四章 天界の〝控えの間〟地上界
一九一三年十一月二六日 水曜日
語りたいことは数多くある。霊界の組織、霊力の働き──それが最上界より発し吾々の界層を通過して地球へ至るまでに及ぼす影響と効果、等々。その中には人間に理解できないものがある。また、たとえ理解はできても信じてもらえそうにないものもある。
それ故私は、その中でも比較的単純な原理と作用に限定しようと思う。その一つがいわゆるインスピレーションの問題である。それが吾々と人間との間でどのように作用しているかを述べよう。
ところで、このインスピレーションなる用語は正しく理解すれば実に表現力に富む用語であるが、解釈を誤ると逆に実に誤解を招き易い用語でもある。たとえば、それは吾々が神の真理を人間の心に吹き込むことであると言っても決して間違ってはいない。が、
それは真相のごく一部を述べているに過ぎない。それ以外のもの──向上する力、神の意志を成就する力、それを高尚な動機から成就しようとする道義心、その成就の為の叡智(愛と渾然一体となった知識)等々をも吹き込んでいるからである。
故に人間がインスピレーションを受けたと言う場合、それは一つの種類に限られたことではなく、また例外的なものでもない。
いかに生きるべきかを考えつつ生きている者──まったく考えぬ者はまずいないであろうが──は何らかの形で吾々のインスピレーションを受け援助を得ているのである。
が、その方法を呼吸運動に譬えるのは必ずしも正しいとは言えない。それを主観的に解釈すればまだしもよい。人間が吸い込むのは吾々が送り届けるエネルギーの波動だからである。
人間は山頂において深呼吸し新鮮なる空気を胸いっぱいに吸い込み爽快感を味わうが、吾々が送り届けるエネルギーの波動も同時に吸い込んでいるのである。
が、これを新しい神の真理を典雅なる言葉で世に伝える人々、あるいは古い真理を新たに説き直す特殊な人々のみに限られたことと思ってはならない。
病いを得た吾が子を介抱する母親、列車を運転する機関士、船を操る航海士、その他にもろもろの人間が黙々と仕事に勤しんでいるその合間をぬって、時と場合によって吾々がその考えを変え、あるいは補足している。
たとえ当人は気づかなくてもよい。大体において気づいていない。が、吾々は出来る範囲のことをしてそれで満足である。邪魔が入らぬ限りそれが可能なのである。
その邪魔にも数多くある。頑な心の持ち主には無理して助言を押し付けようとはしない。その者にも自由意志があるからである。また、われわれの援助が必要とみた時でも、そこに悪の勢力の障害が入り込み、吾々も手出しが出来ないことがある。
悪に陥れんとする邪霊の餌食となり、その後の哀れな様は見るも悲しきものとなる。
それぞれの人間が、老若男女を問わず、意識すると否とに拘らず、目に見えぬ仲間を選んでいると思えばよい。
当人が、吾々霊魂(スピリット)がこの地上に存在していること、つまり目に見えぬ未知の世界からの影響を受けているという事実をあざ笑ったとしても、善意と正しい動機にもとづいて行動しておれば、それは一向に構わぬことである。それが完全な障害となる気遣いは無用である。
吾々は喜んで援助する。なぜなら当人は真面目なのであり、いずれ自分の非を認める日も来るであろう──いずれ遠からぬ日に。ただ単に、その時点においては吾々の意図を理解するほどに鋭敏で無かったということに過ぎない。
人間が吾々の働きかけの意図を理解せず、結果的に吾々が誤解されることは良くあることである。
水車は車軸に油が適度に差されているときは楽に回転する。これが錆びつけば水圧を増さねばならず、車輪と車軸との摩擦が大きくなり、動きも重い。
又、船員は新たに船長として迎えた人が全く知らない人間であっても、その指示には一応忠実に従うであろうが、よく知り尽くした船長であれば、例え嵐の夜であっても命令の意味をいち速く理解してテキパキと動くであろう。
互いに心を知り尽くしている故に、多くを語らずして船長の意図が伝わるからである。それと同じく、吾々の存在をより自然に、そしてより身近に自覚してくれている者の方が、吾々の意図をより正しく把握してくれるものである。
それ故ひと口にインスピレーションと言っても意味は広く、その中身はさまざまである。古い時代の予言者は──今日でもそうであるが──その霊覚の鋭さに応じて霊界からの教示を受けた。霊の声を聞いた者もおれば姿を見た者もいた。
いずれも霊的身体に具わる感覚を用いたのである。また直感的印象で受けた者もいる。
吾々がそうした方法及び他の諸々の方法によって予言者にインスピレーションを送るその目的はただ一つ──人間の歩むべき道、神の御心に叶った道を歩むための心がけを、高い界にいる吾々が理解し得たかぎりにおいて、地上の人間一般へ送り届けることである。
もとより吾々の教えも最高ではなく、また絶対に誤りが無いとも言えない。が、少なくとも真剣に、そして祈りの気持ちと大いなる愛念を持って求める者を迷わせるようなことには絶対にならない。祈りも愛も神のものだからである。
そしてそれを吾ら神の使途は大いなる喜びとして受け止めるのである。
またそれを求めて遠くまで出向くことも不要である。なぜなら地上がすでに悪より善の勢力の方が優勢だからである。そしてその善と悪の程度次第で大いに援助できることもあれば、行使能力が制限されることもある。
故に人間は、各自、次の二つのことを心しなければならない。一つは、天界にて神に仕える者の如くに地上に在りても常に魂の光を灯し続けることである。吾々が人間界と関わるのは神の意志を成就するためであり、そのために吾々が携えて来るのは他ならぬ神の御力だからである。
人間の祈りに対する回答は吾ら使徒に割り当てられる。つまり神の答えを吾々が届けるのである。故に吾々の訪れには常に油断なく注意しなければならない。
実は吾々は、かのイエスが荒野における誘惑と闘った時、またゲッセマネにおける最大の苦境にあった時に援助に赴いた霊団に属していたのである。(もっともあの時直接イエスと通じ合った天使は私よりは遥かに霊格の高きお方であるが。)
もう一つ心しなければならないことは、常に〝動機〟を崇高に保ち、自分のためでなく他人の幸せを求めることである。吾々にとっても、己れ自身の利益より同胞の利益を優先させる者の進歩が最も援助しやすいものである。吾々は施すことによって授かる。
人間も同じである。イエスも述べた如く、動機の大半は施すことであらねばならない。そこにより大きな祝福への道があり、しかもそこに例外というものは無いのである。
イエスの言葉を思い出すがよい。「私はこの命を捨てるに吝(やぶさ)かではない。が私はそれを私の子羊のために捨てるのである」と述べ、その言葉どおりに、そして、いささかの迷いもなく、潔く生命を捨てられた。が、捨てると同時に更に栄光ある生命を持って蘇られた。
ひたすら同胞への愛に動かされていたからである。貴殿も〝我〟を捨てることである。そうすれば、施すことの中にも授かることの中にも喜びを味わうことであろう。
これを完全に遂行することは確かに至難のわざである。が、それが本来の正しい道であり、ぜひ歩まねばならぬ道なのである。それを主イエスが身を持って示されたのである。
花の導管は芳香を全部放出して人間を楽しませては、すぐまた補充し、そうした営みの中で日々成熟へと近づく。心優しき言葉はそれを語った人のもとに戻って来る。
かくして二人の人間はどちらかが親切の口火を切ることによって互いが幸せとなる。又、優しき言葉はやがて優しき行為となりて帰ってくる。かくて愛は相乗効果によって一層大きくなり、その愛と共に喜びと安らぎとが訪れる。
また施すことに喜びを感じる者、その喜び故に施しをする者は、天界へ向けて黄金の矢を放つにも似て、その矢は天界の都に落ち、拾い集められて大切に保存され、それを投げた者が(死後)それを拾いに訪れた時、彼は一段と価値を増した黄金の宝を受け取ることであろう。♰
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