Tuesday, December 3, 2024

シアトルの初冬 スピリチュアリズムが目指す新しい世界 ー 新しい世界の種子がすでに地上界に根付いているということです。

The new world that Spiritualism aims to create The seed of a new world has already taken root in the earthly realm.



〔人類が霊的法則を学び、その指示に従って生きるようになったときの世界は、どのようなものであろうか。新しい世界は一人の独裁者、一つの政府、あるいは国際連盟のような組織によってコントロールされる性質のものではないことは明らかである。人間一人ひとりによる努力の結果として誕生するものであろう。そのときの喜びがいかなるものであるか、それをシルバーバーチに語ってもらおう。〕


地球人類は今まさに危機の真っ只中にあります。何事につけ誕生には苦しみがともなうものですが、新しい秩序の誕生にも大きな苦しみがともないます。その誕生が近づくにつれて苦痛も増大してきます。

しかし間違いなく言えることは、新しい世界の種子がすでに地上界に根付いているということです。既得権力の座に安住している者たちがいかなる策を弄(ろう)しても、それは功を奏さないでしょう。イエスは、「天に為される如く地にも為されるであろう」と二千年前に述べています。それが実現しようとしているのです。

これから地上には、いくつもの大きな変化が生じます。崩壊や多くの大変動があるでしょう。皆さんには暗黒と苦難の時代の到来のように思えるかもしれません。「たいへんな時代になった」と、おっしゃるかもしれません。しかし、そうした変動の背後には、地上世界を進化させようとしている大きな力が存在しているのです。

地上世界のための仕事に従事している私たちの多くは、より高い界層の霊たちによって、いつの日か地上はこうなるという未来像を見せていただいております。私たちは、その計画を受け入れる能力のある地上の同志に伝え、仕事を行っていくように彼らの心を鼓舞しているのです。私が見せていただいた未来像に比べると、現在の地上世界はとても醜く見えます。が、私には地上世界はこんなにまで立派になり得るのだ、こうでなければならないのだ、ということが分かっています。あとは時間の問題です。

そのうち、政治も宗教も科学も学問も、ある一つのものの側面にすぎないことが理解できる新しい人類が現れることでしょう。そのときは苦悩や嘆きや恐れ、喪の悲しみや不幸が追放され、笑顔と笑い声が満ちあふれる世界となるでしょう。しかし、現段階の地上世界で最も偉大な人間とは、他人の悲しみを取り除き、人生をより良くしてあげられる人のことなのです。

これまで人間は、何か良いものを手に入れると、それを他人のために使用せずに独り占めしようとしてきました。そしてそうした間違ったあり方ゆえに、いずれ崩壊するに違いない社会システムを構築しようとしてきたのです。しかし大霊からいただいた資質を発達させ、それを他人のために役立てる方向で使用するようになれば、永遠なるものを基盤とした社会システムが構築されるでしょう。

私たちが説いている教えは決して新しいものではありません。霊的な視野を持つ人々がずっと説き続けてきた、古くからある真理です。それをほとんどの人間が顧みようとしなかったために、私たちが改めて説き、大霊の教訓を学ぶように導く必要性が生じたのです。人類は自らの間違った考え方による愚行から、地上界を破滅の寸前にまで追いやっています。

今こそ人類は、大霊とその摂理へ回帰しなくてはいけません。いや、すでに回帰しつつあります。私の目には、ゆっくりとではありますが、大霊の摂理が地上界に具現しつつあるのが見えます。

何よりもまず人類が学ばなければならないのは、大霊の恩寵(おんちょう)は皆で分け合わなくてはいけないということです。現在の地上には、今日の食べ物にも事欠く人がいる一方で、度を超した飽食に走っている人がいます。もちろんこれは間違っています。あり余るほど持っている人は、足りない人に分けてあげなくてはいけません。別に難しいことではないと思うのですが……。

あなた方は、既得権を打破しなければなりません。摂理は完璧です。あなた方が自分のことを忘れて他人のために奉仕しようとするとき、あなた方を通して大霊が働くのです。それはあなた方だけでなく、すべての人間に言えることです。そんなことは無理ですとおっしゃるかもしれませんが、私は可能だと申し上げます。それが人間としての唯一の正しい生き方だからです。摂理は完璧であり、ごまかすことはできません。あなた方は摂理を学び、それを実行に移さなくてはいけません。

長いあいだ人類は、本当は取り壊すべきものを構築することに自由意志を行使してきました。しかし今、ゆっくりと地上の闇に大霊の光が射し込み、混乱と無秩序の中から新しい世界が生まれつつあります。そこにはもはや、不平等も不正もなく、持つ者と持たざる者といった差別もなく、大霊からの賜物(たまもの)がすべての子らに平等に分け与えられるようになることでしょう。

そうした新しい世界の夜明けを、どのような言葉で呼んでもかまいません。それは大霊の力によって成就する世界であり、新たな喜び、新たな人生、新たな幸せを地上にもたらそうとする大霊の意思に忠実な人間の努力によって、これ以上、霊界へ“出来損ない”(死後に「地縛霊」となってしまうような人間――訳注)を送り込まなくなる世界です。

時として、その努力が無駄に終わっているように感じられるかもしれません。しかし常に、世界中のあらゆる所でさまざまな人々が、自覚するしないに関わりなく霊界の道具として新しい世界の夜明けのために活用されているのです。大霊は、我が子が破滅の道へ向かうのを黙って見ていることはできません。私があなた方に繰り返し援助をお願いするのは、人類の悲劇に終止符を打つためです。新しい世界を築くための努力を“政治”と呼ぶかどうかは、私には関心はありません。私たちの仕事は、これからも続いていきます。霊界と地上界が協力して進めていく仕事です。もはや、それを阻止することはできません。

そうした私たち(霊界と地上界)の努力によって、物質界の至るところで大きな仕事が成し遂げられていることを誇りに思っています。地上の暗闇に光が射し込み、悲しみに暮れていた心に喜びがもたらされるようになっています。まだわずかではありますが、無知に代わって知識が存在するようになっています。私たちは、生きる気力を失った人々を助け、人生に疲れた人々に勇気を与え、進むべき道を見失った人々を導いています。そして地上の同胞のために働いている人々を鼓舞し、大霊とその子らのための仕事をするすべての人間の背後には、強力な霊の大軍が控えていることを理解させようとしているのです。

私はまた、皆さんが愛し、皆さんを愛している霊界の人々をこのサークルに連れてこられたことを嬉しく思っています。あなた方は、彼らを失ったのではありません。死は、愛と友情で心が一つになっている者たちの間を引き裂くものではなく、両者は変わらず結ばれていることを、これまで以上に実感することでしょう。

私たち霊団の影響力がどれほど拡大しているかを、あなた方にお見せできないのが残念です。私たちは障壁を壊し、障害物を取り除き、知識をもたらすために働いています。地上世界が必要としているものは、人類を霊的に、精神的に、そして物質的にも自由にしてくれる単純な真理です。ご存じのように私たちは、ただ奉仕するためだけに歩んでいます。無償の奉仕、それのみが地上人類を救うことになるからです。

ここで改めて申し上げておきたいのは、私はただの“道具”にすぎないということです。私は、人間は全生命を生み出した大霊の一部であるという単純な霊的真理をあなた方に悟らせたいと願っている多くの霊たちの一人にすぎません。大霊はあなた方の内部に存在しています。あなた方は神聖なる賜物を与えられており、その潜在的神性が宿っているからこそ大霊の恩寵にあずかる資格があるのです。その神性を妨げる障害物や慣習は、一掃しなければなりません。私たちの仕事は魂と精神を自由にするだけでなく、身体的にも自由にすることを目的としているのです。

そうした仕事に私たちは献身してきました。それが私たちが成し遂げようとしてきた奉仕(サービス)なのです。私は大霊の道具として、人類を救うことになる真理を皆さん方に届けるという特権にあずかったことを光栄に思っています。私が皆さんと一緒に奉仕の仕事に携わってきて何年かになりますが、その仕事はこれからもまだまだ続きます。地上界の皆さんと霊界の私たちの協力によって、地上人類がどうしても必要としている救いをお届けしてまいります。あなた方はすでに知識を持っています。霊的真理を手にしています。真理を知った者には、それを実践に移す責任がともないます。その責任を果たしてこそあなた方は、より優れた大霊の道具になれるのです。

あなた方が手にしている真理に疑念が向けられたときは、それには「神から授かった真理」の刻印が押されていることを常に思い出してください。私たちは、あなた方人間の理性だけに訴えています。私たちがお届けするメッセージは、あなた方の品位を落としたり、知性を侮辱(ぶじょく)したり、奉仕精神と善意を持った正直な生き方に背を向けさせるようなことはありません。それどころか、人間に内在する神性に気づかせ、大霊とのつながりを自覚させるものです。そしてあなた方の日常の行為のすべてを律し、全生命の始原である大霊を顕現させることができるように導くものなのです。

霊的真理の重要性を理解している人たちが一致団結して、物質界に立ち込めている無知の霧を晴らすためにその力を使用すれば、どれほど大きな仕事ができることでしょうか。善意と救済と奉仕の勢力(霊界の軍団)は常にあなた方の味方であることを自覚して、自信を持って前進してください。

私たちの前途には奉仕(サービス)の分野がいくらでも広がっています。私たちの行く手には、古い慣習を捨て、過去の信仰に頼らず、懐疑に耐え得る真理を求めながらも、どこへ向かえばよいのか分からずに迷っている多くの人々を救うことができるという喜びが待っているのです。そうした人々にこそ霊的真理と霊的摂理をお届けするのです。内部に宿る霊的資質に気づかせ、自分たち自身も大霊であるということを理解させてあげるのです。それによって彼らは、激怒し復讐心に燃える神の前にひれ伏すような卑屈な信仰を捨て去るようになります。

大霊の子らのために奉仕しようと努力している地上の同志の背後には、協力関係を求める巨大な霊的勢力が控えていることを知っていただきたいのです。そして霊的真理を武器として、あらゆる迷信、あらゆる邪悪と戦い、尊い真理の光で地上界を照らしていただきたいのです。

私たちは地上に霊力をもたらします。地上の同志を鼓舞し、導き、心の支えとなります。飢えた魂にエネルギーを注ぎ、病(やまい)に苦しむ人に癒しを与え、すべての人にインスピレーションと啓示と真理と叡智をもたらします。それが私たちの仕事なのです。

人間の側に理解力と受容力が備わっていれば、それに応じて霊力で満たしてあげることができます。私たちは、教会に属していようといまいと、どこかの宗教に属していようといまいと、科学者であろうと唯物論者であろうと哲学者であろうと、人類の霊的向上のために貢献したいと願うすべての人々との間に協力関係を築きたいと切望しているのです。

シルバーバーチ

シアトルの初冬 キリスト界  

Christ world


 


キリスト界       

一九一九年二月二十七日  木曜日


──これまでお述べになったことは全て第十一界で起きたことと理解しております。そうですね、アーネルさん?


 ザブディエル殿がお示しになった界層の数え方に従えばそうです。私には貴殿の質問なさりたいことの主旨が目に見えます。精神の中で半ば形を整えつつあります。取りあえずそれを処理してから私の用意した話に移ります。

 すでにお話したとおり、この大事業の構想は第十一界で生まれたのではなく、はるかに上層の高級界です。キリスト界についてはすでに読まれたでしょう。

そこが実在界なのですが、語る人によってさまざまに理解されております。そもそも界層というのは内情も境界も、地上の思想的慣習によって厳密に区分けすることは不可能なのです。しかし語るとなるとどうしても区分けし分類せざるを得ません。

吾々も貴殿の理解を助ける意味でそうしているわけですが、普遍的なものでないことだけは承知しておいてください。吾々も絶対的と思っているわけではありません。

表面的な言いまわしの裏にあるものに注目してくだされば、数々の通信にもある種の共通したものがあることを発見されることでしょう。

界は七つあって七番目がキリスト界だと言う人がいます。それはそれで結構です。ザブディエル殿と私は第十一界までの話をしました。これまでの吾々の区切り方でいけばキリスト界は七の倍に一を加えた数となるでしょう。つまりこういうことです。

吾々の二つの界が七界説の一界に相当するわけです。七界説の人も第七界をキリストのいる界とせずに、キリストが支配する界層の最高界をキリスト界とすべきであると考えます。

 吾々の数え方でいけば第十四界つまり七の倍の界が吾々第十一界の居住者にとって実感をもって感識できる最高の界です。

その界より上の界がどうなっているかについての情報を理解することができないのです。

そこで吾々は、キリストがその界における絶対的支配者である以上は、キリスト自身はそれよりもう一つ上の界の存在であらねばならないと考えるのです。その界のいずこにもキリストの存在しない場所は一かけらも無いのです。

ということは、もしもその界全体がキリストの霊の中に包まれているとするならば、キリストご自身はさらにその上にいらっしゃらねばならないことになります。

それで七界の倍に一界を加えるわけです。以上がこれまでに吾々が入手した情報に基づいて推理しうる限界です。そこで吾々はこう申し上げます。数字で言えばキリスト界は第十五界で、その中に下の十四界のすべてが包含される、と。

吾々に言えるのはそこまでで、その十五界がどうなっているのか、境界がどこにあるのかについても断言は控えます。よく分からないのです。

しかし限界がどこにあろうと──限界があるとした上での話ですが──それより下の界層を支配する者に霊力と権能とが授けられるのはその界からであることは間違いありません。そこが吾々の想像の限界です。そこから先は〝偉大なる未知〟の世界です。

ただ、あと一つだけ付け加えておきましょう。ここまで述べてもまだ用心を忘れていないと確信した上で申しましょう──私は知ったかぶりをしていい加減な憶測で申し上げないように常に用心しております。

 それはこういうことです。私がお話した神々による廟議と同じものが各世紀ごとに召集されているということです。その際、受け入れる用意のある者のために啓示がなされる時期についての神々の議決は、地球の記録簿の中に記されております。

かくして物的宇宙(コスモス)の創造計画もその廟議において作成されていたわけです。

                             アーネル±


Monday, December 2, 2024

シアトルの晩秋 天界の大軍、地球へ キリストの軍勢

The great army of the heavens, the armies of Christ to the earth.


キリストの軍勢
一九一九年三月六日  木曜日 

 天界の大草原のはるか上空へ向けてキリストの軍勢が勢揃いしておりました。上方へ向けて位階と霊格の順に一段また一段と階段状に台地(テラス)が連なり、私も仲間の隊員とともに、その上方でもなく下方でもなく、ほぼ中間に位置するあたりの台地に立っておりました。雲なす軍勢の一人一人がそれぞれの任務を帯びていたのです。

 このたびの戦いに赴くための準備が進行するうちに吾々にさまざまな変化が生じておりました。

その一つは地球圏の上層界と前回の話に出た他の複数の惑星の経綸者の双方から霊力の援助をうけて吾々の磁気力が一段と増し、それにつれて視力も通常の限界を超えて広がり、それまで見ることを得なかった界層まで見通せるようになったことです。

その目的はエネルギーの調整──吾々より上の界と下の界の動きが等しく見えるようになることで、言いかえれば視力の焦点を自在に切り換えることができるようになったということです。

これで一層大きな貢献をするためにより完璧な協調態勢で臨むことになります。下の者は上の者の光輝と威力を見届けることができて勇気を鼓舞されることにもなり、さらに、戦いにおいて指揮と命令を受けやすくもなります。

 私はその視力でもって上方の光景と下方の光景、そしてあたり一面を見渡して、そこに見た驚異に畏敬の念を抱かずにはいられませんでした。それまで数々の美と驚異を見ておりましたが、その時に見た光景ほど驚異に満ちたものはありませんでした。

 地球の方角へ目をやると、さまざまな色彩が幾つもの層を成して連なっています。それは私の界と地上界との間の十の界層を象徴する色彩で、これより下降すべく整列している軍勢の装束から放たれているのでした。

その下方、ちょうどその軍勢の背景となる位置に、霧状のものが地球を取り巻いているのが見えました。

そのどんよりとして部厚く、あたかも濃いゼリー状の物質を思わせるものがところどころで渦を巻いている中を、赤色と暗緑色の筋や舌状のものがまとわりついているさまは、邪悪の化身である身の毛もよだつ地獄の悪行に奔走しているさまを彷彿とさせ、見るからに無気味なものでした。

 その光景に吾々は別にしりごみはしませんでした。恐怖心はいささかも抱きませんでした。それどころか、愛と僚友意識の中で互いに手を取り合い、しばし厳粛な思いに浸りました。

これからの吾々の旅はあの無気味な固まりと立ち向かい、しかもそれを通過しなければならないのです。目指す地球はその中にあるのです。

何としてでも突き抜けて地球まで至らねばなりません。陰うつ極まる地球は今こそ吾々の援助を必要としているのです。その無気味な光景を見つめている私の脳裏に次のような考えが浮かびました──〝人間はよくもあの恐ろしい濃霧の中にあって呼吸し生きていられるものだ〟と。

 吾々自身について言えば、吾々の仕事は、すでに述べた通り、質の転換作用によって少しでも多く吾々の組織体の中にそれを取り入れていくことでした。

どうしても消化不可能なものはさらに地獄の奥へと追いやり、言うなれば自然崩壊をまつほかはありません。大変な〝食事〟だと思われるでしょう。しかも大して〝美味〟ではありません。

それは確かですが、それほどの軍勢で、しかもキリストをリーダーとして、吾々はきっと成就できるとの確信がありました。

 続いて吾々は向きを変えて、こんどは上方へ目をやりました。すると幾重にも連なる台地に光り輝く存在が、ある者は立ち並び、ある者は悠然と動きまわっているのが見えました。

その台地の一つ一つが天界の一界であり、それがパノラマ式に巨大な階段状に連なって延々と目も眩まんばかりに上方へと伸び、ついに吾々の視力では突き通せない光輝の中へと突入し、その頂上が視界から消えました。

その光輝を突き抜けて見届けうるのは吾々よりはるか上方の、光輝あふれる界層の存在のみでした。吾々にとってはただの光の空間であり、それ以外の何ものにも見えませんでした。

 それでも、可能なかぎりの無数の輝く存在を目にすることだけでも吾々に大いなる力を与えてくれました。最も近くの界層の存在でさえ何とすばらしかったことでしょう。

吾々より下層の者は見たこともない色調をした光輝を放つ素材でできた長衣(ロープ)に身を包んでおられました。

さらに上層界の存在はゴースのごときオーラに包まれ、身体はその形も実体も麗しさにあふれ、その一体一体が荘厳な一篇の詩であり、あるいは愛と憧憬の優しい歌であり、優雅にして均整の取れた神であり、同格の神々とともに整然たる容姿を完全に披露してくださっておりました。

その位置を貴殿なら多分はるか彼方と表現するところでしょう。確かにはるか彼方ではありました。が吾々の目にはその形状と衣装が──その形体を包む光輝を衣装と呼ぶならば──全体と同時に細部まで見ることができました。

 しかし、それとてまだ中間の界層の話です。そのまた先には吾々の視力の及ばない存在が無数に実在していたのです。そのことは知っておりました。

が、知ってはいても見ることはできません。吾々の霊格にとってはあまりにも崇高すぎたのです。そしてその頂上には吾らがキリストが君臨していることも分かっておりました。

 その光景を見つめながら吾々仲間はこう語り合ったものです──〝目(ま)のあたりにできる光景にしてこの美しさであれば、吾らがキリストの本来の栄光はいかばかりであろうか〟と。

しかし吾々の感嘆もそこまでで、それから先へ進むことはできず、一応そこで打ち切りました。と言うのも、間もなくそのキリストみずから吾々の指揮のために降りて来られることが判っていたからです。

その折には地球へ向けて下降しつつ、各界の住民の能力に応じた波長の身体をまとわれるので、吾々の視力にも映じる可視性を身につけておられることも知っておりました。

天界の大軍の最高位にあらせられるキリストみずからその大軍の中を通り抜けて、一気に地球の大気圏の中に身を置かれるということだったのです。

 然り、然り。キリストほどのリーダーはいません。天使ならびに人類を導く者としてキリストに匹敵する霊は、神格を具えた無数の存在の中にさえ見出すことはできません。

私は厳粛なる気持でそう断言します。と申しますのも、天界の経綸に当たる神々といえども、その力量は一列平等ではなく、地上の人間と同じくその一柱一柱が独自の個性を表現しているのです。

平凡な天使の部類に属する吾々もそうであり、さらに神聖さを加えた階級の天使もそうであり、さらにその上の階級の天使もそうであり、かくして最高級の大天使ともなれば父なる神の最高の美質を表現しておりますが、それにも各々の個性があるのです。

 そうした多種多様な神々の中にあっても、指導者としての資質においてキリストに匹敵する者はいないと申し上げるのです。私がさきほど語り合ったと述べた仲間たちも同じことを申しておりました。そのことについては改めて述べるつもりでおります。その時は以上の私の断言が正しいか否かがはっきりすることでしょう。  
 アーネル ±

シアトルの冬 神とはどのような存在か

What kind of being is God?



〔スピリチュアリストの中にも、シルバーバーチが説く神の概念に対して当惑する人がいるが、次の質疑応答は神を正しく理解するための参考になるであろう。〕
質疑応答


――大霊というのは「誰」なのでしょうか。「何」なのでしょうか。あらゆるものに内在する愛、愛の精神ないしは情なのでしょうか。


大霊とは宇宙の自然法則です。物質界と霊界のすべての生命体の背後にある創造的エネルギーです。大霊は完全なる愛であり、完全なる叡智です。大霊は全宇宙のすみずみまで行きわたっています。人間が知り得る極微のものであろうと、まだ物質界には明かされていないものであろうと、そのすべてに遍在しています。

大霊は、あらゆる生命体に充満しています。あらゆるものに内在し、あらゆる法則に内在しています。大霊は生命であり、愛であり、存在するすべてのものなのです。従僕にすぎない私たちが、どうして主人を表現することができるでしょうか。ちっぽけな概念しか抱けない私たちが、どうして広大無辺の存在を表現できるでしょうか。


――一羽のスズメが落ちるのも神はご存じだということですが、この地球上のすべての人間の身に起きることを、神はどのようにして知ることができるのでしょうか。ましてや、すでに他界した数えきれない人たちのことまで、どのようにして知ることができるのでしょうか。


人間が「神」と呼んでいるのは、宇宙の自然法則のことです。大霊(神)は万物に内在しています。すべての存在物が大霊であると言えるのです。魂はそれ自身のことを知っていますから、大霊は魂を知っていることになります。スズメも大霊ですから、大霊はスズメを知っていることになります。大霊は風にそよぐ木の葉の中にも存在していますから、木の葉は大霊であると言えます。

地上界のすべて、霊界のすべて、宇宙のすべて、そしてまだあなた方に知らされていない世界のすべてが、大霊の法則の絶対的な支配の中にあるのです。その法則から離れては何ひとつ生じません。すべてが法則の範囲内で発生していますから、大霊はすべてを知っていることになります。


――あなたは、全存在の根源である大霊はあらゆるものに内在している、愛にも憎しみにも、叡智の中にも愚かさの中にも存在している、とおっしゃっています。そうであるなら、間違ったことをする人間も正しいことをする人間と同様に、大霊の摂理の中で行動していることになります。同じことが、戦争や憎しみを煽動する者と、平和や愛を唱道する者とについても言えることになります。すべては大霊の摂理の一部であるとするなら、神の摂理を犯す者は誰ひとりいないことになりますが、この矛盾をどう説明されますか。


一方に“完全なもの”があり、他方に“不完全なもの”があります。しかし不完全なものも、その内部に完全性の種子を宿しています。なぜなら完全性は、不完全性から生じるものだからです。完全性は完全性から生まれるのではなくて、不完全性から生まれるのです。

生命の旅路は進化であり、進歩です。向上を求めての葛藤です。発達・発展・拡大・拡張です。あなた方が“善”とか“悪”とか言っているのは、その旅路における途中の段階にすぎず、終着点ではありません。あなた方は、その不完全な理解力によって判断しているのであって、ある段階から見て上のものを“善”と言い、それより低いものを“悪”と言っているにすぎません。それはその段階でのあなた方なりの考え方であり、その状況から離れたときには、あなた方は別の判断をするかもしれません。が、いかなる状況にあっても、大霊はすべてのものに内在しているのです。


――すると大霊は地震にも関わっているのでしょうか。


大霊とは摂理(法則)であり、あらゆるものを支配しています。摂理に関わりなく生じるものは、宇宙には何ひとつ存在しません。

地震・雷・嵐――こうしたものについてどのように理解すべきか地上人が頭を悩ませていることは、私もよく承知しています。しかし、それらはすべて摂理の支配下にある宇宙の一部なのです。宇宙は、そこに生を営む者と同じように進化しています。物質界は、まだ完全からはほど遠いものであり、完全に至ることはありません。物質界はどこまでも、より高い世界へと進化していくのです。


――大霊も進化しているということでしょうか。


それは違います。大霊は摂理であり、その摂理は完璧です。ただ、物質界で顕現している部分が顕現の仕方において進化しつつあるということです。その点をよく理解してください。地球も進化していて、地震などの天変地異はその進化の現れであるということです。地球は火焔(かえん)と嵐の中で誕生し、今もなお完成へ向けてゆっくりと進化しているのです。

大霊は、朝日や夕日の美しさ、夜空を埋め尽くす無数の星の輝き、小鳥のさえずりの楽しさとは関わっていても、雷雨や嵐や稲妻とは関わっていないと言うことはできません。すべては大霊の法則の働きによって生じているのです。

その意味では、堕落した人間や同胞に害を及ぼすような人間の存在も大霊の責任であると言っても、必ずしも間違いではありません。しかし忘れないでいただきたいのは、一人ひとりの人間に、霊性の進化の程度に応じた「自由意志」が与えられているということです。霊的段階を高く上れば上るほど、自由意志を行使できる範囲が広くなります。つまり現在のあなたが、あなた自身の限界をつくっているということです。しかし、あなた方は大霊の一部であるがゆえに、地上世界で生じるあらゆる困難や障害を克服することができるのです。

霊は物質に優ります。霊が王様(キング)で物質は従僕(サーバント)です。霊はすべてに優ります。全生命が生み出されるエッセンスです。霊は生命であり、生命は霊なのです。


――大霊はこの宇宙とは別の存在なのでしょうか。


そうではありません。宇宙は大霊の反映にすぎません。大霊が宇宙なのです。ハエに世界が理解できるでしょうか。魚に小鳥の生活が分かるでしょうか。犬に人間のように理性を働かせることができるでしょうか。星に空のことが分かるでしょうか。あなた方に人間の精神をはるかに超えた大霊が理解できるでしょうか。

しかしあなた方は、一言も発することなく魂の静寂の中で霊が大霊と交わることができる段階まで霊性を磨くことは可能です。そのときあなた方は、自分と大霊とが一つであることを理解します。それがどういうものであるかは言葉では説明できませんが、あなた方や被造世界のすべての霊的存在者の魂が静寂の中で、その霊的感性によって実感することができるのです。


――霊が個としての意識を獲得するためには、物質界とつながりを持つことが必要でしょうか。


その通りです。意識を獲得するためには物的身体(肉体)に宿って、物的体験をしなければなりません。霊にとって物的身体との結合が、個としての表現を可能にするという意味です。霊は物質に宿ることによって、その本性を自覚するようになるのです。


訳注――別のところで、創造をつかさどる高級神界では物質界に降誕しなくても意識を所有している霊が普通であると述べている。また、その中から特殊な使命を帯びて物質界へ降誕する者がいるとも述べている。イエスがその代表格であろう。


――そうなると、大霊は私たちを通して体験を得ているということでしょうか。


それは違います。あなた方の進化が、すでに完璧なもの(大霊)に影響を及ぼすことはありません。


――でも、私たちは皆、大霊の一部です。その一部の進化が全体に影響を及ぼすことはないのでしょうか。


あなた方を通して顕現している部分に影響を及ぼすにすぎません。その一部も本来は完全なものですが、あなた方を通しての顕現の仕方が不完全だということです。霊そのものは完全です。霊は宇宙の根源的要素であり、生命の息吹です。ただ、あなた方が不完全であるがゆえに、あなた方を通しての顕現の仕方が不完全になるのです。あなた方が進化するにつれて、より完全なものが顕現するようになります。あなた方は直接、霊を進化させるのではなくて、霊が顕現するための身体(霊体と肉体)を用いた実践を通して霊を進化させるのです。


――霊がそれ自身を発現するための媒体には、いろいろな形態があるということでしょうか。


そうです。大霊の摂理は完璧です。が、あなた方を通して顕現している摂理は、あなた方が不完全であるがゆえに不完全となります。完璧な摂理は、あなた方を通して働くことはできません。しかし、あなた方が完全へ向けて進化するにつれて、摂理はあなた方を通してより大きく働くことができるようになるのです。

鏡と光の譬えで説明しましょう。鏡は光を反射するものですが、鏡が粗悪であれば光のすべてを反射することはできません。鏡を磨いてもっと完全なものにすることによって、より多くの光を反射することができるようになります。

全存在が絶え間なく、よりいっそうの顕現を求めて努力しているのです。すでに申し上げたと思いますが、生命(霊)とは原石のようなものです。つまり金(きん)がその本来の姿を現すためには、原石を砕き、手間をかけて純度を高めなくてはなりません。「原石はいらない、金(きん)だけをくれ」――こんな要求は通りません。


――しかし私たちにも、何が善で何が悪かの概念はあると思いますが……。


地上人の抱く善悪の考えは、霊的成長のプロセスにおけるその時点での想念にすぎません。それは進化の過程で到達した段階を表しています。人間がさらに進化すれば、それまでの善悪の概念は捨て去られます。それは、完全なる摂理が正道から外れた媒体を通してそれ自身を顕現させようとするところから生じた不完全な発想にすぎません。私が善にも悪にも存在意義を認めるわけは、そこにあります。


――ということは、神はその原初においては必ずしも善ではなかったということでしょうか。


私は“原初”については何も知りません。“最終”についても何も知りません。知っているのは、大霊は常に存在しており、これからも常に存在し続けるということだけです。大霊の摂理の働きは完璧です。もし、あなたが完全な光を放っても、十分に磨かれていない鏡ではその光を完璧に反射することはできないということは分かっていただけると思います。それを光が不完全だ、光が悪い、とは言えないでしょう。あなた方は、内部には完全な霊を宿していても、まだそれを完全な形で表現する準備ができていません。人間が“悪”と呼んでいるのは不完全性のことにすぎません。完全な大霊を不完全に表現しているということなのです。


――宇宙には創造力を持つ一個の存在、ないしは一人の絶対的存在がいるだけで、私たちには創造力はないという考えは正しいでしょうか。


大霊は無窮(むきゅう)の過去から存在し、今この時も存在し、そして果てしない未来にも存在し続けます。全生命が大霊であり、大霊が全生命なのです。あなた方にいったい何が創造できるでしょうか。しかしあなた方は、霊性が進化するにつれて、より美しく、より高く上ることができます。進化の程度が低いほど、宇宙におけるあなた方の位置は低くなります。

Sunday, December 1, 2024

シアトルの初冬 霊的進化の道を歩む神の子供たち

Children of God on the path of spiritual evolution


〔キリスト教の神学者たちは「原罪(人間の堕落)」を説く。しかしシルバーバーチはそれを否定し、人類は誕生以来、ずっと進化の道をたどっており、その歩みに終着点はないと明言する。(原罪とは、最初の人類であるアダムとイブが神の掟を破ったところから発生し、人間は皆、その子孫として生まれながらに罪を負うようになったとする説――訳注)〕


種子が暗い土の中に埋められるのは、養分を摂取して発芽後の成長に備えるためです。それと同じく、人間の生命の種子が物質界という暗黒の世界に生まれてくるのは、霊界へ戻ってからの進化に備えて地上生活での体験を積むためです。

地上人生のあらゆる体験は、大きな計画の中の一つです。落胆・挫折・悲しみ・痛み……これらは人間的心情からすればあって欲しくないものかもしれませんが、魂の進化にとっては、とても貴重な体験なのです。

しかしあなた方は、その体験の最中(さなか)にあってはそうは思えないでしょう。人生体験の価値を明確に認識できるようになるのは、こちらへ来て地上人生の一部ではなく、全体を振り返ることができるようになったときです。さまざまな逆境を通して人間性が試され、悲哀を通して魂が強化されたことを知るようになるのです。

私たちは地上人生を、地上的視点ではなく霊的視点から眺めます。賢明な人間とは、すべての体験を魂の養分として摂取しようとする人のことです。辛いことや煩悩(ぼんのう)の誘惑に流されず、心の奥深くにある霊的な力を活用して困難に立ち向かおうとする人のことです。そうした精神で臨んでこそ、人間性が磨かれ強化されるのです。

摂理は完璧であり、自動的に働きます。誰ひとり摂理から逃れることはできません。自由意志そのものでさえ摂理の一つであり、その摂理の働きは一定の進化の段階に至っている者には明瞭に見て取ることができます。

自由意志を行使できるといっても、あくまでもあなた方が到達した進化の段階の範囲内でのことです。何でも思うようにできるというものではなく、各自が到達した進化のレベルによって制約を受けるのです。

あなた方は大霊の一部であり、発現すべき無限の神性を秘めています。その神性が発現した分だけ、より高い次元の摂理との関わり合いが生じます。その摂理は、それまでの低次元の摂理と矛盾するものではありません。霊性が進化したために関わり合うことになった摂理です。

無限とは、文字どおり“限りがない”ということです。美の完全性にも音楽の壮麗さにも限りというものはありません。霊性が進化するにつれて、より高度な美と調和の世界を自分のものにすることができるようになります。魂が向上するにともない、もっと素晴らしい調和の世界が待ち受けているのです。

低い次元にいる者が高い次元の世界を理解することはできません。が、高い次元にいる者は低い次元の世界を理解することができます。宇宙の全側面をつかさどっている摂理は自動的に働きますが、それぞれの次元で作動している摂理との関わりは、その次元まで霊性を高めないかぎり生じません。

あなた方はこれまでの霊的成長によって、今後の成長の道を選択することになります。しかしあなた方は、霊的成長を遅らせるような選択をすることもできるのです。その時点における方向性は、さまざまな摂理の相互作用によって自動的に決定します。あなた方の意識は進化のレベルに応じて変化し、それによって選択がなされます。魂が目覚めていれば進化を促す方向を選ぼうとしますが、肉体の脳を通して顕現している意識(顕在意識)は、それに歩調を合わせることができません。

あなた方は、霊性の進化を通して自然の法則(摂理)を学んでいきます。何よりもまず、事実に反するもの、理性が反発するもの、大霊の愛と叡智に一致しないものを、すべて捨て去ることを学ばなければなりません。新たな知識を取り入れるに先立って、それまでの間違った知識を捨て去らなければなりません。正しい思考を妨げるものを、すべて取り除かなければなりません。そうしてようやく魂が成長し、より高次の知識を取り入れる用意ができることになるのです。

このサークル(交霊会)に出席している皆さんは、魂が成長し、大霊の無限の叡智に接する機会が多くなっています。霊的現象を演出するための法則や、日常生活に関連する法則についても学んでいます。あなた方は進歩するにつれて、より多くの知識を手にすることができるようになるのです。

皆さんからシルバーバーチと呼ばれているこの私がお届けしている知識は、無限の界層に存在する知識のうちのごく一部にすぎません。皆さんがさらに成長すれば、私よりも一段と高い指導霊が、私を使ってより高度な知識と叡智をお届けすることになるでしょう。

霊的進化には、これで終わりという段階は存在しません。また、完全というものも存在しません。あなた方も、そしてこの私も、刻一刻と進化向上しています。そして私よりも進化している霊から聞いたところによれば、彼らの背後にはさらに高級な霊たちが控えているとのことです。とにかく霊的進化には終着点というものはありません。もしあるとしたら、大霊による創造の営みはそこで停止してしまうことになります。

何百万年もの間、人間の肉体は進化してきました。それにともなって人間の魂も、大地から空に向かって上昇するように、ゆっくりと少しずつ低い段階からより高い段階へと進化してきました。獣性が徐々に拭われ、神性が現れるようになってきました。

人間の肉体が現在の進化のレベルに至るまでには、何百万年もの永い時がかかりました。そしてその進化は、まだ終わったわけではありません。今後もそうした肉体の進化とともにあなた方の魂は、永い永い時をかけてどこまでも進化していくことになります。

それほど遠くない昔、人間はサルでした。実際にサルであったということではなく、サルに似た肉体を通して働いていた「霊」であったという意味です。その霊は、大霊の分霊にほかなりません。生命のあるところならどこでも、大霊の息吹が存在します。大霊の息吹がなければ、生命は存在しません。大霊の息吹にはランク(段階)があり、その息吹によって人間は進歩し、低い段階から高い段階へと進化することになったのです。

生命を持っているもののすべてに大霊の息吹があればこそ、物質界の最下等の生命体から聖人君子に至るまで、大霊につながっていると言えるのです。いかなる極悪人も、限りなく美しい心の持ち主も、内部に大霊の息吹を宿しているという意味で兄弟姉妹なのです。摂理から逃れられる者は一人もいません。全人類がお互いに責任を持っているということです。
質疑応答


――本人には何の罪もないのに、身体的欠陥や盲目といった障害を持って生まれてくる子供がいるのはなぜでしょうか。


肉体という外形だけで魂を判断してはいけません。魂の進化と、魂が地上生活で使用する身体の進化とを混同してはいけません。父親または母親、あるいは双方から受け継いだ遣伝的法則の結果として障害を持って生まれてくる子供がいるのは事実ですが、それが魂の進化を阻害することはありません。

肉体に障害を持って地上に生まれてくる子供には、その魂に埋め合わせの摂理が働いています。そうした子供たちは、優しさや忍耐力や他人への思いやりを持っています。永遠の埋め合わせの摂理があり、それによって誰もが公平に扱われているのです。

次代の子孫に物的身体を提供する責任を担っている両親は、可能なかぎり完全な身体を提供すべきです。もし親がその責任を怠るなら、大霊の摂理が肉体の不完全さを補うことはできません。


――精神障害者として自らの行為に責任を持てない人は、死後どうなるのでしょうか。私たちは地上生活で形成された人間性によって裁かれると聞いておりますが……。


あなたは、物的なことと霊的なことを混同しています。地上では、脳に障害があると混乱が生じます。宿っている霊は脳に欠陥があることで自我を正常に表現できなくなりますが、自分自身の責任は自覚しています。

大霊の摂理は、あくまでも魂の進化を大前提として機能します。魂は、地上的な尺度ではなく永遠の叡智を尺度として評価されます。したがって地上的な善悪の基準では“悪”とされる行為であっても、魂そのものに責任がなければ、霊的には“悪”とは見なされません。

例えば、発狂状態で他人または自分自身の生命を奪った場合などです。それは知的判断力をつかさどる器官が正常に機能しなかった結果ですから、その霊が責任を問われることはありません。私の世界(霊界)では魂の動機を最優先して判断します。動機を基準とするかぎり、判断を誤ることはありません。


――肉体器官の欠陥によって地上生活で教訓を学べなかった霊は、霊界でどうなりますか。


肉体器官の欠陥のために霊が必要な地上体験を学ぶことができなかった、つまり地上人生の価値が失われたということです。しかし、埋め合わせの摂理は常に働いています。


――私たちは、地上生活でのさまざまな試練をくぐり抜けながら形成した人間性を携えて霊界へ行くわけですが、精神障害者の場合も同じように、地上で形成された人間性によって裁かれるのでしょうか。


魂の進化の程度と動機だけを基準として裁かれます。


――飲んだくれや精神異常、道徳的腐敗や心身の堕落が蔓延するスラムの中に生を享けて、過酷な人生を歩まされる子供がいる一方で、美しいものに囲まれた環境に生を享けて、何の不自由もない人生を送る子供もいます。この不公平はどう理解したらよいのでしょうか。


魂の進化は、魂そのものに刻み込まれていきます。ところが地上の人間はとかく、霊的なものではなく物的なもので判断しがちです。高い身分に生まれようと低い身分に生まれようと、人のために役立つことをするチャンスは必ず与えられます。魂が内部の神性に目覚め、それを発揮するチャンスはすべての人に訪れるのです。それこそが唯一の判断基準です。物的基準で計るかぎり、地上界は不公平だらけに思えるかもしれません。しかし、真の埋め合わせとは魂の次元におけるものであり、魂は自らを顕現させるために、あらゆる苦難を通して学ぶのです。


――でも、なぜ悪人が栄えるのでしょうか。


それもまた、地上的尺度による見方です。どうしてあなた方は、恵まれた生活をしている人の魂は不幸も悩みも苦痛も知らないと思うのでしょうか。いつも笑顔を絶やさないからでしょうか。豪華なものに囲まれているからでしょうか。紫の衣と亜麻糸の布が、そのまま満ち足りた魂を表すのでしょうか。永遠の基準は霊を基準としたものであり、物質を基準としたものではありません。そうでないなら神の公正が存在しないことになります。


訳注――「紫の衣と亜麻糸の布」は聖書のルカ伝十六章のイエスの説話に出てくる語句で、恵まれた環境と高い地位を象徴する言葉としてよく用いられる。


――しかし、飢えに苦しみ、悪徳や低俗なものばかりがはびこる環境よりは、恵まれた環境の方が明らかに善なる動機を発揮しやすいと思うのですが……。


私はそうは思いません。その証拠に、私が知るかぎりでは、地上の偉人はほぼ間違いなく低い身分の出身です。偉大な精神的指導者に至っては、まず間違いなく低い階層から出ています。葛藤を余儀なくさせられる困難が多いほど、それだけ魂が成長するものです。霊的自我に目覚めるのは、厳しい環境を克服しようとする闘いの中においてこそです。人生を外面からではなく、内部から見るようにしてください。


――人間の霊は、肉体的生命と同時に進化してきたのでしょうか。


たしかに霊は進化してきましたが、肉体と同じ進化の道をたどってきたのではありません。というのは、霊が肉体を通して自我を表現するためには、ある一定の段階までの肉体機能の進化が必要だったからです。


――死後にも進化向上することができるということは、霊界において邪悪な動機から罪を犯し、より低いレベルの界層に堕ちることもあり得るのでしょうか。


もちろんです。すでに霊の世界に来ていながら、何百年、時には何千年ものあいだ進化することなく、地上時代と同じ煩悩を抱き続けている者が少なくありません。彼らは貪欲で本能的欲望に満ちており、霊的摂理を理解しようとしません。霊的なことに対する感性が芽生えないのです。身は霊界にありながら、意識としては完全に地上で生活しており、しかも下降の一途をたどっています。


――人間の魂はあまりにも下降し過ぎると、最後には消滅してしまうのでしょうか。


いいえ、内在する大霊の炎が今にも消えそうに点滅することはあっても、消滅してしまうことはありません。大霊との霊的な絆は永遠であり、決して切れることはないからです。いくら下降しても、二度と向上できなくなるということはありません。また、いくら向上しても、最も低い界層の魂に救いの手を差し伸べるために下降できなくなるということはありません。


――個的生命は死後、ありとあらゆる界層を通過して個性を失い、最終的に大霊と融合し、その後さまざまな要素に振り分けられるのでしょうか。


私は、完全なる大霊と融合するほど完成の域に到達した霊を知りません。完全性を高めれば高めるほど、さらに高い領域があることを知るようになります。言い換えれば、意識にはどこまでも開発する余地があるということです。あなた方の意識は大霊の一部ですから、無限の奥行きがあります。私たちは究極の完全性というものを知りません。


――複数の個霊が進化して、どこかで一個のグループとして融合し、その中で個性を失うというようなことはないのでしょうか。


私の知るかぎりでは、ありません。ただ、次のようなことは確かにあります。ある重大な仕事が生じ、その達成のために一丸となった霊の集団が各自の知識と情報を持ち寄り、そのうちの一人が全体を代表して行動するというケースです。その仕事の進行中は、残りの者のアイデンティティーは薄れて一つになっています。しかし、それはその仕事の期間中だけのことです。


――ペットは死後も存続するそうですが、他にも存続する動物がいるのでしょうか。


はい、います。私たちが地上にいたとき友人のようにしていた多くの動物たちや、(あなた方がかわいがっていた)犬や猫などのペットは、死後も人間の中に混じって生きています。これらの動物たちは、人間の愛情を受けて一種の個性(パーソナリティー)を発現するようになり、そのパーソナリティーを携えて死後も人間の霊に混じって生きているのです。しかし、長続きはしません。ほんの一時期のことで、やがてそれぞれの「種」の母体であるグループ・スピリットの中に融合していきます。

大霊の子供である人間は、大霊の力を有しているお蔭で、まだ発現していない意識を持った動物に、死後に存続する力を与える能力が備わっていることを知ってください。本来の進化の過程においてその意識が発現する時期を一歩早め、進化を促すことができるのです。それが「愛の力」なのです。

――ペットは別として一般の動物も死後、個別に存続するのでしょうか。


いいえ、個別には存続しません。


――もしペットではない動物が死後、個として存在しないなら、まったく世話をされていない動物や虐待されている動物と大霊との関係はどうなっているのでしょうか。「創造した者」と「創造された者」という関係から見て、そうした動物の生命に大霊の愛ないしは公正がどういう形で現れているのでしょうか。


地上の人間の理解力が及ばないテーマを説明するのは、とても難しいことです。私は、動物が死んだときグループ・スピリットに融合していくことについて説明しました。そこには埋め合わせの摂理が働いています。その埋め合わせの摂理は、神の公正さの中で正しく機能します。とは言っても、それはあくまでも動物の進化の話であって、人間の進化とは次元が異なります。

あなた方は、大切に育てられて(自然に)枯れていく花と、放っておかれて枯れていく花を見て、その違いを説明しようとするかもしれませんが、あなた方にはそれぞれの花の背後にある摂理について理解することはできません。しかし、そこには同じ(埋め合わせの)摂理が働いているのです。


――動物には一匹ごとに埋め合わせの摂理が働いているのでしょうか。


いいえ、種のグループ全体に働いています。埋め合わせの摂理によって、地上で受けた苦痛がグループ・スピリット全体の進化を促します。


――グループ全体として扱われるとなると、そのグループの中に虐待された動物とそうでない動物とがいれば摂理の働きに偏りが生じるはずで、その点が理解できません。


それぞれのグループは似たような体験をした動物で構成されています。


――ということは、虐待されたグループとそうでないグループがあるということでしょうか。


さまざまな部分からグループ全体が構成されています。それはちょうど、あなた方の身体がさまざまな形態の細胞が集まって全体を構成しているのと同じことです。


――下等動物がなぜ存在するのか、またそれが創造されながら自然淘汰されていくという現実は、宇宙が神の愛によって経綸されているという事実と、どう辻褄(つじつま)を合わせたらよいのでしょうか。


人間には自由意志が与えられています。大霊から授かった力を駆使し、正しいことと間違ったことを判断する叡智を働かせるなら、地上界を“エデンの園”にすることができるのです。それを怠り、地上界をゴミやホコリで汚しておいて、人間が招いた悪い結果をどうして大霊に押しつけることができるのでしょうか。


――創造進化の大業が殺戮(さつりく)の血に染められてきたという事実のどこに、神の善意と愛のしるしが見いだせるのでしょうか。


なぜそのように小さな一部分を見るだけで、全体を見ようとしないのでしょうか。創造進化があるという事実そのものが、神の愛のしるしと言えるのではないでしょうか。あなたは、そういう考えに思い至ったことはありませんか。低い次元から高い次元へと進化するという事実は、摂理の背後に「愛の力」があるということの証拠ではないでしょうか。


――なぜ神は、地震や火山の噴火などの発生を許すのでしょうか。


そのように「なぜ神は……」という問いを発するとき、あなた方は大自然の法則の働きに疑念を抱いているのだということを忘れないでください。私は、法則というものが存在すること、そしてその法則に関わる私の体験をお教えしようとしているだけです。地震というのは物質界の進化における浄化作用の一つです。物質界はまだ進化の完成段階にまで達していないのです。


――その場合、地震によって亡くなった何の罪もない多くの人々は、地球の進化の犠牲者ということになります。それで公正と言えるでしょうか。


死者になることが悲劇であるかのようなご意見ですが、私はそのようには考えません。私に言わせれば、死は魂が自由を獲得するための素晴らしい時なのです。


――地震で亡くなった人々はすべて、それが他界する時期だったということでしょうか。


はい、そうです。ただ、そうした形で死を迎えたことについては、前世での所業(カルマ)が絡んでいます。


――我々より霊的に進化している、あるいは劣っている人間的存在が住んでいる天体がありますか。


ありますとも! あなた方より進化している人間的存在の住む天体はたくさんあります。地球と呼ばれている惑星は、この大宇宙に存在する無数の惑星の一つにすぎません。しかも、地球より劣っている天体は一つあるだけです。


――よくあることですが、重要だと思う一連の仕事を進めようとすると、しつこく邪魔が入ることがあります。それはなぜでしょうか。


価値のあること、成し遂げるに値することほど大きな困難がともなうものです。それを達成する道は楽ではありません。困難があり、妨害があり、邪魔が入るものです。

そうしたことは人間形成の一環なのです。困難や障害にどう対処するかによって、あなた方の魂の成長が決まります。何の困難もなしに、魂に内在する最高のものを顕現させられるとしたら、それは価値あるものとは言えません。

ですから、とにかく挫(くじ)けないことです。潜在する力を活用しても克服できないほどの大きな困難や障害は絶対に生じません。他人が故意に与える困難も、内在する力を発揮して立ち向かえば必ず消滅します。あなた方は地上生活において、自分の力のほんの一部しか発揮していないことがお分かりになっていません。


――今なお数えきれないほど多くの新生児が生まれてすぐに、あるいはその後に、間引きの慣習とか、その他もろもろの原因によって死んでいます。そうした子供たちが生まれてくることには、いったいどういう意味があるのでしょうか。


物的なものさしで判断するかぎり、永遠の摂理は理解できないでしょう。地上のいかなる賢者といえども、地上的知識を超えたことは分かりません。霊的叡智の光が見える段階まで進化すれば大霊の計画に納得がいくでしょうが、現段階では地上のいかなる覚者もガラス越しにぼんやりと見ているだけで、まだ理解してはいません。

皆さんがある人の人生を評価するのに、その人の学生時代だけを見て、卒業後のもっと長い人生を無視して判断するようなことはないでしょう。あなた方には、今生きている地上よりもはるかに素晴らしい生活が待ち受けているのです。美と色彩にあふれた世界です。愛の世界、真摯(しんし)な願いが成就される世界、地上では叶えられなかったことが実現する世界です。そうした世界をご覧になるまでは、大霊を批判するようなことを言ってはなりません。


――あなたが指導を仰いでおられる高級霊たちは、時にはこの交霊会を訪れることがあるのでしょうか。


いいえ、そうしたことはありません。高級霊たちは皆、強い絆で結ばれています。この霊媒(バーバネル)は私とあなた方とをつなぎ、私はあなた方と私よりも高い霊たちとをつないでいます。彼らはこの私と、さらなる高級霊たちとをつないでいるのです。それが霊の世界の深奥(しんおう)へ向かって、私の目の届かないところまで延々とつながっているのです。


――私たちは、いつかその最高の次元まで到達するようになるのでしょうか。


最高の次元まで到達するということはありません。こうしたことは、あなた方にはまだ理解できません。あなた方は地上では、魂のほんの一部分を顕現させることしかできません。魂の全部を顕現させようとしても、まだその準備ができていないのです。

私は霊界の奥深くへ戻るほど、本来の私をより多く発揮するようになります。それで私は年に二回、クリスマスとイースターに本来の所属界へ帰り、真の自我を取り戻すのです。


訳注――スピリチュアリズムまたはスピリティズムの名のもとに霊的真理の普及に携わっている霊団の連絡網は地球規模で構成されていて、その指導霊たちがクリスマスとイースターに一堂に会し、計画の進捗状況の報告と次の計画の指示を仰ぐ。その最高責任者が地上で「ナザレのイエス」と呼ばれた霊で、モーゼスの『霊訓』のインペレーター霊も同じことを述べている。


あなた方は皆、霊的進化の道を歩んでいる大霊の子供です。あなた方は愛する人との死別を悲しみますが、他界した人たちはこちらの世界で、地上時代よりもいっそう自我を発現するようになっていることを忘れてはいけません。


――それにしても、なぜ早いうちに死んでしまう子供たちがいるのでしょうか。地上で学ぶべきものを学べないように思えるのですが……。


早死にする子供たちは、(前世で)何か摂理に反したことをしているのです。それを償うには、そうした厳しい体験を通して大霊の戒めを学ぶしかないのです。

もしもその戒めが簡単に学べるとしたら、人類は自分自身を必死になって救おうとはしなくなるでしょう。そうしたら何世代も経ないうちに、大霊の意思はこの地上に顕現しなくなってしまいます。

苦悶(くもん)と病苦と悲哀を体験した人間は、他人の苦しみに心を配る、大きな魂へと成長するようになります。やりたい放題の人生を送り、はかない幻(まぼろし)を追い求めている魂は、いつかは真実に直面しなければならなくなります。安楽な日々を送っている人を見て羨(うらや)ましがることはありません。その行く先には過酷な人生が待ち受けているのです。

地上界にあっても霊界にあっても人間は、ありとあらゆる体験を積まなければならないようになっています。いかなる体験にも必ず学ぶべき教訓があります。あらゆる体験を乗り越えて初めて本当の自我を確立し、魂の内奥(ないおう)の完全性に至ることが許されるようになるのです。

それは確かに難しいことです。難しくないはずがありません。簡単に聖人や殉教者になれるでしょうか。簡単に宗教指導者や社会革命家になれるでしょうか。簡単になれるはずがありません。自己の責任から逃れようとするような人間に、人を導く資格はありません。


シルバーバーチ

Saturday, November 30, 2024

シアトルの晩秋 光沢のない王冠

crown with no luster



光沢のない王冠  
一九一九年二月二十日  木曜日


 やがて青色のマトンが気化するごとくに大気の中へ融け入ってしまいました。見ると主は相変わらず玉座の中に座しておられましたが、装束が変わっていました。

両肩には同じ青色をしたケープ(外衣)を掛けておられ、それが両わきまで下り、その内側には黄金の長下着を付けておられるのが見えました。

座しておられるためにそれが膝の下まで垂れていました。それが黄金色の混った緑色の幅の広いベルトで締められており、縁どりはルビー色でした。

冠帯は相変わらず頭部に付いていましたが、その内側には一群の星がきらめいて、それが主のまわりにさまざまな色彩を漂わせておりました。

主は右手に光沢のない白い王冠を持っておられます。主のまわりにあるもので光沢のないものとしては、それが唯一のものでした。それだけに一層吾々の目につくのでした。

 やがて主が腰をお上げになり、その王冠をすぐ前のあがり段に置かれ、吾々の方へ向いてお立ちになりました。それから次のようなお言葉を述べられました。

 「そなたたちはたった今、私の王国の中をのぞかれ、これより先のことをご覧になられた。が、そなたたちのごとくその内部の美しさを見ることを得ぬ者もいることを忘れてはならぬ。かの飛地にいる者たちは私のことを朧(おぼ)ろげにしか思うことができぬ。

まだ十分に意識が目覚めていないからである。ラメルよ、この者たちにこの遠く離れた者たちの現在の身の上と来るべき宿命について聞かせてあげよ」


 すると、あがり段の両わきで静かに待機していた天使群の中のお一人が玉座のあがり段の一ばん下に立たれた。白装束をまとい、左肩から腰部へかけて銀のたすきを掛けておられました。

その方が主にうながされて語られたのですが、そのお声は一つの音声ではなく無数の和音(コード)でできているような響きがありました。

共鳴度が高く、まわりの空中に鳴り響き、上空高くあがって一つひとつの音がゴースの弦に触れて反響しているみたいでした。一つ又一つと空中の弦が音を響かせていき、やがて、あたかも無数のハーブがハーモニーを奏でるかの如くに、虚空全体が妙(たえ)なる震動に満ちるのでした。

 その震動の中にあって、この方のお言葉は少しも鮮明度が失われず、ますます調子を上げ、描写性が増し、その意味する事柄の本性との一体性を増し、ますます具体性と実質性に富み、あたかも無地のキャンパスに黒の絵の具で描きそれに色彩を加えるような感じでした。

したがってその言葉に生命がこもっており、ただの音声だけではありませんでした。

 こう語られたのです──

 「主の顕現がはるか彼方の栄光の境涯にのみ行われているかに思えたとて、それは一向にかまわぬこと。主は同時にここにも坐(ま)します。われらは主の子孫。主の生命の中に生きるものなればなり。

 われらがその光乏しき土地の者にとりて主がわれらに対するが如く懸け離れて見えたとて、それもかまわぬこと。彼らはわれらの同胞であり、われらも彼らの同胞なればなり。

 彼らが生命の在(あ)り処(か)を知らぬとて──それにより生きて、しかも道を見失ったとて、いささかもかまわぬこと。手探りでそれを求め、やっとその一かけらを手にする。しかし少なくともそのことにおいて彼らの努力は正しく、分からぬながらもわれらの方へ向けて両手を差しのべる。

 それでも暗闇の中で彼らは転び、あるいは脇道へと迷い込む。向上の道が妨げられる。その中にあって少しでも先の見える者は何も見えずに迷える者が再び戻ってくるのを待ち、ゆっくりとした足取りで、しかし一団となりて、共に進む。

 その道程がいかに長かろうと、それは一向にかまわぬこと。われらも彼らの到着を待ち、相互愛の中に大いなる祝福を得、互いに与え与えられつつ、手を取り合って向上しようぞ。

 途中にて躓(つまず)こうと、われらへ向けて歩を進める彼らを待たん。あくまでも待ち続けん。あるいはわれらがキリストがかの昔、栄光の装束を脱ぎ棄てられ、みすぼらしく粗末な衣服をまとわれて、迷える子羊を求めて降りられ、地上に慰めの真理をもたらされたごとくに、われらも下界へ赴きて彼らを手引きしようぞ。

 主をしてそうなさしめた力が最高界の力であったことは驚異なり。われらのこの宇宙よりさらに大なる規模の宇宙に舞う存在とて、謙虚なるその神の子に敬意を表し深く頭を垂れ給うた。

なんとなれば、すでに叡智に富める彼らですら、宇宙を創造させる力が愛に他ならぬこと──全宇宙が愛に満ち愛によりて構成されていることを改めて、また一だんと深く、思い知らされることになったゆえである。

 ゆえに、神がすべてを超越した存在であっても一向にかまわぬこと。われらにはその子キリストが坐(ま)しませばなり。

 われらよりはるかに下界に神の子羊がいても一向にかまわぬこと。キリストはその子羊のもとにも赴かれたるなり。

 彼らがたとえ手足は弱く視力はおぼろげであろうと一向にかまわぬ。キリストが彼らの力であり、道を大きく誤ることなく、あるいはまた完全に道を見失うことのなきよう、キリストが彼らの灯火(ランプ)となることであろう。

 また、たとえ今はわれらが有難くも知ることを得たより高き光明界の存在を彼らが知らずとも、いつの日かわれらと共によろこびを分かち、われらも彼らとよろこびを分かつ日が到来しよう──いつの日かきっと。

 が、はたしてわれらのうちの誰が、このたびの戦いのために差し向けられる力を背に、かの冠を引き受けるのであろう。自らの頭に置くことを申し出る者はどなたであろうか。それは光沢を欠き肩に重くのしかかることを覚悟せねばならぬが。

 信念強固にして一途なる者はここに立ち、その冠を受け取るがよい。
 今こそ光沢を欠くが、それは一向にかまわぬこと。いずれ大事業の完遂の暁には、内に秘められた光により燦然と輝くことであろう」

 語り終ると一場を沈黙が支配しました。ただ音楽のみが、いかにも自ら志願する者が出るまで終わるのを渋るが如くに、物欲しげに優しく吾々のまわりに漂い続けるのでした。

 その時です。誰一人として進み出てその大事業を買って出る者がいないとみて、キリスト自らが階段を下りてその冠を取り上げ、自らの頭に置かれたのです。

それは深く眉のすぐ上まで被さりました。それほど重いということを示しておりました。そうです、今もその冠はキリストの頭上にあります。しかし、かつて見られなかった光沢が少し見えはじめております。

 そこで主が吾々にこう述べられました──
 「さて友よ、そなたたちの中で私について来てくれる者はいるであろうか」
 その御声に吾々全員が跪(ひざまず)き、主の祝祷を受けたのでした。
     アーネル  ±  

Thursday, November 28, 2024

シアトルの晩秋 物質科学から霊的科学へ

From Material Science to Spiritual Science


物質科学から霊的科学へ
  一九一九年二月二十八日  金曜日
 

 人類が目覚めのおそい永い惰眠を貪(むさぼ)る広大な寝室から出て活発な活動の夜明けへと進み、未来において到達すべき遠い界層をはじめて見つめた時にも、やはり神々による廟議は開かれていたのでした。

その会議の出席者は多分、例のアトランティス大陸の消滅とそれよりずっと後の奮闘の時代──人類の潜在的偉大さの中から新たな要素がこれより先の進化の機構の中で発現していく産みの苦しみを見ていたことでしょう。

後者は同じ高き界層からの働きかけによって物質科学が発達したことです。人間はそれをもって人類が蓄積してきた叡智の最後を飾るものと考えました。

しかし、その程度の物的知識を掻き集めたくらいでおしまいになるものではありません。

大いなる進化は今なお続いているのです。目的成就の都市は地上にあるのではありません。はるか高遠の彼方にあるのです。

人間は今やっと谷を越え、その途中の小川で石ころを拾い集めてきたばかりです。こんどはそれを宝石細工人のもとへ持っていかねばなりません。そういう時期もいずれは到来します。細工人はそれを堂々たる王冠を飾るにふさわしい輝きと美しさにあふれたものに磨き上げてくれることでしょう。しかし細工人はその低き谷間にはいません。

いま人類が登りかけている坂道にもいません。光をいっぱいに受けた温い高地にいるのです。そこには王とその廷臣の住む宮殿があります。しかし王自身は無数の廷臣を引きつれて遥か下界へ降りられ、再び地上をお歩きになっている。ただし、この度はそのお姿は(地上の人間には)見えません。

吾々はそのあとについて歩み、こうした形で貴殿にメッセージを送り、王より命じられた仕事の成就に勤しんでいるところです。


──では、アーネルさん、キリストは今も地上にいらっしゃり、あなたをはじめ大勢の方たちはそのキリストの命令を受けていると理解してよろしいでしょうか。

 キリストからではないとしたら、ほかに誰から受けるのでしょう。今まさに進行中の大変な霊的勢力に目を向けて、判断を誤らぬようにしてください。

地上の科学は勝利に酔い痴れたものの、その後さらに飛躍してみれば、五感の世界だけの科学は根底より崩れ、物的尺度を超えた世界の科学へと突入してしまいました。皮肉にも物的科学万能主義がそこまで駆り立てたのです。

今やしるしと不思議(霊的現象のこと。ヨハネ4・48―訳者)がさまざまな形で語られ、かつてはひそひそ話の中で語られたものが熱弁をもって語られるようになりました。

周囲に目をやってごらんなさい。地上という大海の表面に吾々無数の霊が活発に活動しているその笑顔が映って見えることであろう。声こそ発しなくても確かに聞こえるであろう。姿こそ見えなくても、吾々の指先が水面にさざ波を立てているのが見えるであろう。

人間は吾々の存在が感じ取れないと言う。しかし吾々の存在は常に人間世界をおおい、人間のこしらえるパイ一つ一つに指を突っ込んでは悦に入っております。中のプラムをつまみ取るようなことはしません。

絶対にいたしません。むしろ吾々の味つけによって一段とおいしさを増しているはずです。

 あるとき鋳掛屋(いかけや)がポーチで食事をしたあと、しろめ製の皿をテーブルに置き忘れたまま家に入って寝た。暗くなって一匹の年取ったネコが現われてその皿に残っていた肉を食べた。それからネコはおいしい肉の臭いの残る皿にのって、そこを寝ぐらにしようとした。

しろめの硬さのために寝心地が悪く、皿の中でぐるぐると向きを変えているうちに、その毛で皿はそれまでになくピカピカに光り輝いた。

 翌朝、しろめの皿のことを思い出した鋳掛屋が飛び出してみると、朝日を受けてその皿が黄金のように輝いている。

 「はて、不思議なことがあるもの・・・・・・」彼はつぶやいた。「肉は消えているのに皿は残っている。肉が消えたということは〝盗っ人〟のしわざということになるが、皿が残っていて、その上ピカピカに光っているところをみると、そいつは〝良き友〟に違いない。

しかし待てよ。そうだ。たぶんこういうことだろう──肉は自分が食べてしまっていたんだ。そして星のことかなんか、高尚なことを考えながら一ぱいやっているうちに、自分のジャーキン(皮製の短い上着)で磨いていたんだ」


──この寓話の中のネコがあなたというわけですね?

 そのネコの毛一本ということです。ほんの一本にすぎず、それ以上のものではありません。
アーネル  ±

 訳者注──この寓話の部分はなぜか文法上にも構文上にも乱れが見られ細かい部分が読み取れないので、大体のあらすじの訳に留めておいた。要するに人類は各分野での進歩・発展を誇るが、肝心なことは霊の世界からのインスピレーションによって知らないうちに指導され援助されているということであろう。



  一九一九年二月二十八日  金曜日 

 人類が目覚めのおそい永い惰眠を貪(むさぼ)る広大な寝室から出て活発な活動の夜明けへと進み、未来において到達すべき遠い界層をはじめて見つめた時にも、やはり神々による廟議は開かれていたのでした。

その会議の出席者は多分、例のアトランティス大陸の消滅とそれよりずっと後の奮闘の時代──人類の潜在的偉大さの中から新たな要素がこれより先の進化の機構の中で発現していく産みの苦しみを見ていたことでしょう。

後者は同じ高き界層からの働きかけによって物質科学が発達したことです。人間はそれをもって人類が蓄積してきた叡智の最後を飾るものと考えました。

しかし、その程度の物的知識を掻き集めたくらいでおしまいになるものではありません。

大いなる進化は今なお続いているのです。目的成就の都市は地上にあるのではありません。はるか高遠の彼方にあるのです。

人間は今やっと谷を越え、その途中の小川で石ころを拾い集めてきたばかりです。こんどはそれを宝石細工人のもとへ持っていかねばなりません。そういう時期もいずれは到来します。細工人はそれを堂々たる王冠を飾るにふさわしい輝きと美しさにあふれたものに磨き上げてくれることでしょう。しかし細工人はその低き谷間にはいません。

いま人類が登りかけている坂道にもいません。光をいっぱいに受けた温い高地にいるのです。そこには王とその廷臣の住む宮殿があります。しかし王自身は無数の廷臣を引きつれて遥か下界へ降りられ、再び地上をお歩きになっている。ただし、この度はそのお姿は(地上の人間には)見えません。

吾々はそのあとについて歩み、こうした形で貴殿にメッセージを送り、王より命じられた仕事の成就に勤しんでいるところです。


──では、アーネルさん、キリストは今も地上にいらっしゃり、あなたをはじめ大勢の方たちはそのキリストの命令を受けていると理解してよろしいでしょうか。

 キリストからではないとしたら、ほかに誰から受けるのでしょう。今まさに進行中の大変な霊的勢力に目を向けて、判断を誤らぬようにしてください。

地上の科学は勝利に酔い痴れたものの、その後さらに飛躍してみれば、五感の世界だけの科学は根底より崩れ、物的尺度を超えた世界の科学へと突入してしまいました。皮肉にも物的科学万能主義がそこまで駆り立てたのです。

今やしるしと不思議(霊的現象のこと。ヨハネ4・48―訳者)がさまざまな形で語られ、かつてはひそひそ話の中で語られたものが熱弁をもって語られるようになりました。

周囲に目をやってごらんなさい。地上という大海の表面に吾々無数の霊が活発に活動しているその笑顔が映って見えることであろう。声こそ発しなくても確かに聞こえるであろう。姿こそ見えなくても、吾々の指先が水面にさざ波を立てているのが見えるであろう。

人間は吾々の存在が感じ取れないと言う。しかし吾々の存在は常に人間世界をおおい、人間のこしらえるパイ一つ一つに指を突っ込んでは悦に入っております。中のプラムをつまみ取るようなことはしません。

絶対にいたしません。むしろ吾々の味つけによって一段とおいしさを増しているはずです。

 あるとき鋳掛屋(いかけや)がポーチで食事をしたあと、しろめ製の皿をテーブルに置き忘れたまま家に入って寝た。暗くなって一匹の年取ったネコが現われてその皿に残っていた肉を食べた。それからネコはおいしい肉の臭いの残る皿にのって、そこを寝ぐらにしようとした。

しろめの硬さのために寝心地が悪く、皿の中でぐるぐると向きを変えているうちに、その毛で皿はそれまでになくピカピカに光り輝いた。

 翌朝、しろめの皿のことを思い出した鋳掛屋が飛び出してみると、朝日を受けてその皿が黄金のように輝いている。

 「はて、不思議なことがあるもの・・・・・・」彼はつぶやいた。「肉は消えているのに皿は残っている。肉が消えたということは〝盗っ人〟のしわざということになるが、皿が残っていて、その上ピカピカに光っているところをみると、そいつは〝良き友〟に違いない。

しかし待てよ。そうだ。たぶんこういうことだろう──肉は自分が食べてしまっていたんだ。そして星のことかなんか、高尚なことを考えながら一ぱいやっているうちに、自分のジャーキン(皮製の短い上着)で磨いていたんだ」


──この寓話の中のネコがあなたというわけですね?

 そのネコの毛一本ということです。ほんの一本にすぎず、それ以上のものではありません。
アーネル  ±

 訳者注──この寓話の部分はなぜか文法上にも構文上にも乱れが見られ細かい部分が読み取れないので、大体のあらすじの訳に留めておいた。要するに人類は各分野での進歩・発展を誇るが、肝心なことは霊の世界からのインスピレーションによって知らないうちに指導され援助されているということであろう。