Psychic Therapy---The Real Significance of Psychic Therapy
Silver Birch Speaks Again
Edited by S. Phillips
「これまでに成し遂げてこられたことは確かに立派ですが、まだまだ頂上は極められておりません」
世界的に知られる心霊治療家のハリー・エドワーズ氏が助手のジョージ・バートン夫妻と共に交霊会を訪れたときにシルバーバーチがそう語りかけた。(訳者注───今はもう三人ともこの世にいないが、〝ハリー・エドワーズ心霊治療所〟Harry Edwards Healing Sanctuary はその名称のままレイ・ブランチ夫妻が引き継ぎ今も治療活動を続けている)
シルバーバーチは続けてこう語る───
「あなた方のこれまでの努力がまさに花開かんとしております。これまでのことは全てが準備でした。バプテスマのヨハネがナザレのイエスのために道を開いたように、これまでのあなた方の過去は、これからの先の仕事のため、つまりより大きな霊力が降りてあなた方とともに活動していくための準備期間でした。
ほぼ完璧の段階に近づいているあなた方三人の信頼心と犠牲的精神とそれを喜びとする心情は、それみずからが結果をもたらします。霊の力と地上の力との協調関係がますます緊密となり、それがしばしば〝有り得ぬこと〟と思えることを成就しております。条件が整った時に起きるその奇跡的治療のスピードに注目していただきたいと思います」
エドワーズ「何度も目のあたりにしております」
「大いなる進歩がなされつつあること、多くの魂に感動を与え、それがさらに誘因となって他の大勢の人々にもその次元での成功(単なる病気治療にとどまらず魂の琴線に触れさせること)をおさめる努力が為されつつあります。常にその一つに目標をおいて下さい。すなわち魂を生命の実相に目覚めさせることです。
それがすべての霊的活動の目標、大切な目標です。ほかは一切かまいません。病気治療も、霊的交信を通じての慰めも、さまざまな霊的現象も、究極的には人間が例外なく神の分霊であること、すなわち霊的存在であるというメッセージに目を向けさせて初めて意義があり、神から授かった霊的遺産を我がものとし宿命を成就するためには、ぜひその理解が必要です。
それが困難な仕事であることは私もよく承知しております。が、偉大な仕事ほど困難が伴うものなのです。霊的な悟りを得ることは容易ではありません。とても孤独な道です。それは当然のことでしょう。
もしも人類の登るべき高所がいとも簡単にたどりつくことができるとしたら、それは登ってみるほどの価値はないことになります。安易さ、吞ん気さ、怠惰の中では魂は目を開きません。刻苦と奮闘と難儀の中にあってはじめて目を覚まします。これまで、魂の成長が安易に得られるように配慮されたことは一度たりともありません。
あなた方が治療なさる様子を見ていとも簡単に行っているように思う人は、表面しか見ていない人です。今日の頂上に到達するまでには、その背景に永年の努力の積み重ねがあったことを知りません。治療を受ける者が満足しても、あなた方は満足してはなりません。
一つの山頂を極めたら、その先にまた別の山頂がそびえていることを自覚しなくてはいけません。いかがでしょう。私の話は参考になりますでしょうか。あなた方はすでによくご存じのことばかりでしょう」
エドワーズ 「分ってはいても改めて認識することは大切なことです」
「こうした会合の場は、地上の人間でない私どもがあなた方地上の人間に永遠の原理、不滅の霊的真理、顕幽の区別なくすべての者が基盤とすべきものについての認識を新たにさせることに意義があります。物質界に閉じ込められ、物的身体にかかわる必要性や障害に押しまくられているあなた方は、ともすると表面上の物的なことに目を奪われて、その背後の霊的実在のことを見失いがちです。
肉体こそ自分である、いま生きている地上世界こそ実在の世界であると思い込み、実は地上世界はカゲであり、肉体はより大きな霊的自我の道具にすぎないことを否定することは実に簡単なことです。
もしも刻々と移り行く日常生活の中にあって正しい視野を失わずに問題の一つ一つを霊的知識に照らしてみることを忘れなければ、どんなにか事がラクにおさまるだろうにと思えるのですが・・・・・・残念ながら現実はそうではありません。
こうした霊界との協調関係の中での仕事にたずさわっておられる人でさえ、ややもすると基本的な義務を忘れ、手にした霊的知識が要求する規範に適った生き方をしていらっしゃらないことがあります。知識は大いなる指針となり頼りになるものですが、手にした知識をどう生かすかという点に大きな責任が要請されます。
治療の仕事にたずさわっておられると、さまざまな問題──説明できないことや当惑させられること──に遭遇させられることでしょうが、それは当然のことです。私どもは地上と霊界の双方の人間的要素に直面させられどおしです。治療の法則は完全です。が、それが不完全な道具を通じて作用しなければなりません。
人間を通して働かねばならない法則がいかなる結果を生み出すかを、数学的正確さを持って予測することは不可能ということになります。
たとえ最善の配慮をもってこしらえた計画さえも挫折させるほどの事情が生じることがあります。この人こそと思って選んで開始した何年にもわたる準備計画が、本人の自由意志によるわがままによって水の泡となってしまうことがあります。しかし全体として見れば霊力の地上への投入が大幅に増えていることを喜んでよいと思います。
現実にあなた方が患者の痛みを和らげ、あるいは治癒してあげることができているという事実、苦しむ人々を救うことができているという事実。お仕事が広がる一方で衰えることがないという事実。たとえワラを掴む気持ちからではあっても、あなた方のもとへ大ぜいの人々が救いを求めて来ているという事実、こうした事実は霊力がますます広がりつつあることの証拠です。
霊力によって魂がいったん目を覚ましたら、その人は二度と元の人間には戻らないという考えがありますが、私もそう考えている一人です。言葉には説明しがたい影響、本人も忘れようにも忘れられない影響を受けているものです」
エドワーズ 「その最後の段階で病気の治癒と真理の理解との兼ね合いがうまくいってほしいのですが、霊的高揚というのはなかなか望めないように思います」
「見た目にはそうです。が、目に見えない影響力がつねに働いております。霊力というのは磁気性をもっており、いったん出来あがった磁気的繋がりは決して失われません。一個の人間があなたの手の操作を受けたということは───〝手〟というのは象徴的な意味で用いたまでです。
実際には身体に触れる必要はありませんから───その時点でその人との磁気的つながりが出来たということです。つまり霊の磁力がその人の〝地金〟を引きつけたということで、その関係は決して切れることはありません。
その状態を霊の目すなわち霊視力で見ますと、小さな畑の暗い土の中で小さな灯りがともったようなものです。理解力の最初の小さな炎でしかありません。種子が芽を出して土中から頭をもたげたようなものです。暗闇の中から初めて出て来たのです。
それがあなた方の為すべき仕事です。からだを治してあげるのは結構なことです。それに文句をつける人はいません。が、魂に真価を発揮させること、聖書流に言えば魂に己れを見出させることは、それよりはるかに大切です。魂を本当の悟りへの道に置いてあげることになるからです」
ここでサークルのメンバーの一人が述べた───「心霊治療で治った人の中には魔術的なものが働いたと考える人がいます。つまり治療家を一種の魔術師と考え、神の道具とは考えません」
「それは困ったことだと思います。なぜかと言えば、そういう受け取り方はせっかくのチャンスによるもっと大切な悟りの妨げになるからです。霊的な力が治療家を通して働いたのだということを教えてあげれば、病気が治ったということだけで全てが終らずに、それを契機にもっと深く考えるようになるのですが」
エドワーズ 「治療後も霊的な治癒力が働き続けている証拠として、時おり、その時は効果が見えなかった人から一年もたってから〝あれから良くなってきました〟という手紙を受け取ることがあります」
「当然そうあってしかるべきです。霊的な成長だけは側(はた)からどうしようもない問題なのです。このことに関しては以前にも触れたことがありますが、治療の成功不成功は魂の進化という要素によって支配されております。それが決定的要素となります。いかなる魂も、治るだけの霊的資格が具わらないかぎり絶対に治らないということです。からだは魂の僕(しもべ)です。主人(あるじ)ではありません。」
エドワーズ 「未発達の魂は心霊治療によって治すことができないという意味でしょうか」
「そういうことです。私が言わんとしているのは、まさにそのことです。ただ、〝未発達〟という用語は解釈の難しいことばです。私が摂理の存在を口にする時、私はたった一つの摂理のことを言っているのではありません。宇宙のあらゆる自然法則を包含した摂理のことを言います。
それが完璧な型(パターン)にはめられております。ただし法則の裏側にまた別の次元の法則があるというふうに、幾重にもなっております。しかるに宇宙は無限です。誰にもその果てを見ることはできません。それを支配する大霊(神)と同じく無窮なのです。すると神の法則も無限であり、永遠に進化が続くということになります。
物質界の人間は肉体に宿った魂です。各自の魂は進化の一つの段階にあります。その魂には過去があります。それを切り捨てて考えてはいけません。それとの関連性を考慮しなくてはなりません。肉体は精神の表現器官であり、精神は霊の表現器官です。
肉体は霊が到達した発達段階を表現しております。もしもその霊にとって次の発達段階に備える上での浄化の過程としてその肉体的苦痛が不可欠の要素である場合には、あなた方治療家を通じていかなる治癒エネルギーが働きかけても治りません。いかなる治療家も治すことはできないと言うことです。
苦痛も大自然の過程の一つなのです。摂理の一部に組み込まれているのです。痛み、悲しみ、苦しみ、こうしたものはすべて摂理の中に組み込まれているのです。話はまた私がいつも述べていることに戻ってきました。日向と日蔭、平穏と嵐、光と闇、愛と憎しみ、こうした相対関係は神の摂理なのです。一方なくしては他方も存在し得ません」
メンバーの一人「苦しみは摂理を破ったことへの代償なのですね」
「〝摂理を破る〟という言い方は感心しません。〝摂理に背く〟と言ってください。確かに人間は時として摂理への背反(ハイハン)を通して摂理を学ぶほかはないことがあります。あなた方は完全な存在ではありません。完全性の種子を宿してはおりますが、それは人生がもたらすさまざまな〝境遇〟に身を置いてみることによってのみ成長します。痛みも嵐も困難も苦しみも病気もないようでは、魂は成長しません。
摂理が働かないことは絶対にありません。もし働かないことがあるとしたら、神は神でなくなり、宇宙に調和もリズムも目的もなくなります。その自然の摂理の正確さと完璧さに全幅の信頼を置かねばなりません。なぜなら、人間には宿命的に知ることのできない段階があり、それは信仰心でもって補うほかないからです。
私は知識を論拠として生まれる信仰は決して非難しません。私が非難するのは何の根拠もないことでもすぐに信じてしまう浅はかな信仰心です。人間は知識のすべてを手にすることができない以上、どうしてもある程度の信仰心でもって補わざるを得ません。
といって、その結果として同情心も哀れみも優しさも敬遠して〝ああ、これも自然の摂理だ。しかたない〟等と言うようになっていただいては困ります。それは間違いです。あくまでも人間としての最善を尽くすべきです。そう努力する中に置いて本来の霊的責務を果たしていることになるからです。」
いくつかの質問に答えたあと、さらに───
「魂はみずから道を切り開いていくものです。その際、肉体機能の限界がその魂にとっての限界となり制約となります。しかし肉体を生かしているのは魂です。この二重の関係が常に続けられております。しかし優位に立っているのは魂です。魂は絶対です。魂はあなたという存在の奥に宿る神であり、神が所有しているものは全てあなたもミニチュアの形で所有している以上、それは当然しごくのことです」
エドワーズ 「それはとても基本的なことであるように思います。さきほど心霊治療によって治るか治らないかは患者自身の発達程度に掛かっているとおっしゃいましたが、そうなると治療家は肉体の治療よりも精神の治療の方に力を入れるべきであるということになるのでしょうか」
「訪れる患者の魂に働きかけないとしたら、ほかに何に働きかけられると思いますか」
エドワーズ「まず魂が癒され、その結果肉体が癒されるということでしょうか」
「そうです。私はそう言っているのです」
エドワーズ 「では私たち治療家は通常の精神面をかまう必要はないということでしょうか」
「精神もあくまで魂の道具に過ぎません。したがって魂が正常になればおのずと精神状態も良くなるはずです。ただ、魂がその反応を示す段階まで発達していなければ、肉体への反応も起こりません。魂がさらに発達する必要があります。つまり魂の発達を促すためのいろんな過程を体験しなければならないわけです。それには苦痛を伴います。魂の進化は安楽の中からは得られないからです」
エドワーズ 「必要な段階まで魂が発達していない時は霊界の治療家も治す方法はないのでしょうか」
「その点は地上も霊界も同じです」
メンバーの一人「クリスチャン・サイエンスの信仰と同じですか」
「真理は真理です。その真理を何と名付けようと、私たち霊界の者には何の違いもありません。要は中味の問題です。かりにクリスチャン・サイエンスの信者が霊の働きかけを得て治り(クリスチャン・サイエンスではそれを否定する───訳者)、それをクリスチャン・サイエンスの信仰のおかげだと信じても、それはそれで良いのです」
エドワーズ 「私たち治療家も少しはお役に立っていることは間違いないと思うのですが、治療家を通じて患者の魂にまで影響を及ぼすというのはとても難しいことです」
「あなた方は少しどころか大いに貴重な役割を果たしておられます。第一、あなた方地上の治療家がいなくては私たちも仕事になりません。霊界側から見ればあなた方は私たちが地上と接触するための通路であり、一種の霊媒であり、言ってみればコンデンサーのような存在です。霊波が流れる、その通路というわけです」
エドワーズ 「流れるというのは何に流れるのですか。肉体ですか、魂ですか」
「私たちは肉体には関知しません。私の方からお聞きしますが、例えば腕が曲がらないのは腕の何が悪いのでしょう」
エドワーズ 「生理状態です」
「では、それまで腕を動かしていた健康な活力はどうなったのでしょう」
エドワーズ 「無くなっています。病気に負けて病的状態になっています」
「その活力が再びそこを流れはじめたらどうなりますか」
エドワーズ 「腕の動きも戻ると思います」
「その活力を通わせる力はどこから得るのですか」
エドワーズ 「私たちの意志ではどうにもならないことです。それは霊界側の仕事ではないかと思います」
「腕をむりやり動かすだけではだめでしょう?」
エドワーズ 「力ではどうにもなりません」
「でしょう。そこでもしその腕を使いこなすべき立場にある魂が目を覚まして、忘れられていた機能が回復すれば、腕は自然に良くなるということです」
メンバーの一人「治療家の役目は患者が生まれつき具わっている機能にカツを入れるということになるのでしょうか」
「そうとも言えますが、それだけではありません。というのは、患者は肉体をまとっている以上とうぜん波長が低くなっています。それで霊界からの高い波長の霊波を注ぐにはいったん治療家というコンデンサーにその霊波を送って、患者に合った程度まで波長を下げる必要があります。
そういう過程をへた霊波に対して患者の魂がうまく反応を示してくれれば、その治癒効果は電光石火と申しますか、いわゆる奇跡のようなことが起きるわけですが、患者の魂にそれを吸収するだけの受け入れ態勢ができていない時は何の効果も生じません。たとえば曲がってた脚を真っすぐにするのはあなた方ではありません。患者自身の魂の発達程度です」
列席者の一人「神を信じない人でも治ることがありますが・・・・・・」
「あります。治癒の法則は神を信じる信じないにお構いなく働くからです」
───さきほど治癒は魂の進化の程度と関係があると言われましたが・・・・・・
「神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がいます。霊格の高さは信仰心の多寡(たか)で測れるものではありません。行為によって測るべきです。いいですか、あなた方は治るべき条件の整った人を治しているだけです。ですが、喜んでください。あなた方を通じて知識と理解と光明へ導かれる人は大勢います。
みながみな治せなくても、そこには厳とした法則があってのことですから、気になさらないことです。と言って、それで満足して努力することを止めてしまわれては困ります。いつも言っているように、神の意志は愛の中だけでなく憎しみの中にも表現されています。晴天の日だけが神の日ではありません。
嵐の日にも神の法則が働いております。成功にも失敗にもそれなりの価値があります。失敗なくしては成功もありません」
───信仰心が厚く、治療家を信頼し、正しい知識を持った人でも意外に思えるほど治療に反応を示さない人がいますが、なぜでしょうか。やはり魂の問題でしょうか。
「そうです。必ず同じ問題に帰着します。信仰心や信頼や愛の問題ではありません。魂の問題であり、その魂が進化の過程で到達した段階の問題です。その段階で受けるべきものを受け、受けるべきでないものは受けません」
エドワーズ 「治療による肉体上の変化は私たちにも分かるのですが、霊的な変化は目で確かめることができません」
「霊視能力者を何人集めても、全員が同じ治療操作を見ることはないでしょう。それほど(患者一人一人に違った)複雑な操作が行われているのです。かりそめにも簡単にやっているかに思ってはなりません。物質と霊との相互関係は奥が深く、かつ複雑です。
肉体には肉体の法則があり、霊体には霊体の法則があります。両者ともそれぞれにとても複雑なのですから、その両者をうまく操る操作は、それはそれは複雑になります。無論全体に秩序と調和が行きわたっておりますが、法則の裏に法則があり、そのまた裏に法則があり、それらが複雑に絡み合っております」
バートン夫人 「肉体上の苦痛は魂に影響を及ぼさないとおっしゃったように記憶しますけど・・・」
「そんなことを言った憶えはありません。肉体が受けた影響はかならず魂にも及びますし、反対に魂の状態はかならず肉体に表れます。両者を切り離して考えてはいけません。一体不離です。つまり肉体も自我の一部と考えてよいのです。肉体なしには自我の表現は出来ないのですから。本来は霊的存在です。肉体に生じたことは霊にも及びます」
バートン夫人 「では肉体上の苦痛が大きすぎて見るに見かねる時、もしも他に救う手がないとみたら、魂への悪影響を防ぐために故意に死に至らしめるということもなさるのでしょうか」
「それは患者によります。実際は人間の気まぐれから自然法則の順序を踏まずに無理やりに肉体から分離させられていることが多いのですが、それさえなければ、霊は摂理に従って死ぬべき時が来て自然に離れるものです」
バートン夫人 「でも、明らかに霊界の医師が故意に死なせたと思われる例がありますけど・・・・・・」
「あります。しかしそれはバランス(埋め合わせ)の法則にのっとって周到な配慮の上で行っていることです。それでもなお魂にショックを与えます。そう大きくはありませんが」
バートン夫人 「肉体を離れるのが早すぎたために生じるショックですか」
「そうです。物事にはかならず償いと報いとがあります。不自然な死を遂げるとかならずその不自然さに対する報いがあり、同時にそれを償う必要性が生じます。それがどういうものになるかは個人によって異なります。
あなた方治療家の役目は患者の魂に、それだけの資格ができている場合に、苦痛を和らげてあげることです。その間に調整がなされ、言わば衝撃が緩和されて、魂がしかるべき状態に導かれます」
エドワーズ 「絶対に生き永らえる望みなしと判断したとき、少しでも早く死に至らしめるための手段を講じることは許されることでしょうか許されないことでしょうか」
「私はあくまで〝人間は死すべき時が来て死ぬべきもの〟と考えています」
エドワーズ 「肉体の持久力を弱めれば死期を早めることになります。痛みと苦しみが見るに見かね、治る可能性もないとき、死期を早めてあげることは正しいでしょうか」
「あなた方の辛い立場はよく分かります。また私としても好んで冷たい態度をとるわけではありませんが、法則はあくまでも法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備ができた時に来るべきです。それはちょうど柿が熟した時に落ちるのと同じです。熟さないうちにもぎ取ってはいけません。私はあくまでも自然法則の範囲内で講ずべき手段を指摘しております。
たとえば薬や毒物ですっかり身体をこわし、全身が病的状態になっていることがありますが、身体はもともとそんな状態になるようには意図されておりません。そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。
そういう観点から考えていけば、どうすれば良いかはおのずと決まってくると思います。何ごとも自然の摂理の範囲内で処置すべきです。本人も医者も、あるいは他の誰によってもその摂理に干渉すべきではありません。もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てばそれなりの結果が生じます。
ですが、それが本当に良いことか悪いことかは霊的法則にどの程度まで適っているかによって決まることです。つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです。魂にとって最善であれば肉体にとっても最善であるに違いありません」
同じくエドワーズ氏とバートン夫妻が出席した別の日の交霊会で、シルバーバーチはこう強調した。
「霊力の真の目的は(病気が縁となって)あなた方のもとを訪れる人の魂を目覚めさせることです。自分が本来霊的な存在であり、物的身体は自分ではないことに気づかないかぎり、その人は実在に対してまったく関心を向けないまま地上生活を送っていることになります。言わば影の中で幻を追いかけながら生きていることになります。
実在に直面するのは真の自我、すなわち霊的本性に目覚めた時です。地上生活の目的は、帰するところ自我を見出すことです。なぜなら、いったん自我を見出せば、それからというものは(分別のある人であれば)内部に宿る神性をすすんで開発しようとするからです。
残念ながら地上の人間の大半は真の自分というものを知らず、したがって不幸や悲劇に遭うまで自分の霊的本性に気づかないのが実情です。光明の存在に気づくのは人生の闇の中でしかないのです。
あなた方がお会いになるのは大半が心身に異常のある方たちです。治療を通じてもしその人たちに自分が霊的存在であるとの自覚を植えつけることができたら、もしその人たちの霊的本性を目覚めさせることができたら、もし内部の神の火花を点火させることができたら、やがてそれが炎となってその明かりが生活全体に輝きをもたらします。
もとより、それは容易なことではありません。でも、たとえ外れた関節を元どおりにするだけのことであっても、あるいは何となく不調を訴えた人がすっきりしたというだけのことであっても、そうした治療を通じてその人に自分が肉体を具えた霊的存在であり霊を具えた肉体的存在ではないことを理解させることに成功すれば、あなた方はこの世で最大の仕事をしていることになるのです。
私どもが肉体そのものよりもその奥の霊により大きな関心を向けていることを理解していただかねばなりません。
霊が正常であれば肉体は健康です。霊が異常であれば、つまり精神と肉体との関係が一直線で結ばれていなければ、肉体も正常ではありえません。この点をよく理解していただきたいのです。なぜなら、それはあなた方がご苦労なさっているお仕事において、あなた方自身にも測り知ることのできない側面だからです。
完治した人、痛みが和らいだ人、あるいは回復の手応えを感じた人があなた方へ向ける感謝の気持も礼も、魂そのものが目覚め、内部の巨大なエネルギー源が始動しはじめた事実にくらべれば、物の数ではありません。
あなた方は容易ならざるお仕事にたずさわっておられます。犠牲と献身を要求される仕事です。困難のさなかにおいて為される仕事であり、その道は容易ではありません。
しかし先駆者のたどる道はつねに容易ではありません。奉仕的な仕事には障害はつきものです。かりそめにもラクな道、障害のない道を期待してはなりません。障害の一つ一つ、困難の一つ一つが、それを乗り越えることによって霊の純金を磨き上げるための試練であると心得て下さい」
エドワーズ 「魂の治療の点では私たち治療家の役割よりも霊界の治療家の役割の方が大きいのですか」
「当然そうなりましょう」
エドワーズ 「そうすると私たちが果たす役目は小さいということでしょうか」
「小さいとも言えますし大きいとも言えます。問題は波長の調整にあります。大きく分けて治療には二通りの方法があります。一つは治癒エネルギーの波長を下げて、それを潜在エネルギーの形で治療家自身に送ります。それを再度治癒エネルギーに還元してあなた方が使用します。
もう一つは、特殊な霊波を直接患者の意識の中枢に送り、魂に先天的に具わっている治癒力を刺激して、魂の不調和すなわち病気を払いのける方法です。こう述べてもお分かりにならないでしょう」
エドワーズ 「いえ、理屈はよく分ります。ただ現実に適応するとなると・・・・・・」
「では説明を変えてみましょう。まず、そもそも生命とは何かという問題ですが、これは地上の人間にはまず理解できないと思います。なぜかというと、生命とは本質において物質とは異なるものであり、いわゆる理化学的研究の対象とはなり得ないものだからです。
で、私はよく生命とは宇宙の大霊のことであり、神とはすなわち大生命のことだと言うのですが、その意味は、人間が意識を持ち、呼吸し、歩き、考えるその力、また樹木が若葉をまとい、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後に潜む力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだというのです。同じ霊力の一部であり一つの表現なのです。
あなた方が今そこに生きておられる事実そのものが、あなた方も霊であることを意味します。ですから同じく霊である患者の霊的進化の程度に応じたさまざまな段階で、その霊力を注入するというのが心霊治療の本質です。
ご承知のとおり病気には魂に起因するものと純粋に肉体的なものとがあります。肉体的なものは治療家が直接触れる必要がありますが、霊的な場合は今のべた生命力を活用します。が、この方法にも限界があります。
あなた(エドワーズ)の進化の程度、協力者のお二人(バートン夫妻)の進化の程度、それに治療を受ける患者自身の進化の程度が絡み合って自然にできあがる限界です。また、いわゆる因縁(カルマ)というものも考慮しなくてはなりません。因果律です。これは時と場所とにおかまいなく働きます」
エドワーズ 「魂の病にもいろいろあってそれなりの影響を肉体に及ぼしていると思いますが、そうなると病気の一つ一つについて質の異なる治癒エネルギーが要るのではないかと想像されますが・・・・・・」
「まったくその通りです。人間は三位一体の存在です。一つは今述べた霊(スピリット)で、これが第一原理です。存在の基盤であり、種子であり、すべてがそこから出ます。次にその霊が精神(マインド)を通じて自我を表現します。これが意識的生活の中心となって肉体(ボデイ)を支配します。この三者が融合し、互いに影響し合い、どれ一つ欠けてもあなたの存在は無くなります」
エドワーズ 「一方通行ではないわけですね」
「そうです。霊的ならびに精神的発達の程度に従って肉体におのずから限界が生じますが、それを意識的鍛錬によって信じられないほど自由に肉体機能を操ることが出来るものです。インドの行者などは西洋の文明人には想像も出来ないようなことをやってのけますが、精神が肉体を完全に支配し思いどおりに操るように鍛錬したまでのことです」
エドワーズ 「心霊治療が魂を目覚めさせるためのものであり、霊が第一原理であれば、霊界側からの方がよほどやり易いのではないでしょうか」
「そうも言えますが、逆の場合の方が多いようです。と言うのは、死んでこちらへ来た人間でさえ霊的波長よりは物的波長の中で暮らしている(地縛の)霊が多いという事実からもお分かりの通り、肉体をまとった人間は、よほど発達した人でないかぎり、たいていは物的な波長にしか反応を示さず、私たちが送る波長にはまったく感応をしないものです。
そこであなた方地上の治療家の存在が必要となってくるわけです。霊的波長にも物的波長にも感応する連結器というわけです。治療家に限らず霊能者と言われている人が常に心の修養を怠ってはならない理由はそこにあります。霊的に向上すればそれだけ仕事の範囲が広がって、より多くの価値ある仕事ができます。
そのように法則ができあがっているのです。ですが、そういう献身的な奉仕の道を歩む人は必然的に孤独な旅を強いられます。ただ一人、前人未踏の地を歩みながら、後の者のための道しるべを立てていくことになります。あなたにはこの意味がお分かりでしょう。すぐれた特別の才能にはそれ相当の義務が生じます。両手に花とはまいりません」
エドワーズ 「さきほど治癒エネルギーのことを説明されたとき、霊的なものが物的なものに転換されると言われましたが、その転換はどこで行われるのでしょうか。どこかで行われるはずですが・・・・・・」
「使用するエネルギーによって異なります。信じられない方がいらっしゃるかも知れませんが、いにしえの賢人が指摘している〝第三の目〟とか太陽神経叢などを使用することもあります。そこが霊と精神と肉体の三者が合一する〝場〟なのです。これ以外にも患者の潜在意識を利用して健康な時と同じ生理反応を起こさせることによって失われた機能を回復させる方法があります」
エドワーズ 「説明されたところまでは分かるのですが、その〝中間地帯〟がどこにあるかがよく分りません。どこで物的状態と霊的治癒エネルギーとがつながるのか、もっと具体的に示していただきたいのです。どこかで何らかの形で転換が行われているに違いないのですが・・・・・・」
「そんなふうに聞かれると、どうも困ってしまいます。弱りました。分かっていただけそうな説明がどうしてもできないのです。強いて譬えるならば、さっきも言ったコンデンサーのようなことをするのです。コンデンサーというのは電流の周波を変える装置ですが、大体あんなものが用意されていると想像してください。
エクトプラズムを使用することもあります。ただし実験会での物質化現象や直接談話などに使用するものとは形態が異なります。もっと微妙な、目に見えない・・・」
エドワーズ 「一種の〝中間物質〟ですか」
「そうです。霊の念波を感じやすく、しかも物質界でも使用できる程度の物質性を具えたもの、とでも言っておきましょうか。それと治療家のもつエネルギーが結合してコンデンサーの役をするのです。そこから患者の松果体ないしは太陽神経叢を通って体内に流れ込みます。その活エネルギーは全身に行きわたります。電気的な温みを感じるのはその時です。
知っておいていただきたいことは、とにかく私たちのやる治療法には決まった型というものが無いということです。患者によってみな治療法が異なります。また霊界から次々と新しい医学者が協力に参ります。
そして新しい患者は新しい実験台として臨み、どの放射線を使用したらどういう反応が得られたかを細かく検討します。なかなか渉(はかど)らなかった患者が急に快方へ向かいはじめることがあるのは、そうした霊医の研究結果の表れです。
また治療家のところへ行く途中で治ってしまったりすることがあるのも同じ理由によります。実質的な治療というのは、あなた方が直接患者と接触する以前にすでに霊界側において大部分が済んでいると思って差支えありません」
エドワーズ 「そうするともう一つの疑問が生じます。いま霊界にも大ぜいの霊医がいると申されましたが、一方で遠隔治療を受けながら別の治療家のところへ行くという態度は、治療にたずさわる霊医にとって困ったことではないでしょうか」
「結果をみて判断なさることです。治ればそれでよろしい」
エドワーズ 「なぜそれでいいのか、理屈が分からないとわれわれ人間は納得できないのですが」
「場合によってはそんなことをされると困ることもありますが、まったく支障にならないこともあります。患者によってそれぞれ事情が違うわけですから、一概に言い切るわけにはまいりません。あなただって患者を一目見て、これは自分に治せる、とは判断できますまい。
治せるか否かは患者と治療家の霊格によって決まることですから、あなたには八分通りしか治せない患者も、他の治療家のところへ行けば全治するかもしれません。
条件が異なるからです。その背後つまり霊界側の複雑な事情を知れば知るほど、こうだ、ああだと、断定的な言葉は使えなくなるはずです。神の法則には無限の奥行があります。あなたがた人間としては正当な動機と奉仕の精神にもとづいて、精一杯、人事を尽くせばよいのです。こうすれば治る、これでは治らないとかを予断できる者はいません」
エドワーズ 「細かい点は別として、私たちが知りたいのは、霊界の医師は必要とあらばどこのどの治療家にも援助の手を差しのべてくれるかということです」
「霊格が高いことを示す一ばんの証明は人を選り好みしないということです。私たちは必要とあらばどこへでも出かけます。これが高級神霊界の鉄則なのです。あなた方も患者を断わるようなことは決してなさってはいけません。
あなたがたはすでに精神的にも霊的にも本質において永遠の価値を持った成果をあげておられます。人間的な目で判断してはいけません。あなたがたには物事のウラ側を見る目がないのです。したがって自分のしたことがどんな影響を及ぼしているかもお分かりになりません。
しかし実際にはご自分で考えておられるよりはるかに多くの貢献をしておられます。あなたがたの貢献は地上で為しうる最大のものの一つであることに自信をもってください。
一生けんめい治療なさって何の反応も生じなくても、それはあなたの責任でもありませんし、あなたの協力者(バートン夫妻───たとえばエドワーズ氏が患者の頭部に手を当てバートン夫妻が左右の手を握って祈念するという形での協同治療のことで、エドワーズ氏に代って夫妻が治療するという意味ではない───訳者)の責任でもありません。
すべては自然の摂理の問題です。ご承知のように奇跡というものは存在しません。すべては無限なる愛と無限なる叡知によって支配されているのです。
あなたと、協力者のお二人に申し上げます。つねに霊の光に照準をあてるように心がけて下さい。この世的な問題に煩わされてはなりません。(エドワーズ氏は治療費を取らず自発的な献金でまかなっていたために慢性的な資金不足の問題をかかえ、借り入れ金の返済も滞りがちで、運営の危機に直面したことが何度かある───訳者)
これまで幾つもの困難に遭遇し、これからも行く手に数々の困難が立ちはだかることでしょうが、奉仕の精神に徹している限り、克服できない障害はありません。すべてが克服され、奉仕の道はますます広がっていくことでしょう。あなたがたのお仕事は人々に苦痛の除去、軽減、解放をもたらすだけではありません。
あなたがたの尊い献身ぶりを見てそれを見習おうとする心を人々に植えつけています。そしてそれがあなたがたをさらに向上の道へと鼓舞することになります。私たちはまだまだ霊的進化の頂上を極めたわけではありません。まだまだ、先ははるかです。なぜなら、霊の力は神と同じく無限の可能性を秘めているのです」
サークルの一人「患者としてはあくまで一人の治療家のお世話になるのが好ましいのでしょうか」
「それは一般論としてはお答えしにくい問題です。なぜかと言いますと、大切なのはその患者の霊的状態と治療家の霊的状態との関連だからです。心霊治療にもいろいろと種類があることを忘れてはなりません。霊的な力をまったく使用しないで治している人もいます。自分の身体のもつ豊富な生体エネルギーを注入することで治すのです。
霊の世界はまったく係わっておりません。それは決していけないことではありません。それも治療法の一つというにすぎません。ですから、患者のとるべき態度について戒律をもうけるわけにはまいりません。ただし、一つだけ好ましくない態度を申せば、次から次へと治療家をかえていくことです。それでは治療家にちゃんとした治療を施すチャンスを与えていないことになるからです。
私たち霊界の者は何とか力になってあげたいと臨んでいても、そういう態度で訪れる人の周りには一種のうろたえ、感情的なうろたえの雰囲気が漂い、それが霊力の働きかけを妨げます。ご承知のように、霊力が一番働きやすいのは受身的な穏やかな雰囲気の時です。その中ではじめて魂が本来の自分になりきれるからです」
エドワーズ 「一人の治療家から直接の治療を受けながら別の治療家から遠隔治療を受けるというのはどうでしょうか」
「別に問題はありません。現にあなたはそれを証明しておられます。他の治療家に治療してもらっている人をあなたが治されたケースが幾つもあります」
バートン氏 「私は祈りの念が霊界へ届けられる経路について考えさせられることがよくあります。祈り方にもいろいろあり、特に病気平癒の祈願が盛んに行われています。その一つとして患者へ向けて祈念する時間が長いほど効果があると考えている人がいます。いったい祈りは霊界でどういう経路で届いているのか知りたいのですが」
「この問題も祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご承知の通り宇宙はすみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇跡とかは絶対に起こりません。もしもその祈りが利己心から発したものであれば、それはそのままその人の霊格を示すもので、そんな人の祈りで病気が治るものでないことは言うまでもありません。
ですが、自分を忘れ、ひたすら救ってあげたいという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りは高級神霊界にも届きますし、自動的に治療効果を生む条件を作り出す力も具わっています。要するに祈る人の霊格によって決まることです」
バートン氏「祈りはその人そのものということでしょうか」
「そういうことです」
バートン氏「大主教による仰々しい祈りよりも素朴な人間の素朴な祈りの方が効果があるということでしょうか」
「地位には関係がありません。肝心なのは祈る人の霊格です。大主教が霊格の高い人であればその祈りには霊力が具わっていますが、どんなに立派な僧衣をまとっていても、筋の通らない教義に凝り固まった人間でしたら何の効果もないでしょう。
もう一ついけないのは集団で行う紋切り型の祈りです。案外効果は少ないものです。要するに神は肩書や数ではごまかされないということです。祈りの効果を決定づけるのは祈る人の霊格です。
祈りとは本来、自分の波長を普段以上に高めるための霊的な行為です。波長を高め、人のために役立ちたいと祈る行為はそれなりの効果を生み出します。あなたが抱える問題について神は先刻ご承知です。
神は宇宙の大霊であるが故に宇宙間の出来ごとのすべてに通じておられます。神とは大自然の摂理の背後の叡知です。したがってその摂理をごまかすことは出来ません。神をごまかすことは出来ないのです。あなた自身さえごまかすことは出来ません」
バートン夫人「治療の話に戻りますが、患者が信仰心を持つことが不可欠の要素だと言う人がいますし、関係ないと言う人もいます。どうなのでしょうか」
「心霊治療に限らず霊的なことには奥には奥があって、一概にイエスともノーとも言い切れないことばかりなのです。信仰心があった方が治りやすい場合が確かにあります。霊的知識に基づいた信仰心は魂が自我を見出そうとする一種の憧憬ですから、魂に刺激を与えます。あくまで自然の摂理に関する知識に基づいた信仰でして、何か奇跡でも求めるような盲目の信仰ではだめです。反対に、ひとかけらの信仰心がなくても、魂が治るべき段階まで達しておれば、かならず治ります」
バートン夫人 「神も仏もないと言っている人が治り、立派な心がけの人が治らないことがあって不思議に思うことがあります」
「その線引きは魂の霊格によって決まります。人間の観察はとかく表面的で内面的でないことを忘れてはなりません。魂そのものが見えないために、その人がそれまでにどんなことをしてきたかが判断できません。
治療の結果を左右するのはあくまでも魂です。ご承知の通り私も何千年か前に地上で幾ばくかの人間生活を送ったことがあります。そして死後こちらでそれより遥かに永い霊界生活を送ってきましたが、その間、私が何にもまして強く感じていることは、大自然の摂理の正確無比なことです。
知れば知る程その正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりなのです。一分(いちぶ)の狂いも不公平もありません。地上だけではありません。私どもの世界でも同じです。差引勘定をしてみれば、きちんと答えが合います。
何事も憂えず、ただひたすら心に喜びを抱いて、奉仕の精神に徹して仕事をなさることです。そして、あとのことは神にお任せすることです。それから先のことは人間の及ぶことではないのです。
あなた方は所詮、私たちスピリットの道具に過ぎません。そして私たちも又、さらに高い神霊界のスピリットの道具に過ぎません。自分より偉大なる力がすべてを佳きに計らってくれているのだと信じて、すべてをお任せすることです」
最後に、別の日の交霊会で再び心霊治療の話題が取り上げられた時の注目すべき霊言を紹介しておこう。パキスタンから招待された人が〝見たところ何でもなさそうな病気がどうしても治らないことがあるのはなぜでしょうか〟と尋ねたのに対して、シルバーバーチはこう答えた。
「不治の病というものはありません。すべての病気にそれなりの治療法があります。宇宙は単純にして複雑です。深い奥行きがあるのです。法則の奥に又法則があるのです。知識は新しい知識へ導き、その知識がさらに次の知識へと導きます。理解には際限がありません。叡知は無限です。
こう申し上げるのは、いかなる質問にも簡単な答えは出せないということを知っていただきたいからです。すべては魂の本質、その構造、その進化、その宿命に関わることだからです。
地上の治療家からよくこういう言い分を聞かされます───〝この人が治ったのになぜあの人は治らないのですか。愛と、治してあげたいという気持ちがこれだけあるのに治らなくて、愛も感じない、見ず知らずの人が簡単に治ってしまうことがあるのはなぜですか〟と。
そうしたことはすべて法則によって支配されているのです。それを決定づける法則は魂の進化と関係しており、魂の進化は現在の地上生活によって定まるだけでなく、しばしば前生での所業が関わっていることがあります。霊的な問題は地上的な尺度では計れません。人生の全てを物質的な尺度で片付けようとすると誤ります。
しかし残念ながら、物質の中に閉じ込められているあなた方は、とかく霊の目を持って判断することができず、そこで、一見したところ不正と不公平ばかりが目につくことになります。
神は完全なる公正です。神の叡知は完全です。なぜなら完全なる摂理として作用しているからです。あなた方の理解力が一定の尺度に限られている以上、宇宙の全知識を極めることは不可能です。どうか〝不治の病〟という観念はお持ちにならないでください。
そういうものは存在しません。治らないのは往々にしてその人の魂がまだそうした治療による苦しみの緩和、軽減、安堵、ないしは完治を手にする資格を身につけていないからであり、そこに宿業(カルマ)の法則が働いているということです。
こんなことを申し上げるのは、あきらめる観念を吹聴するためではありません。たとえ目に見えなくても、何ごとにも摂理というものが働いているという原則を指摘しているのです」
世界的に知られる心霊治療家のハリー・エドワーズ氏が助手のジョージ・バートン夫妻と共に交霊会を訪れたときにシルバーバーチがそう語りかけた。(訳者注───今はもう三人ともこの世にいないが、〝ハリー・エドワーズ心霊治療所〟Harry Edwards Healing Sanctuary はその名称のままレイ・ブランチ夫妻が引き継ぎ今も治療活動を続けている)
シルバーバーチは続けてこう語る───
「あなた方のこれまでの努力がまさに花開かんとしております。これまでのことは全てが準備でした。バプテスマのヨハネがナザレのイエスのために道を開いたように、これまでのあなた方の過去は、これからの先の仕事のため、つまりより大きな霊力が降りてあなた方とともに活動していくための準備期間でした。
ほぼ完璧の段階に近づいているあなた方三人の信頼心と犠牲的精神とそれを喜びとする心情は、それみずからが結果をもたらします。霊の力と地上の力との協調関係がますます緊密となり、それがしばしば〝有り得ぬこと〟と思えることを成就しております。条件が整った時に起きるその奇跡的治療のスピードに注目していただきたいと思います」
エドワーズ「何度も目のあたりにしております」
「大いなる進歩がなされつつあること、多くの魂に感動を与え、それがさらに誘因となって他の大勢の人々にもその次元での成功(単なる病気治療にとどまらず魂の琴線に触れさせること)をおさめる努力が為されつつあります。常にその一つに目標をおいて下さい。すなわち魂を生命の実相に目覚めさせることです。
それがすべての霊的活動の目標、大切な目標です。ほかは一切かまいません。病気治療も、霊的交信を通じての慰めも、さまざまな霊的現象も、究極的には人間が例外なく神の分霊であること、すなわち霊的存在であるというメッセージに目を向けさせて初めて意義があり、神から授かった霊的遺産を我がものとし宿命を成就するためには、ぜひその理解が必要です。
それが困難な仕事であることは私もよく承知しております。が、偉大な仕事ほど困難が伴うものなのです。霊的な悟りを得ることは容易ではありません。とても孤独な道です。それは当然のことでしょう。
もしも人類の登るべき高所がいとも簡単にたどりつくことができるとしたら、それは登ってみるほどの価値はないことになります。安易さ、吞ん気さ、怠惰の中では魂は目を開きません。刻苦と奮闘と難儀の中にあってはじめて目を覚まします。これまで、魂の成長が安易に得られるように配慮されたことは一度たりともありません。
あなた方が治療なさる様子を見ていとも簡単に行っているように思う人は、表面しか見ていない人です。今日の頂上に到達するまでには、その背景に永年の努力の積み重ねがあったことを知りません。治療を受ける者が満足しても、あなた方は満足してはなりません。
一つの山頂を極めたら、その先にまた別の山頂がそびえていることを自覚しなくてはいけません。いかがでしょう。私の話は参考になりますでしょうか。あなた方はすでによくご存じのことばかりでしょう」
エドワーズ 「分ってはいても改めて認識することは大切なことです」
「こうした会合の場は、地上の人間でない私どもがあなた方地上の人間に永遠の原理、不滅の霊的真理、顕幽の区別なくすべての者が基盤とすべきものについての認識を新たにさせることに意義があります。物質界に閉じ込められ、物的身体にかかわる必要性や障害に押しまくられているあなた方は、ともすると表面上の物的なことに目を奪われて、その背後の霊的実在のことを見失いがちです。
肉体こそ自分である、いま生きている地上世界こそ実在の世界であると思い込み、実は地上世界はカゲであり、肉体はより大きな霊的自我の道具にすぎないことを否定することは実に簡単なことです。
もしも刻々と移り行く日常生活の中にあって正しい視野を失わずに問題の一つ一つを霊的知識に照らしてみることを忘れなければ、どんなにか事がラクにおさまるだろうにと思えるのですが・・・・・・残念ながら現実はそうではありません。
こうした霊界との協調関係の中での仕事にたずさわっておられる人でさえ、ややもすると基本的な義務を忘れ、手にした霊的知識が要求する規範に適った生き方をしていらっしゃらないことがあります。知識は大いなる指針となり頼りになるものですが、手にした知識をどう生かすかという点に大きな責任が要請されます。
治療の仕事にたずさわっておられると、さまざまな問題──説明できないことや当惑させられること──に遭遇させられることでしょうが、それは当然のことです。私どもは地上と霊界の双方の人間的要素に直面させられどおしです。治療の法則は完全です。が、それが不完全な道具を通じて作用しなければなりません。
人間を通して働かねばならない法則がいかなる結果を生み出すかを、数学的正確さを持って予測することは不可能ということになります。
たとえ最善の配慮をもってこしらえた計画さえも挫折させるほどの事情が生じることがあります。この人こそと思って選んで開始した何年にもわたる準備計画が、本人の自由意志によるわがままによって水の泡となってしまうことがあります。しかし全体として見れば霊力の地上への投入が大幅に増えていることを喜んでよいと思います。
現実にあなた方が患者の痛みを和らげ、あるいは治癒してあげることができているという事実、苦しむ人々を救うことができているという事実。お仕事が広がる一方で衰えることがないという事実。たとえワラを掴む気持ちからではあっても、あなた方のもとへ大ぜいの人々が救いを求めて来ているという事実、こうした事実は霊力がますます広がりつつあることの証拠です。
霊力によって魂がいったん目を覚ましたら、その人は二度と元の人間には戻らないという考えがありますが、私もそう考えている一人です。言葉には説明しがたい影響、本人も忘れようにも忘れられない影響を受けているものです」
エドワーズ 「その最後の段階で病気の治癒と真理の理解との兼ね合いがうまくいってほしいのですが、霊的高揚というのはなかなか望めないように思います」
「見た目にはそうです。が、目に見えない影響力がつねに働いております。霊力というのは磁気性をもっており、いったん出来あがった磁気的繋がりは決して失われません。一個の人間があなたの手の操作を受けたということは───〝手〟というのは象徴的な意味で用いたまでです。
実際には身体に触れる必要はありませんから───その時点でその人との磁気的つながりが出来たということです。つまり霊の磁力がその人の〝地金〟を引きつけたということで、その関係は決して切れることはありません。
その状態を霊の目すなわち霊視力で見ますと、小さな畑の暗い土の中で小さな灯りがともったようなものです。理解力の最初の小さな炎でしかありません。種子が芽を出して土中から頭をもたげたようなものです。暗闇の中から初めて出て来たのです。
それがあなた方の為すべき仕事です。からだを治してあげるのは結構なことです。それに文句をつける人はいません。が、魂に真価を発揮させること、聖書流に言えば魂に己れを見出させることは、それよりはるかに大切です。魂を本当の悟りへの道に置いてあげることになるからです」
ここでサークルのメンバーの一人が述べた───「心霊治療で治った人の中には魔術的なものが働いたと考える人がいます。つまり治療家を一種の魔術師と考え、神の道具とは考えません」
「それは困ったことだと思います。なぜかと言えば、そういう受け取り方はせっかくのチャンスによるもっと大切な悟りの妨げになるからです。霊的な力が治療家を通して働いたのだということを教えてあげれば、病気が治ったということだけで全てが終らずに、それを契機にもっと深く考えるようになるのですが」
エドワーズ 「治療後も霊的な治癒力が働き続けている証拠として、時おり、その時は効果が見えなかった人から一年もたってから〝あれから良くなってきました〟という手紙を受け取ることがあります」
「当然そうあってしかるべきです。霊的な成長だけは側(はた)からどうしようもない問題なのです。このことに関しては以前にも触れたことがありますが、治療の成功不成功は魂の進化という要素によって支配されております。それが決定的要素となります。いかなる魂も、治るだけの霊的資格が具わらないかぎり絶対に治らないということです。からだは魂の僕(しもべ)です。主人(あるじ)ではありません。」
エドワーズ 「未発達の魂は心霊治療によって治すことができないという意味でしょうか」
「そういうことです。私が言わんとしているのは、まさにそのことです。ただ、〝未発達〟という用語は解釈の難しいことばです。私が摂理の存在を口にする時、私はたった一つの摂理のことを言っているのではありません。宇宙のあらゆる自然法則を包含した摂理のことを言います。
それが完璧な型(パターン)にはめられております。ただし法則の裏側にまた別の次元の法則があるというふうに、幾重にもなっております。しかるに宇宙は無限です。誰にもその果てを見ることはできません。それを支配する大霊(神)と同じく無窮なのです。すると神の法則も無限であり、永遠に進化が続くということになります。
物質界の人間は肉体に宿った魂です。各自の魂は進化の一つの段階にあります。その魂には過去があります。それを切り捨てて考えてはいけません。それとの関連性を考慮しなくてはなりません。肉体は精神の表現器官であり、精神は霊の表現器官です。
肉体は霊が到達した発達段階を表現しております。もしもその霊にとって次の発達段階に備える上での浄化の過程としてその肉体的苦痛が不可欠の要素である場合には、あなた方治療家を通じていかなる治癒エネルギーが働きかけても治りません。いかなる治療家も治すことはできないと言うことです。
苦痛も大自然の過程の一つなのです。摂理の一部に組み込まれているのです。痛み、悲しみ、苦しみ、こうしたものはすべて摂理の中に組み込まれているのです。話はまた私がいつも述べていることに戻ってきました。日向と日蔭、平穏と嵐、光と闇、愛と憎しみ、こうした相対関係は神の摂理なのです。一方なくしては他方も存在し得ません」
メンバーの一人「苦しみは摂理を破ったことへの代償なのですね」
「〝摂理を破る〟という言い方は感心しません。〝摂理に背く〟と言ってください。確かに人間は時として摂理への背反(ハイハン)を通して摂理を学ぶほかはないことがあります。あなた方は完全な存在ではありません。完全性の種子を宿してはおりますが、それは人生がもたらすさまざまな〝境遇〟に身を置いてみることによってのみ成長します。痛みも嵐も困難も苦しみも病気もないようでは、魂は成長しません。
摂理が働かないことは絶対にありません。もし働かないことがあるとしたら、神は神でなくなり、宇宙に調和もリズムも目的もなくなります。その自然の摂理の正確さと完璧さに全幅の信頼を置かねばなりません。なぜなら、人間には宿命的に知ることのできない段階があり、それは信仰心でもって補うほかないからです。
私は知識を論拠として生まれる信仰は決して非難しません。私が非難するのは何の根拠もないことでもすぐに信じてしまう浅はかな信仰心です。人間は知識のすべてを手にすることができない以上、どうしてもある程度の信仰心でもって補わざるを得ません。
といって、その結果として同情心も哀れみも優しさも敬遠して〝ああ、これも自然の摂理だ。しかたない〟等と言うようになっていただいては困ります。それは間違いです。あくまでも人間としての最善を尽くすべきです。そう努力する中に置いて本来の霊的責務を果たしていることになるからです。」
いくつかの質問に答えたあと、さらに───
「魂はみずから道を切り開いていくものです。その際、肉体機能の限界がその魂にとっての限界となり制約となります。しかし肉体を生かしているのは魂です。この二重の関係が常に続けられております。しかし優位に立っているのは魂です。魂は絶対です。魂はあなたという存在の奥に宿る神であり、神が所有しているものは全てあなたもミニチュアの形で所有している以上、それは当然しごくのことです」
エドワーズ 「それはとても基本的なことであるように思います。さきほど心霊治療によって治るか治らないかは患者自身の発達程度に掛かっているとおっしゃいましたが、そうなると治療家は肉体の治療よりも精神の治療の方に力を入れるべきであるということになるのでしょうか」
「訪れる患者の魂に働きかけないとしたら、ほかに何に働きかけられると思いますか」
エドワーズ「まず魂が癒され、その結果肉体が癒されるということでしょうか」
「そうです。私はそう言っているのです」
エドワーズ 「では私たち治療家は通常の精神面をかまう必要はないということでしょうか」
「精神もあくまで魂の道具に過ぎません。したがって魂が正常になればおのずと精神状態も良くなるはずです。ただ、魂がその反応を示す段階まで発達していなければ、肉体への反応も起こりません。魂がさらに発達する必要があります。つまり魂の発達を促すためのいろんな過程を体験しなければならないわけです。それには苦痛を伴います。魂の進化は安楽の中からは得られないからです」
エドワーズ 「必要な段階まで魂が発達していない時は霊界の治療家も治す方法はないのでしょうか」
「その点は地上も霊界も同じです」
メンバーの一人「クリスチャン・サイエンスの信仰と同じですか」
「真理は真理です。その真理を何と名付けようと、私たち霊界の者には何の違いもありません。要は中味の問題です。かりにクリスチャン・サイエンスの信者が霊の働きかけを得て治り(クリスチャン・サイエンスではそれを否定する───訳者)、それをクリスチャン・サイエンスの信仰のおかげだと信じても、それはそれで良いのです」
エドワーズ 「私たち治療家も少しはお役に立っていることは間違いないと思うのですが、治療家を通じて患者の魂にまで影響を及ぼすというのはとても難しいことです」
「あなた方は少しどころか大いに貴重な役割を果たしておられます。第一、あなた方地上の治療家がいなくては私たちも仕事になりません。霊界側から見ればあなた方は私たちが地上と接触するための通路であり、一種の霊媒であり、言ってみればコンデンサーのような存在です。霊波が流れる、その通路というわけです」
エドワーズ 「流れるというのは何に流れるのですか。肉体ですか、魂ですか」
「私たちは肉体には関知しません。私の方からお聞きしますが、例えば腕が曲がらないのは腕の何が悪いのでしょう」
エドワーズ 「生理状態です」
「では、それまで腕を動かしていた健康な活力はどうなったのでしょう」
エドワーズ 「無くなっています。病気に負けて病的状態になっています」
「その活力が再びそこを流れはじめたらどうなりますか」
エドワーズ 「腕の動きも戻ると思います」
「その活力を通わせる力はどこから得るのですか」
エドワーズ 「私たちの意志ではどうにもならないことです。それは霊界側の仕事ではないかと思います」
「腕をむりやり動かすだけではだめでしょう?」
エドワーズ 「力ではどうにもなりません」
「でしょう。そこでもしその腕を使いこなすべき立場にある魂が目を覚まして、忘れられていた機能が回復すれば、腕は自然に良くなるということです」
メンバーの一人「治療家の役目は患者が生まれつき具わっている機能にカツを入れるということになるのでしょうか」
「そうとも言えますが、それだけではありません。というのは、患者は肉体をまとっている以上とうぜん波長が低くなっています。それで霊界からの高い波長の霊波を注ぐにはいったん治療家というコンデンサーにその霊波を送って、患者に合った程度まで波長を下げる必要があります。
そういう過程をへた霊波に対して患者の魂がうまく反応を示してくれれば、その治癒効果は電光石火と申しますか、いわゆる奇跡のようなことが起きるわけですが、患者の魂にそれを吸収するだけの受け入れ態勢ができていない時は何の効果も生じません。たとえば曲がってた脚を真っすぐにするのはあなた方ではありません。患者自身の魂の発達程度です」
列席者の一人「神を信じない人でも治ることがありますが・・・・・・」
「あります。治癒の法則は神を信じる信じないにお構いなく働くからです」
───さきほど治癒は魂の進化の程度と関係があると言われましたが・・・・・・
「神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がいます。霊格の高さは信仰心の多寡(たか)で測れるものではありません。行為によって測るべきです。いいですか、あなた方は治るべき条件の整った人を治しているだけです。ですが、喜んでください。あなた方を通じて知識と理解と光明へ導かれる人は大勢います。
みながみな治せなくても、そこには厳とした法則があってのことですから、気になさらないことです。と言って、それで満足して努力することを止めてしまわれては困ります。いつも言っているように、神の意志は愛の中だけでなく憎しみの中にも表現されています。晴天の日だけが神の日ではありません。
嵐の日にも神の法則が働いております。成功にも失敗にもそれなりの価値があります。失敗なくしては成功もありません」
───信仰心が厚く、治療家を信頼し、正しい知識を持った人でも意外に思えるほど治療に反応を示さない人がいますが、なぜでしょうか。やはり魂の問題でしょうか。
「そうです。必ず同じ問題に帰着します。信仰心や信頼や愛の問題ではありません。魂の問題であり、その魂が進化の過程で到達した段階の問題です。その段階で受けるべきものを受け、受けるべきでないものは受けません」
エドワーズ 「治療による肉体上の変化は私たちにも分かるのですが、霊的な変化は目で確かめることができません」
「霊視能力者を何人集めても、全員が同じ治療操作を見ることはないでしょう。それほど(患者一人一人に違った)複雑な操作が行われているのです。かりそめにも簡単にやっているかに思ってはなりません。物質と霊との相互関係は奥が深く、かつ複雑です。
肉体には肉体の法則があり、霊体には霊体の法則があります。両者ともそれぞれにとても複雑なのですから、その両者をうまく操る操作は、それはそれは複雑になります。無論全体に秩序と調和が行きわたっておりますが、法則の裏に法則があり、そのまた裏に法則があり、それらが複雑に絡み合っております」
バートン夫人 「肉体上の苦痛は魂に影響を及ぼさないとおっしゃったように記憶しますけど・・・」
「そんなことを言った憶えはありません。肉体が受けた影響はかならず魂にも及びますし、反対に魂の状態はかならず肉体に表れます。両者を切り離して考えてはいけません。一体不離です。つまり肉体も自我の一部と考えてよいのです。肉体なしには自我の表現は出来ないのですから。本来は霊的存在です。肉体に生じたことは霊にも及びます」
バートン夫人 「では肉体上の苦痛が大きすぎて見るに見かねる時、もしも他に救う手がないとみたら、魂への悪影響を防ぐために故意に死に至らしめるということもなさるのでしょうか」
「それは患者によります。実際は人間の気まぐれから自然法則の順序を踏まずに無理やりに肉体から分離させられていることが多いのですが、それさえなければ、霊は摂理に従って死ぬべき時が来て自然に離れるものです」
バートン夫人 「でも、明らかに霊界の医師が故意に死なせたと思われる例がありますけど・・・・・・」
「あります。しかしそれはバランス(埋め合わせ)の法則にのっとって周到な配慮の上で行っていることです。それでもなお魂にショックを与えます。そう大きくはありませんが」
バートン夫人 「肉体を離れるのが早すぎたために生じるショックですか」
「そうです。物事にはかならず償いと報いとがあります。不自然な死を遂げるとかならずその不自然さに対する報いがあり、同時にそれを償う必要性が生じます。それがどういうものになるかは個人によって異なります。
あなた方治療家の役目は患者の魂に、それだけの資格ができている場合に、苦痛を和らげてあげることです。その間に調整がなされ、言わば衝撃が緩和されて、魂がしかるべき状態に導かれます」
エドワーズ 「絶対に生き永らえる望みなしと判断したとき、少しでも早く死に至らしめるための手段を講じることは許されることでしょうか許されないことでしょうか」
「私はあくまで〝人間は死すべき時が来て死ぬべきもの〟と考えています」
エドワーズ 「肉体の持久力を弱めれば死期を早めることになります。痛みと苦しみが見るに見かね、治る可能性もないとき、死期を早めてあげることは正しいでしょうか」
「あなた方の辛い立場はよく分かります。また私としても好んで冷たい態度をとるわけではありませんが、法則はあくまでも法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備ができた時に来るべきです。それはちょうど柿が熟した時に落ちるのと同じです。熟さないうちにもぎ取ってはいけません。私はあくまでも自然法則の範囲内で講ずべき手段を指摘しております。
たとえば薬や毒物ですっかり身体をこわし、全身が病的状態になっていることがありますが、身体はもともとそんな状態になるようには意図されておりません。そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。
そういう観点から考えていけば、どうすれば良いかはおのずと決まってくると思います。何ごとも自然の摂理の範囲内で処置すべきです。本人も医者も、あるいは他の誰によってもその摂理に干渉すべきではありません。もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てばそれなりの結果が生じます。
ですが、それが本当に良いことか悪いことかは霊的法則にどの程度まで適っているかによって決まることです。つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです。魂にとって最善であれば肉体にとっても最善であるに違いありません」
同じくエドワーズ氏とバートン夫妻が出席した別の日の交霊会で、シルバーバーチはこう強調した。
「霊力の真の目的は(病気が縁となって)あなた方のもとを訪れる人の魂を目覚めさせることです。自分が本来霊的な存在であり、物的身体は自分ではないことに気づかないかぎり、その人は実在に対してまったく関心を向けないまま地上生活を送っていることになります。言わば影の中で幻を追いかけながら生きていることになります。
実在に直面するのは真の自我、すなわち霊的本性に目覚めた時です。地上生活の目的は、帰するところ自我を見出すことです。なぜなら、いったん自我を見出せば、それからというものは(分別のある人であれば)内部に宿る神性をすすんで開発しようとするからです。
残念ながら地上の人間の大半は真の自分というものを知らず、したがって不幸や悲劇に遭うまで自分の霊的本性に気づかないのが実情です。光明の存在に気づくのは人生の闇の中でしかないのです。
あなた方がお会いになるのは大半が心身に異常のある方たちです。治療を通じてもしその人たちに自分が霊的存在であるとの自覚を植えつけることができたら、もしその人たちの霊的本性を目覚めさせることができたら、もし内部の神の火花を点火させることができたら、やがてそれが炎となってその明かりが生活全体に輝きをもたらします。
もとより、それは容易なことではありません。でも、たとえ外れた関節を元どおりにするだけのことであっても、あるいは何となく不調を訴えた人がすっきりしたというだけのことであっても、そうした治療を通じてその人に自分が肉体を具えた霊的存在であり霊を具えた肉体的存在ではないことを理解させることに成功すれば、あなた方はこの世で最大の仕事をしていることになるのです。
私どもが肉体そのものよりもその奥の霊により大きな関心を向けていることを理解していただかねばなりません。
霊が正常であれば肉体は健康です。霊が異常であれば、つまり精神と肉体との関係が一直線で結ばれていなければ、肉体も正常ではありえません。この点をよく理解していただきたいのです。なぜなら、それはあなた方がご苦労なさっているお仕事において、あなた方自身にも測り知ることのできない側面だからです。
完治した人、痛みが和らいだ人、あるいは回復の手応えを感じた人があなた方へ向ける感謝の気持も礼も、魂そのものが目覚め、内部の巨大なエネルギー源が始動しはじめた事実にくらべれば、物の数ではありません。
あなた方は容易ならざるお仕事にたずさわっておられます。犠牲と献身を要求される仕事です。困難のさなかにおいて為される仕事であり、その道は容易ではありません。
しかし先駆者のたどる道はつねに容易ではありません。奉仕的な仕事には障害はつきものです。かりそめにもラクな道、障害のない道を期待してはなりません。障害の一つ一つ、困難の一つ一つが、それを乗り越えることによって霊の純金を磨き上げるための試練であると心得て下さい」
エドワーズ 「魂の治療の点では私たち治療家の役割よりも霊界の治療家の役割の方が大きいのですか」
「当然そうなりましょう」
エドワーズ 「そうすると私たちが果たす役目は小さいということでしょうか」
「小さいとも言えますし大きいとも言えます。問題は波長の調整にあります。大きく分けて治療には二通りの方法があります。一つは治癒エネルギーの波長を下げて、それを潜在エネルギーの形で治療家自身に送ります。それを再度治癒エネルギーに還元してあなた方が使用します。
もう一つは、特殊な霊波を直接患者の意識の中枢に送り、魂に先天的に具わっている治癒力を刺激して、魂の不調和すなわち病気を払いのける方法です。こう述べてもお分かりにならないでしょう」
エドワーズ 「いえ、理屈はよく分ります。ただ現実に適応するとなると・・・・・・」
「では説明を変えてみましょう。まず、そもそも生命とは何かという問題ですが、これは地上の人間にはまず理解できないと思います。なぜかというと、生命とは本質において物質とは異なるものであり、いわゆる理化学的研究の対象とはなり得ないものだからです。
で、私はよく生命とは宇宙の大霊のことであり、神とはすなわち大生命のことだと言うのですが、その意味は、人間が意識を持ち、呼吸し、歩き、考えるその力、また樹木が若葉をまとい、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後に潜む力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだというのです。同じ霊力の一部であり一つの表現なのです。
あなた方が今そこに生きておられる事実そのものが、あなた方も霊であることを意味します。ですから同じく霊である患者の霊的進化の程度に応じたさまざまな段階で、その霊力を注入するというのが心霊治療の本質です。
ご承知のとおり病気には魂に起因するものと純粋に肉体的なものとがあります。肉体的なものは治療家が直接触れる必要がありますが、霊的な場合は今のべた生命力を活用します。が、この方法にも限界があります。
あなた(エドワーズ)の進化の程度、協力者のお二人(バートン夫妻)の進化の程度、それに治療を受ける患者自身の進化の程度が絡み合って自然にできあがる限界です。また、いわゆる因縁(カルマ)というものも考慮しなくてはなりません。因果律です。これは時と場所とにおかまいなく働きます」
エドワーズ 「魂の病にもいろいろあってそれなりの影響を肉体に及ぼしていると思いますが、そうなると病気の一つ一つについて質の異なる治癒エネルギーが要るのではないかと想像されますが・・・・・・」
「まったくその通りです。人間は三位一体の存在です。一つは今述べた霊(スピリット)で、これが第一原理です。存在の基盤であり、種子であり、すべてがそこから出ます。次にその霊が精神(マインド)を通じて自我を表現します。これが意識的生活の中心となって肉体(ボデイ)を支配します。この三者が融合し、互いに影響し合い、どれ一つ欠けてもあなたの存在は無くなります」
エドワーズ 「一方通行ではないわけですね」
「そうです。霊的ならびに精神的発達の程度に従って肉体におのずから限界が生じますが、それを意識的鍛錬によって信じられないほど自由に肉体機能を操ることが出来るものです。インドの行者などは西洋の文明人には想像も出来ないようなことをやってのけますが、精神が肉体を完全に支配し思いどおりに操るように鍛錬したまでのことです」
エドワーズ 「心霊治療が魂を目覚めさせるためのものであり、霊が第一原理であれば、霊界側からの方がよほどやり易いのではないでしょうか」
「そうも言えますが、逆の場合の方が多いようです。と言うのは、死んでこちらへ来た人間でさえ霊的波長よりは物的波長の中で暮らしている(地縛の)霊が多いという事実からもお分かりの通り、肉体をまとった人間は、よほど発達した人でないかぎり、たいていは物的な波長にしか反応を示さず、私たちが送る波長にはまったく感応をしないものです。
そこであなた方地上の治療家の存在が必要となってくるわけです。霊的波長にも物的波長にも感応する連結器というわけです。治療家に限らず霊能者と言われている人が常に心の修養を怠ってはならない理由はそこにあります。霊的に向上すればそれだけ仕事の範囲が広がって、より多くの価値ある仕事ができます。
そのように法則ができあがっているのです。ですが、そういう献身的な奉仕の道を歩む人は必然的に孤独な旅を強いられます。ただ一人、前人未踏の地を歩みながら、後の者のための道しるべを立てていくことになります。あなたにはこの意味がお分かりでしょう。すぐれた特別の才能にはそれ相当の義務が生じます。両手に花とはまいりません」
エドワーズ 「さきほど治癒エネルギーのことを説明されたとき、霊的なものが物的なものに転換されると言われましたが、その転換はどこで行われるのでしょうか。どこかで行われるはずですが・・・・・・」
「使用するエネルギーによって異なります。信じられない方がいらっしゃるかも知れませんが、いにしえの賢人が指摘している〝第三の目〟とか太陽神経叢などを使用することもあります。そこが霊と精神と肉体の三者が合一する〝場〟なのです。これ以外にも患者の潜在意識を利用して健康な時と同じ生理反応を起こさせることによって失われた機能を回復させる方法があります」
エドワーズ 「説明されたところまでは分かるのですが、その〝中間地帯〟がどこにあるかがよく分りません。どこで物的状態と霊的治癒エネルギーとがつながるのか、もっと具体的に示していただきたいのです。どこかで何らかの形で転換が行われているに違いないのですが・・・・・・」
「そんなふうに聞かれると、どうも困ってしまいます。弱りました。分かっていただけそうな説明がどうしてもできないのです。強いて譬えるならば、さっきも言ったコンデンサーのようなことをするのです。コンデンサーというのは電流の周波を変える装置ですが、大体あんなものが用意されていると想像してください。
エクトプラズムを使用することもあります。ただし実験会での物質化現象や直接談話などに使用するものとは形態が異なります。もっと微妙な、目に見えない・・・」
エドワーズ 「一種の〝中間物質〟ですか」
「そうです。霊の念波を感じやすく、しかも物質界でも使用できる程度の物質性を具えたもの、とでも言っておきましょうか。それと治療家のもつエネルギーが結合してコンデンサーの役をするのです。そこから患者の松果体ないしは太陽神経叢を通って体内に流れ込みます。その活エネルギーは全身に行きわたります。電気的な温みを感じるのはその時です。
知っておいていただきたいことは、とにかく私たちのやる治療法には決まった型というものが無いということです。患者によってみな治療法が異なります。また霊界から次々と新しい医学者が協力に参ります。
そして新しい患者は新しい実験台として臨み、どの放射線を使用したらどういう反応が得られたかを細かく検討します。なかなか渉(はかど)らなかった患者が急に快方へ向かいはじめることがあるのは、そうした霊医の研究結果の表れです。
また治療家のところへ行く途中で治ってしまったりすることがあるのも同じ理由によります。実質的な治療というのは、あなた方が直接患者と接触する以前にすでに霊界側において大部分が済んでいると思って差支えありません」
エドワーズ 「そうするともう一つの疑問が生じます。いま霊界にも大ぜいの霊医がいると申されましたが、一方で遠隔治療を受けながら別の治療家のところへ行くという態度は、治療にたずさわる霊医にとって困ったことではないでしょうか」
「結果をみて判断なさることです。治ればそれでよろしい」
エドワーズ 「なぜそれでいいのか、理屈が分からないとわれわれ人間は納得できないのですが」
「場合によってはそんなことをされると困ることもありますが、まったく支障にならないこともあります。患者によってそれぞれ事情が違うわけですから、一概に言い切るわけにはまいりません。あなただって患者を一目見て、これは自分に治せる、とは判断できますまい。
治せるか否かは患者と治療家の霊格によって決まることですから、あなたには八分通りしか治せない患者も、他の治療家のところへ行けば全治するかもしれません。
条件が異なるからです。その背後つまり霊界側の複雑な事情を知れば知るほど、こうだ、ああだと、断定的な言葉は使えなくなるはずです。神の法則には無限の奥行があります。あなたがた人間としては正当な動機と奉仕の精神にもとづいて、精一杯、人事を尽くせばよいのです。こうすれば治る、これでは治らないとかを予断できる者はいません」
エドワーズ 「細かい点は別として、私たちが知りたいのは、霊界の医師は必要とあらばどこのどの治療家にも援助の手を差しのべてくれるかということです」
「霊格が高いことを示す一ばんの証明は人を選り好みしないということです。私たちは必要とあらばどこへでも出かけます。これが高級神霊界の鉄則なのです。あなた方も患者を断わるようなことは決してなさってはいけません。
あなたがたはすでに精神的にも霊的にも本質において永遠の価値を持った成果をあげておられます。人間的な目で判断してはいけません。あなたがたには物事のウラ側を見る目がないのです。したがって自分のしたことがどんな影響を及ぼしているかもお分かりになりません。
しかし実際にはご自分で考えておられるよりはるかに多くの貢献をしておられます。あなたがたの貢献は地上で為しうる最大のものの一つであることに自信をもってください。
一生けんめい治療なさって何の反応も生じなくても、それはあなたの責任でもありませんし、あなたの協力者(バートン夫妻───たとえばエドワーズ氏が患者の頭部に手を当てバートン夫妻が左右の手を握って祈念するという形での協同治療のことで、エドワーズ氏に代って夫妻が治療するという意味ではない───訳者)の責任でもありません。
すべては自然の摂理の問題です。ご承知のように奇跡というものは存在しません。すべては無限なる愛と無限なる叡知によって支配されているのです。
あなたと、協力者のお二人に申し上げます。つねに霊の光に照準をあてるように心がけて下さい。この世的な問題に煩わされてはなりません。(エドワーズ氏は治療費を取らず自発的な献金でまかなっていたために慢性的な資金不足の問題をかかえ、借り入れ金の返済も滞りがちで、運営の危機に直面したことが何度かある───訳者)
これまで幾つもの困難に遭遇し、これからも行く手に数々の困難が立ちはだかることでしょうが、奉仕の精神に徹している限り、克服できない障害はありません。すべてが克服され、奉仕の道はますます広がっていくことでしょう。あなたがたのお仕事は人々に苦痛の除去、軽減、解放をもたらすだけではありません。
あなたがたの尊い献身ぶりを見てそれを見習おうとする心を人々に植えつけています。そしてそれがあなたがたをさらに向上の道へと鼓舞することになります。私たちはまだまだ霊的進化の頂上を極めたわけではありません。まだまだ、先ははるかです。なぜなら、霊の力は神と同じく無限の可能性を秘めているのです」
サークルの一人「患者としてはあくまで一人の治療家のお世話になるのが好ましいのでしょうか」
「それは一般論としてはお答えしにくい問題です。なぜかと言いますと、大切なのはその患者の霊的状態と治療家の霊的状態との関連だからです。心霊治療にもいろいろと種類があることを忘れてはなりません。霊的な力をまったく使用しないで治している人もいます。自分の身体のもつ豊富な生体エネルギーを注入することで治すのです。
霊の世界はまったく係わっておりません。それは決していけないことではありません。それも治療法の一つというにすぎません。ですから、患者のとるべき態度について戒律をもうけるわけにはまいりません。ただし、一つだけ好ましくない態度を申せば、次から次へと治療家をかえていくことです。それでは治療家にちゃんとした治療を施すチャンスを与えていないことになるからです。
私たち霊界の者は何とか力になってあげたいと臨んでいても、そういう態度で訪れる人の周りには一種のうろたえ、感情的なうろたえの雰囲気が漂い、それが霊力の働きかけを妨げます。ご承知のように、霊力が一番働きやすいのは受身的な穏やかな雰囲気の時です。その中ではじめて魂が本来の自分になりきれるからです」
エドワーズ 「一人の治療家から直接の治療を受けながら別の治療家から遠隔治療を受けるというのはどうでしょうか」
「別に問題はありません。現にあなたはそれを証明しておられます。他の治療家に治療してもらっている人をあなたが治されたケースが幾つもあります」
バートン氏 「私は祈りの念が霊界へ届けられる経路について考えさせられることがよくあります。祈り方にもいろいろあり、特に病気平癒の祈願が盛んに行われています。その一つとして患者へ向けて祈念する時間が長いほど効果があると考えている人がいます。いったい祈りは霊界でどういう経路で届いているのか知りたいのですが」
「この問題も祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご承知の通り宇宙はすみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇跡とかは絶対に起こりません。もしもその祈りが利己心から発したものであれば、それはそのままその人の霊格を示すもので、そんな人の祈りで病気が治るものでないことは言うまでもありません。
ですが、自分を忘れ、ひたすら救ってあげたいという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りは高級神霊界にも届きますし、自動的に治療効果を生む条件を作り出す力も具わっています。要するに祈る人の霊格によって決まることです」
バートン氏「祈りはその人そのものということでしょうか」
「そういうことです」
バートン氏「大主教による仰々しい祈りよりも素朴な人間の素朴な祈りの方が効果があるということでしょうか」
「地位には関係がありません。肝心なのは祈る人の霊格です。大主教が霊格の高い人であればその祈りには霊力が具わっていますが、どんなに立派な僧衣をまとっていても、筋の通らない教義に凝り固まった人間でしたら何の効果もないでしょう。
もう一ついけないのは集団で行う紋切り型の祈りです。案外効果は少ないものです。要するに神は肩書や数ではごまかされないということです。祈りの効果を決定づけるのは祈る人の霊格です。
祈りとは本来、自分の波長を普段以上に高めるための霊的な行為です。波長を高め、人のために役立ちたいと祈る行為はそれなりの効果を生み出します。あなたが抱える問題について神は先刻ご承知です。
神は宇宙の大霊であるが故に宇宙間の出来ごとのすべてに通じておられます。神とは大自然の摂理の背後の叡知です。したがってその摂理をごまかすことは出来ません。神をごまかすことは出来ないのです。あなた自身さえごまかすことは出来ません」
バートン夫人「治療の話に戻りますが、患者が信仰心を持つことが不可欠の要素だと言う人がいますし、関係ないと言う人もいます。どうなのでしょうか」
「心霊治療に限らず霊的なことには奥には奥があって、一概にイエスともノーとも言い切れないことばかりなのです。信仰心があった方が治りやすい場合が確かにあります。霊的知識に基づいた信仰心は魂が自我を見出そうとする一種の憧憬ですから、魂に刺激を与えます。あくまで自然の摂理に関する知識に基づいた信仰でして、何か奇跡でも求めるような盲目の信仰ではだめです。反対に、ひとかけらの信仰心がなくても、魂が治るべき段階まで達しておれば、かならず治ります」
バートン夫人 「神も仏もないと言っている人が治り、立派な心がけの人が治らないことがあって不思議に思うことがあります」
「その線引きは魂の霊格によって決まります。人間の観察はとかく表面的で内面的でないことを忘れてはなりません。魂そのものが見えないために、その人がそれまでにどんなことをしてきたかが判断できません。
治療の結果を左右するのはあくまでも魂です。ご承知の通り私も何千年か前に地上で幾ばくかの人間生活を送ったことがあります。そして死後こちらでそれより遥かに永い霊界生活を送ってきましたが、その間、私が何にもまして強く感じていることは、大自然の摂理の正確無比なことです。
知れば知る程その正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりなのです。一分(いちぶ)の狂いも不公平もありません。地上だけではありません。私どもの世界でも同じです。差引勘定をしてみれば、きちんと答えが合います。
何事も憂えず、ただひたすら心に喜びを抱いて、奉仕の精神に徹して仕事をなさることです。そして、あとのことは神にお任せすることです。それから先のことは人間の及ぶことではないのです。
あなた方は所詮、私たちスピリットの道具に過ぎません。そして私たちも又、さらに高い神霊界のスピリットの道具に過ぎません。自分より偉大なる力がすべてを佳きに計らってくれているのだと信じて、すべてをお任せすることです」
最後に、別の日の交霊会で再び心霊治療の話題が取り上げられた時の注目すべき霊言を紹介しておこう。パキスタンから招待された人が〝見たところ何でもなさそうな病気がどうしても治らないことがあるのはなぜでしょうか〟と尋ねたのに対して、シルバーバーチはこう答えた。
「不治の病というものはありません。すべての病気にそれなりの治療法があります。宇宙は単純にして複雑です。深い奥行きがあるのです。法則の奥に又法則があるのです。知識は新しい知識へ導き、その知識がさらに次の知識へと導きます。理解には際限がありません。叡知は無限です。
こう申し上げるのは、いかなる質問にも簡単な答えは出せないということを知っていただきたいからです。すべては魂の本質、その構造、その進化、その宿命に関わることだからです。
地上の治療家からよくこういう言い分を聞かされます───〝この人が治ったのになぜあの人は治らないのですか。愛と、治してあげたいという気持ちがこれだけあるのに治らなくて、愛も感じない、見ず知らずの人が簡単に治ってしまうことがあるのはなぜですか〟と。
そうしたことはすべて法則によって支配されているのです。それを決定づける法則は魂の進化と関係しており、魂の進化は現在の地上生活によって定まるだけでなく、しばしば前生での所業が関わっていることがあります。霊的な問題は地上的な尺度では計れません。人生の全てを物質的な尺度で片付けようとすると誤ります。
しかし残念ながら、物質の中に閉じ込められているあなた方は、とかく霊の目を持って判断することができず、そこで、一見したところ不正と不公平ばかりが目につくことになります。
神は完全なる公正です。神の叡知は完全です。なぜなら完全なる摂理として作用しているからです。あなた方の理解力が一定の尺度に限られている以上、宇宙の全知識を極めることは不可能です。どうか〝不治の病〟という観念はお持ちにならないでください。
そういうものは存在しません。治らないのは往々にしてその人の魂がまだそうした治療による苦しみの緩和、軽減、安堵、ないしは完治を手にする資格を身につけていないからであり、そこに宿業(カルマ)の法則が働いているということです。
こんなことを申し上げるのは、あきらめる観念を吹聴するためではありません。たとえ目に見えなくても、何ごとにも摂理というものが働いているという原則を指摘しているのです」
No comments:
Post a Comment