Friday, April 10, 2026

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book
第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)


2章 祈りの法則

このページの目次
〈讃仰(さんごう)の祈り〉

――讃仰の祈りとはどのような祈りでしょうか。


「思念の波動を神に近づけるための祈りです。その祈りを通して神に近づくのです」


――それは内部の感性の発露でしょうか、それとも祈りの言葉による産物でしょうか。


「宇宙の大霊の存在への信仰と同じく、内部の感性の発露です」


――やはり自然法則の範疇に入るのでしょうか。


「自然法則の一つです。なぜなら、人間の内部の感性の発露だからです。だからこそ、形式は異なっても、世界中の民族に見られるのです」


――表現形式は不可欠のものでしょうか。


「真実の祈りは心の中での働きです。いかなる形式を用いるにせよ、神の目が常に注がれていることを忘れないことです」


――と言うことは形式も無用ではないということでしょうか。


「見せかけのものでなければ無用ではありません。わざとらしい仰々しい態度や見せかけだけの敬虔な振る舞いを伴った祈りでは、人々を欺くと同時に、想像以上の弊害をもたらします」


――祈りは一人よりも集団で行う方が好ましいのでしょうか。


「思念と感情において親和性のある人々が集まれば善霊を呼び寄せる強力な波動が出せることはご存じと思いますが、それと同じで、祈りの波動も強力となります。だからといって一人での祈りは感心しないという意味に受け取ってはいけません。各自の思念の中において神を崇めることができるのですから」


――生涯を俗世から離れ、悪とも無縁で、ひたすら神を求めて瞑想三昧で過ごす生き方は、神の目から見て賞讃に値するものがあるのでしょうか。


「ありません。そういう人生では他人へ悪事を働くこともないでしょうが、善行もしません。しかも他人への善行がないということそれ自体が悪です。神は子等が神の存在を忘れないように配剤しておられますが(良心の声など)、同時に同胞に対しても果たすべき義務も与えておられます。精神統一と瞑想の行に費やす人生は、神の目から見て賞讃には値しません。そういう人生はその人だけのものであり、人類にとって何の益にもならないからです。いずれ神から、無為に終わらせた人生の穴埋めをするようにとのお達しがあるでしょう」
〈祈願〉


――一般的な意味での祈願とは何でしょうか。


「祈願も讃仰の祈りの一つです。神に祈るということは神の存在を意識することであり、神に近づくことであり、内的自我が神とコミュニケーションを持つことです。祈るということには三つの要素があることを認識してください。すなわち神を讃(たた)えること、神に何かを求めること、そして神に感謝すること、この三つです」


――よくお祈りをする人の中に、時として無愛想だったり、嫉妬深かったり、慈しみや忍耐心に欠ける人、極端な場合は悪徳の固まりのような人すら見かけますが、どう理解したらよろしいでしょうか。


「大切なのはたくさん祈るのではなく正しく祈ることです。今おっしゃったような人は祈りとは長々と言葉を述べることと思い込み、それを自分の欠点とは無関係と思っているのでしょう。彼にとっては言わば日課にすぎず、自己反省の要素は皆無です。効き目がないのは薬ではなく、その使い方を間違っているからです」


――自分の過ちを許してくださいと祈ることには何か意義があるのでしょうか。


「神の目には善か悪かは一目瞭然です。祈ったからといって神の目をごまかせるものではありません。過ちの許しを求める方法は、行いを改めるしかありません。善行が最高の祈りです。行為は言葉に優ります」


――他人のために祈ることに効用があるでしょうか。


「他人のためを思って祈る人の霊力が、力になってあげたいという欲求を通して影響を及ぼします。祈る人の波動によって善霊が引き寄せられ、その善行に加勢します」


――死者の霊および霊界で苦しんでいる霊のために祈ることは意義があるでしょうか。もしあるとすれば、その祈りがどういう形で苦痛を和らげ、あるいは苦しむ期間を短くしてあげることになるのでしょうか。祈りには摂理さえ変える力があるのでしょうか。


「神の摂理そのものは祈りによって何の影響も受けません。しかし、人間から送られてくる祈りの念によって霊の心が慰められます。孤独な霊にとっては自分に関心を向けてくれる人がいることの証であり、その思いが何よりの慰めとなるのです。が、それだけで終わっては何にもなりません。そこから高級霊の出番となります。慰めを得た霊に罪を悔い改め善性を志向する心が芽生えます。その一瞬を狙って高級霊が善性志向を増幅させ、結果的には苦悶の期間を短縮することになります」
〈生(い)け贄(にえ)〉


――祈りにつきものとして太古から生け贄を捧げる儀式がありますが、人類はなぜこんな残酷なことで神を喜ばせようとしたのでしょうか。


「まず第一は、神の概念が幼稚だったこと。第二に、ただの品物よりも生きたものの方が価値があると考え、始めのうちは動物を、やがて人間を捧げるようになりました。あなた方が贈り物をする時、高価なものほど受け取る人は喜ぶと考えるのと基本的にはいっしょです」


――すると、“人身御供(ひとみごくう)”というのは必ずしも残酷なこととは思われていなかったのでしょうか。


「その通りです。その方が神の怒りを鎮める効果が大きいと考えたのです。もちろん誤った神の概念から生まれたことですが……」


――動物の生け贄よりも果物のお供えの方が本当は神の目から見て喜ばしいわけですね?


「血なまぐさい生け贄よりも大地が生み出した果実の方がいいに決まっています。何度も言うように神が嘉納されるのは心です。形ある供物はどうでもよろしい。心の底から発せられた祈りの方が、山と積まれた供物よりも、遥かに神に通じます。くり返します――何事も心が大切です。形式はどうでもよろしい」

シルバーバーチの霊訓(二)

Silver Birch Speaks

Edited by Sylvia Barbanel



十四章 シルバーバーチの祈り

 
    神よ、私たちはあなたの完璧な摂理の背後に秘められた完全なる愛を説き明かさんと努力している者でございます。人類はその太古よりあなたがいかなる存在であるかを想像しながらも、その概念はいつも人間的短所と限界と制約の上に築かれてまいりました。

 宇宙の生命活動を律するその霊妙な叡知を人間は幽かながら捉え、それを人間に理解できる言葉で説明せんとしてまいりました。あなたの性格を人間の全てに共通する弱点と欠点と感情を具えた一個の人間として想像しました。

気に入った者には恩寵を与え、気に入らぬ者には憤怒を浴びせる人間味むき出しの神を想像いたしました。

その後の進化に伴って人間の知識も進歩いたしましたが、この大宇宙を創造した究極の存在について想像したものは真のあなたの姿には遠く及びません。

 無限なる存在を有限なる言葉で表現することは所詮いかなる人間にも不可能なのでございます。あなたの尊厳の神性、あなたの愛と叡知の永続性は、五つの感覚のみの物質の世界に閉じ込められた人間には真実の理解は不可能なのでございます。

 そこで幸いにして実在の別の側面を体験させていただいた私たちは、あなたが定められた摂理の存在を説いているところです。すべてを包含し、すべてを律する法則、不変不朽の法則、無数の生命現象に満ちた宇宙における活動を一つとして見逃すことのない法則、すべての自然現象を律する法則、人間生活のすべてを経綸する摂理に目を向けさせようと致しているところでございます。
 一宗一派に偏った神の概念を棄て、宇宙がいかなる法則によって支配されているかを理解することによって、そこに連続性と秩序とリズムと調和と完全なバランスの観念が生まれてまいります。一人一人が無限なる組織の中の一部であり、自分一個の生命活動もあなたのご計画の中に組み入れられていることを自覚致します。


 私たちの仕事は人間の霊に宿されているところの、人生に輝きを与えるはずの資質、いまだに未知の分野でありながら莫大な可能性に満ち、その活用によって人間生活に豊かさと生き甲斐、荘厳さと気高さ、人生観を一変させてしまう広大なビジョンと精神的飛躍を与えるところの魂の秘奥を明かすことにあります。


 それこそ人間を永遠なるものとつなぐものであり、それこそあなたがお授け下さった神聖なる属性であり、それを開発することが少しでもあなたに近づき、存在の意義を成就し、あなたの遺産を相続することになるものと信じるのでございます。

 かくの如く私たちは人間の霊的成長を促す分野に携わる者です。そこが人間がこれまで最も無知であった分野だからでございます。その無知の暗闇を払いのけることによって初めてあなたの真理の光が人類の水先案内となりうるのです。

闇の存在はことごとく消え去り、あなたの御子たちは、あなたの意図された通りに自由に堂々と、神性を宿す者に相応しい生き方に立ち帰ることでございましょう。

 ここに、ひたすらに人類のためをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。                           シルバーバーチ



 〝霊〟spirit と〝魂〟 soul ─── あとがきに代えて ───訳者

 本書は霊媒モーリス・バーバネルの未亡人シルビアの編纂した Silver Birch Speaks(シルバーバーチは語る)の翻訳である。夫人とは今なお文通による交際を続けているが、さすがに寄る年波には勝てないことが文面から窺えて無常感を禁じ得ない。

 さて「霊訓」(一)がシルバーバーチの説教が主体となっているのに対し、本書は質疑応答が主体となっている。質問者もレギュラーメンバーのほかに招待客が多く、その顔ぶれも政治家から映画スター、霊媒、心霊治療家、学校の教師と多彩である。

その質問の中に日ごろから疑問に思っていたことを発見された方も多いのではなかろうか。筆者も訳していきながら、洋の東西を問わず人間の考えることは同じだと、つくづく思わされることが多い。

 さて筆者のもとにも読者からいろいろと質問が寄せられる。その一つが〝霊〟と〝魂〟はどう違うのかという質問である。これは実は筆者自身にとっても永年の課題であった。

西洋でも古くからさまざまな意味で ─── 悪く言えば各自の勝手な解釈で─── 用いられてきて混乱しているからであるが、近代スピリチュアリズムによって霊界の事情が明らかにされてからその本来の意味が根本的に改められつつあるからでもある。

 そのスピリチュアリズムにおいてもまだ正式な定義づけが為されているわけではなく、相変わらず曖昧さを残したまま各自が自分なりの用い方をしているので、今それを総合的に扱うわけにはいかない。そこで私はシルバーバーチの霊言集を読んだ限りにおいて理解していることを述べて参考に供したい。

 実は本書の最後の章の質問の中に〝霊とは何か〟というのがあった。私は以前からこの問題について私見を述べたいと思っていたので、その質問と答えの項をわざとカットしてこの解説のために取っておいた。これからその部分を紹介する。  


─── 魂 Soul とは何でしょうか。
 「魂とは全ての人間が身にまとっている神の衣です。魂とは神が子等に授けた光です。魂とは各自がこの宇宙における機能を果たすことを可能ならしめる神の息吹きです。魂とは生命力の火花です。存在の源泉です。

それがあなたを宇宙の大霊と結びつけ、すべての生命現象を経綸する無限なる存在の一部たらしめております。魂はあなたが永遠にまとい続ける不滅の衣です。

あなたがその魂であると言ってもよろしい。何となれば魂がすなわちあなたという存在そのものであり、反省し、考え、決断し、判断し、熟考し、愛するのはその魂です。ありとあらゆる側面を持っております」


 さて筆者が理解する限りにおいて言えば、このシルバーバーチの答えの中の〝魂〟はそのまま〝霊〟と置きかえることができる。

事実シルバーバーチは人間の構成要素を〝肉体(ボディ)と精神(マインド)と霊(スピリット)〟と言ったり〝肉体と精神と魂(ソウル)〟と言ったりしている。ではいつでも置きかえが可能かというとそうではない。この場合も the Soul と言いa Soul とは言っていないことに注意しなければならない。

 英語の専門的な説明になって恐縮であるが(これがカギになることなので敢えて説明させていただくが)、たとえば〝犬は忠実な動物である〟と言う場合、犬という種族全体を総合的に指す時は The dog is a faithful animal と〝the〟を冠し、個々の犬を指す時は A dog is a faithful animal と〝 a〟を冠する。

Soul の場合も同じで、〝魂とは何か〟というように普遍的に扱う時は What is the Soul? と言い、〝彼は偉大な魂である〟と特定するときは He is a great soul という言い方をする。これは霊 Spirit についても同じである。


 こうしたことから私は、たとえば空気と風は本質的には同じものでありながら前者は〝静〟の状態を指し後者は〝動〟の状態を指すように、シルバーバーチの言う〝神から授かった衣〟を静的に捉えた場合、言わば陰の状態を魂と呼び、動的に捉えた場合つまり陽の状態を霊と呼んでいると解釈すればほぼ納得がいくのではないかと思う。

〝ほぼ〟と断ったのは各宗教、各思想によってそれぞれの解釈の仕方があるからには普遍的な言い方で断定はできないからである。

 たとえば〝動物には魂はあるが霊はない。魂の上に霊を宿したのが人間である〟とする思想がある。個人的には筆者は神道の〝霊・魂・魄(はく) ─── 一霊・四魂・五情〟の思想に注目している一人であるが、これにも用語の概念上の問題がある。

その点シルバーバーチは〝生命のあるところに霊がある。霊はすなわち生命であり、生命すなわち霊である〟という言い方をして、霊を普遍的な生命原理とすることがある。シルバーバーチを読んでいく上においては、あまり用語上の区別にこだわらない方がよいと思う。少し無責任な言い方ではあるが・・・・・

 この問題に限らず、シルバーバーチを読むに当たって是非認識しておいていただきたいことは、シルバーバーチの基本姿勢は難しい理屈はヌキにして、死後にも続く生命の旅の出発点としての地上生活を意義あるものにする上で必要最小限の霊的真理を誰にも分かる形で説くということである。

たとえばテレビになぜ映像が映るのかという理屈はどうでもよろしい。スイッチの入れ方と消し方さえ知っておればよろしい、といった態度である。

たしかにわれわれ凡人の生活は大半がそういう生き方で占められている。いや、凡人に限らない。最高の学識を具えた人でも本当のところは何も分かっていないというのが実情のようである。

 先日のテレビで〝物質とは何か〟という題でノーベル賞を受賞した三名の物理学者によるディスカッションがあった。三人の他にも資料映像の中に多数の学者が出て意見を述べていたが、結局のところ〝物質の究極の姿はまだよく分からない〟ということであった。

物質という、われわれ人間がとっぷりと浸っている世界の基本的構成要素すらまだ解明されていない。

となれば、原子核だの素粒子だのクォークだのといった難しい用語による説明は皆目わからなくても、われわれにとって物質とは五感で感じ取っているものを現実として受けとめればよいのであって、それが仏教という〝空〟であろうと物理学でいう〝波動〟であろうと、それはどうでもよいという理屈も一応通るはずである。

事実、考えてみるとわれわれ人間はまさに〝錯覚〟の中で暮らしているようなものである。太陽は東から昇って西に沈んでいる。地球は地震のとき以外はいつも静止している。味覚も舌の錯覚であるが、やはり美味しいものは美味しいし、まずいものはまずい。

 ここで思いだすのは筆者の大学時代、原子物理学が急速な進歩を遂げつつある時期であったが、あるとき物理学部に籍を置く上級生と語り合った中で私が、物質の構造や宇宙の姿を扱っていると神秘的な気持になられることはありませんかと尋ねたところ、その先輩は言下に〝イヤ、そんなことはないよ。すべて理論的に説明が付くんだよ〟と言われて、そのまま話を進めるのをやめたことがある。

 それから三十年たった今、先のテレビディスカッションに出席した物理学者の一人が最後に(言葉はそのままではないが)こんな意味のことを述べた ─── 物質の宇宙をどんどん探っていくうちに、その構造の完璧さと美しさにふれて、それが偶然にそうなったとは思えない、何かそれをこしらえた神のようなものの存在をどうしても考えたくなる時があります、と。

それを聞いて私はこの人は、a great soul だと思った。と同時に、恩師の間部詮敦氏が、うかうかしていたら科学者から神の存在を指摘される時代が来ますよ、と言われたのを思い出した。その時代がもうだいぶ近づきつつあるようである。

 以上、霊と魂について結論らしい結論は出し得ないが、洋の東西を問わず昔から魂と霊とが区別されて用いられてきているからには、細かく分析すれば学理的に区別しなければならない要素があるのであろう。

 が、私個人としてはその区別については、先に述べた以上には拘りたくない。少なくともシルバーバーチの翻訳に当たっては、あまり理屈っぽくならないようにと心掛けているところである。シルバーバーチも次のように述べている。

 「(私が単純な霊的真理しか説かないのは)難解な問題を避けたいからではありません。今すぐにでも応用のきく実用的な情報をお届けすることに目的をしぼっているからです。基本の基本すら知らない人々、真理の初歩すら知らない人が大勢いることを思うと、もっと後になってからでも良さそうな難解な理屈をこねまわすのは賢明とは思えません」

 なお本書は全部で十六章から成っているが、そのうち二章を私の判断で「霊訓」(三)以降にまわした。「シルバーバーチ・シリーズの刊行に当たって」の中でもお断りしたように、シリーズ全体のバランスを考える必要から、日本人の読書感覚に合わせて時たまそういう按配をすることもあることを改めてお断りしておきたい。

一九八五年十月            近藤 千雄

シルバーバーチの霊訓(二)

 Silver Birch Speaks

Edited by Sylvia Barbanel


十三章 質問に答える

─── 生前スピリチュアリズムを否定し、生涯を合理主義者で通したH・G・ウェルズ(※)のような人はそちらでどんな気持ちを抱いたのでしょうか。
(※世界的に知られた英国の文明評論家で、主著に「世界文化史体系」「生命の科学」等がある。 一八六六年~一九四六年───訳者)

 「ウェルズは不幸にして強烈な知性がかえって禍した偉大な魂です。もしこうした偉大な知性が童子のような無邪気さと一体となれば大変な人種が地上に誕生するのですが・・・

 こうした人は生涯かけて築いてきた人生哲学をそっくり捨て去らないといけないのですが、それが彼らにはどうしても得心がいかないのです。彼らにしてみれば、あれだけ論理的に且つ科学的に論証したのだから、その思想と合致しない宇宙の方がどうかしているに相違ないとまで考えるのです。そんな次第ですから、色々と修正していかねばならないことがあり、長い長い議論が続きます」

 その議論の相手となって説得に当たったのがチャールズ・ブラッドローとトーマス・ペインだったという。(二人とも地上時代は自由思想家として人権擁護の為に貢献した人物である―訳者)

 それを聞いてスワッハーが「ペインは偉大な人物でした」と言うと、すかさずシルバーバーチが「でした、ではありません。今でも偉大な人物です」と訂正してこう述べた。

 「彼は地上での評価よりはるかに偉大な人物です。時代を抜きんでた巨人です。霊的な巨人です。先見の明によって次々と問題を解決していった生まれながらの霊格者でした。人類は本来自由であるべきで、決して束縛されてはならないとの認識をもった偉大な宗教的人物でした。真の意味で〝宗教的〟な人物でした」

 「ルーズベルト(米大統領)はペインのことを〝卑劣な不信心者〟とけなしていますが・・・」
(ペインは米国の独立直前には米国へ移住し、フランス革命の最中にはフランスに移住しているので、そのことに言及しているものと推察される───訳者)

 「そのことなら私も知っております。が、ルーズベルトがどれほどペインの努力の恩恵を受けていたか、それが私と同じ程度に理解できれば、ペインの偉大さが分かることでしょう。事実を目の前にすると地上の評価などいっぺんに変わってしまいます」

 そう述べてからウェルズも今では地上でスピリチュアリズムに耳を貸さずに偏見を抱いていたことを後悔していますとシルバーバーチが述べると、スワッハーが、

 「でも、それでもなおずっと自分の思う道を突き進んだのでしょう」と言った。すると

 「おっしゃる通りですが、死というものが大きな覚醒の端緒となっていることを知らなくてはいけません。霊的な大変動を体験すると、それまで疎かにされてきた面が強調されて、成就した立派な面を見過ごしがちなものです」

 「人間は立派になればなるほど自分をつまらない存在のように思いがちになるところに問題があるようですね」

 「霊界での生活が始まった当初はどうしてもそうなります。それがバランスの回復と修正の過程なのです。時が経てば次第に本来の平衝を取り戻して、地上生活の価値を論理的にそして正確に認識するようになります。こちらへ来ると、あらゆる見せかけが剥げ落ちて、意識的生活では多分初めて自我が素っ裸にされた生活を体験します。

これは大変なショックです。そして徐(おもむろ)にこう考え始めます───一体自分のやってきたことのどこが間違っていたのだろう。何が疎かにされてきたのだろうか、と。

 そうした反省の中ではとかく自分の良い面、功績、価値を忘れて欠点ばかりが意識されます。その段階 ─── これは霊界の磁気作用に反応し始めた時に生ずるものですが(※)─── いったんその段階を過ぎると、自分本来の姿が見え始めます。

それが人によっては屈辱的なショックであったり、うれしい驚きであったりします。人知れず地道に、その人なりのささやかな形で善行に励んできた人が、霊界では、地上で自分が尊敬していた有名人よりもはるかに高い評価を受けていたというケースはたくさんあります。有名にも二通りあります」

(※地上的波長の磁気作用から脱することで、言いかえれば地縛霊的状態を脱すること。俗に〝成仏する〟というのはその程度のことで、そこから真の霊界生活が始まる───訳者)
 
 「ウェルズも他界した時は大歓迎を受けたことでしょう」

 「受けました。それだけのことはしていましたから、彼は知識によって世の人を啓発しました。多くの人に真実を教え、無知の中で暮らしていた数知れぬ人々の目を開かせました」

 次は十五年間もさる有名な政治家から自動書記通信を受け続けているという人の質問である。その通信霊が今なお生前の氏名を明かさないことについてこう意見を述べた。


─── 身元を明かさないということは読者を遠ざける要因になると思うのですが・・・・

 「さあ、それはどうでしょうか。これは霊界通信において長いこと問題にされていることですが、私たちの世界の誰かが自分が身につけた知識を伝えてあなた方の世界を少しでも明るくしようと一念発起したとします。その際その霊が地上で有名だった人だと、身元を明かすことを躊躇するものです。

少なくとも当分の間は明したがりません。それはその人が通信を送ろうとするそもそもの目的とは関係ないことであって、そんなことで混乱を生じさせたくないからです。

 私が聞いているところでは、その著述の目的は一連の証拠性のある通信─── 地上時代の身元を証すという意味での証拠ですが───を提供することではなく、自動書記という、普通の地上の書き方とは全く違う形でインスピレーションの本質、その極致、その深奥を伝えることにあるとのことです。

もしも初期の段階で証拠に次ぐ証拠の提供に手間取っていたら、恐らく、いや間違いなく、肝心の通信の伝達に支障を来していたことでしょう。あなたご自身もそれが本当に名のっている通りの人物だろうかと疑っていたかもしれません。」

 そういう事態にならずに通信の内容に集中できたのは、大切なのは内容であって通信者ではないとの信念があったからです。

霊界通信はその内容によって価値が決まります。身元の証拠を提供するということと、霊的知識を提供することとはまったく別の範疇に属することであることを忘れてはなりません。前者は疑り深い人間を得心させる必要からすることであり、後者は魂に受け入れる用意の出来た人に訴えるのが目的です。

 霊的真理というものは、それを受け入れる用意のある人にしか理解されないことを銘記しなければなりません。叡知は魂がそれを理解できる段階に到達するまでは受け入れられません。

霊界からの働き掛けには二つの目的があります。一つは五感が得心する形で霊的実在を確信させること。もう一つは、これも同じく重要なことですが、その霊的知識の意義を日常生活に反映させていくこと、つまり人間が霊的遺産と霊的宿命とをもった霊的実在であり、神に似せて創造されているからにはその霊も精神と身体の成長に必要なものを要求する権利、絶対に奪うべからざる権利があることを理解させることです。

 あらゆる不正、あらゆる不公平、あらゆる悪弊と利己主義、暗闇を助長し光明を妨げるもの全て、無知に安住し新しい知識を忌避することによって既得権を保持せんとする者のすべてに対して、敢然(かんぜん)と立ち向かわなくてはなりません。なぜなら人間は自由の中に生きるべきだからです。霊と精神と身体が自由でなければならないからです」


─── 特別の証拠を提供してくれるのは他界したばかりの霊が多いようです。大体において古い霊よりもその点では熱心です。

 「そうです。とくに戦死した元気な若者にそういう傾向があります。そうさせるのはもちろん地上からの愛念です。それを何よりも強く感じるのです。それが彼らを地上へ引きつけ、彼らの方にも引き付けられたい気持ちがあります。つまり愛のあるところに彼らがいるのです。

その愛の強さが、遠い昔に他界してすでに地上の出来ごとへの関心が薄れ地上と結びつける絆のいくつかを失ってしまった古い霊よりも、彼らに地上との接触を可能にするのです」

─── 私たちは睡眠中に幽界を訪れるそうですが、その間すでに他界した縁故者や知人はそのことを知っているのでしょうか。

 「もちろん知っております。同じ意識のレベルでお会いになっておられます」


─── スピリチュアリズムの普及のために活躍しておられる人がとかく物的生活面で苦労が多いのはなぜでしょうか。

 「真理のために身を捧げる者は徹底的に試練を味わう必要があるからです。霊の大軍に所属する者はいかなる困難にも耐え、いかなる障害にも対処し、あらゆる問題を征服するだけの強さを身につけなければなりません。

 はじめて遭遇した困難であっさりと参ってしまうような人間が霊の道具として役に立つでしょうか。最大の貢献をする道具は浄化の炎で鍛えあげなければなりません。それによって鋼鉄(はがね)の強さが身につきます。一見ただの挫折のように思えても、実際はみな計画された試練なのです。

人を導こうとする者が安逸の生活をむさぼり、試練もなくストレスもなく嵐も困難も体験しないでいては、その後に待ち受ける大事業に耐えうる性格も霊力も身につかないでしょう」

─── 偶発事故で死ぬことは絶対にないとする説を認め(ここでシルバーバーチが遮って〝いえ、私はそんな説を認めませんよ〟と言う)みんな法則によって死んで行くのであれば、死刑の執行人もその法則の実行者にすぎないことになり、死刑制度への反対も意味がないことにならないでしょうか。

 「実は死ぬべき時機が熟さないうちに他界する人が多すぎるところに不幸があるのです。他界する人間がみな十分な準備を整えて来てくれれば、私たちがこうして地上まで戻ってきて苦労することはないのです。誰もが知っておくべき基本的な霊的真理をこうして説かねばならないのは、

魂が地上で為すべき準備が充分に整わないうちに送られてくる人間が余りに多すぎるからです。今おっしゃった説は間違っております。死ぬべき時機が来ないうちに死ぬ人が多すぎるのです。確かに法則はあります。全てが法則の枠の中で行われていることは確かです。しかしそれは事故が起きる日時まで前もって定められているという意味ではありません」


─── 戦争犯罪人はそちらへ行ってからどのような扱いを受けるのでしょうか。

 「誰であろうと、それぞれの事情に応じて自然法則が働きます。法則の働きは完璧です。原因に対して数学的正確さをもって結果が生じます。その因果関係を髪の毛一本ほども変えることはできません。刈り取らされるものは自分がタネを蒔いたものばかりです。

その魂には地上生活の結果が消そうにも消せないほど深く刻み込まれております。摂理に反したことをした者はそれ相当の結果が魂に刻まれます。その一つ一つについて然るべき償いを終えるまでは向上は許されません」


─── ハルマゲドン(※)が急速に近づきつつあるという予言は本当でしょうか。(※もとは聖書に善と悪との最後の大決戦場として出ているだけであるが、それが予言では地球の壊滅的な動乱に発展している──訳者)

 「いいえ、そういう考えは真実ではありません。注意していただきたいのは、聖書の編纂に当たった人たちは大なり小なり心霊能力をもっていて、そのインスピレーションを象徴(シンボル)の形で受け取っていたということです。

 そもそも霊的なものは霊的に理解するのが鉄則です。象徴的に述べられているものをそのまま真実として読み取ってはいけません。霊界から地上への印象づけは絵画的な翻案によって行います。それをどう解釈するかは人間側の問題です。

いわゆるハルマゲドン───地球全土が破壊され、そこへイエスが生身をもって出現して地上の王となるというのは真実ではありません。全ての生命は進化の途上にあります。物質界に終末はありません。これ以後もずっと改善と成長と進化を続けます。それとともに人類も改善され成長し進化していきます。生命の世界に始まりも終りもありません」


─── 各自に守護霊がついているということですが、もしそうならば戦争のさなかにおいて守られる人と守られない人とがいるのはなぜでしょうか。

 「その時点でのもろもろの事情によって支配されているからです。各自に守護霊がいることは事実ですが、ではその事実を本当に自覚している人が何人いるでしょうか。自覚がなければ、無意識の心霊能力を持ち合わせていない限り守護霊は働きかけることはできません。

霊の地上への働きかけはそれに必要な条件を人間の方が用意するかしないかに掛かっています。

霊の世界と連絡の取れる条件を用意してくれれば、身近な関係にある霊が働きかけることができます。よく聞かされる不思議な体験、奇跡的救出の話はみなそれなりの条件が整った時のことです。条件を提供するのは人間の方です。人間の方から手を差しのべてくれなければ、私たちは人間界に働きかけることができないのです」

Thursday, April 9, 2026

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book
第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)

1章 自然法則

このページの目次
〈自然法則の特性〉

――自然法則とは何でしょうか。


「神の摂理です。人間の幸せを保証する絶対的な摂理です。それが人間の為すべき事と為すべきでない事を示しており、それに逆らう者は苦しむのみです」


――神の摂理は永遠ですか。


「神ご自身と同じく永遠にして不変です」


――神の摂理は人間の倫理・道徳面だけに係わるものでしょうか。


「自然界の法則も全て神の摂理です。神が全存在の創造主だからです。科学の探求者は自然界の理法を研究し、善性の探求者はそれを魂の中に求め、そして実践します」


――人間はその全摂理に通暁できるのでしょうか。


「できます。ただし、たった一度や二度の地上生活では無理です」


――摂理は宇宙の全天体にわたって同一なのでしょうか。


「理性的に考えれば、当然、各天体の特殊性とそこに住む存在の発達程度に応じたものであるに決まっています」
〈自然法則の理解〉


――物的身体に宿る前の霊は、宿った後よりも神の摂理を明確に理解しているのでしょうか。


「到達した霊性の発達レベルに応じた理解をしており、身体に宿った後も直覚的な回想力を保持していますが、低劣な人間的本能がそれを忘れさせます」


――その摂理の理解は霊のどこに刻み込まれているのでしょうか。


「良心(善悪の分別力)です」


――良心に刻み込まれたものを、なぜ改めて啓発する必要があるのでしょうか。


「低劣な本能のせいで忘却したり誤解したりしているからです。人間がそれを思い出してくれるようにというのが神の御意志です」


――神はそうした摂理を外部から啓示する使者を派遣しておられるのでしょうか。


「もちろんです。あらゆる時代にその使命を授かった者がいます。霊性の高い霊で、人類の発達を促進する目的で地上へ降誕しています」


――そうした使者の中で模範とすべき最も完全に近い人物は誰でしょうか。


「ナザレのイエス」


訳注――カルデックの背後霊団がスピリチュアリズム、すなわち地球浄化の大事業の一翼を担っていたことは改めて指摘するまでもないであろう。巻頭の《カルデックへの霊団からのメッセージ》に「イエスの偉大なる愛の原理のもとに集える我々は」云々……とあるのを見ても明らかである。スピリチュアリズム運動の最高責任者がほかならぬあのナザレのイエスであることはシルバーバーチもインペレーターも明言している。

そのイエスは一体どういう風貌をしていたのだろうか。数多いインディアンの指導霊の一人であるホワイト・ホークが叙述しているところを紹介しておくと「体格はすらりとして品があり、髪はコーン色(浅黄)、顔は色白で卵形、わずかに頬が張り、髪よりも黒みがかったクリ色のアゴひげをたくわえていた。腕はほっそりとしていたが強靭で、容貌は優しさの中に憂いをたたえ、いつも紫色のマントをまとっていた。」
〈善と悪〉


――道徳的摂理とはどう定義づけたらよいでしょうか。


「道徳的摂理とは正しい行為を判断するための規準です。言い変えれば、実践において善と悪とを分別するための規準です。神の摂理の遵守が基本です。行為の動機と規準が善を志向するものであれば、その行為は正しいと言えます。神の摂理を遵守したことになるからです」


――善と悪との分別は何を規準にしたらよいのでしょうか。


「善とは神の摂理に適ったものであり、悪とは神の摂理から逸脱したものです。正しい行為とは神の摂理に適ったことをすることであり、過った行為とは神の摂理を侵害することです」


――人間には自ら善悪を弁(わきま)える能力がそなわっているのでしょうか。


「その両者を弁別するための直観的判断力(良心)が授けられています」


――自分では正しいと思っても間違っていることがあります。


「イエスが言っております――“自分がしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい”と。道徳的摂理の要諦はこの言葉に尽くされております。これを行動の規準にすることです。決して間違えることはありません」


――それは言わば相互依存の関係であり、自分自身に対する個人的な行為には当てはまらないと思うのです。自分自身への行為の善悪にも判断の規準があるのでしょうか。


「食べ過ぎると胃腸の調子がおかしくなります。神はその不快感をもって各自の限度の規準としています。その限界を超えると神が罰するということです。同じことが他の全てのことについて言えます。何事にも摂理によって必要限度というものが設定されており、それを超えると自動的に苦しみが生じて罰せられます。“それで十分”という神の声に人間が耳を傾けるようになれば、天災と思い込んでいる地上の災害の大半が未然に防げるはずです」


――善と悪は全ての人間にとって絶対的なものでしょうか。


「神の摂理は全ての人間に分け隔てなく働きます。が、罪悪はその実行に当たっての魂の欲望の中に潜んでいます。善はあくまでも善であり、悪はあくまでも悪であり、地位や職権には関係ありません。異なるのは責任の度合いです」


訳注――シルバーバーチは「罪は動機によって決まる」と一貫して述べている。ここでは「その実行に当たっての欲望」という難しい表現をしているが、煎じつめれば“動機”という用語に含まれているのではなかろうか。誉れ高き地位や名声を手にすると、善悪の判断に際してそれを失うまいとする欲望が先走り、良心との葛藤が渦巻く。しかし、シルバーバーチ曰く――「良心が命じることは、たとえその方向へ進むと物的には不遇になることが分かっていても、迷わず従いなさい。最後はきっと良いようになります。難しく考えることはないのです。これほど簡単な話はありません。」

とは言え、肉体をまとって地上の人間になってしまうと、それがそう簡単に行かない。“低劣な人間的本能”が邪魔をするのであるが、逆に考えると、だからこそ地上の物的生活の意義もあるのではなかろうか。


――すでに罪悪のタネが蒔かれていて、たまたま置かれた地位や立場上その責任を負わざるを得ないことがあります。この場合、最大の咎めを受けるのは誰でしょうか。


「最初にタネを蒔いた者です。罪悪そのものに対して責任を取らされるだけでなく、図らずもそのトラブルに巻き込まれた者がこうむった苦しみに対しても責任を問われます」


――反対に、自分は直接手を染めなかったけれどもその罪悪によって利益を得た者は、直接参加した場合と同じ罪に問われるのでしょうか。


「その通りです。罪による利益を手にした者は、罪を犯したのと同じです。仮に気が咎めて直接犯罪行為に加わらなかったとしても、実際に犯罪が実行され、その結果として得られた分け前を懐にすれば、直接参加したのと同じです」


――心に罪悪の思念を宿すということは、それを実行した場合と同じ罪に値するのでしょうか。


「それはそのケースによりけりです。犯意を抱きながらも、やはりいけないと必死に抑制した場合、これは立派です。しかし、同じく実行しなかった場合でも、実行するチャンスが無かったというのでは、これは罪を犯したのと同じです」


――置かれた立場上、善行のチャンスがないという人はいないでしょうか。


「善行のチャンスがない人間は一人もいません。もしいるとすれば、それは利己主義者のみです。人間関係が全く無いというのならともかく、毎日のように他人と接するチャンスがある生活環境においては、よほどの利己主義者を除いて、何らかの善行のチャンスはあります。善行というのは人に物を上げることを言っているのではありません。どんな形でもよろしい、他人の役に立つことをすることです」


――試練として悪徳の巷に生をうけた場合、悪への誘惑が抗し切れないものとはならないでしょうか。


「強烈ではあっても抗し切れないことはありません。悪徳の環境の中で徳性の高い行いを実践してみせる人はいます。そういう人は霊格の高い霊の生まれ変わりで、その程度の誘惑に負けないだけの霊力を身につけていますから、試練に打ち克つと同時に、周囲の人々に気高い影響力を行使する使命も果たします」


――徳行の価値の高さは、それを実行する環境の厳しさによって計られるものなのでしょうか。


「有徳の行為の価値は、実行の困難さによって決まります。克己も奮闘努力もなしに簡単に成就できるものは何の価値もありません。神は金持ちによる山ほどの供物よりも貧者による一切れのパンの方を嘉納されます。それをイエスは“寡婦の賽銭”の寓話で語っております」(新約聖書マルコ伝12)

霊の書(2部) アラン・カルデック(編)

  The Spirits' Book

第2部 霊の世界
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



10章 生命の四つの形態

このページの目次

〈鉱物と植物〉

――自然界の生命を鉱物と植物と動物、それに人類の四つに分ける説と、有機的生命と無機的生命の二つに分類する説とがありますが、どちらがよろしいでしょうか。


「どちらでも結構です。どちらにするかは観点の違いでしょう。物質に観点を置けば有機物と無機物の二つだけになります。生命に観点を置けば四つになることは明らかです」


――植物にも存在の意識があるのでしょうか。


「ありません。思考作用はありません。有機的生命活動のみです」


――感覚はあるのでしょうか。むしり取られたら痛みを感じるのでしょうか。


「植物は物的に反応する感覚はありますが、知覚はありません。従って痛みは感じません」


――オジギソウのように素早く反応する草や食虫植物のようにワナを仕掛ける植物には思考力があるのではないでしょうか。この種のものは植物と動物の中間に位置していて、次の段階へ変移しかかっているのではないでしょうか。


「自然界の全てのものが変移しています。種(しゅ)が全て異なり、それでいて全てがつながっているという事実がそれを物語っています。植物には思考力はありません。従って意志もありません。カキやイソギンチャクのような海中動物も意志があるかのような反応を示しますが、思考力はありません。自然の本能だけです」


――植物には自分に役立つものを摂取し害になるものは避けるという本能があるのではないでしょうか。


「それを本能と呼びたければそう呼ばれて結構です。本能という用語をどこまで拡大解釈するかによって違ってきますが、あれは純粋に機械的なものです。ご存じのように化学物質の中には簡単に結合するものがあります。親和性があるからですが、それを本能とお呼びになりますか」


――上層界へ行けば植物も完全に近づくのでしょうか。


「上層界では何もかもが完全に近づくことは事実です。が、動物があくまでも動物であり、人間があくまでも人間であるように、植物はあくまでも植物です」
〈動物と人間〉


――動物は本能だけで行動していると言えるでしょうか。


「大半の動物において本能が圧倒的に支配していることは事実です。ですが、動物が頑とした意志で行動するのを見かけませんか。あれは知性が働いている証拠です。しかし極めて限られています」


――動物にも言語があるのでしょうか。


「“言語”の意味が単語や音節でできたものということでしたら、そういうものはありません。が、仲間どうしでのコミュニケーションという意味でしたら、それはあります。あなた方が想像する以上に言語を発しています。が、その内容は身体上の欲求に限られています」


――動物にはその行為に関して自由意志がありますか。


「あなた方が想像するほど機械的ではなく自由意志の要素もありますが、それは身体的な欲求に限られており、人間の自由意志と比較することはできません」


――ある程度の行動の自由があるということは知性があるということになりますが、そうなると物質から独立した生命素があるのでしょうか。


「その通りです。それが死後に残るわけです」


――その生命素は人間の魂と同じものですか。


「“魂”をどう定義づけるかによって違ってきますが、そう呼ばれても結構です。ただし人間の魂よりは下等です。人間の魂と動物の魂の違いは、人間の魂と神との差ほどの大きな違いがあります」


――動物の魂は死後にも個性と自我意識を維持していますか。


「個性は維持していますが、自我意識はありません。知的生命は潜在の状態にあります」


――動物の魂が死後にも存在するとなると、人間の魂と同じようにさすらいの状態があるのでしょうか。


「身体につながっていないために一種のさすらいの状態にあると言えますが、“さすらいの霊”とは意味が違います。さすらいの霊は自由意志で考え行動します。動物にはその能力はありません。霊の基本的属性は“自我意識”だからです。動物には自我意識はなく、死後その魂はその道の担当の霊によって種ごとに分類され、すぐさま活用されます」


訳注――最後の“活用され”るのは何の目的に活用されるのかが言及されていない。そこが知りたいところであるが、他の霊界通信によると、種ごとの類魂に吸収され、類魂全体としての進化に寄与するという。


――動物にもある程度の知性があるとおっしゃいましたが、それはどこから摂り入れるのでしょうか。


「宇宙の普遍的要素からです」


――すると、人間の知性も動物の知性も同じ始源から発しているのでしょうか。


「もちろんです。ただ違うのは、人間の知性はそれに磨きがかけられて進化しているということです」


――そうなると魂は下等な段階の創造物の知的要素だった時期もあることになりそうですが……。


「自然界は全てがつながっていて一体化へ向かっていると申し上げたことがあったはずですが……あなた方には全てを知ることは不可能ですが、その下等な段階の創造物の知的要素に磨きがかけられ、少しずつ個別化され、発芽現象に似た一種の準備段階をへて形質変換が行われ、ようやく“霊”となったのです。各霊が未来時制の感覚と善悪の判断力、そして自己の行為に対する責任意識をもって生きることを始めたのはその時からです。人間が、誕生後、幼児期から青年期、成人期、そして老成期へと変化するのと同じです」


――人間の身体に宿ったことのある霊が動物の身体に宿ることがありますか。


「ありません。そのような再生は退化を意味します。霊は決して退化しません。川の水が水源に逆戻りすることはありません」(第二部・一章〈霊の進化〉の項参照)

シルバーバーチの霊訓(二)

 Silver Birch Speaks

Edited by Sylvia Barbanel


十二章 病気とカルマ(宿業) ───エドワーズ夫妻を迎えて───

 心霊治療家として世界的に知られているハリー・エドワーズ氏が夫人とともに招かれた。まずエドワーズ氏が次のような謙虚な質問をした。

 「私がいつも関心を抱いているのは私たち治療家に何が治せるかではなくて、どうしても治せずにいる病気のことです。どうすればより多くの病を治し、どうすればそちらの世界の人との協力関係を深めることができるでしょうか」

 「私たちは偉大にして遠大な目的に向かって協力し合っております。その目的とは薄幸の人々、虚弱な人々、苦痛にあえぐ人々、寄るべなき人々、悲嘆に首をうなだれ胸を塞がれる思いをしている人々に少しでも援助の手を差しのべてあげることです。霊の力は人間を媒体として注ぎこむ機を窺っております。

その機を見つけると、病気の場合であれば治癒力を見せつけることによって、人間の協力さえ得られれば見えざる世界の威力と光明とをもたらすことができることを示します。

 霊の力はすなわち生命力です。生命があるのは霊があるからこそです。霊は生命であり、生命は霊です。この荘厳にして途徹もなく広大な宇宙を創造した力も、あなた方を生かしめ、これから後もずっと生かしめていく力と同じものです。

又、あなた方が愛し合い、物を思い、心を遣い、判断し、反省し、決断し、勘案し、熟考し、霊感を受け、人間的情感の絶頂からドン底までの全てを体験させる力、それは霊の力なのです。

 あなた方の一人一人が神であり、神はあなた方一人一人であると言えます。程度の差があるだけで、その本質、実質においては同じです。人間は言わばミクロの神です。

その神の力が病人を癒すのです。その力を分析してお見せすることはできません。何で出来ているかを説明することもできません。私に言えることは、それが無限の形態をとって顕現している───なぜなら生命は無限だから、ということだけです。

 霊媒現象の全てに共通した問題は、その霊的エネルギーのコントロールです。どのエネルギーがどれだけ発現できるかはその時の条件一つに掛かっています。言いかえれば、その霊媒の有する資質と、それをより大きく効果的にするための修行をどこまで心掛けるかに掛っています。

私たちの側においても常に新しいエネルギー、新しい放射線、新しい可能性を徐々に導入しては実験(ため)しております。

 ですが、そうしたものも霊媒の身体的、精神的、霊的適性によって規制を受けます。受容力が大きければ、それだけ多くのものが導入されます。小さければ、それだけ制限されることになります。

 霊力そのものは自然法則によるもの以外には何一つ制約はありません。自然法則の枠組みから離れて働くことだけはできないのです。が、その枠組みというのが途方もなく広範囲に亘っており、これまで地上の霊媒を通じて顕現されてきたものよりはるかに多くのものが、いまだに顕現されずに残されております。

 私が指摘しておきたいのは、多くの真面目で信心深い人々が神の力がバイブルに記録されている古い時代にその全てが顕現され尽くしたと思い込んでいるのは間違いだということです。

啓示もそれ以来ずっと進歩し続けております。現代の霊媒を通して顕現されている霊力の方が過去の時代のものに較べてはるかに偉大です。

 さてあなた(エドワーズ氏)は豊かな恩恵に浴しておられるお一人です。あなたのすぐ身の回りで働いている霊の姿をご覧になる視力があればよいのにと思われてなりません。

背後霊の存在に確信を抱き、あなたを導く霊力に不動の信頼を置いておられますが、その背後霊が誰でありどんな人物であるかをご覧になれたら、もっともっと自信を持たれることでしょう。

(エドワーズ氏の背後霊団の中心的指導霊は十九世紀の英国の外科医で消毒殺菌法の完成者J・リスターとフランスの化学者で狂犬病予防接種法の発見者L・パスツールであると言われる。なおエドワーズは一九七六年に他界している───訳者)

 私のような古い霊が確信をもって言えるのは、あなたの地上生活は今日の絶頂期を迎えるべく、ずっと導かれてきているということです。意図された通りのものを今まさに成就されつつあります。今まさにその目的に辿り着かれました。背後霊団があなたの協力を得て初めて成就できる仕事に携わっていることを喜ぶべきです。

 以上の私の話に納得がいかれましたか」

 「よくわかります。ただ、そうなると二つの疑問が生じます。一つは、背後霊団はもう少し私たち治療家を効果的に改良できないものかということです。例えば両足とも不自由な子供がいるとします。

一方の足は良くなったのに、もう一方の足は良くならないことがあります。どこに問題があるのでしょうか。私は治療家の側に問題があるに違いないと思うのです。なぜなら、一方の足が治せれば当然もう一方も治せなければならないからです」

 「治療家が望む通りの結果、あるいは治療霊団がその時に目標としたとおりの成果が得られるとは限りません。霊媒(治療家)を通して得られる限られた治療エネルギーでもって最大限の治療効果をあげなければなりません。一つの治療に全部のエネルギーを集中すれば一気に効果を上げられるかも知れません。が、次の治療のためのエネルギーを溜めるのに長い時間を要することになります。

 一つ一つが実験だと私は言っているのです。治療霊団も前もってこれはこうなるという保証はできません。効果が出ることはわかっても、どこまで治るかはわかりません。

前もって知ることのできない要素がいくつもあるからです。それは治療活動を制約することになるかも知れません。ですが、それまで少しも治らなかったものに治る兆しが見えるだけでも喜ぶべきことです。

 それは立派な貢献と言えます。それだけでもあなたは堂々と背後霊団に向かって〝さあ、この私を使って下さい。みなさんを信じています。あなた方の言う通りに致します〟と公言する資格があります。もちろんあなたのもとに連れて来られた患者が魔法のように即座に治ればこんなにうれしいことはありません。が、それは有り得ないことです。

 問題がいろいろとあるのです。この仕事も言わば開拓者的(パイオニア)な分野に属します。あなたに協力している霊団は一つ一つの症状の変化を知った上で、さらにテクニックを改良し効果を上げるために他の要素を導入しようと急がしく立ち働いております。治療に当たるたびに症状が改善されているのを観察されているはずです」

 「おっしゃる通りです」

 「協力関係が密接であるほど、多くの霊力が伝達されるのが道理なのですが、それを制約する要素としてもう一つの問題が絡んできます。

論議の多い問題に踏み込むことになるのは百も承知ですが、それが事実であるからには黙って見過ごすわけには行きませんので敢えて申し上げますが、どうしても避けられない要素の一つに患者のカルマ(宿業)の問題があります。当人の霊的成長の度合いによって決められる精神と身体の関係です。お分かりでしょうか」

 「どうぞその先をお話し下さい」

 「そうおっしゃると思っていました。これは実に重大な問題であり、あなたにとっても意外に思われることも含まれております。心霊治療の仕事の大切な要素は身体を治すことではなくて魂の琴線に触れさせることです。魂を目覚めさせ、身体への支配力を大きくさせ、生きる目的を自覚させ、霊的存在としての本来の自我を表現させることに成功すれば、これは治療家として最大の貢献をしたことになります。

 そのことの方が身体を治すことより大切です。それが治療家としてのあなたの努力として、永遠に残る要素です。人間は精神と肉体と魂とが一体となったものです。これに、その三者が互いに絡み合って生じる要素もあります。その影響を無視してはいけません。

 病気というのはその大半は主として精神と肉体と魂との間の連絡が正しく行われていないことに起因しています。正しく行われていれば、つまり完全な一体関係にあれば完全な健康と安定性と落ち着きと機敏性を具えています。もっとも、そういう人物は地上では滅多にお目にかかれません。

 さて、あなたのもとを訪れる患者はその人なりの霊的成長段階にあります。人生という梯子の一つの段の上に立っているわけです。それがどの段であるかが、その人に注がれる治癒力の分量を決します。それが私のいうカルマ的負債です。

 (その負債が余りに大きくて)あなたにも手の施しようのない人がいます。肉体を犠牲にする、つまり死ぬこと以外に返済の方法がない人もいます。もう一度チャンスが与えられる人もいます。そんな人があなたとの縁で完治するということになる場合もあります。精神的要素のために治らない人もいます。そんな場合は一時的に快方に向かっても、また別な症状となってぶり返すでしょう」

 「ということは、カルマ的負債の方がその人に注がれる治癒力より大きいのだと思います」

 「おっしゃる通りです。私はぜひその点を強調したいのです。それが当人に賦課された税金であり、自分で綴っている物語(ストーリー)であり、その筋書きは他の何ものによっても書き変えることはできないということです。初めに私は全ては法則のワクの中に存在すると申し上げました。

何ごともそれを前提として働きます。人間のいう奇跡は生じません。自然法則の停止も変更も廃止もありません。全てが原因と結果から成り立っております。そこに自由への制約があります。

もしも因果関係がキャンセルできるとしたら、神の公正が崩れます。治療家にできることは魂を解放し、精神に自由を与えてあげることです。その結果が自然に身体に現われます」
                   
 「それがカルマ的負債を返済する手助けをしてあげることになるのでしょうか」

 「そのとおりです。私が心霊治療家はその患者の魂の琴線に触れ、自我に目覚めさせ、生きる目的を自覚させることが一ばん重要な役目であると申し上げる理由はそこにあります」

 「私たち治療家が例外なく体験することですが、心の奥底からのよろこび、高揚、崇高な情感、崇高な理念が湧き出るのを感じることがあります。あなたがおっしゃるのはその時のことだと思います」

 「天と地とが融合した極限の瞬間───あっという間の一瞬でありながら全ての障壁が取り除かれたとき、人間は自分本来の霊性を自覚します。全ての束縛を押し破り、霊の本来の感覚であるところの法悦(エクスタシー)の状態に達するのです」


 ここでエドワーズ氏が再びカルマ的負債の問題を持ち出すと、シルバーバーチはスピリチュアリズムの本来の大きな使命にまで敷衍してこう述べた。

 「あなたも私も、そしてこれに携わる人のすべてがそれぞれに役割分担を担っているスピリチュアリズムの全目的は、人類の魂を呼び醒まして一人でも多くの人間に本当の自分に気づかせること、自分とは一体なにか、誰なのかを知ることによって、ふだんの日常生活の中において霊の本性と属性を発揮することができるように導いてあげることです。

 それによって地上生活のすべてが姿を一変し、利己主義という名の雑草の生い繁る荒野から理想の花咲くパラダイスへと変わることでしょう。

われわれは今それを目標として努力しているのであり、まずまずの成功を収めつつあります。光明を見出す人、真の自我に目覚める人、物的な居眠りの生活から目覚める人───こうした人は人間本来の道を見出し、確信と知識とを携えて巡礼の旅に出る魂であると言えましょう」

 この言葉に感動したエドワーズ氏が「これだけお教えいただけば十分です。治るということ自体は重要ではないということですね」と述べると、

 「私たちスピリットが人間の苦しみに無関心であるという意味ではありません。病を抱えた人々の悲劇や苦痛や侘しさに無頓着でいるわけではありません。が、そうした問題の究極の原因に手をつければ、精神と身体と霊との間の不調和に終止符を打つことができ、そうなれば地上生活が必要としている光輝がふんだんに注がれるのです。

神の子が享受すべく意図されている本来のもの───気高かさ、崇高さ、威厳、豊かさ、光輝、美しさを見出すことでしょう。

 こうした生活の末に死を迎えれば、来世に備えるための地上生活の大役を果たした肉体を何の苦痛もなく脱ぎ捨てて、らくに霊界への門を潜り抜けることができます」


 このあとエドワーズ氏の奥さんの方を向いてこう述べた。

 「これまでに成就されたことを奥さんも大いによろこんでください。今この場に集まっている霊界の(エドワーズ氏の)治療霊団の方が、奥さんの果たされた犠牲的な役割に対して抱いている感謝の気持ちをぜひ私の口から伝えて欲しいと頼んでおられますよ」

 これを聞いて奥さんが「自分はこんなことでよいのだろうかと時に迷ったこともありました」と述べると、シルバーバーチはさらにこう述べた。

 「私は、私よりはるかに奥さんを知り尽くしているスピリットから頼まれて申し上げているだけです。霊団の人たちはあなたの心、あなたの精神、あなたの魂を知りつくし、さらにあなたが捧げられた忠誠心と愛の強さもよく知っております。

 その人たちが言っているのです───ご主人の使命達成を可能にした蔭からのあなたの助力に対する感謝の気持ちをぜひ伝えてほしいと。一方が脚光を浴びる立場にあれば他方はその蔭にいなければなりません。蔭の存在なくしては脚光を浴びる人もいないでしょう。

 私たちの目から見れば、人のために為された貢献は、黙って人知れず為されたものであろうと大勢の観衆を前にして華々しく為されたものであろうと、その評価にはいささかの違いもありません

Wednesday, April 8, 2026

霊の書(2部) アラン・カルデック(編)

  The Spirits' Book

第2部 霊の世界
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)


9章 霊の仕事と使命

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〈霊にとっての仕事〉

――霊は向上・進化のための体験以外に何か仕事があるのでしょうか。


「神の意思を成就させることによって宇宙に調和をもたらすべく協力し合っております。つまりは神の使徒というわけです。霊の生活は絶え間ない仕事の連続ですが、仕事といっても地上における辛い労務とはまったく異なります。身体的疲労もありませんし、身体の欲求(飲食等)を耐え忍ぶということもありません」


――低級霊や未熟霊にも宇宙における役割があるのでしょうか。


「全ての霊に何らかの仕事があります。偉大な設計者による壮大な殿堂も、名もない大勢の石工(いしく)がいてこそ建てられるのです」


――各霊に特有の属性があるのでしょうか。


「霊は宇宙のすみずみまで統括することによって最終的には全ての地域に住み、全ての事についての知識を獲得しなければなりません。しかし『伝道の書』にもあるように“天が下の全ての事には季節があり”ます。かくして、ある霊は今は地上にあって自分の運命を成就しつつあるのであり、またある霊は別の時節に地球上で、水中で、あるいは空中で、それぞれの運命を成就するであろうし、すでに成就し終えた者もいるわけです」


訳注――『伝道の書』は旧約聖書にある十一章から成る比較的短い書で、エルサレムの王だった伝道者の言葉といわれる。ちなみに右の引用文の続きをもう少し紹介すると――

“天が下の全ての事には季節があり、全ての業には時がある。生まるるに時があり、死するに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり” 云々……。


――霊は絶え間なく仕事に従事しているのでしょうか。


「絶え間なく、ですか? 霊は思念で生活しており、思念は活動を止めることがないことを理解していただけば、そうですと申し上げます。ただし、人間の職業と同じものを想像してもらっては困ります。自分が役に立っているとの意識を通して、活動そのものに喜びを覚えるのです」


――それは善霊に関しては容易に理解できますが、低級霊についても同じなのでしょうか。


「低級霊は低級霊で、その霊性に似合った仕事があります」
〈霊にとっての使命〉


――霊がある使命を言いつけられた場合、それはさすらいの期間中に果たすべきものなのでしょうか、それとも再生して成就することもあるのでしょうか。


「両方のケースがあります。さすらいの状態にある霊でも使命を託されて忙しく活動している場合があります」


――どのような使命でしょうか。


「いろいろとあって一概には言えません。それに、人間に理解できない仕事もあります。霊は神の意思を代行するのであり、人間にはその神の意図の全てに通暁することは不可能です」


――霊は託された神の意図をきちんと理解できているのでしょうか。


「そうとは限りません。わけも分からずに携わっている者もいます。が、その意図されていることをしっかりと理解している者もいます」


――それは強制的に課せられるのでしょうか、それとも自由意志で引き受けるのでしょうか。


「自ら求めます。そして、それが許されれば喜びます」


――同じ使命に何人もの霊が志願することもあるのではないでしょうか。


「あります。一つの使命に数名の志願者がいる場合もあります。が、志願者の全てに同じものが与えられることはありません」


――使命をもって再生する場合の使命とはどのようなものでしょうか。


「人間を教育し、向上・進化を促し、また間違った慣習を改めることに直接携わります。もっとも、こうした使命は高尚で重大なものですが、その配下でコツコツと働く陰の功労者がいることも忘れてはなりません。世の中の全てがどこかでつながっているものです。霊は再生して人間的形体に宿って霊性を磨く一方で、神の計画の推進にも寄与しているのです。一人一人に使命があり、何らかの形で役立つものを秘めているからです」


――怠惰な人生を送っている者がいますが、そういう人間にも使命は授けてあるのでしょうか。


「人間の中には、一生涯、自分のためにだけ生きて、何一つ世の中のために貢献しない者がいることは事実です。実に哀れむべき人間で、その無為の生涯への償いとして大変な苦しい目に遭うことでしょう。しばしば今生(こんじょう)にあるうちにそれが始まります。厭世観と嫌悪感に嘖(さいな)まれます」


――人間が何か有意義な仕事を成し遂げた場合、それは再生前から使命として決まっていたことなのでしょうか。前もって決まったことを再生後に使命として授かることもあるのでしょうか。


「人間のすることが全てあらかじめ使命として命じられていたこととは限りません。人間界のために何か有意義なことをしたいと思っている霊が、適当な人物を利用して成し遂げることがよくあります。

例を挙げますと、あるテーマについて一冊の本を書きたいと思っている霊がいるとします。その霊は適当な人物を物色してそのテーマを吹き込み、構想を授け、そして書かせます。この場合、その書物の出版は使命だったわけではありません。

同じようなことが科学の発明・発見や芸術の分野でもよくあることです。肉体の睡眠中に、再生中の霊とさすらいの状態の霊とが直接会って、そうした構想について語り合うこともあります」


――人類に多くの真理をもたらした天才的霊能者が人間的に大きな過ちを犯したり、貴重な真理と同時にとんでもない間違った思想を説いている人がいます。こういう人たちの場合、使命とは何だったのでしょうか。


「自分で自分を裏切ったということです。引き受けた仕事に耐え切れなかったということです。ただし、そうした先輩を批判する時に考慮しなければならないのは、彼らが置かれた時代的背景です。天才的霊能力はあっても、その時代のレベルに合わせて語らねばならなかったということです。後世の者の目から見れば間違っており幼稚に思えても、その時代としてはそれで十分だったのです」


――親となることも使命であることがありますか。


「ありますとも。しかも重要この上ない義務でもあります。その義務の遂行は人間が想像するより遥かに大きく将来に重大な影響を及ぼします。

そもそも神が両親に子を授けるのは、後見人としてその子がまっとうな人生を送るように指導と監督をさせるためです。子供がか弱くデリケートにできているのは親の関与を多く必要とさせるためで、それだけ子供は親を通して新しいものを得るわけです。ところが現実には多くの親は“我が家”中心に考えて、一人間として立派な性格の子に育てるよりも、金(かね)のなる木になってくれるように腐心します。

その結果としてもしもその子が親のエゴの通りの人間になったとしたら、それは親としての信義に背くものとして罰を受けると同時に、いびつに育ったその子がこうむる苦しみの数々の責任も問われます。親としての本来の義務を遂行しなかったからです」


訳注――このあと細かい質問が幾つか続くが、いずれもこれまでの返答に出たものばかりで、通信霊も「神は公正です」という一言でぶっきら棒に片づけているのもある。霊格の高い親があえて邪悪な霊を我が子に迎えることもあれば、その逆もある。前世あるいは前々世と絡んだ問題であるから、いちいち具体例を挙げていったらキリがない。