Wednesday, October 7, 2026

シルバーバーチの霊訓(四)

Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor
Psychic Prees Ltd.




三章 再生の原理

〝再生〟───生れ変わり───はスピリチュアリストの間でも議論の的となっている問題で、とかく意見が食い違うことがある。

シルバーバチはこれを全面的に肯定するスピリットの一人であるが、ただ従来の輪廻転生説にみられる機械的な生の繰り返しでは無く、進化の為の埋め合わせを目的とし、しかも生まれ変わるのは同一霊の別の意識層であるとする。次がそれについての問答である。


───意識が部分的に分かれて機能することが可能なのでしょうか。

 「今のあなたという意識とは別に、同じくあなたと言える大きな意識体があります。それのホンの一部(分霊)がいま地上という物質界でそのあなたを通じて表現されているわけです。そして、あなたの他にも同じ意識体を構成する分霊が別の世界で表現されております」

(訳者注───ここでいう〝意識体〟は次の質問に対する答えの中に出てくる〝内奥の霊的実在〟と同じで、これを私は浅野和三郎氏に倣って〝中心霊〟と訳しておく)


───個々が独立しているのでしょうか。

 「いいえ、独立はしていません。あなたも他の分霊も一個の中心霊の側面です。つまり全体を構成する一部であり、それぞれがさまざまな媒体を通して自我を表現しており、時おりその分霊どうしが合体することもあります。

※ですから、分霊どうしが霊的に無縁というわけではありませんが、互いに意識するのは何らかの媒体を通して自己表現し始めてからのことです。そのうち合流点にたどり着いて、最終的には全体として一つに再統一されます」 

平成5年7月15日 第3刷発行では次のようになっている──※「合体したことに互いが気づかないこともありますが、それは表現しはじめて間もない頃(霊的な幼児期)にかぎられます。そのうち共通の合流点を見いだして最終的には全体として一つに統一されます。

(マイヤースはその部分的存在を〝類魂(グループソール)〟と呼んでいるー訳者)


───その分霊どうしが地上で会っていながらそうと気づかないことがあるのでしょうか。

 「中心霊を一つの大きな円として想像してください。その円を構成する分霊が離ればなれになって中心核のまわりを回転しています。時おり分霊どうしが会ってお互いが共通の円の中にいることを認識し合います。そのうち回転しなくなり、各分霊がそれぞれの場を得て再びもとの円が完成されます」


───二つの分霊が連絡し合うことができますか。

 「必要があればできます」


───二つの分霊が同時に地上に誕生することがありますか。

 「ありません。全体の目的に反することだからです。個々の意識であらゆる界層での体験を得るということが本来の目的です。同じ界層へもう一度戻ることがあるのは、それなりに成就すべき(埋め合わせをすべき)ことが残っている場合に限られます」


───個々の意識はみずからの進化にみずからが責任を負い、他の分霊の体験による恩恵は受けないというのは本当でしょうか。

 「そのとおりです。個々の霊は一つの中心霊の構成分子であり、さまざまな形態で自我を表現しているわけです。進化するにつれて小我が大我を意識していきます」

(訳者注ーマイヤースは〝類魂〟の説明の中で他の仲間の体験を自分のものとすることが出来ると述べている。ここでシルバーバーチはそれを否定するかのようなことを述べているが、マイヤースが喜怒哀楽を中心とした体験を言っているのに対して、シルバーバーチは例によって因果律の観点から述べているのであって、たとえ同じ類魂同士とはいえ、他の仲間の苦難の体験によって罪業が中和されたりすることはないという意味に解釈すべきである)


───そうして進化のある一点においてそれらの小我が一体となるわけですね。

 「(理屈では)そうです。無限の時を経てのことですが・・・」


───個々の小我の地上への誕生は一回きり、つまり大我としては再生の概念は当てはまっても小我には再生はないという考えは正しいでしょうか。

 「それは成就すべき目的いかんに関わる問題です。同じ小我が二度も三度も再生することがあります。ただしそれは特殊な使命のある場合に限られます」


───一つの意識体の個々の部分、というのはどういうものでしょうか。
 
 「これは説明の難しい問題です。あなた方には〝生きている〟ということの本当の意味が理解できないからです。実はあなた方にとっての生命は実質的には最も下等な形態で顕現しているのです。

そのあなた方には生命の実体、あなた方に思いつくことのできるものすべてを超越した意識を持って生きる、その言語を絶した生命の実情はとても想像できないでしょう。

 宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかなカゲを見たにすぎません。

鈍重なる物質によってその表現が制限されているあなた方に、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問いにどうして答えられましょう。

 私の苦労を察してください。譬えるものがちゃんとあればどんなにか楽でしょうが、地上にはそれが無い。あなた方にはせいぜい光と影、日向と日陰の比較ぐらいしかできません。虹の色は確かに美しい。ですが、地上の言語で説明できないほどの美しい霊界の色彩を虹に譬えてみても、美しいものだという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです」


───再生は自発的なものでしょうか。それとも果たすべき目的があってやむを得ず再生するのでしょうか。

 「そのいずれの場合もあります」


───ということは、つまり強制的ということですね。

 「強制的という言葉の意味が問題です。誰かに再生しろと命令されるのであれば強制的と言ってもいいでしょうが、別にそういう命令が下るわけではありません。ただ地上で学ばねばならない教訓、果たすべき仕事、償うべき前世での過ち、施すべきでありながら施さなかった親切、こうしたものを明確に自覚するようになり、今こそ実行するのが自分にとって最良の道だと判断するのです」


───死後は愛の絆のある者同士が生活を共にすると聞いておりますが、愛する者が再生していったら残った者との間はどうなるのでしょうか。

 「別に問題はありません。物的な尺度で物ごとを考えるからそれが問題であるかに思えてくるのです。何度も言っていることですが、地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分に過ぎません。私はそれを大きなダイヤモンドに譬えています。

一つのダイヤモンドには幾つかの面があり、その内の幾つかが地上に誕生するわけです。すると確かに一時的な隔絶が生じます。つまりダイヤモンドの一面と他の面との間には物質という壁ができて一時的な分離状態になることは確かです。が、愛の絆のあるところにそんな別れは問題ではありません」


───霊魂は一体どこから来るのですか。どこかに魂の貯蔵所のようなものがあるのでしょうか。地上では近頃産児制限が叫ばれていますが、作ろうと思えば子供は幾らでも作れます。でもその場合、魂はどこから来るのでしょうか。

 「あなたのご質問には誤解があるようです。あなたがた人間が霊魂をこしらえるのではありません。人間がすることは霊魂が自我を表現するための器官を提供することだけです。生命の根源である〝霊〟は無限です。無限なるものに個性はありません。

その一部が個体としての表現器官を得て地上に現われる。その表現器官を提供するのが人間の役目なのです。霊は永遠の存在ですから、あなたも個体に宿る以前からずっと存在していたわけです。しかし個性を具えた存在、つまり個体としては受胎の瞬間から存在を得ることになります。

霊界にはすでに地上生活を体験した人間が大勢います。その中にはもう一度地上へ行って果たさねばならない責任、やり直さなければならない用事、達成しなければならない仕事といったものを抱えている者が沢山います。そして、その目的のためのチャンスを与えてくれる最適の身体を求めているのです」


───人間の霊も原始的段階から徐々に進化してきたものと思っていましたが・・・

 「そうではありません。それは身体について言えますが霊は無始無終です」


───古い霊魂と新しい霊魂との本質的な違いはどこにありますか。

 「本質的な違いは年輪の差でしょう。当然のことながら古い霊魂は新しい霊魂より年上ということです」


───類魂の一つひとつを中心霊の徳性の表現とみてもいいでしょうか。

 「それはまったく違います。どうも、こうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天の日のあの青く澄みきった空の美しさを説明するようなもので、譬えるものがないのですから困ります」


───それはマイヤースの言う類魂と同じものですか。

 「まったく同じものです。ただし、単なる類魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化のために各自が体験を求めて物質界にやって来るのです」


───その意識の本体に戻った時各霊は個性を失ってしまうのではなかろうかと思われるのですが・・・・・。

 「川が大海へ注ぎ込んだとき、その川の水は存在が消えてしまうのでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏している時、例えばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか」


───なぜ霊界の方から再生の決定的な証拠を提供してくれないのでしょうか。

 「霊言という手段によっても説明しようのない問題に証拠などありえるでしょうか。意識に受け入れ態勢が整い、再生が摂理であることが明確になって初めて事実として認識されるのです。再生はないと言う者が私の世界にもいるのはそのためです。

まだその事実を悟れる段階にまで達していないからそう言うに過ぎません。宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしょうがないでしょう。芸術家がインスピレーションの体験話を芸術的センスのない人に聞かせてどうなります。意識の段階が違うのです」


───再生するということが自分で分かるのでしょうか。

 「魂そのものは本能的に自覚します。しかし知的に意識するとはかぎりません。神の分霊であるところの魂は、永遠の時の流れの中で一歩一歩、徐々に表現を求めています。が、どの段階でどう表現してもその分量は僅かであり、表現されない部分が大半を占めています」


───では無意識のまま再生するのでしょうか。

 「それも霊的進化の程度次第です。ちゃんと意識している霊もいれば意識しない霊もいます。魂が自覚していても、知覚的には意識しないまま再生する霊もいます。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題で、とてもあなた方の言語では説明しかねます」


───生命がそのように変化と進化を伴ったものであり、生れ変わりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか。

「愛は必ず成就されます。なぜなら愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛は必ず愛する者を引寄せ、また愛する者を探し当てます。愛する者同志を永久に引き裂くことは出来ません」


───でも再生を繰り返せば互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが。

 「一致しないのはあなたの天上の幸せの観念と私の天上の幸せの観念の方でしょう。宇宙及びその法則は神が拵えたのであって、その子供であるあなた方が拵えるのではありません。賢明なる人間は新しい事実を前にすると自己の考えを改めます。自己の考えに一致させるために事実を曲げようとしてみても所詮は徒労に終わることを知っているからです」


───これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間であってもいいと思うのですが・・・。

 「物質界にあっても聖人は聖人ですし、最下等の人間は何時までも最下等のままです。体験を積めば即成長というわけにはいきません。要は魂の進化の問題です」


───これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか。
 
 「そうです。無限に続きます。なんとなれば苦難の試練を経て始めて神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられて初めてその輝きを見せるように、神性も苦難の試練を受けて始めて強く逞しい輝きを見せるのです」

───そうなると死後に天国があるということが意味がないのではないでしょうか。

 「今日あなたには天国と思えることが明日は天国とは思えなくなるものです。というのは真の幸福というものは今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです」


───再生する時は前世と同じ国に生まれるのでしょうか。例えばインディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人に、と言う具合に。

 「そうとは限りません。目指している目的のために最も適当と思われる国、民族を選びます」


───男性か女性かの選択も同じですか。

 「同じです、必ずしも前生と同じ性に生まれるとは限りません」


───死後、霊界へ行ってから地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してから又同じ罪の償いをさせられるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのですか。

 「償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。

生まれ変わるということは必ずしも罪の償いのためとは限りません。欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。もちろん償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながらそれを果たせなかったことをもう一度学びに行くという場合もあります。罪の償いとばかり考えてはいけません。

ましてや二度も罰せられるということは決してありません。神の摂理を知れば、その完璧さに驚かされるはずです。決して片手落ちということがないのです。完璧なのです。神そのものが完全だからです」


───自分は地上生活を何回経験している、ということをはっきりと知っている霊がいますか。

 「います。それが分かるようになる段階まで成長すれば自然にわかるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることはできないのと同じです。名前を幾つかあげても結構ですが、それでは何の証拠にもなりますまい。何度も言ってきましたように、再生の事実は〝説く〟だけで十分なはずです。

私は神の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知っている通りを述べているのです。

私の言うことに得心がいかない人がいても、それは一向にかまいません。私はあるがままの事実を述べているだけですから。人が受け入れないからといって、別にかまいません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう」


───再生問題は問題が多いから、それを避けて、死後の存続ということだけに関心の的を絞るという考えは如何でしょう。

 「闇の中にいるよりは光の中にいる方がよろしい。無知のままでいるよりは摂理を少しでも多く知った方がよろしい。何もしないでじっとしているよりは、真面目に根気よく真理の探究に励む方がよろしい。向上を目指して奮闘するのが良いに決まっています。死後存続の事実は真理探究の終着駅ではありません。

そこから始まるのです。自分が神の分霊であること、それ故に何の苦もなく、何の変化もなく〝死〟の関門を通過できるという事実を理解したとき、それで全てがおしまいになるのではありません。そこから本当の意味で〝生きる〟ということが始まるのです」


───新しい霊魂はどこから来るのですか。

 「その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこから来るというものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命力そのものであり、神そのものなのです。

聖書でも〝神は霊なり〟と言っております。ですからその質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、という意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答えしましょう」


───ということは、われわれは神という全体の一部だということですか。

 「その通りです。だからこそあなた方は常に神と繋がっていると言えるのです。あなたという存在は決して切り捨てられることはあり得ないし、消されることもあり得ないし、破門されるなどということもあり得ません。生命の根源である神とは切ろうにも切れない、絶対的な関係にあります」


───でも、それ以前にも個体としての生活はあったのでしょう。

 「これまた用語の意味が厄介です。あなたのおっしゃるのは受胎の瞬間から表現を開始した霊魂はそれ以前にも個体としての生活があったのではないか、という意味でしょうか。その意味でしたら、それはよくあることです。

但し、それは今地上で表現し始めた個性と同じではありません。霊は無限です。無限を理解するには大変な時間を要します」


───再生するに際して過ちのないように指導監督する官庁のようなものが存在するのでしょうか。

 「こうした問題は全て自然法則の働きによって解決されます。再生すべき人は自分でそう決心するのです。つまり意識が拡大し、今度再生したらこれだけの生長が得られるということがわかるようになり、それで再生を決意するのです。再生専門の機関や霊団がいるわけではありません。全て魂自身が決めるのです」


───再生するごとに進歩するのでしょうか。時には登りかけていた階段を踏み外して一番下まで落ちるというようなこともあるのでしょうか。

「すべての生命、特に霊的な生命に関するかぎり、常に進歩的です。今は根本的な霊性についてのみ述べています。それが一ばん大切だからです。一たん神の摂理に関する知識を獲得したら、それを実践するごとに霊性が生長し、進歩します。進歩は永遠に続きます。なぜなら、完全なる霊性を成就するには永遠の時間を要するからです」


───先天性心臓疾患の子や知能障害児は地上生活を送っても何の教訓も得られないのではないかと言う人がいます。私たちスピリチュアリストはこうした難しいことは神を信じて、いずれは真相を理解する時が来ると信じているわけですが、疑い深い人間を説得するいい方法はないものでしょうか。

 「疑い深い人間につける薬はありません。何でも疑ってかかる人は自分で納得いくまで疑ってかかればよろしい。納得がいけばその時初めて疑いが消えるでしょう。私は神学者ではありません。宗教論争をやって勝った負けたと言い争っている御仁とは違います。

すべては悟りの問題です。悟りが開ければ、生命の神秘の理解がいきます。もっとも、全てを悟ることはできません。全てを悟れるほどの人なら地上には来ないでしょう。地上は学校と同じです。

少しずつ勉強し、知識を身につけていくうちに、徐々に霊性が目覚めていきます。すると更に次の段階の真理を理解する力がつくわけです。それが人生の究極の目的なのです。激論し合ったり、論争を求められたりするのは私はごめんこうむります。

私はただこれまで自分が知り得たかぎりの真理を説いて教えてさし上げるだけです。お聞きになられてそれはちょっと信じられないとおっしゃれば、〝そうですか。それは残念ですね(アイアムソリー)〟と申し上げるほかはありません」


───霊にいくつかの側面があり、その内の一つが地上に生れ、残りは他の世界で生活することもあり得る、という風におっしゃいましたが、もう少し詳しく説明していただけませんか。

 「私たち霊界の者は地上の言語を超越したことがらを、至ってお粗末な記号にすぎない地上の言語でもって説明しなくてはならない宿命を背負っております。言語は地上的なものであり、霊はそれを超越したものです。その超越したものを、どうして地上的用語で説明できましょう。これは言語学でいう意味論の重大な問題でもあります。

私に言わせれば、霊とはあなた方のいう神 God 、私のいう大霊 Great Spirit の一部分です。あなた方に理解のいく用語で表現しようにも、これ以上の言い方は出来ません。生命力 life force 動力 dynamic、活力 vitality、本質 real essence、神性 divinity、それが霊です。

かりに私が〝あなたはどなたですか〟と尋ねたらどう答えますか。〝私は〇〇と申すものです〟などと名前を教えてくれても、あなたがどんな方か皆目分かりません。

個性があり、判断力を持ち、思考力を具え、愛を知り、そして地上の人間的体験を織りなす数々の情緒を表現することの出来る人───それがあなたであり、あなたという霊です。その霊があるからこそ肉体も地上生活が営めるのです。

霊がひっこめば肉体は死にます。霊そのものに名前はありません。神性を具えているが故に無限の可能性を持っています。無限ですから無限の表現も可能なわけです。

その霊にいつくかの面があります。それを私はダイヤモンドに譬えるわけです。それぞれの面が違った時期に地上に誕生して他の面の進化のために体験を求めるのです。

もしも二人の人間が別格に相性がいい場合(めったにないことですが)それは同じダイヤモンドの二つの面が同じ時期に地上に誕生したということが考えられます。

そうなると当然、二人の間に完全なる親和性があるわけです。調和のとれた全体の中の二つの部分なのですから。これは再生の問題に発展していきます」


───あなたがダイヤモンドに譬えておられるその〝類魂〟について、もう少し説明していただけませんか。それは家族関係(ファミリー)のグループですか、同じ霊格を具えた霊の集団ですか、それとも同じ趣味を持つ霊の集まりですか。あるいはもっとほかの種類のグループですか。


 「質問者がファミリーという言葉を文字通りに解釈しておられるとしたら、つまり血縁関係のある者の集団と考えておられるとすれば、私のいう類魂はそれとはまったく異なります。肉体上の結婚に起因する地上的姻戚関係は必ずしも死後も続くとは限りません。そもそも霊的関係というものは、その最も崇高なものが親和性に起因するものであり、その次に血縁関係に起因するものが来ます。

地上的血縁関係は永遠なる霊的原理に基づくものではありません。類魂というのは、人間性にかかわった部分にかぎって言えば、霊的血縁関係ともいうべきものに起因した霊によって構成されております。

同じダイヤモンドを形づくっている面々ですから、自動的に引き合い引かれ合って一体となっているのです。その大きなダイヤモンド全体の進化のために個々の面々が地上に誕生することは有り得ることですし、現にどんどん誕生しております」


───われわれ個々の人間は一つの大きな霊の一分子ということですか。
 
 「そういってもかまいませんが、問題は用語の解釈です。霊的には確かに一体ですが、個々の霊はあくまで個性を具えた存在です。その個々の霊が一体となって自我を失ってしまうことはありません」


───では今ここに類魂の一団がいるとします。その個々の霊が何百万年かの後に完全に進化しきって一個の霊になってしまうことは考えられませんか。

 「そういうことはあり得ません。なぜなら進化の道程は永遠であり、終わりが無いからです。完全というものは絶対に達成されません。一歩進めば、さらにその先に進むべき段階が開けます。聖書に、己を忘れる者ほど己を見出す、という言葉があります。これは個的存在の神秘を説いているのです。

つまり進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていくということです。おわかりですか。個人的存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり、個性的存在というのは霊魂に具わっている神的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて利己性が薄れ、一方、個性はますます発揮されていくわけです」


───〝双子霊〟Twin Souls というのはどういう場合ですか。

 「双子霊というのは一つの霊の半分ずつが同時に地上に生を享けた場合のことです。自分と同じ親和性を持った霊魂───いわゆるアフィニティ affinity── は宇宙にたくさんいるのですが、それが同じ時期に同じ天体に生を享けるとは限りません。

双子霊のようにお互いが相補い合う関係にある霊同士が地上で巡り合うという幸運に浴した場合は、正に地上天国を達成することになります。霊的に双子なのですから、霊的進化の程度も同じで、従ってその後も手に手を取り合って生長していきます。私が時おり〝あなたたちはアフィニティですね〟と申し上げることがありますが、その場合がそれです」


───双子霊でも片方が先に他界すれば別れ別れになるわけでしょう。

 「肉体的にはその通りです。しかしそれもホンの束の間のことです。肝心なのは二人は霊的に一体関係にあるということですから、物質的な事情や出来ごとがその一体関係に決定的な影響を及ぼすことはありません。しかも、束の間とはいえ地上での何年かの一緒の生活は、霊界で一体となった時と同じく、素晴らしい輝きに満ちた幸福を味わいます」


───物質界に誕生する霊としない霊がいるのはなぜですか。

 「霊界の上層部、つまり神庁には一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験をしなくても成長進化を遂げることが出来るのです。頭初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上に降りてくることがあります。歴史上の偉大なる霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合がいくつかあります」


───大きな業(カルマ)を背負って生れてきた人間が、何かのキッカケで愛と奉仕の生活に入った場合、その業がいっぺんに消えるということは有り得ますか。

 「自然法則の根本はあくまでも原因と結果の法則、つまり因果律です。業もその法則の働きの中で消されていくのであって、途中の過程を飛び越えていっぺんに消えることはありません。原因があれば必ずそれ相当の結果が生じ、その結果の中に次の結果を生み出す原因が宿されているわけで、これはほとんど機械的に作動します。

質問者がおっしゃるように、ある人が急に愛と奉仕の生活に入ったとすれば、それはそれなりに業の消滅に寄与するでしょう。しかし、いっぺんにというわけには行きません。愛と奉仕の生活を積み重ねていくうちに徐々に消えていき、やがて完全に消滅します。業という借金をすっかり返済したことになります」


───戦争と事故、疾病などで何万もの人間が死亡した場合も業だったのだと考えるべきでしょうか。もって生まれた寿命よりも早く死ぬことはないのでしょうか。戦争は避けられないのでしょうか。もし避けられないとすると、それは国家的な業ということになるのでしょうか。

 「業というのは詰るところは因果律のことです。善因善果、悪因悪果というのも大自然の因果律の一部です。その働きには何者といえども介入を許されません。これは神の公正の証として神が用意した手段の一つです。もし介入が許されるとしたら、神の公正は根底から崩れます。

因果律というのは行為者にそれ相当の報酬を与えるという趣旨であり、多すぎることも少なすぎることもないよう配慮されています。それは当然個人だけでなく個人の集まりである国家についても当てはまります。次に寿命についてですが、寿命は本来、魂そのものが決定するものです。

しかし個人には自由意志があり、また、もろもろの事情によって寿命を伸び縮みさせることも不可能ではありません。戦争が不可避かとの問いですが、これはあなた方人間自身が解決すべきことです。

自由意志によって勝手なことをしながら、その報酬は受けたくないというようなムシのいい話は許されません。戦争をするもしないも人間の自由です。が、もし戦争の道を選んだら、それをモノサシとして責任問題が生じます」


───寿命は魂そのものが決定するとおっしゃいましたが、すべての人間に当てはまることでしょうか。たとえば幼児などはどうなるのでしょう。判断力や知識、教養などが具わっていないと思うのですが・・・。

 「この世に再生する前の判断力と、再生してからの肉体器官を通じての判断力とでは大きな差があります。もちろん再生してからの肉体器官の機能の限界のために大きな制限を受けます。しかし大半の人間は地上で辿るべき道程について再生前からあらかじめ承知しています」


───地上で辿るべきコースが分っているとすると、その結果得られる成果についてもわかっているということでしょうか。

 「その通りです」


───そうなると、前もって分っているものをわざわざ体験しに再生することになりますが、そこにどんな意義があるのでしょうか。

 「地上に再生する目的は、地上生活から戻って来て霊界で行うべき仕事があって、それを行うだけの霊的資格(実力)をつけることにあります。前もって分ったからといって、霊的進化にとって必要な体験を身につけたことにはなりません。

 たとえば世界中の書物を全部読むことは出来ても、その読書によって得た知識は、体験によって強化されなければ身についたとは言えますまい。霊的生長というのは実際に物ごとを体験し、それにどう対処するかによって決まります。その辺に地上への再生の全目的があります」


───航空機事故のような惨事は犠牲者及びその親族が業を消すためなのだから前もって計画されているのだという考えは、私にはまだ得心がいきませんが・・・。

 「ご質問はいろいろな問題を含んでおります。まず、〝計画されている〟という言い方はよくありません。そういう言い方をすると、まるで故意に、計画的に、惨事を引き起こしているように聞こえます。すべての事故は因果律によって起こるべくして起きているのです。

その犠牲者───この言い方も気に入りませんが取り敢えずそう呼んでおきます───の問題ですが、これには別の観方があることを知って下さい。つまり、あなた方にとって死は確かに恐るべきことでしょう。が私たち霊界の者とっては、ある意味で喜ぶべき出来ごとなのです。

赤ちゃんが誕生すればあなた方は喜びますが、こちらでは泣き悲しんでいる人がいるのです。反対に死んだ人は肉体の束縛から解放されたのですから、こちらは大よろこびでお迎えしています。

次に、これはあなた方には真相を理解することは困難ですが、宿命というものが宇宙の大機構の中で重大な要素を占めているのです。これは運命と自由意志という相反する二つの要素が絡み合った複雑な問題ですが、二つとも真実です。

つまり運命づけられた一定のワクの中で自由意志が許されているわけです。説明の難しい問題ですが、そう言い表すほかにいい方法が思い当たりません」


───事故が予知できるのはなぜでしょう。

 「その人が一時的に三次元の物的感覚から脱して、ホンの瞬間ですが、時間の本来の流れをキャッチするからです。大切なことは、本来時間というのは〝永遠なる現在〟だということです。このことをよく理解して下さい。人間が現在と過去とを区別するのは、地上という三次元の世界の特殊事情に起因するのであって、時間には本来過去も未来もないのです。

三次元の障壁から脱して本来の時間に接した時、あなたにとって未来になることが今現在において知ることが出来ます。もっとも、そうやって未来を予知することが当人にとってどういう意味を持つかは、これはまた別の問題です。

単に物的感覚の延長に過ぎない透視、透聴の類の心霊的能力 Psychic Powers によっても予知できますし、霊視・霊聴の類の霊感 spiritual Powers によっても知ることが出来ます。Psychic と spiritual は同じではありません。

いわゆる ESP (Extra Sensory Perception 超感覚的知覚 )は人間の霊性には何のかかわりもなく、単なる五感の延長に過ぎないことがあります」

  
───占星術というのがありますが、誕生日が人の生涯を支配するものでしょうか。

 「およそ生命あるものは、生命を持つが故に何らかの放射を行っております。生命は常に表現を求めて活動するものです。その表現は昨今の用語で言えば波長とか振動によって行われます。

宇宙間のすべての存在が互いに影響し合っているのです。雷雨にも放射活動があり、人体にも何らかの影響を及ぼします。言うまでもなく太陽は光と熱を放射し、地上の生命を育てます。

木々も永年にわたって蓄えたエネルギーを放射しております。要するに大自然すべてが常に何らかのエネルギーを放射しております。従って当然他の惑星からの影響も受けます。それはもちろん物的エネルギーですから、肉体に影響を及ぼします。しかし、いかなるエネルギーも、いかなる放射性物質も、霊魂にまで直接影響を及ぼすことはありません。

影響するとすれば、それは肉体が受けた影響が間接的に魂にまで及ぶという程度に過ぎません」


───今の質問者が言っているのは、例えば二月一日に生まれた人間はみんな同じ様な影響を受けるのかという意味だと思うのですが・・・。

 「そんなことは絶対にありません。なぜなら霊魂は物質に勝るものだからです。肉体がいかなる物的影響下におかれても、宿っている霊にとって征服できないものはありません。

もっともその時の条件にもよりますが。いずれにせよ肉体に関するかぎり、すべての赤ん坊は進化の過程の一部として特殊な肉体的性格を背負って生まれてきます。それは胎児として母体に宿った日や地上に出た誕生日によって、いささかも影響を受けるものではありません。

しかし、そうした肉体的性格や環境の如何にかかわらず、人間はあくまで霊魂なのです。霊魂は無限の可能性を秘めているのです。その霊魂の未来の力を発揮しさえすれば、いかなる環境も克服しえないことはありません。もっとも、残念ながら、大半の人間は物的条件によって霊魂の方が右往左往させられておりますが・・・」


───これから先のことはどの程度まで運命づけられているのでしょうか。それは自分の行いや心掛けによってどの程度まで変えられるのでしょうか。

〝なあ、ブルータスよ、
オレたちがうだつが上がらんのは星のせいじゃない。
オレたち自身が悪いのさ〟(シェークスピア)

〝門がいかに狭かろうが
いかなる逆境が運命の巻き物に記されていようと、
私は平気だ。なぜなら
運命の主人公はこの私だからだ。
私が魂の指揮者なのだ〟(W・E・ヘンリー)


 この二つの誌文を引用してからシルバーバーチはこう続けた。
 「惑星は物的存在です。それぞれに放射物を出しバイブレーションを発しております。しかしあなた方は物的存在であると同時に霊的存在です。内部には、物的なものから受ける影響のすべてを克服する力を具えております。未来は過去が生んでいきます。

自分の行為を思念によって創り出していくのです。大自然の法則についてはすでにお話しました。その一つに因果律があります。自分が蒔いたタネは自分が刈り取るという法則です。ある花のタネを蒔けば、その種の花が咲き、それ以外の花は咲きません。あなた方の未来も同じです。

過去と現在によって決定されるのです。外部から与えられる罰ではありません。自分でこしらえていくのです。これから先どうなるのだろう───こうした不安の念を抱くということそれ自体が、それを本当に実現させる手助けをしていることになります」


 出席者がしきりに〝災害〟とか〝悲劇〟とかの言葉を使って語り合っているのを聞いていてこう述べた。

 「物的な側面だけを見つめてはいけません。物的尺度で無限なるものを計ることはできません。そのことを常に念頭において物事を判断して下さい。物的な目だけで見れば地上は不公平だらけです。しかし悪行に対する懲罰があるように、善行に対する報酬も必ずあります。

霊的な天秤はいつかは平衝を取り戻すようになっているのです。地上生活は永遠なる生命のごく短い一時期に過ぎません。

 人間にとって悲劇に思えることが私どもにとって有難いことである場合があります。人間が有難がっていることが私どもにとって困ったことである場合があります。人間は私たちから見てどうでもいいこと、あるいは霊的に何の価値もないものを大切にしすぎます。財産、この世的な富、権力、支配への欲望です。強欲と貪欲によって動かされている人間が多すぎます」


 さらに霊的進化について聞かれて───

 「霊に関わる分野において進歩が容易に得られることは有り得ません。もし容易であれば成就する価値がないことになります。霊的進化はもっとも成就しがたいものです。一歩一歩の向上が鍛錬と努力と献身と自己滅却と忠誠心によってようやく克ち得られるものだからです。

霊的褒賞を手に入れるには奮闘努力がいるのです。もしも簡単に手に入るものであれば価値は無いことになります。価値が出るのは入手が困難だからです。それはいつまでも終わることのない道程です。霊的進化に終局というものはありません。水平線のようなものです。近づくほどに遠ざかっていきます。

 それと同じで、学べば学ぶほど、さらに学ぶべきのものがあることを知ります。進歩は知識や真理や叡智と同じく、限界というものがありません。ここまでという区切りがないのです。

一段よりも二段が上であり、二段よりも三段が上であり、三段よりも四段が上であるに決まっていますが、いずれもそこまでの到達度を示しているにすぎません。一段一段が人生の目的、真実、人生の拠って立つ永遠の原理をそれだけ多く理解したという指標であり、その理解と共に調和が訪れます。

 成就は調和を生みます。宇宙を支配する霊力を身につけるごとに、それだけその根源との調和が深まります。生活が豊かさを増します。本当の価値の識別力が身に付きます。その識別力が正しく働くようになります。選択の優先順位がきちんと決められるようになります。何がもっとも大切であるかが分かるようになります。

ほかの人たちが必死に追い求めるものがあほらしく思えるようになります。この世的な富への執着がすっかり無くなった時、霊の宝がいささかも色褪せることなく、傷つくこともなく、常に本来の純粋素朴な美しさを見せるものです。

 私は物質面での進歩についてあれこれ申し上げる立場にありませんが、物的進歩にもそれなりの役割があります。身体にとって必須のものを無視することは私どもの教えに反します。身体がその正しい成長にとって必須のものをきちんと得ていないと、霊も正しく機能を発揮することが出来ません。

大切なのは身体と精神と霊の調和です。この三者が一体となって機能し、その結果として健康と幸福と冷静さと自信と決断力と安らぎが得られるのです。

 霊的なことばかり気を奪われて身体上のことをおろそかにすることは、身体のことばかり気を奪われて霊的なことをなおざりにするのと同じく間違っております。心の修養にばかりこだわって他の側面を忘れるのもまた間違っております」

Tuesday, October 6, 2026

霊訓〈完訳・上〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。




13節

本節の内容
*再び著者の反論と苦衷の開陳 *回答
*忍耐と祈りの必要性 *祈りとは
*霊側から観た祈りの効用
*インペレーター、著者を叱咤する
*死せる過去より生ける未来に目を向けよ
*新しい真理に対する世間の態度


〔これまでに受け取った一連の自動書記通信を読み返してみて、私は文体といい内容といい、その美しさにこれまでになく心を打たれた。それというのも、私には何ら意識的思考のないまま、猛烈な勢いで書かれていくその速さ、それでいて文法上の構成に一点の誤りも見当たらないこと、さらに全編を通じて一箇所の挿入も訂正も行なわれていないこと等を考え合わせると、ただただその美しさに驚きを覚えるばかりだった。

が、その主題の問題となると私は相変わらず受け入れに躊躇せざるを得なかった。共鳴するものも多かったが、同時に、もし受け入れたらキリスト教界の信仰が根底から覆えされることになるという危倶を拭いきれなかった。どう言い換えたところで、そうなることは火を見るよりも明らかである。用語と同時に、その根本理念を受け入れれば、キリスト教徒が絶対的箇条として信じることを誓ったものを数多く棄て去らなくてはならない。特にその中心的ドグマが崩れてしまうように思えた。各種の神学上の著作――ギリシャ正教、ローマ・カトリック、国教会、プロテスタント、とくに近代ドイツ神学――に幅広く親しんできた私には、その各説の枝葉末節における矛盾はあまり問題にしないだけの心の準備は出来ていた。こうした宗教的内容のものには多少の矛盾は避け難いことを認識していたのである。また神の啓示の奥深い神秘の前には、個人的見解は大した価値はないことも認識していた。要するに、私はこの種の問題に関しては少々のことでは動揺しないだけの心の準備は出来ているつもりでいたのである。

ところがインペレーターの言葉はまったく問題が別であった。集中砲火を浴びているのはキリスト教の根幹に係わることばかりであった。それをスピリチュアライズする、つまり霊的解釈を施すということは、私の信じている如何なる啓示にも致命傷を与えかねないように思えた。じっくりと考えに考え抜いた末の結論がどうしてもそこに落着する。しかもそれが、私のよく知らない、知ろうにも知り得ない知的存在による“独断”である。これはとても受け入れるわけにはいかない。私は今少し考える時間を持たねばならぬと考えた。とにかく、たとえ内容的にはどんなに美しくあろうと、キリスト教ほどの証拠性もなく偶像破壊的でもない教義を受け入れるには、まだ私の心が熟していないと感じた。こうした主旨のことを述べると次のような通信が来た――〕


良いことを述べてくれた。かくの如く重大なる問題につきては、深く考えるために十二分に時間(とき)を費す必要がある。われらはいずれはそなたが理解しその重大性を認識してくれるものとの確信のもとに説いてきた教説をそなたの熟考にまかせよう。疑問があれば何なりと聞くがよい。われらも喜んで答えよう。これまでの通信を十二分に考察するまでは、他の通信は敢えて押しつけぬことにする。すべからく忍耐と真摯なる祈りが肝要である。

寒々として霊性を寄せつけぬ地上生活にありては、そなたたちの魂と、その欲求を叶えしめんとして待機せる背後霊との間の磁気的霊交が、真摯なる祈りによりて如何に強く促進されるものであるかをそなたたちは知らぬ。その絆は使うほどに強化され、交わるほどにその親密度を増す。祈りというものが如何に豊かなる霊的恵みをもたらすかを知れば、そなたもより多く祈るようになることであろう。博学なる神学者は祈りの価値についてその核心を知らぬまま論議を重ね、迷路をさ迷い続けている。彼らは神を求める魂の真の欲求を聞き届けんとして待ち受ける背後霊の存在を知らぬ。もっとも無理からぬことではある。現時点における科学では立証できぬ性質のものだからである。そこで彼らは、愚かにも祈りの効用をその結果によって計らんとする。結果を分析し、統計の収集によってその効用を評価せんとするのである。が、それでもなお彼らは迷路をさ迷い続けている。何んとなれば、そうした努力によりて掴(つか)みうるのは形骸のみであり、その真相は彼らの視界へは入らぬからである。祈りの結果はそのようなことでは計ることは出来ぬ。人間の科学では捉えられぬものなのである。それはあくまでも霊的なものであり、個々の祈りによりて結果もまたさまざまな形式をとる。背後霊が異なる如く祈りの結果の表れ方も異なるのである。

無言の願いが叶えられぬままであることが実は魂にとりては最高の恵みであることが往々にしてあるものである。虚空に向けて発せられたる悩める魂の叫び――悲しみによりて絞り出されたる叫び――それ自体が魂の救済であることがある。が、待機せる背後霊がその重荷に苦しめる魂に同情と慰めの芳香を注ぎ込まんと努力している姿を見れば、魂が覚える何とも不思議な安らぎと、神への確信がいずこから来るかが理解できるであろう。それをもって祈りが叶えられたというのである。魂の奥底からの叫びが背後とのつながりをもたらし、苦しみと悲しみに悶える心が慰められるのである。

緊密なる関係にある者に注がれるこの磁気性の芳香は、神を探し求める魂の切実なる叫びがもたらす恩恵の一つなのである。真の霊交はそれ以外の条件下では実現せぬ。天使の住める“神秘の間”に入る者はよほどの霊性を開いた者に限られる。同時に、われらの側より最も近づき易き魂は普段より霊的交わりを重ねている者である。友よ、これには例外はない。それがそなたらの世界とのつながりを支配する不変なる法則の一つである。すなわち、霊性に目覚めた魂が豊かな霊的恵みを受けるのである。

願いごとへの真の回答は必ずしも人間がその無知ゆえに勝手に期待する通りのものとは限らぬ。往々にして、その願いごとを叶えてやることが当人に害を及ぼすことにもなりかねぬのである。当人は真相を知らぬまま、せっかちに、愚かなる願いごとをする。当然その祈りは無視される。が、切実に祈れるその心の姿勢が、待機せる背後霊との連絡路を開き、その必要性に鑑みて力と慰めとを授けてくれる。

人間がもっと祈りの生活をしてくれれば、と思う。もっともその祈りとは、為すべき義務を怠り、貴重なる試練の生活を病的とも言うべき自己分析、不健全きわまる自己詮索、怠惰なる瞑想、あるいは無理強(じ)い的、かつ非現実的哀願のみに費す礼拝一途の生活ではない。それは真の礼拝とは言えぬ。真の祈りの生活はそれとは全く別のものである。

真実の祈りは、守護せんとして待機する背後霊への魂の奥底からの叫びの、直情的発露であらねばならぬ。気まぐれな要求に応えて、変え得べからざる筈の法則を喜んで変えてくれるが如き神への他愛なき幻想が、祈りの観念を大きく傷つけてしまっている。そのようなことを信じてはならぬ! 祈り――魂の無言の希求を読み取り、それを叶えさせんとして遥か上界との連絡の労を取らんとして待機せる背後霊を通じての神への直情的叫び――これは形式の問題ではない。一語一語述べる必要もない。ましてや宗教的慣習、紋切り型の用語等によって拘束する必要などさらさらない。真の祈りとは魂と魂の直接の交わりであり、日頃より交信せる見えざる仲間への魂の叫びであり、磁気的連絡網を通じてその要求が電光石火の速さで送り届けられ、かつその回答が思念の如き速さで送り返される。その一連の営みを言うのである。

言い換えるならば、悩める魂を、慰め癒すことの出来る霊の手にあずけることである。それには言葉も身構えも形式もいらぬ。むしろそうしたものへのこだわりが消えた時こそ最も真実味を帯びる性質のものである。必要なのは背後霊の存在の認識と、それとの霊交を求めんとする直情的衝動のみである。そのためには、日頃の訓練が望まれる。さもなければ、日頃の使用を怠れる手足の如く、その衝動に反応を示さなくなる。それ故、日頃より霊性に目覚めた生活を営む者ほど霊的世界の深奥に深入り出来ることになる。その種の者にはわれらの方からも近づき易い。外界の喧噪に影響されることなく、その者のみが有するところの、われらにのみ反応する奥探き琴線に触れることを得るのである。彼らは地上に在りながら極めて高き霊性を発揮する。何となれば、日頃より霊と交わることを知り、霊的栄養を摂取しつつあるからである。彼らには物的生活に埋もれる者に閉ざされた霊的真理の秘密の扉が開かれている。そして不断の祈りによりて彼らは、少なくとも、地上生活においては苦しみも悲しみも魂の生長にとりて必要不可欠であることを悟りつつ、なおそれに超然とした生活を送ることが出来るのである。

ああ! かくの如き素晴らしき摂理を地上の人間が知らぬとは何と悲しきことであることか。この真相が今少し理解されれば、人間は聖純にして気高き霊の雰囲気の中で暮らせるものを。霊性の自覚によりて、覗き趣味的好奇心に駆られ、己の分際も顧みずに心霊の世界に深入りせる者を悩ませ、また時には、悲しいかな、真摯なる探求者をも悩ませる、かの邪悪霊の影響から免れることを得るであろう。たとえ完全には免れ得ずとも、その真理の普及は少なくとも危険からの保護を提供し、かつ人間に為しうる他のいかなる手段にも増して、われらの力となるであろう。それはわれらの行為の正当性を是認し、動機の純粋性の証となり、霊界通信の真実性を不滅のものとする最も有効なる力となるであろう。

故に、ひたすらに祈るがよい。但し、心のこもらぬ絞切り型の嘆願とならぬよう心せよ。魂と魂の触れ合いの中でのわれわれとの交わりを求めよ。ひたすらに魂に係わる問題にのみ心を向けよ。他のことは収まるべくして収まる。神学上の難解にして煩わしき問題は捨ておき、そなたの魂の安寧に係わる核心的真理に集中せよ。単純素朴なる霊的真理が人間の無益なる混沌によって幾重にも取り巻かれている。その収拾にそなたが係わる必要はない。またその中のいずれがそなたにとりて不可欠か、いずれが不必要かの問題も、今のそなたには係わる必要はない。今のそなたには絶対重要と思える教説も、こののちには、その教説が啓示された一時代にのみ適用さるべき一面的教説に過ぎぬことを悟る日も来よう。結論を焦るのは人間の弱点である。むしろ歩を緩めるがよい。ゴールへと焦らず、初期の段階にてじっくり時間を掛けねばならぬ。すべての秘密に通暁する前に、そなたが学ばねばならぬことは幾らでもある。

このことにつきてはなお言うべきことがあるが、差し当たりて必要なことは述べたつもりである。願わくば神がわれらとそなたとを護り給い、われらが首尾よくそなたを導き、暗闇に迷うそなたの魂に真理の光を灯し、安寧をもたらすことを得さしめ給わんことを。

(†インペレーター)


〔右の通信に対して私はすぐには抗弁せず、その内容に思いを巡らした。そしてやがて聞いてみたいことが浮かんだのでそれを書き留めようとした。そのとたん、私の手は強制的にストップさせられた。そして、代わってその手が激しい勢いで別のことを書き始め、信じられない速さで次のようなことを述べてきた。その間ただの一度も手を休めることがなかった。あまりの激しさに私は書き終えるまで半入神状態となっていた。〕


待つのじゃ! 焦るでない! 待つのじゃ! 今は議論の時ではない。真理を繰り返し吟味するのじゃ。そなたはせっかちに過ぎる。しかも下らぬことばかり思い巡らしている。われらの述べることが他の信仰と相容れぬからとて、一体それがそなたに何の意味があるというのか。何故に躊躇するのか。信仰とは大なり小なり他の信仰と相容れぬものではないのか。否、元来信仰とはそれ自体の中に矛盾の要素を含むものではないのか。それすら理解できぬようでは先ヘ進む資格はない。かの古き教義や信仰――当時としてはそれなりに価値はありながら、往々にして未熟であったものに人間は慰めを求めてきた。自分に都合よき言説を拾い求めてきた。あるはずもないものをわざわざ求めに赴いたのである。なぜ無いのか。魂がそうした古き言説――今の時代には生命を失いたる言説を超えて生長したからこそである。それはもはやそなたの益にはならぬ。そなたの魂はもはやそのようなものでは感動せぬ。語りかける言葉を持ち合わせぬ。心を癒す力を持たぬ。かつて或る者にとっては生々しき声として聞こえながら、今のそなたには無意味に響く、遠くかすかなこだまに過ぎぬ。

然るに何故にそなたはそのようなものに心を煩わせるのか。何故にそなたはすでにそなたにとりて何の意味も持たぬものから意義を見出そうと無益なる努力を続け、さ迷うのか。なぜ霊の世界より語るわれらの生々しき、燃えるが如き、真実味あふれる生きた声に耳を傾けようとせぬのか。滅びつつあるもの、あるいはすでに死物と化せるものの代わりに真実なるもの、霊的なるもの、崇高なるものを説くわれらの声に何故に耳を傾けようとせぬのか。一時の気まぐれとは言え、何故に生命なき過去の遺物を有難がり、生々しき現在、霊との交わり――神及び人間の宿命について崇高なる真理を語る霊団との縁を切らんとするのか。

これは明らかに狂気の沙汰であり、魂を堕落させ地上へ引きずり下ろすことを楽しみとする邪霊の影響に外ならぬ。われらの啓示が古き啓示と相容れぬからとて、一体それがそなたにとりて何の係わりがあると言うのか。われらの啓示は生々しき響きをもってそなたの魂に訴えている。それはそなたにも判るであろう。そなたはそれにて喉を潤し、その有難き力に浴している。古き啓示はもはやそなたにとっては死物である。生命なき形骸のまわりを何故にうろつきまわるのか。かつては神の啓示に満ちた生ける存在でありながら、今や朽ち衰えんとしている死骸に何故にすがりつくのか。

聖書にも、イエスの墓のまわりに集まれる悲しみの者たちの霊耳に霊がこう語りかけたことが記されておろう――“何故にそなたらは死者の中に生者を求むるや。彼はすでにここにはいない。彼は蘇れり”(1)と。そこでわれらもそなたに言う――何故に死せる過去、埋葬されたる真理の墓をうろつきまわり、もはや存在せぬものを無益に求めるのか、と。それはもはやそこには存在せぬ。蘇ったのである。かつて変転きわまりなき時代に神の真理を包蔵せしドグマのもとを去ったのである。残れるは空(うつ)ろなる宝石箱のみ。宝石はもはやそこには存在せぬ。生命は蘇ったのである。そして、見! われらはそなたにその蘇れる崇高なる真理、より気高き教義、より聖なる神を説いているのである。

かの古き時代に神の命(めい)を担いし地上の使者とその世代に語りかけた同じ声が、今、そなたとそなたの世代に語りかけている。いつの時代にも同じなのである。神は今も昔もまったく同じように人間を扱われる。すなわち、より多くの光、より高き真理ヘ導かんとされる。その神の声に従うか否かは人間の意志に任される。神を求める崇高なる志の者にとりても、古きもの、親しめるもの、歴史あるものは棄て難き魅力があり、それが一つの関所となる。その最初の迷いの中で彼らは古きもの、大切にせるものを全て葬り、新しきもの、未知なるものを受け入れねばならぬと悟る。それは一つの死を意味するかに思える。然して人間は死を恐れる。確かにそれはまさに死である。が、生へ向けての死である。暗き墓場を通り抜け、生と希望へたどり着く通路である。肉体の死によりて霊がその束縛より放たれて自由になる如く、古き信仰の束縛より解放された魂は自由の世界へと飛躍する。それはまさしくイエスの言える唯一(ゆいいつ)人間を自由にするところの真理による自由(2)である。そなたには今は理解できぬかも知れぬ。が、いずれ悟る日も来よう。

これがわれらの切なる声である。そなたは何故に死せる過去へ目を向けるのか。生気あふれる現在、そして輝ける未来があり、豊かな祝福を約束しているではないか。われらの述べるところが古(いにしえ)の教えと矛盾するからとて、それがそなたに何の係わりがあると言うのか。古き教えにはすでにそなたにとりて生命はなく、その失われたる生命を再び吹き込むことは出来ぬ。それは今なおその教えに意義を見出す者に任せるがよい。そしてそなたはより高き真理へ向けて、神の植えつけ給いし真理探求心の衝動に従いて迷うことなく歩を進めるがよい。死せる過去と訣別せよ。それは新しき現在を通過し未知の未来へ進む、その通路でしかない。

もっとも今のそなたにとりては、そうとも言えぬようじゃ。そなたにとりてはその過去が未だに魅惑があり、われらの説く新しき教説は古き信仰を根本より破壊するとの説に加担している。イエスがそう述べたとでも言うのであろうか。イエスはモーセの訓えの全廃を説いたのであろうか。前にも述べた如く、われらの教説は、イエスの訓えがモーセの訓えに比して取り立てて、驚異的なものではなかったように、イエスの訓えに比して取り立てて驚くほどのものではない。われらがそなたに理解を要求しているのは古き教説との矛盾ではなく、その完成である。より十全なる生長である。より広き知識の発展である。

イエスがその新しき信仰を説いた時の時代的背景をよく考察すれば、多くの点において今日と共通したものを見出すであろう。繰り返すことになるが、かのパリサイ派の形式主義やサドカイ派(3)の無関心主義に比して、イエスの訓えが取り立てて驚くベきものではなかった如く、われらの説く教説は決して今日宗教として流布しているものに比して取り立てて驚くべきものではない。当時は当時なりに新しき啓示を必要とした。そして今は今なりの新しき啓示を必要としている。ただ、古きものを愛し、慣れ親しみたる道に波風(なみかぜ)の立つことを望まぬ者にとりてわれらの言説が忌々(いまいま)しきものである如く、当時の宗教家にとってイエスの訓えがけしからぬものであったまでである。

今も同じであるが、当時その時代的要請に合わせて授けられた啓示のまわりに夾雑物がこびりつき、せっかくの啓示が意味も生命もなき、ただの宗教的儀式の寄せ集めとなり果てていた。以来、久しく神の声は聞かれることがなく、人間は新たなる啓示の出現を待ち望んだ。今日とまさに同じである。古き信仰は死物と化し、人間は新たなる生ける神の声を聞かんと欲した。それがイエスによりてもたらされた。人々の想像もせぬ人物――およそ学究的パリサイ派からは敬意を払われず、倣慢なるサドカイ派に容れられる見込みなき人物から神の声がもたらされた。そしてそれが全世界に広がり、一八〇〇年間にも亙りてキリスト教界の宗教的生活を動かしてきた。然るにその教義は今や堕落し果てた。が、イエスが身をもって示せる犠牲的精神は今なお生き続けている。今こそ要請されるのはその精神に新たなる息吹きを吹き込むことである。さすれば金科玉条と思い込んできた夾雑物が取り除かれ、取り除かれた量だけ一層真理の輝きを増すことであろう。

われらの啓示の源は民衆によって“ナザレの大工”と蔑(さげす)まれたイエスの使用せる霊力の源と少しも違わぬ。民衆はイエスに思いのたけの侮蔑を浴びせた。大衆はいつの時代にもそうである。新しきものを嘲笑するのである。彼らはイエスの起こす奇跡には目を見張った。目に見える驚異を見んと大挙して押し寄せた。が、その現象が意味するところの霊的教訓を理解するほどの霊性は目覚めていなかった。それは今でも同じことである。われらの演出する交霊会の現象にはイエスの時代の民衆と同じ驚きをもって興味を示す。が、彼らは十字架上のイエスに向いて“その十字架から降りてみてはどうか。もし降りられたらお前を信じてもよい”と言い放ちて、証の上にさらに証を求めた如く、今の民衆も完璧なる確信を得るためのテストを次から次へと求める。民衆はイエスを“ペテン師めが!”と罵った。罵声を浴びせてその地域より追い出した。イエスが彼らの中にいることを忌み嫌ったのである。確かに新らしき訓えであったことは事実である。が、その中身は従来と変わらぬ神の真理であった。その説き方、その理解の仕方を改めたにすぎぬ。われらの説く教説もまた今の時点においては新らしきものかも知れぬ。が、いずれ時の経過と共に、それが従来と同じ神の真理を復活させ、永遠の息吹きを吹き込んだに過ぎぬことが理解される日も到来しよう。

われらの説く神の真理は、イエスがあの時代――地位と身分ある教養人すなわち“パリサイ派や為政者”の中に一人でもお前の言うことを信じる者がいるかと冷笑的に言われた時代――に説ける真理と同じく、そなたたちにとりていささかも奇異なるものではない。どちらも連綿たる同じ真理の流れを汲むものであり、それを希求する者の要求と渇望に合わせて説かれているに過ぎぬ。ニコデモ(4)の気持ちを察するがよい。そして、それをそなたたちの時代の同じ立場にある人々のそれと比べてみるがよい。ユダヤの死せる信仰に新生の息吹きを吹き込み、神の観念をより鮮明に啓示せる同じ霊力が、今まさに瀕死の瀬戸際にあるキリスト教信仰に新しき生命を吹き込み、エネルギーと活力とを蘇らせることが出来ることを信ずるがよい。

全知全能なる神の導きと祝福のあらんことを。

(†インペレーター)


〔注〕
(1)ルカ 24-5(2)ヨハネ 8-32(3)the Sadducees パリサイ派と対立するユダヤ教の一派で、モーセの律法を字句どおりに解釈し、霊魂の存在を認めなかった。
(4)Nicodemus パリサイ派の一人で議員でもありながら、イエスの隠れた弟子であった。

シルバーバーチの霊訓(四)

Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor
Psychic Prees Ltd.






二章 〝苦〟の哲学 

 シルバーバーチが神の摂理を説くとき、その絶対性への確信が余りに深く、その述べ方が余りにあっさりとしているために、われわれ地上の人間には冷淡な印象すら与えることがある。たとえば次のように述べる───

 「摂理であるが故に摂理であるところのもの─── 永遠の心すなわち神の働きであるがゆえにこれまで絶え間なく機能し、これからも絶え間なく機能し続けるところの摂理の存在を指摘しているのです。その摂理に則って生きれば内にも外にも調和と安らぎが得られます。

逆らって生きれば内にも外にも不和と混沌が生じます。あなた方人間は霊的存在です。これは、誰もがいつの日か直面することになる厳粛な事実です。が、いつの日かではなく今すぐに認めて、これから先の何十年ものムダな困難を省いた方がどれだけ賢明でしょうか」

 そう言われれば、われわれには反論の余地がなくなる。それが冷淡さと受け取られかねないのである。霊的に未熟な者、あるいは悲しみの涙で視野を雲らされている者が苦しみと悲しみの必要性を説かれると、いっそうその感じを強く抱くことであろう。しかし、シルバーバーチはさらにこう説くのである。

 「神は無限なる愛です。そしてこの全宇宙のいかなる出来ごとも神の認知なしに生じることはありません。全ての苦はそれが魂の琴線に触れることによって自動的に報いをもたらし、それが宇宙のより高い、より深い実相について、より大きな悟りを得させることになるのです」

 別の交霊会でもこう述べている。
 「地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません。が、そうしたもの全てが霊的進化の道程で大切な役割を果たしているのです。過去を振り返ってごらんなさい。往々にして最大の危機に直面した時、最大の難問に遭遇した時、人生で最も暗かった時期がより大きな悟りへの踏み台になっていることを発見されるはずです。

いつも日向で暮らし、不幸も心配も悩みも無く、困難が生じても自動的に解決されてあなたに何の影響も及ぼさず、通る道に石ころ一つ転がっておらず、征服すべきものが何一つないようでは、あなたは少しも進歩しません。向上進化は困難と正面から取り組み、それを一つひとつ克服していく中にこそ得られるのです」

 さらに別の交霊会で───

 「一つひとつの体験があなたの人生模様を織りなしています。あなた方はとかく一時の出来ごとでもって永遠を裁こうとされます。つまり目先の矛盾撞着にとらわれ、人生全体を通して神の叡知の糸が織りなされていることを理解しません。

 調和を基調とするこの大宇宙の中であなた方一人ひとりが神の計画の推進に貢献しております。人生での出来ごと───時には辛く絶望的であり、時には苦しく悲劇的であったりしますが───その一つひとつがこれから辿りゆく道のために魂を鍛える役割を果たしているのです。

 光と闇、日向と陰、こうしたものは唯一絶対の実在の反映にすぎません。陰なくして光はなく、光なくして陰はありません。人生の困難は魂が向上していくための階段です。

 困難、障害、不利な条件───これらみな魂の試練なのです。それを一つ克服した時、魂はいっそう充実し向上して、一段と強くそして純粋になってまいります。

 いったい無限の可能性を秘めた魂の潜在力が困難も苦痛も無く、影もなく悲しみも無く、苦難も悲劇も体験せずに発揮されると思われますか。もちろん思われないでしょう。

 人生のよろこび、楽しい笑いの味は、人生の辛酸をなめつくして始めて分かります。なぜなら、深く沈んだだけ、それだけ高く上がれるからです。地上生活の蔭を体験するほど、それだけ日向の喜びを味わうことができます。

 体験の全てが霊的進化の肥やしです。そのうちあなた方も肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば紆余曲折した一見とりとめのない出来ごとの絡み合いの中で、一つひとつがちゃんとした意味を持ち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解されるはずです。

 地上のいかなる体験も、それに正しく対処し正しく理解すれば、人間の魂にとって必ずやプラスになるものを持っております。いったい何の困難も、何の試練も、何のトラブルも、何の苦痛も、何の悩みもない世界を想像できるでしょうか。

そこにはもはや向上進化の可能性がないことになります。克服すべきものが何もないことになります。ただ朽ち果てるのみです」


 こうして一方では厳しい生き方を説きながらも、他方では慰めの教説も忘れない。最近ご主人を失ったばかりの婦人にこう語って聞かせた。

 「あなたもそのうち物的なつながりよりも霊的なつながりの方が大きいことを理解し始めることでしょう。ご主人はこの世にいた時よりもはるかにあなたにとって身近な存在となっておられます。

 地上人類が肉体的存在の消滅を大変な不幸として受け止めるのは、地上世界の進化が物的バイブレーションの段階を超えていないからです。その段階を超えて進化すれば、物質というものがただの殻にすぎないことを理解するようになります。それを実在であるかに思い込むのは地上が影の世界だからです。

 霊的に向上して行くと、光とその光によって生じる影との区別ができるようになります。地上的縁には拘束力はありません。霊的な縁こそ永遠に続くものです。

 ぜひ銘記していただきたいのは、あなた自身にとって大変な悲しい出来ごとのように思えることも、実は他の大勢の人たちのためにあなたを役立てようとする計画の一端であることがある、ということです。あなただけの個人的(パーソナル)な見地からのみ眺めてはいけません。

その体験を通じてもし大ぜいの人々の魂が鼓舞されることになれば、それがひいてはあなた自身の魂の成長を促すことになります。そして、あなた自身がこちらへおいでになりご主人と再会された時にも、それが大きな拠りどころとなります。

 〝死んだ人〟たちはあなたのもとから去ってしまうのではありません。死という名のドアを通り抜けて新しい生活へ入っていくだけです。その人たちにとって死は大きな解放です。決して苦しいものではありません。彼らにとって唯一の辛さは、地上に残した人々が自分のことで嘆き悲しんでいることです。

 いくら順調に進化していても、地上にいる限りは相変わらず霊的なバイブレーションよりは物的なバイブレーションの方が感応しやすいものです。縁故のあるスピリットがすぐ身のまわりにいます。肉体に宿っていた時よりも一段と親近感を増しているのですが、人間の方は鈍重なバイブレーションにしか反応しないために、すぐ近くにいても、その高いバイブレーションに感応しないだけです。

あなた方は今この時点において立派に霊魂(スピリット)なのです。物的世界での教訓を身につけるために地上にやって来ているところです。時としてそれが辛い教訓となることがありますが、それはそれなりに価値あることではないでしょうか。

 皆さんはなぜ物的な出来ごとを持って永遠を判断しようとなさるのでしょう。皆さんは空の広さは計れません。地球の大きさすら測れません。なのに、僅かな地上生活で持って永遠を計ろうとなさいます」


 同じく主人を失い、失意の余り自殺まで考えた婦人が次のような質問を寄せ、それがシルバーバーチに読んで聞かされた。


───みずからの行為によってそちらの世界へ行くことは許されることでしょうか。例えば最愛の伴侶を奪われた人の場合です。

 「許されません。あくまでも摂理に従って寿命を完うしなければなりません。神の摂理はつねにその働きが完璧だからです。

完全な愛によって、つまり全存在に宿り全存在を通じて働いている神の意志によって支配されているからです。その摂理の働きに干渉する権利は誰にもありません。もし干渉して与えられた寿命をみずからの手で切り上げるようなことをすれば、それに対する代償を支払わせられます。

 たとえばリンゴを熟さないうちにもぎ取れば、リンゴの美味しさは味わえません。それと同じで、霊的に熟さないうちに無理やりに次の世界へ行くようなことをすると、(地上での悲しく苦しい期間よりも)永い期間にわたって辛い体験を支払わされることになります。

おまけに、せっかく一緒になりたいと思った愛する人にも会えないことにもなります。その摂理に背いた行為が一種のミゾをこしらえるからです」

 このシルバーバーチの回答がサイキック・ニューズ誌に掲載されたのを読んだその夫人が次のような礼状を寄せてきた。

 「質問にお答え下さったことへの私の感謝の気持ちをシルバーバーチ霊にお伝えいただけるものかどうか存じませんが、もしお伝えいただけるものでしたら、〝後に残された者〟の質問にこんなに明快にそしてこんなに早く回答して下さったことに対する私の感謝の気持ちをお伝え下さい。

そして、こうもお伝え下さい───お言葉に大変失望いたしましたが、お訓えを信じ神からのお呼びの声が掛るまで、力のかぎり〝生き続ける〟覚悟を決めました、と」


 では〝安楽死〟はどうであろうか。これは現代の世間一般の関心事であると同時にスピリチュアリズムでも議論の的となっている問題である。ある日の交霊会でそれについての質問が出された。


─── 回復の見込みのない患者を死なせる特権を法律によって医師に与えるべきだという考えをどう思われますか。

 「私は全ての生命は神のものと申し上げております。肉体が滅び霊が解き放たれる時が来れば、自然の摂理でそうなります」


───物的手段を講じて永生きさせることは正しいとお考えでしょうか。

 「はい」


───たとえ永生きさせることが苦しみまで永引かせることになってもですか。

 「そうです。ただ、この問題に関して一つお忘れになっていることがあります。霊は肉体を去るべき時が至ればかならず去るもので、地上にはその理法を変える手段はないということです」


───不治の患者を人為的に死なせた場合、それは死後その患者の霊にさらに苦痛をもたらすことになるのでしょうか。

 「そういうことはありませんが、死後に備えの出来ていない霊に一種のショックを与えることになり、そのショックが何かと良からぬ影響をもたらします。自然に死ねば必要でなかったはずの手間をかけて埋め合わせをしなければならなくなります」


───医師にも寿命を永引かせる力があるでしょうか。

 「医師が肉体を生き続けさせようと努力なさる───それは結構です。が、霊にはその肉体を去るべき時というものがあり、死の時が至れば地上の医師には為すべき手段はありません」


───ということは生命を維持させようと幾ら医師が努力しても無駄ということになるのでしょうか。

 「そういうことです。もしもあなたのおっしゃる通り医師に生命を維持させる力があるとすれば、なぜ最後はみんな死んで行くのでしょう」


───でも少しの間だけでも永生きさせてあげることはできます。

 「患者がその処置に反応すればの話です。例えば酸素吸入が出来ます。しかしそれもある程度までのことでしょう。霊が私達の世界へ来るべき準備が整ったら最期、医師には為す術がありません」


───もし寿命というものが定まっていて、各自が原則として霊的に準備が整った状態で死んでいくのが事実だとすると、なぜ平均寿命が延びているのでしょうか。

 「人類が進化しているからです。肉体的なことが霊的なことを決定づけているのではありません。霊的なことが肉体的なことを決定づけるのです」


 〝死なせる権利〟とは反対に 〝誕生させない権利〟の問題もある。次がその問題に関する問答である。なお、ここでは受胎調節つまり避妊の意味で述べており、人工中絶のことではない。


───産児制限をどう思われますか。

 「人間には正しいことと間違ったこととを見分ける道義的判断力と、それを選択する自由意志とが与えられております。つまるところ動機(意図、魂胆)の問題です。何のために?───これをみずからの良心に問いかけるのです。一度ならず何度でも問いかけてみるのです。その結果として選択したもの、それが何より大切です。他のことはどうでもよろしい」


───でも、生命の誕生を阻止することは神の摂理に反することではないでしょうか。

 「どうしても地上に誕生すべき宿命を持った霊は避妊しない夫婦を選んで誕生してきます。因果律は絶対です。一対の夫婦にとって新しい生命が誕生することが進化のためのプランに組み込まれておれば、それを阻止することはできません。本人(夫婦)みずからそれを要望するようになるものです」


───生れてくることになっていれば夫婦の方でそれを望むようになるということでしょうか。

 「そうです。その夫婦の進化の程度が新しい生命の誕生による影響を必要とする段階に達したということもあるでしょう」


───当然それはより高い進化を意味するわけですね。

 「いえ、必ずしも高いとは言えません。必ずしも低いとも言えません(第三巻一四一頁参照)。中には肉体的快楽だけを求めてその結果(避妊)は避けようとする者もいますので、この種の人間は別に扱わなくてはいけません。むろん私はそうした生き方は感心しません。その意図が同じく利己的で程度が低いからです」

(訳者注───シルバーバーチは利己性はすべていけないとは言っていない、人間界においては、たとえ愛に発する行為でも、大なり小なり利己性は免れないという。要は動機の程度が高いか低いかの問題で、そこでこのように lowly selfishness, 直訳すれば〝下賤な利己主義〟という言い方もするわけである。これはきわめて大切なことである。

この点を正しく理解していないと安易な自己犠牲精神に駆り立てられ、その犠牲が何も生み出さずに無駄に終わって元も子も無くしてしまう危険性がある。別のところでもシルバーバーチは、人類愛や博愛精神を説く一見崇高そうな人間の心の奥にも、霊界から見ると〝オレこそは〟といった自惚れと野心がうごめいているのがよく読み取れると言っている。

私が若いころ師の間部氏から〝人間のすることなんかタカが知れている!〟と強い口調で戒められたことがあったが、そういう意味合いがあったのでろう )


───でも、それがもし生まれてくる子供にとって不幸だという考えからだったらどうでしょうか。(裏返せば育児が面倒だと言うことー訳者)

 「それが動機ということになりませんか。何事も動機に帰着します。摂理をごまかすことはできません。摂理は各自の魂に入力されております。そしてあらゆる行為、あらゆる思想、あらゆる観念、あらゆる願望が細大もらさず魂のオーラに印象づけられていきます。

霊の目をもって見れば、そのすべてが一目瞭然です。地上生活での行為がいかなる意図のもとに為されたかが明確に知れます。あなた方の魂は霊の目の前では裸も同然です」


───霊は妊娠中のどの時期に宿るのでしょうか。

 「異議を唱える方が多いことと思いますが、私は二つの種子(精子と卵子)が合体して、ミニチュアの形にせよ、霊が機能する為の媒体を提供した時、その時が地上生活の出発点であると申し上げます」


───遺伝的に精神病を抱えた人の人生が、その肉体的な欠陥のために地上体験から教訓が得られないという意味で無意味であるとした場合、その病気の遺伝を防ぐ目的で断種をするという考えをどう思われますか。

 「私には、そして全宇宙のいかなる存在もみなそうですが、生命の法則を変える力はありません。一個の魂が物質界に誕生することになっている時は、それを阻止しようと如何に努力しても、必ず誕生してきます。なぜかとお聞きになることでしょう。そこで私は再生の事実の存在を説くのです。それが理由です」


霊訓〈完訳・上〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。





12節

*本節の内容 *著者の苦衷と不信 *回答
*根源的過ちは神と人間との関わりについての誤解
*悪魔 *邪霊は自らが招く



〔本質においてプライベートなことを公表するのは決して私の本意とするところではないが、それを敢えてこうした形で公表するのは、一人の人間の思想的経験が他の大勢の人々の経験となり得るであろうし、私がたどって来た精神的ないし霊的葛藤の過程が、同じような過程をたどっている人々にとって参考になるかも知れないと考えたからである。

さて、その後数日間、そうした霊による宗教上の教訓の問題に関する通信が途絶(とだ)えていたが、私の胸には以前にも増してさまざまな疑念が湧き起こり、それを遠慮なく書かせて貰った。当時の私の心境を思い起こすと、インペレーターの通信を読んで途方に暮れ、茫然自失の状態にあったようである。そんな目新しいものを受け入れる余裕はとてもなかった。そして私にとって最も気がかりだったのは“霊の身元”であった。その時の私の考えでは、霊の教説を云々するよりも、霊の地上時代の身元を明かしてくれる方が先決のように思えたのである。またそれ位のことは出来るはずだと信じていたので、それが叶えて貰えないことに焦燥を覚えたのである。今でこそ理解できるが、まず獲得すべきなのは“確信”であって、私が期待したような形だけの身元の証明ではその確信は得られないことが、当時の私には理解できなかったのである。

私を悩ませたのは、いわゆる霊界通信の多くが決して有害とまでは言わないにしても、愚かしく且ついい加減なものであるという印象を拭い切れないことであった。私はそれをキリスト教の思想家の教説と比較してみたが、やはり後者のほうが上であった。また私には霊の見解の中に大きな矛盾があり、あらゆる思想が混ざり合っているようにも思えた。個人的にもその殆どに共鳴できないし、それを受け入れる人にプラスになるとも思えなかった。これを信じる者は狂信家か熱狂者の類であると想像し、不快感さえ感じていた。内容的にも、また交霊会における現象にも大して魅力を覚えず、私はさきに述べた疑問点を書き連ねた。それは主として地上時代の身元の証明に関するものと、神と人間との関係(つながり)、及びスピリチュアリズムの一般的性格とその成り立ちに関するものであった。次がそれに対する回答である――〕


友よ、再び対話を交えることを嬉しく思う。そして、たとえこの機会に質問の全てに答えることが出来ず、また全てを解決し得ずとも、神と人間との関係並びにわれらの背負える使命についてそなたが抱いている誤解の幾つかを解くことが出来るであろう。

そなたの誤解の根源は神及び神と人間との関係についての誤れる概念にあるやに観ぜられる。人類の歴史を通じ、唯一にして同一の神の啓示が一貫して流れていることに間違いはない。が、人間がその啓示を理解せんとするうちに、愚かにもその本性と働きについて真実より大きくかけ離れた奇々怪々な概念を想像するに至った。

太古においては、そのお粗末なる概念は物体の形をとり、祈りが叶えられれば畏敬され、叶えられぬ時は即座に棄て去られることの繰り返しであった。彼らは、目の前の物体そのものは何の霊力も持たず、背後に霊が控えて筋の通れる祈りはこれを叶えさせんとしている事実を知らなかった。彼らにはそれ以上の神の概念は思いつかなかったのである。目に見え手に触れるものにしか神の概念を託し得なかった。この点を篤と注意するがよい。彼らの神の概念を託したのである。神そのものではなく、彼らが精一杯想像し得た未熟な概念だったのである。いい加減な占いの結果より情報を引き出し、これを規準に勝手に祭礼の規範を拵え、挙句にはそれを以って神を裁くに至った。自分らの想像せる神を裁いたのである。彼らは同族の者たちの間で畏敬の的とされる人間的属性を神の属性と考えた。人間から切り離せぬ幾つかの弱点を神も有するものと考えたのである。

かくして出来あがれる神は全てに先んじて己の名誉の維持に腐心する神であり、時に我慢強く、時には優しい慈悲心を持つ神であった。所詮は神を語る者がその時に神はかくあるべきであると想像せるものであった。要するにそれは栄光を授けられたる人間――普遍絶対性と全知全能を具えた人間であった。彼らはそういう神を想像し、そういう神ならば斯くするであろうと考えたのであった。かくの如くして、いつの時代においても神の概念にはその時代の特色が反映している。それは人間の成長と共に進歩する。その知的発達と洗練の度合に応じて進歩したものとなって行く。ほかでもない。その通路となる霊媒が無知の足枷より解放され、光と知識へ向けて進歩しただけ、それだけ神について正しき概念を把握することが可能となるが故である。

神が人間の受容性に応じて啓示を垂れるということは、これまでも度々述べてきた。当然そうあらねばならぬ。神も人間の霊媒を通じて啓示する以上、その霊媒の受容能力に応じたものしか啓示されぬのが道理である。神につきての知識が人間の受容度を超えることは有り得ぬ。仮に今われらがより完璧に近き神学を述べたとしよう。それはそなたには奇異に響き、理解することは不可能であろう。故にこれ以後もわれらは徐々にそなたの受容度に応じて真理を注入していくであろう。そしていずれは現代のそなたの観念の誤りに気づく日も来よう。が、今はまだその時機ではない。神について各自が抱ける概念が即ちその者にとっての神である以上、啓示がその受容度を超えることは絶対にあり得ぬ。事の本質上それは不可能なのである。

それ故そなたが神の働きの真意にまで言及して“そのようなことは絶対に有り得ない。それでは神の本質に反することになる。神がそのような行為に出られるはずがない。なぜなら、あの時も神はそのような行為に出られなかったからである”と述べるということは、言い換えれば“私の神の観念はかくかくしかじかであるから、今それ以外の観念は受け入れるわけにはいかぬ。私の信じるところによれば、私の神はそのような挙には出られないはずである”と述べていることになる。われらが指摘せんとするのはまさにそこである。そなたはそなた自身の神を拵え、そなた自身が相応しいと考える通りの働きを神に強要している。そのうち――この地上にせよ死後にせよ――そなたの視野が広がるにつれて新たなる光が射し込み、“なるほど自分は間違っていた。神は自分の想像していたものとはまるで違う。なぜ自分はあのような愚かな観念を抱いていたのであろう”と述懐する日も到来しよう。

これは全ての進歩的人間に言えることである。その目覚めの時は必ずしも地上生活中に到来するとは限らぬ。ある者は死後の新たな生活まで待たねばならぬ。が、この地上にて洪水の如き知識の恩恵に浴する者もいる。魂が古き信仰に魅力を失い、無味乾燥に思え、新たな、より真実味のある啓示を求める。干天の慈雨の如く、生命を生き返らせる何ものかを求めんとする。

さてそなたはそなたなりの啓示を得た。いや、今まさに手にしつつある。観方によればこれはそなたの精神が広がり、その受容力に応じた神の観念の入る余地が出来たしるしと言えよう。が、さらに観方を変えれば、外部より新たにして豊かなる神の啓示――人類の歴史を通じて得られた啓示と同じ根源からの啓示――が流入したと言うことも出来よう。

それはどちらでも構わぬ。啓示と理解力、知識と受容力とは常に相関関係にある。受容力が備わるまでは知識は授からぬし、精神がその不足を意識するほど進化するまでは、より高き啓示は得られぬ。その理由は単純である。精神そのものが啓示を受ける通路だからである。

そなたたちが抱いている神の観念は、全て人間の精神を濾過器として地上にもたらされたものである。神を求める人間的渇仰の具象化である。未熟なる精神の産物であり、その精神の欲求は必ずしもそなたの欲求とは一致せず、従ってその神は――と言うよりは、神についての見解は、そなたの見解とは異なる。それをそなたはどうにかしてそなたの思想構造に適合させんとするが、所詮それは叶わぬことである。何となれば、その観念たるや発達程度を異にするさまざまな人間による産物の混合物だからである。

よく考えるがよい。そなたはわれらの述べるところの観念が、そなたが聖なる記録より引き出したる観念と相容れぬことを理由に、われらを神の使徒とは認めぬと言う。では聞くが、われらの説く神が一体どの神と異なると言うのか。アダムと共に人間の姿で地上を歩き、何も知らぬ者たちの犯せる罪――今では些細なる過ちに過ぎぬとされている罪――に恐ろしき報復をしたと、まことしやかに語られているその神のことか。それとも、忠実なる友にその一人子を供物として捧げることを命じたという神のことか。あるいは、君主としてイスラエルを支配し、公衆衛生法規の発令と礼拝堂の建立に意を注ぎ、イスラエル軍と共に戦場に赴き、罪なき無抵抗の他民族を全滅させるための残忍この上なき法律と法規を発令したという神のことか。もしかしてその神は、イスラエル軍が流血と修羅場の中でもうあと数時間戦えるよう、ヨシュアに特別の力を与えて宇宙の運行を止まらせ、太陽系を麻痺させたという神のことであろうか。それとも、自分が選べる民イスラエル人が目に見える君主を要求したことに腹を立て、以後何百年にも亙って手を変え品を替えて報復し続けたという、あの神のことか。

さらに、われらの教えはそなたたちのいう大予言者の説ける神々のうちのいずれと相容れぬと言うのか。イザヤの神か。エゼキエルの神か。それともエレミヤの病的な心の産物であるあの陰気なる神か。それともかのダビデの神――半ば父の如く、半ば暴君の如く、残忍さと従順さとを交互に見せ、いつも矛盾と不合理に満ちた神か。それともヨエルの神か、ヨハネの神か。それともパウロのカルヴァン(1)主義的な、あの身の毛もよだつ天命と地獄と選抜、それに白日夢の如き物憂げな天国等の幻想のことか。そのいずれと矛盾するとそなたは言いたいのか。パウロかヨハネか、それともイエスか。

改めて述べるまでもなく、神の啓示はいつの時代にもその時代の人間の受容能力に応じたものが授けられ、それがさらに人間の精神によって色づけされている。言い換えれば、神の観念は鮮明度の差こそあれそれを受けた霊感者の考えであったとも言える。精神に印象づけられた霊示がその霊感者を取り囲む精神的環境によって形を賦与されていった。即ちその霊感者の受容度に応じた分量の真理が授けられ、それが霊感者の考えによって形を整えたのである。真理の全てを授かれる者は一人としておらぬ。みなその時代、その民族の特殊なる要請に鑑みて必要なる分量のみが授けられた。今も引き合いに出せる如く、神の観念が種々様々であるのはそのためである。無論われらとわれらの説く神は、ヨシュアとその神ではない。パウロとその神でもない。もっともわれらは、その神を最も正しく理解しその真近に生活せるイエス・キリストによって、何も知らぬ民に寓話に託して説かれた朧気な神の観念を、われらの説く神と同列に置いて比較しようとは思わぬ。イエスは弟子の誰よりも鮮明に神を認識していた。その説くところは極めて単純にして平易であり、真摯であった。その神の教えもまた同じく平易そのものであった。“天に在(ま)しますわれらが父”――無知なる人間が勝手に神の属性を決めつけ、他愛なき要求を神に押しつけている神学上の学説に比して、これはまた何という違いであろう!

神! そなたは神を知らぬ! そのうちそなたも、その目を遮るベールの内側に立てる時、そなたが愚かにも想像せる神の観念の誤りを知って驚くことであろう。真実の神はおよそそなたの想像せるものとは異なる。もしも神がそなたらの説くとおりのものであるとすれば、その神は創造者としてあるまじき侮辱を受けたとして、それを最初になすりつけたる傲慢無礼なる人物に報復すべきところである。

が、神はさようなものではない。人間のお粗末なる奴隷根性などにて捉えられる性質のものではない。神はそうした卑屈なる想像しか出来ぬ愚昧なる人間の無知を哀れみ、赦される。決して咎め立てはなさらぬ。無知は故意でさえなければ決して恥ではない。が、神は低劣なる観念をいつまでも後生大事にする愚かさ――己の偶像を宿す暗くカビ臭き心に、新たなる光を入れようとせぬ態度をこそお咎めになる。闇を好み、光を嫌い、いつまでも過去の未熟なる幻想にしがみつき、イエスの説ける単純素朴にして雄大なる神に美を見出し得ず、その崇高なる概念に未開時代の神人同形同性説を継ぎ木せねば承知できぬ者たちをこそ咎められるのである。そうした類の、より崇高なる教えを受け入れられぬ者たちは、今なお決して少なくはない。が、そなたはまさかその類ではあるまい!

もしもそなたが軽率にもわれらの教えを旧約聖書のそれと矛盾すると決めつけるのであれば、われらとしてはこう答えるほかはあるまい。すなわち、確かにわれらの教えは、神をあのような腹を立て嫉妬するが如き人間的暴君に仕立てた、古き不愉快きわまる教説とは大いに矛盾しよう。が、イエスを通じて授けられたる神聖そのものの啓示とは完全に軌を一にする。ただ、人間はそのイエスの教えを身勝手なる欲求によって余りに堕落させ、悲しいかな、その真の信奉者にまで背を向けしむるに至ったのである、と。

もしもわれらの述べる神および死後の生命についての言説に何一つそなたの心に訴えるものを見出し得ぬとすれば、それはそなたの魂がかつて喉を潤せる、より雄大にしてより単純素朴なる概念に魅力を覚えなくなったということであるに相違ない。たぶんそなたの魂が邪霊の策略にかかり、地上と神との間を遮る暗雲がそなたに恐ろしき影響を及ぼしつつあるということであるに相違ない。願わくはわれらがその暗雲を取り払い、今一度感化と安らぎの光をそなたの魂に注ぎ込むことが出来ればと思う。永遠に拭えぬほどの危害がそなたに及ぶとは危惧しておらぬ。そなたがこれまでの知識の基盤を総ざらいすることを、われらは別に残念とは思わぬ。それも無益ではあるまい。

さしたる意味もなき些細なる問題に捉われることは止めることである。大なる問題、神につきてのより明瞭なる啓示の必要性、神およびわれら神の使徒につきて、今地上を席巻しつつある冷ややかなる無知と無関心の問題、われらの説く崇高なる教義、そしてわれらが明かす生命躍如たる来世等を十分に検討するがよい。想像の産物に過ぎぬ“悪魔”の問題で心を悩ますことは止めることである。真摯なる者、純心なる者、誠意ある者にとっては神学がまことしやかに説く悪魔も閻魔も存在せぬ。悪は近づけぬのである。邪霊は逃げ去り、悪の勢力も彼らの前では無力となる。そのまわりは天使によりて保護され、明るき霊の支配を受け、進むべき正しき道へと導かれる。

彼らの前途にはかぎりなき知識と、彼らの知性を昂揚し気高くする全てのものが待ち受けている。悪魔などは、自ら創造せぬかぎり、恐れるに足らぬ。善性への親和力が善なるものを引き寄せるのである。まわりには守護に当たる霊が控え、自ら求めぬかぎり邪霊の餌食(えじき)とはならぬ。悪の誘惑や罠が特別免除というのではない。試練の時に味わわされる雰囲気も免れることは出来ぬ。魂が悲しみと懊悩の暗雲に被われ、罪の重荷に打ちひしがれるやも知れぬ。すなわち、あたりに見る不幸と悪に己の無力さを感じ、良心の苛責に苦しめられることもあろう。が、悪魔が彼らを囚(とりこ)にし、あるいは地獄へと引きずり下ろすなどということは絶対にない。そうした懊悩も悲しみも良心の苛責も、所詮は魂の経験の一部であり、その体験の力を摂取して、魂は一段と向上して行く。それは進歩の手段として守護霊が用意せる試練であり、故に細心の注意をもって悪の勢力から保護してくれているのである。

悪を好み、霊性の発達を欠き、肉体的欲望に偏れる者のみが、肉体を棄てたのちもなお肉体的欲望を棄て切れぬ同質の未発達霊を引き寄せるのである。悪の侵入の危険に曝されているのは、そうした類の人間のみである。その性癖そのものが悪を引き寄せる。招かれた悪が住みつくのである。そうした人間が、地上近くをうろつきまわり、スキを見ては侵入し、われらの計画を邪魔し、魂の向上のための仕事を挫折させんとする霊を引き寄せるのである。さきにそなたは軽率にも霊界通信なるものがいい加減にして益になるとは思えぬと述べたが、それは全てそうした低級なる邪霊の仕わざである。

友よ、そなたはその点の理解を誤っている。低級なる人間が自ら招いた低級なる霊の仕わざをもってわれらを咎めてはならぬ。咎めらるベきは聖純なるものや高尚なるものを嫌い、低俗にして下劣なるものを好む他愛なき人間的愚行の方である。かの愚かなる法律をまず咎めよ。単なる風習と流行によって助長されたに過ぎぬ愚行と罪状によって行く手を阻まれ堕落の道へと引きずり下ろされた数多くの人間を、何の準備もなきまま死後の世界へと追いやる法律をまず咎めるベきである。さらには酒場、精神病院、牢獄、そしてそういうものによって増幅されたる情欲と悪魔の如き強欲を咎めよ。無数の霊が永遠の火刑に処せられるとは実にこのことである。そなたらの想像せる物的炎(ほのお)ではない。死後もなお消えやらぬ業欲が炎の如く魂を焼き続けるのである。燃えるだけ燃え、その強欲を焼き尽くして、ようやく魂が清められる。さよう、咎めらるベきは善霊を偽りてそなたらをごまかし、軽薄と誤りによって翻弄せんと企てる低級霊たちである。

これ以上のことはまたの機会としよう。すでにわれらは予定せるもの以上のことを述べた。それに、余の耳に神への礼拝の時の到来を告げる声が聞こえる(2)。これより余もその礼拝の儀式に参列する。願わくば余の祈りが慈悲ぶかき神の御胸に届き、そこより流れ出る御恵みの流れの一すじがそなたにも届き、和(なご)みと静かなる確信がそなたの悩める魂を癒し、慰めとならんことを祈る。

(†インペレーター)


〔注〕

(1)


John Calvin 十九世紀の神学者、宗教改革家。カルビンとも。


(2)


高級神霊界においては「讃仰(さんごう)の祈り」という儀式がよく行なわれる。

シルバーバーチ霊が語っているところによると、とくにイースターとクリスマスの頃には地球浄化の大事業すなわち「スピリチュアリズム」に携わっている世界各地の霊団の指導霊が一堂に会し、計画の進捗(しんちょく)ぐあいの報告と今後の方針の決定が為される。その時の主宰霊がほかならぬ地上で「ナザレのイエス」と呼ばれた人物であるという。

無論これは「ナザレのイエス」として地上に降誕する以前から行なわれていたはずで、日本神道の祝詞で八百万の神々が「高天原に神集えに集え給う」と述べているのは、そのことではなかろうか。

シルバーバーチの霊訓(四)

Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor
Psychic Prees Ltd.






シルバーバーチに捧ぐ
シルビア・バーバネル

 
 いまだ御姿は拝さずとも
 あなたは苦しみの時の我が友、我が助言者、我が指導者、我が力、我が慰め ───
 片時として我より離れることなし。

 人の世の悩みを知り、人の心を察し、
 おのれが蒔きし種はおのれが刈るとの摂理に照らしつつ、
人の道を示し給う。

 飾らぬ言葉にていつもあなたは説く ───
 おのれを人に役立てることこそ霊の通貨(コイン)、
愛と優しさこそ神の道へ誘(いざな)うものなりと。




  まえがき

 霊的交信と言う不安定な関係を永年にわたって維持し続けている数多くの優れた支配霊の中でも、ハンネン・スワッハー・ホームサークルの霊言霊媒モーリス・バーバネルの支配霊シルバーバーチほど広く愛され、しかるべき敬意を受けている霊はまずいない。

 本書の目的はそのシルバーバーチの膨大な霊言の記録の中から、今なお霊的実在の理解へ向けて刻苦している人類にとって不滅の意義をもつシルバーバーチならではの叡智の幾つかを選んでお届けすることである。

 私は当初、すでに出版されている霊言集の中から幾つかの主題に分けて抜粋しようと思った。つまり〝枕辺(ベッドサイド)のシルバーバーチ〟とでも呼ぶべきものが最初の構想だったのである。

 ところが、いざ手がけてみると、シルバーバーチの霊言はそう簡単に扱えるものではないことが分った。大画家、大劇作家、大作曲家と同じく、シルバーバーチというのは常に人間的体験の重大なテーマを扱うか、永遠の普遍的真理を説き明かそうとしているかの、いずれかであることが分かった。

一見些細に思える問題について質問すると、シルバーバーチはすぐにそれを宇宙の大哲理の本流に繋がった支流として扱うのである。

 そこで私は、いっそのことその本流に足を踏み入れて、真理、死、恐怖心、愛、不滅性、人生の摂理、大霊すなわち神、その他いくつかの関連した問題についてのシルバーバーチの言葉を集めることにした。

 さてシルバーバーチの霊言の流暢(りゅうちょう)さについては今さら申し上げるまでもない。経験豊かなさるジャーナリスト(モーリス・バーバネル)の言葉を借りれば───

 「シルバーバーチの教えは言わば霊の錬金術、つまりアルファベットの二十六文字を操って輝かんばかりの美しい言葉を生み出す能力の典型である。

年がら年じゅう物を書く仕事をしている人間から見れば、毎週毎週ぶっつけ本番でこれほど叡智に富んだ教えを素朴な雄弁さでもって説き続けることそれ自体がすでに超人的であることを示している。

 ペンに生きる他のジャーナリストと同様、私も平易な文章ほど難しいものはないことを熟知している。誰しも単語を置き換えたり削ったり、文体を書き改めたり、字引や同義語辞典と首っぴきでやっと満足のいく記事ができあがる。

ところがこの〝死者〟は一度も言葉に窮することなく、スラスラと完璧な文章を述べていく。その一文一文に良識が溢れ、人の心を鼓舞し精神を昂揚し、気高さを感じさせる。

 シルバーバーチは宗教とは互いに扶助し合うことに尽きると言う。神とは自然法則であり、腹を立てたり復讐心をむき出しにする人間的な神ではないと説く。その言葉一つひとつにダイヤモンドの輝きに似たものがある。

その人物像はまさしく〝進化せる存在〟であり、全人類への愛に満ち、世故に長けた人間の目には見えなくても、童子の如き心の持ち主には得心のいく真理を説き明かそうとする。

迷える人類のために携えてきたメッセージは〝人のために自分を役立てなさい〟ということしかないと言いつつも、そのたった一つの福音の表現法はキリがないかに思えるほど多彩である。

 永年にわたってその霊言に親しんできた者として、ますます敬意を覚えるようになったこの名文家、文章の達人に私は最敬礼する」

 第一集の Teachings of Silver Birch(後注①)を読んだ英国新聞界の大人物の一人で政治家でもあるビーバーブルック卿 W.M.A. Beaverbrook は当時の交霊会の司会者であるハンネン・スワッハー(第一巻21頁参照)へ宛てた手紙の中で〝文章が実に美しい。そして私はその内容の純真・素朴さに心を打たれました〟と激賞している。

 第二集の More Teachings of Silver Birch (後注②)について Natal Daily News 紙は〝イギリスの言語をこれほど優しく、これほど簡潔に、これほど美しく操った書は滅多にない〟と論評し〝英語による表現の最高傑作の一つ〟として The Book of the Week (その週の推選図書)に推している。

また、その中の一節が〝これだけのものはチャーチルほどの名文家にも書けない〟と激賞されている。

 そしてこの度は Wisdom of Silver Birch (邦訳シリーズ第三巻)が Aberdeen Press and Journal 紙によって激賞され、同じくその文章表現の自在な躍動ぶりがチャーチルの名文にも匹敵すると述べられている。

 確かにシルバーバーチの訓えほど高尚にしてしかも難解さを感じさせない思想は、世界の大宗教家の訓えは別として、他に類を見ない。しかし同時にその大宗教家たちの思想も比肩し得ないものも兼ね具えている。それはシルバーバーチがわれわれの地上とは異なる次元の世界から語りかけていることにある。

 愛他精神と素朴さと叡智に満ち、汎神論に裏打ちされたその明晰な教訓は、常に人生における霊的要素と同胞との関係における慈悲心の大切さを強調する。そして〝無色の大霊〟と呼んでいる神に対する絶対的な奉仕の生活を唱道する。

 シルバーバーチには現代の聖人と呼ばれるアルバート・シュバイツァーに見られるのと同じ、苦しむ人類への献身的精神と全生命に対する畏敬が見られる。同時に(英国の詩人)シェリーの詩を一貫している洞察力の純粋さと、万物に同じ霊の存在を認める思想を見ることもできる。

しかしその二人の稀代(きだい)の天才とも異なるものがある。二人は、作品と業績はさておくとして、その哲理に普通一般の人間の理解の及ばないものが時として見られるが、シルバーバーチは〝知〟に偏ることがない。繰り返し一貫して説くテーマは〝摂理への従順〟である。
 ではその摂理とは何か。それをシルバーバーチ自身に語っていただくことにしよう。
  一九五五年 ウィリアム・ネイラー



 訳者注①───オースチン編の第一集は『シルバーバーチ霊言集』の題で桑原啓善氏によって訳され、私の『古代霊は語る』と同時発売されている。訳し方に独自の工夫が凝らされていて私の訳とかなり趣が異なるが、差し当たって私のシリーズからはこの一冊だけははずすことにしている。

それで私のシリーズは全十巻となる予定であるが、何度もお断りしているように、原点の十一巻の中には同じ霊言が重複して編集されている箇所がかなりある。

とくにこのネイラー篇は三分の一以上が他の霊言集からの引用で構成されている。それをそのまま訳したのではまったく面白味がなくなるので、私のシリーズではそうした箇所を割愛したり、全体の構成を私なりの判断で日本人向きに工夫を施したりしている。

本書でも重複部分は前三巻でカットしておいたものと置き換え、さらにオースチンの第一集からも関連した部分を引用してある。こうすることで私のシリーズにシルバーバーチの霊言の全部を摂り入れるつもりである。

結局第一集は単行本として訳さず全十巻に分散するという形を取ることにした。その点をご理解ねがいたい。サイキック・ニューズ社からも〝良いと思われるように編集されて結構〟と言う諒解を得ている。

訳者②───オースチンの続編で、次の第五巻に予定している。


 

    
  一章 絶対不変の摂理

 「宇宙の大霊すなわち神は無限の存在です。そしてあなた方もその大霊の一分子です。不動の信念を持って正しい生活を送れば、きっとその恩恵に浴することができます。このことに例外はありません。いかなる身分の人であろうと、魂が何かを求め、その人の信仰に間違いがなければ、かならずやそれを手にすることができます。

 それが神の摂理なのです。その摂理に調和しさえすれば、かならずや良い結果が得られます。もしも良い結果が得られないとすれば、それは摂理と調和していないことを証明しているに過ぎません。

地上の歴史を繙(ひもと) けば、いかに身分の低い者でも、いかに貧しい人でも、その摂理に忠実に生きて決して裏切られることのなかった人々が大勢いることが分かります。忠実に生きずして摂理に文句を言う人間を引き合いに出してはいけません。

 時として酷しい環境に閉じ込められ、それが容易に克服できないことがあります。しかし、正しい信念さえ失わなければ、そのうちきっと全障害を乗り越えることができます。そんな時は神の象徴であるところの太陽に向かってこう述べるのです。

 ───自分は神の一部なのだ。不滅なのだ。永遠の存在なのだ。無限の可能性を宿しているのだ。その自分が限りある物質界のことで挫けるものか、と。そう言えるようになれば、決して挫けることありません。

 多くの人間はまず不安を抱きます。本当にそうなのだろうかと訝(いぶか)ります。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。〝完き愛は恐れを払う〟(ヨハネ①4・18)〝まず神の御国と義を求めよ。さらばすべてが汝のものとならん〟(ルカ12・31)

 これは遠いむかし神の摂理を理解した者(イエス)によって説かれました。勇気を持って実践すれば必ず成就されることを身をもって示しました。あなたもその摂理が働くような心構えができれば、何事も望みどおりの結果が得られます。

 もう一つ別の摂理をお教えしましょう。代価を払わずして価値あるものを手に入れることはできないということです。よい霊媒現象を得たいと思えばそれなりの感受性を磨かなくてはなりません。

また、この世的な富を蓄積しているとそれなりの代価を支払わされます。つまり地上的なものに心を奪われて、その分だけ霊としての義務を怠れば、地上的な富は増えても、こちらの世界へ来てみると自分がいかにみすぼらしいかを思い知らされることになります。

 人間の魂には宇宙最大の富が宿されているのです。あなた方一人ひとりが神の一部を構成しているのです。地上のいかなる富も財産もその霊の宝に優るものはありません。私どもはあなた方に内在するその金鉱を掘り起こすことをお教えしているのです。人間的煩悩の土塊(どかい)の中に埋もれた霊のダイヤモンドをお見せしようとしているのです。

 できるだけ高い界のバイブレーションに感応するようになっていただきたい。自分が決して宇宙で一人ぼっちでないこと、いつも周りに自分を愛する霊がいて、ある時は守護し、ある時は導き、ある時は補佐し、ある時は霊感を吹き込んでくれていることを自覚していただきたい。

そして霊性を開発するにつれて宇宙最大の霊すなわち神に近づき、その心と一体となっていくことを知っていただきたい。そう願っているのです。
 
 人間は同胞のために自分を役立てることによって神に仕えることになります。その関係を維持しているかぎりその人は神のふところに抱かれ、その愛に包まれ、完全な心の平和を得ることになります。

 単なる信仰、盲目的な信仰は烈しい嵐にひとたまりもなく崩れ去ることがあります。しかし立証された知識の土台の上に築かれた信仰はいかなる嵐にもびくともしません。

 いまだ証を見ずして死後の生命を信じることのできる人は幸せです。が、証を手にしてそれをもとに宇宙の摂理が愛と叡知によって支配されていることを得心するが故に、証が提供されていないことまでも信じることのできる人はその三倍も幸せです。

(訳者注──死後にも生命があることは証明できたが、それが永遠に続くものであるかどうかは、証明の問題では無く信仰の問題である。それは高級霊にとっても同じで、だから究極のことは知らない。とシルバーバーチは明言するのである)

 ここにお集まりの皆さんは完璧な信仰を持っていなければなりません。なぜならば皆さんは死後に関する具体的な知識をお持ちだからです。霊力の証を手にしておられるからです。

そこまでくれば、さらに、今度は万事が良きに計らわれていること、神の摂理に調和しさえすれば幸せな結果がもたらされるとの信念を持たれてしかるべきです。

無明から生れるもの───あなた方のいう〝悪〟の要素によって迷わされることは絶対にないとの信念に生きなくてはいけません。自分は神の摂理による保護のもとに生き、活動しているのだという信念です。  

 心に邪なものさえなければ善なるものしか近づきません。善性の支配するところには善なるものしか存在し得ないからです。こちらの世界からも神の使徒しか近づきません。あなた方には何一つ恐れるものはありません。

あなた方を包み、あなた方を支え、あなた方に霊感を吹き込まんとする力は、宇宙の大霊から来る力に他ならないのです。

 その力はいかなる試練においても、いかなる苦難においても、あなた方の支えとなります。心の嵐を鎮め、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれます。あなた方は進歩の大道にしっかりと足を置いておられます。何一つ恐れるものはありません。

 完(まった)き信念は恐れを払います。知識は恐れを駆逐します。恐れは無知から生まれるものだからです。進化せる魂はいついかなる時も怖れることを知りません。なぜならば自分に神が宿るからには人生のいかなる出来ごとも克服できないものは有りえないことを悟っているからです。

 恐怖心は自ら魂の牢獄をこしらえます。皆さんはその恐怖心を達観しそのバイブレーションによって心を乱されることなく、完璧な信仰と確信と信頼を抱き、独立独歩の気構えでこう宣言できるようでなければなりません───自分は神なのだ。足元の事情などには迷わされない。

いかなる困難も内部の無限の霊力できっと克服してみせる、と。その通り、人間はあらゆる環境を支配する力を所有しているのです。それを何を好んで(恐怖心などで)縮こませるのでしょう。

 神は物的なものも霊的なものも支配しております。神の目からすれば両者に区別はありません。ですから物の生命を霊の生命から切り離して考えてはなりません。決して水と油のように分離したものではありません。両者とも一大生命体を構成する不可分の要素であり、物的なものは霊的なものに働きかけ、霊的なものは物的なものに働きかけております。

 ですから、あなた方のように霊力の恵みを受けておられる方にとっては、いついかなる場においても神の存在を意識した生き方をしているかぎり、克服できない困難は絶対にふりかからないという信念に燃えなくてはなりません。

 世の中のいかなる障害も、神の目から見てそれが取り除かれるべきものであればきっと取り除かれます。万が一にもあなたの苦難が余りに大きくて耐え切れそうになく思えた時はこう理解して下さい───私の方でも向上進化の足を止めてあなたのために精一杯のことをして差し上げますが、今はじっとその苦難に耐え、それがもたらす教訓を学び取るように心掛ける方が賢明である場合がある、ということです。

 地上の人間の全てが自分が人間的煩悩と同時に神的属性も具えていることを自覚するようになれば、地上生活がどれだけ生き易くなることでしょう。トラブルはすぐに解決され、障害はすぐに取り除かれることでしょう。

しかし人間は心の奥に潜在する霊力をあまり信じようとしません。人間的煩悩はあくまでも地上だけのものです。神的属性は宇宙の大霊のものです。

 その昔〝この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ〟と言う訓え(※)が説かれましたが、死後の生命への信仰心に欠ける地上の人間にはそれを実践する勇気がありません。金持ちを羨ましがり金持ちの生活には悩みが無いかのような口を利きます。

金持ちには金持ちとしての悩みがあることを知らないからです。神の摂理は財産の多い少ないでごまかされるものではありません。

(※この世にありながら、この世的な俗人となるなというイエスの訓えで、確かに聖書にそういう意味のことを説いている箇所があるが、そっくりそのままの言葉は見当たらない。モーゼスの『霊訓』の中でも引用されているところをみると、地上の記録に残っていないだけで霊界の記録には記されているのであろう。オーエンの『ベールの彼方の生活』の通信霊の一人が〝われわれがキリストの地上での行状を語る時は霊界の記録簿を参照している〟と述べている。訳者)

 人間が地上にあるのは人格を形成するためです。降りかかる問題をどう処理して行くかがその人の性格を決定づけます。が、いかなる問題も地上的なものであり、物的なものであり、一方あなたという存在は大霊の一部であり、神性を宿しているからには、あなたにとって克服できないほど大きな問題は絶対に生じません。

 心の平和は一つしかありません。神と一体となった者にのみ訪れる平和、神の御心と一つになり、神の大いなる意志と一つになった人に訪れる平和、魂も精神も心も神と一体となった者にのみ訪れる平和です。そうなった時の安らぎこそ真の平和です。神の摂理と調和するからです。それ以外には平和はありません。

 私にできることは摂理をお教えするだけです。その昔、神の御国は自分の心の中にあると説いた人がいました。外にあるのではないのです。 有為転変の物質の世界に神の国があるはずはありません。魂の中に存在するのです。

 神の摂理は精細をきわめ完璧ですから、一切のごまかしが利きません。悪の報いを免れることは絶対にできませんし、善が報われずに終わることもありません。ただ、永遠の摂理を物質という束の間の存在の目で判断してはいけません。より大きなものをご覧にならずに小さいものを判断してはいけません。
      
 地上の束の間の喜びを永遠なる霊的なものと混同してはなりません。地上のよろこびは安ピカであり気まぐれです。あなた方は地上の感覚で物事を考え、私どもは霊の目で見ます。摂理を曲げてまで人間のよろこびそうなことを説くのは私にはとてもできません。

 私どもの世界から戻ってくる霊にお聞きになれば、みな口を揃えて摂理の完璧さを口にするはずです。そのスピリットたちは二度と物質の世界へ誕生したいとは思いません。

ところが人間はその面白くない物質の世界に安らぎを求めようとします。そこで私が、永遠の安らぎは魂の中にあることをお教えしようとしているのです。最大の財産は霊の財産だからです。

 どこまで向上してもなお自分に満足出来ない人がいます。そういうタイプの人は霊の世界へきても満足しません。不完全な自分に不満を覚えるのです。神の道具として十分でないことを自覚するのです。艱難辛苦を通してまだまだ魂に磨きをかけ神性を発揮しなければならないことを認識するのです。

 しなければならないことがあるのを自覚しながら心の安らぎが得られるでしょうか。地上の同胞が、知っておくべき真理も知らされず、神の名のもとに誤った教えを聞かされている事実を前にして、私どもが安閑としておれると思われますか。

 光があるべきところに闇があり、自由であるべき魂が煩悩に負けて牢獄に閉じ込められ、人間の過ちによって惹き起こされた混乱を目のあたりにして、私どもが平気な顔をしていられると思われますか。

 私どもがじっとしていられなくなるのは哀れみの情に耐え切れなくなるからです。霊的存在として受けるべき恩恵を受けられずにいる人間がひしめいている地上に何とかして神の愛を行きわたらせたいと願うからです。神は人間に必要不可欠なものはすべて用意して下さっています。

それが平等に行きわたっていないだけです。偉大な魂は、他の者が真理に飢え苦しんでいる時に自分だけが豊富な知識を持って平気な顔をしていられないはずです。

 私たちが地上の人間を指導するに当たっていちばん辛く思うのは、時としてあなた方が苦しむのを敢えて傍観しなければならないことがあることです。本人みずからが闘い抜くべき試練であるということが判っているだけに、側から手出しをしてはならないことがあるのです。

 首尾よく本人が勝利を収めれば、それは私たちの勝利でもあります。挫折すれば私たちの敗北でもあります。いついかなる時も私たちにとっての闘いでもあるのです。それでいて指一本援助してはならないことがあるのです。

 私も、人間が苦しむのを見て涙を流したことが何度かあります。でも、ここは絶対に手出しをしてはならないと自分に言い聞かせました。それが摂理だからです。

その時の辛さは苦しんでいる本人よりも辛いものです。しかし本人みずからの力で解決すべき問題を私が代って解決してあげることは許されないのです。もしも私が指示を与えたら、それは当人の自由選択の権利を犯すことになるのです。

もしも私がこの霊媒(バーバネル)に為すべきこと、為すべきでないことをいちいち指示し始めたら、一人間として自由意志を奪うことになるのです。その時から(霊媒としてはイザ知らず)人間としての進歩が阻害され始めます。

 霊性の発達は各自が抱える問題をどう処理していくかに掛かっています。物ごとがラクに順調に捗(はかど)るから発達するのではありません。困難が伴うからこそ発達するのです。が、そうした中にあって私達にも干渉を許される場合が生じます。

 万一私たちスピリットとしての大義名分が損なわれかねない事態に立ちいたった時は干渉します。たとえばこの霊媒を通じての仕事が阻害される可能性が生じた場合は、その障害を排除すべく干渉します。しかしそれが霊媒個人の霊的進化に関わる問題であれば、それを解決するのは当人の義務ですから、自分で処理しなければなりません。


 ある日の交霊会でサークルのメンバーの間で植物の栽培が話題となった時、それを取り上げてシルバーバーチがこう語った。

 「タネ蒔きと収穫の摂理は大自然の法則の中でも、もっともっと多くの人に理解していただきたいと思っているものです。大地が〝実り〟を産み出していく自然の営みの中に、神の摂理がいかに不変絶対であるかの教訓を読み取るべきです。

大地に親しみ、大自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、大自然の仕組みの素晴らしさに感心し、秩序整然たる因果関係の営みの中に、その全てを計画した宇宙の大精神すなわち神の御心をいくばくかでも悟られるはずです。

 蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた原因(タネ)は大自然の摂理に正直に従ってそれなりの結果(みのり)をもたらします。自然界について言えることは人間界についてもそのまま当てはまります。

 利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑(かたく)な人、利己的な人は不寛容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理は変えられません。永遠に不変です。

いかなる宗教的儀式、いかなる賛美歌、いかなる祈り、いかなる聖典を持ってしても、その因果律に干渉し都合のよいように変えることはできません。

 発生した原因は数学的・機械的正確さを持って結果を生み出します。聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。霊的成長を望む者は霊的成長を促すような生活をするほかはありません。

 その霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げる事を通して得られます。言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されて初めて成長するのです。

邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。

 いかなる摂理も、全宇宙を包含する根源的な摂理の一面を構成しています。その一つひとつが神の計画に沿って調和して働いています。この事実を推し進めて考えれば、世界中の男女が自分の行為に対して自分の日常生活で責任を果たすべきであり、それを誰かに転嫁できるかのように教える誤った神学を一刻も早く棄て去るべきであることになります。

 人間は自分の魂の庭師のようなものです。魂が叡知と崇高さと美しさを増していく上で必要なものは神が全部用意して下さっております。材料は揃っているのです。あとは各自がそれをいかに有効に使用するかに掛かっております」

 このようにシルバーバーチにとっては摂理そのものが神であり、神とは摂理そのものを意味する。別の交霊会でこう述べている。

 「人間的な感情を具えた神は、人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。悪魔も人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。それもこれも視野の狭い人間による想像の産物です。

神とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。なぜなら、世の中が不変不滅、無限絶対の法則によって支配されていることを知れば、すべてが公正に裁かれ、誰ひ一人としてこの宇宙から忘れ去られることがないことを悟ることができるからです。

 神が全てを知り尽くしているのも法則があればこそです。法則だからこそ何一つ見落とされることがないのです。法則だからこそ人生のあらゆる側面がこの大宇宙にその存在場所を得ているのです。人生のありとあらゆる側面が───いかに些細なことでも、いかに大きな問題でも───決して見逃されることがありません。全てが法則によって経綸されているからです。法則なくしては何ものも存在し得ません。

法則は絶対です。人間の自由意志が混乱を惹き起こし、その法則の働きを見きわめにくくすることはあっても、法則そのものは厳然と存在し機能しております。私は神学はこれまで人類にとって大きな呪いとなっていたと信じます。しかしその呪われた時代は事実上過ぎ去りました」

(訳者注───第二巻ならびに第三巻の〝あとがき〟で説明したとおり、シルバーバーチは同じ単語を冠詞の用い方で使い分けることが多く、ここでも一般に法律や法則を指す law を a law ,the law, laws,the laws, そしてただの law, さらにこれらを大文字にしたりしており、私はその場に応じて、法則、摂理、理法、絶対的原理、真理、神のおきて、あるいは働き等々と訳し変えている。

シルバーバーチも言っている通り霊的な内容を地上の言語で完璧に表現することは所詮無理なことであるから、用語そのものにあまり拘らずに全体としての意味を汲み取っていただければ結構である )

 さらにシルバーバーチはこれからはその法則を絶対的信仰対象にすべきであると説いてこう続ける。

 「私たちは神の摂理を説いているのです。摂理こそ地上に健康と幸福をもたらすと信じるからです。教会で(聖書を絶対のものとして)説教している人たちは、いずれその誤りを初めから是正させられる日が来ます。法則から逃れることはできません。

誰一人として免れることのできる人はいません。なかんずく霊の声を聞いたものは尚さらです。そうと知りつつ実行しない者は、知らずして実行しない者より責任は重大です。

 いったん心眼が開かれ霊力を伴った愛を受け入れた人、つまり霊的真理の啓示に目覚めた人が、そのあと万一それなりの責任を果たさなかったら、その人はいっそう大きな罰をこうむります。

なぜなら、そうと知りつつ怠ったのであり、そうとは知らずに怠ったのではないからです。立派な霊媒になれるはずなのに銀貨三十枚で霊的才能を売ってしまっている人が数多くいます。(訳者注──最後の晩餐の直前にイエスの弟子の一人ユダが、イエスを補縛せんとする側と密通して銀貨三十枚を貰ったことから〝裏切りの値〟としてよく用いられるが、ここではシルバーバーチは摂理に背くことを神への裏切り行為として述べている)

 神は人間の全てに内在しております。無論人類はありとあらゆる進化の形態を経て今日に至り、したがって誰しも遺伝的に動物的性向を宿してはおりますが、同時にそれらの全てに優るものとして神の属性も宿しており、それを機能させ発揮しさえすれば、地上生活を神の如く生きることができます」

 あらゆる病を治し、あらゆる困難を克服する力を人間の一人ひとりが宿している事実を地上人類はいまだに悟っておりません。心身が衰弱した時に引き出せる霊力の貯蔵庫を一人ひとりが携えているのです。

〝神の御国は汝等の心の中にある〟───この言葉の真意を理解する人が何と少ないことでしょう。

 その、より大きな自我と接触する方法は神の摂理に則った生活を送ることです。が、それを実行する人が何人いるでしょうか。生活は行為だけで成り立っているのではありません。口にすること、心に思うことによっても成り立っております。

行為さえ立派であれば良いというものではありません。むろん行為が一ばん大切です。しかし口をついて出る言葉、心に思うこともあなたの一部です。人間は往々にして思念の主人でなく奴隷になっている、とはよく言われることです」


普遍的な同胞精神の必要性を説いて───

 「私たちは一人の例外もなく神の一部です。赤い肌をした者(銅色人種)もいれば黒い肌をした者もおり、黄色い肌をした者もいれば白い肌をした者もいます。が、その一つひとつが全体の組織の一部を構成しているのです。

 そのうち神の摂理が地上全体で理解され、あらゆる肌色をした人種が混り合い、お互いに愛念を抱いて生活する調和のとれた地上天国が実現する日が来ます。今のあなた方にはそうした肌の色の違いが何を意味しているかは理解できません。が、その一つひとつに目的があり、それなりに生命の法則に貢献しているのです。

 そのすべてが融合し合うまでは地上にいかなる平和も訪れません。言いかえれば表面の肌色でなく、その奥の魂を見つめるようになるまでは真の平和は訪れません。

 このサークル───レギュラー・メンバーとシルバーバーチ霊団───がほぼ世界中の民族から構成されていることに気づかれたことがおありでしょうか。そのことにも地上人類への教訓が意図されているのです。

 私たちはどの民族にも他の民族にない特有の要素があって全体の為に寄与していることを学んだのです。各民族が全体にとって最善のものを持ち寄るのです。今までのところ地上人類は黄色人種は黄色人種なりに、白色人種は白色人種なりに、他の人種にない存在価値があることを理解しておりません。

 あなた方一人ひとりが神の構成分子であることを忘れてはなりません。お一人お一人が神の仕事、神の力、神の愛、神の知識に寄与することができるということです。自分より力の劣る人に手を貸すという、それだけの行為が、あなたを通じて神が顕現しようとする行為でもあるということになります。

 いかなる方法でもよいのです。相手が誰であってもよいのです。どこであってもよいのです。倒れた人に手を貸して起き上がらせ、衰弱した人に力を与え、暗闇に迷う人に光明をもたらし、飢えに苦しむ人に食べ物を与え、寝る場所とて見出せない人に安眠の場を提供してあげるという、その行為が大切です。

 そうした行為の一つひとつが神の仕事なのです。人間がそう努力するとき、そこには必ず霊界から支え、鼓舞し、援助せんとする力が加わり、予期した以上の成果が得られます。

 神が働きかけるのは教会や大聖堂や寺院の中だけではありません。霊力に反応する人であればいつでもどこでも神の道具となります。神の力によって魂を鼓舞された人、高き天上界からの熱誠に感動して崇高なる憧憬に燃える人はみな神の道具です。

 地上界はいまだに神の力を特殊なものに限定し、聖霊の働きかける通路はかくかくしかじかの人でなければならないと勝手に決めてかかっておりますが、神はインスピレーションに感応する人、神の御心に適った生き方をしている人、神の摂理に従順な人であれば、どこの誰であろうと道具として使用します。

 その力は一切の地上的差別を無視します。地位や肩書、社会的階層の上下、肌の色、人種、国家、階級の別は構いません。場所がどこであろうと、誰であろうと、その力に反応する人に働きかけ、真理の大根源からの霊力を注ぎ、心を啓発し、魂を鼓舞し、宇宙という名の神の大農園の働き手として雇います。

 どうか皆さんもこの教訓を会得され、神の為に、人生の暗闇と重圧と嵐の中で難渋している神の子等を救う決意を固められ、彼らの重荷を軽くしてあげ、新たな希望と知識と光と力をもたらしてあげていただきたいのです。

それによって彼らの身体に新たなエネルギーが湧き、精神は勇気に満ち、霊は新たな意気に燃えて、神の恩恵を噛みしめることになるでしょう。同時にあなた方も人のために自分を役立てることの喜び───自分のためには何も求めず、ひたすら他人の心を高揚してあげる仕事の真の喜びを味わうことになるでしょう」

 霊的摂理の存在を知った者の責任の重大性を説いて───

 「地上の同胞の心身の糧となる霊的事実の中継役をする人たちには大変な責任が担わされています。その態度いかんが地上生活において、あるいは霊の世界へ来てから、その責任を問われることになります。

 霊界からの情報をしきりに求めながら、それを同胞の為に活用することをまるでしようとしない人に、私は時折うんざりさせられることがあります。そういう人は霊の述べたことなら何でも〝高等な訓え〟として有難がるのですが、各自が霊性の成長とともに神の摂理の働きをより多く理解していくのですから、訓えそのものに高級も低級もありません。

 もし彼らが自分の得た知識を活用して地上をより良い生活の場、つまり食に飢える人も喉を乾かしている人もなく、神の陽光がふんだんに降り注ぐ家に住むことが出来るような世の中にするために何かを為せば、それこそ最高の訓えを実践をしていることになりましょう」


 続いて自由意志との関連について───
 「人間は戦争が起きると〝なぜ神は戦争を中止させないのか〟 〝なぜ神は戦争が起きないようにしてくれないのか〟と言って私たちを批難します。しかし神の摂理をみずから無視しているかぎり、その責任は人間自身にあります。

 自分の行為による結果だけは避けようとする、そういうムシのいい考えは許されません。神の摂理は私たちも変えることはできません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばなりません。高慢、嫉妬、怨恨、貪欲、悪意、不信、猜疑心───こうしたものが実れば当然のことながら戦争、衝突、仲違いとなります。

 神の摂理を説こうとしている私たちは、こうして地上へ戻ってくる真の目的を理解していない人たちから(先ほど述べたように)よく批難されます。しかし私たちの目的は摂理を説くことでしかないのです。

この世には大自然の摂理しか存在しないからです。それをあなた方が宗教と呼ぼうと科学と呼ぼうと、あるいは哲学と呼ぼうと、それはどうでもよいことです。

 誰であろうと───一個人であろうと、大勢であろうと、民族全体であろうと国民全体であろうと───摂理に反したことをすれば必ずそれなりのツケが回ってきます。いつも申しておりますように、その摂理の働きは完璧です。時としてそれがあなた方人間には見きわめられないことがありますが、因果律は間違いなく働きます。法則だからです。このことはこれまで何度も説いてまいりました。ここでも改めて申しあげます───宇宙には大自然の法則、神の摂理しか存在しない、と。

 ですから、その摂理に順応して生きることが何よりも大切であることを人類が悟るまでは、地上に混乱と挫折と災害と破滅が絶えないことでしょう。私たちに出来るのは永遠の霊的原理をお教えすることだけです。物的なものがすべて朽ち果て灰燼(かいじん)に帰した後もなお残るのはそれだけだからです。

物的なものしか目に映じない人間は、幻影を追い求め永遠を忘れるために大きな過ちを犯すのです。いたって単純な真理ばかりです。が、地上人類はいまだにそれを悟れずにいます。

 霊界からいかなる手段を講じてもなお悟れないとすれば、苦痛と涙、流血と悲劇を通じて悟るほかはありません。私としてはこうした形で、つまり愛と協調の精神の中で悟って頂きたいのです。

ですが、それが叶えられない───つまり霊的手段ではだめということになれば、摂理に背いた生き方をしてその間違いを思い知らされるほかはありません。地上で偉人とされている人が必ずしも私たちの世界で偉人であるとは限りません。

私たちにとっての偉人は魂の偉大さ、霊の偉大さ、人のためを思う気持ちの大きさです。こうしたものは物的世界のケバケバしさが消えたあとも末永く残ります。

 自由意志は神からの授かりものです。ですが、その使い方を誤ればそれなりの償いをしなくてはなりません。地上世界が神の摂理に適った生き方をすれば、その恩恵がもたらさせます。摂理に背いた生き方をすれば、良からぬ結果がもたらされます。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱をもたらします。

 私たちは今、神の子の指導者であるべき人たちから軽蔑されております。神とその愛の旗印のもとに訪れるのですから歓迎されてよいはずなのに、彼らは私たちを受け入れようとしません。地上の人たちに何とかしてあげたいという願望に駆られて、みずからの力でみずからを救うための霊的理法と霊力の存在を明かそうと努力しているのですが・・・。

 ですが、霊的盲目による無知の中に浸り切り、祭礼や儀式に取り囲まれ、しかも今の時代に聖霊による地上への働きかけがあることを認めようとしない聖職者は、いずれその代償を払わされることになります。

私たちは人のためになることをしようとする人なら、いかなる分野の人でも味方として歓迎します。私たちにとっての敵は破壊的態度に出る人たちだけです。私たちは愛と奉仕の翼に乗って、援助の手を差し伸べられるところならどこへでも参ります。それが私たちに課せられた大切な使命なのです。

 むろんその過程において数々の困難や障害に遭遇することは承知しております。それを何とか克服していかねばなりません。汐は満ちたり引いたりします。が、確実に勝利に向かっております。私たちだけでは仕事らしい仕事はできません。あなた方地上の同志と手を握り合えばいくばくかの仕事はできます。

たった一個の魂でも目覚めさせれば、たった一人でも暗闇から光明へ導くことができれば、たった一人でも弱った人に元気を与え、悩める人に慰めを与えることができれば、それだけで私たちは立派な仕事を成し遂げたことになります」

 個々の人生に宿命的な流れがあるという意味において自由意志にも限度があるということにならないかとの質問に答えて───

 「人生にある種の傾向、つまり波動の流れがあることは事実ですが、どうしようもないものではありません。人間は常に各種の放射物や影響力によって囲まれており、その多くが個々の運動を左右する可能性を持っていることは事実です。

しかし神は全ての人間に自分の一部、大霊の分霊を賦与しています。それには、各自の進化の程度に応じて自由意志を正しく行使しさえすれば、その発現の障害となるものすべてを克服する力が秘められております。なぜなら一人ひとりが即ち神であり、神は即ちあなたがた一人ひとりだからです。

 神性を宿した種子は一人の例外もなくすべての人間に植えられております。その小さな種子は畑に蒔かれた種子と同じく正常な生長を促す養分さえ与えれば、やがて芽を出し、花を咲かせ、そして美事な実をつけます。

 その種子は神があなた方の魂に植えて下さっているのです。が、その手入れをするのは自分自身です。いつ花を咲かせるか、あるいは、果たして首尾よく花を咲かせるかどうかは、ひとえに各自の努力に掛っております。各自には自由意志があります。

もしもその種子を暗闇の中に閉じ込めて霊的成長のための光、慈善の光、善行の光を与えずにおけば、神の属性はいつになっても発揮されることはありません」
                  

Monday, October 5, 2026

霊訓〈完訳・上〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。





11節

本節の内容
*霊団による著者への支配の強化 
*著者によるキリスト教の弁護
*回答 *正直な疑問は無批判の信仰に勝る
*絶対的証拠にも限界 *“果実によって木を知るべし”
*人間的見解は無価値 *宗教は単純素朴なもの
*真理は一個人一宗教の占有物にあらず
*アテノドラスからアキリーニに至る真理の系譜
*霊同士の見解の相違は説き方の相違
*霊団による段階的思想操作
*インペレーター霊団は神の計画遂行のために派遣された多く
 の霊団の一つ
*啓示の源は一つ
*神は真理を提供するのみ
*その諾否は各自の理性的判断と自由意志に任される
*イエス・キリストの位置づけ



〔この頃には迫ってくる霊の影響力が一段と強くなり、他の通信が一切締め出されてしまった。七月二十四日に私の方からいつもの霊に通信を求めたが何の反応もなかった。その影響力には不思議と精神を昂揚させるものがあり、それが精神活動を完全に支配していた。日常生活はいつもの通りに行なっていたが、その合間に一分一秒でも割いて、その影響力と、私にとって目新しい訓えのことを考えた。考え始めるとすぐにその影響力が中に割り込んできて、かつて感じたことのない力と物静かな美しさで迫ってくる感じがした。それまで私は神学を長年に亙って広く深く勉強してきたが、数ある教説もあら探しをする意図のもとに読んだことは一度もなかった。辻褄が合わない点も、批判するよりむしろうまく繋ぎ合わせるようにしたものである。ところが今や私にとって全く新しい考え――それまで金科玉条として受け入れてきたものの多くを根底から覆しかねない思想を突きつけられている。七月二十六日、私は前回のインペレーターの通信に再び言及してこう述べた――〕


――あなたの述べられた事柄についていろいろと考え、日頃尊敬している同僚に読んで聞かせたりもしました。何と言っても私たちが信仰の基本として教え込まれて来たキリスト教の教義が、事もあろうに、十字架の象徴(しるし)のもとに否定されていることに驚きを禁じ得ません。私の置かれた窮地は言葉で尽くせるものではありませんが、敢えて表現させていただけば、確かにあなたのおっしゃることは知的には理解できても、過去一八〇〇年以上もの長きに亙って存在し続けてきたキリスト教信仰が、たとえ理屈では納得できるとは言え、これといった権威ある立証もない教説によって軽々しく覆されては堪(たま)らないという心境です。一体あなたはイエス・キリストをどう位置づけるのか、またイエスの名のもとに訓えを説くかと思えば否定し、古い福音に替えて新たな福音を説いたりする行為を、一体いかなる権能のもとに行なうのか、お尋ねしたい。またあなた自身の地上での身元の確認と、あなたが公言される使命の真実性を証明する十分な証拠をお示し願いたい。合理的思考力を具えた者なら誰もが得心する証拠です。天使であろうと人間であろうと霊であろうと、またそれが何と名のろうと、何の立証もない者から送られた言葉だけで、神の起原とその拘束力についてのこれほど致命的変化を受け入れるわけにはいきません。また、そのように要求される謂れもないように思われます。その変化には徐々にではあっても歴然たる相違点が発見されます。また、あなたの同僚である複数の霊からの通信の内容にも食い違いがあるようです。そうした統一性のないものから送られる思想には強力な団結性が無いものと判断せざるを得ません。


友よ、これほど真摯にして理性的質問を引き出し得たことは、われらにとりて大いなる喜びである。真摯に、そして知的に真理を求めんとする心――その出所が何であろうと単なるドグマはこれを拒否し、全てを正しき理性によりて検討し、その理性的結論には素直に従う用意のある心、これこそ神意に適うものであることだけは信じて欲しく思う。われらはそうした態度に異議を唱えるどころか、それを受容性ある真面目な心の証として称賛する。従来の信仰をそれ相当の根拠なしには棄てず、一方新しき言説は形而上的ならびに形而下的に合理的な証拠さえあれば喜んで受け入れる。そうした懐疑と煩悶のほうが、もっともらしく色づけされたものを無批判に鵜呑みにする軽信的態度より遥かに価値がある。思想的風雨にさらされても何の内省も生まれず、そよ風にも能面の如き無表情をほころばせることもなく、いかなる霊的警告も通じぬ無感動と無関心の魂よりも遥かにはるかに貴重である。

そなたの抱く懐疑の念はむしろわれらの指導の成功の証として称賛する。そなたがわれらに挑む議論は、神の使者として述べた言説を全面的に検討してくれていることの知的証拠として歓迎する。そなたの煩悶せる問題については、いずれ、われらの力の及ぶかぎりにおいて回答を授けるであろう。われらには証を提示することの不可能な、ある超えられぬ一線がある。それはわれらも十分承知している。われらは人間の世界で言うところの証人を立てることが出来ぬという大きな不利な条件のもとで難儀している。われらは地上の人間ではない。故に法廷に持ち出す類の証拠を提示するわけには参らぬ。ただわれらの証言を聞いてもらい、理解してもらう――証拠によりて明らかにし得ぬものは知性にまかせ、公正に判断してもらうほかはないのである。

それは、われらの言説がわれらと共にこの仕事に携わる者を除いては、先ずもって、これを支持してくれる者がいないからでもある。実際にはわれらの同僚の多くが地上時代の身元を明かしている(1)。そして、その名をもつ実在の歴史的人物の地上生活についても、そなたは決定的とも言い得るものを事細かく知り尽くしている。そなたがあくまでもそれでは納得できぬと言うのであれば――もしもそれを偽りの霊の仕業(しわざ)であるとし、そなたを欺くために集めたる情報に過ぎぬと言うのであれば、われらとしてはそなたとのこうした霊的交わりのもつ霊的雰囲気に注目し、“木はその実によりて知らるべし。茨(いばら)より無花果(いちじく)を取らず、薊(あざみ)より葡萄(ぶどう)を収めざるなり”(2)とイエスが述べた判断の基準を思い出して貰いたい。われらの訓えが神意に適うものであることの証を全体の雰囲気の中に必ずや見出すであろうことを断言して憚らぬ。

しかし、これ以上この点について弁明することはわれらの使命の沽券(こけん)に係わろう。そなたがこの点に言及したことにわれらは微塵も驚きを感じぬ。が、もしも右の弁明でもなお得心がいかぬとなれば、われらとしてはもはやこれ以上付け加えるものを持ち合わせず、後はそなたがこれを納得してくれる日の到来を忍耐強く祈るほかはない。

それまでは決して押しつけがましきことは言わぬ。辛抱強く待つとしよう。

われらの霊団の各霊――地上時代に異なる国、異なる時代に生き、神及び死後についての見解も異にした者たちの結びつきについては多くを語ることが出来るが、それはまた別の機会に譲るとしよう。

差し当たりここで人間の地上生活には避け難き誤解を指摘しておきたい。それは地上の人間はいわゆる“自説(オピニオン)”というものが殆ど無価値であることを知らぬことである。死の過程を経て肉体から離れる。すると目隠しをされていたベールが取り払われ、それまで金科玉条としていた信仰がいかに愚にもつかぬ他愛なき幻想に過ぎぬものであったかを思い知らされるが、目隠しをされている今はそれが判らぬ。一方、程度こそ違え全ての神学的教義にはその奥に本質的にきわめて類似せる真理の芽が宿されていることも知らぬ。

ああ、友よ、そなたら人間は宗教をむやみに難解なるものにしたがるが、本来宗教とは決して難解なものではない。人間に授けられたるかぎりある知性によりて十分に包括し得るものである。かの神学的産物――神の啓示を被い隠せる気まぐれなるドグマは徒らに人間を迷わせ、当惑させ、真摯に道を求める者を無知と迷信の霧の中へ迷い込ませる以外に何の役にも立たぬ。向上進化を求める魂の特徴である暗中模索の真理探究は、いつの時代も同じであった。枝葉の点においては異なっても、本質においては少しも変わらぬ。目の見えぬ者が光を求める如く、迷える魂が必死に真理を求める。が、迷信という名の迷路がある。無知という名の霧がある。曲がりくねった道をよろめきつつ、躓(つまず)きつつ進み、時に路上に倒れて邪霊に踏みつけられる。が、すぐまた立ち上がり、手を差し伸べつつなおも光を求める。

かくの如き彷徨(さまよ)える魂はそなたの目にはみな同じように映るかも知れぬ。が、われら霊界の者の目には実に多くの相違点のあることが判る。古来、人間的ドグマの迷路の中にありて必死に光源を求めて喘ぎ進む魂は、外側より見る目にはみな一様に見えるであろう。が、われらより見れば、そなたらが教会と呼ぶ各教派を特徴づける神学上の教説は、そなたらが考えるほど同一ではない。われらの目にはその質的な差異が見て取れる。また、われらは未知なるものについて全く同一の理解をもつ魂は二つと存在せぬことを知っている。いかなる魂も大なり小なり他の魂と同じ見解を抱いてはいても、決して同一ではない。

その迷いの霧が晴れるのは、死のベールを通過した後でしかない。人間的詮索は肉体と共に滅び、個人的見解は取り除かれ、かくして曇りなき目にそれまで朧気に抱いていた真相が姿を現し、鋭さを増した判断力によって地上での印象を修正していく。そのとき悟るのは全てに真理の芽が宿されていること、それが或る者においては受容性豊かな心と霊的洞察力によりて生長を促進され、また或る者においては束縛された知性と卑しき肉体ゆえに、生長を阻害されるということである。しかし、神と、己のたどる宿命についての真理を求めてやまぬ魂においては、死と共に地上時代の誤れる信仰は速やかに影をひそめ、皆その低劣さと非真実性を悟っていくものである。いつまでも地上のままを維持し続ける者は真理への欲求を欠く者にかぎられる。

これでそなたにも判るであろう。真理はいかなる宗教の専有物でもない。それは古代ローマにおいて霊の浄化と禁欲を求めたアテノドラス(3)の思想の底流にも見出すことが出来る。ギリシャのヒポリタス(3)が朧気ながら垣間見ていた実在の世界を信じて地上生活を犠牲にし、神との一体を求めたその信仰の中にも見出すことが出来る。同じ真理への希求がローマの哲学者プロティノス(3)をして地上にありながらすでに地上界を超越せしめた。アラビアの神学者アルガザーリ(3)には教説そのものには誤りがありながらも、その奥底に正しき理解があった。その同じ神的真理の芽がアレッサンドロ・アキリーニ(3)の思想を照らし、その説教の言葉に力と真実を賦与した。

かくの如く彼ら全ての指導者の教説には同じ純粋なる宝石が輝いている。その光が彼らをして人間が神より授かれる真理の堆積物を清め、神および聖霊の宿命についてのより霊的な解釈を施すことによりて、人間の歩むべき道を一層気高く一層崇高なるものにするという共通の目的のために一丸となって働くことに邁進せしめたのである。

彼らにとりて今や地上時代の教説の相違は取るに足らぬことである。そうした夾雑物は疾(と)うの昔にかなぐり棄て、かつて地上にて魂の目を曇らせ進歩の妨げとなった人間的偏見などは跡形もない。それは今や完全に葬り去られ、ひとかけらの悔いも残っておらぬ。復活の信仰も見当たらぬ。疾うの昔に棄て去っている。が、その信仰の奥底に秘められた宝石は一段と輝きを増し、永遠にして不滅である。その啓発的影響力――ただ存在するだけで魂を鼓舞するその影響力に、かつて地上においては教説を異にする霊たちを結びつける神秘なる親和力の絆が存在するのである。

彼らが今、より崇高にして純粋なる宗教的知識を広めんが為に、共同の仕事に一団となって奉仕していることが決してそなたが考えるほど不可能なことでないことの理由が、これでそなたにも得心がいくことであろう。そのための地上の道具として最も適切とみてそなたを選んだのである。その判断に誤りはない。われらの述べたるところを根気よく熟読玩味すれば、いずれそなたもその合理性に得心がいくであろうことを確信する。その絶対的証拠は? と言うのであれば、それはそなた自身が死のベールを突き破り、一点曇りなき目をもってわれらの仲間入りをするまで待つより外はあるまい。今のわれらとしては、精々、そなたが少しずつわれらに対する確信を築き上げてくれることを望むのみである。どうかイエスが人を裁く時に使用せる判断の規準――己が裁かれんと欲する如くに人を裁くべし、という神の摂理をわれらにも適用して欲しく思う。

われらの教説に矛盾があるやに思うのは誤りである。これまでに交信せる様々な霊によりて種々な形での論議が為され、その取り挙げたる論点もまた多様であった。確かにわれらはそなたをわれらが伝えんとする根源的教説へ徐々に導かんとして、取り敢えずそなたの観念に深く根差しわれらの教説と正面衝突することが明らかなものは無論のこと、差しあたりて必須でないものは避けてきた。それは否定せぬ。われらの基本方針は、そなたの心に存在する特異な部分をいじくるよりも、その中に見出される真理の芽を発達させることにあった。それを目差して幾つかの接点を確保し、大切にして参った。一方それとは関わりなき問題点は避けてきた。そうした、これまで看過してきた点、論議を避けてきた諸点についてはこれ以後に取り挙げることになろう。が、これまでもそなたの方より、われらが明らかに誤りがあり何時(いつ)までも放って置けぬと観た見解について批判を求めてきた時は、われらとしては遠慮なく啓発してきたつもりである。

われらの目には、そなたの心に想念の潮流が発生し、それがそなたの魂にとってもはや安全ではなくなった古き停泊所よりそなたを運び出さんとする動きがよく見て取れる。それを見てわれらはそなたをその潮流と風の為すがままに放置し座礁するに任せておくに忍びず、われらがその水先案内をする。その際われらは教説という名のロープを一本一本少しずつ穏やかに緩め、より安全にして確実な港へ係留してきた。もしも一気にその港へ引っ張り込んでおれば、古きロープは切れ、そなたの魂は疑問と煩悶の嵐の中に巻き込まれ、舵(かじ)を取る者もなく、立ち寄るべき港も見当たらず、ただ風波に翻弄され、救われる見込みはなかったであろう。われらが予(あらかじ)め衝突を避けられるものは避け、荒波を立てぬよう配慮したことを咎めるのは当たらぬ。致し方なきことであった。そなたの思う方角へ向けて援助することも出来ぬでもない。が、かりに援助してそのロープを締めていたならば、そなたの魂は死物と化せる遠き過去へ一層強く繋がれることになっていたであろう。そなたの心の態度一つでわれらはそなたをその嵐から超然とさせ、新たなる生命あふれる信仰を携えて、より静かにしてより広き海原に乗り出さしめ、地上という試練の場と、死後の安らぎの港との間に横たわる苦難の海を乗り切れるよう援助するであろう。

こうした作業において、われらはそなたに過激な衝撃を与えぬよう慎重の上にも慎重を期してきた。いかなる点においても、指導を誤ったことはない。そなたをごまかしたこともない。そなたに与えたわれらの教説には予め徹底した吟味が為されている。われらはなるべくならそなたの精神に宿る思想を取り出し、敷衍し発展させるよう心がけた。そうしてその中により新しく且つより真実に近き見解を育(はぐく)み、導き、注入するよう努めたが、いかなる点においても偽れるもの、歪めたるもの、あるいは指導を誤れるものは何一つない。

われらがこれまで述べてきた教説には実質上の齟齬は何一つない。万に一つそう思えるものが存在しても、それは通信上の難しさとそなたの精神による種々の影響の所為である。つまり通信霊の未経験に起因する場合もあるであろうし、就中(なかんずく)、そなた自身の先入観の影響が大いにある。そなたの精神が受けつけようとせぬものは、われらも伝えることは出来ぬ。そこでわれらとしては、いつかそなたが曇りなき目で見るであろうところの真理を、象徴的に大まかに伝えるしかない。霊媒の魂が煩悶している時、身体が苦痛に苛(さいな)まれている時、あるいは精神状態が病的になっている時も、明確なる通信を伝えることは出来ぬ。否、荒れ模様の天気、電気的障害、あるいは近隣の人々の非友好的態度ですら通信に反映し、明確に、そして十分に意を尽くすことを妨げるのである。それがそなたの綿密なる目には矛盾として映るのであろう。が、それも些細なことであり、また数も取るに足らぬ。それらは障害が取り除かれると同時に雲散霧消することであろう。そして、ここぞという困難と危険に際して、高邁なる霊的洞察力がそなたを導いていたことを知るであろう。

そなたはわれらの説く訓えが一般に受け入れられる見込みは乏しいと言うが、その点についてもそなたは真相を知らぬ。お粗末な継(つ)ぎ接(は)ぎだらけの朽ちかけたる古き信仰が、より高尚にして崇高なる信仰――対抗するものではなく補足補充するもの――と置き替えられ、イエスの説きし福音がより高き次元において理解される日は、そなたが思うより遥かに近く迫りつつある。

友よ、よく心するがよい。今われら従事せるが如き神の計画が、人間の必要性との関連を無視して不用意に授けられることは絶対にない。われらの仕事も神の一大計画のほんの一部門に過ぎぬ。他にも数多くの霊団がそれぞれの使命に邁進している。その訓えは徐々にそして着実に、それを受け入れる用意のある者に受け入れられて行くであろう。それが神の計画なのである。神の時を地上の時で以て考えてはならぬ。また、われらの視界はそなたらの視界の如く狭く限られたものではない。いずれわれらの意図せる通りの知識が地上に広まる日も来よう。その間、それに備えた進歩的魂は着々と教育を受けている。貴重なる種子が蒔かれつつある。やがてその収穫の時期も到来しよう。その時をそなたもわれらも共に待たねばならぬ。

われらの述べたるところを心して読めば、われらが提供しつつある状況証拠などより遥かに明確にその本質を読み取ることが出来るはずである。繰り返すが、神は決して福音の押し売りはせぬ。神はただ提供するのみである。それを受け入れるか拒否するかはそなたの選択に任されている。が、そなたおよびわれらが係わり合える人々の全てが、いずれ、その神性を確信してくれるであろう。それをあくまでも否定する者は、浅薄なる頑迷さの網にかかり、神学という名の足枷をはめられ、鉄の如きドグマによって束縛された者たちのみであろう。そうしたドグマ主義者、頑固なる迷信家、偏狭なる信者、独善家はわれらの取り合うところではない。否、魂に泌み込みたる古き信仰に何よりの安心立命を見出す者もまた、われらの取り合うところではない。神の御名にかけて彼らにはそのまま古きものに縋(すが)らせておくとしよう。彼らにもいずれ進歩の時が訪れよう。今はその時ではない。そなたおよびそなたと志を同じくする進歩的求道者には、われらが決して悪魔の使いでもなければ悪魔的意図も持たぬことを、これ以上弁明する必要はあるまい。

また啓示についてのわれらの言説を熟読玩味すれば、要するにわれらの教説も神に関する知識の段階的進歩の一つの階梯に過ぎぬことを理解するであろう。すなわち神を人間と同一と観た神人同形同性説の時代から、人間的煩悩や感情を神の属性とすることの不合理を徐々に悟り始めた現在に至るまで、神的啓示も人間の進化と共に徐々に向上しつつあるということである。本質においては、われらの啓示も、それに先立つ啓示と何ら異ならぬ。ただ、人間の知識と同様に、一歩向上したというにすぎぬ。その根源は同じであり、それを授ける手段も同じである。今も昔もあくまで人間であり、完璧は期し難く、時には誤りを犯す。人間を通信手段とする以上、それは免れぬことである。

さらには、われらが明言せる態度を思い出していただきたい。われらの一貫せる態度は、かの伝説的教説――単に古き時代のものという意味での伝説的教説――を金科玉条とする盲目的信仰に代わりてそなたの理性に訴えるということである。軽信に代わって合理的知性的検討を勧め、確信に基づける容認を要求する。われらが神の使者であるということだけで、われらの教説――単に今の時代に授けられたという意味での新しき教説――を信じて貰おうなどとは、さらさら思わぬ。理性の天秤にかけ、知性の光に照らし、得心がいかなければ拒絶するがよい。十二分に得心するまでは決して同意することも行為に出ることも求めぬ。

それ故、霊的教義の内容は正しき理性を得心させるべきものであると同時に、われらがそなたにその受け入れを求める根拠もまた合理的且つ論理的思考を完全に満足せしめるものである。道を誤りたるとはいえ真摯なる求道者はもとよりのこと、進歩的人間の真面目な生活において過去一八〇〇年以上もの永きに亙りて後生大事にされて来た教義に対し、われらが功を焦るあまり、いたずらに彼らを反目せしめる結果となることは神が許されぬ。それほど永きに亙りて大事にされた事実そのものが、彼らの崇敬を受けるに足る資格を物語っていよう。ただ、われらの広き視野より見る時、その説くところが古き蒙昧なる時代ならいざ知らず、この開け行く時代には、それなりに視野を広げ霊性を賦与しなければならぬと思われるのである。とは言え、われらとしては急激なる改革によって混乱を来すことは望まぬ。今あるものに磨きをかけ、新しき解釈を施したく思う。ひきずり下ろし、足で踏みにじるようなことはせぬ。シナイ山にて嵐の如き口調にて啓示されたる戒め(4)に代えて、イエスが慈愛と滅私の純心さをもって、より崇高なる信仰を説いた如く、われらはそれをさらに新しきこの時代の受容能力と必要性に鑑(かんが)みて説かんとするものである。

“そのようなものはわれらの信仰が受けつけぬ”と申されるか。なるほど、それもよかろう。われらとしては少なくともこうした見解の存在を知らしむるだけのことはした。それを受け入れる者は、古き信仰に比してその影響力が一段と明るきものであることを感ずるものと確信する。一つの真理が初めて語られ、それが最終的に受け入れられるに至るまでの道程は、しばしば永き年月を要するものである。収穫にはまず種子蒔きの時期があらねばならぬ。その後、雨にうたれ霜に埋もれ、寒々とした冬の季節はいかにも長く感ぜられよう。が、やがて暖かき太陽の光に照らされて種子が芽を出し、真夏の恵みを受けて豊かに実をつけ、そして収穫の季節を迎える。耕作の時期は長いかも知れぬ。種子を蒔いたあとの待つ時期は暗く憂鬱かも知れぬ。が、収穫の季節は必ず来る。その到来を遅らせることは出来ぬ。収穫時に手を貸すことは出来よう。種子蒔きに手を貸すことも出来よう。が、手を貸す貸さぬに係わりなく、あるいは、たとえそれを阻止せんとしても、神の時節(とき)は必ず到る。その時、神の言葉を受け入れるか拒否するかの問題は、本質的には個人の問題でしかない。受け入れる者は進歩し、拒否する者は退歩する。そしてそれに関われる天使があるいは喜び、あるいは悲しむ。それだけのことに過ぎぬ。

次にそなたはわれらがイエス・キリストをいかなる地位(くらい)に位置づけるかを問うている。われらとしては、さまざまな時代に神に派遣されたるさまざまな指導者について興味本位の比較をすることは控えたい。未だその時期ではない。但し今このことだけは明白である。すなわち、人類の歴史においてイエスほど聖純にして気高く、神の祝福を受け且つ人に祝福を与えた霊はいないということである。その滅私の愛によってイエスほど人類の敬愛を受くるに相応しき霊はいない。イエスほど人類に祝福をもたらせる霊はいない。要するに、イエスほど神のために働きたる霊はいないということである。

が、神より遣わされたる偉大なる指導者を比較し論じる必要をわれらは認めぬ。われらとしてはその一人一人に称讃を贈り、克己と犠牲と愛の生涯を、それぞれの時代の要請せる手本として賞揚したく思う。キリストの例にしても、もしも人類がその際立てる素朴さと誠実さ、愛的献身と真摯なる目的、自己犠牲と聖純さの模範として仰いでおれば、かの宗教的暗黒時代の神学者たち――人類に呪(のろ)いの遺産ともいうべき愚か極まる思索の産物を残せる者たちも、今少し有意義なる存在となり、人類の呪いとはならず、むしろ祝福となったことであろう。神の尊厳を傷つけることもなく、キリストの素朴なる福音を素直に受け入れていたであろう。然るに彼らは神人同形同性説的神学を丹念に築き上げ、それがキリストの素朴なる訓えより一層遠ざけることになっていった。今やその名と教義は派閥間の争いの戦場と化し、その訓えは滑稽な物真似となり下がってしまった。その有様を聖なるキリストの霊は衷心より悲しみ、哀れに思っておられる。

友よ、神の摂理と人間的解釈とは截然と区別せねばならぬ。われらは主イエスの威厳の前にひれ伏すが、人間が勝手に解釈し、それをイエスの名において説く教説――イエス自ら否認されるであろう教説を黙認することによりてイエスの面目を汚すようなことは潔(いさぎよ)しとせぬ。さようなことは絶対にせぬ。主はもとより、主の父であり全存在の父である神の面目を真に辱しめるのは、バイブルを正しく理解せずその心を掴み損ねて、ただ字句どおりの解釈に固執する余り、無知の為せる業とは言え、逆に神への不敬を働いている者たちなのである。われらではない。彼らこそ真に神の名誉を傷つけているのである。たとえ長年の慣用の歴史を有するとは言え、また、たとえその字句を彼らが聖なるものと断定せる書からの引用によりて飾ろうと、さらにまたそれらの書に、そこに述べられたことへ異議を唱える者への呪いの言葉が見出されようとも、真に神を冒涜する者はわれらにはあらず、彼らなのである。

われらはその呪いの言葉を哀れの情なくしては見つめることが出来ぬ。われらとしては、差し当たり実害なき誤りはこれを敢えて覆そうとは思わぬ。しかし神を冒涜し魂の向上の妨げとなる言説はこれを赦しておくわけにはいかぬ。本来ならば神に帰すべき名誉をイエスなる一人物に押しつけ、神に対する個人的敬意と愛を疎(おろそ)かにすることは、神に対する人間としての義務を無視することに他ならぬ。狭隘(きょうあい)にして冷酷きわまるドグマをその一言一句に至るまで頑に遵守せんとする態度は魂を束縛し、霊性を歪め、進歩を遮り、生長を止める。“儀文は殺す。されど霊は活かす”(5)とある。それ故われらは火炎地獄の如き作り話に見られる神の観念を否定する。贖罪説の如き伝統的教説に代わりてわれらは、より清き、より理性的教説を主張する。要するにわれらは霊性を基盤とする宗教を説くものである。死物と化せる形式主義、生命も愛もなき教条主義よりそなたたちを呼び戻し、霊的真理の宗教、愛に満ちた天使の象徴的教訓、高き霊の世界へ誘(いざな)わんとするものである。そこには物的なものの入る余地はなく、過去の形式的ドグマも永遠に姿を消す。

以上、われらは事の重大性に鑑みて、細心の注意をもって語ったつもりである。そなたも細心の注意をもってよく熟読されたい。ひたすらに真理を求むる心をもって検討し、隔てなき神の御加護を祈り求められんことを希望する。

(†インペレーター)


――おっしゃることは筋が通っており、立派な訓えだと思います。また曖昧であるとの私の批判に対しても納得のいく答えをいただきました。しかし、一般の人はあなたの説くところを、事実上キリスト教を根底から覆すものだと言うことでしょう。そこで私がお願いしたいのは、スピリチュアリズム的思想が究極において言わんとするところ、とくに、それが地上および霊界の未発達霊へ及ぼす影響について述べていただきたいと思います。


それについては、いずれ時機をみて説くとしよう。今は控える。先を求むる前に、これまでわれらが述べたところを篤と吟味されたい。そなたを正しく導く御力をわれらに給わらんことを!

(†インペレーター)


〔注〕

(1)巻末「解説」参照。
(2)ルカ 6-44
(3)ここに引用された古代の思想家、及び宗教家はすべてインペレーター霊団に属し  ている。「解説」参照。
(4)モーセの「十戒」。
(5)コリント後 3-6


シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch 

Psychic Press Ltd. London, England



十四章 シルバーバーチの祈り 
   (付)祈りに関する一問一答

 ああ神よ、あなたは大宇宙を創造し給いし無限の知性に御(オワ)します。間断なき日々の出来ごとの全パノラマを統御し規制し給う摂理に御します。全存在を支える力に御します。物質的形態に生命を賦与し、人間を動物界より引き上げて、いま所有せるところの意識を持つに至らせ給いました。

 私たち(霊団の者は)はあなたという存在を絶対的法則───不変にして不可変、そして全能なる摂理として説いております。あなたの摂理の枠を超えて何事も起こり得ないからでございます。宇宙の全存在はその摂理の絶対的不易性に静かなる敬意を表しております。

あなたの霊的領域においてより大きな体験を積ませていただいた私たちは、あなたの御力によって支配されている全生命活動の完璧さに対する賞賛の念を倍加することになりました。

 私たちは今、そのあなたの仔細をきわめた摂理の一端でも知らしめんとしている者でございます。それを理解することによって、あなたの子等があなたがふんだんに用意されている生命の喜びを味わうことが出来るようにと願うゆえに他なりませぬ。

 私たちは又、無知という名の暗闇から生まれる人間の恐怖心を追い払い、生命の大機構における〝死〟の占める位置を理解せしめ、自分の可能性を自覚させることによって、霊的本性の根源である無限の霊としての自我に目覚めさせんものと願っております。

それは同時に彼らとあなたとのつながり、そして彼ら同志のつながりの霊的同質性を理解させることでもございます。

 あなたの霊が地球全体をくるんでおります。あなたの神性という糸が全存在を結びつけております。地上に生きている者はすべて、誰であろうと、いかなる人間であろうと、どこに居ようと、絶対に朽ちることのない霊的なつながりによってあなたと結ばれております。

故に、あなたと子等との間を取りもつべき人物などは必要でないのでございます。生まれながらにして、あなたからの遺産を受け継いでいるが故に、あなたの用意された無限の叡知と愛と知識と真理の宝庫に、誰でも自由に出入りすることが許されるのでございます。

 私たちの仕事は人間の内奥に宿された霊を賦活し、その霊性を存分に発揮せしめることによって、あなたが意図された通りの人生を生きられるように導くことでございます。

かくして人間はいま置かれている地上での宿命を完うすることでしょう。かくして人間は霊的存在としての義務を果たすことになることでしょう。

かくして人間は戦いに傷ついた世の中を癒し、愛と善意を行きわたらせる仕事に勤しむことでしょう。かくして人間はあなたの真の姿を遮ってきた暗闇に永遠に訣別し、理解力の光の中で生きることになることでしょう。ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。



───〝祈り〟に関する一問一答───

(前巻及び本書の中に断片的に出ていたものをここにまとめて紹介するー訳者)
                            


───霊界側は祈りをどうみておられるのでしょうか。

 「祈りとは何かを理解するにはその目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願いごとを口にしたり、決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける人はいませんし、訴える力を持った波動を起こすことも出来ません。

私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意が込もっておらず、それを口にする人みずから、内容には無頓着であるのが普通です。永いあいだそれをロボットのように繰り返してきているからです。真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。

しかしいかなる精神的行為も、身をもって果たさねばならない地上的労苦の代用とはなり得ません。

 祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難場所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責務を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果的連鎖関係を寸毫(すんごう)も変えることはできません。

人のためにという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りをすべて無視されるがよろしい。その後に残るのが心霊的(サイキック)ないし霊的行為(スピリチュアル)であるが故に自動的に反応の返ってくる祈りです。

その反応は必ずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す自然な結果です。

 あなた方を悩ます全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取りくんだ時───解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力を持つ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る完全な権利があると言えましょう。

そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜなら、あなたの周りにいる者、霊的な目を持って洞察する霊は、あなたの魂の状態を有りのままに見抜く力があるからです。たとえばあなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。

 さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜならその魂の行為そのものがそれに相応しい当然の結果を招来するからです。

このように、一口に祈りといっても、その内容を見分けた上で語る必要があります。

 ところで、いわゆる〝主の祈り〟(天にまします我らが父よ、で始まる祈禱文。マタイ6・9~13、ルカ11・2~4-訳者)のことですが、あのような型にはまった祈りは人類にとって何の益ももたらさないことを断言します。単なる形式的行為は、その起源においては宿っていたかも知れない潜在的な力まで奪ってしまいます。

儀式の一環としては便利かも知れません。しかし人間にとっては何の益もありません。そもそも神とは法則なのです。自分で解決できる程度の要求で神の御手を煩わすことはありません。それに、ナザレのイエスがそれを口にした(とされる)」時代から二千年近くも過ぎました。

その間に人類も成長し進化し、人生について多くのことを悟っております。イエスは決してあの文句の通りを述べたわけではありませんが、いずれにしても当時のユダヤ人に分かりやすい言葉で述べたことは事実です。

 今のあなた方には父なる神が天にましますものでないことくらいはお判りになるでしょう。完璧な摂理である以上、神は全宇宙、全生命に宿っているものだからです。

この宇宙のどこを探しても完璧な法則が働いていない場所は一つとしてありません。神は地獄のドン底だけにいるものではないように、天国の一ばん高い所にだけ鎮座ましますものでもありません。

大霊として宇宙全体に普遍的に存在し、宇宙の生命活動の一つひとつとなって顕現しております。〝御国の来まさんことを〟などと祈る必要はありません。地上天国の時代はいつかは来ます。

必ず来るのです。しかしそれがいつ来るかは霊の世界と協力して働いている人たち、一日も早く招来したいと願っている人たちの努力いかんに掛っております。そういう時代が来ることは間違いないのです。

 しかしそれを速めるか遅らせるかは、あなた方人間の努力いかんに掛っているということです。(このあと関連質問が出る―訳者)


───モーゼの十戒をどう思われますか。

 「もう時代遅れです。今の時代には別の戒めが必要です。
 人間の永い歴史のいつの時代に述べられたものであっても、それをもって神の啓示の最後と思ってはいけません。啓示というものは連続的かつ進歩的なものであり、その時代の人間の理解力の程度に応じたものが授けられております。

理解力が及ばないほど高級すぎてもいけませんが、理解力の及ぶ範囲が一歩先んじたものでなければなりません。霊界から授けられる叡知はいつも一歩時代を先んじております。そして人間がその段階まで到達すれば、次の段階の叡知を受け入れる準備が出来たことになります。

人類がまだ幼児の段階にあった時代に特殊な民族の為に授けられたものを、何故に当時とは何もかも事情の異なる今の時代に当てはめなければならないのでしょう。もっとも私には〝十戒〟ならぬ〝一戒〟しか持ち合わせません。〝お互いがお互いのために尽くし合うべし〟───これだけです」

 続いて好天や雨乞いの儀式が話題となった。


───悪天候を急に晴天にするには神はどんなことをなさるのでしょうか。

 「急きょ人間が大勢集まって祈ったからといって、神がどうされるということはありません。神は神であるが故に、大聖堂や教会においてそういう祈りが行われている事実を知らされる以前から、人間が必要とするものについてはすべてを知り尽くしております。

 祈りというものは大勢集まって紋切り型の祈禱文や特別に工夫をこらした文句を口にすることではありません。祈りは自然法則の働きを変えることはできません。

原因と結果の法則に干渉することはできません。ある原因に対して寸分の狂いもない結果が生まれるという因果律を変える力は誰にもありません。

 祈りは魂の活動としての価値があります。すなわち自己の限界を悟り、同時に(逆説的になりますが)内部の無限の可能性を自覚し、それを引き出してより大きな行為へ向けて自分を駆り立てる行為です。魂の必死の活動としての祈りは、魂が地上的束縛から脱してより大きな表現を求める手段であると言えます。

そうすることによって高級界からの働きかけに対する受容力を高め、結局は自分の祈りに対して自分がその受け皿となる───つまり、より多くのインスピレーションを受けるに相応しい状態に高めるということになります。

 私は祈りを以上のように理解しております。大自然の営みを変えようとして大勢で祈ってみても何の効果もありません」


───キリスト教では悪天候を世の中の邪悪性のしるしと見なしていますが・・・

 「私は世の中が邪悪であるとは思いません。罪悪への罰として神が雨を降らせるとは思いません。自然現象は人間の生活とはそんな具合には繋がっておりません。第一、三か月前と一週間前とで世の中の邪悪性に差があるわけではないでしょう。

 それは相も変わらず、依怙(えこ)ひいきと復讐心と怒りを抱く人間神の概念の域を出ておりません。神とは生命の大霊です。この大宇宙の存在を支えている力は、人間が集団で祈ったところでどうなるものでもありません。人間にできることはその大宇宙の摂理がどうなっているかを発見し、それに自分を調和させ、できるだけ多くの人間ができるだけ多くの恩恵を受けられるような社会体制を作ることです。

そうなった時こそ生命の大霊が目覚めた人間を通じて顕現されていることになります。私はそういう風に考えております」(先に出た〝地上天国〟とはこのこと―訳者)


───人類にもいつかはそういう時代が来ると思われますか。


 「程度問題ですが、来ることは来ます。しかしそれも、そう努力すればの話です。人類は、宇宙の摂理を福利のために活用できるようになるためには、まず自己の霊性に目覚めなくてはなりません。宇宙には常に因果応報の摂理が働いております。どんなに進化しても、これ以上克服すべきものが無くなったという段階は決してまいりません。

 知識を獲得することによっていかなる恩恵を受けても、それには必ずもう一つ別の要素が付いて回ります───知識に伴う責任の問題です。その責任はその人の人格によって程度が定まり、同時に人格の方も知識によって程度が定まります。

かくして知識が広まるとともに人格も成長し、人生が豊かさと気高さを増し、生きるよろこびと楽しさを味わう人が多くなります。

 いま皆さんの脳裏に原子の発見のことがあるようですが、人間がこれで全てを知り尽くしたと思っても、その先はまだまだ未知の要素があります。これから先も、人間が生命そのものをコントロールできるような立場には絶対になれません。

ますます宇宙の秘密を知り、ますます大きなエネルギーを扱うようになることでしょう。しかしその大きさに伴って責任も自覚していかないと、そのエネルギーの使用を誤り、自然を破壊し、進化が止まってしまうということも考えられないことはありません。が、実際にはそういう事態にはまずならないでしょう。

進化は螺旋形を画きながら広がっていきます。時には上昇し時には下降することもありますが、ぐるぐると円を画きながら、どんどん、どんどん広がりつつ進化しております」


───霊界では雨乞いのような祈りは問題にしないということでしょうか。

 「しません。たとえ誠心誠意のものでも、何の効果もありません。法則は変えられないのです。自然現象をいろいろな予兆と結び付ける人がいますが、あれはすべて迷信です。私たちが訴えるのは知識であり理性です」


───医師と看護婦に力を貸すための祈りが多くのスピリチュアリスト教会で行われておりますが、いっそのことその医師や看護婦が心霊治療家になれるよう祈る方が賢明ではないかと思うのですが・・・

 「その方がずっと賢明でしょうが、そう祈ったから必ずそうなるというものではありません。地上世界には祈りについて大きな誤解があります。いかに謙虚な気持からであっても、人間からみてこうあるべきだと思うことを神に訴えるのが祈りではありません。

 神は全知全能ですから、医師その他が霊力についての知識を持つことが好ましいことくらいは知っております。それを祈りによって神に訴えたところで、それだけで医師や看護婦が心霊治療家に早変わりするものではありません。

 祈りとは魂の行です。より大きな自我を発見し、物的束縛から脱して、本来一体となっているべき高級エネルギーとの一体を求めるための手段です。

 ですから、真の祈りとは魂が生気を取り戻し、力を増幅するための手段、言い変えれば、より多くのインスピレーションと霊的エネルギーを摂取するための手段であると言えます。

それによって神の意志との調和が深められるべきものです。自己を内観することによってそこに神の認識を誤らせている不完全さと欠陥を見出し、それを是正して少しでも完全に近づき、神性を宿す存在により相応しい生き方をしようと決意を新たにするための行為です」


───それが出来ないときはどうしたらよいのでしょう。

 「どうしても出来ないと観念された方は祈らない方がよろしい。祈りとは精神と霊の〝行〟です。それを通じて宇宙の大霊との一体を求める行為です。もしそれが祈りによって成就出来ない時、いくら祈ってもうまくいかない時は、それはその方が祈りによってそれを求めるのが適さない方であることを意味しています。

祈りは行為に先行するものです。つまり、より大きい生命との直結を求め、それが当人の存在を溢れんばかりに満たし、宇宙の大意識と一体となり、その結果として霊的強化と防備を得て奉仕への態勢固めをすることです。これが私が理解しているところの祈りです」


 訳者註───シルバーバーチは〝祈らない方がよい〟と述べて、その具体的な理由は述べていないが、筆者の師である間部詮敦氏はシルバーバーチと全く同じことを述べて、その理由を〝そうした不安定な状態で精神統一を続けていると邪霊に憑かれやすいから〟と言われた。

そして具体的に精神統一の時間を十五分ないし三十分程度とし、それ以上は続けない方がよいと言われた。

 これに筆者の私見を加えさせていただけば、人間はそれぞれの仕事に熱中している状態が最も精神が統一されており、それが祈りと同じ効果をもたらすものと信じている。宇宙の大霊との合体を求めての祈りなどを言われても、普通一般の日常生活においてそれを求めること自体が無理であり、無用でもあろう。

大体そうしものは求めようとして求められるものではなく、生涯に一度あるかないかの特殊な体験───絶体絶命の窮地において、守護霊その他の配慮のもとに〝演出〟されるものであると筆者は考えている。

 それを敢えて求めようとするのは、霊的法則をよくよく理解している人は別として、きわめて危険ですらある。と言うのは、神人合一といわれる境地にもピンからキリまであり、シルバーバーチも〝高僧が割然大悟したといっても高級界からみれば煤けたガラス越しに見た程度に過ぎない〟と言っているほどである。

ところが本人はそうは思わない。煤けたガラス越しにでも実在を見たのならまだしも、単なる自己暗示、潜在意識の反映にすぎないものを持って〝悟り〟と錯覚し、大変な霊格者になったような気分になっていく。そこが怖いのである。

 地上の人間はあくまで地上の人間らしく、五感を正しく使って生活するのが本来の生き方であって、霊的なことは必要な時に必要なものを体験させてくれるものと信じて平凡に徹することである、というのが筆者の基本的生活態度である。

シルバーバーチが祈りについて高等なことを述べたのは質問されたからであり、だから〝出来ないと観念した人は祈らない方がよい〟と言うことにもなった。

 シルバーバーチ霊は三千年も前に地上を去り、すでに煩悩の世界を超脱した、日本流で言えば八百万の神々の一柱と言うべき高級霊であることを忘れてはならない。





       
  霊界の区分けと名称について=訳者

 本シリーズをお読みくださっている方は、私が死後の世界を〝霊界〟又は〝霊の世界〟という用語で通していることにお気づきと思う。

時に上層界とか高級界、あるいは下層界、低級界といった大ざっぱな言い方をすることもあるが、他の霊界通信に見られるような幽界とか神界、精霊界、地獄といった特定の用語は用いていない。これはシルバーバーチ自身が意図的にそうしており、私もその意図を佳しとして忠実に従っているからに他ならない。

 その意図とは何か。それは前巻の解説でも触れたように、今は難解な理屈を捏ねまわしている時ではない───最も基本的な霊的真理を説くことこそ急務であるという認識のもとに、誰もが知っておくべき真理を誰にでも分かる形で説くということである。

 その具体的な例が〝死後の世界〟ないし〝霊の世界〟の存在という簡単な事実である。人類は太古よりいずこの民族でも〝死んでもどこかで生き続けている〟という漠然とした信仰を抱いてきた。

本来が霊的存在であることが分かってみればそれは当然のことと言えるが、従来はそれが〝信仰〟という形で捉えられ、しかも地上での生身の生活が実在で、死後の世界は形体も実質も無い世界であるかのように想像したり、地獄や極楽、天国といった人間の恐怖心や願望から生まれるものをそれに当てはめていたが、所詮はそう思う、そう信じるといった程度のものに過ぎなかった。

 それが十九世紀半ばに至って、各種の超常的現象、いわゆる心霊現象が五感で確認できる形で実験・観察できるようになり、それによって〝霊〟の存在が信仰から事実へと変わり、その〝霊〟からのメッセージによって死後の世界の真相が次から次へと明かされていった。

 その代表的なものを挙げれば、モーゼスの「霊訓」、オーエンの「ベールの彼方の生活」、マイヤースの「永遠の大道」並びに「個人的存在の彼方」、カルデックの「霊の書」、そしてこの「シルバーバーチの霊訓」等々があり、その他にも地味ながら立派なものが豊富に存在する。

 その一つひとつに他に見られない特徴があり、従ってどれが一番良いとか悪いとかのランク付けは出来ないし、又すべきことでもないが、その中には死後の世界の段階的区分けに力を入れているものが幾つかある。

中でもマイヤースが一番詳しく、七つに分類して各々に名称まで付けている。同じく七つに分けているものに「霊訓」のインペレーターがいるが、それをマイヤースの七つの界と同じと考えてはならない。

と言うのは、インペレーターは宇宙を大きく三層に分け、それぞれの界に七つずつ界があり、最下層の最高界が地上界で、中間層に七つの〝動〟の世界があり、その後に至福の七つの〝静〟の世界がある、とだけ述べて、各界の特徴については何も述べてはいない。

また〝静〟の世界の内面については何も知らない。つまり究極の実在界の真相は知らないと言う。

 その点はオーエンを通じて通信を送ってきている守護霊のザブディエルも同じで、自分は第十界の者であると言い、第十一界との境界でザブディエル自身の守護霊と面会した話が出ている(第二巻)が、それから先はどうなっているのか、何界あるのか、見当もつかないと述べている。

 究極のことは何も知らない、と正直に告白するのは筆者がこれまで翻訳・紹介してきた通信の全てに共通した特徴で、筆者は、そう告白出来るか否かがその霊の霊格の高さを占うものさしになるとさえ思っている。

 さて日本人にとって一番馴染みやすいのは四界説であろう。これは日本の古代思想である惟神(かんながら)の道の考えに四魂説があるところから来ているのではないかと筆者は考える。

つまり人間には荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)の四つの身体があり、それを一つの霊が使用しているというのであるが、

身体───霊が顕現するための媒体が四つある以上は、その身体で生活する世界も四つある(その一つが物質界)というのは極めて自然な発想であり、確かに西洋でもそれを裏付ける通信が幾つか出ている。

そして浅野和三郎がこれを現界、幽界、霊界、神界と呼んだのは、日本人の心情に照らしてもスピリチュアリズムの光に照らしても、けだし当を得た説であると思う。

 ただ問題はその理解の仕方である。これは霊の使用する媒体を中心に考えた分類法であって、霊そのものは決してそのうちのどれか一つに固定されているわけではない点をよく理解しなければならない。

つまり身体は現界にあっても霊の意識の焦点は幽界にある人、霊界にある人、神界にある人等々の区別があり、睡眠中もその世界に出入りし、死後も一気にその界へ赴く。

「霊訓」の続編である「続霊訓」の中でインペレーターが霊言で語っているところによると、イエスは在世中、一人でいる時は何時も肉体を離れ(幽体離脱現象)、一度も物質界に降りたことのない天使───日本流にいえば自然霊───の一団と交わっていたという。

 これで判る通り、媒体を基準にした分類法とは別に、霊格を基準にした分類法もあり得るわけで、霊界通信の分類の仕方がまちまちである原因も、その基準の置きどころの違いにあるわけである。霊の言うことが矛盾していることを理由にその信憑性を疑う人がいるが、これは短絡的すぎる。

 さてシルバーバーチが死後の世界の事を〝霊界〟the Spirit Worldと言ったり〝霊の世界〟the World of Spirit と言ったりするだけで、それ以上に細かい分類をしないのは決して段階的界層がないことを主張しているからではない。その証拠に(また英語の解説になって恐縮であるが)a Spirit World と言ったり a World of Spiritと言ったりすることがあるからである。

前回の解説でも述べた通り、the を冠している時は普遍的な意味に用い、a 冠している時は個々の界の一つを指している。言えかえれば界が複数あるということを示唆しているわけである。

 ではなぜ個々の界を分類的に説明しないのか。これに対する回答も前回と同じく、そんな理屈っぽい知識は霊性の向上にとって何の益にもならない、人類にとって急務でもないということに尽きるようである。

 筆者もこの考え方に全面的に賛成である。誤解されそうな箇所では注釈を入れることはあっても、全体的には一貫して〝霊界〟で通している。霊の世界という意味である。

 むろん死後の世界の段階的分類が面白いテーマであることを否定するわけではない。私なりの見解も持っているが、少なくともシルバーバーチを翻訳・紹介していく上では、そういう理屈っぽい問題に深入りしないように気を配っている。

どうしてもという方は拙訳「スピリチュアリズムの真髄」(ジョン・レナード著・国書刊行会)を参考にしていただきたい。〝死後の世界〟と〝死後の生活〟とに分けて、そのテーマに関する数々の霊界通信から抜粋が豊富に紹介されていて興味深い上に、レナード自身の解説にも説得力がある。
                                              近藤  千雄