Sunday, April 20, 2025

シアトルの春  難しい質問に答える

Answering the hard questions 
Silver Birch Speaks Again  Edited by S. Phillips


シルバーバーチの霊訓(六)
S・フィリップス編  近藤千雄訳


「今夜は招待客がいらっしゃらないようですので、ひとつこの機会に、皆さんがふだん持て余しておられる疑問点をお聞きすることにしましょう。易しい問題はお断わりです。今夜にかぎって難問を所望(しょもう)しましょう」
 易しい真理を平易に説くことをモットーとしているシルバーバーチが、ある日の交霊会の開会と同時にこう切り出した。さっそく次々と質問が出されたが、その中から興味深いものをいくつか紹介してみよう。

 最初の質問は最近ある霊媒による交霊会が失敗した話を持ち出して、その原因について質した。するとシルバーバーチは───


 「それは霊媒としての修業不足───見知らぬ人を招待して交霊会を開くだけの力がまだ十分に具わっていない段階で行ったためです。あの霊媒は潜在意識にまだ十分な受容性が具わっておりません。霊媒自身の考えが出しゃばろうとするのを抑えきれないのです。支配霊がいても肝心のコントロールがうまくいっておりません。

支配霊が霊媒をコントロールすることによって行う現象(霊言ならびに自動書記通信)においては、よほど熟練している場合は別として、その通信には大なり小なり霊媒自身の考えが付着しているものと考えてよろしい。そうしないと通信が一言も出なくなります」
℘113
(訳者注───このあとに続く問答とともに、これは、今後ますます霊的なことが受け入れられていくことが予想される日本において極めて大切な警告と受け止めるべきである。

専属の支配霊にしてその程度なのである。ましてや、呼ばれてすぐに出てくる霊がそう簡単にしゃべったり書いたりできるものではないのである。すぐに身元を明かす霊は徹底的に疑ってかかるべきである。疑われて腹を立てるような霊は相手にしない方がよい。それが霊を見分ける一つの尺度である)


───潜在意識の影響をまったく受けない通信は有り得ないということでしょうか。

 「その通りです」


───すべてが脚色されているということですか。

 「どうしてもそうなります。いかなる形式をとろうと、霊界との交信は生身の人間を使用しなくてはならないからです。人間を道具としている以上は、それを通過する際に大なり小なり着色されます。人間である以上その人間的性質を完全に無くすことはできないからです」


───神が完全なる存在であるならば、なぜもっとよい通信手段を用意してくれないのでしょうか。

 「本日は難しい質問をお受けしますと申し上げたら本当に難しい質問をして下さいましたね。結構です。さて、私たちが使用する用語にはそれをどう定義するかという問題があることをまず知っていただかねばなりません。

 おっしゃる通り神は完全です。ですがそれは神が完全な形で顕現されているという意味ではありません。神そのものは完全です。つまりあなたの内部に種子(タネ)として存在する神は完全性を具えているということです。ですが、それは必ずしも物質的形態を通して完全な形で表現されてはいません。

だからこそ無限の時間をかけて絶え間ない進化の過程をへなければならないのです。進化とは内部に存在する完全性という黄金の輝きを発揮させるために不純物という不完全性を除去し磨いていくことです。その進化の過程においてあなたが手にされる霊的啓示は、あなたが到達した段階(霊格)にふさわしいものでしかありません。

万一あなたの霊格よりずっと進んだものを先取りされても、それは所詮あなたの理解を超えたものですから、何の意味もないことになります」


───では人間がさらに進化すれば機械的な通信手段が発明されるかもしれないわけですか。

「その問題についての私の持論は既にご存知のはずです。私は、いかなる器機が発明されても霊媒をヌキにしては完全とはなり得ないと申し上げております。そもそも何のためにこうして霊界から通信を送るのかという、その動機を理解していただかねばなりません。

それは何よりもまず〝愛〟に発しているのです。肉親、知人、友人といった曽て地上で知り合った人から送られてくるものであろうと、私のように人類のためを思う先輩霊からのものであろうと、霊的メッセージを送るという行為を動機づけているものは愛なのです。

 愛こそがすべてのカギです。たとえ完全でなくても、何らかの交信がある方が何もないよりは大切です。なぜなら、それが愛の発現の場を提供することになるからです。しかしそれを機械によって行なうとなると、どう工夫したところで、その愛の要素が除去されることになります。生き生きとした愛の温もりのある通信は得られず、ただの電話のようなものになります」

℘116
───電話でも温かみや愛が通じ合えるのではないでしょうか。

 「電話器を通して得られるかもしれませんが、電話機そのものに温かみはありません」


───大切なのはそれを通して得られるものではないでしょうか。

 「この場合は違います。大切なのは霊媒という〝電話機〟と、メッセージを受ける人間に及ぼす影響です。それに関わる人ぜんぶの霊性を鼓舞することに意図があります」


───霊媒を含めてですか。

 「そうです。なぜなら最終的にはいつの日か人類も霊と霊とが自然な形で直接交信できるまでに霊性が発達します。それを機械を使って代用させようとすることは進化の意図に反することです。進化はあくまで霊性の発達を通してなされねばなりません。霊格を高めることによって神性を最高に発揮するのが目的です」

℘117
───ということは、最高の(死後存続の)証拠を得たいと思えば霊性の発達した霊媒を養成しなければならないということでしょうか。

 「私は今〝証拠〟の問題を念頭に置いて話しているのではありません。人類の発達ということを念頭において話しているのです。人類は螺旋状のサイクルを描きながら発達するように計画されており、その中の一つの段階において次の段階のための霊性を身につけ、その積み重ねが延々と続けられるのです。お分かりでしょうか」


───はい、分ります。

 「最高の成果を得るためには顕幽両界の間にお互いに引き合うものがなければなりません。その最高のものが愛の力なのです。両界の間の障害が取り除かれていきつつある理由は、その愛と愛との呼びかけ合いがあるからです」
℘118
───霊媒の仕事が金銭的になりすぎるとうまく行かないのはそのためでしょうか。

 「その通りです。霊媒はやむにやまれぬ献身的精神に燃えなければなりません。その願望そのものが霊格を高めていくのです。それが何より大切です。なぜなら、人類が絶え間なく霊性を高めて行かなかったら、結果は恐ろしいことになるからです。

霊がメッセージを携えて地上へ戻って来るそもそもの目的は人間の霊性を鼓舞するためであり、潜在する霊的才能を開発して霊的存在としての目的を成就させるためです」


───他界した肉親が地上へ戻って来る───たとえば父親が息子のもとに戻ってくる場合、その根本にあるのは戻りたいという一念でしょうか。それとも今おっしゃった目的で霊媒を通じてメッセージを送りたいからでしょうか。

 「戻りたいという一念からです。ですが一体なぜ戻りたいと思うのでしょう。その願望は愛に根ざしています。父親には息子への愛があり、息子には父親への愛があります。その愛があればこそ父親はあらゆる障害を克服して戻って来るのです。
℘119
困難を克服して愛の力を証明し、愛は死を超えて存続していることを示すことによって息子は、父親の他界という不幸を通じて魂が目を覚まし霊的自我を見出します。かくして、単なる慰めのつもりで始まったことが霊的発達のスタートという形で終わることになります」


───なるほど、そういうことですか。言いかえれば神は進化の計画のためにありとあらゆる体験を活用するということですね?

 「人生の究極の目的は、地上の死後も、霊性を開発することにあります。物質界に誕生するのもその為です。その目的に適った地上生活を送れば霊はしかるべき発達を遂げ、次の生活の場に正しく適応できる霊性を身につけた時点で死を迎えます。

そのように計画されているのです。こちらへ来てからも同じ過程が続き、その都度霊性が開発され、その都度古い身体から脱皮して霊妙さを増し、内部に宿る霊の潜在的な完全さに近づいてまいります」


───人間の身体を見てもその人の送っている邪悪な生活が反映している人をよく見かけます。
℘120
 「当然そうなります。心の思うままがその人となります。その人の為すことがその人の本性に反映します。死後のいかなる界層においても同じことです。身体は精神の召使いではなかったでしょうか。はじめは精神によってこしらえられたのではなかったでしょうか」


───霊界の視点からすれば心で犯す罪は行為で犯す罪と同じでしょうか。

 「それは一概にはお答えできません。霊界の視点から、とおっしゃるのは進化した霊の目から見てという意味でしょうか」

───そうです。ある一つの考えを抱いた時、それは実行に移したのと同じ罪悪性を持つものでしょうか。

 「とても難しい問題です。何か具体的な例をあげていただかないと、一般論としてお答えできる性質のものではありません」
℘121

───例えば誰かを殺してやりたいと思った場合です。

 「それはその動機が問題です。いかなる問題を考察するに際しても、真っ先に考慮すべきことは〝それは霊にとっていかなる影響を持つか〟ということです。ですから、この際も〝殺したいという考えを抱くにいたった動機ないしは魂胆は何か〟ということです。

 さて、この問題には当人の気質が大きく関わっております。と申しますのは、人をやっつけてやりたいとは思っても手を出すのは怖いという人がいます。本当に実行するまでに至らない───言わば憶病なのです。心ではそう思っても、実際の行為には至らないというタイプです。

 そこで、殺してやりたいと心で思ったら実際に殺したのと同じかというご質問ですが、もちろんそれは違います。実際に殺せばその霊を肉体から離してしまうことになりますが、心に抱いただけではそういうことにならないからです。その視点からすれば、心に思うことと実際の行為とは罪悪性が異なります。

 しかしそれを精神的次元で捉えた場合、嫉妬心、貪欲、恨み、憎しみといった邪念は身体的行為よりも大きな悪影響を及ぼします。思い切り人をぶん殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為に至らせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方がはるかに強烈です。このように、この種の問題は事情によって答えが異なります」
℘122
───誰かを殺してやりたいと思うだけなら、実際の殺人行為ほどの罪悪ではないとおっしゃいました。でも、その念を抱いた当人にとっては殺人行為以上に実害がある場合があり得ませんか。

 「あり得ます。これも又、場合によりけりです。その邪念の強さが問題になるからです。忘れないでいただきたいのは、根本において支配しているのは因果律だということです。

地上における身体的行為が結果を生むのと同じように、精神的及び霊的次元においてそれなりの結果を生むように仕組まれた自然の摂理のことです。邪念を抱いた人が自分の精神又は霊に及ぼしている影響は、あなた方には見えません」


───誰かを、あるいは何かを憎むということは許されることでしょうか。あなたは誰かを、あるいは何かを憎むということがありますか。
℘123
 「あとのご質問は答えが簡単です。私は誰も憎みません。憎むことができないのです。なぜなら私は神の子のすべてに神性を認めるからです。そしてその神性がまったく発揮できずにいる人、あるいはほんのわずかしか発揮できずにいる人をみて、いつも気の毒に思うからです。ですが、許せない制度や強欲に対しては憎しみを抱くことはあります。

残虐行為を見て怒りを覚えることはあります。強欲、悪意、権勢欲などが生み出すものに対して怒りを覚えます。それにともなって、さまざまな思い───あまり褒められない想念を抱くことはあります。でも忘れないでください。私もまだきわめて人間味を具えた存在です。誰に対しても絶対に人間的感情を抱かないというところまでは進化しておりません」

───いけないと知りつつも感情的になることがありますか。

 「ありますとも」

 別のメンバーが〝憎むということは別の問題で、これは恐ろしい行為です〟と言うと、先のメンバーが〝人を平気で不幸にする邪悪な人間がいますが、私はそういう人間にはどうしても憎しみを抱きます〟と言う。するとシルバーバーチが―
℘124
 「私は憎しみを抱くことは出来ません。摂理を知っているからです。神は絶対にごまかせないことを知っているからです。誰が何をしようと、その代償はそちらにいる間か、こちらへ来てから支払わせられます。

いかなる行為、いかなる言葉、いかなる思念も、それが生み出す結果に対してその人が責任を負うことになっており、絶対に免れることはできません。ですから、いかに見すぼらしくても、いやしくても、神の衣をまとっている同胞を憎むということは私にはできません。ですが、不正行為そのものは憎みます」


───でも実業界には腹黒い人間は沢山います。

 「でしたら、その人たちのことを哀れんであげることです」

───私はそこまで立派にはなれません。私は憎みます。

℘125
 別のメンバーが〝私はそれほどの体験はないのですが、動物の虐待を見ると腹が立ちます〟と言うとシルバーバーチが────

 「そういう行為を平気でする人はみずからの進化の低さの犠牲者であり、道を見失える哀れな盲目者なのです。悲しむべきことです」


 先のメンバーが〝そういう連中の大半は高い知性と頭脳の有(も)ち主です。才能のない人間を食い物にしています。それで私は憎むのです〟と言う。(この人は〝腹黒い〟実業家を念頭に於いて述べている───訳者)

 「そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時が来るのです。あなたと私との違いは、あなたは物質の目で眺め私は霊の目で眺めている点です。私の目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです。暗黒の中で悶え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪業にふさわしい罰なのです」


───でも、いま現実に他人に大きな苦しみをもたらしております。
℘126
 「では一体どうあってほしいとおっしゃるのでしょう。人間から自由意志を奪い去り操り人形にしてしまえばよいのでしょうか。自由意志という有難いものがあればこそ、努力によって荘厳な世界へ向上することも出来れば道を間違えて奈落の底へ落ちることもあり得るのが道理です」

 別のメンバーが〝邪悪な思念を抱いて実行した場合、それを実行に移さなかった場合と比べて精神にどういう影響があるでしょうか〟と尋ねる。

 「もしそれが激しい感情からではなく、冷酷非情な計算ずくで行った場合でも、 いま申し上げた邪悪な人間と同じ運命をたどります。なぜなら、それがその魂の発達程度、というよりは発達不足の指針だからです。たとえば心に殺意を抱き、しかもそれを平気で実行に移したとすれば、途中で思いとどまった場合に比べて、遥かに重い罪を犯したことになります」


───臆病であるがゆえに思いとどまることもあるでしょう。
℘127
 「臆病者の場合はまた別です。私はいま邪悪なことを平気で実行に移せる人間の場合の話をしたのです。始めに申し上げたとおり、この種の問題は一つ一つ限定して論ずる必要があります。心に殺意を抱きしかも平気で実行出来る人と、〝あんな憎たらしい奴は殺してやりたいほどだ〟と思うだけの人とでは、霊的法則からいうと前者の方が遥かに罪が重いといえます」

───あなたご自身にとって何か重大でしかも解答が得られずにいる難問をお持ちですか。

 「解答が得られずいる問題で重大なものといえるものはありません。ただ、私はよく進化は永遠に続く───どこまで行ってもこれでお終いということはありません、と申し上げておりますが、なぜそういうお終のない計画を神がお立てになったのかが分かりません。いろいろ私なりに考え、また助言も得ておりますが、正直言って、これまでに得たかぎりの解答には得心がいかずにおります」


───神それ自体が完全でないということではないでしょうか。あなたはいつも神は完全ですとおっしゃってますが───
℘128
 「随分深い問題に入ってきましたね。かつて入ってみたことのない深みに入りつつあります。
 私には地上の言語を使用せざるを得ない宿命があります。そこでどうしても神のことを私が抱いている概念とは懸け離れた男性神であるかのような言い方をしてしまいます。

(〝大霊〟the Great Spirit を使用しても〝神〟God を使用しても二度目からは男性代名詞の He, His, Himを使用していることを言っている───訳者)

私の抱いている神の概念は完璧な自然法則の背後に控える無限なる叡智です。その叡智が無限の現象として顕現しているのが宇宙です。が、私はまだその宇宙の最高の顕現を見たと宣言する勇気はありません。これまでに到達したかぎりの位置から見ると、まだまだその先に別の頂上が見えているからです。

 私が私なりに見てきた宇宙に厳然とした目的があるということを輪郭だけは理解しております。私はまだその細部の全てに通暁しているなどとはとても断言できません。

だからこそ私は、私と同じように皆さんも、知識の及ばないところは信仰心でもって補いなさいと申し上げているのです。〝神〟と同じく〝完全〟というものの概念は、皆さんが不完全であるかぎり完全に理解することはできません。
℘129
現在の段階まで来てみてもなお私は、もしかりに完全を成就したらそれはそれにて休止することを意味し、それは進化の概念と矛盾するわけですから、完全というものは本質的に成就できないものであるのに、なぜ人類がその成就に向かって進化しなければならないのかが理解できないのです」


───こうして私たちが問題をたずさえてあなたのもと(交霊会)へ来るように、あなたの世界でも相談に行かれる場所があるのでしょうか。
     
 「上層界へ行けば私より遥かに叡知を身につけられた方がいらっしゃいます」


───こうした交霊会と同じようなものを催されるのですか。

 「私たちにも助言者や指導者がいます」


───やはり入神して行うのですか。
℘130         
 「プロセスは地上の入神とまったく同じではありませんが、やはりバイブレーションの低下、すなわち高い波長を私たちに適切な波長に転換したり光輝を和らげたりしてラクにして下さいます。

一種の霊媒現象です。こうしたことが宇宙のあらゆる界層において段階的に行われていることを念頭において下されば、上には上があってヤコブのはしご(※)には無限の段が付いていることがお分かりでしょう。その一ばん上の段と一ばん下の段は誰にも見えません」
   (※ ヤコブが夢で見たという天まで届くはしご。創世記28・12──訳者)

───霊媒を通じて語りかけてくる霊はわれわれが受ける感じほどに実際に身近な存在なのでしょうか。それとも霊媒の潜在意識も考慮に入れなければならないのでしょうか。 そんなに簡単に話しかけられるものでしょうか。私の感じとしては、想像しているほど身近な存在ではないような気がしています。少し簡単すぎます。

 「何が簡単すぎるのでしょうか」

───思っているほどわれわれにとって身近な存在であるとは思えないのです。多くの霊媒の交霊会に出席すればするほど、
p131
しゃべっているのは霊本人ではないように思えてきます。時にはまったく本人ではない───単にそれらしい印象を与えているだけと思われるのがあります。

 「霊が実在する───このことを疑っておられるわけではないでしょうね ? 次に、われわれにも個性がある───このことにも疑問の余地はありませんね? ではわれわれは一体誰か───この問題になると意見が分かれます。

なぜかといえば、そもそも同一性(アイデンテイテイ)とは何を基準にするかという点で理解の仕方が異なるからです。私個人としては地上の両親が付けた名前は問題にしません。名前と当人との間にはある種の相違点があるからです。

 では一体われわれは何者なのかという問題ですが、これまたアイデンティティを何を基準とするかによります。ご承知の通り私はインディアンの身体を使用していますが、インディアンではありません。こうするのが私自身を一ばんうまく表現できるからそうしているまでです。

このように、背後霊の存在そのものには問題の余地はないにしても、物質への霊の働きかけの問題は実に複雑であり、通信に影響を及ぼし内容を変えてしまうほどの、さまざまな出来ごとが生じております。
℘132
 通信がどれだけ伝わるか───その内容と分量は、そうしたさまざまな要素によって違ってきます。まして、ふだんの生活における〝導き〟の問題は簡単には片づけられません。

なぜかというと、人間側はその時々の自分の望みを叶えてくれるのが導きであると思いがちですが、実際には叶えてあげる必要が全くないものがあるからです。一ばん良い導きは本人の望んでいる通りにしてあげることではなくて、それを無視して放っておくことである場合がしばしばあるのです。

 この問題は要約して片付けられる性質のものではありません。これには意義の程度の問題、つまり本人の霊的進化の程度と悟りの問題が絡んでいるからです。大変な問題なのです。人間の祈りを聞くことがよくありますが、要望には応えてあげたい気持は山々でも、側に立って見ているしかないことがあります。

時には私の方が耐えきれなくなって何とかしてあげようと行動に移りかけると〝捨ておけ!〟という上の界からの声が聞こえることがあります。一つの計画のワクの中で行動する約束ができている以上、私の勝手は許されないのです。

 この問題は容易でないと申しましたが、それは困難なことばかりだという意味ではありません。時には容易なこともあり、時には困難なこともあります。ただ、理解しておいていただきたいのは、人間にとって影(不幸)に思えることが私たちから見れば光(幸福)であることがあり、
℘133
人間にとって光であるように思えることが私たちから見れば影であることがあるということです。人間にとって青天のように思えることが私たちから見れば嵐の余兆であり、人間にとって静けさに思えることが私たちから見れば騒音であり、人間にとって騒音に思えることが私たちから見れば静けさであることがあるものです。

 あなた方が実在と思っておられることは私たちにとっては実在ではないのです。お互い同じ宇宙の中に存在しながら、その住んでいる世界は同じではありません。あなた方の思想や視野全体が物的思考形態によって条件づけられ支配されております。

霊の目で見ることが出来ないために、つい、現状への不平や不満を口にされます。私はそれを咎める気にはなりません。視界が限られているのですから、やむを得ないと思うのです。あなた方には全視野を眼下におさめることはできないのです。

 私たちスピリットといえども完全から程遠いことは、誰よりもこの私がまっ先に認めます。やりたいことが何でもできるとはかぎらないことは否定しません。しかしそのことは、私たちがあなた方自身の心臓の鼓動と同じくらい身近な存在であるという事実とは全く別の問題です。

私たちはあなた方が太陽の下を歩くと影が付き添うごとく、イヤそれ以上にあなた方の身近な存在です。私の愛の活動範囲にある人は私たちの世界の霊と霊との関係と同じく親密なものです。
℘134
それを物的な現象によってもお見せ出来ないわけではありませんが、いつでもというわけにはまいりません。霊的な理解(悟り)という形でもできます。が、これ又、人間としてやむを得ないことですが、そういう霊的高揚を体験するチャンスというのは、そう滅多にあるものではありません。

そのことを咎めるつもりはありません。これから目指すべき進歩の指標がそこにあるということです。

 あなたのご意見はちょっと聞くと正しいように思えますが、近視眼的であり、すべての事実に通暁しておられない方の意見です。とは言え、私たち霊界からの指導者は常に寛大な態度で臨まねばなりません。教師は生徒の述べることに一つ一つ耳を貸してあげないといけません。意見を述べるという行為そのものが、意見の正しい正しくないに関係なく、魂が生長しようとしていることの指標だからです。

真面目な意見であれば私たちはどんなことにも腹は立てませんから、少しもご心配なさるには及びません。大いに歓迎します。どなたがどんなことをおっしゃろうと、またどんなことをなさろうと、皆さんに対する私の愛の心がいささかでも減る気遣いはいりません」

───私たちもあなたに対して同じ気持ちを抱いております。要は求道心の問題に帰着するようです。
℘135
 「いま私が申し上げたことに批判がましい気持ちはみじんも含まれておりません。われわれはみんな神であると同時に人間です。ひじょうに混み入った存在─── 一見単純のようで奥の深い存在です。魂というものは開発されるほど単純さへ向かいますが、同時に奥行きを増します。単純さと深遠さは同じ棒の両端です。

作用と反作用とは科学的に言っても正反対であると同時に同一物です。進歩は容易に得られるものではありません。もともと容易に得られるように意図されていないのです。われわれはお互いに生命の道の巡礼者であり、手にした霊的知識という杖が困難に際して支えになってくれます。

その杖にすがることです。霊的知識という杖です。それを失っては進化の旅は続けられません」


───私たちは余りに霊的知識に近すぎて、かえってその大切さを見失いがちであるように思います。

 「私はつねづね二つの大切なことを申し上げております。一つは、知識の及ばない領域に踏み込むときは、
℘136
その知識を基礎とした上での信仰心に頼りなさいということです。それからもう一つは、つねに理性を忘れないようにということです。理性による合理的判断力は神からの授かりものです。


あなたにとっての合理性の基準にそぐわないものは遠慮なく拒否なさることです。理性も各自に成長度があり、成長した分だけ判断の基準も高まるものです。

一見矛盾しているかに思える言説がいろいろとありますが、この合理性もその一つであり、一種のパラドックス(逆説)を含んでおりますが、パラドックスは真理の象徴でもあるのです。

(訳者注───この場合のパラドックスとは次章の〝真理には無限の側面がある〟と同じ意味に解釈すべきであろう)

 理性が不満を覚えて質問なさる───それを私は少しも咎めません。私はむしろ結構な傾向としてうれしく思うくらいです。疑問を質そうとすることは魂が活動しているからこそであり、私にとってはそれが喜びの源泉だからです。

 「さて私は何とか皆さんのご質問にお答えできたと思うのですが、いかがでしょうか」と言ってから、その日の中心的な質問者であった曽てのメソジスト派の牧師の方を向いて笑顔でこう述べた。

 「私の答案用紙に〝思いやりあり〟 〝人間愛に富む〟 とでも書き込んでくださいますか」
        

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