大霊の叡智をいま生活しておられるチリほどの物質の世界だけで裁いてはいけません。地上には比較の尺度がないのです。生命活動の世界の中でも最低の界層の一つしか見ていない人間に、どうして最高界のことが理解できましょう」

代わって他のメンバーが――

「治してもらえる段階まで来ないまま他界すれば、霊界の自由な生活がエンジョイできます。一方、治るべき段階に来ていた人が治ってしまえば、そのまま地上生活を続けることになりますが、これでは進化していない方が進化した人より幸せということになりそうですが……」


「治るべき段階に来ていたため全治して死を免れたとすれば、それはまだ死ぬべき時機が来ていなかったということと、魂にとって必要だった身体の苦痛が一応そこで終了したことを意味します。しかし、魂が地上を去って新しい世界へ進む前に体験しなければならないことなら、ほかにも沢山あります。肉体の苦痛が人間的体験の究極ではありません!」

キリスト教の悪影響についての先のシルバーバーチの説がまだしっくりこないメンバーが「クリスチャンの中にも立派な方が沢山いると思うのですが」と言うと――


「そういう人はクリスチャンにならなくても立派だった人です」とシルバーバーチが答える。

「でも、イエスの教えに忠実であろうと努力したからこそ立派になった人もいるのではないでしょうか」


「地上の人間が本当にイエスの生きざまを模範とするようになれば、人類史上に新しいページが始まります。しかし、まだそこまでは至っておりません。わたしにはその徴候が見えないのです。忠誠を表明しているはずのイエスを欺(あざむ)きつづけている人のことを、わたしの前でクリスチャンと呼ぶのは止めてください。そのイエス自身が言っているではありませんか――“私に向かって主よ、主よ、と言う者のすべてが天国へ入れるのではない。天にまします父の意志を実践する者のみが入れるのである”と」

「でも、キリスト教の教義には深くかかわらずに立派な無私の生活を心がけているクリスチャンも大勢います」と言って、一例として有名な牧師の名前をあげた。

するとシルバーバーチは――


「あの方は立派なクリスチャンではありません。クリスチャンとしては立派な人ではありません。が、人間としては立派な方です。

いいですか、教義というものは例外なく魂にとって足枷となるのです。人間は教義のお蔭で立派になるのではありません。教義を無視しても立派になれるのです。教義の名のもとに同胞を殺し、教義の名のもとに同胞を焼き殺した歴史があります。魂を縛るもの、魂を閉じ込めるもの、その自由な発想を妨げるものはすべて一掃しなくてはいけません」

なおも納得しないその質問者は、ハンセン病患者の施設を見舞う牧師の話を持ち出した。するとシルバーバーチが――


「その人たちは教義に動かされて行くのではありません。魂がそうしてあげたいと望むから行くのです。宗教とは教義を超えたものです。教義は宗教ではありません」

つづいて信仰の問題がメンバーの間で論議されたあと、シルバーバーチがこう締めくくった。


「ただそう信じるというだけの信仰では、厳しい体験の嵐が吹き荒れるとあっさりと崩されてしまいます。が、霊的事実を土台として生まれた信仰はいかなる嵐が吹いてもビクともしません。

目で確かめずして信じることのできる人は幸いです。しかし、確かめた上で信じ、なおかつ、宇宙が愛と叡智の摂理によって支配されているとの認識のもとに、まだ啓示されていないものまで信じることのできる人は、その何倍も幸せです。

わたしたちがお教えしていることは、至って簡単なことばかりです。にもかかわらず、わたしたちのことを悪魔の手先であると決めつけたがる人がいます。わたしたちは、自然の摂理の働きをお教えしようとしているのです。それによって皆さんが生活を正しく規制し、生命の大霊と調和することによって内部から湧き出る幸福感を味わっていただくためです」

祈り


ああ、真白き大霊よ。

全生命の裁定者にあらせられるあなた。“死”の存在しない御国の主にあらせられるあなた。わたしたちは、全てを包摂して慈しまれ、大自然の法則の一大パノラマの中に顕現しておられるあなたを啓示せんと務めている者たちでございます。

わたしたちはあなたを完全なる公正と叡智の大霊、全生命に潜在し、生きとし生けるもの全てに表現されている存在として啓示いたします。

ああ、大霊よ。あなたは無窮にして無限、子等の理解力を超えた存在にあらせられます。しかし、それでもなおあなたを知ることは可能でございます。なぜならあなたは、物質の次元と霊の次元の区別なく、あらゆる生命の相に顕現しておられるからでございます。

あなたは小鳥のさえずりの中に存在します。夜空の星のまたたきの中に、雨滴のきらめきの中にあなたを見ることができます。小川のせせらぎの中に、ミツバチの羽音の中に、風に揺れる木々の枝の中にいらっしゃいます。轟く雷鳴の中にも大海の怒濤の中にもあなたがいらっしゃいます。またあなたは昇りゆく太陽の中にも淡い月の光の中にもいらっしゃいます。

あなたは生命のすべての相の中におられます。しかし、人間の霊性があなたの愛と善性とを奉仕と自己犠牲と理想主義の行為の中に顕現せんとして躍動する時、最もあなたに近い形でその存在をお示しになられます。

霊の世界から派遣されたあなたの使者であるわたしどもは、かつて限られた少数の人間のみに啓示され、今は物的領域を超えてあなたの計画を垣間(かいま)見ることのできる者すべてに啓示されつつある摂理の働きを、あなたの働きそのものとして啓示せんとしているところでございます。

物質の束縛を解かれ、今はより大きな世界において生命活動を営んでいるわたしどもは、あなたの法則にのっとって地上へ舞い戻り、愛は消えることなくいつまでも相手を捜し求めるものであることを教え、慰めと確信、導きと希望、知識と霊感、叡智と真理を地上の同胞にもたらさんとしているところでございます。

かくして離別の悲しみと愛による再会という体験の中で、あなたの子等は内在するあなたの霊性を認識するようになり、霊界からの鼓舞を受けてあなたの道具として献身し、苦しむ者を救い、あなたの霊性を日常生活の中で発揮し、すべての者にあなたの御心をもって接するようになることでございましょう。

わたしたちもその御心を体(たい)して地上へ戻り、いずこにおいても手助けすることを心がけ、地上の全人類を結びつけている霊的な絆(きずな)を強化し、全生命の背後の一体性を認識せしめんとしているところでございます。

願わくばあなたの御力が地上におけるあなたの神殿たらんと志す全ての通路(ひと)を通して顕現し給わんことを。

ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

Thursday, August 6, 2026

シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

 A Voice in the Wilderness

トニー・オーツセン(編)近藤千雄(訳)




5章 あなたが大霊なのです


「霊的真理の威力が皆さん方を一堂に集めたのです。その場で各国の代表と協議を交わして、新たな力と新たな勇気を見出されました。これより新たな理解と新たな希望を胸に秘めて、それぞれのお国へ帰られるわけです」

これは九月のある日曜日の夜、ロンドンでの国際スピリチュアリスト連盟(※)の総会に出席した世界各国の代表の中から特別に招待された人々を前にして述べたシルバーバーチのメッセージの冒頭の言葉である。


※――ISFの略称で呼ばれている国際組織で、二、三年に一度の割で不定期に開催されている。ちなみに第一回は一九二三年にベルギーで、第二回は一九二五年にパリで、第三回は一九二八年にロンドンで、といったぐあいに開かれ、これまでに十四回開催されている。第三回総会には日本から浅野和三郎が出席して演説し注目を集めた。ここで紹介されている総会が何年のことであるかは定かではないが、多分、ロンドンにおける二度目の総会のことであろう。

シルバーバーチは続けてこう語った。


「この物質の世界は、もうこれ以上、霊の声に知らんふりをし続けることはできません。今まさに大きな岐路に立っており、どっちの道を選ぶかの選択を迫られております。

キリスト教は失敗に終わりました。完全に行き詰まっております。科学者も裏切りました。建設するどころか、破壊する方向を選びました。思想家も頼りになりませんでした。何の意味もない空虚な思索にばかり耽っております。政治家も国民を裏切り、自分を犠牲にする覚悟なしには平和は訪れないという崇高な教訓を未だに学んでいません。絶望の果てに、大霊の子等は導きを叫び求めます。

わたしはここで、皆さんにはとてつもなく大きな信任が委託されているという認識を新たにしていただきたいのです。言いかえればそれは担わされた大きな責任でもあります。それを委託なさったのは、絶対に裏切ることのない、全生命の始源である大霊にほかならないのです。皆さんがその大霊の力によって動かされ、その叡智によって導かれ、その愛によって支えられてさえいれば、いかなる困難が生じても必ず解決策を見出すことができます。なぜなら、大霊の援護のもとで皆さんは、真の自我、本当の自分――おのれ一個の栄光を求めるに留まらず、人のために役立ちたいという願望をもつ、より大きな自我に目覚めていくものだからです。

地上世界は争いごとや恨み合い――いわゆる不協和音に満ちております。悲哀と悲劇と流血にあふれております。それでいてお互いが“我らに平和を!”と叫びます。

わたしは皆さんにぜひとも、内部に潜在する可能性を改めて認識していただきたいと思います。あなた方お一人お一人が大霊なのです。大霊の無限の力が皆さんの内部に潜在しているという意味です。それを呼び覚まし表に出せば、人間であるがゆえの束縛(しがらみ)を打ち破ることができるのです。

隠れた霊的資質を存分に発揮なさってください。ほかならぬ自分が無限の力を駆使できる大霊であることを自覚してください。そうすれば、今ゆっくりと暗い世界を照らしはじめた新しい時代の道具として活躍することができます。

物的世界のものでしかないものを頼りにしてはなりません。いかに高い地位の人であろうと、地上に住む人間を当てにしてはなりません。その向こうへ目をやりなさい。人類への愛のもとに、皆さんの人生を啓発するために届けられているインスピレーションをキャッチしてください。

勇気をもって前進してください。もとより、これからも多くの困難と多くの失敗は免れません。が、そういう時でもわたしたちが背後に控えていて、苦しい時には不屈の情熱を吹き込み、疲れた時には希望と力とを与え、意気消沈している時には精神を高揚してあげるための努力をします。決して一人ぼっちでいることはありません。大霊が使者を遣わして援助します。

皆さんはこれよりそれぞれに遠い土地へ赴かれるわけですが、大霊の力は決して分散されて弱まるわけではありません。同じ力がお一人お一人について行き、人のためになる仕事にたずさわっておられるかぎり、その威力を発揮いたします。

お一人お一人に大霊の祝福のあらんことを。そして皆さんを包み込んでいるその愛がいかに限りないものであるかを自覚なさらんことを。神々しい愛のマントに包まれていることを自覚されんことを。物質界の困難や試練やトラブルには超然とした態度で、常にその目を大霊のシンボルである太陽へ向けられんことを。

心には愛を、精神には知識を、霊には断固たる奉仕の覚悟を満たしてください。そうすれば大霊の意志が皆さんを通して顕現し、心が大霊の心と同じリズムで鼓動するようになります。すなわち大霊と一体となられるのです」

別の日の交霊会でシルバーバーチはスピリチュアリズムの真実性を確信した者の義務についてこう述べた。


「皆さんもわたしも、そしてわれわれに協力してくれる人はみな大霊の使者として、大霊の意志を行使せんとしているのです。われわれはよく誤解されます。往々にして最大の味方であるべき人が最大の敵にまわることがあります。が、そういうことにはお構いなく仕事を遂行します。そして大霊の目から見て正しいことをしているかぎり、物質の世界の何よりも強力な霊の勢力を呼び寄せることができるのです。

かくして、徐々にではありますが善が悪を征服し、正義が不正を征服し、正しいことが間違ったことを征服してまいります。地上の勢力の方が優位に立つことが時にはありますが、それも一時的なことであり、永久的なものではありません。

わたしたちは必ず成功します。何となれば、わたしたちの目的としているのは人類を現在の間違った状態から救い出し、人生を人のために役立てる方法を教えてあげ、そうすることで魂と精神の豊かさ、地上的なものではなく、より高い霊的なものにかかわる安らぎと幸せが得られることを意図しているからです」

「スピリチュアリズムの真理を地上世界に行きわたらせるにはどうしたらよいのでしょうか」


「サウロがダマスカスへ向かう途中で改心したような調子で(使徒行伝)地上世界を目が眩むような一瞬の閃光のもとに改心させるわけにはまいりません。霊的知識に目覚める者が増え、大霊の力が利用できる道具(霊媒・霊覚者)が増えるにつれて、真理の光が少しずつ浸透していくのです。

霊にかかわるものはキメの細かい熟成と進歩とを要することを忘れてはなりません。突然の改心は長続きしません。わたしたちの仕事は永続性を意図したものなのです。

大霊の道具となる人が一人増えるごとに、暗黒から光明へ、無知から知識へ、迷信から真理へと進む者が一人増えるごとに、地上世界は進化するのです。なぜなら、その一人ひとりが物質第一主義の棺(ひつぎ)に打ちこまれるクギだからです。

進歩にも二つの種類があることを知ってください。一つは精神的能力にかかわるものであり、もう一つは霊的資質にかかわるものです。前者は心霊的能力の発達であり、後者は魂の発達、霊性の進化です。霊性の進化を伴わずに心霊的能力だけが発達しても、低いバイブレーションの仕事しかできません。両者がうまく連動した時には、すぐれた霊能者であると同時にすぐれた人格者となります」

別の日の交霊会でもスピリチュアリズムの重大性を強調してこう述べた。


「こうした交霊会で行っている仕事がますます必要性を増しております。地上人類はその無明(むみょう)ゆえに大霊の摂理にのっとった生き方をしておりません。暗黒と絶望への道を選んでまいりました。

そこでわたしたちは、希望と光明と平和と調和をもたらす霊的知識をお届けするのです。無知な人たちからは軽蔑されます。せっかくお届けしたメッセージが拒絶されます。わたしたちに伴って降りてくる霊力の働きが無視されます。しかし、わたしたちの説いている真理は必ず地上世界に広まります。大霊の息がかかっているからです。

摂理に逆らった生き方をする人は、その当然の報いとして、辛い収穫を刈り取らねばなりません。摂理にのっとった生き方をしている人は、その当然の報いとして、物的側面だけでなく霊的側面においても幸せで豊かな収穫を刈り取ることができます。

暗い空気が支配している現実の中にあっても、決して希望を捨てることなく、人類の高揚のために皆さんとともに働いている霊界の同志たち、物質界を少しでも住みよいところにするために活動している勢力は、必ずや勝利を手にするとの確信をもってください。皆さんの味方は宇宙で最強の力なのですから。

ただし、価値あるものを手に入れるには必ず苦しみと悲しみとが伴うものです。物質の世界で得られる教訓にはそれなりの宿命的な入手条件というものがあることを知らないといけません。

わたしたちの勢力が今や物質界全体に浸透しつつあります。わたしたちのメッセージが地上各地の心ある人たちを啓発しております。そして、霊的光明が浸透していくにつれてその光が物質万能主義の暗闇を消滅させてまいります」

スピリチュアリズムの発展と普及にとっては、霊媒すなわち地上界と霊界のかけ橋となる通信回線のような存在は不可欠である。それでシルバーバーチは訴える――


「もっともっと多くの霊媒がほしいのです。いくらいても多すぎるということはありません。今のところ、すべての面で順調に事が進行しております。われわれの勢力は勝利へ向けて前進しております。

そして、ここで銘記していただきたいのは、それはただ単に霊的真理の勝利というに留まらず、霊的真理の普及に伴って自然発生的に生じるもの――自由・刷新・改革・改善・公正・進歩といった面での運動にとっての勝利でもあるということです。

わたしたちは霊的勢力である以上、その浸透はまず宗教界に影響を及ぼしますが、それがさらに人間生活のあらゆる分野に波及してまいります。それが地上各地で活躍している各分野の開拓者(パイオニア)に新たな霊感、新たな衝動、新たな情熱、新たな熱誠、新たなやる気を起こさせ、心機一転、ますます意欲を燃やして仕事に専念し闘いに挑みます。

かくして霊力が全身にみなぎり、かつ周囲を包むようになれば、反抗する暗黒の勢力は退却せざるを得ません。そこに進歩が生まれ、人類の歴史に新たなページが記されることになります。人のために一心で奮闘する人はみな、そうしたページを炎の文字で綴っていることになるのです。

これまで堅固に身を守ってきた既得権力も今や根底から崩れつつあることに自ら気づいております。その基盤は砂上に築かれていたのであり、執拗な真理の攻撃に耐えられるものではないからです。

これまで“正統派”といわれてきた伝統的慣行があらゆる分野において消滅しつつあり、代わって新しい“異端派”が勢力を伸ばしつつあります。と言うのも、“異端”と呼ばれていたものも実は、それまでに親しまれていなかったから物珍しく思われたというにすぎず、それもやはり真理であることに人々が気づきはじめたからです」

そう述べたあとシルバーバーチは、こうしたことは実はずっと以前、すなわち自分がこの霊媒を通じて霊言を送りはじめた当初から述べていたことで、一八四八年の米国でのハイズビル現象をきっかけとして、霊界からの大々的な働きかけがあったことに改めて言及してから、さらに――


「しかし忘れないでいただきたいのは、皆さん方のような地上での道具がなくては、わたしたちも何も為し得ないということです。皆さんはわたしたちに闘いのための武具を供給してくださっているようなものなのです。皆さんの力をお借りする以外に地上には頼りにすべき手だてが何もないのです。喜んでわたしたちに身をゆだねてくださる人以外に、道具とすべきものがないのです。

その道具が多すぎて困るということは決してありません。こちらの世界では、使用に耐えられる人物の出現を今か今かと待ちうけている霊がいくらでもいるのです。

わたしたちの方から皆さんを待ち望んでいるのです。皆さんがわたしたちを待ち望んでいるのではありません。地上への降下を待ち望んでいる霊力には、その表現形式が無数にあります。種類も様式もおびただしい数があり、さらには、用意された通路に合わせて形態を変えます。

もっともっと多くの人材――これがわたしたちの大きな叫びです。いつでも自我を滅却する用意のできた、勇気と誠意と率直さにあふれた男女――霊力がふんだんに地上世界へ降下して人生を大霊の意図された通りに豊かさと美しさと光輝にあふれたものにするためならいかなる犠牲をも厭わない人材がほしいのです。

わたしたちの仕事は、人生意気に感ず、の気概なくしてはできない仕事です。その仕事の尊厳に誇りを覚えて全身全霊を打ち込むようでなくては成就できません。かつては軽蔑されるのを恐れて霊的なことを口にするのを憚(はばか)った時代がありました。目立たないように一握りの人間が奥の部屋でこっそりと会を催したものでした。

が、今は違います。自分たちの信じたことが真理であったことを確信して、堂々とそれを説くことができます。なぜなら、その真実性を立証してみせたからです。もはや恥じ入ることなく自分の存在を主張し、霊的実在の福音を誇りをもって説くことができます。

霊の話を口にしたからといって軽蔑されることは、もうなくなりました。それは過去の無知な時代の話となりました。今日では皆さんが敬意を払われるようになりました」

次にカンタベリ大主教(※)がラジオ放送で組織としての宗教活動の重大性を訴えたニュースが話題となり、シルバーバーチがこう説いた。


※――英国国教会はカンタベリとヨークの二大教区に区分されていて、双方に大主教が置かれているが、支配力としてはカンタベリ大主教の方が上。


「真の宗教は大霊の子に奉仕することによって大霊に奉仕することです。それには教会も司祭も牧師も聖なる書も――それによって奉仕の精神が植えつけられ同胞への愛を一段と強くすることにならないかぎり――必要ではありません。いつどこにいても人のために役立つことを心がけることです。同胞の荷を分かち合うのです。それが宗教です。

何度聞かれても、わたしは皆さんの多くが直観的に、ないしは理性と論理を通して理解しておられる、こうした単純な真理を繰り返すしかありません。わたしは(三千年前に地上を去って以来)これまでに霊界の高い界層で学んできた真理をお届けしているのです。すべての住民が実在を目(ま)のあたりにし、原因と結果の関係が瞬時にしてわかり、他の存在のために自分を役立てることが多い人ほど高級とされる、そういう世界からお届けしているのです。

そこでは地上で通用した仮面や偽装のすべてが剥(は)ぎ取られ、魂の正体が素っ裸にされ、長所と短所とがすべての人に知れてしまうのです。真価が知れてしまい、虚偽が存在せず、不公平が見当らない世界、そういう世界からわたしは来ているのです。貧乏人もいません。金持ちもいません。いるのは霊的に貧しい人と、霊的に豊かな人だけです。強者も弱者もいません。いるのは魂が強靭な人と、魂が虚弱な人だけです。

地上世界で有り難がられ崇められていたものすべてが過去のチリとなり果てたあとは、永遠の霊的実在のみが残り続けるのです」

そう述べてからシルバーバーチは、自分も宗教へ帰れという呼びかけはするが、それは萎びはてた教義や仰々しい儀式の宗教のことではなく、“人のため”の宗教へ帰れということだと説いてから、さらに――


「皆さんへのメッセージとしてわたしが何よりも強調したいのは、この新しい幕開けの時代に生きておられる皆さんには、大いなる貢献のチャンスがあるということです。地上界を見渡してごらんなさい。悲劇と絶望、悲哀と苦悩、涙にぬれた顔、顔、顔が見えるはずです。何とかしなければならない分野がいくらでもあることに気づかれるはずです。まだまだ無知がはびこっています。まだまだ権力の悪用が跡を絶ちません。改めなければならない偏見がいたるところに見受けられます。

飢餓に苦しむ人、飢え死にしていく人、食べすぎて病気になっている人、栄養失調で苦しむ人、こうした人が大勢いることに気づかれるでしょう。痛みに苦しめられて、内部の大霊の力を発揮できずにいる人が大勢いるのです。クリスチャンと名のる人のすべてが恥を知るべき(※)貧困と苦悩、人間の住居とは思えないあばら家が目に入りませんか。

また、地上世界も地上天国とすることができる――平和と豊かさに満ちた楽園となるための可能性を十分に秘めていながら、そこが利己主義の雑草で足の踏み場もなくなっているのです。

わたしたちは皆さんに奉仕への参加を呼びかけます。自分の利得損失を忘れ、霊的なものをこの世的な打算に優先させ、お一人お一人が生命の大霊の使者となっていただきたいのです。

お一人お一人が改善の仕事を引き継ぎ、快活さと楽しさとを忘れてしまった人たちにそれを取りもどさせ、涙を拭いてあげてその顔に笑みをもどしてあげ、無知と迷信と闘って正しい知識と置きかえ、暗黒を駆逐して霊的真理の光で照らし、心配・悲嘆・病気のすべてをなくして愛がすべてを支配する世の中にすべく、それぞれに努力していただきたいのです」


※――ここは、キリスト教では大聖堂のような豪華な建造物をこしらえ、それが近所の住民の日照を奪っているのに、その内部では聖職者が労働もせずに食うに事欠かない生活をしていることを念頭に置いて述べていることが、別の日の交霊会での霊言から察せられる。

最後に、こうした霊界通信の受け止め方について言及して――


「わたしたちは脅し文句で信じさせるような方法は採りません。あとの仕打ちが怖いから信じるというような、情けない臆病者にはしたくありません。反対に、各自の自我の内奥に神性が宿されている事実を自覚させ、それを少しでも多く発揮するように、言いかえれば霊的により高く向上して、より高度な真理と叡智とを身につけていただきたいと願っているのです。

今までに身につけたものでは物足りなく思うようであってほしいという言い方もできます。不満を抱くことからより高い知識を得たいという願望が生まれるからです。現状に満足する者はそこで進歩が止まります。満足しきれない者はより大きな自由を求めて葛藤するものです。

ですから、わたしは“理屈を言わずにただ信じなさい”とは申しません。“大霊から授かった理性を存分に使ってわたしを試しなさい。大いに吟味しなさい。そして万一わたしの言うことに下品なこと、酷(ひど)いこと、道徳に反するようなところがあったら、どうぞ拒否してください”と申し上げています。

またこうも申し上げています。“わたしたち霊団は皆さんが気高い生活、より立派な自己犠牲と理想主義に基づく生活をしていただきたいとの願望からメッセージを送っている以上、その教えには必ずや大霊による〈正真正銘〉の折り紙がつけられているはずです”と。

この大事業に直接たずさわっているわれわれが気をつけなければならないのは、かつては大変な啓示に思えたものが次第にごく当り前のことに思えてきて、そこに感動を覚えなくなることです。しかし、永いあいだ暗闇の中に閉じ込められていた者にとっては、ホンのわずかな真理の言葉でも目が眩むほどの感動的な光に思えることがあるのです。

そういう人をたった一人でも向上させ、喪の悲しみの中にいるたった一つの魂に慰めを与え、気落ちしているたった一人の人間に希望を与え、人生に疲れた孤独な人に生きる力を与えてあげることができたら、それだけで十分に価値ある仕事をしたことになるのではないでしょうか。

大言壮語をして俗受けを狙うのも結構です。が、その一方には、古い教義に縛られて身動きが取れなくなっていながら、魂の奥では自由を叫び求めている人がおり、そういう人たちにとっては大言壮語がかえって混乱と当惑と動揺を呼ぶことになることを忘れてはなりません。

わたしたちのメッセージはそういう人たちを意図したものなのです。それまでに到達できなかったものを得んとして努力する、その励みを与えてあげたいのです。しょせん真理とは次のより高い真理への踏み台にすぎないのです」

「本当にそうだと思います」と列席者の一人が述べると――


「わたしには確信があるからそう申し上げるのです。確信がなかったら申し上げません。しかしなおわたしは、謙虚な気持ちで改めてこう申し上げます――もしも幸いにしてこの霊媒の口を借りて語りかけることを許されているこのわたしの述べることの中に、皆さんの理性を反発させること、大霊の愛の概念と矛盾すること、愚かしいこと、知性を侮辱するようなことが出るようになったら、それはもう、このわたしの時代が終わったこと、つまりわたしの仕事が挫折したことを意味します、と。

とは言え、これまで何度となく申し上げてきましたように、わたしはこれまでにただの一度も、人間の魂が求める最高のものと矛盾するようなことは口にしていないと確信します。ひたすら皆さんの内奥の最高のものに訴えんとしてきているからです」

別の日の交霊会で霊団の仕事を次のように説いている。


「わたしたち霊団の仕事は、れっきとした目標をもったもの、意義のあるものを地上へもたらすことです。それは、一方においては厳然たる摂理の存在を証明することであると同時に、他方においては慰めを与え霊的知識を広めることでもあります。物理的法則を超えた霊的法則というものが存在することを明らかにすることであると同時に、宇宙の大源である“霊”の真理を明かすことでもあります。

そうした仕事の前に立ちはだかるものとして、途方途轍もない“誤った概念”があります。何世紀にもわたって引き継がれてきたものを解体しなければなりません。“教義”を土台として築き上げられた間違いだらけの上部構造を破壊しなければなりません。

わたしたちは物質の子等がいかにして魂の自由を獲得し、いかにして霊的真理の光に浴し、いかにして教義の足枷を解きほどくかをお教えしたいと思っているのです。もとよりそれは容易な仕事ではありません。なぜなら、いったん宗教の虚飾に目を奪われたら最後、霊的真理の光がその厚い迷信の壁を突き通すまでには大変な時間を要するものだからです。

そこでわたしたちは霊的真理の宗教的意義を解き明かすことに努力します。地上世界にその霊的意義の理解が行きわたれば、戦争や流血による革命よりはるかに強大な革命が生まれます。

それは魂の革命となるでしょう。そして世界中の人間が霊的存在としての当然の権利、すなわち霊としての自由を満喫する権利を主張するようになることでしょう。それまで足枷となっていた無用の制約が取り払われることでしょう。

あなた方はその先駆者(パイオニア)なのです。道を切り開き、障害を取り払い、後から来る人たちが楽に通れるようにしてあげるのです。本来ならそれを援助すべき立場にある者(既成宗教の聖職者)が霊的無明ゆえに敵にまわっております。が、それは自らを破滅へ追いやる行為です。

わたしたちが忠誠を尽すのは一個の教義でもなく、一冊の書物でもなく、一つの教会でもなく、生命の大霊とその永遠の摂理なのです」

祈り


ああ、真白き大霊よ。

あなたの無窮性、あなたの叡智、あなたの愛の豊かさ、あなたのインスピレーションの無上性をいかなる言葉に託すればよろしいのでしょうか。限りある物質の身体に包まれている地上の子等に、果てを知らず窮まることを知らない存在であるあなたを、いかに説き聞かせればよろしいのでしょうか。

これまで(キリスト教によって)嫉み深くて残虐性を好み、復讐すらしかねない神(ゴッド)として“啓示された”と説かれてきたあなたを、わたしたちはどう啓示すればあなたの真実の姿を伝えることができるのでしょうか。

あなたは全生命の大霊にあらせられ、大自然のあらゆる現象を通して息づき、宇宙間の一つ一つの生命の中に顕現しておられます。

わたしたちは、これまでに賜ったあなたについての知識、物的波長を超越し物的ベールを突き通す目をもって霊的真理を見ることのできる者に授けられた叡智を有り難く思います。より次元の高い波長を捉えることのできる耳によって、あなたから届けられる啓示を聞き、かつまた、愛と叡智と公正の権化としてのあなたを説くことができますことを、うれしく存じます。

ああ、神よ。

幾世紀にもわたって、いつの時代にもあなたの使者をよろこんで迎え入れる者を地上に用意してくださってきたこと、そしてまた、地上にいてその暗黒の土地にあなたの真理を広め、無知と迷信のはびこる場所にあなたの光と知識とをもたらすための道具として、あなたのインスピレーションを的確に捉えることのできる者を用意してくださったことを有り難く存じます。

あなたの霊力の数少ない証言者として、あなたの子等を高揚し改革し感化し、地上世界の子等にとって適切な住処(すみか)とするために尽力してきた人々の存在を有り難く思います。

またわたしたちは、この度あなたが再び悲劇と苦悩と悲哀に満ちた地上世界に、あなたの真理をもたらすための仕事をわたしどもに託してくださったこと、そして、あらゆる混乱と錯乱の中にあって、子等を自らこしらえた泥沼から引き上げてあげる用意のできた者があなたの霊力によって満たされ、あなたの使者に守られてその霊力を行使できることを、うれしく存じます。

すべての宗教の本来の遺産であるべき霊的摂理に関する知識を地上へもたらさんと努力しているわたしたちは、二つの世界の間であなたの力が存分に往き来することを妨げるものすべてが排除され、迷信と無知と偏見と狭量と頑迷のベールが剥ぎ取られ、子等があなたの霊的真理の光の中に立つことができますよう祈ります。

願わくば子等が今あなたによってこの地上に置かれている目的、あなたから託されている仕事を認識し、その理解のもとに、お互いがお互いのために役立つことをするという形での生活に徹し、戦争のすべて、戦争のうわさ(予言)のすべて、恐怖心のすべて、敵意のすべて、暗黒のすべてを駆逐し、平和と豊かさに満ちた御国を招来することができますように。

ここに、子等に仕えることによってあなたに奉仕せんことを願う、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。


Wednesday, August 5, 2026

ベールの彼方の生活(二)

第二巻は、著者オーエンの守護霊であるザブディエルからの通信です。彼がいる十界、その先の十一界や下層界である五界や六界の情景について書かれています。


七章  天界の高地

1 信念と創造力

 一九一三年十二月十九日  金曜日

 「神はあなた方の信念に応じてお授けになる」──このイエスの言葉は当時と同じく今もなお生きている。絶対的保証をもってそう断言できる。まず必要なのは信念なのである。信念があれば事は必ず成就される。成就の方法はさまざまであろう。が、寸分の狂いもない因果律の結果であることに変わりはない。

 さて、これは地上世界にかぎられたことではない。死後の向上した界層、そしてこれ以後も果てしなく向上していく界層においても同じである。吾々が成就すべく鋭意努力しているのは、実際の行為の中において確信を得ることである。

確信を得れば他を援助するだけの霊力を身につけ、その霊力の行使を自ら愉しむこともできる。イエスも述べたように、施されることは喜びであるが、施すことの方がより大きな喜びであり愉しみだからである。

 が、信念を行使するに当たり、その信念なるものの本質の理解を誤ってはならない。地上においては大方の人間はそれを至って曖昧に──真実についての正しい認識と信頼心の中間に位置する、何やら得体のしれないものと受け止めているようである。が、何事につけ本質を探る吾々の界層においては、信念とはそれ以上のものであると理解している。

すなわち信念も科学的分析の可能な実質あるエネルギーであり、各自の進化の程度に応じた尺度によって測られる。

 その意味をより一層明確にするために、こちらでの私の体験を述べてみよう。

 あるとき私は命を受けて幾つかに施設(ホーム)を訪ね、各施設での生活の様子を調べ、必要な時は助言を与え、その結果を報告することになった。さて一つ一つ訪ねて行くうちに、森の外れの小じんまりとしたホームに来た。そこには二人の保護者のもとで大勢の子供が生活をしている。

お二人は地上で夫婦だった者で、死後もなお手を取りあって向上の道を歩みつつある。彼らが預かっているのは死産児、つまり生まれた時すでに死亡していたか、あるいは生後間もなく死亡した子供たちである。こうした子供たちは原則として下層界にある〝子供の園〟には行かず、彼ら特有の成長条件を考慮して、この高い界層へ連れて来られる。

これは彼らの本性に地臭が無いからであるが、同時に、少しでも地上体験を得た者、あるいは苦難を味わった子供に比べて体質が脆弱であるために、特殊な看護を必要とするからでもある。

 お二人の挨拶があり、さらにお二人の合図で子供たちが集まって来て、歓迎の挨拶をした。が、子供たちは一様に恥ずかしがり屋で、初めのうちは容易に私の語りかけに応じてくれなかった。

それというのも、ここの子供たちは今述べた事情のもとでそこへ連れて来られているだけに性格がデリケートであり、私もそうした神の子羊に対して同情を禁じ得なかった。そこであれこれと誘いをかけているうちに、ようやくその態度に気さくさが見られるようになってきた。

 そのうち可愛らしい男の子が近づいてきて腰のベルトに手を触れた。その輝きが珍しかったのであろう。もの珍しげに、しげしげと見入っている。そこで私は芝生に腰を下ろし、その子を膝に抱き、そのベルトから何か出して見せようかと言ってみた。すると初めその意味がよく分からない様子であった。そして次に、ほんとにそんなことが出来るのだろうかという表情を見せた。

 が、私がさらに何か欲しいかと尋ねると、「もしよろしかったらハトをお願いします」と言う。なかなか丁寧な言い方をしたので私はまずそのことを褒めてやり、さらに、子供が素直に信じてお願いすれば、神様が良いことだとお許しになったことはかならず思いどおりになるものであることを話して聞かせた。

 そう話してからその子を前に立たせておき、私は一羽のハトを念じた。やがて腰のベルトを留めている金属のプレートの中にハトの姿が見えはじめた。それが次第に姿を整え、ついにプレートからはみ出るほどになった。それを私が取り出した。

それは生きたハトで、私の手のひらでクークーと鳴きながら私の方へ目をやり、次のその子の方へ目をやり、どちらが自分の親であろうかと言わんばかりの表情を見せた。その子に手渡してやると、それを胸のところに抱いて、他の子供たちのところへ見せに走って行った。

 それは実は子供たちをおびき寄せるための一計に過ぎなかった。案の定それを見て一人二人と近づいて来て、やがて私の前に一団の子供たちが集まった。そして何かお願いしたいがその勇気が出せずにいる表情で、私の顔に見入っていた。が、

私はわざと黙って子供たちから言い出すのを待ち、ただニコニコとしていた。と言うのは、私は今その子たちに信念の力を教えようとしているのであり、そのためには子供の方から要求してくることが絶対必要だったのである。

 最初に勇気を出してみんなの望みを述べたのは女の子であった。私の前へ進み出ると、その可愛らしいくぼみのある手で私のチュニックの縁を手に取り、私の顔を見上げて少し臆しながら「あの、できたら・・・・・・」と言いかけて、そこで当惑して言いそびれた。そこで私はその子を肩のところまで抱きあげ、さあ言ってごらん、と促した。

 その子が望んだのは子羊であった。

 私は言った。今お願いしてあるからそのうち届けられるであろう。何しろ子羊はハトに較べてとても大きいので手間が掛かる。ところで、本当にこの私に子羊が作れると信じてくれるであろうか、と。

 彼女の返事は至ってあどけなかった。こう答えたのである。「あのー、皆んなで信じてます。」私は思わず声を出して笑った。そして皆んなを呼び寄せた。すると、翼のついたハトが作れたのだから毛の生えた子羊も作れると思う、と口々に言うのである。(もっとも子供たちは毛のことを毛皮といっていたが)

 それから私は腰を下ろして子供たちに話しかけた。まず〝吾らが父〟なる神を愛しているかと尋ねた。すると皆んな、もちろん大好きです。この美しい国をこしらえ、それを大切にすることを教えてくださったのは父だからです。と答えた。

そこで私はこう述べた。父を愛する者こそ真の父の子である。子供たちが父の生命力と力とを信じ、賢くそして善いものを要求すれば、父はその望みどおりのものを得るための意念の使い方を教えてくださる。動物もみんなで作れるであろうから私がこしらえてあげる必要はない。ただし初めてにしては子羊は大きすぎるから今回はお手伝いしてあげよう、と。

 そう述べてから、子供たちに心の中で子羊のことを思い浮かべ、それが自分たちのところへやってくるように念じるように言った。ところが見たところ何も現れそうにない。実は私は故意に力を控えめにしておいたのである。しばらく試みたあと一息入れさせた。

 そしてこう説明した。どうやら皆さんの力はまだ十分ではないようであるが、大きくなればこれくらいのことは出来るようになる。ただし祈りと愛をもって一心に信念を発達させ続ければのことである、と。そしてこう続けた。

 「あなたたちも力はちゃんとあるのです。ただ、まだまだ十分でなく、小さいものしか作れないということです。では私がこれから実際にやってみせてあげましょう。あとはあなた方の先生から教わりなさい。あなたたちにはまだ生きた動物をこしらえる力はありませんが、生きている動物を呼び寄せる力はあります。このあたりに子羊はおりますか?」

 この問いに皆んな、このあたりにはいないけど、ずっと遠くへ行けば何頭かいる。つい先ごろそこへ行ってきたばかりだという。

 そこで私は言った。「おや、あなたたちの信念と力によって、もうそのうちの一頭が呼び寄せられましたよ。」

 そう言って彼らの背後を指さした。振り向くと、少し離れた林の中の小道で一頭の子羊が草を食んでいるのが目に入った。

 その時の子供たちの驚きようはひと通りではなかった。唖然として見つめるのみであった。が、そのうち年長の何人かが我に帰って、歓喜の声を上げながら一目散に子羊めがけて走って行った。子羊も子供たちを見て、あたかも遊び友達ができたのを喜ぶかのように、ピョンピョンと飛び跳ねながら、これ又走り寄ってきた。

 「わぁ、生きてるぞ!」先に走り寄った子供たちはそう叫んで、あとからやってくる者に早く早くという合図をした。そして間もなくその子羊はまるで子供たちがこしらえたもののようにもみくしゃにされたのであった。自分たちがこしらえたものだ、だから自分たちのものだ、と言う気持ちをよほど強く感じたものと察せられる。

 さて以上の話は読む者の見方次第で大して意味はないように思えるかもしれない。が、重要なのはその核心である。私は自信をもって言うが、こうして得られる子供たちのささやかな教訓は、これから幾星霜を重ねたのちには、どこかの宇宙の創造にまで発展するその源泉となるものである。今宇宙を支配している大天使も小天使も、その原初はこうした形で巨大な創造への鍛錬を始めたのである。

私が子供たちに見せたのが実に〝創造〟の一つの行為であった。そして私の援助のもとに彼らが自ら行ったことはその創造行為の端緒であり、それがやがて私がやってみせたのと同じ創造的行為へと発展し、かくして信念の増加と共に、一歩一歩、吾々と同じくより威力あるエネルギーの行使へ向けて向上進化して行くのである。

 そこに信念の核心がある。人間の目に見えず、また判然と理解できなくても、その信念こそが祈りと正しい動機に裏打ちされて、みずからの成就を確実なものとするのである。

貴殿も信念に生きよ。ただし要心と用意周到さと大いなる崇敬の念も身につけねばならない。信念こそ主イエスが人間に委ねられた、そして吾々には更に大規模に委ねられた、大いなる信託の一つだからであり、それこそ並々ならぬイエスの愛のしるしだからである。

 そのイエスの名に祝福あれ。アーメン ♰



  2 家族的情愛の弊害   

一九一三年十二月二二日  月曜日

 子供のための施設と教育についてはこの程度にして、引き続きその見学旅行での別の話題に移るとしよう。

 そのあと私は数少ない家がそれなりの小さな敷地をもって集落を作っている村に来た。

そうした集落が幾つかあり、それぞれに異なった仕事を持っているが、全体としてはほぼ同程度の発達段階にある者が住んでいる。その領土の長が橋のたもとで私を迎えてくれた。その橋の架かった川は村を一周してから、すでに話の出た例の川と合流している。

挨拶が終わると橋を渡って村に入ったが、その途中に見える庭と家屋がみな小じんまりしていることに気づいた。私はすぐその方にその印象を述べた。


──その方のお名前を教えてください。

 Bepel(べぺル)とでも綴っておくがよい。先を続けよう。

 ところがそのうち雰囲気に豊かさの欠ける一軒が目にとまった。私はすぐにその印象を述べ、その理由(わけ)を訪ねた。と申すのも、この界層においてなお進歩を妨げられるには如何なる原因(わけ)があるのか判らなかったからである。

 ベペル様は笑顔でこう話された。「この家には実は兄と妹が住まっておられる。二人はかなり前に八界と九界から時を同じくしてこの界へ来られたのですが、それ以来、何かというと四界へ戻っている。

そこに愛する人たち、特に両親がおられ、何とか向上させようという考えからそうしているのですが、最近どうも情愛ばかりが先行して、やってあげたいことが環境のせいもあって思うに任せなくなって来ています。

両親の進歩が余りに遅く、あの調子ではこの界へ来るのは遠い先のことになりそうです。

そこで二人は近頃はいっそのこと両親のいる界へ降り、いっしょに暮らすことを許す権限を持つ人の到来を待ち望んでいるほどです。常時そばに居てあげる方が両親の進歩のために何でもしてあげられると考えているようです。」

 「お二人に会ってみましょう」──私はそう言って二人で庭に入って行った。

 こうしたケースがどのような扱いを受けるか、貴殿も興味のあるところであろう。ともかくその後のことを述べてみよう。

 兄は家のすぐ側の雑木林の中にいた。私が声を掛け、妹さんはと尋ねると、家の中にいるという。そこで中へ入らせてもらったが、彼女はしきりに精神統一をしている最中であった。第四界の両親との交信を試みていたのである。

と申すよりは、正確に言えば援助の念を送っていたと言うべきであろう。なぜなら、〝交信〟は互いの働きかけを意味するもので、両親には思念を〝返す〟ことは出来なかったからである。

 それから私は二人と話を交わし、結論としてこう述べた。「様子を拝見していると、あなた方がこの界で進化するために使用すべき力がその下層界の人達によって引き留められているようです。

つまり進歩の遅い両親の愛情によってあなた方の進歩が遅らされている。もしもあなた方がその四界へ戻られ、そこに定住すれば、少しは力になってあげられても、あなた方が思うほど自由にはならない。

なぜかと言えば、いつでもあなた方が身近にいてくれるとなれば尚のこと、今の界を超えて向上しようなどと思うわけがないからです。

ですから、そういう形で降りて行かれるのは感心しません。しかし愛は何より偉大な力です。その愛がお二人とご両親の双方にある以上、これまで妨げになってきた障害を取り除けば大変な威力を発揮することでしょう。そこで私から助言したいのは、あなた方は断じてこの界を去ってはならない。

それよりも、これから私と共に領主のところへ行って、現在のあなた方の進歩を確保しつつ、しかもご両親の進歩の妨げにならない方法を考えていただくことです。」

 二人は私に付いて領主のところまで行った。まず私が面会してご相談申し上げたところ、有難いことに大体において私の考えに賛同して下さった。そして二人をお呼びになり、二人の愛情は大変結構なことであるから、これからは時折この界より派遣される使節団に加わらせてあげよう。

その時は(派遣される界の環境条件に身体を合わせて)伝達すべき要件を伝える。その際は特別に両親にもお二人の姿が見え声が聞こえるように配慮していただこう。

こうすれば両親も二人の吾が子のいる高い界へ向上したいとの気持ちを抱いてくれることにもなろう、ということであった。

 これに加えて領主は、それには大変な忍耐力が要ることも諭された。なぜならば、こうしたことは決して無理な進め方をすべきではなく、自然な発展によって進めるべきだからである。二人はこうした配慮を喜びと感謝を込めて同意した。

そこで領主はイエスの名において二人を祝福し、二人は満足して帰っていった。

 このことから察しがつくことと思うが、上層界においても、地上界に近い界層特有の事情を反映する問題が生じることがあるのである。又、向上の意欲に欠ける地上の人間がむやみに他界した縁故者との交信を求めるために、その愛の絆が足枷となり、いつまでも地上的界層から向上できずにいる者も少なくないのである。

 これとは逆に、同じく地上にありながら、旺盛な向上心をもって謙虚に、しかも聖なる憧れを抱いて背後霊と共に向上の道を歩み、いささかも足手まといとならぬどころか、掛けがえのない援助(ちから)となる者もいる。

 これまでに学んだことに加えて、この事実を篤と銘記するがよい。すなわち地上の人間が他界した霊の向上を促進することもあれば足手まといとなることもあり得る、否、それが必然的宿命ともいうべきものであるということである。

 この事実に照らして、イエスがヨハネの手を通して綴らせた七つの教会の天使のこと(黙示録)を考えてみよ。彼ら七人の天使はそれぞれが受け持つ教会の徳性により、あるいは罪悪性により、自らが責任を問われた。イエスが正確にその評価を下し、各天使に賞罰を与えたのである。

それは人の子イエスが人類全体を同じ人の子として同一視し、その救済をご自分の責任として一身に引き受けられているように、各教会の守護天使はその監督を委ねられた地域の徳も罪も全て吾が徳、吾が罪として一身に責任を負うのである。

共に喜び共に苦しむ。わが事のように喜び、わが事のように悲しむのである。イエスの次の言葉を思い出すがよい。曰く「地上に罪を悔い改める者がいる時、天界には神の御前にて喜びに浸る天使がいる」と。

私は一度ならず二度も三度も、否、しばしばその現実の姿を見ているのである。そこで、それに私からこう付け加えておこう───明るき天使も常にお笑いになっているのではない。高らかにお笑いになるし、よくお笑いになる。

が、天使もまた涙を流されることがある。下界にて悪との闘いに傷つき、あるいは罪に陥る者を見て涙を流し苦しまれることがある、と。

 こうしたことを不審に思う者も多いことであろう。が、構わぬ。書き留めるがよい。吾々がもし悲しむことが無いとすれば、一体何をもって喜びとすべきであろうか。 ♰


 
 3 霊界の情報処理センター     

一九一三年十二月二三日 火曜日

 神に仕える仕事において人間と天使とが協力し合っている事実は聖書に明確に記されているにも拘らず、人間はその真実性が容易に信じられない。その原因は人間が地上的なものに心を奪われ、その由って来たる起原に心を向けようとしないからである。

物質に直接作用している物理的エネルギーのことを言っているのではない。

ベールの彼方においてあたかも陶芸家が粘土を用いて陶器を拵えるように、そのエネルギーを操って造化に携わっている存在のことである。それについては貴殿もすでにある程度の知識を授かっているが、今夜はベールのこちら側から見たその実際を伝えてみようと思う。

 こちらのどの界においても、全ての者が一様に足並みそろえて向上するとはかぎらない。ある者は速く、ある者は遅い。前回の兄弟などはこの十界においては最も遅い部類に入る。ではこれより、それとは対照的に格別の進化を遂げた例を紹介しよう。

 その兄と妹の住む村を離れてさらに旅を続ける途中で、私は他の居住地を数多く訪ねてまわった。その一つに次の第十一界が始まる区域へ連なる山の中に位置しているのがあった。私が守護霊と対面した場所とは異なる。高さは同じであるが、距離的にかなり離れた位置にある。

連山の中に開けた台地へ向けて曲がりくねった小道を行ったのであるが、登り始めた頃から緑色の草の鮮やかさと花々の大きさと豊富さとか目についた。

紫色の花は影に包まれた森の中を通るビロードのような道のまわりには小鳥のさえずりも聞こえる。また多くの妖精たちが明るい笑顔で、あるいは戯れあるいは仕事に勤しんでおり、私の挨拶に気持ちよく応えてくれた。

 そのうち景色が変わり始めた。樹木が彫刻のようなどっしりとした姿になり、数も少なく葉の繁りも薄くなっていった。花と緑の木陰に囲まれた空地に代わって今度は円柱とアーチで飾られた堂々たる聖堂が姿を現わした。

光と影の織りなす美は相変わらず素晴らしかったが、その雰囲気がただの木蔭とは異なり聖域のそれであった。通る道の両側の大部分は並木である。

その並木にも下層界のそれとは異なり、瞑想の雰囲気と遥かに強力な霊力が感じられる。

そして又、登りがけに見かけた妖精とは威厳と聖純さにおいて勝る妖精たちの姿を見かけた。さらに頂上へ近づくと景色が一段と畏敬の念を誘うものへと変わっていった。

それまでの田園風の景色が消え、白と黄金と赤の光に輝く頂上が見えてきた。それは上層界から降下してきた神霊がその台地でそれぞれの使命に勤しんでいることを物語っていた。

 かくて目的地に辿り着いた。そこの様子を可能な限り叙述してみよう。目の前に平坦な土地が開けている。一マイルの四方もあろうかと思われる広大な土地で、一面に大理石(アラバスター)が敷かれ、それが炎の色に輝いている。

その様子はあたかも炎の土地にガラスの床が敷かれ、その上で炎の輝きが遊び戯れ、さらにガラスを通して何百ヤードも上空を炎の色に染めている感じである。むろん炎そのものが存在しているのではない。私の目にそのように映じるのである。

 その中に高く聳える一個の楼閣がある。側面が十個あり、その各々が他と異なる色彩と構造をしている。数多くの階があり、その光輝を発する先端は周囲の山頂──遠いのもあれば近いのもある──の上空へ届けられる光を捉えることができる。

それほど高く、まさに天界の山脈に譬える望楼の如き存在である。その建物が平坦地の八割ほどを占め、各々の側面に玄関(ポーチ)がある。

と言うことは十個の入口が付いているということである。まさに第十界の中で最も高い地域の物見の塔である。が、ただ遠くを望むためのものではない。

 実は十個の側面はその界に至るまでの十個の界と連絡し、係の者が各界の領主と絶え間なく交信を交えているのである。莫大な量の用件が各領主との間で絶え間なく往き来している。資料の全てがその建物に集められ統一的に整理される。

強いて地上の名称を求めれば〝情報処理センター〟とでも呼べばよかろうか。地上圏と接する第一界に始まり、第二界、第三界と広がり、ついには第十界まで至る途方もなく広大な領域内の事情が細大漏らさず集められるのである。

 当然のことながらその仕事に携わる霊は極めて高い霊格と叡智を具える必要があり、事実その通りであった。この界の一般の住民とは異なっていた。常に愛と親切心に溢れる洗練された身のこなしをもって接し、同胞を援助し、喜ばせることだけを望んでいる。が、

その態度には堂々とした絶対的な冷静さが窺われ、接触している界から届けられる如何なる情報に対しても、いささかの動揺も見せない。すべての報告、情報、問題解決の要請、あるいは援助の要請も完璧な冷静さをもって受け止める。

普段とは桁外れの大問題が生じても全く動じることなく、それに対処するだけの力と誤ることのない叡智に自信を持ってその処理に当たる。

 私は第六界と接触している側面の玄関内に腰かけ、その界の過去の出来ごとと、その出来ごとの処理の記録を調べていた。

すると肩越しに静かな声で「ザブディエル殿、もしその記録書で満足できなければどうぞ中へお入りになって吾々のすることをご覧になられたら如何ですか」という囁(ささや)きが聞こえた。振り向くと、物静かな美しいお顔をされた方が見つめておられた。私は肯(うなず)いてその案内に応えた。

 中へ入ると室内は三角形をしており、天井が高い。それが次の界の床(フロア)である。壁のところまで行ってみると床と壁とは直角になっている。

案内の方が私にそこで立ったまま耳を傾けているようにと言う。すると間もなく色々な声が聞こえてきたが、その言葉が逐一聞き分けられるほどであった。

説明によると、今の声は五つ上の階の部屋で処理されたものが次々と階下へ向けて伝達され、吾々のいる部屋を通過して地下まで届けられたものであるという。その地下にも幾つかの部屋がある。私がその原因を聞くとこう説明された。

その建物の屋上に全情報を受信する係の者がいて、彼らがまず自分たちに必要なものだけを取り出して残りをすぐ下の階へ送る。そこでまた同じようにその階で必要なものだけを取って残りを下の階へ送る。

この過程が次々と下の階へ向けて続けられ、私のいる地上の第一階に至る。そこで同じ処理をして最後に地下へ送られる。各階には夥しい数の従業員が休みなく、しかも慌てることなく、手際よく作業に当たっている。

 さて貴殿はこれをさぞかし奇妙に思うことであろう。が実際はもっともっと不思議なものであった。例えば私が言葉を聞いたという時、それは事実の半分しか述べていない。実際はその言葉が目に見えるように聞こえたのである。

地上の言語でどう説明したものであろうか。こうでも述べておこう。例の壁(各種の貴金属と宝石をあしらっており、その一つ一つが地上でいう電気に相当するものによって活性化されている)を見つめていると、どこか遠くで発せられた言葉が目に見えるように私の脳に感応し、それを重要と感じた時は聴覚を通じて聞こえてくる。

この要領でその言葉を発した者の声の音質を内的意識で感得し、さらにその人の表情、姿、態度、霊格の程度、携わる仕事、その他、伝えられたメッセージの意味を正確に理解する上で助けとなるこまごましたものを感識する。

 霊界におけるこうした情報の伝達と受信の正確度は極めて高く、特にこの建物においては私の知る限り最高に完璧である。そこで私が見たものや聞いたことを言語で伝えるのはとても無理である。

なぜなら、全ての情報は地上からこの十界に至るまでの途中の全界層の環境条件の中を通過して到達しており、従って一段と複雑さを増しており、とても私には解析できないのである。そこで案内の方が次の如く簡略に説明して下さった。

 例えば、あるとき第三界で進行中の建造の仕事を完成させるために第六界から援助の一行が派遣された。

と言うのは、その設計を担当したのが霊格の高い人たちであったために、建造すべき装置にその界の要素ではうまく作れないものが含まれていたのである。

これを判り易く説明すれば、例えばもし地上の人間が霊界のエーテル質を物質へ転換する装置を建造するとなったら、一体どうするかを考えてみるとよい。

地上にはエーテル質を保管するほど精妙な物質は見当たらないであろう。エーテル質はいわゆる物質と呼ぶ要素の中に含有されている如何なるエネルギーにも勝る強力かつ驚異的エネルギーだからである。

 第三界においても幾分これと似通った問題が生じ、如何にすればその装置の機能を最大限に発揮させるかについての助言を必要としたのであった。これなどは比較的解決の容易な部類に入る。

 さて、これ以上のことは又の機会に述べるとしよう。貴殿はエネルギーを使い果たしたようである。私の思う通りを表現する用語が見当たらぬようになってきた。

 貴殿の生活と仕事に祝福を。確信と勇気をもって邁進されよ。  ♰



 4 宇宙の深奥を覗く    

 一九一三年クリスマス・イブ

 以上、私は天界の高地における科学について語ってみたが、この話題をこれ以上続けても貴殿にとりてはさして益はあるまい。何となればそこで駆使される叡智も作業も貴殿には殆ど理解できぬ性質のものだからである。

無理をして語り聞かせてもいたずらに困惑させるのみで、賢明とは思えない。そこで私はもう少し簡単に付け加えた後別の話題へ進もうと思う。

 あのあと私は次の階へ上がってみたが、そこでは又ひきも切らぬ作業の連続で、夥しい数の人が作業に当たっていた。各ホールを仕切っている壁はすべて情報を選別するため、ないしはそれに類似した仕事に役立てられている。地上の建物に見る壁のように、ただのっぺりとしているのではない。

様々な色彩に輝き、各種の装置が取り付けられ、浮彫り細工が施されている。すべてが科学的用途を持ち、常に監視され、操作の一つ一つが綿密に記録され検討を加えられた上で所期の目標へ送り届けられる。その建物の中の他の部門だけに限らない。必要とあれば上の界へも下の界へも届けられる。

 案内の方が屋上へも案内して下さった。そこからは遠くまでが一望のもとに見渡せる。下へ目をやれば私が登ってきた森が見える。その向こうには高い峰が連なり、それらが神々しい光に包まれて、あたかも色とりどりの宝石の如くキラキラと輝いて見える。

その峰の幾つかは辺りに第十一界から届く幽玄な美しさが漂い、私のような第十界の者の視力に映じないほど霊妙化された霊的存在に生き生きと反応を示しているようであった。

 そうした霊は第十一界から渡来し、第十界のための愛の仕事に携わっていることが判った。それを思うと、吾が身を包む愛と力に感激を禁じ得ず、ただ黙するのみであった。それが百万言を弄するより遥かに雄弁に私の感激を物語っていたのである。

 こうして言うに言われぬ美を暫し満喫していると、案内の方がそっと私の肩に手を置いてこう言われた。

 「あれに見えるのが〝天界の高地〟です。あの幽玄な静寂にはあなたの魂を敬虔と畏敬と聖なる憧憬で満たしてくれるものがあるでしょう。あなたは今あなたの現時点で到達しうるぎりぎりの限界に立っておられます。ここへ来られて、今のあなたの力では透徹し得ない境涯を発見されたはずです。

しかし私たちは聖なる信託として、そして又、思慮分別をもって大切に使用すべきものとして、ベールで被われた秘密を明かす力を授かっており、尋常な視力には映じないものを見通すことが出来ます。如何ですか。あなたもしばしの間その力の恩恵に浴し、これまで見ることを得なかった秘密を覗いてみたいと思われませんか。」

 私は一瞬返事に窮した。そして怖れに似たものさえ感じた。なぜなら、すでにここまで見聞きしたものですら私にとってはやっと耐え得るほどの驚異だったからである。

しかし、しばらく考えた挙句に私は、すべてが神の愛と叡智によって配剤されているからには案ずることは絶対に有るまいとの確信に到達し、〝全てお任せいたします〟と申し上げた。その方も〝そうなさるがよい〟と仰せられた。

 そう言うなり、その方は私を置き去りにして屋上に設けられた至聖所の中へ入られた。そしてしばし(私の推察では)祈りを捧げられた。

 やがて出て来られた時にすっかり変身しておられた。衣装はなく、眉のあたりに宝石を散りばめた飾り輪を着けておられるほかは何一つ身につけておられない。あたりを包む躍動する柔らかい光の中に立っておられる姿の美しいこと。

光輝はますます明るさを増し、ついには液体のガラスと黄金で出来ているような様相を呈してきた。私はその眩しさに思わず下を向き、光を遮ったほどであった。

 その方が私に、すぐ近くまで来るようにと仰せられた。言われるまま前に立つとすぐ私の後ろへ回られ、眩しくないようにと配慮しつつ私の両肩に手を置いて霊力を放射しはじめた。

その光はまず私の身体を包み、さらに左右が平行に延びて、それが遠方の峰から出ている光と合流した。つまり私の前に光の道ができ、その両側も光の壁で仕切られたのである。その空間は暗くはなかったが、両側の光に較べれば光度は薄かった。

 その光の壁は言うなれば私のすぐ後ろを支点として扇状に広がり、谷を横切り、山頂を越えて突き進み、私の眼前に広大な光の空間が広がっていた。その炎の如き光の壁は私の視力では突き通すことは出来なかった。

 そこで背後から声がして〝空間をよく見ているように〟と言われた。見ていると、これまで数々の美と驚異とを見てきた、そのいずれにも増して驚異的な現象が展開し始めた。

 その二本の光の壁の最先端が、針の如くそそり立った左右の山頂に当たった。するとまずその左手の山頂に巨大な神殿が出現し、その周りに、光の衣をまとった無数の天使が群がり、忙しく動き回っている。さらに神殿の高いポーチの上に大天使が出現し、手に十字架を携え、それをあたかも遠くの界の者に見せるように高々と持ち上げている。

その十字架の横棒の両端に一人ずつ童子が立っており、一人はバラ色の衣装をまとい、もう一人は緑と茶の衣装をまとっている。その二人の童子が何やら私に理解できない歌を合唱し、歌い終わると二人とも胸に両手を当て、頭を垂れて祈った。

 次に右方向を見るように促されて目をやると、今度は全く別の光景が展開した。遥か彼方の山腹に〝玉座〟が見えたのである。光と炎とが混じりあった赫々(カクカク)たる光輝の中に女性の天使が坐し、微動だにせぬ姿で遥か彼方へ目をやっておられる。

薄地の布を身にまとい、それを通して輝く光は銀色に見える。が頭上にはスミレ色に輝くものが浮いており、それが肩と背中のあたりまで垂れ下がり、あたかもビロードのカーテンを背景にした真珠のように、その天使を美しく浮き上がらせていた。

 そのまわりと玉座のたもとにも無数の男女の霊の姿が見える。静かに待機している。いずれ劣らぬ高級霊で、その光輝は私よりも明るいが、優雅な落ち着きの中に座しておられる女性天使の輝きには劣る。

お顔に目をやってみた。それはまさに愛と哀れみから生じる緻密な心遣いが漂い、その目は高き叡智と偉力の奥深さを物語っていた。両の手を玉座の肘掛けに置いておられ、その両腕と両脚にも力強さが漂っていたが、そこにはおのずから母性的優しさが程よく混じっていた。

 その天使が突如として動きを発せられた。そこを指さし、あそこを指さし、慌てず、しかし機敏に、てきぱきと命令を下された。

 それに呼応して従者の群れが一斉に動き始めた。ある一団は電光石火の勢いで遥か遠くへ飛び、別の一団は別の彼方へ飛ぶ。馬に跨って虚空へ飛翔する一団もいる。流れるような衣装をまとった者もいれば、鎧の如きもので身を固めた者もいる。

男性のみの一団もあれば女性のみの一団もあり、男女が入り混じった一団もある。

それら各霊団が一斉に天空を翔けて行く時の様子は、あたかも一瞬のうちに天空にダイヤモンドとルビーとエメラルドを散りばめたようで、その全体を支配する色彩が、唖然として立ちすくむ私に照り返ってくるのであった。

 こうして私の前に扇形に伸びる光が地平線上を一周して照らし出して行くと、いずれの方角にも必ず私にとって新しい光景が展開された。

その一つ一つが性格を異にしていたが、美しさは何れ劣らぬ美事なものであった。こうして私は、曽て見てきた神の仕事に携わる如何なる霊にも勝る高き神霊の働く姿を見せていただいた。

そのうち、その光が変化するのを見て背後にいた案内の方が再び至聖所へ入られたことを悟った時、私はあまりの歓喜に思わず溜め息を洩らし、神の栄光に圧倒されて、その場にしゃがみ込んでしまった。

吾々が下層界のために働くのと同じように、高き神霊もまた常に吾々を監視し吾々の需要のために心を砕いて下さっている様を目のあたりにしたのであった。

 かくして私が悟ったことは、下界の全界層は上層界に包含され、一界一界は決して截然と区別されておらず、どれ一つとして遠く隔離されていないということである。私の十界には下層界の全てが包含され、同時にその第十界も下層界と共に上層界に包含されているということである。

この事実は吾々の界まで瞭然と理解できる。が、さらに一界又一界と進むにつれて複雑さと驚異とを増して行き、その中には、僅かずつ、ほんの僅かずつしか明かされない秘密もあると聞く。私は今やそのことに得心がゆき、秘密を明かしていただける段階へ向けての一層の精進に真一文字に邁進したいものと思う。

 ああ、吾らが神の驚異と美と叡智! 私がこれまでに知り得たものをもって神の摂理の一欠けらに過ぎぬと言うのであれば、その全摂理は果たしていかばかりのものであろうか。そして如何に途方もないものであろうか。

 天界の低い栄光さえも人間の目にはベールによって被われている。人間にとっては、それを見出すことは至難のわざである。が、それでよいのである。秘宝はゆっくりと明かされて行くことで満足するがよい。なぜなら、神の摂理は愛と慈悲の配慮をもって秘密にされているからである。

万が一それが一挙に明かされようものなら、人間はその真理の光に圧倒され、それを逆に不吉なものと受け取り、それより幾世紀にも亘って先へ進むことを恐れるようになるであろう。私はこの度の体験によってそのことを曽てなかったほど身に沁みて得心したのである。

佳きに計らわれているということである。万事が賢明にそして適切に配剤されているということである。げに神は愛そのものなのである。 ♰



 5 霊格と才能の調和

一九一三年一二月二七日 土曜日

さて、こうして私の界を遥かに超えた上層界の驚異を目の当たりにすることを許されたことは、実に有難き幸せであった。私はその後いろいろと思いをめぐらせた。

そして私にその体験をさせた意図と動機とをある程度まで理解することができた。が、目の当たりにした現象の中にはどうしても私一人の力では理解できないものが数多くあった。その一つが次のような現象である。

 二つの光の壁によって仕切られた扇形の視界の中に展開したのは深紅の火焔の大渦であった。限りなく深い底から巨大な深紅の炎の波が次から次へと噴出し、その大きなうねりが互いに激突し合い、重なり合い、左右に揺れ動き、光の壁に激突しては炎のしぶきを上げる。

世紀末的大惨事はかくもあろうかと思われるような、光と炎の大変動である。その深紅の大渦のあまりの大きさに私の魂は恐怖におののいた。

 「どうか目を逸らせてください。お願いです。もう少し穏やかなものにして下さい。私にはあまりに恐ろしくて、これ以上耐え切れません。」

 私がそうお願いすると、背後からこういう返答が聞こえた。

 「今しばらく我慢するがよい。そのうち恐ろしさが消えます。あなたが今見ておられるのはこの先の上層界です。その最初が第十一界となります。この光が第何界のものであるかは、後で記録を調べてみないことには、私にも判りかねます。

その記録はこの施設にはなく、もう一つ、ここからかなり遠く離れたところにある別の施設にあります。今あなたが恐怖をもって眺めておられるこの光は第十三界かも知れないし第十五界かも知れない。それは私にも判りません。

ただ一つだけ確かなことは、主イエス・キリストが在(ましま)すのは実にあの光の中であり、あなたの目に映じている深紅の光彩は主と、主に召された者との交わりの栄光の反映であるということです。

しっかりと見つめられよ。これほど見事に見られることは滅多にありません。では私がそのさらに奥の深いところを見させてあげましょう。」

そう言い終わるなり、背後からのエネルギーが強化されるのが感じられ、私もその厚意に応えるべく必死に努力をした。が、空しい努力に終わった。やはり私の力の及ぶところではないことを悟った。

すでに叙述したもの以外に見えたものと言えば、その深紅の光の奥に何やら美しい影が動めくのが見えただけであった。炎の人影である。ただそれだけであった。私は目を逸らせてほしいと再度お願いした。もう哀願に近いものになっていた。

そこでようやく聞き入れて下さった(光が変化したと述べたのはその時である)。それ以後、何も見えなくなった。見たいという気持ちも起きなかった。あたりはそれまでとは対照的に、くすんだ静けさに一変している。

それを見て私は心ひそかに、あの世界へ行かれぬ自分、さぞかし美と生の喜びに満ちあふれていることであろう世界に生きる神霊の仲間入りができない自分を情けなく思ったことであった。それから次第に普段の意識を回復した。

そして案内の方が至聖所から普段のお姿で出てこられた時には、私のような者にこれほどの光栄を給わったことに厚く礼を述べられるほどになっていた。

 さて、その高い楼閣での仕事について述べられるものとして、他に一体何があるであろうか。と言うのは、貴殿もよく心得てほしいことであるが、吾々の生活と出来ごとで人間に理解できることは極めて僅かしかないのである。

それ故、貴殿に明かすものについて私は細心の注意を払わねばならない。つまり貴殿の精神の中において何とか再現し、地上の言語で表現できるものに限らねばならないのである。

 その驚異的現象が終わったあとも二人は暫し屋上に留まり、下方の景色へ目をやった。遥か遠く、第九界の方角に大きな湖が見える。樹木の生い茂った土地に囲まれ、そこここに島々が点在し、木蔭に佇む家もあれば高く聳え立つ楼閣もある。

岸に沿った林の中のそこここに小塔が聳えている。私は案内の方にそこがいかなる居住地(コロニー)であるかを尋ねた。その配置の様子が見事で、いかにも一つのコロニーに見えたからである。

 するとこういう返答であった。実はかなり昔のことであるが、この界へ到来する者の処遇にちょっとした問題が生じたことがあった。

それは、皆が皆、必ずしも全ての分野で平均的に進化しているとは限らない──例えば宇宙の科学においては無知な部門もある・・・・・・いや、どうもこういう説明の仕方ではすっきりしない。もう少し分かり易く説明しよう。

 魂に宿された才能を全てまんべんなく発達させている者も居れば、そうでない者もいる。もとより、いずれ劣らぬ高級霊である点においては異存はない。

だからこそこの第十界まで上昇して来たのである。が中には、もし持てる才能をまんべんなく発達させておれば、もっと速やかにこの界へ到達していたであろう者がいるということである。

 更に、そうした事情のもとでようやく到達したこの界には、それまでの才能では用を為さない環境が待ち受けている。それ故、何れは是が非でも才能をまんべんなく発達させ、より円満にする必要性が生じてくるのである。

 さきのコロニーの設立の必要性を生ぜしめた問題はそこにあった。あそこにおいて他人への援助と同時に自己の修養に励むのである。貴殿にはそれがなぜ問題であるのか不審に思えるかも知れないが、そう思うのは、この界を支配する諸条件が地上とは比較にならぬほど複雑さを持った完全性を具えているからに他ならない。

 あのコロニーの住民の霊格はある面ではこの十界の程度でありながら、他の面ではすでに十一界あるいは十二界の程度まで進化していることもある。そこで次のような厄介な問題が生じる。すなわち霊力と霊格においてはすでに今の界では大きすぎるものを具えていながら、さりとて次の界へは行かれない。

無理して行けば発達の遅れた面が災いして大失策を演じ、それが原因で何界も下層へ後戻りせざるを得なくなるかもしれない。そこはそこで又、居づらいことであろう。

 以上の説明で理解してもらえるであろうか。例えば魚が水から出されて陸(おか)に置かれたら大変である。反対に哺乳動物が森から水中へ入れられたら、これ又死ぬに決まっている。両生類は水と陸の両方があって初めて生きて行ける。陸地だけでは生理に異常を来すし、水の中だけでもやはり異常を来す。

 無論あのコロニーの生活者がこれと全く同じ状態であるというわけではない。が、こうした譬えによって彼らの置かれた特殊な境遇について大よその理解がいくであろう。彼らにとって第十界にいることは、あたかもカゴに入れられた小鳥同然であり、さりとて上層界へ行くことは炎の中へ飛び込む蛾も同然なのである。


──結局どういう取り扱いを受けるのでしょうか。

 自分で自らを律していくのである。私の信じるところによれば、彼らは今まさにその問題点に関する最高の解決策を見出しつつあるところであろう。

首尾よく解決した暁には、彼らはこの十界に対しても貢献したことになり、その功績はこののちのために大切に記録されることであろう。こうしたことが各種の分野において行われており、思うに、彼らは今では自分の得意とする能力に応じて組分けされ、一種の相互補完のシステムによって働くことが可能となっているであろう。

つまり各クラスの者が自分たちの所有している徳と霊力とを、それを欠く他のクラスの者に育ませるように努力するということである。全クラスがそれぞれにそう努力し、そこに極めて複雑な協調的教育が生まれる。

極めて入り組んだ教育組織となっているため、高地に住む者さえ分析不可能なほどである。いずれそこから何ものかが生み出され、機が熟せば、この界の霊力と影響力とを増すことであろう。それも多分、極めて大規模な形で寄与することになるものと私には思えるのである。

 かくして相互的な寄与が行われる。進化の真の喜びは自らの向上の道において同胞を向上の道に誘(いざな)うことの中にこそ味わえるものである。そうではなかろうか。 ♰

 では祝福とお寝みを申上げよう。

ベールの彼方の生活(二)

第二巻は、著者オーエンの守護霊であるザブディエルからの通信です。彼がいる十界、その先の十一界や下層界である五界や六界の情景について書かれています。


五章 天界の科学

 1 エネルギーの転換       

 一九一三年十二月二日  火曜日


 今夜はエネルギーの転換に関連した幾つかの問題を取り上げてみよう。ここでいうエネルギーとは上層界の意念の作用を人間の心へ反映させていくための媒体と理解していただきたい。

吾々が意図することを意念の作用を利用して、いわゆるバイブレーションによって中間界を通過させて地上界へと送り届けるよう鍛錬しているのである。私がエネルギーと呼ぶのはこのバイブレーションの作用のことである。

 さて、こうして地上の用語を使用する以上は、天界の科学を正確に、あるいは十分に表現するには不適当な手段を用いていることになることを理解していただかねばならない。

それ故、当然、その用語の意味を限定する必要が生じる。私がバイブレーションという用語を用いる時は、単なる往復振動のことではなく、時には楕円運動、時には螺旋運動、更にはこれらが絡み合い、それに他の要素が加わったものを意味するものと思われたい。

 この観点からすれば、最近ようやく人間界の科学でも明らかにされ始めたバイブレーションの原子的構造は、太陽系の組織、更には遥か彼方の天体の組織と同一なのである。

太陽をめぐる地球の動きも原子内の素粒子の動きもともにバイブレーションである。

その規模は問わぬ。つまり運動の半径が極微であろうが極大であろうが、本質的には同じものであり、規模において異なるのみである。

 が、エネルギーの転換はいかなる組織にも運動の変化をもたらし、運動の性質が変われば当然その結果にも変化が生じる。かくて吾々は常に吾々より更に高級にして叡智に富む神霊によって定められた法則に沿いつつ、意念をバイブレーションの動きに集中的に作用させて質の異なるバイブレーションに転換し、そこに変化を生じさせる。

 これを吾々は大体において段階的にゆっくりと行う。計算どおりの質的転換、大きすぎもせず小さすぎもしない正確な変化をもたらすためである。

 吾々が人間の行為ならびに自然界の営みを扱うのも実はこの方法によるのである。それを受持つ集団は鉱物・植物・動物・人間・地球・太陽・惑星の各分野において段階的に幾層にも別れている。更にその上に星辰の世界全体を経綸する神庁が控えている。

 混沌たる物質が次第に形を整え、天体となり、更にその表面に植物や動物の生命が誕生するに至るのも、全てこのエネルギーの転換による。が、これで判っていただけると思うが、いかなる生命も、いかなる発達も、すべて霊的存在の意志に沿った霊的エネルギーの作用の結果なのである。

この事実を掌握すれば、宇宙に無目的の作用は存在せず、作用には必ず意図がある───一定範囲の自由は許されつつも、規定された法則に従って働く各段階の知的にして強力な霊的存在の意図があることに理解がゆくであろう。

 更に、物質自体が実は霊的バイブレーションを鈍重なものに転換された状態なのである。それが今、地上の科学者によって分析されつつあり、物質とはバイブレーションの状態にあり、いかなる分子も静止しているものは無く、絶え間なく振動しているとの結論に到達している。

これは正解である。が、最終結論とは言えない。まだ物質を究極まで追跡しきってはいないからである。より正確に表現すれば、物質がバイブレーションの状態にあるのではなく、物質そのものが一種のバイブレーションであり、より精妙なバイブレーションの転換されたものである。その源は物質の現象界ではなく、その本性に相応しい霊界にある。

 これで貴殿も、いよいよその肉体を棄てる時が到来したとき、何の不都合もなく肉体なき存在となれることが理解できるであろう。地上の肉体は各種のバイブレーションの固まりに過ぎず、それ以上のものではないのである。

有難いことに今の貴殿にも肉体より一層実体のある、そして耐久性のある別のバイブレーションで出来た身体が具わっている。肉体より一段と精妙で、それを創造し維持している造化の根源により近い存在だからである。

その身体は、死後、下層界を旅するのに使用され、霊的に向上するにつれて、更に恒久性のある崇高な性質を帯びた身体へと転換される。この過程は延々と限りなく繰り返され、無限の向上の道を栄光よりさらに高き栄光へと進化してゆくのである。

 そのことは又、死後の下層界が地上の人間に見えないのと同じく、下層界の者には通常は上層界が見えないことも意味する。かくて吾々は一界また一界と栄光への道を歩むのである。

 まさしくそうである。貴殿もいつの日かこちらへ来れば、このことをより一層明確に理解するであろう。と申すのも、今述べたバイブレーションの原理も貴殿は日常生活において常時使用しており、他の全ての人間も同じく使用しているにも拘わらず、その実相については皆目理解していないからである。

吾らは持てる力を神の栄光と崇拝のために使用すべく、鋭意努力している。願わくば人間がその努力に一体となって協力してくれることが望ましい。

一丸となれば、善用も悪用も出来るその力が現在の人間の知識を遥かに超えたものであることを知るであろう。蠅や蟻の知能を凌ぐほどに。

 吾々は、有難いことに、知識と崇高さにおける進歩が常に対等であるように調整することが出来る。完璧とは言えないが、ある範囲内───広範囲ではあるが確固とした範囲内において可能である。もしも可能でないとしたら地上は今日見るが如きものでは有り得ず、また今ほどの秩序ある活動は見られないであろう。

 もっとも、これも人類に対する吾々の仕事の一側面に過ぎない。そして人類の未来に何が待ち受けているかは私にも何とも言えない。霊的真理の世界へこれより人類がどこまで踏み込むかを推測するほどには、私は先が見えない。まだその世界への門をくぐり抜けたばかりだからである。

が、大いなる叡智をもって油断なく見守る天使によっても、こののちも万事よきに計らわれるであろう。天使の支配のある限り、万事うまく行くことであろう。 ♰



 2 〝光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず〟 

  一九一三年十二月三日  水曜日
  
 昨日取りあげた話題をもう少し進めて、私の言わんとするところを一層明確にしておきたい。改めて言うが、エネルギーの転換についてこれまで述べたことは用語の定義であり本質の説明ではないことをまず知ってほしい。

 貴殿の身の周りにある神的生命の顕現の様子をつぶさに見れば、幾つか興味深いものが観察されるであろう。

 まず、人間にも視覚が具わっているが、これも外部に存在する光が地球へ向けて注がれなければ使用することは出来まい。が、その光もただのバイブレーションに過ぎず、しかも発生源から地上に至るまで決して同じ性質を保っているのではない。

と言うのも、人間は太陽を目に見えるものとしてのみ観察し、各種のエネルギーの根源とみている。が、光が太陽を取り巻く大気の外側へ出ると、そこに存在する異質の環境のために変質し、いったん人間が〝光〟と呼ぶものでなくなる。

その変質したバイブレーションが暗黒層を通過し、更に別の大気層、例えば地球の大気圏に突入すると、そこでまたエネルギーの転換が生じて、再び〝光〟に戻る。

太陽から地球へ送られて来たのは同一物であって、それが広大な暗黒層を通過する際に変質し、惑星に衝突した時に再び元の性質に戻るということである。

 「光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず」(ヨハネ福1・5)この言葉を憶えているであろう。これは単なる比喩にはあらず、物質と霊のこの宇宙における神のはたらきの様子を述べているのである。しかも神は一つであり、神の王国も又一つなのである。

 光が人間の目に事物を見せる作用をするには或る種の条件が必要であることが、これで明らかであろう。その条件とは光が通過する環境であり、同時にそれが反射する事物である。

 これと同じことが霊的環境についても言える。吾ら霊的指導者が人間界に働きかけることが出来るのは、それなりの環境条件が整ったときのみである。

ある者には多くの真理を、それも難なく明かすことができるのに、環境条件の馴染まぬ者にはあまり多くを授けることが出来ないことがあるのはそのためである。かくて物的であろうと霊的であろうと、物事を明らかにするのは〝光〟であることになる。

 この比喩をさらに応用してお見せしよう。中間の暗黒層を通過して遥か遠方の地上へと届くように、高き神霊界に発した光明が中間の階層を経て地上へと送り届けられ、それを太陽光線を浴びるのと同じ要領で浴びているのである。

 が、さらに目を別の方角に向けてほしい。地球から見ることのできる限りの、最も遠い恒星のさらに向こうに、人間が観察する銀河より遥かに完成に近づいた美事な組織が存在する。そこにおいては光の強さは熱の強さに反比例している。

と言うことは、永い年月に亘る進化の過程において、熱が光を構成するバイブレーションに転換されていることを暗示している。

月は地球より冷たく、しかもその容積に比例して計算すれば、地球より多くの光を反射している。天体が成長するほど冷たくなり、一方、光線の力は強くなってゆく。吾々の界層から見るかぎりそうであり、これまでこの結論に反する例証を一つとして観察したことはない。

 曽てそのエネルギーの転換の実例を私の界において観察したことがある。

 ある時、私の界へ他の界から一団の訪問者が訪れ、それが使命を終えてそろそろ帰国しようとしているところであった。吾々の界の一団──私もその一員であった──が近くの大きな湖まで同行した。訪れた時もその湖から上陸したのである。

いよいよ全員がボートに乗り移り、別れの挨拶を交わしていた時のことである。

吾々の国の指導者格の天使の一人がお付の者を従えて後方の空より近づき、頭上で旋回し始めた。私はこの国の慣習を心得てはいるものの、その時は彼ら──というよりはその天使──の意図を測りかねて、何をお見せになるつもりであろうかと見守っていた。

この界においては来客に際して互いに身に付けた霊力を行使して、その効果をさまざまな形で見せ合うのが慣習なのである。

 見ていると遥か上空で天使のまわりを従者たちがゆっくりと旋回し、その天使から従者へ向けて質の異なる、従って色彩も異なるバイブレーションの糸が放たれた。天使の意念によって放射されたのである。それを従者が珍しい、そして実に美しい網状のものに編み上げた。

二本の糸が交叉する箇所は宝石のような強力な光に輝いている。またその結び目は質の異なる糸の組み合わせによって数多くの色彩に輝いている。

 網状の形体が完成すると、まわりの従者は更に広がって遠くへ離れ、中央に天使一人残った。そして、出来上がった色彩豊かなクモの巣状の網の中心部を片手で持ち上げた。それがふわふわと頭上で浮いている光景は、それはそれは〝美しい〟の一語に尽きた。

 さて、その綱は数多くの性質を持つバイブレーションの組織そのものであった。やがて天使が手を離すとそれがゆっくりと天使を突き抜けて降下し、足もとまで来た。そこで天使はその上に乗り、両手を上げ、網目を通して方向を見定めながら両手をゆっくりと動かして所定の位置へ向けて降下し続けた。

 湖の上ではそれに合わせて自然発生的に動きが起こり、ボートに乗ったまま全員が円形に集合した。そこへ網が降りてきて、全員がすっぽりとその範囲内におさまる形でおおい被さり、更に突き抜けて網が水面に落ち着いた。

そこでその中央に立っている天使が手を振って一団に挨拶を送った。するとボートもろとも網がゆっくりと浮上し、天高く上昇して行った。

 かくて一団は湖上高く舞い上がった。吾らの一団もそのまわりに集まり、歌声と共に道中の無事を祈った。彼らはやがて地平線の彼方へと消えて行った。

 こうした持てなしは、他の界からの訪問者に対して吾々が示すささやかな愛のしるしの一例に過ぎないもので、それ以上の深い意味はない。私がこれを紹介したのは──実際には以上の叙述より遥かに美しいものであったが──強烈な霊力を有する天使の意念がいかにエネルギーを操り質を転換させるかを、実例によって示すためであった。

 目を愉しませるのは美しさのみとは限らない。美しさは天界に欠かせぬ特質の一つにすぎない。例えば効用にも常に美が伴う。人間が存在価値を増せば増すほど人格も美しさを増す。聖は美なりとは文字どおりであり真実である。願わくば全ての人間がこの真理を理解して欲しいものである。 ♰



  3 光と旋律による饗宴        

 一九一三年十二月四日  木曜日

 いささか簡略に過ぎた嫌いはあるが、天界においてより精妙な形で働いている原理が地上においても見られることを、ひと通り説明した。そこで次は少しばかり趣きを変えて話を進めようと思う。

本格的な形では吾々の世界にしか存在しない事柄を幾ら語ったところで、貴殿には理解できないであろうし、役にも立たないであろうが、旅する人間は常に先へ目をやらねばならない。これより訪れる国についての理解が深ければ深いほど足どりも着実となるであろうし、到着した時の迷いも少ないことであろう。

 然らばここを出発点として──物質のベールを超えて全てが一段と明るい霊的界層に至り、まず吾々自らがこの世界の真相を学ぶべく努力し、そしてそれを成就した以上──その知識をこののちの者に語り継ぐことが吾々の第一の責務の一つなのである。

 他界後、多くの人間を当惑させ不審に思わせることの一つは、そこに見るもの全てが実在であることである。そのことについては貴殿はすでに聞かされているが、それが余りにも不思議に思え予期に反するものである様子なので、今少し説明を加えたいと思う。

と申すのも、そこに現実に見るものが決して人間がよく言うところの〝夢まぼろし〟ではなく、より充実した生活の場であり、地上生活はそのための準備であり出発点に過ぎないことを理解することが何よりも大切だからである。

何故に人間は生長しきった樫の木より苗木を本物と思いたがり、小さな湧き水を本流より真実で強力と思いたがるのであろうか。地上生活は苗木であり湧き水に過ぎない。死後の世界こそ樫の木であり本流なのである。

 実は人間が今まとっている肉体、これこそ実在と思い込んでいる樹木や川、その他の物的存在は霊界にあるものに比して耐久性がなく実在性に乏しい。なぜなら、人間界を構成するエネルギーの源はすべて吾々の世界にあるのであり、その量と強烈さの差は、譬えてみれば発電機と一個の電灯ほどにも相当しよう。

 それ故人間が吾々のことを漂う煙の如く想像し、環境をその影の如く想像するのであれば、一体そう思う根拠はどこにあるのかを胸に手を当てて反省してみよと言いたい。否、根拠などあろうはずがないのである。あるのは幼稚なる愚かさであり、他愛なき想像のみなのである。

 ここで私はこちらの世界における一光景、ある出来ごとを叙述し、遠からぬ将来にいずれ貴殿も仲間入りする生活の場を紹介することによって、それをより自然に感じ取るようになって貰いたいと思う。

この光あふれる世界へ来て地上を振り返れば、地上の出来ごとの一つ一つが明快にそして生々しく観察でき、部分的にしか理解し得なかったことにもそれなりの因果関係があり、それでよかったことに気づくことであろう。

が、それ以上に、こうして次から次へと無限なるものを見せつけられ、一日一日を生きている生活も永遠の一部であることを悟れば、地上生活が如何に短いものであるかが判るであろう。

 さて、スミレ色を帯びたベールの如き光が遠く地平線の彼方に見え、それが前方の視界をさえぎるように上昇しつつある。その地平線と今私が立っている高い岩場との間には広い平野がある。その平野の私のすぐ足もとの遥か下手(しもて)に大聖堂が見える。これが又、山の麓に広がる都の中でも際立って高く聳えている。 

 ドームあり、ホールあり、大邸宅あり、ことごとくまわりがエメラルドの芝生と宝石のように輝く色とりどりの花に囲まれている。広場あり、彫像あり、噴水あり、そこを、花壇を欺(あざむ)くほどの美しさに輝き、色彩の数も花の色を凌ぐほどの人の群れが行き交っている。

その中に、他を圧するようにひときわ強く輝く色彩が見える。黄金色である。それがこの都の領主なのである。

 その都の外郭に高い城壁が三か月状に伸び、あたかも二本の角(つの)で都を抱きかかえるような観を呈している。その城壁の上に見張りの姿が見える。敵を見張っているのではない。広い平地の出来ごとをいち速く捉え、あるいは遠い地域から訪れる者を歓迎するためである。

 その城壁には地上ならば海か大洋にも相当する広大な湖の波が打ち寄せている。が、見張りの者にはその広大な湖の対岸まで見届ける能力がある。そう訓練されているのである。その対岸に先に述べたベールのような光が輝いており、穏やかなうねりを見せる湖の表面を水しぶきを上げて往き交う舟を照らし出している。

 さて私もその城壁に降り立ち、これより繰り広げられる光景を見ることにした。やがて私の耳に遠雷のような響きがそのスミレ色の光の方角から聞こえてきた。音とリズムが次第に大きくなり、音色に快さが増し、ついに持続的な一大和音(コード)となった。

 すると高く聳える大聖堂から一群の天使が出て来るのが見えた。全員が白く輝く長服をまとい、腰を黄金色の帯で締め、額に黄金の環帯を付けている。やがて聖堂の前の岩の平台に集結すると、全員が手を取り合い、上方を向いて祈願しているかに見える。

実は今まさにこの都へ近づきつつある地平線上の一団を迎えるため、エネルギーを集結しているのであった。

 そこへもう一人の天使が現われ、その一団の前に立ち、スミレ色の光の方へ目をやっている。他に較べて身体の造りが一回り大きく、身につけているものは同じく白と黄金色であるが、他に比して一段と美しく、顔から放たれる光輝も一段と強く、その目は揺らぐ炎のようであった。

 そう見ていた時のことである。その一団の周りに黄金色の雲が湧き出て、次第に密度を増し、やがて回転し始め一個の球体となった。全体は黄金色に輝いていたが、それが無数の色彩の光から成っていた。それが徐々に大きくなり、ついには大聖堂をも見えなくした。それから吾々の目を見張らせる光景が展開したのである。

 その球体が回転しつつ黄金、深紅、紫、青、緑、等々の閃光を次々と発しながら上昇し、ついには背後の山の頂上の高さ、大聖堂の上にまで至り、更に上昇を続けて都の位置する平野を明るく照らし出した。気がついてみると、さきほど一団が集合した平台には誰れ一人姿が見当たらない。

その光と炎の球体に包まれて上昇したのである。これはエネルギーを創造するほどの霊力の強烈さに耐えうるまでに進化した者にしかできぬ業(わざ)である。球体はなおも上昇してから中空の一点に静止し、そこで閃光が一段と輝きを増した。

 それから球体の中から影のようなものが抜け出てきて、その球面の半分を被うのが見えた。が、地平線上の例のスミレ色の光の方を向いた半球はそのままの位置にあり、それが私に正視できぬほどに光輝を増した。見ることを得たのは、スミレ色の光から送られるメッセージに応答して発せられ平地の上空へ放たれたものだけであった。

 そのとき蜜蜂の羽音のようなハミングが聞こえてきた。そしてスミレ色の光の方角から届く大オーケストラの和音(コード)と同じように次第に響きを増し、ついに天空も平野も湖も、光と旋律とで溢れた。天界では、しばしば、光と旋律とは状況に応じてさまざまな形で融合して効果をあげてゆくのである。

 すでにこの時点において、出迎えの一団と訪問の一団とは互いに目と耳とで認識し合っている。二つの光の集団は次第に近づき、二つの旋律も相接近して美事な美しさの中に融合している。両者の界は決して近くはない。天界での距離を地上に当てはめれば莫大なものになる。

両者は何十億マイル、あるいは何百億マイルも遠く離れた二つの恒星ほども離れており、それが今その係留(けいりゅう)を解(ほど)いて猛烈なスピードで相接近しつつ、光と旋律とによって挨拶を交わしているのに似ている。

これと同じことが霊的宇宙の二つの界層の間で行われていると想像されたい。そうすれば、その美しさと途方もなく大きな活動は貴殿の想像を絶することが判るであろう。

 そこまで見て私はいつもの仕事に携わった。が、光はその後もいやが上にも増し、都の住民はその話でもちきりであった。この度はどこのどなたが来られたのであろうか。前回は誰それが見えられ、かくかくしかじかの栄光を授けて下さった。等々と語り合うのであった。

 かくて住民はこうした機会にもたらされる栄光を期待しつつ各々の仕事に勤しむ。天界では他界からの訪問者は必ずや何かをもたらし、また彼らも何かを戴いて帰り住民に分け与えるのである。

 それにしても、その二つの光の集団の面会の様子を何とかうまく説明したく思うのであるが、それはとても不可能である。地上の言語では到底表現できない性質のものだからである。実はこれまでの叙述とて、私にはおよそ満足できるものではない。

壮麗な光景のここを切り取りあそこを間引きし、言わば骨と皮ばかりにして何とか伝えることを得たにすぎない。かりにその断片の寄せ集めを十倍壮麗にしたところで、なお二つの光の集団が相接近して会合した時の壮観には、とても及びもつかぬであろう。

天空は赫々(カクカク)たる光の海と化し、炎の中を各種の動物に引かれたさまざまな形態の馬車に乗った無数の霊(スピリット)が、旗をなびかせつつ光と色のさまざまな閃光を放ちつつ往き交い、その発する声はあたかも楽器の奏でる如き音色となり、それが更にスミレ色の花とダイヤモンドの入り混じった黄金の雨となって吾々の上に降りそそぐ。

 なに、狂想詩? そうかも知れない。単調きわまる地上の行列──けばけばしい安ピカの装飾を施され、それが又、吾々の陽光に比すればモヤの如き大気の中にて取り行われる地上の世界から見れば、なるほどそう思われても致し方あるまい。

が、心するがよい。そうした地球及び地上生活の生ぬるい鬱陶(ウットウ)しさのさ中においてすら、貴殿は実質的には本来の霊性ゆえに地上の者にはあらずして、吾々と同じ天界に所属する者であることを。故に永続性の無い地上的栄光を嗅ぎ求めて這いずり回るような、浅ましい真似だけは慎んでほしい。

授かったものだけで満足し、世の中は万事うまく取り計らわれ、今あるがままにて素晴らしいものであることを喜ぶがよい。ただ私が言っているのは、この低い地上に置いて正常と思うことを規準にして霊界を推し量ってはならないということである。

 常に上方を見よ。そこが貴殿の本来の世界だからである。その美しさ、その喜びは全て貴殿のために取ってある。信じて手を差しのべるがよい。私がその天界の宝の中から一つずつ授けて参ろう。心を開くがよい。来たるべき住処の音楽と愛の一部を吾々が吹き込んでさしあげよう。

 差し当たっては有るがままにて満足し、すぐ目の前の仕事に勤しむがよい。授かるべきものは貴殿の到来に備えて確実に、そして安全に保持してある。故にこの仕事を忠実にそして精一杯尽くすがよい。

それを全うした暁には、貴殿ならびに貴殿と同じく真理のために献身する者は、イエスのおん血(ヘブル書9)を受け継ぐ王として或いは王子として天界に迎えられるであろう。

聖なるものと愛する者にとってはイエスのおん血はすなわちイエスの生命なのである。なぜならイエスは聖なるものの美を愛され〝父〟の聖なる意志の成就へ向けて怯(ひる)むことなく邁進されたからである。人間がそれを侮辱し、それ故に十字架にかけたのであった。

主の道を歩むがよい。その道こそ主を玉座につかしめたのである。貴殿もそこへ誘(いざな)われるであろう──貴殿と共に堂々と、そして愛をもって邁進する者もろともに。

 主イエスはその者たちの王なのである。 ♰