Friday, May 8, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

 The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄

第2部 本論



17章 通信の内容に矛盾が生じる諸原因

霊界から届けられた通信の内容に、時おり矛盾が見出されることがある。その原因とそれが及ぼす影響の大きさは表裏一体の関係にあるようである。

その意味は、我々はともすると霊界を平面的に想像して、霊の言うことならみな同じであるものと考えがちである。が、霊の世界の実情が分かってみると、地上界に近い最低の界層から、物的束縛から完全に解脱した超越界に至るまで、事実上無限の階梯があって、上層界へ行くほど広い視野から眺めるので誤りが少なくなるが、地上の人間に通信を送るのは低界層の霊が多いので視野が狭く、それだけ誤った認識も多くなり、結果的には矛盾点も多いことになる。

では、そうした玉石混交の中にあって本物と偽物、上等と下等を見分けるにはどうすればよいか――本章はその点に的をしぼった質疑応答を集めた。

―同じ霊が二つの交霊会に出て述べたことが矛盾することが有り得るでしょうか。


「その二つの交霊会が思想的に異質であれば支配している霊団が異なるわけですから、その伝達した通信が枉(ま)げられることがあります。通信霊は同じことを述べていても、霊媒を通して届けられるまでに、その場を支配する波動で内容が脚色されるのです。」

―その場合は理解できるのですが、二つの交霊がともに高級霊団によって指導されていて、しかも出席者も真摯な真理探求者である場合でも、高級霊の述べることが食い違うことがあるのはなぜでしょうか。


「その霊団が本当に高級霊団であれば、その言説に矛盾撞着は有り得ません。交霊会の出席者とその場の雰囲気で表現方法に違いが生じることがあっても、実質的には同じことを述べているはずです。仮に矛盾していても表面上のこと、つまり言説よりも述べ方の違い程度にすぎません。じっくりと読めば基本的には同じことを述べているはずです。

しかし、出席者の霊格の程度によっては同じ霊でも違った答え方をすることは有り得ます。例えばあなたが幼児と科学者から同じ質問をされたとします。あなたはその二人に同じ答え方をしますか。それぞれに理解しやすい形で答えるはずです。そして質問者はそれぞれに納得するでしょう。ところが表面上は二つの答え方は全く異なります。それでいながら本質的には同じことを述べていることだってあるわけです。」

―真面目と思える霊がある思想、時には偏見と思えるような言説を、相手によって適当に言い換え、完全に食い違うようなことすらあるのですが、これはどう理解すればよいでしょうか。


「私たちは出席している人間の理解力の程度に応じて表現を変えなければならない立場にあります。例えば何らかの教説について絶対的な信念を抱いている人を相手にした場合、仮にそれが誤りであっても、それを頭ごなしに論駁せずに、穏やかに、そして徐々に改めさせようとします。すると当然その人の信仰の用語を借用し、その教説に共鳴するところがあるかのような印象を抱かせることもします。そうやって相手をムキにならせず、次の会にも出席しようという気持ちにさせるわけです。

間違った先入観に急激なショックを与えるのは賢明とは言えません。そういうことをすると、それっきりこちらの教説に耳を傾けなくなります。そこで我々としては、あらぬ反発を買わないように、出席者の信仰に理解を示す態度で臨むわけです。

さらに言えば、人間から見て矛盾しているかに思えることでも、同じ真理を偏った角度から表現しているにすぎないことがよくあるものです。スピリチュアリズムに係わっている霊団にはそれぞれに大霊からの割り当てがあり、こうして授ける通信が効率よく受け入れられ霊性の進化を促すような方法と状態を工夫して、それぞれの役割分担を遂行しなくてはならないのです。」

―たとえ表現上の違いにすぎないとは言え、矛盾した言説は人によっては疑念を生じさせます。そういう矛盾した通信を正しく理解して、これが真実だという確信を得るにはどうすればよろしいでしょうか。


「真実と誤りとを選り分けるには、手にした通信の内容を時間をかけてじっくり検討することです。そこにはこれまでになかった新しい知識の世界が広がっています。まったく新しい考究課題であり、したがって時間と努力を要します。何でもそうですが……。

その言わんとするところを真剣に考究し、他と比較検討し、奥の奥の核心に至る――真理というものはそれほどの代償を払って初めて手にできるものなのです。考えてもごらんなさい。これまでの狭い通念を後生大事にし、それに照らして簡単に片づけるだけで、どうしてスピリチュアリズムという果てしなく広大な真理の世界が理解できますか。

こうした霊的教訓が世間一般に広まる日はそう遠い先の話ではありません。本質だけでなく、枝葉末節に至るまで、矛盾撞着のない形で広まることでしょう。が、現段階においては、これまでの誤った概念を打破することがスピリチュアリズムの使命です。それも、一つ一つ片づけていくしかないのです。」

―そうした深刻な問題に深く係わる時間も欲求もない者がいる一方には、霊の言うことは何でも彼でも信じる者もいます。そのような形で間違ったものを受け入れていくことは性格に害を及ぼさないでしょうか。


「その人がそれでいいと思うのであればそうすればよろしい。いけないと思えばやらなければよろしい。この自由意志の原理には例外はありません。アラーの神の名のもとであろうとエホバの神の名のもとであろうと、良いものは良い、悪いものは悪いのです。宇宙には大霊という名の神しかいないのですから。」

―知的には相当なレベルと思われる霊でも、問題によっては明らかに間違った考えを抱いていることがあるのは、どうしてでしょうか。


「人間と同じで、霊も独断と偏見を抱いているものです。自惚れて実際よりも賢いつもりでいる霊は、真理についてよく間違った考えや不完全な概念を抱いているものです。人間と少しも変わりません。」

―矛盾した説の中で最も顕著なのが“再生説”です。再生が霊にとって必要不可欠のものであれば、なぜ全ての霊が同じ説を説かないのでしょうか。


「あなたは、霊も人間と同じで、今の自分のことにしか思いが及ばない者が大勢いることをご存じないのですか。現在の自分の感覚だけで物事を捉え、今の状態が永遠に続くと思っているのです。そうした感覚の範囲を超えた先のことまでは思いが至らず、自分は一体どこから来たのか、この後どこへ向かって行くのかといった観念は浮かばないのです。

しかし、摂理は逃れられません。再生するということを知らなくても、再生すべき時機は必ず到来します。その時になって初めて再生があることを知ります。が、そういう霊的進化の仕組みについては何も知りません。」

―未熟な霊には再生問題が理解できないことは分かりました。ただ、そうなると、霊的にも知的にもどうみても低いと思われる霊が自分の前世の話を持ち出して、その間の不行跡を償うためにもう一度再生したいと思っていると述べたりするのは、どう理解したらよいでしょうか。


「霊の世界の事情には地上の人間には理解し難いことが沢山あります。具体的には説明しにくいのですが、例えば地上でも、ある分野の事に関しては造詣が深いのに、別の分野の事については皆目知らないという人、あるいは学問は無くても直観力は鋭い人、判断力は乏しくてもウィットに富んだ頭脳の持ち主など、いろいろなタイプがいるのと同じです。

それに加えて知っておいていただきたいのは、霊の中には自分の優位を保ちたいという浅はかな根性から、人間にわざと教えないでおこうとする者もいることです。つまり人間から真剣に論議を挑まれたら自分の優位が崩れることを知っているので、それを意図的に避けようとして、巧妙に議論をスリ抜けるのです。

むろんそれは低級霊の場合です。が、高級霊による慎重な配慮の結果として、たとえ真理であっても、現段階で急激にそれを広めることはいたずらに目を眩ませるだけで賢明でないとの判断から、わざと差し控えることがあるということです。そして、時と場所と出席者のレベルに応じて小出しにします。

モーセを通して語られなかったものをキリストが語り、そのキリストを通してさえ時期尚早ということで後世へ持ち越されたものがあります。

あなたの疑問は再生が真実ならばなぜ世界の各民族で早くから説かれなかったのかということのようですが、よく考えてみてください。仮に肌の色による差別と偏見の激しい国で説いていたら大変な反発を買ったことでしょう。なぜかはお分かりでしょう。短絡的に受け止める者は、今奴隷の身にある者は来世では主人となり、今主人である者は奴隷となるのだと考えて、怪しからん説だということになるに決まっています。

まずは霊界と現界との間にも交信が可能なのだという基本的事実から始めて、徐々にそうした倫理・道徳の思想的問題へと進めるのが賢明です。大霊の配剤について人間はなんと近視眼的なのでしょう! 大霊の認可なしにはこの宇宙に何一つ発生しないのです。人間には到底推し量ることのできない深遠な叡智があるのです。

すでに述べたことですが、改めて申し上げておきます。スピリチュアリズムの思想はいつかはきっと地球上にあまねく広まります。今は統一性がないかに見えても、人間の霊性の発達とともに徐々にその食い違いは少なくなり、最後は完全に消えて失くなることでしょう。そこに大霊の意思が働いており、究極的にはその意思が成就されます。」

―誤った教説はスピリチュアリズムの発展を阻害しようという策略から行われているのでしょうか。


「人間はとかく困難もなく手間取ることもなく物事が運ぶことを求めがちです。しかし、よく考えてごらんなさい。どんなに立派な庭にも必ず雑草が生え、きれいに保つには一本一本それを手で抜き取らないといけません。誤った教説は地球人類の霊性の低さが生み出す雑草のようなものです。もしも人類が完全であれば高級霊しか近づかないでしょう。

誤りというのは、言うなれば偽のダイヤモンドのようなものです。見る目のない人間には本物に見えるでしょうが、見る目をもった者にはすぐに偽物と分かります。その見分け方を学びたければ年季奉公に出るしかありません。考え方によっては偽物の存在にも意味があるのです。本物と偽物とを見分ける判断力を養う良い試金石です。」

―でも、偽物を信じた者はそのことで進歩が阻害されるのではないでしょうか。


「そういう気遣いは無用です。そもそも偽物をつかまされるようでは本物を見る目がないということです。」

―スピリチュアリズムの実践面でのいちばん不愉快な障害は、そうやって霊に担(かつ)がれることです。これを避ける手段はないものでしょうか。


「それに対する回答はこれまでにお答えしてきたことで十分だと思いますが……方法はあります。しかも極めて簡単です。要するにスピリチュアリズム本来の目的に徹することです。そして、その目的とは人類の霊的啓発、これに尽きます。これを片時も忘れないようにすれば、邪霊にたぶらかされるようなことは決してありません。それこそが真実の人の道だからです。

高級霊は人のために役立つ仕事のためには大いに援助しますが、名誉心や金儲けといった情けない人間の野心の満足のためには絶対に手を貸しません。そういう他愛もないことや人間に伝えることを許されていない事柄についてしつこく要求しないかぎりは、邪霊集団に操られるようなことにはなりません。こうした事実からも、低級霊に騙されるのは騙されるようなことをしている人間に限られるということがお分かりになるはずです。

霊団の仕事は世俗的問題に関するアドバイスを授けることではありません。地上人生を終えた後に訪れる霊的人生に自然に順応するための生き方を指導することです。もちろん世俗的問題に言及することがありますが、それはその時点で必要性があると見なしたからであって、そちらからの要請に応じることは絶対にないと思ってください。霊界通信を運勢判断や魔術と同種のような受け止め方をしていると、低級霊につけ入られます。

また霊界の知識の蒐集のようなことにばかり偏っていると霊的存在としての自由意志が硬直してしまい、大霊によって意図されている人間としての進むべき進化の道を歩めなくなってしまいます。人間は自らの意志で“行為”に出なくてはいけません。こうして我々が地上へ派遣されるのは人間の歩む道を平らにならしてあげるためではありません。来るべき霊的生活に順応するための準備を手助けしてあげるためです。」

―ですが、こちらから世俗的問題を持ち出したわけでもないのに、霊の方から言及してアドバイスを与えてくれて、それに従ったらとんでもないことになった人もいますが……


「そちらから持ち出さなかったとしても、交霊会でそんな俗っぽい問題を霊側が持ち出したという点が問題です。そちらからそれを許したということであって、結果的には同じことです。それを鵜呑みにせず理性的に疑ってかかる態度で臨み、霊界通信の本来の在り方に徹すれば、そう簡単に担がれることはないはずです。」

―真面目な求道者(ぐどうしゃ)がそういう形で担がれることを神はなぜ許すのでしょうか。せっかくの確信をわざと崩すように計算されているみたいです。


「その程度のことで崩れるような信念ではまだ本物とは言えません。そのことでスピリチュアリズムに愛想をつかすようであれば、それはまだスピリチュアリズムを真に理解していないことを示しています。張りぼてだったということです。その種のたぶらかしは、一つには忍耐力の試金石であり、一つには交霊会をご利益の手段に利用する者への懲罰です。」

(完)



訳者あとがき

訳者というのは実質的に原書の価値に関して生殺与奪の権を握っていると言っても過言ではない。少なくとも私はその自覚のもとに“いかなる形に訳すのが原典の真価を伝えるか”で腐心しながら翻訳に着手し、途中で“まずい”と感じたら初めから別の形で訳し直すこともある。さらに下訳をしばらく寝かせておいて第三者の読者になったつもりで読み直して、添削を施してから原稿用紙に浄書するといった配慮もする。内容的に大きく訳し変えるということは滅多にないが、下訳の時には気づかなかった文章上の欠陥がよく発見される。

この度のカルデックの翻訳に当たっては、以上のことに加えて“編修”という作業が必要だった。これについては“まえがき”で若干言及したが、口で言うほど簡単なことではなく、大ゲサに言えば、これまでの半世紀に近いスピリチュアリズムとの係わりにおける体験を土台にして初めてできたことだった。

そんな面倒なことをせずに、あっさり全訳すればよかったのではないか――そうおっしゃる方がいるかも知れない。が、カルデックの書が本格的霊界通信の出版物としてはスピリチュアリズムでは最も古い、というよりは早かった――ハイズビル事件後わずか十年あまり後――ということもあって、既成宗教界、とくにキリスト教界からの非難中傷が激しかったようで、カルデックはそれに対する理論武装に大変な神経と紙面を費やしている。

当時としては止むを得なかったとは言え、その後百年余りたった現在、しかもキリスト教よりはるかにスピリチュアリズムに近い神道(かんながら)的信仰が自然に行き亘っている日本において、さらにシルバーバーチやインペレーターの霊訓に馴染んでいる読者が圧倒的に多いであろうことを念頭に置いて読むと、それをいちいち訳出することは、無益であるばかりでなく煩雑すぎて興味を削(そ)ぐ恐れがあるとの結論に達したのだった。

“編者注”としたカルデックのコメント、“ブラックウェル脚注”とした英国人訳者の付言は、ぜひこれだけは、と思うものに制限し、フランス語圏の人にしか知られていない古い例証は割愛したり、代わりに日本人向けのものを“訳注”で補ったりした。

私が、“英国の三大霊訓”と呼んでいるモーゼスの『霊訓』、オーエンの『ベールの彼方の生活』、シルバーバーチの霊言集とカルデックの霊界通信の唯一の相違点は、霊媒が紹介されていないことである。それというのも、正確な数字は述べられていないが、相当な数の霊媒を通して得られた通信――カルデックが直接入手したものと他の交霊会で入手されてカルデックのもとに持ち込まれたもの――を総合的に編纂して、テーマ別にまとめ、それにカルデック自身のコメントを付け加えたものを『霊の書』と『霊媒の書』とに大別して出版したのだった。

その通信が霊言なのか自動書記なのかも、いちいち断っていない。私が訳しながら得た感触では自動書記の方が多いようであるが、訳し方は霊言のような語り口調に統一した。現象の原理としてはどちらも同じことなので、たぶんカルデックもあまりこだわらず、また霊媒はあくまでも“道具”であるとの認識から、霊媒の氏名も一切挙げていない。

ついでに付言すれば、カルデックのもとに寄せられた通信の中にもかなりいかがわしいものがあり、イエスを筆頭にナポレオンだのパスカルだのジャンヌ・ダルクだのジャン・ジャック・ルソーだのと、フランスらしい顔ぶれが勢揃いしている。カルデックはそれらを最後にまとめて紹介し、“ニセモノ”と断じている。たとえばイエスの署名のある自動書記通信については「あのイエスが(二千年後の今になっても)こんなキザでぎこちない、そしてバカげた表現しかできないのか」と手厳しく批判し、最後に「これら一連の通信はたぶん一人の低級霊が書いたものである」と一刀のもとに切り捨てている。いずこの国にもこうした手合いの霊界通信があるものである。

さて『霊媒の書』を訳し終えた今、私の胸に去来する感慨を披瀝させていただけば、フランスを中心としてラテン系民族の間でバイブルのように愛読されているこの霊界通信までも自分が訳すことになったことを、身に余る光栄と受け止めているところである。

カルデックの二著の英文版は、“英国の三大霊訓”とほぼ同時期に購入していた。そしてその内容には何の違和感も抱かず、折りにふれ無造作にページを開いて読むということを続けていた。最近でもよく繙(ひもと)くことがある。そんな次第で、「心の道場」(現スピリチュアリズム普及会)から翻訳の依頼を受けた時は何の躊躇もなくお引き受けした。

訳している時もそうだったが、訳し終えた今しみじみと思うのは、「訳して良かった――後世に計り知れない影響をもたらすことは間違いない」という確信である。プライベートなサークルによる自費出版であるから、流通機構に乗った出版物と比較して購買の規模は小さいであろう。しかしこの道、すなわちスピリチュアリズム的真理の普及という仕事は、本当に理解した人が一人また一人と増えることによって広げるしかないのであって、華々しく衆目の的となることは期待できない。本質的にそういうものではないのである。

ある出版ジャーナリストがいみじくも言っているが、ベストセラーというのは普段はロクに文字を読むということをしない者までが「そんなに売れてるなら」という、ただそれだけの理由で買って帰るからあれほど売れるのであって、実際に読まれているわけではない、と。スピリチュアリズムには間違ってもそういうことは起こり得ない。

振り返ってみると私の生涯は十八歳の時の一霊覚者との出会いで決定づけられて以来、半世紀近くにわたる孜々(しし)とした地道な努力の積み重ねであった。その間私を支えてくれたのはやはりシルバーバーチだった。この道は孤独なもので、見慣れた風景が次々と過ぎ去って、道なき道を一人で切り開いて行かねばならない。しかし魂の奥ではアフィニティーとの結束がますます強まって、そこに真の生き甲斐を覚えるものである……といった意味の言葉の真実味を味わいながら、人類の宝ともいうべき霊界通信を純粋な形で後世に遺すことだけを心掛けてきた。

そして今六十歳の峠にさしかかった時点でスピリチュアリズム・サークル「心の道場」とのご縁が一気に熟し、カルデックの二著の翻訳の仕事を依頼されると同時に、私が所有する、今はもう絶版となったシルバーバーチの原書全十六巻をはじめ、モーゼスの『霊訓』その他、後世に遺すべき原典三十冊ばかりのものをコピーして保存してくださることになった。真の意味で私の仕事の価値の理解者との出会いが待っていたのである。私にとってこれほど元気づけられることはない。

私がそろそろこの地上生活に終止符を打ってもおかしくない年齢に至って、スピリチュアリズムという名の聖火の若いランナーとの思わぬ出会いがあり、私も負けじと、もう一仕事をしたいと念願しているところである。

最後に、私の原稿をワープロ打ちにする労に当たられた方、出版費用を快く寄付してくださった方々等、本書の出版のために協力してくださった「心の道場」のサークルの皆様に、心からの謝意を表したい。

平成八年六月

近藤千雄

シルバーバーチの霊訓(五)

 More Teachings of Silver Birch 

 Edited by A.W. Austen


七章 動物は死後どうなるか

  動物は死後どうなるのか───これは誰しも一度は考えてみたことのあるテーマであろう。ある日の交霊会で、そのテーマを本格的に扱った本を執筆中のシルビア・バーバネル女史がシルバーバーチに集中的に質問した。

(訳者注───のちにそれが、When Your Animal Dies と題されて出版され、スピリチュアリストに限らず動物問題に関心のある人たちの間でも大反響を呼んだ。それを読んで人間の死後の存在に確信を持つに至った人も少なくないという。オースティンの原典にはその日の交霊会の記録の十分の一程度しか紹介されていないので、本章にはバーバネル女史の原典からそっくり引用させていただいた)


問 「動物は死後もずっと飼い主と一緒に暮らすのでしょうか。それともいずれは動物だけの界へ行くのでしょうか」

 「どっちとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛が関っているからです。死後も生前のままの形体を維持するか否かはその動物に対する飼い主の愛一つにかかっているのです。もしも動物とその飼い主───この飼主(Owner)という言葉は好きではありません。

他の生命を我がものとして所有する(own)などということは許されないのですから───その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼い主のところで暮らします。愛のある場所が住拠となるわけです。愛が両者を強く結びつけるのです。その場合は住処がありますから動物界へ行く必要はありません。

 動物界に住むのは飼主より先に霊の世界へ来た動物に限られます。誰かに世話をしてもらわなくてはならないからです。さもないと、心を温めてくれただけでなく一時的にせよ〝不滅性〟の要素を吹き込んでくれた〝愛〟から切り離されて、動物といえども心を取り乱すことがあるのです。

地上で人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けた飼主より先に他界した場合は、その主人が来るまで、動物界へ行ってそこで面倒をみてもらいます。それはちょうどあなた方が遠出をする時にペットを専門家に預けるのと同じで、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです」


問 「人間との接触によって動物はどんなものを摂取するのでしょうか」

 「長い進化の道程のどこかの時点で、神が、というよりは、法則の働きによって動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力というものを身に付けたわけです。

すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部はじめから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが目覚めるには神の息吹きが必要でした。

 さて、そうして神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことが出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込む能力を具えています。

つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。それがその後の長い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命のすべてのカギです。動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。

愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同志でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。人間が可愛がる動物───犬、猫、その他のペット類───へ向けられる愛は死と共に終わるのではありません。愛があればこそ生命は進化するのです」


問 「霊界で動物と再会したとして、その一緒の生活はいつまで続くのでしょうか。いつまでも人間と一緒ですか」

 「いえ、その点が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても別れなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるか分かりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違います。より大きな光明へ向けて絶え間なく向上していく人間のペースについて行けなくなる時が来ます。

人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、言いかえれば自分を地上と結びつけていた絆が切れたことを自覚すると、向上進化を求める欲求、内部の神性を発揮しようとする欲求が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力を他の生命の進化を援助する方向へと発揮しようとします。

そうやって人間が霊的に向上すればするほど、動物はそのスピードについて行けなくなり、やがて死後も燃え続けた愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合していきます。


問 「すると動物の場合は個性を失ってしまうということですか」

 「その通りです。そこに人間と動物の大きな違いがあるわけです。動物は類魂全体として未だ一個の個性を有する段階まで進化していないのです。その段階まで進化すれば、もはや動物ではなくなり、人間の段階に到達したことになります。ペットとして可愛がられた動物は、人間の愛の力によって言わば進化の段階を飛び越えて人間と一緒に暮らすわけですから、その愛の糸が切れてしまえば、もとの類魂の中に戻るほかはありません」


問 「せっかく人間との接触で得たものが消えてしまうのでは愛がムダに終わったことになりませんか」

 「そんなことはありません。類魂全体に対して貢献をしたことになります。類魂全体としてその分だけ進化が促進されたことになるのです。共通の蓄えに対する貢献です。今までその類魂に無かったものが加えられたわけです。全体のために個が犠牲になったということです。

そうしたことが多ければ多いほど類魂の進化が促進され、やがて動物の段階を終えて、人間の形体での個体としての存在が可能な段階へと進化していきます」


問 「その時点で人間界へと誕生するわけですか」

 「人間界への誕生には二種類あります。古い霊が再び地上へ戻ってくる場合と〝新しい霊〟が物質界で個体としての最初の段階を迎える場合です」


問 「一人の人間としてですか」

 「そうです。双方とも霊魂(スピリット)です。双方とも自我意識を持った霊であり個性を持った霊的存在です。ただ、一方がベテランの霊で、進化の完成のためにどうしても物質界で体験しなければならないことが生じて、再び地上へやってくるのに対し、他方は、やっと人間の段階にまで達した新入生です。

直前まで動物だった類魂が人間界への仲間入りをしたのです。アメーバの状態から始まって爬虫類、魚類、鳥類、そして動物と、ありとあらゆる進化の段階をへて、今ようやく人間へと達したのです」


問 「セオソフィー(神智学)の教えと同じですね」

 「何の教えでもよろしい。私に対して、学派だの宗派だのを口にするのは止めて下さい。私はそういうものに一切関心がありません。世の評論家というのはアレコレとよく知っていることをひけらかすだけで、その実、素朴な真理を何一つ知りません。

それはさて措いて、あなた方はまさか蜘蛛を家の中に持ち込んでペットして飼ったりはしないでしょう。カブト虫に温かい人間愛を捧げるようなことはしないでしょう。それはあなたと、そういう昆虫との間の隔たりを意識するからです。進化の道程において遥かに遅れていることを本能的に直感するからです。

一方、犬とか猫、時に猿などをペットとして可愛がるのは、一種の親近感を意識するからです。もうすぐ人間として生まれ代わってくる段階まで近づいて来ているために、動物の方でも人間の愛を受け入れようとするのです」


問「では下等動物が人間に飼われるということは、その動物はもうすぐ人間に生まれ代わるということを意味するのでしょうか」

 「進化にも、突然変異的な枝分かれ、いわゆる前衛と、後戻りする後衛とがあります。つまり前に行ったり後ろに下がったりしながら全体として進化していきます。中には例外的なものも生じます。動物で知的な面でずいぶん遅れているものもいれば、小鳥でも犬より知的に進化しているものがいたりします。しかしそうした例外と、全体の原理とを混同してはいけません」


問 「動物の類魂は同じ種類の動物に何回も生まれ代わるのですか、それとも一回きりですか」

 「一回きりです。無数の類魂が次々と生まれ代わっては類魂全体のために体験を持ち帰ります。動物の場合それぞれ一度ずつです。全体として再生する必要はありません。それでは進化になりません」


問 「われわれ人間としては、犬や猫などのペットと同じように、生物のすべてに対して愛情を向けることが望ましいのでしょうか」

 「それはそうです。しかし同じ反応を期待してはいけません。愛情は愛情を呼び、憎しみは憎しみを呼ぶというのが原則ですが、進化の程度が低いほど反応も少なくなります。

あなたの心に怒りの念があるということは、それはあなたの人間的程度の一つの指標であり、進歩が足りないこと、まだまだ未熟だということを意味しているわけです。あなたの心から怒りや悪意、憎しみ、激怒、ねたみ、そねみ等の念が消えた時、あなたは霊的進化の大道を歩んでいることになります」


問 「動物がようやく人間として誕生しても、その人生がみじめな失敗に終わった場合は、再び動物界へ戻るのでしょうか」

 「そういうことはありません。一たん人間として自我意識を具えたら、二度と消えることはありません。それが絶対に切れることのない神との絆なのです」


問 「屠殺とか動物実験等の犠牲になった場合の代償───いわゆる埋め合わせの法則はどうなっていますか」

 「もちろんそれにもそれなりの埋め合わせがありますが、一匹とか一頭とかについてではなく、その動物の属する類魂全体を単位として法則が働きます。

進化の程度が異なる動物と人間とでは因果律の働きが違うのです。特に動物の場合は原則として死後は類魂の中に個性を埋没してしまうので、個的存在とは条件が異ります。類魂全体としての因果律があるのですが、残念ながら人間の言語では説明のしようがありません。譬えるものが見当たりません」


問 「シラミとかダニの寄生虫は人間の邪心の産物だという人がいますが、本当でしょうか。あれはホコリとか病気などの自然の産物ではないかと思うのですが・・・」

 「そのホコリや病気は一体何が原因で生じるのでしょうか。原因を辿れば人間の利己心に行きつくのではありませんか。その利己心はすなわち邪心と言えます。たしかに直接の原因は衛生の悪さ、不潔な育児環境、ホコリとか病気、直射日光や新鮮な空気の不足とかにありますが、さらのその原因を辿れば、そういう環境を改めようとしない、恵まれた環境にある人たちの同胞への利己心、同胞への非人間性に行きつきます。

これは一種の邪心であり、私に言わせれば人間の未熟性を示しています。そういう利己心を棄て、弱者を食いものにするようなマネをやめ、我欲や野心を生む制度を改めれば、害虫や寄生虫は発生しなくなります」

問 「それは、たとえばハエのようなものには当てはまらないでしょう」

 「いいですか。大自然全体は今なお進化の過程にあるのです。自然界のバランスは人類の行為如何によって左右されており、人類が進化すればするほど、自然界の暗黒が減っていくのです。人間の霊性の発達と自然界の現象との間には密接な関係があるのです。

人間の存在を抜きにした自然界は考えられないし、自然界を抜きにして人間の進化はあり得ません。双方の進化は大体において平行線を辿っています。人間は神によって創造されたものであると同時に、神の一部として、宇宙の進化の推進者でもあり、自分自身のみならず、自分の属する国家をも司配する自然法則に影響を及ぼします。

 私は今、人間と自然界の進化は大体において平行線を辿ると言いました。両者にはどうしても少しずつズレが出てくるのです。なぜなら、過去の世代が残した業は必ず処理していかねばならないからです」

問 「今おっしゃったことは恐ろしい野獣についてもあてはまるのでしょうか」

 「一応当てはまります。ただ忘れないでいただきたいのは、進化というのは一定の型にはまったものではないことです。いろいろと変化をしながら永遠に続くのです。原始的なものからスタートして低い段階から高い階段へと進むのですが、かつては低いところにいたものが次第に追い抜いて今では高いところにいたり、今高い所に位置しているものが、将来は低い方になることもあります」


問 「では進化にも後戻りということがあるわけですか」

 「それを後戻りと呼ぶのであればイエスという答えになりましょう。というのは、進化というのは一種の円運動(サイクル)、現代の思想家の言葉を借りれば螺旋(スパイラル)を画きながら進むものだからです。どちらの言い方でも構いません。要は進化というものが常に一直線に進むものではないことを理解していただけばよろしい。一歩進んでは後退し、二歩進んでは後退し、ということを繰り返しながら延々と続くのです」

問 「動物同士は殺し合っているのに、なぜ人間は動物実験をやってはいけないのでしょう」

 「それが人間の進化の指標だからです。人間が進化すればするほど地上から残忍性と野蛮性が消えていきます。愛と慈しみと寛容の精神が地上にみなぎった時、動物の残忍性も消えて、それこそライオンと小羊が仲良く寄りそうようになります」

問 「しかし動物の残忍性も動物としての発達の表れではないでしょうか」

 「あなたもかつては動物だったのですよ。それがここまで進化してきた。だからこそ太古に較べれば動物界でも随分残忍性が減ってきているのです。トカゲ類で絶滅したのもいます。なぜ絶滅したと思いますか。人間が進化したからです」

問 「おとなしい動物の中にも絶滅したものもがいますが・・・」

 「進化の一番の指標が残忍性に出るといっているのです。太古でも進化上の枝分かれが幾つもありました。それらは進化の先進者とでも言うべきものです。進化というのはどの段階においても一定の型にはまったものではありません。優等生もおれば劣等性もおり、模範生もおれば反逆児もおります。おとなしい動物はさしずめ〝火を吐く怪獣〟を追い抜いた優等生だったわけです」

問 「寄生虫の類も動物と同じ類魂の中に入って行くのですか」

 「違います」

問 「動物の類魂は一つだけではないということですか」

 「各種属にそれぞれの類魂がいます」

問 「それが更に細分化しているわけですか」

 「そうです。細分化したものにもそれぞれの類魂がおります。新しい霊───初めて人間の身体に宿る霊は、動物の類魂の中の最も進化した類魂です」


問 「やはりサイクルを画きながら進化していくのでしょうか」

 「そうです。すべてサイクル状に進化します」

問 「動物で一番進化しているのは何ですか」

 「犬です」

問 「寄生虫の類魂の存在は害を及ぼしますか」

 「別に害はありません。全体のバランスから見て、殆ど取るに足らぬ勢力ですから。でもこれは普段あまり触れることのない深入りした質問ですよ」

問 「動物の類魂の住処はやはり動物界にあるのですか」

 「私にはあなたより有利な点が一つあります。それは地理を学ばなくてもいいということです。場所とか位置が要らないのです。霊的なものは空間を占領しないのです。地上的な位置の感覚で考えるからそういう質問が出てくるのです。

魂には居住地はいりません。最も、形体の中に宿れば別です。類魂そのものには形体はありません。もしも形体をもつとなれば、何らかの表現形態に宿り、その形態で自己表現できる場が必要になります」


問 「動物の類魂は地球上に対して何か物質的なエネルギーを供給しているのでしょうか。地球にとってそれなりの存在価値があるのでしょうか」

 「進化の過程においての存在価値はあります。ただ気をつけていただきたいのは、どうもあなた方は物的なものと霊的なものとを余りに区別しすぎるきらいがあります。地上に存在していても立派に類魂の一部でありうるわけで、死ななければ類魂の仲間入りが出来ないわけではありません」


問 「ペットも睡眠中に霊界を訪れますか」

 「訪れません」


問 「では死んでからいく世界にまるで馴染がないわけですか」

 「ありません。人間の場合は指導霊が手を引いて案内してくれますが、動物の場合はそれが出来るのは飼主だけです。飼主が地上にいれば案内できません」


問 「飼主が先に死んだ場合はどうなりますか」

 「その場合は事情が違ってきます。いま述べたのは一般的な話です」


問 「人間より動物の方が心霊能力がすぐれている場合があるのはどうしてですか」

 「〝進化〟の観点からいえば、まだ人間となる段階には到達していませんが、人間がいま送っているような〝文化生活〟を体験していないからです。人間がもしも文化生活の〝恩恵〟に浴さなかったら、もっと早い段階で心霊能力が普段の生活の一部となっていたはずです。

つまり人間は文明と引き替えに心霊能力を犠牲にしたわけです。動物には人間のような金銭問題もなく、社会問題もないので、本来なら人間が到達すべきであった段階へ人間より先に到達したのです。人間の場合は物的生活の必要性から本来の心霊能力が押さえ込まれてしまったわけです。いわゆる霊能者というのは進化のコースの先駆者です。いずれは人間の総てが発揮するはずの能力をいま発揮しているわけです」


問 「動物にはいわゆる第六感というのがあって災害を予知したり、知らないところからでもちゃんと帰って来たりしますが、これも心霊能力ですか」

 「そうです。霊能者にも同じことが出来ます。ただ動物の場合はその種属特有の先天的能力である場合があります。これも一種の進化の先駆けで、その能力だけがとくに発達したわけです。ハトのようにどんな遠くからでも帰って来る能力もそれです。本能と呼ばれていますが、一種の〝先見の明〟です」


問 「死んだばかりの犬が別の犬と連れだって出て来ている様子を霊能者が告げてくることがありますが、犬同士でも助け合うことがあるのですか」

 「ありません。ただし地上でその二匹が一緒に暮らした経験があれば連れだって出ることはあります」


問 「その手助けをする人間の霊がかならずいるのでしょうか」

 「そうです。高い者が低い者を援助することになっているのです。それが摂理です」


問 「動物界にはどんな種類の動物がいるのでしょうか」

 「地上で可愛がられている動物、親しまれている動物、大切にされている動物、人間と殆ど同等に扱われて知性や思考力を刺戟された動物のすべてがおります。そうした動物は飼い主の手から離れたことでさびしがったり迷ったりするといけないので、動物界に連れてこられて、他の動物と一緒に暮らしながら、動物の専門家の特別の看護を受けます。

その専門家は永いあいだ動物の研究をしてきていますので、その正しい対処の仕方を心得ており、自然な情愛の発露を動物へ向けることが出来るのです。そこには動物をよろこばせるものが何でも揃っており、やりたいことが何でも出来るので、イライラすることがありません。そして時には地上にいる飼主の家の雰囲気内まで連れてこられ、しばしその懐かしい雰囲気を味わいます。

心霊知識のない人でも自分の飼っていた犬を見たとか猫が出たとか言ってさわぐのはそんな時です。なんとなくあの辺にいたような気がするといった程度に過ぎないのですが、地上の動物の目にはちゃんと見えています。霊視能力が発達しているからです」


問 「動物界で世話をしている人間が連れてくるわけですか」

 「動物界でその管理に当たっている人たちで、それ以外の人について戻ってくることはありません。ところで、その世話をしている人はどんな人たちだと思いますか。動物が大好きなのに飼うチャンスがなかった人たちです。

それはちょうど子供が出来なくて母性本能が満たされなかった女性が、両親に先立って霊界へ来た子供の世話をするのといっしょです。犬とか猫、その他、人間が可愛がっている動物が飼主に先立ってこちらへ来ると、動物が大好きでありながら存分に動物との触れ合いが持てなかった人間によって世話をされるのです。

もちろん獣医のような動物の専門家がちゃんと控えております。それもやはり地上で勉強したことがそのまま霊界で役に立っているわけです。知識は何一つ無駄にはされません」


問 「病気で死亡した動物の場合も人間と同じように看護されるのですか」

 「そうです。そうしたチャンスを喜んで引き受けてくれる人が大勢います」


問 「動物界は種類別に分けられているのですか、それとも全部が混り合っているのですか」

 「種族の別ははっきりしています」


問 「動物界は一つでも、それぞれの境界があるということですか」

 「そうです。とにかく自然に出来あがっております。一つの大きなオリの中に飼われているのではありません」


問 「猫は猫、犬は犬に分けられているわけですか」

 「その通りです」


問 「特に仲の良かったものは別でしょう。その場合は互いに境界の近くに来るわけですか」

 「そういうことです。すべてが至って自然に出来あがっていると考えて下さい」


問 「犬の次に進化している動物は何ですか。猫ですか猿ですか」

 「猫です」


問 「なぜ猿ではないのでしょう。人間と非常によく似ていると思うのですが」

 「前にも述べましたが、進化というのは一本道ではありません。かならず優等生と劣等性とがいます。人間は確かに猿から進化しましたが、その猿を犬が抜き去ったのです。その大きな理由は人間が犬を可愛がったからです」


問 「犬が人間の次に進化しているから可愛がるのだと思っていましたが・・・」


 「それもそうですが、同時に人間の側の好き嫌いもあります。それからこの問題にはもう一つの側面があるのですが、ちょっと説明できません。長い長い進化の道程において、猿はいわば足をすべらせて後退し、残忍にはならなかったのですが、ケンカっぽく、そして怠けっぽくなって歩みを止めてしまい、結局類魂全体の進化が遅れたのです。

それと同時に、というより、ほぼその時期に相前後して、犬の種族が進化してきました。猿よりも類魂全体の団結心が強く、無欲性に富んでいたからです。しかしどうも話が複雑になりすぎたようです」


問 「猿の種族が法則を犯したのでしょうか」

 「法則を犯したというのではなく、当然しなければならないことをしなかったということです」


問 「では猿と同じように、将来、犬が進化の段階を滑り落ちるということもありうるのでしょうか」

 「それはもう有り得ないでしょう。というのは、すでに何百万年もの進化の過程を辿って来て、地上の種がすっかり固定してしまったからです。種の型が殆ど定型化して、これ以上の変化の生じる可能性はなくなりつつあります。物質的進化には限度があります。形体上の細かい変化はあるかも知れませんが、本質的な機能上の変化は考えられません。細かい変化は生じても、すっかり形体が変わることはありません。

 たとえば人間の場合を考えてごらんなさい。現在の型、すなわち二本の腕と脚、二つの目と一つの鼻が大きく変化することは考えらません。これが人間の標準の型となったわけです。もちろん民族により地方によって鼻とか目の形が少しずつ違いますが、型は同じです。動物の場合はこの傾向がもっと強くて、霊界の類魂に突然変異が発生することはあっても、それが地上の動物の型を大きく変化させることはまずないでしょう」


問 「猿の転落もやはり自由意志に関連した問題ですか」

 「それは違います。自由意志は個的存在の問題ですが、動物の場合は類魂全体としての問題だからです」


問 「動物に個体としての意識がないのに、なぜ類魂全体としての判断が出来るのですか」

 「本能による行動と本能の欠如による行動の違いがあります。個々には理性的判断力のない動物でも、働くか怠けるかを選ぶ力はあります。必要性に対して然るべく対処するかしないかの選択です。そこで種としての本能が伸びたり衰えたりします。個々には判断力は無くても、長い進化の過程において、種全体として然るべき対処を怠るという時期があるわけです」


問 「それは植物の場合にも言えるわけですか」

 「言えます」


問 「それは外的要因によっても生じるのではないですか」

 「それはそうですが、あなたのおっしゃる外的というのは実は内的でもあるのです。それに加えて更に、霊界からコントロールする霊団の存在も考慮しなくてはいけません。その霊団もまた法則、進取性、進歩といった要素に支配されます」


問 「たとえば猿の好物であるナッツが豊富にあれば、それが猿を怠惰にさせるということが考えられませんか」

 「そういうことも考えられますが、ではナッツがなぜ豊富にあったのかという点を考えると、そこには宇宙の法則の働きを考慮しなくてはいけません。つまり人間の目には外的な要因のように見えても、霊界から見れば内的な要因が働いているのです。私の言わんとしているのはその点なのです。

人間はとかく宇宙の法則を何か生命の無い機械的な、融通性のないもののように想像しがちですが、実際は法則と法則との絡まり合いがあり、ある次元の法則が別の次元の法則の支配を受けることもありますし、その根源において完全にして無限なる叡知によって支配監督されているのです。

法則にもまず基本の型というものがあって、それにいろいろとバリエーション(変化)が生じます。といっても、その基本の型の外に出ることは絶対に出来ません。どんなに反抗してみたところで、その法のワクはどうしようもなく、結局は順応していくほかはありません。

しかし同じ型の中にあって、努力次第でそれを豊かで意義あるものにしていくことも出来るし、窮屈で味気ないものにしてしまうことも出来ます。別の言い方をすれば、その法則に調和した色彩を施すのも、あるいはみっともない色彩を塗りつけてしまうのもあなた次第ということです。いずれにせよ、最後は型に収まります」


 別の日の交霊会で動物実験が道徳的側面から取り上げられた。

問「動物実験がますます増えておりますが、どう思われますか。これを中止させようと運動している団体もありますが、霊界からの援助もあるのでしょうか」


 「ためになる仕事をしようと努力している人は必ず霊界から鼓舞し支援し霊力をもたらそうとしている人たちの援助を受けます。神の創造物に対して苦痛を与えることは、いかなる動機からにせよ許されません。ただ、動物実験をしている人の中には、人類のためという一途な気持ちでいっしょうけんめいなあまり、それが動物に苦痛を与えていることに全く無神経な人がいることも忘れてはなりません。しかし摂理を犯していることに変りありません」


問 「でもあなたは動機が一番大切であると何度もおっしゃっています。人類のためと思ってやっても罰を受けるのでしょうか」

 「動機はなるほど結構なことかもしれませんが、法の原理を曲げるわけにはいきません。実験で動物が何らかの苦痛を受けていることが分っていながらなお意図的に苦しみを与えるということは、それなりの責務を自覚しているものと看做(みな)されます。

動機は人のためということで結構ですが、しかしそれが動物に苦痛を与えているわけです。そうした点を総合的に考慮した上で判断が下されます。いずれにせよ私としては苦痛を与えるということは賛成できません」


問 「動物は人類のために地上に送られてきているのでしょうか」

 「そうです。同時に人類も動物を助けるために来ているのです」


問 「動物創造の唯一の目的が人類のためということではないと思いますが」

 「それはそうです。人類のためということも含まれているということです」


問 「動物の生体解剖は動機が正しければ許されますか」

 「許されません。残酷な行為がどうして正当化されますか。苦痛を与え、悶え苦しませて、何が正義ですか。それは私どもの教えとまったく相容れません。無抵抗の動物を実験台にすることは間違いです」


問 「動物を実験材料とした研究からは、たとえばガンの治療法は発見できないという考えには賛成ですか」

 「神の摂理に反した方法からは正しい治療法は生まれません。人間の病気にはそれぞれにちゃんとした治療法が用意されています。しかしそれは動物実験では発見できません」


問 「そうしたむごい実験を見ていながら、なぜ霊界から阻止していただけないのでしょうか」

 「宇宙が自然法則によって支配されているからです」


 さらに別の交霊会で、キツネ狩りに参加した人が自分は間違ったことをしたのでしょうかと尋ねた。すると───

 「すべての生命のあるものは神のものです。いかなる形にせよ、生命を奪うことは許されません」

問 「でもうちのにわとりを二十羽も食い殺したんですが・・・・・・」

 「では、かりに私がそのキツネに銃を与えて、二十羽も鶏を食べたあなたを撃ち殺せと命令したらどうなります。すべての地上の生命にとって必要なものは神がちゃんと用意してくださっています。

人間が飢えに苦しむのはキツネが悪いのではなく、人間自身が勝手な考えを持つからです。地上の人間が向上進化すれば、そうしたあくどい欲望はなくなります。キツネやにわとりをあなたがこしらえたのなら、これをあなたが食べても誰も文句は言いません。

人間がにわとりやキツネを殺していいというのが道理であるとしたら、あなたの同胞を殺してもいいという理屈になります。生命は人間のものではありません。神のものです。生命を奪うものは何時かはその責任を取らなくていけません」


問 「オーストラリアではウサギの異常繁殖が脅威となっておりますが、これについてどうでしょうか」

 「人間は本来そこにあるべきでないところに勝手に持ってきて、それがもたらす不都合について文句を言います。

私の地上の故郷である北米インデアンについても同じです。インデアンはもともと戦争とか、俗に言う火酒(ウイスキー、ジン等の強い酒)、そのほか不幸をもたらすようなものは知らなかったのです。

白人が教えてくれるまでは人を殺すための兵器は何も知らなかったのです。そのうち人間も宇宙のあらゆる生命───動物も小鳥も魚も花も、その一つ一つが神の計画の一部を担っていることを知る日が来るでしょう。神の創造物としてそこに存在していることを知るようになるでしょう」


 更に別の日の交霊会で───

問 「イエスの教えの中には動物に関するものが非常に少ないようですが何故でしょうか」

 「その当時はまだ動物の幸不幸を考えるほど人類が進化していなかったからです」


問 「ほかの国の霊覚者の訓えにはよく説かれているようですが・・・・・・」

 「それは全部とは言いませんが大部分はイエスよりずっと後の時代のことです。それはともかくとして、あなた方はイエスを人類全体の模範のように考えたがりますが、それは間違いです。イエスはあくまで西欧世界のための使命を担って地上へ降りてきたのであって、人類全体のためではありません。

イエスにはイエスの特殊な使命があり、イエス個人としては動物を始めとする全ての生命に愛情をもっていても、使命達成の為に、その教えを出来るだけ制限したのです。その使命というのは、当時の西欧世界を蝕んでいた時代遅れの腐敗した宗教界にくさびを打ち込んで、人生の照明灯(サーチライト)として難解なドグマに代わる単純明快な人間の道を説くことでした」


問 「下等動物への愛を説かない教えは完全とは言えないではないでしょうか」

 「もちろんそうです。ただイエスの場合はその教えをよく読めば動物への愛も含まれています。イエスは例の黄金律を説きました。すなわち〝汝の欲するところを人に施せ〟ということですが、この真意を理解した人なら、他のいかなる生命にもむごい仕打ちは出来ないはずです」

Thursday, May 7, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

 The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄

第2部 本論



16章 霊に尋ねる質問の規範

――尋ねてよいこと・いけないこと

このページの目次

(一)一般論として


――霊は、出された質問には喜んで答えるものでしょうか。


「それは質問の内容によりけりです。向上心から出た真剣な真理探求のための質問には、高級霊は喜んで応じるでしょう。下らぬ質問には無関心です。」


――真剣な態度で尋ねた質問には真剣な返答が返ってくると思ってよろしいでしょうか。


「そうとばかりも言えません。一つには返答する霊の霊格の程度によって返答の程度が決まるからです。」


――真剣な質問はふざけた霊を追い払いますか。


「ふざけた霊を追い払うのは質問ではありません。質問する人間の霊格です。」


――真面目な霊にとって特に不愉快な質問とはどんなものでしょうか。


「意味のない質問、あるいは面白半分から出る質問です。取り合わないというよりは、不快感を覚えます。」


――反対に低級霊が特に不愉快に思うのはどういう質問でしょうか。


「彼らの無知あるいは狡猾さがあばかれるような質問です。騙そうとしているからです。そういう気遣いのない質問には、本当かどうかに無頓着に、適当に答えます。どんな質問にでも。」


――面白半分に霊界通信を求める者、あるいは俗世的利害関係のからんだ質問をする者はどうでしょうか。


「低級霊を喜ばせるだけです。自分たちも面白半分にやっているのであり、人間を手玉に取って好きに操って喜んでいるのです。」


――ある質問に霊が答えなかった場合、それは答えたくないからでしょうか、それとも高級霊から止められるのでしょうか。


「両方のケースが考えられます。その段階では教えてはならないことというのがあります。また霊が知らなくて答えられないこともあるでしょう。」


――強く求めれば霊も折れて答えてくれることもあるでしょうか。


「ありません。答えてはならないと判断した場合にしつこく求められると、霊は引き上げます。その意味でも、しつこく返答を求めてはいけないのです。真面目な霊は引き上げますから、代わって低級霊がつけ入るチャンスを与えることになるのです。」


――人間から出される問題はどんな霊にでも理解できるのでしょうか。


「そんなことはありません。未熟霊には理解できない問題が沢山あります。しかし、だからといって未熟霊が答えないというわけではありません。地上でも、知りもしないくせに、さも知った風な態度で答える人間がいるのと同じです。」
(二)未来のことに関する質問について


――霊には未来の予知ができるのでしょうか。


「もしも未来のことが分かってしまうと人間は現在のことを疎(おろそ)かにするでしょう。なのに人間がいちばん知りたがるのは未来のことです! こうした傾向は間違いです。スピリチュアリズムは占いではありません。もし未来のこと、あるいは何か他のことについて断固として求めれば、教えてくれるでしょう。知恵のない低級霊が(高級霊が引き上げたスキをついて出て)適当なことをしゃべるでしょう。これは口が酸っぱくなるほど言ってきたつもりですが……」


――でも、こちらから要求していないのに霊の方から予言して、事実その通りになったということがありますが……。


「もちろん霊には未来のことが予知できることがあり、それを知らせておいた方が良いと判断する場合もあれば、高級霊から伝達するように言いつけられる場合もあります。しかし、将来のことを軽々しくあげつらう時は大体において眉唾物とみてよろしい。そういう予言の大半は低級霊が面白半分にやっていることです。予言の信頼度の判断はありとあらゆる事情を考慮して初めてできることです。」


――絶対に信じられない予言はどんな場合でしょうか。


「一般の人々にとって何の役にも立たない場合です。個人的なことは、まずもってまやかしと思ってよろしい。」


――そういうまやかしの予言をする目的は何なのでしょうか。


「大ていは、すぐに信じ込む人間の習性をもてあそんで、脅かしたり安心させたりして喜ぶだけです。が、時として高級霊がわざとウソの予言をして、どういう反応を見せるか――善意を見せるか悪意を見せるか――をテストすることがあります。」


編者注――たとえば遺産がころがり込むといった予言をして、欲の深さや野心をテストする場合などのことであろう。


――真面目な霊が予言をする時に滅多に日時を明確に言わないのはなぜでしょうか。言えないのでしょうか、わざと言わないのでしょうか。


「両方のケースがあるでしょう。ある出来事の発生を予知し、それを警告します。が、それがいつのことかは時として知らせることを許されないことがあり、時として知らせられないこともあります。分からないのです。出来事自体は予知できても、その正確な日時は、まだ発生していない他の幾つかの事情もからんできます。これは全知全能の神にしか分かりません。

そこへ行くと軽薄な霊は人間がどうなろうと一向に構わないのですから、何年何月何日何時何分に、などと好きなことが言えるわけです。その点から言って、あまりに細かい予言は当てにならないと考えてよろしい。

改めて申し上げますが、我々の霊団は人間の霊的向上を促進し、完全へ向けての進化の道を歩むように指導することを使命としているのです。我々との係わりにおいて霊的叡智のみを求めるかぎり、低級霊にたぶらかされることはありません。人間の愚かな欲求や運勢占いに時間を無駄に費やすのにお付き合いさせられるのはご免こうむります。そうした児戯に類することは、そんなことばかりして愉快に過ごしている低級霊に任せます。

そもそも人間に知らしめてよいことには大霊の摂理によって一定の枠が設けられております。その辺の摂理に通じている高級霊は、返答すべきでないことにはあくまでも沈黙を守ります。そうした事情を弁(わきま)えずにしつこく返答を求めることは、低級霊につけ入るスキを与えることになります。彼らは実にもっともらしい口実をこしらえて、人間が有り難がるように話をもっていきます。」


――未来の出来事を予知する能力を授かっている人もいるのではないでしょうか。


「います。物質による束縛を断ち切る力を有している人がいて、その状態において未来の出来事を見ることができます。一種の啓示を受けるのです。そしてその啓示が人類にとって有益と見なされれば、公表することを許されます。しかし、そういう人は例外に属します。一般に予言者と称して災害や不幸を安直に予言している人間はイカサマ師でありハッタリ屋だと思って間違いありません。

ただ言えることは、人類の進化とともに今後ますます予知能力が一般化して行くでしょう。」


――人の死亡年月日の予言を得意にしている霊がいますが、どう理解すべきでしょうか。


「非常に趣味の悪い霊の集団で、その程度のことで人間を感心させて得意になっている低級霊です。相手にしてはいけません。」


――自分の死を予知する人がいますが、これはいかがでしょうか。


「霊が肉体から離れている間に死期が近いことを感知し、それが肉体に戻ってからも意識に残っているケースです。それほどの人になると、その予知によって恐れを抱くことも戸惑うこともありません。一般に“死”と呼んで恐れているものを、ただの“変化”と見なし、譬えて言えば厄介な重苦しいオーバーコートから軽やかなシルクのコートに着替えるのだと考えます。スピリチュアリズムの知識が普及するにつれて死の恐怖は薄らいでいくことでしょう。」
(三)過去世および来世に関する質問について


――霊には人間の過去世が簡単に分かるのでしょうか。


「大霊は、時として、ある特殊な目的のために、いくつかの前世を啓示することを許すことがあります。あくまでも、それを知らせることが当人の教化と啓発に役立つと判断された時にかぎられます。そうした場合は必ず何の前ぶれもなく自然発生的に見せられます。ただの好奇心から求めても絶対に許されません。」


――では、こちらからの要求に喜んで応じていろいろと語ってくれる霊がいるのはなぜでしょうか。


「それは、人間側がどうなろうと意に介さない低級霊のすることです。

一般的に言って、特に大切な意味もない過去世を物語る時は、すべて作り話と思ってよろしい。低級霊は前世を知りたがる人間が有頂天になるように、前世では大金持ちだったとか大変な権力者であったかのような話をこしらえて語ります。また出席者も、あるいは霊媒も、聞かされた話をすべて真実として受け止めます。その時、当人のみならず霊自身もけちくさい虚栄心にくすぐられて、そんな前世と現世との間に何の因果関係もないことまでは思いが至りません。実質的には大金持ちや大権力者だった前世より平凡な今の方が向上していると考える方が理性的であり、進化の理論に適っており、本人にとって名誉なことであるはずなのです。

過去世の啓示は、次の条件下においてのみ信用性があります。すなわち思いも寄らない時に突如として啓示された場合、まったく顔見知りでない複数の霊媒によって同じ内容のものが届けられた場合、そして、それ以前にどんな啓示があったか全く知られていない場合。これだけの条件が揃っていれば信じるに足るものと言えます。」


――かつての自分がいかなる人物であったかが知り得ないとなると、どういう人生を送ったか、また性格上の長所と欠点についても知り得ないことになりましょうか。


「そうとばかりも言えません。知らされる場合がよくあります。それを知ることが進歩を促進すると見なされた場合です。が、およそのことは現在のご自分を分析すればお分かりになるのではありませんか。」


――来世、つまり死後また再生して送る人生について啓示を受けることは有り得るでしょうか。


「有り得ません。有り得るかのごとく述べる霊の言うことは全てナンセンスと思って差し支えありません。その理由は、理性的に考えればお分かりになるはずです。次の物的生活は現在の人生での行いと死後における選択によって決まることであって、今から決まっていることではないからです。

概念的に言えば、罪滅ぼしの量が少ないほどその一生は幸せでしょう。しかし、次の物的生活の場(天体)がどこで、どういう経過をたどるかを予知することは不可能です。ただし、滅多にない例外として、重大な使命を帯びている霊の場合はあらかじめ予定が組まれていますから、予知することは可能です。」
(四)世俗的問題に関する質問について


――霊に助言を求めることは許されますか。


「もちろんです。善良な霊が、真摯に求めてくる者を拒絶することは絶対に有り得ません。とくに“生き方”に関して真剣に意見を求める場合はそうです。あくまでも真剣でないといけません。実生活ではいい加減な生き方をしながら、交霊の場では真剣な振りをする偽善者は受けつけません。」


――プライベートな悩みごとに関してのアドバイスも求めてよろしいでしょうか。


「アドバイスを求める動機と、相手をする霊によっては、許されることがあります。プライベートな悩みごとは普段から親しく係わり合っている指導霊が最も適切です。指導霊は身内のようなものであり、当人の秘めごとにまで通じているからです。だからといって、あまり甘えた態度を見せると引き上げてしまいます。

街角で出会った人に相談を持ちかけるのが愚かであるのと同じで、いくら善良な霊でも、あなたの日常生活について何も知らない霊に助言を求めるのは筋違いというものです。また質問者の霊格と回答霊の霊格とが違いすぎでも、良い結果は得られません。さらに考慮しなければならないのは、いくら親(ちか)しい指導霊であっても、根本的に邪悪性の強い人間には邪霊がついていますから、そのアドバイスも決して感心したものではありません。何らかの体験をきっかけとして善を志向するようになればその霊に代わって別の、より善性の強い霊が指導霊となります。類が類を呼ぶわけです。」


――背後霊は私たちの物的利益のために特別の知恵を授けてくれるものでしょうか。


「授けることを許されることがないわけではありません。事情次第では積極的に援助します。が、ただの金儲けや卑しい目的のためには、善霊は絶対に係わり合わないと思ってください。そういう時に積極的に知恵を授けるのは邪霊です。巧みに誘惑して、あとで欺くのです。

ご注意申し上げますが、霊的浄化のために仮にあなたが艱難辛苦をなめる必要があると見た時、あなたの守護霊や指導霊は、それに対処する心構えを支え、あまり過酷すぎる時に少し和らげることはしても、艱難辛苦そのものを排除するようなことは許されていません。それに耐えることこそあなたのためであり、長い目で見た時はその方が良いからです。守護霊というのは叡智と真の愛情をもった父親のようなものです。欲しがるものを何でも与えるようなことはしませんし、為すべきことを避けるようなことも許しません。」


――仮にある人が相続の問題の最中に死亡したとします。そして、その人が残した遺産の在り処が判らず、公正な解決のためにはその人から情報を得る必要があるとします。そんな時、その霊を呼び出して聞き出すことは許されるでしょうか。


「そういう質問をお聞きしていると、あなたは死というものが俗世的労苦の種からの解放であることをお忘れのようですね。地上への降誕によって失われていた自由をやっと取り戻して喜んでいる霊が、多分その霊の他界によって遺産がころがり込むと期待している遺族の貪欲を満たしてやるために、もはや何の係わりもなくなった俗事の解決に喜んで出てくると思いますか。

“公正な解決”とおっしゃいましたが、世俗的な貪欲に燃える者のために大霊が用意している懲罰の手初めとして、その貪欲な思惑の当てが外れるということにも公正さがあっても良いのではないでしょうか。

もう一つの考え方として、その人の死によって引き起こされる問題は、それに係わる人々の人生の試練の一つなのかも知れません。そうなると、どの霊に尋ねても解決法は教えてもらえないでしょう。大霊の叡智から発せられた宿命として、その者たちに課せられた宿題なのですから。」


――埋蔵された財宝の在り処を教えてもらうのはいけませんか。


「霊格の高い霊はそうした話題にはまったく関心がありません。が、いたずら霊がいかにも霊格が高そうな態度で、ありもしない財宝の話をしたり、実際に隠されている財宝についてはわざと違う場所を教えたりしてからかいます。

そうした行為を大霊が許していることには意味があるのです。本当の財産は働くことによって得るものであることを教えるためです。もしも隠し財宝が発見される時期が来れば、それはごく自然な成り行きで見つかるように配慮されるでしょう。霊が出てきて教えるという形では絶対に発見されません。」


――隠し財宝にはそれを監視する霊がついているというのは本当でしょうか。


「地臭の抜け切らない霊がそういうものに執着しているというケースはあるでしょう。守銭奴が財産を隠したまま死亡して、霊界からそれを油断なく見張っていることはよくあります。それが発見されて奪われてしまうことで味わう無念残念は、蓄財の愚かさを教えるための懲罰です。

それとは別に、地中に住んでいる精霊が自然界の富の監理人のように物語られることがあります。」


ブラックウェル脚注――カルデックが編纂の仕事を託された通信には霊団側によって大きく制約が設けられていて、この精霊の問題もその一つであった。ここではノームとかコボールドと呼ばれる地の精のことを指している。人類とは別の進化のコースをたどっている精霊で、鉱夫や霊視能力者によってその実在が証言されている。思うに、世界各地の伝説で語られているフェアリーとかエルフとかサラマンダーと呼ばれている“原始霊(エレメンタリー)”も同系統に属するものではなかろうか。


訳注――もう一冊の『霊の書』にもいくつかの質問が出ているが、その回答には、あまり深入りしないように、といった感じの配慮がうかがえ、「それはいずれ明らかにされる日も来るでしょう」と述べている箇所がある。
(五)他界後の霊の状況について


――死後どうしているかを尋ねるのは許されますか。


「許されます。ただの好奇心からでなく、思いやる心、あるいは参考になる知識を得たいという願望に発したものであれば、霊は喜んで応じます。」


――霊が自分の死後の苦痛や喜びを語ることは許されているのでしょうか。


「もちろんです。そういう啓示こそ地上の人間にとって大切この上ないものです。死後に待ちうける善悪両面の報いの本質が分かるからです。それまで抱いていた間違った見解を破棄して、死後の生命についての信仰と神の善性への確信を深めようとするようになります。(“神の善性”というと“清浄と穢れ”の観念の強い日本人には奇異の感じを与える。私も訳語に抵抗を覚えるが、“神(ゴッド)”と“悪魔(サタン)”の観念の根強いキリスト教国では“神は善”という捉え方が普通であることに配慮したのであろう――訳注)

スピリチュアリズムの真髄が地上の人間の霊的覚醒にあることを忘れてはいけません。また、そのようにして霊が死後の情報を披瀝することを許されるのは、ひとえにその目的のためであり、さまざまな体験から学んでもらうためのものであることを忘れないでください。死後に待ちうける霊的世界の事情にくわしく通じるほど、現在自分が置かれている、思うにまかせない身の上を嘆くことが少なくなるはずです。そこにこそスピリチュアリズムという新しい啓示の真髄があるのです。」


――招霊した霊がすでに他界した霊なのか生者の霊なのかが明確でない時、そのことをその霊から聞き出すことは許されますか。


「許されます。ただし、そういうことに興味をもつ人間への試練として、知ろうとしても曖昧のままで終わることがあります。」


――もしも他界している霊であれば、自分の死の前後の状況について明確な証拠性のある証言ができるでしょうか。


「死の前後の状況がその霊にとって格別な意味があれば証言できるでしょうが、そうでなければ語りたがらないでしょう。」
(六)健康に関する質問について


――健康についてのアドバイスを求めてもよろしいでしょうか。


「地上生活における仕事の成就には健康であることが第一ですから、霊は人間の健康問題に係わることを許されていますし、しかも皆喜んで勉強しています。しかし、何事にも言えることですが、できの良い霊と悪い霊とがいます。できの悪い霊の言うことを何でも信じるのは考えものです。」


――地上で医学者として名声を博した霊だったら間違いがないでしょうか。


「地上時代の名声というのは全く当てにならないものです。しかも死後も地上的謬見(びゅうけん)を引きずっていることがしばしばです。死んだら直ぐに地上的なものが無くなるわけではありません。地上の学問というのは霊界に比べればチリほどのものでしかありません。上層界へ行くほど学問は深みを増します。そういう世界には地上の歴史にまったく痕跡をとどめていない霊が大勢います。

もっとも、博学であるというだけが高級霊の条件ではありません。皆さんもこちらへ来れば、あれほどの大学者が……と思って驚くほど、低界層で迷っている人が大勢いることが分かります。地上の科学の大先駆者だった人でも、霊性において低かった人は、霊界でも低い界層に所属し、したがってその知識もある一定次元以上のものではありません。」


――地上の科学者が間違った説を立てている場合、そのまま霊界へ行けばその間違いに気づくでしょうか。


「ですから、死後順調に霊性が開発されて自分の不完全さに気づけば、学問上の間違いにも気づき、潔(いさぎよ)くその非を認めるでしょう。が、地上的波動を引きずっているかぎり、地上的偏見から脱け出せません。」


――医者が自分が診察したことのある患者の霊を呼び出して、本当の死因について聞き出し、その間違いを確認することによって医学的知識を広げるということは許されるでしょうか。


「許されることですし、とても有益な勉強になることでしょう。高級霊団の援助が得られればなおさらのことです。ですが、そのためには前もって霊的真理について行き届いた勉強をし、真摯に、そして不幸な人々に対する純真な慈悲心をもって臨む必要があります。労少なくして医学的論文の資料や収入を目当てにするようではいけません。」
(七)発明・発見に関する質問について


――霊が学者の研究や発明に関与することは許されているのでしょうか。


「学問の研究成果が真実であるか否かの確認は、学者の天賦の才に係わる仕事です。人間はあくまでも勤勉と努力によって進歩することが建前ですから、学問も人間自身の労力によって発展しなくてはいけません。努力もせずに結論だけを霊から教わっていては、人間としての功績はどうなりますか。ろくでなしでも労せずして大科学者になれることになりませんか。

発明・発見についても同じことが言えます。しかも新しい発見には有効なタイミングというものがあり、また人間の精神にそれを受け入れる準備ができていないといけません。もしも高級霊にお伺いを立てれば何でも教えてもらえるとしたら、人類の精神的発達に合わせた物事の発生の規律が乱れてしまいます。

旧約聖書にも、神はこう述べたとあります――“額に汗してパンを食せよ”と。この比喩は低次元の界層に属する人類の有るべき姿を見事に表現しております。人間は進化・向上すべき宿命を背負っており、それは努力によって獲得しなければなりません。必要なものが既製服を買うような調子で何の努力もなしに手に入るとしたら、知性の存在価値はどうなりますか。宿題を親にやってもらう小学生のようなものです。」


――でも、学者も発明家も霊界からの援助を受けているのではないでしょうか。


「ああ、それはまた話が別です。ある発見がなされるべき時機が到来すると、人類の進化を担当する霊団がその受け皿になってくれる人物を探し、首尾よく地上にもたらされる上で必要なアイディアをその人物の精神に吹き込みます。もちろん本人は自分のアイディアのつもりです。霊団の方でもその人物の功績となるように仕向けます。というのは、最終的にそれを完成させるのは確かに当人だからです。

人類の発達史における発明・発見は全てそうやって地上に届けられてきたのです。といって、誰でもよいというわけではありません。土地を耕す者、タネを蒔く者、そして穫り入れる者と、それぞれに分担が違います。宇宙の秘中の秘を、それを受け取る資格のない者に簡単に授けるようなことはしません。大霊の計画の推進者として適切な者にのみ、その計画の一端が啓示されます。

あなた方も、好奇心や野心から、スピリチュアリズムの目的から外れた、知らずもがなの宇宙の秘密の探求へ誘惑されるようなことのないよう気をつけないといけません。いたずらに神秘主義的になって、挙げ句には失望・落胆の落とし穴にはまってしまいます。」
(八)他の天体ならびに死後の界層に関する質問について


――他の天体や死後の世界に関する霊界通信にはどの程度の信憑性があるのでしょうか。


「それは通信霊の霊性の発達程度によりけりです。発達程度の低い霊は自分の国から一歩も出たことのない人間と同じで、何も知りません。あなた方はよくその程度の霊にしきりに尋ねています。よしんばその霊が善性が強くて真面目であっても、その述べていることの信憑性は別問題です。ましてそれが意地の悪い霊だと、ただの想像の産物にすぎないことを、さも知った風な態度で述べます。

だからといって信頼のおける情報が絶対に得られないと決め込むのも間違いです。霊性の発達した霊が、後輩である人間の進歩・向上のために、自分が知り得たかぎりでの情報を喜んで提供することがあります。」


――それが間違いない情報であることの証拠は何でしょうか。


「多くの情報をつき合わせてみて全てが一致するということが最大の証拠です。ですが、それ以前の問題として、そういう情報は地球人類の霊性の向上という目的にそって提供されるものであること、したがって、たとえば他の天体の物的ないしは地質学的情報そのものよりも、その天体上の知的存在の霊性面についての情報の方が大切であることを忘れてはなりません。というのも、地質学的なものは、たとえ情報そのものは正確な事実であっても、現段階の地球人類には理解できないでしょう。そんな理解困難な情報は人類の霊性の向上には何の役にも立ちません。どうしても知りたければ、その天体へ再生すればよろしい。」

シルバーバーチの霊訓(五)

 More Teachings of Silver Birch 

 Edited by A.W. Austen


六章 イエスはいま何をしているか

 ナザレのイエスは今どういう仕事に携っているのだろうか。ある日の交霊会でシルバーバーチは、イエスは今すっかり教義とドグマと権力という雑草におおわれてしまった霊的真理の本来の姿をいま一度明らかにするための霊界からの地球的規模の働きかけの最高責任者であると述べた。

 そのことについて別の日の交霊会で次のように述べた。

 「ほぼ二千年前にイエスは磔刑(はりつけ)にされました。それはただ、当時の祭司たちがイエスを憎んだからにすぎません。イエスを通して霊力のほとばしりを見せつけられたからでした。まさに神の子に相応しい人物だったからにほかなりません。このままでは自分達の立場が危ないと思ったのです。

私たちが今それとまったく同じ反抗に遭っております。宗教界がこぞって〝真理〟を磔刑にしようとしております。しかし、それは不可能なことです。真理は、ただ真理であるが故に、あらゆる反抗、あらゆる敵対行為の中でも厳然と存在しつづけます。

キリスト教会の外部では次々と霊力が顕現しているにもかかわらず、空虚で侘しい限りの巨大な建造物の中には、その陰気な暗闇を照らす霊力の光は一条も見られません」

───そういうキリスト教は死滅してしまった方がましだとおっしゃるのでしょうか。

 「私はレンガとモルタル、祭壇と尖塔で出来た教会には何の興味もありません。何の魅力も感じません。建造物にはまるで関心が無いのです。私が関心を向けるのは〝魂〟です。

それで私は神とその子の間に横たわる障壁を取り除くことに奮闘しているのですが、不幸にして今日では教会そのものがその障壁となっているのです。これほど大きな罪悪があるでしょうか。宇宙の大霊である神は一個の教会に局限されるものではありません。

一個の建造物の中に閉じ込められるものではないのです。神の力は人間各自がその霊性を発揮する行為の中に、すなわち自我を滅却した奉仕の行為、困窮せる無力な同胞のために一身を捧げんとする献身的生活の中に顕現されるのです。そこに宇宙の大霊の働きがあるのです。

 確かにキリスト教会にも奇特な行いをしている真摯な人材がそこここに存在します。が、私が非難しているのはその組織です。それが障害となっており、是非とも取り除かねばならないからです。

真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役立てることです。同胞の為に自分を役立てることによって神に奉仕することです。私はこれまでそのことを何度申し上げてきたことでしょう。

然るに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。

新しい波に呑み込まれるのを恐れて、既得の権利の確保に汲々としてきました。しかし新しい霊的真理はすでに根づいております。もはやその流れをせき止めることはできません」

 
 ───イエスの意気込みが察せられます。

 「誤解され、崇められ、今や神の座にまつり上げられてしまったイエス───そのイエスは今どこにおられると思われますか。カンタべリー大聖堂ではありません。セントポール寺院でもありません。ウェストミンスター寺院でもありません。実はそうした建造物がイエスを追い出してしまったのです。

イエスを近づき難い存在とし、人類の手の届かぬところに置いてしまったのです。神の座にまつり上げてしまったのです。単純な真理を寓話と神話を土台とした教義の中に混ぜ合わせてしまい、イエスを手の届かぬ存在としてしまったのです。

 今なおイエスは人類のために働いておられます。それだけのことです。それを人間が(神学や儀式をこしらえて)難しく複雑にしてしまったのです。しかし今こうして同じ真理を説く私たちのことを天使を装った悪の勢力でありサタンの声であり魔王のそそのかしであると決めつけております。

しかし、すでにキリスト教の時代は過ぎました。人類を完全に失望させました。人生に疲れ、絶望の淵にいる地上世界に役立つものを何一つ持ち合わせていません」



 シルバーバーチによると、イエスは年二回、イースターとクリスマスに行われる指導霊ばかりの会議を主宰しているようである。その時期には交霊会も二、三週間にわたって休暇となる。時おりその前後の交霊会で会議の様子を説明してくれることがある。次に紹介するのは休暇に入る前の最後の交霊会での霊言である。

 「この機会は私にとって何よりの楽しみであり、心待ちにしているものです。この時の私は、わずかな期間ですが、本来の自分に立ち帰り、本来の霊的遺産の味を噛みしめ、霊界の古き知己と交わり、永年の向上と進化の末に獲得した霊的洞察力によって実在を認識することのできる界層での生命の実感を味わうことができます。

自分だけ味わってあなた方に味わわせてあげないというのではありません。味わわせてあげたくても、物質界に生きておられるあなた方、感覚が五つに制限され、肉体という牢獄に閉じ込められて、そこから解放された時の無上のよろこびをご存じないあなた方、

たった五本の鉄格子の間から人生をのぞいておられるあなた方には、本当の生命の何たるかを理解することはできないのです。霊が肉体から解放されて本来の自分に帰った時、より大きな自分、より深い自我意識に宿る神の恩寵をどれほど味わうものであるか、それはあなた方には想像できません。

 これより私はその本来の自分に帰り、幾世紀にもわたる知己と交わり、私が永い間その存在を知りながら地上人類への奉仕のために喜んで犠牲にしてきた〝生命の実感〟を味わいます。

これまでに大切に仕舞ってきたものをこの機会に味わえることを私がうれしくないと言ったらウソになりましょう。ご存じのとおり、この機会は私にとって数あるフェスティバル(うれしい催し)の中でも最大のものであり、あらゆる民族、あらゆる国家、あらゆる分野の者が大河をなして集結して一堂に会し、それまでの仕事の進歩具合を報告し合います。

その雄大にして崇高な雰囲気はとても地上の言語では表現できません。人間がインスピレーションに触れて味わう最大級の感激も、そのフェスティバルで味わう私どもの実感に較べれば、まるで無意味な、ささいな出来ごとでしかありません。

 その中でも最大の感激は再びあのナザレのイエスにお会いできることです。キリスト教の説くイエスではありません。偽りに伝えられ、不当に崇められ、そして手の届かぬ神の座にまつり上げられたイエスではありません。

人類のためをのみ思う偉大な人間としてのイエスであり、その父、そしてわれわれの父でもある神のために献身する者すべてにその偉大さを分かち合うことを願っておられるイエスです」

 休憩に入る直前の交霊会では、シルバーバーチがサークルのメンバーにそれまでの成果を語って協力に感謝するのが常である。

 「あなた方と私たち霊団との愛の親密度が年とともに深まるにつれて私は、それがほかならぬ大霊の愛のたまものであると感謝していることを知っていただきたいと思います。すなわち大霊の許しがあったればこそ私はこうして地上の方々のために献身できるのであり、たった週に一度あなた方とお会いし、

それも、私の姿をお見せすることなく、ただこうして語る声としてのみ存在を認識していただいているに過ぎないにもかかわらず、私を信じ、人生のすべてを委ねるまでに私を敬愛して下さる方々の愛を一身に受けることができるのも、大霊のお力があればこそだからです。

そのあなた方からの愛と信頼を私はこの上なく誇りに思います。あなた方の心の中に湧き出る私への熱烈な情愛───私にはそれがひしひしと感じ取れます───を傷つけるようなことだけは絶対に口にすまい、絶対に行うまい、といつも誓っております。

 私たちのそうした努力が大きな実りを生んでいることが私はうれしいのです。私たちのささやかな仕事によって多くの同胞が真理の光を見出していることを知って私はうれしいのです。無知を打ち負かし迷信を退却せしめることができたことが私はうれしいのです。

真理が前進していること、そしてその先頭に立っているのがほかならぬ私たちであることがうれしいのです。絶え間なくしかけてきた大きな闘いにおいてあなた方が堅忍不抜の心を失わず挫折することがなかったことをうれしく思います。

役割を忠実に果たされ、あなた方に託された大きな信頼を裏切ることがなかったことをうれしく思います。私の使命があなた方の努力の中に反映して成就されていくのを謙虚な目で確かめているからこそ、私はあなた方のその献身をうれしく思うのです」


 このあと、いつもの慣例に従ってメンバーの一人ひとりに個人的なメッセージを送り、そのあとこう述べて別れを告げた。

 「さて、別れを惜しむ重苦しい気持ちの中にも、再びお会いできる日を心待ちにしつつ、私はみなさんのもとを去ります。これより私は気分一新のために霊的エネルギーの泉へと赴きます。高遠の世界からのインスピレーションを求めに赴きます。

そこで生命力を充満させてから再び一層の献身と、神の無限の恩寵の一層の顕現のために、この地上へ戻ってまいります。あなた方の情愛、今ひしひしと感じる私への餞(はなむけ)の気持ちをいただいて、私はこれより旅立ちます。そうして再び戻って来るその日を楽しみにいたしております。どうか常に希望と勇気を失わないでいただきたい。

冬の雪は絶望をもたらしますが、再び春がめぐってくれば大自然は装いを新たにしてほほ笑みかけてくれます。希望に胸をふくらませ、勇気を持って下さい。いかに暗い夜にも必ず登りゆく太陽の到来を告げる夜明けが訪れるものです。

 では、これにてお別れします。神は常にあなた方を祝福し、その無限の愛がふんだんにもたらされております。神の霊があなた方すべての人々の霊に行きわたり、日々の生活の中に誇らしく輝いております。

 これより地上の暗闇をあとにして高き世界の光明を迎えに参ります。そしてお別れに際しての私の言葉は、再び訪れる時の挨拶の言葉と同じです───神の祝福の多からんことを」


 こうして地上を去って霊界での大集会に列席したあと、再び戻ってきたシルバーバーチはこう述べた。

 「その会合において私はかつての私の栄光の幾つかを再び味わってまいりました。地上世界の改善と進歩のために奮闘している同志たち、人類の福祉のために必要な改革の促進に情熱を傾ける同志たちによる会議に私も参加を許されました。

これまでの成果がこと細かに検討され、どこまで成功しどの点において失敗しているかが明らかにされました。そこで新たに計画が立て直され、これから先の仕事───地上人類の進化の現段階において必要な真理を普及させる上で為さねばならない仕事のプログラムが組まれました。

 地上世界のために献身している大勢の人々───死によって博愛心を失うことのなかった人々ともお会いしました。そして、ちょっぴり私ごとを言わせていただけば───こんなことは滅多にないのですが───過去数か月間においてささやかながら私が成し遂げたことに対してお褒めの言葉を頂戴いたしました。

もとより私はお褒めにあずかる資格はないと思っております。私は単なる代弁者にすぎないからです。私を派遣した高級霊団のメッセージを代弁したにすぎず、それをあなた方が広めてくださったのです。

 ともあれ、こうして私たちの説く真理が人生に迷っている人々、心は重く悲しみに満ち、目に涙をためた大勢の人々に知識と慰めと激励をもたらしていることは確かです」

Wednesday, May 6, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

 The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄

第2部 本論




15章 “招霊”にまつわる様々な問題

訳注――本章は英語でEvocation(エボケーション)となっている。英和辞典を引いてみられると分かるが、語源的には霊にかぎらず記憶や感情などを呼び起こしたり呼び覚ましたりすることで、スピリチュアリズムでは霊を霊媒に乗り移らせて語らせる、いわゆる“招霊会”をさす。

が、そうした概念は人間側の受け止め方であって、霊側としては祈りなどに感応してその人の身辺に来る場合や生者の霊、つまりすでに再生している人間が幽体離脱して出現する場合も念頭にあるようである。カルデックは前置きで低級霊の場合と高級霊の場合とを区別して詳しく論じているが、煩雑すぎる嫌いがあるので割愛した。日本語では招喚・招請・招聘といった用語が居ながらにしてその違いを適確に表現してくれているので便利である。

この招霊ないし降霊の行事は世界でも日本が遥かに先輩格であると断言できる。大嘗祭などにも純粋な形で取り入れられている。もちろん世界各国で太古からあったが、西洋ではキリスト教が広まってからは忌み嫌われ、魔女狩りなどの原因ともなった。キリスト教には死者の霊は最後の審判の日まで墓地で眠っているという信仰があり、それを無理やり呼び起こしてはいけないとの信仰からで、キリスト教によるスピリチュアリズムへの弾圧はすべてそこから発したと言ってもよいほどである。

しかしその信仰が間違っていることが明らかになった今日では西洋でもよく行われるようになり、ウィックランドの『迷える霊との対話』に見られるような地縛霊の救済活動の一環として、霊界側の主導のもとに行われているものもある。

一方、安直に霊を呼び出してお告げを聞いたり自動書記などを受け取っているサークルが、日本でも西洋でもずいぶんあるようである。が、前にも述べたように、スピリチュアリズム活動の一環として霊団の守護と指揮のもとに行われているもの以外は極めて危険であることを、本章の一問一答からしっかり理解していただきたい。
一問一答


――霊は霊能者でなくても呼び出すことができますか。


「誰にでもできます。客観的に姿を見せることはできなくても、ちゃんと近くにいて、あなた方の要望を聞くことができます。」


――呼ばれたら必ず出るものなのですか。


「それはその時の霊の置かれている条件によって違ってきます。出たくても出られない事情もあります。」


――出られなくする事情はどんなものでしょうか。


「まず第一に本人に出る“意志”があるかどうかの問題があります。次に、すでに再生している場合であれば、その身体の状態(睡眠中か覚醒中か)が問題です。また、再生にそなえて待機している場合であれば、その使命がいかなるものであるかによります。さらには、通信が許されているのにそれが破棄される場合もあります。

現在の霊性の発達程度が地球レベルより低い場合は、通信したくてもできません。また贖罪界に身を置いている場合は、地上の人間にとって有益と見なされた場合にかぎって高級霊の援助を得て出ることが許されますが、通常は出られません。

要するに呼ばれて出るためにはその世界の霊的発達レベルに相応しい霊性を身につけた者でないといけません。そうしないと、たとえ出てもその世界に馴染みがなく、従って親和力によるつながりが取れません。

もっとも、例外として特殊な使命を帯びている者、あるいは高い霊性を有しながら大きな悪行を犯し、その贖罪のために一時的に下層界へ“追放”されている者が出ることを許されることがあります。その豊富な体験的知識が役に立つからです。」


――通信が許されていたのにそれが破棄されるとおっしゃいましたが、どういう理由によるのでしょうか。


「その霊自身もしくは呼び出そうとしている人間のどちらかへの試練ないしは懲罰です。」


――この広大な宇宙にあまねく散在する霊や他の天体上で生活している霊が、どうやってこの遠い地球からの呼び出しに応じられるのでしょうか。


「その霊をよく知っている親和性のある他の霊が前もって察知し、あなた方の意図を伝えます。が、その連絡はあなた方には説明できない霊界特有の方法で行われます。霊の思念による伝達は人間には理解できません。強いて言えば、招霊に際してあなた方が発する思念の衝撃波が、どんなに遠く離れていても一瞬の間にその霊に届き、それが電気ショックのように意識に伝わります。そこでその霊は注意をその方向へ向けます。地上では“話された言葉を聞く”わけですが、こちらでは“思念を聞く”とでも表現しておきましょうか。」


――地上では空気が音の媒体をしているわけですが、そちらでは普遍的流動体(エーテル)が思念の媒体をしていると考えてよろしいでしょうか。


「いいでしょう。ただ違うのは、音が伝わる距離には限界がありますが、思念には限界がない――無辺際だということです。招霊される霊というのは、言うなれば、広大な平原を旅している時に突如として呼び止められて、その声のする方向へ足を向けるようなものです。」


――霊にとって距離が問題でないことは知っております。ですが、招霊会で時おり驚くのは、呼び出すと同時に、あたかもあらかじめ呼ばれることを承知していてそこに待機していたかのように、間髪を入れず出現することです。


「招霊されることが予知されていた時にはそういうことがあります。前にも述べたように、霊によっては招霊されることをあらかじめ察知していて、正式に呼ばれた時にはすでにその場にいるということがよくあります。」


――呼び出す人間の思念は、事情にもよるでしょうけど、その霊に簡単に届くものでしょうか。


「もちろんです。両者の関係が霊的に親和性ないし好感度が高い場合はインパクトが強くなります。親しみ深い声のように響きます。そういうものがない時は“流産”することがあります。霊的摂理にのっとった形で行われた招霊の思念は見事にその霊に突きささりますが、ぞんざいに行われたものは宇宙空間に消滅してしまいます。皆さんでもそうでしょう? ぞんざいな、あるいは無礼な呼びかけられ方をされたら、声は聞こえていても、耳を傾ける気にはならないでしょう。」


――お呼びがかかった霊は自ら進んでそれに応じるのでしょうか。それとも仕方なく出てくるのでしょうか。


「高級霊は常に大霊の意志、つまり宇宙を支配する摂理に従います。ただ、“仕方なく”という言い方は適切ではありません。出るべきかどうかの判断を自ら下しますし、そこに自由意志があります。高級霊でも、自分が出ることに意義があると判断すれば必ず出ます。面白半分に呼ばれた時は絶対に出ません。」


――要請を拒否できるということでしょうか。


「当然です。もし拒否できないとしたら自由意志はどうなりますか。宇宙の全存在が人間の命令に従うべきだとでも思っていらっしゃるのですか。呼ばれる側の立場にご自分を置いてごらんなさい。名前を呼ばれたらいちいち出なければならないとしたらどうなります? 私が今、霊は要請を拒否できる、と申し上げたのは、人間側の勝手な要請のことであって、出るべきでありながら拒否するという意味ではありません。低級霊が招喚された時は、たとえ嫌がっても、高級霊が強制的に出させます。」


訳注――“強制的に出させる”といっても、その関係は高級霊と低級霊との関係だけで成立するものではなく、招霊会の司会者(さにわ)の霊格・霊力がカギとなる。

私は師の間部詮敦氏のもとでさまざまな霊の招霊に立ち会ったが、ワルの親玉みたいのが出た時は恐怖心を覚えたので今でも鮮明に覚えている。霊媒は浅野和三郎氏によって養成された宮地進三という方で、真夏のことなので間部氏は浴衣(ゆかた)姿であぐらをかいて、うちわで扇ぎながら気楽な態度で霊と語っておられた。が、いよいよそのワルが出た時は鬼気迫る雰囲気となった。そして開口一番こう言い放った――

「うーむ、お前には参った。とうとう負けたな。これまでは陰に隠れていて見つからなかったが、今度ばかりはやられた。ところで、まずは一杯酒をくれんか」

すると間部氏は姿勢を正して正座し、手を合わせて瞑目し、

「はい、どうぞ」と言うと、霊はさもうまそうにゴクゴクと飲む仕草をした。むろん本物の酒ではなく、意念でこしらえたものだった。そのあと二言三言交わしてから霊団側に引き渡された。

間部氏は昼間に霊査をして招霊する必要のある霊に目星をつけておき、夜中にそうした処置をしておられた。間部氏の霊力が強かったからこそ霊団側も威力が発揮できたのである。


――招霊会の司会者(さにわ)はどんな霊でも強引に呼び出すことができるのでしょうか。


「とんでもない。霊格の高い霊ないしは同等の霊に対してはそういう権限は許されません。が、霊格の低い霊に対しては許されます。ただし、招霊することがその霊にとって有益である場合に限られます。その場合には霊団による援助が得られるということです。」


――悪霊・邪霊の類いを呼び出すことは感心しないでしょうか。呼び出すことは彼らの影響下にさらす危険を冒すことになるのでしょうか。


「悪霊・邪霊の類いはただ威張り散らすだけですから、高級霊団の援助のもとに行うのであれば何一つ恐れることはありません。イザとなれば霊団の方で抑え込みます。彼らの餌食になる心配はありません。ただし、たった一人で行う時、あるいは出席者がいても初心者ばかりの時は、その種の招霊は控えた方がよろしい。」


――招霊会では何か特別の雰囲気をかもし出す必要がありますか。


「高級霊との対話を求める上で何よりも大切なのは、目的の真摯さと集中力です。そして高級霊を招聘する上で最も強力な力となるのは大霊への信仰心と善を志向する熱意です。招霊に先立っての数分間の祈りを通して魂を高揚し、高き界層の霊と感応し、交霊会へお出でいただくよう取り計らうのです。」


――信仰心は招霊のための不可欠の条件でしょうか。


「大霊への信仰心は必要です。が、真理探求と霊性の向上を志向する真摯なる願望があれば、それは自ずと信仰心を高めることになり、改めて信仰心を意識する必要はありません。」


――思念と動機において一致したサークルでは善霊を呼び寄せる力が増すものでしょうか。


「最高の成果が得られるのは、メンバー全員が慈悲心と善意によって結ばれている時です。人間側の思念と感情の乱れほど招霊を妨げるものはありません。」


――交霊会の初めに全員が手を結び合って輪をつくるのは効果的でしょうか。


「手を結び合うのは物理的行為であり、思念と感情においてつながっていなければ何にもなりません。それよりも大切なのは、お出でいただきたいと願っている高級霊にその願いを発信する上で、全員が思念と動機において一体となることです。人間的煩悩の一切から解放された真摯な求道者が、互いを思いやる心において一体となって忍耐強く努力する時、どれほど素晴らしい成果が得られるか、あなた方はご存じありません。」


――招霊会の日時はあらかじめ決めて表明しておいた方がよろしいでしょうか。


「その方がよろしい。そして、なるべく同じ部屋で催すことが望ましいです。霊が容易に、そして気持ち良く訪れることができます。出席者の真面目さと同時に志操の堅固さも、霊の訪れと交信を容易にします。霊にも仕事があるのです。不意に呼ばれて、人間の下らぬ好奇心のために仕事を放っておいて出てくるわけにはまいりません。

今、同じ部屋が望ましい、と言いましたが、それにこだわる必要はありません。霊はどこへでも行けます。私が言いたかったのは、招霊のために用意した一定の部屋の方が、集まるメンバーの意念の集中が得られやすいということです。」


――魔よけとかまじない札を用いる人がいますが、こうしたものに善霊を引き寄せたり悪霊を追い払ったりする力があるのでしょうか。


「今さらそのような質問をなさることもないでしょう。物には霊に対して何の影響力もないことくらい、ご存じのはずです。少し気の利いた霊ならそんな愚かなことは説きません。お守りの効用は信じやすいお人好しの想像の中にしか存在しません。」


ブラックウェル脚注――そうは言ってもお守りの力を信じるということが、霊に対してではなく当人の意念の集中力を助け、結果的には招霊の力を増すことになるとも考えられるのではなかろうか。


――霊によってはひどく陰湿な場所や、なぜこんな時刻にと思われる時刻を指定してくることがあるのですが、これはどう理解したらよろしいでしょうか。


「人間を困惑させて喜んでいるにすぎません。そういう注文に応じるのは無意味であると同時に、時には危険でさえあります。無意味というのは、担がれるだけで何も得るものがないこと。危険というのは、霊から何かをされるという意味ではなく、そういう理不尽な指定をされることによって、あなた方の脳に悪影響が及ぶからです。」


――霊を招くのに都合の良い日にちや時刻というのがあるのでしょうか。


「物質界の条件で霊にとって重要なことというものは何もありません。日にちや時刻に影響力があるかに考えるのは迷信です。最も都合のよい日時というのは招霊する側(司会者と出席者)に日常的な雑念がなく心身ともに平静な時です。」


――そもそも招霊というのは霊にとって有り難いことでしょうか、迷惑なことでしょうか。呼ばれると喜んで出てくるものでしょうか。


「それはその招霊会の性格と動機しだいです。気高い意義のある目的のためのもので、出席者やその場の波動に親和性を感ずれば、気持ちよく出てくるでしょう。霊の中にはそれを楽しみに待っている者もいるのです。というのも、死後、人間界から見捨てられた気分で悲嘆にくれている者が多いからです。

ですが、前にも述べたことですが、全ては本人の性格によります。人間嫌いもいます。そういう霊はたとえ出てきても不快をあらわにするでしょう。とくに見ず知らずの人間から呼ばれたら、まともには相手にしません。出なければならない理由がないからです。とくに好奇心から招霊された時は、たとえ出ても直ぐに帰るか、初めから出ないこともあります。自分が出ることに何か特別な意義でもあれば別ですが……」


――招霊されて喜ぶのは善霊と邪霊のどちらでしょうか。


「邪霊というのは人間を騙して操る目的で自分から出るもので、招霊されることは喜びません。悪行をとっちめられるのではないかと警戒するからです。ちょうどイタズラをした子供が隠れて出てこないように、呼ばれてもしらばっくれています。が、高級霊が折檻と向上と人間への教訓を目的として強制的に招喚することがあります。

下らぬ目的のための招霊会には高級霊は出たがりません。まったく出ないか、たとえ出ても直ぐさま引き上げます。皆さんでも同じと思いますが、遊び半分の好奇の対象とされることを嫌います。人間は、あの霊はどんな話をするだろうか、地上でどんな生活をしたのだろうかといった、余計なおせっかいと言いたくなるようなことを聞くために霊を呼び出そうとしますが、考えてもごらんなさい。まるで証人席に立たされて尋問されるような立場に置かれるのを快く思うでしょうか。少し目を醒ましていただかないと困ります。地上でされることが嫌なことは霊になっても嫌なものです。」


――霊は招かれないかぎり出ないものでしょうか。


「そんなことはありません。霊は呼ばれなくてもしばしば来ております。自らの意志でです。」


――自ら進んで出る場合は、その述べる身元も信じられるのでしょうか。


「とんでもない。邪霊はしばしばその手を使います。人間を騙しやすいからです。」


――霊を呼び出すのは思念で行うわけですが、自動書記とか霊言その他の現象はなくても来ているのでしょうか。


「現象は霊の実在の証しにすぎません。呼び寄せるのは思念です。」


――出てきたのが低級霊だと判明した時、引き下がってもらうにはどうすればよいでしょうか。


「取り合わないことです。ですが、そもそもそういう低級霊につけ入られるような愚かなことをしていながら、それに感応して出てきた霊がどうして簡単に引き下がりましょう? 人間界と同じで、魚心あれば水心です。」


――神の御名のもとに招霊すれば邪霊の出現は防げるでしょうか。


「全ての邪霊に通用するとはかぎりません。神の御名の響きでたじろぐ者はかなりいるでしょう。信仰心と誠意をもって唱えれば低級霊は逃げますし、それに強烈な信念が加わればさらに効果的でしょう。ただの紋切り型の呪文を唱えるだけではだめですが……」


――名前を呼ぶことによって複数の霊を同時に招霊できますか。


「別に難しいことではありません。またもし三人ないし四人の自動書記霊媒がいれば同時に三人ないし四人の霊からのメッセージが綴られるでしょう。数人の霊媒を用意しても同じことができます。」


――複数の霊を招霊し、霊媒は一人という場合、優先順位はどうなるでしょうか。


「霊媒との親和性がいちばん高い霊が代表して総合的な内容の通信を書きます。」


――逆に一人の霊が同時に二人の霊媒を通して自動書記通信を送ることができますか。


「地上でも複数の書記に同時に書き取らせることができるのと同じです。」


――一人の霊が複数の場所から同時に招霊された場合、同じ質問に同時に答えることができますか。


「できます。高級霊にかぎりますが……」


――その場合、霊は自分を分割するのでしょうか、それとも同時にどこにでも存在する能力があるのでしょうか。


「太陽は一つです。が、その光は全方向へ放射し、桁外れの距離まで届きます。霊も同じです。高級霊から発した想念は閃光のようなもので、一瞬のうちに全方向へ飛散し、どこにいても感得されます。霊性の純粋度が高ければ高いほど遠くまで届き、幅広く飛散します。低級霊は物質性が強いためにそうした能力はなく、一度に一人の質問にしか答えられません。別のところに招霊されている時は出られません。

なお、高級霊が同時に二つの場所から呼ばれた時、双方の霊媒の真摯さと熱意が同等であれば双方に出ますが、大きな差があれば、より真摯で熱意の強い方に出ます。」


――再生の必要がなくなった超高級霊でも出てくださいますか。


「出ます。しかし滅多にないものと思ってください。よほど純粋で真摯な心の持ち主としか語り合いません。高慢さや私利私欲が目立つような人間とは絶対に語り合いません。ですから、大変な高級界からやってきたかのような言説を軽々しく吐くような霊にはよくよく注意が肝要です。低級霊ですから。」


――歴史上の大変な著名人がいたって平凡な人間の招きに応じて簡単に、そして気さくに出てくるのはどう理解したらよいでしょうか。


「人間はとかく霊を人間的尺度で評価しがちですが、それは間違いです。地上時代の地位は肉体の死とともに消滅します。残るのは善性だけです。そして人間を見る尺度も、同じく霊的な善性のみです。善霊は善が行われる所ならどこへでも赴きます。」


――死後どれくらいたつと招霊できるのでしょうか。


「死の直後でもできないことはありません。ですが、霊的意識が混乱していますから、まともな対話はできないでしょう。」


――ということは死後しばらくしてからの方が良いということでしょうか。


「大体においてそうです。死の直後は眠りから覚めたばかりの人間に語りかけるようなものです。ですが、別に問題ないケースもあります。むしろ招霊して語りかけてやった方がその意識の混乱状態から脱け出るきっかけとなることもあります。」


――死ぬ前は自我意識さえ覚束なかったほどの幼な子が、招霊してみるとしっかりとした知性をそなえていることがあるのは、どうしてでしょうか。


「幼児の魂といっても魂そのものが幼いわけではなく、肉体という産着(うぶぎ)でくるまれているために幼く見えるだけです。死によってその束縛から放たれると、本来の霊としての能力を取り戻します。霊には年齢はありません。幼児の霊が大人のような知性で対話に応じることができるということは、その霊はかつて大人にまで成長した前世があるということを意味します。もっとも、死後しばらくは幼児としての個性をいくらか留めてはいるでしょう。」


編者注――死の直前までの状態が死後しばらく尾を引くのは、精神病患者にも見られる。霊そのものは異常ではないのであるが、正常な人間と同様に死んだことに気づかずに地上的波動の中で過ごしているので、精神が正常な働きを取り戻せないでいることがある。その反応は精神病の原因によってさまざまであるが、中には死の直後から完全な精神機能を取り戻す人もいる。


――動物の霊を呼び出すことができますか。


「動物を生かしめている知的原理は、死後“潜伏状態”とでもいうべき状態に入ります。が、それも一時期で、すぐに担当の霊団によって新たな存在の知的原理として活用されます。このように、動物の霊には人間のような、次の再生までの反省期間はありません。これでご質問の答えになると思います。」


――すると動物を呼び出して対話をしたという話はどうなるのでしょうか。


「岩の霊でも呼び出してみられるがよろしい。ちゃんと対話をしてくれます。が、それは岩の霊ではありません。いたずら霊です。霊はそこらじゅうにウヨウヨしているのですから、すぐに出て誰の真似でも何の真似でもします。」


編者注――同じ理由から、神話上の人物や架空の人物が出てしゃべったというのも、いたずら霊の仕業のようである。


――霊が再生してしまうことは招霊にとって致命的障害ですか。


「そんなことはありません。しかし、招霊された時の肉体が霊にとって離脱しやすい状態であることが必要です。再生した天体が進化しているほど離脱しやすいです。進化するほど物質性が希薄になるからです。」


訳注――私の師の間部詮敦氏の実兄の詮信(あきのぶ)氏は霊能の多彩さでは詮敦氏を凌ぐものがあり、日常茶飯事に使っておられた。その詮信氏が育てた物理霊媒の津田江山氏の実験会に出席した時、直接談話現象に「間部(まなべ)です」と言って出現して皆を驚かせた。書にも堪能だった詮信氏は用意しておいた三枚の色紙に真っ暗闇の中で見事な文字を直接書記で揮毫されたが、後でお会いした時に「あの時はどちらにおられたのですか」とお尋ねしたら、福岡の自宅で寝ていたとおっしゃった。幽体離脱して出られたのだった。


――この地上で今生活している人間の霊でも招霊できますか。


「できます。今も述べた通り、他の天体上で生活している霊を招霊できるのと同じです。招霊でなくて幽体離脱して物質化して姿を見せることもできます。」(七章および八章参照)


――招霊されている時の肉体の状態はどうなっているのでしょうか。


「眠っているか、うたた寝をしています。そういう時は霊が自由に活動しやすいのです。」


――霊が留守にしている間に肉体が目を覚ますことができますか。


「できません。もし何らかの事情で起きる必要が生じた時は、霊は強制的に戻らされます。地上生活中は肉体が“我が家”なのですから。それが招霊されて対話中であれば、理由を述べて対話を中断するでしょう。」


――肉体から離れていて、どうやって戻る必要性を知るのでしょう?


「離れているといっても完全に分離しているわけではありません。どんなに遠くへ出かけていても流動性の紐(玉の緒)でつながっていて、それが戻る必要が生じたことを知らせます。この紐は死の瞬間まで切れることはありません。」


編者注――この流動性の紐は霊視能力のある人にも見える。霊の話によると睡眠中などに霊界を訪れる霊にはこの紐がついているので、それが霊界の霊と区別する目印になるという。


――睡眠中ないし霊の留守中に肉体が致命傷を受けた場合はどうなりますか。


「そうなる前に知らせを受け、即座に肉体に戻ります。」


――では、霊の留守中に肉体が死亡し、霊が戻ってみたら“我が家”に入れなくなっていたというような事態は起きないということでしょうか。


「絶対に起きません。もしそんなことが起き得るとしたら、霊と肉体との合体を支配する摂理に反することになります。」


――でも、まったく予期せぬことが突如として起きることも考えられませんか。


「危険が差し迫っている時は、そうならないうちに霊に警告があります。」


訳注――現実問題として睡眠中に地震などで死亡することがあるのであるから、そういう問題よりも、ここでは“霊と肉体との合体を支配する摂理”について、もう少し突っ込んでほしかったところである。カルデックの質問の主旨はよく分かるが、回答している霊は別の捉え方をしているように思えてならない。


――生者の霊と死者の霊とでは、対話をする上で全く同じですか。


「いえ、肉体につながっている以上、大なり小なり物的波動の影響を受けます。」


――呼び出した時点ですでに肉体から離れている時は何か不都合がありますか。


「ないことはありません。たとえば赴いている先から帰りたくない時が考えられます。まして、招霊会の司会者が全く見ず知らずの人間である場合はとくにそうでしょう。」


――普通の覚醒状態で生活している人間の霊を招霊するのは絶対に不可能でしょうか。


「難しいですが、絶対に不可能というわけではありません。というのは、招霊の波動が届いて霊が反応すると、急に眠くなって寝入る人がいます。が、基本的には霊が出て対話をする時は、その肉体にとって霊の知的活動が必要でない時にかぎられます。」


――睡眠中に招霊された時、目覚めてからその間のことを思い出しますか。


「ほとんどの場合、思い出しません。実を言うとあなた方も、ご自分では記憶にないでしょうが、何度か招霊されているのですよ。が、その記憶は霊の意識に残っているだけです。時には夢のようにおぼろげに意識にのぼることもあるでしょうけど……」


――誰が招霊するのでしょうか。私のような無名の人間を……。


「幾つかある前世では結構名の知れた人物だったかも知れませんよ。ということはこの地上ないしは別の天体上で、あなたには記憶はなくても、あなたを知っている人が大勢いるわけです。そういう人が招霊するのです。たとえば前世であなたがこの地上かどこかの天体上にいる誰かの父親だったとします。その人物が今のあなたを呼び出した場合、出て行くのはあなたの霊であり、その霊が対話をするわけです。」


――生者の霊が招霊された時、霊として対応するのでしょうか、それとも通常の意識で対応するのでしょうか。


「それは霊性の進化の程度が問題です。ですが、どっちみち通常意識の状態よりは判断力は明晰で地上的偏見による影響は少ないでしょう。というのは、招霊されている時は夢遊病(セミトランス)的状態に似ており、死者の霊と大差はないからです。」


――セミ・トランスの状態で招霊された場合は通常の状態で招霊された時よりも判断力は明晰でしょうか。


「遥かに明晰でしょう。通常よりは物質による束縛が少ないからです。そうした違いは全て霊が物的身体からどの程度独立しているかに掛かっています。」


――セミ・トランスの状態にある霊が招霊されている時に、遠距離にいる別の人から招霊された場合はそれに応じられますか。


「二つの場所で同時に交信する能力は、物的波動から完全に脱した霊しか持ち合わせません。」


――妊娠中の胎児の霊の招霊は可能でしょうか。


「不可能です。妊娠期間中の霊は意識が混濁していて、対話はできません。」


編者注――霊は受胎の瞬間から活動を開始するが、意識は混濁している。その混濁は誕生が近づくにつれて増幅し、自意識を完全に失った状態で誕生する。


――招霊された霊に代わっていたずら霊が出現することは有り得ますか。


「有り得るどころではありません。しょっちゅうやっています。とくに興味本位でやっている招霊会ではほとんどがそうだと思ってよろしい。」


――生者の霊を招霊することに何か危険がありますか。


「危険が全くないとは言えませんが、問題があるとすれば体調です。何か病気があれば招霊によって悪化する恐れがあります。」


――絶対にいけないことといえば、どういうことでしょうか。


「幼児、少年少女、重病人、虚弱体質の人、老人――要するに体力の弱い人は絶対に招霊してはいけません。」


――ということは、招霊中の霊の活動が身体を疲れさせるのでしょうか。(この質問に対して、実際に招霊された霊がこう述べた。)


「私の霊はまるで柱につながれたバルーンのようです。身体が柱で、バルーンにぐいぐい引っぱられて揺すられます。」


――生者を不用意に招霊することが危険であるとなると、死者の霊のつもりで呼び出したら、すでに再生していたという場合も害を及ぼすことになりませんか。


「いえ、その場合は条件が異なります。そういう場合の霊は招霊に対応できる者にかぎられます。それに、すでに忠告したはずですが、招霊会を催す時は、あらかじめ霊団側にお伺いを立てないといけません。」


――眠くなるはずもない時に急に睡魔におそわれた時は招霊されていることも有り得るわけですか。


「理屈の上ではそういうケースも十分に考えられます。が、実際問題としては純粋に身体上の反応に過ぎないことがほとんどでしょう。つまり身体が休息を求めているか、もしくは霊が自由を求めているかのどちらかです。」


――遠く離れた二人の人間がお互いに招霊し合い、想念を交換し合うという形での交信も可能なのでしょうか。


「まさに可能です。そうした、言うなれば“人間電信”が当たり前の通信法となる日が必ず来ます。」


――現在ではできませんか。


「できないわけではありませんが、ごく限られた人だけです。地上の人間が身体から自由自在に離脱できるようになるには、霊性が純粋でなければなりません。霊性が高度な発達を遂げるまでは、そうした芸当は一握りの、純粋で物質臭を克服した魂にしかできないでしょう。そうした魂は現段階の地上では滅多にお目に掛かれません。」

シルバーバーチの霊訓(五)

 More Teachings of Silver Birch 

 Edited by A.W. Austen


五章 迷いの過去から悟りの未来へ

 スピリチュアリズムの前途には大きな仕事が待ち受けている。霊的交信の目的はただ単に地上の人間に慰めをもたらすことではない。

ある日の交霊会でシルバーバーチは〝生命の法則について精神的側面、道徳的側面、物的側面、ならびに霊的側面から理解を深めるように指導し、身体的に不健全な人が少なくなると同時に霊的に未熟な人も少なくしていくことが我々の使命の一端です〟と述べて、スピリチュアリズムの目指すべき方向を暗示した。それを別の日の交霊会で次のように敷衍(ふえん)した。

 「私どもは自己中心主義、物質万能主義、無知、暗黒等々、人生の楽しさ、明るさ、安らぎを奪う勢力のすべてを一掃すべく努力しております。地上のため───それだけを望んでおります。それなのに、つまり地上のためになることをのみ望み、何一つ邪なものを持ち合わせず、人間性の中に下品なもの、あるいは低俗なものには決して訴えることがないのに、なぜ人間は私たち霊の働きかけを毛嫌いするのでしょうか。

 より次元の高い真理、より深い悟りの道をお教えしようとしているのです。人生の基盤とすべき霊的原理を理解していただこうと努力しているのです。人間の内部に宿る霊的可能性を認識し、真の自我とその内奥に存在する神性を見出していただきたいと願っているのです。

私たちは人間の理性───人間として最高の判断力に訴えております。一段と次元の高い生命の世界を支配する摂理をお教えし、宇宙の物的側面だけで無く、もっと大きな部分を占めているところの永遠不滅の霊的側面を理解していただこうと願っているのです。

 私たちの努力目標は人類が幻を追い求め影を崇めることのないように、霊的真理の実在を得心させることによって人生観を誤った信仰でなく確実な知識の上に確立し、大自然の法則に基づいた本当の宗教心を持ち、たとえ逆境の嵐が吹き荒れ、環境が酷しく、いずこに向かうべきかが分らなくなった時でも〝事実〟に裏打ちされた信仰心によってあらゆる試練、あらゆる苦難に耐えていけるようにしてあげることです。私たちの使命は霊的使命なのです。

人間が内奥に神すなわち実在の生命を宿していることをお教えし、従って人間は動物ではなく一人ひとりが神であることを自覚し、同じ神性が宇宙の他のすべての生命にも宿っていることを知っていただくことを使命としているのです。

 その認識が行きわたれば地上は一変します。理解が広まるにつれて新しい光が射し込み、永遠の大機構の中での人間の位置を悟ることになります。私たちが訴えるのはややこしい神学ではありません。時代遅れの教説ではありません。

素朴な理性───あらゆる真理、あらゆる知識、あらゆる叡知の真偽を判断する手段に訴えております。

もしも私の述べることにあなた方の知性を侮辱し理性を反撥させるようなものがあれば、それを無理して受け入れることは要求しません。最高の判断基準に訴えることによって人間が真の自分を見出し、真の自分を見出すことによって神を見出してくださることを望んでいるのです。

 真理は決して傷つけられることはありません。決して破壊されることはありません。後退させられることはあります。抑えつけられることもあります。しかし永久に埋もれてしまうことはありません。

真なるものが損なわれることはあり得ません。嘘言を持っていかに深くいかに固く埋め尽くされても、いつかは必ず表に出てきます。真理を永遠に抑えつけることはできません。

いま私たちが旗印としている真理は地上にとって重大な役割を担っております。人間というものは煩悶の時代になると永いあいだしがみついていた教説を改めて検討し、それが果たして苦難と困難のときに慰めとなり力となってくれるであろうかと思いはじめるものです。

 霊的実在についての真理を片隅に押しやることはできません。人間がひとりの例外もなく神の子であり成就すべき霊的宿命を背負った存在であるとの証は、宇宙における人類の本当の位置を認識し無限にして永遠の創造の大業の一翼を担う上で絶対必要なことです。

私たちの存在自体を疑う人がいることでしょう。存在は認めても影響力を疑う人がいることでしょう。もとより私たちは万能を主張するつもりはありません。私たちも常に数々の限界とさまざまな制約に直面していることは、これまでたびたび述べてきたことです。しかし私たちがあなた方を援助することができるという事実に疑う余地はないでしょう。

 私たちには霊力というパワーがあります。これは宇宙の全生命を生み、それに形態を与えている力です。正しい環境と条件さえ整えてくれれば、私たちはそのパワーを活用してあなた方を導き、保護し、援助することができます。

それも決してあなた方だけという限られた目標のためでなく、あなた方を通じて顕現した霊力がさらに他の人へも波及して、その人たちも霊的なパワーを感得できるようになるのです。

前途に横たわる道は決して容易ではありません。しかし協調精神をもって臨み、平和的解決を希求し、慈悲心に裏打ちされた公正を求め、憎しみと復讐心に根ざした観念を完全に排除して臨めば、明るい未来をすぐ近くまで招来することができることでしょう」

 これは一九三九年に第二次大戦が勃発して間もない頃の交霊会での霊言で、最後の部分はその大戦のことを指している(本書の出版は一九四一年──訳者)

 さらにメンバーからの質問を受けてこう語っている。

 「物質の世界に生きておられるあなた方は実在から切り離されております。あなた方自身にとって、そのことを理解することが難しいことは私もよく承知しております。なぜならば、あなた方なりに何もかもが実感があり実質があり永遠性があるように思えるからです。

ご自分を表現しておられるその身体、地上と言う大地、住んでおられる住居、口にされる食べ物───どれをとってもこれこそが実在であると思いたくなります。でも、それはことごとく〝影〟であり〝光〟でないことを申し上げねばなりません。

あなた方は五感に感応しない世界を想像することができません。従ってその想像を超えた世界における活動と生活ぶりを理解することができないのは当然です」


 そうした地上とはまったく異なる世界についての知識を得ているサークルのメンバーの一人に〝その知識はあなたにどういう変革をもたらしましたか〟とシルバーバーチの方から質問したことがあった。それを全部聞き終わったあとこう語った。

 「こうしてお聞きしてみますと、あなた方ひとにぎりの方たちにあっても、わずか二、三年間の霊力との接触によっていかに大きな変革がもたらされたかが分ります。となれば、これを世界中に普及させることによってその数を百万倍にもすることができるということです。

それは無知を一掃し、暗闇の中で進むべき道を見失った人々に灯を与え、全宇宙の背後に存在する大目的を教えてあげることによって達成されることでしょう。
℘71
 人類がいかに永いあいだ道を見失なってきたかご存知でしょうか。人類を先導すべき人たち、霊的指導者であるべき人たちみずからが盲目だったのです。玉石混交の信仰を持って事足れりとしてきました。宗教的体系をこしらえ、その上に教義とドグマで上部構造を築きました。

儀式と祭礼を発明しました。教会(チャーチ)(キリスト教)、寺院(テンプル)(仏教)、礼拝堂(シナゴーグ)(ユダヤ教)、モスク(イスラム教の礼拝堂)等々を建造しました。神とその子等との間に仕切りを設けたのです。それぞれに経典をこしらえ、わが宗教の経典こそ本物で宇宙の真理のすべてを包蔵していると主張し合いました。

かんかんがくがく、宗教家としての第一の心掛けであるべき愛の心を忘れ、その上なお情けないことに、憎悪と敵意を持って論争を繰り返してきました。

 予言者、霊覚者、哲人、聖者の類をすべて追い払いました。真の〝師〟たるべき人々を次々と迫害していきました。神の声の通路であるべき人々の口を塞いでしまいました。腐敗した組織にはもはや神の生きた声が聞かれる場がなくなってしまいました。

開かれたビジョンを閉ざし、すべての権力を聖職者に帰属させ、神へ近づける力は自分たち以外にはないことにしてしまいました。聖職者の中にも高徳の人物は数多くいました。ただ、惜しむらくは、その人たちも(そうした環境の影響のために)宗教の唯一の礎石(いしずえ)であり人類にその本領を発揮せしめる原動力である霊力の働きかけに無感覚となっておりました。
℘72
 人類の歴史において大きな革命を生んできたのは全て霊の力です。素朴な男性または女性が霊感に鼓舞されて素朴なメッセージを威信を持って語り、それを素朴な平凡人がよろこんで聞いたのです。今その霊力が、かつてと同じ〝しるしと奇跡〟を伴って再び顕現しております。

目の見えなかった人に光が戻り、耳の聞こえなかった人が聴覚を取り戻し、病の人が健康を回復しております。邪霊を払い、憑依霊を取り除き、肉親を失った人たちに慰めをもたらしております。

 多くの魂が目を覚まし、霊の大軍が存分にその威力を見せることが出来るようになりました。〝死〟の恐怖を取り除き、〝愛〟が死後もなお続きその望みを成就している事実を示すことができるようになりました。インスピレーションは(イエスの時代に限らず)今なお届けられるものであること、人間の心は(他界した時点のままでなく)死後も改めていくことが出来ること、(宗教的束縛から)

精神を解放することが可能であること、自己改革への道が(宗教的教義に関係なく)開かれていること、(宗教的活動から離れたところにも)自分を役立てる機会はいくらでもあること、霊力に鼓舞されて報酬を求めずこの世的な富への欲望を持たずに〝よい知らせ〟を教えてあげたい一心で、すべての人に分け隔てなく近づく用意の出来た魂が存在している事実を立証しております。

℘73
 これほどまで美しい話、これほどまで分り易い話、人生の本質をこれほど簡明に説き明かしてくれる話に耳を傾けようとしない人が多いのは一体なぜでしょうか。光明を手にすることができるのに一体なぜ多くの人が暗黒への道を好むのでしょうか。なぜ自由よりも束縛を好むのでしょうか。

 しかし、われわれはあなた方が想像される以上に大きな進歩を遂げております。難攻不落と思えた古い壁───迷信、既成権力、ご生大事にされている教義、仰々しい儀式を堅固に守り続けてきた壁が音を立てて崩れつつあります。急速に崩壊しつつあります。

一方では多くの魂が霊的真理に感動し、精神に光が射しこみ、心が受容性を増し、よろこんで私たちの教説に耳を傾けてくれております。過去数年間の進歩ぶりを見れば、われわれの勝利はすでにゴールが目に見えていると宣言してもよい時機が到来したと言えます。

その確信を私は語気を強く宣言します。もはや絶望の戦いではなくなりました。私たちが自己中心の物質第一主義に根ざした古い時代は終わった、新しい時代が誕生している、と述べる時、それは有るがままの事実を述べているのです。

 かつて地上において苦難と犠牲の生涯を送った人々、強者と権力者によって蔑まれる真理を護るためにすべてを犠牲にした人々───その人たちがいま霊界から見下ろし、霊的大軍の前進ぶりを見て勝利を確信しております。
℘74
むろんこれは比喩的に述べたまでです。銃を手にした兵士がいるわけではありません。われわれの弾薬は霊力であり、兵器は理性と良識です。私たちは常に人間の知性に訴えます。もっとも、時としてその知性が無知と迷信と依怙地な強情の下敷きとなってしまっているために、果たして(普遍的判断基準であるべき)知性が存在するのだろうかと迷うこともあるでしょう。

しかし、よく目を見開いて自分でそのしるしを求めることです。あなた方にはその判断力があり、囚われなきビジョンを手にする能力をお持ちです。その力で、暗闇を突き通す光を見届けて下さい。

 われわれはもはや軽蔑の対象とされた曽ての少数派ではありません。片隅で小さくなっていた内気な小集団ではありません。科学的立証を得て、やはり真実だったと確信した堂々たる大軍であり、恥じることない社会的位置を獲得し、霊的事実の福音を誇りを持って説いております。

霊的なことを口にしたからといって軽蔑されることはもうありません。それは過去の無知な人間がしたことです。今はそれを知っていることで尊敬される時代です」

 訳者注───モーゼスの『霊訓』によると、かの 〝十戒〟を授かったモーゼが従えていた七十人の長老はみな霊格の高い人物だったという。これは世界に共通した事実であって、古代においては霊感が鋭くかつ霊的なことに理解のある者が要職につき、いわゆる祭政一致が当然のこととされた。
℘75
 それが物質科学の発達と共に意識の焦点が五感へと移行し、物的なものさしで測れないものが否定されていった。ところが皮肉なことに、その物質科学みずからが物質の本質は常識的に受け止めてきたものとは違ってただのバイブレーションに過ぎないことを突き止めたのと時を同じくして、再び霊的なものへと関心が高まりつつある。

 シルバーバーチはそうした潮流の背後には霊界からの地球的規模の働きかけがあることを指摘している。オーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻〝天界の大軍〟篇はそれを具体的に叙述して、その総指揮官がキリストであると述べている。シルバーバーチ霊団も、イムペレーター霊団もその大軍に属し、最前線で活躍していたことになる。

Tuesday, May 5, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

 The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄

第2部 本論



14章 霊の身元と霊格の問題

一、生前の身元の証明はどこまで可能か

スピリチュアリズムの難問の中でも霊の地上時代の身元ほど異論の多い問題はない。その原因は、問題の性質上、確実な証拠とすべきものが霊側から提供できないということ、そしてまた、時として適当な氏名を名乗る霊がいるということである。

そうした理由から、霊の身元の確認は憑依現象に次いで、スピリチュアリズムの現象面における難題の一つである。もっとも、身元が絶対に間違いないか否かは二次的な意味しかなく、実質的な価値はほとんど無いということを念頭に置いておく必要がある。とくに高級霊になると尚さらである。なぜか。

霊は、霊性が純化されてそれ相応の界層へと進化向上して行くにつれて、本来の個性は変わらないが、言うなれば霊的資質の完成度の均一性において、互いに融合していく。我々が“高級霊”と呼んでいる段階がそうであるが、さらに進化した“純白霊”になると尚さらで、その段階にまで至った霊について、それまでに数知れず体験したであろう物的生活(地球以外の天体上の生活も含めて)の一つに過ぎない地上時代の姓名などを詮索しても意味はないであろう。

さらに留意すべきことは、霊はその霊性の親和性によって互いに引き合い引かれ合って一つの大きな霊的集団ないしは霊的家族(類魂団)を構成する。そうなると、我々人間との交信において、我々が知っていると思われる名前をその同族の中の誰かから借用して間に合わせることをする。

と言うのも、無数にいる同族霊の中には人類の歴史にその名を残している者よりも、まったく知られていない者の方が遥かに多い。その“無名”の高級霊が人間と交信をして高等なメッセージを送る時に氏名を述べる必要が生じたとしよう。その時まったく知られていない氏名を名乗っても意味がない。そこでそのメッセージの内容に相応しい名前を選んで使用するのである。

従って、かりに誰かの守護霊が“聖ペテロ”と名乗っても、それは必ずしもキリストの使徒だったあのペテロであるとは限らないのである。もしかしたら人類には全く知られていない人物で、今はあのペテロが属している霊団の一人なのかも知れないのである。

その場合、こちらから何という名で呼び出してもその霊が出てくるであろう。と言うのは、霊との交信はあくまでも“思念”で行われるので、ペテロと呼ばれようがパウロと呼ばれようが、その霊が出てくる。すでに交信状態ができ上がっているからである。それゆえ高等な通信に関するかぎり、その通信霊が地上時代に誰であったかは意味がないのである。

それが地上を去ってあまり年月が経っていない霊、つまり地上感覚から脱け切っていなくて記憶も習性もあまり変化していない霊となると、警戒すべきことが二つある。

一つは、そういう霊が歴史上の大人物や神話・伝説上の神仏の名を騙(かた)る場合、もう一つは、肉親や友人・知人の声色や話振りを真似て、人間を喜ばせたり感激させたりして面白がるケースである。

そうしたケースでその霊の身元を確認する方法の一つは、「神に誓ってそのお名前に偽りはございませんね?」と尋ねてみることである。中には平然と振る舞う曲者もいるが、大抵はすぐに怒り出すか、自動書記であれば用紙を破ったりエンピツを放り投げたりする。また平然とした態度を装う者に対しては、その述べるところに矛盾撞着がないかを見極めて、その点を突っ込んでいくことである。たとえば――

ある自動書記でいきなり「私は神(ゴッド)である」と名乗ってきたことがあった。霊媒は嬉しくて、一も二もなく信じた。そこでその霊を霊言霊媒を使って招霊して、さきほど述べたように

「神に誓って神様であることに偽りはございませんね?」と尋ねたところ、少し動揺した様子を見せ、

「神様であるとは言っておらぬ。神の子である」と言い出した。そこで、

「では、イエス様でいらっしゃるわけですか。神に誓ってイエス・キリストであることに偽りはございませんね?」と聞き返すと、さすがに畏れ多いと思ったのか、

「イエスであるとは言っておらぬ。神の息子だと言っているまでである。なんとなれば神に創造されたものだからである」と、わけの分からぬことを言ってきた。

低級霊の集団には、世界各地の交霊会に出没しては、出席者と縁故のある霊の声色を使ったり話し方を真似て、感激的な再会の場面を演出することを得意とする者がいる。その場合、名前や住所、家族名などを確かめても何にもならない。その程度の情報なら低級霊にも簡単に入手できるからである。

また証拠などが得られない高級霊の場合の身元の判断の材料は、名乗って出てくる名前や歴史上の史実ではなく、“言っていること”そのものの内容である。
二、霊格の程度と正邪の見分け方


霊の身元の証明は多くの場合、とくに高級霊の場合は二次的な問題でほとんど意味がないとしても、その霊が善霊か邪霊か、高級か低級かの判断はきわめて重大な問題である。というのは、その述べるところが一体何という名の霊からのものであるかは、事情によってはどうでもよいことであるが、その内容つまり何を述べているかということは、それを送ってくる霊の信頼度を計る唯一の手掛かりとなるからである。

今も述べたように、通信霊がいかなる霊格の持ち主であるかは、人間の人格を推し量る時と同じように、その言っていることによって判断しなくてはならない。かりに見知らぬ人々から二十通の手紙が届いたとしよう。その一通一通について文体と内容その他、こまごまとした特徴から、どの程度の人物からのものであるかは大よその見当がつくはずである。

霊からの通信についても同じことが言える。一度も会ったことのない霊からメッセージを受け取ったら、その文体と内容から大よそどの程度の霊格の持ち主であるかの見当をつけるべきで、立派そうな名前のサインがしてあるからというだけで有頂天になってはいけない。霊格はその言葉に表れる――これは間違いない尺度であって、まず例外は有り得ないと思ってよい。

高級霊からのメッセージはただ内容が素晴らしいというだけではない。その文体が、素朴でありながら威厳に満ちている。低級霊になると、やたらに立派そうな派手な用語を用いながら、訴える力がこもっていない。

用心しなければならないのは、知性である。ふんだんに知識をひけらかしているからといって高級霊と思ってはならない。知性は必ずしも徳性ないし霊性の証明ではないのである。非常に霊性の高い霊でも哲学的には深いことを語らないことがあるし、博覧強記で、知らないものはないかに知識を披露しても、霊格の低いことがある。

そうしたことから推察できる事実として、通信霊が地上時代に著名な科学者だったからといって、その後もその分野でますます高度の知識を蓄えているとは限らないことである。霊性の発達が遅れているために相変わらず地上的波動から脱け切れず、地上時代に名声を博した理論をいつまでも後生大事にして、それが進歩の足枷となっていることに気がつかない。

もちろん全ての科学者がそうだと言うつもりはない。ただ、これまでにそうした霊を数多く招霊しており、地上時代の名声は必ずしも霊性の高さの証明とはならないことを指摘しておくまでである。

繰り返すが、霊的通信を受け取った時は、内容的に見て理性と常識に反するものはないか、文章や言葉に品位があるか、偉ぶったところや尊大な態度は見られないか、といった点を徹底的に検証しないといけない。そうした態度に出られて、もしも機嫌を損ねるようであったら、それは低級霊・未熟霊・邪霊の類いと思って差し支えない。高級霊ないし善霊は絶対に機嫌を損ねないどころか、むしろそうした態度を歓迎する。何一つ恐れる必要がないからである。
一問一答


――通信霊の優劣は何を手掛かりに判断すればよいのでしょうか。


「文章(自動書記の場合)ないし言葉づかい(霊言の場合)です。人間の場合と同じです。すでに述べたように、高級霊の述べることには矛盾撞着がなく、全体が善性で貫かれております。善への志向しか持ち合わせないからです。それが高級霊の思念と行為の目的なのです。

低級霊はいまだに地上的感覚に支配されています。その語るところに無知と不完全さがさらけ出されます。知識の崇高さと冷静な判断力、これが高級霊のみの属性です。」


――優れた科学的知識は霊格の高さの指標でしょうか。


「そうとは言い切れません。その霊が今も地上的波動の中で生きているとすれば、人間的な煩悩と偏見を留めているはずです。地上を去ってすぐにそうした煩悩を捨て去ることができると思いますか。とんでもありません。こちらへ来ても相変わらず高慢で嫉妬ぶかく、その波動が地上時代と同じように魂を覆っています。

低級霊というのは、ただ単に無知である者よりも、なまじ知性が発達した者の方が始末に負えないものです。その生半可な知性にずる賢さと高慢とが結合するからです。彼らは大威張りで、怪しむことを知らない人間や無知な人間を標的にして働きかけます。また働きかけを受けた人間もそれを躊躇することなく受け入れます。

無論そうした誤った論説は最終的には真理には勝てませんが、一時的には混乱を引き起こし、スピリチュアリズムの発展を阻害します。霊能者は無論のこと、スピリチュアリズムの普及に携わる人々は、その点をしっかりと認識して、真理と虚偽とを明確に選り分けるように努力すべきです。」


――通信霊の中には歴史上に名を留めている聖人や有名人の名を名乗る者が多いのですが、どう対処すべきでしょうか。


「歴史に名を残している聖人や大人物がいったい何人いるというのでしょう? 通信を送る高級霊の中で地上の人間にその名を知られている者の数はたかが知れています。知られていない霊の方が遥かに多いのです。地上時代の氏名を聞かれても名乗りたがらない者が多いのは、そのためです。ところが、人間はそれでは承知せず、しつこくせがみます。そこでやむを得ず適当な人物の名を使用することにもなるのです。」


――それは一種の“詐称”と見なされるのではありませんか。


「邪霊が騙す目的でそういうことをすれば詐称と言えるでしょう。ですが、高級霊がそういうことをすることは、同じ霊格を持つ霊団の中では許されていることなのです。思想上の同一性と責任の連帯意識があるからです。」


――そうなると、霊団の一人がたとえば“聖パウロ”だと名乗っても、あのキリストの使徒のパウロだとは限らないということですか。


「その通りです。自分の守護霊は聖パウロだと言われた人が何千何万といる事実を見れば分かるはずです。が、霊格がパウロと同じ程度であれば名前はどうでもいいではありませんか。ですが、あなた方はすぐに地上時代の名前を知りたがります。そこで霊の方では適当な名前を選んで、それを自分の“呼び名”にするのです。それはちょうど地上の家族が同じ姓のもとで呼び名をつけて区別にするのと同じです。時にはラファエルとかミカエルといった大天使の名をつけて、問題が生じない範囲で用いることもあります。

さらに言えば、霊格が高まれば高まるほど、その影響力の及ぶ範囲も広がります。そこで、一人の高級霊が地上の何百何千という人間の面倒を見ることもあります。地上には弁護士というのがいて何十人何百人という人の世俗的問題の処理に当たりますが、それと同じと思えばよろしい。霊的な側面から面倒を見るわけです。」


訳注――マイヤースの“類魂説”でいうと、類魂団の親に当たる“中心霊”がいて、それが幾つでも分霊を出して地上その他の天体に生みつけ、その一人一人を類魂の中の誰かに面倒を見させるという。中心霊が全体を統括しながら個々の人間にも守護霊を付けているようである。「一人の高級霊が地上の何百何千という人間の面倒を見る」というのは“統括している”という意味に取るべきであろう。


――通信霊が聖人の名を使うことが多いのはなぜでしょうか。


「通信を受け取る側の人間の信仰上の慣習に合わせて、最も感銘を与えやすい名を選びます。」


ブラックウェル脚注――聖人に列せられている名を使うのはカトリック系の国に多く、プロテスタントの国では歴史上に名を残した人物や科学界の著名人の名を用いる傾向がある。


――高級霊は招霊されると自ら出てくるのでしょうか、それとも代理の者を差し向けることもあるのでしょうか。


「出られる場合は自ら出ます。出られない場合は代理の者を送ります。」


――その代理の霊は高級霊の代理として申し分ないだけの資格を身につけているのでしょうか。


「高級霊が自分の代理として選ぶのですから、十分にその資格をそなえた者にきまっています。さらに言えば、霊格が高まるほど霊団内の思想に緊密度が増しますから、その中の誰が出ても大して変わりはないのです。

お聞きしていると、地上の歴史に名を残している人物でないとその通信に価値がないかに思っておられる節がありますね。どうやらあなた方は、自分たち地上の人間だけがこの宇宙の住民であるかのように思い込み、そこから先が見えないようですが、そんなことでは、まるで孤島で暮らしている原始人と同じで、その島が全世界であると思い込んでいるようなものです。」


――重大な内容の通信の場合であれば異論はありませんが、低級霊が道を誤らせるような内容の通信を送ってくる時に聖人の名を騙るのをなぜ高級霊は許すのでしょうか。


「別に許しているわけではありません。地上と同じで、そういう騙しの行為をした霊は罰せられます。それは確かです。そしてまた、その騙しの悪辣さに応じて罰が酷しくなることも確かです。

しかし一方、もしもあなた方が完全な人間であれば常に善霊に取り囲まれていることでしょうが、万が一騙された時は、それはあなた方がまだまだ不完全であることの証左であると受け取るべきでして、その場合の責任は人間側にもあることになります。

そういう事態が生じるのは、一つには天の配剤としての試練であり、また一つには真実と虚偽との見分けが必要であることを教えることによって啓発するためでもあります。それでも啓発されなかったら、それはあなた方の霊性が十分に進化していない証拠であり、まだまだ失敗による教訓を必要としていることを物語っています。」


――霊格はあまり高くなくても真理の普及と向上心に燃える霊を、通信法の練習の機会を与える目的で、本来の高級霊に代わって出させることはありますか。


「スピリチュアリズムの大計画に基づく交霊会では絶対にそのようなことはさせません。もともとそうした重大な交霊会に出現する高級霊は自らその難しい仕事を買って出るものだからです。中には霊格は高くても、たとえば自動書記であれば“書く”という練習も兼ねることがあり、霊媒の知識の不足もあって、最初のうちは通信内容が粗悪である場合が少なくありません。が、プライベートな内容の通信の場合を除いて、代理の者に書かせることはしません。」


訳注――本書の二十年後に出たモーゼスの『霊訓』では、レクターその他の複数の霊が最高指揮霊インペレーターの“書記”をつとめている。また、さらに五十年後に出現したシルバーバーチはインディアンをマウスピースとして使用している。時代とともに変遷しているようである。


――お粗末きわまる通信の中に時としてびっくりするような名文が出てくることがありますが、この不合理をどう理解すべきでしょうか。霊格の異なる複数の霊が入れ替わり立ち替わり書いたように見受けられるのですが……。


「低級霊ないしは無知な霊が大した内容もない文章を綴ることがあります。地上でもそうではないでしょうか。文筆家がみな立派な人ばかりとは限らないのと同じです。が、その程度の霊と高級霊とが共同で書くようなことはしません。高級霊からの通信には一貫して崇高さが窺われます。」


――霊が間違ったアドバイスをして、それがもとで人間が誤りを犯した場合、そこには必ず意図的な作為があるのでしょうか。


「そんなことはありません。善意に満ちた霊でも真理に無知なことがあり、真実と思い込んで間違ったアドバイスをすることがあります。ただし自分の誤りに気づくと、それからは用心して間違いない範囲に限るようにします。」


――間違った内容の通信を送ってくる場合、良からぬ意図に発しているのでしょうか。


「これもそうとは言い切れません。霊でもよく軽はずみなことを述べてしまうことがあるものです。誤解しているわけでもなく、これといった意図があるわけでもないのですが、明確に理解していないことをいかにも分かっているかのごとき態度でまくし立て、煙(けむ)に巻くことがあります。」


――霊が声色を使ったり話し方を真似たりすることができるとなると、姿を偽装することによって霊視能力者をごまかすこともできるのでしょうか。


「そういうことが時おりあります。しかし霊言や自動書記でごまかすよりも難しく、しかも高級霊による配慮で、その霊能者を戒める目的で特別に雇われた霊だけに許されることです。その場合、霊自身は高級霊に雇われていることには気づきません。また霊視能力者もそうした軽薄な低級霊が見えてもごまかされていることには気づきません。霊聴能力で話を聞き取り自動書記で綴るのと同じことです。いたずら霊はそうした霊媒能力を逆手に取って偽装した姿を見せるのですが、それが可能かどうかは霊能者自身の霊性の程度に掛かっています。」


――騙されないようにするには真面目な心掛けが肝心なのでしょうか、それとも、どんなに真面目な真理探求者でも騙されるものなのでしょうか。


「真面目であればあるほど騙されることが少ないということは言えます。しかし、いかなる人間にもどこかに弱点があり、それが邪霊につけ入らせることになります。本当は弱いくせに自分では強いと思っている人がいます。自惚れや偏見はないと思っている人でも、自分で気づいていないだけの人がいます。霊能者はそうした点を十分に反省せずに霊的な仕事に携わるために、そこがいたずら霊のつけ入るスキとなります。自惚れや偏見を煽ればいい気になって、思うツボにはまることを彼らは知っているのです。」


――なぜ神はそういう邪(よこしま)な下心をもつ霊が人間に通信を送ることを許すのでしょうか。


「いかに邪悪な霊からの通信にも教訓を垂れるという目的がもくろまれているのです。そこから教訓を引き出し、それを有益な体験としていくことです。正邪を区別し、それを鏡として自分を映して反省するために、ありとあらゆる程度と種類の通信に当たってみる必要があるのではないでしょうか。」


――霊は通信の中に邪な猜疑心を煽るようなことを含ませて、サークルを仲違いさせるようなこともできるのでしょうか。


「根性のひねくれた妬み深い霊は、地上の悪人がするのと同じあらゆる悪事を企むことができます。常に油断を怠らないようにする必要があります。

高級霊が人間に仕置きをする時は、慎重さと節度を弁えた上で行います。決して非難のつぶてを投げるようなことはしません。警告はしますが、そこに優しさがあります。仮に二人のメンバーが今は会わない方がいいと判断した時は、会えなくなるような事情を生じさせて会わないようにします。トラブルや不信を生じさせるような通信は、どんな立派な署名がしてあっても、邪霊の仕業と思って間違いありません。ですから、メンバーの中の誰かを揶揄(やゆ)するようなことを述べている時は用心しないといけません。そして自分自身を厳しく反省し、偏見のないように心掛けることを忘れてはなりません。

霊界通信に関するかぎり、知性と良心に悖(もと)ることのない、上品で寛大で合理的な内容のものだけを受け取ることです。」


――それほどまでに邪霊・悪霊がつけ入りやすいとなると、霊界通信はどれ一つとして安心して受け取れないことになりそうですが……。


「その通りです。だからこそ理性という判断力が与えられているのです。仮に一通の手紙を読んだ時、それが悪逆非道の人物からのものか、育ちの良い人物からのものか、教養があるかないかは、一読しただけで分かるはずです。霊からの通信も同じです。

遠く離れた古い友人から久しぶりに便りが届いたとしましょう。それが間違いなくその友人からものであることをどうやって確認しますか。筆跡と内容で、とおっしゃるかも知れません。が、筆跡を真似たりプライベートなことを覗き見する者はいくらでもいます。が、直観的判断で間違いなくあの友人だと確信させる何ものかがその文面にはあるはずです。霊界通信も同じです。」


――高級霊がその気になれば、邪霊が偽名を使うのを阻止できるのではないでしょうか。


「もちろんできます。が、邪悪性が強い者ほど、その執拗性も強く、しつこく抵抗して容易に止めようとしません。それに、こういうことも知っておいてください。高級霊はその判断力でもって、成り行きに任せる場合と全力をあげて守る場合とがあります。高級霊が全力で守護する場合はいかなる邪霊も無力です。」


――そういう差別をする動機は何でしょうか。


「差別ではありません。公正です。言うことを素直に聞いて向上を心掛ける霊能者にはそれに相応しいことをします。言わば高級霊のお気に入りであり、いろいろと援助します。口先だけ立派なことを言いながら実行の伴わない者には、高級霊はまず構いません。」


――高貴な人物の名を騙るという冒涜行為を神はなぜ許すのでしょうか。


「そういう質問をなさるのなら、なぜ地上にはウソつきや不敬を働く者がいるのかを質問なさるがよろしい。人間と同じく霊にも自由意志があるのです。そして神の公正は善行についても悪行についても、きちんと働きます。」


――そういう邪霊を(悪魔払いのような)儀式で追い払うことはできませんか。


「儀式はあくまでも形式的なものです。大霊を志向した真摯な思念の方が遥かに効果があります。」


――ある霊が、自分たちには誰にも真似のできない図形的な標章をこしらえることができると言い、それを用いることによって絶対的な確実性をもって高級であることを証明できると言うのですが、本当でしょうか。


「高級霊であることの標章は説くところの思想とその言葉の崇高性以外にはありません。図形的な標章ならどんな霊にでも似たものをつくることができます。低級霊が幾ら悪知恵を働かせても、その素性を隠すことはできません。幾らでもボロを見せているのですが、それでも騙される人間はよほど物を見分ける目がないとしか言いようがありません。」


――低級霊は高級霊の思想まで真似ることができるのではないでしょうか。


「できるといっても、それは映画のスクリーンに映る大自然の風景がまがいものであるのと同じ程度のものです。」


――注意して観察すれば化けの皮はすぐに剥がれるということでしょうか。


「そうですとも。騙される人間は自ら騙されることを許しているのです。低級霊が騙すのはそういう人間だけです。本物かニセ物かを見分けるには宝石商のような鑑識眼を持たないといけません。自分で見分けられない時は鑑定家のところへ持って行って見てもらうことです。」


――勿体ぶった言説に簡単に参ってしまう程度の人間、つまり思想よりも美辞麗句に弱い人間は、反対に崇高なものは陳腐で下らぬものと見誤りがちです。こうした人間は、霊どころか、人を見抜く目も持たないと思えるのですが、どうしたらよいでしょうか。


「その人が本当に謙虚であれば自分の無力さを自覚して、都合のいい判断は下さないはずです。高慢で、自分がいちばん賢いと思い込んでいる人間は、自らその自惚れを生み出す結果を招きます。

純心ではあるが教養に欠ける者と、知識と教養は豊富ではあるが自惚れの強い者とがいるものですが、案外前者の方が騙されることが少ないものです。邪霊は、その自惚れ屋の感情をくすぐることによって好きに操るのです。」


――霊能者の中には霊が接近してくる時の雰囲気で善霊か悪霊かの判断をする人が多いようですが、けいれんを伴った興奮状態やイライラといった不快な反応は、間違いなく、働きかけている霊の邪悪性の証拠とみてよろしいでしょうか。


「霊能者は働きかける霊の精神状態を敏感に察知します。霊が幸福感に満ちていれば霊能者も冷静で心も軽やかで穏やかです。不快感を抱いていれば霊能者もイライラしたり興奮したりします。そしてそのイライラは当然霊能者の神経組織にも悪影響を及ぼします。人間と同じです。心に何一つやましいところがなければ沈着冷静です。腹に一物ある人間は落ち着きがなく、とかく興奮しがちです。」