Tuesday, June 16, 2026

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva



四章 死ぬということはどういうことか

    死ぬということは霊が肉体から脱皮して姿を現す過程のことです。何一つ怖がる要素はありません。死は有難い解放者です。死は自由をもたらしてくれるのです。

 地上では赤ん坊が生まれると喜びます。ところが、いよいよ地上へ誕生しようとする時こちらでは泣いて別れを惜しむ霊が大勢いるのです。それと同じく、地上で誰かが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を出迎えて喜んでいる人たちがいます。

 死とは地上生活がその目的を果たし、霊がこれから始まる霊的生活が提供してくれる圧倒的な豊かさと美しさとを味わう用意が出来たことを意味します。少なくとも本来はそうあらねばならないのです。

 皆さんにも霊が宿っております。生命を与えている霊的本性です。肉体もお持ちですが、それもその霊によって生命を賦与されてはじめて存在しているのです。霊が最終的に引っ込めば───〝最終的に〟と申し上げるのは、一時的には毎晩のように肉体から引っ込み、朝になると戻ってくるからです──肉体に死が訪れます。生命活動が切れたからです。
 
 霊視能力者が見れば、霊体と肉体とをつないでいるコードが伸びて行きながら、ついにぷっつりと切れるのが分かります。その時に両者は永久に分離します。その分離の瞬間に死が発生します。そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても肉体を生き返らせることはできません。


(訳者注──近似死体験というのがあるが、これは医者が〝ご臨終です〟と宣告しても玉の緒がまだ切断していなかった場合である)

──臓器移植の技術的進歩によって新たな問題が生じております。医師たちは死者の心臓とか腎臓を取り出すために死の瞬間を待ちうけております。問題は〝果たして本当に死んだと言えるか──もう臓器を取り出してもよいか〟という点です。

 臓器移植についてはよく存じております。そして又、その動機が立派な場合があることも承知しております。しかし私としては人体のいかなる部分も他人に移植することに反対であると申し上げます。


──死者はある一定期間そっと安置しておいてあげる必要があると信じている人がいます。それと言うのも、最近では人体を使って実験をするために死体をかっさらうように実験室へ持っていくことがよくあるのです。こうしたことは魂ないし霊にとって害があるのでしょうか。

 それはその死者の霊が霊的事実についての知識があるかどうかによります。もし何の知識もなければ、一時的に害が生じる可能性があります。と言うのは、霊体と肉体とをつないでいるコードが完全に切れた後も、地上での長い間の関係によって相互依存の習性が残っているからです。

 その意味では一般的に言って埋葬または火葬迄に死後三日は間を置いた方がよいでしょう。それから後のことは、どうなさろうと構いません。死体を医学的な研究の材料として提供したければ、それも結構でしょう。そちらで判断なさるべきことです。

 ただ一言いわせていただけば、誰にも生まれるべき時があり死すべき時があります。もしも死すべき時が来ていれば、たとえ臓器移植によってもその肉体を地上へ永らえさせることは出来ません。


──飛行機事故で即死するケースがありますが、その場合は霊的にどういう影響があるのでしょうか。

 今申し上げたこととまったく同じです。霊的事実についての知識がある人は何の影響もありません。知識のない人はそのショックの影響があるのでしょう。が、いずれにせよ、時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。


──偶発事故による死があるとなると再生の事実を受け入れたくなります。

 偶発事故という用語は感心しません。私は因果律の働きしか知らないからです。偶発のように思えることも、ちゃんとした因果律の働きの結果なのです。再生の問題ですが、これは大変複雑な問題で、今ここで十分な説明をする余裕がありません。

(訳者注──原書をお持ちの方のために参考までに付言すれば、本章のここのところまでは Silver Birch Speaks <シルバーバーチは語る>というカセットテープに収められた特別交霊会での〝死〟にまつわる部分が引用されているが、ところどころでリーバ女史が修正している。

内容上は別に問題はないが、この最後の再生に関する部分はカセットのままの方が分かりやすいので、その通りに訳してある。なお他の章にも断片的に同じカセットから引用されているが、カセットをお持ちの方の便宜も考えて、それらをまとめて次の第十一巻で紹介する予定である)

     
 (質問者が代わる)

──私はテレビで The Making of Mankind <人類発達史>を見ておりますが、見ているうちに人類の霊魂の起源のことを考え始めました。その当初において人類の霊魂は何らかの動物の種から発生したのでしょうか。

 いいえ。


──ということは、動物界はわれわれ人類と別個の存在ということでしょうか。

 いいえ。

──では人類の霊魂はどこから発生したのでしょうか。

 何処からも発生しておりません。霊魂に起源はありません。


──これまでずっと私は、人類の霊魂は徐々に進化してきたものと思っておりました。

 そうではありません。進化してきたのは身体の方です。霊は大霊の一部であり、無始無終です。霊は無窮の過去から存在しています。それが人間の身体に宿った時に個別性を具えるのです。霊には始まりも終りもありません。

バイブルにも〝アブラハムが生まれる前から私は存在している〟というイエスの言葉があります(第八巻101頁参照)。霊は常に存在しているのです。霊は人間的形体に宿って初めて個別性を持つことになるのであり、霊ないし魂は常に存在していたのです。(P119参照)

 (質問者が代わる)

 ──霊魂の永遠性についてお伺いしたいことがあります。年輩の霊と若い霊という言い方をする人がいますが、霊が新たにこしらえられることがあるのでしょうか。私たちはどこから来たのでしょうか。すべての霊が再生されたものなのでしょうか。それとも大霊から新しい霊が産み出されてくるのでしょうか。

 霊はこしらえられるものではありません。過去も未来もなく常に存在しております。先ほど〝私はアブラハムが生まれる前から存在している〟というイエスの言葉を引用しました。霊としてはあなたも無始無終に存在しているのです。

霊を新たにこしらえなければならなかったことは一度もありません。無が有になる段階というものはこれまで一度もありません。

 生命の原動力、精髄、活力そのものである霊は、過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生まれるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も人間も、全てそうです。霊は存在の大原動力です。

 母胎に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体がしばらくの間地上で機能するわけです。

 しかし霊は様々な側面を持つことができます。その幾つかが地上に再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることはあり得ます。その意味では〝年輩の霊〟〝若い霊〟と呼べる霊は存在します。しかし〝新しい霊〟というものはこしらえられません。地上での自我の表現機関として新しい身体が提供されるだけです。

 胎児が無事に宿り地上生活のための身体が用意されると、霊は個別的存在として地上へ誕生してきます。霊そのものは別に新しいものではありません。個的形態を具えたというだけです。一個の人物となったというだけです。その男性また女性が成長してやがて地上を離れると、大きい自我の一側面として新しい要素を加えることになります。


──各自に生まれるべき時があれば、同じく死ぬべき時もあることになりますが、帝王切開で生まれた場合はどうなるのでしょうか。決っていた誕生の日時を変えることになりませんか。

 「それは地上へ生まれ出る日時を変えるだけです。母胎に宿って個としての表現を開始した日時を変えることにはなりません。また地上的生命に自ら終止符を打つ自由も与えられておりますが、その時はその時で自動的に報いがあります。


──出産を医師が人為的に早めたりすることがあります。するとその子は定められた時期より早く生まれることになりますが、これは占星学的になにか影響を及ぼしませんか。

 「出生の日時がよくよく気になると見えますね! 地上への誕生に関して唯一大切なことは、いつから自我を表現し始めるかということです。それは受胎した瞬間からであって、生まれ出た時からではありません。占星学については私は何の関心もありません。受胎と共に地上的生命が始まります。受胎なしには地上的生命はありません。


──ブラジルに来られたローマ法王が民衆の貧しさに嘆かれ、一方、家族計画(産児制限)は許されるべきでないことを強調されましたが、その矛盾をどう理解すればよいのでしょうか。

 法王はとても立派な方ですが、宇宙の全知識を貯えられているわけではありません。家族計画は人類自身で解決すべきことですから、これからも続く問題です。ただ、一個の霊が人間界へ誕生することになっている時は、いかなる計画を立てても必ず生まれてきます。


 (質問者が代わる)

──死後の生命なんかほしくないと、本心からそう思っている人がいます。そういう人たちにどう説かれますか。

 地上なんかに二度と生まれたくないと本心から思っている霊がいますよ。しかしそれは、いかんともし難いことなのです。自然の摂理との縁を切ることは出来ません。あなたがどう思うかに関係なく摂理は働きます。開けゆく大自然のパノラマが人間の小さな欲求や願望、あるいは反坑にもお構いなく展開していく姿をご覧になれます。


──と言うことは、私たちは地上へ来たくなくても無理やり来させられるということでしょうか。私はその点は自由な選択が許されると思っていました。

 必ずしも強制されるわけではありません。地上からこちらへ来るのにも自由選択が許されるように、こちらから地上へ行くのにも選択の余地が与えられています。

是非とも為さねばならない仕事があることを自覚して地上へ誕生する霊がいます。行きたくはないけど、どうしてもしなければならない用事があるので止むを得ず誕生する霊もいます。あるいは償わねばならない業(カルマ)があって誕生してくる場合もあります。


──自殺することまで計画されていることがあるというのは本当でしょうか。

 とんでもありません! 計画というのは母胎に宿る以前に霊自身によって立てられるのです。


──自殺行為によって学べる教訓は何一つ無いということでしょうか。

 あるわけがありません! 生命は宇宙の大霊が授けるのです。それを縮める権利は人間にはありません。

──死んで霊界入りした人間は自分が死んだことが自覚できるのでしょうか。

 みんながみんな自覚できるとは限りません。大半の者が自覚できます。が、完全な自覚(悟り)に到達するには相当な時間が掛かります。


──霊界の人たちは何もしてくれないのでしょうか。

 いえ、いろいろと指導しております。本人は気付かなくても陰から手助けしております。霊界はすべてが知れるように組織されております。上層界には高級霊による政庁が組織されており、その中には一度も物質界に誕生したことのない霊(天使)がいます。

その霊達が神の計画推進の任に当たっているのです。大規模な総合計画があって、有意識・無意識の区別なく、あらゆる存在を包摂しております。その宇宙的規模の摂理から外れて存在できるものは何一つありません。


──人間が死ぬと肉親や愛する人たちが出迎えて手引きしてくれるそうですが、それらの霊は他界者と同じ霊格の者ばかりでしょうか。

 そうではありません。なぜなら、その霊たちは死後も霊的に進化しているからです。他界してきた者のレベルに合わせて交信するために、いわば階段を下りてくるのです。霊的成長とは成熟していくことであることを理解しないといけません。

 地上の年齢とは一致しません。では、さっき述べた完全な悟りに到達できるのはどの段階においてかということですが、これはお答えしにくい問題です。と申しますのは、悟りというのは固定した限りあるものではなく、いつまでも成長し続ける状態だからです。

悟りには無限の奥行きがあります。これでおしまいという終点がないのです。深まれば深まるほど、さらにその奥に悟るべきものがあることを自覚するものです。

 それは事実上永遠に続く過程です。段階的に少しずつ理解が深まっていく過程です。無知の状態からいきなり悟りが開かれるという、そういう突然の変化ではありません。段階があり、魂がより高い段階への準備が整うにつれて、少しずつ開けていくのです。


──たとえ生活水準が今より向上したところで不老不死ということは有り得ないのは言うまでもないのですが、もしも完全な生活条件が整ったら百五十歳までは生きられるのではないかと思うのですが・・・・・・

 肉体的年齢と霊的成熟度とを混同してはいけません。大切なのは年齢の数ではなく、肉体を通して一時的に顕現している霊の成長・発展・開発の程度です。

 肉体が地上で永らえる年数を長引かせることは神の計画の中にはありません。リンゴが熟すると木から落ちるように、霊に備えが出来ると肉体が滅びるということでよいのです。ですから、寿命というものは忘れることです。長生きをすること自体は大切ではありません。

 地上生活の一番肝心な目的は、霊が地上を去ったのちの霊界生活をスタートする上で役に立つ生活、教育、体験を積むことです。もし必要な体験を積んでいなければ、それはちょうど学校へ通いながら何の教育も身につけずに卒業して、その後の大人の生活に対応できないのと同じです。


 (永年スピリチュアリズムの仕事に努力した夫に先立たれた女性にシルバーバーチが次のような励ましの言葉を述べた)

 本日あなたをここへお迎えして、苦労と試練の時の力となった基本的な霊的真理の真実性を改めて確認して差し上げることを、とてもうれしく思います。

 地上に籍を置く人間にとって、たとえ死後にも生命があるとの知識を手にしている方でも、身近な者が宇宙の別の次元の世界へ連れて行かれた時に平然としていることは、容易なことではありません。

死という身体上の別離には悲しみが伴うものであるという事実を軽視するのは、愚かでもありましょう。しかし、それはあくまでも身体上の別離であって霊的には少しも別れてはいないことを御認識すべきです。

 地上に生を受けた人間にとって死は避けられません。いつかは地上に別れを告げなければならない時がまいります。それは、もはや地上生活がそれ以上その霊に与えるものが無くなり、完全へ向けての進化の不可欠の要素として、次の冒険へ旅立つ用意が出来たということです。

 その死別という試練に直面した時に自分をどう慰められるかは、各自が考えるべきことです。それが容易でないことは私も理解しております。

 しかし死は愛によって結ばれた者を引き裂くことはできません。愛は、生命と同じく不滅です。また愛は、生命と同じく、条件さえ整えば望み通りのことを叶えさせる強烈な威力を秘めております。もとより、心ひそかに声もなく流される涙もあることでしょう。しかし、うなだれてはいけません。霊の力は決して見捨てません。必ずや援助の手が差し伸べられます。

 悩んではいけません。悩みの念はその援助の通路を塞いでしまいます。あなたはご自分ではそうは思えないかも知れませんが、ある意味でとても幸せな方です。と申しますのは、悲哀のドン底を味わうことによって霊的真理を受け入れる資格を身につけられたからです。

そのドン底から這い上がるのは容易ではありませんでしたが、道は間違いなく啓示されました。今あなたは愛する方が身近な存在として実在していることを確信なさっておられます。

 私はいつも思うのですが、地上の人々、中でも特に霊的知識を手にされた方が背後霊の存在を実感を持って認識してくだされば、どんなに有難いことでしょう。地上の愛する者へ無益な害が及ばないように庇い、守り、導いている霊の姿を一目ご覧になることができれば、と思うのです.

 その影響力の大きさを知ることができたら、明日のことを思い煩うようなことは絶対にしなくなることでしょう。それで私はここに集まる同志の方にいつも申し上げているのですが、新しい一日の訪れを素晴らしい霊的冒険の到来として喜んで迎えることです。

 あなたの人生は、手にされた証拠によって一変しました。そこであなたは今、ご自身が有難く思われた同じ思いを人にも体験させてあげようと、いろいろと努力をなさっておいでです。私は実際にそのご様子を拝見して、良く存じております。

 他人がどう言おうと気になさらぬことです。まったく下らぬことばかり言っております。大切なのはあなたの人生をどう生きられるかです。できるかぎりの最善を尽くして人のために力になってあげることです。

 ご主人は肉体の束縛から解放されました。晩年にイヤな思いをされたあの痛みと不自由はもう二度と味わうことはありません。これからは今なお〝わが家〟とされているあなたの住居での生活の中で、ご自分の死後の存在の事実をあなたに実感させてくれることでしょう。

ですから、気を強くお持ちになり堂々と胸を張って、愛する者を失っても霊的知識があればこれだけ立派に生きて行けるのだという、一つに手本を示していただきたいのです。

 別離といっても身体上のことであり、霊的には別れていないのです。愛によって結ばれた者どうしを引き裂く力は地上にも霊界にも何一つありません。愛は、生命と同じく、死よりも強いのです。愛は、生命と同じく霊に属するものであり、霊は決して滅びないのです。
     

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

 本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック




第25章 探しなさい、そうすれば見出せるでしょう  

 あなた自身を助けなさい、そうすれば天があなたを助けてくれます
一、求めなさい。そうすれば与えられるでしょう。探しなさい、そうすれば見出すことができるでしょう。扉をたたきなさい、そうすればあなたたちのために開くでしょう。求めれば与えられ、探せば見出し、扉をたたけば開くでしょう。

 あなたたちのうちで、パンを求める息子に石を与える人がいるでしょうか。魚を求めるのにヘビを与える人がいるでしょうか。あなたたちのように、悪い者であっても、自分の子どもには善いものを与えることを知っているのであれば、天にいるあなたたちの父は、なおさら、求める者に本当の善きものを与えて下さらないことがあるでしょうか。(マタイ 第七章 7-11)


二、地上の視点から見ると、「求めなさい、そうすれば与えられるでしょう」と言う言葉は、自分自身を助ければ、天があなたを助けてくれます、という言葉と同じ意味を持っています。

これは労働の法の原則であり、また労働からは、それを知力を駆使して行うことで進歩がもたらされるため、最終的には進歩の法の原則であると言えます。

 人類の幼少期には、人間は食物を集めたり、悪天候から身を守ったり、敵から身を守るためだけに知性を使っていました。しかし神は、動物に与えるよりも多くを人間に与えました。

それは、向上しようとする絶え間ない欲求で、その欲求は、人間に自分の置かれた立場を向上させる手段を求めることを促し、結果として人間には、発見や発明、自分たちに不足しているものを与えてくれる科学の完成をもたらすことになります。

探求することによって知性は高まり、道徳は浄化します。肉体の充足は霊の充足をもたらします。こうして人は野蛮人から文明人へと変化していくのです。

しかし、その大半においては、一生の間に個人個人が実現する進歩は、非常に小さいか、ほとんどとらえることのできない程度のものです。では、すでに存在する魂が、再び存在することがないとしたら、人類はどれだけの進歩を遂げることができるというのでしょうか。

もし魂が毎日去って行き、再び戻ってこないのだとしたら、人類は絶えず原始的な要素において進歩を再開することを繰り返し、すべてを学ぶためにすべてをやり直さねばならなくなってしまいます。

一回毎の誕生においてすべての知的な作業を再開しなければならないことになるため、そうであれば地球の初期の頃に比べて、今日の人間が進歩していると考える根拠は存在しなくなります。

反対に、すでに成し遂げた進歩とともに魂が戻って来て、そのつど、さらになにかをより多く獲得していけば、魂は徐々に野蛮な世界から物質的文明、そして道徳的文明へと移り住んでいくことになります。


三、もし神が肉体の労働を人間から免除していたとしたら、人間の四肢は退化していたでしょう。知性の労働を免除していたとしたら、その霊は動物の本能の状態、つまり幼年期の状態で居続けたでしょう。

だからこそ神は労働を必要なものとし、「探せば見出せるでしょう。働き、生産しなさい」と言ったのです。この様にして、あなたは自分が行った労働の恩恵を受け、それを自分の功績とし、行ったことに応じた報酬を受け取ることになるのです。


四、こうした原則があるので、霊たちは、人間から探求という仕事を免除するために人間を助けにやって来ることはありません。すでに完成し、使う準備の整ったものや、発見や発明されたものをそのまま人間にもたらすことによって、人間が拾うために身を屈めたり、考えたりするような苦労をせずに、必要なものを手に入れることができるようにするのではありません。

もしそうであったならば、最も怠惰な者が何の苦労もせずに豊かになり、もっとも無知の者が賢くなり、両者とも自分の行っていないことに対して功労を受けることになってしまいます。そうです、霊たちは人類を労働の法から免除するためにやってくるのではありません。

霊たちは、人類が歩むべき道と、達成しなければならない目標を示すためにだけやってくるのであり、次のように伝えているのです。「歩みなさい、そうすれば到着するでしょう。石につまずくでしょう。

その石を自分の目で確かめ、自分自身で遠のけてください。あなたたちが使いたいのであれば、私たちは必要な力をあなたたちに与えます(→『霊媒の書』第二部 第二十六章 291)。


五、道徳的視点から見れば、これらのイエスの言葉は次のことを意味します。「あなたたちを照らす光を求めれば、道はあなたたちに与えられます。悪に抵抗する力を求めれば、その力を得ることができます。

善霊たちの救援を求めれば、彼らはあなたたちに同伴してくれ、トピアスの天使がそうしたように、あなたたちを指導してくれます。善き忠告を求めれば、決してそれが拒絶されることはないでしょう。私たちの扉をたたけば、あなたたちに扉は開かれます。

しかし、信心、信頼、熱意を持って誠実に願って下さい。傲慢にならず、謙虚であってください。さもなければ、あなたたちは自分たちだけの力とともに見捨てられ、その時の失敗があなたたちの自尊心に対する罰となってしまいます。

 これが「探しなさい、そうすれば見出すことができるでしょう。扉をたたきなさい、そうすればあなたたちのために開くでしょう」と言う言葉の意味です。


 空の鳥を見なさい
六、錆がつき、虫が食い、盗人たちが押し入って盗んだりするこの地上で、あなたたちは宝を蓄えてはいけません。錆がつかず、虫も食わず、また、盗人たちが押し入って盗むこともない天において宝を蓄えなさい。あなたたちの宝のあるところには、あなたたちの心も存在します。

 だから誠に言います。あなたたちの命を支える食糧をどこで手に入れようかと心配したり、身体にまとう衣服をどこで手に入れようかと心配してはなりません。命は食糧に勝り、肉体は衣服に勝るではありませんか。

 空の鳥を見て下さい。種を蒔くことも、収穫をすることも、倉に蓄えることもありません。それでも、あなたたちの天の父は彼らを養って下さっています。あなたたちは、鳥たちよりも、はるかにまさっているではありませんか。

あなたたちのうち、誰がその努力によって身長をわずかでも伸ばすことができるでしょうか。

 また、なぜ衣服のことを心配するのですか。野の百合がどう育っているか見て下さい。働くことも、紡ぐこともありません。しかし、誠に言いますが、ソロモンでさえその栄光の時、百合たちほどに着飾ることはありませんでした。

今日生き、明日には炉に投じられる野の草花を着飾ることに、神がこれほどまでにしてくださるのであれば、あなたたちを着飾るのに、これ以上良くしてくださらないことがあるでしょうか。おお、信仰の薄い者たちよ。

 だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、異邦人たちがこれらすべてのものを探し求めるように、心配してはいけません。あなたたちの父は、あなたたちがこれらのものを必要としていることを知っておられるのです。


 まず、神の国とその正義を求めなさい。そうすれば、こうしたものはすべて、添え与えられるでしょう。だから、明日のことで心配をしてはなりません。明日のことは、明日が面倒を見てくれるからです。一日の苦労は、その日だけで十分です。(マタイ 第六章 ⒚-21,25-34)


七、文字通りに解釈すると、これらの言葉はあらゆる用心、労働を否定するものであり、結果として、進歩することを否定するものになってしまいます。こうした考え方に従ったのでは、人間は受動的に待つばかりとなってしまいます。肉体や知性の力は、活動することなく止まることになってしまいます。

仮に、地上の人間が一般的にそうであったとしたら、人間はもはやその原始的な状態から抜け出すことができず、そのように進歩を否定することが今日のための法であったなら、人間には何もせずに生きること以外残されていないことになってしまいます。

イエスの考えがそうであったはずはなく、さもなければ、他のところで自然そのものの法について述べたことに矛盾することになってしまいます。神は人間を、衣服もすみかも与えることなく創造しましたが、それらを生産する知性を与えたのです(→第十四章 6、第二十五章 2)。


 したがって、これらの言葉の中に、信じる者を決して見捨てることはなくとも、彼らが自分のために働くことを望む神意の、誌的なたとえ以外のものを見出してはなりません。神は何時も物質的な補助をもたらすのではありませんが、困難から抜け出せる手段に出合えるような考えを吹き込んでくれるのです。(→第二十七章 8)。

 神は私たちが必要としているものを知っており、必要に応じてそれを与えてくれます。しかし、人間はその欲求を満たすことがないために、手中にあるもので満足するとは限りません。必要なものだけでは人間は不十分なのです。人間は余分なものを求めます。すると神はその人をそのままにしておきます。

人間はしばしば、注意を促す良心を通じて聞こえた声に従わなかったために、自ら不幸になります。神はそのような苦しみを与えることで、それが未来に向けた教訓となるようにするのです。


八、人間が正義と慈善と隣人愛の法に従って、地球がもたらすあらゆるものを管理することを覚えれば、地球はその住人すべてを養うに足りるだけのものを生産するようになります。

一つの国の違った地方に住む人たち同士のように、地球上に住むすべての人たちの間に兄弟愛が広がるようになれば、一方の一時的な余剰は、もう一方の一時的な不足を補うようになり、それぞれが必要なものを手に入れることになります。

裕福な者は、たくさんの種を持った者にたとえることができます。そのたくさんの種を、自分のためだけでなく他人のためにも蒔けば、自分のためにだけ蒔く時の何百倍も生産することになります。

しかし、もしその収穫物を他人に分け与えることなくすべてを一人で食べ、余ったものを無駄にし、駄目にしてしまうのであれば、たくさんの種を蒔いたことによるメリットは何も生まれず、収穫物がすべての人のために行き亘ることはないでしょう。

それを倉庫にしまってしまえば、虫が食ってしまいます。そこにイエスの言った言葉があります。

「錆がつき、虫が食い、盗人たちが押し入って盗んだりするこの地上で、あなたたちは宝を蓄えてはいけません。錆がつかず、虫も食わず、また、盗人たちが押し入って盗むこともない天において宝を蓄えなさい」。

別の言葉で言うならば、「消滅してしまう物質的なものを永遠にある霊的なものよりも重要視してはいけません。そして前者を後者のために犠牲にすることを覚えなければなりません」ということです(→第十六章 7-15)。

 慈善と兄弟愛は法律に定められてはいません。それぞれが心の中に存在しなければ、エゴイズムが何時もそこを支配することになります。慈善と兄弟愛を心の中に浸透させるのはスピリティズムの役割です。


 金を手に入れることに悩んではいけません
九、「財布の中に金、銀または銭を入れて行ってはなりません。旅に出る時は、袋も、二枚の下着も、靴も、杖も持って行ってはなりません。働き人がその食物を得るのは当然のことなのですから」。(マタイ 第十章 9,10)


十、どの町や村に入っても、誰があなたを泊めてくれるのにふさわしい人かを尋ね、再び出発するまでそこにとどまりなさい。その家に入った時には、このように祈ってあげてください。「この家に平和が宿りますように」。

もしその家がそれにふさわしければ、あなたが祈る平和はその家に来るでしょう。そうでないのであれば、その平和はあなたへ帰ってくるでしょう。

もし誰もあなたを迎えてくれず、あなたの言葉を聞いてもくれないのであれば、その家や町を出る時に、足の埃を払い落としなさい。誠に言います。審判の日には、その町はソドムやゴモラよりも厳しく扱われるでしょう。(マタイ 第十章 11-15)


十一、はじめて福音を伝えに使徒たちを送った当時、イエスが使徒たちに向けたこうした言葉に少しも不思議な内容はありませんでした。それらは、旅人がいつもテントに迎えられた東洋の家父長制の習慣に従うものでした。しかし、その頃は旅人もまれでした。

交通の発達によって、近代の人々には新しい習慣が生まれました。昔の習慣は、遠く離れた、大きな人の動きが到達していない場所にだけ残っています。もしイエスが今日戻ってきたとしたら、もはやその使徒たちに「準備なしに出て行きなさい」ということはできないでしょう。

 これらの言葉は、言葉そのものが表わす意味と同時に、非常に深い道徳的な意味を持っています。それらの言葉を唱えることによって、イエスは使徒たちに神を信じることを教えました。

それに加え、何も携帯しなければ、彼らを迎える人たちの欲を目覚めさせずにすみます。それは利己的な者と慈悲深い者とを区別する手段でした。だからイエスは彼らに、「誰があなたを泊めてくれるのにふさわしい人かを尋ね」と言ったのです。

つまり、「支払う金もない旅人に衣服を与えてくれるほど心温かいのは誰か探しなさい。なぜなら、あなたたちの言葉を聞くべき人とは、そうした人であるからです」。その人が行う慈善によって、そうした人を知ることができるのです。

 また、使徒たちのことを迎えたり、聞きいれたりすることを拒んだ人たちに対して、非難したり、暴力やおどしによって強制的に態度を改めさせることを、果たしてイエスは勧めたでしょうか。いいえ。

ただ単に、その場から去って、善意のある人を求めに行くように教えたのでした。

 スピリティズムは今日、同じことをその信徒に伝えます。「誰の良心も害してはいけません」。誰にたいしても、その信仰を放棄させ、あなたの信仰を受け入れさせようと強要してはなりません。

あなたたちと同じように考えない人を排斥してはなりません。あなたたちのもとへやってくる者を迎え、あなたたちを拒む者たちをそっとしておきなさい。キリストの言葉を覚えておいてください。昔、天は暴力によって支配されていました。今は、慈愛によって支配されるのです(→第四章 ⒑,11)

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva




三章 生きがいある人生を送るには
  
 われわれ一同は神の道具です。神の道具として役立つということは光栄なことです。人の為に役立つことをすることほど立派な宗教的行為はありません。それこそが霊の正貨(コイン)です。人のために自分を役立てることは崇高なことです。

 それは人の生活を豊かにすると同時に自分の生活をも豊かにします。また、この世には自分のことを思ってくれる者はいないと思い込んでいる人々に慰めをもたらします。

 人のために役立っていると思う時、私たちは心の奥に安らぎと静けさと満足感を覚えます。宇宙の絶対的な支配力への全幅の信頼、神へ向けて一歩また一歩近づかんとする努力の支えとなる堅忍不抜さは、人のために尽くしている中でこそ得られるのです。

 目標の頂点は宇宙の大霊すなわち神です。われわれが生活するこの果てしない宇宙を創造し、ありとあらゆる存在に配剤するための摂理を考案した無限の愛と叡智の粋です。

 大霊と離れて何ものも存在しません。大霊が全てなのです。大なるもの、小なるもの、複雑なもの、単純なもの、生命現象のありとあらゆる側面に対して神の配剤があるのです。

霊の働きがあってこそ、すべてが存在できているのです。神の霊がすべてに潜在している以上、神との縁は切ろうにも切ることができないのです。人間がいかなる説を立てようと、神がすべてに宿り給い、したがって神はすべてであり、すべてが神であるという事実は変えることはできません。

 無限なる創造主であり、その愛と叡智によって壮大な宇宙を経綸し、その完全なる知性によって摂理を考案して、壮大といえるほど大きいものから顕微鏡的に小さいものまでの、ありとあらゆる存在を包摂し、その一つ一つに必要な配剤をしてくださっている大霊を超えた存在は、誰一人、何一つありません。

その摂理の作用は完全無欠であり、その支配の外に出られるものはありません。

 小さすぎるからということで無視されたり、見落とされたり、忘れ去られたりすることはありません。それは大霊の一部が生きとし生けるものすべてに宿っているからです。言いかえれば神がその霊性の一部を各自に吹き込んだからこそ存在しているのであり、その霊性が神とわれわれとを結びつけ、また、われわれお互いをつないでいるのです。

 その絆を断ち切ることの出来る力は地上にも死後の世界にも存在しません。その絆があるからこそ、叡智と真理と啓示の無限の貯蔵所を利用することも可能なのです。

 生命力すなわち霊がすべての存在、すべての人間に宿っているのです。その最高の形が他ならぬ人類という存在に見られます。人類の一人一人の中に、永遠に神と結び付け、また人間同士を結びつけている霊性が宿っているのです。その絆こそ万全の宇宙的ネットワークの一環なのです。


 皆さんより永い経験を持つ私達霊団の者も、この果てしない大機構を生み出された神の叡智の見事さに感嘆せずにはいられないことばかりです。

 また私たちの心の視野を常に広げ、自分が何者であり、いかなる存在であるかについての認識を増やし続けてくれる真理と叡智とインスピレーションの絶え間ない流れ、私たちの一人一人に宿る霊の力、わがものとすることができるにも関わらず、霊の豊かさと神と同胞とのつながりについて何も知らずにいる地上の人たちのために活用すべき才能を授かっていることに、私たち霊団の者は改めて感謝の意を表明せずにはいられません。

 大自然の法則は、われわれの一人一人に生命を吹き込んでくださった創造神と常に一体関係にあるように、そして地上世界はおろか霊の世界のいかなる力によってもその絆が断ち切られることが無いように配慮してあるのです。

 さらにその霊の機構を愛の力が導き管理し常に調和を維持して、受け入れる用意のある者が霊力と叡智と真理とインスピレーションとを授かるための手段を用意しております。

 その上われわれ自らが道具となって、地上の人間生活を豊かにし、病める者を癒やし、喪に服する人を慰め、人生に疲れた者に力を与え、道を見失える者に導きを与える、全存在の始源からの崇高な霊力の恩恵をもたらすことができるのです。

 われわれはそのための才能を授かっているのです。それを発達させることによって、われわれが手にした掛けがいのない知識の恩恵にあずかれずにいる不幸な人たちの為に活用することができます。

要するに、この荘厳な霊力の流れる通路として一層磨きをかけ、受け入れる用意のできた人々に惜しみなく恩恵をもたらしてあげられるようになることが、われわれの大切な務めなのです。

 さて、ここで人生体験が霊的に見てどのような意味を持っているかをご説明しましょう。
℘29
地上の人間は、なぜ苦しみがあるのか、病気には何の目的があるのか、なぜ危機、困難、障害といったものに遭遇しなければならないかといった疑問を抱きますが、これらはみなそれに遭遇することによってまず カタルシス(※)を起こさせ、続いてカタリスト(※※)として霊的真理を学ばせる機会を提供してくれる、魂が是非とも体験しなければならない挑戦課題なのです。


(※ 語源的には〝浄化する〟ということで、それが精神医学において、無意識の精神的抑圧を洗い流す作用を意味する。※※ 精神的革命の触媒となるもの───訳者)

 魂は低く落ち込むことが可能であるだけ、それだけ高く向上することもできます。それが両極の原理です。すなわち作用と反作用は相等しいものであると同時に正反対のものであるという法則です。憎しみと愛、光と闇、嵐と静けさ、こうした〝対〟は同じコインの表と裏の関係にあるのです。

 私の好きな諺がバイブルの中にあります。〝信仰に知識を加えよ〟というのですが、私はこれを〝知識を得たら、それに信仰を加味せよ〟と言い変えたいところです。所詮すべての知識を手にすることはできません。あなた方は人の子であり、能力に限界があるからです。

人生の嵐に抵抗し、何が起きようと盤石不動であるためには、その土台として霊的知識を必要としますが、限られた知識ではすべてを網羅(カバー)することは出来ません。その足らざる部分は信仰心で補いなさいと私は言うのです。

 本来の住処である霊界から地上へこうして戻ってきて皆さんの賛同を得るのに私たち霊団が愛と理性に訴えていることを、私は誇りに思っております。有無を言わせず命令することはしません。

ああしてほしいとか、こうしてくれとかの要求もいたしません(※)。あなた方の判断によって自由におやりになられるがよろしい。そして霊の世界から申し上げることがあなた方の理性を納得させることができず反発を覚えさせる時、知性が侮辱される思いをなさる時は、遠慮なく拒絶なさるがよろしい。

(※ この姿勢は頭初からの方針として徹底しており、例えば霊言を公表すべきか否かについてさえバーバネルとスワッハーとの間で意見が対立し激論を闘わせたこともあったのに、シルバーバーチはそのことに一言も口をはさんでいない。

これは霊界の計画だから早く公表するように、といった助言があっても良さそうに思えるのであるが、それすらなく、実際にサイキックニューズ紙に掲載され、やがて霊言集として出版されるまでに十数年の歳月が流れている──訳者)

 私たちとしては皆さんが自発的に望まれた上で協力と忠誠心を捧げて下さるように、皆さんの内部の卑俗なものではなく最高の判断力に訴えなければならないのです。と言って私たちの方からは何もしないというのではありません。

それぞれの活動の分野、日常の仕事において援助を受けていらっしゃることに気づかれる筈です。そしてそれとは別の分野において、人のために役立つことをするように導かれているのです。

 私も私なりに皆さんのお役に立ちたいと願っております。気付いていらっしゃらないかも知れませんが、これまでに味わったことのない精神的ないし霊的な豊かさをきっと手にされることになる生き方にそって導かれていらっしゃいます。

そうした中にあってさえ皆さんの心の中には次々と悩みが生じ疑問を抱かれるのも、地上の人間としては止むを得ないこととして私は理解しております。がしかし、どう理屈をこねたところで、全宇宙の中にあって唯一の実在は〝霊〟であることを改めて申し上げます。

 物質はその本性そのものが束の間の存在であり移ろいやすいものです。物的に顕現している形態そのものには永続性はありません。それが存在を保っているのは霊によって生命を与えられているからです。

原動力は霊なのです。霊こそがあなたを、そして他の全ての人を地上に生かしめているのです。霊が引っ込めば物質は崩壊します。あなたの身体は元の塵に戻りますが、本当のあなたである霊は永遠の進化の旅を続けます。

 あなた方は霊を携えた身体ではありません。身体を携えた霊なのです。本当のあなたは鏡に映る容姿ではありません。それは霊が地上で自我を表現するための物的な道具、複雑な機械に過ぎません。霊は物質に勝ります。霊が王様であり、物質は召使です。

 こうした事実を追及していくうちに、あなたの視野と焦点の置きどころが変わっていくことに気づかれます。自分がなぜ地上にいるのか、真の自我を発揮するにはどうすべきか、そうしたことを理解し始めます。どういう種類のことであっても結構です。自分の能力を伸ばして他人への援助を啓発の為に活用する───それがあなた方のなすべきことです。

 忘れないでいただきたいのは、皆さんは不完全な世界に生きている不完全な存在だということです。もしも完全であれば神はあなた方を地上へ送らなかったでしょう。その不完全な世界においてあなた方は、持てる才能をいかに活用するかについて、自由な選択権が与えられております。

 地上世界の特異性は対照的、ないしは両極性にあります。美点と徳性を具えたものと、それらを欠いたものとが同じ地上に存在していることです。これは霊界では有り得ないことです。各界が同じ性質の霊で構成されていて、対照的なものが存在しません。

 地上生活の目的は善悪様々な体験を通じて魂が潜在的霊性を発揮して、強くたくましく成長するチャンスを提供することです。それで悪事があり、罪があり、暴力があるわけです。進化は一直線に進むものではありません。スパイラルを描きながら進みます。表面的には美しく見えても、その底はあまり美しくないものがあります。

 私が霊界の界層の話をする時、それは必ずしも丸い天体のことを言っているのではありません(※)。さまざまな発達段階の存在の場のことを指しており、それらが地理的に平面上で仕切られているのではなくて、低いレベルから高いレベルへと、段階的に繋がっているのです。

(※〝必ずしも〟と言っていることから察せられるように、地球と同じ丸い形をした界層も存在する。それがとりもなおさず地縛霊の世界で、地球圏の範囲から抜け出られないまま地上と同じような生活の場を形成している。同じことが各天体についても言えると考えて良い──訳者)

 それが無限に繋がっており、これでおしまいという頂上がないのです。霊性が開発されるにつれて、さらに開発すべきものがあることに気づきます。知識と同じです。知れば知るほど、その先にもっと知るべきものが存在することに気づきます。

 各界層にはほぼ同等の霊的発達段階にある者が集まっております。それより高い界層へ進むにはそれに相応しい霊格を身につけなければなりません。それより低い界層へはいつでも行くことができます。現に私たちは今こうして低い界層の人々を啓発する使命を担って地上へ下りて来ております。

 向上とは不完全さを洗い落とし、完全へ向けて絶え間なく努力して成長していくことです。それには今日一日を大切に生きるということだけでよいのです。毎朝の訪れを性格形成のための無限の可能性を告げるものとして迎えることです。それが自我を開発させ、人生に目的性を持たせることになります。残念ながら今の地上の余りに大勢の人たちが人生に対する目的意識を忘れております。

 神の心をわが心とするように心掛けることです。霊力と一体となるように心がけることです。皆さんの一人一人が神の愛の御手が触れるのを感じ取り、常に守られていることを知り、明日が何をもたらすかを恐れないようにならないといけません。そして人のために自分を役立てる機会をいただいたことを喜ぶことです。

 私たちは大きな戦いに参加しております。小競り合い、大規模な戦争がいくつもありました。が、本当に闘っている相手は貪欲、怨念、利己主義という、地上を蝕んでいる物質中心主義の副産物です。

 そこで私たちは全存在の始源は、無限の創造主から発せられる聖なる霊力であることを実証し、死が言語に絶する素晴らしい霊の世界への扉に過ぎないことをお教えするのです。

 それがあなた方も参加しておられる闘いです。その将校や指揮官は、戦闘のあまりの激しさに退却することがないよう、厳しい試練を受けねばなりません。

 あなた方の進むべき道は、霊界からあなた方を愛している大勢の霊が必ず示してくれます。それは地上で血縁関係にあった者だけではありません。霊的な近親関係にある者もいます。その霊たちがあなた方を使って恵まれない人々のために影響力を行使するのです。

 われわれはみな同じ霊的巡礼の旅を続ける仲間です。神への巡礼の道は無数に存在します。いかなる知識も、それがわれわれの視野の地平線を少しでも広げ、この宇宙についての理解を深める上で役立っていることを感謝いたしましょう。

 知識には責任が伴います。それなりの代価を支払わねばなりません。知識を手にしたということは、それを手にしていない人よりも責任が大きいということです。しかし私たち霊界の者は、私たちの道具として協力してくださる地上の人々を見棄てるようなことは決していたしません。

本当ならここで、あなた方地上の人たちも決して私たちを見捨てませんと言うセリフをお聞きしたいところですが、残念ながらそれは有り得ないことのようです。

 皆さんはご自分で気づいていらっしゃる以上に霊界からいろいろと援助を受けておられます。いずれ地上を去ってこちらへお出でになり、地上でなさったことを総合的に査定なされば、きっと驚かれることでしょう。私たちは魂の成長に関わったことで援助しているのです。それが一ばん大切だからです。


 それに引きかえ、地上の各分野での混乱ぶりはどうでしょうか。宗教は本来の目的を果たせなくなっております。科学者は自分たちの発明・発見が及ぼす被害の大きさを十分に認識しておりません。

唯物思想の袋小路に入り込んでしまった思想家たちは、誰一人救えないどころか自分自身すら救えなくなっております。その点われわれは光栄にも神の道具として大切な仕事を仰せつかり、一人ひとりに託された信頼を自覚しております。

 私たち霊界の者は、縁あって皆さんのもとを訪れる人たちに霊と精神と身体に真実の自由をもたらす崇高な真理を理解させ真の自我を見出させてあげるべく、皆さんを導き、勇気づけ、元気づけ、鼓舞する用意が出来ております。本当の自分を見出すこと、それが人生の究極の目的だからです。

 地上には霊的進歩を計るものさしがありませんから、そうした協力関係の中で皆さんがどれほどの貢献をなさっているかがお分かりになりません。しかし、たった一人の人の悲しみを慰め、たった一人の人の病気を治し、たった一人の人に真の自我に目覚めさせてあげることができたら、それだけであなたの全人生が無駄でなかったことになります。私たちはひたすら〝人のために役立つこと〟を心掛けております。

 不安を抱いたり動転するようなことがあってはなりません。不安は無知の産物です。知識を授かった人は、それによって不安を追い払えるようでなくてはなりません。皆さんは宇宙最大のエネルギー源とのつながりが持てるのです。

これまでに知られた物的世界のいかなるエネルギーよりも壮大です。崇高なエネルギーです。それをあなた方を通して流入させ、恵み深い仕事を遂行することが出来るのです。

 落胆したり悲観的になったりしてはなりません。幸いにして不変の基本的な霊的真理を手にした者は、いかなる事態にあっても霊は物質に勝るとの信念を忘れてはなりません。解決策はきっと見つかります。ただ、必ずしもすぐにとはいきません。

しばらく待たされることがあります。(別のところで、忍耐力と信念を試すためにわざとギリギリのところまで待たせることもする、と述べてる───訳者)

 自分より恵まれない人のための仕事に従事することは光栄この上ないことです。われわれが人のために尽くしている時、われわれみずからも、より高い、進化せる存在による働きかけの恩恵を受けているのです。

自分のことは何一つ望まず、ただひたすらわれわれを鼓舞して、暗闇のあるところには光を、無知のはびこっているところには真理を、窮地に陥っている人には援助をもたらすことに精励しているのです。

 そうした強大な霊団───生きがいのある人生を模索している人のために、われわれを道具として尽力している高級霊───の存在をますます身近に感じることが出来るように努力いたしましょう。 

 その崇高なる霊力がますます多くの人間を通じて地上へ注がれ、恩恵を広め、悲しむ人々を慰め、病の人を癒し、道に迷いもはや解決の手段は無いものと思い込んでいる人々に導きを与えることが出来ているということは、本当に有り難いことです。

 霊力がどこかで効を奏すると、そこに橋頭保が敷設され強化されます。続いて新たな橋頭保の敷設と強化を求めます。かくして次第に霊力が地球を取り囲み、ますます多くの人々がその莫大な恩恵にあずかることになります。

 われわれはこれまでに存在の始源から勿体ないほどの多くの恩恵を授かってまいりました。それによって同志の多くが霊的に豊かになりました。なればこそ、われわれより恵まれない人たちが同じ豊かさと美と栄光を分かち合えるように、われわれの奉仕的精神を一段と堅固に、そして強力にすることができるように神に祈りたいと思います。

 知識がもたらすところの責任も片時も忘れないようにいたしましょう。われわれはもはや、知らなかったでは済まされません。精神的自由と霊的解放をもたらす真理を手にしているからです。

人間の一人一人に神性の一部を植え付けて下さった宇宙の大霊とのより一層の調和を求めて、人のために自分を役立てる機会をますます多く与えて下さるように祈ろうではありませんか。

 そうした生き方の中においてこそ、すべて神が良きにはからって下さるという内的な安らぎ、静寂、悟り、落ち着きを得ることが出来ます。そして無限の創造活動を促進する上でわれわれも役目を担っていることになるのです。


 ───あなたは人類全体が霊において繋がっているとおっしゃっていますが、大半の人間はそのことに気づいておりません。その霊性を発見するためになぜ目覚めなくてはならないのでしょうか。そこのところがよく分かりません。

 
 表面をご覧になって感じられるほど不可解な謎ではありません。理解していただかねばならないのは、人間は肉体を携えた霊であって霊を携えた肉体ではないということです。

物質が存在出来るのは霊による賦活作用があるからであり、その霊は神性の火花として存在のすべて、生命を表現しているあらゆる形態の根源的要素となっているのです。

 改めて申し上げるまでもなく、地上へ誕生してくる目的は各自の魂の成長と開発と発達を促進するような体験を積み、肉体の死後に待ち受ける次の段階の生活に相応しい進化を遂げることです。

 地上は幼稚園であり、霊界は大人の学校です。今この地上においてあなたは教訓を正しく身につけ、精神を培い、霊性を鍛えて、神から頂いた才能を心霊治療その他の分野で人のために使用できるまで発達させることを心掛けるべきです。


 ───この世的なものをなるべく捨てて霊的なものを求める生き方が理想なのでしょうか。それとも出来るだけ多くの地上的体験を積むべきなのでしょうか。

 物質と言うものを霊から切り離して、あたかも水も通さない程に両者が仕切られているかに思ってはいけません。両者には密接な相互関係があります。地上にいる間は、霊が物質を支配していても物質がその支配の程度を規制しております。物質を霊から切り離して考えてはいけません。

 地上生活の目的は、いよいよ霊界へ旅立つ時が来たときに霊に十分な備えが出来ているように、さまざまな体験を積むことです。まずこの地球へ来るのはそのためです。地上はトレーニングセンターのようなものです。霊が死後の生活に対して十分な支度を整えるための学校です。

 あなた方にとってイヤな体験こそ本当はいちばん為になるのですよと繰り返し申し上げるのは、そういう理由からです。魂が目覚めるのは呑気な生活の中ではなく嵐のような生活の中においてこそです。雷鳴が轟き、稲妻が走っている時です。

 酷い目に遭わなくてはいけません。しごかれないといけません。磨かれないといけません。人生の絶頂と同時にドン底も体験しなくてはいけません。地上だからこそ味わえる体験を積まないといけません。かくして霊は一段と威力を増し強化されて、死後に待ち受けている生活への備えが出来るのです。

  
 (ベトナムから訪れた青年が質問する)

───私は余暇を利用して人のために何かしたいと思っているのですが、何をしたらよいか分かりません。何かアドバイスをいただきたいのですが・・・・・・


 距離的にも霊的にも、あなたはずいぶん長い旅をしてこられましたね。しかし今こうしてこの交霊界に出席していらっしゃるという事実が、霊力というものがイザという時に導いてくれることの証明です。

 人のために何かをなさりたいという願望に対しては、いずれそのチャンスが用意されます。ただし、急(せ)いては事を仕損じます。地上の大勢の方々に苦言を呈すれば、長い迷いの末に霊的実在に目覚めた方は、とかく何でもいいから心霊的能力を発揮したいという気持ちに駆られすぎます。

 道はそのうち示されます。導きを祈ることです。あなたもこれまでの人生で、もう少しで人間への信頼を失いそうになるほどの精神的打撃を受けてこられました。しかし信頼を地上の人間にのみに置いてはいけません。神すなわち愛と叡智と知識の権化である大霊が存在します。

 疑念が生じた時は精神を統一して物質界の喧騒から逃れるのです。すると霊的理解が得られます。統一状態が深まれば深まるほど内的な安らぎ、静寂、安心感、決意といったものが深まり、自分にとって最良のものが授けられるとの確信を持つことができるようになります。

 私からお答えできるのはそれだけです。あなたは今素晴らしい御手に抱かれております。決して一人ぼっちにはされません。時がたつにつれて人のために仕事をするチャンスが背後霊によってもたらされてまいります。


 (もう一人の招待客が尋ねる) 


───心霊治療を体験したあと私自身もグループを結成して心霊治療を開始したのですが、その後私だけ独立して一人で治療活動を続けております。人のためになるのであればどういう形でやっても同じと考えてよろしいでしょうか。


 あなたご自身はどうお考えですか。

───私は霊的な観点から言うと同じではないと思います。私なりに出来るだけの努力はしているつもりです。が、次々と難しいことが生じてくると、私の取った態度が霊界側に迷惑をかけたのではなかろうかと思うことがあるのです。

 奉仕は霊の正貨です。奉仕に勝る宗教はありません。人のために自分を役立てることは尊い行為です。あなたの望み通りの分野で仕事ができなくても、人のためになると思うことを、その時その時に行えばよろしい。ドアを押してみてすぐに開けば、その道を行けばよろしい。カギの掛かったドアをしつこく叩いてはいけません。時間とエネルギーの無駄です。

 次々と生じる難問に動じてはいけません。困難は挑戦すべき課題です。困難もなく難問もなく、障害を妨害もないようでは、潜在する能力を発揮するチャンスがないことになります。

 人間は危機に直面して初めて、自分の奥に思いも寄らなかった力があることに気づきます。ふだんはその貯えの表面をひっかいている程度に過ぎません。その潜在力と背後霊の導きをもってすれば、克服できないほど大きな困難はありません。

 私たち霊界の者は地上で仕事をしなければならないのです。したがってその限界というものを弁えております。つまり私たちが使用する道具は人間的煩悩を具えており、もろく、かつ気まぐれです。しかし私たちとしては差し当たって使用出来るもので最善を尽くすしかありません。

 このサークルに来られる人々にいつも申し上げていることですが、信念に迷いが生じた時は、かつて自分がドン底にあった時に立ち返ってみることです。もう絶対に救われる見込みはないと思われた奈落の底にいたのです。そしてその絶体絶命のピンチで道が開かれたのです。これからも道は必ず開けてまいります。

 あなたはあなたなりに最善を尽くしていればよいのです。所詮あなたは完全な存在ではありません。地上においても霊界においても、完全というものは達成できないのです。

完全への道は永遠に続くのです。このことは、このサークルのメンバーの方は耳にタコができるほど聞かされております。しくじってもまた立ち直ることができるのです。

(ここでその質問者はシルビア・バーバネルに向って 「私はあなたがお書きになった When a Child Dies <子供の死後> を読んでいろいろと慰められました。私も娘を二人亡くしているものですから。つい最近も男の子を亡くされた方にお貸ししたばかりです。私と同じように大きな慰めを得てくださればと期待しているところです」と述べると、シルバーバーチがこう述べた)

 パン種が発酵するのです。これからも発酵し続けることでしょう。この大規模な戦いにおいて、われわれは勝ち組の方に属しております。最後は必ず勝利者となります。敗者とはなりません。背後に控える勢力は全宇宙でも最大のものです。

大霊の力なのです。地上で知られているいかなる力よりも強大です。これまでその力が成就してきた数々の驚異をこの目で見てきている私は、その力に全幅の信頼を置いております。私の目には何一つ心配すべき理由は見当たりません。


 (霊的指導者としても人生相談にものっている人が述べる)

 ───自分自身、霊的指導者として恥じない生活をしているだろうかという疑問を抱くことがよくあります。人には自信を持って霊的真理を説きながら自分では時おり、ふと、疑いの念を抱くことがあるのです。

 あなたのお名前はまさかトマス(※)ではないでしょうね。疑ってはなりません。霊的現象をその目でご覧になりその耳で聞くことのできた人は幸いです。すぐ身の回りに存在する驚異的生命の世界をかい間見るという大変な光栄に浴されたのです。

その世界には自分のことは何一つ求めず、寄るべない身の上をかこつ人々の救済のために献身している霊がひしめいているのです。それが私たちの仕事でもあるのです。

(※イエスの弟子の一人で非常に疑い深い性格で、イエスの復活についても実際に手と足のクギ跡を見るまでは信じなかった。八日目にイエスが物質化して出現してトマスにその傷を見せて信じさせた。その時の有名なセリフが〝見ずして信じることの出来る者は幸いである〟───現代人にも通じる名言と言うべきであろう───訳者)

 私には人間のもろさ、疑念や取り越し苦労はよく理解できます。しかし、これまで荘厳と美観と光輝と威力と指導力とを見せ付けてくれた霊力に全幅の信頼を置けば、その霊力は絶対にしくじることがないということを、徐々にではあっても理解していかれることでしょう。

人間の方が私たちを裏切った例はたくさんあります。が、私たちがその人達を裏切ったことは一度もありません。

 くり返しますが、あなた方にはご自分がどれほど貢献していらっしゃるかが推し測れないのです。絶体絶命と思いこんだ魂が本当の自我を見出す上で、あなた方もずいぶん手助けしていらっしゃいます。

 自分がいったい誰なのか、何者なのかが分からず、霊的実在に目も耳も塞がれている無数の人を見るのは悲しいことです。道を見失い、沼地に足を取られ、もがきながら生きております。これだと確信できる道が見出せないのです。

 幸いにしてそれを見出しているわれわれは、その責任の重大さを自覚して、われわれを頼ってくる人々を喜んで迎え、暗闇の中で光明を見出させてあげようではありませんか。

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva



二章 何のために生まれてくるのか

 地上生活の目的は人間の霊性の発現を促すことです。

 地球という天体上に住む人間の一人一人に生きる目的があります。なのに大半の人間がその生活の基盤となっている霊的実在に気づいていないのは悲しいことです。まるで穴居人のように、ガランとした暗がりの中で暮らしております。視角がズレているのです。焦点が狂っているのです。

ビジョンが間違っているのです。人生がもたらしてくれる莫大な豊かさをまったく知らずにいます。霊的真理に気がつけば自分がいま何をしなければならないかを自覚して、そこに人間革命が生じます。

 われわれはみんな人間的存在です。ということは、内部に不完全であるが故の欠点を宿しているということです。もしも完全であれば、あなた方は地上に存在せず私は霊界に存在しないでしょう。宇宙における唯一の完全な存在である大霊に帰一してしまっていることでしょう。

 私には皆さんの人間であるが故の弱点がよく理解できます。しかし、一つ一つの問題を自分への挑戦(チャレンジ)として平然と受け止めると同時に、内部の霊性を強化し、開発し、発展させて霊性を高めるための触媒として、それを克服していかねばなりません。

 地上的環境の中に置かれている以上あなた方は、地上ならではのさまざまな条件が生み出す幸福の絶頂と不幸のドン底、いわゆる人生の浮き沈みというものに直面しないわけにはまいりません。
℘19
 しかし、そこにこそ皆さんが地上に生を受けた意味があるのです。つまりそうしたさまざまな浮き沈みの体験が皆さんの霊、真実の自我に潜在する資質を顕現させることになるのです。困難と逆境とに遭遇してはじめて発揮されるものなのです。
 
 魂が真の自我に目覚めるのは太陽が光り輝いている時ではありません。バラ色の人生の中では霊性は発揮されません。危機、挑戦、困難、障害、妨害の中にあってこそ発揮されるのです。それが魂に潜在する神性を自覚する唯一の触媒を提供してくれるのです。

 これは、霊的叡智を求める求道者のすべてに言えることです。断腸の思い、悲痛、苦痛を体験しないことには、そのあとに訪れる恩寵の有難さが十分に理解できません。人のために役立とうとする人間は試練を覚悟しなければなりません。時には力の限界までしごかれることもあります。

 人間一人一人に神の計画があるのです。偶然の事故、偶然のチャンス、偶然の一致というものはありません。すべてが大自然の摂理によって動いており、そこには奇跡も摂理への干渉も有り得ません。摂理そのものが完璧にできあがっているのです。なぜなら完全な叡智によって生み出されているからです。

 神の法則に例外というものはありません。存在するもののすべて───地上の森羅万象だけでなく、無辺の大宇宙のあらゆるもの───が神の配剤にあずかっているのです。どちらへ目をやっても、そこに神の法則の働きがあります。

小さすぎて見落とされたり、大きすぎて法則のワクからはみ出たりすることは有り得ません。それと同じ法則があなたにも働いているのです。もちろん私にも、そして他のすべての人にも働いております。

 これで、作用と反作用とが正反対のものであると同時に相等しいものであることがお分かりでしょう。幸福の絶頂に至るにはドン底の苦しみを味わわねばならないこともお分かりでしょう。

そして又、皆さんが自分ではドン底を味わったつもりでいても、まだまだ絶頂を極めてはいらっしゃらないこともお分かりでしょう。その証拠に、心の奥のどこかにまだ死後の世界についての疑念をおもちです。


 しかし人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在に不滅ということは有り得ないのです。物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。

大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。

 ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教や信仰や憧れや願いごととは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです。

 そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当たり前なのです。

元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです。

 その無限の宇宙機構の中にあって神の子は、一人の例外もなく必ず何らかの役目があります。そして、それを果たそうとすると、いろいろと困難が生じます。が、それは正面から迎え撃って克服していくべき挑戦と心得るべきです。困難と障害は、霊性を発達させ進化させていく上において必要不可欠の要素なのです。

 地上というところはバイブレーションが重く鈍く不活発で、退屈な世界です。それに引きかえ霊の世界は精妙で繊細で鋭敏です。その霊妙なエネルギーを地上に顕現させるには、各自に触媒となる体験が必要です。

 太陽がさんさんと輝いている時、つまり富と財産に囲まれた生活を送っているようでは霊的真理は見出せません。何一つ難門が無いようでは霊的真理は理解できません。困苦の真っ只中に置かれてはじめて触媒が働くのです。

 霊性の開発には青天よりも嵐の方がためになることがあるものです。鋼が鍛えられるのは火の中においてこそです。黄金が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程を経てこそです。人間の霊性も同じです。何度も何度も鍛えられてはじめて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。

 黄金はそこに存在しているのです。しかしその純金が姿を見せるには原鉱を破砕して磨かねばなりません。鋼は溶鉱炉の中で焼き上げねばなりません。同じことが皆さん方すべてに言えるのです。

 霊に関わるもの、あなたの永遠の財産であり、唯一の不変の実在である霊に関わるものに興味を抱くようになるには、それを受け入れるだけの用意ができなくてはなりません。そこで鋼と同じように試練を受けることが必要となるのです。

 苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何らかの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がりはじめます。それ以外に方法はありません。

光を見出すのは闇の中においてこそです。知識を有難く思うのは無知の不自由を味わってこそです。人生は両極です。相対性といってもよろしい。要するに作用と反作用とが同等であると同時に正反対である状態のことです。

 魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。

絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至ってはじめて魂が目を覚ますのです。

 ですから、私たち霊界の者は魂にその受け入れ準備ができるまで根気よく待つほかないのです。馬を水辺に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない、という諺があります。本人がその気にならなければどうしようもないのです。

 私には皆さんのどなたよりも長い経験があります。そのおかげで、われわれのすべてを包摂し全存在に配剤した自然法則の完璧さについて、皆さんよりも深く理解しております。

 時おり私は地上の同志のもとを訪ねてみることがありますが、霊的知識をたずさえているはずの人が悩み、そして心配しているのを見て、不可解でならないことがあります。霊的知識は、永遠の霊にはいかなる危害も及ばないことを保証する基盤であるはずです。

霊的知識を手にした者は常に光の中に生き、明日を思い煩うことがあってはなりません。

 地上には人間が思い煩う必要のあることは何一つありません。あなたの内部には霊的兵器───非常事態や危機に際して活用できる霊的資質が宿されているのです。その潜在力を呼び起こし、待機している霊に訴えれば、解決できない問題は何一つありません。
   

Monday, June 15, 2026

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch
Edited by Pam Riva



まえがき

 人間は何のために生まれてくるのだろうか。死んだらどうなるのだろうか。もっと幸せで生き甲斐のある生活を送るにはどうすればよいのか。天地万物の背後には知的な〝こころ〟が存在するのだろうか。物的宇宙に、そして人間に、何か〝計画〟というものがあるのだろうか。

 知性の芽生えとともに、人類はこうした謎を追求しつづけてきた。そして今その解答が、かつて同じこの地球で生活し今は一段と次元の高い世界へ進化して行っている人類の先輩霊の一人によってもたらされつつある。

 その霊は人間の無知の暗闇を照らす松明の持ち手としての使命を引き受け、地上で語るための霊媒としてモーリス・バーバネルを選んだ。

 間もなくそのバーバネルを通して語るメッセージに耳を傾ける小さなグループができた。そしてそのうちの一人で〝フリート街の法王〟(英国ジャーナリズム界の御意見番)の異名をもつハンネン・スワッハーの名を冠して〝ハンネン・スワッハー・ホームサークル〟を正式の名称とした。

 そのメンバーのうちの三人は世襲的にはユダヤ教徒であり、さらに三人はキリスト教徒だった。が、シルバーバーチと名のるその霊は 
 「我々が忠誠を捧げるのは一つの教義でもなく、一冊の書物でもなく、一個の教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の大自然の摂理です」
と語るのだった。

 一人の人間が人類全体の命運を左右することは現実に有りうることである。イエスがそうだったし、ヒトラーがそうだった。このモーリス・バーバネルとシルバーバーチという二つの世界にまたがるコンビは、以来、数え切れないほどの人々の人生を変え、悲しむ人には慰めを、絶望の淵に沈む人には希望を与え、今や世界のすみずみまでその愛好者が増えつつある。

 ところで、そのシルバーバーチとはいったい何者であろうか。

 それについては、最も身近かな存在である霊媒のバーバネルも、一九二〇年に始めて入神させられてシルバーバーチのマウスピースとなった時に何も知らなかったことは、間違いない事実である。そしてそれから六十一年後に他界するまで、もしかしたら知っていたかも知れないが、ひとことも口にしていない。

 が、彼はその六十一年の歳月を支配霊シルバーバーチの語るメッセージを世界中に広めることに献身した。他界する当日まで倦むことなく忠実にその使命を全うし続けた。本書には彼による最後の交霊会の霊言が収録されている。

 私はこの霊言集を次の三人の先達に捧げたい。すなわち優れた編集者であり、ジャーナリストであり、作家であり、また実業家としての才も見せた霊媒のモーリス・バーバネル、四十九年間にわたってその地上での良き伴侶であった奥さんのシルビア、そしてサークルのメンバーであり同時に霊言の速記者でもあったフランシス・ムーア女史である。                  パム・リーバ



 一章 シルバーバーチの挨拶

 私たち霊団の者は、一種名状しがたい暗闇に包まれている地上各地において、大々的救済活動に従事しております。霊の光がその暗闇を突き破り、人間が全生命の根源──物質的に精神的に霊的に豊かにする崇高な霊力の恩恵にあずかれるようにしてあげなければならないのです。

 進歩は遅々たるものです。克服しなければならない障害が山ほどあります。が、着実に進展しつつあります。各地に新しい橋頭堡が築かれつつあります。霊力はすでに地上に根づいております。それが、幾百万とも知れぬ人々に恩恵をもたらすことでしょう。

 私をはじめ、私を補佐してくれる霊団の者、そして地上にあって私たちの道具となってくれるあなた方は、この気高い事業に奉仕する栄誉を担っているわけです。それ故にこそわれわれは、双肩に託された信頼をいかなる形にても汚すことのないように心掛ける責任があると言えます。

あなた方は霊力を活用する立場にあります。私も同じです。そして必要とあれば私は、こうして私たちがあなた方のために尽力しているように、あなた方が他人のために自分を役立てるための霊力を、さらに余分に引き出すこともできます。

 これまでに啓示していただいた知識のおかげで、われわれは背後に控える力が地上のいかなる霊力よりも強大であるとの認識によって、常に楽観と希望をもって臨んでおります。敗北意識を抱いたり意気消沈したりする必要はありません。

すべて神の計画どおりに進行しており、今後もそれは変わりません。人間が邪魔することはできます。計画の進展を遅らせることはできます。が、宇宙最高の霊が地球救済のために開始した計画を台なしにしてしまうことはできません。

 われわれが有難く思うべきことは、地上的なものが提供してくれるいかなるものにも優る、物質の領域を超えた、より大きくより美しい生命の世界をかいま見ることを可能にしてくれる霊的知識を手にしていることです。

その世界には、地上に豊かな恩恵をもたらす霊力の道具としての人間を援助し鼓舞し活用することを唯一の望みとしている、進化せる高級霊が存在することをわれわれは、信仰ではなく事実として認識しております。

 その霊力は病気を癒やし、悲しむ人を慰め、道を失った人を導き、無知を知識に置きかえ、暗闇を光明に置きかえ、生きる意欲を失った人には元気を与え、真理に渇いた人の心をうるおし、真の自我を見出そうとする人には神の計画に基づいたガイドラインを提供してあげます。

 援助を求める祈りが聞かれないままで終わるということはありません。人のために何か役立つことをしたいという願いが何の反応もなしに終ることはありません。霊界においては、自分より恵まれない人のために役立てる用意のある地上の人間を援助せんとして万全の態勢を整えております。

ただ単に霊感や啓示を手にすることができるというだけではありません。霊力という具体的なエネルギーの働きかけによって、受け入れる用意のできた魂にふんだんに恩恵がもたらされるのです。
 
 その道具として、内部の神性をより多く発揮すべく、進化と発達と開発のために不断の努力を怠らないというのが、われわれの絶対的な義務です。

 生命に死はありません。墓には生命を終わらせる力はありません。愛にも死はありません。なぜなら愛は死を超えたものだからです。この生命と愛こそ、われわれが所有しかつ利用することのできる大霊の絶対的神性の双子(ツイン)です。それを発達させ開発させることによって、われわれより恵まれない人々のために、他の資質とともに活用することができます。

 今の地上は大霊すなわち宇宙の神よりも富の神マモンを崇拝する者の方が多くなっております。本来ならば人間生活を豊かにする霊的知識を携えた霊的指導者であるべきはずの宗教家がまずもって無知なのです。

霊的真理とは何の関係もない、人間が勝手にこしらえた教義や信条やドグマを信じ、それに束縛されているからです。洞察力に富んでいなければならない立場の人みずからが、悲しいかな、一寸先も見えなくなっているのです。

 そのために、霊の力を地上に顕現させ、生命と愛とが永遠であるとの証拠を提供し、医者に見放された患者を治してあげることによって霊力の有難さを味わわせてあげるためには、いろいろとしなければならないことがあるわけです。

 霊力の機能はそれ以外にもあります。日常の生活において他のすべての策が尽きたと思えた時の支えとなり、指示を与え、導きます。

宇宙機構の中における地上の人生の目的を認識することによって、各自がその本性を身体的に精神的に霊的に発揮できる道を見出し、かくして、たとえわずかな間とはいえ、この地上での旅によって、これ以後にかならず訪れる次のより大きい生命の世界に備えて、大自然の摂理の意図するままに生きられるように導いていきます。

 自分はこれからどうなるだろうかという不安や恐怖を抱く必要はどこにもありません。霊は物質に勝るのです。大霊はいかなる地上の人間よりも強大な存在です。いつかは必ず神の計画どおりになるのです。

 そのためには、あなた方人間の一人ひとりに果たすべき役割があります。いま住んでおられるところを、あなたがそこに存在するということによって明るく豊かにすることができるのです。そのための指針はあなたが霊的に受け入れる用意ができたときに授けられます。

 いったん宇宙の最大の力とのつながりができたからには挫折は有り得ないことをご存知ならば、いつも明るく信念と希望に燃えてください。あなたを愛する霊たちがいつでも援助に参ります。

あなたと地上的な縁によってつながっている霊だけではありません。霊的知識を地上全体に広めるためにあなたを霊的通路として活用せんとしている上層界の霊である場合もあります。

 私からのメッセージはいつも同じです───くよくよせずに元気をお出しなさい、ということです。毎朝が好機の訪れです。自己開発のための好機であると同時に、あなた自身ならびに縁によってあなたのもとを訪れる人々の地上での目的が成就される、その手段を提供してくれる好機の訪れでもあります。


  シルバーバーチの祈り

 私ども一同は、暗黒と無知と迷信と利己主義と暴力、そのほか地上のガンともいうべき恐ろしい害毒を駆逐することによって、神の永遠の創造活動にわれわれならではの役目を果たすことができますよう祈ります。

 私どもの仕事は、そうした害毒に代わって、神の子等が内部にその可能性を宿している燦爛たる光輝を発揮させる崇高な知識を授けることです。

これまでに私どもが授かった恩恵への感謝の表明として、私どもは今後ともその崇高な叡智と霊力の通路たるにふさわしい存在であり続け、恵まれない人々を救い他の人々に救いの手を差しのべ、生き甲斐ある人生の送り方を教える、その影響力の及ぶ範囲を強化し、そしてますます広げていく上で少しでもお役に立ちたいと祈る者です。

 ここに、常に己を役立てることのみを願うインディアンの祈りを捧げます。

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


第24章 灯りを升の下に置いてはいけない 

升の下の灯り。何故イエスはたとえ話で話すのか
一、灯りを灯して、それを升の下に置く者はいません。むしろ、ランプ台の上に置き、家中のものを照らすようにします。(マタイ 第五章 15)


二、灯りを灯した後、それを壺で覆ったり、ベッドの下に置いたりする者はいません。ランプ台の上に置き、入ってくる者が光を見ることができるようにするのです。隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはありません。(ルカ 第八章 16,17)


三、イエスに近づくと、使徒たちは言った、「なぜ彼らにたとえ話で伝えるのですか」。答えて言われた、「なぜなら、あなたたちには天の国の謎が解き明かされましたが、彼らには解き明かされていないからです(→FEB版注1)おおよそ、持つ者により多くを与えれば、より豊かになりますが、持たない者からは、持つものさえも奪われるでしょう。

だから彼らにはたとえ話で伝えるのです。それは彼らが、見えても何も見ず、聞こえても何も聞かず、また理解しないからです。彼らには次のように言ったイザヤの預言が当てはまります。

『あなたたちはその耳で聞くが何も理解せず、その目で見るが何も見えない』。なぜなら、民の心は鈍くなり、耳は聞こえにくくなってしまい、目は閉ざされてしまったからです。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて癒されることがないためです」。(マタイ 第十三章 10-15)


四、たとえ話というベールに隠して、誰にでも理解できるとは限らぬ方法で話したイエス自身が、灯りを升の下に置いてはならないといったのは驚くべきことです。

イエスは使徒たちに次のように言って説明します。「彼らにはたとえ話で伝えます。なぜなら彼らはある種の事柄については理解できる状態にないからです。人々は見て、聞くが理解しません。

だから、今はすべてを伝えることは無益なのです。しかし、これらの謎があなたたちには理解されるので言います」。つまり、イエスは考えの未発達な子どもと対峙するときのように、当時の人々にたいして語りかけたのです。これを理解することで、「灯りを升の下に置いてはなりません。

そうするのではなく、ランプ台の上に置き、入ってくる者誰もが見ることができるようにしなさい」という言葉の本当の意味が見えてきます。この言葉は、なにも考慮せずにすべてのことを示すべきだという意味ではありません。

どんな教えも、指導の対象となる人の知性に合わせて示されるべきです。なぜなら、光が明るすぎると、目がくらんでしまい、啓発されることのない人々もいるからです。

 同じことがある特定の個人にあてはまることもあれば、一般の人々にあてはまることもあります。一つの世代にはその幼少期、青年期、成熟期があります。それぞれの出来事がそれにふさわしいときに起こらなければなりません。季節外れに地上に落ちた種は発芽しません。

しかし、慎重に扱うことによって一時的に隠された内容も、いずれ発見されることになるでしょう。なぜなら、ある程度の発達の度合いに達すると、人類は自ら生きた光を求めることになるからです。

闇は人類にとって負担となるのです。神は人類が地上と天における物事を理解し、その中で進んでいけるように人類に知性を託したため、人はその信仰を理性に照らして合わせることになるのです。

だから灯りを升の下に置いてはならず、なぜなら、理性の光なしには、信仰は衰弱してしまうからです(→第十九章 7)。

    
五、もし神意が、その予見可能な知性によって真理を徐々に啓示していくことにあるのであれば、人類がどのくらいの成熟度に達したかを見極めたうえで、それに見合った真理を知らせることになります。

真理は升の下に置かれるのではなく、将来に向けて温存されるのです。しかし、人類はそうした真理を手に入れると、それを支配してしまおうと、自分が知り得た真理を人々から隠してしまいます。

こうした場合、それはまさに光を升の下に置いていることになるのです。あらゆる宗教にはそうした神秘があり、それを吟味することも禁じられているのです。しかし、そうした宗教が衰退していくのに従って、科学や知性が発達し、秘密のベールを取り除いていきました。

人々は大人になると物事の根底にまで入り込むことを覚え、観察に反する事柄を、その信念によって消去したのです。

 絶対的な謎は存在しえず、人に知られることのない秘密は何もないとイエスの言うことは理にかなっています。隠されたものはいつの日か必ず発見され、人類がいまだに理解できないものは、人類がより浄化した時、進歩した世界において次から次へと明らかにされていくでしょう。ここ地球上では、それらのことがまだ霧中にあるのです。

   
六、「意味が理解されないこれらの多くのたとえ話に、どんな利用価値があるのでしょうか」と聞かれます。しかし、イエスはその教義の、いうならば抽象的な部分についてのみ、たとえ話で表現したことに注目しなければなりません。

救いの基本的な条件を隣人に対する慈善と謙虚さであるとし、これらのことについて言ったことは、少しの曖昧さも残さずにこの上なく明確に示しました。それは行動の規則であり、すべての者がそれを理解し、それに従わなければならなかったために、明確に示す必要があったのです。

「これが天の国を得るために行わなければならないことである」とだけ言ったことが、無知な大勢の人々のために示した本質的な部分であったのです。

その他のことについては、使徒たちにのみその考えを明かしました。彼らが道徳的にも知性的にもより進歩していたため、イエスはより抽象的な真理の知識を伝授することができたのです。その時に言いました。

「すでに持つ者はより多くが与えられ、豊かになるであろう」(→第十八章 15)

 しかし、使徒たちにさえも、多くの点については不明確なままとなり、完全な理解はその後の時代へと持ち越されました。そして、そうした点は、一方で科学が、またもう一方でスピリティズムが自然の新しい法則を明らかにし、その真なる意味が理解されるようになるまで、多様な解釈を生む機会を与えられることになったのです。


七、スピリティズムは今日、多くの不明確な点に光を投じます。しかしむやみに光を投じるのではありません。霊たちは驚くべき慎重さを持って指導を与えます。

教義の中のすでに知られた部分についても、徐々に、しかも継続的に考慮され、その他の部分については、それが明確にされるべき時が訪れるに従って明らかにされるよう残されます。

もし最初から完全な形で示されていたなら、ほんの少数の人々にしかそれに近づくことはできなかったでしょう。それらを受ける準備のない人々はそれに驚いてしまい、その教義の普及には逆効果となってしまうでしょう。

もし、霊たちがいまだにすべてを明らかに伝えていないのであれば、それは教義の中に一部の特権的な者たちだけが知ることのできる謎が存在するからでもなければ、升の下に灯りを置いているからでもありません。

それは一つ一つの事柄が、それを知るのに適した時に現れる必要があるからなのです。

霊たちは一つ一つの考えに対してその後に続く考えを示す前に、機が熟し広まるまで時間を与え、後の続く考えが受け入れるための準備となる出来事がおこることにも時間を与えるのです。


 異邦人たちのところへ行ってはならない
八、イエスはこの十二人をつかわすにあたり、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはなりません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊を探しに行きなさい。そして行った先では、天の国が近づいたことを説きなさい」。(マタイ第十章 5-7)


九、どのような時においても、イエスの目はユダヤの民だけに限って向けられていたのではなく、人類全体に向けられていました。ですから、使徒たちに異教徒のもとへ行ってはいけないと言っているのは、彼らの改宗を軽蔑していたからではないはずです。

さもなければ、それは慈善に反することになってしまいます。ユダヤ人たちはすでに唯一の神を信じ、救世主の出現を待っていたのであり、モーゼの律法や預言者たちによって、使徒たちの言葉を受け入れる準備ができていました。

しかし、異教徒たちにはそうした基礎がなく、行わなければならないことがすべて残されており、使徒たちは異教徒たちに教えを伝える重い任務を果たすほど博学ではなかったのです。だからイエスは次のように言ったのです。

「イスラエルの家の失われた羊を探しに行きなさい」。つまり、すでに教化された土地に種を蒔きに行きなさいということだったのです。イエスは、異邦人の改宗が時とともに進むことを知っていました。後になって使徒たちは、異教の中心部へ十字架を掲げに行ったのです。


十、これらの言葉は、スピリティズムを受け入れ、広めようとする人々にもあてはまります。体系的な不信心者や、それをあざける頑固な者たち、たくらみを持った敵対者たちは、使徒たちにとっての異邦人と同じです。

ゆえに彼らを模範として、第一に、発芽間近な種を持った、光を求める数多くの意欲ある者たちの中に改宗者を探し、見たり聞いたりすることも嫌がるような、自分の改宗に関わる度合いが高くなるほど自尊心によってますます抵抗する人々に、無駄な時間を費やさないようにしなければなりません。

光を求める百人の盲目者の目を開くことの方が、闇にいることを喜ぶ一人の目を開くことよりも価値のあることであり、その方が問題に対する支持者の数を大きな割合で増やすことができるのです。他の者たちをそのままにしておくことは無関心を示すことではなく、より賢明な手段なのです。

その思想が一般の人々の意見として支配するようになった時には、受け入れることを拒んでいた人たちも、その周りにいる人たちから同じことを繰り返し聞かされることになるのです。

そうすれば、彼らは他人からの圧力によってではなく、自らの意志によって、その思想を受け入れることになります。また、種のように扱われるべき思想もあります。

適切な季節が来なければ発芽することができなかったり、前もって準備された土地に蒔かなければ発芽できない種があるため、適切な時期を待ってから種を蒔き、機が熟してから、発芽したものを栽培する方が良く、過度の栽培によって他の発芽を失敗させてしまうことがないようにしなければなりません。

 イエスの時代には、当時、狭い物質的な考え方が支配していたために、すべてが限定された局地的なものでした。イスラエルの国は一つの小さな民族であり、異邦人たちとは、その周辺に存在した別の小さな民族のことを指しました。

今日人々の考えは普遍化され、霊的なものになっています。新しい光は特定の国の特権をなすものではありません。その焦点はあらゆる場所へ向けられており、全人類が兄弟であるために障壁は存在しないのです。

また、異邦人とは特定の民族を指すのではなく、あらゆる場所で出合うさまざまな意見のことを指し、キリスト教が多神教に対して勝利したのと同じように、少しずつ真理が打ち勝っていくことになるのです。それらはもはや武力や戦争によって撃退されるのではなく、思想の強さによって打ち勝っていくのです。


    
 医者を必要としているのは健康な者ではない
十一、イエスがこの者(マタイ)の家で食卓についておられた時、多くの徴税官や罪人たちがやって来て、イエスや使徒たちと同じ食卓についていた。

ファリサイ人たちはそれを見ると使徒たちに言った、「あなたたちの先生はなぜ、徴税官や罪人たちとともに食事をするのですか」。これを聞いてイエスは言われた、「医者を必要としているのは健康な者ではないのです」。(マタイ 第九章 10‐⒓)


十二、イエスは主に貧しい者や資産を持たない者たちに近づきましたが、それは彼らこそが慰安をより必要としている者たちだったからです。イエスに視力を与えてくれるように頼む、信心深く心優しい盲者に近づき、すべての光を有し、なにも必要ではないと考えるうぬぼれ者には近づきませんでした。(→序章 Ⅲ「パブリカン(徴税官)」「関税徴収人」)

この「医者を必要としているのは健康な者ではないのです」という言葉には、その他多くの言葉のように、スピリティズムにもその適用を見つけることができます。

まれに霊媒能力が、それを悪用する可能性のあるような、それにふさわしくない人に授けられていることがあり、驚く人々がいます。そのような貴重な能力は、最もそれにふさわしい人たちに与えられるべきだと言います。

 なによりもまず、霊媒性というものが肉体器官上の性質に付属するもので、どんな人であれ、見たり、聞いたり、話したりする霊媒性を授かることができるということを述べておきます。しかし、人間には自由意志があり、濫用しようと思えばできてしまいます。

たとえば、もし神が、悪い言葉を発言しないような者にしか言葉を与えていなかったとしたら、言葉を話せない人の方が、話せる人の数よりも多くなってしまいます。神は人類に能力を託し、それを利用する自由を与えますが、それを濫用した者は罰せられるのです。

もし霊と通信する能力がそれにふさわしい者たちだけに与えられるのだとすれば、誰があえてそうなることを望むでしょうか。さらには、ふさわしさとそうでないことの境界はどこにあるのでしょうか。

霊媒性は差別なく人々に与えられ、その為に霊たちは貧しい者から裕福な者に至るまで、あらゆる身分や社会階層に光をもたらすことができ、正しく歩む者はさらに善において強くなり、悪癖の多い者はそれを正すことになるのです。この後者が医者を必要とする病人たちではありませんか。

罪人の死を望んでいない神は、その人をぬかるみから引き出すことのできる救済手段をどうして奪うことがあるでしょうか。善霊たちが彼らのもとへ助けにやって来て、直接忠告を与えるのは、間接的に与える場合よりも、より鮮明に印象付けることができるからなのです。

神はその善意によって、人が遠くまで助けを求めに行かなくてもよいように、私たちの手に光を与えます。それを見たくないというのであれば、その責任はその人にあると言えないでしょうか。

自分に対する非難を自分の手で書き、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の口で唱えていながら、光を無駄にすることを自分の無知のせいにすることができるでしょうか。直接与えられた光を有効に利用しないのであれば、託されたその能力を奪われたり、能力が異常となり、罰せられます。

その場合には、悪い霊たちが憑依したり騙そうとしたりして、その能力を利用することになりますが、その苦しみとは、エゴイズムと自尊心によって心の固くなってしまった、神に罰せられた恥ずべき奉仕者が感じる本当の苦しみとはまた別の苦しみとなるのです。

 霊媒性は、必ずしも優秀な霊たちとの習慣的な関わり合いを意味するのではありません。それは一般的に、霊に対しておよそ従順な道具として仕えるための単なる素質に過ぎません。

したがって、よい霊媒とは容易に通信する者のことではなく、善霊たちに同情を引き起こさせる者のことで、善霊たちだけから助けを受ける者のことを指すのです。卓越した道徳性が霊媒能力に万能の影響を与えることができるのは、唯一こうした場合のみなのです。


 信仰の持つ勇気
十三、私のことを人々の前で認める者については、私も天にいる父の前にその者を認めるでしょう。私を人々の前で裏切る者は、私も天にいる父の前でその者を裏切ることになるでしょう。(マタイ 第十章 32,33)


十四、もし誰かが私のことや私の言葉を恥じるのであれば、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる天使の栄光のうちに現れて来る時、その者のことを恥じるでしょう。(ルカ 第九章 26)

   
十五、勇気を持って自分の意見を言うことは、多くの敬意を表されるべきこととして考えられてきました。なぜなら、すべての人々に認められていない考えを恐れを抱かずに公に発表する人は、ほとんどいつも危険や迫害、反発、あるいは単なる皮肉にさらされるからで、それを乗り越えればその功績は讃えられます。

いずれの場合においてもそうであるように、ここでもその功績とはそれを乗り越えた時の状況や、もたらされる結果の重要性に応じています。その考えが引き起こす結果を知る前に、後退したり、それを否定してしまう弱さというものは、いつも存在します。そのような場合、臆病な気持ちが勝り、戦いの途中で逃げ出してしまう場合もあります。

 イエスはその教義にもとづく特別な視点から、こうした臆病さを打ち消すために、イエスの言葉を恥じる者がいれば、その者も恥じられることになるといいました。イエスを裏切る者は裏切られ、人類の前でイエスを認めた者は、天にいる父なる神の前でも認められると言ったのです。

言い換えれば、真実の使徒として自分を認めることに恐れを感じた者は、真実の国において認められるにはふさわしくないのです。支えとする信仰の利益は失われることになります。なぜなら、そうした信仰は、この世で不利益が出ないようにと隠して自分のためだけにしまっておく利己的な信仰となってしまうからです。

一方で、自分の物質的な関心よりも優先させて真実を掲げ、公に宣言する者は、自分自身の未来と他人の未来のために働いていることになります。


十六、スピリティズムを受け入れる者にも、同じことがあてはまります。なぜなら、彼らが行う教義とは福音の適応と発展に他ならず、彼らにもキリストの言葉が差し向けられるからです。彼らは霊界で刈り取るものの種を地上に蒔くのです。霊界では、その勇気か弱さの結果を刈り取ることになります。  


 十字架を背負う。
 命を救いたい者は命を失うことになる
十七、人の子のせいで人々があなたたちのことを憎み、排斥し、あなたたちの名前を悪しき名前としてののしり、汚名を着せる時、あなたたちは幸いです。

その日には喜びにおどりなさい。なぜなら、あなたたちには天において大きな報酬が蓄えられるからです。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのです。(ルカ 第六章 22,23)


十八、民衆や使徒たちを呼びよせると、イエスは言われた、「私について来たいと思う者はみな、自分を捨て、十字架を背負い、私に従って来なさい。なぜなら、自分を救おうと思う者は道に迷うからです。

私と福音のために自分の命を失う者は救われるでしょう。まったく、世界中を征服したとしても自分の命を失ってしまったら、何の得になるでしょうか」。(マルコ 第八章 34-36、ルカ 第九章23-25、マタイ 第十章 38,39、ヨハネ 第十二章 25,26)


十九、「私のせいで人々があなたたちを憎み、あなたたちを迫害するのであれば、そのことは天において報われるので喜びなさい」とイエスは言いました。これらの真実は次のように解釈できます。

「あなたたちに対する悪意によってあなたたちに信仰の誠実さを試す機会を与えてくれたなら、彼らがあなたに行う悪はあなたたちのためになるのだから喜ばしく思いなさい。彼らが盲目であることを悲しんでも、彼らをののしってはいけない」。

その後にはこう付け加えます。「私について来たい者は十字架を背負いなさい」。つまり、あなたちの信仰が引き起こす苦難に勇気を持って耐えなければなりません。なぜなら、キリストを放棄することによって自分の命や財産を救おうとする者は、天の国における利益を失うことになるからです。

一方で、真実の勝利のために、命に至るまでの全てをこの世で失った者は、自ら証明した勇気と忍耐と甘受に対する報酬を得ることになります。反対に、天における富を地上の快楽のために犠牲にしてしまう者に対して神は、「もうすでに報酬は受け取っている」と言うでしょう。

●FEB版注1
フランス語原文にはマタイ 第十三章、十二節が欠落していたのでここに記載しました。ーFEB1948

Sunday, June 14, 2026

シルバーバーチの霊訓(九)

 Philosophy of Silver Birch 

 by Stella Storm



十三章 おしまいに


    「私は、こうした形で私にできる仕事の限界をもとより承知しておりますが、同時に自分の力強さと豊富さに自信をもっております。自分が偉いと思っているというのではありません。私自身はいつも謙虚な気持ちです。

本当の意味で謙虚なのです。というのは、私自身はただの道具に過ぎない───私をこの地上に派遣した神界のスピリット、すべてのエネルギーとインスピレーションを授けてくれる高級霊の道具にすぎないからです。が、私はその援助のすべてを得て思う存分に仕事をさせてもらえる。その意味で私は自信に満ちているのと言っているのです。

 私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると自信をもって語ることができます。霊団が指図することを安心して語っていればよいのです。

威力と威厳にあふれたスピリットの集団なのです。進化の道程をはるかに高く昇った光り輝く存在です。人間全体の進化の指導に当たっている、真の意味での霊格の高いスピリットなのです。

 私自身はまだまだ未熟で、けっして地上の平凡人からも遠くかけ離れた存在ではありません。私にはあなた方の悩みがよく分ります。私はこの仕事を通じて地上生活を永いあいだ味わってまいりました。

あなた方 (レギラーメンバー)お一人お一人と深くつながった生活を送り、抱えておられる悩みや苦しみに深く関わってきました。が、振り返ってみれば、何一つ克服できなかったものがないことも分かります。

 霊力というのは必要な条件さえ整えば地上に奇跡と思えるようなことを起こしてみせるものです。私たちは地上の存在ではありません。霊の世界の住民です。地上の仕事をするにはあなた方にその手段を提供していただかねばなりません。

あなた方は私たちの手であり、私たちのからだです。あなた方が道具を提供する───そして私たちが仕事をする、ということです。

 私には出しゃばったことは許されません。ここまではしゃべってよいが、そこから先はしゃべってはいけないといったことや、それは今は言ってはいけないとか、今こそ語れといった指示を受けます。私たちの仕事にはきちんとしたパターンがあり、そのパターンを崩してはいけないことになっているのです。

いけないという意味は、そのパターンで行こうという約束ができているということです。私より勝れた叡智を具えたスピリットによって定められた一定のワクがあり、それを勝手に越えてはならないのです。

 そのスピリットたちが地上経綸の全責任をあずかっているのです。そのスピリットの集団をあなた方がどう呼ぼうとかまいません。とにかく地上経綸の仕事において最終的な責任を負っている神庁の存在です。私は時おり開かれる会議でその神庁の方々とお会いできることを無上の光栄に思っております。

その会議で私がこれまでの成果を報告します。するとその方たちから、ここまではうまく行っているが、この点がいけない。だから次はこうしなさい、といった指図を受けるのです。

 実はその神庁の上には別の神庁が存在し、さらにその上にも別の神庁が存在し、それらが連綿として無限の奥までつながっているのです。神界というのはあなた方人間が想像するよりはるかに広く深く組織された世界です。が、地上の仕事を実行するとなると、われわれのようなこうした小さな組織が必要となるのです。

 私たちはひたすら人類の向上の手助けをしてあげたいと願っております。私たちも含めて、これまでの人類が犯してきた過ちを二度と繰り返さないために、正しい霊的真理をお教えする目的でやってまいりました。

そこから正しい叡智を学び取り、内部に秘めた神性を開発するための一助としてほしい。そうすれば地上生活がより自由でより豊かになり、同時に私たちの世界も地上から送られてくる無知で何の備えもできていない、厄介な未熟霊に悩まされることもなくなる───そう思って努力してまいりました。

 私はいつも言うのです。私たちの仕事に協力してくれる人は理性と判断力と自由意志とを放棄しないでいただきたいと。私たちの仕事は協調を主眼としているのです。決して独裁者的な態度は取りたくありません。人間をロボットのようには扱いたくないのです。

死の淵を隔てていても友愛の精神で結ばれたいのです。その友愛精神のもとに霊的知識の普及に協力し合い、何も知らずに迷い続ける人々の心とからだと魂に自由をもたらしてあげたいと願っているのです。

 語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しない時は、かまわず拒絶なさるがよろしい。人間には自由意志が与えられており、自分の責任において自由な選択が許されています。

私たちがあなた方に代わって生きてあげるわけにはまいりません。援助はいたしましょう。指導もいたしましょう。心の支えにもなってあげましょう。が、あなた方が為すべきことまで私たちが肩がわりしてあげるわけには行かないのです。

 スピリットの中にはみずからの意志で地上救済の仕事を買って出る者がいます。またそうした仕事に携われる段階まで霊格が発達した者が神庁から申しつけられることもあります。私がその一人でした。私はみずから買って出た口ではないのです。しかし、依頼された時は快く引き受けました。

 引き受けた当初、地上の状態はまさにお先真っ暗という感じでした。困難が山積しておりました。が、それも今では大部分が取り除かれました。まだまだ困難は残っておりますが、取り除かれたものに較べれば物の数ではありません。

 私たちの願いは、あなた方に生き甲斐ある人生を送ってもらいたい。持てる知能と技能と才能とを存分に発揮させてあげたい。そうすることが地上に生をうけた真の目的を成就することにつながり、死とともに始まる次の段階の生活に備えることにもなる───そう願っているのです。

 私は理性を物事の判断基準として最優先させています。私を永いあいだご存知の方なら、私が常に理性を最高の権威ある裁定者としてきていると申し上げても、これまでの私の言説と少しも矛盾しないことを認めてくださると信じます。

 こちらでは霊性がすべてを決します。霊的自我こそすべてを律する実在なのです。そこでは仮面(マスク)も見せかけも逃げ口上もごまかしも利きません。すべてが知れてしまうのです。

  私に対する感謝は無用です。感謝は神に捧げるべきものです。私どもはその神の僕(しもべ)にすぎません。神の仕事を推進しているだけです。喜びと楽しみをもってこの仕事に携わってまいりました。もしも私の語ったことがあなた方の何かの力となったとすれば、それは私が神の摂理を語っているからにほかなりません。

 あなた方は、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。が、信じてください。私も物事を感じ、知り、そして愛することのできる能力を具えた、実在の人間です。

こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことかも知れません。

 では最後に皆さんと共に、こうして死の淵を隔てた二つの世界の者が幾多の障害を乗り越えて、霊と霊、心と心で一体に結ばれる機会を得たことに対し、神に感謝の祈りを捧げましょう。


 神よ、かたじけなくもあなたは私たちに御力の証を授け給い、私たちが睦み合い求め合って魂に宿れる御力を発揮することを得さしめ給いました。あなたを求めて数知れぬ御子らが無数の曲りくねった道をさ迷っております。

幸いにも御心を知り得た私どもは、切望する御子らにそれを知らしめんと努力いたしております。願わくはその志を良しとされ、限りなき御手の存在を知らしめ給い、温かき御胸こそ魂の憩の場なることを知らしめ給わんことを。

 では、神の御恵みの多からんことを」

               
   
 解説〝霊がすぐ側にいる〟と言うことの意味
      
 本書は Philosophy of Silver Birch by Stella Storm の全訳である。全訳といっても、動物愛護運動家のデニス夫妻を招待した時の交霊の様子は全巻の(八)に引用したし、宗教教育に関する章は(四)の九章に出ているので当然カットした。その替わりとしてシルビア・バーバネルの More Wisdom of Silver Birch (七)からカットしておいた 「イエス・キリストについての質問に答える」 と 「自殺に関する二つの投書」 を引用した。

  なお巻末にシルバーバーチの名言が断片的に集めてあるが、これは最終巻の総集編に入れたいと考えている。

 編者のステラ・ストーム女史については 「まえがき」 の中で自己紹介してくれていること以外のことは分からない。

 さて、本書を訳していて目についたことは,シルバーバーチの文句に〝すぐ側にいます〟とか 〝いつもいっしょです〟といった表現が多いことである。シルバーバーチ自身のことを言っている場合もあるし、他界した肉親・知人のことを言っている場合もある。

 これを文字どおりに受け取って距離的にすぐ側にいると解釈してよい場合もあろうが、霊的に言えば、たとえ霊的身体はその場に存在しなくても、時間・空間の法則が地上の物理法則と異なる次元においては、いっしょにいるのと同じ関係を維持することができる。

 が、よく考えてみると、物理法則の支配を受ける肉体に霊が宿っているのが地上の人間であるから、その肉体を超越さえすれば、この地上における人間どうしの関係においても同じことがいえることになる。

 ただ、現段階の人類は霊性の発達が十分でなく五感でしか存在感が得られないために、目に見え肌で触れないことには実在している気がしないというにすぎない。たとえば学校へ行っている子供と家庭にいる母親とは霊的には〝いっしょにいる〟のであり、〝すぐ側にいる〟と言ってもよいのである。

 そのことは心霊現象を見ればよく分かる。いちばん良い例がリモートコントロール式の霊言および自動書記現象である。最近出たばかりの 『インペレーターの霊訓』 (モーゼスの 『霊訓』 の続編)の〝まえがき〟の中で私は霊界と地上との交信の原理の概略を解説しておいたが、その中に直接書記というのがある。

 これは霊媒は手に何も筆記用具を持たずにただ入神しているだけで、その筆記用具がひとりでに動いてメッセージを綴るという現象である。その原理を背後霊団がモーゼスに見せるために幽体離脱(体外遊離)の状態にさせて実際に霊が筆記を行っている場面を披露するところがある。その場面を抜粋すると───

 《気がつくと自分の身体のそばに立っていた。例のノートを前にしてペンを右手に持って座っている。私はその様子とあたりの様子とを興味ぶかく観察した。自分自身のからだが目の前にあり、そのからだと自分とが細い光の紐によってつながっている。部屋中の物的なものがことごとく実体のない影のように見え、霊的なものが固くて実体があるように見えた。

 その私の身体のすぐうしろにレクターが立っていた。片手を私の頭部にかざし、もう一方をペンを握っている右手にかざしている。さらにインペレーターと、これまで永いあいだ私に影響を及ぼしてきた霊が数人いた。そのほかに私に見覚えのない霊が出入りして、その現象を興味ぶかそうに見守っていた。

 天井を突き抜けて柔らかい心地よい光が注がれており、時おり青味を帯びた光線が幾本か私の身体に向けて照射されていた。そのたびに私の身体はぎくりとし、震えを見せた。生命力が補給されていたのであろう。

 さらに気がつくと戸外の光も薄れて窓が暗く感じられた。したがって部屋の中が明るく見えるのは霊的な光線のせいだった。私に語りかける霊の声が鮮明に聞こえる。人間の声を聞くのと非常によく似ているが、そのひびきは人間の声より優美で、遠くから聞こえてくるような感じがした。

 インペレーターによると、これは実際のシーンで、私に霊の働きを見せるために用意したとのことだった。レクターが書いているのだが、私の想像とは違って、私の手を操っているのではなく、また私の精神に働きかけているのでもなく、青い光線のようなものを直接ペンに当てているのだった。つまりその光線を通じて通信霊の意志が伝わり、それがペンに綴らせているのだった。

 私の手が道具にすぎず、それも必ずしも無くてはならぬものでもないことを示すために、光線がそのペンを私の手から離し、用紙の上に立たせ、さらに驚いたことに、それが用紙の上を動きはじめ、最初に掲げた文章(省略)を綴ったのである》

 右の場合は距離的にはすぐ近くであるが、〝青い光線のようなもの〟はいくらでも延ばすことができる。それなりに余分のエネルギーが要るのであるが、同じ方法が霊言現象にも応用することができる。同じ『インペレーターの霊訓』の第一部〝霊言による霊訓〟の中に次のような箇所がある。

《地上へ降りてくる高級霊は一種の影響力のようなものであり、言わば放射性エネルギーです。あなた方が人間的存在として想像するものとは異なり、高級界からの放射物のようなものです。高等な霊信の内容の非個人性に注目していただきたい。

 この霊媒(モーゼス)との関わりをもった当初、彼はしつこく我々の身元の証明を求めました。が、実は我々を通してさまざまな影響力が届けられております。

 死後、首尾よく二段階三段階と昇った霊はあなた方のいう個体性を失い、形体なき影響力となって行きます。私は地上界へ戻れるぎりぎりの境涯までたどり着いています。が、距離には関係なく影響力を行使することができます。私は今、あなた方からはるか彼方にいます》


 霊的なことはすべてバイブレーションの原理によるのであるから、波長さえ合えば、ちょうど国際電話でもすぐお隣りと話をしているみたいに聞こえるように、すぐ身のまわりにいるのと同じ親近感が味わえるし、波長が合わなければ、すぐ近く、否、まったく同じ位置にいても、まったく反応し合わないことにもなる。

すべてを解くカギはバイブレーションの原理にある。それを劇的に演出してみせた例がスカルソープの 『私の霊界紀行』 に出ている。


 《初期の頃のことであるが、離脱してひとまず事務所のようなところへ案内され、そこで指導霊だけが中へ入って指示を受けるあいだ私だけ外で待たされるということがたびたびなので、私もいい加減その場所と波長にうんざりしはじめていた。

 そんな時にまた同じ場所へ連れて行かれたので、つい心の中で 〝ちぇっ、またここか〟とつぶやいた。 すると一瞬のうちに場面が一変し、退屈な風景から明るく楽しい田園風景の中に立っていた。その変わりようは驚異的だった。指導霊の私への支配力が増し、私の波長がその楽しい場所の波長に高められたのであるが、私の身体は少しも動いていなかった》


 この原理を発展させていけばキリがないが、一つだけ誤解を解いておきたいことがあるので、最後にそれを指摘して参考に供したい。

 それは霊視能力が出はじめたばかりの人が陥りやすい錯覚の一つで、進歩性のない人はいつまでもその錯覚に陥ったままであるが、たとえば病気とか悩みごとの原因を探る場合に、霊視した映像をいきなり犯人と決めつけて、すぐにそれを払い除けようとする。

この場合、かりにその霊が俗にいう因縁霊であるとしても、その霊は必ずしも身体の側にいたり直接憑依しているとはかぎらない。先の直接書記のように遠くからバイブレーションによって作用しているにすぎないことがある。

 この場合に用心しなければならないのは、したたかな邪霊になると遠くから映像を送って審神者をからかうことがあること、また、わざと立派そうな姿を見せて安心させることすらあることである。

 その反対に、何の姿も見えないから霊障はないと判断するのも浅薄である。陰に隠れてひっそりとしていることがある。世間の常識と違って、審神者にとって霊視能力はあまり頼りにならないものなのである。

 では何を判断の基準とすべきか。霊を裁く上での最大の武器は、その霊能者の霊格の高さから生まれる看破力、霊的直感力である。

 私は師の間部詮敦氏が審神者をされるところをずいぶん見ているが、その中でとくに印象に残っているのが一つある。陰に隠れていた霊がついに引っぱり出されて霊媒に憑依させられた時(これを招霊実験と呼ぶ)、その霊がふてぶてしい態度で開口一番、間部氏に向かってこう言い放った。

 「お前は大したヤツじゃ。オレの負けだ!大ていのヤツには負けんが、お前の力には負けた。大したヤツじゃ!」

 直感的には間部氏の背後霊がひっぱり出したのであるが、それも間部氏の霊格と霊力とが大いに物を言っている。心霊学に裏打ちされた学識と体験と同時に、高潔な日常生活における修養があればこそ出来ることである。

 最後にシルバーバーチの霊言からそれに関連した一問一答を紹介しておく。


 霊能者がタバコを吸いすぎたりアルコールを飲みすぎたり、そのほか生活面で真理に忠実でなく品行に問題がある場合は、それが霊能にも悪い影響を及ぼすでしょうか。

 「もちろんです。いかなる霊媒能力、特に精神的霊能について言えることは、その霊能者の質が高ければ高いほど通信の内容も質が高いということです。身体と精神の質を落とすようなことは霊にとっても同じ影響が及びます。

 忘れてならないのは、身体と精神と霊とは一体関係にあることです。緊密な相互関係があり、絶えずエネルギーや感情が行き交っております。霊の世界と物質の世界は実は一つの実在の二つの側面なのであり、お互いに影響し合っております。両者は融合し合っていて、はっきりとした境界線というものはないのです。

 そのことを理解なされば、物的身体に悪いものは霊的身体にも悪く、精神に良くないものは霊にとっても良くなく、したがって霊の宮(からだ)を汚すようなことは必ずその持ち主を通過して届けられる通信の質を汚すことになることがお分かりになると思います。

 理想を言えば完全であるに越したことはありません。そうすれば完全な通信が得られることでしょう。が、所詮、私たちが扱っているのは物質の世界に住む人間味たっぷりの道具です。アルコールもタバコもほどほどにたしなむのであれば大した害にはなりません。ただし、霊能者は常に理想を目指していなければなりません」

一九八七年八月    近藤千雄