Monday, March 2, 2026

霊訓 「上 」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


9節

本節の内容著者の反論
宗教的夾雑物
贖罪説について
再び著者の反論
署名に十字架を冠する理由
バイブルは人間的産物
字句に絶対性はあらず
神の概念の発達
啓示の信頼性は霊媒の受容度による
バイブルは誤謬だらけ。故に新しい霊的啓示と衝突するのは当然
霊団による思想上の指導方法
十字架の真の意味
キリストの使命と霊団の使命は同一


〔前節に述べられた説にはまるで私に訴えるものが見られなかったので、私はそれが正統派の教会の教説と全く相容れぬものであること、しかも畏れ多くもキリスト教の根本教理の幾つかを侵犯するものであると反論した。そしてあの通信は途中で不純なものが混入しているのではないか、それに私が求めている肝心なものが脱落しているのではないかと述べた。もしあれをもって人生の指針として完璧だと言うのなら、私にはそれに反論する用意があった。すると次のような返答が書かれた。〕


われらが述べたるところは大凡の指針に過ぎぬが、それなりに真実である。ただし全てを尽くしているとは言わぬ。極めて大まかな原則であり、不鮮明なる点、欠落していることが少なからずある。が、本質的には間違ってはおらぬ。確かにそなたが霊的救いにとって絶対不可欠と教え込まれたる教義を多くの点で犯していることは認める。また何の予備知識も持たぬ者には新しき説のように響き、古き信仰形体を破壊するものの如く思われるかも知れぬ。が、実際はそういうものではない。いやしくも宗教的問題を思考する者ならば、先入観に束縛されず、かつ新たな真理探究に怖れを抱きさえしなければ、原則的にはわれらの霊訓を受け入れることが出来るであろう。古き偏見によりて足枷をはめられることさえなければ、全ての人間に薦められるべきものと信ずる。前(さき)にわれらは、先ず夾雑物を取り除かねばならぬと述べた。破邪が顕正に先立つことを述べた。古きもの、不用のものをまず取り払う必要があると述べた。要するに建設のための地ならしをせねばならぬと述べたのである。


――その通りですが、私から観てあなたが取り払おうとされているらしき夾雑物は、実はキリスト教徒が何世紀にも亙って信仰の絶対的基本としてきたものです。


違う。必ずしもそうではない。そなたの言い分にはいささか誇張がある。イエスの地上生活についての記録は極めて不完全である。その記録を見れば、キリスト教会が無理やりに押しつけて来たイエスの位置・立場について、イエス本人は一言も語っておらぬことが判るであろう。真実のイエスはそのイエスの名を冠する教会の説くイエスより遥かにわれらの説くイエスに近き存在であった。


――そんな筈はありません。それに例の贖罪説――あれをどう思われますか。


ある意味では間違ってはいない。われらが許せぬのは神を見下げ果てたる存在――わが子の死によって機嫌を取らねばならぬが如き残忍非情なる暴君に仕立て上げた幼稚きわまる言説である。イエスの名のもとに作り上げた不敬きわまる説話――そのために却ってイエスの生涯の素朴なる偉大さ、その犠牲的生涯の道徳的垂訓を曇らせる結果となった誤れる伝説をわれらが否定したからとて、それはいささかもイエスの偉大さを減ずることにはならぬ。そうしたドグマの発生と、それが絶対的教義として確立され、挙句の果てに、それを否定、あるいは拒絶することが大罪とされるに至れる過程については、いずれ詳しく語る時節も来よう。

もしも神が人間と縁なき存在であり、全てを人間の勝手に任せているのであれば、神がその罪深き人間のために、わが子に大権を委(ゆだ)ねて地上へ派遣した事実を否定することが永遠の火刑もやむを得ぬ大罪とされても致し方ないかも知れぬ。キリスト教会のある教派はイエスの贖罪について絶対的不謬性を主張し、それを受け入れぬ者は生きては迫害、死しては永遠の恥辱と苦痛の刑に処せられると説く。これはキリスト教会においても比較的新しき説である。が、全てのドグマはこうして作られてきた。かくして、人間の理性のみでは神の啓示と人間のこじつけとを見分けることが困難、いや、不可能となる。同時にまた、その夾雑物を取り除かんとする勇気ある者が攻撃の的とされる。いつの時代にもそうであった。われらがより高き視点より人間的夾雑物を指摘し、それを取り除くべく努力したからとて、それが誤れる行為として非難される筋合いはないのである。


――そうかも知れません。しかしキリストの神性と贖罪の信仰は人間が勝手に考え出したドグマとは言えないでしょう。現にあなたも署名の頭にかならず十字を冠しておられます(†Imperator)。私の推測ではあなたも地上では私たちと同じ教義を信じておられたに相違ありません。もう一人の通信者のレクターも同じように署名に十字を冠します(†Rector)。あの方などは絶対とは言いませんが恐らくキリスト教の教義のために死なれた殉教者に相違ありません。その辺に矛盾のようなものを感じるのです。つまり、もしその教義が不要のもの、あるいは真理を履(は)き違えたもの――もしくは完全な誤り――であるとしたら、私はどう結論づけたらよいのでしょうか。あなたは死後ご自身の信仰を変えられたのでしょうか。あるいは、一体あなたは地上でのクリスチャンだったのでしょうか、そうでなかったのでしょうか。もしそうでなかったとしたら、なぜ十字を付けられるのでしょうか。もしクリスチャンだったとしたら、なぜ信仰を変えられたのでしょうか。問題は地上であなたがどういう方であったか、それ一つに関わっています。現在のあなたの言説と地上時代に抱いておられた信仰がどこでどう繋がるのか、そこが判らないのです。おっしゃることは確かに純粋であり、美しい教説だとは思いますが、明らかにキリスト教の教えとは違っています。またどう見ても署名に十字を付ける人が説く教えではありません。少なくとも私にはそう思えるのです。

この苦悶がもしも私の無知ゆえであるならば、どうかその無知を啓発していただきたい。もしも私がただの詮索好きに過ぎぬのなら、それはどうかご寛恕ねがいたい。私にはあなたの言葉と態度以外に判断の拠り所がないのです。私が判断しうるかぎりにおいては、あなたの言説と態度は確かに高潔であり高貴であり、また純粋であり、合理的です。しかしキリスト教的ではありません。現在の私の疑問と苦悶を取り除いてくれるような、納得のいく根拠をお示し願いたいと申し上げるのみです。


いずれ述べるとしよう。この度はこれにて終わりとする。


〔私は真剣に返答を求め、何とかして通信を得ようと努力したが、六月二十日まで何も出なかった。右の通信は十六日に書かれたものである。そしてようやく届いた返答は次のようなものだった。〕


友よ、これよりそなたを悩ませ続けて来た問題について述べるとしよう。十字架がわれらの教えとどう関わるかを知りたいのであろう。それを説くとしよう。

友よ、主イエス・キリストの教えとして今地上にて流布している教えには、主の生涯と使命を表象する、かの十字架に相応(ふさわ)しからぬものが少なからずあるという事実をまず述べたい。各派の狂信家は字句にのみこだわり、意味を疎かにする傾向がある。執筆者一人一人の用語に拘泥し、その教えの全体の流れを疎かにしてきた。真理の探求と言いつつも実はあらかじめ説を立て、その説をこじつけて、それを真理と銘うっているに過ぎぬ。そなたたちの言う聖なる書(バイブル)の解説者をもって任ずる者が、その中より断片的な用語や文句を引用しては勝手な解説を施すために、いつしかその執筆者の意図せぬ意味をもつに至っている。またある者はいささかの真理探究心もなしに、ただ自説を立てるためにのみバイブルより用語や文句を借用する。彼らはそれはそれなりに目的を達するであろう。が、そうすることによりて徐々に、用語や表現の特異性をいじくり回すことにのみ喜悦を覚える者、自説を立てそれをこじつけることをもって佳(よ)しとする者たちによって、一つの体系が作り上げられていく。いずれもバイブルというテキストより、一歩も踏み出せぬことになる。

前(さき)にわれらは、これより説くべく用意している教えは多くの点においてそなたたちのいう神の啓示と真っ向より対立すると述べた。

正統派のキリスト者たちは、一人の神秘的人物――三位一体を構成する一人が一握りの人間の心を捉え、彼らを通じて真理の全てを地上にもたらしたと説く。それが全真理であり、完全であり、永遠なる力を有すると言う。神の教えの全体系がそこにあり、一言一句たりとも削ることを許されず、一言一句たりとも付け加えることも許されぬ。神の語れる言葉そのものであり、神の御心と意志の直接の表現であり、顕在的にも潜在的にも全真理がその語句と言い回しの中に収められていると言う。ダビデ、パウロ、モーセ、ヨハネ、こうした予言者の訓えは神の意志と相通じるものであるのみならず、神の思念そのものであると言う。彼らの言葉は神の裁可を受けたものであると同時に、神自ら選択したものであると言う。要するに、バイブルはその内容においても形体においても神の直接の言葉そのものなのである。英語に訳されたものであっても等しくその一言一句が神の言葉であり、そなたたちが為せる如く細かく分析・解釈するに値するものとする。なぜなら、その翻訳に携われる者も、またその驚異的大事業の完成のために神の命を受けし者であるとしているからである。

かくして単なる用語と表現の上に、かの驚くべき教義と途方もなき結論が打ち出されることになる。無理もないことかも知れぬ。なぜなら、彼らにとりてはその一言一句が人間的謬見に犯されぬ聖なる啓示であるからである。然るにその実彼らの為せることは、己の都合よき文句のみを引用し、不都合なところは無視して勝手なドグマを打ち立てているに過ぎぬ。が、とにかく彼らにとってはバイブルは神の直接の言葉なのである。

他方、こうした考えを潔(いさぎよ)く棄てた者たちがいる。彼らはバイブルの絶対性を打ち砕くことより出発し、ついにたどり着きたるところが他ならぬわれらの説くところと同じ見解である。彼らもバイブルを神の真理を説く聖なる記録として敬意を払うが、同時にそれはその時代に相応しきものが啓示されたものであり、故に今なお現代に相応しき啓示が与えられつつあると観る。バイブルは神と霊の宿命に関する人間の理解の発展過程を示すものとしてこれを読む。無知と野蛮の時代には神はアブラハムの友人であり、テントの入口にて共に食し共に語り合った。次の時代には民族を支配せる士師であり、イスラエル軍の先頭に立って戦いし王であり、幾人かの予言者の託宣によって政治を行なえる僭王であった。それがやがて時代の進歩と共に優しさと愛と父性的慈悲心を具えた存在となっていった。心ある者はこうした流れの中に思想的成長を見出し、その成長は決して終息せぬこと、人間の理解力は真理への渇仰を満たす手段を絶え間なく広げつつあるとの信念にたどり着く。故に真理探求者は少なくともその点についてのわれらの教えを受け入れる備えはある筈である。われらが求めるのはそういう人物である。すでに完璧なる知識を手にしたと自負する者に、われらは言うべき言葉を持たぬ。彼らにとっては先ず神と啓示に関わる問題についての無知を覚(さと)ることが先決である。それなくしては、われらが何を説こうと、彼らは固く閉じ込められた己の無知と自負心とドグマの壁を突き抜けることは出来ぬ。彼らには、これまで彼らの霊的成長を遅らせ未来の霊的進歩の恐ろしき障害となるその信仰の誤りを、苦しみと悲しみの中に思い知らされる外に残された道はない。そなたがこれまでわれらの述べたるところを正しく理解すれば、これより更に一歩進めて、啓示の本質と霊感の特性について述べることにしよう。

われらに言わしむれば、バイブルを構成するところの聖なる書、及びその中に含まれていない他の多くの書はみな、神が人間に啓示する神自身についての知識の段階的発達の記録にすぎぬ。その底流にある原理はみな同じであり一つである。それと同じ原理がこうしたそなたとわれらとの交わりをも支配しているのである。人間に与えられる真理は人間の理解力の及ぶ範囲にかぎられる。いかなる事情のもとであろうと、それを超えたものは与えられぬ。人間に理解し得るだけのもの、その時代の欲求を満たすだけのものが与えられるのである。

さて、その真理は一個の人間を媒体として啓示される。よって、それは大なり小なりその霊媒の思想と見解の混入を免れぬ。と言うよりは、通信霊は必然的に霊媒の精神に宿されたものを材料として使用せざるを得ぬ。つまり所期の目的に副ってその材料に新たな形体を加えるのである。その際、誤りを削り落とし、新たな見解を加えることになるが、元になる材料は霊媒が以前より宿せるものである。したがって通信の純粋性は霊媒の受容性と、通信の送られる際の条件が大いに関わることになる。

バイブルのところどころに執筆者の個性と霊的支配の不完全さと執筆者の見解による脚色のあとが見られるのはそのためである。またそれとは別に、その通信が意図した民族の特殊なる必要性による特有の色彩が見られる。もともとその民族のために意図されたものだったからである。

そうした例ならば幾らでも見出せるであろう。イザヤ(1)がその民に霊の言葉を告げし時、彼はその言葉に己の知性による見解を加え、その民の置かれた当時の特殊な事情に適合させたのであった。申すまでもなく、イザヤの脳裏には唯一絶対の神の観念があった。しかしそれを詩歌と修辞的比喩でもって綴った時、それはエゼキエル(1)がその独特の隠喩的修辞でもって語ったものとは遥かに異なるものとなった。ダニエル(1)にはダニエル独自の神の栄光の心象があった。エレミヤ(1)にはエレミヤを通じて語れる“主”の観念があった。ホセア(1)には神秘的象徴性があった。そのいずれも同じ神エホバを説いたのであり、知り得た通りを説いたのである。が、その説き方が異なっていたのである。

のちの時代の聖なる記録にも同じく執筆者の個性が色濃く残されている。パウロ(2)然り。ペテロ(2)然り。同一の真理を全く異なる角度より観ているのもやむを得ぬことである。真理なるものは二人の人間が異なる観点より各々の手法にて説いたからとて、いささかもその価値を減ずるものではない。相違と言うも、それは霊感の本質にはあらず、その叙述の方法にあるに過ぎぬからである。霊感はすべて神より発せられる。が、受ける霊能者はあくまで人間である。

故に、バイブルを読む者はその中に己自身の心――いかなる気質であれ――の投影を読み取るということにもなる。神についての知識はあまりに狭く、神性についての理解はあまりに乏しい。故に過去の啓示にのみ生き、それ以上に出られず、かつ出る意志も持たぬ者は、バイブルにその程度の心の反映しか見出さぬであろう。彼はバイブルに己の理想を見出さんとする。ところが、どうであろう、その心に映るのは彼と同じ精神的程度の者のための知識のみである。一人の予言者の言葉で満足せぬ時は他の予言者の言葉の中より己の気に入る箇所を選び出し、他を棄て、その断片的知識をつなぎ合わせ、己自身の啓示を作り上げる。

同じことが全ての教派について言えよう。各派がそれぞれの理想を打ち立て、それを立証せんがために、バイブルより都合よき箇所のみを抜き出す。もとより、バイブルの全てをそのまま受け入れらる者は皆無である。何となれば全てが同質のものとは限らぬからである。各自が己の主観にとって都合よき箇所のみを取り出し、それを適当に組み合わせ、それをもって啓示と称する。他の箇所を抜き出した者の啓示と対照してみる時、そこに用語の曲解、原文の解説(と彼らは言うのだが)と注釈、平易なる意味の曖昧化が施され、通信霊も説教者も意図せざる意味に解釈されていることが明らかとなる。かくして折角の霊感が一教派のドグマのための方便と化し、バイブルは好みの武器を取り出す重宝なる兵器庫とされ、神学は誤れる手前勝手な解釈によって都合よく裏付けされた個人的見解となり果てたのである。

そなたは、かくの如くして組み立てられたる独りよがりの神学に照らして、われらの説くところがそれと異なると非難する。確かに異なるであろう。われらはそのような神学とは一切無縁なのである。それはあくまで地上の神学であり、俗世のものである。その神の観念は卑俗かつ低俗である。魂を堕落させ、神の啓示を標榜しつつ、その実、神を冒涜している。さような神学にわれらは何の関わりも持たぬ。神学と矛盾するのは当然至極のことであり、むしろ、こちらより関わり合いを拒否する。その歪める教えを修正し、代わりて神と聖霊についてより真実の、より高尚なる見解を述べることこそわれらの使命なのである。

バイブルより出でし神の観念がかくもそなたたちの間にはびこるに至った今一つの原因は、霊感の不謬性を信じるあまり、その一字一句を大切にしすぎるのみならず、本来霊的な意味を象徴的に表現しているに過ぎぬものを、あまりに字句どおりに解釈しすぎたことにある。人間の理解の及ばぬ観念を伝えるに当たりては、われらは人間の思考形式を借りて表現せざるを得ぬことがある。正直のところ、その表現の選択においてわれらもしばしば誤りを犯す。表現の不適切なるところもある。霊的通信のほとんど全てが象徴性を帯びており、とくに正しき観念に乏しき神の概念を伝えようとすれば、その用語は必然的に不完全であり、不適切であり、往々にして選択を誤れる場合が生ずるのは免れぬ。いずれにせよ、所詮象徴的表現の域を出るものではなく、そのつもりで解釈して貰わねばならぬ。神につきての霊信を字句どおりに解釈するのは愚かである。

さらに留意すべきは、神の啓示はそれを授かる者の理解力の程度に合わせた表現にて授けられるものであり、そのつもりで解釈せねばならぬということである。バイブルをいつの時代にも適用すべき完全な啓示であると決めてかかる人間は一字一句を字句どおりに受けとめ、その結果、誤れる結論を下すことになる。衝動的性格の予言者が想像力旺盛にして熱烈な東方正教会(3)の信者に説き聞かせたる誇張的表現は、彼らには理解できても、思想と言葉を大いに、あるいは完全に異にせる他民族にその字句どおりに説いて聞かせては、あまりに度が過ぎ、真実から外れ、徒に惑わせることになりかねぬ。

神についての誤れる冒涜的概念も多くはそこに起因しているとわれらは観るのである。もともと言語なるものが不備であった。それが霊媒を通過する際に大なり小なり色づけされ、真理からさらに遠く逸(そ)れる。それがわれらが指摘せる如く後世の者によりて字句どおりに解釈され、致命的な誤りとなって定着する。そうなってはもはや神の啓示とは言えぬ。それは神について人間が勝手に拵えたる概念であり、しかも未開人が物神に対して抱ける概念と同じく、彼らにとっては極めて真実味をもつものである。

繰り返すが、そのような概念にわれらは同意できぬ。それどころか、敢えてその誤りを告発するものである。それに代わる、より真実にして、より崇高なる知識を授けることが、われらの使命なのである。またその使命の遂行に当たりては、われらは一つの協調的態勢にて臨む。先ず一人の霊媒に神的真理の一部を授ける。それがその霊媒の精神において彼なりの発達をする。正しく発展する箇所もあれば、誤れる方向へ発展する箇所もある。若き日に培われたる偏見と躾けの影響によって歪められ曇らされる部分もあろう。では、より正しき真理を植えつけるに当たりて、いっそのことその雑草を根こそぎ取り除くべきか。精神より一切の先入観念を払拭すべきか。それはならぬ。われらはそうした手段は取らぬ。万一その手段を取らんとすれば、それには莫大な時間を要し、下手(へた)をすれば、その根気に負けて、霊媒の精神を不毛の状態のまま放置することになりかねぬ。

そのようなことは出来ぬ。われらは既に存在する概念を利用し、それを少しでも真理に近きものに形づくって行くのである。いかなるものにも真理の芽が包蔵されているものである。もしそうでなければ一挙に破壊してもよかろう。が、われらはそうしたささやかな真理の芽に目をつけ、それに成長と発達を与えんとする。われらには人間が大切に思う神学的概念がいかに無価値なるものかがよく判る。が、それもわれらが導く真理の光を当てれば自然崩壊するものと信じて、他の重要なる問題についての知識を提供していく。取り除かねばならぬのは排他的独断主義である。これが何より重大である。単なる個人的見解は、それが無害であるかぎり、われらは敢えて取り合わぬ。

そういう次第であるから、在来の信仰がトゲトゲしさを和らげてはいるものの、それは形の上でのことであり、極めて似た形で残っていることが多々ある。そこで人は言うのである――霊は霊媒自身の信仰を繰り返しているに過ぎぬではないかと。そうではない。今こうしてそなたに述べていることがその何よりの証拠である。確かにわれらは霊媒の精神に以前より存在するものを利用する。が、それに別の形を与え、色調を和らげ、当座の目的に副ったものに適合させる。しかもそれを目立たぬように行なう。そなたの目にその違いが明瞭となるほどの変化を施すのは、その信仰があまりにもドグマ的である時に限られる。

仮にここに神も霊も否定し、目に見え手で触れるものしか存在を認めぬ者がいるとしよう。この唯物主義者が神への信仰を口にし、死後の生活を信ずると言い出せば、そなたはその変わりように目を見張ることであろう。それに引きかえ、人間性が和らげられ、洗練され、純化され、崇高味を増し、また粗野で荒々しき信仰が色調を穏やかなものに塗りかえられていった場合、そなたたちにはその変化が気づかぬであろう。その変化が徐々に行なわれ、かつ微妙だからである。が、われらにとりては着々と重ねたる努力の輝ける成果なのである。荒々しさが和らげられた。頑(かたく)なにして冷酷、かつ陰湿なるところが温められ愛の生命を吹き込まれた。純粋さに磨きがかけられ、崇高さが一層輝きを増し、善性が威力を増した。かくして真理を求める心が神と霊界についてより豊かなる知識を授けられたことになるのである。

人間の見解が頭ごなしに押さえつけられたことはない。それに修辞を施し変化を与えたのみである。その霊的影響力は現実にそなたたちのまわりに存在している。そなたたちは全くそれに気づいておらぬが、霊的使命の中でも最も実感のある有難き仕事なのである。

故に、霊は人間の先入観を繰り返すのみと人が言う時、それはあながち誤りとも言えぬことになる。その見解は害を及ぼさぬものであるかぎり、そのまま使用されているからである。ただ、そうと気づかれぬように修飾を施してある。有害とみたものは取り除き抹消してしまう。

とくに神学上の教義の中でも特殊なるものを取り扱うに当たりては、可能なかぎり除去せずにそれに新しき意義を吹き込むべく努力する。なぜなら、そなたには理解できぬかも知れぬが、信仰というものはそれが霊的にして生命あるものであれば、その形態は大して意味をもたぬものだからである。それ故われらは既に存在する基盤の上に新たなものを築かんとするのである。とは言え、その目的の達成のためには、今も述べた如く真理の芽をとどめている知識、あるいは知性の納得のいくものであるかぎり、大筋においてそのまま保存はするものの、他方において、ぜひ取り除かねばならぬ誤れる知識、あるいは人を誤らせる信仰もまた少なしとせぬ。そこで建設の仕事に先立って破壊の仕事をせねばならぬ。魂にこびり付きたる誤れる垢を拭い落とし、出来うるかぎり正しき真理に磨きをかけ純正なものにする。われらが、その頼りとする人間にまずその者が抱ける信仰の修正を説くのはそのためである。

さて、かく述べれば、すでにそなたには今のそなたの苦悶の謂(いわ)れが判るであろう。われらはそなたが抱ける神学上の見解を根こそぎにしようというのではない。それに修正を加えんとしているのである。振り返ってみるがよい。かつての狭隘なる信仰原理が徐々に包括的かつ合理的なものへと広がってきた過程が判るであろう。われらの指導のもとにそなたは数多くの教派の神学に触れてきた。そうしてその各々に程度こそ違え、真理の芽を見て来た。ただその芽が人間的偏見によりて被い隠されているに過ぎぬ。またキリスト教世界の多くの著書をそなた自ら念入りに読んで来た。そこに様々な形態の信仰を発見してそなた自身の信仰の行き過ぎが是正され、荒々しさが和らげられた。太古の哲学の研究に端を発し、各種の神学体系に至り、そこからそなたに理解し得るものを吸収するまで、実に長き、遅々たる道程であった。

すでに生命を失い、呼吸することなきドグマで固められし東方正教会の硬直化せる教義、人間的用語の一字一句にこだわる盲目的信仰に痛撃を浴びせしドイツの神学者たちによる批判、そなたの母国と教会における高等思想の思索の数々、その高等思想ともキリスト教とも無縁の他の思想の数々――そなたはこうしたものを学び、そなたにとって有用なるものを身につけてきた。長く、そして遅々とした道程ではあったが、われらはこれより更に歩を進め、そなたをいよいよ理想の真理――霊的にして実感に乏しくとも、そなたの学びしものの奥に厳然と存在する真理へと案内したく思う。地上的夾雑物を拭い去り、真実の霊的実在を見せたく思うのである。

まず知ってほしいことは、イエス・キリストの霊的理想は、神との和解だの、贖罪だのという付帯的俗説も含めて、そなたたちが考えているものとは大凡本質を異にするものであるということである。それは恰も古代ヘブライ人が仔牛を彫ってそれを神として崇めた愚かさにも似ていよう。われらはそなたの理解しうるかぎりにおいて、そなたたちが救い主、贖い主、神の子として崇めるイエスの生涯に秘められたる霊的事実を知らしめたく思う。イエスがその地上生活で身をもって示さんとした真の意味を教え、われらが取り除かんとする俗説がいかに愚劣にして卑劣であるかを明らかにしたく思うのである。

そなたはそうしたわれらの訓えがキリストの十字架の印とどう係わりがあるのかと尋ねた。友よ、あの十字架が象徴するところの霊的真理こそ、われらが普及を宣誓するところの根本的真理なのである。己の生命と家庭と地上的幸福を犠牲にしてでも人類に貢献せんとする滅私の愛――これぞ純粋なるキリストの精神であるが、これこそわれらが神の如き心であると宣言するものである。その心こそ卑しさと権力欲、そして身勝手なる驕りが生む怠惰から魂を救い、真実の意味での神の御子とする、真実の救いである。この自己犠牲と愛のみが罪を贖い、神の御心へと近づかしめる。これぞ真実の贖いである! 罪なき御子を犠牲(いけにえ)として怒れる神に和解を求むるのではない。本性を高め、魂を浄化する行為の中にて償い、人間性と神性とがその目的において一体となること(4)――身は地上にありても魂をより一層神に近づけて行くこと――これぞ真実の贖いである。

キリストの使命もその率先垂範にあった。その意味において、キリストは神の顕現の一つであり、神の御子であり、人類の救い主であり、神との調停者であり、贖い主であった。その意味においてわれらはキリストの後継者であり、こののちも引き続きその使命を遂行していく。十字架のもとに働き続ける。キリストの敵――たとえ正統派の旗印とキリストの御名のもとであっても、無明の故に、あるいは強情のゆえにキリストの名を汚す者たちに、われらは敢然と戦いを挑むものである。

ある程度霊的真理に目覚めた者にとりても、われらの説くところには新しく且つ奇異に感じられるところが少なくなかろうと想像される。が、いずれはキリストの真実の訓えがわれらの説くところと本質において一体であるとの認識に到達する時代(とき)が訪れるであろう。その暁には、それまで真実を被い隠せる愚劣かつ世俗的夾雑物は取り払われ、無知の中に崇拝してきたイエスの生涯とその教えの荘厳なる真実の姿を見ることであろう。その時のイエスへの崇敬の念はいささかでも真実味を減ずるどころか、より正しき認識によって裏づけされる。すなわち、われらが印す十字架は不変なる純粋性と人類への滅私の愛の象徴なのである。そなたにその認識を得さしむることこそ、われらの真摯なる願いである。願わくばこれを基準として、われらの使命を裁いてもらいたい。われらは神の使命を帯びて参った。その使命は神の如く崇高であり、神の如く純粋であり、神の如く真実である。人類を地上的俗信の迷いより救い出し、汚れを清め、霊性と神性とに溢れたる雰囲気へと導いて参るであろう。

われらの述べたるところをよく吟味されたい。そうして導きを求めよ。われらでなくともよい。その昔、かのイエスという名の無垢と慈悲と滅私の霊を地上に送りし如く、今われらを地上に送りし神に祈れ!


イエスを今なおわれらは崇める。

その御名をわれらは敬う。

その御ことばをわれらは繰り返す。

その御訓えが再びわれらの中に生き返る。

イエスもわれらも神の使いである。

そしてその御名のもとにわれは参る。

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

  Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze



十章  各界のゲストを招いて

 ハンネン・スワッハー・ホームサークルの招きでシルバーバーチの交霊界に出席した各界の著名人は、これまででも相当な数にのぼる。政治家・芸術家・舞台俳優・動物保護団体のメンバー等々、実に多彩である。本章はそうしたゲストとの問答を特集してみた。

 まずロンドンのフリート街に立ち並ぶ新聞社の一つの主筆で、スピリチュアリズムにも興味を持つジャーナリストが、ある日の交霊会で、思念とインスピレーションの違いについて質問した。それについてシルバーバーチはこう答えた。

 「物質の世界に住んでおられるあなた方は、きわめて創造性の乏しい存在です。よくよくの例外を除いて、まず何一つ創造していないと言ってよろしい。が、基本的には、受信局であると同時に、発進局でもある存在です。

 まず外部から思念が送られてきます。それがいったんあなたという受信局で受け止められ、それに何かが付加されて発信され、それを別の人が受信するという具合です。あなたに届いた時の思念と、あなたから発信される時の思念とは、すでに同じではありません。

あなたの個性によって波動が高められることもあり低められることもあり、美しくなっていることもあり、醜くなっていることもあり、新たに生命力を付加されていることもあり衰弱していることもあります。

 しかし、それとは全く別に、霊的な波動の調整によって、あなたと同じ波動をもつ霊からのインスピレーションを受けることもできます。人間が死んで私たちの世界へ来ます。

その時、精神と魂に宿されているものは何一つ失われることはありません。それは霊的にして永遠であり、霊的にして永遠なるものは絶対に消滅することはないからです。その魂と精神に宿された資質はその後も成長し、拡大し、発達し、成熟してまいります。

 そうした霊性を宿しているからこそ、こちらへ来てしばらくすると、地上の人間のために何か役立つことをしたいと思うようになるわけです。そして、やがて自分と同質の人間を見出します。あるいは見出そうと努力しはじめます。

 地上で詩人だった人は詩人を探すでしょう。音楽家だった人は音楽家を探すでしょう。そして、死後に身につけたものを全てを惜しげもなく授けようとします。問題は波長の調整です。インスピレーションが一瞬の間の体験でしかないのは、私たちの側が悪いのではありません。

二つの世界の関係を支配している法則が完全に理解されれば───言いかえれば、地上の人間が霊界の自由な交信の障害となる偏見や迷信を取り除いてくれれば、無限の叡智が人間を通してふんだんに流れ込むことでしょう。

 要は、私たちの側から発信するものを受信する道具がなければならないこと、そしてその道具がどこまで高い波動の通信を受け取れるかという、性能の問題です。すべてのインスピレーション、すべての叡智、すべての真理、すべての知識は、人間側の受信能力に掛っております」


───それだけお聞きしてもまだ、なぜインスピレーションというものが一瞬のひらめきで伝わるのかが理解できません。

 「その瞬間、あなたの波長が整って、通信網に反応するからです」
 と答えた後、そういう思念が霊界からのものか地上の人間からのものかの区別の仕方について質問されて、こう述べた。

 「両者をはっきり選別することはとても困難です。思念には、地上の人間の発したものが地上の他の人間によって受け取られることもありますが、霊界からのものもあります。

思念は常に循環しております。そのうちのあるものが同質の性格の人に引き寄せられます。これはひっきりなしに行われていることです。

 しかしインスピレーションは、霊界の者が、ある共通の性質、関心あるいは衝動を覚えて、自分がすでに成就したものを地上の人間に伝えようとする、はっきりとした目的意識をもった行為です。地上の音楽や詩、小説、絵画の多くは、実質的には霊界で創作されたものです」


───天才をどう説明されますか。

 「まず理解していただきたいのは、大自然または法則───どう呼ばれても構いません───は、決して真っすぐの一本の線のように向上するようには出来ていないことです。

さまざまな変異・循環・螺旋を描きながら進化しています。全体からみれば、アメーバ―から霊にいたる段階的進化がはっきりしておりますが、その中にあって、時たま一足跳びに進化するものと後退するものとが出てきます。先駆けと後戻りが常に存在します。天才はその先駆けに当たります。

これから何十世紀あるいは何百世紀かのちには、地上の全人類が、程度の差こそあれ、今の天才と同じ段階まで発達します。天才は言わば人類進化の前衛です」


───現在地上で行われている進化論と大分違うようですが・・・・・・

 「私の見解はどうしても地上の説とは違ってきます。皆さん方はどうしても物的観点から問題を考察せざるを得ません。物的世界に生活し、食糧だの衣服だの住居だのといった俗世の問題を抱えておられるからです。

そうした日々の生活の本質そのものが、その身を置いている物的世界へ関心を向けさせるようになっているのです。

日常の問題を永遠の視点から考えろと言われても、それは容易にできることではありません。が、私たちから見れば、あなた方も同じ霊的存在なのです。いつ果てるともない進化の道を歩む巡礼者である点では同じです。

 いま生活しておられるこの地上が永遠の住処でないことは明白です。これから先の永遠の道程を思えば、地上生活などホンの一瞬の出来事でしかありません。私たちの視界は焦点が広いのです。皆さんからお受けする質問も、霊的真理に照らしてお答えしております。

その真理が人間生活においてどんな価値を持つか、どうやって他の同胞へ役たてるべきか、どんな役に立つかといった点を考慮しながらです。

 これまでの私は、私の説く真理が単純素朴なものであること、唯一の宗教は人の為に自分を役たてることであることを、皆さんもいい加減うんざりなさるのではないかと思うほど、繰り返し述べてきました。私たちの真理の捉え方が地上の常識と違う以上、そうせざるを得ないのです。

 大半の人間は、地上だけが人間が住む世界だと考えております。現在の生活が人間生活のすべてであると思い込み、そこで物的なものを、いずれは死んで残して行かねばならないものなのに、せっせと蓄積しようとします。

戦争・流血・悲劇・病気の数々も、元はといえば、人間がこの時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。人間は肉体を通して自我を表現している霊魂なのです。

それが地上という物質の世界での生活を通じて魂を成長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです」


 このシルバーバーチの言葉がきっかけとなって、サークルのメンバーの間で〝進化〟についての議論がひとしきり花が咲いた。それを聞いていたシルバーバーチは、やおら次のような見解を述べた。

 「人間はすべて、宇宙の大霊の一部、言いかえれば無限の創造活動の一翼を担っているということです。一人ひとりがその一分子として進化の法則の働きを決定づけるということです。

霊としての真価を発揮していく階梯の一部を構成しているのです。霊は、自我意識が発現しはじめた瞬間から存在し、その時点から霊的進化が始まったのです。身体的に見れば人類は、事実上、進化の頂点に達しました。が、霊的にはまだまだ先は延々と続きます」


 別の日の交霊会に、世界的に名の知れた小説家が出席した。シルバーバーチが出る前に、地上で世界的に有名だった人物で今ではシルバーバーチ霊団のメンバーとして活躍している複数の霊がバーバネルの口を借りて挨拶し、それに応えてサークルのメンバーが挨拶を介している様子を、その小説家は黙って見つめていた。

やがてシルバーバーチが出現して、その小説家に向かって

 「私には、あなたが今日はじめての方とは思えません。実質的に霊力に無縁の方ではないからです」
 と述べてから、更にこう続けた。

 「あなたの場合は意識的に霊力を使っておられるのではありません。あなたご自身の内部で表現を求める叫び、使ってほしがっている単語、原語で表現してほしがっているアイディア、湧き出てきてあなたを包み込もうとする美、時として困惑させられる不思議な世界、そうしたものが存在することを知っている人間が持つ、内的な天賦の才能です。違いますか?」


───全くおっしゃる通りです。

 「しかし同時に、これは多くの方に申し上げていることですが、ふと思いに耽り、人生の背後でうごめいているものに思いを馳せ、いかにして、なぜ、いずこへ、といった避け難い人生の問題に対する回答をみずから問うた時、宿命的とも言えるいきさつで道が開けてきました。お若い頃からそうであったはずですが、いかがですか?」


───その通りです。

 「私たちは方法は何であれ、自分の住む世の中を豊かにし、美と喜びで満たし、いかなる形にせよ慰めをもたらす人を、誇りをもって歓迎いたします。しかし、あなたは、これまでになさったことより、まだまだ立派なことがお出来になります。お分かりでしょうか? 」


───ぜひ知りたいものですね

 「でも、何となくお感じになっておられるのではありませんか?」


───(力強い口調で)感じております。

 ここでシルバーバーチがサークルのメンバーの一人に向かって

 「この方は霊能をお持ちです」
と言うと、そのメンバーも 「そのようですね。霊眼をお持ちです」 と相づちを打った。


 するとシルバーバーチは
 「しかしこの方の霊能は、まだ鍛錬がなされておりません。純粋に生まれつきのものです」

 と述べてから、今度はその小説家の方へ顔を向けて

 「あなたは陰から指導している複数の霊の存在にお気づきですか。あなたが感じておられるより、はるかに多くの援助をしてくれているのですよ」

 といった、すると別のメンバーが、その小説家がこれからするべきことは何かを訊ねた。

 「それは、これまでなさってきたことより、はるかに大きな仕事です。そのうち自然に発展していきます。すでにその雰囲気がこの方の存在に充満しておりますから、多分ご自分でも気づいておられるはずです。じっとしていられないことがあるはずです。私が言わんとしていることがお分かりでしょう?」


───非常によく分かります。

 「次に申し上げることをよく理解しておいてください。他のすべての人間と同じく、あなたも、その小さな身体に大きな魂を宿しておられるということです。ぎこちない大ざっぱな言い方をしましたが、あなたという存在は、肉体という、魂の媒体としては痛ましいほど不適当な身体を通して表現せざるをえないということです。

 あなたの真の自我、真の実在、不滅の存在であるところの魂に宿る全能力───芸術的素質・霊的能力・知的能力のすべてを顕現させるにつれて、その分だけ、身体による束縛から逃れることになります。魂そのものは本来は物質を超越した存在ですから、

たとえ一時的には物質の中に閉じ込められても、そのうち、鍛錬や養成をしなくても、無意識のうちに物質を征服し優位を得ようと、あらゆる手段を試みるようになります。

 それが今まさに、あなたの身の上に起きつつあるわけです。インスピレーション・精神的活動・目に見えない側面の全てが一気に束縛を押し破り、あなたの存在に流入し、あなたはそれに抗しきれなくなっておられる。私の言っていることがお分かりでしょうね?」


───非常によく分かります。

 しかし同時に、あなたは私たちの世界の存在によって援助されております。すでに肉体の束縛から解放された人たちです。その人たちは情愛によってあなたと結ばれております愛こそ宇宙最大の絆なのです。愛は、自然の成り行きで愛する者同士を結び付け、いかなる力も、いかなるエネルギーも、その愛を裂くことはできません。

愛がもたらすことのできる豊かさと温もりのすべてをたずさえてあなたを愛している人たちは、肉体に宿るあなたには理解できない範囲で、あなたのためにいろいろと援助してくれております。

 しかし、それとは別に、そうした情愛・血縁・家族で結ばれた人々よりも霊性においてはるかに高級な霊が、共通の関心と、共通の目的意識をもって、あなたのために働いてくれております。

今ここで簡単には説明できないほど援助してきており、これからのち、条件さえ整えば、存在をあなたに知らしめることもあり得るでしょう」


───ぜひ知らせてほしいものです。それに、そうした背後霊の皆さんに、私からの感謝の気持ちを伝えていただけますでしょうか。

 「もう聞こえていますよ。今日私からぜひあなたにお授けしたいのは、あなたのまわりに存在する霊力の身近さについての認識です。私は皆さんから見て、古い霊です。

私にも為し得る仕事があることを知り、わずかですが、私が摂取した知識が地上の人々にお役に立てばと思って、こうして戻ってまいりました。

 すでに大勢の友、その知識を広めるために私の手足となってくれる同僚をたくさん見いだしております。本日も出席しているバリッシュ (心霊治療家) のように特殊な使命を帯び、犠牲と奉仕の記念碑を打ち立てている者もいます。

 しかし、すべての同志が、自分が使用されていることを意識しているわけではありません。でも、そんな人たちでも、時たま、ほんの一瞬に過ぎませんが、何とも言えない内的な高揚を覚え、何か崇高な目的の成就のために自分も一翼を担っていることを自覚することがあるはずです」

 
 別の日の交霊会に米国人ジャーナリストが招かれた。そして最初に出した質問が「霊界というのはどんなところでしょうか」という、極めて基本的なものだった。

その時レギラーメンバーの一人が「この方は心霊研究家 ※」とお呼びしてもよいほどの方ですよ。と言ったことが、次のようなユーモラスな答えを引き出すことになった。


 ※───ここでは心霊学にくわしい人といった程度の意味で言ったのであろう。その心霊学は心霊現象の科学的研究を目的としているだけで、霊魂説も幾つかの学説の中の一つとして扱われているだけである。その点を念頭に置いて、シルバーバーチがその学説を並べ立てて皮肉っぽく答えているところがユーモラスである───訳者。



 「この私は、地上の人たちから〝死んだ〟と思われている一人です。存在しないことになっているのです。私は、本日ここにお集まりの方々による集団的幻影にすぎません。私は、霊媒の潜在意識の産物なのだそうです。霊媒の第二人格であり、二重人格であり、分離人格ということになっております。

 こうした用語のどれをお使いになっても結構ですが、私もあなたと同じ、一個の人間的存在です。ただ私は、今あなた方が使っておられる」肉体を随分前に棄ててしまいました。

あなたとの違いは、ただそれだけです。あなたは物的身体を通して自我を表現しているスピリットであり、私は霊的身体を通して表現しているスピリットであるということです。

 私はほぼ三千年前に霊の世界へまいりました。つまり三千年前に〝死んだ〟のです。三千年というと、あなた方には大変な年数に思えるかもしれませんが、永遠の時の流れを考えると、わずかなものです。その間に私も、少しばかり勉強しました。

霊の世界へ来て、神からの授かりものである資質を発揮していくと、地上と同じ進化の法則に従って進歩していきます。霊的な界層を一段また一段と向上してまいります。

 〝界層〟という言い方をしましたが、一つ一つが仕切られているわけではありません。霊的な程度の差であり、それぞれの段階には、その環境条件にふさわしい者が存在するということです。

霊的に進化向上していくと、それまでの界層を後にして、次の、一段と高い界層へ融合していきます。それは階段が限りなく続く長い長い、一本のはしごのようなものです。

 そう考えていけば、何百年、あるいは何千年か後には物質界からはるか遠く離れていき、二度と接触する気持ちが起きなくなる段階に至ることは、あなた方にも理解できるでしょう。所詮、地上というところは、大して魅力のある世界ではないのです。

地上の住民から発せられる思念が充満している大気には、およそ崇高なものは見られません。腐敗と堕落の雰囲気が大半を占めております。人間の生活全体を暗い影がおおい、霊の光が届くのは、ほんの少数の人に限られております。

 一度あなたも、私と同じように、経済問題の生じない世界、お金が何の価値ももたない世界、物的財産が何の役にも立たない世界、各自があるがままの姿がさらけ出される世界、唯一の富が霊的な豊かさである世界、唯一の所有物が個性の強さである世界、生存競争も略奪も既得権力も無く、弱者が窮地に追いやられることもなく、

内在する霊的能力が、それまでは居眠りをしていても、存分に発揮されるようになる世界に住まわれたら、地上という世界がいかにむさ苦しく、いかに魅力の乏しい世界であるかが分かっていただけると思います。

 その地上世界を何とかしなければならない───私のようにまだ地上圏に戻ることのできるスピリットが援助し、これまでに身につけた霊的法則について幾らかでも教えてあげる必要があることを私は他の幾人かの仲間と共に聞かされたのです。

人生に迷い、生きることに疲れ果てている人類に進むべき方向を示唆し、魂を鼓舞し、悪戦苦闘している難題の解決策を見出させてあげるには、それしかないことを聞かされたのです。

 同時に私たちは、そのために必要とする力、人類の魂を鼓舞するための霊力を授けてくださることも聞かされました。しかし又、それが大変な難事業であること、この仕事を快く思わぬ連中、それも宗教組織内の、そのまた高い地位にある者による反抗に遭遇するであろうことも言い聞かされました。

悪魔の密使とみなされ、人類を邪悪の道へ誘い、迷い込ませんとする悪霊であると決めつけられるであろうとの警告も受けました。

 要するに、私たちの仕事は容易ならざる大事業であること、そして、ついでに付け加えさせていただけば、その成就のためにはそれまでの永い年月の中で体験してきた霊界生活での喜びも美しさも、すべてお預けにされてしまうということでした。

が、そう言い聞かされてこれを断った者は、私たちのうちの誰一人としていませんでした。かくして私たちは、他の仲間と共に地上へ戻ってまいりました。再生するのではありません。地上界の圏内で仕事をするためです。

 地上圏へ来てからのまず第一の仕事は、霊媒となるべき人物を探すことでした。これは、どの霊団にとっても一ばん骨の折れる仕事です。次に、あなたがたの言語(英語)を勉強し、生活習慣も知らねばなりませんでした。あなた方西洋人の文明も理解する必要がありました。

 続いてこの霊媒の使用法を練習しなければなりませんでした。この霊媒の口を借りて、幾つかの訓え───誰にでも分かる簡単なもので、したがってみんなが理解すれば地上が、一変するはずの真理───を説くためです。

 同時に私は、そうやって地上圏で働きながら、私を派遣してくれた高級霊たちと連絡を保ち、より立派な叡智、より立派な知識、より立派な情報を私が代弁してあげなければならなかったのです。初めのころは大いに苦労しました。今でも決して楽ではありませんが・・・・・・

 そのうち私の働きかけに同調してくれるものが次第に増えてまいりました。すべての人が同調してくれたわけではありません。居眠りしたままの方を好む者も大勢いました。

自分で築いた小さな牢獄にいる方を好む者もいました。その方が安全と考えたわけです。自由へ解放された後のことを恐れたのです。

 が、そうした中にも、そこここに、分かってくれる人を見出しました。私からのご利益は何もありません。ただ、真理と理性と常識と素朴さ、それに、近づいてくれる人の為をのみ考える、かなり年季の入った先輩霊としての真心をお持ちしただけです。

 その後は、私たちの仕事は順調に運び、多くの人々の魂に感動を与えてまいりました。無知の暗闇から抜け出た人が大勢います。自由の旗印のもとに、喜んで馳せ参じた人が大勢います。〝死〟の目的と〝生〟の意味を理解することによって、二度と涙を流さなくなった人が大勢います」


───魂は母体に宿った時から存在が始まるのでしょうか。それともそれ以前にも存在(前世)があるのでしょうか。

 「これは又、厄介な問題に触れる質問をしてくださいましたね。私は自分でこう思うということしか述べるわけにはまいりません。私はいつも人間の理性と思慮分別に訴えております。

もしも私の述べることが皆さんの理性を反発させ、知性を侮辱し、そんなことを認めるわけにはいかないとおっしゃるのであれば、どうぞ聞き捨てて下さい。拒絶していただいて結構です。

拒絶されたからといって私は少しも気を悪くすることはありません。腹も立てません。皆さんへの愛の気持ちに変わりはありません。

 ここにおいでのスワッファーも、相変わらず考えを改めようとしない者の一人です。他の者はみんな私の口車に乗って(?)前世の存在を信じるようになってくれているのですが・・・・・・

 私の知るかぎりで言えば、前世はあります。つまり生まれ変わりはあるということで、その多くは、はっきりとした目的を持つ自発的なものです」

 これを聞いたスハッファーが

 「私は再生の事実を否定したことはありませんよ。私はただ魂の成長にとって再生が必須であるという意見に反対しているだけです」

と不服そうに言うとシルバーバーチが

 「これはうれしいことを聞きました。あなたも私の味方というわけですな。全面的ではなくても・・・・・・」

と皮肉っぽく言う。するとスワッファーが言い返す。

 「あなたは、私も今生に再生してきているとおっしゃったことがあるじゃないですか。私はただ、再生に法則はないと言っているだけです」

これを聞いたシルバーバーチが穏やかにそれを否定して言う。

 「何かが発生する時、それは必ず法則に従っております。自発的な再生であっても法則があるから可能なのです。ここでいう法則とは、地上への再生を支配する法則のことです。この全大宇宙に存在するものは、いかに小さなものでも、いかに大きなものでも、すべて法則によって支配されているというのが私の持論です」


ここで米人ジャーナリストが関連質問をした。

───人間にとって時間が理解しにくいことが再生問題を理解しにくくしているというのは事実でしょうか。


 「例によって、私なりの観点からご説明しましよう。実は、あなたはあなたご自身をご存じないのです。あなたは物質界へ一度も顔を出したことのない側面があるのですが、あなたはそれにお気づきになりません。

物的身体を通して知覚した、ごくごく小さな一部分しか意識しておられません。が、本当のあなたは、その身体を通して顕現しているものより、はるかに大きいのです。

 ご存じの通り、あなたはその身体そのものではありません。あなたは身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではありません。

その証拠に、あなたの意識はその身体を離れて存在することが出来ます。たとえば睡眠中がそうです。ただし、その間の記憶は物的脳髄の限界のために意識されません。

 結局あなた方が意識できる自我は、物質界に顕現している部分だけということになります。他の、より大きい部分は、それなりの開発の過程をへて意識できるようにならないかぎり、ごく稀に、特殊な体験の中で瞬間的に顔をのぞかせるだけです。一般的に言えば、大部分の人間は死のベールをくぐり抜けて初めて真の自我を知ることになります。

 以上があなたのご質問に対する私の回答です。今あなたが物的脳髄を通して表現しておられる意識は、それなりの開発法を講ずるか、それともその身体を棄て去るかのいずれかでないかぎり、より真実に近いあなたを認識することはできないということです」


───この地上には、あなたの世界に存在しない邪悪なものが溢れているとおっしゃいますが、なぜそういう邪と悪とが存在するのでしょうか。

 「権力の座にある者たちのわがままが原因となって生じる悪と邪───私は〝無明〟という言葉の方が好きですが───、それと、人類の進化の未熟さゆえに生じる悪と邪とは、はっきりと区別する必要があります。

 地上の邪と悪には、貧民(スラム)街ができるような社会体制の方が得をする者たち、儲けることしか考えない者たち、私腹を肥やす為なら同胞がどうなろうと構わない者たちといった、現体制下の受益者層の存在が原因となって発生しているものが実に多いことを知らねばなりません。そうした卑劣な人種がのめり込んでしまった薄汚い社会環境があるということです。

 しかし、他方において忘れてならないのは、人間は無限の可能性を秘めていること、人生は常に闇黒から光明へ、下層から上層へ、弱小から強大へ向けての闘争であり、進化の道程を絶え間なく向上して行くものであるということです。闘争もなく困難もなければ、霊にとって征服すべきものが何もないことになります。

 人間には神の無限の属性が宿されてはいますが、それが発揮されるのは、努力による開発を通してしかありません。その開発の過程は黄金の採取と同じです。粉砕し、精錬し、磨きあげなければなりません。地上にも、いつかは邪悪の要素が大幅に取り除かれる時が来るでしょう。

しかし、改善の可能性が無くなる段階は決して来ません。なぜなら、人間は内的神性を自覚すればするほど、昨日の水準では満足できなくなり、明日の水準を一段高いところにセットするようになるものだからです」

℘190
───イエスの山上の垂訓にある〝黄金律〟(人からしてもらいたいと思うことを人にしてあげなさい) は〝適者生存〟の原理と、時として矛盾することがあるように思えるのですが・・・・・・

 「私は進化の法則を、無慈悲なものほど強く生き残るという意味での “適者生存〟 と解釈することには賛成できません。適者生存の本当の意味は、生き残るための適応性を具えた者が存在する、ということです。言い換えれば、存続するための適性を発揮した者が生き残るということです。

 注目していただきたいのは、生き残っている動物を観察してみると、それが生き残れたのは残虐性の性でもなく適者だったからでもなく、進化の法則に順応したからであることが明らかなのです。

もしも適者のみが生き残ったとすると、なぜ有史以前の動物は死滅したかといいう疑問が生じます。その当時はいちばん強い生物だったはずですが、生き残れませんでした。

 進化の法則とは成長の法則の一つです。ひたすらに発展していくという法則です。他の生命との協調と互助の法則です。つまるところ、イエスの黄金律に帰着します」


〝偶然〟の要素について質問さされて───

 「世の中が偶然によって動かされることはありません。どちらを向いても───天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、顕微鏡で極小の生物を検査しても───そこには必ず不変不滅の自然法則が存在します。

あなたも偶然に生まれてきたのではありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした秩序の世界には、偶然の要素の入る余地はありません。

 全生命を創造した力は、その支配のために、規則ないしは法則、あるいは摂理というものを用意したのです。その背景としての叡智も機構も完璧です。すべては霊的なものです。

すべての生命は霊的存在だからです。生命が維持されるのは、その本質が物質ではなく霊だからです。霊は生命であり、生命は霊です。

 生命が意識を持った形態を取る時、そこには個としての霊が存在することになります。そこが動物と異なるところです。人間は個別化された霊、つまり大霊の一分霊なのです。

 人生には個人としての生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応をしたり逆らったりしながら生きております。

逆らえば、そこに暗黒と病気、困難と混乱と破産、悲劇と流血が生じます。順応した生活を送れば、叡智と知識と理解力と真実と正義と公正と平和がもたらされます。それが黄金律の真意です。

 人間はロボットではありません。一定の枠組みの中での自由意思が与えられているのです。決断は自分で下さないといけません。個人の場合でも国家の場合でも同じです。摂理に適った生き方をしている人、黄金律を生活の規範として生きている人は、大自然から、そして宇宙から、よい報いを受けます」


 続いて〝汝の敵〟に対する態度のあり方について、こう説いている。

 「私から見れば、どの人間もみな〝肉体を携えたスピリット〟です。私の目にはドイツ人もイギリス人もアメリカ人もありません。みんなスピリットであり、大霊の一部であり、神の子です。

 時には対症療法としてやむを得ず〝罰〟を与えねばならないこともあるでしょうが、すでに述べたとおり、新しい世界は憎しみや復讐心からは生まれません。

全ての人類のためを思う心からしか生まれません。復讐を叫ぶ者、目には目を、歯には歯をの考えを持つ者は、将来の戦争の種を蒔いていることになります。

 全ての人間には生きる場が与えられております。理性と常識とによって問題を解決していけば、全ての者に必要なものが行きわたるはずです。そう申し上げるより説明のしようがありません。

 あなたの国(米国)はなぜあの短い期間にあれだけの進歩を成し遂げたか。それは一語に尽きます───寛容心です。英国が永い歴史の中で発展してきたのも、寛容心があったからこそです。

米国は人種問題、国籍問題、宗教問題を解決してまいりました。その歴史を通じて、全ての人種にそれぞれの存在価値があること、人種が増えるということは、いずれは優れた国民を生むことになることを学んできました。

 今あなた方の国民が体験していることは、やがて全世界が体験することになります。米国は、世界問題解決のミニチュア版のようなものです。たとえば、あなたの存在を分析してみても、遺伝的要素の一つ一つは確認できないでしょう。

それと同じで、米国は雑多な人種から構成されておりますが、その一つ一つが存在意識を持っており、雑多であるが故に粗末になるということはありません。逆に、豊かさを増すのです。

 成長の途上においては、新しい要素の付加と蓄積とがひっきりなしに行われ、その結果として最良のものが出来上ります。

それは自然と言うものが新しい力、新しい要素の絶え間ない付加によって繁栄しているものだからです。限りない変化が最高の質を生み出すのです。大自然の営みは、いっときの休みもない行進です」


 その日のもう一人のゲストに、ポーランドの役人がいた、そしてまず最初に次のような質問をした。


───霊界の美しさを味わうことができるのは、地上で美しさを味わうことができた者に限られるというのは本当でしょうか。

 「そんなことはありません。それでは不公平でしょう。地上には真の美的観賞力を養成するための施設がないのですから、数知れぬ人が美しさを味わえないことになってしまいます。

霊の世界は償いの世界であると同時に、埋め合わせの世界でもあります。地上世界では得られなかったものが補われて、バランスを取り戻すのです」


 これを聞いてメンバーの一人が───


───今の方の質問の背景には、人間が死ぬ時はこの世で培ったものを携えていくという事実があるように思うのですが・・・・・・


 「地上の人間は、無限の精神のほんの一部を表現しているにすぎないことを銘記しないといけません。それを表現する窓が五つ(五感のこと)しかありません。それも至ってお粗末です。

 それが肉体から解放されると、表現の範囲が飛躍的に大きくなります。精神がその本領を発揮しはじめます。表現器官の性能がよくなるからです。

霊界にはあらゆる美が存在しますが、それを味わう能力は、霊性の発達の程度いかんに掛っています。二人の人間に同じ光景を見せても、一人はその中に豊かさと驚異を発見し、もう一人は何も発見しないということもあり得ます。

 それにもう一つ別の種類の美───魂の美、精神の美、霊の美があり、その美しさの中に、永遠不変のものが有する喜びを味わうことができます。

充実した精神───思考力に富み、内省的で人生の奥義を理解出来る精神には、一種の気高さと美しさがあるものです。それは、その種のものとは縁遠い人、従って説明しようにも説明出来ない者には、見られないのです」

℘196
───美の観賞力を養う最良の方法は何でしょうか。

 「それも、大体において、各個人の霊的発達の問題です。適切な教育が全ての人に等しく利用できることを前提として言えば、美を求める心は、魂の発達とともに自然に芽生えてくるものです。

価値観が高まれば高まるほど、精神が成長すればするほど、醜い、卑劣な環境に不快感を抱くようになるものです。波長が合わなくなるからです。自分の置かれた環境をより美しくしたいと思い始めたら、それは進化と成長の兆しであると思ってよろしい。

 地上界をより美しくしようとする人間の努力は、魂が成長していく無意識の発現です。それは同時に、無限の宇宙の創造活動へ寄与していることでもあります。神は人間に、あらゆる材料を提供して下さっております。その多くは未完の状態のままです。

そして、地上のすみずみにまで美をもたらすには、魂・精神・理性・知性・成長の全てを注ぎ込まねばなりません。

最後は何事も個人単位の問題であり、各自の成長に帰着します。霊性が開発すればするほど、進化すればするほど、それだけ神の属性を発現することになり、それだけ一層、美を求めるようになります。私がつねづね霊的知識のもつ道徳的ないし倫理的価値を強調するのはそのためです。

貧民(スラム)街が存在してならないのは、神性を宿す者がそんな不潔な環境に住まうべきではないからです。飢餓がいけないのは、神性を宿す肉体が飢えに苦しむようであってはならないからです。

悪がすべていけないのは、それが内部の神性の発現を妨げるからです。真の美は、物質的、精神的、霊的のすべての面において、真の調和がいきわたることを意味します」


───美的観念を植えつけるにはどうしたらよいでしょうか。

 「個々の魂が自ら成長しようとすることが必須条件です。外部からありとあらゆる条件を整えてあげても、本人の魂が成長を望まなければ、あなたにも為す術がありません。

ですから、あなたに出来ることは霊的知識を広めることによって無知をなくし、頑迷な信仰をなくし、偏見をなくしていくことです。とにかく、知識のタネを蒔くのです。

時にはそれが石ころだけの土地に落ちることもあるでしょう。が、根づきやすい土地も至るところにあります。蒔いたタネはきっと芽を出します。

 私たちの仕事は、真理の光を可能な限り広く行きわたらせることです。その光は徐々に世界中を照らすようになり、人間が自分たちの環境を大霊の分子、すなわち神の子が住まうにふさわしいところにしようと望めば、迷信という名の暗闇のすべて、醜さと卑劣さを生み出すものすべてが改善されていくことでしょう」

Sunday, March 1, 2026

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

  Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze



九章  宇宙創造の目的

 霊的教訓の真髄は確かに単純素朴かもしれないが、すべての人間がそれだけで満足するかというと、そうはいかない。ある日の交霊会で〝宇宙が創造された目的は何か〟という難しい質問が出された。その質問者は具体的にまずこう訊ねた。


───人間は徐々に進化を重ねて、究極的に大霊の中に吸収されてしまうのであれば、なぜ人間を創造する必要があったのでしょうか。

 「私は、人間が最後は大霊に吸収されてしまうという説をとっているわけではありません。いつも申し上げているように、私は究極のことは何も知りません。始まりのことも知りませんし、終わりのことも知りません。

 私に言わせれば〝存在〟はいつからということはなく、いつまでということもなく、いつまでも存在し続けます。地球上の全生命が他の天体の生命と同じように霊の世界を通過して絶え間なく進化し、意識が完全性を目指してゆっくりと上昇して行きつつある状態が〝存在〟です。

 その意識なるものがいつ芽生えたかについても私は何も知りません。いつ完全の域に達するかについても知りません。私には完全とか吸収(寂滅)とかの時が来るとは思えません。

なぜなら、魂というものは霊性を高めて向上するにつれて、言いかえれば、過去の不完全性の不純物を払い落とすごとに、更に大きな進歩の必要性を自覚するものだからです。

進化すればするほど、なお進化すべき余地があることに気づくものです。高く登れば登るほど、その先にはまだ登らねばならない高いところがあると知ることの連続です。

 私の考え方は、大霊の一部である意識の、生活の中における開発と発展に主眼を置いています。この意識なるものは、私の知る限り無窮の過去から常に存在してきたものですが、それがさまざまな形態を通して顕現し、その表現を通して絶え間なく洗練されつつ、内在する神性をより多く発現していくのです。

 これまで、ありとあらゆる生命現象を通して顕現してきて、今なお顕現し続けております。いま人間という形態で表現している意識も、かつては動物・鳥類・魚類・植物その他の生物と、無生物と呼ばれているもの全てを通して表現されてきたのです。

これからも進化と成長を続け、発展し、拡張し、神性を増し、物質性を減らしていきます。それが創造の全目的です。大霊の一部である意識が、千変万化の形態を通して絶え間なく顕現していくということです。

 そのことに加えて、私は是非次のことを申し上げておきたいと思います。それは人間の存在を創造の大事業と切り離す、あるいは、縁のない存在として考えてはならないと言うことです。

なぜなら人間もその創造活動に参加しているからです。創造的エネルギーが人間を通して働いているのです。あなたの人生、あなたの努力、あなたの葛藤が、無限の創造活動に貢献するということです。

 一つ一つの生命がそれなりの貢献をしております。その生命が高級になればなるほど、つまり愛他性を増し、排他性を減らすにつれて、変化に富んだ創造の世界に美しさを加えてまいります。

画家や音楽家や詩人だけが、美への貢献をしているのではありません。あらゆる生命が───そのつもりになれば───美をもたらすことが出来るのです」


 創造の問題は必然的にバイブレーション(波動・波長・振動)の問題となる。


───スピリチュアリズムでは〝バイブレーション〟という用語が良く使用されますが、これを分かり易く説明していただけませんか。

 「生命のあるところには必ず運動があり、リズムがあり、鼓動があり、バイブレーションがあります。生命は活動せずにはいられないのです。静止したり惰性的になったりすることはありません。

生命には必ず運動が付随します。その運動を理解し、その意味を理解するには、まずその定義から始めなければなりません。

 私がバイブレーションという時、それはエネルギーの波動となって顕現している生命のことで、無数の生命形態ないしは現象の一つを指しております。

存在するものは全て振動(バイブレード)し、何かを放射し、活動しております。私たちがこうして地上へ働きかけることが出来るのも、バイブレーションのお陰です。

 私たちは、普段は物的感覚の領域を超えたバイブレーションの世界で生活しております。霊的エネルギー、霊的パワー、霊的現象は、ことごとく物質より感度の高い、微妙なバイブレーションから成り立っております。

 地上のように、物質に浸り切り包まれている世界と交信するためには、次の二つの方法のうちのどちらかを取らなければなりません。すなわち、人間の側がその低いバイブレーションを高めてくれるか、それとも私達霊側がその高いバイブレーションを下げるかです。

両方が歩み寄ればよいのでは・・・・・・誰しもそうお考えになるでしょう。ところが、どうして、どうして、なかなかそううまくはいかないのです。いつも私たちの方が遠路はるばるおりてこなければなりません。地上世界からの援助はそう多くは望めないのです。

 この霊媒(バーバネル)を使ってしゃべるためには、私は私本来のバイブレーションを下げております。その状態から抜け出て私本来の界へ戻る時は、その界にあった意識を取り戻すために、バイブレーションを加速しなければなりません。

このように全てはバイブレーションの操作によって行われるわけです。それを簡潔に説明するにはバイブレーションという用語しか見当たりません。

 それにしても、永いあいだ霊的な分野のことには一切耳を貸そうとせず、目を瞑って来た科学者が、今になって、物質の謎を解くカギはバイブレーションにあるという認識をもちはじめたことは、興味深いことです」


続いて祈りの問題が持ちだされると───

 「祈りとは何かを理解するには、その目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願い事を口にしたり、決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生する様な調子で陳腐な言葉を大気中に放っても、耳を傾ける人はいませんし、訴える力を持った波動を起こすこともできません。

 私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意がこもっておらず、それを口にする人みずからがその内容に無頓着であることが普通です。永い間それをロボットのように繰り返しているに過ぎないからです。

 真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。しかし、いかなる精神的行為も、身をもって果たさねばならない地上的労力の代用とはなり得ません。

 祈りは、義務を回避しようとする臆病者の避難場所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責任を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果律を少しも変えることはできません。

 人のためにという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出る祈り以外は、すべて無視されるがよろしい。その後に残るのが心霊的(サイキック)ないし霊的(スピリチュアル ※) な行為であるがゆえに自動的に応答のある祈りです。

自動的ですから、その応答は必ずしも本人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す、自然な結果です。


 ※───サイキックというのは五感の延長としての、オカルト的な超能力が生じさせるもので、物質次元の中に入る。スピリチュアルというのは、物質次元から脱して霊的次元のエネルギーや法則が生ぜしめるもの───訳者。


 あなた方を悩ます全ての問題と、困難に対して、正直に、正々堂々と、真正面から取り組んだ時───解決のためにありたけの能力を駆使して、しかもなお力が及ばないと悟ったとき、その時こそ何らかの力、

自分より大きな力を持つ存在に対して、問題解決のための光を求めて祈る資格ができたと言えましょう。そして、きっとその導き、その光を手にされる筈です。

あなたのまわりにいる洞察力に富んだ霊は、あなた方の魂の状態をありのままに見抜く力があるからです。たとえば、あなた方が本当に正直であるか否かは、一目瞭然です。

 さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。すなわち、肉体に宿るがゆえの宿命的な障壁を克服して、本当の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。

なぜならば、その魂の行為そのものが、自動的にそれ相当の結果を招来するものだからです。

 このように一口に祈りといっても、その内容・動機を見分けた上で論ずる必要があるのです。

 ところでキリスト教の〝主の祈り〟のことですが、あのように型にはまった祈りは、人類にとって何の益ももたらさないことを断言します。

単なる形式的行為は、その起源においては宿っていたかも知れない潜在的な力まで奪ってしまいます。儀式の一環としては重宝かも知れませんが、人間にとっては何の役にも立ちません。

 そもそも〝神〟とは法則なのです。自分で解決できる程度の要求で神の御手を煩わせることはありません。それに、ナザレのイエスがそれを口にした (とされる) 時代から二千年近くも過ぎました。

その間に人類も成長し、進化し、人生について多くのことを悟っております。イエスは決してあの文句の通りを述べたわけではありませんが、いずれにしても当時のユダヤ人に分かり易い言葉で述べたことは事実です。

 今のあなた方には、父なる神が天にましますものでないことくらい、お分かりになるでしょう。完全な摂理である以上、神は全宇宙、全生命に宿っているのです。この宇宙のどこを探しても、完璧な法則が働いていない場所は一つとしてありません。

神は地獄のドン底にいるわけでも、天国のいちばん高いところに鎮座ましますものでもありません。大霊として宇宙全体にあまねく存在し、宇宙の生命活動の一つ一つとなって顕現しております。

 〝御国の来まさんことを〟などと祈る必要はありません。地上天国の時代は、いつかは来ます。かならず来るのです。しかし、それがいつ来るかは霊の世界と協力して働いている人たち、一日も早く招来したいと願っている人たちの努力一つに掛っております。

そういう時代が来ることは間違いないのです。しかし、それを速めるか遅らせるかは、あなた方人間の努力いかんに掛っているということです」


───モーゼの「十戒」をどう思われますか。

 「もう時代遅れです。今の時代には別の戒めが必要です。

 人間の永い歴史のどの時代にも述べられたものであっても、それを持って神の啓示の最後と受け止めてはいけません。啓示というものは連続的かつ進歩的なものです。

その時代の人間の理解力の程度に応じたものが授けられているのです。理解力が及ばないほど高等すぎてもいけませんが低すぎてもだめで、つまり、理解の及ぶ範囲より一歩先んじたものでなければなりません。

 霊界から授けられる叡智は、いつの時代にも一歩先んじております。そして人類がその段階まで到達すれば、次の段階の叡智を受け入れる準備ができたことになります。

人類がまだ幼稚な段階にあった時代に、ある特殊な民族のために授けられたものを、なぜ、当時とは何もかも事情の異なる今の時代に当てはめなければならないのでしょうか。

 もっとも私は〝十戒〟ならぬ〝一戒〟しか持ち合わせておりません。〝お互いがお互いのために尽くし合うべし〟───これだけです」


───霊力とはどんなものでしょうか。実感があるのでしょうか。目で見て描写出来る性質のものでしょうか。

 「ずいぶん解釈の難しい言葉をお使いになられましたね。〝実感があるか〟とおっしゃるのは、どういう意味でしょうか。五感に反応するかということでしょうか。その意味でしたら、実感はありません。

真実味があるかという意味でしたら、知識に真実味があり、進化に真実味があり、愛に真実味があり、ありとあらゆるエネルギーに真実味があるように、霊力にも真実味があります。

 私たちにとっては、もちろん真実味はありますが、霊覚が発達せず、その真実味が認識できる段階まで来ていない者には、その存在は実感できません。一種のエネルギーです。霊的なエネルギーです、生命活動を操るエネルギーです。

無知な人、偏見を抱く人、迷信に動かされるような人は、自分でいくつもの精神的障壁をこしらえ、その一つ一つが霊力の働きの障害となります。それが何時になったら突き崩せるかは、その障害の性質によって違ってきます。

 人によっては、霊的なものに漠然とした概念すら抱くことなく、地上生活を終えることがあります。そういう人は生命がすなわち霊であり、霊がすなわち生命であること、地上の全生命は霊力のお陰で存在が維持されていることに気づきません。

霊的実在についてはまったく無知で、言わば、死が解放してくれるまで肉体という牢獄の中に閉じ込められた生活を送るわけです。といっても、死んですぐに実在に目覚めるわけではありません。ご存じのように、それには永い調整期間が必要です。

 そうした、完全に無知な人間とは別に、生命現象を創造し、支配し、導いている超越的エネルギーを、何らかの体験の中でチラリと垣間見る程度に意識する人もいます。

さらには、あなた方のように、こうして直接的に知識を獲得して、日常生活の中で霊力の恩恵にあずかる人もいます。心と精神と魂の窓を開いた方です。こうした方は、地上の生命現象の全てを表現している霊力と同じものの道具として、いつでも使われる用意が整っている方です。

 霊界のほうでも、あなた方を通して他の受け入れ準備の整っている者を少しでも早く目覚めさせようと腐心しております。そうしたことに使用されるのは、みな霊力なのです。生命現象の全てを統制している力は、私の霊団が操作し、
私がこうして話すことを可能にしてくれている力と同じものなのです」


 そのシルバーバーチ霊団とホームサークルとのつながりについて出された質問に答えて、こう語る。

 「信じることです。わけも分からず信じるのではなく、確固とした知識の上に立った信念を持つことです。確信です。これは使い古された古い用語ですが、私は何一つ新しい教えは持ち合わせないのです。

それがあなた方の精神構造の一部となり切るまで、私は同じことを声の続くかぎり何度でも呼び続けます。確信をもつことです。あなた方が、あなた方なりの役割を果たして下さっていれば、私たちは私たちなりの役割を果たします。決して見捨てるようなことはいたしません。

 人間がインスピレーションにあずかるチャンスはいくらでもあります。ところが取り越し苦労・疑念・不安・こうした邪念が障害となっているのです。こういう念が心に宿るスキを与えてはなりません。

 あなた方の協力を得て為さねばならない仕事が山ほどあるのです。目的意識を忠実に持ち続けることによって、私を援助していただきたいのです。これまでの私の永い体験をもってしても、容易に克服できない障害が沢山あります。

だからこそ、みなさんの私への忠誠心、確信、なかんずく、大胆不敵な心、つまり恐怖心・悩み・心配を精神に根づかせないように心掛けることで、私の力となっていただきたいのです。

 行く道を問題が遮ることがあるかもしれません。が、構わないで放っておけば、そのまま行ってしまいます。居座ることはありません。解決できないほど難しい問題は生じません。

背負えないほど重い荷を背負わされることはありません。取り越し苦労はいけません。明日がもたらすものに不動の信念と断固たる精神で立ち向かいなさい。万事うまく行きます。

 世の中には、あなたのように霊的真理を手にした者による救いを求めている人が大勢います。あなた方は、そういう人を援助し、使命を果たす備えができていなければなりません。

どうのこうのと立派なことを言っても、それを人のために役たてなかったら、つまり人間が手にした知識を他の人に分けてあげなかったら、せっかくあなたに授けられた知識の本来の意義を、自分の人生に活かしていないことになるのです。

 為さねばならないことが山ほどあります。私たちの努力によって喜ばせてあげられる人が、あちらこちらにも大勢いることを自覚して、心躍る気分で仕事に邁進しようではありませんか」


 別の日の交霊会で、これから霊媒のバーバネルがトランス状態に入ってシルバーバーチがしゃべりだすのを待ちながら、二人のメンバーがスピリチュアリズムの宣伝活動の価値について議論し合っていた。やがてシルバーバーチがバーバネルに乗り移って、こう語った。

 「私たちがこうして地上へ戻ってくるのは一体何のためだとお考えでしょうか。少数の特殊な人のため? それとも大勢の人々のため?

 私たちの説く真理は、ひと握りの人のために、どこかの小さな団体、あるいは秘密結社のようなところに仕舞い込んでおくべきものでしょうか。真理を知らずに迷い、絶望的になり、あるいは悲嘆にくれている数知れない人々の姿が、私たちに見えていないとでもお思いでしょうか。
℘160 
 私たちがお届けするメッセージには重大な目的があるのです。世界中の人間に例外なく宿る宇宙の大霊、すなわち神の崇高な資質を顕現させることを目的としているのです。まず第一に人生を支配している法則───物的生活・精神的生活・霊的生活を支配している法則の存在を説かなければなりません。

続いて人生の目的、地上に生まれてきた理由、内部に宿るすばらしい能力、潜在的神性、人間に為しうる貢献度、目指すべき理想世界、身につけるべき知識、到達できる極致を理解させなければなりません。

 私たちの説く真理は、最後は地上のすべての人間、それも地上に生きているうちに実生活に応用することによって実地に学ばせるために、地上のすみずみに至るまで広められる使命を担っているのです。

誤りを訂正し、不足を補い、これまでも人間が愚かにも、しでかしたことの後片付けをするだけで何十年も何百年も費やします。地上の人間がこうまで無知でなければ、そのエネルギーを別の用途へ向け、時間も無駄も省けるのですが・・・・・・

 ここにお集まりのみなさんには、すでにその知識があります。霊的知識について少しばかり多くのことを学んでおられます。霊的交信の素晴らしさも味わわれました。

永遠に別れてしまったと思っていた、愛する人との縁を、再び取り戻されました。遠大な神の計画の一端をご覧になりました。そしてその見事な構想に驚愕されました。

霊力の証しも幾つかご覧になられました。高い世界からのインスピレーションの喜びも味わわれました、高い世界の知識の泉にも近づかれました。

 こうしたことは一体何のためだったのでしょうか。自分一人で楽しむため? もちろん違います。知識には責任が伴います。今度は代ってあなた方が、その知識を自分にできる範囲内で広めなければならないのです。あなたがたが得た喜びが何であれ、それを他の人に回してあげるのが責務です。

そうすることで一人でも多くの人が霊力に近づき、高い世界で待機している高級霊の愛を知り、これまで多くの男女に大霊の雄大な計画の一翼を担う道具となる決意をさせた、その強烈な力によって、さらに多くの人が魂を鼓舞されるように努力しなければならなのです。

 知識に制約を加えようともくろむ人種とは、縁を切ることです。知識は自由に広められるべきものです。それが無知と迷信と、あまりに永い間、人類の足枷となってきたものを全て打ち崩すことになるのです。

知識こそが魂を解放し、大霊からの授かりものである自由の喜びを満喫することになるのです。

 太陽の輝きを拝めるはずの人間が、ろうそくの明かりしか知らないとは、何という愚かしいことでしょう。私が一個の道具に過ぎないように、皆さんも道具です。

どこの誰ということなく、全ての人の心を解放してあげるのが私たちの仕事です。それが地上世界に進歩をもたらし、大霊の子すべてが霊的摂理にもとづいて意義ある人生が送れるように、社会秩序を改めていくのです



 最後にこれからの見通しについて───

 「私の関心ごとは真理を普及することだけです。真理こそが最も大切です。私のいう新しい世界が基盤とすべき永遠不変の霊的真理を理解していただくためには、私はひたすら自分を役たてることだけを考えております。

その大事業から外れたことをする人は、本来同胞のために捧げるべきエネルギーをムダ使いしていることになるのです。

 私たちがこうして地上へ戻ってきたそもそもの目的は、聞く耳を持つ人間の魂に刺激を与えて、新しい世界の構築のために地上の人間なりの役割を果たしていただくことにあります。

地上世界は、形式への盲従が度を越しております。因習を大切にし過ぎます、私は、知識の普及と、それを今なお暗闇に居る人々の啓発のために使用していただくこと以外には、関心はありません。

私にとって宗教はたった一つしかありません。人のために自分を役たてること───これだけです、教会・聖堂・信条・教理、こうしたものには私はまるで興味がありません。行為・生活・動機───これで評価します。
℘163  
 霊的な知識を得た人が、それを正しく普及していく上において心しなければならないことは、それを無理やり押し付けることによって、肝心の霊界からの邪魔になるような事態になってはいけないということです。

霊力は勝手に制約したり命令したりすることはできません。発現できると見たら、どんな人を通してでも流入します。私たちが欲しいのはそういう道具、霊媒、普通の男女───霊力が受け入れられ、霊の教えが語られ、知識が伝達されるような精神構造をした人たちです。これはのんびり構えていられない問題です。

 私はなぜこの地上へ戻ってくるのか───実は、霊界へ送り込まれてくる人間の中に、もしも地上で霊的知識を身につけていたら、こうまで酷くはならなかったであろうと思われる廃残者、堕落者、霊的生活への備えがまるでできていない者が、余りに多過ぎるのです。

無知と恐怖と迷信と偏見に満ちたものばかりなのです。そうした地上の暗黒面を助長している勢力を打ち崩すことが、私たちの仕事なのです。

 私はそれを敢えてスピリチュアリズムと呼ぶつもりはありません。私は自然法則について語っているだけです。〝父なる神〟などという言い方もいたしません。私は宇宙の大霊という呼び方をしています。法則に目を向けます。宇宙の創造の目的に目を向けます。

 人間は霊的に成長しなければならないのです。もしも地上で為すべきことの一部だけでも成就できたら、避けようにも避けられない宿命である次の霊的生活への準備が整ったことになります。そうなるように仕向けるのが、私たちがこうしてあなた方の世界へ戻ってくる目的です。

同胞である地上人類への愛に発しているのです。情愛の絆がわれわれを結び付け、私たちがあなた方に真理を語り、代ってあなた方が同胞のためにそれを語り継いでくださればよいのです。

 私は、ただ私が見てきたままの事実を述べているだけです。そしてその評価は、あなた方の理性に訴えております。それが最高の判定者であると考えるからです。とにかく正しい知識を広めることです。迷信を突き崩すのです。光明を輝かせ、闇を無くすのです。

古くからの誤った権威を滅ぼすのです。強欲・貪欲・私利私欲・旧態依然たる教理と慣行の息の根を止めるために、何とかしなければなりません。

 そうしたもの全てが霊力の敵です。断じて無くさないといけません。新しい世界にとっての障害物です。行く手を邪魔するものは、たとえ一時的にせよ、神の計画を妨害していることになるのです。

真理はいかなる組織、団体よりも大切です。難しく考えることはありません。真理は極めて単純なのです。ところが人間はそれでは気が済まないのです。

 形式と慣習を好みます。よその形式と慣習を真似したがります。よそが教会をたてると、自分のところも教会をたてないと気がすみません。よそが祈祷で儀式を始めるようになると、自分のところでも祈祷文をこしらえます。よそが賛美歌を歌うようになると、自分のところでも賛美歌をこしらえます。

もっとも、その多くは文句が同じで、歌い方を変えているだけですが・・・よそが説教を始めると、自分たちも説教を始めます。

 そんなことをしなくても、ただひたすら霊力を第一に考えておれば、大霊についての知識と霊的法則の普及のための合流点は、いくらでもあるのです。そのことが何より大切です。

 レンガはあくまでもレンガです。建築物はあくまでも建築物に過ぎません。そんなものに手を合わせてはいけません。忠誠を捧げるべきものは宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不変の摂理です。

そのことを知った者は、その真理の炎を絶やさぬように努力し、向かうべき方向も分からずに迷っている人々に、いつでも希望と慰めと啓示を与えてあげられるようになることが勤めです。

 地上界は暗闇に満ちております。人生に疲れ、生きる意欲を失い困惑している人々、慰めの一言、一片の真理を渇望している人々が大勢います。あなた方による援助を必要としております。

そういう人々のために、あなた方は一刻を惜しんで真理普及のために努力すべきです。その霊的真理こそが、その人たちにとって人生を建て直す盤石の土台となることでしょう」

霊訓 「上 」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


8節

本節の内容著者の信仰上の遍歴
宗教の二面性
神とは
神と人間
理性なき信仰
派閥主義
賞と罰
神の絶対的公正
神は哀れむが情けはかけず
人間としての生活規範
神と同胞と自己への責務


〔翌日、前回の通信に関連した長い入神談話があったあと、インペレーターと名のる同じ霊がいつものレクターと名のる筆記者を使って、再び通信を送って来た。それが終わってから交霊会が開かれ、その通信の内容についての議論が交わされた。その中で新たな教説が加えられ、私が出しておいた反論に対する論駁が為された。当時の私の立場から観ればその教説は、論敵から無神論的ないし悪魔的と言われても致し方ないように思われた。私なら少なくとも高教会派的(1)と呼びたいところである。そこで私はかなりの時間をかけてキリスト教の伝統的教説により近い見解を述べた。

こうして始まった論争を紹介していくに当たって、当時の私の立場について少しばかり弁明しておく必要がある。私はプロテスタント教会の厳格な教理を教え込まれ、ギリシャ正教会およびローマ正教会の神学をよく読み、国教会の中でもアングリカン(2)と呼ばれる一派も、それまでに私が到達した結論に最も近い教義として受け入れていた。その強い信仰は自動書記通信によってある程度は改められていたが、本格的には国教会の教義を厳格に守る人、いわゆる高教会派の一人をもって任じていた。

が、この頃からある強烈な霊的高揚を覚えるようになった。これに関してはこれから度々言及することになると思うが、その高揚された霊的状態の中で私は一人の威厳に満ちた霊の存在とその影響を強く意識するようになり、さらにそれが私の精神に働きかけて、ついには霊的再生とも言うべき思想的転換を惹き起こさせられるに至った。〕


そなたはわれらの教説をキリスト教の伝統的教説と相容れぬものとして反駁した。それに関して今少し述べるとしよう。

そもそも魂の健全なる在り方を示す立場にある宗教は二つの側面をもつ。一つは神へ向かう側面であり、今一つは同胞へ向けての側面である。では、われらの説く神とは如何なる神か。

われらは怒りと嫉妬に燃える暴君の如き神に代わりて愛の神を説く。名のみの愛ではない。行為と真理においても愛であり、働きにおいても愛を措いて他の何ものでもない。最下等の創造物に対しても公正と優しさをもって臨む。

われらの説く神は一片のおべっかも要らぬ。法を犯せる者を意地悪く懲らしめたり、罪の償いの代理人を要求したりする誤れる神の観念を拒否する。況や天国のどこかに鎮座し、選ばれし者によるお世辞を聞き、地獄に落ち光と希望から永遠に隔絶されし霊の悶え苦しむさまを見ることを楽しみとする神など、絶対に説かぬ。

われらの教義にはそのような擬人的神の観念の入る余地はない。その働きによってのみ知り得るわれらの神は、完全にして至純至聖であり、愛であり、残忍性や暴君性等の人間的悪徳とは無縁である。罪はそれ自らの中にトゲを含むが故に、人間の過ちを慈しみの目で眺め、且つその痛みを不変不易の摂理に則(のっと)ったあらゆる手段を講じて和らげんとする。光と愛の根源たる神! 秩序ある存在に不可欠の法則に則って顕現せる神! 恐怖の対象でなく、敬慕の対象である神! その神についてのわれらの理解は到底そなたらには理解し得ぬところであり、想像すら出来ぬであろう。しかし、神の姿を見た者は一人もおらぬ。覗き趣味的好奇心と度を超せる神秘性に包まれた思索によって、神についての人間の基本的概念を曖昧模糊(あいまいもこ)なるものとする形而上的詭弁も、またわれらは認めるわけには参らぬ。われらは真理を覗き見するが如き態度は取らぬ。すでにそなたに述べた神の概念ですら(神学より)雄大にして高潔であり、かつ崇高である。それより更に深き概念は、告げるべき時期の到来を待とう。そなたも待つがよい。

次に、神とその創造物との関係について述べるが、ここにおいてもまたわれらは、長き年月に亙って真理のまわりに付着せる人間的発想による不純物の多くをまず取り除かねばならぬ。神によりて特に選ばれし数少なき寵愛者――そのようなものはわれらは知らぬ。選ばれし者の名に真に値するのは、己の存在を律する神の摂理に従いて自らを自らの努力によりて救う者のことである。

盲目的信仰ないしは軽信仰がいささかでも効力を示した例をわれらは知らぬ。ケチ臭き猜疑心に捉われぬ霊の理解力に基づける信頼心ならば、われらはその効力を大いに認める。それは神の御心に副うものだからであり、したがって天使の援助を引き寄せよう。が、かの実に破壊的なる教義、すなわち神学的ドグマを信じ同意すれば過ちが跡形もなく消される――生涯に亙る悪徳と怠惰の数々もきれいに拭い去られる――わずか一つの信仰、一つの考え、一つの思いつき、一つの教義を盲目的に受け入れることで魂が清められるなどという信仰を、われらは断固として否定し且つ告発するものである。これほど多くの魂を堕落せしめた教えは他に類を見ぬ。

またわれらは一つの信仰を絶対唯一と決め込み他の全てを否定せんとする態度にも、一顧の価値だに認めぬ。真理を一教派の専有物とする態度にも賛同しかねる。いかなる宗教にも真理の芽が包含されているものであり、同時に誤れる夾雑物も蓄積している。そなたらは気付くまいが、一個の人間を特殊なる信仰へ傾倒させていく地上的環境がわれらには手に取るように判る。それはそれなりに価値があることをわれらは認める。優れたる天使の中にさえ、かつては誤れる教義のもとに地上生活を送る者が数多くいることを知っている。われらが敬意を払う人間とは、たとえ信ずる教義が真理より大きく外れていても、真理の探求において真摯なる人間である。人間が喜ぶ枝葉末節の下らぬ議論には、われらは関知せぬ。キリスト教の神学を色濃く特徴づけているところの、理性的理解を超越せる神秘への覗き趣味には、われらは思わず後ずさりさせられる。われらの説く神学は極めて単純であり、理性的理解のいくものに限られる。単なる空想には価値を認めぬ。派閥主義にも興味はない。徒(いたず)らに怨恨と悪意と敵意と意地悪の感情を煽るのみだからである。

われらは宗教なるものを、われらにとりても人間にとりても、より単純な形で関わるものとして説く。修行場としての地上生活の中に置かれた人間――われらと同じく永遠不滅の霊であるが――は果たすべき単純なる義務が与えられ、それを果たすことによりて一層高度な進歩的仕事への準備を整える。その間、不変の摂理によって支配される。その摂理は、もし犯せば不幸と損失をもたらし、もし遵守(じゅんしゅ)すれば進歩と充足感を与えてくれる。

同時に人間は、曾て地上生活を送れる霊の指導を受ける。その霊たちは人間を指導監督すべき任務を帯びている。ただし、その指導に従うか否かは人間の自由意志に任せられる。人間には善意の判断を下す基準が先天的に具わっており、その判断に忠実に従い、迷うことさえなければ、必ずや真理の道へと導いてくれるはずのものである。善悪の判断を誤り背後霊の指導を拒絶した時、そこには退歩と堕落があるのみである。進歩が阻止され、喜びの代りに惨(みじ)めさを味わう。罪悪そのものが罰するのである。正しき行為の選択には背後霊の指示もあるが、本来は霊的本能によりて知ることが出来るものである。為すべきことを為していれば進歩と幸福が訪れる。魂が成長し完成へ向けてより新しく、より充実せる視野が開け、喜びと安らぎをもたらす。

地上生活は生命の旅路の一過程にすぎぬ。しかし、その間の行為と結果は死後にもなお影響を残す。故意に犯せる罪は厳しく裁かれ、悲しみと恥辱の中に償わねばならぬ。

一方善行の結果もまた死後に引き継がれ、霊界にてその清き霊を先導し高級霊の指導教化を受け易くする。

生命は一つにして不可分のものである。ひたすらに進歩向上の道を歩むという点において一つであり、永遠にして不易の法則の支配下にある点においても一つである。誰一人として特別の恩寵には与(あずか)れぬ。また誰一人として不可抗力の過ちのために無慈悲なる懲罰を受けることもない。永遠なる公正は永遠なる愛と相関関係にある。ただし、“お情け”は神的属性ではない。そのようなものは不要である。何となれば、お情けは必然的に刑罰の赦免を意味し、それは罪障を自ら償える時以外には絶対に有り得ぬことだからである。哀れみは神の属性であり、情けは人間の属性である。

徒に沈思黙考に耽り、人間としての義務を疎(おろそ)かにする病的信仰は、われらは是認するわけにはいかぬ。そのような生活によりて神の栄光はいささかも高められぬことを知るからである。われらは仕事と祈りと崇拝の宗教を説く。神と同胞と己自身(の魂と身体)への義務を説く。神学的虚構をいじくり回すことは、無明の暗闇の中にてあがく愚か者に任せる。われらが目を向けるのは実際的生活であり、それはおよそ次の如く要約できよう。

父なる神を崇め敬う(崇拝)……神への義務

同胞の向上進歩を手助けする(同胞愛)……隣人への義務

身体を大切にする(肉体的養生)……自己への義務

知識の獲得に努力する(知的進歩)……自己への義務

より深き真理を求める(霊的開発)……自己への義務

良識的判断に基づいて善行に励む(誠実な生活)……自己への義務

祈りと霊交により背後霊との連絡を密にする(霊的修養)……自己への義務

以上の中に地上の人間としての在るべき大凡(おおよそ)の姿が示されておる。いかなる教派にも偏ってはならぬ。理性の容認できぬ訓えに盲目的に従ってはならぬ。一時期にしか通用せぬ特殊な通信を無批判に信じてはならぬ。神の啓示は常に進歩的であり、いかなる時代によりても、いかなる民族によりても独占されるものではない。神の啓示は一度たりとも“終わった”ことはないのである。その昔シナイ山にて啓示を垂れた如く(3)、今なお神は啓示を送り続けておられる。人間の理解力に応じてより進歩的啓示を送ることを神は決してお止めにならぬ。

また、これも今のそなたには得心しかねることであろうが、全ての啓示は人間を通路としてもたらされる。故に多かれ少なかれ、人間的誤謬によって脚色されることを免れないのである。いかなる啓示も絶対ということは有り得ぬ。信頼性の証は合理的根拠の有無以外には求められぬ。故に新たなる啓示が過去の一時期に得られた啓示と一致せぬからとて、それは必ずしも真実性を疑う根拠にはならないのである。いずれもそれなりに真実なのである。ただ、その適用の対象を異にするのみなのである。正しき理性的判断よりほかに勝手な判断の基準を設けてはならぬ。啓示をよく検討し、もし理性的に得心が行けば受け入れ、得心が行かぬ時は神の名においてそれを捨て去るがよい。そして、あくまでそなたの心が得心し、進歩をもたらせてくれると信ずるものに縋(すが)るがよい。いずれ時が来れば、われらの述べたことが多くの人々によってその価値を認められることになろう。われらは根気よくその時節を待とう。そして同時に、そなたと共に、神が人種の隔てなく真理を求むる者すべてに、より高くより進歩的なる知識と、より豊かにして充実せる真理への洞察力を授け給わらんことを祈るものである。

神の御恵みの多からんことを!


〔注〕

(1)


High Church 英国国教会内の一派で、教会という組織の権威・支配・儀式等を重んじる。


(2)


Anglican カトリックとプロテスタントの両要素をもちながら、どちらにも偏らない要素を備えた一派で、総体的には高教会派的。


(3)


モーセの十戒。

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

  Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze


 
八章  新しい世界秩序の構築

    特定の日を決めて合同で祈ること、たとえばスピリチュアリストがそういう催しを行うことに意義があるのだろうか。そういう質問が発展して、スピリチュアリズムのそもそもの目的、すなわち魂の自由と解放による新しい世界の誕生が話題となった。まずシルバーバーチがこう語る。

 「私たちは時には冗談を言っては笑い、楽しい雰囲気の中で会を進めておりますが、こうしたささやかな集まりの背後に、大きな、そして深刻な目的が託されております。出席なさっている皆さんも、自分たちの力でどれほど多くの人々が光明を得ているかをご存じないでしょう。

 この霊媒の口から出る言葉は、高い界から送られてくるメッセージの一部を私が取り次いでいるのですが、これも皆さんにはすっかりお馴染となりました。

皆さんの生活の背景として、ごく当たり前の位置を占めるに至っております。もはや皆さんにとって、私の述べることに取り立てて耳新しいことや革命的なものはなくなりました。

 十数年前、あなた方は精神的ならびに霊的な自由を手にされました。永いあいだ尋ね求め、あれを取り、これを拒否し、神から授かった理性で試し、検討した末に、ついに私の述べるメッセージを真実のものと認められたわけです。

今では、私の説く単純で素朴な教えこそ永遠の真理であることを得心しておられます。

 しかし一方には、永いあいだ暗闇と懐疑と苦悩の中でさ迷っている人、こうした真理が魂の解放のメッセージとなるべき人が大勢いることを忘れてはなりません。

気の毒な状態から救い出してあげなければなりません。霊的真理には一人ひとりの人間を束縛から解放する意図が託されているのです。私たちの仕事は必ず一個の人間から始めます。人類全体も、個が集まって構成されているからです。

 一人、そして又一人と、非常にゆっくりとした根気のいる仕事ではありますが、それ以外に方法がないのです。大勢の人を一度に変えようとしても、必ず失敗します。

暗示が解け、普通の感覚に戻った時、すべてが忘れ去られます。そうした一時の興奮から目覚めたものは、気恥ずかしささえ味わうものです。

 ですから私たちは、あらゆる反抗と敵意と妨害の中にあっても〝点滴、岩をも穿つ〟の譬えで、一人また一人と、光明が射し真理を悟ってくれることを信じて、素朴ながらも繰り返し繰り返し説いてまいります。

その訓えの意味を十分に理解して価値を正しく評価して下さる方は、それ以後は後ろ髪を引かれる思いをすることなく、それまで永いあいだ魂を束縛してきた古い因襲的信仰に、きれいさっぱりと決別することでしょう。

 暗闇からはい出て、光明の世界へ辿り着いたのです。真実の光を見出したのです。それを〝理性〟で確認したのです。私たちが説く教えには、人間の理性が納得する筋が通っていること、人間の常識を怒らせる要素がないこと、人間の知性を反発させるものではないことを、皆さんはご存知です。

むしろ皆さんは、これほど明白な真実がなぜ受け入れられないのだろうかと、悩みにさえ思っておられるくらいです。

 私たちに反抗する大きな勢力がまだまだ存在することを忘れてはなりません。その中でも特に警戒を要するのが、キリスト教会という宗教のプロが有する既得の権力です。

彼らはそれを振りかざして、私たちの使命を阻止せんとすることでしょう。彼らはもはや何ら新しい恩恵は持ち合わせません。持ち出すものと言えば、カビの生えた古い教説ばかりです。
℘120
 彼らは、身は今の世にあっても精神は古い時代に生きていて、その過去の栄光を現代に蘇らせようとします。今の彼らには、それしか持ち合わせがないからです。教会は倒れかけた墓のごとく陰うつな空虚さに満ち、およそ神の霊の宿るところではなくなっております。

そういう宗教家が私たちを非難し、悪魔の手先である───信心深いお人好しや妄想に取りつかれ易い人間をだまそうと企てているのだ、と宣伝します。

 私たちはそういう宗教家を見て情けなく思わずにはいられません。彼らは、往々にして自分でもそうとは気付かずに、宗教家としての職責を裏切り、民衆を神へ導くことをしないどころか、神との間に垣根をこしらえ、

ただの書物に過ぎないもの、ただの教義に過ぎないもの、ただの建造物に過ぎないものに自らの魂を縛られ、それを真理より大切なものであると信じ切っております。

 私たちが酷しい言葉で非難のつぶてを投げるのは、そう言う宗教家に対してです。彼らは宗教家としては落第しているのです。苦しみと悲しみの海にさまよう無数の人々を導く資格を失っているのです。

神学と言う粗悪品を混入して、イエスがせっかくこの世にもたらした素朴な啓示の言葉を忘れてしまっております。

℘121
 私たちが説く宗教とはお互いがお互いのために尽くし合う宗教です。人のために役立つことが霊の通貨なのです。大霊の子である同胞のために自分を役たてるということは、とりもなおさず大霊のために役たてることであり、それを実行した人は。立派に宗教的人間といえます」


───伝統的宗教に対するわれわれの態度は寛容的であるべきでしょうか。厳しい態度で臨むべきでしょうか。

 「相手が誰であろうと、臆せず真実を述べることです。あなたも神の僕の一人です。間違いは排除し、虚偽は論破すべきです。恐れてはいけませ。怖じける必要は少しもありません。

大堂伽藍を建て、妙なる音楽を流し、ステンドグラスを飾り、厳かな儀式を催したからといって、そんなことで宇宙を創造した大霊が心を動かされるものではありません。宇宙の大霊すなわち神を一個の建物の中に閉じ込めることはできないのです」


 これに関連した質問を受けて、さらにこう述べた。
℘122 
 「大衆に目隠しをして暗闇に閉じ込めようと思えば、出来ないことはありません。かなりの年月にわたってそうすることも可能です。しかし、いつかは大衆も、自分たちが本来は光の子であることを思い出して、真理の光明を求めはじめます。

その時期を権力によって遅らせることはできます。妨害もできます。しかし、最後は真理は真理としてあるべき位置に落着きます。

 あなた方人間も霊的存在です。肉体だけの存在ではないのです。無限の可能性を秘め、神性を宿しているがゆえに、その霊的可能性が発現を求め始めます。一時的に無視することはできます。が、永遠に抹殺してしまうことはできません。

だからこそ真理の普及が急務なのです。人間が霊的存在であるということは内部に宿る霊がこの驚異に満ちた大宇宙を創造した力の一部であるということです。いかなる宗教的権力を持ってしても、霊の声を永遠に封じ込めることはできません」


 伝統的宗教の失敗と新しい世界の誕生のテーマにもう一度言及してこう述べている。

 「地上世界では今、古い体制の崩壊と衰亡が進行し、かつて我がもの顔だった説教者たちも、もはやこれでは民衆の心を捉えることができないことを認め始めております。

永いあいだ盲目の民を好きに操って来た盲目の指導者達───真理の行進に抵抗し、現代に生きる聖霊の存在を否定せん(霊界からの働きかけを認めないこと)としてきた者たち、そうした者たちが今、その代償、つまり霊的法則の存在を認めようとしなかったことへの代償を払わされつつあります。

 そこに、あなた方が肝に命じていただきたい教訓があります。真理のために闘う者は、最後は必ず勝利を収めるということです。善の勢力を完全に封じ込めることはできないからです。一時的には抑えることはできます。邪魔することもできます。進行を送らせることもできます。

しかし、真理を永遠に破壊したり、あるべき位置に落ち着くことを阻止し続けることは誰にもできません。

 これは宗教にかぎったことではありません。人生のあらゆる面についていえることです。何事につけても、誤った説に抵抗し、偽りの言説を論破し、迷信に反抗していく者は、決してうろたえてはなりません。

全生命を支え、最後の勝利を約束してくれる、永遠にして無限の霊力に全幅の信頼を置かなければいけません。

 死によって隔てられた二つの世界の交信を可能にしてくれる霊的法則の存在を知った者にとって、こうした戦争(第二次大戦)によって惹き起される不利な条件の中で真理を普及していくことがいかに困難であるかは、私もよく承知しております。

しかし、何が何でも、この霊的真理にしがみついていかねばなりません。やがては、真理に飢え魂の潤いを渇望する者が次第に増え、いつかは知識の水門が大きく開かれる時機が熟します。

その時に備えておかねばなりません。対立紛争が終わった時、戦火が消えた時、無数の人が今度は知識を土台とした生き方の再構築を望むことでしょう。

 彼らは、宗教の名のもとに押しつけられた古い神話には、うんざりしております。戦争という過酷な体験をし、人生の意義を根本から問い直し、なぜ生まれてきたのか、いかに生きるべきなのか、いつになったら・・・・・・といった疑問に直面させられた者は、その真実の答えを何とか知りたいと思い始めます。真理を渇望し始めます。

その時あなた方は、そうした魂の理性と確信と論理性と叡智でもって対応し、新しい世界の住民としての生き方を教えてあげられる用意が出来ていなければなりません。

 過ぎ去ったことは、そこから教訓を学ぶためでなければ、つまり、失敗をどう正すか、二度と過ちを犯さないためにはどうすべきかを反省するためでなければ、むやみの振り返るべきでものではありません。未来へ目をやり、今日行うことをこれから訪れる、より立派な日の素地としてなければなりません。

世界中があなた方を必要とする時代が来ます。無数の人が、希望と慰めとインスピレーションと指導を求めて、あなた方に目を向ける日がきっときます。

 もう教会へは足を運びません。聖職者のもとへは訪れません。教師のもとへは参りません。あなた方の方へ足を向けます。なぜなら、死と隣り合わせの体験をし、その厳しい現実の中で、ある種の霊的体験をした者は、心の目が開いているからです。

目の前を遮っていたモヤが晴れたのです。真理が受け入れる用意ができたのです。ならば、それを授けてあげる用意ができていなければなりません」


───新しい世界が生まれつつあるということは何を根拠におっしゃるのでしょうか。

 「私は厳とした計画、神の計画が見て取れるのです。私は、霊の力こそ宇宙最大の力であると信じています。人間がその働きを歪め、遅らせることはできます。妨害を押し止めることはできるかもしれません。しかし、永遠にその地上への権限を阻止することはできません。

 あなた方が霊的真理を手にしたということは、人類が抱える全ての問題を解くカギを手にしたことを意味します。

私は決して、世にいう社会改革者たち───義憤に駆られ、抑圧された者や弱き者への止むにやまれぬ同情心から悪と対抗し、不正と闘い、神の物的な恵みがすべての人間に平等に分け与えられるようにと努力している人々を、ないがしろにするつもりは毛頭ありません。
℘126
 ただ、その人たちは問題の一部しか見ていない───物的な面での平等のために闘っていることに過ぎないということです。もちろん精神的に平等であるべきことも理解しておられることでしょう。が、人間はまず何より〝霊〟なのです。大霊の一部なのです。宇宙を創造した力の一部なのです。

決して、宇宙の広大な空間の中に忘れ去られた、取るに足らぬ存在ではないのです。宇宙の大霊の一部として、常に無限の霊性に寄与しているのです。

 その霊力の息の根を止めることは誰にもできません。いつかは必ず表に出てきます。残酷な仕打ちにも、憎しみの行為にも負けません。こん棒で叩かれても、強制収容所へ入れられても、独裁政治で抑えられても、決して窒息死することはありません。

なぜならば、人間の霊は、人間が呼吸している空気と同じように自由であるのが、本来のあるべき姿なのです。それが生来の、神から授かった、霊的遺産なのです。

℘127   
 その理想像の素晴らしさを理解した人々、新しい世界のあるべき姿を心に描いた人々は、当然そうあらねばならないことを十分に得心しています。なぜなら、それが人間に息吹を与える動物から人類へと進化させた、その背後の目的の一部だからであり、それはさらに人間を神的存在へと向上させていくものです。

あなた方の使命はその松明を引き継ぎ、新しい炎を燃え立たせ、次の世代にはより大きな光明が道を照らしてあげることです。

 基盤はすでに出来上がっているのです。何年も前から、その基盤作りはこちらの世界で終わっているのです。苦痛は伴いながらも、ゆっくりと各界の名士あるいは名もなき男女が、永遠の霊の実在の証言に立ちあがり、神の計画の一刻も早い実現のために刻苦したのです。新しい世界は必ず実現します」


───その新しい世界は、われわれ人間自らの努力によって実現しなければならないはずなのに、なぜその基盤作りがそちらの世界で行われたのでしょうか。

 「あなた方の世界は影です。光はこちらから出ているのです。あなた方は、こちらで建てられてプランを地上で実行し実現させていきつつあるところです。オリジナルの仕事───と呼ぶのが適切か否かは別として───は全てこちらで行われます。

なぜなら全てのエネルギー、全ての原動力は物質から出るのではなくて、霊から出るのです。みなさんは、意識するしないに関係なく、霊力の道具なのです。受信と送信をする道具なのです。霊的影響力をどこまで受けとめられるかによって、成功するしないが決まるのです」

℘128
───ということは、結局、そちらからの援助をえて私たちが努力することから新しい世界が生まれるということでしょうか。

 「その通りです。何ごとも人間の力だけでは成就し得ません。人間が何かを始める時、そこには必ずこちらからの援助が加味されます。私たちは常に道具を探し求めております。

人間の方から霊力の波長に合わせる努力をしていただかねばなりません。完ぺきは決して望めません。常に困難を克服し邪魔を排除する仕事は永遠に続きます」


───私たち自身の努力で地上に新しい世界を招来しなければならないわけですね?

 「努力してはじめて得られるのです。私から申し上げられることは、神の計画の一部として成就しなければならないことは、すでに決まっている───が、それがいつ実現されるかは、あなた方人間の努力次第ということです。計画はできているのです。

しかし、その計画は自動的に実現されるわけではありません。それはあなた方人間の自由意思に任されております。人間は自由意思を持った協力者です。ロボットでも操り人形でもありません。宇宙の大霊の一部なのです」


───新しい世界が来るとおっしゃっても、私たちにはそれらしい兆候は見当たらいのですが・・・・・・

 「古い秩序が崩壊していくのと同じ速さで、新しい秩序が生まれます。現にその目でご覧になったばかりではありませんか。大帝国がくずれさりました。お金の力が絶対ではなくなりました。

利己主義では割に合わないことが証明されました.戦争体験によって、普通の一般男女の力の本当の価値が証明されました。

 どうか、この私に〝進歩が見られない〟などとおっしゃらないでいただきたい。
℘130
教訓ならあなた方の目の前にいくらでもあります。別に、霊眼は必要ではありません。肉眼で見えるところにあります。これほど切実な体験をした現代の人々に、新しい世界が訪れて当然です。

もしもその恩恵に浴せないとしたら、その人はまだまだ内部の霊的な力を使用するまでに至っていないことを意味します。それだけの努力をした人々は、その犠牲と引き換えに恩恵を受けておられます。

 私はそれが機械的なプロセスで与えられると申しているのではありません。皆さんにやっていただかねばならない仕事があります。それは、一方では霊的知識を広め、他方では古い権力構造の面影に貪欲にしがみついている、因襲的既得権に対して、あくなき闘いを挑む事です」


 シルバーバーチのもとには、数えきれない程の質問が寄せられている。その一つ一つが読み上げられるのをシルバーバーチは熱心に聞き入るが、余りプライベートな内容のものには答えたがらない。

その理由を、プライベートな悩みに答えるには、その悩みを抱えている本人がすぐ目の前にいる必要がある───が、それは、私が委ねられた使命ではないから、と説明する。自分の本来の使命は、すべての人に共通した真理を説くことにあるという。その一つが次の質問である。

℘131
───あなただけがご存じの、何か新しい真理がありますか。

 「新しい真理というものは一つもありません。真理は真理です。単なる知識は、それを受け取る人次第で内容が異なります。子供時代には、その知能程度に似合ったものを教わります。まずアファベットから始まり、知能の発達と共に単語を覚え、文章が読めるようになります。

どの程度のものが読めるかは、その段階の理解力一つに掛っております。知識は無限に存在します。際限がありません。が、そのうちのどこまでを自分のものにできるかは、精神的ならびに霊的受容力の問題です。

 しかし、いくら知識を蓄えても、それによって真理を変えることはできません。いくら知恵を絞っても、真理の中身を変えることはできません。過去において真理であったものは今日でも真理であり、明日の時代でも真理です。真理は不変であり不滅です。

新しい叡智を身につけることはできます。新しい知識を増やすことも出来ます。が、あたらしい真理を生み出すことはできません。

 地上人類はすでに地上生活にとって必須の真理───親切と助け合いと愛についての基本的真理のすべてを授かっております。世界をより良くするには如何にすべきかは、すでに分かっております。

成長と発展と向上と進化にとって必要なものは、過去幾世紀にもわたって啓示されてきております。それに素直に従いさえすれば、今この地上において、内部に宿された神性をより多く発揮することができるのです。

 偉大な指導者、地上に光をもたらした〝霊力の道具〟は、根本においてはみな同じことを説いております。人間の霊性───各自に宿る不滅の資質に目を向けさせるべく、地上を訪れたのです。

言語こそ違え、みな人間のすべてが無限の魂、神の火花、宇宙の大霊の一部を宿していることを説きました。そして素直に従い実行しさえすれば、それより多くを発揮させてくれる指導原理も説いております。

霊的理念に従って生きれば、この世から悪夢のような悲劇、永いあいだ無益な苦しみを与えてきた、恐怖と悲惨と苦悩を一掃できることを説いてきております。

 自分を愛するごとく他人を愛せよ。苦しむ者に手を差し伸べよ。人生に疲れた人、心に潤いを求める者に真理を語って聞かせよ。病の人を癒し、悲しむ人を慰め、不幸な人を訪ねてあげよ・・・・・・こうした教えは、遠い昔から説かれてきた真実です。こうしたことを実践しさえすれば、地上は一変し、二度と恐ろしい悲劇をもたらす戦争も生じなくなるでしょう。
℘133
 そこで、私たち霊団の取るべき態度はどうあるべきか。人間は自分の成長と死後への霊的準備に必要なものは、すでに掌中に収められております。聖なる者も数多くあります。〝師〟と呼ばれる者も数多く輩出しております。

内的世界を垣間見て、その人なりに解釈した霊覚者が大勢います。しかし不幸にして、そうした形で地上に啓示された素朴な真理が埋もれてしまいした。

 人間はその上に教義だの、ドグマだの、信条だの、儀式だのという、余計なものを築き上げてしまいした。単純で素朴な真理の上に、神学という名の巨大な砦を築いてしまい、肝心の基盤がすっかり忘れさられております。

そこで私達は、その埋もれた真理を本来の純粋な姿───何の飾り気も無い素朴なままの姿をお見せするための道具、つまり霊界からのメッセージをお届けするための霊媒を探し求めてきたのです。

 私たちは人間の精神的産物によって色づけされた信仰体制には関心はありません。大切なのは、地上界のように錯覚によって惑わされることのない、霊の世界からの真理です。

なぜかと言えば、余りに多くの落後者、精神的浮浪者のような人間が霊界へ送り込まれる一方で、一見立派そうな人間が、霊的事実について誤った概念と偏見のために、

死後に直面する生活に何一つ備えが出来ていないと言うケースが余りに多過ぎると言う現実をみて、私たちは、いずれ誰もが訪れる永続的な実在の世界、すなわち死後の生活に備えるために、単純な真理を地上にいる間に知ってもらえば、私達の手間も大いに省けるだろうと考えたのです。
℘134
 そこで、あらゆる宗教的体系と組織、進歩を妨げる信仰、不必要な障害、人間の精神を曇らせ、心を惑わせる迷信に対して敢然と宣戦布告し、神の子が神の意図されたとおりに生きられるように、不変の真理を授けようと努力しているわけです。

 他人がどう言おうと気にしてはいけません。非難、中傷など、すべて忘れることです。霊的真理こそが、永遠に変わらぬ真理なのです。理性が要求するテストのすべてに応えうる真理です。決して知性を欺きません。単純。明快で、誰にでも理解できます。

聖職者によるあらゆる方策が失敗したのちも止まることなく普及発展していく真理です。不変の自然法則に基づいた単純素朴な永遠の真理だからです。

 これには、法王も大主教も、司祭も牧師も教会も聖堂も礼拝堂もいりません。私たちも、これを捏ねまわして神学体系を造ろうなどとは思いません。

こうして説くだけです。が、理解ある伝道者さえいれば、それが社会のあらゆる階層に浸透し、すべての人間が身体的にも霊的にも自由を享受し、二度と束縛の中で生きていいくことはなくなるでしょう。無知の暗闇が消滅し、代わって真理の光がふんだんに注がれることでしょう」

℘135
 別の日の交霊会でも、人間の真の自由獲得のための闘争についてこう語っている。

 「私たちは、本当はあってはならない無知に対して闘いを挑まなくてはなりません。神は、内部にその神性の一部を宿らせたはずの我が子が、無知の暗闇の中で暮らし、影とモヤの中を歩み、生きる方角も分からず、得心いく答えはないと思いつつも問い続けるようには意図されておりません。

真に欲するものには存分に分け与えられるように、無限の知識の宝庫を用意してくださっております。

 しかしそれは、当人の魂と成長と努力と進化と発展を条件として与えられるものです。魂がそれにふさわしくならなければなりません。精神が熟さなければなりません。心が受け入れ体制を整えなくてはなりません。その段階で初めて、知識がその場を見出すのです。

 それも、受け入れる能力に応じた分しか与えられません。目の見えなかった人が見えるようになる場合でも、その視力に応じてすこしずつ見せてあげなくてはなりません。一気に全て見せてあげたら、かえって目を傷めます。霊的真理も同じです。

はしごを一段一段とのぼるように、一歩一歩と真理の源へと近づき、そこからわずかずつ我がものとしていくのです。

℘136  
 いったん糸口を見出せば、つまり行為なり思念なりによって受け入れ態勢ができていることを示せば、その時からあなたは、そのたどり着いた段階にふさわしい知識と教訓を受け入れる仕組みとつながります。そのあとはもう、際限がありません。

これ以上は無理という限界がなくなります。なぜならば、あなたの魂は無限であり、知識もまた無限だからです。

 しかし、闘わねばならない相手は無知だけではありません。永いあいだ意図的に神の子を暗闇に閉じ込め、あらゆる手段を弄して自分たちででっち上げた教義を教え込み、真の霊的知識を封じ込めてきた既成宗教家とその組織に対しても、闘いを挑まなくてはなりません。

 過去を振り返ってみますと、人間の自由と解放への闘争のために、私たちが霊界からあらゆる援助を続けてきたにもかかわらず、自由を求める魂の自然な欲求を満足させるどころか、逆に牢獄の扉を開こうとする企てを、宗教の名にもとに阻止しようとする勢力と闘わねばなりませんでした。

 今なお、その抵抗が続いております。意図的に、あるいは、そうとは知らずに、光明の勢力に対抗し、私たちに対して悪口雑言の限りを浴びせ、彼ら自身も信じなくなっている教義の誤りを指摘せんとする行為を阻止し、

勝手にこしらえた神聖不可侵思想にしがみつき、自分で特権と思い込んでいるものがどうしても捨てきれずに、擦り切れた古い神学的慣習を後生大事にしている者が、まだまだ存在します。

 そこで私たちは、人間のすぐ身のまわりに片時も休むことなく打ち寄せる、より大きな、素晴らしい霊の世界のエネルギーがあることを教えに来るのです。そうした数々の障害を破壊し、莫大な霊力───すべての存在に活力を与えるダイナミックな生命力をすべての人間が自由に享受できるようにするためです。

その生命力が、これまでの人類の歴史を通じて多くの人々を鼓舞してまいりました。今でも多くの人々に啓示を与えております。そして、これから後も与え続けることでしょう。

 荒廃しきった世界には為さねばならないことが数多くあります。悲哀に満ち、涙に、むせび苦痛にあえぐ人にあふれ、何のために生きているかを知らぬまま、首をうなだれ、行き先が分からずに、さ迷っている人が大勢います。

そうした人たちにとって、目にこそ見えませんが、霊の力こそ本当の慰めを与え、魂を鼓舞し、元気づけ、導きを必要とする人々に方向を指し示してあげる不変の実在があることを、その霊力が立証してくれます。

 そこにこそ、霊的知識を授かった人々のすべてが参加し、自由の福音、解放の指導原理を広め、人生に疲れ果て、意気消沈した人々の心を鼓舞し、魂の栄光を知らしむべく、この古くて新しい真理の普及の道具として、一身を捧げる分野が存在します。

私たちが提供するのは、霊の力です。あらゆる困難を克服し、障害を乗り越えて、真理の光と叡智と理解力を顕現せしめ、神の子等に恒久的平和を築かせることができるのは、霊の力を措いて他にはないのです」
℘138

───戦死の場合でも、誰がいつ死ぬかということは、霊界では前もって分かっているのでしょうか。

 「そういうことを察知することのできる霊がいるものです。が、どれくらい先のことを察知できるかは、その時の事情によって異なります。

愛の絆によって結ばれている間柄ですと、いよいよ肉体との分離が始まると必ず察知します。そして、その分離がスムースに行われるのを手助けするために、その場に赴きます。

 霊界のすべての霊に知られるわけではありません。いずれにせよ、死んだ時一人ぼっちの人は一人もいません。必ず、例外なく、周りに幾人かの縁故のある人がいて、暗い谷間を通ってくる者を温かく迎え、新しい、そして素晴らしい第二の人生を始めるための指導に当たります」


 総じてシルバーバーチは誰が聞いても分かるようなことを説き、理屈っぽい、難解な質問には答えたがらない傾向がある。その理由をこう弁明する───

 「難解な質問を回避したいからではありません。私は、今すぐ応用のきく実用的な情報をお届けすることに目標をしぼっているからです。基本の基本すら知らずにいる大勢の人々、真理の初歩すら知らない人が大勢いることを思うと、もっと後になってからでもよさそうな難解な理屈を捏ねまわすのは、賢明とは思えません。

 今の時代に最も必要なのは、簡単な基本的真理───墓場の向こうにも生活があること、人間は決して孤独な存在ではなく、見捨てられることもないこと、宇宙のすみずみまで大霊に愛の温もりをもつ慈悲深い力がいきわたっていて、一人一人に導きを与えていること、それだけです。

 これは人間のすべてが知っておくべきことです。また誰にでも手に入れることのできる、掛けがいのない財産なのです。そうした基本的真理すら知らない人間が何百万、いや何千万、いや、何億といる以上は、私たちはまず第一に、そういう人たちから考えようではありませんか。それが私たちにとって最も大切な義務だと思うのです」

℘140
 別の日の交霊会でも同じ話題について───

 「わたしたち霊界の者がこうして地上へ戻ってくる目的の真意が、ほかならぬ宗教の指導者であるべき人から曲解されております。いつの時代にあっても、宗教とは基本的には霊力との関わり合いでした。

それはまず、地上の人間の霊的向上を指向し規制する摂理を教える使命を帯びた者が、地上へ舞い戻ってくるということから始まります。つまり宗教の本来の目的は、人間の霊性に関わっているからです。

 そこから出発し、ではその霊性を正しく発達させる上で、霊界からの指導を受けるにはどうすべきかを説くのが、宗教の次の仕事です。霊的摂理は広範囲にわたっております。

ところが、それが不幸して誤って解釈され、その上、それとは別の意図を持った聖職者が割り込んできたために、そこに混乱が生じたのです。

 人間も根本的には霊であり、それが肉体を使用しているのであって付属品として霊を宿した肉体的存在ではないわけです。肉体は霊に従属しているのです。地上生活の全目的は、その内在する霊に修業の場を与え、さまざまな体験を通じてそれを育み、死によってもたらされる肉体からの解放の時に備えて、身支度をさせることにあります。

そこから本当の意味での〝生活〟が始まるのです。宗教とは、霊が霊として本来の生活ができるように指導するための処世訓であり、道徳律であると言えます。

 ところが不幸にして、古い時代 (イエスの時代の少し後) に、霊の道具である霊媒と聖職者との間に衝突が生じたのです。聖職者の本来の仕事は、聖堂や教会といった宗教的行事の執り行われる建造物の管理でした。

原初形態においては両者の関係はうまく行っておりました。が、ある時代から聖職者の方が、紳示(霊界通信)を受ける霊媒にばかり関心をむけられることに不快感を抱くようになりました。

そしてそれまでに入手した神示を資料として、信条・儀式・祭礼・ドグマ・教説等を分類して綱領をこしらえる、いわゆる神学的操作を始めたのです。今日まで引き継がれているもののうち、どれ一つとして霊の資質と実質的に関わりのあるものはありません。

 かくして、真の宗教の概念が、今日では曖昧となってしまいした。宗教というと何かお決まりの儀式のことを思い浮かべ〝聖典〟と呼ばれるものを読み上げることと考え、賛美歌を歌い、特別の衣装を着ることだと思うようになりました。何やら難しい言説を有り難く信奉し、理性的に考えれば絶対におかしいと思いつつも、なおそれにしがみつきます。
℘142  
 私たちはいかなる神学、いかなる教義、いかなる信仰告白文にも関心はありません。私たちが関心を持つのは人間の霊性であり、私たちの説くこともすべて、絶対的に従わねばならないところの霊的自然法則に向けられています。人間がこしらえたものを崇めるわけにはいきません。

宇宙の大霊によって作られたもののみを実在として信じます。そこに、宗教の捉え方の違いの核心があります。

 人のために役立つ行為、霊性に動かされた行為、無私と利他的行為、自分より恵まれない人へ手を差し伸べること、弱き者へ力を貸してあげること、多くの重荷に喘ぐ人の荷を一つでも持ってあげること、こうした行為こそが私たちの説く宗教です。

 〝神とイエスと聖霊は三にして一、一にして三である〟などと説くことが宗教ではありません。宗教的であるとも言えません。それを口にしたからといって、霊性はみじんも成長しません。朝から晩まで賛美歌を歌ったからといって霊性が増えるわけではありません。

 バイブルを読んでも(キリスト教)、タルムードを読んでも(ユダヤ教)、コーランを読んでも(イスラム教)、バカバット・ギ―タ―を読んでも(ヒンズー教)、その他、いかなる聖なる書と呼ばれているものを、目が疲れるほど読んでも、それだけで霊性が成長するわけではありません。

 〝宗教的〟とみなされている行事のすべてを行っても、それによって一段と価値ある人生へ魂を鼓舞することにならなければ、私たちが考えている意味での宗教的人間になるわけではありません。

 肩書(ラベル)はどうでもいいのです。形式はどうでもいいのです。口先だけの文句はどうでもいいのです。大切なのは〝行為〟です。どういうことをしているかです。つまり各自の日常の生活そのものです。

 私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人として神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすことはできません。自分が自分の救い主であり、贖い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。

 また、神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。すなわち、親切・寛容・同情・奉仕の行為が自動的に、それ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義・罪悪・不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も、安価な赦免もありません。
℘144
神の公正が全宇宙に行きわたっております。霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。死後の床での悔い改めも通用しません。

 巨大なる宇宙の中で生じるもの全てに責任を持つ大霊の、不変にして絶対的威力を有する摂理に目を向けましょう。私は常にその摂理を念頭に置いています。

なぜなら私たちの説く神は、人間的弱点───激情や憤怒に動かされたり、好きな人間と嫌いな人間とを選り分けたりするような、そんな人間的存在ではないからです。

 私が見る宇宙は法則によって支配されています。すみずみまで行きわたり、これからも常に永遠に存在しつづける法則です。

地上の人間に永い間振り回され、隷属させられてきた誤った概念と虚偽、偏見と無知を無くしていくには、地上の生命現象と生活現象のすべてが、その絶対的法則によって支配されていることを教える以外に方法はありません。

 その知識が少しでも増えれば、それだけ理解力も豊かになるでしょう。本来の美しさを遮っていたベールが取り除かれ、有限の地上的存在の視野を超えた所に存在する、より大きな生活を少しでも垣間見ることになるでしょう。

 かくして私たちは、常に神の永遠の自然法則、絶対に狂うことも過つこともない法則、地位の高い低いに関わりなく、すべての存在に等しく働く法則に、忠誠と感謝の念を捧げるものです。

誰一人として等閑(なおざり) にされることはありません。誰一人として独りぼっちの者はいません。法則の働きの及ばない者。範囲からはみ出る者など、一人もいません。あなたがこの世に存在するという事実そのものが、神の摂理の証しです。

 人間の法則は機能しないことがあります。改められることがあります。人間の成長と発達に伴って視野が広がり、知識が無知をなくし、環境が変化するに伴って新たな法令が要請されると、従来の法律が廃止されたり、別の法律と置き換えられたりすることもあります。

 しかし、神の法則に新しい法則が付け加えられことは絶対にありません。改正もありません。解釈上の変化も生じません。いま機能している法則は、これまでずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能してまいります。一瞬の休みもなく機能し、そして不変です」

Saturday, February 28, 2026

霊訓 「上 」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings



7節

本節の内容新プラトン主義
スーフィズム
霊的真理の普及を妨げるもの
似非神学者
似非科学者
先入的ドグマによる偏見
宗教の名に値するもの
理性こそ最高の指針


〔新プラトン主義哲学(1)に関する通信があった。見覚えのある容貌をした霊が写真に写ったが、衣服は見慣れないものだった。私の質問に対し、心霊写真に写るためにはある程度の物質化が必要で、霊視に写る時の像とは違うということだった。

新プラトン主義の特徴的教義についての説明は実に克明で、私のまったく知らないものだった。忘我の状態で神性に背くものを全て排除し、ひたすら神との合一をはかるスーフィズム(2)という恍惚的瞑想行為について長々と説明し、その理想的人物として新プラトン主義学者の一人の名を挙げた。その時教わったもの、とくに右の学者の説教についてはその後なるほどと思わせるものがある。もっとも私自身はすでに体験していたこともあって、驚きの度合いが和らげられているが。

その後短期間ではあったが通信が途絶えた。その間に出席したある交霊会でイタズラ霊による偽名行為が再び発覚し、私も大いに考えさせられた。その後の通信でよその交霊会には絶対出席しないようにとの忠告があった。霊媒には強い磁力があり、他の霊媒の交霊会に出るとそこでの現象に悪影響を及ぼし、同時に悪影響を持ち帰ることになるから、霊媒同士の接触は絶対避けることが大切であるとのことだった。

宮廷詩人だったリドゲート(3)のものを中心とする素晴らしい詩が、それによほど興味をもっているように見うけられる霊によって書かれた。その霊はただ詩を綴ること以外は何もしなかったが、その筆跡は見事で特徴があった。

その後一八七三年六月十三日に開かれた交霊会で神学に関する質問を数多く用意しておいたところ、それに対して入神講演の形で長々と回答が述べられた。当然その全部は筆記できず、部分的で不完全な筆録しか残されていない。が、その翌日、その入神講演をした霊が、こちらからの要請もないのに、次のような自動書記通信を送って来た。〕


昨夜述べた事の中には、先を急ぐあまり十分に意を尽くし得なかった事が多く、筆録も正確とは言えぬ。あのような重要な問題は十分に念を入れ、是非とも正しく理解して貰わねばならぬ。そこで、十分に意を尽くし得なかった事をここでより分かり易く述べたく思う。交霊会でそなたの口を借りて語るのは必ずしもこうした方法(自動書記)で伝えるほど正確を期することが出来ぬものである。完全に隔離された状態の方が緻密さと正確さの得られる状態に入るのが容易である。

昨夜はわれらが神より託された使命について述べたつもりである。その使命の前途を遮(さえぎ)る多くの困難の中でも最大のものは、その使命達成においてわれらが何よりも頼りとしている気心の知り合った同志が余りに神学的先入主に捉われ、あるいはそれまで説き聞かされて来た信仰と相容れぬことに強い恐怖を覚えるために、われらにとりて為すすべがなく、挙句の果ては、悲しい哉、われらの説く神の教えが邪霊の言葉とされ、その背後にて操る強力なる悪魔のさしがねと決めつけられることである。われらにとりては、こうした人材ほど嘆かわしきものはない。

自分の定めた勝手な条件のもとに、自分のお気に入りの手段でしか物事を判断しようとせぬ似非(えせ)科学者たち――われらを単に人間をたぶらかす者、嘘つき、狂える者のたわごとと決めつける材料として以外には取り扱おうとせぬ科学者たち――彼らはわれらにとりてまず用はない。その曇れる目には真理は見えず、長年の偏見によりて被われ束縛された知性は、われらには何の役にも立たぬ。どう気張ったところで霊界との交信の真相を垣間見ることすら出来ぬ。彼らが獲得する知識はたとえそれ自身は有用であり、価値あるものであろうと、われらの特殊なる使命には先ずもって役に立たぬ。われらが目指すものは、われらの使命の一局面でしかない現象面にのみ目を向けたがる科学者がとやかく言うものとは、いささか方角が異なるのである。長きに亙り物理学的観察に馴らされた知能は、その分野の事実の解明に向けるのが最も適切であろう。われらの分野はそれとはまた異なるのである。霊と霊との関係であり、霊のたどる宿命に関する知識を扱うのである。

更に、われらが述べんとする真理に皆目知識を持ち合わせず、その理解にはこののち長年に亙る人生試練を必要とする無知にして未熟なる者たち――この種の者は、いつの日にかわれらの真理を理解し得る段階にまで向上してくるであろうが、今の段階にては用はない。

況(いわん)や高慢にして傲慢なる知識人、自分の世界にしか通用せぬ道学者、慣例と体面を守ることに汲々たる宗教家――彼らについては言葉もない。彼らを納得させるには更に多くの物的証拠を必要とする。われらが述べる言葉はたわごとにしか聞こえぬであろう。

われらが真に頼りとするのは、神とその天使の存在を知り、愛と慈悲を知り、いずれ死後に赴く境涯について知らんと欲する人物である。然るに悲しい哉、神により植えつけられ、霊に育まれし天賦の宗教的本能が人間の勝手な宗教的教義――幾世紀にも亙って知らず識らずのうちに築き上げられた、無知と愚行の産物によりてがんじがらめにされている。どこを突ついても、返ってくるのは真理から外れたことばかりである。われらが父なる神の啓示を説けば、神の啓示はすでに全てを手にしていると言う。われらがその啓示の矛盾点を指摘し、そこに終局性も不謬性もないことを告げれば、教会が拵えた取り留めもない決まり文句を繰り返すか、それとも“絶対に誤ることなき人”として選びし人物の説を引用するのみである。つまり彼らは、一時期、一地方の特殊なる必要性に応じて授けられた、限られた啓示をもって普遍的真理と思い込み、それを物差しとしてわれらを裁かんとするのである。

また古代において霊覚者を通じて行なえる如く、われらが信頼するに足る神の使者であることを表明し、その証拠として奇跡的現象を演出してみせても、彼らは、奇跡の時代は終わった、神の啓示の証として奇跡を行なうことを許されたのは聖霊のみであると主張する。そして悪魔――これは彼らの勝手な想像の産物にすぎぬのであるが――は神を装うことが出来るとし、われら及びわれらの使命を神と善に対抗する外敵であり、暗黒界の使者であると決めつけるのである。またこうも言う――出来ることなら力になってあげたい。なぜなら言っていること自体はなるほどと思わせることばかりだからである。が、それが悪魔が使う誘惑の手だから困るのだ、と。確かに彼らがそう思うのも無理はない。なぜなら、やがて善を装える邪霊集団がやって来ることを聖書が予言しているからである。われらこそその邪霊なのであろう。彼らにとりてはそうであるに相違ない。なんとなれば神聖にして犯し難き古(いにしえ)の神学が神の子イエスを否定せんとする勢力の到来を予言しているではないか。現にわれらの説はキリスト神の定めしイエスの位置とその使命を根底より否定している。またわれらは理性を信仰の上に置いている。われらの説く福音は(信仰よりも)善行を説く福音であり(忠実なる信仰でなく)善の実行者こそ佳(よ)しとする教えである。彼らにとりては、こうした教えを説く霊はすべて光の天使を装う大悪魔の手先であり、魂を破滅に陥(おとしい)れんとの企(たくら)みにほかならないのである。

が、われらにとりては、協力を期待する真摯なる信心家からこうした態度に出られることこそ痛恨の極みである。彼らの多くは愛すべき真面目な人間である。ただその明るき魂の炎が地上の暗闇を照らすに至るには、是非とも進歩性を必要とする。われらは是非とも彼らにメッセージを送りたい。が、すでに築き上げられた神および人間の義務についての確固たる信仰基盤を当てにするには、その前に進歩を阻む夾雑物を取り除かねばならぬ。

宗教がその名に値するためには二つの側面を持たねばならぬ。一つは神への信仰であり、もう一つは人間についての教えである。その道の専門家により“正統”と呼ばれている伝来の信仰は一体その二点についてどう説いているであろうか。その教えとわれらの教えとはどこがどう違うのであろうか。その“違う”部分はどこまで理性を納得させるであろうか。何故かく問うのかと言えば、われらは何よりも先ず神が植えつけ給うた理性こそ唯一の判断基準であると主張するものだからである。われらはあくまで理性に訴える。何故なら、古(いにしえ)の聖賢がこれこそ神の唯一にして最後の啓示であると断定して聖典を編纂した時も、彼らなりの理性に訴えたのである。その断定に際して彼らなりに理性に訴えたのである。故にわれらもまた理性に訴える。そなたはわれら霊団の同志が啓示の永遠不変の支柱とすべきものを神自ら規定されたと主張しているとでも思われるか。われらもまた神の使者にほかならぬ。かのヘブライの預言者たちを導いた霊たち、そして啓示を神の言葉と断定せる人間を指導した霊たちと同様に、われらもまた神によりて導かれた霊なのである。

われらも彼らと同じ神の使者である。携え来るメッセージも同じである。ただ、より一層進んでいるというまでである。われらの説く神も彼らの説ける神と同一である。ただ、その神性をより明確に説いているまでである。つまり人間臭が減り、より神々しき存在となっている。

こうしたわれらの訴えをその言葉どおりに神聖なるものと受け取るか否かは、そなたらの理性(とは言え背後霊の指導を受けることは間違いないが、理性であることには変わりない)が最後の判断を下すことである。この上われらの訴えを否定する者は自らの理性の愚昧さを証言する者に他ならぬ。盲信を理性的信仰と同等に見なすことは出来ぬ。なんとなれば信仰にも根拠ある信仰と根拠なき信仰とがある。根拠ある信仰は論理的裏付けが可能であり、その場合にも理性が最終的判断を下す。後者は論理的裏付けなき信仰であり、これでは人を動かすことは出来ぬ。況(ま)して全く根拠なき盲信に至っては、われらもその頼りなさと信用のなさについてこれ以上論ずる必要さえ認めぬ。

故にわれらは理性に訴えるのである。理性的に判断してわれらがどこまで悪魔性を証しているというのか。われらの説く教義がどこまで邪霊的であるのか。何をもってわれらを悪魔的と言うのか。こうした点については、これよりのちに説くことにしよう。



古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze




七章  国家の指導者と自由意志

 シルバーバーチの交霊会には、シルバーバーチが一方的に語る日もあれば、霊言集の読者から寄せられた質問に答えるだけの日もある。時にはシルバーバーチの方から〝難しい質問〟を所望することもある。

 本章に集めた質疑応答は霊言集の読者から寄せられた投書を中心にしたもので、霊媒のバーバネルには前もって見せないことになっているが、シルバーバーチの答えは、それが読み上げられた次の瞬間に出る。


───霊界の指導者は、地上の政治的組織にどの程度まで関与するのでしょうか。〝人類はみな兄弟〟の理念にそって指導するのでしょうか、それとも各国独自の計画にそって指導するのでしょうか。

 「ご承知のとおり私たちは、人間がとかく付けたがる肩書(ラベル)きにはこだわりません。政党というものにも関与しません。私たちが関心を向けるのはどうすれば人類にとってためになるかということです。

 私たちの目に映る地上世界は、悪習と不正と既成の権力とが氾濫し、それが神の豊かな恩恵が自由に行きわたるのを妨げております。そこで私たちは、その元凶である利己主義の勢力に立ち向かっているのです。永遠の宣戦を布告しているのです。

 そのための道具となる人であれば、いかなる党派の人であっても、いかなる宗派の人であっても、いかなる信仰をもった人であっても、時と場所を選ばずに働きかけて、改革なり、改善なり、改良なり、一語にして言えば〝奉仕〟のために活用します」


───それには本人の自由意思はどの程度まで関わっているのでしょうか。

 「自由意思の占める要素はきわめて重大です。ただ、忘れてならないのは、自由意思という用語には、一つの矛盾が含まれていることです。いかなる意志でも、自らの力ではいかんともし難い環境条件、どうしても従いざるを得ないものによって支配されています。

物的要素があり、国の法律があり、宇宙の法則があり、それが各自の霊的進化の程度の問題があります。

℘114
 そうした条件を考慮しつつ私たちは、人類の進歩に役立つことなら何でも影響力を行使します。あなた方の自由意識に干渉することは許されませんが、人間生活において、より良い、そして理にかなった判断をするよう指導することはできます。

 前にもお話したことがありますが、私たちにとって最も辛い思いをさせられるのは、時として苦境にある人を目の前にしながら、その苦境を乗り切ることがその人の魂の成長にとって、個性の開発にとって、また霊的強化にとって薬になるとの判断から、何の手出しもせずに傍観せざるを得ないことがあることです。

 各自に自由意思があります。が、それをいかに行使するかは、各自の精神的視野、霊的進化の程度、成長の度合いが関わってきます。それを、私たちが許される範囲内でお手伝いをするということです」


───各国の指導的立場にある人々の背後でも指導霊が働いているのでしょうか。

 「すべての国にそれなりの計画が用意されております。すべての生命に計画があるからです。地上で国家的な仕事に邁進してきた人は、死の過程をへたあとも、それをやめてしまうわけではありません。

そんなことで愛国心が消えるものではありません。愛国心は純粋な愛の表現ですから、その人の力は、引き続きかつての母国のために使用されます。

 さらに向上すれば、国家的意識ないし国境的概念が消えて、すべては神の子という共通の霊的認識が芽生えてきます。しかし私どもは、あらゆる形での愛を有効に活用します。

少なくても一個の国家を愛し、それに身を捧げんとする人間の方が、愛の意識が芽生えず、役に立つことを何一つしない人間よりはましです」


───人類の福祉の促進のために、霊界の科学者が地上の科学者にインスピレーションを送ることはあるのでしょうか。

 「あえて断言しますが、地上世界にとっても恵み、発明・発見の類のほとんど全部が霊界から発しております。人間の精神は、霊界のより大きな精神が新たな恵みをもたらすために使用する受け皿のようなものです。

 しかし、その分量にも限度があるということを忘れないでください。残念ながら人間の霊的成長と理解力の不足のために、せっかくのインスピレーションが悪用されているケースが多いのです。科学的技術が建設のためでなく破壊のために使用され、人類にとっての恩恵でなくなっているのです」


───そちらからのインスピレーションの中には悪魔的発明もあるのでしょう?

 「あります。霊界は善人ばかりの世界ではありません。きわめて地上とよく似た自然な世界です。地上世界から性質(タチ)の悪い人間を送り込むことを止めてくれない限り、私たちはどうしようもありません。

 私たちが地上の諸悪を無くそうとするのはそのためです。こちらへ来た時にちゃんと備えができているように、待ち受ける仕事にすぐ対処できるように、地上生活で個性をしっかりと築いておく必要性を説くのはそのためです」




℘117
    八章  新しい世界秩序の構築


 特定の日を決めて合同で祈ること、たとえばスピリチュアリストがそういう催しを行うことに意義があるのだろうか。そういう質問が発展して、スピリチュアリズムのそもそもの目的、すなわち魂の自由と解放による新しい世界の誕生が話題となった。まずシルバーバーチがこう語る。

 「私たちは時には冗談を言っては笑い、楽しい雰囲気の中で会を進めておりますが、こうしたささやかな集まりの背後に、大きな、そして深刻な目的が託されております。出席なさっている皆さんも、自分たちの力でどれほど多くの人々が光明を得ているかをご存じないでしょう。

 この霊媒の口から出る言葉は、高い界から送られてくるメッセージの一部を私が取り次いでいるのですが、これも皆さんにはすっかりお馴染となりました。

皆さんの生活の背景として、ごく当たり前の位置を占めるに至っております。もはや皆さんにとって、私の述べることに取り立てて耳新しいことや革命的なものはなくなりました。

 十数年前、あなた方は精神的ならびに霊的な自由を手にされました。永いあいだ尋ね求め、あれを取り、これを拒否し、神から授かった理性で試し、検討した末に、ついに私の述べるメッセージを真実のものと認められたわけです。

今では、私の説く単純で素朴な教えこそ永遠の真理であることを得心しておられます。

 しかし一方には、永いあいだ暗闇と懐疑と苦悩の中でさ迷っている人、こうした真理が魂の解放のメッセージとなるべき人が大勢いることを忘れてはなりません。

気の毒な状態から救い出してあげなければなりません。霊的真理には一人ひとりの人間を束縛から解放する意図が託されているのです。私たちの仕事は必ず一個の人間から始めます。人類全体も、個が集まって構成されているからです。

 一人、そして又一人と、非常にゆっくりとした根気のいる仕事ではありますが、それ以外に方法がないのです。大勢の人を一度に変えようとしても、必ず失敗します。

暗示が解け、普通の感覚に戻った時、すべてが忘れ去られます。そうした一時の興奮から目覚めたものは、気恥ずかしささえ味わうものです。

 ですから私たちは、あらゆる反抗と敵意と妨害の中にあっても〝点滴、岩をも穿つ〟の譬えで、一人また一人と、光明が射し真理を悟ってくれることを信じて、素朴ながらも繰り返し繰り返し説いてまいります。

その訓えの意味を十分に理解して価値を正しく評価して下さる方は、それ以後は後ろ髪を引かれる思いをすることなく、それまで永いあいだ魂を束縛してきた古い因襲的信仰に、きれいさっぱりと決別することでしょう。

 暗闇からはい出て、光明の世界へ辿り着いたのです。真実の光を見出したのです。それを〝理性〟で確認したのです。私たちが説く教えには、人間の理性が納得する筋が通っていること、人間の常識を怒らせる要素がないこと、人間の知性を反発させるものではないことを、皆さんはご存知です。

むしろ皆さんは、これほど明白な真実がなぜ受け入れられないのだろうかと、悩みにさえ思っておられるくらいです。

 私たちに反抗する大きな勢力がまだまだ存在することを忘れてはなりません。その中でも特に警戒を要するのが、キリスト教会という宗教のプロが有する既得の権力です。

彼らはそれを振りかざして、私たちの使命を阻止せんとすることでしょう。彼らはもはや何ら新しい恩恵は持ち合わせません。持ち出すものと言えば、カビの生えた古い教説ばかりです。
℘120
 彼らは、身は今の世にあっても精神は古い時代に生きていて、その過去の栄光を現代に蘇らせようとします。今の彼らには、それしか持ち合わせがないからです。教会は倒れかけた墓のごとく陰うつな空虚さに満ち、およそ神の霊の宿るところではなくなっております。

そういう宗教家が私たちを非難し、悪魔の手先である───信心深いお人好しや妄想に取りつかれ易い人間をだまそうと企てているのだ、と宣伝します。

 私たちはそういう宗教家を見て情けなく思わずにはいられません。彼らは、往々にして自分でもそうとは気付かずに、宗教家としての職責を裏切り、民衆を神へ導くことをしないどころか、神との間に垣根をこしらえ、

ただの書物に過ぎないもの、ただの教義に過ぎないもの、ただの建造物に過ぎないものに自らの魂を縛られ、それを真理より大切なものであると信じ切っております。

 私たちが酷しい言葉で非難のつぶてを投げるのは、そう言う宗教家に対してです。彼らは宗教家としては落第しているのです。苦しみと悲しみの海にさまよう無数の人々を導く資格を失っているのです。

神学と言う粗悪品を混入して、イエスがせっかくこの世にもたらした素朴な啓示の言葉を忘れてしまっております。

℘121
 私たちが説く宗教とはお互いがお互いのために尽くし合う宗教です。人のために役立つことが霊の通貨なのです。大霊の子である同胞のために自分を役たてるということは、とりもなおさず大霊のために役たてることであり、それを実行した人は。立派に宗教的人間といえます」


───伝統的宗教に対するわれわれの態度は寛容的であるべきでしょうか。厳しい態度で臨むべきでしょうか。

 「相手が誰であろうと、臆せず真実を述べることです。あなたも神の僕の一人です。間違いは排除し、虚偽は論破すべきです。恐れてはいけませ。怖じける必要は少しもありません。

大堂伽藍を建て、妙なる音楽を流し、ステンドグラスを飾り、厳かな儀式を催したからといって、そんなことで宇宙を創造した大霊が心を動かされるものではありません。宇宙の大霊すなわち神を一個の建物の中に閉じ込めることはできないのです」


 これに関連した質問を受けて、さらにこう述べた。
℘122 
 「大衆に目隠しをして暗闇に閉じ込めようと思えば、出来ないことはありません。かなりの年月にわたってそうすることも可能です。しかし、いつかは大衆も、自分たちが本来は光の子であることを思い出して、真理の光明を求めはじめます。

その時期を権力によって遅らせることはできます。妨害もできます。しかし、最後は真理は真理としてあるべき位置に落着きます。

 あなた方人間も霊的存在です。肉体だけの存在ではないのです。無限の可能性を秘め、神性を宿しているがゆえに、その霊的可能性が発現を求め始めます。一時的に無視することはできます。が、永遠に抹殺してしまうことはできません。

だからこそ真理の普及が急務なのです。人間が霊的存在であるということは内部に宿る霊がこの驚異に満ちた大宇宙を創造した力の一部であるということです。いかなる宗教的権力を持ってしても、霊の声を永遠に封じ込めることはできません」


 伝統的宗教の失敗と新しい世界の誕生のテーマにもう一度言及してこう述べている。

 「地上世界では今、古い体制の崩壊と衰亡が進行し、かつて我がもの顔だった説教者たちも、もはやこれでは民衆の心を捉えることができないことを認め始めております。

永いあいだ盲目の民を好きに操って来た盲目の指導者達───真理の行進に抵抗し、現代に生きる聖霊の存在を否定せん(霊界からの働きかけを認めないこと)としてきた者たち、そうした者たちが今、その代償、つまり霊的法則の存在を認めようとしなかったことへの代償を払わされつつあります。

 そこに、あなた方が肝に命じていただきたい教訓があります。真理のために闘う者は、最後は必ず勝利を収めるということです。善の勢力を完全に封じ込めることはできないからです。一時的には抑えることはできます。邪魔することもできます。進行を送らせることもできます。

しかし、真理を永遠に破壊したり、あるべき位置に落ち着くことを阻止し続けることは誰にもできません。

 これは宗教にかぎったことではありません。人生のあらゆる面についていえることです。何事につけても、誤った説に抵抗し、偽りの言説を論破し、迷信に反抗していく者は、決してうろたえてはなりません。

全生命を支え、最後の勝利を約束してくれる、永遠にして無限の霊力に全幅の信頼を置かなければいけません。

 死によって隔てられた二つの世界の交信を可能にしてくれる霊的法則の存在を知った者にとって、こうした戦争(第二次大戦)によって惹き起される不利な条件の中で真理を普及していくことがいかに困難であるかは、私もよく承知しております。

しかし、何が何でも、この霊的真理にしがみついていかねばなりません。やがては、真理に飢え魂の潤いを渇望する者が次第に増え、いつかは知識の水門が大きく開かれる時機が熟します。

その時に備えておかねばなりません。対立紛争が終わった時、戦火が消えた時、無数の人が今度は知識を土台とした生き方の再構築を望むことでしょう。

 彼らは、宗教の名のもとに押しつけられた古い神話には、うんざりしております。戦争という過酷な体験をし、人生の意義を根本から問い直し、なぜ生まれてきたのか、いかに生きるべきなのか、いつになったら・・・・・・といった疑問に直面させられた者は、その真実の答えを何とか知りたいと思い始めます。真理を渇望し始めます。

その時あなた方は、そうした魂の理性と確信と論理性と叡智でもって対応し、新しい世界の住民としての生き方を教えてあげられる用意が出来ていなければなりません。

 過ぎ去ったことは、そこから教訓を学ぶためでなければ、つまり、失敗をどう正すか、二度と過ちを犯さないためにはどうすべきかを反省するためでなければ、むやみの振り返るべきでものではありません。未来へ目をやり、今日行うことをこれから訪れる、より立派な日の素地としてなければなりません。

世界中があなた方を必要とする時代が来ます。無数の人が、希望と慰めとインスピレーションと指導を求めて、あなた方に目を向ける日がきっときます。

 もう教会へは足を運びません。聖職者のもとへは訪れません。教師のもとへは参りません。あなた方の方へ足を向けます。なぜなら、死と隣り合わせの体験をし、その厳しい現実の中で、ある種の霊的体験をした者は、心の目が開いているからです。

目の前を遮っていたモヤが晴れたのです。真理が受け入れる用意ができたのです。ならば、それを授けてあげる用意ができていなければなりません」


───新しい世界が生まれつつあるということは何を根拠におっしゃるのでしょうか。

 「私は厳とした計画、神の計画が見て取れるのです。私は、霊の力こそ宇宙最大の力であると信じています。人間がその働きを歪め、遅らせることはできます。妨害を押し止めることはできるかもしれません。しかし、永遠にその地上への権限を阻止することはできません。

 あなた方が霊的真理を手にしたということは、人類が抱える全ての問題を解くカギを手にしたことを意味します。

私は決して、世にいう社会改革者たち───義憤に駆られ、抑圧された者や弱き者への止むにやまれぬ同情心から悪と対抗し、不正と闘い、神の物的な恵みがすべての人間に平等に分け与えられるようにと努力している人々を、ないがしろにするつもりは毛頭ありません。
℘126
 ただ、その人たちは問題の一部しか見ていない───物的な面での平等のために闘っていることに過ぎないということです。もちろん精神的に平等であるべきことも理解しておられることでしょう。が、人間はまず何より〝霊〟なのです。大霊の一部なのです。宇宙を創造した力の一部なのです。

決して、宇宙の広大な空間の中に忘れ去られた、取るに足らぬ存在ではないのです。宇宙の大霊の一部として、常に無限の霊性に寄与しているのです。

 その霊力の息の根を止めることは誰にもできません。いつかは必ず表に出てきます。残酷な仕打ちにも、憎しみの行為にも負けません。こん棒で叩かれても、強制収容所へ入れられても、独裁政治で抑えられても、決して窒息死することはありません。

なぜならば、人間の霊は、人間が呼吸している空気と同じように自由であるのが、本来のあるべき姿なのです。それが生来の、神から授かった、霊的遺産なのです。

℘127   
 その理想像の素晴らしさを理解した人々、新しい世界のあるべき姿を心に描いた人々は、当然そうあらねばならないことを十分に得心しています。なぜなら、それが人間に息吹を与える動物から人類へと進化させた、その背後の目的の一部だからであり、それはさらに人間を神的存在へと向上させていくものです。

あなた方の使命はその松明を引き継ぎ、新しい炎を燃え立たせ、次の世代にはより大きな光明が道を照らしてあげることです。

 基盤はすでに出来上がっているのです。何年も前から、その基盤作りはこちらの世界で終わっているのです。苦痛は伴いながらも、ゆっくりと各界の名士あるいは名もなき男女が、永遠の霊の実在の証言に立ちあがり、神の計画の一刻も早い実現のために刻苦したのです。新しい世界は必ず実現します」


───その新しい世界は、われわれ人間自らの努力によって実現しなければならないはずなのに、なぜその基盤作りがそちらの世界で行われたのでしょうか。

 「あなた方の世界は影です。光はこちらから出ているのです。あなた方は、こちらで建てられてプランを地上で実行し実現させていきつつあるところです。オリジナルの仕事───と呼ぶのが適切か否かは別として───は全てこちらで行われます。

なぜなら全てのエネルギー、全ての原動力は物質から出るのではなくて、霊から出るのです。みなさんは、意識するしないに関係なく、霊力の道具なのです。受信と送信をする道具なのです。霊的影響力をどこまで受けとめられるかによって、成功するしないが決まるのです」

℘128
───ということは、結局、そちらからの援助をえて私たちが努力することから新しい世界が生まれるということでしょうか。

 「その通りです。何ごとも人間の力だけでは成就し得ません。人間が何かを始める時、そこには必ずこちらからの援助が加味されます。私たちは常に道具を探し求めております。

人間の方から霊力の波長に合わせる努力をしていただかねばなりません。完ぺきは決して望めません。常に困難を克服し邪魔を排除する仕事は永遠に続きます」


───私たち自身の努力で地上に新しい世界を招来しなければならないわけですね?

 「努力してはじめて得られるのです。私から申し上げられることは、神の計画の一部として成就しなければならないことは、すでに決まっている───が、それがいつ実現されるかは、あなた方人間の努力次第ということです。計画はできているのです。

しかし、その計画は自動的に実現されるわけではありません。それはあなた方人間の自由意思に任されております。人間は自由意思を持った協力者です。ロボットでも操り人形でもありません。宇宙の大霊の一部なのです」


───新しい世界が来るとおっしゃっても、私たちにはそれらしい兆候は見当たらいのですが・・・・・・

 「古い秩序が崩壊していくのと同じ速さで、新しい秩序が生まれます。現にその目でご覧になったばかりではありませんか。大帝国がくずれさりました。お金の力が絶対ではなくなりました。

利己主義では割に合わないことが証明されました.戦争体験によって、普通の一般男女の力の本当の価値が証明されました。

 どうか、この私に〝進歩が見られない〟などとおっしゃらないでいただきたい。
℘130
教訓ならあなた方の目の前にいくらでもあります。別に、霊眼は必要ではありません。肉眼で見えるところにあります。これほど切実な体験をした現代の人々に、新しい世界が訪れて当然です。

もしもその恩恵に浴せないとしたら、その人はまだまだ内部の霊的な力を使用するまでに至っていないことを意味します。それだけの努力をした人々は、その犠牲と引き換えに恩恵を受けておられます。

 私はそれが機械的なプロセスで与えられると申しているのではありません。皆さんにやっていただかねばならない仕事があります。それは、一方では霊的知識を広め、他方では古い権力構造の面影に貪欲にしがみついている、因襲的既得権に対して、あくなき闘いを挑む事です」


 シルバーバーチのもとには、数えきれない程の質問が寄せられている。その一つ一つが読み上げられるのをシルバーバーチは熱心に聞き入るが、余りプライベートな内容のものには答えたがらない。

その理由を、プライベートな悩みに答えるには、その悩みを抱えている本人がすぐ目の前にいる必要がある───が、それは、私が委ねられた使命ではないから、と説明する。自分の本来の使命は、すべての人に共通した真理を説くことにあるという。その一つが次の質問である。

℘131
───あなただけがご存じの、何か新しい真理がありますか。

 「新しい真理というものは一つもありません。真理は真理です。単なる知識は、それを受け取る人次第で内容が異なります。子供時代には、その知能程度に似合ったものを教わります。まずアファベットから始まり、知能の発達と共に単語を覚え、文章が読めるようになります。

どの程度のものが読めるかは、その段階の理解力一つに掛っております。知識は無限に存在します。際限がありません。が、そのうちのどこまでを自分のものにできるかは、精神的ならびに霊的受容力の問題です。

 しかし、いくら知識を蓄えても、それによって真理を変えることはできません。いくら知恵を絞っても、真理の中身を変えることはできません。過去において真理であったものは今日でも真理であり、明日の時代でも真理です。真理は不変であり不滅です。

新しい叡智を身につけることはできます。新しい知識を増やすことも出来ます。が、あたらしい真理を生み出すことはできません。

 地上人類はすでに地上生活にとって必須の真理───親切と助け合いと愛についての基本的真理のすべてを授かっております。世界をより良くするには如何にすべきかは、すでに分かっております。

成長と発展と向上と進化にとって必要なものは、過去幾世紀にもわたって啓示されてきております。それに素直に従いさえすれば、今この地上において、内部に宿された神性をより多く発揮することができるのです。

 偉大な指導者、地上に光をもたらした〝霊力の道具〟は、根本においてはみな同じことを説いております。人間の霊性───各自に宿る不滅の資質に目を向けさせるべく、地上を訪れたのです。

言語こそ違え、みな人間のすべてが無限の魂、神の火花、宇宙の大霊の一部を宿していることを説きました。そして素直に従い実行しさえすれば、それより多くを発揮させてくれる指導原理も説いております。

霊的理念に従って生きれば、この世から悪夢のような悲劇、永いあいだ無益な苦しみを与えてきた、恐怖と悲惨と苦悩を一掃できることを説いてきております。

 自分を愛するごとく他人を愛せよ。苦しむ者に手を差し伸べよ。人生に疲れた人、心に潤いを求める者に真理を語って聞かせよ。病の人を癒し、悲しむ人を慰め、不幸な人を訪ねてあげよ・・・・・・こうした教えは、遠い昔から説かれてきた真実です。こうしたことを実践しさえすれば、地上は一変し、二度と恐ろしい悲劇をもたらす戦争も生じなくなるでしょう。
℘133
 そこで、私たち霊団の取るべき態度はどうあるべきか。人間は自分の成長と死後への霊的準備に必要なものは、すでに掌中に収められております。聖なる者も数多くあります。〝師〟と呼ばれる者も数多く輩出しております。

内的世界を垣間見て、その人なりに解釈した霊覚者が大勢います。しかし不幸にして、そうした形で地上に啓示された素朴な真理が埋もれてしまいした。

 人間はその上に教義だの、ドグマだの、信条だの、儀式だのという、余計なものを築き上げてしまいした。単純で素朴な真理の上に、神学という名の巨大な砦を築いてしまい、肝心の基盤がすっかり忘れさられております。

そこで私達は、その埋もれた真理を本来の純粋な姿───何の飾り気も無い素朴なままの姿をお見せするための道具、つまり霊界からのメッセージをお届けするための霊媒を探し求めてきたのです。

 私たちは人間の精神的産物によって色づけされた信仰体制には関心はありません。大切なのは、地上界のように錯覚によって惑わされることのない、霊の世界からの真理です。

なぜかと言えば、余りに多くの落後者、精神的浮浪者のような人間が霊界へ送り込まれる一方で、一見立派そうな人間が、霊的事実について誤った概念と偏見のために、

死後に直面する生活に何一つ備えが出来ていないと言うケースが余りに多過ぎると言う現実をみて、私たちは、いずれ誰もが訪れる永続的な実在の世界、すなわち死後の生活に備えるために、単純な真理を地上にいる間に知ってもらえば、私達の手間も大いに省けるだろうと考えたのです。
℘134
 そこで、あらゆる宗教的体系と組織、進歩を妨げる信仰、不必要な障害、人間の精神を曇らせ、心を惑わせる迷信に対して敢然と宣戦布告し、神の子が神の意図されたとおりに生きられるように、不変の真理を授けようと努力しているわけです。

 他人がどう言おうと気にしてはいけません。非難、中傷など、すべて忘れることです。霊的真理こそが、永遠に変わらぬ真理なのです。理性が要求するテストのすべてに応えうる真理です。決して知性を欺きません。単純。明快で、誰にでも理解できます。

聖職者によるあらゆる方策が失敗したのちも止まることなく普及発展していく真理です。不変の自然法則に基づいた単純素朴な永遠の真理だからです。

 これには、法王も大主教も、司祭も牧師も教会も聖堂も礼拝堂もいりません。私たちも、これを捏ねまわして神学体系を造ろうなどとは思いません。

こうして説くだけです。が、理解ある伝道者さえいれば、それが社会のあらゆる階層に浸透し、すべての人間が身体的にも霊的にも自由を享受し、二度と束縛の中で生きていいくことはなくなるでしょう。無知の暗闇が消滅し、代わって真理の光がふんだんに注がれることでしょう」

℘135
 別の日の交霊会でも、人間の真の自由獲得のための闘争についてこう語っている。

 「私たちは、本当はあってはならない無知に対して闘いを挑まなくてはなりません。神は、内部にその神性の一部を宿らせたはずの我が子が、無知の暗闇の中で暮らし、影とモヤの中を歩み、生きる方角も分からず、得心いく答えはないと思いつつも問い続けるようには意図されておりません。

真に欲するものには存分に分け与えられるように、無限の知識の宝庫を用意してくださっております。

 しかしそれは、当人の魂と成長と努力と進化と発展を条件として与えられるものです。魂がそれにふさわしくならなければなりません。精神が熟さなければなりません。心が受け入れ体制を整えなくてはなりません。その段階で初めて、知識がその場を見出すのです。

 それも、受け入れる能力に応じた分しか与えられません。目の見えなかった人が見えるようになる場合でも、その視力に応じてすこしずつ見せてあげなくてはなりません。一気に全て見せてあげたら、かえって目を傷めます。霊的真理も同じです。

はしごを一段一段とのぼるように、一歩一歩と真理の源へと近づき、そこからわずかずつ我がものとしていくのです。

℘136  
 いったん糸口を見出せば、つまり行為なり思念なりによって受け入れ態勢ができていることを示せば、その時からあなたは、そのたどり着いた段階にふさわしい知識と教訓を受け入れる仕組みとつながります。そのあとはもう、際限がありません。

これ以上は無理という限界がなくなります。なぜならば、あなたの魂は無限であり、知識もまた無限だからです。

 しかし、闘わねばならない相手は無知だけではありません。永いあいだ意図的に神の子を暗闇に閉じ込め、あらゆる手段を弄して自分たちででっち上げた教義を教え込み、真の霊的知識を封じ込めてきた既成宗教家とその組織に対しても、闘いを挑まなくてはなりません。

 過去を振り返ってみますと、人間の自由と解放への闘争のために、私たちが霊界からあらゆる援助を続けてきたにもかかわらず、自由を求める魂の自然な欲求を満足させるどころか、逆に牢獄の扉を開こうとする企てを、宗教の名にもとに阻止しようとする勢力と闘わねばなりませんでした。

 今なお、その抵抗が続いております。意図的に、あるいは、そうとは知らずに、光明の勢力に対抗し、私たちに対して悪口雑言の限りを浴びせ、彼ら自身も信じなくなっている教義の誤りを指摘せんとする行為を阻止し、

勝手にこしらえた神聖不可侵思想にしがみつき、自分で特権と思い込んでいるものがどうしても捨てきれずに、擦り切れた古い神学的慣習を後生大事にしている者が、まだまだ存在します。

 そこで私たちは、人間のすぐ身のまわりに片時も休むことなく打ち寄せる、より大きな、素晴らしい霊の世界のエネルギーがあることを教えに来るのです。そうした数々の障害を破壊し、莫大な霊力───すべての存在に活力を与えるダイナミックな生命力をすべての人間が自由に享受できるようにするためです。

その生命力が、これまでの人類の歴史を通じて多くの人々を鼓舞してまいりました。今でも多くの人々に啓示を与えております。そして、これから後も与え続けることでしょう。

 荒廃しきった世界には為さねばならないことが数多くあります。悲哀に満ち、涙に、むせび苦痛にあえぐ人にあふれ、何のために生きているかを知らぬまま、首をうなだれ、行き先が分からずに、さ迷っている人が大勢います。

そうした人たちにとって、目にこそ見えませんが、霊の力こそ本当の慰めを与え、魂を鼓舞し、元気づけ、導きを必要とする人々に方向を指し示してあげる不変の実在があることを、その霊力が立証してくれます。

 そこにこそ、霊的知識を授かった人々のすべてが参加し、自由の福音、解放の指導原理を広め、人生に疲れ果て、意気消沈した人々の心を鼓舞し、魂の栄光を知らしむべく、この古くて新しい真理の普及の道具として、一身を捧げる分野が存在します。

私たちが提供するのは、霊の力です。あらゆる困難を克服し、障害を乗り越えて、真理の光と叡智と理解力を顕現せしめ、神の子等に恒久的平和を築かせることができるのは、霊の力を措いて他にはないのです」
℘138

───戦死の場合でも、誰がいつ死ぬかということは、霊界では前もって分かっているのでしょうか。

 「そういうことを察知することのできる霊がいるものです。が、どれくらい先のことを察知できるかは、その時の事情によって異なります。

愛の絆によって結ばれている間柄ですと、いよいよ肉体との分離が始まると必ず察知します。そして、その分離がスムースに行われるのを手助けするために、その場に赴きます。

 霊界のすべての霊に知られるわけではありません。いずれにせよ、死んだ時一人ぼっちの人は一人もいません。必ず、例外なく、周りに幾人かの縁故のある人がいて、暗い谷間を通ってくる者を温かく迎え、新しい、そして素晴らしい第二の人生を始めるための指導に当たります」


 総じてシルバーバーチは誰が聞いても分かるようなことを説き、理屈っぽい、難解な質問には答えたがらない傾向がある。その理由をこう弁明する───

 「難解な質問を回避したいからではありません。私は、今すぐ応用のきく実用的な情報をお届けすることに目標をしぼっているからです。基本の基本すら知らずにいる大勢の人々、真理の初歩すら知らない人が大勢いることを思うと、もっと後になってからでもよさそうな難解な理屈を捏ねまわすのは、賢明とは思えません。

 今の時代に最も必要なのは、簡単な基本的真理───墓場の向こうにも生活があること、人間は決して孤独な存在ではなく、見捨てられることもないこと、宇宙のすみずみまで大霊に愛の温もりをもつ慈悲深い力がいきわたっていて、一人一人に導きを与えていること、それだけです。

 これは人間のすべてが知っておくべきことです。また誰にでも手に入れることのできる、掛けがいのない財産なのです。そうした基本的真理すら知らない人間が何百万、いや何千万、いや、何億といる以上は、私たちはまず第一に、そういう人たちから考えようではありませんか。それが私たちにとって最も大切な義務だと思うのです」

℘140
 別の日の交霊会でも同じ話題について───

 「わたしたち霊界の者がこうして地上へ戻ってくる目的の真意が、ほかならぬ宗教の指導者であるべき人から曲解されております。いつの時代にあっても、宗教とは基本的には霊力との関わり合いでした。

それはまず、地上の人間の霊的向上を指向し規制する摂理を教える使命を帯びた者が、地上へ舞い戻ってくるということから始まります。つまり宗教の本来の目的は、人間の霊性に関わっているからです。

 そこから出発し、ではその霊性を正しく発達させる上で、霊界からの指導を受けるにはどうすべきかを説くのが、宗教の次の仕事です。霊的摂理は広範囲にわたっております。

ところが、それが不幸して誤って解釈され、その上、それとは別の意図を持った聖職者が割り込んできたために、そこに混乱が生じたのです。

 人間も根本的には霊であり、それが肉体を使用しているのであって付属品として霊を宿した肉体的存在ではないわけです。肉体は霊に従属しているのです。地上生活の全目的は、その内在する霊に修業の場を与え、さまざまな体験を通じてそれを育み、死によってもたらされる肉体からの解放の時に備えて、身支度をさせることにあります。

そこから本当の意味での〝生活〟が始まるのです。宗教とは、霊が霊として本来の生活ができるように指導するための処世訓であり、道徳律であると言えます。

 ところが不幸にして、古い時代 (イエスの時代の少し後) に、霊の道具である霊媒と聖職者との間に衝突が生じたのです。聖職者の本来の仕事は、聖堂や教会といった宗教的行事の執り行われる建造物の管理でした。

原初形態においては両者の関係はうまく行っておりました。が、ある時代から聖職者の方が、紳示(霊界通信)を受ける霊媒にばかり関心をむけられることに不快感を抱くようになりました。

そしてそれまでに入手した神示を資料として、信条・儀式・祭礼・ドグマ・教説等を分類して綱領をこしらえる、いわゆる神学的操作を始めたのです。今日まで引き継がれているもののうち、どれ一つとして霊の資質と実質的に関わりのあるものはありません。

 かくして、真の宗教の概念が、今日では曖昧となってしまいした。宗教というと何かお決まりの儀式のことを思い浮かべ〝聖典〟と呼ばれるものを読み上げることと考え、賛美歌を歌い、特別の衣装を着ることだと思うようになりました。何やら難しい言説を有り難く信奉し、理性的に考えれば絶対におかしいと思いつつも、なおそれにしがみつきます。
℘142  
 私たちはいかなる神学、いかなる教義、いかなる信仰告白文にも関心はありません。私たちが関心を持つのは人間の霊性であり、私たちの説くこともすべて、絶対的に従わねばならないところの霊的自然法則に向けられています。人間がこしらえたものを崇めるわけにはいきません。

宇宙の大霊によって作られたもののみを実在として信じます。そこに、宗教の捉え方の違いの核心があります。

 人のために役立つ行為、霊性に動かされた行為、無私と利他的行為、自分より恵まれない人へ手を差し伸べること、弱き者へ力を貸してあげること、多くの重荷に喘ぐ人の荷を一つでも持ってあげること、こうした行為こそが私たちの説く宗教です。

 〝神とイエスと聖霊は三にして一、一にして三である〟などと説くことが宗教ではありません。宗教的であるとも言えません。それを口にしたからといって、霊性はみじんも成長しません。朝から晩まで賛美歌を歌ったからといって霊性が増えるわけではありません。

 バイブルを読んでも(キリスト教)、タルムードを読んでも(ユダヤ教)、コーランを読んでも(イスラム教)、バカバット・ギ―タ―を読んでも(ヒンズー教)、その他、いかなる聖なる書と呼ばれているものを、目が疲れるほど読んでも、それだけで霊性が成長するわけではありません。

 〝宗教的〟とみなされている行事のすべてを行っても、それによって一段と価値ある人生へ魂を鼓舞することにならなければ、私たちが考えている意味での宗教的人間になるわけではありません。

 肩書(ラベル)はどうでもいいのです。形式はどうでもいいのです。口先だけの文句はどうでもいいのです。大切なのは〝行為〟です。どういうことをしているかです。つまり各自の日常の生活そのものです。

 私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人として神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすことはできません。自分が自分の救い主であり、贖い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。

 また、神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。すなわち、親切・寛容・同情・奉仕の行為が自動的に、それ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義・罪悪・不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も、安価な赦免もありません。
℘144
神の公正が全宇宙に行きわたっております。霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。死後の床での悔い改めも通用しません。

 巨大なる宇宙の中で生じるもの全てに責任を持つ大霊の、不変にして絶対的威力を有する摂理に目を向けましょう。私は常にその摂理を念頭に置いています。

なぜなら私たちの説く神は、人間的弱点───激情や憤怒に動かされたり、好きな人間と嫌いな人間とを選り分けたりするような、そんな人間的存在ではないからです。

 私が見る宇宙は法則によって支配されています。すみずみまで行きわたり、これからも常に永遠に存在しつづける法則です。

地上の人間に永い間振り回され、隷属させられてきた誤った概念と虚偽、偏見と無知を無くしていくには、地上の生命現象と生活現象のすべてが、その絶対的法則によって支配されていることを教える以外に方法はありません。

 その知識が少しでも増えれば、それだけ理解力も豊かになるでしょう。本来の美しさを遮っていたベールが取り除かれ、有限の地上的存在の視野を超えた所に存在する、より大きな生活を少しでも垣間見ることになるでしょう。

 かくして私たちは、常に神の永遠の自然法則、絶対に狂うことも過つこともない法則、地位の高い低いに関わりなく、すべての存在に等しく働く法則に、忠誠と感謝の念を捧げるものです。

誰一人として等閑(なおざり) にされることはありません。誰一人として独りぼっちの者はいません。法則の働きの及ばない者。範囲からはみ出る者など、一人もいません。あなたがこの世に存在するという事実そのものが、神の摂理の証しです。

 人間の法則は機能しないことがあります。改められることがあります。人間の成長と発達に伴って視野が広がり、知識が無知をなくし、環境が変化するに伴って新たな法令が要請されると、従来の法律が廃止されたり、別の法律と置き換えられたりすることもあります。

 しかし、神の法則に新しい法則が付け加えられことは絶対にありません。改正もありません。解釈上の変化も生じません。いま機能している法則は、これまでずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能してまいります。一瞬の休みもなく機能し、そして不変です」