Friday, April 17, 2026

霊の書(4部) アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book

第4部 希望と慰め
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



1章 地上的喜びと悲しみ

このページの目次

〈幸と不幸〉

――この地上界に完全な幸せというのは有り得るでしょうか。


「有り得ません。肉体に宿っての生活は試練か罪滅ぼしのいずれかを目的としての生活の場として指定されているからです。ただ、定められた体験の苦の側面を、その対処の仕方(心構え)によって軽減し、それだけ幸せの側面を大きくすることは可能です」


――地上的な幸不幸は相対的なもので、置かれた立場によっては、ある者には幸せに思えることが他の者には不幸に思えることがあります。そうしたこととは無関係に、全ての人間に共通した幸せの基準というものがあるのでしょうか。


「物的生活に関しては生きるための必需品が確保できることであり、精神的生活に関して言えば、健全なる良心と死後の生命への信念を持っていることです」


――それほどの財産を所有するに値するとは思えない人が豊かな生活をしていることがありますが、なぜでしょうか。


「財産というものは、現世のことしか考えない人には羨ましく思えるかも知れませんが、来世との関連で見ると、苦難や貧困よりも危険な要素を秘めているものです」


――文明の発達は欲望を増幅していくという観点からすると新しい悩みのタネをも増やしていっていることになるのでしょうか。


「地上界の病苦は、人間本来の必要性とは別種の、言わば人工的必要性に比例して増えています。欲求に自分で限度を設けて、それ以上の贅沢には何の魅力も覚えない人は、地上生活における落胆とは縁のない人です。真の意味で豊かな人とは余分なものを欲しがらない人です。

人間はとかく金持ちの贅沢を羨ましがりますが、その人たちの多くを待ち受けている運命をご存じありません。財産を自分のことにだけ使う人は利己主義者であり、そういう人の将来には恐ろしい逆境が待ち受けております。羨ましがらずに憐れんであげるべきです。

神は時として邪悪な人間に大金を預けます。それは、それが元で泣く思いをさせ歯ぎしりして後悔させ、反省の機会を与えるためです。もしも真面目に生きている人が不幸に陥った時は、それは神が与えた試練であり、それに毅然として立ち向かうことによって豊かな報いが得られます。イエスも言っております――悲しむ者は幸いである。いずれ神の慰めを得る時が来るであろうから、と」


――神は人間各自の適性に応じて天職というものを示してくださっているのですが、人生の不幸はそれに忠実に携わっていないことから生じているのでしょうか。


「そうです。よくあるのは、両親が自尊心や欲から、我が子を天性に合った道から親の都合の良い方向へ強引に向かわせるケースです。そういう身勝手な行為は後で責任を取らされます」


――世間的な悩み事は往々にして自らこしらえたものだということですが、精神的な悩みも自分でこしらえているのでしょうか。


「その方がむしろ多いくらいです。と言うのは、世間的な問題はこちらから仕掛けたものばかりではありませんが、魂の苦悶は、傷つけられた自尊心や野心の挫折、貪欲、嫉妬心、怨恨といった、ありとあらゆる悪感情が内部から巻き起こすものだからです。

怨恨と嫉妬! この魂の寄生虫を宿らせない人間は本当に幸せな人です。怨恨と嫉妬が寄生する魂には安らぎも落ち着きもありません。この二つの悪感情の奴隷となった人の目の前には常に欲望と憎しみと怒りの対象が幻のごとく立ちふさがり、休みなく、睡眠中でさえも追いかけ回します。怨恨と嫉妬に狂った人間は熱にうなされているのと同じです。その悪感情の渦に巻き込まれた人間は自ら恐ろしい苦悶を生み出し、そういう人にとっては地上がそのまま地獄となることが分からないのでしょうか」
〈死別・忘恩〉


――死別によって地上に残された者の悲しみがいつまでも消えない場合、その悲しみの念は霊界の霊にどういう影響を及ぼすでしょうか。


「霊は基本的には地上に残した愛する人々が自分を思い出してくれたり惜しんでくれたりすると心を打たれるものです。しかしそれが度を越したものになると、却って苦痛となります。そのわけは、そんなにいつまでも悲しむということは死後の生命の存続と神の実在についての信仰が欠けていることの証拠であり、それは悲しんでくれているその人にとっての向上の妨げになり、結果的には霊界での再会の妨げにもなるからです」


――それとは逆に、あっさりと忘れ去られたり、友情のはかなさを思い知らされたりするのは、人間の心の冷たさを感じさせる態度ではないでしょうか。


「おっしゃる通りです。しかし我々としては、そういう恩知らずや不誠実な人間の方こそ憐れんでやるように説きたいのです。そういう冷たい態度は最終的には本人に害が降りかかってくるからです。忘恩は利己主義から生まれます。そういう人間はいずれ自分も同じような仕打ちに会います。

それよりも、あなた方より遥かに良いことをし、遥かに価値あることをしながら冷たい仕打ちに会った人たちのことを思い起こすことです。例えばイエスをごらんなさい。あれほどの恩恵を地上にもたらしながら、イエスは身分の卑しいペテン師呼ばわりをされたのです。あなた方が同じ扱いをされても少しも驚くには当たりません。

この地上にあっては、良いことをしてあげたというその思いだけで満足し、その相手がどういう態度に出ようと意に介さないことです。忘恩の態度はむしろ自分の善性への志向の強さを試してくれているのです。それがこれから先に良い影響をもたらします。恩知らずは神がきちんと罰します。その度合いが大きいだけ罰も厳しいものとなります」
〈政略結婚〉


――愛情をまったく感じない二人が結婚させられるというのもまた不幸ではないでしょうか。一生涯に係わるものだけに、なおさら辛いと思いますが……。


「確かに辛いでしょう。が、その原因も大体において人間側にあります。まず第一に法律制度が間違っております。愛し合ってもいない二人が一緒の生活を送ることがまるで神の意図ででもあるかのように宣誓して、それで結婚が成立するとは何事ですか。次に、政略的に結婚を成立させようとする策謀家たちも罪です。二人の幸せよりも自分たちの面子(めんつ)を保ち野心を果たすことを第一に考えます。そうした間違った階級意識による不当行為は自然の摂理の裁きが待っております」


――でも、そうしたケースには大抵、罪のない犠牲者がいます。


「います。そういう人々にとっては大きな罪滅ぼしとなります。そして、策謀をめぐらした者たちは大きな責任を取らされます。そうした犠牲者に霊的真理の光が届けられれば、辛い人生における何よりの慰めとなることでしょう。しかし、そうした不幸の原因が取り除かれるには、誤った階級制度が消え失せることが先決です」


訳注――カルデックの時代はヨーロッパだけでなく日本でも、上流階級や支配者層では、女性は政略結婚の道具でしかなかった。その観点からすると、地上界もその後確かに進化していると言えそうである。
〈厭世観と自殺〉


――これといった理由もないのに厭世観を抱いている人がいますが、何が原因でしょうか。


「怠惰、信念の欠如、そして時に見られるのが贅を尽くした生活です。生得の才能を正しく活用して意義ある目的のために使用している人は、努力というものが少しも苦になりません。快適な気分の中で、あっという間に時が過ぎて行きます。そして人生の浮き沈みにも忍耐力と甘受の精神で切り抜けることができます。そういう人は、さらに実感のある永続的な至福の境涯が待ち受けていることを霊的に直観しています」


――人間には自分の生命を自分で断つ権利がありますか。


「ありません。それは神のみが所有する権利です。自らの意志で自殺する人間は、再生に際して神が定めた秩序を乱すことになります」


――自殺はすべて自らの意志で行っているのでしょうか。


「精神異常者は自分が何をしているのかを知りません」


――こういう絶望的な行為に追いやる霊は、その結果として生じることに責任を負わねばならないのでしょうか。


「大きな罰をこうむることになります。結果的には殺人罪と同じですから、同等の責任を負わねばなりません」


――家族に不名誉が及ぶことを避けるための自殺であれば許されますか。


「自殺は急場しのぎの方策であって、間違いは間違いです。が、本人としてはそれが最良の方策と考えての行為であれば、神はその意図を汲んでくださるでしょう。その場合の自殺は自ら科した罪滅ぼしであり、その動機によって罪の深さは和らげられます。が、過ちは過ちです」


――他人の生命を救うために、あるいはその人たちの為になると信じて、自らの命を断つ行為はいかがでしょうか。


「そういう動機に発するものであれば崇高なる行為と言えます。が、その種の自発的犠牲的行為は自殺ではありません。神の目から見て許せないのは無益な犠牲、そして軽はずみな見栄から出た行為です。犠牲的行為は、そこに一切の打算が無い時にのみ立派と言えます。どこかに利己心で染まったところがあれば、たとえ犠牲的であっても、その分だけ割り引きされます」


――このままではいずれ悲惨な死を迎えると覚悟した者が自らの手で死を早める行為は間違いでしょうか。


「神が定めた死期を待たずにそれを早める行為は、全て間違いです。それに、自分の生命の終末がいつ来るということが分かるのでしょうか。絶体絶命の最後の一瞬に予想もしなかった救いの手が差し延べられないとは、誰が断言できますか」


――それは分かるのですが、私がお聞きしているのは、死は絶対に免れないと覚悟した人が、僅かな時間だけ早く、自らの手で生命を断つケースです。


「そういうケースには運命を甘受する度胸と、神の意思への絶対服従の精神が欠如しています」


――そういうケースでの自殺はどういう結果になるのでしょうか。


「他の自殺と同じです。それが実行に移された時の状況を考慮に入れた上で、その誤った行為の深刻さの割合に応じた罪滅ぼしが科せられます」


――一般論として、自殺は霊にどのような影響を及ぼすのでしょうか。


「自殺がもたらす影響は一つ一つ異なります。そのわけは、それが原因となって生み出す結果は自殺という行為に導いた環境条件によって違ってくるからです。ただ一つだけ避け難い共通した反応として、期待はずれから生じる落胆が挙げられます。それ以外の懲罰は一人一人異なります。罪の浅い人は簡単な罪滅ぼしで済みますし、新たに再生して、前世つまり自殺によって切り上げた人生よりさらに過酷な人生に耐えねばならない人もいます」

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch

ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳



八章 シルバーバーチからの質問

 ある日の交霊会でシルバーバーチの方から一連の質問をしたことがある。

 最初の質問は 「皆さんはこれまでの人生に最善を尽くしたと思われますか」 というものだった。

 これに対してメンバーの一人が 「誰ひとりそう断言できる者はいないと思います」 と答えると、シルバーバーチは別のメンバーに対して 「あなたはどういう点がいけなかったとお考えですか」 と聞いた。

すると 「毎日、毎時間、数えきれないほどです。こうするのが自分の責務だと思っていながら全力を投じていないからです。これが正直な答えです。私にとっての〝赦し難き罪〟です」 と答えた。

もう一人のメンバーも 「かくあるべきということに四六時中最善を尽くしている者はいないというのが正直なところだと思います」 と言い、さらにもう一人も 「もしそれが出来たらわれわれは恐るべき人間ですよ」 と答えた。

 シルバーバーチの次の質問は 「今お持ちの知識を携えてもう一度人生を初めからやり直すことができたら、もっと立派なことができたはずだと思われますか」 というものだった。

 これに対して一人は 「ええ、むろんです」 と答え、もう一人は 「私はそうは思いません。早くからこうしたことを知っておりましたから、それは私にとって言い訳にはなりません」 と答えた。すると最初に答えたメンバーがその人に 「少なくとも人生を歩む上での方向感覚を与えることにはなっていたでしょう」 と述べた。

 一方、かつてメソジスト派の牧師だったメンバーは「私の場合は、もし早くから知っていたらメソジスト派への改宗を説くことだけはしなかったろうと思われます」 と答えた。
 
 別のメンバーは「とにかく私は怠慢でした」とだけ答え、もう一人は「私は知らずにいたことを永い間悔やんでおります。早くから知っていたら大変な違いが生じていたはずだと思うからです」と答えた。そして最後の答えは「多くの好機を無駄にしてきました」というものだった。


 こうした答えを聞いてシルバーバーチは次のように語った。

 「私は皆さんのお答えのいずれにも賛成しかねます。霊的な視点で見ておられないからです。一人の方はもし早くから知っていたらメソジスト派の教えを説いて永い年月をムダにすることは無かったとおっしゃいましたが、私に言わせれば、むしろ荒野に叫んだ時期が無かったら、その方の存在は今ほど大きくなかったろうと思われます。

真理探求に没頭した年月───追求してはつまづき、倒れては起き上がり、間違いを犯しながら遂にそれまでの信仰が真実とは似て非なるものであることを思い知らされることになった───そうした体験がその人の魂の発達の掛けがえのない要素となっているのです。

行く手に転がる石ころを一つ一つ取り除いてもらい、困難は生じる前に簡単に片づけられ、いかなる障害が地平線に浮かんでも、まるで魔法のように消されてしまうような人生を送っていては、未発達で、何の試練も体験しない、幼稚な霊をこしらえることにしかなりません」

 すると当の本人が「でも、私が説いた(誤った)教えを聞いた人たちはどうなるのでしょうか」と聞いた。

 「あなたがその人たちに及ぼした(悪い)影響を必要以上に誇張してお考えになってはいけません。その人たちはその人たちなりに、そうした誤りを通して学んでいかねばならないのです。葛藤と困難、苦悩と障害は霊性の開発にとって必須の要素なのです。

たとえあなたが霊的知識(スピリチュアリズム)を早くから知っていたとしても、相変わらず葛藤は葛藤として続いていたことでしょう。ただ、私がもっと早く、困難への対処の仕方を教えてあげておれば良かったということは言えましょう」


 次に“私は怠慢でした”、と答えた人にシルバーバーチはこう述べた。

 「あなたはご自分が怠慢だったと考えておられる。それはあながち間違っているとは言えませんが、あなたはもう大いにその埋め合わせをしておられます。ご自分では気づいていなくても、立派な貢献をしておられます。ご自分では小さく見くびっておられますが、その判断は公平を欠いております」

 “知らずにいたことを悔やんでいる”と答えた人に対しては「償いをすることによって却ってその有難さを知ることになることもあるものです」と答え、“早くから知っていたので今さら言い訳はしない”と答えた人に対しては 「あなたはずっと正しい指導を受けてこられました。

ほぼ物心がついた頃から今日までずっと霊的な糸で結ばれております。(全員に向かって)人生は釣合い、照合、再照合、そして埋め合わせといったことの繰り返しであることを認識して下さい。

皆さんはそれぞれの生活にとっぷりと浸っておられるために、これまでご自分がどれほど立派な貢献をしてきたか、そして今どんな貢献をしているかがお判りになりません。視野がぼやけております。天秤を水平に持つことができないのです。

しかし大切なことは、知識がすべてに優先するということです。ですから、霊的知識の普及にできるかぎりの努力をしなければなりません。私がこの仕事を依頼されて地上をいかなる世界にすべきかという未来像を画いた時に、何よりも優先させねばならないと考えたのもそのことでした」

 次に出されたシルバーバーチからの質問は「あなた方にとって、この交霊会はどういう意義がありましたか」ということだった。

 一人は「大変な意義がありました。大いに目を開かされ、数多くの書物を読みました」と答え、もう一人は「スピリチュアリズム的な考えの基盤を与えてくれました。死後の世界についての正しい認識を得ることにもなりました」と答えた。

 三人目の人は「幸せをもたらしてくれたと思っております。キザに聞こえるかもしれませんが、多くの人にとってもそうだと思うのです。事実、本当に慰めを必要とする人にとって真の慰めとなった証がたくさんあります」と答えると、

四人目の人は「私にとっては〝無限なるもの〟を子供にも分かる言葉で説くことの出来る唯一の人との出会いのチャンスを与えてくれました。いつも変わらぬインスピレーションの泉です。私に新しい可能性の世界───かつては試行錯誤の繰り返しであった世界を今や日常の細かい点までしっくりと納得のいく世界にしてくれました。ここへ出席するたびに大変な事業に携わる者として自分がいかに未熟な人間であるかを痛感させられております。

このサークルは、その結成がいかなる過程を経たかはよく知りませんが、無数の人々にとって慰めと力づけとインスピレーションの変わらぬ泉であると思っております」


 以上のような返事を聞いたシルバーバーチはこう語った。
 「私はあなた方を愛し、かつ誇りに思います。地上に戻って来る指導霊がみな私と同じような愛を一身に受けることができれば、どんなにか満足に思うことでしょう。これほどの愛と、そしてそれ以上に尊敬の念を受けている私は本当に光栄に思い、幸せ者であると思っております。

 さて、まず正直に申しておかねばならないことは、この仕事を引き受けた頭初は、私の力量ではとても無理なように思えたことです。

しかし私は、人生において何よりも大切なものとして私が尊ぶところの霊的真理は、表現方法さえ工夫すれば、数知れぬ人々にとってそれまで理解し損ねていた人生に確信と方向づけと目的とを見出すよすがとすることができるはずだと考えたのです。

初めの頃は気の遠くなるほど困難に思え、思わず足を止めて躊躇したことが何度も何度もありました。そんな時に必ず私の耳に鳴りひびいたのが、私がこの仕事をお引き受けした時に受けた(すでにお話しした通りの)言葉でした。

(訳者注───背後には幾重にもわたって霊団が控えていて、精一杯のことをやっておれば上級界から援助の手をさし向けるから案ずるな、という確約の言葉のこと)

 こうして勇気づけられながら私は、無数の人々の魂を鼓舞しようとする大目的のために私の手なり足となってくれる人───同胞のために身を粉にして活躍してくれる人々を探し求めてきました。

数々の困難を乗り切って今日まで邁進することができました。そして皆さんもご承知の通り、数多くの人の心に感動を与え、数多くの魂に目を開かせ、数多くの人の精神を開放し、暗闇に理解力という名の光を照らすことができました。

光明が射し込み、今や、かつては漆黒の闇だったところに真理という名のダイヤモンドの光が輝きはじめ、少しづつ広がりつつあります。まだまだ説かねばならないことが残っています。私は 時おり思うのですが、もし立場が皆さんと逆であったら、私はもっともっとしつこく知りたがるかも知れません。

それを思うと、皆さんの忍耐と私への忠誠心に対して(皮肉な意味でなしに)感心せずにはいられません。私の説く真理の素朴さと私という目に見えない存在の本性を(姓名も名のらずに)明かそうとするお粗末な弁明だけで、皆さんからこれほどの信頼と確信を得ていることだけで、私は十分に満足に思っております。

 しかし、このことだけは認識し、そして安心なさってください。私がその代理人を勤めている高級霊の力───みずからその通路となることで甘んじている霊力は、宇宙の生命力そのものだということです。私の背後には数え切れないほどの進化の階梯があり、そこには私よりはるかに向上進化した霊団が幾重にも控えております。

その意味では私にはおよそ霊格の高さも魂の成長度も誇れる立場にはありませんが(※)、真理に飢えた魂にあふれた世界が待ち望んでいるメッセージを、十分とは言えないまでも、お届けする道具として役立ったことだけは断言できます。あなた方も、よくぞ私を信頼して下さいました。その信頼は決して無駄には終わらせません。

より一層の理解をもたらす道へ私がかならずご案内いたします。どうか、さきほどどなたかがおっしゃったように、ご自分を詰まらぬ存在のようにお考えにならないでください。皆さんはご自分で考えていらっしゃる以上に役に立っておられます。皆さんのご存じない人々を皆さんの力で、暗闇から光明へと大勢救い出しておられます。

耐えきれないと観念していた肩の荷を軽減してあげています。あなた方なりに最善を尽くしておられます。皆さんには人間としての強さと同時に弱さもお持ちです(※※)。私には皆さんの心の中が読み取れます。

お一人おひとりの魂の真実の姿が私にはすべて判ります。だからこそこうしていつも身近かにいて、無情な人生の闘いの中で援助してあげることが出来るのです。私への感謝の言葉をお聞きしていると謙虚な気持ちにならずにおれません。私には感謝していただく資格はないのです」

(※霊格の高さが必ずしも霊の成長を意味するものではなさそうである。オーエンの『ベールの彼方の生活』によると、霊格の高さの点では二段も三段も上の界に相応しいものを具えているのに、魂の鍛錬の不足からくる霊力の弱さのために足踏みしている霊がいるという。

そこで一層の試練を求めて下層界、あるいは地上圏へと降りてくる─── 時には肉体に宿って再生してくる───ことにもなるわけである。 ※※肉体に宿って地上で生活することは、霊的感覚が鈍るという弱点はあっても、地上的体験を積むにはこれ以上うまくできた身体は無いことも事実で、これは地上の人間の強みである。ー訳者)

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch

ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳


第七章 宇宙創造の目的

 霊的教訓の真髄は確かに単純なものかも知れないが、全ての人間がそれだけでは満足しないのも事実である。ある日の交霊会で〝宇宙創造の目的は何か〟という質問が出た。そしてその質問の内容をこう広げた。

───人間は除々に進化し続けて究極的に大霊の中に吸収されてしまうのなら、なぜ人間を創造する必要があったのでしょうか。

 「私は人間が最後は大霊に吸収されてしまうという説を取っている者ではありません。いつも言っている通り、私は究極のことは何も知りません。始まりのことも知りませんし終りのことも知りません。私に言わせれば〝存在〟には〝いつから〟ということはなく〝いつまで〟ということもなく、いつまでも存在し続けます。

地球上の全生命が他の天体の生命と同じように霊の世界を通過して絶え間なく進化し、意識が完全を目指してゆっくりと上昇していきつつある状態が〝存在〟です。その意識がいつ芽生えたかについても私は何も知りません。

いつ完全の域に達するかも知りません。私は完全とか吸収(寂滅)とかの時が来るとは思えません。なぜなら、魂というものは霊性を高めて向上するにつれて、言いかえれば過去の不完全性の不純物を払い落とすにつれて、さらに大きな進歩の必要を自覚するものだからです。

進化すればするほど、なお進化すべき余地があることに気づくものです。高く登れば登るほど、その先にまだ登らねばならない高いところがあることを知ることの連続です。

 私の考え方は、大霊の一部である意識の、生活の中における開発と発展に主眼を置いています。この意識は私の知る限り無窮の過去より常に存在してきたものですが、それがさまざまな形態を通じて顕現し、その表現を通じて絶え間なく洗練されつつ、内在する神性をより多く発現していくのです。

これまでもありとあらゆる生命現象を通じて顕現し、今なお顕現し続けております。現在人間という形で表現している意識も、かつては動物、鳥類、魚類、植物、その他、無生物と呼ばれているものすべてを通じて表現されてきたのです。これからもその意識は進化と成長を続け、発展し、拡張し、神性を増し、物質性を減らしていきます。

それが創造の全目的です。大霊の一部である意識が千変万化の形態を通じて絶え間なく顕現していくことです。それに私はぜひ次の考えを付け加えたいと思います。それは、人間を創造の大事業と切り離す、あるいは縁のない存在として考えてはならないということです。

なぜなら、人間もその創造活動に参加しているからです。創造的エネルギーが人間を通じて働いているのです。あなたの人生、あなたの努力、あなたの葛藤が、無限の創造活動に貢献するということです。

一つひとつの生命がそれなりの貢献をしています。その生命が高級になればなるほど、つまり愛他性を増し排他性を減らすにつれて、変化に富む創造の世界に美しさを加えています。

画家や音楽家や詩人だけが美の貢献をするのではありません。あらゆる生命が───そのつもりになれば───美をもたらすことができるのです」


 創造の問題は必然的にバイブレーションの問題となる。

───スピリチュアリズムでは〝バイブレーション〟という用語がよく使用されますが、これを分り易く説明していただけないでしょうか。
 「生命のあるところには必ず運動があり、リズムがあり、鼓動があり、バイブレーションがあります。生命は活動せずにはいられないものです。静止したり惰性的になったりするものではありません。生命には常に運動が付随します。その運動を理解し、その意味を理解するには、まずその定義から始めなければなりません。

私がバイブレーションという時、それはエネルギーの波動の形で顕現している生命のことで、無数の生命形態ないしは現象の一つを指しています。存在するものはすべて振動(バイブレイト)し、何かを放射し、活動しています。私たちがこうして地上へ働きかけることができるのもバイブレーションのおかげです。

私たちはふつう物的感覚の領域を超えたバイブレーションの世界で生活しております。言わばオクターブの高い世界です。霊的エネルギー、霊的パワー、霊的現象はことごとく物質より感度の高い、微妙なバイブレーションから成り立っております。

 地上のように物質に浸りきり包み込まれている世界と交信するためには、次の二つのうちどちらかの方法を取らなければなりません。すなわち、人間の側がその低いバイブレーションを高めてくれるか、それとも私たち霊の側がその高いバイブレーションを下げるかのどちらかです。

両方が歩み寄れば・・・・・・・誰しもそうお考えになるでしょう。ところが、どうしてどうして、なかなかそううまくは行かないのです。いつも私たちの方が遠路はるばる下りてこなければなりません。地上世界からの援助は多くを望めないのです。

この霊媒(モーリス・バーバネル)を使ってしゃべるために私は私の本来のバイブレーションを下げております。その状態から脱け出て私の本来の界へ戻る時は、その界に合った意識を取り戻すためにバイブレーションを加速しなければなりません。こうしたことは全てバイブレーションの操作によって行われるわけです。

それを簡単に説明するにはバイブレーションという用語しか見当たりません。それにしても、長いあいだ霊的な分野のことには一切耳を貸さず目を瞑(つむ)ってきた科学者が、今になって物質の世界の謎を解くカギはバイブレーションにあるという認識を持ち始めたことは興味ぶかいことです」

───〝霊力〟というのはどんなものでしょうか。実感があるのでしょうか。目で見て描写できる性質のものでしょうか。


 「ずいぶん解釈の難しい言葉をお使いになられますね。〝実感があるか〟とおっしゃるのはどういう意味でしょうか。五感に反応するかということでしょうか。その意味でしたら実感はありません。

真実味があるかという意味でしたら、知識に真実味があり、叡智に真実味があり進化に真実味があり愛に真実味があり、ありとあらゆる目に見えないエネルギーに真実味があるように、霊力にも真実味があります。

私たち霊(スピリット)にとってはもちろん真実味がありますが、霊覚が発達してその真実味が認識できる段階にまできていない者には、その存在は実感できません。一種のエネルギーです。霊的なエネルギーです。生命活動を操るエネルギーです。

無知な人、偏見を抱く人、迷信に動かされる人は、自分でいくつもの精神的障壁をこしらえ、その一つ一つが霊力の働きの障害となります。それがいつになったら突き崩せるかは、その障害の性質によります。

 人によっては霊的なものについて漠然とした概念すら抱くことなく地上生活を終えることがあります。そういう人は生命がすなわち霊であり霊がすなわち生命であること、地上の全生命は霊力ゆえに存在が維持されていることに気づきません。

霊的実在についてまったくの無知で、言わば、死が解放してくれるまで、肉体という牢獄の中に閉じ込められた生活を送るわけです。といって、死んですぐに実在に目覚めるわけではありません。

ご承知の通り、それには永い調整期間が必要です。そうした完全に無知な人とは別に、生命現象を創造し支配し導いている超越的なエネルギーを何らかの体験の中でチラリと垣間見る程度に意識する人もいます。

さらには、あなた方のように、こうして直接的に知識を獲得して、日常生活の中で霊力の恩恵にあずかる人もいます。心と精神と魂の窓を開いた方です。こうした方は地上の生命現象のすべてを表現しているのと同じ霊力の道具として、いつでも使われる用意が出来ている方です。霊のほうでもあなた方を通して他の受け入れ準備の整っている人を少しでも早く目覚めさせようと腐心しています。

そうしたことに使用されるのはみな同じ霊力なのです。生命現象の全てを統制している力は、私の霊団が操作し私がこうして話すことを可能にしてくれている力と同じものなのです」


 そのシルバーバーチ霊団とサークルとのつながりについて出された質問に答えて──
 「信じることです。わけも分からずに信じるのではなく、確固とした知識の上に立った信念を持つことです。確信です。これは使い古された言葉ですが、私には何一つ新しい訓えは持ち合わせないのです。しかし、それがあなた方の精神構造の一部となり切るまで、私は同じことを声の続く限り何度でも叫び続けます。

確信を持つことです。あなた方があなた方なりの役割を果たして下さっていれば、私たちは私たちなりの役割を果たします。決して見捨てるようなことは致しません。人間がインスピレーションにあずかるチャンスはいくらでもあります。ところが、取越苦労、疑念、不安、こうした邪念が障害となっています。

そういう念が心に宿るスキを与えてはなりません。(あなた方の協力を得て)為さねばならない仕事が山ほどあるのです。目的意識を忠実に持ち続けることによって私を援助していただきたいのです。私のこれまでの永い体験をもってしても容易に克服できない障害がたくさんあります。

だからこそ皆さんの私への忠誠心、確信、なかんずく大胆不敵な心、つまり恐怖心、悩み、心配を精神に根づかせないように心掛けることで私の力となっていただかねばなりません。
 
 進みゆく道を問題が過(よぎ)ることがあるかも知れません。が、そのまま過って行ってしまいます。そこに居座ることはありません。解決できないほど難しい問題は生じません。

背負えないほど重い荷を背負わされることはありません。取越苦労をしてはいけません。明日がもたらすものに不動の信念と断固たる精神で立ち向かいなさい。万事うまくいきます。世の中にはあなた方(のように霊的真理を手にした者)による救いを求めている人が大勢います。

あなた方はそういう人を援助し、使命を成就する備えが出来ていなければなりません。どうのこうのと立派なことを言っても、それを人のために役立てなかったら、つまり自分の獲得した知識を他の人に分けてあげなかったら、せっかくあなたに授けられた知識の本来の意義を自分の人生で生かしていないことになるのです。

為さねばならないことは山ほどあります。われわれの努力によって喜ばせてあげられる人があちらにもこちらにも大勢いることを自覚して、心躍る気持ちで仕事に邁進しようではありませんか」


別の日の交霊会でこれから霊媒のバーバネル氏が入神してシルバーバーチがしゃべり始めるのを待っているあいだ、二人のメンバーがスピリチュアリズムの宣伝活動の価値について議論し合っていた。やがてシルバーバーチが憑ってきてこう語った。

 「私たちがこうして地上へ戻ってくるのは何のためだとお考えでしょうか。少数の特殊な人のため? それとも大勢の人々のため? 私たちの説く真理はひと握りの人のためにどこかの小さな団体、秘密結社のような所に仕舞い込んでおくべきものでしょうか。

真理を知らずに迷い、絶望的になり、或いは悲嘆に暮れている数知れない人の姿が私たちの目に見えないとでもお思いでしょうか。私たちがお届けするメッセージには重大な目的があるのです。世界中の人間に例外なく宿る宇宙の大霊すなわち神の崇高な資質を顕現させることを目的としているのです。

まず第一に人生を支配する法則──物的生活、精神的生活、霊的生活を支配する法則の存在を説かなければなりません。続いて人生の目的、地上に生まれてきた理由、内部に宿る素晴らしい能力、潜在的神性、人間に為しうる貢献度、目指すべき理想的世界、身につけるべき知識、到達できる極致を理解させなければなりません。

 私たちの説く真理は最後は地上のすべての人間、それも地上に生きているうちに実生活に応用することによって実地に学ばせるために、地上のすみずみに至るまで広められるべき宿命を担っているのです。誤りを訂正し、不足を補い、これまで人間が愚かにもしでかしてきたことの後片付けをするだけで何十年も何百年も費やします。

地上の人類がこうまで無知でなければ、そのエネルギーを別の用途に向け、時間のムダも省けるのですが・・・・・・

 ここにお集まりの皆さんにはすでにその知識があります。霊的知識について少しばかり多くのことを学んでおられます。霊的交信の素晴らしさも味わわれました。永遠に別れてしまったと思っていた愛する人との縁を再び取り戻されました。

遠大な神の計画の一端をご覧になりました。その見事な構想に驚嘆されました。霊力の証の幾つかもご覧になられました。高い世界からのインスピレーションの喜びも味わわれました。高い世界の知識の泉に近づかれました。

こうしたことは一体何のためだったのでしょうか。自分一人で楽しむため? 違います。知識には責任が伴います。こんどは代わってあなたがその知識を自分にできる範囲で広めなければならないのです。あなたが得た喜びが何であれ、それを他の人へ回してあげるのがあなたの責務です。

そうすることで一人でも多くの人が霊力に近づき、高い世界で待機している霊の愛を知り、これまで多くの男女に神の雄大な計画の一翼を担う道具となる決意をさせたその強烈な力によって、さらに多くの人が魂を鼓舞されるように努力しなければならないのです。

 知識に制約を加えようともくろむ人種とは縁をお切りになることです。知識は自由に広められるべきです。それが無知と迷信と、あまりの永いあいだ人類の足枷となってきたものを全て打ち崩すことになるのです。知識こそが魂を解放し、神からの授かりものである自由のよろこびを満喫することになるのです。

太陽の輝きが拝めるはずの人間がローソクの灯りしか知らないとは、何という愚かしいことでしょう。私が一個の道具に過ぎないように、皆さんも道具です。どこの誰それでなく、すべての人の心を解放してあげるのがわれわれの仕事です。それが地上世界に進歩をもたらし、神の子すべてが霊的摂理にもとづいて意義ある人生を送れるように、社会組織を改めていくもとになります」


 最後にこれから先の見通しについて───
 「私の興味は真理だけです。真理こそが最も大切です。私のいう新しい世界が基盤とすべき永遠の霊的真理を理解していただくために私は、ひたすら自分を役立てることだけを考えております。

その大事業から外れたことをする人間は、本来同胞のために捧げるべきエネルギーをムダに費やしていることになります。私たちがこうして地上へ戻って来たそもそもの目的は、聞く耳をもつ者の魂に刺戟(かつ)を与えて、新しい世界の構築のために地上の人間なりの役割を果たしていただくことにあります。

 形式への盲従が度を越しています。因襲を大切にしすぎます。私は知識の普及とそれを今なお暗闇にいる人々の啓発のために使用していただくこと以外には関心はありません。私にとって宗教はたった一つしかありません───人のために自分を役立てるということです。教会、聖堂、信条、教理───こうしたものは私にはまるで興味がありません。

行為、生活、動機───これで評価します。霊的な知識を得た人がそれを正しく普及して行く上において心しなければならないことは、それを無理やりに押し付けることによって肝心の霊界からの働きかけの邪魔になるようなことになってはいけないということです。霊の力は勝手に制約したり命令したりすることは出来ません。

発現できるとみたら、どんな人を通してでも流入します。私たちが欲しいのはそういう道具、霊媒、あるいは普通の男女───その人を通じて霊力が受け入れられ、霊の教えが語られ、知識が伝達されるような精神構造をした人たちです。これは、のんびり構えてはいられない問題です。

 私たちがなぜ地上へ戻って来るのか。実は霊界へ送り込まれてくる人間の中に、もしも地上で霊的知識を身につけておればこうまで酷くはならなかったろうと思われる廃残者、堕落者、霊的生活への備えがまるで出来ていない者があまりに多すぎるのです。無知と恐怖と迷信と偏見に満ちた者ばかりなのです。

そうした地上の暗黒面を助長している勢力を打ち崩すことが私たちの仕事です。私はそれを敢えてスピリチュアリズムと呼ぶつもりはありません。私は自然法則について語っているだけです。父なる神などという言い方も致しません。

私は宇宙の大霊という呼び方をしています。私は法則に目を向けます。私は宇宙の目的に目を向けます。人間は霊的に成長しなければならないのです。もしも地上で為すべきことの一部だけでも成就できたら、避けようにも避けられない宿命である次の霊的生活への準備が整ったことになります。

そうなるように仕向けるのが私たちがこうしてあなた方の世界へ戻って来る目的です。同胞である地上人類への愛に発しているのです。情愛の絆がわれわれを結びつけ、私たちがあなた方に真理を語り、代わってあなた方が同胞のためにそれを語り継いでいただくということです。
 
 私はただ私が見たままの事実を述べるだけです。そしてその評価はあなた方の理性に訴えております。それが最高の判定者であると考えるからです。とにかく知識を広めることです。迷信を突き崩すのです。光明を輝かせ闇を無くすのです。古くからの誤った権威を亡ぼすのです。強欲、貪欲、私利私欲、旧態依然たる教理と慣行の息の根を止めるために何とかしなければなりません。

これらのすべてが霊の敵です。断じて無くさなくてはいけません。新しい世界にとっての障害物です。その行く手を邪魔する者は、たとえ一時にせよ、神の計画を妨害していることになるのです。真理はいかなる組織・団体よりも大切です。何も難しく考えることはありません。真理は極めて簡単なのです。

ところが人間は簡単では気が済まないのです。形式と慣習を好みます。よその形式と慣習を真似したがります。よそが教会を建てると自分のところにも教会を建てないと気が済まないのです。よそが祈祷で儀式を始めるようになると自分のところでも祈禱文をこしらえます。

よそが讃美歌を歌うと自分のところでも讃美歌をこしらえます。もっともその多くは文句が同じで、歌い方を変えているだけですが・・・。よそが説教を始めると自分たちも説教を始めます。

 そんなことをしなくても、ただひたすら霊力を第一に考えておれば、神についての知識と霊的法則の普及のための合流点は幾らでもあります。

そのことが何より大切です。レンガはあくまでレンガです。建築物はあくまで建築物に過ぎません。そんなものを崇拝してはいけません。忠誠を捧げるべきものは宇宙の大霊すなわち神とその永遠不変の摂理です。
 
そのことを知った者はその真理の炎を絶やさぬように努力し、向かうべき方角も分からずに迷っている人々にいつでも希望と慰めと啓示を与えてあげられるようになることが勤めです。あなた方の世界は暗黒に満ちております。

人生に疲れ生きる意欲を失い困惑している人、慰めのひとこと、一片の真理を渇望している人々が大勢おります。あなた方による緊急の援助を必要としております。そういう人々のためにあなた方は一刻を惜しんで真理の普及のために努力すべきです。その人たちにとって霊的真理が人生のすべてを建て直す盤石の土台となることでしょう」

Thursday, April 16, 2026

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



12章 完全なる人格

このページの目次
〈美徳と悪徳〉
〈感情〉
〈利己主義〉

〈人格者〉



〈美徳と悪徳〉

――美徳とされているものの中で最も徳性が高いのは何でしょうか。


「美徳はすべて価値があります。霊性の向上の証だからです。邪悪性を帯びた影響力の誘惑に自ら抵抗する行為も全て徳行と言えます。が、その徳行の崇高さは、他人への善行のために私利私欲を滅却するところにあります。最も崇高なる徳は、できるだけ多くの人への無私の善行という形を取った時です」


――誰の目にも明らかな欠点と悪徳は別として、一見するとそうは見えない不完全さの表れの中で最も特徴的なものは何でしょうか。


「利己主義です。一見すると徳の高そうな風貌をしていても、実はきらびやかなメッキにすぎず、試金石にはとても耐え切れないことがあります。世間的には“立派な方”で通っていて、確かにそこそこの人格をそなえていても、厳しい試練には耐え切れず、すぐに利己心をのぞかせます。それだけでどの程度の霊格をそなえているかが知れます。もっとも、絶対的な無欲というのは地上界では滅多にお目にかかれるものではなく、もしあれば驚嘆に値するでしょう」


――人のためになることを計画して、その実行のための資金を稼ぐということは間違っているでしょうか。


「純粋にそう思ってやっているのであれば結構でしょう。ですが、果たして心底から人のためと思っているでしょうか。利己心は一切無いと断言できるでしょうか。人のためと言いながら、その実、第一に考えているのは自分のことではないでしょうか」
〈感情〉


――感情というのは、本来、悪なのでしょうか。


「悪ではありません。悪となるのは度が過ぎた時だけです。度を越すということは意念の悪用の結果だからです。基本的には感情は人間の性格の形成に益するもので、偉大な仕事の成就に強烈な拍車をかけてくれることがあります。感情が害を及ぼすのは、その使い道を誤った時です」


――その善用と悪用の境界はどうやって認識するのでしょうか。


「感情は馬と同じです。手綱をうまく操っている間は役に立ちますが、いったんコントロールを失うと危険が生じます。抑えることができなくなると自分だけでなく他人をも傷つけるようになります」


――それは意志の力で克服できるのでしょうか。


「できます。ホンのちょっとした意志の働かせ方で抑えられるものです。その意志、抑えようとする意志の欠如が感情を暴走させてしまうのです。残念ながら、そういう努力をする人が少なすぎます」
〈利己主義〉


――悪徳の中でもその根源にあるものは何でしょうか。


「利己心です。このことはすでに何度も説いてきました。およそ悪と呼ばれているものは全てこの利己心から生じているからです。悪いこと、いけないこととされているものをよく分析してご覧なさい。その底には必ず自分中心の欲が巣食っています。それと闘い、克服して、悪を根絶やしにしないといけません。

利己主義こそ社会的腐敗の根源です。この地上生活(だけとは限りませんが)において幾らかでも道徳的に向上したいと願う者は、まず自分の心の奥から利己心を根こそぎ取り払わないといけません。利己心があるかぎり公正も愛も寛容心も生まれません。あらゆる善性を無力化してしまいます」


――利己心を撲滅するにはどうすればよいでしょうか。


「人間的欠点の中でも最も取り除き難いのがこの利己心です。その原因は物質の影響力と結びついているからです。人類はまだまだ物質性を多分に残していますから、それから解放されるのは容易ではありません。人間界の法律、社会的組織、そして教育までもが唯物主義の上に成り立っています。物的生活が精神的生活によって支配されるようになるにつれて、利己主義も薄められて行くでしょう。それにはスピリチュアリズムの普及によって死後の生命の実在についての認識が浸透することが大前提です。スピリチュアリズムの教義が正しく理解され、それまでの人類の信仰や慣習が見直されれば、習慣やしきたり、社会的関係の全てが改められるでしょう。

利己主義は自分という個的存在にこだわりすぎ、平たく言えば自分が偉いと思っているところから生じています。スピリチュアリズムを正しく理解すれば、それとは逆に、全てを大いなる生命の観点から見つめるようになって、己の小ささに気づきます。全体の中のささやかな存在にすぎないという認識によって自尊心が消え、必然的に利己心も消えてしまいます」

(署名)フェヌロン


訳注――フランソワ・フェヌロン(一六五一~一七一五)はフランスの聖職者・教育論者・著述家。ルイ十四世から孫(王子)の教育を託され、その功によって大主教に任ぜられるが、前任の教育係との間の神学論争に敗れて主教に降格される。その後王子の教育論を述べた大著を発表するが、ルイ王はそれを自分への風刺と受け取って発禁処分にし、対立する教育論者たちからも非難を浴びる。が、「王は臣民のためにあるのであり臣民が王のためにあるのではない」との説は最後まで歪げなかったという。
〈人格者〉


――高等な霊性をそなえていると判断できる人はどういう人格をしているでしょうか。


「肉体に宿っている霊の霊格の判断は、その人の日常生活での言動が神の摂理に適っているかどうか、そして霊的生命についてどの程度まで理解しているかによって決まります」


――地上生活によって徳性を高め、悪の誘いに抵抗していくには、どのような生き方が最も有効でしょうか。


「古賢の言葉に“汝自らを知れ”とあります」


訳注――ギリシャのデルファイの神殿に刻まれている言葉で、誰の言葉であるかは不明。


――その言葉の意味はよく分かるのですが、自分を知ることほど難しいものはありません。どうすれば自分自身を知ることが出来るでしょうか。


「私(聖アウグスティヌス)が地上時代に行った通りにやってご覧なさい。私は一日の終わりに自分にこう問いかけました――何か為すべき義務を怠ってはいないだろうか、何か人から不平を言われるようなことをしていないだろうか、と。こうした反省を通じて私は自分自身を知り、改めるべき点を確かめたものでした。毎夜こうしてその日の自分の行為の全てを思い起こして、良かったこと悪かったことを反省し、神および守護霊に啓発の祈りを捧げれば、自己革新の力を授かることは間違いありません。私が断言します。

霊的な真理を知ったあなた方は、こう自問してみることも一つの方法でしょう。即ち、もしも今この時点で霊界へ召されて何一つ隠すことのできない場にさらされたとしても、青天白日の気持ちで誰にでも顔向けができるか、と。まず神の御前に立ち、次に隣人に向かって立ち、そして最後に自分自身に向かって何一つ恥じることは無いかと問うのです。何一つ良心の咎めることはないかも知れませんし、治さねばならない精神的な病があるかも知れません。

人間は、仮に反省すべき点に気づいても自己愛から適当な弁解をするのではないかという意見には一理あります。守銭奴は節約と将来への備えをしているのだと言うでしょう。高慢な人間は自分のうぬぼれを尊厳だと思っているかも知れません。確かにそう言われてみればそうです。その意味では反省が反省になっていないかも知れません。が、そうした不安を払いのける方法があります。それは他人を自分の立場に置いてみることです。自分が行ったことをもし他人が行ったとしたら、それを見て自分はどう思うかを判断してみるのです。もしいけないことだと感じるのであれば、あなたの行いは間違っていたことになります。神が二つの秤(はか)り、二種類のモノサシを用いるはずはありません。

さらに又、他人は自分のしたことをどう見るか――とくに自分に敵対する者の意見も見逃してはいけません。敵方の意見には遠慮容赦がないからです。友人よりも率直な意見を述べます。敵こそは神が用意した自分の鏡なのです。

我々への質問は明確に、そして有りのままを述べ、幾つでもなさるがよろしい。そこに遠慮は無用です。人間は老後に備えてあくせくと働きます。老後の安楽が人生最大の目的――現在の疲労と窮乏生活をも厭わないほどの目的になっているではありませんか。疲労こんぱいの身体で人生最後の、ホンのわずかな時を経済的に安楽に過ごすことと、徳積みの生活に勤しんで死後の永遠の安らぎを得るのと、どちらが崇高でしょうか。

そう言うと人間は言うでしょう――現世のことは明確に分かるが死後のことは当てにならない、と。実はその考えこそ、我々霊団が人間の思念の中から取り除いて死後の実在に疑念を持たせないようにせよと命じられている、大きな課題なのです。だからこそ我々は心霊現象を発生させてあなた方の注意を喚起し、そして今こうして霊的思想を説いているのです。

本書を編纂するよう働きかけたのもその目的のためです。今度はあなた方がそれを広める番です」

(署名)アウグスティヌス


訳注――聖アウグスティヌス(三五四~四三〇・聖オーガスチンとも)は言わずと知れた初期キリスト教時代の最大の指導者・神学者・哲学者で、遺産を全て売り払って貧者に恵み、自らは清貧に甘んじ、とくに後半生は病弱と貧困に苦しめられたが、その中にあっても強靭な精神力、底知れぬ知性、深遠な霊性、崇高な高潔さは、キリスト教最高・最大の聖人と呼ばれるに相応しいものだったと言われる。

なお、これまでの通信でも“私”という言い方をしながら、それが誰であるかが記されていないものがある。それにも署名はあったであろうから、それを敢えて記さなかったのは、まったく無名の人物か、カルデックが本人であることに疑念を抱いたかの、どちらかであろう。フェヌロンとオーガスチンに関してはよほど確信を持ったということになる。

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



11章 公正・愛・寛容の法則

このページの目次
〈生得の権利と公正〉


――公正とはどう定義づけたらよろしいでしょうか。


「公正とは他人の権利の尊重を基本として成り立つものです」


――その権利を定めるのは何でしょうか。


「二つあります。人間の法律と自然の法則です。人間の法律はその時代の人間的性格と習性に合わせてこしらえられていますから、啓発が進むにつれて規定される権利も変わってきます。今日のフランスの法律は、まだ完全からは程遠いとは言え、中世において権利として認められたものは、もう認めていません。今日のあなた方には途方もないものに思えるでしょうけど、当時としてはごく当たり前だったのです。

そういう次第ですから、人間がこしらえた法律は必ずしも絶対的公正とは一致しません。その上、人間の法律が規定するのは社会生活に関連した側面に限られております。しかし各個人の生活においては、時々刻々の言動や思念について、良心の法則による裁きを受けております」


――では人間的法律はさておいて、自然の摂理に適った公正の基本は何でしょうか。


「イエスが言っております――自分が他人からしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい、と。神は、公正の真実の尺度として、自分の権利を尊重してもらいたいという願望を各自に植えつけておられます。対人関係において難しい事態に立ち至り、如何なる行為に出るべきかに迷った時は、自分を相手の立場に置いて、自分だったらどうしてもらいたいと思うだろうかと考えてみることです。その判断に基づいて行動した時は良心が咎めることはありません」


――生得の権利で第一に挙げられるのは何でしょうか。


「生きる権利です。従って他人の生命を奪う権利、あるいは個人的存在を危うくする権利は、誰にもありません」
〈隣人への寛容と愛〉


――イエスが説いた“慈愛”の本当の意味は何でしょうか。


「全ての人間への善意、他人の欠点への寛容、自分への中傷の容赦です」


――イエスは“汝の敵を愛せよ”とも言っておりますが、それは人間の自然な心情にはそぐわないように思います。


「自分に敵対する者に優しくし愛の心を向けることは、確かに人間には不可能でしょう。イエスも決して文字通りのことを要求しているわけではありません。敵を愛するということは、敵を赦し、悪想念に対して善意で返すということです。それができた時、あなたは本当の意味で敵に勝ったのであり、悪意でやり返した時は敵に負けたことになります」


――施しをすることはいけないことでしょうか。


「そんなことはありません。いけないのは施しそのものではなく、施しの仕方です。イエスの説いた慈愛の心を理解した者は、物乞いをするという下卑(げび)た態度に出させないようにして困っている人々に施しをするべきです。

真の慈善の行為は、ただ施しをするというだけでなく、その態度に優しさが無くてはいけません。同じく人のためになることでも、その行為に思いやりの心がこもっていると二重の功徳になります。反対に恵んでやるといった高慢な態度で施しをしたのでは、飢えている人は形振(なりふ)り構わず頂くでしょうが、感謝の念は抱かないでしょう。

もう一つ忘れてならないのは、見栄からの施しは神の目から見ると功徳にはならないということです。イエスは“右の手が行ったことを左の手に知らしめてはならない”と言っております。せっかくの慈善行為を高慢と見栄で汚してはいけないという意味です。

施しと善意との違いを知ってください。本当に困っているのは必ずしも道端で物乞いをしている人ではありません。飢えに苦しみながらも、恥を知る人間は物乞いをしません。本当に善意のある人とは、そうした人知れず飢えに耐えている人に施しをし、そしてそのことを口外しない人のことです」

Wednesday, April 15, 2026

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch

ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳



六章  イエス・キリストとキリスト教

 近代スピリチュアリズム史上でも特異な意義をもつ英国国教会スピリチュアリズム調査委員会の〝多数意見報告書〟(※)が話題にのぼったことがある。

 (※ 一九三七年に国教会の諮問機関として設立されたスピリチュアリズム調査委員会が二年後にその調査結果を公表すると約束したにもかかわらず、その二年を過ぎても公表されないことから、バーバネルを中心とするサイキック・ニューズ社のスタッフが隠密裏に追跡したところ、時の大主教ウィリアム・ラングによって〝多数意見報告書〟が発禁処分にされていることが判明。

それがスタッフの画策でようやく入手されサイキック・ニューズ紙上に公表されて大反響を巻き起こした。詳しい経緯については『古代霊は語る』 ── 潮文社── を、〝多数意見報告書〟の全文訳は 『ジャック・ウェーバーの霊現象』──国書刊行会──の巻末付録を参照されたい──訳者)

 意見を求められたシルバーバーチは、問題を巾広い視野で捉え、キリスト教の本質の問題として次のように語った。


 「当事者がたとえ国教会の大物であっても、生身の一個の人物を絶対服従の対象としてはいけません。宇宙の法則──絶対に裏切られることのない神の摂理を相手になさることです。真理は真理です。何人(ぴと)もこれを絶滅させることはできません。

 その昔、一人の予言者、真理の象徴ともいうべき人物、霊性を最高に顕現した神の使者がこの物質界にやってまいりました。その彼も、当時の宗教界の大御所から好ましく思われず、その言葉によろこんで耳を傾けたのは平凡な民衆だけでした。

教えを説く時の彼の態度には冒し難い威厳がありました。が、その威厳は高い地位や身分から出ていたのではありません。生まれは当時の貧民階級の中でも最も貧しい家柄───名もない大工とその妻との間に生まれたのでした。

しかしその肉体に宿った霊(※)は人類のすべてが模範とすべき人生を率先垂範すべく彼を鼓舞したのです。(※モーゼスの『続霊訓』によるとイエスの本来の所属界は地球神界で、その背後霊団はその神界におけるイエスの配下の天使団、日本でいう自然霊だったという──訳者)

 彼を通じて霊力がほとばしり出ました。病の人を癒し、悲しみの人を慰め、愛と寛容と慈悲の心を説きました。が、当時の宗教界からは歓迎されませんでした。そして最後にどうなったかは皆さんもよくご存知の通りです。

いつの時代にも既成宗教や国家権力から〝反逆者〟と睨まれた者がたどる道は同じです。イエスも同じ名目のもとに苦しい死を遂げさせられました。しかしイエスの説いた真理は死にませんでした。真理に死はあり得ないのです。無限であり、神から与えられるものであり、それ故に不滅なのです。

その霊力───病を癒し、慰めを説き、当時の民衆からぬきんでた存在たらしめた力そのものが、死後すぐさまその姿を弟子たちに見せ、教えが間違っていないこと、霊は物質に優ること、死に生命を終わらせる力はないことの証を与えさせたのです。その復活がいわゆるキリスト教を生む端緒となったのです。

 あと二、三日もすれば(この日は復活祭〈イースター〉 の直前だった)、キリスト教界あげてその復活をイエスが神の御子であったことの最高の証として祝います。〝もしキリストが復活しなければわれわれの教えは無益となり、諸君の信仰もまた無益に終わる〟とパウロは言いました。

イエスの説いたのと同じ真理、イエスが見せたのと同じ霊的能力があなた方の時代に再び説かれ顕現されているのです。そして、またもや宗教界とそのお偉方、あるいは宮殿のごとき豪邸に住み高き地位に安住している特権階級の人々の怒りを買っております。

 〝真理を説きにいく者は財布を携える勿れ〟と説いたイエスの信奉者でいるつもりの現今のキリスト教徒は、実はイエスを十字架にかけた当時の迫害者たちの直系とも言うべき人種であり、その彼らが今イエスと同じ真理を説いているスピリチュアリストたちを迫害しようとしております。

しかし霊の力は彼らより偉大です。今となっては時すでに遅しです。真理は必ず広まり、何も知らぬ大衆をいかに煽動しても真理の道を歩もうとする者を引き返させることはできません。

私は反駁(はんぱく)を覚悟の上で断言しますが、こうした形での今日の霊の働きかけの背後には、二千年前に地上に生をうけた、あのイエスその人が控え、同じように地上の病の人を癒し、悲しみの人を慰め、霊的な基本的真理を地上に確立せんと奮闘しております。その真理には教会も大主教も牧師も聖典もいりません。愛に満ちた心と善意と素朴な心さえあれば良いのです。

 真理を抑圧することは出来ません。鐘や文句やローソクで真理を破門にすることはできません。(カトリック教で信者を破門にする時まず鐘を鳴らし破門文を読み上げローソクを消すという儀式になぞらえて述べている──訳者) 

キリスト教の名のもとに維持されてきた誤りが瓦壊しすっかり忘れ去られた時には、霊の力に裏打ちされた真理が優位に立ち、世界中いたるところの人間の心の中に王座を占めることになりましょう。

たとえば復活の現象は決して奇跡では無く、自然の法則の一つに過ぎません。一個の人間が〝死〟と呼ばれる変化を通過するごとに復活が行われているのです。あなた方も死を通過してより充実した生命の世界へ復活するのです。二千年前のたった一人の人間のみに起きた特殊な出来ごとではないのです。

そういう法則になっているのです。いつの時代にも変わることのない摂理なのです。不変の自然法則であり、大主教も職工も、王様も平民も、聖人も罪人も、哲学者も愚鈍者もありません。すべての人間、神の子すべてに等しく起きるのです。

キリストの復活は霊的自然法則に従って生じたのです。奇跡ではありません。数多くの死者が実験会で姿を見せているのとまったく同じ心霊法則によってその姿を見せたのです」


 続いて、聖書の物語にはどの程度まで古い神話が混入しているかという質問に答えて────

 「神話の中に出てくる奇跡を起こす者がことごとく神か神人であることから、イエスなる人物もさまざまな超自然的な説話と結びつけられていきました。しかし死後その姿を弟子たちに見せたのは聖書にある通りであり、実際の事実です」

───(聖書以外の)歴史書にその記述がないところをみますと、センセーションを巻き起こすほどのものでは無かったわけですね。

 「今の世と似たりよったりの物質に毒されていた世の中で、どうしてそんなことがセンセーションを巻き起こし得たでしょう。私たちがこうして霊界から戻ってきていることがセンセーションを巻き起こしておりましょうか。でも、いずれ真実の地上の歴史が書き記される時代がくれば、現今の歴史書が関心を寄せている事柄よりもはるかに重要性をもつ現象として記述されることになりましょう」


 ここで再び国教会の話題となり、カンタベリ大主教のテンプル(最初に紹介したラングの後任)が開始した社会改革運動について意見を求められてシルバーバーチは───

 「英国民の社会的公正と平等のために国教会が開始した改革運動について意見を述べよとのことですが、まず私は、その運動が誠心誠意の動機から発していることは認めます。

つねづね説いてきましたように、個人にせよ団体にせよ、何らかの形で人類のために役立つこと─── 人間の資質を高め魂のもつ高貴さと崇高性を顕現させ、誤りを正して不正を終わらせ、不幸や悲しみや苦難を和らげることに専心していれば、こちらから同じ目的意識をもつ霊が自動的に引き寄せられます。

かつて地上で先駆者と呼ばれた人、殉教者と呼ばれた人、その他、思想・哲学や一般世論の指導・教化に情熱を燃やす者が大勢います。そして常にこちらへ来てから身につけた叡知を地上へ届けるための道具、自分が地上で手掛けた仕事を完成させるための道具を求めております。

 挫折した人を立ち上がらせ、苦しむ人を扶け、重荷に耐えかねている人の痛みを和らげてあげるために自分を役立てたいと希望する人を私どもは大いに歓迎いたします。それが本当の宗教だからです。人のために自分を役立てることです。宗教は倫理・道徳と呼ばれているものを実践することから切り離しては存在し得ません。

しかし過去を忘れてはなりません。歴史を繙いてみることを忘れてはなりません。一個の組織が、それみずからを束縛する無用の絆からどこまで開放し得るものであるかを読み取らなくてはなりません。残念ながら国教会の歴史は数多くの黒い汚点によって汚されております。

そのうちの幾つかは血生臭い色さえ呈しております。貧しき者、困窮せる者、見捨てられし者、抑圧されし者の味方を標榜(ひょうぼう)する国教会にどこまでその資格があるでしょうか。その手は清らかであると言えるでしょうか。

その動機に汚れがないと断言できるでしょうか。残念ながらその歴史は反証に満ちております。この度の運動においてその動機づけとしている〝目的〟そのものを何世紀にもわたって阻止してきたそもそもの張本人が国教会自体だったではありませんか。

 〝家の中〟を清掃する用意はどこまで出来ているでしょうか。みずから組織内の不平等と不公正を廃止する用意がどこまで出来ているでしょうか。みずからの努力でかち得たものでないものを含めて、その特権のすべてをかなぐり捨ててでも、いま高らかに宣言した改革運動を成就する用意がどこまで出来ているでしょうか。

文字通り国の教会として内部の対立と制約、魂を拘束し足枷となるものを全て排除する勇気があるでしょうか。今のお偉方にはたしてその新しい社会での存在価値があるのでしょうか。

無意味な儀式と祭礼、仰々しい礼服、ストラ(袈裟に似た掛けもの)にミトラ(主教の冠)、その他、幾世紀にもわたって宗教の真髄をぼかし続けてきた飾り物が何の役に立つのでしょうか。

まずみずからの信条を再検討し、その中から公正の成就を妨げるものを排除する勇気がどの程度まであるのでしょうか。まずみずからが真の平等と正義の妨げとなるものを排除しなければなりますまい。

動機が誠意から出ていることは私も認めます。しかしどこまで、一体どこまで達成できるでしょうか。いずれは〝時〟がそれを証明してくれるでしょう。

 どこの誰であろうと、人類の福祉に貢献する人に対して私たちは祝福と援助を授けます。しかし国教会のこれまでの陰湿な歴史に目をやる時、今のところは誠意ある目的と動機から情熱に燃える男(テンプル大主教)によって先導されているから良いものの、このあと果たしてどこまで続くか疑問に思わざるを得ません。

もし能書きどおりに達成する自信があるなら、その自信の証を内外に示していただきたい────信条を異にする者に対する迫害と抑圧をやめ、真の協力精神を明確に表明して、その改革に携る者が〝われわれは正真正銘、最善を尽くしている。これでもし失敗したらそれは名誉ある挫折である。

われわれは英国社会からあらゆる罪悪を除去するのみならず、国教会みずからの組織についても、それが今日まで堕落の一途をたどり、かつてその功によって勝ち得た尊敬まで失わせるに至ったすべての悪弊をも排除する覚悟である〟と断言できるところまで行かなければウソです。

以上が私のありのままの意見です。私が、そして他の多くの者が見ている実情です。現在の国教会は数々の堆積物と旧弊を抱えた船のようなもので、それが正しい航路への進行を妨げます。その一つひとつが障害となり、その一つひとつがテンプルの足を引っぱります」

 ここでスワッハーが「かつてその功によって勝ち得た尊敬とおっしゃいましたが、それはいつのことですか」と聞くと。

 「かつてはそういう時代がありました」と答える。
 「その〝尊敬〟は恐怖から生れていたのではないでしょうか。私の見るかぎりでは、今日の国教会は確かに欠点もありますが、かつてよりは良くなっていると思います。英国民が進歩しただけ教会も進歩しています」

 「なるほど。でもそれはかなり苦しい評価ですね。というのは、今日の国教会は、私から見れば、現在抱えているような悪弊の多くとは無縁だった初期の教会の後継者たるべきものです。はるか遠く遡ってイエスの時代のすぐ後に設立された教会を見倣う必要があります。

当時は、わずかな期間だけではありましたが、真の意味で民衆を我が子のように世話せんとする気概がありました。それが霊の道具である霊媒を追い出した時から道を誤りはじめました」
  
 「三二五年のことですか」(この年に有名な二ケーヤ会議が三カ月にわたって開かれている。歴史の記述ではエジプトの神学者でキリストの神性を否定する説を主張したアリウスの弾劾が主な議題とされているが、シルバーバーチによると、この間に聖書にいろいろと”人間的産物”が書き加えられたという──訳者)

 「もっと前です。三二五年に(霊媒と聖職者との)分離が決定的なものとなったということです。霊媒を追い出そうとする動きはそれ以前からありました。が、霊力の最良の道具である霊媒を追い出すことによって霊力を失い、聖職者が運営するだけとなった教会は次第に尊敬を失い始めます。

もともと聖職者は神の道具である霊媒とともに仕事をする者として尊敬されていたのです。自分でも霊媒と同等の価値を自覚していました。

その仕事は俗世の悩み事の相談にのり、霊媒が天界からのお告げを述べ伝えるというふうに、民衆が二種類の導き、すなわち地上的問題について霊と聖職者の双方からの導きが得られるようにしてあげることでした。

 ところが優越感への欲望が霊媒を追い出し、それといっしょに教会に帰属されていた権威までも全て追い出すことになりました。そのとき以来ずっと衰退の一途をたどることになったのです。私が指摘したいのは、大主教のテンプルは真摯な気持ちでいる───そのことに疑問の余地はない。

しかし、側近の中にはリーダーへの忠誠を尽くしておくに限るといった考えから口先だけの忠誠を示しているに過ぎない者がいることです。そういう連中は改革事業などには情熱を持ち合わせません。改革者などと呼ぶべき人種ではないのです。己れの小さな安全さえ確保しておけばそれでいいのです。

事を荒立てたくないのです。何であろうと命令にだけは従っておくにかぎると心得ている連中です。また一方には教会が俗事に関ることを好ましく思わぬ連中もいます。さらには戒律(おきて)に背きたくない者、教わったことを忠実に守ることが何より安全と考える連中がいます。

こうしたさまざまな考えをもつ者が内部抗争のタネとなります。一人の人間の〝それ行け〟の掛け声で全員が一斉に立ち上がるという具合にはまいりません。何らかの進展はあるかも知れません。しかし意見の衝突が激しいことでしょう。

 実は、このことで私はウィリー氏とシェパード氏の二人と長々と語り合いました。(確かなことは不明であるが多分二人ともかつて国教会の高い地位にあり今はシルバーバーチ霊団に属している人物であろう──訳者)

お二人とも国教会の新しい動きをよろこんでおられます。シェパード氏は彼の言う〝化石となった慣習〟に新たな生命を吹き込むことになるかどうか疑問に思っておられますし、ウィリー氏は多分何らかの進展はあるだろうと観ておられます。

が両者とも、教会の体質からして、民衆の胸の中、心の中、精神の中に動めいている新しい世界の理想像に向かって一致団結する可能性があるとは見ておられません。

しかし援助はすべきでしょう。たとえ結局はお粗末な企てに終わっても、それがこれまで長い年月にわたって振り回してきた権威を打ち崩すという正しい方向への一歩であることには違いないからです」

 ここでサークルのメンバーの一人が意見を述べた。「今回の社会改革運動は国教会にとっても良い結果をもたらすと思うのです。この正義と公正の激発が、ある程度、国教会そのものまで改めることになるのではないでしょうか」

 「私も、ぜひあってほしいと思っています。ただ忘れないでいただきたいのは、私は組織というものには一切関心は無いということです。私の関心は行為であり、善行であり、生きざまです。国教会は今や分裂と衰退の一途をたどっております。

豪華な建造物もそこを訪れる人に本当の宗教としての機能を果たせなくなっております。中をのぞけば慣習という名の太古の埃(ほこ)りと偏見と、時代遅れもはなはだしい教説がぎっしりと詰まった、まるでオバケ屋敷のようです。 

無意味な教条主義が今なお支配し、それが永い間人類を抑えつけてきております。私は何はおいてもまず魂を解放しなければならないと信じます。それは国教会がどこまで自分に正直になれるかに掛かっています。

つまり(社会よりも)まず教会自身の体質を診断する勇気があるかどうか、真理のサーチライトを自己の信仰内容にまで向ける勇気があるかどうかです。それが社会正義の妨げとなっている面もあるからです。

 例を挙げてみましょうか。たとえば教会は信者に対して信仰の告白さえすれば、それだけで正義の問題が片づくと教えます。が、これが社会正義を妨げることになるのです。なぜなら、その教えによって信者の精神が煙に巻かれ、せっかく目覚めかかった魂をまた眠らせてしまいます。

このように、真理の普及を妨げる間違った考えは、地上に真の正義が行きわたるのを妨げることになります。それは、ひいては霊界の正義を妨げることにもつながってきます。

自己の救済の道は日々の生活、行い、言動の中にしかないのに、身代わりの流血(キリストのはりつけ──贖罪)によってキリストへの信仰を告白した者だけが救われるということを、一般社会に一体どう説明できるというのでしょう。

正義は両刃の剣です。それを振りかざす者は、他人に対して求める前にまず自分に正義を求めなくてはなりません。こう言いますと人種的偏見をもつ者は反論します───〝黒人が肌の色を変え、ひょうがその縞を変えられようか〟(エレミヤ書13・23)と。

私は今回の運動に政治的意図はないこと、テンプルは真摯な気持ちで社会の抑圧された人たちを救おうとしていることは十分に理解しております。ですから、それに水を差すようなことは本当は言いたくないのです。しかし、いつもと同じく、真実は真実として強調されねばならないという気持ちは変わりません。

それはともかくとしても、一個の人間が霊に鼓舞されて何か良いことをしようとしている時は、たとえその人物がわれわれを軽蔑している者であっても、われわれとしてはその努力を拍手をもって賞賛しなくてはなりますまい。
 
 テンプル氏は神学者です。人間が勝手に考え出した教理や学説のすべてに通暁しております。神学の中で教育を受け修行してきた人物であり、リベラル派的なところもありましたが、その忠誠心を捧げるのはやはり神学です。もっとも、その中の幾つかを徐々に捨て去ってはおります。

彼には聖霊の力はいかなる教会、いかなる組織の独占物でもなく、通路(霊能者)のあるところなら世界中どこにでも働きかけるものであることが理解できません。

君主だの教会だのからの許可があろうと無かろうと、そんなことには一切お構いなく、老若男女に働きかけているのです。太古からずっとそうでしたし、これからも変わらぬ真実です」

 ここで曽てメソジスト派(国教会から分立した一派)の牧師だった人で今はサークルのメンバーになっている人がこう尋ねた。


───(この運動のために)多くの人、一般の人々が社会正義と国教会の教えとを混同し区別がつかなくなる危険性はないでしょうか。つまり国教会の社会的教義を受け入れるときにドグマもいっしょに呑み込んでしまうということです。

 「私はそうは思いません。知識の潮流を止めることは出来ません。進歩の時計の針を逆回りさせることは出来ません。

今回の運動でメリットがあるとすれば、今まで知らずに見過ごしていた不正や不平等に対して宗教心のある人───倫理的な意味での話ですが───が関心を向けるようになってくれることです。これまでは自分たちの知ったことではないと思っていたことなのですから・・・・・・」


───スピリチュアリズムではイエス・キリストをどう位置付けたらよいのでしょうか。

 「この問題の取り扱いには私もいささか慎重にならざるを得ません。なるべくなら人の心を傷つけたり気を悪くさせたくはないからです。が、私の知る限りを、そして又、私が代表している霊団が理解しているかぎりの真実を有りのままを述べましょう。

それにはまずイエスにまつわる数多くの間違った伝説を排除しなければなりません。それがあまりに永いあいだ事実とごたまぜにされてきたために、真実と虚偽の見分けがつかなくなっているのです。

 まず歴史的事実から申しましょう。インスピレーションというものはいつの時代にも変わらぬ顕と幽をつなぐ通路です。人類の自我意識が芽生え成長し始めた頭初から、人類の宿命の成就へ向けて大衆を指導する者へインスピレーションの形で指導と援助が届けられてきました。

地上の歴史には予言者、聖人、指導者、先駆者、改革者、夢想家、賢者等々と呼ばれる大人物が数多く存在しますが、そのすべてが、内在する霊的な天賦の才能を活用していたのです。

それによってそれぞれの時代に不滅の光輝を付加してきました。霊の威力に反応して精神的高揚を体験し、その人を通じて無限の宝庫から叡知が地上へ注がれたのです。
 
 その一連の系譜の中の最後を飾ったのがイエスと呼ばれた人物です。(第一巻の解説〝霊的啓示の系譜〟参照)ユダヤ人を両親として生れ、天賦の霊能に素朴な弁舌を兼ね備え、ユダヤの大衆の中で使命を成就することによって人類の永い歴史に不滅の金字塔を残しました。地上の人間はイエスの真実の使命についてはほとんど知りません。

わずかながら伝えられている記録も汚染されています。数々の出来ごとも、ありのままに記述されておりません。増え続けるイエスの信奉者を権力者の都合のよい方へ誘導するために、教会や国家の政策上の必要性に合わせた捏造と改ざんが施され、神話と民話を適当に取り入れることをしました。

イエスは(神ではなく)人間でした。物理的心霊現象を支配している霊的法則に精通した大霊能者でした。今日でいう精神的心霊現象にも精通していました。イエスには使命がありました。

それは当時の民衆が陥っていた物質中心の生き方の間違いを説き、真理と悟りを求める生活へ立ち戻らせ、霊的法則の存在を教え、自己に内在する永遠の霊的資質についての理解を深めさせることでした。


 では〝バイブルの記録はどの程度まで真実なのか〟とお聞きになることでしょう。福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四書)の中には真実の記述もあるにはあります。

たとえばイエスがパレスチナで生活したのは本当です。低い階級の家に生まれた名もなき青年が聖霊の力ゆえに威厳をもって訓えを説いたことも事実です。病人を霊的に治癒したことも事実です。

心の邪な人間に取りついていた憑依霊を追い出した話も本当です。しかし同時に、そうしたことがすべて霊的自然法則に従って行われたものであることも事実です。自然法則を無視して発生したものは一つもありません。なん人(ぴと)と言えども自然法則から逸脱することは絶対にできないからです。

イエスは当時の聖職者階級から自分たちと取って代ることを企(たくら)む者、職権を犯す者、社会の権威をないがしろにし、悪魔の声としか思えない教説を説く者として敵視される身となりました。

そして彼らの奸計(カンケイ)によってご存じの通りの最期を遂げ、天界へ帰った後すぐに物質化して姿を現わし、伝道中から見せていたのと同じ霊的法則を証明してみせました。

臆病にして小胆な弟子達は、ついに死んでしまったと思っていた師の蘇りを見て勇気を新たにしました。そのあとはご承知の通りです。一時はイエスの説いた真理が広がり始めますが、またぞろ聖職権を振り回す者たちによってその真理が虚偽の下敷きとなって埋もれてしまいました。

 その後、霊の威力は散発的に顕現するだけとなりました。イエスの説いた真理はほぼ完全に埋もれてしまい、古い神話と民話が混入し、その中から、のちに二千年近くにわたって説かれる新しいキリスト教が生まれました。それはもはやイエスの教えではありません。その背後にはイエスが伝道中に見せた霊の威力はありません。

主教たちは病気治療をしません。肉親を失った者を慰める言葉を知りません。憑依霊を除霊する霊能を持ち合わせません。彼らはもはや霊の道具ではないのです。

 さて、以上、いたって大ざっぱながら、キリスト教誕生の経緯を述べたのは、イエス・キリストを私がどう位置付けるかというご質問にお答えする上で必要だったからです。ある人は神と同じ位に置き、神とはすなわちイエス・キリストであると主張します。

それは宇宙の創造主、大自然を生んだ人間の想像を絶するエネルギーと、二千年前にパレスチナで三十年ばかりの短い生涯を送った一人の人間とを区別しないことになり、これは明らかに間違いです。相も変わらず古い民話や太古からの神話を御生大事にしている人の考えです。

 ではイエスをどう評価すべきか。人間としての生き方の偉大な模範、偉大な師、人間でありながら神の如き存在、ということです。霊の威力を見せつけると同時に人生の大原則───愛と親切と奉仕という基本原則を強調しました。それはいつの時代にも神の使徒によって強調されてきていることです。

もしもイエスを神に祭り上げ、近づき難き存在とし、イエスの為せる業は実は人間ではなく神がやったのだということにしてしまえば、それはイエスの使命そのものを全面的に否定することであり、結局はイエス自身への不忠を働くことになります。イエスの遺した偉大な徳、偉大な教訓は、人間としての模範的な生きざまです。

 私たち霊界の者から見ればイエスは、地上人類の指導者のながい霊的系譜の最後を飾る人物───それまでのどの霊覚者にもまして大きな霊の威力を顕現させた人物です。だからと言って私どもはイエスという人物を崇拝の対象とするつもりはありません。イエスが地上に遺した功績を誇りに思うだけです。

イエスはその後も私たちの世界に存在し続けております。イエス直じきの激励にあずかることもあります。ナザレのイエスが手掛けた仕事の延長ともいうべきこの(スピリチュアリズムの名のもとの)大事業の総指揮に当っておられるのが他ならぬイエスであることも知っております。

そして当時のイエスと同じように、同種の精神構造の人間からの敵対行為に遭遇しております。しかしスピリチュアリズムは証明可能な真理に立脚している以上、きっと成功するでしょうし、また是非とも成功させなければなりません。イエス・キリストを真実の視点で捉えなくてはいけません。

すなわちイエスも一人間であり、霊の道具であり、神の僕であったということです。あなた方もイエスの為せる業のすべてを、あるいはそれ以上のことを、為そうと思えば為せるのです。そうすることによって真理の光と悟りの道へ人類を導いて来た幾多の霊格者と同じ霊力を発揮することになるのです」


───バイブルの中であなたから見て明らかに間違っている事例をあげていただけませんか。

 「よろしい。たとえばイエスが処刑された時に起きたと言われる超自然的な出来ごとがそれです。大変動が起き、墓地という墓地の死体がことごとく消えたという話───あれは事実ではありません」

───イエスの誕生にまつわる話、つまり星と三人の賢者の話(マタイ2)はどこまで真実でしょうか。

 「どれ一つ真実ではありません。イエスは普通の子と同じように誕生しました。その話はすべて作り話です」


───三人の賢者はそれきり聖書の中に出てこないのでどうなったのだろうと思っておりました。

 「カルデア、アッシリヤ、バビロニア、インド等の伝説からその話を借用したまでのことで、それだけで用事は終わったのです。そのあと続けて出てくる必要がなかったということです。

よく銘記しておかねばならないことは、イエスを神の座に祭り上げるためには、まわりを畏れ多い話や超自然的な出来事で固めねばならなかったということです。

当時の民衆はふつうの平凡な話では感動しなかったのです。神も(普遍的なものでなく)一個の特別な神であらねばならず、その神に相応しいセット(舞台装置)をしつらえるために、世界のあらゆる神話や伝説の類が掻き集められたのです」

 別の質問に応えて───

 「イエスは決して自分の霊能を辱めるような行為はしませんでした。いかなる時も自分の利益のために使用することをしませんでした。霊的法則を完璧に理解しておりました。そこが単に偉大な霊能者であったこと以上に強調されるべき点です。

歴史上には数多くの優れた霊能者が輩出しております。しかし完璧な理解と知識とをもって霊的法則をマスターするということは、これはまったく別の次元の問題です」

 さらに幾つかの質疑応答のあと、こう述べた。

 「人間が地上生活を生き抜き成長していくために必要な真理は、これ以上つけ加えるべきものは何もありません。あとは真理をより深く理解すること、その目的をより深く認識すること、神とのつながり、および同胞とのつながりに関してより一層理解を深めることだけです。新たに申し上げることは何もありません。

私にできることは、霊的に受け入れ態勢の整った人々の魂に訴えるように、私のこれまでの経験の成果をやさしく説くことだけです。叡知というものは体験から生まれます。十分な体験を経て魂が要求するようになった時に初めて真理が受け入れられます。それから、今度はその知識をどうするかの段階となります。その知識を他人のために活用する義務の問題です。

そうした過程は実に遅々としたものですが、人類の進化はそういう過程を経るしかないのです。啓蒙の領域を絶え間なく広げていく過程であり、退嬰的(たいえい)な暗黒の勢力との絶え間ない闘いです。一人ずつ、あるいは一家族ずつ、悲しみや苦しみ、辛い体験を通じて少しずつ魂が培われ、準備が整い、強烈な感動を覚えて、ようやく悟りを開くのです。

 もう、イエスのような人物が出現する必要はありません。たとえあのナザレのイエスが今この地上に戻って来たとしても、多分地上で最も評判の悪い人間となるでしょう。とくにイエスを信奉し師と崇めるキリスト教徒から一番嫌われることでしょう」


───十四歳から三十歳までの間イエスは何をしていたのでしょうか。

 「その間の年月は勉学に費されました。イエスの教育に当たった人たちによって、真の賢者のみが理解する霊の法則を学ばさせるために各地の学問の施設へ連れて行かれました。心霊的能力の養成を受けると同時に、その背後の意味の理解を得ました。要するにその時期は知識の収得と才能の開発に費されたわけです」


───その教育施設はどこにありましたか。

 「幾つかはインドに、幾つかはエジプトにありました。最も重要な教育を受けた学校はアレクサンドリアにありました」


 訳者注───モーゼスの『霊訓』によるとインドは世界の宗教思想の淵源で、エジプトの霊的思想の根幹もみなインドから摂り入れたものだという。イエスの幼少時に両親がエジプトへ連れて行ったのも、直接の目的は迫害を逃れるためだったが、その裏にはインドから輸入された霊的真理を学ばせるという背後霊団の意図があった。

長じては直接インドへ行って修行しており、今日でいうヨガにも通暁し、水と少しの果実だけで一カ月くらい平気で過ごしたという。

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

  The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



10章 自由の法則

このページの目次
〈自由と束縛〉


――人間が完全な自由を得るのはどういう条件下においてでしょうか。


「砂漠の中の世捨て人くらいのものでしょう。二人の人間が存在すれば、互いの権利と義務が生じ、完全に自由ではなくなります」


――と言うことは、他人の権利を尊重するということは、自分の権利を奪われることを意味するのでしょうか。


「それは違います。権利は生得のものです」


――奴隷制度が既成の慣習となっている国家において、使用人の家に生まれた者はそれを当たり前のことと思うに違いありませんが、その場合でも罪でしょうか。


「いけないことはいけないこと、いくら詭弁を弄しても悪い慣習が良い慣習になるわけではありません。が、責任の重さとなると、当人がその善悪についてどの程度まで理解していたかによって違ってきます。

奴隷制度で甘い汁を吸っている者は神の摂理に違反していることは明白です。が、その場合の罪の重さは、他の全ての場合と同じく、相対的なものです。長年にわたって奴隷制度が根付いている国においては使用人は少しも悪いこととは思わず、むしろ当たり前のことと思っているでしょう。しかし例えばイエスの教えなどに接して道義心が目覚め、理性が啓発されて、奴隷も神の前には自分と同等なのだと悟ったあとは、どう弁解しても罪は罪です」


――使用人の中には心の優しい人もいて、扱い方が人道的で、何一つ不自由をさせないように心を配っていながら、解放してやると却って生活が苦しくなるという理由から奴隷を雇い続けている人がいますが、これはどう理解すべきでしょうか。


「奴隷を残酷に扱っている使用人に較べれば自分のしていることについての理解が立派であると言えるでしょう。が、私に言わせれば、それは牛や馬を飼育しているのと同じで、マーケットで高く売るために大切にしているだけです。残酷に扱っている人と同列には問えませんが、人間を商品として扱い、生来の独立した人格としての権利を奪っている点において罪に問われます」
〈良心の自由〉


――他人の良心の自由に柵を設ける権利はあるでしょうか。


「思想の自由に柵を設ける権利がないのと同じく、そういう権利は許されません。良心を判断する権利は神のみが所有しておられます。人間が法律によって人間と人間との関係を規制していますが、神は自然の摂理によって人間と神との関係を規律づけています」


――ある宗教で説かれている教義が有害であることが明らかな時、良心の自由を尊重する立場からこれをそのまま許すべきでしょうか、それとも、良心の自由を侵さない範囲で、その誤った教義によって道に迷っている人を正しい道に導いてもよろしいでしょうか。


「もちろんよろしいし、また、そう努力すべきです。ただし、その時の態度はイエスの範にならって、優しさと説得力をもって臨むべきで、強引な態度は慎まないといけません。強引な態度は、その相手の間違った信仰よりも有害です。確信は威嚇によって押しつけられるものではありません」
〈自由意志〉


――人間には行為の自由がありますか。


「思想の自由がある以上、行為の自由もあります。自由意志がなかったら人間はロボットと同じです」


――その自由意志は誕生の時から所有しているのでしょうか。


「自らの意志で行為に出るような段階から自由意志を所有したことになります。誕生後しばらくは自由意志は無いに等しく、機能の発達と共に発達しはじめ、目的意識を持つようになります。幼児期における目的意識は必ずその時期の必要性と調和していますから、好きにやっていることがその時期に適合したものになっています」


――未開の段階では人間は本能と自由意志のどちらが支配的なのでしょうか。


「本能です。と言っても、完全な自由意志による行動を妨げない面もいくつかあります。幼児と同じで、自分の必要性を満たすために自由意志を行使していて、その自由意志は知性の発達を通してのみ発達します。と言うことは、あなた方のように知性の発達した人類は、自由意志の行使による過ちに対しては未開人よりも責任が重いということになります」


――社会的地位が自由行動の妨げになることはありませんか。


「社会に属している以上、当然、それなりの制約はあるでしょう。神は公正であり、そうした条件も全て考慮に入れて裁かれますが、そうした制約に負けないだけの努力をしているか否かも神は見ておられます」


――人生での出来事にはいわゆる運命、つまりあらかじめ決められているものもあるのでしょうか。もしあるとすれば自由意志はどうなるのでしょうか。


「再生する際に自ら選択した試練以外には必然的な宿命(さだめ)というものはありません。試練を選択することによって、そのようになる環境へ誕生しますから、自然にそうなるのです。

もっとも私が言っているのは物的な出来事(事故など)のことです。精神的な試練や道徳的誘惑に関しては、霊は常に善悪の選択を迫られており、それに抵抗するか負けるかのどちらかです。その際、当人が躊躇しているのを見て背後霊がアドバイスをしてくれますが、当人の意志の強さの程度を超えて影響を及ぼすことはできません。

一方、低級なイタズラ霊が大げさな取り越し苦労の念を吹き込んで悩ませたり怖がらせたりすることもします。が、最後の選択権は当人にあります」


――次から次へと訪れる悪運に翻弄されて、このまま行くと死も避けられないかに思える人がいます。こういうケースには宿命性があるように思えるのですが……


「真実の意味で宿命づけられているのは“死ぬ時期(とき)”だけです。いかなる死に方になるかは別として、死期が到来すれば避けることは不可能です」


――と言うことは、あらかじめ用心しても無駄ということになるのでしょうか。


「そんなことはありません。脅(おびや)かされる幾多の危険を避けさせるために背後霊が用心の念を吹き込むことがあります。死期が熟さないうちに死亡することのないようにとの神慮の一つです」


――自分の死を予知している人は普通の人よりも死を怖がらないのはなぜでしょうか。


「死を怖がるのは人間性であって霊性ではありません。自分の死を予知する人は、それを人間としてではなく霊として受け止めているということです。いよいよ肉体から解放される時が来たと悟り、静かにその時を待ちます」


――死が避けられないように、他にも避けられない出来事があるのではないでしょうか。


「人生のさまざまな出来事は大体において些細なもので、背後霊による警告で避けられます。なぜ避けさせるかと言えば、些細とは言え物的な出来事で面倒なことになるのは背後霊としても面白くないからです。唯一の、そして真実の意味においての避け難い宿命は、この物質界への出現(誕生)と物質界からの消滅(死)の時だけです」


――その間にも絶対に避けられないものがあると思いますが……。


「あります。再生に際してあらかじめ予測して選したものです。しかし、そうした出来事が全て神の予定表の中に“書き込まれている”かに思うのは間違いです。自分の自由意志で行った行為の結果として生じるものであり、もしそういうことをしなかったら起きなかったものです。

例えば指に火傷(やけど)を負ったとします。その場合、指に火傷を負う宿命(さだめ)になっていたわけではありません。単にその人の不注意が原因であり、あとは物理と化学と生理の法則の為せる業です。

神の摂理で必ずそうなると決まっているのは深刻な重大性をもち、当人の霊性に大きな影響を与えるものだけです。それが当人の霊性を浄化し、叡知を学ばせるとの計算があるのです」


――例えば殺人を犯した場合、再生する時から殺人者になることを知っているのでしょうか。


「そうではありません。自分が選択した人生において殺人を犯しかねない事態が予想されていたかも知れません。が、その時点では殺人を犯すか犯さないかは分かっておりません。殺人を犯した者でも、その直前までは理性を働かせる余裕があったはずです。もしも殺人を犯すことに決まっているとしたら、自由意志による判断力を働かせることができないことになります。罪悪も、他のあらゆる行為と同じく、自由意志による判断力と決断力の結果です。

あなた方はとかく二種類のまったく異なるものを混同しがちです。すなわち物的生活での出来事と精神的生活での行為です。もし宿命性というものがあるとすれば、それは物的生活において、原因が本人の手の届かない、そして本人の意志と無関係の出来事にかぎられています。それとは対照的に、精神生活における行為は必ず本人から出ており、従って本人の自由意志による選択の余地があります。その種の行為に宿命性は絶対にありません」


――では“幸運の星の下に生まれる”とか“星回りの悪い時に生まれる”という表現はどこから生まれたのでしょうか。


「星と人間とを結びつける古い迷信から生まれたもので、愚かな人間が比喩的表現を文字通りに受け取っただけです」