七章 天界の高地
1 信念と創造力
一九一三年十二月十九日 金曜日
「神はあなた方の信念に応じてお授けになる」──このイエスの言葉は当時と同じく今もなお生きている。絶対的保証をもってそう断言できる。まず必要なのは信念なのである。信念があれば事は必ず成就される。成就の方法はさまざまであろう。が、寸分の狂いもない因果律の結果であることに変わりはない。
さて、これは地上世界にかぎられたことではない。死後の向上した界層、そしてこれ以後も果てしなく向上していく界層においても同じである。吾々が成就すべく鋭意努力しているのは、実際の行為の中において確信を得ることである。
確信を得れば他を援助するだけの霊力を身につけ、その霊力の行使を自ら愉しむこともできる。イエスも述べたように、施されることは喜びであるが、施すことの方がより大きな喜びであり愉しみだからである。
が、信念を行使するに当たり、その信念なるものの本質の理解を誤ってはならない。地上においては大方の人間はそれを至って曖昧に──真実についての正しい認識と信頼心の中間に位置する、何やら得体のしれないものと受け止めているようである。が、何事につけ本質を探る吾々の界層においては、信念とはそれ以上のものであると理解している。
すなわち信念も科学的分析の可能な実質あるエネルギーであり、各自の進化の程度に応じた尺度によって測られる。
その意味をより一層明確にするために、こちらでの私の体験を述べてみよう。
あるとき私は命を受けて幾つかに施設(ホーム)を訪ね、各施設での生活の様子を調べ、必要な時は助言を与え、その結果を報告することになった。さて一つ一つ訪ねて行くうちに、森の外れの小じんまりとしたホームに来た。そこには二人の保護者のもとで大勢の子供が生活をしている。
お二人は地上で夫婦だった者で、死後もなお手を取りあって向上の道を歩みつつある。彼らが預かっているのは死産児、つまり生まれた時すでに死亡していたか、あるいは生後間もなく死亡した子供たちである。こうした子供たちは原則として下層界にある〝子供の園〟には行かず、彼ら特有の成長条件を考慮して、この高い界層へ連れて来られる。
これは彼らの本性に地臭が無いからであるが、同時に、少しでも地上体験を得た者、あるいは苦難を味わった子供に比べて体質が脆弱であるために、特殊な看護を必要とするからでもある。
お二人の挨拶があり、さらにお二人の合図で子供たちが集まって来て、歓迎の挨拶をした。が、子供たちは一様に恥ずかしがり屋で、初めのうちは容易に私の語りかけに応じてくれなかった。
それというのも、ここの子供たちは今述べた事情のもとでそこへ連れて来られているだけに性格がデリケートであり、私もそうした神の子羊に対して同情を禁じ得なかった。そこであれこれと誘いをかけているうちに、ようやくその態度に気さくさが見られるようになってきた。
そのうち可愛らしい男の子が近づいてきて腰のベルトに手を触れた。その輝きが珍しかったのであろう。もの珍しげに、しげしげと見入っている。そこで私は芝生に腰を下ろし、その子を膝に抱き、そのベルトから何か出して見せようかと言ってみた。すると初めその意味がよく分からない様子であった。そして次に、ほんとにそんなことが出来るのだろうかという表情を見せた。
が、私がさらに何か欲しいかと尋ねると、「もしよろしかったらハトをお願いします」と言う。なかなか丁寧な言い方をしたので私はまずそのことを褒めてやり、さらに、子供が素直に信じてお願いすれば、神様が良いことだとお許しになったことはかならず思いどおりになるものであることを話して聞かせた。
そう話してからその子を前に立たせておき、私は一羽のハトを念じた。やがて腰のベルトを留めている金属のプレートの中にハトの姿が見えはじめた。それが次第に姿を整え、ついにプレートからはみ出るほどになった。それを私が取り出した。
それは生きたハトで、私の手のひらでクークーと鳴きながら私の方へ目をやり、次のその子の方へ目をやり、どちらが自分の親であろうかと言わんばかりの表情を見せた。その子に手渡してやると、それを胸のところに抱いて、他の子供たちのところへ見せに走って行った。
それは実は子供たちをおびき寄せるための一計に過ぎなかった。案の定それを見て一人二人と近づいて来て、やがて私の前に一団の子供たちが集まった。そして何かお願いしたいがその勇気が出せずにいる表情で、私の顔に見入っていた。が、
私はわざと黙って子供たちから言い出すのを待ち、ただニコニコとしていた。と言うのは、私は今その子たちに信念の力を教えようとしているのであり、そのためには子供の方から要求してくることが絶対必要だったのである。
最初に勇気を出してみんなの望みを述べたのは女の子であった。私の前へ進み出ると、その可愛らしいくぼみのある手で私のチュニックの縁を手に取り、私の顔を見上げて少し臆しながら「あの、できたら・・・・・・」と言いかけて、そこで当惑して言いそびれた。そこで私はその子を肩のところまで抱きあげ、さあ言ってごらん、と促した。
その子が望んだのは子羊であった。
私は言った。今お願いしてあるからそのうち届けられるであろう。何しろ子羊はハトに較べてとても大きいので手間が掛かる。ところで、本当にこの私に子羊が作れると信じてくれるであろうか、と。
彼女の返事は至ってあどけなかった。こう答えたのである。「あのー、皆んなで信じてます。」私は思わず声を出して笑った。そして皆んなを呼び寄せた。すると、翼のついたハトが作れたのだから毛の生えた子羊も作れると思う、と口々に言うのである。(もっとも子供たちは毛のことを毛皮といっていたが)
それから私は腰を下ろして子供たちに話しかけた。まず〝吾らが父〟なる神を愛しているかと尋ねた。すると皆んな、もちろん大好きです。この美しい国をこしらえ、それを大切にすることを教えてくださったのは父だからです。と答えた。
そこで私はこう述べた。父を愛する者こそ真の父の子である。子供たちが父の生命力と力とを信じ、賢くそして善いものを要求すれば、父はその望みどおりのものを得るための意念の使い方を教えてくださる。動物もみんなで作れるであろうから私がこしらえてあげる必要はない。ただし初めてにしては子羊は大きすぎるから今回はお手伝いしてあげよう、と。
そう述べてから、子供たちに心の中で子羊のことを思い浮かべ、それが自分たちのところへやってくるように念じるように言った。ところが見たところ何も現れそうにない。実は私は故意に力を控えめにしておいたのである。しばらく試みたあと一息入れさせた。
そしてこう説明した。どうやら皆さんの力はまだ十分ではないようであるが、大きくなればこれくらいのことは出来るようになる。ただし祈りと愛をもって一心に信念を発達させ続ければのことである、と。そしてこう続けた。
「あなたたちも力はちゃんとあるのです。ただ、まだまだ十分でなく、小さいものしか作れないということです。では私がこれから実際にやってみせてあげましょう。あとはあなた方の先生から教わりなさい。あなたたちにはまだ生きた動物をこしらえる力はありませんが、生きている動物を呼び寄せる力はあります。このあたりに子羊はおりますか?」
この問いに皆んな、このあたりにはいないけど、ずっと遠くへ行けば何頭かいる。つい先ごろそこへ行ってきたばかりだという。
そこで私は言った。「おや、あなたたちの信念と力によって、もうそのうちの一頭が呼び寄せられましたよ。」
そう言って彼らの背後を指さした。振り向くと、少し離れた林の中の小道で一頭の子羊が草を食んでいるのが目に入った。
その時の子供たちの驚きようはひと通りではなかった。唖然として見つめるのみであった。が、そのうち年長の何人かが我に帰って、歓喜の声を上げながら一目散に子羊めがけて走って行った。子羊も子供たちを見て、あたかも遊び友達ができたのを喜ぶかのように、ピョンピョンと飛び跳ねながら、これ又走り寄ってきた。
「わぁ、生きてるぞ!」先に走り寄った子供たちはそう叫んで、あとからやってくる者に早く早くという合図をした。そして間もなくその子羊はまるで子供たちがこしらえたもののようにもみくしゃにされたのであった。自分たちがこしらえたものだ、だから自分たちのものだ、と言う気持ちをよほど強く感じたものと察せられる。
さて以上の話は読む者の見方次第で大して意味はないように思えるかもしれない。が、重要なのはその核心である。私は自信をもって言うが、こうして得られる子供たちのささやかな教訓は、これから幾星霜を重ねたのちには、どこかの宇宙の創造にまで発展するその源泉となるものである。今宇宙を支配している大天使も小天使も、その原初はこうした形で巨大な創造への鍛錬を始めたのである。
私が子供たちに見せたのが実に〝創造〟の一つの行為であった。そして私の援助のもとに彼らが自ら行ったことはその創造行為の端緒であり、それがやがて私がやってみせたのと同じ創造的行為へと発展し、かくして信念の増加と共に、一歩一歩、吾々と同じくより威力あるエネルギーの行使へ向けて向上進化して行くのである。
そこに信念の核心がある。人間の目に見えず、また判然と理解できなくても、その信念こそが祈りと正しい動機に裏打ちされて、みずからの成就を確実なものとするのである。
貴殿も信念に生きよ。ただし要心と用意周到さと大いなる崇敬の念も身につけねばならない。信念こそ主イエスが人間に委ねられた、そして吾々には更に大規模に委ねられた、大いなる信託の一つだからであり、それこそ並々ならぬイエスの愛のしるしだからである。
そのイエスの名に祝福あれ。アーメン ♰
No comments:
Post a Comment