Thursday, May 21, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


第7章 魂の貧しい者は幸いです
 
魂が貧しいとはどういうことか

一、魂の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ 第五章 三)

二、魂の貧しい者は幸いです。信心のない者は、他の多くの金言と同様に、この金言を理解せず、ばかにします。しかし、イエスは知性に貧しい者を意味したのではなく、慎ましい者を意味したのです。天の国は慎ましい者のためであり、傲慢な者のためではないと言ったのです。

 教養があり、知性的な人は、この世を見る限り一般的には自分たちを高く評価し、その優秀さを強調し、神のことなどその関心に値しないと考えています。彼ら自身のことだけが心配で、神のことまでその考えを持ち上げることができません。

このように自分たちをあらゆるものより優秀であると考える傾向は、自分たちを優秀と考えるために自分たちを低くするものを否定し、しばしば神さえも否定します。

あるいは神を認める時には、自分を最も優秀な神の属性のうちの一人と考えるのです。天命を受けこの世のことだけに対し働きかけることで、この世を統治するのは十分であるとうぬぼれているのです。

自分の知性を宇宙の知性の大きさを持つと考え、何事も理解することができると信じ、理解できないこともあり得るのだということを認めることが出来ないのです。彼らは何かについて発言する時、彼らの判断に対する反論を受けつけないのです。

 見えない世界と人類を超えた力を認めないのは、それらが手の届かないところにあるからではなく、彼らの考えの土台を掘り崩してしまうような、立脚することのできない観念に対して自尊心が反発するからです。だから、目に見え、手に取ることのできる世界以外のものに対しては、軽蔑の笑みを見せることしかできないのです。

そうしたことを信じるには、自分たちの知性は高過ぎ、多くの知識を持っており、彼らの考えるには、そうしたことは無知な人々に向いているのであり、そうした人を魂の貧しい者とみなしているのです。しかし、何を言おうと、いつかは他の人たちと同じように皮肉を込めて馬鹿にしている目に見えない世界に入らねばならないのです。

その時、彼らは目を開き、過ちに気づくのです。しかし、公平である神は、その力を認めなかった者たちを、神の法を慎み深く守った者たちと同じように迎えるわけにはいかず、同じ者として割り当てることもできません。

℘141
素朴な者だけに神の国があるという言葉のなかで、イエスは、心の純真さと魂の慎ましさがなければ神の国で認められることはないと教えたのです。これらの資質を持った無知な者の方が、神よりも自分を信じる賢人よりも好ましいのです。

いかなる場合に置いてもイエスは、神に近づける徳として慎ましさを、神から遠ざける欠点として傲(おご)りを述べています。慎ましさは神に対する服従の態度であり、傲りとは神に対する反発のしるしであるという、とても自然な理由からです。

したがって、人間の幸せのためには、この世で言う、魂が貧しくとも、道徳的な資質に富んでいることがより大切なのです。

   
 自分を高くする者はさげられます

三、その時、使徒たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか」。そこで、イエスは小さい子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて言われた、

「誠に言います。悔い改めて子どもたちのようにならない限り、天の御国には入れないでしょう。だから、この子どものように、自分を謙遜し自分を低くする者が、天の御国で一番偉いのです。また、誰でも、このような一人の子どもを私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのです」。(マタイ 第十八章 1-5)


四、その時、ゼベダイの子どもたちの母が、子どもたちと一緒にイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った、「私のこの二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるようにお言葉を下さい」。

イエスは答えて言われた。「あなたたちは自分が何を求めているのか、分かっていないのです。私の飲もうとしている杯を飲むことができますか」。

彼らは「できます」と言った。イエスは言われた、「あなたたちは私の杯を飲みはします。しかし、私の右と左に座ることは、この私の許すことではなく、私の父によって備えられている人々にだけ許されることなのです」。このことを聞いた他の十人は、この二人の兄弟たちのことで腹を立てた。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたたちも知っているとおり異邦人の支配者たちはその民を支配し、偉い人たちはその民の上に権力をふるいます。あなたたちの間ではそうであってはなりません。あなたたちの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

あなたたちの間で人の先に立ちたいと思う者は、しもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人のための救済の代価として、自分の命を与えるためであるのと同じです」。(マタイ 第二十章 20-28)


五、ある安息日に、食事をしようとして、ファリサイ人のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。招かれた人々が上座を選んでいる様子をご覧になっておられたイエスは、彼らにたとえを話された。「婚礼の披露宴に招かれた時には、上座に座ってはいけません。

あなたより身分の高い人が招かれているかもしれないし、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』とあなたに言うなら、その時あなたは恥入って、末座に着くことになるでしょう。

招かれるようなことがあって行ったなら、末座に着きなさい。そうすればあなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上座にお進みください』というでしょう。その時は満座の中で面目を施すことになります。なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。(ルカ 第十四章 1、7-11)


六、これらの金言は、神に選ばれた者に約束された幸せを得るための根本的な条件として、イエスが絶えず教えている慎ましさの原則から生まれたもので、イエスは次の言葉にそれをまとめて示しました。

「魂の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。イエスは純心であることの象徴として子どもを選び、「子どものように自分を謙遜し、自分を低くする者が、天の御国で、一番偉いのです」と言ったのです。それは上の者や強い者に媚びを売るということではありません。

 同じような基本的な考え方が、別の金言に結びつきます。「偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。

 スピリティズムは実例によって理論を確認し、私たちに、地上で小さくあった者たちの霊界における偉大さを教えてくれます。そして多くの場合、地上において最も偉大で強い権力を持っていた者たちが、霊界においてはとても小さいのです。これは、霊界において彼らを偉大にさせる、決して失われることの無い美徳を、人間は死んでも持ち続けるからです。

一方で、富、地位、栄光、生まれた家族の高貴さなど、地上で人間を偉大にしていたものは、別の世界へ持って行くことが出来ないのです。それら以外に何も持っていなかった者は、別の世界へ入ると、着るものまでも失った遭難者のようにすべてを失います。

自尊心だけを失いきれずにいることが、地上において軽蔑していた者たちが自分より上に、栄光に輝いて置かれているという新しい位置づけを、更に屈辱的なものにします。

 スピリティズムは同じ原理の応用を、連続する人生と言う視点から別の方法で示しています。ある人生において最も高い地位にあった者は、野心や自尊心を克服できなかったのであれば、次の人生において最も低い地位に降ろされます。

ですから、強制的に次の人生において地位を下げられたくないのであれば、地上において一番高い地位を求めたり自分を他人より高い地位においてはなりません。

反対に、最も慎ましく、質素な地位を求めなさい。あなたがより高い地位におかれるに値するのであれば、神は天においてより高い場所を与えて
くれるでしょう。

℘144         
 博学な者や知識人に隠された謎
七、その時イエスは声を上げて言われた、「天と地の主なる父よ、これらのことを博学の者や知識のある人には隠し、素朴で小さい者たちに顕してくださったことを称賛いたします」。(マタイ 第十一章 25) 


八、これらのことを魂の貧しい、素朴で小さい者たちに見せてくれたことをイエスが感謝しているのは、少し不思議に感じられるかもしれません。

なぜなら、見かけ上は博学な者や知識人の方がこれらのことを理解し易いように見えるからです。しかし私たちは、この慎ましい者とは、神の前で自分を低め、他人に対して自分が優れていると感じない者のことであるということを理解しなければなりません。

また、一方の自尊心の高い者とはこの世における知識によってうぬぼれてしまい、自分が賢者であると思い、そのために神の存在を否定したり、あるいは神を否定しないまでも、昔、知識人が賢者であるつもりになって話したように、自分を神と同様に扱う者のことであるということを理解しなければなりません。そのため、神は地上の秘密の探求を知識人たちに任せ、神の前に屈服する慎ましい者たちに天の秘密を見せてくれるのです。


九、スピリティズムによって今日明らかにされた偉大なる真実についても同様です。信心のない人たちは、彼らを納得させ、改心させようとする霊たちの側の努力が不足しているのだと言います。

しかし、それは、霊たちにとっては、強い信仰と慎ましさをもって光を求める者たちのことの方が、もうすでにすべてを知っていると信じていて、神がその存在を証明して彼らを神の方向へ導くことが出来れば神は喜ぶであろうと考えている者たちのことよりも、気にかかるからなのです。

 神の力は、大きな物にも小さな物にも示されています。神はその光を隠すのではなく、あらゆるところへ放っています。盲目な者たちはそれを見ることが出来ないのです。

神は彼らの目を無理やり開こうとはしません。なぜなら、彼ら自身が目を閉じていることを好んでいるからです。しかし自ら目を開く時が来る前に、暗闇にあることの苦しさを感じ、神の存在を認識し、彼らの自尊心が必然的に傷つけられる時が来なければなりません。

不信心な者たちに神の存在を示すために、神は彼ら一人一人にそれぞれあった方法を取ります。しかし不信心である者が「私を納得させるにはどれそれをやってください。いつ、どうしてください。そうすれば私は納得します」というように、何をし、何を言うべきなのかを決めるのではありません。

 神や、神の意志を伝える霊たちが、こうした不信心な者たちの要望に応えてくれないからと言って驚いてはいけません。そうではなく、もし自分の最も身分の低い家来に何かを強要されたとしたら、何と応えるかを考えてみるべきです。

神が条件を決めるのであり、神が条件を強要されるのではありません。神は慎ましく求める者には温かく耳を傾けてくれますが、神より勝っていると考える者たちのことは聞いてはくれません。


十、最も神を信じない者までもが屈してしまうような奇蹟的な証拠によって、神は不信心な者たちに個人的に触れることができないのかとよく訊かれます。それが可能であることに、まったく疑う余地はありません。しかしそのようにしたとして、そうすることの価値はどこにあるでしょうか。

更に、それが何の役に立つと言えるでしょうか。彼らは、毎日あらゆる証拠を見せられていながらそれを受け入れず、「見ることはできたが信じることはできない。なぜならそのようなことは不可能であることを知っているからだ」とまで言うのです。

真実を認めることを拒否するのは、それを理解するその者の霊も、それを感じるその者の心も、まだそうなるところまで発達しきっていないからです。

自尊心は彼らの目を覆う目隠しのようなものです。盲目の者の前に光をかざしてどうなるというのでしょうか。したがって、まず悪の原因を治すことが必要です。

そうであるからこそ、優秀な医者のように、神はまず傲りを罰します。神が迷う子供たちを見捨てることはありません。なぜなら、遅かれ早かれ彼らの目は開かれることを知っているからです。

しかし神はそれが各々の自分の意志によって開かれることを望んでいるのです。そうなれば、不信心であったことによって受けた苦しみに打ち勝ち、父親に赦しを求めた放蕩息子の様に、自ら神の腕の中にやってきます。

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks AgainEdited 

by S. Phillips



十二章 苦難にこそ感謝を

 「私は霊的な目を通して眺めることができるという利点のおかげで真理のさまざまな側面が見える立場にあります。あなた方は残念ながら肉体の中に閉じ込められているという不利な条件のために、私と同じ視点から眺める事ができません」


 これは今スピリチュアリズムを熱心に勉強しはじめた初心者の夫婦を招いた時に、霊と物質という基本的なテーマについて語るにあたっての前置きである。続けてこう語る。

 「あなた方は物質をまとった存在です。身を物質の世界に置いておられます。それはそれなりに果たすべき義務があります。衣服を着なければなりません。家が無くてはなりません。食べるものが必要です。身体の手入れをしなくてはなりません。身体は、要請される仕事を果たすために必要なものをすべて確保しなければなりません。

物的身体の存在価値は基本的には霊の道具であることです。霊なくしては身体の存在はありません。そのことを知っている人が実に少ないのです。身体が存在出来るのはまず第一に霊が存在するからです。霊が引っ込めば身体は崩壊し、分解し、そして死滅します。

 このことを申し上げるのは、多くの人たちと同様に、あなた方もまだ本来の正しい視野をお持ちでないからです。ご自身のことを一時的な地上的生命を携えた霊的存在であるとは見ておられません。
℘201
身体に関わること、世間的なことを必要以上に重大視される傾向がまだあります。いかがですか。私の言っていることは間違っていますか。間違っていれば遠慮なくそうおっしゃってください。私が気を悪くすることはありませんから…」


 「いえ、おっしゃる通りだと思います。そのことを自覚し、かつ忘れずにいるということは大変難しいことです」と奥さんが答える。

 「むつかしいことであることは私もよく知っております。ですが、視野を一変させ、その身体だけでなく、住んでおられる地球、それからその地球上のすべてのものが存在できるのは霊のおかげであること、あなたも霊であり、霊であるがゆえに神の属性のすべてを宿していることに得心がいくようになれば、前途に横たわる困難のすべてを克服していくだけの霊力を授かっていることに理解がいくはずです。

生命の根元、存在の根元、永遠性の根元は霊の中にあります。自分で自分をコントロールする要領(コツ)さえ身につければ、その無限の貯蔵庫からエネルギーを引き出すことができます。

 霊は物質の限界によって牛耳られてばかりはいません。全生命の原動力であり全存在の大始源である霊は、あなたの地上生活において必要なものをすべて供給してくれます。その地上生活の目的は極めて簡単なことです。死後に待ち受ける次の生活に備えて、本来のあなたであるところの霊性を強固にするのです。

身支度を整えるのです。開発するのです。となれば、良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることがあなたの霊性の糧となるのです。

 その一つ一つが神の計画の中でそれなりの存在価値を有しているのです。いかに暗い体験も───暗く感じられるのは気に食わないからにすぎないのですが───克服できないほど強烈なものはありません。あなたに耐えられないほどの試練や危機に直面させられることはありません。

その事実を何らかの形で私とご縁のできた人に知っていただくだけでなく、実感し実践していただくことができれば、その人は神と一体となり、神の摂理と調和し、日々、時々刻々、要請されるものにきちんと対応できるはずなのです。

 ところが、残念ながら敵があります───取越苦労、心配、不安と言う大敵です。それが波長を乱し、せっかくの霊的援助を妨げるのです。霊は平静さと自信と受容力の中ではじめて伸び伸びと成長します。日々の生活に要請されるものすべてのが供給されます。物的必需品の全てが揃います」

 ここでご主人が 「この霊の道具にわれわれはどういう注意を払えばよいかを知りたいのですが・・・肝心なポイントはどこにあるのでしょうか」と尋ねる。


 「別にむつかしいことではありません。大方の人間のしていることを御覧になれば、身体の必要性にばかりこだわって精神ならびに霊の必要性に無関心すぎるという私の意見に賛成していただけると思います。身体へ向けている関心の何分の一かでも霊の方へ向けて下されば、世の中は今よりずっと住みよくなるでしょう。」


 「霊を放ったらかしにしているということでしょうか。ということは身体上のことはそうまで構わなくてよいということでしょうか。それとも、もっと総体的な努力をすべきなのでしょうか」

 「それは人によって異なる問題ですが、一般的に言って人間は肉体のことはおろそかにしていません。むしろ甘やかしすぎです。必要以上のものを与えています。あなた方が文明と呼んでいるものが不必要な用事を増やし、それに対応するためにまた新たな慣習的義務を背負い込むという愚を重ねております。

肉体にとって無くてはならぬものといえば光と空気と食べ物と運動と住居くらいのものです。衣服もそんなにあれこれと必要なものではありません。慣習上、必需品となっているだけです。

 私は決して肉体ならびにその必要条件をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。肉体は霊の大切な道具ではありませんか。肉体的本性が要求するものを無視するようにとお願いしているのではありません。私は一人でも多くの人間に正しい視野をもっていただき、自分自身の本当の姿を見つめるようになっていただきたいのです。

まだ自分というものを肉体だけの存在、あるいは、せいぜい霊を具えた肉体だと思い込んでいる人が多すぎます。本当は肉体を具えた霊的存在なのです。それとこれとでは大違いです。

 無駄な取越苦労に振り回されている人が多すぎます。私が何とかして無くしてあげたいと思って努力しているのは不必要な心配です。神は無限なる叡智と無限なる愛です。われわれの理解を超えた存在です。が、その働きは宇宙の生命活動の中に見出すことができます。

驚異に満ちたこの宇宙が、かつて一度たりともしくじりを犯したことのない神の摂理によって支配され規制され維持されているのです。その節理の働きは一度たりとも間違いを犯したことがないのです。変更になったこともありません。廃止されて別のものと置きかえられたこともありません。

今存在する自然法則はかつても存在し、これからも永遠に存在し続けます。なぜなら、完璧な構想のもとに全能の力によって生み出されたものだからです。

 宇宙のどこでもよろしい。よく観察すれば、雄大なものから極小のものに至るまでのあらゆる相が自然の法則によって生かされ、動かされ、規律正しくコントロールされていることがお分かりになります。

途方もなく巨大な星雲を見ても、極微の生命を調べても、あるいは変転きわまりない大自然のパノラマに目を向けても、さらには小鳥、樹木、花、海、山川、湖どれ一つ取ってみても、ちょうど地球が地軸を中心に回転することによって季節の巡りが生まれているように、すべての相とのつながりを考慮した法則によって統制されていることが分かります。

種子を蒔けば芽が出る───この、いつの時代にも変わらない摂理(きまり)こそ神の働きの典型です。神は絶対にしくじったことはありません。あなたがたの方から見放さないかぎり神はあなた方を見放すことはありません。

(訳者注───〝神がしくじる〟という言い方はいかにも幼稚にひびくが、われわれが不安や心配を抱き取越苦労が絶えないということは、裏返せば神の絶対的叡智に対する信仰が不足していることを意味し、これを分かりやすく表現すれば神がしくじるかも知れないと思っていることになる)

 私は、神の子すべてにそういう視野を持っていただきたいのです。そうすれば取越苦労もなくなり、恐れおののくこともなくなります。

いかなる体験も魂の成長にとっては何らかの役に立つことを知ります。その認識のもとに一つ一つの困難に立ち向かうようになり、首尾よく克服していくことでしょう。そのさ中にあってはそうは思えなくても、それが真実なのです。あなた方もいつかは私達の世界へお出でになりますが、こちらへ来れば、感謝なさるのはそういう暗い体験の方なのです。

視点が変わることによって、暗く思えた体験こそ、そのさ中にある時は有難く思えなくても、霊の成長をいちばん促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明して差し上げることはできませんが、こちらへお出でになればみずから証明なさることでしょう。

 こうしたことはあなたにとっては比較的新しい真理でしょうが、これは大へんな真理であり、また多くの側面をもっています。まだまだ学ばねばならないことが沢山あるということです。探求の歩みを止めてはいけません。歩み続けるのです。ただし霊媒の口を突いて出るものを全部鵜呑みにしてはいけません。

あなたの理性が反撥するもの、あなたの知性を侮辱するものは拒絶なさい。理に適っていると思えるもの、価値があると確信できるもののみを受け入れなさい。何でもすぐに信じる必要はありません。あなた自身の判断力にしっくりくるものだけを受け入れればいいのです

 私たちは誤りを犯す可能性のある道具を使用しているのです。交信状態が芳しくない時があります。うっかりミスを犯すことがあります。伝えたいことのすべてが伝えられないことがあります。他にもいろいろ障害があります。

霊媒の健康状態、潜在意識の中の思念、頑なに固執している観念などが伝達を妨げることもあります。その上に、私たちスピリット自身も誤りを犯す存在だということを忘れてはなりません。死によって無限の知識のすべてを手にできるようになるわけではありません。地上時代より少し先が見えるようになるだけです。

そこであなた方より多くを知った分だけをこうしてお授けしたいと思うわけです。私たちも知らないことが沢山あります。が、少しでも多く知ろうと努力を続けております。

 より開けたこちらの世界で知り得た価値ある知識をこうしてお授けするのは、代わってこんどはあなた方が、それを知らずにいる人々へ伝えていただきたいと思うからです。宇宙はそういう仕組みになっているのです。実に簡単なことなのです。私たちは自分自身のことは何も求めません。

お礼の言葉もお世辞も要りません。崇めてくださっても困ります。私たちはただの使節団、神の代理人にすぎません。自分ではその使命にふさわしいとは思えないのですが、その依頼を受けた以上お引き受けし、力の限りその遂行に努力しているところなのです」 
          
 

   
  解説 〝霊〟と〝幽霊〟 
 
 四章の 「ジョン少年との対話」 に出てくる〝霊〟と〝幽霊〟はどう違うかという質問は、シルバーバーチも〝なかなかいい質問ですよ〟と言っているように、西洋ではとかく誤解されがちな問題であるが、現下の日本の心霊事情を見てもその誤解ないしは認識不足によってとんでもない概念が広がっているので、ここでシルバーバーチの答えを敷延(ふえん)する形で解説を施しておきたい。

 誤解には二通りある。〝霊〟を〝幽霊〟と思っている場合と、〝幽霊〟を〝霊〟と思っている場合である。日本人は何かにつけてそうであるが、霊についても極めて曖昧な概念を抱いている。次に紹介する話はそれを典型的に示しているように思う。

 私も時たま墓地の清掃に行くが、同じ墓園に殆ど毎日墓参する人がいる。その人は先祖は家の根であり、根を培わずして子孫の繁栄はないという信仰から供養を欠かさないのだという話を聞かされたことがあるが、その後またいっしょになった時にその信仰をほじくってやろうというイタズラ心から 「やはり霊というのが存在していて、どこかに霊の世界というのがあるのでしょうね」と聞いてみた。すると案の定、言下にこう言い放った。

 「何をおっしゃるんです。人間この肉体が滅びたらもうおしまいですよ。私はその霊を供養しているだけですよ」

 いったいその霊とは何なのであろう。何かしら得体のしれない、実態の無いものを漠然と思い浮かべているらしいのであるが、そんなものを供養してそれが子孫の繁栄になぜ繋がるのか───そんな理屈っぽいことはみじんも考えないところが、いかにも日本人らしいのである。

 が、先日のテレビで〝心霊相談〟にのっている自称霊能者(女性)が古い先祖霊の供養に言及して「霊の中には一千年でも生きている場合がありますから」うんぬんと述べているのを聞いて私は自分の耳を疑った。どの程度の霊能があるのか知らないが、今紹介したような信心深い平凡人ならまだしも、心霊相談にのるためにテレビに出るほどの専門家(プロ)がこの程度の理解しかしていないことに私は唖然とした。

この自称霊能者にとっては相も変わらず肉体が実在であって、霊は一種の〝名残り〟のようなものとしてどこかにふわっと残っていて、やがて消滅していくものらしいのである。そして多分、大方の日本人が大体そんな風に漠然とした認識しか抱いていないのではなかろうか。

 では一体霊とは何なのか───これはシルバーバーチが繰り返し説いていることなので、ここで改めて私から説くことは控えたい。ただ一言だけ述べておきたいのは、知識を持つことと、それを実感を持って認識することとの間にはかなりの距離があるということである。霊には、実体があるのです、

と言われても、それをなるほどと実感するには、その知識を片時も忘れずに念頭において生活しながら、その実生活の中で霊的意識を高めていくほかはない。その内、ふとしたこと───大自然の驚異を見たり何でもない日常の出来ごとを体験して───あ、そうか、という悟りを得るようになる。

それが本当に分かったということであろう。シルバーバーチが単純素朴な真理を繰り返し繰り返し説くのも、そうした霊的意識の深まりを期待しているからであることを銘記していただきたい。

 次に〝幽霊〟を〝霊〟と勘違いしている場合であるが、 これはシルバーバーチの答えの通りであるが、それに付け加えて言えば、いわゆる心霊写真の大半がその類だということである。

 その説明に先だって認識しておいていただきたいのは、人間の想念というものはその人の人相と同じ形体を取る傾向があるということである。次の例からそれを理解していただきたい。

 私の家によく来ていただいている僧侶───ひじょうに霊感の鋭い方である───が仏壇の前でいつものようにお経を上げている最中に、その僧侶には珍しく途中で詰まってお経が乱れ、ややあってからどうにか普通の調子に戻ったことがあった。

 終わってからその僧が私に、今読経している最中にかくかくしかじかの人相の人が目の前に現われたと言って、その人相を説明した。さらにおっしゃるには、その霊は死者の霊ではなく、まだ生きている人だという。いわゆる生霊である。「何か怨みか嫉妬でも買う様なことをされましたか」と僧侶が私に聞いた。

 私はすぐにピンと来た。確かに思い当たる人がいて、私に嫉妬心を抱いてもやむを得ない事情があった。そのせいか、家族中でなんとなく不調を訴えることが多かったが、その僧の処置ですっかり良くなった。

 恩師の間部詮敦氏は 「念は生き物です」 というセリフをよく口にされ、したがって自分から出た念は必ず自分に戻って来るから、何時も良い念を出すように心がけなさいという論法で説教しておられた。

 私がここでそれを付け加えて言いたいのは、その念はその人の人相、時には姿恰好までそっくりの形体を取る傾向があるということである。これは謎の一つで、なぜだかは分らない。

 よく肉親や知人が枕元に立った夢を見て目を覚まし、後で分かってみると、ちょうどその人が死亡した時刻と一致したという話が語られる。この場合すぐに、その死者の霊が自分の死を知らせに来たのだとか別れを言いに来たのだと解釈され、それがいかにもドラマチックなのでそう思い込まれがちであるが、実際問題として、よほどの霊覚者でないかぎり、死んですぐに意識的に自分で姿を見せるような芸当のできる者はいない。

 これには二つのケースが考えられる。一つはその死者の背後霊が本人を装って姿を見せた場合で、これは意外に多いようである。もう一つはその死者の念が最も親和性の強い人のところへ届き、それがその人の姿かたちを取った場合で、私はこのケースがはるかに多いと見ている。

 心霊写真の中で生気が感じられないものは大半が浮遊している念が感応したか、または地上に残された幽質の殻が当人の念の働きを受けて感応したかである。もちろん実際にその場に居合わせた霊───大抵は自分でこしらえた磁場から脱け出られなくてその辺りをうろついている、いわゆる地縛霊であるが───が親和力の作用で近づいたのがたまたま霊能のある人の写真に写ったという場合もあることはあるであろう。

 反対に生気はつらつとして、まるで地上の人間と変わらないような雰囲気で写っている場合は、霊界の写真技術師の指示を受けてエクトプラズムをまとって出た場合であり、A・R・ウォーレスの 『心霊と進化と』 にはその詳しい説明が出ている。

 幽霊話に出てくるのは大抵地上に残した殻───セミの脱け殻とまったく同じと思えば、よい───が何かのはずみで動き出した場合で、不気味ではあっても少しも恐ろしいものではない。

 よく怪談ものを映画や芝居で演じる場合に奇怪な出来ごとが相次ぎ、話が話だけにいやが上にも恐怖心が煽られるが、それを、例えば四谷怪談であればお岩の亡霊がやっていると考えるのは間違いで、単なるイタズラ霊の仕業、西洋でいうポルターガイストに過ぎない。スタッフの中に霊格の高い人がいたらそういう奇怪な現象は起こらない。その人の守護霊がイタズラ霊を抑えてしまうからである。

 こうした解説を施しながら私はいつも、スピリチュアリズム的霊魂観の普及の必要性を痛感せずにはいられない。
                 一九八六年九月    近藤 千雄

 

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks AgainEdited 

by S. Phillips



十一章 みんな永遠の旅の仲間

 ある日の交霊会で、開会を前にして出席者の間で〝実存主義〟についての議論が戦わされたことがあった。(訳者注───霊媒のバーバネルが入神しシルバーバーチが憑ってくると開会となるが、霊団はその前から準備しているので、シルバーバーチはその議論のようすを全部知っている)

  出現したシルバーバーチがこう述べた。
 「ただ今の議論と真理の本質に関するご意見をとても興味ぶかく拝聴いたしました」

───私たちの意見に賛成なさいますか。それとも的外れでしょうか。

 「いえ、ちゃんと的を射ておられます。みなさんには道しるべとなる知識の用意があるからです。ですが、みなさんも人間である以上各自に歩調というものがあります。進化とは絶え間ない成長過程です。成長は永遠に続くものであり、しかもみんなが同時に同じ段階に到達するとはかぎりません。各自が自分の魂の宿命を自分で成就しなければなりません。

それまでに手にした光明(悟り・理解力)と、直面する困難を媒体として、その人独自の教訓を学んでいかねばなりません。それを自分でやらねばならないのです。他人からいくら知恵の援助を受けることができても、魂の成長と開発と発達はあくまで当人が自分の力で成就しなければならない個人的問題なのです。

 真理は永遠不滅です。しかも無限の側面があります。なのに人間は自分が手にした一側面をもって真理の全体であると思い込みます。そこから誤りが始まります。全体などではありません。進化するにつれて理解力が増し、他の側面を受け入れる用意ができるのです。生命活動とは断え間なく広がり行く永遠の開発過程のことです。真理の探究は無限に続きます。

あなた方はそちらの地上において、私はこちらの世界において、真理の公道(ハイウェー)を旅する巡礼の仲間であり、他の者より少し先を歩んでいる者もいますが、究極のゴールにたどり着いた者は一人もいません。

 不完全さが減少するにつれて霊的資質が増し、当然の結果として、それまで手にすることの出来なかった高度の真理を受け入れることができるようになります。人類のすべてが一様に従うべき一個のパターンというものはありません。神の顕現が無限であるからには神の真理に近づく道にも又無限のバリエーションがあることになります。お分かりでしょうか」

 「分かります。その道にも直接的に近づく道と迂回する道とがあるのではないでしょうか」

 「その通りです。直接的なものと迂回的なものとがあります。が、それはその道を歩む本人の発達程度によって決まることです。直接的な道が歩めるようになるまでは、それが直接的な道であることが読み取れません。環境は当人の魂の本性によって条件づけられています。全生命は自然法則によって規制されています。その法則のワクを超えた条件というものは望めませんし、あなた自身そのワクの外に出ることも出来ません。

 かくして、いかなる体験も、これがあなたの住む地上であろうと私の住む霊界であろうと、ことごとく自然法則によって位置付けられていることになります。偶然にそうなっているのではありません。奇跡でもありません。あなたの進化の本質的核心の一部を構成するものです。そうでないといけないでしょう。常に原因と結果の法則によって織りなされているのです」

 「環境条件が自分の進化と無関係のものによってこしらえられることがありますか」

 「それは一体どういう意味でしょうか」

 「もしかしたら私は明日誰かの行為によって災難に遭うかも知れません」

 「そうかも知れません。が、それによって苦しい思いをするか否かはあなたの進化の程度の問題です」

 「でも、その他人がその様な行為に出なかったら私は災難に遭わずに済みます」

 「あなたは永遠の霊的規範を物的尺度で測り、魂の視点からでなく肉体の視点、言いかえれば今物質を通して顕現している精神だけの視点から眺めておられます」

 「それを災難と受け取るのも進化のある一定段階までのことだとおっしゃるのでしょうか」

 「そうです。それを災難と受け取る段階を超えて進化すれば苦しい思いをしなくなります。苦は進化と相関関係にあります。楽しみと苦しみは両極です。同じ棒の両端です。愛と憎しみも同じ力の二つの表現です。

愛する力が憎しみとなり得ますし、その逆もあり得ます。同じく、苦しいと思わせる力が楽しいと思わせることもできます。あなたの体験の〝質〟を決定づけるのはあなたの進化の〝程度〟です。ある段階以上に進化すると憎しみを抱かなくなります。

愛のみを抱くようになります。苦を感じず幸せばかりを感じるようになります。難しいことですが、しかし真実です。苦しみを何とも思わない段階まで到達すると、いかなる環境にも影響されなくなります」


 ここで別のメンバーが 「同じ環境に二人の人間を置いても、一方は愛を持って反応し、他方は憎しみを持って反応します」 と言うと、もう一人のメンバーが 「他人のために災難に遭うということもありませんか。例えばイエスは他人のために災難を受けました」と言う。するとシルバーバーチが質問の意味が分からないと述べるので、改めてこう質問した。

 「あなたは先ほど他人の行為によって自分が災難に遭うこともあり得ることを認められました。他人の苦しみを知ることによって自分が苦しむという意味での苦しみもあるのではないでしょうか。それは無視してもよいのでしょうか。そしてそれは良いことなのでしょうか」

 「少しずつ深みに入ってきましたね。でも思い切って足を踏み入れてみましょう。円熟した魂とは人生の有為転変のすべてを体験しつくした魂のことです。苦しみの淵を味わわずして魂の修練は得られません。

底まで下りずして頂上へはあがれません。それ以外に霊的修練の道はないのです。あなた自ら苦しみ、あなたみずから艱難辛苦を味わい、人生の暗黒面に属することのすべてに通じて初めて進化が得られるのです。進化とは低いものから高いものへの成長過程にほかならないからです。

 さて、苦しみとは一体なんでしょうか。苦しみとは自分自身または他人が受けた打撃または邪悪なことが原因で精神又は魂が苦痛を覚えた時の状態を言います。が、もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。

なぜなら各人が置かれる環境はその時点において関係している人々の進化の程度が生み出す結果であると得心しているからです。進化した魂は同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えますが、苦痛は覚えません」


 「そうだと思います。私もそういう意味で申し上げたのですが、用語が適切でありませんでした」

 「要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。十分な理解がいけば苦しい思いをしなくなります。また、すべきではありません」


 別のメンバー「バイブルにはイエスはわれわれのために苦しみを受けたとあります」

 「バイブルには事実でない事が沢山述べられています。いかなる人間も自分以外の者の為に代って苦しみを受けることはできません。自分の成長を管理するのは自分一人しかいない───他人の成長は管理できないというのが摂理だからです。

贖罪説は神学者が時代の要請にしたがってでっち上げた教説の一つです。自分が過ちを犯したら、その荷は自分で背負ってそれ相当の苦しみを味わわなくてはなりません。そうやって教訓を学ぶのです。もしも誰か他の者が背負ってあげることが出来るとしたら、過ちを犯した本人は何の教訓も学べないことになります。

 苦と楽、悲しみと喜び、平静さと怒り、嵐と晴天、こうしたものがみな魂の成長の糧となるのです。そうしたものを体験し教訓を学んで初めて成長するのです。その時はじめて宇宙が無限なる愛によって支配され、その愛から生み出された摂理に間違いはないとの自覚を得ることができるのです。

〝まず神の国と義を求めよ。さらばそれらのものもすべて汝のものとならん〟(マタイ6・33)というのは真実です。

その心掛けになり切れば、つまり宇宙の摂理に不動の、そして全幅の信頼を置くことができるようになれば、人生で挫折することはありません。なぜならばその信念が内部の霊力を湧き出させ、何ごとも成就させずにはおかないからです。

 その霊力を枯渇させマヒさせる最たるものは〝心配〟の念です。全幅の信頼心───盲目的な信仰ではなく知識を土台とした完全なる信念は、人生のあらゆる体験に心配も迷いも不安もなく立ち向かわせます。

神の子である以上は自分の魂にも至聖所があり、そこに憩うことを忘れないかぎり、自分を焼き尽くす火も吹き倒す嵐も絶対にないとの確信があるからです」


 「すばらしいことです」

 「本当にそうなのです。本当にそうなのです。物質に包まれた人間にはその理解はとても困難です。魂そのものは知っていても、その物質による束縛がどうしても押し破れないのです。しかし、それを押し破っていくところに進化があるのです。

人生問題を霊の目で眺めれば、その一つ一つに落着くべき場がちゃんと用意されているのです。地上的な目で眺めるから混乱と困難と誤解が生じるのです。そこで私たちの出番が必要となります。すなわち霊的真理の光をお見せするのです。

 ナザレのイエスが〝神の御国は汝自身の中にある〟と述べたのは寓話ではなく真実を述べたのです。神は全生命の中心です。宇宙は神が内在するがゆえに存在しているのです。地上のあらゆる存在物も神が内在するからこそ存在しているのです。あなた方もミニチュアの神なのです。

あなた方の心掛け次第でその内部の力が成長し、発展し、開花するのです。その成長の度合を決定づけるのはあなた方自身です。他の誰も代わってあげることはできません。それが地上生活の目的なのです。

 自分も神であることを自覚なさることです。そうすれば神の御国(摂理)は他ならぬ自分の魂の中にあることを悟られるはずです。それは絶対に裏切ることがありません。無限の補給源である神の摂理に調和した生き方をしているかぎり、何一つ不自由な思いも空腹も渇きも感じなくなります。といって必要以上のものはいただけません。

魂の成長の度合にふさわしいだけのものが与えられ、それより多くも、それより少なくも、それより程度の高いものも低いものも受けません。それ以外にありようがないのです」

Wednesday, May 20, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

  本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


第6章 救い主キリスト

軽いくびき 

一、苦しむ者、重荷を負っていると思う者は、みな私のところへ来なさい。私があなたたちの苦しみを和らげてあげます。私のくびきを負い、私が心優しく、へりくだっているのだということを学びなさい。そうすれば、あなたたちの魂は休まることができるでしょう。なぜなら、私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。(マタイ 第十一章 28-30)


二、キリストが人類に教えてくれた通り、貧困、落胆、肉体的苦痛、愛する者の死など、全ての苦しみの慰めは、未来を確信し、神の正義を信じることによって受けることができます。

反対に、この人生の向こう側には何も期待せず、あるいはそれに疑問を持っている者の苦しみは、そうした者の上に重くのしかかってくることになり、その苦しさを和らげる望みは一切なくなってしまいます。このことが「疲れた者は私のところへ来なさい。私が疲れを和らげてあげます」とイエスに言わせたのでした。

 しかし、イエスは、イエスの救援と苦しむ者が幸せを約束されるための条件を決めています。その条件とは、イエスが教えてくれた神の法そのものです。イエスのくびきとはこの法を守ることです。しかし、そのくびきは軽く、その法はやさしいのです。なぜなら、その法は愛と慈善の実践を義務とする法だからです。


  約束された救い主 
三、もしあなたたちが私を愛するなら、あなたたちは私の戒めを守るべきです。私は父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の救い主をあなたたちにお与えになります。その救い主が何時までもあなたたちとともにおられるためにです。その方は真実の霊です。

世はその方を受け入れることができません。世はその方を見ようともせず、知ろうともしないからです。しかし、あなたたちはその方を知っています。その方はあなたたちとともにおり、あなたたちの内におられるからです。(ヨハネ 第十四章 15,17)

 しかし、救い主、すなわち、父が私の名によってお遣しになる聖霊は、あなたたちにすべてのことを教え、また、私があなたたちに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ 第十四章 26) 


四、イエスはもう一人の救い主の出現を約束しています。それは、当時の世界がまだ知ることのできなかった真実の霊です。世界はそのことを理解するにはまだ未熟であったのです。神はすべてのことを教え、キリストが述べたことを思いださせるため、真実の霊を送るのです。

真実の霊が、後になってすべてを教えるために現れるということは、イエスはすべてを教えることができなかったことになります。キリストが述べたことを思いださせるために出現するということは、イエスの教えが忘れ去られてしまったか、あるいは間違って理解されてしまったからです。

 スピリティズムは決められた時代にキリストの約束を守るために現れました。真実の霊がその確立を指導しています。彼は人間に法を守ることを呼び掛けています。キリストがたとえ話でしか話さなかったことを理解できるよう、全てを教えてくれています。

キリストは「聞く耳を持つ者が聞きなさい」と言いました。スピリティズムは目や耳を開くために現れました。なぜなら、スピリティズムは偶像や装飾を通じて話すのではないからです。

意図的にベールで覆われた神秘の謎を解き明かしてくれ、地上で見放された者や苦しむ者すべてに、すべての苦しみには正当なる理由と有益な目的があることを示すことによって、最高の慰安をもたらしてくれるのです。

 キリストは「苦しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」といいました。しかし、なぜ苦しまなければいけないかを知らされずに、どうして苦しむことにより幸せになることが出来るでしょうか。スピリティズムは、その理由が過去の人生と、人類が過去の償いを行う場所としての地球自体の行方の中に存在するということを明らかにしています。

また苦しみの目的とは、療法となる有益な手段となり、未来の人生における幸せを得るための浄化の手段となることであると示しています。人間は自分が苦しむに値することを理解し、苦しみを正当であると認めることができるようになります。

その苦しみが自分の進歩を助けることを知っているので、報酬を約束された労働に取り掛かる者のように、不満をこぼすことなく苦しみを受け入れることが出来るのです。スピリティズムは、未来に対する揺らぐことの無い確信を人間に与え、それによってその魂からは疑いの余地さえ失われてしまいます。

人間に物事を高い視点から見下すことを教えてくれ、地上での盛衰の重要性など、スピリティズムの示す光輝く広い地平線の彼方に消え去ってしまうのです。そして未来に待つ幸せへの希望は、道を最後まで歩み続けるための忍耐、甘受の気持ち、勇気を人間に与えてくれるのです。

 このように、人間がどこから来て、どこへ向かい、そしてなぜ地球上に生まれたのか教え、真なる神の法の原理を思いださせ、信仰と希望による慰安を与えてくれることによって、スピリティズムはイエスが約束した救い主を現実のものとしてくれるのです。





  霊たちからの指導
 
  真実の霊の出現
五、かつて道に迷えるイスラエルの民に真実をもたらし、闇を払おうとしたときと同じように、私はやってまいりました。私の言うことを聞いてください。

私の言葉が過去においてそうしたように、スピリティズムは無神論者たちに、彼らの頭上には普遍の真実、すなわち、草花を芽生えさせ、波を起こす善なる神、偉大なる神が君臨しているのだということを教えなければなりません。

私は神の教義を示し、また、それを収穫する者として、人間に散らばった善を束にまとめ、「苦しむ者よ、私のところへお出でなさい」と申したのです。

 しかし、恩知らずな人たちは、私の父の君臨する国へつながる広く真っ直ぐ延びる道から外れ、険しい不信仰の小道に迷ってしまったのです。私の父は、人類を全滅させようとしているのではありません。

父はあなたたちが、生きる者も死ぬ者もお互いに助け合い、救い合うことを望んでいるのです。死ぬ者とは、肉体の死んでしまった者のことです。なぜなら死は存在しないからです。そして、預言者や伝道者に耳を傾けるのではなく、地上にもはや存在しない者たちがこう叫ぶ声を聞いてください。

「祈り、信じなさい。死とは生き返ることです。人生とは選択された試練なのです。その試練の中であなたたちの耕す美徳というものが、杉の木が伸びるように育ち、発展するのです」

 弱く、自分の知性の闇を知っている者は、温厚なる神が手渡してくれた灯を遠ざけてはいけません。その灯はあなたの道を照らし、迷える子供たちをその父親の懐へ導いてくれるのです。

 あなたたちの惨めさや、また、天国を見上げながら過ちのどん底に落ち、道に迷ってしまった不幸な者たちに手を差し伸べようともしないあなたたちのあまりの弱さに、私は深い同情を抱いています。

あなたたちの目の前で明らかにされることを信じ、愛し、熟考してください。良い種と悪い種とを混ぜてはいけません。夢想と現実とを取り違えてはいけません。

 スピリティズムを学ぶ者よ、お互いに愛し合いなさい。これが最初の教えです。自分を教育しなさい。これが第二の教えです。全ての真実がキリストの教えの中に存在します。

キリスト教の中に根付いてしまった誤りは、全て人類が生みだしたものなのです。ですから、あなたたちが何も存在しないと考えていた墓の向こうから、あなたたちに向かって訴えてくるのです。「兄弟たちよ、何事も消滅するものはないのです。イエスキリストはすべての悪に打ち勝ったのです。あなたたちは、不信仰に打ち勝たねばならないのです」と。(真実の霊 パリ、1860年)

℘136          
六、私は、可哀想な、見捨てられた貧しい者たちを慰め、教えるために参りました。あなたたちの甘受の気持ちを試練のレベルまで引き上げよと伝えにきたのです。あなたたちの痛みはオリーブの園にて神聖なものとされたのですから泣いてもよいのです。

泣いて待てば良いのです。慰安のための天使たちが、あなたの涙を拭きに来てくれるからです。

 働く者たちよ、あなたの道のりを計画してください。前日の厳しい道のりを、再びその次の日も歩み続けてください。あなたたちの手によってなされる労働は、あなたたちの肉体に地上の糧を与えてくれます。しかし、あなたたちの魂も忘れられてはいません。

なぜなら神聖なる庭師である私は、あなたたちの思考の静まっている時、あなたたちの魂の手入れを行っているからです。あなたたちの休む時間がやってきてその日の日課から解放され、目をその日の光に対して閉じた時、私の蒔く貴重な種があなたの中で芽生えるのを感じ取ることができるでしょう。

 私たちの父の国では、何も失われるものはありません。あなたたちの汗、あなたたちの苦しみは、より進んだ世界においてあなたたちを豊かにしてくれる宝となるのです。その世界では、光が闇にとって代わり、あなたたちの中で最も質素な者がきっと最も輝かしくなるでしょう。(真実の霊 パリ 1861年)

 誠に言います。自分たちの重荷を背負い、その兄弟たちを助ける者たちこそが私の愛する者たちです。反抗による過ちを消し、人間の試練の崇高なる目的を教えてくれる貴重な教義をもって自分自身を教育してください。

風が吹いて埃を追い払うように、霊たちの一吹きによって地上の富を得た者たちに対するあなたたちの羨みが吹き飛ばされて行きますように。

地上の富を得た者たちとは、たいていもっとも惨めな者たちであるのです。なぜなら、彼らの試練はあなたたちの試練に比べて、より危険であるからです。私はあなたたちと共にあります。私の使徒たちはあなたたちに教えます。

愛の生きた泉に愛を求めてください。人生に拘束された者たちよ、あなたたちの完成のためにあなたたちを弱く造られた者のもとへ、いつの日か、自由と喜びを持って向かっていくことができるよう、その準備をしてください。

造形しやすい粘土を自分たちの手で形作り、自ら不滅の自分を創り上げることを神は望まれているのです。(真実の霊 パリ 1861年)

℘137       
七、私は魂の医者です。あなたたちを必ず治すことのできる薬をもってきました。弱い者、苦しむ者、病にかかった者は私の特に愛する子供たちであり、私は彼らを救いに来たのです。私の許においでなさい。苦しみ、悩むあなたたちは皆、慰められ、楽になることが出来るのです。別の場所に力と慰めを求めてはなりません。

なぜなら、この地上の世界ではそれを与えることが出来ないからです。神はスピリティズムを通じて、あなた達の心に最高の救いを投げかけてくれるのです。耳を傾けてください。無慈悲、偽り、誤ち、不信心があなたたちの痛ましい心から根絶されますように。

こうしたものこそがあなたたちの血液の純粋な部分を吸い上げ、あなたたちをほとんど死にまで至らせる傷を負わせる怪物なのです。未来において、創造主に慎ましく服従することできるように、神の法を実践してください。

愛し、祈ってください。主より送られてくる霊たちの教えを、素直に受け止めることができますように。神を心の底から叫んでください。そうすれば、主はあなたたちに素晴らしい言葉を伝え、教授してくれる、神の愛する子を送ってくれるでしょう。私はここにいます。あなたたちが私を呼んだので、私はここにいるのです。 (真実の霊 ポルドー 1861年)


八、神は慎ましい者たちを慰め、神の力を嘆願する苦しむ者たちに力を与えます。神の力は地球上のすべての場所に及び、流される一つ一つの涙のそばには慰安の薬を用意してくれています。自己を犠牲にし、献身して生きるということは、途絶えることなく祈っているようなものであり、そこには深い教えが含まれています。

人類の知恵はこの二つの言葉の中に生きているのです。痛みや道徳的な苦しみに対し、不平を訴えるのではなく、それらが地上で生きるために与えられたわけ前であるという真実を、苦しむ霊たちが理解することができますように。

献身と自己犠牲──これらの二つの言葉を標語として掲げ、強く生きてください。なぜならこれらの言葉には、慈善と慎ましさを実践するために必要な全ての義務が込められているからです。

義務を果たすことができた時の達成感は、あなたたちの心に平安と甘受の気持ちを与えてくれます。心臓はよりよく響き、魂は落ち着き、肉体は衰弱しなくなります。だから、霊が深く痛めつけられるほど、肉体は同じように苦しむのです。 (真実の霊 ルアーブル 1863年)

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks AgainEdited 

by S. Phillips


十章 あらためて基本的真理を

 シルバーバーチが霊媒を招待した時はいつも温かい歓迎の言葉で迎えるが、古くからの馴染の霊媒であればその態度はいっそう顕著となる。これから紹介する女性霊媒とご主人はハンネン・スワッハー・ホームサークルの結成当初からのメンバーで、最近は永らく自宅で独自の交霊会を催しておられ、今回は久しぶりの出席である。

 夏休みあとの最初の交霊会となったこの日もシルバーバーチによる神への祈願によって開始され、続いて全員にいつもと同じ挨拶の言葉を述べた。

 「本日もまた皆さんの集まりに参加し、霊界からの私のメッセージをお届けすることができることをうれしく思います。

 僅の間とはいえ、こうして私たちが好意を抱きかつ私たちに好意を寄せてくださる方々との交わりを持つことは、私たちにとって大きな喜びの源泉です。こうした機会に自然の法則にしたがってお互いが通じ合い、お互いの道において必要なものを、よろこびと感謝のうちに学び合いましょう。

 もとより私は交霊会という地上世界と霊界との磁気的接触の場のもつ希少価値はよく理解しており、私が主宰するこの会の連絡網の一本たりとも失いたくない気持ちですが、次のことは一般論としてもまた私個人にとっても真実ですので、明確に述べておきます。
℘175
それは、私はしつこい説教によって説き伏せる立場にはないと考えていることです。面白味のない霊的内容の教えを長い説教調で述べることは私の望むところではありません。

 そのやり方ではいかなる目的も成就されません。私が望むやり方、この交霊会で私がせめてものお役に立つことができるのは、ここに集われたすべての方に───例外的な人は一人もいません───ともすると俗世的な煩わしさの中で見失いがちな基本的真理を改めて思い起こさせてあげることです。

物的生活に欠かせない必然性から問題が生じ、その解決に迫られたとき、言いかえれば日常生活の物的必需品を手に入れることに全エネルギーを注ぎ込まねばならないときに、本来の自分とは何か、自分はいったい何者なのか、なぜ地上に生活しているかといったことを忘れずにいることは困難なことです。


 そこで私のような古い先輩───すでに地上生活を体験し、俗世的な有為転変に通じ、しかもあなた方一人一人の前途に例外なく待ち受けている別の次元の生活にも通じている者が、その物的身体が朽ち果てたのちにも存在し続ける霊的本性へ関心を向けさせていただいているのです。それが基本だからです。

あなた方は霊的な目的のためにこの地上に置かれた霊的存在なのです。そのあなた方を悩まし片時も心から離れない悩みごと、大事に思えてならない困った事態も、やがては消えていく泡沫(うたかた)のようなものに過ぎません。
℘176
 といって、地上の人間としての責務を疎かにしてよろしいと言っているのではありません。その物的身体が要求するものを無視しなさいと言っているのではありません。大切なのは正しい平衝感覚、正しい視点を持つこと、そして俗世的な悩みや心配ごとや煩わしさに呑み込まれてしまって自分が神の一部であること、ミニチュアの形ながら神の属性の全てを内蔵している事実を忘れないようにすることです。

そのことを忘れず、その考えを日常生活に生かすことさえできれば、あなた方を悩ませていることがそれなりに意義を持ち、物的、精神的、霊的に必要なものをそこから摂取していくコツを身につけ、一方に気を取られて他方を忘れるということはなくなるはずです。

 こう言うと多分〝あなたにとってはそれで結構でしょう。所詮あなたは霊の世界の人間です。家賃を払う必要もない、食料の買い出しに行く必要もない、衣服を買いに行かなくてもよい。そういうことに心を煩わせることがないのですから〟とおっしゃる方がいるかもしれません。たしかにおっしゃる通りです。

しかし同時に私は、もしもあなた方がそうしたことに気を取られて霊的なことを忘れ、霊の世界への備えをするチャンスを無駄にして、身につけるべきものも身につけずにこちらへ来られた時に果たしてどういう思いをなさるか、それも分かっているのです。こんな話はもう沢山ですか?」

℘177
 「とんでもございません。いちいちおっしゃる通りです」とその女性霊媒が答えると、

 「私の言っていることが間違いでないことは私自身にも確信があります。地上の全ての人にそれを確信させてあげれば視野が広がり、あらゆる困難に打ち克つだけの力が自分の内部に存在することを悟って取越苦労をしなくなり、価値ある住民となることでしょうが、なかなかその辺が分かって頂けないのです。

霊の宝は神の子一人一人の意識の内部に隠されているのです。しかし、そうした貴重な宝の存在に気づく人が何と少ないことでしょう。あなたはどう思われますか」と言って、今度はご主人の方へ顔を向けた。


 「まったく同感です。ただ、そのことをいつも忘れないでいることが出来ない自分を情けなく思っています」と御主人が答えると、
 
 「それが容易でないことは私も認めます。しかし、もしも人生に理想とすべきもの、気持ちを駆り立てるもの、
℘178
魂を鼓舞するものがなかったら、もしも目指すべき頂上が無かったら、もしも自分の最善のものを注ぎ込みたくなるものが前途に無かったら、人生はまったく意味が無くなります。もしもそうしたものが無いとしたら、人間は土中の中でたくる虫ケラと大差ないことになります」


 「本当に良い訓えを頂きました」

 「そう思っていただけますか。私には、してあげたくてもしてあげられないことが沢山あるのです。みなさんの日常生活での出来事にいちいち干渉できないのです。

原因と結果の法則の働きをコントロールすることはできないのです。また、あなた方地上の人間は大切だと考え私は下らぬこととみなしている事柄が心に重くのしかかっていることがありますが、その窮状を聞かされても私はそれに同情するわけにはいかないのです。

 私にできることは永遠不変の原理をお教えすることだけです。物質の世界がすみずみまで理解され開拓され説明しつくされても、宇宙にはいかなる人間にも完全に知りつくすことのできない神の自然法則が存在します。それは構想においても適応性においても無限です。
℘179
もしも日常生活に置いて決断を迫られた際に、あなた方のすべてが自分が霊的存在であること、大切なのは物的な出来事ではなく───それはそれなりに存在価値はあるにしても───そのウラ側に秘められた霊的な意味、あなたの本性、永遠の本性にとっていかなる意味があるかということです。

 物的存在物はいつかは朽ち果て、地球を構成するチリの中に吸収されてしまいます。と言うことは物的野心、欲望、富の蓄積は何の意味もないということです。一方あなたという存在は死後も霊的存在として存続します。あなたにとっての本当の富はその本性の中に蓄積されたものであり、あなたの価値はそれ以上のものでもなく、それ以下のものでもありません。

そのことこそ地上生活において学ぶべき教訓であり、そのことを学んだ人は真の自分を見出したという意味において賢明なる人間であり、自分を見出したということは神を見出したということになりましょう。

 地上生活を見ておりますと、あれやこれやと大事なことがあって休む間もなくあくせくと走りまわり、血迷い、ヤケになりながら、その一ばん大切なことを忘れ、怠っている人が大勢います。私たちの説く教訓の中でもそのことが一ばん大切ではないでしょうか。

それが、いったん霊の世界へ行った者が再び地上へ戻って来る、その背後に秘められた意味ではないでしょうか。
℘180
それを悟ることによって生きる喜び───神の子として当然味わうべき生き甲斐を見出してもらいたいという願いがあるのです。

 それは、いわゆる宗教あるいは教会、教義、信条の類い、これまで人類を分裂させ戦争と混沌と騒乱を生んできたものより大切です。少しも難しいことではありません。自分という存在の本性についての単純きわまる真理なのです。なのに、それを正しく捉えている人はほんの僅かな人だけで、大方の人間はそれを知らずにおります」


 再び霊媒である奥さんが、自分の支配霊も心霊治療を行うことがあると述べ、遠隔治療によって本人の知らないうちに治してあげていることもある事実を取り上げて、こう尋ねた。

 「そういう場合はなぜ治ったかを本人に教えてあげるべきだと思うのです。つまりそれを契機として、自分が神の子であることを知るべきだと考えるのですが、私の考えは正しいでしょうか、それとも多くを望みすぎでしょうか」

 「理屈の上では正しいことです。が、とりあえずあなたの治療行為が成功したことに満足し、そのことを感謝し、同時にその結果としてその人の魂を目覚めさせてあげるところまで行かなかったことを残念に思うに留めておきましょう。
℘181
大切なのは、まず病気を治してあげることです。その上に魂まで目覚めさせてあげることはなお一層大切なことです。が、一方は成就できても他方は成就出来ない条件のもとでは、その一方だけでも成就して、あとは〝時〟が解決してくれるのを待ちましょう。魂にその準備が出来るまでは、それ以上のものは望めないからです。

 肉体は治った。続いて魂の方を、ということになるべきところですが、そこから進化という要素が絡んできます。魂がそれを受け入れる段階まで進化していなければ無駄です。しかし、たとえ全面的に受け入れてもらえなくても、何の努力もせずにいるよりは何とか努力してみる方が大切です。それは私たちすべてが取るべき態度です。

ともかくも手を差しのべてあげるのです。受け入れてくれるかどうかは別問題として、ともかく手をさしのべてあげることです。努力のすべてが報われることを期待してはなりません。

 病気が治り魂も目覚める、つまり治療の本来の意義が理解してもらえるのが最も望ましいことです。次に、たとえ魂にまで手が届かなくても、病気だけでも治してあげるという段階もあります。さらにもう一つの段階は、たとえ治らなくても治療行為だけは施してあげるという場合です。
℘182
 要請された以上はそう努力しなければなりません。が、たとえ要請されなくても施すべき場合があります。受けるよりは施す方が幸いです。施した時点を持ってあなたの責任は終わります。そして、その時点からそれを受けた人の責任が始まります。


 「人間は自分の前生を思い出してそれと断定できるものでしょうか」

 「もしその人が潜在意識の奥深くまで探りを入れることが出来れば、それは可能です。ですが、はたして地上の人間でその深層まで到達できる人がいるかどうか、きわめて疑問です。その次元の意識は通常意識の次元からは遥かにかけ離れていますから、そこまで探りを入れるには大変な霊力が必要です」


 「そうした記憶は現世を生きている間は脇へ置いておかれるとおっしゃたことがあるように思いますが」

 「それなりの手段を講ずることが出来るようになれば、自分の個性のすべての側面を知ることができます。
℘183
しかし、あなたの現在の進化の段階においては、はたして今この地上においてそれが可能かとなると、きわめて疑問に思えます。つまり理屈ではできると言えても、あなたが今までに到達された進化の段階においては、それは不可能だと思います」

  
 「神は特別な場合に備えて特殊な力を授けるということをなさるのでしょうか」 と、かつてのメソジスト派の牧師が尋ねた。

 「時にはそういうこともなさいます。その人物の力量次第です。最も、神が直接干渉なさるのではありません」

 「神学には〝先行恩寵〟という教義があります」 (苦を和らげるために前もって神が人の心に働きかけて悔悟に導くという行為のこと───訳者)

 「ありますね。神は毛を刈り取られた羊への風を和らげてあげるという信仰です(※)時にはそういうこともあることは事実です。が、神といえども本人の受け入れ能力以上のものを授けることはできません。
℘184
それは各個の魂の進化の問題です。私がそういう法則をこしらえたわけではありません。法則がそうなっていることを私が知ったということです。

 みなさんもいつかは死ななくてはなりません。霊の世界へ生まれるために死ななくてはなりません。地上の人にとってはそれが悲しみの原因になる人がいますが、霊の世界の大勢の者にとってそれは祝うべき慶事なのです。要は視点の違いです。 私たちは永遠の霊的観点から眺め、あなた方は地上的な束の間の観点から眺めておられます」

(※ 英国の小説家ロレンス・スターンの小説の中の一節で、弱き者への神の情けを表現する時によく引用される───訳者)


 ここでサークルの二人のメンバーが身内や知人の死に遭遇すると無常感を禁じ得ないことを口にすると、シルバーバーチはこう述べた。

 「霊に秘められた才覚のすべてが開発されれば、そういう無常感は覚えなくなります。が、これは民族並びに個人の進化に関わる問題です。私にはそのすべての原理を明らかにすることはできません。私とて、すべてを知っているわけではないからです。あなた方より少しばかり多くのことを知っているだけです。

そしてその少しばかりをお教えすることで満足しております。知識の総計と較べれば微々たるものです。が、私は神の摂理が地上とは別個の世界においてどう適用されているかをこの目で見て来ております。
℘185
数多くの、そしてさまざまな環境条件のもとでの神の摂理の働きを見ております。そして私がこれまで生きてきた三千年の間に知り得たかぎりにおいて言えば、神の摂理は知れば知るほどその完璧さに驚かされ、その摂理が完全なる愛から生まれ、完全なる愛によって管理され維持されていることを、ますます思い知らされるばかりなのです。

 私も摂理のすみずみまで見届けることはできません。まだまだすべてを理解できる段階まで進化していないからです。理解出来るのはほんの僅かです。しかし、私に明かされたその僅かな一部だけでも、神の摂理が完全なる愛によって計画され運営されていることを得心するには十分です。

私は自分にこう言い聞かせているのです───今の自分に理解できない部分もきっと同じ完全なる愛によって管理されているに相違ない。もしそうでなかったら宇宙の存在は無意味となり不合理な存在となってしまう。

もしこれまで自分が見てきたものが完全なる愛の証であるならば、もしこれまでに自分が理解してきたものが完全なる愛の証であるならば、まだ見ていないもの、あるいはまだ理解できずにいるものも又、完全なる愛の証であるに違いない、と。

 ですから、もしも私の推理に何らかの間違いを見出されたならば、どうぞ遠慮なく指摘していただいて結構です。私はよろこんでそれに耳を傾けるつもりです。私だっていつどこで間違いを犯しているか分からないという反省が常にあるのです。無限なる宇宙のほんの僅かな側面しか見ていないこの私に絶対的な断言がどうしてできましょう。

ましてや地上の言語を超越した側面の説明は皆目できません。こればかりは克服しようにも克服できない、宿命的な障壁です。そこで私は、基本的な真理から出発してまずそれを土台とし、それでは手の届かないことに関しては、それまでに手にした確実な知識に基づいた信仰をおもちなさい、と申し上げるのです。

 基本的真理にしがみつくのです。迷いの念の侵入を許してはなりません。これだけは間違いないと確信するものにしがみつき、謎だらけに思えてきた時は、ムキにならずに神の安らぎと力とが宿る魂の奥の間に引き込もることです。そこに漂う静寂と沈黙の中にその時のあなたにとって必要なものを見出されることでしょう。

 常に上を見上げるのです。うつ向いてはなりません。うなだれる必要はどこにもありません。あなたの歩む道に生じることの一つ一つがあなたという存在を構成していくタテ糸でありヨコ糸なのです。これまでにあなたの本性の中に織り込まれたものはすべて神の用意された図案(パターン)にしたがって織られていることを確信なさることです。

 さて本日もここから去るに当たって私から皆さんへの愛を置いてまいります。私はいつも私からの愛を顕現しようと努力しております。お役に立つことならばどんなことでも厭わないことはお分かりいただけてると思います。

しかし、楽しく笑い冗談を言い合っている時でも、ここにこうして集い合った背後の目的をゆめゆめ忘れないようにいたしましょう。神は何を目的としてわれわれを創造なさったのかを忘れないようにいたしましょう。

その神との厳粛なつながりを汚すようなことだけは絶対にしないように心がけましょう。こうした心がけが、神の御心に適った生き方をする者にかならず与えられる祝福、神の祝福を受けとめるに足る資格を培ってくれるからです」

(訳者注───本章は一見なんでもないことを述べているようで、その奥に宇宙の厳粛な相(すがた)を秘めたことを何の衒(てらい)もなく述べた、シルバーバーチ霊言集の圧巻であるように思う。特に〝私は自分にこう言い聞かせているのです〟で始まる後半の部分は熟読玩味に値する名言で、その中にシルバーバーチの霊格の高さ、高級霊としての証が凝縮されているように思う。

霊格の高さを知る手掛かりの一つは謙虚であるということである。宇宙の途方もない大きさと己れの小ささ、神の摂理の厳粛さと愛を真に悟った者はおのずと大きなことは言えなくなるはずである。

 反対に少しばかり噛(かじ)った者ほど大言壮語する。奥深い厳粛なものに触れていないからこそ大きな口が利けるのであろう。それは今も昔も変わらぬ世の常であるが、霊的なことが当然のこととして受け入れられるようになるこれからの世の中にあっては、人を迷わせる無責任きわまる説が大手を振ってのさばることが予想される。そうしたものに惑わされないためにはどうすべきか。

 それはシルバーバーチが本章で述べている通り、基本的真理にしがみつくことである。われわれ人間は今この時点においてすでに霊であること、地上生活は次の段階の生活に備えて霊的資質を身につけることに目的があること、人生体験には何一つ無駄なものはないこと、ただそれだけのことを念頭において地道に生きることである。

 本章を訳しながら私はシルバーバーチの霊訓の価値を改めて認識させられる思いがしてうれしかった)
 

Tuesday, May 19, 2026

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks AgainEdited 

by S. Phillips



九章 良心の声

 More Wisdom of Silver Birch (次の第七巻として翻訳の予定───訳者) を読んだ読者からサークル宛に長文の手紙が寄せられた。その大要を紹介すると───

 〝私の知っている人の中には神を畏(おそ)れ教会を第一主義とする信心深い人が大勢います。その人たちは確かに親切心に富み喜んで人助けをする人たちで、教会が善いこと正しいこととして教えるものを忠実に守っております。

ところが何でもないはずの霊的事実を耳にすると、それを悪魔のしわざであるとか罪深きこととか邪悪なことと言って恐れます。その無知は情けなくなるほどです。

 ところで、こうした人たち及びこれに類する、言わば堅実に生きる善人は、私の考えでは、偏見のない良心と、何世代にもわたって教え込まれてきた幼稚な教説によって汚染された良心との区別がつかなくなっているのだと思います。

たとえば日曜日に教会へ出席しなかっただけで悩んだりします。彼らにとっては礼拝に出席することが神の御心に適ったことであり、善であり、正しいことであり、したがって欠席することは間違ったことであり、罪深いことであるかに思えるのです。

 そうした思考形式が魂に深く植えつけられた場合、いったいどうすれば正常に戻すことが出来るでしょうか。彼らが呵責(かしゃく)を覚えているのは本当はシルバーバーチ霊がおっしゃる偏りのない良心ではありません。
℘161
一種の偏見によって本当の良心が上塗りをされております。そこでシルバーバーチ霊にお願いしたいのは、本当の良心とは何か、それと見せかけの良心とを見分けるにはどうしたらよいかを教えていただきたいのです〟云々・・・


 この手紙の主旨を聞かされたシルバーバーチは次のように答えた。

 「地上においても霊界においても、道徳的、精神的ないし霊的問題に関連してある決断を迫られる事態に直面した時、正常な人間であれば〝良心〟が進むべき道について適確な指示を与える、というのが私の考えです。神によって植えつけられた霊性の一部である良心が瞬間的に前面に出て、進むべきコースを指示します。

 問題は、その指示が出たあとから、それとは別の側面がでしゃばりはじめることです。偏見がそれであり、欲望がそれです。良心の命令を気に食わなく思う人間性があれこれと理屈を言い始め、何かほかに良い解決方法があるはずだと言い訳を始め、しばしばそれを〝正当化〟してしまいます。しかし、いかに弁明し、いかに知らぬふりをしてみても、良心の声がすでに最も正しい道を指示しております」
℘162
 サークルの一人 「この手紙にはスピリチュアリズムは間違いであると思いこんでいる実直で真面目な教会第一主義の信心家のことが述べられておりますが・・・」


 「それはもはや良心の問題ではなく、精神的発達の問題です。問題が全く別です。それは間違った前提に立った推理に過ぎません。私のいう良心は内的な霊性に関わる問題において指示を必要とする時に呼び出されるものです」


───でも、良心は精神的発達と密接につながっていませんか。

 「つながっている場合とつながっていない場合とがあります。私は良心とは神が与えた霊的監視装置で、各自が進むべき道を的確に指示するものであると主張します」


─── 一人の人間は正しいと言い、別の人間は間違いだと言う場合もあるでしょう?

 「あります。が、そのいずれの場合においても、自動的に送られてくる良心による最初の指示が本人の魂にとってもっとも正しい判断であると申し上げているのです。
℘163
問題はその指示を受けたあとで、それに不満を覚え、ほかにもっとラクで都合のいい方法はないものかと、屁理屈と正当化と弁解を始めることです。

しかしモニターによってすでに最初の正しい指示が出されているのです。この説はあまり一般受けしないかも知れませんが、私の知る限り、これが真実です」


───東洋の宗教は古くから人間の内部に宿る神を強調していますね。

 「私なら神の内部に宿る人間を強調したいところです。私に言わせれば〝人間の中の大霊〟といっても〝大霊の中の人間〟と言ってもまったく同じことです。神と人間とは永遠の繋がりがあります。神は絶対に切れることのない愛の絆によって創造物と繋がっております。

進化の程度において最下等のものから最高の天使的存在にいたるまでの全存在が神の愛と生命の活動範囲の中におさまっています。程度が低すぎて神から見放されることもなければ、高すぎて神を超えてしまうこともあり得ません」
℘164
───すべてが大霊の一部だからですね。


 「そうです。〝一部〟といっても説明が困難ですが、人類のすべてが神性の一部を有しております。これは大切な真理で、これさえ理解され生活の規範とされるようになれば、世界のすべての人間が霊的な威力を呼び覚まし、日々生じる問題について新しい視野で対処できるようになることでしょう」


───神はすべての界層において平等に顕現しているのでしょうか。それとも地上の人間だけがそれを悟れないでいる、あるいは捉らえ損ねているのでしょうか。それとも人間が死後の界層を進化していくにつれて神の顕現の分量が増していくのでしょうか。

 「それは要するに受容力の問題です。神は無限です。無限なるものには際限がありません。制限がありません。神の恵みは果てしなく広がっています。知りつくすということは絶対にできません。人間はいつまでも進化し続ける存在です。進化するにつれて受容力が増します。受容力が増すにつれて理解力が増し、かくしてその分だけ神を理解できることになります」
℘165      
───ここに二人の人間がいて、一人は元気盛りでもう一人は死期を迎えて肉体との関係が稀薄になっているとします。この場合、後者の方が霊的な影響を受けやすいのでしょうか。


 「必ずしもそうとは言い切れません。肉体から離れるということは必ずしも進化を決定づけるものではありません。私の世界にも地上の人間より進化の程度の低い霊がそれはそれは大勢います。たしかに肉体はその本性そのもののために人間の精神の表現を制約しておりますが、人類全体として言えば、地上のいずれにおいても霊性の発達のための余地がふんだんに存在します」


───その発達の為に努力することが霊のためになるのだと思います。そうでなかったら地上に存在する意味が無いことになるからです。肉体というハンディを背負いながら成長しようと刻苦することが魂にとって薬になるのだと思います。

 「もちろんですとも。困難を克服しようと努力するとき、次々と振りかかる障害に必死に抵抗していくとき、不完全さを補い完全へ向けて努力するとき、そのときこそ神性が発揮されるのです。それが進化の諸相なのです」

℘166
───地上というとこは魂の修行場としていろんな面で有利であるといった趣旨の話をよく耳にします。地上的闘争をくぐり抜けねばならないということそれ自体が地上の良さでもあると言えると思うのです。

 「おっしゃる通りです。当然そうあらねばなりません。もしそうでなかったら地上へ生れてくることもないでしょう。宇宙の生命の大機構の中にあって、この地上もそれなりの役割があります。地上は保育所です。訓練所です。いろんなことを学ぶ学校です。身支度をする場です。

潜在している才能が最初に目を出す場であり、それを人生の荒波の中で試してみる所です。そうした奮闘の中ではじめて真の個性が形成されるのです。闘争もなく、反抗もなく、困難もなく、難問もないようでは、霊は成長しません。進化しません。奮闘努力が最高の資質、最良の資質、最大の資質、最も深層にある資質を掘り起こすのです」


───若くして他界した場合はどうなるでしょうか。
℘167
 「そうくると思ってました」


───これには二つのケースがあると思うのです。一つは、もしそれがその人の寿命であれば、それまでに霊的にはすでに他界する準備が出来ていた場合。もう一つは死後その埋め合わせのために物質界との接触を通じて進化を得る場合です。

 「あなたは親切な方ですね。質問なさると同時に二つも答えを用意して下さいました。ご質問に対する答えは、古くからある恐怖の輪廻転生思想と、私の説く再生説即ち前回の地上生活での不足分を補う為に地上のどこかに誕生するという、この二つの説のうちのどちらかをお選びください。

あなたの気に入られた方をお取りになればよろしい。私の説はすでによくご存じでしょう。しかし、ここで強調しておきたいのは次の点です。

 よく分らないことが沢山あります。私たちも所詮すべての知識は持ち合わせておりません。しかし同時に、矛盾を恐れずに申し上げれば、神は完全であるゆえに摂理も完全です。

(訳者注───すべての知識は持ち合せないといいながら神は完全であると断定するのは明らかに矛盾しているが、第十章の後半で、過去三千年の体験からそう信じるに足るだけの証を手にしているのだと述べている)
℘168
いかなる困難が生じても、そして、たとえそれに対して私たちがあなたに満足のいく回答をお授けすることができなくても、それは神の計画に欠陥があるということではありません。絶対にそういうことはありません。〝愛〟が宇宙を支配しているのです。無限の範囲と適用性を持つ愛です。

いったんその愛があなたを通じて働くようになれば、あなたは一変し、あなたに生を与えた霊力と一体になります」(先に述べた矛盾を超越してなるほどと実感を持って得心できるということ───訳者)


───こうした問題は限られた人間的理解力を超えているというのは本当でしょうか。私たちは宿命的に理解不可能なのでしょうか。

 「無限の顕現を持つ宇宙を理解しようとするとき人間の肉体的構造が一つの限界となることは、一般的に言って事実です(霊覚者は別ということ───訳者)。決して知識欲に水を差すつもりで申し上げるのではありません。が、

私たちはあくまでも現実を見失ってはなりません。幾十億と知れぬ人間が生活する地上に目を向けてみましょう。その大半がここにいらっしゃる方が当たり前と思っている霊的真理にまったく無知なのです。その知識からあなた方が得ている喜びが彼らには保証されていないのです。
℘169
その生活は悲劇と哀しみに満ちております。しかも、いずこに救いを求めるべきかも知らずにおります。ならば、私たちこそ、これまでに得た知識を少しでもそういう人たちに分けてあげることでお役に立つことができるのではないでしょうか。そうすることが知識を獲得した者が担う責任、つまりそれをさらに他の人々にも分けてあげるという責任を遂行することになるのではないでしょうか」


───それこそが、こうして私たちがこの部屋に集まっているそもそもの目的だと思います。

 「そうです。それが目的でここに集まっているのです。それこそが私たちの双肩に掛かっている仕事です。あらんかぎりの力を尽くしてその遂行に当たらなければなりません。われわれにとって可能な限りの人数を達成するまでは気を抜いて安心してはなりません」


 ここで話題が変わって、もう一人の招待客が 「夜空に見える星はただの物体でしょうか。それとも生命が存在するのでしょうか」と尋ねた。
℘170
 「どうやら少し深みに入ってきたようですね。地上世界の知識もまだまだ限界に到達しておりませんが、私たちの世界にいたっては遥かに限界からほど遠い状態です。宇宙には最高界の天使的存在から、意識がようやく明滅する程度の最低の魂に至るまでの、さまざまな意識的段階にある生命が無数に存在します。

意識的生命が地球だけに限られていると思ってはなりません。地球は数限りなく存在する天体のうちの、たった一つに過ぎません。無限なる叡知を持つ宇宙の大霊が、無限なる宇宙において無限なる意識的段階にある無数の生命に無限の生活の場を与えることができないはずがありません。

有機的生命の存在する天体は無数にあります。ただし、その生命は必ずしもあなた方が見慣れている形態をとるわけではありません。以上の説明が私としては精一杯です」


───それもやはり人間的存在なのでしょうか。

 「今私は、少し深みに入ってきたと申し上げました。ある種の形態、すなわち形と大きさと運動を持ち、環境に働きかけることができる意識的存在という意味では人間と同じ組織的存在ですが、例外はあるにしても、そのほとんどはあなた方が親しんでおられる形態の組織体と同じではありません。どうやらこれ以上の説明は無理のようです」

℘171
───あなたはそうした存在を御覧になったり話を交わしたことがおありですか。

 「私の方からその天体にまで赴いて話をしたことはありませんが、あなた方の死に相当する過程を経たあと霊的形態に宿って話を交わしたことはあります。ですが、忘れないでいただきたいのは、あなた方が地上の生命とまったく類似性のない生命に言及されると、それをなぞらえるべき手段を見出すのが困難なのです」

訳者注───地球人類が他の天体上の意識的生命をうんぬんするとき、とかく人間的身体と同じ形態を具えたものを想像しがちであるが、各種の霊界通信から推察すると、むしろ地球人類の方が特殊な部類に属し、幾千億と知れぬ天体上には人間の想像を超える形態を具えた存在が躍如たる生命活動を営んでいるようである。

シルバーバーチが説明困難といったのは、なぞらえるべきものが見当たらないのも一つの理由であるが、うっかり説明し始めるとつい〝深み〟にはまり込んでしまって、にっちもさっちもいかなくなるという危惧があるようである。むろんそれ以前に、今の人類にそんなものは必要ないという配慮もあることであろう。

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks AgainEdited 

by S. Phillips



八章 真理には無限の側面がある

 作家としても出版業者としても成功をおさめている男性と、心霊知識の普及に健筆を揮っている女性(両者とも氏名は紹介されていない。手掛かりになるものもない──訳者)が招かれた時の様子を紹介する。

 この男性は交霊会は今回が初めてであるが、スピリチュアリズムには早くから親しんでいた。そこでシルバーバーチがこう挨拶した。

 「私はあなたを見知らぬ客としてではなく待ちに待った友として歓迎いたします。どうかサークルの皆さんと思い切り寛いだ気分になっていただき、お互いに学び合ってまいりましょう。

 これまであなたもずいぶん長い道のりを歩んでこられました。けっして楽な道ではありませんでした。石ころだらけの道でした。それをあなたは見事に克服してこられました。あなたご自身にとって、またあなたの愛する方たちにとって重大な意味をもつ決断を下さねばならなかった魂の危機を象徴する、忘れ難い出来ごとが数多くあります」


 これを聞いてその男性は 「少しピンと来ないところがあるのですが」 と述べてから、自分が霊的に飢えていたと言うのはどういう意味かと尋ねた。すると───
p139
 「(通常意識とは別に)あなたの魂が切望していたものがありました。あなたの内部で無意識に求めていたものですが、あなたはその欲求を満たしてやることが出来なかった。

永い間あなたは何かを成就したい、やり遂げたい、我がものにしたいという絶え間ない衝動───抑えようにも抑え難い、荒れ狂ったような心の渇望を意識し、それがしばしば精神的な苦痛を生みました。〝一体自分の心の安らぎはどこに求めたらいいのか。

自分の心の港、心の避難場所はどこにあるのか〟と心の中で叫ばれました。次々と難問は生じるのに回答は見出せませんでした。ですが、いいですか、その心の動乱は実はあなた自身の魂の体質が生んでいたのです。

水銀柱が急速に上昇するかと思えば一気に下降します。あなたは暴発性と沈着性という相反するものを具えたパラドックス的人間です。いかがです、私の言っていることがお分かりになりますか」


───よく分ります。おっしゃる通りです。私なりに偉大な思想家から学ぼうと努力してきたつもりですが・・・・・・

 「私にも真理のすべてをお授けすることはできません。真理は無限であり、あなたも私も同様に有限だからです。
℘140
われわれも無限なるものを宿していることは事実ですが、その表現が悲しいほど不完全です。完全の域に達するまでは真理のすべてを受け入れることはできません。真理とは無限の側面を持つダイヤモンドです。無限の反射光を持つ宝石です。

その光は肉体に閉じ込められた意識では正しく捉らえ難く、その奥の霊の持つ自然の親和力によって手繰り寄せられた部分をおぼろげに理解する程度です。私には〝さあ、これが真理ですよ〟と言えるものは持ち合わせません。あなたが求めておられるものの幾つかについて部分的な解答しかお出しできません。

 あなたは感受性のお強い方です。男性のわりには過敏でいらっしゃいます。それはそれなりの代償を支払わされます。普通の人間には分からないデリケートで霊妙なバイブレーションを感知できるほどの感受性を持っておれば、当然、他の分野でも過敏とならざるを得ません」


───そのことを痛切に思い知らされております。

 「感受性が強いということは喜びも悲しみも強烈となるということです。幸福の絶頂まで上がれるということは奈落の底まで落ちることも有り得るということです。強烈な精神的苦悶を味わわずして霊的歓喜は味わえません。
℘141
二人三脚なのです。私があなたのお役に立てることといえば、たとえ苦境にあってもあなたは決して泥沼に足を取られてにっちもさっちも行かなくなっているのではないこと、何時も背後霊によって導かれているということを理解させてあげることです。

一人ぼっちであがいているのではないということです。幸いなことにあなたは度を過して取り乱すことのない性格をしていらっしゃいます。時には目先が真っ暗に思えることがあっても、自分が望むことは必ず叶えられるとの確信をお持ちです。

 どうぞ自信をもってください。あなたが生きておられるこの宇宙は無限なる愛によって創造され、その懐の中に抱かれているのです。その普遍的な愛とは別に、あなたへ個人的な愛念を抱き、あなたを導き、援助し、利用している霊の愛もあります。それは、よくよくのことがないかぎり自覚していらっしゃいません。私の申し上げたことが参考になりましたでしょうか」


───とても参考になりました。

   ※ ※ ※

 話は前後するが、この交霊会より早く、女性の文筆家が二度招かれていた。この夫人はスピリチュアリズム普及のためにいろいろと書いておられる。が、最近ご主人に先立たれた。シルバーバーチが歓迎の言葉をこう述べた。
℘142
 「あなたのペンの力で生き甲斐を見出してから他界した大勢の人に代わって、私が歓迎の言葉と感謝の気持ちを述べる機会を持つことができて、とてもうれしく思います。私たちにはあなたから慰めを得た人々の心、あなたの健筆によって神の恵みに浴することができた魂が見えるのです。

道を見失える者、疲れ果て困惑しきってあなたのもとを訪れる人々に、あなたは真心を込めて力になってあげられました。自分を人のために役立てること、これが私たちにとって最も大切なのです」


───ご理解いただいているように、ともかく私は人のためにお役に立ちたいのです。

 「私たちの価値判断の基準は地上とは異なります。私たちは、出来ては消えゆく泡沫のような日々の出来ごとを、物質の目でなく魂の知識で見つめます。その意味で私たちは、悲しみの涙を霊的知識によって平静と慰めに置きかえてあげる仕事にたずさわっている人に心から拍手喝采を送るものです。

地上の大方の人間があくせくとして求めているこの世的財産を手に入れることより、たった一人の人間の魂に生甲斐を見出させてあげることの方がよほど大切です。
℘143
 有為転変(ういてんぺん)きわまりない人生の最盛期において、あなたはその肩に悲しみの荷を負い、暗い谷間を歩まねばならないことがありましたが、それもすべては、魂が真実なるものに触れてはじめて見出せる真理を直接(じか)に学ぶためのものでした。

大半の人間がとかく感傷的心情から、あるいはさまざまな魂胆から大切にしたがる物的なものに、必要以上の価値を置いてはいけません。そうまでして求めるほどのものではないのです。いかなる魂をも裏切ることのない中心的大原理即ち霊の原理にしがみつかれることです」
 
 さらにシルバーバーチはその文筆家が主人を亡くしたばかりであることを念頭におきながらこう続けた。

 「あなたが今こそ学ばねばならない大切な教訓は、霊の存在を人生の全ての拠りどころとすることです。明日はどうなるかという不安の念を一切かなぐり捨てれば、きっとあなたも、そのあとに訪れる安らぎと静寂とともに、それまで不安に思っていた明日が実は、これから辿らねばならない道においてあなたを一歩向上させるものをもたらしてくれることに気づかれるはずです。

非常に厳しい教訓ではあります。しかし、すべての物的存在は霊を拠りどころとしていることはどうしようもない事実なのです。
℘144
物的宇宙は全大宇宙を支配する大霊の表現であるからこそ存在し得ているのです。そしてあなたもその身体に生命と活力を与えている大霊の一部であるからこそ存在し得ているのです。物的世界に存在するものはすべて霊に依存しております。言わば実在という光の反射であって、光そのものではないのです。

 私たちとしては、あなた方人間に理想を披歴するしかありません。言葉をいい加減に繕うことは許されません。あなたがもし魂の内部に完全な平静を保つことができれば、外部にも完全な平静が訪れます。

物的世界には自分を傷つけるもの、自分に影響を及ぼすものは何一つ存在しないことを魂が悟れば、真実、この世に克服できない困難は何一つありません。かくして、訪れる一日一日が新しい幸せをもたらしてくれることになります。いかに優れた魂にとっても、そこまでは容易に至れるものではないでしょう。

 しかし人間は苦しい状態に陥ると、それまでに獲得した知識、入手した証拠を改めて吟味しなおすものです。本当に真実なのだろうか、本当にこれでいいのだろうか、と自問します。しかし、これまで何度も申し上げてきたことですが、ここでまた言わせていただきます。万事がうまく行っている時に信念を持つことは容易です。が、

信念が信念としての価値を持つのは暗雲が太陽をさえぎった時です。が、それはあくまでも雲にすぎません。永遠にさえぎり続けるものではありません」
℘145
(訳者注───このあとに続く部分は第四巻の八章「質問に答える」の中で質問(四)として引用されている。次の問答はその続きとしてお読みいただきたい)

───最近の大規模な疎開政策によって家族関係が破壊され、それが責任意識に欠けた若者を生む原因になっていると私は考えるのですが、いかがでしょうか。

 「そういうことも考えられます。が、それがすべてというわけではありません。元来家庭というのは子供の開発成長にとっての理想的単位であるべきなのですが、残念ながらこれにも多くの例外があります。

私が思うに、暴力行為を誘発すると同時に道徳基準を破壊してしまうという点において、やはり何といっても戦争が最大の原因となっております。一方で相手を殺すことを奨励しておいて、他方で戦争になる前のお上品さを求めても、それは無理というものです」

───結局、社会環境を改善するしかないように思います。
℘146
 「そのために霊的実在についての知識を普及することです。自分が霊的存在であり物的存在ではないこと、地上生活の目的が霊性の開発と発達にあることをすべての人間が理解すれば、これほど厄介な野獣性と暴力の問題は生じなくなることでしょう」


 これにサークルのメンバーが 「そうなれば当然戦争などは起こり得ないですね」 と相づちを打つと、シルバーバーチが───

 「人類の全てが霊性を認識し、人類という一つの家族の一員としてお互いの間に霊という不変の絆がありそれが全員を家族たらしめているということを理解すれば、地上から戦争というものが消滅します」


 別のメンバーが 「それがいわゆる不戦主義者の態度なのですね?」と述べると───

 「私はラベルには関心はありません。私はなるべく地上のラベルには係わり合わないようにしております。理想、理念、動機、願望───私にとってはこうしたものが至上の関心事なのです。たとえば自らスピリチュアリストを持って任じている人が必ずしもスピリチュアリズムを知らない人よりも立派とは言えません。

不戦主義者と名のる人がおり、その理念が立派であることは認めますが、問題は結局その人が到達した霊的進化の程度の問題に帰着します。
℘147
不完全な世の中に完全な矯正手段を適用することは出来ません。時には中途半端な手段で間に合わせざるを得ないこともあります。世の中が完全な手段を受け入れる用意が出来ていないからです。

こちらの世界では高級な神霊はまず動機は何かを問います。動機がその行為の指標だからです。もしその動機が真摯なものであれば、その人の願望はまるまる我欲から出たものではないことになり、したがって判断の基準も違ってきます」

(訳者注───最後に述べている〝まるまる我欲から出たものではない〟というセリフは注目すべきであろう。前巻でも注釈しておいたことであるが、シルバーバーチは〝利己性〟をすべていけないものとは見ていない。

霊的なものに目覚めた当初はとかく完全な純粋性を求め、それが叶えられない自分を責めがちであるが、肉体という〝悲しいほど不自由な牢〟に閉じ込められている人間に、そのような完全性を求めるつもりはさらさらないようである。だから〝動機さえ正しければ〟ということになるのである)


 ここで先ほどの女性が 「立派な兵士と真面目な不戦主義者とがともに正しいということもあり得るのですね」 と述べると───
℘148         
 「その通りです。二人の動機は一体何かを考えればその答えが出ます。何ごとも動機がその人の霊的発達の程度の指標となります」

───こういう場合には自分だったらこうするだろうということは予断できないと思うのです。

 「そうなのです。なぜかと言えば、人間はその時点までに到達した進化の程度によって制約されていると同時に、地上生活での必需品として受け継いだ不可避の要素(前世からの霊的カルマ、肉体の遺伝的要素などが考えられる───訳者) の相互作用の影響も受けるからです。ですから、常に動機が大切です。

それが、どちらが正しいかを判断する単純明快な基準です。かりに人を殺めた場合、それが私利私欲、金銭欲、その他の利己的な目的が絡んでいれば、その動機は浅はかと言うべきでしょうが、愛する母国を守るためであれば、その動機は真摯であり真面目です。

それは人間として極めて自然な情であり、それが魂を傷つけることにはなりません。ただ残念なことに、人間は往々にしてその辺のところが曖昧なことが多いのです」

 別のメンバーが 「でも、もちろんあなたは人を殺めるということそのものを良いことだとは思われないでしょう」 と言うと、
℘149
 「もちろんです。理想としては殺し合うことは間違ったことです。ですが、前にも述べたことがありますように、地上世界では二つの悪いことの内の酷くない方を選ばざるを得ないことがあるのです」

(訳者注─── この後の死刑制度についての問答は同じく第四巻の 「質問に答える」 の質問(四)の最後に引用されているが、これをカットすると脈絡が取れにくくなるので再度掲載しておく)


───死刑制度は正しいとお考えですか。

 「いえ、私は正しいと思いません。これは〝二つの悪いことの酷くない方〟とは言えないからです。死刑制度は合法的殺人を許していることでしかありません。個人が人を殺せば罪になり国が人を処刑するのは正当という理屈になりますが、これは不合理です」


───反対なさる主たる理由は、生命を奪うことは許されないことだからでしょうか。それとも国が死刑執行人を雇うことになり、それは雇われた人にとって気の毒なことだからでしょうか。
℘150
 「両方とも強調したいことですが、それにもう一つ強調しておきたいのは、いつまでも死刑制度を続けているということは、その社会がまだまだ進歩した社会とは言えないということです。なぜなら、死刑では問題の解決にはなっていないことを悟る段階に至っていないからです。それはもう一つの殺人を犯していることにほかならないのであり、これは社会全体の責任です。それは処罰にはなっておりません。ただ単に別の世界へ突き落しただけです」


───そのうえ困ったことに、そういう形で強引にあの世へ追いやられた霊による憑依現象が多いことです。地上の波長に近いためすぐに戻って来て誰かに憑依しようとします。

 「それは確かに事実なのです。霊界の指導者が地上の死刑制度に反対する理由の一つにそれがあります。死刑では問題を解決したことになりません。さらに、犯罪を減らす方策───これが方策と言えるかどうか疑問ですが───としても実にお粗末です。そのつもりで執行しながら、それが少しもその目的のために役立っておりません。
℘151
残虐行為に対して残虐行為を、憎しみに対して憎しみを持って対処してはなりません。常に慈悲心と寛恕と援助の精神を持って対処すべきです。それが進化した魂、進化した社会であることの証明です」


───そこまで至るのは大変です。

 「そうです、大変なのです。しかし歴史のページを繙けば、それを成就した人の名が燦然たる輝きを持って記されております」


───憑依現象のことですが、憑依される人間はそれなりの弱点を持っているからではないかと思っています。つまり、土の無いところにタネを蒔いても芽は出ないはずなのです。

 「そうです。それは言えます。もともとその人間に潜在的な弱点がある、つまり例によって身体と精神と霊の関係が調和を欠いているのです。邪霊を引きつける何らかの条件があるということです。アルコールの摂り過ぎである場合もありましょう。薬物中毒である場合もありましょう。
℘151
度を越した虚栄心、ないしは利己心が原因となることもあります。そうした要素が媒体となって、地上世界の欲望を今一度満たしたがっている霊を引きつけます。意識的に取り憑く霊もいますし、無意識のうちに憑っている場合もあります」


 その日の交霊会の終りに、最近一人娘を失ったばかりの母親からの手紙が読み上げられた。その手紙の主要部分だけを紹介すると───

 〝私は十九歳のひとり娘を亡くしてしまいました。私も夫も諦めようにも諦めきれない気持ちです。私たちにとってその娘が全てだったのです。私たちはシルバーバーチの霊言を読みました。シルバーバーチ霊はいつでも困った人を救ってくださるとおっしゃっています。

(肢体不自由だった)娘は十九年間一度も歩くことなく、酷しい地上人生を送りました。その娘が霊界でぶじ向上しているかどうか、シルバーバーチ霊からのメッセージがいただけないものでしょうか。地上で苦しんだだけ、それだけあちらでは報われるのでしょうか。私は悲しみに打ちひしがれ、途方に暮れた毎日を生きております〟


 これを聞いたシルバーバーチは次のように語った。
℘153
 「その方にこう伝えてあげてください。神は無限なる愛であり、この全宇宙における出来ごとの一つとして神のご存知でないものはありません。すべての苦しみは魂に影響を及ぼして自動的に報いをもたらし、そうすることによって宇宙のより高い、より深い、より奥行きのある、側面についての理解を深めさせます。

娘さんもその理解力を得て、地上では得られなかった美しさと豊かさをいま目の前にされて、これからそれを味わって行かれることでしょう。

 また、こうも伝えてあげてください。ご両親は大きなものを失われたかもしれませんが、娘さん自身は大きなものを手にされています。お二人の嘆きも悲しみも悼みも娘さんのためではなく実はご自身のためでしかないのです。ご本人は苦しみから解放されたのです。

死が鳥かごの入り口を開け、鳥を解き放ち、自由に羽ばたかせたことを理解なされば、嘆き悲しむことが少しも本人のためにならないことを知って涙を流されることもなくなるでしょう。やがて時が来ればお二人も死が有難い解放者であることを理解され、娘さんの方もそのうち、死によって消えることのない愛に満ちた、輝ける存在となっていることを証明してあげることができるようになることでしょう」

 こう述べてから、次の言葉でその日の交霊会を結んだ。

 「地上で死を悼んでいる時、こちらの世界ではそれを祝っていると思ってください。あなたがたにとっては〝お見送り〟であっても、私たちにとっては〝お迎え〟なのです」

℘154
 さて次の交霊会にも同じ女性文筆家が出席した。シルバーバーチは開会早々こう述べた。

 「今あなたを拝見して、前回の時よりオーラがずっと明るくなっているのでうれしく思います。少しずつ暗闇の中から光の中へ出てこられ、それとともにすべてが影に過ぎなかったという悟りに到達されました。本当は今までもずっと愛の手があなたを支え、援助し、守っていてくださったのです。同じ力が今なお働いております。

 今のあなたには微かな光を見ることができ、それが暗闇を突き破って届いてるのがお分かりになります。その光はこれから次第に力を増し、鮮明となり、度合いを深めていくことでしょう。あなたは何一つご心配なさることはありません。愛に守られ、いく手にはいつも導きがあるとの知識に満腔の信頼を置いて前進なさることです。

 来る日も来る日もこの世的な雑用に追いまくられていると、背後霊の働きがいかに身近なものであるかを実感することは困難でしょう。しかし事実、常に周りに存在しているのです。あなた一人ぼっちでいることは決してありません」
℘155
───そのことはよく分かっております。なんとかして取越苦労を克服しようと思っています。

 「そうです敵は心配の念だけです。心配と不安、これはぜひとも征服すべき敵です。日々生ずる一つ一つにきちんと取り組むことです。するとそれを片付けていく力を授かります。

 今やあなたは正しい道にしっかりと足を据えられました。何一つ心配なさることはありません。これから進むべき道において必要な導きはちゃんと授かります。私にはあなたの前途に開けゆく道が見えます。もちろん時には暗い影は過(よぎ)ることがあるでしょうが、あくまでも影にすぎません。

 私たちは決して地上的な出来ごとに無関心でいるわけではありません。地上の仕事にたずさわっている以上は物的な問題を理解しないでいるわけにはまいりません。現にそう努力しております。しかし、あくまでも霊の問題を優先します。

物質は霊のしもべであり主人ではありません。霊という必須の要素が生活を規制し支配するようになれば、何ごとが生じても、きっと克服できます。

 少しも難しいことは申し上げておりません。きわめて単純なことなのです。が、単純でありながら、大切な真理なのです。
℘156
満腔の信頼、決然とした信念、冷静さ、そして自信───こうしたものは霊的知識から生まれるものであり、これさえあれば、日々の生活体験を精神的ならびに霊的成長を促す手段として活用していく条件としては十分です。

地上を去ってこちらへお出でになれば、さんざん気を揉んだ事柄が実は何でもないことばかりだったことを知ります。そして本当にためになっているのは霊性を増すことになった苦しい体験であることに気づかれることでしょう」

 最後に同じく夫を悲劇の中に失った未亡人に対して次のように述べた。

 「あなたからご覧になれば、私がこうして教訓やメッセージをお伝えできることから、私にはどんなことでも伝えられるかに思われるかも知れませんが、私には私なりにどうしても伝えきれないもの、私に適性が欠けているものがあることを常に自覚しております。

なにしろ私たちには五感では感識できない愛とか情とか導きとかを取り扱わねばならないのです。こうしたものは地上の計量器で計るような具合には参りません。

それでも尚、その霊妙な力は、たとえ地上的な意味では感識できなくても、霊的な意味ではひしひしと感識できるものです。愛と情は霊の世界では人間の想像をはるかに超えた実在です。あなたが固いとか永続性があるとか思っておられるものよりずっとずっと実感があります。
℘157
私が今ここで、あなたのご主人はあなたへの愛に満ちておられますと申し上げても、それは愛そのものをお伝えしたことにはなりません。言葉では表現できないものをどうしてお伝えできましょう。そもそも言葉というのは実在を伝えるにはあまりにお粗末です。情緒や感情や霊的なものは言語の枠を超えた存在であり、真実を伝えるにはあまりに不適切です」


 ここで未亡人が「主人が今私に何を告げたいかは私の心の中で理解しているとお伝えください」と言うと、

 「次のことをよく理解してください。これは以前にも申し上げたことですが、地上を去って私たちの世界へ来られた人はみな、思いも寄らなかった大きな自己意識の激発、自己開発の意識のほとばしりに当惑するものです。肉体を脱ぎ棄て、精神が牢から解放されると、そうした自己意識のために地上での過ちを必要以上に後悔し、逆に功徳は必要以上に小さく評価しがちなものです。

 そういうわけで、霊が真の自我に目覚めると、しばらくの間は正しい自己評価ができないものです。こうすればよかった、ああすべきだったと後悔し、せっかくの絶好のチャンスを無駄にしたという意識に苛(さいな)まれるものです。実際にはその人なりに徳を積み、善行や無私の行為を施しているものなのですが、その自覚に到達するには相当な期間が必要です」