More Spirit Teachings
Further Examples of Remarkable Communication from Beyond
(一)珍しい現象
〇音楽現象
ベンジャミン・フランクリンが初めて出現した時から聞かれはじめた鈴の音について、スピーア夫人が次のように述べている。
「それは何とも言えない妙(たえ)なる音楽で、丁度オルゴールを聞くような、それを一段と霊妙にそして音色を甘美にしたようなものでした。その頃はよく私たちの身近なところで聞かれました。夜おそく庭に出ている時などにとくによく聞かれました。
交霊会が終わったあとは開き窓を開け放って芝生へ出るのが通例でしたが、そんな時、大てい真夜中でしたが、樹木の間から聞こえてきました。何とも言えない美しさで、この世のものとは思えませんでした」
別の記事でもこう述べている。
「今夜は交霊会を始める前に庭を散歩している時から霊の鈴の音が聞こえていました。はるか遠くのニレの木のてっぺんから、まるで星とたわむれているかと思われるような感じで聞こえたかと思うと、今度はすぐ近くまで近づいて来て、私たちが交霊の部屋へ入るのを後からついて来ました。(〝私たち〟は通常スピーア夫妻と友人のバーシバル氏の三人で、これに時おり招待客が加わる程度だった。《解説》参照─訳者)
私たちが着席したあともずっと部屋の四隅や、私たちが囲んでいるテーブルの上などで鳴り続けていました。こちらから音階や和音を要求するとすぐに応じ、主人(スピーア博士)が口ずさんだ曲をうまく真似て演奏しました。部屋には楽器類は何も置いてありませんでした。モーゼスが入信すると音が大きくなり、ピアノを弾いているような目覚ましい響きになりました」
〇物品移動現象
部屋の家具や物品が移動する現象はとくにワイト島に滞在中に起きた。モーゼス自身次のように書いている。
「教会での礼拝から帰って一階の応接間に隣接した寝室に入ってみると、化粧用テーブルの上に置いてあったものが無くなって、ベッドの上に大ざっぱな十字形に置いてあった」
その日の午後には今度は旅行用の化粧道具入れの中から幾つか取り出されて、その十字形が完全な形にされていた。ある時は王冠の形に置かれていたこともあったという。
〇宝石類の製造
パージバル氏が概略次のように叙述している。
モーゼス氏と食事を共にした後で開かれた交霊会でのことである。突然ガス灯が消され、二、三分してまたついた。その間の暗闇の中でテーブルの上に強い光が見えたのでモーゼス氏が近づいて見ると、小さなルビーがあった。そのあとまたガス灯が消され、入神したモーゼス氏をメンターと名のる霊が支配した。そしてパーシベル氏の腕を突つついてから、その手を取って何かを握らせて席に戻った。その席でメンターは〝それはトルコ石であなたのために特別にこしらえたものです〟と述べ、さらに、交霊会でこしらえる宝石類は人間界でいう〝本物〟ではなく、売り買いの対象になるようなものは霊は製造を許されていない、と付け加えた。またその次の交霊会ではその製造法にふれ、霊は大気中から自然な工程で結晶体をこしらえることが出来ることを述べた。
これもパーシバル氏の話であるが、スピーア夫人の誕生日に四人で食事をしている最中にモーゼスが入神し、ソファまで歩いて行って掛け布の内側を探り始めた。そして間もなく小さなルビーを見つけて、それ敬々しげにスピーア夫人にプレゼントした。それからまたソファへ行って、同じように手探りで二つ目を見つけた。そのあとさんざん探してようやく三つ目を見つけて席に戻り、そこで入神から覚めた。モーゼス自身はその間のことは何一つ知らなかったという。
それより以前の話であるが、交霊会のあとモーゼスが飲んでいたソーダ水のグラスの中にルビーが入っていたこともあった。
〇芳香現象
ある日、交霊会が始まると、いきなり、大小さまざまなパールが雨のように降ったことがあり、明かりをつけて拾い集めるように言われた。その交霊会が終了した時のことである。モーゼスが列席者の一人一人を回って片手を頭部に置くと、そこに芳香が漂った。
別の日の交霊会で更に素晴らしい芳香現象が起きた。その時はいろんな発生の仕方をして見せた。まず列席者の頭のあたりに漂ったかと思うと、今度はふいごで吹き付けているみたいに強烈な勢いで吹いた。続いて今度は霧雨のように天井から降りそそいで来た。そして最後は列席者が上に向けていた手のひらに芳香を含んだ水滴が注がれた。これには大変な技術が要るという説があり、その日の芳香現象には五十名以上の霊が関わったということだった。最後にパーシバル氏の手の上にティーポットの口から注いだみたいに芳香性の水が落ちてきた。後で調べて見るとテーブルの上に幾つかのシミが見られたという。
(二)体外遊離による体験
〇背後霊団との面会
ある日モーゼスが部屋を暗くしてベッドに横になると、例の鈴の音が聞こえ、続いて光球がいくつも見えた。と思っているうちに意識を失い、次に目が覚めた時は真夜中だった。彼はみずからの意思でなしに無理やりに起こされて、次のような記事を書いた。
「意識が消えていく時のことは何一つ記憶にない。が、暗さが次第に明るさを増し、徐々に美しい光景が展開し始めた。私が立っていたのは確か湖のヘリで、その向こうに真緑の小高い丘がいくつも連なり、ほのかなモヤが漂っていた。雰囲気はイタリヤにいる感じで、穏やかに澄みわたっていた。湖の水は波一つ立てず、見上げると雲一つない青空が広がっていた。
その岸辺を歩きながら景色の美しさに見とれていると、一人の男性が近づいてきた。メンターだった。モスリンのような薄い生地で出来た真珠のような白さのロープをまとっていた。肩に濃いサファイアブルーのマントを掛け、頭部には幅の広い深紅の帯のように見える宝冠(コロネット)をつけており、それに黄金の飾り環が付いていた。あごひげを生やし、顔に慈悲と叡智をたたえていた。
そのメンターが鋭い、きっぱりとした口調でこう述べた。〝ここは霊界です。これより霊界の一シーンをご覧に入れよう〟。そう言って向きを変え、私とともに湖にそって歩いて行くと、山の麓の方へ行く道との分岐点に来た。その道に沿って小川が流れており、その向こうには新緑の草原が広がっていた。地上のように畑で仕切られておらず、見渡すかぎりゆるやかな起伏が一面に広がっていた。
二人はイタリヤの田園でよく見かける邸宅に似た一軒の家に近づいた。地上では見かけない種類の木の繁みの中にある。木というよりは巨大なシダに近い。その玄関の前にさまざまな色彩と種類の花が咲き乱れている花園があった。メンターに促されて後について入り、大きなホールまでくると、その中央に花とシダの植え込みがあり、その真ん中で噴水が盛んに水を散らせていた。ホール全体に素敵な香気が漂い、また、優しく慰めるような音楽が流れていた。
ホールのまわりにはバルコニーのようなものが付いていて、そこから住居へ通じる出入り口がいくつか見えた。壁面に模様が描かれていて、よく見ると私がそこに来るまでに通って来た景色の延長になっていた。天井はなく、雲一つない青空が見えていた。
見るものすべてが美しいので私が見とれていると、出入り口の一つのドアが開いて誰かが私の方へ近づいてきた。インペレーターだった。一度見たことがあるのですぐに分かった。頭部には七つの尖塔の付いた王冠をいただき、その尖塔の先端に目も眩まんばかりの光輝を発する星が付いており、一つ一つ色が違っていた。表情には真剣さと仁愛と高貴さが満ちあふれていた。私が想像していたような年老いた感じはなく、敬虔さと厳粛さに優しさと威厳とが交り合った風貌だった。全体に漂う雰囲気と物腰には堂々あたりを払う威風があった。
身体にはまばゆいばかりの白の長いロープをつけていた。あたかも露のしずくで出来ていて、それが朝日に照らされているみたいであった。そうした容姿全体の光輝があまりに強烈で、私にはじっと見詰めていることができなかった。イエスが変容した時の姿もかくばかりかと思った。私は本能的に頭を垂れた。すると柔和でしかも真剣な声が不思議な、憂いを込めた抑揚で私の耳にささやいた──〝来るがよい。そなたの知人に会わせるとしよう。そしてその不信に満ちた心を癒して進ぜよう〟と。そういって手を差し出した。見るとその手に宝石が散りばめてあり、内部から燐光性の光輝を発しているように思えた。
私が啞然として見つめていると、何とも言えない荘厳な調べが耳に入ってきた。続いて私のすぐわきの出入り口が開かれ、その調べがいちだんと近づいて聞こえ、長い行列の先頭を行く者の姿が目に入った。純白のロープを着ており、それを深紅の帯で締めていた。行列の全員がそうだった。帯の色だけがさまざまで、ロープは全員が純白だった。先頭の者は黄金の十字架を高々と掲げもっており、頭部には〝聖〟の文字を記した飾り帯を巻いていた。そのあとを二列に並んだ聖歌隊が賛美歌を歌いながらやってくる。その行列がわれわれの前までさしかかると一たん停止し、インペレーターの方を向いて敬々しくお辞儀をした。インペレーターは私より二、三歩前でそれを受けた」
モーゼスはその行列の中に数人の見覚えのある顔を見つけた。指導霊のメンター、レクター、ブルーデンス、フィロソファス、それにスエーデンボルグもいた。さらに友人のウィルバーフォース、ジョン・キーブル、アーネスト・ニール等々の顔も見えた。長い長い行列が続いたあと、その中から六人が進み出てモーゼスの方へ近づいた。そのうちの五人は地上で顔見知りの人物だったという。ホールを取り囲むバルコニーはすでにいっぱいになっていた。モーゼスは最後にこう書いている。
「その全員がホールの中央のインペレーターの方へ顔を向けた。そこでインペレーターが敬々しく神への祈りを捧げた。と同時にふたたび厳かな讃美の調べが響きわたり、全員が行列を作って今来た方向へ戻っていった」
〇右のシーンについてのインペレーターの解説(自動書記)
──あれは実際のシーンだったのでしょうか。
「今貴殿の目に映っている現実と同じく実際にあったことである。貴殿の霊が肉体から分離していたのである。その間わずかに一条の光によってつながっていた。その光線は生命の流れそのものである」
──壁が少しも障害にならずに一瞬のうちに光景が展開したように思います。その場がそのまま霊界になりました。
「霊界は肉眼には映じなくても貴殿のいる場所に存在している。霊眼が開けば霊の世界のものが見え、地上のものが見えなくなる」
──では、霊の界層はわれわれ人間の身のまわりに存在するのでしょうか。
「人間のいる場所にも周囲にも存在している。空間と呼んでいるところには幾つもの界層が互いに浸透し合って存在している。このたびのことは貴殿に霊界の実在を見せんがために行ったことで、私の要請を受けてメンターがあれだけの霊を第二界に集めてくれたのである。さまざまな界層と境涯から特別の目的のために集まってもらったのである」
──全員が白のロープだったのに、ひとり私の友人だけが緑色の混ざったロープを着ていましたが・・・・・・
「貴殿の目につくように、あのロープを着ていたのである。緑色はまだ完全に抜けきっていない地上的状態を表しており、紫色は進歩のしるしである。
われわれの世界はすべてが象徴的に出来ている。天井のないあの建物は何一つ向上心を妨げるもののない霊の住処の象徴である。美しい花と景色は愛の神が各自の宿命に注がれる慰めとよろこびを表している。讃仰の行列は進歩的な霊の向上の行進を示している。先頭を行く者が掲げていた十字架は神聖さと自己犠牲の象徴である。純白のロープは清浄の象徴であり、ハーブの調べは不断の讃仰の象徴である。色とりどりの帯は各自の犠牲と、たずさわっている仕事を示し、頭部の王冠と飾り帯は霊格の象徴である」
──あなたはいつも私が拝見した通りの姿をしておられるのでしょうか。あのまばゆいばかりのロープは忘れようにも忘れられません。
「貴殿が見られたのは他の霊がいつも私を見ているのと同じ姿である。が、私はいつも同じ姿をしているわけではない。私が本来の界でまとう姿は貴殿には凝視できないであろう。現在の状態では無理であろう」
〇自動書記をしている自分を観察
〝サークルメンバーの向上心の高さが、訪れる霊の性格を決める。出席者の精神的波動は霊界まで波及し、その程度によって集まる霊の程度も決まる。この事をすべての人に分かってもらえば有難いのであるが・・・・・・〟
これは直接書記によって綴られたインペレーターの通信で、書記役のレクターがそれを操作している様子をモーゼスが体外遊離の状態で観察した。この様子をモーゼスが次のように記述している。
「その日は一人で自分の部屋にいた。ふと書きたい衝動を感じて机に座った。それほど強烈に感じたのはほぼ二カ月ぶりである。まず最初の部分を普通の自動書記で書いた。どうやらその時点で無意識状態に入ったようである。
気がつくと、自分の身体のそばに立っている。例のノートを前にしてペンを右手にして坐っている自分のそばである。その様子と辺りの様子とを興味深く観察した。自分の身体が目の前にあり、その身体と自分(霊的身体)とが細い光の紐によってつながっている。部屋の物的なものがことごとく実体のない影のように見え、霊的なものが固くて実体があるようにみえた。
その私の身体のすぐ後ろにレクターが立っていた。片手を私の頭部にかざし、もう一方をペンを握っている私の右手にかざしている。さらにインペレーターと、これまで永い間私に影響を及ぼして来た霊が数人いた。そのほかに私に見覚えのない霊が出入りして、その様子を興味ぶかそうに見守っていた。天井を突き抜けて柔らかい心地よい光が注がれており、時おり青みを帯びた光線が何本か私の身体へ向けて照射されていた。
そのたびに私の身体がギクリとし、震えを見せた。生命力が補給されていたのであろう。さらに気がつくと、外の光も薄れて窓が暗く感じられた。したがって部屋の中が明るく見えるのは霊的な光線のせいだった。私に語りかける霊の声が鮮明に聞こえる。人間の声を聞くのと非常によく似ているが、その響きは人間の声より優美で、遠くから聞こえてくるような感じがした。
インペレーターが、これは実際のシーンで、私に霊の働きぶりを見せるために用意したと述べた。レクターが書いているのであるが、私の想像とは違って、私の手を操っているのではなく、また私の精神に働きかけているのでもなく、青い光線のようなものを直接ペンにあてているのだった。つまりその光線を通じて通信霊の意思が伝わり、それがペンを動かしているのだった。私の手は単なる道具にすぎず、しかも必ずしもなくてはならぬものでもないことを示すために、光線がそのペンを私の手から放し、用紙の上に立たせ、さらに驚いたことに、それが用紙の上を動きはじめ、冒頭に掲げた文章を綴ったのである。出だしの部分を除いて、ほとんどが人間の手を使用せずに書かれたものである。インペレーターの話によると、人間の手を使用せずに直接書くのは容易なことではなく、そのため綴りに幾つか誤りも見られるとのことだった。事実その通りだった。
そのあと私は、一体ここにいる(人種の異なる)霊はどうやって通じ合うのだろうという疑問を抱いた。するとその疑問に答えて数人の霊が代わるがわる違う言語でしゃべって見せた。私にはさっぱり判らなかったがインペレーターが通訳してくれた。その上さらに霊がいかなる要領で思念の移入によって通じ合うかを実演して見せてくれた。またインペレーターは音も物的媒体なしに出すことが出来ることを説明してくれた。その時に例の鈴の音が聞こえ、又部屋中に霊妙な芳香が漂った。
その場にいた霊はみな前に見た時と同じ衣装をしていた。そして、まわりの物体には何の関係もなく動きまわっていた。そのうちの何人かは、私の身体が向かっている机を取り囲んでいた。私自身も白のロープに青の帯をしているように見えた。さらに、どうやらその上に紫の布、一種のオーバーロープを羽織っていたように思う。どの霊も自然発光的に輝いており、へやの中は非常に明るかった。
そのうち私は、戻ってこのことを書き留めるように言われた。肉体に戻るまでのことは意識しないが、部屋で観察したことに関しては絶対に確信があり、それを素直に、そして誇張を交えずに綴ったつもりである」
(三)心霊誌の記事から
一八八九年八月号のライト誌から──
「本誌で『霊訓』を公表しはじめてからというもの、私は無意識の自我の存在をさんざん聞かされ、私自身が気がつかなくともその潜在自我のどこか奥深いところに隠されているかも知れない可能性について、多くの考察をお聞かせいただいている。が、私が受け取っている一連の通信がそういう曖昧な説によって説明できるとするか、それとも、もっと単純にそして自然に、つまり私を教化しようとしている知的存在が主張している通りであるとするかは、読者にお任せするほかはない。そうした存在は自分たちのことを霊と呼び、私の生命と意識とは別個の存在であるとしている。私もそのように受け止めている。
通信文は間違いなく私の意識とは何の関係もなしに綴られている。その多くは、綴られていくのをこの目で見ないように異常なまでの注意をしている中で筆記されたものである」
次も同じライト誌に掲載されたもので、日常生活における異常体験をある知人にこう書き送っている。
「私自身には何の記憶もないことをしていたり、とくに、言った記憶がないのに間違いなく言っていることがよくあります。たとえば、翌日の講話の準備をしないまま床につきます。翌朝目を覚ましていつものように行動し、いつもより流暢な講話をし、すべきことをきちんと済ませ、知人と談話まで交わしたのに、その記憶がまったくないということがあるのです。特別に親しい人だけが、目のうつろさから私が入神していることを察知しているだけです。講話を聞いてくださった人のノートを見るとその内容が実に緻密で正確で明快なのです。
知人たちは私が何となくボケっとしていたとか、ぶっきらぼうだったとか、言葉がぞんざいだったという程度には感じてはいても、他はふだんと少しも変わらなかったと言います。私自身は意識が戻った時には何の記憶もありません。もっとも、時おり何となく思い出すことはあります。
こうした体験から私は、人間は完全に〝パイプ役〟に成り切ることが出来ること、つまり霊の道具にすぎないことを実感として理解しはじめているところです。それにしても、一見したところごく普通に行動している人間が実は霊界の知的存在の道具になっていて、個的存在を持たないということがあり得るものなのでしょうか。もしかしたら私の霊は遠くに行っていて、別個の霊的生活を送りながら、私の肉体の方は他の知的存在に憑依されて別の行動をしているということなのでしょうか。
たとえば最近のことですが、ワイト島にいる間に内部の霊的能力が目を覚まし、外部の肉体的感覚がいっさい失われてしまいました。私は一日と一晩、ずっと別の世界に居て、物的環境はおぼろげにしか意識しませんでした。知人も家も部屋も気色も見えることは見えるのですが、おぼろげなのです。身体の方はいつものように行動しているのですが、私の意識には霊的環境や他界した友人、あるいは全く面識のない霊の姿の方がはるかに鮮明に鑑識されるのです。あたりに見える光景も地上の景色より鮮明に見えました。もっとも、どことなく両者が重複して視えることがありました。その間、私は話す気になれず、そうした環境の中にいてただ見つめるだけで満足しておりました」
同じくライト誌に珍しい心霊写真の話が出ている。
モーゼスのもとにあるフランス人から一通の手紙が届き、米国にいる妹とその家族の心霊写真が睡眠中にパリで撮れたと述べてあった。妹の家族の写真を撮りたいと心の中で念じたところ、一枚の乾板には三人の娘といっしょに、もう一枚には二人の息子といっしょに写っていたというのである。
これにヒントを得て、モーゼスはパリの友人に日曜日の朝十一時に写真を撮ってもらうように依頼し、その写真に自分も霊として映るようにしてみることにした。当日の朝、教会の鐘の音を聞いたころに無意識状態に入り、気がついたら十一時四十七分だった。実験は成功で、モーゼスの顔が睡眠中と同じように目を閉じたまま写っていた。同じ乾板に霊団の一人でプルーデンスと名のる霊(地上では紀元三世紀の哲学者だったププロティノス)も写っていた。
そのあとの交霊会でインペレーターは、モーゼスを慎重に入神させ、複数の背後霊がロンドンからパリまで運んだと語った。霊体と肉体とをつないでいるコードもそれだけ延びていたとのことだった。
スピリチュアリズムの意義について──
「スピリチュアリズムは霊界の存在と霊との交信の可能性という二つの事実以外にも実に多くのことを教えている。間違いなく言えることとして私が付け加えたいのは、人間の運命の決定者は自分自身であり、自分の性格も自分が形成し、将来の住処(死後に落着く環境)を地上で築きつつあるということである。道徳的向上心を鼓舞するものとしてこれほど素晴らしいものは無いし、それをスピリチュアリズムほど強烈に所有している宗教思想を私は他に知らない。
人間は地上生活で築いた人間性そのままをたずさえて死後の生活を開始すること、他界した肉親・友人・知人は今なお自分を愛し、見守ってくれていること、罪悪も過ちも必ず自分で償わねばならないこと、いかに都合のよい教義をでっちあげても無罪放免とはならないこと──以上のことを立証し、さらにまた多くのことを立証して行けば、スピリチュアリズムは現代に対して計り知れない宗教的影響力の根源を秘めていることになる」
日常生活の大切さについて──
「人間は日常生活での行為と習慣によって刻一刻と魂を築いている。それが霊的本性であり、現段階でこそ幼稚で不完全であるが、永遠に不滅であり、未来永劫に進化する可能性を秘めている。それが真実の自分であり、永遠の存在である。死後の状態の責任はすべて、根源的に、そして何よりもまず、自分自身にある。自分の運命の決定者は自分であり、自分が自分の将来の開拓者であり、自分の人生の最後の裁き人も自分である。
こうした教えが説教壇から聞かされることが少なすぎる。が、その重要性は実に遠大である。これを知ることは全ての人間にとって極めて重要である。道徳と宗教の全分野において、その影響力は計り知れないものがある」
℘224
霊的知識の普及を祝して──
「霊界からの霊的真理普及のための働きかけがいよいよ頻繁となってきたことは慶賀に堪えない。このことは見えざる指導者たちが、思いもよらないさまざまな方面で、通信を地上へ送るための通路を求めているとの確信を与えてくれる。真理のすべてが一人の霊媒のみを通じてもたらされることはあり得ない。無数の側面を持つ真理がたった一個の精神で理解できるわけがない。そうしたさまざまなチャンネルを通じてもたらされる真理になるべく多く耳を傾ける者が一ばん多くを得ることになる。もうすべてを知り尽くしたと思う者が実は一ばん真理を学んでいない。
〝真理の太陽〟の光が千々に砕けてわれわれの周囲に輝いている。それを拾い集めて一つの理想的体系を整えるべき機が熟している。今ほとんど世界各地であらゆる観点から、その体系づくりのための作業が進行中である。
私がこの思想の将来に希望を託し、かつ信頼を抱いているのは、これからの宗教は今さかんに心霊学者やスピリチュアリストによって立証されつつある科学的知識の上に基盤を置くべきであり、いずれは科学と宗教とが手をつなぐことになると信じるからにほかならないのである」
(注──原典にはこのほかに各種のテーマについてのモーゼスの意見が掲載されているが、そのすべてが、当然のことながら、インペレーターその他による通信の内容と同じなので割愛することにした。☆
(四)モーゼスへの賛辞
モーゼスの死に際して心霊誌ライトにモーゼスへの賛辞が寄せられた。
「氏は生まれついての貴族であった。謙虚さの中にも常に物静かな威厳があった。これは氏が手にした霊的教訓と決して無縁ではなかった。氏ほどの文学的才能と、生涯を捧げた霊的教訓と、稀有の霊的才能は、死を傲慢不遜にしいらだちを生み嫌悪感を覚えさせても決しておかしくないところである。が、氏にとってそれは無縁だった。常に同情心に満ち、優しく、適度の同調性を具えていた」
スピーア博士の子息でモーゼスが七年間も家庭教師をしたチャールトン・スピーア氏は、モーゼスの人間性の深さ、性格の優しさ、真摯な同情心、そして今こそ自分を犠牲にすべきと見た時の徹底した没我的献身ぶりを称えてから、こう結んでいる。
「真理普及への献身的態度は幾ら称賛しても称賛しきれない。氏はまさに燃える炎であり、輝く光であった。恐らくこれほどの人物は二度と現れないであろう」
モーゼスを最初にスピリチュアリズへ手引きしたスピーア夫人はこう語っている。
「自然を愛する心と、気心の合った仲間との旅行好きの性格、そして落ち着いたユーモア精神が、地名や事物、人物、加えてあらゆる種類の文献に関する膨大な知識と相まって、氏を魅力ある人物に造り上げていました。
二年前の病さえなければ『霊訓』をもう一冊編纂して出版し、同時に、絶版となっている氏の他の著作が再版されていたことでしょう。健康でさえあったら、それはいずれ成就されていた仕事です。霊界の人となった今、氏は、あとに残した同志たちが、氏が先鞭をつけた仕事を引き継いでくれることを切望しているに相違ありません」
解説 W・S・モーゼス──生涯と業績── ナンド―・フォドー
(Nandor Fodor: An Encyclopedia of Psychic Science より)
〇 青年牧師として赴任するまで
ウィリアム・ステイントン・モーゼスは一八三九年に公立小学校の校長を父親として、イングランド東部のリンカーン州ドニントンに生まれた。十三歳の時にパブリックスクール(私立中・高等学校)へ入学するために家族とともにイングランド中部の都市ベッドフォードへ移転した。
そのころ時おり夢遊病的行動をしている。一度は真夜中に起きて階下の居間へ行き、そこで前の晩にまとまらなかったある課題についての作文を書き、再びベッドに戻ったことがあった。が、その間ずっと無意識のままだった。書かれた作文はその種のものとしては第一級のものだったという。が、それ以外には幼少時代の心霊体験は残っていない。
その後オックスフォード大学へ進学したが、在学中に健康を害して一時休学し、ギリシャ北東部のアトス半島へ渡り、そこの修道院の一つで六か月間の療養生活を送っている。やがて健康を回復したモーゼスはオックスフォード大学へ復学し、卒業後、英国国教会の牧師に任ぜられた。そして最初に赴任したのがマン島だった。(アイルランド海の中央に浮かぶ小さな島。政治的には自治区)
当時は二十四歳の青年牧師だったが、教区民から絶大な尊敬と敬愛を受け、とくに天然痘が猛威を振るった時の献身的な勇気ある行動は末永く語り継がれている。
〇 スピーア博士一家との縁
その後同じマン島内の別の教区へ移ったが、三十歳の時に重病を患い、医師のスピーア博士 Dr. Stanhope Templeman Speer の治療を受け、回復期を博士宅で過ごした。これがその後のモーゼスとスピーア博士家との縁の始まりである。
翌一八七〇年にイングランド南西部ドーセット州へ赴任したが、すぐまた病気が再発し、それを機に牧師としての仕事を断念した。
病気が縁となってその後七年間にわたってモーゼスはスピーア博士の子息の家庭教師をすることとなった。その間にロンドンの学校教師の職を得て、他界する三年前までの十八年間にわたって勤続したが、痛風を患っているところへインフルインザを併発し、それに精神的衰弱も加わって、ついに一八九二年九月に他界した。五十三歳の若さだった。
〇 スピリチュアリズムとの出会い
ロンドンの学校の教師となった翌年の一九七三年からの十年間は、インペレーターを最高指導霊とする霊団の霊力がモーゼスを通じて注ぎ込まれた時代であり、モーゼスのそれまでの偏狭なキリスト教的信仰と教理は完全に打ち砕かれてしまった。
当初モーゼスはスピリチュアリズムが信じられず、心霊現象のすべてをまやかしであると考えた。後に親交をもつに至るD・D・ホームの霊現象に関する書物を読んだ時も、〝こんな退屈なたわごとは読んだことがない〟と一蹴していた。が、スピーア夫人の勧めで、たまたまその時イギリスに来ていたロティ・ファウラー Lottie Fowler というアメリカの女性霊視能力者による交霊会に出席した。
交霊会への出席はそれが最初だった。が、その時の霊信の中に他界した友人についての生々しい叙述があり、心を動かされた。続いて同じくアメリカ人の物理霊媒ウイリアムズ夫人 H.A. williams による交霊会に出席し、それから D・D・ホームによる交霊会に出席するなどして、半年後には死後の存続と交信の可能性について確信を得るに至っている。
〇 物理現象のかずかず
やがてモーゼス自身にも霊能の兆候が出はじめ、次第に驚異的に、かつ、ひんぱんになっていった。種類も実に多彩で、強烈なものとしては部屋中が揺れどおしということもあった。また、大人が二人してやっと一インチしか上げられないほどの重いテーブルが、白昼、軽々と宙に浮いて右に左に揺れていたこともある。
モーゼス自身が浮揚したことも何度かある。二度目の時は右に述べたテーブルの上にいったん乗せられてから、さらにその向こうに置いてあるソファへ放り投げられた。が、モーゼスの身体には何の異常も起こらなかった。
アポーツ(物品引寄現象)もしばしば起きている。部屋を閉め切っていても、他の部屋に置いてある物品が持ち込まれた。大抵モーゼスの頭越しだった。また、モーゼスの家に置いてない品、例えば象牙の十字架像、サンゴ、真珠、宝石の類が持ち込まれたこともある。
さまざまな形と強度の光がよく見られた。モーゼスが入神している時の方が強烈だった。ただし、出席者全員に見えたわけではない。
香気が漂うこともしばしばだった。ジャコウ、クマツヅラ、干草の香がよく漂った。が、一つだけ得体のしれない香気があった。霊側の説明によると、これは霊界にある香だという。時には香りをたっぷりと含んだそよ風が部屋中を流れることもあったという。
楽器類は何も置いていないのに、実にさまざまな音楽が演奏された。その他にも直接書記、直接談話、物体貫通現象、そして物質化現象と、多彩な現象が見られた。最も物質化現象といっても発光性の手先とか、人体の形をした光がうっすらと見えるという程度にとどまっていた。
いずれにしても物理的心霊現象そのものは霊団としては二次的意義しか考えておらず、第一の目的はモーゼスならびに立会人に霊の存在と霊力の凄さを得心させることにあった。
〇 評価と中傷と
モーゼスの交霊会のレギュラーメンバーはスピーア博士夫妻ともう一人パーシバル F.M. percival という男性の三人だけで、それに、時おりウイリアム・クルックス卿やD・D・ホーム、そのほか数名が入れ替わり立ち替わり出席する程度だった。勝手に新しい客を連れて来ると霊側がひどく嫌がったという。
フレデリック・マイヤースは<S・P・R・会報>の中で次のように述べている。
「道義上の動機を考えても、あるいはモーゼス氏が一人でいるときでも頻繁に発生したという事実から考えても、これらの現象がスピーア博士および他の列席者によって詐術的に行われたものでないことは完全に立証されたと私は見ている。モーゼス氏自身がやっていたのではないかという観方も、道義的ならびに物理的にみてまずあり得ないことと私は考えている。氏が前もって準備して置いてそれを入神状態で演出するなどということは物理的に考えてもまず信じられないことで、同時にそれは、氏自身および列席者の報告の内容と相容れないものである。それゆえ私は、報告された現象が純粋な超常的な方法で実際に起きたものであると見なす者である」
モーゼスの人格の高潔さは誰しも認めるところであったために、心霊著述家の A・ラング Andrew Lang は詐術説を主張する者に対して〝道徳的奇跡か物理的奇跡かのいずれかの選択である〟(モーゼスが人を騙すという飛んでもないことをしたと決めつけるか、心霊現象が実在したと認めるかの二つに一つ)という警告まで発した。が、本気で道徳的奇跡の方を選んだのはポドモア Frank Podmore ただ一人だったようである。(訳者注─ポドモアはマイヤースと同時代の心霊研究家で、S・P・Rの評議員を二十七年間も勉めた人物であるが、最初の頃は霊魂説を信じていたのが次第に懐疑的になって行き、最後はすべてを詐術と決めつけるに至った。とくにモーゼスに対しては抽象的な態度が目立った)
〇 自動書記通信とその通信霊の身元
有名な自動書記通信は『霊訓』Spirit Teachings と『霊の身元』Spirit Identity の二著と、一八九二年から心霊誌 Lignt に公表を開始した詳細な報告記事が、その内容を知る手掛かりの全てである。
自動書記現象は一八七三年に始まり、一八七七頃から少なくなり、一八八三年に完全に途絶えた。その記録は二十四冊のノートに筆記されており、そのうちの二冊が紛失したほかは今なお The college of Psychc Studies に保管されている。(訳者注──原典では London Spiritualist Alliance となっているが、今では The College に移されている。なお国書刊行会発行の拙訳『霊訓』のグラビアに、そのノートから八ページが掲載されている。フォドーは〝自由にコピーが入手できる〟と書いているが、それは今は許されない。掲載された八ページ四枚は私が The College 専属の写真業者に依頼して撮ってもらったもので、一枚につきいくらと使用量が定められている)
自動書記による霊信はそのほとんどがモーゼスが普通の覚醒状態にある時に綴られたものである。その途中で直接書記で簡単なメッセージが入ることが時おりあった。
霊側のモーゼスに対する態度はあくまでも礼儀正しく、敬意に満ちていた。が、その通信の中に時おり当時生存していた人物に対する批判的な言及が見られた。モーゼスが二十四冊のノートを他人に見せたがらなかった理由はそこにある。
また、どうやらもう一冊、非常に暗示に富んだメッセージが綴られたノートがあったことを推測させる文章が見られるのであるが、そのノートは多分破棄されたに相違ない。
通信は対話形式で進められている。通信霊の身元はモーゼスの在世中は公表されなかった。公的機関に寄贈される前に通信ノートを預かったマイヤースも公表しなかった。それが The controls of Stainton Moses <ステイントン・モーゼスの背後霊団>の題名で A. W. Trethewy によって出版されたのはずっと後のことである。
が、その多くがバイブルや歴史上の著名人であったことを考えると、モーゼスが生存中にその公表を渋ったのは賢明であったと言えよう。もし公表していたら、軽蔑を込めた非難を浴びていたことであろう。
それにもう一つ、実はモーゼス自身が永い間その身元に疑問を抱いていたことも、公表を渋らせた理由に挙げられる。通信の中にはその猜疑心と信頼心の欠如を霊側がしばしば咎めている箇所がある。
それはともかく、明らかにされた限りでの霊団の主要人物の生前の氏名をいくつかあげれば、リーダー格のインペレーターは紀元前五世紀のユダヤの霊覚者で旧約聖書のマラキ書の筆者とされるマラキ(マラカイとも)、その指揮のもとにハガイ(同じく旧約聖書のハガイ書の筆者)、ダニエル(同じくダニエル書の筆者)、エゼキエル(同じくエゼキエル書の筆者)、洗礼者ヨハネ、等々がいた。その他にも、プラトン、アリストテレス、プロティノスなど、古代の哲学者や聖賢と呼ばれた人物が十四人いた。
結局モーゼスは四十九名の霊団の道具であったことになるが、実はその上にもう一人、紀元前九世紀の霊覚者エリヤが控えていて、インペレーターに直接的に指示を与え、同時に又直接イエスと交信していたと言われる。
こうした背後霊団の身元についてモーゼスが得心するに至ったのは、二十四冊のノートのうち十四冊目に入ったころからだったという。
〇 通信の〝質〟の問題
『霊訓』の<序論>の中でモーゼス自身こう述べている。
「・・・・・・神 God の文字は必ず大文字で、ゆっくりと恭(うやうや)しげに綴られた。通信の内容は常に純粋で高尚なことばかりであったが、その大部分は私自身の指導と教化を意図したプライベートな色彩を帯びていた。一八七三年に始まって八十年まで途切れることなく続いたこの通信の中に、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言説、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類は、私の知る限り一片も見当たらなかった。知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわぬものはおよそ見掛けられなかった。虚心坦懐に判断して、私はこの霊団の各霊が自ら主張した通りの存在(神の使い)であったと断言して憚らない。その言葉の一つ一つに誠実さと実直さと真剣さがあふれていた」
が、そのモーゼスも、現象が弱まり出したころには再び猜疑心に襲われ、戸惑いを見せている。所詮霊の身元というのは完全な立証は不可能なのである。インペレーターに言わせれば、立証不可能な(古代霊の)ケースも、他の(近代の)霊のケースが立証されればそれで真実と受け止めてもらわないと困るという。確かにその通りで、近代の霊で身元が立証されたケースが幾つかあるのである。
通信の内容そのものについてモーゼス自身は、霊媒という立場から非常に慎重な見方をしている。同じ<序論>の中でこう述べている。
「通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは、確かに一考を要する問題である。私としてはそうした混入を防ぐために異常なまでの配慮をしたつもりであるが、それでも内容は私の考えとは違っていた。しかも間もなくその内容が私の思想信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのである。でも私は筆記中つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を一行一行推理しながら読むことさえできたが、それでも通信の内容は一糸乱れぬ正確さで筆記されていった。
こうしたやり方で綴られた通信だけでも相当なページ数にのぼるが、驚くのはその間に一語たりとも訂正された箇所がなく、一つの文章上の誤りも見出されないことで、一貫して力強く美しい文体でつづられているのである」
それほどの用心も潜在意識を完全に排除するに至らなかったことが、死後モーゼス本人からのメッセージによって裏書きされている。明らかに間違っている部分をいくつか指摘しているのである。しかし、そうした点を差し引いても、ステイントン・モーゼスの生涯とその業績はスピリチュアリズムに測り知れない影響を及ぼしている。いくつかのスピリチュアリズムの組織で指導的役割を果たし、一八八四年から他界するまでロンドン・スピリチュアリスト連盟の会長を務めた。英国S・P・Rの設立もモーゼスによる交霊会が機縁となっており、モーゼス自身も評議員の一人として活躍したが。が、霊媒エグリントン William Eglinton の調査においてとった S・P・Rのアラ探し的態度に抗議して辞任している。
著者としては『霊訓』のほかに Spirit Identity(霊の身元)、The Higher Aspects of Spiritualism (スピリチュアリズムの高等な側面)、Psychography(念写)がある。その他、二、三の心霊誌におびただしい量の記事を掲載して啓蒙に努めている。(それを一冊にまとめたのが本書である─訳者)
完
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