The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen
三章 天界の経綸
4 美なるものは真なり
一九一七年十一月三十日 金曜日
〝美〟なるものは〝真〟である──これが天界において最も目立つ原則の一つです。逆の言い方をすれば、見た目に醜(みにく)く歪(いびつ)なものは、細かく観察すると必ずどこか真実の持つ特質に欠けていることが判ります。
吾々が〝真実〟というときは貴殿らが神または父と呼ぶところの究極の精神(こころ)と調和したものを意味する。
父より湧き出ずるものには必ず秩序があり、その子孫たる吾々の至高にして至純なる憧憬と相通ずるものがある。その特質に相応しいものは〝美〟を惜いて他にありません。
何となれば美なるものは見た目にも心地よいものだからです。愛の本質を知る者にとって、その愛を心地よく包むものは〝調和〟です。
その愛のみが上(のぼ)せうる馳走に何の食欲もそそられない者は、どこか愛に逆らうものを宿している者にかぎられます。そして、ここで銘記すべきことは、愛は神より出ずるものであると同時に神そのものでもあるということです。
そこで吾々は陸の風景にせよ海の風景にせよ、あるいは人間の顔にせよ身体にせよ、その美しさ、その均整美は神の倉庫より取り出せる美の表現であり、真なるものも神の意思と調和したもの以外は有り得ないことを理解しているので、美なるものはすべて真であり、真なるものはすべからく美を具えていなければならないと言うのです。
神の生命の流れが汚されるのはその本流に逆らう何らかのエネルギーが流入するからであり、この譬えはそのまま人類に当てはまる。
すなわち一家庭ないしは一国家内の不和はそれ自身の中にあるのではなく、その源ははるか天界において神の目的と意志に逆らうものが混入した時点にまで遡ることができる。
しかし、神の御力はあくまでも〝奇しきもの〟である。究極的には神がそうした不純な要素をも有用なるものに変え、活用を誤った神的生命力の対立的表現の一つ一つから、人間も天使も含めた全存在の向上進化のために役立つものを抽出していく。
──おっしゃることが(私の筆で)正しく表現できているかどうか私には判りませんが、いずれにしてももう少し判り易い話題、そして単純に表現できるものにしていただけないでしょうか。
では、すでに話題にした例の大聖堂について今少し述べるとしましょう。この話題なら貴殿の霊聴力と同時に霊視力も使用できるので、吾々にとっても表現しやすく、貴殿にとっても受けやすいでしょう。貴殿は今夜は吾々の期待するほどの心の平静さが見られません。
(創造物)
その大聖堂に大きな塔が付いている。が、その塔に吾々が解(げ)しかねる一角があった。その大塔は建物の角に立っており、正方形をしている。その四つの角の一つが他の三つと様子が異なるのだった。
が、妙なことに吾々の中の誰一人として、他の角と比較して何が欠けているとかどこがどう違っているとかが判らなかった。
四つの角を同時に見た時は、私の目には形も均整も他と全く同じに見える。ところが他の三つを見てからその角に目をやり、さらに近づいてその台座を見て回ると、明らかに調和に欠けるものを感じる。何度やっても同じものを感じるのです。
余計な話は省略して結論を急ぎましょう。結局その欠陥を見出したのは、その建築に携わった吾々のうちの誰でもなく、たまたまその第五界を通りかかった、もう一つ上の界の方で、その方があとで詳しく原因を教えて下さったのであった。
その方は暗黒の下層界で大きな対立や反乱が起き、その悪影響が境界を接したすぐ上の界へ及んでいる時に、その鎮圧に赴く霊団のお一人である。
そうした騒乱による悪影響は強烈で、上の界まで及んで進歩を阻害し、ようやく光明界へ向けて向上せんと必死に努力している霊を挫けさせ、一時的に努力を怠らせる結果となる。もっとも、よほどの騒乱でないかぎり完全に絶望的なものには至らない。
その方はそうした騒乱が発生した時に霊団の一人として暗黒界へ降りてその鎮圧に当たり、せっかく光明に目覚めて向上しかけた霊が足を引っぱられぬように配慮する仕事に携わっておられる。
吾々を困惑させていた塔の異常の原因をすぐに突き止めることができたのも、そうした烈しい仕事に永く携わってこられたからである。その方はまず四つの壁を入念に点検されてから、その建物を離れて遠くの丘に上がり、そこからしばらく塔を見つめておられた。
やがて戻って来られ、吾々を平地に呼び集めて、およそ次のような言葉で欠陥を説明してくださった。
「皆さんがこの聖堂の建築に携わっておられた時、この塔の部分だけを残してまず他のホールの仕上げを急がれた。それが終わってから持てるエネルギーの全てをこの塔を強固にする作業に集中された。そのとき仕事に夢中になって一つだけ見落されたことがあります。
四つの側面の手入れに同じ頭数(あたまかず)で当たるべきだったことです。その上、高く聳えた塔の上の部分に遠くからの光が当たった時に下の部分で働いていた人たちの意思がその方へ奪われ、その時そこを流れていた霊力に十分に曝(さら)されなかった。
ちょうどその時です。たまたま私たちの一団が暗黒界での仕事からの帰りにここを通りかかりました。私たちは悪戦苦闘したあとで、すっかり体力を消耗していましたので、そこを流れていた霊力を吸収してしまったのです。
そのとき四つの側面に同じ人数が携わっていれば良かったのですが、私たちもそうとは知らずに、その数の少ない問題の部分から吸収してしまったということです。
ですから問題の角は形と均整がいびつなのではなくて、素材のキメが粗いのです。この私の話を念頭に置かれてもう一度よくご覧になれば、他の三つの角に較べてその角だけが色調が暗いことに気づかれるでしょう。
それは今も言ったとおり私たちによって生命力を奪われ光沢を失ったからで、形態は他と少しも変わらないのに、見た感じが見劣りがするわけです」
そのあと吾々もその通りであることを確認し、その修復を行ったが、それは簡単に済みました。最初に建築に携わった同じメンバーを集めて仕事に取り掛かりました。
全員から湧き出る意念の流れをその問題の箇所に向けて放射すると、次第に色調が明るさを増して他の部分と同じ光輝を放つようになりました。そして完全に同じとなった段階で意念の放射を止めました。仕上がりは上々で、完璧な調和を見せておりました。
これでお判りの通り、そもそもの原因はまだ建築が完全に仕上がっていない段階で暗黒界でエネルギーを使い果たした一団がそうとは知らずに近くを通りかかったことにあった。悪というものは本質的には侵略的なものではなく消極的なものです。
善性の欠如にすぎません。善なるものには力があります。暗黒界での仕事でエネルギーを使い果たした一団が吸い取った力も善なる天使の力です。
吾々の側を通りかかった時に無意識のうちに生命力を再摂取したのも、元はといえば暗黒界の悪影響に原因があり、それが不調和を生んだ。それは美の欠如を意味する。かくして吾々は廻りめぐって〝美なるものは真である〟という最初の言葉に戻って来た。
では失礼します。祝福を。
一九一七年十一月三十日 金曜日
〝美〟なるものは〝真〟である──これが天界において最も目立つ原則の一つです。逆の言い方をすれば、見た目に醜(みにく)く歪(いびつ)なものは、細かく観察すると必ずどこか真実の持つ特質に欠けていることが判ります。
吾々が〝真実〟というときは貴殿らが神または父と呼ぶところの究極の精神(こころ)と調和したものを意味する。
父より湧き出ずるものには必ず秩序があり、その子孫たる吾々の至高にして至純なる憧憬と相通ずるものがある。その特質に相応しいものは〝美〟を惜いて他にありません。
何となれば美なるものは見た目にも心地よいものだからです。愛の本質を知る者にとって、その愛を心地よく包むものは〝調和〟です。
その愛のみが上(のぼ)せうる馳走に何の食欲もそそられない者は、どこか愛に逆らうものを宿している者にかぎられます。そして、ここで銘記すべきことは、愛は神より出ずるものであると同時に神そのものでもあるということです。
そこで吾々は陸の風景にせよ海の風景にせよ、あるいは人間の顔にせよ身体にせよ、その美しさ、その均整美は神の倉庫より取り出せる美の表現であり、真なるものも神の意思と調和したもの以外は有り得ないことを理解しているので、美なるものはすべて真であり、真なるものはすべからく美を具えていなければならないと言うのです。
神の生命の流れが汚されるのはその本流に逆らう何らかのエネルギーが流入するからであり、この譬えはそのまま人類に当てはまる。
すなわち一家庭ないしは一国家内の不和はそれ自身の中にあるのではなく、その源ははるか天界において神の目的と意志に逆らうものが混入した時点にまで遡ることができる。
しかし、神の御力はあくまでも〝奇しきもの〟である。究極的には神がそうした不純な要素をも有用なるものに変え、活用を誤った神的生命力の対立的表現の一つ一つから、人間も天使も含めた全存在の向上進化のために役立つものを抽出していく。
──おっしゃることが(私の筆で)正しく表現できているかどうか私には判りませんが、いずれにしてももう少し判り易い話題、そして単純に表現できるものにしていただけないでしょうか。
では、すでに話題にした例の大聖堂について今少し述べるとしましょう。この話題なら貴殿の霊聴力と同時に霊視力も使用できるので、吾々にとっても表現しやすく、貴殿にとっても受けやすいでしょう。貴殿は今夜は吾々の期待するほどの心の平静さが見られません。
その大聖堂に大きな塔が付いている。が、その塔に吾々が解(げ)しかねる一角があった。その大塔は建物の角に立っており、正方形をしている。その四つの角の一つが他の三つと様子が異なるのだった。
が、妙なことに吾々の中の誰一人として、他の角と比較して何が欠けているとかどこがどう違っているとかが判らなかった。
四つの角を同時に見た時は、私の目には形も均整も他と全く同じに見える。ところが他の三つを見てからその角に目をやり、さらに近づいてその台座を見て回ると、明らかに調和に欠けるものを感じる。何度やっても同じものを感じるのです。
余計な話は省略して結論を急ぎましょう。結局その欠陥を見出したのは、その建築に携わった吾々のうちの誰でもなく、たまたまその第五界を通りかかった、もう一つ上の界の方で、その方があとで詳しく原因を教えて下さったのであった。
その方は暗黒の下層界で大きな対立や反乱が起き、その悪影響が境界を接したすぐ上の界へ及んでいる時に、その鎮圧に赴く霊団のお一人である。
そうした騒乱による悪影響は強烈で、上の界まで及んで進歩を阻害し、ようやく光明界へ向けて向上せんと必死に努力している霊を挫けさせ、一時的に努力を怠らせる結果となる。もっとも、よほどの騒乱でないかぎり完全に絶望的なものには至らない。
その方はそうした騒乱が発生した時に霊団の一人として暗黒界へ降りてその鎮圧に当たり、せっかく光明に目覚めて向上しかけた霊が足を引っぱられぬように配慮する仕事に携わっておられる。
吾々を困惑させていた塔の異常の原因をすぐに突き止めることができたのも、そうした烈しい仕事に永く携わってこられたからである。その方はまず四つの壁を入念に点検されてから、その建物を離れて遠くの丘に上がり、そこからしばらく塔を見つめておられた。
やがて戻って来られ、吾々を平地に呼び集めて、およそ次のような言葉で欠陥を説明してくださった。
「皆さんがこの聖堂の建築に携わっておられた時、この塔の部分だけを残してまず他のホールの仕上げを急がれた。それが終わってから持てるエネルギーの全てをこの塔を強固にする作業に集中された。そのとき仕事に夢中になって一つだけ見落されたことがあります。
四つの側面の手入れに同じ頭数(あたまかず)で当たるべきだったことです。その上、高く聳えた塔の上の部分に遠くからの光が当たった時に下の部分で働いていた人たちの意思がその方へ奪われ、その時そこを流れていた霊力に十分に曝(さら)されなかった。
ちょうどその時です。たまたま私たちの一団が暗黒界での仕事からの帰りにここを通りかかりました。私たちは悪戦苦闘したあとで、すっかり体力を消耗していましたので、そこを流れていた霊力を吸収してしまったのです。
そのとき四つの側面に同じ人数が携わっていれば良かったのですが、私たちもそうとは知らずに、その数の少ない問題の部分から吸収してしまったということです。
ですから問題の角は形と均整がいびつなのではなくて、素材のキメが粗いのです。この私の話を念頭に置かれてもう一度よくご覧になれば、他の三つの角に較べてその角だけが色調が暗いことに気づかれるでしょう。
それは今も言ったとおり私たちによって生命力を奪われ光沢を失ったからで、形態は他と少しも変わらないのに、見た感じが見劣りがするわけです」
そのあと吾々もその通りであることを確認し、その修復を行ったが、それは簡単に済みました。最初に建築に携わった同じメンバーを集めて仕事に取り掛かりました。
全員から湧き出る意念の流れをその問題の箇所に向けて放射すると、次第に色調が明るさを増して他の部分と同じ光輝を放つようになりました。そして完全に同じとなった段階で意念の放射を止めました。仕上がりは上々で、完璧な調和を見せておりました。
これでお判りの通り、そもそもの原因はまだ建築が完全に仕上がっていない段階で暗黒界でエネルギーを使い果たした一団がそうとは知らずに近くを通りかかったことにあった。悪というものは本質的には侵略的なものではなく消極的なものです。
善性の欠如にすぎません。善なるものには力があります。暗黒界での仕事でエネルギーを使い果たした一団が吸い取った力も善なる天使の力です。
吾々の側を通りかかった時に無意識のうちに生命力を再摂取したのも、元はといえば暗黒界の悪影響に原因があり、それが不調和を生んだ。それは美の欠如を意味する。かくして吾々は廻りめぐって〝美なるものは真である〟という最初の言葉に戻って来た。
では失礼します。祝福を。
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