W・S・モーゼス著 近藤 千雄訳
はじめに
ステイントン・モーゼスによる自動書記は一八八三年にモーゼス自身によって『霊訓』Spirit Teachings と題する一巻の書にまとめられている。その多くはすでに心霊誌〝ライト〟Light に掲載されたものであるが、それについてインペレーターはモーゼスに(自動書記で)こう述べている。
「あれは受け入れる用意のできた者のために独立した一個の霊が貴殿(あなた)の精神に働きかけることが可能であることを証明したものである。あの中に述べられていることを検証し得心しようとする意欲と、それとはまったく別個の知的存在とが交信している事実が明らかであろう。その事実は又新たな立証を得ることになろう」
また一八七四年四月十日の発行の心霊誌〝スピリチュアリスト〟Spiritualist には次のような一節が見える。
「霊的教訓が授けられる通路となっている人物(モーゼス)は書物を読みその内容に注意を向けても、霊側はその人物の手を借りて、それとは全く異なる問題について書くことが出来る。かくして死後存続についての驚異的な証拠が彼の霊媒能力を通して次々と提供されつつあります」
℘117
その『霊訓』についてモーゼス自身は一八七四年九月にこう書いている。
「この一年と半年の間に明らかに私以外の始源から届けられており、その筆跡は整然として乱れることがなかった。通信霊の一人ひとりが、機械的正確さをもって、文体と筆跡を維持し続けている。まったく乱れが見られないのである。書いている手にハンカチをかぶせたり、書きながら書物を読んだりしても、少しも変化が生じない。どんな場所で書いても、まとまったことを最後まで述べる。これは明らかに私以外の存在が書いている証拠である」
霊団側の話によると、通信を受けながら別の用事が出来るというっことは、モーゼスの稀に見る霊媒的素質を示しており、あれだけの通信が得られるのは精神と肉体と霊的素質とが稀に見る一体関係にあったからだという。
──構成者
(注)──特に指摘がない限り通信霊はインペレーターで質問者はモーゼスである。霊言と異なり自動書記は古い文語体で書かれている。『霊訓』(完訳)ではそれを訳文に反映させる必要があったが、本書は断片の寄せ集めで構成されており前後のつながりが途切れる所が多いので、それぞれの内容によって現代的な文語体と口語体とを織り交ぜた文に訳した。☆
℘118
「われわれは霊力と才能と発達の程度を異にする知的存在──さまざまな影響力と感化力をもつ霊の集団である。それ故、割り当てられる仕事は各自の能力に応じたものとなっている。命令を下す者がおり、それに従う者がいる。各分野に監督がおり、その指令にしたがって担当者が仕事に当たります。
すべてにおいて忠実さと正確さを旨としています。われわれは神の福音を説く者の集団です。計画遂行のために構成された四十九名の霊団の組織についてはすでに述べてある。(通信の末尾に記される)署名(サイン)は一人であっても、その通信の中身については、多くの場合、複数の霊が関与している。その教説は従来の神学上の誤謬の修正と同時に、新たな真理の啓示も目的としており、真理の特殊な入手方法に心得のある者がその啓示に関わることになろう」
「本日の到着が遅れたのは私の出席を必要とする霊の集会があったためです。全能なる大神への讃仰の祈りを捧げるためによく開かれる集会の一つです。霊団どうしの協力を必要とする時、及び我々よりさらに高級にして賢明なる霊からの力を授かる必要のある時に、そうした集会を持つのである」
「われわれは今、聖なる天使と霊の大集会に出席してきたばかりです。その集会において(地上での大事業での進展具合について)協議し、大神へ厳かなる讃仰の祈りを捧げてまいりました。われわれの声が一体となって讃仰の聖歌へと高まり、それに応えて大神が聖なる霊力をお授けくださり、それが(地上での大事業における)闘争の支えとなるのである」
──具体的なことを教えていただけませんか。
「地上各地で使命に携わっている霊団の指導霊が一堂に召集され、最高神への讃仰の大集会が催されます。時おりそうした集会をもって全能なる大神を讃美するのが、われわれの習わしなのです。それが、とかく過ちを犯しがちな魂を導く労多き仕事で疲弊しきったわれわれ自身の元気回復にもなります。エネルギーを一新し、神の恵み多き霊力を蓄えるのです。
その荘厳な讃仰と讃美の儀式には、第3界以下(幽界)の霊は参列を許されません。また、われわれと同じ界の者でも、さしあたって他の存在のための仕事に携わっていないものは参列しません。
その使命は、地上だけとは限らない。すでに肉体を棄てていながら、地上的な情愛や、かつて宿っていた肉体の欲情による自縛的状態から抜け切れずにいる霊、あるいは又、天寿を全うせずして未熟な状態で霊界へ送り込まれ、看護と指導を必要とする霊の救済に当たることを使命としている者もいる。
℘120
地上時代ずっと指導に当たった霊が死後も引き続き指導霊として、地上時代に始まった教育を霊界において担当することは、よくあることである」
──あなたはイエス・キリストの直接の影響力のもとに行動しておられると理解してよろしいか。
「よろしい。私は以前、私自身が試練の境涯を通過して超越界へと入って行かれた霊の影響下にあると述べたことがある。その霊こそ、かつて地上でイエスと名のった霊です。その方が今(超越界より再度降下されて)地上人類の霊的救済、新たな真理の啓示、そして積年の誤謬の一掃のための計画を用意されつつあります。そのための特使を神界にて選ばれ、その霊に地上の霊媒の選定を一任される。イエスこそ、このたびの大事業の最高指揮者であらせられる」
「地上の人間は内在する霊的資質の開発の必要性を常に自覚していなければなりません。このたびのわれわれの(心霊現象演出の)活動も霊的啓示を授けることを目的としたものであって、単に人間を面白がらせたり驚かせたりするためのものではない。教えを受けようとする心構えのない者には、われわれの教えも通じないものです。
その高等な霊的真理への関心の乏しさが、高級霊が地上と交信しようとしても満足のいく結果が得られない原因です。人間側に学ぼうとする姿勢が乏しいからです。好奇心の満足しか求めないからです。われわれとしては、一方において邪霊集団による絶え間ない策謀によって不利な条件を強いられ、他方において人間の冷え切った信仰心、あるいは未熟な受容性に乏しい霊性に手こずりつつも、われわれとして出来得る限りの努力をしているところである」
「われわれとしては、せめてわれわれの影響下に置かれた同志だけでも、魂の憧憬の崇高さに応じてそこに訪れる霊の霊格の程度が決まることを、実感として体験させてあげられればという気持ちです」
「純真無垢な人間が邪霊集団からの攻撃を受けることはあり得ることです。が、その際は背後霊団の守護を得て首尾よく撃退せしめるでしょう。そうした場合は別として、親和力の法則に例外はありません。類は類を呼ぶ、ということです」
──必ずしもそうとばかりも言えないのではないでしょうか。
℘122
「絶対不変というわけではないが、それが通則です。悪は悪を引き寄せる。好奇心ばかり旺盛で見栄っ張りで軽薄な人間のまわりには同じように軽薄で未発達な霊が寄ってきます。しかし純粋無垢な善人には必ずしもその通則が当てはまらないことがある。時として未発達霊からの攻撃にさらされることがあります。試練である場合もあり、邪霊集団の策謀である場合もある」
「高級霊による働きかけは声もなく音もなく、また往々にして何の兆候も見られないものです。結果を見てようやく知られるのみで、途中の過程にはそれが見られません。インスピレーションは人間が〝神〟と呼んでいるもの、すなわち宇宙にあまねく内在する大霊から流れてくるものです。
われわれと同じく人間も霊の大海の中で生きているのであり、すべての知識と叡智はそこから魂へと注ぎ込まれている。これがいわゆる精霊の内在、すなわち神は人間とともにあり、人間の心の中に宿り給う(ヨハネ伝14・17)ということです。以前われわれが皆さんも神である──一人一人が内部に普遍的大霊の一部を宿しているという意味において、人間はすべて絶対神の顕現である、と述べたのも、それと同じ真理を述べたのでした。
霊的身体はその霊の大海から養分を摂取し、存在を維持している。物的身体が呼吸によって大気中から生命素を摂取して存在を維持しているのと同じで、霊的大気と霊体との関係はまさに空気と肉体との関係と同じです。人間界の叡智もまたその霊的大気圏から得られる。主として霊による中継によって行われます。受容性の高い者、霊性の高いものほど多くを摂取する。
いわゆる天才もその類に入ります。有用な発見、人類の役に立つ発明をする者もみな、そのインスピレーションを霊の世界から得ています。その発明品は人間が思いつく以前から霊界に存在していたのである。天才のひらめきも、その根源的アイデアが芽生える霊界から放たれる光の反射にすぎません」
「霊媒能力は、別の分野なら(学問的・芸術的)天才という形で発揮されるものが、霊的な分野で発揮されたものである。霊の導きとインスピレーションに対して開かれた耳を持つ天才であり、それが次第に霊的現象へと移行したのです。教訓が忠実にそして明瞭に伝達されるためには、霊媒本人の個性は滅却しなければなりません。今の貴殿の場合がそうです。それゆえ今こうして与えられるメッセージは人間的誤謬を最大限排除した、霊の声ということです。
一言にして言えば、霊的存在である人間が霊的影響力の流入口を開く──それが霊媒能力である。あくまで霊的な目的のために使用しなければならない。営利目的のため、単なる好奇心の満足のため、あるいは低俗な、無意味な目的のために使用してはなりません。
℘124
「霊媒能力を発揮する人間の特質はその人の霊にあるのであって、肉体にあるのではない。そのことは、霊媒現象がありとあらゆる体質と体格の霊媒において起きている事実を見ても分かるであろう。男性と女性、磁気的体質と電気的体質、背が低くて頑健な体質と細くてきゃしゃな体質、年配の人と若い人、等々。こうした事実だけで霊媒能力が肉体だけの問題でないことが分るであろう。
さらに、死後もなをその能力が存在しているという事実がそれを裏書きしている。地上で霊媒だった者は肉体の死後もその能力を維持していて、それをわれわれとの協力の中で使用する。地上へ派遣されるのはそうした霊がもっとも多い。交信が容易なのである。お陰でその種の能力を欠く霊も地上界と交信できる。貴殿が地上の霊媒であるごとく、その種の霊は霊界の霊媒というわけです。
忘れてならぬことは、すべての霊的才能、霊媒能力は、進化にとって測り知れない価値を有するということである。祈りにも似た注意をもって培い、大切にすべきものであり、それを誤用悪用した時は恐ろしい代償を支払わねばならない。これを言いかえれば、霊能の所有者は普通一般のものより神とその天使の近くに存在していることである。天使からの働きかけに反応しやすいということである。
しかし同時に、悪の勢力からの攻撃にもさらされやすいことになる。善を志向する影響力の感化を受け易いのであるから、普通一般の人より一層強力な熱意をもってその才能を大事にし、守らねばならない」
「俗世的なものには、可能な限り、とらわれぬよう心がけることである。個人的見解というものを持たぬ方がよい。われわれにとって障害にしかなりません。ひたすらに永遠にして不変なるものへ向けて歩を進めることです。自分一個に関わることは往々にして利己的でケチくさいものとなりやすい。そうしたものはまずわれわれは関心を向けません。これまでわれわれは貴殿を宗教的側面に関わる教えに注意を向けさせてきた。すべてはわれわれの指導によって行われてきたことであり、これからも(現象的なものよりも)その種の問題に関心を向けてほしく思う」
──確かに、あなたの計画のあとをたどってみますと、私のすることは何もかもご存知なので不思議でなりません。ようやく私も、すべての行為が導かれていること、全人生が目に見えない力によって形作られて行っていることが分って来ました。
「貴殿はわれわれに絶対的真理を啓示することが可能であるか否かを問い、これまで数々の霊が述べたものには矛盾があるところから、絶対的真理などはあり得ず、それを得ようとするのは時間の無駄であると述べている。
もしも貴殿のいう〝真理〟が本質的に人間的理解力を超えた問題についての正確無比な叙述を意味するとすれば、われわれには、否、他のいかなる者にも、絶対的真理を啓示することは不可能です。人間には到底理解できないからである。が、もしも人間が知っておくべき事実に関するより高度な啓示──知性を発達させ、より次元の高い知識へと誘うものを意味するとすれば、われわれがこうして地上へ降りてきたそもそもの目的は、そうした真理の啓示が目的であると答えよう。それこそが我々の使命の目的なのです。
われわれはいたずらに人間を喜ばせたリ驚かせたるために参ったのではない。教訓を授け、向上させんがためです。われわれの為すことには一つ一つに目的がある。すなわち絶対的真理についてより高度にして幅広き見解を啓示することです」
(注)──モーゼスが述べたことと、それを受けてインペレーターが述べていることとが、一見、嚙み合っていないように思える。が、それはこの一部分のみを抜粋するからそう映るのであって、インペレーターはこうした霊的通信がいずれ書物となって広く世界の人間に読まれることを考慮して、局所的な質問に対しても大局から見た答え方をすることが多い。それはシルバーバーチの場合も同じである。要するにスピリチュアリズムは地球全体に関わる計画に基づいた霊的活動であり、したがってその霊媒となる人物のことは誕生前からすべてを知り尽くしていることを言っている。☆
──〝私と父とは一つである〟というイエスの言葉を説明してください。
「その言葉には自分は神であるという意味は少しも含まれていません。とんでもない誤解というべきです。その意図はわれわれが主張するところとまったく同じです。すなわちわれわれは神の使者、特別なメッセージの証人として参っているのである。そして、イエスがそうしたように、そのメッセージの神性とその証拠としての現象に目を向けさせています。異論の多い問題はなるべく避けたい。たとえば貴殿は他の(キリスト教の)僚友と同様に、バイブルの中の用語に虚構の重要性を付すという過ちを犯している。
また、ヨハネの書の翻訳の中の一語句を引っ張り出して、その上に不吉なドグマを築き上げている(後注)。バイブルも一般の書物と同じように公正な解釈を施すべきです。また神学でも大げさに取り上げている言葉も、現代とは異なる時代の異なる民族に対して語られたもので、その伝えられた方の正確さもさまざまです。それらは思想においても必要性においても生活習慣においても、現代とは全く異なる人間に対して語られたもので、しかも、そうでなくても欠点だらけであるところに、それを大なり小なり不正確な〝翻訳〟を通じて読むとという新たな危険を冒してきている。
貴殿が引用した一文には本来、神とイエスという二人の人物が一体であるという意味はありません。抽象的な意味しかありません。人物による一体ではなく目的において一つ、意図することにおいて一つということである。〝イエスなる私は、授かれる仕事において父と一体である〟ということである」
(注)──これはヨハネ黙示録に出ているハルマゲドンのことを言っていると思われる。元来は善と悪との最後の決戦場として出ているだけであるが、それが地球の壊滅的な動乱と救世主イエスの再臨ということに発展している。『シルバーバーチの霊訓』第二巻に次のような問答がある。
「ハルマゲドンが急速に近づきつつあるという予言は本当でしょうか」
「いいえ、そういう考えは真実ではありません。注意していただきたいのは、バイブルの編纂にあたった人たちは大なり小なり心霊能力を持っていて。そのインスピレーションをシンボルの形で受け取っていたということです。
そもそも霊的なものは霊的に理解するのが鉄則です。象徴的に述べられているものをそのまま真実として読み取ってはいけません。霊界から地上への印象づけは絵画的な翻案によって行います。それをどう解釈するかは人間側の問題です。いわゆるハルマゲドン、地球全土が破壊され、そこへイエスが生身をもって出現して地上の王となるというのは真実ではありません。すべての生命は進化の途上にあります。物質界に終末はありません。これ以後もずっと改善と成長と進化を続けます。それとともに人類も改善され成長し進化していきます。生命の世界に始まりも終わりもありません」☆
──でも、そのほかにも自分のことを神であると言っているかに受け取れる言葉が沢山ありますが、それはどう解釈したらよろしいでしょうか。
「われわれの見る所によれば、イエスの言葉は地上時代においてすでに誇張されて伝えられていました。つまり弟子たちがイエスの言葉をイエスが意図した意味よりはるかに誇張して記録したのです。確かにイエスは自分が神の使いであることを宣言したし、事実そうだった。それを東方教会流の誇張した比喩を用いて表現した。それを無知にして教養に欠ける弟子たちが〝十字架の死〟と〝復活〟、及びそれに付随して起きたさまざまな不思議な現象と結びつけて、必要以上に大げさに表現した。それがついには理知的人間にはついて行けない驚異的な次元へと発展してしまったのである」
続いてモーゼスは通信の内容に(通信霊によって)矛盾するところがあることを指摘してからこう尋ねた。
──あなたはキリストの神性(神であること)、バイブルの不謬性(その内容はすべて神の絶対的な言葉であること)、及び再生説を否定なさると理解してよろしいでしょうか。
「はじめの二つはつまるところ神学的教義に帰する問題であり、もう一つはその霊の未来への洞察力の問題である。イエスを神であるとし、バイブルをすべて神の声であるとするのは神学の領域内でそう考えているに過ぎません。そうした誤った信仰を抱いた霊が死後何百年何千年たってもそう思い続けていることは、けっしてあり得ないことではない。致命的というほどの害にもならないので、指導霊は他のもっと大切なことを教えることに専念し、そうした地上時代の信仰や思想は取り合えず休眠状態に置いておきます。
ところが、その霊が地上圏へ連れて来られると、そうした休眠中の古い考えが目を覚まして、かつてと同じように支配し始める。これは古い記憶の世界へ戻ることによって生じる必然の結果で、交霊に出現する霊が面影や癖、衣服まで地上時代と同じものを再現するのと原理は同じです。
同じ原理は、地上生活でもお馴染みであろう。久しく忘れていた感覚に触れて、昔の記憶が呼び覚まされることがあるであろう。一輪の花、一場の光景を見て古い思い出が蘇ってくることがある。霊が地上へ戻って思い出の中に浸ると、完全に拭い去られていない誤った教義や信仰が息を吹き返し、精神を支配してしまうのである。
であるから、霊が神学的な話を持ち出したからといって、それだけでその通信の価値をうんぬんすべきではない。よほど霊力のある、しっかりとした霊でないかぎり、列席者の思念によって影響され、霊媒の潜在意識にある強い思想・信仰に簡単に左右されます。
未発達霊は貴殿がすでに間違いであることを理解している教義を大真面目に説くことがある。霊とは言っても肉体を棄てたというに過ぎず、間違いに中々気づかないものである」
──間違った教理を信じ切っている霊が何百年何千年とそう思い込んだままの状態でいると聞いて驚きを禁じ得ません。それはよくあることなのでしょうか。
「そう滅多にあるものでもないが、霊媒を通じてしゃべりたがる霊は往々にして大して高度な悟りに到達していない者たちである。理解力に進歩のない連中である。請われもしないのに勝手に地上へ戻ってくるということ自体が、あまり進歩的でないことの証左ともいえよう。中でも、人間の拵えた教理にがんじがらめにされたまま戻ってくる霊がもっとも進歩が遅い。
真の啓示は人間の理解力に応じて神みずから啓示なさるものである。数ある地上の教説や信仰は大なり小なり誤りが見られる。ゆえに(それが足枷となって)進歩が遅々としている者が実に多く、しかも、みずからはその誤りに気づかぬのである。そうした類の霊が徒党を組み、その誤りがさらに新たな誤りを生んでいくことがよくある。かくして無知と偏見と空理空論が下層階に蔓延し、人間にとってのみならず、われわれ霊側にとっても厄介なことになっている。
というのも彼らの集団も彼らなりの使者を送って人間界を攪乱(かくらん)せんとするのです。彼らは必ずといってよいほど敬虔な態度を装い、勿体ぶった言葉を用いる。それが何時しか進歩を邪魔し真理を窒息させるように企んでいるのです。魂の自由を束縛し真理への憧憬を鈍らせるということにおいて、それは断じて神の味方ではなく敵対者の仕業である。
霊の再生の問題はよくよく進化した高級霊にして初めて論ずることの出来る問題である。最高神のご臨席のもとに神庁において行われる神々による協議の中身については、神庁の下層の者にすら知り得ない。正直に言って、人間にとってあまり深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが、霊の究極の運命である。神庁において神議(かむはか)り議られしのちに一個の霊が再び肉体に宿って地上へ生まれるべきか、それとも否か、そのいずれの判断が下されるかは誰にもわからない。誰にも知り得ないのである。守護霊さえ知り得ないのである。すべては良きに計らわれるであろう。
すでに述べたように、地上で広く喧伝(けんでん)されている形での再生(機械的輪廻転生)は真実ではありません。又偉大なる霊が崇高な使命と目的とを携えて地上へ降り、人間と生活を共にすることがあることは事実です。ほかにもわれわれの判断に基づいて広言を避けている一面もある。まだその機が熟していないと見ているからです。霊ならばすべての神秘に通じていると思ってはなりません。そう広言する霊は、みずから己の虚偽性の証拠を提供しているに他ならない」
「霊界での仕事は多種多様です。大神が教え給う崇高な真理をより多く学びより多く理解すること。礼拝と讃仰の祈りを捧げること。心優しき霊に真理と進歩を授けること。悩める心弱き霊たちへの援助活動。みずからの知性の開発。霊性の陶冶。愛と知識の進歩。慈悲の行為。宇宙の神秘の研究。宇宙エネルギーの操作。以上、要するに、不滅の存在である霊の渇望を知性と愛の両面において充実させることと言えよう」
℘134
「界層と言えば人間は地上と同じような〝場所〟を想像する。たぶんそれ以外には想像のしようがないのかもしれない。
が、ご承知の通り、地上においても、道徳的ならびに知的には同じ生活環境にありながら、霊的徳行と精神的美質において他に抜きんでている人がいるものです。
霊性が自然に引き寄せられる状態ないし環境というものがあり、その環境ないし界層がさらに幾つもの区域に分かれている。魂どうしは互いが追及するものの共鳴性、気性の類似性、前世での体験の共通性、ないしは今たずさわっている仕事の同一性によって引かれ合う思索より行動に重点を置く者もいれば、行動より思索に重点を置く者もいる。そうした違いはあっても、ひかれあう者どうしは霊格の高さにおいては同じなのです。
各界層に隔たりがあるのはもとよりのことで、それ独自の性格と特質を具えております。地上との違いほど大きくはないが、それぞれに相違点はある。肉体がないことから仕事の種類は異なってくるが、一人ひとりに為すべき仕事があります。地上世界のような時間も空間もない。身体のための必需品というものはない。霊体のエネルギーは肉体のそれより凝集性が強く、また、自己のためより外のために使用されます。
──食事は取りますか。運動はどうなりますか。
「人間が摂取するものとは異なります。われわれの身体は空間に瀰漫している霊的エーテルによって維持されており、その点は人間の霊的身体も同じです。普遍的な霊の養分、エネルギー源であり、肉体のあるなしには関係ありません。
運動は念力だけで事足ります。親和性があれば引かれ合い、なければ反発し合い、又、こちら側の欲求、ないしはこちら側の存在を望む相手側の欲求によっても引かれ合います。
霊的界層は〝状態〟であって、地上でいうところの〝場所〟ではない。そこに住む霊は人間のように時間と空間の条件には支配されません。住民は一地域に閉じ込められているのではない。住民の持つ道徳的、知的ならびに霊的な状態によって、異なる界層が生じております。つまりアフィニティ(同じ霊系に属する親和性の強い霊どうし)が集まり、その共鳴性にあふれた交わりの中に喜びを味わっている。隣人だから、近所だからということで交わるのではなく、性向と目指す目的の類似性によって近づき合うのです。
高い界層には不浄な者は入れません。低い界層に集まるのは教育的指導を必要とする者たちであり、その指導は、地上的雰囲気の中で喘いでいる霊のために一筋の光明をもたらさんとして、光輝あふれる住処をあとにして降下してくる高き界層の霊から授かります。
最初の三つの界は地上近くに存在する。そこにはそうした(地上的煩悩から脱しきれない)者たちがひしめいている。第一の界層は、諸々の原因から、地上へ引き付けられている者です。地上生活ではほとんど進歩が得られなかった者たちで、必ずしも全面的に悪いわけではなく、ただ、せっかくのチャンスを利用しないまま無為に過ごしたために、今なお当てもなく迷い続けているのである。
さらには、地上に残した僚友への情愛と親和性のために、向上する可能性を有しながら敢えて地上圏に留まって援助している者もいる。それに加えて、霊的に若く、進歩的教育の段階にある者、不完全な身体をもって誕生したために充分な体験を積むことが出来ず、学ぶべきだったことをこれから何とかして学ばねばならぬ者、不可抗力によって寿命を全うせずして地上を去った者がいる。みずからの責任ではないとは言え、向上するためにはその埋め合わせをしなければならないのです」
「われわれの所属する界の素晴らしさ──漂う心地よい香気、咲き乱れる愛らしき花々、辺りに広がる嬉しさを誘う景色は、到底、人間的想像の及ぶところではありません」
──そちらの家屋もやはり〝もの〟で出来ているのでしょうか。
「そうです。ただし、人間が考える〝もの〟とは違います。われわれにとって実体が感じられるということであり、人間の粗末な感覚では実感は感じられないでしょう。われわれは人間と違って空間の束縛を受けません。光や空気のように自在であり、地上の家のように一定の場所に固定されていません。それでいて生活環境は洗練された霊的感覚のお蔭で、人間が物的環境から受けるのと同じ、実体が感じられます」
他界して間もない知人が出現したので、モーゼスが尋ねた。
──そちらの世界は地上とよく似ていますか。
「何もかもよく似ています。違いを生じさせているのは条件の変化だけです。花も果実も気色も動物も小鳥も、地上とそっくりです。ただ、その構成要素の条件が異なるだけです。人間のように食べ物にガツガツすることがなく、従って生きるために動物に殺傷することもいりません。呼吸する空気とともに摂取するもの以外には、身体の維持に必要なものはありません。また行動が物的なものによって制約されることもありません。意のままに自在に動けます。私は今そうした新しい生活条件に少しづつ、それこそ赤ん坊のように、慣れて生きつつあるところです。その現実の様子はとてもお伝え出来ません」
℘138
〝S〟の署名で通信を送って来ていた人物がモーゼスの友人だったウィルバーフォース William Wilberforce (英国の政治家・奴隷解放運動家)であることが判明。そのウィルバーフォースがこう綴った。
「こちらでも地上と同じく寄り集まって暮らしております。共同体を形成しており、やはり地上と同じように叡智と霊性の高い者によって統治されています。すべてがよく似ております。ただ、行為の一つ一つが普遍的な愛の精神に発しております。摂理への背反は高級霊によるその結果の指摘及び矯正のための教訓という形での罰を受けます。それを何度も繰り返していると、もう一段低い界層へ移動し、ふたたび霊格が相応しくなるまで上れません」
このことに関連してインペレーターがこう付け加えた。
「貴殿の友人がいま述べたのは低界層で彼が見た印象を述べたに過ぎない。そこでは霊が共同体の形で生活しており、高級指導霊のもとで、より高い境涯への準備を行っている。そこは試練と準備の境涯で、より高度な仕事への訓練を受けるところである。いかなる霊も霊性の相応しくない境涯に存在することはできない」
──そうした境涯はどこに存在するのですか。
「それは〝状態〟のことである。貴殿の友人はまだ他界直後に置かれる地球圏の界層を抜け出ていない。似たような界層は他の惑星にも存在する。界層といっても〝状態〟のことであり、類似した状態はどこにでも存在できるし、現に存在している。人間が空間と呼んでいるところに無数の霊の住処が存在している」
その友人のウィルパーフォースがインペレーターの容姿を次のように描写している。
「はじめ私は高級霊たちが身につけている光り輝く衣服を見て不思議でなりませんでした。たとえば今のインペレーター霊の外衣(ロープ)は目も眩まんばかりの白色をしており、まるで純粋無垢のダイヤモンドで出来ていて、それが鮮やかな光輝を当てられているみたいに見えます。肩のまわりにサファイヤブルーをしたものをかけておられ、頭部には深紅の飾り環にはめ込まれた栄光の王冠が見えます。飾り環は愛を象徴し、サファイヤブルーの衣服は叡智を象徴し、光り輝くロープは清純さと完全性の高さを象徴しております」
──すばらしい! 王冠はどんなものですか。
「尖塔が七つあり、その一つ一つの尖端に目も眩まんばかりの光輝を発する星状のものが付いております」
℘140
リフォーマー Reformer と名のる霊からの通信。
「霊は愛と知識の進歩とともに光輝と美が増していきます。頭(かしら)(インペレーター)の頭上の王冠はその崇高な霊格、純粋性、愛、犠牲心、そして神への真摯な献身の象徴です。よほど高貴にして神聖なる者しか授からない王冠です。
霊が身につけた叡智は、他の霊にはその衣装とサファイヤブルーのオーラに象徴されているのが見て分かります。また愛の深さは犠牲心と献身を象徴する深紅によって知れます。それを偽って見せる方法はありません。霊界ではすべての偽装がはぎ取られる。偽善も見せかけも不可能です。欠点も長所も偽ることができません。真に自分のものでないものを自分のものであるかに装うことはできません。真に自分のものは霊という存在の生得の資質のみです。
今われわれの会議が終了し、大方の者はそれぞれの仕事に戻っています。インペレーター霊はまだ天上界に留まっておられるが、そのうち戻って来られるでしょう。頭(かしら)は所用でよく天上界へお帰りになります。頭ほどになられると地上の人間を特別に支配するということはなさりません。全体としての指揮・監督にあたられます」
──よほど高い地位の方なのでしょうか。
「さよう。高級神霊界においても指導的立場にあられる霊のお一人です。それほどの方がこうして直接地上へ戻って来られることは極めて稀なことです。大抵は中継者として他の霊に命令を下します。よほどの大事業においてのみ高級神霊が直接戻って来られるが、それでも直接一個の人間を支配することはなく、総合的に指揮・命令を下し、計画をお立てになる。
その会議のため、そして又、聖なる霊力の摂取のために集結した壮大な光り輝く存在の群れがもしも人間の目に映れば、言い表せない喜悦を覚えることでしょう。が、他方にはその反対の勢力も控えています。邪霊の大軍が二重、三重に集結し、神の真理の啓示の進歩を阻止し、歪めんとして、手ぐすね引いて待機しています」
インペレーターは地上では旧約聖書に出ているマラキ(マラカイ)Malachi であるとの話について尋ねる。
──その名は象徴的な意味で用いているのでしょうか。(Malachi はユダヤ語で〝使者〟の意味がある─訳者)
℘142
「いや、そうではない。述べられたことは事実であり、象徴的なものではありません」
──あなたはリフォーマーと名のっておられますが・・・・・・(reformer には〝改革者〟の意味があり、これは象徴的に用いている─訳者)
「地上時代の私はネヘミヤ Nehemiah と同一人物です。(旧約聖書ネヘミヤ記の筆者で紀元前五世紀のユダヤの指導者─訳者)同じ予言者と呼ばれた人物でも、モーセ、マリヤ、エレミヤ、エゼキエルに勝る霊覚者はいません。少なくとも記録に残されているユダヤ人の中にはいません。
エホバは、よく言われている通り、アブラハムとイサクとヤコブの神でした。唯一絶対神ではなく、言わば一家の守り神です」
モーゼスが通信霊の名のる名前と本人との同一性に疑念をはさんだところ、インペレーターが答えた。
「そうした名前は、貴殿に集中的にもたらされる影響力を代表したものにすぎない。時にはその影響力は必ずしも一個の霊からのものとは限らぬもので、いうなれば非個人的である。一個の精神の産物ではなく、複数の精神の集約されたものである場合がむしろ多い。
と言うのも、貴殿にかかわっている霊の多くは、さらに高い霊格の霊より届けられる影響力の通路にすぎないのである。そうするより外に影響力が届けられる手段がないのである。われわれはよく会議を開き討議を重ねる。したがって貴殿がうけ取るものはわれわれの思想の合体したものである場合が多いことになる。
貴殿は霊的資質の開拓を心掛け、肉体的欲望を抑制し、俗世的環境を超脱することが肝要である。外面的な物的生活を内面的な霊的生活、より実在に近い生活への準備と見なすべきである。こちらの世界こそ実在であり、そちらの生活はその影である」
「とくに留意してほしいことは、正常な霊的能力と異常な霊的能力の違いである。霊が外部から霊媒に直接的に働きかけて入神させ、その霊を肉体から一時的に退去させ、代わって別の霊がその身体的組織を操作するというやり方は異常手段であり、たとえてみれば催眠術で患者を催眠状態に導くのと同じである。
正常な霊的能力というのは霊が潜在的資質を開発し、それが背後霊からのインスピレーションによって一段と高められ補強されるという形のものをいう。そこには霊を退去させて入神状態へ導く必要はなく、魂がその霊的才能を補強されて、背後霊団との協議に参加することさえ可能となる。
魂が受動性の中で教育され、思惟活動の中庸性、行為と意図の純粋性と誠意を養成される。霊的感覚を全開させて、インスピレーションの鼓吹を受け入れる。かつては異常手段によって苦痛の中に伝えられたものが、今や、ごく自然な形で流れ込む、本来の霊力が阻害されることも阻止されることもなく、のびのびと成長し豊かになっていく」
──〝インスピレーション的霊能〟というのは具体的にはどういうものですか。
「思想を原語に置きかえずに直接的に受信する能力のことである。これは霊能者の存在全体が霊の支配に浸り切れるようになって初めて可能な、最高の交霊手段である。この場合、霊との交信は精神的に(以心伝心で)行われ、言語は必要としない。もともと霊界の上層においては声も言語も存在しない。霊と霊とが直接的に認識し合い。その交信は完璧であり、聞き落とすということがない」
「貴殿は今われわれが脳へ伝達した概念を、いつも使用している原語で書き表している。これにはいつも四人の霊が関わっており、周囲を外敵より遮断し、適切な調和状態を確保してくれている。手書きの手段を選んだのは個性の証としての意味以外には格別の意味はない。用語は貴殿が普段使用しているものであり、思想だけが我々のものである」
「われわれは今、至上の大使命にたずさわっているところである。神の計画にもとづく仕事であり、それを人間が挫折させるようなことになってはならぬ。これまでわれわれは段階的経過のうちに霊的真理を明かすべく努力してきた。われわれが神の使徒であることをイエスと同様にしるし(心霊現象)によって証さんとしてきた。が、同時に心霊現象は大事業の補助的手段にすぎず、したがって、それにあまり熱心になり過ぎるのも、あるいはそれでもって事足れりとするのも間違いであることを警告してきた。
現象はただの殻にすぎない。物理的と呼んでいる客観的現象の演出は、霊的真理の啓示というわれわれの使命を裏書きするものとしてのみ存在価値がある。現段階においてはまだ必要性があり、またそれを必要とする者は常に存在するであろう。それゆえにこそ折に触れてわれわれは驚異的現象を演出して見せてきたが、同時に、それにあまり興味を持ち過ぎぬように警告し、時として危険でさえあると述べてきた。総じて心霊現象には副次的な価値しかないものである」
℘146
「霊媒能力も過度に使用すると体力を消耗させる。この種の現象(物理的現象)は、あくまでも、真理を渇望する魂のためにわれわれが系統だて整理して伝えている通信を受け取るという仕事の補助的な価値しか持たない」
「物理的現象に実在性があるかに思うのは間違いである。往々にして最低の手段に過ぎないことがあり、霊媒にとって危険でもあり、霊的交信のアルファベット(最も基本的なこと)を学ぶ者のためにのみ有効であるに過ぎない」
「心霊写真に写る霊姿は霊的素材(エクトプラズムの一種)の映像であって、霊そのものではない。言わば作られたモデルであって、確認してもらうために輪郭を整えたに過ぎない。白い霧状の物質で包んであるのも同じ理由からである。霊的素材をまとった状態を維持するのは容易でないので、そうやって位置と形を保つのである」
──その霊的素材は物質化現象で見られる物質と同じものでしょうか。
「いや、同類のものではあるが、物質化の程度が異なる。むしろ実験中に見られるライトに近く、濃度を濃くも薄くもできる性質のものである」
──そうやって確認されても、その場にいた証拠にはならないとおっしゃいましたが・・・・・・。
「それは存在の絶対的証拠とはならないということである。人間は存在の概念を物質的に考える。すでに述べたように、霊は遠距離からの操作も可能である。そこで、存在の証拠とはならなくても、他界した知人が地上へ戻ってきたしるしとして、そういうものをこしらえるのである。
心霊写真は認知を目的として霊的素材でこしらえる映像である。その霊自身がこしらえる場合もあるし、その霊の指図で複数の霊(霊界の技術者)がこしらえる場合もあろう。ただし、邪霊に騙されていなければ、の話である。邪霊集団にはよくよく注意するよう改めて警告しておく。ウヨウヨしているし、これからますます暗躍が活発となろう。貴殿はそうした霊からの攻撃も覚悟しておく必要がある。われわれの使命が重大なものであるだけに、彼らの妬みを買いやすく、攻撃を受けることは避けられないのである。強く警戒を要請しておく」
「真理を求める者は、肉を霊の支配下に置けるようでなければいけない。真実の霊的知識に憧れる者は生活のすべての面において純粋で、心身ともに勇猛果敢で、真理の追及において一途で、足れるを知る人間でなければならない。純粋さ、素朴さ、一途さ、そして進歩と真理への憧憬──こうしたものが霊的知識の領域へ導いてくれるのである。これに反し、肉体的煩悩が霊性を抑圧している者、霊的知識を卑俗な目的のために悪用せんとする利己主義者──この種の者は深刻な危険にさらされているといえる。
移り気な人間はとかく神秘的なものに引かれる。神秘のベールが単なる好奇心でもって突き通せるものと安直に考えるのである。見栄が強く、能力も知識もないのに、あたかもあるように見せかける。それが他人のものを覗き見する悪趣味を生む。この種の人間には(邪霊集団の手先にされる)危険がつきまとう。真摯な探求者には何一つ危険はない」
「根っこからの悪人とは言えないまでも、自制心と規律に欠ける者、節度と調和を失える者は、邪霊による攻撃の格好の的にされやすい。その種の人間との付き合いは避けるがよい。同じく霊的であっても、未発達の有り難からぬ指導霊の都合のよい手先にされていることがよくあるからである。不節制で、非理知的で、興奮しやすい性格の持ち主には用心するがよい」
「われわれ(神の使者)からのメッセージを求める者は、冷静さと誠実さと祈りの心、それに穏やかにして健全な身体的条件をもって臨んでほしい」
「地上の人間は純粋な霊的交信を得るために微妙な条件をよく理解する必要がある。十分な条件が整わない時は、われわれはただ、人間が自ら招いた危険から守るために周囲の警戒態勢を維持するのが精いっぱいということになる。しかも人間はそのことに一向に気づかずにいる。邪霊の姿が見えぬからに過ぎない。それはあたかも無知な人間が自分の無分別な振る舞いによって周囲の者に及ぼしている迷惑を、その鈍感さゆえ少しも気にしないのと同じである。人間の目に映じない──ゆえに気がつかない。それだけのことである」
「霊媒能力の開発には恩恵と同時に危険も伴うものである。よほど強力な霊団による守護がないと、未発達霊による進入の危険性がある。用心と祈りとが肝要である」
「霊媒としての仕事は(使命を持つ霊団によって)選ばれたもの以外は勝手に始めてはならない。選ばれた者ならば霊団による守護がある。そうした霊媒に限って安全と言える。それも誠実にして真摯な心構えで〝神の仕事と栄光のために〟行うとの認識があってはじめて言えることである。自己中心の考え、いかなる形にせよ〝小我〟にとらわれることから生じる邪心──見栄、自惚れ、野心などは霊性を汚す致命的な誘惑である」
℘150
「低級な霊媒現象につきまとう危険は実に深刻である。そのわけは、まず第一に、その種の現象はとかく眼を見張らせるような驚きと物珍しさの対象としてのみ扱われ、又金儲けの手段とされやすいからであり、第二は、出席者が種々雑多な思いを抱いて集まり、そこから生ずる雑多な雰囲気による調和の欠如が物質性の強い低級霊を引き寄せるのである。その種の霊も、高級霊の監督のもとに働くのであれば、むしろ高級霊よりも物的現象を扱うのはうまい。が、指導と監督の欠如は霊媒の堕落につながる。進入した低級霊のおもちゃにされがちだからである。
貴殿の交霊会でも雰囲気がわれわれにとって厚い壁のように思われることがよくあり、突き抜けることが出来ず、毒々しささえ覚える。呼吸が出きないほどである。低級霊にとってはそれが有難く、地縛霊もまたそれをよろこぶ」
──なぜそうした霊の侵入を阻止してくれないのですか。
「人間は災いを勝手に招いておいて、それをわれわれが阻止してくれないことに文句を言う。それを阻止するには交霊会の出席者みんなが心掛けと生活と動機を清潔にするほかはないのである。電機は何にでも流れるのではない。良導体だから流れるのである。物事は原因があって結果が生じる。霊も同じである。邪霊の働きかけを疑うのは貴殿の目にそれが見えぬからに過ぎない。いずれその愚かさを知って驚く日も来よう。どれほど暗躍しているか、どういう悪影響を及ぼしているか、どういうことにまで及んでいるか、貴殿はまだ何もわかっていない」
「われわれはあるがままの事実を述べているのであって、人間が勝手にこうであるに違いないと想像していることには関知しない。人間を騙そうと企む霊は間違いなく存在する。そして、これ以降も存在し続けるであろう。貴殿がそれを無視してかかることは、貴殿に対する悪企みの温床にしかならない」
「眼を見張らせるような現象ばかり見せて〝珍しがり屋〟を喜ばせている霊媒は、知的にも道徳的にも低級な霊のおもちゃにされている。貴殿とて、いつも同じ霊が通信して居るものと思い込んではならない。名前は何とでも名乗れるし、見せようと思えばどんな霊の姿でも見せられる。そうやって人間を騙しては喜んでいるのである」
「われわれは今、危惧の念をもって将来を見つめている。物質にとらわれないようにとの説得は果たして人間に通じるか、われわれは疑問を抱いている。それが果たせない限り純粋な霊的真理の普及は覚束ないであろう。われわれが嘆かわしく思うのは、人間が霊を物質界のレベルへ引きずり下してしまうことである。万一そういうことになれば、引きずり下ろされた霊は災いのタネとなりかねない。それよりは逆に人間の側が霊のレベルまで霊性を高めるよう努力すべきである。そうすれば霊の証と真理の両方を手にすることが出来るであろう。
われわれとしては、なるべくなら物的な交信手段のすべてを排除してしまいたいところである。この方法(自動書記)とてインスピレーション的交霊(144℘参照)にくらべれば至ってお粗末なものである。
どうかわれわれのことを同志と心得てもらいたい。そして貴殿の三位一体の存在(霊・精神・肉体)が有する能力のうちの最高のものを使用できるように協力してもらいたい。退屈きわまる物的現象を何度も何度も繰り返すことはいい加減にしてほしい。そして、われわれに託された使命に恥じない威厳をもって頂きたいのである。
霊的秘密を求め、真理の道具として選ばれた者が攻撃の矢面に立たされることは、必然のしからしむところである」
℘153
「能力を物的レベルから(精神的レベルへ)引き上げること、知覚力を鋭敏にすること、内部の霊的能力を開発すること、われわれの存在の身近さを(現象という形でなしに)ごく自然に感識出来るようになること、入神という危険性のある状態にならずにわれわれを認識し交信できるようになること、以上のことを心掛けてくれれば、われわれとしては申し分ないところである。これが人間として可能な最高の生活形態の手始めである。
貴殿がそろそろ現象的なものから手を引いて霊能をより高度なものに発展させようと考えていることを、われわれはうれしく思っている。すでに述べたように、成長過程の一つとして、われわれも一時的に貴殿を物的現象のために利用されるのを許さざるを得なかった。その段階をストップさせてもよい時期を見計らって、われわれは今度は貴殿の存在そのものである霊の本質について学ばせるために、他の霊と接触を許したのである」
(注)──《解説》で概略が述べられていることであるが、モーゼスは当初は霊の存在に懐疑的だったが、多くの交霊会に出席するうちに次第に信じるようになり、そのうち自分の身辺でも各種の心霊現象が発生するようになって、ようやく核心を得るに至った。その間もずっと自動書記は続けられていたのであるが、背後霊団の身元について確信を得たのは、自動書記を綴ったノートが十四冊になったころからだという。(全部で二十四冊)。〝他の霊との接触を許した〟というのは、それまでプライベートな身近な話題ばかりだったのが、今度は霊団の中でも高級な霊が入れ代わり立ち代わり名のって出て高等な内容の通信を送り始めたことを言っている。☆
「われわれの教えの中に新たな要素が見られるようになったことに貴殿も気づいている。これまで貴殿を取り巻いていたドグマの垣根が少しづつ取り壊され、かつては理解できなっかった真理が把握できるようになった。神聖であると思い込んでいたものの多くを捨てさることができるようになった。かつては不可解な謎とされていたものについて考究するようになってくれた。
われわれは貴殿の教育をまず物的レベルから始めた。物質に勝る霊の威力を見せつけ、貴殿を通じて見えざる知的存在が働いているその証拠を見せることが出来た。その初期の段階では物理的現象で十分であった。が、その後われわれは徐々にわれわれ自身の身元について語り、貴殿の精神に新たな啓示の観方を吹き込んだ。それによって貴殿は神の真理が一民族、一個人、一地方、一時代に限られるものでないことを理解することが出来た。人間が勝手にこしらえたとは言え、いかなる宗教にも真理の芽が内蔵されていることを示したのであった。
われわれの指導は二つの平行線をたどったのである。一つは物質的ないし物理的現象であり、われわれが使用する隠れた霊力の目に見える証拠である。もう一つはわれわれが届けるメッセージの内容とその意義である。人間が肉体という物質にくるまれている以上は、現象的証拠に関心が行き過ぎるのもやむを得ない事である。だからこそ我々は、それがあくまで副次的なもの──われわれの本来の使命の証にすぎないとの見解の理解を貴殿に要請してきたのである」
モーゼスの使命に備えての霊団側の指導過程が明かされた。(『霊訓』の二十二節でモーゼスは〝私の全生涯にわたる霊的使命に関する長文の通信が送られてきたのはその時だった。その内容に私は非常に驚いた〟と述べながら、プライベートすぎるからという理由で公表していないが、これから引用される部分が多分それではないかと推察している─訳者)
「〝真理の太陽〟の一条の光が貴殿の魂に差し込んだ時、死せる者──と貴殿が思い込んでいた者──も生者の祈りによって救われること、永遠の煉獄は神学的創作、あるいはそれ以上に愚かなたわごとであることを悟った。神は、神を求める子等すべてを等しく好意の目をもって見つめ給い、信仰と信条よりも正直さと誠実さの力を嘉納されることを学んだ。
また貴殿は、神はバイブル以外のいずこにおいても、また他のいかなる形でも人間に語りかけておられること──ギリシャ人にもアラブ人にもエジプト人にもインド人にも、その他、すべての子等に等しく語りかけておられることを学んだ。神は信条よりも誠心誠意を嘉納されることを学んだ。貴殿の心の中でプラトンの思想が芽を出し、その言葉が蘇ったことがある。が、その時はまだ、神の言葉はプラトンを通じて啓示されても、あるいはイエスを通じて啓示されても、その価値にかわりはないとの理解がで来ていなかった。
その後、貴殿は例の叔父たち(後注①)の教理や信仰が本質的にいかなるものであったかを学んだ。真相を理解し、それに背を向けた。初期の教会時代の神学を精神的に超えたのである。型にはまった神学に満足し、アタナシウス教義(後注②)の害毒によろこびさえ覚えていた段階から一段と向上したのである。不条理なもの、神人同形同性説的な幼稚なものを思い切って棄てた。
貴殿にしてみれば、みずからの思索によってそうしたと言いたいところであろう。が、それは違うのである。われわれが手引きしてその結論を固めさせたのである。やがてわれわれは、もはや貴殿の知的ならびに宗教的首位準に合わなくなった教会での牧師としての職から身を引かせるのが懸命と判断した。初期の目的を果たした場所より身を引かせ、地上における使命の次の段階のための準備へと歩を進めた。幾度かあった身体的病気も、それによって貴殿の気質を調節する効果を目的としたものであり、それは実はわれわれにとっては霊力のエンジンの調節であった。それによって貴殿の健全なるコントロールを維持してきたのである」
(注)①──キリスト教初期の教会において教理・戒律となる著作をした人たち。
(注)②──初期の神学には神人同形同性説を唱えるアタナシウス派と、それを否定するアリウス派とがあり、三二五年のニケ―ア宗教会議で後者が異端とされた。☆
──私のこれまでの人生はそのための準備だったわけですか。
「その通りである。われわれは唯一その目的のために計画し導いてきたのである。何とかして十全な準備を整えた霊媒を確保したかったのである。まず精神が鍛えられていなければならない。それから知識を蓄えていなければならない。そして生活そのものが真理の受け皿として進歩的精神を培うにふさわしい者でなければならなかった。
そのあげくに貴殿は、ある時われわれにとって最も接触しやすい人物(スピーア夫人《解説》参照)によってスピリチュアリズムへの関心を持つように手引きされた。その折のわれわれによる働きかけは強烈であった。計画を積極的に進めていった。それまでの教説よりはるかに進んだ神の福音を直接的に教えて行った。
℘158
今貴殿が抱いている神の概念は、それまでのものに比べてどれほど真実に近いことであろう。ようやく理解してくれた豊かなる神の愛は、どこかの一土地の一民族だけをひいきするような偏ったものではなく、宇宙と同じく無限にして無辺なのである。いかなる教理にも縛られることなく、人類はすべてが兄弟関係で結ばれており、共通の神の子であり、その神は何時の時代にも必要に応じてご自身を啓示してこられているのである。
神人同形同性説が人間の無知の産物であること、神の言葉であるとまことしやかに喧伝されているものが往々にして人間の勝手な現象にすぎないこと、最高神が一個の人体に宿って降誕するなどという考えは人間のたわごとであるということ、そのような迷信は知識が進化すれば、それに由来する教義、神を冒涜するような見解とともに棄て去れれるものであるとの理解に到達した。
また自分以外に〝救い主〟は無用であること、自己と同胞と神に対する責務を忠実に遂行することこそ唯一の幸福への道であることを学んだ。そして今まさに貴殿は、現在の罪に対する死後の懲罰、進歩と善行の結果としての霊界での幸福と充足感について、われわれ霊団の者が教えるところの真理を理解しつつある。霊の訓えが貴殿にどれほどの影響を及ぼしたかを知りたければ、かつて抱いていた思想を吟味し、それを現在の考えと比較対照し、いかにして貴殿が暗黒より神の真理の驚異的光明へと導かれたかを見極めることである。
貴殿は、おぼろげながらも、人生が外部の力によって形づくられるものであることを認識し、霊が想像以上に人間界に働きかけているのではないかと思っている。事実その通りなのである。人類全体が、ある意味で、霊界からの指導の受け皿なのである。とは言え、われわれといえども原因と結果の連鎖関係に干渉することだけは出来ない。人間の犯した罪の生み出す結果から救ってあげるわけには行かない。愚かしい好奇心に迎合することもしない。試練の場としての地上を変えるわけには行かないのである。
また、全知なる神が、隠しておくのが賢明と考えられたが故に謎とされているものを、われわれが勝手に教えるわけにもいかない。知識を押し付けることもできない。提供することしか許されないのである。これをよろこんで受け入れる者を保護し、導き、鍛え、将来の進歩のために備えさせることのみ許されるのである。
われわれの使命についてはすでに述べた。それは、実は、人間と神との交わりの復活にすぎない。かつての地上の精神的指導者が今なお霊界において人類の指導に心を砕いており、このたび貴殿を監視し守護し指導してきたのも、貴殿がそうした指導者のメッセージを受け入れ、それを広く人類一般に伝えてくれること、ひとえにそれを目標としてのことであった。貴殿をその仕事にふさわしい人物とすることが、これまでのわれわれの仕事であった。これからは神の福音を受け取り、機が熟せばそれを世界の人々へ伝えることが次の仕事となろう」
──では、これは宗教的活動なのでしょうか。
「まさにその通りである。われわれが人間にとってぜひとも必要な福音を説きに来た〝神の真理の伝道者〟であることを、ここに改めて主張する。その使命にとって大切なこと以外は、われわれは何の関心もない。その点によく留意してほしい。差し当たってわれわれは貴殿が個人的な知友との交霊のための霊媒とされようとしている傾向は阻止する。その種のことに身をさらすのは危険この上ない。霊格の発達した者は、地上の者と交信したがっている無数の霊に取り憑かれやすいことを貴殿は忘れている。感受性が発達するほど地上近くをうろつく低級霊に憑依される危険性も増える。実に恐ろしい事であり、貴殿をそういう危険にさらすわけには行かない。低級霊のすることは貴殿もすでに知って居る筈である。その種の行為に貴殿は実に過敏である。そうなった時はもはやわっれわれも手出しが出来ぬかもしれない」
「交霊会は霊の目には光の中枢として映るもので、はるか遠方からでも見え、地上の縁者と語りたがっている無数の霊が寄り集まって来る。その中には物質を操る能力においては強力なのがいる。事実その点においては高級霊よりは上手なのである。霊は進化するほど物的エネルギーが扱えなくなり、精神的感応力に訴えて知的な指導と指揮にあたることになる」
「出席者の側に霊性が欠けている交霊会に群がる霊が死後一向に進化しない低級霊であることは、まぎれもない事実である。いわゆる地縛霊であり、列席者がかもしだす雰囲気に誘われて訪れ、他愛もないことを述べて戸惑わせたり困乱させたりして面白がり、あるいは悪徳や罪悪へ誘い込もうとする。
そもそも霊的交信なるものは何のために行うのか、その存在意義を明確にわきまえ、それが今いかに堕落した目的のために行われつつあるかを、よく考えてみることである。何の警戒態勢もないまま行われる交霊会に集まる霊に操られはじめたら最後、遅かれ早かれ列席者も同じレベルまで引き下げられてしまう。つまり精神的に、道徳的に、そして肉体的に、堕落の一途をたどることになる。今の貴殿はあたかも伝染病の隔離病棟に入りながら病原菌だけは移されまいと期待するのにも似ている。いつの日かきっと大それたことをしたことを思い知らされることであろう。
以前から吸血鬼が貴殿をねらっている(後注)。さらに今は吐き気を催すような悪霊が付きまとっている。それはぜひとも払い除けねばならない。それは余程骨の折れることであろうが、もしそれが出来なければ、いつかはその餌食となるしかない」
(注)──〝吸血鬼〟という種族が実在するわけではない。〝悪魔〟が、そう呼びたくなるほど邪悪な性質をもつに至った存在という意味であるのと同じで、これも用語上の問題である。スカルソープの『私の霊界紀行』(潮文社)に次のような体験が紹介されている。
「ある時いよいよ離脱の状態に入り、間違いなく離脱しているのであるが、どこかしら不安がつきまとい、霊界へ行かずに寝室の中を漂っていた。やがて階下の店へ降り、カウンターの後ろに立った。なぜか辺りの波長が低く陰気で、全体が薄ぼんやりとした感じがする。かつてそのような雰囲気を体験したことがなかったので、もしかして離脱の手順を間違えたのかと思っていた。
すると突然、邪悪で復讐心に満ちた念に襲われたような気がした。その実感は霊的身体をもって感じるしかない種類のもので、言葉ではとても表現できない。とにかく胸の悪くなるような、そして神経が麻痺しそうな感じがした。その念が襲ってくる方角を察して目をやると、二十ヤードほど離れたところに毒々しい煤けたオレンジ色の明かりが見えた。その輝きの中に、ニタニタ笑っている霊、憎しみを顔いっぱいに表している霊が見える。そして、自分たちの存在が気づかれたと知ると、とっさに思念活動を転換した。
すると代わって私の目に入ったのは骸骨、朽はてた人骨、墓地などが幽霊や食屍鬼(しょくしき)、吸血鬼、そのほか地上的無知とフィクションの産物と入り乱れている光景だった。
(中略)
愚かしい概念も、何世紀にもわたって受け継がれてくると、各国の人民の精神に深く刻み込まれていく。未知なるものへの恐怖心もその影響の一つである。暗黒を好み、地上の適当な場所を選んで、そうした低級霊がたむろし、潜在的な心霊能力でもって地上の人間に影響を及ぼす。彼らが集団を形成した時の思念は実に強烈で、幽霊話に出て来るあらゆる効果を演出することが出来る。未知なるものへの恐怖心も手伝って、そうした現象は血も凍るような恐怖心を起こさせる」☆
純正な物理現象が行われている最中に明らかにごまかしと分かる愚にもつかぬ行為が見られることを述べると──
「物理現象に携わる低級霊は、ある目的を何とか達成しようとして、ごまかす意図からではなしに、手っ取り早い手段を使用することがあるものである。特に完全物質化現象は低級霊にしかできない現象の一つであるが、霊側は別にごまかすつもりからではなしに霊媒の身体を利用することがある。それが一番手っ取り早いからであるが、貴殿にはそれがせっかくの純正な現象の中にもごまかしが混じっているかに思われるのである。
現象によっては、高尚な心を持たない存在、したがって道義心というものを持たない存在による演出である場合もあろう。貴殿の目にはあたかも躾の悪い動物の行為のようにうつるであろう。が、低級霊は大目に見てやらねばならない。そして、霊力の証拠以外のものは期待せずに、それをふるいに掛け、よく検討して意義あるものだけを選び出し、本物と偽ものとが混じっていることに動揺しないことである。
そもそも現象的なものは、そうした形での証拠しか受け入れられない者のために必要なだけであってわれわれが神の使者であることの証拠ではなく、また、われわれの教訓の道徳的高尚さのしるしでもない。唯物的観念にとらわれている者のために用意された手段に過ぎないのである。
それにはその演出にもっとも適切な霊が当てられる。その種の霊はきわめて低級であり地上臭が強い。地上生活を何の進歩もなく終わったか、向上の意志だけはあったが実践するまでに至らなかった者のいずれかである。後者がもっとも強力な働く手となってくれるが、残念ながら彼らには道徳的な見極めがつけられない。
だからといって貴殿が〝たかが家具を移動させる程度のもの〟と軽蔑的に述べている種類の現象に、人類の大先輩たる高級霊を差し向けるのは不条理であり、愚かしい事であろう。偉大なる霊は、かつて肉体に宿っていた時も地上の啓発のために神によって派遣されていたのあり、そのような霊を、物質中心のものの考え方しかできない者のために、証拠として演出して見せるだけの仕事に使用するわけにはいかない。それほどの霊になればもはや鈍重な物資への影響力は持ち合わせず、直接的に働きかけることは不可能である」
「物理現象は、それを得意とする霊が最高の証拠を見せてくれる交霊会だけに限定すべきである。また、その際、現象的なもの以上のものを求めてはいけない。それは、高級霊に現象的な証拠を求めてはならないのと同じである。物的なもの、物理的なものを求める時は、原則として霊的進歩は犠牲にされるものである。それゆえ、交霊会というものは等級別にすべきであり、純粋に物理的なものは、それを必要とする場(科学的研究のための実験会など)に任せることである。高級霊は物的雰囲気に支配された場には出たがらぬものでしたがって、そういう場で高等な知識を求めてはならない。あくまで物的証拠しか求めてはならない。反対に現象的なものを要求されない交霊会では大いに知識を求めるべきであり、高級霊との交わりによって、また彼らの教育と啓発の使命を理解することによって、霊的雰囲気をできるだけ高めることを目的とすべきである」
──物理現象は止めてしまうべきでしょうか。
「進歩を求める以上はそうすることが絶対に必要である。現象的なものを担当する霊からは真実の知識も教訓も得られない。物理的なものと霊的なものを截然(さいぜん)と区別する必要性をここに強調しておきたい。自分を霊的なものへ高めていくことを目標としてほしい。霊的なものを物的なものへ引きずり下ろすことになってはならない」
「病気の時、あるいは心配毎のある時は、高級霊との交信を求めてはいけない。列席者の中に一人でも病気の者や精神的な悩みを抱えている者がいると、それが障害となる。オーラの本来の機能が低下していて、それが影響して室内の物が歪んだ様相を呈する。調和性に富み、愛に満ちた心、純粋で清潔な思念、健康で元気な身体、いちずな真理探究心、こうしたものがわれわれにとって最高の助けとなる。
何よりも障害となるのは猜疑心からくる不信、怒りに満ちた感情、心身の不健康な状態であり、とりわけ、いかなるものでも信じようとせず、すべてを手を込んだごまかしであると決めてかかる、のぞき見的猜疑心である」
モーゼスが低級霊に悩まされていた時にこう注意された。
「交信のための条件が充分に整っていない時にしつこく交信を求めすぎるからそういうことになるのである。警告したように、それでは必ず災いが生じる。心身が衰弱している時は信頼のおける通信は得られぬものと思うがよい。
しばしの間われわれとの交信は中止されよ。ぜひ中止されよ。と申すのも、貴殿の交信能力をわれわれの方でしばし預かることにしたのである。今の状態でわれわれの交信を求め続ければ、その能力が敵対勢力に乗っ取られ、憑依される危険性があるからである。貴殿もその可能性をいくらか感じているであろう。ただ、その危険性がいかに深刻なものであるかが分っていないようである。われわれがその危険から救っておこう。貴殿はそうとは気づかぬであろうが・・・・・・」
交霊会に関する心得。
「満腹の食事をした直後、あるいは精神的ないし肉体的に疲れがひどい時、または、会の雰囲気が調和に欠ける時は開かないこと。
会に先立って言い争いのような会話、あるいは心理的にエネルギーを消耗するようなことをしないこと。精神は受身的に、そして身体はラクにする。
部屋の空気がムンムンする状態で開かないこと。会に先立って新鮮な空気を通しておくこと。
なるべくなら開会する前に三、四時間ほど明かりを遮断しておく。ドアを閉じる前に芳香性の樹脂をほんの少量だけ焚くとよい。
開会中は物珍しさから勝手な要求をしてはならない。霊側で用意している計画を台無しにするからである。真剣で用心深い精神的態度を維持すること。とくに、まじめで祈りに満ちた心で、より高い知識を求めて素直に耳を傾けること。常に霊的なものを求め、俗世間的なものは求めぬこと。
霊媒は自分の身を隔離してオーラへの影響を断った方がよいことがある。キャビネットを設けるのも一つの方法である」
音楽の効用について尋ねると──
「良い音楽であれば使用しても結構であるが、無くてはならぬというものではない。われわれにとっては音楽よりもむしろ静寂と集中心の方が大切である。どちらかといえば音楽は低次元の現象や未熟な霊にとって有効なだけであって、われわれにとっては、いつも聞かされている音楽(サウンド)は何の効果もない。逆効果である場合すらある」
ある日の交霊会のあと不快な臭気が漂ったので、そのことを尋ねると──
「会の霊的状態が悪かったためである。これで出席者の方に分かっていただけると思うが、会に先立っての会話は議論になったりケンカ腰になったり興奮させるようなものは避けるべきである。高級な交霊を求めるためには隔離された状態と瞑想と断食と祈りが不可欠であるとされるのはそうした理由による。昔から霊覚者や霊能者はそれに気づいていた。われわれも貴殿にしばしば身体をじっと静かに保つこと、精神を安らかに保つことの大切さを説いてきた。それを欠くと交霊会は危険である」
「交霊現象においてわれわれが使用するエネルギーは、身体機能が(受身的状態であっても)正常に働いている時にのみ利用できるのである。(激論などした後)脳が活発に働いていると、エネルギーは脳へ動員されてしまうが、受け身の状態になるとそれが神経組織の方へ流れるので、われわれはそれを利用する。消化器官が活動している時はエネルギーはそこへ集中されてしまう。突然のショックを受けると神経のバランスが崩れ、エネルギーはしばらく散逸状態となる。
といって、受け身の状態が無活動・無関心の状態になってしまうと、それもまた困る。目の前で進行中のことへの関心を持続させること(集中力)が磁気性オーラ(後注)の流れを軽快で規則正しいものにし、それが霊側と人間側との連絡を完璧なものにする。公開交霊会で入神演説をする場合も、聴衆が一心に聞き入ることが、そうした磁気的調和状態を保たせることになる。
心配の念も禁物である。これには侵食する性質があり、受け身的状態とは相反するものだからである。
(注)──人体から発するオーラには磁気性のものと電気性のものの二種類がある。具体的なことは『母と子の心霊教室』(潮文社)を参照されたい。☆
二つの埋葬地の中間に位置する家に滞在したことを咎められたモーゼスが「そてがなぜいけないのですか」と尋ねたのに対してレクター Rector と名のる霊が──
「最近の貴殿(あなた)は墓地に漂う臭気に一段と影響を受け易くなっているからです。その近辺で長時間寝たり呼吸したりしてはいけません。そこに発生するガスや臭気は鈍感な人なら大して害はないが、貴殿ほどに発達してくると有害です」
──でも、すぐ近くではありません。
「二つの墓地の中間に位置しています。辺りの空気には貴殿の身体に有害なものが充満しています。
肉体が腐敗していくときに強烈な臭気を発散する。それが正者の呼吸する空気に混入し、それに引かれて地縛霊がうろつきます。どこからどうみても感心しないものであるが、霊的感受性が過敏な人間にとっては尚さら有害です」
──墓地を嫌っておられるようですが、埋葬より火葬の方が良いというお考えですか。
「朽ちて行く人間を生きた人間の生活の場のど真ん中に埋めることほど愚かなことはありません。呼吸する空気が毒されてしまいます。もう少し進歩すれば、生きた人間に害になるようなことはしなくなるでしょう」
モーゼスの知人が霊にまんまと騙されたことについてインペレーターが──
「その知人に、一人で勝手に霊と交信することを中止させないといけません。このままでは邪霊集団の餌食にされてしまう。われわれ(組織的計画に基づいて働いている霊団の者)は所属するサークル以外のことには関与しません。それぞれのサークルには支配霊がおり、その指示のもとに行動している。われわれとしては低級霊との交霊は絶対に避けるべきであると述べるのみです。危険に充ちています。その危険にわざわざこちらから近づくことはあるまい。ウソとごまかしばかりしている集団に関わり合ってはなりません」
──最近他界したばかりの人が二、三年で第七界(現象界の最高界)まで到達したというケースをご存知ですか。(多分どこかの交霊会に出席した得体のしれない霊が二、三年前に他界したモーゼスの知人の名を騙って、もう最高界まで到達した、と自慢げに言ったのであろう。日本でもよくあるケースである─訳者)
「知りません。そういうことはあり得ぬことです。何もかもデタラメデス。そのようなことを言う霊と関わり合ってはなりません」
──霊能が悪霊によって邪悪な目的のために開発されるということはあり得ますか。
「ある。大いにある。地上との係わりにおいては高級霊よりも低級霊の方が強力であるという事実から考えても、それが分かるはずである。彼らはその霊力を善のために使おうとはしません。逆に、いずれは冷媒とって害になるようなことをして、われわれの未来の仕事に対する不信感を誘おうと企む。危険です。実に危険です」
「ベンジャミン・フランクリンが叩音(ラップ)現象」による通信手段を発見していたこと、スェーデンボルグのお蔭で霊側が地上との交信の可能性を知り、関心を持つようになったことは事実です。その当時は地上と霊界のすべての住民が何時でも交信ができるようになると信じられたのである。しかし人間側の無知と、霊側にすぐに著名人の名前を騙りたがる者が多すぎることで、その可能性が大幅に縮小されました。さらには、指導に当たる霊の間で、たとえば貴殿の知人のように、地上に戻ることを許すと忘れかけていた快楽を思い出させることになって必ずしも為にならないという認識が行きわたりました。そこでそう言う霊は他の天体ないしは他の境涯へ連れて行かれており、従って地上との交信には出ません」
──その発見はこちらより先にそちらの世界でなされていたわけですね。
「すべてこちら側でなされたことで、地上では何一つなされておりません。霊が発見して地上へ伝えられたものです。古代においてはラップのような手段は知られておりませんでした。これは現代特有のものです。古い時代においてはもっと物質性の少ない手段で交信が行われていたものです。珍しいケースを除いては物的手段を通す必要がなかったのです。霊と霊との直接の交信でした。が、人間が物質的になるにつれてその種の交信が減少し、ほんのわずかな人に限られることになりました。そこで信号による物的手段が発明されたのです」(この通信にはレクターとフランクリンの二人の署名がついている)
(注)──フランクリンの没年は一七九〇年であるから、スピリチュアリズムの発端とされるフォックス家におけるラップ現象より半世紀以上の前のことになる。が、そのころから霊界では着々と準備をしていたことがこれで分かる。☆
インペレーターに代わる。
「地上で精神病者とされている者が実は低級霊の道具にされているに過ぎないことがよくある。その人間の身体を勝手に操作しようとしてそれがうまく行かず、支離滅裂な話をしたり辻褄の合わないことを言ったりすることすることになる」
「交霊会の雰囲気が乱れる時は、その原因となる人間なり霊なりが必ずその場に存在していると考えるのは間違いである。とくに霊感の鋭い人間は単なる思念の放射だけで調子を狂わされることがよくある。われわれにとっては思念こそが強力なエンジンなのである。それをいろいろな形で道具として使用するのである。直感がわれわれの感覚であり、思念は道具である」
「霊が肉体から離れると思念の行使がずっとたやすくなる。こちらでは思念の投射が会話の通常の方法であり、地上との通信や連絡の当たり前の手段である。人間のように身体を携えてその場におもむく必要はない。霊と霊との交信は時間と空間を超越して行われる。時間と空間は地上だけの条件である」
「高級霊がみずから出頭せずに下級霊を通じて働きかけることは、よくあることである。実によくあることで、支配霊として交霊の場に居なくても、指示だけが送られて、それに従って会が進行する。が、われわれのサークルにおいては、誰それの霊が来ていると述べた時には、実際にその場に来ていると思ってよい。同志を無防備のまま放置しておくようなことはしないと思われよ。が、それでもなお、思念の投射によって会の霊的雰囲気が乱されることがある。どうも思い通りに会が進行出来ない時は、それが原因であることが少なくない。そのような時は会の中止を命じる。
出席者が多い場合も雰囲気が乱れやすい。霊が出現したがるその情念の強さが原因となることもあるし、あたりに集結した邪霊集団の策謀である場合もある。
人間の大半がまだその事実を理解する水準に達していない。そのためにスピリチュアリズムは悪魔との交わりであるとか、特殊な精神的ないし身体的病気であるとか、幻覚であるとか、イカサマであるとかの見方をされることにもなるわけである。
それとは別に、霊的真理を正しく理解した少数の者による地道なサークルもある。高次元の交霊の崇高さの確証を手にして、わずか二人ないし三人が信念と誠実さをもって会合し、授かる言葉に耳を傾ける。その種のサークルにおいては精神は純粋にして真摯であり、崇高なる憧憬にあふれ、霊的思想に満ちあふれている。会に先立っての然るべき準備も整えられ、高級霊が訪れるための環境条件が揃っている。かようなサークルにおいては、成果もまたそれ相応に高尚なものとなる。
会の雰囲気が純朴な情愛に満ちたものであれば、先に他界した知人もしばしば訪れて身元を明かすことができよう。あるいは霊的親和性に富む(見知らぬ)霊が訪れて慰安と励ましのメッセージを語ることもある。さらには又、われわれ同様に、真理を希求する者のための啓発と向上を任務とする霊が訪れて、他の分野にも及ぶ知識を授けることもあろう。
こうしたサークルは、用意周到ささえ怠らなければ、人類の大いなる啓発のための貴重な機関となるところである。ところが悲しい哉、人間の使命感はもろいものである。支えとなるべきいちずな憧憬にやがて倦怠感が訪れる。俗世に心が奪われる。仕事に追いまくられる。取越苦労と悩みが入り込む。こうなると、われわれの目指すものにとってその霊媒はもはや無用のものとなる。あるいはサークルの同志の理解力一杯のところまで学んで、関心が衰えて来ることもある。
こうした次第で、サークル活動はよほど稀有な条件が整っていない限り長続きしないものである。なかなか進歩が見られぬし、いろいろな障害が邪魔するからである」
「本来、霊の衣服は人間の目には映じないものであり、したがって霊姿というものは確認できぬものである。そこでわれわれは人間側が期待しているような形態を装うことになる。かりに霊が地上の友人に姿を見せたければ、多分地上時代によく着ていた衣服に似たものを着て出現するであろう。そして、確証として特徴ある身ぶり、衣装あるいは表情を特に誇張して注意を引くことであろう。そうやってせっかく確認してほしいと思って苦心したのに、友人が得心してくれなかった時の無念さと悲しみは一通りのものではない。
これが、後に残した愛する人のためを思って戻ってくる霊につきまとう無念残念の一つである。付き添って何とか面倒を見ようとするのであるが、どうしても通じない。そこでどこかの霊媒を見つけて、そこへ出席してくれるように誘導する。ようやく出席してくれたので、ここぞとばかりに苦心して生前の姿を見せ、死後の存続を証明し、変わらぬ愛を示そうとする。が、悲しい哉、その誠意が空しく物笑いの対象とされ、自分の存在が認めてもらえなかった時の傷心の深さは測り知れないものがある。そして多分、霊界との交信の事実そのものが根拠のない愚かな幻想であると決めつけられる。首尾よく自分が確認して貰えて変わらぬ愛を確かめることが出来た霊の測り知れないよろこびとは対照的に、それは霊にとっての測り知れない心の傷みとなる」
モーゼスが自分のサークルにおいてそうしたプライベートな交信が少ないことに残念を表明すると──
「貴殿にはそれとは別の使命があるのである。われわれとしてはそうしたプライベートな交信にサークルが利用されることは許すわけには行かない。好奇心の満足、例え愛に発するものであっても私情の混じったことの満足のためには絶対に許すわけにはいかない。貴殿のサークルはその程度の目的のために利用してはならない。もっともっと高尚な目的を持ったものなのである。貴殿に託された使命の崇高さについて充分な自覚が芽生えるまで待つほかはない。その時になればわれわれがプライベートなものを拒絶する理由がわかるであろう」
℘179
──私の使命はイエス直々のご計画によるものなのでしょうか。
「すでに述べた通り、このたびの大事業には二人の偉大なる霊、すなわちモーセとエリヤが密接にかかわっておられる。私が直接受けるインスピレーションは私の守護霊であるエリヤからのものである。私が地上にあった時も(紀元前五世紀)エリヤが私を鼓舞し、今は私を通じて貴殿に影響力を行使しておられる。が、彼を初め、われわれはすべての人間がイエスと呼ぶ崇高なる霊の支配下にある」
──イエスにお逢いになったことがありますか。それからモーセとエリヤにも。
「いかにも。私の守護霊たるエリヤと偉大なる霊モーセとは早くからお会いしている。会話も交わし、同時に指示を仰いできている。
が、イエスと直接の接触にあずかったのは、このたびの使命とのかかわりが出来てからのことである。偉大なる大事業の計画を目的とした高級神霊の大集会へのお召しにあずかった時にはじめてお姿を拝した。
私が知る限り、主が再び試練の現象界まで降りて来られたのはごく最近のことである。またその大集会で拝見した高級神霊もやはり最近になって降りてこられた。多分、主がこのたびと同じ目的をもって地上へ降誕されて以来、久しぶりのことであろう」
──どの集会のことでしょうか。確かあなたはイエスは一度も戻ってきていないとおっしゃいましたが・・・・・・
「大集会というのは、貴殿も知っての通り、私がサークルを留守にしていた時に開かれたものである。それから、私は自分が定かでないことについて断定的な言い方をしたことはないつもりである。イエスは人間に直接的に働きかけられる境涯の彼方(超越界)へ行っておられたが、地上時代に肉体に宿って着手された大事業を一段と進める必要があり、再び現象界へと帰って来られたのである。
──私と同じようにその大事業のために準備された者は他にもいるのでしょうか。あなたが関わっておられる霊媒は他にもいますか。
「私が直接かかわっている人間は貴殿以外にはいない。が、使命を担った霊の指導によって着々と研鑽を重ねつつある者は大勢いる。これまでにわれわれは貴殿の中に高級界と地上界との間に開かれた通路として最も貴重な要素を開発することに成功している。貴殿の精神が冷静になるにつれて他の多くの霊が訪れるようになるであろう。そして貴殿の疑念も晴れることであろう。現在の精神状態ではまだ他の霊には近づくことができぬ。
それはともかくとして、霊界ではさまざまな知識を人類に授けるための適切な人材を見出すべく、今後とも努力するであろう」
マグナス Magnus と名のる霊からの通信。
「教育と養成を任務とする霊は、それを授かる人間と霊的な意味において一体です。教師の霊的知識源から生徒が吸収し、そこで一体となる。これが霊と霊との融合です」
──その関係は死後も続くのですか。
「続きます。それは永遠の相互依存の法則です。霊の生活においては孤立という観念は存在しません。それは地上的錯誤です。霊は融和と共存の中で生活しており、互いに依存し合っております。教えた者と教えられた者とは親和関係で結ばれています」
℘182
モーゼスが〝キリストの再臨〟について尋ねたのに対してインペレーターが──
「聖書の記録の言いまわしにはあまりこだわらぬが良い。曖昧で、しかも誤って記されている場合が多いからである。つまりイエスが語った言葉の真意を理解できぬ者が、いい加減な印象を記録した。それがさらに拙劣な用語で(英語その他に)翻訳され、結局は間違った概念を伝えることになった。こうした制約を受けながらも、主イエスが地上時代に語ったことの中には、今まさに成就されつつあることが、特に新たなる啓示について、概略ながら多く存在する。地上にありながら死後再び地上世界へ帰ってくることについて語っていたからである」
──では帰ってくるというのは純粋に霊的な意味なのでしょうか。
「その通りである。今まさに主イエスが(新しい啓示をたずさえて)地上へ帰って来つつあるのである。それを、中継の霊団を通じて行っておられる。必要とあればみずから影響力を人間に行使されることもあるかもしれぬ。が、肉体に宿って再生されることは絶対にない。今はまさしく霊の時代であり、影響力も霊的である。その影響力は主が地上に降りられた時代のそれと類似している。
〝変容の丘〟(マタイ17ほか)において主は、影響力の通路となっていた二人の霊すなわちモーセとエリヤと現実に語り合った。その二人はこのたびのスピリチュアリズム及び歴史上のいくつかの霊的活動に深く関わってきており、今なお関わっておられる。主イエスの指示のもとにこのたびの活動を鼓舞し指揮しておられる。これで、われわれがスピリチュアリズムの活動が宗教的なものであると述べた理由が分かるであろう」
レクターRector`ドクター Doctor`ブルーデンスPrudens の三人の署名のもとに次のように綴られた。
「ハルマゲドンと呼ばれている地上圏での善と悪との黙示的な戦いは今まさに進行中です。その真っ只中にキリストが立っておられる。われわれがこうして新しい霊的真理を告げに戻ってきたのは、そのキリストのお出ましに備えるためです。と言っても蘇れるキリストが肉体をまとって出現なさるのではなく、霊的影響力としてのキリストの再来のための下準備です。
そのところをよく理解してほしい。今地上界に再生しつつあるのは、かの歴史上のイエスその人ではなく〝キリストの原理〟なのである。これまでの物的概念を棄て去り、その黙示的な真理を学んでほしい。
地上の人間は〝キリストの再臨〟をイエスがもう一度肉体に宿って地上へ出現するかの如く考えていますが、本当の意味はイエスが(二千年前に)地上へ降りて範を垂れた〝キリスト〟の原理の蘇りであり復興です。
イエスが身をもって範を垂れた原理が地上の人間に顕現されたのは決してそのベツレヘムに誕生した時が最初ではない。いつの時代にも、又いつの民族においても、神は御身を人間に顕現しておられる。救世主(めしや)出現の概念が生まれ、具体化し、さらにそこへその救済の方法として最後の審判という誤った観念が生まれた。今に至るも、これは変わっておりません。
現代のキリスト教徒も同じ信仰を抱いています。言いかえれば、キリストの再臨について同じ誤解をしています。その昔ユダヤ人はソロモンが再臨して、かつての栄耀栄華を取り戻してくれることを待ち望みました。現代のキリスト教徒は主イエスが天使の大軍を従えて天空に現れ、思い通りの世界平和と栄光の治世を開始してくれるものと期待しています。そして又、そのユダヤ人がまさか身分卑しき大工の息子が彼らの待ち望むメシヤであることが信じられなかった如く、現代の聖職者たちにはいまさかんに喧伝されている霊的真理(スピリチュアリズム)がその蘇れるキリストからの福音であることが、どうしても信じ切れずにいます。
新しい霊的摂理が今まさに人類に浸透しつつあります。これぞまさしく〝助け主〟の治世であり、人間に理解し得る最高の真理の発展です。それは地上的天国の設立ではなく、見えざる霊的王国の設立です。
確かにわれわれが説くキリストの再臨も、キリスト教徒が信じている通り、キリストが帰ってくるということにおいては同じです。ただ霊的な影響力として帰ってくるということであり、一方、キリスト教徒の考えは地上的であり物質的であるということです」
──イエスはこれまでのところその姿を見せておりませんが、これからそれが有り得ると私は考えるのですが・・・・・・
「かつて地上に降誕したあのイエスと呼ばれた人物はもう二度と現れません。地上に誕生できる境涯の彼方へ行かれたからです」
──影響力として帰ってくるのでしょうか。
「その通りです。高級神霊界からの霊的影響力として帰って来られ、それが一時的に貴殿に集中している。それを、貴殿と接触できるわれわれが行っているところです。今貴殿を取り巻いているさまざまな喧騒は真理の新たな発展に付随して起きる衝突の微候(しるし)です。真理の誕生に苦痛と苦悩は付きものです」
℘186
「ささやかながらも地上に顕現している霊力の影響は、霊界において着々と進められている霊的作業の反映にすぎません。オペレーションセンターは霊界にあります。われわれの努力は貴殿の周囲に調和と平安のための霊的条件を整えることに集中しているところです。霊の世界こそが原因の世界です。貴殿を嘆かせている喧騒は、霊界で巻き起っている激しい闘争の微々たる反映にすぎません。
われわれは今、敵対勢力によって大々的に攻勢が仕掛けられる時代を通過しつつあります。その影響力がわれわれを、そして貴殿を悩ませ障害となっています。偉大にして崇高なる思想が霊の世界から発せられる如く、地上に邪悪と混乱を巻き起こす影響力もまた霊の世界から発せられる。すべて霊的なものです」
「さきにわれわれは比喩の形で霊が七つの現象界を向上して行く話をしました。そうした過程の中でみずからを救済し地上で蓄積した汚れを取り除くか、あるいは来るべき超越界での生活に備えて叡智を身につけるかのいずれかに努力する。真の実在界、無限と絶対の超越界には完全なる安寧が存在します。その世界の清純無垢なる霊は、その安寧の幾ばくかをもたらすための余ほどの必要性が生じぬ限り、その境界線を超えて混沌たる現象界へと降りてくることは、まずありません。絶無というわけではありません。地球の歴史における霊的大変動期に降臨してその深遠たる叡智により人心を鼓舞した霊は、幾例かあるにはある。しかし極めて稀です。貴殿としては今、同じ神の火花が貴殿の魂にも宿っており、したがって無限の可能性が貴殿の掌中にあることを知るだけで充分です」
次の質問に答えているのはインペレーターである。
──地上界のすぐ下の界にはどういう霊が住んでいるのでしょうか。
「人間界より一段低い界層には動物性が過度に発達してそれが霊性を圧倒してしまった者が存在する。彼らはもはや肉欲以外には何も求めぬ者たちであり、その動物的性向によって他人を傷つけた者たちであり、今なおかつての歓楽街をうろついている。食道楽、ギャンブル狂、守銭奴もこの界にやって来る。
もう一段低い界にはさらに肉欲によって霊性が汚され、さらに徹底的に魂を見失える者たちが住んでいる。その界の各地で、その種の霊の救済を任務とする霊の監視下で、みずからを呪い、肉欲によって生活を破壊せる飲んだくれや忌まわしき好色家が生活している。進歩を望まぬが故に何時までもそこから向上しないのであるが、みずから望めば、待機せる霊の祈りによって更生の道へ導かれる。堕落の道へ深く沈み行く者を更生させ救済するには祈りしかないのである」
──私たちは、死後、みずからの罪と過ちを償うことになるのでしょうか。
「いかにもその通りである。罪が償わされずに終わることは絶対にない。いかに怠惰な過ちも見逃されることはない。魂そのものによって、いずれは償わされる。すなわち過ちの所産が可能な限り拭い去られるということである。友よ、故意に犯せる罪は苦き涙という代償を支払わされることになることを心されよ。過ちの種を蒔けばいかに恐ろしき報いを刈り取ることになるか、貴殿は知らぬ。何としてもみずから刈り取らねばならぬのである。悲しみと恥辱の中に償わねばならぬのである」
モーゼスが当時さかんだったキリスト教のリバイバル運動の催しに出席した後調子がおかしくなったことを述べると──
「地上の霊的浄化のために今さまざまな種類の霊が働いている。そしてその中には粗野で未熟なのもいる。さまざまな種類の人間に働きかけるためにさまざまな霊が利用されているのである。人間界の今の沈滞状態よりは、いかなる形にせよ、霊的騒乱の方がましである。未熟霊は多くの点で誤りを犯しがちである。が、それは構わぬ。大衆を霊的存在へ関心を向けさせてくれればそれでよい。死にも似た惰眠をむさばっている者を揺り起こして目覚めさせることは結構なことであり、そのためにいかなる手段が用いられようと構わぬ。
ロンドンの死せるがごとき大衆を揺り起こすために用いられている手段について、あまり神経質にならぬことである。貴殿を相手にしているわけではない。それを必要とする者のためであるから、いちいち構わぬがよい。それも、今地上にさまざまな形で広まりつつある霊的影響力の大波の一つなのである。全体としてみれば行き過ぎもあろう。が、それなりの効用もある。洗練された者にはショッキングに思えるかも知れぬが、それによって目を覚まされ、破滅より救われる者もいる。貴殿にはショッキングであろうが、われわれは喜ばしく思っている」
病床にあるアイルランドの知人(女性)を何とかしてあげられないものかと尋ねると──
「貴殿から得られる霊力はある一定の距離を超えると利用できなくなる。又、その霊力を受け付けない雰囲気を生じさせている障害を取り除いてやることも、われわれには不可能である。
が、貴殿の真摯なる祈りが大きな力となるであろう。と言って、願い通りになるという意味ではない。病床にある身体を善良なる天使が良きに計らう上での力となるという意味である。そう願って祈るがよい。それが病においても死に際しても強力な援助となろう。すなわち病においては、人間的看護が無力となった時に霊界の専門家が手を施す時の力となろう。患者とのつながりが出来さえすれば、霊はその強力な治癒力によって病状を和らげ、体力回復のための生命力を注ぐことになる。又、死して霊界へ赴くことになれば、尚のこと祈りの力を頼りとして、その霊を受け入れる霊団を差し向け、慣れぬ新しい環境の中での生活を指導してやることが望ましい。
いずれにせよ、霊界側からの援助を可能にしてくれる人間側の真摯にして積極的な祈念を怠らないでほしい。祈りの実際の威力を知れば、人間はもっともっとそれを活用することになるであろうが・・・・・・。人間が勝手にこうあってほしいと望む通りになるというのではない。待機せる霊が悲しみを慰め、煩悩を和らげ、人間が想像するよりはるかに豊かな恵みをもたらす、その機縁となるということである」
──人間は祈りの効用をほとんど知らずにいます。そのため、確かに、祈ることを怠りがちです。
「さよう。人間のまわりには善悪さまざまな霊が存在し、未熟な心が未熟な霊を呼び寄せるように、祈りに満ちた心が恵みの霊の援助を引き寄せるものであることを認識してくれれば有難いのであるが・・・・・・」
その後その女性が他界したので、霊界での様子を尋ねると──
「彼女は今」、徐々に他界直後のもうろうとした意識状態から回復しつつあるところである。現在の脆弱な状態はここ当分続き、霊的強健さを身につけるまでは、その状態から抜け出られないであろう。養護を必要とする者のために設けられた施設で専門の霊によって看護されているところである。若死にした者、あるいは乱暴な最期を遂げた者の多くは、それ迄生活した地上に近いところに特別に設けられた場所で専門の霊の看護を受けることになる。
そこは中間境で、そこで休息しながら霊的機能の発達をはかり、不足しているものを補う。どの天体にもそうした境涯があり、弱って居る者、苦しんでいる者、霊的に飢えている者、若くして地上での生命を絶たれた者が集められ、専門霊によって養育と看護とを受ける。向上する準備が整うまでそこに留まねばならない。整った時点でようやく本来の霊格に合った境涯へと赴き、そこで本格的な向上進化のために生活が始まり、次第に発展して行くことになる。嵐の航路の後の休息の港である。その境涯にいる者は地上との交信は許されない。言うなれば〝霊の庭〟かくまわれているようなもにであり、地上の粗野な空気にさらされることは許されないのである。そちらより交霊を求めることは止めよ。その思いは本人にとって障害にしかならぬ。それよりも、守護天使のもとでの順調な回復を祈ってあげることである。
同じく女性の知人で、やはり最近他界したばかりの人に就いて尋ねると──
「彼女も、霊界の生活に何の備えもないままやってくる人間の一人であった。彼女の背後霊が申すには、彼女の地上生活は調和と安らぎと喜びに満ちた霊界生活への準備としては気の毒なものだったとのことである。喜びの乏しい、調和に欠ける人生ほど霊性を鈍らせ、餓(かつ)えさせ、憧憬の念を殺ぐものである。
真の地上生活は調和と愛と進歩の生活である。愛に欠ける生活においては霊は拘束され締め付けられ、そして傷ついていく。地上生活において調和と進歩を得ずに終わった霊が、自分と同じような境遇で苦しむ者のために地上へ戻り世話をするということはよくあることである。
われわれが思うに、彼女もいずれは戻って来て、霊性の発育を妨げられて冷え冷えとした生活を余儀なくされている地上の魂に愛を温もりを授ける仕事にたずさわることになろう。慰め、元気づけ、天上的な安らぎを注ぐのである。いつの日か彼女は愛の天使となっていくことであろう」
℘193
霊と物質について──
「霊こそ実在である。物質はその霊の数ある現象形態の一つに過ぎない。人間は霊というものを極めて実体の乏しい、蒸気のような無形の存在と考えている。〝モヤ〟がそれを一番よく象徴していよう。が、霊は実態も形状もある実在なのである。従って霊界は実在の世界であり、実態があり、それが物質の内側にも外側にも存在している。その霊の形態もさまざまであり、蒸気のような無形のものから密度の高いものまである。
霊界は地球全体にくまなく広がっており、全存在に生命を吹き込み、動物、植物、野菜に至るまで存在を与えている。人間が実体があるかに思っているのも、その霊という実在の影にすぎない。霊とは生命であり、実在であり、永遠不滅の根源的要素なのである。
この霊が人間に宿っているように、すべての物質に宿って生命を賦与している。天体をそれぞれの位置を保たせ軌道上を回転させているエネルギーもすべて霊的なものである。光といい、熱といい、磁気といい、電気というも、たった一つの霊的エネルギーの外皮にすぎない。そのすべてに霊が内在しているのである。物的成分そのものには形態を整える力はない。物質の根源的特質の一つは惰性(みずからは活動しないという性質)である。石切り場の大理石の中から人間の形態をした彫像がひとりで転がり出て来ることはあるまい。
まず霊による働きかけがあって物質が動くのである。法則というものも、このエネルギーの表現にすぎない。宇宙のいずこを見ても、大は天空を回転する天体から小はシダの植物に至るまで、霊の存在のあかしでないものは無い。それがすべてを動かしており、霊妙な化学的過程によって露、雨、空気、光等々から甘美な分泌液と芳香とを放散させ、かくして自然界を美しく飾っている──それを人間は慣れきっていて不思議と思わぬだけである。
〝自然〟とは何か、どういう仕組みになっているのか、人間は何も知らずにいる。人間は勝手なものを想像し、それを〝自然〟と呼び、一定の作用をいくつか発見してそれを〝定理〟と呼び、それで事足りれとしている。が、裏を返せば、それは人間の無知の証明に他ならない。
自然とは霊であり、自然法則も霊的である。あらゆる物的形体は──植物も動物も鉱物も──霊を宿す仮面である。人間も本来が霊であり、霊的なものが肉体を支えているのである。激しい新陳代謝をくり返す細胞の固まりも、霊によって組成を保ち活力を与えられている。霊が引っ込めば腐敗の一途をたどり、他の組成へと変わって行く。霊こそ人間であり、逆の言い方をすれば、人間は霊であるからこそ自然界の全創造物に君臨できるのである。人間は他の創造物が所有していない霊的資質を賦与されているが故に、もっとも進化しているのである」
──すべてが一丸となって秩序ある発達過程をたどりつつあるように思えます。
℘195
「無論である! 地球上の物質は、最も単純な組織である結晶から人間に至るまでの、無数の段階をたどっている。岩石や土から植物が成育する。つまり植物的生命が鉱物と入れ代わる。それに感性が加わり神経組織が与えられて、別の高等な有機的生命が生まれ、植虫類(イソギンチャク・サンゴ類)から人間へと進化してきた。一段また一段と進化し、その創造活動の頂点が人間である。人間は神性を宿しているが故に、程度において質においても、他の創造物とは異なる存在である」
「霊体こそ真の個体である。地上という一時期を、刻々と変化する物的原子をまとって生活するが、それが不要となった時にも霊体のアイデンティティは絶対に不変である。
われわれの目には霊体は鮮明で何のごまかしも利かない。われわれの視野も行動も地上に存在する物体によって妨げられることはない。人間にとって固いと思えるものも、われわれにとってはスケスケである。地上という一時期を霊体がまとう物的原子は個的存在の本質的要素ではない。地上期間においてすら永続性はなく刻一刻と変化しているが、人間にはそれが知覚出来ない。われわれの視覚は別である。地上的存在特有の物的原子は何の障害にもならない。われわれに見えるのは霊体である」
──霊体は肉体から分離して別個の生活を送ることがあるのでしょうか。たとえば睡眠中などに・・・・・・
「それはある。霊体は独立した存在である。そして肉体が滅びると異なった環境条件のもとで生活することになる。一般的に言えば、肉体の睡眠中は霊体も休息しているが、眠るということはしない。その間の体験を肉体に戻った時に回想しようとして、それがうまく行かなくて混乱したものが夢である。霊には霊体でみたものすべてが回想できず、精神に印象づけられたものが五感による印象(潜在意識)とごっちゃになり、そこに辻褄のあわない夢が出来上がる。
その夢の中には霊界での体験を正確に思い出しているものもあるし、予告や警告である場合もある。肉体に宿っている間は霊感が鈍るので、守護霊が睡眠中を利用して警告を与えることがあるのである。霊体に語りかけておいて、それが肉体に戻った時に(潜在意識の中の)他の印象と混同せぬよう保護し、その記憶を鮮明に保つ。こうした場合は正確に思い出せるし、実際によくあることである。が、普通はおぼろげにしか思い出さないものである。
珍しいケースとして、霊体が特殊な才能を与えられ、高級界へ案内されて本来の住処を見せてもらったり、使命を知らされたりすることがある。深遠な叡智を吸飲して地上へ持ち帰ることもある」
℘197
(注)──この項で述べていることは三次元の脳を焦点とした意識と、時空を超越したいわゆる異次元世界での霊的意識との関連性に言及した重大なもので、死後存続の事実の得心は煎じ詰めればその関連性の理解に尽きると言ってよい。コペルニクスが地動説を思いついたきっかけは自分の位置を頭の中で太陽へ持って行き、そこから地球を眺めたことにあるという。死後存続も自分を霊の世界へ持って行き、人間は本来が霊的存在であって、それが一時的に物的原子をまとっているにすぎないと考えれば、あっさりと片付く。
オリバーロッジの『幻の壁』の中に次のような一節がある。〝われわれはよく肉体の死後も生き続けるのだろうかという疑問を抱く。(中略)私に言わせればこうした疑問は実に本末を転倒した思考から出る疑問に過ぎない。と言うのは、こうして物質をまとってこの世にいること自体が驚異なのである。これは実に特殊な現象というべきである。私はよく、死は冒険であるが楽しく待ち望むべき冒険である、と言ってきた。そうに違いないのであるが、実は真に冒険というべきはこの地上生活の方なのである。地上世界というのは実に奇妙で珍しい現象である。こうして肉体をまとって地上へ出てきたこと自体が奇跡なのだ。失敗する者が幾らでもいるのである〟
インペレーターは幽体離脱という用語を用いていないが、それは当時まだ心霊学がそこまで発達していなかったということである。末尾で〝珍しいケースとして〟と述べているが、将来はこれが人類にとって〝ごく当たり前のこと〟となる時代が来るに違いない。☆
死後の霊体の変化について──
「地球圏を離れたあと霊体は浄化の過程に入り、その過程の中で死に似た変化を幾つも体験する。肉体を捨てた霊体が形体は同じでも肉体より洗練されているごとく、魂が向上すると、それまでの霊体を捨てて、さらに洗練された霊体に宿ることになる。かくして洗練の過程を続けて、ついには超越界へ突入するに相応しい段階に至る。そこに至るまでには霊的に合わなくなった身体を捨てて新しい身体をまとうことの繰り返しである。その度に死に似た変化が伴う。
肉体から離れるとすぐ霊は新しい環境から必要な要素を摂取して、肉体とそっくりの霊的身体をまとう。ある意味では霊はつねに物的身体に宿っていると言っても間違っていない。その物的要素が人間の五感に感応しない性質であるというだけである。人間にとって物質が実感があるように、われわれにとってはそれを実感をもって感識出来るのである」
ドクターに代わる。
「真の自分である霊体は、地上生活という一時期を、絶え間なく変化する物的原子をまとって過ごします。地上教育の過程を終了すると物的原子は捨て去られます。その時がいわゆる〝復活〟です。蘇り──物質に閉じ込められていた個性の」蘇生、つぼみの発芽、幽閉され拘束状態にあった霊の解放──それも永い永い眠りの後の遠い未来の話ではなく、即時・即刻に行われるのです。
キリスト教徒が、見当違いとはいえ、毎年イースター(復活祭)を祝うことには不滅の真理が内在しております。ただ人間は、愚かにも、いったん朽果てた肉体がふたたび修復され、蘇生されて、完全な元通りの身体になると想像し、そうして説をでっちあげる中で肝心な真理を見落としてしまいました。部分的にはそれに近いものを含んでいますが・・・・・・
肉体はいったん自然界へ戻ってしまったら最後、二度ともと通りにはなりません。消散してしまえばそれ切りであり、、いずれ将来は別の物的形態の構成要素となる。キリスト教で説くような復活はありません。人間にはもう一つの身体があるのです。霊的身体です。それを人間は忘れています。本当の時分であるその霊体が地上から蘇生して、本来の住処へと運ばれるのです」
──キリストの場合はどう解釈したらよいのでしょうか。
℘200
「死後に見せたあの姿も霊体だったのです。それを肉眼で見える程度まで物質化して見せたのです。肉体は絶対に蘇生しておりません」
死後の向上・進化についての質問にインペレーターが答える。
「宇宙の全存在が着実に進化しているか、さもなくば退化しているかのいずれかであることは貴殿も理解していよう。地上に生を受けた霊は、肉体に宿ってのその間の行為によって、死後、然るべき境涯に落ち着く。すなわち善なる行為をしたか邪なる行為をしたかによって、高い界へ行く者もおれば低い界へ行く者もおり、又、同じ界でも高い境涯に置かれる者もおれば低い境涯に置かれる者もいる。
さて、落ち着くべき所に落ち着くと、教育を担当する指導霊によって地上時代の誤った概念が一掃され、犯した罪悪についての内省を迫られ、それがもたらした結果に対して責任を取りたいという欲求を持つように導かれていく。これが進化の第一歩となる。そして浄化はさらに続き、より高い境涯へ進むと、そこで又新たな浄化作用が行われ、こうした過程が続けられていくうちに、ついに〝浄化〟の境涯を通過して、今度は〝教育〟の境涯へと入って行く。
そこで一段と進んだ知識が授けられる。魂は一段と洗練され、ますます物的要素(後注)を振り落とし、さらに高度な純化の過程を経ることになる。この過程は物的要素が完全になくなるまで続けられる。そして、いよいよ超越界、〝無〟の境涯へと突入して行く。そこでわれわれの視野から消える」
(注)──ここで言う〝物〟は地上の物質のことではなく、霊が使用する形態のことである。霊が〝有〟の現象界に存在を持つためには何らかの形態(もの)を必要とする。それが無くなれば霊のみの〝絶対無〟の世界の存在となる。☆
──それから先どうなるかはご存知ないわけですね? 個的存在(アイデンティティ)を失うのでしょうか。
「それはわれわれにも分らぬ。当然のことながら人間が個的存在という用語から連想するものを多く失うことであろう。一個の人物から連想する形態を失うことであろう。霊はそれに比例して向上し、いよいよ光明と叡智の大根源に融合して行くことであろう。
われわれに分かるのは、神へ向けての絶え間ない進化が霊性をいやが上にも神の霊性に近づけ、最後は文字どおり〝神の子〟となる──神のごとく純粋、神のごとく無垢──さよう、神の無限なる完全性にある程度まで匹敵する完全性を身につける、ということだけである。これがわれわれの栄光の未来像(ビジョン)である」
──生命の究極の目的が大根源への没入であるとすれば、それまでの努力は空しいものに思えるのですが・・・・・・
「生命! いったい貴殿は、生命についてどれほど知ったつもりでいるのであろうか。その真実の意味が貴殿の中では、哀れなほど短い地上的生命にとらわれてケチ臭きものとなり果てている。超越界に至るまでの数々の境涯における生命の栄光ですら言語に絶するものを、生命の大根源における栄光が貴殿のどれほど知れようぞ!
すべての束縛から解放された霊が、神々しさと崇高さに満ちた霊との交わりの中で生活する高き境涯での生命活動が貴殿にどこまで想像できよう。ましてや、さらに荘厳さを増した超越界の生命活動、何もかも地上と正反対の世界、一切の形態による束縛から超脱した世界、真実の叡智の大道が無限に延び、〝自己〟その他、とらわれるもの一切が永遠になくなった世界、個人的存在、人物像、その他〝個〟の観念のまとわりつくものすべてが永遠に消滅した世界、そうした世界がどうして今の貴殿に想像できよう。
そして、もしも有限なる精神には理解できぬ無限の時がついに尽き果てるとき──有限なる叡智の泉が空となり、霊が感覚のすべてを体験しつくし、努力と苦悩を通して完全無欠となり、神の栄光の相続権を手中にし、完成せる霊のみの住処にて神と存在をともにする資格を得るに至る──その没我の時がかりに貴殿に寂滅と思えようと、個的存在の喪失と思えようと、あるいは永遠なる真理の太陽への没入と思えようと、それが今の貴殿に取りて何の意味があろう。せいぜい、その真理の太陽に目を眩まされぬよう、目を伏せるがよい。
信じられよ──果てしなく続く生命の旅路において獲得せる叡智は、それまでの努力を償いて余りあるものであることを」
インぺレーターの祈り
永遠なる父よ! 至高にして全能なる神よ! 待ちこがれる子等に愛の心を注ぎたまえ。御身と、御身の直属の天使と一体たらしめんがためでございます。
真理の神よ! 御身のものであり御身より出でる真理を求めて歩む子等が、最後まで挫けることのなきよう、気概を与えたまえ。
不変にして永遠なる神よ! 子等に熱誠の精神を授けたまえ。不撓(ふとう)不屈の目的意識をもって永遠の光明の泉たる御身へ向けて向上せしめんがためでございます。
至純なる霊よ! 何とぞ子等に汚れなき清純さを保たせたまえ。思念を浄化し、動機を清め、願望を高めさせたまえ。
叡智の霊よ! 子等の叡智と知識を増し、さらに多くを渇望するよう導きたまえ。
恵み深き神よ!子等に取りて益ありと見なされる恵みを限りなく注ぎたまえ。
子等の過ちを取り除きたまえ。真理への愛を強めたまえ。叡智を吹き込みたまえ。慈愛を注ぎたまえ。進歩を促したまえ。子等の一人ひとりに、それなりの資格において、われら使者とともに御身への讃仰の聖歌に加わらしめんがためでございます。
至高にして至聖、愛の権化たる御身に、栄光と尊厳と崇拝の念を捧げ奉ります。
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