Saturday, March 7, 2026

霊訓 「上 」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings

15節

本節の内容スピリチュアリズムの宗教性
絶対的真理は存在せず
“最後の審判”は無し
罪はそれ自らの中に罰を含み、犯した瞬間より責任を求める
キリスト教的天国地獄観を論駁
交霊現象に関する誤解を正す
悪とは
スピリチュアリズムは地球規模の啓示


〔こうした議論がその後も非常な迫力と強力な影響力のもとに、殆ど途切れることなく続いた。私を支配し、私の思想を鼓舞し続けたこの影響力がいかに崇高にして強烈なものであったか――それを正しく伝えることは拙い私の筆ではとても出来ない。〕

『スピリチュアリズムの宗教的教訓』


そなたはわれらの教説が理神論であるか、純粋なる有神論であるか、はては無神論ではないのかとまで問うている。普段の思考においては正確にして知識に事欠かぬ人間が、有神論を無神論と同列に並べるとは、まさしく人間の無知の見本を見る思いがする。全ての人間の心に通じる神、いかに堕落せる人間の魂でさえ感応し得るところの神の存在を否定せんとする、その佗(わび)しきかぎりの不毛なる思想について、われらは最早や言うべき言葉を知らぬ。人間が自らの目を被い隠すことをするものであることを万一知らずにおれば、われらはそなたらが一体何故にかくも愚かなることを考えるのか理解に苦しむところであろう。

疑いもなくわれらは全ての存在を支配する絶対神の存在を説く。それは、人間が勝手に想像せるが如き気まぐれな顕現の仕方はせぬ。人間の理解力の進歩に応じて、その時代その時代に断片的に明かされてきた存在――もっと厳密に言うならば、人間の心の中に神の概念とその働きについての、より真実に近き見解を植えつけんとして働きかけてきた存在である。イエスと同様われらは宇宙を支配する愛に満ちた至聖にして至純なる神を説く。人間の想像するが如き人格をもたぬ神ではなく、真の意味における父なる存在である。エネルギーの化身でも具現でもない。真に生ける実在である。ただし、その存在の本質と属性はその働きと人間の心の中に描ける概念としてしか捉えることは出来ぬ。そなたの抱ける概念の中より全知全能の神に対する侮辱と思えるものを可能なかぎり取り除き、かつまた、差し当たりて問題とするに当たらぬ神学的教説を一応残しつつ、われらは神について以上の如く説いてきたのである。

われらの教説を読みてそこに絶対的真理が見られぬと言うのであれば、われらはむしろ、われらがそこまで理解して貰えるに至ったことを有難く思う次第である。絶対的完全性が有り得ぬ如く、今のそなたの未完成の状態においては絶対的真理などというものは望むべくもない。そなたはまさか、最高級の霊にしてもなお目を眩(くら)まされる宇宙の深奥の神秘を平然と見届け得ることを期待はすまい。限りあるその精神でまさか無限なるもの、不可知なるもの――地上より遥かに掛け離れたわれらにとりてもなお、遠くより拝(おうが)み奉(たてまつ)ることしか叶わぬ存在が理解できるとは期待すまい。万一できると思うとすれば、それこそそなたの置かれたる発達段階がまだまだ不完全であることの証左でしかない。そなたにとりて真理はまだ断片的であり、決して全体像を捉え得るものではなく、また細目まで行き亙ることは叶わず、あくまでベールを通して大まかなる輪郭を垣間見る程度に過ぎぬ。われらとしても決して真理の全てをそなたに啓示しようなどとは思いも寄らぬ。われら自らがまだまだ無知であり、神秘のべールに被われたる多くのものを少しでも深く理解せんと願っているものである。われらに為し得ることは精々その神の概念――これまでそなたらが絶対的啓示と思い込みたる概念よりは幾分か真理に近きものを仄(ほの)めかす程度に過ぎぬ。

これまでのところわれらは、そなたが筋の通れる美しく崇高なるものと認め、かつそなたの精神に受け入れられる新たな神学体系を確立することに成功した。それ以上のものを求めようとは思わぬ。われらは崇拝と敬意の対象としての神を啓示した。神と人類とそなた自身に対する合理的かつ包括的義務を披露した。道徳的規範として、そなたの聞き慣れた天国と地獄説による脅(おど)しの説教ではなく、無理強いせず自然に理解せしめる性質の見解を確立した。

われらの教説を目的なき宗教と言うに至りては、理解に苦しむ誤解というほかはない。地上生活というこの種子蒔(たねま)きの一つ一つの行為がそれ相当の実りをもたらすとの訓え――悪と知りつつ犯せる故意の罪が苦痛という代償のもとに悲しみと屈辱の中で償わねばならぬという訓え――過ちを犯せる魂が曾ての己の過ち故にもたらせる“縺(もつ)れ”を必ず自らの手で解(ほど)かねばならぬとの教説の、一体どこをもって詰まらぬ言説と言うのであろうか。

われらは、人間の言動は池に投げ入れられた小石の如く、その影響は波紋を描きつつ周囲に影響を及ぼすこと、そしてその影響には最後まで自分が責任を負わねばならぬこと、故に一つの言葉、一つの行為には、その結果と影響とに計り知れぬ重要性があること、それが善なるものであればその後の生き甲斐の源泉となり、邪悪なるものであれば苦悩と悔恨のうちに責任を取らされると説くのであるが、これが果たして下らぬ教説であろうか。

またその賞罰は遥か遠き未来の死にも似たる休眠状態の末まで延ばされるのではなく(1)、因果律の法則によりてその行為の直後より始まり、その行為の動機が完全に取り除かれるまで続くと説くのであるが、これも愚にもつかぬ言説であろうか。

これでは清浄にして聖なる生活への誘因とはならぬのであろうか。そうしたわれらの教説と、そなたらの信じる教説、すなわち己の思いのままに生き、隣人に迷惑を及ぼし、神を冒涜し、魂を汚し、神の法も人間の法も犯し、人間としての徳性を辱(はずかし)めた人物が、たった一度の半狂乱の叫び声、お気に入りの勝手な信仰、その場かぎりの精神的変化によりて、眠気を催すが如き天国への資格を獲得するとのそなたらの説、しかもその天国での唯一の楽しみが魂の本性が忌々しく思う筈のものでありながら、それが魔法的変化によって一気に永遠の心地よき仕事となるとの説の、一体いずれが神聖にして進歩的生活へ誘(いざな)ってくれるであろうか。堕落せる魂を動かすのはどちらであろうか。いかなる罪も、それが他人によりて知られる知られぬに係わりなく、いつかは悔い改めねばならぬ時が来ること、そして他力ではなく、自力で償わねばならぬこと、そうなることによりて少しでも清く正しく、そして誠実な人間となるまで幸せは味わえぬとの教えであろうか。それとも、何をしようと天国はいかなる堕落者にも開かれており、悶え苦しむ人間の死の床でのわずか一度の叫び声によりて魔法の如く魂が清められ、遠き未来に訪れる審判の日を経て神の御前に召され、そこにて退屈この上なく思う筈の礼拝三昧の生活を送るとの教えの方であろうか。

このいずれが人間の理性と判断力に訴えるか。どちらが罪を抑制し、さ迷える者を確実に正義の道に誘うか。それはわれらと同様、そなたにも明々白々である。なのにそなたはわれらの説くところが断固たるものを曖昧なるものに、確固たる賞罰の体系を何の特色もなきものに置き替えんとするものであると言う。否! 否! われらこそ確固たる知性的賞罰体系を説き、しかもその中に夢まぼろしの如き天国や残酷非道の地獄や人間性まる出しの神などをでっち上げたりはせぬ。キリスト教神学はいつのことやも知れぬ遠き未来に最後の審判日などというものを設け、極悪非道の人間でさえも、その者自身理解も信仰も有難味も見出し得ぬ教義に合意すれば、いつの日か、どこかで、どういう具合にてか、至純至高の大神の御前に侍(はべ)ることを得ると説く。

敢えて言おう。われらの説く信仰のほうが遥かに罪を抑圧すべく計算され、人間に受け入れ易く説かれている。人間の死後について遥かに合理的な希望を与え、人類史上かつて無き現実性に富む包括的信仰を説いている。繰り返すが、これぞ神の訓えである。神の啓示としてそなたに授けられているのである。われらはこれが今すぐ一般大衆に受け入れられるものとは期待せぬ。大衆の側にそれなりの受け入れ態勢が出来ぬかぎり、それは叶わぬことである。その時節の到来をわれらは祈りのうちに忍耐強く待つとしよう。いよいよその時節が到来し、理性的得心のもとに受け入れられた時は、人間は曾ての如きケチくさき救済を当てにせるが故の罪を犯すことも減り、より知的にして合理的来世観によりて導かれ、高圧的抑制も、人間的法律による処罰の必要性も減り、それでいて動機の源は、甘き天国と恐ろしき地獄などというケチくさき体系に劣らず強制力があり、永続的となるであろうことを断言する。子供騙しの地獄極楽説は、これをまともに考察すれば呆気(あっけ)なくその幼稚性が暴露され、効力を失い、根拠なき、非合理にして愚劣なるものとして、灰塵に帰されることであろう。


〔総体的に観てスピリチュアリズムの影響は好ましくない――少なくとも複雑な影響を及ぼしているとの私の反論に対して一八七三年七月十日に次のような回答が届けられた――〕


その点につきてはわれらも述べたいことが多々ある。これよりそなたの誤解を説き明かすべく努力してみたく思う。まず第一にそなたは人間の宿命とも言うべき限られた視野にとっては不可抗力ともいうべき過ちに陥り、その目に映りたる限られた結果のみを見て、それをスピリチュアリズムの全てであると思い込んでいる。その点においてそなたは、わずかな数の熱狂者による狂騒に幻惑され、その狂騒、その怒号をもってスピリチュアリズムの全てであると見なす一部の連中と同類である。見よ、彼らは結果によりてのみ知らるベき静かなる流れがその見えざる底流を音もなく進行していることに気づかぬ。そなたの耳に入るのは騒々しき無秩序なる連中のみである。さして多くはないが、よく目立つのである。そなたが世の中を再生せしむるのはそうした連中ではあり得ぬと言うのはもっともなのである。そなたの知性はそうした無責任なる言説にしりごみし、果たして斯くの如き近寄り難きものが神のものであり、善の味方であろうかと訝(いぶか)るのであるが、実はそなたの目にはそうした一部のみが目に入り、しかもその一部についても明確に理解しているとは言えぬ。そうした連中にも彼らなりに必要なる要素が幾つかあり、それが彼らにとりて最も理解し易き手段にて神より授けられている――そうした表に出ぬ静かなる支持者たちの存在についてはそなたは何も知らぬ。そなたの視界に入らぬのである。入らぬのであるが、しかし現にそなたのまわりにも存在し、霊の世界と交わり、刻々と援助と知識を授かり、肉体に別れを告げたのちに彼らもまた霊界よりこのスピリチュアリズム普及のために一役買う日が来るのを待ちうけているのである。

かくの如くそなたは一方に喧噪、他方に沈黙がありながら、限られた能力と、さらに限られた機会のゆえに狭隘なる見解しか持ち得ず、およそ見本とは言えぬ小さき断片をもって全体と思い違いをしている。これよりわれらは、そなたが下せるスピリチュアリズムの影響につきての結論を細かく取り挙げたく思う。そして同時に、そなたにはその究極の問題について断定的意見を述べる立場にないことを指摘したく思う。

と申すのも、一体真理とは何かということである。神の働きは、このスピリチュアリズムに限らず他の全ての分野においても、不偏平等である。地上には善と悪とが混在している。平凡なる霊にて事足りる仕事に偉大なる霊を派遣するが如き愚を神はなさらぬ。未発達の地縛霊の説得に神々しき高級霊を当てたりはなさらぬ。絶対になさらぬ。自然界の成り行きにはそれ相当の原因がある。巨大な原因から無意味なる結果が出るようなことはない。霊的関係においても同じことである。知能程度が低く、その求むるところが幼稚にして高きものを求めようとせぬ魂の持ち主には、その種の者に最も接触し易き霊が割り当てられる。彼らは目的に応じて手段を考慮し、しばしばその未熟なる知性に訴えるために物理的手段を講ずる。精神的・霊的に無教養で未発達なる者には、その程度に応じた最も分かり易き言葉にて語りかける。死後の生活の存在を得心させるためには目に映ずる手段を必要とする者がかなり、いや、大勢いるのである。

この種の人間は、高き天使の声――いつの時代においてもその時代の精神的指導者の魂に語りかけてきた崇高なる霊の声――によりて導かれるのではなく、その種の人間と類を同じくする霊たち――その欲求と精神的性癖と程度をよく理解し、その種の者の心に最も訴え、最も受け入れ易き証を提供することの出来る霊によりて導かれる。さらに心得ておくべきことは、知的に過ぎる者は往々にして霊的発達に欠けることがあることである。本来進歩性に富める魂も、その宿れる肉体によりて進歩を阻害され、歪める精神的教育によりて拘束を受けることも有り得る。同じ啓示が全ての魂の耳に届くとはかぎらぬ。同じ証が全ての魂の目に見えるとはかぎらぬ。肉体的性向を精神的発達の欠陥によりて地上生活における発達を阻害された霊が死後その不利な条件が取り除かれてのち、ようやく霊的進歩を遂げるという例は決して少なくないのである。

というのも、本性は魔法の杖にて一度に変えるというわけには行かぬものなのである。性癖というものは徐々に改められ、一歩一歩向上するものなのである。故に生まれつき高度な精神的才能に恵まれ、その後も絶え間なく教養を積める者の目には、当然のことながら、無教養にして無修養の者のために用意せる手段は余りに粗野にして愚劣に映ずるであろう。否、その前に彼らが問題とせるものそれ自体が無意味に思えるであろう。その声は耳障りであろう。その熱意は分別に欠けるであろう。が、彼らは彼らなりにその本性が他愛なき唯物主義、あるいはそれ以上に救い難き無関心主義に変化を生じ、彼らなりに喜びを感ずる新たな視野に一種の情熱さえ覚えるようになる。彼らの洩(も)らす喜びの叫びは垢抜けはせぬが、彼らなりに真実の喜びである。そなたの耳には不愉快に響くかも知れぬが、父なる神の耳には、親を棄てて家出せる息子が戻りて発する喜びの声にも劣らず、心地よきものである。その声には真実が篭っている。その真実の声こそわれらの、そして神の、期待するところである。真実味に欠ける声は、いかに上手に発せられても、われらの耳には届かぬ。

かくの如く、霊的に未発達なる者に対して用いる証明手段は、神と人間との間を取りもつ天使の声ではない。それでは無駄に終わるのである。まず霊的事象に目を向けさせ、それを霊的に鑑識するよう指導する。物理的演出を通じて霊的真理へと導くのである。物理的演出についてはそなたもすでに馴染んでおろう。そして、そうした物的手段の不要となる日も決して来ぬであろう。いつの時代にもそうした手段によりて霊的真理に目覚める者がいるからである。目的にはそれなりの手段を選ばねばならぬ。そうした知恵を否定する者こそ、その見解に知恵を欠く視野の狭き者である。唯一の危険性はその物理的現象をもって事足れりとし、霊的意義を忘れ、そこに安住してしまうことである。それはあくまで手段に過ぎぬ。霊的発達への足がかりとして意図され、或る者にとりては価値ある不可欠の手段なのである。

そこでわれらはこれより、そなたが腹に据えかねている右の例以上に顕著なる例、すなわち、粗野にして無教養なる未発達霊の仕業について述べるとするが、そなたにとりて左程までに耳障りにして、その行為に不快を覚えさせる霊をそなたは“悪”の声であると想像しているようであるが、果たして如何(いかが)なものであろうか。

悪の問題につきてはすでに取り挙げたが、また改めて説くこともあろう。が、ここでわれらは躊躇なく断言するが、邪霊の仕業であることが誰の目にも一目瞭然たる場合を除いては、大抵の場合、そなたの想像するが如き悪の仕業ではない。

悲しい哉、悪は多い。そして善に敵対する者が一掃され勝利が成就されるまでは、悪の途絶えることはあるまい。故にわれらは、決してわれらとそなたを取り巻く危険性を否定も軽視もせぬ。が、それはそなたが想像するようなものではない。見た目に常軌を逸するもの、垢抜けのせぬもの、粗野なるものが必ずしも不健全とは言えぬ。そうした観方は途方もない了見違いと言うべきである。真に不健全なるものはそう多くは存在せぬ。むしろそなたらの気付かぬところに真の悪が潜むものである。霊的にはまだ未熟とは言え、真剣に道を求むる者たちは、無限の向上の世界がすぐ目の前に存在すること、そしてその向上はこの地上における精神的、身体的、霊的発達にかかっていることを理解しつつある。それ故彼らは身体を大切にする。酒浸りの呑んだくれとは異なり、アルコール類を極力控える。そしてその熱意のあまり同じことを全ての者に強要する。彼らは人それぞれに個人差があることまでは気が回らぬ。そして往々にしてその熱意が分別を凌駕してしまうのである。しかも、洗練された者に反発を覚えさせるそうした不条理さと誇大なる言説をふり回す気狂いじみた熱狂者が、果たして、心までアルコールに麻痺され、身体は肉欲に汚され、道徳的にも霊的にも向上の道を閉ざされた呑んだくれよりも霊的に不健全であろうか。そうでないことはそなたにも判るであろう。前者は少なくとも己の義務と信念とに目覚め必死に生きている。今や曾ての希望も目的も持たぬ人間とはわけが違う。死者の中より甦ったのである。その復活が天使に喜びと感激の情を湧かせるのである。その叫びが条理を欠いていたとて、それがどうだというのであろうか。情熱と活気がそれを補いて余りあるではないか。その叫びは確信の声であり、死にも譬えるべき無気力より目覚めた魂の叫びなのである。それは、生半可なる信仰しか持たぬ者が、紋切り型の眠気を催すキザな言い回しで化粧し、さらには“ささやき”程度のものでも世間に不人気なものは避けんと苦心するお上品ぶりよりも遥かにわれらにとりて、そして神にとりて、価値あるものである。何となればそれは、新たにかちえた確信を人にも知らしめんとする喜びの声であり、われらの使命にとりても喜びであり、より一層の努力を鼓舞せずにはおかぬのである。

そなたは俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬと言う。断言するが、そなたの意見は見当違いである。適確さと上品さには欠けるが、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他の何ものよりも大衆に訴える力がある。野蛮なる投石器によって勢いよく放たれた荒けずりの石のほうが、打算から慣習に迎合し体裁を繕(つくろ)いたる教養人の言説よりもよほど説得力がある。荒けずりであるからこそ役に立つのである。現実味のある物的現象を扱うからこそ、形而上的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのである。

霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。“物”にしか反応を示さぬ唯物主義者には物的法則を超越せる目に見えぬ力の存在の証拠を提供する。固苦しき哲理よりも、肉親の身の上のみを案じ再会を求める者には、確信を与えるために要する証拠を用意してその霊の声を聞かせ、死後の再会と睦み合いの生活への信念を培う。筋の通れる論証の過程を経なければ得心できぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。さらに、そうした霊的真理の初歩的段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲する者には、神の深き真理に通暁せる高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命につきての啓示を垂れさせる。かくの如く人間にはその程度に応じた霊と相応しき情報とが提供される。これまでも神はその目的に応じて手段を用意されて来たのである。

今一度繰り返しておく。スピリチュアリズムは曾ての福音の如き単なる見せかけのみの啓示とは異なる。地上人類へ向けての高級界からの本格的働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。それを総合するものがスピリチュアリズムに他ならぬ。が、実はそれだけと見なすのも片手落ちである。そなたにとりて、そしてまたそなたと同じ観点より眺める者にとりてはそれで良いかも知れぬ。が、他方には意識の程度の低き者、苦しみに喘ぐ者、悲しみに打ちひしがれし者、無知なる者がいる。彼らにとりてはスピリチュアリズムはまた別個の意味をもつ。それは死後における肉親との再会の保証であり、言うなれば個人的慰安である。実質的には五感の世界と霊の世界とを結ぶことを目的とする掛け橋である。肉体を捨てた者も肉体に宿れる者と同様に、その発達程度はさまざまである。そこで、地上の未熟なる人間には霊界のほぼ同程度の霊が当てがわれる。故にひと口にスピリチュアリズムの現象と言うも、程度と質とを異にする種々さまざまなものが演出されることになる。底辺の沈殿物が表面に浮き上がることもあり、それのみを見る者には奥で密かに進行しているものが見えぬということにもなる。

今こそそなたにも得心がいくであろうが、世界の歴史を通じて同種の運動に付随して発生する“しるし”を見れば、それが決してわれらの運動のみに限られたものとの誤解に陥ることもあるまい。それは人間の魂をゆさぶる全てのものに共通する、人間本来の性分が要求するのである。イスラエルの民を導いたモーセの使命にもそれがあり、ヘブライの予言者の使命にもそれがあり、言うまでもなくイエスの使命にも欠かせぬ要素であった。人類の歴史において新しき時代が画される時には必ず付随して発生し、そして今まさに霊的知識の発達にもそれが付随しているのである。が、それをもって神の働きかけの全てであると受け取ってはならぬ。政治的暴動がその時代の政治的理念の全てではないのと同様に、奇跡的異常現象をもってわれらの仕事の見本と考えてはならぬ。

常に分別を働かさねばならぬ。その渦中に置かれた者にとりては冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。が、その後において、今そなたを取り囲む厳しき事情を振り返った時には容易に得心がいくことであろう。

そなたの提示せる問題についてはいずれまたの機会に述べるとしよう。此の度はひとまずこれにて――さらばである。

(†インペレーター)

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

 The Spirit Speaks 

トニー・オーツセン(編) 近藤千雄(訳)



3章 愛こそがすべてのカギです

世界の主な宗教はみな死後の生命の実在を説いている。が、その証拠を交霊会で他界した先輩から提供してもらっているのは、スピリチュアリズムだけである。

しかし、ご存知の通り、交霊というものは必ずしもうまく行くとはかぎらない。時には完全な失敗に終わることもある。なぜか。

易しい真理をわかりやすく説くことをモットーとしているシルバーバーチが、ある日の交霊会の開会と同時にこう切り出した――


「今夜は招待客がいらっしゃらないようですので、ひとつ、この機会に皆さんがふだん持て余しておられる疑問点をお聞きすることにしましょう。易しい問題はお断りです。今夜にかぎって難問を所望(しょもう)しましょう」

そこで出された最初の質問は、最近ある霊媒による交霊会が失敗した話を持ち出して、その原因についてだった。すると――


「それは霊媒としての修行不足、見知らぬ人を招待して交霊会を開くだけの力がまだ十分にそなわっていない段階で行ったためです。あの霊媒は潜在意識にまだ十分な受容性がそなわっておりません。霊媒自身の考えが出しゃばろうとするのを抑えきれないのです。支配霊がいても、肝心のコントロールがうまくいっておりません。

支配霊が霊媒をコントロールすることによって行う現象(霊言ならびに自動書記)においては、よほど熟練している場合は別として、その通信には大なり小なり、霊媒自身の考えが付着しているものと考えてよろしい。そうしないと通信が一言も出ないのです」

「潜在意識の影響をまったく受けない通信は有り得ないということでしょうか」


「その通りです」

「すべてが脚色されているということでしょうか」


「どうしてもそうなります。いかなる形式であろうと、霊界との交信は生身の人間を使用しなくてはならないからです。人間を道具としている以上は、それを通過する際に大なり小なり着色されます。人間である以上は、その人間的性質を完全に無くすことは不可能だからです」

「神が完全な存在であるのなら、なぜもっと良い通信手段を用意してくれないのでしょうか」


「本日は難しい質問を所望しますと申し上げたら、本当に難しい質問をしてくださいましたね。結構です。

さて、わたしたちが使用する用語には、それをどう定義するかという問題があることをまず知っていただかねばなりません。おっしゃる通り、神、わたしのいう大霊は完全です。ですが、それは大霊が完全な形で顕現されているという意味ではありません。大霊そのものは完全です。つまり、あなたの内部に種子(たね)として存在する神性は完全性をそなえているということです。ですが、これは必ずしも物質的形態を通して完全な形で表現されてはいません。だからこそ無限の時間をかけて絶え間ない進化の過程をへなければならないのです。

進化とは、内部に存在する完全性という黄金の輝きを発揮させるために、不純物という不完全性を除去し、磨きをかけていくことです。その進化の過程においてあなたが手にされる霊的啓示は、あなたが到達した段階にふさわしいものでしかありません。万一あなたの霊格よりずっと進んだものを先取りされても、それはあなたの理解力を超えたものなのですから、何の意味もないことになります」

「では、人間がさらに進化すれば、機械的な通信手段が発明されるかも知れないのでしょうか」


「その問題についてのわたしの持論はすでにご存知のはずです。わたしは、いかなる機器が発明されても、霊媒を抜きにしては完全とはなり得ないと申し上げております。

そもそも何のためにわれわれが、こうして霊界から通信を送るのかという、その動機を理解していただかねばなりません。それは、何よりもまず“愛”に発しているのです。肉親・知人・友人等々、かつて地上で知り合った人から送られてくるものであろうと、わたしのように人類のためを思う先輩霊からのものであろうと、霊的メッセージを送るという行為を動機づけているものは、愛なのです。

愛こそがすべてのカギです。たとえ完全でなくても、何らかの交信がある方が、何もないよりはいいでしょう。それが愛の発現の場を提供することになるからです。しかし、それを機器によって行うとなると、どう工夫したところで、その愛の要素が除去されてしまいます。生き生きとした愛の温もりのある通信は得られず、ただの電話のようなものになってしまいます」

「電話でも温かみや愛が通じ合えるのではないでしょうか」


「電話機を通して得られるかも知れませんが、電話機そのものに温かみはありません」

「大切なのはそれを通して得られるものではないでしょうか」


「この場合は違います。大切なのは霊媒という電話機と、それを通してメッセージを受ける人間の双方に及ぼす影響です。それに関わる人びと全部の霊性を鼓舞することに意図があります」

「霊媒も含めてですか」


「そうです。なぜなら、最終的には、いつの日か地上人類も、霊と霊とが自然な形で直接交信できるまでに霊性が発達します。それを、機械を使って代用させようとすることは、進化の意図に反することです。進化はあくまでも霊性の発達を通して為されねばなりません。霊格を高めることによって神性を最高に発揮するのが目的です」

「ということは、最高の証拠を得たいと思えば、霊性の発達した霊媒を養成しなければならないということでしょうか」


「わたしは今、“証拠”の問題を念頭において話しているのではありません。人類の発達ということを念頭において話しているのです。人生はらせん状のサイクルを描きながら発達するように計画されており、その中の一つの段階において次の段階のための霊性を身につけ、その積み重ねが延々と続けられるのです。おわかりでしょうか」

「はい、わかります」


「最高の成果を得るためには、顕幽両界の間に互いに引き合うものがなければなりません。その最高のものが愛の力なのです。両界の間の障害が取り除かれていきつつある理由は、その愛と愛との呼びかけ合いがあるからです」

「霊媒の仕事が金銭的になりすぎるとうまく行かなくなるのは、そのためでしょうか」


「その通りです。霊媒は、やむにやまれぬ献身的精神に燃えなければなりません。その願望そのものが霊格を高めていくのです。それが何よりも大切です。なぜなら、人類が絶え間なく霊性を高めていかなかったら、結果は恐ろしいことになるからです。霊がメッセージをたずさえて地上へ戻ってくる、そもそもの目的は、人間の霊性を鼓舞するためであり、潜在する霊的才能を開発して、霊的存在としての目的を成就するためです」

「他界した肉親が地上へ戻ってくる――たとえば父親が息子のもとに戻ってくる場合、その根本にあるのは戻りたいという一念でしょうか、それとも今おっしゃった目的で霊媒を通じてメッセージを送りたいからでしょうか」


「戻りたいという一念からです。ですが、一体なぜ戻りたいと思うのでしょう。その願望も愛に根ざしています。父親には息子への愛があり、息子には父親への愛があります。その愛があればこそ、父親はあらゆる障害を克服して戻ってくるのです。困難を克服して愛の力を証明し、愛は死を超えて存続していることを示すことによって、息子は、父親の他界という不幸を通して魂が目を覚まし、霊的自我を見出します。かくして、単なる慰めのつもりで始まったことが、霊的発達のスタートという形で終わることになります」

「なるほど、そういうことですか。言いかえれば、神は、進化の計画のためにありとあらゆる体験を活用するということですね?」


「人生の究極の目的は、地上も死後も、霊性を開発することにあります。物質界に誕生してくるのもそのためです。その目的に適った地上生活を送れば、霊はしかるべき発達を遂げ、次の生活の場に正しく適応できる霊性を身につけた時点で死を迎えます。そのように計画されているのです。こちらへお出になっても同じ過程が続き、そのつど霊性が開発され、そのつど古い身体から脱皮して霊妙さを増し、内部に宿る霊の潜在的な完全性に近づいてまいります」

「人間の容貌を見ても、その人の送っている邪悪な生活が反映しているのがわかることがあります」


「当然そうなります。心に思うままがその人となります。その人の為すことがその人の本性に反映します。死後のいかなる界層においても同じことです。身体は精神の召使いではなかったでしょうか。はじめは精神によってこしらえられたのではなかったでしょうか」

「霊界の視点からすれば、心で犯す罪も、行為で犯す罪と同じでしょうか」


「それは一概にはお答えできません。霊界の視点とおっしゃるのは、進化した霊の目から見て、という意味でしょうか」

「そうです。ある一つの考えを抱いた時、それを実行に移したのと同じ罪悪性をもつのでしょうか」


「とても難しい問題です。何か具体的な例をあげていただかないと、一般論としてお答えできる性質の問題ではありません」

「たとえば、誰かを殺してやりたいと思った場合です」


「それは、その動機が問題です。いかなる問題を考察する際にも、まず“それは霊にとっていかなる影響をもつか”ということを考慮すべきです。ですから、この際も、“殺したい”という考えを抱くに至った動機ないし魂胆は何かということです。

さて、この問題には当人の気質が大きく関わっております。と申しますのは、人をやっつけてやりたいと思っても、手を出すのは怖いという人がいます。本当に実行するまでには至らない――いわば臆病なのです。心ではそう思っても、まずもって実際の行為には至らないというタイプです。

そこで、殺してやりたいと心で思ったら、実際に殺したのと同じかというご質問ですが、もちろんそれは違います。実際に殺せば、その霊を肉体から離してしまうことになりますが、心に抱いただけでは、そういうことにはならないからです。その視点からすれば、心に思うことと実際の行為とは、罪悪性が異なります。

しかし、これを精神的次元で捉えた場合、嫉妬心・貪欲・恨み・憎しみといった邪念は、身体的行為よりも大きな悪影響を及ぼします。思い切り人をぶん殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為に至らせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方が、はるかに強烈です。このように、この種の問題はその時の事情によって答えが異なります」

「誰かを殺してやりたいと思うだけなら、実際の殺人行為ほどの罪悪性はないとおっしゃいました。でも、その念を抱いた当人にとっては、殺人行為以上の実害がある場合が有り得ませんか」


「有り得ます。これもまた、場合によりけりです。その邪念の強さが問題になるからです。忘れないでいただきたいのは、根本において支配しているのは“因果律”だということです。地上における身体的行為が結果を生むのと同じように、精神的ならびに霊的次元において、それなりの結果を生むように仕組まれた自然の摂理のことです。邪念を抱いた人が自分の精神ないしは霊に及ぼしている影響は、あなた方には見えません」

「誰かを、あるいは何かを、“憎(にく)む”ということは許されることでしょうか。あなたは誰かを、あるいは何かを憎むということがありますか」


あとのご質問は答えが簡単です。わたしは誰も憎みません。憎むということができないのです。なぜなら、わたしは大霊の子すべてに神性を認めるからです。そしてその神性がまったく発揮できずにいる人、あるいは、わずかしか発揮できずにいる人を見て、いつも気の毒に思うからです。

ですが、許せない制度や強欲に対しては、憎しみを抱くことはあります。強欲・悪意・権勢欲等が生み出すものに対して、怒りを覚えます。それに伴って、さまざまな思い、あまり褒(ほ)められない想念を抱くことはあります。ですが、忘れないでください。わたしもまだまだ人間味をそなえた存在です。ただ、人間に対しては、そうした想念を抱かないところまでは進化しておりますが……」

「いけないと知りつつも感情的になることがありますか」


「ありますとも」

別のメンバーが「生意気を言うようですが、今おっしゃったことは私にも理解できます。憎むということは恐ろしいことです」と言うと、さきのメンバーが「人を平気で不幸にする邪悪な人間がいますが、私はそういう人間に対しては、どうしても憎しみを抱きます」と言う。するとシルバーバーチが――


「わたしは憎しみを抱くことはできません。摂理を知っているからです。大霊は絶対にごまかせないことを知っているからです。誰が何をしようと、その代償はそちらにいる間か、こちらへ来られてから、支払わされます。いかなる行為、いかなる言葉、いかなる思念も、それが生み出す結果に対しては、その人自身が責任を負うことになっており、絶対に免れることはできません。ですから、いかに見すぼらしくても、卑(いや)しくとも、大霊からいただいた衣をまとっている同胞を憎むということは、わたしにはできません。ですが、不正行為そのものは憎みます」

「でも、実業界には腹黒い人間がたくさんいます」


「でしたら、その人たちのことを哀れんであげることです」

「私はそこまで立派にはなれません。私は憎みます」

別のメンバーが「私はそれほどの体験はないのですが、動物の虐待を見ると腹が立ちます」と言うと、シルバーバーチが――


「そういう行為を平気でする人間は、みずからの進化の低さの犠牲者であり、道を見失った哀れな盲目者なのです。悲しむべきことです」

さきのメンバーが“腹黒い実業家”を念頭に置いて「ああいう連中の大半は高い知性と頭脳の持ち主です。才能のない人間を食いものにしています。それで私は憎むのです」と言う。


「そういう人たちは必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時が来るのです。あなたとわたしとの違いは、あなたは物質の目で眺め、わたしは霊の目で眺めている点です。わたしの目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受けるべき苦しみが見えるのです。暗闇の中で悶(もだ)え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものが、その人の悪業にふさわしい罰なのです」

「でも、いま現実に他人に大きな苦しみをもたらしております」


「では一体、どうあってほしいとおっしゃるのでしょう。人間から自由意志を奪って、操り人形のようにしてしまえばよいのでしょうか。自由意志という有り難いものがあればこそ、努力によって荘厳な世界へ向上することもできれば、道を間違えて、奈落の底へ落ちることも有り得るのが理にかなっているのです」

別のメンバーが「邪悪な思念を抱いてそれを実行に移した場合、それを実行に移さなかった場合とくらべて、精神的にどういう影響があるのでしょうか」と尋ねた。


「もしもそれが激しい感情からではなく、冷酷非情な計算ずくで行った場合でも、いま申し上げた邪悪な人間と同じ運命をたどります。なぜなら、それがその魂の発達程度、というよりは発達不足の指針だからです。たとえば心に殺意を抱き、しかもそれを平気で実行に移したとすれば、途中で思いとどまった場合にくらべて、はるかに重い罪を犯したことになります」

「臆病であるがゆえに思いとどまる場合もあるでしょう?」


「臆病者の場合はまた別です。わたしは今、邪悪なことを平気で実行に移せる人間の場合の話をしたのです。初めに申し上げたとおり、この種の問題は一つ一つに限定して論じる必要があります。心に殺意を抱き、しかもそれを平気で実行できる人と、“あんな憎たらしい奴は殺してやりたいほどだ”と思うだけの人とでは、霊的法則からいうと、前者の方がはるかに罪が重いと言えます」

「あなたご自身にとって何かとても重大で、しかも解答が得られずにいる難問をおもちですか」


「解答が得られずにいる問題で重大なものと言えるものはありません。ただ、わたしはよく、進化は永遠に続く――どこまで行ってもこれでおしまいということはない、と申し上げておりますが、なぜそういうおしまいのない計画を大霊がお立てになったのか、そこのところがわかりません。いろいろとわたしなりに考え、また助言も得ておりますが、正直いって、これまでに得たかぎりの解答には得心がいかずにおります」

「大霊それ自体が完全でないということではないでしょうか。あなたはいつも大霊は完全ですとおっしゃっていますが……」


「ずいぶん深い問題に入ってきました。かつて踏み入ったことのない深みに入りつつあります。

わたしには、地上の言語を使用せざるを得ない宿命があります。そこで“神”のことも、どうしても、わたしが抱いている概念とはかけ離れた、男性神であるかのような言い方をしてしまいます(※)。わたしの抱いている神の概念は、完璧な自然法則の背後に控える無限なる叡智です。その叡智が無限の現象として顕現しているのが宇宙です。が、わたしはまだ、その宇宙の究極の顕現を見た、と宣言する勇気はありません。これまでに到達したかぎりの位置から見ると、まだまだその先に別の頂上が見えているからです。

わたしなりに見てきた宇宙に厳然とした目的があるということを、輪郭だけは理解しております。まだ、その細部のすべてに通暁しているなどとは、とても断言できません。だからこそわたしは、皆さんもわたしと同じように、知識の及ばないところは信仰心で補いなさいと申し上げているのです。

“神”と同じく、“完全”というものの概念は、皆さんが不完全であるかぎり完全に理解することはできません。現在の段階まで来てみてもなお、わたしは、もしかりに完全を成就したらそこで全てが休止することを意味し、それは進化の概念と矛盾するわけですから、完全というものは本質的に成就できない性質のものであるのに、なぜ人類がその成就に向かって進化しなければならないのかが理解できないのです」


※――“大霊” the Great Spiritを使用しても“神” Godを使用しても、二度目からは男性代名詞の“彼” “彼の” “彼を”He His Himを使用していることを言っている。

「こうして私たちが問題をたずさえてあなたのもと(交霊会)へ来るように、あなたの世界でも相談に行かれる場所があるのでしょうか」


「上層界へ行けば、わたしよりはるかに叡智を身につけられた方がいらっしゃいます」

「こうした交霊会と同じものを催されるのですか」


「わたしたちにも助言者や指導者がいます」

「やはり入神して行うのですか」


「プロセスは地上の入神とまったく同じではありませんが、やはりバイブレーションの低下、すなわち高い波長をわたしたちにとって適切な波長に下げたり光輝を和らげたりして、ラクにしてくださいます。一種の霊媒現象です。こうしたことが宇宙のあらゆる界層において段階的に行われていることを念頭においてくだされば、上には上があって、“ヤコブのはしご”には無限の段がついていることがおわかりでしょう。その一番上の段と一番下の段は、誰にも見えません」

「霊媒を通じて語りかけてくる霊は、われわれが受ける感じほどに実際に身近な存在なのでしょうか。それとも、霊媒の潜在意識も考慮に入れなければならないのでしょうか。そんなに簡単に話せるものなのでしょうか。私の感じとしては、想像しているほど身近な存在ではないような気がしています。少し簡単すぎます」


「何が簡単すぎるのでしょうか」

「思っているほど身近な存在であるとは思えないのです。多くの霊媒の交霊会に出席すればするほど、しゃべっているのは霊本人ではないように思えてきます。時にはまったく本人ではない――単にそれらしい印象を与えているだけと思えるものがあります」


「霊が実在する――このことを疑っておられるわけではないでしょうね? 次に、わたしたち霊にも個性がある――このことにも疑問の余地はありませんね? では、わたしたちは一体誰か――この問題になると、意見が分かれます。そもそも“同一性(アイデンティー)”とは何を基準にするかという点で、理解の仕方が異なるからです。わたし個人としては、地上の両親がつける名前は問題にしません。名前と当人との間には、ある種の相違点があるからです。

では一体わたしたちは何者なのかという問題ですが、これまた、アイデンティティーを何を基準にするかによります。ご存知のとおり、わたしはインディアンの身体を使用しておりますが(※)、インディアンではありません。こういう方法が一番わたし自身をうまく表現できるからそうしているまでです。このように、背後霊の存在そのものには問題の余地はないにしても、物質への霊の働きかけの問題は実に複雑であり、通信に影響を及ぼし内容を変えてしまうほどの、さまざまな出来事が生じております。




※――地上とコンタクトするための“変圧器”のような役目をしているインディアンのことで、言わば霊界の霊媒である。ふだんは一応これをシルバーバーチということにしており、“祈り”の末尾でも“あなたの僕インディアンの祈りを捧げます”と述べているが、“わたし”と言っている一番奥の通信霊が誰であるかは、“いつかは明かす日も来るでしょう”と言いつつ、六十年間、ついに明かされることはなかった。


通信がどれだけ伝わるか――その内容と分量は、そうしたさまざまな要素によって違ってきます。まして、ふだんの生活における“導き”の問題は簡単には片づけられません。なぜかと言えば、人間はその時点での自分の望みを叶えてくれるのが導きであると思いがちですが、実際には、叶えてあげる必要がまったくないものがあるからです。一番良い導きは、本人の望んでいる通りにしてあげることではなくて、それを無視して放っておくことである場合が、しばしばあるのです。

この問題は要約して片づけられる性質のものではありません。意識の程度の問題がからんでいるからです。大変な問題なのです。わたしはよく人間の祈りを聞いてみることがありますが、要望に応(こた)えてあげたい気持ちは山々でも、そばに立って見つめているしかないことがあります。時にはわたしの方が耐え切れなくて、何とかしてあげようと思って行動に移りかけると、“捨ておけ!”という上の界からの声が聞こえることがあります。一つの計画の枠の中で行動する約束ができている以上、わたしの私情は許されないのです。

この問題は容易ではないと申しましたが、それは困難なことばかりだという意味ではありません。時には容易なこともあり、時には困難なこともあります。ただ、理解しておいていただきたいのは、人間にとって影(不幸)に思えることが、わたしたちから見れば光(幸せ)であることがあり、人間にとって光であるように思えることが、わたしたちから見れば影であることがあるということです。

人間にとって青天のように思えることが、わたしたちから見れば嵐の予兆であり、人間にとって静けさに思えることが、わたしたちから見れば騒音であり、人間にとって騒音に思えることが、わたしたちから見れば静けさであることがあるものです。

あなた方が実在と思っておられることは、わたしたちにとっては実在ではないのです。お互いに同じ宇宙の中に存在しながら、その住んでいる世界は同じではありません。あなた方の思想や視野全体が物的思考形態によって条件づけられ、支配されております。霊の目で見ることができないために、つい、現状への不平や不満を口にされます。わたしはそのことを咎(とが)める気にはなれません。視界が限られているのですから、やむを得ないと思うのです。あなた方には全視野を眼下におさめることはできないのです。

わたしたちスピリットといえども完全から程遠いことは、誰よりもこのわたしがまっ先に認めます。やりたいことが何でもできるとは限らないことは否定しません。しかし、そのことは、わたしたちがあなた方の心臓の鼓動と同じくらい身近な存在であるという事実とは、まったく別の問題です。あなた方が太陽の下を歩くと影が付き添うごとく、イヤ、それ以上に、わたしたちはあなた方の身近な存在です。

わたしの愛の活動範囲にある方々は、わたしたちの世界の霊と霊との関係と同じく、わたしと親密な関係にあります。それを物的な現象によってお見せできないわけではありませんが、いつでもというわけにはまいりません。霊的な理解(悟り)という形でもできます。が、これまた、人間としてやむを得ないことですが、そういう霊的高揚を体験するチャンスというものは、そう滅多にあるものではありません。そのことを咎めるつもりはありません。これから目指すべき進歩の指標がそこにあるということです。

あなたのご意見は、ちょっと聞くと正しいように思えますが、近視眼的であり、すべての事実に通暁しておられない方の意見です。とは言え、わたしたち霊界からの指導者は常に寛大な態度で臨まねばなりません。教師は生徒の述べることに一つ一つ耳を貸してあげないといけません。意見を述べるという行為そのものが、意見の正しい正しくないに関係なく、魂が成長しようとしていることの指標だからです。

まじめな意見であれば、わたしたちはどんなことにも腹は立てませんから、少しもご心配には及びません。大いに歓迎します。どなたがどんなことをおっしゃろうと、またどんなことをなさろうと、みなさんに対するわたしの愛の心がいささかでも減る気づかいはいりません」

「私たちも、あなたに対して同じ気持ちを抱いております。要は求道心の問題に帰着するようです」


「今わたしが申し上げたことに、批判がましい気持ちはみじんも含まれておりません。われわれはみんな大霊であると同時に人間でもあります。非常に混み入った存在――一見すると単純のようで、奥の深い存在です。魂というものは開発されるほど単純さを増しますが、同時に奥行きを増します。単純さと深遠さは、同じ一本の棒の両端です。作用と反作用は、科学的にいっても正反対であると同時に同一物です。

進歩は容易には得られません。もともと容易に得られるようになっていないのです。われわれはお互いに生命の道の巡礼者であり、手にした霊的知識という杖が、困難に際して支えになってくれます。その杖にすがることです。霊的知識という杖です。それを失っては進化の旅は続けられません」

「私たちはあまりに霊的知識が身近すぎて、かえってその大切さを見失いがちであるように思います」


「わたしは、常づね二つの大切なことを申し上げております。一つは、知識の及ばない領域に踏み入る時は、その知識を基礎とした上での信仰心に頼りなさいということです。それからもう一つは、つねに理性を忘れないようにということです。理性による合理的判断力は大霊からの授かりものです。

あなたにとっての合理性の基準にそぐわないものは、遠慮なく拒否なさることです。理性も各自の成長度というものがあり、成長した分だけ判断の基準も高まるのです。一見すると矛盾しているかに思える言葉がいろいろとありますが、このテーマもその一つであり、一種の自家撞着(パラドックス)を含んでおります。が、パラドックスは真理の表象でもあるのです。

理性が不満を覚えて質問なさる――それをわたしは少しも咎めません。むしろ結構なこととして、うれしく思うくらいです。疑問を質(ただ)そうとすることは魂が活動していることの証拠であり、わたしにとってそれは喜びの源泉だからです。

さて、わたしは何とか皆さんのご質問にお答えできたと思うのですが、いかがでしょうか」

そう述べてから、その日の中心的質問者だった、かつてメソジスト派の牧師だった人の方を向いて、笑顔でこう述べた。


「いかがでしょう、わたしの答案用紙に“思いやりあり”“人間愛に富む”とでも書き込んでくださいますか?」

祈り

気弱さと煩悩の最中にあるとき……


ああ、大霊よ。あなたは、形態のいかんを問わず、全生命の創造主にあらせられます。あなたの摂理は全生命を支える無限なる摂理であり、あなたの計画は宇宙の生命活動の全側面に配慮した完璧なる計画であり、そのすべてをあなたの愛が育(はぐく)んでいるのでございます。

幾百億という数知れない生命現象をみせるこの宇宙にあっても、あなたの摂理が認知しないものは何一つございません。その存在の扶養と維持と管理にとって不可欠のものは、すべて用意されております。各側面が全体の一部としての機能を果たしつつ、宇宙が一大調和体として活動するための手段も、すべて用意されているのでございます。

その不変・不易にして絶対的な支配力を有する摂理に対して、わたしどもは深甚なる敬意を表します。なぜなら、この果てしなき宇宙にあっても、その摂理の範囲を超えて、いかなる事態も生じ得ないことを知っているからでございます。

わたしどもは、そうした摂理が存在することの意義についてのより深い理解を、あなたの子等にも得さしめたいと念願するものでございます。その摂理の理解によって、自己の存在の目的とあなたとのつながりをより鮮明に認識し、この霊的宇宙機構の中での自己の果たすべき役割を知ることになるからでございます。

それと同時にわたしどもは、あなたの霊性――意識を有し、呼吸し、思考し、生きていることの根源である霊性が子等のすべてに内在しており、それこそが本当の実在であることを知らしめたいのでございます。

あなたによって用意された自我の深奥を知り、あなたとの霊的な絆を理解すれば、子等も内なる霊力を発揮できることになります。それは波涛のごとく湧き出て、あなたの顕現をより大きなものとすることでございましょう。

かくして各自の霊的資質がより大きく発揮され、明るさを増したイルミネーションが生活の中にみなぎり、それまで真理を見る目を曇らされていた暗闇を取り除いてくれることでございましょう。

わたしたちは、援助を必要とする者すべてに手を差しのべ、彼らを悩ます問題のすべてに解決をもたらす知識と悟りの道へ導き、気弱さと煩悶の最中にあるときに元気づけてくれる力を与え、あなたが常に彼らとともにおられることを知らしめてあげたいと祈るものです。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。
00




Friday, March 6, 2026

霊訓 「上 」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


14節

本節の内容目に見えざる師を信ずることの困難さ
知的難問との葛藤
著者がたどり着いた結論
スピリチュアリズムに関する著者の見解
回答
“スピリチュアリズムは神の声”
交霊は科学を超えた法則が支配
霊媒の管理の不徹底


〔前節の通信は、私に少なからざる影響を及ぼした。即座の反論が出来ず、次の通信まで何日かの間(ま)が必要であった。いよいよその通信をする気になった時、私はまずこう反論した。〕


――キリストの時代と現代との対比は理解できます。サドカイ派の学者が軽蔑の目をもってキリストの言説に耳を傾けている図は私にも容易に想像できます。今の時点で言えばそのサドカイ派の学者は間違っていたことになります。それは判ります。しかし私が思うに、それは実に無理からぬことだったのです。理性の光だけで判断すればキリストの言説は途轍もないものに思えたことでしょう。超自然的なものを認めない当時のサドカイ派の学者が、虚言か妄想としか思えぬものを拒否したのも無理からぬことでしょう。私から見れば、それ以外に取るべき態度はなかったとしか思えません。ただ彼らの場合は、その途轍もないことを言う人間が目の前にいたということ――姿は目に見えるし、声は聞こえるし、説くところの崇高な教説が実生活に体現されているかどうかも、調べようと思えば調べることが出来たということです。その点私の場合は影も形もない、ただの影響力であり、もしかしたら、自分の中だけの心と心の葛藤に過ぎないかも知れない言説が展開されるだけです。まるで掴みどころがないのです。明けても暮れてもスピリチュアリズムで、それも極めて曖昧で、しかも往々にして軽蔑したくなるものばかりです。啓示だと言われても、愚かと言うのが言い過ぎなら、得体が知れないとでも言わざるを得ぬもので、聞いてショックを受けることもしばしばです。私はどうして良いのか判りません。あなたという存在についても、私は何も知らないし、果たして一個の独立した存在なのかどうかも判りません。あなたに関して得心のいく手掛りは何一つありません。たとえ曾て地上で生活したことがあると証言しても、私には大して意味はありません。あなたは一体個性を具えた存在ですか、それとも単なる影響力に過ぎないのでしょうか。私からすれば、あなたをれっきとした個的存在として想像すれば幾分か救われる気がします。しかし、とにもかくにも、出来ることなら私には一切構わないでおいて頂きたい心境です。


〔正直いって、その頃の私は自分の強固な信仰と、強烈にして首尾一貫した影響力との激烈な闘いに疲れ果てていた。感情の相克によって頭が混乱を極めていた。そしてそれが来(きた)るべき段階への一つの準備としての体験であることは明らかであった。〕


友よ、そなたの疑問とするところはよく理解できる。われらとしてもその疑念を解く手助けを致したく思う。まずそなたは例のサドカイ派の学者は目に見えるイエスを相手にしていただけ有利であると言う。なるほどイエスは目に見える存在であった。が、そのことは有利であるどころか、むしろ一層困惑を増すものではなかったであろうか。何となれば、目の前にいるイエスなる若者はナザレの大工の息子である。それを神の新たなる啓示者と結びつけるのは、そなたがわれらを神の使者と結びつけること以上に困難なことではなかったであろうか。サドカイ派の学者にとって“この男は大工ではないか”という蔑(さげす)みの念は、そなたがわれらのことを“これは一体個的存在であろうか”と思う疑念以上に深刻なる問題ではなかったであろうか。イエスを取り巻く環境は目に見え手に触れたることの出来る明白なるもので、しかも、およそ好条件とは言えぬものばかりが揃っていた。生まれは卑しく、交わる友は下層階級の者ばかりであり、世の軽蔑を浴び、その説くところが全ての民衆から背を向けられる。こうしたことは全て現実であり、如何ともし難き不利な条件であった。あからさまに表現すれば、最後通牒をつきつけられても致し方ないほどであった。故に、たとえサドカイ派の学者がイエスの言説を理解し得ず神の使者として認めなかったとしても、その学者には何の咎もない。それは単にその学者が、より成長した折に再び訪れるであろうところの進歩の好機を逸したということに過ぎぬと言えよう。

そなたの場合はそれとは事情が異なる。そなたには目を惑わす困難は何一つない。知的疑念と闘っておればよい。しかもこれまでそなたに語られた言葉が神の使者からのものとして恥ずかしからぬものを有することは、そなたも認めるところであろう。その説くところはそなたが必要性を痛感せるものに満ちあふれ、そなたも認めるところの美しさに溢れ、しかもそれを受け入れる用意のあるものには強烈に訴える道徳的崇高さに満ちている。それがそなた自身以外の源より発していることは十分に得心していよう。何となれば、もしもそなた自身の内部の源より無意識のうちに発したものであれば、それがそなた自身の教説と真っ向より衝突することは有り得ぬくらいのことは当然そなたも認めるであろうからである。もしもわれらの述べるところの言説がそなたの精神より自然に発するものであれば、そなたもその公表に躊躇する余裕をもつことも出来よう。が、事実はそうではない。いかに工夫を凝らそうとも、これが自問自答の結果であるとの説はそなた自ら納得できぬであろう。そうでないことはそなたもすでに得心している。今まさにそなたが体験しつつある不審と疑念の段階は一過性のものであり、永続的影響を及ぼすものではない。やがてその時期を過ぎれば、きっとそなたは、何故われらのことをそなたらと同じく“人間”と呼ぶ形体を具えた知的存在であることを疑ったのであろうかと不思議に思える日も到来しよう。

さよう、いまそなたに必要なものは“時間(とき)”である。根気よく考えるための時間、問題を比較考察するための時間、証拠を評価するための時間、そして結論をまとめるための時間である。かくまでそなたの心を深く――その深さはそなた自らの想像すら超えるが――動かせる言葉は、そなたの思いに通じ、そなたの苦しき立場を理解し、さらにそれに劣らず、いまそなたを悩ます懐疑と疑問に理解をもつ者の言葉である。地上時代、余はイエスの出現に先立てる苦難、いま再び繰り返されつつある苦難の世相の中にて使命を担わされし者である。歴史は巡り来るものである。いつの時代にも人間はその精神構造においては少しも変わらぬ。意識が開発され、進歩し、より深く考えるようになる。が、昼のあとに必ず夜が訪れる如く、神の概念が薄れ、非現実的となる時代が訪れる。すると、より明確なる知識を求める神の火の粉が再び炎となって燃えあがり、天に向いて神のメッセージを求める。そこに新しき啓示の必要が生じる。人間の魂がそれを希求するのである。古きものはそれなりの役目を終え、その灰燼の中より新しきものが芽生える。それは、受け入れる用意のある者にとってはまさに神の慰安と安寧の言葉に外ならぬ。いつの時代にもそうであった。そのことはそなたも知っていよう。こうした神と人類とのつながりは全歴史を通じてたどることが出来る。それが何故に今の時代にそうであってはならぬのか。人類が最もそれを必要としているこの時代に何故に神の声を押し黙らせ、その耳を塞ごうとするのか。

余について何も知らぬから、とそなたは言う。しかし何故にそなたは啓示そのものと啓示を持ち来れる者とを混同するのか。何故に神の訓えと、その訓えを伝える通路に過ぎぬ者とに同一価値を置かねば気が済まぬのであろうか。


〔こうした議論の結果ようやく私は頑固に求めていたものを手にして、それまでの優柔不断の信仰に一つの確信を得ることが出来た。その確信が深まるにつれて、それまで私がこれこそと思って求めてきたものがいかに空虚なものであるかを悟るようになった。それまで理解できなかった霊訓の一連の流れも理解がいき、その霊訓とそれを伝える者(インペレーター)とを区別することも出来るようになった。私はこうした一連の論議――その一部だけで十分と思うので全部は公表しないが――を再度始めから目を通し、そこにまさしく新しき啓示と言えるものをようやく見出すことが出来た。通信者が誰であるかは、その啓示の私自身にとっての重要性の中に埋没してしまった。私はその時に至って初めて燃える炎の如き強烈な確信を覚え、枝葉末節まで細かく分析せんとする気持がその確信の炎にかき消されてしまった。

実はそう思ったのも束の間だった。やはり私の古い分析癖は容易に衝動的熱中を許さなかった。さらに私の若き日の宗教的修業もそれを許さなかった。私の頭には再び神学的見地からの反論が蘇った。その最初の波が去り、二日間の間(ま)を置いて、再度その反論が心の中でぶり返した。その間も私はこれまで公表した通信と、私的すぎて公表できないものを繰り返し丹念に読み返した。どうしても自分の厳格な信仰から離れないままの過去一年間に亙る交霊の経験の価値評価もしてみた。そして次の三つの明確な結論に到達した。すなわち、私に働きかけている“影響力”は(一)私自身とは別個の存在である。(二)その述べるところは真実であり、首尾一貫している。(三)その宗教的教説は純粋であり、崇高さがある。以上の三点は間違いないように思えた。そこで更に私はその身元の確認と主義主張の問題を洗ってみた。その他の問題は後回しにしても良いように思えた。そして、以上の諸点について得心がいくと、古(いにしえ)の誠実な知性は今なお誠実である筈だと強く信じ込む気持になった。が、そこでふと疑念が頭をもたげた。もしかしたら“天使を装ったサタン”が自分の信仰を覆さんと企んでいるのでは……という疑念である。そこで私はこう書いた――〕


――私の判断力の許すかぎりにおいて正直に批判させて頂けば、あなたの教説は取りようによっては理神論(1)にもなり、汎神論(2)にもなり、あるいは(これは言い過ぎでしょうが)無神論にもなり得る性向をもっているとも言えないでしょうか。それは神を単なる一種のエネルギーと見下げることになり、人の心に絶対的なものの存在に疑念を抱かせることにならないでしょうか。つまり神とは宇宙に瀰漫する影響力につけた名称にすぎず、それを異なる民族が異なる時代に異なった形で想像したのだと人は考えはじめます。神の啓示と言っても、それは神から真理が明かされたのではなく、人間の心の中で想像したものに過ぎないことになります。キリスト教もそうして生まれた信仰の一つに過ぎず、したがって多かれ少なかれ誤りを含んだものであることになります。そして、これからも人類は程度の差こそあれ盲目的に自分で勝手に誤った考えを生み続けていくことになります。神はそうした概念の中にのみ存在するわけですから、一人一人が自分だけの特殊な神をもつことになります。数学以外には絶対的な真理が存在しないことになります。結局人間というのは、せいぜい自分なりの霊を宿し、自分の問いかけに自分で回答しては当座しのぎの満足を得ながら、また新たな考えを生んでいく孤独な一単位に過ぎぬことになる――それも知性が硬直化しなければの話です。古き信仰はすでに変化することを止めているだけに不変性があるという皮肉な理屈になります。

こうした味気ない思想は絶対的神性を有するキリスト教の福音に取って代わろうとするものです。キリスト教の教説には寸分の誤りもなく、その道徳性は殆ど誰にも理解のいく崇高性を帯びており、人間の行為に対処する上で欠かせない厳格な賞罰の規律もあります。それほどしっかりとした裏打ちのある福音ですら、おっしゃる通り、人類に完全な道徳性を植えつけることが出来なかったのです。なのに、あなたが説くような善の影程度しか持たぬ哲学――まさに影のみの存在で、漠然として曖昧で掴みどころのない、しかも過去を破壊し、それに代わる未来への建設力を持たぬ教説に、どうしてそれが出来るのでしょう。その程度のもので、道徳律が厳しく、人間的関心事に強く訴え、神に由来し、人類の模範として最高の輝きをもつ宗教のもとですら手を焼いた反抗的民衆の心を捕らえることなど、とても出来るものではないと信じます。

あなたの教説の拠ってくるところが不明瞭であることについてはすでに述べたので繰り返しません。またそれが一般に普及した場合の危険性についても改めて指摘することは控えます。それはまだまだ遠い先のことであり、ここで詳しく述べる必要性を認めません。同時にあなたの教説が広まると道徳的、社会的、宗教的に人類にとって欠かすことの出来ない健全な結びつきを多くの点で緩(ゆる)める結果になるであろうことも見逃せない要素です。万一スピリチュアリズムと呼んでいるものが一般民衆に広まれば、残念ながら社会は狂信者と熱狂者であふれ、確固とした支持を得るどころか、盲目的迷信と浅薄なる軽信の風を巻き起こすことが懸念されます。こうした危惧はまったく私の杞憂に過ぎないかも知れません。が、今の私には切実にそう思われるのです。私にはあなたの教説がこれまでの宗教的信仰の代わりになるものとは思えません。たとえあなたの主張する通りの真正なるものであるとしても、人間はスポンジケーキだけでは生きていけないように、このような教説に従って生きることには耐えきれないでしょう。その最も高尚な点を見ても、それを実生活に生かすとなると疑問がありますし、一方、その愚劣なる面に至っては、ただ単に人心を害し徳性を堕落させるのみであるように思えます。


神の御名においてわれらはそなたを歓迎する。が、今のそなたはわれらの手に余るものがある。われらの述べたところの真意を正しく理解しておらぬようである。襲い来る感情の激動が精神を混乱せしめ、微妙なる点の理解を不可能にしている。それが可能な状態になるためには、とにかく忍耐強く時を稼ぐことである。今のそなたにとっては、じっくりと時の経過に耐えていくことが何よりの修行である。いま理解できぬことも、そのうち判るようになるであろう。衝動と熱情が経験的知識と静なる確信へと変わり行くであろう。これまで、理解して受け入れるというよりは単に譲歩したに過ぎなかった信仰は、いかに崇高であれ、入念なる吟味と論理的分析より生まれた知識の前には影が薄れるであろう。われらの述べたところはその吟味と分析に値するものばかりである。これまで書かれたものを一続きのものとして繰り返し味読する機会をもって貰いたい。そしてそなたとの交信に一貫して流れるものを読み取って貰いたく思う。そしてわれらがいかなる素性の者であるかはそなたとの係わり合いの中で判断して貰いたいのである。前に述べたこととの食い違いを指摘するのも結構であるが、同時にわれらの言葉と態度、われらの説く教説の道徳的印象によって判断して貰いたい。細かき分析によって論理的あら捜しをするのもよいが、それと同時にわれらから受ける霊的雰囲気によって判断して貰いたく思う。

差し当たりては、われらが神の使者であることを厳粛なる気持ちで繰り返し主張するに留めておこう。われらが述べる言葉は神の言葉なのである。それはそなたにも判っているであろう。その弁明に改めて言葉を費すこともあるまい。そなたは決して病める脳の幻想によって誑(たぶら)かされているのではない。悪魔に玩(もてあそ)ばれているのでもない。悪魔ならば神につきてわれらの如き説き方はせぬ。また、人間の脳からはわれらの述べたような教説は出て来ぬし、われらの与えたような証言も出て来ぬ。精神が今少し穏やかになればそなたにもその事実が読み取れるであろう。そなたの精神が今の如き状態でさえなければ、神聖なるものに悪魔的要素を見出さんとしつこく探りを入れることの罪悪性について述べたいところである。それはちょうどイエスが地上の腐敗と災禍の中に在りし時、彼によりて追い払われたる悪魔がユダヤ教の狂信家たちの口をつきてイエスは魔王の手先であると非難したのと同一である。われらはそのような他愛なき非難には係わらぬ。非難そのものの中に立派な反証が見え透いているからである。じっくりと時をかけて熟考すれば、自ずとそなたの疑念に対する回答が出てくるであろう。今のそなたには瞑想と祈りが何より大切である。友よ、祈るのである。真実への道を求めて一心に、そして真摯に祈るのである。

祈ることだけはそなたも拒絶できまい。たとえそれが理屈抜きの激情から発したものでもよい。とにかく、われらと共に、啓発と耐える力を求めて祈ることである。真理を理解する力、そしてその真理に素直に従える気骨を求めて祈るがよい。光を切望するそなたの魂を縛りつけるドグマの足枷から解き放たれるよう祈るのである。そして解き放たれたるのちも堕落することなく、ひたすらに向上の道に導かれるよう祈れ。そなた自身の求めるところと、他人の影響とを截然と区別せよ。そなたにとりて正しきものを選り出し、他人は他人なりに適切なるものを選ぶに任せる大らかな心を求めて祈れ。選択と拒絶の責任を明確に認識し、一方において頑固なる偏見を避け、他方において安易なる軽信に流れることのなきよう祈れ。就中(なかんずく)、正直さと、誠実さと、謙虚さを求め、かりそめにも高慢と頑迷と下劣さによって神の計画を損うことのなきよう祈るがよい。

かくしてわれらの祈りは、神の真理の普及を心待ちにしつつ援助の手を差し伸べんとして待機する高き世界の神の使者の愛と慰めを引き寄せることになろう。スピリチュアリズム普及活動の一般的趣旨に関するそなたの批判につきては、すでにその大半に答えたつもりである。表面的活動の底流にはそなたの目に映じぬ或るものが存在することを述べた。いつの時代であれ、神の知識の発達過程においては、人目につかぬところで密かに新しき啓示を貪(むさぼ)り求め、さらにより高き真理を求めて着実に生長しつつある者が必ずいるものである。今の時代とて同じことである。そなたと同じく、酔狂に心霊現象を弄(もてあそ)ぶ者たちを憂えつつも、それによりて些かも信念を揺るがされることなく、真摯にわれらの霊訓を心の支えとしている者がいる――実に大勢いるのである。

さらにそなたに指摘しておきたきことは、われら霊界の者と地上との霊交は地上の科学の尺度で計れぬ法則によって支配されていることである。われらの働きかけの妨げとなる原因には、そなたはもとよりのこと、われらにすらよく判らぬものが多くある。そなたの保護のために勝手に法則を規定するわけには参らぬ。われら自身の保護すらもままならぬのである。そなたの係われるこの仕事の遠大なる重要性につきては、この仕事に興味を示す者にすら本当のところは殆ど理解されておらぬ。多くの場合、単なる好奇心の程度を出ておらぬ。それより更に下劣なる動機に動かされる者もいる。霊媒の管理が適切を欠いている。ために霊界との連絡のうまく取れていない者、調和を欠いている者、あるいは過労気味の者もいる。交霊会を取り巻く条件はそのつど異なる。われらとしてもその条件の変化に必ずしも対処できるとはかぎらぬ。出席者の構成が適切を欠いていることもある。そうした諸条件の重なり合いが交霊現象を常に同質のものに保ち、規則正しきものとすることを不可能にしているのである。

現象が時として気まぐれとなるのも、大方はこうした点に原因があるのであり、また目立ちたがり屋の出しゃばりによって霊界の同類の霊を呼び寄せることになり、せっかくの交霊会を低劣なものにする要因もそこにある。この問題につきては言うべきことがまだ多くあるが、今はそれ以上に大切なものが迫っている。いま述べたところにより、他の交霊会に見られる愚劣きわまる出来事や、通信を寛恕の目をもって評価せねばならぬ理由の一端が判ってもらえるであろう。偽りの現象の侵入する交霊会に至りては今は述べる言葉を持たぬ。よほど低級なる霊の仕業であり、全て信ずるに足らず、不愉快きわまる。

その点に関してそなたにはわれらの手助けが出来る筈である。愚かなる好奇心と欺瞞とを打ち砕いてくれることくらいはそなたにできる筈である。と申すのは、そなたはわれらのサークルにおいてわれらの指図通りに行ない、現象が徐々に発展して来た経緯を知悉(ちしつ)しているからである。他のサークルの者たちにも同じ指図を与えるがよい。やがて暗雲も晴れることであろう。もっとも交霊会にまつわる問題の原因はわれらの側と同様にそなたたちの側にもあることだけは確かである。

(†インペレーター)

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

The Spirit Speaks 
トニー・オーツセン(編) 近藤千雄(訳)


2章 蒔いたタネが実りをもたらすのです

シルバーバーチの思想的特徴の一つは“摂理”の存在を強調することである。人間がこしらえた法律は事情の変化に応じて書き改める必要が生じる。が、霊的摂理にはそれは絶対に有り得ないという。そのことを次のように説く――


「宇宙の大霊は無限の存在です。そして、あなた方もその大霊の一分子です。不動の信念をもって人間としての正しい生活を送れば、きっとその恩恵に浴することができます。このことに例外はありません。いかなる身分の人であろうと、魂が何かを求め、その人の信念に間違いがなければ、必ずやそれを手にすることができます。

それが宇宙の摂理なのです。その摂理に調和しさえすれば、必ずや良い結果が得られます。もしも良い結果が得られないとすれば、それは摂理と調和していないことを証明しているにすぎません。地上の歴史をひもといてごらんになれば、いかに身分の低い者でも、いかに貧しい人でも、その摂理に忠実に生きて決して裏切られなかった人々が大勢いることがわかります。忠実に生きずして摂理に文句を言う人を引き合いに出してはいけません。

時として酷(きび)しい環境に閉じ込められ、それが容易に克服できないことがあります。しかし、正しい信念さえ失わなければ、そのうちきっと全障害を乗り越えることができます。そんな時は大霊の象徴であるところの太陽に向かって、こう述べるのです――自分は大霊の一部なのだ、不滅なのだ。永遠の存在であり、無限の可能性を宿しているのだ。そんな自分が、限りある物質界のことで挫(くじ)けるものか、と。そう言えるようになれば、決して挫けることはありません。

多くの人間はまず不安を抱きます。本当にそうなのだろうかと訝(いぶか)ります。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。“完(まった)き愛は怖れを払う”(ヨハネ伝)“まず神の御国と義を求めよ。さすれば全て汝のものとならん”(ルカ伝)――遠い昔、大霊の摂理を完璧に理解したナザレのイエスによって説かれた教えです。彼は、勇気をもって実践すれば必ず成就されることを身をもって示しました。あなた方も、その摂理が働くような心構えができれば、何事も望みどおりの結果が得られます。

もう一つ、別の摂理をお教えしましょう。代価を払わずして価値あるものを手に入れることはできないということです。よい霊媒現象を得たいと思えば、それなりの感受性を磨かなくてはなりません。また、この世的な富を蓄積していると、それなりの代価を支払わされます。つまり地上的なものに心を奪われて、その分だけ霊としての義務を怠れば、地上的な富は増えても、こちらの世界へ来てみると、自分がいかにみすぼらしいかを思い知らされます。

人間の魂には宇宙最大の富が宿されているのです。あなた方ひとりが大霊の一部を構成しているのです。地上のいかなる富も財産も、その霊の宝にまさるものはありません。わたしたちは皆さんの中に存在するその金鉱を掘り起こすことをお教えしているのです。人間的煩悩の土くれの中に埋もれた霊のダイヤモンドをお見せしようとしているのです。

できるだけ高い界層のバイブレーションに感応するようになっていただきたい。自分が決して宇宙で一人ぼっちでないこと、いつも身のまわりに自分を愛する霊がいて、ある時は守護し、ある時は導き、ある時は補佐し、ある時は霊感を吹き込んでくれていることを自覚していただきたい。そして、霊性を開発するにつれて宇宙最大の霊すなわち神に近づき、その心と一体となっていくことを知っていただきたい――そう願っているのです。

人間は、同胞のために自分を役立てることによって大霊に仕えることになります。その関係を維持しているかぎり、その人は大霊のふところに抱かれ、その愛に包まれ、完全な心の平和を得ることになります。

単なる信仰、盲目的信仰は、烈しい嵐に遭えばひとたまりもなく崩れ去ることがあります。しかし、立証された知識を土台として築かれた信仰は、いかなる嵐にもビクともしません。

いまだ証(あかし)を見ずして死後の生命を信じることのできる人は幸せです。が、証を手にして、それをもとに、宇宙の摂理が愛と叡智によって支配されていることを得心するが故に、証が提供されていないことまでも信じることのできる人は、その三倍も幸せです。

ここにお集まりの皆さんは、完璧な信仰を持っていなければなりません。なぜなら、皆さんは死後に関する具体的な知識をお持ちだからです。霊力の証を手にしておられるからです。そして、この段階までこられた皆さんは、さらに、万事は良きに計らわれていること、大霊の摂理に調和しさえすれば必ず幸せな結果がもたらされるとの信念を持たれてしかるべきです。無明(むみょう)から生まれるもの、あなた方のいう“悪”の要素によって迷わされることは絶対にないとの信念に生きなくてはなりません。自分は大霊の摂理による保護のもとに生き、そして活動しているのだという信念です。

心に邪(よこしま)なものさえなければ、善なるものしか近づけません。善性の支配するところには善なるものしか存在し得ないからです。こちらの世界から近づくのも大霊の使徒のみです。あなた方は何一つ恐れるものはありません。あなた方を包み、あなた方を支え、あなた方に霊感を吹き込まんとする力は、宇宙の大霊からくる力にほかならないのです。

その力は、いかなる試練においても、いかなる苦難においても、あなた方の支えとなります。心の嵐を鎮め、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれます。あなた方は進歩の大道にしっかりと足を置いておられます。何一つ恐れるものはありません。

完き信念は恐れを払います。知識は恐れを駆逐します。恐れは無知から生まれるものだからです。進化せる魂は、いついかなる時も恐れることを知りません。なぜならば、自分に大霊が宿るからには、人生のいかなる出来事も克服できないものは有り得ないことを悟っているからです。

恐怖心は、みずからの魂の牢獄をこしらえます。皆さんはその恐怖心を達観し、そのバイブレーションによって心を乱されることなく、完璧な信仰と確信と信頼を抱き、独立独歩の気構えで、こう宣言できるようでなければなりません――自分は大霊なのだ。足もとの小さな事情などには断じて迷わされない。いかなる困難も、内部の無限の霊力できっと克服してみせる、と。

その通り、人間はあらゆる環境を支配する力を所有しているのです。それを、何を好んで縮こませるのでしょうか。

大霊は、物的なものも霊的なものも支配しております。大霊の目からすれば、両者に区別はありません。ですから、物の生命を霊の生命から切り離して考えてはなりません。決して水と油のように分離したものではありません。両者とも一大生命体を構成する不可分の要素であり、物的なものは霊的なものに働きかけ、霊的なものは物的なものに働きかけております。

ですから、皆さんのように霊力の恵みを受けておられる方にとっては、いつ、いかなる場にあっても、大霊の存在を意識した生き方をしているかぎり、克服できない困難は絶対にふりかからないという信念に燃えなくてはなりません。

この世のいかなる障害も、大霊の目から見て取り除かれるべきものであれば、きっと取り除かれます。万が一、あなた方の苦難があまりに大きくて耐え切れそうになく思えた時は、こう理解してください――わたしたちの方でも進化向上の足を止めて皆さんのために精一杯の努力はいたしますが、時にはじっとその苦難に耐え、それがもたらす教訓を学び取るように心掛ける方が賢明である場合もある、ということです。

地上の人間のすべてが、自分が人間的煩悩と同時に神的属性もそなえていることを自覚するようになれば、地上生活がどれだけ生きやすくなることでしょう。トラブルはすぐに解決され、障害はすぐに取り除かれることでしょう。しかし人間は、心の奥に潜在する霊力をあまり信じようとしません。人間的煩悩はあくまでも地上だけのものです。神的属性は宇宙の大霊のものです。

その昔、“この世を旅する者であれ。この世の者となるなかれ”と言う訓え(※)が説かれました。が、死後の生命への信仰心に欠ける地上の人間には、それを実践する勇気がありません。金持ちを羨(うらや)ましがり、金持ちの生活には悩みがないかのように考えます。金持ちには金持ちとしての悩みがあることを知らないからです。神の摂理は財産の多い少ないでごまかされるものではありません。


※――身は俗世にあっても俗人となってはいけないというイエスの訓えで、たしかにバイブルにはそういう意味のことを説いている箇所があることはあるが、そっくりそのままの言葉は見当らない。モーゼスの『霊訓』の中でも引用されているところをみると、地上の記録に残っていないだけで、霊界の記録には記されているのであろう。オーエンの『ベールの彼方の生活』の通信霊の一人が、「われわれがキリストの地上での行状を語る時は、霊界の記録簿を参照している」と述べている。ちなみに原文を紹介しておくと――Be in the world, but not of the world.イエスは英語でしゃべったわけではないが、inとofの本来の意味をうまく利かせた名言といえるであろう。


人間が地上にあるのは、人格を形成するためです。ふりかかる問題をどう処理していくかが、その人の性格を決定づけます。しかし、いかなる問題も地上的なものであり、物的なものです。一方、あなたという存在は大霊の一部であり、神性を宿しているわけですから、あなたにとって克服できないほど大きな問題は絶対に生じません。

心の平和は一つしかありません。大霊と一体となった者にのみ訪れる平和、大霊の御心と一つになり、その大いなる意志と一つになった人に訪れる平和、魂も精神も心も大霊と一体となった者にのみ訪れる平和です。そうなった時の安らぎこそ、真の平和といえます。宇宙の摂理と調和するからです。それ以外には平和はありません。

私にできることは摂理をお教えするだけです。その昔、神の御国は自分の心の中にあると説いた人がいました。外にあるのではないのです。有為転変(ういてんぺん)の物質の世界に神の国があるはずがありません。魂の中に存在するのです。

宇宙の摂理は精細をきわめ、しかも完璧ですから、一切のごまかしが利きません。悪の報いを免れることは絶対にできませんし、善が報われずに終わることも絶対にありません。ただ、永遠の摂理を物質という束の間の存在の目で判断してはいけません。より大きなものを見ずに小さいものを判断してはいけません。

地上での束の間のよろこびを、永遠の霊的なよろこびと混同してはなりません。地上のよろこびは安ピカであり、気まぐれです。あなた方は地上の感覚で物事を考え、わたしたちは霊の目で見ます。摂理を曲げてまで、人間のよろこびそうなことを説くことは、わたしにはできません。

霊の世界から戻ってくる者にお聞きになれば、みな口を揃えて摂理の完璧さを口にするはずです。そこまで分かった霊になると二度と物質の世界へ誕生したいとは思いません。ところが人間は、その面白くない物質の世界に安らぎを求めようとします。そこでわたしは、永遠の安らぎは魂の中にあることをお教えしようとしているのです。最大の財産は霊の財産だからです。

どこまで向上しても、なお自分に満足できない人がいます。そういうタイプの人は、霊の世界へ来ても満足しません。不完全な自分に不満を覚えるのです。大霊の道具として十分でないことを自覚するのです。艱難(かんなん)辛苦を通して、まだまだ魂に磨きをかけ、神性を発揮しなければならないことを認識するのです。

何とかせねばならないことがあることを知りながら、心の安らぎを得ることができるでしょうか。地上の同胞が、知るべき真理も知らされずに、神の御名のもとに間違った教えを聞かされている事実を前にして、わたしたちが安閑(あんかん)としていられると思われますか。

光があるべきところに闇があり、自由であるべき魂が煩悩に負けて牢に閉じ込められ、人間の過ちによって引き起こされた混乱を目(ま)のあたりにして、わたしたち先輩が平気な顔をしていられると思われますか。

わたしたちがじっとしていられなくなるのは、哀れみの情に耐え切れなくなるからです。霊的存在として当然受けるべき恩恵を受けられずにいる人間がひしめいている地上に、何とかして大霊の愛を行きわたらせたいと願うからです。大霊は、人間に必要不可欠のものはすべて用意してくださっています。それが平等に行きわたっていないだけのことです。偉大な魂は、他の者が真理に飢え苦しんでいる時に、自分だけが豊富な知識をもって平気な顔をしていられないはずです。

わたしたちにとって、地上の人間を指導していて一番辛いのは、時として皆さんが苦しんでいるのを心を鬼にして傍観しなければならないことがあることです。本人みずからが闘い抜くべき試練であるということがわかっているだけに、はたから手出しをしてはならないことがあるのです。首尾よく本人が勝利をおさめれば、それはわたしたちの勝利でもあるのです。挫折すれば、それはわたしたちの敗北でもあるのです。いついかなる時も、わたしたちにとっての闘いでもあるということです。それでいて、指一本、手出しをしてはならないことがあるのです。

このわたしも、人間が苦しむのを見て涙を流したことが何度かあります。でも、ここは絶対に手出しをしてはならない、と自分に言い聞かせました。それが摂理だからです。その時の辛さは、苦しんでいる本人よりも辛いものです。しかし、本人みずからの力で解決すべき問題を、このわたしが代わって解決してあげることは許されないのです。もしもわたしが指示を与えたら、それは当人の自由選択の権利を犯すことになるのです。もしもこの霊媒(バーバネル)個人にかかわることで、わたしが、為すべきことと為すべきでないことをいちいち指示しはじめたら、一人間としての自由意志を奪うことになるのです。その時から(霊媒としては別として)人間としての進歩が阻害されはじめます。

霊性の発達は、各自が抱える問題をどう処理していくかに掛かっています。物事がラクに、そして順調にはかどるから発達するのではありません。困難が伴うからこそ発達するのです。

が、そうした中にあって、わたしたちにも干渉を許される場合が生じます。万が一わたしたちスピリットとしての大義名分が損なわれかねない事態に立ち至った時は、大いに干渉します。たとえば、この霊媒を通じての仕事が阻害される可能性が生じた場合は、その障害を排除すべく干渉します。しかし、それが霊媒個人の霊的進化にかかわる問題であれば、それを解決するのは当人の義務ですから、自分で処理しなければなりません」

別の日の交霊会で、サークルのメンバーの間で植物の栽培が話題となった時、それを取りあげてシルバーバーチがこう語った。


「タネ蒔きと刈り取りの摂理は、大自然の摂理の中でも、もっともっと多くの人に理解していただきたいと思っているものです。大地が実りを産み出していくという自然の営みの中に、大霊の摂理がいかに不変絶対のものであるかを読み取るべきです。大地に親しみ、大自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、その仕組みの素晴しさに感心し、秩序整然たる因果関係の営みの中に、そのすべてを計画した大精神すなわち神の御心を、いくばくかでも悟られるはずです。

蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた原因(たね)は、大自然の摂理に正直にしたがって、それ相当の結果(みのり)をもたらします。自然界について言えることは、そのまま人間界にも当てはまります。

利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の報いを刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の報いを刈り取らねばなりません。寛容性のない人、かたくなな人、利己的な人は、非寛容性と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理だけは変えられません。永遠に不変です。いかなる宗教的儀式、いかなる讃歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉して都合のよいように変えることはできません。

発生した原因は、数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。霊的成長を望む者は、霊的成長を促すような生活をするほかはありません。

その霊的成長は、思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば、内部の神性が日常生活において発現されてはじめて成長するのです。邪(よこしま)な心、憎しみ、復しゅう心、悪意、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪(ゆが)んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。

いかなる摂理も、全宇宙を包含する根源的な摂理の一面を構成しております。その一つ一つが大霊の計画にそって調和して働いております。この事実を推し進めて考えれば、世界中の男女が自分の行為に対して自分の日常生活の中で責任を果たすべきであり、それを誰かに転嫁できるかのように教える誤った神学を、一刻も早く捨て去るべきであることになります。

人間は自分の魂の庭師のようなものです。魂が叡智と崇高さと美しさを増していく上で必要なものは、大霊がぜんぶ用意してくださっております。材料は揃っているのです。あとは、それをいかに有効に使用するかに掛かっております」

このように、シルバーバーチにとっては摂理そのものが神であり、神とは摂理そのものを意味する。別の交霊会でもこう述べている。


「人間的な感情をそなえた神は、人間がこしらえた神以外には存在しません。悪魔も、人間がこしらえたもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。それもこれも、視野の狭い人間による想像の産物です。大霊とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。なぜなら、世の中が不変不滅・無限絶対の法則によって支配されていることを知れば、すべてが公正に裁かれ、誰一人としてこの宇宙から忘れ去られることが有り得ないことを悟るからです。

大霊がすべてを知り尽しているのも、法則だからこそです。法則だからこそ何一つ見落すことがないのです。法則だからこそ人生のあらゆる側面がこの大宇宙にあってその存在場所を得ているのです。人生の全側面が、いかに些細(ささい)なことでも、いかに大きな問題でも、けっして見逃されることがありません。すべてが法則によって経綸されているからです。

法則なくして何ものも存在し得ません。法則は絶対です。人間の自由意志が混乱を引き起こし、その法則の働きを見きわめにくくすることはあっても、法則そのものは厳然と存在し、機能しております。わたしは、神学はこれまで人類にとって大きな呪(のろ)いであったと信じます(※)。しかし、その呪われた時代は事実上過ぎ去りました」


※――これは贖罪説を念頭において述べているのであるが、訳者としての立場から、この“呪い”という訳語にいささか抵抗を感じたので、念のため数種類の英語辞典で語原から徹底的に調べた結果、curseという英語も英米人にとってひじょうに強い感情のこもった言葉であることを確認した。モーゼスの『霊訓』の中でインペレーター霊がキリスト教の教義を“呪うべき教義”と表現しているところをみると、地上時代にそういう間違った人工の教義を信じきってしまうと、死後、よほど困った事態が生じるのであろう。

もっとも、両方ともキリスト教国の人間を相手にしているからキリスト教の教義が矢おもてに立たされることになったという事情も考慮する必要があろう。かりにシルバーバーチが仏教国に出現していたら、たぶん同じ厳しさをもってやり玉にあげたであろうと想像される教説が、仏教にも少なからず見受けられる。

別の日の交霊会でも、同じテーマを次のように説いている。


「わたしたちの霊団の使命は、れっきとした目的ないし意義をもつ証拠を提供し、それによって心霊的法則というものが存在することを立証する一方で、生きるよろこびと霊的教訓を授けるということです。物理的法則を超えた別の次元の法則の存在を証明するだけでなく、霊についての真理を啓示するということです。

そうした使命をもつわたしたちは、真っ向から立ち向かわねばならない巨大な虚偽の組織が存在します。過去幾世紀にもわたって積み重ねられてきた誤りを改めなければなりません。人間が勝手にこしらえた教義を基盤として築き上げられてきた虚飾の大機構を解体しなければならないのです。

わたしたちの努力は常に、物質界の大霊の子等に、いかにして魂の自由を見出し、いかにして霊的真理の陽光を浴び、いかにして教義の奴隷となっている状態から脱け出るかをお教えすることに向けられております。これは容易ならぬ仕事です。なぜなら、いったん宗教という名の足枷(あしかせ)をはめられたが最後、迷信という名の厚い壁をつき破って霊的真理が浸透するには、永い永い年月を要するからです。

わたしたちは、霊的真理の宗教的意義をたゆまず説き続けます。その重要性に目覚めれば、戦争と流血による革新よりはるかに強烈な革命が地上世界にもたらされるからです。

それは魂の革命です。その暁には、世界中の人々が授かって当りまえのもの――霊的存在としてのさまざまな自由を満喫する権利を我がものとすることでしょう。

わたしたちが忠誠を捧げるのは、教義でもなく、書物でもなく、教会でもありません。宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不変の摂理です。

いずれ、地上世界に強力な霊の力が注がれるようになります。これまではびこってきた利己主義と無知に歯止めをかけるための、大きな仕事が計画されているのです。それはいつかは成就されます。が、その途中の段階においては、大きな産みの痛みを味わわなくてはならないでしょう。

その仕事を支援するために、わたしたちの世界から大勢のスピリットが馳せ参じております。あなた方の顔見知りの人、血のつながりのある人もいれば、愛のつながりによって引かれてくる人もいます。背後霊というと、皆さんはすぐに顔見知りの名前を思い浮かべがちですが、一方には皆さんのまったく知らない人で、ただ自分の力を役立てることにのみ喜びを覚えて援助してくれている人がいることも、どうか忘れないでください。

バイブルにはサウロ(のちのパウロ)がダマスカスへ向かう途中、天からの光に包まれ、目が眩(くら)んで倒れ、それがきっかけで改心する話(使徒行伝)がありますが、世の中はそんな具合に一気に改まるものではありません。一人ずつ霊的真理に目覚め、一人ずつ大霊の道具となっていくという形で、少しずつ光明が広がっていくのです。霊的なものは、大事に育て慎重に広めていく必要があることを銘記しなければなりません。急激な改心は、得てして永続きしないものです。わたしたちの仕事は永続性が生命です。

一個の魂が大霊の道具となった時、一個の魂が暗黒から光明へ、無知から知識へ、迷信から真実へと目覚めた時、その魂は世界全体の進歩に貢献していることになるのです。なぜなら、その一人ひとりが、言わば物質万能主義の棺(ひつぎ)に打ち込まれるクギのようなものだからです。

発達にも二つの種類があることを知ってください。霊そのものの発達と、霊が使用する媒体の発達です。前者は魂そのものの進化であり、後者は単なる心霊的能力の開発にすぎません。霊的進化を伴わない心霊能力だけの発達では、低い次元のバイブレーションしか出ません。両者が相たずさえて発達した時、その人は偉大な霊能者であると同時に、偉大な人物であることになります。

わたしたちが霊界からたずさえてくるメッセージは、地上人類にとって実に素晴らしい恩恵をもたらします。魂を解放し、大霊からの遺産(神的属性)の素晴らしさに目を開かせます。あらゆる足枷と束縛を捨てるように教えます。霊的真理の本当の有り難さを教えます。物的生活の在り方と同時に、霊的生活の在り方も教えています。美と愛と叡智と理解力と真理と幸福をもたらします。人のために――ひたすら人のために、と説くメッセージです。

ところが、そのメッセージをたずさえてくるわたしたちが、大霊を正しく理解していない人々、霊の働きかけの存在を信じない人たちによって拒絶されております。それは、いつの時代にもよくある話です。

他方、現在の地上の状態は、そうしたわたしたちの働きかけをますます必要としております。流血につぐ流血、そしてその犠牲となった人々の涙の絶えることがありません。無明(むみょう)ゆえに、地上人類は大霊の摂理にしたがった生き方をしておりません。暗黒と絶望の道を選択しております。そこでわたしたちが、希望と光明と平和と調和をもたらす知識をたずさえてきたのです。にもかかわらず、無知ゆえにわたしたちを軽蔑します。わたしたちのメッセージを拒絶します。わたしたちを背後から導いている強大な霊的組織力の存在に気づいてくれません。しかし、霊的実在を教える大真理は、かならずや勝利をおさめます。

摂理に逆らう者は、みずからその苦(にが)い実りを刈り取ることになります。摂理にしたがって生きる者は、物的・霊的の両面において豊かな幸せを刈り取ります。

暗黒が蔓延している地上にあって、どうぞ希望を失わず、あなた方とともに人類の高揚のために働いている多くの霊、物的世界を改善しようとしている霊の努力はかならずや実ることを信じてください。その背後に控える霊力は、宇宙で最も強力な力なのです。

価値あるものは、苦難と悲哀なしには達成できません。地上は地上なりの教訓の修得方法があるのです。それを避けて通るわけにはいきません。今、霊的勢力が地上全土にわたって活動を開始しつつあり、あらゆる地域の人々に霊的メッセージが届けられ、その心を明るく照らし、その光が広まるにつれて、物質万能主義の闇を追い払ってまいります。

わたしたちは、罰の恐ろしさをチラつかせながら説得することはいたしません。恐怖心から大人しく生きる、そんな卑屈な臆病者にはなってほしくありません。内部に宿る神性を自覚し、それを発揮することによって霊性を高め、一段と崇高な真理と叡智を身につけていただくことを目指しております。

そのためにはまず、これまでに得たものに不満を抱くようにならなければなりません。なぜなら、今の自分に満足できず、さらに何かを求めようとするところに、より高い知識を得る可能性が生まれるからです。満足する人間は進歩が停滞します。満足できない人はさらに大きな自由へ向けて突き進むことになります。

わたしたちは決して“理知的に難しく考えずに、ただ信じなさい”とは申しません。反対に、“大霊から授かった理性を存分に駆使して、わたしたちを試しなさい。徹底的に吟味なさい。その結果、もしもわたしたちの述べることの中に低俗なこと、邪険なこと、道義に反することがあると思われたら、どうぞ拒絶してください”と申し上げております。

わたしたちは、ただひたすら、“より高潔な生活”――自己犠牲と理想主義を志向する生活を説いております。もしそのことをお認めいただけるならば、それは、わたしたちの教えの中身に大霊の極印(ごくいん)が押されていることを証明するものと言えましょう。

たった一個の魂を目覚めさせてあげることができれば、悲嘆に暮れる者をたった一人でも慰めてあげることができれば、怖(お)じ気づいた人の心を奮(ふる)い立たせ、人生に疲れた人に生きる勇気を与えることができれば、それだけでも努力の甲斐があったことになるのではないでしょうか。

わたしたちのメッセージを聞いて心に動揺をきたし、困惑し、わけがわからなくなりながらも、先入的信仰によって身動きが取れなくなっている人が大勢います。しかし、その人たちも、牢獄に閉じ込められた魂へ向けて呼びかける自由の声を耳にして煩悶しております。

そういう人たちにこそ、わたしたちのメッセージを届けてあげるべきです。思いも寄らなかったものが存在することを知って、それを必死に求めようとする、そのきっかけとなります。真理とはすべて踏み石の一つにすぎません。

この霊媒の口をついて出る言葉に、もしもあなた方の理性が反発を覚えるもの、大霊の愛の概念と矛盾するもの、愚かしく思えるもの、あなたの知性を侮辱するものがあるとすれば、それは、もはやわたしの出る幕でなくなったことを意味します。わたしの時代は終わったことになります。

この交霊会も、これまでに数え切れないほど催されておりますが、その間わたしの口から魂の崇高な願望と相容(あいい)れないことを述べたことは、ただの一度もないと確信しております。わたしたちは常にあなた方の魂の最高の意識に訴えているからです。

地球人類は地球人類なりに、みずからの力で救済手段を講じなくてはなりません。できあいの手段はないのです。前もって用意されたお決まりの救済手段というものはないのです。そのためには、これが生命現象だと思い込んでいる自然界の裏側に、目に見えない霊的実在があること、そして、物質界に生活している人間は物的存在であると同時に霊的存在であり、物的身体を通して自我を表現している霊であるという事実を、まず理解しなくてはなりません。

物的身体は、大霊の意図された通りに、生活上の必需品をきちんと揃えることによって、常に完全な健康状態に保たねばなりません。一方、霊は、あらゆるドグマと信条による足枷から解放されねばなりません。そうすることによって実質的価値、つまり霊的に見て意味のないものに忠誠を捧げることなく、真実なるもののためにのみ精を出すことになり、過去幾千年にもわたって束縛してきた信条やドグマをめぐっての下らぬいがみ合い、仲違(たが)い、闘争をなくすことができます。

わたしたちは、大霊を共通の親とする全人類の霊的同胞性を福音として説いております。その理解を妨げるものは地上的概念であり、虚偽の上に建てられた教会であり、特権の横領(※)であり、卑劣な圧制者の高慢と権力です。


※――宗教が組織化されるに伴って内部に権力構造が生まれる。それは人間的産物にすぎないのであるが、それを宇宙の絶対者から授かったものと錯覚し、そう宣言しはじめる。それを“横領”と表現した。


わたしたちの教えが理解されていくにつれて、民族間の離反性が消えていくことでしょう。各国間の障壁が取り除かれていくことでしょう。民族の優劣の差、階級の差、肌色の違い、さらには教会や礼拝堂や寺院どうしの区別もなくなることでしょう。それは、宗教には唯一絶対の宗教というものはなく、世界の宗教の一つ一つが宇宙の真理の一端を包蔵しているのであり、自分の宗教にとって貴重この上ない真理が他の宗教の説く真理と少しも矛盾するものでないことを理解するようになるからです。

そうしていくうちに、表面上の混乱の中から大霊の意図(プラン)が少しずつ具体化し、調和と平和が訪れます。こんなことを申し上げるのも、あなた方にその大霊のプランの一部――わたしたちが霊の世界からたずさわり、皆さんのお一人お一人が地上において果たさねばならない役割を正しく理解していただきたいからです。

わたしたちが説いていることは、かつて人類の進歩のために地上に降りた各時代の革命家、聖者、霊覚者、理想主義者たちの説いたことと、少しも矛盾するものではありません。彼らは霊的に偉大な人物でしたから、その霊眼によって死後の生命を予見し、その美しさが魂の支えとなって、あらゆる逆境との闘争を克服することができたのでした。地上世界にいずれ実現される大霊のプランを読み取り、その日のために物質界の子等の魂を高揚させるべく、一身をなげうったのでした。

彼らも悪しざまに言われました。援助の手を差しのべんとしたその相手から反駁され、嘲笑されました。しかし、その仕事は生き続けました。それはちょうど、今日、世界各地の小さな部屋で行われている、このサークルのような交霊会の仕事が、そのメンバーの名が忘れ去られたのちも末永く生き続けるのと同じです。強大な霊の力がふたたび地上世界へ注ぎ込まれはじめたのです。いかなる地上の勢力をもってしても、その潮流をせき止めることはできません。

人間は、問題が生じるとすぐ、流血の手段でかたをつけようとします。が、そんな方法で問題が解決したためしはありません。流血には何の効用もありませんし、したがって何の解決にもなりません。なぜ大霊から授かった理性が使えないのでしょう。なぜ相手をできるだけ多く殺すこと以外に解決法が思いつかないのでしょうか。なぜ一番多くの敵を殺した者が英雄とされるのでしょうか。地上というところは実に奇妙な世界です。

地上にはぜひともわたしたちのメッセージが必要です。霊のメッセージ、霊的真理の理解、自分の心の内と外の双方に、霊的摂理と導きがあるという事実を知る必要があります。そうと知れば、迷った時の慰めと導きと援助をいずこに求めるべきかがおわかりでしょう。

こうした仕事において、わたしたちは自分自身のことは何一つ求めません。栄光を求めているのではありません。地上の人たちのために役立てば、という願いがあるだけです。永いあいだ忘れられてきた霊的真理を改めて啓示し、新しい希望と生命とを吹き込んでくれるところの霊的エネルギーを再発見してくださるようにと願っているだけです。

今や、これまでの古い規範が廃棄され、あらゆる権威が疑問視され、その支配力が衰えつつある中で人類は戸惑っておりますが、そんな中でわたしたちは、絶対的権威者であるところの宇宙の大霊の存在を、決して機能を停止することも誤ることもない法則という形で啓示しようとしているのです。地上世界がその法則に順応した生活規範を整えていけば、きっと平和と調和とが再び支配するようになります。

そうした仕事は、廃棄された信仰の瓦礫(がれき)の中にいる人類が、不信感と猜疑心からその全てを棄ててしまうことなく、真なるものと偽なるもの、事実と神話とを見分け、永いあいだ人類の勝手な想像的産物の下に埋もれてきた真に価値あるもの、すべての宗教の根底にあるもの、霊についての真理を見出すように指導するという、わたしども霊団に課せられた大きな使命の一環なのです。

霊の力――太古において人類を鼓舞し、洞察力と勇気、同胞のためを思う情熱と願望を与えたその力は、今日においてもすぐ身近に見出せる摂理の働きの中に求めようとする心掛け一つで、わがものとすることができるのです。

教会の権威・聖典の権威・教理の権威――こうしたものが今ことごとく支配力を失いつつあります。次第に廃棄されつつあります。しかし、霊的真理の権威は永遠に生き続けます。わたしがこうして戻ってくる地上世界は騒乱と混沌に満ちていますが、霊の光が隙間から洩(も)れるようなささやかなものでなしに、強力な光輝となって地上全土に行きわたれば、そうしたものは立ちどころに治まることでしょう。

なぜ人類は、光明が得られるのに、わざわざ暗闇を求めるのでしょう。知識が得られるのに、なぜ無知のままでいたがるのでしょう。叡智が得られるのに、なぜ迷信にしがみつくのでしょう。生きた霊的真理が得られるのに、なぜ死物と化した古い教義を後生大事にするのでしょう。単純素朴な霊的叡智の泉があるのに、なぜ複雑怪奇な教学の埃(ほこり)の中で暮らしたがるのでしょう。

はずせるはずの足枷をはずそうともせず、自由の身になれるはずなのに奴隷的状態のままでいながら、しかも、そのみずから選んだ暗闇の中で無益な模索を続けている魂がいるのです。思うに、そういう人はあまりに永いあいだ鎖につながれてきたために、それを取りはずすことに不安を覚えるようになってしまったのでしょう。永いあいだカゴの中で飼われた小鳥は、カゴから放たれた時、はたして飛べるかどうか不安に思うものです。

足枷をはずすまではいいのです。が、はずしたあと、みずから歩むべき道がなくてはなりません。何の道しるべもなくて戸惑うままに放置されるようなことになってはいけません。わたしたちは彼らの魂の解放を望みますが、その自由が手引きしてくれる方向もよく見きわめてほしいのです。

永いあいだ束縛の中で生きていると、やっと自由を得た時に、もう何の指図も受けたくないという気持ちになります。そしてこう言います――“もう指図を受けるのはご免です。疑問と迷いの年月でした。それを振り捨てた今、私はもう宗教と名のつくものとは一切関わりたくありません”と。

足枷から解き放たれて迷いが覚めるとともに、激しい反動が起きることもあります。そこで、わたしは、このわたしという一個人、ただの使いの者(メッセンジャー)にすぎない者に過度の関心を寄せられるのを好ましく思っていないのです。わたしはメッセージそのものに全てをかけております。地上の人間はあまりに永いあいだ教えを説く人物に関心を寄せすぎ、超人的地位に祭り上げて、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。

わたしたちはもう、そんな、しょせん人間にすぎない者を超人的地位に祭り上げることはいたしません。真理と知識と叡智をお届けするだけです。このわたしが地上で傑出した人物だったか、それとも哀れな乞食であったか、そんなことはどうでもいいことです。わたしの述べていることに真理の刻印が押されていれば、それでよろしい。名前や権威や聖典に訴えようとは思いません。訴えるのは、あなた方の理性だけです。

人間の知性に矛盾を感じさせるようなことは、何一つ要求いたしません。人間としての道義に反すること、尊厳にかかわること、屈辱感を覚えさせるようなこと、人類を軽蔑するようなことは決して説きません。わたしたちは全人類の意識を高め、地上における一生命形態としての位置、宇宙における位置、創造神とのつながり、一つの家族としての地上人類どうしの同胞関係を正しく理解する上で必要な、霊的真理を明かそうとしているのです。

これまでのように、何かというと聖典の文句を引用したり、宗教的指導者の名前を持ち出したり、宗教的権威をふりかざしたりすることはいたしません。わたしたちは、大霊から授かっている理性を唯一の拠り所として、それに訴えかけます。ただ単にバイブルに書いてあるからというだけの理由で押しつけるような方法は取りません。理性が反発を覚えたら拒否なさって結構です。ただ、よく吟味してくだされば、わたしたちの説くところが、霊的存在として最高にして最善の本能に訴えていること、その目標が、間違った古い考えを洗い落とし、代わって、あとできっと有り難く思ってもらえるはずの大切な真理をお教えすることであることが、おわかりいただけるものと確信します。宗教は真理を基盤とすべきであり、理性の猛攻に抗し切れないようなものは、すべて廃棄すべきです。

わたしたちが霊的真理を説くとき、それは霊的世界の摂理に関わることとしてのみ説いているのではありません。物的世界にも関わるものなのです。わたしたちから見れば物的世界も大霊の創造された宇宙の一側面であり、それを無視して、つまり絶望の淵に沈む人類の苦しみに無関心でいては“宗教的”では有り得ません。そういう人類のために援助の手を差しのべる人はすべて偉大な霊であると言えます。真理を普及することのみが、人のための仕事ではありません。ほかにもいろいろあります。

貧困に喘(あえ)いでいる人々への物質的援助もそうです。病に苦しむ人々の苦痛を取り除いてあげることもそうです。不正と横暴を相手に闘うこともそうです。憎しみ合いの禍根を断ち、人間的煩悩を排除して、内奥の霊性に大霊の意図されたとおりに発現するチャンスを与えてあげる仕事もそうです。

わたしが残念に思うのは、本来が霊的存在であるはずの人間が、あまりに霊的なことから遠ざかり、霊的法則の存在を得心していただくためには、わたしたちスピリットがテーブルを浮揚させたりコツコツと叩いてやらねばならなくなったことです。

あなた方も一人の例外もなく大霊の分霊なのです。ということは、あたかも大霊が次のように語りかけているようなものです――“私がすべての法則を用意し、みなさん一人ひとりに私の分霊を授けてあります。宇宙を完全なものにするための道具はすべて用意してあります。そのすべてを活用することを許しますから、自分にとって良いものと悪いものとを、みずから選択しなさい。それを、私の定めた法則に順応して活用してもよろしいし、無視してもよろしい”と。

そこで大霊の子等は、それぞれ好きなように選択してきました。しかし他方において、霊界から地上の経綸に当っている者は、大霊の計画を推進するために、地上において間違いなく大霊の意図に感応できる人物を送り込まねばなりません。地上の子等はこれまで大きく脇道へそれてしまったために、霊的なことにすっかり無関心となり、物的なことしか理解できなくなっているからです。

しかし、冷たい冬の風が吹き荒れたあとには、必ず春の新しい生命が芽生えるものです。地面に雪が積もり、すべてが寒々とした感じを与える時は、春のよろこびはわかりません。しかし、春はきっと訪れるのです。そして、生命の太陽はゆっくりと天界をめぐって、いつかは生命の壮観がその極に達する時がまいります。

今、地上全体を不満の暗雲がおおっております。が、その暗雲を払いのけて、夢を抱かせてくれる春、そしてそれを成就させる夏がきっと訪れます。その時期を早めるのも遅らせるのも、あなた方大霊の子の自由意志の使い方一つに掛かっております。

一個の人間が他の一人を救おうと努力する時、その背後に数多くのスピリットが群がり寄って、その気高い心を何倍にも膨(ふく)らませようと努力します。善行の努力が無駄に終わることは絶対にありません。奉仕の精神も決して無駄には終わらせません。誰かが先頭に立って薮(やぶ)を切り開き、あとに続く者が少しでもラクに通れるようにしてあげなければなりません。やがて道らしい道ができ上がり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。

上層界の高級霊が目にいっぱい涙を浮かべて悲しんでおられる姿を、時おり見かけることがあります。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが踏みにじられていく人間界の愚行を見て、いつかはその愚かさに目覚めてくれる日が来ることを祈りつつ、眺めているのです。そうかと思うと、うれしさに思い切り顔をほころばせておられるのを見かけることもあります。無名の平凡な人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。

わたしは、すぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志とともに、波長を物質界に近づけて降りてまいりました。その目的は大霊の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば、大霊の恵みをふんだんに受けることができることを教えてあげたいと思ったのです。

物質界に降りてくるのは、正直言ってあまり楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっとうしくて単調で、生命力に欠けています。たとえてみれば弾力性のなくなったヨレヨレのクッションのような感じで、何もかもだらしなく感じられます。どこもかしこも陰気でいけません。したがって当然、生きるよろこびに溢れている人はほとんど見当らず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。

わたしの住む世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心は真に生きるよろこびが漲(みなぎ)り、適材適所の仕事に忙しくたずさわり、奉仕の精神にあふれ、お互いに自分の足らざるところを補い合い、充実感と生命力と喜びと輝きに満ちた世界です。

それに引きかえ、この地上に見る世界は幸せがあるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たされるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょうか。大霊は必要なものはすべて用意してくださっているのです。問題はその公平な分配を妨げている者が存在するということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。

それを取り除いてくれと言われても、それはわたしたち霊界の者には許されないのです。わたしたちにできるのは、物質に包まれた人間に大霊の摂理を教え、どうすればその摂理が正しく人間を通じて運用されるかを教えてさしあげることです。本日ここにいらっしゃる方には、ぜひ、霊的真理を知ればこんなに幸せになれるのだということを、身をもって示していただきたいのです。

もしもわたしの努力によって大霊の摂理とその働きの一端でも教えてさしあげることができたら、これに過ぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことができれば、こうして地上へ降りてきた苦労の一端が報われたことになりましょう。わたしたち霊団は、本来あなた方人間が果たすべき義務を肩代わりしようとしているのではありません。なるほど大霊の摂理が働いているということを、身をもって悟っていただける生き方をお教えしようとしているのです。

そう言うと、ある人はこんなことを言います――“おっしゃる通りです。だから私たちも施しをします。が、施しを受ける者はまず神に感謝しなければいけません”と。施しをしたあと、その相手がそのことを神に感謝しようがすまいが、そんなことはどうでもよいことではないでしょうか。お腹(なか)を空かしている人がいれば食べものを与えてあげる――それだけでよいのではないでしょうか。寝るところに困った人に一夜の宿りを提供してあげる。それは良いことですが、“どうぞウチへ泊まっていってください。ですが、ちゃんと神にお祈りをなさってくださいよ”などと、余計なお説教をしてはなりません。

スピリチュアリズムの真理を知った皆さんは、その分だけを物的なもので差し引いて勘定してみたことがおありですか。つまり、あなた方は地上的なものでは計れない貴重なものを手に入れられた。霊的真理という掛けがえのない高価なものをお持ちになっている。自分が霊性において宇宙の大霊と直結していることを悟られた。その分霊であるという事実を悟られた。その大霊の使者の働きかけを受け止める心掛けも会得された。

そうしたことに較べれば、俗世的な宝はガラクタも同然です。あなた方はこれからも永遠に生き続けるのです。すると、この地上で学んだ知識、体験から得た叡智が、俗世で追い求めている物的なものに比して、その永遠の魂にとっていかに大切なものであるかが、おわかりになるはずです。

見かけの結果だけで物事を判断してはいけません。あなた方は“物”の目でしか見ていないのです。“霊”の目でご覧になれば、一人ひとりの人間に完全に公正な配慮がなされていることを知るでしょう。わたしは時おり皆さんをはじめ他の多くの人間の祈りに耳を傾けてみることがあります。そして、いつもこう思うのです――もしも大霊がそのすべてを叶えてあげたら、ゆくゆくはこの人にとってうれしくない結果をもたらすだろうに、と。

地上を去って霊の世界へ来た人たちに質問してみることがあるのですが、霊界から地上生活を振り返ってみて、どうしても納得のいかないことがあると文句を言う人は、一人もいません。

地上世界には今三つの大きな問題があります。一つは無知であり、もう一つは悲劇であり、三つ目は貧困です。この三つは、霊についての認識が政治と結びつき、みんながその新しい知識の指し示す方向で思考し、そして生きるようにならないかぎり、いつになっても無くならないでしょう。

しかし、勝利の潮流は着実に押し寄せてまいります。古い秩序が廃(すた)れ、新しい秩序にその場を譲っていきます。新しい世界は確実に近づいております。しかし、新しい世界になったら地上から暗い場所が完全になくなると思ってはいけません。相変わらず涙を流す人がいることでしょう。心を痛める人がいることでしょう。大いなる犠牲を求められることもあるでしょう。

大霊の計画に関わる仕事は、犠牲なしには成就されないのです。取り壊しなしには建て直しはできません。人間は大きな悲劇に遭遇してはじめて霊的なことに関心を抱きはじめ、その拠ってきたる源を探ろうとします。つまり、あれこれと物的手段を試みたあげくに、そのすべてが何の役にも立たないと知ると、ワラをもつかむ思いでどこかの宗教団体にすがり、そして、やがて失望します。

そうしたことの繰り返しの中で霊的真理が台頭し、新しい世界――大霊の摂理が正しく機能している世界――の建設が始まります。そうなるまでは、何かと大きな問題の絶えることはありません。しかし、いずれにしても、何も言うことのない完全な世界にはなりません。なぜなら、完全に近づけば近づくほど、その先により高い完全が存在することを知るからです」

祈り

肌の色・民族の別・宗教の違い等の相違点はありながらも……


皆さんとともに可能なかぎり最高のものに波長を合わせるよう、努力いたしましょう。あくせくした日常生活のストレスと不安の念は、取りあえずわきへ置いていただきましょう。取り越し苦労をやめて魂の静寂の中へ戻り、内奥から湧き出る感謝の気持ちに、しばし、浸ってください。

全生命を創造した霊力に接し、どうか今夜も、この交霊会で述べられること、為されることのすべてが、その霊力の栄光を鳴り響かせ、少しでも、わたしが大霊と呼んでいるところの神に、皆さんとともに近づくことができますよう、祈りましょう。

ああ、大霊よ。宇宙の森羅万象が、あなたの無限の知性によって考案され、あなたの無限の愛によって支えられている摂理の霊妙なる驚異に、深甚なる敬意を表明いたしております。わたしたちも、あなたは存在するものすべてに配剤してくださっているものと理解しております。小さすぎて、あなたの愛も配慮も届かないということは絶対にないと信じております。

肌の色・民族の別・宗教の違い等の相違点はありながらも、全人類は等しくあなたの神性を吹き込まれ、霊という、目に見えなくとも永遠に切れることのない絆で結ばれ、未来永劫(えいごう)にあなたの家族であり続けるのでございます。

そのことは、言いかえれば人間一人一人の中に、互いに結びつける共通の霊的遺産が存在することを意味し、したがって、それを認識することによって、戦争も混乱も流血も悲劇も起きない社会体制を組織し、平和の中で、霊的本性に秘められた才能と徳性と豊かさを開発することを可能にしてくれるのでございます。

願わくば、こうした人類の霊的解放という大事業への献身者の心と精神と霊とに御力を賜らんことを。彼らの仕事が神聖にして気高いものであることを自覚せしめ、彼らの献身によって霧に迷える者に光と援助と知識とをもたらしてあげることができれば、その時こそ彼らがこの地上での存在の意義を成就していることになるとの認識を得させるために、より大きな力と導きを賜らんことを。

同時にわたしどもは、霊の世界の各界層にあって、永きにわたって地上の道具をより大きな奉仕のために鼓舞する仕事にたずさわっている数多くの霊が存在することも、忘れることはできません。その働きによって地上の子等が創造主たるあなたの霊力により一層近づき、真理と悟りとを手にした者すべてに訪れる、光輝あふれる生活の恩恵に浴することができるのでございます。

ここにあなたの僕(しもべ)インディアンの祈りを捧げます。

Thursday, March 5, 2026

霊訓 「上 」 ステイントン・モーゼス(著)

The Spirit Teachings


13節

本節の内容再び著者の反論と苦衷の開陳
回答
忍耐と祈りの必要性
祈りとは
霊側から観た祈りの効用
インペレーター、著者を叱咤する
死せる過去より生ける未来に目を向けよ
新しい真理に対する世間の態度


〔これまでに受け取った一連の自動書記通信を読み返してみて、私は文体といい内容といい、その美しさにこれまでになく心を打たれた。それというのも、私には何ら意識的思考のないまま、猛烈な勢いで書かれていくその速さ、それでいて文法上の構成に一点の誤りも見当たらないこと、さらに全編を通じて一箇所の挿入も訂正も行なわれていないこと等を考え合わせると、ただただその美しさに驚きを覚えるばかりだった。

が、その主題の問題となると私は相変わらず受け入れに躊躇せざるを得なかった。共鳴するものも多かったが、同時に、もし受け入れたらキリスト教界の信仰が根底から覆えされることになるという危倶を拭いきれなかった。どう言い換えたところで、そうなることは火を見るよりも明らかである。用語と同時に、その根本理念を受け入れれば、キリスト教徒が絶対的箇条として信じることを誓ったものを数多く棄て去らなくてはならない。特にその中心的ドグマが崩れてしまうように思えた。各種の神学上の著作――ギリシャ正教、ローマ・カトリック、国教会、プロテスタント、とくに近代ドイツ神学――に幅広く親しんできた私には、その各説の枝葉末節における矛盾はあまり問題にしないだけの心の準備は出来ていた。こうした宗教的内容のものには多少の矛盾は避け難いことを認識していたのである。また神の啓示の奥深い神秘の前には、個人的見解は大した価値はないことも認識していた。要するに、私はこの種の問題に関しては少々のことでは動揺しないだけの心の準備は出来ているつもりでいたのである。

ところがインペレーターの言葉はまったく問題が別であった。集中砲火を浴びているのはキリスト教の根幹に係わることばかりであった。それをスピリチュアライズする、つまり霊的解釈を施すということは、私の信じている如何なる啓示にも致命傷を与えかねないように思えた。じっくりと考えに考え抜いた末の結論がどうしてもそこに落着する。しかもそれが、私のよく知らない、知ろうにも知り得ない知的存在による“独断”である。これはとても受け入れるわけにはいかない。私は今少し考える時間を持たねばならぬと考えた。とにかく、たとえ内容的にはどんなに美しくあろうと、キリスト教ほどの証拠性もなく偶像破壊的でもない教義を受け入れるには、まだ私の心が熟していないと感じた。こうした主旨のことを述べると次のような通信が来た――〕


良いことを述べてくれた。かくの如く重大なる問題につきては、深く考えるために十二分に時間(とき)を費す必要がある。われらはいずれはそなたが理解しその重大性を認識してくれるものとの確信のもとに説いてきた教説をそなたの熟考にまかせよう。疑問があれば何なりと聞くがよい。われらも喜んで答えよう。これまでの通信を十二分に考察するまでは、他の通信は敢えて押しつけぬことにする。すべからく忍耐と真摯なる祈りが肝要である。

寒々として霊性を寄せつけぬ地上生活にありては、そなたたちの魂と、その欲求を叶えしめんとして待機せる背後霊との間の磁気的霊交が、真摯なる祈りによりて如何に強く促進されるものであるかをそなたたちは知らぬ。その絆は使うほどに強化され、交わるほどにその親密度を増す。祈りというものが如何に豊かなる霊的恵みをもたらすかを知れば、そなたもより多く祈るようになることであろう。博学なる神学者は祈りの価値についてその核心を知らぬまま論議を重ね、迷路をさ迷い続けている。彼らは神を求める魂の真の欲求を聞き届けんとして待ち受ける背後霊の存在を知らぬ。もっとも無理からぬことではある。現時点における科学では立証できぬ性質のものだからである。そこで彼らは、愚かにも祈りの効用をその結果によって計らんとする。結果を分析し、統計の収集によってその効用を評価せんとするのである。が、それでもなお彼らは迷路をさ迷い続けている。何んとなれば、そうした努力によりて掴(つか)みうるのは形骸のみであり、その真相は彼らの視界へは入らぬからである。祈りの結果はそのようなことでは計ることは出来ぬ。人間の科学では捉えられぬものなのである。それはあくまでも霊的なものであり、個々の祈りによりて結果もまたさまざまな形式をとる。背後霊が異なる如く祈りの結果の表れ方も異なるのである。

無言の願いが叶えられぬままであることが実は魂にとりては最高の恵みであることが往々にしてあるものである。虚空に向けて発せられたる悩める魂の叫び――悲しみによりて絞り出されたる叫び――それ自体が魂の救済であることがある。が、待機せる背後霊がその重荷に苦しめる魂に同情と慰めの芳香を注ぎ込まんと努力している姿を見れば、魂が覚える何とも不思議な安らぎと、神への確信がいずこから来るかが理解できるであろう。それをもって祈りが叶えられたというのである。魂の奥底からの叫びが背後とのつながりをもたらし、苦しみと悲しみに悶える心が慰められるのである。

緊密なる関係にある者に注がれるこの磁気性の芳香は、神を探し求める魂の切実なる叫びがもたらす恩恵の一つなのである。真の霊交はそれ以外の条件下では実現せぬ。天使の住める“神秘の間”に入る者はよほどの霊性を開いた者に限られる。同時に、われらの側より最も近づき易き魂は普段より霊的交わりを重ねている者である。友よ、これには例外はない。それがそなたらの世界とのつながりを支配する不変なる法則の一つである。すなわち、霊性に目覚めた魂が豊かな霊的恵みを受けるのである。

願いごとへの真の回答は必ずしも人間がその無知ゆえに勝手に期待する通りのものとは限らぬ。往々にして、その願いごとを叶えてやることが当人に害を及ぼすことにもなりかねぬのである。当人は真相を知らぬまま、せっかちに、愚かなる願いごとをする。当然その祈りは無視される。が、切実に祈れるその心の姿勢が、待機せる背後霊との連絡路を開き、その必要性に鑑みて力と慰めとを授けてくれる。

人間がもっと祈りの生活をしてくれれば、と思う。もっともその祈りとは、為すべき義務を怠り、貴重なる試練の生活を病的とも言うべき自己分析、不健全きわまる自己詮索、怠惰なる瞑想、あるいは無理強(じ)い的、かつ非現実的哀願のみに費す礼拝一途の生活ではない。それは真の礼拝とは言えぬ。真の祈りの生活はそれとは全く別のものである。

真実の祈りは、守護せんとして待機する背後霊への魂の奥底からの叫びの、直情的発露であらねばならぬ。気まぐれな要求に応えて、変え得べからざる筈の法則を喜んで変えてくれるが如き神への他愛なき幻想が、祈りの観念を大きく傷つけてしまっている。そのようなことを信じてはならぬ! 祈り――魂の無言の希求を読み取り、それを叶えさせんとして遥か上界との連絡の労を取らんとして待機せる背後霊を通じての神への直情的叫び――これは形式の問題ではない。一語一語述べる必要もない。ましてや宗教的慣習、紋切り型の用語等によって拘束する必要などさらさらない。真の祈りとは魂と魂の直接の交わりであり、日頃より交信せる見えざる仲間への魂の叫びであり、磁気的連絡網を通じてその要求が電光石火の速さで送り届けられ、かつその回答が思念の如き速さで送り返される。その一連の営みを言うのである。

言い換えるならば、悩める魂を、慰め癒すことの出来る霊の手にあずけることである。それには言葉も身構えも形式もいらぬ。むしろそうしたものへのこだわりが消えた時こそ最も真実味を帯びる性質のものである。必要なのは背後霊の存在の認識と、それとの霊交を求めんとする直情的衝動のみである。そのためには、日頃の訓練が望まれる。さもなければ、日頃の使用を怠れる手足の如く、その衝動に反応を示さなくなる。それ故、日頃より霊性に目覚めた生活を営む者ほど霊的世界の深奥に深入り出来ることになる。その種の者にはわれらの方からも近づき易い。外界の喧噪に影響されることなく、その者のみが有するところの、われらにのみ反応する奥探き琴線に触れることを得るのである。彼らは地上に在りながら極めて高き霊性を発揮する。何となれば、日頃より霊と交わることを知り、霊的栄養を摂取しつつあるからである。彼らには物的生活に埋もれる者に閉ざされた霊的真理の秘密の扉が開かれている。そして不断の祈りによりて彼らは、少なくとも、地上生活においては苦しみも悲しみも魂の生長にとりて必要不可欠であることを悟りつつ、なおそれに超然とした生活を送ることが出来るのである。

ああ! かくの如き素晴らしき摂理を地上の人間が知らぬとは何と悲しきことであることか。この真相が今少し理解されれば、人間は聖純にして気高き霊の雰囲気の中で暮らせるものを。霊性の自覚によりて、覗き趣味的好奇心に駆られ、己の分際も顧みずに心霊の世界に深入りせる者を悩ませ、また時には、悲しいかな、真摯なる探求者をも悩ませる、かの邪悪霊の影響から免れることを得るであろう。たとえ完全には免れ得ずとも、その真理の普及は少なくとも危険からの保護を提供し、かつ人間に為しうる他のいかなる手段にも増して、われらの力となるであろう。それはわれらの行為の正当性を是認し、動機の純粋性の証となり、霊界通信の真実性を不滅のものとする最も有効なる力となるであろう。

故に、ひたすらに祈るがよい。但し、心のこもらぬ絞切り型の嘆願とならぬよう心せよ。魂と魂の触れ合いの中でのわれわれとの交わりを求めよ。ひたすらに魂に係わる問題にのみ心を向けよ。他のことは収まるべくして収まる。神学上の難解にして煩わしき問題は捨ておき、そなたの魂の安寧に係わる核心的真理に集中せよ。単純素朴なる霊的真理が人間の無益なる混沌によって幾重にも取り巻かれている。その収拾にそなたが係わる必要はない。またその中のいずれがそなたにとりて不可欠か、いずれが不必要かの問題も、今のそなたには係わる必要はない。今のそなたには絶対重要と思える教説も、こののちには、その教説が啓示された一時代にのみ適用さるべき一面的教説に過ぎぬことを悟る日も来よう。結論を焦るのは人間の弱点である。むしろ歩を緩めるがよい。ゴールへと焦らず、初期の段階にてじっくり時間を掛けねばならぬ。すべての秘密に通暁する前に、そなたが学ばねばならぬことは幾らでもある。

このことにつきてはなお言うべきことがあるが、差し当たりて必要なことは述べたつもりである。願わくば神がわれらとそなたとを護り給い、われらが首尾よくそなたを導き、暗闇に迷うそなたの魂に真理の光を灯し、安寧をもたらすことを得さしめ給わんことを。

(†インペレーター)


〔右の通信に対して私はすぐには抗弁せず、その内容に思いを巡らした。そしてやがて聞いてみたいことが浮かんだのでそれを書き留めようとした。そのとたん、私の手は強制的にストップさせられた。そして、代わってその手が激しい勢いで別のことを書き始め、信じられない速さで次のようなことを述べてきた。その間ただの一度も手を休めることがなかった。あまりの激しさに私は書き終えるまで半入神状態となっていた。〕


待つのじゃ! 焦るでない! 待つのじゃ! 今は議論の時ではない。真理を繰り返し吟味するのじゃ。そなたはせっかちに過ぎる。しかも下らぬことばかり思い巡らしている。われらの述べることが他の信仰と相容れぬからとて、一体それがそなたに何の意味があるというのか。何故に躊躇するのか。信仰とは大なり小なり他の信仰と相容れぬものではないのか。否、元来信仰とはそれ自体の中に矛盾の要素を含むものではないのか。それすら理解できぬようでは先ヘ進む資格はない。かの古き教義や信仰――当時としてはそれなりに価値はありながら、往々にして未熟であったものに人間は慰めを求めてきた。自分に都合よき言説を拾い求めてきた。あるはずもないものをわざわざ求めに赴いたのである。なぜ無いのか。魂がそうした古き言説――今の時代には生命を失いたる言説を超えて生長したからこそである。それはもはやそなたの益にはならぬ。そなたの魂はもはやそのようなものでは感動せぬ。語りかける言葉を持ち合わせぬ。心を癒す力を持たぬ。かつて或る者にとっては生々しき声として聞こえながら、今のそなたには無意味に響く、遠くかすかなこだまに過ぎぬ。

然るに何故にそなたはそのようなものに心を煩わせるのか。何故にそなたはすでにそなたにとりて何の意味も持たぬものから意義を見出そうと無益なる努力を続け、さ迷うのか。なぜ霊の世界より語るわれらの生々しき、燃えるが如き、真実味あふれる生きた声に耳を傾けようとせぬのか。滅びつつあるもの、あるいはすでに死物と化せるものの代わりに真実なるもの、霊的なるもの、崇高なるものを説くわれらの声に何故に耳を傾けようとせぬのか。一時の気まぐれとは言え、何故に生命なき過去の遺物を有難がり、生々しき現在、霊との交わり――神及び人間の宿命について崇高なる真理を語る霊団との縁を切らんとするのか。

これは明らかに狂気の沙汰であり、魂を堕落させ地上へ引きずり下ろすことを楽しみとする邪霊の影響に外ならぬ。われらの啓示が古き啓示と相容れぬからとて、一体それがそなたにとりて何の係わりがあると言うのか。われらの啓示は生々しき響きをもってそなたの魂に訴えている。それはそなたにも判るであろう。そなたはそれにて喉を潤し、その有難き力に浴している。古き啓示はもはやそなたにとっては死物である。生命なき形骸のまわりを何故にうろつきまわるのか。かつては神の啓示に満ちた生ける存在でありながら、今や朽ち衰えんとしている死骸に何故にすがりつくのか。

聖書にも、イエスの墓のまわりに集まれる悲しみの者たちの霊耳に霊がこう語りかけたことが記されておろう――“何故にそなたらは死者の中に生者を求むるや。彼はすでにここにはいない。彼は蘇れり”(1)と。そこでわれらもそなたに言う――何故に死せる過去、埋葬されたる真理の墓をうろつきまわり、もはや存在せぬものを無益に求めるのか、と。それはもはやそこには存在せぬ。蘇ったのである。かつて変転きわまりなき時代に神の真理を包蔵せしドグマのもとを去ったのである。残れるは空(うつ)ろなる宝石箱のみ。宝石はもはやそこには存在せぬ。生命は蘇ったのである。そして、見! われらはそなたにその蘇れる崇高なる真理、より気高き教義、より聖なる神を説いているのである。

かの古き時代に神の命(めい)を担いし地上の使者とその世代に語りかけた同じ声が、今、そなたとそなたの世代に語りかけている。いつの時代にも同じなのである。神は今も昔もまったく同じように人間を扱われる。すなわち、より多くの光、より高き真理ヘ導かんとされる。その神の声に従うか否かは人間の意志に任される。神を求める崇高なる志の者にとりても、古きもの、親しめるもの、歴史あるものは棄て難き魅力があり、それが一つの関所となる。その最初の迷いの中で彼らは古きもの、大切にせるものを全て葬り、新しきもの、未知なるものを受け入れねばならぬと悟る。それは一つの死を意味するかに思える。然して人間は死を恐れる。確かにそれはまさに死である。が、生へ向けての死である。暗き墓場を通り抜け、生と希望へたどり着く通路である。肉体の死によりて霊がその束縛より放たれて自由になる如く、古き信仰の束縛より解放された魂は自由の世界へと飛躍する。それはまさしくイエスの言える唯一(ゆいいつ)人間を自由にするところの真理による自由(2)である。そなたには今は理解できぬかも知れぬ。が、いずれ悟る日も来よう。

これがわれらの切なる声である。そなたは何故に死せる過去へ目を向けるのか。生気あふれる現在、そして輝ける未来があり、豊かな祝福を約束しているではないか。われらの述べるところが古(いにしえ)の教えと矛盾するからとて、それがそなたに何の係わりがあると言うのか。古き教えにはすでにそなたにとりて生命はなく、その失われたる生命を再び吹き込むことは出来ぬ。それは今なおその教えに意義を見出す者に任せるがよい。そしてそなたはより高き真理へ向けて、神の植えつけ給いし真理探求心の衝動に従いて迷うことなく歩を進めるがよい。死せる過去と訣別せよ。それは新しき現在を通過し未知の未来へ進む、その通路でしかない。

もっとも今のそなたにとりては、そうとも言えぬようじゃ。そなたにとりてはその過去が未だに魅惑があり、われらの説く新しき教説は古き信仰を根本より破壊するとの説に加担している。イエスがそう述べたとでも言うのであろうか。イエスはモーセの訓えの全廃を説いたのであろうか。前にも述べた如く、われらの教説は、イエスの訓えがモーセの訓えに比して取り立てて、驚異的なものではなかったように、イエスの訓えに比して取り立てて驚くほどのものではない。われらがそなたに理解を要求しているのは古き教説との矛盾ではなく、その完成である。より十全なる生長である。より広き知識の発展である。

イエスがその新しき信仰を説いた時の時代的背景をよく考察すれば、多くの点において今日と共通したものを見出すであろう。繰り返すことになるが、かのパリサイ派の形式主義やサドカイ派(3)の無関心主義に比して、イエスの訓えが取り立てて驚くベきものではなかった如く、われらの説く教説は決して今日宗教として流布しているものに比して取り立てて驚くべきものではない。当時は当時なりに新しき啓示を必要とした。そして今は今なりの新しき啓示を必要としている。ただ、古きものを愛し、慣れ親しみたる道に波風(なみかぜ)の立つことを望まぬ者にとりてわれらの言説が忌々(いまいま)しきものである如く、当時の宗教家にとってイエスの訓えがけしからぬものであったまでである。

今も同じであるが、当時その時代的要請に合わせて授けられた啓示のまわりに夾雑物がこびりつき、せっかくの啓示が意味も生命もなき、ただの宗教的儀式の寄せ集めとなり果てていた。以来、久しく神の声は聞かれることがなく、人間は新たなる啓示の出現を待ち望んだ。今日とまさに同じである。古き信仰は死物と化し、人間は新たなる生ける神の声を聞かんと欲した。それがイエスによりてもたらされた。人々の想像もせぬ人物――およそ学究的パリサイ派からは敬意を払われず、倣慢なるサドカイ派に容れられる見込みなき人物から神の声がもたらされた。そしてそれが全世界に広がり、一八〇〇年間にも亙りてキリスト教界の宗教的生活を動かしてきた。然るにその教義は今や堕落し果てた。が、イエスが身をもって示せる犠牲的精神は今なお生き続けている。今こそ要請されるのはその精神に新たなる息吹きを吹き込むことである。さすれば金科玉条と思い込んできた夾雑物が取り除かれ、取り除かれた量だけ一層真理の輝きを増すことであろう。

われらの啓示の源は民衆によって“ナザレの大工”と蔑(さげす)まれたイエスの使用せる霊力の源と少しも違わぬ。民衆はイエスに思いのたけの侮蔑を浴びせた。大衆はいつの時代にもそうである。新しきものを嘲笑するのである。彼らはイエスの起こす奇跡には目を見張った。目に見える驚異を見んと大挙して押し寄せた。が、その現象が意味するところの霊的教訓を理解するほどの霊性は目覚めていなかった。それは今でも同じことである。われらの演出する交霊会の現象にはイエスの時代の民衆と同じ驚きをもって興味を示す。が、彼らは十字架上のイエスに向いて“その十字架から降りてみてはどうか。もし降りられたらお前を信じてもよい”と言い放ちて、証の上にさらに証を求めた如く、今の民衆も完璧なる確信を得るためのテストを次から次へと求める。民衆はイエスを“ペテン師めが!”と罵った。罵声を浴びせてその地域より追い出した。イエスが彼らの中にいることを忌み嫌ったのである。確かに新らしき訓えであったことは事実である。が、その中身は従来と変わらぬ神の真理であった。その説き方、その理解の仕方を改めたにすぎぬ。われらの説く教説もまた今の時点においては新らしきものかも知れぬ。が、いずれ時の経過と共に、それが従来と同じ神の真理を復活させ、永遠の息吹きを吹き込んだに過ぎぬことが理解される日も到来しよう。

われらの説く神の真理は、イエスがあの時代――地位と身分ある教養人すなわち“パリサイ派や為政者”の中に一人でもお前の言うことを信じる者がいるかと冷笑的に言われた時代――に説ける真理と同じく、そなたたちにとりていささかも奇異なるものではない。どちらも連綿たる同じ真理の流れを汲むものであり、それを希求する者の要求と渇望に合わせて説かれているに過ぎぬ。ニコデモ(4)の気持ちを察するがよい。そして、それをそなたたちの時代の同じ立場にある人々のそれと比べてみるがよい。ユダヤの死せる信仰に新生の息吹きを吹き込み、神の観念をより鮮明に啓示せる同じ霊力が、今まさに瀕死の瀬戸際にあるキリスト教信仰に新しき生命を吹き込み、エネルギーと活力とを蘇らせることが出来ることを信ずるがよい。

全知全能なる神の導きと祝福のあらんことを。

(†インペレーター)

シルバーバーチの霊訓  霊的新時代の到来

The Spirit Speaks 
トニー・オーツセン(編) 近藤千雄(訳)


内容紹介


潮文社発行の『シルバーバーチの霊訓』12巻は8人のスタッフがテーマ別に、重複しないように抜粋して編集しています。そのためシルバーバーチの教えを理解しやすい反面、交霊会の流れが分かりにくく、雰囲気が伝わってこないという欠点がありました。

オーツセンによる新シリーズは、交霊会の内容をそのまま取り上げており、前後の流れと交霊会の雰囲気がいっそう身近に感じられるようになっています。新シリーズには、12巻から抜け落ちていた重要な内容も見られ、霊的真理の理解を深めることができるようになっています。



「編者まえがき」より


けさ私は、犬を連れて散歩に出かけた。

「それがどうかしましたか」――そんな声が聞こえてきそうな、どこにでもある話だが、とにかく話の先を聞いていただこう。

私は近くの海岸に沿って歩いた。早朝のことで、はるか彼方の水平線上にかすかにモヤが掛かっている。が、それもやがて日の出とともに消えていく運命にある。

人影はまばらだ。私と同じように犬を連れて散歩を楽しんでいる人が、そこここに見える程度である。が、海上にはカモメが群れ飛んでいる。水面スレスレを飛ぶもの、上空から急降下するもの、大きく翼を広げて旋回をくり返すもの……それらが出す、あの特有の悲しげな鳴き声が、早朝の冷たい風に混じって聞こえてくる。

しかし、そうした小さな動きがくり広げられている、この海という舞台には、泰然自若(たいぜんじじゃく)として、事もなげな趣きがある。そうしたものに超然とした、何か大きな営みを続けている感じがする。それでいて、目に見えるのは寄せては返す穏やかな波の動きばかりで、その波に身をまかせて、赤茶けたのやクリーム色など、色とりどりの小石が退屈そうに行ったり来たりしている。

すっかり日が昇ってから、私はこんどは公園の広場へ出た。ベンチに腰かけて辺りを眺めていると、一羽の蝶が陽光の中でダンスをしているかのように舞っている。辺り一面に季節の気配がする。スイセンが黄色い顔を太陽へ向けている。スイカズラの葉が風に揺れている。チューリップが地面を押し上げて顔をのぞかせている。小鳥が甘くささやき合っている。澄み切った青空を綿のような雲がゆっくりと流れていく。

やがて陽が傾き、たそがれが急ぎ足で近づいてくる。もうすぐ一日もおしまいだ。弱い夕陽の陽だまりで猫がまるくなっている。犬も、今日ばかりはよく歩かせてもらい、よく食べさせてもらったからか、満足そうな顔でしゃがみ込んでいる。が、私の脳裏には、こうした一日の散歩での教訓がよぎる。

何が起きようと、海は満ちては引いていく。太陽は昇り、温もりを惜しげもなく与えては、静かに沈んで、その場をこうこうたる月に譲る。蝶が舞い、小鳥がさえずる。スイセンが、チューリップが、スイカズラが、そのほか無数の植物が大自然の呼び声に合づちを打つかのように、花を咲かせる。犬も猫も、われわれ人間と同じように生まれ、四季おりおりの生活を楽しんでは、遠いようで近い、あの世へ行ってしまう。

私が言いたいのは、要するところシルバーバーチが巧みに、力強く、そしてくり返し説いているように、生命活動はすべて大自然の法則によって支配されているということである。その法則を超えるものは、何一つ、誰一人いないということである。

さて、本書は私にとって(前シリーズから数えて)五冊目になる。編纂しただけであるから、私自身に帰すべき功績は何もない。例によって前シリーズからの抜粋に、“サイキックニューズ”の資料室から新たに取り出して加えた。主として質疑応答の形を取っているものを選んである。

これに私はThe Spirit Speaks(霊は語る)というタイトルを付けた。文字どおり霊が語っているからである。霊媒のモーリス・バーバネルが他界した一九八一年をもって、半世紀にのぼるシルバーバーチ霊の使命も終わったが、その教えは、当時よりむしろ多くの国において、より多くの人々によって読まれていることであろう。

なぜなら、シルバーバーチの教えは、その背景としての根本理念に俗世的な地臭も、宗派的偏見も、人工的障壁も、みじんも見られないからである。  トニー・オーツセン



巻頭のメッセージ

今やこの地上にも、霊力がしっかりと根づいております。その影響力の徴候をそこここに見ることができるようになりました。もう二度と地上から追い出される心配はありません。

過去幾世紀にもわたって、地上に霊力を根づかせようとする努力がくり返し試みられてまいりました。人類のすべてが大霊に近づき、その無限の叡智と知識と愛による恩恵に浴せるようにとの願いからでした。それが、今世紀に至ってようやく成就されたのです。

幾多の障害・障壁・ままならぬ条件が克服されてまいりました。地上世界の至るところに、揺ぎない霊力の砦(とりで)が築かれております。法王が何と言おうと、僧侶が何と言おうと、政治家が何と言おうと、その影響力が地上から消えることは断じてありません。

霊力そのものは永遠・不変に存在しております。それが、その時、その場所、その条件によって、地上への流入が多くなったり少なくなったりいたします。霊力にも満ち引きがあるということです。

が、いついかなる時も、守護霊の任を引き受けた霊との愛の絆があなた方に霊力を引き寄せ、温かく包みこんでいることを忘れないでください。

シルバーバーチ



1章 永続性があるのは、唯一、“愛の絆”だけ         
です

数十年にわたる交霊会でシルバーバーチに出された質問は、ありとあらゆる分野にわたっていて、文字どおり数え切れないほどであるが、本章が証明するように、シルバーバーチはそれらに対して実に当意即妙に応答している。念のために付け加えておくが、霊媒のバーバネルはその質問について前もって知らされたことは一度もない。

さて、シルバーバーチの霊言はすでに何冊か読んでいるというその日のゲストが、睡眠中にどんなことが起きているのかを尋ねた。するとシルバーバーチが間髪を入れずこう答えた。


「睡眠中の皆さんは、ただの生理的反応から霊的な活動にいたるまで、さまざまな体験をしておられます。あまりにも多種多様であるために、その中から特定して、これは生理的なもの、これは霊的なもの、といったはっきりした判断ができないだけのことです。

睡眠の目的そのものは単純です。身体は一種の機械です。実にすばらしい機械で、地上のいかなる技術者にもこれほど見事な機械はつくれませんが、機械である以上は休ませることが必要です。そうしないと機能を維持することができません。

大切なのはその身体の休息中に、霊がその身体から脱け出て活動しているということです。まさに、人間は毎晩死んでいるといってもいいのです。わずかに銀色の紐(シルバーコード)(魂の緒)によってつながってはいても、霊は完全に身体から脱け出ています。そのコードは実に柔軟な性質をしていて、霊はその束縛なしに完全に肉体から解放されています(※)。

その間におもむく先は、それぞれの霊的成長と進化の程度に似合った環境です。が、それがどこであれ、そこでの体験は地上世界の時間と五感の範囲からはみ出たものばかりですから、脳という物的器官では認識できないのです。

シルバーコードが完全に切れて霊界の住民になってしまえば、そうした睡眠中の体験のすべてを思い出すことができるようになりますが、今は断片的にしか思い出せません。霊界ではそれが通常となるわけです」


※――ここで言っているのは心身ともに健全な状態での話であって、病気だったり心配事が根強いと魂の緒が硬直して伸びきらないために、霊体が脱け切れずにウトウトとした状態が続いたり、完全な不眠症になったりする。

「霊界ではお互いをどう呼びかけ合うのでしょうか」


「こちらへ来て、完全に地上圏から脱すると、それまでの霊的成熟度に似合った名称が与えられます(※)。したがって、その名称で霊的成長と進化の程度が知れるわけです。が、名前そのものにこだわることはありません。お互いに有るがままに認識し合っています」


※――シルバーバーチがこんなことを言うのは初めてであるが、名前といっても音声と文字で表現されている地上の姓名とは本質的に異なる。それと同じ意味でのことばも、実は、ある。シルバーバーチが霊界ではことばはいりませんと言っているのは、誤解を避けるためである。『ベールの彼方の生活』の中で通信霊が霊界での名前が地上のことば(この場合は英語のアルファベット)でうまく表現できなくて困る場合がよくあり、各界層に特有のことば、つまり観念や意志の伝達手段があることを明確に述べている。

「人間は現在の人種と異なる人種に生まれ変わることがあるというのは本当でしょうか。もしも本当だとすると、愛する者とも別れ別れになることになり、大変な悲劇に思えるのですが……」


「そういう考え方は、再生というものの真相を正しく理解していないところから生じるのです。決して悲劇的なことは生じません。そもそも地上的な姻戚関係というのは、必ずしも死後にも続くとはかぎらないのです。イエスが地上にいた時、まわりの者が「お母さんがお見えになってますよ」と言ったのに対して、「いったい本当の母とは誰なのでしょう? 本当の父とは誰なのでしょう?」と問うたのをご存知でしょう。

自我のすべてが一度に物質界へ生まれ出てくることは絶対にありません。地上で“自分”として意識しているのは、本来の自我のほんの一かけらにすぎません。全部ではないのです。その小さなかけらの幾つかが別々の時代に別々の民族に生まれ出るということは有り得ることです。すると、それぞれに地上的血縁関係をこしらえることになり、中には幽体の次元での縁戚すらできることもありますが、それでも、霊的な親和関係は必ずしも存在しないことがあるのです。

永続性があるのは、唯一“愛の絆”だけです。血のつながりではありません。愛があり、血のつながりもある場合は、そこには魂が求め合う絆がありますので、両者の関係は死後も続きます。が、血のつながりはあっても愛の絆がない場合は、すでに地上にある時から霊的には断絶しており、こちらへ来ても断絶のままとなります」

「支配霊や指導霊は生涯を通して同じなのでしょうか、それとも霊的成長にともなって入れ替わるのでしょうか」


「それは仕事の内容によって異なります。たとえば支配霊――わたしたちはグループないしは霊団を組織していますから、その中心になる支配霊がいます――は言わば代弁者(スポークスマン)として選ばれた霊で、ある特定の霊媒現象を担当して、当人の寿命のあるかぎりその任に当たります(※)。成長過程の一時期だけを指導する霊は、その段階が終わって次の段階に入ると、入れ替わって別の指導霊が担当します」


※――ここは自分のケースを念頭において述べている。シルバーバーチはバーバネルの守護霊ではない。このあとの守護霊に関する注釈を参照。

「あなたは大霊は“摂理”であるとおっしゃりながら、祈りの中では“あなた”と呼びかけておられます。これは人間的存在を意味する用語ですから“矛盾”と受け取る人も多いのではないでしょうか」


「その辺がことばの難しさです。無限で、言語を超越しているものを、限りある言語で表現しようとするのですから……。そもそも霊とは物質を超越したものですから、物質界の言語では表現できないのです。小は大を兼ねることができません。

わたしたちにとって大霊とは、この全大宇宙とそこに存在するもの全てに責任を担う摂理であり、知性であり、力です。男性でも女性でもありません。皆さんが想像するような人格性はありませんが、かといって人間と無縁の存在という意味での非人格的存在でもありません。

あなた方もお一人お一人が大霊の不可欠の要素であり、大霊もあなた方の不可欠の要素なのです。その辺を理解していただこうとすれば、どうしても地上的な表現を用いざるを得ないわけですが、用いているわたしの方では、ことばを超えたものを表現することの限界を、いつも痛感させられております」

「創造主である大霊は、自分が創造したものの総計よりも大きいのでしょうか」


「そうです。ただし、創造は今なお続いており、これからも限りなく続きます。完結したものではありません。これからも永遠に続く営みです」

「ということは、大霊も完成へ向けて進化しているということでしょうか」


「進化という過程で顕現している部分はその過程を経なくてはなりません。なぜなら、宇宙は無限性を秘めているからです。その宇宙のいかなる部分も大霊と離れては存在できません。それも大霊の不可欠の要素だからです。とてもややこしいのです」

「死んで霊界入りする日(寿命)は何によって決まるのでしょうか。定められた日よりも長生きできないとしたら、心霊治療でも治らないことがあるのも、その辺に理由があるのでしょうか」


「おっしゃる通り、それも理由の一つです。霊がいつ物質に宿り、いつ物質から離れるかは、自然の摂理によって決まることです。とくに死期は故意に早めることが可能ですが、それは自然の摂理に反します。

人間は、脳の意識ではわからなくても、いつ生まれいつ死ぬかは、霊の意識ではわかっております。肉体から離れるべき時――これは生命の法則の一環として避けることはできません――が訪れたら、いかなる治療も効果はありません。一般論としての話ですが。

忘れないでいただきたいのは、心霊治療というのはきわめて複雑な問題でして、根本的には身体の病気を癒やすのが目的ではなく、魂の成長を促すためのものだということです。魂の体験としては病気も健康も必要です。物議をかもしかねない問題ですね、これは」

「病気も必要というところが引っ掛かります。病気を知らない生活が送れるほど完成された時代も到来すると私は信じます。あなたのおっしゃる病気とは、摂理を犯すこと、と受け止めてよろしいでしょうか」


「人間はいつになっても摂理に違反した行為をいたします。もしも完全に摂理と調和した地上生活を送ることができれば、それは地上で完全性を成就したことになりましょうが、完全性の成就は地上では有り得ないのです。なぜなら地球そのものが不完全だからです。

地球は学習のために通う“学校”です。その学習は、比較対象の体験による以外には有り得ません。日向(ひなた)と陰、嵐と凪(なぎ)、愛と憎しみ、善と悪、健康と病気、楽しみと苦しみといった相反する体験を通して学習していくのです。相対的体験と、その中での試行錯誤の努力を通して、魂が磨かれていくのです」

「そちらから人間をご覧になると、われわれが肉眼で見ているのと同じように見えるのでしょうか、それとも、肉体は見えずに霊体だけが見えるのでしょうか」


「有り難いことに、肉眼で見るようには見えません。わたしたちの目には皆さんは霊的存在として映じております。肉体は薄ぼんやりとしています。こうして霊媒の身体に宿って、その肉眼を通して見る場合は別です。その間は物質の次元にいるわけですから」

「ある人は霊界には無数の“界層”があると言い、ある人は七つしかないと言うのですが、どちらが本当でしょうか」


「霊的なものを物的な用語で定義することはもともと不可能なのですが、この“界層”という用語も誤解を招きます。霊界には地理的な仕切りはありません。“意識の状態”があって、魂が進化するにつれて意識が高まる、ないしは深まっていくことの連続です。一つの意識状態と次の意識状態とは自然に融合しております。そこに仕切り線のようなものはありません。進歩とか開発とか進化というのは、一足跳びにではなく、粗野な面が少しずつ取り除かれて、霊的な側面が表に出てくるということの連続なのです。

むろん未開な時代には、死後の世界は地上と同じように平面的な場所で、地上より高い界層と低い界層があるといった説き方をしたのはやむを得なかったことです。が、死後の世界は宇宙空間のどこかの一定の場所に存在するのではありません」

「病苦がカルマのせいだとすると、それが心霊治療によって治った場合、そのカルマはどうなるのでしょうか」


「そのご質問は論点がズレております。病苦がカルマのせいであれば、そのカルマが消滅するまでは病苦は除かれません。それ以外には考えようがありません」

「ある敬虔(けいけん)なクリスチャンで、とても立派だった女性が、死後、ある霊媒のところへ戻ってきて、ずっと薄闇の中にいて堪(たま)らないと、救いを求めておりました。あれほどの立派な方がなぜ薄闇の中にいるのか不思議でならないのですが、死後の存続の事実を知るチャンスがなかったからなのでしょうか」


「もしもその霊の出現が本もので、ほんとに暗闇ないしは薄闇の中に閉じ込められているとしたら、それは自分の魂の進化の程度の反映です。摂理はごまかせません。そして、“永遠不変の善”の規準は必ずしも“地上の善”とは一致しません。地上には、人間が“悪”だと決めつけているものでも、霊的観点からすれば“善”に思えるものが沢山ありますし、逆に、人間は“善”だと思っているものでも、わたしたちから見れば“悪”だと言いたいものが沢山あります。

たとえばキリスト教では、自分たちで勝手にこしらえた教義を盲目的に受け入れた人のことを善人のような言い方をします。が、実は、それは人間の宗教性の本質を窒息死させる行為にも等しいものです。なぜかと言えば、それではその後の人生は何をやっても“善人”であることを保障することになるからです。自分では正しいと信じていても間違っております。

そういう人工的な規準とはまったく関係のない“基本的善性”というものが存在します。あとに残るのはその基本的善性の方です。倫理・道徳には二種類あります。政治的道徳、経済的道徳、伝統的道徳といった類が一つ。もう一つは霊的要素によって決まる道徳です。あとに残るのは霊的要素のみです」

「“聖痕(スティグマ)”などの現象をスピリチュアリズム的にどう解釈したらよいのでしょうか」


「これは、大体においてその人のサイキ(※)の領域に属する現象です。熱烈な信仰心が精神に宿る心霊的要素を動かして、キリストのはりつけの時の傷跡などが斑点となって、その人の肉体に現れることがあります。物質的なものでないという意味では超常現象といえますが、霊の世界とは何の関係もありません」


※――Psyche元来は精神ないしは心の意味であるが、精神のもつ不思議な力をさすことが多い。これからサイキック(心霊的)という用語ができたのであるが、シルバーバーチはそれをスピリチュアル(霊的)と区別し、どちらかというとサイキックなものへの過度の関心を戒めている。スプーン曲げとか硬貨の溶解現象といった、最近、日本ではやっている超能力現象は純然たるサイキの領域に属するもので、未開人によるまじないや雨乞いに作用するエネルギーと同次元のものである。スピリチュアルなものと違って霊格や人格とは何の関係もなく起きるものであるから、そういう能力をもつ人を尊敬したり、自分にそういう能力があることを知って偉くなったような気持ちになるのは危険である。

「霊界通信には、内容的に正反対のことを言っているのがありますが、なぜそうなるのでしょうか」


「霊とはいえ人間的存在です。叡智の頂上をきわめた大天使と交信しているのではないことを知ってください。霊界にはさまざまな発達段階の存在がいて、それぞれに体験が異なりますから、当然、伝える情報も異なってきます。同一の霊からの通信でも、その後の体験によって違ったことを言うことも有り得ます。

他界する際に霊界についてある種の固定概念をもってくる人がいます。そういう人は、その固定観念を抱いているかぎり、そういう環境の中にいますから、交霊会などで意見を述べる機会があれば、その段階での見解を述べることになります。しかし、基本的なことに関するかぎり、矛盾はないはずです」

「スピリチュアリストの中にも相変わらずイエスは神の代理人で救世主であると信じている人がいます。これはスピリチュアリズムの七大綱領(※)と矛盾しませんか」


※――英国の女性霊媒エマ・ハーディング・ブリテンの霊言で述べられたもので、(一)神は全人類の父である。(二)人類はみな同胞である。(三)霊界と地上との間に霊交がある。(四)人間の霊は死後も存続する。(五)人間は自分の行為に自分が責任を取らねばならない。(六)地上での行為には、死後、善悪それぞれに報賞と罰が与えられる。(七)いかなる霊も永遠に進化する。以上の七つのうちの(二)と(五)に矛盾すると言っているのであろう。


「わたしは、何事にも寛容的で自主性を重んじるべきであるとの考えから、いかなる信条であれ、そう信じるのだという人にはその道を歩ませ、そうでないという人には、その人の信じる道へ行かせてあげればよいと考えています。信条はどうでもいいのです。教義は大切なものではありません。大切なのは“真実”です。が、地上であれ、霊界であれ、無限の真理のすべてを知り尽すことはできません。ほんの一部しか見えないのです。そして、知れば知るほど、まだまだ知らねばならないことが沢山あることを自覚します。そこで、ますます寛容的になっていくのです」

「バイブルには“神を恐れよ”とありますが、なぜ恐れねばならないのでしょうか」


「“おそれる”という用語の解釈の問題でしょう。神を怖がりなさいという意味ではないと思います。“畏(おそ)れ敬(うやま)う”という意味もあります」

「同じくバイブルの〈主の祈り〉に“悪魔の誘惑に負けませんように”とありますが、これをどう思われますか」


「これは間違いです。悪魔が誘惑するのではありません。自分にそういう要素があるから悪の道にはまるのです。

ここで一言、わたしが感じていることを述べさせていただきますが、こうした質問をお聞きしていると、まだまだ霊的真理がわかっていらっしゃらないようです。いまだに用語や書物や教会に縛られています。わたしたちはそういうものには一切こだわりません。本来が霊的存在である皆さんは、大霊と同じく無限の存在であり、そういう子供っぽい概念から早く脱け出ないといけないと申し上げているのです。

永遠に変わることのない真理を理解しないといけません。それは、古い言い伝えにこだわり、教義や用語や書物を手放すのを恐れているかぎり、できません。そこで、オモチャは幼児の段階では役に立っても、大人になったら、いち早く片付けないといけません」

「霊能開発の修行中の者が霊の救済活動に手をかけることについてはいかがでしょうか」


「未熟な霊媒がそういう重大な仕事に手をつけるのは実に危険で、感心できません。暗闇の中で迷っている霊を救うには、高度な霊能を身につけた霊媒を必要とします。未熟な霊媒だと、その霊媒自身が憑依されて、いろいろと厄介なことになりかねません」

「守護霊についてお話し願えませんか」


「霊が地上へ誕生してくるに際しては、一人の守護天使(※)がつけられます。それは地上でいう“家系”を同じくする者である場合もあれば、“霊的親和性”(霊系)によって選ばれる場合もあります。いずれにしても、両者を結びつける何らかの共通の利益というものに基づいております。

しかし、両者の関係がどこまで親密となるかは、地上の人間の霊的成長しだいで決まることです。守護霊の働きかけをまったく感受できない場合は、霊力を使用して外部環境から操作せざるを得ません。意識的協力が不可能な場合は、無意識のうちにでも協力関係をもたねばなりません。霊界からの働きかけは霊的にしかできませんから、いつどこであろうと、条件が揃った時にその影響力が届けられるように配慮するわけです」


※――Guardian Angel 日本では守護霊と呼び、その守護霊の守護霊、そのまた守護霊とたどっていくと、そうした“類魂”の大もとに行き着く。これを守護神と呼ぶことがある。

いずれにせよ、英語でも日本語でも“守護”という用語が使われているために、何でもかでも“守ってくれる”と誤解されがちであるが、地上にいる当人の成長と進化が絶対的な目標であるから、そのために最も効果的な手段を取ろうとする。それが当人にとっては辛く苦しい体験に思えることもある。

もう一つの誤解は、じっと付き添って見つめてくれているかに想像することである。実際は高級霊ほど仕事が多くて一刻の休みもなく活動している。その中で守護霊としての仕事を引き受けるのであるから、それは兼務の形になり、直接的な仕事は指導霊にまかせることが多い。それでいて当人の心の動きの一つ一つに通じている。

シルバーバーチは霊言現象のための指導霊であり支配霊であって、バーバネルの守護霊ではない。守護霊は別にいたはずで、“わたしよりはるかに霊格の高い方たちの指示により……”といったセリフが見えるので、たぶんその中の一人であろうと私は見ているが、六十年間、一度も表に出なかった。ここにも、シルバーバーチ霊団の次元の高さがうかがえる。

「霊界でも子供の出産があるのでしょうか」


「わたしは一度も見たことがありません。誕生といえるものならあります。しかし、それは霊的復活のことです。出産は地上だけの出来事です。地上は学校だからです」

「ホメオパシー(※)の謎について教えてくださいませんか」


※――Homeopathy 同種療法・同毒療法と訳されている医学用語で、病気の原因物質と同じものを少量だけ使う治療法。


「“謎”というべきものではありません。よくわからないだけのことです。生命の営みについて、われわれもあまり多くを知りません。造化の秘密もまだわかっておりません。何事も、究極のところまでくると“なぜか”はわからないのです。

ホメオパシーも究極的には一種の霊的エネルギーに基づいております。すべてがそうだとは言い切れませんが、突きつめていくと、無限小の世界へ入って行きます。そして、行きつくところまで行きつくと、やはり全生命の根源にたどりつきます。結局それが根源です。

別の側面からみると、この問題も、作用と反作用とは同じであると同時に正反対である、という科学的原則に基づいております。同種と異種とは作用と反作用であり、同じであると同時に正反対、つまり同じ棒(ポール)の両端ということです。“ゲッセマネの園”(※1)は同じポールの一方の端であり、もう一方の端が“変容の丘”(※2)というわけです。両者とも同じ一本のポールなのです」


※1――イエスが苦悩と裏切りにあったオリーブ山のふもとの丘で、人生における最大の苦難の象徴。


※2――イエスがモーセとエリヤの霊と交霊した丘のことで、その時イエスはこの世の人間とも思えない神々しい姿になったという。物的なもの、世俗的なものを克服した霊的勝利の象徴。

「人を殺(あや)めた人が、その後バチが当って殺されたとします。この場合、その人は死んでから改めて殺人行為の償いをさせられるのでしょうか」


「残念ながらご質問者は、霊的生命についてよくご存知ないようです。宇宙は、変えようにも変えられない絶対的な自然法則によって支配されております。その中でも原因と結果の法則(因果律)が基本となっております。つまり結果にはそれ相当の原因があり、原因のない結果というものは有り得ない――言いかえれば、原因はそれに先立つ原因の結果であり、その結果が原因となって新たな結果を生んでいくということです。

このように、各自の運命は自然法則によって決められていくのです。その法則の働きは当人の魂に刻み込まれた霊的成長度に反応します。あなたは今あるがままのあなたです。こうありたいと装ってみてもダメです。地上生活中に行ったことが、すべて、真の自我に刻み込まれています。その行為の価値が魂を豊かにもし、貧しくもします。あなたみずから行ったことが、そういう結果を生んでいくのです。

死によって物的身体から離れると、魂はそれまでに到達した進化の程度をスタートラインとして、新しい生活に入ります。それより高くもなっていませんし、それより低くもなっていません。自然の摂理があらゆる要素を認知しているからです。公正が行きわたるように摂理が自動的に働くのです。

罰せられるのも報われるのも、すべてあなたの行為一つ一つが生み出す結果の表れです。自分の行為によって成長する場合と、成長を阻害される場合とがあるということです。以上がわたしたちの説く教えの核心です」

「天体が人間の宿命や日常生活に影響を及ぼすという占星術の考えを肯定なさいますか、否定なさいますか。もともと占星術は運命判断を目的としたものではないという認識の上での話ですが……」


「わたしは、地球上の天体も、地球上の人間の生命に影響を及ぼしている事実は認めますが、それは、あくまでも物的影響力をもつ放射物に限られています。

その放射物が何であれ、それが霊力をしのぐほど強烈であったり強大であったりすることは有り得ないと信じます。あくまでも霊は物質より上である――霊が王様で物質は従僕である、というのがわたしの考えです。

宿命とおっしゃいましたが、何もかもあらかじめ定められているという意味での宿命はないと考えています。これも用語の問題――宿命という用語をどう定義するかの問題です。宇宙はあくまでも秩序によって支配されていて、人間生活の重大な出来事もその計画の一部であるという意味では、あらかじめ定められていると言えると思います。

そうした宿命的な出来事を生み出す波動や放射物、そしてそれらが人間各自に及ぼす影響を正確に計算しようと思えばできないことはないはずですが、最終的にはやはり霊が絶対優位にあり、物的なものは霊的なものに従属したものであると主張いたします」

「よく問題となる霊と物質との結合の時期を一応受胎の瞬間であるとした場合、その受胎までは霊ないし意識体はどこで何をしていたのでしょうか。そもそも意識体というのは何なのでしょうか」


「生まれ変わり(再生)のケースは別として、霊は、物質と結合する以前から存在していても、その時はまだ個体性はそなえていないということです。物質と結合してはじめて人間的個性(パーソナリティティー)が発生するのです。そして、そのパーソナリティーの発達とともに内部の個的大我(インディビジュアリティー)が顕現されてまいります。

したがって、ご質問に対する答えは、霊は無始無終に存在していますが、物的身体と結合してはじめて個別性というものを持つことになるということです。ただし、最初に断りましたように、例外として、物的身体との結合が初めてでないケースがあります」

「もしそれが事実で、物質の結合以前には個性がないとなると、霊としてのそうした新しい現象をどうやって意識できるのでしょうか」


「パーソナリティーとインディビジュアリティーとを区別して理解しないといけません。パーソナリティーというのは、永遠の実在であるインディビジュアリティーが地上生活中に見せる特殊な側面にすぎません。インディビジュアリティーとしては霊的意識体は無始無終に存在しております。が、それが地上に顕現するためにはパーソナリティーという地上的形態を持たねばなりません。つまりパーソナリティーというのはインディビジュアリティーが物的身体を通して顕現している部分で、いわばマスクであって、本当の顔ではありません。あくまでも地上だけの人物像であり、内的実在の物的表現にすぎません」

「となると、再生する目的は、そのパーソナリティーを大きくするためでしょうか、インディビジュアリティーの方ではなくて……」


「必ずしもそうとは言えません。再生するのはインディビジュアリティーの別の部分であることがあるからです。その新しい部分による地上体験によって、全体のインディビジュアリティーの開発が促進されるわけです。インディビジュアリティーはパーソナリティーよりはるかに大きいのですが、この“大きい”というのは霊的な意味でのことでして、その意味はどう説明したところで、地上の人間には理解していただけません」

「では、あなたの知っている方で、この地上へ再生して行った人がいますか」


「います、沢山います。ですが、(上の説明でもわかる通り)それを証明してあげるわけにはいきません。わたしの言葉を信じていただくほかはありません。もちろん、否定なさってもかまいません。真理は、否定されたからといって、いささかも影響はうけません」

「キリスト教的伝統の中で生まれ育ちながら、なお真実を求めている人は、キリストをどう理解したらよいのでしょうか」


「ここでもまた用語が問題となります。どの宗教にせよ、一つの宗教的伝統の中で生まれ育った人は、すでに無意識のうちに偏見というものを持ち合わせていますから、そうした問題を不偏不党の立場で論じるのは至難のことです。

“キリスト”という用語はもともとは“油を注がれた人”という意味であって、これまでに油を注がれた人を数え上げれば大変な数にのぼります。が、ご質問者が“ナザレのイエス”のことをおっしゃっているのであれば、あの二千年前の時代と地域環境の中で、人間としての正しい生き方を霊的に、心霊的に、そして物質的に範(はん)を垂(た)れた、すぐれた人物として敬意を表すべきです。

しかし、イエスなる人物は大霊だったわけではありません。大霊がイエスとなって出て来たのではありません。もしも神学で説かれているように、イエスは大霊が物的身体をまとって出現したのだと信じたら、せっかくのイエスの存在価値はなくなり、無意味となります。

かりに完全無欠の大霊がそっくり人間の形態をとって出現したとすれば、その人物が完全無欠の人生を送ったとしても当たり前の話であって、尊敬には値しません。が、皆さんと同じ一個の人物が皆さんと同じように自然の摂理にしたがって生まれ、しかも人間として最高の人生を送ったとなれば、それは人間の模範として、すべての人間の敬意を表するに値する人物であることになります。

啓示というものは、一つの時代、一つの言語に限られたものではありません。あらゆる啓示の始源は一つあるだけです。無限の叡智の宝庫があるのです。太古から現代に至るまでのあらゆる時代に、その国、その民族の条件に合わせて、必要なだけの叡智と知識を啓示する努力が、絶えずなされてきております。その意味でも、過去の啓示にばかり目を向けるのは間違っていることになります。

今この時点で、今いるその場で、永遠の泉からの啓示に浴することができるという事実をよく理解しないといけません」

「今あなたは、大霊だったら完全無欠の人生を送るのは簡単であるとおっしゃいましたが、その言い分だと、神も一個の人間的存在であるという理屈になりませんか」


「ご質問の意味が、神ご自身が人間的形体をまとって出現した――それが、第一だか第二だか第三だか知りませんが、とにかく“三位一体”のいずれかの“位(くらい)”を占めているという神学上の説のことをおっしゃっているのであれば、それは完全無欠の神の化身なのでしょうから、完全無欠の人生を送るのは容易かも知れないが、そんな人生には価値はないと申し上げているのです。ナザレ人イエスの使命の肝心なものが消滅してしまいます。

大霊は人間的な姿格好をしているのではありません。大霊はあらゆる人間的人物像を超越した存在です。ですが、それを人間に説明するためには、わたしは、限りある人間に理解していただける範囲でのことばを使用する以外に方法がないのです」

「“ナザレ人イエス”というのは、結局、何だったのでしょうか。並はずれた霊的才能を持ち、言うこと為すことすべてが背後霊に導かれていた、一個の人間だったのでしょうか。それとも、きわめて霊格の高い高級霊が降臨したのでしょうか」


「どちらも真実です。問題は、イエスの生涯に関する記録はきわめて乏しく、断片的で、その上ずいぶん書き換えられているということです。

イエスの生涯の最大の価値は、心霊的能力と霊的能力(P29参照)を見事に使いこなしてみせたことにあります。心霊的法則と霊的法則を私利私欲や邪(よこしま)なことに使用したことは一度もありませんでした。時には人間性をむき出しにしたこともありましたが(※)、霊的摂理というものを完全に理解しておりました。

歴史的に見れば、彼のような生身の人物による啓示を必要とする時代だったから出現した、と理解すべきです。が、彼がその啓蒙のために使用した霊力は、今あなた方の時代に顕現している霊力とまったく同じものだったのです」


※――不正や邪悪なものを前にした時に見せた激しい怒りのことを言っている。いわゆる義憤であるが、シルバーバーチに言わせれば、動機が何であれ、憤(いきどお)るということは人間的感情であって、その意味でイエスは完全無欠の人生を送ったとは言えないと、別のところで述べている。常識的に考えれば当たり前のことであるが、キリスト教ではイエスを無理やり完全無欠な人物にしようとするからそういう言い方をすることにもなったわけである。

「霊能開発に際して、真面目な霊を引き寄せ、邪霊を追い払うにはどうしたらよいでしょうか」


「類は類を呼ぶといいます。あなたの動機が真面目なものであれば、つまり常に最高のものを求め、邪心をもたず、利己的な下心がなければ、親和力の作用そのものが同じような霊を引き寄せます。また、そこには危険性もないことになります。

要するにあなたから出ている雰囲気が、異質なものを近づけなくするわけです。もしも聖人君子に愚かしい霊がつくとしたら、宇宙には摂理がないことになります」

「あなたは、愛する者がいつも私たちといっしょにいてくれているとおっしゃいましたが、その時、彼らは本来の自我の一部ではないかと思いますが……」


「そうです。愛する霊は地上の者を見守りつつ、同時に霊界での生活を営むことができるのです。皆さんのように一個の身体に縛られていないからです。こちらの世界では、意識というものに地上のような制約がありません。皆さんは英国と南アフリカに同時にいることはできませんが、わたしたちにはそれが可能なのです。距離とか行程とかの問題がないからです。

愛する者にとっては、皆さんのもとに来るのは決して辛いことではありません。愛がなければいっしょにいる気にはなれません。愛があればこそ、歩調を合わせて見守る気にもなるわけです」

「霊的な援助は必ず背後霊を通して届けられるのでしょうか――大霊が直接関与するのではなくて」


「大霊による直接の関与などというものは絶対にありません。あなた方が想像なさるような意味での人間的存在ではないのです。

そうではなくて“ヤコブのはしご”(旧約聖書)の話に象徴されているように、最低のものから最高のものへと至る霊的階梯があって、そこに無数の中間的存在がいるのです。上へあがるほど、より神性を帯びた意志と叡智を表現しております。

ですから、人間が心を開き、霊性を開発し、向上するにつれて、より大きな霊力、より大きな知識、より大きな理解力をそなえた高級な存在と連絡が取れるようになるわけです。みな大霊の僕(しもべ)として、この全大宇宙の人間的存在の向上を援助する仕事に、自発的にたずさわっているのです。こちらの世界では、進化向上が進むほど、自分が得たものを他に施すべきであるとの自覚が強くなるのです。

以上がご質問に対するわたしの答えです」

「霊界にも学問のための建造物があるのでしょうか」


「もちろん、ありますとも。こちらの教育システムはいたって単純です。ありとあらゆる分野の知識が得られるように、各種のホール、専門学校、総合大学等が用意されています。そこで教える資格をもつ者は、教育者としての才覚をそなえた人にきまっています。

この無限の宇宙の中のありとあらゆるテーマについての知識が得られるようになっていて、教師も、それぞれの分野にふさわしい資格をもっている者が揃っており、受け入れる用意のある人に分け隔てなく与えられます。どの分野だけ、といった制約はありません。受け入れる用意のある人には何でも与えられます。つまり、唯一の条件は魂の受け入れ態勢です。

地上の皆さんでもその知識に与(あずか)ることができます。皆さんにとって興味のあること、成長と開発と進歩にとって必要な情報と知識を得るのは至って簡単なのです」

「“愛”に発した貢献(サービス)と“責務への忠誠心”に発した貢献とでは、どちらが上でしょうか」


「それは、その“貢献”がどういう性質のものであるかによって違ってきます。その動機を探らなくてはなりませんし、それに、あなたのおっしゃる“愛”とは何かが問題です。愛の最高の形での表現は神性を帯びたものとなりますが、最低の形での表現は利己主義の極致となります。

どんなものであっても、サービスはサービスです。その価値の尺度は、そのサービスを受けた人への作用と、施した人への反作用です。責務への忠誠心に発したものであれば、それはそれなりに立派ですし、愛に発したものも、その愛の対象のみに偏らない、無私・無欲の愛によるものであれば、これまた、動機は立派です」

「心霊治療は別として、スピリチュアリズムの活動は物理的現象を必要としない段階に入ったと言えるでしょうか」


「いえ、いつの時代にも、自分の目で確かめ、手で触れないと気が済まない人、つまり物的次元での証拠を必要とする人のための物的現象が必要です。それは物質以外のものの存在が信じられない人だけに限ったことではなく、五感の領域を超えたものの実在が理解できないように洗脳された科学者についても言えることです。

むろん同じく物的現象でも、時代によって形式の変化はあるかも知れません。が、物的な側面での何らかの形での演出は、いつの時代にも必要です。寄せては返す波のように、歴史はくり返します」

「公開交霊会(※)などで壇上の霊視家が霊からのメッセージを伝える時に“この列の何番目の席の方”といった指摘の仕方でなしに、その方の名前が言えるようになれば、なお証拠性が高まると思うのですが……」


※――シルバーバーチの交霊会のように限定された少人数で行うのを“家庭交霊会(ホームサークル)”といい、広いホールなどで大勢の会衆を前に行うのを“公開交霊会(デモンストレーション)”という。


「もちろん、それに越したことはありません。ですが、バイブルにもありますように、見えるといい聞こえるといっても、人間の能力には限度があります。ご質問者は、霊媒現象というものがその時その場での条件次第で良かったり悪かったりするものであることをご存知ないようです。まず第一に、それまでの霊媒自身の霊格の発達程度がありますし、霊的能力の開発程度がありますし、通信霊が霊媒のオーラとどこまで感応できるかの問題もありますし、支配霊と霊媒との一体関係の程度にもよります。

一つの霊視現象には以上のような要素が絡んでいるのです。問題は、どうすべきかではなくて、その時の条件下でいかにして最高のことを行うかです」

「あなたは、われわれ人間は大霊のミニチュアないしは縮図、未開発の大霊である、といった意味のことをおっしゃったことがあります」こう述べて、続けて質問に入ろうとするとシルバーバーチが――


「あなたは神、わたしのいう大霊であり、大霊はあなたです。発達程度の違いがあるだけです。大霊が所有しているものはすべて、本性(エッセンス)の形であなたにも宿されています。大霊は神性の極致であり、あなたにも同じ神性が宿されています。神性の本質の違いではなく、その神性の発達程度の違いがあるだけです」

「で、その人間がひどい苦痛をともなう精神的障害によって表現機能を奪われているケースがありますが、そんな時は、むしろ早く死なせてあげた方がよいのではないでしょうか」


「その人がいつ死ぬべきであるということを、一体どなたがお決めになるのでしょうか。その責任はだれが取るのでしょうか。この人は二度と正常に戻れませんという判断は、一体だれに下せるのでしょうか。精神と霊とが正常な連絡関係を取り戻して精神的障害が治ってしまう――そういう霊的革新が起きないとは、だれに断言できるのでしょう。

わたしはそういう考えには賛同しかねます。人間が生命をこしらえるのではない以上、その生命を勝手に終わらせる権利は、人間にはありません。次の進化の過程にそなえた体験を積むために割り当てられた期間は、最後まできちんと生きるべきです。ほんのわずかな地上生活でもって永遠の時を査定なさろうとすると、この無限の宇宙について、至ってお粗末でひがんだ観方(みかた)しか生まれてきません」

「そういう行為は、魂に霊的資質を失わせることも有り得るのでしょうか」


「いえ、失うということは有り得ません。表現の器官を失うことによって開発のチャンスを失うことにはなっても、本来の霊的資質を失うことは有り得ません。その分、つまり失われた開発のチャンスは、埋め合わせの原理によって、他の何らかの手段によって与えられることになるでしょう」

「“単純”ということが神の属性であると信じているわたしたちからすれば、霊界の通信者はなぜもっと単純な表現をしてくれないのだろうかと、疑問に思うのです。高級界の神霊のことになると、なぜか直接的な表現を避けるところが見受けられます。たとえば“神”のことを私たちはGod(ゴッド)という用語を用いますが、あなた方はそれを使用せずにGreat White Spirit(グレイト ホワイト スピリット)などと、ややこしい言い方をなさいます」


「複雑で深遠な問題を扱うには、そう単純に片づけられないことがあるのです。たとえば“神”のことをあなた方はゴッドと呼び、わたしたちはグレイト・ホワイト・スピリットと呼びますが、どこがどう違うのか。

わたしにとっては、宇宙の背後に控える無限の力は、“ゴッド”のように、世界中の億単位の人間がそれぞれにまったく異なる概念で使用している用語を用いるよりは、グレイト・ホワイト・スピリット(真白き大霊、ないし無色の大霊、の意)の方が、より正確にその本性を伝えていると考えるのです。単純ということは、それで済まされる場合には大切な要素となりますが、この問題に関するかぎり、わたしはゴッドという単純な用語を避けても非難されるいわれはないと信じます。

高級神霊のことですが、これもなかなかうまい表現が見当たらないのです。わたしが知るかぎり、地上には譬えられるものが存在しません。あなたはご自分と似たような容姿の人間ばかりを見慣れていらっしゃいますが、わたしが光栄にも時おり連絡を取り合うことを許されている高級霊になると、その容姿をどう表現したところで、あなたには理解していただけないでしょう。

“存在”というと、人間的容姿をそなえたものしか想像できない人間に、全身これ光、ないしは炎のかたまり、といった存在をどう表現したらよいのでしょう。伝えようにも、それをうまく表現する用語が見当たらないのです。秘密にしておこうという魂胆があるわけではありません。現在の地上人類の進化の段階では、それとは途方もなく隔たりのある段階の存在は、とても理解できないからにすぎません」

「私の家でサークルをこしらえて、そこへあなたがお出になって人生相談に乗っていただくというのは可能でしょうか」


「それをこの家で行いましょうということで、これまで努力してきたわけです。このわたしを頼りにしてくださるのは有り難いのですが、こうしてしゃべるための霊媒を養成するのに、ずいぶん永い年月が掛かったのです。それがこうして成就されたというのに、また新たな霊媒のために永い年月を掛けるということは、計画の中に組み込まれてはいないようですよ」

「私は霊視能力が欲しいのですが、これまでのところ、うまくいっておりません。熱意が不足しているのでしょうか」


「熱意というのは、あまり強すぎると、えてしてバイブレーションを乱すことがあるものです。健全な能力の開発は、サイキックなものであれスピリチュアルなものであれ、完全な受容性と安らぎと静寂の中で行われるものです」

「献血という行為には何か霊的な意味があるのでしょうか。また、肉体以外にも何か影響はないものでしょうか」


「わたしは、ここで改めて輸血という医療行為に不賛成を表明せざるを得ません。そのわけは、輸血に際して注入されるのは血液だけではなくて、それに付随した幽質の要素も含まれているからです。それは献血者の人間性の一部です。つまり輸血によってその献血者の存在の本性にかかわるさまざまな要素までもが他人に移されることになり、これは、場合によっては好ましくないケースも有り得ます。

人間というのは実に複雑な要素が一個の統一体となった存在でして、入り組んだメカニズムの中で、全体ががっちりとうまく組み合わさっているのです。その大切な要素の一部を他の人間に譲るということは、自然の摂理に反します。なぜなら、肉体と精神と霊の三つの要素の正しい関係の最大の条件である“調和”を乱すことになるからです」

「でも、それによって生命が救われたケースがあるようですが……」


「わたしの気持ちとしては、いかなる方法にせよ、患者を救うという行為の尊さを割り引くようなことは言いたくないのですが、それでも一言だけ言わせていただけば、現在の医学で行われている治療法を絶対と思うのは間違っております。

どうも、医学の世界に不謬(ふびゅう)性のようなものがあるかに考える傾向があるようですね。病気を治す、あるいは生命(いのち)を永らえさせるにはこうするしかないと医者が言えば、それで最終的な断が下されたことになるかに思われているようですが、わたしはそうは思いません。

わたしに言わせれば、人間は本来が霊的存在であり、すべての治療法はその霊性の優位性を考慮すべきであるという原則に立てば、無数といってよいほどの治療法が用意されているのです。肉体というのは霊が使用する機械としての存在しかないのです。

とにかく生命さえ取り止めればいいのだ、という考えに立てば、今の医療行為も正当化されるかも知れませんが、では、そのために行われている身の毛もよだつような恐ろしい、そして人間の霊性にもとる行為は許されるのか、という疑問が生じます」

「生体実験のことでしょうか」


「そうです。目的は必ずしも手段を正当化しません」

「移植手術については、いかがでしょうか」


「患者自身の身体の一部を他の部分に移植するのであれば、結構なことです。生理的要素も幽質的要素もまったく同一のものだからです。ですが、それを他人に移植するとなると、必ずしも感心しません。(人道上はともかくとして)その移植片そのものが問題を生み出すからです。肉体そのものには生命はなく、霊と呼ばれている目に見えない実在の殻または衣服にすぎないことを理解することが、この問題を解決するカギです」

「眼の移植手術をすれば見えるようになるという場合でも、それをしないで、見えないままでいるのが望ましいということになるのでしょうか」


「個々の問題にはそれなりの事情がありますから、それを無視して一般論で片づけるわけにはまいりませんが、わたしたちからすれば、目が見えないというのは、あくまでも相対的な問題としてしか考えておりません。霊的な盲目という問題をどうお考えになりますか。

地上人類の霊的覚醒を使命としているわたしたちの立場からすれば、無数にいる霊的に盲目の人の方をむしろ見下したくなります。そこでわたしは、この問題も当人の魂の進化の程度による、とお答えします。霊的覚醒の段階まで到達している人にとっては、目が見えないということは、別に障害とはならないでしょう。ただ物が見えるというだけの視力よりもはるかに素敵な視野を得ていることでしょう。

皆さんはこうした問題をとかく物的身体の観点からのみ捉えて、永遠という概念を忘れがちです。といって、そのことを非難するつもりはありません。無理もないことだからです。たしかに、目が見えなければ春の華やかさと美しさはわかりません。が、そんなものは、霊の華やかさと輝きに較べれば、物の数ではありません」

「でも、私たちは、今なおこの世界にいるのです」


「その通りですね。ですが、俗世にありながら俗世に染まらない生き方もできることを知ってください」

祈り

愛の絆は死によって切断されることはなく……


ああ、大霊よ。あなたの限りなき愛の深さを誰が測り得ましょう。あなたの奇しき恩恵を誰が説き明かせましょう。あなたの神々しき尊厳を誰が正しく描写し得ましょう。

あなたは限りある理解力を超えた存在にあらせられます。あらゆる限界と束縛とを超越した存在にあらせられます。あなたは無限なる霊――かつて存在したものと、これから存在するであろうもののすべての根源にあらせられるのでございます。

あなたの霊性が“愛”に存在を与え、あらゆる意識的存在にあなたの神性の属性を賦与なされました。人間を理想主義と自己犠牲と奉仕の精神に燃え立たしめるのも、内部に湧き立つあなたの霊性にほかなりません。

このことは、あなたが人間の内部に顕現しておられるということであり、その意味において人間は極微の形態をとった大霊と言えるのでございます。

わたしたちはあなたの子等に、その霊性に秘められた資質と属性と才能のすべてを自覚させてあげたいと望んでおります。その認識なくしては、人間は無知の中に生きていることになるのでございます。武器を持たずに戦場へおもむくのにも似ておりましょう。

それに引きかえ、自己の存在の実相に目覚めた者は、万全の装備を整えたことになり、生きるということの中に美しさと愉(たの)しさと充実感と輝きとを見出すことができるのでございます。

さんさんと輝く陽光のもとに生きられるものを、実在によって映し出される影の中で生きている者が多すぎます。安定性と落ち着きと自信をもたらしてくれるはずの知識を欠くがゆえに煩悶の絶えない人、内なる嵐にさいなまれ続けている人が多すぎます。

わたしどもがこの地上という物質の世界にもたらしたいのは、その霊的実在についての“知識”でございます。それによって地上の子等が真実の自我を理解し、あなたとのつながり、および同胞とのつながりについて理解し、愛の絆は死によって切断されることはなく、情愛によるつながりも血縁によるつながりも、死後もなお存続するものであることを知ることになりましょう。

それもわたしたちの使命の一環なのでございます。その目的のために、これまで一身を捧げてまいりました。少しでも広く真理を普及させることでございます。子等が知識によって武装し、理性によって導かれ、永遠なる霊力の理解のもとに生きることができますように……そう祈るからでございます。