Tuesday, July 7, 2026

ベールの彼方の生活(一) G・V・オーエン著

『霊界通信 ベールの彼方の生活』の第1巻は、英国の牧師G・V・オーエンを通じて伝えられたスピリチュアリズムの代表的古典です。死後の世界(天界の低地)の具体的な様子を詳細に描写しており、現代でも高い評価を受けている著作です。



四章 霊界の大都市

 
カストレル宮殿 ② 死産児との ③童子が手引きせん   
炎の馬車  ⑤〝縁〟は異なもの


1 カストレル宮殿            

 一九一三年十月十七日  金曜日   

 前回のあのお気の毒な女性──今は十分祝福を受けておられますが──をお預けするホームへまだ到着しないうちから私はもう一つの使命を思い出しました。

そこから遥か東方にある都市まで行くことになっていたのです。あなたはまた〝東〟という文字を書き渋っているけど、私たちはその方角を東と呼んでいるのです。

と言いますのは、こちらへ来て初めてイエス様のお姿と十字架の像を拝見したのがその方角だったのです。その方角にある山の上空は今も明るく輝いております。私にはそれが地上の日の出を象徴しているように思えてなりません。

 さて私たち五人はその山の向こう側にある都市を目指して出発いたしました。出発に先立ってよく道順をお聞きしておきました。上の方のお話ではその都市の中央には黄金色のドームを頂いた大きい建物があり、その都市の中心街はコロネード(列柱)で囲まれているとのことでした。

初めは徒歩で行きましたが、あとは空を飛んで行きました。歩くより飛ぶ方が難しいのですが、飛んだ方が速いし、それに場所を探すのには空から見た方が判りやすいということになりました。

 やがてその都市の上空に来て目標のドームを見届けてから正面入り口めがけて着陸し、そこから本通りへ入りました。本通りはその都市のド真ん中を一直線に横切っており、その反対の端の裏門から出るようになっています。

その幅広い通りを境にして両側にはとても敷地の広い、宮殿のような建物がズラリと並んでおります。そこはその地域一帯を治められる高官の方が住んでおられ、そこが主都になります。

 畑仕事に精を出している光景も見られます。また建物が沢山見えます。一見して住居ではなくて別の目的を持っていることが判ります。やがてコロネードで囲まれた中心街に出ました。さすがに建物も庭園もそれはそれは見事なものでした。

どの建物にも必ずその建物に相応しい色彩とデザインの庭園がついております。それらを見て歩きながら、この辺で待ち合わせて下さると聞いていた方からの合図を気にしておりました。こうした場合には連絡が先に届いて待ち受けて下さっているのです。

 歩いて行くうちに、いつの間にか公園のような所に入りました。とても広い公園で、美しい樹木がほどよく繁り、ところどころに噴水池が設けてあります。それ以外は一面みどりの芝生です。

その噴水が水面に散る時の音はメロディと言えるほど快く、またそれぞれの噴水が異なったメロディを奏でており、それらが調和して公園全体を快い音楽で包んでおります。その噴水にある細工を施すと、えも言われぬ霊妙な音楽が聞けるとのことです。

その細工を施すのは度々ではないのですが、時おり行われますと、その都市に住む人はむろんのこと、ずっと郊外の丘や牧草地帯に住んでいる人までが大勢集まって来るそうです。

私達が行った時は素朴な音楽でしたが、それでもそのハーモニー、その快さは見事でした。

 暫くその公園の中を散歩しました。とても心の安まる美しいところです。芝生に腰を下ろして休んでいますと、そこへ一人の男性が優しい笑みを浮かべて近づいてきました。私たちを迎えにこらえたのだということはすぐに判ったのですが、お姿を拝見して、私たちとは比較にならぬほど霊格の高い方であることが知れましたので、しばらくは言葉が出ませんでした。


 ──どんな方ですか。出来れば名前も教えて下さい。

 そのうちお教えしましょう。焦ることが一番いけません。こちらの世界では焦らぬようにということが一ばん大切な戒めとされているほどです。焦ると、判りかけていたものまで判らなくなります。

 その天使様はとても背の高い方で、地上で言えば七フィート半は十分あったでしょう。私は地上にいた時より背が高くなっていますが、その私よりはるかに高い方でした。

その時の服装は膝まで垂れ下がったクリーム色のシャツを無雑作に着ておられるだけで、腕も脚も丸出しで、足には何も履いておられませんでした。私は今、あなたの心に浮かぶ疑問にお答えしているのですよ。

帽子? いえ、無帽です。髪型ですか。ただ柔らかそうな茶色の巻き毛を真ん中で左右に分けておられるだけで、それが首の辺りまで垂れ下がっておりました。

頭には幅の広い鉢巻のような帯を締めておられましたが、その帯は金で出来ており、真ん中と両側に一つずつ宝石が付いておりました。

また胴にはピンクの金属で出来た帯(シンクチャー)を締めておられましたが、何も飾っていないまる出しの手足からも柔らかい光輝が発しておりました。これらは全部その方の霊格の高さを示しておりました。


 お顔は威厳に満ちていましたが、その固い表情の中にも言うに言われぬ優しい慈悲がにじみ出ており、それを見て私たちの心に安心感と信頼心が湧いてきました。

 また尊敬の念も自然に湧いてきました。やがて天使さまは私たちの波長に合わせていることがすぐに判るような、ゆるやかな口調でこう言われました。ゆるやかでも、その響きの中に心に沁みわたるものを感じ取ることが出来ました。「私の名前はカス・・・・・・」いけません。

名前は私の弱点のようでして、地上へ降りてくるとどうも名前を思い出すのが苦手です。そのうち思い出すでしょう。とにかくご自分のお名前をおっしゃってから、こんなことを言われました。

 「私のことはすでにお聞きになっておられると思います。やっとお会いできましたね。では私の後に付いてきて下さい。さっそくあなた方をお呼びした目的をお話しいたしましょう。」私たちは言われるまま天使さまのあとから付いて行きましたが、その道すがら気軽に話しかけられるので、いつの間にかすっかり気安さを覚えるようになりました。

 天使さまと一緒に通った道は公園を出てすぐ左手にある並木道でしたが、やがて別の公園に入りました。入ってすぐに気づいたのですが、そこは私有の公園つまり公園と言ってもよいほど広い庭園ということです。真ん中にはそれはそれは見事な御殿が建っていました。

一見ギリシャ風の寺院のような格好をしており、四方に階段が付いております。よほど偉い方が住んでおられるのだろうと想像しながら天使さまの後についてその建物のすぐそばまで近づきました。

 近づいてみてその大きさに改めて驚きました。左右の幅の広さもさることながら、アーチ形の高い門、巨大な柱廊玄関、そして全体を被う大ドーム。私たち五人はただただその豪華さに見とれてしまいました。

黄金のドームを頂いた大きな建物と聞いていたのはその建物のことでした。近づいて見るとドームの色は純粋の黄金色でなく少し青味がかかっておりました。私はさっそくどんな方がお住みになっておられるのかお聞きしてみました。すると天使さまはあっさりとこう言われました。

 「いや何、これが私の住居ですよ。地方にも二つ私宅を持っております。よく地方にいる友を訪ねる事があるものですから。それではどうぞお入り下さい。遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました。」

 天使さまの言葉には少しも気取りというものがありません。〝気取らない〟ということが霊格の偉大さを示す一つの特徴であることを学びました。地上でしたらこんな時には前もって使いの者が案内して恭々(うやうや)しく勿体ぶって拝謁するところでしょうが、この度はその必要もないので全部省略です。

もっとも必要な時はちゃんとした儀式も致します。行うとなれば盛大かつ厳粛なものとなりますが、行う意味のない時は行われません。

 さて、カストレル様──やっと名前が出ましたね。詳しいことは明晩にでもお話いたしましょう。あなたもそろそろ寝(やす)まなくてはならないでしょう。ではおやすみ。




2 死産児との面会         

  一九一三年十月十八日  土曜日    

 カストレル様のご案内で建物の中に入ってみますと、その優雅さはまた格別でした。入口のところは円形になっていて、そこからすぐに例のドームを見上げるようになっています。そこはまだ建物の中ではなく、ポーチの少し奥まったところになります。

大広間の敷石からは色とりどりの光輝が発し、絹に似た掛けものなどは深紅色に輝いておりました。前方と両側に一つずつ出入口があります。見上げると鳩が飛び回っております。ドームのどこかに出入口があるのでしょう。そのドームは半透明の石で出来ており、それを通して柔らかい光が射し込みます。

それらを珍しげに眺めてから、ふと辺りを見回すと、いつの間にかカストレル様が居なくなっております。

 やがて右側の出入口の方から楽しそうな談笑の声が聞こえて来ました。何事だろうとその方向へ目をやると、その出入口から子供を混じえた女性ばかりの一団がゾロゾロと入って来ました。総勢二十人もおりましたでしょうか。

やがて私たちのところまで来ると、めいめいに手を差し出してにこやかに握手を求め、頬に接吻までして歓迎してくれました。挨拶を済ませると中の一人だけが残って、あとの方はそのまま引き返して行きました。大勢で来られたのは私たちに和やかな雰囲気を与えようという心遣いからではなかったろうかと思います。

 さて、あとに残られた婦人が、こちらへお出でになりませんか、と言って私たちを壁の奥まったところへ案内しました。五人が腰かけると、婦人は一人一人の名前を言い当て、丁寧に挨拶し、やがてこんな風に話されました。

 「さぞかし皆さんは、一体何のためにここへ遣わされたのかとお思いのことでしょう。また、ここがどんな土地で何という都市なのかといったこともお知りになりたいでしょう。この建物はカストレル宮殿と申します。そのことは多分カストレル様から直々にお聞きになられたことでしょう。

カストレル様はこの地方一帯の統治者にあらせられ、仕事も研究もみなカストレル様のお指図に従って行われます。話によりますと皆様はすでに〝音楽の街〟も〝科学の街〟もご覧になったそうですが、そこでの日々の成果もちゃんと私どもの手許へ届くようになっているのです。

届けられた情報はカストレル様と配下のお方がいちいち検討され、しかるべく処理されます。この地方全体の調和という点から検討され処理されるのです。単に調和と申しますよりは協調的進化と言った方がよいかも知れません。

 「たとえば音楽の街には音楽学校があり、そこでは音楽的創造力の養成につとめているのですが、そういった養成所があらゆる部門に設置されており、その成果がひっきりなしに私たちの手許に届けられます。届きますとすぐさま検討と分析を経て記録されます。必要のある場合はこの都市の付属実験所で綿密なテストを行います。実験所は沢山あります。

ここへお出でになるまでに幾つかご覧になられたはずです。かなりの範囲にわたって設置されております。しかし実はその実験所の道具や装置は必ずしも完全なものとは申せませんので、どこかの界で新しい装置が発明されたり改良されたりすると、すぐに使いを出してその製造方法を学んで来させ、新しいのを製造したり古いものに改良を加えたりします。

 そんな次第ですから、その管理に当たる方は叡智に長けた方でなければなりませんし、また次から次へと送られてくる仕事を素早く且つ忍耐強く処理していく能力が無くてはなりません。実はあなた方をここにお呼びしたのはその仕事ぶりをお見せするためなのです。ここに御滞在中にどうか存分にご見学なさってください。

もちろん全部を理解していただくのは無理でしょうし、とくに科学的な面はなかなか難しい所が多かろうかと思いますが、たとえ判らなくても、あなた方の将来のお仕事に役立つことが多かろうと思います。さ、それでは話はこれ位にして、これからこの建物をひと通り案内してさしあげましょう。」



  婦人の話が終わると私たちはていねいにお礼を述べて、さっそく建物の中の案内をお願いしました。すべてが荘厳としか言いようがありません。どこを見てもたった一色というものがなく、必ず何色かが混ざっています。ただ何色混ざっていても実に美しく調和しているので、ギラギラ輝くものでも、どこかしら慰められるような柔らかさを感じます。

宝石、貴金属、装飾品、花瓶、台石、石柱、何でもがそうでした。石柱には飾りとして一本だけ立っているものと束になったものとがありました。それから、通路には宝石類で飾られた美事な掛け物が掛けてあります。通りがけにそれが肩などに触れると、何とも言えない美しいメロディを奏でるのです。

庭に出ると噴水池がありました。魚も泳いでおりました。中庭には芝生と樹木と灌木とが地上と同じような具合に繁っておりましたが、その色彩は地上のどこにも見られないものでした。

 それから屋上へ案内されました。驚いたことに、そこにもちゃんとした庭があり、芝生も果樹園も灌木も揃っておりました。噴水池もありました。この屋上は遠方の地域と連絡を交わすところです。時には見張り所のような役目も果たします。通信方法は強いて言えば無線電信に似たようなものですが、通信されたものが言語でなしに映像(※)となって現れますから(*)、実際には地上の無線とも異なりましょう。

(※この通信が書かれた頃はまだテレビジョンが発明されていなかったこと、そして、地上の発明品はことごとく霊界にあるものの模造品であることを考え合わせると興味深い。──訳者)

 私たち女性グループはずいぶん永い間その宮殿にごやっかいになりながら、近くの都市や郊外まで出ていろんなものを見学しました。その地域全体の直径は地上の尺度で何千マイルもありましょう。それほど広い地域でありながら全体と中心との関係が驚くほど緊密でした。その中心に当たるのが今お話した大ドームの建物すなわちカストレル宮殿というわけです。その全部をお話していると幾ら時間があっても足りません。

そこでそのうち幾つかをお伝えして、それによって他を推察していただきましょう。もっとも、それもあなた方の想像の及ばないものばかりですけど。

 第一に不思議に思ったことはその都市に子供がいることでした。なぜ不思議に思ったかと言いますと、それまで私は子供には子供だけの世界があって、皆そこへ連れて行かれるものと思い込んでいたからです。最後に居残ってお話をしてくれた婦人はそこの母親のような地位にあられる方で、その他の方々はその婦人の手助けをされてるらしいのです。

私はその中の一人に、そこの子供たちがみんな幸福そうで愛らしく、こんな厳かな宮殿でいかにも寛いでいることには何か特別な理由(わけ)があるのですかと尋ねてみたところ、大よそ次のような説明をしてくれました。

 〝ここで生活している子はみな死産児で、地球の空気を吸ったことのある子供とは性格上に非常な違いがある。僅か二、三分しか呼吸したことのない子供でも、全然呼吸していない死産児とはやはり違う。それ故死産児には死産児なりの特別の養育が必要であるが、死産児は霊的知識の理解の点では地上生活を少しでも体験した子より速い。

まだ子供でありながらこうした高い世界で生活できるのはそのためである。が、ただ美しく純粋であるだけでは十分とは言えない。ここで一応の清純さと叡智とを身につけたら、こんどは地球と関係した仕事に従事している方の手にあずけられ、その方の指導のもとに間接的ながら地上生活の体験を摂取することになる・・・・・・〟



 私は初めこの話を興味本位で聞いておりました。ところがその呑気な心の静寂を突き破って、この都市へ来たのは実はそのことを知るためだったのだという自覚が油然として湧いてきました。

私にも実は一度死産児を生んだ経験があるのです。それに気がつくと同時に私の胸にその子に会いたいという気持ちが止めどもなく湧いて来ました。〝あの子もきっとここに来ているに違いない〟そう思うや否や私に心の中に感激の渦が巻き起こり、しばし感涙にむせびました。その時の気持ちはとても筆には尽くせません。

そばに仲間がいることも忘れて木蔭の芝生にうずくまり、膝に顔を押し当てたまま、湧き出る感激に身を浸したのでした。親切なその仲間は私の気持ちを察して黙って私の肩を抱き、私が感激の渦から脱け出るのを待っておりました。

  やがて少し落着くと、仲間の一人が優しくこう語ってくれました。「私もあなたと同じ身の上の母親です。生きた姿を見せずに逝ってしまった子を持つ母親です。ですから今のあなたのお気持がよく判るのです。私も同じ感激に浸ったものです。」

 それを聞いて私はゆっくりと顔を上げ、涙にうるんだ目をその友に向けました。すると友は口に出せない私に願いを察してくれたのでしょう。すぐに腕を取っていっしょに立ち上がり、肩を抱いたままの姿勢で木立の方へ歩を進めました。ふと我に帰ってみると、その木立の繁みを通して子供たちの楽しそうなはしゃぎ声が聞こえてくるではありませんか。多分私はあまりの感激に失神したような状態になっていたのでしょう。

まだ実際に子供には会ってもいないのにそんな有様です。これで本当に会ったら一体どうなるだろうか──私はそんな事を心配しながら木立に近づきました。

 表現がまずいなどと言わないでおくれ。そう遠い昔のことではありません。その時の光景と感激とが生き生きと甦ってきて、上手な表現などとても考えておれないのです。地上にいた時の私は死産児にも霊魂があるなどとは考えてもみませんでした。ですから、突如としてその事実を知らされた時は、私はもう・・・・・・ああ、私にはこれ以上書けません。どうかあとは適当に想像しておくれ。

とにかくこの愚かな母親にも神はお情けを下さり、ちゃんと息子に会わせて下さったのです。私がもっとしっかりしておれば、もっと早く会わせていただけたでしょうにね。

 最後に一つだけ大切なことを付け加えておきましょう。本当はもっと早く書くべきだったんでしょうに、つい感激にかまけてしまって・・・・・・。その大切なことというのは、子供がこちらへ来るとまずこちらの事情に慣れさせて、それから再び地上のことを勉強させます。

地上生活が長ければ長いほど、こちらでの地上の勉強は少なくて済みます。死産児には全然地上の体験が無いわけですが、地球の子供であることに変わりはありませんから、やはり地球の子としての教育が必要です。

つまり地上へ近づいて間接的に地上生活の経験を摂取する必要があるのです。もちろん地上へ近づくにはそれなりの準備が必要です。また、いよいよ近づく時は守護に当たる方が付いておられます。死産児には地上の体験がまるで無いので、地上生活を体験した子に比べて準備期間が長いようです。

やはり地上生活が長いほど、またその生活に苦難が多ければ多いほど、それだけこちらでの勉強が少なくて済み、次の勉強へ進むのが速いようです。

 もちろんこれは大体の原則を述べたまでで、ここに適用される時はその子の性格を考慮し、その特殊性に応じて変更され、順応されます。

 ともかく全てがうまく出来あがっております。では神の祝福を。お休みなさい。



3 童子が手引きせん

一九一三年十月二十日  月曜日

ひき続きカストレル様の都市の見学旅行中の話です。中央通りを歩きながら私はなぜこの都市には方形の広場が多いのか、そしてその広い中央通りの両側にある塔のように聳える建物が何のために建てられているのかを知りたいと思っていました。

そのうち中央通りの反対側の入口に到着してやっと判ったのは、その都市全体が平地に囲まれた非常に高い台地にあるということでした。

案内の方のお話によりますと、そこに設けられている塔からなるべく遠くが見渡せるようにということと、まわりの平地の遠い住民からもその塔が見えるようにという配慮があるとのことでした。そこがその界の首都で、全てがそこを焦点として治められているのでした。

 帰途も幾つかの建物を訪れ、どこでも親切なおもてなしを受けました。その都市ではカストレル様のお住まいで見かけた以外に子供の姿はあまり見かけませんでした。ですが時折そこここの広場で子供の群れを見かけます。

そこには噴水があり、まわりの池に流れ落ちて行きます。池の水はその都市を流れる大きな川につながり、無数の色彩と明るい輝きを放散しながら、下の平地へ滝となって落ちて行きます。その滝の流れはかなり大きな川となって平地をゆったりと流れて行きますが、その川のあちこちで子供たちが水浴びをして遊んでいるのを見かけたのです。

しきりに自分のからだに水をかけております。私はその時はあまり深く考えなかったのですが、そのうち案内の方から、あの子供たちはあのような遊びをするよう奨励されているとの話を聞かされました。と言うのは、そこの子供たちは死産児として来たので体力が乏しく、あのような遊びによって生体電気を補充し体力を増強する必要があるというのです。

 それを聞いて私が思わず驚きの声を上げると、その方は「でも別に何の不思議もないでしょう。ご存知のように、私たちの身体は肉も血もないのにこうして肉体と同じように固くて実体があります。また現在の私たちの身体が地上時代よりはるかに正確に内部の魂の程度を反映していることもご存知の筈です。

その点あの子供たちの大半がやっと成長し始めたばかりで、それを促進するための身体的栄養が要るのです。別に不思議ではないと思いますが・・・・・・」とおっしゃいました。

 別に不思議ではない──言われてみれば確かにその通りです。私はさきに天界を〝完成された地上のようなところ〟と表現しましたが、その本当の意味が今になってようやく判ってきました。多くの人間がこちらへ来てみて地上とあまりによく似ていることに驚くはずです。

もっとも、ずっと美しいですけど。大ていの人間は地上とは全く異なる薄ぼんやりとした影のような世界を想像しがちです。

が、よく考えてごらんなさい。常識で考えてごらんなさい。そんな世界が一体何の意味がありますか。それは段階的進歩ではなく一足跳びの変化であって、それは自然の理に反します。


 確かにこちらへ来てすぐから地上と少しは勝手が違いますが、不思議さに呆然(ぼうぜん)するほどは違わないということです。特に地上生活でこれといって進歩のない生活を送った人間が落着く環境も地上と見分けがつかない程物質性に富んでおります。

そういう人間が死んだことに気づかない理由はそこにあります。低い界から高い界へと向上するにつれて物質性が薄れて行き、環境が崇高さを増して行きます。しかし、地上性を完全に払拭した界、地上生活とまったく類似性を持たない界まで到達する霊は稀です。特殊な例を除いてまず居ないのではないかと思っております。が、

この問題については私に断定的なことを言う資格はありません。何しろ地上生活と全く異なる界に到達していないどころか、訪れてみたこともないからです。

今いる所はとても美しく、私はこの界の美と驚異を学ばねばなりません。学んでみると、実は地球はこの内的世界が外へ向けて顕現したものにほかならず、従って多くの細かい面において私たち及び私たちの環境と調和していることが判ります。もしそうでなかったら、今こうして通信していることも有り得ないはずです。

 そして又──私みたいな頭の良くない人間にはそう思えるというまでのことですが──もしもあなた方の世界と私たちの世界に大きな隔たり、巨大な真空地帯のようなものがあるとしたら、地上生活を終えた後、どうやってこちらへやって来れるのでしょう。

その真空地帯をどうやって横切るのでしょうか。でも、これはあくまで私自身の考えです。そんなことはどうということは無いのかも知れません。ただ確実に言えることは、神と神の王国は一つしか無いこと、その神の叡智によって宇宙は段階的に向上進化して行くように出来ているということさえ銘記すれば、死とは何か、その先はどうなっているのかについての理解が遥かに深くなるであろうということです。

死後の世界にも固い家屋があり、歩くための道があり、山あり谷あり樹木あり、動物や小鳥までいるということが全くバカバカしく思える人が多いことでしょう。その動物が単なる飾りものとして存在するのではなく、実際の用途を持っております。

馬は馬、牛は牛の仕事があり、その他の動物も然りです。が動物達は見た目に微笑ましいほど楽しく働いております。私は一度ある通りで馬に乗ってやって来る人を見かけたことがありますが、何となく人間よりも馬の方が楽しんでいるように見えたものです。でも、こうした話は信じて頂けそうにありませんから話題を変えましょう。


 その広い市街地の建物の一つに地方の各支部から送られて来る情報を保管する図書館がありました。また、新しいアイディアを実地にテストするための研究所もありました。さらには教授格の人が自分の研究成果を専門分野だけでなく他の分野の人を集めて発表するための講堂もありました。そしてもう一つ、風変わりな歴史を持つ建物がありました。

 それは少し奥まったところに立っていて、木材で出来ておりました。マホガニー材をよく磨いたような感じで、木目には黄金の筋が入っております。随分古い建物で、カストレル様がその領地の管理を引き継がれるずっと前に、当時の領主の為の会議室として建てられたものです。

かつては領主がそこに研究生たちを召集され、それぞれに実際的知識を発表することに使用されておりました。

 こんな話を聞きました。その発表会でのことです。青年が立ち上がって講堂の中央へ進み出て学長すなわち領主に向かって両手を広げて立ちました。

立っているうちにその青年の姿が変化し始め、光輝が増し、半透明の状態になり、ついに大きな光の輪に囲まれました。そしてその光の輪の中に高級界からの天使の姿が無数に見えます。学長が意味ありげな頬笑みを浮かべておられますが、青年にはそれが読み取れません。

彼──首席代表であり領主の後を継ぐべき王子の様な存在でもあります──が何か言おうと口を開きかけた時です。入口から一人の童子が入って、大勢の会衆に驚いた様子できょろきょろ見回しました。

 その子は光の輪のそばまで来て、層を成して座っている天使の無数の顔を見つめて気恥ずかしそうにしました。そしてその場から逃げ帰ろうとした時に、中央におられる学長の姿が目にとまりました。光と荘厳さに輝いておられます。瞬間、子供は一切を忘れて、両手を広げ満面の笑みを浮かべて学長めがけて走り寄りました。

 すると先生は両手を下げ腰を屈めてその子を抱き上げ、ご自分の肩に乗せ、青年のところへ歩み寄ってその子を青年の膝の上に置き、元の位置に戻られました。が、戻りかけた時から姿が薄れ始め、元の位置に来られた時は完全に姿が見えなくなり、その場には何もありませんでした。子供は青年の膝の上にいて青年の顔──実に美しいお顔立ちでした──を見上げてニッコリと致しました。

 やがて青年が立ち上がり、その子を左手で抱き、右手をその頭部に当てて、こう言われました。

 「皆さん、聖書に〝彼らを童子が手引きせん〟と言う件(くだり)があります(イザヤ書11・6)。それをやっと今思い出しました。今我々が見たのは主イエス・キリストの〝顕現〟(※)であり、聖書の言葉どおり、この童子は主の御国から贈られた方です。」そう述べてから童子に向かい、「坊や、さっき先生に抱かれて私のところまで連れて来られた時、先生は坊やに何とおっしゃいましたか」と尋ねました。

(※これまでの〝顕現〟と種類が異なり、これは霊界に〝変容現象〟と見るべきであろう。イエス自身、地上時代に丘の頂上で変容した話がマタイ17・マルコ9に出ている。──訳者)

 すると子供は初めて口を開き、子供らしい言い方で、大勢の人を前に気恥ずかしそうにしながらこう言いました。

 「ボクが良い子をしてお兄さんの言いつけを守っていたら、時々あの先生がこの都市(まち)と領土(くに)のためになる新しいことを教えて下さるそうです。でもボクには何のことだかよく判りません。」

 それは青年も他の生徒たちも最初のうちは判りませんでした。が青年が閉会を宣し、その子を自宅へ連れて帰ってその意味を吟味しました。その結果彼が辿り着いた結論は、あれはエリとサムエルの物語(サムエル書1・3)と同じだということでした。そして、事実その結論は正しかったのです。

その後その子は研究所やカレッジの中を自由に遊び回ることを許されました。少しも邪魔にならず、面倒な質問もせず、反対に時おり厄介な問題が生じた時などにその子が何気なく口にした言葉が問題解決のカギになっていることがあるのでした。

時がたつにつれて、このことがあの顕現のそもそもの目的だったことが理解できました。つまり子供のような無邪気な単純さの大切さを研究生たちは学んだのです。特殊な問題の解決策が単純であるほど全体としての解決策にも通じるものがあるということです。

 他にも学生たちがその〝顕現〟から学んだものはいろいろとありました。例えばキリスト神は常に彼らと共に存在すること、そして必要な時は何時でも姿をお見せになること。これは、あの時、学生の中から姿を現わされたことに象徴されておりました。また広げた両手は自己犠牲を意味しておりました。

あの後光が象徴したように、荘厳さに満ちたあのコロニーにおいてさえも自己犠牲が必要なのです。その後あの童子はどうなったか──彼は例の青年の叡智と霊格が成長するにつれて成育し、青年が一段高い界へ赴いたあと、青年の地位を引き継いだということです。

 さて以上の話は随分昔のことです。今でもそのホールは存在します。内側も外側も花で飾られて、常によく手入れされております。しかし講演や討論には使用されず、礼拝場として使用されております。その都市の画家の一人が例の〝顕現〟のシーンを絵画にして、地上でも見られるように祭壇の後ろに置いてありました。

そこにおいて主イエスを通しての父なる神への礼拝がよく行われます。それ以上に盛大に行われるのはあの顕現の時の青年が大天使として、今では指導者格となっている例の童子を従え、あの時以降青年の地位を引き継いだ多くの霊と共に、そこに降臨することがあります。そこに召集された者は何か大きな祝福と顕現があることを察知します。

しかしそういう機会に出席できるのはそれに相応しい霊格を備えた者にかぎられます。一定の段階まで進化していない者にはその顕現が見えないのです。
 
 神の王国はどこも光明と荘厳さに満ち溢れ、素晴らしいの一語に尽きますが、その中でも驚異中の驚異と言うべきものは、そうやって無限の時と距離を超えて宇宙の大霊の存在が顕現されるという事実です。神の愛は万物に至ります。

あなたと私の二人にとっては、こうして神の御国の中の地上界と霊界という二つの世界の間のベールを通して語り会えるようにして下さった神の配慮にその愛を見る事が出来るのです。



4 炎の馬車

一九一三年十月二一日 火曜日

 カストレル様の都市についてはまだまだお話しようと思えば幾らでもあるのですが、他のも取り挙げたい問題がありますので、あと一つだけ述べて、それから別の話題へ移りたいと思います。

 宮殿のある地域に滞在していた時のことです。そこへよく子供たちが遊びに来ました。その中には私の例の死産児も含まれておりました。他の子供たちはその子の母親つまり私と仲間の四人と会うのが楽しみだったようです。そして私たちがそれまで訪れた土地の話、特に子供の園 や学校の話をすると、飽きることなく一心に聞き入るのでした。

来る時はよく花輪を編んでお土産に持って来てくれたのですが、実はそのウラにはゲームで一緒に遊んでもらおうという下心があったのです。もちろんよく一緒に遊んであげました。その静かで平和な土地で可愛い幼児とはしゃぎまわっている楽しい姿は容易に想像していただけると思います。

 ある時、あなたも子供のころ遊んだことのあるジョリーフーパーゲームに似た遊びで、子供たちが考え出したゲームに興じておりました。大てい私たち五人が勝つのですが、そのうち私たちと向かい合っている子供たちが突然歌うのを止めて立ちつくし、私たちの頭越しに遠くを見つめているのです。振り向くと、その空地の端の並木道の入口のところに、他でもない、カストレル様のお姿がありました。

 笑みを浮かべておられます。風采からは王者の威厳が感じられますが、その雰囲気には力と叡智が渾然となった優しさと謙虚さがあるために、見た目には実に魅力があり、つい近づいてみたくなるものがあります。こちらへゆっくりと歩を進められ、それを見た子供たちが走り寄りました。するとその一人一人の頭を優しく撫でてあげておられます。

やがて私たちのところまで来られると「ご覧の通りガイドなしで一人でやってまいりましたよ。どこにおられるのかはすぐに判りますから。ところで、悪いのですが、遊びを中断していただかねばならない用事が出来たのです。あなた方もぜひ出席していただきたい儀式がもうじき催されます。こちらにおられる〝小さい子供さん〟はそのままゲームを続けなさい。

あなた方〝大きい子供さん〟は私といっしょに来て下さい」とユーモラスにおっしゃるのです。

 すると子供たちは私たちの方へ駆け寄ってきて、うれしそうに頬にキスをして、用事が終わったらまたゲームをしに来てね、と言うのでした。

 それからカストレル様の後について、頭が届きそうなほど枝の垂れ下がったトンネル状の並木道を進み、やがてそこを通り抜けると広い田園地帯が広がっていました。そこでカストレル様は足を止めてこうおっしゃいました。「さて、ずっと向こうを見て御覧なさい。何が見えますか。」

 私たち五人は口を揃えて、広いうねった平野と数々の建物、そしてさらにその向こうには長い山脈のようなものが幽かに見えます、と答えました。

 「それだけですか」とカストレル様が聞かれます。

 私たちが目立ったものとしてはそれだけですと答えると、「そうでしょうね。それがあなた方の現在の視力の限界なのでしょうね。いいですか。私に視力はあなた方よりは発達していますから、その山脈のさらに遠くまで見えます。よく聞いて下さいよ。これから私に視力に映っているものを述べていきますから。

その山脈の向こうに一段と高い山脈が見え、さらにその向こうにそれより高い山頂が見えます。建物が立っているものもあれば何もないものもあります。私はあの地方に居たことがあります。ですから、あそこにも、ここから見ると小さく見えますが、実はこの都市を中心とした私の領土全体と同じくらいの広さの平野と田園地帯があることを知っております。

 「私は今その中の一つの山の頂上近くのスロープを見つめております。地平線ではありません。あなた方の視力の範囲を超えたところに位置しており、そこにこの都市よりも遥かに広くて豊かで壮大な都市が見えます。

その中央へ通じる道の入口がちょうど吾々の方を向いており、その前は広い平坦地になっております。今の通路を騎馬隊と四輪馬車の列が出て来るところです。集合し終わりました。いよいよ出発です。今その中からリーダーの乗った馬車が進み出て先頭に位置しました。命令を下しております。群集が手を振って無事を祈っております。

リーダーの馬車が崖の縁まで来ました。そして今その縁を離れて宙を前進しております。それを先頭に残りの隊がついて来ます。さあ、こちらへ向かっていますよ。私たちも別の場所へ行って到着の様子を見ましょう。」

 何のためにやって来るのか、誰れ一人尋ねる者はいませんでした。畏れ多くて聞かなかったのではありません。お聞きしようと思えばどんなことでもお聞きできたのですが、なぜか以心伝心で納得していたようです。

ですがカストレル様は一応私たちの心中を察して「皆さんはあの一隊が何のためにやって来るのを知りたがっておられるようですが、そのうち判ります」とおっしゃって歩を進められ、私たちも後についてその都市を囲む外壁のところまで至り、そこから平地の向こうの丘の方へ目をやりました。が、さっき述べたもの以外は相変わらず何も見えません。

 「隊の姿を誰が一ばんに見つけますかな」とカストレル様がおっしゃいます。そこで私たちは目を凝らして一心に見つめるのですが、一向に見えません。そのうち私の目に遥か山脈の上空に星が一つ輝いて見えたような気がしました。それと時を同じくして仲間の一人が「先生、あそこに見える星はここに来た時は無かったように思います」と大きい声で言いました。

 「いえ、最初からあったのですが、あなたに見えなかっただけです。では、あなたが最初ですか、見えたのは」と聞かれます。

 私はどうも〝私にも見えておりました〟とは言いたくありませんでした。先に言えば良かったのでしょうけど。するとカストレル様は「私にはもう一人見える方がいるような気がするのですがね。違いますか」と言って私の方を向いてにっこりされました。私は赤くなって何だか訳の分からぬことを口ごもりました。するとカストレル様が、

 「よろしい。よく見つめていて下さい。他の方もそのうち見えはじめるでしょう。あの星が現時点では数界を隔てた位置にあります。まさかあの界まで見える方がこの中に居られるとは予想しませんでした」とおっしゃって、私たち二人の方を向かれ、「ご成長を祝福申し上げます。

お二人は急速に進歩を遂げておられますね。この調子で行けばきっと間もなく仕事の範囲も拡大されます」と言って下さいました。二人はそのお言葉を有難く拝聴しました。

 さて気がついてみますと、その星がさっきよりずっと明るく輝いて見え、みるみる大きく広くなって行きます。その様子を暫く見続けているうちに次第にそれが円盤状のものでなくて別の形のものであることが判り、やがてその形が明瞭になってきました。

それは竪琴(リラ)の形をした光のハーブとも言うべきもので、まるでダイヤモンドを散りばめた飾りのようでした。が、段々接近すると、それは騎馬と馬車と従者の一団で、その順序で私たちの方角へ向けて虚空(こくう)を疾走しているのでした。

 やがて都市の別のところからも喚声が聞こえて来ました。同じものを発見したのです。

「あの一隊がこの都市へやって来る目的がそろそろお判りでしょう」とカストレル様がおっしゃるので、

「音楽です」と私が申し上げると、

「その通り。音楽と関係があります。とにかく音楽が主な目的です」とおっしゃいました。さらに近づいたのを見ると、その数は総勢数百名の大集団でした。見るも美しい光景でした。騎馬と炎の馬車──古い伝説に出てくるあの炎の馬車は本当にあるのです。

──それが全身から光を放つ輝かしい騎手に操られて天界の道を疾走して来たのです。ああ、その美しさ。数界も高い天界からの霊の美しさはとても私たちには叙述出来ません。その中の一ばん霊格の低い方でもカストレル様と並ぶほどの方でした。が実はカストレル様はその本来の光輝を抑え、霊格をお隠しになっておられました。

それはこの都市の最高霊であると同時に一人の住民でもあるとのご自覚をお持ちだからです。ですが、高級界からの一隊がいよいよ接近するにつれてカストレル様のお姿にも変化が生じ始めました。お顔と身体が輝きを増し、訪問者の中で一ばん光輝の弱い方と同じ程度にまで輝き始めました。

なぜカストレル様が普段この天界の低地の環境に合わせる必要があるのか。私は後で考えて理解がいきました。それは、こうして普段より光輝を増されたお姿を目の前にしますと、まだまだ本来の全てをお出しになっておられないのに、私たちにはとても近づき難く、思わず後ずさりさせられるほどだったのです。おっかないというのとは違います。意外さに思わず・・・・・・というよりほかに表現のしようがありません。

 一隊はついに私たちの領土の上空まで来ました。最初の丘陵地帯と私たちの居る位置との中ほどまで来た時、速度を緩めて徐々に編隊を変えました。今度は・・・・・・の形(※)を取りました。そして遂に都市の正面入口の前の広場に着陸しました。(※末尾のところで説明が出る──訳者)


 カストレル様はその時にはすでに私たちから離れておられ、一隊が着陸すると同時に正面入口からお付きの者を従えて歩み出られました。光に身を包まれて・・・・・・と表現するのがその時の印象に一ばん近いでしょう。王冠は曾て見たこともないほど鮮やかに光輝を増しております。

腰に付けられたシンクチャー(帯の一種)も同じです。隊長(リーダー)の近くまで来るとそこで跪ずかれました。カストレル様より遥かに明るい光輝を発しておられます。馬車から降りられるとカストレル様に急ぎ足で歩み寄られ、手を取って立ち上がらせ、抱き寄せられました。

その優雅さと愛に満ちた厳かな所作に、一瞬、全体がシーンと静まり返りました。その抱擁が解かれ、私たちに理解できない言語での挨拶が交わされてから、カストレル様が残りの隊へ向かってお辞儀をし、直立の姿勢で都市の外壁の方へ向かれ片手を挙げられました。

すると突如として音楽が鳴り渡り、全市民による荘厳なる讃美歌が聞こえて来ました。前に一度同じような大合唱のお話をしたことがありますが、それとは比較にならない厳かさがありました。この界があの時より一界上だからです。その大合唱と鐘の音と器楽の演奏の中を二人を先頭に一隊から都市の中へ入って行きました。


 こうして一隊はカストレル宮殿へ向かう通りを行進し、いよいよ例の並木道へと入る曲がり角で隊長が馬車を止め、立ち上がって四方を見回し、手を挙げて沿道の市民にその都市の言葉で祝福を述べ、それから並木道へと入り、やがて一隊と共に姿が見えなくなりました。

 でも、ダメですね、私は。今回の出来ごとの荘厳さを万分の一でもお伝えしようと努力してみましたが、惨めな失敗に終わりました。実際に見たものは私が叙述したものより遥かに遥かに荘厳だったのです。私が主として到着の模様の叙述に時間を費やしたのは、今回の一隊の訪問の使命についてはよく理解していなかったからです。

それは私ごとき低地の住民には理解の及ばないことで、その都市の指導的地位にある方や偉大な天使が関わる問題です。

せいぜい私が感じ取ったのは、あのコロニーの中で音楽の創造に関わっている人の中でも最高に進化した人々による研究に主に関連している、ということだけです。それ以上のことは判りません。もちろん私以上に語れる人が他にいるのでしょうけど。

 さっき出なかった言葉(一六二頁)は〝惑星〟です。編隊を変えたあとの形のことです。いえ〝惑星〟ではありません。〝惑星系組織〟です。地球の属する太陽系なのかどうか──たぶん他の太陽系でしょうが、私にはよく判りません。

 今夜はこれでおしまいです。祝福の言葉をお待ちのようですね。では神の祝福を。目をまっすぐに見据えて理想を高く掲げることです。そして私どもの世界の本当の栄光に比べれば、地上で想像し得るかぎりの最高の栄光も、太陽に対するローソクのようなものでしかないこと、それほど霊の世界の栄光は素晴らしいことをお忘れにならぬように。




5〝縁〟は異なもの

一九一三年十月二二日  水曜日

 もしも地球全体が一個のダイヤモンドか真珠のようなものであったら、太陽や星の光を反射して地球のまわりがどんなにか明るく輝くことでしょう。もちろん地球に輝きが無い訳ではありません。少しは輝いております。ただ表面にツヤが無いために至ってお粗末なものに見えます。

その輝きと真珠の輝きとを比較していただけば、地上生活と私たちが今いる光と美の境涯、いわゆる〝常夏の国〟(※)との違いが想像していただけると思います。

(※曽ては〝常夏の国〟 が天国とされていたが、近代の霊界通信によってそれがまだまだ霊界の入口あたりに過ぎないことが明らかとなってきた。本通信でも〝天界の低地〟に属し、善と悪、暗黒界と光明界の二面性があることが窺える。──訳者)

 この常夏の国の平野や渓谷に遠く目をやっておりますと、地上の大気による視覚への影響を殆んど忘れております。もっとも、地上独特のものでこちらに存在しないものを幾つか思い出すことは出来ます。例えば距離です。

距離感覚はぼやけて行くのではなく、少しずつ消失して行くのです。樹木や植物は地上のようにシーズンが来ると咲きシーズンが終わると枯れて行くというのではありません。いつも咲いております。

それを摘み取ってもずいぶん永い間いきいきとしております。やがて萎れるのかと思うとそうではなく、これもいつの間にか大気の中へ消滅して行くのです。大気は地上と同じような感じがしますが、必ずしも無色透明ではありません。カストレル様の都市はどこか黄金の太陽の光のようなものに包まれております。モヤではありません。

それが視力を妨げることもありません。それどころか、他のさまざまな色彩を邪魔することなく一切を黄金の光輝の中に包み込んでいるのです。うっすらとしたピンク、あるいは青色をしている地方もあります。各地方に独特の色調又は感じがあって、それがそこの住民の本性と性向と仕事の特徴を表わしているのです。

 大気の色調はこの原理に基づいているようです。が同時に、その色調が住民の言動に反映しています。他の地域を訪れるとそれがよく判ります。霊格が高くなると、その土地へ足を踏み入れるとすぐに、そこの住民の一般的性向と仕事の内容が判るようになります。

と同時にその人もすぐにその影響を受けることになります。もちろん根本的性格は変わりません。感覚的な面で影響を受け、それがすぐに衣服の変化となって表われます。


 ですから、見知らぬ土地へ行っても、内面的にも外面的にもすぐに同胞意識を覚えるようになります。これは私が知った最大のよろこびの一つです。どこへ行っても兄弟姉妹が居るようなものです。

もし地上がそういうところだったらどうなるか、想像してご覧なさい。居ながらにして天使の平和と善意のメッセージが現実となり、地上が言わば〝天界の控えの間〟となることでしょう。

 さて私たちはカストレル様の都市の訪門を終えての帰路、今回の体験で私たちがどう変わったか、いかなる教訓を学んだかを反省いたしました。私自身について言えば、それはもう、あの死産児に会えたということだけで十分であったという気持ちです。

思いも寄らなかった神からの贈り物です。が、平野をのんびりと歩きながら、私だけでなく仲間の一人一人がその人なりの祝福を得ていたことを確かめ合ったことでした。

 都市を訪れる時は天空を飛行しました。そこで帰りは山脈のところまでは歩いて行きましょうということになったわけで、その道すがらずいぶん色んなことを語り合いました。それを全部綴れば大変なページ数になります。そして内容も興味ぶかいものばかりですが、私たちと違い、あなたにとって、また新聞社にとっては、時間と紙面が大切な要素ですから(※)それは割愛して、どうしても語っておかねばならないことだけを述べることにしましょう。

(※この霊界通信は一九二〇年から二一年にかけて新聞に掲載されている。霊界側は当初よりこういう形での公表を念頭において通信を送って来たことが窺える。──訳者)

 私たち五人が本来の界へ帰り着いた時、私たちの属する霊団の最高指導霊であらせられる女性天使も例の〝かけ橋〟での用事を終えてすでに帰っておられました。この度はあなたもよくご存知の婦人を連れて帰られました。



──どうぞその方のお名前を!



 S婦人です。あの方は、死後、不如意な体験が重なりました。こちらへ来られた頭初は急速な進歩が得られる境涯へ案内されたのですが、あの方の場合は複雑でした。性格が複雑な方だったために、どこに置かれてもしっくり来なかったのです。

いろいろと工夫して援助してあげたのですが、しかし──これはあなたも是非知っておくべきことですが──こちらでは自由意志と個性が非常に重要視され、いくらその人のためになることでも押し付けることは許されないのです。

S婦人は間もなく気持ちが落着かなくなり、私たちも本人の好きにさせるほかはないと判断しました。そこで警告と忠告を十分に与えた上で二つの道の岐路に案内して、好きな方角を選ぶにまかせたのです。但し指導霊を付けて蔭から監視させ、必要とあらばいつでも援助の手を差しのべる用意をした上でのことです。



 さて婦人は自分の求めるもの、つまり〝心の落着き〟を得るためにはどこへ行けばよいか、何をすればよいか迷っておりました。それで相当永い間、例の〝かけ橋〟の近くをウロウロしておりました。

そのS婦人がようやく自分の誤りに気づいて光明の方へ足を向け、女性天使に連れられて最初の境涯へ戻って来ることになったのは、我が侭を通せば通すほど暗闇が増し、会う人も見る光景も聞く音も心地良さが薄れ、時には恐怖さえ覚えさせるものになって行きつつあることに気づいてからでした。

今もまだまだ進歩は遅いようです。ですが、頑なな心が次第に和らかさを増し、謙虚さと信頼心が強まりつつあります。そのうち立派になられるでしょう。これまで私がS婦人の消息が判らずお役に立てなかったのも、こうした経緯があったからです。これからは時の経過と共に少しずつ力になってあげられることと思います。

私がこれから当分の間仕事に従事することになっているこの土地へ連れて来られたのも、多分そのためでしょう。あの方のことは私は地上ではあなたを通じて存じ上げていただけで、あまりよく知りませんでした。私とのこの度のご縁は多分あの方のお子さんたちとあなたとの情愛がかけ橋となっているのでしょう。 こちらでは地上でのご縁が全て生かされております。ふとした縁、行きずりの縁も意味があるものです。人生におけるあらゆる出会いが何らかの影響を及ぼしております。たまたま隣り合わせに腰掛けた人と交わした会話、偶然の出会い、ふと買い求めた一冊の本、友人の紹介で握手を交わし、それきり生涯会うことのなかった人等々、すべてが記録され、考慮され、整合されて、必要に応じて利用されます。今回の私とS婦人との関係もその一つの例と言えましょう。

 ですから、日常の行為の一つ、言葉の一にも気をつけなくてはいけません。神経質になるのではなく、常に人の為を思いやる習慣を身につけることです。いつでも、どこでも親切の念を出し続ける習慣です。これは天界では大変重要なことで、それが衣服に明るさを、そして身体に光輝を与えるのです。

 ではお寝みなさい。この挨拶は〝良い夜〟お過ごし下さいという意味ですから地上の方には意味がありますが、私達には意味がありません。こちらでは〝善〟を愛する者にとっては全てが〝良い〟ことばかりであり、絶対的な光に満ちておりますから〝夜〟が無いのです。

Sunday, July 5, 2026

シルバー・バーチの霊訓(十二)

  煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編




十二章 落ち穂集


(1)私たちの霊団は悪魔の使いではありません。皆さんを混乱の袋小路に誘い込もうとしているのではありません。理解と自信と安らぎと幸せを生み出してくれる単純な霊的真理をお教えしようとしているだけです。言いかえれば、少しでも神に近づけてくれる摂理を啓示してあげようとしているのです。それが私たちの使命なのです。


(2)皆さんも神の僕です。皆さんの労苦を通して大霊の御心が地上に行きわたるのです。その労苦の中に大きな喜びがあることを知ってください。なぜなら、多くの人々の生活の中にかつては思いも寄らなかった新たな希望をもたらしてあげているからです。

皆さんは霊の力が地上へ降下するお手伝いをなさっているのであり、それは神の摂理が正しく地上で作用するお手伝いをしていることにほかなりません。それが物的世界の苦しみや悲しみを取り除くことにもなるのです。


(3)人間はなぜ光明よりも暗闇を好むのでしょうか。なぜ知識よりも無知を好むのでしょうか。なぜ叡智よりも迷信を好むのでしょうか。なぜ霊の生きた真理よりも形骸化した教義の方を好むのでしょうか。なぜ霊的叡智の泉よりもホコリだらけの神学の方を好むのでしょうか。


(4)地上の人間は流血によって問題が解決されるかに考えますが、これまでの歴史でそのような方法で問題が解決した例(タメシ)はありません。流血は無益であり、結局は徒労に終わります。

なぜ人類はせっかく神から授かっている理性が使えないのでしょうか。なぜできるだけ多くの敵を殺すのが唯一の解決策だと考えるのでしょうか。敵を一番多く殺した者が英雄とされる───地上というところは不思議な世界です。


(5)古い価値基準が棄て去られ、すべての権威が疑義を差しはさまれて影響力を失墜しつつあるこの混乱の時にあって、私たちは絶対に威力を失うことも誤ることもない〝摂理〟という形での神の概念を説きます。それこそ宇宙の絶対的権威者なのです。物質の世界の人間がその摂理に従って生きるようになれば、平和と秩序が再び支配します。


(6)地上の人々、なかんずく霊的知識を手にされた方たちが、せめて一度でも、物的五感を超えて、すぐ身のまわりにある霊的実在を認識してくれれば、という私の願いは切なるものがあります。


(7)悩みの種が尽きることはありません。だからこそ地上に来ているのです。すなわち問題を一つ一つ片付けていく中で、新たな力、より大きな発展を獲得していくのです。次から次へと生じる問題を挑戦課題として受け止め、一つ一つ処理していくことです。


(8)私はすでに多くの方が直感的に、あるいは理性的・論理的に理解しておられる単純な真理を改めて説いているに過ぎません。その真理の仕入れ先は霊界です。しかもその上層界です。そこではすべての人が実在を目のあたりにします。

原因と結果とが即座に働き、他への思いやりの多い人が少ない人より偉い人とされ、地上時代の見栄や肩書はすべてはぎ取られ、魂がまる裸にされて、長所も短所も衆目にさらされてしまいます。そういう世界で学んだことをお届けしているのです。


(9)いかなる聖職者も魔法の力は持ち合わせません。水を他の何物にも変えることはできません。司祭が赤子の顔に水を二、三滴たらしたからといって、それでその子の地上生活に、あるいは死後の生活に、いささかも変化は生じません。

その二、三滴の水は、垂らす前も、垂らした後も、相変わらずただの水にすぎません。その水の科学的成分を変え法則と違ったことを生じさせる力は、司祭にはありません。

  
(10)治療家が苦痛を取り除いてあげることが許されるのは、それが霊的自我の目覚めへつながるからこそです。病気を治してあげることが立派な仕事であることは違いないのですが、治療家にはそれよりもっと大切な仕事があります。

その病気が縁で訪れてくる人の魂を目覚めさせ、真の自我を発見させてあげることです。それに比べれば、症状が取れるというだけの治療は大して重要ではありません。


(11)大切なことは魂に感動を覚えさせてあげることです。人間は大ていの場合、大霊から授かっている神性の炎が小さく弱くなっております。それを大きく燃え上がらせてあげるのです。その体験の中から新たな悟りが生まれます。

そういう体験をさせてあげるために特別製の聖衣がいるわけではありません。特殊な養成所に通う必要もありません。ひたすらに人の幸せを願い、少しでも霊的資質を発揮する生活を心掛け、いつでも霊力の通路として使用してもらえる態勢を整えておけば、それでよいのです。


(12)人生で最も貴重なものは入手が最も困難なものです。困難でなかったら貴重とは言えません。もしも霊の褒章が安易に手に入るものであれば価値はないことになります。ですから、困難を歓迎するのです。しり込みしてはなりません。それを逆手にとって支配下に治め、それを克服していく努力の中で、あなたの未開発の能力が引き出されるのです。


(13)時には思い切り涙を流すことも大切です。感情を発散させることになり、すっきりとして気分が和らぎます。意地を張って感情を押し込めたままにしておくよりも、涙とともにその感情を流し出した方がよいことがあるものです。


(14)私は地上に大勢の友をこしらえることが出来て、とても幸せ者であると思っております。私はただ、私に送られてきた基本的な真理を英語という地上の言葉にくるんでお届けしているだけです。受け入れる用意のできた人が受け取ってくだされば、それでよいのです。


(15)真理を知らずに間違ったことをしているのであれば、まだ弁護の余地はありますが、聖職者としての義務を知っていながら自分の栄達の方を優先させている者は一体どう弁解するつもりでしょう。


(16)私たち霊団の者は地上的環境というままならぬ条件のもとで精一杯努力しております。そこで、皆さん方に要求するのは〝協力〟の二文字だけです。私たちが提供するのも〝協力〟です。命令的な指示はしたくありません。強制しようとは思いません。

人のために役立ち自我の開発にも役立つことをするには人間はどうすればよいかをお教えすることによって、皆さんの愛と理性に発する協力を獲得したいのです。


(17)皆さんはキリスト教の聖職者にも、ユダヤ教の聖職者にも、世界のいかなる宗教の指導者にもできないことがお出来になります。神は聖なる職にある人だからということで霊力をお授けになるのではありません。霊力を授かるにふさわしい資格を具えた人にお授けになるのです。


(18)人生のどこかの段階で神は子等に真の自我の発見とその存在意義に目覚めるための機会を提供します。そのための前提条件として、魂の琴線に触れる体験が必要です。


(19)魂が感動を覚えないうちは、霊力は働きません。ですから、たとえば病気そのものは治っても、その体験によって魂が何らかの感動を覚えるまでに至らなかったら、その治療は本来の目的を成就出来なかったことになります。


(20)私たちがこうして地上へ戻ってきた目的は、物的現象のウラには霊的実在があることを披露することによって、人間が幻影を追い求めることを止め、この千変万化の地上生活の複雑な諸相を律している基本的な真理を学んでくださるように導くことです。


(21)あなたは人間です。過ちを犯します。判断を誤り、しくじることがあります。人間性は頑強に出来上っていない故に、人間は常に弱みを背負って生きています。人間が人間であることの証は、欠点を持っているということです。だからこそ今あなたは地上へ来ているのです。


(22)完全性など、とても地上で成就できるものではありません。ですが、いずれお出でになるこちらの世界のための霊的な準備となる教訓を学ぶことはできます。


(23)人生は両極性から成っています。作用と反作用、同等と正反対といった具合ですが、それは同じ硬貨(コイン)の両面です。ですから憎しみが愛に変わることがあると同時に、不幸にして愛が憎しみに変わることもあるわけです。両者は同じ力なのです。問題はその力をどう働かせるかです。


(24)このサークルに来られる方に強調しておきたいのは、この私という存在は進化の頂点を極めた、したがって誤りを犯すこともなくなった、完全な霊の教師ではないということです。そんなものはこの世には存在しません。向上すればするほど、まだその先に向上すべき余地があることに気づくことの連続なのです。


(25)私が説く真理の最大の価値は、それが宇宙の叡智の宝庫から取り出した崇高なものであるということです。といって私は、それを無理にでも信ぜよとは申しません。私のいう通りにしなさいとは申しません。また、これ以外に神すなわち宇宙の大霊へ近づく道はないなどと豪語するつもりもありません。


(26)私に断言できること、絶対の自信を持って申し上げられることは、霊的な真理も人間の理性と知性と体験によるいかなるテストにも耐えうるものだということです。と言って、仮にあなたが〝こんなものは受け入れるわけにはいかない〟と拒否なさっても、別にバチは当たりませんから心配はご無用です。


(27)取り越し苦労はいけません。心配は無知から生まれます。真理を知って〝知識の光〟の中で生きなさい。


(28)イースターは全生命の復活を祝う時です。それは太陽系の全天体が一丸となって、地上世界が悲劇と苦痛と災厄から復活して、より意義ある人生、真実の生き方に目覚めるようにと祈る、その祈りのシンボルなのです。



(29)地上世界には霊的新生が大いに必要です。しかし今や大霊の造化の目的のために自分を役立てたいと願う者が増え、物欲による横暴が駆逐されるにつれて、大霊の意志が除々にではありますが行きわたりつつあります。


(30)私はこのイースターの時期になると、他の大勢の同志とともに本来の所属界へと舞い戻り、物的条件によって制約された人間の理解力では到底理解できない霊的生命の喜びをしばし満喫し、敬愛する指導者に拝謁し、その崇高なる叡智に触れ、その強烈なる霊力を頂き、畏(カシコ)き神々の集える審議会への出席を許され、

そこで計画がどこまで進捗したか、どこがうまく行っていないかについてのご指導にあずかり、絶え間なく続く善と悪との闘いのために案出された次のご計画を仰ぎます。


(31)出来ることなら皆さんをご一緒にお連れして、地上のために働いている霊団の面々をご覧いただいて、その光輝の素晴らしさをお見せすると同時に、その光輝を発している畏れ多き神霊がかつて地上では何という名前で呼ばれていたかをお教えしたい気持ちです。しかし、その前に皆さんは、あまりの崇高さに尻込みなさることでしょう。

地上時代の名前はすっかり意味を失っております。それよりも、現実にそうして地上のために活動しておられるその影響力の方が大切です。そうした方々によって催される大審議会の模様を一度でもお目に掛けることが出来たらと思うのですが・・・・・・


(32)暗黒の勢力と既得権にあぐらをかいている宗教界との戦いのほかに、もう一つ、人間の〝心配の念〟という敵との戦いもあります。無知から生じる無用の心配の念が無数の人間の心に巣くっております。心配というのは想像の世界にしか存在しないものです。実在しないということです。

それで私は心配の念を棄てなさいと繰り返し申し上げるのです。解決できない問題というのは絶対に生じません。重すぎて背負えない程の荷は与えられません。常に明るく確信に満ちた雰囲気の中で生活していれば、必ずや援助し導いてくれる勢力を呼び寄せます。


(33)洗礼の儀式は少しも魂を聖めることにはなりません。地上生活にあって少しでも完全に近づくように、日常生活の中で内なる神すなわち霊性を一つでも多く発揮するように努力することから、本当の聖らかさが生まれるのです。


(34) 科学の発達によって精巧な機器が発明され、それによって宇宙の新しい側面が次々と明らかにされるようになりましたが、それは決して新しいものを生み出したわけではありません。無窮の過去から働き続けてきた法則の存在を今になってやっと知ったというに過ぎません。


(35)まったく新しいものが創造されるということはありません。何が生まれても、それはすでに存在していたものの一部分に過ぎません。大自然の法則と一致しないものが発生することは絶対にありません。法則はすべてを包摂しているからです。人間がその存在に気づくか気づかないかの問題です。


(36)クリスチャンがイエスの本当の生きざまを見習いはじめた時、歴史に画期的な新時代が始まったことになります。が、今のところはまだ始まったとは言えません。私の目にはその兆しが見えないのです。イエスの名を口にするだけではイエスに忠誠を尽くすことにはなりません。

その生き方を見習わないといけません。それができないでいてこの私に〝クリスチャン〟という言葉を用いないでください。イエスも言っているではありませんか───〝私に向かって主よ主よと言ってくれる者すべてが天国へ召されるわけではない。天なる父の御意志(ミココロ)を実行する者こそが召されるのである〟と。


(37)すべての存在に神の息吹が掛かっております。だからこそ物質界の最下等の生命体も全知全能の神とつながっており、地上で最高の聖人・君子ともつながっていると言えるのです。同じ意味で極悪非道の犯罪人と高潔な聖人とは兄弟なのです。どちらにも同じ神の息吹が宿されているのです。


(38)霊能養成のために費やす時間が無駄に終わることは決してありません。何の反応もなくて焦れったい思いをなさる気持ちは私にもよく分かります。が、そうした状態のもとで着実に進歩していることを知っていただきたいのです。背後霊との絆が強化され、霊的感覚が鋭敏さを増しております。成長と開発と進化が一刻の休みもなく続いております。


(39)知識を求める人にはちゃんとその人なりのものが用意されているものです。ですが、皆さん方のように真理普及の第一線に立つ者は、自ら冒険を求める勇気がなくてはいけません。時には予想もしなかった危険にさらされることも覚悟しなくてはいけません。

未踏の奥地にまで踏み込む用意も必要です。しかも、真理に導かれる所ならどこへでも付いて行き、間違いであることが分かったものは、たとえ古くから大切にされている教えであっても、即座に棄て去るだけの心の準備ができていなくてはなりません。


(40)患者に手を当てがうということは、言ってみればオモチャで遊ぶ程度のことです。大切なのは患者の魂が目を覚まして真実の自分を発見することです。私にはこれ以上にうまい表現が思いつきません。


(41)霊とは内部の神性の火花です。心霊治療はその火花を大きな炎と燃え上がらせる仕事です。それが心霊治療の本来の目的です。


(42)私のことをいろいろと話題にしてくださるのはよいとして、シルバーバーチという一個の存在のみに関心を向けるのはよくありません。私は私よりはるかに偉大な霊から送られてくるメッセージを皆さん方にお届けしているだけです。

光り輝く存在、大天使団によって組織された政庁があり、大霊の計画の実質上の責任をあずかっているのです。私はその使い走りにすぎません。そのことを光栄に思ってはいますが・・・・・・


(43)高級霊は人間を霊的知識をもたらすための手段───真理を普及し、間違った考えを改め、迷信を駆逐し、光明を少しでも広く行きわたらせ、苦痛・悲劇・不幸に終止符を打ち、その結果として幸せと安らぎと繁栄をもたらすための手段とみなしております。


(44)証拠、証拠とおっしゃいますが、証拠を手にすることと魂の成長とは何の関係もありません。真理を受け入れる能力は、あなたの魂が霊界のどの次元まで突入できるかによって決まります。つまり真理を悟る能力がどこまで進化したかに掛かっております。それを証拠の入手と混同してはなりません。

両者は必ずしも並行して進むものではありません。死後にも生命があることを立証する立派な証拠を手にしていながら、霊的には一向に目覚めていない人がいるものです。


(45)あなたは〝霊〟だからこそ生きているのです。霊だからこそ墓場を超えて生き続けるのです。霊だからこそ永遠に生き続けるのです。それには〝教祖さま〟は何の関係もありません。生得の権利であり神からの遺産の一つなのです。



(46)現代の啓示も過去の啓示と同一線上にあります。私たちはイエスが説いた真理を否定していませんし、そのイエスもモーゼの説いた真理を否定しませんでした。われわれの後に来る人も、私たちが今説いている真理を否定することはないでしょう。

しかし未来の子は一段高い進化のレベルにありますから、啓示される真理も今の時代に啓示されている真理より進歩したものであらねばなりません。


(47)日常生活において霊性を発揮すればするほど大霊に近づきます。あなた方一人ひとりが大霊の一部であり、したがってあなたと大霊との間に〝仲介役〟というものは要りません。


(48)本当を言うと魂は内部にあるとか外部にあるとかは言えません。魂とは全宇宙に偏在するものです。〝意識〟です。一個の身体によって束縛されるものではなく、無限の広がりを持つものです。一瞬の間に地球を一周できます。


(49)一体あなたとは何なのでしょう。ご存知でしょうか。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。


(50)身体はあなたが住む家であると考えればよろしい。家であってあなた自身ではないということです。家である以上は住み心地を良くしないといけません。手入れがいるわけです。しかし、あくまでも住居であり住人ではないことを忘れてはなりません。


(51)あなたはその身体の奥に神の属性である莫大なエネルギーのすべてを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。その秘められた神性を開発してそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。

なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありませんが・・・・。


(52)霊の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったら価値はないことになります。何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利といえるでしょうか。何の苦労もせずに頂上を征服したら、それが征服といえるでしょうか。

霊的進化というものは先へ進めば進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未踏の地を行きつつ後の者のために道しるべを残していくことだからです。そこに霊的進化の真髄があります。


(53)肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。その形体としての存在はホンの一時的なものです。用事が済めば崩壊してしまいます。が、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。その辺の理解ができた時こそあなたの神性が目を覚ましたことになります。

肉体的束縛を突き破ったのです。魂の芽が出始めたのです。ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出てきたのです。あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。


(54)人間の大半が何の益にもならないものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類にとって最高の財産を犠牲にしております。どうか、どこでもよろしい。種子を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい。冷やかな拒絶に会っても、相手になさらぬことです。

議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけません。無理をして植えても不毛の土地には決して根づきません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。小ばかにしてあなたに心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねてくることでしょう。

  
(55)人生には目的があります。しかしそれは当事者が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形ではないのです。人間の一人ひとりに神の分霊が宿っており、一人ひとりが無限の創造活動に参加できるのです。

つまりあなたには個的存在としての責任と同時に、ある一定限度内での自由意志が与えられているのです。自由といっても、大自然の法則の働きを阻止することができるという意味ではありません。限られた範囲内での選択の権利が与えられているということです。

運命全体としての枠組みはできております。が、その枠組みの中であなたが計画された予定表(ブループリント)に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第ということです。



(56)霊は生命そのものであり、生命は霊そのものです。霊のないところに生命はありません。物質は殻に過ぎません。霊という実在によって投影されたカゲに過ぎません。物質それ自体には存在はないのです。

あなたが存在し、呼吸し、動き、考え、判断し、反省し、要約し、決断し、熟考することができるのは、あなたが霊であるからこそです。霊があなたの身体を動かしているのです。霊が離れたら最後、その身体は崩壊して元の土くれに戻ってしまいます。


(57)人間という形態を通して顕現している生命力は、小鳥・動物・魚類・樹木・草花・果実・野菜などを通して顕現しているものと同じ生命力なのです。いかなる形態にせよ生命のあるところには必ず霊が働いております。


(58)時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中を生きているように思えることがあります。しかしその見方は事実の反面しか見ておりません。

まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。私はあなた方に比べれば遥かに永い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てまいりましたが、私はその摂理に絶対的な敬意を表します。神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。


(59)せっかちと短気はいけません。せっかくの目的を台なしにします。内部から援助してくれる力は静穏な環境を必要とします。物事には一つの枠、つまりパターンがあり、そのパターンに沿って摂理が働きます。宇宙の大霊も自ら定めた摂理の枠から外れて働くことはできないのです。

指導と援助を求める時はそれなりの条件を整えないといけません。そのためには、それまでの経験を活用しなければなりません。それが魂にとっての唯一の財産なのです。そして、自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれるという自信を持つことです。あなたはその力の一部なのであり、あなたの魂に内在しているのです。

正しい条件さえ整えば、その神性は神からの遺産として、あなたに人生の闘いを生き抜くためのあらゆる武器を用意してくれます。せっかちと短気はその自由闊達な神性のほとばしりの障害となるのです。

 神は決してあなたを見捨てません。見捨てるのはあなたの方です。あなたが神を見捨てているのです。困難に直面した時、その神の遺産を結集し、必ず道は開かれるのだという自信を持つことです。不動の信念を持つことです。そうすれば道は必ず開かれます。



(60)悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味を持つものです。それが魂の琴線に触れた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。魂は物的身体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。

もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学べる段階まで来ている魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。


(61)人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味での〝ご利益〟(リヤク)と言わねばなりません。

何もかもうまく行き、日向ばかりを歩み、何一つ思い煩うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫を開き神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということです。


(62)神は一瞬の休みもなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日もともに神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。

あなた方自身さえも裁く資格はありません。物的尺度があまりに小さすぎるのです。物的尺度で見る限り世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真理の敗北しかないかに思えるでしょう。当然かも知れません。しかし、それは極めて偏った、誤った判断です。


(63)霊的真理は、単なる知識として記憶しているだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験して初めて、それを理解するための魂の準備ができたことになります。どうもその点がよく解っていただけないようです。種子を蒔きさえすれば芽が出るというものではありません。

芽を出させるだけの養分が揃わなくてはなりません。養分は揃っていても太陽と水がなくてはなりません。そうした条件が全部揃った時にようやく種子が芽を出し、生長し、そして花を咲かせるのです。人間にとってその〝条件〟とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験です。何もかもうまく行き、鼻歌交じりの呑ん気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。

そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験してはじめて霊的知識を理解する素地ができあがります。そして、いったん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮し始めることになるのです。


(64)人間は物質の中に埋もれた生活をしているために、バイブレーションが低くなっております。朝目を覚まし、まだ意識が完全に働かないうちから、あれやこれやと煩わしいことや心配事の波に呑み込まれていきます。

大きい悩み、小さい悩み、真実の悩み、取り越し苦労に過ぎぬもの、等々いろいろあります。いずれにせよ全ては一時的なものに過ぎないのですが、そういうものに心を奪われてしまうと、背後霊が働いてくれている事実を忘れ、あなた方の思考の流れの中から霊的要素が閉め出され、霊的流入を遮断する一種の壁をこしらえてしまいます。


(65)恐怖心は無知の産物にほかなりません。つまり知らないから怖がるのです。ですから、知識を携えて霊的理解の中に生きることです。取り越し苦労の絶えない人は心のどこかにその無知という名の暗闇があることを示しています。そこから恐怖心が湧くのです。

人間が恐れるべきものは恐怖心それ自体です。恐怖心は闇の産物です。霊力に不動の信念を持つ魂は恐れることを知りません。


(66)生長・変化・進化・進歩・開発・発展───これが宇宙の大原理です。一口に進化と言っても、そこには必ず潮の干満にも似た動きがあることを知ってください。循環(サークル)運動、周期(サイクル)運動、螺旋(スパイラル)運動───こうした運動の中で進化が営まれており、表面は単調のようで内面は実に複雑です。

その波間に生きるあなたも、寄せては返す波に乗って進歩と退歩を繰り返します。物的繁栄の中にあっては霊的真理を無視し、苦難の中にあっては霊的真理を渇望するものです。それは人生全体を織りなすタテ糸でありヨコ糸であるわけです。


(67)霊媒現象ばかりが霊力のはけ口ではありません。芸術家を通して、哲学者を通して、あるいは科学者を通しても発現することができます。要するにあなた方自身の霊的自覚を深める行為、あなた方より恵まれない人々の役に立つ仕事に携わることです。

看板は何であってもかまいません。係わる宗教、政治、芸術、経済がいかなる主義・主張を掲げようと問題ではありません。実際に行う無私の施しが進化を決定づけるのです。


(68)地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。

その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。


(69)私が〝魂は承知している〟と言う時、それは細かい出来事の一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているということです。

その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くということは、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。たとえば、予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻ってくることになります。

それを何度も繰り返すことがあります。そうするうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。


(70)時には万策尽きて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差し伸べられることがあります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。



(71)自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい認識を失わぬようにしてください。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方でも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われて霊的実相を忘れてしまいがちです。が、それだけは絶対に忘れないようにしなければなりません。

地上という物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。霊こそ実在です。物質は実在ではないのです。あなた方はその実在を見ることも触れてみることも感じ取ることもできないかも知れません。少なくとも物的感覚で感識している具合には感識できません。

しかし、やはり霊こそすべての根源であることに変わりありません。あなた方は永遠の存在であることを自覚してください。生命の旅路においてホンの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者に過ぎません。


(72)治療家としてこの世に生を受けたのは、その仕事を通じて神の計画の遂行に参加し、自分が何であるかも自覚せず、何のために地上に生まれてきたのかも知らず、従って何を為すべきかも知らずに迷っている神の子等に永遠の真理、不変の実在を教えてあげるためです。

これは何にも勝る偉大な仕事です。たった一人でもよろしい。治療を通して霊的真理に目覚めさせることができたら、あなたの地上生活は無駄でなかったことになります。一人でいいのです。それであなたの存在意義があったことになります。


(73)あなた方人間は物的身体を通して自我を表現している霊魂です。霊魂に霊的法則があるように、身体には生理的法則があります。その法則の働きによって身体に何らかの影響が表れたとすれば、それも原因と結果の法則が働いたことを意味します。

私たちは霊力によって手助けすることはできても、その法則の働きによる結果に対しては干渉できません。要するに奇跡は起こせないということです。大自然の因果律は変えられないということです。神は摂理として、その霊力によって創造した宇宙で一瞬の休みもなく働いております。

すべてを包摂しており、木の葉一枚落ちるのにも摂理の働きがあります。ありとあらゆる治療法を試みてなお治らなかった患者が、もし心霊治療によって見事に治ったとしたら、それは奇跡ではなく霊的法則が働いた証と考えるべきです。


(74)人間の健康を動物の犠牲のもとに獲得することは神の計画の中にはありません。全ての病気にはそれなりの治療法が用意されております。その神の用意された自然な方法を無視して動物実験を続ける限り、人間の真の健康と福祉は促進されません。

動物はそんな目的の為に地上に生を受けているのではありません。真の健康は調和です。精神と霊と肉体の正しい連係関係です。三つの機能が一体となって働くということです。これは動物を苦しめたり体内から特殊成分を抽出したりすることによって得られるのではありません。


(75)身体が病むということは、精神か霊のいずれかに不自然なところがあることを意味します。霊が正常で精神も正常であれば、身体も正常であるはずです。身体に出る症状はすべて霊と精神の反映です。

これを医学では心身相関医学などと呼ぶようですが、名称はどうでもよろしい。大切なのはいつの時代にも変わらぬ真理です。魂が病めば身体も病みます。魂が健康であれば身体も当然健康です。身体の治療、これは大切ではありません。魂の治療、これが大切なのです。


(76)私たちが地上の人々にもたらすことのできる最高の霊的知識は人生が〝死〟をもって終了するのではないこと。したがって苦しい人生を送った人も失敗の人生を送った人も屈辱の人生を送った人も、みなもう一度やり直すことができるということ、言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。人生は死後もなお続くのです。

永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人間は内在している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時に又、愚かにも摂理を無視し他人への迷惑も考えずに横柄に生きた人間には、その悪業の償いをするチャンスが与えられます。


(77)宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが、人間を永いあいだ迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それがすべてのカギです。

祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者や無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いというケースがいくらもあるのです。問題は何を信じるかではなく、これまで何を為してきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。


(78)いわゆる因果律というのは必ずしも地上生活中に成就されるとは限りません。しかしいつかは成就されます。必ず成就されます。原因があれば結果があり、両者を切り離すことはできないのです。しかし、いつ成就されるかという時期の問題になると、それは原因の性質いかんに係わってきます。

すぐに結果の出るものもあれば、地上生活中には出ないものもあります。その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。罪を犯すとその罪がその人の霊に記録され、それ相当の結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。

それが地上生活中に出るか否かは私にも分かりません。それはさまざまな事情の絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である〝霊の進化〟にあることだけは確かです。


(79)人間生活には三つの側面があります。まず第一に霊であり、次に精神であり、そして肉体です。人間としての個性を存分に発揮するようになるのはこの三つの側面の存在を認識し、うまく調和させるようになった時です。

物的世界にのみ意識を奪われ、物的感覚にしか反応を示さぬ人間は、精神的ならびに霊的な面においてのみ獲得される、より大きい、より深い、より美しい喜びを味わうことはできません。

反対に精神的なもの、霊的なものばかりの瞑想的生活から生まれる内的満足のみを求め、この世の人間としての責務をおろそかにする人間は、一種の利己主義者です。


(80)人間にとって最大の恐怖は死でしょう。それが少しも怖いものでないことを知り、生命が永遠の存在であり、自分も永遠の存在であり、あらゆる霊的武器を備えていることを知っていながら、なぜ将来のことを心配なさるのでしょう。

不幸の訪れの心配は、その不幸そのものより大きいものです。その心配の念が現実の不幸より害を及ぼしております。


(81)心霊治療家になしうることは、病気の期間を縮めるか、治してしまうか、あるいは、もっと大切なこととして、真理に目覚める用意のできた魂に感動的な体験を与えることです。

悪事とか懲罰の問題を超えたものがそこにあります。魂そのものの成長に関わる問題です。魂が目覚めるまでは往々にして悲しみや病気がお伴をすることになります。


(82)期間の問題ではなく〝霊〟そのものに係わる問題です。霊は、何日も何週間もかかって体験するものを僅か二、三秒で体験することができます。霊的なものを物的な尺度として価値判断することはできません。霊的なものは霊的に判断しなければなりません。霊的なことが原因で発生した現象を地上的な期間を尺度として価値判断することはできません。

さらに、理屈はどうであれ、治療家が痛みを軽減したり、らくにしてあげたり、治してしまうことができるという現実は、そこに何らかの法則が働いていることの証拠であり、同時にそれは、その患者の魂がその救いを得る段階まで来ていたことを意味します。偶然とかまぐれとかで起きているのではありません。


(83)人生はすべて法則によって支配されております。天命・宿命・運命───こうした問題は何世紀にもわたって思想家の頭を悩ませてまいりました。では真相はと言えば、法則の内側にもまた別の次元の法則が働いているということです。

宇宙には何人(なんぴと)にも動かしがたい基本的法則がまず存在します。そして、それとは別に、自由意志を行使できる法則もあります。ただし、自由意志による行為が原因となってそれ相当の結果が生じます。それは絶対に避けることはできないということです。


(84)いくら善人でも無知から霊的な罪を犯すことがあり得ます。たとえば、ここに一人の子供、とても気立ての良い子がいて、その子が炉の中に手を突っ込んだとします。炉の火は、その子が良い子であるか悪い子であるかにお構いなく、その手に火傷を負わせます。

もしもその子に、火に手を入れたら火傷をするという〝知識〟があったら、手を突っ込むことはしなかったでしょう。ですから、この場合、火傷をするしないは知識の問題です。

私が因果律の問題は魂の進化の程度によって決まるという言い方をするのは、そうした要素があるからです。因果律は必ず働きます。信仰とか願望にはおかまいなく働きます。


(85)いかなる人間にも必ず試練と困難、いわゆる人生の悩みが訪れます。いつも日向ばかりを歩いて蔭を知らないという人は一人もいません。ただその人生の難問がどの程度の影響を及ぼすかは、各自の霊的進化の程度に掛かっております。

ある人には何でもないことが、あなたには大変に思える場合があります。反対に、ある人には大変に思えることが、あなたには些細なことに思えることもあります。各自が自分なりの運命を切り開いて行くのです。


(86)人間は無数のことに苦しみ、悲哀と苦痛を味わわねばなりません。これは人類の永年の伴侶なのです。遠い昔、どうみても何一つ苦労はなかったであろうと思われる昔からです。


(87)ヒトは身体的にはすでに進化の頂点に達しております。次は精神的進化と霊的進化です。長い年月をかけて徐々に全人類が自己の心霊的能力に目覚めていくことでしょう。が、ここで〝但し書き〟が必要です。心霊的能力を発揮するようになることが必ずしも霊的進化の程度の指標とはならないということです。

霊的身体の有する能力を全部発揮しても、魂そのものは少しも進化していないということもありえます。本当の意味で霊的に進化しはじめるのは、人のために役立つ仕事を目的として霊界のスピリットの協力を得ながら心霊能力を開発した時です。


(88)霊界から手を差しのべてよい範囲があり、出しゃばってはならない限界があり、しゃべってはならない時があり、今こそしゃべる時があり、それに加えて必ず、その時々の環境条件による制約があります。しかしそのパターンは厳然としており、指導に当たるスピリットはすべからくそのパターンに従わなくてはなりません。

前もってそういう取り決めがしてあるからです。私も私より遥かに霊格の高い霊団によって計画された枠の外に出ることは許されません。そもそも地上で成就すべきものと判断を下した、もしくは計画したのは、その高級霊団だからです。

光り輝く存在、高等審議会、神庁、天使団───どうお呼びになられても結構です。要するに私たちが行う全仕事に対して責任を持つ、進化せる高級霊の集団です。私にはもうすぐその方たちとお会いする喜びが待ち受けております。

その時まず私の方からそれまでの成果をご報告申し上げ、次に私がどの程度まで成功しどの点において失敗しているかについて言い渡され、それによってこれから先の私のなすべきことを判断することになるのです。

その霊団の上には更に高級な霊団が控え、その上にも又さらに高級な霊団が控えており、連綿として事実上無限につながっているのです。


(89)われわれの目的は言わば〝宗教のリハビリテーション〟です。宗教を無味乾燥で不毛の神学論争から救い出すことです。

宗教間のいがみ合いから救い出し、教理上の論争を超越して実証的事実の基礎の上に真の宗教を確立し、霊界からの啓示を現在ますます増えつつある霊媒を通して地上に普及させ、あらゆる地域の人類に神が今なお働いていること、その恩寵は決して過去の一時期に限られたものではなく、今日でも、いずこにいようと誰であろうと、同じ恩寵に浴することができることを知らしめる、そういう計画があるのです。

  
(90)霊界の誰かがそれまでに身につけた知識を伝えて地上世界を少しでも明るくしようと一念発起したとします。その際、その霊が地上で有名人であれば、身元を明かすことを躊躇するものです。少なくとも当分の間は明かしたがりません。

それは、その人が通信を送ろうとするそもそもの目的とは関係のないことであって、そんなことで余計な混乱を生じさせたくないからです。


(91)霊界通信はその内容によって価値が決まります。身元の証拠を提供することと、霊的知識を提供することとは、まったく別の範疇に属することであることを忘れてはなりません。前者は疑ぐり深い人間を得心させる必要からすることであり、後者は魂に受け入れる用意の出来た人に訴えるのが目的です。


(92)霊の地上への働きかけは、そのために必要な条件を人間の方で用意するかしないかに掛かっています。霊の世界と連絡の取れる条件を用意してくれれば、身近な関係にある霊が働きかけることができます。よく聞かれる不思議な体験、奇跡的救出の話はみなそれなりの条件が整った時のことです。

条件を提供するのは人間の方です。人間の側から手を差し伸べてくれなければ、私たちは人間界に働きかけることができないのです。


(93)〝生〟を正しい視野で捉えていただきたい。その中で〝死〟が果たしている役割を理解していただきたいと思います。人間はあまりに永い間、死を生の終わりと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私たちは是非ともその無知───死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れとみなす無知を取り除きたいのです。

そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。死ぬということは生命を失うことではなく、別の生命を得ることなのです。

肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられる、より豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。


(94)苦痛と老いと疲労と憂鬱から解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探求心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。その悲しみには利己心が潜んでおります。自分が失ったものを嘆いているのです。

自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。


(95)皆さんもいずれは寿命を全うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ棄てる時が来ます。土の束縛から解放されて、死の彼方で待ち受ける人々と再会することができます。

その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです。


(96)あなた方人間こそ〝死者〟です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で、立派な死者です。神の宇宙の美しさが見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。

愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡智を役立てたいと望んでいるのです。


(97)見えないままでいたければ目を閉じ続けられるのがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。しかし賢明な人間は魂の窓を開き、人生を生き甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。

あなたは神の子なのです。その愛と叡智を持って全宇宙を創造した大霊の子なのです。その大霊とのつながりを強化するのは、あなたの理解力一つです。もしも教会がその邪魔になるのであれば教会をお棄てになることです。

もしも邪魔になる人間がいれば、その人との縁を切ることです。もしも聖典が障害となっていることに気づかれれば、その聖典を棄て去ることです。


(98)私の説く宗教は実践の宗教です。一日一日の宗教─── 一日二十四時間、一時間六十分、一分間六十秒、そのすべてを実践の時とする宗教です。それが私の評価の基準です。それが目標とする理想です。


(99)人間が地上生活を生き抜き成長していくために必要な真理は、これ以上つけ加えるべきものは何もありません。あとは真理をより深く理解すること、神とのつながり、及び同胞とのつながりに関してより一層理解を深めることです。新たに申し上げることは何一つありません。


(100)叡智というものは体験から生まれます。十分な体験を経て魂がそれを要求するようになった時にはじめて真理が受け入れられます。それから今度は、その知識をどうするかの段階となります。その知識を他人の為に活用する義務の問題です。

そうした過程は実に遅々としたものですが、人類の進化はそういう過程を経るしかないのです。


(101)もうイエスのような大人物が出現する必要はありません。たとえあのナザレのイエスが今この地上に戻ってきたとしても、多分地上で最も評判の悪い人間となることでしょう。特にイエスを信奉し師と崇めているキリスト教徒からいちばん嫌われることでしょう。


(102)大半の人間は地上だけが人間の住む世界だと考えています。現代の生活が人間生活のすべてであると思い込み、そこで、物的なものを、いずれは残して死んでいかねばならないものなのに、せっせと蓄積しようとします。

戦争、流血、悲劇、病気の数々も、元はと言えば、人間が今この時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。人間は肉体を通して自我を表現している霊魂(スピリット)なのです。

それが地上という物質の世界での生活を通して魂を生長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです。



(103)宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私たち霊界の者から見れば、それは実在の微かな影を見たに過ぎません。


(104)キリスト教界にも奇特な行いをしている真摯な人材は確かに存在します。私が非難しているのはその組織です。それが障害となっており、是非とも取り除かなければならないからです。真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役立てることです。

同胞のために自分を役立てることによって神に奉仕することです。私はこれまでそれを何度申し上げてきたことでしょう。しかるに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。

人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。新しい波に呑み込まれるのを恐れて、既得の権利の確保に汲々としてきました。しかし、新しい霊的真理はすでに根づいております。もはやその流れをせき止めることはできません。


(105)神は人間に理性という神性の一部を植え付けられました。あなた方(クリスチャン)もぜひその理性を使用していただきたいのです。大きな過ちを犯しそれを神妙に告白する───それは心の安らぎにはなるかもしれませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。

神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。


(106)あなた(キリスト教の牧師)に理解していただきたいことは、聖書のテクストのことをうんぬんするよりも、もっともっと大切なことがあるということです。主よ、主よと叫ぶ者がみな敬虔なのではありません。神の意志を実践する者こそ敬虔なのです。

それをイエスは二千年前に述べているのです。なのに今日なおあなた方は、それが一番大切であることをなぜ信者に説けないのでしょうか。


(107)動機が何であるか───これが最後の試練です。魂の奥の静かな、そして小さな声が反発するがゆえに戦争に参加することを拒否する人間と、これが国家への奉公なのだという考えから、つまり一種の奉仕的精神から敵を殺す覚悟と同時にイザとなれば我が身を犠牲にする覚悟を持って戦場へおもむく人間とは、私たちの世界から見て上下の差はありません。動機がもっとも優先的に考慮されるからです。


(108)地上には幾十億と知れぬ人間がおり、みな成長段階も違えば進歩の速度も違い、進化の程度も違います。したがって全ての者に一様に当てはめられる型にはまった法則、物的なものさし、といったものは存在しません。

固定した尺度を用いれば、ある者には厳しすぎ、ある者には厳しさが足りないということになるからです。殺人者に適用すべき法律は、およそ犯罪とは縁のない人間には何の係わりもありません。


(109)神は人間各自に、決して誤ることのない判断の指標、すなわち道義心というものを与えています。その高さはそれまでに到達した霊的成長の度合いによって定まります。

あなたが地上生活のいかなる段階にあろうと、いかなる事態に遭遇しようと、それがいかに複雑なものであろうと、各自の取るべき手段を判断する力、つまりそれが自分にとって正しいか間違っているかを見分ける力は、例外なく備わっております。

あなたにとっては正しいことも、他の人にとっては間違ったことであることがあります。なぜなら、あなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです。

徴兵を拒否した人の方が軍人より進化の程度において高いこともあれば低いこともあります。しかし、互いに正反対の考えをしながらも、双方ともそれなりに正しいということもありうるのです。


(110)再生(生まれ変わり)というものが事実であることは私も認めます。それに反論する人たちと議論するつもりはありません。理屈ではなく、私は現実に再生してきた人物を大勢知っているのです。

どうしてもそうせざるを得ない目的があって生まれ変わるのです。預けた質を取り戻しに行くのです。ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物ではありません。

一個の人間は氷山のようなものだと思ってください。海面上に顔を出しているのは全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのは、その海面上の部分だけです。死後再び生まれ出てきた時は別の部分が海面上に顔を出します。

潜在的自我の別の側面です。二人の人物となるわけですが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。


(111)私はつねづね人生とは対照の中で営まれていると申し上げております。愛の倒錯したのが憎しみであり、勇気が倒錯したのが臆病です。いずれも本質において同じ一本の棒の両端を表現したものです。私はまた、低く沈むことができただけ、それだけ高く上昇することができるとも申し上げております。

臆病を勇気に、憎しみを愛に転換することができるということです。人間の精神にはさまざまな複雑な感情や想念が渦巻いております。それをうまくコントロールするところにあなたの成長があり、進化があり、低いものが高いものへ転換されていくのです。


(112)世間でいうところの〝成功者〟になるかならないかは、どうでもよいことです。この世的な成功によって手に入れたものは、その内あっさりと価値を失ってしまいます。

大切なのは自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると確信するものに目をつぶることなく、本当の自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。

それさえできれば、世間があなたをどう見ようと、自分は自分として最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。そして、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、死後に待ち受ける生活への備えが十分にできているという自信を持って、平然として死を迎えることができます。


(113)名声が何になりましょう。子供のオモチャのようなものです。何の価値もありません。そもそも名声はどうやって得られるかを考えてごらんなさい。お金があるとか世間的に出世したということで名が知れたにすぎません。イエスはそういう名声をいっさい求めませんでした。先師、聖者、先駆者、改革者といわれた人は名声を求めたでしょうか。

大切なのは、どれだけ人のために役立つことをしたかであって、その人の名前ではありません。ですから、いわゆる有名人の名前を名乗って出る霊には気をつけた方がよろしい。判断の基準は何と名乗っているかではなくて、どういう態度でどんなことを説いているかです。


(114)いま地上人類は五感を通して感識する条件下に住んでおります。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信し合える段階までは進化していないということです。まだまだ開発しなければならないものがあります。

地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた霊的存在ということです。この条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形態をとるまでは存在に気づかれないからです。


(115)思念は思念の世界においては実在そのものです。が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が認識されないのです。肉体による束縛をまったく受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現、または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。

勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野で捉えないといけません。


(116)あなたはその二つの眼で見ているのではありませんよ。またその二つの耳で聞いているのではないのですよ。見たり聞いたりは脳を経由して精神で行っているのです。もしも脳が働かず精神に反応が生じなければ、その肉眼に映る光線は何の意味もありませんし、その肉耳に届けられる波動も全く無意味なのです。

脳がレシーバーとしての働きをしてくれたあとは、その情報を理解するのは精神なのです。肉眼そのものには〝見る〟能力はないのです。ただ光線を感知するための媒体に過ぎないのです。カメラのレンズと同じです。

自分ではどういう役目をしているのか知らないまま自動的に機能しているのです。〝見えた〟という認識は、精神がその印象を脳から受け取った時に生じるのです。脳を痛めるとその認識が生じませんから、肉眼だけでは何も見えないことになります。


(117)時として味方であるべき人物が敵に回ることがあります。また時として、悲しいことですがこの道に携わっている人が本来の目的を忘れて我欲を優先させ、一身上の都合の方が大義より大切であると考えるようになったりします。万が一そういう事態になった時は、それは本来の道を見失ったわけですから、その方のために蔭で涙を流しておあげなさい。


(118)〝証拠〟などといっても、ただの用語に過ぎません。確信というのは内部から湧き出てくるものです。魂に〝受け入れ準備〟が備われば理解が行きます。その理解こそ大切で、それが唯一の確信です。

科学は刻一刻と変わっていき、その領域を広げつつあります。知識というものは固定したものではありません。一方、確信というのは、真理と遭遇した時に湧き出る内的な悟りです。



(119)霊はこしらえるものではありません。過去も未来もなく常に存在しております。霊としては、あなたは無始無終に存在しているのです。霊を新たにこしらえなければならなくなったことは一度もありません。無が有になる段階というものは、これまで一度もありません。

生命の原動力、精髄、活力そのものである霊は、過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生み出されるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も人間も、全てそうです。霊は存在の大原動力です。


(120)母体に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体がしばしの間地上で機能するわけです。しかし霊はさまざまな側面を持つことができます。

その幾つかが地上に再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることはありえます。その意味では〝年輩の霊〟〝若い霊〟と呼べる霊は存在します。しかし〝新しい霊〟というものはこしらえられません。地上での自我の表現機関として新しい身体が提供されるだけです。


(121)〝死後〟とおっしゃいますが、私は時おり地上世界を見渡して、果たして〝死ぬ前〟に生命があるのかと思うことさえあります。まったく生きているとは思えない人、あるいは、かりに生きていると言えても、これ以上小さくなれないほどお粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。


(122)良きにつけ悪しきにつけ、あなたの霊的命運を定めていくのはあなた自身です。あなた自身のことに関して最後に責任を負うのはあなた自身です。もしも死の床にあって罪を告白し特別の信仰を受け入れれば立ちどころに罪が赦されて潔白の身になれるとしたら、それはまさにお笑いものであり、茶番劇というべきです。


(123)物的なことと霊的なこととの区別がつかない人は気の毒です。日常生活で悪戦苦闘していても、霊的な平静さと安らぎを忘れないでいることは可能です。

地上のいかなる困難の中にあっても、自分が本来は霊であることを忘れず、その聖域を守ることができれば、いつでも内的な安らぎを得ることができます。安らぎは外から得るものではありません。内部から湧き出てくるものです。


(124)地上の人間が内部に霊的な武器を備えていることを実感することができれば、どんなにか充実した生活が送れることでしょうに。それを活用することによって、時には地上的喧騒から身を引いて、冷静さ・落着き・平穏・安らぎに浸ることができるのです。


(125)真理普及の第一線に立って苦悩している地上の偉大なる魂は、その闘いがいかに激しく反抗がいかに強烈でも、その中にあって少しも内的な安らぎを失うことはありません。表面上の物的な出来事と霊的原理とを同じ天秤にかけてはいけません。霊が主人で物は従僕です。常に霊に係わることを優先させなさい。


(126)解放されなければならないのは女性だけではありません。男性だけでもありません。子供だけでもありません。人類によって苦しめられている動物も解放してやらねばなりません。霊は常に自由であるべきです。物的な何ものによっても束縛されるべきではないのです。

物的身体は霊が存分に自己表現をする手段として与えられているのであり、解放とはそれを制約するものすべてを取り除いてあげることです。


(127)敵意や敵愾心(テキガイシン)は無知の産物です。そこには理性の働きが見られません。時には恐怖心から出ていることもあります。また時には〝洗脳〟の結果である場合もあります。

知的抵抗力のない幼い時期に植え付けられたお座なりの教えから一歩も出ることができず、精神がすっかり汚染されているのです。


(128)あなたの説く霊的真理が敵意を持って迎えられた時は、その素晴らしい宝石の光が見えない気の毒な人への適切な言葉を求めて神に祈りなさい。もしもそれが少しでも効果があれば、その人との出会いは無駄でなかったことになります。

もしも何の効果もなければ、それはその人がまだ霊的真理を受け入れる用意ができていなかったことを意味します。魂に準備が出来ていない時は、為す術がありません。



(129)地上の同志の方々にいつも申し上げているのは、私たち霊団側としては皆さんが誠心誠意、精一杯の努力をすること以上のことは要求しないということです。あなた方は欠点を具えた人間的存在であり、その欠点を一つ一つ取り除いていかねばなりません。しかしそれは大変な時間を要する作業であり、たった一度の地上生活では成就できません。


(130)身体に係わる義務を疎かにしてまで霊的なことに専念しなさいとは決して申しておりません。しかし同時に、霊に係わることも大切にしなければならないことも真実です。地上ではその二つとも大切なのです。


(131)霊的真理のための闘争は生やさしいものではありません。バイブルにも光の勢力と闇の勢力との戦いの話が出ていますが、両者は現実に存在します。が、光の方が強力です。いつかは光が闇を突き通します。しかし時には闇があまりに濃いために、それを突き通すのに手こずることがあります。


(132)霊的計画が推進されていく実情を何とかして皆さんにお見せしたいものです。一度ごらんになれば、取り越し苦労などしなくなることでしょう。悲しむということがなくなるでしょう。何事が起きようと、すべては神の叡智で良きに計らわれているとの確信を持つようになることでしょう。

宇宙は無限の叡智を伴った無限の愛の力で支配されております。愛はそれ自体でも崇高さを極めた力ですが、叡智との組み合わせによって、必要なものは必ず成就してまいります。


(133)図太さを失ってはなりません。愚かな人間による抵抗に惑わされてはなりません。むしろ哀れに思い、せっかくのチャンスを失ったことを気の毒に思ってあげなさい。そういう人たちは自らを傷つけ、さらには彼らが生き甲斐としているものまで台なしにしているのです。が、根気よく、そして図太く生きておれば、その内それも排除されてまいります。


(134)私の名はシルバーバーチではありません。これは私がバイブレーションを下げて地上世界とコンタクトすることを可能にしてくれる一種の変圧器の役目をしている、かつて地上でインディアンだった霊の名前です。

いずれにせよ名前はどうでもよいことです。私に関する限り名前は何の価値もありません。これまで一度も地上時代の名を明かしたことはありません。地上時代の私はインディアンではありません。このインディアンより遥かに古い時代の、別の民族の者です。

霊的進化の末に二度と地上世界へ生身に宿って戻ってくる必要のない段階にまで到達いたしました。霊界の上層部には〝神庁〟とでも呼ぶべきものが存在します。それに所属するのは格別に進化を遂げた霊、高級神霊です。その仕事は立案された創造進化の計画を円満に進展させることです。

その神庁からこの私にお呼びが掛かり、これまでの進化で私が得たものを一時お預けにして、可能な限り地上圏に近づき、その高級神霊たちのメッセンジャーとして働いてくれないかとの要請を受けたのです。

私の役目はその指導霊達の教えを取り次ぎ、一人でも多くの、受け入れる用意のできた人間にお届けすることです。私は喜んでその要請をお引き受けしました。それが半世紀近くにもわたってたずさわってきた私の使命だったのです。


(135)これは容易ならざる仕事です。私はこれを一つの素晴らしい挑戦課題としてお引き受けしたのです。地上は冷ややかな世界です。荒涼として陰鬱な暗い世界です。しかし、その中にあって私たちはそこここに愛と好意と友情の炉辺(ロバタ)を見出し、そこで魂を温め、そうした地上の灯台から放たれる光輝を見る楽しさを味わうことができております。


(136)皆さんはついぞこの私の姿をご覧になることがありませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。しかし信じて下さい。私も物事を感じ、知り、そして愛することのできる実在の人間です。こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは、地上という惑星を離れるまでは理解していただけないことかも知れません。



シルバーバーチの祈り


 皆さんの協力のもとに私たちが勤しんでいる仕事への祝福を求めて、ごいっしょに大霊への祈りを捧げましょう。

ああ、真白き大霊よ。あなたは全生命を包摂する摂理にあらせられます。なぜなら、あなたは全生命を創造し、全生命を扶養し、全大宇宙はあなたとあなたの摂理があればこそ存在を得ているからでございます。

 あなたは森羅万象となって顕現なさっておられます。昇っては沈む太陽にも、満ちては引く海の潮にも、夜空に輝く星にも、小鳥のさえずりの中にも、稲妻と雷鳴の中にも顕現なさっておられます。

 大霊よ。あなたはいつの時代にもあらゆる民族によりて崇拝され、幸いにしてあなたを垣間見ることを得た者の理解力に応じて表現されるに任せてまいられました。しかし真実のあなたは物質の子等の中のいかなる聖賢の理解力をも超えた偉大さと巨大さと愛と叡智と公正と慈悲とをそなえた存在にあらせられます。

 あなたの僕として霊の世界より仕える私たちは、永きにわたって埋もれてきたあなたの摂理、首尾よく物質の霧を突き抜ける霊的な識別力と理解力を持つ者によって、極めて稀にしか掘り起こされることのなかった霊的真理を、地上の子等に啓示せんと努力しているところで御座います。

 私たちは地上の子等がこの宇宙の孤児ではなく、大霊にあらせられるあなたの分霊を受け、内部に無限の力と光を宿すがゆえに、いかなる邪悪も不正も克服し、その霊性によってあなたの存在とあなたの摂理の絶対性とを認識することによって、地上にあなたの王国を実現していく、その援助をしているところでございます。

 弱き者を高揚し、人生に疲れた人に慰めを与え、暗闇にいる者に光明をもたらさらんと望む地上の同志たち、あなたの愛の地上への顕現を妨げんとする勢力のすべてに抵抗する気概に満ちた同志との一致協力を願っております。

 それが私どもに課せられた仕事であり、あなたのため、あなたの王国のため、あなたの光明と愛のために献身せんとする者すべてと力を合わせたく存じております。

      
       
    
 訳者あとがき

 シルバーバーチと名のる古代霊が地上時代の実名も身分も明かさぬまま約半世紀にわたって英国の霊媒モーリス・バーバネルを通じて語り続けた、人類史上空前絶後ともいうべき霊言集を翻訳・編纂してきたシリーズも、本巻を持ってひとまず完結する。

 再三紹介してきたように、サイキックニューズ社から発行された原書は一九三八年第一巻を皮切りに〝シルバーバーチ〟に名を冠した第一期のものが十二冊、冠していない第二期のものが一九八八年八月現在で三冊ある。

 第一期は九名のメンバーが独自の視点から編集しているが(うち三名が二冊ずつ)、中には互いに重複する箇所が幾つかあり、それを削除して他のもので補充したり、ページ数が他の倍ほどのもあって二冊に分けざるを得なかったものもあったりして、結局は私の翻訳シリーズも本巻を入れて同じく十二冊となった。

 ここで改めてお断りしておきたいのは、原書の第一巻は桑原啓善氏が 『シルバーバーチ霊言集』 と題して同じ潮文社から出しておられる。テキスト風にまとめられ、私の訳し方とかなり趣きが異なるが、同じ出版社から同じものが出るのもおかしいので、私はこれを完訳することは遠慮して、他の巻の補充や差し替えに使用したり、

本巻のために名言だけを拾ったりして、一応その大半を摂り入れるという形をとった。又その〝序文〟はシルバーバーチ交霊会(正式の名称は〝ハンネン・スワッハー・ホームサークル〟)の産みの親であるハンネン・スワッハー氏のものなので、その抄訳を本巻に掲げて最後の締めくくりとした。

 洋の東西を問わず〝霊言〟と名のつくものは数多く存在する。が、シルバーバーチ(と名のる霊)ほど気取らず、何のてらいもなく、格好も付けず、親しみ深く語りかけながら、しかも威厳を失わず、そして最後までその自分の地上時代の名前も地位も国家も明かさなかった霊を私は他に知らない。

 私は今でも、ふと、一体シルバーバーチのどこがいいのだろう、と自問することがある。そして、これといって取り立てて挙げられるものがないのに、実際に霊言を読み、あるいはカセットを聞くと何とも言えない魅力を覚え、知らぬ間に読み耽り、聞き耽り、いつしか体に熱いものが込み上げてきて涙が頬をつたう。

スワッハ―も〝序文〟の中で述べているが、シルバーバーチに語りかけられると、姿はバーバネルなのに、思わず感涙にむせぶ者が多かったという。

 確かにそうだったに違いない。何しろひねくれ者の毒舌家として世界にその名を知られ、英国では〝フリート街の法王〟と呼ばれて恐れられていたハンネン・スワッハーその人が一も二もなく参ったという事実そのものが、シルバーバーチの大きさを何よりも雄弁に物語っている。更に、頑固おやじのようなバーバネルを霊媒として手なずけたという事実も見落としてはなるまい。

 ところで、そのシルバーバーチの霊言の素晴らしさに触れた者が心しなければならないのは、この霊言集に盛られている真理が真理として受け入れられるか否かは、その人の霊性にとってそれが必要であるか否かによって決まることであって、その素晴らしさの分からない人のことをつまらない人、分かった人は霊性が高いといった判断を下すべきではないということである。

それはシルバーバーチが何度も言っているように当人の問題である。そして受け入れた瞬間から〝責任〟が生じる。

 その責任には二つの面がある。一つはその真理の指示する通りを素直に生活の中で実践すること、言いかえれば、自分に正直に生きるということであり、もう一つはその知識を縁ある人々を通して広げていくということである。

イエスの時代から二千年もたち、人類は少なくとも知的には確実に進化している。そしてこうした出版機構の発達により書物がかつてのように貧しい人の手に入りにくい時代と違って、誰でもいつでも手に入れられる時代である。そして一人静かに、しかも何度でも繰り返して読むことができる。

 このシリーズを愛読してくださっている方の中には、心に残る言葉を抜き書きにしたりテープに吹き込んだりしていらっしゃる方が少なくないようである。理解しにくい箇所や疑問に思う箇所について質問をお寄せになる方も多い。

その一つ一つに私なりの理解の範囲内でご返事を差し上げているのは無論であるが、それは、その責任が私にあると自覚しているからであると同時に、そうした関係の中で真理が理解されていくのが、これからの時代の一番正しい、そして有効なあり方だと信じるからである。

 カセットテープという便利なものもできて、お陰でシルバーバーチの生の声(といってもバーバネルの声を太くしたものに過ぎないのだが)を聞いて、交霊会の雰囲気を味わうこともできる。そこで気心の合った少人数で読書会や研究会あるいは親睦会といった形で横のつながりを持っておられる方が多いようである。私はこのことを非常にうれしく思い、今後の発展を祈っている。

 ただ一言だけ私見を述べさせていただけば、そうした会の発展が特定の人物を中心としたタテの組織を持つに至るのは感心しないであろう。組織であるがゆえの無用の義務、無用の規約、無用の出費が要求されるようになり、それはシルバーバーチが指摘しているように、人類が自らを束縛することを繰り返してきたその轍を、またぞろ踏むことになりかねないからである。規模の大きい小さいには関係なく言えることである。

 ご自分のワープロで印刷したものを知人・友人に配布しておられる方も多い。その中には、九州の獣医さんで、ペットの死をわが子の死のように悲しんで、見るも気の毒なほど塞ぎ込んでいる人たちのために、動物の死後についてシルバーバーチが語っている箇所をワープロで印刷したものを渡してあげているという方もいる。素晴らしいことだと思い、私の労が報われる思いがする。きっとシルバーバーチも喜んでいることであろう。

 シルバーバーチはバーバネルの死とともに地上との縁を切ってしまったわけではない。バーバネルという地上の人間の肉体を借りての〝語りかけ〟は終わっても、同じ霊団を従え、それにバーバネルやスワッハーなども加えて、何らかの形で地上の霊的革新のために活動しているはずである。それはイエスが地上を去ったのちも霊団を組織して大々的に働きかけてきたのと同じで、その延長線上にあると考えればよいであろう。

 本書はそのシルバーバーチが地上に残してくれた霊言でまだ紹介されていないものの中から、熟読玩味に値すると私がみたものを選んでまとめたものである。サイキックニューズ紙やツーワールズ紙に掲載されたもので霊言集に摂り入れられていないものが多い。が、前後の関係と内容理解の上で必要とみたものは、すでに紹介されているものでも加えてある。

 特に最後の章は紙面に少し余裕があることが分かったので、全巻に目を通しながら〝これはぜひ〟と思うものを拾って追加した。もしかしたら私の記憶違いで、すでに前に掲載されたもの、あるいはそれに類似したものが混じっているかもしれない。が、名言は何べん読んでも価値は薄れないという言い訳をさせていただいて、ご寛恕願いたい。結果的には本書一冊にシルバーバーチの霊的教訓のエキスが凝縮されることとなった。

 本書を人生の友として末永く座右に置いていただければ幸いである。 一九八八年  




   新装版発行に当たって
多くの読者に支持され、版を重ねてきた、このシリーズが、この度、装いを新たにして出されることになりました。天界のシルバーバーチ霊もさぞかし喜ばしく思っていてくれていることでしょう。

                        平成十六年一月   近藤千雄

Saturday, July 4, 2026

シルバー・バーチの霊訓(十二)

  煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編



十一章 力強く生きるための叡智



(1)明日のことを思い煩ってはいけません。大切なのは今日です。あなたのなすべきことに能力の限りを尽くしなさい。最善を尽くす───私たちはこれ以上のことは要求しません。


(2)あなたは人間です。か弱い存在です。しかし、弱いからこそ強いということはどういうことかが分かるのです。


(3)真理というのは至って単純なのですが、一見すると矛盾しているかに思えることがあります。闇があるから光の存在が分かり、悲しみがあるから喜びが味わえるのです。危機にさらされるから平穏無事の有難さが分かるのです。


(4)だれの人生にも道しるべが用意されております。もしも霧(心の迷い)によってそれがぼやけて、よく見えなくなった時は、いったん足を止めることです。ただの霧ですから、その内晴れて又辿るべき道が見えてきます。雲にさえぎられている時でも太陽は照り輝いているのです。


(5)こうした教えを私が説くのは、その真実性をこの目で確かめているからです。その結果として私は、宇宙の大霊すなわち神とその無限の力に全幅の信頼を置いています。その力は誤るということがありません。人間は欠点のゆえに、弱点のゆえに、汚れゆえにしくじるということがあります。しかし、失敗は成功する方法を学ぶ手段でもあるのです。


(6)生命は一本調子のものではありません。不活性のものでもありません。自然は真空を嫌います。生命とは活動であり、発散であり、振動です。常に動きがなくてはなりません。大ていは前向きのもので、時として後退することもありますが、一ばんいけないのは動きを止めてしまうことです。


(7)後退のやむなきに至ることはあります。が、後退するということは、そのあとの一段と大きい前進の喜びを教えてくれることでもあります。時には俗世の喧騒から身を引くことも大切です。そして内的自我に静寂をもたらすことができるようでないといけません。


(8)魂は平穏・静寂・平静・受容性・調和の中で最も活発になります。皆さんは目覚めている時よりもむしろ睡眠中に霊的活動を活発に行っていることがよくあります。その時、力と導きを得ておられるのです。

  
(9)困難(タフ)な仕事は頑健(タフ)な人間に当てがわれます。タフな人間にやさしい仕事をあたえるのは無駄というものです。厳しい使命が与えられるということは、その人が霊的に有能であるとの指標です。無知と迷信との闘いに臨む将軍は厳しい教錬によって鍛えられていなければなりません。

さもないとその任に耐えられません。ですから、矛盾しているように思えるかも知れませんが、仕事が困難であればあるほど、それだけ成就されるものも大きいということになります。


(10)霊的知識を手にした者にとって大切なことは、二度とこの世的な悩みごとのために塞(ふさ)ぎ込むようなことがあってはならないことです。悩みごとは影にすぎません。実在ではないのです。実在は霊です。霊とは内部の神性です。それがあなたに生命を与えているのです。内にも外にも霊に勝る潜在力は存在しません。


(11)あなたが人間であり、それゆえに転ぶこともあることは私も知っております。ですが、悩みごとが次第に大きく感じられてきた時、そこでしっかりと踏みとどまり、いかなる悩みごとも、実在である霊の光を曇らせることはできないのだという認識を新たにすることができれば、心晴れやかとなり絶対に克服して見せるとの信念が湧いてまいります。

これは実に厳しい教訓ではあります。が、もしらくに達成できるものであれば、求める価値はないことになります。両手に花とはまいりません。何かを成就せんとすればまず自我を鍛えないといけません。鍛錬の必要のないほどのものであれば、自我の開発にはつながりません。


(12)地上での生活は一日一日が挑戦課題であり、いかなる次元の問題であれ、自ら克服すべきものとして受け入れるべきです。内部の霊性さえ発揮させれば、前進を阻むものは何一つありません。


(13)私が摂理をこしらえているのではありません。私に許されているのは摂理がこうなっていますと申し上げることだけです。毎朝の到来はより高い霊性の開発の可能性を秘めた一日の到来を意味します。

その一日が終わった時に少しでも霊性が高まり、人間的に大きくなり、明日がもたらすものを受け入れるのにより相応しくなっている───そういう一日とする気迫で毎朝を迎えましょう。


(14)日々の生活でいかなる問題が生じようと、それによって気が滅入るようなことがあってはなりません。私はバラ色の人生、何の苦労もないらくな人生をお約束することはできません。

お約束ができるのは、霊的存在としての本来の生き方に徹していれば、必ずや霊的向上が得られるということです。そうなって初めて物質の世界へ誕生してきた甲斐があったことになるのです。


(15)真理というものは童子の如き素直な心になり、無知が生んだ過去の誤った概念から解放された時には、いとも簡単に理解できるものです。


(16)物質は一種の障害物であるという見方も出来ます。鈍重で、もどかしくて、活気がありません。それに引きかえ霊は軽快で、繊細で、鋭敏です。が、その霊も地上で自我を表現するには五つの物的感覚を使用しなければならないのです。

たとえてみれば巨匠が粗末なバイオリンを使って演奏するようなものです。巨匠の魂には音楽的インスピレーションが湧き出ていても、バイオリンが粗末であるために、その繊細な響きが出せません。人体はまさに土の塊です。しかし、地上で生活するにはそうした器官に宿るしかないのです。


(17)いつも明るく楽天的で愉快な気分を忘れないようにしてください。うなだれてはいけません。背後霊にとって最も働きかけやすい雰囲気は、陰鬱さや落胆や絶望感の無い状態です。そうした陰湿な感情はあなたのオーラを包み込み、背後霊にとって厄介な障害となります。


(18)賞も罰も自分でこしらえているのです。自分で自分を罰し、自分で自分に褒美を与えているのです。それがいわゆる因果律、タネ蒔きと刈り取りの原理です。その働きは絶対です。


(19)人のために役立つことをする者に呑ん気なバラ色の人生は望めません。美しいバラにもトゲがあります。霊的な精進の道は厳しい試練の連続です。進むにつれて見慣れた標識が遠のいていきます。


(20)種子が暗い土中に植え込まれるのは、生命活動を開始する為の養分を摂取するためです。人間の魂も同じです。死後に始まる本当の生命活動にそなえて物的体験という魂の養分を摂取するために、この地上という物的世界へ送られてくるのです。


(21)人生体験のすべてがそれぞれに大きな生命機構の一部としての意義を持っております。およそ歓迎したくない体験───悲しいこと、辛いこと、嘆き、落胆、苦悩、痛み等々も魂にとって掛けがえのない価値を持っております。その有難さは地上にいる間は実感できません。

地上人生の価値の明確な全体像が理解できるようになるのは、肉体を離れて煩悩から解放され、局部に捉われずに全体を眺めることができるようになった時です。逆境の中にあってこそ人間性が鍛えられ、悲哀の中にあってこそ魂が強化されていることが分かります。


(22)その日一日、その場の一時間、今の一分・一秒を大切に生きることです。明日のことを思い患うことなく、〝今〟という時に最善を尽くすのです。あなたが煩悩を持つ人間的存在であり、未塾であることは、神は先刻ご承知です。だからこそ地上に来ているわけです。

もしも完全であれば、今そこに存在していないはずです。地上生活の目的はその不完全なところを一つでも無くして行くこと、それに尽きます。


(23)人のために何かをしてあげようとする時、それが当を得たものであれば、それに必要な手段が必ず用意されます。無視されることは決してありません。何もかも自分で用意しなければならないというものではありません。何かが生じた時は必ず援助の手が差し伸べられるものです。


(24)危機に立ち至ったら、それまでの過去を振り返って、お先真っ暗の絶体絶命の時に道が開かれてきたことを思い出して下さい。そこに背後霊の導きがあったのです。それはこの後も決して見棄てることはありません。


(25)宇宙間の全てのことが知れるようになっております。すべてを知ろしめすための、高級霊による一大組織があるのです。その中には一度も物質界に降りたことのない霊もいます。すべてが大霊の計画の直接の実行者です。

総合的な基本計画というものがきちんと出来上がっており、その中にすべてのもの、すべての人間に対する配慮がなされております。私がすべてのことは佳きに計らわれているから安心なさいと申し上げる根拠はそこにあるのです。


(26)地上のいかなる賢人も、問題のすべてに対する回答を手にすることはできません。三次元の世界に閉じ込められている以上、叡智の全てを手にすることは不可能なのです。その三次元の殻を破らないことには悟れないことがあるのです。

 そこに〝信じる〟ことの必要性が生じるわけです。私は〝信仰だけではいけません。信仰に知識を加えなさい〟と申し上げていることは事実ですが、その段階をさらに進むと、その知識にも三次元ゆえの限界があるために〝信じる〟しかない段階に至ります。すべてを理性で片付けるわけにはいかなくなった時、直感的洞察力の必要性が生じます。


(27)私が〝信仰〟という用語を用いる時、それは何の根拠も論理的背景もなしに、好きなように信じるという意味ではありません。知識という基盤を持ち、霊的実在について疑い抜いた末に生まれる確実な根拠の上に築くものであらねばなりません。


(28)あなたが人のために役立つことをしようと努力する時、必ず背後には複数の進化せる霊が集結して援助してくれます。決して見棄ててはおきません。といって、それで物事がらくに成就されると期待してはいけません。必ず困難は付きまといます。面倒なことも生じます。が、きっと成就されます。

霊の世界からの協力者は決して降参しません。あなたが投げ出さないかぎり、いつまでも、勝利するまで味方になってくれます。


(29)地上は困ったこと、厄介なことだらけです。価値観を見失い、優先すべきものを履き違えている者が多すぎるために、暗く陰うつで、しかも暴力沙汰の絶えない、悲しい世界となり果てております。善の勢力と悪の勢力とのせめぎ合いが果てしなく続いているのです。

そうした中で私たちが一ばん頼りにするのは、霊的真理に目覚めた人たちです。邪悪な勢力の攻撃にもたじろぐことなく堂々と対処できるのは、内部に秘められた霊力と、すでに発揮しておられる霊的能力のおかげです。


(30)私が光栄にも地上世界の霊的新生の仕事にたずさわってきたこれまでの永い年月を振り返ってみて言えることは、いかに陰うつな影に被われても、それはあくまでも一時的に光を遮っているに過ぎず、永遠の太陽は常に輝いているということです。

これからも皆さんの近親の霊とともに、私も皆さんが最善を尽くしておられるかぎり、生活に必要なものは不自由しないように取り計らってさしあげます。


(31)難題にしりごみし、真理普及の厳しい最前線から撤退していく人のことを気の毒に思ってあげなさい。もともと本物の理解ができていなかった者ならいざ知らず、一度でも魂が感動し真理の光を見た者であれば尚さら気の毒なことです。

私たち霊界の者にとって、正しい知識を手にした者がかくあるべきという規準にそぐわない振舞をする姿ほど、見るも悲しいものはありません。


(32)私達はお互いに欠点を具えた人間的存在です。もしも完全であれば今こうして集い合っていることもないでしょう。完全性の成就は永遠に続く道程です。知識のすべてを手にすることは不可能なのです。今あなたが置かれている生活条件そのものが、あなたが獲得し吸収していくものに制約を加えるからです。


(33)目の前が真っ暗となり、もはや物質の世界には頼りになるものは何もないかに思えた時に啓示が与えられます。

それは、まず生命は霊であるが故に死後も永遠に続くものであることを証拠によって得心することに始まり、やがて霊的な恩恵を授かることによって次は、自分のもとを訪れる人々の悩める心を癒してあげることができるようになります。その一つ一つの道程に計画があるのです。


(34)あなたの愛する人たち、それからあなたを愛してくれている人たちは、〝死〟を境にして物質的には別れ別れになっても、霊的には今まで通りにつながっております。愛は死よりも強いのです。愛は霊力と同じく宇宙で最も大切なエネルギーの一つです。


(35)あなた方(霊的知識の大切さに目覚めた人)は地上のいかなるものにも勝る力すなわち霊力の特使です。それは有難い名誉であると同時に大変な責務でもあります。いただいている愛と尊厳をいささかでも傷つけることがあってはなりません。

いついかなる時も寛容的で哀れみ深く、同情的で心優しい態度で、霊的真理の普及を心掛けないといけません。それが理解してもらえず冷たくあしらわれた時は、その人のことを気の毒に思ってあげることです。聞く耳を持っている人には大いに援助の手を差し伸べてあげることです。

単純のようで実は奥の深い真理です。いつどこにいても人のために役立つよう精一杯尽力する───われわれの側から要求するのはそれだけです。


(36)すげない拒絶にあい酷しい批判を浴びせられても気になさらないことです。その人はせっかくのチャンスを目の前にしながら、それを受け入れる用意ができていなかったことを意味します。

むしろその人のことを気の毒に思ってあげなさい。神は人間の一人ひとりが地上生活の期間中に必ず一度は生命の基盤である霊的真理を知るチャンスを用意してくださっております。


(37)霊的なものと物的なもののいずれにも偏らないように配慮しないといけません。物的なことに向けておられる関心よりもっと多くとは申しませんが、せめて同じ程度の関心を霊的なことにも向けるように努力してください。

あえて断言しますが、人のために自分を役立てようとする行為を真摯に、謙虚に、そして敬虔な気持ちで実行する時、そのための手段が得られなくて挫折するということは決してありません。


(38)人間は宇宙最大の力の貯蔵庫です。霊の力を秘めているということです。それを圧殺したり、征服したり、地上への顕現を阻止したりすることはできません。あなたの地上人生が終わった時に、それまでにたった一つの魂でも救ってあげることができれば、あなたの地上での存在は無駄でなかったと言えます。


(39)生命の基盤である永遠の霊的原理を片時も忘れずに、それと調和して生きるように心掛けなさい。それが、“存在〟のより高い次元と調和して生きる者に必ず訪れる冷静さと憩いと落着きと安らぎと内的静寂を確保する道です。


(40)いったん霊的覚醒に到達したら、高次元の界層およびそこの生活者との間に磁気的なつながりができます。その時からあなたは常に彼らの保護下に置かれます。もたらされた啓示にしがみつき、それを全生活の基盤となさることです。

その基盤を揺るがせる力は物質の世界には存在しません。これから訪れる日々もその基盤の上で迎え、不敵の信念で生きることです。地上には何一つ恐れるものはないのです。


(41)心配からは何一つ良いことは生まれません。心配と恐れはあなたにとって味方ではなく敵です。不屈の心、冷静さ、自信、決意、こうした資質は悟りを開いた魂から生まれるものです。あなたはこれまで立派に導かれてきたのです。これからも導きがあります。

疑念が生じた時はいったん心の働きを止めて内的静寂の世界へ引っ込み、霊的資質の発現を待つのです。この地上人類の霊的覚醒のための闘いに参加している将校は、戦況がいかに苦しくなっても、盤石の信念をもってその持ち場を死守しないといけません。

そのためにこれまで厳しく鍛えられ試練にさらされてきたのです。背筋をまっすぐにしなさい。


(42)取り越し苦労は最悪の敵です。精神を蝕みます。霊界から送られてくるはずの援助の通路を塞いでしまいます。あなたを包んでいる物的・精神的・霊的雰囲気を乱します。理性の敵でもあります。透徹した人生観と決断力という二つの人生最大の味方の妨げになります。


(43)心配の念が心をよぎった時は、実質のないただの影に過ぎないものとして、一刻も早く放り棄てることです。考えてもごらんなさい。光の方が闇に勝るのです。知識の方が無知に勝るのです。真理は迷信を打ち破り、必ずやその存在価値を発揮します。


(44)私たちがお教えしようとしている人生の秘訣は、今を大切に生きるということです。明日のことを思い煩ってはいけません。あなたには霊的知識があります。どこかに仕舞い込んでおいてはいけません。それを全人生の基盤とするのです。その知識が生み出す自信を持って生き、決して悲観的になってはいけませんと言っているのです。

明日という一日を素敵な冒険と可能性をもたらしてくれるものとして、力強く迎えるのです。人生は陽気さと快活さに満ちたものでなくてはいけません。心配の念はけちらしなさい。心配は無知と迷信の産物です。あなたは光栄にも素晴らしい知識の中で生きられる条件を手にしているのです。

 
(45)笑顔のあるところに大霊の働きがあるのです。悩みの中にあっても笑いを失ってはいけません。 それができるようになれば何事も必ず解決します。このことは私が永い間繰り返し申し上げてきたことです。俗世のことに悩まされて笑顔を忘れるようでは、まだまだ真理を悟ったとは言えません。


(46)俗世のことは無視しなさいと言っているのではありません。物的世界で自我を顕現させている以上は、その世界での義務というものがあります。ただ、自分の中にも大霊が宿っておりそれが自分を通じて働くのだという、この事実を忘れてはいけません。その力は物的世界のいかなる悩みごとをも克服します。


(47)あなたに宿る大霊の力は、それを正しく認識することによってあらゆる邪悪、あらゆる病気、あらゆる障害に打ち勝ちます。そのことはすでに二千年前にイエスが説いております。曰く───〝神の御国はあなたの心の中にある〟と。


(48)自分の内部に宿る威力を認識し、それを活用しさえすれば、克服できない困難というものはありません。それをいかにすれば活用できるかとなると、まずその能力を開発しなければなりませんが、ただ開発しただけではだめです。

高い波長に感応できるものでなければなりません。ではどうすればよいのか。それは日常生活の中身を人のために役立つもので満たしていくことです。そう努力することで霊性を高めるのです。自己中心的で俗世的すぎると、波長は低いものにしか感応しません。

自我を滅却して利他的なことに無心に精励するほど、高い波長のものに感応するようになります。その時内部の神性が発揮されるのです。


(49)一つの仕事を始めると、遅かれ早かれ難問が生じるものです。しかし克服できないほど大きな問題は生じません。先のことを心配してはいけません。

私も大きな歯車の歯の一つにすぎません。歯車は確実に回転します。それを動かしている力は物質界と霊界とを包含する大宇宙(コスモス)を経綸している力なのです。その力が森羅万象を生み出したのです。

星雲を、太陽を、惑星を、大洋を、大海を、山を、花を、小鳥を、動物を、そしてあなた方人間を生み出したのです。それほどの大きな力が、あなた一人の人生に手こずるわけがありません。

私たちは人間の挫折を見たくて戻ってきたヤジ馬ではありません。私たちがお持ちした霊力はすでに地上に根づいております。その力を阻止できるものは地上には存在しません。背後霊に全幅の信頼を置きなさい。


(50)肚(ハラ)を据えなさい。私がこの仕事を仰せつかった時、これが大変な仕事であること、多分それまでに体験したことのない大きな挑戦課題であることを聞かされました。そして用意された計画の説明を聞かされて私は、〝精一杯頑張ってみましょう〟とお引き受けしました。今はどうでしょう。活字のお蔭で霊力が地球のすみずみまで行きわたっております。


(51)気を引き締めないといけません。あなたは今、利己主義と貪欲と愚行、その他、混乱と悲劇と争いと憎しみの元凶である物質中心思想の恐ろしい産物との烈しい戦いに参加しているのです。しなければならないことが山ほどあります。

背後に控える力は物質界の全勢力を結集したものよりさらに強力であるとの認識を持って事に当たってください。あなたには何一つ恐れるものはありません。


(52)右を向いたり左を向いたり後ろを向いたりしてはなりません。やってしまったことを悔むのは間違いです。過去のページはすでに閉じられたのです。もう二度と開くことはできないのです。大切なのは今日です。明日の運命は今この時点で取る態度によって決まるのです。


(53)あなたが一人ぼっちでいることは決してありません。困難の中で一人で悪戦苦闘させられることはありません。たとえ目に見えず、耳に聞こえず肌に感じられなくても、背後霊の影響がつねにあなたを包んでおります。霊についての実相を理解しさえすれば地上世界は改革できるのです。


(54)霊を完全に抑え込む力を持ったものは物質の世界には何一つ存在しません。霊は物的身体が生み出すいかなる力よりも威力があります。物事がうまく運ばないで人間関係が思うに任せぬ時は、いったん喧騒の現実界から静寂の世界へ引っ込むことです。

すると霊界から発せられる強力な愛があなたを包み、霊力を補給してくれます。これであなたはすっかり落着きを取り戻して現実の世界へ臨むことができます。


(55)物の見方・考え方には常に柔軟性がなくてはなりません。柔軟性こそ霊的問題に処していく上での絶対的要件です。独断主義は不毛・沈滞に堕していきます。常に自由な精神を維持していなければなりません。霊力は無限です。これでおしまいという限界がないのです。

あなた方が地上で手にする知識は死後に待ち受けている膨大な知識の宝に較べれば、そのホンの上っつらを引っかいた程度にすぎません。


(56)地上人類は自らの力による救済を工夫していかないといけません。出来合い(レデイメード)の方法はありません。型にはまった定石的手段というものはありません。

その為には先ず無限に展開する生命現象の背後には霊という永遠の実在があること、地上の人間は物的次元で営まれる俗世の存在であると同時に、物的身体を通して自我を表現している霊的存在であることを認識しないといけません。

 
(57)物的身体も、神が意図されている通りに、地上生活を営む上での必需品を必要なだけ補給してやらないといけません。次に、それに宿る霊があらゆる独断的教理の束縛から解放されて、真実味も霊的価値もないものに忠誠をつくすようなことにならないようにしないといけません。

 ひたすら真理の為にのみ精励すべきです。幾千年ものあいだ束縛してきたドグマや教理のことで戦争したり、口論したり、しのぎを削ったりするような愚かしいことは止めないといけません。


(58)たった一つの魂を高揚してあげることができたら、喪の悲しみに沈む一つの魂に慰めを与えることができたら、意気地のない一つの魂に生きる勇気を与えてあげることができたら、人生に疲れ切った一つの魂に生きる力を与えてあげることができたら、それだけで十分にやり甲斐のある仕事といえるのではないでしょうか。


(59)人間の一人ひとりに、いかなる病気でも治し、いかなる困難をも克服する力が宿されていることが、まだ理解されていないようです。窮地において引き出すことのできるエネルギーの貯蔵庫を具えているのです。神の王国は各自の魂の中にあるのです。

この事実が何と理解されていないことでしょう。その深い自我に触れる方法は神の摂理にのっとった生き方に徹することです。しかし、どれほどの人がそういう生き方を心掛けていることでしょう。



(60)生活は〝行い〟だけで成り立っているのではありません。〝言うこと〟も〝思うこと〟も生活の一部です。行為だけが大事と思ってはいけません。もちろん行為が一ばん大事です。が、口にする言葉も心に思うことも、あなたの一部です。その思念がコントロールできずに、それに振り回されている人間が多いのは悲しいことです。


(61)霊的真理に比べたら物質界のいかなる貴重品も安ピカものです。これから何千年も先まで生きられてから地上生活を振り返ってごらんになると、地上で欲しくて仕方なかったものよりも、地上で得た知識、地上で身につけた叡智の方が遥かに大切であることがお分かりになります。


(62)目先の結果だけで判断してはいけません。あなた方は物質の目だけでご覧になっておられます。もし霊の目で見ることができれば、一人ひとりに完全な公正が行きわたっていることがお分かりになるはずです。

私は時おり皆さんの祈りに耳を傾けてみることがありますが、もしも神がその願いどおりになさったら却って皆さんにとって好ましくない事態になるのだが、と思うことばかりです。


(63)同じこの地球上に身を横たえる場所もなく、星空の下で寝なければならない人が大勢いるのです。風雨にさらされている人が大勢いるのです。その日の食べ物にすら事欠いている人がいるのです。そういう現実のもとで、あなたは今の自分の身の上について神に向かって不平を言う資格があると思われますか。


(64)物質の世界において誰かが奇特な行いをしようとする時、霊界においてそれを支援しようとする霊がすぐさま馳せ参じます。善行が無駄に終わることは決してありません。なぜなら霊界側では人類の向上のために役立つことをする人にいつでも援助の手を差し伸べる用意がなされているからです。


(65)あなたにとってまったく見知らぬ霊、名前すら聞いたことのない霊でありながら、あなたのために力になってあげたい一心で来てくれる霊が大勢いるものです。そういう霊は名のりたがりませんし、見返りというものを一切期待しないものです。


(66)人生は地上生活の間に何度か暗い影の時代を送らねばならないようになっているのです。その陰の中に入ったら、それは人生の一部であって全部ではないことを自分に言い聞かせなさい。陰は太陽の光があるからこそできるのです。あなたの目には見えなくても太陽は輝いているのです。


(67)陰は束の間の存在です。永久に続くものではありません。そのうち消えて、また光があなたの存在を照らします。手にした霊的知識、不変の基本的真理にしがみつき、地上生活で絶対に避けられないさまざまな問題に真正面から対処しなさい。


(68)問題も困難も厄介なことも生じないような人生はありえません。地上がそういうところだからこそ、あなたもこうして生まれて来ているのです。大切なのはそれへの対処の仕方です。内在する神性を呼び覚まして解決策を見出し正しい方向を選択する、そういう対処の仕方が大切です。そのことはよくご存じのはずです。

なのにそれが実行できずにいます。難問や心配事に足を取られて身動きできなくなり、実在ではないただの影をやたらに大ゲサなものに考えてしまっています。物的なものはことごとく霊的実在のおぼろな反影であり、幻にすぎません。


(69)物質それ自体に存在はありません。霊によって活力を与えられてはじめて存在を得ているのです。霊こそ生命であり、あなたが受けておられるエネルギーも宇宙の生命力とまったく同じものです。その意味であなたも創造活動に参加しているのです。

正しい生き方、正しい考え方が身につけば、霊力がもたらしてくれる無限の恩恵に浴することができるのです。


(70)正しい生き方、すなわち霊的知識に順応した日常生活を送れば、自動的にあなたは霊的に、精神的に、物質的に必須のものを思い通りに手にすることができるようになります。物的なものを最優先させようとする考え方がそもそも間違いなのです。

物的世界に置かれている人間としての義務、あるいは自我の表現器官としてのその身体にとって大事なものも無視しなさいと言っているのではありません。心に宿す思念が霊的摂理に順応したものであれば、霊と精神と身体とが調和し一体となって働くので、必要なものは必ず手に入るようになると言っているのです。

  
(71)そもそもあなたがこの地上へ生まれて来たのは、陰性のもの、邪悪なものを克服して霊的に一段と強くなるためです。それが容易に達成されるとは申しておりません。大変難しいことです。

しかし霊的価値の高いものがそう簡単に達成されるはずがありません。なぜなら、それには霊的視野と焦点を常に誤らないようにするための強烈な精神的鍛錬を要するからです。


(72)純粋に物的な弱みがバランスのとれた生き方を困難にさせる時期があることは確かです。が、それも内部の霊力を駆使することによって必ずや克服できます。その内部の兵器庫にはマイナスに作用するものとの葛藤に必要な武器のすべてが揃っており、これに勝るものはありません。

 
(73)気楽な道は前途に霊的な目標を持たない人に任せればよろしい。霊的な鍛錬とそれに伴ってもたらされる霊的な豊かさを求める者には、厳しい道が用意されます。霊的褒賞は気楽な道を求める者にはもたらされません。もしそうでなかったら、その褒章は敢えて求めるほどの価値はないことになります。

 闘いを挑み苦しみ抜いた末に勝利を得る方が、何の挑戦課題もなく呑ん気に生きているよりはるかに上です。魂が自我に目覚め内在する神性が表現の機会を得るのは、必死に努力するその最中においてです。


(74)いかなる事態に立ち至ろうと、それはあなたにとっての挑戦課題として受け止めなさい。魂はその根源において神性を帯びているが故に、その挑戦を真正面から受け止め克服し一段と強力になって行くだけの力を秘めております。いかなる事態も歓迎し、決して悲観的になったりグチをこぼしたりしてはいけません。

 あなたほどの霊的知識をそなえた方ならば、毎朝の訪れを内的な喜びを持って迎えることができてしかるべきです。永遠の魂を傷つけるほどの事態は決して起こり得ないからです。


(75)偉大な霊ほど困難な地上生活を耐え忍ばねばなりません。魂の偉大さは試練と洗練の過程をへずしては達成されません。つまり霊性の強度が見せかけのものでないことを、その美と光輝と雄大さの中で示せるようでないといけないのです。困難は魂にとって薬です。

身体にとっても薬になることがあります。内部の潜在力を表面に呼び出すための挑戦課題です。かくしてその人は成長し発達し開眼して神性が発揮されるようになります。


(76)地上生活の究極の目的は失敗から教訓を学び、転んでは立ち上がり、日々の生活の中の冒険的な出来事に一つ一つ対処し、しかも他方においては、自分が本来は霊であり肉体は道具にすぎないこと、したがって大切なのはその霊に及ぼす影響であることを忘れずに、常にそれを優先させて基本的な霊的真理にしがみつくことです。


(77)霊と精神と身体を支配している自然の摂理と調和した生活を送っていれば、健康が維持されるのみならず、進むべき道をしっかりと踏みしめているとの確信を覚えるようになります。その霊的自覚はますます大きくそして強くなってまいります。それが存在というものの、そもそもの目的なのです。


(78)挫折もまた人生の一コマです。抑止と照合の作用を抜きにした人生はありえません。思い切り前進出来る時期があるかと思えば、進もうにも進めない時期があります。それはそれで意義があるのです。摂理は完ぺきで、必ず作用し、各自がそれ相当のものを受けるようになっているのです。


(79)一番厄介なことは、人間が物的なものに浸り切ってしまい、人生のすべての基盤である永遠の霊的原理を忘れてしまうことです。あなたがもし思い通りにならないからといって悩んだり、失望したり、イライラしたりするようであれば、それはあなたがまだ一ばん大切なことは本当のあなたである〝霊〟に係わることでありその〝身体〟ではないということを理解していない証拠です。


(80)ふさぎ込むのは止めなさい。だれの人生も孤独感を味わう時期があるものです。まわりにどんなに親しい人がいてくれても孤独に思うものです。が、そこから意気消沈の状態へ落ち込んではなりません。あなたほどの霊的知識を手にされた方なら、地上にも霊界にも、恐れるものは何一つありません。

 
(81)物的に孤独だからといって霊的に孤独であるわけではありません。霊的意識が芽生え潜在的な能力が発現すれば、物的に孤独であっても、辺りに霊的なものがいろいろとあることに気づかれるはずです。その多くは愛と情と血縁の絆によって結ばれていることが分かるようになります。


(82)真理はたった一人の偉大な人物によって広められるものではなく、物的世界の無数の人間を通して滲透していくように計画されております。霊力の働きかけがある限り人類は常に進歩し続けていることを忘れてはなりません。

その働きかけに魂を鼓舞された人間の思念・欲求・衝動は実に強烈です。外部からのいかなる力によっても抑え込まれるものではなく、これ以後も抑え込まれることは決してありません。

今まさに地球全体を新しい思念が無数の人々の魂を揺さぶりつつあります。霊と精神と身体の解放を切望し、当然の権利として主張し、断固として要求する、その思念です。


(83)われわれは、われわれの一人ひとりを使用せんとするより大きくより高い存在の道具であることを忘れないようにしましょう。いわば〝導管〟のようなものであり、それを通して慰安の芳香が送り込まれ、地上の悲しみを癒やします。無限の目的を持った霊力が存在し、それには人類が直面するいかなる問題をも解決する力が秘められていることを忘れないように致しましょう。


(84)地上はいがみ合い、恨み合いといった不和に溢れております。悲哀と悲劇と流血の連続です。それでいながらお互いに、〝我々に平和を与え給え〟と祈ります。私は皆さんに、内部に秘められている神性を自覚しなさいと申し上げたいのです。

あなた方のお一人お一人が大霊なのです。大霊の無限の霊力が潜在しているのです。それを開拓し表面に出す努力をすれば、有限であるがゆえの束縛を克服できるはずです。


(85)暴風が荒れ狂ったあとに必ず春の新しい生命が誕生します。見渡すかぎり雪に被われ荒涼としている時は、春の新鮮さを窺い知ることはできません。しかし、春はかならず訪れます。


(86)勇気を持って進みなさい。落胆や失敗がないというのではありません。これからも数多くの失敗と落胆があることでしょう。しかし、いかなる事態にあってもあなたの背後には、困難に際しては情熱を、疲れた時には元気を、落胆しそうな時には励ましを与えてくれる霊が控えてくれていることを忘れてはなりません。

一人ぼっちということは決してないということです。大霊が使者を派遣して下さっております。私もその中の一人です。



シルバーバーチの祈り

生命のすべてに存在を与え給いし大霊よ。私たちをこの場に集わしめ、あなたの霊力を活用して大自然の摂理の存在を証し給う大霊よ。私たちはあなたの道具として、この地上での奉仕の機会をいただいたことに深甚なる感謝の意を表します。

 ああ、真白き大霊よ。あなたは全生命の光におわします。あなたの存在なくしては、ただの暗闇のみとなるからで御座います。あなたは全生命を包摂する法則におわします。あなたの存在ありてこそ星はしかるべき位置を保ち、太陽は輝き、花は咲き、小鳥は歌うのでございます。

 あなたとあなたの摂理ありてこそ、あなたの霊は物質の世界にも顕現し、しかもあなたとの絆を保ち続けられるのでございます。

 その絆を通じてあなたはご自身を顕現なさいます。それは挫折せる者を救い勇気づけてあげようとする欲求であり、人生に疲れた人を援助してあげようとする熱意であり、心の渇いた人に真理の潤いを、衰弱した人に力を与えてあげたいと思う願望でございます。

 子等の想像を絶する偉大さと崇高さをそなえし大霊よ。地上のいかなる聖賢の洞察力をもってしても計りがたき愛と美と叡智に溢れし大霊よ。私たちはあなたを宇宙の最大にして最強の存在として認識いたしております。神の中の神であり、王の中の王であり、絶対的摂理であり、その働きは完ぺきにして行き届かないところはございません。

 私たちはあなたの御名においてなされてきたこと全てが栄誉と栄光に満たされんことを、そして又、この場にあなたの霊の宿らせ給う神殿(交霊の場)が確立され、あなたの霊力に満たされ、あなたの光にあふれ、その輝きを遠く広く地上の暗き所にあまねく行きわたらせ、この物質の世界に御身とその永遠の摂理についての認識を根づかせんと祈るものでございます。

 その仕事のために私どもは高遠の世界の有志に援助を求め、その霊力と叡智を持って人類に、御身についてまた自分みずからについてのより深い理解をもたらし、あなたが彼らを地上に置かれた、そもそも天命を全うせしめんと望むものでございます。
 

Friday, July 3, 2026

ベールの彼方の生活(一) G・V・オーエン著

 『霊界通信 ベールの彼方の生活』の第1巻は、英国の牧師G・V・オーエンを通じて伝えられたスピリチュアリズムの代表的古典です。死後の世界(天界の低地)の具体的な様子を詳細に描写しており、現代でも高い評価を受けている著作です。



三章 暗黒から光明へ
愛と叡智 ② 霊界の科学館  ③ 霊界のパビリオ    
暗黒街からの霊の救出
       

1 愛と叡智   
  一九一三年十月十日  金曜日
 
 私たちの日常生活とあなた方の日常生活とを比較して見られれば、結局はどちらも学校で勉強しているようなものであること、実に大きな学校でたくさんのクラスがあり、大勢の先生がおられること、しかし教育方針は一貫しており、単純なことから複雑なことへと進むようになっていること、そして複雑ということは混乱を意味するのではなく、

宇宙の創造主たる神を知れば知るほどその知る喜びによって一層神への敬虔なる忠誠心を抱くように全てがうまく出来上っていることを悟るようになります。

 そこで今日も従来からのテーマを取り上げて、こちらの世界で私たちが日頃どんなことをして過ごしているのか、神の愛がどのように私たちを包み、謙虚さと愛を身につけるにつれて事物がますます明快に理解されていくかを明らかにしてみましょう。


 こちらの事情で大切なことの一つに叡智と愛のバランスが取れていないといけないことが挙げられます。両者は実は別個のものではなく、一つの大きな原理の二つの側面を表わしているのです。

言わば樹木と葉との関係と同じで、愛が働き叡智が呼吸しておれば健全な果実が実ります。解りやすく説明するために、私たちが自分自身のこと、および私たちが指導することを許された人々の世話をする中でどういう具合にその愛と叡智を摂り入れて行くか、一つの具体例をあげてみましょう。


 つい先頃のことですが、私たちは一つの課題を与えられ、そのことで私たち五人で遠く離れたところにある地域(コロニー)を訪れることになりました。目的は神の愛の存在について疑念を抱き、あるいは当惑している地上の人間に対して取るべき最良の手段を教わることでした。

と言うのも、そうしたケースを扱う上でしばしば私たちの経験不足が障害となっていましたし、又あなたも御存知の通り地上にはそういう人が多いのです。

 そこにあるカレッジの校長先生は地上では才能豊かな政治家だった方ですが、その才能が地上ではあまり発揮されず、こちらへ来て初めて存分に発揮できるようになり、結局地球だけが鍛錬の成果が発揮される場でないことを身を持って理解されたわけです。

 訪問の目的を述べますと、その高い役職にも拘わらず、少しも偉(えらぶ)らず、極めて丁重で親切に応対されました。あなた達なら多分天使と呼びたくなるだろうと思われるほど高貴な方で、もしもそのお姿で地上に降りたら人間はその輝きに圧倒されることでしょう。

容姿もお顔も本当に美しい方で、それを形容する言葉としては、さしずめ〝燦然たる光輝に燃え立つような〟というところでしょう。親身な態度で私たちの話に耳を傾けられ、時折静かな口調で〝それで?〟と言って話を促され、私たちはついその方の霊格の高さも忘れて、恐れも遠慮もなく話しました。するとこうおっしゃいました。

 「生徒の皆さん──ここにいる間は生徒ということにしましよう──お話は興味深く拝聴いたしました。と同時に、そういうお仕事によくある問題でもあります。さて、そうした問題を私が今あっさりと解決してあげれば、皆さんは心も軽くお仕事に戻ることが出来るでしょう。が、イザ仕事に携わってみると又アレコレと問題が生じます。

なぜか。それは、一ばん心に銘記しておくべきことというものは体験してみなければ解らない細々(こまごま)したことばかりだからです。それがいかに大切であるかは体験してみてはじめて解るということです。では私についてお出でなさい。大事なことをこれからお教えしましょう。」


 私たちは先生の後について敷地内を歩いて行きました。庭では庭師が花や果実の木の剪定などの仕事に専念しておりました。小道を右に左に曲がりながら各種の植え込みの中を通り抜けました。小鳥や可愛い動物がそこここに姿を見せます。やがて小川に出ました。そしてすぐ側にエジプト寺院のミニチュアのような石の東屋があり、私たちはその中に案内されました。

天井は色とりどりの花で出来た棚になっており、その下の一つのベンチに腰掛けると、先生も私たちのベンチと直角に置いてあるベンチに腰を下ろされました。


 床を見ると何やら図面のようなものが刻み込まれております。先生はそれを指さしてこうおっしゃいました。

 「さて、これが今私があなた方を案内して回った建物と敷地の図面です。この印のところが今いる場所です。ご覧の通り最初に皆さんとお会いした門からここまで相当の距離があります。

皆さんはおしゃべりに夢中でどこをどう通ったかは一切気にとめられなかった。そこでこれから今来た道を逆戻りしてみるのも良い勉強になりますし、まんざら面白くないこともないでしょう。無事にお帰りになってお会いしたら、先ほどお聞きしたあなた方の問題についてアドバイスいたしましょう。」



 そうおっしゃって校長先生は立ち去られました。私たちは互いに顔を見合わせ、先生が迷路のような道を連れて回られた目的に気づかなかったそのうかつさを互いに感じて、どっと笑い出しました。それから図面を何度も何度も調べました。直線と三角と四角と円がごちゃごちゃになっている感じで、始めはほとんど判りませんでした。

 が、そのうち徐々に判りはじめました。それはそのコロニーの地図で、東屋はその中心、ほぼ中央に位置しております。が入口が記されておりません。しかもそれに通じる小道が四本あって、どの道を辿ればよいかが判りません。

しかし私はこれは大した問題でないと判断しました。と言うのは四本ともコロニーの外郭へつながっており、その間に何本もの小道が交叉していたからです。その判断に到達するまでのすったもんだは省きましょう。時間が掛かりますから。

 とにかく私の頭に一つの案が浮かび、参考までに提案してみたところ皆んなそれはなかなか良い考えだと言い、これで謎が解けそうだと喜びました。と言って別に驚くほどのことではないのです。どの方向でも良いから、とにかく外へ出て一ばん直線的な道を進んでみるというだけの話です。

言い方がまずいようですね。要するに東屋からどちらの方角でも良いから一ばん真っ直ぐな道を取るということです。そうすると必ず外郭へ出る。その外郭は完全な円形をしているから、それに沿って行けば遅かれ早かれ門まで来ることになるわけです。

 いよいよ出発しました。道中は結構長くて楽しいものでした。そして冒険的要素が無いわけではありませんでした。と言うのも、そのコロニーはそれはそれは広いもので、丘あり谷あり森あり小川ありで、それがまた実に美しいので、よほど目的をしっかり意識していないと、道が二つに岐れたところに来るとつい方向を誤りそうになるのでした。

 しかし、必ずしも最短で直線的な道を選んだわけではないと私は思うのですが、私はついに外郭に辿り着きました。ついでに言うと、その外郭は芝生の生い茂った幅の広い地帯になっていて、全体は見えなくても、その境界の様子からして円形になっていることはすぐに判ります。

そこで左へ折れ、そのまま行くと間違いなく円形をしていて無限軌道のように続いておりました。どんどん歩いて行くうちに、ついに最初に校長先生にお会いした門のところまで来ました。

 先生は、よく頑張りました、と言って迎えて下さり、その足で建物の前のテラスに上がり、それまでの冒険談──私が書いたものより遥かに多くの体験──をお聞かせしました。先生は前と同じように熱心に耳を傾けて下さり「なるほど。結構立派にやり遂げられました。目的を達成し、ここまで帰って来られたのですから。ではお約束通り、あなた方の学ばれた教訓を私から述べさせていただきましょう」と言って次のような話をされました。

 「まず第一に、行きたいと思う方向を確認すること。次に近道と思える道ではなく一ばん確実と思える道を選ぶこと。その道が一ばん早いとは限りません。限りなく広がると思えたこのコロニーの境界領域までまずやってくる。その境界線から振り返ると、それまで通り抜けて来た土地の広さと限界の見当がつく。要はそれまでの着実さと忍耐です。望むゴールは必ず、達成されるものです。

 「又、その限られた地域とその先に広がる地域との境界領域に立って見渡すと、曲がりくねった道や谷や小森が沢山あって、あまり遠くまで見通せなくても全体としては完全に釣合が取れている──要するに完全な円形になっており、内部は一見すると迷路でごった混ぜの観を呈していても、より大きい、あるいはより広い観点から見ると、全体として完全な統一体で、実質は単純に出来ていることが判るはずです。小道を通っている時は迷うでしょうけど。

 それに、その外郭を曲線に沿って行くと限られた範囲しか目に入らなかったでしょう。それでも、その形からきっと求める場所つまり門に辿り着けると判断し、その理性的判断に基づいた確信のもとに安心して辿って来られた。そして今こうして辿り着き、少なくとも概略においてあなた方の知的推理が正しかったことを証明なさったわけです。

 さてこの問題は掘り下げればまだまだ深いものがありますが、私はここであなた方をこの土地にいて私を援助してくれている仲間たちにお預けしようと思います。その人たちがこの建物や環境をさらにご案内し、お望みならもっと広い地域まで案内してくれるでしょう。面白いものがたくさんあるのです。

その方たちと私が述べた教訓について語り合われるとよろしい。少し後でもう一度お会いしますので、その時に話したいことや尋ねたいことがあればおっしゃって下さい。」


 そうおっしゃって私たちにひとまず別れを告げられると、代わって建物の中から楽しそうな一団が出て来て私たちを中へ招き入れました。まだまだ続けたいけど、あなたにはまだお勤めが残っているから今日はこの辺でやめにしましょう。少しの間とはいえ、こうして交信のために降りて来るのは楽しいことです。あなたをはじめ皆さんに神の祝福を。母とその霊団より。




2 霊界の科学館           
  一九一三年十月十一日 土曜日

 昨夜は時間がなくて簡単な叙述に終わってしまったので、今日は引き続きあのコロニーでの体験の幾つかを述べてみたいと思います。

そこには色んな施設があり、その殆どは地上の人間で死後の世界について疑問に思っている人、迷っている人を指導するにはどうすれば一ばん効果的かを研究するためのものです。

昨夜お話した私たちの体験を比喩として吟味されれば、その中に託された教訓をふくらませることが出来ると思います。

 さて、あのあと指導霊の一団の引率で私達はすでにお話した境界の外側へ出ました。そこは芝生地ですが、それが途方もなく広がっているのです。そこは時おり取り行われる高級界の神霊の〝顕現〟する場の一つです。

召集の通達が出されますと各方面からそれはそれは大勢の群集が集合し、その天界の低地で可能な限りのさまざまな荘厳なるシーンが展開します。

 そこを通り過ぎて行くうちに次第に登り坂となり、辿り着いたところは台地になっていて、そこに大小さまざまな建物が幾つか立っております。

 その中央に特別に大きいのが立っており、私たちはそこへ案内されました。入ってみるとそこは何の仕切りもない、ただの大きなホールになっております。

円形をしており、まわりの壁には変わった彫刻が施されております。細かく調べてみますと、それは天体を彫ったもので、その中に地球もありました。固定されているのではなく回転軸に乗っていて、半分が壁の中にあり半分が手前にはみ出ております。 

そのほか動物や植物や人間の像も彫られていて、そのほとんどが壁のくぼみ、つまり入れ込みに置いてあります。尋ねてみますとそこは純粋な科学教育施設であるとのことでした。 

 私たちはその円形施設の片側に取り付けられているバルコニーに案内されました。そこは少し出っ張っていますので全体が一望できるのです。これからそこの設備がどういう風に使用されるかを私たちのために実演して見せて下さることになりました。

 腰かけて見ておりますと。青い霞のようなものがホールの中心付近に立ち込みはじめました。と同時に一条(すじ)の光線がホールの中をさっと走って地球儀の上に乗っかりました。

すると地球儀がまるでその光を吸収していくかのように発光し始め、間もなく光線が引っ込められたあとも内部から輝き続けました。と見ているうちに今度はもう少し強烈な別の光線が走って同じように地球儀の上に乗りました。するとその地球儀がゆっくりと台座から離れ、壁から出て宙に浮きました。

 それがホールの中央部へ向けて浮上し、青い霞の中へ入ったとたんに誇張をしはじめ、輝く巨大な球体となって浮かんでおります。その様子は譬えようもなく美しいものでした。

それが地球と同じようにゆっくりと、実にゆっくりとした速度で回転し、その表面の海洋や大陸が見えます。その時はまだ地上で使われる平面図にすぎませんでしたが、回転を続けていくうちに次第に様子が変わってきました。

 山脈や高地が隆起し、河や海の水がうねり、さざ波を立て、都市のミニチュア、建物の細々(こまごま)とした部分までが見え始めたのです。きめの細かさがどんどん進んで、人間の姿──最初は群集が、やがて一人一人の姿が見分けられるようになりました。

直径80フィートから100フィートもあろうかと思える球体の上で生きた人間や動物が見えるというシーンは、とてもあなたには理解できないでしょう。がそれがこの施設の科学の目的なのです。つまり各天体上の存在を一つ一つ再現することです。

 その素晴らしいシーンはますます精度を増し、回転する球体上の都市や各分野で急がしく働いている人間の様子まで見えるようになりました。

広い草原や砂漠、森林、そこに生息する動物類の姿まで見えました。さらに回転して行くうちに、今度は内海や外洋が見えて来ました。あるものは静かに波うち、あるものは荒れ狂っております。そして、そこここに船の姿が見えます。つまり地上生活の全てが目の前に展開するのでした。

 私は長時間そのシーンに見入っておりました。するとその施設の係の方が下の方から私たちに声を掛けられました。おっしゃるには、私たちが今見ているのは現時点での実際の地上の様子で、もしお望みであれば過去へ遡って知性をもつ存在としての人類の起源までを再現できますということでした。

是非その美事な現象をもっともっと見せていただきたいと申し上げると、その方は現象の全てをコントロールしていると思われる器機のあるところへ行かれました。

 その話の続きはあとにして、ここで今あなたの心の中に見えるものについて説明しておきましょう。そのホールは暗くはありません。全体がすみずみまで明るいです。ですが球体そのものが、強烈でしかも不快感を与えない光に輝いているために、青い霞の外側が何となく薄暗く見えるまでです。その霞のあるところが球体の発する光輝の領域となっているようでした。

 さて、程なくしてその回転する球体上の光景が変化し始めました。そして私たちは長い長い年月を遡り、人間がようやく森林から出て来て平地で集落をこしらえるようになった頃の地上の全生命──人間と動物と植物の太古の姿を目のあたりにしはじめました。

 さて、ここでお断りしておかなければならないのは、太古の歴史は地上の歴史家が言っているような過程を辿ってはいないということです。当時の現象は〝国家〟と〝世紀〟の単位でなく〝種〟と〝累代〟(※)の単位で起きておりました。

何代もの地質学的時代がありました。人間が鉄器時代とか石器時代、氷河期と呼んでいる時期を見ますと実に面白いことが発見されます。あらかじめある程度の知識を持つ者には、どうもそうした名称がでたらめであることが判るのです。

と言いますのは、例えば氷河期は当時の地球の一、二の地域には当てはまるかも知れませんが、決して全体が氷で覆われていたわけではないことが、その球体を見ていると判るのです。それも大てい一時代に一つの大陸が氷で覆われ、次の時代には別の大陸が氷で覆われていたのです。

が、そうした歴史的展開の様子は地球が相当進化したところで打ち切られました。そうして、さっきも述べたように人類の出現はその時はすでに既成事実となっておりました。 (※地質学的時代区分を二つ以上含む最大の単位──訳者)

 どんどん様相を変えて行くこの多彩な宝石のような球体に魅入られ、これが他ならぬわが地球なのかと思い、それにしては自分たちが何も知らずにいたことを痛感していると、その球体が次第に小さくなって、もとの壁の入れ込みの中へ戻り、やがて光輝が薄れていき、ついには最初に見かけた時と同じただの石膏の彫り物の様なものになってしまいました。

 この現象に興味をそそられた私たちが指導霊に尋ねると、そこの施設についていろいろと解説して下さいました。今見た地球儀にはもっと科学的な用途があること、

あのような美しい現象を選んだのは科学的鍛錬を受けていない私たちには美しさの要素の多いものが適切と考えたからであること、科学的用途としては例えば天体と天体との関連性とか、それぞれの天体の誕生から現在までの進化の様子が見られるようになっていること。等々でした。

 壁にはめ込まれた動物も同じような目的に使用されるとのことでした。地球儀の時と同じように光線が当たると光輝を発してホールの中心部へやって来ます。

そこでまるで生きた動物のように動き回ります。事実ある意味でその間だけは生きた動物となっているのです。それが中央の特殊な台に乗っかると拡大光線──本当の科学的名称を知らないので仮りにそう呼んでおきます──を当てられ、さらに透明にする光線を当てられます。するとその動物の内臓がまる見えとなります。

施設の人の話によりますと、そうやって映し出される動物あるいは人間の内部組織の働き具合を見るのは実に見応えのあるものだそうです。

 そのモデルに別の操作を施すと、今度は進化の過程を逆戻りして次第に単純になって行き、ついには哺乳動物としての原初形態まで遡っていくことが出来ます。つまりその動物の構造上の発達の歴史が生きた姿のまま見られるというわけです。

面白いのはその操作を過ると間違ったコースを辿ることがあることで、その時は初期の段階が終わった段階で一たん元に戻し、もう一度やり直して、今度は正しいコースを取って今日の段階まで辿り着くということがあるそうです。

又、研究生が自分のアイディアを組み入れた進化のコースを辿らせてみることも出来るそうです。動物だけでなく、天体でも国家でも民族でも同じことができるそうですが、それを専門的に行う設備が別のホールにあるとのことでした。

 一度話に出た(八六頁参照)子供の学校の構内に設置されていた球体は実はこの施設の学生の一人がこしらえたのだそうです。勿論ここにあるものよりはずっと単純に出来ております。もしかしたらこの施設の美しさを見た後だからそう思えるのかも知れません。

 今日はこれ位にしておきましょう。他にも色々と見学したものがあるのですが、これ以上続けると長くなり過ぎるので止めにします。

 何か聞きたいことがあるみたいですね。その通りです。私は月曜日の勉強会に出席しておりました。あの方が私に気づいておられたのも知っておりました。私の述べた言葉は聞こえなかったようですけど。

 では、さようなら。あす又お会いしましょう。

≪原著者ノート≫最後のところで言及している勉強会のことについて一言述べておく必要がある。前の週の月曜日のことである。私はその日、礼拝堂の手すりと手すりの間に着席し、勉強会のメンバーは聖歌隊席で向かい合って着席していた。

聖歌隊席の至聖所側の一ばん端で私の右手になる位置にE婦人が着席していた。そのE婦人が後で語ってくれたところによると、私が会の最後の締めくくりの言葉を述べている最中に私の母親が両手を大きく広げ情愛あふれる顔で祭壇から進み出て、私のすぐ後ろまで来たという。

その姿は輝くように美しく、まるで出席しているメンバーと少しも変わらない人間の身体をまとっているようだったという。E婦人の目には今にも私を抱きしめるかに見えたそうで、余りの生々しさに一瞬自分以外の者には見えていないことを忘れ、今にも驚きの声を出しそうになったけど、どうにかこらえて目をそらしたという。私が質問しようと思っていたのはそのことだった。
       

 
 3 霊界のパビリオン       

  一九一三年十月十三日 月曜日

 例のコロニーでの、あなたの喜びそうな体験をもう一つお話しましょう。私にとっても初めての体験で興味ぶかいものでした。全体として一つのグループを形成している各種の施設を次々と案内していただいていると、屋外パビリオンのようなものに出ました。

何本もの高い円柱の上に巨大なドームが乗っているだけで、囲まれている内部に天井がありません。建物の周りについている階段から壇上に上がると、その中央に縦横三フィート、高さ四フィートばかりの正方形の祭壇が設けてあります。

その上に何やら日時計のようなブロンズ製の平たい板が立ててあり、直線やシンボル、幾何学的図形等がいろいろと刻まれてありました。

 その真上のドームの中央部に通路があり、そこから入って行くとその施設の器機の操作室に出るとの話でした。私たちをその文字盤(と呼んでおきましょう)のまわりに並ばせて、案内の方はその場を離れてドームの天井へ上がり操作室へとはいられました。

何が起きるのか判らないまま、私たちはじっとその文字盤を見つめておりました。

 すると様子が変化し始めました。まず空気の色彩と密度が変わってきました。あたりを見ますと、さっきまでの光景が消え、円柱と円柱との間に細い糸で出来たカーテン状のものが広がっておりました。さまざまな色調の糸が編み合わさっています。それが見る見るうちに一本一本に分かれ、判然とした形態を整えていきました。

すっかり整え終わった時、私たちは周りを林によって囲まれた空地の中に立っておりました。そしてその木々がそよ風にゆれているのです。

 やがて小鳥のさえずりが聞こえ、木から木へと飛び交うきれいな羽をした小鳥の姿が目に入りました。林はなおも広がり、美しい森の趣きとなってきました。ドームも消え、屋根のように樹木が広がっているところを除いては一面青空が広がっておりました。

 再び祭壇と文字盤に目をやると、同じ位置にちゃんとありましたが、文字盤に刻まれた図形やシンボルは祭壇の内部から発しているように思える明りに輝いておりました。

 やがて上の方から案内の方の声がして、文字盤を読んでみるようにと言われます。最初のうち誰にも読めませんでしたが、そのうち仲間の中で一ばん頭の鋭い方が、これは霊界の植物と動物の身体を構成する成分を解説しているものですと言いました。

その文字盤と祭壇とがどのような関係になっているのかも明らかとなりましたが、それは人間の言語で説明するのはちょっとムリです。ですが判ってみると成るほどと納得がいきました。

 その後案内の方が再び私たちの所へ来られ、その建物の使用目的を説明して下さいました。ここの研究生たちが〝創造〟についての進んだ科学的学習を行うためには、創造に使用される基本的成分について十分に勉強をしておかねばならないようです。それは当たり前と言ってしまえば確かに当たり前のことです。

この建物は研究生が最初に学習する施設の一つで、例の文字盤は上の操作室にいる研究生が自分なりに考えた成分の組み合わせやその比率などの参考資料が記されているのです。

 案内して下さった方はその道の研究で相当進んだ方で、さっきの森のシーンも同じ方法でこしらえたものでした。進歩してくると、その操置を使用しなくても思い通りのものが創造できるようになります。

つまり一つずつ装置が要らなくなり、ついには何の装置も使わずに自分の意念だけで造れるようになるわけです。

 そこで私たちは、そうした能力が実生活においてどのような目的に使用されるかを尋ねてみました。するとまず第一に精神と意志の鍛錬が目的であるとのことでした。

その鍛錬は並大抵のものではなく大変な努力を要するとのことで、それがひと通り終了すると次は同じくこの界の別のカレッジへ行って別の科学分野を学び、そこでもさらに多くの段階の修練を積まねばなりません。

その創造的能力が本当に自分のものとなり切るのは、幾つもの界でそうした修練を経たのちのことです。その暁にはある一人の大霊、大天使、あるいは能天使(本当の呼び方は知りません)の配下に属することを許され、父なる宇宙神の無限の創造的活動に参加することになります。その時に見られる創造の過程は荘厳を極めるとのことです。

お話を聞いた時はそれは多分新しい宇宙ないしは天体組織の創造──物的か霊的かは別として──のことかも知れないと考えたりしました。が、

そんな高い界のことは現在の私たちにはおおよその概念程度のことしか摑めません。しかも、そこまでに至るには人智を絶した長い長い年月を要することです。勿論そういう特殊な方向へ進むべき人の場合の話です。どうやらそこを訪れた私たち五人の女性にとっては、向上の道は別の方角にあるようです。

でも、たとえ辿るべき宿命は違っても、さまざまな生命活動を知りたいと思うものです。全ての者が宇宙の創造に参加するとは限らないと私は思います。

遥か彼方の、宇宙創造神の玉座に近いところには、きっと創造活動とは別に、同じく荘大にして栄光ある仕事があるものと確信しております。

 芝生の外郭を通って帰る途中で、別の科学分野を学ぶために別のカレッジへ行っていた研究生の一団と出会いました。男性ばかりではありません。女性も混じっております。

私がその女性たちにあなた方も男性と同じ分野を研究しているのですかと尋ねると、そうですと答え、男性は純粋に創造的分野に携わり、女性はその母性本能でもって産物に円(まる)みを持たせる働きをし、双方が相俟って完成美を増すことになるということでした。

もちろん完成美といってもその界での能力の範囲内で可能な限り美しく仕上げるという意味です。まだまだ天界の低地に属するこの界では上層界への進歩が目的であって、完璧な完成ということは有り得ないのです。

 やがて私たちはこの円形のコロニーの校長先生と出会ったところに帰り着きました。


 ──何故その方のお名前を出されないのですか。

 お名前はアーノルとおっしゃいます。少し変わったお名前で、地上の人間はとかく霊の名前に拘るので、出すのを控えていただけで他意はありません。霊の名前の由来はあなたには理解し難いので、これ以後もただ名前を述べるに留めて意味には言及しないことに致します。


 ──そうですね。その方が回りくどい説明が省けていいでしょう。

 そうなのです。でも私たちがこうして霊界の生活を説明する時の霊的情況の真相がもし理解できれば、手間が掛かるほど間違いが少ないということが判っていただけると思います。例のアーノル様のコロニーでの私たちの体験と教訓を思い出して下さい。


 ──それにしても、名前を出すということがなぜそうまで難しいのでしょうか。難しいものであるという話は再三聞かされておりますが。

 その難しさを説明するのがまた難しいのです。人間の立場から見れば何でもないことのように思えるでしょうけど。こういう説明ではどうでしょう。あなたもご存知の通り古代エジプト人にとっては神ならびに女神の名称には、頑迷な唯物主観の英語系民族(アングロサクソン)が考える以上に深い意味があったのです。

名前に何の意味があると言うのか──そう思われるかも知れませんが、私たち霊界人から観ると、そして又(こちらへ来てから得た資料で知ったのですが)古代エジプトの知恵から観ても、名前には大いに意味があるのです。

名前によっては、それを繰り返し反復するだけで現実的な力を発揮し、時には危害さえもたらすものがあります。地上にいる時は知りませんでしたが、こちらへ来てそれを知ったのです。それで私たちは、あなたには多分愚かしく思えるかも知れませんが〝名前〟という実在に一種の敬虔さを抱くようになるのです。

もっとも、物わかりの悪い心霊学者が期待するほどに霊界通信で名前が出てこないのは、それだけが理由ではありません。

 こうして地球圏まで降りて来ますと、名前によっては単に口にしたり書いたりすることさえ、あなたが想像する以上に困難なことがあるのです。その辺の事情は説明が難しいです。こちらの四次元世界の事情にもっともっと通じていただきかないと理解できないでしょう。

この四次元という用語も他に適当な用語が無いから使用しているまでです。では、二、三の例を挙げて、それで名前の問題は終わりにしましょう。

 その一つは例のモーゼが最高神の使者から最高神の名前を教えてもらった話(※)ですが、今日まで誰れ一人としてその名前の真意を知り得た者はおりません。

(※この説話は旧約聖書「出エジプト記三章」に出ているが、ステイントン・モーゼスの「霊訓」の最高指導霊イムペレーター、実は旧約聖書時代の予言者マキラによると、これは紀元前一三〇年頃の予言者、今で言う霊言霊媒チョムを通じて告げられたもので、その時の言葉は Nuk-Pu-Nuk、英訳すればI am the I am すなわち〝私は有るがままの存在である〟となり、宇宙の普遍的エッセンス、生命の根源をさすという。──訳者)

 次はそれより位の低い天使がヤコブから名前を聞かれて断られています。アブラハムその他、旧約聖書中の指導者に顕現した天使は滅多に名を明かしておりません。

新約聖書においても同じように殆んどが〝天使〟と呼ばれているだけです。名前を告げている場合、例えばガブリエルの場合(※)も、その深い意味は殆んど理解されておりません。

((※)同じく「霊訓」によると、ガブリエルは同じ大天使の中でも〝守護救済〟の任に当たる天使団の最高位の霊であり、ミカエルは悪霊・邪霊集団と〝戦う天使団〟の最高霊であるという。──訳者)


 ──ところで、あなたの名前──そちらでの新しいお名前は何でしょうか。明かすことを許されているのでしょうか。


 もちろん許されておりますが、賢明ではありません。明かした方が良ければ明かします。でも差し当たっては差し控えます。理由(わけ)はよく判っていただけなくても、あなたの為に良かれと思ってのことであることは判っていただけるでしょうから。


 ──結構です。あなたの判断にお任せします。

 その内あなたにも判る日が来ます。その時は「生命(いのち)の書」(※)の中に記されている人々にいかなる栄光が待ち構えているかを理解されるでしょう。この書の名称も一考に値するものです。軽々しく口にされておりますが、その真意はほとんど、あるいは全然理解されておりません。

(※正式には Book of Life of the Lamb)で「キリストの生命の書」。天国に召されるのを約束された聖人を意味するとされている。──訳者)

 ではあなたにもローズにもそしてお子たちにも、神の祝福のあらんことを。ルビー(まえがき参照)が間もなく行けるようになると言ってちょうだい、と私に可愛らしく告げています。指図を書き留められるようになってほしいなどと言ってますよ。まあ、ほんとに無邪気な子ですこと。皆んなから可愛がられて。ではさようなら。



 
4 暗黒街からの霊の救出       
 
 一九一三年十月十五日 水曜日

 自分のすぐ身の回りに霊の世界が存在することを知らない人間に死後の存続と死後の世界の現実味と愛と美を説明するとしたら、あなたなら何から始められますか。多分第一に現在のその人自身が不滅の霊であることを得心させようとなさることでしょう。

そしてもしそれが事実だったら死後の生活にとって現在の地上生活が重大な意味を持つことに気づき、その死後の世界からの通信に少しでも耳を傾けようとすることでしょう。何しろその世界は死というベールをくぐり抜けたあとに例外なく行き着くところであり、否応なしに暮さねばならないところだからです。

 そこで私たちは、もしも地上の人間が今生きているその存在も実在であり決して地上かぎりの果敢(はか)ないものではないことを理解してくれれば、私たちのように身をもって死後の生命と個性の存続を悟り、同時に地上生活を正しく生きている人間には祝福が待ちかまえていることを知った者からのメッセージを、一考の価値のあるものと認めてくれるものと思うのです。

 さて、その死の関門をくぐり抜けてより大きい自由な世界へと足を踏み入れた人間が、滞(とどこお)りなく神の御国での仕事に勤しむことになるのは何でもないことのようで、実はただ事ではないのです。

 これまで私たちは地上生活と死後の世界との因果関係について多くのケースを調べてみて、地上での準備と自己鍛錬の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはないという認識を得ております。多くの人間は死んでからのことは死んでからで良いと多寡をくくっておりますが、イザこちらへ来てみるとその考えが認識不足であったことに気づくのです。


──今お書きになっているのはどなたですか。

 あなたの母親と霊団のものです。アストリエル様は今夜はお見えになっておりません。またいつかお出でになるでしょう。霊団とともに通信に来られた時はお知らせしましょう。


 では話を続けましょう。〝橋〟と〝裂け目〟の話は致しました・・・・・・


──ええ、聞きました。それよりも、アーノル様のコロニーでの体験と、あなたの本来の界へ戻られてからのことはどうなりました。ほかに面白いエピソードはもう無いのですか。

 いろいろと勉強になり、知人も増え、お話したことより遥かに多くのことを見学したということ以外には別に申し上げることはありません。それよりも、ぜひあなたにお聞かせしたいと思っていることがあります。あのコロニーでの話を続けてもいいですが、これも同じように為になる話です。

 〝裂け目〟と〝橋〟──例の話を思い出して下さい。(四一頁参照)。その橋──地上の橋と少し趣きが異なるのですが、引き続きそう呼んでおきましょう──が暗黒界から延びてきて光明界の高台へ掛かるあたりで目撃したエピソードをお話しましょう。

 私たちがそこへ派遣されたのは恐ろしい暗黒界から脱出して首尾よくそこまで到達する一人の女性を迎えるためでした。その方は〝光〟の橋を渡ってくるのではなく、〝裂け目〟の恐怖の闇の中を這い上がって来るというのです。

私たちにはもう一人、すぐ上の界から強力な天使様が付いて来てくださいました。特別にこの仕事を託されている方で、首尾よく救出された霊が連れて行かれるホームを組織している女性天使団のお一人でした。


──お名前を伺いたいのですが。

 ビーニ──いけません。出てきません。あとにしましょう。書いているうちに思い出すかも知れません。

 到着してみると、谷を少し下った岩だらけの道に一個の光が見えます。どなたか男性の天使の方がそこで見張っていることが判りました。やがてその光が小さくなり始め、谷底へ下りて行かれたことを知りました。それから少しすると谷底から上に向けて閃光が発せられ、それに呼応して〝橋〟にいくつか設けられている塔の一つから照明が照らされました。

それはサーチライトに似てないこともありません。それが谷底の暗闇へ向けられ、一点をじっと照らしています。するとビー・・・・・、私たちに付いて来られた天使様が私たちに〝しばらくここに居るように〟と言い残してその場を離れ、宙を飛んで素早く塔のてっぺんへ行かれました。

 次の瞬間その天使様の姿が照明の中に消えて失くなりました。仲間の一人が天使様が光線に沿って斜めに谷底へ下りて行くのを見かけたと言います。私には見えませんでしたが、間もなくその通りだったことが判明しました。

 ここで注釈が要りそうです。その照明は見え易くするためのものではありません(高級霊は自分の霊眼で見えますから)。その光には低級界の陰湿な影響力から守る作用があるのです。

最初に谷底へ下った霊から閃光が発せられ、それに呼応して、常時見張っている塔から照明が当てられたのも、そのための合図だったのです。私には判りませんでしたが、その光線には生命とエネルギーが充満しており──これ以上うまい表現が出来ません──谷底で援助を必要としている霊のために発せられたわけです。

 やがて二人の天使が件(くだん)の女性霊を連れて帰って来られました。男の天使の方は非常にお強い方なのですが、疲れ切ったご様子でした。あとで聞いたところによりますと、途中でその女性霊を取り返そうとする邪霊集団と遭遇したのだそうで、信号を送って援助を求めたのはその時でした。

お二人はその女性霊を抱きかかえるようにして歩いて来ましたが、その女性は光の強さに半ば気絶しかかっておりました。それを気遣いながら塔へ向けてゆっくりと歩いて行かれました。私にとってこんな光景は初めてでした。もっとも、似たような体験はあります。

例の色とりどりの民族衣装を着た大集団が集結した話(四八頁参照)をしましたが、こんどの光景はある意味ではそれよりも厳粛さがありました。というのは、あの光景にはただただ喜びに溢れておりましたが、いま目の前にした光景には苦悩と喜びとが混ざり合っていたからです。

三人はついに橋に辿り着き、そこで女性霊は建物の一室に運び込まれ、そこで十分に休養を取り、回復したあと私たちに引き渡されたのでした。

 この話には私たちにとって新らしい教訓が幾つかあり、同時にそれまでは単なる推察に過ぎなかったものに確証を与えてくれたものが幾つかあります。その内の幾つかを挙げてみましょう。


 まず、女性霊を救出した二人の天使を見れば判るとおり、霊格の高い天使が苦しみを味わうことが無いかのように想像するのは間違いだということです。現実に苦しまれるし、それも度々あるのです。邪悪な霊の住む領域に入ると天使も傷(や)られます。

ならば、その理屈でいくと邪霊集団が大挙して押し寄せれば全土を征服できそうに思うのですが、やはり光明と善の勢力の組織がしっかりしていて、且つ常に見張っておりますので、現実にそうした大変な事態になった話を聞いたことがありません。

しかし彼らとの闘いは真実〝闘い〟なのです。しかも、たいへんなエネルギーの消耗を伴います。これが第二の教訓です。高級霊でも疲労することがあるということです。

しかし、その苦痛も疲労も厭わないのです。逆説的に聞こえるかも知れませんが、高級霊になると、必死に救いを求める魂のために自分が苦しみを味わうことに喜びを感じるものなのです。

 また例の照明の光──エネルギーと活力の光線とでも言うべきかも知れません──の威力は強烈ですから、何かで光を遮断してあげなかったら女性霊は危害をこうむったはずです。あのように光に慣れない霊にとってはショックが強すぎるのです。

 さらにもう一つ。その光線が暗闇の地帯の奥深く照らされた時、何百マイルもあろうかと思える遠く深い谷底から叫び声が聞こえて来ました。それは何とも言えない不思議な体験でした。と言うのは、その声には怒りもあれば憎しみもあり、絶望の声もあり、はたまた助けとお慈悲を求める声も混じっていたのです。

それらが混ざり合ったものが至るところから聞こえて来るのです。私にはそれが理解できないので、あとで件の女性霊を待っている間にビーニックス Beanix ──こう綴るよりほかないように思えますのでこれで通します。綴ってみるとどうもしっくり来ないのですが──その方に何の叫び声でどこから来るのかお聞きしました。

するとビーニックス様は、それはよくは知らないが霊界にはそうした叫びを全部記録する装置があって、それを個々に分析し科学的に処理して、その評価に従って最も効果的な方法で援助が差し向けられるとのことでした。叫びの一つ一つにその魂の善性又は邪悪性が込められており、それぞれに相応しいものを授かることになるわけです。

 件の女性をお預かりした時、私たちはまずは休養ということで、心の安まる雰囲気で包んであげるよう心がけました。そして十分に体力が回復してから、用意しておいたホームへご案内しました。今もそこで面倒を見てもらっています。

 私たちはその方に質問は一切しませんでした。逆にその方から二、三の質問がありました。なんと、あの暗黒界に実に二十年以上も居たというのです。地上時代のことは断片的にしか聞いておらず、一つの話につなげられるほどのものではありません。

それに、そんな昔の体験をいきなり鮮明に思い出させることは賢明ではないのです。現在から少しずつ遡って霊界での体験をひと通り復習し、それから地上生活へと戻ってこの因果関係──原因と結果、タネ蒔きと収穫──を明確に認識しないといけないのです。

 今日はこの程度にしておきましょう。ではさようなら。
 神の祝福と安らぎを。アーメン。