by G. V. Owen
1 古代の科学と近代の科学
一九一三年十一月二一日 金曜日
読むのが速い者が必ずしも正しく読み取っているとは限らない。そういう者は、見た目に重要に思えない事柄は落ち着いてじっくり考える余裕をもたないものだからである。
表面的なこと以外は目に止まらないのである。であるから、通信が判り易く書かれていると、大部分が軽く読み流されてしまい、そのメッセージの重要性が目に止まらないことになる。
このことは人間が自然と呼んでいるもの、つまり霊力が物質を通して活動しているその表面的な現象に書かれている教訓についても言える。また人間なり民族なりがその本来の性格を基盤として繰り拡げる運命の働きについても同じことが言える。
更にこのことは、程度こそ異なるが、いわゆる科学の発見においても言えることである。ではこれより、この発見の問題を取り上げ、ざっと目を通すだけで深く読もうとしない大方の人間よりも深く踏み込もうとする人間に対して深く暗示されているものを観てみよう。
歴史と同じく科学もまた繰り返す。が決して全く同じことを繰り返すわけではない。知識の探求にも常に大よその原理というものが支配しており、その原理が一定の役割を果たすと、他の原理にその場を譲って裏側へまわり、新たな原理が人類の注目を世界中で集中的に受けることになる。
が、時の経過とともにいつしか前の原理が再び表に出て来て──順序は定まっていないが──新しく人類の注目を集める。かくして人類進化の行進が続けられる。
発見そのものの種類も又、失われては新たに発見されることを繰り返す。まったく同じものではない。外観が変わり、新たな特徴が加わり、同時に古い特徴が失われている、ということがしばしば見られる。
以上述べたことを更に判り易くするために、例を挙げて細かく説明しよう。曽ては科学そのものが今日の科学とは異なる意味をもった時代がある。つまり科学にも心があり、物質的現象は二次的な意味しか持たなかった。
錬金術がそうであり、星学がそうであり、工学ですらそうであった。当時すでに地上世界が霊的世界によって支配され、無数の霊団が自発的に──但し上層界から偉大な霊力と崇高な権威によって規制された限度内で──監督に当たっていることが知られていた。
そして当時の人間はそうした霊的支配者の程度や階級、及び自然界と人間界の各部門における彼らの役割、更には各階級から行使される霊力の量まで知ろうとする研究が行われていたのである。
事実、彼らはおびただし数の事実を発見し、分類した。ただ、そうした事実や法則、規制、条件等が地上的なものでなく霊的なものであったがために、彼らは己むなくそれを通常の言語とは別の形で表現した。
これが関心の異なる別の世代が台頭してくると、先祖が伝承話の形に込めた知識の何たるかを考慮することなく、これは単なる譬え話であり象徴的なものに過ぎないと断定してしまう。そう断定することで裏に秘められた事実が輪郭を失い。やがて真実味まで失って行く。
さまざまな民族における霊力の研究成果がそうした経過を辿り、これがヨーロッパの妖精物語と東洋の魔法の物語を生み出すことになった。それらは、まぎれもなく古代の科学が或るものを付加され、あるものを抜き取られ、さまざまに歪められながら生き残れる姿なのである。
が、そうした物語を今述べたことに照らし、その本質と近代に至ってからの潤色とを選り分けて読めば、その底に、あたかも幾世紀ものあいだ土砂に埋もれたエジプトの古代都市の如く、太古の科学すなわち霊的観点より考究した知識を見出すことが出来る。 ♰
──何か顕著な例を挙げていただけませんか。
「ジャックと豆の木」という物語がある。まず名前を見るがよい。ジャックはJohnの愛称であり、このジョンを最初に用いたのは例の「黙示録」の著者(ヨハネ、英語読みでジョン──訳者)である。
豆の木は「ヤコブのはしご」(創成記)すなわち霊界の上層界へ辿り着くための階段の翻案である。物語の意味は、天界に辿り着けばそこは現実の国であり、さまざまな地域があり、自然の風景があり、家々があり、素晴らしい知識がある。
天使はその全てを人間に授けるつもりはないのであるが、時に大胆で能力のある人間が侵入して地上へ持ち帰ることがある。
天使はそれを取り返そうとし、人間がそれ以上に大胆になることによって獲得する所有権を奪おうとするのであるが、人間は生来の機智を弄してそれを妨げることが出来るというのである。
さて、これはなかなか面白い話ではある。が、その深い意味を理解せぬ者によって幾世紀も語り継がれて来たために、話の筋が奇妙で滑稽にさえなっている。たとえば、もしも真の意味が理解されておればジャックという軽々しい愛称は用いられなかったであろう。
があのジャックのお馴染みの衣装を見れば分る通り、ジャックという俗称に変わったのは神聖なものや霊的なものが軽視された時代のことである。当時は霊的存在を理解することが出来なかったのである。
悪魔に衣服を着せ、刃物のような耳やしっぽを付けたりしたのも同じ理由からである。すなわちそうしたものは当時ではあくまで神話の世界だけの存在だったのである。従って悪魔の性格も神話的な架空のものに過ぎなかった。
この物語は数多く存在する物語の一つに過ぎない。「パンチとジュディ」という物語も救い難き極悪人としてピラトとイスカリオテ(ユダ)を風刺したものである(*)がこの宗教的にして且つ恐ろしき事実を扱うその手法にも、当時の時代的軽薄さが歴然としている。
(*「パンチとジュディ」はパンチという名のせむし男が子供を絞殺したり妻のジュディをいじめ殺したりする古い英国の人形芝居であるが、これはイエスの処刑を命じた残虐非道のローマ総督と、イエスを裏切ったユダを風刺したものとされる。──訳者)
まさに軽薄であり、これまで常にそうであった。が、今の時代に至って霊的なるものがようやく人間世界に戻り、その位置を見出しつつある。
必ずしも正当な位置を得ているとは言えないが、少なくとも過去幾世紀かにおける扱われ方に較べれば、より大きな考慮を払われていると言えよう。
かくして外面的には様相を変えてはいるものの、内面的にはかのエジプトの星学を支配した一般的原理、並びにモーゼが学びそして活用した叡智に類似したものが今日再び人間界に戻りつつある。
それが人間の意識を高め、生命力の産物──貝殻、石、化石──をいじくりながらその生命力の根源の存在を認めようとせぬ過去の唯物思想に存在意識を賦与しつつある。
曽ての唯物科学は大自然の法則の秩序ある働きを説いた──にも拘らず、その秩序と働きの背後の唯一絶対の霊的始源の存在を否定した。
大自然の美を謳った──なのに、その美も人間に〝霊〟が宿ればこそ感識し得るものであること、そしてその霊も永遠なる神の生命が存在すればこそ存在を得ていることを忘れていた。
吾らは常に人間界を見守っている。そして許されるかぎり、好機の与えられるかぎりにおいて導いている。もし人間が吾らの働きかけに忠実に応えてくれれば、今まさに過ぎ去りつつある時代よりも更に多くの光と愛と生命の美に溢れる時代が到来する。
吾々は人間はきっと応えてくれるものと確信する。何となれば、新しきものは古きものに勝るのが必定であり、更に、吾らが地上へ向けて働きかける時、背後にさらに高い世界から叡智と霊力とが澎湃(ほうはい)として迫りくるものを感ずるのである。
そして吾らは、これぞ上層界の意図であり要望であると確信するものを実行に移す。
吾々とて、あまりに遠き未来まで 覗き見ることは出来ない。それにはそれなりの特殊な部門があり、それは現在の吾々の霊団の任務には組み入れられていない。が、
吾らはその努力が多くの人間に首尾よく反応を示してくれることに喜びを感じ、時の経過と共により多くの機会を得て、人間にとって吾らがいかに身近な存在であるか、又、人間が常に謙虚にして冷静さを保ち、最高の模範としてキリストを目指し、吾らの教説の中にたとえ走り読みにせよ見出せるであろう聖なる美を体現すべく努力をしておれば、いかに大きな仕事を成就する潜在力を秘めているかを示すことが出来る──そう期待しているのである。
それというのも、キリストの霊的生命は、それをひと目見れば、美とは何かを知る者は恍惚の境へと誘われるほどのものだからである。
キリストの名において吾らは愛し、キリストに向けて吾らは崇拝の念を捧げる。常にキリストの安らぎのあらんことを。アーメン。 ♰
2 守護霊と人間
一九一三年十一月二四日 月曜日
更に言えば、いついかなる時も吾らの存在を意識することは好ましいことであり、吾らにとって何かと都合がよい。事実、吾らはいつも近くにいる。もっとも、近くにいる形態はさまざまであり意味も異る。
距離的に近くにいる時は役に立つ考えや直感を印象づけるのが容易であり、又、仕事がラクに、そして先の見通しも他の条件下よりは鮮明に見えるように順序よく配慮することが出来る。
吾らの本来の界にいる時でも、人間の心の中および取り巻く環境で起きている事柄のみならず、その事情の絡み合いがそのまま進行した場合どういう事態になるかについての情報をも入手する手段がある。
こうして接触を保ちつつ吾らは監督指導が絶え間なく、そして滞りなく続けられるよう配慮し、挫折することのないように警戒を怠らない。
それが出来るのも吾らの界、および吾らと人間との間に存在する界層を通じて情報網が張りめぐらされているからであり、必要とあらば直接使者を派遣し、場合によっては今の吾々がそうであるように、自ら地上へ降りることも可能だからである。
更にその方法とは別に、吾らの如き守護の任に当たる者が本来の界に留ったまま、ある手段を講じて自分に託された人間と接触し、然るべく影響を行使することも可能である。
これで理解が行くことと思うが、創造主の摂理は全界層を通じて一体となって連動し、相関関係を営んでいる。宇宙のいかなる部分も他の影響を受けないところは一つとして無く、人間が地上において行うことは天界全域に知れ亘り、それが守護霊の心と思想に反映し、守護霊としての天界での生活全体に影響を及ぼすことになる。
されば人間は常に心と意念の働きに注意せねばならない。思念における行為、言葉における行為、そして実際の行為の全てが、目に映じ手を触れることのできる人々に対してのみならず、目には見えず手を触れることこそできないが、いつでも、そしてしばしば監視しながら接触している指導霊にも重大な影響を及ぼすからである。
それのみではない。地上から遠く離れた界層にて守護の任に当たる霊にも影響が及ぶ。私の界においても同じである。
この先更にどこまで届くか、それは敢えて断言することは控えたい。が、強いて求められれば、人間の行いは七の七十倍の勢い(*)を持って天界に知れ亘る、とでも答えておこう。その行きつく先は人間の視野にも天使の視野にも見届けることは出来ない。
何となれば、その行きつくところが神の御胸であることに疑いの余地は無いからである。(マタイ18・22。計り知れない勢いの意──訳者)
故に、常に完全を心掛けよ。何となれば天に坐(ましま)す吾等が父が完全だからである。不完全なるものは神の玉座に列することを許されないのである。
では善と美を愛さぬ者の住む界層はどうなるのか。実は吾らはその界層とも接触を保ち、地上と同じように、援助の必要があれば即座に届けられる。縁が薄いというのみであって決して断絶しているわけではないからである。
その界層の霊たちも彼らなりに学習している。その点は人間も変わらない。ただしその界の雰囲気は地上よりは暗い───ただそれだけのことである。彼らも唯一絶対なる神の息子であり娘であり、従って吾らの弟であり妹でもあるわけである。
人間の要請に応える如く彼らの魂の叫びに応えて吾らは援助の手を差し伸べる。そうした暗黒界の事情については貴殿はすでにある程度のことを知らされている。が、ご母堂の書かれたもの(第一巻三章)にここで少しばかり付け加えるとしよう。
すでにご存知の通り、光と闇は魂の状態である。暗黒界に住む者が光を叫び求める時、それは魂の状態がそこの環境とそぐわなくなったことを意味する。そこで吾等は使者を派遣して手引きさせる。が、その方角は原則として本人の希望に任せる。
つまり、いきなり光明界へ連れてくることはしない。そのようなことをすれば却って苦痛を覚え、目が眩み、何も見えぬことになる。
そうではなく暗黒の度合いの薄れた世界、魂の耐えうる程度の光によって明るさを増した世界へ案内され、そこで更に光明を叫び求めるようになるまで留まることになる。
暗黒地帯を後にして薄明の世界へ辿りついた当初は、以前に較べて大いなる安らぎと安楽さを味わう。その環境が魂の内的発達程度に調和しているからである。が、
尚も善への向上心が発達し続けると、その環境にも調和しない時期が到来し、不快感が募り、ついには苦痛さえ覚えるに至る。やがて自分で自分がどうにもならぬまま絶望に近い状態に陥り、自力の限界ぎりぎりまで至った時に、再び叫び声を上げる。
それに応えて神の使者が訪れ、更に一段階光明界に近い地域へと案内する。そこはもはや暗黒の世界ではなく薄明の世界である。かくて彼はついに光が光として見える世界へ辿り着く。それより先の向上の道にはもはや苦痛も苦悩も伴わない。喜びから更に大きな喜びへ、栄光から大いなる栄光へと進むのである。
ああ、しかし、真の光明界へ辿り着くまでにいかに長き年月を要することか。苦悶と悲痛の歳月である。そしてその間に絶え間なく思い知らされることは、己れの魂が浄化しない限り再会を待ち望む顔馴染みの住む世界へは至れず、愛なき暗黒の大陸をとぼとぼと歩まねばならないということである。
が、私の用いる言葉の意味を取り違えてはならない。怒れる神の復讐などは断じてない。「神は吾らの父なり」、しかして「父は愛なり」(ヨハネ)その過程で味わう悲しみは必然的なものであり、種子蒔きと刈入れを司る因果律によって定められるのである。
吾々の界──驚異的にして素晴らしいものを数多く見聞きできるこの界においてすら、まだその因果律の謎を知り尽くしたとは言えない。
全ての摂理が〝愛〟に発するものであることは、地上時代とは異なり、今の吾々には痛いほどよく解る。曽てはただ信ずるのみであったことを今は心行くまで得心することが出来ることも、憚(はばか)ることなく断言できる。が、因果律というこの厳粛なる謎については、まだまだ未知なるものがある。
が、吾々はそれが少しずつ明かされていくのを待つことで満足している。それというのも、吾々は万事が神の叡智によって佳きに計られていることを信ずるに足るだけのものを既に悟っているからである。
それは暗黒界の者さえいつの日か悟ることであろう。そして彼らがこの偉大にして美わしき光の世界へと向上進化して来てくれることが吾々にとっての何よりの慰めであり、また是非そうあらしむべく吾らが手引きしてやらねばならない。
そしてその暁には万事が有るがままにて公正であるのみならず、それが愛と叡智に発するものであることを認め、そして満足することであろう。
吾々はそう理解しているのであり、そのことだけは確信を持って言える。そして私もその救済に当たる神の使者の一人なのである。
私が気づいていることは、かの恐ろしき暗黒の淵から這い上がって来た人たちの神への讃仰と祝福の念を、その体験の無い吾々のそれと比較する時、そこに愛の念の欠如が見られないことである。些かも見られぬのである。
と言うのも、正直に明かせば、彼らと共に天界の玉座の光の前にひれ伏して神への祈りを捧げた折のことであるが、彼らの祈りの中に私の祈りに欠けている何ものかがあることに気づいたのである。
そこで思わず、私もそれにあやかりたいとものと望みをかけて、ようやく思い止まったことでああった。
それは許されぬことであろう。そして神はその愛ゆえに、吾々の内にあるものを嘉納されるに相違ない。それにしても、かのキリストの言葉は実に美わしく、愛がその美しさを赤裸々に見せる吾々の界において如実にその真実味を味わうのである。
神はその愛の中にて人間と交わりを保つ。神の優しき抱擁に身を任せ、その御胸に憩いを求める時、何一つ恐れるものはない。 ♰
3 種の起源
一九一三年十一月二五日 火曜日
人間に少しでも信仰心があれば、こうして貴殿の精神と手を使って書き記したものを理解することが出来るであろうが、残念ながら物事の霊的真相を探り、それを真実であると得心しうる者は多くは見当たらない。これまでの永い人類の歴史においてそうであり、これからの遠き未来までもそうであろう。
それは事実であるが、更にその先へ目をやれば、吾々の目には遠い遠い未来において人間世界が今日より遥かに強い光の中を歩みつつあるのが見える。
その時代においては吾々と人間とがいかに身近な関係にあるかについて、書物の中のみならず実際の日常生活の中において理解し得心することであろう。
差し当たっては、警戒と期待のうちに吾々の力の及ぶかぎりの努力をし、たとえ吾々の望み通りの協調関係が得られず、無念の思いを断ち切ることが出来ずとも、一歩一歩と理想の関係に近づきつつあり、万事が佳きに計られているとの確信を抱くのである。
さて現在の貴殿との仕事のことであるが、吾々としては成るべくならば物事が活撥に進行しているこの〝昼〟の時代に多いに進行させたい。何となれば〝夜〟 の時代が到来すれば貴殿は明日の時代を思うであろうが、その明日はもはや今日とは異なる。
いろいろと可能性を秘めてはいても今と同じほどのことが出来るとは限らない。故に現在のこの良い条件の整っている時期に出来るかぎりのことをしようではないか。そうすれば吾々二人により広き界層が開かれた暁に、更に良い仕事が為し得ることになろう。
人間が理解している科学は吾々の理解している科学と軌を一にするものではない。何となれば吾らは霊的根源へ向けて深く探求の手を伸ばすからである。地上の科学は今やっと霊的根源を考慮しはじめたばかりである。
吾々は互いにようやく近づきつつあるわけである。と言うよりは、地上の現象の意味を探る者の中に、吾々の手引きによって、より高くそしてより深い意味へと近づきつつある者がいると述べた方が正しかろう。
このことを吾々は有難きことと思う。そしてそのことがこれまでの道を更に自信を持って歩ませてくれる。吾々は人間がきっと付いてきてくれるとの確信を持っており、それだけに賢明にそして巧妙に手引きせねばならないのである。
さて私はこれより、人間が〝種の起源〟と呼んでいるところのものについて、その霊的な側面を少しばかり説いてみたいと思う。が、結論から申せば、動物的生命の創造の起源は物質界にあらずして吾々の天界に存在する。
こちらへ来て吾々が学んだことは、宇宙が今日の如き形態の構成へ向けて進化の道を歩み始めた時、その監督と実践とを受け持つ高き神霊が更に高き神霊界より造化の方針を授かり、その方針に基いて彼らなりの知恵を働かせたということである。
その時点においては未だ天界には物的表現としての生命の形態と知能の程度に多様性があったと想像される。そして結果的にはその発達を担当すべく任命された神霊の個性と種別を反映させていくことに決定が下された。
そしてその決定に沿って神の指示が発せられた。なぜかと言えば、計画が完了した時、総体的にはそれで結構であるとの神の同意が啓示されたのであって、その時点ですでに完璧ということではなかったのである。
ともかくも宇宙神が認可を下され、更に各神霊がそれぞれの才覚と能力に従って神の意志を反映させていく自由を保証されたということである。
かくして動物、植物、鉱物のさまざまな種と序列、そして人類の種族と民族的性格とが生まれた。そしていよいよ造化が着手された時、宇宙神は改めて全面的是認を与えた。聖書風に言えば神がそれを〝なかなか結構である〟と仰せられたのである。
が、造化に直接携わる神霊はいかに霊格が高いとはいえ全知全能の絶対神には劣る。そして宇宙の経綸の仕事はあまりに大きく、あまりに広いが故に僅かな不完全さが造化の進展に伴って大きくなって行った。
それが単純な知能、特に人間の如き低い階層の知能には事さらに莫大にそして巨大に見えたのである。何となれば、小さくそして未発達な知性には善と悪とを等しく見ることが出来ず、むしろ邪悪の方が目に止まりやすく、善なるものが余りに高尚にそして立派に思えて、その意義と威力を掴みかねるのである。
が、人間が次のことを念頭に置けば、その不完全さの中にも驚異と叡智とが渾然として存在することが容易に納得がいくことであろう。それはこういうことである。海は海洋動物だけのために造られたのではない。空は鳥たちだけのために造られたのではない。
それと同じで、宇宙は人間だけのために創造されたのではないということである。人間は海にも空にも侵入し、そこをわが王国のように使用している。それは一向に構わない。
魚や鳥たちのものと決まってはいないからである。より強力な存在が支配するのは自然の理であり、地上では人間がそれである。人間は自他共に認める地上の王者であり、地上を支配する。神がそう位置付けたのである。
が、宇宙には人間より更に偉大な存在がいる。そして人間がその能力と人間性の発達のために下等動物や植物を利用する如く、さらに偉大なる存在が人間を使用する。
これは自然であり且つ賢明でもある。何となれば大天使も小天使も、更にその配下のもろもろの神霊も所詮は絶対神の配下にあり、常に発達と修養を必要としている点は人間と同じだからである。
その修養の手段と中身は、人間との霊格の差に応じて、人間が必要とするものとは本質と崇高性において自ずと差がなければなるまい。人間であろうと天使であろうと、内部に宿す霊力に応じて環境が定まり構成されていく点は同じなのである。
人間はその点をよく銘記し、忘れぬようにしなければならない。そうすれば自由意志という生得の権利の有難さを一層深く理解することであろう。これは天界のいかなる神霊といえども奪うことは出来ない。かりに出来るとしても敢えて奪おうとはしないであろう。
なぜなら、自由意志を持たぬ人間では質的に下等な存在に成り下がり、向上進化の可能性を失うことになるからである。
さて、こうした教説を読んで、これでは人間は上級界の神霊が己れの利益のために使う道具に過ぎないのではないかと思う者もいるであろう。が、その考えは誤りである。その理由は今述べたことにある。
すなわち人間は自由意志を持つ存在であり、これより先も常にそうあらねばならぬということである。
それのみではない。上級界において神に仕える者を鼓舞する一大霊力が〝愛〟であるということもその理由である。彼らを血も涙もなき暴君と思ってはならない。
威力というものを圧力と並べて考えるのは地上での話である。天界に在っては威力は愛の推進力のことであり、威力ある者はその生み出す愛も強力となるのである。
更に申せば、悪との戦いの熾烈にして深刻な者には、その試練を経た暁に栄光と高き地位(くらい)とが約束されていることを教えてやるがよい。
何となれば、その闘いの中にこそ、人類が天界の政庁における会議への参列を許され、造化の仕事の一翼を担い、開闢(かいびゃく)頭初に定められた方針に沿って全宇宙の救済の大事業に参加する資格の確かな証しが秘められているからである。
その仕事は勇気ある人間ならば喜び勇んで取り組むことであろう。何となれば、その者は次のことくらいは理解するであろうからである。
すなわちその者は高き神霊が天界において携わるのとまさに同じ仕事に、この地上において、そしてその者なりの程度において携わっているということである。そうと知ればさぞ心躍ることであろうし、意を強くすることであろう。
更に又、その者の仕事は吾々の仕事と一つであり、吾らの仕事がすなわちその者の仕事であることを知り、互いに唯一の目的すなわち地上の全生命、全存在の向上へ向けて奮闘していることを知れば、イザという時に思慮深く適度な謙虚さと素直な信頼心を持って援助を求めれば、吾々はすぐにそれに応ずる用意があることに理解がいくことであろう。
吾々はそういう人間──悪との闘争の味方であり宇宙の最前線における同志──を援助することに最大の喜びを覚えるからである。
この真理の大道を惜しくも踏み外せる者たちのその後の見るも哀れな苦しみは、吾々が貴殿より多く見ている。が、吾らは絶望はしない。この仕事の意義と目的とが貴殿たちより鮮明に見えるからである。
その視野から眺めるに、人間も何時の日かそれぞれの時を得てこの高き霊界へと至り、恵まれた環境の中にて更に向上し続けることであろう。
その時はその者たちも修身の道具として今吾々が使用している人材──その者たちが今その立場にあるのだが──を使用することになるであろう。その時は他の人間が現在のその者たちの立場にあり、その者たちが指導霊の立場にまわることであろう。
キリストはかく述べている──〝悪に勝てる者はわが座位(くらい)に列することを許さん。わが勝利の時、父と共にその座位に列したる如くに〟(黙示録3)と。心するがよい。神の王国は強き者のものであるぞ。首尾よく悪を征服せる者にして始めてその地位を与えられるであろう。
以上である。この度はこれにて終わりとする。が、これはこの程度のメッセージにてはとても尽くせぬ大きな問題である。神の許しがあれば、いつか再び取り上げるとしよう。
では健闘と無事を祈る。強くあれ。その強さの中より優しさがにじみ出ることであろう。吾々の界においては最も強い者こそ最も優しくそして愛らしさに満ちているものである。
このことを篤と銘記されたい、そうすれば人間を惑わす数々の問題が自ずと解けることであろう。躓(つまず)くことのなきよう、神の御光が常に貴殿の足元を照らし給わんことを祈る。 ♰
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