Thursday, March 12, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


20節

本節の内容霊団も全てを語ることを許されず、語ることが人間の為になるとも限らない
著者の疑念を募らせる出来事の発生
霊側の弁明
精神状態の不安定な時の危険性
猜疑と懐疑は別
イエスは庶民を相手に法を説いた
霊側の配慮に対する著者の無理解を指摘
これ以上の働きかけを当分控えると表明


〔この時点でいろんな霊から通信が来た。彼らが言うには、その目的は死後存続の確証を積み重ねて私の心に確信を植えつけるためであった。その中の一人に著名人で生前私も親しくしていた人がいたので、その事実を身内の人に知らせても良いかと尋ねた。すると――〕


それは無駄であり賢明でもない。身内の者は交霊の事実を知らぬし、われらが知らしめんとしても不可能であろう。たとえそなたがその話をしたところで、気狂いのたわごとと思われるのが関の山であろう。とにかく今は身内の者に近づくことは出来ぬであろう。これは、後に残せる地上の肉親と何とか連絡したいと思う他界したばかりの霊が味わう試練の一つなのである。大体において他界してすぐは身内の者に近づくことは出来ぬ。何とかして思いを通じさせねばとあがく、その激しい念が障害となるのである。自分からのメッセージが何よりも証拠としての効き目があり、且つ望ましかろうと思い過ごし、その強き念波が肉親の悲しみの情と重なり合い、突き破らんとしても破れぬ強い障壁を拵えるのである。霊側の思いが薄れ、地上の者がその不幸の悲しみの情を忘れた時に初めて、霊は地上へ近づくことが可能となる。このことについては、このあと改めて述べることもあろう。

さてそなたの知人はそういう次第で、今は血縁関係の者との連絡を断たれている。受け入れる用意なき者に押しつけんとしても有害無益である。これはわれらにも如何ともし難き不変の摂理の一つなのである。われらは理解力なき者に霊的知識を押しつけるわけには参らぬ。哲人にしてなお驚嘆の念をもって眺める大自然の神秘を三歳の童子に説いてみたところで無意味であろう。それは実に無益というものである。もっとも童子に“害”はないかも知れぬ。が、不用意に押しつけることによりて本来の目的達成を阻害し、真理を授かるべき者が授からずに終わることにもなりかねぬ。賢明なる者はそのような愚は犯さぬ。受け入れ態勢の有無を考慮せずに、ただ霊的真理を送り届けさえすれば地上天国を招来できると期待するのは誤りである。それでは試練の場としての地上の意義は失われ、霊力を試さんと欲する者の、ただの実験場と化し、法も秩序も失われるであろう。そのような法の逆転は許されぬ。そう心得るがよい。


〔ほぼ同じ時期のことであるが、人間的手段を一切使わない、いわゆる直接書記によって書かれた氏名の綴りが間違っていたことから、例の身元確認に関する私の迷いが一段と強くなった。この場合霊媒に責任がないことは明らかである。そこで私は自分の氏名もロクに綴れないような霊を信じるわけにはいかないと強く抗議した。するとインペレーターが答えた――〕


いま身元確認の問題について議論しようとは思わぬが、そなたが言及する事柄は容易に説明のつくところである。あの霊の身元については余が保証し、そなたも少なくとも余の言葉を信じてくれた。綴りの誤りはあの霊自身ではなく、筆記せる霊が犯せるものである。そなたらが直接書記と呼ぶところの現象は今回はそなたのたっての要請に従って行なったが、あのような特殊なものが演出できる者は数多くはおらぬ。そして実際に筆記するのはそれに慣れた霊であり、通信を望む霊のいわば代書の如き役をするのが通例である。これには多くの場合数人の霊が携わる。今回の軽率な誤りに関しては交霊会の最中に訂正したが、そなたはそれに気づかなかったと見える。誤謬や矛盾についてはムキにならず、じっくりと調べるがよい。多くは今回の如く容易に説明のつくものばかりであることが判るであろう。


〔私の精神状態の乱れのせいで交霊会の調子まで乱れてきた。現象の現われ方がおかしく、時に乱暴になったり不規則になったりした。霊側からは“楽器の調子がおかしければ、それから出る音も調子はずれで軋(きし)むのだ”と言ってきた。が、交霊会を催すと気が休まることがあった。しかし反対に神経が緊張の極に達することもあり、その時の苦痛は並大抵のものではなかった。九月三十日に次のような通信が来た。〕


神経を休ませ和(なご)ませることが可能な時もあるが、神経の一本一本が震えるほど神経組織全体が過労ぎみで緊張の極にある時は、それも叶わぬ。われらとしては殆ど手の施しようもなく、せめてそうした精神状態が呼び寄せる低級霊に憑依される危険からそなたを守るのが精一杯である。そのような状態の時はわれらの世界との交信は求めぬよう忠告する。数々の理由により、これ以後は特に注意されたい。そなたはこれより急速に進歩し、それがあらゆる種類の霊的影響を受け易くする。多くの低級霊が近づき、交霊会を開かせては仲間入りを企む。悪自体は恐るに足らぬが、それによる混乱は避けられぬ。高度に発達せる霊媒は指導に当たる霊団以外の霊に邪魔される危険性のある会は避ける用心が肝要である。交霊会には危険はつきものであるが、今のそなたの精神状態では二重の危険性に身を曝すことになる。催す時は忍耐強く且つ受身の精神で臨んでもらいたい。そうすればそなたの望む証拠も得やすいであろう。


〔私は、たとえそう望んだところで所詮は自分自身の判断力で判断するほかはないではないかと答えた。さらに私は疑問を解くカギになると思える事柄を二、三指摘した。私の目には、地上で名声を謳(うた)われた著名人からの通信、しかも私を混乱させるだけだった通信よりも、そのほうが決定的な重要性をもっているように思えたのである。どう考えても世界的な大人物が私ごとき一介の人間のために人を惑わせるような些細なメッセージを伝えにやって来るとは思えなかった。私はむしろ最近他界したばかりで生前私たちのサークルの熱心なメンバーだった知人の身元を明かす何か良い証拠を数多く出してくれるよう要求した。それが身元証明の問題を解決する決定的なチャンスになるように思えたのである。さらに私はスピリチュアリズム思想の拠って来る源泉と規模と問題点、とくに霊の身元の問題について明快にして総合的な説明を切望した。私はこれまでの言説を全て真正なものと認めた上で、そうなるとこんどは、それを嘲笑の的とする反対派の批判に応えるための証拠を完璧で間違いのないものにしてくれないと困る、と述べた。その段階での私には、いくつかの心霊現象とそれを操る知的存在がいるといった程度のこと以外には証言らしい証言は何一つ見当たらなかったのである。それでは話にならない。いくら好意的心情になろうと努力しても、拭い切れずにいる疑問が一掃されないかぎり、それ以上先へ進めなかった。こうした私の言い分に対して十月一日に次のような通信が来た――〕


大神の御恵みの多からんことを。そなたが提出せる問題についてわれらがその全てに対応せず、また議論しようともせぬのは、今のそなたの精神状態では満足のいく完璧なる証拠を持ち出すことは不可能であるからに過ぎぬ。もっとも、多くの点においてそなたが率直かつ汚れなき真情を吐露してくれたことには感謝の意を表したい。が、それでもなおかつそなたの心の奥底に、われらの言説に対する不信と、われらの素性に対する信頼の欠如が潜んでいることを認めぬわけには参らぬ。これは、われらにとりて大いなる苦痛であり、また不当であるように感じられる。疑うこと自体、決して罪ではない。ある言説を知的に受け入れられぬことは決して咎めらるべきことではない。が、出された証拠を公正に吟味することを拒絶し、想像と独善主義の産物に過ぎぬ勝手な判断基準に照らさんとする態度は悲しむべき結果に終わるであろうし、そこにわれらの不満の根源がある。そなたの疑念にはわれらも敬意を払う。そしてそれが取り除かれた時はそなたと共に喜ぶであろう。が、それを取り除かんとするわれらの努力を無駄に終わらせる態度は、われらとしても咎めずにはおれぬところであり、非難するところである。その態度はそなたを氷の如き障壁の中に閉じ込め、われらの接近を阻む。またそれは率直にして進歩的な魂を孤立と退歩へと堕落させ、地上の地獄とも言うべき暗黒地帯へと引きずり込む。そうした依怙地(えこじ)な心の姿勢は邪霊による破壊的影響の所為であり、放置すれば魂の進化を永久に阻害することにもなりかねぬ。

われらはそなたからそのような態度で臨まれるのはご免蒙る。そなたとの霊的交わりを求めんとするわれらの努力がことごとく警戒心と猜疑心とによって監視されては堪らぬ。そなたは何かと言えばユダヤ時代の世相と少数の神の寵愛者を念頭に置き、その視点より現在を観んとする傾向があるが、当時のユダヤ人がイエスに神のしるしを求めた時にイエス自身の口から出た言葉がわれらの言い分と同じであったことをここに指摘しておきたい。イエスがついに自分の言葉以外のしるしは与えなかったことはそなたも知っていよう。なぜか、何の目的あってのことか、それは今は詮索すまい。不可能だったのかも知れぬ。不必要と観たのかも知れぬ。精神的土壤がそれを受け入れぬ状態にあったのかも知れぬ。今のそなたがまさにそれと同じ状態である。議論を強要する時のその荒れた気性そのものが、われらの適切なる返答を阻んでしまうのである。イエスの場合も多分それと同じ事情があったのであろう。そなたの注意を喚起しておきたいのは、イエスが慰めの言葉でもって答え、あるいは奇跡の霊力をもって応えたのは、議論を挑んだパリサイ派の学者でもなく、サドカイ派の学者でもなく、己の知識に溺れた賢人でもなく、謙虚にして従順なる心貧しき人々、真理一つ拾うにもおどおどとしてその恵みに浸る勇気もなく、それがいずこよりいかなる状態にてもたらされるものであるかも詮索せぬ、忠実にして真っ正直な人たちであった。イエスのその態度は生涯変わることがなかった。その態度はまさに父なる神が人間に対するのと同じであった。神の真の恩寵に浴するのは、己の我儘を押しつけ、それがすぐにでも満たされぬと不平をかこつ高慢不遜の独善者ではなく、苦しみの淵にあってなお“父よ、どうか私の望みよりあなたの御意(みこころ)のままに為さらんことを(1)”と祈る、謙虚にして疑うことを知らぬ敬虔なる平凡人である。

これが神の御業(みわざ)の全てを支配する摂理である。それを具体的にキリスト教界に観ることは今は控える。ただそなたに指摘しておきたいことは、そなたの頑(かたくな)な心の姿勢、こうと決めたら一歩も退こうとせぬ独善的議論の態度はそなたにとりて何の益にもならぬということである。われらも不本意ながらもその姿勢を譴責(けんせき)せねばならぬ。過ぎ来(こ)し方を振り返ってみるがよい。われらとの関わり合いの中に体験せる諸々の出来ごとを思い返してみるがよい。そなたの生活全体に行き渡れる背後霊の配慮についてそなたは何一つ知らぬ。そなたの心に向上心を育(はぐく)ませるための配慮、邪(よこしま)な影響より守り通さんがための配慮、悪霊の排除、難事に際しての導き、向上の道への手引き、真理についての無知と誤解より救わんとした配慮――こうした目に見えざる配慮についてそなたは何一つ知らぬ。しかし、その努力の証は決して秘密にして来たわけではない。このところそなたのもとを離れたことは一日とてない。われらの言葉、われらの働きかけはそなたの知るところである。ことに通信は間断なく送り届け、それがそなたの手もとに残っている。その言説の中に一語たりともそなたを欺いた言葉があったであろうか。われらの態度に卑劣なるもの、利己的なるもの、あるいは不親切に思えるものがあったであろうか。われらにとりて不名誉なことをしでかしたであろうか。そなたに対し侮辱的言葉、愚かしき言葉を述べたことがあったであろうか。卑劣なる策略、浅ましき動機によりてそなたを動かしたことがあったであろうか。向上の道より引きずり下ろすが如き行為をしたであろうか。要するに、われらがもたらせる成果より判断して、果たしてわれらの影響は善を志向せるものだったであろうか、悪を志向せるものだったであろうか。神を志向していたであろうか、その逆を志向していたであろうか。そなた自身はそれによりて改善されたと思えるであろうか、それとも改悪されたと思えるであろうか。より無知になったように思えるであろうか、無知より救われたように思えるであろうか。少しでもましな人間になったと思うであろうか、つまらぬ人間になり下がったと思えるであろうか。少しでも幸せになったと思えるであろうか、それとも幸せを感じられなくなったであろうか。

われらの存在そのものにつきて、われらの行為につきて、あるいはわれらの教説につきて、誰れが何と言おうと、筋の通れるものであればわれらは少しも苦にせぬ。聞く耳をもつ者すベてにわれらは公然と主張する――われらの教説は神の教えであり、われらの使命は神より命じられた神聖なるものである、と。

われらは、イエスがそうであり自らもそう述べている如く、公言せる教説については必ずその証となるべきしるしを提供してきた。当然納得して然るべき一連の証拠を提供した。これ以上付け加えようにももはや困難なところまで来ている。霊力の証を求めるそなたの要求に対しては決して労を惜しむことなく応じてきた。それどころか、より一層顕著なる現象を求める同志の要求を満たさんとしてそなたの健康を損ねることまで行なった。いかなる要求も、それが可能でありさえすれば、そしてわれらのより広き視野より判断して望ましきものと観たものは、すべて喜んで応じてきた。確かに要求を拒否して来たものもある。が、それはそなたが無理な要求をした場合、ないしはそうすることがそなたにとりて害になることを知らずに要求した場合に限られる。そなたとは視点が異なることを忘れてはならぬ。われらはそなたより遙かに高き視点より眺め、しかもそなたより遙かに鋭き洞察力をもって眺めている。故に、人間の無知と愚かさより出た要求は拒否せざるを得ぬことがしばしばある。が、しかし、そうした正当な理由によりてわれらが拒否して来たものは、要求に応じて提供せる証拠に比べれば九牛の一毛に過ぎぬ。その証拠は地球に属さぬエネルギーの存在、慈悲深く崇高にして尊き霊力の存在を証し、それが他ならぬ神の御力であることを証すに十分である。それほどの証を与えられ、それほどまで威力を見せつけられてきた霊力をそなたは信じようとせず、且つまた、われらの身元についての言説を真剣に疑る。どうやらそなたにとりては、そなたがこれまで崇めて来た尊き歴史上の人物が、神の使徒をもって任ずる者の指揮のもとに人類の命運の改善を旗印として働いていることが余ほど引っ掛かるのであろう。そこでそなたは拒絶し、無知からとは言え、無礼にもわれらを詐称者である――少なくともそうではなかろうかと疑い、口先でごまかしつつ善行ぶったことをしているのであると批難する。が、そう批判しつつもそなたはわれらが詐称すべき理由を何ら見出し得ず、神のほかに帰すべき源も見出し得ず、慈悲のほかにわれらが地上に派遣されし理由を見出し得ず、人間にとりての不滅の福音以外にその目的を見出し得ずにいる。

そなたのそもそもの誤りはそこにある。われらもその点は譴責せざるを得ぬ。敢えて申すが、それはそなたにとってもはや“罪”とも言うべきものであり、これ以後その種の問題について関わりをもつことはわれらはご免蒙る。さような視点より要求する証は提供するつもりはない。もはやわれらはこれより一歩も譲歩できぬぎりぎりの限界に来ている。これまで披露せしものをそなたが侮(あなど)るのは構わぬが、それによりて危害を蒙るのはそなた自身に他ならぬことを警告しておく。過ぎ来し方をよくよく吟味し、その教訓に思いを寄せ、証拠の価値を検討し、かりそめにも、これほどの教訓とこれほどの量の証拠をただの幻想として片付けることのなきよう警告しておく。

今はこれ以上は述べぬ。ともかくわれらとしては、そなたの如き判断を下されることだけはご免蒙る。われらは当初、われらの霊的教訓の受信者としてそなたを最適任者として選んだ。願わくば現在のその無知と愚かさから一刻も早く脱し、われらがそなたを選べし時のあの穏やかにして真実のそなたに立ち戻られんことを希望する。われらのその願いを、そなたに宿る能力と率直さを以て検討せねばならぬ。今後のそなたとの関わりもそれにて決定される。是非とも公正に、そして神に恥じぬ態度にて判断されたい。決して焦ってはならぬ。早まってはならぬ。事の重大性と、その決断のもつ責任の大きさを認識した上で決定されたく思う。

その間、新たな証を求めてはならぬ。求めても与えられぬであろう。他のサークルとの交わりも避けるよう警告する。あのような方法による通信は危険が伴うことを承知されたい。徒に迷いを増幅させ、それがわれらを一層手間どらせることになる。やむなく生ずる問題に関してはわれらより情報を提供しよう。また決して勧めもせぬが、われらのサークルでの交霊会は敢えて禁止もせぬ。但し、たとえ開いても新たなる証拠は出さぬ。開く以上は何らかの解明と調和のある交霊会の促進を目的としたものであらねばならぬ。

かつてわれらは、そなたにとって必要なのは休息と反省であると述べたことがある。この度も改めて同じことを述べておきたい。そなたのサークルが何としても会を催したいというのであれば、ある条件のもとで時には参加致そう。その条件については後に述べる。が、なるべくならば当分は会は催さぬが良い。かく申しても決してそなたを一人に放置しておくということではない。そなたは常に二重三重にも守られていると思うがよい。これにてひと先ずそなたのもとを去るが、祝福と祈りはそなたと共にあるであろう。

神の導きのあらんことを。

(†インペレーター)

シルバーバーチの霊訓  霊的新時代の到来

The Spirit Speaks
トニー・オーツセン(編) 近藤千雄(訳)


8章 真理を知らないでいることは暗闇の中を歩くことです

 半世紀以上にもわたって催された交霊会に出席するために、ロンドンのモーリス・バーバネルの私宅を訪れた人は、数も多ければ人物も多彩だった。海外旅行のハイライトとしてやってくる人もいれば、ロンドン市内から気軽に訪れる人もいた。

十一歳のジョン少年もその一人で、これが最初の交霊会への出席だった。幼いときに姉を失い、こんどは父親を不慮の事故で失って、母親と二人きりになったが、母親がシルバーバーチを通じて聞いていた二人からのメッセージをいつもジョンに語って聞かせていたので、十一歳の少年ながら、すでに死後の世界の存在を自然に信じるようになっていた。

まず、シルバーバーチの方からお父さんとお姉さんがここに来てますよと言い、二人ともジョン君と同じようにわくわくしている様子を告げると――

ジョン「ぼくは、お姉さんのことをよく知らないんです」


「でも、お姉さんの方はジョン君のことをよく知ってますよ」

ジョン「ぼくがまだ赤ちゃんの時に見たきりだと思います」


「いいえ、その赤ちゃんの時から、今のように大きくなるまで、ずっと見てきております。ジョン君には見えなくても、お姉さんの方からはジョン君がよく見えるんです。同じように目が二つあっても、ジョン君とは見え方がまったく違うのです。壁やドアを突き通して見ることができるんですから……」

ジョン「そうらしいですね。ぼく、知ってます」


「ジョン君のような目を持っていなくても、よく見えるんです。霊の目で見るのです。霊の目で見ると、はるか遠い先まで見えます」

ジョン「お姉さんは今年でいくつになったのですか」


「それはとても難しい質問ですね。なぜ難しいかを説明しましょう。わたしたち霊の成長のしかたは、ジョン君たちとは違うのです。誕生日というのがないのです。年齢(とし)が一つ増えた、二歳になった、というような言い方はしないのです。そういう成長のしかたをするのではなく、霊的に成長するのです。言い方をかえると、完全(パーフェクト)へ向けて成長するのです」

ジョン「パーフェクトというのは何ですか」


「パーフェクトというのは、魂の中のすべてのものが発揮されて、欠点も弱点もない、一点非のうちどころのない状態です。それがパーフェクトです」

ジョン「言いかえれば、ピースですか(※)」


※――peace(ピース)には戦争の反対の平和という一般的な意味以外に、日本語で表現できない精神的な意味がいくつかある。が、十一歳の少年がそう難しい意味で使うはずはないし、さりとて平和でもないので、原語のままにしておいた。


「そうです。パーフェクトになればピースが得られます。しかし実をいうと、“これがパーフェクトです”と言えるものは存在しないのです。どこまで行っても、それは永遠に続く過程の一つの段階にすぎないのです。いつまでも続くのです。終わりというものがないのです」

ジョン「でも、パーフェクトに手が届いたら、それが終わりとなるはずです」


「パーフェクトには手が届かないのです。いつまでも続くのです。これは、ジョン君には想像できないでしょうね? でも、ほんとにそうなのです。霊的なことには始まりも終わりもないのです。ずっと存在してきて、これからも休みなく向上していくのです。ジョン君のお姉さんも大きくなっていますが、地上のように身体(からだ)が大きくなったのではなくて、精神と霊とが大きくなったのです。成熟したのです。内部にあったものが開発されたのです。発達したのです。でも、身体のことではありませんよ。だから、いくつになったかは地上のことだけで、こちらでは言えないのです。

そんなことよりも、ジョン君に知ってほしいことは、もうわかってきたでしょうけど、お姉さんとお父さんはいつも側(そば)にいてくれているということです。これは、まだまだ知らない人が多い、大切な秘密です。いつもいっしょにいてくれているのです。ジョン君を愛し、力になってあげたいと思っているからです。

このことは、人に話しても信じてくれませんよね? みんな目に見えないものは存在しないと思っているからです。このことを知らないために、地上では多くの悲しみが生じております。理解すれば“死”を悲しまなくなります。死ぬことは悲劇ではないからです。あとに残された家族にとっては悲劇となることはあっても、死んだ本人にとっては、少しも悲しいことではありません。新しい世界への誕生なのです。まったく新しい生活の場へ向上して行くことなのですから……。ジョン君もそのことをしっかりと理解してくださいね。ジョン君は眠っている時にお姉さんに会ったことがあるので、少しは知っているでしょ?」

ジョン「今この目で見てみたいです」


「目を閉じれば見えることがあると思いますよ」

ジョン「この部屋にいる人が見えてるようにですか」


「まったく同じではありません。さっきも言ったように“霊の目”で見るのです。霊の世界のものは肉眼では見えません。霊の世界の音も、肉体の耳では聞こえません。

今お父さんが、とてもうれしいとおっしゃってますよ。もちろんお父さんは、ジョン君のことは何でも知っています。いつも面倒をみていて、ジョン君が正しい道からそれないように導いてくれているのですから……」

ジョン「ぼくに代わって、礼を言ってくださいね」


「今の言葉はちゃんとお父さんに聞こえてますよ。ジョン君にはまだちょっと理解するのは無理かな? でも、ジョン君がしゃべることも、みんなお父さんにはわかるのです。フラッシュとなってお父さんのところに届くのです」

ジョン「どんなフラッシュですか」


「ジョン君が何かを考えるたびに、小さな光が出るのです」

ジョン「どんな光ですか。地上の光と同じですか。ぼくたちの目には見えないのでしょうけど、マッチをすった時に出るフラッシュのようなものですか」


「いえ、いえ、そんなんじゃなくて、小さな、色のついた明かりです。ローソクの明かりに似ています。それにもいろんな色があるのです。考えの中身によって、みんな色が違うのです。地上の人間の思念は、そのように色彩となってこちらへ届くのです。

わたしたちには人間は色彩のかたまりとなって映ります。いろんな色彩をもった一つのかたまりです。訓練のできた人なら、その色彩の一つ一つの意味を読み取ることができます。ということは、隠しごとはできないということです。その色彩が、その人の考えていること、欲しがっているもの、そのほか何もかも教えてくれます」

ジョン「スピリチュアリズムについて知ると、どういう得をするのでしょうか」


「知識はすべて大切です。何かを知れば、知らないでいた時より、その分だけ得(とく)をします。真理を知らないでいることは、暗闇の中を歩くことです。ジョン君はどっちの道を歩きたいですか」

ジョン「光の中です」


「でしたら、少しでも多くの真理を知らなくてはいけません。知識は大切な財産です。なぜなら、生きるための知恵は知識から生まれるからです。判断力が生まれるからです。知識が少ないということは、持ち物が少ないということです。わかりますね?

ジョン君は今、地球という世界に住んでいます。自分では地球は広いと思っても、宇宙全体からみれば、ほんのひとかけらほどの、小さな世界です。でも、その地球上に生まれたということは、その地球上の知識をできるだけ多く知りなさいということなのです。それは、次の世界での生活にそなえるためです。

さて、スピリチュアリズムのことですが、人生の目的は何なのかを知ることは、とても大切なことなのです。なぜなら、人生の目的を知らないということは、何のために生きているかを知らずに生きていることになるからです。そうでしょ? ジョン君のお母さんは前よりずっと幸せです。なぜかというと、亡くなったお父さんやお姉さんのことについて、正しい知識を得たからです。そう思いませんか」

ジョン「そう思います。前よりも助けられることが多いです」


「ほら、ジョン君の質問に対する答えがそこにあるでしょ? さて次の質問は?」

ジョン「地上の人間が発明するものについて、霊の世界の人たちはどう思っていますか。たとえば原爆のことなんかについて……」


「これは大きな質問をされましたね。地上の人たちがどう考えているかは知りませんが、わたしたちが考えていることを正直に申しましょう。

地上の科学者は、戦争のための実験と研究にはっぱをかけられて、その結果として原子エネルギーという秘密を発見しました。そしてそれを爆弾に使用しました。しかし本当は、その秘密は人類が精神的・霊的にもっと成長して、それを正しいことに使えるようになってから発見すべきだったのです。もうあと百年か二百年のちに発見しておれば、地上人類も進歩していて、その危険な秘密の扱い方に手落ちがなかったことでしょう。

今の人類は、まだまだうっかりミスの危険性があります。原子エネルギーは益にも害にもなるものを秘めているからです。ですから、今の質問に対する答えは、地上人類が精神的・霊的にどこまで成長するかにかかっている、ということになります。わかりますか」

ジョン「最後におっしゃったことがよくわかりません」


「では、説明のしかたを変えてみましょう。原子エネルギーの発見は、時期が早すぎたということです。人類全体として、まだ自分たちが発見したものについて正しく理解する用意ができていなかったために、それが破壊の目的のために利用されてしまったのです。もし十分な理解ができていたら、初めから有効な目的のために利用されていたことでしょう。

そこで最初の質問に戻りますが、もしも地上の科学者のすべてが正しい知識、霊的なことについての正しい知識をもっていれば、そうした問題について悩むこともなかったことでしょう。出てくる答えは決まっているからです。霊的な理解ができていれば、その発見のもつ価値を認識して、その応用は人類の福祉のためという答えしか出てこないからです」

ジョン「それが本当にどんなものであるかがわかったら、正しい道に使うはずです」


「その通りです。自分の発明したものの取り扱いに悩むということは、まだ霊的理解力ができていないということです」

ジョン「幽霊と霊とは、どう違うのでしょうか」


「これはとてもいい質問ですよ。幽霊も霊の一種です。が、霊が幽霊になってくれては困るのです。地上の人たちが幽霊と呼んでいるのは、地上生活がとても惨(みじ)めだったために、いつまでも地上の雰囲気から抜け出られないでいる霊が姿を見せた場合か、それとも、よほどのことがあって強い憎しみや恨みを抱いたその念がずっと残っていて、それが何かの拍子に、その霊の姿となって見える場合の、いずれかです。

幽霊さわぎの原因は、大てい最初に述べたタイプ、つまり、地上世界から抜け出られない霊のしわざである場合が多いようです。死んで地上を去っているのに、地上で送った生活、自分の欲望しか考えなかった生活が、その霊を縛りつけるのです」

ジョン「もう質問はありません」


「以上のわたしの解答に、ジョン君は何点をつけてくれますか」

ジョン「ぼく自身がその答えがわからなかったんですから……」


「わたしの答えが正しいか、間違っているか、ジョン君にはわからない――よろしい! わからなくてもかまいません。大切なのは次のことです。

ジョン君は地上の身近な人たちによる愛情で包まれているだけでなく、わたしたち霊の世界の者からの大きな愛情によっても包まれているということです。目には見えなくても、ちゃんと存在しているのです。何か困ったことがあったら、静かにして、わたしか、お父さんか、お姉さんか、誰でもいいですから、心に念じてください。きっとその念が通じて、援助にまいります」

別の日の交霊会で、同じ原爆の問題が取り上げられ、次のような質問が出された。

「国家が、そして人類全体が、原爆の恐怖に対処するにはどうすればよいでしょうか」


「問題のそもそもの根元は、人間生活が霊的原理に支配されずに、明日への不安と貪(どん)欲、妬(ねた)みと利己主義と権勢欲によって支配されていることにあります。残念ながら、お互いに扶(たす)け合い、協調と平和の中で暮らしたいという願望は見られず、自分の国を他国より優位に立たせ、他の階層の者を犠牲にしてでも自分の階層を豊かにしようとする願望が支配しております。

すべての制度が、相も変わらず、唯物主義の思想を土台としております。唯物主義という言葉は、今日ではかなり影をひそめてきているかも知れませんが、実質的には変わっておりません。誰が何と言おうが、この世はやはりカネと地位と人種が物を言うのだ、と考えております。そして、それを土台として、すべての制度をこしらえようとします。永遠の実在が無視されております。人生のすべてを目で見、耳で聞き、手で触れ、舌で味わえる範囲の、つまり、たった五つの感覚で得られる、ほんの僅かな体験でもって判断しようとしています。

しかし、生命は物質を超えたものであり、人間は土くれやチリだけでできているのではありません。化学・医学・原子、こうしたもので理解しようとしても無駄です。生命の謎は、科学の実験室の中で解明される性質のものではありません。魂をメスで切り裂いたり、化学的手法で分析したりすることはできません。なのに、物質界の大半の人間は、霊的実在から完全に切り離された生活を営んでおります。物質こそ生命と思い込んで、最も大切な事実、全生命の存在を可能ならしめているところの根元を無視しております。

地上の全生命は、“霊”であるがゆえに存在しているのです。あなたという存在は“霊”に依存しているのです。実在は物質の中にあるのではありません。その物的身体の中には発見できません。存在のタネは身体器官の中を探しても見つかりません。あなた方は今の時点において、立派に霊的存在なのです。死んでこちらへ来てから霊的なものを身につけるのではありません。母胎に宿った瞬間から(物的身体をたずさえた)霊的存在であり、どうもがいてみても、あなたを生かしめている霊的実在から離れることはできません。地上の全生命は霊のおかげで存在しているのです。なぜなら、生命とはすなわち霊であり、霊とはすなわち生命だからです。

死人が生き返ってもなお信じようとしない人は別として、その真理を人類に説き、聞く耳をもつ者に受け入れられるように、何らかの証拠を提供することがわたしたちの使命の大切な一環なのです。人間が本来は霊的存在であるという事実の認識が人間生活において支配的要素とならないかぎり、不安のタネは尽きないでしょう。今日は原爆が不安のタネですが、明日はそれよりもっと恐ろしい、途方もないものとなるでしょう。

が、地上の永い歴史を見れば、力による圧政はいずれ挫折することは明らかです。独裁的政治は幾度か生まれ、猛威をふるい、そして消滅していきました。独裁者が永遠に王座に君臨することは有り得ないのです。霊は絶対であり天与のものである以上、はじめは抑圧されても、いつかはその生得権を主張するようになるのです。

魂の自由性(※1)を永遠に束縛することはできません。魂の自在性(※2)も永遠に拘束し続けることはできません。自由性と自在性は、ともに魂が決して失ってはならない大切な条件です。人間はパンのみで生きているのではありません。物的存在を超えたものなのです。精神と魂とをもつ霊なのです。人間的知性ではその果てを知ることのできない巨大な宇宙の中での、千変万化の生命現象の根元的要素である霊と、まったく同じ、不可欠の一部なのです。


※1――freedom 外部からの束縛・強制がないという意味での自由。


※2――liberty 心に囚(とら)われがないという意味での自由。


以上のような真理が正しく理解されれば、すべての恐怖と不安は消滅するはずです。来る日も来る日も煩悶と恐れを抱き、明日はどうなるのかと案じながら生きることがなくなるでしょう。霊的な生得権を主張するようになるのです。霊は本来、自由の陽光の中で生きるべく意図されているからです。内部の霊的属性を存分に発揮すべきなのです。

永遠なる存在である霊が拘束され、閉じ込められ、制約され続けることは有り得ないのです。いつかは束縛を突き破り、暗闇の中で生きることを余儀なくさせてきた障害のすべてを排除していきます。正しい知識が王座に君臨し、無知が逃走してしまえば、もはや恐怖心に駆られることもなくなるでしょう。

ですから、ご質問に対する答えは、とにもかくにも、霊的知識を広めることです。すべての者が霊的知識を手にすれば、きっとその中から、その知識がもたらす責務を買って出る者が出てくることでしょう。不安のタネの尽きない世界に平和(やすらぎ)を招来するためには、霊的真理、視野の転換、霊的摂理の実践をおいて、他に手段は有り得ません。

ストレスと難問の尽きない時代にあっては、正しい知識を手にした者は、“真理の使節”としての自覚をもたねばなりません。残念ながら、豊かな知識を手にし、悲しみの中で大いなる慰めを得た人が、その本当の意義を取り損ねていることがあります。

霊媒能力は神聖なものです。いい加減な気持ちでたずさわってはならない仕事なのです。ところが不幸にして、大半といってよい霊媒が自分の能力を神聖なものとは自覚せず、苦しむ者、弱き者、困り果てている人たちのために、営利を度外視してわが身を犠牲にするというところまで行っておりません。

また、真理の啓示を受けた者――長いあいだ取り囲まれていた暗闇を突き破って、目もくらまんばかりの真理の光に照らされて目覚めたはずの人間の中にさえ、往々にして我欲が先行して、滅私の精神が忘れられていくものです。まだまだ浄化が必要です。まだまだ精進が足りません。まだまだ霊的再生が必要です。

真理普及の仕事を託された者にわたしから申し上げたいのは、現在のわが身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純粋無垢の輝きを失いかけてはいないか、今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか、時の流れとともに煤(すす)けてきた豊かな人生観の煤払いをする必要はないか……そう反省してみることです。

霊力の地上へのいっそうの顕現の道具として、おのれの全生活を捧げたいという熱意にもう一度燃えていただきたいのです」

祈り


ではお終いに、皆さんとともに、調和と愛の力によって可能なかぎり波長を高め、心配事や悩み事などの雑念を払い、内奥の魂を顕現せしめ、全存在の創造主、全創造物の統治者にあらせられる大霊に近づき、その尊き力と栄光による祝福を賜るべく、お祈りいたしましょう。

ああ、真白き大霊よ。あなたの子であり、あなたに似せて造られているわたしどもは、ささやかな叡智の蓄えに少しでも多くを加えるべく、敬虔さと真摯さと誠意とをもって、あなたに近づかんとしているところでございます。

これまでに学んだ知識は、あなたについての誤った認識を改めさせ、無限なる霊であるあなたに一層近づかせてくれました。あなたの霊妙不可思議な摂理が、あなたがこしらえられたこの宇宙に存在する生きとし生けるものすべてを制御し、規制し、維持しているのでございます。

あらゆる存在が、あらゆる生きものが、あらゆる動物が、あらゆる小鳥が、自然界のあらゆる生命が、あなたの摂理の恒常性と正確さに賛嘆の敬意を表しております。この果てしなき宇宙の全存在に完璧な配剤がなされているからでございます。自然界の全側面が、その一つ一つの動きに至るまで経綸している自然法則の命令にしたがって、調和とリズムをもって動いているのでございます。

狂いなき軌道にそって回る恒星、地軸上を自転しつつ公転をくり返す地球、規則正しく巡りくる四季、野菜・果物・花・樹木等々の植物、そしてあなたの神性をミニチュアの形で宿している子等の活動、こうしたものはすべて、荘厳なる全大宇宙を支えるその崇高なる力の発現にほかなりません。

それと同じ力の発現を物質界を超越した高き次元の境涯において見届けてきたわたしどもは、時の経過とともに、賛嘆の念が薄れるどころか、ますます強烈さを増し、この宇宙的大機構の中にあってわれわれなりに貢献せねばという気持ちを、畏怖の念とともに抱くのでございます。

そこでわたしどもは、こうした教訓を説き、範を垂れ、知識を広めることによって、聞く耳をもつ者、受け入れる用意のある人々に永遠不滅の真理を届け、彼らを一層あなたに近づかせ、また互いに近づかせ、光輝と威厳と尊厳と気高さの中に生きることを可能ならしめたいのでございます。真実の自我に目覚めた者は、ぜひそうあらねばならないのです。

かくしてわたしどもは、無知と頑迷と憎しみを生み出す暗黒を駆逐し、混乱と無秩序、敵意と貪欲を追い払い、破滅へと導く利己的物質万能主義を排除して、愛が支配し霊的真理が息づく平和の中で暮らせる地上天国を招来するために、微力を捧げる所存でございます。

Wednesday, March 11, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

  The Spirit Teachings

19節

本節の内容地上人類としての宗教的生活の理想
神は摂理としての働きによってのみ知るもの
未来の不用意な詮索は禁物
神と自己と同胞に対する責務
満足は堕落への第一歩
積極的活動と正しい習慣の生活
身と心の宗教


〔繰り返し反論して来た問題――これまで再三言及して来たもの――が八月三十一日になってようやく本格的な回答を得た。〕


これまでにも言及しながら本格的に扱わずにおいた問題につきて述べたく思う。そなたはわれらの説く教義と宗教的体系とが曖昧で取り止めなく、実体が感じられぬという主張を固持し、それを再三に亙って表明してきた。そなたの主張によればわれらの教説はいたずらに古来の信仰に動揺をもたらし、それに代わる新たなる合理的信仰を持ち合わせぬと言う。その点に関してはこれまでも散発的には述べることはあったが、それらが大衆の中に根づいてくれることを望む宗教を総合的に述べたことはなかった。それをこれより可能なかぎり述べることとする。

まずわれらは全創造物の指揮者であり、審判者であるところの宇宙神――永遠の静寂の中に君臨する全知全能の支配者から説き始めるとしよう。その至高の尊厳の前にわれらは厳粛なる崇敬の念をもって跪(ひざまず)くものである。その御姿を拝したことはない。また御前(おんまえ)に今すぐ近づこうなどとも思わぬ。至純至高にして完全無欠なる神の聖域に至るまでには、地上界の時で数えて何百万年、何億年、何百億年も必要とすることであろう。それは最早や限りある数字では表わせぬであろう。

しかし、たとえ拝したことはなくとも、われらはその御業(みわざ)を通じて神の奥知れぬ完璧さをますます認識する。その力、その叡智、その優しさ、その愛の偉大さを知るばかりである。それはそなたには叶わぬことであるが、われらは無数の方法にてその存在を認識することを得ている。地上という低き界層には届かぬ無数の形で認識する。哀れにも人間はその神の属性を独断し、愚かにも人間と同じ形体を具えた神を想像しているが、われらはその威力を愛と叡智に満ちた普遍的知性として理解し感得している。われらとの繋がりの中に優しさと愛を感得するのである。

過去を振り返れば、慈悲と思いやりに満ち溢れていることを知る。現在にも愛と優しさに満ちた考慮が払われている。未来は……これはわれらは余計な憶測はせぬ。これまでに身をもって味わえる力と愛の御手に全てを託す。詮索好きな人間が好んでするが如き、己の乏しき知性をもって未来を描き、一歩進むごとに訂正する愚は犯さぬ。神への信頼が余りに実感あふれるものであるが故に、敢えて思案をめぐらす必要を感じぬのである。われらは神の為に生き、神に向かいて生きていく。神の意志を知り、それを実践せんとする。そうすることが、己自身のみならず、全ての創造物に対し、なにがしかの貢献をすることになると信ずるからである。またそうすることが神に対する人間としての当然の敬意を表明する所以(ゆえん)であり、神が嘉納される唯一の献上物なのである。われらは神を敬愛する。神を崇拝する。神を敬慕する。神に絶対的に従う。が、神の御計画に疑念を挟み、あるいは神秘を覗き見するが如き無礼はせぬ。

次に人間についてであるが、われらは未だその知るところの全てを語ることを許されておらぬ。いたずらに好奇心を満足させることも、あるいは、精神を惑わせることにしかならぬ知識を明かすことも許されておらぬのである。人間の霊性の起源と宿命――いずこより来りいずこへ行くのか――については、いずれその全てを語るべき時期が到来することを信ずるに留めておいて貰いたい。差し当たりては神学が事細かく語り広く受け入れられているところのアダムとイブの堕罪の物語は根拠なき作り話であることを知られたい。恐らくそなたらキリスト者においても、これにまともな思考を巡らせた者ならばそのような伝説に理性がついて行けぬのが正直な事実であろう。差し当たりては人間が物質をまとえる霊魂であることを認識し、支配する神の法則に従いて進歩していくことこそが地上での幸せと死後の向上を導くことを理解すべく努力することである。遙か遠く高き世界のこと――洗練され浄化され尽くせる霊のみが入ることを許される天界のことは、ひとまず脇へ置くがよい。その秘奥は限りある人間の目には見ることを得ぬ。天界への門扉は聖なる神霊にのみ開かれる。そして、いつの日か十分なる試練と進化の暁に、そなたもその列に加えられる日もきっと来ることを信ずればそれでよい。

それよりも今のそなたには、地上における人間としての義務と仕事について語ることの方が重要であろう。人間はそなたも知る如く一時期を肉体に宿れる“霊魂”なのである。霊体を具えた霊魂であり、その霊体は肉体の死後もなお生き続ける。そのことにつきては聖書でも述べられている。仔細の点には誤りも見られるが、一応正しいと見てよかろう。この霊体を地上という試練の場において発達させ、死後の生活に備えねばならぬ。死後の生活は、そなたの知性の届く限りにおいて、無限である。もっとも、そなたには無限の真の意味は理解できまい。差し当たりてそなたの存在が永続すること、そして肉体の死後にも知性が存続することを述べるに留めておこう。

その存在は、わずかな期間を地上の肉体に宿りて生活するに過ぎぬとは言え、意識を有する責任ある存在であり、果たすべき責任と義務があり、各種の才能を持ち、進歩もすれば退歩もする可能性を有するものと見なしている。肉体に宿るとはいえ、善と悪とを判断する道義心――往々にして粗末であり未熟ではあるが――を先天的に有する。各自その発達に要するさまざまな機会と段階的試練と鍛練の場を与えられ、かつ又、要請があり次第与えられる援助の手段も用意されている。こうした事実についてはすでに述べた。こののちにも更に述べることもあろうが、取り敢えず地上という試練の場における人間の義務について述べたく思う。

人間は責任ある霊的存在として、自己と同胞と神に対する義務を有する。その昔、そなたらの先師たちはその時代の知識の及ぶかぎり、そして表現し得る能力の限りにおいて、霊的生活に適切なる道徳的規範を説いた。しかし彼らの知識の及ばぬところ、そしてまた彼らの伝え得ぬところにも、まだまだ広く深き真理の領域が存在する。霊が霊に及ぼす影響についても、今ようやく人間によりて理解され始めたところである。が、その事実により、人間の進化向上を促進せんとする勢力とこれを妨害せんとする勢力とが存在することを窺い知ることが出来るであろう。このことについては、こののち更に述べる機会もあろう。それはさておき、霊的存在としての人間の最高の義務は向上進化の一語――己に関する知識を始めとして霊的生長を促すあらゆる体験を積むことに要約されよう。次に、精神と知能を有する知的存在として考えた時の義務は教養の一語に要約されよう。一つの枠にかぎられぬ幅広き教養を積むことである。地上生活のためのみならず、死後にも役立つ永遠性を有する能力の開発のための教養活動である。そして肉体に宿れる一個の霊としての己に対する義務は、思念と言葉と行為における純粋の一語に要約されよう。以上の進歩と教養と純粋の三つの言葉の中に、霊的存在として、知的存在として、そしてまた肉体的存在としての人間の己に対するおよその義務が要約されていよう。

最後に、人間と神との関係について申せば、それは最も低き界層の者といえども“無始無終の光の泉”、“万物の創作者”であり“父”であるところの神に近づけるものであらねばならぬ。神を目の前にせる時の人間として相応しき態度は聖書において“天使もその翼もて顔を被う”と表現されているが、まさにその通りである。それは人間の霊に最も相応しき畏敬と崇拝の念を象徴しているのである。敬(うやま)い畏(おそ)れるのである。奴隷的恐怖心ではない。崇(あが)め拝(おが)むのであって、屈従的恐怖に身をすくめるのではない。神と人とを隔てる計り知れぬ距離と、その間を取りもつ天使の存在を意識し、人間はかりそめにも神の御前にすぐに侍(はべ)ることを求めてはならぬ。ましてや天使にしてなお知ることを得ぬ深き神秘を覗き込まんとする倣慢なる態度は控えねばならぬ。畏敬と崇拝と愛、これこそ神とのつながりにおいて人間の霊を美しく飾る特性である。

大略ではあるが、以上が自己と同胞と神に対する人間の義務である。枝葉の点については追って付け加えることになろうが、以上の中に人間が知識を広め、よき住民となり、全ての階層の人間の手本となるべき資質が述べられている。この通信、並びにこれまでの通信の中にパリサイ派の学者が重んじたところの儀式的ないし形式的義務についての叙述が見られぬのは、それはわれらがその必要性を認めぬからである。人間が物的存在である以上、物的行為も当然大切である。われらがその点について詳しく言及せぬのは、その重要性について敢えてわれらが述べずとも事足りていると観たからである。われらの中心的関心は霊性にある。全てを生み出すところの霊性である。その霊性さえ正しく発揮されれば、物的行為も自ずと正しく行なわれるものである。われらはこれまでそなたを一貫した原則のもとに扱って来た。それはそなたの関心を真の自己であるところの霊に向けさせ、全ての行為をその内的自我の発現として捉えさせることである。その霊性が地上を去ったのちの霊的生活の全てを決定づけるからである。そこに真の叡智が存する。全てを動かす霊、千変万化の大自然と人類の移り行く姿の底流に存在する生命の実相を知った時、そなたは真の叡智に動かされていると言えよう。現時点においてわれらがそなたに示し得る義務は以上の如きものであるが、次に、その義務を果たせる時と怠(おこた)れる時にもたらされる結果について述べねばならぬ。

自己の能力の限りにおいて正直に、そして真摯に、ひたすら義務を果たさんとして努力する時、その当然の報いとして生き甲斐と向上とが得られる。われらが敢えて向上を強調するのは、人間はともすれば向上の中にこそ霊は真の生き甲斐を見出すとの不変の真理を見失いがちだからである。これで佳しとの満足は真の魂にとっては後ろ向きの消極的幸福でしかない。魂は過ぎ去りしものの中に腰を下ろすことは許されぬ。過去はせいぜい未来の向上の刺激剤として振り返る価値しかない。過去を振り向く態度は満足の表われであり、未来へ向う態度は一層の向上を求める希望と期待の顕われである。満足感に浸り、それにて目的を成就したかに思うのは一種の妄想であり、そのとき魂は退歩の危機にある。霊的存在としての正しき姿勢は常により高き目標に向いて努力し続けることである。その絶え間なき向上の中にこそ真の幸せを見出す。これで終わりという時は来ぬ。決して来ぬ。絶対に来ぬ。

このことはそなたらが人生と呼ぶところの地上の一時期のみに限らぬ。生命の全存在に関しても言えることである。さよう。肉体に宿りて行なえる行為は肉体を棄てたのちの霊界の生活にも関わりを有する。その因果関係はそなたらが死と呼ぶところの境界には縛られぬ。それのみではない。霊界にて落ち着くところの最初の境涯は、地上の行為のもたらす結果によりて定まるのである。怠惰と不純の生活に浸りし霊は当然の成り行きとして、霊界にてそれ相応の境涯に落着き、積み重ねた悪癖からの浄化を目的とする試練の時期を迎えることになる。犯せる罪を悔恨と屈辱の中に償い、償うごとに浄化し、一歩また一歩と高き境涯へと向上していく。これが神の法を犯せる者に与えられる罰である。決して怒れる神が気まぐれに科する永遠の刑罰ではない。意識的生活の中に犯せる違反が招来する不可避の悔恨と自責の念の懲罰である。これは懲らしめのムチと言えよう。が、それは復讐に燃える神が打ち下ろす恨みのムチではない。愛の神がわが子にその過ちを悟らせんとして用意せる因果律の働きなのである。

同様に、善行の報いは天国における永遠の休息などという感覚的安逸ではない。神の玉座のまわりにて讃美歌三昧に耽ることでもない。悔い改めの叫び、あるいは信仰の告白によりて安易に得られる退屈きわまる白日夢の如き無為の生活でもない。義務を果たせる満足感、向上せる喜び、さらに向上する可能性を得たとの確信、神と同胞への一層の愛の実感、自己への正直と公明正大を保持し得たとの自信。こうした意識こそ善の報酬であり、それは努力した後に始めて味わえるものである。休息の喜びは働かずしては味わえぬ如く、食事の味は空腹なる者にしか味わえぬ如く、一杯の水の有難さは渇ける者にしか味わえぬ如く、そして我が家を目の前にせる時の胸の昂(たか)まりは久しく家を離れし者にして始めて味わえる如く、善の報酬は生活に刻苦し、人生の埃(ほこ)りにまみれ、真理に飢え、愛に渇ける者にして始めて真の味を賞美できるものである。怠惰なる感覚的満足はわれらの望むところではない。あくまでも全身全霊を込めて努力せるのちに漸く得られる心の満足であり、しかもそれは、すぐまた始まる次の向上進化へ向けての刺激剤でしかないのである。

以上に見られる如く、われらは人間を数々の果たすべき義務と数かぎりなき闘争の中を生き抜く一個の知的存在としてのみ扱ってきた。別の要素として人間には背後霊による援助があり、数々の霊的影響の問題もあるが、ここでその問題を取り挙げる必要性を認めぬ。取り敢えずそなたの視野に映りそなた自ら検討し得る範囲内の事柄に限って述べてきた。また、われらとしては罪なき神の御子、というよりは神との共同責任者としてのイエスに己の足らざるところを全て償わせるが如き、都合よき言説は説かぬ。一度の信仰告白によりて魔法の如く罪を消すと説く、かの贖罪説も説かぬ。卑しき邪悪なる魂も死の床にて懴悔すればイエスがその罪の全てを背負うことによりて立ちどころにして“選ばれし者”の仲間に列せられ、神の国へ召されるなどという説は到底認めるわけにはいかぬ。われらは、そのような卑屈にして愚劣なる想像の産物に類することは一切述べたことはない。援助はある。常に手近にあり、いつでも活用できる強力なる霊力が控えている。しかし、放蕩と貪慾と罪悪のかぎりを尽くし、物的満足を一滴残らず味わい尽くせる人間が、その最期の一瞬に聖者の一人として神の聖域に列せられんが為に自由に引き出せる、そのような都合よき徳の貯えなどはどこにも存在せぬ。臆病者が死を恐れ、良心の呵責が呼び起こす死後の苦しみに怯(おび)える余りに縋(すが)らんとする身代わりの犠牲など、どこにも存在せぬ。そのような卑劣なる目的のためには神の使者は訪れぬ。そのような者に慰めを与えに参る霊などおらぬ。万が一にも己の罪に気づき、後悔することがあれば、神の使者はその罪の重さに苦しむに任せるであろう。神の愛のムチを当てられるままに放置することであろう。何となれば、その苦しみを味わってこそ魂が目覚めるからである。然るに神学者はそのような者のために神は御子を遣わし、そして全ての罪を背負いて非業の死を遂げさせたのであると説く。それをもって最高の情けある処置であるとし、神の慈悲の最高の表現であると説く。

そのような作り話はわれらの知識の中には存在せぬ。徳の貯えは自分自ら一つ一つ刻苦勉励の中に積み重ねたるもの以外には存在せぬ。至福の境涯に到る道はかつて聖者たちが辿れる苦難の道と同じ道以外にはない。一瞬にして罪深き人間を聖者に変え、強(したた)かなる無頼漢、卑しむべき好色家、野獣にも比すべき物欲家に霊性を賦与し、洗練し、神の祝福を受けさせ、そなたらの言う天国に相応しき霊となす魔法の呪文など、われらは知らぬ。そのような冒涜的想像の産物はおよそわれらとは縁はない。

人間は一方においてそのような無知にして到底有り得ぬ空想をでっち上げながら、他方、彼らを取り巻く折角の霊的援助と加護には全く気づかずにいる。われらは人間自ら果たすべきことを人間に代わって果たす力は持ち合わせぬ。が、援助は出来る。慰めることは出来る。心の支えとなることは出来る。われらは神より命を受け、地上を含む数界の霊的教化に当たっている。時として余りにあくどく、余りに物質にかぶれ過ぎてわれらの霊力に感応せず、霊的なるものを求めようとせぬ霊に手こずり、あるいは愚弄されることもあるが、霊的援助の手は常に用意されており、真摯なる祈りは必ずやそれを引き寄せ、不断の交わりによりて結びつきを強化することが可能なのである。

ああ、何たる無知! 至聖、至純、至善なる霊が常に援助の手を差し延べんと待機しているものを、祈ることを疎かにするが故に、その霊との交わりを得ることが出来ぬのである。魂を神に近づける崇拝、そして天使を動かす祈り――この二つはいつでも実行可能な行為である。それを人間は疎かにし、来世への希望を身勝手なる信仰、教義、宣誓、身代わり等々、事実とは程遠き謂(いわ)れなき作り話に託している。

われらはそうした個々の信仰は意に介さぬ。何となれば、それは知識の広がりとともに、早晩改められていくものだからである。狂気の如き熱意をもって生涯守り抜いた教義も、肉体より解放されれば一言の不平を言う間もなくあっさりと打ち棄てられる。生涯抱き続けた天国への夢想も、霊界の光輝に圧倒されて雲散する。いかに誠意を込めて信じ、謙虚にそれを告白しようと、われらは信条にはさしてこだわらぬ。それよりもわれらは行為を重要視する。何を信じたるやは問わぬ。何を為せるやを問う。なぜなら人間の性格は行為と習性と気質によって形成され、それが霊性を決定づけていくものと理解するからである。そうした性格も長き苦難の過程を経てようやく改められるものであり、それ故にわれらは言葉より行いに、口先の告白よりも普段の業績に目を向けるのである。

われらの説く宗教は行為と習性の宗教であり、言葉と気まぐれなる信仰の宗教ではない。身体の宗教でもあり魂の宗教でもある。打算なき進歩性に富む真実の宗教である。その教えに終局というものはない。信奉者は数知れぬ年月をかけてひたすらに向上し、地上の垢を落とし、霊性を磨き、やがて磨き尽くされたる霊――苦しみと闘争と経験によりて磨き上げられたる霊――が、その純真無垢の姿にて神の足もとに跪(ひざまず)く。この宗教には怠惰も安逸も見出せぬ。霊の教育の基調は真摯と熱意である。そこに己の行為のもたらす結果からの逃避は見出せぬであろう。不可能なのである。罪科はそれ自らの中に罰を含むものだからである。また己の罪を背負わせる都合よき身代わりも見出せぬであろう。自らの背に負い、その重圧に自ら苦悶せねばならぬからである。さらにまた、われらの宗教には、これさえ信ずれば堕落せる生活をごまかし、これさえ信ずれば魂の汚れを被い隠せるなどという卑怯な期待をもたせて動物的貪慾と利己主義を煽るが如き要素も、いずこにも見出せぬであろう。われらが説く教義はあくまでも行為と習性であり、口先のみの教義や信条ではない。そのような気紛れなる隠蔽物は死と共に一気に剥ぎ取られ、汚れた生活が白日のもとに曝され、魂はそのみすぼらしき姿を衆目に曝す。またわれらの宗教には、そのうち神は情けを垂れ全ての罪に恩赦を下さるであろうなどという、ケチくさきお情けを求める余地などさらさら見出せぬであろう。そのような人間的想像は真理の光の前にあっけなく存在を失う。神の情けは、それを受けるに相応しき者のみが受ける。言い換えるならば、悔恨と償い、浄化と誠心誠意、真理と進化がおのずとその報酬をもたらすことであろう。そこにはもはや情けも哀れみも必要とせぬであろう。

以上がわれらの説く霊と肉体の宗教である。神の真理の宗教である。そして人類がそれを理解する日もようやく近づきつつある。

(†インペレーター)

シルバーバーチの霊訓  霊的新時代の到来

The Spirit Speaks
トニー・オーツセン(編) 近藤千雄(訳)




7章 光の存在を知るのは闇があるからです

    映画女優のマール・オベロンには婚約者(フィアンセ)がいた。そのフィアンセを空港で見送った数秒後に、オベロンの人生に悲劇が訪れた。フィアンセを乗せた飛行機が爆発炎上したのである。事故の知らせを聞いて、当然のことながらオベロンは芒然自失の状態に陥った。

その後間もなく、ふとしたきっかけからハンネン・スワッファーのMy Greatest Story(私の人生最大の物語)という本を手に入れ、その中に引用されているシルバーバーチの霊言を読んで心を動かされた。たった一節の言葉に不思議な感動を覚えたのだった。

オベロンはさっそくスワッファーを訪ねて、できればシルバーバーチという霊のお話を直接聞きたいのですが、とお願いした。その要請をスワッファーから聞いたシルバーバーチは快く承諾した。そして、事故からまだ幾日も経たないうちに、交霊会に出席するチャンスを得た。

その後、さらに幾人かの霊媒も訪ねてフィアンセの存在を確信したオベロンは、その霊的知識のおかげで悲しみのどん底から脱け出ることができた。

では、最初にシルバーバーチの交霊会に出席した時の様子を紹介しよう。当日、スワッファーが交霊会の部屋(バーバネルの書斎)へオベロンを案内し、まずシルバーバーチにこう紹介した。

「ご承知のとおり、この方は大変な悲劇を体験なさったばかりです。非凡な忍耐力をもって耐えていらっしゃいますが、本日はあなたのご指導を仰ぎに来られました」

するとシルバーバーチがオベロンに向かって――


「あなたは本当に勇気のある方ですね。でも、勇気だけではダメです。知識が大きな力になってくれることがあります。ぜひ理解していただきたいのは、大切な知識、大きな悟りというものは、悲しみと苦しみという魂の試練を通してはじめて得られるものだということです。人生というものは、この世だけでなく、あなた方が“あの世”と呼んでおられる世界においても、一側面のみ、一色のみでは成り立たないということです。光と影の両面がなくてはならないのです。

光の存在を知るのは闇があるからです。暗闇がなければ光もありません。光ばかりでは光でなくなり、闇ばかりでは闇でなくなります。同じように、困難と悲しみを通してはじめて、魂が自我に目覚めていくのです。もちろん、それは容易なことではありません。とても辛いことです。でも、それが霊としての永遠の身支度をすることになるのです。なぜなら、地上生活のそもそもの目的が、地上を去ったあとに待ちうける次の段階の生活にそなえて、それに必要な霊的成長と才能とを身につけていくことだからです。

これまでにたどられた道も、決してラクではありませんでした。山あり、谷あり、そして、結婚という最高の幸せを目前にしながら、それが無慈悲にも一気に押し流されてしまいました。

あなたは何事も得心がいくまでは承知しないかたです。生命と愛は果たして死後にも続くものなのか、それとも死をもってすべてが終わりとなるか、それを一点の疑問の余地もないまで得心しないと気が済まないでしょう。そして今、あなたは死がすべての終わりでないことを証明するのに十分なものを手にされました。

ですが、わたしが察するところ、あなたはまだ本当の得心を与えてくれる事実のすべてを手にしたとは思っていらっしゃらない。そうでしょ?」

オベロン「おっしゃる通りです」


「こういうふうに理解なさることです――これがわたしにできる最大のアドバイスです――われわれ生あるものは、すべて、まず第一に霊的存在であるということです。霊であるからこそ生きているのです。霊こそ存在の根元なのです。生きとし生けるものが呼吸し、動き、意識を働かせるのは、霊であるからこそなのです。その霊があなた方のいう神であり、わたしたちのいう大霊なのです。その霊の一部、つまり大霊の一部が物質に宿って、次の段階の生活にふさわしい力を身につけるために地上体験を積みます。それはちょうど、子供が学校へ通って、卒業後の人生にそなえるのと同じです。

さて、あなたも、他のすべての人間と同じく、一個の霊的存在です。物的なものはそのうち色あせて朽ち果てますが、霊的なものは永遠であり、いつまでも残り続けます。物質の上に築かれたものは永続きしません。物質は殻であり、入れ物にすぎず、実体ではないからです。地上の人間の大半が幻影(まぼろし)を崇拝しております。キツネ火を追いかけているようなものです。真実のものを発見できずにいます。こうでもない、ああでもないの連続です。本来の自分を見出せずにいます。

大霊が愛と慈悲の心からこしらえた宇宙の目的・計画・機構の中の一時的な存在として人生をとらえ、自分もその中での不可欠の一部であるとの理解がいけば、たとえ身にふりかかる体験の一つ一つの意義はわからなくても、究極においては全てが永遠の機構の中に組み込まれているのだ、という確信は得られます。

霊にかかわるものは決して失われません。死は消滅ではありません。霊が別の世界へ解き放たれるための手段にすぎません。誕生が地上生活へ入るための手段であれば、死は地上生活から出るための手段ということができます。あなたはその肉体ではありません。その頭でも、目でも、鼻でも、手足でも、筋肉でもありません。つまり、その生物的集合体ではないということです。

それはあなた自身ではありません。あなたという別個の霊的存在が、地上で自我を表現していくための器官にすぎません。それが地上から消滅したあとも、あなたという霊は存在し続けます。

死が訪れると、霊はそれまでに身につけたものすべて――あなたを他と異なる存在であらしめている個性的所有物のすべて――をたずさえて、霊界へまいります。意識・能力・特質・習性・性癖、さらには愛する力、愛情と友情と同胞精神を発揮する力、こうしたものはすべて霊的属性であり、霊的であるからこそ存続するのです。

真にあなたのものは失われないのです。真にあなたの属性となっているものは失われないのです。そのことをあなたが理解できるできないにかかわらず、そしてまた確かにその真相のすべてを理解することは容易ではありませんが、あなたが愛する人、そしてあなたを愛する人は、今なお生き続けております。得心がいかれましたか?」

オベロン「はい」


「物的なものはすべてお忘れになることです。実在ではないからです。実在は物的なものの中には存在しないのです」

オベロン「私のフィアンセは今ここへ来ておりますでしょうか」


「来ておられます。実は先週も来られて、霊媒を通じてあなたに話しかける練習をなさったのです(※)。しかし、これはそう簡単にいくものではないのです。ちゃんと話せるようになるには、大変な訓練がいるのです。でも、あきらめずに続けて出席なさっておれば、そのうち話せるようになるでしょう。ご想像がつくと思いますが、彼は今のところ、非常に感情的になっておられます。まさかと思った最期でしたから、感情的になるなという方が無理です。とても無理な話です」


※――オベロンがスワッファーに出席の申し込みをした時点から霊団側はフィアンセと連絡を取っていたことが、これでわかる。交霊会は毎週金曜日の夜に行われた。

オベロン「今どうしているのでしょう? どういうところにいるのでしょうか。元気なのでしょうか」

この質問に、シルバーバーチは司会のスワッファーの方を向いて、しみじみとした口調で――


「このたびの事故は、そちらとこちらの二人の人間にとって、よほどのショックだったようですな。まだ今のところ調整ができておりません。あれだけの事故であれば、無理もないでしょうね」と述べてから、改めてオベロンに向かって――


「わたしとしては、若いフィアンセが、あなたの身近にいらっしゃることをお教えすることが、精一杯あなたの力になってあげることです。彼は今のところ何もできずにおります。ただお側に立っておられるだけです。これから交信の要領を勉強しなくてはなりません。霊媒を通じてだけではありません。ふだんの生活において、考えや欲求や望みをあなたに伝えることもそうです。それは大変な技術を要することです。それができるまでは、ずっとお側に付き添っているだけでしょう。

あなたの方でも、心を平静に保つ努力をしなくてはいけません。それができるようになれば、彼があなたに与えたいと望み、そしてあなたが彼から得たいと望まれる援助や指導が、確かに届いていることを得心なさることでしょう。

よく知っておいていただきたいのは、そうした交信を伝えるバイブレーションはきわめて微妙なもので、感情によってすぐ乱されるということです。不安・ショック・悲しみといった念を出すと、たちまちあなたの周囲に重々しい雰囲気、交信の妨げとなる壁をこしらえます。

心の静寂を保てるようになれば、平静な雰囲気を発散することができるようになれば、内的な安らぎを得るようになれば、それが、わたしたちの世界から必要なものを受けるための最高の条件を用意したことになります。感情が錯乱している状態では、わたしたちも何の手出しもできません。受容性、受け身の姿勢、これが、わたしたちが人間に近づくための必須の条件です」

このあと、フィアンセについて幾つかプライベートな内容の話が交わされてから、シルバーバーチがこう述べた。


「あなたにとって理解しがたいのは、多分、あなたのフィアンセが今はこちらの世界へ来られ、あなたはそちらの世界にいるのに、精神的にはわたしよりもあなたの方が身近な存在だということでしょう。おわかりになりますか。彼にとっては、霊的なことよりも地上のことの方が気がかりなのです。問題は、彼が霊的なことについて何も知らずにこちらへ来たということです。一度も意識にのぼったことがなかったのです。

でも、今では、こうした形であなたが会いに来てくれることで、彼も、あなたが想像する以上に助かっております。大半の人間が死を最期と考え、こちらへ来てからも記憶の幻影の中でのみ暮らして、実在を知りません。その点あなたのフィアンセは、こうして最愛のあなたに近づくチャンスを与えられ、あなたも、まわりに悲しみの情の壁をこしらえずにすんでおられる。そのことを彼はとても感謝しておられますよ」

オベロン「死ぬ時は苦しがったのでしょうか」


「いえ、何も感じておられません。不意の出来事だったからです。事故のことはお聞きになられたのでしょ?」

オベロン「はい」


「一瞬の閃光のうちに終わりました」

スワッファー「この方もそういうふうに聞かされております」


「そうでした。本当にあっという間の出来事でした。それだけに、長い休養期間が必要なのです」

オベロン「どれくらい掛かるのでしょうか」


「そういうご質問には、お答えするのがとても難しいのです。と申しますのは、わたしたちの世界では、地上のように時間で計るということをしないのです。でも、どのみち普通の死に方をした人よりは長く掛かります。急激な死に方をした人はみな、ショックを伴っているからです。いつまでも続くわけではありませんが、ショックはショックです。もともと霊は、肉体からそういう離れ方をすべきではないからです。そこで調整が必要となるのです」

さらにプライベートなメッセージを聞かされたあと――

オベロン「彼は今しあわせと言えるでしょうか。大丈夫でしょうか」


「しあわせとは申せません。彼にとって霊界は精神的に居心地がよくないからです。地上に戻って、あなたといっしょになりたいという気持ちの方が強いのです。それだけに、あなたの精神的援助が必要ですし、彼自身の方でも自覚が必要です。これは過渡的な状態であり、彼の場合は大丈夫です。霊的な危害(※)が及ぶ心配がありませんし、そのうち調整がなされることでしょう。

宇宙を創造なさった大霊は、愛に満ちた存在です。わたしたち一人一人に存在を与えてくださったその愛の力を信頼して、何事もなるべくしてそうなっているのだということを知らなくてはなりません。今は理解できないことも、そのうち明らかになる機会が訪れます。決して口先で適当なことを言っているのではありません。現実にそうだから、そう申し上げているのです。

あなたはまだ人生を物質の目でごらんになっていますが、永遠なるものは、地上の尺度では正しい価値は計れません。そのうち正しい視野をお持ちになることでしょうが、本当に大事なもの――生命・愛・本当の自分、こうしたものはいつまでも存在し続けます。死は生命に対しても、愛に対しても、まったく無力なのです」


※――邪霊による妨害と誘惑のことで、愛の絆のある霊たちが出迎えてくれるのは、それを防ぐ意味もある。

別の日の交霊会で、英国のみならず海外でも活躍している古くからのスピリチュアリスト(氏名は公表されていない)が招待され、シルバーバーチは「霊的知識に早くから馴染まれ、その道をいちずに歩まれ、今や多くの啓示を授かる段階まで到達された人」として丁重にお迎えした。そしてこう語りかけた。


「思えば長い道のりでしたね。人生の節目が画期的な出来事によって織りなされております。しかし、それもすべて、一つの大きな計画のもとに、愛によって導かれていることに気づいていらっしゃいます。暗い影のように思えた出来事も、今から思えば計画の推進に不可欠の要素であったことをご存知です。あなたがご自分の責務を果たすことができたのも、あなた自身の霊の感じる衝動に暗黙のうちに従っておられたからです。

これより先も、その肉体を大地へお返しになるまでに課せられているあなたの仕事は、とても意義深いものです。これまで一つ一つ段階を追って多くの啓示に接してこられましたが、これから先も、さらに多くの啓示をお受けになられます。これまでは、その幾つかをおぼろげに垣間見てこられたのであり、光明のすべて、啓示のすべてが授けられたわけではありません。それを手にされるには、ゆっくりとした発達と霊的進化が必要です。わたしの言わんとしていることがおわかりでしょうか」

「よくわかります」


「これは一体どういう目的あってのことなのか――あなたはよくそう自問してこられましたね?」

「目的があることは感じ取れるのです。目的があること自体を疑ったことはありません。ただ、自分の歩んでいる道のほんの先だけでいいから、それを照らし出してくれる光が欲しいのです」


「あなたは“大人(おとな)の霊”です。地上へ来られたのはこの度が最初ではありません。それはわかっておられますか」

「そのことについては、ある種の自覚をもっております。ただ、今ここで触れるつもりはありませんが、それとは別の考えがあって、いつもそれとの葛藤が生じるのです」


「わたしにはその葛藤がよく理解できます。別に難しいことではありません。その肉体を通して働いている意識と、あなたの本来の自我である、より大きな意識との間の葛藤です。たわいないこの世的な雑念から離れて霊の力に満たされると、魂が本来の意識を取り戻して、日常の生活において五感の水際(みぎわ)に打ち寄せて、しきりに存在を認めてほしがっていた、より大きな自我との接触が得られます。

さきほどおっしゃった目的のことですが、実は霊の世界から地上圏へ引き返し、地上人類のために献身している霊の大軍を動かしている壮大な目的があるのです。無知の海に知識を投入すること、それが目的です。暗闇に迷う魂のために灯火(ともしび)をかかげ、道を見失った人々、悩める人々、安らぎを求めている人々に安息の港、聖なる逃避所の存在を教えてあげることです。

わたしたちを一つに団結させている大いなる目的です。宗教・民族・国家、その他ありとあらゆる相違を超越した大目的なのです。その目的の中にあって、あなたにもあなたなりの役目が担わされております。そして、これまで数多くの魂の力になってこられました」

「ご説明いただいて得心がいきました。お礼申し上げます」


「わたしたちがいつも直面させられる問題が二つあります。一つは、惰眠(だみん)をむさぼっている魂の目を覚まさせ、地上で為すべき仕事は地上で済ませるように指導すること。もう一つは、目覚めてくれたのはよいとして、まずは自分自身の修養から始めなければならないのに、それを忘れて心霊的な活動に夢中になる人間を抑制することです。大霊は決してお急ぎになりません。宇宙が消滅してしまうことは決してありません。摂理も決して変更になることはありません。じっくりと構え、これまでに啓示されたことは、これからも啓示されていくことがあるとの証明として受け止め、自分を導いてくれている愛の力は、自分が精一杯の努力を怠りさえしなければ、決して自分を見捨てることはないとの信念に燃えなくてはいけません」

この老スピリチュアリストは、今回の交霊に備えて三つの質問を用意していた。次にその問答を紹介しよう。

「私の信じるところによれば、人間は宇宙の創造主である全能の神の最高傑作であり、形態ならびに器官の組織は大宇宙のミクロ的表現であり、各個が完全な組織をそなえ、特殊な変異は生まれません。しかし一体、その各個の明確な個性、顔つきの違い、表情の違い、性向の違い、そのほか知性・身振り・声・態度・才能等の差異も含めた、一見して区別できる個性を決定づけている要素は何なのでしょうか」


「これは大変な問題ですね。まず、物質と霊、物質と精神とを混同なさらないでください。人間は、宇宙の自然法則にしたがって生きている三位一体の存在です。肉体は物的法則にしたがい、精神は精神的法則にしたがい、霊は霊的法則にしたがっており、この三者が互いに協調し合っております。こうして、法則の内側にも法則があることになり、時には矛盾しているかに思えても、その謎を解くカギさえ手にすれば、本質的には何の矛盾もないことがわかります。

法則のウラに法則があると同時に、一個の人間のさまざまな側面が交錯し融合し合って、つねに精神的・霊的・物的の三種のエネルギーの相互作用が営まれているのです。そこでは三者の明確な区別はなくなっております。肉体は遺伝的な生理法則にしたがっており、精神は霊の表現ではあっても、肉体の脳と五官によって規制されております。つまり霊の物質界での表現は、それを表現する媒体である肉体によって制約を受けるということです。かくして、そこに無数の変化と組み合わせが生じます。霊は肉体に影響を及ぼし、肉体もまた霊に影響を及ぼすからです。これでおわかりいただけましたでしょうか」

「だいぶわかってまいりました。これからの勉強に大いに役立つことと思います。では次の質問に移させていただきます。人間はその始源――全生命の根源から生まれてくるのですが、その根源からどういう段階をへてこの最低次元の物質界へ下降し、物的身体から分離したあと(死後)、こんどはどういう段階をへて向上し、最後に“無限なる存在”と再融合するのか、その辺のところをお教えいただけませんか」


「これもまた大きな問題ですね。でも、これは説明が困難です。霊的生命の究極の問題を、物的問題の理解のための言語で説明することは、とてもできません。霊的生命の無辺性を完全に説き明かす言語は存在しません。ただ端的に、人間は霊である、ただし大霊は人間ではない、という表現しかできません。

大霊とは、全存在の究極の始源です。万物の大原因であり、大建築家であり、王の中の王です。霊とは生命であり、生命とは霊です。霊として、人間は始まりも終わりもなく存在しています。それが個体としての存在を得るのは、地上にかぎって言えば、母胎に宿った時です。物的身体は霊に個体としての存在を与えるための道具であり、地上生活の目的はその個性を発揮させることにあります。

霊界への誕生である死は、その個性をもつ霊が巡礼の旅の第二の段階を迎えるための門出です。つまり霊の内部に宿されている全資質を発達、促進、開発させ、完成させ、全存在の始源によりいっそう近づくということです。人間は霊である以上、潜在的には大霊と同じく完全です。しかし、わたしは、人間が最後に大霊の生命の中に吸収されてしまうという意味での“再融合”の時期がくるとは考えません。大霊が無限であるごとく、生命の旅も発達と完全へ向けての無限の過程であると主張します」

「よくわかります。お礼申し上げます。次に三つ目の質問ですが、今おっしゃられたことである程度まで説明されておりますが、人間は個霊として機械的に無限に再生をくり返す宿命にあるというのは事実でしょうか。もし事実でないとすれば、最低界である地上へ降りてくるまでに体験した地球以外における複数の前世で蓄積した個性や特質が、こんどは死後、進化向上していく過程を促進もし、渋滞もさせる、ということになるのでしょうか。私の言わんとすることがおわかりでしょうか」


「こうした存在の深奥にふれる問題を、わずかな言葉でお答えするのは容易なことではありませんが、まず、正直に申して、その輪廻転生論者がどういうことを主張しているのか、わたしは知りません。が、わたし個人として言わせていただけば――絶対性を主張する資格がないからこういう言い方をするのですが――再生というものが事実であることは、わたしも認めます。そのことに反論する人と議論するつもりはありません。理屈ではなく、わたしは現実に再生して戻ってきた人を大勢知っているのです。どうしても再生しなければならない目的があってそうするのです。地上にあずけてきた質(しち)を取り戻しに行くのです。

ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物とは申しておりません。一個の人間は氷山のようなものだと思ってください。海面上に顔を出しているのは、全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのは、その海面上の部分だけです。死後もう一度生まれてくる時は、別の部分が海面上に顔を出します。潜在的自我の別の側面です。二人の人物となるわけですが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。

霊界で進化を続けていくうちに、潜在的自我が、常時、発揮されるようになります。再生問題を物質の目で理解しようとしたり、判断したりしようとなさってはいけません。霊的知識の理解から生まれる叡智の目で洞察してください。そうすれば得心がいきます」

祈り

自然法則の一大パノラマの中に……


ああ大霊よ。無限なる設計者、王の中の王、全大宇宙機構を考案し、叡智によってそれを維持し、愛によってそれを動かしている、崇高なる知性にあらせられるあなた――そのあなたに、わたしたちは少しでも近づき、その無限なる叡智の宝庫から、永遠に続く求道(ぐどう)の旅に必要なものを摂取したいと願っているところでございます。

あなたは無限なる存在であり、あなたについてのわたしたちの認識は必然的に限りあるものとならざるを得ません。したがって、あなたの全体像を理解することは不可能なのでございます。

わたしたちは、果てしなき規模で顕現している宇宙の全生命を経綸する、自然法則の一大パノラマの中にあなたを見出しております。あなたは一部の人間が考えているがごとき、嫉妬心に燃える我儘(わがまま)な暴君ではございません。誰一人として特別に寵愛(ちょうあい)することもなければ、誰一人として特別に呪(のろ)うこともない、無限の知性にあらせられるのでございます。

あなたはその経綸のために絶対的原理を設けられました。原因に対しては必ずそれ相当の結果が自動的に、そして途切れることなく発生するように定められたのでございます。あなたに近づく者、あなたの意思を調和し、あなたの御心を表現する者は、その実りを、静寂と確信とにあふれた生活、輝きと豊かさに満ちた生活の中に刈り取ることになるのでございます。

不幸にしてあなたを見出し得ない者は、暗黒と無知の霧の中に迷い込み、行き先を見えなくする影にいつも取り囲まれていることになるのでございます。

人類の霊的救済に立ちあがったわたしたちにとって、そうした不幸な人々、困窮者、喪の悲しみに暮れている人々、病に苦しむ人々、重荷に耐えかねている人々、道を見失って、いずこへ向かうべきかが分からずにいる人々に手を差しのべることこそ任務と心得ております。進むべき道を照らし出す灯台としての真理を見出させてあげることが、わたしどもの願望なのでございます。

われわれの送り届けようとする霊力が、今、霊的真理と叡智の豊かさを受け入れる用意のある者に広めたいと願う地上の多くの同志を通して、ますます力強く顕現されていることに感謝の意を表したいと思います。

かくして人類は、徐々にではあっても確実に、混沌と利己主義と貪欲と戦争に背を向ける方向へと突き進むことになりましょう。そして霊力がますます人々の生活の中に顕現していくにつれて、平和の勢力がますます勢いを増し、やがて地上天国も現実のものとなることでございましょう。

その目標へ向けてわたしどもは祈り、そして努力するものです。

Tuesday, March 10, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

  The Spirit Teachings


18節

本節の内容

*節制と心身の清潔の必要性
*魂と身体
*ドグマの字句どおりの独善的解釈は自己陶酔 を誘う
*先祖伝来の信仰のみで足れりとする者・考えることをせぬ者・世間的付き合いとしての信仰で佳(よ)しとする者は取り合わない
*みずから光を求める者こそ向上する
*真摯で恐れを知らぬ心が真理探求の必須条件
*その典型をキリストの生涯に見る
*現在のキリスト教はキリストの時代のユダヤ教と同じ
*人間的夾雑物を取り除き霊的真理を明らかに することが霊団の使命
*キリストは宗教改革者であり社会革命家でも       あった
*特殊階級を攻撃し庶民に味方した
*“キリストの再臨”の真意 

〔八月二十六日。私はこれまでの通信を読み返し、それが象徴している意味についてあれこれと思いを巡らした。私は自分の解釈が字句にこだわり過ぎているのだろうかと考えて、その点を霊側に質してみた。するとまだ私の精神状態は通信をするのに相応しい状態になっていないという返事であった。このように交信の難しさをはっきりと言ってきたことは何度もあった。私は気分の転換が必要であることを指摘された。生憎(あいにく)その日は空模様の鬱陶しい憂鬱な日であった。私の身は見知らぬ土地にあり、健康も勝れなかった。私は言われるまま気分転換になることをしたあと机に向かった。すると初めのうち少し書き辛く速度もゆっくりだったが、やがて楽に筆が運ぶようになった。〕


状態はまだ十全とは言えぬが、前よりは良好となってきた。通信を求めるに際しては、精神と肉体の双方を整えることが肝要である。満腹状態の身体が操作し難いことは前に述べたが、逆に機能の低下せる弱々しき身体もまたわれらの目的に適さぬことをここに指摘しておく。飽食と泥酔はもとより感心できぬが、度の過ぎたる節制による体力の低下も感心せぬ。われらは全てに判断の及ぶかぎりの中庸を説く。極端なる節制も、節度なき放縦も、ともに好ましからぬ結果を招く。中庸こそ身体機能を自由に働かしめ、一方精神的能力を曇りなく且つ激することなく自在に発揮させる。われらが求めるのは明晰にして元気はつらつとし、それでいて興奮することなき精神と、活力に溢れ、その活力を使い過ぎもせず欠乏もせぬ身体である。各自がその思慮分別に基いて、己に課せられた地上の仕事に勤しむ上でより一層適切なる身体を具え、同時にその援助のために派遣された背後霊からの指示を素直に受け取れる精神を整えてくれることが大いに望まれるところであるが、日常生活における習慣は往々にして感心せぬものが多く、徐々に心身を蝕(むしば)んでいく。もっとも、われらとしては一般的原則としての注意と節制を説く以上のことは出来ぬ。当人にとりて何が最も適切であるかは当人と深く関わってみなければ判らぬものである。自分のことは自分で判断して最も適切と思うものを決めることである。


われらの使命はもとより魂の宗教を説くことにあるが、その一部として身体の宗教も説かねばならぬ。そなたに、そして全ての人間に宣言するが、身体の健康管理は魂の成長にとりて不可欠の要件である。魂が地上という物質の生活の場において自己を表現していくために肉体に宿るかぎりは、その肉体によりて魂が悪影響を受けぬよう、これを正しく管理していくことが必須である。ところが衣食の選択と日常の生活習慣に賢明なる配慮が為されることは実に稀である。今の地上に見られる人工的傾向、健康に悪影響を及ぼすものに関しての無知、ほぼ地上の全域に見られる暴飲暴食の傾向、こうしたものは全て真の霊的生活にとりては障害であり妨害となる。


そなたの質問であるが、これまで幾度も述べた如く、われらはそなたの精神の中に存在するものを取り出し、付属せる夾雑物を払い落とし、霊的意義を賦与してこれを土台とし、有害なるもの、真実にあらざるものは放棄する。古き言説につきては、イエスがユダヤの律法を扱える如くに扱う。イエスはその字句にこだわることを戒め、その律法の精神に新たなる崇高なる意味を賦与した。われらが現代のキリスト教の言説とドグマを扱うに際しても、イエスがモーセの律法とパリサイ派的学説、並びにラビ的(1)学説を扱える如くに扱う。イエスは中身の精神を生かすためには字句にこだわらぬがよいと説いた。これはいつの時代にも同じであり、われらも聖書の言葉を引用して、儀文は殺し霊は生かす(2)、と述べておこう。律法の字句にあまりに厳格にこだわることは肝心の意味を疎かにすることと同じ、と言うよりは、次第に疎かにさせて行くものである。儀文の一つ一つを几帳面に遵守する信仰態度は高慢不遜にして鼻もちならぬ独善家を生み、やがて神学の流れの中に完全に巻き込まれて、自分は他の者とは違うとの特殊意識を抱き、その意識で神に感謝するようになる。


こうして知らぬ間に進行する信仰上の悪弊に対して、われらは断固たる闘いを挑むものである。人間の勝手な産物である神学の中に束縛されるよりは、たとえ迷いは多くとも、きっと神を見出すとの信念のもとに、いかなる教義にもすがることなく暗中模索するほうが、真理を求むる魂にとりてどれほど良いか知れぬ。神学は神への道を規定する。その道へ入る狭き門は神学という名の鍵なくしては開かぬことになっている。が、それのみに留まらぬ。神学が神そのものを規定するのである。かくして魂はその自然の発露を閉ざされ、思想の高揚を抑えられ、一片の霊性もなき機械的信仰生活へと落ちぶれ果てる。


確かに、そなたの仲間の中には、高位高階の者ばかりとも限らぬが、宗教の深き哲学に関しては出来合いの信仰教義でなければならぬ者がいる。彼らにとりて、その教義から逸脱して自由に思いを巡らすことは即ち疑うことであり、躊躇することであり、絶望することであり、死を意味する。目も眩む高所に登り、隠れたる秘密を覗き込み、曇りなき真理の太陽の輝きを目のあたりにすることなどは思いもよらぬ。永遠の真理の横たわる深き谷間を見下ろす高き峰に登ることは、彼らには出来ぬ。落ちることを恐れて覗き込むことが出来ぬ。その前に、その峰に登ることがすでに苦痛なのである。そこで彼らは、たとえ辛く不確かではあっても、すでに他の者が通れる、より安全なる常道を選ぶことになる。その道は両側に高き壁がそそり立ち、その外側を見ることは出来ぬ。油断なく一歩一歩、転ばぬよう、すべての起伏を避けつつ歩む。そうするようにと教会の教説が説いているのである。疑うことは破滅を意味する。思考することは結局は迷いに終る。信ずることが唯一の安全策である。故に信じて救われよ、信じぬ者は地獄へ落ちるがよい――そう説くのであるが、彼らにはそれが素直には受け入れられぬ。受け入れられる筈がないのである。彼らは知的理解の入口に横たわる真理の断片すら理解することが出来ぬのである。ならば真理を秘納せる奥の院までどうして入ることを得ようか。


中にはまた、神の真理の全てであると教え込まれた古来の神学と相容れぬ教説を受け入れる能力に欠けると同時に、それを喜ばぬ者もいる。


キリスト教の聖徒にとりてはその神学で十分であった。殉教者はその信仰ゆえに笑顔をもって刑台に上がり、死の床にありても心の慰めを得て来た。それは今も昔も変わらぬ。その信仰は先人達の残してくれた大切な教義であり、母親の口から聞かされた救いの福音であった。それは言わば真理の遺産として受け継いだものであり、それを是非とも今度は自分たちが子供たちに譲渡して行かねばならぬものであり、代わってその子供たちがさらにその子供たちへと引き継いで行くことであろう。そうなれば当然彼らの心はその信仰、それほどの伝統的な繋がりと思い出をもつ信仰と少しでも衝突するものには目もくれぬことになる。彼らはその伝統的信仰の擁護者をもって任じているのである。その心の中には殉教者の情熱が燃え続けている。われらの語りかける言葉は彼らの耳には届かぬ。われらとしても、それほどまで居心地よき安住の世界に敢えて踏み込もうとは思わぬ。万一踏み込むとなれば、彼らが作り上げた信仰の殿堂を根底より突き崩さねばならぬであろう。それほどまで大切にせる信仰に対して宣戦布告し、容赦なく切りつけねばならぬことになろう。彼らにとりての絶対神、型にはまりたる宗教――それは何世代にも亙って些かも変わらず、また変わりようもないのであるが――これに攻撃を挑み、たとえ神の観念は変わらずとも人間の心は変化し過去の世代には事足りたものも次の世代には十分ではないかも知れず、現に満足できなくなっている事実を指摘せねばならぬ。また彼らが露ほども気づかずにいる啓示の進歩性、思想の自由の度合に応じた人間の啓発、そして彼らが“神の啓示”と銘うちて崇めている夥(おびただ)しき量の人間的創作に反省を迫られることであろう。が、これも所詮は徒労に終わることであろう。われらは、そうと知りつつ敢えて試みるほど愚かではない。彼らは地上とは別の(死後の)世界において必要なる知識を得るほかはあるまい。


これとは種類を異にし、そうした問題について一切思考を巡らさぬ者もいる。宗教とは名ばかりにて、一種の世間体としての意味しか持たぬ者たちである。故にその信仰心は極めて薄く、慣習としての場を除いては意識することもない。言わばよそ行きの衣服であり、単なる見せかけ以上のものではない。遠くより見てそれらしく見えればそれで良いのである。こうした人種、およびこれに類する人種はわれらにとりて難敵である。彼らにとりては、宗教について思索を強いられること自体がすでに退屈であり迷惑なのである。不愉快きわまる問題であり、慣習によりやむを得ず軽く体裁を繕う程度にしか係わろうとせぬ。人間としてどう在るべきかは牧師が決めてくれるものと考え、言われるがままに信ずるのみなのである。ましてや古き信仰の欠点を指摘され、新しき信仰の美点を説き聞かされることは彼らにとりては二重手間であり、有難迷惑なのである。そのいずれも理解できぬであろう。相変わらず古きものにすがり、その中にて生き続けるのみである。今のままで結構なのである。進歩はご免こうむりたいのである。自由などは思いもよらず、精々、自由とは所詮は屈従に近づくことであるとの教えしか念頭にはない。彼らにとりて自由なる思索は懐疑心と不信感と無信仰を意味する。そのいずれも彼らにとって有難からぬものであり、一種の社交的誤りを犯すことになる。進歩することは国策上からも宗教上からも恐るべきことなのである。単に尻込みするに留まらず、嫌悪と侮蔑とをもって自由を観る。彼らの理想は全て古き良き時代に大切に仕舞い込まれている。その古き良き時代には自由だの進歩だのという問題は一切語られていない。故にそれは彼らにとりては邪悪なるものであり避けねばならぬものなのである。


以上の三種の人間にわれらが一切の係わりをもたぬことはそなたにも明白であることを疑わぬ。同時にその中間に存在し、能力もなければやる気もなく、さりとて堂々と反抗的態度に出るでもない人種にもわれらは関知せぬ。それがわれらの選択を超えた問題であることは、いずれそなたにも判る時が来よう。たとえ手を出したくとも出せぬのである。


神への道は常に開かれ、分け隔てがないこと、進歩より停滞を好む者は生命の基本条件の一つを犯していること、こうしたことをわれらは教えんとしている。神への道を閉ざし、その門戸に鍵を掛け、己の説く道へ進むことを強要する権利を有する者は一人もおらぬと言うのである。硬直化せる神学、人間の発明せる用語にて勝手に規定せる頑(かたくな)な信仰、その道より外れし者は神より見離されると説き、一字一句たりとも動かし難き教説――これらはみな人間的想像の産物であり、羽ばたかんとする魂を引き止め、地上にくぎ付けにせんとする拘束物であると言うのである。そのような宗教を教え込まれるまま受け入れ、自由を束縛されるよりは、背後霊のみを指導者として自ら迷い、自ら祈り、自ら思考し、自ら道を切り開くことによりて真理の日の出を見るに至る方が、どれだけよいか知れぬ。その迷いの道がいかに苦しくそして長く、頼りとすべき教義がいかに乏しく、且つ心を満たしてくれずとも良い。冷たき風に吹きさらされ、嵐に吹きまくられ、身の細る思いをする方が、息苦しく風通しの悪い人間的ドグマの中に閉じ込められ、息を切らしつつ魂の糧を叫び求めても、与えられるものが石ころの如き古き教説であり、化石の如き人間的無知の産物でしかない生活よりは、遙かに良い。複雑怪奇にして魂の欲求にそぐわぬものを不用意に受け入れ、試練の場であるべき地上生活を無為に過ごし、死してその誤りに気づいて後悔するよりは、たとえ単純素朴であっても背後霊の直接の働きかけによりて、自分なりの神の観念のもとに生き、神の息吹きを受ける方がどれほど良いか知れぬ。己に正直であること、そして恐れぬこと、これが真理探求における第一の条件である。これなくしては魂は羽ばたくことが出来ぬ。そしてこれさえあれば必ず進歩する。


このことを主イエスの生活に示されたる模範の中に今少し見てみなければならぬ。


霊性に目覚めた人間の取るべき態度はどうあるべきかについてはすでに述べた。幸いにして勇気をもって因習より脱け出し、神を求むる旅に発(た)てる者は必ずや、聖書の字句どおりのドグマ的解釈に代わりて、われが説くところの崇高なる霊的信仰へと導かれる。霊の啓示には目に映る形而下的意味と同時に霊的意味も含まれているからである。物的傾向の色濃き時代にはこの霊的解釈が完全に疎かにされる。かくして人間はイエスの教説のまわりに、推論と憶測と形而下的解釈によりて作り上げた壁を張り巡らした。それはパリサイ派の学者がモーセの律法のまわりに巡らせる壁と同じである。こうした傾向は人間が霊界の存在を忘れるに比例して強くなる。かくして今やわれらの目に映るのは、本来なら霊性を吹き込み物的儀式を排除すべく意図されたはずの教説より導かれた、硬直化せる冷ややかなる物質偏重の教説である。


われらの任務はイエスがユダヤ教のために行なえるのと同じことをそなたらのキリスト教のために行なうことである。即ち古き形式に霊的意味を賦与し、新しき生命を吹き込むことである。排除しようというのではない。復活させることこそわれらの望むところである。繰り返すが、イエスが地上にもたらせる教えの一つたりともわれらは排除はせぬ。排除するのは人間の勝手な産物であり、それも、その奥に隠されて見失える霊的意味を表に出してみせるためである。われらはそなたを肉体的支配下の日常生活より少しでも救い出し、そこに浸透せる霊的生活の象徴的意義をより一層理解させんと努めている。字句にこだわりて批難する者は、われらの教説の皮相的解釈しか出来ぬ人種である。われらはそなたを身体中心の生活より引き上げ、肉体を棄てたるのちの生活に相応しき生き方へ導かんと願っている。目下のところ、それには程遠き状態である。が、いずれそなたにも、この地上にありながらも真の霊的生活の尊厳と、そこに満ち溢れる隠れたる神秘を見ることを得る日も到来するであろう。それは今のそなたの精神状態ではわれらも説明することは困難である。


その時が到来するまでは、すべてに霊的意義が秘められていること、聖書もその霊的意義に溢れていること、神学に見られる人間的解釈も定義も注釈も、霊的真理の核心を包蔵せる形而下的“殻”に過ぎぬことを知るだけにて佳しとせねばならぬ。もしもわれらがその殻を一気にはぎ取る挙に出れば、その核心が萎(しお)れ、生命を失うであろう。そこでわれらとしてもそなたの理解力の届く範囲において、そなたの長く親しめる形而下的教説の下に隠れたる生きた真相を指摘する程度にて満足せねばならぬ。


キリストの使命もそこにあった。律法を廃止することでもなく、削除することでもなく、正しく成就せしむることこそわが使命であると公言したのである。モーセの戒律の根底に潜む真理を指摘した。パリサイ派の儀式にまつわる夾雑物を取り除き、ユダヤ学者の空理空論を排除し、その奥底に横たわる霊的真理――人間が埋葬しかかっていた崇高なる原理を白日のもとに曝したのであった。キリストは宗教改革者であると同時に社会改革者でもあった。その生涯の大事業は人間を霊肉ともに向上させることであり、偽善者の正体を暴くことであり、偽善的行為の仮面を剥ぎ取ることであり、暴君より逃れんとしてあがく魂をその魔手より救い出すことであり、そして神より託された真理の徳によりて人間を解放することであった。イエスはいみじくも述べた――“汝らに真理を知らしめん。真理は汝らを解き放たん。然して汝らは自由の身とならん(3)”と。


キリストは生と死と永遠の生命について説いた。人間の真の尊厳を説いた。神についての進歩的知識を説いた。律法の偉大なる体現者として地上へ降りた。律法の意図されたる真の目的すなわち人類の改革を身をもって実践する人間として地上へ来たのである。民衆に心の奥底を見つめるよう、生活を反省するよう、動機を吟味するよう、そして行為のすべてを唯一の尺度、つまりそれがもたらすところの結果によりて価値を判断するよう説いた。常に謙虚に、慈悲を忘れず、誠実で純心で私心なく、己に正直であれと説いた。そして自らそれを実践して見せたのであった。


イエスは偉大なる社会改革者であった。その目的は死後の幸福を説くことであると同時に、この世での幸せを説くことであり、偏屈と利己主義と狭量の生活から解放することであった。イエスは言うなれば日常の宗教を説いたのである。より高き真理を求める日々の生活の中においての霊性の道徳的向上の必要性を説いた。過去の過ちを反省し、償い、そして向上する――そこにイエスの訓えのほぼ全てが要約されている。イエスが目にした地上は無知に埋もれ、その信仰は厚顔無恥の聖職者の言うなりとなり、その政治は暴君の圧制下にあった。そこでイエスは信仰と政治の双方の自由を説いた。が、その自由とは気儘の自由ではなかった。神と自己に対する責任をもつ自由であり、置かれた環境における同胞への責任をもつ自由であった。イエスは人間の真の尊厳を示さんと努力した。真理の尊厳――人間性を束縛から解き放す真理の偉大さを民衆に知らしめんとした。身分にはこだわらなかった。同志も伝道者も身分の低き貧しき階層の者の中より選んだ。そして庶民と共に生きた。庶民の味方であり、庶民と交わり、庶民の家に宿をとった。そして人間として必須の、しかも彼らに理解し得る、素朴なる訓えを説いた。伝統的信仰と高貴なる社会的地位に目を曇らされ、打算的知恵に長(た)けた者たちの中には滅多に足を運ばなかった。慣習的に教え込まれた信仰より少しでも気高く少しでも崇高なる真理を求めんとする情熱を庶民の心に湧かしめた。そしてその真理を手にする方法をも説いたのであった。


人類にとりて真の福音と言うべきはイエス・キリストの福音である。これこそ人間にとりて唯一にして必須の真理である。人間の欲求を満たし、その必要性に応える唯一の福音である。


われらはそれと同じ福音をイエスより引き継ぎて説くものである。イエスを地上に送りし神と同じ神の命令を受け、同じ神の権威と霊示を受け、今まさに同じ福音を説きに参ったのである。イエスの説いた真理と同じものをわれらは説く。人間的無知と誤解による夾雑物を払い落として、改めて説く。物欲的生活の下に埋もれた真理を甦らせんと望むものである。


人間が墓場へ葬れる霊的真理を掘り起こし、それが今なお生き続けていることを、聞く耳を持つ者に教えんと欲しているのである。人間の進歩性と、人間への神の絶え間なき係わり合い、そして昼夜を分かたぬ天使の看護という、単純にして荘厳なる真理を教えたいと願っているのである。


独善的宗教家集団が背負わせた荷はわれらが風に吹き飛ばさせよう。魂の生長を妨げ向上心の足を引っぱるドグマはわれらが引き裂き、魂を解き放とう。われらの使命は人間があまりに歪め過ぎた古き教えの真の姿を継承することである。その源は同一であり、その辿る道も同じであり、その向うところもまた同じである。


〔インペレーターの指揮のもとに続けられているこの教化事業はイエス・キリストの命によるものと理解してよいかとの問いに対して――〕


その通りである。先に余は、余の使命が“動”の世界より“静”の世界へと突入せる一柱の霊より授けられ今なおその指令下にあると述べた……イエス・キリストは過去に蓄積せる誤れる信仰を払い清めると同時に、これより一段と啓示を押し進めんがために天使を召集する計画を用意されつつあるところである。


――他の交霊会でもこれに類する話を耳にしましたが、これが“キリストの再来”ということですか。


キリストの再来とは霊的再来のことである。人間が夢想するような、肉体に宿っての再生ではない。使徒を通じて聞く耳をもつ者に語りかけるという意味での再来である。イエス自身もかく述べているであろう――「聞く耳をもつ者は聞くがよい。受け入れ得る者は受け入れるがよい(4)」と。


――こうした通信は多くの人々にもたらされているのでしょうか。


さよう。神がこの時期にとくに影響力を強めておられることを大勢の者に知らしめているところである。が、今はこれ以上は述べぬ。神の祝福のあらんことを。


(†インペレーター)

シルバーバーチの霊訓  霊的新時代の到来

The Spirit Speaks
トニー・オーツセン(編) 近藤千雄(訳)




6章 真理を悟った人間は決して取り越し苦労はしません


熱心なスピリチュアリストである実業家が、ある日の交霊会で質問した。

「背後霊や友人(の霊)に援助を要請するのは、どの程度まで許されるのでしょうか」


「生身の人間である霊媒との接触によって仕事をしているわたしたちは、地上生活における必要性、習慣、欲求といったものを熟知していなければなりません。物的必要性について無頓着ではいられません。現実に地上で生活している人間を扱っているからです。結局のところ、霊も肉体も大霊の僕(しもべ)です。霊の宿である肉体には一定の必需品があり、一定の手入れが必要であり、宇宙という機構の中での役割を果たすための一定の義務というものもあります。肉体には太陽光線が必要であり、空気が必要であり、着るものと食べるものが要ります。それを得るためには地上世界の通貨(コイン)(※)であるお金(マネー)が必要です。そのこともよく承知しております。しかし、次のことも承知しております。


※――“奉仕(サービス)は霊の通貨です”というのがシルバーバーチの決まり文句で、マネーによって物的生活が営まれているように、霊的生活はサービスによって営まれているというのであるが、ここでもそのことを念頭において述べている。


霊も肉体も大霊の僕と申し上げましたが、両者について言えば、霊が主人(あるじ)であり、肉体はその主人に仕える僕です。それを逆に考えるのは大きな間違いです。あなた方は本質的には霊なのです。それが、人間は潜在的に神性を宿していると言われるゆえんです。つまり宇宙の大霊をミニチュアの形で宿していることになります。宇宙という大生命体を機能させている偉大な創造原理が、あなた方一人ひとりに宿っているのです。意識をもった存在としての生命を受けたということが、神的属性のすべてが内部に宿っていることを意味します。全生命を創造し、宇宙のありとあらゆる活動を維持せしめている力があなた方にも宿っており、その無尽蔵の貯蔵庫から必要なものを引き出すことができるのです。

そのためには平静さが必要です。いかなる事態に遭遇しても、心を平静に保てるようになれば、その無尽蔵のエネルギーが湧き出てきます。それは霊的なものですから、あなたが直面するいかなる困難、いかなる問題をも克服することができます。

それに加えて、背後霊の愛と導きがあります。困難が生じた時は、平静な受け身の心を保つよう努力なさることです。そうすれば、あなた自身の貯蔵庫から――まだ十分には開発されていなくても――必要な回答が湧き出てまいります。きっと得られます。われわれはみな進化の過程にある存在である以上、その時のその人の発達程度いかんによっては、十分なものが得られないことがあります。しかし、その場合でも、慌てずに援助を待つことです。こんどは背後霊が何とかしてくれます。

求めるものが正当か否かは、単なる人間的用語の問題にすぎません。わたしたちから見て大切なのは“動機”です。いかなる要求をするにせよ、いかなる祈りをするにせよ、わたしたちが第一に考慮するのは、その動機なのです。動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え、自分への利益を忘れた無私の行為であれば、決して無視されることはありません。それはすなわち、その人がそれまでに成就した霊格の表れですから、祈るという行為そのものが、その祈りへの回答を生み出す原理を作動させるのです」

ここでメンバーの一人が「学識もあり誠実そのものの人でも取り越し苦労をしています」と述べると――


「あなたは純粋に地上的な学識と霊的知識とを混同しておられるのではないでしょうか。霊的実在についての知識の持ち主であれば、何の心配の必要もないことを悟らねばなりません。人間としての義務を誠実に果たし、しかも何の取り越し苦労もしないで生きていくことは可能です。のほほんとしていてもよいと言っているのではありません。そんな教えは、かりそめにも説きません。むしろわたしは、霊的真理を知れば知るほど、人間としての責務を意識するようになることを強調しております。しかし、心配する必要はどこにもないと申し上げているのです。霊的成長を伴わない知的発達も有り得るのです」

最初の質問者「あからさまに言えば、取り越し苦労性の人は霊的に未熟ということでしょうか」


「その通りです。真理を悟った人は決して取り越し苦労はしません。なぜなら、人生には大霊の計画が行きわたっていることを知っているからです。まじめで、正直で、慈悲心に富み、とても無欲の人でありながら、人生の意義と目的を悟るほどの霊的資質を身につけていない人がいます。無用の心配をするという、そのことが、霊的成長の欠如の指標であると言えます。たとえわずかでも心配の念を抱くということは、まだ魂が本当の確信を持つに至っていないことを意味するからです。確信があれば心配の念は出てこないでしょう。

偉大なる魂は、泰然自若(たいぜんじじゃく)の態度で人生に臨みます。確信があるからです。その確信は何ものによっても動揺させられることはありません。このことだけは絶対に譲歩するわけにはいきません。なぜなら、それがわたしたちの霊的教えの土台であらねばならないからです。

その基本法則にもとることでも起こり得るかのように説く教えは、すべて間違いです。原因と結果の間には何一つ、誰一人として介入することはできません。あなたの行為の責任を他人の肩に背負わせる方法はありませんし、他人の行為の責任をあなたが背負うこともできません。各自が自分の人生の重荷を背負わねばならないのです。そうであってはじめて正直であり、道徳的であり、道義的であり、公正であると言えましょう。

それ以外の教説はすべて卑怯であり、臆病であり、非道徳的であり、不公正です(※)。摂理は完璧なのです」


※――提示された話題を、質問者が考えてもみなかった方向へ広く深く敷延していくのがシルバーバーチの特徴の一つであるが、ここでも単なる取り越し苦労の話をキリスト教の贖罪説に結びつけて、これを厳しく断罪している。イエスを信じて洗礼を受ければ全ての罪をイエスが背負ってくれるから安心なさい、という贖罪説は、心配・不安・恐怖といった人間の煩悩をうまく利用した卑怯な教説であることを述べているのであるが、これはキリスト教に限ったことではなく、“ウチの宗教に入信しさえすれば……”といった勧誘方法は、新興宗教のすべてが使う手段で、言うなれば“商売の手口”である。

「広い意味において人間は他のすべての人に対して責任があるのではないでしょうか。世の中を住み良くするのは、みんなの責任だからです」


おっしゃる通りです。その意味においては、みんなに責任があります。同胞として、お互いがお互いの番人(旧約聖書)であるといえます。なぜなら、人類全体が“霊の糸”によって繋がっており、それが一つに結びつけているからです。

しかし、責任とは本来、自分が得た知識の指し示すところにしたがって人のために援助し、自分を役立て、協力し合うということです。しかるに、知識は一人ひとり異なります。したがって、他人が他人の知識に基づいて行ったことに自分は責任がないことになります。

が、この世は自分一人ではありません。お互いが持ちつ持たれつの生活を営んでおります。すべての生命が混じり合い、融合し合い、調和し合っております。そのすべてが一つの宇宙の中で生きている以上、お互いに影響を与え合っております。

だからこそ知識に大きな責任が伴うのです。知っていながら罪を犯す人は、知らずに犯す人より重い責任を取らされます。その行為がいけないことであることを知っているということが罪を増幅するのです。霊的向上の道は容易ではありません。知識の受容力が増したことは、それだけ大きい責任を負う能力を身につけたことであらねばならないのです。

幸と不幸、これはともに大霊の僕です。一方を得ずして他方を得ることはできません。高く登れば登るほど、それだけ低く落ちることもあるということであり、低く落ちるほど、それだけ高く登る可能性があることを意味します。これは理の当然でしょう」

「“恐れ”というのは、人間の本能的要素の一つです。それをなくせと言っても無理だと思うのです。これは自衛のために用意された自然の仕組みです。動物の世界は“恐れ”に満ちております。それがいけないとなると、ではなぜ、それが動物界の基本的要素となっているのかという疑問が出ます」


「なかなかいい質問だと思います。人間は二面性をもつ存在であり、動物時代の名残と、本来の資質である霊性の二つの要素を、地上生活の中で発揮しております。そして、より高く進化していく上で不可欠の“自由意志”を授かっております。それが内部の神性が発揮されていく必須の条件だからです。

このように人間は、その進化の道程において、持てる資質を利己的な目的に使用するか利他的な目的に使用するかの二者択一を、永遠に迫られることになります。これまでにたどってきた進化の道程において植えつけられた肉体的要素に負けてしまえば、生命の根源そのものである霊性の優位を否定していることになります。

恐怖心は大体において動物的先祖から引き継いだものです。そして、わたしが“動物的先祖”という場合は、物的身体が原初から今日に至るまでにたどってきた進化の全側面をさします。しかし、だからといって、やむを得ないこと、ということにはなりません。たしかに自衛本能としての恐怖心もありますが、まったく無意味で筋の通らない、救いようのない恐怖心もあり、それが困難や危険を増幅し、視野を遮ってしまいます。生活の根底であるべき霊的実在に、まったく気づいていないからです」

「動物の場合は、本性そのものが恐怖心を必要としているという意味でしょうか」


「人間は動物よりはるかに高度の意識を発揮していますから、それだけ精神的側面をコントロールできないといけません。が、動物は、人間に飼われているものは例外として、本能的に行動しています。人間には理性があります。そして、高級界からのインスピレーションを受け取り、叡智と知識を活用することによって、暗黒と無知の産物をなくしていく霊的資質をそなえております」

「動物も、進化すると恐怖心を見せなくなります。人間を恐れるのは虐待行為に原因があるのだと思います」


「わたしが今“人間に飼われているものは例外として”と申し上げたのは、そのことがあったからです。人間との接触によって人間的意識をいくらか摂取して個体性をもつようになり、恐怖心を捨てていきます。そこに“愛の力”の働きが見られるのです。人間が愛を発現することによって、その愛が動物から恐怖心を追い出します。人間は、その自由意志によって動物に無用の恐怖心を吹き込むという罪を犯していることを忘れてはなりません。野生動物でさえも、人間の愛によって恐怖心を捨てていくものなのです。そして、現実にライオンと小羊が仲良く寝そべるようになるのです」

「あなたがおっしゃるように、もしも摂理が完璧で、数学的正確さをもって働き、あらゆるものを認知し、誰一人として不公平に扱われることがないようにバランスが取れているとしたら、それはカルマの法則と再生の事実を認めていることになるのでしょうか」


「イエス・ノーの答え方だけで言えば、イエスです」

「ある記事で、きわどい手術をするために医師がその患者の心臓を十五分間ストップさせたという話を読みました。私は、心臓が鼓動をやめたら、その瞬間に霊は身体を離れたはずだと思うのですが……」


「霊が身体から離れはじめると心臓が鼓動を止めはじめるのです。ですが、その離脱の過程はふつう、かなりの時間を要します。自然死の場合の話です。その過程の途中で、一時的に鼓動が止まることがあります。単なる生理反応が原因の場合もありますし、機能上の欠陥が原因の場合もあります。いずれにしても、心臓が止まったから霊が逃げ出すのではありません。逆です。霊が引っ込むから心臓の機能が止まるのです」

「建設的な目的にせよ、原子力を使うために核を分裂させなければなりませんが、それは自然界の調和の原理に違反し、人類自身にとっても危険なことではないでしょうか」


「これは非常に難しい問題です。なぜかといえば、それには現在の地上人類に理解できない要素がたくさん含まれているからです。宇宙に調和の原理があり、それを人間が乱すことはできます。が、大自然の摂理の働きを止めたり変えたりすることはできません。わたしが言わんとしているのは、もしも原子核の分裂が不可能だったら、人間が核分裂を起こすことはできなかったということです。

このことに関連して間違いなく言えることは、この核分裂の発見は調和のとれた進化からズレているということです。つまり、まだその時機でなかった――人類の精神的ないし霊的成熟度が十分でなかったということです。もし十分であれば、原子エネルギーの使用にまつわるさまざまな問題は起きないはずです。この、とてつもない発見のおかげで、人類は霊的に受け入れる用意のできていないものを手にしてしまい、それがもとで、大変な危険の可能性を抱えてしまいました。が、各国の命運を握っている指導者たちが、霊的な叡智に目覚めれば解決できるでしょう。というよりは、それしか道はないでしょう」

「私たちは子供の頃から“愛の神”“天にまします父なる神”を信じるよう教えられてきましたが、地上生活を終えた霊が、地上の人間に憑依することが有り得るものなのでしょうか」


「もちろん有り得ますとも」

「愛の神がそれを許すものなのでしょうか」


「大霊とは法則のことです。ある人間的な存在がいて、それはやってよろしい、それはいけません、といった指図をしている図を想像してはなりません。原因と結果の法則で動いている宇宙なのですから、地上と霊界との交信にもちゃんとした原理があります。その原理は“善人にしか使用できません”という規約をもうけるわけにはいかないのです。同じチャンネルを善霊でも悪霊でも使用できるのです。

他界後に地縛霊となってしまうような地上生活を送った場合、それは利己主義や貪欲や強欲が悪いのであって、大霊が悪いのではありません。また、麻薬やアルコールや貪欲がもとで、そういう地縛霊に憑依されるようなことになった場合、それをどうして大霊のせいにできましょう。自分の自由意志でやったことなのですから」

「これからは心霊治療がもっとも重大な分野となるように計画されているのでしょうか」


「迷うことなく“そうです”と申し上げます。これからは、病気に苦しむ人々の治療の分野に霊力を顕現させていく計画が用意されています。病気や障害のために人生が侘(わび)しく、陰うつで、絶望的にさえ思えている人々に、霊的な治癒エネルギーが存在することを証明してあげるのです。

霊力――生命力そのものであり、数多くの治療家(チャンネル)を通して注入される無限のエネルギーは、病気や障害によって痛めつけられ苦しめられている身体に、新たなエネルギーを注ぎ込んで活気づけ、いかに疑り深い人間でも、地上の用語では説明できない力が存在することを認めざるを得なくしてしまいます。皆さんが生きておられる今の時代にぜひ必要だからこそ、そう計画されているのです」

「治療していただくのに、なぜ治療家にお願いしなければならないのでしょうか」


「要請があるまでは対応のしようがないからです。治療に使用するエネルギーは、こちらから呼び入れなくてはならないのです。生命力は宇宙的活動の一環として全宇宙くまなく巡っております。が、その中の一部を一人の患者のために使用するには、知的操作によって、そのエネルギーを誘導しなくてはなりません。したがって、前もってその要請がなくてはなりません」

「要請がなくても、そちらから知的な操作ができるのではありませんか」


「できます。が、治療家という媒体がいないと、それは純粋に霊的次元での操作にとどまることになります。それを地上に顕現させるには、連結体、ないしは通路にあたる媒体がなくてはなりません。たとえば、あなたが奥さんから遠く離れたところにいるとして、奥さんがあなたと連絡を取るにはどうしますか。電話という連絡手段がいるでしょう。それと同じです」

「その要請をなぜ治療家にお願いしなければならないのでしょうか」


「治療家が“焦点”となるのですから、当然そうなります。別の側面から見れば、そもそも霊的治療を要請するということ自体、その患者の魂が霊性に目覚めはじめ、霊的な援助が叶えられることを自覚しはじめたことの兆候なのです。ご存知の通り、霊的治療のそもそもの目的は――わたしたちの仕事はすべてそうなのですが――人間の本性が霊的なものであることに関心を向けさせることにあるのです」

「その覚醒が治癒を呼び寄せるという要因もあるわけですね?」


その通りです。霊性に目覚めはじめた魂は、当然つながりができるべきエネルギーを自動的に引き寄せるのです」

「“求めよ、さらば与えられん”という言葉はそのことを言っているのでしょうか」


「そうですとも。真摯(しんし)に求めるという行為が、満たされたいという魂の欲求を始動させ、それが、エネルギーが届けられる連鎖反応を起こすのです。祈りが届けられるのです」

「すべての治療家が、たぶん同じ霊的エネルギーを使用しているはずなのに、なぜ治療家によって治り方に差異があるのでしょうか」


「霊力には無限のバリエーションがあります。一人の治療家を通して顕現されるものは、その治療家のもつ肉体的・精神的・霊的資質によって特徴づけられます。気質・霊的進化の程度・性格・人生観――こうした要素が、その人を通過する霊力の質と量とを決定づけるのです。本質的には同じエネルギーですが、真理と同じく、無限の様相を呈するのです」

「患者の態度が治療効果を左右することもありますか」


「もちろんありますとも。霊的治癒力も自然法則の働きにしたがって作用します。その法則が治癒力の強弱を左右することになるのですが、その際に霊と精神と肉体にかかわるさまざまな条件が絡んでまいります。治療家自身だけでなく、患者の条件も絡んでいます。

遠隔治療で患者に知られずに行っても成功した例があることは、わたしもよく知っております。しかし、念のために申し上げておきますが、意識的な自覚はなくても、内奥の魂は自覚しているのです。治療の対象はその魂です。心霊治療はすべて、内部から外部へと働くのです」

「遠隔治療の原理をご説明ねがえませんか」


「目に見えないもの、手で触れることのできないもの、耳に聞こえないものでも実在するものがいくらでもあることが分かってきた現在、霊的放射物が距離に関係なく目標物(患者)へ届けられるのが信じられないというのが、わたしには理解できません。ふだんの肉眼に映じない波長を映像化してくれる器具はいくらでもあります。しかも、それにもきちんとした法則があることも分かっております。

遠隔治療の場合も、確固とした波長、放射物、治癒エネルギー――どう呼ばれてもかまいません――そういうものが使用されており、霊界の専門霊によって治療家を通して患者に注がれるのです」

「自分で自分を治す力は誰にでもあるというのは本当でしょうか」


「潜在的にはみんな持っております。なぜなら、大霊の一部としての霊性を宿しているということは、必然的に生命力ないし原動力を宿していることになるからです。それが機能を正常にします。ですから、それを働かせる方法(こつ)を会得(えとく)しさえすれば、自分で自分を治すことができるという理屈になります」

「心霊治療によって苦しみが取り除かれます。が、一方では、地上人生の教訓を学ぶには苦しみも大切な要素であると説かれています。そうなると、病気が治るということはそのチャンスを奪うことになり、霊的成長の障害となるという理屈にならないでしょうか」


「大自然の摂理の働きには絶対に干渉できません。宇宙は絶対に狂うことも間違うこともない、無限の知性によって規制されております。これだけは避けて通るわけにはいかないものなのです。そこで、それを知らないがために引き起こしている愚かしい過ちによる余計な苦しみ、無くもがなの苦しみが実に多いのです。たしかに地上生活の目的は霊的成長にありますが、その目的を成就する手段はいくらでもあります。苦しみはその中の一つということでして、それしかないわけではありません」

「治療法にも信仰治療、霊的治療、磁気療法、神癒などと、いろいろあるようですが、どこがどう違うのでしょうか」


「大ざっぱに言って、わたしは二つに分類するのがよいと思います。霊界のエネルギーによるものと地上のエネルギーによるものとの、二種類です。催眠療法、磁気療法、暗示療法、こうしたものは治療家自身によるもので、霊界とは何の関係もありません。それはちょうど、心霊(サイキック)能力が霊的(スピリチュアル)能力と違って霊界とは何の関係もないのと同じです。

もう一つの種類は霊界から届けられる治癒エネルギーによるもので、それにもいろいろと治療法があって、それぞれに名称があるようですが、いかなる方法であれ、またいかなる名称であれ、基本的には霊力の作用である点は同じです」

「治癒力を磨くにはどうすればよいのでしょうか」


「我欲を捨て、人のために役立ちたいという心がけで生きることです。霊的能力を開発するための最大の要素は、その“人のために役立ちたい”という欲求です。それは病人だけでなく、同胞すべてに対する愛であり、その愛の中において治癒力が増してまいります」

「治療家が風邪を引いたりインフルエンザにかかったり、その他、いろいろと体調を崩すことがあるのは、なぜでしょうか」


「それは何か摂理に反したことをした、その反応でしょう。治療家も人間です。霊力の道具であるとはいえ、摂理の働きを特別に免れるわけではありません。魔法はありません。摂理は正直に働きます。治療家がそれを犯せば、それなりの結果に直面させられます」

「治療家ですら、自分の病気を治せないことが多いのはなぜでしょうか」


「治療家というのは、大体において霊力の通路にすぎません。霊力の流れを通過させているだけです。治療家でも自分で自分を治せる人はいくらでもいますが、治癒力がその人を通って患者へ流入するというだけの過程では、必ずしもその人自身の病気を治す目的には使用されません。その辺のことは、治療家のタイプによります。

たとえば、治療家が何かの事故で身体機能に障害をきたしたとします。ところが患者の治療には何ら差しつかえがないということがわかった場合、治療家によっては、自分のことはどうでもよいと考えるかも知れません。わたしだったら、そう考えるところです」

「その際、自分は治療家だから、放っといてもちゃんと治してくれるだろうと考えるのは間違いでしょうか」


「“治る”ということは、本来、能動的な作用であって、受動的なものではありません。魂の悟りが原動力となっているものです。真の自我に目覚めるということが重大な要素なのです。目覚める段階までくれば、物的障害を突き破ろうとする欲求が湧いてきます。切望し、希求するその願望を引き出すのが、心霊治療の本来の目的です」

「愛(いと)しい人に先立たれた人には、死後の再会の楽しみがありますが、この投書の質問者には、そういう人がいないとのことです。こういう場合はどうなりますか」


「大霊の摂理は完璧です。幾十億年にもわたって、一度も誤ることなく、そして絶え間なく働いてまいりました。この広大な宇宙機構の中にあって、何一つ見落されることもなければ、忘れ去られることもありません。その投書をなさった方も例外ではありません。その摂理には埋め合わせというものがあります。地上で欠けていたものは、こちらへ来て補われます。つねに完全なバランスが取れており、摂理どおりに落ち着くのです。霊的機構においては誰一人として忘れ去られることはありません」

「ヨガでは身体機能を自在にコントロールする修行をしますが、あれは霊的発達にとって不可欠のものでしょうか。何か役立つことでもあるのでしょうか」


「まず初めのご質問に対する答えですが、これは不可欠のものではありません。身体を鍛練し、自制心を身につけ、物質に対する精神の影響力を披露する方法であって、それによって心霊的能力を開発することにはなりますが、これをやらないとダメというものではありません。方法なら他にいくらでもあります。なお、はっきり申し上げておきますが、このタイプの鍛練方法は西洋人よりも東洋人に向いております」

「それはまた、なぜでしょうか」


「本性において、東洋人の方が西洋人より瞑想的であり、興味を持ちやすいからです。大気そのものに、そういうものに馴染ませる要素があるのです。昔からその道の達人が根拠としてきた宗教思想があり、それを自然に身につけているのです」

「西洋人にはそれに匹敵する別の鍛練法があるわけでしょうか」


「身体をコントロールする精神力の存在を教える鍛練は、それが結果的に霊性を開発することになるのであれば、何でも結構であると信じます。ただ、呼吸を止めたり、脈拍や血行を変えたりすることができるからといって、それで霊的に立派になったことにはなりません」

「質問が少し大きすぎるかも知れませんが、西洋人にとってはどういうタイプの鍛練をすべきでしょうか」


「精神統一です。一日一回、少しの時間を割(さ)いて精神を統一し、霊的な力を表面に出す鍛練をすべきだと思います。生活があまりにせわしく、霊的な気分一新をするゆとりがなさすぎます。内側と外側に存在する霊的エネルギーが顕現するのは、精神が穏やかで、受け身的で、控え目になっている時です」

「睡眠状態には、その効果はないのでしょうか」


「霊性の積極的な発達には、効果はありません。睡眠というのは、霊体が肉体から解放されて霊界を訪れ、死後の生活の準備をするために自然が用意してくれた機能です」

「イエスの姿が見えると言いながら死んでいく人がよくいます。最近でも、ローマ法王がイエスの姿を見たと述べておりますが、この“姿”というのは何なのでしょうか。本当にあのイエスなのでしょうか」


「とても興味ぶかい問題です。ですが、言うまでもないことですが、見た、見えた、といっても、それが実際に何であったかの確認はできません。その時の姿が本当にその人であったとはかぎらないからです。そもそも、わたしたち霊の真実の姿を物的形体でお見せすることはできないのですから、したがって映像化してお見せするしかないのです。

たとえば、わたしが霊界で表現している本来の容姿をみなさんに認識していただきたくても、それをお見せする手段がありません。したがって、わたしを視覚に映じる形でお見せすることはできないわけです。同じ意味で、ナザレのイエスが今霊界で顕現しておられるお姿は、地上の手段では表現のしようがありませんから、人間にはお見せできないわけです。そこで、その人間にわかりやすく映像をこしらえて見せることになるわけです。

今日のいかに熱烈なクリスチャンといえども、イエスの現在の本当の姿をお見せしても、まったく意味がありません。イエスさまの姿を見たとおっしゃっても、それはその人が想像しているイエスの姿を見たという意味であり、実体をご覧になったわけではありません。こしらえられた映像を見たわけです。おわかりでしょうか」

「見たと言っている人の思念の投射である場合もあるわけでしょうか」


「その通りです。人間の精神には映像をこしらえる能力がありますから、それが具象化するほど強烈な場合には、そういうことも起こりうるわけです。一つの思念をある一定の次元で保持し続けると、その通りの形体を取るのです。物的形体ではありません。幽質の場合もあれば、霊的な場合もあります。要するに、非物質の世界のいずれかの次元での映像となるわけです」

「死にぎわだから見えやすいということも、原因と考えてよろしいでしょうか」


「そのことに関して二つの事情を忘れてはなりません。一つは、ナザレのイエスが今どういう容姿をしているかを知っている者は、地上には誰一人いないということです。もう一つは、イエスが地上にいた時の容姿についても、誰一人知る者はいないということです。そうなると、これはイエスだと判断する材料は何もないということになります。

たしかに死にぎわには大変な量の心霊的ならびに霊的エネルギーが放出されます。遠くにいる肉親・縁者に姿を見せることができるのも、そのためです。死んだとはいえ、まだ地上的波動の中にいますから、何マイル先であっても、大体の生前の容姿を取ることができるわけです。あくまでも死にぎわにかぎっての話です。イエスの姿が見えたというのも、同じく死にぎわにおける心霊的ならびに霊的エネルギーの放出によって生じる現象です」

「地獄は存在しないと言ってくる霊がいます。そうなると、真っ暗いところとか薄暗い世界というのは何なのでしょうか」


「地獄はあります。ただ、地獄絵などに描かれているものとはかぎらないというまでのことです。未熟な霊が集まっている暗い世界は、もちろん存在します。そこに住んでいる霊にとっては、そこが地獄です。実在の世界です。

考えてもごらんなさい。地上世界を暗黒と悲劇の淵に陥(おとしい)れた者たち、無益な流血の巷(ちまた)としてしまった張本人たち――こういう人たちがこちらへ来て置かれる境遇がどういうものか、大体の想像はつきませんか。

そうした行為の結果として直面させられる世界が天国であろうはずはありません。まさに地獄です。が、バイブルに説かれているような、業火(ごうか)で焼かれる地獄とは違います。行ったことの邪悪性、非道徳性、利己性を魂が思い知らされるような境遇です。それが地獄です。そこで味わう苦しみは、中世の地獄絵に描かれたものより、はるかに耐え難いものです」

「私たちが他界したあと、それまでの背後はどうなるのでしょうか。私たちが死ぬと同時に用済みとなるのでしょうか」


「あなたとのつながりが、単に地上での仕事のためのものであれば、死によってその仕事も終わったわけですから、その霊とのつながりも終わりとなります。とくに霊媒の支配霊の場合は、その人間の霊的能力を有効に使用することを目的として付き添うわけですから、霊媒の死と同時につながりはなくなります」

「霊媒を通して支配霊とも親しくなった者にとっても、死とともに縁が切れると聞くと、一抹のさみしさを覚えます」


「わたしは、つながりは終わりとなると申し上げているのであって、それは、縁が切れて別れ別れになってしまうという意味ではありません。地上時代のようなつながりは終わりとなるということです」

「さきほどの方は、そういう意味で述べたのだと思います」


「会いたいと思えば会えます」

「死後も特別な関係が続くのでしょうか」


「支配霊と霊媒、という関係にすぎなかった場合は何も残りません。仕事が終わったのですから」

「お互いに会えなくなるという意味ではないのですね?」


「これまでにも何度も申し上げておりますように、この問題に関する答えは、支配霊と霊媒の霊的発達程度の違いによって異なります。意識の程度とインディビジュアリティーに関わる問題でして、これはテーマが大きくなってきます。

あなたがお知りになりたいのは、死後あなたがこのわたしと会えるのか、そして、この霊媒がわたしと会えるのか、ということなのでしょ? もちろん、ここにおいでの皆さんとは再会できるでしょう。が、その時はもう、こうした形でしゃべる必要がないことを期待したいものですね(※)」


※――死後の目覚めと、その後の霊的成長度は各自まちまちであるから、もしかしたら、面会を要請されても、直接の対面はできないことも有りうることを示唆している。

「交霊会で物理的現象を求めている場合の出席者の態度はどうあるべきでしょうか。その場合でも霊視力とか霊聴力を働かせてもよろしいでしょうか。もしいけないとなると、それは意識的に抑えられるものでしょうか。抑えられるとしたら、その方法を教えてください」


「物理的現象を求めている時に精神的現象を起こそうとすると、障害となります。霊視、霊聴、入神談話といったものは抑えて、あくまでも物理的なものが起きるように、辛抱づよく待っていただかねばなりません」

「そのように意識的に抑制できるものなのでしょうか。そのテクニックを教えていただけませんか」


「難しく考えることはありません。精神的心霊能力をもつ人が、精神状態を受け身的にならないようにすればよろしい。この霊媒(バーバネル)がもし拒絶したら、わたしはコントロールできなくなります。いつも受け身の精神状態になってくれるので、ラクに支配できているのです」

「フリーメーソン(※)の団体に加入することをおすすめになりますか」


※――博愛・自由・平等の実現を目指す世界規模の団体。一種の秘密結社で、全容は明らかでない。


「どこかの組合や会派や団体に加入すること自体は何の意義もありません。大切なのは、その人が日常生活で何をするかです。ただし、そういうものに加入することによって、より親切で、より非利己的で、より人のためになる生活を志向することになると思う人は、加入させてあげるがよろしい。

しかし、唯一の、そして厳格な基準は、その人の日常の行為です。為すことのすべてにおいて、責任を負わねばなりません」

「フリーメーソンの教義は、心霊能力の開発にとって有益であるとお考えでしょうか」


「その教義の本当の意味を理解し、他の信者がただの“お題目”と考えているものを霊的開発の糧にすることができれば、それも有益であることになります」

「そういう秘密結社がはびこる風潮は好ましいことでしょうか。真理はすべての者に開かれたものであるべきで、一部の者によって独占されるべきものではないと思うのですが……」


「というよりは、そもそも真理とは独占できる性質のものではないのです。無限なるものであり、これで全部です、などと言える性質のものではないからです。そうした活動は、動機さえ正しければ、秘密のうちに行おうと、公然と行おうと、それは関係ありません。何事も動機によって判断しないといけません。大切なのは各自の人生において何を為すかです。

わたしたちがこうして地上世界へ戻って来たのは、宗教というものを実際的な日常のものにするため、と言ってもいいのです。もう、信条だの、形式だの、儀式だのと結びつける時代ではありません。宗教とは人のためになる()行為(サービス)のことであり、人のために役立つことを志向させるものは、何であってもよいということを、ありとあらゆる手段を講じて主張するものです」

「でも、フリーメーソンでは、そのサービスを会員の者の間だけに限っております」


「そのことも知っております。ですが、少なくとも人のために良いことをしていることは事実であり、それはサービスの第一歩です」

「ある霊視家によると、自殺した者ばかりが集まる場所があるそうですが、本当でしょうか。実際にそこを見てきたと言い、正視できないほど惨めだという話ですが……」


「地上生活をみずから中断させた者が集まっている界層が見えたというのは、ある意味では事実かも知れません。同じ意識レベルの者が類をもって集まっているわけですから。

ですが、そこが自殺者の連れて行かれる固定した場所であると考えるのは間違いです。同じく自殺した人でも、動機によって一人一人裁かれ方が違います。一人一人に公正な因果律が働きます。何度も申し上げておりますように、全事情を決定づける要素は“動機”です。それがその人の魂の指標だからです。

宗教的信仰における頑迷さにおいて程度が同じであることから同じ界層に集まっている人たちもいます。その界層へ行けば、そういう人たちばかりがいるわけです。あなたも、あなたの魂の成長度に似合った場所へ行かれます」

「自殺者には互いに引き合う何か共通の要素があるから集まるのではないでしょうか」


「霊的発達の程度が同じだからです。それが死後に置かれる位置を決定づけるのです。霊的にどの程度の魂であるかが、霊界においてどの界層に落ち着くかを決定づけるのです。こちらでは霊性がそのまま現実となって具象化するからです。

自殺者の中にも霊的レベルの同じ者がいますから、そういう者が集まっている界層を霊視家が見たというのは有り得ることだと申し上げたわけです」

一読者からの投書による質問「私たちは精神的生活が死後もそのまま持続されると信じていますが、精神に異常のある人の場合、とくに永いあいだ錯乱状態にあった人はどうなるのでしょうか」


「精神的に異常のある場合は、精神が地上生活の目的である“発現”のチャンスが与えられなかったということであって、破壊されていたわけではありません。損傷を受けることはありますが、秘められている能力そのものは無傷のままです。発現のチャンスが奪われたということです。

そうした人の場合は、知性が幼児の程度のままでこちらへ来ますので、その発育不足を補うための調整が少しずつ行われます。霊にかかわるものには永遠の傷というものはありません。一時的な状態であり、そのうち調整されます」

「身内の者が出現した時、なぜ霊界での趣味とか研究、今つき合っている人、進歩の程度などについて詳しく話してくれないのでしょうか。何人かの名前をあげたり、花の名前を言ったり、そのうち万事うまく行きますよ、とか、いつもそばにいて力になってあげてますよ、といった簡単なセリフしか言いません。私たちが休日に遊びに行った時の楽しい話を手紙で書き送るような調子で、なぜもっといろいろと語ってくれないのでしょうか」


「それはいささか話が違いますね。もしも、地上との交信が休日の体験を手紙に書くような、そんな簡単なものであれば、もっともっと多くの情報が送れるのですが、残念ながら霊媒を通じて語るのは、手紙で書き送るほど単純なものではないのです。

交信が始まった当初は断片的なものしか語れません。そこで、たとえばあなたがほんの一言でも伝えるチャンスが与えられたとしたら、地上に残した人には“大丈夫よ、みんな元気ですよ”と言ってあげたいと思うのではないでしょうか。それは大いなるメッセージです。とくに初めて霊からのメッセージを聞く人にとっては、大いに意義があります。

ただし、霊は断片的なことしか語らないという言いがかりは、このわたしに関しては当らないと思います。初めのころは断片的でしたが、その後、回を重ねて膨大な量の情報を提供してまいりました。それが多くの書物(霊言集)となって残されております」

祈り


ああ、大霊よ。何はさておき、あなたへの感謝の祈りを捧げることから始めさせていただきます。この驚異に満ちた宇宙のすべてに、あなたの神性の刻印が押されているからでございます。あなたの無限なる知性がこの宇宙を創り出されたからでございます。それを動かすのもあなたの無限なる愛であり、それを維持するのもあなたの無限なる叡智だからでございます。

あなたの霊が千変万化の生命の諸相に行きわたり、その一つ一つの活動をあなたの摂理が認知いたしております。あなたの子等が最高度に魂を高揚された次元において行う行為に顕現されるのは、ほかならぬあなたの神性なのでございます。

あなたは子等のすべてに、あなたの神性の種子を植えつけられました。したがって、この地上生活中のみならず、それを終えたあとの霊の世界においても、あなたと子等の間には、切ろうにも切れない絆があるのでございます。

地上に生をうけている者は、いずこにいようと、いかなる地位にあろうと、階級・肌の色・民族・国家の別なく、すべてあなたの生命の一部であり、あなたの摂理によって維持され、あなたの霊性によって結ばれているのでございます。

かくして子等は、永遠にあなたと結びつけられているのであり、忘れ去られることも、無視されることも有り得ないのでございます。あなたの不変・不易の摂理が、愛と叡智の配剤のもとに支えているのでございます。

わたしどもは、子等が霊と精神と身体を存分に機能させることによって、内部にある神性を自覚し、霊的資質を発現し、あなたから譲りうけた遺産を、豊かで光輝にあふれた人生という形でわがものとしてもらうためには、いかに生きれば良いかを教えたいと念願しているところでございます。

人間は、あなたがその物的器官に宿された霊の資質を行使することによって、物質の領域を超えて高次元の世界の存在と交わることができます。その存在も、かつては物的牢獄に閉じ込められていたのを、今はそれを完全に超越して、愛と奉仕の気持ちから地上圏へ戻ってきているのでございます。

物質と霊の二つの世界が手を握り合い、霊力の流入を妨げている障害を取り除くことによってインスピレーションをふんだんに摂取し、これまであまりに永きにわたって、あまりに多くの者が閉じ込められてきた憂うつと暗黒を打ち払い、霊の光輝によって人生を豊かにすることができるようになることでしょう。

Monday, March 9, 2026

霊訓 「上 」 ステイントン・モーゼス(著)

  The Spirit Teachings

17節

本節の内容著者の不満と要望
拒絶とその理由
これまでの霊訓の復習
著者に反省を求めるために霊団の一時総引き上げを示唆
数学的正確さをもつ証拠は提供不可能
キリストの“私と父は一つである”の真意
著者の旅行先での霊信
性急な要求は事を損ねる
猜疑心の及ぼす影響
著者の忍耐と理性的判断を重ねて要請


〔思うに、私がこうして執拗に霊信に反発しているのを知友たちはさぞかし満足に思っていたことであろう。しかし私としては、激しく私の魂を揺さぶるこの不思議な通信を徹底的に究明すること以外に、それに忠実な道が見出せなかったというに過ぎない。私はどうしても得心がいかないし、得心できぬままでいることも出来なかった。そこで再び論争を挑んだ。インペレーターの通信が終わると私はそれを細かく読み、二日後(一八七三年七月十四日)にその中でどうしても受け入れかねる点について反論した。それは次の三点であった。(一)インペレーターの地上時代の身元、(二)イエス・キリストの本質と使命、(三)通信の内容の真実性を示す証拠。私はこの三点について私以外の霊媒を通じて通信するよう要求し、その霊媒を指定しようと思うがどうかと述べた。同時にこれまでの通信の内容について、いろいろと反論したが、それは今ここで取り挙げるほどのものではない。とにかく、私はその時点での私の確信を正直に表明したが、今にして思えば私の反論は不十分な知識の上で為されていたことが判る。それはその後順次解決されていき、解決されていないものもやがて解決されるであろうとの確信が持てるまでになった。そうは言っても当時の私の心境はおよそ満足と言えるものからは程遠く、私は忌憚なくその不満を打ち明けた。以下がそれに対する回答である――〕


友よ。そなたの述べることには率直さと明快さが窺えて喜ばしく思う。もっとも、そなたはわれらの述べることにそれが欠けていると非難するが……。そなたの(われらの身元についての)要求については、そなたがそう要求する心境は判らぬでもないが、それに応ずるわけには参らぬし、たとえ応じても何の益にもならぬ。申し添えるが、そなたの要求の全てにわれらがすぐに応じぬからとて、われらの側にそなたに満足を与える意志がないわけでは決してない。われらとてそなたの心に確信を植えつけんと切に願っている。が、そうするためにはわれらの側にもその手段と時期に条件がある。計画の一部たりとも阻害され、あるいは遅延のやむなきに至ることは、われらにとりてこの上なく残念なことであり遺憾に思う。そなたにとりてもわれらにとりても残念なことである。が、結果としてこうなった以上は致し方あるまい。われらとて全能ではない。これまで通りの論議と証言の過程による以外に対処する手段はないのである。その論議も証言も今のところそなたの心に得心がいかぬとみえる。ということは、そなたにそれを受け入れる備えが出来ておらぬということと観て、われらはそれが素直にそなたの心に安住の地を見出す日を忍耐強く待つとしよう。

そなたの提出する疑問についてはその殆どに答える必要を認めぬ。現時点にて必要と見たものについてはすでに回答を与えてあるからである。すでに回答を与えたものについて改めて述べても意味があるとは思えぬ。単なる見解の相違の問題につきて深入りするのは無意味であろう。われらの述べたるところがこれまでのわれらの言動に照らしてみて、果たして一致するか否かといったことは些細な問題である。そなたの今の心境はそうした問題について冷静なる判断を下せる状態ではない。また、いわゆるスピリチュアリズムなる思想が究極においてわれらの言う通りのものとなるか、それともそなたが主張する如きものとなるかは、これまたどうでもよい問題である。われらはその問題については一段と高き視野に立って考察しており、それは今のそなたには理解の及ばぬところである。そなたの視野は限られており、それに比してわれらは遥かに広き視野のもとに眺めている。またそなたがわれらの訓えをキリスト教の論理的展開の一つと見るか否かも取るに足らぬ問題である。その道徳的崇高性はそなたも認めている。その論理的根拠についてはここで論ずる必要を認めぬ。そなたが信じようが信じまいが、地上人類が絶対必要としているものであり、そなたが受け入れるか否かに関わりなく、遅かれ早かれ感謝の念をもって人類に受け入れられていく訓えである。そなたがわれらの存在を認め、その布教に手を貸す貸さぬにお構いなく、きっと普及していく訓えである。

われらとしては、そなたのことを良き霊媒を得たと喜んでいた。そして今もそう思っている。何となれば、今のそなたの混乱する心境は一時的な過程に過ぎず、やがて疑うだけ疑った暁に生まれる確信へと変っていくことであろう。が、万一そうではなくそなたが失敗したとなれば、われらは再び神の命令を仰ぎ、われらに託されたる使命達成のために新たなる手段を見出さねばならぬことになる。もっとも霊媒はわれらの究極の目的にとって必ず不可欠というものでもない。が、使用する以上は良き霊媒であることが望ましい。われらがこの上なく嘆かわしく思うのは、そなた自身にとりても啓発と向上の絶好の手段となるべきものを無視せんとする態度に出ていることである。が、それもわれらの手の及ぶところではない。自由意志による判断に基づきてあくまで拒否すると言うのであれば、われらとしてはその決断を尊重し、そなたが精神的にわれらの提供せるものを受け入れる用意のなかったことを残念に思うほかはあるまい。

われらの身元についてであるが、そなたの要求するが如き押しつけがましき方法で証明せんとすることは無益というより、徒に混迷を大きくするのみであろう。

そのような試みは結局は失敗に終わることであろう。そして絶対的確信を得ることは出来ぬであろう。間接的証拠ならば折々に提供していくことも出来ぬではない。好機があればその機を利用するに吝(やぶさ)かではない。われらとの縁が長びけば、それだけそうした機会も多く、証拠も多く蓄積されていくことであろう。が、われらの教説はそのようなもので価値を増すものではない。そのような実体なき基盤の上に成り立つものではない。そのような証拠では“時”の試練には耐え切れぬであろう。われらは精神的基盤の上に訴えるものである。地上的なものでは、一時的にしておよそ得心のいくものでないことを、そなたもそのうち悟る日が来ることを断言しておく。

とは言え、今のそなたの精神状態は得心のいく証拠を要求できる状態ではない。われらは神の味方か、それとも悪魔か、そのいずれかであろう。もしもわれらが自ら公言している如く神の味方であるとすれば、そなたの言うが如き、世間から嘲笑をもって受けとめられるような言説をわざわざでっち上げる気遣いはあるまい。が、もしもわれらがそなたの思いたがるように悪魔の手先であれば、その悪魔の述べる言説が明らかに崇高な神性を帯びているのは何故か、そなた自ら問い直してみるがよかろう。われらとしては、このような問題にこれ以上関わろうとは思わぬ。これまでわれらが述べてきたところを正しく吟味検討してくれさえすれば、それが悪魔の言葉と結論づけられる気遣いは毛頭ない。関心を向けるべきは通信の内容であり、通信者の身元ではない。

われら自身のことはどうでもよいことである。大事なのは神の仕事であり、神の真理である。今のそなたにとりて最も大事な問題はそなた自身のことであり、そなたの未来のことである。そのことを時間をかけてじっくり考え、とくと反省するがよい。そなたを中心として得られた啓示の顕れ方がいささか急激に過ぎ、目を眩ませたようである。言いたいことも多々あろうが、今は黙して真摯に、そして厳粛に熟考するがよい。われらも暫し身を引き、そなたにその沈思黙考に耽る余裕を与えたく思う。と言うことはそなたを一人置き去りにするということではない。より一層の警戒心をもつ複数の守護の霊と、より経験豊かなる同じく複数の指導の霊がそなたのそばに待機するであろう。その方がわれらにとりても得策であるように思う。と言うのも、事態がかくの如くなった以上は、果たしてこれより後もこの仕事を続行すベきや否や、それともこれまでの努力が無駄であったとして改めて仕事を始めからやり直すべきや否やを“時”が判断してくれるかも知れぬからである。いずれにせよ、これほど多くの努力と、これほど多くの祈りを傾注せる仕事が実を結ぶことなく地に落ちるとは、何とも悲しき失望であることには相違なかろう。しかし、われらもそなたもあくまで内に宿せる道義の光に照らして行動せねばならぬ。これまでの経緯に関するかぎり責任はすべてわれらの側にある。故にわれらは問題を解決すべく何らかの手を打たねばならぬ。これまでより一層多くの祈りを、一層の熱意を込めてそなたに送るとしよう。きっと一層の効果をあげるであろうことを確信する。

では、これにてさらばである。神の加護と導きのあらんことを。

(†インペレーター)


〔このあと私は数回に亙って通信を試みた。また始めに示唆した通りに、一面識もない霊媒のところへ行ってみた。そして私の背後霊についての情報、とくにインペレーターの身元の確認を得ようと、出来るかぎりのことを試みた。が、無駄だった。得られた情報は、私についている霊はZOUDと名のるロシア人の歴史家だということだけだった。帰宅すると私はさっそくそのことを書いて通信を求めた。すると、その霊媒の述べたことは間違いであると断言してからこう綴った(1)――〕


われわれとしては、そのような霊言を信じることはとても勧められない。信頼が置けないからである。われわれの忠告を無視して一面識もない、しかも、われわれと何の協力関係もない霊たちと通信を試みれば、信のおけぬ通信を受け取り事態をますます混乱させることになろう。


〔この忠告にも私は強く反発し、あの機会を利用してくれていれば私の合理的要求を満たすことは容易に出来たはずだと述べた。すると同じ霊が――〕


それは違う。われわれとしても満足を与えたい気持は山々である。が、あの会場への出現は(インペレーターから)止められたのである。しかも、われわれは貴殿の出席は阻止できなかった。あのような体験は今の貴殿には毒になるばかりである。禍いを招くことにしかならぬ故に今後一切あのような招霊会には出席せぬよう厳重に忠告しておく。今必要なのは耐えることである。性急に無理強いすることは徒にわれわれにとって迷惑と困惑を生じさせるのみである。それよりも静かに心を休め、待つことのほうが遥かによい。全てインペレーターが良きに計らって下さる。早まった行動は誤りのもとである。


――しかし(と私は反抗的に述べた)あなたたちこそグルになって私を迷わせているようにしか思えません。私の要求には何一つ応じられないというのですか。


友よ。そなたの要求するが如き数学的とも言うべき正確なる証拠は、得ようとしても所詮無理である。われらとしても、そなたの求むる通りのものを授けることは出来ぬ。たとえ出来たとしても、それがそなたにとりて益になるとは思えぬ。全てはわれらの側にて良きに計らってある。


〔これはインペレーターである。私はとても気持が治まらないので、やむなく通信を一たん中止した。そして七月二十四日に神学上の問題について幾つかの質問を提出した。その一つは例の「私と父は一つである(2)」という有名な文句に言及したものだった。以前、霊言による対話の中で私は、インペレーターの言説がこの文句と相容れないものであることを主張したことがあったのである。そういう経緯もあって質問することになったのであるが、それに対してこう回答してきた――〕


そなたの引用せる文句は前後の脈絡の中において理解せねばならぬ。その時イエスはエルサレムでハヌカー祭(3)に出席していた。その折そこに集まれる民衆が“もしもあなたがキリスト神だと言うのであれば、その明確な証を見せてほしい”とイエスに迫った。彼らは今のそなたと同様に疑念を晴らすための何らかの“しるし”を求めたのである。そこでイエスはわれらと同じく、自分の説く訓えとその訓えによりてもたらされる業(わざ)の中に神のしるしを見てほしいと述べた。またそれを理解する備えのある者――イエスの言う“父の羊たち”――はその訓えの中に父の声を聞き、それに答えたも同然であると述べた。が、質問者たちはそのような回答を受け入れることが出来なかった。なぜなら、彼らにはそれが理解できず、信ずる心の準備が出来ていなかったからである。備えある者はイエスの言葉に従って永遠なる生命と進歩と生き甲斐を得た。それこそが神の意図するところであり、誰もそれを妨げることは出来ぬ。彼らは父のもとに預けられたのであり、彼らのみならず、人類の全てに新たなる息吹きを吹き込んだのである。すなわち、父なる神と、その真理の教師たるイエスが一体となった――「私と父は一つである」

イエスはそう述べたのである。が、そのユダヤ人たちはそれを神の名誉を奪うものであるとして非難のつぶてを投げつけた。しかし、イエスの弁明は正しかった。どう正しかったか。己の神性を認め、神の子であることを弁明した点において正しかったのである。それが余にも弁明できるかとな? それは出来ぬ。が、その心に陰日向(かげひなた)の一かけらもなきイエスは、その非難に驚き、こう聞き返した――一体自分の行なえる奇跡のどれをもって非難するのかと。非難者たちは答えた。奇跡のことを非難しているのではない。完全な神と一体であるなどと公言するその倣慢不遜の態度を非難するのであると。そう言われたイエスはこれを無視して取り合わなかった。なぜか。聖書にもある如く、イエスは自分と神とが一体であるとの言葉を霊性に目覚めた者すベてに適用し、「あなたたちも神である」と述べていたからである。ならばイエスほどの特殊なる使命を背負える人物が自分は神の子であると述べて、果たしてそれを不遜なる言葉と言えるであろうか。疑うのなら私の為せる業を見よ、とも言っている。そこには自分こそが神であるなどという意味はかけらもない。むしろその逆である。


〔翌二十五日、私が霊媒となって霊言による交霊会を開き、インペレーターがしゃベった(4)。が、これといって私の精神状態に触れたものは出なかった。他の列席者は私の抱える事情には全く関心がなく、私を通じて彼らなりの問題を提出し彼らなりの解決を得た。その間私の意識は休止状態なので霊言そのものには影響はなかった。そのあと最近他界したばかりの知人が出て私しか知らない事実に言及し、確かな身元の確認が得られた。これには私も感心したが、満足は得られなかった。

それから夏休暇(5)に入り、私はロンドンを発ってアイルランドヘの旅に出た。行った先でロンドンの病床にある友人に関する興味深い通信を得たが、私の一番の悩みを解決するものではなかった。アイルランドからこんどはウェールズへ向かった。そして八月二十四日にインペレーターからの別の通信を受け取った。これは紹介しておく必要があると思うのでこのあと紹介するが、この時も私は懸命に私の要求に対する回答を引き出そうとしたが、どうしてみたところで私の為にはならぬという警告を受けた。その時の私の体調があまり勝れず、精神状態は混乱していた。先のことをあまり考えずに、これまでの経過をよく復習するようにとの忠言を受けた。〕


これまでたどれる道をよく振り返ってみることである。われらに許された範囲でそなたのために尽くせるもろもろのことを細かく吟味し直すことである。その上で今そなたが目の前にしているものの価値を検討してみるがよい。その価値を正しく評価し、われらの言説の崇高性に注目してもらいたい。われらはそなたの今の精神状態が生み出す疑問そのものを咎めはせぬ。そなたが何もかも懐疑的態度でもって検討することはやむを得ぬ。人間は自分と対立する意見はとかく疑ってかかるものだからである。ただ、そなたの性急な性格があまりにも結論をあせり過ぎることを注意しているのである。精神的に混乱するのもその所為である。何かと面倒が生ずるのもその所為である。それは咎めはせぬ。われらが指摘しているのは、そのような心の姿勢では公平無私なる判断は下せぬということである。その性急な態度を和らげ、結論をあせる気持を抑え、一方ではアラ探し的な批判をやめ、われらの言説の中に建設的な面を見出してもらいたい。今のところそなたはあまりに破壊的過ぎるのである。

さらに友よ、そなたの抱ける疑問と混乱は、それが取り除かれるまでは、われらの今後の進展にとっても障害となることを忘れてはならぬ。これまでも大いに障害となり、進展を妨げて来た。が、それは(仕事の性質上)やむを得なかったと言えよう。が、これ以後は思い切り心を切り換え、判断を迷わせる原因となってきたわだかまりを、きれいさっぱりと洗い流してほしい。暫しの休息と隔離のあと、是非そうなってくれることを期待している。われらが出る交霊会も、出席者が和気あいあいたる精神に満ちていることが何より大切である。湧き出る疑念は、旅人を迷わせる靄と同じく、われらの行く手を阻む。靄の中では仕事は出来ぬ。是非とも取り除かねばならぬ。先入観を棄てて正直に過去を点検すればきっと取り除かれるであろうことを信じて疑わぬ。そなたの心の地平線に真理の太陽が昇れば、立ちどころに消滅するであろう。そして眼前に広がる新たなる視野に驚くことであろう。

ムキにならぬことである。そなたにとりて目新しく聞き慣れぬものも、ただそれだけの理由で拒絶することは止めよ。そなたの判断の光に照らして吟味し、必要とあらばひとまずそれを脇へ置き、もう一歩進んだ啓発を求めるがよい。真摯にして真っ正直な心には、時が至れば全てが叶えられる。今のそなたにとりて目新しく聞き慣れぬことも、いつかはしっくりと得心のいく段階に到達するであろう。ともかく、そなたの知らぬ新しき真理、これより学ばねばならぬ真理、改めねばならぬ古き誤りがまだまだ幾らでも存在するという事実を忘れぬことである。

(†インペレーター)


〔注〕

(1)


インペレーターの指揮下にある別の霊による。


(2)


ヨハネ10‥30


(3)


Hanukkah 古代シリアのアンチオコス四世によって奪われたエルサレム神殿を、ユダヤの独立運動の指導者マカベウスが奪回したことを記念する祭。


(4)


スピーア博士宅ではこの霊言が多かったが、モーゼス自身は入神状態なので記憶がなく、したがって客観的な証拠とはなっていない。


(5)


当時モーゼスは学校の教師をしていた。