Tuesday, April 22, 2025

シアトルの春 二章 人間と天使

The Life Beyond the Veil by GV. Owen


暗闇の実在   
天体の円運動の原理 
ヤコブと天使
神とキリストと人間 
第十界の住居

 二章 人間と天使 

1 暗闇の実在         

 一九一三年十一月十二日    水曜日   

 もしお互いが物事を同じ観点から眺めることが出来れば、いま問題としていることも容易に説明出来るのであるが、残念ながら貴殿は原因の世界と結果の世界の間に掛かったベールの向う側から眺め、私はこちら側から眺めているので、必然的に視野が対立する。

そこで何とか分かり易くしようとすれば、どうしても私の方が見地を変えて出来るかぎり地上的見地に立たねばならなくなる。

 そこで私は出来るかぎりそう努力しつつ、貴殿を吾々とともに高く創造の根源へ目を向けるよう呼びかけたい。つまりは高き神霊の世界から発した思念が物的形態を取りつつ下層界へ至る、その自然な過程と流れを遡(さかのぼ)ってみたいと思う。

 界を遡ると、自然界の事物が下層における時とは様相が違うことに気づく。言わば心理的映像へと変わり、内的視覚に訴えるようになる。が太陽と日没後の薄明の関係と同じく、物質界の事物、あるいは更に上界層の事物との間につながりがあることはある。

 まずその光の問題から始めれば、地上では光は闇との対照によって知られる。つまり光の欠如した状態が闇であり、本質的には実体も価値も持たない。それ故、吾らが闇と言う時、目の網膜に外界の事物を印象づけさせる或る種のバイブレーションが欠如した状態を意味する。

 さてベールのこちら側における霊的暗黒地帯においても同じ事情が存在する。つまり暗黒の中にいる者は他の者が外界の事物を認識する際に使用するバイブレーションが欠如している。

そのバイブレーションが受け入れられない状態下にあるということである。霊的感覚に変化が生ずれば、鮮明度は別として、ともかくも見えるようになってくる。

 しかし同時に、そうした暗黒の下層界におけるバイブレーションは上層界に比して粗野である。そのために、暗黒界へ下りて行く善霊にとっては、たとえその視覚は洗練されていても暗闇はやはり暗闇であり、彼らに映じる光はぼんやりとしている。

これで理解が行くことと思うが、霊と環境との間には密接な呼応関係があり、それが余り正確で不断で持続性があるために、そこに恒久的な生活の場が出来あがるのである。

 この霊と環境との呼応関係は上級界へ上昇するに従って緊密となり、外界に見る光はより完全にそしてより強烈となって行く。故に、たとえば第四界に住む者が第五界へ突入しそこに留まるには、第五界の光度に耐え得るまで霊性を高めなければならない。

そして首尾よく第五界に留まれるようになりその光度に慣れ切ると、今度は第四界に戻った時に──よく戻ることがあるが──そこの光が弱く感じられる。もっとも、事物を見るには不自由は無い。が、更に下がって第二界あるいは第一界まで至ると、もはやそこの光のバイブレーションが鈍重すぎて事物を見るのが困難となる。

地上時代と同じように見ようとすればそれなりの訓練をしなければならない。こうして地上へ降りて人間を見る時、吾々はその人間の持つ霊的な光輝によって認識する。

霊格の高い者ほど鮮明に見えるものである。もしも視覚以外にこうした霊的鑑識力が具わっていなければ、吾々は目指す地上の人間を見出すのに苦労するものと思われる。が幸いにして他に数多くの能力を授かっているために、こうして貴殿との連絡が取れ、使命に勤しむことが出来るのである。

  これで〝いかなる人間も近づくことを得ぬ光の中に座(おわ)す存在〟という言葉の真意が理解できるであろう。地上に居る者にして、数多くの界の彼方まで突入しうる者はいない。そして又、その高い界より流れ来る光はよほど霊性高き人間の目をも眩ませることであろう。

 考えてもみるがよい、この弥(いや)が上にも完全な光が天界の美について何を物語っているかを。地上には地上なりに人間の目にうっとりとさせる色彩が存在する。が、ベールのすぐこちら側には更に美しく、そして更に多くの色彩が存在する。これが更に高い界へ進んで行けばどうなるか。

色彩一つにしても思い半ばに過ぎるものがあろう。天界をわずかに昇って来たこの私が目にしたものですらすでに、今こうして述べている言語では僅かにその片鱗を伝え得るにすぎない。

私にとっては地上の言語は今や外国語同然であり、同時に貴殿が蓄えた用語の使用範囲にもまた限度がある。

 が、喜ぶがよい。美を愛する者にとって美は無尽蔵に存在し、また光と神聖さとは常に相携えて行くものであるから、一方において進歩する者は他方において大いなる喜びを味わうことになる。

これぞ〝聖なる美〟であり、すべての人間的想像の域を超える。とは言え、これは熟考の価値ある課題である。熟考を重ねる者には地上の美しきものが天界のより大いなる美を真実味をもって物語ってくれるであろう。

天界において求めるのは生命の喜びのみである。それは貴殿が誤らず向上の道を歩み続けるならば、いずれの日か貴殿のものとなるであろう。  ♰



 2 天体の円運動の原理

一九一三年十一月十五日   土曜日

 さて、もう一つ私の立場から見て貰いたいものがある。地上の科学者は天体について彼らなりに観察し、その結果をまとめ、他の情報と統合して推論を下し、それにある程度の直感力と叡智とを加味して生成の原理を系統だてているが、その天体の生成過程に霊的存在と霊的エネルギーとがどう関わっているか、その真相について述べてみたい。

 そもそも〝天体〟という用語には二重の意味があり、その理解も個人の能力と人間性の程度によって異なる。ある者にとってはそうした球体は物質的創造物に過ぎず、ある者にとっては霊的生命力の顕現の結果以外の何ものでもない。

が、その霊的生命力の働きについても、皆がみな同じように理解しているわけではない。霊的生命力という用語をきわめて曖昧な意味に使用している者もいる。〝神が万物を創造した〟と簡単にいう者がいるが、その意味するところは途轍もなく深遠である。

地上という薄暗い世界を超越して、より明るい世界を知る者にとっては、多分その言い方では真理を表現しているよりむしろ埋葬していると言いたいところであろう。もっとも偉大なものも、もっとも単純な叡智から生まれる。

絶え間なく運動を続ける天体の見事な連動関係(コンビネーション)も、最も基本的な幾何学的計算から生まれる。何となれば、一つの縺(もつ)れもなく自由自在の使用に耐え得るものは、最も純粋にして最も単純なものしかないからである。

その至純にして単純な状態こそ恒久性の保証である。それは地球のみに限らない、遥か彼方の星辰の世界においても永遠に変わらぬ真理である。何となれば、完璧なる理法のもとに統制されているからである。

 さて、それら天体組織の各軌道は二種類の原理によって定められると言っても過言ではない。すなわち直線と曲線である。否、根源的にはたった一つの原理すなわち直線から出来上がっていると述べた方がより正確かも知れない。

つまり全ての天体は本来直線軌道上の上を直進している。ところが突き進むうちに例外なく曲線を描くことになる。その道理の説明は地上の天文学者にも出来るであろう。が、一つだけ例を挙げて説明しておこう。

 地球を例にとり、それが今軌道上を発進したとしよう。するとまず直線コースを辿る。それが本来の動きなのである。ところが間もなく太陽の方向へ曲がりはじめる。

そしてやがて楕円状に働いていることが判る。結果的には直線は一本もない。曲線の連続によって楕円を画いたのであり、それが地球の軌道なのである。

 一方、太陽の引力は決して曲線状に働いたわけではない。やはり一直線なのである。

結局地球の軌道を直線から楕円へと変えたのは二種類のエネルギーの直線的作用──地球の推進力と太陽の引力──だったのであり、その中に多種類の曲線の要素が入り、それが完全な楕円をこしらえたのである。

実はこれには他に多くの影響力が働いているが、貴殿の注意力を逸らさぬよう、一つの原理にしぼっている。これを定義づければこういうことになろう──二本の直線的エネルギー作用が働き合って楕円軌道を形成する、と。

 太陽の引力も地球の推進力も完全な理法に沿って働き、そこには美しさと驚異的な力がある。物体が自ら働くということ自体が驚異というべきであり、真実、驚異なのである。

その両者が互いに動きを修正し合い、また大なるものが小なるものを支配しつつ、しかも小なるものの本来の力と自由を奪うことなく、連動作用により──明らかに対立した動きをしながらも──二本の直線よりも遥かに美しい楕円を画く。これはまさに親と子の関係にも似ている。

 貴殿はまさか両者が対立した運動をするからにはこの機構は誤っており〝悪〟の根源より出たものである、などとは思うまい。考えてもみるがよい。この両者は虚空の中を来る日も来る日も変わることなく連繋運動を幾星霜となく続け、今なお続けている。

それを思えば、侮辱どころか畏敬と崇敬の念を抱くべき事柄である。美しさと偉大さとを併せ持つ叡智の存在を示している。これを考案された神への讃仰の念を抱かずにはおれないであろう。

偉大な叡智と偉大な力とを兼ね備えた存在であるに相違ないからである。むべなるかなである。

 人間は神の御業をこのように正しく理解せず、見た目に映じた皮相な見解のもとに神及び神の働きを安易に疑い過ぎる傾向がある。人間生活の中に先の例のような対立関係を見ると、すぐに神が不完全で在るかの如く言う。もっと良い方法があるはずであると思い、神の叡智と愛を疑う。

人間生活の画く大きな軌道の僅かな曲線のみ見て、あたかも全てが破滅に向かっているかの如く思いつめる。そうまで思いつめなくても、少なくとも全てが直線的、つまりは悲劇もなく苦難も無いコースこそが正しい人生であると思い、対立的勢力の連動作用によって軌道を修正されることを好まない。

 もとより、仮定の問題とすればそれ以外の働き方もあるかもしれない。が、もしそうなれば、神がその霊力によって実現させたところの、かの完璧な星辰の動きには及びもつかぬものとなるであろう。

人生における軋轢(あきれつ)や悩み事や苦痛を生じさせるところの対立関係は、地球を無事軌道上に運行させているエネルギーの対立関係と同じなのである。完全なる全体像を見通す神の目から見ればそれで良いのであり、その成就へ向けて忍耐強く待つのである。

 吾々とて全てが判るわけではなく、これから辿る道もさして遠い先まで見通せるわけでもない。ただ貴殿よりは遠くが見える。少なくとも現在自分の置かれた事情に得心し、同じ道を歩む同胞に援助の手を伸ばし、これより先いかに遠く進もうとも、全てがうまく出来ているとの信念を持って向上へ励むのである。

と言うのも、こうして地上の霧に包まれ視野を閉ざされた状態においては、吾々はその道程についてしつこくその価値を詮索することをせず、天界に戻って煌々たる光の中において全体を眺める。その高き視野より眺めると、完成へ向けて進む人生の軌道は実に美事なものである。

あまりに美事であるために吾々はしばしば愛と叡智の神の尊厳に驚嘆と畏敬の念を覚え、思わず足を止めるのである。その威容の前にひれ伏す時の讃仰の念は最早や私の言葉では表現できない。ただ魂の憧れの中に表現するのみである。

 アーメン。私からの祝福を。勇気を持って怖れることなく歩むがよい。先のことは私が全て佳きに計らうであろう。 ♰



  3  ヤコブと天使       

  一九一三年十一月十七日  月曜日

 「汝の見るところを書に著(しる)せよ」──これはパトモス島にいたヨハネに天使が語った言葉である。彼は可能なかぎりその命に従い、書き記したものを同志に託した。そのとき以来、多くの人間がその解釈に苦心してきた。

そして彼らはああでもない、こうでもないと思案の末に、よく判らぬ、とカブトを脱ぐのである。が、彼らが解釈に戸惑うのは実は自業自得なのである。

何となれば、もし幼子の如く素直な心を持って読めば容易に真理の扉を開く合鍵はあったのであり、神の王国に入り、素直な人間の素直な言葉を受け取る者を待ちうける天界の美を見ることを得たはずなのである。

 ところが人間はいつの時代にも〝複雑〟を好む。そして複雑さの中に真理の深遠さと奥行きとを求める。が、それは無駄である。何となれば、それは言わばガラスの表面を見て、反射する光の眩しさに目が眩むにも似た行為であり、その奥を見透し、そこに潜む栄光を見るべきだったのである。

 かくして人間は複雑さに更に複雑さを加え、それを知識と呼ぶ。が、知識には本来複雑さはない。知識を欠くことこそ複雑を生む要因である。故にもし私が貴殿に、そして貴殿を通して他の者に、何かを説明せんとする時、その説明のうわべだけを見てはならない。

自動書記という通信方法にこだわってはならない。つまり用語や言い回しに貴殿自身のものに酷似したものがあるからといって、それを疑って掛ってはならない。

それは言わば家屋を建てるために使用する材料に過ぎず、そのためには貴殿の記憶の層に蓄えられたものを借用するしかないのである。

 更に言えば、貴殿のこれまでの半生は一つにはこの目的のための監督と準備のために費やされてきた。すなわち、こうした自動書記のために貴殿を使用し、更に又、地上界とのつながりを深める上で吾々の及ばざるところをそちら側から援助してもらうためである。

吾々が映像を見せる、それを貴殿が文章として書き留める。かくして〝汝が見るところのことを書き著 (しる) し〟それを世に送る。

その受け止め方は各人の受容力の程度によると同時に、持てる才覚が霊的真理を感識し得るまでに鋭さを増しているか否かに関わる問題である。各々それで佳しとせねばならない。さ、吾らと共に来るがよい。出来るかぎりのものを授けよう。


──〝吾々〟という言い方をされますが、他に何人か居られるのでしょうか。

 吾々は協調によって仕事を推進する。私と共にこの場に居合わせる者もいれば、それぞれの界にあって必要な援助を送り届けることの出来る者もいる。又そうするよりほかに致し方ない性質の援助もある。

それは海底のダイバーのために地上から絶え間なく空気を送り込まねばならないと同じで、吾々がこうして仕事をしている間中ずっと援助を送り届けてくれる必要がある。

あたかも海底にいる如く、普段摂取している空気は乏しく光は遥か上の方に薄ぼんやりと見える、この暗く息苦しい地上界にあっては、そうした種類の援助を得ることによって高き真理を幾分なりとも鮮明に伝えることが出来るのである。

この点を考慮に入れ、吾々のこともその点に鑑みて考えてほしい。そうすれば吾らの仕事について幾分なりとも理解がいくであろう。

 かく申すのも、天使はなぜ曽てほど地上へ大挙して訪れなくなったのかという疑問を抱く者がいるからである。この僅かな言葉の中に多くの誤解が存在するが、中でも顕著なのが二つある。まず第一は、高い霊格を具えた天使が大挙して地上を訪れたことは絶対にない。

永い人類の歴史の中においても、あそこに一人ここに一人と、極めて稀にしか訪れていない。そしてその僅かな事象が驚異的な出来事の年代記の中において大きく扱われている。

天使が地上へ降りてその姿を人間に見せることは、よくよく稀にしか、それも特殊な目的のある場合を除いて、まず有り得ない。万一そうするとなれば、先に述べた吾々の仕事の困難さを更に延長せねばならない。

つまり、まず暗く深い海底へ潜らねばならない。次にその海底で生活している盲目に近い人間に姿を見せるための諸々の条件を整えなければならない。


 それはあり得ないことである。確かに吾々は人類のための仕事に携わり、人類と共に存在するが、そういう形で訪れることはしない。それぞれの仕事により規則があり方法も異なる。

そこに又、第二の誤解が存在する。確かに吾々の身は今人間界に在り、繰り返し訪れているのであるが、この〝訪れる〟という言葉には、言葉だけでは表せない要素の方が実に多いのである。

ベールのこちら側にいる者でも、あるいは吾々の界と地上界との中間の界層にいる者でも、霊の有する驚異的威力とその使用法については、向上の過程において意外に僅かしか理解していないものである。が、この問題はこれまでにして、次に別の興味ある話題を提供しよう。

 例のジャボクにおいてヤコブが天使と会い、それと格闘をして勝ったという話(創世記32)──貴殿はあの格闘をどう理解しているであろうか。そして天使が名前を教えなかったのはなぜだと思われるであろうか。


──私はあの格闘は本当の格闘であったと思います。そしてヤコブが勝たせてもらえたのはパダン・アラムでの暮らしにおける自己との葛藤が無駄でなかったことを悟らせるためであったと思います。

つまり己れに勝ったということです。そして天使が名を明かさなかったのは、肉体に宿る人間に天使が名を明かすことは戒律(おきて)に反くことだったからだと思います。


 なるほど。最初の答えは良く出来ている。あと答えは今一つというところである。何となれば、考えてもみよ、名を明かさなかったのはそれが戒律に反く行為であるからというのなら、では一体なぜそれが戒律に反くことになるのであろうか。

 さて例の格闘であるが、あれは真実味と現実味とがあった。もっとも、人間が行うような生身と生身の取り組みではなかった。もし天使に人間の手が触れようものなら、天使は大変な危害をこうむるであろう。

確かにヤコブの目に映ずるほどの形体で顕現し、触れれば感触が得られたであろう。が手荒に扱える性質のものではなかった。天使の威力はヤコブの腰に触れただけで脚の関節が外れたという話でも想像がつくであろう。

では、それほどの威力ある天使を組み伏せたほどのヤコブの力は一体何であったのか。実は天使はヤコブの念力によって組伏せられたのである。と言って、ヤコブの念力が天使のそれを凌いだというのではない。天使の謙譲の徳と特別な計らいがそこにあったのである。

天使が去ろうとするところをヤコブが引き止めると、天使はそれに従ったが、ぜひ帰らせてほしいと実にいんぎんに頼んでいる。

 貴殿はこの寛恕の心の偉大さに感嘆するであろう。がそれも、イエス・キリストが地上で受けた恥辱を思えば影が薄くなるであろう。いんぎんさは愛の表現の一つであり、それは霊性を鍛える永い修行において無視されてはならない徳の一つである。
 
 こうして天使はその謙譲の徳ゆえに引き止められた。が、それはヤコブが勝ったことを意味するものではない。新たに自覚した己れの意志の力と性格が、しばし、けちくさい感情を圧倒し、素直に天使に祝福を求めた。天使はすぐに応じて祝福を垂れた。が、その名は明かさなかった。

 名を明かすことが戒律に反くという言い方は必ずしも正しいと言えない。名を明かすこともあるのである。ただ、この時は明かされなかった。それはこういう理由による。すなわち名前というものにはある種の威力が秘められているということである。このことをよく理解し銘記してほしい。

なぜなら、聖なる名を誤って使用し続けると不幸が生ずることがあり、それに驚いてその名の主が忌み嫌われることになりかねないからである。ヤコブが天使の名を教えてもらえなかったのは、ヤコブ自身の為を思ってのことであった。

祝福をよろこんで求めた。が、それ以上にあまり多くを求めすぎぬようにとの戒めがあったということである。ヤコブは天使の偉大なる力をほとんど直接(じか)に接触するところまで体験した。が、その威力をむやみに引き出すことは戒めなければならない。

そうしなければ、その後に待ち受ける奮闘は己れの力によるものではないことになるからであった。

 今、貴殿の心に疑問が見える。吾々に対する浅はかな要求が聞き入れられることがあるかということのようであるが、それは可能であるのみならず、現実にひっきりなしに行われている。

不思議に思えるかもしれないが、その浅はかな要求を吾々が然るべき形にして上層界へ送り届ける。が、往々にしてその結果は、当人自身の力をふりしぼらせ、そうすることによって霊界からの援助に頼るよりも一層大なる力を発揮させるべきであるということになる。

地上の人間が必死にある者の名を呼べば、それは必ずその者に届く。そして可能な限り、そして本人にとりて最良の形で世話を焼き活動してくれる。

 思うにヤコブは兄エサウとの闘争、息子たちとの諍(いさか)い、飢餓との戦い、そして数々の試練によって自己の人間的威力を否応なしに発揮させられることで、たびごと天使の援助を頼りとした場合より飛躍的進歩を遂げたことであろう。

彼の要求はしばしば拒否され、それが理解できないために信仰に迷いを生じ当惑したことであろう。また時には援助が授けられたことであろう。がそれは歴然とした形で行われたであろうから、理解するに努力は要らず、従って進歩も必要としなかったことであろう。

 この問題はこれ以上続けぬ。ヤコブの例を引いたのは、吾々の姿は見えず声も聞こえないからといって、それだけで貴殿が距離的に吾々から遠く離れているわけでもなく、また吾々が貴殿から遠くに居るわけでもないことを示すためであった。

吾々が語り貴殿が聞く。しかしそれは聴力で聞くよりも更に深い、貴殿自身の内奥で聞いている。貴殿の目に映像が見える。が、それは視力で見るより更に内奥の感覚にて見ている。貴殿は何一つ案ずるには及ばない。

吾々も少しも案じてはいない。そしてこれ以後も貴殿を使用し続けるであろう。故に平静さとキリストを通じての神への祈りの気持を持ち続けてほしい。吾々はキリストの使者であり、キリストの名のもとに参る者である。♰  



 4 神とキリストと人間 

一九一三年十一月十八日  水曜日

 地上の全存在の創造が完了した時、最後に一つだけ最も偉大なものが未完のまま残された。それが人間である。人間はその後の発達に任された。

驚異的な才能を賦与されていたからこそ向上進化の道を啓示され、その道を自ら辿るに任された。一人ぼっちではない。天界の全政庁が、人間がいかにその才能を駆使していくかを見守っていたのである。

 今ここで地上の学者の説く進化論や神学者の説く堕罪と昇天について改めて述べるつもりはない。それよりも、もっと広い視野に立って人間本来の向上心と現状について述べてみたい。

また吾々にも人間の未来を勘案し神の子全ての前途に横たわる、奥深くそして幅広い天界のその少し先くらいは覗き見ることを許されているのである。

 またその考察に当っては、地上で説かれている神学的ドグマに捉われることがないことも承知されたい。神学の世界は余りに狭隘(きょうあい)であり、又あまりに束縛が多いために、広い世界に永く暮らしていた者が不用意に手足を伸ばせば、取り囲む壁に当って傷を負いかねない。

更に広く旅せんとしても、もっと苦しい災難が降りかかるかも知れないとの不安のために、つい躊躇してしまうのである。

 よく聞くがよい。神学の教えをあたかも身体にとっての呼吸の如く絶対的なものを思い込む者には、衝撃があまりに大きく恐るべきものに思えるかも知れないが、吾々にとっては、道を誤らぬために神より賦与されている人間本来の意志と理性の自由な行使を恐れ、ドグマと戒律への盲従をもって神への忠誠であるかの如く履き違えている姿を見ることの方が、よほど悲劇に思えるのである。

 考えてもみよ。神の不機嫌に恐れおののかねばならぬとは、一体その神と人間とはいかなる関係であろうか。

自らの思考力を駆使して真摯に考え、その挙句にたまたまドグマから逸れたからといって、神がその者を無気味な笑みを浮かべて待ち受け網を持って捕らえんとしているとでも言うのであろうか。

それとも〝汝は生ぬるいぞ。冷たくもなく、さりとて熱くもない。よって汝の願いは却下する〟と述べたというのはこの神のことであろうか。自由闊達に伸び伸び生き、持てる才能を有難く敬虔な気持ちを持って存分に使えばよいのである。そしてたまたま過ちを犯しても、それは強情の故でもなく故意でもなく、善なる意図から出たことである。

両足を正しくしっかりと踏まえ、腕を強くふりしぼって矢を射よ。一度や二度的(まと)を外れたとて少しも戸惑うことはない。恐れてはいけない。神が却下されるのは自ら試みてしくじる者ではなく、勇気をもって挑もうとせぬ臆病者である。

このことは自信を持って断言する。私はその二種類の生き方を辿った人間が地上からこちらへ来た暁に置かれる場所、更には高級界へと進み行く門を探し求める経緯(いきさつ)を見て、その真実性を十分に得心しているのである。

 さて、天界の大軍の一員としての貴殿によくよく心して聞いてほしいことがある。改めてこう申すのも、これから私が述べることの中には貴殿の思考にそぐわないものがあるかも知れないからである。願わくば私の伝えるままを記してもらいたい。

 キリスト教徒の中にはキリストを神と認めない者が多くいる。実はその問題に関しては地上のみならずベールのこちら側にても軽々しく論じられている。と言うのも、地上にかぎらず、吾々の世界でも、真理を知るためには自ら努力して求めねばならないという事情があるのである。

吾々には啓示の奇蹟は与えられず、と言って自由な思考が上級界より抑制されることもない。人間と同様に吾々も導きは受けるが、あれこれと特定の信仰を押し付けられることはない。それ故に吾々の世界にもキリストは神にあらずと説き、そう説くことで万事終われりとする者が大勢いることになる。

 この度の私の目的はそれを否定して真相を説くことではない。それを絶対のものとして説くつもりはさらにない。それよりも私はまずその問題の本質を明らかにしたい。そうすることで、用語の定義付けを疎かにしてはこの種の問題が理解できないことを説きたいと思う。

 ではまず第一に、一体〝神〟とは何を意味するかということである。〝父なる存在〟を想う時の、一個の場所に位置する個人、つまり人間のような一人物を意味するのであろうか。もしそうだとすれば、キリストが神でないのは明らかである。

さもないと、それは二重の人物つまり二個の人物が区別のつかない状態で一体となった存在を創造することになる。キリストが〝私と父とは一つである〟と言ったのはそういう意味で述べたのではない。対等の二人の人物が一体となることは考えられないことであり、理性が即座に反撥する。

 それともキリストは父なる人間として顕現したものという意味であろうか。もしそうだとすれば、貴殿もそうであり私もそうである。なぜなら、神は全存在に宿り給うからである。

 あるいはキリストにおいて父なる神の全てが統一体としてそのまま宿ったということであろうか。もしそうだとすれば、これ又、貴殿にも私にも同じように神は完全なる形で宿っていることになる。なぜなら、神は不可分の存在だからである。

 しかしそれを、神の全てがキリストに宿り吾々には宿っていないという言い方をすれば、それは単なる一個の俗説に過ぎず、それ以上の価値は無い。これは非論理的でもある。

何となれば、もしも神がそっくりキリストの中に宿るとすれば、キリストが即ち神となって両者の区別がつかないことになるし、必然的にキリストに宿る神が神自身の中には宿らぬという妙な理屈にもなる。これでは理性が納得しない。

  それ故吾々が第一に理解しなければならぬことは〝父〟というのは神について吾々が考え得るかぎりの最高の要素を指すための名称に過ぎないということである。もっとも、吾々にはそれすら本当の理解は出来ていない。なぜなら、正直に申して、父なる神は吾々の理解を超えた存在だからである。

 私には父なる神を定義することは出来ない。まだ一度もその御姿を拝したことがないからである。それより以下の存在にその全体像が見える道理がないのである。私が拝したのはその部分的顕現であり、それがこれまで私に叶えられた最高の光栄である。

 ならばキリストと父との一体性の真意もまた、吾々の理解を超えた問題である。キリスト自身が吾々より上の存在だからである。キリストは吾々に思考し得るかぎりのことを述べておられるが、吾々にはまだその多くが理解できていない。

地上においてキリストは父なる神を身をもって証言してみせられた。つまり人間の身体によって顕現し得るかぎりの神の要素を吾々に示されたということである。それ以上のことは判らぬ。が、謙譲の徳と敬虔なる愛が深まるにつれて知識も深まり行くことであろう。

 キリストが父と一体であるのと同じ意味において吾々はキリストと一体である。〝人間性〟と呼ぶものと〝神性〟と呼ぶものとの融合したキリストの中に存在することによって、吾々は父なる神の中に存在する。

キリスト自身が述べておられるように、父はキリストより偉大なる存在である。が、どれほど偉大であるかは語られなかった。たとえ語られたとしても、吾々には理解し得なかったであろう。

 さて以上の説を読まれて、これでは私は人間が組み上げてきた足場組を徒(いたずら)に取り払うのみで、しかも結局は建物すら見えないことになるではないかと言う者もいるであろう。が、私の目的は頭初に述べたように、建物を構築することではない。

今何よりも必要なのは確固たる基盤づくりであることを指摘することであった。脆(ぜい)弱な基盤の上に建てたものは、見ているうちにも、あるいは早晩必ず崩壊して多くの労力が徒労に終わることは必定である。実は人間はまさにそれに等しいことをこれまで延々と続けてきたのである。

そして自らはそれに気づいていない。明確であるべき多くのことが未だに曖昧模糊(あいまいもこ)としている原因がそこにある。〝よくは知らぬ、がしかし・・・〟というせりふで始めて断定的な事を述べるのは賢明とは言えない。高慢は得てして謙虚な心の美しさを見えなくする。

また深遠な問題に対して即座に答える者が叡智に溢れていると思うのも誤りである。何となれば、確信は得てして傲慢と相通じていることがあり、傲慢から真実は生まれず、また愛すべきものでもないからである。

 貴殿と、守護霊としての私とは、永遠なる生命であるキリストにおいて一体である。キリストの生命の中において吾々は互いに相見(まみ)え祝福し合う。では私から祝福を述べるとしよう。そして貴殿から届けられた厚意に深く感謝する。 ♰


 
 5 第十界の住居

一九一三年十一月十九日  水曜日

 そういう次第であるから、私が語る言葉は多くの者にとって受け入れ難いものであろう。が、このことだけは知っておいてほしい。キリストの祭日には東からも西からも大勢の信者がキリストの神性の真相を知らぬまま参列する。が、

その人間的優しさと愛ゆえにキリストに愛を捧げる。少なくともそこまでは理解できるからである。が、その神性の本質を理解する者は一人としていない。

そこでこれより話題を変えて、まず肉体に宿る人間がキリストによって示された向上の道を歩む上において心すべきことを取り挙げてみよう。

 何よりもまず人間は〝愛する〟ことが出来なければならない。これが第一に心がけるべきことであり、また最大のものである。難しいのはこれを持続することである。互いに愛し合うべきであると言えば、誰しもその通りであると言う。が、

これを行為で示す段階に至ると、悲しいかな、能書き通りには行かない。しかし、愛なくしてはこの宇宙は存在し得ず、崩壊と破滅の道を歩むであろう。宇宙が今あるべき姿に保ち続けているのは神の愛あればこそである。その愛は、求める者ならば至るところに見出すことが出来る。

物事を理解する最上の方法はその対照を求めることである。愛の対象は崩壊である。なぜなら、崩壊は愛の行使の停止から生じるからである。憎しみも愛の対象である。もっとも、本質的には対立したものではない。憎しみは往々にして愛の表現を誤ったものに過ぎないからである。

 人間についていえることはそのまま教義や動機についても言える。他の主義・主張を嫌うその反動で一つの主義に傾倒するという者が数多くいるものである。

愚かしくもあり誤ってもいるが、必ずしも悪とは言えない。が、人間は他を憎む時、憎むが故に愛することが出来ないことになり、ついには何ものをも愛することが出来ないことになることを知らねばならない。

 これが実はこちらの世界での面倒を増幅するタネの一つなのである。と申すのは、誰しも憎まずして全てを愛することが出来るようにならぬかぎり、愛がすなわち光を意味するこの世界においての進歩は望めず、愛することを知らぬ者は暗き世界において道を見失い、その多くが身も魂も精気を失くし、ついには真理の鑑識力までが外界と同じくもうろうとしてくるのである。

 一方には一つ一つの石材までが光輝を放つ〝天界の住処〟が無数に存在し、あたり一円、はるか遠き彼方まで光を放っている。その光はそこに住む者の愛の純粋さが生み出すのである。


──そうした住居と、そこに住む人々について具体的にお教え願えませんか。その方が一般的な叙述より判り易いと思うのですが。

 それは容易なことではない。その困難さはいずれこちらへ来れば判る。たとえ要求に応じても、貴殿が得るものは結果的には真実からずれる──少なくとも不適切なものになる。

そのこともいずれ理解が行くことと思う。が、たっての要求とあらば、何とか説明してみよう。何か特別に叙述して欲しいことがあれば申すがよい。


──では、あなたご自身の住まいから。

 第十界においては低級界に存在しない事情、とくに地上では全く見られぬ事情がある。

 たとえ貴殿をその十界まで案内したところで、貴殿の目には何も映らぬであろう。霊的状態がその界の状態にそぐわないからである。

せいぜい見えるのはモヤの如き光──それもその界のどの地域であるかによって程度が異なる。九界そして八界と下ればより多くのものが見えるであろうが、やはり全ては見られない。しかも、目に映じたものをすみずみまで理解することは出来ないであろう。

 かりに一匹の魚を盛ったガラスの器に入れて街中を案内したとしよう。その魚には、まず第一にどれだけのものが見え、第二にそれがどれだけ理解できるであろうか。

思うに、魚にはその住処──水つまり魚本来の環境からせいぜい二、三インチ先しか見えないであろう。貴殿の顔を魚に見える位置に持って行き、次に手を見せてやるがよい。魚にはその二つの物がどう映るであろうか。

 人間が吾らの界へ来た時もそれと同じである。内在する霊的能力を活性化し、楽に使用できるようになるには、ただ〝鍛錬〟あるのみである。さて、話をさらに進めて、たとえばその魚にウエストミンスター寺院を説明するとなったらどうするか。

村の教会でもよい。それを魚の言語で説明しなければならない。その話を聞いた魚が貴殿の言うことが不合理であると言ったところで、それは魚の能力の限界のために貴殿の思うに任せぬからに過ぎない。

もし村の教会やウエストミンスター寺院のようなものがあるわけがないと魚が言ったところで、それは貴殿の説明がまずいのではなく、魚の方の理解力に原因があることをどうすれば納得させることが出来るであろうか。

 が、たつての要望であれば、これより私の住居、私の寛ぎの場について出来るだけの説明を試みてみよう。が、終わってみれば多分貴殿はもっと何とかならなかったものかと思うであろうし、いっそのこと何も語らずにいた方が良かったということになるかも知れない。

 吾らが住居を建立している国は数多くの区域にまたがっており、それぞれの区域からはその特質を示す無数の色彩が発散され、それが私と共に住む者たちの霊性とほぼ完全に一致している。

それらの色彩のほとんどは貴殿の知らぬものばかりであるが、地上の色彩も全て含まれており、それが無限と言えるほどの組み合わせと色調を持っている。吾らが携わるその時その時の仕事によって調和の仕方が異なり、それが大気に反映する。

 また吾らの界へ届けられるさまざまな思念と願望に対してもその住居が反応を示す。それには下層界からの祈りの念もあれば上層界からの援助の念もあり、その最下層に地上界が存在する。

 音楽も放送される。必ずしも口を使うとは限らない。大ていは心から直接的に放送し、それが近隣の家々に反響する。これも吾らによる活性化の一端である。

周囲の樹木、花等の全ての植物もその影響を受け、反応を示す。かくて色彩と音楽という本来生命のない存在が吾らの生命力を受けて意識に反響することになる。

 家屋の形は四角である。が、壁は四つだけではなく、また壁と壁とが向き合っているのでもない。全てが融合し、また内と外とが壁を通して混ざり合っている。

壁は保護のためにあるのではなく、他に数々の目的がある。その一つはバイブレーションの統一のため、つまり吾等の援助を必要とし又その要請のあった地域へ意念を集中する時に役立てる。

かくて吾々は地上からの祈りにも応えて意念を地上へ送り、他のもろもろの手段を講じて援助を授けることになる。

 同じく上層界からの意念が吾々の界へ届けられ、それが吾々の家屋を始めとして他に用意した幾つかの作用によって吾々の感覚に反応するものに変えられ、それを手段として高級神霊との連絡を取り、吾々を悩ませる問題についての指導を受けることもある。

 更には、反対に下層界から使命を帯びて吾々の界へ訪れる者にこの界の環境条件に慣れさせ、滞在中の難儀を軽減するために霊力を特別に授ける時にも、この家屋を使用する。

また吾々と話を交わし、吾々の姿を見せ、声を聞くことが出来るようにしてあげるのにも、その家屋に具わっている作用が活用される。それなくしては彼らは使命が全う出来ないのである。

 私の家を外部より眺めた様子を、地上に近い界の一住民による叙述によって紹介しよう。彼は私の家を見た時に〝隠し得ぬ光に包まれし丘上の都〟(マタイ5・14)という言葉を思い出したという。

見た時の位置は遥か遠くであったが、その光に思わず立ち止まり地面へ降下した。(そこまで空中を飛行していたのである)そこで暫し彼は眼を覆った。それから徐々に遠くに輝くその建物が見えるようになったのであった。

 例の塔(第一巻参照)も見えたが、その青い光があまりに強烈で、どこまで光輝が届いているか見分けがつかなかったという。天上へ向けて限りなく伸びているかに思えたのである。それから例のドームも──赤色のもあれば黄金色のもある──その光輝が余りに眩しく、どこで終わっているのか、その全体の規模を見ることが出来なかった。

門も外壁も同じく銀色、青、赤、すみれ色に映え、眩いばかりの光で丘全体と周囲の森を覆いつくし、それを見た彼は、そこへいかにして入りそして無事その光に焼き尽くされずに戻れるだろうかと思ったとのことであった。

 が、吾らはすでにその者の姿が見えていた。そこで使いの者を派遣して然るべき処置を施させたのであった。無事使命を終えて吾らに別れの挨拶をしに見えたとき彼はこう述べた。

 「今お別れするに当たって私の心に一つの考えがつきまとっています。それは、私が戻れば仲間の者から私が訪れた都はいかなるところであったかと聞かれることでしょうが、一たん自分の本来の界層に帰り、再び元の限りある能力での生活に戻ったとき、この光栄をどう語れば良かろうかということでございます。」

 私は答えた。「これ以降、あなたは二度と曽てのあなたに戻ることはないでしょう。何となればあなたの中にこの界の光と感受性とが幾らかでも残るはずだからです。あなたの記憶に残るものは仲間に告げうるものより遥かに大きいことでしょう。

なぜなら、たとえ告げても理解してもらえないでしょうし、告げようとすればこの界の言語を使用せざるを得ないからです。

それ故あなたは彼らにこう告げられるがよろしい──より一層の向上に鋭意努力することです。そうすれば自ら訪れて、語ってもらえないものを自ら見ることが出来るでしょう、と。」

 聞き終わると、彼は大いなる喜びのうちにこの界をあとにした。同じことがいずれ貴殿の身の上にも訪れる日が来るであろう。彼に告げた最後の言葉をここで貴殿にも与えることにしよう。 ♰
                                               

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