Saturday, December 20, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

 The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

四章 天界の〝控えの間〟地上界

4 天使の怒り   

一九一三年十二月一日  月曜日

 暗黒の中にあって光明を見出す者は少なく、その暗黒の何たるかを理解する者もまた多くはない。暗黒は己れの魂の状態の反映に他ならない。その中にあって真理を求める者には、吾々の界よりその者の魂の本性と能力に応じて然るべき援助を授ける。

 それは今に始まったことではない。天地の創造以来ずっとそうであった。何となれば神は一つだからである。本性において一つであるのみならず、その顕現せる各界層を通じての原理においても一つなのである。

 神は、現在のこの物的宇宙を創造した時、直接造化の事業に携わる神霊に、計画遂行に要する能力を授けると同時に、すでに述べたように、その能力の行使に一定範囲の自由をも授けた。が、

万物を支配する法則の一つとして、その託された能力の行使においての自由から生まれる細々(こまごま)とした変化と、一見すると異質に思える多様性の中においても、統一性というものが主導的原理として全てを律し、究極において全てがその目的に添わねばならないことになっている。

 この統一性と一貫性の根本原理は造化の大業の事実上の責任者である最高界の神霊にとっての絶対的至上命令であり、絶対に疎かにされたことはない。

それは今日においても同じである。人間はその事実を忘れ、吾ら天界の者が未発達の人間世界に関与し、こうして直接交信し、教えを説き導くという事実を否定し、それに関わる者を侮辱する。

 同時に又、これに携わる者が途中で躊躇し、霊と口を利くことは悪であると思い、救世主イエスの御心に背くことになると恐れることこそ吾らには驚異に思える。

実はイエスが地上へ降りたそもそもの目的も、その大原理すなわち霊的なものと物的なものとは神の一大王国の二つの側面に過ぎず両者は一体であることを示す為であったのだが・・・・・・

 イエスの教えを一貫して流れるものもこの大原則であり、皮肉にも敵対者たちがイエスを磔刑(はりつけ)に処したのもそこに理由があった。

つまり、もともと神の王国がこの地上のみに限られるものであったならば、イエスは彼らの敵対者たちの地上的野望も安逸と豪奢な生活も批難することはなかったであろう。が、イエスは、神の国は天界にあり地上はそれに至る控えの間に過ぎないことを説いた。

そうなれば当然、魂の気高さを計る尺度は天界のそれであらねばならず、俗世が求める低次元の好き勝手は通じないことになる。

 しかし人間はその大真理を説くイエスを葬った。そして今日に至るも、さきに述べたように、キリスト教会と一般社会の双方の中にそれに似通った侮辱的感情を吾らは見ている。

人間が吾ら霊魂による地上との関わり合いを認識し、神の王国の一員としての存在価値を理解するに至るまでは、光明と暗黒の差の認識において大いなる進歩は望めないであろう。

 地上には盲目の指導者が余りに多すぎる。彼らは傲慢なる態度で吾々の仕事と使命を軽蔑し、それが吾々の不快を誘う。現今のキリスト教の指導者たちは言う──「当時の人間がもし真実を知っていたら栄光の主イエスを葬ることはしなかったであろう」と。まさにその通りであろう。が、現実には葬ったではないか。

同じく、そのように嘆く者たちが、もしも吾々のようにこうして地上へ降りてくる者が彼らのいう天使であることを認識すれば、吾々と地上の烏合の衆より一頭地を抜く者との交霊を悪(あ)しざまに言うこともあるまいに、と思う。

しかし現実には、吾らと係わりをもつ者たちを悪しざまに言っているではないか。そして主イエス・キリストを葬った者たちと同じ趣旨の申し開きをして、己れの無知と盲目を認めようとしないではないか。


──おっしゃることはまさにその通りで、間違ってはいないと思います。ただ、おっしゃることに憤怒に似たものが感じられます。それに、イエスを葬ったユダヤ人を弁護したのはペテロであってユダヤ人自身ではなかったのではないでしょうか。

 よくぞ言ってくれた。私は今たしかに怒りを込めて語っている。が、怒りも雅量のある怒り、すなわち愛に発する怒りがある。吾々が常に平然として心を動かされることがないかに思うのは誤りである。吾らとて時に怒りを覚えることがある。が、

その怒りは常に正しい。と言うよりは、そこに些かでも邪なものがあれば明晰な目を持って吾らを監視する上層界の霊によってすぐさま修正される。が、復讐だけは絶対にせぬ。

このことだけはよく憶えておいて欲しく思う。そしてまたよく理解しておいて欲しく思う。但し、公正の立場、そして又、吾々の協力者である地上の同志への愛の立場から、不当なる干渉をする者へは吾々がそれ相当の処罰を与え、義務の懲罰を課すことはある。

が、どうやら貴殿は私の述べることに賛同しかねている様子が窺える。そこで一応その気持ちを尊重し、この度はこの問題はおあずけと致そう。が、私が述べたことに些かの誤りもないし、何か訴えるものを感じる者にとっては熟考するに値する課題であることを指摘しておく。

 ペテロの弁護の問題であるが、確かに弁護したのはペテロであった。が、もう一つ次のことを忘れてはならない。私はベールのこちら側より語り、それを貴殿はベール越しに地上において聞いているということである。

人間と同じく吾々の世界にも歴史の記録──ベールのこちら側の歴史──があり、それは詳細をきわめている。その記録より判断するに、彼らイエスを告発した者たちは、こちら側へ来てその迷妄を弁明せんとしたが、大して弁明にはなっていない。

光明も彼らにとっては暗黒であり、暗黒が光明に思えた。なぜなら、彼らは魂そのものが暗黒界に所属していたからである。イエスの出現を光明と受け取れなかったのも同じ理由による。

無理からぬことであった。彼らはまさに真理に対して盲目であり理解できなかったのである。

かくて死後の世界においては盲目とは外の光を遮断することによる結果ではなく、魂の内部に起因する。外的でなく内的なのであり、霊的本性を意味する。故に真理に盲目なる者はそれに相応わしい境涯へと送られる──暗闇と苦悶の境涯である。

 今は光明界の強烈な活動の時代である。地上の全土へ向けて莫大なエネルギーが差し向けられている。教会も教義も、その波紋を受けないところはまずあるまい。光が闇へ向けて射し込みつつある。修養を心掛ける者にとっては大いに責任を問われる時代である。

すべからく旺盛な知識欲と勇気とを持ってその光を見つめ我がものとしなければならない。これが私からの警告であり、厳粛なる思いを込めて授けるものである。

と申すのも、私が語ることの多くは、物的脳髄を使用するより遥かに迅速に学ぶことのできる、この霊界という学校における豊富な体験を踏まえているからでる。この種の問題についての真相を人間はすべからく謙虚に求め、自ら探し出さねばならない。

 真理を求めようとせぬ者に対しては、吾々は敢えて膝を屈してまで要求しようとは思わない。そのことも彼らにしかと伝えるがよい。吾々は奴隷が王子へ贈物を差し出すがごとき態度で真理を授けることはしない。

地上のいかなる金銀財宝によっても買うことのできない貴重な贈物を携えて地上へ参り、人間のすぐ近くに待機する。そして謙虚にして善なる者、心清らかな者に、イエスの説いた真理の真意を理解する能力、死後の生命の確信と喜び、地上あるいは死後の受難を恐れぬ勇気、そして天使との交わりと協調性を授ける。

 本日はこれにて終りとする。これまでと比べて気の進まぬことを書かせたことについては、どうか寛恕を願いたい。こちらにそれなりの意図があってのことだからである。又の機会に、より明るいメッセージを述べることでその穴埋めをすることにしよう。

 心に安らぎと喜びを授からんことを。アーメン ♰

 

No comments:

Post a Comment