Monday, April 20, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

 The Mediums' Book    Allan Kardec

スピリチュアリズムの真髄「現象編」




2章 驚異的現象と超自然現象

    霊および霊的現象の存在を肯定する説が単なる理論上の産物にすぎないとすれば、目撃されたものは全て幻覚だったことになるかも知れない。しかし、太古から現代に至るまで、あらゆる民族の民間信仰、および“聖なる書”と呼ばれている経典の中にその事実への言及が見られるという事実は、どう理解すべきであろうか。

この問いに対して、いつの時代にも人間は驚異的なものを求めるものなのだ、と答える人がいる。では、驚異的なものとは何であろうか。それは超自然的な現象のことだと答えるであろう。では“超自然的”という用語はどう解釈しているのであろうか。たぶん、大自然の法則と矛盾するもの、と答えるであろう。

実は、これは傲慢この上ない答えである。大自然の法則を全て知りつくした者にしか言えないことだからである。もし全てを知りつくしているとおっしゃるなら、霊および霊的現象の存在が大自然の法則とどう矛盾しているかを証明していただきたいものである。なぜ自然法則でないのか、なぜ自然法則とは言えないかを証明していただきたいのである。

さらにお願いしたいのは、スピリチュアリズムの教説をしっかりと検証していただき、観察した現象から引き出す推論の流れにもきちんとした法則があること、そして、これまでの哲人の頭脳をもってしても解き得なかった千古の謎を見事に解決していることを確認していただきたいのである。

思念は霊の属性の一つである。霊が物質に働きかけることができるのも、人間の感覚に反応することができるのも、そしてその当然の結果として思念を伝達することができるのも、言うなれば“魂の生理的構造”に起因している。この事実には何一つ超自然的なものも驚異的なものもない。

仮に死んだ人間が生き返り、バラバラの肢体が元通りになったとしたら、これは確かに驚異的なことであり、超自然的であり、途方もないことであろう。絶対神のみが奇跡という形で生ぜしめることができるものかも知れない。しかし、それは、みずからこしらえた摂理を神自身が犯すことになる。スピリチュアリズムにはその種の奇跡は一切ない。

そう言うとこう反論する人がいるであろう――「霊がテーブルを持ち上げ、空中に浮いた状態を保つことができるというが、それは大自然の法則の一つである“引力の法則”に反するのではないか」と。

その通りである。たしかに一般に理解されている引力の法則には反している。が、そう反論なさる方は、大自然の法則の全てが明らかになったと思っておられるのであろうか。上昇する性質をもつガスが発見される前に、気球にガスを詰めて数人の人間を乗せて空高く舞い上がるなどという光景を想像した人がいたであろうか。無線電信が発明される前に、地球の反対側から発信したメッセージが何秒もかからずに届く機械の話をしたら、その人は狂人扱いをされたことであろう。

同じことが心霊現象についても言える。従来の科学では存在が確認されていないエクトプラズムという特殊な物質があって、それを霊が操作して物体を持ち上げたり動かしたりするのである。それは厳然たる“事実”なのである。そして、いかなる否定論をもってしても、その事実だけは否定できない。なぜなら、否定することと、誤りを立証することとは別だからである。数多くの実験を見てきた我々から見れば、そこに何ら自然法則を超越したものは存在しない。今のところ我々はそう表現するしかない。

次のように反論する人もいるであろう。「その事実が証明されれば、おっしゃる通りに受け入れよう。エクトプラズムとかいう物質の存在も認めよう。しかしそれに霊が関与しているということをどうやって証明するのか。もしそれが事実であれば、まさしく驚異的であり、それこそ超自然現象である」と。

この種の疑問に対しては実際に実験に立ち会っていただくのがいちばんいいのであるが、取りあえず簡単に説明すれば、まず論理的には、知的な現象には知的な原因が作用しているに相違ないこと。次に実際的には、スピリチュアリズム的な現象は今も言った通りの知的な作用が証明されているので、物質とは異質のものに原因があるに相違ないということである。言いかえれば、実験会の出席者が行っているのではなく――これは実験で十分に証明されている――何か目に見えないもので、しかも知性を備えているもの、ということである。

それが何ものであるかについて、これまで繰り返し観察してきて、次のような確信に帰着している。すなわち、その目に見えない存在は我々が“霊(スピリット)”と呼んでいるもので、しかもそれはかつて地上で生活したことのある人間の魂であり、死によって肉体という鈍重な衣服を脱ぎ捨て、今では肉眼に映じないエーテル質の身体をまとって異次元の世界で生活しているということである。

肉眼に映じない知的存在が霊であることが証明されれば、物質に働きかける力は霊そのものに備わっているとみてよい。その働きかけには知性が見られる。それは当然のことで、死は肉体だけの崩壊であって、個性も知性もまったく失われないのである。

このように、霊の実在は、事実にうまく合うようにこしらえた理論ではなく、また、ただの仮説でもない。実験と観察の末に得られた結論であり、人間に魂が内在するという事実からの当然の帰結なのである。霊の実在を否定することは魂とその属性を否定することになる。もしもこれ以外にもっと合理的に心霊現象を解明する説があるとおっしゃる方がいれば、ぜひともお聞かせいただきたいものである。心霊現象の全てを明快に説き明かすものでないといけない。もしあればスピリチュアリズムの説と並べて検討するにやぶさかではない。

自然界には物質しか存在しないと考えている唯物主義者にとっては、物理法則で説明できないものは全て“驚異的”で“超自然的”であろう。その意味での驚異的現象とは“迷信”と同義語にほかならない。そういう概念を抱いている人にとっては、物質を超越した原理の存在の上に成り立っている宗教も迷信の一組織でしかあり得ない。

と言って、そのことを大っぴらに公言する人はほとんどいない。みんな陰でささやき合っているだけである。そして公的場面で意見を求められると、宗教的人間にとって必要であり、また子供に規律ある生活を送らせる上で必要である、といった表現で体面を保とうとする。そういう態度をとる人たちにスピリチュアリズムは次のような主張を提示したい。すなわち、宗教的原理というものは真理であるか、さもなければ間違っているかのどちらかであり、もし真理であれば、それは万人にとって真理なのであり、もし間違っているとすれば、英知に富む人々にとってだけでなく、無知な人々にとっても何の価値もないことになる、と。

スピリチュアリズムのことを驚異的現象をもてあそぶだけの一派として攻撃する人々は、唯物主義者の音頭をとっているようなものである。なぜなら、物質的範疇をこえたものを全て否定することは、人間に魂が内在することを否定することになるからである。

否定論者の論説を突き詰め、その主張の流れを検討してみると、結局は唯物論の原理から出発していることが分かる。彼らはそれを公然とは露呈しない。が、いかに論法を合理的につくろってみても、彼らの否定的結論は、当初からの否定的前提の結果に過ぎないことが分かる。人間に不滅の魂が宿っていることを頭から否定しているから、魂の存在を前提とした説にはことごとく反論する。原因を認めない者に結論を認めることを要求するのは、しょせん無理な話なのである。

以上の論説をまとめると次の八項目になろう。

一、全ての霊的現象は、その根本的原理として、魂の存在とその死後の存続を示唆していること。つまり現象は死者の霊が起こしているのである。

二、その現象はあくまでも自然法則にのっとって生じているのであり、通常の意味での“驚異的”でも“超自然的”でもない。

三、“超自然現象”とされてきたものの多くは原因が分からないからに過ぎない。スピリチュアリズムではその原因を突き止めることによって、全てが自然現象の範疇におさまることを証明している。

四、ただし“超自然現象”とされているものの中には、スピリチュアリズム的観点から検討して絶対にあり得ないこと、したがって単なる迷信の産物に過ぎないものもある。

五、スピリチュアリズムは、古来の民間信仰の中に真理と認められるものもあることは認めるが、それは、他愛もない想像上の産物の全てを真理と認めるということではない。

六、虚偽の事実でもってスピリチュアリズムの真実性を否定する行為は、無知であることを証言するようなものであり、一顧の価値も認められない

七、スピリチュアリズムが本物と認めた霊現象を正しく解明し、そこから引き出される道徳的教訓を確認することによって、新しく心霊科学というものが生まれ、新しい霊的思想が生まれている。これは忍耐づよく、真剣に、そして注意ぶかく考究していくべき重大な課題である。

八、スピリチュアリズムを根本から論破するためには、まず心霊現象を徹底的に検証して、良心的態度で根気よく、その意味するところの深奥を考究し、さらにはスピリチュアリズムの説を各分野にわたって一つ一つきちんと反論できなくてはならない。否定するばかりではいけない。きちんと論理的に反論できなくてはいけない。要するに、これまでにスピリチュアリズムが出してきた結論よりもさらに合理的な説を提示できなくてはいけない。が、これまでのところ、そのような立派な反論を唱えた人はいない。

シルバーバーチの霊訓(三)

 Wisdom of Silver Birch

ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳



十章  前世・現世・来世  

 ある日の交霊会に米国人ジャーナリストが招かれた。そして最初に出した質問が「霊界というところはどんなところでしょうか」という、きわめて基本的な質問だった。その時レギラーメンバーの一人が「この方は心霊研究家とお呼びしてもよいほどの方ですよ」と言ったことが、次のようなユーモラスな答えを誘い出すことになった。

(訳者注────ここでは心霊学に詳しい方という程度の意味で言ったのであるが、その心霊学が〝心霊現象の科学的研究〟を目的としているだけで、霊魂の存在も幾つかの学説の中の一つとして扱われているだけである。その点を念頭に置いてシルバーバーチがその〝学説〟を並べ立てて皮肉っぽく答えているところがユーモラスである)

 「私は地上の人たちから〝死んだ〟と思われている者の一人です。存在しないことになっているのです。私は本日ここにお集まりの方々による集団的幻影に過ぎません。

私は霊媒の潜在意識の産物です。私は霊媒の第二人格であり、二重人格であり、多重人格であり、分離人格です。これらの心霊用語のどれをお使いになっても結構ですが、私もあなたと同じ一個の人間です。ただ私は今あなたが使っておられる肉体をずいぶん前に棄ててしまいました。

あなたと私の根本的な違いはそれだけです。あなたは物的身体を通して自分を表現しているスピリットであり、私は霊的身体を通して表現しているスピリットであるということです。         

 私はほぼ三千年前に霊の世界へ来ました。つまり三千年前に〝死んだ〟のです。三千年というとあなたには大変な年数のように思われるかも知れませんが、永遠の時の流れを考えると僅かなものです。その間に私も少しばかり勉強しました。

霊の世界へ来て神からの授かりものである資質を発揮していくと、地上と同じ進化の法則に従って進歩していきます。つまり霊的な界層を一段また一段と向上していきます。界層という言い方をしましたが、一つ一つが仕切られているわけではありません。

霊的な程度の差があり、それぞれの段階にはその環境条件にふさわしい者が存在するということです。霊的に向上進化すると、それまでの界層を後にして次の一段と高い界層へ融け込んでいきます。それは階段が限りなく続く長い長い一本の梯子のようなものです。

 そう考えていけば、何百年、あるいは何千年か後には物質界から遠く離れていき、二度と接触する気持ちが起きなくなる段階に至ることは、あなたにも理解出来るでしょう。所詮、地上というところはたいして魅力ある世界ではないのです。

地上の住民から発せられる思念が充満している大気にはおよそ崇高なものは見られません。腐敗と堕落の雰囲気が大半を占めております。人間生活全体を暗い影がおおい、霊の光が届くのはほんの少数の人に限られております。

一度あなたも私と同じように、経済問題の生じない世界、お金が何の価値も無い世界、物的財産が何の役にも立たない世界、各自が有るがままの姿をさらされる世界、唯一の富が霊的な豊かさである世界、唯一の所有物が個性の強さである世界、生存競争も略奪も既得権力も無く、弱者が窮地に追いやられることもなく、

内在する霊的能力がそれまでいかに居眠りをしていても存分に発揮されるようになる世界に一度住まわれたら、地上という世界がいかにむさ苦しく、いかに魅力に乏しい世界であるかがお判りになると思います。

その地上世界を何とかしなければならない───私のようにまだ地上圏へ戻ることのできる程度のスピリットが援助し、これまで身に付けた霊的法則についての知識を幾らかでも教えてあげる必要があることを、私は他の幾人かの仲間とともに聞かされたのです。

人生に迷い、生きることに疲れ果てている人類に進むべき方向を示唆し、魂を鼓舞し、悪戦苦闘している難問への解決策を見出させるにはそれしかないということを聞かされたのです。

 同時に私たちは、そのために必要とする力、人間の魂を鼓舞するための霊力を授けてくださることも聞かされました。しかし又、それが大変な難事業であること、この仕事を快(よ)く思わぬ連中、それも宗教的組織の、そのまた高い地位にある者による反抗に遭遇するであろうことも言い聞かされました。

悪魔の密使とみなされ、人類を邪悪の道へ誘い、迷い込ませんとする悪霊であると決めつけられるであろうとの警告も受けました。要するに私たちの仕事は容易ならざる大事業であること、そして(ついでに付け加えさせていただけば)その成就のためには、それまでの永い年月の中で体験してきた霊界生活での喜びも美しさも、すべてお預けにされることになるということでした。

しかし、そう言い聞かされた私たちのうちの誰一人としてそれを断わった者はいませんでした。かくして私は他の仲間と共に地上へ戻ってまいりました。地上へ再生するのではありません。地上世界の圏内で仕事をするためです。

 地上圏へ来てまず第一にやらねばならなかったのは霊媒を探すことでした。これはどの霊団にとっても一ばん骨の折れる仕事です。次に、あなた方の言語(英語)を勉強し、生活習慣も知らねばなりませんでした。あなた方の文明も理解する必要がありました。

 次の段階ではこの霊媒の使用法を練習しなければなりませんでした。この霊媒の口を借りて幾つかの訓え───誰にでも分る簡単なもので、従ってみんなが理解してくれれば地上が一変するはずの真理を説くためです。

同時に私は、そうやって地上圏で働きながらも常に私を派遣した高級霊たちとの連絡を保ち、より立派な叡智、より立派な知識、より立派な情報を私が代弁してあげなければなりませんでした。初めのころは大いに苦労しました。今でも決してラクではありませんが・・・。

そのうち私の働きかけに同調してくれる者が次第に増えてまいりました。すべての人が同調してくれたわけではありません。居眠りしたままの方を好む者も大勢いました。自分で築いた小さな牢獄にいる方を好む者もいました。

その方が安全だったわけです。自由に解放されたあとのことを恐れたのです、が、そうした中にも、そこここで分かってくれる人も見出しました。私からの御利益は何もありません。

ただ真理と理性と常識と素朴さ、それに、近づいてくれる人のためをのみ考える、かなり年季の入った先輩霊としての真心をお持ちしただけです。

 それ以来私たちの仕事は順調に運び、多くの人々の魂に感動を与えてまいりました。無知の暗闇から抜け出た人が大勢います。迷信の霧の中からみずからの力で這い出た人が大勢います。自由の旗印のもとに喜んで馳せ参じた人が大勢います。死の目的と生の意味を理解することによって二度と涙を流さなくなった人が大勢います。」


───魂は母体に宿った時から存在が始まるのでしょうか。それともそれ以前にも存在(前世)があるのでしょうか。

 「これは又、ややこしい問題に触れる質問をしてくださいました。私は自分はこう思うということしか述べるわけにはまいりません。私は常に理性と思慮分別に訴えております。

いつも申し上げていることですが、もしも私の述べることがあなたの理性を反発させ、知性を侮辱し、そんなことは認められないとおっしゃるのであれば、どうぞ捨て去っていただきたい。拒絶していただいて結構です。

拒絶されたからといって私は少しも気を悪くすることはありません。腹も立ちません。愛の気持ちは変わりません。ここにおいでのスワッハーも相変わらず考えを変えようとしない者の一人です。

他の者はみな私の口車にのって前生の存在を信じるようになった(と思っている)のですが・・・・・・私の知るかぎりを言えば、前世はあります。つまり生まれ変わりはあるということで、その多くは、はっきりとした目的をもった自発的なものです」

 これを聞いたスワッハーが「私は再生の事実を否定したことはありませんよ。私はただ魂の成長にとって再生が必須であるという意見に反対しているだけです」と不服そうに言うと、

 「それは嬉しいことを聞きました。あなたも私の味方というわけですな、全面的ではなくても」と皮肉っぽく言う。

 するとスワッハーは「あなたは私も今生(こんじょう)に再生してきているとおっしゃったことがあるじゃないですか。私はただ再生に法則は無いと言っているだけです」と言う。するとシルバーバーチが穏やかにそれを否定して言う。

 「何かが発生するとき、それは必ず法則に従っております。自発的な再生であっても法則があるからこそ可能なのです。ここに言う法則とは地上への再生を支配する法則のことです。この全大宇宙に存在するものは、いかに小さなものでも、いかに大きなものでも、すべて法則によって支配されているというのが私の持論です」

 ここで米人ジャーナリストが関連質問をした───「人間にとって〝時間〟が理解しにくいということが再生問題を理解しにくくしているというのは事実でしょうか」

 「例によって私なりの観点からご説明しましょう。実はあなたはあなたご自身を御存じないのです。あなたには物質界へ一度も顔を出したことのない側面があるのですが、それをあなたはお気づきになりません。

物的身体を通して知覚したごくごく小さな一部分しか意識しておられませんが、本当のあなたはその身体を通して顕現しているものよりはるかに大きいのです。ご存知の通りあなたはその身体そのものではない。

あなたは身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではない。その証拠に、あなたの意識はその身体を離れて存在することが出来ます。たとえば睡眠中がそうです。しかし、その間の記憶は物的脳髄の眼界のために感識されません。

 結局あなたに感識出来る自我は物質界に顕現している部分だけということになります。他の、より大きい部分は、それなりの開発の過程をへて意識できるようにならない限りごく稀に、特殊な体験の際に瞬間的に顔をのぞかせるだけです。しかし一般的に言えば大部分の人間は死のベールをくぐり抜けて始めて真の自分を知ることになります。

以上があなたのご質問に対する私なりの回答です。今あなたが物的脳髄を通して表現しておられる意識は、それなりの開発法を講ずるか、それともその身体を棄て去るかのいずれかがないかぎり、より真実に近いあなたを認識することはできません」


───この地上にはあなたの世界に存在しない邪悪なものがあふれているとおっしゃいますが、なぜ地上にはそうした邪と悪とが存在するのでしょうか。

 「権力の座にある者の我がままが原因となって生じる悪───私は無明という言葉の方が好きですが───そして邪、それと、人類の進化の未熟さゆえに生じる悪と邪とは、はっきり区別する必要があります。

地上の邪と悪には貧民街(スラム)が出来るような社会体制の方が得をする者たち、儲けることしか考えない者たち、私腹を肥やすためには同胞がどうなろうと構わない者たち、こうした現体制下の受益者層の存在が原因となって発生しているものが実に多いことを知らなければなりません。悪の原因にはそうした卑劣な人種がのめり込んでしまった薄汚い社会環境があるのです。

 しかし一方において忘れてならないことは、人間は無限の可能性を秘めていること、人生は常に暗黒から光明へ、下層から上層へ、弱小から強大へ向けての闘争であり、進化の道程を人間の霊は絶え間なく向上していくものであるということです。

もし闘争もなく、困難もなければ、霊にとって征服すべきものが何もないことになります。人間には神の無限の属性が宿されてはいますが、それが発揮されるのは努力による開発を通してしかありません。その開発の過程は黄金の採取と同じです。粉砕し、精錬し、磨き上げなければなりません。

地上もいつかは邪悪の要素が大幅に取り除かれる時が来るでしょう。しかし、改善の可能性が無くなる段階は決して来ません。なぜなら人間は内的神性を自覚すればするほど昨日の水準では満足できなくなり、明日の水準を一段高いところにセットするようになるものだからです」

───隣人を愛すべしとの黄金律(※)と適者生存の法則とは時として矛盾することがあるように思えるのですが・・・・・・(※ The Golden Rule キリストの山上の垂訓の一つで、自分が人からしてもらいたいと思う通りを人にもしてあげなさいということ。マタイ7・12-訳者)

 「私は進化の法則を、無慈悲な者ほど生き残るという意味での適者生存と解釈することには賛成できません。適者生存の本当の意味は生き残るための適応性をもつ者が存続していくということです。言いかえれば存続するための適性を発揮した者が存続するということです。

そして注目していただきたいことは生き残っている動物を観察してみると、それが生き残れたのは残虐性のせいでもなく、適者だったからでもなく、進化の法則に順応したからであることが明らかなことです。もし適者のみが生き残ったとすると、なぜ有史以前の動物は死滅したかという疑問が生じます。

その当時は最も強い生物だったはずですが、生き残りませんでした。進化の法則とは生長の法則の一つです。ひたすらに発展していくという法則です。他の生命との協調、互助の法則です。つまるところ黄金律に帰着します」


 続いて〝偶然〟の要素について質問されて───
 「世の中が偶然によって動かされることはありません。どちらを向いても───天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、顕微鏡で極小の生物を検査しても、そこには必ず不変不滅の自然法則が存在します。あなたも偶然に生れてきたのではありません。

原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした宇宙には、偶然の入る余地はありません。全生命を創造した力はその支配のために規制ないし法則を用意したのです。その背景としての叡知においても機構においても完璧です。その法則は霊的なものです。

すべての生命は霊だからです。生命が維持されるのはその本質が物質でなく霊だからです。霊は生命であり生命は霊です。生命が意識を持った形態をとる時、そこには個としての霊が存在します。そこが下等動物と異なるところです。人間は個別化された霊、つまり大霊の一部なのです。

 人生には個人としての生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応したり逆らったりしながら生きております。逆らえば暗黒と病気と困難と混乱と破産と悲劇と流血が生じます。順応した生活を送れば叡知と知識と理解力と真実と正義と公正と平和がもたらされます。それが黄金律の真意です。

 人間はロボットではありません。一定の枠組みの中での自由意志が与えられているのです。しかし決断は自分で下さなければなりません。個人の場合でも国家の場合でも同じです。摂理に叶った生き方をしている人、黄金律を生活の規範として生きている人は、大自然から、そして宇宙から、良い報いを受けます」

 続いて〝汝の敵〟に対する態度のあり方をこう説く。

 「私にとってはどの人間もみな〝肉体を具えた霊魂(スピリット)〟です。私の目にはドイツ人もイギリス人もアメリカ人もありません。みなスピリットであり、大霊の一部であり、神の子供です。時にはやむを得ず対症療法として罰を与えねばならないこともあるかも知れませんが、すでに述べた通り、新しい世界は憎しみや復讐心からは生まれません。

すべての人類のためを思う願望からしか生まれません。復讐を叫ぶ者───目には目を、歯には歯をの考えをもつ者は、将来の戦争のタネを蒔いていることになります。すべての人間に生きる場が与えられております。理性と常識によって問題を解決していけば、すべての者に必要なものが行きわたるはずです。

こういう説明よりほかに分かりやすい説明が見当たりません。あなたの国(米国)はなぜあの短い期間にあれだけの進歩を為し遂げたのか。それは一語に尽きます───寛容心です。英国が永い歴史の中で発展してきたのも寛容心があったからこそです。

米国は人種の問題、国籍の問題、宗教の問題を解決してきました。黒人問題もほぼ解決しました。その歴史を通じて全ての人種にそれぞれの存在価値があること、人種が増えるということは、いずれは優れた国民を生むことになることを学んできました。

 今あなた方の国が体験していることは、やがて世界全体が体験することになります。米国は世界問題解決のミニチュア版のようなものです。例えばあなたの存在を分析してみても遺伝的要素の一つ一つは確認できないでしょう。

それと同じで、米国は雑多な人種から構成されておりますが、その一つ一つがみな存在意識をもっており、雑多であるがゆえに粗末になるということはありません。逆に豊かさを増すのです。成長の途上においては新しい要素の付加と蓄積がひっきりなしに行われ、その結果として最良のものが出来あがります。

それは、自然というものが新しい力、新しい要素の絶え間ない付加によって繁栄しているものだからです。限りない変化が最高の性質を生むのです。大自然の営みは一ときの休む間もない行進です」


 その日のもう一人の招待客にポーランドの役人がいた。そしてまず最初に次のような質問をした。


 ───霊界の美を味わうことが出来るのは地上界で美を味わうことが出来た者だけというのは本当でしょうか。

 「そんなことはありません。それでは不公平でしょう。地上では真の美的観賞力を養成する教育施設がないのですから、数知れぬ人々が美を味わえないことになります。霊の世界は償いの世界であると同時に埋め合わせの世界でもあります。地上世界では得られなかったものが補われてバランスを取り戻すのです」

 これを聞いて別のメンバーが「今の質問の背景には人間が死ぬ時はこの世で培った資質を携えていくという事実があるように思うのですが」と述べると、シルバーバーチは───

 「地上の人間は無限の精神のほんの一部を表現しているにすぎないことを銘記しないといけません。精神には僅かに五つの窓があるだけです。それも至ってお粗末です。肉体から解放されると一段と表現の範囲が大きくなります。

精神が本領を発揮し始めます。自我の表現機関の性能がよくなるからです。霊界にはあらゆる美が存在しますが、それを味わう能力は霊性の発達の程度いかんに掛かっています。

たとえば二人の人間に同じ光景を見せても、一人はその中に豊かさと驚異を発見し、もう一人は何も発見しないということも有りえます。

それにもう一つ別の種類の美───魂の美、精神の美、霊の美があり、そこから永遠不滅のものの有する喜びを味わうことができます。充実した精神───思考力に富み、内省的で、人生の奥義を理解できる精神には一種の気高さと美しさがあります。

それは、その種のものとは縁遠い人、従って説明しようにも説明できない者には見られないものです」


───美の観賞力を養う最良の方法は何でしょうか。

 「大体において個人の霊的発達の問題です。適切な教育施設がすべての人に利用できることを前提として言えば、美を求める心は魂の発達とともに自然に芽生えてくるものです。価値観が高まれば高まるほど、精神が成長すればするほど、醜い卑劣な環境に不満を覚えるようになります。波長が合わなくなるからです。

自分の置かれた環境を美しくしたいと思い始めたら、それが進化と成長の最初の兆しと思ってよろしい。地上界をより美しくしようとする人間の努力は、魂が成長していく無意識の表われです。

それは同時に無限の宇宙の創造活動へ寄与していることでもあります。神は人間にあらゆる材料を提供しています。その多くは未完の状態のままです。そして地上のすみずみにまで美をもたらすには、魂、精神、理性、知性、成長度のすべてを注ぎ込まなければなりません。

 最後は必ず個人単位の問題であり、その成長度に帰着します。開発すればするほど、進化すればするほど、それだけ内部の神性を発揮させることになり、それだけいっそう美を求めることになります。

私がいつも霊的知識のもつ道徳的ないし倫理的価値を強調するのはそのためです。スラム街があってはならないのは、神性を宿す者がそんな不潔な環境に住まうべきではないからです。飢餓がいけないのは、神性を宿す肉体が飢えに苦しむようであってはならないからです。

すべての悪がいけないのは、それが内部の神性の発現を妨げるからです。真の美は物質的、精神的、そして霊的のすべての面において真の調和が行きわたることを意味します」


───美的観念を人々の心に植えつけるにはどうしたらよいでしょうか。

 「個々の魂が成長しようとすることが必須条件です。外部からありとあらゆる条件を整えてやっても、本人の魂が成長を望まなければ、あなたには為す術がありません。ですから、あなたにできることは霊的知識を広めること、これだけです。

正しい知識を広めることによって無知を無くし、頑迷な信仰を無くし、偏見を無くしていくことです。とにかく知識のタネを蒔くのです。時にはそれが石ころだらけの土地に落ちることもあるでしょう。が、根づき易い土地も方々にあるものです。蒔いたタネはきっと芽を出します。われわれの仕事は真理の光を可能な限り広く行きわたらせることです。

その光は徐々に世界中を広く照らし、人間が自分たちの環境を大霊の分子すなわち神の子が住まうに相応しいものにしようと望めば、迷信という名の暗闇に属するものすべて、醜さと卑劣さを生み出すものすべてが改善されていくことでしょう」

Sunday, April 19, 2026

霊媒の書  アラン・カルデック編

The Mediums' Book    Allan Kardec
スピリチュアリズムの真髄「現象編」





1章 霊の実在


霊の実在に関する疑問は、その本性についての“無知”に起因している。霊というと大ていの人が目に見える地上の創造物とは別個のものを想像し、その実在については何一つ証明されていないと考えている。

想像上の存在と考えている人も多い。すなわち霊というのは子供時代に読んだり聞かされたりしたファンタスティックな物語の中に出てくるもので、実在性がないという点においては小説の中の登場人物と同じと思っている。実はそのファンタスティックな物語にも、表面の堅い皮をむくと、その核心に真髄が隠されていることが分かるものなのだが、そこまで解明の手を伸ばす人は稀で、大ていは表面上の不合理さだけにとらわれて全体を拒絶してしまう。それはちょうど宗教界の極悪非道の所業にあきれて、霊に係わるもの全てを拒絶する人がいるのと同じである。

霊というものについていかなる概念を抱こうと、その存在の原理は、当然のことながら物質とはまったく別の知的原理に基づくのであるから、その実在を信じることと、物的原理からそれを否定することとは、まったく相容れないことなのである。

魂の実在、およびその個体としての死後存続を認めれば、その当然の帰結として次の二つの事実をも認めねばならない。一つは、魂の実質は肉体とは異なること。なぜならば、肉体から離脱したあとは、ただ朽ち果てるのみの肉体とは“異次元の存在”となるからである。

もう一つは、魂は死後も“個性と自我意識”とを維持し、したがって幸不幸の感覚も地上時代と同じであること。もしそうでないとしたら、霊として死後に存続しても無活動の存在であることになり、それでは存在の意義がないからである。

以上の二点を認めれば、魂はどこかへ行くことになる。では一体そこはどこなのか、そしてどうなっていくのか。かつては単純に天国へ行くか、さもなくば地獄へ行くと信じられてきた。ではその天国とはどこにあるのか。地獄はどこにあるのか。人々は漠然と天国は“ずっと高い所”にあり、地獄は“ずっと低い所”にあるという概念を抱いてきたが、地球がまるいという事実が明らかになってしまうと、宇宙のどっちが“上”でどっちが“下”かということは意味をなさなくなった。しかも二十四時間で一回転しているから、“上”だと思った所が十二時間後には“下”になるのである。

こうした天体運動が果てしない大宇宙の規模で展開している。最近の天文学によると地球は宇宙の中心でないどころか、その地球が属している太陽系の太陽でさえ何千億個もの恒星の一つに過ぎず、その恒星の一つ一つが独自の太陽系を構成しているという。この事実によって地球の存在価値も遠くかすんでしまう。大きさからいっても位置からいってもその特質からいっても、砂浜の砂の一粒ほどしかない地球が、この宇宙で唯一、知的存在が生息する天体であるなどと、よくぞ言えたものと言いたくなる。理性が反発するし、常識からいっても、当然、他の天体のすべてに知的存在が生息し、それゆえにそれなりの霊界も存在すると考えてよかろう。

次に持ち出されそうな疑問は、そのように天体が事実上無限に存在するとなると、すでにそこを去って霊的存在となった者たちの落ち着く先はどうなるのか、ということであろう。が、これも旧式の宇宙観から生じる疑問であって、今では新しい科学理論に基づく宇宙観が合理的解釈を与えてくれている。(オリバー・ロッジなどによるエーテル理論をさすものと察せられる――訳注)

つまり霊の世界は地上のような固定した場所ではなく、内的宇宙空間とでもいうべき壮大な組織を構成していて、地球はその中にすっぽりと浸っている。ということは我々の上下左右、あらゆるところに霊の世界が存在し、かつ絶え間なく物質界と接触していることになる。

固定した存在場所がないとなると、死後の報いと罰はどうなるのかという疑問を抱く方がいるかも知れない。が、この種の疑念は報いや罰が第三者から見て納得のいかない形で行われることを懸念することから生じるもので、善行に対する報いも悪行に対する罰も、本質的にはそういうものではないことを、まず理解しなければならない。

いわゆる幸福と不幸は霊そのものの意識の中に存在するもので、第三者から見た外的条件で決まるものではない。たとえば波動の合う霊との交わりは至福の泉であろう。が、その波動にも無限の階梯があり、ある者にとっては至福の境涯であっても、それより高い階梯の者にとっては居づらい境涯に思えるかも知れない。このように、何事も霊的意識の進化のレベルを基準として判断する必要がある。そうすれば全ての疑問が氷解する。

これをさらに発展させれば、その霊的意識のレベルというのは、魂の純化のための試練として何度か繰り返される地上生活において、当人がどれだけ努力したかによって自ずと決まるものである。“天使”と呼ばれる光り輝く存在は、その努力によって最高度の進化の階梯にまで達した霊のことであり、すべての人間が努力次第でそこまで到達できるのである。

そうした高級霊は宇宙神の使徒であり、宇宙の創造と進化の計画の行使者であり、彼らはそのことに無上の喜びを覚える。最後は“無”に帰するとした従来の説よりもこの方がはるかに魅力がある。無に帰するということは存在価値を失うことにならないだろうか。

次に“悪魔”と呼ばれているものは邪悪性の高い霊ということで、言いかえれば魂の純化が遅れているということである。遅れているだけであって、試練と霊的意識の開発によって、いつかは天使となり得る可能性を秘めている点は、他のすべての魂と同じである。キリスト教では悪魔は悪の権化として永遠に邪悪性の中に生き続けるとしているが、これでは、その悪魔は誰がこしらえたのかという問いかけに理性が窮してしまう。

“魂(ソウル)”と“()霊(スピリット)”の区別であるが、結論から言えば同じものを指すことになる。ただ、肉体をまとっている我々人間は“魂を所有している”というように表現し、肉体を捨て去ったあとに生き続けるものを“霊”と呼ぶ。同じものを在世中と死後とで言い分けているだけである。もしも霊が人間と本質的に異なるものだとしたら、その存在は意味がないことになる。人間に魂があって、それが霊として死後に生き続けるのであるから、魂がなければ霊も存在しないことになり、霊が存在しなければ魂も存在しないことになる。(この“霊”と“魂”の使い分けはスピリチュアリズムでも混乱していて、霊界通信でも通信霊によって少しずつズレが見られる。ここでカルデックが解説していることは明快であるが、その前の節では“魂の純化”という、その解説の内容からはみ出た意味に用いている。ここは本来は“霊性の進化”と言うべきところであろうが、要するに地上の言語には限界があるということである――訳注)

以上の説が他の説より合理性が高いとはいえ、一つの理論に過ぎないことは確かである。が、これには理性とも科学的事実とも矛盾しないものがある。それにさらに事実による裏付けがなされれば、理性と実体験による二重の是認を受けることになることは認めていただけるであろう。

その実体験を提供してくれるのが、いわゆる“心霊現象”で、これが死後の世界の存在と人間個性の死後存続という事実を論駁(ろんばく)の余地のないまでに証明してくれている。

ところが大抵の人間はそこのところでストップする。人間に魂が存在し、それが死後、霊として存続することは認めても、その死者の霊との交信の可能性は否定する。「なぜなら、非物質的存在が物質の世界と接触できるはずがないから」だと彼らは言う。

こうした否定論は、霊というものの本質の理解を誤っているところから生じている。つまり彼らは霊というものを漠然として捉えどころのない、何かフワフワしたものを想像するらしいのであるが、これは大きな間違いである。

ここで霊というものについて、まず肉体との結合という観点から見てみよう。両者の関係において、霊は中心的存在であり、肉体はその道具にすぎない。霊は肉体を道具として思考し、物的生活を営み、肉体が衰えて使えなくなればこれを捨てて次の生活の場へ赴く。

厳密に言うと“両者”という言い方は正しくない。肉体が物質的衣服であるとすれば、その肉体と霊とをつなぐための半物質的衣服として“ダブル”というのが存在する。(カルデックは“ペリスピリット”という用語を用いているが、その後“ダブル”という呼び方が一般的になっているので、ここではそう呼ぶことにする――訳注)

ダブルは肉体とそっくりの形をしていて、通常の状態では肉眼に映じないが、ある程度まで物質と同じ性質を備えている。このように霊というのは数理のような抽象的な存在ではなく、客観性のある実在であり、ただ人間の五感では認知できないというに過ぎない。

このダブルの特質についてはまだ細かいことは分かっていないが、かりにそれが電気的な性質、ないしはそれに類する精妙なもので構成されているとすれば、意念の作用を受けて電光石火の動きをするという推察も、あながち間違いとも言えないであろう。

死後の個性の存続および絶対神の存在はスピリチュアリズムの思想体系の根幹をなすものであるから、次の三つの問いかけ、すなわち――

一、あなたは絶対神の存在を信じますか。

二、あなたに魂が宿っていると信じますか。

三、その魂は死後も存続すると信じますか。

この三つの問いに頭から「ノー」と答える人および「よく分からない」とか「全部信じたいが確信はもてない」といった返答をする人は、本書をこれ以上お読みになる必要はない。軽蔑して切り捨てるという意味ではない。そういうタイプの人には別の次元での対話が必要ということである。

そういう次第で私は本書を、魂とその死後存続を自明の理としている人を対象として綴っていくつもりである。それが単なる蓋然(がいぜん)性の高いものとしてではなく、反論の余地のない事実として受け入れられれば、その当然の帰結として、霊の世界の実在も認められることになる。

残るもう一つの疑問は、はたして霊は人間界に通信を送ることができるか否か、言いかえれば、思いを我々と交換できるかどうかということである。が、できないわけがないのではなかろうか。人間は、言うなれば肉体に閉じ込められた霊である。その霊が、すでに肉体の束縛から解き放たれた霊と交信ができるのは、くさりに繋がれた人間が自由の身の人間と語り合うことくらいはできるのと同じである。

人間の魂が霊的存在として死後も生き続けるということは、情愛も持ち続けていると考えるのが合理的ではなかろうか。となると地上時代に親しかった者へ通信(メッセージ)を届けてやりたいと思い、いろいろと手段を尽くすのは自然なことではなかろうか。地上生活を営む人間は、魂という原動力によって肉体という機関を動かしている。その魂が、死後、霊として地上の誰かの肉体を借りて思いを述べることができて、当然ではなかろうか。

人間に永遠不滅の魂が宿っていて、それが肉体の死とともに霊的存在として個性と記憶のすべてを携えて次の世界へ赴くこと、そして適当な霊媒を通して通信を地上へ送り届けることができることは、これまでに繰り返し行われてきた実験と理性的推論によって疑問の余地のないまでに証明されている。

一方、これを否定せんとする者も後を絶たないが、彼らは実験に参加することを拒否し、ただ「そんなことは信じられない。したがって不可能である」という筋の通らない理屈を繰り返すのみである。これでは「太陽はどう見ても地球のまわりを回っている。だから地動説は信じられない」と言うのと同類で、そう思うのは自由であるが、それではいつになっても無知の牢獄から脱け出られないことになる。

霊媒の書  アラン・カルデック編

The Mediums' Book    Allan Kardec
スピリチュアリズムの真髄「現象編」
訳者まえがき  アラン・カルデックの生涯と業績   序文


 
訳者まえがき

本書は一九世紀のフランスの思想家アラン・カルデックの古典的名著『Le Livre de Mediums』の英語版の日本語訳である。

フランス語と英語はともにアルファベットを使用する言語なので、その翻訳は比較的やさしいと言われるが、日本語は世界のどの言語とも異なる複雑な形態をもつ言語なので、訳し方一つでまったく異質のものになってしまう危険性がある。

本書の翻訳に当たっても私は、フランス語→英語→日本語と、二段階の翻訳をへるうちに原典の“味”が損なわれることを懸念したが、有り難いことに私の長年の愛読者の一人でフランス語の原典をお持ちの方と不思議な縁でめぐり会い、私の訳文の一部を読んでいただいて、大体においてこうした感じであることが確認できた。

訳していくうちに表面化した問題として、カルデックが本書を書いた時代がハイズビル事件をきっかけにスピリチュアリズムが勃興してわずか十数年後という事実から想像がつくように、その後の心霊研究の発達とモーゼスの『霊訓』や「シルバーバーチの霊言」に代表される高等な霊界通信によって、用語の上でも新しいものが生まれていることで、霊的真理の内容においてはいささかも見劣りはしないが、用語には、そのままでは使用できないものが目立つ。

その最たるものが“スピリチュアリズム”を“スピリティズム”と呼んでいることで、ラテン諸国では今なおそう呼んでいる。

カルデックはスピリチュアリズムのことを“唯物主義Materialismと相対したもの”として、いわば“精神主義”的な意味に捉えていたらしい。日本で“心霊主義”とか“神霊主義”と訳す人の認識と似たところがある。

ご承知の通り、スピリチュアリズムは“地球を霊的に浄化する”という意味のspiritualiseから来たもので、“主義”という意味はみじんもない。そこで私はこれまで“スピリチュアリズム”という原語で通してきたのであるが、本書でも一貫してそれで通すことにした。

もう一つの問題は“霊(スピリット)”と“魂(ソウル)”の区別で、英米でも日本でも混同して用いられているが、カルデックは両者はまったく同じものであるとし、肉体に宿っているものを“魂”と呼び、肉体を捨てたあとの存在を“霊”と呼ぶ、という解説をしている。

そう言いつつも時おり混同して用いているところがあるが、私は上の解説は的を射ていると思うので、それに従うことにした。

カルデックの人物像と業績については次に詳しく述べることにして、ここで参考までに述べておきたいのは、カルデックが交霊会に出席するようになってから高等な自動書記通信が届けられるようになり、その編纂と出版を霊団側から依頼されたという事実である。カルデックには特に霊能はなかったが、上の事実は彼の霊格の高さと使命を物語っているとみてよいであろう。



アラン・カルデックの生涯と業績

Allan Kardec (1804 – 1869)

カルデックは本名をイポリット=レオン=ドゥニザール・リヴァイユといい、一八〇四年にフランスのリヨンで生まれている。アラン・カルデックというペンネームは、いくつかの前世での名前の中から背後霊団の一人が選んで合成して授けたものである。

家系は中世のいわゆるブルジョワ階級で、法官や弁護士が多く輩出している。初等教育はリヨンで修めたが、向学心に燃えてスイスの有名な教育改革家ペスタロッチのもとで科学と医学を学んだ。


帰国して二十八歳の時に女性教師と結婚、二人で新しい教育原理に基づいた私塾を開設する。が、偶発的な不祥事が重なって、塾を閉鎖せざるを得なくなり、リヨンを離れ、幾多の困難と経済的窮乏の中で辛酸をなめる。が、その間にあっても多くの教育書や道徳書をドイツ語に翻訳している。

その後名誉を回復して多くの学会の会員となり、一八三一年にはフランス北部の都市アラスの王立アカデミーから賞を授かっている。一八三五年から数年間、妻とともに自宅で私塾を開き、無料で物理学、天文学、解剖学などを教えている。

スピリチュアリズムとの係わり合いは、一八五四年に知人に誘われて交霊会に出席したことに始まる。そこでは催眠術によってトランス状態に入ったセリーナ・ジェイフェットという女性霊媒を通して複数の霊からの通信が届けられていた。

すでにその通信の中にも“進化のための転生”の教義が出ていて、一八五六年にはそれが「The Spirits'Book」のタイトルで書物にまとめられていた。が、その内容にはまだ一貫性ないし統一性がなかった。それが本格的な思想体系をもつに至るのは、カルデックがビクトーリャン・サルドゥーという霊能者が主催するサークルに紹介されて、そこで届けられた通信の中で、カルデックが本格的な編纂を委託されてからだった。それが同じタイトルで一八五七年に出版され、大反響を呼んだ。

このように、カルデックは霊界通信によってスピリチュアリズムに入り、当初は物理的心霊現象を軽視していた。さらに、スピリチュアリズム史上もっとも多彩な現象を見せたD・D・ホームと会った時に、ホームが個人的には再生(転生)説を信じないと言ったことで、ますます物理現象を嫌うようになった。

その後カルデックも物理現象の重要性に目覚める。「本書」がその証と言えるが、フランスでの心霊現象の研究は、カルデックの現象嫌いで二十年ばかり遅れたと言われている。

一八六九年に心臓病で死去。六十五歳。遺体はペール・ラシェーズ墓地にあり、今なお献花する人が絶えない。

業績は多方面にわたり、多くの学術論文を残しているが、著書としては『The Spirits'Book』(霊の書)、『The Mediums'Book』(本書)の他に『Heaven and Hell』(『天国と地獄』)、『The Four Gospels』(『四つの福音書』)など、スピリチュアリズム関係のものが多い。



序文


スピリチュアリズムの実践面(交霊実験会・霊能開発等)において遭遇する困難や失望が霊的基本原理についての無知に起因していることは、何よりも日頃の経験が雄弁に物語っている。

これまで我々はそのことを警告する努力を重ねてきたが、その努力の甲斐あって、本書にまとめたようなことを精読することで危険を回避することができた人が少なくないことを知って、喜びに堪えない。

スピリチュアリズムに関心を抱くようになった人は、霊と交信してみたいと思うようになる。それは極めて自然なことで、本書を上梓する目的も、これまでの長くそして労の多かった調査研究の成果を披露することによって、健全な形でその願望を叶えさせてあげることにある。

本書をしっかりお読みいただけば、テーブル現象はテーブルに手を置くだけでよい、通信を受け取るにはエンピツを握りさえすればよいかに想像している人は、スピリチュアリズムの全体像を大きく見誤っていることに気づかれるであろう。

とは言うものの、本書の中に霊能養成のための絶対普遍の秘策が見出せるかに期待するのも、同じく間違いである。と言うのは、全ての人間に霊的能力が潜在していることは事実であるが、その素質にはおのずと程度の差があり、それがどこまで発達するかは、自分の意志や願望ではどうすることもできない、さまざまな要因があるのである。

それは、たとえば詩や絵画や音楽の理論をいくら勉強しても、先天的に優れた才能を持って生まれていないかぎりは、形だけは詩であり、絵画であり、音楽といえるものはつくれても、詩人・画家・音楽家といえるほどの者になれるとは限らないのと同じである。

本書についても同じことが言える。その目的とするところは、各自の受容力が許す範囲での霊的能力の発達を促す手段をお教えすることであり、とりわけその能力の有用性を引き出す形で行うことである。

ただし、それだけが本書の目的の全てではないことをお断りしておく。本格的な霊能者といえる人以外にも、霊的現象を体験したいと思っている人が大勢いる。そういう人たちのさまざまな試みのためにガイドラインを用意してあげ、その試みの中で遭遇するかも知れない――というよりは、必ず遭遇するに決まっている障害を指摘し、霊との交信の手ほどきをしてあげ、すぐれた通信を入手するにはどうすべきかを教えてあげること、それが、十分とは言えないかも知れないが、本書が目的としているところである。

であるから、読者によってはなぜそんなことを述べるのか理解に苦しむことにも言及しているが、それは経験を積んでいくうちに「なるほど」と納得がいくであろう。前もってしっかりと勉強しておけば、目撃する現象についてより正しい理解が得られるであろうし、霊の述べることを奇異に思うことも少なくなるであろう。そのことは、霊媒や霊感者としてすでに活躍している人だけでなく、スピリチュアリズムの現象面を勉強したいと望んでいる人すべてに言えることである。

そうした指導書(マニュアル)をこんな分厚い書物でなしに、ごく短い文章で述べた簡便なものにしてほしいという要望を寄せた人がいた。そういう人たちは、小冊子の方が価格が安くて広く読まれるであろうし、霊媒や霊感者の増加にともなって強力なスピリチュアリズムの宣伝の媒体となると考えたようである。しかし、少なくとも現時点でそういう形で出すことは、有用どころか、むしろ危険ですらあると考える。

スピリチュアリズムの実践面には常に困難がつきまとうもので、よくよく真剣な勉強をしておかないと危険ですらある。従ってそうした複雑な世界に簡便なマニュアルだけで安易に入り込むと、取り返しのつかない危害をこうむることがあるのである。

このようにスピリチュアリズムは軽々しく扱うべき性質のものではないし、危険性すらはらむものであるから、まるで暇つぶしに死者の霊を呼び出して語り合うだけの集会のように考える人間がこの道に手を染めてもらっては困るのである。本書が対象としているのは、スピリチュアリズムの本質の深刻さを認識し、その途轍もなく大きい意義を理解し、かりそめにも面白半分に霊界との交信を求めることのない人々である。

本書には、これまでの我々の長年にわたる実体験と慎重な研究の末に得た資料の全てが収められている。これをお読みいただくことによって、スピリチュアリズムが、人生を考える上で見過ごすことのできない重大な意義を秘めているとの認識が生まれ、軽薄な好奇心と娯楽的な趣味の対象でしかないかに受け取られる印象を拭い去ることになるものと期待している。

以上のことに加えてもう一つ、それに劣らず重大なことを指摘しておきたい。それは、心霊現象のメカニズムについての正しい知識もなしに軽率に行われた実験会は、出席した初心者、およびスピリチュアリズムに良からぬ先入観を抱いている者に、霊界というものに関して誤った概念を植えつけ、そのことがさらにスピリチュアリズムは茶番だと決めつける口実にされてしまうことである。

半信半疑で出席した者は当然その種の交霊会をいかがわしいものと結論づける。そしてスピリチュアリズムに深刻な側面があることを認めるまでには至らずに終わる。スピリチュアリズムの普及にとって、肝心の霊媒や霊感者みずからが、その無知と軽薄さによって、想像以上に大きい障害となっているのである。

一八四八年に勃興したスピリチュアリズムは、当初の現象中心から霊的思想へと重点が移行してきたここ数年(一八六一年の時点)で飛躍的な発達を遂げた。このことには、多くの学者や知識人がその真実性と重大性を認識したことが大きく貢献している。もはや、かつてのような見世物(ショー)的な段階から脱して、確固とした教説としての認識を得ている。

確信をもって断言するが、こうした霊的教説を基盤とするかぎりスピリチュアリズムはますます有能な同志を引き寄せるであろう。すぐに現象を見せようとして安直な交霊会を催すのは得策ではないし、危険でもある。この確信は、前著『The Spirits' Book』をひと通り目を通しただけで我々のもとへ駆せ参じた人の数の多さが雄弁に物語っている。

その思想的側面については前著で詳しく語ったので、本書では、自分の霊能で霊的現象を求めておられる人、および霊媒による交霊会で現象を正しく理解したいと思っておられる方のために、おもにその実際的側面を扱うことにした。これをしっかりとお読みいただけば、遭遇する障害についてあらかじめ理解し、かつそれを回避することにもなるであろう。

最後に付言すれば、本書の校正は、内容そのものに係わった霊、いわゆる通信霊みずからが行った。全体の構成についても、かなりの部分に彼らの思う通りの修正を加え、彼ら自身が述べた意見の一つ一つについても確認作業を行っている。

通信霊は自分の所見にはかならず署名(サイン)をしているが、本書ではその全てを付記することは避け、通信者が誰であるかをはっきりさせた方がよいと思うものだけにとどめた。

が、本来、霊的なことに関するかぎり、通信霊が地上でどういう名前の人物であったかは、ほとんど意味をなさない。要はその通信の内容そのものだからである。

アラン・カルデック

一八六一年 パリにて。


シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch

ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳



九章  人間的思念と霊的思念

 英国フリート街に立ち並ぶ新聞社の一つの主筆でスピリチュアリズムにも興味を持つジャーナリストが、ある日の交霊会で思念とインスピレーションの違いについて質問した。それについてシルバーバーチはこう答えた。


 「物質の世界に住んでおられるあなた方はきわめて創造性の乏しい存在です。よくよくの例外を除いて、まず何も創造していないと言ってよろしい。受信局であると同時に発信局のような存在です。まず外部から思念が送られて来る。

それがいったんあなたならあなたという受信局で受け止められ、それに何かが付加されて発信され、それを別の人が受信するという具合です。あなたに届いた時の思念と、あなたから発信される時の思念とはすでに同じではありません。

あなたの個性によって波長が高められることもあり低くなることもあり、豊かになっていることもあり貧弱になっていることもあり、美しくなっていることもあり醜くなっていることもあり、新たに生命力を付加されていることもあり衰弱していることもあります。

しかし、それとはまったく別に、霊的な波長の調整によってあなたと同じ波長をもつ霊からのインスピレーションを受けることもできます。人間が(あなた方の言い方で)死んで私たちの世界へ来ます。その時(肉体は捨てても)精神と魂に宿されているものは何一つ失われません。

それは霊的であり、無限であり、霊的にして無限なるものは絶対に無くならないからです。その魂と精神に宿された資質はその後も生長し、広がり、発達し、成熟していきます。そうした霊性を宿しているからこそ、こちらへ来てしばらくすると、地上の人間のために何か役立つことをしたいと思うようになるわけです。やがて自分と同質の人間を見出します。あるいは見出そうと努力し始めます。

 地上で詩人だった人は詩人を探すでしょう。音楽家だった人は音楽家を探すでしょう。そして死後に身に付けたことの全てを惜しげもなく授けようとします。問題は波長の調整です。インスピレーションが一瞬の出来ごとでしかないのは、私たちの側が悪いのではありません。

二つの世界の関係を支配している法則が完全に理解されれば───別の言い方をすれば、地上の人間が両界の自由な交信の障害となる偏見や迷信を取り除いてくれれば、無限の世界の叡知が人間を通してふんだんに流れ込むことでしょう。

要は私たちの側から発信するものを受信する装置がなければならないこと、そしてその装置がどこまで高い波長の通信を受け取れるかという、性能の問題です。すべてのインスピレーション、すべての叡知、すべての真理、すべての知識は、人間側の受信能力に掛かっております」


───それだけお聞きしてもまだ、なぜインスピレーションというものが一瞬のひらめきで伝わるのかがよく理解できません。

 「その瞬間あなたの波長が整って通信網に反応するからです」と答えたあと、そういう思念が霊界からのものか地上の人間からのものかの区別の仕方について質問されて、こう述べた。

 「両者をはっきりと線引きすることはとても困難です。思念には地上の人間の発したものが地上の他の人間によって受け取られることもありますが、霊界からのものもあります。思念は常に循環しております。そのうちのある種のものが同質の性格の人に引き寄せられます。

これはひっきりなしに行われていることです。しかし、インスピレーションは霊界の者がある種の共通の性質、関心、あるいは衝動を覚えて、自分がすでに成就したものを地上の人間に伝えようとする、はっきりとした目的意識をもった行為です。地上の音楽、詩、小説、絵画の多くは実質的には霊界で創作されたものです」


───祈りは叶えられるものでしょうか。

 「叶えられる時もあります。祈りの中身と動機次第です。人間はとかく、そんな要求を叶えてあげたら本人の進歩の妨げになる、あるいは人生観をぶち壊してしまいかねない祈りをします。そもそも祈りとは人間が何かを要求してそれをわれわれが聞き、会議を開いて検討してイエスとかノーとかの返事を出すのとは違います。

祈るということは、叶えられるべき要求が自動的に授かるような条件を整えるために自分自身の波長を高めて、少しでも高い界層との霊的な交わりを求める行為です」


───〝天才〟をどう説明されますか。

 「まず理解していただきたいのは、大自然あるいは法則───どう呼ばれても構いませんが───は決して一本の真っすぐな線のように向上するようには出来ていないことです。さまざまな変異(バリエーション)、循環(サイクル)、あるいは螺旋(スパイラル)を画きながら進化しています。

全体からみればアメーバから霊に至る段階的進化がはっきりしておりますが、その中にあって時に一足跳びに進化するものと後退するものとが出てきます。先駆けと後戻りが常にあります。天才はその〝先駆け〟に当たります。

これから何十世紀、何百世紀かのちには地上の全人類が、程度の差こそあれ、今の天才と同じ段階まで発達します。天才は言わば人類の進化の前衛です」


───現在地上で行われている進化論とだいぶ違うようですが・・・。

 「私の見解はどうしても地上の説とは違ってきます。霊の目をもって眺めるからです。地上的な視野で見ていないからです。皆さん方はどうしても物的観点から問題を考察せざるを得ません。物的世界に生活し、食料だの衣服だの住居だのといった物的問題を抱えておられるからです。

そうした日々の生活の本質そのものが、その身を置いている物的世界へ関心を向けさせるようになっているのです。日常の問題を永遠の視点から考えろと言われても、それは容易にできることではありません。が、私達から見れば、あなた方も同じく霊的存在なのです。

いつ果てるともない進化の道を歩む巡礼者である点は同じです。いま生活しておられるこの地上が永遠の住処でないことは明白です。これから先の永遠の道程を思えば、地上生活などはほんの一瞬のできごとでしかありません。私達の視界は焦点が広いのです。

皆さんから受ける質問も霊的真理に照らしてお答えしております。その真理が人間生活においてどんな価値をもつか、どうやって他の同胞へ役立てるべきか、どんな役に立つか、そう考えながらです。

これまで私は私の説く真理は単純素朴なものであること、唯一の宗教は人のために自分を役立てることであることを、皆さんもいい加減うんざりなさるのではないかと思うほど繰り返し述べてきました。私たちの真理の捉え方が地上の常識と違う以上、そうせざるを得ないからです。

 大半の人間は地上だけが人間の住む世界だと考えています。現在の生活が人間生活の全てであると思い込み、そこで物的なものを───いずれは残して死んでいかねばならないものなのに───せっせと蓄積しようとします。

戦争、流血、悲劇、病気の数々も元はと言えば人間が今その時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。

人間は肉体を通して自我を表現している霊魂(スピリット)なのです。それが地上という物質の世界での生活を通して魂を生長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです」


 このシルバーバーチの言葉がきっかけとなってサークルのメンバーの間で、〝進化〟についての議論にひとしきり花が咲いた。それを聞いたシルバーバーチは、やおら次のように述べた。

 「人間はすべて、宇宙の大霊の一部である───言いかえれば無限の創造活動の一翼を担っているということです。一人ひとりがその一分子として進化の法則の働きを決定づけているということです。霊としての真価を発揮していく階梯の一部を構成しているのです。

霊は自我意識が発現しはじめた瞬間から存在し、その時点から霊的進化が始まったのです。身体的に見れば人類は、事実上、進化の頂点に達しました。が、霊的にはまだまだ先は延々と続きます」


 別の交霊会に世界的に名の知れた小説家が出席した。(姓名は紹介されていない、手掛かりになるものも出てこない──訳者)シルバーバーチが出る前に地上で世界的に有名だった人物で今ではシルバーバーチ霊団のメンバーとして活躍している複数の霊がバーバネルの口を借りて挨拶し、それに応えてサークルのメンバーが挨拶している様子を見つめていた。

(訳者注──シルバーバーチ霊団はシルバーバーチ自身がそうであるように地上時代の氏名は───無名だった人物を除いて───いっさい明かしていない。余計な先入観となるからであろう)

その作家に対してシルバーバーチは「私にはあなたが今日はじめての人とは思えません。実質的に霊力に無縁の方ではないからです」とまず述べてから、こう続けた。

 「あなたの場合は意識的に霊力を使っておられるのではありません。あなたご自身の内部で表現を求める叫び、使って欲しがる単語、言語で包んで欲しがるアイディア、湧き出てあなたを包み込もうとする美、時として困惑させられる不思議な世界、そうしたものが存在することを知っている人間の持つ内的な天賦の才能です。違いますか」


───まったくおっしゃる通りです。

 「しかし同時に、これは多くの方に申し上げていることですが、ふと思いに耽り、人生の背後で動めいているものに思いを馳せ、いかにして、なぜ、いずこへ、といった避け難い人生の問題に対する回答をみずから問うた時、宿命的といえる経緯(いきさつ)によって道が開けてきました。幼少の頃からそうであったはずですが、いかがですか」


───その通りです。

 「私たちは、方法は何であれ、自分の住む世の中を豊かにし、美と喜びで満たし、いかなる形にせよ慰めをもたらす人を誇りをもって歓迎いたします。しかし、あなたにはこれまでなさったことより、はるかに立派なことがお出来になります。お判りでしょうか」


───ぜひ知りたいものです。

 「でも、何となくお感じになっておられるのではありませんか」


───(力強い口調で)感じています。

 ここでシルバーバーチはサークルの一人に向かって 「この方は霊能をお持ちです」 と言うと、そのメンバーも「そうですね、心霊眼をお持ちです」と答えた。するとシルバーバーチは、

 「しかし、この方の霊能はまだ鍛錬されておりません。純粋に生まれつきのものです」 と述べてからその作家の方を向いて「あなたは蔭から指導している(複数の)霊の存在をご存じでない。あなたが感じておられるよりはるかに多く援助してくれているのですよ」
 
 すると別のメンバーが 「この方がこれからなさるべきことは何でしょう」と尋ねた。

 「それは、これまでなさったことよりはるかに大きな仕事です。そのうち自然に発展していきます。が、すでにその雰囲気がこの方の存在に充満していますから、ご自分では気づいておられるはずです。じっとしていられないことがあるはずです。私の言わんとしていることはお判りでしょう?」 と言ってその作家の方を向いた。


───非常によく分かります。

 「次のことをよく理解しておいてください。他の全ての人間と同じく、あなたにも小さな身体に大きな魂を宿しておられるということです。どうもぎこちない、大ざっぱな言い方をしましたが、あなたという存在は肉体という、魂の媒体として痛ましいほど不適当な身体を通して表現せざるを得ないということです。

あなたの真の自我、真の実在、不滅の存在であるところの魂に宿る全能力───芸術的素質、霊的能力、知的能力の全てを顕現させるにつれて、それだけ身体による束縛から逃れることになります。

魂そのものは本来は物質を超越した存在ですから、たとえ一時的には物質の中に閉じ込められても、そのうち鍛錬や養成をしなくても、無意識のうちに物質を征服して優位を得ようとあらゆる手段を試みるようになります。それが今まさにあなたの身の上に起きつつあるわけです。

インスピレーション、精神的活動、目に見えない側面のすべてが一気に束縛を押し破り、あなたの存在に流入し、充満し、あなたはそれに抗し切れなくなっておられる。私の言っていることがお分かりでしょうね」

───非常によく分かります。
 
 「しかし、同時にあなたは私たちの世界の存在によって援助されております。すでに肉体の束縛から解放された人たちです。その人たちは情愛によってあなたと結ばれております。愛こそ宇宙最大の絆なのです。

愛は自然の成り行きで愛する者同士を結びつけ、いかなる者もいかなる力もいかなるエネルギーも、その愛を裂くことはできません。

愛がもたらすことのできる豊かさと温もりのすべてを携えてあなたを愛している人たちは、肉体に宿るあなた自身には理解できない範囲であなたのためにいろいろと援助してくれております。が、それとは別に、そうした情愛、血縁、家族の絆で結ばれた人々よりは霊性においてはるかに偉大な霊が、共通の興味と共通の目的意識ゆえに魅かれて、あなたのために働いてくれております。

今ここで簡単には説明できないほど援助してきており、こののち、もしその条件が整えば、存在をあなたに知らしめることにもなるでしょう」


───ぜひ知らせてほしいものです。それと、こうした背後霊の皆さんに私からの感謝の気持ちを伝えていただけますでしょうか。


 「もう聞こえていますよ。今日私があなたにぜひ残していきたいのは、あなたのまわりに存在する霊力の身近かさの認識です。私は古い霊です。私にも為しうる仕事があることを知り、僅かですが私が摂取した知識が地上の人々のお役に立てばと思って、こうして戻ってまいりました。

すでに大勢の友───その知識を広めるために私の手足となってくれる同僚をたくさん見つけております。私の大の友人パリッシュ(心霊治療家で、その日の交霊会にも出席していた)のように特殊な使命を帯び、犠牲と奉仕の記念碑を打ち立てている者もいます。

しかし、すべての友が自分が利用されていることを意識しているわけではありません。でも、そんな人たちでも時たま、ほんの瞬間にすぎませんが、何とも言えない内的な高揚を覚え、何か崇高な目的の成就のために自分も一翼を担っていることを自覚することがあるものです」


 

Saturday, April 18, 2026

霊の書(4部) アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book

第4部 希望と慰め
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



2章 死後の喜びと悲しみ

このページの目次

〈善悪の報い〉


――死の直後の心情はどんなものでしょうか。疑念でしょうか、恐怖心でしょうか、それとも希望でしょうか。


「懐疑的人間は疑念を抱き、罪深い人間は恐怖心を抱き、善性の強い人間は希望にあふれます」


――神は人間の一人一人に係わっているのでしょうか。宇宙の大霊ともなると人間のような小さな存在に直接係わるとは思えないのですが……


「神は自ら創造されたもの全てに係わっておられます。完全なる公正のためには小さ過ぎるものは一つもありません」


――我々人間の一人一人の言動の一つ一つに善悪の報いの裁可が下されるのでしょうか。


「神の摂理は人間の言動の全てにわたって働きます。そのことで勘違いしないでいただきたいのは、人間がその摂理の一つを犯すと神が、こいつは欲が深すぎるから懲らしめてやろうなどと言って裁くような図を想像してはいけないことです。神は欲望に一定の限度を設けています。もろもろの病気や災厄、あるいは死でさえもが、その限度を踏みはずした結果として自然に発生するのです。罰というのは全て、法則に違反したその結果です」


――完成された霊の幸福感はどういうものでしょうか。


「全てを知り得ること、憎しみも嫉妬心も怨みも野心も、その他、人間を不幸にしている悪感情が何一つないということです。互いに睦み合う情愛は至福の泉です。物的生活につきものの、欲しいものや苦痛、悩みなどが一切ありません。

その幸せの度合いは霊性の高さに比例しています。最高の幸せは(相対的な意味で)完全な純粋性を身につけた霊が味わいますが、その他の霊が幸せを感じていないわけではありません。悪いことばかり考えている低級霊から最高級の霊の界層までには、霊性と幸せにおいて無数の格差があります。それぞれに、それなりの徳性に応じた楽しみがあるということです。

霊性がある一定の高さにまで向上すると、その先、つまり自分の境涯よりも高い界層で味わえる幸福感がいかなるものであるかが予感できるようになります。そしてその幸福感にあこがれて修養に励みます。嫉妬心などとは違います。やむにやまれぬ憧憬です」


――キリスト教では浄化しきった霊は神の御胸の中に集められて、そこで神をたたえる歌を永遠にうたい続けるというのですが、これはどう解釈したらよいでしょうか。


「これは神の完全性について理解した高級霊がそれを寓話的に表現したもので、これをその言葉どおりに受け取ってはいけません。自然界のもの全て――砂の一粒でさえもが――神の威力と叡知と善性を高らかに謳(うた)っていると言えます。これを高級霊が神を拝みつつ永遠に讃美歌をうたい続けるかに想像するのは間違いです。そんな退屈で愚かで無駄な話はありません。

それほどの界層の霊になると、もはや地上生活のような艱難辛苦はありません。いわゆる解脱の境地に入っているわけで、それ自体が喜びです。また、すでに述べたように、彼らには何でも知ることができ、物事の因果関係が理解できますから、その知識を駆使して、進化の途上にある他の霊を援助します。それが又、喜びなのです」


――下層界の低級霊の苦難はどのようなものでしょうか。


「原因しだいで、こうむる苦難も異なります。そして、高級霊の喜びがその霊性の高さに比例して大きくなるように、低級霊が感じる苦痛の程度も、各霊の霊性によって異なります。

大ざっぱに言えば、到達したい幸せの境地が見えていながら行かせてもらえないこと、その幸せを味わうことのできる霊性の高さに対する羨望(せんぼう)、幸せを妨げている自分のそれまでの所業に対する後悔の念、嫉妬、憤怒、絶望、そして言うに言われぬ良心の呵責、等々です。要するに霊的な幸せや喜びを求めながらそれが叶えられないことから生じる苦悩です」


――その中でも最大のものは何でしょうか。


「罪悪の中には、それが生み出す苦痛が計り知れないものがあります。本人自身も叙述できないでしょう。が、間違いなく言えることは、その苦痛の状態がいつまでも変わらず、もしかしたら永遠に続くのではないかという恐怖心が必ずあります」


――“永遠の火刑”のドグマはどこから生まれたのでしょうか。


「よくあるように、これも言葉による比喩的表現にすぎません」


――しかし、このドグマによる恐怖が良い結果をもたらすこともあるのではないでしょうか。


「周囲を見回してごらんなさい。このドグマで悪事を思い止まった人がいるでしょうか。たとえ幼少時から教え込まれた者でも効き目はないはずです。理性に反した教えは、その影響に永続性がなく、健康的でもありません」


――邪霊にも善霊の幸せがどのようなものかが分かるのでしょうか。


「分かります。そこにこそ彼らの苦悶の源があるのです。自分の過ちによってその幸せが味わえないという因果関係が分かっているからです。そこでまた再生を求めます。新たな人生で少しでも罪滅ぼしをすれば、それだけ幸せな境涯に近づけると思うからです。だからこそ苦難の人生を選択するのです。自分が犯した悪、あるいは自分が大本になって生じた一連の悪、また、しようと思えばできたはずなのに実行しなかった善、さらには、そのために生じた悪、そうしたことについても一つ一つ償いをしなくてはなりません。

霊界へ戻ってさすらいの状態にある時は、ちょうど霧が晴れて視界が見晴らせるようになるごとくに現在の自分の境涯と上級界層の幸せの境涯との間に横たわる罪の障害が、ありありと分かるのです。だからこそ苦悶が強まるのです。自分が咎めを受けるべき範囲が明確に理解できるからです。もはやそこには幻想は存在しません。事実を有るがままに見せられます」


――高級な善霊にとっては、そうした苦悶する霊の存在は幸福感を殺(そ)がれる要因となるのではないでしょうか。


「その苦悶にはそれなりの目的があることを理解していますから、幸福感が殺がれることはありません。むしろその苦しむ霊たちを救済することに心を砕きます。それが高級霊の仕事であり、成功すればそれが新たな喜びとなります」


――苦しんでいる霊が何の縁もない人であればそれも理解できますが、地上時代に何らかの縁があって情的なつながりがある場合は、自分のことのように辛いのではないでしょうか。


「今申したのと同じです。地上時代と違って今はまったく別の観点から見ていて、その苦悶に打ち勝てばそれが進化を促すことになることを理解していますから、自分の苦しみとはなりません。むしろ高級霊が残念に思うのは、彼らから見ればほんの一時的でしかないその苦しみよりも、その苦しみを耐え抜く不抜の精神が欠如している場合です」


――霊の世界では心に思ったことや行為の全てが他に知れるとなると、危害を及ぼした相手は常に自分の目の前にいることになるのでしょうか。


「常識で考えればそれ以外の回答は有り得ないことくらい、お分かりになるはずです」


――それは罪を犯した者への懲罰でしょうか。


「そうです。あなた方が想像する以上に重い罰です。ですが、それも霊界ないしは地上界での生活の中で償いをして行くうちに消えて行くことがあります」


――罪の浄化のために体験しなければならない試練があらかじめ分かることによって、もし間違えば幸福感が殺がれるとの不安が魂に苦痛を覚えさせるでしょうか。


「今なお悪の波動から抜け切れない霊についてはそういうことが言えます。が、ある一定レベル以上に霊性が進化した者は、試練を苦痛とは受け止めません」
〈悔い改めと罪滅ぼし〉


――地球よりも垢抜けのした天体への再生は前世での努力の報いでしょうか。


「霊性が純化されたその結果です。霊は純粋性が高まるにつれて、より進化した天体へ再生するようになり、ついには物質性から完全に解脱し、穢れも清められて、神と一体の至福の境地へ至ります」


――人生をまったく平穏無事の中で過ごす人がいます。あくせく働くこともなく、何の心配事もありません。そういう人生は、その人が前世において、何一つ償わねばならないことをしていないことの証拠でしょうか。


「あなたは、そういう人を何人もご存じだとおっしゃるのですか。もしもそのお積もりであるとしたら、その判断は間違いです。表向きそう見えるというだけのことです。もちろん、そういう人生を選択したというケースも考えられないことはありません。が、その場合でも、霊界へ戻ればそうした人生が何の役にも立たなかったこと、無駄な時間を無為に過ごしたことに気づき、後悔します。

霊は活発な活動の中でこそ貴重な知識を収得し霊性が向上するのであって、のんべんだらりとした人生を送っていては、進歩は得られません。このことによく留意してください。そういう人は、地上生活に譬えれば、仕事に出かけながら途中で道草を食ったり昼寝をしたりして、何もしないで帰ってくるようなものです。

そういう風に自らの意志で送った無益な人生には大きな償いをさせられること、そして又、その無駄という罪はその後の幸せに致命的な障害となることを知ってください。霊的な幸せの度合いは人のための善行ときちんと比例し、不幸の度合いは悪行の度合いと、不幸な目に会わせた人の数と、きちんと比例します。神の天秤には一分(ぶ)の狂いもありません」


――悔い改めは地上生活中に行われるのでしょうか、それとも霊的状態に戻ってからでしょうか。


「本当の悔い改めは霊的状態において行われます。しかし、善悪の判断が明確にできるレベルに達した人の場合は地上生活中でも有り得ます」


――霊界での悔い改めの結果どういうことになるのでしょうか。


「新たな物的生活(再生)への願望です。霊的に浄化されたいと思うようになるのです。霊には幸せを奪う自分の欠点が正直に意識されます。そこでそれを改めるような人生を求めることになります」


――地上生活中の悔い改めはどういう結果をもたらしますか。


「欠点を改めるだけの十分な時間があれば地上生活中でも霊性が向上します。良心の呵責を覚え、自分の欠点を十分に認識した時は、その分だけ霊性が向上しているものです」


――地上時代には絶対に自分の非を認めなかったひねくれ者でも、霊界へ戻れば認めるものでしょうか。


「認めます。必ず認めるようになりますし、次第にその罪の大きさに気づきます。地上時代の自分の過ちの全てが分かってきますし、自分が原因で広がった悪弊も分かってくるからです。もっとも、すぐに悔い改めるとは限りません。一方でその罪悪への罰に苦しみつつも、強情を張って自分の間違いを認めようとしないことがあります。しかし遅かれ早かれ道を間違えていることに気づき、やがて改悛の情が湧いてきます。そこから高級霊の出番となります」


訳注――高等な霊界通信に必ず出てくるのがこの“高級霊の出番”である。高級霊団は地上で迷っている者や死後いわゆる地縛霊となってしまった霊の思念の流れを一つ一つ把握していて、たとえ一瞬の間でも改悛の情や善性への憧れをのぞかせたり、真理の一筋の光でも見出し始めると、その一瞬を狙って働きかけ、その思念を持続させ増幅させようとする。

もちろんその一方には悪への道へどんどん深入りさせようとする邪悪集団の働きかけもある。一人の人間が殺意を抱くと邪霊集団が大挙して集まってくるという。ヒステリックな言動はもとより、その反対に、どこかに良心の呵責を感じながらも身勝手な理屈で打ち消しつつ密かに抱いている不健全な、あるいは非人道的な思いも、邪霊の格好の餌食である。
〈天国・地獄・煉獄〉


――宇宙には霊の喜びや悲しみに応じてこしらえられた一定の場所というのがあるのでしょうか。


「その問いについてはすでに答えてあります。霊の喜びや悲しみは、その霊性の完成度に応じて、本来そなわっているものが開発されて行くのであって、外部から与えられるものではありません。各自がその内部に幸不幸の素因を秘めているのです。霊はどこにでも存在するのですから、幸福な霊はここ、不幸な霊はあそこ、といった区画された地域があるわけではありません。物質界に誕生する霊に関して言えば、生まれ出る天体の霊的進化の度合いに応じて、ある程度まで幸不幸の度合いが決まるということは言えるでしょう」


――と言うことは“天国”とか“地獄”は人間の想像したもので、実際には存在しないのですね?


「あれは象徴的に表現したまでです。霊は幸不幸に関係なく至るところに存在しています。ただし、これもすでに述べたことですが、霊性の程度がほぼ同じ者が親和力の作用で集まる傾向があります。しかし、完全性を身につけた霊はどこででも集結できます」


――“煉獄”というのはどう理解したらよいのでしょうか。


「身体的ならびに精神的苦痛のことです。罪が贖(あがな)われていく期間と見ることもできます。煉獄を体験させられるのは必ずといってよいほど地上界です。罪の償いをさせられるのです」


――“天国”はどういう意味に解釈すべきでしょうか。


「ギリシャ神話にあるような、善霊が何の心配事もなく、ただ楽しく愉快に遊び戯れているというエリュシオンのような場を想像してはいけません。そんな他愛もないものではありません。天国とは宇宙そのものです。惑星の全てであり、恒星の全てであり、天体の全てです。その大宇宙の中にあって、物的束縛から完全に解放され、従って霊性の低さから生じる苦悶からも解脱した高級霊が、内在する霊的属性をフルに発揮して活動しているのです」


――通信霊の中には第三界とか第四界といった呼び方をする者がいますが、あれはどういう意味でしょうか。


「人間側がとかく階段状の層のようなものを想像して、今何階に住んでいるのですかなどと聞くものですから、その発想に合わせて適当に答えているまでです。天界は人間の住居のように三階・四階と重なっているわけではありません。霊にとっては霊性の浄化の程度の差を意識するだけで、それは即ち幸せ度の象徴でもあります。

地獄についても同じことが言えます。地獄というものがあるかと尋ねた時、その霊がたまたま非常に苦しい状態にあれば、たぶん“ある”と答えるでしょう。その霊にとっては地獄とは苦悶のことです。火あぶりにされる地獄のかまどのことではないことくらい本人も知っています。ギリシャ神話しか知らない霊であれば“タルタロス”にいると答えるでしょう」(地獄の下にある底なし淵のこと)
〈永遠の刑罰〉


――この現世においても過ちの贖いは可能でしょうか。


「可能です。それなりの償いをすれば可能です。ただ、勘違いしないでいただきたいのは、罪滅ぼしのつもりで通りいっぺんの苦行を体験したり遺産を寄付する旨の遺言を書いたりしたところで、何の償いにもならないということです。そんな子供騙しの悔い改めや安直な懴悔の行では、神はお赦しになりません。この程度のことをしておけば済むのではないかという、結局は自己打算の考えがそこにあります。

悪行は善行によって償うしかありません。懴悔の行も自尊心と俗世的欲望とを完全に無きものにしてしまわないかぎり、無意味です。神の前にいくらへり下ってみたところで、他人へ及ぼした悪影響の全てを善行によって消滅させないかぎり、何の意味もありません」


――死を目前にして己の非を悟りながら、その償いをする余裕のない人はどうなるのでしょうか。


「悔い改めたという事実は、更生を速める要素にはなるでしょう。が、その程度で赦されるものでないことは今述べた通りです。それよりも将来があるではありませんか。神はいかに罪深い霊にも将来への扉を閉ざすことはありません」


――永遠に罰せられ続ける霊というのが実際にいるのでしょうか。


「永遠に邪悪性を改めなければ永遠に罰せられるのは理の当然です。つまり永遠に悔い改めなければ、あるいは永遠に罪滅ぼしをしなければ、永遠に苦しむことになります。しかし神は、霊が永遠に悪の餌食であり続けるようには創造しておりません。最初は無垢と無知の状態で創造し、自由意志が芽生えてからは、その判断の違いによって長短の差はありますが、霊的本性そのものの働きで進化するようになっているのです。

人間の子供と同じです。早熟な子と晩生(おくて)の子とがいるように、霊にも意欲しだいで進化の速い霊とゆっくりな霊とがいますが、いずれは抑え難い向上心に突き上げられて、低劣な状態から脱し、そして幸せを味わいたいという願望を抱き始めます。従って苦しむ期間を規制する摂理は、本人の努力という自由意志の働きと密接不離の関係にあるという点において、叡知と愛に満たされていると言えます。自由意志だけは絶対に奪われることはありません。が、その使用を誤った時は、その過ちが生み出す結果については自分が責任を取らねばならないということです」


――その説から言えば“永遠の火あぶり”の刑などというのは有り得ないことになるわけですね?


訳注――これから紹介する四人の歴史的大人物による回答は、その内容と語調から察するに、“永遠の刑罰”というキリスト教のドグマについてカルデックが執拗に質問を繰り返し、その中から“これは本物”と確信したものを選び出したようである。これほどの大人物がこれぽっちの文章を書きに(自動書記と察せられる)やってくるわけはないから、原物はずいぶんの量にのぼったのではなかろうか。なお原書では最後に署名が記されているが、ここでは、便宜上、文頭に置いた。


アウグスティヌス「そなたの常識、そなたの理性に照らして、果たして公正なる神がほんの瞬間の迷いから犯した罪に永遠の刑罰を与えるか否かを考えてみられることです。人間の一生など、たとえ数百年もの長さに延ばしてみたところで、永遠に比べれば一瞬の間ではないですか。永遠! そなたにはこの永遠という言葉の意味がお分かりでない。わずかなしくじりをして、終わりもなく希望もないまま苦悶と拷問にさいなまれ続ける! こんな説にそなたの分別心が直観的に反発しませんか。太古の人間が宇宙の主宰神を恐ろしい、嫉妬深い、復讐心に燃えた人格神のように想像したのは容易に理解できます。自然現象について科学的知識がありませんでしたから、天変地異を神の激情の現れと考えたのです。

しかし、イエスの説いた神は違います。愛と慈悲と憐憫(れんびん)と寛容を最高の徳として位置づけ、自ら創造し給うた我々にもそれをそなえることを義務づけておられる。その神が一方において無限の愛をそなえながら、他方において無限の復讐を続けるというのでは矛盾していませんか。

そなたは神の義は完ぺきであり人類の限られた理解力を超えるとおっしゃる。しかし、義は優しさを排除するものではありません。もしも神が自らの創造物である人類の大多数を終わりなき恐怖の刑に処するとしたら、神には優しさが欠けていることになります。もしも神自らが完ぺきな義の模範を示し得ないとしたら、そのような神には人類に義を強要する資格はありません。

神はそのような理不尽な要求はしておられません。罰の期間をその違反者による償いの努力しだいとし、善悪いずれの行いについても、各自その為せるわざに相応しい報いを割り当てる――これこそ義と優しさの極致ではないでしょうか」(アウグスティヌスについては十二章に前出


ラメネイ「あなた方の力で可能なかぎりの手段を尽くして、この永遠の刑罰のドグマと闘い、完全に無きものにするために、これより本腰を入れていただきたい。この概念は神の義と寛容に対する冒涜であり、知性が芽生えて以来この方、人類を侵し続けてきた懐疑主義と唯物主義と宗教的無関心主義の元凶だからです。

知性がいささかなりとも啓発されれば、そのような概念の途方もない不公正に直ちに気づきます。理性は反発し、その反発を覚える刑罰と、そのような理不尽な罰を科する神とのつながりに矛盾を感じないことはまず考えられません。その理性的反乱が無数の精神的病弊を生み出し、今まさに我々がスピリチュアリズムという処方箋を用意して馳せ参じたのです。

これまでのキリスト教の歴史を見ても、この教義の支持者たちは積極的な擁護説を差し控えています。公会議においても、また歴代の教父たちも、この余りに重苦しい問題に結論を出し得ずに終わっております。その分だけ、そなたたちにとってこの説を撲滅する仕事は容易であると言えるでしょう。

よしんばキリストが福音書や寓話の直訳的解釈にある通りに“消すことのできない火”の刑罰をもって罪人(つみびと)を脅したとしても、その言葉の中には“永遠にその火の中に置かれる”という意味はみじんもありません」


訳注――フェリシテ・ド・ラメネイ(一七八二~一八五四)はナポレオンの治政下にあって宗教学者として、政治にも問題を投げかける著書を著し、一時はその進歩的すぎる思想が危険視されて投獄されたこともある。が、獄中でも執筆活動を止めなかった。晩年は貧困と病に苦しみながらも、ダンテの『神曲』をフランス語に翻訳した。その宗教的ならびに政治的影響は二十世紀にも及んだと言われている。


プラトン「愚かきわまる舌戦! 児戯に類する言論戦! たかが言葉の解釈の問題にどれほどの血が流されてきたことでしょう! もう十分です。この無益な言葉をこそ火刑に処して然るべきです。

人類は“永遠の刑”とか“永遠に燃えさかる炎”という言葉について論議を重ねながら、その“永遠”という用語を古代の人間は別の意味で用いていたことをご存じないのでしょうか。神学者にその教義の出所をよく調べさせてみるとよろしい。ギリシャ民族やラテン系民族、そして現代人が“終わりなき、かつ免れ難き罰”と訳したものは、ヘブライ語の原典においては、そういう意味で用いられていないことが分かるはずです。

“罰の永遠性”とは“悪の永遠性”の意味です。そうなのです。人間界に悪が存在するかぎりは罰も存在し続けるという意味です。聖典の言葉もそうした相対的な意味に解釈すべきなのです。従って罰の永遠性も絶対的なものではなく相対的なものです。いつの日か人類の全てが悔い改めて無垢の衣装を身にまとう日が来れば、もはや嘆き悲しむことも泣き叫ぶことも、あるいは無念の歯ぎしりをすることも無くなるでしょう。

確かに人間の理性は程度が知れています。が、神からの賜(たまもの)であることには違いありません。心さえ清らかであれば、その理性の力は刑罰の永遠性を文字通りに解釈するような愚かなことはいたしません。もしも刑罰が永遠であることを認めれば悪もまた永遠の存在であることを認めなくてはならなくなります。しかし、永遠なるものは神のみです。その永遠な神が永遠なる悪を創造したとしたら、神的属性の中でも最も尊厳高きもの、すなわち絶対的支配力をもぎ取られることになります。なぜなら、神が創造したものを破滅に追いやる力がもし創造されたとしたら、その神には絶対的支配力が無かったことになるからです。

人類に申し上げたい! もうこれ以上、死後にまでそのような体罰があるのだろうかと、あたかも地球のはらわたを覗き込むような愚は止めにしてもらいたい! 良心の呵責に密かに涙を流すのはよろしい。が、希望まで棄ててはいけません。犯した罪は潔(いさぎよ)く償うがよろしい。が同時に、絶対的な愛と力、そして本質において善そのものである神の概念に慰めを見出すことも忘れないでいただきたい」


訳注――言わずと知れた紀元前五世紀~四世紀のギリシャ人哲学者で、人類の知性の最高を極めたと評されている。著書としては『ソクラテスの弁明』などの『対話篇』が有名であるが、その中の『断片』の中に伝説上の大陸アトランティスの話が出ていて、本来の哲学者とは別の面で話題を生み、それは今日でも関心の的となっている。ジブラルタル海峡の少し西のあたりに高度な文明をもった民族が住んでいたが、それが地殻変動で一夜にして海中に没したという。

しかしエンサイクロペディア・アメリカーナの執筆者によると、地理学者の調査で確かにそのあたりの大陸は大きくアメリカ大陸方向へ延びていたことは事実であるが、それが埋没したのは有史以前のことと推定されるという。

どうでもよさそうな伝説を紹介したのは、世界中のチャネラーが好き勝手なことを言い、トランス霊媒を通じて語る霊の中に自分はアトランティス大陸の住民だったなどと言う者が後を絶たないからで、全ては低級霊の仕業であるから相手にしないことである。


パウロ「宇宙の至高の存在すなわち神と一体となることこそ人間生活の目的です。その目的達成のためには次の三つの要素が必要です。知識と愛と正義です。当然これに対立するものにも三つあります。無知と憎しみと不正です。

あなた方は神の厳しさを誇張しすぎることによって却って神の概念を傷つけております。本来の神にあるまじきお情け、特別の寵愛、理不尽な懲罰、正義のこじつけが通用するかに思わせる結果になっております。中世のあの拷問と断罪、そして火あぶりの刑という、身の毛もよだつ所業に見られるように、“赦し難き罪”の解釈を誤って、心まで悪魔となっています。そんなことではキリスト教の指導者は、その無差別の残虐的懲罰の原則が人間社会の法律から完全に排除された暁には、その懲罰が神の政庁の原理であるとは、もはや信じさせることはできなくなってしまいます。

そこで神とイエス・キリストの御名のもとでの同志諸君に告げたいのです。選ぶ道は次の二つのうち一つです。これまでの古いドグマをいじくり回すような小手先のことをせずに、いっそのこと全てを廃棄してしまうか、それとも今我々が携わっている(スピリチュアリズムの)活動によってイエスの教えに全く新しい生命を吹き込むか、そのいずれかです。

例えば燃えさかる炎と煮えたぎる大釜の地獄は、鉄器時代だったら信じる者もいたかも知れません。が、現代では他愛もない空想物語でしかなく、せいぜい幼児の躾にしか役に立ちません。その幼児も少し成長すればすぐに怖がらなくなります。そのような根拠のない恐怖を説き続けることは、社会秩序の破壊の元凶である“不信”のタネを蒔くことになります。そしてそれに代わる権威ある処罰の規定もないまま、社会の基盤が崩れ瓦解してしまうのを見るのが、私は怖いのです。

生きた信念に燃える熱烈な新時代の先駆者が一致団結して、今や悪評の絶えない古い寓話の維持に汲々となることは止めて、今の時代の知性と風潮に調和した、真の意味での罰の概念を蘇らせてほしいのです。

ところで“罪を犯せる者”とは一体どういう人間のことでしょう? 魂の間違った働きによって人の道から外れ、創造者たる神の意図から逸脱した者のことです。その神の意図とは、人類の模範として地上に送られたイエス・キリストにおいて具現されている善なるもの・美なるものの調和です。

では“懲罰”とは一体何なのでしょう? 今述べた間違った魂の働きから派生する自然な結果のことです。具体的に言えば、正道から外れたことに自らが不快感を抱くに至らせるために必要な苦痛、つまりその逸脱によって生じる苦の体験のことです。言うなれば家畜を追い立てる突き棒のようなもので、時おり突きさされて、その痛みに耐えかねて放浪を切り上げて正道に帰る決心をさせるためのものです。罰の目的はただ一つ、リハビリテーションです。その意味から言って、永遠の刑罰の概念は存在そのものの理由を奪うことになるのです。

どうか善と悪の永続性の対比の議論は、いいかげん止めにしていただきたい。対比することで、そこに懲罰の基準というものをこしらえてしまいます。が、そういうものには何の根拠もありません。そうではなく、物質界での生活をくり返すことによって欠陥が徐々に消え失せ、それだけ罰も受けなくなるという因果関係をしっかりと理解してください。そうすれば公正と慈悲との調和による創造者と創造物との一体化という教義に生命を賦与することになるのです」


訳注――改めて紹介するまでもなくイエスの弟子の一人で、イエスの死後その教えを各地に伝道してまわった人物として知られる。聖書の中にも「ローマ人への手紙」「コリント人への手紙」「テサロニケ人への手紙」等々、十指に余るパウロの文書が見える。それが果たして本物か否かの問題は別として、カルデックがこの署名入りの一文を掲載したということは、その内容からあのパウロに間違いないとの確信を得たからであろう。“聖パウロ”と呼ばれることが多いが、署名は“弟子パウロ”とある。



訳者あとがき


「霊媒の書」のあとがきでは翻訳に当たっての私の心構えのようなものを端的に述べさせていただいたが、その中の一要素として原著者――カルデックは編者で、実質的には聖ルイを中心とする霊団――の姿勢を反映させることも重要な役割であるとの認識から、この「霊の書」では特にその点でいろいろと工夫を凝らしたつもりである。

例えばモーゼスの『霊訓』では霊団の統括霊であるインペレーターの威厳に満ちた、それでいてモーゼスを叱咤激励する時の、峻厳の中にも限りない愛を秘めた言葉に感極まり、訳者としての立場を忘れて滂沱(ぼうだ)の涙に暮れることがしばしばだった。勢い、訳文も壮重なものとなった。

シルバーバーチはそれとはまた違った、曰く言い難い、現世を達観しながらも現実にしっかりと足を置いた爽快な叡知の泉に魂が潤(うるお)される思いがして、抑え難い感謝の情に涙を誘発されることが、これ又、しばしばだった。それは今でも変わらない。何気なく原書や訳本を開いて読み進んでいくうちに、どっと涙が溢れる。訳本の場合は自分の訳であることを忘れている。これは一体どこから出るのであろう?

さて本書を通してお読みくださった方は、聖ルイを中心とする霊団の姿勢が右の二つの霊団とは違うことにお気づきであろう。その特徴を端的に示している箇所を一、二挙げると、「霊媒の書」では八章の中で「口はばったいようですが、こんな分かり切ったことを延々としつこく聞き出そうとするのは、いい加減お止めなさい」とクギを刺すところがある。「口はばったいようですが」は口調を和らげるために私が書き加えたのであって、原文はいきなり「止めなさい」である。インペレーターがモーゼスを叱咤する時の厳しさとは少し違うのである。

またこの「霊の書」では、死の過程の中での霊の心境を聞かれて、島流しの刑期をようやく終えて、これで自由の身になれると思ってワクワクしている、と言った表現をしているところがある。地球を流刑の地に擬(なぞら)えているのである。確かに地上界が太陽系の中でも下から数えた方が早いほど低級な惑星であることは、高等な霊界通信の一致するところであるが、流刑の島に擬えたのは私も初めてお目にかかった。

翻訳を進めながら私は、こうした冷徹ともいうべき態度、日本流の言い方をすれば“一刀両断に切って捨てる”ような酷しさは一体どこからくるのだろうかと考えた。

霊団はアウグスティヌスやソクラテス、プラトン、ヨハネ、パウロなどの古代霊を除いて大半は中世から近代に活躍したフランス人で、統括霊が“聖(セント)ルイ”と称されたルイ王朝の第九世である。

ルイ九世は歴代の王の中でも“理想像”とされるほど傑出した人物だったようで、学問と芸術の振興にも力を入れている。十三世紀の人物であるが、聖アウグスティヌスやソクラテスなどの大人物を従えた霊団を指揮するほどの霊格をそなえていたのであろう。

地上の交霊会の司会者として最終的にこの二冊の大著を編纂することになったカルデックも、出生前から霊団との打ち合わせができていたはずで、その使命は十分に果たしたと言えるのではなかろうか。不遇だった時代に多くの教育書や道徳書、とくに本書にも出ているフェヌロンの著作をドイツ語に翻訳していることも、霊団側の配慮であろう。

問題は、モーゼスの場合と同じく、キリスト教神学を基盤とした人生観・宇宙観が根強かったことである。が、近代教育の父と言われるペスタロッチのもとで学び、その自由闊達な総合教育の理念に馴染んでいたのも霊団側の準備だったと私は見ているが、その彼にとってもスピリチュアリズム思想との出会いは驚天動地の革命的事件だったことであろう。

霊界通信の可能性に得心が行った後、キリスト教のドクマを中心に質疑応答が展開していったのは西洋人として当然のことで、本書にもそれが随所に見られるが、彼の質問を“しつこい”ものにしたもう一つの要素として、各地で催されている交霊会へ出席してみて、そのいい加減さを知ったことである。勢い自分が司会をする交霊会でも警戒心を強め、徹頭徹尾“疑ってかかる”態度に出るようになった。

霊的なことに関してはまず疑ってかかるという態度は大切であるが、それも度が過ぎると幼稚に響くようになる。私も“しつこいなぁ”と思い、内容的に重要性がないとみたものは削除した。

これほど高度な内容が盛り込まれていながら他の霊訓と少し感じが違うのは、そういう経緯から出ていると私は見ている。

さて二冊の著書に盛り込まれた通信に直接携わった霊は何人だったかというのも私の関心事の一つだった。出てきた氏名だけを数えれば二十四名であるが、本文の問答の中で署名が付いているのは聖ルイ、エラステス、フェヌロン、聖アウグスティヌス、プラトン、パウロ、ラメネイの七名だけである。他にも、いかにもフランスらしい氏名、例えばジャンヌ・ダルクやルソー、ナポレオンといったお馴染みの名が目白押しである。イエス・キリストまで登場している。

しかしカルデックはそれらを巻末に集めて批評を加え、適確に裁いている。その批評の中には日本の心霊関係者も反省材料とすべきものが少なくないので、二、三紹介しておきたい。

例えば“ナポレオン”からの通信を紹介したあとカルデックが次のようなコメントをしている。

「この世に謹厳で実直な人間がいるとしたら生前のナポレオンこそその一人だった。その信念、その簡潔な文章は知る人ぞ知るところであるが、もしもこの通信がそのナポレオンからのものだとしたら、どうやらナポレオンは死後、不思議なほど堕落してしまったようだ。これは多分、ナポレオンの騎兵隊の一人がナポレオンを気取って書いたものであろう」

次に“イエス”と署名のある通信を二つ紹介してから――「この二つの通信文で言っていることは、これといって読んで毒になるものはないが、あのイエスがこんなぎこちない、気取った、大ゲサで滑稽な文章しか書けないのだろうか。(中略)一連の通信文には共通したニュアンスがあるところから判断して、これらは全部一人の低級霊が書いたものであろう」

“ジャック・ボシュエ”というカトリックの大司教だった人物の署名のある通信文のあと――「このメッセージにはケチのつけようがない。それどころか、深遠な哲学的思想、そして透徹した助言も盛られていて、普通の者はあのボシュエからのものに相違ないと信じるであろう。(中略)が、聖ルイに尋ねたところ、内容は確かに申し分ないが、ボシュエのものと思ってはいけない。書いた霊はある程度ボシュエのインスピレーションを受けていたかも知れないが、“ボシュエ”の署名のあとに付してある“アルフレッド・ド・マリナック”という人物が書いたものである、という返答だった。そこでその霊を呼び出して質してみた。

“いかなる了見でこんなごまかしをなさったのですか”

“いつか人間の注目を集めるような通信文を書いてみたいと思っていたんです。私の文章力は弱いので、でかい名前を使ったまでです”

“でも、すぐにニセモノということがバレることが見通せなかったのですか”

“どういうことになるか誰にも分かったもんじゃありませんよ。あなただって担(かつ)がれたかも知れないじゃないですか。見る目のない連中はボシュエのものと信じたでしょうよ”

確かに、有名人の署名があるものだとすぐに本物と信じたがるところに、低級霊をつけ上がらせる原因がある。そうした低級霊の策謀を挫折させる道は洞察力を働かせる以外にはないが、そのためには豊かな経験と学習を重ねるしかない。交霊会を催す前にしっかりと勉強してほしいと我々が忠告するのはそのためである。熱心な研究家が煙に巻かれたり当惑するような体験を避ける道は、こちらがしっかりと勉強するしかないのである」

最後に言及しておかねばならない問題として、カルデック霊団は心霊治療ないし霊的治療に関しては論じていないことが挙げられる。私見では、スピリチュアリズムのために結成された幾つかの霊団にはそれぞれに役割分担があり、その背景には時代の進展に合わせた配剤があるはずである。

霊的治療の重要性を前面に押し出したのはシルバーバーチで、時代がハリー・エドワーズを筆頭とする数多くの有能なスピリチュアル・ヒーラーが輩出した時代と重なったのも偶然ではないであろう。

聖ルイの霊団には主として倫理・道徳に関する霊的原理を説くという役割が割り当てられていたのであろう。第三部は本書の圧巻で、これほど綿密に、しかも理路整然と摂理の働きを説き明かしてくれたものは他に類を見ない。

熟読玩味の上、日常生活の指針としていただければ有り難いと思っている。

平成八年十月

近藤千雄

Friday, April 17, 2026

霊の書(4部) アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book

第4部 希望と慰め
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



1章 地上的喜びと悲しみ

このページの目次

〈幸と不幸〉

――この地上界に完全な幸せというのは有り得るでしょうか。


「有り得ません。肉体に宿っての生活は試練か罪滅ぼしのいずれかを目的としての生活の場として指定されているからです。ただ、定められた体験の苦の側面を、その対処の仕方(心構え)によって軽減し、それだけ幸せの側面を大きくすることは可能です」


――地上的な幸不幸は相対的なもので、置かれた立場によっては、ある者には幸せに思えることが他の者には不幸に思えることがあります。そうしたこととは無関係に、全ての人間に共通した幸せの基準というものがあるのでしょうか。


「物的生活に関しては生きるための必需品が確保できることであり、精神的生活に関して言えば、健全なる良心と死後の生命への信念を持っていることです」


――それほどの財産を所有するに値するとは思えない人が豊かな生活をしていることがありますが、なぜでしょうか。


「財産というものは、現世のことしか考えない人には羨ましく思えるかも知れませんが、来世との関連で見ると、苦難や貧困よりも危険な要素を秘めているものです」


――文明の発達は欲望を増幅していくという観点からすると新しい悩みのタネをも増やしていっていることになるのでしょうか。


「地上界の病苦は、人間本来の必要性とは別種の、言わば人工的必要性に比例して増えています。欲求に自分で限度を設けて、それ以上の贅沢には何の魅力も覚えない人は、地上生活における落胆とは縁のない人です。真の意味で豊かな人とは余分なものを欲しがらない人です。

人間はとかく金持ちの贅沢を羨ましがりますが、その人たちの多くを待ち受けている運命をご存じありません。財産を自分のことにだけ使う人は利己主義者であり、そういう人の将来には恐ろしい逆境が待ち受けております。羨ましがらずに憐れんであげるべきです。

神は時として邪悪な人間に大金を預けます。それは、それが元で泣く思いをさせ歯ぎしりして後悔させ、反省の機会を与えるためです。もしも真面目に生きている人が不幸に陥った時は、それは神が与えた試練であり、それに毅然として立ち向かうことによって豊かな報いが得られます。イエスも言っております――悲しむ者は幸いである。いずれ神の慰めを得る時が来るであろうから、と」


――神は人間各自の適性に応じて天職というものを示してくださっているのですが、人生の不幸はそれに忠実に携わっていないことから生じているのでしょうか。


「そうです。よくあるのは、両親が自尊心や欲から、我が子を天性に合った道から親の都合の良い方向へ強引に向かわせるケースです。そういう身勝手な行為は後で責任を取らされます」


――世間的な悩み事は往々にして自らこしらえたものだということですが、精神的な悩みも自分でこしらえているのでしょうか。


「その方がむしろ多いくらいです。と言うのは、世間的な問題はこちらから仕掛けたものばかりではありませんが、魂の苦悶は、傷つけられた自尊心や野心の挫折、貪欲、嫉妬心、怨恨といった、ありとあらゆる悪感情が内部から巻き起こすものだからです。

怨恨と嫉妬! この魂の寄生虫を宿らせない人間は本当に幸せな人です。怨恨と嫉妬が寄生する魂には安らぎも落ち着きもありません。この二つの悪感情の奴隷となった人の目の前には常に欲望と憎しみと怒りの対象が幻のごとく立ちふさがり、休みなく、睡眠中でさえも追いかけ回します。怨恨と嫉妬に狂った人間は熱にうなされているのと同じです。その悪感情の渦に巻き込まれた人間は自ら恐ろしい苦悶を生み出し、そういう人にとっては地上がそのまま地獄となることが分からないのでしょうか」
〈死別・忘恩〉


――死別によって地上に残された者の悲しみがいつまでも消えない場合、その悲しみの念は霊界の霊にどういう影響を及ぼすでしょうか。


「霊は基本的には地上に残した愛する人々が自分を思い出してくれたり惜しんでくれたりすると心を打たれるものです。しかしそれが度を越したものになると、却って苦痛となります。そのわけは、そんなにいつまでも悲しむということは死後の生命の存続と神の実在についての信仰が欠けていることの証拠であり、それは悲しんでくれているその人にとっての向上の妨げになり、結果的には霊界での再会の妨げにもなるからです」


――それとは逆に、あっさりと忘れ去られたり、友情のはかなさを思い知らされたりするのは、人間の心の冷たさを感じさせる態度ではないでしょうか。


「おっしゃる通りです。しかし我々としては、そういう恩知らずや不誠実な人間の方こそ憐れんでやるように説きたいのです。そういう冷たい態度は最終的には本人に害が降りかかってくるからです。忘恩は利己主義から生まれます。そういう人間はいずれ自分も同じような仕打ちに会います。

それよりも、あなた方より遥かに良いことをし、遥かに価値あることをしながら冷たい仕打ちに会った人たちのことを思い起こすことです。例えばイエスをごらんなさい。あれほどの恩恵を地上にもたらしながら、イエスは身分の卑しいペテン師呼ばわりをされたのです。あなた方が同じ扱いをされても少しも驚くには当たりません。

この地上にあっては、良いことをしてあげたというその思いだけで満足し、その相手がどういう態度に出ようと意に介さないことです。忘恩の態度はむしろ自分の善性への志向の強さを試してくれているのです。それがこれから先に良い影響をもたらします。恩知らずは神がきちんと罰します。その度合いが大きいだけ罰も厳しいものとなります」
〈政略結婚〉


――愛情をまったく感じない二人が結婚させられるというのもまた不幸ではないでしょうか。一生涯に係わるものだけに、なおさら辛いと思いますが……。


「確かに辛いでしょう。が、その原因も大体において人間側にあります。まず第一に法律制度が間違っております。愛し合ってもいない二人が一緒の生活を送ることがまるで神の意図ででもあるかのように宣誓して、それで結婚が成立するとは何事ですか。次に、政略的に結婚を成立させようとする策謀家たちも罪です。二人の幸せよりも自分たちの面子(めんつ)を保ち野心を果たすことを第一に考えます。そうした間違った階級意識による不当行為は自然の摂理の裁きが待っております」


――でも、そうしたケースには大抵、罪のない犠牲者がいます。


「います。そういう人々にとっては大きな罪滅ぼしとなります。そして、策謀をめぐらした者たちは大きな責任を取らされます。そうした犠牲者に霊的真理の光が届けられれば、辛い人生における何よりの慰めとなることでしょう。しかし、そうした不幸の原因が取り除かれるには、誤った階級制度が消え失せることが先決です」


訳注――カルデックの時代はヨーロッパだけでなく日本でも、上流階級や支配者層では、女性は政略結婚の道具でしかなかった。その観点からすると、地上界もその後確かに進化していると言えそうである。
〈厭世観と自殺〉


――これといった理由もないのに厭世観を抱いている人がいますが、何が原因でしょうか。


「怠惰、信念の欠如、そして時に見られるのが贅を尽くした生活です。生得の才能を正しく活用して意義ある目的のために使用している人は、努力というものが少しも苦になりません。快適な気分の中で、あっという間に時が過ぎて行きます。そして人生の浮き沈みにも忍耐力と甘受の精神で切り抜けることができます。そういう人は、さらに実感のある永続的な至福の境涯が待ち受けていることを霊的に直観しています」


――人間には自分の生命を自分で断つ権利がありますか。


「ありません。それは神のみが所有する権利です。自らの意志で自殺する人間は、再生に際して神が定めた秩序を乱すことになります」


――自殺はすべて自らの意志で行っているのでしょうか。


「精神異常者は自分が何をしているのかを知りません」


――こういう絶望的な行為に追いやる霊は、その結果として生じることに責任を負わねばならないのでしょうか。


「大きな罰をこうむることになります。結果的には殺人罪と同じですから、同等の責任を負わねばなりません」


――家族に不名誉が及ぶことを避けるための自殺であれば許されますか。


「自殺は急場しのぎの方策であって、間違いは間違いです。が、本人としてはそれが最良の方策と考えての行為であれば、神はその意図を汲んでくださるでしょう。その場合の自殺は自ら科した罪滅ぼしであり、その動機によって罪の深さは和らげられます。が、過ちは過ちです」


――他人の生命を救うために、あるいはその人たちの為になると信じて、自らの命を断つ行為はいかがでしょうか。


「そういう動機に発するものであれば崇高なる行為と言えます。が、その種の自発的犠牲的行為は自殺ではありません。神の目から見て許せないのは無益な犠牲、そして軽はずみな見栄から出た行為です。犠牲的行為は、そこに一切の打算が無い時にのみ立派と言えます。どこかに利己心で染まったところがあれば、たとえ犠牲的であっても、その分だけ割り引きされます」


――このままではいずれ悲惨な死を迎えると覚悟した者が自らの手で死を早める行為は間違いでしょうか。


「神が定めた死期を待たずにそれを早める行為は、全て間違いです。それに、自分の生命の終末がいつ来るということが分かるのでしょうか。絶体絶命の最後の一瞬に予想もしなかった救いの手が差し延べられないとは、誰が断言できますか」


――それは分かるのですが、私がお聞きしているのは、死は絶対に免れないと覚悟した人が、僅かな時間だけ早く、自らの手で生命を断つケースです。


「そういうケースには運命を甘受する度胸と、神の意思への絶対服従の精神が欠如しています」


――そういうケースでの自殺はどういう結果になるのでしょうか。


「他の自殺と同じです。それが実行に移された時の状況を考慮に入れた上で、その誤った行為の深刻さの割合に応じた罪滅ぼしが科せられます」


――一般論として、自殺は霊にどのような影響を及ぼすのでしょうか。


「自殺がもたらす影響は一つ一つ異なります。そのわけは、それが原因となって生み出す結果は自殺という行為に導いた環境条件によって違ってくるからです。ただ一つだけ避け難い共通した反応として、期待はずれから生じる落胆が挙げられます。それ以外の懲罰は一人一人異なります。罪の浅い人は簡単な罪滅ぼしで済みますし、新たに再生して、前世つまり自殺によって切り上げた人生よりさらに過酷な人生に耐えねばならない人もいます」