Sunday, June 14, 2026

シルバーバーチの霊訓(九)

 Philosophy of Silver Birch 

 by Stella Storm



十三章 おしまいに


    「私は、こうした形で私にできる仕事の限界をもとより承知しておりますが、同時に自分の力強さと豊富さに自信をもっております。自分が偉いと思っているというのではありません。私自身はいつも謙虚な気持ちです。

本当の意味で謙虚なのです。というのは、私自身はただの道具に過ぎない───私をこの地上に派遣した神界のスピリット、すべてのエネルギーとインスピレーションを授けてくれる高級霊の道具にすぎないからです。が、私はその援助のすべてを得て思う存分に仕事をさせてもらえる。その意味で私は自信に満ちているのと言っているのです。

 私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると自信をもって語ることができます。霊団が指図することを安心して語っていればよいのです。

威力と威厳にあふれたスピリットの集団なのです。進化の道程をはるかに高く昇った光り輝く存在です。人間全体の進化の指導に当たっている、真の意味での霊格の高いスピリットなのです。

 私自身はまだまだ未熟で、けっして地上の平凡人からも遠くかけ離れた存在ではありません。私にはあなた方の悩みがよく分ります。私はこの仕事を通じて地上生活を永いあいだ味わってまいりました。

あなた方 (レギラーメンバー)お一人お一人と深くつながった生活を送り、抱えておられる悩みや苦しみに深く関わってきました。が、振り返ってみれば、何一つ克服できなかったものがないことも分かります。

 霊力というのは必要な条件さえ整えば地上に奇跡と思えるようなことを起こしてみせるものです。私たちは地上の存在ではありません。霊の世界の住民です。地上の仕事をするにはあなた方にその手段を提供していただかねばなりません。

あなた方は私たちの手であり、私たちのからだです。あなた方が道具を提供する───そして私たちが仕事をする、ということです。

 私には出しゃばったことは許されません。ここまではしゃべってよいが、そこから先はしゃべってはいけないといったことや、それは今は言ってはいけないとか、今こそ語れといった指示を受けます。私たちの仕事にはきちんとしたパターンがあり、そのパターンを崩してはいけないことになっているのです。

いけないという意味は、そのパターンで行こうという約束ができているということです。私より勝れた叡智を具えたスピリットによって定められた一定のワクがあり、それを勝手に越えてはならないのです。

 そのスピリットたちが地上経綸の全責任をあずかっているのです。そのスピリットの集団をあなた方がどう呼ぼうとかまいません。とにかく地上経綸の仕事において最終的な責任を負っている神庁の存在です。私は時おり開かれる会議でその神庁の方々とお会いできることを無上の光栄に思っております。

その会議で私がこれまでの成果を報告します。するとその方たちから、ここまではうまく行っているが、この点がいけない。だから次はこうしなさい、といった指図を受けるのです。

 実はその神庁の上には別の神庁が存在し、さらにその上にも別の神庁が存在し、それらが連綿として無限の奥までつながっているのです。神界というのはあなた方人間が想像するよりはるかに広く深く組織された世界です。が、地上の仕事を実行するとなると、われわれのようなこうした小さな組織が必要となるのです。

 私たちはひたすら人類の向上の手助けをしてあげたいと願っております。私たちも含めて、これまでの人類が犯してきた過ちを二度と繰り返さないために、正しい霊的真理をお教えする目的でやってまいりました。

そこから正しい叡智を学び取り、内部に秘めた神性を開発するための一助としてほしい。そうすれば地上生活がより自由でより豊かになり、同時に私たちの世界も地上から送られてくる無知で何の備えもできていない、厄介な未熟霊に悩まされることもなくなる───そう思って努力してまいりました。

 私はいつも言うのです。私たちの仕事に協力してくれる人は理性と判断力と自由意志とを放棄しないでいただきたいと。私たちの仕事は協調を主眼としているのです。決して独裁者的な態度は取りたくありません。人間をロボットのようには扱いたくないのです。

死の淵を隔てていても友愛の精神で結ばれたいのです。その友愛精神のもとに霊的知識の普及に協力し合い、何も知らずに迷い続ける人々の心とからだと魂に自由をもたらしてあげたいと願っているのです。

 語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しない時は、かまわず拒絶なさるがよろしい。人間には自由意志が与えられており、自分の責任において自由な選択が許されています。

私たちがあなた方に代わって生きてあげるわけにはまいりません。援助はいたしましょう。指導もいたしましょう。心の支えにもなってあげましょう。が、あなた方が為すべきことまで私たちが肩がわりしてあげるわけには行かないのです。

 スピリットの中にはみずからの意志で地上救済の仕事を買って出る者がいます。またそうした仕事に携われる段階まで霊格が発達した者が神庁から申しつけられることもあります。私がその一人でした。私はみずから買って出た口ではないのです。しかし、依頼された時は快く引き受けました。

 引き受けた当初、地上の状態はまさにお先真っ暗という感じでした。困難が山積しておりました。が、それも今では大部分が取り除かれました。まだまだ困難は残っておりますが、取り除かれたものに較べれば物の数ではありません。

 私たちの願いは、あなた方に生き甲斐ある人生を送ってもらいたい。持てる知能と技能と才能とを存分に発揮させてあげたい。そうすることが地上に生をうけた真の目的を成就することにつながり、死とともに始まる次の段階の生活に備えることにもなる───そう願っているのです。

 私は理性を物事の判断基準として最優先させています。私を永いあいだご存知の方なら、私が常に理性を最高の権威ある裁定者としてきていると申し上げても、これまでの私の言説と少しも矛盾しないことを認めてくださると信じます。

 こちらでは霊性がすべてを決します。霊的自我こそすべてを律する実在なのです。そこでは仮面(マスク)も見せかけも逃げ口上もごまかしも利きません。すべてが知れてしまうのです。

  私に対する感謝は無用です。感謝は神に捧げるべきものです。私どもはその神の僕(しもべ)にすぎません。神の仕事を推進しているだけです。喜びと楽しみをもってこの仕事に携わってまいりました。もしも私の語ったことがあなた方の何かの力となったとすれば、それは私が神の摂理を語っているからにほかなりません。

 あなた方は、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。が、信じてください。私も物事を感じ、知り、そして愛することのできる能力を具えた、実在の人間です。

こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことかも知れません。

 では最後に皆さんと共に、こうして死の淵を隔てた二つの世界の者が幾多の障害を乗り越えて、霊と霊、心と心で一体に結ばれる機会を得たことに対し、神に感謝の祈りを捧げましょう。


 神よ、かたじけなくもあなたは私たちに御力の証を授け給い、私たちが睦み合い求め合って魂に宿れる御力を発揮することを得さしめ給いました。あなたを求めて数知れぬ御子らが無数の曲りくねった道をさ迷っております。

幸いにも御心を知り得た私どもは、切望する御子らにそれを知らしめんと努力いたしております。願わくはその志を良しとされ、限りなき御手の存在を知らしめ給い、温かき御胸こそ魂の憩の場なることを知らしめ給わんことを。

 では、神の御恵みの多からんことを」

               
   
 解説〝霊がすぐ側にいる〟と言うことの意味
      
 本書は Philosophy of Silver Birch by Stella Storm の全訳である。全訳といっても、動物愛護運動家のデニス夫妻を招待した時の交霊の様子は全巻の(八)に引用したし、宗教教育に関する章は(四)の九章に出ているので当然カットした。その替わりとしてシルビア・バーバネルの More Wisdom of Silver Birch (七)からカットしておいた 「イエス・キリストについての質問に答える」 と 「自殺に関する二つの投書」 を引用した。

  なお巻末にシルバーバーチの名言が断片的に集めてあるが、これは最終巻の総集編に入れたいと考えている。

 編者のステラ・ストーム女史については 「まえがき」 の中で自己紹介してくれていること以外のことは分からない。

 さて、本書を訳していて目についたことは,シルバーバーチの文句に〝すぐ側にいます〟とか 〝いつもいっしょです〟といった表現が多いことである。シルバーバーチ自身のことを言っている場合もあるし、他界した肉親・知人のことを言っている場合もある。

 これを文字どおりに受け取って距離的にすぐ側にいると解釈してよい場合もあろうが、霊的に言えば、たとえ霊的身体はその場に存在しなくても、時間・空間の法則が地上の物理法則と異なる次元においては、いっしょにいるのと同じ関係を維持することができる。

 が、よく考えてみると、物理法則の支配を受ける肉体に霊が宿っているのが地上の人間であるから、その肉体を超越さえすれば、この地上における人間どうしの関係においても同じことがいえることになる。

 ただ、現段階の人類は霊性の発達が十分でなく五感でしか存在感が得られないために、目に見え肌で触れないことには実在している気がしないというにすぎない。たとえば学校へ行っている子供と家庭にいる母親とは霊的には〝いっしょにいる〟のであり、〝すぐ側にいる〟と言ってもよいのである。

 そのことは心霊現象を見ればよく分かる。いちばん良い例がリモートコントロール式の霊言および自動書記現象である。最近出たばかりの 『インペレーターの霊訓』 (モーゼスの 『霊訓』 の続編)の〝まえがき〟の中で私は霊界と地上との交信の原理の概略を解説しておいたが、その中に直接書記というのがある。

 これは霊媒は手に何も筆記用具を持たずにただ入神しているだけで、その筆記用具がひとりでに動いてメッセージを綴るという現象である。その原理を背後霊団がモーゼスに見せるために幽体離脱(体外遊離)の状態にさせて実際に霊が筆記を行っている場面を披露するところがある。その場面を抜粋すると───

 《気がつくと自分の身体のそばに立っていた。例のノートを前にしてペンを右手に持って座っている。私はその様子とあたりの様子とを興味ぶかく観察した。自分自身のからだが目の前にあり、そのからだと自分とが細い光の紐によってつながっている。部屋中の物的なものがことごとく実体のない影のように見え、霊的なものが固くて実体があるように見えた。

 その私の身体のすぐうしろにレクターが立っていた。片手を私の頭部にかざし、もう一方をペンを握っている右手にかざしている。さらにインペレーターと、これまで永いあいだ私に影響を及ぼしてきた霊が数人いた。そのほかに私に見覚えのない霊が出入りして、その現象を興味ぶかそうに見守っていた。

 天井を突き抜けて柔らかい心地よい光が注がれており、時おり青味を帯びた光線が幾本か私の身体に向けて照射されていた。そのたびに私の身体はぎくりとし、震えを見せた。生命力が補給されていたのであろう。

 さらに気がつくと戸外の光も薄れて窓が暗く感じられた。したがって部屋の中が明るく見えるのは霊的な光線のせいだった。私に語りかける霊の声が鮮明に聞こえる。人間の声を聞くのと非常によく似ているが、そのひびきは人間の声より優美で、遠くから聞こえてくるような感じがした。

 インペレーターによると、これは実際のシーンで、私に霊の働きを見せるために用意したとのことだった。レクターが書いているのだが、私の想像とは違って、私の手を操っているのではなく、また私の精神に働きかけているのでもなく、青い光線のようなものを直接ペンに当てているのだった。つまりその光線を通じて通信霊の意志が伝わり、それがペンに綴らせているのだった。

 私の手が道具にすぎず、それも必ずしも無くてはならぬものでもないことを示すために、光線がそのペンを私の手から離し、用紙の上に立たせ、さらに驚いたことに、それが用紙の上を動きはじめ、最初に掲げた文章(省略)を綴ったのである》

 右の場合は距離的にはすぐ近くであるが、〝青い光線のようなもの〟はいくらでも延ばすことができる。それなりに余分のエネルギーが要るのであるが、同じ方法が霊言現象にも応用することができる。同じ『インペレーターの霊訓』の第一部〝霊言による霊訓〟の中に次のような箇所がある。

《地上へ降りてくる高級霊は一種の影響力のようなものであり、言わば放射性エネルギーです。あなた方が人間的存在として想像するものとは異なり、高級界からの放射物のようなものです。高等な霊信の内容の非個人性に注目していただきたい。

 この霊媒(モーゼス)との関わりをもった当初、彼はしつこく我々の身元の証明を求めました。が、実は我々を通してさまざまな影響力が届けられております。

 死後、首尾よく二段階三段階と昇った霊はあなた方のいう個体性を失い、形体なき影響力となって行きます。私は地上界へ戻れるぎりぎりの境涯までたどり着いています。が、距離には関係なく影響力を行使することができます。私は今、あなた方からはるか彼方にいます》


 霊的なことはすべてバイブレーションの原理によるのであるから、波長さえ合えば、ちょうど国際電話でもすぐお隣りと話をしているみたいに聞こえるように、すぐ身のまわりにいるのと同じ親近感が味わえるし、波長が合わなければ、すぐ近く、否、まったく同じ位置にいても、まったく反応し合わないことにもなる。

すべてを解くカギはバイブレーションの原理にある。それを劇的に演出してみせた例がスカルソープの 『私の霊界紀行』 に出ている。


 《初期の頃のことであるが、離脱してひとまず事務所のようなところへ案内され、そこで指導霊だけが中へ入って指示を受けるあいだ私だけ外で待たされるということがたびたびなので、私もいい加減その場所と波長にうんざりしはじめていた。

 そんな時にまた同じ場所へ連れて行かれたので、つい心の中で 〝ちぇっ、またここか〟とつぶやいた。 すると一瞬のうちに場面が一変し、退屈な風景から明るく楽しい田園風景の中に立っていた。その変わりようは驚異的だった。指導霊の私への支配力が増し、私の波長がその楽しい場所の波長に高められたのであるが、私の身体は少しも動いていなかった》


 この原理を発展させていけばキリがないが、一つだけ誤解を解いておきたいことがあるので、最後にそれを指摘して参考に供したい。

 それは霊視能力が出はじめたばかりの人が陥りやすい錯覚の一つで、進歩性のない人はいつまでもその錯覚に陥ったままであるが、たとえば病気とか悩みごとの原因を探る場合に、霊視した映像をいきなり犯人と決めつけて、すぐにそれを払い除けようとする。

この場合、かりにその霊が俗にいう因縁霊であるとしても、その霊は必ずしも身体の側にいたり直接憑依しているとはかぎらない。先の直接書記のように遠くからバイブレーションによって作用しているにすぎないことがある。

 この場合に用心しなければならないのは、したたかな邪霊になると遠くから映像を送って審神者をからかうことがあること、また、わざと立派そうな姿を見せて安心させることすらあることである。

 その反対に、何の姿も見えないから霊障はないと判断するのも浅薄である。陰に隠れてひっそりとしていることがある。世間の常識と違って、審神者にとって霊視能力はあまり頼りにならないものなのである。

 では何を判断の基準とすべきか。霊を裁く上での最大の武器は、その霊能者の霊格の高さから生まれる看破力、霊的直感力である。

 私は師の間部詮敦氏が審神者をされるところをずいぶん見ているが、その中でとくに印象に残っているのが一つある。陰に隠れていた霊がついに引っぱり出されて霊媒に憑依させられた時(これを招霊実験と呼ぶ)、その霊がふてぶてしい態度で開口一番、間部氏に向かってこう言い放った。

 「お前は大したヤツじゃ。オレの負けだ!大ていのヤツには負けんが、お前の力には負けた。大したヤツじゃ!」

 直感的には間部氏の背後霊がひっぱり出したのであるが、それも間部氏の霊格と霊力とが大いに物を言っている。心霊学に裏打ちされた学識と体験と同時に、高潔な日常生活における修養があればこそ出来ることである。

 最後にシルバーバーチの霊言からそれに関連した一問一答を紹介しておく。


 霊能者がタバコを吸いすぎたりアルコールを飲みすぎたり、そのほか生活面で真理に忠実でなく品行に問題がある場合は、それが霊能にも悪い影響を及ぼすでしょうか。

 「もちろんです。いかなる霊媒能力、特に精神的霊能について言えることは、その霊能者の質が高ければ高いほど通信の内容も質が高いということです。身体と精神の質を落とすようなことは霊にとっても同じ影響が及びます。

 忘れてならないのは、身体と精神と霊とは一体関係にあることです。緊密な相互関係があり、絶えずエネルギーや感情が行き交っております。霊の世界と物質の世界は実は一つの実在の二つの側面なのであり、お互いに影響し合っております。両者は融合し合っていて、はっきりとした境界線というものはないのです。

 そのことを理解なされば、物的身体に悪いものは霊的身体にも悪く、精神に良くないものは霊にとっても良くなく、したがって霊の宮(からだ)を汚すようなことは必ずその持ち主を通過して届けられる通信の質を汚すことになることがお分かりになると思います。

 理想を言えば完全であるに越したことはありません。そうすれば完全な通信が得られることでしょう。が、所詮、私たちが扱っているのは物質の世界に住む人間味たっぷりの道具です。アルコールもタバコもほどほどにたしなむのであれば大した害にはなりません。ただし、霊能者は常に理想を目指していなければなりません」

一九八七年八月    近藤千雄

シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch 

 by Stella Storm


十二章 自殺について二つの投書

    大きな悩みを抱えて自殺まで考えている男性から投書があり、シルバーバーチ霊は自殺行為をどう観ているかを聞いてみてほしいとあった。投書が読み上げられるのを聞いてシルバーバーチはこう語った。


 「事態を改善するよりも悪化させるようなことは、いかなる魂に対してもお勧めするわけにはまいりません。自殺行為によって地上生活に終止符を打つようなことは絶対にすべきではありません。

もしそのようなことをしたら、それ相当の代償を支払わねばならなくなります。それが自然の摂理なのです。地上の誰一人として、何かの手違いのためにその人が克服できないほどの障害に遭遇するようなことは絶対にありません。

 むしろ私は、その障害物はその人の性格と霊の発達と成長にとって必要だからこそ与えられているのですと申し上げたいのです。苦しいからといって地上生活にさよならをしても、その苦しみが消えるわけではありません。

それは有り得ないことです。またそれは摂理に反することです。地上であろうと霊界であろうと、神の公正から逃れることはできません。なぜならば、公正は絶対不変であり、その裁定はそれぞれの魂の成長度に合わせて行われるからです」


 ───(司会者) この方は現在の自分の置かれている状態が不当だとおっしゃりたいようです。

 「分かっております。地上の人間は時として物事を逆さまに見ていることがあります。きわめて不完全な知識でもって判断しようとされます。人間にも一定範囲の自由意志が許されており、それを行使していらっしゃいますが、誰一人として自然の摂理から逃れられる人はいません。

 物質の世界から霊の世界へ移ったからといって、それだけで魂に課せられた責任から逃れられるものではありません。それだけは明確に断言できます。無限の知識にくらべると、われわれは何と知らなすぎることでしょう。が、そのわずかな知識しかもたない者でも、今までより少しでも多く知ったら、その知識を有効に活用しなければなりません」


───自殺者は死後どのような状態に置かれるのでしょうか。

 「それは一概には申し上げられません。それまで送ってきた地上人生によって異なるからです。開発された霊的資質によって違ってきます。魂の発達程度によって違ってきます。そして何よりも、その自殺の動機によって違ってきます。

 キリスト教では自殺をすべて一つのカテゴリーに入れて罪であるとしておりますが、そういうものではありません。地上生活を自分で勝手に終わらせる権利は誰にもありませんが、自殺に至る事情には酌量すべき要素や環境条件がいろいろとあるものです」


───いずれにせよ自殺行為が為にならないことだけは間違いないでしょう。

 「むろんです。絶対に為になりません。地上生活を勝手に終わらせることが魂にプラスになったということは絶対にありません。が、だからといって、自殺した者がみんな暗黒界の暗闇の中に永遠に閉じ込められるわけではないと申し上げているのです」

      ※ ※ ※
      

 別の日の交霊会では、親戚の者が自殺をしてしまったという人からの投書が読み上げられた。その最後に「自殺行為は霊的進歩の妨げになるのでしょうか」という質問があった。

 これに対してシルバーバーチが

 「もちろんです」と答えると、


───神は耐え切れないほどの苦しみは与えないとおっしゃったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐え切れない苦しみを受けるからではないでしょうか。

 「それは違います。説明の順序として、これには例外があることから申し上げましょう。いわゆる精神異常者、あるいは霊に憑依されている場合もあります。が、この問題は今はわきへ置いておきましょう。いずれにせよ、このケースはごく少数です。

大多数は私に言わせれば臆病者の逃避行為であると言ってよいと思います。果たすべき義務に真正面から取り組むことができず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れるいちばんラクな方法だと考えるわけです。

ところが、死んだつもりなのに相変わらず自分がいる。そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変わらず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを生み、それが外界との接触を遮断します。その状態から抜け出られないまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。

 しかし、私がいつも言っているように、いちばん大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今述べた通り、そう思惑どおりには行きません。

が一方、時たまあるケースとして、動機が利己主義でなく利他主義に発している時、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発している時は、たとえそれが思い過しであったとしても、さきの憶病心から出た自殺とはまったく違ってきます。

 いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分の手で自分の人生を書き綴っているのです。いったん書き記したものは二度と書き変えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。

 だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になれば必ず光が見えてきます。魂の奥に潜む勇気が湧き出てきます。

責任を全うしようとしたことが評価されて、その分だけ霊界からの援助のチャンスも増えます。背負い切れないほどの荷はけっして負わされません。なぜなら、その荷はみずからの悪業がこしらえたものだからです。けっして神が〝この人間にはこれだけのものを負わせてやろう〟と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません。

 宇宙の絶対的な法則の働きによって、その人間がその時までに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。

となれば、それだけの荷をこしらえることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば、それを元通りにすることが出来るはずです」


 ───因果律の働きですね。

 「そうです。それが全てです」


 ───たとえば脳神経に異常をきたしてノイローゼのような形で自殺したとします。霊界へ行けば脳がありませんから正常に戻ります。この場合は罪がないと考えてよろしいでしょうか。

 「話をそういう風にもって来られると、私も答え方によほど慎重にならざるを得ません。答え方次第では私がまるで自殺した人に同情しているかのような、あるいは、これからそういう手段に出る可能性のある人に口実を与えていることになりかねないからです。

 もちろん私にはそんなつもりは毛頭ありません。今のご質問でも、確かに結果的にみればノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を正直に反省してみると、やはりそのスタートの時点において私がさきほどから言っている〝責任からの逃避〟の心理が働いていたのです。

もしもその人が何かにつまずいた時点で〝自分は間違っていた。やり直そう。そのためにどんな責めを受けても最後まで責任を全うしよう〟と覚悟を決めていたら、不幸をつぼみのうちに摘み取ることが出来ていたはずです。

 ところが人間というのは、窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われていきます。ついにはノイローゼ気味となり、自分で自分が分からなくなります。問題はスタートの時点の心構えにあったのです」


 ───いわゆる〝偶発事故(アクシデント)〟による死はあるのでしょうか。

 「ひじょうに難しい問題です。というのはアクシデントという言葉の解釈次第でイエスともノーともなるからです。動機も目的もない、何かわけの分からない盲目的な力でたまたまそうなったという意味であれば、そういうものは存在しません。宇宙間の万物は寸分の狂いもなく作用する原因と結果の法則によって支配されているからです。

 ただ、その法則の範囲内での自由意志というものが許されております。が、その自由意志にもまた法則があります。わがまま勝手が許されるという意味ではありません。したがって偶発事故の起きる余地はありません。

偶発のように見える事故にもそれなりの原因があるのです。ぜひ知っていただきたいのは、法則の中にも法則があり、その裏側にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいるということです。平面的な単純な法則ではないのです。

 よく人間は自由意志で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。問題は解釈の仕方にあります」


 ───病気は教訓として与えられるのだとか人間性を築くためだとか言う人がおりますが、本当でしょうか。

 「言っていること自体は正しいのですが〝与えられる〟という言い方は適切ではありません。私たちと同じくあなた方も法則の中で生きております。そして病気というのはその法則との調和が乱れた結果として生じるのです。言ってみれば霊として未熟であることの代償として支払わされるのです。

しかしその支払いとはまた別の〝補償〟の法則もあります。物事には得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観念からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。すべては進化を促すための神の配慮なのです。

 教訓を学ぶ道はいろいろありますが、最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で現れることもあるわけです。人生は光と陰のくり返しです。片方だけの単調なものではありません。喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。

 ということは双方に神の意志が宿っているということです。良いことにだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知ってください」


 ───死体は火葬にした方がいいでしょうか。

 「ぜったい火葬がよろしい。理由にはいろいろありますが、根本的には、肉体への執着を消す上で効果があります。霊の道具としての役割を終えた以上、その用のなくなった肉体のまわりに在世中の所有物や装飾品を並べてみたところで何になりましょう。本人を慰めるどころか、逆に、いたずらに悲しみや寂しさを誘うだだけです。

 人間は、生命の灯の消えたただの物質となった死体に対してあまりに執着しすぎます。用事は終わったのです。そしてその肉体を使用していた霊は次のより自由な世界へと行ってしまったのです。

 死体を火葬にすることは、道具としてよく働いてくれたことへの最後の儀礼として、清めの炎という意味からも非常に結構なことです。同時に又、心霊知識も持たずに霊界へ来た者が地上の肉親縁者の想いに引かれて、いつまでも墓地をうろつきまわるのを止めさせる上でも効果があります。

 衛生上から言っても火葬の方がいいと言えますが(※)、この種の問題は私が扱う必要はないでしょう。それよりもぜひ知っていただきたいことは、火葬までに最低三日間は置いてほしいということです。というのは未熟な霊は肉体から完全に離脱するのにそれくらい掛かることがあるからです。離脱しきっていないうちに火葬にするとエーテル体にショックを与えかねません」


※───『霊訓』 の続編である 『インペレーターの霊訓』 に次のような箇所がある。

《二つの埋葬地の中間に位置する家に滞在していたことを咎められたモーゼスが 「なぜいけないのですか」 と尋ねたのに対し、レクターと名のる霊が答えた。


 「最近のあなたは墓地に漂う臭気に一段と影響されやすくなっております。その近辺で長時間寝たり呼吸したりしてはいけません。そこに発生するガスや臭気は鈍感な人なら大して害はないが、あなたほどに発達してくると有害です」


 ───でも、すぐそばではありません。

 「二つの墓地の中間に位置しています。あたりの空気にはあなたの身体に有害なものが充満しています。
 肉体が腐敗する際に強烈な臭気を発散する。それが生者の呼吸する空気に混入し、それに惹かれて地縛霊がうろつきます。どこからどう見ても感心しないものですが、霊的感受性が敏感な人間にとっては尚のこと有害です」


 ───墓地を嫌っておられるようですが、埋葬するより火葬の方がよいというお考えですか。

 「朽ち果てていく肉体を生きた人間の生活の場のどまん中に埋めることほど愚かなことはありません。呼吸する空気が汚染されてしまいます。もうすこし進歩すれば生きた人間に害になるようなことはやめるでしょう」》
       

Saturday, June 13, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

 本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック



第23章 聞き慣れない教え

父母を憎む

一、 イエスの後を大勢の民衆がついてきたので、イエスは振り返って彼らに言われた、「父や母、妻や子、兄弟、姉妹、さらに自分の人生さえも憎むことが無ければ、私の使徒になることはできません。

そして十字架を担ぐのがいやな者は、私についてきても私の使徒にはなれません。このようにあなたたちのうちで持つもののすべてを放棄することができない者は、私の使徒にはなれません」。(ルカ 第十四章 25-27,33)


二、私のことよりも父母を愛する者は、私にとってふさわしい者ではありません。私のことよりも子を愛する者は、私にとってふさわしい者ではありません。 (マタイ 第十章 37)


三、非常にまれですが、キリストのものとされるいくつかの言葉に関して、それがキリストの習慣的な話し方とあまりに異なっているため、私たちは本能的に拒んでしまい、イエスの教義の崇高さを崩さずに、それを文字通りに解釈するのが難しい場合があります。

どの福音書もイエスが生きている間に書かれたものではなく、イエスの死後に記述されたものであるために、このような場合には、イエスの根底にあった考えがうまく表現されなかったか、あるいは、起こり得ることとして、もとの考えがある言葉から別の言語へと伝えられていく中で、なんらかの変更がなされたのではなかったのかと考えられます。

歴史上の出来事においてよくあるように、一度間違えると、それを複写する者には何度も繰り返されてしまうことになります。

「父や母、妻や子、兄弟、姉妹、さらに自分の人生さえも憎むことが無ければ、私の使徒になることはできません」という聖ルカの一節の中の「憎む」という言葉は、こうした可能性の一つとして理解できます。誰もそれをイエスの言葉とすることに同意しないでしょう。

つまり、そのことについて議論したり、ましてや、それを正当化しようとすることは余計なことなのです。第一に重要なのは、イエスがその言葉を発言したのかということで、もしそうであるならば、表現に使われた言語において、問題の言葉が私たちの言語と同じ意味を持っていたのかということです。

「この世においてその人生を憎む者は、永遠の命を保つことになる」という聖ヨハネの一節において、この「憎む」という言葉が私たちの与える意味を表現しているのではないということは疑いようがありません。

 ヘブライ語の語彙は豊富ではなく、その中には多数の意味を持った単語がありました。その例として、創世記の中に創造の段階を記述したものがあります。それは同時にある一定の期間と一日の変化について表現しています。そのことから、後になって「日」と言う言葉の翻訳によって地球は六×二十四時間で造られたという信仰が生まれたのです。

綱がラクダの毛で造られていたことから、「ラクダ」という言葉がラクダと綱の意味を持っていることも同様な例です。それで、針の穴のたとえ話において、綱のことが「ラクダ」という単語で翻訳されたのです(→第十六章 2)。(→備考1)


 その他の場合には、その民族の言語の特別な意味に影響を与える習慣や性格に注意しなければなりません。こうした知識なくしては、言葉の本当の意味がしばしば失われてしまいます。ある言語と別の言語との比較においては、同じ言葉がより大きな力を持っていたり、より小さな力を持っていたりします。

一つの単語がその暗示する意味によって、ある言語においては非道や冒涜を意味し、他の言語においては大した意味を持たないということもあります。同じ言語においても、何世紀も経過する間に幾つかの言葉はその価値を失っていきます。

そのため、厳格な文字通りの直訳が、いつも完全にある考えを表現するとは限らず、その意味の正確さを保つには、時によって、その言葉に直接対応する言葉ではなく、別の同じ価値を持った言葉や、また同意の節を用いなければなりません。

 こうした注意は聖典、特に福音の解釈においてあてはまります。もし、イエスがどのような環境に生きていたのかを考慮に入れなければ、私たちには他人のことを自分のことにあてはめてしまう習慣があるために、いくつかの表現やいくつかの事実は、誤解にさらされることになってしまいます。

いずれにしても、イエスの教えの精神とは相容れないため、「憎む」という言葉の現代的な意味を捨てる必要があります。(→第十四章 5とそれに続く項)


●備考1
 ラテン語の Non odit、ギリシア語の Kai もしくは misei は、「憎む」という意味ではなく、「より少なく愛する」という意味です。中でもギリシア語の misein という動詩は、イエスが用いたヘブライ語の動詞の意味をよりよく表現しています。

この動詞は「憎む」という意味ばかりではなく、「より少なく愛す」、もしくは「人々を同じように愛さない」という意味を持っています。イエスがよく用いたシリア語の方言においては、その意味をよりよく表しています。こうした意味によって「創世記」(第二十九、三十、三十一章)には、

「そしてヤコブはリアよりもラケルを愛したが、エホバはリアが憎まれているのを見ると……」と書かれていますが、ここでの真の意味は「より少なく愛されている」であることは明白です。

このように翻訳されなければなりません。その他の多くのヘブライ語のくだりにおいて、特にシリア語のくだりには、一方を他方と同じように愛さないという意味で用いられており、はっきりと定まった別の意味を持つ「憎む」と言う言葉で訳すと、理解しがたいものとなってしまいます。

マタイの文章はそうした理解の難しさを遠ざけてくれています。(Pezzani氏による注釈)  
    
   
 父母と子を捨てる
四、私の名において、家、兄弟、姉妹、父母、妻、子、畑を捨てた者は、それらすべての幾倍のものを得ることになり、永遠の命を受け継ぐことになるでしょう。(マタイ第十九章 29)   


五、ペテロはイエスに言った、「私たちについては、すべてを捨て、あなたに従っていることがお分りでしょう」。するとイエスは言われた、「誠に言いますが、誰でも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、来るべき世では永遠の生命を受けるのである」。(ルカ 第十八章 28-30)


六、別の者がイエスに言った、「私は主に従ってまいります。しかし、その前に家の者に別れを言いに行くことをお許しください」。イエスは答えられた、「鍬に手をかけながらも後ろを振り向く者は、神の国にふさわしくありません」。(ルカ 第九章 61,62)

言葉についての議論をすることなしに、ここではそれらが明らかに次の考え方であったのだということを、私たちは見出さなければなりません。

「未来の人生に対する関心は人類のあらゆる関心や心配事に勝っている」。なぜなら、この考え方はイエスの教義の根本に即しているからで、家族を放棄することはその教義の否定となってしまうからです。

とは言え、母国への愛のために家族への愛情や関心を犠牲にする時、私たちはこの金言をあてはめているのではないでしょうか。母国の防衛のために行進し、父母や兄弟、妻を捨てる者に対して非難するでしょうか。

逆にある義務を遂行するために、家庭の快適さや友情の絆から自分を断ち切ることは、その功績を讃えられることではないでしょうか。つまり、ある義務に勝る他の義務が存在するのです。

娘はその夫に伴うために、この法をあてはめ、父母を捨てる義務を果たすのではありませんか。世界にはより痛ましい別離が必要な場合が多く存在しています。

しかし、だからと言ってその愛情が断ち切れるわけではありません。遠ざかることは、敬意や、子の父母に対する気遣いや、父母の子に対する優しさまでをも減少させるものではありません。

ゆえに、その言葉を文字通りに理解し、「憎む」ということを行ったとしても、人間にその父母を敬うことや父母の子に対する愛情を説く教えの否定にはならないのです。この言葉を用いたことには極端な表現を通じて、人間が未来の人生に対して心配する義務が如何に大きいかということを示す目的がありました。

ただし、習慣によって家族の絆がより弱かった時代の一民族に対して、その言葉は、道徳的により進んだ文明の中にある者に対してよりも衝撃は少なかったと考えられます。こうした原始的な民族における絆は、感受性や道徳性の発達に伴って強化されます。

別離そのものは進歩に必要です。家族や民族は融合したり、統合されなければ没落していきます。それは自然の法則であり、道徳的な進歩に関する事柄にも、物質的な進歩に関する事柄についても当てはまります。

 ここでは物事が地上からの観点によってのみ考慮されています。スピリティズムは私たちにそれをより高いところから見せてくれ、真の愛情の絆というものが、肉体によって結ばれたものではなく、霊によって結ばれたものであるということを示してくれます。

つまり、そうした絆が別離や肉体の死による死別によって断ち切れることはなく、霊の浄化によって霊界において強化されるということを示してくれ、そのことは真の慰安となり、人類はそこから大きな力を得ることができ、それによって人生の苦しみに耐えていくことができるようになるのです。


 死者を葬ることは死者に任せる
七、別の者に言われた、「私について来なさい」。するとその者が答えた、「主よ、先に私の父を葬りに行かせてください」。イエスは答えて言われた、「死者を葬ることは死者に任せておきなさい。あなたは神の国を伝えに行きなさい」。(ルカ 第九章 59,60)


八、「死者を葬ることは死者に任せておきなさい」という言葉は何を意味しているのでしょうか。

前述のことを考慮に入れれば、まず第一に、この言葉が発せられた状況において、これらの言葉が、自分の父親を葬ろうとすることを子の慈悲であると考える者に対する非難を意味していた筈はないということはわかります。

そうではなく、より深い意味があるのですが、それは霊の生活に関する、より完全な知識によってのみ理解可能となります。霊的生活とは実際の真なる生活であり、霊の普通の生活であり、地上における存在とは一時的な一過性のもので、霊の生活における活動やその輝きに比較すれば、それはある種の死のようなものです。

肉体は一時的に霊を覆う粗い衣服のようなものに過ぎず、まさに地球上につなぎとめる足かせのようなもので、そこから解放された時には幸せに感じるのです。

死者たちに捧げる私たちの敬意は物質によって促されるのではありません。それは不在の霊に関わる思い出によって促されるものなのです。

肉体は、その人が所有していたり触れたりしていた物であり、その者に愛情を抱く者が遺物として保管する物と同じなのです。父親を葬ろうとした者が理解できなかったことはこのことだったのです。イエスは次のように言って教えたのです。

「遺体のことは心配せず、まず霊のことを考えなさい。神の国を教えに行きなさい。人類の母国とは地上ではなく天にあるもので、そしてそこにのみ真なる命が続いているのだということを、人々に教えに行きなさい」。


 平和ではなく分裂をもたらしに来た
九、私が地上に平和をもたらしに来たと考えてはなりません。平和をもたらしに来たのではなく、剣を持って来たのです。ゆえに父からその息子を絶ち、母からその娘を絶ち、姑から嫁を絶ちに来たのです。人々は自分の家に敵を持つことになります。(マタイ 第十章 34-36)


十、私は地上に火を放ちに来ました。すでに火が燃えていたならと、どんなに望むことでしょう。私には受けなければならないパブテスマがあり、それを成し遂げる時をなんと待ち遠しく感じることでしょうか。

 私が地上に平和をもたらしに来たと思うのですか。いいえ、誠に言います。私はむしろ、分裂をもたらしに来たのです。ゆえに今後は、家に五人の人がいれば分裂し、三人対二人、二人対三人とお互いに対立することでしょう。父は息子に、息子は父に、母親は娘に、娘は母親に、姑は嫁に、嫁は姑に、それぞれ対立し合うことでしょう。(ルカ 第十二章 49-53)


十一、優しさの具現化、隣人に対する愛を教えて止むことがなかったイエスが「平和をもたらしに来たのではなく、分裂をもたらしに来た。父親から息子を絶ち、夫から妻を絶ちに来た。地上に火をもたらし、それが早く燃え上がることを望む」と本当に言った可能性があるのでしょうか。

これらの言葉は、その教えに明らかに矛盾していないでしょうか。イエスに血なまぐさい征服者や破壊者の言葉を帰することは冒涜ではないでしょうか。いいえ、冒涜でも矛盾でもありません。

なぜなら、その言葉を発したのはまさにイエス本人であり、そこに高い英知の存在が証明されています。ただ、多少曖昧で、表現の仕方がそこにある考え方を正確に顕していないため、これらの言葉の持つ本当の意味に対して誤解を招いているのです。

文字通りに解釈してしまうと、すべてが平和をもたらすためにあるイエスの使命を、動揺と不和をもたらすものに変えてしまうことになりますが、それはばかげた結論であり、イエスの言うことに矛盾が生じるはずはないため、良識はこの結論を拒むのです。(→第十四章 6)

 
十二、どんな新しい考えも、いやおうなく反対者に出会い、戦うことなくして根付くことはありません。そうした時、その抵抗の強さは常に、予期される結果の重要性に相応しています。なぜなら、重要であればあるほど、それによって損害を受ける者の数は多いからです。

もしある新しい考えが明らかに誤っているものであれば、それが重大な結果をもたらすことはなく、誰もそれに注意を払いません。その考えに活力が欠けていることを確信するため、人々はその考えをそのまま放っておきます。

しかし、もしそれが本物で、確固たる基礎にもとづき、その未来が予見できるものであれば、自分たちが維持に努めている事柄の秩序や、自分たちの存在に危機を与えるのではないかという反対者の内なる予感が、反対者たちに注意を喚起することになります。すると、その考えやその考えに従う者に対抗し始めるのです。

 このことから、ある新しい考えがもたらす結果やその重要性の度合いは、その考えが登場したことによって生まれた感情、抵抗者たちが引き起こす暴力、反対者たちの憤りの度合いや続き具合によって量ることができます。



十三、イエスは、その当時の聖職者、書記官、ファリサイ人たちの収入源となっていた宗教の濫用を土台から一掃する教義をもたらしに来ました。彼らはそのためにイエスを生贄とし、イエスを殺し、その思想をも消そうとしたのです。しかし、その教義は真実であったため生き続けました。

その教義は、神の意志に応えたものであったために広がり、ユダヤの世に知られぬ小さな村落で生まれながらも、その旗じるしを多神教の世界の中心地にまで掲げ、確信よりもむしろ当時の関心によって人々が大いに執着していた何世紀にもわたる信仰を覆したために、この教義を打ち消そうと競った最も残忍な敵対者たちに直面したのです。

そこでは最も恐ろしい戦いが信徒たちを待ち受けていました。その犠牲者の数は計り知れません。しかし、その思想は常に広がり、勝利を得ました。なぜなら、それが真実であるがためにそれまでにあった考えを征服していったからです。
        
    
十四、キリスト教が現れた時、異教は衰えはじめ、理性の光と戦っていたことに注意を払うことが必要です。異教は依然として形式的には実践されていました。しかし、その信仰はすでに消えていました。個人的な利害のみが異教を支えていたのです。

利害によって動く者は頑固で、証拠を前にしても譲歩することはありません。彼らに対立する議論がその誤りを決定的に明らかにすればするほど彼らは苛立ちます。そして誤っていることを知りながら、そのことは彼らの考えを揺るがすことはありません。

すなわち、彼らの魂には真なる信心は存在しないのです。彼らの恐れるものは、盲目者に視力を与える光なのです。誤った考えは、彼らにとって使い道がありました。だからそれに固執し、それを守ったのです。

 ソクラテスの教義は、ある範囲まで、キリストの教義と同様でありませんでしたか。では、なぜソクラテスの時代に、彼の教義は地球上の最も知性的な人々の間で優勢にならなかったのでしょうか。

それはまだ期が熟していなかったからです。ソクラテスは耕されていない土地に種を蒔いたのでした。

当時、異教はまだすたれてはいませんでした。キリストはふさわしい時代にその使命を受けました。もっとも、その時代のすべての人がキリストの考えを受け入れる水準にいたるには、多くのものが欠けていたことは明らかです。

しかし、キリストの時代の人々の間には、キリストの考えに同化する素質が一般的にあり、彼らは世俗的な信仰が魂にもたらす空虚をすでに感じ始めていたのです。

ソクラテスとプラトンは道を切り開き、霊たちを事前に準備したのでした。(→序章Ⅳ ソクラテスとプラトン。キリスト教思想及びスピリティズムの先駆者たち)


十五、残念なことに、新しい教義の信徒たちは、多くの場合、たとえ話や言葉の比喩に暗示された師の言葉の解釈を理解することができませんでした。そのために、すぐに多数の宗派が生まれ、それぞれが排他的に真実の主となろうとし、十八世紀という年月さえ、それらを合意させるには十分ではなかったのです。

神の教えの最も大切な部分であり、イエスがその建築の柱石として据えた、慈善、兄弟愛、隣人愛といった救いの確実な条件を忘れると、そうした宗派はお互いを異端とし合い、責め合い、強いものは弱いものをつぶし、それらを血に染め、拷問を与えたり、火あぶりにしたのです。

異教に対して勝者となったキリスト教徒たちは、それまで迫害されていたのが、自らが迫害者となってしまったのです。キリスト教徒と異教徒の二つの世界において汚点のない子羊たちの十字架を建てるために、鉄と火が用いられたのです。

宗教戦争は政治戦争よりも多くの犠牲者を出しており、より残酷であったということは誰もが知る事実です。その他の戦争においても、これほどまでの残虐行為や非情な行為はありませんでした。

 その責任はキリストの教義にあるのでしょうか。明らかにそうではありません。なぜなら、キリストの教義は暴力を非難するものであるからです。イエスがその使徒たちに、あなたたちと同じようには信じない者を殺害し、全滅させ、焼き払いに行きなさいと言ったことがあったでしょうか。ありません。

反対にイエスは使徒たちにこう言いました。「全人類は兄弟であり、神は至上の慈悲である。隣人を愛しなさい。あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを迫害する者に善を尽くしなさい」。

また、同じように使徒たちにこう言いました。「剣によって人を殺した者は剣によって殺されます」従って、その責任はイエスの教義にあるのではなく、教義を偽って解釈し、自分たちの情熱を満足させるための道具と化した人々にあるのです。

「私の国はこの世のものではありません」という言葉を軽んじた人たちの責任なのです。

 イエスの深い英知には、将来起こりうる出来事に対する先見の明がありました。しかし、そうした出来事とは人類の不完全な性質に帰するものであり、その性質を急に変化させることはできないため、避けることができなかったのです。

キリスト教はこうした長くて残酷な試練を十八世紀の間も受けながら、その力を示さねばならないのでした。しかし、その名によってあらゆる悪が行われたにもかかわらず、キリストの教えは純粋に保たれています。議論の対象となったことがありません。

非難はいつも教えを濫用した者たちの上に降りかかりました。あらゆる狭量の行為に対して、このように言われてきました。「もしキリストの教えがより正しく理解され、実践されていたなら、そのようなことは起こり得ない」と。


十六、「私が地上に平和をもたらしに来たと思ってはなりません。平和をもたらしに来たのではなく、分裂をもたらしに来たのです」とイエスが言った時、その考えは次のようなものでした。

「私の教義が平和のもとに確立すると信じてはいけません。それは私の名のもとに流血の戦いをもたらすでしょう。なぜなら人類は私の考えを理解できないか、あるいは理解したがらないからです。

それぞれの信仰に応じて分裂して兄弟たちはお互いに対して剣を抜き、同じ信仰を分かち合うことのない一つの家族の中には分裂が支配します。

害をもたらす植物を絶やすために野に火を放つのと同じ方法で、偏見を持った者たちの過ちを消滅させるために、私は地上に火を放ちに来たのであり、浄化が早く進むためにその火が早く燃え上がることを望んでいます。

 闘争の後、真実が勝者となるのです。戦いは平和に、分裂の憎しみは全世界の兄弟愛に、狂信の闇は理性的な信心の光に譲ることになります。やがて土地の準備ができたら、私は慰安者である真実の霊を送ります。真実の霊はすべてのものを再建しに、すなわち、私の言葉の真なる意味を教えに来ます。

それにより、より教養のある人々も理解することができるようになり、同じ神の子供たちを分裂させる兄弟殺しの戦いに終止符を打つことになるのです。家族の核心にまで荒廃と動揺ばかりをもたらす、結末のない戦いにようやく疲れ、人類はこの世とその先の世における本当の関心事がどこにあるのかを知るようになるでしょう。

人類はその平安の敵や仲間がどこに居るのかを知ることができるでしょう。そしてすべての者が一つの旗のもとに集まることになります。その旗とは慈善であり、私があなたたちに教えた原則と真実に従って、地上の物事は再建されることになるでしょう」。


十七、スピリティズムは、予期された時代に、キリストの約束を守るために現れました。しかし、あらゆる事柄の濫用を打ち崩すことなくそれを行うことはできません。イエスの時と同じように、スピリティズムは自尊心、エゴイズム、野心、貪欲、盲目的な狂信に直面しますが、それらを最後まで追い詰めると、妨害や迫害を扇動することになります。

ゆえに、スピリティズムも戦わねばなりません。しかし、争いや流血の迫害の時代は終わりました。苦しまねばならないそれらの戦いとは、すべてが道徳的秩序の上に立った戦いであり、その終わりも近い将来には来るでしょう。

最初の戦いは何世紀にも及びました。今度の戦いは何年間しか続くことはありません(→和訳注1)。なぜなら、その光は唯一の光源から放たれるのではなく、地球上のあらゆる地点で現れ、盲目者たちの目をすぐに開いてくれるからです。



十八、したがってこうしたイエスの言葉は、その教義が引き起こす怒りや、それが原因となって引き起こされる一時的な闘争、約束された土地に到着する前にヘブライ人たちにあったような、確固たる地位を得るために耐えぬかねばならない戦いについて言っているのだと理解しなければならず、

先に考えられたように、イエスの言葉が無秩序と混乱を広めようとするものであると理解してはいけないのです。悪は人類から生じるのであり、イエスは治療のために現れた医者のような存在です。しかしその薬は有益な危機をもたらし、病める者の悪しき体液を攻撃するのです。

●和訳注1
 スピリティズムが世に登場して間もない十九世紀後半当時、1861年のスペインでの焚書事件のように、スピリティズムはさまざまな方面から迫害を受けました。それから150年以上たった今日、スピリティズムを支持する人々は世界中に広がっています。

Friday, June 12, 2026

シルバーバーチの霊訓(九)

 Philosophy of Silver Birch 

 by Stella Storm



十一章 三つの出張講演から 

 《このたびこうして私をお呼びいただき、ささやかながら私がたずさえて来た知識を皆さんと分け合うことになったことを光栄に思っております。この新たな体験によって私が何らかのお役に立てば、こうして皆さんの前にお邪魔した甲斐があったことになります。

皆さん方はすでに霊的実在についての知識をお持ちの方ばかりです。したがって私から改めてその重大性、とくに今日の地上世界における不可欠性について強調する必要はないと思います》                シルバーバーチ 
      
                                       
 永年ハンネン・スワッハ―・ホームサークルだけを拠点として語り続けてきたシルバーバーチが、最近になって三つのスピリチュアリストの団体からの招待に応じて、それぞれの本拠地で講演と一問一答を行った。  


 一つはコペンハーゲンで開催された国際スピリチュアリスト連盟 International Spiritualist Federation の総会において、二つ目は英国心霊治療家連盟 National Federation of Spiritual Healers において、三つ目は大英スピリチュアリスト協会 Spiritualist Association of Great Britain において、それぞれの評議会員を前にして行われた。


 ◎ I・S・F (国際スピリチュアリスト連盟) での講演と一問一答

 「私たち霊界側から言わせていただければ、こうした機会をもつことは皆さんの意識の焦点と視野を正しく修正する上でまことに結構なことだと思います。この霊的大事業にたずさわっておられる皆さん方も、ややもすると日常生活の煩雑さや揉めごとに巻き込まれて、こうして地上でいっしょに仕事をしているわれわれを鼓舞している雄大な理想像(ビジョン)の無垢の美しさを、つい忘れがちだからです。

 物質の世界に閉じ込められ、肉体をもつが故の数々の義務を背負っておられる皆さんにとって、自分が本来は霊的存在であることを忘れずにいることは難しいことでしょう。が、皆さんの本性の中を神の力が流れているのです。

また皆さんの中の大勢の方が霊的能力を授かっておられます。それは自分より恵まれていない同胞のために使用することができます。

 皆さん方が進まれる道は決して容易ではありません。それは皆さんが、潜在的な霊的資質を開発するチャンスをみずから欲するだけの器量を具えていらっしゃるからです。神の使節に気楽な人生は有り得ません。進化と向上を求める者、地上の人間として到達しうるかぎりの高級界に波長を合わせんとする者にとって、安易な道は許されません。

近道など有りません。酷しい試練と絶え間ない危険との遭遇を覚悟し、今たずさわっている仕事、それは実は───これがいつも議論のタネになるのですが───皆さんが地上へやってくる前にみずから志願されたものなのですが、それをあくまでも成就させんとする決意を要請されます。それは皆さんがみずから選択された道なのです。

 霊的闘争における勝利はそう簡単には得られません。霊的なものが支配権を握るに至る過程は長くて過酷なものです。が、一度手中にすれば、それは永遠です。決して失われることはありません。

霊の褒章は決して傷つきません。決してサビつきません。決して腐食しません。永遠に自分のものとなります。それは皆さんが、皆さんの一人一人が、みずからの努力で勝ち取らねばならない、永遠の財産なのです。

 皆さんとともに仕事をしている私たち霊界の者が、いくら皆さんを愛し、窮地にあって守り導き、道を教えてあげようと望んでも、所詮は皆さん自身の道なのです。その道を進むのはあなた方自身です。そして一つの困難を克服するごとにあなた方自身が霊性を強化し、霊的な仕事にたずさわる者として、より大きな資格を身につけて行かれるのです。

 ですから、困難の挑戦を大いに歓迎することです。困難を避けたいと思うような者は神の仕事には無用です。闘いの真っ只中、しかも物質万能思想との闘いという最大の闘争において、あまりの激しさに将軍や指揮官が敵前逃亡をするようなことがあっては断じてなりません。耐え忍び、みずから志願したこの神聖なる仕事を成就すべく、鍛えられ、しごかれ、また鍛えられ、しごかれなければならないのです。

 われわれに対抗する勢力は、地上においても霊界においても、実に強力です。しかし、いかに強力といっても、神の意志をしのぐほどの力はありません。永年にわたって地上での仕事にたずさわり、幸にして地上での神の計画の一部を知ることを得た私が絶対的確信をもって申し上げますが、霊力はすでに地上に根づいております。

すでに地上生活に浸透しているその霊力を駆逐する力は、物的世界に帰属する勢力、すなわち宗教界の有力者にも、新聞にも、医師にも、あるいはそうした勢力がいかなる形で結集したものにもありません。

 すぐれた霊の道具(霊能者・霊媒)の出現によって世界各地に霊力の前進基地がすでに設けられ、今その地固めが行われているところです。そこを拠点として、神の子等が一体自分はどこの誰なのか、何者なのか、なぜこの地球上に存在するのか、その存在の目的を成就するには何を為すべきかを、みずから理解して行くことになるのです。

 皆さんはこのたび海山を越えて遠く隔てた国々から集まってこられましたが、皆さんを結集させた力は、ふだん他人のための仕事においてわれわれを鼓舞している力と同じものです。私たちは自分のことは何も欲していません。

名誉も求めません。ひたすらお役に立ちたいと望み、神の子等が、霊と精神と身体とが調和的に機能した時に得られる充足感、豊かさ、美しさ、生きる喜び、こうしたものを味わえるようになる生き方をお教えしようとしているのです。

あなた方は自分を役立てる掛けがえのない好機を手にしていらっしゃいます。そして他人のために自分を役立てることほど偉大な宗教的行為はないのです。

 それは神の愛の働きにほかなりません。このたびこのデンマークの地に世界のスピリチュアリストの代表が総結集し、神の計画の推進のための会議をもつことになったのも、その愛、その叡智、その霊力の働きによるのです。

 ですから、時として闘いが酷しく、長く、ともすると投げやりな気持ちになりそうなことがあっても、決して挫けてはなりません。もしも挫けそうになった時はいったん物質界から身を引くことです。

気持ちの流れを止め、精神を統一して、内部の霊的バッテリーが充電される状態にするのです。一新された生命力、一新された元気、そして一新された目的意識をみなぎらせるのです。かくして元気百倍して物的世界に戻り、仕事を続けるのです。

 本日はこうしたメッセージをお届けする機会をこの私にお与えくださったことを感謝いたします。これは私個人の考えではありません。私をこの地上に派遣した霊団からのメッセージを私が取り次いだまでです。私と同じように他の多くの霊が地上へ派遣されており、皆さんとの協調関係を通じて、いかにわれわれが神の計画において一体であるかを理解していただくように配慮してくださっているのです」


───われわれの運動も内部に大きな問題を抱えております。本来なら団結すべきところでそれがうまく行かず、ために強力な態勢が整いません。何とかそれを改善するよい方法はないかというのが私の大きな関心事なのですが、何かよいコメントをいただけますでしょうか。

 「団結というのはそう簡単には成就できないものです。命令によって強制できる性質のものではありません。理解力の発達とともに徐々に達成していくほかはありません。問題は、人類の一人一人が知的にも道徳的にも霊的にも異なった発達段階にあることです。一つの共通した尺度というものがないのです。

あなた方の仕事においてさえも、各自の霊的進化のレベルが異なるという、その単純な事実に由来する衝突がたくさんあります。

 霊的覚醒というのは霊性の進化とともに深まるものです。となると、あなたが高級霊との一体関係を確立しても、あなたと同じ発達段階に到達していない者がそれに参加することができないのは明白なことです。したがってあなたはあなたとして活用しうるかぎりの手段を駆使して最大限の成果をあげることに努力するしかないわけです。

 この問題は私たち霊界の者にとっても無縁の問題ではありません。私たちも常に同じ問題に直面しているからです。私たちは地上の人間を道具として仕事をするのですが、その中には霊界側として期待している水準にまで達しない者がいます。しかし、それはそれとして最善を尽くすしかないのです。

 そうした事情のもとでも、光明が次第に広がりつつあることに皆さんもいずれ気づかれるはずです。大切なことは、このたびのように伝統も環境も異なる世界各地から、言語も考えも異なる代表が一堂に会する機会をもつことです。その場で、たとえば他の国での成果を知って、それを後れている国の人がよい刺激とすることができます。

  案ずることはありません。あなた方は自分なりの最善を尽くせばよいのです。もうこれ以上はできないというところまで努力したら、それ以上はムキにならず、あとは私たちに任せる気持におなりなさい。人間は自分にできるかぎりの努力をしていればよいのです。それ以上のことは要求しません」


 ───でも、何かよい秘訣のようなものはありませんか。


 「真理を理解するということ以外に秘訣はありません。たとえば再生の問題は人間には解決できない難問の一つです。人間はすぐに〝証拠〟にこだわりますが、再生は証拠によって確信が得られる性質のものではありません。証拠などといっても、ただの用語にすぎません。確信というのは内部から湧き出てくるものです。

魂に受け入れ準備が整えば理解がいきます。その理解こそ大切で、それが唯一の確信です。科学は刻一刻と変っていき、その領域を広げつつあります。知識というものは固定したものではありません。一方、確信というのは真理と遭遇した時に湧き出る内的な悟りです。

 この再生に関しては地上では、当分の間、意見の一致は見られないでしょう。理解した人にとっては至って単純なことであり、容易に納得がいきます。一方、理解できない人にとっては、ひどく難しく思えるものです。ですから、忍耐強く待つことです。意見の一致が得られないからといって組織がつぶれるわけではありません。

 何につけ、議論することは結構なことです。意見が衝突することは結構なことです。自然は真空を嫌うと言います。惰性は自然の摂理に反します。作用と反作用は正反対であると同時に相等しいものであり、同じエネルギーの構成要素です。立ち止まってはいけません。

大いに議論し討論し合うことです。沸騰した議論がおさまった時、そのつぼの中から真実が姿を現すことでしょう」


 ───再生について今ここで語っていただけませんか。

 「実は私みずからが、みなさん方が体験しておられる難しさを味わっております。私は再生を認めておりますが、このバーバネルは認めようとしません(※)。自分の道具すら説得できないでいて、他の人を説得できるわけがないでしょう」

(※)これはシルバーバーチとバーバネルとが別人であることの証拠としてよく話題にされたものであるが、晩年はバーバネルも得心していた。なおこのコペンハーゲンでの交霊会がいつ行われたかは記されていない───訳者)


───事実か事実でないかだけでもおっしゃっていただけませんか。

 「得心した人にとっては事実です。得心しない人にとっては事実ではありません」(真理の本質をついた名答というべきであるが、それにしてもなぜ要求にまともに応じなかったのか。私が思うに再生問題はスピリチュアリストの間でも異論の多い問題で、肯定派の中にさえさまざまな再生論があって、ここでシルバーバーチが一方的に述べることはISFの内部に余計な波風を立てることになることを案じたのであろう───訳者) 


───異なった信仰に対する態度はどうあるべきでしょうか。われわれに信仰を押しつけようとする者に対して寛大であるべきでしょうか。それとも我が道を行くの態度で相手にしない方がよろしいのでしょうか。

私の考えではスピリチュアリズムはキリスト教に対してその活動については寛大でありつつも、スピリチュアリズムの霊的真理そのものは浸透させて行くべきだと思うのです。真実の信仰に欠ける者にスピリチュアリストが正しい宗教性を植えつけていくべきだと考えます。

 「スピリチュアリズム、スピリチュアリズムとおっしゃっても、それはただの用語にすぎません。私たちは用語には関心はありません。用語とは概念や実在をくるむための道具にすぎません。私たちの関心は霊力、神の力───私はそれを大霊と呼んでいるのですが───それが地上に根づくことです。どこでもよいのです。それが私たちの努力の背後の目的です。

 なぜ霊力を根づかせようとするのか。それは、霊力には魂に感動をもたらし、真の生命に目覚めせる力があるからです。どこであってもよいのです。教会の中であっても、外であっても、家庭内でもいいのです。目的とするのは一人一人の魂です。

 物的惰眠から目覚める段階まできた魂は、あなたの行動範囲にみずからやってくるか、あるいはあなたの方から訪れて、魂のタネが蒔かれることになります。そのように導かれるのです。それでもし失敗したら、ひそかに涙を流してあげなさい。

自分のためにでなくその人のためにです。その人は絶好のチャンスを目の前にしながら、それをとらえ損ねたのです。

 しかし、そうこうしているうちに、そこかしこにタネの根づきやすい魂がいることが分かります。やがて芽を出し、花を咲かせ、急速に美しさと優雅さとを増していきます。そのタネに神性が宿されているからです。かくしてその魂は真の自我を発揮しはじめたことになります。

 地上生活のそもそもの目的は人間が身体的・精神的・霊的の全側面を活用して生活することであり、その三つの側面が機能するに至るまでは本当の意味で生きているとは言えません。身体と精神のみで生きている間は影と幻を追い求め、実在に気づかずにおります。

霊的自我が目覚めてはじめて、驚異的な霊的可能性と冒険への扉が開かれます。地上という物質の世界へ生まれて来たのは、その霊的自我を開発するためです。

 ですから、その目覚めがどこで生じるかは重要ではありません。重要なのは魂が目を覚ますということ、そのことです。地上生活に悩みと苦しみが絶えないのはそのためです。悩み苦しみ抜いた末に、もはや物的なものでは救いにならないと観念した時に、霊的なものへ目を向ける用意ができたことになります。

 〝風は気ままに吹く〟(ヨハネ)と言います。真理の風をどこにでも気ままに吹かせればよいのです。受け入れる用意のある魂にあたった時に存分に力になってあげることです」




───霊媒現象とスピリチュアリズムの活動のあり方をこれからどう改めて行くべきかについて何かアドバイスをいただけますか。

 「つねに新しい側面が台頭しています。物理的心霊現象が徐(おもむろ)に後退し、心霊治療と霊的教訓という高等な側面がそれと取って代わりつつあります。地上の人間の進化のサイクルが変わりつつあるからです。あなた方は霊的に導かれるままに進まれるがよろしい。霊的進歩には型にはまった様式はありません。

今日まで導いてきてくれた力を信じて一身を預けることです。その力こそ、地上のあらゆる物的財産に勝る珠玉の知識をもたらしてくれた力です。ひたすらに前向きに歩まれることです。どこにいても最善のものを施すことです。かならずや導かれ、援助を受けます」



───私は南アフリカのさまざまな言語集団と霊界とのつながりに関心をもっている者ですが、霊界にはこうした集団との接触において使用するバイブレーションの調整システムのようなものがあるのでしょうか。

 「それは問題を抱えている国の人たちがみずからの力で処理すべきことです。言語というのは思想・信念・想像、その他、内的な実在の諸相を表現するための人工的手段にすぎません。実在を適確に表現する言語は、いくら考えても見つかりません。要は魂に訴えるために最善を尽くすことです。

感動を与えるのです。悲しんでいる人を慰め悩んでいる人の心を癒すようなメッセージを届けて、魂を目覚めさせるのです。その魂に受け入れる用意があれば、きっと成果が出ます。受け入れる用意がなければ何の成果も出ません。

 こうした問題には楽な解決策はありません。試行錯誤がほとんどです。私たちとて完全ではないのです。霊的交信、霊力の扱い方、霊媒の成長と進化にともなう各種エネルギーの調整の仕方について、絶え間なく新しいテクニックを開発しております。

固定した形式があるわけではありません。すべてが流動的です。なぜかと言えば、霊そのものが無限であり、したがって無限の顕現の可能性を秘めているからです。

 ご質問に対してご期待にそった答えにならなくて申しわけありませんが、私としては以上のようなお答えしかできません」


─── 一般世間への普及活動において私たちは何か大きな間違いを犯していないでしょうか。もし犯していたらご教示をお願いしたいのですが・・・・・・

 「もしもあなたが何一つ間違いを犯さない人だったら、あなたは今この地上にはいらっしゃらないはずです。間違いを犯す人間だから地上に来ているのです。しくじってはそこから教訓を学ぶのです。もしもしくじらないほど完全な人間だったら、物質界に生まれてくる必要はありません。

勉強のために地上へ来ているのです。しくじっては学ぶ───それが進化の法則の一環なのです。しかも進化はどこかでおしまいとなるものではなく、限りなく続く営みなのです。その目的は完全性の成就です。が、

その完全性がまた無限の性質のものであり、いつまでたっても成就できないのです。完全を成就しているのは大霊のみです。無限なる愛と無限なる叡智の権化なのです。

 完全性が増せば増すほど、さらにその先に成就すべき完全性があることに気づきます。これが完全、という静止した状態ではありません。進化の法則はありとあらゆる段階を通じて働いており、それらがすべて連動しているのです。

人間の身体上の進化も、地上の科学者がどう言おうと、まだ終わったわけではありません。まだまだこれから開発されるべき表現形態があります。

同様に、精神的ならびに霊的進化も、この地上にあってさえ、三位一体の部分的側面として、到達すべき段階に至るにはまだまだ前途遼遠です。

 要するに進化とは地上においても全宇宙においても無限の過程であり、そのこと自体が宇宙の全機構を案出した無限の知性の存在の証明であることを認識してください。その知性が絶対に誤ることのない法則によって統治し、ありとあらゆる側面を導き、支え、そして規制しているのです。

 われわれはその愛と法則と叡智の機構の中に存在しているのです。間違いを恐れてはいけません。そこから学び、刻一刻と霊的に成長していくのです」



 ◎ N・F・S・H (英国心霊治療家連盟)における講演と一問一答

 「心霊治療の目的はいたって単純です。魂の琴線に触れるということです。身体は癒えても魂が目覚めなかったら、その治療は失敗だったことになります。たとえ身体は治らなくても魂に何か触れるものがあれば、その治療は成功したことになります。

他はいざ知らず、われわれに関するかぎり、霊のもつ才能、霊の力は、神の子の一人一人が有する神性を目覚めさせ、地上に生まれて来たことの意味を理解させるために使用すべきです。

 それが霊的能力の諸相の背後にある目的です。ですから、患者に身体上の好転が見られなくても少しも落胆することはありません。むしろ、身体上の病状は改善したのに、その患者が霊的な実在に何の関心を見せなかった時こそ落胆すべきです。それが病気が治るということの背後に秘められた究極の目的だからです。

 霊界にあっても私たちは一丸となって、地上の各地に拠点をもつ霊力が、受け入れる用意の出来ている者に間違いなく届けられるように地固めをしております。目指す目標は必須の要素すなわち自分とは一体何者なのか、何の目的でこの地上に存在しているのかについての自覚を植えつけることです。

簡単に言えば、自分の霊的宿命を成就するために自分の霊的起原を知ってほしいということです。

 治病能力は霊的身体のみが有する霊的能力の一つです。霊の目で見る霊視能力、霊の耳で聞く霊聴能力と同じです。ですから、治療家としての仕事をするには霊力のお世話にならねばなりません。

 ここで用語についてはっきりさせておきましょう。私が 〝大霊〟 と言う時、それは無限の知性であり、全生命の究極の裁定者であり、叡智と真理と理解力の極致です。人間的存在ではありません。ただ、それを表現する際にどうしても〝彼〟 とか 〝あなた〟 といった人称代名詞を使用せざるを得ませんが、大霊は神格化された人物ではありません。

生命力であり、原動力であり、活性力であり、意識であり、生気です。そうした原理の精髄です。無限なものです。したがって霊力も無限です。それは誰の占有物でもありません。通路となりうる人なら誰にでも流れます。キリスト教やクリスチャン・サイエンスはもとよりのこと、あなた方でも治病能力を独占することはできません。

 それを受け入れる能力をお持ちのあなた方に出来ることは、その能力をさらに発達させること、つまり受容能力を増し波長を高めることだけです。霊力そのものは無限に存在します。それをどれだけ受け入れるかは、あなた方自身の進化と発達の程度によって決まるのです。

あなた方を通じて流れる霊力の限界はその受容能力によって決まるのです。簡単なことなのです。あなた方の受容能力が増せば、それだけ多くの霊力があなた方を通して流れ込み、それだけ大きな成果が得られるということです。

 流入する霊力の分量に限界というものはありません。唯一それに制限を加えているのはあなた方治療家の霊的発達段階であり、それが、どれだけの霊力を受け入れるかを決定づけます。

この聖なる力、神の威力、大霊、生命力、どう呼ばれても結構ですが、それがあなた方を通路として流れるのは、あなた方に受容能力があるからです。それを患者へ届けてあげなければならないわけです。

 改めて初歩的なことを申し上げて恐縮ですが、病気・不快・異状の原因は調和の欠如にあります。健康とは全体の調和が取れている状態のことです。身体と精神と霊との間に正しいリズムとバランスが取れていることです。

三者の連繋がうまく行っていない時、どこかに焦点の狂いが生じている時、自然の生命力の流れが阻害されている時に病的症状が出るのです。霊力が流れず、本来の機能を果たしていないからです。

 人間の病気はサイコソマティック、つまり精神と霊に原因があってそれが身体に表れております。経験豊かな皆さんには私から申し上げる必要はないと思いますが、心配ばかりしていると胃潰瘍になります。が、かいよう部分を切除すれば心配しなくなるわけではありません。ですから心配しないような生き方を教えてあげないといけません。
  
 病気の大半は精神と霊から生じております。いわゆる人身事故でさえ精神ならびに霊的原因から発生していることがあるのです。これは皆さんにとってはとても理解しがたい難題であろうかと思いますが、では治療家としてはどうすべきか。

 患者の意識の中枢である霊に注がれる霊力を、治療霊団から受け取るのが治療家の仕事です。言わばバッテリーです。枯渇している生命力を充電してあげる通路です。それが障害物を取り除くのです。それがバランスを取り戻させるのです。リズムが整い、調和よく機能するようになるのです。

 そのとき治療が効を奏したことになります。霊力が魂にまで及ぶからです。ここが大切な点です。患部に置いた手が治しているのではありません。手をおくことは接触のための手段の一つにすぎません。

 治療家の霊的発達の程度いかんによっては、それが必要である場合もあれば必要でない場合もあります。肝心なのは魂にまで及ぶということです。魂にカツを入れて居眠りの状態から目を覚まさせ、自我の発見という本来の目的を意識させるのです。

 それさえうまく行けば、身体にある自然治癒力が機能を発揮して健康状態を取り戻します。その時はじめて治療家は、大霊すなわち神の通路としてその霊力を受け入れ、それが自分を通過して患者の魂の中の神を呼び覚まし、はじめて真の自我を意識させるという機能を見事に果たしたことになります。

 心霊治療というのはそういうものなのです。ここで改めて皆さんに申し上げます。たいへん改まった真剣な気持ちで申し上げますが、あなた方治療家の責任はきわめて重大です。真理を知るということは、それに伴って責任というものも付加されるのです。神聖な才能を授かるということは、それを本来の神の意志にそって使用するという責任が伴います。

 心霊的(サイキック)な能力と霊的(スピリチュアル)な能力とは違います。心霊治療家にもサイキック・ヒーラーとスピリチュアル・ヒーラーとがあるわけです。後者の場合は生活態度を可能なかぎり理想に近づける努力をしなければなりません。能力はあっても、それをどこまで開発するかは治療家自身の責任です。

それをいかなる目的に使用するかについても責任があります。なぜなら、その能力を授かったということは神の使節の一人であることを意味するからです。

 皆さんはどこの教会、どこの聖堂の司祭よりも、真実の意味での神の司祭でいらっしゃいます。神の霊力があなた方を通過して届けられるという点において、神の名代をつとめておられるのです。これは大へん責任の重い仕事です。それを汚すようなことがあってはなりません。傷つけてはなりません。

不名誉となるようなことをしてはなりません。腐敗させてはなりません。間違った動機から使用してはならないということです。ただひたすら自分を使っていただくという気持ちで、可能なかぎり理想を目指して努力していればよいのです」


 ───霊力がそちらで準備される過程を教えて頂けませんか。患者の特殊な症状に応じて調合される治癒力です。

 「とても説明が困難です。非物質的なエネルギーを表現する適切な用語が見当たらないのです。こう理解してください。霊力とは生命力であり、生命の素材そのものであること、活力であり無限に存在すること、可変性があり、無限の形態をとることができ、無限の置きかえと組み合わせが可能である、ということです。

 こちらの世界にはさまざまな程度の知識と経験と理解力をもつ霊が控えています。地上の化学者、科学者に相当する霊もいます。この生命力、霊のエネルギーのさまざまな性質を、あなたが使用された用語で言えば、特殊な症状に合わせて 〝調合〟 するのです。これはなかなかよい表現です。通路である治療家を通じて可能なかぎり症状に合った調合をする研究を絶えず重ねております。

 これ以上の説明はできそうにありません。治療家のもとを訪れる患者によって、一人一人、治療法が異なります。患者のオーラも大へん参考になります。オーラには病気の根本原理である霊的ならびに精神的状態が正直に表れているからです。それによって調合の仕方を考えます」


 ───それには霊界の担当医たちの精神的(メンタル)な努力を要するのでしょうか。

 「(人間が考える意味での)メンタルという用語は不適切です。実体のある作業だからです。実際に混合するのです。こちらの世界にもあなた方のいう化学物質に相当する霊的素材があります。もちろん精神(マインド)も使用します。霊界では精神がすべてをこしらえる上での実体のある媒体だからです」


 ───遠隔治療が可能であることを考慮すると、直接治療においてその治癒力を受けるのに、治療家の身体または霊体はどの程度まで使用されているのでしょうか。

 「遠隔治療にも治療家の霊体を使用しなければなりません」


 ───その過程を説明していただけませんか。 

 「治療家はテレビジョンとよく似ています。霊的なバイブレーションが治療家に届けられると、治療家(の霊体)を通過する際に半物質的治療光線に転換されて、それが患者に送られます。治療家は変圧器です」


 ───遠隔治療でも同じですか。

 「同じです」


 ───それがどうやって患者に届けられるのでしょうか。 

 「患者が治療を要望したということでつながりが出来ております。思念によって治療家へ向けてのバイブレーションが生じます。そこに絆が出来たわけで、そのバイブレーションに乗って治療力が患者に送られるのです」


 ───自分のために遠隔治療が行われていることを知らない場合はどうなりますか。

 「患者と関わりのある誰かが知っているはずです。そうでなかったらその患者に向けて治療が行われるわけがないでしょう」


 ───治療家がその患者の病状が悪いことを知って一方的に遠隔治療を施してあげる場合もあるでしょう。

 「それだけでもう絆ができております」


 ───でも患者の方から思念が出ていません。

 「いえ、出ております。治療家がその絆をこしらえております。こちらの世界では思念に実体があることを忘れてはなりません。私があなたを見る時、私にはあなたの身体は見えません。霊媒の目を使えば見えるかも知れませんが。

私たちにとって実体があるのは思念の方であり、実体がないのは身体の方です。あなたが思念を出せば、それがたちどころに実在物となるのです。それがバイブレーション───波動をこしらえます。それが遠隔治療で使用されるのです」


 ───心霊治療を受ける上で信仰のあるなしは関係ないということは理解しておりますが、患者が邪悪な思念を抱いていると、それが治療を妨げると考えてよろしいでしょうか。

 「私は信仰をもつこと自体は反対していません。それが理性を土台としていて、盲目的でなければ結構です。スピリチュアリズムの思想を正しく理解された方なら、手にされた真理は全体のほんの一かけらにすぎないことはご存知と思います。

肉体に閉じ込められているあなた方が全真理を手にすることは不可能なことです。霊界へ来ても同じことです。となると、手にした限りの知識を土台とした信仰を持たねばならないことになります。

 さて、そうした知識を土台とした理性的信仰を持っていることは大いに結構なことです。そのこと自体は何ら問題はないと思います。それが治療にとって好ましい楽観的な雰囲気をこしらえるからです。

霊力は明るく楽しい、愉快な精神状態の時にもっとも有効に作用し、反対にみじめで疑い深く、動揺しやすい心は、霊的雰囲気をかき乱して治療の妨げとなります」


 ───オーラを見る能力のない治療家は、治療がうまくいっていることをどうやって知ればよいのでしょうか。

 「治療家に患者のオーラが見えるか否かは問題ではありません。症状の診断ができるか否かも問題ではありません。そういうことにこだわってはいけません。要は霊が使いやすい状態になることです。

道具としてなるべく完全になることを心がけることです。完全な道具としてマイナスの要素となる人間的弱点を極力排除しなくてはなりません。そう努力することで霊力が豊富に流れるようになります。背後霊団との協調関係を決定づけるのは治療家の日常生活です」


 ───サークル活動に参加できる治療家は能力を開発する上で勉強になりますが、そういう機会に恵まれない人のために何かアドバイスをいただけないでしょうか。それと、交霊会に出席することは治療家にとって不可欠でしょうか。

 「あとのご質問からお答えしますと、これにはきっぱりと 〝ノー〟 と申し上げます。霊の能力はあくまで霊の能力です。それを授かって生まれてきたのであり、授かった以上はそれを発達させる責任があります。ピアニストとしての才能をもって生まれた人は練習と鍛錬によってそれを発達させなければならないのと同じです。

では治療能力はどうやって発達させるか。その答えはサークル活動に参加することではありません。それもプラスにはなります。心に宿す動機も発達を促します。日常生活の生き方によっても発達します。可能なかぎりの純粋性と完全性を目標とした心がけによっても発達します。できるだけ良くしてあげたいという願望を大きくしていくことによっても発達します。

 自我を発達させる唯一の方法は自我を忘れることです。他人のことを思えば思うほど、それだけ自分が立派になります。よい治療家になる方法を教えてくれる書物はありません。

ひたすら他人のために役立ちたいと願い、こう反省なさることです───〝神は自分に治病能力を与えてくださったが、果たしてそれに相応しい生き方をしているだろうか〟と。これを原理として生きていれば、治病能力は自然に力を増し質を高めていきます」


 ───治療家によって力に差があるのはなぜでしょうか。

 「話の上手な人と下手な人、ピアノが上手な人と下手な人、文章のうまい人と下手な人がいるのと同じです。才能がそれだけ開発されているということです」


 ───もし治療家が病気になった場合は他の治療家にお願いすべきでしょうか。それとも自分で治す方法があるのでしょうか。

 「他の治療家にお願いする必要はありません。それよりも、いつも使用している霊力を直接自分に奏効させる方法を工夫すべきです。神に祈るのに教会まで行く必要がないように、霊力を自分自身に向けることが出来さえすれば、治療家のところへ行く必要はありません。そのためには自分の心、自分の精神、自分の魂を開かないといけません」



 ───医者は大病にもストレスや仕事上の心配が原因であるものがあると言っております。そうしたケースでは(身体と精神と霊の)不調和はどの程度まで関わっているのでしょうか。

 「あなたがおっしゃったことは私が別の言葉で言っているのと同じことです。あなたは仕事上の心配と呼んでおられますが、それは私のいう不調和状態のことです。精神と肉体と霊とが正しい連繋関係にあれば、仕事上の心配も、そのほか何の心配も生じません。心配する魂はすでに調和を欠いているのです。

霊的実在についての知識を手にした者は心配をしてはなりません。取越苦労は陰湿な勢力です。進化した魂には縁のないものです。あなたはそれを仕事上の心配と呼び、私は不調和状態と呼んでいるのです。自分が永遠の霊的存在であり物質界には何一つ怖いものはないと悟ったら、心配のタネはなくなります」


 ───なぜ治らない人がいるのでしょうか。

 「それはその人が霊的にまだ治る資格がないということです」


 ───いったん遠隔治療のための絆ができても、次の治療の時はまた改めてこしらえる必要があるのでしょうか。

 「いったん出来たら、もうその必要はありません。霊界との絆は磁気的なものです。いったん出来あがったら二度と壊れることはありません」


 ───ということは、どこにいても同じということですね。教会にいても駅にいても。

 「霊の世界には地理的な〝場〟というものがありません。常に身のまわりに存在しております。教会にいるからとか、地中深く掘られた採掘所にいるからとか、あるいは飛行機に乗って空高く上がったからといって、それだけ神に近くなっているわけではありません」


 ───地上世界に具現化するものは、その存在の基盤として思念が先行していると言われております。言えかえれば、われわれは思念的素材を製造していることになるわけですが、すると治療家が患者に対した時には完治するという思念を抱いて、完全な健康のイメージをもつことが治療にプラスになるのでしょうか。

 「大いにプラスになります。なぜなら、思念には実体があるからです。完全な健康状態のイメージを強くもてばもつほど、その成就へ向けて近づくことになります。あなた方もその理想へ向けて不断の努力をすべきです。最高のものを心に画くべきです。絶対に希望を棄ててはいけません。常に朗らかで楽観的な雰囲気を出すべきです。そうした条件が最高の成果を生みます」


 ───さきほど治らない患者はまだ治る資格がないからだとおっしゃいましたが、それだけでは単純すぎるように私には思えるのです。それでは悪人はいつまでたっても治らず、善人はいつでも治るということになるからです。

 「そんな単純なものではありません。それは皮相な見方です。問題を霊の目で見ていらっしゃらないからです。たとえば苦難は人間から見ればイヤなものでしょうが、私たち霊の立場から見れば実に有難いことです。凶事に出遭うと人間は万事休すと思いますが、私たちの目から見ると、それが新たな人生の始まりであることがあります。

 善とか悪とかの用語を物的価値基準に基づいて、あたかも善人という人種、悪人という人種がいるかのような言い方をしてはいけません。私たちの価値基準はあなた方とは必ずしも同じではありません。

私は、治るためにはそれだけの霊的な資格がなければならないと申し上げているのです。善人とか悪人とかは言っておりません。魂が真の自我に目覚めれば治る資格ができたことになります。そのとき治療が効を奏します」


 ───たとえその資格ができていても、純粋に身体上の理由から治らないこともあるのではないでしょうか。たとえば視神経が完全に破損されて眼が見えないという場合です。自然の摂理からすれば、いくら心霊治療でも、まったく新しい視神経をこしらえることはできないと思います。

 「今われわれは奇跡の話をしているのではありません」


 ───おっしゃる通りですが、ただ私は、あなたが 〝不治〟 の場合の理由をあまりに大ざっぱにおっしゃっているように思えたものですから・・・・・・

 「私が申し上げているのは、治る可能性のある病気が治らない場合、それはその患者にまだ治るための霊的資格ができていないからだということです」


 ───赤ん坊が両脚とも奇形である場合に、一方の脚は治ったのにもう一方の脚に何の反応も生じないことがあります。なぜでしょうか。

 「それぞれの脚にそれぞれの原因があって、同じ治療法では治せないということです。一つ一つ治療法が異なります。それぞれの事情に合わせた治療が行われます。それぞれに特徴があります。こうした問題を地上の皆さんのためにできるだけ平易に申し上げようとすると、とても骨が折れます。

他にもいろいろと考慮しなければならない条件があるのです。奥に隠れた原因があってそれに絡んだ霊的摂理が働いており、さらにその奥にも次元の異なる摂理が働いているのです。

 心霊治療は見かけほど単純ではないのです。ただ患部を治せばよいというものではありません。評価されるのは魂に関わることです。魂にいかなる意味が及ぶか、治療がいかなる意味をもつことになるか。なぜその患者は心霊治療家のもとを訪れたのか、その患者は魂が目を覚ます霊的進化の段階に到達しているか。

 こうしたことは物的尺度では測れないことばかりです。が、心霊治療にはそれらがすべて関わっているのです。なぜなら、治療にたずさわっている間は生命力そのものを扱っているからです。ということは、宇宙の永遠の創造活動に参加しているということになります。私が治療家の責任の重大性を強調する理由はそこにあります」


 ───てんかんの原因は何でしょうか。

 「脳に障害がって、それが精神による働きかけを正しく受け取れなくしているのです」


 ───治せるのでしょうか。

 「もちろんです。病気はすべて治せます。〝不治の病〟というものはありません、治してもらえない人がいるだけです」

 
───私が遠隔治療を依頼されたケースが三つないし四つあるのですが、不幸にして成功しませんでした。少なくとも私はそう考えております。いずれの患者もそのまま他界されたからです。

 「それはもしかしたら最高の成功だったと言えるかも知れませんよ。他界に際して何らかの力になることができたら、それは治療として成功といえます。

治療の目的は地上での寿命を引き延ばすことではありません。目的は霊との接触です。それがいちばん大切です。そのいちばん大切なことを第一の目標になさい。大切なのは霊です。霊が正常になれば身体も正常になります」


 ───わずか数分で治してしまう治療家がいると知って驚いているのですが、治療家によっては二時間とか数週間、あるいは数か月、時には何年もかかって、それでも良くならないというケースがあります。なぜでしょうか。
 
 「果を見て木を知るべしです。大切なのは結果です(※)。治療家は背後霊団との最高の調和関係を目指して日常生活を律するべきです。そうすれば必ず良い成果が得られます。あなた方は身を正すことだけを考えて下さい。あとは私たちがやります。援助の要請が拒否されることは決してありません。

霊力を出し惜しむようなことは絶対にいたしません。私たちは常にお役に立つための努力を重ねております。人を選り好みしません。すべての人を歓迎します。霊力はすべての人に恩恵をもたらすべく存在しているのです。私たちが欲しいのは、よろこんでその霊力の通路となってくれる道具です」


(※私が親しくしていた治療家の一人のM・H・テスター氏もこのNFSHの会員で、たぶんこの日の会合にも出席していたものと推察しているが、そのテスター氏が〝奇跡的治療というと人は一発で治る場合を想像するが、たとえ半年かかろうと1年かかろうと、医学的に不治とされたものが治れば、それも立派に奇跡である〟と述べている───訳者)


 ───心霊治療によって回復した人が間もなく他界することがあります。なぜでしょうか。

 「あなた方はなぜ死ぬということをそんなに悪いことのように考えるのでしょう。私たちの世界では仲間が地上へ誕生して行った時に泣くことがあります。地上を去ってこちらへ来ると手を取り合って喜びます。地球を離れることがなぜ悲劇なのでしょう」


───精神に異状のある方は本当に気の毒でならないのですが、治療家として無力であることを痛感させられています。

 「精神上の病も治すことができます。身を私たちにあずける───あなたに要請されるのはそれだけです。ご自分を通して霊力が流れるようにするのです。じかに治療できない人には遠隔治療を施してあげなさい。霊的治療はもはや地上に根づいております。退散することは決してありません。

あなたもあなたなりの貢献ができます。しかも、とても重要な役割です。忘れないでいただきたいのは、無限の進化の計画の中において、あなたも神聖なる通路としての神のお役に立っているということです。光栄この上ない仕事です。が、それだけに責任も重いということです」


 ◎ S・A・G・B (大英スピリチュアリスト教会)における講演と一問一答

 「本日お集まりの皆さんは霊的実在についての知識をお持ちの方ばかりです。ですから私からその大切さ、特に今日の世界における掛けがえのない重要性を強調する必要はありますまい。

 私は可能なかぎり皆さんのお力になるつもりでおります。私の申し上げることのすべてに同意なさらないかもしれませんが、真実の同胞関係というのは、お互いの意見が完全に一致しなくても愛し合えるということです。

皆さんは霊の力がさまざまな形態で顕現していることをよくご存知とはいえ、肉体に閉じ込められているが故の厄介な問題の一つとして、正しい焦点を定めることが難しいことがあげられます。つまり霊力というものが適切な通路を得た時の影響力がいかに実感あふれるものであるかについて、共通の認識が得られないことです。

 もしも私がかりそめにも地上の住民としての義務───家族への責任および共存共栄関係にある他人への責任───から逃れさせるようなことを口にしたら、他にどんなに立派なことを説いても指導霊として落第であることになりましょう。

しかし率直に申し上げさせていただけば───素直に言い合うことが協力の基本だと思うからこそですが───皆さん方は俗世間的な問題に関わりすぎており、そうした問題のすべての解決のカギである霊の力を十分に活用していらっしゃいません。

 このことを私は、私たち霊団の協力者である皆さん方───われわれの関係は主と従ではありません。対等の協力者です───そして地上の使節としてその任に恥じない生き方を望んでおられる皆さん方に、最大限の誠意と謙虚さをもって申し上げたいと思います。皆さんのような霊的知識を手にされた方が悩んだり、心配の念の侵入を許して取越苦労をするようではいけません。

霊的知識があるからこそ、いかなる心配、いかなる悩み、いかなる不安にも、皆さんの精神的・身体的・霊的環境の中への侵入を許してはならないのです。心配、悩み、不安───こうしたものは援助の力の通路そのものを塞いでしまいます。

 哀悼者の悲しみの念が壁となって他界した霊を近づけなくするように、気苦労のバイブレーションに取り囲まれてしまうと精神的・霊的雰囲気が乱されて、ますます霊を近づきにくくします。皆さんは愛に動かされた霊によって導かれているのです。それは地上の血縁や愛情あるいは友情によって結ばれている場合もありますが、それとは別に、

かつて皆さんと同じ道を歩み、今なお皆さんを通してその仕事に関心を持ち続けている霊である場合もあります。そうした霊のさらに背後には無私の博愛心に燃える高級霊の大軍が控えているのです。

 美と豊かさと荘厳さと威厳と光沢と気高さと光輝とにあふれた霊力そのものには際限というものはありません。ただ、人間がこしらえる条件によって制約されるのみです。

どうか信念に裏打ちされた、とらわれのない通路、安易に信じるのでなく、これまでに得た知識を基盤とした信念───進化の現段階では無限の知識を手にすることが不可能である以上どうしても必要となる信念に燃えた通路であってほしいのです。

 知識を基盤とした信念に燃えてください。皆さん方の一人一人が霊の導きによって今日まで苦難と危機と困難を乗り切ってこれたのです。振り返ってごらんになれば、その導きの跡が読み取れるはずです。

そこで、人間的煩悩ゆえに時には背後霊を手こずらせることはあっても、これほどのことをしてくださった背後霊が自分を見放すはずはないとの信念に燃えなくてはいけません。

 われわれは霊的真理の崇高なる啓示にあずかった、本当に祝福された者ばかりです。それ故にこそ、その知識に伴う責任に恥じない仕方をしようではありませんか。

 過去はもう過ぎ去ったのです。これまでに犯した間違いはお忘れになることです。皆さんは間違いを犯しそれから学ぶために地上へやって来たようなものです。過ぎ去ったことは忘れることです。大切なのは今現在です。

今、人のためになることをするのです。どんな形でもよろしい。自分の置かれた物的環境条件から考えて無理でない範囲のことを行えばよろしい。先のことをあまり考え過ぎてはいけません。

皆さんが皆さんの役目を果たしていれば、私たちは私たちの役目を果たします。そして、そうした協調関係の中では絶対に挫折はないことをお約束いたします。

 この建物の中でどれほどのことが為されているかは、皆さんは知ることができません。私たちにとっては神聖な場所です。ここには愛の働きがあり、悲しみの涙が拭われて確信の笑みに変っております。病の人は癒され、悩める魂は内なる静寂の芳香を見出しております。それを皆さん方は測り知ることができません。魂へ及ぶ影響を測るはかりがないからです」


 ───霊の指導によって行われる範囲と人間の努力によって行うべき範囲について教えて下さい。

 「私たちも一定の法則の範囲内で仕事をしなければなりません。霊にもできることとできないこととがあるということです。その法則による制約は人間よりはるかに厳格です。

私がこれまでいちばん辛い思いをしたのは、私の愛する者が危機のさなかにありながら何も手を出さずに一歩さがって控え、自分で工夫するにまかせ、どちらの道を選ぶかをじっと見守っているしかなかった時です。

それがいちばん本人のためであるとの判断があったからです。助言を求められても〝ここは一つご自分の判断でやってごらんなさい。どれだけうまく行くか試してごらんなさい。その判断はあなたの霊的進化の成就のすべてが掛かっているのですよ〟と申し上げなければならないこともよくあるのです。

 私たちの関心は霊的な結果です。きたんなく言わせていただけば、あなた方は物的な結果だけを見つめておられることが多すぎます。この連盟の歴史を振り返ってごらんになれば、霊の導きが決して少なくないことがお分かりになるはずです。

 私たちが基本的原理のいくつかを確信をもって明言できるのは、それらが永遠の実在に基づいているからにほかなりません。もしも地球が地軸上の回転をやめるような事があったなら、あるいは汐が満ちるべき時に満ちてこず引くべき時に引かないようなことがあったなら、あるいは又、星雲が回転のパターンからはずれるようなことがあったら、

私はこれほどの確信をもって説くことはできないでしょう。が、大霊は全知全能であり、その霊力の働きは完全無欠です。そこで私はその霊力に全幅の信頼を置く者に決して挫折はないと確信をもって申し上げるのです」


 ───さきほどあなたは、一歩控えて思いどおりにやらせるほかはないことがあるとおっしゃいました。その人には好きな道を選ぶ自由意志があるわけですが、もしもその人が自由に行動してそれが仕事をぶち壊すようなことになったらどうなるのでしょうか。

 「自由といってもある一定の範囲内での話です。無制限の自由ではありません。その人の霊的成長と進化から生じる一定の条件によって制約されます。完全な自由選択が許された無制限の自由ではありません」


 ───本当の意味での自由意志は存在しないわけですか。

 「ある限界内での自由意志が存在するということです。その段階での判断に基づいて好きな道が選べます。そしてそれがその人の霊的進歩を妨げもすれば促進もするということです」


 ───かりにあなたが代わりに選択してあげたら、それがその人の進歩を妨げることになるかも知れないし促進することになるかも知れないわけですね。

 「それは有り得ることです。ただ、なかなかうまく説明できないのですが、表向きは単純そうでも、その裏面は、法則の内側に法則があり、そのまた内側に法則があり、そのまた内側にも法則があって、実に複雑なのです。しかし、神の叡智は完ぺきですから、絶対に手落ちがないように、すみずみまでバランスが取れております」


 ───せっかくの成果をぶち壊しにするような行為も、全体の計画にとっては大して支障を来たさないということなのでしょうか。

 「とんでもないことをして成果のいくつかをぶち壊しにすることはあっても、全部を台なしにするようなことはないということです。人間の行為が及ぼす被害も多寡が知れてるということです。地上のいかなる人物にも、神の意志を完全に台なしにしたり、計画の推進を完全に阻害するほどの損害を及ぼす力はありません」


 ───ということは、この地球上で発生する災害もすべて神の計画の中で起きているということでしょうか。

 「人間はその神の計画のワク外で行動することはできないという意味で、そう言えます。絶対に免れることの出来ない因果律というものがあるからです。その冷厳な法則が人間に致命的な限界というものを設けております。ぶっきらぼうな言い方をすれば、地上の科学者には宇宙全体を全滅させるほどの破壊力は製造できません。そこに限界があります」


 ───人間の立場からみると悪に思えるものもまったく悪ではないことがあるものでしょうか───高い次元からみればむしろ善といえることが。

 「地上の人間にとって苦しみは悪であり、痛みは歓迎されませんが、実質的には必ずしもそうではありません。苦は楽と同じく神の計画の一部です。苦がなければ楽もなく、暗闇がなければ光明もなく、憎しみがなければ愛もありません。作用と反作用は同じものであると同時に正反対のものです。

一つのコインの両面と思えばよろしい。善と悪はともに不可欠のものであると同時に、相対的なものです。

 地上にはさまざまな道徳的規範があり、国によって異なります。たった一つの絶対的規範というものはありません。私たち霊にとっての価値基準はただ一つ───魂にどういう影響を及ぼすかということです。魂の成長を促すものは善で、成長を遅らせるものは悪です。そこが大切な点です」


 ───あなたは、成長のためのチャンスは平等に与えられるとおっしゃっていますが、私はどうも納得できません。魂の本質は同じかも知れませんが、その本質が発揮される能力は必ずしも平等ではありません。

同じチャンスから必ずしも同じだけのものを摂取できるとはかぎりません。能力の程度によって異ったチャンスが与えられるか、それともチャンスは同じでもそれをうまく活用する能力が平等に与えられていないかのいずれかだと思います。

 「いえ、私はその考えには同意できません。物質界に生まれてくる人間には神性の種子が宿されております。そうでなかったら生まれて来られません。生命とは霊であり、霊とは生命です。あなたにも花開くべき霊性の種子が宿っております。その開花は、成長を促す可能性をもった環境条件への反応次第で違ってきます。

霊性の発達を促すためのチャンスはすべての人間に平等に与えられています。私はすべての人間が同じ霊格を身につけることになるとは言っておりません。そのチャンスが与えられていると言ったのです。金持ちであるか貧乏であるかは関係ありません。他人のためになることをするのに地位や名声、財産といったこの世的なものは必要ありません」

 
 ───身体の機能上の不平等はどうでしょうか。

「奇形もしくは脳に異状のある場合のことをおっしゃりたいのでしょうか。それは別に扱わねばならない複雑な問題でして、これには宿業(カルマ)の要素が入ってきます」


 ───カルマの要素があるということは再生もあるということでしょうか。

 「再生はあります。しかし一般に言われている形(機械的輪廻転生)での生れ変わりではありません。霊界には無数の側面をもった、霊的ダイヤモンドとでもいうべきものがあります。その側面が全体としての光沢と輝きを増すための体験を求めて地上へやってまいります。

これでお分かりのように、地上へ生まれてきたパーソナリティは一個のインディビジュアリティの側面の一つということになります。少しも難しいことではないのですが、人間はそれを勘違いして〝私は前世はだれそれで、次はまた別の人間に生れ変わります〟などと言います。そういうものではありません。

生まれてくるのはダイヤモンド全体に寄与する一つの側面です。その意味での再生はあります。地上で発揮するのは大きなインディビジュアリティのごくごく小さな一部分にすぎません。

 かくして皆さんのおっしゃる類魂(グループソール)というものがあることになります。つまり霊的親族関係を有する霊の集団が一つの統一体を構成しており、それが全体としての進化を目的として、いろんな時代にいろんな土地に生れてその体験を持ち帰るわけです」


 ───インディビジュアリティがパーソナリティのひとかけらなのですか。それともその反対ですか。

 「パーソナリティがインデビジュアリティのひとかけらです」


 ───みんなグループソールに属しているとなると、仲間の良い体験の恩恵をこうむると同時に、良くない体験の悪影響も忍ばねばならないのでしょうか。

 「その通りです。それが全体に寄与するのだと思えば、それも有難い体験です」


 ───ということは、私が今苦しい思いをするのは必ずしも私自身のせいではないわけですね?

 「そう認識なさることで安らぎをお感じになるのであれば、そうお考えになられて結構です。一つだけ秘密のカギをお教えしましょう。叡智が増えれば増えるほど選択の余地が少なくなるということです。増えた叡智があなたの果たすべき役割を迷うことなく的確に指示します。

われわれはみずからの意志でこの道を志願した以上は、使命が達成されるまで頑張らねばなりません。あなた方はこの道をみずから選択なさったのです。ですから他に選択の余地はないことになります。

 叡智というものは受け入れる用意ができた時にのみ与えられるものです。それが摂理なのです。私は使命を要請され、それを受諾しました。本日皆さんがこの私を招待してくださったということは、高級界のマウスピースとして、その叡智を取り次ぐという仕事において幾らかでも成功していることを意味していると受け取らせていただきます。

 肉体的血縁関係が終わっても、永遠に消えることのない霊的親族関係というものが存在します。それは永遠に続きます。結びつける絆は物質ではなく霊です。物質は儚い存在ですが、霊は永遠です」

 《われわれはここで改めて気を引き締めて仕事に邁進し、一人でも多くの人を神の照明のもとに導いてあげないといけません。われわれのもとを訪れる魂が永遠の絆である霊によるつながりを強化するのを手助けして、無限の恩恵の可能性を秘めたその霊力の働きかけを受け止められるようにしてあげないといけません。

それがわれわれ全員がたずさわっている仕事の一環です。生命の原理、霊的真理の基本を忘れないようにしましょう。それさえ確保しておれば、存在の目的を成就していることになるからです。

シルバーバーチ

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック



22章 神が結び合わせたものを引き離してはなりません
   
解消してはならない結婚

一、ファリサイ人たちがイエスのみもとにやって来て、イエスを試みようとして言った、「何か理由があれば、妻と離別することは律法にかなっているでしょうか」。

イエスは答えて言われた、創造主は、はじめから人を男と女とに造られて、『それゆえに、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、二人の者が一体になるのだ』と言われたのです。それを、あなたたちは読んだことが無いのですか。

それで、もはや二人ではなく、一人なのです。だから、人は、神が結び合わされたものを引き離してはなりません」。

彼らはイエスに言った、「ではモーゼはなぜ、妻と離別する時は離縁状を渡すように定めたのですか」。イエスは彼らに言われた、「モーゼはあなたたちの心が冷たすぎるので、その妻を離別することをあなたたちに許したのです。

しかし、はじめからそうだったのではありません。誠に言います。妻が姦淫を犯したわけでもないのに、その妻と離別し、別の女を妻にする者は、姦淫を犯すことになるのです。また、夫に見放された妻をめとる者も姦淫を犯すことになるのです」。(マタイ 第十九章 3‐9)


二、神から来るもの以外に、普遍的なものは存在しません。人間によってつくられたものはすべて、変化する運命にあります。自然の法則は、いつの時代も、どの国においても同じです。しかし、人間のつくる法は、時代、場所、知性的発展によって変化します。

結婚というのは、その法により夫婦の性が結ばれることを神が定めたもので、その結果、死すべき運命にある人間は新たな生命を与えられることになります。しかし、結婚を規定する条件はあまりにも人間的に決められており、国によってさまざまです。

キリスト教の中でも、まったく同じように取り決める国は二つとなく、また時の流れとともに変更を余儀なくされなかったものは一つもないのです。

民法においては、ある国である時代に合法的とされたことが、他の国で別の時代には違法となり得ます。なぜならば、民法とは家族的な利害を調整することを目的としたものであり、そのような利害は、地域の習慣や必要性によって違ってくるからです。

ある国においては宗教的な結婚だけが法的に認められ、他の国では民法上の結婚だけで十分だということがありますが、これはその一つの例です。


三、しかし、夫婦の性の結びつきを定めるものには、どの国にも同じように人間の法が存在するのと同時に、他のすべての神の法と同じように、普遍の道徳的な神聖なる法、すなわち、愛の法が存在します。神は肉体の上だけではなく、魂の上でも、人間同士が結びつくことを望んでいるのです。

それにより夫婦がお互いの愛をその子どもに伝え、一人ではなく二人でその子どもを愛し、育て、子どもの進歩を助けることができるよう望んでいるのです。普通の結婚では、この愛の法は考慮に入れられているでしょうか。

いいえ、二人がお互いを引きあう気持ちは少しも考慮に入れられてはいません。だから、この気持ちは多くの場合途絶えてしまうのです。そのような結婚で求められているものは心の満足ではなく、自尊心、虚栄心、欲望の満足、つまり、物質的な関心事の満足です。

こうした関心にもとづいてすべてがうまくいくと、結婚とは都合の良いものだと考えられるのです。夫婦の両方が経済的にうまく釣り合っていると、その夫婦は同じように調和し合っており、幸せに違いないと言われるのです。

 しかしどのような民法の規定も、またそのもとに約束されたいかなる決め事も、愛の法が二人の結びつきをつくっているのでなければ、それに勝ることはできません。そのため、しばしば、強制的に結ばれたものは自然と離れていきます。

祭壇の前で単なる決まり文句として宣誓の言葉を唱えたのであれば、その言葉は偽証の言葉となってしまいます。不幸な夫婦の結びつきとはそのようなものであり、罪深いものとなるのです。

これは、結婚する条件として、神の目に認められる唯一の法である愛の法を忘れることが無ければ防ぐことの出来た二重の不幸です。

神が「二人は結ばれて一体となる」と言い、イエスが「神が結び合わされたものを引き離してはなりません」と注意したことは、普通の神の法にもとづいて理解されるべきものであり、人間によってつくられた不安定な法にもとづいて理解されるべきことではありません。


四、では民法は不必要で、自然の結婚に戻らねばならないでしょうか。もちろん違います。民法は、その文明の必要性に応じて、家族的な利害や社会的な関係を調整するために存在するのです。

だから民法は、役に立つ、なくてはならないものである一方で、変化しやすいものなのです。民法は社会の変化を見越したものでなければなりません。なぜなら、人間は野蛮人のように生きていくわけにはいかないからです。

しかし、その民法が神の法に沿ったものとなることを妨げるものは何もありません。神の法に従うための障害となるのは、民法の中ではなく、人々の持つ社会的偏見の中に存在します。その偏見は、とても根強いものですが、この世の高尚な人々はもはや偏見に支配されていません。

道徳的に進歩していけば、偏見も消滅していき、人間は物質的な関心だけによって結ばれることから生じる無数の悪、過ち、罪に対し、目を開くことになるのです。

そしていつかは、共に生きることができない二人の人間を結び止めておくことと、各々が自由を取り戻すのと、どちらがより道徳的、人間的、慈善的だろうか、と問いただすことになるのです。取り消すことのできない拘束が、不正な結婚を増やすことになるのではないかと。


 離婚
五、離婚は人間の法律によって決められたもので、その目的はすでに実際に離別しているものを法律上離別させることにあります。それは神の法に違反することではありません。

なぜなら、離婚とは人間が定めた関係を正すものに過ぎず、神の法が考慮されていなかった場合にのみ適用されるものだからです。もし離婚が神の法に反していたなら、権威と宗教の名において、多くの離婚を決定してきた教会の指導者のことを、教会自体が背任者であると判断しなければならなくなってしまいます。

一方、そうした離婚も愛の法に則るのではなく、物質的関心だけによって決定されていたのであれば、それは二重の裏切りをしたことになってしまいます。

 イエスさえも、結婚が絶対に引き離してはならないものであるとは言ってはいません。「モーゼは、あなたたちの心が冷たすぎるので、その妻を離別することをあなたたちに許したのです」とイエスは言いませんでしたか。

結婚の唯一の動機となる相互の愛がないのであれば、離別することも必要となるということが、モーゼの時代から続いているのだということがこのことからわかります。

しかし、イエスは「はじめからそうだったのではありません」と付け加えています。つまり人類はその起源においては、エゴイズム、自尊心によって堕落しておらず、神の法に従って生きており、その頃の夫婦の関係は虚栄心と野心によってではなく、お互いの好感によって結ばれており、離別の原因となるものは存在しなかったのです。

 イエスはさらに、離別を正当であると考えることができる場合を的確に示しています。それは姦淫が行われた場合です。しかし姦淫は、夫婦相互の誠実な愛が支配する関係が成り立っているところには存在しません。姦淫し、離縁された妻と結ばれることは禁止されています。

しかし、それを理解するには、その時代の習慣と人々の特徴を考慮に入れなければなりません。モーゼの法は、姦淫した者を死刑に処していた習慣を捨て去ろうとして規定されたのです。

ある野蛮な習慣を廃止するには、それに代わる罰則をつくる必要がありましたが、モーゼは二度目の結婚を禁止することによって受ける不名誉をその罰則としたのです。

すべての民法が時の流れとともに変遷していく運命にあるように、一つの法が別の法に置き換えられて行く必要があったのです。

シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch 

 by Stella Storm


十章 質問に答える ───イエス・キリストについて   
       
 地上の歴史の中で最大の論争の的とされている人物すなわちナザレのイエスが、その日の交霊会でも質問の的にされた。


 まず最初に一牧師からの投書が読み上げられた。それにはこうあった。〝シルバーバーチ霊はイエス・キリストを宇宙機構の中でどう位置づけているのでしょうか。また、<人間イエス>と<イエス・キリスト>とはどこがどう違うのでしょうか〟

 これに対してシルバーバーチはこう答えた。

 「ナザレのイエスは地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜の最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。

 イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と変わらぬ一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質の世界にやって来て、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが地上に流入したことは前にも後にもありません。

イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦礫の下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。

 そのために彼はまず自分へ注目を惹くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。彼は一度たりともそれを邪なことに使ったことはありませんでした。

 またその心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も廃止も干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を惹くようになりました。

そこでイエスは、人間が地球という惑星上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊格者が説いてきたのと同じ、単純で永遠に不変で基本的な霊の真理を説くことを始めたのです。


 それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する乏しい記録に大へんな改ざんがなされていることです。

ずいぶん多くのことが書き加えられています。ですから聖書に書かれていることにはマユツバものが多いということです。出来すぎた話はぜんぶ割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから。

 もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後いっそう開発された霊力を駆使して、愛する人類のために働いておられるのです。イエスは神ではありません。全生命を創造し人類にその神性を賦与した宇宙の大霊そのものではありません。

 いくら立派な位であっても、本来まったく関係のない位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽くすゆえんではありません。父なる神の右に座しているとか、〝イエス〟と〝大霊〟とは同一義であって置きかえられるものであるなどと主張しても、イエスは少しもよろこばれません。

 イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にヒザを折り平身低頭して仕える必要はないのです。それよりもイエスの生涯を人間の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。
 以上、大へん大きな問題についてほんの概略を申し上げました」


 メンバーの一人が尋ねる。
   ───〝キリストの霊〟Christ spiritとは何でしょうか。

 「これもただの用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを示すために聖油を注がれた時代がありました。それは大てい王家の生まれの者でした。キリストと言う言葉は〝聖油を注がれた〟という意味です。

それだけのことです」 (ユダヤでそれに相応しい人物はナザレのイエス Jesus だという信仰が生まれ、それで Jesus Christ と呼ぶようになり、やがてそれが固有名詞化していった───訳者)


───イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったとおっしゃるのが私にはどうしても理解できません。

 「私は決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。私が申し上げたのは地上を訪れた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊格者の系譜の中でイエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。

イエスの生活が完全であったとは一度も言っておりません。それは有り得ないことです。なぜなら彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」



 ───イエスの教えは最高であると思われますか。 

 「不幸にしてイエスの教えはその多くが汚されてしまいました。私はイエスの教えが最高であるとは言っておりません。私が言いたいのは、説かれた教訓の精髄は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど心霊的法則を使いこなした例は地上では空前絶後であるということです」


 ───イエスの教えがその時代の人間にとっては進み過ぎていた───だから理解できなかった、という観方は正しいでしょうか。

 「そうです。おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は彼らにとって成功であることが時代的に見れば失敗であり、逆に彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」

(※ George Lansbury は一九三一~三五年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次世界大戦勃発直前の一九三七年にはヨーロッパの雲行きを案じてヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。Dick Sheppard についてはアメリカーナ、ブリタニカの両百科全書、その他の人名辞典にも見当たらない───訳者)


───イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の大根源であると考えてよろしいでしょうか。


 「いえ、それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは霊格の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し自在に使いこなすことができたからです。皆さんにぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、

つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた間違いが多かったにもかかわらず、あれほどの短い期間に全世界に広まりそして今日まで生き延びて来たのは、イエスが常に霊力と調和していたからだということです」


(訳者注───霊力との調和というのは、ここでは背後霊団との連絡がよく取れていたという意味である。『霊訓』のインペレーターによると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。

地上生活中のイエスは早くからそのことに気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体離脱し、その背後霊団と直接交わって連絡を取り合っていたという)


───(かつてのメソジスト派の牧師)いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできます。

 「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異論を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。

教えそのものと、その教えを取り違えしかもその熱烈信仰によってかえってイエスを何度もはりつけにするような間違いを犯している信奉者とを混同しないようにしなければなりません。

  イエスの生涯をみて私はそこに、物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完全で、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった───自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。

イエスは一度たりとも自ら課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的に使用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。

 どうもうまく説明できないのですが、イエスも生を受けた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味で完全では有り得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派なそして大きな仕事ができる時代が来ると述べた意味がなくなります。 

 イエスという人物を指さして〝ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時はあれほどのことが出来るのですよ〟 と言える、そういう人間だったと考えればいいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。

しかもそのイエスは私たちの世界においても、私の知るかぎりでの最高の霊格を具えた霊であり、自分を映す鏡としてイエスに代わる者はいないと私は考えております。

 私がこうしてイエスについて語る時、私はいつも〝イエス崇拝〟を煽ることにならなければよいがという思いがあります。それが私が〝指導霊崇拝〟 に警告を発しているのと同じ理由からです(八巻P18参照)。

あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は理性と常識と知性をもって行わないといけません。

書物からも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人が良いと言ったから、賢明だと言ったから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断基準です。

 例えその後一段と明るい知識に照らしだされた時にあっさり打ち棄てられるかも知れなくても、今の時点でこれだと思うものを採用すべきです。たった一冊の本、一人の師、一人の指導霊ないしは支配霊に盲従すべきではありません。

 私とて決して無限の叡智の所有者ではありません。霊の世界のことを私が一手販売しているわけではありません。地上世界のために仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。私は完全であるとか絶対に間違ったことは言わないなどとは申しません。あなた方と同様、私もいたって人間的な存在です。

私はただ皆さんより人生の道のほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が私に少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしも私の言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線を私といっしょに眺めませんかとお誘いしているわけです」


 霊言の愛読者の一人から「スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して 〝最後の晩餐〟 の儀式を行うべきでしょうか」という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチがこう答えた。

 「そういう儀式(セレモニー)を催すことによって身体的に、精神的に、あるいは霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれは最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、私自身にはそういうセレモニーに参加したいという気持ちは毛頭ありません。

そんなことをしたからといってイエスは少しも有難いとは思われません。私にとっても何の益にもなりません。否、霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。

 イエスに対する最大の貢献はイエスを模範と仰ぐ人々がその教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病の人を癒やし、懐疑と当惑の念に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人すべてに手を差しのべてあげることです。

 儀式よりも生活の方が大切です。宗教とは儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。〝聖なる書〟 と呼ばれている書物から活字のすべてを抹消してもかまいません。賛美歌の本から 〝聖なる歌〟 を全部削除してもかまいません。

儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に 〝宗教的〟 で有りうるのです。そういう生活でこそ内部の霊性が正しく発揮されるからです。

 私は皆さんの関心を儀式へ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく生活そのものです。生活の中で何をなすかです。どういう行いをするかです。〝最後の晩餐〟 の儀式がイエスの時代よりもさらにさかのぼる太古にも先例のある由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です」


 別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されて───

 「他人のためになることをする───これがいちばん大切です。私の意見は単純明快です。宗教には〝古い〟ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関係もないものばかりだということです。

 私にとって宗教とは崇拝することではありません。祈ることでもありません。審議会において人間の頭脳が考え出した形式的セレモニーでもありません。私はセレモニーには興味はありません。

それ自体は無くてはならないものではないからです。しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事を無くてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、無理してそれを止めさせる理由はありません。

 私自身としては、幼児期を過ぎれば誰しも幼稚な遊び道具はかたづけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との直接の交渉、地上的障害を超越して次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係───これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えと何の関係もありません」 


───支配霊や指導霊の中にはなぜ地上でクリスチャンだった人が少ないのでしょうか。

 「少ないわけではありません。知名度が低かった───ただそれだけのことです。地上の知名度の高い人も実はただの代弁者(マウスピース)にすぎないことをご存知ないようです。

つまり彼らの背後では有志の霊が霊団やグループを結成して仕事を援助してくれているということです。その中にはかつてクリスチャンだった人も大勢います。もっとも、地上で何であったかは別に問題ではありませんが・・・・・・」


───キリスト教の教えも無数の人々の人生を変え、親切心や寛容心を培ってきていると思うのです。そういう教えを簡単に捨てさせることが出来るものでしょうか。

 「私は何々の教えという名称には関心がありません。私が関心をもつのは真理のみです。間違った教えでもそれが何らかの救いになった人がいるのだからとか、あえてその間違いを指摘することは混乱を巻き起こすからとかの理由で存続させるべきであるとおっしゃっても、私には聞こえません。

一方にはその間違った教えによって傷ついた人、無知の牢に閉じ込められている人、永遠の苦悶と断罪の脅迫によって悲惨な生活を強いられている人が無数にいるからです。

 わずかばかり立派そうに見えるところだけを抜き出して〝ごらんなさい。まんざらでもないじゃありませんか〟 と言ってそれを全体の見本のように見せびらかすのは、公正とは言えません。

 霊的摂理についてこれだけは真実だと確信したもの、および、それがどのように働くかについての知識を広めることが私の関心事なのです。あなたのような賢明な方たちがその知識をもとにして生き方を工夫していただきたいのです。そうすることが、個人的にも国家的にも国際的にも、永続性のある生活機構を築くゆえんとなりましょう。

 私は過去というものをただ単に古いものだからとか、威光に包まれているからというだけの理由で崇拝することはいたしません。あなたは過去からあなたにとって筋が通っていると思えるもの、真実と思えるもの、役に立つと思えるもの、心を鼓舞し満足を与えてくれるものを選び出す権利があります。

と同時に、非道徳的で不公正で不合理でしっくりこず、役に立ちそうにないものを拒否する権利もあります。ただしその際に、子供のように純心になり切って、単純な真理を素直に見て素直に受け入れられるようでないといけません」


 いわゆる 〝聖痕(スチグマ)〟について問われて───

 「人間の精神には強力な潜在能力が宿されており、ある一定の信仰や精神状態が維持されると、身体にその反応が出ることがあります。精神は物質より強力です。そもそも物質は精神の低級な表現形態だからです。精神の働きによって物質が自我の表現器官として形成されたのです。

精神の方が支配者なのです。精神は王様であり支配者です。ですから、もしもあなたがキリストのはりつけの物語に精神を集中し、それを長期間にわたって強力に持続したら、あなたの身体に十字架のスチグマが現れることも十分可能です」


 〝大霊の愛〟と、〝己を愛する如く隣人を愛する〟という言葉の解釈について問われて───
 
 「私だったら二つとも簡明にこう解釈します。すなわち自分を忘れて奉仕の生活に徹し、転んだ人を起こしてあげ、不正を駆逐し、みずからの生活ぶりによって神性を受け継ぐ者としてふさわしい人物である事を証明すべく努力する、ということです」 
   

                        

Thursday, June 11, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック



第21章 偽キリストや偽預言者が現れるであろう   

果実によってその木を知る

一、悪い果実を結ぶ木は善くないし、善い果実を結ぶ木は悪くない。このように、果実によってその木を知ることができます。茨からイチジクは採れないし、野ばらからぶどうの房を摘むこともありません。

善人はその心の善き宝より善いものを取り出し、悪人はその心の悪しき宝より悪いものを取り出します。ゆえに口は、心を満たしていることを語るのです。(ルカ 第六章 43-45)


二、中身は貪欲な狼でありながら、羊の毛を被り、あなたたちのもとにやってくる偽預言者たちから身を守りなさい。あなたたちは、その果実によって彼らを見分けることができるでしょう。茨からぶどうを採ったり、アザミからイチジクを集めたりすることができるでしょうか。

そのように、善い木には善い果実が実り、悪い木には悪い果実が実るのです。善い木は悪い果実を生むことはなく、悪い木が善い果実を生むこともありません。善い果実を生まない木はみな切られ、火に投じられてしまいます。

このように、あなたたちは、偽預言者をその果実によって見分けるのです。(マタイ第七章15-20)


三、誰にも誘惑されないように気をつけなさい。なぜなら、多くの者が私の名を語って現れ、「私はキリストである」と言うからです。そして多くの人々を誘惑するでしょう。

 多くの偽預言者が現れ、多くの人々を誘惑するでしょう。そして非道徳がはびこり、多くの慈善が冷めてしまうでしょう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。

 ゆえに、もし誰かがあなたに「キリストがここにいる」とか「キリストがあそこにいる」と言っても絶対に信じてはなりません。あるいは偽キリストや偽預言者たちが現れ、大きな奇蹟や驚くべきことを行い、できれば、選ばれた者たちをも誘惑しようとするでしょう。(マタイ 第二十四章 4,5,11‐13,23、24、マルコ 第十三章 5,6,21,22)
   
℘351    
  預言者たちの使命
四、一般に、預言者には未来を予見する才能があるとされるために、預言と予言は同意語のように認識されています。福音上の意味においては、預言者と言う言葉はより広い意味を持っています。

人類を指導する使命を持ち、不可視の事柄や霊的生活の秘密を人類に示す、神より送られたすべての者を指します。ゆえに、未来を予言することが無くとも預言者であり得ます。それがイエスの時代のユダヤ人たちの考え方であったのです。

そしてそのことから、イエスが最高司祭カイファの前へ連れて行かれた時、書記官や長老が集まって、イエスの頬に唾を吐きかけ、イエスを殴ったり打ったりしながら、「キリストよ、私たちに預言し、お前を打ったのは誰か言ってみろ」と言ったのです。

しかしながら、直感的、もしくは神よりの啓示として未来を予知し、人類への報せを伝える預言者も存在していました。そして予言された出来事が実際に起きたことから、未来を予知することが預言者に属する能力の一つとして考えられていたのです。  


 偽預言者たちの奇蹟 
五、「偽キリストや偽預言者たちが現れ、大きな奇蹟や驚くべきことを行い、できれば、選ばれた者たちをも誘惑しようとするでしょう」。この言葉は私たちに、奇蹟と言う言葉の真の意味を教えてくれています。

宗教学的には、奇蹟もしくは奇跡とは、自然の法に反した特別な現象を意味します。それらすべてを神が神だけが行える業としているため、神が望めばそれを取り消すことができるということは、疑いようもありません。

しかし神が、劣等で非道な者たちに神と等しい力を与える筈はなく、ましてや神が成したことをやり変える権利を与えるはずはないと、私たちの良識は即座に訴えます。

こんな原則をイエスが神聖化したはずはありません。もし、この言葉の文字どおり、悪の霊が選ばれた者さえも騙すような奇蹟を引き起こす力を持ち、神が行うようなことを行えるのであれば、奇蹟や奇跡は神から送られてきた者たちだけの特権ではなくなり、聖人の奇蹟と悪魔の奇蹟を区別するものがないことになってしまいます。

よって、これらの言葉の、もっと合理的な意味を見出すことが必要になります。

 一般の無知な人にとって、原因のわからない現象は、すべてが超自然で、すばらしく、奇跡的な現象となってしまいます。その原因が分かれば、その現象は、それがどんなに特異なものに見えても、自然の法則に適合した現象に過ぎないのだと認識するようになります。

こうして、超自然的な事柄の輪は科学の輪の広がりとともに狭まっていきます。どんな時代にも、自らのためにその野心や利害と支配欲によって、超人的な力の持ち主と言う権威を得ようとしたり、自分を神の使いであると思わせようと、所有するある種の知識を悪用した人々が存在しました。

こうした人々が偽キリストであり、偽預言者なのです。光が広がることによって、彼らは信用を失い、結果的にそうした者たちの数は人類が啓発されるに従って減少していきます。

つまり、人々が奇蹟と考えるようなことを行うことは、神からの使いであるしるしとはならず、誰にでも手の届くなんらかの知識や特別な肉体的能力を発揮させたことによる結果であり、それにふさわしくない者にでも、それにふさわしい者と同様にその所有は禁止されていないのです。

真なる預言者は、その真摯な態度や道徳性によってのみ知ることができます。    

    
 全ての霊を信じてはなりません
六、愛する者たちよ、あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい。なぜなら、世には多くの偽預言者が存在するからです。(ヨハネの第一の手紙 第四章1)


七、霊の現象は、一部の人たちが好んでそう言うように、偽キリストや偽預言者を助長するどころか、反対に、彼らに致命的な一撃を与えます。スピリティズムに奇蹟や奇跡を求めてはなりません。

なぜなら、そのようなものが引き起こされることはないと決定的に宣言しているからです。物理学や化学、天文学や地学が物質世界の法を解き明かすのと同様に、スピリティズムは科学にとっての自然の法則のように、その他の知られざる法則、霊の世界と物質世界の関係を支配する法則を解き明かします。

今日にいたるまで理解されていない現象の一種の法則の解説を提供し、依然として驚異の支配下に存在し続ける事柄を破壊します。

このことから、現象を自分自身の利益のために悪用したいと考え、自分を神より送られた救世主に仕立てようとしても、他人の信用を長い間もてあそぶことはできず、じきに仮面を引き剥がされることになるでしょう。

もっとも、すでに述べたように、そうした現象は引き起こすだけでは何を証明することもありません。使命とは道徳的な影響によって証明されるのであり、それは誰にでも引き起こせることではありません。それが、スピリティズムの科学の発展の結果のひとつです。

ある現象の原因を調べることによって、多くの神秘のベールを剥がすことになります。光よりも闇を好む者だけが、スピリティズムをうち消そうとします。しかし、真実とは太陽のようなものです。最も濃い霧をも消失させるのです。

 スピリティズムは、偽キリストや偽預言者よりもずっと危険な分類、すなわち生きた人々の間ではなく、肉体を失った死者の間に存在する分類について明らかにしています。

それは人を騙す霊、偽善的な霊、高慢な霊、知ったかぶりをする霊たちの分類であり、彼らは地上を後にして幽界へ行くと尊敬される名前を名のり、ありとあらゆるばかげた考えをより容易に受け入れさせようと仮面を被ります。

彼らは霊媒の関係について知られる以前は、直感を与えたり、聴覚に訴えたり、無意識のうちに話をさせる霊媒性といった、より目立たぬ方法を通じて行動していました。

さまざまな時代において、そして特に最近では、キリスト、マリア、その母、もしくは神とまで、自分を称する者の数は相当なものです。聖ヨハネは人類がそのような者たちに気をつけるように、次のように言っています。

「愛する者たちよ、あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい。なぜなら、世には多くの偽預言者が存在するからです」。

スピリティズムは、善霊であることを見分ける、常に道徳的で、決して物質的ではない特徴を示すことによって(→FEB版注1)、私たちが霊たちを試す手段を与えてくれています。それは悪い霊と善い霊を区別する方法で、特に次のイエスの言葉をあてはめることができます。

「悪い果実を結ぶ木は善くないし、善い果実を結ぶ木は悪くない。このように、果実によってその木を知ることができます」。ある木を、そこになる果実の質によって判断するのと同様に、霊はそのなす行いの質によってその善悪を判断することが出来るのです。





  霊たちからの指導

 偽預言者 
八、もし誰かが「キリストがここにいる」と言っても、行ってはいけません。反対にその時は注意してください。なぜなら偽預言者が大勢いるからです。イチジクの木の葉が白くなりはじめるのが見えないのですか。多くの芽が花の咲く季節を待ち構えているのが見えないのですか。

また、キリストは「木を果実によって知る」と言いませんでしたか。ゆえに果実が苦ければ、その木が悪い木であることがわかるでしょう。しかし、もしその果実が甘く、健康的であれば、「悪い泉から純粋なものが出るはずがない」と言うでしょう。

 兄弟たちよ、そのように判断することで、なされた行いを試さなければいけないのです。

神からの力を授かったと言う者が高尚な性格を持った使命のしるしを示すのであれば、つまり、愛、慈善、寛大さ、心を和ませる善意といった、永遠のキリストの美徳を最も高いレベルにおいて有しているのであれば、あるいは、言葉に伴った行動を取っているのであれば、「彼らは真に神より送られてきた」ということができます。

 しかし、蜜のように甘く流れる言葉や、公の広場で祈る長い着物をまとったファリサイ人たちや書記官たちを信じてはいけません。真実を独占しようとする者たちを信じてはいけません。

 そうです。キリストはそうした者たちの間にはいません。その聖なる教義を広め、人々を更生させるためにキリストが送る者は、何よりもまず、模範に従って柔和で謙虚な心を持っています。自らの示す模範と豊富な忠告によって人類を救おうと、不信仰のもとへ走り、歪曲した道のあちらこちらを駆けまわる者は、本質的に謙虚で慎み深いのです。

ほんの少しの自尊心でも示す者からは、さわるものすべてを害す伝染性のある病から逃げるように逃げてください。誰もがその額や、特にその行動に、その偉大さ、あるいはその不完全性のしるしを持ち合わせていることを覚えおいてください。


 私の愛する子供たちよ、だから行ってください。背を向けることなく、隠しごとなしに、選択した恵みの道を歩んでください。いつも、恐れることなく行って下さい。永遠の目的への歩みを止めようとするあらゆるものから、注意深く遠ざかってください。

旅人たちよ、永遠の法を啓示し、謎に対するあなたたちの魂の抱くあらゆる願望を満たしてくれる、この優しい教義に心を開くのであれば、試練の痛みと闇の中にいる時間はあと少しだけとなります。

あなたたちの夢の中に一時的に姿を見せ、心には訴えなくとも霊を魅了して去って行く敏速な妖精たちは、実際に存在するのです。愛する者たちよ、もはや死は消滅し、あなたたちの知る光を放つ天使、新しい出会いと再結合の天使にその場所を譲ったのです。

創造主がその被造物に託した使命を正しく遂行したあなたたちは、その正義に対してなにを恐れる必要もありません。なぜなら、彼は慈悲を嘆願する迷える子供たちをいつも赦してくれる父であるからです。だから、止まることなく進み続けてください。

進歩をあなたたちの標語として掲げてください。あらゆるものにおける継続的な進歩を遂げ、最後には、あなたたちの先を行った者すべてが待っていてくれる、幸福な旅の終結を迎えることができますように。(ルイ ボルドー、1861年)



 真なる預言者の特徴 
九、「偽預言者は信じないこと」。この忠告はどの時代においても有益ですが、現代のような人類に変化が起こる変遷の時代においては特に有益で、それは、そのような時代には野心に満ちた策略家たちの大群が、変革者や救世主と自称するからです。

そしてこうしたペテン師たちからは身を守らなければならず、正直な者にはみな彼らの化けの皮を剥がす義務が生まれるのです。あなたたちはきっとペテン師たちをどうすれば知ることが出来るかと尋ねるでしょう。それを示したものがここにあります。

 唯一、自分の軍隊を指揮することのできる有能な将校だけがそうすることができるのです。あなたたちは神が人間よりも慎重さに劣っていると考えるのですか。

神はその任務を遂行する能力があると分かっている者にしか重要な使命を託すことはないのだということを確信してください。なぜなら、偉大なる任務と言うのは重たい衣装のようなもので、それを身につける力に乏しい人間はその任務に押しつぶされてしまうからです。

あらゆることにおいて、師はその弟子よりも多くを知っている必要があります。人類を知性的、道徳的に進歩させるには、知性と道徳性において優れた人が必要なのです。

それゆえに、こうした使命のためには、過去の人生でその試練を果たしてきている、すでに進歩した霊がいつも選ばれますが、というのも、もし行動する環境の中においてより優れていなかったら、その行動が周りに及ぼす結果は皆無となってしまうからです。


 これらのことから、神より送られた真の使節と言うのは、その優位性、その美徳、その偉大さ、そのなす行いの持つ道徳的影響力、その託されているという使命の内容によって、それを証明するのであると結論づけなければなりません。次のことも導きだしてください。

もし、神より送られたと主張する者が、その性格、その美徳、その知性において、その持つ役割や名のる人物よりも劣っているのであれば、それは自分で選んだモデルをまねることさえも知らぬ、程度の低いペテン師に過ぎないのです。

 もう一つの留意点があります。神より送られた真なる使節は、ほとんどの場合、自分がそうであることさえ知りません。彼らはその才能の力によって呼ばれたその使命を遂行し、嫌々ながらも、彼らを導き元気づける見えざる力に助けられますが、あらかじめ考えられた計画は存在しません。

一言で言えば次のとおりです。真なる預言者たちはその行いによってそうであることを示し、そうであることを推測させることができます。一方で、偽預言者たちは自らが神より送られた者だということを示そうとします。

前者は慎み深く謙虚です。後者は自尊心が強く、自信過剰で、偽善者たちがそうであるように高慢な態度で話し、自分を信じてもらえないことを常に恐れているようです。

 こうしたくわせ者たちの幾人かは、キリストの使徒となりすまそうとしたり、キリスト自身になりすまそうとしたりしましたが、恥ずかしいことにも人類の中には、そうした醜行をすっかり信じてしまった人がいました。

しかし、実に単純な思考を巡らせば、盲目者たちの目を開くには十分です。それは、もしキリストが地球上に再生したとすれば、その力とその美徳によってそのことは明らかになるはずだということです。もっとも、キリストが退化したというばかげた考えを認めるのであれば話は変わりますが。

同様に、もし神からそれに帰属するものを一つでも取り去ったとすれば、もはや神は存在しなくなるように、キリストの美徳のうち、たった一つでも取り去るのであれば、それはもはやキリストではなくなります。

「キリストとしてのあらゆる美徳を有しているだろうか」。ここが問われるところです。

彼らを観察し、その考えや行動を分析すれば、何よりもまず、彼らにキリストを特徴づける性格である謙虚さや、慈善が欠けていることがわかり、キリストの有していなかった質である愚かさや自尊心といったものに彼らが支配されていることが分かります。

現在、さまざまな国において、キリストになりすました者、エリアになりすました者、聖ヨハネや聖ペトロになりすました者が多く存在していますが、その誰もが絶対に本物であり得ないことを十分に承知し、彼らが単に他人の信心を利用し、彼らに耳を傾ける人々に頼って生きることが都合が良いと考えている者たちに過ぎないのだということを確信してください。

 ゆえに、現在のような革新の時代には特に、偽預言者たちを疑ってください。なぜなら多くのペテン師たちが、自分が神から送られたというからです。彼らは地上でその虚栄心を満足させようとしているのです。しかし、恐ろしい正義が彼らを待ち受けていることをあなたたちは確信してください。(エラストゥス パリ、1862年)


 幽界における偽預言者たち
十、偽預言者たちは人間の間にばかり存在するのではありません。さらに多くの数の偽預言者たちが自尊心の強い霊たちの間におり、愛と慈善に見せかけながら不和の種を蒔き、霊媒に受け入れられた後、人類にばかげた主義を植え付けようとし、人類の解放の一大事業を遅らせます。

そして騙そうとする相手をさらにうまく魅了し、その理論にもっと重要性を持たせるため、人類が大いに敬意を払ってのみ呼ぶ名前をためらいもなく名のります。

 彼らこそが人類の間に存在するさまざまなグループの間に敵意の原因を広め、個々に孤立し、お互いに警戒し合うようになるように強いるのです。そのことだけでも正体を暴くには十分です。

なぜなら、そのように行動することによって、彼らこそが最初にその意図をはっきりと打ち消すことになるからです。すなわち、そのような粗雑なペテンに騙される人々は盲目なのです。

 しかし、それ以外にもその正体を確認する方法は多くあります。彼らが属するという分類の霊たちはあまり善くないばかりでなく、優れて理にかなっているわけでもありません。では、どうすればよいでしょうか。

彼らを理性と良識のふるいにかけ、何が残るかを見ればよいのです。したがって、人類の悪に対する薬や人類の変革を達成する方法として、幻想的で実現不可能なことや、ばかげたくだらない方法を霊が指示した時には、それは無知でうそつきの霊であるという私に同意してください。

 一方で、個々が必ずしも真実を備えていなくとも、真実は何時も大衆の良識に評価され、そのことが新たな基準となるのだということを信じてください。もし二つの原理が矛盾するのであれば、二つの内のどちらが反響や共感が多いかを確かめることによって、両方の固有の価値の量を知ることができるでしょう。

それ以外にも、信者が次第に減少する教義の方が、信者が継続的に増加する教義よりも信憑性が高いのだと考えるのは不合理であるということはもちろんです。

神は真理がすべてに到達することを望むために、真理を狭い輪の中に託すことはありません。真理をさまざまな違った地点に出現させ、それによってあらゆる場所で闇のとなりに光を存在させるのです。

 孤立と離別を説く、独占的な助言者を装う霊たちに従うことなく拒否してください。彼らはほとんどが虚栄心の強いつまらぬ霊たちで、弱く信心深い人々を騙し、大げさな賛美を尽くさせ、彼らを魅了し、支配しようとします。

彼らは普通、生きている間は社会であれ家庭内であれ、独裁君主となる権力に飢えており、死後も圧制する犠牲者を求めているのです。一般に、神秘で奇異な性格を持った通信や、贅沢な儀式を命じる通信は信じてはいけません。こうした場合には、疑うべき理由が必ず存在します。

 また同様に、人類に対して真理が啓示される時には、真剣な霊媒のいる真剣な団体すべてに通信されるのであって、いうならば、たちどころに通信され、他の団体を排除してこの団体とあの団体だけに通信するというようなことはないということを確信してください。

憑依にあれば、どんな霊媒も完全ではありません。ある霊媒が特定の霊の通信しか受けないのであれば、その霊がどんなに高いレベルを装っても、それは明らかに憑依を示しています。

よって、通信を受けることを特権だと考えたり、迷信的な行いに従う霊媒や団体は、全て疑いようもなく典型的な憑依に支配されており、特に、支配する霊が、生者も死者もが尊ぶべき名によって着飾り、何としてでも衰えを許すまいとするのであればなおさらです。  

 すべての詳細と霊からの通信を理性と論理のふるいにかければ、その過ちや不合理性を拒否するのは容易だということは確実です。一人の霊媒が魅了され、その団体を錯覚させていることもあります。

しかし、他の団体が行う厳格な検証や、実験がもたらした科学、団体の責任者の高い道徳的権威、主要な霊媒が得る通信、理性と最善の霊たちの認証のしるしを持てば、悪意を持った騙す霊の集団から放たれる、うそつきで悪賢い内容に直ちに審判を下せるでしょう(→序章 Ⅱ スピリティズム教義の権威 霊たちによる教えの普遍的管理、「霊媒の書」第二部 第二十三章憑依について)。(聖パウロの弟子エラストゥス パリ、1862年)
        
    
  エレミアと偽預言者たち
十一、万軍の主はこう言われる、「あなたたちに預言をし、あなたたちを騙す預言者たちの声を聞いてはなりません。彼らは、自分たちの心に描くことを公にするだけで、主から学んだことは言わないからです。

彼らは、私を侮る者たちにこう言います、『あなたたちには平和が訪れるでしょう』と。そして、心の堕落してしまった者たちにはこう言います、『あなたたちにはどんな悪いことも起きないでしょう』と」。

 しかし、彼らのうちの誰が、主の忠言を聞いたというのでしょう。彼らのうちの誰が、主を見て、その言うことに耳を傾けたというのでしょう。

「私はこのような預言者を遣わしてはいません。彼らが自ら始めたのです。
 私は彼らにまったく告げてはいません。彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです。

 私は偽りを預言する預言者たちが、私の名を名のり『夢を見た。夢を見た』というのを聞きました。その偽りの預言が、自分たちの心の誘惑に他ならないうそを預言する者たちの心の中に、いったいいつまであるのでしょうか。

 だから、もしこうした人々が、預言者であれ、聖職者であれ、あなたたちに『主の重荷は何ですか』と問うのであれば、このように答えなさい。『主は、あなたたちこそがその重荷であり、遠くへ追いやると言っておられます』と」、(エレミア 第二十三章 16-18、21,25,26,33)
       
 友よ、あなたたちに伝えたいことは、この預言者エレミアの一節のことです。神はその口から言いました。「彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです」。

この言葉は、すでに当時、ペテン師や熱狂者たちが預言の力を濫用し、悪用していたことを明らかに示しています。結果的に、ほぼ盲目的とも言える人々の単純な信心を食いものにし、金、快楽のために預言をしました。

ユダヤの国にはこうした一種の詐欺が一般的であったことから、当時のかわいそうな大衆は、その無知のために善と悪の判断をすることができずにほとんど詐欺師や狂信者に他ならぬ預言者に成りすました者たちに騙され、ばかにされていたということは容易に理解できます。

「私はこのような預言者を遣わしてはいません。彼らが自らはじめたのです。私は彼らにまったく告げてはいません。彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです」と言う言葉以上に重要な言葉はありません。

さらに、「私は偽りを預言する預言者たちが、私の名を名のり『夢を見た。夢を見た』というのを聞きました」と書かれています。ここには、偽預言者たちが詐欺の対象とする人々の信用を食いものにした時の手段が示されています。

いつも信心深かった大衆は、その夢や空想の真実性を確かめようとは思いませんでした。それらを自然であると考え、いつも預言者たちに話してもらおうと招いたのでした。

 預言者の言葉を聞いた後には、使徒ヨハネの賢明な次の忠告を聞いてください。「あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい」。なぜなら、目に見えぬ者たちの間にも、機会があれば人を騙して喜んでいる者たちがいるからです。

騙された者たちとは、おわかりのように十分な用心のない霊媒のことです。疑いもなく、そこには多くの者、特にスピリティズムに接して間もない者が、不幸なことにもつまずいてしまう最大の障害が存在します。

そうしたことには、大いに慎重になることによってのみ、打ち勝てるのだということをあなたたちに証明しています。ゆえに、何よりもまず、善い霊と悪い霊を区別することを学び、あなたたち自身が偽預言者とならないようにして下さい。(守護霊ルオズ カールスルーエ、1861年)

●FEB版注1
 霊の区別の仕方を参照のこと(『霊媒の書』第二部 24章及びその続き)