Tuesday, December 16, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

三章 天上的なるものと地上的なるもの


2 守護霊と人間 

一九一三年十一月二四日   月曜日

 更に言えば、いついかなる時も吾らの存在を意識することは好ましいことであり、吾らにとって何かと都合がよい。事実、吾らはいつも近くにいる。もっとも、近くにいる形態はさまざまであり意味も異る。

距離的に近くにいる時は役に立つ考えや直感を印象づけるのが容易であり、又、仕事がラクに、そして先の見通しも他の条件下よりは鮮明に見えるように順序よく配慮することが出来る。

 吾らの本来の界にいる時でも、人間の心の中および取り巻く環境で起きている事柄のみならず、その事情の絡み合いがそのまま進行した場合どういう事態になるかについての情報をも入手する手段がある。

 こうして接触を保ちつつ吾らは監督指導が絶え間なく、そして滞りなく続けられるよう配慮し、挫折することのないように警戒を怠らない。

それが出来るのも吾らの界、および吾らと人間との間に存在する界層を通じて情報網が張りめぐらされているからであり、必要とあらば直接使者を派遣し、場合によっては今の吾々がそうであるように、自ら地上へ降りることも可能だからである。

 更にその方法とは別に、吾らの如き守護の任に当たる者が本来の界に留ったまま、ある手段を講じて自分に託された人間と接触し、然るべく影響を行使することも可能である。

これで理解が行くことと思うが、創造主の摂理は全界層を通じて一体となって連動し、相関関係を営んでいる。宇宙のいかなる部分も他の影響を受けないところは一つとして無く、人間が地上において行うことは天界全域に知れ亘り、それが守護霊の心と思想に反映し、守護霊としての天界での生活全体に影響を及ぼすことになる。

 されば人間は常に心と意念の働きに注意せねばならない。思念における行為、言葉における行為、そして実際の行為の全てが、目に映じ手を触れることのできる人々に対してのみならず、目には見えず手を触れることこそできないが、いつでも、そしてしばしば監視しながら接触している指導霊にも重大な影響を及ぼすからである。

それのみではない。地上から遠く離れた界層にて守護の任に当たる霊にも影響が及ぶ。私の界においても同じである。

この先更にどこまで届くか、それは敢えて断言することは控えたい。が、強いて求められれば、人間の行いは七の七十倍の勢い(*)を持って天界に知れ亘る、とでも答えておこう。その行きつく先は人間の視野にも天使の視野にも見届けることは出来ない。

何となれば、その行きつくところが神の御胸であることに疑いの余地は無いからである。(マタイ18・22。計り知れない勢いの意──訳者)

 故に、常に完全を心掛けよ。何となれば天に坐(ましま)す吾等が父が完全だからである。不完全なるものは神の玉座に列することを許されないのである。

 では善と美を愛さぬ者の住む界層はどうなるのか。実は吾らはその界層とも接触を保ち、地上と同じように、援助の必要があれば即座に届けられる。縁が薄いというのみであって決して断絶しているわけではないからである。

その界層の霊たちも彼らなりに学習している。その点は人間も変わらない。ただしその界の雰囲気は地上よりは暗い───ただそれだけのことである。彼らも唯一絶対なる神の息子であり娘であり、従って吾らの弟であり妹でもあるわけである。

人間の要請に応える如く彼らの魂の叫びに応えて吾らは援助の手を差し伸べる。そうした暗黒界の事情については貴殿はすでにある程度のことを知らされている。が、ご母堂の書かれたもの(第一巻三章)にここで少しばかり付け加えるとしよう。

 すでにご存知の通り、光と闇は魂の状態である。暗黒界に住む者が光を叫び求める時、それは魂の状態がそこの環境とそぐわなくなったことを意味する。そこで吾等は使者を派遣して手引きさせる。が、その方角は原則として本人の希望に任せる。

つまり、いきなり光明界へ連れてくることはしない。そのようなことをすれば却って苦痛を覚え、目が眩み、何も見えぬことになる。

そうではなく暗黒の度合いの薄れた世界、魂の耐えうる程度の光によって明るさを増した世界へ案内され、そこで更に光明を叫び求めるようになるまで留まることになる。

 暗黒地帯を後にして薄明の世界へ辿りついた当初は、以前に較べて大いなる安らぎと安楽さを味わう。その環境が魂の内的発達程度に調和しているからである。が、

尚も善への向上心が発達し続けると、その環境にも調和しない時期が到来し、不快感が募り、ついには苦痛さえ覚えるに至る。やがて自分で自分がどうにもならぬまま絶望に近い状態に陥り、自力の限界ぎりぎりまで至った時に、再び叫び声を上げる。

それに応えて神の使者が訪れ、更に一段階光明界に近い地域へと案内する。そこはもはや暗黒の世界ではなく薄明の世界である。かくて彼はついに光が光として見える世界へ辿り着く。それより先の向上の道にはもはや苦痛も苦悩も伴わない。喜びから更に大きな喜びへ、栄光から大いなる栄光へと進むのである。

 ああ、しかし、真の光明界へ辿り着くまでにいかに長き年月を要することか。苦悶と悲痛の歳月である。そしてその間に絶え間なく思い知らされることは、己れの魂が浄化しない限り再会を待ち望む顔馴染みの住む世界へは至れず、愛なき暗黒の大陸をとぼとぼと歩まねばならないということである。

 が、私の用いる言葉の意味を取り違えてはならない。怒れる神の復讐などは断じてない。「神は吾らの父なり」、しかして「父は愛なり」(ヨハネ)その過程で味わう悲しみは必然的なものであり、種子蒔きと刈入れを司る因果律によって定められるのである。

吾々の界──驚異的にして素晴らしいものを数多く見聞きできるこの界においてすら、まだその因果律の謎を知り尽くしたとは言えない。

全ての摂理が〝愛〟に発するものであることは、地上時代とは異なり、今の吾々には痛いほどよく解る。曽てはただ信ずるのみであったことを今は心行くまで得心することが出来ることも、憚(はばか)ることなく断言できる。が、因果律というこの厳粛なる謎については、まだまだ未知なるものがある。

が、吾々はそれが少しずつ明かされていくのを待つことで満足している。それというのも、吾々は万事が神の叡智によって佳きに計られていることを信ずるに足るだけのものを既に悟っているからである。

それは暗黒界の者さえいつの日か悟ることであろう。そして彼らがこの偉大にして美わしき光の世界へと向上進化して来てくれることが吾々にとっての何よりの慰めであり、また是非そうあらしむべく吾らが手引きしてやらねばならない。

そしてその暁には万事が有るがままにて公正であるのみならず、それが愛と叡智に発するものであることを認め、そして満足することであろう。

 吾々はそう理解しているのであり、そのことだけは確信を持って言える。そして私もその救済に当たる神の使者の一人なのである。

私が気づいていることは、かの恐ろしき暗黒の淵から這い上がって来た人たちの神への讃仰と祝福の念を、その体験の無い吾々のそれと比較する時、そこに愛の念の欠如が見られないことである。些かも見られぬのである。

と言うのも、正直に明かせば、彼らと共に天界の玉座の光の前にひれ伏して神への祈りを捧げた折のことであるが、彼らの祈りの中に私の祈りに欠けている何ものかがあることに気づいたのである。

そこで思わず、私もそれにあやかりたいとものと望みをかけて、ようやく思い止まったことでああった。

 それは許されぬことであろう。そして神はその愛ゆえに、吾々の内にあるものを嘉納されるに相違ない。それにしても、かのキリストの言葉は実に美わしく、愛がその美しさを赤裸々に見せる吾々の界において如実にその真実味を味わうのである。

 神はその愛の中にて人間と交わりを保つ。神の優しき抱擁に身を任せ、その御胸に憩いを求める時、何一つ恐れるものはない。 ♰  

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