Sunday, February 9, 2025

シアトルの冬 霊の書  地上的喜びと悲しみ

Earthly joys and sorrows




〈幸と不幸〉


――この地上界に完全な幸せというのは有り得るでしょうか。


「有り得ません。肉体に宿っての生活は試練か罪滅ぼしのいずれかを目的としての生活の場として指定されているからです。ただ、定められた体験の苦の側面を、その対処の仕方(心構え)によって軽減し、それだけ幸せの側面を大きくすることは可能です」


――地上的な幸不幸は相対的なもので、置かれた立場によっては、ある者には幸せに思えることが他の者には不幸に思えることがあります。そうしたこととは無関係に、全ての人間に共通した幸せの基準というものがあるのでしょうか。


「物的生活に関しては生きるための必需品が確保できることであり、精神的生活に関して言えば、健全なる良心と死後の生命への信念を持っていることです」


――それほどの財産を所有するに値するとは思えない人が豊かな生活をしていることがありますが、なぜでしょうか。


「財産というものは、現世のことしか考えない人には羨ましく思えるかも知れませんが、来世との関連で見ると、苦難や貧困よりも危険な要素を秘めているものです」


――文明の発達は欲望を増幅していくという観点からすると新しい悩みのタネをも増やしていっていることになるのでしょうか。


「地上界の病苦は、人間本来の必要性とは別種の、言わば人工的必要性に比例して増えています。欲求に自分で限度を設けて、それ以上の贅沢には何の魅力も覚えない人は、地上生活における落胆とは縁のない人です。真の意味で豊かな人とは余分なものを欲しがらない人です。

人間はとかく金持ちの贅沢を羨ましがりますが、その人たちの多くを待ち受けている運命をご存じありません。財産を自分のことにだけ使う人は利己主義者であり、そういう人の将来には恐ろしい逆境が待ち受けております。羨ましがらずに憐れんであげるべきです。

神は時として邪悪な人間に大金を預けます。それは、それが元で泣く思いをさせ歯ぎしりして後悔させ、反省の機会を与えるためです。もしも真面目に生きている人が不幸に陥った時は、それは神が与えた試練であり、それに毅然として立ち向かうことによって豊かな報いが得られます。イエスも言っております――悲しむ者は幸いである。いずれ神の慰めを得る時が来るであろうから、と」


――神は人間各自の適性に応じて天職というものを示してくださっているのですが、人生の不幸はそれに忠実に携わっていないことから生じているのでしょうか。


「そうです。よくあるのは、両親が自尊心や欲から、我が子を天性に合った道から親の都合の良い方向へ強引に向かわせるケースです。そういう身勝手な行為は後で責任を取らされます」


――世間的な悩み事は往々にして自らこしらえたものだということですが、精神的な悩みも自分でこしらえているのでしょうか。


「その方がむしろ多いくらいです。と言うのは、世間的な問題はこちらから仕掛けたものばかりではありませんが、魂の苦悶は、傷つけられた自尊心や野心の挫折、貪欲、嫉妬心、怨恨といった、ありとあらゆる悪感情が内部から巻き起こすものだからです。

怨恨と嫉妬! この魂の寄生虫を宿らせない人間は本当に幸せな人です。怨恨と嫉妬が寄生する魂には安らぎも落ち着きもありません。この二つの悪感情の奴隷となった人の目の前には常に欲望と憎しみと怒りの対象が幻のごとく立ちふさがり、休みなく、睡眠中でさえも追いかけ回します。怨恨と嫉妬に狂った人間は熱にうなされているのと同じです。その悪感情の渦に巻き込まれた人間は自ら恐ろしい苦悶を生み出し、そういう人にとっては地上がそのまま地獄となることが分からないのでしょうか」
〈死別・忘恩〉


――死別によって地上に残された者の悲しみがいつまでも消えない場合、その悲しみの念は霊界の霊にどういう影響を及ぼすでしょうか。


「霊は基本的には地上に残した愛する人々が自分を思い出してくれたり惜しんでくれたりすると心を打たれるものです。しかしそれが度を越したものになると、却って苦痛となります。そのわけは、そんなにいつまでも悲しむということは死後の生命の存続と神の実在についての信仰が欠けていることの証拠であり、それは悲しんでくれているその人にとっての向上の妨げになり、結果的には霊界での再会の妨げにもなるからです」


――それとは逆に、あっさりと忘れ去られたり、友情のはかなさを思い知らされたりするのは、人間の心の冷たさを感じさせる態度ではないでしょうか。


「おっしゃる通りです。しかし我々としては、そういう恩知らずや不誠実な人間の方こそ憐れんでやるように説きたいのです。そういう冷たい態度は最終的には本人に害が降りかかってくるからです。忘恩は利己主義から生まれます。そういう人間はいずれ自分も同じような仕打ちに会います。

それよりも、あなた方より遥かに良いことをし、遥かに価値あることをしながら冷たい仕打ちに会った人たちのことを思い起こすことです。例えばイエスをごらんなさい。あれほどの恩恵を地上にもたらしながら、イエスは身分の卑しいペテン師呼ばわりをされたのです。あなた方が同じ扱いをされても少しも驚くには当たりません。

この地上にあっては、良いことをしてあげたというその思いだけで満足し、その相手がどういう態度に出ようと意に介さないことです。忘恩の態度はむしろ自分の善性への志向の強さを試してくれているのです。それがこれから先に良い影響をもたらします。恩知らずは神がきちんと罰します。その度合いが大きいだけ罰も厳しいものとなります」
〈政略結婚〉


――愛情をまったく感じない二人が結婚させられるというのもまた不幸ではないでしょうか。一生涯に係わるものだけに、なおさら辛いと思いますが……。


「確かに辛いでしょう。が、その原因も大体において人間側にあります。まず第一に法律制度が間違っております。愛し合ってもいない二人が一緒の生活を送ることがまるで神の意図ででもあるかのように宣誓して、それで結婚が成立するとは何事ですか。次に、政略的に結婚を成立させようとする策謀家たちも罪です。二人の幸せよりも自分たちの面子(めんつ)を保ち野心を果たすことを第一に考えます。そうした間違った階級意識による不当行為は自然の摂理の裁きが待っております」


――でも、そうしたケースには大抵、罪のない犠牲者がいます。


「います。そういう人々にとっては大きな罪滅ぼしとなります。そして、策謀をめぐらした者たちは大きな責任を取らされます。そうした犠牲者に霊的真理の光が届けられれば、辛い人生における何よりの慰めとなることでしょう。しかし、そうした不幸の原因が取り除かれるには、誤った階級制度が消え失せることが先決です」


訳注――カルデックの時代はヨーロッパだけでなく日本でも、上流階級や支配者層では、女性は政略結婚の道具でしかなかった。その観点からすると、地上界もその後確かに進化していると言えそうである。
〈厭世観と自殺〉


――これといった理由もないのに厭世観を抱いている人がいますが、何が原因でしょうか。


「怠惰、信念の欠如、そして時に見られるのが贅を尽くした生活です。生得の才能を正しく活用して意義ある目的のために使用している人は、努力というものが少しも苦になりません。快適な気分の中で、あっという間に時が過ぎて行きます。そして人生の浮き沈みにも忍耐力と甘受の精神で切り抜けることができます。そういう人は、さらに実感のある永続的な至福の境涯が待ち受けていることを霊的に直観しています」


――人間には自分の生命を自分で断つ権利がありますか。


「ありません。それは神のみが所有する権利です。自らの意志で自殺する人間は、再生に際して神が定めた秩序を乱すことになります」


――自殺はすべて自らの意志で行っているのでしょうか。


「精神異常者は自分が何をしているのかを知りません」


――こういう絶望的な行為に追いやる霊は、その結果として生じることに責任を負わねばならないのでしょうか。


「大きな罰をこうむることになります。結果的には殺人罪と同じですから、同等の責任を負わねばなりません」


――家族に不名誉が及ぶことを避けるための自殺であれば許されますか。


「自殺は急場しのぎの方策であって、間違いは間違いです。が、本人としてはそれが最良の方策と考えての行為であれば、神はその意図を汲んでくださるでしょう。その場合の自殺は自ら科した罪滅ぼしであり、その動機によって罪の深さは和らげられます。が、過ちは過ちです」


――他人の生命を救うために、あるいはその人たちの為になると信じて、自らの命を断つ行為はいかがでしょうか。


「そういう動機に発するものであれば崇高なる行為と言えます。が、その種の自発的犠牲的行為は自殺ではありません。神の目から見て許せないのは無益な犠牲、そして軽はずみな見栄から出た行為です。犠牲的行為は、そこに一切の打算が無い時にのみ立派と言えます。どこかに利己心で染まったところがあれば、たとえ犠牲的であっても、その分だけ割り引きされます」


――このままではいずれ悲惨な死を迎えると覚悟した者が自らの手で死を早める行為は間違いでしょうか。


「神が定めた死期を待たずにそれを早める行為は、全て間違いです。それに、自分の生命の終末がいつ来るということが分かるのでしょうか。絶体絶命の最後の一瞬に予想もしなかった救いの手が差し延べられないとは、誰が断言できますか」


――それは分かるのですが、私がお聞きしているのは、死は絶対に免れないと覚悟した人が、僅かな時間だけ早く、自らの手で生命を断つケースです。


「そういうケースには運命を甘受する度胸と、神の意思への絶対服従の精神が欠如しています」


――そういうケースでの自殺はどういう結果になるのでしょうか。


「他の自殺と同じです。それが実行に移された時の状況を考慮に入れた上で、その誤った行為の深刻さの割合に応じた罪滅ぼしが科せられます」


――一般論として、自殺は霊にどのような影響を及ぼすのでしょうか。


「自殺がもたらす影響は一つ一つ異なります。そのわけは、それが原因となって生み出す結果は自殺という行為に導いた環境条件によって違ってくるからです。ただ一つだけ避け難い共通した反応として、期待はずれから生じる落胆が挙げられます。それ以外の懲罰は一人一人異なります。罪の浅い人は簡単な罪滅ぼしで済みますし、新たに再生して、前世つまり自殺によって切り上げた人生よりさらに過酷な人生に耐えねばならない人もいます」

シアトルの冬 死後はどうなるか

 What happens after death

Silver Birch Companion  
Edited by Tony Ortzen

 ある日の交霊会で、死後の世界とそこでの生活の様子が主な話題となった。その中でシルバーバーチは、最近他界したばかりの人の現在の状態を説明して、地上に隣接した下層界は何もかも地上とそっくりであると述べた。すると次のような質問が出された。

───幽界がこの世とそっくりであるというのが、私には理解できないのですが・・・・・・

 「地上界の次の生活の場は、地上界の写しです。もしそうでなかったら、何の予備知識もない幼稚な霊に、耐えきれないショックを与えることでしょう。

ですから、霊界への導入は優しい段階をへながら行われることになります。こちらへ来てすぐの生活の場は、地上と非常によく似ているということです。自分の死んだことに気づかない人が大勢いるのは、そのためです。
℘54
 こちらは本質的には思念の世界、思念が実在である世界です。思念の世界ですから、思念が生活と活動の表現のすべてに形態を与えます。

他界直後の世界は地表のすぐ近くにあり、ものの考え方が極めて物質的な男女が集まっていますから、思念の表現も極めて地上的で、考えることがすべて物的感覚によって行われます。

 そう言う人たちは〝物〟を離れての存在をかんがえることができません。かつて一度も、生命というものが物的なものから離れた形で意識にのぼったことがないのです。霊的な活動を心に思い浮かべることができないのです。精神構造の中に、霊的なものを受け入れる余地がないのです。

 ですが、死後の世界の生活にも段階があり、意識の開発とともに、徐々に、確実に地上臭が取れていきます。そして、生命というものが物的な相を超えたものであることが分かりはじめます。

そして、自覚が芽生えると、次第にそこの環境に反応しなくなり、いよいよ本当の霊の世界での生活が始まります。こうして、死と誕生(に相当するもの)が何度も繰り返されるのです」


───死後の世界での体験は主観的なのでしょうか。客観的なのでしょうか。

 「客観的です。なぜかと言えば、こちらの世界はそれぞれの界層で生活している同じレベルの住民の思念で構成されてるからです。意識がその界のレベルを超えて進化すると、自然にそこから離れていきます。成長と向上と進化によって霊的資質が身に着くと、自然の摂理によって次の段階へ移行するのです」


───ということは夢の世界ではないということですね?

 「そこを通過してしまえば夢の世界だったことになります。そこで生活している間は現実の世界です。それを〝夢〟と呼ぶか呼ばないかは、観点の違いの問題です。あなた方も夢を見ている間は、それを夢だとは思わないでしょう。夢から覚めて初めて夢だったことを知り〝なんだ、夢だったのか〟と思うわけです。

ですから夢が夢幻的段階を過ぎてしまうと、その時の体験を思い出して〝夢だった〟と言えるわけです。ですが、その夢幻を体験している間は、それがその霊にとっての現実です」

℘56
───全ての人間が必ずその低い界層からスタートするのでしょうか。

 「いえ、いえ、それはあくまでも何の予備知識も持たずにきた者や幼稚な者にかぎっての話です。つまり霊的実在があることを知らない人、物的なものを超越したことを思い浮かべることのできない人の場合です。

 あなた方が〝幽界〟と呼んでいるところは、霊の世界の中の小さな区域です。それは低い境涯から高い境涯へと至る、無数の階段の一つにすぎません。周囲がしきられているわけではありません。それを〝界〟と呼んでいるのは、あなた方に理解できる用語を用いるしかないからです」


引き続き霊界での成長について───

 「一つの界から次の界へよじ登っていくのではありません。自然に成長し、自然に進化していくのです。程度の低い要素が、程度の高い要素にその場を譲って行くのです。何度も死に、何度も誕生するのです。

幽体は、肉体の死のような過程で失われていくのではありません。低級なものが消えるに連れて、浄化され精妙になっていくのです。それが幽体の死です。


 そもそも〝死〟とは変化であり、復活であり、低いものから高いものへの上昇です。時間と空間にしばられた地上的制約から解放された霊の世界を説明しようとすると、何かと困難に遭遇します。低いものは高いものを理解できません。

有限なるものは無限なるものを包含することはできません。小さい器は大きい器を入れることはできません。奮闘努力の生活の中で理解を増していくしかありません」


───幽界では、例えば心臓なども残っていて、やはり鼓動するのでしょうか。

 「肉体器官の機能が残っている否かは、その霊の自覚の問題です。地上生活の後にも生活があることを知らず、霊の世界があることなど思いもよらない人の場合は、地上で具えていた肉体器官がそっくりそのまま残っていて、肉体的機能を続けています。あらゆる機能です」


───では、霊の世界について理解を持った人の場合はどうなりますか。

 「幽体の精妙化の過程がスムーズに進行します。ある器官が霊の生活に不要となったことを自覚すると、その器官が退化し始め、そのうち消滅してしまいます」

℘58
───死の直後からそういう現象が生じるのでしょうか。それともゆっくりとした過程なのでしょうか。

 「それも霊的自覚の程度によります。程度が高ければ、それだけ調整期間が短くてすみます。忘れてならないのは、私たちの世界は精神的な世界、霊の世界であり、そこでは自覚というものが最優先されるということです。精神が最高の権威を持ち支配しています。精神が指示したことが現実となるのです。

 昔から、高級界からやってきた霊のことを〝光り輝く存在〟というふうに述べていて、姿かたちをはっきり述べていないことにお気づきになったことはありませんか。外形というものが無くなっていくのです。つまり形による表現が少なくなっていくのです」


───最後にはどういう形態になっていくのでしょうか。

 「美はどういう形態をしているのでしょう? 愛はどういう形態をしているのでしょう? 光はどういう形態をしているのでしょう?」


───形態を超越してしまうと、色彩が認識の基本になるのでしょうか。

 「その通りです。但し、地上世界の基本的色彩となっているものが幾つかありますが、私たちの世界には、あなた方の理解力を超えた別の色彩の領域が存在します。

私たちは高級霊の姿から発せられる光輝、そのメッセージとともに届けられる光によって、その方がどなたであるかを認識することができます。形態というものがまったく無いことがあるのです。ただ思念があるのみで、それに光輝が伴っているのです」


───翼がついている天使の絵をよく見かけるのですが、あの翼の概念はどこから来たのでしょうか。

 「太古の人は宇宙を三段に分けて想像しました。自分たちが立っている大地(地球)が真ん中にあって、その上に天国が、その下に地獄があると考えました。そして、その天国からも、地獄からも訪問者がやってくると信じ、そうなると天空を降りてくる天使には翼があるはずだと想像しました。

鳥と同じ翼がなければ遠い距離を飛んで来られるはずはないと考えたわけです。こうして翼のある天使の概念が生まれました」

℘60
───実際に翼のある天使はいるのでしょうか。

 「います。ですが、それはただの想念体に過ぎません。霊の世界に翼は必要ありません。私たちが霊媒にある概念を伝える場合にも想念による絵画(ピクチャー)を使用することがあるのですが、地上の幼い子供たちが天使には翼があるものと思い込んでいる場合には、それに合わせて、翼のある天使をイメージして届けることがあります。それが守護の天使として定着したのです」


 話題が変わって、他界した身内のものや友人・知人は、姿こそ見えなくても、地上にいた時よりいっそう身近な存在となっていることを説いて、こう述べた。

 「その方たちは今なお実在の人物であり、地上にいた時と同じように、あなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはなりません。彼らにはもはや言葉で話かけることはできませんし、あなた方もその声を聞くことはできませんが、あなた方のすぐ身の回りにいて、何かと面倒を見てくれております。

 そう言えばそんな感じがすると思われるでしょうが、実際はもっととっと密接な関係にあります。彼らはあなた方の心の秘密、口に出さないでいる欲求、願望、希望、そして心配なさっていることまで、全部読みとっております。そして地上的体験から、あなた方の魂の成長にとって必要なものを、摂取するように導いてくれております。

決して薄ぼんやりとした、影のような、あるいはもやのような存在ではありません。今なお皆さんのことを愛し、以前よりさらに身近な存在となっている。実態のある男性であり。女性なのです」


───霊界でも心霊治療を受ける人がいるそうですが、どういう人たちでしょうか。

 「さまざまな原因から、霊的身体に欠陥が生じている場合です。たとえば無残な事故で急死した場合は、新しい霊的生活に順応するための調整が必要です。

それを霊的エネルギーの注入によって行います。また地上時代ずっと、脳の欠陥のために精神に正しく情報が届かず、結果的に霊性が発揮されずに終わった人の場合などです」

℘62  
───戦争で爆弾の直撃を受けて、こっぱみじんになって死んだ場合はどうなりますか。

 「これも、こちらの世界へ次々とやってくる他界者のための受け入れ施設が受け持っている仕事の一環にすぎません。

地上でも、道ばたに倒れている人がいれば病院へ運ぶという仕事が、戦争になると負傷兵を看護する施設へと発展するように、こちらでも、通常の受け入れ体制の他に、さまざまな原因からいきなり放りこまれた霊界の生活に順応させる施設がたくさん用意されております」


 別の日の交霊会で、前に一度シルバーバーチを通じて出席者の一人に、地上時代に掛けた迷惑についての詫びを述べたことのある霊が、その日にまた同じことについての詫びを改めて届けてきた。その詫びの言葉を述べたあと、シルバーバーチがこう語った。

 「あなたが、もういいのにと、思われる気持は私にはよく理解できます。でも、彼には詫びの気持ちを述べずにはいられない事情があるのです。懺悔をするということは、あなたに対してというよりは、彼自身にとって意味があるのです。

 他界した者が地上時代の行為について懺悔の気持ちを何らかの形で届けたいと思うようになるということは、本当に自我に目覚めつつあることの証拠です。あなた方にとってはもう過ぎたことであり、忘れていらっしゃるかも知れません。が、

その行為、ないしは事実は、霊的自我に刻み込まれていて、霊性が成長し、それについての正しい評価が下されるまでは、絶対に消える事はありません」


 さらに別の日の交霊会でも、他界したあとに抱く地上への思いを、こう述べた。

 「皆さんは、いったん霊の世界へ来てから地上界へ戻り、何とかして働きかけたいと思いながら、それが叶えられずにいる人たちの気持ちがどんなものか、考えてみたことがおありですか。

地上界を去ってこちらへ来てみて視野が変わり、人生を初めて正しい視野で捉えるようになって、そのよろこびを何とかして地上の愛する人たちに教えてあげたいと、一生けんめいになっている霊が大勢いることをご存じでしたか。
℘64
 ところが人間は、そういう人たちの働きかけにまったく鈍感なのです。見ることはおろか、聞くこともできません。愚かにも五感だけが実在のすべてであると思い込み、その粗末で気のきかない五つの感覚が捉えている世界以外には何も存在しないと考えています。

 私たちがこちらでよく見かける光景は、死後も立派に生き続けていることを知らせてあげようと、手を思いきり差しのべてあれこれと尽くすのに、そのうち、どうしても気づいてもらえないことを知ってがっかりとした表情を浮かべている人たちです。

呼びかけても聞いてもらえず、目の前に立ちはだかっても見て貰えず、思念を送っても感じてもらえません。

 悲しみに暮れている人たちばかりを相手にした話ではありません。楽しく暮らしている明るい家庭においてもそうです。そこで私たちは、重苦しい気持ちを引きずれながらその人たちに近づいて、人間側が交霊会にでも出席してくれるようになるまでは、どう努力しても無駄ですよ、と告げるしかないのです」


 シルバーバーチはさらに次のような、他界後の霊界の実情を打ち明けた。

 「これまでに私は、何人もの〝国教会の大黒柱〟と呼ばれていた人を連れて、かつて彼らが勤めていた礼拝堂、大聖堂、教会等へ行ったことがあります。

そこで彼らが目にするのは、当然、かつて自分も説いたことのある教説の繰り返しですが、今ではそれが間違っていることがよく分かるものですから、彼らの心は次第に重苦しく沈み込んでいきます。間違いと迷信で出来上った組織を助長したのは、ほかならぬ自分たちであることを自覚するからです」


───針のむしろに座らされる思いでしょうね?

 「それが彼等にとっての煉獄(れんごく)なのです。辛いでしょうが、それが摂理なのです。自分が犯した過ちは自分で改めないといけません。

自分が送った間違った人生の代償を払わないといけないのです。永遠なる公正のもとにおいて、ありとあらゆる勘定が清算させられます。この摂理から逃れる人は一人もいません」



───その司祭たちはどういう方法で償うのでしょうか。
℘66
 「間違った教えを説いた信者の一人一人に会って、その間違いを修正してあげないといけません」


───説教をした信者の一人一人に面接しないといけないのでしょうか。

 「そうです」


───でも、それまでに信者自身が修正していることもあるでしょう?

 「そういう場合は、それだけ負担が軽くなります」


───正しいと確信して説いていた場合はどうなるのでしょうか。少しは違うのでしょうか。

 「その場合は事情が違ってきます。何事も〝動機〟が大切だからです」

℘67
───その場合でもやはり一人一人に会わないといけませんか。

 「本心からそう信じていた場合は、その必要はありません。ですが、実際は、命をかけてそう信じている人は少ないようです。高慢と、地位、財産の方が真理よりも大切な人が多いようです。いったん教会という組織の中に組み込まれて、その中に浸りきってしまうと、それが鎖のように魂を縛りつけてしまいます。

心の奥では納得できずにいながら、お座なりの説教を繰り返すことによって理性を麻痺させようという卑劣な態度をとるようになります。

 私たちは、そうとは知らずに間違ったことを説いている真面目な牧師を咎めようとは思いません。咎めたいのは、心の奥では真理なんかどうでもいい───教会という組織を存続させることが第一だ、と考えている指導者たち、あるいは、間違っていると知りつつも、ではそれを捨てたら、これから先自分たちはどうなるのだ、という単純な不安から、伝統的教義を守ろうとしている牧師たちです。


 間違っていることに気づかずに、一生けんめい説いている者を咎めるつもりはありません。自分たちの説いている教えや行っている儀式が何の根拠もないことを知りつつも、奇弁を弄してつくろい〝これを捨てたら、ほかに何があると言うのか───教えることが何もなくなるではないか〟という幼稚な自己弁護をしている連中のことを咎めているのです。
℘68
 とは言うものの、たとえ知らなかったとはいえ、やはり間違っていたことは正さないといけません。ただし、その場合は煉獄の苦しみではなく、むしろ喜びすら覚えるものです。魂が進んでそれを求めてすることですから、それは一種のサービスの喜びとなります」


 これを聞いてかつてメソジスト派の牧師だったメンバーが訊ねた。

───では、私もこれまでの説教してきた信者のすべてに会って正さないといけないことになるのでしょうか。

 「そういうことです。会った時にまだ間違った教えを信じている場合、言いかえると、あなたの教えを信じたために光明を見出すのが遅れている場合は、光明への正しい道を教えてあげないといけません」

℘69
───それは大変です。大変な数の人に教えを説いてきましたから・・・・・・

 「あなただけではありません。すべての牧師が直面させられる摂理なのです。でも、あなたの場合そう苦になさることはないでしょう」


 ここで別のメンバーが 「たぶん、この方の場合は、牧師を止められてから救ってあげた人たちが協力してくれるはずです」 というとシルバーバーチが───

 「その通りです。永遠に不変の公正は決してごまかされません。叶えられることなら皆さんにも、私が見ている通りの摂理の働き具合をご覧にいれて、公正の天秤がいかに見事にバランスがとれているかを知っていただきたいのですが・・・・・・大霊のなさることに寸分の狂いもないことを得心なさるはずです。

 教えを説く者には深刻な責任があることは、ここのおいでの皆さんがご存じないはずはありません。知識には責任が伴うことを何度申し上げたことでしょう。

自分を他の人たちより高め、人を教え導きたいと思うのであれば、まずは自分自身が拠って立つ足場をしっかりと固めないといけません。

 徹底的に探究し試してみることを怠り、批判に身をさらすこともせずに自己満足し、本当かどうかの確信もないまま人に教えを説くようなことをしていると、その怠慢と軽率さに大きな代償を払わされる時が必ず来ます」

℘70
 別の日の交霊会で、地上時代に受けた間違った教えのために魂の進化が阻害されている例が話題になった。メンバーの一人が、最後の審判日を待ちながら死体の埋葬されている墓地で暮らしている霊がいるという話を聞いたが、そんなことが本当にあるのかと尋ねると───

 「事実その通りなのです。それが私たちにとって厄介な問題の一つなのです。教会で聞かされた通りのことが本当に起きるものと信じ切っているものですから、自分からその考えに疑問を感じるようにならないかぎり、側からはどうしようもないのです。  

 死ねばガブリエルのラッパが聞こえるまで墓地で待つものという想念体を、全生涯をかけて作り上げて来ているわけですから、その想念体が崩れないかぎりは、いつまでのその牢獄から抜け出られないのです。

 死んだことが信じられない霊の場合も同じです。信じることを拒んでいるかぎり、私たちも為すすべがありません。もう死んで霊の世界に来ているという事実を信じさせることがどんなに難しいか、みなさんには理解できないでしょう。

 ずいぶん前の話ですが、クリスタデルフィアン(一九五〇年代に米国で生まれたキリスト教の一派)だという霊と長々と話し合ったことがあります。

私は何とかしてその人がすでに死んでいる事実を納得させようとしたのですが、〝こうして生きているのに、なぜ私が死んでいるのですか〟と言い返して、どうしても信じてくれませんでした。復活の日まで待ちますと言って、その場から離れようとしませんでした」


───時間をどうやって過ごすのでしょうか。

 「ただ待つだけです───〝待つ〟という想念の中にいるだけです。自分でこしらえた想念体の牢獄の中に閉じ込められているのです。そのことに気づけば、想念体が崩れて眼が覚めるのですが、こうした事実を地上の人に説明するのはとても困難です。

 こちらの世界には〝時間〟というものがないのです。地球の自転によって昼と夜とが生じるようなことがないからです。昼と夜とで一日、といった計算をすることがない世界において、どうやって昨日と今日とを区別するのでしょう?」


───時間の単位はなくても、時間の経過はあるのでしょう?

 「それもありません。まわりで生じる変化との関連において成長と進化を意識することはありますが、時間の経過はありません。霊的な成長と、それに伴う環境の変化があるのみです。時間というのは、そうした変化との関連における尺度にすぎません。

 無意識でいる間は時間は存在しません。環境との関係が変わったからです。夢の中では環境との関係が変わっていますから、肉体につながれている時よりも物事が早く推移するわけです」


 ある日の交霊会で、死後の世界とそこでの生活の様子が主な話題となった。その中でシルバーバーチは、最近他界したばかりの人の現在の状態を説明して、地上に隣接した下層界は何もかも地上とそっくりであると述べた。すると次のような質問が出された。


───幽界がこの世とそっくりであるというのが、私には理解できないのですが・・・・・・

 「地上界の次の生活の場は、地上界の写しです。もしそうでなかったら、何の予備知識もない幼稚な霊に、耐えきれないショックを与えることでしょう。

ですから、霊界への導入は優しい段階をへながら行われることになります。こちらへ来てすぐの生活の場は、地上と非常によく似ているということです。自分の死んだことに気づかない人が大勢いるのは、そのためです。
℘54
 こちらは本質的には思念の世界、思念が実在である世界です。思念の世界ですから、思念が生活と活動の表現のすべてに形態を与えます。

他界直後の世界は地表のすぐ近くにあり、ものの考え方が極めて物質的な男女が集まっていますから、思念の表現も極めて地上的で、考えることがすべて物的感覚によって行われます。

 そう言う人たちは〝物〟を離れての存在をかんがえることができません。かつて一度も、生命というものが物的なものから離れた形で意識にのぼったことがないのです。霊的な活動を心に思い浮かべることができないのです。精神構造の中に、霊的なものを受け入れる余地がないのです。

 ですが、死後の世界の生活にも段階があり、意識の開発とともに、徐々に、確実に地上臭が取れていきます。そして、生命というものが物的な相を超えたものであることが分かりはじめます。

そして、自覚が芽生えると、次第にそこの環境に反応しなくなり、いよいよ本当の霊の世界での生活が始まります。こうして、死と誕生(に相当するもの)が何度も繰り返されるのです」


───死後の世界での体験は主観的なのでしょうか。客観的なのでしょうか。

 「客観的です。なぜかと言えば、こちらの世界はそれぞれの界層で生活している同じレベルの住民の思念で構成されてるからです。意識がその界のレベルを超えて進化すると、自然にそこから離れていきます。成長と向上と進化によって霊的資質が身に着くと、自然の摂理によって次の段階へ移行するのです」


───ということは夢の世界ではないということですね?

 「そこを通過してしまえば夢の世界だったことになります。そこで生活している間は現実の世界です。それを〝夢〟と呼ぶか呼ばないかは、観点の違いの問題です。あなた方も夢を見ている間は、それを夢だとは思わないでしょう。夢から覚めて初めて夢だったことを知り〝なんだ、夢だったのか〟と思うわけです。

ですから夢が夢幻的段階を過ぎてしまうと、その時の体験を思い出して〝夢だった〟と言えるわけです。ですが、その夢幻を体験している間は、それがその霊にとっての現実です」

℘56
───全ての人間が必ずその低い界層からスタートするのでしょうか。

 「いえ、いえ、それはあくまでも何の予備知識も持たずにきた者や幼稚な者にかぎっての話です。つまり霊的実在があることを知らない人、物的なものを超越したことを思い浮かべることのできない人の場合です。

 あなた方が〝幽界〟と呼んでいるところは、霊の世界の中の小さな区域です。それは低い境涯から高い境涯へと至る、無数の階段の一つにすぎません。周囲がしきられているわけではありません。それを〝界〟と呼んでいるのは、あなた方に理解できる用語を用いるしかないからです」


引き続き霊界での成長について───

 「一つの界から次の界へよじ登っていくのではありません。自然に成長し、自然に進化していくのです。程度の低い要素が、程度の高い要素にその場を譲って行くのです。何度も死に、何度も誕生するのです。

幽体は、肉体の死のような過程で失われていくのではありません。低級なものが消えるに連れて、浄化され精妙になっていくのです。それが幽体の死です。


 そもそも〝死〟とは変化であり、復活であり、低いものから高いものへの上昇です。時間と空間にしばられた地上的制約から解放された霊の世界を説明しようとすると、何かと困難に遭遇します。低いものは高いものを理解できません。

有限なるものは無限なるものを包含することはできません。小さい器は大きい器を入れることはできません。奮闘努力の生活の中で理解を増していくしかありません」


───幽界では、例えば心臓なども残っていて、やはり鼓動するのでしょうか。

 「肉体器官の機能が残っている否かは、その霊の自覚の問題です。地上生活の後にも生活があることを知らず、霊の世界があることなど思いもよらない人の場合は、地上で具えていた肉体器官がそっくりそのまま残っていて、肉体的機能を続けています。あらゆる機能です」


───では、霊の世界について理解を持った人の場合はどうなりますか。

 「幽体の精妙化の過程がスムーズに進行します。ある器官が霊の生活に不要となったことを自覚すると、その器官が退化し始め、そのうち消滅してしまいます」

℘58
───死の直後からそういう現象が生じるのでしょうか。それともゆっくりとした過程なのでしょうか。

 「それも霊的自覚の程度によります。程度が高ければ、それだけ調整期間が短くてすみます。忘れてならないのは、私たちの世界は精神的な世界、霊の世界であり、そこでは自覚というものが最優先されるということです。精神が最高の権威を持ち支配しています。精神が指示したことが現実となるのです。

 昔から、高級界からやってきた霊のことを〝光り輝く存在〟というふうに述べていて、姿かたちをはっきり述べていないことにお気づきになったことはありませんか。外形というものが無くなっていくのです。つまり形による表現が少なくなっていくのです」


───最後にはどういう形態になっていくのでしょうか。

 「美はどういう形態をしているのでしょう? 愛はどういう形態をしているのでしょう? 光はどういう形態をしているのでしょう?」


───形態を超越してしまうと、色彩が認識の基本になるのでしょうか。

 「その通りです。但し、地上世界の基本的色彩となっているものが幾つかありますが、私たちの世界には、あなた方の理解力を超えた別の色彩の領域が存在します。

私たちは高級霊の姿から発せられる光輝、そのメッセージとともに届けられる光によって、その方がどなたであるかを認識することができます。形態というものがまったく無いことがあるのです。ただ思念があるのみで、それに光輝が伴っているのです」


───翼がついている天使の絵をよく見かけるのですが、あの翼の概念はどこから来たのでしょうか。

 「太古の人は宇宙を三段に分けて想像しました。自分たちが立っている大地(地球)が真ん中にあって、その上に天国が、その下に地獄があると考えました。そして、その天国からも、地獄からも訪問者がやってくると信じ、そうなると天空を降りてくる天使には翼があるはずだと想像しました。

鳥と同じ翼がなければ遠い距離を飛んで来られるはずはないと考えたわけです。こうして翼のある天使の概念が生まれました」

℘60
───実際に翼のある天使はいるのでしょうか。

 「います。ですが、それはただの想念体に過ぎません。霊の世界に翼は必要ありません。私たちが霊媒にある概念を伝える場合にも想念による絵画(ピクチャー)を使用することがあるのですが、地上の幼い子供たちが天使には翼があるものと思い込んでいる場合には、それに合わせて、翼のある天使をイメージして届けることがあります。それが守護の天使として定着したのです」


 話題が変わって、他界した身内のものや友人・知人は、姿こそ見えなくても、地上にいた時よりいっそう身近な存在となっていることを説いて、こう述べた。

 「その方たちは今なお実在の人物であり、地上にいた時と同じように、あなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはなりません。彼らにはもはや言葉で話かけることはできませんし、あなた方もその声を聞くことはできませんが、あなた方のすぐ身の回りにいて、何かと面倒を見てくれております。

 そう言えばそんな感じがすると思われるでしょうが、実際はもっととっと密接な関係にあります。彼らはあなた方の心の秘密、口に出さないでいる欲求、願望、希望、そして心配なさっていることまで、全部読みとっております。そして地上的体験から、あなた方の魂の成長にとって必要なものを、摂取するように導いてくれております。

決して薄ぼんやりとした、影のような、あるいはもやのような存在ではありません。今なお皆さんのことを愛し、以前よりさらに身近な存在となっている。実態のある男性であり。女性なのです」


───霊界でも心霊治療を受ける人がいるそうですが、どういう人たちでしょうか。

 「さまざまな原因から、霊的身体に欠陥が生じている場合です。たとえば無残な事故で急死した場合は、新しい霊的生活に順応するための調整が必要です。

それを霊的エネルギーの注入によって行います。また地上時代ずっと、脳の欠陥のために精神に正しく情報が届かず、結果的に霊性が発揮されずに終わった人の場合などです」

℘62  
───戦争で爆弾の直撃を受けて、こっぱみじんになって死んだ場合はどうなりますか。

 「これも、こちらの世界へ次々とやってくる他界者のための受け入れ施設が受け持っている仕事の一環にすぎません。

地上でも、道ばたに倒れている人がいれば病院へ運ぶという仕事が、戦争になると負傷兵を看護する施設へと発展するように、こちらでも、通常の受け入れ体制の他に、さまざまな原因からいきなり放りこまれた霊界の生活に順応させる施設がたくさん用意されております」


 別の日の交霊会で、前に一度シルバーバーチを通じて出席者の一人に、地上時代に掛けた迷惑についての詫びを述べたことのある霊が、その日にまた同じことについての詫びを改めて届けてきた。その詫びの言葉を述べたあと、シルバーバーチがこう語った。

 「あなたが、もういいのにと、思われる気持は私にはよく理解できます。でも、彼には詫びの気持ちを述べずにはいられない事情があるのです。懺悔をするということは、あなたに対してというよりは、彼自身にとって意味があるのです。

 他界した者が地上時代の行為について懺悔の気持ちを何らかの形で届けたいと思うようになるということは、本当に自我に目覚めつつあることの証拠です。あなた方にとってはもう過ぎたことであり、忘れていらっしゃるかも知れません。が、

その行為、ないしは事実は、霊的自我に刻み込まれていて、霊性が成長し、それについての正しい評価が下されるまでは、絶対に消える事はありません」


 さらに別の日の交霊会でも、他界したあとに抱く地上への思いを、こう述べた。

 「皆さんは、いったん霊の世界へ来てから地上界へ戻り、何とかして働きかけたいと思いながら、それが叶えられずにいる人たちの気持ちがどんなものか、考えてみたことがおありですか。

地上界を去ってこちらへ来てみて視野が変わり、人生を初めて正しい視野で捉えるようになって、そのよろこびを何とかして地上の愛する人たちに教えてあげたいと、一生けんめいになっている霊が大勢いることをご存じでしたか。
℘64
 ところが人間は、そういう人たちの働きかけにまったく鈍感なのです。見ることはおろか、聞くこともできません。愚かにも五感だけが実在のすべてであると思い込み、その粗末で気のきかない五つの感覚が捉えている世界以外には何も存在しないと考えています。

 私たちがこちらでよく見かける光景は、死後も立派に生き続けていることを知らせてあげようと、手を思いきり差しのべてあれこれと尽くすのに、そのうち、どうしても気づいてもらえないことを知ってがっかりとした表情を浮かべている人たちです。

呼びかけても聞いてもらえず、目の前に立ちはだかっても見て貰えず、思念を送っても感じてもらえません。

 悲しみに暮れている人たちばかりを相手にした話ではありません。楽しく暮らしている明るい家庭においてもそうです。そこで私たちは、重苦しい気持ちを引きずれながらその人たちに近づいて、人間側が交霊会にでも出席してくれるようになるまでは、どう努力しても無駄ですよ、と告げるしかないのです」


 シルバーバーチはさらに次のような、他界後の霊界の実情を打ち明けた。

 「これまでに私は、何人もの〝国教会の大黒柱〟と呼ばれていた人を連れて、かつて彼らが勤めていた礼拝堂、大聖堂、教会等へ行ったことがあります。

そこで彼らが目にするのは、当然、かつて自分も説いたことのある教説の繰り返しですが、今ではそれが間違っていることがよく分かるものですから、彼らの心は次第に重苦しく沈み込んでいきます。間違いと迷信で出来上った組織を助長したのは、ほかならぬ自分たちであることを自覚するからです」


───針のむしろに座らされる思いでしょうね?

 「それが彼等にとっての煉獄(れんごく)なのです。辛いでしょうが、それが摂理なのです。自分が犯した過ちは自分で改めないといけません。

自分が送った間違った人生の代償を払わないといけないのです。永遠なる公正のもとにおいて、ありとあらゆる勘定が清算させられます。この摂理から逃れる人は一人もいません」



───その司祭たちはどういう方法で償うのでしょうか。
℘66
 「間違った教えを説いた信者の一人一人に会って、その間違いを修正してあげないといけません」


───説教をした信者の一人一人に面接しないといけないのでしょうか。

 「そうです」


───でも、それまでに信者自身が修正していることもあるでしょう?

 「そういう場合は、それだけ負担が軽くなります」


───正しいと確信して説いていた場合はどうなるのでしょうか。少しは違うのでしょうか。

 「その場合は事情が違ってきます。何事も〝動機〟が大切だからです」

℘67
───その場合でもやはり一人一人に会わないといけませんか。

 「本心からそう信じていた場合は、その必要はありません。ですが、実際は、命をかけてそう信じている人は少ないようです。高慢と、地位、財産の方が真理よりも大切な人が多いようです。いったん教会という組織の中に組み込まれて、その中に浸りきってしまうと、それが鎖のように魂を縛りつけてしまいます。

心の奥では納得できずにいながら、お座なりの説教を繰り返すことによって理性を麻痺させようという卑劣な態度をとるようになります。

 私たちは、そうとは知らずに間違ったことを説いている真面目な牧師を咎めようとは思いません。咎めたいのは、心の奥では真理なんかどうでもいい───教会という組織を存続させることが第一だ、と考えている指導者たち、あるいは、間違っていると知りつつも、ではそれを捨てたら、これから先自分たちはどうなるのだ、という単純な不安から、伝統的教義を守ろうとしている牧師たちです。


 間違っていることに気づかずに、一生けんめい説いている者を咎めるつもりはありません。自分たちの説いている教えや行っている儀式が何の根拠もないことを知りつつも、奇弁を弄してつくろい〝これを捨てたら、ほかに何があると言うのか───教えることが何もなくなるではないか〟という幼稚な自己弁護をしている連中のことを咎めているのです。
℘68
 とは言うものの、たとえ知らなかったとはいえ、やはり間違っていたことは正さないといけません。ただし、その場合は煉獄の苦しみではなく、むしろ喜びすら覚えるものです。魂が進んでそれを求めてすることですから、それは一種のサービスの喜びとなります」


 これを聞いてかつてメソジスト派の牧師だったメンバーが訊ねた。

───では、私もこれまでの説教してきた信者のすべてに会って正さないといけないことになるのでしょうか。

 「そういうことです。会った時にまだ間違った教えを信じている場合、言いかえると、あなたの教えを信じたために光明を見出すのが遅れている場合は、光明への正しい道を教えてあげないといけません」

℘69
───それは大変です。大変な数の人に教えを説いてきましたから・・・・・・

 「あなただけではありません。すべての牧師が直面させられる摂理なのです。でも、あなたの場合そう苦になさることはないでしょう」


 ここで別のメンバーが 「たぶん、この方の場合は、牧師を止められてから救ってあげた人たちが協力してくれるはずです」 というとシルバーバーチが───

 「その通りです。永遠に不変の公正は決してごまかされません。叶えられることなら皆さんにも、私が見ている通りの摂理の働き具合をご覧にいれて、公正の天秤がいかに見事にバランスがとれているかを知っていただきたいのですが・・・・・・大霊のなさることに寸分の狂いもないことを得心なさるはずです。

 教えを説く者には深刻な責任があることは、ここのおいでの皆さんがご存じないはずはありません。知識には責任が伴うことを何度申し上げたことでしょう。

自分を他の人たちより高め、人を教え導きたいと思うのであれば、まずは自分自身が拠って立つ足場をしっかりと固めないといけません。

 徹底的に探究し試してみることを怠り、批判に身をさらすこともせずに自己満足し、本当かどうかの確信もないまま人に教えを説くようなことをしていると、その怠慢と軽率さに大きな代償を払わされる時が必ず来ます」

℘70
 別の日の交霊会で、地上時代に受けた間違った教えのために魂の進化が阻害されている例が話題になった。メンバーの一人が、最後の審判日を待ちながら死体の埋葬されている墓地で暮らしている霊がいるという話を聞いたが、そんなことが本当にあるのかと尋ねると───

 「事実その通りなのです。それが私たちにとって厄介な問題の一つなのです。教会で聞かされた通りのことが本当に起きるものと信じ切っているものですから、自分からその考えに疑問を感じるようにならないかぎり、側からはどうしようもないのです。  

 死ねばガブリエルのラッパが聞こえるまで墓地で待つものという想念体を、全生涯をかけて作り上げて来ているわけですから、その想念体が崩れないかぎりは、いつまでのその牢獄から抜け出られないのです。

 死んだことが信じられない霊の場合も同じです。信じることを拒んでいるかぎり、私たちも為すすべがありません。もう死んで霊の世界に来ているという事実を信じさせることがどんなに難しいか、みなさんには理解できないでしょう。

 ずいぶん前の話ですが、クリスタデルフィアン(一九五〇年代に米国で生まれたキリスト教の一派)だという霊と長々と話し合ったことがあります。

私は何とかしてその人がすでに死んでいる事実を納得させようとしたのですが、〝こうして生きているのに、なぜ私が死んでいるのですか〟と言い返して、どうしても信じてくれませんでした。復活の日まで待ちますと言って、その場から離れようとしませんでした」


───時間をどうやって過ごすのでしょうか。

 「ただ待つだけです───〝待つ〟という想念の中にいるだけです。自分でこしらえた想念体の牢獄の中に閉じ込められているのです。そのことに気づけば、想念体が崩れて眼が覚めるのですが、こうした事実を地上の人に説明するのはとても困難です。

 こちらの世界には〝時間〟というものがないのです。地球の自転によって昼と夜とが生じるようなことがないからです。昼と夜とで一日、といった計算をすることがない世界において、どうやって昨日と今日とを区別するのでしょう?」


───時間の単位はなくても、時間の経過はあるのでしょう?

 「それもありません。まわりで生じる変化との関連において成長と進化を意識することはありますが、時間の経過はありません。霊的な成長と、それに伴う環境の変化があるのみです。時間というのは、そうした変化との関連における尺度にすぎません。

 無意識でいる間は時間は存在しません。環境との関係が変わったからです。夢の中では環境との関係が変わっていますから、肉体につながれている時よりも物事が早く推移するわけです」

シアトルの冬  霊媒とは何か

what is a medium?


 Silver Birch Companion  
Edited by Tony Ortzen

 

 バイブルには霊的能力に関する言葉がいろいろと出ている。特にコリント前書のパウロの言葉は有名である。十二章の冒頭から抜粋すると───

 ≪霊的能力についてよく知ってほしい。
 能力はいろいろあっても、すべては同じ霊力の顕現したものである。
 それは森羅万象が一つの神の御業であると同じである。
 一人ひとりが他の人を益するために、霊力を賜っている。
 ある者は叡智を賜り、ある者は知識を賜っている。
 ある者には信仰の力が与えられ、ある者には病気治療の力が与えられている。
 ある者には奇跡を起こす力が、ある者には予知能力が、そして又、ある者には霊を見分ける眼力が与えられている。
 言語能力に優れている者もいるし、翻訳する能力に長けている者もいる。
 が、いずれも霊力の働きなのである≫

℘74
 ある日の交霊会で霊媒が果たしている役割が話題となった。そのきっかけは、シルバーバーチが霊媒のバーバネルがトランス状態から昏睡状態へ移りそうなので、コントロールがしにくくなったと述べたことにある。

そして「そうなると私にとってはまずいのです」と言ったので、サークルのメンバーの一人が「なぜですか」と尋ねた。すると───

 「私はこの霊媒の身体を調節している機能の全体をコントロールしなければならないのです」


───霊媒が眠ってしまうとコントロールできないのですか。

 「できません。身体を操るには潜在意識を使用しなければならないのですが、眠ってしまうと潜在意識が活動を停止します」


───でも、どっちにせよ、霊媒はその身体から出るのではないでしょうか。

 「いえ、霊媒自身が身体の中にいるか外にいるかの問題ではありません。潜在意識とその機能の問題であり、それは、中でもなく外でもありません」


───私は、霊媒はわきへ押しやられていると思っていました・・・・・・

 「それはそうなのですが、一時的に身体から離れているというだけのことです。それは霊媒みずから進んで身を任せている状態で、潜在意識まで引っ込めてしまうものではありません。そうなると睡眠状態になってしまいます。

 霊媒現象はすべて霊界と地上界との意識的な協力関係で行われます。無意識のうちに潜在能力が一時的に使用されるケースがないわけではありませんが、支配霊と霊媒という関係で本格的な霊的交信の仕事をするとなると、

その関係は意識的なものでなければなりません。つまり霊媒現象に関係するあらゆる機構に、霊媒が進んで参加することが必要となります」


───睡眠中の霊媒が使用されて通信が届けられたケースがあったように思いますが・・・・・・


℘76
 「そういうことがあったかも知れませんが、それは通常のプロセスが逆転した状態です」

───その場合、睡眠中のそういう形で使用されることを、霊媒自身も同意していたということが考えられますか。

 「それは考えられます。ただ、ご承知のように、私たちは霊媒の望みはよほどつまらないものでないかぎりは敬意を払い、しかるべき処置をとります。しかし、言うまでもなくこの身体は私たちの所有物ではありません。モーリス・バーバネルのものです。

こうして私たちが少しの間お借りすることを許してくれれば結構なことであり、有難いことですが、その許可もなしに勝手に使用することは道義に反します。

その身体を通して働くさまざまな霊的エネルギーに対して霊媒と私たちの双方が敬意を払った上で、気持ちよく明け渡すというのが正しい在り方です」

℘77
───その潜在意識がどのように使用されるかについて聞かれて───

 「そのことに関して、ずいぶん誤解があるようです。精神にはさまざまな機能があります。人間というのは、自我意識を表現している存在といってよろしい。意識がすべてです。

意識そのものが〝個〟としての存在であり〝個〟としての存在とは意識のことです。意識のあるところには必ず〝個としての霊〟が存在し、〝個としての霊〟が存在するところには必ず意識が存在します。

 しかし、この物質界においては、自我のすべてを意識することはできません。なぜなら───あなた方に分かり易い言い方をすれば───自我を表現しようとしている肉体(脳)よりも、本来の自我の方がはるかに大きいからです。小は大を兼ねることができません。弱小なるものは強大なるものを収容することができないのが道理です(※)。

 ※───物質という形あるものに包まれた生活に慣れ切っている人間には、意識とか自我といった、形のないものを想像することはできない。したがって〝大きい〟とか〝小さい〟とかの形容で説明ずるのは適当ではないのであるが、地上の人間にはそれ以外に説明のしようがない。

それは、太陽は昇ったり沈んだりしているわけではないのに、やはり〝東から昇り西に沈む〟という表現しかできないのと同じであろう。それでシルバーバーチは〝あなた方に分り易い言い方をすれば〟と断ったわけで、実際は、自我とか意識は、脳を通じての思考では絶対に理解できない存在である───訳者。

 ℘78   
 人間は地上生活を通じて、その大きな自我のホンの一部しか表現していません。大きい自我は、死んでこちらへ来てから自覚するようになります。

といって死後ただちに全部を意識するようになるのではありません。やはりこちらでの生活で、それなりの身体を通して、霊的進化とともに少しずつ意識を広げていくことになります。

 意識的生活のディレクターであり、個的生活の管理人である精神は、肉体的機能のすべてを意識的に操作しているわけではありません。

日常生活において必要な機能の多くは、自動的であり機械的です。筋肉・紳径・細胞・繊維等がいったん意識的指令を受け、更に連係的に働くことを覚えたら、その後の繰り返し作業は潜在意識に委託されます。

 たとえば物を食べる時、皆さんは無意識のうちに口を開けています。それは、アゴが動く前に、それに関連した神経やエネルギーの相互作用があったことを意味します。

すなわち、精神の媒体である脳から神経的刺激が送られ、それから口を開け、物を入れ、そして噛むという一連の操作が行われています。すべてが自動的に行われます。一口ごとに意識的にやっているわけではありません。無意識のうちにやっております。

潜在意識がやってくれているのです。赤ん坊の時は、その一つ一つを意識的にやりながら記憶して行かねばなりませんでした。しかし、今は、いちいち考えずに、純粋に機械的にやっております。

 このように、皆さんの身体機能、そして、かなりの程度まで精神的機能も、大部分が潜在意識に委託されている事がお分かりになるでしょう。潜在意識というのは言わば顕在意識の地下領域に相当します。たとえば皆さんが本を読んでいる途中で、これはどういうことだろうと自問すると、即座に答えがひらめくことがあります。

それは潜在意識がふだんから顕在意識の思考パターンを知っているので、それに沿って答えを出すからです。誰かの話を聞いている時でも同じです。〝あなたはどう思われますか〟と不意に聞かれても、即座に潜在意識が返事を用意してくれます。

 ところが、日常的体験の枠から外れた問題に直面すると、潜在意識が体験したことも解決したこともないことですので、そこに新たな意識的操作が必要となります。新しい回線が必要となるわけです。

 しかし、そうした例外ともいうべきオリジナルな思考───という言い方が適当かどうかは別として───を必要とする場合を除いて、人間の日常生活の大部分は、潜在意識によって営まれております。

潜在意識は倉庫の管理人のようなものです。あらゆる記憶を管理し、生きるための操作の大半をコントロールしています。その意味で人間の最も大切な部分ということができます。

 その原理から霊媒現象を考えれば、これは、それまで身体機能を通して表現してきた自分とは別の知的存在が代って操作する現象ですから、顕在意識の命令に従って機能することに慣れている潜在意識を操作する方がラクであるにきまっています。

命令を受けることに慣れているわけです。仕事を割り当てられ、それを、よほどのことがない限り中断することなく実行することに慣れております。

 霊媒現象のほとんど全部に霊媒の潜在意識が使用されております。その中に霊媒の人物の本当の姿があるからです。倉庫ともいうべき潜在意識の中に、その人物のあらゆる側面がしまい込まれているのです。

こうした現象において支配霊が絶対に避けなければならないことは、支配霊の仕方が一方的すぎて、霊媒がふだんの生活で行っている顕在意識と潜在意識の自動的連係操作が、いつものパターンどおりにいかなくなってしまうことです。その連係パターンこそが、この種の現象のいちばん大切な基盤となっているからです」

℘81
───霊媒自身が潜在意識をおとなしくさせる必要があるということでしょうか。

 「そうではありません。支配霊の個性と霊媒の個性とが完全に調和し、その調和状態の中で支配霊自身の思念を働かさなければなりません。他方、支配霊は、ちょうどタイプライターのキーを押すと文字が打たれるような具合に、

霊媒の潜在意識の連係パターンをマスターして、他の知的存在の指令にもすぐさま反応するように仕向けなければなりません。それが支配霊として要求される訓練です。先ほど述べたことを絶対に避けるための訓練といってもよろしい。

 これで皆さんも得心していただけることと思いますが、霊媒現象は霊媒という生きた人間を扱う仕事であり、霊媒には霊媒として考えがあり、偏見があり、好き嫌いがありますから、今も述べたように〝支配する〟といっても、ある程度はそうした特徴によって影響されることは免れません。

 霊媒を完全に抹殺することはできません。どの程度までそうした影響が除去できるかは、支配霊がどの程度まで霊媒との融合に成功するかに掛っています。もし仮に百%融合できたとしたら、霊媒の潜在意識による影響はゼロということになるでしょう。

 霊媒を抹殺するのではありません。それはできません。融合するのです。霊媒現象の発達とは、それを言うのです。円座(サークル)の形をとっていただくのはそのためです。

列席者から出るエネルギーが、その融合を促進する上で利用されるのです。調和が何より大切ですと申し上げるのはそのためです。

 出席者の中に不協和音があると、それが霊媒と支配霊との融和を妨げるのです。交霊会の進行中は、絶え間なく精神的エネルギーが作用しています。お見せすることはできませんが、出席者の想念、思念、意思、欲求、願望のすべてが、通信に何らかの影響を及ぼしています。

支配霊が熟練しているほど、経験が豊富であるほど、それだけ霊媒との調和の程度が高く、それだけ潜在意識による着色が少なくなります」


───そうすると、霊媒はなるべく支配霊と似通った願望や性格の持ち主がよいということになりませんか。
℘83
 「一概にそうとも言い切れません。これは異論の多い問題の一つでして私たちの世界でも意見の相違があります。忘れないでいただきたいのは、私たちスピリットも人間的存在であり、地上との霊的交信の方法について、必ずしもすべての点で意見が一致しているわけではないということです。

 たとえば、無学文盲の霊媒の方が潜在意識による邪魔が少ないから、成功率が高いと主張する者がいます。それに対して、いや、その無知であること自体が障害となる───それが一種の壁をこしらえるので、それを突き崩さねばならなくなるのだ、と反論する者がいます。

安もの楽器よりも名匠の作になる楽器の方が良い音楽を生むのと同じで、霊媒も教養が高いほどよい───良い道具ほど良い通信を受けやすいのだと主張するわけです。私はこの意見の方が正しいと思います」


───なぜ、教養の有る無しが問題とされるのでしょうか。人格の問題もあるのではないでしょうか。

 「私は今、トランス状態での通信の話をしているのです。人間性の問題は又別の要素の絡んだ問題です。今は、霊言が送られる過程を述べているのです。通信のメカニズムといってもよいでしょう。
℘84 
 分かりやすい譬えで言いますと、バイオリ二ストにとっては名器のストラディバリウスの方が、安ものよりも弾きやすいでしょう。楽器の質の良さが、良い演奏を生むからです。安ものでは、折角の腕が発揮できません。

 霊媒の人間性の問題ですが、これは霊言の場合ですとその通信内容に、物的現象の場合ですと現象そのものに、その影響が出ます。物理霊媒の場合、霊格が低いほど───程度の問題として述べているだけです───たとえばエクトプラズムの質が落ちます。物質的にでなく霊的観点から見てです。

 霊側と霊媒とをつなぐ霊力の質は、霊媒の人間性が決定づけるのです。たとえば地上ならさしずめ〝聖者〟とでもいえる高級霊が、人間性の低い霊媒を通して出ようとしても、その霊格の差のために出られません。接点が得られないからです」


───物理現象においても霊媒の潜在意識が影響を及ぼすように思えるのですが、その点についてご説明願えませんか。

 「交霊会のカギを握っているのは霊媒です。霊媒は電話機のようなものではありません。電信柱ではありません。モールス信号のキーではありません。生きた機械です。その生命体のもつ資質のすべてが通信に影響を及ぼします。

 だから良いのです。もしも霊界と地上との交信のための純粋の通信機が出来たら───そう言うものは作れませんが───それによって得られる通信は、美しさと荘厳さが失われるでしょう。

 いかなる交霊会においても、カギを握るのは霊媒です。霊媒なしでは交霊会はできません。霊媒の全資質が使用されるのです。たとえばメガホン一本が浮遊するのも、物質化像が出現するのも、その源は霊媒にあります。そして霊媒の持つ資質が何らかの形でその成果に現れます」


───霊が憑ってくると霊媒の脈拍が変化するにはなぜでしょうか。その脈拍は霊の脈拍なのでしょうか。

 「霊が霊媒を支配している時は、霊媒の潜在意識を使用しています。すると当然、霊媒の本質的な機能、つまり心臓、脈拍、体温、血液の循環などを支配することになります。トランス状態に入ると呼吸が変化するのはそのためです。
℘86
 一時的なことです。ですが、一時的にせよ、その間は支配霊は物質界と接触して、自分の個性を物質的身体を通して再現しているわけです。

たとえば私は今、元アメリカ・インディアンの霊的身体を使用しております(※)。そのインディアンが霊媒の潜在意識を支配していますから、その間の脈拍は、そのインディアンの身体の脈拍です。このような形で行う方が一から始めるよりも手間が省けます」

※───通信の始原であるシルバーバーチと名のる霊は、ほぼ三千年前に地上生活を送ったことがあるということ以外は、民族も国家も地位も明かしていないが、その三千年前の体験の知識と霊的進化によって、その霊格から出る波動は、すでに地上的波動と直接の接触ができなくなっている。そこで地上でインディアンだった霊の身体を変圧器として通信を送っている。インディアンは霊界の霊媒である───訳者


───では、バーバネルの今の脈拍は三十分前とは違うわけですか?

 「違います」

 別のメンバーが、ある霊媒に少年の霊が憑って来た時に、ガラッと様子が一変した話をして、そういう場合は誰かが操作するのか、それとも自動的にそうなるものかを訊ねると───

 「自然にそうなるのです」


───支配霊が操作をするわけではないのですね?

 「その必要はありません。霊媒の潜在意識はそうした事態にすぐに対応できるのです。子供が乗り移ると、自動的にその子供のバイブレーションをキャッチして、脈拍と心臓がそれに応じた打ち方をするのです」


─── いう対応ができるようになるのは支配霊の力量ですか、それとも霊媒自身の能力ですか。

 「両者の連帯関係の進歩です。私の場合、バーバネルの脈拍を正常、異常のどちらにも変えることができます」


 これを聞いてもう一人のメンバーが、ある実験会で支配霊が、霊媒の左右の腕の一方の脈拍を止め、他方を打たせ続けたことがある話をした。するとシルバーバーチが───

 「それは可能です。あなたもできるのです。ヨガの修行僧は全身の神経中枢を自在にコントロールすることができます。すべては精神統一(集中力)と鍛錬に掛っております」

Saturday, February 8, 2025

シアトルの冬  霊の書  公正・愛・寛容の法則

The Law of Fairness, Love and Tolerance


 

〈生得の権利と公正〉

――公正とはどう定義づけたらよろしいでしょうか。

「公正とは他人の権利の尊重を基本として成り立つものです」


――その権利を定めるのは何でしょうか。


「二つあります。人間の法律と自然の法則です。人間の法律はその時代の人間的性格と習性に合わせてこしらえられていますから、啓発が進むにつれて規定される権利も変わってきます。今日のフランスの法律は、まだ完全からは程遠いとは言え、中世において権利として認められたものは、もう認めていません。今日のあなた方には途方もないものに思えるでしょうけど、当時としてはごく当たり前だったのです。

そういう次第ですから、人間がこしらえた法律は必ずしも絶対的公正とは一致しません。その上、人間の法律が規定するのは社会生活に関連した側面に限られております。しかし各個人の生活においては、時々刻々の言動や思念について、良心の法則による裁きを受けております」


――では人間的法律はさておいて、自然の摂理に適った公正の基本は何でしょうか。


「イエスが言っております――自分が他人からしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい、と。神は、公正の真実の尺度として、自分の権利を尊重してもらいたいという願望を各自に植えつけておられます。対人関係において難しい事態に立ち至り、如何なる行為に出るべきかに迷った時は、自分を相手の立場に置いて、自分だったらどうしてもらいたいと思うだろうかと考えてみることです。その判断に基づいて行動した時は良心が咎めることはありません」


――生得の権利で第一に挙げられるのは何でしょうか。


「生きる権利です。従って他人の生命を奪う権利、あるいは個人的存在を危うくする権利は、誰にもありません」
〈隣人への寛容と愛〉


――イエスが説いた“慈愛”の本当の意味は何でしょうか。


「全ての人間への善意、他人の欠点への寛容、自分への中傷の容赦です」


――イエスは“汝の敵を愛せよ”とも言っておりますが、それは人間の自然な心情にはそぐわないように思います。


「自分に敵対する者に優しくし愛の心を向けることは、確かに人間には不可能でしょう。イエスも決して文字通りのことを要求しているわけではありません。敵を愛するということは、敵を赦し、悪想念に対して善意で返すということです。それができた時、あなたは本当の意味で敵に勝ったのであり、悪意でやり返した時は敵に負けたことになります」


――施しをすることはいけないことでしょうか。


「そんなことはありません。いけないのは施しそのものではなく、施しの仕方です。イエスの説いた慈愛の心を理解した者は、物乞いをするという下卑(げび)た態度に出させないようにして困っている人々に施しをするべきです。

真の慈善の行為は、ただ施しをするというだけでなく、その態度に優しさが無くてはいけません。同じく人のためになることでも、その行為に思いやりの心がこもっていると二重の功徳になります。反対に恵んでやるといった高慢な態度で施しをしたのでは、飢えている人は形振(なりふ)り構わず頂くでしょうが、感謝の念は抱かないでしょう。

もう一つ忘れてならないのは、見栄からの施しは神の目から見ると功徳にはならないということです。イエスは“右の手が行ったことを左の手に知らしめてはならない”と言っております。せっかくの慈善行為を高慢と見栄で汚してはいけないという意味です。

施しと善意との違いを知ってください。本当に困っているのは必ずしも道端で物乞いをしている人ではありません。飢えに苦しみながらも、恥を知る人間は物乞いをしません。本当に善意のある人とは、そうした人知れず飢えに耐えている人に施しをし、そしてそのことを口外しない人のことです」


999

シアトルの冬 自由の法則

(Mendel's) law of liberty





〈自由と束縛〉


――人間が完全な自由を得るのはどういう条件下においてでしょうか。


「砂漠の中の世捨て人くらいのものでしょう。二人の人間が存在すれば、互いの権利と義務が生じ、完全に自由ではなくなります」


――と言うことは、他人の権利を尊重するということは、自分の権利を奪われることを意味するのでしょうか。


「それは違います。権利は生得のものです」


――奴隷制度が既成の慣習となっている国家において、使用人の家に生まれた者はそれを当たり前のことと思うに違いありませんが、その場合でも罪でしょうか。


「いけないことはいけないこと、いくら詭弁を弄しても悪い慣習が良い慣習になるわけではありません。が、責任の重さとなると、当人がその善悪についてどの程度まで理解していたかによって違ってきます。

奴隷制度で甘い汁を吸っている者は神の摂理に違反していることは明白です。が、その場合の罪の重さは、他の全ての場合と同じく、相対的なものです。長年にわたって奴隷制度が根付いている国においては使用人は少しも悪いこととは思わず、むしろ当たり前のことと思っているでしょう。しかし例えばイエスの教えなどに接して道義心が目覚め、理性が啓発されて、奴隷も神の前には自分と同等なのだと悟ったあとは、どう弁解しても罪は罪です」


――使用人の中には心の優しい人もいて、扱い方が人道的で、何一つ不自由をさせないように心を配っていながら、解放してやると却って生活が苦しくなるという理由から奴隷を雇い続けている人がいますが、これはどう理解すべきでしょうか。


「奴隷を残酷に扱っている使用人に較べれば自分のしていることについての理解が立派であると言えるでしょう。が、私に言わせれば、それは牛や馬を飼育しているのと同じで、マーケットで高く売るために大切にしているだけです。残酷に扱っている人と同列には問えませんが、人間を商品として扱い、生来の独立した人格としての権利を奪っている点において罪に問われます」
〈良心の自由〉


――他人の良心の自由に柵を設ける権利はあるでしょうか。


「思想の自由に柵を設ける権利がないのと同じく、そういう権利は許されません。良心を判断する権利は神のみが所有しておられます。人間が法律によって人間と人間との関係を規制していますが、神は自然の摂理によって人間と神との関係を規律づけています」


――ある宗教で説かれている教義が有害であることが明らかな時、良心の自由を尊重する立場からこれをそのまま許すべきでしょうか、それとも、良心の自由を侵さない範囲で、その誤った教義によって道に迷っている人を正しい道に導いてもよろしいでしょうか。


「もちろんよろしいし、また、そう努力すべきです。ただし、その時の態度はイエスの範にならって、優しさと説得力をもって臨むべきで、強引な態度は慎まないといけません。強引な態度は、その相手の間違った信仰よりも有害です。確信は威嚇によって押しつけられるものではありません」
〈自由意志〉


――人間には行為の自由がありますか。


「思想の自由がある以上、行為の自由もあります。自由意志がなかったら人間はロボットと同じです」


――その自由意志は誕生の時から所有しているのでしょうか。


「自らの意志で行為に出るような段階から自由意志を所有したことになります。誕生後しばらくは自由意志は無いに等しく、機能の発達と共に発達しはじめ、目的意識を持つようになります。幼児期における目的意識は必ずその時期の必要性と調和していますから、好きにやっていることがその時期に適合したものになっています」


――未開の段階では人間は本能と自由意志のどちらが支配的なのでしょうか。


「本能です。と言っても、完全な自由意志による行動を妨げない面もいくつかあります。幼児と同じで、自分の必要性を満たすために自由意志を行使していて、その自由意志は知性の発達を通してのみ発達します。と言うことは、あなた方のように知性の発達した人類は、自由意志の行使による過ちに対しては未開人よりも責任が重いということになります」


――社会的地位が自由行動の妨げになることはありませんか。


「社会に属している以上、当然、それなりの制約はあるでしょう。神は公正であり、そうした条件も全て考慮に入れて裁かれますが、そうした制約に負けないだけの努力をしているか否かも神は見ておられます」


――人生での出来事にはいわゆる運命、つまりあらかじめ決められているものもあるのでしょうか。もしあるとすれば自由意志はどうなるのでしょうか。


「再生する際に自ら選択した試練以外には必然的な宿命(さだめ)というものはありません。試練を選択することによって、そのようになる環境へ誕生しますから、自然にそうなるのです。

もっとも私が言っているのは物的な出来事(事故など)のことです。精神的な試練や道徳的誘惑に関しては、霊は常に善悪の選択を迫られており、それに抵抗するか負けるかのどちらかです。その際、当人が躊躇しているのを見て背後霊がアドバイスをしてくれますが、当人の意志の強さの程度を超えて影響を及ぼすことはできません。

一方、低級なイタズラ霊が大げさな取り越し苦労の念を吹き込んで悩ませたり怖がらせたりすることもします。が、最後の選択権は当人にあります」


――次から次へと訪れる悪運に翻弄されて、このまま行くと死も避けられないかに思える人がいます。こういうケースには宿命性があるように思えるのですが……


「真実の意味で宿命づけられているのは“死ぬ時期(とき)”だけです。いかなる死に方になるかは別として、死期が到来すれば避けることは不可能です」


――と言うことは、あらかじめ用心しても無駄ということになるのでしょうか。


「そんなことはありません。脅(おびや)かされる幾多の危険を避けさせるために背後霊が用心の念を吹き込むことがあります。死期が熟さないうちに死亡することのないようにとの神慮の一つです」


――自分の死を予知している人は普通の人よりも死を怖がらないのはなぜでしょうか。


「死を怖がるのは人間性であって霊性ではありません。自分の死を予知する人は、それを人間としてではなく霊として受け止めているということです。いよいよ肉体から解放される時が来たと悟り、静かにその時を待ちます」


――死が避けられないように、他にも避けられない出来事があるのではないでしょうか。


「人生のさまざまな出来事は大体において些細なもので、背後霊による警告で避けられます。なぜ避けさせるかと言えば、些細とは言え物的な出来事で面倒なことになるのは背後霊としても面白くないからです。唯一の、そして真実の意味においての避け難い宿命は、この物質界への出現(誕生)と物質界からの消滅(死)の時だけです」


――その間にも絶対に避けられないものがあると思いますが……。


「あります。再生に際してあらかじめ予測して選したものです。しかし、そうした出来事が全て神の予定表の中に“書き込まれている”かに思うのは間違いです。自分の自由意志で行った行為の結果として生じるものであり、もしそういうことをしなかったら起きなかったものです。

例えば指に火傷(やけど)を負ったとします。その場合、指に火傷を負う宿命(さだめ)になっていたわけではありません。単にその人の不注意が原因であり、あとは物理と化学と生理の法則の為せる業です。

神の摂理で必ずそうなると決まっているのは深刻な重大性をもち、当人の霊性に大きな影響を与えるものだけです。それが当人の霊性を浄化し、叡知を学ばせるとの計算があるのです」


――例えば殺人を犯した場合、再生する時から殺人者になることを知っているのでしょうか。


「そうではありません。自分が選択した人生において殺人を犯しかねない事態が予想されていたかも知れません。が、その時点では殺人を犯すか犯さないかは分かっておりません。殺人を犯した者でも、その直前までは理性を働かせる余裕があったはずです。もしも殺人を犯すことに決まっているとしたら、自由意志による判断力を働かせることができないことになります。罪悪も、他のあらゆる行為と同じく、自由意志による判断力と決断力の結果です。

あなた方はとかく二種類のまったく異なるものを混同しがちです。すなわち物的生活での出来事と精神的生活での行為です。もし宿命性というものがあるとすれば、それは物的生活において、原因が本人の手の届かない、そして本人の意志と無関係の出来事にかぎられています。それとは対照的に、精神生活における行為は必ず本人から出ており、従って本人の自由意志による選択の余地があります。その種の行為に宿命性は絶対にありません」


――では“幸運の星の下に生まれる”とか“星回りの悪い時に生まれる”という表現はどこから生まれたのでしょうか。


「星と人間とを結びつける古い迷信から生まれたもので、愚かな人間が比喩的表現を文字通りに受け取っただけです」

シアトルの冬 巻頭言と古代霊シルバーバーチと霊媒モーリス・バーバネル

 Preface and Ancient Spirit Silver Birch 

and Medium Maurice Barbanell

巻頭言   

 あなたがもし古い神話や伝来の信仰をもって、これで十分と思い、あるいは、すでに真理の頂上を極めたと自負されるならば、本書は用はありません。

 しかし、もし人生とは一つの冒険である事、魂は常に新しい視野、新しい道を求めてやまないものである事をご承知ならば、是非本書をお読み頂いて、世界の全ての宗教の背後に埋もれてしまった必須の真理を見出して頂きたい。

 そこには、全ての宗教の創始者によって説かれた教えと矛盾するものは何一つありません。地上生活と、死後にもなお続く魂の旅路に必須不可欠の霊的知識が語られています。もしもあなたに受け入れる用意があれば、それはきっとあなたの心に明かりを灯し、魂を豊かにしてくれることでしょう。                              シルバーバーチ

    
                    

  古代霊シルバーバーチと霊媒モーリス・バーバネル  訳者  近藤 千雄

  〇 霊言が始まるまで

一九二〇年から六〇年もの長きにわたってシルバーバーチと名のる〝霊〟の霊媒をつとめることになるモーリス・バーバネルは、その年までは霊的なものに関心もなければ、特別な霊的体験もない、ごく普通の人間だった。それどころか、むしろ宗教とか信仰とかいったものを嫌悪する傾向すらあった。

 というには、母親は敬虔なクリスチャンで教会通いも欠かすことがなかったが、父親はそういうことにはまったく無関心で、それを咎める母との間で口ゲンカが絶えなかったからである。

それが、自然、そういう性向を生んだのだろうと、自伝風の記事の中で述べている。従ってバーバネルは、生涯、バイブルと言うものを一度も繙いたことがなかったという。

 そのことが、実は、後に大きな意味をもつことになる。通常意識の時はかたことも出てこないバイブルのことばが、シルバーバーチが語り始めると、とうとうと出てくるのである。

それはつまり両者がまったく別人格であること───言いかえれば、シルバーバーチはバーバネルの潜在意識でないことの証拠となるわけである。絶対的証拠とは言えないまでも、有力な証拠であることは間違いないであろう。

 そのバーバネルが霊的なことに関わり合いを持つに至ったのは十八歳のときで、無報酬で司会役をしていた文人ばかりの社交クラブで当日の講演者がスピリチュアリズムの話題を持ち出したことがきっかけだった。講演のあとバーバネルはその講演者からロンドンの東部地区で催されているという〝交霊会〟なるものに誘われた。

 妻のシルビアと共に訪れてみると、霊媒はブロースタインという中年の女性で、トランス状態 (昏睡または無意識状態) に入ると、その人の口を使って代るがわる、いろんな国の死者の〝霊〟がしゃべる───そう説明された。が、当時のバーバネルにはそんなことがまるで信じられず、バカバカしく思えて仕方がなかったという。

 ところが、二度目に訪れた時、バーバネルはうっか〝居眠り〟をしてしまった───自分ではそう思った。そして、目覚めると慌てて非礼を詫びた。すると他の出席者たちから 「あなたは今居眠りをなさってのではありません。インディアンがあなたの口を使ってしゃべりました」 と聞かされた。

 もちろんバーバネルにはその記憶はない。が、その後、そういうことが頻繁に起きるようになった。そしてその口を使ってしゃべるインディアンも次第に英語が上手になり、やがて、シルバーバーチ (日本語に置きかえれば〝白樺〟) と名のるようになった。

それが一九二〇年のことで、それから十年余りはバーバネルのアパートの応接間で不定期に数人の知人、友人が聞くだけで、その霊言を速記するとこも録音することもしなかった。

 が、当時〝フリート街の法王〟と呼ばれて英国ジャーナリスト界のご意見番的存在だったハンネン・スワッファーという演劇評論家がその会に出席してから、変化が生じた。シルバーバーチの霊言のただならぬ質の高さに感銘したスワッファーは、会場を自宅に移して、

毎週金曜日の夜に定期的に催すことにし、その会の正式名を〝ハンネン・スワッファー・ホームサークル〟とした。そしてその時から霊言を記録することになった。(その後テープ録音も併用された。)

 それがまとめられて 『シルバーバーチの教え』 Teachings of Silver Birch のタイトルで刊行されたのが一九三八年のことで以来、今日(一九九三年)までに十六冊が刊行されている。

 何しろ一九八一年にバーバネルが他界するまでの六十年間、ほぼ週一回 (一回が約一時間半) の割で語り続けたのであるから、記録を残さなかった最初の十年分を差し引いても、速記と録音による霊言の量は、厖大なものであろうと察せられる。

それを文章に起こしてまとめるのは大変な作業であるが、英米はもとより、ヨーロッパやアフリカに至るまでのシルバーバーチフアンの要望は絶えることなく、これからの刊行しされ続けることであろう。


  〇 シルバーバーチのアイデンティティ

 では、シルバーバーチの霊言の魅力と特色はどこにあるのか───これは、シルバーバーチの〝正体〟はいったい何なのかを説明することによって、おのずと明らかになるであろう。

 本人の語るところによれば、今からほぼ三千年前、すなわちイエスの時代より更に一千年前も前に、地上生活を送ったことがあるという。それがどこの民族の、どの国家の、どういう地位の人物としてであったかは、六十年間、ついに明かされることなく、終わっている。

サークルのレギラーメンバーをはじめ、招待客によって、何回も、何十回も、もしかしたら何百回も問い質されたはずなのであるが、シルバーバーチはそのつど

 「それを明かす事が、一体、私の教えにどれだけプラスになるというのでしょうか。大切なのは、語っている私が何者であるかではなくて、私が語っている教えが何であるかです」

 といった主旨のことを繰り返すだけで、人間がとかく地位や肩書(ラベル)や名声にこだわることの間違いを指摘するのが常だった。

 彼はインディアンでなかったとおっしゃる方がいるであろうが、実は巻頭に掲げたマルセルポンサンによる肖像画に描かれているインディアンは通信衛星のようなもので、いうなれば〝霊界の霊媒〟なのである。地上の霊媒であるバーバネルは各家庭の受信アンテナのようなものと思えばよい。

 当初はそのシルバーバーチもインディアンであることに徹し、祈りの最後も必ず 「神の僕インディアンの祈りを捧げます」 という言葉で締めくくっていたが、サークルのメンバーの理解が深まった段階で 「実は・・・・・・」 と言って、本当は自分はインディアンではなく、地球を取り巻く霊界の中でも指導的地位にある霊団に所属していることを打ち明けた。

 その界層にまで進化していくと、波動の原理から、地上界と直接のコンタクトが取れなくなり、それで中継役を必要とすることになる。その役がインディアンなのだという。もしそれが事実だとすると、シルバーバーチと名のるその霊はよほどの高級霊であると推察してよいであろう。

そして、ほぼ三千年前の地上時代の地位も名声も、余ほど高いものであったはずである。なぜなら、もしも無名で平凡な地位の人間だったならば、その名前と地位を明かしてもよかったはずだからである。

 それを明かさなかったということは、人間の好奇心におもねることによって、純粋な霊的真理に世俗的な雑念がこびりつくことを案じたからではなかろうか。


〇 霊言の種類

 ところで、霊言現象は霊が人間の発声器官を使って語る現象であるが、これには、大別して二つの種類がある。一つは電話式とでもいうべきもので、高級霊でも低級霊でも、善霊でも悪霊でも、乗り移ってしゃべることができるタイプで、したがって霊媒と異なる国籍の霊が乗り移れば、通常意識での霊媒には全くしゃべれない言語を流暢にしゃべることになる。

 もう一つは〝専属〟タイプで、支配霊(コントロール)と呼ばれる特定の霊しかしゃべらない───しゃべらせないのである。言ってみれば、名匠と言われる人が楽器や道具を絶対に他人に使わせないのと同じで、自分だけのものとして、そのクセと特徴を知り尽くしている。

シルバーバーチとバーバネルの関係はこのタイプに属し、バーバネルがシルバーバーチ以外の霊団に支配されることもなかったし、シルバーバーチがバーバネル以外の霊媒を通してしゃべったこともなかった。

(例外として一度だけあった。シルバーバーチがバーバネルのコントロールとして交霊会を始めたのとほぼ同じ頃から、レッド・クラウドと名のるインディアンがエステルロバーツという女性霊媒のコントロールとして毎週のように交霊会に出現していた。

バーバネル夫妻はその常連として欠かさず出席していたが、ある日、そのロバーツ女史の口を借りてシルバーバーチがバーバネル夫妻に語りかけた。バーバネルは、自分はいつもこんな調子で語っているのかと思って、いわく言い難い気分になったという。 シルビアバーバネル著 「ペットは死後も生きている」 ハート出版)参照

 シルバーバーチ自身が打ち明けたところによると、〝地球を霊的に浄化する〟ための計画の一環として、地球へ戻って霊的真理を語って欲しいという要請を受けた時は、バーバネルはまだ地上に誕生してもいなかったという。

そこで、〝霊界の記録簿〟の中にある、これから誕生する人物の中から最も適切と思える人物を物色して、それが地上に誕生するチャンスを窺い、いよいよ母体に宿った瞬間から、霊言霊媒として育てるための準備に取りかかったという。と同時に、英語の勉強も始めたという。

 こうしたことは多分、霊界の霊媒であるインディアンの役目だったはずでシルバーバーチ本人はそのインディアンとの打ち合わせの方に重点を置いて準備をしていたことであろう。

そして一九二〇年のある日、ブロースタインの交霊会に出席中にバーバネルをトランス状態に誘って語ったのが、地上との最初のコンタクトとなるのであるが、この時点でもまだインディアンとバーバネルとの関係が主体であって、シルバーバーチ本人はその様子を観察していた程度ではなかったろうかと察せられる。

 一九二〇年と言えば第一次大戦が終結して間もない頃で、一応戦火は消えていた。が、ハンネン・スワッファー・ホームサークルが発足した頃は再び世界情勢は険悪となり始めた時期で、それから間もなく第二次大戦の口火が切られている。

そして一九四五年日本の降伏をもって終戦を迎えるのであるが、そうした険悪な情勢の中にあっても、バーバネルは交霊会を中止しなかった。 とは言え、霊団側の苦心は並大抵のものではなかったようである。その時の苦労をシルバーバーチはこう語っている。

 「私たちは物的存在ではありません。物的世界との接触を求めているところの霊的存在です。霊の世界と物の世界との間に大きな懸隔(ギャップ)があり、それを何らかの媒介によって橋渡しする必要があります。

私が厄介な問題に遭遇するのはいつもその橋渡しの作業においてです。それを容易にするのも難しくするのも、人間側の精神的状態です。

 雰囲気が悪いと、私と霊媒とのつながりが弱くなり、私と霊界との連絡も困難となります。わずか二、三本の連絡網によってどうにか交信を保つということもあります。そのうち霊媒が反応を見せなくなります。そうなると私は手の施しようがなくなり、すべてを断念して引き上げざるを得なくなります。

 私は当初から、こうした問題が生じるとこは覚悟しておりました。一時は、果たして、このまま地上との接触を維持することが賢明か否かを、霊団の者たちと議論したこともありました。

しかし私は、たとえわずかとはいえ、私が携えてきた知識を伝えることにより、力と希望と勇気を必要としている人々にとって、私の素朴な霊訓が生きる拠り所となるはずだと決断しました。

 今、私は、もしも私たちがお届けした霊的真理が無かったら今なお苦難と絶望の中で喘いでいるかもしれない人々の慰めと力になってあげることができたことを、うれしく思っております」



  〇 地球浄化の大計画───スピリチュアリズム

 右の言葉の中に〝霊団の者たちと・・・・・・〟という表現があるが、シルバーバーチがこの仕事のために組織した霊団のメンバーが何名で、どういう顔ぶれがいたかは、断片的には分かっていても、その全ては分かっていない。

リンカーンもいたらしいが、その他にシルバーバーチが挙げた何人かの名前は日本人には全く馴染みのない人ばかりである。それが本当であろう。前世とか守護霊とかの名前が歴史上の著名人ばかりであるのは、土台おかしな話である。

 尚シルバーバーチは〝私は〟という言い方と〝私たちは〟という言い方の二通りを用いている。これは、もちろん自分自身の場合と霊団を代表している場合との違いであるが、もう一つの観方としては、シルバーバーチが所属する高級霊界に立ち戻って述べている場合があることに注意する必要がある。

 どうやら霊界の上層部では、支配霊の仕事をしている高級霊ばかりの集会が年に何回か開かれて、反省と計画の修正が行われ、その界層の更に高い界層の霊から助言を受けていたらしいのである。その中の一柱で、総指揮者的な立場にあった (今もあると推察される) のが地上でイエスと呼ばれた人物であると、シルバーバーチは言う。

もちろん地上時代よりははるかに高い霊格を備えていることであろう。というよりは、本当は、もともと神とも仰ぐべきほどの霊格、すなわち神格を具えた存在だったのが、ある計画にそって物質界へ降誕したと見るのが妥当であろう。

その〝ある計画〟というのがほかでもない、地球を霊的に浄化するための一連の活動、すなわちスピリチュアリズムだった。

 むろんその計画は今なお進行中であり、バーバネル亡きあとも、シルバーバーチ霊団そのものは、たぶんバーバネル自身も加わって、地球人類のために活動していることであろう。このたび装いも新たに本書が刊行されることになったことにも、シルバーバーチ霊団働きかけがあるものと、私は信じている。

Friday, February 7, 2025

シアトルの冬  死は第二の人生の始まり

Death is the beginning of a second life



Silver Birch Companion  
Edited by Tony Ortzen


  一寸先は闇の世の中といわれる人生において、一つだけ確実に予言できることがある。みんな〝いつかは死ぬ〟ということである。若くして死ぬ人がいる───往々にして悲劇的環境の中で・・・・・・長寿番付に名を連ねて、大往生を遂げる人もいる。が、おそかれ早かれ、みんないつかは死ぬのである。

 死について、また死後の生命について、いくら明るく健全な知識を手にした人でも、やはり身近な人の死は辛く悲しい体験であることには間違いない。ある日の交霊会でシルバーバーチは、こう述べた。

 「私の説く真理を極めてあたり前のことと受け取る方がいらっしゃるでしょう。すでにたびたびお聞きになっておられる方はそうでしょう。が、驚天動地のこととして受け止める方もいらっしゃるでしょう。所詮、さまざまな発達段階にある人類を相手にしていることですから、それは当然のことでしょう。

 私の述べることがどうしても納得できない方がいらっしゃるでしょう。頭から否定なさる方もいらっしゃるでしょう。あなた方西洋人から野蛮人とみなされている人種の言っていることだということで一蹴される方もいらっしゃるでしょう。しかし、真理は真理であるがゆえに真理であり続けます。

 あなた方にとって当たり前となってしまったことが、人類史上最大の革命的事実に思える人がいることを忘れてはなりません。人間は霊的な存在であり、神の分霊であり、永遠に神とつながっている───私たち霊団が携えてくるメッセージは、いつもこれだけの単純な事実です。

神とのつながりは絶対に切れることはありません。時には強められ、時には弱められたりすることはあっても、決して断絶してしまうことはありません。

 人間は向上もすれば堕落もします。神のごとき人間になることもできれば、動物的人間になることもできます。自由意志を破壊的なことに使用することもできますし、建設的なことに使用することもできます。しかし、何をしようと、人間は永遠に神の分霊であり、神は永遠に人間に宿っております。

 こうした真理は、教会で朗唱するためにあるのではありません。日常生活において体現していかなくてはなりません。飢餓、失業、病気、貧民街(スラム)といった、内部に宿る神性を侮辱するような文明の恥辱を無くすることにつながらなくてはいけません。
℘41
 私たちのメッセージは全人類を念頭においております。いかなる進化の段階にあろうと、そのメッセージには、人間の全てが手に取り、理解し、そして吸収すべきものを十分に用意してあります。

 人類が階段の一つに足を置きます。すると私たちは、次の階段でお待ちしています。人類がその段まで上がってくると、また次の段でお待ちします。こうして一段又一段と宿命の成就へ向けて登っていくのです」

 
 別の交霊会で肉親を失って、その悲しみに必死に耐えている人に対して、シルバーバーチがこう述べた。

 「あなたの、霊の世界を見る目が遮られているのが残念です。霊の声を聞く耳が塞がれているのが残念です。その肉体の壁を越えてご覧になれないのが残念です。今生きておられる世界が影であり実在でないことを悟っていただけないのが残念です。

あなたの背後にあって絶え間なく世話を焼いている霊の働きをご覧に入れられないのが残念でなりません。数々の霊───あなたのご存じの方もいれば、人類愛から手を指しのべている見ず知らずの人もいます───が、あなたの身のまわりに存在していることが分かっていただけたなら、どんなにか慰められるでしょうに・・・・・・。地上は影の世界です。実在ではないのです。

 私たちの仕事は、こうした霊媒を通してのものばかりではありません。もちろん、人間世界特有の (言語によって意思を伝える) 手段によって私たちの実在を知っていただけることを有り難く思っておりますが、実際には、皆さんの目に見えず耳に聞こえずとも、みなさんの現実の世界に影響を及ぼし、導き、鼓舞し、指示を与え、正しい選択をさせながら、みなさんの性格を伸ばし、魂を開発しております。

そうした中でこそ死後の生活に備えて、霊的な成長に必要なものを摂取できる生き方へと誘うことができるのです」



 ある年の復活祭(イースター)の季節にシルバーバーチは〝死〟を一年の四季の巡りになぞらえて、こう語った。

 「四季の絶妙な変化、途切れることのない永遠の巡りに思いを馳せて御覧なさい。すべての生命が眠る冬、その生命が目覚める春、生命の世界が美を競い合う夏、そして又、次の春までの眠りに備えて大自然が声をひそめはじめる秋。

 地上は今まさに大自然の見事な顕現───春・イースター・蘇り───季節を迎えようとしております。新しい生命、それまで地下の暗がりで安らぎと静けさを得てひっそりと身を横たえていた生命が、いっせいに地上へ顕現する時期です。

間もなくあなた方の目にも樹液の活動が感じられるようになり、やがてつぼみが、若葉がそして花が目に入るようになります。地上全体の新しい生命の大合唱が響きわたります。
℘44
 こうしたことから、皆さんに、太古においては宗教というものが大自然の動きそのものを儀式の基本としていたことを知っていただきたいのです。

彼らは移り行く大自然のドラマの星辰の動きの中に神々の生活、自分たちを見つめている目に見えない力の存在を感じ取りました。自分たちの生命を支配する法則に畏敬の念を抱き、春を生命の誕生の季節として、最も大切に考えました。

 同じサイクルが人間一人一人の生命において繰り返されております。大自然の壮観と同じものが一人一人の魂において展開しているのです。

 まず意識の目覚めと共に春が訪れます。続いて生命力が最高に発揮される夏となります。やがてその力が衰え始める秋となり、そして疲れ果てた魂に冬の休眠の時が訪れます。が、それですべてが終わりとなるのではありません。

それは物的生命の終わりです。冬が終わると、その魂は次の世界において春を迎え、かくして永遠のサイクルを続けるのです。

 この教訓を大自然から学びとってください。そして、これまで自分を見捨てることのなかった摂理は、これ以降も自分を、そして他のすべての生命を見捨てることなく働き続けてくれることを確信して下さい」


 スピリチュアリズムの普及に活躍していた同志が他界したとの報に接して、シルバーバーチはこう語った。

 「大収穫者である神は、十分な実りを達成した者を次々と穫り入れ、死後に辿る道をより明るく飾ることをなさいます。

 肉眼の視野から消えると、あなた方は悲しみの涙を流されますが、私たちの世界では、また一人、物質の束縛から解放されて、言葉では言い表せない生命のよろこびを味わい始める魂を迎えて、うれし涙を流します。

私はつねづね〝死〟は自由をもたらすものであること、人間の世界では哀悼の意を表していても、本人は新しい自由、新しいよろこび、そして地上で発揮できずに終わった内部の霊性を発揮するチャンスに満ちた世界での生活が始まったことを知って、よろこんでいることを説いております。
℘46
 ここにおいでの方は、他界した者は決してこの宇宙からいなくなったわけではないとの知識を獲得された幸せな方たちですが、それに加えてもう一つ知っていただきたいのは、こちらへ来て霊力が強化されると、必ず地上のことを思いやり、こうして真理普及のために奮戦している私たちの仕事に協力してくれているということです。

 その闘いは地上の至る所で、日夜続けられております───霊の勢力と、醜い物的利己主義の勢力との戦いです。たとえ一時は後退のやむなきに至り、一見すると霊の勢力が敗北したかに思えても、背後に控える強大な組織のお陰で勝利は必ず我がものとなることを確信して、その勝利へ向けて前進しつづけます。

 いずれあなた方も、その戦いにおいて果たされたご自分の役割、すなわち大勢の人々に慰めと知識を与えてあげている事実を知って、大いなる喜びに浸ることになりましょう。

今は、それがお分かりにならない。私たちと共に推進してきた仕事によって、生きるよろこびを得た人が世界各地に無数にいることを、今はご存じありません。

 実はあなた方も、こうした霊的真理の普及に大切な役割を果たしておられるのです。その知識は、なるほどと得心がいき、心の傷と精神の煩悶と魂の憧憬のすべてに応えてくれる真実を求めている、飢えた魂にとって何ものにも替え難い宝となっております。
℘47
 太古の人間が天を仰いで福音を祈り求めたように、古びた決まり文句にうんざりしている現代の人間は、新しいしるしを求めて天を仰いできました。

そこで私たちが、あなた方の協力を得て、真実の知識をお持ちしたのです。それは、正しく用いさえすれば、必ずや神の子の全てに自由を───魂の自由・精神の自由だけでなく、身体の自由までも───もたらしてくれます。

 私たちが目的としているのは、魂を解放することだけではありません。見るも気の毒な状態に置かれている身体を救ってあげることも大切です。つまり私たちの仕事には三重の目的があります。すなわち精神の解放と、魂の解放、身体の解放です。

 そのことを世間へ向けて公言すると、あなた方はきっと、取り越し苦労性の人たちから、そう何もかもうまく行くものではないでしょうという反論に遭うであろうことは、私もよく承知しております。

しかし事実、私たちの説いている真理は人生のあらゆる面に応用が利くものです。宇宙のどこを探しても、神の摂理の届かないところがないように、地上生活のどこを探しても、私たちの説く霊的真理の適用できない側面はありません。
℘48  
 挫折した人を元気づけ、弱き者、寄るべなき者に手を差し伸べ、日常の最小限の必需品にも事欠く人々に神の恩寵を分け与え、不正を無くし、不平等を改め、飢餓に苦しむ人々に食を与え、雨露をしのぐほどの家とてない人々に住居を提供するという、こうした物質界ならではの問題にあなた方が心を砕いておられる時、それは実は、私たち霊の世界からやってくる者の仕事の一部であることを知っていただきたいのです。

そうした俗世的問題から超然とさせる為に霊的真理を説いているのではありません。霊的真理を知れば知るほど、自分より恵まれない人々への思いやりの気持ちを抱く様でなければなりません。

 その真理にいかなる肩書き(ラベル)をつけようと構いません。政治的ラベル、経済的ラベル、宗教的ラベル、哲学的ラベル───どれでもお好きなものを貼られるがよろしい。が、

それ自体は何の意味もありません。大切なのは、その真理が地上から不正を駆逐し、当然受けるべきものを受けていない人々に、生得の権利を行使させてあげる上で役立たせることです」

℘49  
 そして最後に〝死〟にまつわる陰湿な古い概念の打破を説いて、こう述べた。

 「その身体があなたではありません。あなたは本来、永遠の霊的存在なのです。私たちはこうした形で週一回お会いしてわずかな時を過ごすだけですが、そのことがお互いの絆を強化し、接触を深めていく上で役立っております。

毎週毎週、あなた方の霊そのものが影響力を受けて、それが表面へ出ております、その霊妙な関係は物的身体では意識されませんが、より大きな自我は実感しております。


 また、こうしたサークル活動は、あなた方が霊的存在であって物的存在でないことを忘れさせないようにする上でも、役に立っております。人間にはこうしたものがぜひとも必要です。

なぜなら、人間は毎日、毎時間、毎分、あくせくと物的生活に必要なものを追い求めているうちに、つい、その物的なものが殻に過ぎないことを忘れてしまいがちです。それは実在ではないのです。

 鏡に映るあなたは、本当のあなたではありません。真実のあなたの外形を見ているに過ぎません、身体は人間がまとう衣服であり、物質の世界で自分を表現する為の道具にすぎません。

 その身体があなたではありません。あなたは永遠の霊的存在であり、全大宇宙を支えている生命力───全天体を創造し、潮の干満を支配し、四季の永遠の巡りを規制し、全生命の成長と進化を統制し、太陽を輝かせ、星をきらめかせている大霊の一部なのです。

 その大霊と同じ神性をあなたも宿しているという意味において、あなたも神なのです。本質において同じなのです。程度において異なるのみで、基本的には同じなのです。

それは、あらゆる物的概念を超越した存在です。全ての物的限界を超えております。あなた方が想像するいかなるものよりも偉大なる存在なる存在です。

 あなたはまさに一個の巨大な原子───無限の可能性を秘めながら、今は限りある形態で自我を表現している、原子のような存在です。身体の内部に、いつの日か、全ての束縛を押し破り、真実のあなたにとって相応しい身体を通して表現せずにはいられない力を宿しておられるのです。

そうなることをあなた方は〝死〟と呼び、そうなった人のことを悼み悲しんで涙を流されます。それは、相も変わらず肉体がその人であるという考えが存在し、死が愛する人を奪い去ったと思いこんでいる証拠です。

 しかし、死は生命に対して何の力も及ぼしません。死は生命に対して何の手出しもできません。死は生命を滅ぼすことはできません。物的なものは、所詮、霊的なものには敵わないのです。

もしあなたが霊眼を持って眺めることができたら、もし霊耳を持って聞くことができたら、もしも肉体の奥にある魂が霊界の霊妙なバイブレーションを感じ取ることができたら、その時こそ、肉体という牢獄からの解放をよろこんでいる、自由で、意気揚々として、うれしさいっぱいの、蘇った霊をご覧になることができるでしょう。


 その自由を満喫している霊のことを悲しんではいけません。毛虫が美しい蝶になったことを嘆いてはいけません。カゴの鳥が空に放たれたことに涙してはいけません。よろこんであげるべきです。

そして、その魂が真の自由を見出したことで、いま地上にいるあなた方も神より授かった魂の潜在能力を開発すれば、同じ自由、同じ喜びを味わうことができることを知って下さい。

 これで死の意味がお分かりになるはずです。そして、死とは飛び石の一つ、ないしは大きな自由を味わえる霊の世界への関門に過ぎないことを得心なさるはずです。

 他界してその自由を味わったのちに開発される霊力を、今ここであなた方に身を持って実感していただけないことを、私は実に残念に思います。しかし、あなた方には知識があります。それをご一緒に広めているところです。それによってきっと地上に光をもたらし、暗闇をなくすことができます。

 人間はもう、何世紀にもわたって迷わされ続けてきた古い教義は信じません。教会の権威は失墜の一途をたどっております。霊的真理の受け入れを拒んできた報いとして、霊力を失いつつあるのです」

シアトルの冬 霊の書 進歩の法則

law of progress


 



〈スピリチュアリズムの役割〉

〈野生と進歩〉


――野生のままの状態と自然の法則とは一致しますか。


「しません。野生のままということは原始的状態のことです。文明は野生の状態とは相容れません。一方、自然の法則は人類の進歩に貢献します」


――人間は進歩を促す力を内部に秘めているのでしょうか、それとも進歩は外部からの働きかけの結果なのでしょうか。


「人間は自らの力で自然に発達します。ただ、全ての人間が同じ速度で同じ形で進歩するわけではありません。従って最も進歩している者が社会という形態の中での接触を通じて他の者の進歩を助ける仕組みになっているのです」


――道徳的進歩は知的発達に続くものでしょうか。


「知的発達の結果として道徳的進歩が生じますが、必ずしもすぐにというわけではありません」


――知的発達がどうして道徳的進歩を促すのでしょうか。


「知的発達によって善と悪とを理解するようになり、続いて、そのどちらかを選択するようになります。知性が発達すると自由意志が発達し、そこから人類の行動の責任が増してきます」


――人間にはそうした進歩を止める力がありますか。


「ありません。もっとも、時おり遅らせることをします」


――人類の進歩のためと思って真剣にやっていることが実際には進歩の邪魔をしているというケースがあるように思えるのですが……。


「あります。大きな車輪の下に小石をばらまく人がいますが、そんなことで進歩が阻止されるものではありません」


――人類の進歩は常にゆっくりとしたペースなのでしょうか。


「時の勢いで必然的に生じる一定の速度の進歩がありますが、それがあまりに遅すぎると、思い切った転換を促すために、時として物理的ないしは精神的ショックを神が用意します」


――進歩の最大の障害は何でしょうか。


「高慢と利己主義です。ただし道徳的進歩に限っての話です。と言うのは、知的進歩は時の勢いで常に進んでおります。そして、一見すると野心や富への欲望といった悪徳を煽るかに見えますが、代わってそれが精神を修養するための探求へ駆り立てます。

このように人間生活の全てが物的のみならず精神的にもどこかでつながっていて、悪と思えるものからでも善が生まれるのです。ただ、そういう形での因果関係は永続性がありません。それよりも、霊性が開眼して地上的享楽のレベルを超えた、限りなくスケールの大きい、そして限りなく永続性のある至福の境涯があることを悟るようになります」(十二章〈利己主義〉参照)
〈滅びゆく民族〉


――進歩性を完全に失ってしまった民族もあるように見受けられるのですが……。


「あります。ただしそれは一度にではなく、日を追って少しずつ人口が減少するという形を取ります」


――究極的には世界の全民族が一つの国家に統一されるのでしょうか。


「一つの国家にはなりません。それは有り得ないことです。気候の違いが多様な慣習と必要性を生み、それが自ずと多様な国民性を生み出します。そしてその一つ一つが特殊な慣習と必要性に適応した法律を必要とします。しかし思いやりの摂理には地域の差はありません。神の摂理にのっとった法律を施行していれば、国家と国家の間にも人間どうしと同じ思いやりによって結ばれ、互いが平和で幸せな生活が送れるようになります。誰一人として他を傷つけたり他を犠牲にして利益を得ようとする者はいなくなるからです」
〈文明の進歩〉


――文明は人類の進歩の現れでしょうか、それとも何人かの学者が言っているように、デカダンスでしょうか。


「進歩には違いありません。が、まだまだ完全からは程遠いです。人類は幼児期から一気に理性の時代へと移行するわけではありません」


訳注――デカダンスというのは、ちょうど本書が編纂されている頃、すなわち一九世紀末にフランスを中心にヨーロッパで広まった官能主義的頽廃思想のことで、現代のアメリカに代表される機械的物質文明とは質を異にする。


――文明をいけないものとする考えはいかがでしょうか。


「文明を悪用する者を非難すべきであって、神の配剤に文句を言うべきではありません」


――いずれは文明も浄化されて、それが生み出していた悪弊も消えるのでしょうか。


「そうです。人間の道徳性が知性と同じ程度にまで発達すればそうなります。花が咲く前に実がなることはありません」


――文明が頂点に達したことは何をもって知ることができるのでしょうか。


「道徳的発達です。あなた方は少しばかり発明や発見をし、立派な家に住んでシャレた服を着るようになると、えらく文明が発達したかに思い込んでいるようですが、本当の意味で“開化”したと言えるのは、不名誉な悪徳が消え、イエスの説く慈悲を実践して兄弟のごとく仲良く暮らせるようになった時です。それまでは“知的に啓発された”だけの国家であって、文明化の初期の段階を通過したにすぎません」
〈社会的法律の進歩〉


――人間社会を治めるには、人間がこしらえた法律の助けなしに自然の法律だけで十分なのでしょうか。


「自然の法則が正しく理解され、それを人間が素直に実践するのであれば、それで十分でしょう。が、社会には無法者がいますから、それに応じた特別の法律が必要となります」


――現段階の人間社会では刑法にも厳しさが必要でしょうか。


「堕落した社会には厳格な刑法も必要ですが、不幸にして現在の刑法は罰することにばかり偏って、悪の発生源を改めることに意を用いていません。人類を啓発するのは教育しかありません。教育さえしっかりすれば現在のような厳しさは必要でなくなります」


――法律を改めるにはどうすればよいでしょうか。


「時勢の流れによっても改められて行きますが、地上界をリードする偉大なる人物の影響によっても改められて行きます。これまでに多くの悪法が改められてきましたし、これからも改められて行くでしょう。焦らぬことです」
〈スピリチュアリズムの役割〉


――スピリチュアリズムはいずれは世間一般に受け入れられて行くのでしょうか、それとも限られた少数派のものであり続けるのでしょうか。


「間違いなく一般に受け入れられて行き、人類史上における画期的な時代が到来するでしょう。本質的に自然界の秩序に属するものであり、人類の知識の一部門として位置づけられるべきものだからです。しかしそれまでには、まだまだ烈しい抵抗に遭うでしょう。それは教義の真偽を問われるというよりも損得から生じる抵抗です。スピリチュアリズムの普及で経済的に被害をこうむる者、虚栄心を守ろうとする者、さらには世俗的面子(めんつ)にこだわる者などがいることを忘れてはなりません。しかしそのうち自分たちが少数派になってしまったことを知ると、恥を承知の上でも、手のひらを返すような態度に出ることでしょう」


――なぜ霊界側は人類発生の初期からこうした真理を説かなかったのでしょうか。


「あなただって大人に教えるようなことを子供に説くようなことはしないでしょうし、赤ん坊が消化しきれないものを食べさせるようなことはしないでしょう。何事にも時期というものがあります。これまでだって全く説かれていないわけではありません。が、その意義が理解されず、あるいは曲解されたりしています。そして今ようやく正しく理解してもらえる段階が到来したということです。が、これまでの教えも、不完全だったとは言え、これから本格的な実りを得るタネ蒔きのための土地を耕してくれていたのです」

シアトルの冬 霊の書 〈自由と束縛〉

Freedom and bondage.





〈自由と束縛〉


――人間が完全な自由を得るのはどういう条件下においてでしょうか。


「砂漠の中の世捨て人くらいのものでしょう。二人の人間が存在すれば、互いの権利と義務が生じ、完全に自由ではなくなります」


――と言うことは、他人の権利を尊重するということは、自分の権利を奪われることを意味するのでしょうか。


「それは違います。権利は生得のものです」


――奴隷制度が既成の慣習となっている国家において、使用人の家に生まれた者はそれを当たり前のことと思うに違いありませんが、その場合でも罪でしょうか。


「いけないことはいけないこと、いくら詭弁を弄しても悪い慣習が良い慣習になるわけではありません。が、責任の重さとなると、当人がその善悪についてどの程度まで理解していたかによって違ってきます。

奴隷制度で甘い汁を吸っている者は神の摂理に違反していることは明白です。が、その場合の罪の重さは、他の全ての場合と同じく、相対的なものです。長年にわたって奴隷制度が根付いている国においては使用人は少しも悪いこととは思わず、むしろ当たり前のことと思っているでしょう。しかし例えばイエスの教えなどに接して道義心が目覚め、理性が啓発されて、奴隷も神の前には自分と同等なのだと悟ったあとは、どう弁解しても罪は罪です」


――使用人の中には心の優しい人もいて、扱い方が人道的で、何一つ不自由をさせないように心を配っていながら、解放してやると却って生活が苦しくなるという理由から奴隷を雇い続けている人がいますが、これはどう理解すべきでしょうか。


「奴隷を残酷に扱っている使用人に較べれば自分のしていることについての理解が立派であると言えるでしょう。が、私に言わせれば、それは牛や馬を飼育しているのと同じで、マーケットで高く売るために大切にしているだけです。残酷に扱っている人と同列には問えませんが、人間を商品として扱い、生来の独立した人格としての権利を奪っている点において罪に問われます」
〈良心の自由〉


――他人の良心の自由に柵を設ける権利はあるでしょうか。


「思想の自由に柵を設ける権利がないのと同じく、そういう権利は許されません。良心を判断する権利は神のみが所有しておられます。人間が法律によって人間と人間との関係を規制していますが、神は自然の摂理によって人間と神との関係を規律づけています」


――ある宗教で説かれている教義が有害であることが明らかな時、良心の自由を尊重する立場からこれをそのまま許すべきでしょうか、それとも、良心の自由を侵さない範囲で、その誤った教義によって道に迷っている人を正しい道に導いてもよろしいでしょうか。


「もちろんよろしいし、また、そう努力すべきです。ただし、その時の態度はイエスの範にならって、優しさと説得力をもって臨むべきで、強引な態度は慎まないといけません。強引な態度は、その相手の間違った信仰よりも有害です。確信は威嚇によって押しつけられるものではありません」
〈自由意志〉


――人間には行為の自由がありますか。


「思想の自由がある以上、行為の自由もあります。自由意志がなかったら人間はロボットと同じです」


――その自由意志は誕生の時から所有しているのでしょうか。


「自らの意志で行為に出るような段階から自由意志を所有したことになります。誕生後しばらくは自由意志は無いに等しく、機能の発達と共に発達しはじめ、目的意識を持つようになります。幼児期における目的意識は必ずその時期の必要性と調和していますから、好きにやっていることがその時期に適合したものになっています」


――未開の段階では人間は本能と自由意志のどちらが支配的なのでしょうか。


「本能です。と言っても、完全な自由意志による行動を妨げない面もいくつかあります。幼児と同じで、自分の必要性を満たすために自由意志を行使していて、その自由意志は知性の発達を通してのみ発達します。と言うことは、あなた方のように知性の発達した人類は、自由意志の行使による過ちに対しては未開人よりも責任が重いということになります」


――社会的地位が自由行動の妨げになることはありませんか。


「社会に属している以上、当然、それなりの制約はあるでしょう。神は公正であり、そうした条件も全て考慮に入れて裁かれますが、そうした制約に負けないだけの努力をしているか否かも神は見ておられます」


――人生での出来事にはいわゆる運命、つまりあらかじめ決められているものもあるのでしょうか。もしあるとすれば自由意志はどうなるのでしょうか。


「再生する際に自ら選択した試練以外には必然的な宿命(さだめ)というものはありません。試練を選択することによって、そのようになる環境へ誕生しますから、自然にそうなるのです。

もっとも私が言っているのは物的な出来事(事故など)のことです。精神的な試練や道徳的誘惑に関しては、霊は常に善悪の選択を迫られており、それに抵抗するか負けるかのどちらかです。その際、当人が躊躇しているのを見て背後霊がアドバイスをしてくれますが、当人の意志の強さの程度を超えて影響を及ぼすことはできません。

一方、低級なイタズラ霊が大げさな取り越し苦労の念を吹き込んで悩ませたり怖がらせたりすることもします。が、最後の選択権は当人にあります」


――次から次へと訪れる悪運に翻弄されて、このまま行くと死も避けられないかに思える人がいます。こういうケースには宿命性があるように思えるのですが……


「真実の意味で宿命づけられているのは“死ぬ時期(とき)”だけです。いかなる死に方になるかは別として、死期が到来すれば避けることは不可能です」


――と言うことは、あらかじめ用心しても無駄ということになるのでしょうか。


「そんなことはありません。脅(おびや)かされる幾多の危険を避けさせるために背後霊が用心の念を吹き込むことがあります。死期が熟さないうちに死亡することのないようにとの神慮の一つです」


――自分の死を予知している人は普通の人よりも死を怖がらないのはなぜでしょうか。


「死を怖がるのは人間性であって霊性ではありません。自分の死を予知する人は、それを人間としてではなく霊として受け止めているということです。いよいよ肉体から解放される時が来たと悟り、静かにその時を待ちます」


――死が避けられないように、他にも避けられない出来事があるのではないでしょうか。


「人生のさまざまな出来事は大体において些細なもので、背後霊による警告で避けられます。なぜ避けさせるかと言えば、些細とは言え物的な出来事で面倒なことになるのは背後霊としても面白くないからです。唯一の、そして真実の意味においての避け難い宿命は、この物質界への出現(誕生)と物質界からの消滅(死)の時だけです」


――その間にも絶対に避けられないものがあると思いますが……。


「あります。再生に際してあらかじめ予測して選したものです。しかし、そうした出来事が全て神の予定表の中に“書き込まれている”かに思うのは間違いです。自分の自由意志で行った行為の結果として生じるものであり、もしそういうことをしなかったら起きなかったものです。

例えば指に火傷(やけど)を負ったとします。その場合、指に火傷を負う宿命(さだめ)になっていたわけではありません。単にその人の不注意が原因であり、あとは物理と化学と生理の法則の為せる業です。

神の摂理で必ずそうなると決まっているのは深刻な重大性をもち、当人の霊性に大きな影響を与えるものだけです。それが当人の霊性を浄化し、叡知を学ばせるとの計算があるのです」


――例えば殺人を犯した場合、再生する時から殺人者になることを知っているのでしょうか。


「そうではありません。自分が選択した人生において殺人を犯しかねない事態が予想されていたかも知れません。が、その時点では殺人を犯すか犯さないかは分かっておりません。殺人を犯した者でも、その直前までは理性を働かせる余裕があったはずです。もしも殺人を犯すことに決まっているとしたら、自由意志による判断力を働かせることができないことになります。罪悪も、他のあらゆる行為と同じく、自由意志による判断力と決断力の結果です。

あなた方はとかく二種類のまったく異なるものを混同しがちです。すなわち物的生活での出来事と精神的生活での行為です。もし宿命性というものがあるとすれば、それは物的生活において、原因が本人の手の届かない、そして本人の意志と無関係の出来事にかぎられています。それとは対照的に、精神生活における行為は必ず本人から出ており、従って本人の自由意志による選択の余地があります。その種の行為に宿命性は絶対にありません」


――では“幸運の星の下に生まれる”とか“星回りの悪い時に生まれる”という表現はどこから生まれたのでしょうか。


「星と人間とを結びつける古い迷信から生まれたもので、愚かな人間が比喩的表現を文字通りに受け取っただけです」

シアトルの冬  霊の書 第3部 摂理と法則

Providence and Law



〈さまざまな不平等〉

――神はなぜ全ての人間に同じ才能を与えていないのでしょうか。


「全ての霊は神によって平等に創造されています。が、創造されてから今日に至るまでの期間に長短の差があり、結果的には過去世の体験の多い少ないの差が生じます。つまり各自の違いは体験の程度と、意志の鍛練の違いにあり、それが各自の霊的自由を決定づけ、自由の大きい者ほど急速に進化します。こうして現実に見られるような才能の多様性が生じて行きます。

この才能の多様性は、各自が開発した身体的ならびに知的能力の範囲内で神の計画の推進に協力し合う上で必要なことでもあります。ある人にできないことを別の人が行うという形で、全体の中の一部としての有用性を発揮できるわけです。さらには宇宙の全天体が連帯性でつながっていますから、より発達した天体の住民――そのほとんどが地球人類より先に創造されています――が地上に再生して範を垂れるということもあります」


――高級な天体から低級な天体へと転生しても、それまでに身につけた才能は失われないのでしょうか。


「失われません。すでに申しているごとく、進化した霊が退化することは有り得ません。物質性の強さのために以前の天体にいた時より感覚が鈍り、生まれ落ちる環境も危険に満ちた所を選ぶかも知れませんが、ある一定レベル以上に進化した霊は、そうした悪条件を糧として新たな教訓を悟り、さらなる進化に役立てるものです」


――社会の不平等も自然の法則でしょうか。


「違います。人間が生み出したものであり、神の業ではありません」


――最終的には不平等は消滅するのでしょうか。


「永遠に続くものは神の摂理以外にはありません。人間社会の不平等も、ご覧になっていて、少しずつではあっても日毎に改められて行っていることに気づきませんか。高慢と利己主義が影をひそめるにつれて不平等も消えて行きます。そして最後まで残る不平等は功罪の評価だけです。いずれ神の大家族が血統の良さを云々(うんぬん)することを止めて、霊性の純粋性を云々する日が来るでしょう」


訳注――“功罪の評価”の不平等というのは、功も罪も動機や目的によってその報いも違ってくるという意味で、“不公正”とは異なる。逆の場合の例を挙げれば、キリスト教には“死の床での懺悔”というのがある。イエスの信仰を告白して他界すればいかなる罪も赦されるという教義であるが、これは間違った平等であって、不公正の最たるものであろう。


――貧富の差は能力の差でしょうか。


「そうだとも言えますし、そうでないとも言えます。詐欺や強盗にも結構知恵が要りますが、これをあなたは能力と見ますか」


――私のいう能力はそういう意味ではありません。たとえば遺産には悪の要素は無いでしょう?


「どうしてそう断言できますか。その財産が蓄積される源にさかのぼって、その動機が文句なしに純粋だったかどうかを確かめるがよろしい。最初は略奪のような不当行為で獲得したものではないと誰が断言できますか。

百歩譲ってそこまでは詮索しないとしても、そもそもそんな大金を蓄えるという魂胆そのものが褒められることだと思われますか。神はその動機を裁かれます。その点に関するかぎり神は人間が想像するより遥かに厳正です」


――仮に蓄財の当初に不当行為があった場合、その遺産を引き継いだ者は責任まで引き継がされるのでしょうか。


「仮に不当行為があったとしても、相続人はまったく知らないことですから、当然その責任までは問われません。しかし、これから申し上げることをしっかりと理解してください。遺産の相続人は、必ずとは言いませんが、往々にして、その蓄財の当初の不正の責任を取ってくれる者が選ばれるということです。その点を正直に理解した人は幸せです。その罪を最初の蓄財者の名において償えば、その功は、当人と蓄財者の双方に報われます。蓄財者が霊界からそのように働きかけた結果だからです」
〈貧富による試練〉


――ではなぜ貧富の差があるのでしょうか。


「それなりに試練があるからです。ご存じの通り、再生するに際して自分でどちらかを選んでいるのです。ただ、多くの場合、その試練に負けています」


――貧と富のどちらが人間にとって危険でしょうか。


「どちらも同じ程度の危険性があります。貧乏は神への不平不満を抱かせます。一方、富は何かにつけて極端な過ちに陥(おとしい)れます」


――富は悪への誘惑となると同時に善行の手段にもなるはずです。


「そこです。そこに気づいてくれれば意義も生じるのですが、なかなかその方向へは向かわないものです。大抵は利己的で高慢で、ますます貪欲になりがちです。財産を増やすことばかり考え、これで十分という際限が無くなるのです」
〈男女の権利の平等〉


――女性が肉体的に男性より弱くできていることには何か目的があるのでしょうか。


「女性に女性としての機能を発揮させるためです。男性は荒仕事に耐えられるようにつくられ、女性は穏やかな仕事に向いています。辛い試練に満ちた人生を生き抜く上で互いが足らざる所を補い合うようにできています」


――機能的にも男女の重要性はまったく平等なのでしょうか。


「女性の機能の方がむしろ重要性が大きいと言えます。何しろ人間としての生命を与えるのは女性なのですから」


――神の目から見て平等である以上は人間界の法律上でも平等であるべきでしょうか。


「それが公正の第一原理です。“他人からして欲しくないことは、すべからく他人にもすべきではない”と言います」


訳注――これはキリストの“山上の垂訓”の一つである「他人からして欲しいことは、すべからく他人にもそのようにすべし」という有名な“黄金律”を裏返して表現したもの。


――法律が完全に公正であるためには男女の権利の平等を明言すべきでしょうか。


「権利の平等は明言すべきです。機能の平等はまた別問題です。双方がそれぞれの特殊な存在価値を主張し合うべきです。男性は外的な仕事に携わり、女性は内的な仕事に携わり、それぞれの性の特質を発揮するのです。

人間界の法律が公正を期するためには男女の権利の平等を明言すべきであり、どちらに特別の権利を与えても公正に反します。文明の発達は女性の解放を促すもので、女性の隷属は野蛮のレベルに属します。

忘れてならないのは、性の違いは肉体という組織体だけの話であって、霊は再生に際してどちらの性でも選べるという霊的事実です。その意味でも霊は男女どちらの権利でも体験できるわけです」


訳注――この問答を見るかぎりでは、当時はまだ自由と平等の先進国のフランスでも男女の平等は法律で謳われていなかったようで、今日の自由主義国の人間が読むと奇異にすら感じられる。しかし“権利”の平等と“機能”の平等を区別し、機能は平等・不平等次元で論じるべきものではないとしている点は、昨今いささか行き過ぎた平等主張、いわゆる“悪平等”が幅をきかせている、日本を始めとする文明先進国に良い反省材料を提供しているのではなかろうか。

シアトルの冬 人生でいちばん大切なこと

The Most Important Thing in Life


Silver Birch Companion  
Edited by Tony Ortzen


人生でいちばん大切なこと

 シルバーバーチの霊言には、一貫して説かれている珠玉の教えが幾つかある。その一つが〝人のために役立つことをしなさい〟という教えである。これをシルバーバーチは〝サービス〟という一語で表現することがある。〝リップサービス〟(口先だけのお上手や見せかけの好意) ではなく、

日常生活の中での実のある親切がなかなか難しいものであることを知っていればこそ、そうした、まるで三歳の童子に説くような、簡単そうで実はなかなか実行できない素朴な教えを、繰り返し説くのである。

 シルバーバーチの交霊会はバーバネルの三十歳代に〝ハンネン・スワッファー・ホ-ムサークル〟の名称のもとに発足して、毎週一回、金曜日の夜に開かれていた。が、それも五十歳の声を聞く頃から二週間に一回、さらには月一回となり、七十歳代には不定期となっていった。

 が、交霊会に臨むバーバネルの態度は一貫して変ることがなかった。儀礼的なものは何もしない。応接間のソフア―に無造作に腰掛けると、メガネをはずし、グラスの水を飲み干してから、瞑目する。するとその顔の形相が巻頭のインディアンの肖像画そっくりに変貌し始める。

そして、鼻に掛ったいびきのような声を発しながら、何やらムニャムニャと一人ごとを言ったあと、「では始めることに致しましょう」と言って、インボケ―ションという〝開会の祈り〟の言葉を述べ始める。

時には
 「もう少し待って下さい。霊媒のトランス状態をもうすこし深めますので・・・・・・」 と言って静かにしていることもある。その意味するところ、極めて深長である。


 その日の交霊会も同じような要領で始まり、次第に〝サービス〟の大切さへと話が発展し、

 「いかなる分野の仕事にたずさわっていても同じことです。人に役立つことをするチャンスは決して見逃してはなりません」

と述べてさらにこう続けた。

 「私がこれまで皆さんにお教えしたかった教訓はそのことに尽きるのではないでしょうか。サービスこそ〝霊の正貨〟であること、それが霊の唯一の財産であること、それは天下の回り物であり、一人が独占すべきものではないということを理解していただこうと苦心してきたのです。

 知識には責任が伴います。このことを私は何度申し上げてきたことでしょう。責任とは、自分が手にした知識をタンスにしまい込んでいてはいけない───賢明にそして上手に使用するということです。

 霊の世界からこうして地上に戻ってくるのは、ただ単に皆さんを喜ばせるためではありません。死んだと思っていた人たちが別の世界で生き続けている事実を知ることによって魂が目を覚まし、生きる意欲を鼓舞され、それがひいては同胞のために役立つことをしたいという願望を抱かせることになることを望んでいるのです。

 それは何も、公開交霊会で大勢の聴衆を前にしてデモンストレーションをやったり、こうして家庭的な交霊会で少数の出席者を相手に語るといった形のものでなくてもいいのです。人さまのためになることをしてあげるチャンスなら日常生活に幾らでも転がっております。

高級界の神霊が地上人類に対して抱いている愛は、みなさんが日常生活において、本当に困っている人に手を差し伸べようとする時に抱く愛と同じものなのです。

 世の中を見回してごらんなさい。心の痛みに耐えている人、困り果てている人、悲しみに暮れている人、人生に疲れ、当てもなく戸惑っている人、信仰の基盤が揺さぶられ、今まで大事にしてきたものが全て無価値であることを知り、

しかもそれに代わる導きも手助けも希望も見いだせずにいる人、そういう人たちがいかに多いことでしょう。そういう人たちのために為すべきことがいくらでもあります。
℘26
 それとは別に信仰が足枷となっている人、教義やドグマ、儀式や慣習によって自らの牢獄をこしらえてしまっている人がいます。そういう人たちには、自由を見出す方法、魂の解放の手段を教えてあげないといけません。

 現在の地上には、正しい知識を手にした人による援助を必要としている人が無数におります。間違った信仰、盲目的信仰、迷信、独りよがり、商売根性にしがみついている人がいるかぎり、みなさんが活動する場があるということになります。

同じ大霊の子でありながら霊的真理について何も知らない人がいるかぎり、みなさんにも私たちにも、為すべき仕事があるということです。

 それこそが、私たちが使命と心得てたずさわっている仕事です。要するに真理を広めるということです。霊的真理に浴し、間違いと迷信、その背後の原因である無知によって生み出されている暗黒を打ち払わないといけません。

 その一方には、そうした仕事を阻止しようとする勢力がいます。昨日、今日の話ではありません。幾世紀にもわたって私たちに戦いを挑んできております。それを退治するのも仕事の一つです。

一時的には後退のやむなきに至ることはありますが、計画は着実に進歩し、反抗勢力は次第に勢力を失いつつあります。
℘27
 人間の魂は、いつまでも牢獄に閉じ込められたままでは承知しません。永遠に暗闇の中で暮らす者はいません。いつかは魂が光明を求めるようになります。神性を秘めた魂が、暗い沈滞状態に不快を覚えるようになります。自由を求めるようになるのです。

束縛された状態に嫌気を覚えるようになるのです。そうした段階に至った人たちのために、できるだけ多くの霊的真理を普及させる仕事を続けていないといけないのです。

 それが又、いつかは必ず受け入れられる日が来るとの信念のもとに、理想を掲げ続けなければならない理由でもあるのです。愚かな敵対者による蔑みの声も耳に入るでしょうが、そうしたものにも耐え抜かないといけません。

弱みを見せない限り、そんなものによって傷つくようなことはありません。相手にしないことです。いかなる相手にも憎しみを抱くことなく、全ての人に愛を持って、艱難を征服し、そして勝利しなくてはなりません。

 それが霊的教訓の基調なのです。最も大切な教えとして、しっかりと心に植え付けて置かないといけません。一冊の書物でもよろしい。優しい言葉一つでもよろしい。心強い握手でもよろしい。

不自由な身体の人の手を取ってあげることでもよろしい。心温まる贈り物を届けてあげるだけでもよろしい。サービスのコインはいつでも差し出せるように用意しておいてください」



 別の日の交霊会で、地上時代の名を聞かれたシルバーバーチは───

 「私は荒野に呼ばわる声(※)です。神の使徒以外の何者でもありません。私が誰であるかということに、いったい何の意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは、私の行為で判断していただきたい。

私の言葉が、私の誠意が、私の判断が、要するに今こうして人間界で私がたずさわっている仕事が、暗闇に迷える人々の心の灯火となり慰めとなったら、それだけで私はうれしいのです」


  ※───マタイ伝に出てくる、世に容れられない警世家のこと───訳者。

 シルバーバーチがインディアンでないこと、本来の高次元の世界と地上との間の橋渡しとしてインディアンの幽体を使用している高級霊であることまでは、われわれも知っている。

が、これまで、好奇心から幾度地上時代の実名を訊ねても、一度も明かしてくれていない。肩書よりも仕事の成果の方を重んずるのである。自分個人に対する賛美を極度に嫌い、次のように述べる。

 「私は一介の神の僕に過ぎません。今まさに黎明を迎えんとしている新しい世界での一役を担うものとして、これまで忘れ去られてきた霊的法則を蘇らせるために私を地上へ遣わした一団の通訳にすぎません。私のことを常に〝代弁者〟(マウスピース)としてお考えください。地上に根づこうとしている霊力、刻一刻と力を増しつつある霊団の声を代弁しているにすぎません。

 私の背後には延々と幾重にも連なる霊団が控え、完全なる意思の統一のもとに、一丸となって臨んでおります。私がこの霊媒(バーバネル)を使用するごとく、彼らも私を使用し、長いあいだ埋もれてきた霊的真理───それが今まさに掘り起こされ、無数の男女の生活の中で本来の場を得て行きつつあるところですが───それを地上の全土に広げんとしているのです」


───でも、あなたは私たちにとっては単なるマウスピースではなく、実在の人物です。
℘30
 「私は何も、この私には個性がないと言っているのではありません。私にもちゃんと個性はあります。ただ、こちらの世界では〝協調〟ということが大原則なのです。一つの大きなプランがあり、それに従って、共通の利益のために各自が持てるものを貢献し合うということです。

 身分の高い低いも関係ありません。差があるとすれば、それまでに各自が積み上げてきた霊的成長だけです。開発した霊的資質と能力とを自分より恵まれない人のために惜しみなく活用し、代わってその人たちも自分よりも恵まれない人の為に、持てるものを提供する。

かくして地上の最低界 (※) から天界の最高界に至るまで、連綿として強力な霊的影響力が行きわたっているのです」

 ※───地上の人間から見れば他界した人間はみんな霊界の存在と思いがちであるが、目に見えなくなったからそう思えるまでのことであって、波動の原理から言えば、相変らず地上的波動から抜けだせない者がいて、地上生活から持ち越した感覚、感情のままで生活を続けている。その種の霊を〝自縛霊〟という。

ここでいう〝最低界〟とはその種の霊が類をもって集まっている界層のことで、古くから〝地獄〟とか〝暗黒界〟とかいわれているのがこれに相当する。神や悪魔がこしらえたのではなく、波動の原理で自然に出来上っているもので、霊性が高まって波動が変われば、それ相当の界層へ行くことになる───訳者
℘31  

───地上もそういうことになれば素晴らしいことですね。

 「いずれはそうなるでしょう。神の意志は必ずや成就されていくものだからです。その進行を邪魔し遅らせることはできます。しかしその完成・成就を阻止することはできません」

 この件に関して別の日の交霊会で次のように述べている。

「これまで私は、あなた方の友として、守護者として、指導者として接してまいりました。いつもすぐ側に待機していること、私がいかなる霊格をそなえた存在であろうと、

それはあなた方人間との親密な接触を妨げることにならないこと、あなた方の悩みや困難に関心を抱き、出来うるかぎりの援助の手を差しのべる用意があることを知っていただきたいと思ってまいりました。
℘32
よろしいですか、私は確かに一方では永遠の真理を説き、霊力の存在を明かさんとしている教師的存在ですが、他方、あなた方お一人お一人の親しい友でもあるのです。あなた方に対して親密な情愛を抱いており、持てる力で精一杯お役に立ちたいと努力いたしております。

 どうぞ困ったことがあれば、どんなことでもよろしい。この私をお呼びください。もし私に出来ることがあれば、ご援助いたしましょう。もし私に手出しの出来ないことであれば、あなた方自らが背負わねばならない試練として、それに耐えていくための力をお貸しいたしましょう」


 さらに別の交霊会でもこう語っている。

 「これまでの長い霊界での生活、向上進化をめざして励んできた魂の修行の旅において私がみずから学んできたこと、あるいは教わったことは、すべて、愛の心をもって快く皆さんにお教えしております。神はそれをお許しくださっていると信じるからです。

 ではその動機とは何か───それは、私のこうした行為を通じて私があなた方のどれほど情愛を感じているか、いかにあなた方のためを思っているかを分かっていただき、そうすることによって、あなた方の背後に控えている力には神の意図が託されていること、霊の豊かさと実りを何とかしてもたらしてあげようとしている力であることを認識していただくことにあります。

要するに、あなた方への愛がすべてを動かし、神から発せられるその愛をあなた方のために表現していくことを唯一の目的と致しております。

 私たち霊団の者は、功績も礼も感謝もいっさい求めません。お役に立ちさえすればよいのです。争いに代わって平和を見ることができれば、涙にぬれた顔に代って幸せな笑顔を見ることができれば、涙と痛みに苦しむ身体に代わって健康な身体となっていただくことができれば、

悲劇をなくすことができれば、意気消沈した魂に巣食う絶望感をぬぐい去ってあげることができれば、それだけで私たちは、託された使命が達成されつつあることを知って喜びを覚えるのです。

 願わくは神の祝福のあらんことを。願わくは神の御光があなた方の行く手を照らし給い。神の愛があなた方の心を満たしたまい、その力を得て、代わってあなた方がこれまで以上に同胞のために献身されんことを、切に祈ります」

 このようにシルバーバーチは、自分自身ならびに自分を補佐する霊団の並々ならぬ情愛を、よく披歴する、盛夏を迎え、これで交霊界もしばし休会となる (※) 最後の交霊会で次のような感動的な別れの挨拶を述べた。

℘34
 ※───ここでは夏休みのことを言っており、これは人間界の慣習に従って休みとするだけであるが、それ以外にも霊界側の慣習に従って休会とする時期が二度ある。イースターとクリスマスである。これは人間界の、しかもキリスト教の慣習という認識が一般的であると思うが、シルバーバーチを始めとする信頼のおける高級霊の一致した意見として、

本当は霊界の高級神霊によって催される審議と讃仰の大集会が地上に反映したものだという。日本でいう春分から立夏、すなわち三月から四月にかけてと、立冬から冬至、すなわち十一月から十二月掛けての時期に相当するようである。

私個人の考えを言わせていただけば、神道の祝詞にある 「八百万の神たちを神集(かむつど)へに集い賜え、神議(かむはか)りに議り賜ひて・・・・」 とあるのは、これに類するものではないだろうか───訳者。


 「この会も、これよりしばらくお休みとなりますが、私たちは、無言とはいえ、すぐお側にいて、ひき続きあなた方に可能なかぎりのインスピレーションと力と導きをお授けいたします。

 一日の活動が終わり、夜の静寂を迎えると、あなた方の魂は本来の自分を取り戻し、物質界の乱れたバイブレーションを後にして、ほんの束の間ですが、本当の我が家へ帰られます。その時のあなたがは、私たちと共に、いつの日か恒久的にあなた方のものとなる喜びのいくつかを体験されます。

 しかし、これまでの努力のお陰で、こうして数々の障害を克服して語り合えるようになりましたが、ふだんは物質というベールによって隔てられております。でも霊的には、いついかなる時も身近にいて、情愛を持って力になってあげていることを知ってください。

私たちがお届けする力は、宇宙最高の霊力であることを心強く思って下さい。私たちは、最も身近で最も親密な存在であるあなた方のために尽くすことによって神に奉仕する僕に過ぎません。

 私のことを、ほんの一、二時間薄明かりの中でしゃべる声としてではなく、いつもあなた方の身の回りにいて、あなた方の能力の開発と霊的進化のために役立つものなら何でもお持ちしようとしている、躍動する生命にあふれた、生きた存在としてお考えください。

語る時にこうして物的感覚(聴覚)に訴える方法しかないのは、まだるい限りですが、私はいつも身近に存在しております。必要な時はいつでも私をお呼び下さい。私にできることなら喜んで援助致しましょう。私が手を差しのべることを渋るような人間でないことは、皆さんはもう、よくご存じでしょう。


 樹木も花も、山も海も、小鳥も動物も、野原も小川も、その美しさを謳歌するこれからの夏を満喫なさってください。神を讃えましょう。神がその大自然の無限の変化に富む美しさをもたらしてくださっているのです。

その内側で働いている神の力との交わりを求めましょう。森の静けさの中に、その風のささやきの中に、小鳥のさえずりの中に、風に揺れる松の枝に、よせては返す潮の流れに、花の香に、虫の音に、神の存在を見出しましょう。

 どうか、そうした大自然の背後に秘められた力と一体となるようにつとめ、それを少しでも我がものとなさってください。神はさまざまな形で人間に語りかけております。教会や礼拝堂の中だけではありません。予言者や霊媒を通してだけではありません。

数多くの啓示が盛りこまれている聖典だけではありません。大自然の営みの中にも神の声が秘められているのです。大自然も神の僕です。私はそうした様々な形───語りかける声と、声なき声となって顕現している神の愛を皆さんにお伝えしたいのです」


 こう述べたあと、最後に、これまでサークルとともに、そしてサークルを通して、世界中の人々のために推進してきた仕事における基本的な理念を改めて説いて、会を閉じた。

 「私は、あなた方の愛の絆によって一丸となるように、これまでさまざまな努力をしてまいりました。より高い境涯、より大きな生命の世界を支配する法則をお教えしようと努力してまいりました。

また、あなた方に自分と言う存在についてもっと多くを知っていただく───つまり霊的にいかに素晴らしく出来上っているかを知っていただくべく努力してまいりました。

 さらに私は、あなた方に課せられた責任を説き、真理を知るということは、それを人のために使用する責任を伴うことをお教えしてまいりました。宗教的儀式のうわべに囚われずに、その奥にある宗教の核心、すなわち援助を必要とする人々のために手を差し伸べるということを忘れてはならないことを説いてまいりました。

 絶望と無気力と疑問と困難に満ちあふれた世界にあって私はあなた方に霊的真理を説き、それをあなた方が、まず自ら体現することによって同胞にもその宝を見出させ、ひいては人類全体に幸福をもたらすことになる───そうあってほしいと願って努力してまいりました。

 私はかつて一度たりとも、卑劣な考えを起こさせるような教えを説いたことはありません。一人たりとも個人攻撃をしたことはありません。私は終始〝愛〟をその最高の形で説くべく努力してまいりました。

常に人間の理性と知性に訴えるよう心掛け、私たちの説く真理がいかに厳しい調査、探求にも耐え得るものであることを主張してまいりました。

 そうした私に世界各地から寄せられる暖かい愛の念を有難く思い、私の手足となって仕事の推進に献身してくださるあなた方サークルの方々の厚意に、これからも応えることができるように神に祈りたいと思います。

 私たちは間もなく会を閉じ、通信網を引っ込めます。ふたたびお会いできる日を、大いなる期待をもって心待ちに致しましょう。もっとも、この霊媒の身体を通して語ることを中止するというまでのことです。けっして私という霊が去ってしまうわけではありません。

 もしあなた方の進む道を、影がよぎるようなことがあれば、もし何か大きな問題が生じたときは、もしも心に疑念が生じ、そして迷いが生じた時は、どうぞそれらは実在ではなくて影にすぎないことを自分に言い聞かせて、羽根を付けて一刻も早く追い出してしまうことです。

 忘れないでください。あなた方はお一人お一人が神であり、神はあなた方お一人お一人なのです。この動的宇宙を顕現せしめ、有機的・無機物の区別なく、あらゆる生命現象を創造した巨大な力───恒星も・惑星も、太陽も月も生み出した力───物質の世界に生命をもたらした力

───人類の意識に神性の一部を宿らせた力───完璧な法則として顕現し、すべての現象を細大もらさず経綸しているところの巨大な力───その力は、あなた方が見放さないかぎり、あなた方を見放すことはありません。

 その力を我が力とし、苦しい時の隠れ場とし、憩いの場となさることです。そしていついかなる時も神の衣があなた方の身を包み、その無限の抱擁の中にあることを知って下さい。

 シルバーバーチとお呼びいただいている私からお別れを申し上げます。ごきげんよう」

シルバーバーチ

シアトルの冬 大自然の摂理

providence of nature

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A」
      崇高な存在との対話
    
 スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著
        近藤千雄 訳 

【Q1】

宇宙の全生命を統率している摂理について説明していただけませんか?

 私たち(注1)は、大霊の定めた永遠不変の自然法則を第一義として、これに敬虔なる忠誠とまごころを捧げます。絶対にしくじることのない摂理、絶対に誤ることのない法則、身分の上下に関係なく、すべての存在にわけへだてなく配剤されている英知だからです。

 だれ一人として無視されることはありません。だれ一人として見落とされることはありません。だれ一人として忘れ去られることはありません。だれ一人として孤立無援ということはありません。大霊の摂理・法則が行き届かなかったり、その枠からはずれたりする者は一人もいないのです。この宇宙に存在するという、その事実そのものが、大霊の法則が働いたことの証しなのです。

 人間がこしらえる法律は、そのまま適用できないことがあります。書き換えられることがあります。成長と発展が人間の視野を広め、知識が無知を駆逐し、情況の変化が新たな法律を必要とすることになれば、古い法律は破棄されたり改められたりします。しかし、大霊が定めた摂理は、新たに書き加えられることがありませんし、〝改訂版〟を出す必要もありません。修正されることもありません。今働いている摂理はすべて、無限の過去から働いてきたものであり、これからもそのまま永遠に働き続けます。不変にして不滅です。

 ここで、根源的摂理である因果律について、霊言集の各所で述べているものを集めて紹介しておきましょう。

 因果律の働きは完璧です。原因があれば数学的正確さをもって結果が生じます。その原因と結果のつながりに寸毫たりとも影響を及ぼす力をもつ者は一人もいません。刈り取る作物はまいた種から生じているのです。人間はみな、地上生活での行ないの結果を魂に刻み込んでおり、それを消し去ることは絶対にできません。その行ないのなかに過ちがあれば、その行為の結果はすでに魂に刻み込まれており、その一つ一つについて、然るべき償いを終えるまでは霊性の進化は得られません。

 因果律は根源的なものであり、基盤であり、変更不能のものです。自分が種をまいたものは自分で刈り取る──これが絶対的摂理なのです。原因があれば、それ相当の結果が数学的正確さをもって生じます。それ以外にはあり得ないのです。かわって、その結果が新たな原因となって結果を生み出し、それがまた原因となる──この因果関係が途切れることなく続くのです。咲く花は、間違いなく、まいた種に宿されていたものです。

 無限の変化に富む大自然の現象は、大きいものも小さいものも、単純なものも複雑なものも、みな因果律にしたがっているのです。だれ一人として、また何一つとして、その因果関係に干渉することはできません。もしも原因に不相応の結果が出ることがあるとすれば、地上界も物的宇宙も、霊的宇宙も大混乱に陥ります。私の言う大霊もあなたの言うゴッドも、創造神も絶対神も、愛と英知の権化でもなく全存在の極致でもなくなります。

 宇宙は、絶対的公正によって支配されています。もしも犯した過ちが、呪文やマントラを口にするだけで消し去ることができるとしたら、摂理が完全でなかったことになります。自然の大原則が簡単に変えられたことになるからです。

 大自然は、人間的な願望におかまいなく、定められたコースをたどります。成就すべき目的があるからであり、それはこれからも変わることはありません。人間も、その大霊の意志と調和した生き方をしている限りは、恵みある結果を手にすることができます。あなたの心の持ち方次第で、大自然は豊かな実りをもたらしてくれるということです。

 善い行ないをすれば、それだけ霊性が増します。利己的な行ないをすれば、それだけ霊性が悪化します。それが自然の摂理であり、これだけはごまかすことができません。死の床にあっていくら懺悔の言葉を述べても、それで悪行がもたらす結果から逃れられるというものではありません。

 どの法則も大法則の一部です。いずれも大霊の計画の推進のためにこしらえられたものですから、全体としての調和を保ちながら働きます。これは、物質界の人間は男性・女性の区別なく、自分が犯した罪は自分の日常生活における苦難のなかで自分で償うしかないこと、それを自分以外のだれかに転嫁できるかに説く誤った教義(注2)は捨て去らなければいけないことを教えています。

 人間は自分自身が、自分の魂の庭師です。英知と優雅さ、美しさといった霊性の豊かさを身につけるうえで必要なものは、すべて大霊が用意してくださっています。道具は全部そろっているのです。あとは各自がそれをいかに賢明に、いかに上手に使うかにかかっています。

 大霊は無限なる存在であり、あなた方はその大霊の一部です。完全な信念をもって摂理に忠実な生活を送れば、大霊の豊かな恵みにあずかることができます。これは地上のだれについても、例外なく言えることです。真理に飢えた人が完全な信念に燃えれば、きっと然るべき回答を得ることでしょう。

 摂理とはそういうものです。何事にも摂理があります。その摂理に忠実であれば、求める結果が得られます。もし得られないとしたら、それはその人の心がけが摂理にかなっていないことの証しでしかありません。歴史書をひもといてごらんなさい。最下層の極貧の出でありながら、正しい心がけで真理を求めて、決して裏切られることのなかった人は少なくありません。求めようとせずに不平をかこつ人を例にあげて、なぜあの人は…といった疑問を抱いてはなりません。

 もう一つの摂理をお教えしましょう。代償を支払わずして、価値あるものを手にすることはできないということです。優れた霊媒現象を手にするには、霊的感性を磨かねばなりません。それが代償です。それをせずに金銭を蓄えることに専念すれば、それにも代償を支払わなければいけなくなります。

 金儲けに目がくらんで本来の使命をおろそかにすれば、この地上では物的な豊かさを手にすることができるかもしれませんが、こちらへ来てから本来の自我がいかに貧しいかを思い知らされます。

 訳注1──シルバーバーチが「私たち(we)」と言うときは、自分を中心とした霊団を指す場合と、シルバーバーチの言う「liberated beings」、つまり「物」による束縛から解放された高級霊を指す場合とがある。ここでは後者である。

 訳注2──改めて指摘するまでもなく〝誤った教義〟は、キリスト教の「贖罪説」のことで、「イエスへの信仰を告白した者」といった条件つきの法則は全体の調和を乱すという意味。

【Q2】

では、悪人が健康で仕事もうまくいき、善人が苦しい思いをしていることがよくあるのはなぜでしょうか?

 自然の摂理を地上界の現実に照らして判断するのは、基準があまりにもお粗末過ぎます。地上人生は途方もなく巨大な宇宙人生のほんの短い一面に過ぎず、個々の生命は死後も永遠に生き続けるのです。

 が、それはそれとして、地上の現実を、今おっしゃったような表面的な実情で判断してよいものでしょうか。心の奥、魂の中枢、精神の内側までのぞき見ることができるものでしょうか。一人ひとりの内的生活、ひそかに抱いている思い、心配、悩み、苦しみ、痛みがわかるものでしょうか。わかるのはほんの一部でしかありません。

 実際は、あらゆる体験が魂に刻み込まれているのです。楽しみと苦しみ、喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐の体験を通して、霊性は磨かれていくようになっているのです。

【Q3】

人生の教訓が愛と哀れみを身につけることであるのなら、なぜ大自然は肉食動物という、むごい生き物を用意したのでしょうか?

 大自然が悪い見本を用意したかに受け止めるのは間違いです。大自然は大霊の表現です。大霊は完全ですから、大霊の用意した摂理も完璧です。大自然は、その摂理のおもむくままに任せれば、必ずバランスと調和を保つようにできています。
 ですから、人間が大自然と調和した生き方をしていれば、地上世界はパラダイス、いわゆる〝神の王国〟となるはずです。

 たしかに、肉食動物はいます。が、それは〝適者生存〟という大自然のおきての一環としての存在であり、大自然の一側面に過ぎません。全体としては「協調・調和」が自然のあるべき姿です。「共存共栄」と言ってもいいでしょう。人間がきちんと手入れをして自然と調和していれば、素晴らしい〝庭〟になることでしょう。

 実は、ほかならぬ人類こそが、地球上の最大の肉食動物なのです。何百万年もの歴史のなかでこれほど破壊的な創造物を私は知りません。

【Q4】

摂理の働き方は、地上界も霊界も同じなのでしょうか?

 いえ、同じではありません。霊界では、ある一定の進化のレベルに達した者が、同じ階層で生活しているからです。ということは、地上のように同じ界に対照的な体験をもつ者がいないということです。全員が同じ霊格に達した者ばかりなのです。未発達な霊が、高級な霊と同じ階層にいるということがないのです。地上では、毎日毎日、さまざまな知的ならびに霊的発達レベルの者と交わります。霊界では、そういうことがないのです。

 もっとも、特殊な使命を帯びて自分の界より低い界へ下りていくことはあります。そういうことでもないかぎり、私たちが出会うのは、霊的に同じ発達レベルの者ばかりです。霊性が向上すれば、それ相応の階層へ向上していきます。そこでも同じ霊格の者ばかりが生活しています。

 とにかく、私たちの世界には、暗黒と光明といった対照的なものは存在しません。影というものが存在しないのです。霊的光明のなかで生きる段階にまで到達した者は、光明とは何かについての理解ができています。そうでなかったら、光明界にはいられないでしょう。その段階にまで到達していない者は、光と闇で織りなされる夢幻の階層から抜け切っていないことを意味します。

 霊性がさらに向上すれば、そういう対象を必要としない理解の仕方が身につきます。実在についての理解力が増し、実相を実相として悟るようになります。

 霊的洞察力が身につけば、たとえば一本の花を見ても、その美しさの内側と外側まで見えるので、地上では理解できない、その花の全体像がわかるようになります。色彩一つをとってみても、地上界にない無限のバリエーションがあります。微妙な色調があり、また肉眼では理解できない、素材そのものに託された霊的な意味もあります。

 私たちの世界は、地球の引力の影響は受けません。夜はなく、常に明るい光に包まれています。霊性が高まるほど、美しさの内奥が顕現されていきます。

 その意味で、私たちの世界は、創造的な世界です。すなわち、そこに住む者が自らの霊力で創造していく世界です。

【Q5】

地上での行為、地上生活中に、因果律が働くのでしょうか?

 そういうこともありますし、そうでないこともあります。因果律は、必ずしも地上生活中に成就されるとは限りません。が、必ず成就されます。そういうように宿命づけられているからです。原因と結果とを切り離すことはできません。

 ただ、原因の性質によって、それが結果を生み出すまでの時間的要素に違いがあります。ですから、行為によっては地上生活中に反応が出る場合もあり、出ない場合もあります。が、霊的な余波は機械的に影響を及ぼしています。

 なぜなら、たとえば他人を傷つけた場合、その行為は機械的に行為者の魂に刻み込まれていますから、その罪の深さに応じて行為者自身の魂も傷ついて霊性が弱まっています。その結果が、地上生活中に表面化するか否かはわかりません。そのときの環境条件によって違ってきます。当人の永遠の霊的生命を基準にして配剤されるものです。

 埋め合わせの原理は、自動的に働きます。絶体絶命の窮地にあって援助と導きを叫び求めても、何の働きかけの兆候もないかに思えるときがあることでしょう。が、実は、そんななかにあっても、人のために役立つことができるという事実そのものが、豊かな埋め合わせを受けていることの証しなのです。自分も、だれかのおかげで霊的真実に目覚めたのです。このことは、治療家や霊媒としての仕事にたずさわる人に、特に申しあげたいことです。

 もしも埋め合わせと懲罰の原理がなかったら、大霊の絶対的公正はどうなるのでしょう?罪悪の限りを尽くした者と、聖人君子に列せられるような有徳の人物とが、同等の霊性を身につけることができるでしょうか?もちろん、できません。人のために役立つことをすれば、それだけ霊性が高まります。利己的なことをすれば、それだけ霊性が下がります。

 あなたの霊的宿命をよくするのも悪くするのも、あなた自身です。責任はすべて、あなた自身にあります。もしも死の床で懺悔して、それで生涯で犯した罪がもたらす結果からすっかり逃れることができるとしたら、それはお笑いものであり、悪ふざけです。

【Q6】

若いときに犯した罪の償いを、死んで霊界へ行ってからさせられるということがあるのでしょうか?地上にいる間に償いをさせられることもあるのでしょうか?

 すべては環境条件によって決まることです。自分が犯した罪は自分で償う──これは不変の摂理です。魂に刻み込まれた汚点を完全に消し去るまでは、向上進化は得られません。その過ちがいつなされたか(若いときか、中年か、年老いてからか)は関係ありません。能力のすべてを駆使して償わねばなりません。

 その努力を始めたとき、あるいはそう決意したとき、あなたの魂のなかで過ちを正すための別の側面が動き始めます。摂理の仕組みは、そのように簡単なのです。

 若いときに犯した間違いは、肉体を通して顕現している間のほうが償いやすいでしょう。地上で犯したのですから、地上のほうが償いやすいはずです。償いが遅れるほど修正もむずかしくなり、霊的進化を妨げます。
 大切なのは、自分の過ちを素直に悔いて償いを決意したとき、ふだんから見守っている霊団の者(類魂)が、間髪を入れずに、力添えに馳せ参じるということです。向上進化を志向する努力を、人間界の経綸に当たっている高級霊は、決して無駄に終わらせません。


第12章 霊性の進化


【Q1】

本人の罪でもなく親の罪でもないのに、子どもが手足や目の障害を抱えて生まれてくるのはなぜでしょうか?

 魂というものを外見だけで判断してはいけません。魂の霊性の進化と、それが地上で使用する身体の進化とを混同してはいけません。

 たとえ遺伝の法則で、父親または母親、あるいは双方から障害を受け継いでいても、それが霊性の進化を妨げることはありません。

 よくご覧になれば大抵おわかりになると思いますが、身体上の欠陥をもって生まれた人は、魂のなかに埋め合わせの原理をもちあわせているものです。五体満足の人よりも他人への思いやり、寛容心、やさしさをその性格のなかに秘めています。因果律の働きから逃れられるものは何一つありません。

 親となる人は来るべき世代の人間に物的身体を授ける責任があるわけですから、当然その身体をできるだけ完全なものにする義務があります。その義務を怠れば(注)、それなりの結果が出ます。法則は変えられないのです。

 訳注──一般的には食生活が考えられるが、タバコやアルコール、麻薬などの弊害を示唆しているようにも思える。母親からの直接の影響はいうまでもないが、父親からの間接的な影響も無視できないであろう。

【Q2】

精神に異常があれば責任はとれません。(あなたがおっしゃるように)霊界では、地上で培った性格と試練への対処の仕方によって裁かれるとなると、そういう人が霊界へ行った場合、どのような扱いになるのでしょうか?

 あなたも、物的なものと霊的なものとを混同しておられます。脳細胞が異常をきたせば、地上生活は支離滅裂となります。表現器官が異常をきたしているために自我を正常に表現できないわけですが、そうした状態のなかでも魂そのものは自分の責任を自覚しています。

 大霊の摂理は、魂の発達程度に応じて働きます。地上的な尺度ではなく、永遠の英知が魂を裁くのです。ですから、地上的な常識では間違いと思えることをした魂が、地上において(不当な)裁きを受けることはあるでしょうが、実質的には魂に責任はないわけですから、霊界に行ってその責任をとらされることはありません。

 同じことが、狂乱状態のなかで、人の命を奪ったり自殺したりした場合にもいえます。表現器官が正常でなかったのですから、責任は問われません。

 こちらの世界の絶対的な判定基準は、魂の動機です。これを基準とするかぎり、誤りは生じません。

【Q3】

脳の障害のために地上生活の体験から何も学ぶことができなかった場合、霊界ではどういう境涯におかれるのでしょうか?

 表現器官が正常でないために、地上で体験すべきものが体験できなかったわけですから、それだけ損失を強いられたことになります。貴重な物的生活の価値を身につけることができなかったわけです。しかし、そうしたなかにも「埋め合わせの原理」が働いています。

【Q4】

われわれは地上でのさまざまな試練によって身につけた人間性をたずさえて霊界へ行くわけですが、精神異常者の場合はどうなるのでしょうか?やはり、そのままの人間性で裁かれるのでしょうか?

 そういう人の場合は、それまでの魂の進化の程度と動機(注)だけで裁かれます。
 訳注──この〝動機〟についてさらに質問してほしかったところである。訳者の推察では、これは再生(生まれかわり)とつながる問題であり、質問者がさらに突っ込んで問いただせば説明してくれたはずである。

【Q5】

地上では、精神的にも道徳的にも衛生的にも、不潔きわまるスラムのような環境に生まれついて、つらい、そして面白くない生活を送らねばならない者がいる一方、美しいものに囲まれ、楽しい人生が約束された環境で育つ者もいます。こうした不公平には、どのような配慮がなされるのでしょうか?

 魂には、その霊性の進化の程度が刻み込まれています。地上の人間は、物的尺度で価値判断をし、魂の発現という観点からの判断をしません。身分の上下にかかわらず、すべての人間に、他人のために自分を役立てるチャンスが訪れます。それは言い換えれば、自我意識に目覚めて、その霊性を発現するチャンスです。その霊性こそが唯一の判定基準です。

 物的基準で判定すれば、地上界は不公平ばかりのように思えますが、本当の埋め合わせの原理が魂の次元で働いています。それによって、魂があらゆる艱難を通して、自我を顕現していくように意図されているのです。

【Q6】

でも、悪い人間がよい思いをしていることがありますが、なぜでしょうか?

 それも、あなた自身のこの世的な基準による判断に過ぎません。よい思いをしているかに見える人が、惨めな思い、虐げられた思い、懊悩や苦痛に悩まされていないと、何を根拠に判断なさるのでしょう?いつもニコニコしているからでしょうか?贅沢なものに取り囲まれた生活をしているからでしょうか?豪華な服装をしていれば魂も満足しているのでしょうか?永遠の判断基準は霊であって、物を基準にしてはいけません。そうしないと、真の公正がないことになります。

【Q7】

でも、やはり罪悪や飢餓、その他、低俗なものばかりがはびこる環境よりもよい環境のほうが、立派な動機を生みやすいのではないでしょうか?

 私は、そうは思いません。私が見てきたかぎりでは、偉大なる魂は必ずといってよいほど低い階層に生まれついています。偉人と呼ばれている人はみな、低い階層の出です。耐え忍ばねばならない困難が多いほど、魂はそれだけ偉大さを増すのです。本来の自我を見出させてくれるのは困難との闘争です。ものごとを外側からではなく、内側から見るようにしてください。

【Q8】

霊性は、物的生命と同時進行で進化してきたのでしょうか?

 同時進行ではありましたが〝同じ道〟ではありませんでした。霊が顕現するための道具として、物的身体のほうが霊よりも先に、ある程度の進化を遂げておく必要があったからです。

【Q9】

われわれは、死後も努力次第で向上進化するのであれば、罪深い動機から転落することもあるのでしょうか?

 ありますとも!こちらの世界に来ても、地上的な欲望から抜け切れずに、何百年も、ときには何千年も、進化らしい進化を遂げない者が大勢います。地上時代と同じ欲求と願望に明け暮れる生活を送り、霊的な摂理など理解しようとしません。身は霊界にあっても、地球の波動のなかで生活しており、霊的なものにまったく反応しないまま、刻一刻と霊性が堕落していきます。

【Q10】

そうやって際限もなく堕落していって、最後は消滅してしまうのでしょうか?

 そういうことはありません。内部に宿された大霊の火花が今にも消えそうに明滅するまでになることはあっても、完全に消えてなくなることはありません。大霊と結びつける絆は永遠なるものだからです。いかに低級な魂も、もはや向上できなくなるというほど堕落することはありません。いかに高級な魂も、もはや低級界の魂を救えないほど向上してしまうことはありません。

【Q11】

個霊は死後さまざまな階層をへて、最後は大霊と融合し、その後、物質その他の成分となって宇宙にばらまかれるのでしょうか?

 私は、完全の域まで達して完全性のなかに融合してしまったという個霊の話を聞いたことがありません。完全性が深まれば深まるほど、まだまだ完全でないところがあることに気づくことの連続です。そうやって意識が開発されていくのです。意識は、大霊の一部ですから無限であり、無限性へ向けて永遠に開発し続けるのです。究極の完全性というものを私たちも知りません。

【Q12】

でも、個霊が進化していくうちに類魂のなかに融合し切って、個々のアイデンティティーを失ってしまうのは事実ではないでしょうか?

 私の知るかぎり、そういうことはありません。ただ、次のようなことはあります。成就すべき大切な仕事があって、心を一つにする霊団が、知識と情報源を総動員してそれに没頭し、そのなかの一人が残り全員を代表してスポークスマンとなる、ということです。その間は全員が一つの心のなかに埋没してアイデンティティーを失っています。が、それも一時的なことです。

【Q13】

ペットは死後もそのまま存続しているそうですが、ふつうの動物でも存続しているのをご覧になることがありますか?

 あります。現在では犬や猫が人間のペットになっていますが、私たちが地上にいた頃は、ふつうの動物でも、私たちの仲間だったものがたくさんいました。人間との交わりで個性を発現した動物は、そのままの個性をたずさえて存続していました。もっとも、動物の場合は永遠ではありません。わずかな期間だけ存続して、やがて類魂のなかに融合していきます。その類魂が種を存続させるのです。

 大霊の子である人類は、大霊の霊力を授かっているがゆえに、意識がまだ人類の進化の次元にまで達していない存在に対して、その霊力を授けることができることを知らねばなりません。それが愛であり、その愛の力によって、まだその次元に達していない存在の進化を促進してあげることができるのです。

【Q14】

そのように人間にかわいがられた場合は別として、原則として動物も個性をたずさえて死後に存続するのでしょうか?

 存続しません。

【Q15】

動物が原則として個性をたずさえて存続しないとなると、たとえば人間にかまってもらえない動物や虐待されている動物と大霊との関係はどうなるのでしょうか。創造した者と創造された者との関係として見たとき、そういう動物の生命に大霊の公正はどのようなかたちで示されるのでしょうか?

 地上の人間の理解力を超えた問題を解説するのは容易ではありません。これまで私は、動物は死後、類魂のなかに融合していくと述べるにとどめてきましたが、その段階で埋め合わせの原理が働くのです。絶対的公正の摂理の働きによって、受けるべきでありながら受けられなかったもの、すべてについて埋め合わせがあります。

 しかしそれは、人間の進化の行程とは次元が異なります。しいてたとえれば、十分な手入れをされた花と、ほったらかしにされてしぼんでいく花のようなものでしょう。あなた方には、その背後で働いている摂理が理解できないかもしれませんが、ちゃんと働いているのです。

【Q16】

個々の動物について埋め合わせがあるのでしょうか?

 いえ、類魂としてです。受けた苦痛が類魂の進化を促すのです。

【Q17】
そのグループのなかには苦痛を受けた者とそうでない者とがいるはずですが、それがグループ全体として扱われるとなると、埋め合わせを受けるべき者とその必要のない者とが出てきます。そのへんはどうなるのでしょうか?

 体験の類似性によって、各グループが構成されます。

【Q18】

ということは、虐待された者とそうでない者とが、別々のグループを構成しているということでしょうか?

 あなた方の身体が、さまざまな種類の細胞から構成されているように、類魂全体にもさまざまな区分けがあります。

【Q19】

ばい菌のような原始的生命はなぜ存在するのでしょうか?また、それが発生し消毒されるということは、宇宙が愛によって支配されていることと矛盾しませんか?
 人間には自由意志が与えられています。大霊から授かっている霊力と、正しいことと間違ったこととを見分ける英知とを用いて、地上界を〝エデンの園〟にすることができます。それをしないで、ほこりと汚れで不潔にしておいて、それが生み出す結果について大霊に責任を求めるというのは虫がよ過ぎないでしょうか?

【Q20】

地上的生命の創造と進化が、弱肉強食という血染めの行程をたどったという事実のどこに、善性と愛という神の観念が見出せるのでしょうか?

 そういう意見を述べる人(注)は、なぜそういう小さな一部だけを見て全体を見ようとしないのでしょうか?進化があるということ、そのことが神の愛の証しではないでしょうか?その人たちは、そういう考えが一度も浮かんだことがないのでしょうか?人間が低い次元から高い次元へと進化するという事実そのものが、進化の背後で働いている摂理が愛の力であることの証しではないでしょうか?

 訳注──答えが直接質問者に向けられていないのは、多分、質問が読者からの投書だったのであろう。主語が「you」でなく「they」となっているところからそう判断したのであるが、もしかしたら質問が「という意見を述べる人がいますが…」となっていたのかもしれない。




  訳者あとがき 
 読者というのは、はじめてその本を読む人のことと理解してよいと思うが、本書に関するかぎりは、はじめての方に加えてすでにシルバーバーチを繰り返し読んでいる方が多い──むしろ、そういう方のほうが圧倒的に多いに違いないという想定のもとに、「あとがき」を書かせていただく。

 そのあと新しい読者のために、シルバーバーチ霊からのメッセージの中継者として生涯を捧げたモーリス・バーバネルの手記を紹介する。

 「編者まえがき」の冒頭で述べられているように、本書はすでに霊言集として十数冊の単行本として発行されているもののなかから、Q&A、つまり交霊会の出席者からの質問にシルバーバーチが答えたものばかりを編集したものである。

私は霊言集の原書をすべてそろえており、そのすべてを翻訳して一六冊の日本語版として四つの出版社から上梓した(巻末参照)。
 したがって、本書の原書を手にしたときは、その日本語版にあるものばかりなのだから、あえて訳す必要性はないと考えていたのであるが、「勉強会」を進めていくうちに、こういう問答形式のテキストも使い勝手がよい、むしろそのほうが効用が大きいように思えてきた。

 そこで翻訳に着手して、一章ごとに「勉強会」で披露していったのであるが、そのうち気がついたのは、部分的には訳した覚えがあっても、全体としては別個のものが、かなりの頻度で出てくることだった。

同じシルバーバーチが述べたことであるから、どこか似ていることを述べていても不思議はないのであるが、そのうち〝編纂〟という作業に関して、日本人と英国人との間に考え方の違い、大げさに言えば、精神構造の違いをほうふつさせる事実が明るみになってきた。

 それは、原書の編集者は、単に霊言を集めてテーマ別に区分けするというだけではなく、ときには別々の交霊会での霊言をつぎはぎして新しい文章をこしらえることがあるということである。

無駄、ないしはなくてもよいと思える文章を削るのはまだしも、そこで述べていないもの──たとえ別の箇所で述べていても──それをつぎ足してかたちだけ整えるのは、いささか悪趣味が過ぎるのではないかと思うので、私はそれを発見したときは削除した。
 そんな次第で、既刊の霊言集に出ているものと本書に出ているものとの間に〝似て非なるもの〟があるときは、本書のほうが正しい、つまりよけいなつけ足しをしていないと受け取っていただきたい。もちろん、表現を改めたところは少なからずあるが‥‥。

 もう一つ気づいたことは──これは嬉しい発見であるが──どの霊言集にも掲載されていない問答がいくつか見られることである。

そこで考えたのであるが、どうやら二人の編者は、前任者たちが霊言集を編纂したときの資料、つまり交霊会の速記録やテープ録音を文字に転写したもののなかから、新たに拾い出したものを採用したのではないかということである。

 これは、そうした資料に直接アクセスできない者にとっては実にありがたいことで、もしも条件が整えば、私自身がそうしたものの発掘の旅に英国まで行ってきたい心境である。未公開のものがいくらでもあるはずであるから‥‥。

 さて、回答で指摘したとおり、私自身の誤訳も見つかった。ある意味では大切な発見で、本文でもお詫びかたがた注を施しておいた。「not」を見落とした単純ミスで、いわゆる「思い込み違い」である。

が、その単純ミスがその後の文章の意味をわかりにくくしてしまうという、二重の過ちを犯したことになる。この一節はシルバーバーチ特有の、簡潔にして含蓄の深い文章の典型で、たった数行であるがきわめて難解である。

テーマは「アフィニティ」説で、二十世紀初頭に入手されたフレデリック・マイヤースの「類魂」説と基本的に同一である。

 けがの功名で、はからずも今回の誤訳の発見によって解説がしやすくなったので、ここで「霊魂」とは何か、それが「進化する」とはどういうことかを、改めて解説しておきたい。

 まず用語の意味を整理しなければならない。日本人は「霊」と「魂」を並べて「霊魂」という呼び方をする。見方によってはそれで問題ない場合もあるが、スピリチュアリズムでは明快に区別している。
 それをシルバーバーチの言葉で説明すると──「霊」とは全存在の根源的生命力で、無形・無色、影もかたちもないという。われわれ人間について言えば、身体のどこそこにあるという〝場所をもつ〟存在ではなく、「しいて言えば、意識です」とシルバーバーチは言うのであるが、この「しいて言えば」と断ること自体が、必ずしも「意識」とは言えない状態での存在もあることを示唆している。

 それについては後述するとして──「魂」とは、その霊が自我を表現するための媒体をまとった状態を指す。地上では、物的身体という媒体に宿って生命活動を営んでいるわけで、その意味で、人間も「霊」であると言ってもよいし、「魂」であると言ってもよいし、「霊魂」であると言っても間違いではないことになる。

シルバーバーチが用語にこだわらずに、ときには矛盾するかのような使い方をするのは、決していい加減な表現をしているわけではない。シルバーバーチがわれわれの実体を鳥瞰図的に見ているのに対し、われわれは脳の意識を焦点として考えているので、どうしても視野が狭くなり、字句にこだわることになる。

 日本の古神道には「一霊四魂」という思想がある。霊は自我で、その表現媒体として四つの魂、すなわち荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)があるというもので、スピリチュアリズムでいう自我と肉体・幽体・霊体・神体(または本体)の四つの身体という説とまったく同一である。

 さらには、これらの身体に相応した物質界・幽界・霊界・神界があるというわけであるが、ここではこれ以上は踏み込まないことにする。

    
 さて、自我である「霊」は、無始無終の存在として、単細胞生物にはじまって植物、動物と、その媒体を変えながら進化し、最後に「霊的流入(Spiritual Influx)」という過程をへてヒトの身体に宿る。そして、この段階ではじめて自我意識が芽生える。霊的生命の発達と進化の過程における「画期的飛躍」と呼んでよいであろう。

 シルバーバーチが「見ず知らずというわけではない」と述べたのは「意識的には知らない」という意味に解釈してよいであろう。無限の資質と可能性を秘めた霊的生命が、無意識の静的状態から動的状態へと移行し、機能的進化を重ねたあげくに「霊的流入」という飛躍をへてヒトとなり、自我意識と個性をそなえて、精神的ならびに霊的進化の旅に出ることになる。その旅に終点はないという。

 では、本書に掲載されていないシルバーバーチの霊言で、「霊的流入」を考慮してはじめて理解できる一節を紹介しておく。



「いく百万年とも知れない歳月をかけて、あなた方は下等な種から高等な種へと、媒体を徐々に発達させながら、泥のなかから天空へ向けて一段また一段と、ゆっくりと進化してきたのです。その間、少しずつ動物性を捨てては霊性を発揮するという過程を続けてきました。今あなた方が宿っている身体がそこまで発達するのに、はたして何百万年かかったことでしょう。しかし、まだ進化は終わっていないのです。

 そして他方において、魂も進化させなければならないのですが、それにも、これから何百万年かけることになるでしょうか。
 かつて、あなたはサルでした。サルそのものだったという意味ではありません。サルという種を通して顕現した時期もあったという意味です。それも大霊の機構の一部なのです。生命のあるところには、大霊の息吹があります。それなくしては、生命活動は存在しません。ただ、その息吹に段階的な差があるということです。発達と開発があり、下等な段階から高等な段階への転移があるということです。」


 では、このたびはじめてシルバーバーチと出会ったという方のために、シルバーバーチの専属霊媒としての生涯を送ったモーリス・バーバネルの手記を紹介する。
 これはバーバネルの後継者として週刊紙『サイキック・ニューズ(Psychic News)』の編集長となったトニー・オーツセンに「自分が死んでから公表してほしい」といって手渡したもので、その遺言どおり、一九七九年七月の他界後に同紙に掲載された。


 シルバーバーチと私                 モーリス・バーバネル

私の記憶によれば、スピリチュアリズムなるものをはじめて知ったのは、ロンドンで催されていた文人による社交クラブで無報酬の幹事をしていた18歳のときのことで、およそドラマティックとは言えないことがきっかけとなった。

 クラブで私の役目は二つあった。一つは著名な文人や芸術家を招待し、さまざまな話題について無報酬で講演してもらうことで、どうにか大過なくやりこなしていた。

 もう一つは、講演の内容いかんにかかわらず、私がそれに反論することでディスカッションへと発展させていくことで、いつも同僚が「なかなかやるじゃないか」と誉めてくれていた。

実はその頃、数人の友人が、私を交霊会なるものに招待してくれたことがあった。もちろん、はじめてのことで、私は大真面目で出席した。ところが、終わってはじめて、それが私をからかうための悪ふざけであったことを知らされた。

たとえ冗談とはいえ、十代の私は非常に不愉快な思いをさせられ、潜在意識的にはスピリチュアリズムに対し、むしろ反感を抱いていた。

 同時に、その頃の私は、他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教には背を向けていた。母親は信心深い女だったが、父親は無神論者で、母親が、「教会での儀式に一人で出席するのはみっともないから、ぜひ同伴してほしい」と嘆願しても、頑として聞かなかった。

二人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃からずいぶん聞かされた。理屈のうえでは必ずといってよいほど、父のほうが母をやり込めていたので、私は次第に無神論に傾き、それからさらに不可知論へと変わっていった。

 こうしたことを述べたのは、次に述べるその社交クラブでの出来事を理解していただく、その背景として必要だと考えたからである。
 ある夜の会で、これといった講演者のいない日があった。そこで、ヘンリー・サンダースという青年がしゃべることになった。彼は、スピリチュアリズムについて、彼自身の体験に基づいて話をした。終わると、同僚が例によって私のほうを向き、反論するようにとの合図を送ってきた。

 ところが、自分でも不思議なのだが、つい最近、にせの交霊会で不愉快な思いをさせられたばかりなのに、その日の私はなぜか反論する気がせず、こうした問題にはそれなりの体験がなくてはならないと述べ、したがって、それをまったくもちあわせない私の意見では価値がないと思うと述べた。これには出席者一同が驚いたようだった。当然のことながら、その夜は白熱した議論のないまま散会した。

 終わると、サンダース氏が近づいてきて「体験のない人間には意見を述べる資格はないとのご意見は、あれは本気でおっしゃったのでしょうか。もしそうだったら、ご自分でスピリチュアリズムを勉強なさる用意がおありですか」と尋ねた。「ええ……」──私は、つい、そう返事をしてしまった。が、「結論を出すまで六カ月の期間がいると思います」と付け加えた。

 そのことがきっかけで、サンダース氏は、私を近くで開かれていた交霊会へ招待してくれた。約束の日時に、私は、当時、婚約中だったシルビアを伴って出席した。会場に案内されてみると、ひどくむさ苦しいところで、集まっているのはユダヤ人ばかりだった。

若い者もいれば、老人もいる。あまり好感はもてなかったが、真面目な集会であることはたしかだった。

 霊媒は、ブロースタインという中年の女性だった。その女性がトランス状態に入り、その口を借りていろんな国籍の霊がしゃべるのだと聞いていた。

そして事実、そういう現象が起きた。が、私には何の感慨もなかった。少なくとも私の見るかぎりでは、彼女の口を借りてしゃべっているのが「死者」であることを得心させる証拠は、何一つ見当たらなかった。

 しかし、私には、六カ月間、スピリチュアリズムを勉強するという約束がある。そこで再び同じ交霊会に出席して、同じような現象を見た。ところが、会が始まって間もなく、退屈からか疲労からか、私はうっかり居眠りをしてしまった。目を覚ますと、私はあわてて非礼を詫びた。ところが驚いたことに、私は居眠りをしていたのではなく、レッド・インディアンが、私の身体を借りてしゃべっていたことを知らされた。

 それが私の最初の霊媒的トランス体験だった。何をしゃべったかは、自分にもまったくわからない。聞いたところでは、ハスキーで、のどの奥から出るような声で少しだけしゃべったという。その後、現在に至るまで大勢の方々に聞いていただいている、地味ながら人の心に訴えるとの評判を得ている響きとは、似ても似つかぬものだったらしい。

 しかし、そのことがきっかけで、私を霊媒とするホーム・サークルが誕生した。シルバーバーチも回を重ねるごとに、私の身体のコントロールがうまくなっていった。

コントロールするということは、シルバーバーチの個性と私の個性とが融合することであるが、それがピッタリうまくいくようになるまでには、何段階もの意識上の変化を体験した。

 はじめのうち、私は、トランス状態に入るのはあまり好きではなかった。それは多分に、私の身体を使っての言動が、私自身にわからないのは不当だという、生意気な考えのせいであったと思われる。

 ところが、あるとき、こんな体験をさせられた。交霊会を終わってベッドに横たわっていたときのことである。眼前に映画のスクリーンのようなものが広がり、その上にその日の会の様子が音声、つまり私の口を使っての霊言とともに、ビデオのように映し出されたのである。そんなことが、その後もしばしば起きた。

 が、その後、それは見られなくなった。それは、ほかならぬハンネン・スワッファーの登場のせいである。その後「フリート街の法王」(フリート街は、ジャーナリズム界の通称)と呼ばれるほどのご意見番となったスワッファーも、当時からスピリチュアリズムには彼なりの体験と理解があった(別の交霊会で劇的な霊的体験をして死後存続の事実を信じていた)。

 そのスワッファーが、私のトランス霊言に非常な関心を示すようになり、シルバーバーチ霊をえらく気に入り始めていた。そして、これほどの霊的教訓がひと握りの人間にしか聞けないのはもったいない話だといい出した。

元来が宣伝好きの男なので、それをできるだけ多くの人に分けてあげるべきだと主張し、『サイキック・ニューズ』(週刊の心霊紙)に連載するのがいちばんいいという考えを示した。

 はじめ、私は反対した。自分が編集している新聞に、自分の霊的現象の記事を載せるのはまずい、というのが私の当然の理由だった。しかし、ずいぶん論議したあげくに、私が霊媒であることを公表しないことを条件に、私もついに同意した。

 その頃から、私の交霊会は「ハンネン・スワッファー・ホームサークル」と呼ばれるようになり、同時に、その会での霊言が毎週定期的に掲載されるようになった。

当然のことながら、霊媒は一体だれなのかという詮索がしきりになされたが、かなりの期間、内密にされていた。しかし、顔の広いスワッファーが次々と著名人を招待するので、いくら箝口令を敷いても、いつまでも隠し通せるものではないと観念し、ある日を期して事実を打ちあける記事「シルバーバーチの霊媒はだれか──実はこの私である」を掲載したのだった(カッコ内は訳者。わかりやすく編集した箇所もある)。