Wednesday, June 17, 2026

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva



五章 死んだあと、どうなるのか  

 (われわれはいつかは肉体を捨てて次の世界へ行く。そこでの生活はどのようなものなのか、何をして過ごすのか、こうした疑問にシルバーバーチが答える)

 こちらには昼も夜もありません。地軸の回転に依存していないからです。太陽の周りを回転しているのではありません。こちらには永遠の光が存在します。したがって地上のような時間というものがありません。

 こちらへ来てからも仕事があります。が、それは自分がやりたいと思う仕事であって、お金を稼ぐためとか家賃を払うためとか衣服や食料を買うためにするのではありません。

 地上で発揮されることのなかった能力や才能や技能を持つ人が次々と霊界へやってまいります。そういう人たちはこちらでそれを存分に発揮して、霊界の住民として全体の豊かさの向上に寄与することができます。

 みんな自分がしたいと思うことにたずさわっております。霊界には無限の種類の楽しみがあります。音楽が好きであれば地上と霊界の名曲を鑑賞することが出来ます。コンサートも開かれております。文学が趣味の人は地上と霊界の名作を読むことが出来ます。絵画に興味のある人も地上と霊界の傑作の全てを鑑賞することができます。

 子供が好きな人は両親に先立ってこちらへ来た子供の世話をすることができます。魂に病のある者に関心を寄せる人は、そうした霊のための更生施設で看護し介抱して霊的健康を取り戻させる仕事にたずさわります。それぞれに応じた無限の種類の仕事があります。その上に更に私のように地上世界のための仕事に従事する者もいます。

 とにかく地上を去ってこちらへお出でになれば、言葉では言い尽くせないほどの豊かさが待ち受けております。たとえば音楽であれば、地上にない音階が存在します。絵画であれば、地上に存在しない色彩があります。そのすべてをお話しすることはとても不可能です。


───霊界へ行っても地上と同じように何らかの形体を具えるのでしょうか。

 幽霊や妖怪になるのではありませんよ。首のないお化けになるのではありませんよ。立派な胴体と、他人と区別のつく容貌を具えた、実在の個的存在です。また他人を認識するための感覚もちゃんと具えております。霊の世界で生きて行く上で必要な霊的器官が全部そろっています。

 ちゃんと姿があります。形体を具えております。個人的存在を有しております。具えていないのは肉体的器官だけで、それに代わって、霊界で機能していく上で必要な霊的器官を具えています。

 よく理解していただきたいのは、あなた方人間にとって物質は固体性があり、実感があり、霊というと何だか影の様で実態がないかに思えるのでしょうが、私たち霊界の者にとっては霊こそ実在であり、実感があり、反対に物質の方が影のようで実体感がないということです。

 と言っても、人間がしゃべるに必要な器具は霊にはありません。しゃべる必要がないからです。こちらの世界では思念で通じ合っています。お互いに思念を出し合い、それだけで通じ合えるのです。霊界では思念は実体のある存在なのです。

存在するものすべてが思念でこしらえられているのです。ですから、必要と思うものはどんなものでも手に入れることが出来るのです。

(訳者注───別のところで、言葉でしゃべる必要があると思い込んでいる間はまだ幽質の発声器官が残っていて実際にしゃべり合っていると述べている。いわゆる地縛霊として地球圏内で自分が死んだことにも気づかずに生活している霊には地上時代に使用した器官がすべて残っていて、同じように食べて飲んで寝るという生活を繰り返しているのが実情である)

 海もあれば山もあり、湖もあり、花も樹木もあり、動物も小鳥もいます。その美しさの中には実際にこちらへ来ないと分からない種類のものがあります。ある程度の霊性に目覚めた者なら、もはや物質界の愉しみ(飲食欲・性欲等)を求めなくなります。仮にいても、それは例外に属します。

 もう一つの霊界の有難い点は、地上のような〝生きるための必需品〟を得るための苦労が要らないことです。食糧品や衣類を買う必要がありません。お金を払ってまでして家を求める必要がありません。全部揃っているのです。


───物的財産というものが無くなれば、貪欲とか権力欲とかも無くなりますか。

 いわゆる幽界でも低級な境涯にはまだ貪欲とか権力欲とかが存在します。忘れてならないのは、死んだ人間は霊的には死ぬ前と全く同じであることです。地上と違って霊界は思念が実在の世界です。心に思うことに実体が伴い実感があるのです。

 私たちから皆さんを見ると、身体は影のように見え、皆さんが心に思っておられることの方が実体があります。このことはなかなか説明が難しいのですが、たとえば皆さんが夢を見ているのと同じだと思えばよろしい。夢の中に現れるものは夢を見ている間は実在です。

もしも永遠に目覚めなかったら夢の世界がその人にとって実在の世界となります。乗る船も飛行機も、訪れる国も、夢の中ではみな実在です。

 こちらの世界では思念が全てのものをこしらえる素材です。ですから心に思うことがみな存在するわけです。貪欲と権力欲を持ったままこちらへやって来れば、それがこちらでは無用のものであることに気づくまで、それを持ち続けます。

そうした地縛的状態から解放される段階まで成長すると、ようやく救われることになります。(これが本当の意味での〝成仏する〟ということ───訳者)

 困ったことに、権力欲や強欲は霊を地上へ縛りつけます。身体的に死んでいますが、同時に霊的にも死んだも同然の状態です。波長が私たちより人間の方に近い状態です。そこで同じ欲に燃えた地上の人間と感応し合って、その欲望を増幅してまいります。


 ───と言うことは、地上をうろつく霊がますます増え、同時にそれが地上問題の解決を難しくしているということでしょうか。

 その通りです。というのは、こちらの世界は地上からの他界者で構成されていることを知らねばなりません。地球からの渡来者しかいないのです(※)。何の用意も身支度も出来ていない未発達霊で適応性のない霊をそちらから送り込んでいる限り、地上と霊界双方の問題を増幅するばかりです。

そこで私たちが地上人類の啓発のためにこうして働いているのです。暴力・貪欲・唯物思想・利己主義・強欲等々、要するに世界各地での戦争と不協和音と分裂の元凶である恐ろしいガンの発生を防ぐためです。

(※同じく〝霊界〟という言い方をしても地球圏の霊界、太陽の霊界、太陽系の霊界、銀河系の霊界、そして宇宙全体の規模の霊界がある。ここでは地球に限っての話である───訳者)


───霊界はこの地球からの他界者で占められているとおっしゃいましたが、その世界は地球を取り巻くように存在しているのでしょうか。それともずっと遠くまで広がっているのでしょうか。霊界も沢山あるのでしょうか。

 神は無限です。生命は無限です。あなた方の小さな天球は宇宙の中の一個のマメ粒のような存在でしかありません。


───地球のような世界がたくさんあって、それぞれに霊界があるということですね?
 
 霊の住む世界は無数に存在します。あなた方はこの宇宙の孤児(みなしご)ではありません。


───となると〝死後の世界〟はどこにあるのかという問いにはどう答えたらよいのでしょうか。明確に答えるのは困難だと思いますが・・・・・・

 死後の世界とは、要するに今生活している世界の目に見えない側面、耳に聞こえない側面のことです。死んでからではなく今の時点で霊の世界に住んでいるのです。死んでからそこへ行くのではありません。今いる場所に霊界があるのです。

その世界の波長ないし振動、その他どう呼ばれても結構ですが、それをキャッチするための霊的感覚を発揮しないかぎり、それが認識できないというに過ぎません。別個の世界ではないのです。宇宙全体を構成する不可欠の側面であり、地球もその小さな一側面にすぎません。


───その見えない世界の存在を認識するために霊的感覚を養成することも、地上に生活しているわれわれの義務と言ってよいでしょうか。

 おっしゃる通りです。物質の世界の裏側に霊的側面があることを認識してはじめて本当の意味で生きていることになります。霊的実在に気づかない限り、悲しいかな、霊的な意味で目と耳と口を塞がれているようなものです。


───霊界から地上へ戻ってくると地上が陰鬱に感じられるとおっしゃいました。するとあなたはどこか別の場所からやってくることになりますが・・・・・・

 自我の表現形態が変わるのです。霊界でのいつもの振動の速度を落とす操作をするのです。地上の低いオクターブをキャッチするために高いオクターブの振動に属する要素を霊界にあずけてこなければなりません。


 (質問者が代わる)

───なぜ霊界と物質界とが存在するのでしょうか。なぜ霊界一つだけではいけないのでしょうか。


 それに対する答えは〝なぜあなた方はお子さんを学校へ通わせるのですか〟という問いに対する答えと同じです。学校を出たあとの生活で直面するさまざまな状況に備えて、勉強させるためです。

物質界へ来るのも同じ理由からです。地上を去ったあとに訪れる生活に備えさせるために、地上生活がさまざまな体験と挑戦の好機を提供してくれます。次の段階に備えるための学習の一過程です。

 物質界、霊界、そして果てしなく広がる宇宙は、あなた方のいう神、私が大霊と呼んでいる絶対的なエネルギーが顕現したものです。宇宙に存在する最高の力です。それは無限です。始まりも終わりもありません。その叡智も無限です。その愛も無限です。その貯蔵庫も無限です。

  大霊の意志の表現である自然法側の働きは絶対です。かつて宇宙間に生じた現象、あるいはこれから生じるであろう現象で、その働きによる配慮が為されていないものは何一つありません。

 人間界の法律は予期せぬ事情が生じて絶えず改正が行われます。しかし自然法則は完璧です。その働きの及ばないものは存在しません。誰一人、何一つ、極大・極小、複雑・単純に関係なく、その働きからはみ出るものはありません。

宇宙間のあらゆる事物、あらゆる環境、あらゆる事情、あらゆる現象が不変・不滅の法則によって規制されているのです。

 私が何よりもまず、その絶対的な大霊に崇敬の念を捧げるのはそのためです。荘厳さと深遠さにおいて、これに勝るものは何一つ、誰一人、存在しないのです。その知性の壮大さは到底地上の言語では表現できません。

 皆さんのどなたよりも永い間顕幽にまたがる生命の旅を続けている私は、今なお、あらゆる存在の次元において働いている自然の摂理の完璧さに驚くことの連続です。

 そこで申し上げますが、宇宙に存在するものは何らかの役目があるからこそ存在しているということです。自然の摂理と調和して生きていれば、健康・幸福・霊的明るさ・精神的特性という形でその恩沢を受けます。それは、内在する神性を発揮していることに他ならないからです。

 あなたは有限の知性で持って無限なるものを理解しようとなさっていることを認識しておくことが大切です。


───あなたはその〝大霊〟と交信なさるのですか。

 あなた方の理解しておられる〝交信〟(コミュニケーション)の意味では〝ノー〟という答えになります。人間が交信するには口でしゃべるか、書くか、とにかく何か道具を使用しなければなりません。

自分の言いたいことを伝えるには言語を使用しなければなりません。しかし言語は有限なものであり、したがって無限なものを表現することはできません。いかなる文章の達人も宇宙の無限性と、そこに存在するもの全てを、言語によって表現することは不可能です。

 霊界では界層が高くなると意志の伝達が心と心との直接的なものとなります。そこで、私が大霊と交信し合うのかとのご質問ですが、交信が言語の使用を意味するのであればノーです。私達は直接的に意志を通じ合うのです。大霊の無限の力にチャンネルを合わせて、できるだけ多くの力を頂戴するように努力するのです。


───あなたたち霊の方が私たち人間より大霊と密接な関係にあるとお考えですか。

 あなた方も同じように大霊と密接な関係にあります。なぜなら大霊はあなた方の内部に存在するからです。大霊の火花が一人ひとりに宿って生命を与えているからこそ生きていられるのです。

 それとも〝密接〟とおっしゃったのは大霊とのより大きな調和、より強い一体関係が得やすいという意味でしょうか。それならば〝イエス〟です。なぜならば霊には無限の可能性と完全性が秘められていて、こちらの方がそれを発揮しやすいからです。しかし地上においても霊界においても、その完全性をすべて発揮できる段階は来ません。


 (質問者が代わる)

───完全性は永遠に達成できない───完全を目指しての絶え間ない努力の連続であるとおっしゃるのですが、それは完全性が二重性の一面だからでしょうか。二重性の原理を超えたところに別の意識の界層ないし状態があるのでしょうか。もしあるとすれば、それは理解を超えたものであるに相違ありません。


 〝完全〟というものは、その本質ゆえに達成できません。〝これで完全です〟という段階、もうこれ以上目指すものがないという段階があるとしたら、ではその先はどうなるのかという問題が生じます。

 完全とは無限に続く過程です。霊の純金を磨き出すために絶え間なく不純なものを取り除いていく過程です。知識と同じです。知れば知るほど、また先に知るべきものが存在することを知ります。

全知識の頂上に到達することは出来ません。意識には無限の次元、レベル、界層があるのです。それが霊の属性の一つであり、無限であるが故に絶え間なく発展して行くことを意味します。

 ところで、あなたは〝二重性〟という言葉を用いておられますが、どういう意味ですか。


───〝対照性の原理〟のことです。

 私のいう〝両極性〟のことですね。無限の知性と叡智によって案出され、ありとあらゆる可能性に配剤した自然法則があります。これには改正とか破棄とかの必要性は絶対に生じません。本質そのものが無限の知性の働きの証なのです。

もうこれでおしまいという限界がない───どこまで行ってもまだその先があるというのは、これは素晴らしいことです。いわゆるニルバーナ───霊的進化のゴールとしての至福の境涯はないということです。


───いわゆる因果律の次元を超えて、現在のわれわれに理解できない別の次元の摂理が存在しますか。

 摂理は無限に存在します。が、いかなる摂理も因果関係を律している総合的摂理の一部です。


───このサークルから離れている時のあなたは、どういうレベルの意識で機能しておられるのでしょうか。

 人間の理解力を超えた境涯へ戻っております。霊の世界では地上的言語を超越し内的直覚を必要とする状態となります。私がこの地上を去って本来の次元の住処に引き返している間は、地上でこうして交信している時には出すことのできない高いレベルの意識を表現しております。それは皆さんに理解していただけるような言語ではまったく用をなさない、霊的実感の世界です。


 (初めてサークルに招待された人が質問した)

───死後の生命の存在を立証しようとすると、いろいろと不可解に思えることが生じてきます。どう証拠立てたらよいか思案しているのですが、存続するというのは一種のエネルギーとしてでしょうか、思念としてでしょうか。それともそれは今のわれわれと同じような、何らかの身体を具えたものなのでしょうか。

 死後の生命とおっしゃいますが、私は時おり地上世界を見渡して、果たして死ぬ前に生命があるのかと、疑わしく思うことさえあります。まったく生きているとは思えない人、あるいは、かりに生きていると言えても、これ以上小さくなれないほどお粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。

 霊界での生活がどのようなものであるかを伝えるのは、とても困難です。なぜかと言えば、私たちは人間のその五感に限られた状態で理解できる範囲を超えた次元で生活しているからです。言語というのは、あなた方の三次元の世界を超えたものを伝えるにはまったく無力です。

 死後の世界の豊かさをお伝えしようにも、それを例えるものが地上には無いので、うまく言い表せないのです。強いて言えば、本来の自我の開発を望む人達の憧憬、夢、願望が叶えられる世界です。発揮されることなく終わった才能が存分に発揮されるのです。

 経済問題がありません。社会問題がありません。人種問題がありません。身体ではなく魂が関心のすべてだからです。魂には白も赤も黄も黒もないのです。

 界層ないしは境涯というものがあり、そこに住む者の進化の程度に応じて段階的な差ができています。あなたが他界後に落ち着く先は、あなたが地上で身に付けた霊的成長に似合った界層であり、それより高いところへは行けません。行きたくても行けません。

また、それより低いところでもありません。行こうと思えば行けますが、何らかの使命を自発的に望む者は別として、好んで行く者はいないでしょう。

 霊的意識が深まるにつれて、自分に無限の可能性があること、完全への道は果てしない道程であることを認識するようになります。と同時に、それまでに犯した自分の過ち、為すべきでありながら怠った義務、他人に及ぼした害悪等が強烈に意識されるようになり、その償いをするための行ないに励むことになります。

 埋め合わせと懲罰の法則があり、行為の一つ一つに例外なく働きます。その法則は完全無欠です。誰一人としてそれから逃れる者はいません。見せかけは剥ぎ取られてしまいます。すべてが知れてしまうのです。と言うことは、正直に生きている人間にとっては何一つ恐れるものはないということです。

 難しい問題が無くなってしまう分けではありません。解決すべき問題は次から次へと生じます。それを解決することによって魂が成長するのです。何の課題もなくなったら、いかなる意味においても〝生きている〟ということにはならなくなります。魂は陽光の中ではなく嵐の中にあってこそ自我を見出すものなのです。

 もしも私があなたの悩みは全部こちらで引き受けてあげますと申し上げたら、それはウソを言っていることになります。私にできることは、問題に正面から対処して克服していく方法をお教えすることです。いかに大きな難題も障害も、霊の力の協力を得れば、人間にとって克服できないものはありません。

 霊は、今の私のように人間の口を借りてしゃべらなくても、いつまでも援助の手を差し伸べることができます。時間と空間という厄介なものがないからです。あなたがいつどこにいても援助できます。その時の条件下で可能なかぎり援助し続けましょう。


───埋め合わせと懲罰があるということは、たとえば立派な行いには褒賞があるということになりますが、そういうことを裁定する神様はどこにいるのでしょうか。

 もしも埋め合わせと懲罰がなかったら、神の公正はどうやって発揮されるのでしょう。罪深い人間が聖者と同じ霊格を具えることがあって良いでしょうか。もちろん、よいはずはありません。いかなることにせよ、良いことをすればそれだけ霊性が向上し、自己中心的なことをすれば、それだけ霊性を損なうのが道理です。

 良きにつけ悪しきにつけ、あなたの霊的命運を定めていくのは、あなた自身です。あなた自身のことに関して最後に責任を負うのはあなた自身です。もしも死の床にあって罪を告白し特別の信仰を受け入れれば立ちどころに罪が赦されて潔白の身になれるとしたら、それはまさにお笑いものであり、茶番劇というべきです。


───最後に責任を負うのは私であるとしても、それは生まれる時に思い通りの才能を選ばせてくれていたならば、の話です。私には選択の余地はありませんでした。

 そう言い切れる根拠はどこにありますか。


───自分でそう自覚しているはずですが・・・・・・
 
 その自覚は本来の自覚の一かけらにすぎません。あなたはこの地上へ誕生するに際して今の意識よりはるかに大きな意識によって、そう決断なさったのです(※)。ですから、それを最大限に活用しないといけません。

 (※別のところで、このことは大半の人間について言えることだが、それは人間にはなかなか得心のいかないことでしょう。とも言っている。インペレーターもそれは高級霊でも同じであると言い、唯一その自覚を取り戻せたのはイエスだけだと言っている───訳者)


───その小さな意識を活用しろということでしょうか。

 いえ、あなたが選んだ地上人生を、です。でもあなたは幸せな方です。一ばん必要とする時に霊的な啓示を受けられたのですから。人生における最大の危機にもしも霊があなたの進むべき道を指示してくれなかったら、現在のあなたはどうなっていたか分かりません。

 あなたは地上のどこのマーケットでも買うことのできない知識を手にされた、本当に恵まれた方です。霊的実在についての知識を手にされたのです。バイブルにも〝汝の信仰に知識を加えよ〟とありますが、私は反対に〝汝の知識に信仰を加えよ〟と申し上げておきます。

(よく指摘される問題として、来世についての通信の食い違いがあることが挙げられる。その点について質されてシルバーバーチがこう語った)


 霊の世界が無辺であること、したがって当然そこに住む者による体験の多様性もまた無限であることを知らなければいけません。霊界の生活には霊的に上下の段階があり、従ってそれぞれに体験の相違というものが生じるわけです。

 あなたと交信している霊は、その時の段階での自分の体験を述べているだけです。その後進歩してもう一つ上の次元の存在の場へ行けば、かつて抱いていた意見を改める可能性があるわけです。

 このように、霊界についてどういう内容のことが伝えられるかは、通信霊の進歩の程度によって違ってくるわけです。ここで忘れてならないのは、地上近くで生活している霊ほど、これから体験することになっている上層界の高度な霊的事実を伝える能力が限られているということです。

 その霊が今生活している界層については何でも入手できます。が、それより高い界層のことは理解出来ませんから、伝えてくることは必然的にその霊にとって明白なことに限られることになります。低い界へ下りることはできますが、高い界へは上がれないのです。

 私から申し上げる忠告はいつも同じです。霊からの通信はことごとく理性で持って判断しなさいということです。常識的に考えてどうしても受け入れ難いものは拒否なさることです。私たちとて絶対に間違いを犯さないわけではありません。

まだまだ完全からは程遠い存在です。完全に到達するには無限の時を要するのです。何度も申し上げているように、それは永遠に続く過程なのです。

 サークルのメンバーの方にも、あるいはご招待した方にも、私は決して〝こうしなさい〟とか〝これを信じなさい〟とかは申しません。独裁的指導者ではないからです。私たちは協力者なのです。

皆さんの愛さえ獲得すれば仕事は成就したも同然であるとの認識のもとに私たちは、真実と叡智と論理と理性と愛を持って皆さんの協力を得なければならないと考えているのです。

 私たちの宗教は真理の宗教です。私たちから提供するのは真理のみです。私たちが真実であると理解した限りの真理、私たちおよび皆さんに啓示された通りの真理です。その表現の仕方は拙劣(せつれつ)かもしれません。なぜなら私たち霊団の者もあなた方と同じ人間味を残している存在であり、過ちも犯しますし、欠点もあるからです。

 しかしこれからも私たちは、人生のすべての基盤となっている永遠にして不変の霊的原理であると信じるものを皆さんに説き続けます。その霊的摂理に忠実に生きているかぎり、絶対に危害はこうむらないことを断言します。

 と言って、地上生活につきものの困難と苦難と面倒なことから逃れることはできません。なぜなら、それは魂の進化にとって必須のものだからです。光明を味わうには暗黒を体験しなくてはなりません。太陽の有難さを知るには雨の日を体験しなくてはなりません。

人生は両極性を体験しなくてはなりません。一方だけでは他方の存在価値が分からず、物質的にも精神的にも霊的にも啓発が得られないからです。

 無限の叡智を具えた大霊はあなた方に理性と言う才能を賦与なさっています。何ごとにもそれを使用することです。たとえ霊界からのものであっても理性が反発を覚えるものは恐れずに拒否なさるがよろしい。


───私は地上はいずれまた戻ってくる学校だと考えているのですが、正しいでしょうか。

 学ぶべき教訓を学ばずに終われば、それは学ぶためにまた戻って来なければならないでしょう。
しかしこれまであなたの人生を振り返ってご覧になれば、万事休すと思われた時に霊の道標(みちしるべ)があなたの進むべき方角を教えてくれていることがお分かりになるはずです。

霊の力はそういう形で働いているのです。あなたは決して一人ぼっちではありません。いつもあなたと血族関係のあった霊だけでなく、血縁とは別の霊的近親関係によって結ばれている霊によっても導かれております。神の子を導くことによって神に奉仕する、その手段として人間を導いているのです。


 (質問者が代わる)

───霊界でピアノを習いたいときはやはり練習が必要なのでしょうか。

 もちろんです。何もしないで身に付くものはありません。霊界には各自の才能に応じて指導してくださる立派な先生が大勢います。地上において経済的理由や社会的環境の為に発揮できなかった才能を持つ新参者は、霊界へ来てから驚くほど素晴らしい機会を与えられることがよくあります。霊界では、なにものにも束縛されることなくそれを最高度に発揮することができます。


───睡眠の必要がないそうですが。休息とか寛ぎの時間はありますか。

 あります。寛ぐ必要を感じたら寛ぎます。


───霊体はどうやって養いそして維持するのでしょうか。

 食べ物によって養う必要のある物質的身体ではありません。


───霊的な栄養はありますか。

 あります。摂取すべき霊的エネルギーがすべて揃っています。霊は無限です。


───こうしたことは無論そちらへ行くまでは理解できないことなのでしょうね。

 その通りです。こちらへお出でになれば、今度は私と同じように、それを地上の人に説明する難しさを知ります。


───ここにいる私が、死後はあなた方と同じ世界へ行くことは疑う余地もなく理解しております。あなたのお陰でその事実に途方もなく大きな意味があることを知りました。その意義を地上にいる間に実現しなければなりません。

また私たち人間には何らかの霊的才能が宿されていて、それを地上において発達させるのが私たちの義務であることも知りました。私たちは地上では大たい以上のように理解するのが精一杯であると考えてよろしいでしょうか。

 非物質的な霊の世界のことを物質界の言語で表現できないのは、あなた方の思考そのもの、あなた方の精神的概念のすべてが、その言語によって規制され、意識がその三次元の地上界だけに縛られているからです。

 五感もそれ自体は素晴らしいものですが、現実にはそれが外界から摂取するものを制限し、また摂取したものの理解を制約しています。

霊覚者は表面の生命活動の裏側にある大きな実在を霊覚によって認識しますが、それを伝えようとすると言語の無力さを痛感します。言語は人間がこしらえたものであり、インスピレーションはその言語を超越したものだからです。


───霊界の各界層間の連絡はどのようにして行うのでしょうか。

 今も申し上げた通り、そうした質問にお答えする上で問題なのは、言語を超越した実在を言葉によって表現しなければならないということです。〝界層〟という用語自体がまず問題です。皆さんは地球の表面のようなところを想像なさるのでしょうが、実際はただの〝状態〟であり、〝段階〟の一つです。

 霊界は段階的に上下の差があります。一つの段階はすぐ上と下の段階と融合してつながっており、それが限りなく続いております。明確な境界線が引かれているわけではありません。地理的な区域というものはないのです。

 ある界からそれより高い界へ一方的に通信を送ることは出来ません。が、高い界から低い界へ向けて通信を送ることはできます。その方法は以心伝心によります。言葉はしゃべりません。音声を発するための物的な器官がないからです。思念対思念による交信です。


 ───すると霊界には思念のプライバシー(秘密)はないわけですか。

 ありません。私たちの世界では何一つ隠すことができません。すべてが知れてしまうからです。だからといって、別に恥ずかしく思うことはありません。地上ではごまかし、ウソをつき、だますことができます。名前を合法的に変えることもできます。が、本性を変えるわけにはまいりません。


(招待客が自分のホームサークルに出てくる霊の中には歴史上の著名な人物の名を名のるのがいることを述べると───)

  私たちの世界では名前は何の意味もありません。地上時代の名声は何の価値もありません。魂の価値は地上時代の肩書ではなく、何を為したかによって自ら裁き、それが現在の個性を形成しているのです。霊界での唯一のパスポートは魂の発達程度です。それが衆目に赤裸々にさらされるのです。

 ごまかすことはできません。ウソをつくこともできません。見せかけも通じません。こちらへ来ると地上時代の仮面が剥ぎ取られ、あるがままの姿が知れてしまいます。魂の霊的発達程度が誰の目にも分かります。

 名声が何になりましょう。子供のオモチャのようなものにすぎません。何の価値もありません。そもそも名声はどうやって得られるかを考えてごらんなさい。お金があるとか世間的に出世したということで名が知れたにすぎません。イエスはそういう名声は一切求めませんでした。先師、聖者、先駆者、改革者と言われる人は名声を求めたでしょうか。

 大切なのはどれだけ人のためになることをしたかであって、その人の名前ではありません。ですから、いわゆる有名人の名前を名のって出る霊には気をつけた方がよろしい。判断の規準は何と名のっているかではなくて、どういう態度でどんなことを説いているかです。

 いつもお願いしているように、もしも私の言っていることにあなた方の知性を侮辱し理性を反発させるようなところがあったら、遠慮なく拒絶なさってください。愛の心で接し真理の核印を押されたものを説きながら、それで皆さんの魂に訴えることが出来なかったら、それは私達霊団の努力は失敗に終わったことを意味します。

(親密な間柄だった親戚の霊がどうしても出てくれないのはどういう事情があってのことかとの質問に対して───)

 自由意志の問題です。地上へ無理に引き戻そうとする強制力は一切働きません。こちらの世界へ来て、例えようもない楽しさと美しさと光輝を少しでも味わった者にとって、地上というところは、戻ってみたいと思うほど魅力ある世界ではありません。

薄暗くて、じめじめして、これほど面白くない雰囲気はありません。こうした世界へ戻ってくるのは大変な犠牲を強いられるのです。


─── テレパシーによって霊との交信ができた場合、それは霊にとって苦痛なのでしょうか。自分の所属界にいるままでは交信できないものでしょうか。

 それは十分可能なことです。私たちとしてはそちらとこちらとがお互いに半分ずつ歩み寄る形で交信できれば有難いのですが、残念ながらそう希望どおりにはまいりません。私たちの方から地球の大気圏、地上的環境、地上界のバイブレーションの中へ下りて行かねばならないのが実情です。

つまり霊的なものを物的なものへ近づけなければならないのです。本当は物的なものを霊的なものへ近づけてほしいのですが・・・・・・


 (質問者が代わる)

───人間が幽体で旅行する話を聞くことがありますが、私にも同じ体験があるみたいです。どういう現象なのでしょうか。

 いたって簡単なことです。幽体が肉体から脱け出て、時には私たちの世界へ、時には地上の遠隔の地まで旅行するのです。実は睡眠中は一人の例外もなく幽体で旅行しております。

一時的に肉体を離れて私たちの世界を訪れ、縁のある人たちと会っているのです。これは死後の環境の変化がショックにならないように、あらかじめ準備させるための神の配慮なのです。

 死の現象(二つの身体をつないでいるコードの切断)をへてこちらの住民となれば (意識の中枢が幽体へ移って)地上時代の睡眠中の体験を思い出し、それから始まる素晴らしい霊界生活への準備が整います。皆さんは毎晩死んでいると言ってもよいのです。


───誰しも夢を見ます。その中で親しい人と会ったことを思い出すことがありますが、本当に会っているのでしょうか、それともただの想像にすぎないのでしょうか。あるいは会いたいという願望がそういう夢となって現れるのでしょうか。

 いえ、実際にその人と会っておられるのです。といって想像力を見くびってはいけません。厄介な面もありますが、豊かな創造性も秘めております。純粋にして最高の形態で発揮された時の想像力は驚異的な働きをします。未開発の能力を花開かせていく創造的な力となります。

 夢のすべてが霊的体験というわけではありません。潜在意識に蓄積した観念の反映にすぎないこともありますし、夜遅く食べた物の反応にすぎないこともあります。


───その違いは分かるものなのでしょうか。

 分かります。食べた物や潜在意識のせいである場合は霊的な効用がありません。実際に霊界の愛する人に会った場合は精神的ならびに霊的な温もり、充足感を覚えます。その違いは明確に分かります。

 もっとも、その違いを見分けるには能力の発達が要請されます。物質的な印象にすぎない場合は肩にずっしりと重たさを感じますが、霊的な体験の場合は蝶に口づけをされたみたいな気分がいたします。


 (質問者が代わる)

─── 霊界では一個の霊が数か所で同時に仕事をすることができると聞いております。これはグループソールの原理と関係したことなのでしょうか。つまり一個のダイヤモンドの複数の相の一つ一つが行うことが、あたかも一つの相が同時に行っているように思えるのでしょうか。

 霊界ではさまざまな霊相を表現することが出来ますが、一個の霊が複数の相を別々の場所で同時に表現することはできません。一度に一つの場所にしか存在できません。

 ただ、地上の人間のように物的条件による距離の制約は受けません。たとえば地上の距離にして何千マイルも離れたところへでも、行きたいと思えば一瞬の間に行くことができます。

 それはダイヤモンドの一側面、つまりグループソールの一個の単位であることとは何の関係もありません。その側面が全体としての進化に寄与するための体験を獲得するために地上へ誕生します。


───その結果ダイヤモンドが全体としてより立派なものとなるわけですね。

 そういうことです。一段と深い霊的覚醒と発展が得られるからです。各側面が地上での体験によって霊性を高めるのです。地球も本質的には霊的進化の場としての存在価値を有しているのです。そうでなかったら存在しないはずです。


───地上で意識しているような時間は無いのでしょうか。

 ありません。地上の時間というのは昼と夜と四季を生じさせている地球の自転と公転によって支配されております。私たちは地球の回転の影響は受けません。したがって昼とか夜とか春夏秋冬の区別がありません。時間は私たちにとっては存在しません。強いて言えば〝永遠の現在〟の中に生きております。


───〝永遠の過去〟でもあるわけですね。

 私たちにとっては過去も未来も、ともに永遠の現在です。皆さんの睡眠中のことをお考えなれば、さほど理解の困難な話ではないと思います。睡眠中は一時的に物的束縛から解放されています。

ですから夢の中ではそういう束縛を受けないで、途方もない距離を行き来できます。いつもの時間の観念が無視されています。永い夢の出来事も数分のうちに起きております。


───この世では時間に縛られているかに思えても、霊界では時間というものが存在しないのですね。

 時間そのものには過去も未来もありません。時間は永遠の現在の中に存在しています。過去と未来はあなたと時間との係わり方一つによって生じているにすぎません。

(別のところで時間を無限に回転する輪にたとえ、今触れているところが現在で、すでに触れたところが過去、これから触れるところが未来ですと言っている──訳者)

 皆さんは三次元の世界に生きておられます。私たちは地軸の回転、つまり昼と夜を生じさせる回転する球体とは無縁です。永遠の光の中で生活しております。これをどう説明すればよいのでしょう。

肉体のような物質的身体がありませんから眠る必要がありません。睡眠を必要とする身体を持っていないのです。休息を必要とする時は、元気が回復するまで休止するだけです。

 私たちの世界は、皆さんには到底想像できないほど豊かで美しい世界です。皆さんの聴覚を超えたオクターブの世界、みなさんの視覚の限界を超えたスペクトルの世界がどうして説明できましょう。どうにもならないほど説明が難しいのですが、それでも実在しているのです。

 物質の世界に生まれて来た以上は物質の法則によって制約を受けざるを得ません。が、皆さんも霊なのです。魂が宿っているのです。それはいかなる物質なものよりも上です。霊が主人であり物質は召使いです。霊は不変の実在であり、物質には永続性はないのです。

 その霊が去ると肉体はもろくも崩れてチリと化します。形体を変えてしまいます。 そして二度と同じ形体には戻りません。一方、真実のあなたである霊は生き生きと輝いた姿を見せております。

心臓だの肝臓だの肺だのによって生かされているのではないのです。肉体に生きるエネルギー、あるいは生命を維持する上で必要なものすべてを供給しているのは霊なのです。
  

Tuesday, June 16, 2026

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva



四章 死ぬということはどういうことか

    死ぬということは霊が肉体から脱皮して姿を現す過程のことです。何一つ怖がる要素はありません。死は有難い解放者です。死は自由をもたらしてくれるのです。

 地上では赤ん坊が生まれると喜びます。ところが、いよいよ地上へ誕生しようとする時こちらでは泣いて別れを惜しむ霊が大勢いるのです。それと同じく、地上で誰かが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を出迎えて喜んでいる人たちがいます。

 死とは地上生活がその目的を果たし、霊がこれから始まる霊的生活が提供してくれる圧倒的な豊かさと美しさとを味わう用意が出来たことを意味します。少なくとも本来はそうあらねばならないのです。

 皆さんにも霊が宿っております。生命を与えている霊的本性です。肉体もお持ちですが、それもその霊によって生命を賦与されてはじめて存在しているのです。霊が最終的に引っ込めば───〝最終的に〟と申し上げるのは、一時的には毎晩のように肉体から引っ込み、朝になると戻ってくるからです──肉体に死が訪れます。生命活動が切れたからです。
 
 霊視能力者が見れば、霊体と肉体とをつないでいるコードが伸びて行きながら、ついにぷっつりと切れるのが分かります。その時に両者は永久に分離します。その分離の瞬間に死が発生します。そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても肉体を生き返らせることはできません。


(訳者注──近似死体験というのがあるが、これは医者が〝ご臨終です〟と宣告しても玉の緒がまだ切断していなかった場合である)

──臓器移植の技術的進歩によって新たな問題が生じております。医師たちは死者の心臓とか腎臓を取り出すために死の瞬間を待ちうけております。問題は〝果たして本当に死んだと言えるか──もう臓器を取り出してもよいか〟という点です。

 臓器移植についてはよく存じております。そして又、その動機が立派な場合があることも承知しております。しかし私としては人体のいかなる部分も他人に移植することに反対であると申し上げます。


──死者はある一定期間そっと安置しておいてあげる必要があると信じている人がいます。それと言うのも、最近では人体を使って実験をするために死体をかっさらうように実験室へ持っていくことがよくあるのです。こうしたことは魂ないし霊にとって害があるのでしょうか。

 それはその死者の霊が霊的事実についての知識があるかどうかによります。もし何の知識もなければ、一時的に害が生じる可能性があります。と言うのは、霊体と肉体とをつないでいるコードが完全に切れた後も、地上での長い間の関係によって相互依存の習性が残っているからです。

 その意味では一般的に言って埋葬または火葬迄に死後三日は間を置いた方がよいでしょう。それから後のことは、どうなさろうと構いません。死体を医学的な研究の材料として提供したければ、それも結構でしょう。そちらで判断なさるべきことです。

 ただ一言いわせていただけば、誰にも生まれるべき時があり死すべき時があります。もしも死すべき時が来ていれば、たとえ臓器移植によってもその肉体を地上へ永らえさせることは出来ません。


──飛行機事故で即死するケースがありますが、その場合は霊的にどういう影響があるのでしょうか。

 今申し上げたこととまったく同じです。霊的事実についての知識がある人は何の影響もありません。知識のない人はそのショックの影響があるのでしょう。が、いずれにせよ、時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。


──偶発事故による死があるとなると再生の事実を受け入れたくなります。

 偶発事故という用語は感心しません。私は因果律の働きしか知らないからです。偶発のように思えることも、ちゃんとした因果律の働きの結果なのです。再生の問題ですが、これは大変複雑な問題で、今ここで十分な説明をする余裕がありません。

(訳者注──原書をお持ちの方のために参考までに付言すれば、本章のここのところまでは Silver Birch Speaks <シルバーバーチは語る>というカセットテープに収められた特別交霊会での〝死〟にまつわる部分が引用されているが、ところどころでリーバ女史が修正している。

内容上は別に問題はないが、この最後の再生に関する部分はカセットのままの方が分かりやすいので、その通りに訳してある。なお他の章にも断片的に同じカセットから引用されているが、カセットをお持ちの方の便宜も考えて、それらをまとめて次の第十一巻で紹介する予定である)

     
 (質問者が代わる)

──私はテレビで The Making of Mankind <人類発達史>を見ておりますが、見ているうちに人類の霊魂の起源のことを考え始めました。その当初において人類の霊魂は何らかの動物の種から発生したのでしょうか。

 いいえ。


──ということは、動物界はわれわれ人類と別個の存在ということでしょうか。

 いいえ。

──では人類の霊魂はどこから発生したのでしょうか。

 何処からも発生しておりません。霊魂に起源はありません。


──これまでずっと私は、人類の霊魂は徐々に進化してきたものと思っておりました。

 そうではありません。進化してきたのは身体の方です。霊は大霊の一部であり、無始無終です。霊は無窮の過去から存在しています。それが人間の身体に宿った時に個別性を具えるのです。霊には始まりも終りもありません。

バイブルにも〝アブラハムが生まれる前から私は存在している〟というイエスの言葉があります(第八巻101頁参照)。霊は常に存在しているのです。霊は人間的形体に宿って初めて個別性を持つことになるのであり、霊ないし魂は常に存在していたのです。(P119参照)

 (質問者が代わる)

 ──霊魂の永遠性についてお伺いしたいことがあります。年輩の霊と若い霊という言い方をする人がいますが、霊が新たにこしらえられることがあるのでしょうか。私たちはどこから来たのでしょうか。すべての霊が再生されたものなのでしょうか。それとも大霊から新しい霊が産み出されてくるのでしょうか。

 霊はこしらえられるものではありません。過去も未来もなく常に存在しております。先ほど〝私はアブラハムが生まれる前から存在している〟というイエスの言葉を引用しました。霊としてはあなたも無始無終に存在しているのです。

霊を新たにこしらえなければならなかったことは一度もありません。無が有になる段階というものはこれまで一度もありません。

 生命の原動力、精髄、活力そのものである霊は、過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生まれるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も人間も、全てそうです。霊は存在の大原動力です。

 母胎に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体がしばらくの間地上で機能するわけです。

 しかし霊は様々な側面を持つことができます。その幾つかが地上に再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることはあり得ます。その意味では〝年輩の霊〟〝若い霊〟と呼べる霊は存在します。しかし〝新しい霊〟というものはこしらえられません。地上での自我の表現機関として新しい身体が提供されるだけです。

 胎児が無事に宿り地上生活のための身体が用意されると、霊は個別的存在として地上へ誕生してきます。霊そのものは別に新しいものではありません。個的形態を具えたというだけです。一個の人物となったというだけです。その男性また女性が成長してやがて地上を離れると、大きい自我の一側面として新しい要素を加えることになります。


──各自に生まれるべき時があれば、同じく死ぬべき時もあることになりますが、帝王切開で生まれた場合はどうなるのでしょうか。決っていた誕生の日時を変えることになりませんか。

 「それは地上へ生まれ出る日時を変えるだけです。母胎に宿って個としての表現を開始した日時を変えることにはなりません。また地上的生命に自ら終止符を打つ自由も与えられておりますが、その時はその時で自動的に報いがあります。


──出産を医師が人為的に早めたりすることがあります。するとその子は定められた時期より早く生まれることになりますが、これは占星学的になにか影響を及ぼしませんか。

 「出生の日時がよくよく気になると見えますね! 地上への誕生に関して唯一大切なことは、いつから自我を表現し始めるかということです。それは受胎した瞬間からであって、生まれ出た時からではありません。占星学については私は何の関心もありません。受胎と共に地上的生命が始まります。受胎なしには地上的生命はありません。


──ブラジルに来られたローマ法王が民衆の貧しさに嘆かれ、一方、家族計画(産児制限)は許されるべきでないことを強調されましたが、その矛盾をどう理解すればよいのでしょうか。

 法王はとても立派な方ですが、宇宙の全知識を貯えられているわけではありません。家族計画は人類自身で解決すべきことですから、これからも続く問題です。ただ、一個の霊が人間界へ誕生することになっている時は、いかなる計画を立てても必ず生まれてきます。


 (質問者が代わる)

──死後の生命なんかほしくないと、本心からそう思っている人がいます。そういう人たちにどう説かれますか。

 地上なんかに二度と生まれたくないと本心から思っている霊がいますよ。しかしそれは、いかんともし難いことなのです。自然の摂理との縁を切ることは出来ません。あなたがどう思うかに関係なく摂理は働きます。開けゆく大自然のパノラマが人間の小さな欲求や願望、あるいは反坑にもお構いなく展開していく姿をご覧になれます。


──と言うことは、私たちは地上へ来たくなくても無理やり来させられるということでしょうか。私はその点は自由な選択が許されると思っていました。

 必ずしも強制されるわけではありません。地上からこちらへ来るのにも自由選択が許されるように、こちらから地上へ行くのにも選択の余地が与えられています。

是非とも為さねばならない仕事があることを自覚して地上へ誕生する霊がいます。行きたくはないけど、どうしてもしなければならない用事があるので止むを得ず誕生する霊もいます。あるいは償わねばならない業(カルマ)があって誕生してくる場合もあります。


──自殺することまで計画されていることがあるというのは本当でしょうか。

 とんでもありません! 計画というのは母胎に宿る以前に霊自身によって立てられるのです。


──自殺行為によって学べる教訓は何一つ無いということでしょうか。

 あるわけがありません! 生命は宇宙の大霊が授けるのです。それを縮める権利は人間にはありません。

──死んで霊界入りした人間は自分が死んだことが自覚できるのでしょうか。

 みんながみんな自覚できるとは限りません。大半の者が自覚できます。が、完全な自覚(悟り)に到達するには相当な時間が掛かります。


──霊界の人たちは何もしてくれないのでしょうか。

 いえ、いろいろと指導しております。本人は気付かなくても陰から手助けしております。霊界はすべてが知れるように組織されております。上層界には高級霊による政庁が組織されており、その中には一度も物質界に誕生したことのない霊(天使)がいます。

その霊達が神の計画推進の任に当たっているのです。大規模な総合計画があって、有意識・無意識の区別なく、あらゆる存在を包摂しております。その宇宙的規模の摂理から外れて存在できるものは何一つありません。


──人間が死ぬと肉親や愛する人たちが出迎えて手引きしてくれるそうですが、それらの霊は他界者と同じ霊格の者ばかりでしょうか。

 そうではありません。なぜなら、その霊たちは死後も霊的に進化しているからです。他界してきた者のレベルに合わせて交信するために、いわば階段を下りてくるのです。霊的成長とは成熟していくことであることを理解しないといけません。

 地上の年齢とは一致しません。では、さっき述べた完全な悟りに到達できるのはどの段階においてかということですが、これはお答えしにくい問題です。と申しますのは、悟りというのは固定した限りあるものではなく、いつまでも成長し続ける状態だからです。

悟りには無限の奥行きがあります。これでおしまいという終点がないのです。深まれば深まるほど、さらにその奥に悟るべきものがあることを自覚するものです。

 それは事実上永遠に続く過程です。段階的に少しずつ理解が深まっていく過程です。無知の状態からいきなり悟りが開かれるという、そういう突然の変化ではありません。段階があり、魂がより高い段階への準備が整うにつれて、少しずつ開けていくのです。


──たとえ生活水準が今より向上したところで不老不死ということは有り得ないのは言うまでもないのですが、もしも完全な生活条件が整ったら百五十歳までは生きられるのではないかと思うのですが・・・・・・

 肉体的年齢と霊的成熟度とを混同してはいけません。大切なのは年齢の数ではなく、肉体を通して一時的に顕現している霊の成長・発展・開発の程度です。

 肉体が地上で永らえる年数を長引かせることは神の計画の中にはありません。リンゴが熟すると木から落ちるように、霊に備えが出来ると肉体が滅びるということでよいのです。ですから、寿命というものは忘れることです。長生きをすること自体は大切ではありません。

 地上生活の一番肝心な目的は、霊が地上を去ったのちの霊界生活をスタートする上で役に立つ生活、教育、体験を積むことです。もし必要な体験を積んでいなければ、それはちょうど学校へ通いながら何の教育も身につけずに卒業して、その後の大人の生活に対応できないのと同じです。


 (永年スピリチュアリズムの仕事に努力した夫に先立たれた女性にシルバーバーチが次のような励ましの言葉を述べた)

 本日あなたをここへお迎えして、苦労と試練の時の力となった基本的な霊的真理の真実性を改めて確認して差し上げることを、とてもうれしく思います。

 地上に籍を置く人間にとって、たとえ死後にも生命があるとの知識を手にしている方でも、身近な者が宇宙の別の次元の世界へ連れて行かれた時に平然としていることは、容易なことではありません。

死という身体上の別離には悲しみが伴うものであるという事実を軽視するのは、愚かでもありましょう。しかし、それはあくまでも身体上の別離であって霊的には少しも別れてはいないことを御認識すべきです。

 地上に生を受けた人間にとって死は避けられません。いつかは地上に別れを告げなければならない時がまいります。それは、もはや地上生活がそれ以上その霊に与えるものが無くなり、完全へ向けての進化の不可欠の要素として、次の冒険へ旅立つ用意が出来たということです。

 その死別という試練に直面した時に自分をどう慰められるかは、各自が考えるべきことです。それが容易でないことは私も理解しております。

 しかし死は愛によって結ばれた者を引き裂くことはできません。愛は、生命と同じく不滅です。また愛は、生命と同じく、条件さえ整えば望み通りのことを叶えさせる強烈な威力を秘めております。もとより、心ひそかに声もなく流される涙もあることでしょう。しかし、うなだれてはいけません。霊の力は決して見捨てません。必ずや援助の手が差し伸べられます。

 悩んではいけません。悩みの念はその援助の通路を塞いでしまいます。あなたはご自分ではそうは思えないかも知れませんが、ある意味でとても幸せな方です。と申しますのは、悲哀のドン底を味わうことによって霊的真理を受け入れる資格を身につけられたからです。

そのドン底から這い上がるのは容易ではありませんでしたが、道は間違いなく啓示されました。今あなたは愛する方が身近な存在として実在していることを確信なさっておられます。

 私はいつも思うのですが、地上の人々、中でも特に霊的知識を手にされた方が背後霊の存在を実感を持って認識してくだされば、どんなに有難いことでしょう。地上の愛する者へ無益な害が及ばないように庇い、守り、導いている霊の姿を一目ご覧になることができれば、と思うのです.

 その影響力の大きさを知ることができたら、明日のことを思い煩うようなことは絶対にしなくなることでしょう。それで私はここに集まる同志の方にいつも申し上げているのですが、新しい一日の訪れを素晴らしい霊的冒険の到来として喜んで迎えることです。

 あなたの人生は、手にされた証拠によって一変しました。そこであなたは今、ご自身が有難く思われた同じ思いを人にも体験させてあげようと、いろいろと努力をなさっておいでです。私は実際にそのご様子を拝見して、良く存じております。

 他人がどう言おうと気になさらぬことです。まったく下らぬことばかり言っております。大切なのはあなたの人生をどう生きられるかです。できるかぎりの最善を尽くして人のために力になってあげることです。

 ご主人は肉体の束縛から解放されました。晩年にイヤな思いをされたあの痛みと不自由はもう二度と味わうことはありません。これからは今なお〝わが家〟とされているあなたの住居での生活の中で、ご自分の死後の存在の事実をあなたに実感させてくれることでしょう。

ですから、気を強くお持ちになり堂々と胸を張って、愛する者を失っても霊的知識があればこれだけ立派に生きて行けるのだという、一つに手本を示していただきたいのです。

 別離といっても身体上のことであり、霊的には別れていないのです。愛によって結ばれた者どうしを引き裂く力は地上にも霊界にも何一つありません。愛は、生命と同じく、死よりも強いのです。愛は、生命と同じく霊に属するものであり、霊は決して滅びないのです。
     

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

 本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック




第25章 探しなさい、そうすれば見出せるでしょう  

 あなた自身を助けなさい、そうすれば天があなたを助けてくれます
一、求めなさい。そうすれば与えられるでしょう。探しなさい、そうすれば見出すことができるでしょう。扉をたたきなさい、そうすればあなたたちのために開くでしょう。求めれば与えられ、探せば見出し、扉をたたけば開くでしょう。

 あなたたちのうちで、パンを求める息子に石を与える人がいるでしょうか。魚を求めるのにヘビを与える人がいるでしょうか。あなたたちのように、悪い者であっても、自分の子どもには善いものを与えることを知っているのであれば、天にいるあなたたちの父は、なおさら、求める者に本当の善きものを与えて下さらないことがあるでしょうか。(マタイ 第七章 7-11)


二、地上の視点から見ると、「求めなさい、そうすれば与えられるでしょう」と言う言葉は、自分自身を助ければ、天があなたを助けてくれます、という言葉と同じ意味を持っています。

これは労働の法の原則であり、また労働からは、それを知力を駆使して行うことで進歩がもたらされるため、最終的には進歩の法の原則であると言えます。

 人類の幼少期には、人間は食物を集めたり、悪天候から身を守ったり、敵から身を守るためだけに知性を使っていました。しかし神は、動物に与えるよりも多くを人間に与えました。

それは、向上しようとする絶え間ない欲求で、その欲求は、人間に自分の置かれた立場を向上させる手段を求めることを促し、結果として人間には、発見や発明、自分たちに不足しているものを与えてくれる科学の完成をもたらすことになります。

探求することによって知性は高まり、道徳は浄化します。肉体の充足は霊の充足をもたらします。こうして人は野蛮人から文明人へと変化していくのです。

しかし、その大半においては、一生の間に個人個人が実現する進歩は、非常に小さいか、ほとんどとらえることのできない程度のものです。では、すでに存在する魂が、再び存在することがないとしたら、人類はどれだけの進歩を遂げることができるというのでしょうか。

もし魂が毎日去って行き、再び戻ってこないのだとしたら、人類は絶えず原始的な要素において進歩を再開することを繰り返し、すべてを学ぶためにすべてをやり直さねばならなくなってしまいます。

一回毎の誕生においてすべての知的な作業を再開しなければならないことになるため、そうであれば地球の初期の頃に比べて、今日の人間が進歩していると考える根拠は存在しなくなります。

反対に、すでに成し遂げた進歩とともに魂が戻って来て、そのつど、さらになにかをより多く獲得していけば、魂は徐々に野蛮な世界から物質的文明、そして道徳的文明へと移り住んでいくことになります。


三、もし神が肉体の労働を人間から免除していたとしたら、人間の四肢は退化していたでしょう。知性の労働を免除していたとしたら、その霊は動物の本能の状態、つまり幼年期の状態で居続けたでしょう。

だからこそ神は労働を必要なものとし、「探せば見出せるでしょう。働き、生産しなさい」と言ったのです。この様にして、あなたは自分が行った労働の恩恵を受け、それを自分の功績とし、行ったことに応じた報酬を受け取ることになるのです。


四、こうした原則があるので、霊たちは、人間から探求という仕事を免除するために人間を助けにやって来ることはありません。すでに完成し、使う準備の整ったものや、発見や発明されたものをそのまま人間にもたらすことによって、人間が拾うために身を屈めたり、考えたりするような苦労をせずに、必要なものを手に入れることができるようにするのではありません。

もしそうであったならば、最も怠惰な者が何の苦労もせずに豊かになり、もっとも無知の者が賢くなり、両者とも自分の行っていないことに対して功労を受けることになってしまいます。そうです、霊たちは人類を労働の法から免除するためにやってくるのではありません。

霊たちは、人類が歩むべき道と、達成しなければならない目標を示すためにだけやってくるのであり、次のように伝えているのです。「歩みなさい、そうすれば到着するでしょう。石につまずくでしょう。

その石を自分の目で確かめ、自分自身で遠のけてください。あなたたちが使いたいのであれば、私たちは必要な力をあなたたちに与えます(→『霊媒の書』第二部 第二十六章 291)。


五、道徳的視点から見れば、これらのイエスの言葉は次のことを意味します。「あなたたちを照らす光を求めれば、道はあなたたちに与えられます。悪に抵抗する力を求めれば、その力を得ることができます。

善霊たちの救援を求めれば、彼らはあなたたちに同伴してくれ、トピアスの天使がそうしたように、あなたたちを指導してくれます。善き忠告を求めれば、決してそれが拒絶されることはないでしょう。私たちの扉をたたけば、あなたたちに扉は開かれます。

しかし、信心、信頼、熱意を持って誠実に願って下さい。傲慢にならず、謙虚であってください。さもなければ、あなたたちは自分たちだけの力とともに見捨てられ、その時の失敗があなたたちの自尊心に対する罰となってしまいます。

 これが「探しなさい、そうすれば見出すことができるでしょう。扉をたたきなさい、そうすればあなたたちのために開くでしょう」と言う言葉の意味です。


 空の鳥を見なさい
六、錆がつき、虫が食い、盗人たちが押し入って盗んだりするこの地上で、あなたたちは宝を蓄えてはいけません。錆がつかず、虫も食わず、また、盗人たちが押し入って盗むこともない天において宝を蓄えなさい。あなたたちの宝のあるところには、あなたたちの心も存在します。

 だから誠に言います。あなたたちの命を支える食糧をどこで手に入れようかと心配したり、身体にまとう衣服をどこで手に入れようかと心配してはなりません。命は食糧に勝り、肉体は衣服に勝るではありませんか。

 空の鳥を見て下さい。種を蒔くことも、収穫をすることも、倉に蓄えることもありません。それでも、あなたたちの天の父は彼らを養って下さっています。あなたたちは、鳥たちよりも、はるかにまさっているではありませんか。

あなたたちのうち、誰がその努力によって身長をわずかでも伸ばすことができるでしょうか。

 また、なぜ衣服のことを心配するのですか。野の百合がどう育っているか見て下さい。働くことも、紡ぐこともありません。しかし、誠に言いますが、ソロモンでさえその栄光の時、百合たちほどに着飾ることはありませんでした。

今日生き、明日には炉に投じられる野の草花を着飾ることに、神がこれほどまでにしてくださるのであれば、あなたたちを着飾るのに、これ以上良くしてくださらないことがあるでしょうか。おお、信仰の薄い者たちよ。

 だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、異邦人たちがこれらすべてのものを探し求めるように、心配してはいけません。あなたたちの父は、あなたたちがこれらのものを必要としていることを知っておられるのです。


 まず、神の国とその正義を求めなさい。そうすれば、こうしたものはすべて、添え与えられるでしょう。だから、明日のことで心配をしてはなりません。明日のことは、明日が面倒を見てくれるからです。一日の苦労は、その日だけで十分です。(マタイ 第六章 ⒚-21,25-34)


七、文字通りに解釈すると、これらの言葉はあらゆる用心、労働を否定するものであり、結果として、進歩することを否定するものになってしまいます。こうした考え方に従ったのでは、人間は受動的に待つばかりとなってしまいます。肉体や知性の力は、活動することなく止まることになってしまいます。

仮に、地上の人間が一般的にそうであったとしたら、人間はもはやその原始的な状態から抜け出すことができず、そのように進歩を否定することが今日のための法であったなら、人間には何もせずに生きること以外残されていないことになってしまいます。

イエスの考えがそうであったはずはなく、さもなければ、他のところで自然そのものの法について述べたことに矛盾することになってしまいます。神は人間を、衣服もすみかも与えることなく創造しましたが、それらを生産する知性を与えたのです(→第十四章 6、第二十五章 2)。


 したがって、これらの言葉の中に、信じる者を決して見捨てることはなくとも、彼らが自分のために働くことを望む神意の、誌的なたとえ以外のものを見出してはなりません。神は何時も物質的な補助をもたらすのではありませんが、困難から抜け出せる手段に出合えるような考えを吹き込んでくれるのです。(→第二十七章 8)。

 神は私たちが必要としているものを知っており、必要に応じてそれを与えてくれます。しかし、人間はその欲求を満たすことがないために、手中にあるもので満足するとは限りません。必要なものだけでは人間は不十分なのです。人間は余分なものを求めます。すると神はその人をそのままにしておきます。

人間はしばしば、注意を促す良心を通じて聞こえた声に従わなかったために、自ら不幸になります。神はそのような苦しみを与えることで、それが未来に向けた教訓となるようにするのです。


八、人間が正義と慈善と隣人愛の法に従って、地球がもたらすあらゆるものを管理することを覚えれば、地球はその住人すべてを養うに足りるだけのものを生産するようになります。

一つの国の違った地方に住む人たち同士のように、地球上に住むすべての人たちの間に兄弟愛が広がるようになれば、一方の一時的な余剰は、もう一方の一時的な不足を補うようになり、それぞれが必要なものを手に入れることになります。

裕福な者は、たくさんの種を持った者にたとえることができます。そのたくさんの種を、自分のためだけでなく他人のためにも蒔けば、自分のためにだけ蒔く時の何百倍も生産することになります。

しかし、もしその収穫物を他人に分け与えることなくすべてを一人で食べ、余ったものを無駄にし、駄目にしてしまうのであれば、たくさんの種を蒔いたことによるメリットは何も生まれず、収穫物がすべての人のために行き亘ることはないでしょう。

それを倉庫にしまってしまえば、虫が食ってしまいます。そこにイエスの言った言葉があります。

「錆がつき、虫が食い、盗人たちが押し入って盗んだりするこの地上で、あなたたちは宝を蓄えてはいけません。錆がつかず、虫も食わず、また、盗人たちが押し入って盗むこともない天において宝を蓄えなさい」。

別の言葉で言うならば、「消滅してしまう物質的なものを永遠にある霊的なものよりも重要視してはいけません。そして前者を後者のために犠牲にすることを覚えなければなりません」ということです(→第十六章 7-15)。

 慈善と兄弟愛は法律に定められてはいません。それぞれが心の中に存在しなければ、エゴイズムが何時もそこを支配することになります。慈善と兄弟愛を心の中に浸透させるのはスピリティズムの役割です。


 金を手に入れることに悩んではいけません
九、「財布の中に金、銀または銭を入れて行ってはなりません。旅に出る時は、袋も、二枚の下着も、靴も、杖も持って行ってはなりません。働き人がその食物を得るのは当然のことなのですから」。(マタイ 第十章 9,10)


十、どの町や村に入っても、誰があなたを泊めてくれるのにふさわしい人かを尋ね、再び出発するまでそこにとどまりなさい。その家に入った時には、このように祈ってあげてください。「この家に平和が宿りますように」。

もしその家がそれにふさわしければ、あなたが祈る平和はその家に来るでしょう。そうでないのであれば、その平和はあなたへ帰ってくるでしょう。

もし誰もあなたを迎えてくれず、あなたの言葉を聞いてもくれないのであれば、その家や町を出る時に、足の埃を払い落としなさい。誠に言います。審判の日には、その町はソドムやゴモラよりも厳しく扱われるでしょう。(マタイ 第十章 11-15)


十一、はじめて福音を伝えに使徒たちを送った当時、イエスが使徒たちに向けたこうした言葉に少しも不思議な内容はありませんでした。それらは、旅人がいつもテントに迎えられた東洋の家父長制の習慣に従うものでした。しかし、その頃は旅人もまれでした。

交通の発達によって、近代の人々には新しい習慣が生まれました。昔の習慣は、遠く離れた、大きな人の動きが到達していない場所にだけ残っています。もしイエスが今日戻ってきたとしたら、もはやその使徒たちに「準備なしに出て行きなさい」ということはできないでしょう。

 これらの言葉は、言葉そのものが表わす意味と同時に、非常に深い道徳的な意味を持っています。それらの言葉を唱えることによって、イエスは使徒たちに神を信じることを教えました。

それに加え、何も携帯しなければ、彼らを迎える人たちの欲を目覚めさせずにすみます。それは利己的な者と慈悲深い者とを区別する手段でした。だからイエスは彼らに、「誰があなたを泊めてくれるのにふさわしい人かを尋ね」と言ったのです。

つまり、「支払う金もない旅人に衣服を与えてくれるほど心温かいのは誰か探しなさい。なぜなら、あなたたちの言葉を聞くべき人とは、そうした人であるからです」。その人が行う慈善によって、そうした人を知ることができるのです。

 また、使徒たちのことを迎えたり、聞きいれたりすることを拒んだ人たちに対して、非難したり、暴力やおどしによって強制的に態度を改めさせることを、果たしてイエスは勧めたでしょうか。いいえ。

ただ単に、その場から去って、善意のある人を求めに行くように教えたのでした。

 スピリティズムは今日、同じことをその信徒に伝えます。「誰の良心も害してはいけません」。誰にたいしても、その信仰を放棄させ、あなたの信仰を受け入れさせようと強要してはなりません。

あなたたちと同じように考えない人を排斥してはなりません。あなたたちのもとへやってくる者を迎え、あなたたちを拒む者たちをそっとしておきなさい。キリストの言葉を覚えておいてください。昔、天は暴力によって支配されていました。今は、慈愛によって支配されるのです(→第四章 ⒑,11)

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva




三章 生きがいある人生を送るには
  
 われわれ一同は神の道具です。神の道具として役立つということは光栄なことです。人の為に役立つことをすることほど立派な宗教的行為はありません。それこそが霊の正貨(コイン)です。人のために自分を役立てることは崇高なことです。

 それは人の生活を豊かにすると同時に自分の生活をも豊かにします。また、この世には自分のことを思ってくれる者はいないと思い込んでいる人々に慰めをもたらします。

 人のために役立っていると思う時、私たちは心の奥に安らぎと静けさと満足感を覚えます。宇宙の絶対的な支配力への全幅の信頼、神へ向けて一歩また一歩近づかんとする努力の支えとなる堅忍不抜さは、人のために尽くしている中でこそ得られるのです。

 目標の頂点は宇宙の大霊すなわち神です。われわれが生活するこの果てしない宇宙を創造し、ありとあらゆる存在に配剤するための摂理を考案した無限の愛と叡智の粋です。

 大霊と離れて何ものも存在しません。大霊が全てなのです。大なるもの、小なるもの、複雑なもの、単純なもの、生命現象のありとあらゆる側面に対して神の配剤があるのです。

霊の働きがあってこそ、すべてが存在できているのです。神の霊がすべてに潜在している以上、神との縁は切ろうにも切ることができないのです。人間がいかなる説を立てようと、神がすべてに宿り給い、したがって神はすべてであり、すべてが神であるという事実は変えることはできません。

 無限なる創造主であり、その愛と叡智によって壮大な宇宙を経綸し、その完全なる知性によって摂理を考案して、壮大といえるほど大きいものから顕微鏡的に小さいものまでの、ありとあらゆる存在を包摂し、その一つ一つに必要な配剤をしてくださっている大霊を超えた存在は、誰一人、何一つありません。

その摂理の作用は完全無欠であり、その支配の外に出られるものはありません。

 小さすぎるからということで無視されたり、見落とされたり、忘れ去られたりすることはありません。それは大霊の一部が生きとし生けるものすべてに宿っているからです。言いかえれば神がその霊性の一部を各自に吹き込んだからこそ存在しているのであり、その霊性が神とわれわれとを結びつけ、また、われわれお互いをつないでいるのです。

 その絆を断ち切ることの出来る力は地上にも死後の世界にも存在しません。その絆があるからこそ、叡智と真理と啓示の無限の貯蔵所を利用することも可能なのです。

 生命力すなわち霊がすべての存在、すべての人間に宿っているのです。その最高の形が他ならぬ人類という存在に見られます。人類の一人一人の中に、永遠に神と結び付け、また人間同士を結びつけている霊性が宿っているのです。その絆こそ万全の宇宙的ネットワークの一環なのです。


 皆さんより永い経験を持つ私達霊団の者も、この果てしない大機構を生み出された神の叡智の見事さに感嘆せずにはいられないことばかりです。

 また私たちの心の視野を常に広げ、自分が何者であり、いかなる存在であるかについての認識を増やし続けてくれる真理と叡智とインスピレーションの絶え間ない流れ、私たちの一人一人に宿る霊の力、わがものとすることができるにも関わらず、霊の豊かさと神と同胞とのつながりについて何も知らずにいる地上の人たちのために活用すべき才能を授かっていることに、私たち霊団の者は改めて感謝の意を表明せずにはいられません。

 大自然の法則は、われわれの一人一人に生命を吹き込んでくださった創造神と常に一体関係にあるように、そして地上世界はおろか霊の世界のいかなる力によってもその絆が断ち切られることが無いように配慮してあるのです。

 さらにその霊の機構を愛の力が導き管理し常に調和を維持して、受け入れる用意のある者が霊力と叡智と真理とインスピレーションとを授かるための手段を用意しております。

 その上われわれ自らが道具となって、地上の人間生活を豊かにし、病める者を癒やし、喪に服する人を慰め、人生に疲れた者に力を与え、道を見失える者に導きを与える、全存在の始源からの崇高な霊力の恩恵をもたらすことができるのです。

 われわれはそのための才能を授かっているのです。それを発達させることによって、われわれが手にした掛けがいのない知識の恩恵にあずかれずにいる不幸な人たちの為に活用することができます。

要するに、この荘厳な霊力の流れる通路として一層磨きをかけ、受け入れる用意のできた人々に惜しみなく恩恵をもたらしてあげられるようになることが、われわれの大切な務めなのです。

 さて、ここで人生体験が霊的に見てどのような意味を持っているかをご説明しましょう。
℘29
地上の人間は、なぜ苦しみがあるのか、病気には何の目的があるのか、なぜ危機、困難、障害といったものに遭遇しなければならないかといった疑問を抱きますが、これらはみなそれに遭遇することによってまず カタルシス(※)を起こさせ、続いてカタリスト(※※)として霊的真理を学ばせる機会を提供してくれる、魂が是非とも体験しなければならない挑戦課題なのです。


(※ 語源的には〝浄化する〟ということで、それが精神医学において、無意識の精神的抑圧を洗い流す作用を意味する。※※ 精神的革命の触媒となるもの───訳者)

 魂は低く落ち込むことが可能であるだけ、それだけ高く向上することもできます。それが両極の原理です。すなわち作用と反作用は相等しいものであると同時に正反対のものであるという法則です。憎しみと愛、光と闇、嵐と静けさ、こうした〝対〟は同じコインの表と裏の関係にあるのです。

 私の好きな諺がバイブルの中にあります。〝信仰に知識を加えよ〟というのですが、私はこれを〝知識を得たら、それに信仰を加味せよ〟と言い変えたいところです。所詮すべての知識を手にすることはできません。あなた方は人の子であり、能力に限界があるからです。

人生の嵐に抵抗し、何が起きようと盤石不動であるためには、その土台として霊的知識を必要としますが、限られた知識ではすべてを網羅(カバー)することは出来ません。その足らざる部分は信仰心で補いなさいと私は言うのです。

 本来の住処である霊界から地上へこうして戻ってきて皆さんの賛同を得るのに私たち霊団が愛と理性に訴えていることを、私は誇りに思っております。有無を言わせず命令することはしません。

ああしてほしいとか、こうしてくれとかの要求もいたしません(※)。あなた方の判断によって自由におやりになられるがよろしい。そして霊の世界から申し上げることがあなた方の理性を納得させることができず反発を覚えさせる時、知性が侮辱される思いをなさる時は、遠慮なく拒絶なさるがよろしい。

(※ この姿勢は頭初からの方針として徹底しており、例えば霊言を公表すべきか否かについてさえバーバネルとスワッハーとの間で意見が対立し激論を闘わせたこともあったのに、シルバーバーチはそのことに一言も口をはさんでいない。

これは霊界の計画だから早く公表するように、といった助言があっても良さそうに思えるのであるが、それすらなく、実際にサイキックニューズ紙に掲載され、やがて霊言集として出版されるまでに十数年の歳月が流れている──訳者)

 私たちとしては皆さんが自発的に望まれた上で協力と忠誠心を捧げて下さるように、皆さんの内部の卑俗なものではなく最高の判断力に訴えなければならないのです。と言って私たちの方からは何もしないというのではありません。

それぞれの活動の分野、日常の仕事において援助を受けていらっしゃることに気づかれる筈です。そしてそれとは別の分野において、人のために役立つことをするように導かれているのです。

 私も私なりに皆さんのお役に立ちたいと願っております。気付いていらっしゃらないかも知れませんが、これまでに味わったことのない精神的ないし霊的な豊かさをきっと手にされることになる生き方にそって導かれていらっしゃいます。

そうした中にあってさえ皆さんの心の中には次々と悩みが生じ疑問を抱かれるのも、地上の人間としては止むを得ないこととして私は理解しております。がしかし、どう理屈をこねたところで、全宇宙の中にあって唯一の実在は〝霊〟であることを改めて申し上げます。

 物質はその本性そのものが束の間の存在であり移ろいやすいものです。物的に顕現している形態そのものには永続性はありません。それが存在を保っているのは霊によって生命を与えられているからです。

原動力は霊なのです。霊こそがあなたを、そして他の全ての人を地上に生かしめているのです。霊が引っ込めば物質は崩壊します。あなたの身体は元の塵に戻りますが、本当のあなたである霊は永遠の進化の旅を続けます。

 あなた方は霊を携えた身体ではありません。身体を携えた霊なのです。本当のあなたは鏡に映る容姿ではありません。それは霊が地上で自我を表現するための物的な道具、複雑な機械に過ぎません。霊は物質に勝ります。霊が王様であり、物質は召使です。

 こうした事実を追及していくうちに、あなたの視野と焦点の置きどころが変わっていくことに気づかれます。自分がなぜ地上にいるのか、真の自我を発揮するにはどうすべきか、そうしたことを理解し始めます。どういう種類のことであっても結構です。自分の能力を伸ばして他人への援助を啓発の為に活用する───それがあなた方のなすべきことです。

 忘れないでいただきたいのは、皆さんは不完全な世界に生きている不完全な存在だということです。もしも完全であれば神はあなた方を地上へ送らなかったでしょう。その不完全な世界においてあなた方は、持てる才能をいかに活用するかについて、自由な選択権が与えられております。

 地上世界の特異性は対照的、ないしは両極性にあります。美点と徳性を具えたものと、それらを欠いたものとが同じ地上に存在していることです。これは霊界では有り得ないことです。各界が同じ性質の霊で構成されていて、対照的なものが存在しません。

 地上生活の目的は善悪様々な体験を通じて魂が潜在的霊性を発揮して、強くたくましく成長するチャンスを提供することです。それで悪事があり、罪があり、暴力があるわけです。進化は一直線に進むものではありません。スパイラルを描きながら進みます。表面的には美しく見えても、その底はあまり美しくないものがあります。

 私が霊界の界層の話をする時、それは必ずしも丸い天体のことを言っているのではありません(※)。さまざまな発達段階の存在の場のことを指しており、それらが地理的に平面上で仕切られているのではなくて、低いレベルから高いレベルへと、段階的に繋がっているのです。

(※〝必ずしも〟と言っていることから察せられるように、地球と同じ丸い形をした界層も存在する。それがとりもなおさず地縛霊の世界で、地球圏の範囲から抜け出られないまま地上と同じような生活の場を形成している。同じことが各天体についても言えると考えて良い──訳者)

 それが無限に繋がっており、これでおしまいという頂上がないのです。霊性が開発されるにつれて、さらに開発すべきものがあることに気づきます。知識と同じです。知れば知るほど、その先にもっと知るべきものが存在することに気づきます。

 各界層にはほぼ同等の霊的発達段階にある者が集まっております。それより高い界層へ進むにはそれに相応しい霊格を身につけなければなりません。それより低い界層へはいつでも行くことができます。現に私たちは今こうして低い界層の人々を啓発する使命を担って地上へ下りて来ております。

 向上とは不完全さを洗い落とし、完全へ向けて絶え間なく努力して成長していくことです。それには今日一日を大切に生きるということだけでよいのです。毎朝の訪れを性格形成のための無限の可能性を告げるものとして迎えることです。それが自我を開発させ、人生に目的性を持たせることになります。残念ながら今の地上の余りに大勢の人たちが人生に対する目的意識を忘れております。

 神の心をわが心とするように心掛けることです。霊力と一体となるように心がけることです。皆さんの一人一人が神の愛の御手が触れるのを感じ取り、常に守られていることを知り、明日が何をもたらすかを恐れないようにならないといけません。そして人のために自分を役立てる機会をいただいたことを喜ぶことです。

 私たちは大きな戦いに参加しております。小競り合い、大規模な戦争がいくつもありました。が、本当に闘っている相手は貪欲、怨念、利己主義という、地上を蝕んでいる物質中心主義の副産物です。

 そこで私たちは全存在の始源は、無限の創造主から発せられる聖なる霊力であることを実証し、死が言語に絶する素晴らしい霊の世界への扉に過ぎないことをお教えするのです。

 それがあなた方も参加しておられる闘いです。その将校や指揮官は、戦闘のあまりの激しさに退却することがないよう、厳しい試練を受けねばなりません。

 あなた方の進むべき道は、霊界からあなた方を愛している大勢の霊が必ず示してくれます。それは地上で血縁関係にあった者だけではありません。霊的な近親関係にある者もいます。その霊たちがあなた方を使って恵まれない人々のために影響力を行使するのです。

 われわれはみな同じ霊的巡礼の旅を続ける仲間です。神への巡礼の道は無数に存在します。いかなる知識も、それがわれわれの視野の地平線を少しでも広げ、この宇宙についての理解を深める上で役立っていることを感謝いたしましょう。

 知識には責任が伴います。それなりの代価を支払わねばなりません。知識を手にしたということは、それを手にしていない人よりも責任が大きいということです。しかし私たち霊界の者は、私たちの道具として協力してくださる地上の人々を見棄てるようなことは決していたしません。

本当ならここで、あなた方地上の人たちも決して私たちを見捨てませんと言うセリフをお聞きしたいところですが、残念ながらそれは有り得ないことのようです。

 皆さんはご自分で気づいていらっしゃる以上に霊界からいろいろと援助を受けておられます。いずれ地上を去ってこちらへお出でになり、地上でなさったことを総合的に査定なされば、きっと驚かれることでしょう。私たちは魂の成長に関わったことで援助しているのです。それが一ばん大切だからです。


 それに引きかえ、地上の各分野での混乱ぶりはどうでしょうか。宗教は本来の目的を果たせなくなっております。科学者は自分たちの発明・発見が及ぼす被害の大きさを十分に認識しておりません。

唯物思想の袋小路に入り込んでしまった思想家たちは、誰一人救えないどころか自分自身すら救えなくなっております。その点われわれは光栄にも神の道具として大切な仕事を仰せつかり、一人ひとりに託された信頼を自覚しております。

 私たち霊界の者は、縁あって皆さんのもとを訪れる人たちに霊と精神と身体に真実の自由をもたらす崇高な真理を理解させ真の自我を見出させてあげるべく、皆さんを導き、勇気づけ、元気づけ、鼓舞する用意が出来ております。本当の自分を見出すこと、それが人生の究極の目的だからです。

 地上には霊的進歩を計るものさしがありませんから、そうした協力関係の中で皆さんがどれほどの貢献をなさっているかがお分かりになりません。しかし、たった一人の人の悲しみを慰め、たった一人の人の病気を治し、たった一人の人に真の自我に目覚めさせてあげることができたら、それだけであなたの全人生が無駄でなかったことになります。私たちはひたすら〝人のために役立つこと〟を心掛けております。

 不安を抱いたり動転するようなことがあってはなりません。不安は無知の産物です。知識を授かった人は、それによって不安を追い払えるようでなくてはなりません。皆さんは宇宙最大のエネルギー源とのつながりが持てるのです。

これまでに知られた物的世界のいかなるエネルギーよりも壮大です。崇高なエネルギーです。それをあなた方を通して流入させ、恵み深い仕事を遂行することが出来るのです。

 落胆したり悲観的になったりしてはなりません。幸いにして不変の基本的な霊的真理を手にした者は、いかなる事態にあっても霊は物質に勝るとの信念を忘れてはなりません。解決策はきっと見つかります。ただ、必ずしもすぐにとはいきません。

しばらく待たされることがあります。(別のところで、忍耐力と信念を試すためにわざとギリギリのところまで待たせることもする、と述べてる───訳者)

 自分より恵まれない人のための仕事に従事することは光栄この上ないことです。われわれが人のために尽くしている時、われわれみずからも、より高い、進化せる存在による働きかけの恩恵を受けているのです。

自分のことは何一つ望まず、ただひたすらわれわれを鼓舞して、暗闇のあるところには光を、無知のはびこっているところには真理を、窮地に陥っている人には援助をもたらすことに精励しているのです。

 そうした強大な霊団───生きがいのある人生を模索している人のために、われわれを道具として尽力している高級霊───の存在をますます身近に感じることが出来るように努力いたしましょう。 

 その崇高なる霊力がますます多くの人間を通じて地上へ注がれ、恩恵を広め、悲しむ人々を慰め、病の人を癒し、道に迷いもはや解決の手段は無いものと思い込んでいる人々に導きを与えることが出来ているということは、本当に有り難いことです。

 霊力がどこかで効を奏すると、そこに橋頭保が敷設され強化されます。続いて新たな橋頭保の敷設と強化を求めます。かくして次第に霊力が地球を取り囲み、ますます多くの人々がその莫大な恩恵にあずかることになります。

 われわれはこれまでに存在の始源から勿体ないほどの多くの恩恵を授かってまいりました。それによって同志の多くが霊的に豊かになりました。なればこそ、われわれより恵まれない人たちが同じ豊かさと美と栄光を分かち合えるように、われわれの奉仕的精神を一段と堅固に、そして強力にすることができるように神に祈りたいと思います。

 知識がもたらすところの責任も片時も忘れないようにいたしましょう。われわれはもはや、知らなかったでは済まされません。精神的自由と霊的解放をもたらす真理を手にしているからです。

人間の一人一人に神性の一部を植え付けて下さった宇宙の大霊とのより一層の調和を求めて、人のために自分を役立てる機会をますます多く与えて下さるように祈ろうではありませんか。

 そうした生き方の中においてこそ、すべて神が良きにはからって下さるという内的な安らぎ、静寂、悟り、落ち着きを得ることが出来ます。そして無限の創造活動を促進する上でわれわれも役目を担っていることになるのです。


 ───あなたは人類全体が霊において繋がっているとおっしゃっていますが、大半の人間はそのことに気づいておりません。その霊性を発見するためになぜ目覚めなくてはならないのでしょうか。そこのところがよく分かりません。

 
 表面をご覧になって感じられるほど不可解な謎ではありません。理解していただかねばならないのは、人間は肉体を携えた霊であって霊を携えた肉体ではないということです。

物質が存在出来るのは霊による賦活作用があるからであり、その霊は神性の火花として存在のすべて、生命を表現しているあらゆる形態の根源的要素となっているのです。

 改めて申し上げるまでもなく、地上へ誕生してくる目的は各自の魂の成長と開発と発達を促進するような体験を積み、肉体の死後に待ち受ける次の段階の生活に相応しい進化を遂げることです。

 地上は幼稚園であり、霊界は大人の学校です。今この地上においてあなたは教訓を正しく身につけ、精神を培い、霊性を鍛えて、神から頂いた才能を心霊治療その他の分野で人のために使用できるまで発達させることを心掛けるべきです。


 ───この世的なものをなるべく捨てて霊的なものを求める生き方が理想なのでしょうか。それとも出来るだけ多くの地上的体験を積むべきなのでしょうか。

 物質と言うものを霊から切り離して、あたかも水も通さない程に両者が仕切られているかに思ってはいけません。両者には密接な相互関係があります。地上にいる間は、霊が物質を支配していても物質がその支配の程度を規制しております。物質を霊から切り離して考えてはいけません。

 地上生活の目的は、いよいよ霊界へ旅立つ時が来たときに霊に十分な備えが出来ているように、さまざまな体験を積むことです。まずこの地球へ来るのはそのためです。地上はトレーニングセンターのようなものです。霊が死後の生活に対して十分な支度を整えるための学校です。

 あなた方にとってイヤな体験こそ本当はいちばん為になるのですよと繰り返し申し上げるのは、そういう理由からです。魂が目覚めるのは呑気な生活の中ではなく嵐のような生活の中においてこそです。雷鳴が轟き、稲妻が走っている時です。

 酷い目に遭わなくてはいけません。しごかれないといけません。磨かれないといけません。人生の絶頂と同時にドン底も体験しなくてはいけません。地上だからこそ味わえる体験を積まないといけません。かくして霊は一段と威力を増し強化されて、死後に待ち受けている生活への備えが出来るのです。

  
 (ベトナムから訪れた青年が質問する)

───私は余暇を利用して人のために何かしたいと思っているのですが、何をしたらよいか分かりません。何かアドバイスをいただきたいのですが・・・・・・


 距離的にも霊的にも、あなたはずいぶん長い旅をしてこられましたね。しかし今こうしてこの交霊界に出席していらっしゃるという事実が、霊力というものがイザという時に導いてくれることの証明です。

 人のために何かをなさりたいという願望に対しては、いずれそのチャンスが用意されます。ただし、急(せ)いては事を仕損じます。地上の大勢の方々に苦言を呈すれば、長い迷いの末に霊的実在に目覚めた方は、とかく何でもいいから心霊的能力を発揮したいという気持ちに駆られすぎます。

 道はそのうち示されます。導きを祈ることです。あなたもこれまでの人生で、もう少しで人間への信頼を失いそうになるほどの精神的打撃を受けてこられました。しかし信頼を地上の人間にのみに置いてはいけません。神すなわち愛と叡智と知識の権化である大霊が存在します。

 疑念が生じた時は精神を統一して物質界の喧騒から逃れるのです。すると霊的理解が得られます。統一状態が深まれば深まるほど内的な安らぎ、静寂、安心感、決意といったものが深まり、自分にとって最良のものが授けられるとの確信を持つことができるようになります。

 私からお答えできるのはそれだけです。あなたは今素晴らしい御手に抱かれております。決して一人ぼっちにはされません。時がたつにつれて人のために仕事をするチャンスが背後霊によってもたらされてまいります。


 (もう一人の招待客が尋ねる) 


───心霊治療を体験したあと私自身もグループを結成して心霊治療を開始したのですが、その後私だけ独立して一人で治療活動を続けております。人のためになるのであればどういう形でやっても同じと考えてよろしいでしょうか。


 あなたご自身はどうお考えですか。

───私は霊的な観点から言うと同じではないと思います。私なりに出来るだけの努力はしているつもりです。が、次々と難しいことが生じてくると、私の取った態度が霊界側に迷惑をかけたのではなかろうかと思うことがあるのです。

 奉仕は霊の正貨です。奉仕に勝る宗教はありません。人のために自分を役立てることは尊い行為です。あなたの望み通りの分野で仕事ができなくても、人のためになると思うことを、その時その時に行えばよろしい。ドアを押してみてすぐに開けば、その道を行けばよろしい。カギの掛かったドアをしつこく叩いてはいけません。時間とエネルギーの無駄です。

 次々と生じる難問に動じてはいけません。困難は挑戦すべき課題です。困難もなく難問もなく、障害を妨害もないようでは、潜在する能力を発揮するチャンスがないことになります。

 人間は危機に直面して初めて、自分の奥に思いも寄らなかった力があることに気づきます。ふだんはその貯えの表面をひっかいている程度に過ぎません。その潜在力と背後霊の導きをもってすれば、克服できないほど大きな困難はありません。

 私たち霊界の者は地上で仕事をしなければならないのです。したがってその限界というものを弁えております。つまり私たちが使用する道具は人間的煩悩を具えており、もろく、かつ気まぐれです。しかし私たちとしては差し当たって使用出来るもので最善を尽くすしかありません。

 このサークルに来られる人々にいつも申し上げていることですが、信念に迷いが生じた時は、かつて自分がドン底にあった時に立ち返ってみることです。もう絶対に救われる見込みはないと思われた奈落の底にいたのです。そしてその絶体絶命のピンチで道が開かれたのです。これからも道は必ず開けてまいります。

 あなたはあなたなりに最善を尽くしていればよいのです。所詮あなたは完全な存在ではありません。地上においても霊界においても、完全というものは達成できないのです。

完全への道は永遠に続くのです。このことは、このサークルのメンバーの方は耳にタコができるほど聞かされております。しくじってもまた立ち直ることができるのです。

(ここでその質問者はシルビア・バーバネルに向って 「私はあなたがお書きになった When a Child Dies <子供の死後> を読んでいろいろと慰められました。私も娘を二人亡くしているものですから。つい最近も男の子を亡くされた方にお貸ししたばかりです。私と同じように大きな慰めを得てくださればと期待しているところです」と述べると、シルバーバーチがこう述べた)

 パン種が発酵するのです。これからも発酵し続けることでしょう。この大規模な戦いにおいて、われわれは勝ち組の方に属しております。最後は必ず勝利者となります。敗者とはなりません。背後に控える勢力は全宇宙でも最大のものです。

大霊の力なのです。地上で知られているいかなる力よりも強大です。これまでその力が成就してきた数々の驚異をこの目で見てきている私は、その力に全幅の信頼を置いております。私の目には何一つ心配すべき理由は見当たりません。


 (霊的指導者としても人生相談にものっている人が述べる)

 ───自分自身、霊的指導者として恥じない生活をしているだろうかという疑問を抱くことがよくあります。人には自信を持って霊的真理を説きながら自分では時おり、ふと、疑いの念を抱くことがあるのです。

 あなたのお名前はまさかトマス(※)ではないでしょうね。疑ってはなりません。霊的現象をその目でご覧になりその耳で聞くことのできた人は幸いです。すぐ身の回りに存在する驚異的生命の世界をかい間見るという大変な光栄に浴されたのです。

その世界には自分のことは何一つ求めず、寄るべない身の上をかこつ人々の救済のために献身している霊がひしめいているのです。それが私たちの仕事でもあるのです。

(※イエスの弟子の一人で非常に疑い深い性格で、イエスの復活についても実際に手と足のクギ跡を見るまでは信じなかった。八日目にイエスが物質化して出現してトマスにその傷を見せて信じさせた。その時の有名なセリフが〝見ずして信じることの出来る者は幸いである〟───現代人にも通じる名言と言うべきであろう───訳者)

 私には人間のもろさ、疑念や取り越し苦労はよく理解できます。しかし、これまで荘厳と美観と光輝と威力と指導力とを見せ付けてくれた霊力に全幅の信頼を置けば、その霊力は絶対にしくじることがないということを、徐々にではあっても理解していかれることでしょう。

人間の方が私たちを裏切った例はたくさんあります。が、私たちがその人達を裏切ったことは一度もありません。

 くり返しますが、あなた方にはご自分がどれほど貢献していらっしゃるかが推し測れないのです。絶体絶命と思いこんだ魂が本当の自我を見出す上で、あなた方もずいぶん手助けしていらっしゃいます。

 自分がいったい誰なのか、何者なのかが分からず、霊的実在に目も耳も塞がれている無数の人を見るのは悲しいことです。道を見失い、沼地に足を取られ、もがきながら生きております。これだと確信できる道が見出せないのです。

 幸いにしてそれを見出しているわれわれは、その責任の重大さを自覚して、われわれを頼ってくる人々を喜んで迎え、暗闇の中で光明を見出させてあげようではありませんか。

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva



二章 何のために生まれてくるのか

 地上生活の目的は人間の霊性の発現を促すことです。

 地球という天体上に住む人間の一人一人に生きる目的があります。なのに大半の人間がその生活の基盤となっている霊的実在に気づいていないのは悲しいことです。まるで穴居人のように、ガランとした暗がりの中で暮らしております。視角がズレているのです。焦点が狂っているのです。

ビジョンが間違っているのです。人生がもたらしてくれる莫大な豊かさをまったく知らずにいます。霊的真理に気がつけば自分がいま何をしなければならないかを自覚して、そこに人間革命が生じます。

 われわれはみんな人間的存在です。ということは、内部に不完全であるが故の欠点を宿しているということです。もしも完全であれば、あなた方は地上に存在せず私は霊界に存在しないでしょう。宇宙における唯一の完全な存在である大霊に帰一してしまっていることでしょう。

 私には皆さんの人間であるが故の弱点がよく理解できます。しかし、一つ一つの問題を自分への挑戦(チャレンジ)として平然と受け止めると同時に、内部の霊性を強化し、開発し、発展させて霊性を高めるための触媒として、それを克服していかねばなりません。

 地上的環境の中に置かれている以上あなた方は、地上ならではのさまざまな条件が生み出す幸福の絶頂と不幸のドン底、いわゆる人生の浮き沈みというものに直面しないわけにはまいりません。
℘19
 しかし、そこにこそ皆さんが地上に生を受けた意味があるのです。つまりそうしたさまざまな浮き沈みの体験が皆さんの霊、真実の自我に潜在する資質を顕現させることになるのです。困難と逆境とに遭遇してはじめて発揮されるものなのです。
 
 魂が真の自我に目覚めるのは太陽が光り輝いている時ではありません。バラ色の人生の中では霊性は発揮されません。危機、挑戦、困難、障害、妨害の中にあってこそ発揮されるのです。それが魂に潜在する神性を自覚する唯一の触媒を提供してくれるのです。

 これは、霊的叡智を求める求道者のすべてに言えることです。断腸の思い、悲痛、苦痛を体験しないことには、そのあとに訪れる恩寵の有難さが十分に理解できません。人のために役立とうとする人間は試練を覚悟しなければなりません。時には力の限界までしごかれることもあります。

 人間一人一人に神の計画があるのです。偶然の事故、偶然のチャンス、偶然の一致というものはありません。すべてが大自然の摂理によって動いており、そこには奇跡も摂理への干渉も有り得ません。摂理そのものが完璧にできあがっているのです。なぜなら完全な叡智によって生み出されているからです。

 神の法則に例外というものはありません。存在するもののすべて───地上の森羅万象だけでなく、無辺の大宇宙のあらゆるもの───が神の配剤にあずかっているのです。どちらへ目をやっても、そこに神の法則の働きがあります。

小さすぎて見落とされたり、大きすぎて法則のワクからはみ出たりすることは有り得ません。それと同じ法則があなたにも働いているのです。もちろん私にも、そして他のすべての人にも働いております。

 これで、作用と反作用とが正反対のものであると同時に相等しいものであることがお分かりでしょう。幸福の絶頂に至るにはドン底の苦しみを味わわねばならないこともお分かりでしょう。

そして又、皆さんが自分ではドン底を味わったつもりでいても、まだまだ絶頂を極めてはいらっしゃらないこともお分かりでしょう。その証拠に、心の奥のどこかにまだ死後の世界についての疑念をおもちです。


 しかし人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在に不滅ということは有り得ないのです。物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。

大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。

 ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教や信仰や憧れや願いごととは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです。

 そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当たり前なのです。

元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです。

 その無限の宇宙機構の中にあって神の子は、一人の例外もなく必ず何らかの役目があります。そして、それを果たそうとすると、いろいろと困難が生じます。が、それは正面から迎え撃って克服していくべき挑戦と心得るべきです。困難と障害は、霊性を発達させ進化させていく上において必要不可欠の要素なのです。

 地上というところはバイブレーションが重く鈍く不活発で、退屈な世界です。それに引きかえ霊の世界は精妙で繊細で鋭敏です。その霊妙なエネルギーを地上に顕現させるには、各自に触媒となる体験が必要です。

 太陽がさんさんと輝いている時、つまり富と財産に囲まれた生活を送っているようでは霊的真理は見出せません。何一つ難門が無いようでは霊的真理は理解できません。困苦の真っ只中に置かれてはじめて触媒が働くのです。

 霊性の開発には青天よりも嵐の方がためになることがあるものです。鋼が鍛えられるのは火の中においてこそです。黄金が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程を経てこそです。人間の霊性も同じです。何度も何度も鍛えられてはじめて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。

 黄金はそこに存在しているのです。しかしその純金が姿を見せるには原鉱を破砕して磨かねばなりません。鋼は溶鉱炉の中で焼き上げねばなりません。同じことが皆さん方すべてに言えるのです。

 霊に関わるもの、あなたの永遠の財産であり、唯一の不変の実在である霊に関わるものに興味を抱くようになるには、それを受け入れるだけの用意ができなくてはなりません。そこで鋼と同じように試練を受けることが必要となるのです。

 苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何らかの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がりはじめます。それ以外に方法はありません。

光を見出すのは闇の中においてこそです。知識を有難く思うのは無知の不自由を味わってこそです。人生は両極です。相対性といってもよろしい。要するに作用と反作用とが同等であると同時に正反対である状態のことです。

 魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。

絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至ってはじめて魂が目を覚ますのです。

 ですから、私たち霊界の者は魂にその受け入れ準備ができるまで根気よく待つほかないのです。馬を水辺に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない、という諺があります。本人がその気にならなければどうしようもないのです。

 私には皆さんのどなたよりも長い経験があります。そのおかげで、われわれのすべてを包摂し全存在に配剤した自然法則の完璧さについて、皆さんよりも深く理解しております。

 時おり私は地上の同志のもとを訪ねてみることがありますが、霊的知識をたずさえているはずの人が悩み、そして心配しているのを見て、不可解でならないことがあります。霊的知識は、永遠の霊にはいかなる危害も及ばないことを保証する基盤であるはずです。

霊的知識を手にした者は常に光の中に生き、明日を思い煩うことがあってはなりません。

 地上には人間が思い煩う必要のあることは何一つありません。あなたの内部には霊的兵器───非常事態や危機に際して活用できる霊的資質が宿されているのです。その潜在力を呼び起こし、待機している霊に訴えれば、解決できない問題は何一つありません。
   

Monday, June 15, 2026

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch
Edited by Pam Riva



まえがき

 人間は何のために生まれてくるのだろうか。死んだらどうなるのだろうか。もっと幸せで生き甲斐のある生活を送るにはどうすればよいのか。天地万物の背後には知的な〝こころ〟が存在するのだろうか。物的宇宙に、そして人間に、何か〝計画〟というものがあるのだろうか。

 知性の芽生えとともに、人類はこうした謎を追求しつづけてきた。そして今その解答が、かつて同じこの地球で生活し今は一段と次元の高い世界へ進化して行っている人類の先輩霊の一人によってもたらされつつある。

 その霊は人間の無知の暗闇を照らす松明の持ち手としての使命を引き受け、地上で語るための霊媒としてモーリス・バーバネルを選んだ。

 間もなくそのバーバネルを通して語るメッセージに耳を傾ける小さなグループができた。そしてそのうちの一人で〝フリート街の法王〟(英国ジャーナリズム界の御意見番)の異名をもつハンネン・スワッハーの名を冠して〝ハンネン・スワッハー・ホームサークル〟を正式の名称とした。

 そのメンバーのうちの三人は世襲的にはユダヤ教徒であり、さらに三人はキリスト教徒だった。が、シルバーバーチと名のるその霊は 
 「我々が忠誠を捧げるのは一つの教義でもなく、一冊の書物でもなく、一個の教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の大自然の摂理です」
と語るのだった。

 一人の人間が人類全体の命運を左右することは現実に有りうることである。イエスがそうだったし、ヒトラーがそうだった。このモーリス・バーバネルとシルバーバーチという二つの世界にまたがるコンビは、以来、数え切れないほどの人々の人生を変え、悲しむ人には慰めを、絶望の淵に沈む人には希望を与え、今や世界のすみずみまでその愛好者が増えつつある。

 ところで、そのシルバーバーチとはいったい何者であろうか。

 それについては、最も身近かな存在である霊媒のバーバネルも、一九二〇年に始めて入神させられてシルバーバーチのマウスピースとなった時に何も知らなかったことは、間違いない事実である。そしてそれから六十一年後に他界するまで、もしかしたら知っていたかも知れないが、ひとことも口にしていない。

 が、彼はその六十一年の歳月を支配霊シルバーバーチの語るメッセージを世界中に広めることに献身した。他界する当日まで倦むことなく忠実にその使命を全うし続けた。本書には彼による最後の交霊会の霊言が収録されている。

 私はこの霊言集を次の三人の先達に捧げたい。すなわち優れた編集者であり、ジャーナリストであり、作家であり、また実業家としての才も見せた霊媒のモーリス・バーバネル、四十九年間にわたってその地上での良き伴侶であった奥さんのシルビア、そしてサークルのメンバーであり同時に霊言の速記者でもあったフランシス・ムーア女史である。                  パム・リーバ



 一章 シルバーバーチの挨拶

 私たち霊団の者は、一種名状しがたい暗闇に包まれている地上各地において、大々的救済活動に従事しております。霊の光がその暗闇を突き破り、人間が全生命の根源──物質的に精神的に霊的に豊かにする崇高な霊力の恩恵にあずかれるようにしてあげなければならないのです。

 進歩は遅々たるものです。克服しなければならない障害が山ほどあります。が、着実に進展しつつあります。各地に新しい橋頭堡が築かれつつあります。霊力はすでに地上に根づいております。それが、幾百万とも知れぬ人々に恩恵をもたらすことでしょう。

 私をはじめ、私を補佐してくれる霊団の者、そして地上にあって私たちの道具となってくれるあなた方は、この気高い事業に奉仕する栄誉を担っているわけです。それ故にこそわれわれは、双肩に託された信頼をいかなる形にても汚すことのないように心掛ける責任があると言えます。

あなた方は霊力を活用する立場にあります。私も同じです。そして必要とあれば私は、こうして私たちがあなた方のために尽力しているように、あなた方が他人のために自分を役立てるための霊力を、さらに余分に引き出すこともできます。

 これまでに啓示していただいた知識のおかげで、われわれは背後に控える力が地上のいかなる霊力よりも強大であるとの認識によって、常に楽観と希望をもって臨んでおります。敗北意識を抱いたり意気消沈したりする必要はありません。

すべて神の計画どおりに進行しており、今後もそれは変わりません。人間が邪魔することはできます。計画の進展を遅らせることはできます。が、宇宙最高の霊が地球救済のために開始した計画を台なしにしてしまうことはできません。

 われわれが有難く思うべきことは、地上的なものが提供してくれるいかなるものにも優る、物質の領域を超えた、より大きくより美しい生命の世界をかいま見ることを可能にしてくれる霊的知識を手にしていることです。

その世界には、地上に豊かな恩恵をもたらす霊力の道具としての人間を援助し鼓舞し活用することを唯一の望みとしている、進化せる高級霊が存在することをわれわれは、信仰ではなく事実として認識しております。

 その霊力は病気を癒やし、悲しむ人を慰め、道を失った人を導き、無知を知識に置きかえ、暗闇を光明に置きかえ、生きる意欲を失った人には元気を与え、真理に渇いた人の心をうるおし、真の自我を見出そうとする人には神の計画に基づいたガイドラインを提供してあげます。

 援助を求める祈りが聞かれないままで終わるということはありません。人のために何か役立つことをしたいという願いが何の反応もなしに終ることはありません。霊界においては、自分より恵まれない人のために役立てる用意のある地上の人間を援助せんとして万全の態勢を整えております。

ただ単に霊感や啓示を手にすることができるというだけではありません。霊力という具体的なエネルギーの働きかけによって、受け入れる用意のできた魂にふんだんに恩恵がもたらされるのです。
 
 その道具として、内部の神性をより多く発揮すべく、進化と発達と開発のために不断の努力を怠らないというのが、われわれの絶対的な義務です。

 生命に死はありません。墓には生命を終わらせる力はありません。愛にも死はありません。なぜなら愛は死を超えたものだからです。この生命と愛こそ、われわれが所有しかつ利用することのできる大霊の絶対的神性の双子(ツイン)です。それを発達させ開発させることによって、われわれより恵まれない人々のために、他の資質とともに活用することができます。

 今の地上は大霊すなわち宇宙の神よりも富の神マモンを崇拝する者の方が多くなっております。本来ならば人間生活を豊かにする霊的知識を携えた霊的指導者であるべきはずの宗教家がまずもって無知なのです。

霊的真理とは何の関係もない、人間が勝手にこしらえた教義や信条やドグマを信じ、それに束縛されているからです。洞察力に富んでいなければならない立場の人みずからが、悲しいかな、一寸先も見えなくなっているのです。

 そのために、霊の力を地上に顕現させ、生命と愛とが永遠であるとの証拠を提供し、医者に見放された患者を治してあげることによって霊力の有難さを味わわせてあげるためには、いろいろとしなければならないことがあるわけです。

 霊力の機能はそれ以外にもあります。日常の生活において他のすべての策が尽きたと思えた時の支えとなり、指示を与え、導きます。

宇宙機構の中における地上の人生の目的を認識することによって、各自がその本性を身体的に精神的に霊的に発揮できる道を見出し、かくして、たとえわずかな間とはいえ、この地上での旅によって、これ以後にかならず訪れる次のより大きい生命の世界に備えて、大自然の摂理の意図するままに生きられるように導いていきます。

 自分はこれからどうなるだろうかという不安や恐怖を抱く必要はどこにもありません。霊は物質に勝るのです。大霊はいかなる地上の人間よりも強大な存在です。いつかは必ず神の計画どおりになるのです。

 そのためには、あなた方人間の一人ひとりに果たすべき役割があります。いま住んでおられるところを、あなたがそこに存在するということによって明るく豊かにすることができるのです。そのための指針はあなたが霊的に受け入れる用意ができたときに授けられます。

 いったん宇宙の最大の力とのつながりができたからには挫折は有り得ないことをご存知ならば、いつも明るく信念と希望に燃えてください。あなたを愛する霊たちがいつでも援助に参ります。

あなたと地上的な縁によってつながっている霊だけではありません。霊的知識を地上全体に広めるためにあなたを霊的通路として活用せんとしている上層界の霊である場合もあります。

 私からのメッセージはいつも同じです───くよくよせずに元気をお出しなさい、ということです。毎朝が好機の訪れです。自己開発のための好機であると同時に、あなた自身ならびに縁によってあなたのもとを訪れる人々の地上での目的が成就される、その手段を提供してくれる好機の訪れでもあります。


  シルバーバーチの祈り

 私ども一同は、暗黒と無知と迷信と利己主義と暴力、そのほか地上のガンともいうべき恐ろしい害毒を駆逐することによって、神の永遠の創造活動にわれわれならではの役目を果たすことができますよう祈ります。

 私どもの仕事は、そうした害毒に代わって、神の子等が内部にその可能性を宿している燦爛たる光輝を発揮させる崇高な知識を授けることです。

これまでに私どもが授かった恩恵への感謝の表明として、私どもは今後ともその崇高な叡智と霊力の通路たるにふさわしい存在であり続け、恵まれない人々を救い他の人々に救いの手を差しのべ、生き甲斐ある人生の送り方を教える、その影響力の及ぶ範囲を強化し、そしてますます広げていく上で少しでもお役に立ちたいと祈る者です。

 ここに、常に己を役立てることのみを願うインディアンの祈りを捧げます。

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


第24章 灯りを升の下に置いてはいけない 

升の下の灯り。何故イエスはたとえ話で話すのか
一、灯りを灯して、それを升の下に置く者はいません。むしろ、ランプ台の上に置き、家中のものを照らすようにします。(マタイ 第五章 15)


二、灯りを灯した後、それを壺で覆ったり、ベッドの下に置いたりする者はいません。ランプ台の上に置き、入ってくる者が光を見ることができるようにするのです。隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはありません。(ルカ 第八章 16,17)


三、イエスに近づくと、使徒たちは言った、「なぜ彼らにたとえ話で伝えるのですか」。答えて言われた、「なぜなら、あなたたちには天の国の謎が解き明かされましたが、彼らには解き明かされていないからです(→FEB版注1)おおよそ、持つ者により多くを与えれば、より豊かになりますが、持たない者からは、持つものさえも奪われるでしょう。

だから彼らにはたとえ話で伝えるのです。それは彼らが、見えても何も見ず、聞こえても何も聞かず、また理解しないからです。彼らには次のように言ったイザヤの預言が当てはまります。

『あなたたちはその耳で聞くが何も理解せず、その目で見るが何も見えない』。なぜなら、民の心は鈍くなり、耳は聞こえにくくなってしまい、目は閉ざされてしまったからです。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて癒されることがないためです」。(マタイ 第十三章 10-15)


四、たとえ話というベールに隠して、誰にでも理解できるとは限らぬ方法で話したイエス自身が、灯りを升の下に置いてはならないといったのは驚くべきことです。

イエスは使徒たちに次のように言って説明します。「彼らにはたとえ話で伝えます。なぜなら彼らはある種の事柄については理解できる状態にないからです。人々は見て、聞くが理解しません。

だから、今はすべてを伝えることは無益なのです。しかし、これらの謎があなたたちには理解されるので言います」。つまり、イエスは考えの未発達な子どもと対峙するときのように、当時の人々にたいして語りかけたのです。これを理解することで、「灯りを升の下に置いてはなりません。

そうするのではなく、ランプ台の上に置き、入ってくる者誰もが見ることができるようにしなさい」という言葉の本当の意味が見えてきます。この言葉は、なにも考慮せずにすべてのことを示すべきだという意味ではありません。

どんな教えも、指導の対象となる人の知性に合わせて示されるべきです。なぜなら、光が明るすぎると、目がくらんでしまい、啓発されることのない人々もいるからです。

 同じことがある特定の個人にあてはまることもあれば、一般の人々にあてはまることもあります。一つの世代にはその幼少期、青年期、成熟期があります。それぞれの出来事がそれにふさわしいときに起こらなければなりません。季節外れに地上に落ちた種は発芽しません。

しかし、慎重に扱うことによって一時的に隠された内容も、いずれ発見されることになるでしょう。なぜなら、ある程度の発達の度合いに達すると、人類は自ら生きた光を求めることになるからです。

闇は人類にとって負担となるのです。神は人類が地上と天における物事を理解し、その中で進んでいけるように人類に知性を託したため、人はその信仰を理性に照らして合わせることになるのです。

だから灯りを升の下に置いてはならず、なぜなら、理性の光なしには、信仰は衰弱してしまうからです(→第十九章 7)。

    
五、もし神意が、その予見可能な知性によって真理を徐々に啓示していくことにあるのであれば、人類がどのくらいの成熟度に達したかを見極めたうえで、それに見合った真理を知らせることになります。

真理は升の下に置かれるのではなく、将来に向けて温存されるのです。しかし、人類はそうした真理を手に入れると、それを支配してしまおうと、自分が知り得た真理を人々から隠してしまいます。

こうした場合、それはまさに光を升の下に置いていることになるのです。あらゆる宗教にはそうした神秘があり、それを吟味することも禁じられているのです。しかし、そうした宗教が衰退していくのに従って、科学や知性が発達し、秘密のベールを取り除いていきました。

人々は大人になると物事の根底にまで入り込むことを覚え、観察に反する事柄を、その信念によって消去したのです。

 絶対的な謎は存在しえず、人に知られることのない秘密は何もないとイエスの言うことは理にかなっています。隠されたものはいつの日か必ず発見され、人類がいまだに理解できないものは、人類がより浄化した時、進歩した世界において次から次へと明らかにされていくでしょう。ここ地球上では、それらのことがまだ霧中にあるのです。

   
六、「意味が理解されないこれらの多くのたとえ話に、どんな利用価値があるのでしょうか」と聞かれます。しかし、イエスはその教義の、いうならば抽象的な部分についてのみ、たとえ話で表現したことに注目しなければなりません。

救いの基本的な条件を隣人に対する慈善と謙虚さであるとし、これらのことについて言ったことは、少しの曖昧さも残さずにこの上なく明確に示しました。それは行動の規則であり、すべての者がそれを理解し、それに従わなければならなかったために、明確に示す必要があったのです。

「これが天の国を得るために行わなければならないことである」とだけ言ったことが、無知な大勢の人々のために示した本質的な部分であったのです。

その他のことについては、使徒たちにのみその考えを明かしました。彼らが道徳的にも知性的にもより進歩していたため、イエスはより抽象的な真理の知識を伝授することができたのです。その時に言いました。

「すでに持つ者はより多くが与えられ、豊かになるであろう」(→第十八章 15)

 しかし、使徒たちにさえも、多くの点については不明確なままとなり、完全な理解はその後の時代へと持ち越されました。そして、そうした点は、一方で科学が、またもう一方でスピリティズムが自然の新しい法則を明らかにし、その真なる意味が理解されるようになるまで、多様な解釈を生む機会を与えられることになったのです。


七、スピリティズムは今日、多くの不明確な点に光を投じます。しかしむやみに光を投じるのではありません。霊たちは驚くべき慎重さを持って指導を与えます。

教義の中のすでに知られた部分についても、徐々に、しかも継続的に考慮され、その他の部分については、それが明確にされるべき時が訪れるに従って明らかにされるよう残されます。

もし最初から完全な形で示されていたなら、ほんの少数の人々にしかそれに近づくことはできなかったでしょう。それらを受ける準備のない人々はそれに驚いてしまい、その教義の普及には逆効果となってしまうでしょう。

もし、霊たちがいまだにすべてを明らかに伝えていないのであれば、それは教義の中に一部の特権的な者たちだけが知ることのできる謎が存在するからでもなければ、升の下に灯りを置いているからでもありません。

それは一つ一つの事柄が、それを知るのに適した時に現れる必要があるからなのです。

霊たちは一つ一つの考えに対してその後に続く考えを示す前に、機が熟し広まるまで時間を与え、後の続く考えが受け入れるための準備となる出来事がおこることにも時間を与えるのです。


 異邦人たちのところへ行ってはならない
八、イエスはこの十二人をつかわすにあたり、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはなりません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊を探しに行きなさい。そして行った先では、天の国が近づいたことを説きなさい」。(マタイ第十章 5-7)


九、どのような時においても、イエスの目はユダヤの民だけに限って向けられていたのではなく、人類全体に向けられていました。ですから、使徒たちに異教徒のもとへ行ってはいけないと言っているのは、彼らの改宗を軽蔑していたからではないはずです。

さもなければ、それは慈善に反することになってしまいます。ユダヤ人たちはすでに唯一の神を信じ、救世主の出現を待っていたのであり、モーゼの律法や預言者たちによって、使徒たちの言葉を受け入れる準備ができていました。

しかし、異教徒たちにはそうした基礎がなく、行わなければならないことがすべて残されており、使徒たちは異教徒たちに教えを伝える重い任務を果たすほど博学ではなかったのです。だからイエスは次のように言ったのです。

「イスラエルの家の失われた羊を探しに行きなさい」。つまり、すでに教化された土地に種を蒔きに行きなさいということだったのです。イエスは、異邦人の改宗が時とともに進むことを知っていました。後になって使徒たちは、異教の中心部へ十字架を掲げに行ったのです。


十、これらの言葉は、スピリティズムを受け入れ、広めようとする人々にもあてはまります。体系的な不信心者や、それをあざける頑固な者たち、たくらみを持った敵対者たちは、使徒たちにとっての異邦人と同じです。

ゆえに彼らを模範として、第一に、発芽間近な種を持った、光を求める数多くの意欲ある者たちの中に改宗者を探し、見たり聞いたりすることも嫌がるような、自分の改宗に関わる度合いが高くなるほど自尊心によってますます抵抗する人々に、無駄な時間を費やさないようにしなければなりません。

光を求める百人の盲目者の目を開くことの方が、闇にいることを喜ぶ一人の目を開くことよりも価値のあることであり、その方が問題に対する支持者の数を大きな割合で増やすことができるのです。他の者たちをそのままにしておくことは無関心を示すことではなく、より賢明な手段なのです。

その思想が一般の人々の意見として支配するようになった時には、受け入れることを拒んでいた人たちも、その周りにいる人たちから同じことを繰り返し聞かされることになるのです。

そうすれば、彼らは他人からの圧力によってではなく、自らの意志によって、その思想を受け入れることになります。また、種のように扱われるべき思想もあります。

適切な季節が来なければ発芽することができなかったり、前もって準備された土地に蒔かなければ発芽できない種があるため、適切な時期を待ってから種を蒔き、機が熟してから、発芽したものを栽培する方が良く、過度の栽培によって他の発芽を失敗させてしまうことがないようにしなければなりません。

 イエスの時代には、当時、狭い物質的な考え方が支配していたために、すべてが限定された局地的なものでした。イスラエルの国は一つの小さな民族であり、異邦人たちとは、その周辺に存在した別の小さな民族のことを指しました。

今日人々の考えは普遍化され、霊的なものになっています。新しい光は特定の国の特権をなすものではありません。その焦点はあらゆる場所へ向けられており、全人類が兄弟であるために障壁は存在しないのです。

また、異邦人とは特定の民族を指すのではなく、あらゆる場所で出合うさまざまな意見のことを指し、キリスト教が多神教に対して勝利したのと同じように、少しずつ真理が打ち勝っていくことになるのです。それらはもはや武力や戦争によって撃退されるのではなく、思想の強さによって打ち勝っていくのです。


    
 医者を必要としているのは健康な者ではない
十一、イエスがこの者(マタイ)の家で食卓についておられた時、多くの徴税官や罪人たちがやって来て、イエスや使徒たちと同じ食卓についていた。

ファリサイ人たちはそれを見ると使徒たちに言った、「あなたたちの先生はなぜ、徴税官や罪人たちとともに食事をするのですか」。これを聞いてイエスは言われた、「医者を必要としているのは健康な者ではないのです」。(マタイ 第九章 10‐⒓)


十二、イエスは主に貧しい者や資産を持たない者たちに近づきましたが、それは彼らこそが慰安をより必要としている者たちだったからです。イエスに視力を与えてくれるように頼む、信心深く心優しい盲者に近づき、すべての光を有し、なにも必要ではないと考えるうぬぼれ者には近づきませんでした。(→序章 Ⅲ「パブリカン(徴税官)」「関税徴収人」)

この「医者を必要としているのは健康な者ではないのです」という言葉には、その他多くの言葉のように、スピリティズムにもその適用を見つけることができます。

まれに霊媒能力が、それを悪用する可能性のあるような、それにふさわしくない人に授けられていることがあり、驚く人々がいます。そのような貴重な能力は、最もそれにふさわしい人たちに与えられるべきだと言います。

 なによりもまず、霊媒性というものが肉体器官上の性質に付属するもので、どんな人であれ、見たり、聞いたり、話したりする霊媒性を授かることができるということを述べておきます。しかし、人間には自由意志があり、濫用しようと思えばできてしまいます。

たとえば、もし神が、悪い言葉を発言しないような者にしか言葉を与えていなかったとしたら、言葉を話せない人の方が、話せる人の数よりも多くなってしまいます。神は人類に能力を託し、それを利用する自由を与えますが、それを濫用した者は罰せられるのです。

もし霊と通信する能力がそれにふさわしい者たちだけに与えられるのだとすれば、誰があえてそうなることを望むでしょうか。さらには、ふさわしさとそうでないことの境界はどこにあるのでしょうか。

霊媒性は差別なく人々に与えられ、その為に霊たちは貧しい者から裕福な者に至るまで、あらゆる身分や社会階層に光をもたらすことができ、正しく歩む者はさらに善において強くなり、悪癖の多い者はそれを正すことになるのです。この後者が医者を必要とする病人たちではありませんか。

罪人の死を望んでいない神は、その人をぬかるみから引き出すことのできる救済手段をどうして奪うことがあるでしょうか。善霊たちが彼らのもとへ助けにやって来て、直接忠告を与えるのは、間接的に与える場合よりも、より鮮明に印象付けることができるからなのです。

神はその善意によって、人が遠くまで助けを求めに行かなくてもよいように、私たちの手に光を与えます。それを見たくないというのであれば、その責任はその人にあると言えないでしょうか。

自分に対する非難を自分の手で書き、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の口で唱えていながら、光を無駄にすることを自分の無知のせいにすることができるでしょうか。直接与えられた光を有効に利用しないのであれば、託されたその能力を奪われたり、能力が異常となり、罰せられます。

その場合には、悪い霊たちが憑依したり騙そうとしたりして、その能力を利用することになりますが、その苦しみとは、エゴイズムと自尊心によって心の固くなってしまった、神に罰せられた恥ずべき奉仕者が感じる本当の苦しみとはまた別の苦しみとなるのです。

 霊媒性は、必ずしも優秀な霊たちとの習慣的な関わり合いを意味するのではありません。それは一般的に、霊に対しておよそ従順な道具として仕えるための単なる素質に過ぎません。

したがって、よい霊媒とは容易に通信する者のことではなく、善霊たちに同情を引き起こさせる者のことで、善霊たちだけから助けを受ける者のことを指すのです。卓越した道徳性が霊媒能力に万能の影響を与えることができるのは、唯一こうした場合のみなのです。


 信仰の持つ勇気
十三、私のことを人々の前で認める者については、私も天にいる父の前にその者を認めるでしょう。私を人々の前で裏切る者は、私も天にいる父の前でその者を裏切ることになるでしょう。(マタイ 第十章 32,33)


十四、もし誰かが私のことや私の言葉を恥じるのであれば、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる天使の栄光のうちに現れて来る時、その者のことを恥じるでしょう。(ルカ 第九章 26)

   
十五、勇気を持って自分の意見を言うことは、多くの敬意を表されるべきこととして考えられてきました。なぜなら、すべての人々に認められていない考えを恐れを抱かずに公に発表する人は、ほとんどいつも危険や迫害、反発、あるいは単なる皮肉にさらされるからで、それを乗り越えればその功績は讃えられます。

いずれの場合においてもそうであるように、ここでもその功績とはそれを乗り越えた時の状況や、もたらされる結果の重要性に応じています。その考えが引き起こす結果を知る前に、後退したり、それを否定してしまう弱さというものは、いつも存在します。そのような場合、臆病な気持ちが勝り、戦いの途中で逃げ出してしまう場合もあります。

 イエスはその教義にもとづく特別な視点から、こうした臆病さを打ち消すために、イエスの言葉を恥じる者がいれば、その者も恥じられることになるといいました。イエスを裏切る者は裏切られ、人類の前でイエスを認めた者は、天にいる父なる神の前でも認められると言ったのです。

言い換えれば、真実の使徒として自分を認めることに恐れを感じた者は、真実の国において認められるにはふさわしくないのです。支えとする信仰の利益は失われることになります。なぜなら、そうした信仰は、この世で不利益が出ないようにと隠して自分のためだけにしまっておく利己的な信仰となってしまうからです。

一方で、自分の物質的な関心よりも優先させて真実を掲げ、公に宣言する者は、自分自身の未来と他人の未来のために働いていることになります。


十六、スピリティズムを受け入れる者にも、同じことがあてはまります。なぜなら、彼らが行う教義とは福音の適応と発展に他ならず、彼らにもキリストの言葉が差し向けられるからです。彼らは霊界で刈り取るものの種を地上に蒔くのです。霊界では、その勇気か弱さの結果を刈り取ることになります。  


 十字架を背負う。
 命を救いたい者は命を失うことになる
十七、人の子のせいで人々があなたたちのことを憎み、排斥し、あなたたちの名前を悪しき名前としてののしり、汚名を着せる時、あなたたちは幸いです。

その日には喜びにおどりなさい。なぜなら、あなたたちには天において大きな報酬が蓄えられるからです。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのです。(ルカ 第六章 22,23)


十八、民衆や使徒たちを呼びよせると、イエスは言われた、「私について来たいと思う者はみな、自分を捨て、十字架を背負い、私に従って来なさい。なぜなら、自分を救おうと思う者は道に迷うからです。

私と福音のために自分の命を失う者は救われるでしょう。まったく、世界中を征服したとしても自分の命を失ってしまったら、何の得になるでしょうか」。(マルコ 第八章 34-36、ルカ 第九章23-25、マタイ 第十章 38,39、ヨハネ 第十二章 25,26)


十九、「私のせいで人々があなたたちを憎み、あなたたちを迫害するのであれば、そのことは天において報われるので喜びなさい」とイエスは言いました。これらの真実は次のように解釈できます。

「あなたたちに対する悪意によってあなたたちに信仰の誠実さを試す機会を与えてくれたなら、彼らがあなたに行う悪はあなたたちのためになるのだから喜ばしく思いなさい。彼らが盲目であることを悲しんでも、彼らをののしってはいけない」。

その後にはこう付け加えます。「私について来たい者は十字架を背負いなさい」。つまり、あなたちの信仰が引き起こす苦難に勇気を持って耐えなければなりません。なぜなら、キリストを放棄することによって自分の命や財産を救おうとする者は、天の国における利益を失うことになるからです。

一方で、真実の勝利のために、命に至るまでの全てをこの世で失った者は、自ら証明した勇気と忍耐と甘受に対する報酬を得ることになります。反対に、天における富を地上の快楽のために犠牲にしてしまう者に対して神は、「もうすでに報酬は受け取っている」と言うでしょう。

●FEB版注1
フランス語原文にはマタイ 第十三章、十二節が欠落していたのでここに記載しました。ーFEB1948