(一)──戦争になると友情、仲間意識といったものが鼓舞されるという意味では〝宗教心〟をより多く生み出すことになると言えないでしょうか。
「それはまったく話が別です。それは〝窮地〟に立たされたことに由来するにすぎません。つまり互いの〝大変さ〟を意識し合い、それが同情心を生み、少しばかり寛容心が培われるという程度のことです。団結心にはプラスするでしょう。困った事態をお互いに理解し合う上でもプラスになるでしょう。それまでの感情的わだかまりを吹き飛ばすこともあるでしょう。
しかし真の宗教心はそれよりもっともっと奥の深いものです。魂の奥底から湧き出る〝人のためを思う心〟です。そして今こそ地上はそれを最も必要としているのです。
何でもない真理なのです。ところが実はその〝何でもなさ〟がかえって私たちをこれまで手こずらせる原因となってきたのです。もっと勿体ぶった言い方、どこか神秘的な魅力を持った新しい文句で表現しておれば、もう少しは耳を傾けてくれる人が多かったのかも知れません。
その方が何やら知性をくすぐるものがあるように思わせ、今までとはどこか違うように感じさせるからです。
しかし私たちは知識人ぶった人間をよろこばせるための仕事をしているのではありません。飢えた魂に真理の糧を与え、今日の地上生活と明日の霊的生活に備える方法をお教えしているのです。あなた方は永遠の旅路を行く巡礼者なのです。今ほんのわずかの間だけ地上に滞在し、間もなく、願わくば死後の生活に役立つ知識を身につけて、岐れ道で迷うことなく、旅立つことになっております。
あなた方は旅人なのです。常に歩み続けるのです。地上はあなた方の住処ではありません。本当の住処はまだまだ先です。
人類は余りに永いあいだ真理というものを見せかけの中に、物的形態の中に、祭礼の中に、儀式の中に、ドグマの中に、宗教的慣習の中に、仰々しい名称の中に、派閥的忠誠心の中に、礼拝のための豪華な建造物の崇拝の中に求めてまいりました。
しかし神は〝内側〟にいるのです。〝外側〟にはいません。賛美歌の斉唱、仰々しい儀式───こうしたものはただの〝殻〟です。宗教の真髄ではありません。
私は俗世から遁れて宗教的行者になれとは申しません。地上生活でめったに表現されることのない内部の霊的自我を開発する為の生き方を説いているのです。
それがよりいっそう、人のため人類のためという欲求と決意を強化することになります。なさねばならないことは山ほどあります。ですが、大半の人間は地上生活において〝常識〟と思える知識ばかりを求めます。余りに永いこと馴染んできているために、それがすでに第二の天性となり切っているからです」
(二)──休戦記念日に当たってのメセージをお願いします。(訳者注──一九一八年に始まった第一次大戦の休戦日で、これが事実上の終戦日となった。毎年十一月十一日がこれに当たり二分間の黙祷を捧げる。こうした行事を霊界ではどうみているか、日本の終戦記念行事と合わせて考えながら読むと興味深い。なおこの日の交霊会は第二次大戦が勃発する一九三九年の一年前である)
「過去二十年間にわたって地上世界は偉大な犠牲者たちを裏切り続けてきました。先頭に立って手引きすべき聖職者たちは何もしていません。混迷の時にあって何の希望も、何の慰めも、何の導きも与えることができませんでした。
宗教界からは何らの光ももたらしてくれませんでした。わけの分らない論争と無意味な議論にあたら努力を費やすばかりでした。何かというと、神の目から見て何の価値もない古びた決まり文句、古びた教義を引用し、古びた祭礼や儀式を繰り返すだけでした。
この日は、二分間、すべての仕事の手を休めて感謝の黙祷を捧げますが、その捧げる目標は、色褪せた、風化しきった過去の記憶でしかありません。
英雄的戦没者と呼びながら、実は二十年間にわたって侮辱し続けております。二分間という一ときでも思い出そうとなさっておられることは事実ですが、その時あなた方が心に浮かべるのは彼らの現在の霊界での本当の姿ではなくて、地上でのかつての姿です。
本来ならばそうした誤った観念や迷信を取り除き霊の力を地上にもたらそうとするわれわれの努力に協力すべき立場にありながら、逆にそれを反抗する側に回っている宗教界は恥を知るべきです。
戦死して二十年たった今なお、自分の健在ぶりを知ってもらえずに無念に思っている人が大勢います。それは地上の縁ある人々がことごとく教条主義のオリの中に閉じ込められているからにほかなりません。
聖俗を問わず、既得権力に対するわれわれの戦いに休戦日はありません。神に反逆する者への永遠の宣戦を布告する者だからです。開くべき目を敢えて瞑(つむ)り、聞くべき耳をあえて塞ぎ、知識を手にすべきでありながら敢えて無知のままであり続ける者たちとの戦いです。
今や不落を誇っていた城砦が崩れつつあります。所詮は砂上に基礎を置いていたからです。強力な霊の光がついにその壁を貫通しました。もう、霊的真理が論駁(ろんぱく)されることはありません。勝利は間違いなくわれわれのものです。
われわれの背後に勢揃いした勢力はこの宇宙を創造しそのすべてを包含している力なのです。それが敗北することは有り得ません。挫折することは有り得ません」
(三)──これほど多数の戦死者が続出するのを見ていると霊的知識も無意味に思えてきます。
(この頃第二次大戦が最悪の事態に至っていた──編者)
「死んでいく人たちのために涙を流してはいけません。死に際のショック、その後の一時的な意識の混乱はあるにしても、死後の方がラクなのです。私は決して戦争の悲劇、恐怖、苦痛を軽く見くびるつもりはありませんが、地上世界から解放された人々のために涙を流すことはおやめなさい」
───でも戦死していく者は苦痛を味わうのではないでしょうか。
「苦しむ者もいれば苦しまない者もいます。一人ひとり違います。死んでいるのに戦い続けている人がいます。自分の身の上に何が起きたかが分からなくて迷う者もいます。が、いずれも長くは続きません。
いずれ永遠への道に目覚めます。むろん寿命を全うして十分な備えをした上でこちらへ来てくれることに越したことはありません。しかし、たとえそうでなくても、肉体という牢獄に別れを告げた者のために涙を流すことはおやめになることです。
その涙はあとに残された人のために取っておかれるがよろしい。こう言うと冷ややかに聞こえるかもしれませんが、とにかく死は悲劇ではありません」
───後に残された者にとってのみ悲劇ということですね。
「解放の門をくぐり抜けた者にとっては悲劇ではありません。私は自分が知り得たあるがままの事実を曲げるわけにはまいりません。皆さんはなぜこうも物的観点から物ごとを判断なさるのでしょう。
ぜひとも〝生〟のあるがままの姿を知って下さるように願わずにはおれません。いま生活しておられる地上世界を無視しなさいと申し上げているのではありません。そこで生活しているかぎりは大切にしなくてはいけません。
しかしそれは、これから先に待ち受ける生活に較べれば、ほんのひとかけらに過ぎません。あなた方は霊を携えた物的身体ではありません。物的身体を携えた霊的存在なのです。ほんのひと時だけ物的世界に顕現しているにすぎません」
(四)───霊界の指導者は地上の政治的組織にどの程度まで関与しているのでしょうか。
「ご承知と思いますが、私たちは人間がとかく付けたがるラベルには拘りません。政党というものにも関与しません。私たちが関心を向けるのは、どうすれば人類にとってためになるかということです。
私たちの目に映る地上世界は悪習と不正と既成の権力とが氾濫し、それが神の豊かな恩恵が束縛なしに自由に行きわたるのを妨げております。そこで私たちはその元凶である利己主義の勢力に立ち向かっているのです。永遠の宣戦を布告しているのです。
そのための道具となる人であれば、いかなる党派の人であっても、いかなる宗派の人であっても、いかなる信仰を持った人であっても、時と場所を選ばず働きかけて、改革なり改善なり改良なり───一語にして言えば奉仕のために活用します」
───それには本人の自由意志はどの程度まで関わっているのでしょうか。
「自由意志の占める要素はきわめて重大です。ただ忘れてならないのは、自由意志という用語には一つの矛盾が含まれていることです。いかなる意志でも、みずからの力ではいかんともし難い環境条件、どうしても従わざるを得ないものによって支配されています。物的要素があり、各国の法律があり、宇宙の自然法則があり、それに各自の霊的進化の程度の問題があります。
そうした条件を考慮しつつ私たちは、人類の進歩に役立つことなら何にでも影響力を行使します。あなた方の自由意志に干渉することは許されませんが、人生においてより良い、そして理に叶った判断をするように指導することはできます。
お話したことがありますように、私たちが最も辛い思いをさせられるのは、時として、苦境にある人を目の前にしながら、その苦境を乗り切ることがその人の魂の成長にとって、個性の開発にとって、霊的強化にとって薬になるとの判断から、何の手出しもせずに傍観せざるを得ないことがあることです。
各自に自由意志があります。が、それをいかに行使するかは各自の精神的視野、霊的進化の程度、成長の度合いが関わってきます。私たちはそれを許される範囲内でお手伝いするということです」
(五)───各国の指導的立場にある人々の背後でも指導霊が働いているのでしょうか。
「むろんです。常に働いております。またその関係にも親和力の法則が働いていることも事実です。なぜかと言えば、両者の間に霊的な親近関係があれば自然発生的に援助しようとする欲求が湧いてくるものだからです。
たとえば地上である種の改革事業を推進してきた政治家がその半ばで他界したとします。するとその人は自分の改革事業を引き継いでくれそうな人物に働きかけるものです。その意味では死後にもある程度まで、つまり霊の方がその段階を卒業するまでは、国家的意識というものが存続すると言えます。
同じ意味で、自分は大人物であると思い込んでいる人間、大酒呑み、麻薬中毒患者等がこちらへ来ると、地上で似たような傾向を持つ人間を通じて満足感を味わおうとするものです」
───指導者が霊の働きかけに反応しない場合はどうなりますか。
「別にどうということはありません。但し、忘れてならないのは、無意識の反応───本人はそれと気づかなくても霊界からの思念を吸収していることがあるということです。インスピレーションは必ずしも意識的なものとはかぎりません。
むしろ、大ていの場合は本人もなぜだか分からないうちに詩とか曲とか絵画とかドラマとかエッセーとかを思いついているものです。霊の世界からのものとは信じてくれないかも知れません。が、要するにそのアイディアが実現しさえすれば、それでよいのです」
(六)───各国にその必要性に応じた霊的計画が用意されているのでしょうか。
「すべての国にそれなりの計画が用意されています。すべての生命に計画があるからです。地上で国家的な仕事に邁進してきた人は、あなた方が死と呼ぶ過程を経てもそれをやめてしまうわけではありません。そんなことで愛国心は消えるものではありません。なぜなら愛国心は純粋な愛の表現ですから、その人の力は引き続きかつての母国のために使用されます。
さらに向上すれば国家的意識ないしは国境的概念が消えて、すべては神の子という共通の霊的認識が芽生えてきます。しかし、私どもはあらゆる形での愛を有効に活用します。少なくとも一個の国家でも愛しそれに身を捧げんとする人間の方が、愛の意識が芽生えず、役に立つことを何一つしない人間よりはましです」
(七)───人類の福祉の促進のために霊界の科学者が地上の科学者にインスピレーションを送ることはあるでしょうか。
「あえて断言しますが、地上世界にとっての恵み、発明・発見の類のほとんど全部が霊界に発しております。人間の精神は霊界のより大きな精神が新たな恵みをもたらすために使用する受け皿のようなものです。しかしその分量にも限度があることを忘れないでください。
残念ながら人間の霊的成長と理解力の不足のために、せっかくのインスピレーションが悪用されているケースが多いのです。科学的技術が建設のためでなく破壊の為に使用され、人類にとっての恩恵でなくなっているのです」
(八)───そちらからのインスピレーションの中には悪魔的発明もあるのでしょう?
「あります。霊界は善人ばかりの世界ではありません。きわめて地上とよく似た自然な世界です。地上世界から性質(たち)の悪い人間を送り込むことをやめてくれないかぎり、私たちはどうしようもありません。私たちが地上の諸悪を無くそうとするのはそのためです。
こちらへ来た時にちゃんと備えができているように、待ち受ける仕事にすぐ対処できるように、地上生活で個性をしっかりと築いておく必要性を説くのはそのためです」
解説 「動機」と「罪」
本書は Teachings of Silver Birch の続編で、編者は同じくオースティンである。オースティンという人はバーバネルが職業紹介所を通じて雇い入れた、スピリチュアリズムにはまったくの素人だった人で、さっそくある霊媒の取材に行かされて衝撃的な現象を見せつけられ、いっぺんに参ってしまった。
その後例の英国国教会スピリチュアリズム調査委員会による〝多数意見報告書〟の取得をめぐってバーバネルの片腕として大活躍をしている。
最近の消息はわからない。Psychic News′ Two Worlds のいずれにも記事が見当たらないところをみると、すでに他界したのかもしれない。筆者が一九八一年と八四年にサイキックニューズ社を訪れた時も姿は見当たらなかった。
この人の編纂の特徴は、なるべく多くの話題をとの配慮からか、あれこれと細かい部分的抜粋が多いことである。〝正〟〝続〟とも同じで、時に短かすぎることもある。その極端な例が動物の死後を扱った第七章で、原典に紹介されているのは実際の霊言の十分の一程度である。
記者としては物足らなさを感じるので、シルビア・バーバネルの(霊言集とは関係のない)本に紹介されている同じ交霊会の霊言全部をそっくり引用させてもらった。
さて、本書には各自が〝思索の糧〟とすべき問題、そしてまた同志との間でも議論のテーマとなりそうな問題が少なくない。また人間としてどうしても理解しかねるものもある。
たとえば第三章で最後の審判を信じるクリスチャンが何百年、何千年ものあいだ自分の墓地でその日の到来を待っている(実際には眠っている者の方が多い)という話がある。
さぞ待ちくたびれるだろう、退屈だろうと思いたくなるが、シルバーバーチは霊界には時間というものがないから待っているという観念も持たないという。
それを夢の中の体験に譬えられればある程度まで得心がいく。人間にとって一瞬と思える時間で何カ月、あるいは何年にもわたる経験を夢で見ることがあるのは確かである、霊は反対に人間にとって何か月、何年と思える時間が一瞬に思えることがあるらしい。そこがわれわれ人間には理解しにくい。
が、それを地上で体験する人がいることは事実である。ガケから足を踏み外して転落して九死に一生を得た人が語った話であるが、地面に落ちるまでの僅か二、三秒間に、それまでの三、四十年の人生の善悪にかかわる体験のすべてを思い出し、その一つ一つについて、あれは自分が悪かった、いや、これは自分が絶対に間違っていないといった反省をしたという。
野球の大打者になると打つ瞬間にボールが目の前で止まって見えることがあるという。意識にも次元があり、人間があるように思っている時間は実際には存在しないことが、こうした話から窺える。
℘242
しかし太陽は東から昇り西に沈むと言う地上では常識的な事実を考えてみると、これは地球が自転していることから生じる人間の錯覚であるが、いくら理屈ではそう納得しても、実際の感じとしてはやはり毎朝太陽は東から昇り西に沈んでいる。
それと同じで、われわれ人間は実際には存在しない時間を存在するものと錯覚して生活しているに過ぎなくても、地上にいるかぎりは時間は存在するし、そう思わないと生きて行けない。こうしたことはいずれあの世へ行けば解決のつく問題であるから、それでいいのである。
神の概念も今すぐに理解する必要のない問題、というよりは理解しようにも人間の頭脳では理解できない問題であるから、あまりムキになって議論することもないであろう。
しかし〝動機〟と〝罪〟の問題はあの世へ行ってからでは遅い、現在のわれわれの生活に直接かかわる問題であり、ぜひとも理解しておかねばならない問題であろう。
筆者個人としては、こうした問題を意識しはじめた青年時代からシルバーバーチその他の霊的思想に親しんできたので、本書でシルバーバーチが言っていることは〝よく分かる〟のであるが、部分的に読まれた方には誤解されそうな箇所があるので解説を加えておくことにした。
字面(じずら)だけでは矛盾しているかに思えるのは、第十二章で動機が正しければ戦争に参加して敵を殺すことも赦されると言っておきながら、第十一章では罪は結果に及ぼす影響の度合によって重くもなれば軽くもなると述べていることである。
℘243
シルバーバーチはつねづね〝動機が一ばん大切〟であることを強調し〝動機さえ正しければよい〟といった言い方までしているが、それはその段階での魂の意識にとっては良心の呵責にならない───その意味において罪は犯していないという意味であって、それが及ぼす結果に対して知らぬ顔をしてもよいという意味ではない。たとえその時点では知らぬ顔が出来ても、霊格の指標となる道義心が高まれば、何年たったあとでも苦しい思いをし反省させられることであろう。
それは自分が親となってみてはじめて子としての親への不孝を詫びる情が湧いてくるのと同じであろう。その時点では親は親としての理解力すなわち愛の力で消化してくれていたことであろうから罪とは言えないであろう。
しかし罪か否かの次元を超えた〝霊的進化〟の要素がそこに入ってくる。それは教会の長老が他界して真相に目覚めてから針のムシロに坐らされる思いがするのと共通している。
戦争で人を殺すという問題でシルバーバーチは、その人も殺されるかも知れない、もしかしたら自らの生命を投げ出さねばならない立場に立たされることもあることを指摘するに留めているが、第三章でメソジスト派の牧師が〝自分は死後、自分が間違ったことを教えた信者の一人一人に会わなければならないとしたら大変です〟と言うと、
℘244
その時点ではすでに自ら真相に目覚めてくれている人もいるであろうし、牧師自身のその後の真理普及の功徳によっても埋め合わせが出来ているという意味のことを述べている。この種の問題は個々の人間について、その過去世と現世と死後の三つの要素を考慮しなければならないであろうし、そうすればきちんとした解答がそれぞれに出てくることなのであろう。
さらにもう一つ考慮しなければならない要素として、地球人類全体としての発達段階がある。第四巻で若者の暴力の問題が話題となった時シルバーバーチは、現段階の地上人類には正しい解決法は出し得ないといった主旨のことを述べている。
これは病気の治療法の問題と同じであろう。動物実験も、死刑制度も、人類が進化の途上で通過しなければならない幼稚な手段であり、今すぐにどうするといっても、より良い手段は見出せないであろう。それは例えば算数しか習っていない小学生には数学の問題が解けないと同じであろう。
ことに社会的問題は協調と連帯を必要とするので、たとえ一人の人間が素晴らしい解決法を知っていても、人類全体がそれを理解するに至らなければ実現は不可能である。シルバーバーチはそのことを言っているのである。
戦争がいけないことは分り切っている。が、現実に自国が戦争に巻き込まれている以上、そうして又、その段階の人類の一員として地上に生を受けている以上、自分一人だけ手を汚さずにおこうとする態度も一種の利己主義であろう。もしもその態度が何らかの宗教の教義からきているとすれば、それはシルバーバーチのいう宗教による魂の束縛の一例と言えよう。
〝私は強い意志を持った人間を弱虫にするようなこと、勇気ある人間を卑劣な人間にするようなことは申し上げたくありません〟という第十二章の言葉はそこから出ている。
これを発展させていくと、いわゆる俗世を嫌って隠遁の生活を送る生き方の是非とも関連した問題を含んでいる。筆者の知るかぎりでは高級霊ほど勇気を持って俗世を生き抜くことの大切さを説いている。
イエスの言う、Be in the world, but not of the world.(俗世にあってしかも俗人になるなかれ)である。このちっぽけな天体上の、たかが五、七十年の物的生活による汚れを恐れていてどうなろう。『霊訓』のイムペレーターの言葉が浮かんでくる───
「全存在のホンのひとかけらほどに過ぎぬ地上生活にあっては、取り損ねたらさいご二度と取り返しがつかぬというほど大事なものは有り得ぬ。
汝ら人間は視野も知識も人間であるが故の宿命的な限界によって拘束されている。・・・・・・人間は己れに啓示されそして理解し得たかぎりの最高の真理に照らして受け入れ、行動するというのが絶対的義務である。それを基準として魂の進化の程度が判断されるのである」
次に良寛の辞世の句はそれを日本的に表現したものとして私は好きである。
うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ 良寛
Thursday, April 17, 2025
シアトルの春 質問に答える
answer a question
More Teachings of Silver Birch
Edited by A.W. Austen
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment