Wednesday, August 26, 2026

シルバーバーチの霊訓 霊的新時代の到来

The Spirit Speaks
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)





編者まえがき


けさ私は、犬を連れて散歩に出かけた。

「それがどうかしましたか」――そんな声が聞こえてきそうな、どこにでもある話だが、とにかく話の先を聞いていただこう。

私は近くの海岸に沿って歩いた。早朝のことで、はるか彼方の水平線上にかすかにモヤが掛かっている。が、それもやがて日の出とともに消えていく運命にある。

人影はまばらだ。私と同じように犬を連れて散歩を楽しんでいる人が、そこここに見える程度である。が、海上にはカモメが群れ飛んでいる。水面スレスレを飛ぶもの、上空から急降下するもの、大きく翼を広げて旋回をくり返すもの……それらが出す、あの特有の悲しげな鳴き声が、早朝の冷たい風に混じって聞こえてくる。

しかし、そうした小さな動きがくり広げられている、この海という舞台には、泰然自若(たいぜんじじゃく)として、事もなげな趣きがある。そうしたものに超然とした、何か大きな営みを続けている感じがする。それでいて、目に見えるのは寄せては返す穏やかな波の動きばかりで、その波に身をまかせて、赤茶けたのやクリーム色など、色とりどりの小石が退屈そうに行ったり来たりしている。

すっかり日が昇ってから、私はこんどは公園の広場へ出た。ベンチに腰かけて辺りを眺めていると、一羽の蝶が陽光の中でダンスをしているかのように舞っている。辺り一面に季節の気配がする。スイセンが黄色い顔を太陽へ向けている。スイカズラの葉が風に揺れている。チューリップが地面を押し上げて顔をのぞかせている。小鳥が甘くささやき合っている。澄み切った青空を綿のような雲がゆっくりと流れていく。

やがて陽が傾き、たそがれが急ぎ足で近づいてくる。もうすぐ一日もおしまいだ。弱い夕陽の陽だまりで猫がまるくなっている。犬も、今日ばかりはよく歩かせてもらい、よく食べさせてもらったからか、満足そうな顔でしゃがみ込んでいる。が、私の脳裏には、こうした一日の散歩での教訓がよぎる。

何が起きようと、海は満ちては引いていく。太陽は昇り、温もりを惜しげもなく与えては、静かに沈んで、その場をこうこうたる月に譲る。蝶が舞い、小鳥がさえずる。スイセンが、チューリップが、スイカズラが、そのほか無数の植物が大自然の呼び声に合づちを打つかのように、花を咲かせる。犬も猫も、われわれ人間と同じように生まれ、四季おりおりの生活を楽しんでは、遠いようで近い、あの世へ行ってしまう。

私が言いたいのは、要するところシルバーバーチが巧みに、力強く、そしてくり返し説いているように、生命活動はすべて大自然の法則によって支配されているということである。その法則を超えるものは、何一つ、誰一人いないということである。

さて、本書は私にとって(前シリーズから数えて)五冊目になる。編纂しただけであるから、私自身に帰すべき功績は何もない。例によって前シリーズからの抜粋に、“サイキックニューズ”の資料室から新たに取り出して加えた。主として質疑応答の形を取っているものを選んである。

これに私はThe Spirit Speaks(霊は語る)というタイトルを付けた。文字どおり霊が語っているからである。霊媒のモーリス・バーバネルが他界した一九八一年をもって、半世紀にのぼるシルバーバーチ霊の使命も終わったが、その教えは、当時よりむしろ多くの国において、より多くの人々によって読まれていることであろう。

なぜなら、シルバーバーチの教えは、その背景としての根本理念に俗世的な地臭も、宗派的偏見も、人工的障壁も、みじんも見られないからである。

トニー・オーツセン



巻頭のメッセージ


今やこの地上にも、霊力がしっかりと根づいております。その影響力の徴候をそこここに見ることができるようになりました。もう二度と地上から追い出される心配はありません。

過去幾世紀にもわたって、地上に霊力を根づかせようとする努力がくり返し試みられてまいりました。人類のすべてが大霊に近づき、その無限の叡智と知識と愛による恩恵に浴せるようにとの願いからでした。それが、今世紀に至ってようやく成就されたのです。

幾多の障害・障壁・ままならぬ条件が克服されてまいりました。地上世界の至るところに、揺ぎない霊力の砦(とりで)が築かれております。法王が何と言おうと、僧侶が何と言おうと、政治家が何と言おうと、その影響力が地上から消えることは断じてありません。

霊力そのものは永遠・不変に存在しております。それが、その時、その場所、その条件によって、地上への流入が多くなったり少なくなったりいたします。霊力にも満ち引きがあるということです。

が、いついかなる時も、守護霊の任を引き受けた霊との愛の絆があなた方に霊力を引き寄せ、温かく包みこんでいることを忘れないでください。

シルバーバーチ
1章 永続性があるのは、唯一、“愛の絆”だけです


数十年にわたる交霊会でシルバーバーチに出された質問は、ありとあらゆる分野にわたっていて、文字どおり数え切れないほどであるが、本章が証明するように、シルバーバーチはそれらに対して実に当意即妙に応答している。念のために付け加えておくが、霊媒のバーバネルはその質問について前もって知らされたことは一度もない。

さて、シルバーバーチの霊言はすでに何冊か読んでいるというその日のゲストが、睡眠中にどんなことが起きているのかを尋ねた。するとシルバーバーチが間髪を入れずこう答えた。


「睡眠中の皆さんは、ただの生理的反応から霊的な活動にいたるまで、さまざまな体験をしておられます。あまりにも多種多様であるために、その中から特定して、これは生理的なもの、これは霊的なもの、といったはっきりした判断ができないだけのことです。

睡眠の目的そのものは単純です。身体は一種の機械です。実にすばらしい機械で、地上のいかなる技術者にもこれほど見事な機械はつくれませんが、機械である以上は休ませることが必要です。そうしないと機能を維持することができません。

大切なのはその身体の休息中に、霊がその身体から脱け出て活動しているということです。まさに、人間は毎晩死んでいるといってもいいのです。わずかに銀色の紐(シルバーコード)(魂の緒)によってつながってはいても、霊は完全に身体から脱け出ています。そのコードは実に柔軟な性質をしていて、霊はその束縛なしに完全に肉体から解放されています(※)。

その間におもむく先は、それぞれの霊的成長と進化の程度に似合った環境です。が、それがどこであれ、そこでの体験は地上世界の時間と五感の範囲からはみ出たものばかりですから、脳という物的器官では認識できないのです。

シルバーコードが完全に切れて霊界の住民になってしまえば、そうした睡眠中の体験のすべてを思い出すことができるようになりますが、今は断片的にしか思い出せません。霊界ではそれが通常となるわけです」


※――ここで言っているのは心身ともに健全な状態での話であって、病気だったり心配事が根強いと魂の緒が硬直して伸びきらないために、霊体が脱け切れずにウトウトとした状態が続いたり、完全な不眠症になったりする。

「霊界ではお互いをどう呼びかけ合うのでしょうか」


「こちらへ来て、完全に地上圏から脱すると、それまでの霊的成熟度に似合った名称が与えられます(※)。したがって、その名称で霊的成長と進化の程度が知れるわけです。が、名前そのものにこだわることはありません。お互いに有るがままに認識し合っています」


※――シルバーバーチがこんなことを言うのは初めてであるが、名前といっても音声と文字で表現されている地上の姓名とは本質的に異なる。それと同じ意味でのことばも、実は、ある。シルバーバーチが霊界ではことばはいりませんと言っているのは、誤解を避けるためである。『ベールの彼方の生活』の中で通信霊が霊界での名前が地上のことば(この場合は英語のアルファベット)でうまく表現できなくて困る場合がよくあり、各界層に特有のことば、つまり観念や意志の伝達手段があることを明確に述べている。

「人間は現在の人種と異なる人種に生まれ変わることがあるというのは本当でしょうか。もしも本当だとすると、愛する者とも別れ別れになることになり、大変な悲劇に思えるのですが……」


「そういう考え方は、再生というものの真相を正しく理解していないところから生じるのです。決して悲劇的なことは生じません。そもそも地上的な姻戚関係というのは、必ずしも死後にも続くとはかぎらないのです。イエスが地上にいた時、まわりの者が「お母さんがお見えになってますよ」と言ったのに対して、「いったい本当の母とは誰なのでしょう? 本当の父とは誰なのでしょう?」と問うたのをご存知でしょう。

自我のすべてが一度に物質界へ生まれ出てくることは絶対にありません。地上で“自分”として意識しているのは、本来の自我のほんの一かけらにすぎません。全部ではないのです。その小さなかけらの幾つかが別々の時代に別々の民族に生まれ出るということは有り得ることです。すると、それぞれに地上的血縁関係をこしらえることになり、中には幽体の次元での縁戚すらできることもありますが、それでも、霊的な親和関係は必ずしも存在しないことがあるのです。

永続性があるのは、唯一“愛の絆”だけです。血のつながりではありません。愛があり、血のつながりもある場合は、そこには魂が求め合う絆がありますので、両者の関係は死後も続きます。が、血のつながりはあっても愛の絆がない場合は、すでに地上にある時から霊的には断絶しており、こちらへ来ても断絶のままとなります」

「支配霊や指導霊は生涯を通して同じなのでしょうか、それとも霊的成長にともなって入れ替わるのでしょうか」


「それは仕事の内容によって異なります。たとえば支配霊――わたしたちはグループないしは霊団を組織していますから、その中心になる支配霊がいます――は言わば代弁者(スポークスマン)として選ばれた霊で、ある特定の霊媒現象を担当して、当人の寿命のあるかぎりその任に当たります(※)。成長過程の一時期だけを指導する霊は、その段階が終わって次の段階に入ると、入れ替わって別の指導霊が担当します」


※――ここは自分のケースを念頭において述べている。シルバーバーチはバーバネルの守護霊ではない。このあとの守護霊に関する注釈を参照。

「あなたは大霊は“摂理”であるとおっしゃりながら、祈りの中では“あなた”と呼びかけておられます。これは人間的存在を意味する用語ですから“矛盾”と受け取る人も多いのではないでしょうか」


「その辺がことばの難しさです。無限で、言語を超越しているものを、限りある言語で表現しようとするのですから……。そもそも霊とは物質を超越したものですから、物質界の言語では表現できないのです。小は大を兼ねることができません。

わたしたちにとって大霊とは、この全大宇宙とそこに存在するもの全てに責任を担う摂理であり、知性であり、力です。男性でも女性でもありません。皆さんが想像するような人格性はありませんが、かといって人間と無縁の存在という意味での非人格的存在でもありません。

あなた方もお一人お一人が大霊の不可欠の要素であり、大霊もあなた方の不可欠の要素なのです。その辺を理解していただこうとすれば、どうしても地上的な表現を用いざるを得ないわけですが、用いているわたしの方では、ことばを超えたものを表現することの限界を、いつも痛感させられております」

「創造主である大霊は、自分が創造したものの総計よりも大きいのでしょうか」


「そうです。ただし、創造は今なお続いており、これからも限りなく続きます。完結したものではありません。これからも永遠に続く営みです」

「ということは、大霊も完成へ向けて進化しているということでしょうか」


「進化という過程で顕現している部分はその過程を経なくてはなりません。なぜなら、宇宙は無限性を秘めているからです。その宇宙のいかなる部分も大霊と離れては存在できません。それも大霊の不可欠の要素だからです。とてもややこしいのです」

「死んで霊界入りする日(寿命)は何によって決まるのでしょうか。定められた日よりも長生きできないとしたら、心霊治療でも治らないことがあるのも、その辺に理由があるのでしょうか」


「おっしゃる通り、それも理由の一つです。霊がいつ物質に宿り、いつ物質から離れるかは、自然の摂理によって決まることです。とくに死期は故意に早めることが可能ですが、それは自然の摂理に反します。

人間は、脳の意識ではわからなくても、いつ生まれいつ死ぬかは、霊の意識ではわかっております。肉体から離れるべき時――これは生命の法則の一環として避けることはできません――が訪れたら、いかなる治療も効果はありません。一般論としての話ですが。

忘れないでいただきたいのは、心霊治療というのはきわめて複雑な問題でして、根本的には身体の病気を癒やすのが目的ではなく、魂の成長を促すためのものだということです。魂の体験としては病気も健康も必要です。物議をかもしかねない問題ですね、これは」

「病気も必要というところが引っ掛かります。病気を知らない生活が送れるほど完成された時代も到来すると私は信じます。あなたのおっしゃる病気とは、摂理を犯すこと、と受け止めてよろしいでしょうか」


「人間はいつになっても摂理に違反した行為をいたします。もしも完全に摂理と調和した地上生活を送ることができれば、それは地上で完全性を成就したことになりましょうが、完全性の成就は地上では有り得ないのです。なぜなら地球そのものが不完全だからです。

地球は学習のために通う“学校”です。その学習は、比較対象の体験による以外には有り得ません。日向(ひなた)と陰、嵐と凪(なぎ)、愛と憎しみ、善と悪、健康と病気、楽しみと苦しみといった相反する体験を通して学習していくのです。相対的体験と、その中での試行錯誤の努力を通して、魂が磨かれていくのです」

「そちらから人間をご覧になると、われわれが肉眼で見ているのと同じように見えるのでしょうか、それとも、肉体は見えずに霊体だけが見えるのでしょうか」


「有り難いことに、肉眼で見るようには見えません。わたしたちの目には皆さんは霊的存在として映じております。肉体は薄ぼんやりとしています。こうして霊媒の身体に宿って、その肉眼を通して見る場合は別です。その間は物質の次元にいるわけですから」

「ある人は霊界には無数の“界層”があると言い、ある人は七つしかないと言うのですが、どちらが本当でしょうか」


「霊的なものを物的な用語で定義することはもともと不可能なのですが、この“界層”という用語も誤解を招きます。霊界には地理的な仕切りはありません。“意識の状態”があって、魂が進化するにつれて意識が高まる、ないしは深まっていくことの連続です。一つの意識状態と次の意識状態とは自然に融合しております。そこに仕切り線のようなものはありません。進歩とか開発とか進化というのは、一足跳びにではなく、粗野な面が少しずつ取り除かれて、霊的な側面が表に出てくるということの連続なのです。

むろん未開な時代には、死後の世界は地上と同じように平面的な場所で、地上より高い界層と低い界層があるといった説き方をしたのはやむを得なかったことです。が、死後の世界は宇宙空間のどこかの一定の場所に存在するのではありません」

「病苦がカルマのせいだとすると、それが心霊治療によって治った場合、そのカルマはどうなるのでしょうか」


「そのご質問は論点がズレております。病苦がカルマのせいであれば、そのカルマが消滅するまでは病苦は除かれません。それ以外には考えようがありません」

「ある敬虔(けいけん)なクリスチャンで、とても立派だった女性が、死後、ある霊媒のところへ戻ってきて、ずっと薄闇の中にいて堪(たま)らないと、救いを求めておりました。あれほどの立派な方がなぜ薄闇の中にいるのか不思議でならないのですが、死後の存続の事実を知るチャンスがなかったからなのでしょうか」


「もしもその霊の出現が本もので、ほんとに暗闇ないしは薄闇の中に閉じ込められているとしたら、それは自分の魂の進化の程度の反映です。摂理はごまかせません。そして、“永遠不変の善”の規準は必ずしも“地上の善”とは一致しません。地上には、人間が“悪”だと決めつけているものでも、霊的観点からすれば“善”に思えるものが沢山ありますし、逆に、人間は“善”だと思っているものでも、わたしたちから見れば“悪”だと言いたいものが沢山あります。

たとえばキリスト教では、自分たちで勝手にこしらえた教義を盲目的に受け入れた人のことを善人のような言い方をします。が、実は、それは人間の宗教性の本質を窒息死させる行為にも等しいものです。なぜかと言えば、それではその後の人生は何をやっても“善人”であることを保障することになるからです。自分では正しいと信じていても間違っております。

そういう人工的な規準とはまったく関係のない“基本的善性”というものが存在します。あとに残るのはその基本的善性の方です。倫理・道徳には二種類あります。政治的道徳、経済的道徳、伝統的道徳といった類が一つ。もう一つは霊的要素によって決まる道徳です。あとに残るのは霊的要素のみです」

「“聖痕(スティグマ)”などの現象をスピリチュアリズム的にどう解釈したらよいのでしょうか」


「これは、大体においてその人のサイキ(※)の領域に属する現象です。熱烈な信仰心が精神に宿る心霊的要素を動かして、キリストのはりつけの時の傷跡などが斑点となって、その人の肉体に現れることがあります。物質的なものでないという意味では超常現象といえますが、霊の世界とは何の関係もありません」


※――Psyche元来は精神ないしは心の意味であるが、精神のもつ不思議な力をさすことが多い。これからサイキック(心霊的)という用語ができたのであるが、シルバーバーチはそれをスピリチュアル(霊的)と区別し、どちらかというとサイキックなものへの過度の関心を戒めている。スプーン曲げとか硬貨の溶解現象といった、最近、日本ではやっている超能力現象は純然たるサイキの領域に属するもので、未開人によるまじないや雨乞いに作用するエネルギーと同次元のものである。スピリチュアルなものと違って霊格や人格とは何の関係もなく起きるものであるから、そういう能力をもつ人を尊敬したり、自分にそういう能力があることを知って偉くなったような気持ちになるのは危険である。

「霊界通信には、内容的に正反対のことを言っているのがありますが、なぜそうなるのでしょうか」


「霊とはいえ人間的存在です。叡智の頂上をきわめた大天使と交信しているのではないことを知ってください。霊界にはさまざまな発達段階の存在がいて、それぞれに体験が異なりますから、当然、伝える情報も異なってきます。同一の霊からの通信でも、その後の体験によって違ったことを言うことも有り得ます。

他界する際に霊界についてある種の固定概念をもってくる人がいます。そういう人は、その固定観念を抱いているかぎり、そういう環境の中にいますから、交霊会などで意見を述べる機会があれば、その段階での見解を述べることになります。しかし、基本的なことに関するかぎり、矛盾はないはずです」

「スピリチュアリストの中にも相変わらずイエスは神の代理人で救世主であると信じている人がいます。これはスピリチュアリズムの七大綱領(※)と矛盾しませんか」


※――英国の女性霊媒エマ・ハーディング・ブリテンの霊言で述べられたもので、(一)神は全人類の父である。(二)人類はみな同胞である。(三)霊界と地上との間に霊交がある。(四)人間の霊は死後も存続する。(五)人間は自分の行為に自分が責任を取らねばならない。(六)地上での行為には、死後、善悪それぞれに報賞と罰が与えられる。(七)いかなる霊も永遠に進化する。以上の七つのうちの(二)と(五)に矛盾すると言っているのであろう。


「わたしは、何事にも寛容的で自主性を重んじるべきであるとの考えから、いかなる信条であれ、そう信じるのだという人にはその道を歩ませ、そうでないという人には、その人の信じる道へ行かせてあげればよいと考えています。信条はどうでもいいのです。教義は大切なものではありません。大切なのは“真実”です。が、地上であれ、霊界であれ、無限の真理のすべてを知り尽すことはできません。ほんの一部しか見えないのです。そして、知れば知るほど、まだまだ知らねばならないことが沢山あることを自覚します。そこで、ますます寛容的になっていくのです」

「バイブルには“神を恐れよ”とありますが、なぜ恐れねばならないのでしょうか」


「“おそれる”という用語の解釈の問題でしょう。神を怖がりなさいという意味ではないと思います。“畏(おそ)れ敬(うやま)う”という意味もあります」

「同じくバイブルの〈主の祈り〉に“悪魔の誘惑に負けませんように”とありますが、これをどう思われますか」


「これは間違いです。悪魔が誘惑するのではありません。自分にそういう要素があるから悪の道にはまるのです。

ここで一言、わたしが感じていることを述べさせていただきますが、こうした質問をお聞きしていると、まだまだ霊的真理がわかっていらっしゃらないようです。いまだに用語や書物や教会に縛られています。わたしたちはそういうものには一切こだわりません。本来が霊的存在である皆さんは、大霊と同じく無限の存在であり、そういう子供っぽい概念から早く脱け出ないといけないと申し上げているのです。

永遠に変わることのない真理を理解しないといけません。それは、古い言い伝えにこだわり、教義や用語や書物を手放すのを恐れているかぎり、できません。そこで、オモチャは幼児の段階では役に立っても、大人になったら、いち早く片付けないといけません」

「霊能開発の修行中の者が霊の救済活動に手をかけることについてはいかがでしょうか」


「未熟な霊媒がそういう重大な仕事に手をつけるのは実に危険で、感心できません。暗闇の中で迷っている霊を救うには、高度な霊能を身につけた霊媒を必要とします。未熟な霊媒だと、その霊媒自身が憑依されて、いろいろと厄介なことになりかねません」

「守護霊についてお話し願えませんか」


「霊が地上へ誕生してくるに際しては、一人の守護天使(※)がつけられます。それは地上でいう“家系”を同じくする者である場合もあれば、“霊的親和性”(霊系)によって選ばれる場合もあります。いずれにしても、両者を結びつける何らかの共通の利益というものに基づいております。

しかし、両者の関係がどこまで親密となるかは、地上の人間の霊的成長しだいで決まることです。守護霊の働きかけをまったく感受できない場合は、霊力を使用して外部環境から操作せざるを得ません。意識的協力が不可能な場合は、無意識のうちにでも協力関係をもたねばなりません。霊界からの働きかけは霊的にしかできませんから、いつどこであろうと、条件が揃った時にその影響力が届けられるように配慮するわけです」


※――Guardian Angel 日本では守護霊と呼び、その守護霊の守護霊、そのまた守護霊とたどっていくと、そうした“類魂”の大もとに行き着く。これを守護神と呼ぶことがある。

いずれにせよ、英語でも日本語でも“守護”という用語が使われているために、何でもかでも“守ってくれる”と誤解されがちであるが、地上にいる当人の成長と進化が絶対的な目標であるから、そのために最も効果的な手段を取ろうとする。それが当人にとっては辛く苦しい体験に思えることもある。

もう一つの誤解は、じっと付き添って見つめてくれているかに想像することである。実際は高級霊ほど仕事が多くて一刻の休みもなく活動している。その中で守護霊としての仕事を引き受けるのであるから、それは兼務の形になり、直接的な仕事は指導霊にまかせることが多い。それでいて当人の心の動きの一つ一つに通じている。

シルバーバーチは霊言現象のための指導霊であり支配霊であって、バーバネルの守護霊ではない。守護霊は別にいたはずで、“わたしよりはるかに霊格の高い方たちの指示により……”といったセリフが見えるので、たぶんその中の一人であろうと私は見ているが、六十年間、一度も表に出なかった。ここにも、シルバーバーチ霊団の次元の高さがうかがえる。

「霊界でも子供の出産があるのでしょうか」


「わたしは一度も見たことがありません。誕生といえるものならあります。しかし、それは霊的復活のことです。出産は地上だけの出来事です。地上は学校だからです」

「ホメオパシー(※)の謎について教えてくださいませんか」


※――Homeopathy 同種療法・同毒療法と訳されている医学用語で、病気の原因物質と同じものを少量だけ使う治療法。


「“謎”というべきものではありません。よくわからないだけのことです。生命の営みについて、われわれもあまり多くを知りません。造化の秘密もまだわかっておりません。何事も、究極のところまでくると“なぜか”はわからないのです。

ホメオパシーも究極的には一種の霊的エネルギーに基づいております。すべてがそうだとは言い切れませんが、突きつめていくと、無限小の世界へ入って行きます。そして、行きつくところまで行きつくと、やはり全生命の根源にたどりつきます。結局それが根源です。

別の側面からみると、この問題も、作用と反作用とは同じであると同時に正反対である、という科学的原則に基づいております。同種と異種とは作用と反作用であり、同じであると同時に正反対、つまり同じ棒(ポール)の両端ということです。“ゲッセマネの園”(※1)は同じポールの一方の端であり、もう一方の端が“変容の丘”(※2)というわけです。両者とも同じ一本のポールなのです」


※1――イエスが苦悩と裏切りにあったオリーブ山のふもとの丘で、人生における最大の苦難の象徴。


※2――イエスがモーセとエリヤの霊と交霊した丘のことで、その時イエスはこの世の人間とも思えない神々しい姿になったという。物的なもの、世俗的なものを克服した霊的勝利の象徴。

「人を殺(あや)めた人が、その後バチが当って殺されたとします。この場合、その人は死んでから改めて殺人行為の償いをさせられるのでしょうか」


「残念ながらご質問者は、霊的生命についてよくご存知ないようです。宇宙は、変えようにも変えられない絶対的な自然法則によって支配されております。その中でも原因と結果の法則(因果律)が基本となっております。つまり結果にはそれ相当の原因があり、原因のない結果というものは有り得ない――言いかえれば、原因はそれに先立つ原因の結果であり、その結果が原因となって新たな結果を生んでいくということです。

このように、各自の運命は自然法則によって決められていくのです。その法則の働きは当人の魂に刻み込まれた霊的成長度に反応します。あなたは今あるがままのあなたです。こうありたいと装ってみてもダメです。地上生活中に行ったことが、すべて、真の自我に刻み込まれています。その行為の価値が魂を豊かにもし、貧しくもします。あなたみずから行ったことが、そういう結果を生んでいくのです。

死によって物的身体から離れると、魂はそれまでに到達した進化の程度をスタートラインとして、新しい生活に入ります。それより高くもなっていませんし、それより低くもなっていません。自然の摂理があらゆる要素を認知しているからです。公正が行きわたるように摂理が自動的に働くのです。

罰せられるのも報われるのも、すべてあなたの行為一つ一つが生み出す結果の表れです。自分の行為によって成長する場合と、成長を阻害される場合とがあるということです。以上がわたしたちの説く教えの核心です」

「天体が人間の宿命や日常生活に影響を及ぼすという占星術の考えを肯定なさいますか、否定なさいますか。もともと占星術は運命判断を目的としたものではないという認識の上での話ですが……」


「わたしは、地球上の天体も、地球上の人間の生命に影響を及ぼしている事実は認めますが、それは、あくまでも物的影響力をもつ放射物に限られています。

その放射物が何であれ、それが霊力をしのぐほど強烈であったり強大であったりすることは有り得ないと信じます。あくまでも霊は物質より上である――霊が王様で物質は従僕である、というのがわたしの考えです。

宿命とおっしゃいましたが、何もかもあらかじめ定められているという意味での宿命はないと考えています。これも用語の問題――宿命という用語をどう定義するかの問題です。宇宙はあくまでも秩序によって支配されていて、人間生活の重大な出来事もその計画の一部であるという意味では、あらかじめ定められていると言えると思います。

そうした宿命的な出来事を生み出す波動や放射物、そしてそれらが人間各自に及ぼす影響を正確に計算しようと思えばできないことはないはずですが、最終的にはやはり霊が絶対優位にあり、物的なものは霊的なものに従属したものであると主張いたします」

「よく問題となる霊と物質との結合の時期を一応受胎の瞬間であるとした場合、その受胎までは霊ないし意識体はどこで何をしていたのでしょうか。そもそも意識体というのは何なのでしょうか」


「生まれ変わり(再生)のケースは別として、霊は、物質と結合する以前から存在していても、その時はまだ個体性はそなえていないということです。物質と結合してはじめて人間的個性(パーソナリティティー)が発生するのです。そして、そのパーソナリティーの発達とともに内部の個的大我(インディビジュアリティー)が顕現されてまいります。

したがって、ご質問に対する答えは、霊は無始無終に存在していますが、物的身体と結合してはじめて個別性というものを持つことになるということです。ただし、最初に断りましたように、例外として、物的身体との結合が初めてでないケースがあります」

「もしそれが事実で、物質の結合以前には個性がないとなると、霊としてのそうした新しい現象をどうやって意識できるのでしょうか」


「パーソナリティーとインディビジュアリティーとを区別して理解しないといけません。パーソナリティーというのは、永遠の実在であるインディビジュアリティーが地上生活中に見せる特殊な側面にすぎません。インディビジュアリティーとしては霊的意識体は無始無終に存在しております。が、それが地上に顕現するためにはパーソナリティーという地上的形態を持たねばなりません。つまりパーソナリティーというのはインディビジュアリティーが物的身体を通して顕現している部分で、いわばマスクであって、本当の顔ではありません。あくまでも地上だけの人物像であり、内的実在の物的表現にすぎません」

「となると、再生する目的は、そのパーソナリティーを大きくするためでしょうか、インディビジュアリティーの方ではなくて……」


「必ずしもそうとは言えません。再生するのはインディビジュアリティーの別の部分であることがあるからです。その新しい部分による地上体験によって、全体のインディビジュアリティーの開発が促進されるわけです。インディビジュアリティーはパーソナリティーよりはるかに大きいのですが、この“大きい”というのは霊的な意味でのことでして、その意味はどう説明したところで、地上の人間には理解していただけません」

「では、あなたの知っている方で、この地上へ再生して行った人がいますか」


「います、沢山います。ですが、(上の説明でもわかる通り)それを証明してあげるわけにはいきません。わたしの言葉を信じていただくほかはありません。もちろん、否定なさってもかまいません。真理は、否定されたからといって、いささかも影響はうけません」

「キリスト教的伝統の中で生まれ育ちながら、なお真実を求めている人は、キリストをどう理解したらよいのでしょうか」


「ここでもまた用語が問題となります。どの宗教にせよ、一つの宗教的伝統の中で生まれ育った人は、すでに無意識のうちに偏見というものを持ち合わせていますから、そうした問題を不偏不党の立場で論じるのは至難のことです。

“キリスト”という用語はもともとは“油を注がれた人”という意味であって、これまでに油を注がれた人を数え上げれば大変な数にのぼります。が、ご質問者が“ナザレのイエス”のことをおっしゃっているのであれば、あの二千年前の時代と地域環境の中で、人間としての正しい生き方を霊的に、心霊的に、そして物質的に範(はん)を垂(た)れた、すぐれた人物として敬意を表すべきです。

しかし、イエスなる人物は大霊だったわけではありません。大霊がイエスとなって出て来たのではありません。もしも神学で説かれているように、イエスは大霊が物的身体をまとって出現したのだと信じたら、せっかくのイエスの存在価値はなくなり、無意味となります。

かりに完全無欠の大霊がそっくり人間の形態をとって出現したとすれば、その人物が完全無欠の人生を送ったとしても当たり前の話であって、尊敬には値しません。が、皆さんと同じ一個の人物が皆さんと同じように自然の摂理にしたがって生まれ、しかも人間として最高の人生を送ったとなれば、それは人間の模範として、すべての人間の敬意を表するに値する人物であることになります。

啓示というものは、一つの時代、一つの言語に限られたものではありません。あらゆる啓示の始源は一つあるだけです。無限の叡智の宝庫があるのです。太古から現代に至るまでのあらゆる時代に、その国、その民族の条件に合わせて、必要なだけの叡智と知識を啓示する努力が、絶えずなされてきております。その意味でも、過去の啓示にばかり目を向けるのは間違っていることになります。

今この時点で、今いるその場で、永遠の泉からの啓示に浴することができるという事実をよく理解しないといけません」

「今あなたは、大霊だったら完全無欠の人生を送るのは簡単であるとおっしゃいましたが、その言い分だと、神も一個の人間的存在であるという理屈になりませんか」


「ご質問の意味が、神ご自身が人間的形体をまとって出現した――それが、第一だか第二だか第三だか知りませんが、とにかく“三位一体”のいずれかの“位(くらい)”を占めているという神学上の説のことをおっしゃっているのであれば、それは完全無欠の神の化身なのでしょうから、完全無欠の人生を送るのは容易かも知れないが、そんな人生には価値はないと申し上げているのです。ナザレ人イエスの使命の肝心なものが消滅してしまいます。

大霊は人間的な姿格好をしているのではありません。大霊はあらゆる人間的人物像を超越した存在です。ですが、それを人間に説明するためには、わたしは、限りある人間に理解していただける範囲でのことばを使用する以外に方法がないのです」

「“ナザレ人イエス”というのは、結局、何だったのでしょうか。並はずれた霊的才能を持ち、言うこと為すことすべてが背後霊に導かれていた、一個の人間だったのでしょうか。それとも、きわめて霊格の高い高級霊が降臨したのでしょうか」


「どちらも真実です。問題は、イエスの生涯に関する記録はきわめて乏しく、断片的で、その上ずいぶん書き換えられているということです。

イエスの生涯の最大の価値は、心霊的能力と霊的能力(P29参照)を見事に使いこなしてみせたことにあります。心霊的法則と霊的法則を私利私欲や邪(よこしま)なことに使用したことは一度もありませんでした。時には人間性をむき出しにしたこともありましたが(※)、霊的摂理というものを完全に理解しておりました。

歴史的に見れば、彼のような生身の人物による啓示を必要とする時代だったから出現した、と理解すべきです。が、彼がその啓蒙のために使用した霊力は、今あなた方の時代に顕現している霊力とまったく同じものだったのです」


※――不正や邪悪なものを前にした時に見せた激しい怒りのことを言っている。いわゆる義憤であるが、シルバーバーチに言わせれば、動機が何であれ、憤(いきどお)るということは人間的感情であって、その意味でイエスは完全無欠の人生を送ったとは言えないと、別のところで述べている。常識的に考えれば当たり前のことであるが、キリスト教ではイエスを無理やり完全無欠な人物にしようとするからそういう言い方をすることにもなったわけである。

「霊能開発に際して、真面目な霊を引き寄せ、邪霊を追い払うにはどうしたらよいでしょうか」


「類は類を呼ぶといいます。あなたの動機が真面目なものであれば、つまり常に最高のものを求め、邪心をもたず、利己的な下心がなければ、親和力の作用そのものが同じような霊を引き寄せます。また、そこには危険性もないことになります。

要するにあなたから出ている雰囲気が、異質なものを近づけなくするわけです。もしも聖人君子に愚かしい霊がつくとしたら、宇宙には摂理がないことになります」

「あなたは、愛する者がいつも私たちといっしょにいてくれているとおっしゃいましたが、その時、彼らは本来の自我の一部ではないかと思いますが……」


「そうです。愛する霊は地上の者を見守りつつ、同時に霊界での生活を営むことができるのです。皆さんのように一個の身体に縛られていないからです。こちらの世界では、意識というものに地上のような制約がありません。皆さんは英国と南アフリカに同時にいることはできませんが、わたしたちにはそれが可能なのです。距離とか行程とかの問題がないからです。

愛する者にとっては、皆さんのもとに来るのは決して辛いことではありません。愛がなければいっしょにいる気にはなれません。愛があればこそ、歩調を合わせて見守る気にもなるわけです」

「霊的な援助は必ず背後霊を通して届けられるのでしょうか――大霊が直接関与するのではなくて」


「大霊による直接の関与などというものは絶対にありません。あなた方が想像なさるような意味での人間的存在ではないのです。

そうではなくて“ヤコブのはしご”(旧約聖書)の話に象徴されているように、最低のものから最高のものへと至る霊的階梯があって、そこに無数の中間的存在がいるのです。上へあがるほど、より神性を帯びた意志と叡智を表現しております。

ですから、人間が心を開き、霊性を開発し、向上するにつれて、より大きな霊力、より大きな知識、より大きな理解力をそなえた高級な存在と連絡が取れるようになるわけです。みな大霊の僕(しもべ)として、この全大宇宙の人間的存在の向上を援助する仕事に、自発的にたずさわっているのです。こちらの世界では、進化向上が進むほど、自分が得たものを他に施すべきであるとの自覚が強くなるのです。

以上がご質問に対するわたしの答えです」

「霊界にも学問のための建造物があるのでしょうか」


「もちろん、ありますとも。こちらの教育システムはいたって単純です。ありとあらゆる分野の知識が得られるように、各種のホール、専門学校、総合大学等が用意されています。そこで教える資格をもつ者は、教育者としての才覚をそなえた人にきまっています。

この無限の宇宙の中のありとあらゆるテーマについての知識が得られるようになっていて、教師も、それぞれの分野にふさわしい資格をもっている者が揃っており、受け入れる用意のある人に分け隔てなく与えられます。どの分野だけ、といった制約はありません。受け入れる用意のある人には何でも与えられます。つまり、唯一の条件は魂の受け入れ態勢です。

地上の皆さんでもその知識に与(あずか)ることができます。皆さんにとって興味のあること、成長と開発と進歩にとって必要な情報と知識を得るのは至って簡単なのです」

「“愛”に発した貢献(サービス)と“責務への忠誠心”に発した貢献とでは、どちらが上でしょうか」


「それは、その“貢献”がどういう性質のものであるかによって違ってきます。その動機を探らなくてはなりませんし、それに、あなたのおっしゃる“愛”とは何かが問題です。愛の最高の形での表現は神性を帯びたものとなりますが、最低の形での表現は利己主義の極致となります。

どんなものであっても、サービスはサービスです。その価値の尺度は、そのサービスを受けた人への作用と、施した人への反作用です。責務への忠誠心に発したものであれば、それはそれなりに立派ですし、愛に発したものも、その愛の対象のみに偏らない、無私・無欲の愛によるものであれば、これまた、動機は立派です」

「心霊治療は別として、スピリチュアリズムの活動は物理的現象を必要としない段階に入ったと言えるでしょうか」


「いえ、いつの時代にも、自分の目で確かめ、手で触れないと気が済まない人、つまり物的次元での証拠を必要とする人のための物的現象が必要です。それは物質以外のものの存在が信じられない人だけに限ったことではなく、五感の領域を超えたものの実在が理解できないように洗脳された科学者についても言えることです。

むろん同じく物的現象でも、時代によって形式の変化はあるかも知れません。が、物的な側面での何らかの形での演出は、いつの時代にも必要です。寄せては返す波のように、歴史はくり返します」

「公開交霊会(※)などで壇上の霊視家が霊からのメッセージを伝える時に“この列の何番目の席の方”といった指摘の仕方でなしに、その方の名前が言えるようになれば、なお証拠性が高まると思うのですが……」


※――シルバーバーチの交霊会のように限定された少人数で行うのを“家庭交霊会(ホームサークル)”といい、広いホールなどで大勢の会衆を前に行うのを“公開交霊会(デモンストレーション)”という。


「もちろん、それに越したことはありません。ですが、バイブルにもありますように、見えるといい聞こえるといっても、人間の能力には限度があります。ご質問者は、霊媒現象というものがその時その場での条件次第で良かったり悪かったりするものであることをご存知ないようです。まず第一に、それまでの霊媒自身の霊格の発達程度がありますし、霊的能力の開発程度がありますし、通信霊が霊媒のオーラとどこまで感応できるかの問題もありますし、支配霊と霊媒との一体関係の程度にもよります。

一つの霊視現象には以上のような要素が絡んでいるのです。問題は、どうすべきかではなくて、その時の条件下でいかにして最高のことを行うかです」

「あなたは、われわれ人間は大霊のミニチュアないしは縮図、未開発の大霊である、といった意味のことをおっしゃったことがあります」こう述べて、続けて質問に入ろうとするとシルバーバーチが――


「あなたは神、わたしのいう大霊であり、大霊はあなたです。発達程度の違いがあるだけです。大霊が所有しているものはすべて、本性(エッセンス)の形であなたにも宿されています。大霊は神性の極致であり、あなたにも同じ神性が宿されています。神性の本質の違いではなく、その神性の発達程度の違いがあるだけです」

「で、その人間がひどい苦痛をともなう精神的障害によって表現機能を奪われているケースがありますが、そんな時は、むしろ早く死なせてあげた方がよいのではないでしょうか」


「その人がいつ死ぬべきであるということを、一体どなたがお決めになるのでしょうか。その責任はだれが取るのでしょうか。この人は二度と正常に戻れませんという判断は、一体だれに下せるのでしょうか。精神と霊とが正常な連絡関係を取り戻して精神的障害が治ってしまう――そういう霊的革新が起きないとは、だれに断言できるのでしょう。

わたしはそういう考えには賛同しかねます。人間が生命をこしらえるのではない以上、その生命を勝手に終わらせる権利は、人間にはありません。次の進化の過程にそなえた体験を積むために割り当てられた期間は、最後まできちんと生きるべきです。ほんのわずかな地上生活でもって永遠の時を査定なさろうとすると、この無限の宇宙について、至ってお粗末でひがんだ観方(みかた)しか生まれてきません」

「そういう行為は、魂に霊的資質を失わせることも有り得るのでしょうか」


「いえ、失うということは有り得ません。表現の器官を失うことによって開発のチャンスを失うことにはなっても、本来の霊的資質を失うことは有り得ません。その分、つまり失われた開発のチャンスは、埋め合わせの原理によって、他の何らかの手段によって与えられることになるでしょう」

「“単純”ということが神の属性であると信じているわたしたちからすれば、霊界の通信者はなぜもっと単純な表現をしてくれないのだろうかと、疑問に思うのです。高級界の神霊のことになると、なぜか直接的な表現を避けるところが見受けられます。たとえば“神”のことを私たちはGod(ゴッド)という用語を用いますが、あなた方はそれを使用せずにGreat White Spirit(グレイト ホワイト スピリット)などと、ややこしい言い方をなさいます」


「複雑で深遠な問題を扱うには、そう単純に片づけられないことがあるのです。たとえば“神”のことをあなた方はゴッドと呼び、わたしたちはグレイト・ホワイト・スピリットと呼びますが、どこがどう違うのか。

わたしにとっては、宇宙の背後に控える無限の力は、“ゴッド”のように、世界中の億単位の人間がそれぞれにまったく異なる概念で使用している用語を用いるよりは、グレイト・ホワイト・スピリット(真白き大霊、ないし無色の大霊、の意)の方が、より正確にその本性を伝えていると考えるのです。単純ということは、それで済まされる場合には大切な要素となりますが、この問題に関するかぎり、わたしはゴッドという単純な用語を避けても非難されるいわれはないと信じます。

高級神霊のことですが、これもなかなかうまい表現が見当たらないのです。わたしが知るかぎり、地上には譬えられるものが存在しません。あなたはご自分と似たような容姿の人間ばかりを見慣れていらっしゃいますが、わたしが光栄にも時おり連絡を取り合うことを許されている高級霊になると、その容姿をどう表現したところで、あなたには理解していただけないでしょう。

“存在”というと、人間的容姿をそなえたものしか想像できない人間に、全身これ光、ないしは炎のかたまり、といった存在をどう表現したらよいのでしょう。伝えようにも、それをうまく表現する用語が見当たらないのです。秘密にしておこうという魂胆があるわけではありません。現在の地上人類の進化の段階では、それとは途方もなく隔たりのある段階の存在は、とても理解できないからにすぎません」

「私の家でサークルをこしらえて、そこへあなたがお出になって人生相談に乗っていただくというのは可能でしょうか」


「それをこの家で行いましょうということで、これまで努力してきたわけです。このわたしを頼りにしてくださるのは有り難いのですが、こうしてしゃべるための霊媒を養成するのに、ずいぶん永い年月が掛かったのです。それがこうして成就されたというのに、また新たな霊媒のために永い年月を掛けるということは、計画の中に組み込まれてはいないようですよ」

「私は霊視能力が欲しいのですが、これまでのところ、うまくいっておりません。熱意が不足しているのでしょうか」


「熱意というのは、あまり強すぎると、えてしてバイブレーションを乱すことがあるものです。健全な能力の開発は、サイキックなものであれスピリチュアルなものであれ、完全な受容性と安らぎと静寂の中で行われるものです」

「献血という行為には何か霊的な意味があるのでしょうか。また、肉体以外にも何か影響はないものでしょうか」


「わたしは、ここで改めて輸血という医療行為に不賛成を表明せざるを得ません。そのわけは、輸血に際して注入されるのは血液だけではなくて、それに付随した幽質の要素も含まれているからです。それは献血者の人間性の一部です。つまり輸血によってその献血者の存在の本性にかかわるさまざまな要素までもが他人に移されることになり、これは、場合によっては好ましくないケースも有り得ます。

人間というのは実に複雑な要素が一個の統一体となった存在でして、入り組んだメカニズムの中で、全体ががっちりとうまく組み合わさっているのです。その大切な要素の一部を他の人間に譲るということは、自然の摂理に反します。なぜなら、肉体と精神と霊の三つの要素の正しい関係の最大の条件である“調和”を乱すことになるからです」

「でも、それによって生命が救われたケースがあるようですが……」


「わたしの気持ちとしては、いかなる方法にせよ、患者を救うという行為の尊さを割り引くようなことは言いたくないのですが、それでも一言だけ言わせていただけば、現在の医学で行われている治療法を絶対と思うのは間違っております。

どうも、医学の世界に不謬(ふびゅう)性のようなものがあるかに考える傾向があるようですね。病気を治す、あるいは生命(いのち)を永らえさせるにはこうするしかないと医者が言えば、それで最終的な断が下されたことになるかに思われているようですが、わたしはそうは思いません。

わたしに言わせれば、人間は本来が霊的存在であり、すべての治療法はその霊性の優位性を考慮すべきであるという原則に立てば、無数といってよいほどの治療法が用意されているのです。肉体というのは霊が使用する機械としての存在しかないのです。

とにかく生命さえ取り止めればいいのだ、という考えに立てば、今の医療行為も正当化されるかも知れませんが、では、そのために行われている身の毛もよだつような恐ろしい、そして人間の霊性にもとる行為は許されるのか、という疑問が生じます」

「生体実験のことでしょうか」


「そうです。目的は必ずしも手段を正当化しません」

「移植手術については、いかがでしょうか」


「患者自身の身体の一部を他の部分に移植するのであれば、結構なことです。生理的要素も幽質的要素もまったく同一のものだからです。ですが、それを他人に移植するとなると、必ずしも感心しません。(人道上はともかくとして)その移植片そのものが問題を生み出すからです。肉体そのものには生命はなく、霊と呼ばれている目に見えない実在の殻または衣服にすぎないことを理解することが、この問題を解決するカギです」

「眼の移植手術をすれば見えるようになるという場合でも、それをしないで、見えないままでいるのが望ましいということになるのでしょうか」


「個々の問題にはそれなりの事情がありますから、それを無視して一般論で片づけるわけにはまいりませんが、わたしたちからすれば、目が見えないというのは、あくまでも相対的な問題としてしか考えておりません。霊的な盲目という問題をどうお考えになりますか。

地上人類の霊的覚醒を使命としているわたしたちの立場からすれば、無数にいる霊的に盲目の人の方をむしろ見下したくなります。そこでわたしは、この問題も当人の魂の進化の程度による、とお答えします。霊的覚醒の段階まで到達している人にとっては、目が見えないということは、別に障害とはならないでしょう。ただ物が見えるというだけの視力よりもはるかに素敵な視野を得ていることでしょう。

皆さんはこうした問題をとかく物的身体の観点からのみ捉えて、永遠という概念を忘れがちです。といって、そのことを非難するつもりはありません。無理もないことだからです。たしかに、目が見えなければ春の華やかさと美しさはわかりません。が、そんなものは、霊の華やかさと輝きに較べれば、物の数ではありません」

「でも、私たちは、今なおこの世界にいるのです」


「その通りですね。ですが、俗世にありながら俗世に染まらない生き方もできることを知ってください」

祈り

愛の絆は死によって切断されることはなく……


ああ、大霊よ。あなたの限りなき愛の深さを誰が測り得ましょう。あなたの奇しき恩恵を誰が説き明かせましょう。あなたの神々しき尊厳を誰が正しく描写し得ましょう。

あなたは限りある理解力を超えた存在にあらせられます。あらゆる限界と束縛とを超越した存在にあらせられます。あなたは無限なる霊――かつて存在したものと、これから存在するであろうもののすべての根源にあらせられるのでございます。

あなたの霊性が“愛”に存在を与え、あらゆる意識的存在にあなたの神性の属性を賦与なされました。人間を理想主義と自己犠牲と奉仕の精神に燃え立たしめるのも、内部に湧き立つあなたの霊性にほかなりません。

このことは、あなたが人間の内部に顕現しておられるということであり、その意味において人間は極微の形態をとった大霊と言えるのでございます。

わたしたちはあなたの子等に、その霊性に秘められた資質と属性と才能のすべてを自覚させてあげたいと望んでおります。その認識なくしては、人間は無知の中に生きていることになるのでございます。武器を持たずに戦場へおもむくのにも似ておりましょう。

それに引きかえ、自己の存在の実相に目覚めた者は、万全の装備を整えたことになり、生きるということの中に美しさと愉(たの)しさと充実感と輝きとを見出すことができるのでございます。

さんさんと輝く陽光のもとに生きられるものを、実在によって映し出される影の中で生きている者が多すぎます。安定性と落ち着きと自信をもたらしてくれるはずの知識を欠くがゆえに煩悶の絶えない人、内なる嵐にさいなまれ続けている人が多すぎます。

わたしどもがこの地上という物質の世界にもたらしたいのは、その霊的実在についての“知識”でございます。それによって地上の子等が真実の自我を理解し、あなたとのつながり、および同胞とのつながりについて理解し、愛の絆は死によって切断されることはなく、情愛によるつながりも血縁によるつながりも、死後もなお存続するものであることを知ることになりましょう。

それもわたしたちの使命の一環なのでございます。その目的のために、これまで一身を捧げてまいりました。少しでも広く真理を普及させることでございます。子等が知識によって武装し、理性によって導かれ、永遠なる霊力の理解のもとに生きることができますように……そう祈るからでございます。

Tuesday, August 25, 2026

シルバーバーチの霊訓  地上人類への最高の福音

  The Seed of Truth

トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)



10章 幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものです

生誕後はや二千年もたった今日でさえ、イエスなる人物の正しい位置づけが、スピリチュアリズムにおいても時おり論議の的となる。ある者はイエスも一人間だった――ただ並はずれた心霊的能力を持ち、それを自在に使いこなした勝れた霊覚者だったと主張するし、またある者は、やはりイエスは唯一の“神の子”だったのだと主張する。

当然のことながら、毎回ほぼ一時間半も続いたシルバーバーチの交霊会においても、たびたびその問題ならびに、それに付随した重大な問題が提出されてきた。出席者は異口(いく)同音に、その一時間半があっという間に過ぎた感じがするのが常だったと言う。

さて、そんなある日の交霊会で、一牧師からの投書による質問が披露された。“シルバーバーチ霊はイエスを宇宙機構の中でどう位置づけておられるのでしょうか。また〈人間イエス〉と〈イエス・キリスト〉とは、どこがどう違うのでしょうか”というのがそれである。これに対してシルバーバーチはこう答えた。


「ナザレのイエスは、地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜(※)の、最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて、霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。


※――メルキゼデク→モーセ→エリヤ→エリシャ→イエスという系譜のことを言っているのであるが、こうした霊的系譜は各民族にある。ただ、世界的視野でみた時、イエスが地上人類としては最大・最高の霊格と霊力をそなえていたことは間違いない事実のようで、モーゼスの『霊訓』の中でもインペレーター霊がまったく同じことを述ベている。今スピリチュアリズムの名のもとに繰り広げられている地球浄化と真理普及の運動は、民族の別を超え、そのイエスを最高指導霊とした、世界的規模で組織された霊団によるものである。

イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と少しも変わらない一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質界へやってきて、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが大量に流入したことは、前にも後にもありません。イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦(が)れきの下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。

そのために彼は、まず自分へ注意を引くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して、心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。偉かったのは、それを一度たりとも私的利益のために使わなかったことです。

またその心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も、廃止も、干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を引くようになると、こんどは、人間が地球上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊覚者が説いてきたのと同じ、単純で、永遠に不変で、基本的な霊的真理を説くことを開始したのです。

それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する正しい記録はきわめて乏しいのですが、その乏しい記録に大変な改ざんがなされていることです。ずいぶん多くの、ありもしないことが書き加えられています。したがって聖書に書かれていることには、マユツバものが多いということです。できすぎた話はみな割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから……。

もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後さらに開発され威力を増した霊力を駆使して、愛する地上人類のために働いておられるのです。イエスは“神”ではありません。全生命を創造し人類に神性を賦与した、宇宙の大霊そのものではありません。

いくら立派な地位(くらい)ではあっても、本来まったく関係のない地位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽くすゆえんとはなりません。父なる神の右に座しているとか、“イエス”と“神”とは同一義であって、置き替えられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。

イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にひざを折り、平身低頭して仕える必要はないのです。それよりも、イエスの生き方を自分の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。

以上、大変大きな問題について、ほんの概略を申し上げてみました」

メンバーの一人「“キリストの霊” Christ Spiritとは何でしょうか」


「ただの用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを誇示するために、聖なる油を注がれた時代がありました。それは大抵王家の生まれの者でした。“キリスト”という言葉は“聖油を注がれた”という意味です。それだけのことです。(※)」


※――イエスの死後、イエスこそそれに相応しい人物だったという信仰が生まれ、それでJesus Christと呼ばれるようになり、それがいつしか固有名詞化していった。

「イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったというのが、私には理解できません」


「わたしは決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。わたしが申し上げたのは、地上へ降りた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊覚者の系譜の中で、イエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。イエスの生活が完全だったとは一度も言っておりません。それはあり得ないことです。なぜなら、彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」

「イエスの教えは最高であると思われますか」


「不幸にして、イエスの教えはその多くが汚されております。わたしはイエスの教えが最高であるとは言っておりません。わたしが言いたいのは、説かれた教えの精髄(エッセンス)は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど強力に、そして純粋に心霊的法則を使いこなした例は、地上では空前絶後であるということです」

「イエスの教えがその時代の人間にとっては進みすぎていた――だから理解できなかった、という見方は正しいでしょうか」


「おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに、彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は、彼らにとって成功であることが時代的にみれば失敗であり、彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」


※――George Lansburyは一九三一年~三五年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次大戦勃発直前の一九三七年にはヨーロッパの雲行きを案じて、ヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。Dick Sheppardは生前キリスト教の牧師だったこと以外は不明。なおこの当時二人ともシルバーバーチ霊団のメンバーだったことは他の資料によって確認されている。

「イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の始原であると考えてよろしいでしょうか」


「それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは、霊格の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し、かつそれを自在に使いこなすことができたからです。

ぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた愚行が多かったにもかかわらず、あれほどの短期間に全世界に広まり、そして今日まで生き延びてこれたのは、イエスの言動が常に霊力と調和していた(※)からだということです」


※――ここでは背後霊団との連絡が緊密だったという意味。『霊訓』のインペレーター霊によると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。地上生活中のイエスは早くからその事実に気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体で離脱し、その背後霊団と直接交わって、連絡を取り合っていたという。

かつてメソジスト派の牧師だった人が尋ねる――

「いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできませんか」


「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異議を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。教えそのものと、その教えを取り違え、しかもその熱烈な信仰によってかえってイエスを磔刑(はりつけ)にするような間違いを何度も犯している信奉者とを混同しないようにしないといけません。

イエスの生涯を見て、わたしはそこに物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完璧で、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった――自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。イエスは一度たりとも、みずから課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的のために利用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。

どうもうまく説明できないのですが、イエスも、生をうけた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味では完全ではあり得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派な、そして大きな仕事ができる時代が来るとイエス自身が述べている意味がなくなります。

イエスという人物を指さして“ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時は、これほどの仕事ができるのですよ”と言える、そういう人物だったと考えればよいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。しかもそのイエスは、わたしたちの世界においても今、わたしの知るかぎりでの最高の霊格をそなえた霊(※)であり、自分を映す鏡として、イエスに代わる霊はいないと考えております。


※――地球神界での話。『ベールの彼方の生活』では“各天体にキリストがいる”と述べられている。要するに神庁の最高位の霊のことで、イエスなる人物はそのすべてではないが直接の表現だったということであろう。

わたしがこうしてイエスについて語る時、わたしはいつも“イエス崇拝”を煽(あお)ることにならなければよいが、という懸念があります。それは、わたしがよく“指導霊崇拝”に警告を発しているのと同じ理由からです。

あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな、永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は、理性と常識と知性をもって行わないといけません。それは書物からでも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人がすすめるから、良いことを言ってるから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断規準です。

このわたしとて、無限の叡智の所有者などではありません。霊の世界のことを一手販売しているわけではありません。地上世界のための仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。完全であるとか、間違ったことは絶対に言わないなどとは申しません。みなさんと同様、わたしも至って人間的な存在です。ただ、みなさんよりは生命の道をほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が、わたしに少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしもわたしの言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線をわたしといっしょに眺めませんかと、お誘いしているわけです」

霊言の愛読者の一人から“スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して〈最後の晩餐〉の儀式を行うべきでしょうか”という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチはこう答えた。


「そういう儀式(セレモニー)を催すことによって、身体的・精神的・霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれとしては最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、わたし自身には、そういうセレモニーに参加したいという気持ちは毛頭ありません。イエスご自身も、そんなことをしてくれたからといって、少しもうれしくは思われません。わたしにとっても何の益にもなりません。まったくなりません。霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛(じゅばく)から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。

イエスに対する最大の貢献は、イエスを模範と仰ぐ人々が、その教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病に苦しむ人々を癒し、疑念と当惑に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人々すべてに手を差しのべてあげることです。

儀式よりも生活の方が大切です。宗教は儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。“聖なる書”と呼ばれている書物から、活字のすベてを抹消してもかまいません。讃美歌の本から“聖なる歌”をぜんぶ削除してもかまいません。儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に“宗教的人間”でありうるのです。そういう生活こそ、内部の霊性を正しく発揮させるからです。

わたしとしては、みなさんの関心を儀式ヘ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく、生活そのものです。生活の中で何を為すかです。どういう行いをするかです。〈最後の晩餐〉の儀式がイエスの時代よりさらに遠くさかのぼる由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です」

別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されて――


「人のためになることをする――これがいちばん大切です。わたしの意見は単純・明快です。宗教には“古い”ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関わりもないものばかりです。

わたしにとって宗教とは、何かを崇拝することではありません。祈ることでもありません。会議を開いて考え出した形式的セレモニーでもありません。わたしはセレモニーには興味はありません。それ自体はなくてはならないものではないからです。

しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事をなくてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、それを無理して止めさせる理由はありません。

わたし自身としては、幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との交渉、地上的障害を超越して、次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係――これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えとは何の関係もありません」
祈り





あなたの目の前に人類は一つ……


これより皆さんとともに、可能なかぎりの最高のものを求めて、お祈りいたしましょう。

ああ、大霊よ、わたしどもは、あなたをあるがままの姿、広大なこの大宇宙機構の最高の創造主として、子等に説き明かさんとしております。あなたは、その宇宙の背後の無限の精神にあらせられます。あなたの愛が立案し、あなたの叡智が配剤し、あなたの摂理が経綸しているのでございます。

かくして、生命現象のあらゆる側面があなたの摂理の支配下にあります。この摂理は可能なかぎり、ありとあらゆる状況に備えたものであり、一つとして偶発の出来事というものは起きないのでございます。

あなたはこの宇宙に、あなたの神性の一部を宿した個的存在を無数に用意なさいました。その神性があればこそ、崇高なるものを発揮することができるのでございます。その神性を宿せばこそ、すべての人間はあなたと、そして他のすべての同胞と霊的につながっていることになるのでございます。民族の別、国家の別、肌の色も階級も教義も超えて、お互いに結ばれているのでございます。あなたの目の前に人類は一つなのです。

誰一人として忘れ去られることも見落とされることもございません。誰一人として無視されることも、あなたの愛が届かぬこともございません。孤独な思いに沈むのは、あなたの絶妙な摂理というものが存在し、心がけ一つで誰でもその恩恵にあずかることができることを知らぬからにほかなりません。

子等が霊の目と耳とを開きさえすれば、高級界からの美と叡智と豊かさとが、ふんだんに注がれるのでございます。その高級界こそが、すべてのインスピレーション、すべての啓示、すべての叡智、すべての知識、すべての愛の始原なのでございます。

わたしたちの使命は、子等に内部の神性と霊的本性に気づかせ、地上はいっときの仮住まいであって、永遠の住処(すみか)は霊界にあること、地上生活の目的は、そうした崇高なる霊的起原と誉れ高き宿命に恥じないだけの霊格を身につけることであることを理解せしめて、しかるべき導きを与えることでございます。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。


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シルバーバーチの霊訓  地上人類への最高の福音

 The Seed of Truth

トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)



9章 霊の優位性の自覚にもとづく修養的生活――これが最高の生き方です


「霊界にも組織的な反抗勢力の集団がいるのでしょうか」――この問いに対するシルバーバーチの答えの中で、スピリチュアリズムの敵は地上だけでなく、霊界にもいるという事実が明かされた。シルバーバーチはこう答えたのである。


「いるのです。それがわれわれにとって悩みのタネの一つなのです。組織的反抗といっても、聖書にあるような天界から追放された堕落天使の反乱の話を想像してはなりません。あれは象徴的に述べられたまでです。

残念ながら霊界にも真理と叡智と知識の普及をこころよく思わぬ低級霊の勢力がいるのです。そして、スキあらば影響力を行使して、それを阻止しようとするのです。こうした交霊会のほとんどすべてが、その危険下にあるといってよろしい。ただし、和気あいあいの交霊会――地上のメンバーとこちらの霊団との間の協調関係がしっくりいっているかぎり、彼らのつけ入るスキはありません。

彼らにとって最もつけ入りやすい条件は、交霊会のメンバーの間に意見の衝突があって、雰囲気が乱れている時です。この交霊会も当初はそうでしたが、次第に改善されていきました。


訳注――当初はバーバネル自身が入神させられることを嫌っており、メンバーも奥さんのシルビアのほかに心霊的知識のない知人が二、三人といった状態で、シルバーバーチも試行錯誤の連続だったようである。(*詳しくは『霊性進化の道しるべ』巻末のバーバネルの遺稿《シルバーバーチと私》を参照してください。)

霊媒を通して届けられるメッセージに矛盾が多いのは、そのせいです。一種の妨害行為のせいですから、常に警戒が必要です。霊能開発を一人でやるのが感心しないのも、そこに理由があります。たった一人では、支配霊も指導霊も、邪霊やイタズラ霊を排除しきれないからです。

霊界というところは、一度は地上で生活したことのある人間(霊)で構成されていると考えてよろしい(※)。決して聖なる天使ばかりがいるわけではありません。霊性の粗野なものから至純至高の高級霊にいたるまで、実にさまざまな霊格をそなえた、かつての人間のいる世界です。みんな地上世界から来た者です。ですから、地上世界のすべての人間が清潔で、無欲で、奉仕的精神で生きるようになるまでは、霊の世界にも厄介な者、面倒を見てやらねばならない者が何割かはいることになります。そういう次第なのです」


※――地球に霊界があるように各天体に霊界がある。当然、太陽にも霊界があり、太陽系全体としての霊界があり、銀河系星雲にも霊界がある。さらに何段階もの霊界があって、最後は宇宙全体の霊界があるのであろうが、そこまでいたると、もはやスペキュレーションの域に入る。地上人類にとっては太陽系が事実上の宇宙であり、シルバーバーチも宇宙とか森羅万象といった用語をその意味で用いている。ここでいう“霊界”も地球の霊界の話である。

レギュラーメンバーの一人「でも、せっかくの計画を台なしにするような厄介者を、あなたほどの方でも、どうにもならないのでしょうか」


「可能なかぎりの手は尽くします。しかし、その中には、わたしたちとの接触が取れない者が大勢いることを知ってください。関係が生じないのです。霊性が向上して受け入れる用意が整った時にはじめて、われわれの影響力に触れるようになるのです。

誤解のないようにお願いしたいのは、そうした反抗勢力は本来のわたしたち(上層界の霊)には何の害も及ぼせないということです。彼らの勢力範囲は地上界にかぎられています。霊的状態が地上的波動に合うからです。

ですから、彼らが厄介な存在となるのは、わたしたちが波動を下げて地上圏へ近づいた時です。つまり低級勢力が幅をきかしている境涯へ足を踏み入れた時に問題が生じているだけです」

「この地上世界ですと、面倒ばかり起こしている者がいると、何とか手段を講じて更生させようとしますが、そちらではそういうわけにはいかないのですね?」


「それは、たとえば逮捕して、場合によっては死刑に処するということでしょうが、そういう手段では、こちらの世界へツケを回すようなものです」

「でも、場合によっては過ちを悟らせることによって立派に更生させることができます」


「それが思うようにならない場合もあるのではありませんか」

ここで別のメンバーが「懲役という方法もありますが、これだけでは精神の歪みを正し非行を改めさせることはできません。服役はどうやら矯正手段ではなさそうです。それによって心を入れかえさせることに成功するのは、きわめて稀です」と言うと、シルバーバーチが――


「実は地上世界では、そうした非行の元凶を突き止めるのが容易でないのです。自分はうまくすり抜けておいて、罪を他人におっかぶせることができるわけです。

が、こちらではそうは行きません。霊性の進化に応じた界層にしか住めないのです。地上世界ではさまざまな霊格の者が同じ平面上で生活しております。もっとも、だからこそ良い、という側面もありますが……。

いずれにしても、そうした妨害や反抗の勢力の存在をあまり大ゲサに考えるのは禁物です。善性の勢力に較べれば大したものではありません。ただし、存在することは確かです。それよりもっと厄介な存在として、地上時代の宗派の教えを死後もなお後生大事に信じて、それを地上の人間に広めようとして働きかける狂信家がいます」

「それが一ばん厄介な存在ということになるのでしょうか」


「いえ、総体的にみれば大したことはありません。彼らの中で死後の自分の身の上の真相に気づいている者は、きわめて少数だからです。大半の者は地上時代にこしらえた固定した精神構造の中に閉じ込められたまま、一種の夢幻の世界で生きております」

別の日の交霊会で、ローマカトリックの信者からの投書が読み上げられた。その筆者はまずスピリチュアリズムに対するローマカトリック教会としての否定的見解を引用したあと、“しかし、もしも霊界との交信が真実であるとしたら、それは地上人類にとって素晴らしいことです”という自分の見解を述べ、さらに“死後存続が証明されれば地上に愛が増え、罪悪と戦争が減ることでしょう”と結んであった。

これを聞いてシルバーバーチはこう述べた。


「今一人の人間が、難しい環境の中で少なくとも微かな光を見出し、これまで真実であると思い込んできたものとの関連性を理解しようと努力している事実を、まず喜びたいと思います。

この方は、疑問に思うことを少なくとも正直に尋ねてみるという行為に出ておられます。この段階まで至れば、真理探究が緒(ちょ)についたことを意味します。どうかこの方に、疑問は徹底的に追求し、証明を求め、証明されたものにしっかりとしがみつき、証明されていないもの、理性が承服しないものは、勇気をもって捨て去るようにお伝えください。

この方に伝えていただきたいことが、もう一つあります。お手紙の中にいくつかの引用文がありますが、この方は本当にそれを信じていらっしゃるのでしょうか。それが果たして真実かどうかの証拠がないものについては、“果たして筋が通っているだろうか”と一度はご自分の理性で疑ってみることが大切です。大霊からの授かりものであるその理性が納得しないものは、そこできっぱりと捨て、いかなるテストにも追求にも検査にも批判にも疑念にも耐えてなお残るものだけを基盤として、自分の宗教を打ち立てるのです。

一つ一つ取り挙げると時間がかかりますので、例として一つだけ取り挙げてみましょう。この方は“神はモーゼにかく言えり……”という文を引用しておられますが、神がモーゼに言ったことが事実であるという証拠はどこにあるのでしょうか。その証拠がないかぎり、あるいは少なくとも信じてよいと断定できるだけの理由が揃わないかぎりは、それを引用してはなりません。理性による判断はそれからのことです。それに、ついでに言えば、かりにそれが証明されたとしても、一体それが今日の時代に適用できるかどうかの問題もあります。

理性による検査と探求をなされば、かつては真実と思い込んでいたものの多くが、何の根拠もないことがわかり、間違いない事実だけを根拠としてご自分の宗教を打ち立てることになります。それならば、疑念の嵐が吹き荒れても、揺らぐことはありません。知識は岩盤のようなものだからです。その方に、わたしからの愛の気持ちを届けてあげてください。そして、頑張り通すようにと励ましてあげてください」

続いての投書は女性からのもので、いかに小さな体験にも、行為にも、あるいは言葉にも、思念にも、それなりの影響力があるとのシルバーバーチの言葉を引用して、“では一体どうすれば自分の言動に自信が持てるようになるのでしょうか”というものだった。シルバーバーチが答える。


「その方にこうお伝えください――精神的にも霊的にも自己を厳しく修養し、生活のすべての側面を折目正しく規制し、自分は本来は霊であるという意識をもって、行動のすべてに霊の優位性を反映させなさい、と。

霊の優位性の自覚にもとづく修養的生活――これが最高の生き方です。既成のテキストはいりません。魂の成長ということだけを心がければいいのです。大霊からいただいている霊力が顕現し、人間が勝手にこしらえた教義への盲目的信奉者とならずにすみます」

次の質問は、スピリチュアリズムというものが、ただ単に他界した身内の者との交霊だけに終始して、本来の意義と責任を忘れてしまう危険性はないかというものだった。これに対してシルバーバーチはこう答えた。


「知識の使い道を誤るという問題は常に存在します。何事にも正しい使い方と間違った使い方とがあるものです。これは誰しも直面させられる問題の一つです。

自分の個人的な不幸の慰めを交霊会に見出す人がいることは確かです。そして、悲しむ人がその悲しみを慰められること自体、少しも悪いことではありません。死別の嘆きが軽減され、涙を流さなくなるということは結構なことです。喪の悲しみに暮れる人にとって、交霊会が慰めの場となるのを、いけないことと非難するのはよくありません。むしろ必要なことですし、それがその人にとって人生の大きな転機になることもあります。

問題は、胸の痛みが癒え、涙が消え、陰うつさが晴れ、重荷が軽くなってから後のことです。言い変えれば、死後の存続という知識を手にしたあともなお、いつまでも私的な交信の範囲にとどまっているようでは、これは重大な利己主義の罪を犯すことになります。

それがなぜ罪なのか――互いに慰め合うことがなぜいけないのか――そう問われれば、確かにそれ自体少しも悪いことではないのですが、わたしの考えを言えば――これも例によって一般論として申し上げることで、例外はあるかも知れませんが―― 一人の霊媒を通じての霊界との交信が確立されドアが開かれたなら、他の人々にもそのチャンネルを使用させてあげて、多くの人々を啓発する方向で活用すべきです。

三千年におよぶ永い体験によってわたしは、“人を裁くなかれ”という教えが確かに真実であることを確認しております。他人の欠点を指摘することは容易なことです。もっとも、残念ながら、批判されてもやむを得ないだけの条件が揃っているケースもあることは認めますが……。地上の人たちが他人の利己主義に文句を言うのをやめて、自分の欠点を反省し、どうすればそれが改められるかに関心を向けるようになれば、地上はもう少しは進歩することでしょう」

ところで、シルバーバーチの交霊会、正式に言うとハンネン・スワッファー・ホームサークルは、霊媒のバーバネルが入神(トランス)状態に入ることで開会となるが、それに先立って出席者の間である話題について論議が交わされることがある。それをシルバーバーチは霊界で聞いている。やがてバーバネルがトランス状態に入ると、その身体に乗り移ってしゃべるわけであるが、ある日の交霊会に先立って金銭(マネー)の問題が話題になったことがある。やがて入神したバーバネルの口を借りてシルバーバーチがこう語った。


「地上世界で成就しなければならないことは、それを決意した霊性、人間の霊性が原動力となって成就されていくのです。表面的な意識が自覚するとしないとにかかわりなく、内部に秘められた神性の火花が発現を求める、その衝動によるのです。人類の歴史を飾ってきた先駆者はみな、その力を物的なものからではなく、霊的なものから――それは内部からの絶え間ない衝動である場合もあれば、外部からのインスピレーションである場合もありますが――それから得ていたのです。

残念ながら地上世界は、今なお物質万能主義の悪弊から脱け切れずにいます。すべてを金銭的感覚で捉えようとします。財産の多い人ほど偉い人と見なします。人間性ではなく財産と地位と肩書きと家柄によってランクづけします。実際にはまったく永続性のないものばかりです。虚飾にすぎません。実在ではないのです。

本当の価値の尺度は霊的成長度です。それは、その人の生活、日常の行為・言動によって、みずから成就していくもので、それがすべてであり、それしかないのです。お金で徳は買えません。お金で霊的成長は買えません。お金で霊格は高められません。そうしたものは各自が各自の努力で獲得しなければなりません。粗末な家で生まれたか、御殿のような家で生まれたかは、霊的成長には何の関係もありません。

霊的実践の場は、すべての人間に平等に存在します。死んでこちらへ来られると、意外に思えることが沢山あります。地上的な虚飾がすべて取っ払われて、魂が素っ裸にされます。その時はじめて自分の本当の姿を知ります。自分はこうだと思い込んでいたり装(よそお)ったりしていたものとは違います。

といって、わたしは、お金持ちはすべて貧乏人より霊的に劣ると言っているのではありません。そう言うつもりは毛頭ありません。お金は霊的成長とは何の関係もないこと、進化は各自の生活そのものによって決まっていくのであり、それ以外にないことを言いたいのです。困ったことに、地上の人間は、直面する物的問題に心を奪われて、つい間違った人生観をもってしまいがちですが、いついかなる時も、霊的真理を忘れないようにしないといけません。これだけは永続性のある霊的な宝であり、いったん身につけると、二度と奪われることはありません。永遠の所有物となります。

わたしは、霊力が今日のように少数の特殊なチャンネルを通してではなく、当り前の日常生活の一部として、無数のチャンネルを通して地上世界へ注がれる日の到来を、楽しみに待ち望んでおります。その時は“あの世”と“この世”との間の障害物がなくなります。すべての人間に潜在する霊的資質が、ごく当り前のものとして、学校教育の中で磨かれるようになります。生命は一つであるという事実が理解されるようになります。

わたしはそういう世界――地上世界が広大な宇宙の一部であることを認識し、すぐ身のまわりに高次元の世界の生活者を霊視できるような世界――の到来を待ち望んでおります。何と素晴しい世界でしょう!」

ここで質問が出た。

「まったくの赤の他人にスピリチュアリズムの教えを説くにはどうすればよいでしょうか」

これに対してシルバーバーチが「難しい質問ですね」と言うと、司会のハンネン・スワッファーが「それは相手によって違いますよ」と口添えする。するとシルバーバーチが改めてこう説いた。


「人それぞれに要求するものが異なることを、まず理解しないといけません。霊的成長度が一人ひとり異なるからです。ある人は聞かれなくなった声を聞きたい(霊言)と思い、触れられなくなった手をもう一度しっかりと握りしめたい(物質化現象)と思います。今なお愛が続いていることを確認したいのです。そういう人にとっては、自分を愛する人だけが関心の的であり、それはそれなりに、やむを得ないことです。

また一方には、自分の個人的なことよりも、科学的な関心を寄せる人もいます。宗教的観点から関心をもつ人もいます。哲学的な観点から関心をもつ人もいます。まったく関心を見せない人もいます。こうした人それぞれに対応した答え方があります。

わたしたちの側から申し上げられることは、次のことだけです。生命は墓の向こうでも続いていて、あなたは個性をもった霊としてずっと存在し続ける――このことは間違いない事実であり、筋の通ったものであれば、どんな手段を講じてもよいから、わたしたちの言っていることが本当かどうかを試されるがよろしい。最終的には、理性ある人間ならば誰しも納得がいくはずです。理性を欠いた人間には、つける薬はありません、と」

「現代の霊的教訓はイエスの教えに匹敵するものでしょうか」


「そもそも現代の人たちがなぜ遠い昔の本に書いてあることを信じたがるのかが、わたしには理解できないのです。それが真実であることを証拠だてるものは何一つ存在せず、ただの人間が述べたことの寄せ集めにすぎず、しかも現代にはそぐわない形で表現されているにもかかわらず、それに絶対的な権威があるかのごとく後生大事にしています。実際は、いつの時代にも通用するという保証はひとかけらもないのです。そのくせ、愛する人が生前そっくりの姿を見せ(物質化現象)そして語る(霊言)ことがある話をすると、そういうことは昔の本には出ていないから、という理由で信じようとしないのです」

出席者の一人が「それを信じたら、それまでの信仰を大々的に変更せざるを得なくなるので、しりごみする人がいるようです。それを批難するわけではないのですが、その試金石にあえて立ち向かう道義的勇気に欠けているのだと思います」という意見を述べた。するとシルバーバーチが――


「だとすると、その人は自分を傷つけているだけでなく、自分が愛する人たちをも傷つけていることになります。世の中には、正しい知識を知るよりも嘆き悲しんでいる方がいいという人がいるものです。知識は大霊からの授かりものです。その知識を拒否する人は、自分自身を傷つけることになるのです。“光”を差し出されても、結構です、私は“闇”で満足です、というのであれば、それによって傷ついても、それはその人の責任です」

別の出席者「まず受け入れる用意がいるとおっしゃる理由はその辺にあるわけですね?」


「そうです。わたしの使命には二つの要素があるとみています。一つは純粋に破壊的なもので、もう一つは建設的なものです。長いあいだ人間の魂の息を詰まらせてきた雑草――教会による虚偽の教え、宗教の名のもとに説かれてきた意味のない、不快きわまる、時には冒涜的でさえある教義を破壊するのが第一です。そうしたものは根こそぎ一掃しなければいけません。人生が本来の意義を果たすのを妨げるからです。それが破邪の要素です。

建設的要素は、正しい知識を提供して、受け入れる用意のできた人にとって、それがいかに自然で、単純で、美しく、そして真実味があるかを説くことです。両者は相たずさえて進行します。大切にしている教えの間違いを指摘されると不快な態度を見せるような人は、わたしはご免こうむります。そういう態度でいるとどういう結果になるかを、そちらでもこちらでも、さんざん見てきているからです。

わたしたちにとって、地上世界で仕事をするのは容易なことではありません。しかし今の地上世界は、わたしたちの努力を必要としているのです。どうか、霊の自由と魂の解放をもたらす基本的な霊的真理にしっかりとしがみついてください。精神がのびのびと活動できるようになり、二度と再び、歪んだ、ひねくれた、いじけた生き方をしなくなったことを喜ばないといけません。がんじがらめの窮屈な生き方をしている魂が多すぎます。本来の自我を存分に発揮できなくされているのです。

そこでわたしたちが、無知の牢獄の扉を開くカギをお持ちしているのです。それさえ手にすれば、暗闇の中から這い出て、霊的真理の陽光の中へと入ることができるのです。自由が束縛にまさるのは自明の理です。束縛は間違いであり、自由が正しいにきまっています。教義への隷属を強いる者は明らかに間違っています。自由への戦いを挑む者は明らかに正道を歩んでいる人です。

いかなる人間も、いつかは実在を見出さねばならなくなる時期がまいります。我儘(わがまま)からその時期を遅れさせることはできます。が、永久に避け通すことはできません」

「ということは、人間はすべて――今のところはどんなに品性の下劣な人間でも――そのうちいつかは、霊的に向上していくということでしょうか」


「そうです――永劫の時をへてのことですが……。わたしたちの関心は生命の実在です。影には真の安らぎも幸せも見出せないことをお教えしようとしているのです。影は光があるからこそ存在するのであり、その光とは霊的実在です。無限なる霊の莫大な可能性、広大な宇宙を支配しているだけでなく、一人ひとりの人間に少量ずつ存在している霊性に目を向けてほしいと願っているのです。

本当の宝を見出すのは自分の“内部”なのです。窮地にあって、物的手段が尽きたあとに救ってくれる力は、内側にあるのです。地上の友だちがすベて逃げ去り、自分ひとり取り残され、誰もかまってくれず、忘れ去られたかに思える時でも、背後霊の存在を知る者は、霊の世界からの温もりと親密さと愛があることを思い起こすことができます」

続いての質問に答えて、出席者全員に次のような勇気づけの言葉を述べた。


「皆さんが携わっておられる大いなる闘いは、これからも続きます。こうした霊的真理の絡んだ問題で、意見の衝突や論争が生じるのを恐れてはなりません。いずれは必ず人類の大多数によって受け入れられていくのですが、相手が間違っていることがわかっていながら、論争を避けて大人しく引っ込んだり、妥協したり、口先をごまかしたりすることなく、いかなる犠牲を払っても真理は真理として守り抜くという覚悟ができていないといけません。

結果を怖がるような人間は弱虫です。そんなことでは性格は鍛えられません。霊の世界の道具たらんと欲する者は、迫害されることをむしろ誇りに思うようでなくてはなりません。あらゆる攻撃を、それがどこから来ようと、堂々と迎え撃つのです。胸を張って生き、その毅然(きぜん)たる態度、その陰ひなたのない言動によって、いつでもどこでも試される用意があることを見せつけるのです」

時あたかも春だった。シルバーバーチは春という季節が永遠の希望を象徴するものであることを述べてから、こう結んだ。


「さて、最後に申し上げたいのは、この春という季節は喜ばしい成就の時節だということです。新しい生命が誕生してくるからです。今こそ、まさしく甦りの季節なのです。無数の形態を通して新しい美が息づく時、それは聖なる創造主の見事な芸術をご覧になっているのです。

皆さんは今まさに、自然界の生命の喜びの一つとして定期的に訪れる、新しい創造の夜明けをご覧になろうとしておられます。それには再活性化と、力と、太陽光線の増幅が伴います。絶対的摂理の上に築かれた希望と自信と信頼をもたらす、この新しい生命でご自分を満たされるがよろしい。それは、生命がいかに永い眠りの後でも必ず甦ること、森羅万象を生んだ力は永遠なる存在であること、そして、それと同じものが皆さんの一人ひとりに宿っていることの証(あかし)だからです。

ですから、取り越し苦労や悲観論、うんざりや投げやりの気持ちなどを抱く根拠はどこにもないのです。絶対的な自然法則の確実性に根ざした霊的知識に、すべてをゆだねることです。

大霊の祝福のあらんことを!」

同じく春の季節に行われた交霊会で、次のような、素朴でしかも厳粛さのただようメッセージを述べたことがあった。


「皆さんは今、大自然の華麗なページェントの一シーンをご覧になっているところです。春の美に飾られた大自然をご覧になっているわけです。新しい生命が神なる創造者への賛歌を奏(かな)でているところです。

いずこを見ても、永遠なる摂理の不変性の証にあふれております。雪に埋もれ、冬の暗闇の中で眠りつづけていた生命が目を覚ましはじめます。春の息吹がいたるところに見られます。神なる園丁(えんてい)が人間には真似ることすらできない腕の冴(さ)えを披露いたします。そしてやがて、つぼみが花と開き、美しさが一面に広がります。

春のあとに夏がつづき、夏のあとに秋がおとずれ、秋のあとに冬がめぐってきます。その永遠のサイクルに進化の要素が伴ってまいりました。これからも進化を伴いつつめぐりつづけます。同じように、皆さんも生命の冬の季節から春を迎え、やがて夏に向かって内部の神性を花開かせてまいります。

こうした規則正しい自然の流れの中に、大霊の働きの確実性を見て取ってください。その大霊の力があなたを通して働くように仕向けさえすれば、言い変えれば、大霊の道具として役立てる用意さえ整えれば、確実な知識にもとづく叡智とともに、豊かな恩恵をわがものとすることができるのです。

地上の人間には失望させられることがあるかも知れません、信頼していた同志から裏切られることがあるかも知れません。国がこしらえた法律や条令によって欺(あざむ)かれた思いをさせられることがあるかも知れません。しかし、大霊は絶対に裏切りません。なぜなら、完全なる摂理として働いているからです。

その働きの邪魔だてをしているのは、ほかならぬ自分自身なのです。自分の無知の暗闇を追い出し、正しい知識の陽光の中で生きなさい。そうすれば、この地上にあって天国の喜びを味わうことができるのです」

祈り

無限にして無尽蔵の霊の宝庫を……


大霊の恩寵が皆さまがた全てに下されますように!

これより皆さんとともに、全生命を生みたまい、その全側面を愛の抱擁の中に収めたもう崇高なる力に向けて、心を一つにいたしましょう。

ああ、大霊よ。わたしたちはあなたについて語らんと欲し、お粗末な表現ながらも、この果てしなき宇宙のすみずみまで浸透せるあなたの崇高さ、あなたの神性、あなたの絶対的法則を啓示するための言葉を探し求めております。

心を恐怖で満たされ、精神を不安で曇らされている男女が、あなたに至る道を知り、あなたを見出し、そして万事はよきに計らわれていること、あなたの配剤に間違いはないとの確信を得ることができますように、わたしたちがあなたの豊かな宝のいくつかを明かしてあげたいのでございます。

これまであなたの真実の姿、一分の狂いも休むことも弱まることもなく働く、完全なる法則としてのあなたを理解することを妨げてきた偽りの教義、愚かな間違い、無知と誤解のすべてを取り払うのも、わたしたちの仕事の一環でございます。わたしたちの目に映る宇宙は、生物であろうと無生物であろうと、ありとあらゆる存在にあなたの配剤があり、同時に、そこに生じるあらゆる事態にも十全なる備えがなされているのでございます。

あなたの目の届かぬ所は一つとしてございません。秘密も謎もございません。あなたは全てをご存知です。なぜなら、全てはあなたの法則の支配下にあるからでございます。わたしたちが指摘するのは、その法則の存在でございます。無窮の過去より作用し、これからも永劫(えいごう)に作用し続ける摂理でございます。

地上の子等がその摂理と調和した生活を送ることによって、すべての暗黒、すべての邪悪、すべての混乱と悲劇が消え、代わって光明が支配することになりましょう。

愛に死はなく、生命は永遠であり、その不滅の愛によって結ばれている者は、墓場で別れ別れになることはないこと、愛が求め合い霊力が働くところには、乗り越えられない障害も、取り壊せない障壁もないことを教えてあげるのも、わたしたちの仕事の一環でございます。

各自がその霊性を磨き、天命として与えられている役割を果たす段階に至るのを待ちうけている、無限にして無尽蔵の霊の宝庫を子等に明かしたいのでございます。

ここに、己を役立てることを求めるあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

シルバーバーチの霊訓  地上人類への最高の福音

 The Seed of Truth

トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)




8章 魂の挫折感を誘発するのは、精神上の倦怠感と絶望感です


今世紀最大の劇作家の一人としてジョージ・バーナード・ショウ(※1)を挙げることに異論を唱える人はいないであろう。この辛辣(しんらつ)な風刺家が“フリート街の法王”(※2)の異名をもつ、同じく劇作家のハンネン・スワッファーのインタビューを受けた――これだけでも大変なニュースだった。


※1――George Bernard Shaw(1856~1950)アイルランド生まれの英国の劇作家・評論家。一九二五年にノーベル文学賞を受賞。辛辣な批評と風刺で知られた。一度来日したことがあり、その時に日本の印象を聞かれて「ああ、日本にも家があるなと思いました」と答えたという。禁煙運動について意見を求められて「タバコを止めるのは簡単だよ。私なんか何度も止めたよ」と答えている。


※2――フリート街というのは英国の新聞社が軒をつらねている所で、つまりは英国ジャーナリズム界の御意見番的存在の意味。ショウとの年齢差は二十五歳で、スワッファーにとっては大先輩だった。

そのインタビューは、ショウが《タイム》誌上で、奥さんの死に際して寄せられた多くの悔やみ状に対する感謝の意を表明したあとに準備されたものだった。

当時すでに八十七歳だったショウは、スワッファーに「こんどは自分の番だ。もう悟り切った心境で待ってるよ」と言い、続けて、

「わたしなんか、もうどうでもいいという気分だ。あんたもわたしも似たような仕事をしてる。人さんにいろいろと物語ってあげてるわけだ。それはそれで結構なことだが、それで世の中がどうなるというものでもないよ」と付け加えた。

スワッファーが「あなたもいずれ死なれるわけですが、死んだらどうなると思っていらっしゃいますか」と尋ねると――

「死ねばこの世からいなくなっちまうということだ。わたしは死後の存続は信じたことはないし、今も信じていない。死後も生きてると信じている人間で、それがどういうことを意味するかが本当にわかっている人間がいるなんて、わたしには考えられないね」

ここではスピリチュアリズムに関係したものだけを紹介したが、ショウ対スワッファーの対談は大変なセンセーションを巻き起こした。同じ頃に催されたシルバーバーチの交霊会でも当然その話題が持ち出され、興味ある質問が出された。それを紹介しよう。

まず最初の質問は「ショウのようなタイプの人物を待ちうける環境はどんなものでしょうか」というものだった。シルバーバーチは例によって個人の問題にしぼらずに、普遍的なものに広げて、こう語った。


「洞察力に富む人間は、無意識のうちに、さまざまな形で実在に触れておりますから、待ちうける新しい体験を喜びの中に迎えることになります。死んだつもりがまだ生きていることに、最初はショックを受けますが、新しい環境での体験を重ねるうちに、精神的能力と霊的能力とが目覚めて、その素晴らしさを知るようになります。

叡智・知識・教養・真理、それに芸術的作品の数々が、ふんだんに、それも地上よりはるかに高度のものが入手できることを知って喜びを覚えます。肉体の束縛から解放されて今やっと本来の自我が目を覚まし、自分とは何かを自覚しはじめ、肉体の制約なしにより大きな生活の舞台での霊妙な愉しみが味わえる――それがいかなるものであるかは、とうてい地上の言語で説明できる性質のものではありません。

とにかく、どの分野に心を向けても――科学であろうと哲学であろうと、芸術であろうと道徳であろうと、その他いかなる知識の分野であろうと、そこには過去の全時代のインスピレーションが蓄積されているばかりでなく、それを受け入れる用意のある者にはいつでも授けるべく、無数の高級霊が待ちうけているのです。

飽きることのない楽しい冒険の世界が待ちうけております。他界して間もないころは、個人的な縁による結びつき、たとえば先に他界している家族や知人、地上に残した者との関係が優先しますが、そのうち、地上界のごとき物的制約を受けることなく広がる自然の驚異に触発されて、目覚めた霊性が急速に発達してまいります」

ショウ対スワッファーという劇的な対面がさまざまな話題を生み、それに関連したさまざまな質問に答えたあと、シルバーバーチはこうしめくくった。


「真理がすべてに優先します。真理が普及すれば虚偽が退散し、無知と迷信が生み出した霧と陰が消えてまいります。現在の地上にもまだ、生活全体をすっぽり包み込む、無知という名の闇の中で暮らしている人が無数におります。

いつの時代にも、霊の力が何らかの形で、その時代の前衛たる者――パイオニア、改革者、殉教者、教育家等々、輝ける真理の旗を高々と掲げた人々の心を鼓舞してまいりました。地上に存在するあらゆる力を超越した霊妙な何かを感じ、人類の未来像を垣間(かいま)見て、彼らはその時代に新たな輝きを添えたのでした。彼らのお蔭で多くの人々が暗闇のべールを突き通して、光明を見出すことができたのでした。彼らのお蔭で、用意のできていた者が、みずからの力で足枷を解きほどく方法(すべ)を知ったのでした。暗い牢獄からみずからの魂を解き放す方法を知ったのです。生活全体に行きわたっていた、うっとうしい空気が消えました。

地上世界の全域に、啓発の勢力が徐々に、実に牛の歩みではありますが、行きわたりつつあります。それにつれて無知の勢力が退却の一途をたどっております。今や地上人類は進軍の一途をたどっております。さまざまな形での自由を獲得しました――身体の自由、精神の自由、霊の自由です。偏見と迷信と無知の勢力から人類を解き放す上での一助となった人はみな、人類の永い歴史の行進を導いてきた、輝ける照明です。

魂の挫折感を誘発するのは、精神上の倦怠感と絶望感です。精神が明るく高揚している時こそ、魂は真の自我を発揮し、他の魂を永遠の光明へ向けて手引きするほどの光輝を発するのです」

さらに“生命力”の問題にふれて――


「生命力が存在することに疑問の余地はありません。生命は、それにエネルギーを与える力があるからこそ存在します。それが動力源です。その本質が何であるかは、地上の人間には理解できません。いかなる科学上の器具をもってしても検査することはできません。化学的分析もできません。物的手段による研究は不可能なのです。

人間にとっては“死”があり、そして“生命”がありますが、わたしたちから見れば“霊”こそ生命であり、生命はすなわち“霊”であるというふうに、きわめて単純に理解できます。物質界というのは永遠の霊の光によって生じた影にすぎません。物質はただの“殻”であり、実在は霊なのです。

意識のなかったところに生命を与えたのが霊です。その霊があなたに自分を意識させているのです。霊こそ大霊によって人間に吹き込まれた息吹、神の息吹であり、その時点から自我意識をもつ生きた存在となったのです。

人間に神性を与えているのは、その霊なのです。その霊が人間を原始的生命形態から今日の段階へと引き上げてくれたのです。ただの禽獣(きんじゅう)と異なるのは、その霊性です。同胞に有徳の行為をしたいと思わせるのも、その霊性です。自分を忘れ、人のためを思う心を抱かせるのも、その霊性です。少しでも立派になろうと心がけるようになるのも、その霊性のお蔭です。良心の声が聞こえるのも霊性があるからこそです。あなたはただの物質ではありません。霊なのです。この全大宇宙の運行と、そこに生活する全生命を経綸している力と同じものなのです。

人間は、その宇宙霊、その大生命力が個別性をそなえて顕現したものです。人間は個的存在です。神性を帯びた炎の小さな火花です。みなさんのいう神、わたしのいう大霊の、不可欠の一部分を占めているのです。その霊性は死によっていささかも失われません。火葬の炎によっても消すことはできません。その霊性を消す力をもったものは、この全大宇宙の中に何一つ存在しません」

さて、当時のジャーナリズム界の第一線で活躍していたスワッファーは、その知名度を生かして、当時の各界の著名人をよく交霊会に招待した。招待された人は、シルバーバーチとの対話もさることながら、まずはスワッファーというジャーナリズム界の大物に直接会えることを光栄に思って出席した人が多かったのも事実である。

その中でも、これから紹介する人は特異な人物の部類に入るであろう。無声映画時代に“世界の恋人”と呼ばれて人気を博した米国の女優メアリ・ピックフォードで、その交霊会の様子はスワッファーによって《サイキックニューズ》紙に発表された。以下はその全文である。

映画でも演劇でも芸術作品でも、それが真実を表現し、大勢の人々の心に触れるものをもっておれば、霊界からみれば実に大きな存在価値をもつものであることは、これまで各界で活躍している人を招待した時にシルバーバーチがたびたび強調していることであるが、このたびもまた、そのことを改めて確認することになった。以下は、先日催された交霊会の速記録から、興味ぶかい箇所を抜粋したものである。まずシルバーバーチから語りかけた――


「さて、海を渡って(米国から)お出でくださったお客さんに申し上げましょう。今日ここに出席しておられる方々があなたの大ファンでいらっしゃること、またいわゆる死の彼方にいる人たちからも守られていることを、あなたはずっと感じ取ってこられたことはご存知と思いますが、いかがですか」

ピックフォード「よく存じております」


「その愛、その導きがあなたの人生において厳然たる事実であったことを、あなたは幾度も体験しておられます。窮地に陥り、どちらへ向かうべきかがわからずに迷っていた時に、はっきりとした形で霊の導きがあり、あなたは迷うことなく、それに従われました。おわかりでしょうか」

ピックフォード「おっしゃる通りです」


「ですが、実際には、情愛によって結ばれた大勢の人々の愛を、これまで意識なさった以上に受けておられるのです。もしもその全てが認識できたら、あなたのこれまでの生涯がもったいないほどの導きを受けていることがわかるでしょう。またもし、この地上生活であなたに託された使命の全てを一度に見せられていたら、とても成就できないと思われていたことでしょう。それほどのものが、右足を一歩、左足を一歩と、着実に歩んでこられたからこそ、今日まで維持できたのです。

ある程度まではご存知でも、まだ全てはご存知ないと思いますが、わたしたちの世界――そちらの世界から移住してくる霊の世界から見ると、真実の宗教は人のために役立つことをすること、これしかないことがわかります。無私の善行は霊の通貨なのです。すなわち、人のために精一杯の努力をする人は、その誠意によって引きつけられる別の人によって、そのお返しを受けるのです。

あなたは、これまでの人生で大勢の人々の生活に幸せと理解力と知識とをもたらしましたが、その分だけあなたは地上の人だけでなく、はるか昔に地上を去り、その後の生活で身につけた叡智をあなたを通じて地上へもたらしたいと願う、光り輝く霊も引き寄せております。わたしの言っていることがおわかりでしょうか」

ピックフォード「はい、よくわかります」


「こちらの世界では、あなたのような存在を大使(アンバサダー)の一人と考えております。つまり一個の仲介者、大勢の人間との間を取りもつ手段というわけです。目に見えない世界の実在という素朴な福音を、あなたは熱心に説いてこられました。これまで物的障害が再三にわたって取り除かれ、首尾よく前進してこられたのも、あなたのこうした心がけがあったからです。

そこで、わたしから良いことをお教えしましょう。遠からずあなたは、これまでのそうしたご苦労に有終の美を飾られる――栄誉を賜り、人生の絶頂期を迎えられるということです。あなたの望まれたことが、これからいよいよ結実をみることになります」

ここで、私(スワッファー)が出席する会には必ず出現しているノースクリッフ卿(※)が、シルバーバーチと入れ替ってピックフォードに挨拶を述べた。私は直接は知らないが、ピックフォードが夫君のフェアバンクスと連れだって初めてロンドンを訪れた時、ファンの群れでどこへ行ってもモミクチャにされるので、ノースクリッフがひそかに二人を私邸に泊めたといういきさつがあるのである。


※――英国の有名な新聞経営者で、《デイリーメール》紙の創刊者。死後、スワッファーがよく出席していたデニス・ブラッドレーの交霊会に出現して決定的な身元確認の証拠を提供した。スワッファーがスピリチュアリズムの真実性を確認したのはこの体験による。そしてその体験記を『ノースクリッフの帰還』と題して出版、大反響を呼んだ。

そのあと、かつての夫君フェアバンクスも出現して、二人の結婚生活の不幸な結末を残念に思っていることを述べた。ここでは、その件についてはこれ以上深入りしないでおこう。とにかく、それを聞いたピックフォードが、シルバーバーチにこう述べた。

「私はかつて地上の人間にも他界した方にも、恨みを抱いたことは一度もありません。恨みに思ったのは、過ちを犯した時の自分に対してだけです」


「ご自分のことをそうダメ人間のようにお考えになってはいけません。今もしあなたの人生の“元帳”を整理することができたら、いわゆる“過ち”といえるほどのものは、無私の徳行や善行に較べると、いたって少ないことがおわかりになるはずです。多くの人々にどれほど良いことをなさってこられたかは、こちらへお出でになるまではおわかりにならないでしょう。

あなたは、数え切れないほどの人々に愉しみを与えてこられました。しばしの間でも悲しみを忘れさせ、心の悩みや痛みを忘れさせ、トラブルやストレスを忘れさせ、人生の嵐を忘れさせてあげました。あなた自身の願望から、あなたなりの方法で人のために役立つことをなさってこられました。人のために役立つということが何よりも大事なのです。

他のすべてのものが忘れ去られ、剥(は)ぎ取られ、財産が失われ、権力が朽(く)ち、地位も生まれも効力を失い、宗教的教義が灰に帰したあとも、無私の人生によって培(つちか)われた性格だけはいつまでも残り続けます。わたしの目に映るのは身体を通して光り輝く、その人格です。

わたしは、そうした善行を重ねてきた魂にお会いできることを大きな喜びとしております。以上が、あなたがみずから“過ち”とおっしゃったのを聞いて私が思ったことです。あなたは何一つ恐れるに及びません。真一文字に進まれればよろしい。あなたも率直なところをお聞きになりたいでしょう?」

ピックフォード「ええ」


「あなたは大金を稼ぐのは趣味ではなさそうですね。あなたの願望は、できるだけの善行を施すことのようです。違いますか」

ピックフォード「おっしゃる通りです」


「その奇特な心がけが、それなりの報酬をもたらすのです。自動的に、です。その目的は、とどのつまりは、あなたに確信を与えるということにあります。何一つ恐れるものはないということです。心に恐怖心を宿してはいけません。恐怖心はバイブレーションを乱します。バイブレーションのことはご存知でしょう?」

ピックフォード「ええ、少しは存じております」


「恐怖心は霊気を乱します。あなたの心が盤石の確信に満ちていれば、霊的知識を手にしたがゆえの揺るぎない決意に燃えていれば、この無常の地上において、その心だけは失意を味わうようなことは断じてありません。

物質界に生じるいかなる出来事も、真のあなた、不滅で、無限で、永遠の霊性をそなえたあなたに、致命的な影響を及ぼすことはできません。あなたは、背後にあってあなたに導きを与えている力が宇宙最大の力であること、あなたを大霊の計画の推進のための道具として使用し、その愛と叡智と真理と知識を、何も知らずにいる人々に教えてあげようとする愛の力であるという、万全の知識をたずさえて前進することができます。

あなたはこれまでに何度か、自分が間違ったことをしたと思って、ひそかに涙を流されたことがあります。しかし、あなたは決して間違ってはおりません。あなたの前途には栄光への道がまっすぐに伸びております。目的はきっと成就されます。わたしの申し上げたことがお役に立てば幸いです」

ピックフォード「本当にありがとうございました」


「いえ、わたしへの礼は無用です。礼は大霊に捧げるべきものです。わたしどもは、その僕(しもべ)にすぎないのですから。わたしはこの仕事の完遂に努力しておりますが、いつも喜びと快(こころよ)さを抱きながらたずさわっております。もしもわたしの申し上げたことが少しでもお役に立ったとすれば、それはわたしが大霊の御心にそった仕事をしているからにほかなりません。あなたとは、またいつかお会いするかも知れませんが、その時はもっとお役に立てることでしょう。

その時まで、どうか上を向いて歩んでください。下を向いてはなりません。無限の宝庫のある無限の源泉から、光と愛がふんだんに流れ込んでいることを忘れてはなりません。その豊かな宝庫から存分に吸収なさることです。求めさえすれば与えられるのです。著述の方もお続けください」

最後にサークルのメンバー全員に向けて、次のような祈りのメッセージを述べた。


「どうか、皆さんを鼓舞するものとして、霊の力が常に皆さんとともにあり、先天的に賦与されている霊的能力をますます意識され、それに磨きをかけることによって幸せの乏しい人たちのために役立て、そうすることによって皆さんの人生が真に生き甲斐あるものとなることを、切に祈ります」

そう述べて、いよいよバーバネルの身体から離れる直前、そろそろエネルギーが尽きかけているのを意識しながら、ピックフォードにこう述べた。


「ご母堂が、あなたに対する愛情が不滅であることを得心してもらえるまでは、このわたしを行かせない(霊媒から離れさせない)と言っておられます。ご母堂はあなたから受けた恩は決して忘れておられません。今その恩返しのつもりで、あなたのために働いておられます。どうしてもわたしを行かせてくれないのですが……」

ピックフォード「でも、私こそ母に感謝いたしております。十回生まれ変わってもお返しできないほどです」


「あなたはもうすでに十回以上、生まれ変わっておられますよ」

ピックフォード「猫より多いのでしょうか。十八回でも生まれ変わるのでしょうかね。こんどこそ、この英国に生まれてくることでしょうよ」


「いえ、いえ、あなたはすでに英国での前生がおありです。が、これはまた別の話ですね」

ピックフォード「あと一つだけ……私のその英国での前生について、何かひとことだけでも……」


「二世紀以上もさかのぼります。それ以上のことはまたの機会にしなくてはなりません。もう行かねばなりません。わたしはこれ以上霊媒を維持できません」

どうやらピックフォードは、その二世紀あまり前に少女として英国で生活した前生のことを、ずっと以前から信じていたらしいふしがある。その理由(わけ)はこの私には記憶がない。

とにかく、グラディス・スミスという名でカナダのトロントに生を受けた彼女は、血統が英国人であることを誇りに思っていることだけは確かである。

ハンネン・スワッファー

祈り

人生の本来の在り方としての大冒険に……


ああ、大霊よ。わたしどもは全生命を支える力に波長を合わせ調和せんとする努力の一環として、ここに祈りを捧げさせていただきます。

わたしたちはその力の背後に、絶対的な支配力をもつ知性の存在を認識しております。それは、人間的形態をそなえたものではございません。全大宇宙のありとあらゆる側面の活動を規制する絶対的な摂理でございます。いかなる側面を研究しても、いかなる秘密を掘り起こしても、いかに高く、あるいは、いかに深く探求のメスを入れても、そこにも必ず摂理が存在するのでございます。

新たに見出されたものも、必ずあなたの自然法則の枠組みの中に組み込まれていたものでございます。その意味において、超自然的現象も奇跡的現象も生じ得ないのでございます。法則と秩序によって規制され、その全パノラマがあなたの聖なる霊に抱かれているのでございます。

その霊こそ生命の根源であると認識するわたしたちは、地上の子等にその霊という実在と、その背後の霊的摂理に目を向かしめたいと願っております。その作用(はたらき)を理解することこそ、この物質の世界に新しい光、新しい悟り、新しい希望をもたらす素地となるのであり、それが地上世界を豊かにするのでございます。

地上の多くの人間がそうした霊的実在の素晴らしさと喜びに全く無知のまま、せっかくの人生を無為に過ごしております。その知識があれば、悲哀の多くをなくすことができるのです。喪の涙を拭うことができるのです。心の痛みを取り除くことができるのです。肩の荷を軽くすることができるのです。確信と目的意識をもって、人生の本来の在り方としての大冒険に、より賢明に備えることができるのでございます。

それ故にこそ、わたしどもは受け入れる用意のできている人たちのために霊的知識を広め、自分が一人ぼっちでいることは片時もないこと、霊の力の宝庫はいつでも誰にでも出入りできること、崇高なる愛が万事を良きに計らってくれるとの知識から、新たな生きる勇気を得てくれることを望むものです。それがわたしどもの仕事なのでございます。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

Monday, August 24, 2026

ベールの彼方の生活(三)

「天界の政庁」

著者: G・V・オーエン(George Vale Owen)
近藤千雄 訳



七章 善悪を超えて
1 聖堂へ招かれる      2使命への旅立ち
3 苦の哲学  深い筋    4さらに下層界へ




1 聖堂へ招かれる         
一九一七年十二月十七日  日曜日

 これまで吾々は物的宇宙の創造と進化、および、程度においては劣るが、霊的宇宙の神秘について吾々の理解した限りにおいて述べました。

そこには吾々の想像、そして貴殿の想像もはるかに超えた境涯があり、それはこれより永い永い年月をかけて一歩一歩、より完全へ向けて向上していく中で徐々に明らかにされて行くことでしょう。吾々がそのはるか彼方の生命と存在へ向けて想像の翼を広げうるかぎりにおいて言えば、向上進化の道に究極を見届けることはできません。

それはあたかも山頂に源を発する小川の行先をその山頂から眺めるのにも似て、生命の流れは永遠に続いて見える。流れは次第に大きく広がり、広がりつつその容積の中に水源を異にするさまざまな性質の他の流れも摂り入れていく。人間の生命も同じです。

その個性の中に異質の性格を摂り入れ、それらを融合させて自己と一体化させていく。

川はなおも広がりつつ最後は海へ流れ込んで独立性を失って見分けがつかなくなるごとく、人間も次第に個性を広げていくうちに、誕生の地である地上からは見きわめることの出来ない大きな光の海の中へ没入してしまう。

が、海水が川の水の性分を根本から変えてしまうのではなく、むしろその本質を豊かにし新たなものを加えるに過ぎないように、人間も一方には個別性を、他方には個性を具えて生命の大海へと没入しても、相変わらず個的存在を留め、それまでに蓄積してきた豊かな性格を、初めであり終わりであるところの無限なるもの、動と静の、エネルギーの無限の循環作用の中の究極の存在と融合していきます。

また、川にいかなる魚類や水棲動物がいても、海にはさらに大きくかつ強力な生命力を持つ生物を宿す余裕があるごとく、その究極の境涯における個性とエネルギーの巨大さは、吾々の想像を絶した壮観を極めたものでしょう。

 それゆえ吾々としては差し当たっての目標を吾々の先輩霊に置き、吾々の方から目をそらさぬかぎり、たとえ遠くかけ離れてはいても吾々のために心を配ってくれていると知ることで足りましょう。

生命の流れの淵源は究極の実在にあるが、それが吾々の界そして地上へ届けられるのは事実上その先輩霊が中継に当たっている。そう知るだけで十分です。吾々は宿命という名の聖杯からほんの一口をすすり、身も心も爽やかに、そして充実させて、次なる仕事に取り掛かるのです。


──どんなお仕事なのか、いくつか紹介していただけませんか。

 それは大変です。数も多いし内容も複雑なので・・・・・・。では最近吾々が言いつけられ首尾よく完遂した仕事を紹介しましょう。

 吾々の本来の界(第十界)の丘の上に聖堂が聳えています。


──それはザブディエル霊の話に出た聖堂──〝聖なる山〟の寺院のことですか。(第二巻八章4参照)


 同じものです。〝聖なる山〟に聳える寺院です。何ゆえに聖なる山と呼ぶかと言えば、その十界をはじめとする下の界のためのさまざまな使命を帯びて降りて来られる霊が格別に神聖だからであり、又、十界の住民の中で次の十一界に不快感なしに安住できるだけの神聖さと叡智とを身につけた者が通過して行くところでもあるからです。

それには長い修行と同時に、十一界と同じ大気の漂うその聖堂と麓の平野をたびたび訪れて、いずれの日にか永遠の住処となるべき境涯を体験し資格を身につける努力を要します。

 吾々はまずその平野まで来た。そして山腹をめぐって続いている歩道を登り、やがて正門の前の柱廊玄関(ポーチ)に近づいた。


──向上するための資格を身につけるためですか。

 今述べた目的のためではありません。そうではない。十一界の大気はいつもそこに漂っているわけではなく、向上の時が近づいた者が集まる時節に限ってのことです。

 さてポーチまで来てそこで暫く待機していた。するとその聖地の光輝あふれる住民のお一人で聖堂を管理しておられる方が姿を現わし、自分と一緒に中に入るようにと命じられた。吾々は一瞬ためらいました。吾々の霊団には誰一人として中に入ったことのある者はいなかったからです。

するとその方がにっこりと微笑まれ、その笑顔の中に〝大丈夫〟という安心感を読み取り、何の不安もなく後ろについて入った。その時点まで何ら儀式らしいものは無かった。そして又、真昼の太陽を肉眼で直視するにも似た、あまりの光輝に近づきすぎる危険にも遭遇しなかった。

 入ってみるとそこは長い柱廊になっており、両側に立ち並ぶ柱はポーチから聖堂の中心部へ一直線に走っている梁(はり)を支えている。ところが吾々の真上には屋根は付いておらず無限空間そのもの──貴殿らのいう青空天井になってる。

柱は太さも高さも雄大で、そのてっぺんに載っている梁には、吾々に理解できないさまざまなシンボルの飾りが施してある。中でも私が自分でなるほどと理解できたことが一つだけある。

それはぶどうの葉と巻きひげはあっても実が一つも付いてないことで、これは、その聖堂全体が一つの界と次の界との通路に過ぎず、実りの場ではないことを思えば、いかにもそれらしいシンボルのように思えました。

その長くて広い柱廊を一番奥まで行くとカーテンが下りていた。そこでいったん足を止めて案内の方だけがカーテンの中に入り、すぐまた出て来て吾々に入るように命じられた。

が、そのカーテンの中に入ってもまだ中央の大ホールの内部に入ったのではなく、ようやく控えの間に辿り着いたばかりだった。その控えの間は柱廊を横切るように位置し、吾々はその側面から入ったのだった。

これまた実に広くかつ高く、吾々が入ったドアの前の真上の屋根が正方形に青空天井になっていた。が、他の部分はすべて屋根でおおわれている。

 吾々はその部屋に入ってから右へ折れ、その場まで来て、そこで案内の方から止まるように言われた。すぐ目の前の高い位置に玉座のような立派な椅子が置いてある。それを前にして案内の方がこう申された。


 「皆さん、この度あなた方霊団をこの聖堂へお招きしたのは、これより下層界の為の仕事をしていただく、その全権を委任するためです。これよりその仕事について詳しい説明をしてくださる方がここへお出でになるまで暫くお持ちください」

 言われるまま待っていると、その椅子の後方から別の方が姿を見せられた。先程の方より背が高く、歩かれる身体のまわりに青と黄金色の霧状のものがサファイヤを散りばめたように漂っていた。

やがて吾々に近づかれると手を差し出され、一人ひとりと握手をされた。そのとき(あとで互いに語りあったことですが)吾々は身は第十界にありながら、第十一界への近親感のようなものを感じ取った。それは第十一界の凝縮されたエッセンスのようなもので、隣接した境界内にあってその内奥で進行する生命活動のすべてに触れる思いがしたことでした。

 吾々は玉座のまわりの上り段に腰を下ろし、その方は吾々の前で玉座の方へ向かって立たれた。それからある事柄について話されたのであるが、それは残念ながら貴殿に語れる性質のものではない。秘密というのではありません。

人間の体験を超えたものであり、吾々にとってすら、これから理解していくべき種類のものだからです。が、そのあと貴殿にも有益な事柄を話された。

 お話によると、ナザレのイエスが十字架上にあった時、それを見物していた群集の中にイエスを売り死に至らしめた人物がいたということです。


──生身の人間ですか。

 さよう、生身の人間です。あまり遠くにいるのも忍びず、さりとて近づきすぎるのも耐え切れず、死にゆく〝悲哀(かなしみ)の人〟イエス・キリストの顔だちが見えるところまで近づいて見物していたというのです。すでに茨の冠は取られていた。

が、額には血のしたたりが見え、頭髪もそこかしこに血のりが付いていた。その顔と姿に見入っていた裏切り者(ユダ)の心に次のような揶揄(からかい)の声が聞こえてきた───

〝これ、お前もイエスといっしょに天国へ行って権力の座を奪いたければ今すぐに悪魔の王国へ行くことだ。お前なら権力をほしいままに出来る。イエスでさえお前には敵わなかったではないか。さ、今すぐ行くがよい。

今ならお前がやったようにはイエスもお前に仕返しができぬであろうよ〟と。

 その言葉が彼の耳から離れない。彼は必死にそれを信じようとした。そして十字架上のイエスに目をやった。彼は真剣だった。しかし同時に、かつて一度も安らぎの気持ちで見つめたことのないイエスの目がやはり気がかりだった。

が、死に瀕しているイエスの目はおぼろげであった。もはやユダを見る力はない。

唆(そそのか)しの声はなおも鳴りひびき、嘲(あざけ)るかと思えば優しくおだてる。彼はついに脱兎のごとく駆け出し、人気のない場所でみずから命を捨てた。

帯を外して首に巻き、木に吊って死んだのである。かくして二人は同じ日に同じく〝木〟で死んだ。地上での生命は奇しくも同じ時刻に消えたのでした。

 さて、霊界へ赴いた二人は意識を取り戻した。そして再び相見えた。が二人とも言葉は交わさなかった。ただしイエスはペテロを見守ったごとく(*)、今はユダを同じ目で見守った。そして〝赦〟しを携えて再び訪れるべき時期(とき)がくるまで、後悔と苦悶に身を委ねさせた。

つまりペテロが闇夜の中に走り出て後悔の涙にくれるにまかせたようにイエスは、ユダが自分に背を向け目をおおって地獄の闇の中へよろめきつつ消えて行くのを見守ったのでした。

(*イエスの使徒でありながら、イエスが捕えられたあと〝お前もイエスの一味であろう〟と問われて〝そんな人間は知らぬ〟と偽って逃れたが、イエスはそのことをあらかじめ予見していて〝あなたは今夜鶏の鳴く前に三度私を知らないと言うだろう〟と忠告しておいた。訳者)

 しかしイエスは後悔と悲しみと苦悶の中にあるペテロを赦したごとく、自分に孤独の寂しさを味わわせたユダにも赦しを与えた。いつまでも苦悶の中に置き去りにはしなかった。その後みずから地獄に赴いて探し出し、赦しの祝福を与えたのです。(後注)

 以上がその方のお話です。実際はもっと多くを語られました。そしてしばらく聖堂に留まって今の話を吟味し、同時にそれを(他の話といっしょに)持ちかえって罪を犯せる者に語り聞かせるべく、エネルギーを蓄えて行われるがよいと仰せられた。

犯せる罪ゆえに絶望の暗黒に沈める者は裏切られた主イエス・キリストによる赦しへの希望を失っているものです。げに、罪とは背信行為なのです。

 さて吾々が仰せつかった使命については又の機会に述べるとしましょう。貴殿はそろそろ疲れてこられた。ここまで持ちこたえさせるのにも吾々はいささか難儀したほどです。

 願わくは罪を犯せる者の救い主、哀れみ深きイエス・キリストが暗闇にいるすべての者とともにいまさんことを。友よ、霊界と同じく地上にも主の慰めを深刻に求めている者が実に多いのです。貴殿にも主の慈悲を給わらんことを。


 訳者注──ここに言う〝赦し〟とはいわゆる〝罪を憎んで人を憎まず〟の理念からくる赦しであって、罪を免じるという意味とは異なる。

イエスもいったんはユダを地獄での後悔と苦悶に身をゆだねさせている。因果律は絶対であり〝自分が蒔いたタネは自分で刈り取る〟のが絶対的原則であることに変わりないが、ただ、被害者の立場にある者が加害者を慈悲の心でもって赦すという心情は霊的進化の大きな顕れであり、誤った自己主張の観念からすべてを利害関係で片づけようとする現代の風潮の中で急速に風化して行きつつある美徳の一つであろう。


 
2 使命への旅立ち          
 一九一七年十二月十八日  火曜日

 お話を給わった拝謁(はいえつ)の間を出て、吾々はその高き聖所を後にした。お話は私がお伝えしたよりもっと多かった。それを愛をこめて話してくださり、吾々は使命へ向けて大いに勇気づけられた。

ポーチまで進み、やがて立ち止まって広い視界に目をやった。下方には草原地帯が横たわり、左右のはるか彼方まで広がっている。

その先に丘が聖所を取り巻くように連なっており、そこから幾すじかの渓流が平野へ向けて流れ、吾々から見て左方向にある湖で合流している。

それがさらに左方向へ流出し、その行く手に第十界と第九界との間に聳える山脈が見える。そう見ているうちに、さきほど話をされた方が吾々の中央に立たれ、ご自身の霊力で吾々を包んで視力をお貸しくださり、ふだんの視力では見えない先、これから赴かねばならない低い界層をのぞかせてくださった。

初め明るく見えるものが次第に明るさが薄れ、かすんで見えるものがおぼろげに見え、ついには完全なモヤとなった。その先は吾々が位置した最も見えやすい位置からでも見透すことは不可能だった。

と言うのも、そこはすでに地球に隣接する界層及びそれ以下の境涯であり、地上界へ行きたい者はひとまずその境涯から脱出しなければならず、一方地上で正しい道を踏み外した者は自然の親和力の作用によってその境涯へと降りて行く。地獄と呼んでいるのがそれである。

なるほど、もし地獄を苦痛と煩悶と、魂を張り裂ける思いをさせることを意味するのであれば、そこを地獄と呼ぶのも結構であろう。

 さて必要な持ち物と、これより先に控える仕事を吟味し終えると、吾々はその方に向かって跪き、祝福をいただくとすぐに出発した。まず左手の坂道を下り、山間(あい)を通り抜けて、そこからまっしぐらの長い旅なので、四つの界層を山腹に沿って一気に空中を飛翔(ひしょう)した。

そして第五界まで来て降下し、そこでしばし滞在し、そこの住民が抱える悩みごとの解決にとって参考になるように、入念に言葉を選んで話をした。


──旅の話を進められる前に第五界でのお仕事の成果をお話ねがえませんか。

 吾々の仕事は各界で集会を開いて講演をすることでしたが、そこでの話がその最初となりました。まずそこの領主──第五界の統率者の招きにあずかりました。

その領主は、どの界でもそうですが、本来はその界よりも高い霊格を具えた方です。が、吾々が滞在したのは行政官の公舎でした。

行政官はその界でいつまでも向上出来ずにいる者たちの問題点に通暁しておられ、吾々がいかなる立場に立っていかなる点に話題をしぼって講演すべきかについて、よきアドバイスを与えて下さる。

 さて、そういう悩みを抱えた人々が公舎の大ホールに集まった。実に大きなホールで、形は長円形をしています。ただし、片方の端がもう一方より圧縮された格好をしています。


──西洋ナシのようにですか。

 はて、これはもう、ほとんど忘れかけた果実ですのでしかとは申せませんが、さよう、大体の格好は似ていましょう。ただしあれほど尖った形ではありません。その細い方の外側には大きなポーチがかぶさるように付いており、会衆はそこから入りました。

演壇は左右の壁から等距離の位置にあり、吾々はそこに上がりました。実は吾々の霊団の中に歌手が一人いて、まず初めにその時のために自分で作曲した魅力あふれる曲を歌いました。

その内容は──すでにお話したものも含まれていますが──究極の実在である神がいかなる過程でその霊力を具象化し、愛がいかにして誕生し、神の子等(造化に携わる高級神霊のこと──訳者)がその妙味に触れてそこから美が誕生するに至ったかを物語り、それ故にこそすべての美に愛が宿り、すべての愛が純朴であり、いかなる形で表現されても美にあふれていること。

しかし現象界の発展のために働く者の意志が愛に駆られた美の主流に逆らう方向へと働いた時、そこに元来の至純さと調和しない意志から生まれる或る種の要素が生じ、そのあとに創造される存在は美しくはあっても完全なる美とは言えず、また、ますます激しさを増す混沌たる流れに巻き込まれてさらに美的要素を欠く存在が出現したが、それでも根源より一気に一直線に下降を続けた者の目には見えない美しさを、おぼろげながら具えていた・・・・・・

 そう歌いました。会衆は身じろぎひとつせず聴き入っていた。それほどその曲が美と愛の根源から流れ出て来るような雰囲気を帯びていたのです。

またその言葉そのものが〝究極にして絶対〟の存在とは〝統一〟であり、それ自体に多様性はあり得ず、それまでに生じた多様性はてこ的存在としての意義を持つ──つまり多様性の中に表現されたものが抵抗によって再び高揚され統一へ向かうという哲学を暗示しておりました。

 さて、歌が終わると会場を重厚な静けさが支配し、全員が静粛にしていた。身じろぎ一つする者がいない。立っている者は立ったまま、ベンチあるいはスツールに腰を下ろしている者もそのまま黙しており、何かに寄り掛かってしゃがみ込んでいる者もそのままの気楽な姿勢でいた。

そのことをはっきりと見てとった。誰ひとり位置を変える者もいなかった。それは、はるか彼方の生命とエネルギーの力強い脈動の中に生まれた歌の魔力が彼らを虜にし、今の境涯と知識とで精一杯頑張ろうという決意を秘めさせたからです。

 ややあって、いよいよ私が語る段取りとなった。すでに先の歌い手が、抑え気味に、しかし甘美な声で歌い始めていた。それでも、天体の誕生の産みの痛みの時代の物語に至るとその痛みに声が激しさを増し、勢いとエネルギーが魂の中で激しく高まり、痛ましいほどの壮大な声量となってほとばしり出るかの如くであった。

それからカオス(混沌)が自ら形を整えてコスモス(宇宙)となり、さらに創造主の想像の中から各種の生命体が誕生する段階になると、声と用語の落着いたリズムが整然たる進行の中で次第に平穏となり、最後は単一音で終わった。

それはあたかも永遠の創造活動が今始まったばかりで未だ終局していないことを暗示するために、そのテーマを意図的に中天で停止させたかのようでした。
 
 そのあとを継いで語り始める前に私は一呼吸の間を置いた。それは私の話に備えて頭の中を整理させ、あたりに漂う発光性の雲の中でその考えをマントのごとく身にまとわせ、話をしている私の目に各自の性格と要求とが読み取れ、私の能力において出来うるかぎりの援助を与えるためでした。

 それからいよいよ講演に入った。全員に語りかけながら同時に個々の求めるものを順々に満たしていった。多様性となって顕現し虚空に散らばったものを再び一点に集約し、美そのもの、愛そのものである究極の実在からの熱と光りとを吸収しそして発散するところの大いなる霊的太陽について語った。

また、ペテロとユダの背信行為と裏切りとその後の後悔の話──一方は地上において束の間の地獄を味わい、一千年もの悔恨を一カ月で済ませて潔白の身となった。

そこに秩序ある神の家族内での寛恕と復権の可能性が見られること。もう一方は最後まで懺悔の念が生じず、自分が絶望の狂乱の中で金で売った人物(イエス)が死を迎えた時に、いつもの自暴自棄的気性のために早まって(首を吊って)この世から逃げた。が、

これで消えてしまったと思い込んだ思惑とは裏腹に彼は生き続けていた。しかし彼はなおも懺悔の念は生じず、イエスみずからが、迷える小羊を探し求めるごとくに、奥深き地獄の峡谷へユダその他の罪人に会いに赴いた。

そして陰気さと、触れられるほどの真実味のある暗闇の中にいる彼らに光と愛そのものである神の存在と、その聖なる御子を通じて愛の輝きが想像を絶した宇宙の果てまで、そしてその地獄の世界までも投射されている事実を語って聞かせた。

彼らは最後に光を見てから何十年何百年ものあいだ光というものを見ておらず、今では光とは何か、どのように目に映じるものかもほとんど忘れている。

その彼らの目に久しぶりに一条(ひとすじ)の光が見えてきた。もとよりイエスは彼らの視力に合わせてご自分の身体を柔らかい、優しい、ほのかな光輝で包み込んでおられた。

その足元へ一人また一人と這い寄ってくる。その目から涙がこぼれ落ちている。それがイエスの光に照らされてダイヤモンドのしずくの如く輝いて見える。その中の一人に裏切り者のユダもいた。そしてイエスから赦しの言葉を聞かされた。

ペテロがのちにイエスにあったとき主の寛恕の愛を聞かされたごとくにであった。

 聴衆はじっと聞き入り、そして私の述べていることが、宇宙の君主であり愛そのものであるところの神への一体化についてであり、そして又その神への従順さが生み出すところの産物──それは人間から見れば難問でありながら実はその一体化を促すためのてこ的意義を持つものであることを理解し始めていた。

 私は静寂のうちに講演を終わり、同じく静寂のうちに他の者とともに演壇を下り、ホールを出て公舎を後にし、次の旅へ向かった。行政官が総出で吾々をていねいな感謝の言葉とともに見送ってくださり、吾々も祈りでもってこれに応えた。かくしてその界を後にしたのであった。



 3〝苦〟の哲学
一九一七年十二月十九日  水曜日


さて吾々は急がずゆっくりと歩を進めました。と言うのは、そろそろ吾々の霊的波長が容易に馴染まぬ境涯に近づきつつあったからです。が、どうにか環境に合わせることができました。そしてついに地上から数えて二番目の界の始まる境界域に到達した。便宜上地上界をゼロ界としておきます。


──話を進められる前にお尋ねしておきたいことがあります。あなたがある種の悩みを抱えていたために他の界よりも長期間滞在されたというのは第五界だったのではありませんか。

 貴殿の要求は、私を悩ませしばらくその界に引き留めることになった問題の中身を説明してほしいということのようですな。よろしい。それはこういうことでした。

 私はすべての人間が最後は神が万物の主(ぬし)であることを理解すること、そしてその神より出でた高級神霊がそのことを御座(みくら)の聖域より遠く離れた存在にも告げているものと確信していた。

しかしそうなると吾々のはるか下界の暗黒界───悲劇と煩悶が渦巻き、すべての愛が裏切られ、その普遍性と矛盾するように思える境涯に無数の哀れな霊が存在するのはなぜか。

 それが私の疑問でした。昔からある悪の存在の問題です。私には善と悪という二つの勢力の対立関係が理解できないし、それを両立させることは少なくとも私の頭の中ではできなかった。つまり、もしも神が全能であるならば、なぜ一瞬たりとも、そして僅かたりとも悪の存在を許されたのであろうか、ということでした。

 私は久しくそのことに思いをめぐらしていた。そして結果的に大いに困惑を増すことになった。なぜなら〝神の王国〟の内部でのこうした矛盾から生まれる不信感が、目も眩まんばかりの天界の高地へ向上していく自信を私から奪ってしまったからです。

私はもしかしたらその高地で心の平静を失い、これまで降りたこともない深淵へ落ちて深いキズを負うことになりはせぬかと恐れたのです。

 煩悶しているうちに私は、いつもここという時に授かる援助をこの時も授かる用意が出来ていたようです。自分では気づかないのですが、啓発を受ける時はいつもそれに値するだけの考えが熟するまで私は論理的思考においてずっと指導を受け、その段階において直感的認識がひらめき、それまでの疑念のすべてが忘却の彼方へと一掃され、二度と疑わなくなるのでした。

 ある日のこと──貴殿らの言い方で述べればのことですが──私は小さな赤い花の密生する土手の上で東屋に似た木蔭で腰を下ろしていた。先の難問を考えていたわけではありません。他にもいろいろと楽しい考えごとはあるものです。

私はすっかり辺りの美しさ──花、木々、小鳥、そのさえずりに浸っていた。その時ふと振り返ると、すぐそばに落着いた魅力あふれる容貌の男性が腰を下ろしていた。

濃い紫のマントをつけ、その下からゴースのチュニック(*)が見える。そしてそのチュニックを透かして、まるで水晶の心臓に反射して放たれたような光が身体から輝いて見えた。肩に付けられた宝石は濃い緑とすみれ色に輝き、髪は茶色をしていた。

が、目は貴殿のご存知ない種類の色をしていた。(*ゴースはクモの糸のような繊細な布地。チュニックは首からかぶる昔の簡単な胴衣。なおこの人物が誰であるかはどこにも説明が出てこないが、多分このリーダー霊の守護霊であろう。訳者)

 その方は前方へ目をやっておられる。私はお姿に目をやり、その何とも言えない優雅さにしばし見とれていた。するとこう口を開かれた。

 「いかがであろう。ここは実に座り心地が良く、休息するには持ってこいの場所であるとは思われぬかな?」

 「はい、いかにも・・・・・・」私はこれ以上の言葉が出なかった。

 「がしかし、貴殿がそこに座る気になられたのは、きれいな花が敷きつめられているからであろう?」

 そう言われて私は返答に窮した。するとさらにこう続けられた。

 「さながら幼な子を思わせるつぼみの如き生命と愛らしさに満ちたこれらの赤い花の数々は、こうして吾々が楽しんでいるような目的のために創造されたと思われるかな?」

 これにも私はただ「そこまで考えたことはございませんでした」と答えるしかなかった。

 「そうであろう。吾々は大方みなそうである。しかも吾々が一人の例外もなく、片時も思考をお止めにならず理性から外れたことを何一つなさらぬ神の子孫であることを思うと、それは不思議と言うべきです。

吾々がいくら泳ぎ続けてもなおそこは神の生命の海の中であり、決してその外に出ることがない。それほど偉大な神の子でありながら、無分別な行為をしても赦されるということは不思議なことです」

 そこでいったん話を止められた。私は恥を覚えて顔を赤らめた。その声と話ぶりには少しも酷(きび)しさはなく、あたかも親が子をたしなめるごとく、優しさと愛敬に満ちていた。が、言われていることは分かった。

自分は今うかつにも愛らしく生命に溢れた、しかし、か弱い小さな花を押しつぶしているということです。そこで私はこう述べた。

 「お放ちになられた矢が何を狙われたか、より分かりました。私の胸深く突きささっております。これ以上ここに座っていることは良くありません。吾々のからだの重みでか弱い花に息苦しい思いをさせております」

 「では立ち上がって、いっしょにあちらへ参りましょう」そうおっしゃってお立ちになり、私も立ち上がってその場を離れた。

 「この道へはたびたび参られるのかな?」
 並んで歩きながらその方が聞かれた。

 「ここは私の大好きな散策のコースです。難しい問題が生じた時はここへ来て考えることにしております」

「なるほど。よそに較べてここは悩みごとを考えるには良いところです。そして貴殿はここに来て土手のどこかに座って考えに耽る、と言うよりは、その悩みの中に深く入り込んでしまわれるのではないかと思うが、ま、そのことは今はわきへ置いて、前回こちらへ来られた時はどこに座られましたか」

 そう聞いて足を止められた。私はその方のすぐ前の土手を指さして言った。

 「前回こちらへ来た時に座ったのはここでした」

 「それもつい最近のことであろう?」

 「そうです」

 「それにしては貴殿のからだの跡形がここの植物にも花にも見当たらない。嫌な重圧をすぐさまはね返したとみえますな」

 確かにこの地域ではそうなのである。その点が地上とは違う。花も草も芝生もすぐさま元の美しさを取り戻すので、立ち上がったすぐ後でも、どこに座っていたかが見分けがつけにくいほどである。これは第五界での話で、すべての界層がそうとは限らない。地上に近い界層ではまずそういう傾向は見られない。

 その方は続けてこう言われた。

 「これは真価においても評価においても、創造主による人間の魂の傷に対する配剤とまったく同じものです。現象界に起きるものは何であろうとすべて神のものであり神お一人のものだからです。では私に付いてこられるがよい。

貴殿が信仰心の欠如のために見落しているものをお見せしよう。貴殿は今ご自分が想像していた叡智の正しさを疑い始めておられるが、その疑念の中にこそ愛と叡智の神の配剤への信仰の核心が存在するのです」

 それから私たち二人は森の脇道を通り丘の麓へ来た。その丘を登り頂上まで来てみると森を見下ろす高さにいた。はるか遠い彼方まで景色が望める。

私は例の聖堂のさらに向こうまで目をやっていると、その聖堂の屋根の開口部を通って複数の光の柱が上空へ伸びて行き、それが中央のドームのあたりで一本にまとまっているのが見えた。それは聖堂内に集合した天使の霊的行事によって発生しているものだった。

 その時である、ドームに光り輝く天使の像が出現し、その頂上に立った。それは純白に身を包んだキリストの顕現であった。衣装は肩から足もとまで下りていたが足は隠れていない。

そしてその立ち姿のまま衣装が赤味を帯びはじめ、それが次第に濃さを増して、ついに深紅となった。まゆのすぐ上には血の色にも似た真っ赤なルビーの飾り輪があり、足先のサンダルにも同じくルビーが輝いていた。

やがて両手を高く上げると、両方の甲に大きな赤い宝石が一つずつ輝いていた。私にはこの顕現の私にとっての意味が読み取れた。最初の純白の美しさは美事であった。が今は深紅の魅力と美しさに輝き、そのあまりの神々しさに私は恍惚となって息を呑んだ。

 喘ぎつつなおも見ていると、その姿の周りにサファイヤとエメラルドの縞模様をした黄金色の雲が集結しはじめた。が、像のすぐ背後には頭部から下へ向けて血のような赤い色をした幅広いベルト状のものが立っており、さらにもう一本、同じような色彩をしたものが胸のうしろあたりで十文字に交わっている。

その十字架の前に立たれるキリストの姿にまさに相応しい燦爛たる光輝に輝ていた。

 平地へ目をやると、そこにはこの荘厳な顕現を一目見んものと大勢の群集が集まっていた。その顔と衣服がキリストの像から放たれる光を受けて明るく輝き、その像にはあたかも全幅の信頼を必要とするところの犠牲と奉仕を求める呼びかけのようなものが漂っているように思えた。

それに応えて申し出る者は、待ち受ける苦難のすべてを知らずとも、みずから進んでその苦難に身を曝す覚悟が出来ていなければならないからである。が、

その覚悟のできた者も、多くはただ跪き頭を垂れているのみであった。もとより主はそれを察し、その者たちに聖堂の中に入るよう命じられ、中にて使命を申しつけると仰せられた。そしてみずからもドームを通って堂内に入られた。そこで私の視界から消えた。

 私はそばに例の方がいらっしゃることをすっかり忘れていた。そして顕現が終わったあとも少しの間その方の存在に気づかずにいた。やっと気付いて目をやった時、

そのお顔に苦難の体験のあとが数多い深い筋となって刻まれているのを見て取った。
もとよりそれは現在のものではなく遠い昔のものであるが、その名残りがかえって魅力を増しているのだった。

 しかし私から声をお掛けできずに黙って立っていると、こうおっしゃった。

「私は貴殿に悲哀の人イエスの顕現をお見せするためにこの界のはるか上方から参っております。主はこうしてみずからお出でになっては悲哀を集めて我がものとされる。それは、その悲哀なくしては今拝見したごとき麗しさを欠くことになるからです。

主にあれほどの優しさを付加する悲哀は、その未発達の粗野な状態にあっては苦痛を伴って地上を襲い、激痛をもって地獄を襲うものと同一です。

この界においては各自その影を通過する時に一瞬のものとして体験する。吾々とて神の御心のすべてには通暁し得ない。しかし今目のあたりにした如く、時おり御心のすべてに流れる〝苦の意義〟を垣間見ることが出来る。

その時吾々が抱く悩みから不快な要素が消え、いつの日かはより深い理解が得られるとの希望が湧き出てきます。

 しかし、その日が訪れるまでは主イエスが純白の姿にて父の御胸より出て不動の目的をもって地上へ赴いたこと、そこは罪悪と憎悪の暗雲に包まれていたことを知ることで満足しています。

さよう、イエスはさらに死後には地獄へまでも赴き、そこで悶え苦しむ者にまで救いの手を差しのべられた。そしてみずからも苦しみを味わわれた。

かくして悲哀の人イエスは父の玉座の上り段へと戻り、そこで使命を成就された。が、戻られた時のイエスはもはや地上へ向かわれた時のイエスではあられなかった。聖なる純白の姿で出発し深紅の勝利者となって帰られた。

が流した血は自らのおん血のみであった。敵陣へ乗り込んだ兵士がその刃を己の胸に突きさし、しかもその流血ゆえに勝者として迎えられるとは、これはいかにも奇妙な闘いであり、地上の歴史においても空前絶後のことであろう。

 かくして王冠に新たなルビーを加え、御身に真っ赤な犠牲の色彩を一段と加えられて、出発の時より美しさを増して帰られた。そして今や、主イエスにとりて物質界への下降の苦しみは、貴殿が軽率にも腰を下ろしても変わらぬ生長力と開花力によっていささかも傷められることのなかった草花のごとく、一瞬の出来ごとでしかなかった。

主イエスは吾々の想像を絶する高き光と力の神界より降りて来られて、自己犠牲の崇高さを身を持ってお示しになった──まさに主は私にとって神の奇しき叡智の保証人でもあるのです。

 では罪悪の悲劇と地獄の狂乱はどうなるのか。これも、その暗黒界を旅してきた者は何ものかを持ち帰る。神とその子イエスの愛により、摂理への従順の正道を踏み外して我が儘の道を歩める者も、その暗黒より向上してくる時、貴重にして美妙なる何ものかを身につけている。

それが神と密接に結びつけるのです。さよう、貴殿もいずれその奇しき叡智を悟ることになるであろう。それまで辛棒強く待つことです。が、それには永き時を要するでしょう。

貴殿がその神秘の深奥を悟るのは私より容易ではなく、私ほど早くもないかも知れません。なぜなら貴殿はかの悔恨と苦悶の洞窟の奥深く沈んだ体験の持ち合わせがないからです。私にはそれがあるのです。私はそこから這い上がって来た者です」

 
 4 さらに下層界へ        
 一九一七年十二月二十日 木曜日

 さて、吾々はいよいよ第二界へ来た。そして最も多く人の集まっている場所を探しました。と言うのも、かつてこの界に滞在した頃とは様子が変っており、習慣や生活様式に関する私の知識を改めざるを得なかったのです。

貴殿にも知っておいていただきたいことですが、地上に近い界層の方がはるか彼方の進化した界層に較べて細かい点での変化が激しいのです。

いつの時代にも、地上における学問と国際的交流の発展が第二界にまで影響を及ぼし、中間の第一界へはほとんど影響を及ぼしません。

また死後に携えてきた地上的思想や偏見が第二界でも色濃く残っておりますが、それも一界また一界と向上して行くうちに次第に中和されて行きます。かなり進化した界層でもその痕跡を残していることがありますが、進歩の妨げになったり神の子としての兄弟関係を害したりすることはありません。

第七界あるいはそれ以上の界へ行くとむしろ地上生活の相違点が興味や魅力を増すところの多様性(バラエティー)となり、不和の要素が消え、他の思想や教義をないがしろにすることにもならない。

さらに光明界へ近づくとその光によって〝神の御業の書〟の中より教訓を読み取ることになる。そこにはもはや唯一の言語を話す者のための一冊の書があるのみであり、父のもとにおける一大家族となっております。

それは地上のように単なる遠慮や我慢から生まれるものではなく、仕事においても友愛においても心の奥底からの協調関係から、つまり愛において一つであるところから生まれるものです。

 うっかりしていました──私は第二界のことと、そこでの吾々の用事について語るのでした。

 そこではみんな好きな場所に好きなように集まっている。同じ民族のものといっしょになろうとする者もいれば、血のつながりよりも宗教的つながりで集まる者もいました。政治的思想によってサークルを作っている者もいました。

もっぱらそういうことだけで繋がっている者は、少し考えが似たところがあればちょくちょく顔を出し合っておりました。

例えばエスラム教徒は国際的な社会主義者の集団と親しく交わり、帝国主義者はキリスト教信仰にもとづく神を信仰する集団と交わるといった具合です。

色分けは実にさまざまで、その集団の構成分子も少々の内部変化があっても、大体において地上時代の信仰と政治的思想と民族の違いによる色分けが維持されていました。 

 それにしても、吾々第十界からの使者が来ることはすでにその地域全体に知れ渡っておりました。と言うのも、この界では地上ほど対立関係から出る邪心がなく、かなりの善意が行きわたっているからです。

かつて吾々が学んだことを今彼らも学んでいるところで、それで初めのうち少し集まりが悪いので、もし聞きたければ対立関係を超えていっしょに集まらねばならぬことを告げた。

吾々は小さなグループや党派に話すのではなく、全体を一つにまとめて話す必要があったからです。

 すると彼らは、そう高くはないが他の丘よりは小高い丘の上や芝生のくぼみなどに集結した。吾々は丘の中腹に立った。そこは全員から見える位置で、背後はてっぺんが平たい高い崖になっていた。

 吾々はまず父なる神を讃える祈りを捧げてから、その岩の周りに腰を下ろした。それからメンバーの一人が聴衆に語りかけた。彼はこの界のことについて最も詳しかった。

本来は第七界に所属しているのであるが、この度は使命を受けてから、道中の力をつけるために第十界まで来て修行したのです。

 彼は言語的表現においてなかなかの才能を有し、声を高くして、真理についての考えが異なるごとく服装の色彩もさまざまな大聴衆に向かって語りかけた。声は強くかつ魅力に富み、話の内容はおよそ次のようなものでした。

 かつて地上界に多くの思想集団に分裂した民族があった。そうした対立を好ましからぬものと考え、互いに手を握り合うようにと心を砕く者が大勢いた。

この界(第二界)にも〝オレの民族、オレの宗派こそ神の御心に近いのだ〟と考える、似たようなプライドの頑迷さが見受けられる。吾々がこうして諸君を一個の民族として集合させ、神からのメッセージを伝えるのも、これよりのちの自由闊達にして何の妨げもない進化のためには、まずそうした偏狭さを棄て去ってしまわねばならないからである、と。

 これを聞いて群集の間に動揺が見られた。が、述べられたことに何一つ誤りがないことは彼らも判っていた。

その証拠に彼らの目には、吾々のからだから発する光輝が彼らをはるかに凌いでいることが歴然としており、その吾々もかつては今の彼らと同じ考えを抱いていたこと、そして吾々が当時の考えのうちのあるものはかなぐり捨て、あるものは改めることによって、

姿も容貌も今のように光輝を増したことを理解していたからです。だからこそ静かに耳を傾けたのです。

 彼はいったんそこで間を置いてから、新たに彼の言わんとすることを次のように切り出しました。

「さて、主の御国への王道を歩んでおられる同志の諸君、私の述べるところを辛棒強く聞いていただきたい。かのカルバリの丘には実は三つの十字架があった。

三人の救世主がいたわけではない。救世主は一人だけである。同じ日に三人の男が処刑されたが、父の王国における地位(くらい)が約束できたのは一人だけであった。王たる資格を具えていたのは一人だけだったということである。


三人に死が訪れた。そのあとに憩いが訪れるのであるが、三人のうち安らかな眠りを得たのは一人だけだった。なぜであろうか。

それは父が人間を自己に似せて創造した目的、および洪水の如き勢いをもって千変万化の宇宙を創造した膨大なエネルギーの作用について理解し得るほどの優しき哀れみと偉大なる愛と聖純なる霊性を身につけていたのはイエスの他にいなかったからである。

あまりの苦悩に疲れ果てた主に安らかな眠りを与えたのには、邪悪との長き闘いとその憎悪による圧倒的な重圧の真の意味についての理解があったからであった。

主イエスは最高界より物質界へ降りて差別の世界の深奥(しんおう)まで究(きわ)められた。そして今や物的身体を離れて再び高き天界へと昇って行かれた。そのイエスが最初に心を掛けたのは十字架上でイエスに哀願した盗人のことであり、次は金貨三十枚にてイエスを売り死に至らしめたユダのことだった。

ここに奇妙な三一関係がある。が、この三者にも、もう一つの三一関係(神学上の三位一体説)と同じく、立派に統一性が見られるのである。

 それは、盗人も天国行きを哀願し、ユダも天国へ行きたがっていた。それを主が父への贈物として求めそして見出した。が、地上へ降りてしかもそこに天国を見出し得たのは主のみだった、ということである。

盗人は死にかかった目で今まさに霊の世界への入り口に立てる威風堂々たる王者の姿を見てはじめて、天国は地上だけに存在するものでないことを悟った。

一方の裏切り者はいったん暗黒界への門をくぐったのちに主の飾り気のない童子のごとき純心な美しさを見てはじめて天国を見出した。

それに引きかえ主は地上において既に天国を見出し、父なる神の御国がいかなるものであるかを人々に説いた。それは地上のものであると同時に天界のものでもあった。

肉体に宿っている間においてはその心の奥にあり、死してのちは歩み行くその先に存在した。つまるところ神の御国は天と地を包含していたのである。御国は万物の始まりの中にすでに存在し、その時点において神の御心から天と地が誕生したのであった。

 そこで私は、人間一人ひとりが自分にとっての兄弟であると考えてほしいと申し上げたいのである。カルバリの丘の三つの十字架上の三人三様の特質に注目していただきたい。

つまり完全なる人物すなわち主イエスと、そのイエスが死後に最初に救った二人である。そこにも神の意志が見出されるであろう。

つまり上下の差なく地上の人間のすべてが最後は主イエス・キリストにおいて一体となり、さらに主よりなお偉大なる神のもとで一体となるということである。そこで、さらに私は諸君みずからの中にも主の性格とユダの性格の相違にも似た多様性を見出してほしいのである。

そして、かく考えて行けば父なる神の寛大なる叡智によって多様性をもたらされた人類がいずれは再びその栄光の天国の王室の中にて一体となることが判るであろう。

何となれば神の栄光の中でも最も大いなる栄光は愛の栄光であり、愛なるものは憎しみが分かつものを結び合わせるものだからである」

シルバーバーチの霊訓  地上人類への最高の福音

  The Seed of Truth

トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)




7章 偉大さの尺度は奉仕的精神の度合いにあります


延べにして六十年にも及んだ地上での使命の中で、シルバーバーチが当惑した様子や不満の色、いらだちの態度を見せたことは一度もなかった。また、招待されて出席した人を個人的に批判することも絶対になかった。本当の意味での老賢人、慈悲深い魂だった。

その日の交霊会にもゲストが出席していた。そして、死後の世界の存在についてまだ本格的な確信が持てずにいることを正直に告白した。それを聞いて述べたシルバーバーチの回答が、さながらスピリチュアリズムの要約の観があるので、それをそのまま紹介しよう。


「わたしたち霊団の仕事の一つは、地上へ霊的真理をもたらすことです。これは大変な使命です。霊界から見る地上は、無知の程度がひどすぎます。その無知が生み出す悪弊には、見るに耐えないものがあります。それが地上の悲劇に反映しておりますが、実はそれが、ひいては霊界の悲劇にも反映しているのです。地上の宗教家は、死の関門をくぐった信者は、魔法のように突如として、言葉ではつくせないほどの喜悦に満ちた輝ける存在となって、一切の悩みと心配と不安から解放されるかに説いていますが、それは間違いです。真相とはほど遠い話です。

死んで霊界へ来た人は――初期の段階にかぎっての話ですが――地上にいた時と少しも変わりません。肉体を捨てた――ただそれだけのことです。個性は少しも変わっていません。性格はまったくいっしょです。習性も特質も性癖も個性も、地上時代そのままです。利己的だった人は、相変わらず利己的です。貪欲だった人は、相変わらず貪欲です。無知だった人は、相変わらず無知のままです。悩みを抱いていた人は、相変わらず悩んでおります。少なくとも霊的覚醒が起きるまでは、そうです。

こうしたことがあまりに多すぎることから、霊的実在について、ある程度の知識を地上に普及させるべしとの決断が下されたのです。そこで、わたしのような者が永年にわたって霊的生命についての真理を説く仕事にたずさわってきたわけです。霊的というと、これまではどこか神秘的な受け取られ方をされてきましたが、そういう曖昧なものでなしに、実在としての霊の真相を説くということです。そのためには、何世紀にもわたって受け継がれてきた誤解・無知・偏見・虚偽・欺瞞・迷信――要するに人類を暗闇の中に閉じ込めてきた勢力のすべてと闘わねばなりませんでした。

わたしたちは、そうした囚(とら)われの状態に置かれ続けている人類に霊的解放をもたらすという目的をもって、一大軍団を組織しました。お伝えする真埋はいたって単純なのですが、それにはまず、証拠になるものをお見せすることから始めなければなりません。すなわち偏見を捨てて、真摯な目的、真実を知ろうとする欲求をもって臨む者なら誰にでも得心のいくものであることを明らかにしなければなりません。愛する人たちは、そちら側からそのチャンスを与えてくれさえすれば、つまり然るべき通路(霊媒)を用意してくれさえすれば、死後もなお生き続けていることを証明してくれます。

これは空想の産物ではありません。何千回も何万回も、くり返し証明されてきている事実を、ありのままに述べているまでです。もはや議論や論争の枠を超えた問題です。もっとも、見ようとしない盲目者、事実を目の前にしてもなお、認めることができなくなってしまった、歪んだ心の持ち主は論外ですが。

以上が第一の目的です。“事実なら、その証拠をみせていただこう。われわれはもう信じるというだけでは済まされなくなっている。あまりに長い間、気まぐれな不合理きわまる教義を信じ込まされてきて、われわれは今そうしたものに、ほとほと愛想をつかしてしまった。われわれが欲しいのは、われわれ自身で評価し、判断し、測定し、考察し、分析し、調査できるものだ”――そうおっしゃる物質界からの挑戦にお応えして、霊的事実の証拠を提供するということです。

それはもう十分に提供されているのです。すでに地上にもたらされております。欲しい人は自分で手にすることができます。それこそが、わたしがこれまでにあらゆる攻撃を耐え忍び、これからもその砦(とりで)となってくれる“確定的事実”という、スピリチュアリズムの基盤なのです。もはや“私は信じます。私には信仰というものがあります。私には希望があります”といったことでは済まされる問題ではなくなったのです。“事実なのだから、どうしようもありません。立証されたのです”と断言できる人が、数え切れないほどいる時代です。

人類史上はじめて、宗教が実証的事実を基盤とすることになりました。神学上のドグマは証明しようのないものであり、当然、議論や論争がありましょう。が、死後の存続という事実は、まともな理性をもつ者ならば必ずや得心するだけの証拠が揃っております。しかし、証明された時点から本当の仕事が始まるのです。それでお終(しま)いとなるのではありません。まだその事実を知らない人が無数にいます。その人たちのために証拠を見せてあげなくてはなりません。少なくとも、死後にも生命があるという基本的真理は間違いないのだ、という確証を植えつけてあげる必要があります。

墓の向こうにも生活があるのです。あなたがたが“死んだ”と思い込んでる人たちは、今もずっと生き続けているのです。しかも、地上へ戻ってくることもできるのです。現実に戻ってきているのです。

しかし、それだけで終わってはいけません。死後にも生活があるということは何を意味するのか。どのように生き続けるのか。その死後の生活は、地上生活によってどういう影響を受けるのか。二つの世界の間にはいかなる因果関係があるのか。死の関門を通過したあと、いかなる体験をしているのか。地上時代に心に思ったことや言動は、死後、役に立っているのか障害となっているのか。以上のようなことを知らなくてはいけません。

また死後、地上へ伝えるべき教訓として何を学んでいるのか。物的所有物のすべてを残していったあとに、いったい何が残っているのか。死後の存続という事実は、宗教に、科学に、政治に、経済に、芸術に、国際関係に、はては人種差別の問題にいかなる影響を及ぼすのか、といったことも考えなくてはいけません。

そうです、そういう分野のすべてに影響を及ぼすことなのです。なぜなら、新しい知識は、永いあいだ人類を悩ませてきた古い問題に新たな照明を当ててくれるからです。

いかがですか、大ざっぱに申し上げた以上の話が、お役に立ちましたでしょうか」

「お話を聞いて、すっきりと理解がいったように思います」


「もう一つ申し上げたいことがあります。そうした問題と取り組んでいく上で、わたしたちは、暗黒の勢力と反抗勢力、そして、そうした勢力に加担することで利益を確保している者たちに対して、間断なき闘いを続けていかねばなりませんが、同時に、不安とか取り越し苦労といった“恐怖心”との闘いをも強(し)いられているということです。

地上と霊界との間には、その関係を容易にする条件と、反対に難しくする条件とがあります。誤解・敵意・無知――こうした障害は後者ですが、これはお互いの努力によって克服していけるものです。そのためには、わたしたちが存分に力を発揮する上で人間側に要求したい、心の姿勢というものがあります。

人間は肉体をたずさえた霊であり、わたしたちは肉体をもたない霊です。そこに共通したものがあります。“霊”というつながりです。あなたも今この時点において立派に“霊的存在”なのです。死んでから霊になるのではありません。死んでから霊体をさずかるのではありません。死はただ単に肉体という牢獄からあなたを解放するだけです。小鳥が鳥カゴを開けてもらって大空へ飛び立つように、死によってあなたは自由の身となるのです。

基本的には、あなたがた人間にも“霊”としてのあらゆる才能、あらゆる属性、あらゆる資質がそなわっております。今のところ、それが未発達の状態で潜在しているわけです。もっとも、わずかながら、すでに発現しているものもあります。未発達のものをこれからいかにして発現していくか、本当のあなたを表現していくにはどうしたらよいか、より大きな自我を悟り、大霊からのすばらしい遺産をわがものとするにはどうすればよいか、そうしたことをわたしたちがお教えすることができるのです。

しかし、いかなる形にせよ、そうした使命を帯びて地上へ戻ってくる霊は、必然的に、ある種の犠牲を強いられることになります。なぜなら、そのためには波長を地上の低い波長に合わさなければならない――言い変えれば、人間と接触するために、霊的な波長を物的な波長へと転換しなければならないからです。

人類の大半はまだ霊的なものを求める段階まで達しておりません。言い変えれば、霊的波長を感受する能力を発揮しておりません。ごく少数の人たちを除いて、大部分の人々はそのデリケートな波長、繊細な波長、高感度の波長を感じ取ることができないのです。

そこで、わたしたちの方から、言わば階段を下りなければならないのです。そのためには当然、それまでに身につけた霊的なものの多くを、しばらく置き去りにしなければなりません。本当は人間側からも階段を上がってもらって、お互いが歩み寄るという形になれば有り難いのですが、それはちょっと望めそうにありません。

しかし、人間が霊的存在であることに変わりはありません。霊的資質を発揮し、霊的な光輝を発揮することができれば、不安や疑いの念はすべて消滅してしまいます。霊は安心立命の境地においてのみ、本来の力を発揮するものです。

わたしたちが闘わねばならない本当の敵は、実は人間の無用の心配です。それがあまりに多くの人間の心に巣くっているのです。単なる観念上の産物、現実には存在しない心配ごとで悩んでいる人が多すぎるのです。

そこでわたしは、取り越し苦労はおやめなさいと、くり返し申し上げることになるのです。自分の力で解決できないほどの問題に直面させられることは決してありません。克服できない困難というものは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷物は決して与えられません。しかも、あふれんばかりの自信に満ちた雰囲気の中で生きていれば、霊界から援助し、導き、支えてくれる、あらゆる力を引き寄せることができるのです。

このように、霊的な問題は実に広大な範囲にまたがる、大きな問題なのです。人生のあらゆる側面にかかわりをもっているのです。ということは、これからという段階にいらっしゃるあなたには、探検旅行にも似た愉しみ、新しい霊的冒険の世界へ踏み込む楽しさがあるということでもあるのです。どうか頑張ってください」

「死後どれくらいたってから地上へ戻ってくるのでしょうか」


「それは一人ひとりの事情によって異なります。こちらへ来て何世紀にもなるのに、自分の身の上に何が起きたかがわからずにいる霊もいます」

「自分が死んだことに気づかないのです」とメンバーの一人が口添えする。するとシルバーバーチが――


「一方にはちゃんとした霊的知識をたずさえた人もいます。そういう霊は、適当な霊媒さえ見つかれば、死んですぐにでもメッセージを送ることができます。そのコツを心得ているのです。このように、この問題は霊的知識があるかどうかによって答えが異なる問題であり、単純にこうですとはお答えできません。

わたしたちが手を焼くのは、死後について誤った概念を抱いたままこちらへ来る大勢の人たちです。自分の想像していた世界だけが絶対と思い、それ以外ではありえないと思い込んでいます。一心にそう思い込んでいますから、それが彼らにとって現実の世界となるのです。わたしたちの世界は、精神と霊の世界であることを忘れないでください。思ったことがそのまま現実となるのです」

ここでシルバーバーチは、メンバーの中で心霊治療能力をもっている人に助言してから、再びさきの質問者に向かって――


「この心霊治療も、わたしたちの大切な仕事なのです。治療家を通路として霊界の治癒エネルギーが地上の病的身体に注がれるのです。

このように、わたしたちの仕事はいろいろな側面、いろいろな分野をもった、非常に幅の広い仕事です。初心者の方は面食らうこともあると思いますが、間違いなく真理であり、その真実性を悟られた時に、あなたの生活に革命が起こります。

宗教の世界では“帰依(きえ)”ということを言います。おきまりの宣誓文句を受け入れ、信仰を告白する――それでその宗教へ帰依したことになるというのですが、本当の帰依というのは、霊的真理に得心がいって、それがあなたという存在の中にしっくりと納まることをいうのです。

その時からその人は新しい眼を通して、新しい確信と新しい理解とをもって人生を見つめます。生きる目的が具体的にわかるようになります。大霊が全存在のために用意された計画の一端がわかり始めるからです。

ある人は政治の分野において、生活の苦しい人々、社会の犠牲になっている人々、裏切られている人々、寄るべなき人々のために、その霊的知識を生かそうと奮い立ちます。ある人は宗教の世界へ足を踏み入れて、死に瀕(ひん)している古い教義に新しい生命を吹き込もうとします。ある者は科学の実験室に入り、残念ながらすっかり迷路にはまってしまった科学者の頭脳に、霊的なアイディアを吹き込もうと意気込みます。また芸術の世界へ入っていく人もいることでしょう。

要するに霊的真理は人生のすべての分野に関わるものだということです。それは当然のことなのです。なぜなら、生命とは霊であり、霊とはすなわち生命だからです。霊が目を覚まして真の自分を知った時、つまり霊的意識が目覚めた時、その時こそ自分とは何者なのか、いかなる存在なのか、なぜ存在しているのかといったことに得心がいきます。それからの人生は、その後に宿命的に待ちうける、より豊かで、より大きな生命の世界への身仕度のために、“人のために自分を役立てる”ことをモットーとして生きるべきです。

どうぞ、これからも真理探求の旅をお続けください。求め続けるのです。きっと与えられます。要求が拒絶されることは決してありません。ただし、回答は必ずしもあなたが期待したとおりのものであるとはかぎりません。あなたの成長にとって最善のものが与えられます」

最後に出席者全員に向かって、次のような別れの言葉を述べた。


「われわれは大いなる神の計画の中に組み込まれていること、一人ひとりが何らかの存在価値をもち、小さすぎて用のない者というのは一人もいないこと、忘れ去られたりすることは決してないことを忘れないようにしましょう。そういうことは断じてありません。宇宙の大霊の大事業に誰しも何らかの貢献ができるのです。霊的知識の普及において、苦しみと悲しみの荷を軽くしてあげることにおいて、病を癒してあげることにおいて、同情の手を差しのべることにおいて、寛容心と包容力において、われわれのすべてが何らかの役に立つことができるのです。

かくして各自がそれぞれの道において、温かき愛と、悠然たる自信と、確固たる信念をもって生き、道を見失った人々があなたがたを見て、光明への道はきっとあるのだと感じ取ってくれるような、そういう生き方をなさってください。それも人のために役立つということです。

では、大霊の祝福の多からんことを!」

その日の交霊会はそれで終わり、続いての交霊会に出たシルバーバーチは、その間に帰っていた本来の上層界での話に言及して、こう述べた。


「いつものことながら、いよいよ物質界へ戻ることになった時の気持ちは、あまり楽しいものではありません。課せられた仕事の大変さばかりが心に重くのしかかります。しかし、皆さんの愛による援助を受けて、ささやかながらわたしの援助を必要としている人たち、そしてそれを受け止めてくださる人たちのために、こうして戻ってくるのです。

これまでの暫(しば)しの間、わたしは本来の住処(すみか)において僚友とともに過ごしてまいりましたが、どうやら、わたしたちのこれまでの努力によって何とか成就できた仕事についての評価は、わたしが確かめたかぎりにおいては、満足すべきものであったようです。これからも忠誠心と誠実さと協調精神さえあれば、ますます発展していく大霊の計画の推進に挫折が生じる気づかいは毛頭ありません。

その原動力である霊の力が果たしてどこまで広がりゆくのか、その際限を推し量ることは、このわたしにもできません。たずさわっている仕事の当面の成果と、自分の受け持ちの範囲の事情についての情報は得られても、その努力の成果が果たして当初の計画どおりに行っているのかどうかについては知りませんし、知るべき立場にもないのです。わたしたちの力がどこまで役立ったのだろうか、多くの人が救われているのだろうか、それとも僅(わず)かしかいなかったのだろうか――そんな思いを抱きながらも、わたしたちはひたすら努力を重ねるだけなのです。

しかし、上層界にはすべての連絡網を通じて情報を集めている霊団が控えているのです。必要に応じて大集会を催し、地上界の全域における反応をあらゆる手段を通してキャッチして、計画の進捗(しんちょく)ぐあいを査定し、評価を下しているのです。

かくして、わたしたちにすら知り得ない領域において、ある種の変化がゆっくりと進行しつつあるのです。暗闇が刻一刻と明るさを増していきつつあります。霧が少しずつ晴れていきつつあります。モヤが後退しつつあります。無知と迷信とドグマによる束縛と足枷から解放される人が、ますます増えつつあります。自由の空気の味を噛みしめております。心配も恐怖もない雰囲気の中で、精神的に、霊的に、自由の中で生きることの素晴らしさに目覚めつつあります。

自分がこの広い宇宙において決して一人ぼっちでないこと、見捨てられ忘れ去られた存在ではないこと、無限なる愛の手が常に差しのべられており、今まさに自分がその愛に触れたのだということを自覚し、そして理解します。人生は生き甲斐のあるものだということを、今一度あらためて確信します。そう断言できるようになった人が、今日、世界各地に広がっております。かつては、それが断言できなかったのです。

こうしたことが、わたしたちの仕事の進捗ぐあいを測るものさしとなります。束縛から解放された人々、二度と涙を流さなくなった人々が、その証人だということです。これから流す涙は、うれし涙だけです。心身ともに健全となった人々、懊悩(おうのう)することのなくなった人々、間違った教義や信仰がつくり出した奴隷的状態から逃れることができた人々、自由の中に生き、霊としての尊厳を意識するようになった人々、こうした人たちは皆、われわれの努力、人類解放という気高い大事業にたずさわる人たちすべての努力の成果なのです。

これからも、まだまだ手を差しのべるべき人が無数にいます。願わくば、われわれの手の届くかぎりにおいて、その無数の人々のうちの幾人かでも真の自我に目覚め、それまでに欠けていた確信を見出し、全人類にとって等しく心の拠(よ)り所となるべき、永遠の霊的真理への覚醒をもたらしてあげられるように――更生力に富み、活性力と慰安力とにあふれ、気高い目標のために働きかける霊の力の存在を意識し、代わって彼らもまた、いずれはその霊力の道具となって、同じ光明をますます広く世界中に行きわたらせる一助となってくれるよう、皆さんとともに希望し、祈り、そして決意を新たにしようではありませんか。

真理はたった一人の人間を通じてもたらされるものではありません。地球上の無数の人間を通じて浸透していくものです。霊力の働きかけがあるかぎり、人類は着実に進歩するものであることを忘れないでください。今まさに人類は、内在する霊的遺産を見出しはじめ、霊的自由をわがものとしはじめました。そこから湧き出る思い、駆り立てられるような衝動、鼓舞されるような気持ちは、強烈にして抑えがたく、とうてい抑え通せるものではありません。霊の自由、精神の自由、身体の自由にあこがれ、主張し、そして希求してきた地球上の無数の人々を、今その思いが奮い立たせております。

こうして、やがて新しい世界が生まれるのです。王位は転覆され、権力的支配者は失脚し、独裁者は姿を消してまいります。人類はその本来の存在価値を見出し、内部の霊の光が世界中にさん然と輝きわたることでしょう。

それは、抑え難い霊的衝動の湧出(ゆうしゅつ)によってもたらされます。今まさに、それが更生の大事業を推進しているのです。わたしが決して失望しない理由はそこにあります。わたしの目に、人類の霊的解放というゴールへ向けての大行進が見えるからです」

ここでメンバーの一人が「歴史をみても、人類の努力すべき方向はすでに多くの模範が示してくれております」と言うと――


「そうなのです。訓えは十分に揃っているのです。今必要なのは、その実行者です。

そこで、その実行者たるべきわれわれは、悲しみに打ちひしがれた人々、重苦しい無常感の中にあって真実を希求している無数の人々の身の上に思いを馳せましょう。われわれの影響力の行使範囲にまでたどりついた人々に精一杯の援助を施し、慰めを与え、その悲しみを希望に変え、孤独感を打ち消して、人生はまだお終いではないとの確信をもたせてあげましょう。

無限の宝を秘めた大霊の貯蔵庫から、霊力を引き出しましょう。われわれに存在を与え給い、みずからのイメージに似せて創造したまい、神性を賦与してくださった大霊の道具となるべく、日常生活において、われわれ自身を厳しく律してまいりましょう。

われわれこそ、その大霊の計画の推進者であることを片時も忘れることなく、謙虚さと奉仕の精神と、託された信託への忠誠心をもって臨むかぎり、恐れるものは何一つないこと、いかなる障害物も、太陽の輝きの前の影のごとく消滅していくとの確信をもって、邁進(まいしん)いたしましょう」

別の日の交霊会で――

「心霊的能力の発達は人類進化の次の段階なのでしょうか」


「霊能者とか霊媒と呼ばれている人が進化の先駆けであることに、疑問の余地はありません。進化の梯子の一段上を行く、いわば前衛です。そのうち、心霊能力が人間の当りまえの能力の一部となる時代がきます。地上人類は今、精神的発達の段階を通過しつつあるところです。このあとには、必然的に心霊的発達の段階がきます。

人間が、五感だけを宇宙との接触の通路としている、哀れな動物ではないことをまず認識しないといけません。五感で知りうる世界は、宇宙のほんの一部です。それは物的手段で感識できるものに限られています。人間は物質を超えた存在です。精神と霊とでできているのです。その精神と霊にはそれなりのバイブレーションがあり、そのバイブレーションに感応する、別の次元の世界が存在します。地上にいる間は物的なバイブレーションで生活しますが、やがて死をへて、より高いバイブレーションの世界が永遠の住処(すみか)となる日がまいります」

「霊界のどこに誰がいるということが簡単にわかるものでしょうか」


「霊界にはそういうことが得意な者がおります。そういう霊には簡単にわかります。大ざっぱに分類すれば、他界した霊は、地上へ帰りたがっている者と帰りたがらない者とに分けられます。帰りたがっている霊の場合は、有能な霊媒さえ用意すれば容易に連絡が取れます。しかし帰りたがらない霊ですと、どこにいるかは突き止められても、地上と連絡を取るのは容易ではありません。イヤだというのを、無理やりに連れ戻すわけにはいかないからです」

別の質問に答えて――


「次のことをよく理解しないといけません。こちらの世界には地上の人間への愛、情愛、愛情、同情といったものをごく自然な形で感じている霊が大勢いるということです。精神的なもの、霊的なものによって結びついている時は、それは実在を基盤とした絆で結びついていることになります。なぜなら、精神的な力や霊的な力の方が、地上的な縁よりも強烈だからです。たとえば、地上のある画家がすでに他界している巨匠に心酔しているとします。その一念は当然その巨匠に通じ、それを縁として地上圏へ戻って、何らかの影響力を行使することになります。

もう一つ理解していただきたいのは、地上時代に発揮していた精神的ならびに霊的資質が何であれ、皆さんが“死んで”その肉体を捨ててしまうと、地上時代よりはるかに多くの資質が発揮されはじめるということです。肉体という物質の本質上、どうしても制約的・抑止的に働くものが取り払われるからです。そうなってから、もしも地上に、右の例の画家のように精神的ないし霊的なものを縁としてつながる人が見つかれば、その拡張された能力を役立てたいという気持ちになるものなのです。

その影響力を無意識のうちに受けておられる場合もあります。地上の芸術家はそれを“インスピレーション”と呼んできましたが、それが“霊”から送られていることには気づいておられないようです。つまり、かつて同じ地上で生活したことのある先輩から送られてきているという認識はないようです。

これは、わたしの場合にもいえることです。生命の摂理について皆さんより少しばかり多くのことを学んだわたしが、こうして地上へ戻ってきて、受け入れる用意のある人にお届けしているように、わたしより多くを学んでいる偉大な先輩が、このわたしに働きかけているのです。偉大さの尺度は奉仕的精神の度合にあります。いただくものが多いから偉大なのではなく、与えるものが多いから偉大なのです。

どうか皆さんも、可能なかぎりの美徳を地上にもたらすために皆さんを活用しようとしている高級霊の道具である、というよりは、心がけ一つで道具となれる、ということを自覚なさってください。自分が授かっている資質ないしは才能を人類のために捧げたい――苦悩を軽減し、精神を高揚し、不正を改めるための一助となりたい、という願望を至上目的とした生き方をしていれば、何一つ恐れるものはありません。

何が起きようと、それによって傷つくようなことはありません。目標を高く掲げ、何ものにも屈しない盤石(ばんじゃく)の決意をもって、“最大多数の人々への最大限の徳”をモットーにして仕事に当たれば、それが挫折することは絶対にありません」

その日のゲストには、ぜひとも交信したい相手がいて、どうすればそれが叶えられるかをシルバーバーチに尋ねた。すると次のようなアドバイスが与えられた。


「交霊会に出席する際に、特別な先入観を抱いていると、それが交信の障害となります。地上側はあくまでも受信者ですから、会場の雰囲気は受け身的でないといけません。そこへ強烈な思念を抱いて出席することは、言わばその会場に爆弾を落すようなものです。こうあってほしいという固定観念を放射し、それ以外のことを受け入れる余裕がないような状態では、せっかくの交信のチャンネルを塞いでしまうことになります。交信はあくまでもチャンネルを通して届けられるのです。それを塞いでしまっては、交信ができるはずがありません。開いていないといけません。

わたしたちが皆さんに近づけるのは、皆さんが精神的に共感的で受け身的な状態にある時です。言いかえれば、心のドアを開いて“さあ、受け入れの準備ができました。どうぞ”と言える時です。“自分はかくかくしかじかのものを要求したい。それ以外は断ります”といった態度では、交信のチャンネルを制約し、あなたが求めている霊までが出現しにくくなるのです」

「霊媒の中には、霊の姿まで見えているのに、その霊の地上時代の“姓”はよくわからないという人がいますが、なぜでしょうか」


「それは、その霊媒にとっては、ほかのことに較べて“姓”の観念がにがてというまでのことです。要は波動がキャッチできるかどうかの問題です。よく馴染んでいる波動は伝達が容易です。珍しい名前、変わった名前ほど伝達しにくく、したがって受け取りにくいということになります。

もう一つの要素として、霊界から霊媒や霊能者に届けられる通信の多くは、絵画やシンボルの形で送られることが多く、その点、姓名というのは絵画やシンボルで表現するのはほとんど不可能という事情があります。霊視力や霊聴力の確かな霊媒なら、姓名の伝達もうまく行きます。

ただ、忘れないでいただきたいのは、霊媒としての評価は姓名をよく言い当てるかどうかではなくて、その霊についての確かな存在の証拠を提供できるかどうかであることです」

祈り

地上各地に霊の神殿を設け……


ああ、大霊よ。全生命の無限なる始原にあらせられるあなた。全宇宙を創造し、形態を与え、それぞれに目的を持たせ、その全側面を経綸したまうあなた。そのあなたの分霊(わけみたま)をうけているわたしたちは、その霊性を高め、目的意識を強め、あなたとの絆をさらに強く締め、あなたの叡智、あなたの愛、あなたの力でみずからを満たし、あなたの道具として、より大きくお役に立ち、あなたの子等のために尽くしたいと願うものでございます。

わたしたちは、地上人類に実り多き仕事の機会をもたらす霊的な安らぎと和の雰囲気を回復させ、そのエネルギーを全世界へ福利と協調の精神を広めるために用い、空腹と飢餓、苦悩と悲哀、邪悪と病気、そして戦争という惨劇を永遠に排除し、すべての者が友好と親善の中で生活し、あなたが賦与なされた資質の開発に勤しみ、かくして一人ひとりが全体のために貢献するようになることを願っております。

わたしたちは子等の一人ひとりに潜在しているあなたの神性を呼び覚まし、それを生活の中に自由闊達に顕現せしめたいと念願しております。その神性にこそ、始めも終わりもない、無限の目的と表現をもつ、霊力の多様性が秘められているのでございます。

人間がチリとドロからこしらえられたものではなく、あなたの分霊であることを理解し、その目的のもとに生活を律していくためにも、その霊的資質を甦らせてあげたいのでございます。

愛と理解とをもって悲哀と無知とを追い出し、人間みずからこしらえてきた障害を破壊することによって、生命と同じく愛にも死はなく永遠であることの証を提供したいと望んでいる高き世界の霊が、自由にこの地上へ戻ってこられるようにしたいと願っているのでございます。

地上の各地に霊の神殿(交霊の場)を設け、高き界層からの導きとインスピレーションと叡智と真理が存分に届けられ、人間が人生の目的、物質界に存在することの理由を理解し、宿命的に待ちうける、より高き、より充実せる生命活動の場にそなえて、霊性を鍛えることができるようになることを願うものです。

あまりに永きにわたって霊性を束縛してきた無知と迷信への隷属状態から人間を救い出し、霊的にも、精神的にも、身体的にも自由を獲得し、あなたの意図された通りの生き方ができるようになって欲しいのでございます。