Wednesday, August 5, 2026

ベールの彼方の生活(二)

第二巻は、著者オーエンの守護霊であるザブディエルからの通信です。彼がいる十界、その先の十一界や下層界である五界や六界の情景について書かれています。


七章  天界の高地

1 信念と創造力

 一九一三年十二月十九日  金曜日

 「神はあなた方の信念に応じてお授けになる」──このイエスの言葉は当時と同じく今もなお生きている。絶対的保証をもってそう断言できる。まず必要なのは信念なのである。信念があれば事は必ず成就される。成就の方法はさまざまであろう。が、寸分の狂いもない因果律の結果であることに変わりはない。

 さて、これは地上世界にかぎられたことではない。死後の向上した界層、そしてこれ以後も果てしなく向上していく界層においても同じである。吾々が成就すべく鋭意努力しているのは、実際の行為の中において確信を得ることである。

確信を得れば他を援助するだけの霊力を身につけ、その霊力の行使を自ら愉しむこともできる。イエスも述べたように、施されることは喜びであるが、施すことの方がより大きな喜びであり愉しみだからである。

 が、信念を行使するに当たり、その信念なるものの本質の理解を誤ってはならない。地上においては大方の人間はそれを至って曖昧に──真実についての正しい認識と信頼心の中間に位置する、何やら得体のしれないものと受け止めているようである。が、何事につけ本質を探る吾々の界層においては、信念とはそれ以上のものであると理解している。

すなわち信念も科学的分析の可能な実質あるエネルギーであり、各自の進化の程度に応じた尺度によって測られる。

 その意味をより一層明確にするために、こちらでの私の体験を述べてみよう。

 あるとき私は命を受けて幾つかに施設(ホーム)を訪ね、各施設での生活の様子を調べ、必要な時は助言を与え、その結果を報告することになった。さて一つ一つ訪ねて行くうちに、森の外れの小じんまりとしたホームに来た。そこには二人の保護者のもとで大勢の子供が生活をしている。

お二人は地上で夫婦だった者で、死後もなお手を取りあって向上の道を歩みつつある。彼らが預かっているのは死産児、つまり生まれた時すでに死亡していたか、あるいは生後間もなく死亡した子供たちである。こうした子供たちは原則として下層界にある〝子供の園〟には行かず、彼ら特有の成長条件を考慮して、この高い界層へ連れて来られる。

これは彼らの本性に地臭が無いからであるが、同時に、少しでも地上体験を得た者、あるいは苦難を味わった子供に比べて体質が脆弱であるために、特殊な看護を必要とするからでもある。

 お二人の挨拶があり、さらにお二人の合図で子供たちが集まって来て、歓迎の挨拶をした。が、子供たちは一様に恥ずかしがり屋で、初めのうちは容易に私の語りかけに応じてくれなかった。

それというのも、ここの子供たちは今述べた事情のもとでそこへ連れて来られているだけに性格がデリケートであり、私もそうした神の子羊に対して同情を禁じ得なかった。そこであれこれと誘いをかけているうちに、ようやくその態度に気さくさが見られるようになってきた。

 そのうち可愛らしい男の子が近づいてきて腰のベルトに手を触れた。その輝きが珍しかったのであろう。もの珍しげに、しげしげと見入っている。そこで私は芝生に腰を下ろし、その子を膝に抱き、そのベルトから何か出して見せようかと言ってみた。すると初めその意味がよく分からない様子であった。そして次に、ほんとにそんなことが出来るのだろうかという表情を見せた。

 が、私がさらに何か欲しいかと尋ねると、「もしよろしかったらハトをお願いします」と言う。なかなか丁寧な言い方をしたので私はまずそのことを褒めてやり、さらに、子供が素直に信じてお願いすれば、神様が良いことだとお許しになったことはかならず思いどおりになるものであることを話して聞かせた。

 そう話してからその子を前に立たせておき、私は一羽のハトを念じた。やがて腰のベルトを留めている金属のプレートの中にハトの姿が見えはじめた。それが次第に姿を整え、ついにプレートからはみ出るほどになった。それを私が取り出した。

それは生きたハトで、私の手のひらでクークーと鳴きながら私の方へ目をやり、次のその子の方へ目をやり、どちらが自分の親であろうかと言わんばかりの表情を見せた。その子に手渡してやると、それを胸のところに抱いて、他の子供たちのところへ見せに走って行った。

 それは実は子供たちをおびき寄せるための一計に過ぎなかった。案の定それを見て一人二人と近づいて来て、やがて私の前に一団の子供たちが集まった。そして何かお願いしたいがその勇気が出せずにいる表情で、私の顔に見入っていた。が、

私はわざと黙って子供たちから言い出すのを待ち、ただニコニコとしていた。と言うのは、私は今その子たちに信念の力を教えようとしているのであり、そのためには子供の方から要求してくることが絶対必要だったのである。

 最初に勇気を出してみんなの望みを述べたのは女の子であった。私の前へ進み出ると、その可愛らしいくぼみのある手で私のチュニックの縁を手に取り、私の顔を見上げて少し臆しながら「あの、できたら・・・・・・」と言いかけて、そこで当惑して言いそびれた。そこで私はその子を肩のところまで抱きあげ、さあ言ってごらん、と促した。

 その子が望んだのは子羊であった。

 私は言った。今お願いしてあるからそのうち届けられるであろう。何しろ子羊はハトに較べてとても大きいので手間が掛かる。ところで、本当にこの私に子羊が作れると信じてくれるであろうか、と。

 彼女の返事は至ってあどけなかった。こう答えたのである。「あのー、皆んなで信じてます。」私は思わず声を出して笑った。そして皆んなを呼び寄せた。すると、翼のついたハトが作れたのだから毛の生えた子羊も作れると思う、と口々に言うのである。(もっとも子供たちは毛のことを毛皮といっていたが)

 それから私は腰を下ろして子供たちに話しかけた。まず〝吾らが父〟なる神を愛しているかと尋ねた。すると皆んな、もちろん大好きです。この美しい国をこしらえ、それを大切にすることを教えてくださったのは父だからです。と答えた。

そこで私はこう述べた。父を愛する者こそ真の父の子である。子供たちが父の生命力と力とを信じ、賢くそして善いものを要求すれば、父はその望みどおりのものを得るための意念の使い方を教えてくださる。動物もみんなで作れるであろうから私がこしらえてあげる必要はない。ただし初めてにしては子羊は大きすぎるから今回はお手伝いしてあげよう、と。

 そう述べてから、子供たちに心の中で子羊のことを思い浮かべ、それが自分たちのところへやってくるように念じるように言った。ところが見たところ何も現れそうにない。実は私は故意に力を控えめにしておいたのである。しばらく試みたあと一息入れさせた。

 そしてこう説明した。どうやら皆さんの力はまだ十分ではないようであるが、大きくなればこれくらいのことは出来るようになる。ただし祈りと愛をもって一心に信念を発達させ続ければのことである、と。そしてこう続けた。

 「あなたたちも力はちゃんとあるのです。ただ、まだまだ十分でなく、小さいものしか作れないということです。では私がこれから実際にやってみせてあげましょう。あとはあなた方の先生から教わりなさい。あなたたちにはまだ生きた動物をこしらえる力はありませんが、生きている動物を呼び寄せる力はあります。このあたりに子羊はおりますか?」

 この問いに皆んな、このあたりにはいないけど、ずっと遠くへ行けば何頭かいる。つい先ごろそこへ行ってきたばかりだという。

 そこで私は言った。「おや、あなたたちの信念と力によって、もうそのうちの一頭が呼び寄せられましたよ。」

 そう言って彼らの背後を指さした。振り向くと、少し離れた林の中の小道で一頭の子羊が草を食んでいるのが目に入った。

 その時の子供たちの驚きようはひと通りではなかった。唖然として見つめるのみであった。が、そのうち年長の何人かが我に帰って、歓喜の声を上げながら一目散に子羊めがけて走って行った。子羊も子供たちを見て、あたかも遊び友達ができたのを喜ぶかのように、ピョンピョンと飛び跳ねながら、これ又走り寄ってきた。

 「わぁ、生きてるぞ!」先に走り寄った子供たちはそう叫んで、あとからやってくる者に早く早くという合図をした。そして間もなくその子羊はまるで子供たちがこしらえたもののようにもみくしゃにされたのであった。自分たちがこしらえたものだ、だから自分たちのものだ、と言う気持ちをよほど強く感じたものと察せられる。

 さて以上の話は読む者の見方次第で大して意味はないように思えるかもしれない。が、重要なのはその核心である。私は自信をもって言うが、こうして得られる子供たちのささやかな教訓は、これから幾星霜を重ねたのちには、どこかの宇宙の創造にまで発展するその源泉となるものである。今宇宙を支配している大天使も小天使も、その原初はこうした形で巨大な創造への鍛錬を始めたのである。

私が子供たちに見せたのが実に〝創造〟の一つの行為であった。そして私の援助のもとに彼らが自ら行ったことはその創造行為の端緒であり、それがやがて私がやってみせたのと同じ創造的行為へと発展し、かくして信念の増加と共に、一歩一歩、吾々と同じくより威力あるエネルギーの行使へ向けて向上進化して行くのである。

 そこに信念の核心がある。人間の目に見えず、また判然と理解できなくても、その信念こそが祈りと正しい動機に裏打ちされて、みずからの成就を確実なものとするのである。

貴殿も信念に生きよ。ただし要心と用意周到さと大いなる崇敬の念も身につけねばならない。信念こそ主イエスが人間に委ねられた、そして吾々には更に大規模に委ねられた、大いなる信託の一つだからであり、それこそ並々ならぬイエスの愛のしるしだからである。

 そのイエスの名に祝福あれ。アーメン ♰



  2 家族的情愛の弊害   

一九一三年十二月二二日  月曜日

 子供のための施設と教育についてはこの程度にして、引き続きその見学旅行での別の話題に移るとしよう。

 そのあと私は数少ない家がそれなりの小さな敷地をもって集落を作っている村に来た。

そうした集落が幾つかあり、それぞれに異なった仕事を持っているが、全体としてはほぼ同程度の発達段階にある者が住んでいる。その領土の長が橋のたもとで私を迎えてくれた。その橋の架かった川は村を一周してから、すでに話の出た例の川と合流している。

挨拶が終わると橋を渡って村に入ったが、その途中に見える庭と家屋がみな小じんまりしていることに気づいた。私はすぐその方にその印象を述べた。


──その方のお名前を教えてください。

 Bepel(べぺル)とでも綴っておくがよい。先を続けよう。

 ところがそのうち雰囲気に豊かさの欠ける一軒が目にとまった。私はすぐにその印象を述べ、その理由(わけ)を訪ねた。と申すのも、この界層においてなお進歩を妨げられるには如何なる原因(わけ)があるのか判らなかったからである。

 ベペル様は笑顔でこう話された。「この家には実は兄と妹が住まっておられる。二人はかなり前に八界と九界から時を同じくしてこの界へ来られたのですが、それ以来、何かというと四界へ戻っている。

そこに愛する人たち、特に両親がおられ、何とか向上させようという考えからそうしているのですが、最近どうも情愛ばかりが先行して、やってあげたいことが環境のせいもあって思うに任せなくなって来ています。

両親の進歩が余りに遅く、あの調子ではこの界へ来るのは遠い先のことになりそうです。

そこで二人は近頃はいっそのこと両親のいる界へ降り、いっしょに暮らすことを許す権限を持つ人の到来を待ち望んでいるほどです。常時そばに居てあげる方が両親の進歩のために何でもしてあげられると考えているようです。」

 「お二人に会ってみましょう」──私はそう言って二人で庭に入って行った。

 こうしたケースがどのような扱いを受けるか、貴殿も興味のあるところであろう。ともかくその後のことを述べてみよう。

 兄は家のすぐ側の雑木林の中にいた。私が声を掛け、妹さんはと尋ねると、家の中にいるという。そこで中へ入らせてもらったが、彼女はしきりに精神統一をしている最中であった。第四界の両親との交信を試みていたのである。

と申すよりは、正確に言えば援助の念を送っていたと言うべきであろう。なぜなら、〝交信〟は互いの働きかけを意味するもので、両親には思念を〝返す〟ことは出来なかったからである。

 それから私は二人と話を交わし、結論としてこう述べた。「様子を拝見していると、あなた方がこの界で進化するために使用すべき力がその下層界の人達によって引き留められているようです。

つまり進歩の遅い両親の愛情によってあなた方の進歩が遅らされている。もしもあなた方がその四界へ戻られ、そこに定住すれば、少しは力になってあげられても、あなた方が思うほど自由にはならない。

なぜかと言えば、いつでもあなた方が身近にいてくれるとなれば尚のこと、今の界を超えて向上しようなどと思うわけがないからです。

ですから、そういう形で降りて行かれるのは感心しません。しかし愛は何より偉大な力です。その愛がお二人とご両親の双方にある以上、これまで妨げになってきた障害を取り除けば大変な威力を発揮することでしょう。そこで私から助言したいのは、あなた方は断じてこの界を去ってはならない。

それよりも、これから私と共に領主のところへ行って、現在のあなた方の進歩を確保しつつ、しかもご両親の進歩の妨げにならない方法を考えていただくことです。」

 二人は私に付いて領主のところまで行った。まず私が面会してご相談申し上げたところ、有難いことに大体において私の考えに賛同して下さった。そして二人をお呼びになり、二人の愛情は大変結構なことであるから、これからは時折この界より派遣される使節団に加わらせてあげよう。

その時は(派遣される界の環境条件に身体を合わせて)伝達すべき要件を伝える。その際は特別に両親にもお二人の姿が見え声が聞こえるように配慮していただこう。

こうすれば両親も二人の吾が子のいる高い界へ向上したいとの気持ちを抱いてくれることにもなろう、ということであった。

 これに加えて領主は、それには大変な忍耐力が要ることも諭された。なぜならば、こうしたことは決して無理な進め方をすべきではなく、自然な発展によって進めるべきだからである。二人はこうした配慮を喜びと感謝を込めて同意した。

そこで領主はイエスの名において二人を祝福し、二人は満足して帰っていった。

 このことから察しがつくことと思うが、上層界においても、地上界に近い界層特有の事情を反映する問題が生じることがあるのである。又、向上の意欲に欠ける地上の人間がむやみに他界した縁故者との交信を求めるために、その愛の絆が足枷となり、いつまでも地上的界層から向上できずにいる者も少なくないのである。

 これとは逆に、同じく地上にありながら、旺盛な向上心をもって謙虚に、しかも聖なる憧れを抱いて背後霊と共に向上の道を歩み、いささかも足手まといとならぬどころか、掛けがえのない援助(ちから)となる者もいる。

 これまでに学んだことに加えて、この事実を篤と銘記するがよい。すなわち地上の人間が他界した霊の向上を促進することもあれば足手まといとなることもあり得る、否、それが必然的宿命ともいうべきものであるということである。

 この事実に照らして、イエスがヨハネの手を通して綴らせた七つの教会の天使のこと(黙示録)を考えてみよ。彼ら七人の天使はそれぞれが受け持つ教会の徳性により、あるいは罪悪性により、自らが責任を問われた。イエスが正確にその評価を下し、各天使に賞罰を与えたのである。

それは人の子イエスが人類全体を同じ人の子として同一視し、その救済をご自分の責任として一身に引き受けられているように、各教会の守護天使はその監督を委ねられた地域の徳も罪も全て吾が徳、吾が罪として一身に責任を負うのである。

共に喜び共に苦しむ。わが事のように喜び、わが事のように悲しむのである。イエスの次の言葉を思い出すがよい。曰く「地上に罪を悔い改める者がいる時、天界には神の御前にて喜びに浸る天使がいる」と。

私は一度ならず二度も三度も、否、しばしばその現実の姿を見ているのである。そこで、それに私からこう付け加えておこう───明るき天使も常にお笑いになっているのではない。高らかにお笑いになるし、よくお笑いになる。

が、天使もまた涙を流されることがある。下界にて悪との闘いに傷つき、あるいは罪に陥る者を見て涙を流し苦しまれることがある、と。

 こうしたことを不審に思う者も多いことであろう。が、構わぬ。書き留めるがよい。吾々がもし悲しむことが無いとすれば、一体何をもって喜びとすべきであろうか。 ♰


 
 3 霊界の情報処理センター     

一九一三年十二月二三日 火曜日

 神に仕える仕事において人間と天使とが協力し合っている事実は聖書に明確に記されているにも拘らず、人間はその真実性が容易に信じられない。その原因は人間が地上的なものに心を奪われ、その由って来たる起原に心を向けようとしないからである。

物質に直接作用している物理的エネルギーのことを言っているのではない。

ベールの彼方においてあたかも陶芸家が粘土を用いて陶器を拵えるように、そのエネルギーを操って造化に携わっている存在のことである。それについては貴殿もすでにある程度の知識を授かっているが、今夜はベールのこちら側から見たその実際を伝えてみようと思う。

 こちらのどの界においても、全ての者が一様に足並みそろえて向上するとはかぎらない。ある者は速く、ある者は遅い。前回の兄弟などはこの十界においては最も遅い部類に入る。ではこれより、それとは対照的に格別の進化を遂げた例を紹介しよう。

 その兄と妹の住む村を離れてさらに旅を続ける途中で、私は他の居住地を数多く訪ねてまわった。その一つに次の第十一界が始まる区域へ連なる山の中に位置しているのがあった。私が守護霊と対面した場所とは異なる。高さは同じであるが、距離的にかなり離れた位置にある。

連山の中に開けた台地へ向けて曲がりくねった小道を行ったのであるが、登り始めた頃から緑色の草の鮮やかさと花々の大きさと豊富さとか目についた。

紫色の花は影に包まれた森の中を通るビロードのような道のまわりには小鳥のさえずりも聞こえる。また多くの妖精たちが明るい笑顔で、あるいは戯れあるいは仕事に勤しんでおり、私の挨拶に気持ちよく応えてくれた。

 そのうち景色が変わり始めた。樹木が彫刻のようなどっしりとした姿になり、数も少なく葉の繁りも薄くなっていった。花と緑の木陰に囲まれた空地に代わって今度は円柱とアーチで飾られた堂々たる聖堂が姿を現わした。

光と影の織りなす美は相変わらず素晴らしかったが、その雰囲気がただの木蔭とは異なり聖域のそれであった。通る道の両側の大部分は並木である。

その並木にも下層界のそれとは異なり、瞑想の雰囲気と遥かに強力な霊力が感じられる。

そして又、登りがけに見かけた妖精とは威厳と聖純さにおいて勝る妖精たちの姿を見かけた。さらに頂上へ近づくと景色が一段と畏敬の念を誘うものへと変わっていった。

それまでの田園風の景色が消え、白と黄金と赤の光に輝く頂上が見えてきた。それは上層界から降下してきた神霊がその台地でそれぞれの使命に勤しんでいることを物語っていた。

 かくて目的地に辿り着いた。そこの様子を可能な限り叙述してみよう。目の前に平坦な土地が開けている。一マイルの四方もあろうかと思われる広大な土地で、一面に大理石(アラバスター)が敷かれ、それが炎の色に輝いている。

その様子はあたかも炎の土地にガラスの床が敷かれ、その上で炎の輝きが遊び戯れ、さらにガラスを通して何百ヤードも上空を炎の色に染めている感じである。むろん炎そのものが存在しているのではない。私の目にそのように映じるのである。

 その中に高く聳える一個の楼閣がある。側面が十個あり、その各々が他と異なる色彩と構造をしている。数多くの階があり、その光輝を発する先端は周囲の山頂──遠いのもあれば近いのもある──の上空へ届けられる光を捉えることができる。

それほど高く、まさに天界の山脈に譬える望楼の如き存在である。その建物が平坦地の八割ほどを占め、各々の側面に玄関(ポーチ)がある。

と言うことは十個の入口が付いているということである。まさに第十界の中で最も高い地域の物見の塔である。が、ただ遠くを望むためのものではない。

 実は十個の側面はその界に至るまでの十個の界と連絡し、係の者が各界の領主と絶え間なく交信を交えているのである。莫大な量の用件が各領主との間で絶え間なく往き来している。資料の全てがその建物に集められ統一的に整理される。

強いて地上の名称を求めれば〝情報処理センター〟とでも呼べばよかろうか。地上圏と接する第一界に始まり、第二界、第三界と広がり、ついには第十界まで至る途方もなく広大な領域内の事情が細大漏らさず集められるのである。

 当然のことながらその仕事に携わる霊は極めて高い霊格と叡智を具える必要があり、事実その通りであった。この界の一般の住民とは異なっていた。常に愛と親切心に溢れる洗練された身のこなしをもって接し、同胞を援助し、喜ばせることだけを望んでいる。が、

その態度には堂々とした絶対的な冷静さが窺われ、接触している界から届けられる如何なる情報に対しても、いささかの動揺も見せない。すべての報告、情報、問題解決の要請、あるいは援助の要請も完璧な冷静さをもって受け止める。

普段とは桁外れの大問題が生じても全く動じることなく、それに対処するだけの力と誤ることのない叡智に自信を持ってその処理に当たる。

 私は第六界と接触している側面の玄関内に腰かけ、その界の過去の出来ごとと、その出来ごとの処理の記録を調べていた。

すると肩越しに静かな声で「ザブディエル殿、もしその記録書で満足できなければどうぞ中へお入りになって吾々のすることをご覧になられたら如何ですか」という囁(ささや)きが聞こえた。振り向くと、物静かな美しいお顔をされた方が見つめておられた。私は肯(うなず)いてその案内に応えた。

 中へ入ると室内は三角形をしており、天井が高い。それが次の界の床(フロア)である。壁のところまで行ってみると床と壁とは直角になっている。

案内の方が私にそこで立ったまま耳を傾けているようにと言う。すると間もなく色々な声が聞こえてきたが、その言葉が逐一聞き分けられるほどであった。

説明によると、今の声は五つ上の階の部屋で処理されたものが次々と階下へ向けて伝達され、吾々のいる部屋を通過して地下まで届けられたものであるという。その地下にも幾つかの部屋がある。私がその原因を聞くとこう説明された。

その建物の屋上に全情報を受信する係の者がいて、彼らがまず自分たちに必要なものだけを取り出して残りをすぐ下の階へ送る。そこでまた同じようにその階で必要なものだけを取って残りを下の階へ送る。

この過程が次々と下の階へ向けて続けられ、私のいる地上の第一階に至る。そこで同じ処理をして最後に地下へ送られる。各階には夥しい数の従業員が休みなく、しかも慌てることなく、手際よく作業に当たっている。

 さて貴殿はこれをさぞかし奇妙に思うことであろう。が実際はもっともっと不思議なものであった。例えば私が言葉を聞いたという時、それは事実の半分しか述べていない。実際はその言葉が目に見えるように聞こえたのである。

地上の言語でどう説明したものであろうか。こうでも述べておこう。例の壁(各種の貴金属と宝石をあしらっており、その一つ一つが地上でいう電気に相当するものによって活性化されている)を見つめていると、どこか遠くで発せられた言葉が目に見えるように私の脳に感応し、それを重要と感じた時は聴覚を通じて聞こえてくる。

この要領でその言葉を発した者の声の音質を内的意識で感得し、さらにその人の表情、姿、態度、霊格の程度、携わる仕事、その他、伝えられたメッセージの意味を正確に理解する上で助けとなるこまごましたものを感識する。

 霊界におけるこうした情報の伝達と受信の正確度は極めて高く、特にこの建物においては私の知る限り最高に完璧である。そこで私が見たものや聞いたことを言語で伝えるのはとても無理である。

なぜなら、全ての情報は地上からこの十界に至るまでの途中の全界層の環境条件の中を通過して到達しており、従って一段と複雑さを増しており、とても私には解析できないのである。そこで案内の方が次の如く簡略に説明して下さった。

 例えば、あるとき第三界で進行中の建造の仕事を完成させるために第六界から援助の一行が派遣された。

と言うのは、その設計を担当したのが霊格の高い人たちであったために、建造すべき装置にその界の要素ではうまく作れないものが含まれていたのである。

これを判り易く説明すれば、例えばもし地上の人間が霊界のエーテル質を物質へ転換する装置を建造するとなったら、一体どうするかを考えてみるとよい。

地上にはエーテル質を保管するほど精妙な物質は見当たらないであろう。エーテル質はいわゆる物質と呼ぶ要素の中に含有されている如何なるエネルギーにも勝る強力かつ驚異的エネルギーだからである。

 第三界においても幾分これと似通った問題が生じ、如何にすればその装置の機能を最大限に発揮させるかについての助言を必要としたのであった。これなどは比較的解決の容易な部類に入る。

 さて、これ以上のことは又の機会に述べるとしよう。貴殿はエネルギーを使い果たしたようである。私の思う通りを表現する用語が見当たらぬようになってきた。

 貴殿の生活と仕事に祝福を。確信と勇気をもって邁進されよ。  ♰



 4 宇宙の深奥を覗く    

 一九一三年クリスマス・イブ

 以上、私は天界の高地における科学について語ってみたが、この話題をこれ以上続けても貴殿にとりてはさして益はあるまい。何となればそこで駆使される叡智も作業も貴殿には殆ど理解できぬ性質のものだからである。

無理をして語り聞かせてもいたずらに困惑させるのみで、賢明とは思えない。そこで私はもう少し簡単に付け加えた後別の話題へ進もうと思う。

 あのあと私は次の階へ上がってみたが、そこでは又ひきも切らぬ作業の連続で、夥しい数の人が作業に当たっていた。各ホールを仕切っている壁はすべて情報を選別するため、ないしはそれに類似した仕事に役立てられている。地上の建物に見る壁のように、ただのっぺりとしているのではない。

様々な色彩に輝き、各種の装置が取り付けられ、浮彫り細工が施されている。すべてが科学的用途を持ち、常に監視され、操作の一つ一つが綿密に記録され検討を加えられた上で所期の目標へ送り届けられる。その建物の中の他の部門だけに限らない。必要とあれば上の界へも下の界へも届けられる。

 案内の方が屋上へも案内して下さった。そこからは遠くまでが一望のもとに見渡せる。下へ目をやれば私が登ってきた森が見える。その向こうには高い峰が連なり、それらが神々しい光に包まれて、あたかも色とりどりの宝石の如くキラキラと輝いて見える。

その峰の幾つかは辺りに第十一界から届く幽玄な美しさが漂い、私のような第十界の者の視力に映じないほど霊妙化された霊的存在に生き生きと反応を示しているようであった。

 そうした霊は第十一界から渡来し、第十界のための愛の仕事に携わっていることが判った。それを思うと、吾が身を包む愛と力に感激を禁じ得ず、ただ黙するのみであった。それが百万言を弄するより遥かに雄弁に私の感激を物語っていたのである。

 こうして言うに言われぬ美を暫し満喫していると、案内の方がそっと私の肩に手を置いてこう言われた。

 「あれに見えるのが〝天界の高地〟です。あの幽玄な静寂にはあなたの魂を敬虔と畏敬と聖なる憧憬で満たしてくれるものがあるでしょう。あなたは今あなたの現時点で到達しうるぎりぎりの限界に立っておられます。ここへ来られて、今のあなたの力では透徹し得ない境涯を発見されたはずです。

しかし私たちは聖なる信託として、そして又、思慮分別をもって大切に使用すべきものとして、ベールで被われた秘密を明かす力を授かっており、尋常な視力には映じないものを見通すことが出来ます。如何ですか。あなたもしばしの間その力の恩恵に浴し、これまで見ることを得なかった秘密を覗いてみたいと思われませんか。」

 私は一瞬返事に窮した。そして怖れに似たものさえ感じた。なぜなら、すでにここまで見聞きしたものですら私にとってはやっと耐え得るほどの驚異だったからである。

しかし、しばらく考えた挙句に私は、すべてが神の愛と叡智によって配剤されているからには案ずることは絶対に有るまいとの確信に到達し、〝全てお任せいたします〟と申し上げた。その方も〝そうなさるがよい〟と仰せられた。

 そう言うなり、その方は私を置き去りにして屋上に設けられた至聖所の中へ入られた。そしてしばし(私の推察では)祈りを捧げられた。

 やがて出て来られた時にすっかり変身しておられた。衣装はなく、眉のあたりに宝石を散りばめた飾り輪を着けておられるほかは何一つ身につけておられない。あたりを包む躍動する柔らかい光の中に立っておられる姿の美しいこと。

光輝はますます明るさを増し、ついには液体のガラスと黄金で出来ているような様相を呈してきた。私はその眩しさに思わず下を向き、光を遮ったほどであった。

 その方が私に、すぐ近くまで来るようにと仰せられた。言われるまま前に立つとすぐ私の後ろへ回られ、眩しくないようにと配慮しつつ私の両肩に手を置いて霊力を放射しはじめた。

その光はまず私の身体を包み、さらに左右が平行に延びて、それが遠方の峰から出ている光と合流した。つまり私の前に光の道ができ、その両側も光の壁で仕切られたのである。その空間は暗くはなかったが、両側の光に較べれば光度は薄かった。

 その光の壁は言うなれば私のすぐ後ろを支点として扇状に広がり、谷を横切り、山頂を越えて突き進み、私の眼前に広大な光の空間が広がっていた。その炎の如き光の壁は私の視力では突き通すことは出来なかった。

 そこで背後から声がして〝空間をよく見ているように〟と言われた。見ていると、これまで数々の美と驚異とを見てきた、そのいずれにも増して驚異的な現象が展開し始めた。

 その二本の光の壁の最先端が、針の如くそそり立った左右の山頂に当たった。するとまずその左手の山頂に巨大な神殿が出現し、その周りに、光の衣をまとった無数の天使が群がり、忙しく動き回っている。さらに神殿の高いポーチの上に大天使が出現し、手に十字架を携え、それをあたかも遠くの界の者に見せるように高々と持ち上げている。

その十字架の横棒の両端に一人ずつ童子が立っており、一人はバラ色の衣装をまとい、もう一人は緑と茶の衣装をまとっている。その二人の童子が何やら私に理解できない歌を合唱し、歌い終わると二人とも胸に両手を当て、頭を垂れて祈った。

 次に右方向を見るように促されて目をやると、今度は全く別の光景が展開した。遥か彼方の山腹に〝玉座〟が見えたのである。光と炎とが混じりあった赫々(カクカク)たる光輝の中に女性の天使が坐し、微動だにせぬ姿で遥か彼方へ目をやっておられる。

薄地の布を身にまとい、それを通して輝く光は銀色に見える。が頭上にはスミレ色に輝くものが浮いており、それが肩と背中のあたりまで垂れ下がり、あたかもビロードのカーテンを背景にした真珠のように、その天使を美しく浮き上がらせていた。

 そのまわりと玉座のたもとにも無数の男女の霊の姿が見える。静かに待機している。いずれ劣らぬ高級霊で、その光輝は私よりも明るいが、優雅な落ち着きの中に座しておられる女性天使の輝きには劣る。

お顔に目をやってみた。それはまさに愛と哀れみから生じる緻密な心遣いが漂い、その目は高き叡智と偉力の奥深さを物語っていた。両の手を玉座の肘掛けに置いておられ、その両腕と両脚にも力強さが漂っていたが、そこにはおのずから母性的優しさが程よく混じっていた。

 その天使が突如として動きを発せられた。そこを指さし、あそこを指さし、慌てず、しかし機敏に、てきぱきと命令を下された。

 それに呼応して従者の群れが一斉に動き始めた。ある一団は電光石火の勢いで遥か遠くへ飛び、別の一団は別の彼方へ飛ぶ。馬に跨って虚空へ飛翔する一団もいる。流れるような衣装をまとった者もいれば、鎧の如きもので身を固めた者もいる。

男性のみの一団もあれば女性のみの一団もあり、男女が入り混じった一団もある。

それら各霊団が一斉に天空を翔けて行く時の様子は、あたかも一瞬のうちに天空にダイヤモンドとルビーとエメラルドを散りばめたようで、その全体を支配する色彩が、唖然として立ちすくむ私に照り返ってくるのであった。

 こうして私の前に扇形に伸びる光が地平線上を一周して照らし出して行くと、いずれの方角にも必ず私にとって新しい光景が展開された。

その一つ一つが性格を異にしていたが、美しさは何れ劣らぬ美事なものであった。こうして私は、曽て見てきた神の仕事に携わる如何なる霊にも勝る高き神霊の働く姿を見せていただいた。

そのうち、その光が変化するのを見て背後にいた案内の方が再び至聖所へ入られたことを悟った時、私はあまりの歓喜に思わず溜め息を洩らし、神の栄光に圧倒されて、その場にしゃがみ込んでしまった。

吾々が下層界のために働くのと同じように、高き神霊もまた常に吾々を監視し吾々の需要のために心を砕いて下さっている様を目のあたりにしたのであった。

 かくして私が悟ったことは、下界の全界層は上層界に包含され、一界一界は決して截然と区別されておらず、どれ一つとして遠く隔離されていないということである。私の十界には下層界の全てが包含され、同時にその第十界も下層界と共に上層界に包含されているということである。

この事実は吾々の界まで瞭然と理解できる。が、さらに一界又一界と進むにつれて複雑さと驚異とを増して行き、その中には、僅かずつ、ほんの僅かずつしか明かされない秘密もあると聞く。私は今やそのことに得心がゆき、秘密を明かしていただける段階へ向けての一層の精進に真一文字に邁進したいものと思う。

 ああ、吾らが神の驚異と美と叡智! 私がこれまでに知り得たものをもって神の摂理の一欠けらに過ぎぬと言うのであれば、その全摂理は果たしていかばかりのものであろうか。そして如何に途方もないものであろうか。

 天界の低い栄光さえも人間の目にはベールによって被われている。人間にとっては、それを見出すことは至難のわざである。が、それでよいのである。秘宝はゆっくりと明かされて行くことで満足するがよい。なぜなら、神の摂理は愛と慈悲の配慮をもって秘密にされているからである。

万が一それが一挙に明かされようものなら、人間はその真理の光に圧倒され、それを逆に不吉なものと受け取り、それより幾世紀にも亘って先へ進むことを恐れるようになるであろう。私はこの度の体験によってそのことを曽てなかったほど身に沁みて得心したのである。

佳きに計らわれているということである。万事が賢明にそして適切に配剤されているということである。げに神は愛そのものなのである。 ♰



 5 霊格と才能の調和

一九一三年一二月二七日 土曜日

さて、こうして私の界を遥かに超えた上層界の驚異を目の当たりにすることを許されたことは、実に有難き幸せであった。私はその後いろいろと思いをめぐらせた。

そして私にその体験をさせた意図と動機とをある程度まで理解することができた。が、目の当たりにした現象の中にはどうしても私一人の力では理解できないものが数多くあった。その一つが次のような現象である。

 二つの光の壁によって仕切られた扇形の視界の中に展開したのは深紅の火焔の大渦であった。限りなく深い底から巨大な深紅の炎の波が次から次へと噴出し、その大きなうねりが互いに激突し合い、重なり合い、左右に揺れ動き、光の壁に激突しては炎のしぶきを上げる。

世紀末的大惨事はかくもあろうかと思われるような、光と炎の大変動である。その深紅の大渦のあまりの大きさに私の魂は恐怖におののいた。

 「どうか目を逸らせてください。お願いです。もう少し穏やかなものにして下さい。私にはあまりに恐ろしくて、これ以上耐え切れません。」

 私がそうお願いすると、背後からこういう返答が聞こえた。

 「今しばらく我慢するがよい。そのうち恐ろしさが消えます。あなたが今見ておられるのはこの先の上層界です。その最初が第十一界となります。この光が第何界のものであるかは、後で記録を調べてみないことには、私にも判りかねます。

その記録はこの施設にはなく、もう一つ、ここからかなり遠く離れたところにある別の施設にあります。今あなたが恐怖をもって眺めておられるこの光は第十三界かも知れないし第十五界かも知れない。それは私にも判りません。

ただ一つだけ確かなことは、主イエス・キリストが在(ましま)すのは実にあの光の中であり、あなたの目に映じている深紅の光彩は主と、主に召された者との交わりの栄光の反映であるということです。

しっかりと見つめられよ。これほど見事に見られることは滅多にありません。では私がそのさらに奥の深いところを見させてあげましょう。」

そう言い終わるなり、背後からのエネルギーが強化されるのが感じられ、私もその厚意に応えるべく必死に努力をした。が、空しい努力に終わった。やはり私の力の及ぶところではないことを悟った。

すでに叙述したもの以外に見えたものと言えば、その深紅の光の奥に何やら美しい影が動めくのが見えただけであった。炎の人影である。ただそれだけであった。私は目を逸らせてほしいと再度お願いした。もう哀願に近いものになっていた。

そこでようやく聞き入れて下さった(光が変化したと述べたのはその時である)。それ以後、何も見えなくなった。見たいという気持ちも起きなかった。あたりはそれまでとは対照的に、くすんだ静けさに一変している。

それを見て私は心ひそかに、あの世界へ行かれぬ自分、さぞかし美と生の喜びに満ちあふれていることであろう世界に生きる神霊の仲間入りができない自分を情けなく思ったことであった。それから次第に普段の意識を回復した。

そして案内の方が至聖所から普段のお姿で出てこられた時には、私のような者にこれほどの光栄を給わったことに厚く礼を述べられるほどになっていた。

 さて、その高い楼閣での仕事について述べられるものとして、他に一体何があるであろうか。と言うのは、貴殿もよく心得てほしいことであるが、吾々の生活と出来ごとで人間に理解できることは極めて僅かしかないのである。

それ故、貴殿に明かすものについて私は細心の注意を払わねばならない。つまり貴殿の精神の中において何とか再現し、地上の言語で表現できるものに限らねばならないのである。

 その驚異的現象が終わったあとも二人は暫し屋上に留まり、下方の景色へ目をやった。遥か遠く、第九界の方角に大きな湖が見える。樹木の生い茂った土地に囲まれ、そこここに島々が点在し、木蔭に佇む家もあれば高く聳え立つ楼閣もある。

岸に沿った林の中のそこここに小塔が聳えている。私は案内の方にそこがいかなる居住地(コロニー)であるかを尋ねた。その配置の様子が見事で、いかにも一つのコロニーに見えたからである。

 するとこういう返答であった。実はかなり昔のことであるが、この界へ到来する者の処遇にちょっとした問題が生じたことがあった。

それは、皆が皆、必ずしも全ての分野で平均的に進化しているとは限らない──例えば宇宙の科学においては無知な部門もある・・・・・・いや、どうもこういう説明の仕方ではすっきりしない。もう少し分かり易く説明しよう。

 魂に宿された才能を全てまんべんなく発達させている者も居れば、そうでない者もいる。もとより、いずれ劣らぬ高級霊である点においては異存はない。

だからこそこの第十界まで上昇して来たのである。が中には、もし持てる才能をまんべんなく発達させておれば、もっと速やかにこの界へ到達していたであろう者がいるということである。

 更に、そうした事情のもとでようやく到達したこの界には、それまでの才能では用を為さない環境が待ち受けている。それ故、何れは是が非でも才能をまんべんなく発達させ、より円満にする必要性が生じてくるのである。

 さきのコロニーの設立の必要性を生ぜしめた問題はそこにあった。あそこにおいて他人への援助と同時に自己の修養に励むのである。貴殿にはそれがなぜ問題であるのか不審に思えるかも知れないが、そう思うのは、この界を支配する諸条件が地上とは比較にならぬほど複雑さを持った完全性を具えているからに他ならない。

 あのコロニーの住民の霊格はある面ではこの十界の程度でありながら、他の面ではすでに十一界あるいは十二界の程度まで進化していることもある。そこで次のような厄介な問題が生じる。すなわち霊力と霊格においてはすでに今の界では大きすぎるものを具えていながら、さりとて次の界へは行かれない。

無理して行けば発達の遅れた面が災いして大失策を演じ、それが原因で何界も下層へ後戻りせざるを得なくなるかもしれない。そこはそこで又、居づらいことであろう。

 以上の説明で理解してもらえるであろうか。例えば魚が水から出されて陸(おか)に置かれたら大変である。反対に哺乳動物が森から水中へ入れられたら、これ又死ぬに決まっている。両生類は水と陸の両方があって初めて生きて行ける。陸地だけでは生理に異常を来すし、水の中だけでもやはり異常を来す。

 無論あのコロニーの生活者がこれと全く同じ状態であるというわけではない。が、こうした譬えによって彼らの置かれた特殊な境遇について大よその理解がいくであろう。彼らにとって第十界にいることは、あたかもカゴに入れられた小鳥同然であり、さりとて上層界へ行くことは炎の中へ飛び込む蛾も同然なのである。


──結局どういう取り扱いを受けるのでしょうか。

 自分で自らを律していくのである。私の信じるところによれば、彼らは今まさにその問題点に関する最高の解決策を見出しつつあるところであろう。

首尾よく解決した暁には、彼らはこの十界に対しても貢献したことになり、その功績はこののちのために大切に記録されることであろう。こうしたことが各種の分野において行われており、思うに、彼らは今では自分の得意とする能力に応じて組分けされ、一種の相互補完のシステムによって働くことが可能となっているであろう。

つまり各クラスの者が自分たちの所有している徳と霊力とを、それを欠く他のクラスの者に育ませるように努力するということである。全クラスがそれぞれにそう努力し、そこに極めて複雑な協調的教育が生まれる。

極めて入り組んだ教育組織となっているため、高地に住む者さえ分析不可能なほどである。いずれそこから何ものかが生み出され、機が熟せば、この界の霊力と影響力とを増すことであろう。それも多分、極めて大規模な形で寄与することになるものと私には思えるのである。

 かくして相互的な寄与が行われる。進化の真の喜びは自らの向上の道において同胞を向上の道に誘(いざな)うことの中にこそ味わえるものである。そうではなかろうか。 ♰

 では祝福とお寝みを申上げよう。

ベールの彼方の生活(二)

第二巻は、著者オーエンの守護霊であるザブディエルからの通信です。彼がいる十界、その先の十一界や下層界である五界や六界の情景について書かれています。


五章 天界の科学

 1 エネルギーの転換       

 一九一三年十二月二日  火曜日


 今夜はエネルギーの転換に関連した幾つかの問題を取り上げてみよう。ここでいうエネルギーとは上層界の意念の作用を人間の心へ反映させていくための媒体と理解していただきたい。

吾々が意図することを意念の作用を利用して、いわゆるバイブレーションによって中間界を通過させて地上界へと送り届けるよう鍛錬しているのである。私がエネルギーと呼ぶのはこのバイブレーションの作用のことである。

 さて、こうして地上の用語を使用する以上は、天界の科学を正確に、あるいは十分に表現するには不適当な手段を用いていることになることを理解していただかねばならない。

それ故、当然、その用語の意味を限定する必要が生じる。私がバイブレーションという用語を用いる時は、単なる往復振動のことではなく、時には楕円運動、時には螺旋運動、更にはこれらが絡み合い、それに他の要素が加わったものを意味するものと思われたい。

 この観点からすれば、最近ようやく人間界の科学でも明らかにされ始めたバイブレーションの原子的構造は、太陽系の組織、更には遥か彼方の天体の組織と同一なのである。

太陽をめぐる地球の動きも原子内の素粒子の動きもともにバイブレーションである。

その規模は問わぬ。つまり運動の半径が極微であろうが極大であろうが、本質的には同じものであり、規模において異なるのみである。

 が、エネルギーの転換はいかなる組織にも運動の変化をもたらし、運動の性質が変われば当然その結果にも変化が生じる。かくて吾々は常に吾々より更に高級にして叡智に富む神霊によって定められた法則に沿いつつ、意念をバイブレーションの動きに集中的に作用させて質の異なるバイブレーションに転換し、そこに変化を生じさせる。

 これを吾々は大体において段階的にゆっくりと行う。計算どおりの質的転換、大きすぎもせず小さすぎもしない正確な変化をもたらすためである。

 吾々が人間の行為ならびに自然界の営みを扱うのも実はこの方法によるのである。それを受持つ集団は鉱物・植物・動物・人間・地球・太陽・惑星の各分野において段階的に幾層にも別れている。更にその上に星辰の世界全体を経綸する神庁が控えている。

 混沌たる物質が次第に形を整え、天体となり、更にその表面に植物や動物の生命が誕生するに至るのも、全てこのエネルギーの転換による。が、これで判っていただけると思うが、いかなる生命も、いかなる発達も、すべて霊的存在の意志に沿った霊的エネルギーの作用の結果なのである。

この事実を掌握すれば、宇宙に無目的の作用は存在せず、作用には必ず意図がある───一定範囲の自由は許されつつも、規定された法則に従って働く各段階の知的にして強力な霊的存在の意図があることに理解がゆくであろう。

 更に、物質自体が実は霊的バイブレーションを鈍重なものに転換された状態なのである。それが今、地上の科学者によって分析されつつあり、物質とはバイブレーションの状態にあり、いかなる分子も静止しているものは無く、絶え間なく振動しているとの結論に到達している。

これは正解である。が、最終結論とは言えない。まだ物質を究極まで追跡しきってはいないからである。より正確に表現すれば、物質がバイブレーションの状態にあるのではなく、物質そのものが一種のバイブレーションであり、より精妙なバイブレーションの転換されたものである。その源は物質の現象界ではなく、その本性に相応しい霊界にある。

 これで貴殿も、いよいよその肉体を棄てる時が到来したとき、何の不都合もなく肉体なき存在となれることが理解できるであろう。地上の肉体は各種のバイブレーションの固まりに過ぎず、それ以上のものではないのである。

有難いことに今の貴殿にも肉体より一層実体のある、そして耐久性のある別のバイブレーションで出来た身体が具わっている。肉体より一段と精妙で、それを創造し維持している造化の根源により近い存在だからである。

その身体は、死後、下層界を旅するのに使用され、霊的に向上するにつれて、更に恒久性のある崇高な性質を帯びた身体へと転換される。この過程は延々と限りなく繰り返され、無限の向上の道を栄光よりさらに高き栄光へと進化してゆくのである。

 そのことは又、死後の下層界が地上の人間に見えないのと同じく、下層界の者には通常は上層界が見えないことも意味する。かくて吾々は一界また一界と栄光への道を歩むのである。

 まさしくそうである。貴殿もいつの日かこちらへ来れば、このことをより一層明確に理解するであろう。と申すのも、今述べたバイブレーションの原理も貴殿は日常生活において常時使用しており、他の全ての人間も同じく使用しているにも拘わらず、その実相については皆目理解していないからである。

吾らは持てる力を神の栄光と崇拝のために使用すべく、鋭意努力している。願わくば人間がその努力に一体となって協力してくれることが望ましい。

一丸となれば、善用も悪用も出来るその力が現在の人間の知識を遥かに超えたものであることを知るであろう。蠅や蟻の知能を凌ぐほどに。

 吾々は、有難いことに、知識と崇高さにおける進歩が常に対等であるように調整することが出来る。完璧とは言えないが、ある範囲内───広範囲ではあるが確固とした範囲内において可能である。もしも可能でないとしたら地上は今日見るが如きものでは有り得ず、また今ほどの秩序ある活動は見られないであろう。

 もっとも、これも人類に対する吾々の仕事の一側面に過ぎない。そして人類の未来に何が待ち受けているかは私にも何とも言えない。霊的真理の世界へこれより人類がどこまで踏み込むかを推測するほどには、私は先が見えない。まだその世界への門をくぐり抜けたばかりだからである。

が、大いなる叡智をもって油断なく見守る天使によっても、こののちも万事よきに計らわれるであろう。天使の支配のある限り、万事うまく行くことであろう。 ♰



 2 〝光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず〟 

  一九一三年十二月三日  水曜日
  
 昨日取りあげた話題をもう少し進めて、私の言わんとするところを一層明確にしておきたい。改めて言うが、エネルギーの転換についてこれまで述べたことは用語の定義であり本質の説明ではないことをまず知ってほしい。

 貴殿の身の周りにある神的生命の顕現の様子をつぶさに見れば、幾つか興味深いものが観察されるであろう。

 まず、人間にも視覚が具わっているが、これも外部に存在する光が地球へ向けて注がれなければ使用することは出来まい。が、その光もただのバイブレーションに過ぎず、しかも発生源から地上に至るまで決して同じ性質を保っているのではない。

と言うのも、人間は太陽を目に見えるものとしてのみ観察し、各種のエネルギーの根源とみている。が、光が太陽を取り巻く大気の外側へ出ると、そこに存在する異質の環境のために変質し、いったん人間が〝光〟と呼ぶものでなくなる。

その変質したバイブレーションが暗黒層を通過し、更に別の大気層、例えば地球の大気圏に突入すると、そこでまたエネルギーの転換が生じて、再び〝光〟に戻る。

太陽から地球へ送られて来たのは同一物であって、それが広大な暗黒層を通過する際に変質し、惑星に衝突した時に再び元の性質に戻るということである。

 「光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず」(ヨハネ福1・5)この言葉を憶えているであろう。これは単なる比喩にはあらず、物質と霊のこの宇宙における神のはたらきの様子を述べているのである。しかも神は一つであり、神の王国も又一つなのである。

 光が人間の目に事物を見せる作用をするには或る種の条件が必要であることが、これで明らかであろう。その条件とは光が通過する環境であり、同時にそれが反射する事物である。

 これと同じことが霊的環境についても言える。吾ら霊的指導者が人間界に働きかけることが出来るのは、それなりの環境条件が整ったときのみである。

ある者には多くの真理を、それも難なく明かすことができるのに、環境条件の馴染まぬ者にはあまり多くを授けることが出来ないことがあるのはそのためである。かくて物的であろうと霊的であろうと、物事を明らかにするのは〝光〟であることになる。

 この比喩をさらに応用してお見せしよう。中間の暗黒層を通過して遥か遠方の地上へと届くように、高き神霊界に発した光明が中間の階層を経て地上へと送り届けられ、それを太陽光線を浴びるのと同じ要領で浴びているのである。

 が、さらに目を別の方角に向けてほしい。地球から見ることのできる限りの、最も遠い恒星のさらに向こうに、人間が観察する銀河より遥かに完成に近づいた美事な組織が存在する。そこにおいては光の強さは熱の強さに反比例している。

と言うことは、永い年月に亘る進化の過程において、熱が光を構成するバイブレーションに転換されていることを暗示している。

月は地球より冷たく、しかもその容積に比例して計算すれば、地球より多くの光を反射している。天体が成長するほど冷たくなり、一方、光線の力は強くなってゆく。吾々の界層から見るかぎりそうであり、これまでこの結論に反する例証を一つとして観察したことはない。

 曽てそのエネルギーの転換の実例を私の界において観察したことがある。

 ある時、私の界へ他の界から一団の訪問者が訪れ、それが使命を終えてそろそろ帰国しようとしているところであった。吾々の界の一団──私もその一員であった──が近くの大きな湖まで同行した。訪れた時もその湖から上陸したのである。

いよいよ全員がボートに乗り移り、別れの挨拶を交わしていた時のことである。

吾々の国の指導者格の天使の一人がお付の者を従えて後方の空より近づき、頭上で旋回し始めた。私はこの国の慣習を心得てはいるものの、その時は彼ら──というよりはその天使──の意図を測りかねて、何をお見せになるつもりであろうかと見守っていた。

この界においては来客に際して互いに身に付けた霊力を行使して、その効果をさまざまな形で見せ合うのが慣習なのである。

 見ていると遥か上空で天使のまわりを従者たちがゆっくりと旋回し、その天使から従者へ向けて質の異なる、従って色彩も異なるバイブレーションの糸が放たれた。天使の意念によって放射されたのである。それを従者が珍しい、そして実に美しい網状のものに編み上げた。

二本の糸が交叉する箇所は宝石のような強力な光に輝いている。またその結び目は質の異なる糸の組み合わせによって数多くの色彩に輝いている。

 網状の形体が完成すると、まわりの従者は更に広がって遠くへ離れ、中央に天使一人残った。そして、出来上がった色彩豊かなクモの巣状の網の中心部を片手で持ち上げた。それがふわふわと頭上で浮いている光景は、それはそれは〝美しい〟の一語に尽きた。

 さて、その綱は数多くの性質を持つバイブレーションの組織そのものであった。やがて天使が手を離すとそれがゆっくりと天使を突き抜けて降下し、足もとまで来た。そこで天使はその上に乗り、両手を上げ、網目を通して方向を見定めながら両手をゆっくりと動かして所定の位置へ向けて降下し続けた。

 湖の上ではそれに合わせて自然発生的に動きが起こり、ボートに乗ったまま全員が円形に集合した。そこへ網が降りてきて、全員がすっぽりとその範囲内におさまる形でおおい被さり、更に突き抜けて網が水面に落ち着いた。

そこでその中央に立っている天使が手を振って一団に挨拶を送った。するとボートもろとも網がゆっくりと浮上し、天高く上昇して行った。

 かくて一団は湖上高く舞い上がった。吾らの一団もそのまわりに集まり、歌声と共に道中の無事を祈った。彼らはやがて地平線の彼方へと消えて行った。

 こうした持てなしは、他の界からの訪問者に対して吾々が示すささやかな愛のしるしの一例に過ぎないもので、それ以上の深い意味はない。私がこれを紹介したのは──実際には以上の叙述より遥かに美しいものであったが──強烈な霊力を有する天使の意念がいかにエネルギーを操り質を転換させるかを、実例によって示すためであった。

 目を愉しませるのは美しさのみとは限らない。美しさは天界に欠かせぬ特質の一つにすぎない。例えば効用にも常に美が伴う。人間が存在価値を増せば増すほど人格も美しさを増す。聖は美なりとは文字どおりであり真実である。願わくば全ての人間がこの真理を理解して欲しいものである。 ♰



  3 光と旋律による饗宴        

 一九一三年十二月四日  木曜日

 いささか簡略に過ぎた嫌いはあるが、天界においてより精妙な形で働いている原理が地上においても見られることを、ひと通り説明した。そこで次は少しばかり趣きを変えて話を進めようと思う。

本格的な形では吾々の世界にしか存在しない事柄を幾ら語ったところで、貴殿には理解できないであろうし、役にも立たないであろうが、旅する人間は常に先へ目をやらねばならない。これより訪れる国についての理解が深ければ深いほど足どりも着実となるであろうし、到着した時の迷いも少ないことであろう。

 然らばここを出発点として──物質のベールを超えて全てが一段と明るい霊的界層に至り、まず吾々自らがこの世界の真相を学ぶべく努力し、そしてそれを成就した以上──その知識をこののちの者に語り継ぐことが吾々の第一の責務の一つなのである。

 他界後、多くの人間を当惑させ不審に思わせることの一つは、そこに見るもの全てが実在であることである。そのことについては貴殿はすでに聞かされているが、それが余りにも不思議に思え予期に反するものである様子なので、今少し説明を加えたいと思う。

と申すのも、そこに現実に見るものが決して人間がよく言うところの〝夢まぼろし〟ではなく、より充実した生活の場であり、地上生活はそのための準備であり出発点に過ぎないことを理解することが何よりも大切だからである。

何故に人間は生長しきった樫の木より苗木を本物と思いたがり、小さな湧き水を本流より真実で強力と思いたがるのであろうか。地上生活は苗木であり湧き水に過ぎない。死後の世界こそ樫の木であり本流なのである。

 実は人間が今まとっている肉体、これこそ実在と思い込んでいる樹木や川、その他の物的存在は霊界にあるものに比して耐久性がなく実在性に乏しい。なぜなら、人間界を構成するエネルギーの源はすべて吾々の世界にあるのであり、その量と強烈さの差は、譬えてみれば発電機と一個の電灯ほどにも相当しよう。

 それ故人間が吾々のことを漂う煙の如く想像し、環境をその影の如く想像するのであれば、一体そう思う根拠はどこにあるのかを胸に手を当てて反省してみよと言いたい。否、根拠などあろうはずがないのである。あるのは幼稚なる愚かさであり、他愛なき想像のみなのである。

 ここで私はこちらの世界における一光景、ある出来ごとを叙述し、遠からぬ将来にいずれ貴殿も仲間入りする生活の場を紹介することによって、それをより自然に感じ取るようになって貰いたいと思う。

この光あふれる世界へ来て地上を振り返れば、地上の出来ごとの一つ一つが明快にそして生々しく観察でき、部分的にしか理解し得なかったことにもそれなりの因果関係があり、それでよかったことに気づくことであろう。

が、それ以上に、こうして次から次へと無限なるものを見せつけられ、一日一日を生きている生活も永遠の一部であることを悟れば、地上生活が如何に短いものであるかが判るであろう。

 さて、スミレ色を帯びたベールの如き光が遠く地平線の彼方に見え、それが前方の視界をさえぎるように上昇しつつある。その地平線と今私が立っている高い岩場との間には広い平野がある。その平野の私のすぐ足もとの遥か下手(しもて)に大聖堂が見える。これが又、山の麓に広がる都の中でも際立って高く聳えている。 

 ドームあり、ホールあり、大邸宅あり、ことごとくまわりがエメラルドの芝生と宝石のように輝く色とりどりの花に囲まれている。広場あり、彫像あり、噴水あり、そこを、花壇を欺(あざむ)くほどの美しさに輝き、色彩の数も花の色を凌ぐほどの人の群れが行き交っている。

その中に、他を圧するようにひときわ強く輝く色彩が見える。黄金色である。それがこの都の領主なのである。

 その都の外郭に高い城壁が三か月状に伸び、あたかも二本の角(つの)で都を抱きかかえるような観を呈している。その城壁の上に見張りの姿が見える。敵を見張っているのではない。広い平地の出来ごとをいち速く捉え、あるいは遠い地域から訪れる者を歓迎するためである。

 その城壁には地上ならば海か大洋にも相当する広大な湖の波が打ち寄せている。が、見張りの者にはその広大な湖の対岸まで見届ける能力がある。そう訓練されているのである。その対岸に先に述べたベールのような光が輝いており、穏やかなうねりを見せる湖の表面を水しぶきを上げて往き交う舟を照らし出している。

 さて私もその城壁に降り立ち、これより繰り広げられる光景を見ることにした。やがて私の耳に遠雷のような響きがそのスミレ色の光の方角から聞こえてきた。音とリズムが次第に大きくなり、音色に快さが増し、ついに持続的な一大和音(コード)となった。

 すると高く聳える大聖堂から一群の天使が出て来るのが見えた。全員が白く輝く長服をまとい、腰を黄金色の帯で締め、額に黄金の環帯を付けている。やがて聖堂の前の岩の平台に集結すると、全員が手を取り合い、上方を向いて祈願しているかに見える。

実は今まさにこの都へ近づきつつある地平線上の一団を迎えるため、エネルギーを集結しているのであった。

 そこへもう一人の天使が現われ、その一団の前に立ち、スミレ色の光の方へ目をやっている。他に較べて身体の造りが一回り大きく、身につけているものは同じく白と黄金色であるが、他に比して一段と美しく、顔から放たれる光輝も一段と強く、その目は揺らぐ炎のようであった。

 そう見ていた時のことである。その一団の周りに黄金色の雲が湧き出て、次第に密度を増し、やがて回転し始め一個の球体となった。全体は黄金色に輝いていたが、それが無数の色彩の光から成っていた。それが徐々に大きくなり、ついには大聖堂をも見えなくした。それから吾々の目を見張らせる光景が展開したのである。

 その球体が回転しつつ黄金、深紅、紫、青、緑、等々の閃光を次々と発しながら上昇し、ついには背後の山の頂上の高さ、大聖堂の上にまで至り、更に上昇を続けて都の位置する平野を明るく照らし出した。気がついてみると、さきほど一団が集合した平台には誰れ一人姿が見当たらない。

その光と炎の球体に包まれて上昇したのである。これはエネルギーを創造するほどの霊力の強烈さに耐えうるまでに進化した者にしかできぬ業(わざ)である。球体はなおも上昇してから中空の一点に静止し、そこで閃光が一段と輝きを増した。

 それから球体の中から影のようなものが抜け出てきて、その球面の半分を被うのが見えた。が、地平線上の例のスミレ色の光の方を向いた半球はそのままの位置にあり、それが私に正視できぬほどに光輝を増した。見ることを得たのは、スミレ色の光から送られるメッセージに応答して発せられ平地の上空へ放たれたものだけであった。

 そのとき蜜蜂の羽音のようなハミングが聞こえてきた。そしてスミレ色の光の方角から届く大オーケストラの和音(コード)と同じように次第に響きを増し、ついに天空も平野も湖も、光と旋律とで溢れた。天界では、しばしば、光と旋律とは状況に応じてさまざまな形で融合して効果をあげてゆくのである。

 すでにこの時点において、出迎えの一団と訪問の一団とは互いに目と耳とで認識し合っている。二つの光の集団は次第に近づき、二つの旋律も相接近して美事な美しさの中に融合している。両者の界は決して近くはない。天界での距離を地上に当てはめれば莫大なものになる。

両者は何十億マイル、あるいは何百億マイルも遠く離れた二つの恒星ほども離れており、それが今その係留(けいりゅう)を解(ほど)いて猛烈なスピードで相接近しつつ、光と旋律とによって挨拶を交わしているのに似ている。

これと同じことが霊的宇宙の二つの界層の間で行われていると想像されたい。そうすれば、その美しさと途方もなく大きな活動は貴殿の想像を絶することが判るであろう。

 そこまで見て私はいつもの仕事に携わった。が、光はその後もいやが上にも増し、都の住民はその話でもちきりであった。この度はどこのどなたが来られたのであろうか。前回は誰それが見えられ、かくかくしかじかの栄光を授けて下さった。等々と語り合うのであった。

 かくて住民はこうした機会にもたらされる栄光を期待しつつ各々の仕事に勤しむ。天界では他界からの訪問者は必ずや何かをもたらし、また彼らも何かを戴いて帰り住民に分け与えるのである。

 それにしても、その二つの光の集団の面会の様子を何とかうまく説明したく思うのであるが、それはとても不可能である。地上の言語では到底表現できない性質のものだからである。実はこれまでの叙述とて、私にはおよそ満足できるものではない。

壮麗な光景のここを切り取りあそこを間引きし、言わば骨と皮ばかりにして何とか伝えることを得たにすぎない。かりにその断片の寄せ集めを十倍壮麗にしたところで、なお二つの光の集団が相接近して会合した時の壮観には、とても及びもつかぬであろう。

天空は赫々(カクカク)たる光の海と化し、炎の中を各種の動物に引かれたさまざまな形態の馬車に乗った無数の霊(スピリット)が、旗をなびかせつつ光と色のさまざまな閃光を放ちつつ往き交い、その発する声はあたかも楽器の奏でる如き音色となり、それが更にスミレ色の花とダイヤモンドの入り混じった黄金の雨となって吾々の上に降りそそぐ。

 なに、狂想詩? そうかも知れない。単調きわまる地上の行列──けばけばしい安ピカの装飾を施され、それが又、吾々の陽光に比すればモヤの如き大気の中にて取り行われる地上の世界から見れば、なるほどそう思われても致し方あるまい。

が、心するがよい。そうした地球及び地上生活の生ぬるい鬱陶(ウットウ)しさのさ中においてすら、貴殿は実質的には本来の霊性ゆえに地上の者にはあらずして、吾々と同じ天界に所属する者であることを。故に永続性の無い地上的栄光を嗅ぎ求めて這いずり回るような、浅ましい真似だけは慎んでほしい。

授かったものだけで満足し、世の中は万事うまく取り計らわれ、今あるがままにて素晴らしいものであることを喜ぶがよい。ただ私が言っているのは、この低い地上に置いて正常と思うことを規準にして霊界を推し量ってはならないということである。

 常に上方を見よ。そこが貴殿の本来の世界だからである。その美しさ、その喜びは全て貴殿のために取ってある。信じて手を差しのべるがよい。私がその天界の宝の中から一つずつ授けて参ろう。心を開くがよい。来たるべき住処の音楽と愛の一部を吾々が吹き込んでさしあげよう。

 差し当たっては有るがままにて満足し、すぐ目の前の仕事に勤しむがよい。授かるべきものは貴殿の到来に備えて確実に、そして安全に保持してある。故にこの仕事を忠実にそして精一杯尽くすがよい。

それを全うした暁には、貴殿ならびに貴殿と同じく真理のために献身する者は、イエスのおん血(ヘブル書9)を受け継ぐ王として或いは王子として天界に迎えられるであろう。

聖なるものと愛する者にとってはイエスのおん血はすなわちイエスの生命なのである。なぜならイエスは聖なるものの美を愛され〝父〟の聖なる意志の成就へ向けて怯(ひる)むことなく邁進されたからである。人間がそれを侮辱し、それ故に十字架にかけたのであった。

主の道を歩むがよい。その道こそ主を玉座につかしめたのである。貴殿もそこへ誘(いざな)われるであろう──貴殿と共に堂々と、そして愛をもって邁進する者もろともに。

 主イエスはその者たちの王なのである。 ♰

シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

 A Voice in the Wilderness

トニー・オーツセン(編)近藤千雄(訳)


 

4章 真理はすべて素晴らしいのです


“ハンネン・スワッファー・ホームサークル”の名称のもとに発足したシルバーバーチの交霊会は、当初は毎週一回の割で開かれていたが、霊媒のバーバネルの体力の衰えを考慮して、後半は月一回となり、晩年は不定期となった。

いずれにしてもバーバネルは心霊週刊紙《サイキックニューズ》の編集主幹として時間ギリギリまで仕事をしたあと愛車で自宅へ帰り、そのまま交霊会が行われる応接室へ駆け込むのが常だった。そこにはすでに当日の出席者が集まって談笑している。レギュラーのほかに必ず二、三人の招待客がいるので、その人たちと簡単な挨拶を交わしたあと、バーバネルはいつもと同じ長椅子に腰かけ、用意されている水を一杯飲みほしてから瞑目する。やがていびきのような息づかいになるとともに形相が変わってきて、ようやくシルバーバーチが語りはじめる。

こうした形での催し――厳かさもなければ派手さもない、平凡なアパートの一室での集いがほぼ五十年も続いたのである。すぐ近くの通りでは仕事を終えた人たちが車やバスやタクシーで帰りを急いでいる。その人たちにとっては、まさかすぐ近くのアパートの一室で霊界と地上界とが人類史上まれにみる生々しい現実味をもって交わっているとは、想像も及ばないことだった。そうした背景を念頭においてシルバーバーチが語る。


「皆さんから見れば確かにここは小さな一室にすぎません。しかし、わたしたちにとっては壮大な神殿なのです。壁という壁はぜんぶ取り払われております。あるのはただ眩(まばゆ)いばかりの光輝です。イルミネーションです。その中で何千もの霊が、それぞれに果たすべき使命をもって集結しております(※)。教える者もいれば教わる者もいます」


※――ハンネン・スワッファー・ホームサークルでは常時十人前後のメンバーしかいなかったが、それは人間界だけの話であって見えざる世界ではいつも数千人の霊が列席していて、シルバーバーチの話を聞いていた。その中には地縛の状態からやっと抜け出たばかりの霊の集団が高級霊に引率されて来ていたり、他の霊団の者が交霊会というものを勉強するために見学に来ていることもあった。そうしたことを念頭においてお読みいただきたい。

さらに言う。


「その内訳はあらゆる民族、あらゆる国家にまたがり、しかも現代の人も過去の時代の人もいます。東洋ならびに西洋の予言者、霊覚者、聖人・賢人、地位の高かった人・低かった人、ギリシャ・ローマ・シリア・カルデア・ペルシャ・バビロニアの思想家たち、それに比較的近世のイタリア・フランス・ドイツの思想家も混じっております。みんなで意見を出し合い、それを総合して皆さんにとって最も有益なものに仕上げるのです。

それとて霊界の舞台裏で行われていることのホンの一部にすぎません。皆さんのお一人お一人に霊団がついております。その中には顔見知りの者もいますし、地上的意識では感知できなくても、何かの時にふと意識する霊的意識でもって存在を感知している者も控えているのです」

さて、その日の交霊会の開会直後に心霊治療が話題となり、シルバーバーチがその本質について語ったところ、列席者の一人が「素晴らしい真理ですね」と述べた。するとシルバーバーチが――


「真理はすべて素晴らしいのです。つまらないのは間違った知識です。なのに間違っていると知りながら、その方が慣れ親しんでいるからという理由でそれに固執し、素晴らしい真理の方は馴染めないという理由で求めようとしない人がとても多いのです。

そういう人たちは、強くなれるはずなのに弱いままでいたいのです。新しい光を求めるよりも暗いところで、間違った知識の上に築いた信仰を揺さぶられないでいた方がいいのです。

求道者の道は容易ではありません。真理というものは簡単に手に入るものではないからです。価値あるもの、高い評価を受けるものほど軽々しくは手に入らず、迷いと懐疑心の中をくぐり抜け、しかも誠実・崇敬・飽くなき真理探求心をモットーとして努力した末に、ようやく手にすることができるものなのです。

魂の受け入れ準備がすべてに優先するということです。魂がその真理を理解できる段階まで成長した時にはじめて、その真理の方からやってくるのであり、それまでは得たいと思っても得られないということです。受け入れるだけの態勢ができ上がっていないからです。豚に真珠とはそのことを言っているのです」

このあと列席者の一人が、最近バイブルを修正しようとする試みがなされている話を持ち出したところ――


「何ごともやってみることです。既得権力に対抗する側のすることであれば、何であれ激励してあげることです。その新しい改革の精神をいたるところに浸透させるのです。

何ごとも目の眩(くら)むような一瞬の閃光の中で達成されることを期待してはなりません。あの手この手と試みていくほかはありません。まさに“点滴、石をも穿(うが)つ”ようにです。

わたしたちの仕事の大きさは次元が違うのです。無知な人が口をあんぐりと開けて驚き、目をまんまるにして感心するような現象を起こそうとしているのではありません。大観衆を集めて一気に信じさせようともしません。

利己主義、私利私欲といった人生の暗部に属する勢力との絶え間ない闘いこそ、わたしたちの仕事です。偏見・迷信・間違い・嫉妬・貪欲・強欲――わたしたちはこうしたものと闘っているのです。

そこで、地上にあってそうした目的を推進してくれる人――受容力に富む心の持ち主、受容力に富む精神の持ち主、受容力に富む魂の持ち主を通して働きかけているのです。当初は困難の連続でした。反抗勢力は途方もなく大きく、障害はとても克服困難かに思えました。が、背後に控える大霊の力と、数こそ少なくても忠実にして勇気ある協力者の活躍をもってすれば絶対に挫折はないとの信念でひたすら頑張り通しました。

今日の皆さんには、これまでの百年近い艱難辛苦の実りをご覧になることができます。しかし、それとても、これから成就されていくものに較べれば、物の数ではありません。もはや形勢が逆転しているからです。わたしたちは勝利へ向けて進撃しており、その勢いを止めることのできる者は地上には存在しません。

一見したところ穏やかではあっても、しかしあくまでも力強く、わたしたちは勝利へ向けて前進しているところです。光が闇を征服し、知識が無知を負かし、喜びが悲しみと取って代わり、そして真理が勝利者となるのです」

さらに、明らかに世界中のスピリチュアリストを念頭に置いてこう述べた。


「この真理普及の仕事にたずさわっておられる方に常に忘れないでいただきたいのは、背後に控える勢力は、皆さんが人のためと思って努力なさるのと同じように皆さんのためを思って働いているということです。

皆さんの目から目隠しを取り除いてその勢力を目のあたりにさせてあげることができたらと、どれほどわたしは願っていることでしょう。わたしが見ている通りにみなさんがご覧になれたらと、どれほど願っていることでしょう。そうすれば、絶望など絶対になくなることでしょう。暗い陰など、皆さんの存在のどこにも居座る場所はなくなるはずです。辺りを包んでくれている勢力の強大さを認識されるからです」

続いて霊界におけるインスピレーションの伝達方法に触れて「こちらの組織ははしご状に上へ上へと伸びているのです」と述べてから、こう続けた。


「一つ一つの段がみな連なっているのです。ですから、物質界のいちばん低い段階にいる者でも霊界の最高界とつながっているのです。

旧約聖書に出てくる“ヤコブのはしご”は空想の作り話ではなく、永遠の実在の象徴なのです。いかなる魂でもそのはしごを一段一段と上がって行くことができるのです。地上から天界へとつながっており、大霊の力で支えられているのです」

この日の交霊会ではシルバーバーチは珍しく個人的な悩みごとを取り上げて語り合うことが多かった。その中で次のような勇気づけの言葉を述べた。


「前途を影がよぎった時は、それはあくまでも影であって実在ではないことを思い起こしてください。雲が太陽を遮った時は、それはあくまでも雲にすぎないことを思い起こすのです。試練と困難に取り囲まれた時は、それは通りすがりの小鳥がホンの少しのあいだ立ち寄っただけで、そのうち飛び去って行くものと思えばよろしい。

皆さんが手にした霊的知識は物質界のいかなる宝にも勝る貴重なものです。わたしたちは金や銀、ダイヤモンドや貴金属はお持ちしません。それよりも霊の貴重品、この世で最高の宝をお持ちします。それを大切にしなさい。(象眼細工にたとえれば)愛をはめ込み台として、その上に霊的真理という宝石を散りばめるのです。そしてそれは大霊が細心の心づかいと神々しい情愛をもって授けてくださった賜物であることを認識してください。

常に上を向いて生きなさい。俯いてはいけません。皆さんに存在を与え自らの霊性のエッセンスを吹き込まれた、巨大にして壮厳な大霊の力が日々あなた方を鼓舞し支援してくれます。

迷いがちな心を大霊の心に合わせ、荒れがちな魂を鎮めて大霊の魂に合わせ、精神を無尽蔵の大霊の貯蔵庫から出る叡智で満たしなさい。そして弱き者、挫折せる者、窮状にあえぐ者のために刻苦する人は必ずや大霊の愛のマントに包まれていることを実感なさることです。

迷わず進みなさい。身につけられた知識の中で確信をもって着実に歩みなさい。せっかくの霊的知識を賢明に、そして上手にお使いなさい。そして大霊の道具としての義務を忘れないようにしてください。“忠良なる僕よ、よくぞ任務を果たされた!”(マタイ伝)との祝福の言葉を賜るよう、お互い、それぞれの道で励みましょう。皆さんに大霊の祝福のあらんことを!」

そのあとシルバーバーチは出席者全員に向かってこう述べた。


「皆さんは死んだあともずっと生き続けるのです。その時までは、本当の意味での“生きる”とはどういうことなのか、何ものにも拘束されずに生命の実感を味わうというのはどういうことなのか、肉体に閉じ込められた今の魂では理解できない“自由”の味を満喫するというのはどういうことかはお解りにならないでしょう。

一度もカゴの外に出たことのない鳥に、囲いのない広々した森の中で、枝から枝へと飛び渡れるということがどういうものかが解るでしょうか」

「ではなぜ、魂は肉体に閉じ込められたのでしょうか」と列席者の一人が尋ねた。


「種子が暗い土の中に埋められ、そこから勢いよく成長するための養分を摂取するのと同じです。人間の生命の種子も霊的生命を勢いよく成長させるための体験を得るために、肉体という暗い身体に閉じ込められるのです。

人生体験も大きな生命機構の中の一環なのです。およそ有り難いとは思えない体験――悲しみ、辛い思い、嘆き、失望、苦しみ、痛み――こうしたものは魂にとっては貴重なのです。

しかし、それを体験している最中(さなか)にはそうは思えません。こちらに来て地上生活を振り返り、部分的にではなく全体として眺めた時にはじめて、人生の価値が鮮明に理解できるのです。逆境の中にあってこそ性格が鍛えられるのです。悲哀を体験してこそ魂が強化されるのです。

わたしたちは人生を物質の目ではなく霊的生命の知識に照らして眺めます。その次元では完全な公正が行われるようになっているからです。ですから、賢明な人とは、すべての体験を魂の成長にとって有益となるように受け止める人、試練にしりごみせず、誘惑に負けることなく、困難に正面から立ち向かう人です。そういう心構えの中においてこそ人格が成長し強化されるからです。何でもない簡単な真理なのです。あまりに単純すぎるために地上の“知識人”から小バカにされてしまうのです」

話題が変わって、サークルのメンバーが比較的若い人たちによって構成されている事実について、シルバーバーチがこう説明した。


「前途にまだまだ永い物的生活が残っているうちに霊的真理の素晴らしさを知ることができていらっしゃることを、わたしは大変結構なことと喜んでいる次第です」

「大変な光栄と受け止めております」とメンバーの一人が言うと、


「大変な責任として受け止めないといけませんよ。知識には必ず責任という代価が伴うのです。つまり皆さんは物質界で最大の光栄――霊的知識を人のために役立てることができるという光栄に浴していらっしゃるのです。物質界で大事にされているもの全てが無に帰したあと、お互いのために尽くし合った行為のみが永遠に消えることのない進化をもたらしてくれるのです。

わたしたちはあくまでも“人のため”という宗教を説きます。教義や儀式やドグマは、人のために何かしなくてはという思いを育(はぐく)むものでないかぎり、価値は認めません。祭礼や行事は大切ではありません。大切なのは霊性、すなわち内部に存在する大霊を発揮する行為です」

「宗教をどう定義されますか」と別のメンバーが尋ねる。


「わたしにとってはたった一つしかありません。大霊の子に奉仕することによって大霊に奉仕することです」

話題が心霊現象の話になり、その中でシルバーバーチが心霊実験会における物質化現象では霊媒と列席者からだけでなく、実験室内に置かれているあらゆるものが材料として使用されていることを述べると、メンバーの一人が――

「それは、それらの材料から必要な成分を抽出するということでしょうか」


「そうです。カーペット、カーテン、書物、あるいは家具でも利用します。わたしたちは物的身体をもっておりませんから、まわりにある物質を利用せざるを得ないわけです。その成分は(主として霊媒と出席者とから取りますが)ある程度はその部屋にあるものから少しずつ取ります。取りすぎるとバラバラに分解してしまいます」

「物質化現象が行われた部屋のカーテンがすぐに朽ちてしまうことがあるのは、そのためでしょうか」


「そうです。それが原因です。十分用心はしているつもりですが……」

物質化霊の衣装に色をつけるために部屋中の素材から色素だけを抽き取ることもあるという話をしてから――


「わたしたちが行っていることをもっとお知りになれば、世の中には無用のものは一つもないことに気づかれるはずです。ですが、最大のエネルギー源は皆さん方お一人お一人です。皆さんが最大の素材です」

キリスト教を信じている人の中には、霊が交霊会に出てきてしゃべるということは“霊を無理やりひっぱり出して嫌々ながらしゃべらせる”ことだから“霊にとって迷惑”であると考えている人が多いという話が持ち出されると――


「わたしにとって、この霊媒の身体を借りて皆さんと話を交わすことがどれほど楽しいことであるか――それは皆さんにはとても理解していただけないほどです。皆さんと共にいるということは、わたしにとって格別のことではありませんが、こうして面と向かって皆さんとお話ができるというのは、大変楽しいことなのです。

どうぞ、このわたしが常にお側にいて皆さんのお役に立つ用意をしていることを忘れないでください。わたしは皆さんのお友だちなのです。多分わたしの姿はご覧になれないでしょうけど、むしろわたしの方から力になってあげたいと願っている側用人(サーバント)くらいにお考えください。何かご用がありましたら、いつでもお呼びください。どうぞ、この死者に迷惑をお掛けください!」

女性メンバーの一人が最近親戚の人に起きた出来事について話し、そういうことを起こす霊は善霊でしょうか邪霊でしょうかと尋ねた。すると――


「あなたの頭の中から低級な影響――あなたは邪悪な影響とおっしゃりたいのでしょうけど――そういうものが自分につきまとうという観念を拭い去ってください。あなたは大霊とその摂理の保護のもとに生活しそして行動していらっしゃるのです。

あなたの心の中に邪(よこしま)なものがなければ、あなたには善なるものしか近づきません。善のバイブレーションが支配するところには善なるものしか住めないのです。大霊の使者以外のものがあなたの存在の中へ入り込むことはありません。あなたは何一つ恐れを抱く必要はありません。あなたを包み込んでいる力、あなたを支え、導き、そして鼓舞せんとしている力は、ほかならぬ宇宙の大霊から発せられているのです。

その力はあらゆる試練と困難の中にあってあなたの支えとなってくれます。嵐を晴天に変え、絶望の暗黒から叡智の光明へと導いてくれます。あなたは着実に進歩の正道を歩んでおられます。恐れを抱く必要はどこにもありません。

地上世界で大切と思われているものの中には使い捨てのような価値しかないものが沢山あります。真に大切なのは魂の成長にかかわることです。霊的資質が発達して内奥の神性が開発されるごとに、魂の悟りが深まるのです。単なる知識の収集では大して価値はありません。もしもそれを他人のために使わないでいると、一種の利己主義ともなりかねません。

うわべだけで物事の価値判断をしてはなりません。わたしたちと皆さんとの根本的な違いは、皆さんが外面から判断なさるのに対して、わたしたちは霊の目でもって動機と目的を見抜いてしまう点です。その方が結果そのものよりも大切だからです。変転きわまりないうわべの現象の背後にある、永遠の実在を見抜くように努めないといけません。

階級・肩書き・職業・肌の色――こんなものが大霊を前にして何の意味がありましょう。真に誇れるもの、真の気高さは魂にかかわるもの、霊にかかわるもの、精神にかかわるものです。それこそが永遠の実在なのです。

イエスも同じことを説いています。“神の王国は自分の中にある”(ルカ伝)“地上の宝を貯えてはいけない――虫に食われず錆びつかず盗人も盗み出せない宝を貯えよ”(マタイ伝)。

わたしたちも同じ真理を説いているのです。真理は真理であり、永遠の原理は決して変わることはないからです。

物質の中に閉じ込められている皆さんにとって霊的実在を原理とした物の考え方をするのが難しいものであることは、わたしもよく知っております。しかし、そういう考え方をお教えするのが、わたしたちがこうして地上へもどってきたそもそもの目的なのです。皆さんが人生を正しい視野、正しい焦点でとらえてくださるように導くことです。

忘れないでいただきたいのは、地上生活は永遠の生命活動の中のホンの一かけらにすぎないということです。ただの影を実在と思い違いをなさらないようにしてください」

それから最後の忠告として、こうして霊界から届けられる教訓はサークルのメンバーにとってはすでに当り前のことのようになっていても、他の人々――人生に疲れた人、心を病んでいる人、迷いと疑念に嘖(さいな)まれている人たちにとっては「心地よい、さわやかな新風であり、まとわりついたクモの糸を吹き払い、精神を鼓舞される思いがするものです」と述べて、こう締めくくった。


「魂が霊的真理の光の有り難さを味わえるようになるまでには、時として大きな迷いと疑念、悲哀と倦怠と幻滅を体験しなければならないことがあるのです。

わたしたちの仕事は順調に広がりつつあります。そのことだけは確信をもって断言できます。わたしがいつも楽観的な態度を強調し勝利は間違いないことを申し上げるのはそのためです」

祈り


ああ、真白き大霊よ。

あなたの無限性を物質に閉じ込められている子等にどう説明すればよろしいのでしょうか。言語を超越しておられるあなた、いかなる尺度をもってしても計ることのできないあなた、その叡智は地上のいかなる智者の叡智をも超越し、その愛はかつて地上で示されたすべての愛をも凌ぐ無限なる存在にあらせられるあなたを、わたしはどう説き明かせばよろしいのでしょうか。

全生命の大源におわしますあなた、あらゆる存在を通してその霊性を顕現しておられるあなた、物質の世界と霊の世界の区別なく、生きとし生けるものすべてに見出すことのできるあなたを、わたしはいかに表現すればよろしいのでしょうか。

わたしは全大宇宙とそこに顕現せるものすべて――あらゆる活動の中に顕現している生命の律動(リズム)に目を向けさせます。昇っては沈みゆく太陽、夜空にきらめく星座、心地よく屋根をうつ雨音、ささやくような小川のせせらぎ、のどかな蜜蜂の羽音、風に揺れる可憐な花々、そして轟く雷鳴と闇を切り裂く稲妻に目を向けさせます。

かくして生命のあらゆる現象に向けさせたあと、わたしはそれがあなたとあなたの摂理の表現であることを確信をもって明言いたします。何となれば、あなたは摂理そのものにあらせられる――永遠にして不変の摂理として顕現されているからでございます。

その顕現の中でも、物質の世界よりも高度な次元に属するわたしたちは、その次元すなわち霊の世界において知れわたっている不変の因果律を教えるべく、こうして地上へもどってまいります。わたしたちはあなたを有るがままの存在として啓示し、物質に対する霊の優位性を立証し、あなたとわたしたち子等との霊的な絆を教え、物質の子等もあなたの一部であり、あなたの霊性がすべての子等に宿り常に表現を求めている事実を理解させたいと願っております。

ああ、真白き大霊よ。

わたしたちはあなたの叡智のお蔭をもって、内奥のより高き自我を呼び覚まして生命の大源たるあなたとの調和をもとめることをお許しくだされたことに感謝の意を表します。神性を帯びたあなたの遺産を求めそして我がものとし、魂の内奥に潜む実在を見出しているところでございます。

願わくばこの光の神殿(交霊会)において、これまで久しく忘れ去られながらも、あなたを求めた数少ない霊覚者にのみ明かされてきた霊的摂理のいくつかを立証することができますように。

ここに、人の役に立ち愛の摂理を立証することをのみ求める、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

Tuesday, August 4, 2026

シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

 A Voice in the Wilderness

トニー・オーツセン(編)近藤千雄(訳)


 

3章 わたしたちは決して見捨てません

英国陸軍の従軍牧師がハンネン・スワッファーの招きで出席し、シルバーバーチとの対話で真実の霊的真理を悟って辞職を決意するまでに至った。ところが、それから二、三カ月後にあっさりと他界した。そして今度は奥さん一人が招待されて、シルバーバーチからその間の事情の説明を聞くという珍しいケースがあった。まず夫妻が揃って出席した最初の交霊会の様子から紹介しよう。シルバーバーチから語りかけた。


「わたしが申し上げることを全部受け入れる必要はないのですよ。あなたの理性を使って、わたしの言うこと、あなたがお聞きになっていることを吟味なさって、わたしに挑戦してください。もしも理性が納得しないものがあれば、どうぞ拒否してください。わたしたち霊団の者は絶対に間違ったことは言わないとは申しておりません。わたしたちは過去の聖人や霊覚者が説きながら神学や教義の瓦礫(がれき)の下に埋もれて忘れられてしまった真理と同じものを改めて説いているだけなのです。人間の霊的新生、霊的自主独立、経済的ならびに社会的自由への道を教えてくれる、古くからある永遠不滅の真理を瓦礫の下から救い出そうと努力しているのです。“二師に仕うること能(あた)わず”(マタイ伝)といいます。もちろんご存知ですね。自分自身、自分の心、自分の存在を見つめ直してごらんなさい。そこには多くの、いえ、すべての問題に対する回答が秘められるものです。これまで大切にされてきた信仰の中の真実のものは、これから先も生き永らえます。何ものもそれを揺るがすことはできません。が、間違っていたものは捨て去らないといけません。カビの生えた古い誤りは、霊的啓示を前にしたら潔(いさぎよ)くその場を譲らないといけません。

永いあいだ地上世界を束縛してきたものとの闘いにおいて、わたしたちは一歩も後へは退きません。宗教の名のもとに築かれてきた教義とドグマと戒律の組織に対して闘いを挑んでおります。間違っているものは廃棄しなければならないのです。真実のものだけが生き永らえるのです。永いあいだ人間が崇めてきた大言壮語――霊感や啓示ではなく、ただの政策、とくに政治的政策からこしらえられたドグマは、どうあっても許すわけにはまいりません。

あなたも永いことご自分のことを忘れてひたすら人のためを思って軍の中でのお仕事に専念してこられました。しかし最近、そうした体制下での善行にホトホト嫌気がさしてきた……あなたはそんなことはないとおっしゃることでしょうが、奥様はわたしと同意見だと思うのですが……」

「おっしゃる通りです」と同伴してきた奥さんが述べた。


「あなたのお仕事は人前でのハデなものばかりではありませんでした。そういうことも一、二度はありましたが、大抵は人目につかないところでの地味なものでした。そして今ついに真実の霊的真理に目を開かれました。あなたご自身は遅きに失した、もう少し早く知っていたら、と残念に思い、これから先どういう形での奉仕ができるだろうかと迷っておられますね?」

「その通りです」


「いいですか、真理というものは受け皿が用意されて初めて受け入れることができるのであって、それ以前は知らん顔をしているものです。精神が受け入れる気になった時に真理の方からやってくるのです。せっかく訪れてノックをしても冷たくあしらわれることがわかっている時は、真理は近づこうとはしないものです。そろそろドアが開いて入れてもらえると思うまでは、少し離れたところで待機しているのです」

ここでシルバーバーチが「何かお聞きになりたいことがありますか」と言うと、

「何からお聞きしてよいかわかりません。よく解らないことが山ほどあり、とても面倒な問題もありまして……」と牧師が言う。


「どうぞ、その中でも一ばん面倒な問題をおっしゃってみてください。わたしにお力添えできることでしたら、せいぜい努力いたしましょう」

「実はこれまで務めてきた従軍牧師としての仕事をこれを機に辞職することが果たして賢明であるかどうかで迷っております。辞めたあと、これとはまったく分野の違う仕事で私に合ったものを見つけるのを背後霊はちゃんと援助してくれるものでしょうか」


「“求めよ、さらば見出さん。尋ねよ、さらば授からん。叩けよ、さらば、開かれん”――この言葉をあなたは何度説いてこられましたか」

「ずいぶん説いてまいりました」


「今このわたしが同じことをあなたに向かって説くことにしましょう。ただし、わたしの場合はただの信仰ではなく、知識による確信をもって申し上げます。わたしの世界には大霊の使者の大軍が控え、いつでも地上世界のために手助けをする用意を整え、あなたのような“道具”が“私はいつでも用意ができております。どうぞお使いください”と言ってくださるのをお待ちしている事実を、この目で見て知っているのです。

わたしたちは決して見捨てません。しかし最初にしかけるのはそちらです。真理が手引きするところならどこへでも迷わずついて行く用意があるという意志表示をしてくださらないといけません。今あなたは古い土台を取り払おうとなさっておられるところです。しかし、向かわれる先は砂漠ではありません。荒野へ迷い込んで行かれるのではありません。半信半疑の世界から抜け出て、霊的実在へと向かっておられるのです。

ここまであなたを導いた力こそ霊の力なのです。あなたはそのことについて信者の方にずいぶん説いてこられましたが、まだ理解はしておられませんでした。これが実はキリスト教でいう“聖霊の降臨”なのです。大霊がその知識、その叡智、その啓示、その真理、その愛を地上へ届けられる手段なのです。わたしたちはそのための道具にすぎません。永い年月にわたる奉仕と進化と成長と経験の末に、そういう仕事にたずさわる資格を身につけたのです。わたしたちは自分のことは何一つ求めていません。わたしたちが持っているもの全てを地上人類のために使用できる、その栄誉を保ち続けたいと思っているだけなのです」

「どうも有り難うございました」


「わたしへの礼は無用です。大霊に感謝してください。わたしたちは大霊のために奉仕しているのですから……。わたしたちはただの道具にすぎません。代理として働いているその大中心の存在に感謝なさるべきです。

わたしたちは永いあいだ荒野に呼ばわり、叫び続け、真理普及の地ならしをしてまいりました。地上人類が耳を傾けてくれるように工夫を凝らしてまいりました。しかし一向に耳を傾けてくれませんでした。霊の声を聞こうとしませんでした。サムエルを見つけるまで、わたしたちも、三度も四度も呼び続けました」(*旧約聖書“サムエルの書”上、第三章参照)。

「あなたがご存知のイエスについてお聞かせください」


「わたしは何度となくお会いしております。イエスは“父”の右に座っておられるのではありません。その“父”も黄金の玉座に座っておられるのではありません。イエスは進化せる高級霊の一人です。地上人類の手の届かないほど誇張され神格化された、縁遠い存在ではありません。すぐに手の届くところで、あなた方がスピリチュアリズムと呼んでおられるこの真理――わたしたちにとってはただの自然法則の働きにすぎませんが――その普及の指揮をなさっておられるのです。

交霊会をはじめとするさまざまな仕事を指示しておられるのが、ほかならぬイエスその人なのです。病める者を癒し、悲しむ者を慰め、無知なる者に真理の光をもたらし、いずこへ向かうべきかもわからずに迷っている者に道を教え、家もなくさ迷える者に宿りの場を与え、人生に身も心も疲れ果てた者に生きる勇気をあたえるために世界中で献身している人たちを鼓舞しておられるのです。

わたしたちが実際にお会いし、そして激励の言葉をいただいているのが、実在の高級霊、かつて地上で“ナザレ人イエス”と呼ばれていた方なのです。あなたはこれまでイエスはどこにいらっしゃると思っておりましたか」

「以前ならイエスさまは“父”の右側に座していらっしゃると答えたと思います」と正直に答えてから「でも今はもう全く異なる神の概念を抱いております」


「そうです。神は右でも左でもないのです。法則なのですから……。その働きは完璧であり、しくじるということがなく、間違うということがなく、始まりもなく終わりもなく、無窮に働き続けているのです。一個の人間としての神の概念をお捨てになり、全生命の背後に存在する法則としての大霊とお考えになってください。

そしてイエスをあなたと同じ存在とお考えになることです。はるかに進化はしていても、決して手の届かない無縁の存在ではありません。なぜなら、イエスがたどった道をあなたも今たどりつつあるのであり、イエスが発揮したのと同じ霊的能力をあなたも発揮できるのですから……。

イエスが行ったことはすべてあなたにもできるのです。“あなたたちもこれ以上のことをする時が来るであろう……”“見よ、私は救い主、すなわち真理の霊を送り届けるであろう……”――こうした言葉が今あなたにとって真実となっているのです。このわたしが“救い主”だと言っているのではありません。わたしが“真理の霊”だという意味ではありません。地上人類に文明の汚点である信仰上の誤りを理解させそれを取り除かせるために、大霊に源を発する霊力の一部として、わたしもイエスの指揮のもとに参加しているということです」

話題が変わって、霊界とのつながりについてこう語った。


「いったん霊界との磁気的なつながりができ上がると、それは二度と切れることはありません。霊力というのに接し、その影響力によって感銘を受ける段階に達していれば、その段階ででき上がったつながりは二度と解消されることはなく、いつでも霊的なものを認識できる状態が保たれます。

そうしたつながりができ上がる最初のきっかけは往々にして悲哀の体験――死別の悲哀、苦痛の悲哀、病気の悲哀ないしは悲嘆となるものです。そこに地上生活における“苦”が果たす役割があるのです」

さらに話題が発展して霊の得手不得手の話になり、シルバーバーチは地上の霊媒が単なる好みではなく能力に合った分野を選ばねばならないように、霊界においてもどれにするかで迷うことがあり、自分の場合は結局は“教えを説く”という手段を選んだことを説明した。そしてこう続けた。


「皆さんと同じように、わたしたちも一ばん伸ばしやすい能力を選ばねばなりません。表面近くにあるものが一ばん伸ばしやすいことになります。しかし時には二つないし三つの能力が同じ程度に発達している場合があり、そのうちのどれにするかの選択を迫られることもあります」

ここで出された質問に答えて――


「わたしは霊的真理に基づいた原理を説いております。いかなる問題もこれを適用すれば遠からず解決します。わたしは人間の苦痛の叫び声に無神経なわけではありません。できることなら重荷のすべてをわたしが背負ってあげたいくらいの気持ちです。ですが、地上世界のことは地上世界で片づけないといけないのです。そこには“公正”というものが行きわたるようになっているのです。と言って、ただ単に苦しい体験を積むばかりでは無意味です。その中から教訓を学び取らないといけません。そこで霊的摂理についての知識が大切となります。それを広めないといけません。

人類は霊的知識を身につけて初めて、待ちうけている喜びを味わうことができるのです。あらゆる苦しみから教訓を学び取り、地上世界がたとえ絶望だらけに思われても神の意志は必ず成就されること、その遠大な目的を挫折させるほどの力をもったものは地上には存在しないことを確信してください。達成の時期を遅らせることはできます。また少しの間だけ視界を曇らせることはできます。しかし新しい世界はすでに生まれております。古い世界が崩壊しつつある徴候がそこここに見られます。あなた方も変革の証拠をその目でご覧になっておられます。

自分たちが支配しているつもりでいた者が独裁と圧制の時代は終わったことに気がつくのも、そう遠い先のことではありません。しかし忘れてならないのは、そうした独裁者は大霊が用意なさったのではありません。あなた方人間がその出現を許したのです。憎しみと無知と時の事情によって生み出されたのです。

大霊は地上人類のために用意される恩寵についてはきわめて寛大です。すべての者に十分に用意しておられます。領土問題で争う必要はないのです。そもそも誰のものでも、どの国のものでもないのです。大霊のものなのです。人間はその大霊の借地人(テナント)にすぎません。ホンの短い期間だけ地上に逗留するためにお借りしているだけなのです。

霊的知識さえあれば、一滴も血を流さずに、一人の命も失わずに、すべての問題が解決できるはずです。ところが無知と既得権力が障害をこしらえてきたのです。あなたのような方が物質万能主義と闘う軍隊に一人加わるごとに、暗黒の勢力を一歩押し返すことになるのです。

わたしたちには奇跡は起こせません。霊的な“呪術師”ではありません。摂理というものの存在を説いているのです。その働きを知っているからです。困難につぐ困難の末に今やっとその努力が実りつつあります。絶望感など一かけらもありません。自信にあふれております。

このわたしも、わたしの全存在の息吹きをもってあなたを支援します。迷わず進みなさい。あらゆる不安の念を振り切って、自分には愛の援護がある――血縁のあった霊の愛、物質のベールで仕切られてはいても霊的には親しく通じ合い身近にいて常に導いてくれている霊の愛、それからまた、あなたはご存知なくてもあなたをよく知っていて、誕生の時からずっと待ってくれている、大勢の霊的家族の愛があることを知ってください。

そうした大勢の霊がこれまでずっとあなたを鼓舞し、保護し、導き、目にこそ見えなくても現実的影響力を行使してきたのです。喜びをともに喜び、悲しみをともに悲しんできました。まさしく笑いも涙も分け合ってきたのです。そうした霊とあなたとは文字どおり一体であり、決して見捨ててはおきません。あなたの方から一歩近づけば、彼らはさらにもう一歩近づくように援助します」

そして最後を次の言葉で力強く締めくくった。


「躊躇してはいけません。思い切りよく突き進みなさい。あなたの差し出す手が拒絶されることがあっても失望することはありません。あなたのことを気狂い呼ばわりしても悩むことはありません。ご存知でしょうか。かつてイエスの弟子たちは酔っぱらい扱いをされたのです。お二人に大霊の祝福のあらんことを!」

それから四カ月もたたないうちに、その牧師の奥さんが一人で出席した。実際にはご主人もいっしょなのだが、その時はすでにご主人はベールの向う側の人となっていた。シルバーバーチがその奥さんにこう挨拶した。


「再びあなたをこの場にお迎えして、この度の不幸を毅然たる態度で力強く耐え抜かれたお姿を拝見して、とてもうれしく存じます。あなたにとって実に厳しい試練でしたね。しかし、霊的知識が支えとなって、いささかも揺らぐことがありませんでした。ご主人は偉大な霊です。今でもあなたとともにいて、何とかしてあなたに存在を知らせたいと工夫していらっしゃいますよ」

「おっしゃる通りだろうと思います。私もそのことに気づいております」


「何度も姿を見せようとなさったそうですよ。でも時おりそのことが却ってあなたに少しばかり精神的な混乱を引き起こして、申し訳ないとおっしゃってますよ」

「存じております」

すでに自宅で家族交霊会(ホームサークル)を開いている奥さんは、ご主人からのメッセージを受け取っていたのである。シルバーバーチが言う――


「目には見えなくても、今なおご主人が陰で糸を引いておられるのがお分かりでしょう。あなたの喜びも幸せも今なおご主人がカギを握っているからです」

そう述べてから、牧師の妻としていろいろと処理すべき問題が残されていることを念頭において、こう助言する。


「ご主人の地上での仕事はまだ終わっていないのです。あなたの仕事もまだまだ終わりません。前途には問題が山積しております。ですが、辛抱なさることです。ご主人は死後の環境に慣れるのに時間が掛かりましたが、その後は長足の進歩を遂げておられます。お家(うち)での交霊会はぜひとも続けてほしいと希望していらっしゃいますよ」

「はい、続けるつもりでおります」


「あなたが受身の心になって静かに落着いている時には姿を見せることもできるとおっしゃっていますよ。ご覧になられたことがありますか」

「はい、あります」


「でも、おぼろげだったでしょう? 見えたような気がして見つめなおすと、もう見えない……でも、確かにそこにいらしたのです」

「わたしはこう言ってあげたことがあるのですよ――“今のはあまりあなたに似てませんでしたよ”って」


「なるほど。でも、何ごとも練習ですよ。悲しむことだけはお止めなさい――たとえ心の奥であっても。ご主人はその後霊格が向上しておられます。自らの努力で必然的にそうなられたのです。永年の奉仕への報酬として向上を得られたのです。と言って、あなたから遠ざかったわけではありませんよ。これからも常にあなたとともにいらっしゃると思ってください。今のご主人にとっては、あなた以上に大切な人はいないのですから。その辺のことはあなたもご存知のはずです。

お二人には宇宙最大の力があります――愛の力です。それが地上でお二人を巡り合わせ、これからも永遠にお二人に“別れ”はありません。

あなたには霊的知識があります。たとえ視界のすべてが見通せない時でも、その知識を手にしておられることを有り難いと思わないといけません。単なる期待や推測や思惑からではなく、いかに烈しい環境の嵐の中にあっても揺るぐことのない、“事実”を土台とした確信を抱くことができるからです」

ここでシルバーバーチから「何かお聞きになりたいことがありますか」と言われて奥さんは、夫のあまりに急な他界で少し戸惑いを感じたことを述べ、「死期というものは何によって決められるのでしょうか」と尋ねた。


「霊に用意が整った時に肉体から去るのです」

とシルバーバーチは述べて、それをこう説明した。


「リンゴが熟すると木から落ちますね。時として木が揺すられて熟さないうちに落下することもありますが、それは不味(まず)くて食べられませんね。同じように霊も時として時が熟さないうちに肉体から離されることがあります。この場合には霊に死後の生活への準備が整っていません。

しかしご主人の場合は霊に十分な用意が整い、肉体も十分にその目的を果たして、その上で朽ち果てたわけです。あなたがどう介抱されてもその時期を延ばすことはできなかったでしょうし、ご主人にもそれはできなかったでしょう。そのうち、ここにおいでの皆さん方にも同じことが起きるわけです。少しも恐れることはありません」

このあと奥さんが、主人が予告したことが未だに実現していない話を持ち出すとシルバーバーチが――


「いつというのは霊にはなかなか判断しにくいものなのです。そのわけは、わたしたちにはこうなるという結果の方が先にわかってしまい、ではそれが地上の時間にしていつになるかとなると、その計算ができないことがあるのです。霊によって、その計算が得意な霊とさほど得意でない霊とがいるものです。

いずれにせよ、あなたはそのことで気を揉まれる必要はありません。これからも何度も何度も姿を見せるようになり、助言を与え、あなたのことを大事にしてくださいます。ですからあなたも、こうした知識を積極的に広める活動をなさらないといけません。あなたにとってはご主人こそが霊的知識へ導いてくれた恩人であるごとく、あなたが広める知識が救いとなる人もいらっしゃるのですから……」

「それがわたしの大きな願いでございます」――夫を失ってまだ数週間しかたっていないというのに、早くもこの未亡人は他人の慰めとなる仕事のことを考えて、そう述べるのだった。このことばを聞いてシルバーバーチが力強く言う。


「おできになりますとも。人の荷を軽くしておあげなさい。道を教えてあげなさい。暗闇を明るくしてあげなさい。地上には無用の悲しみ、無用の不幸、無用の悲劇が多すぎます。わたしたちの世界からの愛は、進むべき道をすっかり見失っている人類が平和と悟りへの正道を見出し、地上世界の汚点である不公正と残虐を絶滅する、そのお手伝いをするために、霊の力を地上へもたらすことのできる道具を通して、少しでも多くの発現を求めているのです。

エデンの園は存在するのです。地上天国は目の前にあるのです。ただ人間の強欲と愚かさと利己主義と残忍性が道に立ちはだかっているのです。理屈の上では一日のうちにでも実現できるのです。しかし現実には、為さねばならないことが山ほどあります。全生命を創造なさり、生きる道を示さんとしておられる大霊の道具として、進んで志願する者を必要としているのです。

大霊の祝福のあらんことを祈ります。あなたがお帰りになられる時はご主人もいっしょにお帰りになられます。愛は本来あるべき所へ帰るものなのです」

祈り


ああ、真白き大霊よ。

わたしたちに生命を賦与してくださったことに深く感謝いたします。なぜなら、それはわたしたちの霊をあなたの霊の中へ融合させることによってわたしたちにもあなたの無窮の目的に参加することを可能ならしめ、あなたのご意志を顕現し、あなたの愛と叡智と真理と知識とを啓示する大事業のお手伝いをさせていただくことになるからでございます。

ああ、大いなる神よ。

わたしたちは宇宙に顕現せるあらゆる生命現象を通して啓示されているあなたの無限の相に対して感謝の言葉を捧げるものです。またわたしたちは“愛の橋”を通って“死の淵”を越える機会をお与えくださったことにも感謝の念を捧げます。

物的身体に宿る者であろうと霊の界層に生を営む者であろうと、あなたとあなたの子等のために進んで我が身を役立たせんとして励む者に対する感謝の気持ちを、わたしたちは御前に捧げるものです。

またあなたの神性を生活の中で体現している人たち、また彼らの理想とするところ、彼らの気高さ、彼らの犠牲的献身が、彼らより低き進化の階梯にある者への霊的感化となっている人たちへの感謝の気持ちを御前に捧げます。

人類の歴史のあらゆる時代において子等に明かされた、あなたご自身ならびにあなたの無窮の目的についての啓示に対しても、わたしたちは御前に深甚なる感謝を捧げます。そのために捧げられた殉教と英雄的行為のすべて、先駆者ならびに改革者のすべて、同時代の同胞を高揚せんとして腐心した人たちのすべてに対する感謝の気持ちを御前に捧げます。

あなたからのインスピレーションを啓示し人類に霊的摂理を理解せしめんと努力した人たち、また、同じ地上に身を置くがゆえにこそ同胞に恩恵をもたらすことができた人たちのすべてに対する感謝の気持ちを御前に捧げます。

物的世界と霊の世界との通路となっている人々――たとえその多くは無意識であっても――永遠の生命の大目的についての理解を深めさせる上で力となっている人々のすべてに対する感謝の心を御前に捧げます。

あるいは教会、あるいは寺院と、その場所を異にし、さらには宗教と名のつくものを標榜することなく、ただひたすら己の内部の最高のものを発揮せんとしてあなたを求めている謙虚にして潔き人たちへの感謝を御前に捧げます。

ああ、真白き大霊よ。

地上の愛する者たち――あなたの子等に知識と真理とを授け自らを霊的束縛から解放する方法を教えようとするわたしたちの仕事の忠実なる助力者たち――その人たちのために尽力することによってあなたに奉仕するこの機会をお与えくださったことに、わたしたちは感謝の意を捧げるものです。

願わくばこの交霊会ならびに他の交霊の場において行われることが人類により多くの知識を与え、それが友好と親善と平和の中での暮らしを生み、その暮らしの中で永遠の大霊たるあなたの無限の愛を発揮するようになる日の到来を一日でも早めることになりますように。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。そしてこの祈りが一日も早く現実のものとならんことを。

Monday, August 3, 2026

シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

 A Voice in the Wilderness

トニー・オーツセン(編)近藤千雄(訳)


2章 神はときには荒れ狂う嵐のごとく

数年前に愛する妻に先立たれ、その妻が死後も生き続けている証拠を求めてきた英国の下院議員が、ある日の交霊会に招かれてシルバーバーチと長時間にわたる意義ある対話をもつことができた。

その議員は動物への虐待行為を中止させる運動に大きな貢献をしている人で、シルバーバーチから引き続き頑張るようにとの励ましを受けて、魂の高まりを覚えながら会場をあとにしたのだった。

まずシルバーバーチから語りかけた。


「地上世界は、洞察力に富む一部の人を除けば、大きな悲しみの体験をさせられる前に霊的真理の必要性を知る人がほとんどいませんね」

「でも、その洞察力はどうすれば得られるのでしょうか」


「もとより容易なことではありません。たとえば、こうした霊言や自動書記などの手段によって通信霊が自分はかくかくしかじかの霊であると述べた場合、それだけで直観的にその通りか否かを得心できるようでなければいけません。あなたもそう努力なさって来られました。もちろん、わたしたちとしては物質界の人間が要求する証拠性の基準に合わせる必要があることは認めます。が、それにも限界がありますから、これまであなたがなさってきたように、与えられたものを真剣な批判的態度で判断し検討しなければいけません。偏見を混じえずに心の扉を開き、理不尽な懐疑的態度さえ取らなければ、わたしたちとの連絡はラクになります」

「私が欲しくてならないのは、この地上を去った人たちが今も間違いなく生き続けていて、地上の人間とつながりをもち、現実に影響を及ぼしていることを立証してくれるものです。それを得るにはどうしたらいいのでしょうか」


「そのためには、わたしが使用しているこの霊媒よりも立派で、あなたの求めているような万全の証拠が提供できる波長に感応する霊媒を見出すしかないでしょう。ただし、そういう証拠を求めているのはあなたの魂ではありません。頭の中でそう思ってあがいていらっしゃるだけです」(※)


※――この一節には大切なことが含まれている。人間側からすれば、その霊が地上で誰であったかを立証する具体的な証拠くらい簡単に出せそうに思えるが、実際には具体的なことになるほど地上臭が強くなり、それだけ波長が低くなるので、それが受けられる霊媒は程度が低いことになる。ということは低級霊が感応しやすいという危険性があり、うまくハメられやすいことにもなる。“感激の対面”をして親子が抱き合って涙を流すその裏側では、イタズラ霊がしてやったりと、ほくそえんでいることが多い。シルバーバーチはそのことを露骨に言わず、いかにもシルバーバーチらしく、ちょっぴり皮肉も込めて述べている。

最後の一文はさらに大切なことを教えている。人間は大ざっぱに言えば肉体と精神と霊とで構成されているが、成長するにつれて意識の中枢が肉体から精神へ、そして霊へと移っていく。理屈ばかりこねている人間は精神的段階に留まっている証拠であり、まだ真の自我には目覚めていない。その段階を抜け出ると直観(直感ではない)で理解するようになる。理屈や証拠を超えて真相を洞察してしまう――わかるのである。霊的能力というとすぐに霊視や霊聴を思いうかべる人が多いが、最高の霊的能力はその直観力である。

「では、その魂がもっと意識できるようになるにはどうしたらよいのでしょうか」


「それは霊的開発の問題です。より精妙な波長が意識できるように、霊的次元にチャンネルを合わせる方法を会得することです」

「チャンネルを合わせるにはどうしたらよろしいのでしょうか」


「地上世界が活気にあふれている時にこちらの世界は静まり返っていることがあり、そちらが静まり返っている時にこちらでは活気にあふれていることがあるものです。ですから、精神活動を止めて静寂の世界へ入り、受身になってみられることです。じっと待っていると魂が活動を開始するのがわかるようになります」

「特殊な考えが浮かんだ時、それが自分の考えなのか霊界から送られてきたものかを見分けるにはどうしたらよいでしょうか」


「そうしたことはすべて、精神をいかにコントロールするかに係わる問題です。精神があてどもなくフラフラしている状態から、意識的にきちんと支配下において、完全な静寂の中で高度な波長がキャッチできるようになることです。直観がひらめくのはそういう時です。波長が高く、速く、そして微妙だからです。地上的な思念はのろくて、不活発で、重々しく感じられます」

「地上で最高といえるほどの魂にも同じことが言えるのでしょうか」


「言えます。すべての魂に当てはまります。よくお考えください。人間は本質的に二重の要素をそなえているのです。動物時代の本能の名残りと神の分霊とがあって、それがあなたの存在の中で常に葛藤しており、そして、そのいずれかを選ぶ自由意志を持つあなたがいるわけです。そこに進化の要素があるのです。あなたとしてはなるべく動物性を抑え、潜在する神性を発揮する方向で努力しないといけません。

神、わたしのいう大霊は、人間をはじめとしてあらゆる生命形態に内在しております。すべてが神であり、神がすべてなのです。ある人にとって神は優しいそよ風のごとく感じられ、またある人にとっては、ときに荒れ狂う嵐のごとく感じられるものです。すべては各自の発達程度の問題です。

あなたの場合も魂の内奥の神性がうごめき、奥さんの死という悲しみの体験が触媒となって一段とその顕現の度合を増しつつあります。他界後の奥さんのことを求め続けられているのもそのためです。今夜こうしてこの交霊会に出席されたのもそのためです。これからのちも真理を求め続けられることでしょう。なぜなら、今やあなたは霊的真理への正道を歩んでいらっしゃるからです」

「ということは、発達の第一歩は願望を抱くことから始まるとおっしゃるのでしょうか」


「そうです。まず謙虚に、真摯に、そして敬虔な気持ちで知ろうとすることから始まり、今度は、そうして得た知識を自分の信念の確立のためだけでなく、他人のために役立てようという決意が出てこないといけません。

あなたはその願望をお持ちであり、これまでそう努力なさってこられました。そして、あなたが気力を無くしかけ、闘う意欲を失いかけ、いっそのこと第一線から引退して美術でも楽しむ生活を始めようかと思われた時などに、背後霊が懸命にあなたを鼓舞してまいりました。が、結局はあなたの魂の奥の神性がじっとしておれず、霊界からのインスピレーションにも鼓舞されて、恵まれない人たちのための闘いを続ける決意を新たにしてこられたのです」

このあとシルバーバーチはその下院議員の背後霊団について述べてから、さらに言葉を継いで――


「背後霊団のことを申し上げたのは、あなたもこちらの世界からの愛の保護下にあることを知っていただきたかったからです。人のためと思って努力している人々はみな霊界からの愛とエネルギーに取り囲まれていることを自覚し、仕事においてどれほど励まされ、勇気づけられ、感動させられ、そして支援されているかを知れば、いっそうの熱誠と情熱と集中力とをもって闘いに挑んでくださることと思うのです。人のために為された努力が無駄に終わったことは一度もありません。たとえ本来味方であるべきだった者から誤解され曲解され嘲笑され、あるいはこの人だけはと思って信頼していた人から裏切られることがあっても、あなたの奉仕の仕事は生き続けます」

「そのためのアドバイスをいただけたらと思うのですが……」


「あなたには細かいアドバイスはいりません。あなたはご自分で自覚しておられる以上に大きな仕事をなさっておられます。すでに立派に人のために役立つことをなさっている方から“私に何かお役に立つことがあるでしょうか”と聞かれると、わたしの心はうれしさでいっぱいになります。なぜなら、それは立派に人のためになることをしていながら、さらに大きな貢献をしたいと思っておられることの証拠だからです。

これまで同様に弱き者、無力なものを助け、力が不足している人に力を貸し、暗闇にいる人に光明をもたらし、足の不自由な人、あるいは何かの苦しみを抱えている人に救いの手を差しのべてあげてください。残虐行為――とくに魂が怯(おび)えるような残酷な行為、つまり人類の最大の友であるべき動物への虐待行為を止めさせるために闘ってください」

そう述べたあとシルバーバーチは、指導霊として霊界から地上での人間活動に影響力を行使することの難しさを次のように説明した。


「指導霊は自分の意図するところを物質界に感応させねばなりません。それが容易なことではないのです。なぜかと言いますと、ご存知のとおり物質界から放散されている波長は、およそ感心できる性質のものではないからです。現在の地上界は、光のあるべきところに闇があり、知識のあるべきところに無知があり、叡智のあるべきところに無分別があり、豊かさのあるべきところに欠乏があり、幸福のあるべきところに悲劇があり、優しさのあるべきところに残酷があり、愛があるべきところに憎しみがあります。霊がその威力を届けるための通路である霊的能力者はいたって少数です。しかし、その数は着実に増えつつあり、潮流はわれわれに有利な方向へ進みつつあります。

ところで、あなたの魂が目を覚ましたのは悲しい体験のお蔭だったのですよ」

「あの悲劇もある目的のためにもたらされたとおっしゃるのでしょうか」


「大きな悟りは大きな悲しみから生まれるものです。人生は“埋め合わせ”の原理によって営まれています。日陰のあとには日向があり、嵐になれば避難所が用意されます。光と闇、嵐と晴天、風と静寂――こうしたものはすべて大霊の配剤なのです。大霊は生命活動の全側面に宿っております。闇があるから光の有り難さがわかるのです。争いがあるから平和の有り難さがわかるのです。人生は比較対照の中で営まれています。魂は辛い体験、試練、苦難のるつぼの中で真の自我に目覚め、純化され、強化されて、より大きな人生の目的と意義を理解する素地が培われるのです」

「では、苦難は霊性の開発に必要なことを気づかせるために意図的にもたらされることがあるということでしょうか」


「そうです。魂がその深奥にあるもの、最高のものを発揮するには、さまざまな体験を必要とするからです。魂は永遠の存在であり、それまでの思念の一つ一つの結果、口にした言葉の一つ一つの結果、行為一つ一つの結果をたずさえており、結局今のあなたはあなた自身がこしらえた――一秒ごとに、一分ごとに、一時間ごとに、一日ごとに、一週間ごとに、一カ月ごとに、一年ごとに築いてきたことになるのです。自我の成長は自分で達成するのです。そして、行う行為の総決算があなたの現在の進化の程度を決めるのです。自分以外の誰にもそれはできないのです」

「意図的行為と無意識の反射的行為とは別のものでしょうか」


「反射的に行われたからといって、そこに因果律が働く余裕がなかったということはありません。その行為そのものが、因果律の存在を厳然と示しています。あなたの行為は現在のあなたという人格全体から生み出されるのです」

「その現在の人格は各自がこの地上で行ってきた行為の総決算だとおっしゃるのでしょうか」


「その通りです。これまでに行ってきたことの結果が今のあなたであり、今のあなたが行うことが未来のあなたをこしらえるのです。因果律は一瞬の途切れもなく、しかも完璧に働いています。完全にでき上がっていますから誤るということがありません。人間界では国家が定めた法律をごまかすことができますが、大自然の摂理をごまかすことはできません。なぜなら、魂にはそれまでの行為の結果が永久的に刻み込まれており、その有りのままの姿があなたであり、それと違うものに見せかけようとしても通用しません」

「間違ったことをした時は必ずそれに気づくものでしょうか」


「そうとは限りません。良心の声が聞こえない人がいますし、心が頑(かたくな)になっている人がいますし、魂が悪想念に取り巻かれて大霊の生命力の通路が塞がれている人がいます。人間は必ずしも自分の間違いに気づいているとはかぎりません。もし気づいているのなら、地上に戦争は起きないでしょうし、残酷な行為も見られないでしょうし、飢餓に苦しむ人もいないはずです。これほど多くの病気はないでしょうし、一方に飢えている人がいるというのに食べ放題のぜいたくをするということもしないはずです」

「それを改めるにはどうすればよいのでしょうか」


「あなたやわたし、ここに集える者と霊団の者全員が利己的な物質中心思想が生み出す不平等を撃破して、代わって大霊の恩寵をすべての子等に行きわたらせ、病気やスラム街、不健全なものや貧困、そのほか人間の魂と身体とを拘束するものすべてを何としてもこの地上から駆逐しようと固く決意することです。それらはみな間違ったことだからです。各自に内在する神性を自覚させ、人間として為すべきことは何であるかを、この地上を去る前に自覚させてあげないといけないのです」

ゲストの下院議員は多くのスピリチュアリストと同じように、動物愛護運動に深く係わっていた人である。そこで本章の締めくくりとして、かつてシルバーバーチが改革運動に係わった人々への霊界からの働きかけについて語ったものを紹介しておこう。


「わたしが説いていることは、過去のあらゆる時代に人類のために精励したすべての改革者、すべての聖人、すべての予言者、理想主義に燃えたすべての人々の先見の明がとらえた気高い崇高な考えと、まったく同じものです。

彼らはその霊格の高さゆえに霊眼をもって地上生活のあるべき本来の姿を垣間みることができ、その美しい未来像が、逆境と闘争の中にあって心の支えとなってきたのでした。彼らには、いつの日かきっと実現される霊的計画がわかっていたのです。そこで同胞である物質界の子等にとって、今のうちに少しでも霊性を高めることになる仕事に貢献したのです。奉仕です。

彼らは、皮肉にも、その奉仕的精神から正しい人の道を説いてあげた当の相手から貶(けな)され、抵抗にあい、嘲笑の的とされましたが、彼らの仕事は立派に生き続けました。それは今日世界中の無数の国において、この交霊会のようなささやかな集いの場において行われていることが引き継がれていくのと同じです。それにたずさわった人々は次々と忘れ去られていくでしょうけど……。

大霊の強大な勢力が今ふたたび地球という物質の世界へ向けられているのです。地上のいかなる勢力をもってしても、その強大な潮流を遮ることはできません。

地上の人間は流血によって問題が解決するかに考えるようですが、かつて流血によって問題が解決された例(ためし)はありません。無益であり、何の解決にもなっていません。

人間はなぜ神から授かった理性が使えないのでしょうか。なぜ唯一の解決法が一人でも多くの敵を殺すことだと考えるのでしょうか。いちばん多くの敵を殺した者が英雄とされる――地上というところは不思議な世界です」

祈り


ああ、真白き大霊よ。

わたしたちはあなたを永遠の生命のあらゆる現象の背後に働く無限の法則として説き明かさんとしております。古き時代にはあなたは歪められた眼鏡を通して見られておりました。嫉妬に狂う神、腹を立てる神、好戦的な神と思われたこともございました。

しかし、わたしたちは無限なる霊、あらゆる生命現象を通じて息づき、あらゆる自然法則の働きとしてご自身をお示しになっている存在として説き明かさんとしております。無限の叡智と理解力、愛と真理の大霊――弱き者、悩める者、挫折せる者を鼓舞することに精励する人々の生きざまを通じて顕現している大いなる霊として説くのでございます。

ああ、大霊よ。

あなたはたった一冊の書物の中にいらっしゃるのではありません。たった一つの教会(チャーチ)、たった一つの寺院(モスク)、たった一つの神殿(テンプル)、たった一つの礼拝堂(シナゴーグ)の中にいらっしゃるのでもありません。物質界の子等の有限なる理解力によって規定することも制約することも圧縮することもできない、広大無辺の霊でいらっしゃいます。

とは申せ、あなたは断じて子等とは無縁の遠き存在ではございません。まさに子等の内奥にましますのです。あなたの分霊(わけみたま)としてでございます。その分霊を通じてあなたはご自身を顕現なさらんとしておられるのでございます。子等の奉仕的生活を通じてあなたのご意志が発揮され、あなたの摂理が理解され、かくしてあなたの造化の大業の目的と同胞とのつながり、そしてあなたとのつながりについて子等が理解を深めるのでございます。

その理解の深まりとともに地上世界に新たなる光明、新たなる希望がもたらされます。平和が行きわたり、闘争がなくなります。利己主義が消え、悲しみが喜びに置き換えられ、生きるための必需品に事欠いていた人たちが真実の地上天国に生きることになるのでございます。

それがわたしたちが説き明かさんとしている大霊でございます。そのあなたの摂理を子等に教えんとしているのでございます。それを理解することによってこそ子等は俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じない生き方ができるのでございます。自らの力で束縛を解き放すことができるのでこざいます。奴隷のごとき卑屈な生き方を止め、膝を折ってあなたに媚びへつらうことなく、あなたからの生得の遺産を主張する――すなわちあなたのご意志を日常生活の中で発揮していく権利を堂々と主張できるのでございます。

Sunday, August 2, 2026

シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

A Voice in the Wilderness
トニー・オーツセン(編)近藤千雄(訳)

『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』表紙


「編者まえがき」より


「人間が食べるものや着るものを得るために動物を殺すのは間違いでしょうか」

「霊媒は菜食にすべきなのでしょうか」

「今の世界にとって必要な最も緊急な改革は何でしょうか」

「新しい魂はひっきりなしに生まれてきているのでしょうか」

「微生物にも意識があるのでしょうか」

「指導霊(ガイド)というのは特別に付けられるものなのでしょうか」

次から次へと出されるこうした質問に、ハンネン・スワッハー・ホームサークルの指導霊であるシルバーバーチは喜んで耳を傾け、それをもとにして大きく話題をふくらませていく。そこには他に類を見ない絶妙のうまみがある。

そのシルバーバーチが入神霊媒モーリス・バーバネルの口を借りて語る叡知の言葉を聞くために、ここ半世紀の間には実に大勢の人が訪れている。各界の著名人も少なくなかったが、大半は真理を求めて霊的巡礼の旅をつづける、ごく平凡な人たちだった。

シルバーバーチがいらだちを見せたり、不満を口にしたり、面倒がったり、怒りを見せたりしたことは、ただの一度もない。その叡知にあふれた言葉、世界中から尊敬と崇拝の念すら受けた流麗な言葉を聞くために週一回――晩年は月一回――その交霊会に出席した人の人間性を個人的に品定めする言葉も一切もらしたことはなかった。

本書に収めた資料の大半は、ここしばらく入手が困難だったものである。断片的にはこれまでの霊言集に出ているものも無きにしもあらずであるが、大半は交霊会が始まった初期の頃にサイキックニューズ紙に掲載されたものを切り抜いて大切に保存して下さっていた当時のメンバーの方たち(の家族)から提供していただいたもので、それに私が念入りに目を通して構成した。

こうした珠玉の教えを読み、咀しゃくして、中身の濃いものに仕上げるという作業は、実に愛と忠誠心なくしては出来ない仕事である。永いあいだ忘れられ、そろそろ黄ばみかけてきた切り抜きに新しい生命を吹き込むことができるとは、何と素晴しいことであろう。それも詰まるところは、シルバーバーチの哲学は決して古びることも、色あせることも、又、その言葉が光沢を失うことも有りえないとの確信があればこそなのである。

かつての交霊会のメンバーの大半はすでにこの地上を去り、実りの彼岸に到達しておられる。それゆえ本書は、そうした先輩たち、見えざる彼岸とこの世との掛け橋を、苦労しつつも喜んで築いてくださった人たちに捧げるものである。

「古くさいおとぎ話はぜんぶ捨て去りなさい。愚かしい迷信を破棄しなさい。偏見のくさりを解き放しなさい。そうしたものがあなたの視野をぼかし、精神を束縛するのです。心にゆとりを持ちなさい。謙虚になりなさい。そして叡知の泉から送られる神の啓示をいつでも受け入れられる用意をしておきなさい。わたしの言葉をお読み下さる方に申し上げます――“行きて汝もそのごとくせよ”と」(ルカ伝)。

かく述べるシルバーバーチのメッセージは、かつてと同様、今の時代にも通用する。いや、今この世にいるわれわれが人生の旅を終えて本来の住処(すみか)である輝かしき霊の世界へ戻ったあとも、末永く愛読されつづけることであろう。

トニー・オーツセン



巻頭のメッセージ


わたしは荒野に呼ばわる声です。

大霊の使者の一人として地上へ参っている者です。

わたしがどの程度の霊であるかは、

わたしの説いていることが志向しているものから判断してください。

わたしの述べるささやかな言葉、わたしの誠意、わたしの判断、

皆さんとともに励んでいる真理普及の仕事が、

たった一つの魂の支えとなり、たった一つの魂に安らぎを与え、

暗闇の中でもがいているたった一つの魂に

光明をもたらしてあげることが出来たら、

それだけでわたしはうれしいのです。



1章 死ぬことは悲劇ではありません


人間は、この世にあっていつかは“死”の現実に直面せざるを得ない。それは、愛する人であるかも知れないし、親友であるかも知れない。近所の人であるかも知れないし、同僚や知人であるかも知れない。

中には、気の毒にもそれが身も心も打ち砕くほどの悲劇的体験となる人もいる。そしてその悲しみの淵から抜け出るのに何カ月も、時には何年もかかることがある。

その観点からすると、人間が例外なく“死”を超えて生き続けるという事実について確固たる証拠に基づく信仰と内的確信をもつスピリチュアリストは、何と恵まれていることであろう。

シルバーバーチは語る――


「死ぬことは悲劇ではありません。今日のような地上世界に生き続けねばならないことこそ悲劇です。利己主義と貪欲と強欲の雑草で足の踏み場もなくなっている大霊(神)の庭に生き続けることこそ悲劇というべきです。

“死ぬ”ということは物的身体のオリの中に閉じ込められていた霊(真の自我)が自由を獲得することです。苦しみから解放され真の自我に目覚めることが悲劇でしょうか。豪華けんらんの色彩の世界を目のあたりにし、地上のいかなる楽器によっても出すことのできない妙なる音楽を聴くことが悲劇なのでしょうか。

地上で存分な創造活動ができなかった天才が、その潜在する才能を発揮する機会を得るのが悲劇なのでしょうか。利己主義もなく貪欲もない世界、魂の成長を妨げる金銭欲もない世界に生きることが悲劇でしょうか。あなたはそれを悲劇と呼ぶのでしょうか。一切の苦痛から解放された身体に宿り、一瞬の間に地上世界をひとめぐりでき、しかも霊的生活の醍醐味を味わえるようになることを、あなたは悲劇とお呼びになるのですか」

ある日の交霊会でシルバーバーチは、その日の出席者に睡眠中のことに言及して、人間は地上にいる時からしばしば霊界を訪れている話をして――


「そうでないと、いよいよこちらへ来て本当の意味での“生きる活動”を開始すべき霊にとって、霊界の環境がショックを与えることになりかねないのです」

「では、私たちが死んでそちらへ行くと、地上で睡眠中に訪れた時の体験をみな思い出すのでしょうか」


「もちろんです。なぜかと言えば、その時点であなたは肉体の制約から解放されて、睡眠中にほぐされていた霊的意識を発揮できるようになっているからです。その新たな自我の表現活動の中で睡眠中の全記憶、睡眠中の全体験の記憶が甦ってきます」

では、死後下層界へ赴かざるを得なくなった霊の場合はどうなるか、という質問が出された。つまり、そういう人もやはり地上時代の睡眠中の体験――たぶんやはり下層界での体験――を思い出し、それが下層界へ行ってからの反省にプラスになるのかという問いである。シルバーバーチが答える。


「死後下層界へ引かれていく人は睡眠中の訪問先もやはり下層界ですが、そこでの体験は死後の身の上の反省材料とはなりません。なぜなら、死後に置かれる環境はあい変わらず物質界とよく似ているからです。死後の世界は下層界ほど地上とよく似ております。波長が同じように物的だからです。高い界層になるほど波長が精妙になってまいります」

「地上にいる間でも睡眠中の体験を思い出すものでしょうか」――時おりおぼろげながらそれらしきものを思い出すという列席者が尋ねた。


「あなたの霊がその身体から離れると、脳という地上生活のための意識の中枢から解放されます。するとあなたの意識はこちらの世界の波長――といっても進化の程度による個人差がありますが――での体験をするようになり、体験している間はそれを意識しております。

が、朝その身体にもどり、その霊的体験を思い出そうとしても、思い出せません。なぜかと言えば、霊による意識の方が脳による意識より大きいからです。小は大を収容することができず、そこに歪みが生じるのです。それは例えば小さな袋にたくさんの物をぎゅうぎゅう詰めにするようなものです。ある程度までは入っても、それ以上のものを無理して入れようとすると形が歪んでしまいます。それと同じことが肉体にもどった時に生じているのです。

しかし、魂が進化してある一定以上のレベルの霊的意識が芽生えた人は、霊界での体験を意識できます。そうなると脳にもそれを意識するように訓練することができます。

実はわたしはここにおいでの皆さん全員に霊界でお会いしており、地上にもどったらこのことを思い出してくださいよ、とお願いしているのですが、どうも思い出していただけないようですね。お一人お一人と語り合い、またいろんな場所へご案内してあげているのですよ。ですが、たとえ今は思い出せなくても、何一つ無駄にはなりません」

「その体験の記憶が死後に役立つということでしょうか」


「その通りです。何一つ無駄にはなりません。摂理はうまくできているものです。霊界へ来て永い永い体験を積んだわたしたちは、摂理の完璧さにただただ感嘆するばかりなのです。地上でのホンのわずかな体験で宇宙の大霊にケチをつける人間を見ていると、情けなくなります。知らない人間ほど自分を顕示したがるものです」

続いて出された質問は、そうした睡眠中の体験はただ単に死後への準備なのか、それとも為すべき仕事があってそれに従事しに行く人もいるのか、というものだった。

シルバーバーチが答える――


「仕事をしに来る人もいます。睡眠状態において背後霊団の仕事にとって役立つ人がいるのです。(たとえば暗黒界へ降りて幽体で霊媒の役をすることがある)しかし、ふつうは死後への準備です。物質界での生活のあとから始まる仕事にとって役に立つような勉強をするために、あちらこちらへ連れて行かれているのです。そうしておかないと、いきなり次元の異なる生活形態の場へ来た時のショックが大きくて、その回復に相当な時間を要することになります。

そういうわけで、あらかじめ霊的知識をたずさえておけば、死後への適応がラクにできるのです。何も知らない人は適応力がつくまでに長期間の睡眠と休息が必要となります。知識があればすんなりと霊界入りして、しかも意識がしっかりとしています。要するに死後の目覚めは暗い部屋から太陽のさんさんと照る戸外へ出た時と似ていると思えばよろしい。光のまぶしさに慣れる必要があるわけです。

霊的なことを何も知らない人は死という過渡的現象の期間が長びいて、なかなか意識がもどりません。さしずめ地上の赤ん坊のような状態です。ハイハイしながらの行動しかできません。睡眠中に訪れた時の記憶は一応思い出すのですが、それがちょうど夢を思い出すのと同じように、おぼろげなのです。

良い心がけが無駄に終わることは、地上においてもこちらの世界においても、絶対にありません。そのことを常に念頭に置いておいてください。真心から出た思念、行為、人のためという願いは、いつか、どこかで、だれかの役に立ちます。そうした願いのあるところには必ず霊界から援助の手が差し向けられるからです。

地上は今やまったくの暗闇におおわれています。迷信と間違いと無知のモヤが立ちこめております。大霊の意志が届けられる道具はごくわずかしかいません。予言者の声は荒野に呼ばわる声のごとく、だれも聞いてくれる人がいません。洞察力に富む彼らの開かれた未来像はかき消され、聖なる道具(霊媒)は追い出され、聖職者の悪知恵と既得の権力が生ける神の声と取って代わってしまいました。

物質万能主義がその高慢な頭をもたげ、霊的真理をことごとく否定しました。その説くところは実に意気軒昂でしたが、それがもたらした結果は無益な流血・悲劇・怨恨・倦怠・心の病・絶望・惨めさ・混沌・混乱を伴った世界規模の大惨事でしかありませんでした。

しかし、大霊の声をいつまでも押し黙らせておくことはできません。霊的真理が今ふたたび宣戦を布告しました。その目的とするところは狂える世界に正気を取りもどさせることです」

その目的をさらに説明して――


「わたしたちは惨めさと取り越し苦労と自暴自棄の念を地上から追い払おうと努めているのです。それに代わって素朴な真理と理性の光、神からのインスピレーションと啓示、あまりにも永いあいだ押しつぶされ、もみ消され、抑え込まれてきた霊の叡智をもたらすべく努力しているのです。

わたしたちは人間の霊性を正しい視野のもとに置いて、霊的能力を引き出させ、幼稚な物質中心思想の間違いを暴いて、それに永遠の別れを告げさせたいと願っているのです。

わたしたちは既得の権力というものは国家であろうと教会であろうと、民族であろうと階級であろうと一宗一派であろうと、そのすべてに反抗してまいります。すべての人間に自由を――崇高にして深淵、そして純粋な意味における自由をもたらしてあげたいのです。

わたしたちはまた、死にまつわる取り越し苦労と恐怖心をなくし、それが永遠の生命の機構の中でそれなりの役割を果たしていることを理解させてあげたいのです。

さらには物質界と霊界との自然なつながりの障害となるものを排除して、人間は本来が霊であることを理解させ、その理解のもとに真の自我を自覚してくれることを望んでいるのです。そうなることによって内部に宿る神性が目を覚まし、神の意志が子等のすべてを通して発現することになってほしいのです」

そう述べてから、今度はその目的のために地上で協力してくれている世界中のスピリチュアリストに向けて――


「皆さん方は新時代の先駆者です。先駆者ゆえの苦難は覚悟しなければなりません。が、掛けがえのない遺産を後世に残すことになります。

いつどこにいても人のため、世の中のため、人類のためを心がけるのです。自分を忘れるのです。ケチくさい打算の世界に超然としておれるようでないといけません。授かった能力を最大限に発揮して人のために役立てるのです。

わたしたちが公言している目的、わたしたち霊団の使命については、そのうちなるほどと得心していただけるものをお届けします。皆さんと血縁のあった人たち、他界した愛する人々が今こちらの世界で勢揃いして、わたしたちとともに真理の普及に心を砕いている事実を立証してさしあげます。

その方たちの背後にわたしたちが控え、そのわたしたちの背後には全人類・全民族が一丸となった高級霊団の一大組織が控え、魂の自由のために皆さんを援助し、惜しみなく尽力してくださっているのです。

そして、その全組織の背後には宇宙最大の力、全生命の大源、創造主、王の中の王、あなた方が神と呼んでおられる()大霊(グレイトスピリット)が控えているのです」

イエス・キリストの降誕と復活を祝うクリスマスとイースターの季節には霊界でも最高級霊(地球神界の八百万(やおよろず)の神々)による大集会が開かれるという。それに欠かさず出席しているシルバーバーチは、ある年のイースターにその話を持ち出したあと、こう語った――


「その集会で積み重ねられる審議と討議、すっかり狂ってしまった病める地上世界を破滅から救うための努力を通して、わたしたちは地上の人間が真の自我を見出し、自らこしらえた問題を自らの力で解決していくための真理と自由と素朴さと叡智の道をお教えしようと腐心しているのです。一つの共通の目的のために善意の同志が一致協力することによって、今からでも得られる平和を手にしていただきたいのです。

いかなる困難の中にあっても、わたしたちは決してたじろぎません。わたしたちは常に楽観主義を強調し、大霊に守られている事実を申し上げています。目的は大霊の道具としてお役に立つことです。その大霊は絶対的存在なのですから、わたしたちの仕事が挫折することは有りえないのです。

人類がこの地上に誕生するはるかはるか以前から“摂理”というものが働いております。その摂理のもとに、宇宙の大霊が一つの目的をもって行動を開始し、地球上にその大霊の神性を帯びた無数の生命体を用意しました。それぞれが大霊の造化の目的へ向けての役割を担っていたのです。

同時に大霊は、すべてに自由意志を与えました。自由意志のもとに霊的・精神的に進化しながら、その大霊の大目的に貢献するためです。

この大宇宙を顕現させ、無生物にも生命力を、人類には意識を賦与された完全無欠の知性は、たとえご自身の創造物がその目的からそれたことをしようと、それで挫折するようなことはありません。

人間には大霊の御心のすべてを窺い知ることはできません。しかし大霊には人間の心の奥底までのぞき見ることができます。けっして騙されることはありません。大霊の前ではすべての人間の秘密が素っぱだかにされ、むき出しにされます。自分をごまかしていた人間も大霊だけはごまかせません。摂理というものがあり、これだけは裏をかくことも無視することもできないからです。

人間が大霊の計画の推進をおくらせ少しのあいだ障害となることはあっても、そのまま計画を押し留めつづけることはできません。

そういう次第でわたしは霊界での大集会に参列したあと、他の多くの同僚と同じように、この地上にあって人類のために刻苦している同志を新たな希望と熱意と情熱とで鼓舞するための努力を一段と強める覚悟で、地上へもどってまいります。

地上の同志の中には、真理普及の闘いで髪に白いものが目立っている人が大勢います。背負った重荷に腰が曲りかけている人もいます。時には、結局は大したことはできなかったと、残念がる人もいます。しかし、仕事の成果の判定者は自分ではありません。判定者はただ一人、寸分の不公平もなくすべてを判定なさる大霊のみです。

わたしたちがこの暗黒の地上へ舞いもどってくるのは、地上人類への愛があるからこそです。無明から光明へと目覚めていただく、そのお手伝いをしたい――それ以外に理由はありません。住みなれた光明界の楽しみや美しさはそうたやすく手離したくはありません。が、それをあえて振り切って地上へ降りてくるのは、わたしたち指導霊の一人ひとりにとっては、それが光明界の楽しみや美しさにも勝る、偉大な仕事であるとの認識があるからです」

いわゆる“死者”が地上へもどってくることができること、そして現にもどってきている事実を認めた上で、ある若い新聞記者がなぜ霊はあのような奇っ怪な手段でしか通信できないのかと尋ねた。つまり暗い部屋でメガホンのような道具を使って代わるがわる語りかける実験会(セイアンス)のことを念頭においての質問だった。するとシルバーバーチがこう答えた。


「部屋を暗くすることがなぜ奇っ怪なのでしょうか。夜と昼とをこしらえたのは大霊です。暗い部屋で行うのがなぜ明るい部屋で行うより奇っ怪に思えるのでしょうか。暗闇も光も同じく大霊のものです。暗闇とは光が存在しないというだけの状態ではないでしょうか」

「それはそうなのですが、暗くすると五感の一つが使えなくなります」


「おっしゃる通りですが、霊的感覚を鋭敏にする効果があります。不幸にしてそれがふだんの地上生活で使用されることが滅多にないのです。なぜ霊的なものまで物的な手段で表現しなくてはならないのでしょうか。霊的高揚や霊的真理、そして霊的叡智までも、本来は物的存在であると同時に霊的存在である人間にその醍醐味を味わってもらうために、なぜ物的なものに還元しなくてはならないのでしょうか。

人間が最高にして至純のバイブレーションに感応しないのは、わたしたちが悪いのでしょうか。霊の声が聞こえないあなた方のために、わたしたちがメガホンを使って(その中に発声器官と同じものをこしらえて)人間と同じ音声を発しなければならないのは、わたしたちが悪いのでしょうか。非難の声はわたしたち霊側に向けられるべきなのでしょうか、それともあなた方人間の側に向けられるべきなのでしょうか。

わたしたちは今こうして実在の霊として存在し、皆さんもわたしたちと同じ霊的本質をそなえた霊的実在としてここにいらっしゃる。なのに、皆さんはわたしたちが半物質的次元にまでバイブレーションを下げてあげないと、見ることも聞くこともできないのです。

ところが、そういう工夫をしてまで霊の存在を示してあげようとすると、なぜそんな他愛もないマネをしなければならないのですかとおっしゃいます。それは、あなた方の世界が物質的なことにばかり浸り切って、物的感覚から抜け切れないからに過ぎません。そこから抜け切ることができたら、霊的世界の醍醐味をほしいままにできるのです。

わたしたちが悪いのではありません。わたしたちとしては皆さんの内部に宿る最高のものに訴えたいと努力しているのです。しかし、それが反応を見せてくれることは滅多にありません。子等の魂に内在する大霊の神性が発揮されることが一日のうち何度あるでしょうか。洗練された霊的資質がどれほど発揮されているでしょうか。

愛他主義と理想主義の精神がどれほど発揮されているでしょうか。それよりも利己主義の方が大手を振り物質中心の物の考え方が好き勝手に振る舞ってはいないでしょうか。そうしたことは地上世界の問題であり、わたしたちの問題ではありません。

わたしたちは物的外皮の下に埋もれている永遠の実在を見出させてあげようと努力しているのです。それを、できることなら霊的な方法で行いたいのです。すなわち強烈なインスピレーションに触れさせるとか魂の琴線に触れさせるという形の方が望ましいのです。また、そう努力してみました。が、その方法では、反応をみせる人間は情けないほど少ないのです。

それに引きかえ、テーブルを動かすとか叩音を出すとか、メガホンを部屋中を飛び回らせるとかの現象をお見せすると、皆さんは“すごい!”とおっしゃいます。その時わたしたちは内心“何をくだらないことを!”と思っているのです。音を出してみせることの方が魂を感動させることより大切なのでしょうか」

同じジャーナリストが尋ねる。

「私は時おり今の世界の実情、とくにその不公平に我慢ならないことがあります。飛び出していって闘いたい衝動に駆られるのですが、現実はどうしようもないように思えます。どうすればよいのでしょうか」


「わたしなりの考えをご披露しましょう。地上で生活している人間のすべて――富める者も貧しい者も、身分の高い人も低い人も、地位も肩書きも階級も職業もいっさい関係なくすべての人に、自分を人のために役立てるチャンスが必ず訪れることになっております。それは、小さな間違いを正してあげる仕事かも知れませんし、小さな不公平を公平にしてあげる仕事かも知れません。暗い片隅にささやかな光明をもたらしてあげる仕事かも知れません。

世間の目にハデに映る闘いばかりが意義ある闘いではありません。わたしたちは人間の行為の価値基準を、それが他人のために役立つことであるか否かに置いております。それなら誰にだってできるはずです。いつどこにいても、人のために自分を役立てるチャンスならいくらでもあるはずです。

どうか、ご自分を少しでも役立てることに努力してください。自分を役立てたいという願望で心を、精神を、そして魂を満たしてください。そうすれば、こちらであなたのような人材を求めているスピリットを自動的に引き寄せます。その時点であなたは、霊力が地上へ働きかける手段となることに成功したことになります。そして思いもかけなかったほどの力量を発揮する仕事が授けられることになるかも知れません。が、いずれにせよ、ラクな人生でないことだけは覚悟しておいてください」

「そういう期待はしておりません」


「そうでしょうとも。ですが、魂の奥底から湧き出る満足感を覚えるようになります。そして、見せかけだけで何の益もないものに捉われないようになります。無駄に使用されているエネルギー、目の前にありながらみすみす失われているチャンスをもったいなく思うようになります。そして自分は今どうすべきかが分かるようになります。

この交霊会もあなたにとっては初めての体験ですから不思議に思えることでしょう。ですが、これも宇宙の自然法則の一つを利用して行われているのです。地上の科学者は大自然の法則のすべてを発見したわけではありません。これまでに得た知識は全体のホンのひとかけらほどにすぎません。今後の開発を待ちうけている法則と知識の分野がまだまだ広がっております。

それは必ずしも実験室内で発見されるとはかぎりません。解剖して見つかるとはかぎりません。計器で測れるとはかぎりません。進化した魂のみが理解できるもの、さらに高度な叡智を受け入れる霊的準備が整った者でないと理解できないものもあります。

知識は本来人間を尊大にするものではなく謙虚にするものです。知れば知るほどまだまだその先に知るべきものがあることを自覚させるからです。尊大にさせるのはむしろ無知の方です。知らないから生意気が言えるのです。最高の知識人はみな謙虚でした。知れば知るほど、知らないことが多いことを思い知らされるからです。

わたしたちへ向けて軽蔑と嘲笑の指をさす人たちは、頭の中に何もない、無知で身を固めた人たちです。知識を求め、新しい真理をよろこんで受け入れる素直な魂には、霊の力が感動を及ぼすことができます。そういう素地ができているからです。大霊の使徒として、その知識と叡智と力と意志とを地上にもたらすことに心を砕いているわたしたちにとっては、そういう人こそ役に立つ人材なのです。

わたしたち霊団の者は、自分自身のことは何一つ求めません。求めているのは、皆さんが物的な面だけでなく、精神と霊にかかわる面においても、心がけ一つで我がものとすることができる無限の恩沢に少しでも気づいてくれること、それのみです。計り知れない価値をもつ真理が皆さんを待ちうけているのです。

利己主義・無知・既得権力――これがわたしたちの前途に立ちはだかる勢力です。そして、わたしたちはこれに真っ向から闘いを挑んでいるのです。徹底的に粉砕したいのです。魂を飢えさせ、精神を飢えさせ、そして身体を飢えさせる元凶であるこうした地上の悪の要素を取り除いて、その飢えを満たしてあげたいのです。

弱き者、堕落せる者の心を高揚し、寄るべなき人々に力を与えてあげたいのです。地上世界から飢餓と病気と不健康状態を取り除いてあげたいのです。地上の疫病であり人類の汚点である不潔なスラム街と汚れた住居を廃絶したいのです。

暗闇に閉ざされた人々に光を、何も知らずに生きている人々に霊的知識を授けてあげたいのです。人類の意識を高め、魂と精神と身体の足枷を解いてあげたいのです。あらゆる形での利己主義――文明を蝕(むしば)み、代わって混乱と破滅と戦争と破壊をもたらす地上の毒を取り除きたいのです。

言いかえれば、地上世界に霊力を甦らせ、お互いがお互いのために生き、お互いの幸せのために協力しあい、憎しみと貪欲と強欲と私利私欲が生み出す垣根を取り払い、大霊の意図された通りに平和と豊かさを満喫できるようにしてあげたいのです。

それがわたしたちの使命であり、今まさに前進を続けているところです。わたしたちが何者であるかはどうでもよろしい。通信の手段は大切ではありません。大切なのはメッセージそのものです。それは淵源を神に、わたしのいう大霊に発しております。だからこそ永続性があるのです。

俗世的なものはいずれ消滅するのです。束の間のものは、しょせん束の間の存在でしかありません。しかし、霊的実在は永遠です。移ろいやすい物的所有物を絶対と思い込んでいる人は、影を追い求めているようなものです。霊的真理を求めている人は、真に自分の所有物となるものを授かりつつある人です。自信をもって前進しなさい。霊的知識――大霊の宝石を探し求めなさい。

わたしのことを暗黒の勢力の声と思ってはなりません(※1)。永遠の霊的実在のシンボルとお考えください。もっとも、わたし個人は取るに足らぬ存在です。また、わたし個人として求めるものは何一つありません。わたしはただ霊的メッセージをお届けに来ているだけです。そのメッセージが実に重大なのです。今日の地上世界にとって最も大切なもの、とあえて申し上げます。

これまでの試みはすべて失敗に終わりました。キリスト教、政治家、科学者、思想家――どれ一つとして地上世界を救うことができませんでした。むしろ無明ゆえに崩壊へ一歩一歩近づき、今まさに破滅寸前のところまで至っております(※2)。霊的真理と霊的実在についての知識こそが、まず自らを救う道を教えることによって、地上世界を救うことになるのです。

生命の実体は物質の世界には見出せません。実在は霊的なのです。霊的真理を否定する者は生命力そのものを否定していることになり、自分を生かしてくれているその生命力の恩恵にあずかることを拒否する者は、受難の人生を送ることになります。なぜなら大霊との連絡路を断つことばかりしているからです」


※1――シルバーバーチの霊言が公表されはじめた頃はキリスト教界から激しい語調でそう決めつけられていた。

※2――本書に収められている霊言は一九三九年の第二次大戦の勃発以前のものとして読まれたい。

祈り


人間の記憶を絶する遠き太古の昔より、子等はあなたを、そしてあなたの意図を理解せんと努めてまいりました。嵐の中に、雷鳴の中に、稲光の中にあなたの働きを想像したこともございました。

嫉妬ぶかき怒れる神、報復の機を窺い流血をよろこぶ神を想像したこともございました。ある者には力を授け、ある者には弱みを与え、ある者には勝利を与え、ある者には敗北を与える、えこひいき剥(む)き出しの神を想像したこともございました。自分の宗教のみの神を想像し、人間の有限性の範囲の中であなたを定義づけんとしたこともございました。

しかし、あなたの御名のもとに地上へ戻ってきたわたしどもは、あなたを全生命に宿る無限の霊――摂理として働き、摂理にのっとって顕現せる普遍的大霊として説いております。全生命に宿りたまい、全生命を通して働き、その霊力なくしては何ものも存在しえぬ、無限絶対の霊として説き明かさんとしているところでございます。

あなたは生命現象のあらゆる相――いま物質の世界において知られている相のみならず、死後、霊の無数の界層において知ることになる、より次元の高い生命の相においても、あなたが顕現しておられることを説いております。

あなたは全生命の大霊におわします。あなたの知ろしめされる全大宇宙においては、物質と霊との間に境界はございません。すべてを等しく支配しておられるのでございます。そして子等にあなたとの密接不離の絆、すなわち各自の内部に宿るあなたの分霊(わけみたま)の存在に気づかせ、その神性を認識することによってそれを生活の中で顕現させ、可能なかぎり崇高な体験を得さしめ、かくしてあなたの造化の大事業の道具となさしめんと意図しておられることを、わたしどもは説き明かさんとしているのでございます。

その目的のためにわたしどもは祈り、そして刻苦いたします。何とぞあなたの僕(しもべ)たるインディアンの祈りを聞き届けたまわんことを。

Saturday, August 1, 2026

ベールの彼方の生活(二)

第二巻は、著者オーエンの守護霊であるザブディエルからの通信です。彼がいる十界、その先の十一界や下層界である五界や六界の情景について書かれています。


六章 常夏の楽園 

1 霊界の高等学院 

一九一三年十二月九日  火曜日

 私の望み通り今宵も要請に応じてくれた。ささやかではあるが、これより貴殿を始めとして他の多くの者にとって有益と思えるものを述べる私の努力を、貴殿は十分に受け止め得るものと信ずる。たとえ貴殿は知らなくても、貴殿にそれを可能ならしめる霊力が吾々にあり、それを利用して思念を貴殿の前に順序よく披瀝して行く。

いたずらに自分の無力を意識して挫けることになってはならない。貴殿にとってこれ以上は無理と思える段階に至れば、私の方からそれを指摘しよう。そして吾々も暫時(ざんじ)ノートを閉じて他の仕事に関わるとしよう。

 では今夜も貴殿の精神をお借りして引き続き第十界の生活について今少し述べようと思う。ただ、いつものように吾々の界より下層の世界の事情によってある程度叙述の方法に束縛が加えられ、さらには折角の映像も所詮は地上の言語と比喩の範囲に狭(せば)められてしまうことを銘記されたい。

それは己むを得ないことなのである。それは恰も一リットルの器に一〇リットルの水は入らず、鉛の小箱に光を閉じ込めることが出来ぬのと同じ道理なのである。

 前回のべた大聖堂は礼拝のためのみではない。学習のためにも使用されることがある。ここはこの界の高等学院であり、下級クラスを全て終了した者のみが最後の仕上げの学習を行う。他にもこの界域の各所にさまざまな種類の学校や研究所があり、それぞれに独自の知識を教え、数こそ少ないがその幾つかを総合的に教える学校もある。

 この都市にはそれが三つある。そこへは〝地方校〟とでも呼ぶべき学校での教育を終えた者が入学し、各学校で学んだ知識の相対的価値を学び、それを総合的に理解していく。

この組織は全世界を通じて一貫しており、界を上がる毎に高等となって行く。つまり低級界より上級界へ向けて段階的に進級していく組織になっており、一つ進級することはそれだけ霊力が増し、且つその恩恵に浴することが出来るようになったことを意味する。

 教育を担当する者はその大部分が一つ上の界の霊格を具えた者で、目標を達成すれば本来の界へ戻り、教えを受けた者がそのあとを継ぐ。その間も何度となく本来の上級界へ戻っては霊力を補給する。

かくて彼らは霊格の低い者には耐え難い栄光に耐えるだけの霊力を備えるのである。

 それとは別に、旧交を温めるために高級界の霊が低級界へ訪れることもよくあることである。その際、低級界の環境条件に合わせて程度を下げなければならないが、それを不快に思う者はまずいない。そうしなければ折角の勇気づけの愛の言葉も伝えられないからである。

 そうした界より地上界へ降りて人間と交信する際にも、同じく人間界の条件に合わさねばならない。大なり小なりそうしなければならない。天界における上層界と下層界との関係にも同じ原理が支配しているのである。

 が同じ地上の人間でも、貴殿の如く交信の容易な者もあれば困難なるものもあり、それが霊性の発達程度に左右されているのであるが、その点も霊界においても同じことが言える。

例えば第三界の住民の中には自分の界の上に第四界、第五界、あるいはもっと上の界が存在することを自覚している者もおれば、自覚しない者もいる。それは霊覚の発達程度による。自覚しない者に上級界の者がその姿を見せ言葉を聞かせんとすれば、出来るだけ完璧にその界の環境に合わさねばならない。現に彼らはよくそれを行っている。


 もとより、以上は概略を述べたに過ぎない。がこれで、一見したところ複雑に思えるものも実際には秩序ある配慮が為されていることが判るであろう。

地上の聖者と他界した高級霊との交わりを支配する原理は霊界においても同じであり、さらに上級界へ行っても同じである。

故に第十界の吾々と、更に上層界の神霊との交わりの様子を想像したければ、その原理に基いて推理すればよいのであり、地上に置いて肉体をまとっている貴殿にもそれなりの正しい認識が得られるであろう。


──判りました。前回の話に出た第十界の都市と田園風景をもう少し説明していただけませんか。

 よかろう。だがその前に〝第十界〟という呼び方について一言述べておこう。吾々がそのように呼ぶのは便宜上のことであって、実際にはいずれの界も他の界と重なり合っている。

ただ第十界には自ずからその界だけの色濃い要素があり、それをもって〝第十界〟と呼んでいるまでで、他の界と判然と区切られているのではない。天界の全界層が一体となって融合しているのである。それ故にこそ上の界へ行きたいと切に望めば、いかなる霊にも叶えられるのである。

 同時に、例えば第七界まで進化した者は、それまで辿って来た六つの界層へは自由に行き来する要領を心得ている。かくて上層界から引きも切らず高級霊が降りてくる一方で、その界の者もまた下層界へいつでも降りて行くことが出来るのであり、その度に目標とする界層の条件に合わせることになる。

又その界におりながら自己の霊力を下層界へ向けて送り届けることも出来る。

これは吾々も間断なく行っていることであって、すでに連絡の取れた地上の人間へ向けて支配力と援助とを放射している。貴殿を援助するのに必ずしも第十界を離れるわけではない。もっとも、必要とあらば離れることもある。


──今はどこにいらっしゃいますか。第十界ですか、それともこの地上ですか。

 今は貴殿のすぐ近くから呼びかけている。私にとってはレンガやモルタルは意に介さないのであるが、貴殿の肉体的条件と、貴殿の方から私の方へ歩み寄る能力が欠けているために、どうしても私の方から近づくほかはないのである。

そこでこうして貴殿のすぐ側まで近づき、声の届く距離に立つことになる。こうでもしなければ私の思念を望みどおりには綴ってもらえないであろう。

 では、私の界の風景についての問いに答えるとしよう。最初に述べた事情を念頭に置いて聞いてもらいたい。では述べるとしよう。

 都市は山の麓に広がっている。城壁と湖の間には多くの豪邸が立ち並び、その敷地は左右に広がり、殆どが湖のすぐ近くまで広がっている。その湖を舟で一直線に進み対岸へ上がると、そこには樹木が生い繁り、その多くはこの界にしか見られないものである。

その森にも幾筋かの小道があり、すぐ目の前の山道を辿って奥へ入っていくと空地に出る。

 その空地に彫像が立っている。女性の像で天井を見上げて立っている。両手を両脇へ下げ、飾りのない長いロープを着流している。この像は古くからそこに建てられ、幾世期にも亘って上方を見上げてきた。

 が、どうやら貴殿は力を使い果たしたようだ。この話題は一応これにて打ち切り、機会があればまた改めて述べるとしよう。

 その像の如く常に上方へ目を向けるがよい。その目に光の洗礼が施され、その界の栄光の幾つかを垣間みることができるであろう。 ♰



 
  2 十界より十一界を眺める   

一九一三年十二月十一日 木曜日

 前回の続きである。

 彫像の立つ空地は実は吾々が上層界からの指示を仰ぐためにしばしば集合する場所である。これより推進すべき特別の研究の方向を指示するために無数の霊の群れを離れて吾々を呼び寄せるには、こうした場所が都合が良いのである。

そこへ高き神霊が姿をお見せになり、吾々との面会が行われるのであるが、その美しい森を背景として、天使の御姿は一段と美しく映えるのである。

 その空地から幾すじかの小道が伸びている。吾々は突き当りで右へ折れる道を取り、さらに歩み続ける。道の両側には花が咲き乱れている。キク科の花もあればサンシキスミレもあり、そうした素朴な花が恰もダリア、ボタン、バラ等の色鮮やかな花々の中に混って咲いていることを楽しんでいるかのように、一段と背高(せいだか)に咲いているのが目に止まる。

このほかにもまだまだ多くの種類の花が咲いている。と言うのは、この界では花に季節がなく、常夏の国の如く、飽きることなく常に咲き乱れているのである。

 そこここに更に別の種類の花が見える。直径が一段と大きく、それが光でできた楯の如く輝き、あたりはあたかも美の星雲の観を呈し、見る者によろこびを与える。

この界の花の美しさは到底言語では尽くせない。すでに述べたように、すべてが地上には見られぬ色彩をしているからである。それは地上のバイブレーションの鈍重さのせいであると同時に、人間の感覚がそれを感識するにはまだ十分に洗練されていないからでもある。

 このように──少し話がそれるが──貴殿の身のまわりには人間の五感に感応しない色彩と音とが存在しているのである。この界にはそうした人間の認識を超えた色彩と音とが満ち溢れ、それが絢爛(けんらん)豪華な天界の美を一段と増し、最高神の御胸において至聖なる霊のみが味わう至福の喜びに近づいた時の〝聖なる美〟を誇示している。

 やがて吾らは小川に出る。そこで道が左右に別れているが、吾々は左に折れる。その方角に貴殿が興味を抱きそうなコロニーがあり是非そこへ案内したく思うからである。

その川から外れると広い眺めが展開する。そこが森の縁(ふち)なのであるが、そこに一体何があると想像されるか。ほかでもない。そこは年中行事を司るところの言わば〝祝祭日の聖地〟なのである。

 地上の人間はとかく吾々を遠く離れた存在であるかに想像し、近接感を抱いていないようであるが、つばめ一羽落ちるのも神は見逃さないと言われるように、人間の為すことの全てが吾々に知れる。

そしてそれを大いなる関心と細心の注意をもって観察し、人間の祈りの中に一しずくの天界の露を投げ入れ、天界の思念によって祈りそのものと魂とに香ばしい風味を添えることまでする。

 このコロニーには地上の祝祭日に格別の関心を抱く天使が存在する。そうして毎年めぐり来る大きい祝祭日において、人間の思念と祈願を正しい方向へ導くべく参列する霊界の指導霊に特別の奉納を行う。

 私自身はその仕事には関わっていない。それ故あまり知ったかぶりの説明はできないが、クリスマス、エピファニー、イースター、ウィットサンデー(※)等々に寄せられる意念がこうした霊界のコロニーにおいて強化されることだけは間違いない事実である。

(※これらは全て霊界の祝祭日の反映であり従って地上の人間の解釈とは別の霊的意義がある。それについてはステイトン・モーゼスの霊界通信『霊訓』が最も詳しい。──訳者)

 また聞くところによれば〝父なる神〟をキリスト教とは別の形で信仰する民族の祝祭日にも、同じように霊界から派遣される特別の指導霊の働きかけがあるということであるが、確かにそういうことも有りえよう。

 かくて地上の各地の聖殿における礼拝の盛り上がりは、実はこうして霊界のコロニーから送られる霊力の流れが、神への讃仰と祈願で一体となった会衆の心に注がれる結果なのである。

 貴殿はそのコロニーの建物について知りたがっているようであるが、建物は数多く存在し、そのほとんどが聳えるように高いものばかりである。

その中でもとくに他を圧する威容を誇る建物がある。数々のアーチが下から上へ調和よく連なり、その頂上は天空高く聳え立つ。祝祭日に集まるのはその建物なのである。

その頂上はあたかも開きかけたユリの花弁がいつまでも完全に咲き切らぬ状態にも似ており、それに舌状の懸花装飾が垂れ下がっている。色彩は青と緑であるが、そのヒダは黄金色を濃縮したような茶色を呈している。

見るも鮮やかな美しさであり、天空へ向けて放射される讃仰の念そのものを象徴している。それは恰も芳香を放出する花にも似て、上層界の神霊ならびに、すべてを超越しつつしかも全ての存在を見届け知りつくしている創造の大霊へ向けて放たれてゆく。

 吾々はこの花にも似た美しい聖殿があたかも小鳥がヒナをその両翼に抱き、その庇護の中でヒナたちが互いに愛撫し合うかのような、美しくも温かき光景を後にする。そしてさらに歩を進める。

 さて、小川の上流へ向けて暫し歩き続けるうちに、道は上り坂となる。それを登り続けるとやがて山頂に至り、そこより遥か遠くへ視界が広がる。実はそこは吾々の界と次の界との境界である。どこまで見渡せるか、またどこまで細かく見極めうるかは、開発した能力の差によって異なるが、私に見えるままを述べよう。

 私は今、連なる山々の一つの頂上に立っている。すぐ目の前に小さな谷があり、その向こうに別の山があり、更にその向うに別の山が聳えている。焦点を遠くへやるほどその山を包む光輝が明るさを増す。が、その光はじっと静かに照っているのではない。

あたかも水晶の海か電気の海にでも浸っているかのように、ゆらめくかと思えば目を眩ませんばかりの閃光を発し、あるいは矢のような光線が走り抜ける。これは外から眺めた光景であり、今の私にはこれ以上のことは叙述できぬ。

 川もあれば建物もある。が、その位置は遥か彼方である。芝生もあれば花を咲かせている植物もある。樹木もある。草原が広がり、その界の住民の豪華な住居と庭が見える。が、私はその場へ赴いて調べることはできない。ただ、こうして外観を述べることしかできない。    

 それでも、その景色全体に神の愛と、えも言われぬ均整美が行きわたり、それが私の心を弾ませ足を急かせる。

なぜなら、その界へ進み行くことこそ第十界における私の生活の全てだからである。託された仕事を首尾よく果たした暁には、その素晴らしき界の、さる有難きお方(※)からの招きを受けるであろう。その時は喜び勇んで参ることであろう。  

(※ザブディエルの守護霊のこと。その守護霊にも守護霊がおり、そのまた守護霊がおり、連綿として最後は守護神に至る。──訳者)

 が、このことは貴殿も同じことではなかろうか。私とその遥か遠き第十一界との関係はまさに貴殿と他界後の境涯と同じであり、程度こそ違え素晴らしいものであることにおいては同じである。

 この界につきてはまだ僅かしか語っていないが、貴殿の心を弾ませ足を急かせるには十分であろう。

 ここで再び貴殿をさきの空地へ連れ戻し、あの彫像の如く常に目をしっかりと上方へ向けるよう改めて願いたい。案ずることは何一つない。足元へ目をやらずとも決して躓くことは無い。高きものを求める者こそ正しい道を歩む者であり、足元には吾々が気を配り事なきを期するであろう。

 万事は佳きに計らわれている。さよう、ひたすらに高きものを求める者は万事佳きに計らわれているものと思うがよい。なぜなら、それは主イエスに仕える吾らを信頼することであり、その心は常に主と共にあり、何人たりとも躓かせることはさせぬであろう。

 では、この度はここまでとしよう。地上生活はとかく鬱陶しく、うんざりさせられることの多いものである。が、同時に美しくもあり、愛もあり、聖なる向上心もある。それを少しでも多く自分のものとし、また少しでも多く同胞に与えるがよい。

そうすれば、それだけ鬱陶しさも減じ、天界の夜明けの光が一層くっきりと明るく照らし、より美わしき楽園へと導いてくれることであろう。



  3 守護霊との感激の対面     

  一九一三年十二月十二日  金曜日

 背後から第十界の光を受け、前方から上層界の光を浴びながら私は例の山頂に立って、その両界の住民と内的な交わりを得ていた。そしてその両界を超えた上下の幾層もの界とも交わることが出来た。

その時の無上の法悦は言語に絶し、絢爛(けんらん)にして豪華なもの、広大にして無辺のもの、そして全てを包む神的愛を理解する霊的な眼を開かせてくれたのである。

 あるとき私は同じ位置に立って自分の本来の国へ目をやっていた。眼前に展開する光の躍動を見続けることが出来ず、思わず目を閉じた。そして再び見開いた時のことである。その目にほかならぬ私の守護霊の姿が入った。私が守護霊を見、そして言葉を交わしたのは、その時が最初であった。

 守護霊は私と向かい合った山頂に立ち、その間には谷がある。目を開いた時、あたかも私に見え易くするために急きょ形体を整えたかのように、私の目に飛び込んできた。事実そのとおりであった。うろたえる私を笑顔で見つめていた。

 きらびやかに輝くシルクに似たチュニック(首からかぶる長い服)を膝までまとい、腰に銀色の帯を締めている。膝から下と腕には何もまとっていないが、魂の清らかさを示す光に輝いている。

そしてそのお顔は他の個所より一段と明るく輝いている。頭には青色の帽子をのせ、それが今にも黄金色へと変わろうとする銀色に輝いている。

その帽子にはさらに霊格の象徴である宝石が輝いている。私にとっては曽て見たこともない種類のものであった。石そのものが茶色であり、それが茶色の光を発し、まわりに瀰漫(びまん)する生命に燃えるような、実に美しいものであった。

 「さ、余のもとへ来るがよい」ついに守護霊はそう呼びかけられた。その言葉に私は一瞬たじろいだ。恐怖のためでは無い。畏れ多さを覚えたからである。

 そこで私はこう述べた。

 「守護霊様とお見受けいたします。その思いが自然に湧いてまいります。こうして拝見できますのは有難いかぎりです。言うに言われぬ心地よさを覚えます。私のこれまでの道中をずっと付き添って下さっていたことは承知しておりました。私の歩調に合わせてすぐ先を歩いて下さいました。

今こうしてお姿を拝見し、改めてこれまでのお心遣いに対して厚く御礼申し上げます。ですが、お近くまで参ることはできません。この谷を下ろうとすればそちらの界の光輝で目が眩み、足元を危うくします。これでは多分、その山頂まで登るとさらに強烈な光輝のために私は気絶するものと案じられます。これだけ離れたこの位置にいてさえ長くは耐えられません。」

 「その通りかもしれぬ。が、この度は余が力となろう。汝は必ずしも気付いておらぬが、これまでも何度か力を貸して参った。また幾度か余を身近に感じたこともあるようであるが、それも僅かに感じたに過ぎぬ。これまで汝と余とはよほど行動を共にして参った故に、この度はこれまで以上に力が貸せるであろう。

気を強く持ち、勇気を出すがよい。案ずるには及ばぬ。これまで度々汝を訪れたが、この度、汝をこの場に来させたそもそもの目的はこうして余の姿を見せることにあった。」

 そう述べたあと暫しあたかも彫像の如くじっと直立したままであった。が、やがて様子が一変しはじめた。腕と脚の筋肉を緊張させているように見えはじめたのである。

ゴース(クモの糸のような繊細な布地)のような薄い衣服に包まれた身体もまた全エネルギーを何かに集中しているように見える。両手は両脇に下げたまま手の平をやや外側へ向け、目を閉じておられる。その時不思議な現象が起きた。

 立っておられる足元から青とピンクの混じりあった薄い雲状のものが湧き出て私の方へ伸びはじめ、谷を超えて二つの山の頂上に橋のように懸かったのである。高さは人間の背丈とほぼ変わらず、幅は肩幅より少し広い。それが遂に私の身体まで包み込み、ふと守護霊を見るとその雲状のものを通して、すぐ近くに見えたのである。

その時守護霊の言葉が聞こえた。「参るがよい。しっかりと足を踏みしめて余の方へ向かって進むがよい。案ずるには及ばぬ」

 そこで私はその光り輝く雲状の柱の中を守護霊の方へと歩を進めた。足元は厚きビロードのようにふんわりとしていたが、突き抜けて谷へ落ちることもなく、一歩一歩近づいて行った。守護霊が笑顔で見つめておられるのを見て私の心は喜びに溢れていた。

 が、よほど近づいたはずなのに、なかなか守護霊まで手が届かない。相変らずじっと立っておられ決して後ずさりされたわけではなかったのであるが・・・・・・

 が、ついに守護霊が手を差し出された。そして、更に二歩三歩進んだところでその手を掴むことが出来た。するとすぐに、足元のしっかりした場所へと私を引き寄せて下さった。

 見ると、はや光の橋は薄れていき、私の身体はすでに谷の反対側に立っており、その谷の向こうに第十界が見える。私は天界の光とエネルギーで出来た橋を渡って来たのであった。

 それから二人は腰を下ろして語り合った。守護霊は私のそれまでの努力の数々に言及し、あの時はこうすればなお良かったかも知れぬなどと述べられた。褒めて下さったものもあるが、褒めずに優しく忠告と助言をして下さったこともある。決してお咎めにはならなかった。

又そのとき二人の位置していた境界についての話もされた。そこの栄華の幾つかを話して下さった。さらに、そのあと第十界へ戻って仕上げるべき私の仕事において常に自分が付き添って居ることを自覚することが如何に望ましいかを語られた。

 守護霊の話に耳を傾けているあいだ私は、心地よい力と喜びと仕事への大いなる勇気を感じていた。こうして守護霊から大いなる威力と高き聖純さを授かり、謙虚に主イエスに仕え、イエスを通じて神に仕える人間の偉大さについて、それまで以上に理解を深めたのであった。

 帰りは谷づたいに歩いたのであるが、守護霊は私の肩に手をまわして力をお貸し下さり、ずっと付き添って下さった。谷を下り川を横切り、そして再び山を登ったのであるが、第十界の山を登り始めた頃から言葉少なになっていかれた。

思念による交信は続いていたのであるが、ふと守護霊に目をやるとその姿が判然としなくなっているのに気づいた。とたんに心細さを感じたが、守護霊はそれを察して、

 「案ずるでない。汝と余の間は万事うまく行っている。そう心得るがよい」とおっしゃった。

 そのお姿は尚も薄れて行った。私は今一度先の場所に戻りたい衝動にかられた。が、守護霊は優しく私を促し、歩を進められた。が、そのお姿は谷を上がる途中で完全に見えなくなった。そしてそれっきりお姿を拝することはなかった。しかしその存在はそれまで以上に感じていた。

そして私がよろめきつつも漸く頂上に辿り着くまでずっと思念による交信を保ち続けた。そうして頂上から遠く谷越えに光輝溢れる十一界へと目をやった。しかし、そこには守護霊の姿はすでに無かった。

 が、その場を去って帰りかけながら今一度振り返った時、山脈伝いに疾走して行く一個の影が見えた。先程まで見ていた実質のある形体ではなく、ほぼ透明に近い影であった。

それが太陽の光線のように疾走するのが見えたのである。やっと見えたという程度であった。そしてそれも徐々に薄れて行った。が、その間も守護霊は常に私と共に存在し、私の思うこと為すことの全てに通暁しているのを感じ続けた。私は大いなる感激と仕事への一層大きな情熱を覚えつつ山を下り始めたのであった。

 あの光輝溢れる界から大いなる祝福を受けた私が、同じく祝福を必要とする人々に、ささやかながらも私の界の恵みを授けずにいられないのが道理であろう。

それを現に同志とともに下層界の全てに向けて行なっている。こうして貴殿のもとへも喜んで参じている。自分が受けた恩恵を惜しみなく同胞へ与えることは心地よいものである。

 もっとも、私の守護霊が行なったように貴殿との間に光の橋を架けることは私にはできない。地上界と私の界との懸隔が今のところあまりに大きすぎるためである。しかし、イエスも述べておられるように、両界を結ぶにも定められた方法と時がある。イエスの力はあの谷を渡らせてくれた守護霊よりはるかに大きい。

私はそのイエスに仕える者の中でも極めて霊格の低い部類に属する。が、私に欠ける聖純さと叡智は愛をもって補うべく努力している。貴殿と二人して力の限り主イエスに仕えていれば、主は常に安らぎを与えてくださり、天界の栄光から栄光へと深い谷間を越えて歩む吾々に常に付き添って下さることであろう。 ♰




    4 九界からの新参(しんざん)を迎える    

一九一三年十二月十五日  月曜日

 さて私は、いずれの日か召されるその日までに成就せねばならない仕事への情熱に燃えつつ、その界をあとにしたのであったが、ああ、その環境ならびに守護霊から発せられた、あの言うに言われぬ美しさと長閑(のど)けさ。仮にそこの住民がその守護霊の半分の美しさ、半分の麗しさしかないとしても、それでもなお、いかに祝福された住民であることか。私は今その界へ向けて鋭意邁進しているところである。

 しかし一方には貴殿を手引きすべき責務がある。もとよりそれを疎かにはしないつもりであるが、決して焦ることもしない。大いなる飛躍もあるであろうが、無為にうち過ごさざるを得ない時もあるであろう。

しかし私が曽て辿った道へ貴殿を、そして貴殿を通じて他の同胞を誘う上で少しでも足しになればと思うのである。願わくは貴殿の方から手を差しのべてもらいたい。私に為し得る限りのことをするつもりである。

 私は心躍る思いの内にその場を去った。そしてそれ以来、私を取り巻く事情についての理解が一段と深まった。それは私が重大な事柄について一段と高い視野から眺めることが出来るようになったということであり、今でもとくに理解に苦しむ複雑な事態に立ち至った折には、その高い視野から眺めるよう心掛けている。

つまりそれは第十一界に近い視野から眺めることであり、事態はたちどころに整然と片づけられ、因果関係が一層鮮明に理解できる。

 貴殿も私に倣(なら)うがよい。人生の縺(もつ)れがさほど大きく思えなくなり、基本的原理の働きを認識し、神の愛をより鮮明に自覚することであろう。そこで私は、今置かれている界について今少し叙述を続けてみようと思う。

 帰りの下り道で例の川のところで右へ折れ、森に沿って曲がりくねった道を辿り、右手に聳える山々も眺めつつ平野を横切った。その間ずっと冥想を続けた。

 そのうち、その位置からさらに先の領域に住む住民の一団に出会った。まずその一団の様子から説明しよう。彼らのある者は歩き、ある者は馬に跨(またが)り、ある者は四輪馬車ないしは二輪馬車に乗っている。

馬車には天蓋(てんがい)はなく木製で、留め具も縁飾りも全て黄金で出来ており、さらにその前面には乗り手の霊格と所属界を示す意匠が施されている。

身にまとえる衣装はさまざまな色彩をしている。が、全体を支配しているのは藤色で、もう少し濃さを増せば紫となる。総勢三百名もいたであろうか。挨拶を交わしたあと私は何用でいずこへ向かわれるのかと尋ねた。

 その中の一人が列から離れて語ってくれたところによれば、下の九界からかなりの数の一団がいよいよこの十界への資格を得て彼らの都市へ向かったとの連絡があり、それを迎えに赴くところであるという。

それを聞いて私はその者に、是非お供させていただいて出迎えの様子を拝見したく思うので、リーダーの方にその旨を伝えてほしいと頼んだ。

するとその者はにっこりと笑顔を見せ、「どうぞ付いて来なさるがよろしい。私がそれを保証しましょう。と申すのも、あなたは今そのリーダーと並んで歩いておられる」と言う。

 その言葉に私はハッとして改めてその方へ目をやった。実は、その方も他の者と同じく紫のチュニックに身を包んでおられたが何の飾りつけもなく、頭部の環帯も紫ではあるが宝石が一つ付いているのみで、他に何の飾りも見当たらなかったのである。

他の者たちが遥かに豪華に着飾り、そのリーダーよりも目立ち、威厳さえ感じられた。

その方と多くは語らなかったが、次第に私よりも霊格の高いお方で私の心の中を読み取っておられることが判って来た。

 その方は更にこうおっしゃった。「新参の者には私のこのままの姿をお見せしようと思います。と申すのは、彼らの中にはあまり強烈な光輝には耐えられぬ者がいると聞いております。そこで私が質素にしておれば彼らが目を眩ませることもないでしょう。

あなたはつい最近、身に余る光栄は益よりも害をもたらすものであることを体験されたばかりではなかったでしょうか。」

 その通りであることを申し上げると、さらにこう言われた。「お判りの通り私はあなたの守護霊が属しておられる界の者です。今はこの界での仕事を仰せつかり、こうして留まっているまでです。

そこで、これより訪れる新参者が〝拝謁〟の真の栄光に耐えうるようになるまでは気楽さを味わってもらおうとの配慮から、このような出で立ちになったわけです。さ、急ぎましょう。皆の者が川に到着しないうちに追い付きましょう。」

 一団にはわけなく追いつき、一緒に川を渡った。泳いで渡ったのである。人間も、馬車も、ワゴンもである。そして向う岸に辿り着いた。そこから私の住む都市を右手に見ながら、山あいの峠道にきた。そこの景色がこれ又一段と雄大であった。

左右に堂々たる岩がさながら大小の塔、尖塔、ドームの如く聳え立っている。そこここに植物が生い繁り、やがて二つの丘を両肩にして、そのあいだに遠く大地が広がっているのが見えて来た。そこにも一つの都市があり、そこに住む愉快な人々の群れが吾々の方を見下ろし、手を振って挨拶し、愛のしるしの花を投げてくれた。

 そこを通り過ぎると左右に広がる盆地に出た。実に美しい。周りに樹木が生い茂った華麗な豪邸もあれば、木材と石材でできた小じんまりとした家屋もある。湖もあり、そこから流れる滝が、吾々がたった今麓を通って来た山々から流れてくる川へ落ちて行く。

そこで盆地が終わり、自然の岩で出来た二本の巨大な門柱の間を一本の道が川と並んで通っている。

 その土地の人々が〝海の門〟と呼ぶこの門を通り抜けると、眼前に広々とした海が開ける。川がそのまま山腹を落ちてゆくさまは、あたかも色とりどりの無数のカワセミやハチドリが山腹を飛び交うのにも似て、様々な色彩と光輝を放ちつつ海へ落ちてゆく。吾々も道を通って下り、岸辺に立った。

一部の者は新参者の到着を見届けるために高台に残った。こうしたことは全て予定通りに運ばれた。

それと言うのも、リーダーはその界より一段上の霊力を身に付けておられ、それだけこの界の霊力を容易に操ることが出来るのである。そういう次第で、吾々が岸辺に下り立って程なくして、高台に残った者から、沖に一団の影が見えるとの報が大声で届けられた。その時である。

川を隔てた海岸づたいに近づいて来る別の女性の一団が見えた。尋ねてみるとその土地に住む人たちで、これから訪れる人々と合流することになっているとのことであった。

 迎えた吾々も、迎えられた女性たちも、ともに喜びにあふれていた。

 丸みを帯びた丘の頂上にその一団の長(おさ)が立っておられる。頭部より足まですっぽりと薄い布で包み、それを通してダイヤモンドか真珠のような生命力あふれる輝きを放散している。その方もじっと沖へ目をやっておられたが、やがて両手で物を編むような仕草を始めた。

 間もなくその両手の間に大きな花束が姿を現わした。そこで手の動きを変えると今度はその花束が宙に浮き、一つなぎの花となって空高く伸び、さらに遠く沖へ伸びて、ついに新参の一団の頭上まで届いた。

 それが今度は一点に集まって渦巻きの形を作り、ぐるぐると回転しながらゆっくりと一団の上に下りて行き、最後にぱっと散らばってバラ、ユリ、その他のさまざまな花の雨となって一団の頭上や身辺に落下した。

私はその様子をずっと見ていたが、新参の一団は初め何が起きるのであろうかという表情で見ていたのが、最後は大喜びの表情へと変わるのが判った。その花の意味が理解できたからである。すなわち、はるばると旅して辿り着いたその界では愛と善とが自分たちを待ち受けていることを理解したのであった。

 さて、彼らが乗って来た船の様子もその時点ではっきりして来た。実はそれはおよそ船とは呼べないもので筏のようなものに過ぎなかった。どう説明すればよかろうか。

確かに筏なのであるが、何の変哲もないただの筏でもない。寝椅子もあれば柔らかいベッドも置いてあり、楽器まで置いてある。その中で一番大きいものはオルガンである。

それを今三人の者が一斉に演奏しはじめた。その他にも楽しむためのものがいろいろと置いてある。その中で特に私の注意を引いたのは、縁(へり)の方にしつらえた 祭壇であった。詳しい説明はできない。それが何のために置いてあるのかが判らないからである。

 さてオルガンの演奏とともに船上の者が一斉に神を讃美する歌を唄い始めた。すべての者が跪づく神、生命の唯一の源である神。太陽はその生命を地上へ照らし給う。天界は太陽の奥の間──愛と光と温もりの泉なり。太陽神とその配下の神々に対し、吾々は聖なる心と忠誠心を捧げたてまつる。そう唱うのである。

 私の耳にはその讃美歌が妙な響きをもっているように思えた。そこで私はその答えはもしかしたら例の祭壇にあるかも知れないと思ってそこへ目をやってみた。が、手掛かりとなるものは何も見当たらなかった。私になるほどと得心がいったのは、すっと後のことであった。

 が、貴殿は今宵はもう力が尽きかけている。ここで一応打ち切り、あす又この続きを述べるとしよう。今夜も神の祝福を。では、失礼する。昼となく夜となく、ザブディエルは貴殿と共にあると思うがよい。

そのことを念頭に置けば、さまざまな思念や思いつきがいずこより来るか、得心がゆくことであろう。ではこれまでである。汝は疲れてきた。 ザブディエル  ♰



  5 宗派を超えて    

一九一三年十二月十七日  水曜日

 前回に引き続き、遠き国よりはるばる海を渡って来た一団についての話題を続けよう。はるばる長い道程を辿ったのは、新しい界に定住するに当たっての魂の準備が必要だったからである。

 さて、いよいよ一団は海岸へ降り立った。そして物見の塔の如くそそり立つ高い岬の下に集合した。それから一団の長(おさ)が吾々のリーダーを探し求め、やがて見つかってみると顔見知りであった。以前に会ったことのある間柄であった。二人は温かい愛の祝福の言葉で挨拶し合った。

 二人は暫し語り合っていたが、やがて吾々のリーダーが歩み出て新しく来た兄弟たちへおよそ次のような意味の挨拶を述べられた。

 「私の友であり、兄弟であり、唯一の父なる神のもとにおいては互いに子供であり、それぞれの魂の光によってその神を崇拝しておられる皆さんに、私より心からの歓迎の意を表したいと思います。

 この新たな国を求めて皆さんははるばるとお出でになられましたが、これからこの国の美しさを見出されれば、それも無駄でなかったことを確信されることでしょう。私は一介の神の僕に過ぎず、こうしてお出でになられた皆さんがこの国の生活環境に慣れられるようにとの配慮から、私どもがお出迎えに上がった次第です。

 これまでの永い修養の道ですでに悟られたことと思いますが、あなた方が曽て抱いておられた信仰は、神の偉大なる愛と祝福を太陽に譬えれば、その一条の光ほどのものに過ぎませんでした。

その後の教育と成長の過程の中でそのことを、あるいはそれ以上のことを理解されましたが、一つだけあなた方特有の信仰形体を残しておられる──あの船上の祭壇です。

ただ、今見ると、あの台座に取り付けられた独特の意匠が消えて失くなっており、また、いつも祈願の時に焚かれる香の煙が見えなかったところを見ますと、どうやら私には祭壇が象徴としての意義をほとんど、あるいは全く失ってしまったように思えます。

これからもあの祭壇を携えて行かれるか、それともそのまま船上に置いて元の国へ持って帰ってもらい、まだ理解力があなた方に及ばない他の信者に譲られるか、それはあなた方の選択にお任せします。では今すぐご相談なさって、どうされるかをお聞かせ頂きたい。」

 相談に対して時間は掛からなかった。そしてその中の一人が代表してこう述べた。

 「申し上げます。あなたのおっしゃる通りです。曽ては吾々の神を知り祈願する上で役に立ちましたが、今はもう私どもには意味を持ちません。いろいろと教えを受け、また自分自身の冥想によって、今では神は一つであり人間は生まれや民族の別なくその神の子であることを悟っております。

愛着もあり、所持しても邪魔になるものでもないとは言え、自と他を分け隔てることになる象徴を置いておくのはもはや意味のない段階に至ったと判断いたします。そこであの祭壇は送り返したいと思います。まだまだ曽ての自分の宗教を捨て切れずにいる者が居りますので。

 そこで皆さまのお許しをいただければ是非これよりお伴させて頂き、この一段と光輝溢れる世界および、これより更に上の界における同胞関係について学ばせて頂きたいものです。」

 「よくぞ申された。是非そうあって頂きたいものです。他にも選択の余地はあるのでしょうが、私も今おっしゃった方法が一番よろしいように思います。では皆さん、私についてお出でなさい。これよりあの門の向こうにある平野、そして更にその先にあるあなた方の新たなお国へご案内いたしましょう。」

 そうおっしゃってから一団の中へ入り、一人一人の額に口づけをされた。すると一人一人の表情と衣装が光輝を増し、吾々の程度に近づいたように私の目に映った。

そこへさらに例の女性ばかりの一団の長が降りて来て、吾々のリーダーと同じことをされた。女性の一団は吾々との邂逅(かいこう)を心から喜び、吾々もまた喜び、近づく別れを互いに惜しんだ。

吾々が門の方へ歩み始めると長が途中まで同行し、いよいよ吾々が門をくぐり抜けると、その女性の一団による讃美歌が聞こえて来た。それは吾々への別れの挨拶でもあった。吾々は一路内陸へ向けて盆地を進んだ。

 さて貴殿は例の祭壇とリーダーの話が気になることであろう。


──遮って申し訳ありませんが、あなたはなぜそのリーダーの名前をお出しにならないのですか。

 是非にというのであれば英語の文字で綴れる形でお教えしよう。が、その本来のお名前の通りにはいかない。実は、それを告げることを許されていないのである。取り敢えずハローレン Harolen とでも呼んでおこう。三つの音節から成っている。本当のお名前がそうなのである。これでよかろうと思う。では話を進めよう。

 一隊が盆地を過ぎ、川を渡り、その国の奥深く入り行くあいだ、ハローレン様はずっとその新参の一団のことに関わっておられた。その間の景色は私はまだ述べていないであろう。私がハローレン様と初めてお逢いしたのはそのずっと先だったからである。

その辺りまで来てハローレン様にゆとりと見られたので、私は近づいてその一団のこと、並びに海辺で話された信仰の話についてお尋ねした。

すると、一団は地上では古代ペルシァ人の崇拝した火と太陽の神を信仰した者たちであるとのことであった。

 ここで私自身の判断によって、そのことから当然帰結される教訓を付け加えておかねばならない。人間が地上生活を終えてこちらへ来た当初は、地上にいた時とそっくりそのままであることを知らねばならない。

いかなる宗教であれ、信仰厚き者はその宗教の教義に則った信仰と生活様式とをそのまま続けるのが常である。が、霊的成長と共に〝識別〟の意識が芽生え、一界また一界と向上するうちに籾殻が一握りずつ捨て去られて行く。

が、その中にあっても、いつまでも旧態依然として脱け切らない者もいれば、さっさと先へ進み行く者もある。そうして、その先へ進んだ者たちが後進の指導のために戻って来ることにもなる。

 こうして人間は旧い時代から新しい時代へ、暗い境涯から明るい境涯へ、低い界から高い界へと進みつつ、一歩一歩、普遍的宇宙神の観念へと近づいてゆく。

同じ宗教の仲間と生活を共にしてはいても、すでに他の宗派の思想・信仰への寛恕の精神に目覚め、自分もまた他の宗派から快く迎えられる。かくしてそこに様々な信仰形態の者の間での絶え間ない交流が生まれ、大きくふくらんで行くことになる。

 が、しかし、全ての宗派の者が完全に融合する日は遠い先のことであろう。あのペルシャ人たちも古いペルシャ信仰に由来する特殊な物の見方を留めていた。

今後もなお久しく留めていることであろう。が、それで良いのである。何となれば、各人には各人特有の個性があり、それが全体の公益を増すことにもなるからである。

 例の一行は海上での航海中にさらに一歩向上した。と言うよりは、すでにある段階を超えて進歩したことを自ら自覚するに至ったと言うべきであろう。私が彼らの船上での祈りの言葉とその流儀に何か妙な響きを感じ取りながらも、それが内的なものでなく形の上のものに過ぎなかったのはそのためである。

だからこそハローレン様から選択を迫られたとき潔く祭壇を棄て、普遍的な神の子として広い同胞精神へ向けて歩を進めたのであった。

 こうして人間は、死後、地上では何ものにも替え難い重要なものと思えた枝葉末節を一つ一つかなぐり棄ててゆく。裏返して言えば、愛と同胞精神の真奥に近づいて行くのである。

 どうやら貴殿は戸惑っているように見受けられる。精神と自我とがしっくりいっていないのが私に見て取れるし、肌で感じ取ることも出来る。そのようなことではいけない。

よく聞いてほしい。いかなるものにせよ、真なるもの、善なるもののみが残る。そして真ならざるもの、善ならざるもののみが棄て去られて行く。貴殿が仕える主イエスは〝真理〟そのものである。

が、その真理の全てが啓示されたわけではない。それは地上で肉体に宿り数々の束縛を余儀なくされている者には有り得ないことである。が、イエスも述べているように、いつの日か貴殿も真理の全てに誘(いざな)われることであろう。

それは地上を超えた天界に置いて一界又一界と昇って行く過程の中で成就される。そのうちの幾つかがこうして貴殿に語り伝えられているところである。それが果たしていかなる究極を迎えるか、崇高な叡智と愛と力がどこまで広がって行くかは、この私にも判らない。

 ただこの私──地上で貴殿と同じくキリスト神とナザレ人イエスを信じつつ忠実な僕としての生涯を送り、いま貴殿には叶えられない形での敬虔な崇拝を捧げる私には、次のことだけは断言できる。すなわち、そのイエスなる存在はこの私にとっても未だ、遥か遥か彼方の遠い存在であるということである。

今もしその聖なるイエスの真実の輝きを目のあたりにしたら、私は視力を奪われてしまうことであろうが、これまでに私が見ることができたのは黄昏時の薄明かりていどのものに過ぎない。その美しさは私も知らないではない。現実に拝しているからである。

が、私に叶えられる限りにおいて見たというに過ぎず、その全てではない。それでさえ、その美しさ、その美事さはとても言葉には尽くせない。その主イエスに、私は心から献身と喜びを持って仕え、そして崇敬する。

 故に貴殿はイエスへの忠誠心にいささかの危惧も無用である。吾々と異なる信仰を抱く者へ敬意を表わしたからといって、イエスの価値をいささかも減じることにはならない。

なぜなら、全ての人類はたとえキリスト教を信じないでも神の子羊であることにおいては同じだからである。イエスも人の子として生まれ、今なお人の子であり、故に吾ら全ての人間の兄弟でもあるのである。アーメン   ♰


  
  6 大天使の励まし   

一九一三年十二月十八日  木曜日


 吾々が通過した土地は丘陵地で、山と呼ぶほどのものは見当らなかった。いずこを見ても円い頂上をした丘が連なり、そこここに住居が見える。が、進み行くうちにハローレン様の様子が徐々に変化し始めた。表情が明るさを増し、衣装が光輝を発しはじめた。

左手にある森林地帯を通過した頃にはもう、その本来の美しさを取り戻しておられた。その様子を叙述してみよう。

まず頂上に光の表象が現れている。赤と茶の宝石を散りばめた王冠のようなもので、キラキラと光輝を発し、その光輝の中に更にエメラルドの光輝が漂っている。

チュニックは膝まである。腕も出ている。腰のあたりに黄金の帯を締め、それに真珠のような素材の宝石が付いている。色は緑と青である。帽子も同じく緑と青の二色から成り、露出している腕には黄金と銀の腕輪がはめられている。

 そうしたお姿でワゴンに立っておられる。そのワゴンは木と金属で出来た美しい二輪馬車でそれが白と栗毛の二頭の馬に引かれている。

私が受けた感じでは全体に茶の色彩が強い。際立つほどではないが、ワゴンの装飾も、見えることは見えるが派手に目立たぬようにと、茶色で抑えられている感じである。

 霊界では象徴性(しんぼりずむ)を重んじ、なにかにつけて活用される。そこで、そうした色彩の構成の様子から判断するに、ハローレン様は元来は茶色を主体とする上層界に属しておられ、この界での使命のためにその本来の茶を抑え、この界でより多く見られる他の色彩を目立たたせておられると観た。

使命成就のためにこの界に長期に滞在をするには、そうせざるを得ないのである。

 が、その質素にしてしかも全体として実に美しいお姿を拝して、私はその底知れぬ霊力を感じ取った。

その眼光には指揮命令を下す地位に相応しい威厳を具えた聖純さがあり、左右に分けこめかみの辺りでカールした茶色の頭髪の間からのぞく眉には、求愛する乙女の如き謙虚さと優しさが漂っている。

低い者には冒し難い威厳をもって威圧感を与え、それでいて心疚(やま)しからぬ者には親しさを覚えさせる。喜んでお慕い申し上げ、その保護とお導きに満腔の信頼の置ける方である。まさしく王者であり、王者としての力と、その力を愛の中に正しく行使する叡智を具えた方だからである。

 さて、吾々は尚も歩を進めた。大して語り合うこともなく、ただ景色の美しさと辺りに漂う安らぎと安息の雰囲気を満喫するばかりであった。

そしてついに新参の一団がそろそろ環境に慣れるために休息しなければならないところまで来た。休息したのちはさらに内陸へと進み、その性格に応じてあの仕事この仕事と、神の王国の仕事に勤しむべく、その地方のコロニーのいずれかに赴くことになる。

 そこでハローレン様から〝止まれ!〟のお声があった。そしてその先に見える丘の向こうに位置する未だ見ぬ都へ案内するに際し、ひとこと述べておきたいことがあるので暫し静かにするようにと述べられた。

 吾々は静寂を保った。すると前方の丘の向こうの或る地点から巨大な閃光が発せられ、天空を走って吾々まで届いた。吾々は光の洪水の中に浸った。が、一人として怖がる者はいない。何となればその光には喜びが溢れていたからである。

そしてその光輝に包まれたワゴンとそこに立っておられるハローレン様は、見るも燦爛(さんらん)たる光景であった。

 ハローレン様はじっと立ったままであった。が、辺りを包む光が次第にハローレン様を焦点として凝縮していった。そしてやがてお姿がそれまでとは様相を変え、言うなれば透明となり、全身が栄光で燃え立つようであった。

その様子を少しでもよい、どうすれば貴殿に伝えることが出来るであろうか。

純白の石膏でできた像に生命が宿り、燦爛たる輝きを放ちながら喜悦に浸り切っているお姿を想像してもらいたい。身に付けられた宝石と装飾の一つ一つが光輝を漲らせ、馬車までが炎で燃えあがっていた。

その辺り一面が生命とエネルギーの栄光と尊厳に溢れていた。二頭の馬はその光輝に浸り切ることなく、それを反射しているようであった。ハローレン様の頭部の冠帯はそれまでの幾層倍も光度を増していた。

 私の目にはハローレン様が今にも天に舞い上がるのではないかと思えるほど透明になり、気高さを増されたが、相変わらずじっと立ったまま、その光の来る丘の向こうに吾々には見えない何ものかを見届けておられるような表情で、真っ直ぐにその光の方へ目を向けられ、その光の中にメッセージを読み取っておられた。

 しかし、次にお見せになった所作に吾々は大いに驚ろかされた。別に目を見張るような不思議や奇跡を演じられたわけではない。逆である。静かにワゴンの上で跪かれ、両手で顔をおおい、じっと黙したままの姿勢を保たれたのである。

吾々にはハローレン様がその光を恐れられる方ではなく、むしろそれを、否、それ以上のものを思うがままに操られる方であることを知っている。

そこで吾々は悟った。ハローレン様はご自分より霊格と聖純さにおいて勝れる方に頭を垂れておられるのである。そう悟ると、吾々もそれに倣って跪き、頭を垂れた。が、そこに偉大なる力の存在は直感しても、いかなるお方であるかは吾々には判らなかった。

 そうしているうちに、やがて美しい旋律と合唱が聞こえてきた。が、その言葉も吾々には理解できない種類のものであった。なおも跪きつつ顔だけ上げて見ると、ハローレン様はワゴンから降りられ吾々一団の前に立っておられた。

そこへ白衣に身を包まれた男性の天使が近づいて来られた。額の辺りに光の飾り輪が見える。それが髪を後頭部で押さえている。

宝石はどこにも見当らないが、肩の辺りから伸びる二本の帯が胸の中央で交叉し、そこを紐で締めている。帯も紐も銀と赤の混じった色彩に輝いている。

お顔は愛と優しさに満ちた威厳をたたえ、いかにも落着いた表情をされている。ゆっくりと、あたかもどこかの宇宙の幸せと不幸の全てを一身に背負っておられるかのような、思いに耽った足取りで歩かれる。そこに悲しみは感じ取れない。

それに類似したものではあるが、私にはどう表現してよいか判らない。お姿に漂う、全てを包み込むような静寂に、それほど底知れぬ深さがあったのである。

 その方が近づかれた時もハローレン様はまだ跪かれたままであった。その方が何事か吾々に理解できない言葉で話しかけられた。その声は非常に低く、吾々には聞こえたというよりは感じ取ったというのが実感であった。

声を掛けられたハローレン様は、見上げてそのお方のお顔に目をやった。そしてにっこりとされた。その笑顔はお姿を包む雰囲気と同じく、うっとりとさせるものがあった。

やがてその天使は屈み込み、両手でハローレン様を抱き寄せ、側に立たせて左手でハローレン様の右手を握られた。それから右手を高々とお上げになり、吾々の方へ目を向けられ、祝福を与え、これから先に横たわる使命に鋭意邁進するようにとの激励の言葉を述べられた。

 力強く述べられたのではなかった。それは旅立つ吾が子を励ます母親の言葉にも似た優しいもので、それ以上のものではなかった。

静かに、そしてあっさりと述べられたのである。が、その響きは吾々に自信と喜びを与えるに十分なものがあり、全ての恐怖心が取り除かれた。実は初めのうちは、ハローレン様さえ跪くほどの方であることにいささか畏怖の念を抱いていたのである。

 そう述べられたままの姿で立っておられると、急に辺りの光が凝縮しはじめ、その方を包み込んだ。そしてハローレン様の手を握り締めたままそのお姿が次第に見えなくなり、やがて視界から消えて行った。光もなくなっていた。あたかもその方が吸収して持ち去ったかのように思えた。

 そこでハローレン様はもう一度跪かれ、暫し頭を垂れておられた。やがて立ち上がると黙って手で〝進め!〟の合図をされた。そして黙ってワゴンにお乗りになり、前進を始めた。吾々も黙ってそのあとに続き、丘をまわり、その新参の一行が住まうことになる土地に辿り着いたのであった。 ♰