Monday, October 26, 2026

シルバーバーチの霊訓(八)

 More Philosophy of Silver Birch

Edited by Tony Ortzen
近藤千雄訳



五章 質問に答える (三)
   ──倫理・道徳・社会問題──      

 「私は、自分で正しいと信じて行動するかぎりそれは許されるという考えに賛成です。人間には例外なく神の監視装置(モニター)が組み込まれております。道義心(良心)と呼んでおられるのがそれです。それがあなたの行動が正しいか間違っているかを教えてくれます」

 本章では今日の倫理、道徳ならびに社会問題を扱うが、上の引用文がその冒頭を飾るのに最も適切であろう。過去十年あまりのうちに社会的通念が大きく変革しており、それに対して例によって賛否両論がある。まずそのことに関連して質問が出された。


 人種問題
───現代社会の風潮について心配し、あるいは困惑している人が大勢いるのですが、スピリチュアリストとしてはこうした時代の潮流にどう対処すべきでしようか。

 「真理を手にした者は心配の念を心に宿すようなことがあってはなりません。地上社会にはずっとトラブルが続いております。霊的な原理が社会秩序の拠って立つ基盤とならないかぎり、トラブルは絶えないでしょう。

唯物的基盤の上に建てようとすることは流砂の上に建てようとするようなものです。内部で争いながら外部に平和を求めるのは無理な話です。憎しみと暴力と敵意をむき出しにして強欲と怠慢をむさぼっている者が群がっている世界に、どうして協調性が有り得ましょう。

 愛とは神の摂理を成就することです。お互いが霊的兄弟であり姉妹であり、全人類が霊的親族関係をもった大家族であることを認識すれば、お互いに愛し合わなければならないということになります。

そのためにこそ神は各自にその神性の一部を植えつけられ、人類の一人ひとりが構成員となってでき上がっている霊的連鎖が地球を取り巻くように意図されているのです。

 しかし今のところ、根本的には人間も霊的存在であること、誰一人として他の者から隔離されることはないこと、進化はお互いに連鎖関係があること、ともに進み、ともに後退するものであるという永遠の真理が認識されておりません。

 それはあなた方スピリチュアリストの責任です。常づね言っておりますように、知識はそれをいかに有効に生かすかの責任を伴います。いったん霊的真理に目覚めた以上、今日や明日のことを心配してはなりません。

 あなた方の霊に危害が及ぶことはけっしてありません。自分の知っていること、これまでに自分に明かされた真理に忠実に生きていれば、いかなる苦難がふりかかっても、いささかも傷つくことなく切り抜けることができます。

地上で生じるいかなる出来ごとも、あなた方を霊的に傷つけたり打ちのめしたりすることはできません。ご自分の日常生活をご覧になれば、条件が整ったときの霊の威力を証明するものがいくらでもあるはずです。

 残念ながらこうした重大な意味をもつ真理に気づいている人は少数であり、まだ多数とは言えません。大多数の人間は物量、権力、支配、暴虐、隷属(させること)こそ力であると思い込んでおります。しかし神の子はすべて身体と精神と霊において自由であるべく生まれているのです。

 霊的真理が世界各地に広がり浸透していくにつれて、次第に地上の神の子もより大きな自由の中で生活するようになり、その日常生活により大きな光輝が見られるようになることでしょう。まだまだ、英国はもとより他のいかなる国においても、話が終わったわけではありません。

進化へ向けての神の力が、これからゆっくりと、そして少しずつ、その威力を見せはじめます。それを地上の人間が一時的に阻止し、阻害し、遅らせることはできます。が、それによって神が意志を変更なさることはありません。

 もしそのくらいのことで神の意志が覆(くつがえ)されるようなことがあるとしたら、この地球はとっくの昔に破滅しているでしょう。霊は物質に優ります。神の霊、大霊こそが宇宙の絶対的支配力なのです。そこで私はいつも申し上げるのです───心を強く持ち、背筋を真っすぐに伸ばして歩みなさい。この世に、そして霊の世界にも、恐れるものは何一つありません、と。最後はきっとうまくいきます」


───われわれ真理を語る者は、人種差別や動物への虐待行為といった間違ったことに、もっと攻撃の矛先を向けるべきでしょうか。

 「そうです。ただ、その際に大切なことは、そうした残虐行為や不和、差別といったものを攻撃するのは、それが物的観点からではなく霊的観点からみて間違ったことだからであることを前面に押し出すことです。その点、霊的真理を手にされたあなた方はとくに恵まれた立場にあります。

人間は霊ですから、その霊の宿としてふさわしい身体をもたねばなりません。となると、そのための教育が必要となります。霊的観点からみて適切な生活環境、適切な家屋、適切な衣服、適切な食事を与えねばならないからです。

 動物を虐待することは霊的観点からみて間違ったことなのです。民族差別や有色人種蔑視は霊的観点からみて間違っているのです。魂には色はありません。黄色でも赤銅でも黒色でも白色でもありません。この霊的真実を前面に押し出して説くことが、もっとも大切な貢献をすることになります」


───私が言いたかったのは、マスメディア(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌)が有色人種への嫌悪感をあおって、洗脳しようとする危険から身を守らねばならないということです。

 「ですから、霊的真理に目覚めれば霊的同胞を毛嫌いすることはできなくなると申し上げているのです」


───より多くを知っているわれわれがしっかりしなくてはならないと思います。

 「そうです。知識(の価値)が大きければ大きいほど大きな責任を伴います」


  愛と寛容
───それと、真理に目覚めた者は寛大であらねばならないと思います。

「寛容性は霊性の神髄です。偏狭な信仰のあるところに霊性はありません」



───寛大であれと言うのは結構だと思うのですが、現実の世界において何に寛大であるべきかをよく見きわめる必要があると思います。残虐行為や邪悪な行為に対してはいかなるものでも寛大であってはならないはずです。

 「それに、悪とは何かということも見きわめる必要があります。地上生活の究極の目的は〝死〟と呼ばれている現象のあとに待ちかまえている次のステージ(生活舞台)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。

開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐みを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢です。

 人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。

それは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることです。真の意味での寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差しのべる用意ができていなければなりません」


───愛と寛容は優しさから生まれます。情愛でつながった者に対しては、われわれはその欠点に対して寛大になります。私はこの寛大さ、これは愛といってもよいと思うのですが、これが現代の世の中に欠けていると思うのです。愛と寛容とを結びつけることができれば人類はさらに高揚されると思うのですが・・・・

 「同感です。バイブルにも愛とは摂理を成就することである、とあります。愛とは摂理のことです。神の御心です。なぜなら、神そのものがすなわち愛だからです。したがって神の御心に適った生き方をしていれば、それは愛を表現していることになります。

私のいう〝愛〟とは慈悲の心、奉仕の精神、犠牲的精神、要するに自分より恵まれない者のために自分の能力の範囲内で精いっぱい援助しようとする心を言います。自分のことをかえりみず、助けを必要とする人のために出来るかぎりのことをしてあげようとする心、それが愛なのです」


  真の道徳の基準
───現代社会ほど不道徳が露(あら)わな時代はないと主張する人がいます。霊界でもそう見ておられるのでしょうか。そう主張する人たちは、五十年あるいは百年前の時代を例にとって、当時は子供が煙突掃除のような仕事にいっしょうけんめい従事していたものだと言います。

 「不道徳とはいったい何なのでしょう。あなた方が道徳的だと考ていらっしゃることが私たちから見ると大へん非道徳的である場合もあります。そこに物の見方の問題があります。

私にとって道徳とは、その人がそれまでに悟った最高の原理に忠実に行動しようという考えを抱かせる努力目標のことです。それは親切であろうとすることであり、手助けをしようとすることであり、人の心を思いやることです。

 もとよりそれは人の心を傷つけたり感情を害することではありません。いかなる形においても人の進歩を阻害することであってはならないことになります。後になって恥ずかしく思ったり、自分が手にした真理に忠実でなかったと思うようなことをしてはいけないということになります。

 私が理解している道徳とはそういうものです。説くとすればそう説きます。今の社会がこれまでに較べて道徳的か非道徳的かの問題は、道徳というものについての解釈次第で違ってきます。本質において、ある面では経済的ならびに霊的に向上していながら、別の面では遅れていることもあります。進化というものは一直線に進むものではないからです」


───今の世の中は物質中心だと言われています。でも家族を養っていくためにはある程度は物質中心にならざるを得ません。あまりにスピリチュアリズム的になりすぎると経済的に苦しくなることが懸念されるのですが、その境目をどこに設けたらよいのでしょうか。

「まず神の御国と神の義を求めよ。しからば全てそれらのもの汝らに加えらるべし」(マタイ6・33)


───両方とも可能だということですね?

 「当然です。が、優先すべきものをちゃんと優先させ、霊的真理を忘れなければ、物質面をおろそかにすることはないはずです。私は物質界に生きる人間としての責務を回避すべきであるかに説いたことは一度もありません。

霊的存在として優先すべきものをちゃんと優先させ、その上で物的人間としての責務も忘れないということであらねばなりません。霊をおろそかにしてもいけませんし、精神をおろそかにしてもいけませんし、身体をおろそかにしてもいけません。責任をもつべきことを回避してはいけません」


  人工中絶と避妊
 その日のゲストの一人が産児制限の話を持ち出した。

───人間の誕生は自然法則によって支配されているとおっしゃっておられますが、そうなると産児制限はその自然法則に干渉することになり、間違っていることになるのでしょうか。

 「いえ、間違ってはいません。経済的理由、健康上の理由、その他の理由でそうせざるを得ないと判断したのであれば、出産を制限することは正しいことです。この問題でも動機が大切です。何ごとも動機が正当であれば、正しい決着をみます。出産を制限することもその動機が正しければ、少しも間違ったことではありません。

しかし、霊の世界には地上での生活を求めている者が無数にいて、物的身体を提供してくれる機会を待ちかまえている事実を忘れないでください」


 続いて妊娠中絶の話題が持ち出されると、同じゲストが尋ねた。

───それはどの段階からいけないことになるのでしょうか。

 「中絶行為をしたその瞬間からです」


───妊娠してすぐでもいけないのでしょうか。

 「とにかく中絶の行為がなされた瞬間から、それは間違いを犯したことになります。いいですか、あなたがた人間には生命を創造する力はないのです。あなた方は生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。

その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から霊はその女性の子宮に宿っております。中絶されればその霊は、たとえ未熟でも霊的身体に宿って生き、生長しなければなりません。

中絶によって物的表現の媒体を無きものにすることはできても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児のせっかくの自然の生長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機次第で事情が違ってきます。常に動機というものが考慮されるのです。

 私の住む世界の高級霊で人工中絶を支持している霊を私は一人も知りません。が、動機を考慮しなければならない特殊な条件というものが必ずあるものです。行為そのものは絶対にいけないことなのですが・・・・・・

 あなた方が生命をこしらえているのではないのです。したがってその生命が物質界に顕現するための媒体を勝手に滅ぼすべきではありません。

もしも中絶を行っている人たちが、それは単に物質を無きものにしたことで済んだ問題ではないこと、いつの日かその人たちは(医師も含まれる──訳者)その中絶行為のために地上に誕生できなかった霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなるものと私は考えております。

妊娠の瞬間からそこに一個の霊としての誕生があり、それは決して死ぬことなく、こちらの世界で生長を続けるのです」


───今地上で行われている実情を思うと、これは大変なことをしていることになります。

 「それが現実なのです」


───堕胎された霊はいつかまた誕生してくるのでしょうか。

 「そうです。責任は免れません。物質界への誕生の目的が自我の開発であり、そのせっかくの機会が叶えられなかった場合は、もう一度、必要とあれば何度でも、再生してきます」


  植物人間と安楽死
 もう一人のゲストが脳障害のために植物同然となり病院でただ機械につながれて生きながらえている人たちの問題を持ち出して、こう尋ねた。

───そうやって生きながらえさせることは神の摂理にもとるのではないでしょうか。その人たちの霊はどうなっているのでしょうか。肉体につながれたままなのでしょうか。睡眠と同じ状態なのでしょうか。解放してやるべきなのでしょうか。

 「地上生活の目的は霊が死後に迎えるより大きな生活に備えることです。自然の摂理と調和した生活を送っていればその目的は成就され、時が熟し肉体がその目的を果たし終えれば、霊はその肉体から離れます。たびたび申し上げておりますように、リンゴは熟すと自然に木から落ちます。それと同じように、霊もその時を得て肉体を離れるべきです。

 あなたのおっしゃる脳に障害のある人のケースですが、それは、患者の生命を維持させようとしてあらゆる手段を講じる医師の動機にかかわることです。昔の医師はそれが自分の全職務の究極の目的であるという趣旨の宣誓をしたものです。

今でも、地上のいかなる人間といえども、霊は時が熟してから身体を離れるべきであるという摂理に干渉することは、霊的な意味において許されません。特殊な事情があって医師がその過程を早めることをする場合がありますが、動機さえ純粋であればその医師を咎めることはできません。

 脳に障害を受けた患者は、たとえば動力源が故障したために受信・送信が不能になった機械のようなものです。正常の機能のほんの一部が働いているだけです。脳が障害を受けたために〝霊の脳〟ともいうべき精神が本来の表現ができなくなっているわけです。脳に障害があるからといって精神に障害があるわけではありません。

タイプライターを打っていてキーが故障した場合、それは使えなくなったというだけであって、タイピスト自身はどこも異状はありません。それと同じです。

 要するに精神が大きなハンディキャップを背負っているわけです。正常な生活を送れば得られたはずの成長をその分だけ欠くことになります。その結果こちらへ来てみると魂はその欠けた分の埋め合わせをしなくてはならない状態にあります。言ってみれば小児のような状態です。しかし個霊としては霊的に何の障害も受けておりません。

 霊が身体を生かしめているかぎり、両者のつながりは維持されます。霊と身体とをつないでいる〝玉の緒〟───胎児と母胎とをつないでいる〝へその緒〟と同じです───が切れると、霊は身体から解放されます。身体の死を迎えた人にとっては霊的生活の始まりであり、地上へ誕生してきた霊にとっては物的生活の始まりです」

───今にも死ぬかに思える人が機械によって生きながらえている例をよく耳にします。

 「霊が身体から離れるべき時期がくれば、地上のいかなる機械をもってしても、それ以上つなぎとめることはできません。いったんコードが切れたら地上のいかなる人物も、霊をもう一度つなぎとめる力は持ち合わせません。その時点で肉体の死が生じたのです」

 ここからいわゆる安楽死の問題が持ち出された。ゲストの一人が尋ねる。

───交通事故に遭った人の話をよく記事で読むのですが、病院へ運び込まれたあと一命を取り止めてもそのまま植物状態となって、自分の力では何一つできなくなっている人がいます。そのような状態で生きていても霊的に何の成長もないと思うのですが、なぜ地上に居続けねばならないのでしょうか。なぜ安楽死させることが許されないのでしょうか。

 「バイブルのどこかにこんな言葉があります〝神が与え、神が奪われる。ありがたきかな神の御名〟(ヨブ記1・21。 バイブルでは〝奪われた〟とあるが引用文は現在形になっている───訳者)

 私がこの文句を引用したのは真実そのとおりだからです。人間は生命を創造することはできませんし滅ぼすこともできません。生命が機能するための機関を提供することはできます。その機関を破壊することもできます。しかし生命は神からの贈りものであり、人間のものではありません。生命は神が人間に託した責務です。

 なぜ? というご質問ですが、それについては、物的尺度だけで判断を下さないように注意しないといけません。霊の問題は物的尺度では計れないのです。

植物同然となってしまった一個の人間をご覧になれば、自然の情として哀れ、同情、慈悲、憐憫をさそわれるのも無理はありません。しかし植物にも生命があり、地上で果たすべき役目があります。そうでなければ存在しないはずです。

 一人の人間が事故で負傷する。機能の損傷がひどくて霊が自我を表現できなくなった。この問題をあなたは身体上の問題としてみますか、それとも霊的な問題とみますか。霊的にはそこに果たすべき目的があり、学ぶべき教訓があり、忍ぶべき体験があるのです。たしかに見たところ身体的にはまったく動きが止まっています。

しかし霊的な目をもって見ることができるようになるまでは、つまり永遠の価値基準を理解できるようにならないかぎり、あなたの判断はどうしても誤りに基づいたものとなります。

 私はいわゆる植物人間を安楽死させることには全面的に、そして文句なしに反対です。ただし、そこにやむを得ない動機がありうることは認めます。しかしそれは問題を解決したことにはなりません。

あなたがもし安楽死を実行する時期の決断を誰かに任せたら、それは本来その人が持つべきことの出来ない権利を与えたことになります。その人にはそういう決断を下す義務も与えるべきではないのです」


 サークルのメンバーの一人が尋ねる。

─── 一人の人間が苦しんでいる時、それ以上苦しまないようにしてあげる義務が私たちにあるのではないでしょうか。

 「病気とか異状あるいは虚弱といった身体上のことをおっしゃっているのであれば、現代医学で治すことも改善することもできないものがあることは認めます。しかし、すばらしい効果のある、そして現に成果をあげている治療方法がほかにもいろいろあります。医学的診断のみを判定基準にしてはいけません。

そのことをしっかり認識しなくてはいけません。医師が〝不治〟と診断したものが心霊治療によって完治、または改善されたケースがたくさんあることを皆さんは良くご存知なのですから。

苦しみにはそれ相当の目的があります。苦しみは無くてはならない大切なものなのです。なぜなら、それを通じて魂が目が開かされ、隠れた力を呼び覚まされ、その結果として霊的に、時には身体的に、いっそう強力になってまいります。そうなるべきものなのです。

多くの人にとって苦しみは、全人生をまったく別の視点から見つめさせる大きな媒体となっています。

 いかなる症状の患者であっても、簡単に〝不治〟と片付けてはいけません。その態度は間違っています。地上の格言にも〝生命あるかぎりは希望がある〟というのがありますが、これは真実です。

霊が宿っているかぎり元気を回復させ、再充電し、ある程度まで機能を回復させることができます。摂理が自然に働くようにしさえすれば、身体は死すべき時機がくれば自然に死にます。霊に身体から離れる準備が出来たからです」


───私が知っているあるガン患者はそろそろ痛みを覚えはじめており、症状は良くないようです。

 「でも痛みを和らげることは可能です。医学的にも手段はあります。ですから痛みだけを問題にするのであれば、それはなんとかなります。そして、たとえ症状が耐えきれない段階に達しても、私たちから見るかぎり、それをもって最終的な宣告を下してはならないと私は主張いたします。

精神構造が限られた分野の教育しか受けていない者(医師・医学者)による宣告が最終的なものであると私がもし申し上げたら、それはこれまで私が説いてきたすべての教説を裏切ることになりましょう」


 ここで別のメンバーが 「私たちの経験でも手術不能のガン患者が心霊治療によって痛みが取れた例がたくさんあります」と指摘する。

 すると先のメンバーが「それは私も認めます。しかし痛みが取れない例もたくさんあります」と反論する。

 「結局われられは霊力についてもっと幅広い知識を求め、より多くを活用し、いざという時のために霊力を貯えておくべきだということではないでしょうか」


 「でも、それでは今私が言っている患者を救うことはできません」

  ここでシルバーバーチが答える。
 
 「皆さんはいつでも治療を施してあげることができます。祈ることによっても助けになってあげることができます。祈りの念にも効果を生むだけの力が秘められているからです。とにかく、いくら医師が理知的であっても、その視野は地縛的ですから、そんな人による悲劇的な宣告をまともに受けとめてはなりません」


 さきのメンバーの一人が「苦難が人間性を磨くことをたびたびおっしゃってますが、そうでないケースもしばしば見受けます」と異議をはさむと───

 「私は、苦しみさえすれば自動的に人間性が磨かれるとは決して申しておりません。苦難は地上にいるかぎり耐え忍ばねばならない、避けようにも避けられない貴重な体験の一つで、それが人間性を磨くことになると言っているのです。

たびたび申し上げておりますように、青天の日もあれば雨天の日もあり、嵐の日もあれば穏やかな日もあるというふうに、一方があれば必ずもう一方があるようになっているのです。

もしも地上生活が初めから終わりまで何一つ苦労のない幸せばかりであれば、それはもはや幸せとは言えません。幸せがあることがどういうことであるかが分からないからです。悲しみを味わってこそ幸せの味も分かるのです。

苦難が人生とは何かを分からせる手段となることがよくあります。苦難、悲哀、病気、危機、死別、こうしたものを体験してはじめて霊的な目が開くのです。それが永遠の実在の理解に到達するための手段となっているケースがたくさんあります」


───残念なことなのですが、苦難に遭うと不幸だと思い、邪険になり、卑屈になっていく人が多いようです。

 「それは結局のところその人の人生に確固とした土台がないからです。人生観、宗教観、それに物の観方が確固とした知識を基盤としておれば、いかなる逆境の嵐が吹きまくっても動じることはないはずです。これも人生の一こまだ、すべてではなくホンの一部にすぎないのだという認識ができるからです」


───結局のところ私が思うに、苦難はその意義が理解できる段階まで到達した人だけが受ければよいということになりそうです。

 「そのようなことは神と相談なさってください。この私に言えることは、これまで幾つもの存在の場で生活してきて、自然の摂理は厳格な正確さをもって働いており、絶対に誤ることはないことを知ったということ、それだけです」


 別のメンバーが論議に加わる。

───死にたくない患者も大勢いるはずです。たとえ医師が安楽死させる権利を与えられても、その人たちはまず死にたがらないだろうと思われます。

 「安楽死の決定権はもともと医師などに与えるべきものではないのです。現実の事実を直視してみてください。大半の医師の物の観方は唯物的です。その医学的知識は人間が身体のほかに精神と霊とから成っていることを認識していない唯物思想を基礎としています。

少なくとも医学界においては人間は脳を中枢とする身体、それに多分ある種の精神的なものをも具えた物的存在であり、霊というものについての認識はゼロに等しいのです。そうした、人生でもっとも大切なことについてまったく無知な人たちに、そのような生死にかかわる決定権がどうして預けられましょうか」


───万一事故で身体が不自由になった場合は死を選びます、と言う宣誓書にサインをする人がいます。

 「それはその人の自由意志によって行なう選択です」


───その要請に基づいて医師が実行した場合はどうなりますか。

 「問題はありません」


───患者が自由意志によって死を選んだ場合でもやはり因果律が働くのでしょうか。

 「いついかなる場合でも因果律が働いています。あなたのこのたびの地上への誕生も因果律が働いたその結果です。これから訪れるあなたの死も因果律の自然な働きの結果であるべきです。それを中断(ショート)させる、つまり余計な干渉をするということは、自然な因果関係を破壊することですから、当然その償いをしなければならなくなります。

 何度も申し上げておりますように、死は霊に準備ができた時に訪れるべきものです。それはリンゴが熟すると木(が)から落ちるのと同じです。まだ熟し切らないうちにもぎ取れば、そのリンゴは食べられません。霊も十分な準備ができないうちに身体から無理やり離されると、それなりのペナルティが課せられます。それを因果律というのです。


 人間の判断は物的観察だけに基づいておりますが、人生の目的はもともと霊的なものなのです。人間の勝手な考えで地上から連れ去ってはいけません。人間には全体像が見えません。物的側面しか見えません。一人ひとりに生まれるべき時があり死ぬべき時があります。それもすべて自然の摂理の一環なのです。

あなた方が生命を与えるのではありません。ですから勝手に奪うことも許されません。生命は神のものなのです。

 神はその無限の叡智によって、各自が公正な裁きを受けるように摂理を用意しておられます。その永遠のいとなみを、この地上生活という一かけらでもって判断しようとすると誤ります。あなた方は霊というもの、およびその霊への反応というものを推し量る手段を何一つ持ち合わせていないのです。

 苦しみが魂にとって薬になることがあります。それによって魂の本質が試されることになります。潜在する資質が呼び覚まされます。鋼(はがね)は炎の中においてこそ鍛えられるのです。黄金は破砕と練磨によってはじめて真の姿を現すのです。

 地上生活の出来ごとには必ず目的があります。哀れな姿を見て同情なさるお気持ちは私にも分かります。ですが、地上生活には偶然というものは何一つないのです。それに、いったい誰に、生殺与奪の権利を握る資格があるのでしょうか。医師が判断を誤ることは十分に有りうることです。数々の誤診を犯している現実をごらんになれば分かります。

 私たちはあなた方と正反対の観方をすることがあります。肉体の死は霊の誕生という観方をします。混乱状態を進歩と見なし、人間が進歩と思っていることを禍いのタネと見なすことがあります。永遠を物的なものさしで計っても満足のいく解答は得られません。

 たとえば、なぜ苦しみがあるのか。いたいけない子供がなぜ苦しまねばならないのか。痛み、病気、面倒、危機、こうしたものがなぜあるのか。そういう疑問を抱かれるようですが、それもすべて霊の進化という永遠の物語の一部なのです。

その中には地上に誕生してくる前に、みずから覚悟しているものもあるのです。霊的な身支度を整える上で学ぶべき教訓を提供してくれる、ありとあらゆる体験を経ないことには成長は望めません。とどのつまりは、それが存在の目的なのです。

 こうしたことは前にも申し上げました。光の存在に気づくのは暗闇があるからこそです。もしも暗闇がなければ、光とはいかなるものであるかが分かりません。埋め合わせと懲らしめの原理というのがあります。神は厳正なる審判者です。差引勘定がきっちりと合わされます。決算書を作成するときが来てみると帳じりがきっちりと合っています。

 どうか同情心はこれからも持ち続けてください。しかし同時に、見た目に気の毒なこと、理解に苦しむことの裏側にも必ずちゃんとした意味があることを理解するようにつとめてください。

 永遠の時の流れの中にあっては、数時間や数日は大して意味はありません。大切なのは魂に及ぼす影響です。たぶんご存知と思いますが、実際は患者よりも側で見ている人の方が苦しみが大きいことがよくあります。患者自身は単に身体上の反応を見せているだけで、あなたがさぞかしと思いやっておられる苦しみは味わっていないものです。

 魂に及ぶものが一ばん大切です。と言って、身体上のことに無神経になりなさいと言っているのではありません。身体は霊が地上で自我を表現する媒体です。両者はつねに反応し合っております。身体は霊に影響を及ぼし、霊は身体に影響を及ぼしています。しかし、どちらが上かと言えば、文句なしに霊の方です。霊が王様であり身体は召使いです。

 身体にいくら薬品を注ぎ込んでも、別に霊には影響ありません。それによって最終的な身体との分離の時期を少しばかり遅らせることはできるかも知れませんが、霊はいつかは身体を離れなければならないという摂理を変えることはできません。不老不死の妙薬や治療法をいくら求めても無駄です。自然の摂理によって支配されているからです」


  自殺の問題
 人為的な死のもう一つのタイプに自殺があるが、レギュラーメンバーによる次の質問をきっかけに、それが続いての話題となった。

───外的な手段によって生命を断つことを非難されるのは当然ですし、私もその通りだと思うのですが、外的な手段を用いずに、心で死のうと決意して死期を待つことも可能です。それも一種の自殺でしょうか。

 「各人各個の責任は変えようにも変えられません。因果律は絶対です。原因があれば必ずそれ相当の結果が生じます」


───死後の生命を信じるがゆえに死を歓迎することもあるかも知れません。肉体が手の施しようのない状態となり、そうなった以上もはや医学的手段でいたずらに生命を維持するのを潔しとせず、死を覚悟するのです。

 「ならばその時の動機づけが大切なポイントになります。同じ行為でも動機づけによって正当性が違ってきます」


───自殺者のそちらでの状態は不幸で、右も左も分からなくなり、みじめであるということですが、自殺する時の精神状態がすでにそうであったはずですから、死後も同じ状態に置かれても不思議はないと思うのです。では仮に真のよろこびと幸せを感じながら自殺したらどうなるでしょうか。

 「その場合は動機が自己中心的ということになります。自然の摂理をごまかすことはできません。こればかりは例外がありません。蒔いたものは自分で刈り取らねばなりません。それ以外にありようがないのです。

動機がすべてを決定づけます。その時点において良心が善いことか悪いことかを告げてくれます。もしもそこで言い訳をして自分で自分をごまかすようなことをすれば、それに対して責任を取らされることになります」


 ここでゲストの一人が思いがけない角度からの質問をした。

───食べすぎ飲みすぎ吸いすぎは自殺行為だと医者がよく言いますが、これも一種の自殺と見なされるのでしょうか、それとも死というのはあらかじめ定められているのでしょうか。

 「答えはご質問の中に暗示されております。もしもあらかじめ定められているのであれば、それが自殺行為であるか否かの問題ではなく、そうなるように方向づけられていたことになります。ですから、それが宿命であれば、そうなるほかはなかったということです。魂そのものはそれと自覚していることも有り得ます」


───私は死が誕生時から知られているのかどうか、また、その後の行いによって変えることができるのかどうか、その辺が確信できません。

 「知られているというのは、誰にですか」


───おそらく生まれてくる本人、あるいはそちらに残していく仲間の霊かと思います。

 「知られていることは事実です。しかしそれが(脳を焦点とする意識を通して)表面に出て来ないのです。地上生活期間を永遠で割ると無限小の数字になってしまいます。その分数の横線の上(分子)にどんな数字をもってきても、その下のあるもの(分母)に較べれば顕微鏡的数字となります。小が大を兼ねることはできません。

魂の奥でいかなる自覚がなされていても、それが表面に出るにはそれ相当の準備がいります。

 人間には相対的条件下での自由意志が認められております。定められた人生模様の枝葉末節なら変えることができますが、その基本のパターンそのものを変えることはできません。定められたコースを自分で切り抜けていかねばなりません。

ただ、地上の人間は、一人の例外もなく、絶対的支配力である霊力の恩恵にあずかる機会が与えられております。みずから求めるのでないかぎり、永遠に暗闇の中で苦しめられることはありません。何よりも動機が最優先されます。その行為が正しいか間違っているかは動機いかんに掛かっているのです。その摂理は動かしようがありません」


  死刑の是非
 最後に、いつの時代にも社会・道徳・霊的の視点から問題となっている死刑制度がある。それについてシルバーバーチは次のような見解を述べている。

 「霊の教訓として私が躊躇なく述べていることは、殺人を犯したからといってその犯人を殺してよいということにはならないということです。地上の人間は正義と復讐とを区別しなくてはいけません。

いかなる理由にせよ、霊的に何の用意もできていない魂から肉体を奪って霊界へ送り込むことは、最低の人間的感情を満足させることにはなっても、何一つ意義のあることは成就されません。

正当な裁きを下すべきです。死刑によって一個の人間を霊界へ送り込んでも、その霊を一かけらも進化させることにはなりません。逆に、一段と堕落させ、〝目には目を、歯には歯を〟の激情に巻き込みます。

 われわれは生命は肉体の死後も生き続けるという動かし難い事実を基盤とした原理を堅持しなくてはいけません。何の準備もできていない人間を霊界へ送り込むことは、ますますトラブルのタネを増やすことになるのです。時には誤審による死刑も行われており、正当な裁きが為されておりません。

 生命は神聖なるものです。その生殺与奪の権利は人間にはないのです。それをいかに扱うかにあなた方の責任があります。生命は物質から生まれるのではありません。物質が生命によってこしらえられ、存在が維持されているのです。生命とは霊に所属するものです。宇宙の大霊から出ているのです。

生命は神性を帯びているのです。ですから、生命および各種の生命形態を扱うに際しては、憐憫と慈愛と同情という最高の倫理的規範に照らさなくてはなりません。何事をするにも、まず動機に間違いがないようにしなくてはいけません。」

シルバーバーチの霊訓(八)

 More Philosophy of Silver Birch

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近藤千雄訳



四章 質問に答える (二) ──死後の生活──

 「私たち霊の世界の生活がどうなっているか、その本当の様子をお伝えすることはとても困難です。霊の世界の無限の豊かさについて、あなた方は何もご存知ありません。その壮大さ、その無限の様相(バラエティー)は、地上のどの景色を引き合いに出されても、どこの壮大な景観を引き合いに出されても、それに匹敵するものはありません」

 本章は死後の生活を主題とした質問と応答のようすを紹介するが、来世の明るい第一印象を伝える上で右のシルバーバーチの言葉がいちばん適切であろう。シルバーバーチはまた霊界を〝完全な計画が完全な形で実施されている現実の例です〟と言い、〝そこに偶然の入る余地がまったくないことがお分かりになるでしょう〟と述べている。

以下、それを細かく質して説明してもらうことにしよう。


  霊と霊の関係
──死後の世界ではお互いのコミュニケーションはどのようにして行うのでしょうか。

 「こちらへおいでになれば、もはや肉体はありません。肉体そっくりの身体はありますが、言葉は話しません。言語というものはいたってお粗末な思念の代用品でして、地上に近い下層界を除けば、そういうお粗末な媒体を用いなくても、以心伝心のすばらしい交信方法があります。思念は言葉を超えたものです。

 同じように、食べることも飲むこともいたしません。そうやって養わねばならない物的身体が無いからです。身体を大きくする必要がありませんから、蛋白質なんかは必要ではありません。霊的身体がありますが、その養分は置かれた環境から摂取します。

 永遠の太陽ともいうべき光源があり、暗闇がありませんから、寝るということもしません。霊的性質が何一つ隠せないという意味において、みんな霊的に素っ裸ということになります。あるがままの姿が知られ、見せかけも代用もカモフラージュもできません。

 あなたの交信レベルは霊的に同じレベルの者との間でしかできません。自分より上のレベルの者とはできません。そのレベルまで霊的に成長するまでは、そのレベルの者が受け入れられないからです。自分より下のレベルまで下りることはできます。自分の方が霊的にすぐれているからです。

 いずれにしても交信は直接的に行われます。あなたが心に抱いたことがそのまま相手に知られ、相手の考えることがそのままあなたに知れます。面倒なことは何も生じません。

 皆さんはこの英国に住んでいて英語をしゃべっています。英語のしゃべれない外国人と会えば言語が違うために意志の疎通ができません。が、以心伝心の交信には言語は不要です。迅速です。厄介なことは何一つ生じません。

 私がこうして霊媒を支配している間は、思念や画像や映像やシンボルを私に供給してくれる係がいます。供給という用語が適切かどうか知りませんが・・・・・・私はそれをあなた方の言語に翻訳する訓練ができております。それにはずいぶん長い年月を要しました。支配中は霊媒の語彙(ごい)の中から適切な用語を見つけ出さねばなりません。

時には霊媒自身が忘れているものもありますが、記憶の層にはちゃんと残っております。が、霊媒から離れてしまえば地上の各種の文献を調べることもできます。必要とあれば地上の大家の書いたものを見つけ出して、イザという時に備えてメモしておきます。この霊媒から離れているかぎりは思念を言葉に翻訳する面倒な手間はいりません」


───どうやってお互いを認識し合うのですか。

 「霊的な眼がありますから一人ひとりが認識できます。私たちは盲目ではありません」


──私たちの視力は物的なものなのですが。

 「あなた方はその二つの眼で見ているのではありませんよ。またその二つの耳で聞いているのではないのですよ。見たり聞いたりは脳を経由して精神で行っているのです。もし脳が働かず精神に反応が生じなければ、その肉眼に映る光線は何の意味もありませんし、その肉耳に届けられる波動もまったく無意味なのです。

 脳がレシーバーとしての働きをしてくれれば、あとはその情報を理解するのは精神なのです。肉眼そのものには〝見る〟能力はないのです。ただ光線を感知するための媒体にすぎないのです。カメラのレンズと同じです。

自分ではどういう役目をしているのか知らないまま自動的に機能しているのです。〝見えた〟という認識は、精神がその印象を脳から受け取ったときに生じるのです。脳を傷めるとその認識が生じませんから、肉眼だけでは何も見えないことになります」


──霊界で相手を認識するとき、その人の何を見ているのでしょうか。

  「人間と同じ形体です。頭もあり胴体もあります」


──身体はないとおっしゃいましたが・・・・・・

  「物的身体はないと申し上げたのです。霊的身体はあります」


──ということは、相手を認識するときは霊体を見ているわけですか。

  「もちろんです。みんな同じに見えるわけではありません。一人ひとり違います」


──書物を読むことがあるとおっしゃいましたが、それも思念でできているのですか。

 「すべての物体に霊的複製品があります。地上で書かれたものが複製されて納めてある図書館があります。必要が生じると、そこへ行って調べものをして知識を得ます。音楽も絵画もあります。地上にあるものは全てこちらにもあります」


──地上的成長のどの段階で人間の霊体がそちらから見えるようになるのでしょうか。

 「それはその段階での霊的覚醒のレベルによって違ってきます。地上と霊界の違いは、地上ではさまざまな発達段階の人がいっしょに生活できることです。こちらでは同じレベルまで発達した者としか会えません。霊的身体は霊格が高くなるほど成熟していきます。

霊界での成長は(老化に向かうことではなく)成熟するということです。ですから、年老いて他界した人はこちらへ来て若返り、若くして他界した人は霊的成熟度に似合った顔つきとなります」


──やはり顔で分るのでしょうか。

  「もちろん私たちにも顔があります」


──人間にはなぜ顔があるのでしょうか。

 「それは個性というものがそれぞれの魂の刻印だからです。まったく同じ人は二人といません。双子でも霊的には同じではありません。完全へ向けての過程──本質的には無限の過程ですが──は顔や形体が無くなるということではありません。個性が崇高さを増し、霊的成熟度が増し、一段と強烈な光輝を発するようになります。

その過程を続けていくうちに、上層界には目も眩まんばかりの光輝を発する存在がいることを知るようになります。

 私が地上を離れて内的上層界へ帰ると〝神庁〟とでもいうべきものに所属する存在と出会うことがある話をしたことがありますが、そうした霊もみな個性を具えた存在です。個体性を失ってはいません。不完全の要素が少なくなり、完全無欠の要素の占める部分が多くなった段階にまで進化しているのです」


──なぜそちらの世界へ行ってからも身体が必要なのでしょうか。

 「霊はその個性に応じて自我を発揮するためには何らかの形体が必要なのです。霊それ自体には個的形体はありません。霊とは生命です。が、その生命が顕現するには人間なり動物なり植物なり花なり、その他ありとあらゆる形体をとる必要があります。霊は何らかの形体をとらないことには存在が認識されません」


──その形体を永遠に維持するのでしょうか。

  「そうです」


──霊界では自分より発達段階の高い者とは接触がないとおっしゃったように思いますが、そうなると、あなたご自身が〝光り輝く存在〟と直々にお会いになる時は何か特別な配慮をしてもらうわけですか。

 「いいえ。決してうぬぼれて申し上げるわけではありませんが、私がそうするときは私本来の霊格に戻るというに過ぎません。私はこの地上での仕事への参加の要請を受け、そしてお引き受けしたのです。そのためには当然、本来の私の属性を一時的にお預けしなければなりませんでした。

しかし、そうすることによって、あなた方と同じく、私がよく言及している〝正反対の体験〟を得ることになります。それによって、一層の向上が得られることを願っております。

 霊界の生活の全体像をお伝えすることはとても困難です。言語と次元の差が障壁となるからです。たとえば音楽を例にとれば、霊界には地上のいかなる楽器にも出せない音色があります。

絵画でも、あなた方には想像もつかない色彩と美があります。それが感識できる人も描写できる人も地上にはいません。地上の人にとって大インスピレーションと思えるものでも、実際はごくごく小さなかけらにすぎません」


 招待客が 「われわれ人間にとって霊界の本当の姿を理解することが容易でないことは理解できます」 と言うと──

 「とても難しいのです。しかし、その理解のための準備が睡眠中に行われております。睡眠中は肉体を離れて一時的に〝死ぬ〟わけです。そうすることによって徐々に霊界生活に慣れていきます。そうしないと、いよいよ本当の死が訪れた時に何のことか理解できず、新しい生活環境に順応するのに長い時間を要することになります。

地上にいる間の夜の霊界旅行での体験はぜんぶ潜在意識の中に収められています。それがいつか意識にのぼってきて、霊界があまり不思議に思えなくなります」


  ここでサークルのメンバーの中でも一ばん背の高い人が質問する。

──背丈のことをお尋ねします。たとえば六フィートの人間はそちらでもやはり六フィートでしょうか。

 「どうやらこの質問には個人的興味が混ざっているようですね。答えは〝イエス〟です。物的身体は霊的身体の写しだからです。ただし、そのサイズは霊的発達程度とは関係ありません。身体は巨人でも霊的には小人である場合があります」


──他界直後には言語上の問題がありますか。

 「あります。いわゆる〝幽界〟、つまり地球にもっとも近い界層においてはあります。そこには霊的自覚がほとんど芽生えていない者が住んでおります。まだ言葉が必要だと思い込んでいるので言葉を用いております」


──一方が英語で話し相手がフランス語で話しても、実際は思念で通じ合っているわけでしょうか。

 「もちろんです。もともと思念には言語はないのです。言語というのは思念を単語に移しかえるための道具にすぎません。私たちの世界では思念に実体があり、物質は影のようにしか見えないことをよく理解してくださらないといけません」


  環境との関係
──非物質的世界であれば、その世界はそこに住む者すべてにとって同じものですか、それとも一人ひとりの思念によってこしらえるのでしょうか。もしも私が今あなたの世界へ行ったら、私の目に同じ世界が映るのでしょうか。それとも違う世界でしょうか。

 「それはあなたが地上でどの発達段階にあったかによります」


──もしあなたといっしょになったら、そこは私の精神によってこしらえられた世界でしょうか。

 「そうとも言い切れません。もしもあなたが今の私と同じ位置、つまり同じ発達レベルにあると仮定すれば、あなたは私に見えるものを見、私が体験するものを体験します。が、今私が住んでいる世界──あなたといっしょになると仮定している世界が何で構成されているかはまた別の問題です。

これは言語で説明するのは困難です。言語というのはその裏側にある実在をいくらかでも表現しようとして絵画や概念やシンボルなどをそれでくるんでみているに過ぎません。

 私たちは〝生命とは霊である〟というところから出発いたします。私たちの世界はあなた方の世界と同じく霊というものがあってはじめて存在しているのです。その霊は無限です。したがって無限の顕現をしています。

  ところで思念とはいったい何でしょうか」 

 この質問にゲストが「思念とは私の精神が生み出すものです。精神が何であるかはともかくとして・・・・・・」と答える。

 「それには実体がありますか」

 「多分思念は実体のあるものになれる性質をもったものだと思います。初めから実体があるのではないと思います」

 「でもあなたは思考しながら自分が思考していることが分ってますね?」

 「ええ、思考によって物事を明確にすることができると思います」


 「あなたは自分が思考していることを自覚していらっしゃる。が、思念は見えることも聞くことも、重さや大きさも計ることもできない、物理的な計量方法がないわけです。なのにあなたの行為のすべてに思念が責任を負っています。思念の方が行為に先行しているからです。思念なくして行為は生まれません。

 あなた方の世界では考えたことが行為として具体化します。私たちの世界では考えたことが霊的実在として具現化し、それには、あなた方にとって物質の世界が実感があるように、私たちにとって実感があります。要は相対上の問題です。あなた方にとって物質に実感があるように、私たちにとっては思念に実感があるということです」

 ここでメンバーの一人が 「思考とは別に物質界には客観的存在物があります。丘のように誰にでも見えるものがあります。霊界にも各自の思考とは別に客観的存在物があるのでしょうか」と聞くと、さきのゲストが「私たちは今この部屋に座っています。そして、そのことをみんな同じように認識しています」と口添えする。

 「でも、その認識の仕方は一人ひとり違います。私たちの世界の生活にはさまざまな存在のレベルがあります。といってそれが一つひとつ孤立しているのではなくて、お互いに融合しております。各レベルにおいてあなたのおっしゃる客観的存在物がそこに住む人にとって同じように映ります。丘があり川があり、小鳥がさえずり、花が咲き、樹木が茂っております。そのすべてに実感があります。

 それとは別に、思念によって実在物を作り出す力も各自に具わっております。成形力のある思念性の素材によって、自分に必要なものをこしらえることができます。それが、程度問題ですが、それなりの固体性のある実体を具えているのです」


 色即是空
──ということは、あなたの世界も物的と言えるわけですね?

 「言えます。物的という用語をどう解釈するかが問題ですが・・・・」


──私の肉体と同じように物質でできているかということです。つまり私が死んでからまとう身体も物質であって原子の回転速度が一段と速いというだけなのでしょうか。

 「それもこれもみな、ただの用語にすぎません。〝物的〟とか〝物質〟とかを用いる時はその意味を明確にしておかないといけません。ある意味では霊の世界は〝霊化された物質〟で出来ていると言うことができます。

しかしその時の〝物質〟という用語はあなた方が理解しているものとは違います。また、〝物的身体〟というのも、今あなたがおっしゃった通り原子でできているのです。

原子はさらに細かく分析できますが、そのうち計算器では分析できない段階に至ります。するとその原動力は物的なもの、形あるものではないことになります。つまり物質が形あるものというのはそう見えるというだけのことになります。固いと思うのは錯覚なのです。
 
 人間にはいろいろな身体があって、それぞれ発達程度が異なります。その肉体から脱け出ると、それとそっくりの幽質の身体をまといますが、それは地上時代からずっと使用し自我を表現していたものです。

バイブレーションが地上生活にふさわしい高さだからです。その幽体は地上で肉体が実感があったように、他界直後の生活においては立派に実感があります。

 すべては意識している〝場〟の問題です。船に乗っている夢を見れば、眠っている間はそれが現実です。〝夢だった〟と思うのは目が覚めた時です。

そして船は幻だったことになります。もしも永遠に夢を見つづけるとしたら、その夢の生活が現実となることでしょう。目が覚めている間は地上生活が実感があるように、その夢の状態が実感があるように思いつづけることでしょう。

 今のあなたは夢を見ているのではないという確証はどこにあるのでしょう? もしかしたら、ここにいる人たちといっしょに同じ夢を見ているのかも知れないということも考えられるのです。こんなことを申し上げるのは、地上には霊的実在に目覚めていないという意味で地上生活という夢を見つづけている人間が無数にいるからです。

その夢から覚めて、ようやく自分は肉体ではないという自覚を得るのです。何度も申し上げているように、あなた方は肉体をたずさえた霊であって、霊をたずさえた肉体ではないのです。これは大変な違いです」


 パーソナリティとインディビジュアリティ
 サークルのメンバーが「それに加えて、われわれにはもともと Personality(確定した人物像)というものは無いということも大切なことですね」と口添えすると──

 「おっしゃる通りです。パーソナリティというのは地上にいる間だけのものです。地上生活のために便宜上つけているマスクのようなものです。地上生活が終わればマスクは捨て去ります」  


──私は、霊は異なった〝種〟の物的形体を通じて顕現しながら完全へ向けて進化し最後に人間に至るという説を立てているのですが、正しいでしょうか。

 「あなたがおっしゃるのは、人間という頂点に達するまで一個の霊があらゆる生命形態を通して表現されてきたという意味でしょうか」



──そうです。

 「あらゆる生命体というのであれば、それは私が Individuality (霊的統一体)と呼んでいる場合の個霊としてとはかぎりません。犬とか猫に生命を与えている霊はそれぞれに個別性がありますが、花に生命を与えている霊の個別性とはまた別です。生命あるものには必ず霊があります。

霊は生命であり生命は霊です。霊としてのあなたは無始無終に存在しております。それが現段階において受胎の瞬間から個性ある霊となったわけです。

 個霊としてのあなたの進化は今後さまざまな身体を通して続けられます。そして進化すればするほど個性が発現されます。が、その場合の個性は地上で見せていた人物像とは意味が違います。

これはとても理解の難しい問題です。進化の目的は完全性を成就することです。が、その成就の過程は無限に続くのです。進化して不完全なところを一つ取り除くごとに、また新たに取り除かねばならない不完全さに気づき、かくしてこの過程が永遠に続けられるのです。

 ここで是非とも認識していただかねばならないのは、パーソナリティとインディビジュアリティとは大きな違いがあるということです。パーソナリティとはインディビジュアリティが物的身体を通して表現している小さな側面のことです。インディビジュアリティがその個性を発揮するために使用する数々の側面のうちの一つで、地上にいる間に見せる人物像です。

 インディビジュアリティの側面は地上で見せる人物像だけとはかぎらず、他にもたくさんあります。それを、地上を去ってより高い存在の場で進化しながら顕現しつづけていくのです。個性が発現すればするほど地上で見せた人物像は消えていきます。

霊格が高くなればなるほど、あなた方が容姿から連想して画くところの人物像が消えていくのです。とても説明が困難です。その真相をうまく表現する用語が見当たらないのです。(巻末〝解説〟参照)

 こちらの世界はそちらからやってくる人たちによって構成されております。そちらから未発達霊を送り込んでこなければ何一つ問題は起きないのですが、現実には何の準備もできていない、適合性に欠ける無知な霊を次々と送り込んでおります。小学校で学ぶべきだったことを大人になって教えるのは、なかなか難しいものです。

(いつまでたっても物分かりの悪い霊がいるその結果として)

あなた方地上の人間は最低から最高にいたる、ありとあらゆる霊的影響力にさらされることになります。が、実際に引き寄せるのは自分と同じ霊格をもった霊だけです。邪悪な人間は邪悪な霊を引き寄せ、心清き人は心清き霊のみを引き寄せます。それが自然の摂理なのです。

 自分の肉体が無くなったことに気づかず、霊的には死者同然のような霊が無数にいることを私たちの責任であるかに思っていただいては困ります。それはあなた方が地上でやるべき仕事です。つまり肉体の死後にかならず訪れる次の生活に備えさせるように指導することです。

 霊の世界は地理的なものではありません。霊界は七つの界に分かれているなどと、まるで地図でも見るような言い方をする人がいますが、そのようなものではなく、すべてが融合し合っているのです。不完全性を取り除くにつれて、その霊格に似合った境涯へ向上していくのです。

 そうして発達を続けていくうちに霊的真理の実相を悟って、もはやその理解のために比較対照というものを必要としなくなる段階に至ります。それは地上においても達成できるものです。

つまり知的な思考による理解を超えた〝悟り〟を地上生活中に得ることができます。それは私たちの世界へ来てから比較対照が無くても実在が理解できるようになるのと同じ段階です」


  人類浄化の大計画
──霊界において計画が作製されてそれが地上界で実施されている例をたくさん見ておりますが、それはどういう機構によって行われているのでしょうか。計画の中心的立案者が一人いて全体をまとめているのでしょうか。

 「連帯関係にある霊団がいくつもあり、各霊団に一人のリーダーがいます。その全体の総指揮に当たっているのが、かのナザレのイエスで、今なお地上世界の発展のための事業に関わっております。

そのイエスのもとで地上ならさしずめ〝首脳会議〟にあたるものが開かれます。ご存知のように時おり私もその会議に出席するために一時的に上層界へ引き返し、それまでの計画の進展具合を点検し、連帯関係を確認いたします。審議会のようなものです。

 マスタープラン(総合的基本計画)というものがあり、私たちに役割分担が当てがわれております。霊格の高さゆえに地上の事業に関与できる〝光り輝く存在〟を一目ご覧に入れたいと思うのですが、残念ながらそれができません。

そうした霊団のほかにも、他の形態の生命に関与している霊団もありますが、私が関与しているのは地上人類のための事業です。

 計画は完璧です。なぜなら、その立案にあたって完璧な叡智が働いているからです。しかし、それを実現させるにはさまざまな要素を考慮しなければなりませんから、当然の成り行きとして、その進展は遅々としたものにならざるを得ません。自由意志、カルマ、運勢、好み──こうしたものが全て考慮されるのです。

進歩を確実なものにするためには全体への配慮を必要とするのです。その進歩は必ずしも直線的なものではありません。それは有り得ないことなのです。いずれにせよ、こうした中であなた方も神意の成就へ向けての無限の創造過程にいくばくかの貢献をなさっていることを自覚なさるべきです。

 雄大な構想のもとにそのマスタープランを推し進めていく事業に参加できることは、この上なく光栄なことです。だからこそ私は皆さんに、明日のことを思い煩うことはおやめなさいと申し上げるのです。

いかなる困難、いかなる障害、いかなるハンディキャップ、いかなる反抗に遭遇しても、又、いかなる愚かさ、いかなる無知、いかなる迷信が立ちはだかっても、霊の力によって、万事、かならずうまくいきます。真理はつねに行進しており、その目的成就を妨げることの出来る者は一人もいません。

ですから皆さんは堂々と胸を張り、背後に控える霊力は地上で遭遇するいかなる勢力よりも強大であることを、しっかりと認識なさることです」

 このことに関連してサークルのメンバーから幾つかの質問が出された。その回答の中でシルバーバーチは、その大霊団を構成しているのは必ずしも地上生活を体験した者ばかりではないこと、その中での自分の位置についてはこれまでに述べたこと以上のことは述べるわけにはいかないこと、その大事業の計画は遠い昔に立案されたものであることを述べ、こうしたことが地上の人間に容易に把握できないのも無理はないという理解を示した。

(『ベールの彼方の生活』第四巻にはその大事業の立案から実施に至る経緯が雄大な筆致で叙述されている──訳者)そしてこう述べた。

 「真理に霊的価値が多ければ多いほど、地上の言語による説明が困難となります。私たちはいま霊的な内容のものを扱っているのです。いたってお粗末な表現手段である言語では、地上的要素からはみ出たものは包含できないのですから、用語の意味に限界が生じます」


  神々の世界
──いまおっしゃった上層界よりさらに高級な世界があるのでしょうか。

  「あります」


──全部つながっているのでしょうか。

  「そうです。無限につながっています」


──階段(ステップ)状に上へ上へと伸びているのでしょうか。

  「ステップと呼びたければそう呼ばれても結構です」


──〝光り輝く存在〟とおっしゃった存在も自我を表現する能力を有しているのでしょうか。

  「みな個性的存在です。意識をもった存在です。自動人形ではありません。光り輝いております。指導的霊格を具えた高級霊です。大天使団、神の使節です」


──かつてはみな人間だったのでしょうか。

 「いえ。バイブルをお読みになれば、天使、大天使のことが述べられています」


──ということは常に霊的存在がいたということでしょうか。

  「宇宙のどこを探しても霊でない存在はいません」


──私はどの霊も一度はこの地球という惑星での生活をしなければならないものと思っていました。

 「そういうものではありません。あなた方の地球は無数に存在する生活の場の一つにすぎません。一度はかならず地球上で生活しなければならないというものではありません。すべてを抱括したマスタープランがあり、その中から何一つ、誰一人として除外されることも忘れ去られることもありません。

 あなた方に見えている星の彼方にも無数の星があります。惑星の彼方にもあなた方がまだご存知ない別の惑星、別の生活の場があります。宇宙は無限に広がっているのです」

(『ベールの彼方の生活』第四巻の274~276頁にこのことが具体的に述べられている──訳者)


──始まりも終わりもないですか。

 「霊には始まりも終わりもありません。霊は無窮の過去から存在し無窮の未来まで存在し続けます。バイブルを繙(ひもと)いてごらんなさい。イエスもこう言っております──〝アブラハムが生まれる前から私は存在している〟」

(ヨハネ伝8・58。イエスがユダヤ教のリーダーたちと論争した時の最後のセリフで、アブラハムはユダヤ人の祖とされている人物なので、それより前から存在してたと聞かされてその本当の意味が分からず、生意気なことを言う奴だと石を投げつけるが、イエスは身を隠して逃れた──訳者)」


  死後の再会
──私たちはいつかはかつての地上での仲間や親族のいる境涯へと向上して行き、ずっといっしょに暮らせるようになるのでしょうか。

 「その人たちと同じ発達レベルまで到達すればもちろんいっしょになれます。こうしたことは収まるべくして自然に収まる問題です。あなたは今これまで霊的に到達した境涯、段階、存在の場を占めているのです。

それと同じレベルにある者はみな似たような発達状態にあるのです。ですから、ご質問に対する答えは、あなたがその人たちと同じ霊的発達段階に至ればいっしょになれます、ということになります。向上の道はつねに開かれております。完全へ向けての、永遠に続く奮闘です」


──ここに愛し合う二人の人間がいて、一方が他方より霊格がはるかに高いとします。死後二人がいっしょになるには発達のおくれている方が待たねばならないのでしょうか。

 「その逆がふつうです。霊格の高い方が待つことになります。そこには愛の要素があるからです」

──死んで霊界へ至る過程はどんなものでしょうか。

 「死とは物的身体から脱出して霊的身体をまとう過程のことです。少しも苦痛を伴いません。ただ、病気または何らかの異状による死にはいろいろと反応が伴うことがあります。それがもし簡単にいかない場合には霊界の医師が付き添います。

そして、先に他界している縁者たちがその人の〝玉の緒〟が自然に切れて肉体との分離がスムーズに行われるように世話をしているのを、すぐそばに付き添って援助します。

 次に考慮しなければならないのは意識の回復の問題ですが、これは新参者各自の真理の理解度に掛かっています。死後にも生活があるという事実をまったく知らない場合、あるいは間違った来世観が染み込んでいて理解力の芽生えに時間を要する場合は、睡眠に似た休息の過程を経ることになります。

 その状態は自覚が自然に芽生えるまで続きます。長くかかる場合もあれば短い場合もあります。人によって異なります。知識をたずさえた人には問題はありません。

物質の世界から霊の世界へすんなりと入り、環境への順応もスピーディです。意識が回復した一瞬は歓喜の一瞬となります。なぜなら、先に他界している縁のある人たちが迎えに来てくれているからです」


  霊的身体について
──幽体の寿命はどうなっているのでしょうか。死後は幽体で生活するわけですが、どのくらいの期間もつのでしょうか。

 「それは地上の年数でかぞえるわけにはいきません。肉体が老いていくのとは違って、霊的向上に伴って生じる変化だからです。あなたには沢山の身体が具わっています。

それらを幽体だのエーテル体だの霊体だのと呼んでおられるのですが、あなたはそのうちのいずれか、つまりそれまでに到達した霊的進化のレベルの自我を表現するのに似合ったものを使用します。

そしてさらに進化すると、昆虫が脱皮するようにそれを脱ぎ棄てます。つまりあなたは常にその時点での霊格にふさわしい身体で自我を表現しているわけです。死後の身体はそういう過程をたどります。それが無限に続くのです」

──真の自我は肉体でもなく幽体でもなくて、いったい何なのでしょう?

 「どう呼んでみたところで所詮は用語にすぎません。言葉は三次元世界のものですから、言葉を超えたものを完全に表現することはできません。したがって霊とは何かということを正しく表現できる用語がないのです。

 霊は物質的なものではありません。三次元的なものではありません。どこそこという存在場所をもつものではありません。身体のように空間を占めているのではないのです。

あなた方の物的な感覚によっては、見ることも聞くことも触ってみることもできません。その霊こそ実在なのです。霊とは生命力です。霊とは動力です。霊とは宇宙の大霊の一部なのです。

 ですから、あなたがた人間は三位一体の存在ということになります。物的身体があり、霊的身体があり、そして魂(霊)があります。それらをぜんぶ別の用語に置きかえたければそうなさるがよろしい。が、何の意味もありません。用語をいじくり回すにすぎません。魂とは神性の火花です。内部に宿る大霊の一部です。

 あなたはその身体ではありません。その身体はあなたではありません。霊的身体はその物的身体が崩壊して大地に戻ったあと、引き続き自我を表現するために使用する媒体です。本当の自我は外側、表面、殻などには存在しません。内部の核、仁、中枢、魂、生命、つまりはあなたに潜在する〝神〟です。

霊は無限の存在であるがゆえに無限の顕現と段階的変化をたどります。一連の身体があり、それをアストラルだのエーテルだのと呼んでおられますが、それも一個の霊が顕現したものなのです。用語に惑わされてはいけません。言葉はただの道具にすぎません」


──肉体と幽体はどこまで似ているのでしょうか。胃液とか聴覚器官とか筋肉とかがもしあるとすれば何かの役に立つのでしょうか。

 「何の役にも立ちません。あなた方がその肉体器官を機能させる時それぞれの器官とそっくりの幽質の身体を使用しています(これを複体「ダブル」と呼ぶことがある──訳者) が、それには筋肉も胃液も聴覚もありません。霊が肉体を通して顕現し機能するための外皮のようなもので、死が訪れると地上での役目が終わったことになりますから、

その時点で脱ぎ棄てられて別の身体が用意されます。こうして霊が浄化していくに伴って、その段階にふさわしい表現機関として次々と新しい身体を必要とします。霊的身体はたくさんあるのです」


──たくさんあるとすると、死ぬ時はどうなるのでしょうか。一つひとつ脱け落ちていくのでしょうか。

 「進化するごとに身体を脱ぎ替えていきます」


──ということは、われわれは何度も死をくり返すわけですか。

 「そうです。ただし霊が死ぬのではありません。表現の媒体が変わるということです」


──いずれは幽体を脱ぎ棄てる時期がくるわけですが、それも〝死〟ですか。

 「そうです。肉体が役目を終えて棄て去られるのと同じです」


──われわれは何度も死ぬわけですね。

 「そうなります。が、それは有難いことなのですよ。進歩していることを意味するからです」


──いずれ最後は何の身体もまとわない純粋な霊のみの存在となるのでしょうか。

 「私は、その段階には永遠に至らないのではないかと思っています。それに近づく過程の連続だと考えています」


──そこに霊的進化の核心があるのですね?

 「人生そのものの根本の目標が進化であり発展であり成長であり学習なのです。進化するごとに、それまでの役目を果たしてきた身体が自動的に脱け落ちて、その進化した段階にふさわしい身体をまとうのです」


──ある意味ではわれわれの皮膚が次々とはげ落ちていくのと同じですね。

 「しかも、全身が7年ごとに(細胞が入れ替わって)新しい身体となっております。が、あなたという霊は決して無くなりません」


  霊界の仕事
──霊界にも自分を役立てる機会があるのでしょうか。

 「ありますとも! 地上よりはるかに多くの機会があります。こちらには、あなた方の理解を超えた問題がいろいろとあります。霊的宇宙のいたるところに存在する無数の霊──病める霊、幼い霊、忘れ去られた霊、孤独な霊、いびつな霊、無知な霊、こうした不幸な霊の面倒を見なければならないのです。

なぜこんな厄介なことになるのか──それはあなた方の世界がそういう霊を送り込んでくるからです」


──霊界の人たちも行動範囲に限界があるのでしょうか。それとも自由に宇宙を駆けめぐることができるのでしょうか。旅行もできるのでしょうか。探検もできるのでしょうか。

 「もちろん出来ます。ただし、それが出来るだけの資格を手にすればのことです。霊格の問題です。そこに目的意志というものが無くてはなりません」(遊び半分、面白半分の宇宙旅行や探検は許されないということ───訳者)

 さらに関連質問を受けてから冒頭に引用した言葉を述べた。すなわち───

 「私たち霊の世界の生活がどうなっているか、その本当の様子をお伝えすることはとても困難です。霊の世界の無限の豊かさについて、あなた方は何もご存知ありません。その壮大さ、その無限の様相(バラエテイ)は、地上のどの景色を引き合いに出されても、どこの壮大な景観を引き合いに出されても、それに匹敵するものはありません」


──私が思うのに、死後の世界へ行っても、そうした霊界の豊かさを探検する楽しみを捨てて、地上で始めた仕事を続けている者が大勢いるのではないでしょうか。

 「そちらで医者だった者がこちらでさらに勉強し、地上での知識をプラスして病気の治療に当たっている人がたくさんいます。それが霊的開発の証しなのです」

     
  再会時の識別の問題
 ここでサークルの女性メンバーの一人が見解を述べたのに対して───


 「法則というものがあって、それがすべてを規制しているのです。そのうちあなたも何一つ忘れ去られたり見落とされたりすることがないことを理解なさいます。私はいつも大自然の摂理とそれによる経綸の完璧さに感嘆しているのです」

──実は私の妹は出産の際の器具の使い方が悪くて脳に障害を受けました。それはそれは醜い姿になってしまいました。今は他界していますが、私が他界した時にすぐに妹が分かるでしょうか。今も地上にいた時と同じ姿をしているのでしょうか。なぜ妹は四十年間もそういう醜い状態で地上生活を送らねばならなかったのでしょうか。
 
 「この種の問題はほんとうは個人的感情を抜きにしてその原理を直接扱えば簡単に片づくのですが、それが出来ないのが残念です。地上に生をうけているいかなる人間も、代償の法則、ときには懲罰と言うべきものから逃れることはできません。

ある段階において必ず霊的な貸借の差引勘定が行われ、貸り借し無しの状態となります。そちらで欠陥のあった人はこちらでそれ相当の埋め合わせがあります。

 不具といってもそれは肉体上の不完全さであって、精神や霊が不具になることは絶対にありません。何らかの脳の障害によって精神や霊が表現の機会を与えられなかったことから生じる未熟な精神、未熟な霊ならあります。そうした霊は他界した時点ではたぶん幼児のような進化の程度でしょう。しかし、精神または霊には何の障害もありません。

 なぜそういうことになったということですが、これはさらに複雑な問題です。因果律、器具の扱い方の間違い、処置の不手際、こうしたものが重なって身体が害され、脳が本来の表現と認識の道具としての機能が果たせなくなったわけです。

なぜそうなったのか? もしかしたらカルマが働いていたのかも知れません。が、私は個人的なことにはお答えするわけにはいきません。私はあくまでそれに関わっている原理、原則しか扱えません」


 別の人が 「この方はご自分が他界した時にすぐに妹さんだということが識別できるかどうかを知りたがっておられます」と言うと───

 「識別は想像されているほど困難なものではありません。他界してきた人はその人と何らかの縁故のある人たちによって看護されます。その人たちは死期が近づいたことを察知することができ、迎えに出ます。霊というものは自分の識別を容易にしてあげるために一時的にどんな形体でもとることができます。

子供の時に他界して地上の時間にして何十年もたっている場合、その母親が他界してきた時に一時的に他界時の子供の姿になってみせることができます。ですから、それはご心配なさる必要はありません」 


──そちらから人間をご覧になる時、私たちの霊体が見えるのでしょうか、人体が見えるのでしょうか、それとも両方が見えるのでしょうか。

 「それは一口にはお答えできない問題です。その霊が開発した能力によって違ってくるからです。特殊な能力──地上の霊能者が使用する霊視力と同じものをもっておれば人体も見えますが、一般的に言えば霊は人間の霊体を見ている場合の方が多いです。

今の私にはこの部屋の物体は何も見えません。ご出席のみなさんの霊体だけが見えております」


──こちらの世界からそちらの世界へ行くとき、そちらの縁ある人たちにそのことを知らせる何かの連絡組織があるのでしょうか。

 「そういう人たちは常にあなたといっしょですから、そういう組織は必要ありません。あなたご自身が覚悟するずっと以前からあなたの死期を察しております。そしていよいよその時期が到来すると、そばに来て待機します。宇宙で愛ほど強力な引力はありません。愛でつながった人はけっして離ればなれにはなりません」


──ここでその日のゲストの一人で霊媒をしている女性が興味ぶかい質問をした。その霊媒がその日ある婦人の依頼で一カ月前に他界したばかりのご主人を呼び出してメッセージを述べさせたところ、その日の朝はこんなことをした、昼はこんなことをした、夕方はこんなことをした、という内容のものだったという。それで、霊界の生活にもそのように地上と同じ朝・昼・夜の変化があるのかという質問をした。これについてシルバーバーチはこう答えた。

 「こちらへ来て間もない初期の段階ではそういうことがあります。まだ新しい霊的環境に順応していないためです。霊界の低い界層、いわゆる幽界の環境は地上とそっくりです。これは新参者が感覚を馴らしていくための神の配慮です。

 そうしないと新参者は戸惑うのです。そうしたことから、今おっしゃった人のように、霊界へ来てからも朝と昼と夜の生活があるように思っている霊がいることになります。そう思うからそうなるのです。私たちの世界は思念が実在となる世界です。悟りが芽生えるまではその過渡的な状態がつづきます。

それとは別に、あとに残した人の援助がしたくて、あえて霊的向上を望まないというケースもあります。

 霊界にも庭園もあれば家もあり、湖もあれば海もあります。なぜかと言えば、もともとこちらこそが実在の世界だからです。私たちは形のない世界で暮らしているのではありません。私たちもあい変わらず人間的存在です。

ただ肉体をもたないというだけです。大自然の美しさを味わうこともできます。言葉では表現できない光輝あふれる生活があります。お伝えしようにも言葉がないのです。

 ごく自然な形で霊界でも家に住みます。ですがその家は地上生活(の善行・徳行)によってこしらえられたものです。庭園も自然な形で存在します。手入れがいると思えば手入れをします。究極的にはそうしたもの一切が不要であるとの悟りに達しますが、それまではそうした (地上とよく似た) 環境の維持に必要な配慮がちゃんとなされております。

もしそうした配慮がまるでなされなかったら、地上から霊の世界への移行は大へんショッキングな出来ごととなってしまいます。

 霊界での生活は段階的に向上していくようになっています。各界層、段階、ないし表現の場は、下と上とが地理的にではなく進化的な意味で重なり合い、次第に融合しております。魂が向上し、より高い境涯への適応性が身につくと、自動的にその境涯に置かれるのです。これも完全な叡智の完璧な働きの一例です。何一つ偶然ということがないのです。

 (訳者注──オーエンの 『ベールの彼方の生活』 第四巻でアーネル霊が、暗黒界から救出された霊の集団によってつくられたコロニーについて次のように述べている。

≪その後もそのコロニーは向上しつつあります。そして増加する光輝の強さに比例して少しずつ位置が光明界へと移動しております。これは天界における霊的状態と場所との相互関係の原理に触れる事柄で、貴殿には理解が困難、いや、不可能かも知れません。それでこれ以上は深入りしないことにします≫)

 霊的に病んでいる場合はこちらにある病院へ行って必要な手当てを受けます。両親がまだ地上にいるために霊界での孤児となっている子供には、ちゃんと育ての親が付き添います。血縁関係のある霊である場合もありますが、

霊的な近親関係によって引かれてくる霊もいます。このように、あらゆる事態に備えてあらゆる配慮がなされます。それは自然の摂理が何一つ、誰一人見捨てないようにできているからです。

 地上生活の究極の目的は、人間が霊的成長のある段階において、物的現象の世界のウラ側に存在する実在に気づくように、さまざまな体験を提供することです。大自然の摂理は正常な人間には例外なくその機会が与えられるように働いていることを私は確信しております。

もしそうでなかったら神によって無視されたり恩恵にあずかれない人間がいることになり、そういうことは絶対に有り得ないことだからです。霊が地上に誕生するというその事実が、潜在的にその子供にもいずれ芽生えるであろう霊的自覚が秘められており、そのための機会がこれから与えられていくということを意味しております」

シルバーバーチの霊訓(八)

 More Philosophy of Silver Birch

Edited by Tony Ortzen
近藤千雄訳



三章 質問に答える    ──地上の生活──
          
 本章では誕生から死に至る人間の一生をたどりながら、その間のさまざまな問題を取りあげる。

まず受胎の問題から始めて肉体にまつわるさまざまな疑問、さらには寿命というものがあらかじめ定まっているのかどうか、そして死、それに伴う悲しみといったテーマについて、シルバーバーチの見解を質すことにする。(小見出しは訳者による)

 
 発達と進化
──アメーバから今日の人類にいたる進化の過程のどの段階において、霊的存在としての人間が登場したのでしょうか。最初の細胞の中ですでに宿っていたのでしょうか。

 「ご質問が人類としての個霊のことを意味しておられるのでしたら、それはアメーバの段階ではまだ存在しておりません。が、生命のあるところには必ず霊が存在します。

なぜならば霊とは生命そのものであり、生命とはすなわち霊だからです。最も原始的なものから最高の組織体へ、つまり最も単純なものから最も複雑なものに至るあらゆる発達過程と生命形態を通じて霊が顕現していると言えます。

 人間的要素はアメーバの段階的発達の中で発生します。そして人類(ひと)へ向けて絶え間ない発達過程を続けます。そして人間としての意識に目覚めた段階で、つまり自我意識をもつに至ったときに、いわゆる人間となります。

しかし、進化は絶え間なく続いているのです。進化に始まりの一点というものはありません。常に始まりであり、終わりがないのです。なぜなら進化とは完全へ向けての永遠の過程だからです」

 訳者注──シルバーバーチは発達 development と進化 evolution とを区別している。ここでも問題となるのはやはり用語についての認識の仕方であろう。これまでの進化論はあくまで地上の生命にかぎっての話であって、ただ一人アルフレッド・ウォーレスのみが〝霊的流入〟spiritual influxによって動物が人類へと進化したという説を立てた。

スピリチュアリズム的に言えばそれが本当の意味での〝進化〟であって、その段階までは〝造化の霊団〟によってこしらえられた〝種〟が発現し、精霊の働きによって促進される〝発達〟である。それを進化と呼ぶのなら、次元が異なることを認識した上で使用しなければならない。

シルバーバーチも重複して用いることがあるが、基本的には霊的向上つまり霊格が上がることを〝進化〟と呼び、その霊が使用する機能が開発されることを〝発達〟と呼んでいる。


 霊が身体に宿る時期
──霊はどの段階で身体に宿るのでしょうか。受胎の瞬間でしょうか。それとも胎動期つまり十八週ごろでしょうか。

 「この問題はこれまで何度も尋ねられました。そしていつも同じお答えをしております。生命は受胎の瞬間から始まります。そして生命のあるところには必ず霊が存在します」


──受胎の瞬間から霊が宿り、そこから個性が発達していくということでしょうか。

 「個性という用語を持ち出されるとまたややこしくなります。生命は霊であり霊は生命です。両者は二つにして一つです。受胎と呼んでいるものは、そこに生命があるということを意味します。受胎がなければ生命は存在しません。したがって霊は受胎の瞬間に物質に宿ることになります。

 その後の発達の問題ですが、これは環境条件によって異なりますのでさらに問題がやっかいです。受胎時に宿る霊も、霊としてはそれまでずっと存在していたのです。ですから、個性の問題は、その個性よりはるかに大きい霊全体のどの部分が表現されるかの問題となります」


──受胎後のどの段階で人間(ひと)となるのでしょうか。胎内生活の正確に何か月目から人間となるのでしょうか。(三か月後の)胎児はすでに人間と呼べるでしょうか。

 「受胎の瞬間から生命が存在し、したがって霊が存在します。流産とか中絶とかがあっても、それは生命を破壊したことにはなりません。その生命の表現の場をあなた方の世界から私たちの世界へと移しただけです」


──子宮内の生命もれっきとした人間だとおっしゃるのでしょうか。

 「潜在的には受胎の瞬間から人間であり、人間性のすべてを宿しております」


──受胎の瞬間からですか。

 「受胎の瞬間から身体的機能のすべてを潜在的に宿しているごとく、霊的機能もすべて宿しております。霊的機能が存在しなければ身体機能も存在しません。物質は霊の影だからです」


──ということは、霊は誕生に際して地上で使用する身体をみずから選択する自由はないと理解してよろしいでしょうか。

 「それは正しくありません。逆に、霊はあらゆる自由が与えられています。大半のケースにおいて、霊は地上で果たさねばならない目的をもって生れてきます。そしてその仕事に合った身体に宿ります。ただ、自分は地上でかくかくしかじかのことをしようと決意したその仕事に実際に目覚めるまでに相当な時間を要します」


訳者注──ここでいう決意とは肉体に宿る前の〝霊〟としての意識による決意であって、肉体に宿ってからの脳を焦点とした意識にはそれがなかなか自覚されない。シルバーバーチがそれに目覚めるまでには相当な時間を要しますと述べているのは、必ずしも誕生前の霊としての決意と同じものを記憶として思い出すことを言っているのではなく、

食べて働いて寝るだけの物的生活を超えて、何のために生きているのだろうという疑問をはじめた時点からその段階に入るものと私は理解している。そのうち〝自分はこれでいいのだ〟という得心ともあきらめとも悟りともつかないものを自覚し、同時に生きる意欲が湧いてくる。シルバーバーチはそのことを言っているのであろう。


  物的身体に関連して
 「誕生の瞬間から肉体は死へ向かいます。この現象は誰にも変えられません。もともと肉体は不老不死を目指すようには意図されていないのです。本性そのものが儚い存在であることを自覚しております。従わねばならないサイクルというものがあるのです。

まず、ゆっくりと機能的成熟を目指します。成熟すると同時に、やはりゆっくりと、全機能が衰えはじめます。そして、リンゴが熟すると自然に木から落ちるように、肉体も与えられた寿命をまっとうして死を迎えます。何度も申し上げているように、人間は本来そうなるようにできているのです。

 私たち霊界の者も完全ではありません。まだ霊的進化の頂点を究めたわけではありません。まだまだ延々と先が続いております。しかし地上での仕事を困難にする物的条件に直面したときは、私たちにできるかぎりのエネルギーを活用して、その克服につとめます。

 いつも申し上げ、これからも繰り返し申し上げることでしょうが、私たちといえども全ての知識を手にしているわけではありません。無限に存在するからです。が、地上のあなた方は私たちにない肉体的条件によって制約を受けていますから、手にすることのできる知識はきわめて限られております」


 こう述べてから、メンバーの一人で非常に疲れた様子をしている人に向かって───

 「休息が不足すると身体がその代償を支払うことになります。その代償の度合いが大きすぎると、完全な休息を要求されて、あなたは床につかねばならなくなります。各人各個の責務という教理を説きながら、その働きに例外があるかのようなことを申し上げるわけにはまいりません。

無理して一度に多くのことをなさってはいけません。肉体は所詮は機械です。その限度を超えたことを要求してはなりません」


 別のメンバーが意見を述べる。

───疲れすぎると床につかねばならなくなるとおっしゃいますけど、休むわけにはいかないこともあります。休まなくてはいけないことは分かっていても、世話をしてあげなくてはならない人たちとの関係においては、自分より気の毒な状態にあるのを見ていながら自分だけ休むわけにはいきません。

 「自然の摂理の働きは変えようにも変えられません。私には皆さんに対する愛があります。もし無かったら今こうしてここにいることもないでしょう。私たちにとって地上という世界は何一つ魅力はありません。なのにこうして戻ってきて皆さんの中に混って皆さんとともに仕事をするのは、皆さんに対する愛があるからです。

そうすることで何の利益を受けるわけでもありません。私たちの多くには(※)これまでに身につけたものを惜しげもなく犠牲にして皆さんのお役に立ちたいという願いがあるのです。

(※〝私たち〟と言わずに〝私たちの多く〟という言い方をしたことには意味がある。 『霊訓』 のモーゼスの背後霊団をはじめとしてスピリチュアリズムの初期の霊団には、地縛霊の状態からやっと脱したばかりの低級霊が大勢いて、複数の高級霊の監督のもとに物的証拠を見せるための物理現象を担当した。

言うなれば〝勤労奉仕〟のようなもので、ある程度その仕事にたずさわって霊的に向上してくると、代って別の低級霊団が同じ仕事を受けもつというふうにして、よく入れ替りが行われた。

その種の霊にとっては、それまでの怠惰や罪の償いをする絶好のチャンスなのであるが、それを監督・指導する立場の霊にとっては光輝あふれる世界からどんよりとした息も詰まらんばかりの地上圏に降りてくるのは大きな犠牲を強いられることになる───訳者)


 私たちは情愛に満ちた心で皆さんを愛しております。しかし、だからといって皆さんの都合のよいように摂理を変えてあげるわけにはまいりません。皆さんは肉体という機械をお持ちです。どんなに優秀な機械でも休息が与えられます。皆さんの肉体のように片時も休むことがないという機械は他にありません。機械は休ませないと故障します。

 肉体はあなたのものですから、その健康管理はあなたの責任です。神はそのための能力として知性と理性とを与えてくださっております。宇宙の摂理について知り得たかぎりの真実を有りのままに述べている私を責めてもはじまりません。私は、私が間違いない真理だと信じたものを欺くようなことは申せません。

目的とすべき理想、霊的真実に基いた処生訓、それを忠実に人生に応用すれば、霊としての当然の遺産であるべき豊かさをもたらしてくれるもの、それをお教えするだけです。

 最終的にどう決めるかはあなたご自身です。私もできるかぎりの援助はいたします。が、時として私たちにも如何ともしがたい情況というものが生じます。

あなたの自由意志を無視するわけにはまいりません。側に立ってあなたがなさることを見つめるしかないことがあります。あなたの霊的進化にとってはあなた自身による決断が重大な要素となるからです」


──その際には摂理にもとることをしても許されるのでしょうか。
 
 「そのときの動機が大切な要因となります」


──でも、人間生活においては愛する人を救わんがために、悪いと知りつつも善意から、摂理にもとる行為をせざるを得ないというケースも有り得るのではないでしょうか。

 「私に申し上げられることは、あくまで摂理は摂理であるということが摂理である、ということだけです。摂理は摂理であるがゆえに、その摂理どおりに働くしかありません。もしも私が原因と結果の関係に干渉することができるとしたら、これは大変なことになります。良かれと思ってしても、結果的には大へんな害をもたらすことでしょう。

摂理は完璧にできているのです。定められた通りに働くのが一ばん良いのです」


──事態を収拾するためにさまざまな法則を集中的に動員することがあるとおっしゃたことがありますが。

 「あります。絶対的窮地に陥ったときに救ってさしあげた方が皆さんの中に何人かいらっしゃいます。私たちが干渉できないのは原因と結果の関係です。また、いわゆるお情けというものも一切ありません。

私は指導霊としての立場から、あなたの身体が機械であることを指摘しているのです。休ませてやらねばならないことがあることを申し上げているのです。疲労が度を過すと機能が停止します。停止すると再び機能を回復するまでに床についていなければならなくなります。

 私がつくづく思うのは、これまでに啓示していただいた真理のすばらしさをみて、われわれ一同はほんとうに恵まれた者たちだということです。それに加えてわれわれは又、霊力のすばらしさを見ることができました。

事態を一変させ、進むべき道を指し示し、導きを与え、各自が天命をまっとうするための理想の生き方を教えてあげることができることを知りました。これは、ただごとではない大切なことです。

(訳者注──ここでいつものように〝私たち〟とせず〝われわれ〟という言い方にしたのは、気持の中でサークルのメンバーも含めているからである。ここではシルバーバーチは、霊団としても霊の力にこれほどすばらしいことができるのかという驚きを抱いている気持を表明している。

前巻の八章の〝シルバーバーチの最大の発見〟の中でも同じことを述べている。人間のために大きな犠牲を払いながら、これほどのことをやらせていただいていることに、その恩恵を受けるサークルのメンバーと共に感謝している気持が私には読み取れるのである。謙虚さが自然に出ていて、読んでいてこちらの方が恐縮させられる)

 肉体は霊が自我を表現するための道具です。存分に発揮したいと思われれば、十分な手入れをしなくてはなりません。疲労が重なると本来の機能が発揮できなくなります。そこで神は、その無限の叡知によって、肉体を休息させ、活力を取り戻させるための〝睡眠〟を用意したのです。

 地上の四季の移り変わりをよくご覧なさい。秋になると大自然は冬の眠りのための準備をし、春になると再び目醒め、夏にその壮観を披露します。人体も同じです。休息によって元気を回復しなければなりません。休息はぜひとも必要です」


──ここで過労によって健康を害している二人のメンバーにこう説いた。

 「無理をしていることを知りつつも無理を重ねて、けっきょく中途で倒れる人がいるものです。倒れたら休息するほかはありません。私たちはあなた方に自助の心構えを説き、霊と精神にかかわる摂理だけでなく、その肉体を支配している生理的法則にも絶対的に従わねばならないことをお教えしています。

それを忠実に守り、霊と精神と肉体が調和状態にあるかぎり、あなた方は健康であり健全です」


 メンバーの一人が「どうやら私は言うことを聞かない部類に入るようです」と述べると──

  「言うことを聞くようにと、神は二つの耳をお与えになったのです。〝スピリチュアリズムには七つの綱領〟(※)というのがあります。その一つに〝各個の責任〟というのがありますが、たぶんこれが七つの中で一ばん大切でしょう。

異論や反論の余地のない真実が秘められているからです。あなた方は他人のすることではなく自分のすることに自分一人で責任を取るのです。

あなたの責任を免除してくれるものは誰一人、何一つありません。注意を怠れば、それだけの代償を自分が払わねばなりません。それが原因と結果の自然法則なのです」

(訳者注──心霊誌 Two Worlds の創刊者である女性霊媒エマ・ハーディング・ブリテンを通じて地上で社会主義思想家として有名だったロバート・オーエンが提唱した基本原理で、あえて直訳のまま紹介すると次の通りである。

(一)神の父性 (二)人類の同胞性 (三)霊の交信と天使の支配 (四)人間の霊魂の存続 (五)各自の責任 (六)地上生活における善行と悪行に対する死後の応報 (七)すべての霊魂に開かれている永遠の向上。

以上を基本として、さらに、キリスト教的信仰を忘れきれない一派や、反対にキリスト教的色彩を徹底的に抹殺したい一派などによって、それぞれに拡大したり敷延したりした綱領もある。


──各自に責任があることは知識としては知っていましたが、これまでは他人事のように考え、自分の問題として真剣に自覚したことはありませんでした。これからは心掛けようと思います。

 「ぜひ心掛けてください。あなたが自覚するしないにおかまいなく、自然法則は働き続けるものだからです。冷淡なのではありません。法則として定められたように働かざるを得ないのです。それは、私たちがこの仕事を定められた一定の線に沿って、進めざるを得ないのと同じです。

 このサークルのメンバーの方には常づね申し上げていることですが、私たち霊団は、私たちのやり易い時に、私たちのやり易い方法でやるしかありません。あなた方の都合に合わせるわけにはいかないのです。あなた方と同じように私たちも、霊的にみてこれは是非やらなくてはならないと判断したことを行うに際して、やはり一定の法則による制約を受けています。

みなさんの生活を蔭で操ることはできます。物質を動かすこともできます。必要とみれば金策もいたします。が、それも一定の自然法則に従って行わねばなりません。

 いつも申し上げることですが、人間は自分で正しいと判断したこと、良心が命じたことに素直に従わなくてはいけません。最終的には自分自身が裁判官なのです。反省してみて自分の行ったことはすべて正しかったか、どこかに間違いはなかったかを自分で判断することができるようになっております。

動機さえ正しければ絶対に間違ってはいません。何よりもまず動機が最優先されるのです。

(ここで〝間違ってはいません〟というのは霊性を傷つけることはないという意味であって、それによる結果に対して責任は問われないという意味ではない──訳者)

 あなた方も元来が霊的存在であって、それが今は物的身体を通して自我を表現しているにすぎないという、この基本的真理をつねに念頭においてください。霊をたずさえた肉体ではなく、肉体をたずさえた霊だということです。その認識のもとに内部の霊性をできるだけ多く発揮することになるような生活を心掛けることです」



 寿命の問題
 みずからも霊媒である人が招かれて、シルバーバーチと語り合った中で 「人生は目まぐるしく過ぎていくのに、やりたいことは山ほどあります」 と述べると、シルバーバーチがこう語った。

 「人生を達観することが大切です。あなたが生まれるずっと以前から質実剛健な先輩がいて道を切り開いてくれていたこと、その人たちもその仕事の大変さを痛感して、自分たちの地上生活が終わったあとはどうなるのだろうかと案じていたことを知らなくてはいけません。

しかし、その人たちが巨木や巨石を取り除いてくれていたからこそ、その道をあなた方はその人たちよりラクに通れるのです。そこであなたがさらに幾つかを取り除けば、それがあなたとしての貢献をしたことになります。

あなたのあとにさらに次の人材が用意されてることでしょう。そしてその人たちがさらに多くのものを取り除いていけば、やがてきれいな道ができあがります。

 地上は体験学校のようなものです。その地上世界は完全ではありません。あなた自身も完全ではありません。あなたはその不完全な世界で少しでも多くの完全性を発揮しようとしている不完全な存在です。ですから、自分なりの最善を尽くしておれば、それでいいのです。それ以上のものは要求されません。

 縁あってあなたのもとを訪れた人に真の自分というものに目覚めるきっかけを与えてあげることは重大な意味のあることです。つまり人間が神に似せて作られていること、言い変えれば神と本質的に同じものが内在していること、その資質を発揮することによって生活に美と愛と光輝をもたらすことができ、それがすべての体験を価値あるものにするということを理解させてあげることです。

 ですから、仕事上の厄介なできごとを、神が与えてくれた挑戦のチャンスとして感謝して受け止めることです。それを処理していくことで結果的にあなたがそれだけ霊的に成長するのです。

もしも仕事仲間の中にあなたの信念についていけないという人がいたら、もしもその人の信念に迷いが見えはじめたら、その時は構わず見棄てることです。果たすべき大目的についての荘厳な洞察力を抱き続けている人とのみ仕事をなさることです」


──人間の寿命は前もって決められているのでしょうか。それとも肉体の強健さ、そのほかの要因の問題でしょうか。

 「肉体の強健さなども寿命を決定づける要因の中に入っております。物的身体構造すなわち肉体は、魂が成長するための地上的体験を得る上で無くてはならないものです。霊と肉体とは一体不離です。そして地上生活の期間、いわゆる寿命が切れる時期は大方の場合あらかじめ分かっております。

 肉体を霊から切り離して考えることはできません。肉体は霊に制約を加え、霊は肉体に生命を与えるという具合に、両者は切っても切れない関係にあります。一個の存在を構成している二つの要素を分離して考えてはいけません。

あなたという存在は数々の要素が互いに反応し合いながら一個の総合体を構成しているのです。すべての側面が融合し結合し混ざり合って、あなたという一つの統一体すなわち霊魂を構成しているのです」


──寿命が定まっているということから出る疑問ですが、もしも、たとえば千人の乗客が一度に溺死した場合、その人たちは皆その特殊な時期に死ぬことになっていたということになるのでしょうか。つまり彼らの魂の成長のために定められた寿命は同じだったのでしょうか。

 「問題は用語です。あなたは今〝定められた〟という言い方をされましたが、そういう言い方をすると、では一体だれが何を基準に、という疑問が生じます。そして多分その裏には神によって摩訶不思議な方法でそう仕組まれるのだという漠然とした考えがあるはずです。が、

そういうものではありません。生命現象の広大なパノラマの一つ一つが自然法則によって支配されているのです。

  地上の科学者がいかなる説を立てようと、いつかは必ず肉体に死が訪れます。それは霊を解放するという役目を果たすことになるのです。つまり肉体の死は肉体の誕生と同じです。前者は霊の〝退場〟であり、後者は〝入場〟です。

 地上では死を悲劇と考えますが、私たち霊の立場からすれば悲劇ではありません。解放です。なぜなら、魂の霊的誕生を意味するからです。地上のあらゆる悩みごとからの解放です。よくよくの場合を除いて、死は苦労への褒賞であって罰ではありません。

死は何を犠牲にしてでも避けるべきものという考え方は改めなくてはいけません。生命現象に不可欠の要素であり、魂が自我を見出すための手段と見なすべきです」


 命日は記念すべきか
 招待客が友人からの質問として「悲しい命日は心の痛みを呼び覚ますだけだから愚かで無意味だという考えはいかがでしょうか」と述べ、それに自分の考えとしてこう付け加えた。

──今さらどうしようもないことは分かっているのに年に一回、心の痛みを思い出すのは間違いだと思います。
 
 「その質問者のいう〝悲しい命日〟というのは何のことでしょうか」
 
──故人が亡くなった日です。その日に何もしたがらない人がいます。改めて悲しい思いをしたくないのだと思います。


 「誰にとって悲しいのでしょうか」
 
──その人を失った家族です。亡くなった本人ではありません。私はあなたのお考えに同感です。亡くなった人を悲しむのは一種の利己主義だと思います。

 「一種の自己憐憫の情です。自分自身への哀れみであり、愛する者を失ったことを嘆いているのです。苦の世界から解放された人のために涙を流すべきではありません。もちろん地上生活が利己的すぎたために死後もあい変わらず物質界につながれている人(地縛霊)がいますが、それは少数派に属します。

 大部分の人にとって死は牢からの解放です。新しく発見した自由の中で、潜在する霊的資質を発揮する手段を見出します。無知の暗闇でなく、知識の陽光の中で生きることが出来るようになるのです。

 過ぎ去った日々の中に悲しい命日をもうけて故人を思い出すとおっしゃいますが、いったい何のために思い出すのでしょう。そんなことをして、その霊にとってどんな良いことがあるというのでしょうか。何一つありません! 過ぎ去ったことをくどくどと思い起こすのは良くありません。

それよりも一日一日を一度きりのものとして大切に生き、毎朝を霊的に成長する好機の到来を告げるものとして、希望に夢をふくらませて迎えることです。それが叡智の道です」

訳者注──〝シルバーバーチは語る〟と題されたカセットテープの中で司会者が 「ルドルフ・シュタイナーの一派では死者に向かってリーディング(仏教でいう〝読経〟で、読心術ではない) をするのですが、何らかの効用があるのでしょうか」 と質問したのに対してシルバーバーチは 「害もありませんが、さして薬になるとも思いません。

こちらはこちらで救済のための施設がたくさん用意されています」と述べている。


 たしかに、たとえば 『ベールの彼方の生活』 を読むと高級霊団が地上各地から地縛霊を大ぜい救出して戻ってくる一行を描写しているところがある。国籍が入り混じっているので服装もさまざまで、救出された者どうしがキョロキョロと互いの衣服を見くらべて不思議そうな顔をするユーモアあふれる場面もある。

そのほか慰安や看護のための施設も何度か出てくる。その観点からいうとシルバーバーチの言う通りなのであるが、私は日本人特有の問題として、供養とか戒名とか院号とかにまつわる日本的しきたりに余りにこだわった地上生活を送った人の中には、向こうへ行ってから自分もそうしてもらわないと気が済まない──いわゆる〝成仏できない〟

霊がいて、霊界の指導者を手こずらせていることが多いことは、事実として認めざるを得ないように思う。この種の地縛霊は日本ではけっして少数派とは言えない。そういう霊は言わば〝わからず屋〟なのであるから、そのわがままをある程度は聞いてやる必要があるので、それは地上の人間の協力を要する問題となってくる。

 ただ、シルバーバーチはつねに永遠の時を念頭において説いていることを忘れてはならない。人間が余計な心配しなくても、いつかは霊界の方で何とかします、という意味に解釈すべきであろう。


──肉体に宿っているとそれが悟れないのが悲しいことです。みんな物質に惑わされて、物的なものには価値がないことが理解できないのです。そういう人にとって人生は舞台劇のようなもので、カーテン(幕)が下りるとそれでお終いです。

 「それは要するに無知と知識の差です。そこで私どもは出来るだけ知識を広め、その境界線をできるだけ広げていくように努力しているのです。知識を手にすれば、人生を正面から見つめ、そして悟ります。無知のままでいることは暗闇の中にいることです。

 私たちはひたすら力になってあげたいと願っているだけに尚のこと嘆かわしく思えるのですが、地上の人間が無知と偏見と、みずからこしらえた迷信という壁に取り囲まれているために、それが目覚めを阻害して、容易に破壊できないのです。その厚い壁は真理も突き通せないのです。

嘆かわしいと表現したのは、その人たちの地上の身内の人でも手の出しようがないからです。そこで死後しばらくはベールのそちらとこちらの双方に悲しみがあります。が、地上を去った者のために涙を流すことはありません。

その事実を認識し受け入れることによって、死んでいった者を引き止めるようなことが無くなります。感情的障壁をこしらえなくなります。精神と霊を正しく調整することが出来るようになります」


 これを聞いてサークルのメンバーが尋ねた。

──一つの人生の旅が終わったのを見て悲しく思うのが人間の情だと思うのです。それは一時的な情ですから、たとえ悲しんでも、死を嘆いているのとは違うと思うのです。

 「私の世界へやって来た人は死が階段を一つ昇ったことを意味すること、大きな解放を得たことを理解します。潜在的能力を発揮するチャンス、地上でなし得なかった仕事をするチャンス、かつては考えられなかったほど生気はつらつとした生活ができるチャンスを得ます。

もちろん地上生活に断絶が生じたことに悲しみの情を覚えるのは当然です。が、他界して行った者に何ら悲しむべきものはないという事実を知ることによって、その悲しみを少しでも小さくすることは出来るはずです。(無理な要求をするようですが)私たちは皆さんに対して常に理想を目標として掲げなければならないのです」


──愛し合う二人のうち片方が先に他界した場合、残された方がのちに他界した時に間違いなく幸せの楽園が待ってくれていると考えてよいでしょうか。

 「その通りです。ただし、互いに愛し合っていた場合のことであって、一方的な愛ではそうはなりません。愛はその対象から切り離して存在することはできません。地上というのはほんの一時的な生活の場にすぎません。肉体に不老不死はありえません。

ですから、いずれは地上を去る時が来るのであれば、いよいよその時(死期)が近づいた人を祝ってあげるのが本当なのです。そして又、いずれは自分もあとから行って、地上では想像できない、より大きな光明と美と驚異の世界でいっしょに生活することになることを知ってください」


──そのことを私たちは物的観点から考えなくてはならないところに難しさがあるのです。死ぬまで待つことになりますが、ただ待ってはいられない──いろいろと生きるためのことをしなければなりません。生き続けなければならないのです。その辺がとても難しいのです。


  「霊的真理を物的観点から考えるとなぜ難しくなるのでしょう?」

──私たちは物的存在だからです。

 「でも本質的には霊的存在です。物的身体をたずさえているというだけです。あくまでも霊が上位で肉体は下位です。そうした観点から、お手持ちの知識に照らして、正しい判断を下さないといけません。何ごとも価値あるものは困難がつきまとうものです。霊的褒賞が簡単に手に入るとしたら、それは手に入れる価値はないことになりましょう」

──死後の世界について多くのことを聞かされていても、死後に備えた生き方を心掛けている人は少ないように思います。本日お聞きしたことを肝に銘じて、たとえばテレビばかり見ていないで、美術とか工芸に手を染めるなどして今から準備を始めるのも一つの生き方だと思うのですが、何か良いアドバイスをいただけますでしょうか。

 「その問題は結局は悟りの問題に帰着します。あなたが肉体をたずさえた霊的存在であること、地上はいつまでも住み続ける場ではないこと、物的なものは儚い存在であることを悟れば・・・・・・もしもあなたが、死後、霊としてのあなた、不滅のあなた、神性を宿したあなたが蘇って永遠の進化の旅を続けることの意味を悟ることができれば・・・・・・

もしもあなたが、そうした悟りに到達すれば、そしてそこで叡智の導きに素直にしたがうことができれば、あなたは自然に死後の生活に備えた生き方をするようになります。あなたの行為はすべてあなたが到達した霊的自覚の程度によって支配されるのです」


  災害・事故による死
──霊的発達程度におかまいなく地震などによって一度に何千、何万もの人が死んでいくのはなぜでしょうか。

 「なぜあなたは死をそんなに禍のようにお考えになるのでしょうか。赤ん坊が生まれると地上ではめでたいこととして喜びますが、私たちの方では泣いて別れを惜しむこともしばしばなのです。地上を去ってこちらの世界へ来る人を私たちは喜んで迎えます。が、あなた方は泣いて悲しみます。

死は大部分の人にとって悲劇ではありません。しばらく調整の期間が必要な場合がありますが、ともかくも死は解放をもたらします。死は地上生活が霊に課していた束縛の終わりを意味します。

 あなた方はどうしても地上的時間の感覚で物ごとを見つめてしまいます。それはやむを得ないこととして私も理解はします。しかしあなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で六〇歳、七〇歳、もしかして一〇〇歳まで生きたとしても、無限の時の中での一〇〇年など一瞬の間にすぎません。

 大自然の摂理の働きに偶然の出来ごとというものはありません。あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです」

(霊としての意識と肉体に宿ってからの脳を焦点としての意識とは別である。地上での時間と場所の感覚は脳を焦点とした地上独特のもので、そこから人間的煩悩が生まれる。悟りの程度というのはその地上的感覚による束縛から脱する程度と等しいということであろう──訳者)


──地震その他の災害の話に戻りますが、その災害で生き残る人がいます。が、その人たちはそれから他界するまでの永い年月を苦しみながら生きることがあります。たとえば家を失ったまま我が家を持つことなく生涯を終える人もいます。そうした場合、その人たちはそういう体験を得るためにその土地に生を受けたのでしょうか。

 「地上生活にまつわる幸とか不幸のあらゆる体験から逃れることはできません。明るい側面と同時に暗い側面も体験しなくてはなりません。〝蓮の台〟(はすのうてな)の生活では魂は成長しません。困難と闘争と危機の時こそ魂は自我を発揮するのです。あなたにはそれが得心できないお気持ちは分かります。

地上的感覚でお考えになっているからです。しかし永遠の観点から見れば、恵まれた条件よりも困難な事態の方が有難いことなのです。


  別の交霊会でもこう述べている。

 「私たちの世界の素晴らしさ、美しさ、豊かさ、その壮観と光輝は、地上のあなた方にはとても想像できません。それを描写しようとしても言葉が見出せないのです。ともかく私は矛盾を覚悟の上であえて断言しますが〝死〟は独房の扉のカギを開けて解放してくれる看守の役をしてくれることがよくあるのです。

地上の人間は皆いつかは死なねばなりません。摂理によって、永遠に地上に生き続けることはできないことになっているのです。

ですから、肉体はその機能を果たし終えると、霊的身体とそれを動かしている魂とから切り離されることは避けられないのです。かくして過渡的現象が終了すると、魂はまた永遠の巡礼の旅の次の段階へと進んでいくことになります」

アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book

スピリチュアリズムの真髄「思想編」

近藤千雄(訳)





5章 霊としての生活

このページの目次
〈さすらう霊〉


訳注――wandering spiritsをそのまま訳したのであるが、原語も日本語もともに適切とは思えない。要するに実在に目覚めずに仮相の世界にあって時には地球に、時には他の天体に再生する霊が、その再生するまでの期間を言わば〝放浪〟するわけである。別のところではerraticityという用語を用いているが、これは“住所不定”とか“無軌道”といった意味をもつもので、やはり放浪の状態を指している。要するに仮相の現象界を旅している霊のことで、“旅する霊”という方が言葉としては適切のように思えるが、取りあえず原語のままにしておいた。


――魂は身体から離れた(死亡した)あと直ぐに再生するのでしょうか。


「直ぐに再生するケースも時たまありますが、大多数は長い短いの差はあっても合間の期間があります。それが地球に比して遥かに進化している天体の場合ですと、再生は、ほとんど例外なく、直ぐさま行われます。そういう天体では同じく物的身体といっても精練の度合いが違いますから、再生後も霊的能力のほとんどを使用することができます。強いて譬えればセミトランスの状態が通常の状態です」


――直ぐに再生しない霊は次の再生までの合間はどうなっているのでしょうか。


「新しい運命(さだめ)を求めてさすらいます。その時の状態は“待ち”と“期待”の状態と言えます」


――合間の長さはどれくらいでしょうか。


「短いのでは二、三時間、長いのになると数千年にもなります。厳密に言うと一定のきまりというものはありません。大変な期間に及ぶ場合がありますが、永遠にさすらうということはありません。前回の物的生活の清算をするために、遅かれ早かれ、いつかは再生する機会が与えられます」


――さすらいの期間は霊の意志で決まるのでしょうか、それとも罪の償いの意味もあるのでしょうか。


「結果的には霊自身の自由意志に帰着します。霊が自由意志で行為の選択をする時は、明確な認識をもっております。ところが神の摂理の働きで、ある者は罰として次の再生が延期されることがあり、またある者は、物質身体に宿らない方がより効果的に遂行できる勉強が許されて、霊界に留まれるように配慮してもらえることもあります」


――さすらうということは、その霊が低級であることの証拠でしょうか。


「それは違います。さすらう霊にも低級から高級まであらゆる等級があります。むしろ再生している状態の方が過渡的期間と言えます。霊の本来の状態は物質から離れている時です」


――物質界へ誕生していない霊は全てさすらいの状態にあるという言い方は正しいでしょうか。


「まだ再生すべき段階にある霊についてはその言い方で正しいと言えます。しかし霊性がある一定のレベルまで浄化されつくした霊はさすらってはいません。その状態で完成されているのです」


――さすらう霊はどのような形で学んでいくのでしょうか。


「それまでの全生活を細かく観察し、さらに向上するための手段を求めます。霊的観察力が働きますから、さすらって通過する境涯の現場の状況を観察したり、聡明な霊による講話に耳を傾けたり、高級霊によるカウンセリングを受けたり、といったことを通じて、どんどん新しい教育を身につけていきます」


――霊にも人間的な感情が残っているものでしょうか。


「洗練された霊になると肉体とともに人間的感情も捨ててしまい、善性を求める欲求だけが残ります。が、低級霊は地上的不完全性を留めています。それさえ無ければ、どの霊もみな最高のものを秘めているのですが……」


――ではなぜその低級な感情を死とともに捨ててしまわないのでしょうか。


「いいですか、あなたの知っている人の中にも、例えば極端に嫉妬心の深い人がいると思いますが、その人がこの地上を去ったら、とたんにその悪感情をあっさりと捨ててしまうということが想像できますか。地上を去ったあと、特に強烈な邪悪な感情をもった人には、その感情に汚染されたオーラが付着したまま残っています。霊は死とともに物的生活の影響から抜け出るのではありません。相変わらず地上時代の想念の中にあり、本当はこうでなくてはいけないという正しい心の持ち方を垣間見るのは、ホンの時おりでしかありません」


――霊はさすらいの状態の間にも進化するのでしょうか。


「努力と向上心の強さしだいでは大いに進歩します。ですが、その状態で獲得した新しい概念を本格的に実行して身に沁ませるのは物的生活の中においてです」


――さすらいの状態にあることを霊自身は幸せに感じるでしょうか、不快に思うでしょうか。


「それはその時点での功罪によりけりです。低級感情に負けるその根本的性格がそのままだと幸せとは感じないでしょうし、物的波動から脱すればその分だけ幸せを感じるでしょう。さすらいの状態にある間に霊は、より幸せになるためには何が必要であるかに気づき、それに刺激されて自分に欠けているものを獲得するための手段を求めようとします。その結果それが再生であると悟っても、必ずしもすぐに許されるとは限りません。それがすぐに叶えられずに延期されることが罰であることがあります」


――さすらいの状態にある霊でも他の天体を訪れることが出来るのでしょうか。


「それは霊性の発達の程度しだいです。霊が物的身体から離れたといっても、必ずしも物的波動から脱したわけではありません。相変わらず今まで生活していた天体、あるいはそれと同等の発達程度の天体の波動の中で生活しております。ただし、地上生活中の試練の甲斐あって霊性が飛躍的に発達していれば別です。そうやって物的生活の体験をするごとに霊性が発達するのが本来の目的です。発達がないようではいつまでたっても完成の域には達しません。

それはともかくとして、さすらいの状態にある霊でも地球より程度の高い別の天体を訪れることはできます。しかし、どうも勝手が違うという印象を受けるはずです。結局はその世界の生活風景を垣間見る程度にしか見ることができません。しかし、その体験が刺激となって改善と向上への意欲が促進され、やがてはそこに定住できることにもなるでしょう」


――浄化の程度の高い高級霊が波動の低い天体を訪れることはあるのでしょうか。


「よくあることです。住人の向上を促進するためです。そういうことがなかったら、波動の低い天体は指導する者もいないまま放置されることになります」
〈一時休憩所〉


――さすらう霊が休息をとる場所のようなものがあるのでしょうか。


「あります。当(あ)て所(ど)もなく放浪の旅を続けている霊を迎え入れるための世界があり、みんなそこで一時的に生活を営みます。言うなればキャンパーが一時的にビバークするキャンプ地のようなもので、とかく退屈しがちな放浪の生活の途中で一服して英気を養うわけです。

そうした世界は秩序を異にする世界との中継所的な役割を果たしており、そこへ訪れる霊の程度に応じて幾つかの段階が設けてあります。それぞれに居心地がいいような状態になっています」


――そこを離れたければいつでも離れていいのでしょうか。


「結構です。赴くべき場所が定まれば、いつそこを出ても構いません。そこは譬えで言えば、渡り鳥が途中で翼を休めて次の目的地へ向けて飛び立つためのエネルギーを蓄える島のようなものです」


――そこでの滞在中にも進歩はあるのでしょうか。


「もちろんあります。そもそもそういう世界へやってくる霊は何らかの指示を得たい、より高い界層を訪れる許しが得たい、そして速やかに向上したい、という願望を持っているのです」


――そこは特殊な世界で、永遠にさすらう霊の逗留地として運命づけられているのでしょうか。


「そうではありません。天界の組織の中での位置は一時的なものです」


――その世界の物質界には物的身体をもった者が生活しているのでしょうか。


「いえ、その天体の物的表面は不毛の土地です。その世界に住む者は物的欲望は持ち合わせません」


――不毛とおっしゃいましたが、永遠に不毛なのでしょうか、それとも何らかの原因でそうなったのでしょうか。


「いえ、不毛性は一時的なものです」


――すると、そういう天体は大自然の美などは何もないわけですね?


「“大自然の美”とおっしゃるのは“地上の生命活動の調和の妙”のことでしょう。それに劣らず見事な美によって創造の尽きせぬ豊かさが演出されております」


――そうした天体が一時的なものであるとすると、この地球もいつかはそういう天体となることも有り得るのでしょうか。


「すでにそういう状態の時期がありました」


――いつのことでしょうか。


「生成期のことです」
〈霊の感覚と知覚と苦痛〉


――魂は、肉体から離れて霊の世界へ戻っても、地上時代に使用した感覚をそのまま所有しているのでしょうか。


「所有していますし、地上時代に肉体に遮られて使用しなかったものまで使えるようになります。知性も霊の属性の一つで、肉体の束縛を受けなくなったため自由に顕現します」


――霊の知覚や知識に際限はない――つまり霊は何でも知ることができるのでしょうか。


「完全に近づくにつれて知識も増えていきます。高級界層の霊になるとその知識の範囲は広大となります。低界層の霊は何につけても相対的に無知です」


――時の推移を感知しますか。


「しません。あなた方から日時や時代を特定するように要求された時、我々の返答が今一つ明確でないことがあるのはそのためです」


――霊になれば地上にいた時よりも物事の真相が正確に把握できるようになるのでしょうか。


「地上時代に比べれば昼と夜の差ほどの違いがあります。人間には見えないところまで見透せますから、物事の判断の仕方も違ってきます。ですが、何度も言っているようにそれも霊性の開発の程度によって違ってくる問題です」


――霊は過去に関する知識をどこから仕入れるのでしょうか。無制限に入手できるのでしょうか。


「我々にとって過去のことは、そのことに意念を集中しさえすれば、あたかも現在の出来事のように感得されます。それは地上でも、強烈な出来事に関しては同じではないでしょうか。ただ異なるのは我々は人間の知性を鈍らせる物的なベールに閉ざされていませんので、人間の記憶から完全に消えていることでも鮮明に思い出せることです。ただし霊といえども全てが知れるわけではありません。たとえば我々がいつどうやって創造されたかは、今もって謎です」


――未来が予見できますか。


「これも霊性の発達程度によって違ってきます。大体において部分的にしか見えませんし、かりに明確に見えても、それをみだりに人間に明かすことは許されません。見える時はまさに現在の出来事のように見えます。霊格が高いほど明確に見えます。死後、霊は過去の転生の全てを一望のもとに見せてもらいますが、未来については見せてもらえません。未来を一望できるようになるのは、いくつもの転生を重ねた末に神と一体となった霊のみです」


――完成された霊には宇宙の未来の全てが完全に読み取れるのでしょうか。


「“完全に”という用語は適切ではありません。神のみが絶対的支配者であり、他のいかなる者も神と同等の“完全性”を身につけることはできません」


――その神の姿を拝することは可能でしょうか。


「最高界の霊のみが神のお姿を拝し理解することができます。それより以下の霊はその存在を霊感で感知するのみです」


――神の姿を直(じか)に拝せない程度の霊が、かくかくしかじかのことは神から禁じられているとか許されているとか述べる時、その許可や禁止の命令をどうやって知るのでしょうか。


「神を直接拝することはできなくても、その神威は感じ取れます。何かが為される、あるいは語られる時は、一種の直覚によってその見えざる警告、つまり公表を控えるようにとの命令を感じ取ります。あなたご自身もその種の密かな印象、つまりやってよいとかいけないとかを感じ取ることがあるのではありませんか。我々とて同じです。ただ程度が高いというだけの違いです。お分かりと思いますが、霊としての実体が人間より遥かに精妙になっていますから、神からの訓戒をより純粋に受け取ることができるのです」


――そうした神からの訓戒は神から直接伝達されるのでしょうか、それとも高級霊によって中継されるのでしょうか。


「神から直接ということはありません。神と直接の交信にあずかるには、それなりの資格が要ります。命令は全て叡知と純粋性において高級な霊を中継して届けられます」


――霊の視力も人間のような限られた視界というものがあるのでしょうか。


「ありません。視力は霊の内部から出ていますから」


――光は必要ないのでしょうか。


「霊の内部から発する視力で見るのであって、外部からの光は必要としません。暗闇というものがないのです。あるとすれば、それは犯した罪への罰として閉じ込められる魂の暗闇です」


――霊が二つの箇所を見る時、一箇所を見て、それからもう一つの箇所まで移動するのでしょうか。例えば地球の北半球と南半球とを同時に見ることができますか。


「霊は思念の速さで移動できますから、結果的には幾つの箇所でも同時に見ることができます。また霊は、同時に幾つの箇所へでも思念を発することができます。ただし、その威力は霊的純粋性によって違ってきます。不純であるほど視野が狭くなります。一度に全体を見通せるのは高級霊のみです」


――我々人間と同じように鮮明に見えるのでしょうか。


「人間の視力より鮮明です。霊の視力は全てのものを貫通します。遮るものは何もありません」


――聴力もありますか。


「あります。人間のお粗末な聴力では聞き取れないものまで聞こえます」


――その聴力も視力と同じく霊そのものの内部にそなわっているのでしょうか。


「霊の感覚は本性として霊そのものにそなわっており、その存在の一部を構成しています。その霊が物的身体に宿ると、その身体のそれぞれの器官を通してしか感識できなくなります。死によってその肉体器官の束縛から離れて自由の身になると、視力とか聴力とかの区別なしに、霊の本質的なものとして働きます」


――感覚能力が霊の本質的なものであるとしたら、その能力を出したり引っ込めたりできるのでしょうか。


「見たいと思ったものを見、聞きたいと思ったものを聞きます。ただしこれは正常な状態、とくに高級界での一般的な話として受け止めてください。と言うのは、贖罪界の低級霊は霊的矯正のために効果のあるものを否応なしに見せられ聞かされます」


――霊も音楽に感動しますか。


「地上の音楽のことですか? 天上の音楽に比べて、一体あれが音楽と言えますか? 天上の音楽のハーモニーを譬えるものは地上にはありません。未開人のわめき声と素敵なメロディほどの差があります。もっとも低級霊の中には地上の音楽を好む者がいます。それ以上の崇高なものが理解できないのです。

高級霊にとって音楽は汲めども尽きぬ魅力の泉です。審美的感覚が発達しているからです。私が言っているのは天上の音楽のことです。これほど甘美で麗しいものは、霊的想像力をもってしても、まず考えられません」


――大自然の美しさについてはどうでしょうか。


「自然の美しさといっても各天体によってその美しさの形態が異なりますから、霊もその全てを知っているわけではありません。美しさを味わいそして理解する才能に応じて、それぞれにその自然界の美を感識しておりますが、高級霊になると細部の美しさは視界から消えて、全体としてのハーモニーの美しさを感得します」


――物的な必要性や苦痛を体験することがありますか。


「そういうものがあることを知ってはおります。地上時代に体験しているからです。しかし、人間と同じようには体験しません。霊なのですから」


――霊も疲労を覚えて休息を必要とすることがありますか。


「あなたがおっしゃる意味での疲労は覚えませんし、従って体を休める必要もありません。体力の補給を必要とする器官は持ち合わせないからです。ですが、霊も絶え間なく動き回っているわけではないという意味においては、休息を取ることがあると言えましょう。動くといっても身体を動かすという意味とは違います。霊にとって行動とは百パーセント知的な働きをいい、休息とは心の静寂をいいます。言い変えれば思念活動が静止して特定の目的に向けられていないことがあるということで、これが言うなれば霊の休息です。身体を休めるという意味での休息とは違います。もし疲れを覚えるとすれば、それは霊性の低さの指標であるとも言えます。霊性が高まるほど休息の必要性が無くなるものだからです」


――霊が苦痛を訴えることがありますか。どういう性質の苦痛でしょうか。


「精神的苦悶です。いかなる身体的苦痛にもまして、魂に激痛を与えます」


――霊が寒さや暑さを訴えることがありますが、なぜでしょうか。


「地上時代の体験の記憶によってそう感じ取っているまでですが、本人としては実際に寒さや暑さを感じていることがあります。しかし、よくある例として、自分の魂の苦悶を表現する手段が思いつかなくて、比喩的に寒さや暑さに擬(なぞら)えていることがあります。霊は、地上時代の身体のことを思い浮かべると、あたかも脱ぎ捨てた衣服をもう一度着るように、実際に身体があるかのように感じるものです」
〈試練の選択〉


――霊界でのさすらいの状態にある霊は、新たな物的生活に入る(再生する)前に、それがどのような人生になるかを予見できるのでしょうか。


「遭遇する試練については自分で選択します。そこに霊としての自由意志の行使が認められます」


――すると罰として苦難を科するのは神ではないのですね?


「神の裁可なくして何事も発生しません。宇宙を経綸するための全法則・全摂理をこしらえたのは神なのですから。

あなた方人間の立場から見ると、神はなぜこんな摂理をこしらえたのか――他に方法がありそうなものだが……と疑問に思うこともあることでしょう。実は各霊に選択の自由を与えるに際しては神は、同時に、その行為とその行為が生み出す結果についての一切の責任も担わせているのです。

霊が自ら選んで進もうとするのを遮るものは何もありません。悪の道を歩むのもよし、善の道を歩むのもよし。かりに悪徳の誘惑に負けて悪の道に入っても、もはや取り返しがつかないというようなことにはなっておりません。しくじった人生をもう一度始めからやり直す機会が与えられます。

もう一つ申し上げておきたいのは、神の意志による業(わざ)と、人間の意志による業とを截然と区別しなければならないということです。例えばあなたが危機にさらされたとします。その危機そのものはあなたがこしらえたのではありません。神が用意したのです。しかし、その危機にさらされることを選択したのはあなた自身です。その危機に遭遇することの中に霊的成長の手段を見出して自ら志願し、そして神がそれを裁可したということです」


――霊が地上生活で体験する苦難を自ら選択するということは、あらかじめ自分の一生を予知し選んでいるということになるのですね?


「そういう言い方は正確ではありません。全部が全部あなたが選んだものとは言えないからです。あなたが選ぶのはどういう種類の試練にするかということで、実際に誕生してからの細かい出来事は、置かれた境遇でそれに対処するあなたの態度が生み出します。

具体例で説明しましょう。かりに一人の霊が悪党ばかりがいる境遇に生まれたとしましょう。当然その霊は、そういう境遇でさらされるであろう良からぬ人間関係は覚悟しているはずです。しかし、それが具体的にどういうものであるかは、いちいち予知しているわけではありません。その時その時の対処の仕方、自由意志の行使の結果によって決まります。

このように、霊は再生に際してはあらかじめ一つの人生航路を選び、その人生では大体かくかくしかじかの苦難を体験するであろうと予測します。つまり人生の大まかなパターンを承知の上で再生してきますが、それがどういう形の人間関係や事件・事故となって具体化するかは、置かれた境遇や時の流れの勢いによって決まる性質のものなのです。もっとも、その中には人生の方向を決定づける大きな要素がいくつかあり、それはあらかじめ承知しております。

別の譬えで言えば、目の前にでこぼこ道が横たわっているとします。用心しながら歩かないと転びます。しかし、その道のどのくぼみで転ぶかが決まっているわけではありません。細心の注意をもって歩めば転ばなくても済むかも知れません。ところが一方、足もとにばかり気をつけていると、どこかの屋根の瓦が頭上に落下してくるかも知れません。そうなるように宿命づけられていたのだと考えるのは間違いです」


――悪党ばかりがいる境遇になぜ誕生しなければならないのでしょうか。


「試練には教訓が込められています。ある霊にとってどうしても必要な教訓を学ばせるために、そういう条件をそなえた境遇に生をうける必要が生じるのです。その際、正さなくてはならない欠点と、その霊が置かれる境遇との間に連携的調和がなくてはなりません。例えば略奪強盗の衝動が沁みついている魂は、そういう境遇に再び放り込まれて、とことんその無情を味わう必要が生じる場合があるのです」


――では地上に邪悪な人間がいなくなったら霊は自分の試練のための条件が無くなることになりませんか。


「結構なことではありませんか。なぜそれが不服なのでしょう? あなたのおっしゃるような世界はまさに高級霊の世界です。悪の要素は一切近づけず、従ってそこに住まうのは善霊ばかりです。地上界も一日も早くそういう世界になるように努力なさるがよろしい」


――完全を目指して試練の道を歩んでいる霊は、ありとあらゆる誘惑にさらされなくてはならないのでしょうか。自惚れ、嫉妬、貪欲、色欲、その他もろもろの人間的煩悩を試される環境に身を置かなくてはならないのでしょうか。


「そのようなことはありません。すでに述べた通り、霊の中には当初から順調なコースを歩み、そういう酷しい試練を必要としない霊もいます。しかし、いったんコースを間違えると次から次へと誘惑にさらされることになります。例えば金銭欲に目が眩(くら)んだとします。そして思い通りの大金が入ったとします。その際、その人の性格によってはますます欲の皮がつっぱり、放蕩の生活に入ってしまうことはあるでしょうし、困っている人々に気前よく施しをして有意義に使用することも可能です。ですから、その人が大金を所有したからといって、それゆえに生じる邪悪性の全ての試練にさらされるということにはなりません」


――霊はその原初においては単純で無知で、体験も皆無のはずです。その状態でどうして知的な選択ができるのでしょうか。またその選択に対してどうやって責任を取るのでしょうか。


「神は、霊の原初における未経験さを、ちょうど人間が赤ん坊を揺りかごの中で保護して育てるように、安全無事であるように叡知でもって保護してくださっています。そして、そうした中で芽生えていく自由意志との釣り合いを取りながら、少しずつ“選択の主”となることを許していきます。が、それは同時に選択を誤り、悪の道に入っていく可能性も出てくることを意味します。先輩の霊のせっかくの忠言も無視するようになるのもこの頃です。聖書に言う“アダムとイブの原罪”(人類の堕落)というのはことのことを言っていると考えてもいいでしょう」


――霊が自由意志を所有するに至れば、その後に選ぶ物的生活は百パーセント本人の意思によるのでしょうか、それとも罪滅ぼしとして神が科することもあるのでしょうか。


「時を超越している神は何事にも決して急ぎません。罪滅ぼしも急ぎません。しかしながら、無知にせよ強情からにせよ、本人がそれから先どうすればよいかに気づかないと見た時、そして霊性の浄化と発達にとって物的生活が適し、それが罪滅ぼしのための環境条件を提供すると見た時は、強制的に物質界へ送り込みます」


――霊みずから試練として選択する時の規準はどのようなものでしょうか。


「過去の過ちを償い、同時に霊性の進化を促進するものです。その目的のためにある者はみずから窮乏生活を選び、酷しい環境の中で力強く生き抜く修行をします。またある者は、財力と権力の誘惑の多い環境に生まれて、その誘惑への抵抗力を試す者もいます。貧乏よりもこの方が危険です。とかくそれを悪用しがちですし、それにまつわる邪悪な感情もどぎついものがあるからです。さらには悪徳の栄える巷に身を投じ、その中にありながらも、あくまでも善を志向する決意を強化せんとする者もいます」


――自分の徳性を試すために悪徳の環境に自らをさらす者がいるとなると、同じ口実のもとにそういう環境に生まれて放蕩ざんまいをする者もいるのではないでしょうか。


「確かにそういう者がいます。しかし、それは当然のことながらよほど霊性の低い霊にきまっています。しかも、そういう場合はそれに対する試練が自動的に生じ、しかも長期間にわたって続きます。遅かれ早かれ彼は動物的本能に浸ることが悲惨な結果を招くことに気づきますが、気づいてもすぐにはその悲惨さから抜け切れず、そのまま永遠に続くかに思われます。神は時としてそういう再生の仕方の罪の深さを思い知らせるために、その状態に放置するのです。そのうち自ら志願して本当の試練によってその償いをする決意をするようになります」


――試練の選択に当たってはなるべく苦痛の少ない人生を選ぶのが人情ではないでしょうか。


「人情としてはそうでしょう。しかし霊の観点からは違います。物的束縛から解放されると錯覚から目覚め、まったく違った感覚で考えるようになるものです」


――完全な純粋性に到達するまでは、霊は何度でも試練に遭わなくてはならないのでしょうか。


「理屈の上ではその通りですが、“試練”の意味が違ってきます。地上の人間にとっての試練は物的な辛苦です。が、霊がある一定の純粋性の段階まで到達すると、まだ完全ではなくても、その種の試練は受けなくなります。代わって今度は進化向上のための仕事が課せられ、その責務の遂行が試練となりますが、それには苦痛は伴いません。たとえば他の霊たちの進歩を手助けする仕事などです」


――試練の選択を間違えるということは有り得ますか。


「自分の力量に余るものを選んでしまうことはあります。その場合は挫折に終わります。反対に何の益にもならない人生を選ぶこともあります。怠惰で無意味な人生を送る場合です。こうしたケースでは霊界に戻ってからそのことに気づいて、その埋め合わせをしたいという欲求を覚えます」


――地球より程度の低い天体ないしは地上の最低の人種、たとえば人食い人種などから文明国に生まれ出ることがありますか。


「あります。思い切って霊性の高い環境に挑戦してみようという考えから地球に誕生してくる霊はいます。ですが、どうも場違いという感じを抱きます。前世での本能や習性を携えてきているために、それが新しい社会の通念や慣習と衝突するのです」


――反対に文明国で前世を送った人間が罪滅ぼしとして未開人種の中に再生することがありますか。


「あります。ただし、その罪滅ぼしの中身が問題です。奴隷に対して残酷だった主人は今度は自分が奴隷の身の上に生まれて、同じ残酷な仕打ちをされるかも知れません。理不尽な権力をふるった支配者は今度は自分が権力者の前に跪(ひざまず)く立場に生まれ変わるかも知れません。そうした罪滅ぼしは権力を悪用したことから生じていますが、善霊が程度の低い民族に影響力のある存在として生まれ出ることもあります。その場合は使命となります」
〈生前と死後の人間関係〉


――霊性の発達の違いは上下関係をこしらえるのでしょうか。つまり霊界にも権威による主従関係というものがあるのでしょうか。


「大いにあります。霊格の差による上下関係は厳然としており、霊性の高い者が低い者に対して持つ優位性は絶対的な不可抗力と言えるほどです」


――地上時代の権力や地位は霊界でも通用しますか。


「しません。霊の世界では謙虚な者が高められ、尊大な者は卑められます。聖書を読みなさい」


――高められるとか卑められるとかいうのはどのように理解したらよいのでしょうか。


「霊には、身につけた霊性の差による秩序があるのはご存じのはずです。ですから地上で最高の地位についても、霊性が低ければ霊の世界では低い界層に位置し、その人の従者だった者が高い界層に位置することがあるのです。

まだ納得がいきませんか。イエスも言っているではありませんか――“およそ尊大な者は卑められ、謙虚な者は高められるであろう”と」(ルカ14・マルコ23)


――地上で偉大な人物とされていた者が霊界では低い界層にいた場合、その違いに屈辱感を覚えるでしょうか。


「そういうケースが実に多いのです。高慢で嫉妬心が強かった場合はなおさらです」


――一兵卒だった者が霊界で上官と出会った時、やはり敬意を表するでしょうか。


「肩書は何の意味もありません。本質的な霊的優位性が全てです」


――霊の世界も霊格の異なるさまざまな霊が入り交じっているのでしょうか。


「そうとも言えますし、そうでないとも言えます。つまり互いの目には姿が見えていても、霊格の違いによる隔たりを直感しています。人間社会と同じで、親密感と違和感とによって近づいたり離れたり避けたりしています。霊の世界はさまざまな状況と霊的関係が混然一体となった世界で、地上界はそのおぼろげな反映にすぎません。同じ霊格の者が親和力の作用で引かれ合い、グループをこしらえ、共通の目的で協力し合っております。

それにも善と悪とがあります。善の集団はあくまでも善を志向し、悪の集団はあくまでも悪を志向します。過去の悪行の不面目(ふめんぼく)を意地で打ち消してさらなる悪行を重ね、また自分と同類の集団の中に身を置くことによって気を紛らすのです」


――霊は誰とでも接触できるのでしょうか。


「善霊あるいは高級霊は悪霊あるいは低級霊へ近づくことができます。善性の影響力を行使するためにはそうする必要があるからです。しかし低級霊が高級霊の界層へ近づくことはできません。ですから邪悪な感情で聖域が汚されることはありません」


――善霊と悪霊の関係の本質は何なのでしょうか。


「善霊が悪霊の邪悪な性向を正すべく闘い、少しでも霊性を高めるように援助してやる――つまり善霊にとっては使命となるような関係になっています」


――低級霊はなぜ人間を悪の道に誘って喜ぶのでしょうか。


「嫉妬心が強いからです。しょせん善霊の仲間には入れないと知ると、未熟な霊が順調に幸せになっていくことに嫉妬心を覚え、それを阻止しようとするのです。自分が味わっている辛い状態を彼らにも味わわせてやろうと考えます。同じような人間が地上にもいるのではありませんか」


――霊どうしの交信はどのようにして行われるのでしょうか。


「見ただけで理解し合います。言語は物質界のものです。言語能力は霊の属性の一形態です。普遍的流動体(エーテル)によって霊どうしは常に交信状態にあると言ってよろしい。地上界の空気が音の伝達手段であるように、流動体が思念の伝達手段です。言うなれば宇宙的霊信装置で全天体を結んでおり、霊はどの天体とでも交信ができます」


訳注――“言語能力は霊の属性の一形態”という意味は、見たり聞いたりする能力と同じく意思表示の能力も霊の本性として直接的に働くものであるが、地上という環境条件の中で生活するためには発声器官を媒体としなくてはならない。が、意思表示しているのは霊そのものの本性だということである。現在の生理学でも、なぜ見えるのか、なぜ聞こえるのかは、脳の働きと同じく、その構造を見ただけでは分からないという。シルバーバーチも、目があるから見えるわけではない、耳があるから聞こえるのではない、見るのも聞くのも“霊”です、と言っている。


――心に思っていることを隠すことができますか。また自分の姿を隠すことができますか。


「できません。何一つ隠すことはできません。霊格が完成の域に達した霊の間ではとくにそうです。たとえ面前から退いても、互いに常に見えております。ただし、これを絶対的にそうとばかりも言えません。と言うのは、高級霊になると、自分が身を隠した方がいいと思った時は、低級霊には見えないようにすることができるからです」


――地上時代にいっしょに生活したことのある人であることが認識できますか。たとえば息子は父親を、友だちはその友だちを。


「できます。何代にもわたって認識できます」


――それはどうやって知るのでしょうか。


「霊は自分の過去世を見ることができるのです。自分の友や敵(かたき)の人生を誕生から死に至るまで見ることができます」


――死んで肉体から離れて直ちに親戚や友人の霊と会えるのでしょうか。


「直ちにというのは正確ではありません。前にも述べたと思いますが、魂が霊界に戻って霊的意識を取り戻し物質性を払い落とすには、しばらく時間を要します」


――どのような迎え方をされるのでしょうか。


「まっとうな人生を送った者は待ちに待った愛する友のように迎えられ、邪悪な人生を送った者は侮蔑の目をもって迎えられます」


――同類の邪悪な霊はどういう態度で迎えるのでしょうか。


「自分たちと似て幸福感というものを奪われた仲間が増えたことに満足を覚えます。地上でもヤクザな人間は仲間が増えると満足するのと同じです」


――地上時代の親族や友人とは必ずいっしょに暮らせるのでしょうか。


「それは霊格の要素が絡んだ問題で、時には向上の道を追いかけなければならないことがあります。つまり一方が遥かに向上していて、しかもそのスピードが速い時は、付いて行けません。もちろんホンの一時だけ会うことはできます。が、いっしょに暮らすことができるのは、遅れている方が追い付くか、または両者が完成の域に達してからです。もう一つの見方として、親族も友人も姿を見せてくれないのは、何らかの罪に対する罰であることがあります」
〈親和力と反発力〉


――霊には大ざっぱな意味での類似性のほかに、特殊な情愛の関係もあるのでしょうか。


「あります。人間と同じです。人間のような身体がないだけ、それだけ感情の起伏がありませんから、霊どうしのつながりは強くなります」


――霊どうしでも憎しみの念を抱くことがありますか。


「憎しみは不浄な霊の間にのみ存在するものです。人間どうしの憎み合いや不和のタネを蒔くのは霊界の不浄霊です」


――地上で仇(かたき)どうしだった者は霊界でもずっと憎み合っているのでしょうか。


「そうとは限りません。憎み合うことの愚かさを悟り、憎しみのタネとなったことの他愛なさに気がつく者が大勢います。いつまでも地上時代の怨恨を持ち続けているのはよほど幼稚な霊です。が、そうした者でも霊性が浄化されるにつれて少しずつその迷いから覚めて行きます。人間として物的生活を送っていた時に些細なことから生じた怒りは、その物的波動から抜けるとすぐに忘れていくものです。諍(いさか)いのタネが無くなってしまうと、本質的に霊性が合わない場合は別として、再び仲良くなるものです」


――地上時代にいっしょに悪事を働いた二人が霊界へ行った場合、その悪事の記憶が二人の関係を損いますか。


「損います。疎遠になりがちです」


――悪事の被害者はどんな気持ちでしょうか。


「霊性の高い人であれば、当人が反省すれば赦すでしょう。霊性が低い場合は怨みを持ち続け、時には再生してでも仕返しに出ることがあります。懲罰として神がそれを許す場合があります」


――情愛は死を境に変化するものでしょうか。


「しません。愛は決して相手を違(たが)えません。地上のように偽善者がかぶるマスクはこちらにはありません。ですから、純粋な愛はこちらへ来てもいささかも変化しません。互いをつなぎ合う愛は崇高なる至福の泉です」


――地上で愛し合った二人は霊界でもそのまま続くのでしょうか。


「霊的親和性の上に成り立っている愛であれば永続性があります。物的な要素の方が親和性よりも多い場合は、その物的要素が無くなると同時に終わりとなります。愛は人間どうしの場合よりも霊どうしの間の方が実感があり、かつ永続性があります。物的打算や自己愛による気まぐれの要素に影響されることがないからです」


――宇宙のどこかに自分の片割れがいて、いつかは一体となるように初めから宿命づけられているという説は本当でしょうか。


「二つの魂が宿命的に特別な合体をするというようなことは有り得ません。一体となるのであれば、全ての霊が一体化へ向かって進化しており、それぞれの霊格の段階で融合し合っています。言い変えれば、到達した霊性の完成度に応じた段階で融合が生じます。完成度が高いほど融和性も深まります。人間社会に悪がはびこるのは融和性が欠けているからです。全ての霊が究極において到達する完全な至福の境涯は融和が生み出すのです」


――完全な親和性をもつ二人が霊界で再会した場合、もうそれで二人は永遠に一体なのでしょうか、それとも、いつかは別れて、また別の霊と一体となるのでしょうか。


「霊はそれぞれの霊性の発達段階で誰かと一体となっていると言えます。私が完全な至福の境涯と言ったのは、完全の域に到達した霊のことです。それ以下の段階、つまり低い界層から高い界層へと向上して行く途中の段階においては、霊格の差によって離れてしまった者に対しては、かつてのような親和性は感じません」


――完ぺきな親和性で結ばれた二人は互いに補完し合うのでしょうか、それともその一体化は本質的な霊性の一致の結果なのでしょうか。


「霊と霊とを結びつける親和力は両者の性向と本能とが完全に一致した時に生じる結果です。もし一方が存在しなければ他方が完全になれないというのでは、両者とも個的存在を失うことになります」


――現段階では親和関係のない霊の間にもいずれは親和関係が生ずるのでしょうか。


「そうです。全ての霊がいつかは親和関係で一体となります。かりに二人の霊がいて、かつては一体だったのが、一方の進化が速すぎて、今のところは別れ別れになっているとします。しかし、これから先、進化の遅れている方が急速に進歩して他方に追いつくことも考えられますし、先を歩んでいた者が試練に負けてある界層で停滞を余儀なくさせられている場合には、後から進化してきた者がそれだけ速く追いつくことも考えられます」


――ということは、今は親和関係にあっても、その関係が切れてしまうことも有り得るわけですか。


「当然です。一方の生命力が弱くて、他方がどんどん向上して行くというケースがあります」
〈前世の回想〉


――終えたばかりの地上生活は死の直後にそっくりそのまま再現されるのでしょうか。


「そうではありません。霊的意識が強まるにつれて少しずつ見えるようになります。ちょうど霧が晴れて少しずつ実体が見えてくるような調子と思えばよろしい」


――その気になれば何でも思い出せますか。


「霊には、前世のありとあらゆる出来事の一部始終を、さらには心に抱いた思念までも、思い出す力がそなわっています。ただ、必要でもないものまで思い出すことはしません」


――過去世はどのような形で再現されるのでしょうか。その霊の想像力によるのでしょうか、それとも絵画のように眼前に映るのでしょうか。


「その両方のケースがあります。興味があって思い出したいと思ったことは、まるで現実の出来事のように再現されます。それ以外のことは多かれ少なかれおぼろげか、まったく忘れ去っております。物的波動が薄れるほど物質界での出来事に重要性を置かなくなるからです。あなたにも体験があると思いますが、地上を去ったばかりの霊を招霊してみると、好きだったはずの人の名前や、あなたから見て大切な出来事と思えるものが思い出せないことがあるはずです。それは彼自身は重要視していないために記憶が薄れているからです。反対に、現在の彼の知的ならびに道徳的向上に影響を及ぼした、人生の重要なポイントとなっている出来事は、完全に思い出します」


――今捨て去ったばかりの肉体をどんな気持ちで眺めますか。


「何かにつけて厄介だった不愉快な衣服を見つめるような気持ちです。脱ぎ去ってさっぱりしています」


――腐敗していくのを見てどんな気持ちですか。


「ほとんどの場合、無関心です。どうでもいいものという感じです」


――死後少したってから、埋葬されている遺骸とか、かつての自分の持ち物とかを確認することがありますか。


「時たまそういうことをすることがあります。が、その時はすでに地上的な物を見る目が大なり小なり高度になっています」


――後に残った者たちによって自分の遺品が飾られて遺徳を偲ばれるのは嬉しいものでしょうか。


「いかなる霊でも地上の縁ある人々によって記念の行事が催されるのは嬉しいものです。そうした時に用意される記念物は、それに参加した人々を思い出す縁(よすが)となります。もちろんその記念物そのものではなく、それを発起した人々の思念がそうさせるのです」


――ある人が一連の重要な仕事に関わっていて、その完成を見ずして他界したとします。その場合、霊界で悔やむでしょうか。


「そんなことはありません。そういう重要な仕事は他の有志によって完成されるように計画されていることを知るからです。悔やまないどころか、その完成のために霊界から現界の後継者に働きかけます。そういう人の地上人生は同胞のためという目的に向けられていたのであり、霊界へ来ても少しも変わりません」


――芸術作品や文学作品の遺作は地上時代と同じ感覚で見るものでしょうか。


「霊格によって違いの大きさは異なりますが、地上時代とは別の視点で鑑賞し、往々にしてそのお粗末さに嫌気がさすものです」


――芸術や科学の進歩のために今地上で為されている努力に霊は関心を持つでしょうか。


「霊格の程度によりますし、授かった使命によっても違ってきます。地上の人間には壮大なものに思えるものでも、霊から見るとどうでもよいものがあります。かりに関心を持つとしても、それは高等教育を受けた人が小学校の教育に関心を持つのと同じ程度にすぎないことがあります。地上に再生した者の霊格の程度を細かく調べ、その進歩に注目しています」


――霊は死後も母国への愛着がありますか。


「霊格の高い霊にとっては宇宙全体が母国です。地球にかぎって言えば、いちばん愛着を感じる場所は親和関係の強い人間がいちばん多い所です」


――この地上へ生まれる以前は霊界に住んでいたのに、なぜ死後も生きていることを知って驚くのでしょうか。


「驚くのは一時期だけのことで、それも死後の目覚めに伴う意識の混乱の結果です。意識が落ち着くとともに過去世の記憶が甦ります」
〈葬儀にまつわる問題〉


――地上に残した愛する人々に関する記憶が甦ることで霊は影響を受けますか。


「あなた方が想像する以上に影響を受けます。現在自分が置かれている状態が幸せであれば、その幸福感が増幅されます。もし不幸であれば、その思い出によって慰められます」


――国によっては命日というものを設けて法要が営まれるのですが、その日は特にその場に引き寄せられるものでしょうか。


「法要の日に限らず、情愛を込めて祈念された時は、いつでも引き寄せられます」


――法要の日は埋葬されている場所に赴くのでしょうか。


「大勢の人が集まってくれている時はその想念に引きつけられてそこへ赴きますが、義理で出席しているだけの人には無関心です。心から祈念してくれている人の一人一人のもとを訪れます」


――自宅で祈るよりも墓に詣でる方が喜ぶでしょうか。


「墓まで足を運ぶということは、その霊のことを忘れていないことを示す一つの方法でしょう。しかし、すでに述べたように大切なのは心です。心からの祈りであれば、どこで祈るかは大切ではありません」


――故人を記念した像や石碑が建立されることがありますが、当の霊はその除幕式に出席するものでしょうか。その様子を喜んで見つめるものでしょうか。


「出席できる状態であれば出席します。ですが、そのようにして記念してくれることを名誉と思うよりも、出席者の思いそのものを有り難く思うものです」


――自分の葬儀に出席しますか。


「出席するケースはよくありますが、多くの場合、死に伴う意識の混乱状態の中にあるために、出席していても何のことか分からないものです」


――葬儀で長蛇の列をなしているのを見て、やはり得意な気分になるものでしょうか。


「どういう心情で集まっているかにもよるでしょうけど、大勢の参列者を見て悪い気はしないでしょう」


――遺産相続人の会合には立ち合うものでしょうか。


「必ずといってよいほど立ち合います。当人の教育として、また強欲が受ける懲罰がいかなるものであるかを見せるために、神がそのように計らいます。つまり、彼が生前受けた愛想の良さやお追従(ついしょう)が本当は何が目的であったかを思い知らされ、さらに遺産をめぐる強欲の張り合いを目(ま)のあたりにして、愕然とします。その相続人たちへの懲罰も、そのうち巡ってきます」

Sunday, October 25, 2026

シルバーバーチの霊訓(八)

 More Philosophy of Silver Birch

Edited by Tony Ortzen
近藤千雄訳



二章 自由意志 人間はどこまで自由か
    
 過去幾世紀ものあいだ人間は自由意志の問題に追いかけられ続けてきた。はたして人間は自分の運命を変えることができるのだろうか。絶対的自由というものはあるのだろうか。それとも限定的自由なのだろうか。

これは人間にとってきわめて理解の難しい問題であるが、関心を寄せる方が多いので本章をこの問題に当てて、シルバーバーチの意見に耳を傾けていただくことにした。

 「男性と女性とがお互いに足らざるところを補い合って全体を完成させる──理性で解答の出ないところは直感で補う──これは〝補完の摂理〟の一つの側面です。人間には自我の開発のためのチャンスが常に与えられております。それをどう活用するかは本人の自由意志に任されております。

 人生に偶然はありません。偶発事故というものはありません。偶然の一致もありません。すべてが不変の自然法則によって支配されております。存在のどの側面を分析しても、そこには必ず自然法則が働いております。人間もその法則の働きの外には出られません。全体を構成する不可欠の一部だからです。

 その法則はあなた方が何らかの選択をした際に確実に働いてきました。選択をするのはあなた方自身です。その際あなた方を愛する霊による導きを受けておられます。足元を照らす光としての愛です。それに素直に従えば意義ある人生を歩むことになる、そういう愛です。

 愛は生命と同じく不滅です。物的なものはその本性そのものが束の間の存在ですから、いつかは滅ぶ運命にありますが、霊的なものは永遠に不滅です。愛の本性は霊的なものです。だからこそ永続性があるのです。死を超えて存在し続けます。バイブルにあるように愛とは神の摂理を成就することです」


──全ての道は同じ目的地に通じているのでしょうか。それとも目的地というものは無いのでしょうか。

 「〝目的地〟という用語がやっかいです。私なりに言わせていただけば、すべての道は造化の霊的大始源に通じております。宇宙の大霊、あなた方の言う神(ゴッド)は無限なる存在です。となると、完全なる愛と叡知の権化であるその大霊に通じる道もまた無限に存在することになります。

大霊とは生命であり、生命とは大霊です。生命ある存在は誕生によっていただく遺産として神性を宿しております。そして地球という惑星上の全生命は究極において唯一の霊的ゴールに通じる道をたどりつつ永遠の巡礼の旅を続けております。どの道をたどるかは問題ではありません。

巡礼者の一人ひとりが真摯に自我の向上を求め、責任を遂行し、与えられた才能を開発して、その人が存在したことによって他の人が霊的な豊かさを得ることができるようにという、誠実な動機をもって生きればそれでよいのです」


──(核実験のような)人間の行っていることが原因で地球が滅びるのでないかと心配している若者が多いのですが・・・・・・

 「この惑星が滅びてしまうことはありません」


──人類が滅びることもないのでしょうか。

 「ありません。人類も生存し続けます。人間がこの惑星に対して為しうることは、自然法則によっておのずから限界があります。惑星全体をそこの生命もろともに消滅させてしまうことはできません。しかし、そこにも自由意志の要素が絡んでおります。つまり内部に宿る神性に目覚めるか、それともそれを無視するかです。

無視すれば霊的向上は望めません。霊的な身支度ができないまま私たちの世界へやってまいります。そうしてもう一度初めからやり直さなければなりません。いかなる人間も、たとえ集団組織をもってしても、神の意志の実現を挫けさせることはできません。

その進行を遅らせることはできます。手を焼かせることはできます。妨害することはできます。しかし宇宙を支配しているのは無限なる叡知と愛です。いつかは必ず行きわたります。それが神の意志だからです」


──私たち人類はすでに多くのものを破壊し、それはもう元には戻せません。その多くは私たちの住むこの大地にあったものでした。その大地も限りある存在です。

 「しかしその大地には莫大な潜在的資源が隠されています。まだまだ多くのものが明かされていきます。多くのものが発見されてまいります。人類は進化の終局を迎えたわけではありません。まだまだ初期の段階です。

 霊的真理を悟った方は決して絶望しません。それまでに明かされた知識が楽観的にさせるからです。その知識を基礎として、霊力というものに絶対的な信頼を抱くことができるのです。永い人類の歴史には数々の災禍がありました。

が、人類はそれを立派に乗り越えてきました。我ながら感心するほどの強靭さをもって進歩してまいりました。これからも進歩し続けます。なぜなら、進化することが自然の摂理だからです。霊的進化も同じ摂理の顕れです」


 (別の日の交霊会で)
──自由意志は、たとえば宿業(カルマ)によってどの程度まで制約を受けるのでしょうか。

 「人生はすべてが自然の摂理によって規制されております。気まぐれな偶然や奇跡などによって動かされているものは何一つありません。すべてが原因と結果、種まきと刈入れです。さもなければ宇宙は混乱状態におちいります。

いずこをご覧になっても無限の叡知から生まれた無限の構想の中で自然法則が働いている証拠を見出すことができます。

 たとえば四季のめぐりがそれです。惑星と星雲の動きがそれです。潮の満ち引きがそれです。花々の見事な生育ぶりがそれです。それらにすべてが自然法則によって支配されているのです。

となれば、その法則の枠組みを超えたものは絶対に起きないということですから、いくら自由といっても、そこにはおのずから限界がある───法則という神の力による制約があることになります。

しかし、法則の裏側にも法則があります。物理法則だけではありません。精神的法則もあり、霊的法則もあります。

 あなたが生き、呼吸し、存在しているのは、あなたという霊が受胎によって物質と結合して個的存在を得たからです。その個的存在が徐々に発達していきつつあるのです。その発達過程においてあなたには自由意志という要素、つまりその時どきの環境条件の中で道を選択する力あるいは判断力を駆使できることになっております。

あなたが最良にして最高の選択をなされば、あなたの民族のために、世界のために、森羅万象のために、宇宙の霊的発達と進化のために貢献することになります。なぜなら、あなたの霊は宇宙の大霊の一部だからです。

 宇宙のすみずみまで支配している神性とあなたもつながっているということです。あなたはミクロの大霊なのです。大霊が具えている神性のすべてをあなたも所有しており、それを開発していくための永遠の時が用意されているのです。

 明日の朝あなたはいつもより一時間はやく起きようと遅く起きようと、あるいは起きずに終日ベットにもぐっていようと、それはあなたの自由です。起きてから散歩に出かけようとドライブしようと、それも自由です。腹を立てるのも自由です。冷静さを取り戻すのも自由です。そのほか、あなたには好き勝手にできることがいろいろとあります。

 しかしあなたは太陽の輝きを消す力はありません。嵐を止める力はありません。あなたの力を超えたものだからです。その意味であなたの自由意志にも限界があります。それからもう一つ別の限界もあります。

これまでにあなたが到達した精神的ならびに霊的進化の程度です。たとえば人を殺める行為は誰にでもできます。が、その行為に至らせるか否かは、その人の精神的ならびに霊的進化によって決まることです。

ですから、あなたに選択の自由があるとはいっても、その自由はその時点でのあなたの霊的本性によって制約を受けていることになります。宇宙にはこうしたパラドックス──一見すると矛盾しているかに思える真実──がいろいろとあります。自由意志といっても常に何らかの制約を受けているということです。

 さて、ここで私はもう一歩踏み込まねばなりません。あなたがカルマの問題をお出しになったからです。このカルマも非常に大きな要素となっております。なぜなら、地上に誕生してくる人の中にはあらかじめそのカルマの解消を目的としている人が少なくないからです。たとえ意識へのぼってこなくても、その要素が自由意志にもう一つ別の制約を加えております」


──良心の問題ですが、これは純粋に自分自身のものでしょうか、それとも背後霊の影響もあるのでしょうか。

 「あなた方人間は受信局と送信局とを兼ねたような存在です。純粋に自分自身の考えを生みだすことはきわめて稀です。地上のラジオやテレビにチャンネルとかバイブレーション(振動)──フリークエンシー(周波数)が適切でしょう──があるように、人間にもそれぞれのフリークエンシーがあって、その波長に合った思想、観念、示唆、

インスピレーション、指導等を受信し、こんどはそれに自分の性格で着色して送信しています。それをまた他の人が受信するわけです。(地上の人間どうしの場合もある──訳者)

 その波長を決定するのは各自の進化の程度です。霊的に高ければ高いほど、それだけ感応する思念も程度が高くなります。ということは、発信する思念による影響も高度なものとなるわけです」


 改めて自由意志についての質問に答えて──

 「完全に自由な意志が行使できる者はいません。自由といってもある限られた範囲内での自由です。あなたの力ではどうにもならない環境条件というものがあります。魂は、再生するに当たってあらかじめ地上で成就すべき目的を自覚しております。

その自覚が地上で芽生えるまでには長い長い時間を要します。魂の内部には刻み込まれているのです。それが芽生えないままで終わったときは、また再生して来なければなりません。首尾よく自覚が芽生えれば、ようやくその時点から、物質をまとった生活の目的を成就しはじめることになります。(次章48頁〝訳者注〟参照)

 人間の本性を私が変えるわけにはまいりません。その本性は実に可変性に富んでおります。最高のものを志向することもできれば、哀れにもドン底まで落ち込むこともできます。そこに地上へ再生してくる大きな目的があるのです。

内部には霊的な可能性のすべてが宿されております。肉体は大地からもらいますが、それを動かす力は内部の霊性です。

 人生をどう生きるか──霊のことを第一に考えるか、それとも物質(もの)を優先させるか、それは本人の自由意志の選択にまかされております。そこに人間的問題の核心があるのですが、援助を求めてやってきた人にあなたは、その選択に余計な口出しをせずに、必要な援助を与えなければいけません。

援助が効を奏さなければそれ以上かまう必要はありません。(それであなたの責任は終わったということです。と別のところで述べている──訳者)

縁あってあなたのもとを訪れたということは、その人にとって自我を見出す絶好機がめぐってきたということです。成功すれば、あなたは他人のために自分を役立てる機会が与えられたことに感謝なさることです。もし失敗したら、その人のことを気の毒に思ってあげることです」

別の招待客がこう尋ねた。──「自由意志はどういう具合に働くのでしょうか。私がこの疑問を抱いたのは Two Worlds の記事の中であなたが〝時間は永遠の現在です〟とおっしゃっているのを読んだからです。

もしも私がこれまでの人生をつぶさに点検することができれば、自分が下した決断や因果律の働きのすべてがつながって見えるはずです。またもし未来をのぞくことができれば、これから先のこともすべて分かることになります。もしそうだとすると、どこに私の自由意志の働く余地があるのでしょうか」


 「こういう言い方は失礼かも知れませんが、あなたの認識は少し混乱しております。時間は永遠の現在です。過去でもなく未来でもありません。それがあなたの過去となり未来となるのは、その時間との関わり方によります。とても説明しにくいのですが、たとえば時間というものを回転し続ける一個の円だと思ってください。

今その円の一点に触れればそこが現在となります。すでに触れたところを、あなた方は過去と呼び、まだ触れていないところを未来と呼んでいるまでのことです。時間そのものには過去も未来も無いのです。

 〝未来を覗く〟とおっしゃいましたが、それは三次元の物質界との関わりから離れて霊視力ないしは波長の調整によってこれから生じるものを見る、その能力が働いたにすぎません。

つまりあなたの行為によって作動させた原因、言いかえれば自由意志が生み出した原因から生じる結果をごらんになるだけです。それは時間そのものには影響を及ぼしません。時間との関係が変わるだけです」


 訳者注──〝時間は永遠の現在〟というのは、〝宇宙は無限〟というテーマと同じく、この肉体に宿っているかぎり絶対に理解できないことであろう。ただそれが事実であることを暗示する体験はたしかに存在する。

ガケから落下するわずか二、三秒の間にそれまでの全体験をじっくり見てその一つ一つを反省したとか、車にはねられて数メートル飛ばされるその一瞬の間にやはり全生涯を思い出したとかいうのがそれである。

信じられないことであるが、本人は事実それを体験したのであるから、そういうことも有り得るということを認めざるを得ない。それがシルバーバーチのいう〝三次元の物質界から離れる〟ということで、実在の側から見れば別だん驚くほどのことではないのであろう。

逆の見方をすれば、人間というのは所詮は物質によって三次元の世界に閉じ込められた小さな存在だということであろう。がしかし、だからこそこの地球という物的生活環境にもそれならではの体験もあるということになる。